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『心の扉を開けて……』 最近、ジュンが素っ気なくなったと、真紅は感じていた。 周囲の目には、相も変わらず主従関係の幼馴染と映っているだろう。 実際、普段の高校生活において二人は大概、そのように行動していた。 今までどおりの、なにも変わらない関係。 けれど、真紅には解っていた。ジュンの様子が、少し変わったことに……。 「ジュン、今日は、一緒に帰れるのかしら?」 真紅がそう切り出したのは、放課後の清掃時間のことだった。 しかし、ジュンは―― 「え……あ~。今日は、ちょっとなぁ」 歯切れの悪い返事。今までなら、良否に拘わらず、こんな反応は示さなかった。 真紅が求めている返事は二つだけ。 『いいよ。一緒に帰ろう』 『ごめん。用事があるから、先に帰ってて』 その、どちらかだ。ジュンも、それは承知している筈なのに。 ――やはり、様子がおかしい。 いつも身近にいるからこそ、どんな僅かな変化も鋭敏に感じ取れる。 けれども、その理由までは推し量れなかった。 真紅は、ジュンの横顔を暫し見詰めて、小さく息を吐いた。 「そう……残念ね。 今日は、帰りがけに喫茶店でお茶でもしようと思っていたのだけれど」 「悪いな。また今度、誘ってくれよ」 「……解ったわ。それじゃあ、また明日ね」 清掃が終わり、掃除当番だった生徒達が一斉に帰り出す。 ジュンもまた箒を片付けるなり、鞄を手にして、そそくさと教室を後にした。 一体、何を急いでいるのだろう? 他人のプライベートを詮索するなんて下品だと思いながらも、気付けば、 真紅はこっそりとジュンの後を追っていた。 ジュンが、階段に差し掛かる。上か、下か―― 真紅が見ていることなど全く気付かずに、ジュンは階段を登っていった。 (上? 何をしに行くのかしら?) 放課後に、何の用事が有るというのだろう。ジュンは帰宅部だった筈だ。 上の階は一年生のクラスになる。後輩に知り合いでも居る、と? そんな話は、聞いた憶えが無かった。 上の方で、聞き慣れた音がした。 屋上への扉が開かれる音…………。 確証は無かったが、真紅は直感的に、ジュンが出ていったのだと思った。 足音を忍ばせて、真紅は屋上の扉前までやってきた。 ジュンは、屋上で何をしているのだろう? もしかして、誰かと待ち合わせ? ――私の誘いを断ってまで、待ち合わせている相手とは、誰? まさか……彼女が出来たなんて事は? さっきから疑問ばかりが頭をよぎり、思考が纏まらない。 一体、どうしたと言うのだろう。 真紅は、不意に自分の心を襲った、得体の知れない不安に苛立った。 (何をウジウジと悩んでいるの、私は!) 答えを得ることなど簡単だ。この扉を開いて、ジュンに直接、訊けばいい。 そう……至って単純なことなのだ。悩む必要も無いほどに。 「この、扉さえ開いてしまえば……」 ノブに伸ばす右手が、緊張で震える。 手首に左手を添えて、真紅は漸く、ドアノブを握り締めた。 静かに回して、ゆっくりと押し開ける。 ふと、風に乗ってジュンの声が届いた。 耳を澄ます真紅。彼は、誰かと喋っている。なんと言っているの? 「ジュン。あのね…………私と、付き合って欲しいの。ダメ?」 「……いいよ。僕で良ければ」 真紅の視界が、一瞬にしてブラックアウトした。 (今……ジュンは…………なんて言ってた?) ――水銀燈。 私の幼馴染にして、いつも私の前に立ち塞がってきたライバル。 その彼女が、今また自分から大切な存在を奪っていこうとしている。 阻止しなければならない。それだけは、どうしても……。 二人の間に乱入するべく、一気に扉を押し開けようとした真紅の脳裏に、 最近の記憶が去来した。 この頃、ジュンが素っ気なくなったのは、私に愛想を尽かせたからではないの? 今の関係が、ずっと続いていくものと思っていた。 彼は私を、ずっと見守り、支えてくれるものと信じていた。 でも、それは独り善がりでしかなかったらしい。 ジュンはもう、私との関係に疲れてしまったのだろう。 だから、私の甘えと慢心を嘲るように、彼の心は水銀燈へと傾いてしまったのだ。 ――こんな傲慢な私に、ジュンと水銀燈の仲を引き裂く権利なんてない。 ジュンも、水銀燈も、真紅にとって無二の親友だった。 だからこそ、自分の我を通して、二人を不幸にする事が許せなかった。 「…………お幸せに、二人とも。ジュン……今まで、ありがとう」 真紅は音を立てないように気を付けながら扉を閉めると、階段を駆け下りた。 真紅は必死に、口元を押さえていた。 そうしていないと、嗚咽が漏れてしまうから。 胸が張り裂けそうに痛い。青い瞳から止めどなく溢れ出す涙。 どうして、こんな事になってしまったの? 考えたところで、答えなど見付からない。見付けたくもない。 そもそも、考えたくもなかった。 泣きながら教室へ戻って鞄を掴み、それから、何処をどう走ったのか……。 真紅は学園裏の、城址公園に辿り着いていた。 誰も居ない、夕暮れの公園。 真紅は胸の奥から、今まで堪えていたものが怒濤の如く溢れてくるのを感じた。 もう、呑み込むことなどできなかった。 「うわあぁぁぁぁぁ――――っ!!」 絶叫に近い嗚咽。感情を押し止められない。 真紅はただ、広い公園の真っ直中に立ち尽くし、幼子の様に泣きじゃくった。 園内の木立に、真紅の泣き声が響く。 辺りは夜の帳が降り始めて、街灯がちかちかと灯りだした。 真紅はその場に頽れ、両手で顔を覆い、ただただ泣き続けた。 どれだけ、泣き続けていたのだろう。真紅は泣き疲れて、しゃくり上げていた。 まだ、胸が痛い。あれだけ泣いたというのに、涙は溢れ続けた。 (辛いの……苦しいのよ、ジュン) 心の中で、ジュンに救いを求めてしまう。側にいて欲しいと、願ってしまう。 この甘えが、破局を招いたと言うのに……。 辛さから逃れる術は、ただひとつ。それは、ジュンへの想いを断ち切ること。 恋心を捨て去って、今までどおりの親友同士に戻ること。 真紅はハンカチを取り出して、ぐいっ……と目元を拭った。 (しっかりしなさい真紅! こんなの、私らしくないのだわ) 深呼吸を繰り返す。しゃくり上げていたのが、徐々に静まっていく。 そうそう、その調子。落ち着きなさい……落ち着くのよ、真紅。 涙が止まり、続いて、身体の震えが止まった。 胸はまだ苦しいけれど、それも直ぐに収まるだろう。 真紅は星空を見上げて、心の扉を閉じた。 「さようなら、ジュン」 翌日も、普段どおりの日常が待っていた。 変わった事と言えば、ジュンと水銀燈が交際を始めたことぐらいだ。 勿論、学園中を賑わす大スクープとなったのだが、心の扉を閉ざした真紅は、 そんな事で感情を掻き乱されたりはしなかった。 「おめでとう、二人とも。遅すぎたくらいなのだわ」 報告に来たジュンと水銀燈に、真紅はにこやかに応じ、祝福した。 二人には、幸せになって欲しい。それは本心からの願いだった。 通学途中で、偶然に出会っても。 共に、屋上で摂る昼食でも。 教室で雑談している時も。 二人揃って、遅刻してきたり。 どこで二人の仲睦まじい姿を目の当たりにしても、真紅は笑い続けていられた。 「貴方たちは、本当にベストカップルだわ」 「見せ付けてくれるのね、お二人さん」 「私がヤキモチを焼くとでも思っているの?」 「うふふ……本当に、仕方のない人たちね」 親友達と、からかったり、ふざけ合ったりする。 その日常は、とても居心地の良い時間であり、空間だった。 真紅が自らの心を犠牲にしてまで求めた安らぎが、そこにある。 ――そう。これで良かったのよ……これで、ね。 そんな、ある日のこと。 授業の合間の休み時間。真紅は何とはなしに、窓の外を眺めていた。 そこに、ジュンが真紅に話しかけてきた。 「なあ、真紅。今日、ちょっと時間あるかな?」 「? なんなの、いきなり」 「うん……放課後に、屋上に来てくれないか」 「どういった用件で? 私、あまり暇ではないのよ」 「それは、ちょっと……」 言い淀むジュンに冷ややかな視線を向けて、真紅は肩を竦めた。 「まあ、五分くらいなら構わないのだわ。それで充分?」 「充分だよ。それじゃ、頼んだからな」 それだけ言って、ジュンは再び水銀燈との会話に戻っていった。 待ち合わせだなんて、どういう事だろう。 (貴方には、私なんかに構ってられる時間は無い筈だわ) その時間を、水銀燈とのデートに割り振れば良いものを。 本当に、要領が悪いところは治らないのね。 水銀燈も、よく不満を漏らさないものだわ。 真紅は二人の様子を眺めながら、そんな事を思った。 放課後、屋上に赴いた真紅は、ジュンの姿を認めて声を掛けた。 「待たせた?」 「いや……全然」 「そう。で? 私を呼び出した用件はなに?」 「えっと…………これ、なんだけどさ」 差し出される小箱。奇麗にラッピングされている。 これは一体、なんなのだろう? 心の扉が、どん! と叩かれた気がした。 「今日って、真紅の誕生日だっただろ?」 どん! 再び、心の扉が叩かれる。 (イヤ……叩かないで) 「こんな事するのは、どうかと思ったんだけど」 どん! どん! (やっと、閉じこめたのよ。思い出させないで) 「水銀燈に言われてさ。プレゼントしようと――」 どん! どん! どん! (イヤ! イヤっ! イヤぁっ! もう止めてっ!!) 「誕生日、おめでとう。真紅」 「イヤああぁぁぁっ!!!」 ばぁん! 真紅の中で、心の扉が開いてしまった。 ジュンを愛しく想う気持ちが、胸一杯に広がっていく。 溢れだす涙を、止めることが出来ない。口から発せられるのは嗚咽だけ。 真紅は両手で耳を塞ぎ、その場にしゃがみ込んでしまった。 そして、戸惑うジュンに、途切れ途切れの言葉をぶつけた。 「止めて……よ。どう……して……今更、こんな」 「真……紅」 「閉じ込めていたかったのに…………忘れていたかったのに!!」 「…………真紅」 「このまま…………貴方への愛を……消し去ってしまいたかったのに」 「そんな……真紅、ホントなのか、それ?」 泣き喚く真紅に、ジュンは愕然としていた。 代わりに話しかけたのは、別の人物。 「やっと、本音を口にしたわねぇ……真紅ぅ」 給水塔の影から現れたのは、生涯のライバルである水銀燈だった。 「す、水銀燈! これは――」 「聞いてのとおりよぉ。真紅は、ジュンのことが、だぁい好きなの」 水銀燈の嘲るような口調に、真紅の神経が逆撫でされた。 今までは押し殺されていた感情が、さながら火山の噴火の様に、 出口を求めて吹き出そうとしていた。 真紅は頭を上げて、突き刺さるかと思える程の、鋭い視線を水銀燈に向けた。 「水銀燈! 私は、貴女が憎い! 私からジュンを奪った、貴女が憎い!」 「そぅお? なら……私を殺してでも、ジュンを奪い返してみればぁ?」 水銀燈は、蹲る真紅を尻目に、ジュンの側に歩み寄って抱き付いた。 「貴女は負け犬よぉ、真紅ぅ。心を閉ざして、引きこもる事しかできない」 「違うわ! 私は貴方たちの幸せを――」 「願ってくれる、と? おこがましいわねぇ」 水銀燈は、真紅を見下して、くすくす……と笑った。 「無様だわぁ……貴女。こそこそ逃げ回ってるだけの、敗北者だものぉ」 「――――っ!!」 真紅は、弾かれたように跳ね起きて、屋上から走り去った。 その後ろ姿を茫然と眺めていたジュンの頬を、水銀燈が抓った。 「ほぉら、ボサッとしてないで、真紅を追い掛けなさいよぉ」 「えっ?」 「ジュンだって、本当は真紅の事が好きなんでしょ?」 「でも、水銀燈の気持ちは……」 「いいのよ。私の事は……構わないで良いの」 「バカ言うなよ。そんな真似、僕には出来ない」 「あ~もうっ! つべこべ言わずに、さっさと行きなさい! 苛つくわねっ! アンタみたいな愚図は大っ嫌いなのよ! 別れてやるわ!!」 「ゴメン、水銀燈…………本当に、すまない」 それが水銀燈の強がりだと言う事は、ジュンにも解っていた。 けれど、これ以上、彼女の気持ちを傷付けることは出来ない。 ジュンは真紅の後を追って、走り出した。 ジュンの背中を見送りながら、水銀燈は溜息を吐いた。 「本気の恋だったのになぁ……私ってホント、おばかさぁん」 でも、心を閉ざしてしまった親友を、放ってはおけない。 フライングを犯したのは、自分なのだ。 真紅の気持ちを犠牲にしてまで、自分の幸せを追求することは出来なかった。 「私って、いっつも貧乏クジねぇ。イヤになるわぁ」 戯けた口調で呟く水銀燈の頬を、一筋の涙が零れ落ちた。 ジュンは全力で、真紅の後を追っていた。 意外に真紅の脚が速くて、距離が縮まらない。 だが、ブロンドが目印となるので、見失うことはなかった。 「真紅っ! 待ってくれっ!」 呼びかけても、真紅は止まらない。声は届いているだろうに。 階段を駆け下り、廊下を横切り、靴も履き替えずに玄関を飛び出していく。 ジュンも、躊躇いなく追い掛け、走り続けた。 学園の裏へ走り去る真紅。城址公園へ行くつもりらしい。 だいぶ息が上がっていたが、ジュンは脚を止めなかった。 長い長い石段を駆け上がっていく二人。 真紅に疲れが見え始めた。明らかにペースが落ちている。 追うジュンの脚も鉛のように重くなっていたが、徐々に差が縮まっていく。 そして―――― 石段を登りきった所で、ジュンは真紅の身体を抱き留めた。 「やっと…………捕まえ……たぞ」 「…………ジュン……ごめ……んなさい」 息も絶え絶えの二人は、その場にバッタリと倒れ込んでしまった。 それから暫くして息が元に戻った頃、寝転がったまま、ジュンは口を開いた。 「水銀燈にフラれちゃったよ」 苦笑しながら話すジュンの顔に、未練がましさは無かった。 失恋の辛さは、当然ある。しかし、安堵を覚えていたのも事実だ。 ここ最近の真紅は、表情が乏しくなる一方だった。 人形の様になっていく彼女を見ることは、水銀燈だけでなく、ジュンもまた苦しかったのだ。 「水銀燈が、本気でそんな事を言う筈がないのだわ。だって彼女は――」 「分かってる。だけど、これだけは言わせてくれ」 言わなければ、ジュンも、水銀燈も、真紅も、惨めなままで終わってしまう。 このままでは、友情そのものが破綻してしまう。 「僕は…………真紅が好きなんだ」 「じゃあ……どうして、水銀燈と付き合ったりしたの?」 「不安だったんだよ……真紅の気持ちが、ちっとも見えてなかったんだ」 「そうね……幼馴染みという関係に甘えて、私も気持ちを伝えていなかったわ」 ジュンは起き上がると、真紅に手を差し出した。 「真紅……今更だけど、僕と正式に付き合ってくれないか?」 「今はまだ、答えは出せないわね。仕切り直しよ、お友達から――」 真紅は清々しい笑顔を浮かべて、しっかりとジュンの手を握った。 石段の下で、水銀燈が待っていた。 彼女の表情も、晴れ晴れとしている。 「戻ってきたわねぇ、負け犬さぁん」 「バカ言わないで。私が、いつ負けたと言うの?」 開口一発目から毒舌を放った水銀燈を、真紅はびしっ! と指差した。 「今回は戦略的撤退をしただけよ。勝負は、これからなのだわ!」 「いいえぇ。次に勝つのも、私の方よぅ」 負けじと、水銀燈はジュンにウインクしてみせた。 「今、ジュンの心を掴んでいるのは、私だものぉ」 「ふざけないで。ジュンの心は、まだ誰も掴んでいないのだわ」 「あぁら? 諦めが悪ぅい」 「油断しないことね、水銀燈。足元を掬われるわよ」 ばちばちと熾烈に火花を散らし合う二人。 いま、彼女達は同じスタートラインに立っていた。 再び戻った、幼馴染みの、微妙な三角関係。 いつかは答えを出さなければならないけれど……今はまだ、この関係を続けたい。 それが、三人に共通した想いだった。 ただ、誰も口には出さなかったが、三人は心の中で誓い合っていた。 ――今度こそ、誰も後悔しない答えを出そう……と。
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「もう、朝……」 よく眠った。夢さえ見ないほどに深く。 そもそも、いつ床に就いたっけ? 書き物をしていた記憶は、漠然と浮かぶけれど。それから後のことは……。 ……まあ、いい。 これから紡がれる、新たな思い出に比べたら――すべて瑣末なこと。 私はベッドを抜け出して、勢いよく、カーテンを開いた。 窓辺にたむろしていたスズメたちが、驚いて、一斉に飛び立った。 よく晴れてる。防波堤の向こう、遙かな沖合まで、すっかり見渡せる。 1日の始まりとしては、申し分ない。 顔を洗い、着替えてから、お母さまの人形に、朝の挨拶をする。 端から見たら、アタマの弱い子だって思われるだろうが、別に構わない。 そうすることで、私は少なからず、安らぎを覚えているのだから。 お父さまが、どういう意図で、この人形を作ったのかは判らないけど……今では感謝していた。 ベーコンエッグとトーストの軽い朝食を摂るのは、そのあと。 食器その他の台所まわりを片づけて、鏡台に向かう。 髪を梳りながら、壁掛け時計と自分の写し身を交互に見つめ、「よし」と頷く。 いつもどおり。この生活パターンにも、すっかり慣れたものだ。 身だしなみが済んだら、次は屋内外の掃除。 サンダルをつっかけ、家の前を箒で掃いていると。 「おはよ」 お隣の、めぐさんに声を掛けられた。 私も手を止めて、会釈を返す。 「おはよう……ございます」 「晴れてよかったわね。今日でしょ?」 「はい。午後に……なると思いますけど」 あの嵐の夜から、早1ヶ月―― お父さまは、今日、退院してくる。 経過は良好だった。危惧されていた後遺症はなく、仕事にも、差し支えない。 ただ、割れた骨を繋ぐ金具は入ったままなので、いずれ手術で外さないといけないけれど。 それは、もう少し先のことになる。 「迎えに来なくてもいいだなんて、彼らしいわね」 「職人気質って言うんでしょうか……偏屈なところ、あるから」 「もう大丈夫だってアピールしたいのよ、きっと」 実際、お父さまは起きあがれるようになると、すぐにリハビリを始めた。 私にも、見舞いは毎日じゃなくていいと、言い出すほどで。 まあ、それでも私が訪れると、すごく嬉しそうな顔をしていたけれど。 「ところで」 めぐさんが話題を転じた。「原稿の方は、進んでる?」 「それなりに。順調では、ないですけど」 私は相槌を打って、昨夜までの進捗を、思い浮かべた。 独りで過ごす夜の慰みに始めた、物語の執筆状況を。 キッカケは、白崎さんの家で夜食をご馳走になった、あの晩だ。 初めて口にしたワインに酔って、お父さまの作業机で眠ってしまった、あのとき―― 私は夢うつつに、囁きかける声を聞いた。 今なら解る。あれは、アリスが――もう1人の私が、話しかけてきたのだ、と。 あの瞬間まで、『きらきしょー』が、アリスだと思っていた。 でも、それは私の考え違い。 《九秒前の白》で会った、真紅の姿をした女性こそが、本当のアリスだったのだ。 『きらきしょー』は、見ることができなかった妹に、古いイメージを投影しただけの人形。 言うなれば、私の、妄想の産物に過ぎなかった。 なぜ、アリスが真紅へと変貌を遂げたのか。 それは、きっと……私の、お母さまに対する羨望が、そうさせたに違いない。 彼女のような、至高の存在になりたいと強く願う気持ちが、私の別人格さえも変えた。 ……そういうことなのだろう。 以来、私は市販の大学ノートに、物語を書き始めた。『きらきしょー』という名の、女の子の物語を。 なんとなく、夢見がちな私には相応しいと…… そして、そうすることが、アリスを含めた私自身の慰めになると、思えたのだ。 今では、創作の時間が、日常生活の時間を浸蝕しつつあった。 「いつか、出版とか、されるといいわね」 めぐさんの声に、我に返る。 私は取り繕うように笑って、また相槌を打った。 「ええ。いつか……誰かに、ステキなイラストを描いてもらえたら……いいな」 「絵本とか、童話なの?」 「……さあ。どういうカタチに収まるのかは、私にも解りませんけど」 事実、私のアタマの中には、終わりまでの展望など描かれていない。 その都度、ノートを開く度に、世界が綴られていくのだ。 いわば、私もまた旅人――『きらきしょー』の同伴者だった。 そう告げると、めぐさんは、ふぅん? と。 小首を傾げ、興味深げに、瞳を輝かせた。 「いいわね、そういうの。私、好きよ」 「めぐさんも、創作に携わったことが?」 「……んー。そこまで本格的なモノじゃなかったけど。 長く入院してた時期があって、その頃に、ちょっと妄想を――ね。 黒い天使の話なんだけど」 「その物語は、今も?」 「ううん。退院してから、それっきりね。現実の忙しなさに、追い立てられちゃって。 ほら、誰だったかの歌にもあったでしょ。夢みる少女じゃいられない……ってね」 「それでも……貴女は、幸せ?」 問いかけると、彼女は一瞬、キョトンとして。 また一瞬の後に、破顔していた。「そうね。幸せよ。彼も、とても良くしてくれるし」 そんな日が、いつか私にも、訪れるのだろうか。 現実の世界に喜びと幸せを見つけて、夢は夢と割り切るように、なるのだろうか。 そのとき、アリスや、きらきーは―― あの《九秒前の白》は、どうなってしまうのかしら。 弾けて、泡と消えてしまうのならば、それは、とても悲しいこと。 『ここには、私たちしか居ないわ。私たちしか入れないのよ』 『貴女は生きて、歩き続けなさい。そして、此処を守るのだわ』 あの言葉―― あれは、アリスの切望だったのかも知れない。 私が物語を綴りだしたのも、彼女の意志が、強く介在しているのかも。 ならば、私は書き続けよう。ずっと……いつまでだって。 もちろん、この世界での幸福も、しっかり手に入れるけどね。 「めぐさん。私、そろそろ」 「あ……ごめんね、引き留めちゃって。 それじゃ、槐くんが戻ったら、今夜はウチで退院祝いしましょうね」 「はい。ありがとう」 私たちは微笑み合って、互いに手を振った。 「さて、と。次は、お店の掃除しなきゃ」 独りごちて、家に入り、店の窓を開け放つ。 毎日、掃除をしているけれど、いつの間にか埃は積もっているもので…… ショーケースの上を、はたきがけすると、舞い上がった塵で、鼻がムズムズした。 2、3発、クシャミすると、今度は鼻が垂れてくるから、始末に負えない。 ティッシュで鼻をかんでから、ハンカチを対角線に畳んで、マスク代わりにした。 そして、ショーケースを拭こうと、雑巾を手にした、そのとき。 店の前で、甲高い軋めきが生じた。車のブレーキノイズだ。 それが意味するところを察して、私は雑巾を放りだすと、ドアに駆け寄った。 果たして、予感は的中。午後になると、思っていたのに―― 停車したタクシーから、支払いを済ませたお父さまが、ボストンバッグを抱えて降りてくる。 私は気持ちを抑えきれずに、ドアをくぐり、彼の前に立った。 すると…… 「なんだい、その古いギャングみたいな格好は?」 いきなり大笑いされた。 私は慌てて、口元を覆っていたハンカチを、襟首まで降ろした。 自分でも驚くくらい、かぁっと頬が熱くなった。 「だって……お掃除中……だったから」 「――そうか。いろいろと、苦労をかけたね」 「ううん。私こそ……いろいろと、ごめんなさい」 本当は、もっと言いたいことがあったけれど。 声が詰まって、思うことが話せなくて。 「いいんだよ」 どさり――と。 お父さまは、ボストンバッグを脇に落として、私を抱きしめてくれた。 「もう、いいんだ」 「…………うん。ありがとう」 私は、爪先立ちをして、やっとの想いで、その広い胸に頬を寄せた。 「だいすき」 「ああ、僕もだよ」 それは、父親として、娘を好きだと言ったのだろう。 だけど……やっぱり、私は――この想いを、止められない。 だから、今、伝えようと思った。 「あの、ね」 「うん?」 「私…………どうしても、伝えたいことが……あるの」
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家人と客人、4人で囲む、和やかで温かい食卓。 それは、どこにでもありがちな、ささやかで飾らない宴だった。 話題にのぼるのは、もっぱら、雛苺のこと。 友人を家に招くのが、よほど珍しいと見えて、家人たちは彼女を質問ぜめにした。 口達者ではない雛苺は、終始、会話のイニシアティブを掴めずじまいだった。 客間のソファに場所を移しても、語らいのペースは、相も変わらず。 有栖川の煎れてくれた紅茶、ローザミスティカの3番をチビチビと嗜みつつ、 雛苺はただ、問われることに答えるばかりで……。 (うー。2人っきりで、お話したいのにー) 薔薇水晶や、彼女の父――槐に、さも屈託なさげな笑顔を振りまく反面、 キッチンで洗い物をしている有栖川の背中へと、雛苺の意識は向けられていた。 それを具現したならば、鋭利な棘となって突き刺さっただろうほど一心に。 ――夜の更けるにつれて、雛苺の眼が時計を捉える回数も、増える。 明日は月曜日。朝からアルバイトだから、日付が変わる前に帰宅しなければ。 そこから逆算すると、ここに留まっていられる時間は、もう長くなかった。 単調なリズムで回り続ける秒針の摩擦熱が、雛苺の胸裡を、チリチリと焦がす。 (どうしたら……あ! そうなの! お手伝いするって、声を掛ければ――) 天啓のごとく湧いた閃きに、雛苺は地団駄を踏みたい気分になった。 なんたる迂闊。こんなにも単純な策略を、なぜ、もっと早くに思いつかなかったのか。 ……と、後悔するのもそこそこに、雛苺は時を惜しんで行動した。 会話の切れ間を見計らって、温くなった紅茶をイッキ呑み。 それで用済みになったカップとソーサーに、新たな役目を与えるべく、腰を浮かせた。 「お片づけくらいは、しないとねっ」 あくまでも自然を装って、キッチンに向かう。 ……が、彼女の思惑は、すぐに躓く羽目になった。 「じゃあ、私も」 やおら、薔薇水晶までが紅茶を飲み干して、ソファを立ったからだ。 これでは、有栖川と差し向かいで話し合うなど、望むべくもない。 (まさか……ヒナの企み、バレてる?) 雛苺は自問してすぐ、まさかね――と、自らの憶測をもみ消した。 薔薇水晶はただ、新しい友人である雛苺と、お喋りしたいだけなのだろう。 その気持ちが解るだけに、薔薇水晶を疎んじるなんてできず―― 連れ立って、キッチンに足を踏み入れる2人。 そこでは有栖川が、機嫌よさそうにハミングしながら、食器を洗っていた。 「お姉ちゃん。これも一緒に、お願い」 「あらぁ、わざわざ持ってきてくれたのぉ?」 振り向いた微笑みは、素朴そのもので、芝居じみたところなど一片もなかった。 この人は水銀燈ではない、と断言されれば、そのとおりであるようにも思える。 雛苺の中にあった『如才ない才媛』というイメージは揺らぎ、ほころび始めていた。 「ありがとぉ」 エプロンで手を拭いて、有栖川はカップを受け取る。 その際に、湿り気の残る彼女の指が、雛苺の指と触れ合った。 ざらり……と。木綿の生地にも似た、ごわごわ引っかかる肌触り。 炊事や洗濯などの家事で、見た目よりもずっと、肌荒れしているらしい。 雛苺に指摘されるや、彼女は「やぁね」と、はにかみながら背を向けた。 そして、シンクに残る食器洗いを再開しつつ、つけ加える。 「これくらい、たいしたコトないわ。平気よ。すぐに治るから」 どこか言い訳がましい呟きは、薔薇水晶が側にいたから……なのだろうか。 恩人の愛娘であり、妹にも等しい少女に、変な気遣いをさせたくなかったから。 あくまでも、それは雛苺の当て推量に過ぎない。 有栖川の本心は、違ったかも知れない。 だけど、そうであって欲しい―― 雛苺はココロの片隅で、身勝手な願いを抱いた。 それを口に出して、無理強いするつもりなど、更々なかったけれど。 「ねぇ、雛苺。私のお部屋……行きましょ」 「え? う、うん」 誘われるまま、雛苺は後ろ髪を引かれる思いで、薔薇水晶を追った。 有栖川と話をしたい欲求が、消えたワケではない。 ただ、この場は諦めざるを得なかったし、であるなら、時間は大切に使うべきで……。 折角だし、薔薇水晶から情報を集めようと、考えなおしたのだ。 案内されたのは二階の、綺麗に片づけられた6畳間。 淡いピンクを基調とした壁紙を、人気ロックバンドのポスターや、 子犬や仔猫を被写体としたカレンダーが飾っている。 ベッドの枕元には、タキシードを着た白いウサギのぬいぐるみ。 いかにも女の子らしい部屋模様だ。 雛苺は、ウサギのぬいぐるみに眼を留めながら、回想していた。 アルバイトの配達で、ジュンの家の前を通りがかった時のことを。 ここでまた白ウサギに会ったのは、なにかの因縁だろうか。 「どうかした?」 やおら話しかけられて、雛苺は我に返った。 気を取りなおし、振り向くと、薔薇水晶の不思議そうな表情があった。 「なにか……変?」 「ううん。あのウサギさん、ミッフィーみたいで可愛いなって思ったのよ」 雛苺が繕い笑うと、薔薇水晶も、にこりと唇を綻ばせた。 「あれ……お父さまの手作り。ウサギだけど……おんりーワン」 「下手なダジャレね。だけど、ぬいぐるみの作りは、いい仕事してるなの。 いいなぁ~。ヒナも欲しいなぁ~」 「じゃあ、頼んであげる。お父さま、優しいから……きっと作ってくれる」 「ホント!? それじゃあ、ネコさんのぬいぐるみ、お願いしていい?」 「おk、把握」 淡々とした口振りながら、とても嬉しそうな面持ち。 薔薇水晶にとって、友だちのために何かをする――または、してもらう機会は、 雛苺が思っているより、ずっと稀なのかも知れない。 だからこその、喜色なのだろう。 ベッドに腰を降ろした薔薇水晶は、右隣のスペースを、揃えた指先で、ぽふぽふ……。 ここに来て、と言うことか。雛苺は誘われるまま、ベッドに腰をあずけた。 ふわり――と。 薔薇水晶の長い髪から放たれる、甘ったるいコンディショナーの薫りに包まれる。 その瞬間、ざわり……。雛苺の胸裡を逆なでたのは、なんとも形容のし難い感覚で。 強いて一言に集約するなら、麻痺とか酩酊、に近いような錯覚だった。 「ん……と」 けれど、このまま無為に過ごすわけにはいかない。 雛苺は周りに眼を走らせて、思いつくまま、言葉を迸らせた。 「とっても広くって、ステキなお部屋なのよ」 「そう? ありがと」 「あ、それとね、ばらしーのお父さま、すっごくカッコイイから驚いちゃった」 場を和ますための方便、というつもりはなかったが、期せずして同じ結果を生んだ。 「でしょ」と、満面に笑みを湛える薔薇水晶は、本当に誇らしげだった。 実際、槐は、世界を股に掛けて活躍する才器だと言うし、 そういった事情から、つい鼻を高くしてしまうのも無理からぬことだろう。 へにゃへにゃと頬を弛める薔薇水晶。 だが、やおら、背中に氷でも入れられたかのような真顔になった。 そして、「そう言えば」と。 好奇に満ちた眼差しと共に、細い指先を、雛苺のデイパックに向けた。 「雛苺は、絵を描くのよね」 「うんっ! 下手の横好きだから、ちょっと恥ずかしいんだけどぉ」 いつもの習癖で、そう口にした途端、雛苺のアタマに真紅の諫言が甦った。 過ぎた謙遜は、嫌味になる。薔薇水晶を、不快にさせてしまっただろうか? けれど、ちらと窺い見た限りでは、そんな素振りはなかった。 雛苺は小さく息を吐いて、デイパックを持ち上げ、膝に乗せると、 スケッチブックを抜き出し、開いて見せた。「これが最新作なの」 それは、双子の姉妹が丹誠こめて育てていた、茶畑のスケッチ。 「油絵の具で色づけすれば、完成よ」 「……すごく上手。このまま飾っても、充分に見栄えがする」 「ありがとなの。でも、この絵は先約があるから、あげられないのよ」 「そう……残念」 言って、薔薇水晶は、とても名残惜しそうに、長い睫毛を伏せた。 けれども、すぐにパッと目を見開いて。 「私を描くとしたら、どれくらい時間かかる?」 「え、と。構図にもよるけど――」 描いて欲しいの? 問うと、薔薇水晶は口元を綻ばせて、コクコクと頷いた。 どうやら相当に、雛苺の絵を気に入ってくれたらしい。 ぜひにと求められたら嬉しいし、描いてあげたくなるのが人情というもの。 雛苺は、タイムリミットを念頭に置きながら、おおよその時間を見積もった。 「んー、そうね。バストアップのラフなら、30分くらいで描けると思うの」 「バストの…………裸婦? 脱ぐの?」 訊いておきながら、薔薇水晶は答えも待たずに、パジャマのボタンを外し始める。 雛苺は、慌てて彼女の手を掴んで、止めた。 「脱がなくていいのっ! ラフスケッチのコトなのよ」 「……ああ。そゆこと」 「うい。じゃあ、楽にしてね。30分ほど、じっとしてられるポーズで」 「解った。これで、いい?」 薔薇水晶は、ころりとベッドに横たわり、すらりと形のいい顎を、腕に乗せた。 これなら、確かに身動きは少なくて済むし、疲れもするまい。 雛苺は、モデルの正面に腰を降ろすと、深呼吸を繰り返して…… 徐に、鉛筆を手にした。 ~ ~ ~ ――こうなるだろうことは、自然な成り行きだったし、予測の範疇だった。 ベッドに横臥した薔薇水晶は、すっかり寝入っている。 最後まで空白だった表情を描き足し、雛苺は大きく吐息して、鉛筆を手放した。 「気持ちよさそうな寝顔ね」 別れの挨拶くらいはと思ったけれど、ここで叩き起こすのも、可哀想な気がする。 雛苺は、枕元に置かれた目覚まし時計を見遣って、時刻を確かめた。 すっかり夜も更けたが、まだ終電には間に合いそうだ。 無防備に眠りこける乙女の絵を、そっと机に置いて、雛苺は滑るように部屋を出た。 それにしても、最寄り駅までは、どのくらい離れているのだろう? この辺りの道にも不案内だ。地図を書いてもらうか、送ってもらう他はない。 ――じゃあ、それを誰に頼もうか。 思った次の瞬間にはもう、雛苺は笑顔いっぱいで、両手に拳を握っていた。 「そうなのっ。いまこそ、2人っきりで話をするチャンスなのよ!」 まだ深夜と言うには早いし、よもや、来客中に眠るほど不用心でもあるまい。 きっと対話ができる。確信する雛苺の耳に、有栖川の声が甦った。 階段を降りてくる、軽やかな気配を察したのだろう。応接間から、ひょいと顔が覗いた。 でも、それは意中の人ではなくて―― 「おや、もう帰るのかい?」 薔薇水晶の父親、槐は穏やかに微笑みながら、さらに継いだ。「薔薇水晶は?」 「絵のモデルをしてて、そのまま眠っちゃったのよ」 「やれやれ。困った娘だ」 階段を降りきった雛苺と入れ替わりに、長身の槐は背を屈め、階段を昇り始めた。 その途中、はたと立ち止まって、雛苺に囁きかけた。 「これからも、仲良くしてやってほしい」 薔薇水晶のことだろう。雛苺は笑顔で応じる。「もちろんなの」 「ありがとう」槐も、目尻を下げた。 「あの子は、僕に似たらしく、他人とのコミュニケーションが下手でね。 母親を早くに亡くしたことが、影響しているんだろうな」 言うと、槐は寂しさを張りつかせた顔を、つ……と背けた。 雛苺には、彼や薔薇水晶の心情が、なんとなく理解できた。 女の子にとって、母親とは最も身近な同性であり、歳の離れた姉のような存在でもある。 父親では、どれだけ愛情を注ごうとも、そういった役割を演じきれない。 だからと言って、父も娘も、軽々しく『再婚』の選択肢を切り出せなくて―― 多感な時期を母もなく過ごした少女は、どこか頑なで冷めた娘に育ってしまったのだろう。 有栖川の登場は、この父娘にとって大きな転機となったのは、間違いない。 彼女を、ひとつ屋根の下に住まわせて……人助けのつもりが救われていた、と。 「よろしく頼むよ」 「はい、なの」 頷いた雛苺に微笑みかけて、槐は再び、階段を昇り始めた。 その背に、おずおずと問いかける。「あのぉ……有栖川さんは?」 「彼女なら、入浴中じゃないかな。いつも、最後に使っているから」 だったら、ほどなく会えるだろう。 槐を見送って、雛苺は歩きだした。向かう先は、応接間ではなく、バスルーム。 一応、ドア越しにでも、用件くらいは伝えておこうと思っていた。 そうしておけば、余計な前置きなしに、話を進められるから。 ぱしゃ……ぱしゃ……。 ドアの向こうから聞こえる、水の砕ける音は、シャワーのものではなかった。 すっかり冷めた浴槽の残り湯を、洗面器で汲んでは、浴びているようだ。 居候だからと、水道代は疎か、追い焚きするガス代さえ憚っているのかも知れない。 ひとつ深呼吸して、雛苺は、ドアをノックした。 ――いや。するつもりが、彼女の拳は、ものの見事に空振りしていた。 なんの前触れもなく、ドアが引き開けられたせいで。 「きゃぁっ?!」 有栖川も、まさか、そこに人が立っているとは思わなかったのだろう。 黄色い悲鳴をあげて、タオルを取り落とし、手で胸を隠す慌てぶりだった。 いささか大仰にも感じられたが、それだけ油断していた証だろうと、雛苺は強引に納得した。 「もう! まいっちんぐ……じゃなくて! これは一体、なんのつもり?」 「ごご、ごめんなさいなのっ。ヒナ、別に驚かすつもりじゃ」 「じゃあ、なに? まさか、盗撮――」 「誤解なのよー」 雛苺は俯き、巧く説明できない苛立ちから、自分のアタマをポカポカと叩いた。 その様子を見て、有栖川も、ふう……と溜息を漏らした。 「とにかく、先に身体を拭かせてもらえないかしら。風邪ひいちゃうわ」 あたふたと背を向けた雛苺は、後ろでバスタオルを広げる乙女に、用件を告げた。 表向きの、帰り道についてのことだけを。 『真紅』という単語は、吐き出せず、飲み込めず…… 喉に刺さった魚の小骨みたいに、雛苺をヤキモキさせ続けていた。 -つづく-
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『祭りの余韻』 薔薇学園三大祭りのひとつ――バレンタインデー だんじり祭りにも例えられる過激なイベントは、さしたる大事故もなく、 終わりを迎えた。 例年、流血の惨事が起きていただけに、教員の安堵もひとしおだろう。 本命から貰えた者。縋り付いて義理チョコを掴んだ者。全く貰えなかった者。 悲喜こもごも織り交ぜ、喧噪に沸いた学園は静寂を取り戻していく。 夕日射す校舎の屋上で、水銀燈は独り、フェンスに背をもたせ掛けていた。 別に、待ち合わせの約束をしていた訳ではない。 正確に言えば、呼び出されたのだ。 『部活が終わったら、屋上に来てください』 玄関で靴を履き替えようとした時、下駄箱から零れ落ちた一通の手紙。 女の子っぽい丸文字の筆跡には、ところどころに堅さが見えた。 よほど緊張して書いたらしい。 (誰かしらぁ? 殆どの人には上げたし、もらってもいるわよねぇ) 面倒見の良さからか、水銀燈は女子からも人気があり、 蒼星石ともども少なからぬ量のチョコレートを貰うことが恒例となっていた。 「これから寄りたい場所が有ったんだけどなぁ」 そもそも、こちらの都合を無視した無礼な行為だ。行かずとも問題はない。 しかし、それで逆恨みされるのも気分が悪かった。 仕方なく屋上に来てみたものの誰も居らず、もう三十分近くが過ぎていた。 「呼び出しておいて遅刻だなんて、失礼ねぇ。帰っちゃおうかしらぁ」 冷えてきた風に身を震わせて、水銀燈が階段へと歩き出した矢先、 扉が開いて一人の女生徒が姿を現した。 颯爽と登場したのは、プラチナブロンドの同級生。 「待たせたわね、水銀燈」 「真紅? まさか、呼び出したのって、貴女なのぉ?」 ハッキリ言って予想外だった。この展開は全く考えていなかった。 確かに、小学生の頃には友達同士としてチョコレートを交換していたりもした。 だが、その習慣も中学に進んで以降、どちらからともなく止めてしまった。 「珍しいわねぇ。貴女が、わざわざ私を呼び出すなんてぇ。 もしかして、私に手作りチョコレートをくれるのかしらぁ?」 「貴女に上げるチョコなんて無いわ」 「あぁら、残念。昔みたいに、何かくれるのかと期待しちゃったわぁ」 「そうね。昔みたいに――」 真紅は水銀燈の側に歩み寄ると、彼女の手を取り、 奇麗にラッピングされた小さな箱を掌に乗せた。ずっしりと、重い感触。 チロルチョコの詰め合わせだろうか? 「? なぁに、これぇ」 「開けてみて」 「え、ええ……それじゃあ」 小箱に掛けられたリボンを解き、蓋を開ける。 すると、更に中から桐の小箱が出てきた。随分と厳重に梱包されている。 チョコレートの類ではなさそうだ。 水銀燈は何故か緊張しつつ、箱の蓋を押し上げた。 中に収められていたのは―― 「これって……銀のイヤリングじゃないのぉ。これを、私に?」 驚く水銀燈に、真紅は無垢な微笑みを向けて、頷いた。 「久しぶりに、昔を思い出しただけよ。他意は無いわ」 「ふふっ…………ありがとう、真紅ぅ。大切にするわねぇ」 「安物よ。大切にする必要なんかないわ」 「ううん。私にとっては、とても素敵な宝物よぅ」 水銀燈は小箱の蓋を閉じると、しっかりと両手で包み込んだ。 五年ぶりに貰った、真紅からのプレゼント。 今日一日、チョコは勿論、花束やハンカチなど様々な贈り物をされたけれど、 他のどんな物よりも輝いて見えた。 そして……何故だか無性に嬉しかった。 小学校を卒業して以来、どうして止めていたのだろう。 こんなにも嬉しくて……心が温かくなることなのに。 年を経て異性との交友関係が拡がるにつれ、 多くの時間をそちらに取られていたからだろうか。 女の子同士という気恥ずかしさも、有ったのかも知れない。 「でも、奇遇ねぇ」 「なにが?」 「実は私も、帰りがけに真紅の家へ寄ろうと思っていたのよぉ」 「そうなの? どうして?」 「私もねぇ、久しぶりに……昔を思い出したからぁ」 そう言うと、水銀燈は鞄の中から小さな箱を取り出し、真紅に手渡した。 真紅がプレゼントしたのと、同じくらいの大きさ。 それに、ラッピングの仕方も酷似している。全く同じと言ってもいい程だ。 「開けても……いいのかしら?」 「勿論。受け取ってもらえないなら私、泣いちゃうわよぅ」 「そう。だったら、受け取れないわ。こんな物」 「………………うう…………ぐすっ」 「ちょっ――本当に泣かないでよ。冗談も解らないの?」 「今の口調、絶対に本気だったわ。恨んでやるぅ」 「解ったわよ。今、開けるから――」 リボンを解いて箱を開けると、出てきたのは、やはり同じ様な桐の小箱。 どうやら同じ店で買ったアクセサリーらしい。 真紅が小箱を開けると、シンプルなデザインながら品の良いシルバーリングが収められていた。 似た者同士の二人。 やることなすこと、こうも類似すると奇妙を過ぎて愉快ですらある。 二人は顔を見合わせて、小学生に還った様に、無邪気な笑みを浮かべた。 「本当に奇遇ね。ここ数年、すっかり止めていたのに」 「真紅はもう、忘れていると思ってたんだけどねぇ」 「それは、私の台詞なのだわ。 水銀燈には、沢山の人がプレゼントをくれるんだもの。 私が贈るまでもないと思っていたわ」 「お互い、遠慮してただけなのね。私達って、おばぁかさん」 「……失礼ね。馬鹿なのは貴女だけだわ」 口を開けば言い争い――けれど、互いを嫌っている訳じゃない。 寧ろ、気心が知れているからこそ、気兼ねなく毒舌を振るう事ができるのだ。 口喧嘩など、親友同士のコミニュケーションにすぎない。 「まあ……その、なに。これからも……よろしく頼むのだわ」 「うふふっ。こちらこそ、よろしくぅ。幼馴染の親友さん♪」 二人は並んで階段へと歩を進めながら、掛け合いを愉しんだ。 「来年もまた、待ち合わせ……する?」 「お互い、彼氏ができてなかったらの話ねぇ」 「それなら、貴女の都合は着きそうね」 「あぁら。真紅こそ、今から約束してても大丈夫でしょう?」 バレンタインSS祭りの即興SS。
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◆ ◇ 「あはははっ! ねえ、見て! 真紅ぅ!」 アタマの芯にまで響いてくる、うら若い娘の、無邪気で嬉々とした声。 「みんな元気に……いい感じに育ってくれてるわぁ」 ――ここは? はたと我に返って、真紅は静かに、ぐるり見回す。 目に飛び込んできたのは、猫の額ほどの畑と、灌木の列―― 忘れるはずもない。水銀燈と2人で、山の中腹に拓いた、最初の茶畑だった。 「もう。どぉしたのよぉ、ボ~っとしちゃってぇ」 のんびりとした、それでいて気遣わしげな声に誘われ、ゆるゆると顎を引くと…… 「大丈夫?」と言わんばかりの顔をした銀髪の幼なじみと、視線がぶつかった。 彼女は茶樹のそばに両の手と膝を突いて、茫然と立ち尽くす真紅を見あげていた。 また、なのね。真紅には口の中で、そう呟いていた。 解っている。これは、女々しさというスクリーンに投影された、未練の夢幻。 あの頃の記憶に、少しの希望を加味して再編集した、映画にすぎない。 ――不意に、目の前の景色が、原色の自然から、人工的な空間へと切り替わる。 これも、いつものこと。辿り着く先が変わったためしは、一度としてない。 ここは大学の、研究室。 修士課程の論文作成に追われ、あたふたしていた、人生最悪のクリスマスのシーンだ。 窓ガラスは、とっくに闇色に塗り尽くされ、星の代わりに、細かい雪が鏤められている。 折角のホワイト・クリスマスなのに、ね。 真紅は机に頬杖をついて、降りしきる雪を眺めながら、小さく吐息した。 ラブストーリーにありがちな、ロマンチックな状況なのに……ここには、そのカケラもない。 無情だ、と嘆かずにはいられなかった。年頃の娘が、研究室に缶詰め状態だなんて。 時刻は、もう午後10時になろうとしている。 教授や他の学生は、早々に引き上げてしまって、残っているのは真紅と水銀燈だけ。 マウスのクリック音。タイピングの音。すきま風の、か細い声。 それらが、手狭な感のある部屋の中で競い合い、自己主張を繰り広げている。 そこに、やおら「あーぁ」と。 水銀燈の、溜息とも独り言ともつかない大きな喘ぎが、すべての雑音を支配下に置いた。 「ねえ、真紅ぅ。そろそろ、お茶しなぁい?」 さも倦み疲れたような、間延びした調子で言う。 けれど、それは真紅も同じ。いい加減、肩が凝ったし、集中力も切れかかっていた。 「悪くない提案だわ」真紅は賛意を口にして、くるりと椅子を回し、振り向く。 その先では丁度、水銀燈が、持ち手つきの箱を机の上に置いたところだった。 「なんなの、それ? と言うか、どこから出したの」 「細かいことは気にしなぁい。今夜はクリスマス・イブだからぁ……じゃじゃぁ~ん!」 「ウソ……これ、デコレーションケーキじゃないの。それも7号サイズだなんて。 まさか、私たち2人で、これ全部たべるつもり? 呆れた食欲ね、まったく」 「みんなで切り分けるつもりだったけど、ちょっと出しそびれちゃってぇ。 まぁ、いいじゃなぁい。アタマ使いすぎてクタクタだし、糖分補給しないとねぇ」 なるほど。確かに、水銀燈の言うとおり、脳が糖分を求めている……ような気がする。 それに、よくよく考えたら2人とも、まだ夜食らしい夜食を摂っていなかった。 いい加減、空腹だったところに美味しそうなケーキを見せられて、真紅のおなかが鳴る。 水銀燈に、いやらしい笑みを向けられ、真紅は顔を赤らめ、無造作に前髪を掻き上げた。 「いつの間に、こんなもの買ってたの?」 「夕方に、ちょっと抜け出して、ね。それより、早く食べましょうよぉ。 私はお皿とか用意しておくから、真紅は、紅茶を煎れてちょうだぁい」 「……残念だわ。こうと分かっていたなら、上質の葉を用意しておいたのに」 真紅は本当に口惜しそうに指を噛み噛み、備え付けのコンロに、ヤカンを乗せた。 いかにも、こだわり派の彼女らしい口振りだ。 水銀燈は、幼なじみの背中に優しい笑みを投げかけて、ケーキを切り分け始めた。 真っ二つの半月型となったケーキと、湯気の立ち上るマグカップ。 せめてものムードづくりにと、モミの木の代用として置かれた、アロエの鉢植え。 それらを前に、2人―― 向かい合って、プレゼントの代わりに、引きつった笑みを交換し合った。 「メリークリスマス、水銀燈」 「メリークリスマス……って、なぁんかバカっぽいわねぇ。侘びしいわぁ」 「気分の問題よ。どんなに愉しいことでも、楽しむ気が無ければ、話にならないわ。 私は、こんなクリスマスも面白いと思うけれど……貴女は、違うの?」 「……ううん。そんなコトないわぁ。私も、楽しい。 真紅が居てくれれば、いつだって、どんな場所だって、私は楽しいわ」 「そう。でも、なんだか複雑な心境ね。光栄ですわと、喜ぶべきなのかしら」 「聖夜を孤独に過ごすよりマシでしょ。素直に喜んでおきなさいよ、おバカさん」 「うるさいわね。バカって言った方がバカなのよ」 真紅は素っ気なく振る舞うことで、冷静な自分を、取り繕おうとする。 が、フォークを持つ手の震えや、そわそわと落ち着かない肩に、動揺が現れてしまう。 なんとなく気まずくて、水銀燈の顔を、まともに見られなかった。 水銀燈は、子供のように素直な気持ちで、慕ってくれている。 今さっき彼女が口にした想いも、すべてが本心であることを、真紅は理解していた。 『真紅が居てくれれば、私は楽しい――』 それは、水銀燈が真紅に寄せる、深い信頼の証しに他ならなかった。 依存しすぎては、いけない。失ったときのショックが、計り知れないから。 そのくらいは、水銀燈にも解っているだろう。彼女だって、いつまでも子供ではない。 でも、やはり真紅を頼ってしまうのは、水銀燈が今なお病気に苦しみ続け、 脆弱さを引きずっているからなのかも知れない。 「ねえ、真紅」 いきなりの、深刻そうな声音が、場の空気を一瞬にして緊迫させる。 真紅は身じろぎを止めて、ひた……と、水銀燈を見つめた。 「どうかしたの? ケーキに虫でも入っていたのかしら?」 「違うわよ。そうじゃなくって」 「じゃあ、なに?」 「……うん。なんて言うかぁ、そのぉ……私たち、ずっと今のままで―― これから先も、親友のままで、いられると思う?」 どうして、そんなことを訊くの? 真紅は小首を傾げて、考えた。 卒業がいよいよ近づいて、ナーバスになっているとか……? その可能性は、大いに有り得た。 なぜならば、彼女たちは既に、別々の企業から内定をもらっていたのだから。 たった独りで、未知の世界に放り出される恐ろしさは、幾ばくのものだろうか。 水銀燈みたいな、生まれながらに重篤なハンディを背負った人々にとって、 それが過酷な責め苦になるだろうことは、想像に難くない。 健常者には計り知れない、怖れ。 その不安を、わざわざ煽って突き放したりするほど、真紅は悪趣味ではなかった。 「当たり前でしょう。いつまでも、変わりっこないわ」 「……ホントぉ?」 「本当よ。今までだって、そうだったでしょう。これからも、ずっと一緒だわ」 「でも、卒業しちゃったら、離ればなれに――」 ありありと不安を滲ませ、涙ぐむ水銀燈に、真紅は「仕方のない子ね」と微笑みかけ、 大まじめに、あっけらかんと告げた。 「だったら、簡単な答えだわ。同じ仕事に就けばいいのよ。 2人で会社を立ち上げましょう。商うのは……そうね。やっぱり紅茶がいいわ」 ――また、目の前にあった映像が、じわじわと隅の方から黒く塗りつぶされていく。 シーンの変わる刹那、真紅は毎度のコトながら、苦笑していた。 若かったとは言え、随分とまあ、向こう見ずな計画を打ち立てたものだ。 無論、口で言うほど簡単ではなかった。起業は、おままごとではない。 土地の確保、それに伴う資金調達など、学生の身で準備するのは、なかなかに厳しい。 祁門(キーマン)種の茶樹の品種改良も、いい結果を出せずにいたし…… もう何度、挫けそうになったことか。 けれど……そんな苦労さえ、ささやかな喜びで、幸せな色に塗り替えてしまえた、あの頃。 いまではもう、遠い日の夢物語。 真紅は、今更ながら思った。あと何回、この夢幻を見続ければいいのかしら、と。 いつまでも、こうして、楽しかった日々の思い出に執着し続けて…… 目覚めるたびに、喪失感でココロが傷つくだけと、解っているのに。 でも……たとえ、ただの自虐でしかなくても―― 真紅は、それでも構わないと思っていた。 これは懺悔。逆十字の烙印を刻まれた日から、死ぬまで終わることは許されない。 だから、真紅はいつだって、喜んで足を踏み入れる。 この夢幻が、悪夢の底なし沼だろうと、躊躇わずに。 再び、真紅の視界と意識は、山の中腹に拓いた小さな畑に戻っていた。 水銀燈は、相変わらず、心配そうな顔で彼女の様子を窺っている。 「ごめんなさい。なんでもないわ」 汚れることも厭わず、真紅は幼なじみの娘と並んで、地に膝を突いた。 土の臭いと、水銀燈の髪から靡いてくる匂いが、グッと強まる。 その瞬間、懐かしさが弾けんばかりに膨らんで、胸の奥がキュッと痛くなった。 「本当に、よく育っているわ。すべり出しは順調ね」 すくすくと伸びゆく茶樹の苗木に、希望と慈しみの眼差しを注ぎながら、 真紅は、幼なじみの左手に、そっと自分の手を重ねた。 もう彼女が失ってしまったはずの、右手を。 「ここまで来られたのは、貴女のお陰よ……水銀燈」 すんなりと口を衝いて出る、嘘偽りない気持ち。 「貴女が、品種改良を成功させてくれたからこそ、今があるのだもの。 私ひとりでは、きっと辿り着けなかった。 一緒に歩いているつもりだったけれど、貴女が私を、ここに連れてきてくれたのね」 「なによぉ、いきなり…………気持ち悪ぅい」 ばかばかしい。険を孕んだ返事は、不器用な彼女の、ひねくれた照れ隠し。 長い付き合いだ。以心伝心の真似事くらいは、真紅にもできる。 挑むように悠然と微笑みかけると、水銀燈はバツ悪そうに、そっぽを向いた。 けれど、それも寸閑のこと。 素直な言葉に絆されたのか、水銀燈は仄かに赤らめた顔を、真紅へと戻した。 「ごめん……今のウソ。お礼を言わなきゃいけないのは、私だわ」 子供の頃から、ずっと――病気のせいで、学校を休みがちだった。 それが元で、疎外されたり、陰湿なイジメを受けるようになって…… 自分が選んだ道だけれど、水銀燈は学校に行くことを苦痛に感じていた。 そんな日常において、真紅だけは、水銀燈の味方だった。 いつだって、嫌な顔ひとつしないで、なにかと面倒を見てくれた。 もっとも、彼女が庇えば庇うほど、水銀燈への風当たりは強くなったのだけれど。 「小学校も中学校も、体育の授業は、いつも見学だった。 校庭や体育館の隅っこ、プールサイド……私の居場所は、いつだって蚊帳の外。 勉強も、服用してる薬の作用で集中力が続かなくて、ロクな成績じゃなかったし」 「そうだったわね」 真紅のあっさりした相槌に、ひとつ頷いて、水銀燈は続けた。 「みんなのペースに着いていけないから、だんだんと疎まれ、敬遠されるようになって……。 私、いつも思ってたわ。どうせ嫌われてるんなら、早く死んじゃいたいなぁって。 その方が、私も、みんなも、スッキリするじゃない。ねぇ?」 「あの頃の貴女は、常に陰りを背負って生きていたわよね。 だから――私は、貴女から目を離せなくなったのよ。 放っておくと、いつの間にか物陰に溶け込んで、居なくなってしまいそうだったから」 「そうだったわねぇ」と、今度は水銀燈が、真紅と同じ相槌を口にした。 「真紅はいつだって、こんな私と、歩調を合わせてくれてたわよねぇ。 そして、引っ込み思案だった私に、勉強とか、いろいろなコトを教えてくれたっけ」 「美味しい紅茶の煎れ方……とかねぇ」 2人は、クスクスと笑い合って、ほぼ同時に手元の苗木に視線を向けた。 「私にとって……真紅の存在は、いい刺激になってたのねぇ、きっと。 長生きできないって言われてたのに、こうして今も生きてるんだもの。 そりゃあ、定期検診は受けてるし、薬も飲み続けてるけどぉ、 でも、それだけじゃないって思う。だから……ありがとう、真紅。貴女のお陰よ」 「別に――お礼を言われるほど、大したことはしていないわ」 「そう言うと思った。相変わらず、変なとこで強情ねぇ。バカみたい」 しみじみと語らいながら、真紅たちは、これからの展望に想いを馳せていた。 この茶樹が充分に育ったら、次は挿し木で増やしていく予定だ。 勿論、初めての試みだけれど、失敗するなんて考えてもなかった。 2人一緒なら、望みどおりの未来を掴めると、信じていたから。 今までも。そして、これからも―― ――脳内のスクリーンが漆黒になった。この妄想映画は、いつも、ここで終わる。 真紅も、それに合わせて、意識の扉を閉ざした。 そうすれば、深い眠りに落ちてゆけると、知っていたから。 けれど、今日に限って、夢幻の幕は降ろされなかった。 彼女の眼前が不規則に明滅したかと思った途端、次なるシーンが映し出された。 白い蛍光灯の列。白い壁。窓から容赦なく射し込んでくる、初夏の眩い光。 風に舞う白いカーテン。白いシーツ。白いベッド。 そして――リノリウムの白い床に跪いて項垂れた、幼なじみの姿。 真紅は、病室のベッドに半身を起こして、顔を伏せる水銀燈を冷たく見おろしていた。 白すぎる。瞳に映るこの世界は、あまりにも白々しい潔癖に溢れていて…… なにもかもが、くだらない『おままごと』のようだと、真紅には感じられた。 胸に生まれた白けた感情が、雪崩の如き暴力となって、迸りそうになる。 いやよ……やめてちょうだい これから起こることを思い出して、真紅は必死に、自らのココロを鎮めようとする。 だが、再現フィルムは回り続ける。止められるものなら止めてみろと、嘲笑うように。 白い世界に眼を向けるほど。項垂れた水銀燈を、見れば見るほど。 真紅の右肩は疼き、ココロの中で沸々と、得体の知れない物質が障気を燻らせる。 彼女の正気を失わしめる、障気を。 「貴女のせいよ」 その言葉が、自分の口から吐き出されたものだなんて、真紅には信じられなかった。 それほどまでに、彼女の声音は醜く変わっていた。 やめて! 言わないで! 聞きたくない。言わせたくない。 けれど、彼女の叫びも虚しく、血を吐くように怨詛は迸る。 「貴女が、私を――こんな身体にしたのよ」 もう黙って! お願いだから! 「私は、不格好だわ。不完全だわ。貴女のせいで―― 貴女なんかに係わったせいでっ!」 真紅は自分の中にある、理性の堤防が壊れる音を聞いた。 溢れてゆく。身体の中にある、なにもかもが流れ出して、思考が真っ白になってゆく。 「この疫病神っ! 出ていって! 二度と顔も見たくないわ!」 真紅の放つ石礫のごとき硬い言葉が、驟雨となって、水銀燈に降り注いだ。 この白々しい空間で、真紅のココロだけは、燃え盛る紅蓮の炎となって…… 気づいたときには、側にあった花瓶を左手で掴み、水銀燈に投げつけていた。 固いもの同士がぶつかる、鈍い音。「あぁっ」という、悲痛な叫び。 花瓶は床に落ちて砕け、生けてあった花と水を、水銀燈の周りに撒き散らした。 ややも待たず、水銀燈の額に、紅い雫が流れ落ちてくる。 それを眼にして、真紅の激情は、一瞬のうちに燃え尽きて、真っ白な灰に変わった。 なんてことを、してしまったのか。真紅は、かつてないほど動揺した。 気が動転して、なにを言ったらいいのか、まったく分からなくなってしまった。 そんな幼なじみを、水銀燈は…… 跪いたまま、スカートが濡れるのも構わず、流れる血を拭いもせずに、じっと見つめていた。 その瞳に宿るのは、傷つけられたことへの怒りでも、裏切られた憎しみでもなく。 もっともっと深い――きっと、一生かけても奥底まで辿り着けないほど深い闇だけ。 純粋な哀しみと怯えが、真紅に向けられていた。 「ごめんね…………真紅」 ――ぽつり、と。 血の気を失って白みがかった唇が、喘ぐように言葉を紡いで…… 伏せられた長い睫毛の隙間から、悲しみのカケラが零れ落ちた。 そして、水銀燈は静かに立ち上がり、ふらふらと病室を出ていった。 真紅は、引き留められなかった。口を開けども、声を出せずにいた。 咄嗟に伸ばした左腕だけが、所在なさげに揺れ……失意と共に、ガクリと下がる。 さながらゼンマイの切れた人形みたいに、彼女は疲憊して、項垂れた。 「こんな事なら――」 独りごちた声が、微かに震えている。 打撲と擦り傷で思うように動かせない脚を包むシーツに、温かな水滴が、ひとつ……ふたつ……。 真紅は唇をキュッと噛みながら、大粒の涙を落とし続けた。 「こんな事になるなら、いっそ左腕も、なくしていれば良かったのだわ。 そうしたら……あんな真似は、できなかった。あの子を傷つけずに済んだのに」 言いながらも、それが詭弁だと解っていた。 だが、詭弁にでも縋らなければ、気持ちを抑えきれないことも、また、理解していた。 あまりにも未熟な、子供の癇癪となんら変わらない、感情の暴走。 そんな瑣末なモノに翻弄されて、コツコツと築いてきた2人の信頼関係を、壊してしまった。 ずっと一緒だと言っておきながら――それを自らの手でブチ壊しにしたのだ。 情けなくて、口惜しくて…… 「無様な疫病神は、私の方だわ。私……なんて、嫌な女――」 今日ほど、自分を嫌悪したことはなかった。 真紅は左手にシーツを握り締めると、自らの顔に、強く押しあてた。 そして、誰に憚ることもなく、声を上げて泣き続けた。子供のように、泣きじゃくった。 ◇ ◆ 真っ白な闇――なんてモノが存在するかは、定かでないが、 真紅は、そうとしか表現できない物体に包まれ、横たわっていた。 あるいは、ヨーグルトの溜まりに沈んだら、こんな感じなのかも知れない。 どれほど目を凝らそうと、瞳に映るのは、白、白、白。 左手を、顔の前に翳しているはずなのだけれど、何も見えない。 ――と思った直後。 いきなり、姿の見えない何者かに手を握られて、真紅は短い悲鳴を上げた。 引っ張られる。もったりとしたナニかの中を、身体が浮き上がってゆく感じもする。 ここに至ってようやく、真紅は『夢』という水底に横たわっていたことを悟った。 ならば……底があるなら、どこかに水面も存在するはずだ。夢と現実の境界が。 真紅は、腕を引かれる方へと、自分から浮上していった。 ……やおら、水面を割って、顔に空気を感じた。真紅は深く息を吐き、双眸を開いた。 まず眼にしたのは、不安そうに窺い見ている女の子の顔。 よく見れば、彼女は両手で、真紅の左手を包み込んでいた。 「真紅っ! やっと目を醒ましてくれたのね。ああ……よかったなの。 写真を見て、急に泣き出したと思ったら倒れちゃうんだもの。ビックリしたのよ」 「そうだったの……ごめんなさい。お客様に迷惑かけるなん――」 言いながら、真紅がアタマを上げると、額から濡れタオルが滑り落ちた。 彼女は、応接間のソファに横たえられていた。 「急に動いちゃダメなの。もう少しだけ、休んでるのよ」 「でも……」 と、渋る真紅を、雛苺は静かに――しかし有無を言わせない力強さで、寝かし付けた。 これでは、どちらがこの家の主だか分からない。 けれど、真紅は表情を和らげて、雛苺に従った。 右腕のないハンディを克服しようと、強がりながら生きてきたけれど、 雛苺の前では、鎧を脱いだ素の自分に……ただの女の子に戻ってもいいような―― 不思議と、そんな気持ちに、させられていた。 「あのね、真紅」 雛苺は、そばに置いた洗面器でタオルを絞りなおして、真紅の額に乗せた。 「さっき……眠ってるときね、すっごく魘されてたなの。 汗もビッショリだし、ホントに病気なんじゃないかしらって―― もう少し起きるのが遅かったら、ヒナ、救急車を呼ぶとこだったのよ」 「……ちょっと、嫌な夢を見ていたから」 「水銀燈、の?」 途端、真紅の目が大きく見開かれた。「どうして、分かるの?」 「だって」と、雛苺は即答した。「ずっと呼んでたもの。水銀燈……って」 過去、2人の間で何があったのかなんて、雛苺には解らない。 しかし、真紅の右腕を奪い、水銀燈との仲を裂いた事件が、 今もって悪夢を生みだしていることは、彼女にも察しがついた。 雛苺の脳裏に、あの『パステル』が思い浮かんでくる。 真紅を――他人を実験台にすることには、どうにも抵抗があるけれど。 絵を描くことは、平面の向こうに更なる世界を創りだすこと。平面を扉と化すること。 その扉の先に、真紅や水銀燈にとって、幸せな未来が続いているのであれば、 ……やってみる価値は、充分にあると言えよう。 描くべきか、描かざるべきか。それが問題だ。 ……いや。問題でも、なんでもない。 雛苺の中で、答えは、もう出ていた。 たとえ、それが人道に悖る手段であったとしても―― やらない善より、やる偽善。 真紅がココロの苦しみから救われるのなら、それで、いいのではないか? 「こんなときに、こんなお願いするのは失礼かも知れないけど。 あのね、ヒナがこの町に来たのはね、絵を描くためなの。 だから……」 ひとつ深呼吸して、雛苺は、決然と切り出した。 「ヒナ、真紅の肖像画を描きたいの! 貴女の右腕が、ちゃんとある姿を、ヒナに描かせて!」 -つづく-
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―文月の頃 その3― 【7月20日 夏の土用入り】 いよいよ、待ちに待った夏休みが目前と迫ってきた、7月下旬の晴れた日。 多くの大学では、この時期に前期日程の期末考査が行われる。 講義の履修状況によっては、日に三つ四つと試験を受ける羽目になるのだが、 四年次ともなると必修科目も殆どなくなり、その数はグンと減る。 翠星石と雛苺も、十教科くらいしか履修しておらず、しかも、 その内の幾つかはレポート提出で単位がもらえる講義だから、気楽なものだ。 今週の火曜日から試験が始まり、既に三教科を済ませているので、 以後のスケジュールは一日に一教科のペースでよかった。 「お待たせ~。遅くなって、すまねぇですぅ」 午前の試験終了後、やや息を切らせ気味に学食へと駆け込んできた翠星石は、 既に待ちかまえていた親友に、片手をあげて挨拶した。 向かい合わせに座った翠星石に、雛苺は水を汲んだコップを差し出しながら、 にこやかに訊ねた。 「随分と遅かったのねー。何か、急用でもあったの?」 「来る途中、みっちゃんにとっ捕まって、長話に付き合わされたですよ」 「うよ……災難だったのね」 「そう気軽に、過去形に出来たら良いですけどね」 まるで、まだ災難は終わっていないとでも言いたげだ。 なにやら意味深長な翠星石の口振りに、雛苺が「?」マークを頭の上に浮かべる。 雛苺が説明を求める前に、彼女の態度でそれと察したらしく、 コップの水を一息に呷った翠星石は、ノートで顔を扇ぎながら語り始めた。 「どこで聞きつけたんだか、夏休みの旅行の予定を訊いてきたですぅ」 「……それで、どうだったの?」 「なし崩し的に参加することが決定したです。 ホントに、誰がペラペラと喋りやがったですかねぇ」 「…………」 一瞬の、気まずい沈黙。探るように、じっとりと雛苺を見つめる翠星石。 雛苺は引き攣った笑みを顔に張り付かせたまま、全ての動きを止めてしまった。 彼女の行動が意味するところは―― 「やーっぱり、おバカ苺が喋りやがったですね?」 「ごめんなさいなの。つい、口が滑ったのよー」 「……まあ、しゃーねぇです。それに、デメリットばかりでもねぇですから。 みっちゃんも、車を出してくれるって話ですぅ」 旅行は夏休みの後半、お盆休みを避けて、山奥の温泉に行く予定だった。 しかし、参加人数に比して車の台数が確保できない問題があったため、 公共の交通手段で移動することになっていたのだ。 そのため、出費の中でも交通費の占める割合が、大きくなっていた。 無論、車の場合でもガソリン代が必要となるが、頭割りで換算すれば、 列車を使うより安上がりである。運行ダイヤに縛られないという利点もある。 長時間のドライブで疲れるコトさえ我慢すれば、予算的におトクだった。 「旅行の件は、蒼星石が帰ってきて、出発日が近付いたら煮詰めるとして…… まずは昼食にするです。一科目だけとは言え、アタマ使ったら腹減ったですぅ」 「ういー!」 今日は土用入り。 丑の日は三日後なのだが、鰻の蒲焼きを宣伝する幟が、あちこちで風に翻っている。 気温が30度を超す中、暑気対策と称して激辛カレーを平らげた二人は、 汗を拭き拭き、帰宅途中に駅前の商店街を歩いていた。 珍しく、雛苺の方から、寄り道していかないかと誘ってきたのだ。 なんでも、画材を買いたいとか……。 芸術に関心の薄い翠星石にしてみれば、 雛苺が画材を選んでいる様子を隣で眺めているのは、面白みに欠けた。 なにか退屈しのぎになるモノを探して、きょろきょろしていると、 店先を並んで歩く、水銀燈と真紅のサッパリした夏服姿が―― これ幸いと、翠星石は彼女たちに旅行の件を話してくると、雛苺に告げた。 雛苺としても、つまらなそうにしている翠星石に、申し訳なく思っていたのだろう。 「じゃあ、ヒナは買い物してるから、どこかで待ち合わせするの」 「私のケータイに電話してくれりゃいーですよ。それじゃ、また後で」 手を振り合って一時的に別行動に移ると、翠星石は真紅たちの元へと駆け寄った。 どうやら、彼女たちもショッピングの途中らしい。 「銀ちゃ~ん、真紅~、ナニを買ってやがるですぅ?」 「あら、翠星石。こんな所で会うなんて、奇遇ね」 「今日は、真紅の旅行鞄を選ぶのに、付き合ってあげてるワケぇ」 今度の旅行に使う鞄だろうか? しかし、彼女たちが見繕っているのは、どうみてもスーツケース。 山奥の温泉宿に持って行くにしては、大きすぎる。 翠星石が怪訝な表情を浮かべるのを見て、水銀燈は笑いながら、彼女に用途を教えた。 「実はねぇ、真紅が就職内定もらったからぁ、お祝いにカナダへ旅行するのよ」 「カナダですか。もしかして、オカナガン湖にオゴポゴを探しに行くです?」 「なによ、それぇ。オカナガンって、ブリティッシュコロンビア州でしょぉ? 私たちが行くのは、アルバータ州のカルガリーよ」 水銀燈の話によると、カルガリーまで飛行機で飛び、カナディアンロッキーや、 ジャスパー国立公園、バンフ国立公園を巡る予定らしい。 自然が豊かで、眺望も素晴らしい、世界的にも有名な観光地だ。 ここで一旦、水銀燈は話を区切って肩越しに振り返り、真紅の様子を窺った。 真紅は店員に説明を受けている最中で、水銀燈と翠星石には注意を払っていない。 水銀燈は、鬼の居ぬ間に――とばかりに、コソコソっと翠星石に耳打ちした。 「なぁんて言うのは、表向きの理由よぉ。本当の目的はねぇ、カルガリーの西、 バンフの南に位置するアシニボイン山に登るコトなのよ」 「あ、足に……ボイン?」 「アシニボイン山よ。標高3618mもあるんですってぇ。富士山なみよねぇ」 「……ははぁん、読めたですぅ。大方、銀ちゃんが調子に乗って、 『インディアンの伝説で、この山に登るとボインになれる』 とでも言ったですね。そんなウソを、真紅が真に受けたってトコですか?」 「そうなのよぉ。でも、良く分かったわねぇ」 「銀ちゃんの考えそうなコトぐらい、察しがつくですぅ」 水銀燈は、素直に驚きの表情を見せたが、それも一時のこと。 すぐに、ニンマリと笑って、翠星石の首に腕を回し、肩を組んだ。 「私たちって、意外に気が合うわねぇ。前世では、姉妹だったりしてぇ」 「それも、どーんと七人姉妹だったかも知れねぇですぅ」 「ふぅん? 面白いわね、それ。 でもぉ……何人姉妹でも、やっぱり長女は私よねぇ♪」 「あるあるwwですぅ。それじゃあ、次女は―― しっかり者の秀才と見せかけて、実はドジっ娘とかですね」 「なにげに有り得そうだわぁ。だったら、三女は、どんなタイプぅ?」 水銀燈の問いに、翠星石は、意味もなく胸を張って答えた。 「そりゃあモチロン、私みてぇな才色兼備のキャラですぅ。 四女は、寂しがりのクセに他人と打ち解けるのが苦手って、不器用なヤツですね。 五女くらいになると、生意気で高飛車なタイプが出てくるです」 「幾つか疑問点はあるけど、まあ……ありがちな設定かしらぁ。 そうなると――六女は、みんなのマスコット的な存在ぃ?」 「……と思わせておいて、実はエグいキャラだったりするですぅ。 で、七女ともなると、存在感の薄い、空気みたいなヤツになるですよ」 「きゃはははっ! 居るわねぇ。そぉいう、お地蔵さんみたいなキャラ」 ――その頃の雪華綺晶と、薔薇水晶―― 「くちゅん! くちゅん! 嫌ですわ、風邪でしょうか」 「お姉ちゃん。くしゃみ二回だと……誰かに誹られてるんだよ?」 「そうなの? でも、薔薇しーちゃん。 私、他人に悪口を言われるような振る舞いなんて――」 「……じゃあ、夏風邪。夏風邪はバカがひく」 「…………ハイヒールキックっ!」 「痛っ! ちょ……お姉ちゃ……ヒール刺さっ…………痛たぁ!」 「いつから、そんなに口の悪い子になったのでしょうね? お仕置きですわ。えいっ! えいっ!」 「ひぃっ……やめ……痛いっ…………あっ……でっ、でも……」 「え?」 「痛いの……き…………気持ち……いい。もっと……踏んで」(;´Д薔)ハァハァ 「はあぁっ?!」( §д゚) ――そして、また水銀燈と翠星石―― 「あらぁ? 真紅の買い物、終わったみたいねぇ」 「タイミングいいです。私の方にも、雛苺から電話が掛かってきたですぅ」 翠星石は携帯電話を取り出して、まだ水銀燈たちと一緒に居るところだと伝えた。 すると、雛苺が水銀燈に会いたがったので、「これからお茶でもどう?」 という流れとなった。 子供の頃から、雛苺は水銀燈にベッタリなところがあった。 なぜ、そこまで懐いているのかは定かでないが、どこかウマが合うのだろう。 袖振り合うも他生の縁……というヤツかも知れない。 それが、違う大学に通うようになり、めっきり会う機会が減ってしまったので、 雛苺も随分と、寂しさを募らせていた。 五分と経たずに、雛苺は待っていた三人の元に駆け込んでくる。 正確には、笑顔を輝かせながら両腕を広げて待つ、水銀燈の元へ―― 「ヒナちゃぁーん。二ヶ月ぶりねぇ」 「銀ちゃーんっ! ひっさしぶりなのーっ!!」 嬉々として飛び込んでいく様は、まさに飼い主にじゃれつく子犬状態。 真紅も、翠星石も、やれやれと肩を竦めて苦笑った。 ――が、次に瞬間、その笑みは驚愕に凍り付く。 ズンドコ~ッ! 「あぐぅっ!」 あまりに勢いよく抱きついた為、雛苺の頭突きが水銀燈の顎にクリティカルヒット。 しかも、明らかに故意と解る右膝が、水銀燈の鳩尾にメリ込んでいた。 真紅と翠星石のアタマから、音を立てて血が退いていった。 「う、うよ~。銀ちゃん、大丈夫なのー?」 しおらしく謝りながらも、雛苺は水銀燈の耳元で、ぼそりと……。 「真紅とばっかり仲良くしてちゃ、めっめっ、なのよぉ?」 囁いて、微かに口の端を歪めた。 先手を取られた挙げ句、文句を言う前にスゴまれては、 さしもの水銀燈といえど気勢を殺がれてしまった。 「銀ちゃん、お返事は?」 「…………はぁい」 「よく出来ましたなのっ。今度は、いっぱいヒナと遊んでなの」 「まったく……敵わないわねぇ。痛たたぁ」 「うふふっ。銀ちゃん、だぁい好きぃ~」 全く悪びれた素振りも見せず、ニコニコと水銀燈に抱きつく雛苺。 水銀燈も、いつもみたいに激情を炸裂させたりせず、彼女の気の済むようにさせている。 そんな二人の様子を、少し離れた場所から眺めていた真紅と翠星石は―― 「実は、雛苺こそ最凶最悪の存在に思えてきたですぅ」 「貴女と意見が合うのも、珍しいわね。私も、同感なのだわ」 「そのスーツケース……雛苺くらいなら、押し込めば入るんじゃねぇですぅ?」 「まさか、カナダに捨ててこい、と? そんな事、出来っこな――」 「悪い話じゃねぇですよ? よぉーく考えてみるです。 雛苺が居なくなれば、次回から第2部、紅×翠の『マターリ歳時記』が始まるですぅ」 「……………………おいしい話ね、それ。ホントにやっちゃうわよ、私」 ヒソヒソと、冗談とも本気ともつかないコトを、囁きあっていた。 夏休みが待ち遠しくて―― ――みんなの心は、ちょっとだけ暴走気味だった。
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あの日から二ヶ月が過ぎた。 七月は、何の余韻も残さず……幾ばくもなく去ってしまった。 八月は、けたたましい蝉時雨と一緒に、忘却の彼方へ流されつつある。 夏を謳歌していた、ニイニイゼミも、クマゼミもヒグラシも、今は昔。 アブラゼミと、ミンミンゼミと、ツクツクホウシが、差し迫る秋の訪れを、気怠そうに告げるだけだった。 あれから、私の病状は著しい快復を見せ、今や、すっかり健康を取り戻している。 病を患っていたことがウソみたい。誰もが――主治医ですら――驚き、目を丸くした。 でも、私は忘れない。病気が治った、本当の理由を。 九月の、第二土曜日。 私は、数々の思い出と夏の色を胸に、この病院を去る。 門出に相応しく、残暑の厳しい空は、青く晴れわたっていた。 身の回りの物を詰め込んだバッグを肩に掛けて、お世話になった看護士さん達に挨拶して回る。 みんな、笑っていた。良かったね、おめでとうって。 そして、私も笑っていた。ありがとう、って。 ――だけど、それは本心をさらけ出した結果じゃない。笑う気になんか、なれなかった。 夏特有の、土砂降りの雨の下で失われた、いくつもの輝き。 水銀燈も、薔薇水晶も、左手の薬指に癒着していた指輪も、全ては過去。 でも、私にとっては昨日の今日。 夢の中で時を旅する能力に目覚めた、私にとっては――今も、心を疼かせる悪夢に他ならない。 この60日間、私は殆ど毎日、夢で記憶を辿っていた。 ずっと前に撮り貯めておいたホームビデオの映像を眺める様に。 録画したまま忘れていた、テレビ番組のDVDを再生する様に。 だって、そこに行けば、水銀燈や薔薇水晶に出会えたんだもの。 人間の能力って、つまるところ、説明書のないAV機器の機能みたいなものだと思う。 基本的な機能は大概、どのメーカーでも共通しているから、経験則で使える。 けれど、特殊な機能となると、説明書なしでは使いこなせない。 それが日常生活に必ずしも必要ない機能だったら、誰も使おうだなんて考えないわよね。 たまたま……本当に、ひょんな事で、使い方を知ってしまった人なら別だけれど。 私は正に、偶然のイタズラによって、内蔵されていた不思議な機能の使い方を知った。 喩えるなら、広い屋敷の中で、たった一つの照明を灯すスイッチを見付けた様なものよ。 一度、解ってしまえば、どんどん応用力が高くなっていったわ。 過去の世界は、編集可能なVTR。美しい場面だけを、切り抜くことが出来る。 だからこそ、私は悲しみに鬱ぎ込むことなく、今日まで生きてこられた。 彼女たちの思い出に慰められながら、明日を夢見る勇気を得てきたから―― どうしようもなく虚しかったけれど、独りきりじゃ……なかったから。 「今日、退院なんだってね。おめでとう」 パパが迎えに来るまで、ロビーのソファに座り、薔薇水晶の眼帯を眺めていた私に掛けられる、声。 顔を上げると、蒼星石さんが腰の後ろで手を組んで、私の前に佇んでいた。 ロビーに射し込む朝日を受けて、緋翠の瞳が宝石のように輝いている。 なんだか、不思議な気分。千二百年前にも、蒼星石さんと私は、出会っていたんだもの。 案外、この世の全ては、どこかで繋がっているのかも知れないわね。 蜘蛛の糸みたいに細い因縁に気付かず、必然の巡り会いを、邂逅だと勘違いしているだけで。 本当は、今、私の周りに居る人たちも、昔、何処かで出会っていたのかも……。 「? な、なに……かな?」 蒼星石さんは、はにかんで頬を染めた。 ついつい、彼女の顔を、じぃ……っと見つめすぎてたみたい。 私も気恥ずかしくなって、つぃ、と視線を逸らした。 「ううん……別に。蒼星石さんとも、これでお別れかと思うと、ちょっと寂しくてね」 「いつでも、会いに来て良いんだよ。ボク達に、気兼ねは要らないから」 朗らかな笑みを浮かべた彼女は「あ、そうそう」と、思い出した様に、唇を尖らせた。 徐に、制服のポケットから、なにやら紙片を抜き出す。 「今まで気付かなかったんだけど、ボクのロッカーの中に、紛れ込んでたんだよ」 差し出される、一通の手紙。宛名は……私。 少しばかりヨレヨレだけど、しっかりと封がしてある。 「差出人が書いてないけど、キミに宛てたものだし、渡した方が良いかと思ってね」 「ありがとう。誰からだろ? 蒼星石さんのイタズラじゃあ、ないのよね?」 「ち、違うよっ。そんな事をする理由はないでしょ」 ムキになって反論する辺り、看護士さんによる退院祝いの悪ふざけじゃあなさそう。 じゃあ、誰が? 私に手紙をくれそうな人は、他に居たっけ? ――看護士のロッカーに入れられていた…………ってことは、まさか。 薔薇水晶の眼帯をバッグにしまって、手紙を手にした瞬間、予感めいた想いが、私の身体を駆け巡った。 慎重に、便箋まで一緒に破らないように、封を千切る。 引き抜いた手紙には――――二人だけの合い言葉が記されていた。 ひょっとしたら、無駄になるかも知れないけど……。 そんな前置きで、手紙は綴られていた。 この手紙を読んでいる貴女は、きっと全てを知っているわよね。 まずは、退院おめでとぉ。お祝いも兼ねて、あの時の約束を果たすわ。 口約束でも、反故にするのは、私のプライドが許さないから。 でも……めぐと一緒には、行けないと思うの。 だから、約束の場所への招待状がわりに、この手紙を残しておいてあげるわ。 貴女にとって、ひと夏の甘い思い出になってくれたら嬉しいんだけど☆ 水銀燈からの手紙だった。便箋の右下に記された日付は、彼女が消えてしまった、あの日。 彼女が着ていた看護士の制服は、蒼星石さんの物だったのね。 私のパジャマに着替えて、手分けして薔薇水晶を探しに行ったとき、 制服を返すついでに隠しておいたんだわ、きっと。 この状況を悟っていながら、一言も教えてくれなかったなんて……本当に酷いヒトよ、貴女は。 ――ありがとう。無駄にはならなかったわよ、水銀燈。 便箋に、生暖かい水滴が落ちる。紙面で砕けて、点々と散った飛沫が、文字を滲ませる。 いけない……約束の場所への案内図が、描いてあるのに。 何も言わずに、そっと差し出されるハンカチ。 私は、蒼星石さんの手からそれを受け取って、目元を拭った。 「……ごめんなさい。洗って返すから」 「気を遣わなくて良いよ。餞別ってワケじゃないけど、めぐちゃんにもらって欲しいな。 そのハンカチを見る度に、この病院のこと……ボク達のことを、思い出してね」 言って、無邪気に微笑む蒼星石さんを見ていたら、無性に泣けてきちゃった。 結局、私はハンカチを貰った。涙と鼻水でグシャグシャになった物を、返せっこないから。 一年半ぶりに帰る実家は、なんとなく居心地が悪くて、落ち着かなかった。 おかしな話よね。この家には、子供の頃からずっと暮らしてきたのに。 本当ならば、地球上のいかなる場所よりもリラックスできる住処であるべきなのに。 自室に篭もり、バッグから薔薇水晶の眼帯を持ち出して、ベッドに寝転がった。 また、彼女たちに会いに行こうかな。夢の中で、幾星霜を飛び越えて。 この二ヶ月で、私は夢占の能力を、だいぶ使いこなせるようになった。 もっとも、真価とも言うべき未来予測は、全く出来ないけれど……その方が、幸せなのかな。 自分の死の間際を知ってしまったら、安穏と生活できないものね。 何をしても止められない時限爆弾と、添い寝してるに等しい状況なワケだし。 ――薔薇水晶。 両手で彼女の眼帯を包み込み、瞼を閉じる。静かな微睡みが、心地よい気怠さを運んでくる。 どんなときも彼女が、私を護ってくれていたってことを知ったのは、 病床で見る夢を、第三者の眼で見つめ直したときだ。 私は何度か転生していたけれど、いつの時代、どの人生でも、彼女は私を見守っていた。 そして、守護者である自分が側に居ることで、私の寿命を縮めてしまうジレンマに懊悩していた。 薔薇水晶にとって、私に寄せる親愛とは重き罪に他ならなかったのね。 徐に、夢の扉が開かれる。 思い出の中で、彼女は嬉しそうに笑っていた。そして、こう語っていた。 『めぐちゃんのパソコンに、メール送っておいたよ~。退院したら確認してね』 なに、これ? 病室での会話らしいけど……私、こんな場面、憶えてない。 もしかしたら、点滴や投薬の後で、頭が朦朧としていた時のことかも知れないわ。 私は、粘っこくまとわりつく微睡みを振り払って、即座に跳ね起きた。 勉強机の隣に配されたPCラックに向かい、パソコンのパワーをオンにする。 一年以上も起動していなかったけど、ファンは鈍い音を発して回り始めた。 OSのスタートアップを待つ時間が、もどかしい。 漸く、システムが安定したところで、ネットに接続して、メールを確認した。 果たして、求めるものは、そこにあった。 着信の日付は、転院した数日後の夜半。多分、向日葵を見に行こうと、約束した日だわ。 メアドは、彼女の携帯電話のものだった。震える手でマウスを動かし、メールを開く。 めぐちゃん。元気になって良かったね♪ 私、とっても……とぉっても嬉しいよ。 ホントは、退院する日に迎えに行って、直接、お話したいんだけど……。 どうしても都合が付かなくて、行けないかも知れないでしょ。 だからね、こうして先に、メールしておくの。 こういうのって、ちょっとロマンチックだと思わない? お気楽な文章と、その下に、二人で行くと約束していた場所の詳細が記されていた。 あんな悲劇が起きることなど、微塵も考えていない内容だった。 ――ああ、なるほど。貴女は、ここに私を連れていこうとしてたのね。 その場所を、私は知っていた。行ったことはないけど、他の入院患者さんに、話を聞いていたから。 やがて、場所の案内が終わり、メールの最後に、一文が現れた。 私はいつだって、あなたの心で永久に生きているわ。だから……一緒に行こうね♪ 薔薇水晶も、解っていたのね。私が、このメールを見る時、自分が既に居ないということを。 だから、こうして意志を残したのだ。私一人でも、見に行って欲しいと願いを込めて。 不意に、目頭が熱くなって――――私は、薔薇水晶の眼帯を胸に抱きながら……泣いた。 翌日の日曜日、私は両親に無理を言って、お金を貸して欲しいと頼んだ。 今まで、さんざん家計に負担を掛けてきただけに、心苦しかったけれど…… やっぱり、彼女たちとの約束を果たさなければいけないって、思えたから。 そして、今度こそ伝えるの。 さようなら――って。 だから、私は、約束の場所へ向かう。 新たな人生を歩み始めるために。 別れの言葉を、探しに。 パパもママも、最初はすごく驚いてた。 当然よね。退院してきたばかりで、バカなこと言い出すんだもの。 だけど、私が理由を明らかにすると、こっちが拍子抜けするくらい簡単に、快諾してくれた。 そして、パパは穏やかな口調で言ったわ。『思い通りに、生きてごらん』と。 怒鳴られて当然で、最悪、撲たれることも覚悟してたんだけどなぁ。 概して、父親は娘に甘いみたい。 ナップザックに簡素な旅支度を詰め込んで、その日の内に、私は旅に出た。 濃紺の長袖シャツに、白のスラックス。靴はパンプス。動き易さを重視した服装よ。 電車を乗り継いで、最初に向かったのは、薔薇水晶と行くはずだった場所。 その場所で、私は思い出と共に、彼女の眼帯を捨てるつもりだった。 ――山梨県 北杜市 明野町 新宿から、京王線と中央本線を乗り継ぎ、三時間以上かけて、韮崎の駅に降り立った。 タクシーで30分ほど走ると、日照時間が日本一というこの町に辿り着く。 映画『いま、会いにゆきます』のロケ地にとして、一躍、脚光を浴びた場所でもある。 夏の間は「明野サンフラワーフェス」も開催されるほど、広大なヒマワリ畑で有名な土地なのだ。 実際、車窓から見る町中でも、頻繁に向日葵を見かけた。 でも、今は9月。向日葵の季節は、終わっていた。 数週間前まで、整然と立ち並んでいた筈のヒマワリ畑は、すっかり更地と化していた。 おまけに、生憎の雨模様。雨だれが、とんとん……と、折り畳み傘を打つ。 「……薔薇水晶。私ね、調べてみたのよ。向日葵の花言葉。 いろんな意味があったけれど、その中に『私の目は貴方だけを見つめる』ってあったわ。 貴女はいつだって、私を護ってくれてたわよね」 それなのに、私は間に合わなかった。たった一つの約束すら、守れなかった。 この雨は、薔薇水晶の涙雨かも知れない。私の心で生きる彼女の代わりに、空が泣いている。 私の瞼にも、胸を締め付ける感情が溢れだしてきて……眼帯を握り締める手が震えた。 ――ごめんね、薔薇水晶。こんな別れ方じゃ……辛すぎるよね。 別れの言葉は、まだ見付からない。 傘を捨てて、私は――降りしきる雨を見上げた。 九月の雨は冷たくて、溢れ出す悲しい気持ちを流し去るには、丁度よかった。 ふと…………雨が遮られて、頬を伝う涙が、熱さを取り戻した。 閉ざしていた瞼を開くと、ライトグリーンの傘が、私の頭上を覆っていた。 「なにボサッと突っ立ってやがるですか。さっきから、雨の中で傘もささずに」 背後の、割と間近で放たれた声に驚いて、私は泣いていたことも忘れ、振り返った。 傘を差し出してくれたのは、栗色の髪の乙女。遙かな昔、私の侍女だった娘に似ている。 ――ううん。きっと、彼女だわ。緋翠の瞳じゃないけれど、長い髪は、あの頃のまま。 深く澄んだ鳶色の瞳は、訝しげに私を眺め回していた。 「なんで、傘を持ってるのに、使わねぇのです? 風邪ひきてぇですか」 「え……っと。ごめんなさい」 「別に、謝ることねぇですよ。独りで思い詰めた顔してたから、声をかけただけです」 「――ごめんなさい」 何を言っていいか解らず、私はバカみたいに、同じ言葉を繰り返すだけだった。 娘は空を見上げて、小さな溜息を漏らした。私が泣いていた事に、多分、気付いている。 自殺でもしそうな雰囲気だと、思われちゃったかな。 「とにかく、こっちへ来るです。そのままじゃ、本当に風邪ひいちまうですよ」 彼女は力強く私の手を握ると、ひまわり畑に程近い建物へと引っ張っていく。 明野ふるさと太陽館。どうやら、この娘は、そこの職員らしい。 有無を言わせぬ勢いの彼女に連れられ、やってきたのは―― 「まずは、ここの天然温泉『茅の湯』に入って、温まってくるといいです。 その間に、服を乾かしといてやるですから、ありがたく思えですぅ」 なんだか、やたらと尊大な態度だけれど……らしいと言えば、いかにも彼女らしい。 私は、彼女の好意に甘えることにした。もう少し、彼女と話がしたかったし、 ずぶ濡れのままじゃ、バスにもタクシーにも乗れないから。 向日葵のシーズンが過ぎてしまった為か、それとも時間帯のせいか……。 温泉の利用客は、私だけだった。展望風呂っていうのかな。とっても見晴らしが良い。 雨降りの日も悪くないなと思いながら、肩までお湯に浸かって、思いっ切り四肢を伸ばす。 入院中はシャワーばかりだったから、浴槽に身を沈めるのは、ホントに久しぶり。 「はぁ…………気持ちいいね」 私は胸に手を当てて、薔薇水晶に話しかけた。 心の中で、彼女が――『あはっ♪ そうだね~』――答えてくれた気がした。 お風呂から上がると、さっきの娘が、乾かしたばかりの服を手に待っていた。 御礼を言って、入浴料と乾燥機代を払おうとしたけれど、彼女は受け取らなかった。 「そのくらい、サービスしてやるです。さっきは思い詰めた顔してたけど、 風呂に入って、少しは気分転換できたみてぇですね。 傘も拾ってきといたから、気を付けて帰りやがれですぅ」 「いろいろ、お世話になりました。でも、私……もう一カ所、回るところがあるの」 「どこに行くですか。この近くです?」 「ううん。お隣の長野県よ」 彼女は腕時計を一瞥して、今からじゃ日が暮れるですよ、と目を丸くした。 確かに、もう夜が近い。これから向かっても、到着は夜中になる。 迷っていると、彼女は事もなげに言った。「なんだったら、ここに泊まってくといいですぅ」 結局、泊まることになってしまった。私って案外、強引な迫られ方に弱いみたい。 水銀燈も、我が侭で押しが強かったっけ。 だけど、お陰で夜中まで、彼女と話す機会に恵まれたわ。 「そう言えば、自己紹介が、まだだったわね。私は、柿崎めぐ。貴女は?」 「翠星石ですぅ。ここに勤務してて、向日葵畑や、フラワーセンターの花壇を手入れしてるですよ」 「ふぅん…………やっぱり、今も庭師なのね」 私が『やっぱり』だなんて言ったから、翠星石は不思議そうに首を傾げた。 まあ、そうよね。今の彼女は、前世の記憶なんか思い出してないんだから。 ちょっと気まずい空気を変えるべく、話題を転じた。 「ところで、翠星石には兄弟って居る? 双子の姉妹とか」 「居ねぇですよ。産まれたときから一人っ子ですから」 「一人っ子かぁ……私と同じだわ」 言いながら、私は蒼星石さんの事を思い浮かべていた。 あんなに仲が良くて、片時も離れなかった双子姉妹が、今生では別々の人生を歩んでいるなんてね。 彼女たちの絆は、切れてしまったのかしら。 それとも、彼女たち自身が、生まれ変わる先で双子の姉妹であることを望まなかったのかしら。 案外、後者かも知れない。血の繋がり以上の絆を、彼女たちは求めていたから。 「ねえ、翠星石。私ね、入院してた時に、とっても素敵な人に会ったのよ」 私は、蒼星石さんの話を、彼女に聞かせた。人柄とか、容姿とか、勤務先とか―― おせっかいだったかもね。でも、やっぱり二人を引き合わせてみたかったの。 時を隔てた絆は、切れてしまう運命なのか……それを知りたかったから。私自身のためにも、ね。 その夜は、とても夢見が良かった。温かくて優しい、心の痛みさえ包み込む夢の中で、私は癒された。 翌朝は、昨日の雨がウソのように、スッキリと晴れ上がっていた。 私の気分も、滅入った状態から、かなり立ち直れた感じがする。 仰ぎ見た蒼空には、雲一つない。 まだまだ日射しは強くて、暑い。 別れの言葉が見付からなかったから、私は、薔薇水晶の眼帯を捨てなかった。 まだ、その時期ではないか、私自身が、それを望んでいないからだと思う。 どっちみち、帰路でも此処を通るんだから、その時まで、ゆっくり考えてみよう。 私は解答を保留したまま、この蒼い空の向こう側にある、もう一つの場所を目指す。 取り敢えず、携帯電話で、両親に連絡を入れておこう。 明日か、明後日には帰ると告げて通話を切ったところで、翠星石が側に居るのに気付いた。 見送りにきてくれたのね。私は両手で、彼女の滑らかな手を握った。 「何から何まで、お世話になりっぱなしだったわね。ホントに、ありがとう。 それじゃ……またね、翠星石」 「はいですぅ。星の海が見付かるといいですね」 もう一度だけ、翠星石に色々と世話になった御礼を告げ、私は長野へと向かった。 ――JR長野駅 韮崎から列車に揺られること、三時間以上。こんなに長く電車に乗っていると、流石に疲れるわ。 ちょっと早めの昼食を簡単に済ませると、私はタクシーで戸隠神社を目指した。 そここそが、水銀燈との、約束の場所だから。 この旅行に出る前に、私はインターネットで下調べしてきた。そして、ある事実を発見していた。 戸隠・鬼無里に残されている、鬼女「紅葉」の伝説を。 呉羽という名の、悲運の女性の話。彼女は都にのぼり「紅葉」と名を変えて幸せに暮らした。 でも、言いがかりを付けられ、ここ戸隠に流されて、非業の死を遂げたんですって。 水銀燈が戸隠を選んだってコトは、彼女にも縁が深い土地なのかも知れない。 彼女は鬼の血を引いていたんだから、何らかの結び付きは、ありそうだわ。 鬼女「紅葉」が水銀燈の母親って挿話がついていたら、私はもっと興味をそそられるだろう。 もっと……水銀燈のことを知りたいと想うだろう。 あれ? 彼女に別れを告げる為に、ここまで来たのに……矛盾してるわね、私。 そんな妄想を膨らませている内に、タクシーは目的地に着いた。 戸隠神社 中社。ここからは、徒歩で回るつもり。 伝承とか調べて、水銀燈の言う『星の海』の手懸かりを掴めたら良いんだけど。 でもまあ、昼間は見付けられないんでしょうね、きっと。 だって、星は夜空にあって、煌めくものだから。 「じゃあ、星の海っていうのは――」 この辺りは山岳部だし、空気も澄んでいる。しかも、今日はよく晴れている。 照明も少ないから、夜になれば、思わず息を呑むほどの星空を見られる筈だわ。 戸隠山に登れば、更に違う夜景を体験できるかもね。 「あ……もしかして、そういう事なのかしらん?」 山頂から、満月に照らされて煌めく長野市街の夜景を見下ろし、頭上に満天の星空を頂く。 これって、星の海……っぽい? それに、よくよく考えたら満月は金曜日だったっけ。 声に出さずに、呟いてみる。(ねえ、薔薇水晶……貴女は、どう思う?) 取り敢えず、この空に巨大な暗幕が降ろされるのを待とう。 私は、ナップザックを背負い直して、中社の周辺を見て回った。 焼けたアスファルトから、熱気が立ち上ってくる。 汗を吸ったスラックスが脚に貼り付いて、とても歩きづらい。 でも、木陰に入ると、涼しい風が私の首筋を撫でて、吹き抜けていった。 水田の側では、黄金色の稲穂を揺らしながら、甘い匂いを運んでくる。 山の風って、都会の風と違い、湿度が低いのよね。だから、蒸し暑さを感じないの。 私は木陰の石垣に腰を預けて、田圃の上で群れ飛ぶトンボと、彼岸花を眺めていた。 「ひっそりと訪れる秋の気配、かぁ。とっても長閑で……いい所だね」 ナップザックから薔薇水晶の眼帯を取り出し、胸に抱いた。 「水銀燈が、私を案内したくなるのも解る気がするなぁ。 すごく、気持ちが安らぐ景色だもの。薔薇水晶……貴女にも、見えてるよね?」 薔薇水晶と交わした約束の場所で、翠星石と巡り会えた。 水銀燈との約束の場所で、こんなに素敵な風景に、心を打たれた。 お別れの言葉を告げに、ここまで来たけれど…………振り返れば、新たな出会いばかりね。 徒歩で、戸隠神社の中社から奥社へと向かう間に見上げた太陽は、西に大きく傾いていた。 山の日暮れは早い。今からだと、戸隠山の山頂まで行くのは難しいわね。 もっとも、修験道の道場だった険峻な山に、長期入院で筋力の衰えた私が登れっこないけど。 奥社は、その名が示すとおり、とても奥まった場所に存在していた。 歩けども歩けども、延々と参道が続いていて、社殿など見えてこない。 山の稜線を彩る夕焼けに黄昏れる間もなく訪れる、宵闇。東の空に月が昇るまでの、一瞬。 両脇に生い茂る樹木が、黒々と頭上に覆い被さってくるみたいで、流石に気味悪いわ。 月齢は十八夜だから、月が昇れば少しは明るくなる筈だけど。 ライトも持たずに、夜の森の中を歩くのは、怖い。 木々の間を抜けてくる冷気が、私の体温を急激に奪っていく。 でも、行かなきゃいけない。星の海を探しに。その為に、夜を待ちわびていたんだもの。 薄気味悪いだなんて、尻込みしてる場合じゃないわ。 聞こえるのは、風に揺れる枝葉の音と、私の足音……それに、虫の声。 ざわっ! と木々がさざめく都度、立ち止まって、振り返る。 誰も居ないことを確かめて、また、歩き出す。 そんな下らない事を、何度も繰り返して漸く、私は古びた門まで辿り着いた。 鄙びた山中に似つかわしくない立派な造りだけど、ここが修験者の道場であることを考えれば、 ここに在って当然の山門なんでしょうね。 門の上部に銘板らしき物が掲げられていたけど、暗すぎて読めなかった。 木々の枝から漏れてくる月明かりに浮かび上がる参道は、まだまだ先に続いている。 社殿に辿り着くのは、いつになる事やら。 とにかく、此処まで来たんだもの。行けるところまで進んでみよう。 足早に門を潜り抜けた私は、途端、首筋に生暖かい風を感じ、異様な感覚に包まれていた。 それは、まるで……眠りの最中に、夢の扉を開いたときの様な―― 早い話が、異世界に踏み込んだって意味ね。 此処は、異世界との交流を意図して、造られた門なんだわ。 昔の人たちは、ごく自然に、自分たちの世界と隣り合う、別の世界を感じ取っていたのね。 現代の人々が魂の引き出しにしまい込んで、持っていることすら忘れてしまった能力によって。 多分、いま通ってきた門も、他の人たちには何の変哲もない、古ぼけた山門にすぎない。 潜り抜けたところで、何の変調もきたさないでしょうね。 私は自分の能力に気付いていたから、異世界に足を踏み込めたんだと思う。 星の海を見に行く約束を交わしたとき、水銀燈は既に、こうなると先読みしてたのかしら? 今となっては、確かめようのないことだけれど―― 暗い。とても暗い、夜道。あまりにも暗いので、眩暈を覚えてしまう。 森の中から、妖しげな霧が、ゆるゆると漏れだしてくる。 肌寒くて、私は両腕を掻き抱き、一度だけ身震いした。 でも…………不思議ね。私、この光景に見覚えがある。 ううん、違う。実際に見て、肌で感じた風景じゃないわ。 頭の中で描いた、絵画みたいな――――言い換えれば、妄想。 何かの刺激を受けて、想像した景色よ。 立ち止まって、暫しの間、記憶を辿ってみた。 動画再生の頭出し機能みたいなものがあれば、即座に一発検索できたんだろうけど。 そんなことを考えていると、映像ではなく、音声が流れ始めた。 ♪夢魔の吐息は 微睡みの調べ 眠りの森に 私を誘う 霧に霞むは恋の道 ああ……思い出した。水銀燈の歌だわ。瞼を閉じて、景色を思い描きながら聞いてたんだっけ。 独り森の中 彷徨い続けても 貴方の背中に この指は触れない 切なさが止まらない 募る想いを風に乗せ 永久の愛を 貴方に届けたい この気持ち―― 門を潜ったときに感じた生暖かい風は、夢魔の吐息。乳白色の霧に溶けていく参道。 今、私が置かれている状況は、正に歌詞になぞらえていた。 「だとすると、ここは眠りの森ってワケね。私に、ピッタリの舞台じゃないの」 歌詞の通りならば、望みを叶えられない哀切を抱きながら、この森を彷徨うことになる。 でも、私には夢の導きがある。 募る想いを、夢という新風に乗せ、行く手を遮る迷いの霧を割いて、進むことが出来る。 約束の場所は、きっと――――その先にあるわ。 ――水銀燈。星の海へ案内して。 胸裏で呟くと、立ちこめていた濃い霧が、すぅーっと割れて、一本の道となった。 それは参道を外れて、森の中へと続いている。私は、躊躇いなく、そちらに進んだ。 私の歩く速度に合わせて、霧は左右に分かれていく。 真っ直ぐに進んでいるようで、その実、ぐねぐねと蛇行している気がする。 右も左も判らない濃霧の中だから、そう感じるのかも知れないけど。 ごつごつと根の張り出す足元に気を付けながら進んでいる内に、汗が出てきた。 ナップザックを背負った背中が、特にヒドイ。 汗に濡れた箇所は、放っておくと氷みたいに冷たくなって、私の肌を刺激する。 そして、どれくらい歩いたのか、判然としなくなった頃―― 唐突に、目の前が開けた。 濃霧を突き抜け、立っていた場所は、森の中にポツンと存在する沼の縁だった。 月光に照らし出された岸辺のあちらこちらに、葦やススキの群生が見受けられる。 風ひとつないから、水面は鏡のように静まり返っていた。 「ここが…………星の海なの?」 夜空には、無数の星が煌めいている。足元には、鏡写しの星空。 ここは夢の世界じゃない。霧に包まれた沼で、私は確かに、天と地の無窮を眺めている。 言われてみれば、なるほど……星の海と、呼べなくもないわ。 ただ、あまりに静かすぎて、感動は薄いかも。 立ち尽くして、幻想的な光景に見入っていた私の、視界の隅で、 ぽぅ……と、淡く、小さな光が生まれた。なにかしら? 目を凝らしてみる。 ひとつ、ふたつ、ではない。もっと、たくさん。 見渡せば、葦やススキの茂みから、無数の光が踊りだしていた。 「うわぁ~。これ…………全部、ホタル?」 沼の上で、月光の下で、ホタルの群が舞い踊る。そして、私の周りにも。 九月の上旬で、こんなにも多くのホタルを見られるなんて、奇跡に近いわ。 星の煌めきに似た、儚げな瞬きに包まれて―― 私は本当に、星の海を泳いでいる気分になった。 「あはははっ。凄い! 凄いわ、水銀燈! これが、貴女の言う『星の海』だったのね!」 知らず、私の目から涙が溢れ出していた。笑っているのに、泣いていた。 乙女の涙は乙女色。意味もなく、その一言が思い出された。 やっと見付けた。漸く、辿り着いた。それは嬉しいこと。とても喜ばしいこと。 人は悲喜に関係なく、感極まると胸が切なくなって、涙を流すわ。 だけど…………私の頬を濡らすのは、嬉しい涙じゃない。 約束を果たせた安堵や、幸福感の涙でもない。 たったひとつの不満。 大切な人が……。 最も側に居て欲しかった人が、私の隣に――――居ない。 この美しい景色を、一緒に眺めながら微笑み合えないことが悲しくて。 こんなにも心を震わせる瞬間に、絆を結び合えなかったことが口惜しくて。 私は独り、涙を流し続けた。 やがて、光の饗宴も幕を下ろした。 乱舞していたホタルたちは、いずこかに姿を潜め、十八夜の月は西に傾く。 これで、薔薇水晶との約束も、水銀燈との約束も果たされたわ。 私が見続けていた千二百年の夢も、これで終わり。 浅瀬に引っかかった笹舟が流されていく様に、二人の思い出も、過去へと去ってしまうのね。 結局、別れの言葉は見付けられなかった。でも、そんなものは、最初から無かったのかも。 筆舌に尽くしがたい虚脱感を覚えながら、静まり返る沼に、背を向ける。 目の前には、深い森と、濃い霧。 一歩、進み出ようと足をあげる直前、私の胸が動悸した。 ホントに良いの? このまま帰っちゃって、良いの? 愛は永遠の夢なんだよ? ここで諦めたら、恋の道は霧に霞んじゃう。見失っちゃうよ? 薔薇水晶に叱責された気がして、私は……いま一度、月光を写す沼に向き直った。 やっぱり、私……水銀燈に会いたい。 切れた絆の糸口を見付ける術なんて知らないけど、ここは夢魔に誘われた、眠りの森だもの。 夢の導きで此処まで辿り着けたのなら、解決法も、夢の中にある筈だわ。 夢は、過ぎ去った日々を回想するためにあるんじゃない。 未来を創造するために、希望という名の夢を見るのよ。 ひとつ、深呼吸。清浄な空気を胸一杯に吸い込み、ゆっくりと吐き出す。 悔しさと悲しみで荒みかけていた気持ちを落ち着けて、私は、徐に口を開いた。 「水銀燈……来たわよ、私」(募る想いを風に乗せ) 「貴女は、千二百年も前に終わった関係だと言うけれど」(永久の愛を) 「本当は、始まってすらいなかったのよ。だから……」(貴方に届けたい) 「もう一度、巡り会いたい」(この気持ち――) 「今度こそ、伝えるから」(受け止めて) 「水銀燈。私、貴女が――」(大好きよ) 契りとは、固く約束すること。そして、仏教では前世からの約束や、因縁であるという。 ならば、水銀燈と交わした約束は、水銀の君との契りでもある。 何のことはない。終点とか、始点とか……そんなものじゃなかった。 この場所は、本の途中に挟み込まれた栞。私たちはまだ、物語の途中に居るのよ。 一陣の風が吹いて、水面が波立った。月の写し身に、脇を通り過ぎていく。 顔の前に手を翳していたけれど、髪が目に入るから、私は両の眼を固く閉ざしていた。 風が、止む。 一体、今の突風は、何だったのかしら? 恐る恐る、瞼を開こうとした矢先、いきなり背後から眼をふさがれた。 私だけしか居ないと思っていたから、これには流石に、心臓が止まりそうになったわ。 「うふふふ…………だぁ~れだ?」 耳をくすぐる、甘ったるい猫撫で声。勿論、私は、それを知っている。いつだって耳を傾けていたから。 ふわりと漂ってくる、懐かしい匂い。勿論、私は、それを知っている。どんな時も、追い求めてたから。 記憶に刻み込まれてる、掌の温もり。勿論、私は、それを知っている。心の奥まで、温めてくれるから。 全ての感覚が、彼女の全てを憶えていた。 私は、答えなかった。唇が震えて、巧く喋れなかったから。 だから、言葉の代わりに、別のモノで気持ちを伝えた。 際限なく溢れ出す、この感情を……押し留めるつもりなんて更々ないわ。 背後に立つ彼女も、自らの手が私の涙に濡れようとも、私の答えを待ち続けていた。 このままじゃ埒があかない。一刻も早く、彼女の姿を見たくて仕方がないのに。 やむを得ず、私はしゃくり上げながら、震える声を絞り出した。 「……す、い……ぎん……と……でしょ?」 静かに、私の目を覆っていた手が、離れていく。 私は咄嗟に、その手を掴んでいた。なんだか、そのまま霧の中に消えちゃいそうな気がしたから。 でも、ただの取り越し苦労だった。握り返してくる彼女の手は、しっかりと温もりを与えてくれた。 そして、振り返った先には―― 「ただいまぁ」 私にとって、この世の如何なる宝物よりも尊いヒトが―― 渇望していた最高の微笑みが……そこに、あった。 「水銀燈ぉっ!!」 口にしたのは、ただ一言。それが、全ての意味を内包していた。 もっとも、それは私の主観であって、水銀燈に伝わったかなんて判らない。 ただ、衝動のままに抱き付いて、感情のままに泣きじゃくった。 大好きな人の側で、思いっ切り、本音の自分をさらけ出せる自由。 幸福なんて、所詮は、この程度のもの。 だけどね…………だからこそ、尊いんだと思うの。 誰もが持っているようで、本当は、殆どの人が、それを持っていないから。 「まぁったくぅ……いい歳して、なぁに泣き喚いてるんだかぁ。バカじゃない?」 「……いいよ……バカでも」 水銀燈と触れ合える、喜び。心が温かいもので満たされていく、歓び。 ずっと、いつまでも、こうしていたい。それが、私の幸せだから。 夢ならば、醒めないで欲しい。現実ならば、終わらないで欲しい。 喜と悲の無限螺旋をほどいて、喜と嬉の螺旋を、水銀燈と編み上げていきたい。 「バカでも良いの。私は、貴女が大好きだから。千二百年前から、ずっと」 「…………ホントに、とびっきりのおバカさんね。呆れてモノも言えないわぁ」 水銀燈の語尾は震えていた。それを誤魔化す様に、彼女は口を噤んでいた。 そして、言葉の代わりに、きつく、私を抱き締めてくれた。 少しだけ痛かったけれど……幸せの証だから、その痛みすら嬉しくて。 「涙が――止まらないわ」 耳元で、ふ……と、彼女の吐息が聞こえた。 笑われたのか、呆れられたのか、どっちとも付かない、溜息。 「やぁれやれ。もう一人のおバカさんと一緒ねぇ」 「……え? もう一人って、まさか」 水銀燈の肩越しに、かげろうのように揺らめく霧の中から歩み出てくる人物を見た。 現れたのは、思った通りの容姿。私にとって、水銀燈と同じくらい、大切なヒト。 彼女は、夜目にも判るほど泣き腫らし、双眸を充血させていた。 いつでも微笑みをくれた彼女が、今、大粒の涙を零し続けている。 「めぐ……ちゃん」 「薔薇水……晶」 お互いの名を呼び合い、お互いの存在を確かめ合う。 名前は、魂そのもの。言葉のやりとりの裏では、私の魂と、彼女の魂が応答していた。 「あの娘、めぐと離ればなれになってから、ずぅっとこうなの」 「こう……って、泣き続けてるってこと? 道理で、酷い顔してるワケだわ」 「めぐちゃんだって、他人のコト言えないよ」 「私に言わせれば、どっちもどっちねぇ。泣き虫さんなところも、似た者同士だわぁ」 そうかもね。私たちは千二百年も共に居たんだもの。どこかしら似てきても、不思議じゃないわ。 私は、水銀燈から離れて(ちょっと名残惜しかったけれど)ナップザックを探った。 そして、大切にしまってあった薔薇水晶のトレードマークを取り出し、差し出す。 今更、彼女には必要ない物かもしれない。 眼帯なんてしない方が、よっぽど可愛いんだけど――これは、彼女の物だもの。 「ずっと……持っててくれたのね。ありがとう。とっても嬉しい」 薔薇水晶は、はにかみながら(泣いてたけど)腕を伸ばした。 眼帯を掴む寸前、微かに触れ合う、指先。 ハッと息を呑んで、引っ込められようとした手首を、水銀燈が脇から掴んで引き留めた。 そして、ひとつ頷く。薔薇水晶も、こっくりと頷き返した。 今度は、眼帯を挟んで、私と彼女の掌が、しっかりと重ね合わされる。 伝わってくる、命の温もり。心を満たしていく、幸せな気持ち。 よくよく考えたら、薔薇水晶と手を繋いだのは、これが初めてかも。 あんなに一緒だったのにね。 「ずっと…………夢見ていたの。安心して、めぐちゃんと触れ合える日が来るのを」 「それって――こうして触れ合っても、もう私の命を削り取らなくなったって意味ね? 並んで道を歩いたり、あなたとひまわりを見に行くことだって出来るのね?」 「そうだよ。だからね、これからは――」 薔薇水晶は、私の手を放すや、勢いよく抱きついてきた。 「こぉんなコトだって……出来るんだよ」 彼女の腕に、ギュッと力がこもる。 水銀燈の力強い抱擁とは、また少し違う、軽く包み込むような抱擁。 今までの、どこか小動物を思わせる、ビクビクした態度ではなかった。 「……ああ。…………よかった」 心から、そう思う。 この旅は、気持ちの整理をつけるため―― 「ホントに…………よかった」 悲しい過去と決別するための、儀式だった。 それなのに、こうしてまた、二人に巡り会えたなんて。 あの夏の日から、貴女たちに別れの言葉を伝えられなかったことが、心残りだった。 でも……そんなもの、最初から必要なかったのね。 「私たちは、こうして再び、巡り会えたんだもの」 彼女たちと交わした二人だけの合い言葉こそが、別れの言葉だったのだから。 別れの挨拶って、再会の約束と同じことなのよ。 『また明日、学校でね』『うん、またね』 つまりは、こんな日常会話と一緒。 私たちは既に、この場所で再会することを、約束していたんだわ。 「これからは、私たち……同じ時間を歩んでいけるのよね?」 私は指で涙を拭いながら、二人に問いかけた。 確信はあったけれど、彼女たちの口から、確証を得たかったから。 水銀燈は前髪を掻き上げながら「ええ」と、答えた。 そして、私の隣に歩み寄ると、肩に腕を回し、耳元で甘く囁く。 「それじゃあ、約束どおり『星の海』も見せてあげたしぃ」 水銀燈の吐息が耳に掛かって、くすぐったい。 背筋にゾクリと震えが走り、なんか……ヘンな気分。 私は、耳が熱を帯びていくのを感じながら、水銀燈を横目に睨んだ。 「な、なによ」 「ふふふ……忘れたなんて、都合のいいことは言わせないわよぉ」 「だから、何のコトよ?」 「心臓ちょうだぁい?」 ……ああ。そう言えば、そんな戯言をほざいてたっけね。 私は、肩に回された水銀燈の腕を振り払って、彼女と向かい合った。 「この際だから、ハッキリ言っておくわ」 薄ら笑っていた水銀燈は、私に見つめられると、真顔になった。 身じろぎを忘れてしまったかの様に突っ立って、押し黙っている。 「たとえ貴女の願いでも、私の心臓は、絶対にあげない」 だって、私は明日を夢見る乙女だもの。花に喩えるなら、まだ蕾よ。 咲いてもいない内から、あたら命を散らす気なんて無いわ。 ――――でもね。 「……その代わりに、私のハートを、貴女にあげるわ」 私は水銀燈の頚に縋り付いて、彼女と唇を重ねた。 脇で、薔薇水晶が「えっ?!」と息を呑んだけれど、キニシナイ。 だって、これは千二百年もお預けだったキス。そう簡単には、止められないわ。 後になって冷静に振り返れば、顔から火が出るくらい恥じらうケイケンだろうけどね。 初めは驚きのあまり硬直していた水銀燈も、私の背中と頭の後ろに腕を回して、 しっかりと抱き締めてくれた。 月明かりの下【満月に照らされて】 数多の悲しみを乗り越えて【痛みさえ包み込む夢】 私たちの絆は、時を越えて結ばれた【愛は永遠の夢】 そして、私たちは、希望という名の夢を見る【夢は終わらない】 私は、いま――とても幸せです。 これからも、きっと。ずっと――
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~第四十一章~ 蒼星石を護りたい。 ただ、その思いのままに、ジュンは剣を突き出していた。 巴を傷つけるつもりなんて、これっぽっちも無かった。 そう。無かったのに―― しかし、想いと結果は、必ずしも一致しないのが、この世の皮肉。 ジュンが握る蒼星石の剣『月華豹神』は、あろうことか巴の甲冑を突き破り、 彼女の柔肌を切り裂いていた。 巴は、信じられないと言わんばかりに瞼を見開き、 片膝立ちの姿勢で硬直しているジュンへと困惑の視線を向けていた。 彼女の柔らかそうな唇が、ゆっくりと形を変える。 どうして? 声にならない問いかけを発した巴の眦から零れる、一粒の涙。 それは傷の痛みよりも、愛する者に裏切られた心の痛みに誘発された、慟哭の涙だった。 「巴……僕はっ」 ジュンの言葉は、それ以上、続かなかった。 何を言ったところで、所詮は言い訳。巴を刺してしまったこと…… 傷つけてしまった事に変わりはない。 蒼星石に歩み寄っていた巴は、剣を握ったまま動揺するジュンに向きを変えて、一歩を踏み出した。 それに伴い、彼女の身体に、剣が深々と食い込んでいく。 だが、巴は脚を止めない。全く痛みを感じないかの様に、二歩目を踏み出した。 それは、壮絶な光景だった。 剣の柄を手放すことすら忘れて身を強張らせたジュンの前で、 巴は自ら進んで、身を刺し貫かれた。 剣身の樋を伝い落ちてきた巴の鮮血が、鍔の縁に溜まり、 一滴、また一滴とジュンの足元に落ちてゆく。 あまりにも衝撃的な出来事に、誰もが言葉を失い、凍り付いていた。 ――ひとり、巴を除いて。 彼女の甲冑が、コツン……と鍔に当たる。そこで漸く、巴の足が止まった。 生唾を呑み込み、戦々恐々といった仕種で、徐に顔を上げたジュンは、 妖しい笑みを浮かべながら自分を見下ろしている巴と、目を合わせてしまった。 「と……と、もえ。僕は、君を――」 「……愛してる」 言うが早いか、巴は左手でジュンの肩を鷲掴みにして、 右手に握り締めていた短刀を、ジュンの腹部へ深々と突き立てた。 その切っ先が、彼の背中から僅かに飛び出すくらいに深く。 躱す事も、制止する事も許さない、あまりにも素早い動作。 ジュンは一度、ビクッと身体を震わせて、苦悶の呻きを漏らした。 なにが起きたのか分からず、言葉もなく愕然とする蒼星石。 巴は、そんな彼女に顔を半分だけ向けて、冷たく笑った。 「私の勝ちよ。貴女なんかに、この人は渡さないわ」 短刀を引き抜き、巴は「愛しています」と呟いて、短刀を捨てた。 そして、両腕でジュンの身体を押し倒した。 「……いつ、どんな時代に生まれ変わっても…… わたしは、貴方だけを想い、見詰めているから」 「だ、ダメぇっ! ジュンから離れてっ!」 蒼星石の絶叫など素知らぬフリで、巴は剣に貫かれたまま虫の息のジュンに覆い被さって、 彼と唇を重ねるべく距離を縮めていった。 「だから、貴方も……わたしだけを見て。わたしだけを愛して。ね? 未来永劫、わたし達は結ばれる運命なの。わたし達の絆を忘れないで」 「と、も……え。僕は」 ジュンは腹部の刺し傷に手を当てながら、唇を戦慄かせて、涙した。 こんなにも一途な彼女の気持ちには、答えてあげたいと思ってしまう。 しかし、それは同情であり、本音ではない。巴を愛しているとは言えない。 今、ジュンが心から愛して止まない女性は、一人だけだった。 「君に……謝……らない、と」 「良いのよ、謝らなくても。わたしの事を思い出してくれたんだもの。 それだけで、貴方を許す理由には充分なるわ」 嬉しそうに頬を挟み込んでくる巴の手を、ジュンは頭を振って払い除けた。 巴の微笑みが、一瞬にして凍り付く。 狭まり続けていた二人の距離が、ある一点で、ピタリと止まった。 「違うんだ。そう言う意味じゃない」 「……え?」 耳を疑うように訊き返すが、巴は既に、答えの内容を理解していた。 彼の陳謝は、過去に犯した過ちに対してではなく、 これから犯す罪に宛てたものだ――と。 「聞いてくれ。僕は……蒼星石を」 「いやっ!」 喚いて、半身を起こした巴は、両手で耳を覆った。 聞きたくない。彼の口から、他の娘の名前が紡ぎ出されるだけでも不快なのに、 その娘を……愛しているだなんて台詞は、絶対に聞かされたくなかった。 「いやよ! 言わないで! お願いだから、そんな残酷な事は言わないで!」 「ごめん。でも――僕の想いは変わらないし、止まらないから」 「どうして? 何故、わたしじゃダメなの? 貴方の為なら、わたしは何だって出来る。何でもしてあげられるのよ?」 「君の気持ちは嬉しいよ、とても。 湯治場で過ごした数日間は、本当に、愉しかった。 籠の鳥に等しかった僕に……巴は、心の安らぎをくれた」 「それなら何故、わたしを選んではくれないの?」 「多分…………出会うのが遅すぎたんだよ、僕たちは」 理由になっていない。巴の頬を通して、歯が軋む音が聞こえた。 先着一名様の特売品じゃあるまいし、出会いが遅すぎたなんて詭弁に過ぎない。 ――とどのつまり、彼は裏切ったのだよ。一途に慕い続けてきた、お前を。 巴の心が、黒々とした炎に包まれ、火の玉と化した。 脳裏に響く鈴鹿御前の声が、火に油を注いでいく。 過ちは正されなければならない。 そして、咎人には裁きの鉄槌を下さなければ! 「それでも、貴方は……わたしだけのもの」 囁く巴の両手が、ジュンの頚を捉える。 しなやかな指が、ジュンの肌に食い込んでいく。 「もう、やめるんだっ!」 蒼星石は叫んで、二人の元へ駆け寄り、巴を突き飛ばした。 剣に刺し貫かれているため、巴は仰向けにも俯せにもなれない。 横臥の姿勢をとると、ジュンを庇って立ちはだかる蒼星石を睨み上げた。 倒れた弾みで、身体を貫いた刃が胃を切り裂いたらしく、巴は一度、吐血した。 もう、長くはない。 敵愾心を剥き出しにする巴の元に、蒼星石は臆することなく近づいた。 蒼星石が瞳に湛える感情は、憎悪でも敵意でもなく、哀憐。 巴の側に屈み込んだ蒼星石は、自分の得物『月華豹神』の柄を握り締めて、 静かな口調で話しかけた。 「ジュンを愛しているなら、これ以上、彼を傷つけちゃいけない」 言って、巴の身体から剣を引き抜く。 腹圧や筋肉の萎縮などの影響で、簡単には抜けない筈なのだが、 蒼星石は易々と抜き切った。 傷口から、今まで押し止められていた巴の血液が、どろりと溢れ出した。 「キミとボクは、立場が違うだけで、ジュンへの想いは同じだと思ってる。 だから、キミの苦しみ……憤りは、解るつもりだよ」 「蒼星…………石」 「辛いよね、とても。 悲しいよね、願った未来が、叶わない夢だと思い知らされた時って。 ボクも、そんな想いをしてきたんだ」 ジュンと添い遂げたいと願った未来は、身分の違いという封建的思想によって、 儚くも閉ざされてしまった。 別れたくなかったのに。死が二人を分かつまで、側に居たかったのに。 ――全ては、叶わぬ悲願。 「今なら笑っちゃう話なんだけど」 そう前置いて、蒼星石は微かに笑った。 「彼の元を去る時、このまま野垂れ死んでも良いとすら思っていたんだ。 姉さんが居てくれたから、そうはならなかったけどね」 「どうして、彼と二人で逃げようと思わなかったの?」 「利己的な愛では、色々な人に迷惑を掛ける。多くの人を不幸にするからだよ。 だから、ボクはジュンと駆け落ちしようだなんて考えなかった。 無理心中なんて、選択肢にすら含まれていなかったよ」 「何故? 今生で一緒になれないなら、せめて来世で――」 「それで、キミは幸せに成れたのかい? 前世で彼と死に別れて……この世で巡り会って、幸せだった?」 蒼星石の問いに、巴は暫し考え込み―― 「…………なる筈だったのよ。これから」 とだけ答えた。 それに対し、蒼星石は静かに頚を左右に振って、彼女の解答を否定する。 「なれないよ、きっと。 だって……キミはまた、悲劇を繰り返そうとしていたんだから」 「わたしは……また?」 「ジュンの気持ちを、キミは考えたことがある? 利己的な愛を押し付けるだけで、彼を自己満足で振り回してない?」 「だって、そうしなければ、わたしの想いは届かないもの」 「それはキミの思い込みだよ。 本当の愛って、相手の幸せを一番に願える事だと、ボクは思うんだ。 でも、キミは心の何処かで、彼を信じていない。 いつか離れていってしまうと、常に怯えている」 「……それが、わたしと貴女の勝敗を分けたというの?」 蒼星石は「どうかな?」と呟き、肩を竦めて、寂しそうに笑った。 「本当のところ、ボクにも良く解らないんだ。 だって、ボクたちが幸せになれるかどうかは判らないから」 この戦いが終わっても、蒼星石とジュンが一緒になれるとは限らない。 ばかりか、二人とも死んでしまう可能性だって考えられた。 前途は洋々どころか、目眩がするほど多難である。 けれど、蒼星石が巴に向けたのは、希望に満ち溢れた緋翠の眼差しだった。 「でもね、これだけは、ハッキリと言えるよ。 ボクは、ジュンに幸せになって欲しい。 彼を取り巻く全ての人々にも、笑顔であって欲しいと思ってる。 そして、願わくば……みんなで、ボクと彼の仲を祝福して欲しいんだ。 だからこそ、ボクはこうして頑張れる。戦い続けていられるんだよ」 「……青い理想ね。わたしは、貴方たちを祝福なんて、しないわ」 「解ってるよ、キミの気持ちは。だけどね、ジュンに危害は加えさせない。 どうしても気が済まないのであれば、代わりに、ボクを殺して」 決然と言い放って、蒼星石は自分の得物を、巴の手に握らせた。 信じられないという風に、巴が双眸を見開く。 しかし、その動揺も一瞬で収束していく。 巴は弱々しく含み笑って、蒼星石に握らされた剣の柄を手放した。 「貴女も、結構な強か者ね。大人しく斬られるつもりなんか無いクセに」 「やっぱり解る?」 「貴女の瞳は、生き生きとしている。未来を悲観していない者の眼よ。 わたしの様に、誰かの力を頼ってしか将来を切り開けない者とは違うの」 「ボクだって、そんな大した人間じゃないよ。ただ、他力本願がイヤなだけ」 「……理由は、どうあれ……わたしの負け……みたいね」 もう、命が限界を迎えようとしていることを、巴は承知していた。 このまま眠るように、穏やかな死を迎えるのも悪くない。 今までの、櫛風沐雨の人生には、少しばかり疲れていた。 安らかに吐息して、巴は徐に、瞼を閉じようとした。 だが、不意に大奥の間から流れ出してきた血腥い風を嗅いで、再び目を開く。 大奥の間と謁見の間を仕切る御簾が、ばさばさと棚引いていた。 「な、何か様子が変ですっ! ベジータ! ジュンを連れて、きらきーの所まで連れて行くです。 金糸雀は、二人の治療を!」 「おう! 力仕事なら任せろ」 「了解かしらっ! ベジータ、急いでっ」 金糸雀は一足先に雪華綺晶の元へと駆け寄り、 ベジータと翠星石が、ジュンの身体を両側から支える。まだ、逃れる余裕は有るだろうか? 振り返って確認した翠星石は、とんでもない光景を目の当たりにして息を呑んだ。 大奥の間の前で、皇剣『霊蝕』が音もなく宙に浮かび上がっていたのだ。 その切っ先は、明らかに自分たちを狙っている。 いつ飛び掛かろうかと、隙を窺っている様でさえあった。 (このままでは、みんな串刺しにされちまうですっ) 翠星石は支えていたジュンの右腕を放して、皇剣『霊蝕』の真正面に、自らの身体を晒した。 たとえ刺し貫かれようとも、ジュンは絶対に護るつもりだった。 蒼星石のため……という事もあったが、実際には、自分のため。 ジュンへの秘めたる想いに、殉ずる覚悟だった。 獲物を見つけた猛禽の様に、皇剣『霊蝕』が空を斬り裂きながら、 凄まじい速さで飛んでくる。 その光景を目にした者たちは、誰もが、直後に訪れる翠星石の死を連想していた。 当の、翠星石ですらも―― しかし、剣が到達する寸前、翠星石の前に割り込む人影が、ひとつ。 (蒼星石?!) 咄嗟に、翠星石は、そう思ってしまった。殆ど、条件反射的に。 何故なら、妹の蒼星石はいつだって、彼女の危機に駆けつけてくれたから。 翠星石の眼前で、その人影は飛来した剣によって貫かれていた。 肉を斬り裂く鈍い音が、鼓膜を震わせ、嫌悪感を刺激する。 しかし、翠星石は目を逸らしたりせずに、自分を庇った人物を凝視した。 その段になって、彼女は自分の考えが間違っていたことに気づいた。 「と……巴っ?! どうして、お前が私たちを庇うですか――」 巴は緩慢な仕種で頚を巡らし、肩越しに振り返った。 その表情に、後悔や未練がましさは皆無。実に屈託のない顔をしていた。 「貴女を助けた訳じゃないわ。わたしは、彼を護っただけ。 だって……そうしたかったんだもの」 それが、巴が発した最後の言葉だった。 膝から頽れた彼女は、床に倒れて、二度と動かなかった。 巴の、ジュンに対する想いの深さを見せ付けられて、 側にいた翠星石と蒼星石は胸が締め付けられた。 これほどまでに純粋な愛だからこそ、巴は彼を独占しようとしたのだろう。 世間のいかなる『しがらみ』からも、彼を護れるように。 自分たちに、巴ほどの覚悟はあるだろうか? ふと、そんな事を考えさせられた。 だが、彼女たちの感傷は、吹き飛ばされた御簾によって中断された。 異変は、まだ続いている。 ジュンと雪華綺晶の治療に回った金糸雀とベジータを残して、 真紅は玉座に続く階段を駆け上り、大奥の間の正面に立った。 血腥い風が、彼女の金髪を後方へと大きく靡かせている。 「あれは――」 「どう見ても、石棺だよね」 「あんな物が、なんだって此処に有るですか」 真紅の隣に近づいた二人が、大奥の間に安置された石棺を見て、口々に驚きを露わにした。 けれど、彼女たちにも、本当は予想が付いている。 あれは、鈴鹿御前の亡骸が納められた棺だろう――と。 真紅たちの目の前で、石棺の蓋が微細震動しながら浮かび上がり、 滑るように移動していく。そして、石棺の脇に、轟音と共に落下した。 棺の中から、ごぼごぼと沸騰する様な音がしたかと思った次の瞬間、 赤黒い液体が棺の縁を越えて、溢れ出してきた。 後から後から溢れ続けて、大奥の間を越え、遂には真紅たちの足元にまで及んだ。 「うっ! なにこれ、酷い臭いなのだわ!」 「鮮血か……悪趣味な演出だね。穢れの者らしいよ」 「は、鼻がひん曲がるですよ、これはっ!」 異口同音に酷い状況を罵る三人。 彼女たちが見詰める中、棺の縁に、白くて細い何かが絡みついた。 それは……人間の……女の指。 石棺の縁に指を掛けて、鈴鹿御前が起き上がろうとしている。 真紅たちは戦慄に身を強張らせて、成り行きを見守ることしか出来なかった。 ばしゃり……。 鮮血をなみなみと湛えた石棺は、さながら浴槽だった。 ねっとりと絡み付く鮮血を割って、ゆっくりと起き上がってくる人影。 ――鈴鹿御前は傾国の美女と書物に記されている。 金糸雀は、そう言っていた。 事実、血に塗れているとは言え、鈴鹿御前の髪は美しい金髪だった。 やがて、鈴鹿御前は立ち上がり、一糸纏わぬ姿を、惜しげもなく彼女たちの前に晒した。 彼女の顔を見るや、真紅の表情が凍りつく。 それは、翠星石と蒼星石も同様。 「ふふふ……あははははっ! 元に戻ったっ! お前たちの悲嘆、慟哭、愛憎……あらゆる負の感情を吸収して、 十八年前に壊れてしまった、わたしの身体が元どおりに戻ったぞっ!」 両腕を広げて哄笑する鈴鹿御前。 その容姿は、あろう事か、真紅と瓜二つだった。 =第四十二章につづく=
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「どぉしたのぉ、真紅ぅ?」 これが全ての発端だった。 年の瀬も押し迫って、冬休みを目前に控えた、最後のHRが行われている時のこと。 通信簿が配られ、騒がしい教室で、机に頬杖をついてる暗い顔の真紅を見た私は、 「あらぁ、大して可愛くもない貴女の沈んだ顔って、見るに耐えないわねぇ。 さては……散々な成績だったから、首を吊りたくなったとかぁ?」 例によって、幼なじみで小生意気な金髪の娘をからかう。 普段の彼女ならば、すぐに噛み付いてくる筈だけれど―― 真紅は、顔を向けるどころか、チラッと目を動かしもしなかった。 拍子抜けというか、なんとなくシカトされたみたいで癪に障る。 この水銀燈さんを小馬鹿にするなんて、いい度胸してるじゃないの。 背後に回り込んで頸を絞めると、真紅は呻き声を放って、やっと反応を見せた。 「なにするのよ、水銀燈っ!」 「だぁってぇ~、真紅が無視するんだもぉん」 「……それは……ごめんなさい」 「? 随分と、しおらしいじゃないの。な~んか気持ち悪いわねぇ。 ははぁ~ん。さては、彼とケンカでもしたってワケぇ?」 「……別に。ジュンは関係ないわ」 成績のことでも、彼氏のことでもない。と、すると――? いくら真紅が紅茶ジャンキーだからって、朝の紅茶を飲まなかった程度では、 こうも落ち込まない筈だ。 気丈な彼女を、こうも失意の淵に追いやるほどだから、つまらない原因とも考え難い。 もしかして、家庭の問題かしら? 私は腕組みして、頸をひねった。 すると、真紅は苛立たしげに私の肩を掴み、ぐいと引き寄せ、ひそひそと耳打ちしてきた。 彼女の吐息が耳元の髪を揺らして、ちょっと……くすぐったい。 「……あぁん♪」 「ちょっ! ヘンな声ださないでちょうだい。まじめに聞きなさいよ!」 「だぁってぇ」 私の弁解など聞く耳持たずといった感じで、真紅は言葉を続けた。 「実は、私――――インターネットで、とんでもない失敗をしてしまったの」 「ふぅん? あ……さては、ワンクリック詐欺に遭ったのね。 真紅ってば、ホントにおばかさぁん♪」 「違うわ。そんなんじゃないのよ」 「ん? じゃあ、調子こいたコト書いたブログが、炎上したとか?」 真紅は唇を引き結んだまま、ただただ頸を横に振るばかり。 じゃあ、一体なんだというのだろう。 訝る私の前で、真紅はこめかみに指を当てて、悩ましげに眉を寄せた。 「水銀燈、貴女……煮chって知ってる?」 もちろん、知っている。私も、しょっちゅう利用しているもの。 誰でも気軽に書き込めることが売りの、大規模なインターネット掲示板だ。 名前の由来は、参加者の意見を鍋の具に例えて『ごった煮』にする場所ってコトだとか。 話の流れからすると、どうやら、真紅は煮chで失敗したらしい。 でも、どんな失敗をしたのかしらん? 私は「常識でしょ」と頷き、顎をしゃくって続きを促した。 「……じゃあ、お金が掛かるってコトも?」 「はぁあ? それ、本気で言ってるのぉ」 基本、煮chは無料。課金制度があるなんて、聞いたこともない。 「誰に吹き込まれたんだか知らないけど、そんなデマを信じるなんてね。 貴女って、私が思ってた以上のおマヌケ――」 「金糸雀に教えてもらったのよ。あの子、コンピュータ関連に詳しいでしょう。 証拠も見せられたわ。だから、私も驚いたし、焦っているの。 ウソだと思うなら、自宅のPCでこの操作をしてみなさい」 言って、真紅は私にメモ書きを突き出した。 ざっと走り読んだ限り、大して難しい手順でもない。 まあ、百聞は一見にしかずと言うし、試してみるのも一興かもね。 どうにも釈然としないまま、私は紙片を受け取った。 HRが終わるや、脇目もふらず自宅に戻り、真紅に教えられたとおりの手順を踏んだ。 その結果、煮chの名前欄に表示された数字は―― 【586920円37銭】 私は両手で瞼をゴシゴシこすって、もう一度、まじまじとディスプレイを覗き込んだ。 「……ウソでしょぉ? なによ、これぇ」 いくら見直しても、結果は同じ。細かい金額が、リアルすぎて怖い。 まさか、ホントに有料だったの? 信じられない。信じたくない。 とにかく、真紅に電話しなきゃ。 私は携帯電話で、彼女に連絡を入れた。 「あ、もしもし、真紅ぅ? 出た! 確かに金額が表示されたわよっ!」 『言ったとおりでしょう。私の方でも、もう一度、金糸雀に問い合わせたの。 そうしたら、スレ立てや書き込みをする毎に課金されてるんですって』 「あわわわ……どうしよう。私、そんなこと知らなかったから―― 調子に乗って【ヤク中姉ちゃんが…】スレ立てて1000まで全レスしてたし、 【H・O・T】スレ立てて、バシバシAA貼りまくってたわよ」 『いやだわ。あのヤクルト中毒スレの 1って、貴女だったのね。 ところで【H・O・T】って、なんなの?』 「えっと……HYPER OCHINCHIN TIMEの略なんだけどぉ」 電話の向こうで、ブフォーっ! と液体を噴き出す音が聞こえた。 多分、食後の優雅なティータイム真っ最中だったのね。悪いコトしちゃった。 「もしもーし、真紅? 聞いてるぅ?」 『あああ! ディスプレイとキーボードが紅茶まみれに……って、なんなの?』 「貴女の方は、いくらって表示されたの」 『……82633円よ。貴女は?』 「586920円37銭ですって。あうぅ…………どうしたらいいの? こんなことが、お父様に知れたら叱られちゃうわ、私ぃ」 『それは、私も同じよ。こうなったら、私たちが選ぶべき道は、ふたつ。 両親に撲たれるのを覚悟で泣きつくか、請求がくるまでに、バイトで稼ぐしかないわ』 確かに、真紅の言うとおりだ。 でも、両親に泣きつくというのは、私のプライドが許さない。 自分の不始末だもの。親に尻拭いをしてもらうほど、私は子供じゃないわ。 「いいわ、真紅。私と一緒に、バイトしましょう!」 『簡単に言うわね。アテはあるのかしら?』 「巴が働き手を探してたのよ。あの子の親戚って神社だから、初詣の時は毎年、 巫女のバイトが必要なんですって。今から電話すれば、まだ間に合うかも」 『本当? だったら、お願い。巴に連絡してみてちょうだい』 「任せておいて。話が決まったら、また電話するから……ばいばぁい」 真紅との通話を切って、私は震える手を必死に抑えながら、友人の巴に電話をかけた。 ――そして、私は真紅とともに、柏葉神社で巫女のバイトをすることになった。 ~ ~ ~ その夜のこと。 「もしもし、カナちゃん? ありがとう、まんまと人足をゲットできちゃった♪」 『くっくっくぅ~。カナの知略を以てすれば、この程度のこと楽勝かしら。 それでね、巴ちゃん……報酬の方だけど――』 「用意してあるわ。ヨード卵『光』一年分でいいのよね」 『モチロン♪ あんたのたーめでしょ、かしらー♪』 「うふふふ。懐かしいね、そのコマーシャルソング」 二人の策略だったことを、真紅と水銀燈は知る由もない。 おわり