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どうして、私は薔薇水晶を追わないの? 薔薇水晶は、天使のような、大切な親友じゃなかったの? じゃあ、早く追いかけて引き留めなきゃ。解っているのに、動けない。気ばかり焦って……イライラしてくる。 自分への憤りを募らせ、モヤモヤした感情の遣り場の無さに当惑して、結局―― 「どうして、あんなコト言ったのよ」 私は、水銀燈に八つ当たりしていた。我ながら、つくづく酷い女だって思う。 向き直った彼女は、心底意外そうに、唇を突き出した。 「嫌ぁね……なに怖い顔してるのよぅ。本当のことでしょぉ?」 「水銀燈が、そう感じただけでしょ。 薔薇水晶が、私の命を縮めている証拠なんて無いじゃない!」 「……私がウソを吐いてる、と?」 そう切り返されると、答えに窮してしまう。私だって、確かな証拠を握っているワケじゃないから。 何が――或いは、誰が――正しいのかと問われれば、返す言葉が無かった。 私は……限りなく無知蒙昧だ。そして、自分の命を容易く他人に握られてしまうほど無力で、ちっぽけな存在。 産み出された後は、運命という名の風に翻弄され、狭い世界を漂い続けるだけの、シャボン玉。 シャボン玉 飛んだ 屋根まで飛んだ ぐちゃぐちゃに乱れた感情を鎮めるべく、あまりにも有名な童謡の一節を、私は諳んじていた。 この後に続く歌詞は、空へ舞い上がる前に、儚く消えてしまったシャボン玉へのレクイエム。 永遠不滅のものなど無い世界で、今まで生きてこられただけでも幸福だったのだろう。 けれど、運良く飛べたシャボン玉にも、消えゆくさだめは付き纏う。それは、今日か。明日か。 私のために、鎮魂歌を謡ってくれる人は……居るの? 私は屋根まで飛べずに『壊れて消える』のか。そう思った途端、身体の芯から湧いてくる震えを、抑えきれなくなった。 水銀燈はベッドの端に座って、私の肩に掛かった髪を、そっ……と払ってくれた。 彼女の指先が、ぴくりと震えたのは、私の震えを感知したからだろう。 「めぐの格好、肌寒そうね」と言って、水銀燈は私の両肩を力強く引き寄せ、両腕で抱き締めてくれた。 蹌踉めいた身体が、彼女の柔らかな胸に、ぽふん……と抱き留められる。 「体温のない私が抱き締めたって、暖めてあげられないけど――」 私の震えを止めることぐらいは出来る……と? 彼女なりに、気を遣ってくれてるのかしら。心臓を奪い取ろうとしてる割には、優しいのね。 でも……なんでかなぁ。こうして貰ってると、無性に安心する。水銀燈になら、私の全て(命すらも)を、あげても良いかなって思える。 いつしか、私の震えは止まっていた。 私は胸一杯に水銀燈の匂いを吸い込んで、まじまじと、彼女の端正な面差しを見つめた。 よく考えたら、昼間の明るさの中で水銀燈の顔を間近に眺めるのは、これが初めてだわ。 柔らかそうな頬の産毛までが、きらきらと輝いて見えた。 「な……なによぅ」 「綺麗だなって、思って。貴女でも、見つめられると照れるのね」 「照れてなんかないわよ。じっとり眺められてると、気色悪いだけ。寒気がするわ」 「そうなんだ? やったね、水銀燈の弱点を見っけ♪」 「…………ばぁか」 水銀燈は小声で吐き捨てると、私の身体を押し戻して、ベッドに寝かし付けた。 私が眠っている間に、薔薇水晶と決着を付ける腹づもりなのかしら。 「私を眠らせて、どうするつもり?」 戯けた調子で訊いたのに、返ってきたのは冗談ではなかった。 「夢を……見て欲しいの」 「夢? 寝てるときに見る、アレのこと? それとも、希望って意味のユメ?」 「前者の方よ。戻り得ぬ記憶を辿るには、夢の導きが必要不可欠だから」 何を言っているのかしら。睡眠中に、過去の記憶を呼び覚まさせようって言うの? 私はエドガー=ケイシーじゃないんだから、アカシック・リーディングなんて出来ないってば。 渋る私とは対照的に、水銀燈はかなり期待している様子だった。 「貴女……最近、不思議な夢を頻繁に見るんじゃなぁい?」 「?! どうして、それを――」 「多分、それの影響よ」 水銀燈は、私の左手で鈍い輝きを放っている『薔薇の指輪』を指差して、言った。 「私の中にも、めぐが夢で辿っている記憶が流れ込んでくるの」 「嘘っ。だったら、私は毎晩、水銀燈に夢を覗かれてるってわけ?」 「覗いてるんじゃないわ。勝手に流れ込んでくるのよぅ」 「だとしても、なんか嫌だわ。精気だけを吸い取るんだとばかり、思っていたのに」 「その筈なんだけどねぇ」 どうしてなのかは、水銀燈にも、よく解ってないみたい。 それで、原因を突き止めるべく、私に夢を見させようとしてるのね。 でも、こんな朝っぱらから、眠れるかな。ちょっと自信ないわ。 クラシック音楽でも聴いて、リラックスできれば話は別だけど…………あ、いいコト考えちゃった。 「ね、水銀燈。寝付きが良くなるように、歌……謡ってくれない?」 「はぁ? 嫌ぁよ、子守歌じゃあるまいし。なんだったら、力尽くで寝かせてあげましょうか」 「冗談でも、花瓶を手にするのは止めて。それはともかく、ね? お・ね・が・い♪」 「…………しょうがないわねぇ」 口振りこそ嫌々ながらと言った風だったけれど、水銀燈の表情は、満更でもなさそうだった。 ♪夢魔の吐息は 微睡みの調べ 眠りの森に 私を誘う 霧に霞むは恋の道 意外にも、水銀燈は美しいソプラノの持ち主だった。歌唱力も、かなりのものよ。 普段の会話からしてアルト(もしくはメゾソプラノ)っぽいから、もっと下手かと思っていたんだけど……流石はラクス様ね。 ♪独り森の中 彷徨い続けても 貴方の背中に この指は触れない 切なさが止まらない 水銀燈の妙なる歌声が、羽毛の様に私を包み込んでいく。心が、安らぎで満たされていく。 ♪募る想いを風に乗せ 永久の愛を 貴方に届けたい この気持ち―― そして……いつしか、私は夢の世界に旅立っていた。 ごとごとごと……。 足元から響いてくる喧しい音が、私の浅い眠りを破る。一体、何の音なのよ。 折角、気持ちよくウトウトしてたって言うのに。 「お目覚め? お寝坊さぁん」 とても近くで囁かれて、私は驚いて飛び起き、目を見張った。 密かに想いを寄せる人の――水銀の君の微笑みが、すぐ目の前にあったから。 彼女は、束帯に烏帽子を頂いた正装で、私と向かい合って座っていた。 「もうすぐ、左大臣さまのお屋敷に着く頃よ。しゃんとしなさぁい」 言われて、思い出した。そうそう、今夜は左大臣様の館で宴が催されるから、 私も父に随伴して、出席するんだったわ。 水銀の君は護衛役として父に指名され、私と共に、牛車に揺られていたのよ。 牛車の周囲は、双子の侍女の他、数名の衛士が警護してくれている。 私は居住まいを正すと、改めて、水銀の君の爪先から頭の天辺まで眺め回した。 彼女と私は同い年の筈なのに、彼女の方が、ずっと大人びて見える。 それはきっと、彼女が私よりも、ずっと多くのモノ――者、または物――に取り囲まれているから。 しかも、それらに対して多大な責任を負っているから。 「なぁに? 私の着付け、どこか変?」 「ううん、ちっとも。寧ろ、凛々しくって素敵よ。とても似合ってるわ」 「……よしてよ。好きで、こんな格好してる訳じゃないわぁ」 彼女が男装する理由は、以前に聞いたことがある。つまりは、家督相続のため。 女の身で、家督は継げない。が、お家断絶となれば、使用人を始め多くの者が路頭に迷う事となる。 故に、彼女は男性として振る舞い、周囲の者にも(時々は、術を駆使して)そう信じさせていた。 私の前でだけは、偽りの仮面を脱いでくれるけれどね。 しかし、本当に感心すべきは、彼女の心意気だろう。 当代随一と謳われる実力の持ち主ながら、術に頼り切ることなく、陰で努力を重ねている。 その甲斐あって、今や従五位下の官位を戴くまでになっていた。 彼女の昇進は、私にとっても喜ぶべきこと。だって、私たちを隔てる身分の差が、それだけ縮まるのだから。 そして、いつか……二人が同じ舞台に立ったときには、私を、あの屋敷から―― なに不自由ない監獄から、連れ出して欲しい。こんな私で良ければ、貴女の隣へと迎えて欲しい。 それは決して、儚い願いなんかじゃないって、私は信じている。 「そ、蒼星石っ!?」 「な、なんなの、あれっ!」 突然、牛車の外で侍女たちの緊迫した声が放たれた。水銀の君が、それまでの柔和な表情を険しくする。 胸に抱いていた、将来への甘い夢と期待が、黒い影に覆われていくのを感じた。 やおら響く轟音。それは、耳を劈く雷鳴。束の間、私の耳は聞こえなくなった。 彼女が私に向かって、何かを叫んでいるけれど、耳鳴りに遮られて理解不能。 ただ、足元が大きく傾いだのは感じられた。 ――倒れる。 咄嗟に、理解した。突然の落雷に脅えた牛が暴れ出して、牛車が横転するのだ、と。 水銀の君は、身体が竦んで動けない私を抱き上げると、御簾を蹴破って外に飛び出した。 そして、まるで羽でも生えているかのように長い滞空時間を経て、ふわりと着地する。 大袈裟かも知れないけど、気持ちが上擦っていた私には無窮の刻に感じられたわ。 実際には、何回か瞬きする程度の時間だったんでしょうけどね。 いっそ、このまま蒼い空の向こう側まで連れ去って欲しい。ふしだらな願いが頭をよぎり、耳が熱くなった。 でも、彼女は私を降ろしてしまった。一分の惜しげも見せずに、手放してしまった。 名残惜しくて小指を甘噛みした私の元に、双子の侍女たちが走り寄ってくる。 「姫様、怪我はねぇです? 歩けるですか?」 「……え、ええ。平気よ。それより――」 気付けば、左大臣の屋敷の上には真っ黒な雲が渦巻いていた。暗雲が覆い被さっているのは、そこだけ。 何が、どうなったのかと問うより早く、暗雲から閃光が放たれて、左大臣の屋敷に落ちた。 離れていても喧噪が聞こえてくる。どうやら、火の手も上がっているらしい。この分では、死者も―― 私の中で、言い知れぬ感覚が芽生えた。無数の昆虫に、身体中を這い回られている様な、おぞましい感覚。 どうしようもなく、嫌な予感がする。ここに居ては、いけない。 「みんな、逃げるわよっ! ここから離れなきゃ!」 「くくく…………もう遅いよ」 聞き慣れない男の声が浴びせられたのは、みんなに指示を出して、来た道を引き返そうとした矢先だった。 振り向いた私の真ん前に立ちはだかる、小柄な人影。修験者のような装束に身を包んだ少年だ。 髪の質が固いのだろうか。少年の直毛は、思い思いの方向に飛び出している。 不気味な少年は、好色な感じの目つきで私を眺めて、ニタリと歯を見せた。 「誰なの、キミはっ!」 「なっ、何者です、お前はっ!」 身を挺して私を背に庇いつつ、阿吽の呼吸で狼藉者を誰何する双子姉妹。 威勢のいい彼女たちに、水銀の君が、自制を促す声をかけた。 「貴女たち、気を付けて。そいつは……人じゃない」 「え? なに? 人じゃなかったら、なんなの?」 問い返す私を一瞥して、男は低く笑いながら「よく判ったな」と、水銀の君へと目を転じた。 「禍々しい妖気を隠そうともしないで、よく言う。巷を騒がす鬼め!」 「お、鬼っ!? このチビ人間が、鬼なのです?」 「まさか……この男が、噂の慈雲童子?」 童子と呼ばれているから、てっきり悪戯な小鬼みたいな者を想像していた。 でも、目の前の男は、違う。そんな可愛らしいものじゃない。 邪気の塊みたいな目をしている。眉ひとつ動かさずに、人を殺める者の目だったわ。 単純に、小柄な体躯で、髷のひとつも結っていないから『童子』なんて呼んだのね。 衛士たちが慈雲を取り囲み、双子の侍女が得物を、水銀の君が呪符を手に、戦闘準備に入る。 周囲の空気が、ぴぃん……と張り詰め、風が止んだ。息苦しくて、全身から汗が滲み出してきた。 独り、慈雲だけは、四面楚歌(もしくは八方塞がり)の状況なのに、涼しい顔で薄ら笑っている。 「僕の目的は、お前たちみたいな雑魚じゃない。今なら、見逃してやってもいいぞ。 あくまで立ち去らないならば、悲劇は繰り返されるけどな」 慈雲は、左大臣の屋敷に向かって、顎をしゃくった。 あの惨劇は、やはり、こいつの仕業だったのだ。こみ上げてくる怒りで、私の身体が震えた。 そして、次の瞬間には、慈雲を怒鳴りつけていた。 「何故? どうして、あんな事をする必要があるのよ!」 「なぁに……簡単な話さ。左大臣に恨みがあった。それ以上の理由が要るのか?」 平然と応えた慈雲を威圧する様に、水銀の君が一歩、進み出た。 「貴様……先の右大臣、菅原道真公に連なる者か。それとも……公の怨念そのものか」 「ふぅん? 流石は、当代随一の誉れ高い陰陽師と、言ったところか」 口調こそ感嘆していたけれど、全ての言葉が、嘲りの色に染まっていた。 それは、夕焼けに黄昏た空の、紅い偽りの色。 「だが、僕は違うね。そもそも、怨念だったのかすら判然としないさ。 人の醜い感情は、黒くドロドロした、原油のようなものだからな。 そこに有るだけで臭気を放ち、火を注げば、呆気なく燃え上がる。周囲の物まで焦がして、燃える。 しかし、火を着けなければ、人間どもが吐き出す黒い汚物は寄せ集まり、この世の闇に流れ込む。 その掃き溜めに、ぽこり、ぽこりと浮かび上がった泡……それこそが、僕ら、鬼と呼ばれる存在だ」 慈雲が、人を誑かす物の怪の眼で、自分を取り囲んだ者達を、ぐるり一瞥する。 「お前たちのなかにも、鬼を産み出す汚物が溜まっているんだぜ。 そこの、銀髪の陰陽師だって例外じゃないさ。澄ました仮面の下では、何を考えている? 背に庇っている大納言の娘を、滅茶苦茶に汚してやりたい欲望に駆られているんじゃないのか?」 「くっ?! ガキぃっ!」 水銀の君は、普段の彼女らしからぬ悪態を吐いて、慈雲めがけて呪を込めた『気』を放った。 「はははっ。図星を指されて、頭に血が上ったか!」 飛んできた『気』を、片手で、いとも容易く受け止める慈雲。握った手を離すと、拳の中から黒い羽が舞い落ちた。 その羽は、彼の指先から飛んだ稲妻に撃たれて、地に落ちる前に燃え尽きた。 口元に浮かぶ、余裕綽々の冷笑が、なんとも憎らしい。 「大したこと無いな。鬼の血族と言えども、人間の血が混ざれば、こんなものか」 「なっ――」 「あ、貴方っ……この人の出自を知っているの?」 絶句した彼女に代わって訊ねた私に、慈雲の視線が注がれる。 物の怪の冷酷な目に睨まれて、私は総毛立ってしまった。見かけは小さいのに、なんて威圧感なのよ。 「少しは退屈しのぎになるかと思ったんだけどな、幻滅だよ。 余計なお喋りは、ここまでにして……さっさと目的を果たすとしよう」 慈雲は、つまらなそうに吐き捨てて、右腕を天に翳した。 雷を伴う暗雲が、不気味な音を立てながら、私たちの頭上に押し寄せていた。 唐突に、目覚める夢。目に映るのは、真っ白な天井。ああ……ここは、病室なのね。 隣で、もぞもぞと身じろぎする気配。見れば、水銀燈が寝入っていた。 …………って言うか、彼女が真ん中に眠っていて、私がベッドの端に追いやられている。 危うく、転げ落ちるところだったのね、私。 ちょっとだけ腹立たしかったけれど、そんな事で口論している場合でもない。 私は水銀燈を揺り起こして、寝ぼけ眼の彼女に、夢は見えたかと訊ねた。 「ええ……ちゃぁんと見えたわ。かげろうのように、ぼんやりとだけどぉ」 同じ頃、薔薇水晶は病棟の裏手にある花壇に立ち寄っていた。あまりにも惨めで、すごすごと帰る気には、なれなかった。 見上げれば、めぐの病室が見える。でも、鉄格子の嵌め込まれた窓は、固く閉ざされたままだ。 丁度、目の前で初夏の生暖かい風に揺れている、向日葵の蕾みたいに。 「もう……来ちゃいけない。それは解ってる」 ――疫・病・神・さぁん♪ 悲しみのリフレイン。先ほどの水銀燈の言葉が、頭の中で木霊している。 胸が、きりきりと痛んだ。その痛みを誤魔化そうとすると、今度は涙が溢れてくる。 熱くなった目頭を、手の甲でこしこしと擦って、薔薇水晶は鼻をすすり上げた。 あの娘にとって、自分は疫病神に、なってしまった。生きる意味を失ってしまった。 否…………させられたのだ。奪われたのだ。 あの日―― あいつに―― 「でも、やっぱり私……ずっと一緒に……居たい。 めぐちゃんの側を、離れられないよ」 だって、それが私の――――存在意義なのだから。 背後で砂利を踏む音がして、薔薇水晶は思考を止めた。 こんな所に、誰が? ひょっとして、彼女が迎えに来てくれたの? 淡い期待を胸に、ふわりと振り向いた薔薇水晶の前には―― 「よお、やっと戻ってこれたぜ。 だが、お前のお陰で、彼女の居場所が楽に見付かったよ。ご苦労だったな」 眼鏡を掛けた小柄な青年が、悠然と立ちふさがっていた。口元に、冷笑を浮かべて。 薔薇水晶は無意識のうちに、じりじりと後ずさっていた。 彼女が必死に稼いだ距離を、青年は、たったの一歩で踏み越えてくる。 二歩、三歩と、二人の距離は見る間に縮まっていった。 「い、イヤ――」 踵を返して駆け出そうとした薔薇水晶の腕を、青年の手が掴んだ。 万力のように強く握られて、指先が鬱血していくのが感じられた。 「嫌っ! 離してっ!」 「逃げるなよ。静かにしろって」 彼の、低く押し殺した声で命じられた途端、薔薇水晶はビクン! と背を震わせ、 動くことも、喋ることも出来なくなってしまった。 こうなることが解っていたから、命じられる前に逃げたかったのに。 薔薇水晶は跪き、恭しく頭を垂れた。無論、本意ではない。 青年は表情を和らげ、彼女を見下しながら満足そうに微笑んだ。 「よーし、いい子だ。可愛いぜ、僕の……忠実な操り人形――」 めぐを想うが故に、背負ってしまった業。これが、彼女のために選んだ道の終着駅。 傷付けた枝の先が朽ちゆく運命なら、過ちの代償が破滅であることも、また必定。 悔しくて……悲しくて……。それなのに、彼女の頬を、涙が濡らすことはなかった。 青年の指が、薔薇水晶の顎に添えられ、くいっと上を向かせる。眼鏡の奥の鋭い眼光が、彼女の隻眼を射抜いた。 「いま一度、働いてもらうぜ。今度こそ、彼女の力を根こそぎ奪い取る為に、な」 (ごめん、めぐちゃんっ! 私、もう……あなたの心で永久に輝くことは出来ないっ) 薔薇水晶は、二人で行く筈だった『約束の場所へ』想いを馳せながら、心の奥で、ひっそりと泣き濡れた。
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~第十章~ めぐが立ち去った事で、睡鳥夢の効果は失われた。 だが、戒めを解かれてホッ……としたのも束の間、一難去って、また一難。 森の中なら、槍や刀を手にした穢れの者どもが、続々と湧き出してきた。 やはり、そう簡単には見逃してもらえないらしい。 状況は、かなり不利だ。 蒼星石の剣が折られ、水銀燈の太刀は森の中に飛ばされてしまった。 仮に得物が手元に有ったとしても、蒼星石は気を失ったままだし、 水銀燈はめぐと斬り合った動揺を引きずっている。 とても、充分な戦力にはなり得なかった。 得物を手にしているのは、真紅と薔薇水晶のみ。 その真紅も、暢気に眠りこけていた。 ジュンが撃たれた時の銃声ですら目を覚まさないとは、どういう神経をしているのか。 「銀ちゃん、下がって。私が前に出る。真紅と蒼ちゃんを……お願い」 「わ、解ったわ。任せたわよ、薔薇しぃ」 薔薇水晶は、腰の両脇に吊した小太刀『樹』と『焔』を引き抜き、縁側から飛び出した。 それを待ち構えていたかの様に、無数の矢が飛来する。 けれど、薔薇水晶を狙ったものは殆ど無く、ほぼ全てが庵に放たれた火矢だった。 茅葺きの屋根に火矢が突き立ち、徐々に火勢を強めていく。 庵の中には、行動不能の真紅と蒼星石がいる。 水銀燈ひとりでは、二人を両脇に抱えるだけで精一杯だ。とても戦える状態ではない。 彼女たちが脱出する時間を稼ぐためには、敵の眼を自分に引き付けるしかなかった。 だが勿論、何の用意も無しに、あれだけの敵に突撃するのは自殺行為だ。 簡素な部分鎧を着けているとは言え、そんな物は所詮、気休め。 奇声を発して斬りかかってきた数体の足軽を瞬時に切り伏せ、薔薇水晶は走った。 こういう場合、躊躇いは命取りになる。一所に立ち止まってはダメだ。 薔薇水晶は穢れの者どもの前衛に飛び込み、手当たり次第に斬って、斬りまくった。 「小太刀二刀流は、天衣無縫……。雑兵に見切れるほど……安くない」 混戦に持ち込んだお陰で、弓足軽の射撃はこない。穢れの者でも、同士討ちは避けるらしい。 とは言え、所詮は小太刀。乱戦になれば有利でも、距離を取られると厳しい。 「せめて、銀ちゃんの太刀だけでも回収できれば――」 状況は、かなり好転する。今、攻撃的な精霊は、水銀燈の冥鳴だけだ。 でも、肝心の太刀は、何処に? 周囲を見回すが、敵が多すぎて、全く解らない。下草に埋もれていたら絶望的だ。 「どこ? どこに有るの?」 必死に太刀を探そうとする薔薇水晶を嘲笑うように、槍が繰り出される。 槍の穂先を小太刀で弾き、間合いに飛び込む。 「邪魔……しないで」 言って、薔薇水晶は穢れの者の虚ろな眼窩に、小太刀を突き入れた。 一方、水銀燈は蒼星石を抱えて迫り来る炎を避けながら、爪先で真紅の頭を小突いていた。 けれど、真紅は目を覚まさない。幾ら何でも、様子が変すぎる。 水銀燈は眉を顰めながら、蒼星石を降ろし、真紅の額に手を遣った。 「熱はないわ。呼吸も、安定してるのに……あぁもぅ! どういう事よぉ?」 試しに、思いっ切り真紅の頬をひっぱたいたが、それでも真紅は起きなかった。 どうなっているのか、ちっとも判らない。 痺れを切らして、掛け布団を引き剥がした水銀燈は、予想もしなかった事態に息を呑んだ。 いつの間に潜り込んでいたのか、真紅の身体に巨大なムカデが巻き付いていたのだ。 その頭は、胸元から巫女装束の中に侵入している。 「っこの、ムシケラがっ!」 水銀燈は枕元に置かれていた神剣を掴むなり、引き抜いて、ムカデに斬り付けた。 一歩間違えば、真紅まで傷つけてしまう状況だが、水銀燈は躊躇わない。 胴の途中で両断されたムカデは、じたばたと身悶え、緑色の体液を撒き散らした。 「あっち行けっ! 汚らわしいわねっ!」 暴れるムカデの胴を部屋の隅に蹴り飛ばし、水銀燈は真紅の服を掴むと、胸元を開いた。 ムカデの牙が、真紅の脇腹に食い込んでいる。なにか、毒物でも注入されていたのか? 水銀燈は、真紅を噛んでいたムカデの顎をこじ開け、取り外すと庭に投げ捨てた。 「真紅! 真紅ぅっ!」 呼びかけながら、ぺしぺしと頬を叩くと、真紅は小さく呻いた。 真紅の瞼が、うっすらと開く。瞳孔に、曇りなどの異常は見られない。 良かった、気が付いた。 喜んだのも一瞬、水銀燈の頬に、真紅の握り拳が飛んできた。 「あ痛ぁ~。な、なにするのぉ」 「それは、私の台詞なのだわ! 人が眠っている間に、なにを――」 そう言えば、胸をはだけさせたままだった。 真紅は顔を真っ赤にして、服を掻き寄せながら、水銀燈を睨み付けた。 目には涙を浮かべている。 「あ~……あのねぇ、真紅ぅ。思いっ切り、誤解だからぁ」 水銀燈が部屋の隅と、庭を指差す。 その順番に頚を巡らした真紅は、少し考えて「ごめんなさい」と、素直に頭を下げた。 「解ってくれたなら良いわよぉ。それより、薔薇しぃの救援に行って」 「貴女は、どうするの?」 「とりあえず、神剣の鞘だけ貸しといて。こんな物でも、武器にはなるわぁ」 真紅は水銀燈から神剣を渡されると、燃え上がる畳を飛び越え、庭に降り立った。 今のところ、体調は問題ないらしいが、だからと言って楽観など出来ない。 あまり無理をさせないように、早く戦線復帰しなくては。 「さぁて。お次は、こっちねぇ」 元気いっぱいに立ち回る真紅を見守りながら、水銀燈は蒼星石に活を入れた。 「うっ! は……ボクは、一体……」 「説明は後、敵襲よ。蒼ちゃんは、これで真紅を援護して」 正気づいた蒼星石に神剣の鞘を渡して、水銀燈は燃え盛る庵から、外に出た。 取り囲まれた庵の、何処から飛びだそうとも、敵が待ち構えている。 水銀燈にとって幸いだったのは、弓足軽が近くに居なかった点だ。 徒手空拳のところに矢を射られたら、水銀燈といえども無傷では済まなかっただろう。 最悪、死という事態にも、なりかねなかった。 斬りかかってきた足軽の手首を左手で掴み、顔面に右の拳を叩き込む。 手が痛くなるくらいに強打すると、足軽の頭蓋骨は、粉々に砕けてしまった。 「……脆いわねぇ。骨粗鬆症じゃないのぉ?」 ともあれ、刀は手に入れた。見るからに、なまくらだが……暫くは保つだろう。 水銀燈は庵の位置から、自分の太刀が弾き飛ばされた方角の見当を付けた。 ちょっと遠いが、行って辿り着けない距離ではない。 唯一の問題は、自身を取り囲んでいる穢れの者が、あまりに多いということだ。 じりじり……と、包囲網が狭められる。 四方八方から同時に斬り付けられたら、一巻の終わりだろう。 先手必勝。水銀燈は包囲網の最も手薄な部分を狙って、切り込んだ。 敵の刀を弾き飛ばし、陣笠ごと頭蓋を両断する。 更に、真横から突き出された刀を躱して、袈裟懸けにした。 だが、斬ったと同時に刃が足軽の胴丸を噛み、水銀燈の刀が折れた。 なんて脆弱な刀を使っているのだろうか。それとも、いい加減くたびれていたのか。 どっちみち、使い物にならない。 内心で毒突いて、水銀燈は折れた刀を、近くの足軽に投げ付けた。 丸腰になった途端に、穢れの者どもは一斉に斬りかかってきた。 弱い相手を嵩にかかって襲うとは、卑怯千万。 だが、戦術としては正しいし、穢れの者らしいといえば、それらしいと思えた。 水銀燈は咄嗟に右真横に飛んで、初太刀を躱した。 倒れたところへ、槍が繰り出される。入れ替わり立ち替わりで、休む間もない。 絡みつく下草に難儀しながらも、転がって避け続けていた水銀燈の背中が、 何かに当たって止まる。当たり具合からして、人の脚っぽかった。 (ま、まさかぁ……) 恐る恐る見上げれば、刀を逆手に握った足軽が、今まさに自分を刺し貫こうとしていた。 無駄とは承知しつつ、水銀燈は条件反射的に腕を上げて頭を庇った。 直後、足軽の頭蓋骨が吹き飛び、消滅していく。 その後ろから、薔薇水晶が姿を現した。 「間に合ったね。銀ちゃん、ここは……私が」 「助かったわ! ちょっとの間、そいつらを食い止めておいて!」 「任せて……誰も、通さないから」 ――なんて大見得を切ったは良いが、多勢に無勢という感は、拭いきれない。 薔薇水晶は、発動型装甲精霊を起動した。 「……圧鎧」 すると、纏っていた部分鎧が、瞬く間に特殊な形状を取った。 効果としては、真紅の法理衣と同じだが、彼女の精霊『圧鎧』は、 形状変化を任意で行えるという特徴を持っていた。 薔薇水晶は足軽三体の斬撃を全て装甲で受け止めると、二本の小太刀で、 三体の足軽を易々と破壊した。 「次…………来い」 金色の隻眼に睨まれ、穢れの者どもは、じりっ……と後退した。 薔薇水晶は小太刀の峰に舌を這わせながら、威圧的に、一歩を踏み出す。 彼女の様子は、差詰め、鎌の手入れに余念のない蟷螂を彷彿させた。 「……来ないなら、こっちから……行くよ」 言い終えるより先に、彼女は獲物を狩る猛獣のごとく突進していた。 気迫に怯んだ敵も、容赦なく斬り捨てる。 ――今度こそ、約束は守る。護り抜いてみせる。 ジュンの護衛を任されていながら、私は何も出来なかった。 めぐが凶弾に倒れた彼を担ぎ、連れ去るのを、ただ指を銜えて見ていただけ。 それが、どれほど屈辱的だったことか……。 後悔の念だけが、今の薔薇水晶を突き動かしていた。 もう、自分の無力さを思い知らされるのはイヤ。 考えすぎて臆病になるなら、いっそ最初から、何も考えずに闘えばいい。 薔薇水晶は、群がってくる者すべてを敵と見なして、我武者羅に戦い続けた。 気づけば、敵の数もかなり減っていた。ちょっと呼吸を整える余裕が生まれる。 だが、そこにこそ落とし穴があった。 刹那の油断。 左側で破裂音が轟いた途端、薔薇水晶は左側頭部に強烈な衝撃を受けて、倒れた。 一瞬で目が眩み、意識が飛びそうになった。膝が、ガクガクと震えて立ち上がれない。 鉄砲で狙撃されたのだと、直ぐに察しが付いた。 精霊を起動していなかったら……と考えると、ゾッとする。 これだから、隻眼というのは不便だ。どうしても、左側の死角が広くなってしまう。 霞む視界の向こうから、槍を構えた足軽の群が突進してくるのが見えた。 (ああ……もう、ダメかも知れない。 もう一度、お姉ちゃんに……会いたかったのに) 力無く瞼を閉じる寸前、薔薇水晶の視界に、人影が飛び込んできた。 その人影は長い太刀を振り抜き、只の一撃で、数体の足軽を薙ぎ払っていた。 「お待たせぇ、薔薇しぃ。お~い……生きてるぅ?」 「お、遅い……よ。銀ちゃ……ん」 安堵で気が弛んだ薔薇水晶は、そのまま気を失った。 水銀燈は「よく頑張ったね」と囁きかけて、一本の木に駆け寄った。 樹上に、薔薇水晶を狙撃した鉄砲足軽が隠れている事を、知っていたからだ。 水銀燈が木の根元に辿り着いた時、鉄砲足軽もまた、次の弾を込め終えたところだった。 鉄砲を構える暇など、与えはしない。 大上段から太刀を振り下ろすと、斬った枝ごと、鉄砲足軽が落ちてきた。 返す刀で、斬り上げる。 鉄砲足軽は空中で両断され、飛散、消滅した。 「あと、どのくらい残ってるのよぉ!」 ぐるり見回すと、かなり駆逐したのが判った。 鉄砲の音は聞こえない。狙撃できる足軽は、もう居ないみたいだ。 残りの敵兵力は、真紅と蒼星石の方に偏っていた。 「あれさえ叩けば、大勢は決するわねぇ」 見抜いた水銀燈は、二人に危険が及ばない位置を定めて、冥鳴を起動した。 真紅と蒼星石は、自分たちの後方で、冥鳴が暴れるのを見て勝利を確信した。 残敵は、僅か。水銀燈と薔薇水晶が合流すれば、程なくして駆逐できるだろう。 「真紅っ! あいつが大将みたいだよ」 「あれは、笹塚っ!」 蒼星石の指差した木陰では、法衣を纏った男が、苦り切った表情で戦況を眺めていた。 真紅は法理衣を起動して、真っ直ぐに笹塚の居る木陰を目指す。 こんどこそ、息の根を止めてやる。 真紅の接近を知って、笹塚は鉄砲を構え、撃鉄を落とした。 ロクに狙いも定めず撃ったものだから、銃弾は大きく逸れて、 真紅の脇に居た足軽の頭を砕いただけだった。 笹塚は「くそっ!」と悪態を吐き、隣に居た護衛の鎧武者を、真紅の方に突き飛ばした。 その鎧武者を斬り伏せた時にはもう、笹塚は風を繰って、姿を消していた。 逃げ足だけは早い奴だ。真紅は小さく、舌打ちした。 笹塚の逃走により、蜘蛛の子を散らすように逃げ出す雑兵たち。 焼け落ちた庵の前に、気絶した薔薇水晶を抱えた水銀燈が合流する。 そこにジュンの姿が無いと知って、蒼星石の表情が、見る間に翳った。 「水銀燈っ! 彼は……ジュンは、どこなのっ!」 水銀燈は、苦渋に満ちた表情を浮かべた。 言いたくない。でも、伝えねばならない。 「ジュンは…………ヤツらに、連れ去られたわ」 「そ……んな――――」 自分が気を失っていた間に、ジュンは……居なくなってしまった。 その事実を突き付けられ、蒼星石は自分の不甲斐なさを呪った。 折角、会いに来たのに! やっと逢えたのに! もっと、色々な話をしたかったのに! 彼が連れ去られた時、自分は気絶していただけ。 力尽くで取り返すことすら出来なかった。 「なぜ、ボクは……いつも……何も出来ないのさ。 どうしてっ! どうしてぇっ!!」 蒼星石の嗚咽と絶叫が、焦げ臭い空気が漂う森に吸い込まれては、消えた。 ――明伝藩、某所。 渓流の水が砕ける音を遠くに聞きながら、その娘は粗末な小屋の中、蘭学書を手に薬の調合をしていた。 小屋の壁に作り付けの本棚には、様々な書物が収められている。 系統で見ると医学書が最も多く、中には、原版の医学書もあった。 突然に、戸板が激しく叩かれた。急患だろうか? 山奥では、しばしば急な傷病人が出る。滑落だの、食中たりだの、他にも……。 「先生! 金糸雀先生!」 「はいはい……いま開けるから、ちょっと待つかしら」 戸を開けると、炭焼き小屋で働いている伴天連の宣教師が、栗色の長い髪の娘を抱えていた。 見慣れない顔だった。この付近の娘ではない。着ている物も、忍びのようだ。 「……ベジータ、この娘は?」 「知らねぇよ。川の上から、流されて来たんだからな」 「そう……ああ、そこの診察台に、寝かせるかしら」 ベジータは金糸雀の指示通りに、診察台に娘を横たえ、頼んだぜ……と言い残して帰った。 虫の息だが、まだ生きている。金糸雀は、直ぐに娘の衣服を剥いで、検診した。 一目で、極めて危険な状態だと判った。普通なら、とっくに死んでいる。 まずは、傷を塞がなくては駄目だ。 失血も多いし、体力を失っている状態で、この娘が手術に耐えられるかどうか―― 大博打だが……助けるには、それしかない。放っておけば、確実に死ぬだけだから。 「カナは最善を尽くすから、あなたも頑張るかしら」 娘の耳元に囁きかけて、金糸雀は緊急手術の準備を始めた。 =第十一章につづく=
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~第十六章~ 翌日の朝は、町中が騒然としていた。 昨夜、あれだけ大立ち回りをすれば、住民たちを叩き起こしていたのも当然だろう。 もっとも、誰もが恐怖のあまり家に閉じこもっていたから、真紅たちの姿は見られていない。 六人の娘たちは咎められる事もなく、柴崎老人を埋葬した後、 柴崎家の母屋で暫しの休息を取らせてもらったのである。 「まさか、貴女が【智】の御魂を宿す犬士だったとはね」 翠星石を始め、昨晩の戦闘で負傷した乙女たちの治療をしていた金糸雀に、 真紅は穏やかな眼差しを向けた。 これからの闘いは、より厳しさを増していく。 その時に、腕のいい医者が常に居てくれれば、どれだけ心強いことか。 勿論、金糸雀を頼もしく思っていたのは、真紅だけに留まらない。 他の四人もまた、翠星石の命を救ってくれた名医として、何かと頼りにしていた。 金糸雀の鮮やかな手捌きは、一切の迷いを感じさせない。 患者にしてみれば、全幅の信頼を寄せるに足る、いい仕事ぶりだった。 薔薇水晶に続いて怪我の治療を受けていた水銀燈は、暫し逡巡する素振りを見せて、 金糸雀の手元に視線を落としながら徐に口を開いた。 「ねえ、金糸雀。貴女って、どの程度の病気までなら治せるのぉ?」 「? どの程度と言われても困るかしら。そんな漠然とした質問では、なんとも。 まずは患者の症状を見ないと、判断は下せないわ」 「ん……まあ、そうよねぇ。ごめん。ただの興味本位だから、気にしないでぇ」 「ええ、構わないかしら。はいっと、これでお終い」 治療が終わると、水銀燈は金糸雀に礼を言って、庭を臨む縁側に歩いていった。 南向きの縁側には、五月晴れの温かな日差しが溢れている。 うたた寝するには、もってこいの場所だ。 着流しの裾から太股が露わになるのも構わず、水銀燈は横になり、腕枕して寝そべった。 真紅は小さく吐息して、水銀燈の元に歩み寄った。 「はしたない格好は止めなさい、水銀燈」 「別に、いいじゃなぁい。どうせ、誰に見られる訳でもないしぃ」 「他の娘の情操教育に、良くないのだわ」 「はいはぁい」 うるさいなぁ……と表情で語った水銀燈は、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべて、 真紅を指差し、次いで自分の頭の下を指差した。 「……なんなの?」 「膝枕♪」 「はぁあ?」 「なによぉ。この前は、私がしてあげたでしょぉ」 「私が頼んだ訳じゃないわ」 「まぁねぇ。けど、私に何か話したい事があるんじゃなぁい?」 水銀燈の全てを見透かしている様な瞳に射抜かれ、真紅は言葉に窮した。 本当に勘の鋭い娘ね。それとも、私が分かり易い性格をしているのかしら? ともあれ、ぼさぁ……っと突っ立ていても始まらない。 真紅は両足を伸ばして縁側に座った。 「脚が痺れるから、正座はしないわよ」 「枕代わりになるなら、どうだっていいわよぉ」 言って、水銀燈は仰向けに寝転がって、真紅の太股に頭を載せた。 イマイチ収まりが良くない。もぞもぞと頭を動かして、しっくりくる場所を探した。 真紅が、くすぐったがって何やら艶めかしい吐息を漏らし、文句を言ったがキニシナイ。 やっと収まりのいい場所で動きを止めると、薄目を開けて、真紅の顔を見上げた。 「……で? 私に何の話があるのかしらぁ?」 「貴女、めぐの病状について、金糸雀に訊きたかったんじゃないの?」 水銀燈の本音を、真紅は見抜いていた。 やはり不自然な質問だったのだろう。興味本位だなんて……あからさまに嘘くさい。 それに、真紅には以前、水銀燈みずからが旅に出た理由を話していた。 医者の絡みから、めぐへの繋がりを見出すことは、容易だったに違いない。 「今なら、あの娘たちも居ないから、気を遣わずに訊けるわよ」 「う……ん。でもねぇ」 今、翠星石と蒼星石は、昼食の支度をしていて、ここに居ない。 しかし、水銀燈は訊けなかった。 翠星石と蒼星石の気持ちを考えれば、めぐの名前を出すことすら躊躇われる。 今や、彼女は鬼祖軍団の四天王―― どうして、こんな事になってしまったのか。 めぐを置き去りにして、村を飛び出したから? でも、それは……めぐを助けたいと思ってしたこと。 あのまま村に残っていたとしても、苦痛に喘ぐ彼女を見続けることしか出来なかった。 金糸雀に訊く代わりに、水銀燈は真紅に、別の質問をしていた。 「穢れに憑かれた人たちって、憑き物を落とせば助けられるのかしらぁ」 「それは……程度次第なのだわ。 私の経験からすると……申し訳ないけれど、助からない事が多いわ。 本人の心が穢れてしまったら、いくら憑き物を落とそうが、何の意味もないの」 「翠ちゃんが助かったのは、幸運だった……と?」 「翠星石の場合は、特別な症例と言えるわ。 彼女は穢れに汚染されそうになって、本能的に心を閉ざしたのね。 だから、助かったのかも知れない」 「じゃあ……もしも……」 もし、本人が希望して、穢れに身を委ねたとしたら―― 途中で、水銀燈は口を閉ざした。訊いたところで、答えは見えている。 元に戻す方法は……無い。 斃すことだけが、唯一の救済。 「それでもね、水銀燈。最後まで希望を捨てなければ、解決策は見つかるものよ」 真紅の台詞に、水銀燈は微かに口の端をつり上げた。 「最近、台詞を先読みするようになったわねぇ、真紅ぅ」 「貴女と付き合ってると、自然と……ね。 いつも、からかわれてるから、つい言葉の裏の意味を探ってしまうのだわ」 「あらぁ、それは良かったじゃなぁい。詐欺には引っ掛からなくなるわよぉ」 「それ以前に、疑り深い小姑みたいになりそうよ」 「あははっ。言えてるわねぇ」 水銀燈も真紅も、重苦しい気分を払拭するかのように、朗らかに笑い続けた。 昼食は、ちょっと贅沢な献立だった。 柴崎老人の追悼、双子姉妹再会の祝い、金糸雀の歓迎会―― それら全てを一度で済まそうとするのだから、盛大になるのは当然である。 仏壇の上には、蒼星石が腕によりをかけて作った料理を載せた小皿が、所狭しと犇めいていた。 挨拶や雑談を交えた食事も終わり、焙じ茶を啜っているところに、金糸雀が話を切りだした。 「あなた達は、八犬士と穢れの者どもの因縁について、どこまで知っているのかしら?」 因縁と言われて、皆は頸を傾げた。 今まで、真紅の同志としてしか戦ってこなかったからだ。 それは当の真紅も同様だった。夢の導きで、旅に出たに過ぎない。 我武者羅に戦うばかりで、鬼祖軍団の目的など、考える余裕もなかった。 「恥ずかしい話だけれど、殆ど知らないのが現状なのだわ」 「そう。では……カナの知る限りを、伝えておくかしら」 「それは是非、お願いしたいわねぇ。へっぽこ退魔師さんは、当てにならないからぁ」 「貴女こそ、太刀を振り回すばかりで、知恵が回っていないでしょう?」 「いちいち煽りに乗らなくていいのに……。金糸雀、あの二人は気にせずに、続けて」 「……は、はいかしら」 蒼星石に促されて、金糸雀は、ひとつ咳払いすると、厳かに語り始めた。 「八犬士と穢れの者どもの因縁は、今から十八年前に遡るかしら」 「十八……って言うことは、私たちと同じ歳ですぅ」 「そう。カナ達は、一人の姫から生まれた存在なのよ」 「一人の姫…………それが、私の夢に語りかけてきた声の正体だと言うの?」 真紅の問いに、金糸雀は頷いて見せた。 そこで一旦、焙じ茶を啜って喉を湿らせ、再び話を続ける。 「姫の名は、房姫。人と狗神の間に産まれた、異端児だったの。 彼女は類い希なる退魔の能力を、生まれながらにして授かっていたかしら」 「生まれが特別なら……当然よね」 「信田の狐『葛の葉』を母に持つ安倍晴明のように、房姫もまた、 陰陽道に精通していたと記されているわ。異類婚とは、そういうものかしら」 「ところが、十八年前に、何かが起きたと言うわけだね」 「ええ。十八年前と言えば、各地で大きな戦が繰り返されていた時代よ。 諸国は疲弊し、人々の死霊が、怨嗟や悲嘆が、大地を覆い尽くしていたの。 それらが、黄泉の闇に潜んでいた穢れの者どもを目覚めさせたかしら」 「黄泉の……闇……ですか。おどろおどろしいですぅ」 「穢れの者どもは、この島国が誕生した太古から、蓄積され続けてきた怨念。 少しぐらい祓ったところで、焼け石に水かしら」 「要するにぃ、大元を叩かなきゃあ、キリがないって事ねぇ?」 「その大元というのは、どんな敵なの?」 真紅の質問に、金糸雀は頚を横に振った。 流石に、そこまでは書物に載っていないらしい。記載する者すら存在しなかったのだろう。 金糸雀は、湯飲みの中で冷めてしまった焙じ茶を一息に飲み干し、話を戻した。 「でも、十八年前に房姫と最終決戦をした者の名は、解っているかしら」 「……それは、誰なの?」 「鬼女――鬼の祖として、語られてきた者…………鈴鹿御前かしら」 「鈴鹿御前……聞いたこと……ある」 「房姫と鈴鹿御前の対決によって、ボクらが産まれたんだよね。 どういう結末だったの?」 「房姫は、重傷を負いつつも鈴鹿御前を封印することに成功したかしら。 でも、身体に負担をかけすぎて、術を完成させたと同時に、息絶えてしまったの。 房姫の御魂は、肉体を離れて八つに別れた……と言えば解るかしら?」 「つまりぃ、その別れた御魂が……私たち、ってことぉ?」 「ええ。そして、房姫の生まれ変わりが……他ならぬ、真紅なのかしら」 「わ、私が?!」 みんなの視線が、真紅に注がれた。 確かに、真紅は当代随一の退魔師と評判を取っている。 そして夢の中で託宣を受け、神剣『菖蒲』を授かった。 更に、ここに集った同志の左手には、犬士の証が刻み込まれている。 これだけ物的証拠が揃えば、金糸雀の話を信じない訳にはいかなかった。 「ふぅん……実は、真紅って凄いヤツだったですね」 「うん。ボクも、正直なところ、驚いたよ」 「私自身、信じられないのだわ」 「私たちが……元は、ひとつ……」 「あらぁ、薔薇しぃ……なにか、いやらしこと考えてたわねぇ?」 「えっ! あのっ! そんなこと……ないよ?」 「焦ってる時点で、怪しさ大爆発かしら」 母屋は、乙女達の談笑で溢れ返った。 徐々に熾烈な闘いが迫りつつある中の、和やかな雰囲気。 今日だけは、このまま穏やかに過ごせたらいいなと、誰もが思っていた。 しかし……そんな、ささやかな願いは、町人の噂話によって脆くも崩された。 桜田藩と隣接する狼漸藩との連絡が、一切とれないとのことだった。 ――狼漸藩、某所。 「御前様。雪華綺晶、ただいま戻りました」 戦装束も勇ましい乙女が、御簾の前で跪き、頭を垂れた。 「これで、藩内の城は全て落としました。 我々に手向かう者は、もう領内に存在しませんわ」 「大儀であったな。鉄砲の威力は、いかほどのものか?」 「威力は絶大ですが、なにしろ数が足りませんわね。 現状では、狙撃くらいしか使い道がないでしょう」 「なるほど……笹塚に、量産を急がせよう。お前は休息を取るがよい」 「はい。お気遣い、ありがとうございます」 雪華綺晶が自室に向かって通路を歩いていると、偶然、のりと擦れ違った。 今日は、割と機嫌が良いようだ。 「あら、雪華綺晶。今、ご帰還なのぅ?」 「はい。領内の人間どもを、狩り尽くしてきたところですわ」 「うふふふ……流石は、雪華綺晶ね。お姉ちゃん、鼻が高いわ」 「御前様に拾われ、のりさんに、ここまで育てて貰ったことは忘れませんよ。 粉骨砕身で、ご恩に報いる所存です」 雪華綺晶の言葉に、のりは心底、嬉しそうに笑った。 彼女の手が、雪華綺晶の頬を、優しく撫でる。 「お姉ちゃんはね、その気持ちだけで充分よぅ。だから、無理はしないで」 「ええ。約束しますわ」 雪華綺晶も、自分の頬を撫でる彼女の手に、掌を重ねる。 子供の頃、戦場となった村で親を失い、妹とはぐれ、倒れていた雪華綺晶。 鈴鹿御前が拾ってくれなかったら、間違いなく野垂れ死んでいた。 それから暫くは、死の恐怖を感じなくて済んだ。 鈴鹿御前様や、四天王のみんなが護ってくれたから。 鈴鹿御前が敵対する者の手で封印され、四天王の三人までもが斃された時は、 本当に悲しかった。殺されてしまうのだと、本気で恐れていた。 幼い雪華綺晶を養ってくれたのは、四天王唯一の生き残り、のり。 雪華綺晶にとって、彼女はこの十八年間、母親のような存在だった。 「そう言えば、御前様が拾ってきた化け猫……桑田由奈が、 奴らに殺されたと聞きましたけど?」 「あらぁ、もう耳に入ってたのぅ?」 「指揮官たる者、情報収集も怠りなく行わなければいけない。でしょう?」 「お姉ちゃんの教えを忠実に守っているのねぇ。お利口さん。 実はね、お姉ちゃん、そのことで御前様に呼ばれているのよぅ」 「……出撃でしょうか」 「多分ね。でも心配ないわよぅ。めぐも一緒に行くだろうから」 めぐの名を耳にして、雪華綺晶は「それは安心ですわ」と頷いた。 彼女は新参者だけれど、御前様への忠誠と、ひたむきさが際立っている。 まるで、昔の自分を見ている様な感覚がして、つい、目をかけてしまうのだ。 「それでは、お気をつけて。めぐにも、よろしく」 あまり引き留めていては、御前様を待たせることになる。 雪華綺晶は短い挨拶を交わして、のりと別れた。 ……が、今度は笹塚が、待ち構えていたように、柱の影から現れた。 「これは雪華綺晶どの。相変わらず、お美しいですなあ」 「そんな世辞を言うために、隠れていたのですか、笹塚?」 「義理とは申せ姉妹水入らずの所を、邪魔するほど野暮ではないさ」 ひゃははっ! と、下卑た笑いを漏らす笹塚。 雪華綺晶は鼻であしらって、脇を通り過ぎようとした。 そこに、ぼそり……と笹塚が呟く。 「にしても、のり殿も所詮は普通の女の子……というところですかな」 「……何が言いたいのですか?」 「いやなに。桜田ジュン復活の儀式が整うと、急に上機嫌になったものでね」 「はん! 下衆の勘繰りですわね」 ――新参者のお前には、解るまい。 雪華綺晶は、笹塚に侮蔑の視線を向け、その場を立ち去った。 彼女は……のりは、腹違いながら、桜田ジュンの実姉なのだ。 十五ほど歳が離れている為、多分、ジュンも姉の存在を知らないだろう。 政略結婚の道具として使われ、非業の死を遂げた姉の事など―― 「もう、のりさんに悲しい想いはさせませんわ。この私が……」 暗闇が広がる閑散とした通路で、雪華綺晶は、その言葉を噛み締めていた。 =第十七章につづく=
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『誰より好きなのに』 いつも、見ていた。 ずっと、見つめ続けてきた。 出逢ったときから、片時だって、瞳を逸らさないで。 ◆前編 瞳を逸らさないで -ごめんなさい- 抱かれている――と感じたのは、私の本心の表れだったのか。 ふわり。 防波堤の突端から、荒れる海へと飛んだとき、私は確かに、そう感じた。 ◆中編 ささやかな愛情を -ありがとう- 真紅に――お母さまに、戻れと言われ……私は従った。 でも、それは本当に、正しい選択だったのだろうか。 お父さまを襲った悲劇も、知らず、私が持ち帰ったからじゃないの? 『浦島太郎』の昔話にある、玉手箱みたいな、余計なお荷物を。 ◆後編 此処を守るのだわ -だいすき- 閉ざしたカーテンの向こうから、スズメたちのケンカする声が飛び込んでくる。 私はベッドの中で、朦朧としながら、それを聞いていた。 ◆エピローグ
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カラン、コロン―― カウベルの音色は、ドアが開かれた合図。来客を告げる調べ……。 それは、入り口に程近い私のテーブルに、暑く乾いた風を運んできた。 「あ、居た居た。久しぶり~、待った?」 足音が近付いてきたと思った途端の、問いかけ。 私は、声の主が向かいのソファに落ち着くのを待って、答えを返した。 「そうね……30分くらいかな」 「えっ、ウソ? って言うか、来るの早すぎじゃないの?」 「ふふ。そうかも」 悪戯っぽくウインクして笑いかけると、彼女も漸く、気付いたらしい。 私に、からかわれたことに。 「なによ、もう……人が悪いわね」 「ごめんなさい。ちょっと、はしゃぎすぎたみたい」 かわいらしく唇を突きだす彼女の仕種は、高校の頃のまま―― 見た目は、すっかりOLしちゃってるのにね。 「いらっしゃいませ。ご注文は、お決まりですか?」 機を見計ったように、高校生らしいウエイトレスが、お冷やを運んできた。 ショートカットのヘアスタイルが醸す活発そうなイメージどおりに、 きびきびと訊ねてくる。緋翠の瞳がきれいな、可愛い女の子だった。 「えっと……貴女も、私と同じでいい? うん。じゃあ、アイスコーヒーふたつ」 「アイスコーヒーふたつで。はい、承りました」 遠ざかるウエイトレスの背中を見送りながら、彼女は溜息を吐いた。 「溌剌としてるわね。私たちにも、あんな時期があったっけ」 「やだ……なに老けたこと言ってるの。貴女だって、まだ若いじゃない」 「10代と20代の輝きは、似て非なるモノよ。 永遠に取り戻せないと解ってるものに限って、欲しくなるものよね」 「もう! 久しぶりの再会なんだから、湿っぽくしないでよ」 彼女とは小学校からの親友だ。それからずっと、高校も大学も一緒だった。 この子が就職して、都会に独り住まいを始めるまでは。 ちょくちょく連絡は取り合っていたけれど、こうして会うのは、2年と4ヶ月ぶりだ。 『今年は帰省できそうだから、会いましょうよ』 メールで誘ってきたのは、彼女の方だった。 だから、私も旧友との再会を、楽しみにしてきたのに―― ――ごめんね、ホント。 そう呟いた彼女の表情は、どこか寂しげで、疲れているように見えた。 「もう良いわよ。それより、元気ないみたいね。もしかして、夏バテ?」 「ううん。そんなコトないのよ。ちょっと……ね」 「ははぁん、分かった。恋の悩みでしょ?」 言うと、彼女は目をまん丸くした。どうして分かったの? 瞳が、そう語っている。 見くびらないで欲しいわね。私だって、伊達に何年も、貴女の友人やってない。 どんな時に、どんな仕種をするのか、ちゃーんと把握しちゃってるんだから。 「あっちで、いい人が見つかったの?」 「え……まあ……」 「なぁに? 煮え切らないのね。乗り気じゃないわけ?」 「うーん。いい人……には違いないんだけど」 ――だけど。なに? こんな風に、歯切れの悪い話し方する子じゃなかったのに。 私はテーブルに肘をついて、ぐいと身を乗り出した。 だが、そこにタイミング良く(私的には悪く?)、先程のウエイトレスが、 トレイに二つのコーヒーカップを載せ、運んできた。 「おま、お待たせ……いたすましゅた」 私たちの間に、ただならぬ気配を察して焦ったのかな。いま、思いっ切り噛んでた。 そそくさとコーヒーカップを並べる時も、私たちにジロジロ見られまくって、 トマトみたいに顔を真っ赤にしちゃってた。 「ご、ごゆっくり!」 娘は逃げるように立ち去ったが、赤面したまま、いそいそと戻ってきて、 そぉーっと、テーブルの端に伝票を置いていった。 私と彼女は顔を見合わせ、どちらからともなく、くすくすと笑い出した。 「可愛い子ね。イヂメてみたくなっちゃう」 「よしなさいよ。それよりも、さっきの話の続きを聞かせて」 カップにガムシロップを注ぎながら切り出すと、彼女はまたぞろ眉を曇らせた。 そして、コーヒーをひと口、ブラックのまま飲むと、 なにやら思い詰めた面持ちで、じぃ……っと私を見つめてきた。 「これは、友だちから聞いたんだけど――」 また、『だけど』だ。断定しない、様子見のための結語。 人づきあいに溢れた都会で暮らすうち、口癖になってしまったのかしら。 黙ったまま、真っ直ぐに瞳を合わせていると、彼女は観念したように肩を竦めた。 「分かった。言うわ……言うわよ」 「なにを?」 「ねえ。あなた――彼と結婚するって、ホント?」 私は、コーヒーをかき回す手を止めて、スプーンをソーサーに置いた。 こういう噂話が広まるのは、本当に早い。当事者ですら驚かされるくらいに。 彼女が急に会おうと言ってきたのは、これを確かめるためだったのね。 「……本当よ」 そう答えて、口に含んだコーヒーは、すごく甘かった。 ちょっとガムシロップ入れすぎたみたい。 続けてグラスの水を飲む私を眺めて、彼女は頬を弛めた。 「そかそか。婚約指輪を填めてないから、もしかしたらって思ってたけど…… とっても残念だわ。彼は、あなたに取られちゃったのね」 「え? それって――」 「ふふ……驚いた? 実はね、わたしも彼のこと好きだったのよ」 それは、なんとなく察しがついていた。だって、女の子同士だもの。 何事につけても引っ込み思案な私に比べて、彼女はずっと積極的だった。 高校生の頃は、私たち、随分と彼をめぐって水面下で鎬を削っていたっけ。 ただ、彼の方が鈍感すぎて、二人とも巧くいかなかったのよね。 「あなたに負けたのは悔しいけど……でも、なんかスッキリした。 やっぱり、会いに来て良かったわ」 「そう?」 「うん。お陰で、踏ん切りもついたし」 「いい人……とのこと?」 訊くや否や、彼女は頬を染めて、はにかんだ。要するに、満更じゃなかったのね。 さっきの煮え切らない態度は、なんだったのやら。 「彼、職場の先輩なの。歳は、わたしより3つ上でね。 白崎さんって言うんだけど……気配りがよくて、頼もしくて――」 「ああ、はいはい。つまり、好きってことなのね。 彼――桜田くんと、天秤にかけたら釣り合ってしまうくらいに」 私は甘ったるいコーヒーを一息に飲み干して、立て続けに水を飲んだ。 面白くないから、ではなく、彼女に送るエールのつもりで。 彼女の瞳には、どう映ったか分からないけれど…… にこにこしてるから、私の気持ちは伝わったわよね、きっと。 「決ーめた。わたし、彼のプロポーズ受けるわ」 「されてたの?」 「そうなの。お返事は、休み明けまで待ってって頼んだんだけど。 今夜にでも、白崎さんに電話してみるわ」 「善は急げ……ね。気が早いかも知れないけど…………おめでとう、由奈」 私の祝福に、彼女も「あなたもね、巴」と、エールを返してくれた。 こんなにも多くの人で溢れ返った地球の上で、 こんな風に、お互いの幸せを、素直に喜び合える友だちに巡り会えた。 それって、すごい偶然じゃない? とても貴重な、かけがえのない宝物だと思う。 私は、コーヒーカップに唇を寄せる由奈に、知ってる? と問いかけた。 「十二才の頃みたいな友人は、もう二度とできない――って、映画の台詞」 「えっと……スタンド・バイ・ミー、だったかしら?」 「正解。よく知ってたわね」 「まぐれ当たりよ。それより、巴。ちょっと訊いてもいい」 「え、なぁに?」 「あなた…………どんな手を使って、あの鈍感な桜田くんを捕まえたの?」 「――えぇっと」 それを訊かれると、正直、答えにくい。 合意の上とは言っても、決して、褒められたものじゃあないもの。 でも、答えない限り、由奈は諦めてくれそうにないし―― 仕方がない。私は、右手で、そっとお腹を撫でた。 「実は、さ……3……ヶ月、なの」 「はぁっ?!」 「ちょ……声が大きいわよ、由奈っ」 「だって、その――――はぁ……やるわね、巴。 おとなしい子ほど大胆だったりするけど……そかそか。できちゃった婚とはねぇ」 由奈は『降参』と言わんばかりに両の掌を見せて、かぶりを振った。 それから、小一時間ほど昔話に花を咲かせた。 でも、私たちが築き上げてきた友情を語るには、その程度の時間じゃ足りない。 「ねえ、由奈。もし迷惑じゃなかったら、今夜、うちに泊まりに来ない?」 「わたしは迷惑じゃないけど……巴の方こそ、平気なの?」 「平気よ。まだ、そんなに身重じゃないし」 「――そうね。じゃあ、今晩、お世話になっちゃおうかな」 「そうしなさいよ。子供の頃は、よくお泊まり会したよね」 「うんうん。懐かしいね」 なんだか、子供時代に戻ったみたいで、ワクワクしてくる。 そうと決まれば、早速、場所を変えてしまおう。自宅の方が、なにかと気兼ねないし。 会計は、由奈が払うと言って譲らないので、素直に奢られておいた。 カラン、コロン―― カウベルの音色は、ドアが開かれた合図。再会を告げる調べ……。 私たち二人には、それが、気の早いウェディング・ベルのように聞こえていた。 ~Fin~
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『ひょひょいの憑依っ!』Act.7 大笑いしている水銀燈は放っておいて、めぐは再び、襟元を広げました。 そして、ふくよかな双丘の上端を指さしながら、ジュンに語りかけたのです。 「ほら、ここ。私の左胸に、黒い痣があるでしょ」 「なるほど……勾玉というか、人魂みたいなカタチの痣がありますね、確かに」 確認を済ませたジュンは、気恥ずかしさから、すぐに目を逸らしました。 ジロジロ見て、懲りずに水銀燈のまさかりチョップを食らうのも馬鹿げています。 めぐの方も、水銀燈の手前とあってか、すぐに襟を閉じました。 「つまり、水銀燈さんは禍魂っていう存在で、柿崎さんに取り憑いてるってワケか」 「うん。きっと……これは報いなのよ。命を粗末にした、傲慢に対する罰ね」 つ――と、めぐは悲しげな眼差しを空に向けましたが、すぐに表情を切り替え、 顎のラインをするりと指でなぞりつつ、ジュンを見つめました。 「それにしても、あんまり驚かないね、桜田くん。性格、図太い?」 「ちょっと前なら、救急車を呼んでましたよ。頭おかしいだろ、ってさ。 今は当事者だから、そんなコトもあるんだなって思えるだけでね」 「君って、順応性が高いのね。普通なら、もっと狼狽えるところなのに」 「それを言ったら、柿崎さんだって同じでしょ。 取り憑かれてても平然としてるし、バイトまでさせてるなんて前代未聞ですよ」 「いいじゃない。給料倍増するんだし、水銀燈の分も、所得税は納めてるんだから」 逞しいもんだなぁ。呆れと感心が入り混じった溜息を吐く、ジュン。 めぐは「当然の帰結よ」と笑い飛ばします。 確かに、死の縁から蘇生を果たしたのですから、逞しくなるのも無理からぬこと。 考えようによっては、頼もしい限りと言えましょう。 長年、禍魂憑きとして普通に暮らしてきた経験を鑑みても、 ジュンよりは金糸雀への対処法を心得ているハズです。 「とまあ、私と水銀燈の関係は、このくらいにしておいて…… そろそろ本題に入りましょうか」 めぐがキリリと表情を引き締めたのに合わせて、水銀燈も笑いを引っ込めました。 そして、めぐの背後に身を寄せると、彼女の両肩に手を置いたのです。 まるで……そう、如何なる障害からも、めぐを護ろうとするかのように。 めぐは、水銀燈の手を愛おしげにひと撫でして、口を開きました。 「確か、借りたお部屋が事故物件だって、言ってたわね」 「ええまあ。二人とも、ちょっと聞いてくれよ」 と、ジュンは今までの鬱憤を晴らすかのように、感情を爆発的に吐露しました。 「僕、就職を機に下宿したんです。下宿。そしたらドジな地縛霊が居座ってて、とり憑かれたんです。 で、よく見たら部屋中に、おフダとか貼ってあるんです。大盛りフダだく。これ最狂。 もうね、ウソかと。有り得ないかと。 (中略) 『もっとこの世に未練が残っちゃったかしらーっ♪』とか言って、もう見てらんない。 お前な、たまご焼きやるから成仏しろと……。 (更に中略) 「お前はホントに成仏する気あるのかと問いたい。問い詰めたい。小一時間といつめたい」 あまりにジュンの話が長すぎるので、めぐも水銀燈も、欠伸を堪え切れません。 結局、めぐが口を挟んで、話を中断させました。 「要するに……桜田くんは、その地縛霊ちゃんを追い出したいの?」 「追い出すというより、ちゃんと成仏させてやりたいなって思うんだ。 なんだかんだ言っても、部屋に閉じこめられっぱなしだなんて、可哀相だから」 「ふむ……なぁるほどねぇ」 めぐは腕組みして、難しい顔をしました。 「桜田くんが優しいのは判ったわ。でも、それが問題でもあるのよね。 幽霊って、往々にして思い込みが激しいモノだから」 そして、後ろを振り返って、訊ねます。 「ねえ、水銀燈。説得できると思う?」 「さぁて、どうかしらぁ。地縛霊なんて、ほとんどが未練がましい奴らよ。 口で言って、素直に従うとは考え難いわね」 「と、なると――やっぱり」 「荒療治だけど、少しぐらい痛い目をみせた方が、手っ取り早いんじゃなぁい。 相手に『もうこんなトコに居たくないっ!』って思わせれば勝ちよ」 「ちょっ、ちょっと待ったぁ!」 なにやら、二人の会話に物騒な気配を察知したジュンが、割って入りました。 「痛い目って……もっと穏便にカタを付ける方法は、ないんですか?」 すると、今度は彼女たちの方が、不思議そうに首を傾げます。 「じゃあ、桜田くんなら、どうすると?」 「念仏とか呪文とか唱えて、地縛作用を解いたり、日曜十七時半で昇天させるとか」 「きゃはははっ! やぁれやれ、呆れたおばかさんねぇ」 「そ、そんな言い方ってないだろ」 水銀燈のあからさまな嘲りに、つい、いきり立ってしまうジュン。 二人に挟まれためぐだけは、オセロの駒みたいに感情をひっくり返すこともなく、 落ち着いて水銀燈を押し止め、冷静にジュンを諭しました。 「まあ、聞いて。正直なところ、桜田くんは人が良すぎるみたいね。 それは素直さの裏返しでもあるから、一種の美徳と言えなくもないわ」 「世間知らずなだけでしょぉ? ハッキリ言ってやんなさ――べぶ!」 不用意に口を挟んでしまった水銀燈の顔に、めぐの裏拳がクリーンヒット。 一撃で沈黙させてしまうと、ナニ食わぬ顔で話を続けました。 「でもね、さっきも言ったでしょ。それが問題だって。 お人好しな人ほど、縋り付かれ、付け込まれるものなのよ。 いい? 相手は、この世に未練を残した幽霊なの。ここ、重要だからね」 言われてみれば、幽霊ということを、失念しすぎかも知れません。 金糸雀はあまりにも存在感が強すぎて、つい、普通の女の子みたいに思えてしまうのです。 (確かに……教えられなきゃ、幽霊だなんて判りっこないよな) そう考えた途端、不意に、ある閃きがジュンの頭に訪れました。 いっそ、めぐと水銀燈のような共生関係になれば、万事解決ではないのか……と。 しかし、無理が通れば道理が引っ込むと言うように、今度は真紅との関係が危ぶまれます。 金糸雀のことですから、言い聞かせたところで、真紅イジメを止めないでしょう。 健在の幼なじみより、幽霊を選ぶというのも、人として間違っているような気もします。 「やっぱり、ある程度の強引さは避けられないのかな」 「桜田くんが、幽霊ちゃんに人生を振り回されてもいいのなら、私たちは見守るだけよ。 わざわざ手出しする理由もないでしょ。 そもそも、私は専門的な修行とか積んでるワケじゃないし」 ――逡巡。 薄幸な女の子に、更なる苦痛を与えるのは、どうにも気が引けてしまいます。 けれど、金糸雀のためにも、このままでいいハズはなく―― 「……解ったよ。どっちみち、別れはいつだって、痛みを伴うものだもんな。 金糸雀を…………成仏させてやって下さい」 ジュンは腰を上げて、めぐと水銀燈に、深々と頭を垂れたのです。 「本気なのね。だったら、私たちも協力を惜しまないわよ。ね、水銀燈?」 「ふぅ……仕方ないわねぇ。めぐが乗り気なら、私は従うだけよ」 「じゃあ、決まり。早速、桜田くんのアパートに行きましょ。善は急げ、よ」 めぐが、突如として苦しみだしたのは、そう言って立ち上がった直後のことでした。 しかも彼女ばかりか、水銀燈まで苦悶に喘ぎ始めたではあーりませんか! 普通ではありません。ジュンの脳裏に、金糸雀の黒い幻影が、ゆらりと現れます。 (あいつ……まさか、僕が寝てる間に、なにか細工してたのか?!) 呪いの類でしょうか。ジュンを独りで送り出したのも、そういう罠を用意していたからで……。 まるで、立ち眩みでもしたかのように、めぐがグラリと前のめりになります。 ジュンは咄嗟に、彼女の身体を抱き留めました。 「どうなってるんだ! しっかりしてくれっ!」 その呼びかけに応じて、めぐが呻きます。そして、一言。 「……切れ……た」 「――え?」 「酒気が……切れたぁ」 アル中かよ! なんて悪態は胸に秘めたまま、心配そうにめぐを支えるジュン。 めぐは弱々しく、申し訳なさそうに呟いたのでした。 「ゴメン。今日はちょっと、ダメそう。アパートに伺うのは、明日でいい?」 いい? と訊かれても、ジュンに反対する権限などありません。 金糸雀の件で、めぐに頼みを聞き入れてもらえただけ、ありがたいのですから。 頷くほかなかったのです。不承不承でも、なんでも。 一応の成果を得て、ジュンはアパートに戻りました。 例によって、ドアを開けるや金糸雀の熱烈な出迎えがくるかと身構えておりましたが…… 「おかえりなさいかしら~!」 陽気な声と共に、すとんと降ってくる影――それは、天井から逆さ吊りになった人形でした。 ジュンは「うひ!」と喉の奥から空気を漏らして、失神してしまったのです。 次に正気を取り戻したとき、ジュンはベッドに横たえられていました。 ベッドの脇には、俯き、しょげ返っている金糸雀。 随分と長いこと気絶していたらしく、窓の外は既に、暗くなっています。 「えっと…………僕は、どうなったんだっけ」 「ごめんなさいっ! カナが人形に宿って悪戯なんかしたから、ジュンは――」 そう言えば、意識がブラックアウトする直前、逆さ吊り人形を目にした憶えがあります。 ありがちな他愛ない悪戯に、失笑を禁じ得ないジュンでした。 そこそこ賑やかで、温かい家庭。家に帰れば誰かが待っていてくれる生活も、悪くない。 (こんな生活も悪くないと思うけど……明日までなんだよな) 夜が明ければ、めぐと水銀燈が、ここを訪れます。 金糸雀を、二度と会えない彼方へと、送り葬るために―― 「――――ン? ジュンってば、聞こえないかしら? あぁん、もぉ……えいっ!」 やおら耳に指を突っ込まれ、物思いに耽るあまり遠退いていた意識が、引き戻されます。 「なんだよ」と鬱陶しげに問うジュンに、金糸雀は、おずおずと訊ねました。 「あのね、お夕飯どうする? 食べるなら、すぐに支度をするかしら」 「……いや、いい。なんか気分が優れなくってさ。気怠いから、このまま寝ちゃうよ」 「そう。じゃあ……おやすみなさいかしら、ジュン」 金糸雀は囁くと、ジュンの額にそっとキスして、立ち去りました。 普通にしている分には、可愛くて、かいがいしくて、護ってあげたくなる娘です。 その彼女を、自分は厄介払いしようとしている。成仏させるなんて、所詮、お為ごかし。 微かな自己嫌悪は、暗い雲となって、ジュンの胸を更に曇らせるのでした。 一方、金糸雀も玄関先に屈んで膝を抱え、気持ちを沈ませていました。 けれど、その理由はジュンと異なるものでした。 (ジュンの服から……女の子の匂いがしてた) それは、めぐを抱きかかえた時の移り香でしたが、金糸雀の知るところではありません。 金糸雀の思考は即座に、匂いと真紅を、こじつけました。 (あの女……まぁだジュンに付きまとってるのね。だったら、カナにも考えがあるわ。 二度と近付けなくしてやるから、覚悟しておくかぁ~しぃ~らぁ~!) その夜、遅く―― 真紅は鏡台に向かって、就寝前に、髪を梳いていました。 ネグリジェの襟元には、昨夜、ジュンがくれたブローチが輝いています。 鏡に写った眩い煌めきに目を留めて、真紅は唇に笑みを浮かべました。 彼の前では興味ない素振りをしましたが、本当は舞い上がるくらい嬉しかったのです。 家にいる間だけは、こうして身に着けているのが、彼女のマイブーム。 乙女のナイショ♪ というヤツらしいです。 すると、次の瞬間っ! 鏡台に置いてあった真紅の携帯電話が、いきなり鳴り出しました。 発信元は――ジュンの携帯電話です。 「なに? こんな夜更けに電話してくるなんて、不躾なのだわ」 出る必要などない。そう思い、放っておくと、電話は鳴り止みました。 けれど、すぐにまた鳴り始めました。やはり、ジュンからです。 それも無視していると、音は止み、また鳴ります。真紅は根負けして、電話に出ました。 「なんなの、いったい? 悪ふざけなら、やめてちょうだいっ!」 『…………』 「もしもし? ジュンなのでしょう? なんとか言いなさい」 『……私、カナよ。いま、貴女の部屋に向かってるかしら』 「はあ?」と真紅が問い返すや、通話が切れました。 そして、三秒と待たずに電話が掛かってきます。 「……もしもし。もしかして、貴女はジュンの――」 『カナよ。今……貴女の後ろにいるかしら』 いくら何でも、来るのが早すぎです。ドアが開く音も、気配も感じませんでした。 ……が、次の瞬間、真紅は自分の鏡像を目にして竦みあがりました。 真紅の右肩に、ニタリと嗤いながら覗き込む人形が、写り込んでいたのですから。 しかも、人形が手にしているのは、紛れもなくジュンの携帯電話でした。 人形は携帯電話を投げ捨てるや、背後から真紅の頚を、両手で締め上げてきました。 殺されるっ! 真紅はメチャクチャにもがいて、人形を振り解いたのです。 ――が、そのとき既に、大切なモノを奪われておりました。 「あはっ♪ もらっちゃったかしら~」 勝ち誇ったような金糸雀の声に顔を上げた真紅は、そこにブローチを見付けました。 人形の手に握られた、大切な宝物を。 金糸雀の魂が宿る人形は、しげしげとブローチを眺め……舌を這わせました。 「この味は! ……ジュンがプレゼントした物の『味』かしらぁ」 「返しなさいっ!」叫ぶと同時に飛びかかる真紅。 人形は機敏な動作で脇をすり抜けざま、真紅の脚の間に、畳んだパラソルを突き入れました。 足を縺れさせた真紅は、飛びかかった勢いそのままに、ヘッドスライディング。 思いっ切り、壁に頭を打ち付けて、気を失いかけてしまったのです。 「あははははっ! いいザマね。実に清々しくって、歌でも唄いたい気分かしら」 「うぅ…………お……願い。返し……て」 「イヤかしら~♪」 床に倒れたまま、弱々しく懇願する真紅に見せびらかす様に、ブローチを差し出す人形。 しかも、明らかに、握る手に力が込められていくじゃあーりませんか。 「こんなモノ――」 「っ?! や、止めてっ」 「こ・う・し・て・や・る・か・し・らっ」 「ダメぇ――――っ!」 制止する声も虚しく、ブローチは真紅の目の前で、カタチを変えてしまいました。 人形の手の中で、くの字に折れ曲がり、メキメキと砕けてしまったのです。 真紅は瞼を見開き、声にならない悲鳴を上げて、人形の足元に這いつくばりました。 「ああっ! ああああああああっ! どうしてっ! どうしてぇっ!」 「ふふん……分相応って言葉、知ってるかしら? 貴女は、ジュンに相応しくないのよ。彼の愛情を受ける資格なんか無いの。 だから没収しただけ。そして、今度は…………貴女のキレイな身体を奪ってやるかしら」 「ひぃっ! イヤ……こないでっ! イヤぁっ! 助け――」 後ずさる真紅をカナ縛りで止め、人形は爛々と義眼を煌めかせながら、舌なめずりしました。 「うふふふふっ。楽してズルして、生身と恋人をダブルゲットかしらぁ~♪」
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夕食の席に、見慣れた姉の姿はなく―― (どうしてなの?) 蒼星石の心は、言いようのない虚しさに包まれていた。 瞼を閉じると姉の寂しげな顔が浮かんできて、なんとなく、食欲も湧かない。 「翠ちゃん、具合悪いって言ってたけど……大丈夫かしらねぇ」 「近頃、めっきり寒くなってきたからのぉ。風邪でもひいたんじゃろう」 心配そうに呟いた祖父母が、揃って天井を見上げた。 それが、今、翠星石がここに居ない理由。 彼女は気分が優れないからと告げて、食事もせず部屋に籠もってしまったのだ。 もちろん、そんな言い訳がましい戯言を、鵜呑みにする蒼星石ではない。 昨夜の自分の行為が、姉をひどく傷付けてしまったと察して、胸を痛めていた。 (でも……あれは姉さんが、ボクから離れていっちゃうから) 引き留めたくて、焦っただけ。ほんの少し、擦れ違っただけ。 全ては、些細な誤解。落ち着いて話をすれば、きっと解り合えると思っていた。 だって二人は、産まれる前から、ずっと一緒だったのだから。 ――けれど結局、その日の内に、姉妹が言葉を交わすことはなかった。 第十一話 『かけがえのないもの』 明けて、月曜日の朝。 蒼星石は普段より1時間も早く、目を覚ました。まだ寝惚けている頭が、重い。 額に手を当てて、無造作に前髪を掻き上げながら、欠伸をかみ殺した。 「……眠ぃ。姉さん…………もう起きてるかな」 のそのそとベッドを抜け出し、ドアノブに指をかけたところで、ふと考えた。 ドアを開けた途端、そこにビックリ顔の翠星石が立っているのではないか、と。 しかし、蒼星石の案に反して、廊下には誰も居なかった。 姉の部屋を見遣ると、ドアが開いていた。もう起きているようだ。 であれば、洗面所か台所で、翠星石と会えるかも知れない。 そう思うと、期待に胸が躍る一方、不安で階段を降りる足取りが鈍った。 (姉さんの哀しそうな顔を見るのは、つらい。でも、だからこそ会わなきゃ!) ぎこちなくてもいい。 『ごめんなさい』でも『おはよう』でも……なんなら『やあ』でも構わない。 とにかく、たった一言でもいいから、話をしたかった。 それをキッカケに仲直りができるのであれば、どんな言葉でも―― しかし、決心したつもりでも、洗面所から水音が聞こえた途端、足は竦んでしまう。 ここまで来て、躊躇うなんて情けない。蒼星石は廊下で深呼吸して、気を落ち着かせた。 そして…………すだれを掻き分け、洗面所に踏み込んだ。 「ん? おや、蒼星石かい。どうしたんじゃ。姉妹そろって、今朝は早いのう」 「あ……おはようございます、お祖父さん」 蒼星石の肩から、力が抜ける。洗顔していたのは、祖父だった。 となると、翠星石は今、朝食を摂っている頃だろうか。 今度は、会いたいと思う気持ちの方が勝った。 蒼星石にとって、翠星石は自分の半身に等しい、かけがえのないもの。 それを取り戻したいと、本気で思っているならば、恥も外見もない。 顔を洗った蒼星石は、もう微塵も迷わず、足早に台所を目指した。 しょんぼりした顔でトーストを囓る姉の姿を想像したら、じっとなんかしていられない。 祖母が一緒だとしても、憚る所なく昨夜のことを謝るつもりだった。 だが、勢い込んでいた蒼星石は、またしても肩すかしをくらった。 「おはよう、蒼ちゃん」 台所で弁当を作っていた祖母が、にこやかに振り向いて挨拶してくる。 食卓に、翠星石は居なかった。 「おはよ。姉さんは?」 「翠ちゃんなら、もう出かけたわよ。お弁当が出来てないから待ってと言ったんだけど、 それなら購買でパンを買うからいらない……って」 「……そう。どんな様子だったの?」 「昨夜より具合は良くなったみたいだけど、まだ元気なかったわねえ」 ひょっとして、本当に体調が優れないのだろうか? けれど、翠星石は意地っ張り。そして、ヘソ曲がりでもある。 追いかけて欲しくて、わざと忌避の態度をとることも、ままあった。 その可能性は、半々といったところだろう。 だったら、逃がさない口実を手土産に、追いかけるのみ。 幸いなことに、口実は蒼星石のすぐ目の前にあった。 「ねえ、お祖母さん。お弁当、ふたつ作って。ボクが姉さんに届けるよ」 朝食を済ませ、あれこれと身支度を整えて、蒼星石は勢いよく玄関を出た。 今度こそ翠星石と向かい合って、きちんと気持ちを伝えなければならない。 このまま互いの距離が不自然に広がってしまうのは、耐え難い苦痛だった。 小走りに学校を目指す蒼星石のカバンの中で、ふたつの弁当箱が揺れ、カタカタ鳴った。 あまり激しく揺らしては、中身が踊って、メチャクチャになってしまう。 そんな弁当を渡したら、仲直りどころか、また姉に難癖つけられるだけだ。 (まだ遅刻する時間でもないし、ゆっくり行こう) 焦らず騒がず、歩きながら考えればいい。会ったときに、話すことを―― 蒼星石は足を緩めて、カバンの中の弁当に意識を向ける。 束の間、よそ見した彼女は、脇道から歩み出てきた人に気付かず、ぶつかってしまった。 「うわっ、ごめんなさいっ!」 「こちらこそ、すみま――って、蒼星石さん?」 「あれ? 柏葉さん。どうしたのさ、こっちに来るなんて」 巴の家からだと、こっちは学校と反対の方角だった。 いつものように竹刀を肩に掛けた巴は、礼儀正しく「おはよう」と頭を下げる。 そして、挨拶を返す蒼星石に、理由を話し始めた。 「お節介だとは思うんだけど、やっぱり気になってしまって……。 翠星石さんとは、仲直りできた?」 「それが……なかなか機会に恵まれなくてね。まあ、歩きながら話すよ」 蒼星石は巴と並んで歩きながら、これまでの経緯を、かいつまんで語った。 姉が一向に機嫌を直さないことや、心労からか、体調を崩しているらしいことも。 翠星石が体調不良というくだりでは、巴も心配そうな顔をした。 「最近、寒いものね。わたしも、アノ日が近いから気が滅入ってて」 「そうなんだ? ボクは――」 言いかけて、蒼星石はひとつの可能性に気付いた。 姉の不機嫌は、女の子にしか解らない月のモノの苦しみも、影響しているのではないか。 どちらかと言うと、翠星石はアレが重い方で、しばしば痛み止めを服用していた。 指折り数えてみても、そろそろの筈だ。 (……謝るついでに、それとなく訊いてみよう) どんな状況であれ、蒼星石にとって大切な姉であることに、変わりはない。 蒼星石は両腕でカバンを抱きかかえ、翠星石の身を案じた。 早朝の教室は生徒も疎らで、ひんやりした空気が立ちこめている。 まだ、校舎も眠っているのだろう。生徒たちの歓声が、校舎にとっての目覚ましなのだ。 翠星石は、窓辺の席で頬杖をつき、ぼんやりとグラウンドを眺めていた。 時折、思い出したように溜息を漏らす。他人の接近を拒む、沈鬱な気配。 そこだけが、周囲の世界から切り離されているようだった。 「あぁら。月曜日っから、随分とひどい顔してるじゃなぁい」 「……ふぇ?」 顔を向けた先には、妹のクラスメートで、翠星石の友人でもある水銀燈の姿。 彼女はいつもの不敵な笑みを浮かべながら、腰に手を当てて立っていた。 からかう為に、わざわざ、ふたつ隣の教室から足を運んだ訳ではあるまい。 「何しに……来たです?」 ぷいっと顔を背け、翠星石は校庭を見ながら、ぶっきらぼうに訊ねた。 そんな彼女の態度を意にも介さず、水銀燈は机の前に回り込む。 「土曜日のことなんだけど、ちょっと蒼星石に相談されちゃってね」 「そーですか。 蒼星石とはケンカなんてしてねぇですから、心配してくれなくて結構です」 嘲るような眼差しで、水銀燈は、そっぽを向く翠星石の横顔を見つめる。 「ケンカする内は、仲が良い証拠よ。でも、不機嫌の理由は……それだけ?」 「……なんでも、お見通しですか」 鼻先で憂鬱そうに溜息を吐き、翠星石は腹部に手を遣った。 「実は……いつもより重いのです」 「大丈夫なの? 私、よく効く薬を持ってるわよ。あげましょうか」 「もう自分のを飲んだです」 「ムリしない方がいいわ。保健室で休んでるか、ひどい様なら病院に行きなさいな」 水銀燈の気遣いはありがたかったが、そこまで大事にする気もない。 やんわり断ろうとした翠星石は、何気なく目を向けた校庭に、二人の姿を認めた。 仲良さそうに語らいながら登校する、蒼星石と巴を―― ――途端、翠星石の胸の奥底が、ズキリと疼いた。 翠星石にとって、蒼星石は大切な存在。かけがえのないもの。 本当は、すぐにでも会いたい。もう一度、姉さんが必要だと言って欲しい。 だが、拒絶の言葉を叩きつけた今となっては気まずくて、顔を合わせ辛かった。 「…………やっぱり、ちょっと保健室で休ませてもらうです」 少し、気持ちを整理する時間が必要なのだ。それがきっと、お互いのため。 自分に言い訳しながら、翠星石は水銀燈に付き添われて、教室から逃げ出した。 第十一話 おわり 三行で【次回予定】 友人に背を押されて、向き合う決意をする彼女。 けれど、迷い道は近付き、かつ遠ざかりて―― 求め合う二人の少女を、嘲笑うのだった。 次回 第十二話 『君がいない』
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こよみは梅雨に入り、各地で例年にない雨量が記録され、少なからぬ被害が出ていた。 地球温暖化の影響だろうか。ここ数年、世界各地で異常気象が目立つ。 今日も朝から土砂降りで、さすがに仕事に行けず、私はテレビで天気予報を眺めていた。 彼から電話が入ったのは、そんな時だった。 『ドレスが完成したんだ。雨足も弱まったし、これから見せに行くよ』 「え? いいわよ、明日で」 『1秒でも早く、由奈に着て欲しいんだよ』 「でも、危ないわ。ドレスだって、びしょ濡れになっちゃう」 渋る私に「大丈夫だって」と安請け合いして、ジュンは通話を切った。 まったく、変なところで強情なんだから。 とは言うものの、正直なところ、すごく楽しみだった。 イラストを見て、完成イメージは分かっている。早く、袖を通してみたい。 私は、緩む頬をピシャピシャ叩いて、彼が来たときのために、タオルなどの用意を始めた。 ポットのお湯を沸かし、お風呂の用意もしておく。 準備をしている時の私は、間違いなく、世界中の誰よりも幸せだった。 もうすぐ、ジュンが来る。濡れネズミになって、玄関のドアを潜ってくる。 私は玄関に座り込んで、彼が飛び込んでくるのを待った。 出迎えた時にかける言葉を考えていると、寂しいどころか、嬉しくて仕方なかった。 やがて10分が過ぎ、1時間になって、3時間が経った。 けれど、どれだけ待ち続けても…………彼が来ることは、なかった。 その報せは、お母さんの口から伝えられた。 近くを流れる河に架かる橋のひとつが、濁流によって、押し流されたという。 降り続いた雨で、いつの間にか、限界水位を超えていたらしい。 胸が締め付けられるように痛くなって、息をするのも苦しくなった。 彼の家から、私の家まで来る間に、必ず河を渡らないといけないのだ。 もし、件の橋が、彼を乗せたまま押し流されたのだとしたら……。 得てして、不安というものは、最悪のカタチで現実となる。 あのドレスは、しっかりラッピングされた状態で、橋から少し下流の木に引っかかっていた。 そして、付近に、彼の姿は無かった。 ジュンが行方不明のまま、私の手元に渡ったドレス。 純白であるべきソレは、僅かに染み込んだ泥水によって、みにくく斑に汚れていた。 落ちぶれたプリンセスには、相応しい衣装かも知れない。 結局、私はどこまでも堕ち続ける運命なのだろう。 時計に組み込まれた、狂った歯車を取り除かない限り、ずぅっと狂いっぱなし。 梅雨前線の勢力が弱まると、私はドレスを携え、彼の家に向かった。 橋は壊れたままで、かなり遠回りしなければいけなかったけど、苦にならなかった。 このドレスを最初に着るのは、彼の前で―― そう、ココロに決めていたから。 突然の訪問にも拘わらず、のりさんは寂しさ隠し、喜んで迎え入れてくれた。 彼の消息が分からなくなって、もう2日。捜索は続けられているけど、進展はない。 認めたくはないけど、ほぼ絶望的だった。 もう、彼は海まで流されて、冷たい水底に横たわっているのかも知れない。 言葉にしないだけで、誰もが薄々、悪い想像を膨らませている。 「彼の部屋で、着替えさせてもらって、構いませんか?」 「もちろんよぅ。さあ、遠慮しないでぇ」 最初は、自分の部屋で着替えて、彼を追いかけようと思っていた。 ジュンが見に来てくれないなら、私の方から、見せに行こうと。 ――でも、結局、私は行動できなかった。 だって、彼はまだ見付かっていない。死んでしまったと、決まったワケじゃない。 早とちりで、ロミオとジュリエットになるのは馬鹿げている。 しかし……彼が見付かるのを、ただ待ち続けることも、できなかった。 じっとしていると悪い妄想ばかりがココロを占めて、気が狂いそうになる。 何かをしなければ……。そんな強迫観念が、更に私を苦しめた。 そこで考えたのが、彼の部屋で、ドレスを着ることだった。 彼の部屋で、彼の代わりに、彼の写真に見てもらおうと思ったのだ。 汚れたプリンセスと、写真のナイト。 惨めで、貧乏ったらしくて、お似合いのカップルだと思わない? 部屋のカーテンを閉ざし、薄暗い部屋の中で、私は着替え始める。 それが、虚しさ募らせる私に許された、せめてものココロの慰め。 惜しげもなく、あしらわれたフリル。 ふんだんに、と言って、しつこさを感じさせないリボンの群。 品格と美しさを併せ持った、クラウン。 独りで着るのは、意外に大変で、鏡を前に悪戦苦闘していた。 ドタバタうるさかったからだろう。のりさんが、手助けに来てくれた。 ドレスのスケッチを眺めながら、あれこれ試行錯誤していると、矢庭に、外が騒がしくなった。 なんだろうと、二人して首を傾げていた所に、インターホンが鳴る。 「まさか!?」 私と、のりさん。二人の声が見事に重なる。 のりさんは弾かれたように走り出して、あちこちの壁にぶつかりながら玄関に向かった。 でも、私は着替え中だから、人前に出られない。 ヤキモキしながら、階下から届く、くぐもった話し声に聞き耳を立てるしかなかった。 そして―― 階段を駆け昇ってくる、軽快な足音。あれは、気が急いている時の足音。 私には、すぐに分かった。だって、一ヶ月以上も聞き続けてきたんだもの。 涙に曇る視界の向こう……ドアの前に立つ彼の姿を目にして、私の喉から絞り出されたのは、 「どうして?」 ――とだけ。 それは、ありとあらゆる『どうして?』の集約。 どうして無茶なんかしたの? どうして、無事ならすぐに連絡くれなかったの? どうして――――戻ってきてくれたの? 今こそ聞きたかった。映画館で聞くのを躊躇った、ジュンの答えを。 「言ったろ。大丈夫だ……って。由奈との約束は、どんなことでも、必ず守るよ。 これからだって、きっと守っていく」 臆面もなく、彼が言う。 だから、私も照れや恥じらいをかなぐり捨てて、伝えた。 「こんな、見窄らしく薄汚れたプリンセスだけど、良いの?」 「それを言ったら、僕だって傷だらけのナイトさ」 ジュンは、包帯の巻かれた腕を上げ、イテテ……と涙を浮かべながら笑った。 後で聞いた話だけれど、ジュンは河口の岸辺に流れ着いて、病院に収容されてたんだって。 まるまる二日、意識不明で、身元を確認する物を持ってなかったから、 歯形を元に、歯科医の治療履歴から身元を照合したそうよ。 それで、生存確認の連絡が遅れたんだって。気を揉ませてくれるわ、ホントに。 部屋に踏み込もうとして蹌踉めいた彼を、私は駆け寄って、しっかりと両腕で支えた。 高校の、学年集会の時は背けてしまった顔を、今は、真っ直ぐ彼に向けて。 「本当に、私で……良いの? 巴じゃなく?」 「くどいな。なんで柏葉が出て来るんだ。 僕は、由奈のために、そのドレスをデザインした。他の、誰のためでもない」 「私の……ために」 「それに、マイナスとマイナスは、かけ算すればプラスになるだろ。 だったら僕らは、まさにベストカップルじゃないか」 どうしようもない、中学生じみた冗談を言って屈託なく笑う彼に、私は抱きついていた。 こんな、平凡すぎる生活も、満更じゃない。 いい加減、肩肘はって生きるのにも疲れてたし…… やっと、堕ちてゆく私を受け止めてくれるヒトの胸に、安らげる場所を見付けたんだもの。 私の涙は、少し薬品くさい彼の服に、音もなく吸い込まれていく。 もしかしたら、それは狂った歯車がこすれて、磨耗したカケラだったのかも知れない。 キラキラと落ちてゆく涙を見つめながら、彼の温もりを感じているだけで、 不自然な回転が生み出していた不協和音は、徐々に、素直な旋律へと変わっていった。 ジュンの手が、私の露わになった背を――素肌を――愛おしげに、撫でる。 その優しい指の感触は、得も言われぬ幸福感を、私に与えてくれた。 夢みるような心地に、私を導いてくれた。 「さあ。僕が手伝って、ちゃんと着せてあげるから、離れて」 「……うん。でも…………もうちょっとだけ――」 のりさんが遅ればせながら顔を見せたけれど、キニシナイ。 私は…… この世で最も大切な人と、1秒でも長く、唇を重ねる。 今や、彼がくれる新たな息吹こそが、私の人生時計のクォーツを振動させる源なのだから。 貴方だけのプリンセス。 ユメみていた日が、こんなにも早く訪れるなんて、夢にも思っていなかった。 幸せすぎて怖くなるなんて、初めての経験だった。 だから、震えを止めて欲しくて、ジュンに囁く。きつく抱き締めて……と。 泥だらけのドレスを来たお姫様と、包帯だらけの勇敢な騎士。 ふたり並んで、のりさんに撮ってもらった写真は…… アルバムの、一番初めのページで――幸せそうに、はにかんでいる。 「すっごくいい顔してるわ」 高校を卒業して以来、初めて顔を合わせた親友は、満面の笑みで、そう言ってくれた。 昼休みの時間帯、オフィス街の喫茶店で、再会を果たした時のことだ。 窓辺のテーブルと言うこともあり、初夏の眩しい日射しが、巴の笑顔を輝かせていた。 巴は本当に、ココロから、彼が立ち直ってくれたことを喜んでいる。 そして、私たちが幸せになったことを、誰よりも祝福してくれていた。 もしかしたら、私に彼を取られて、悲しんでしまうかとハラハラしてたけど―― 杞憂だったみたい。巴は、私なんかより大人で、強い人なのね。 彼に縋らなければ、もう生きていけそうもない私なんかより、ずっと強い。 「巴も、彼のことが好きなんでしょ」 二人だけという気兼ねのなさが、無思慮な言葉を誘う。 訊かずとも、答えは解っている。訊けば、巴を傷つけることも。 しかし、彼女が笑顔を崩すことはなかった。 「ええ、大好きよ。これからも、ずっと……大好きでいると思う」 「一途なのね。どうして、その想いを伝えなかったの?」 「それは…………私は、桜田くんに必要とされなかったから」 なんの冗談かと問い返すより先に、巴の深く澄んだ瞳が、私を制した。 「気付いてなかったの、由奈。彼が本当に必要としていたのは、貴女なのよ」 「……ウソ?」 「本当よ。その証拠に、彼は由奈と再会して、殻を破ることが出来たわ。 私が、どれだけ通い詰めて、励ましても、気持ちは届かなかったのにね」 言われてみれば、確かに、そうだった。 彼の元を訪れた回数ならば、巴の方が、間違いなく多い。 にも拘わらず、彼は私を選んでくれた。巴じゃなく、私を。 そして、私と一緒に居ることを、望んでくれた。 これ以上の喜びは、ちょっとやそっとで見付けられそうもない。 巴は「そういうコトなのよ」と呟いて、カップに残る冷めたコーヒーを飲み干した。 本当は辛いだろうに、相変わらず気丈な人ね。 そんな貴女だから、たくさんの人に好かれるんだろうけど。 「あ……わたし、そろそろ行かなきゃ」 巴は腕時計に目を落とし、伝票を摘んで席を立った。 そして、私に向けて、不器用なウインクをひとつ飛ばした。 「もし、由奈が桜田くんに飽きた時には、連絡して。いつでも引き取りに行くから」 「巴に新しい恋人ができる方が、先じゃないかしら?」 「……そうかも」 「そうよ。間違いないわ」 私は自信たっぷりに、そう伝えた。 他人の幸せを、ココロから喜ぶことができる巴だもの。きっと、素敵な人に巡り会える。 そうじゃなきゃ、天にまします誰かさんは、とんでもなく底意地が悪い。 「また――会おうね」去りゆく巴の背に、再会の約束を投じる。 振り向くことなく「ええ、また今度」と答えた彼女の声は、一点の曇りもなく澄み切っていた。 それから数分と経たず、彼が喫茶店に入ってきた。 きょろきょろして、小さく手を振る私を見付けると、足早に近付いてくる。 私の腕時計は、13:00を表示している。 「驚いたわ。ホントに、約束の時間ぴったりね」 「だから言ったろ。由奈との約束は、きっと守るって」 どうだと言わんばかりに胸を張るけれど、息切れまでは隠せない。 なんだか、こっちが気の毒になってしまう。 でも……なにげない彼の気遣いが、とても嬉しい。 「もうちょっと早く着いてたら、巴に会えたのに」 「そうだったのか。柏葉、元気だった?」 「ええ、とっても。貴方を奪い取るって、息巻いてたわ」 「ヒドイ冗談だな」 肩を竦めて、彼が、さっきまで巴が座っていた席に座る。 それを不快だとは思わなかった。だって、ほら……彼の瞳は、いつでも私を見てくれる。 私が集めていたのは、貴金属に似た卑金属や、色ガラスばかりだと思っていた。 でも、たくさんの紛い物の中には、数える程度だけれど、本物も混じっていたのよね。 私はテーブルの上に両手を伸ばし、ちょん……と、彼の指先をつつく。 手を握って欲しい。それが、二人だけの合図。 彼の手が、まるで壊れ物を扱うかのように、私の手を柔らかく包み込んでくれた。 「考えてみたら、まだ一度も言ってなかった気がするわ」 「なにを?」 「貴方が好きです。愛…………してます」 偽りない気持ち。 こんなにも素直な想いを、こんなにも素直に伝えられる。 ああ、なんて気分がいいんだろう。 私に生まれ変わるキッカケをくれたのは、貴方。 貴方と出会えなかったら、私はまだ、萎れた花みたいに下ばかり向いていたハズだ。 だから、今は……天にまします誰かさんの気まぐれに、感謝しておこう。 「私、いま……すごく幸せ」 「もっともっと、幸せにするよ。約束だ」 「信じてる――」 だって、貴方は今まで一度も、私との約束を破ったことがないもの。 だから……きっと。 幸せになろう。 本当は、高校一年生の時から結ばれていた、この人と。 窓越しに見上げた、昼下がりの夏空は―― ――雲ひとつない蒼穹なのに、雨模様だった。 ~fin~