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こよみは梅雨に入り、各地で例年にない雨量が記録され、少なからぬ被害が出ていた。 地球温暖化の影響だろうか。ここ数年、世界各地で異常気象が目立つ。 今日も朝から土砂降りで、さすがに仕事に行けず、私はテレビで天気予報を眺めていた。 彼から電話が入ったのは、そんな時だった。 『ドレスが完成したんだ。雨足も弱まったし、これから見せに行くよ』 「え? いいわよ、明日で」 『1秒でも早く、由奈に着て欲しいんだよ』 「でも、危ないわ。ドレスだって、びしょ濡れになっちゃう」 渋る私に「大丈夫だって」と安請け合いして、ジュンは通話を切った。 まったく、変なところで強情なんだから。 とは言うものの、正直なところ、すごく楽しみだった。 イラストを見て、完成イメージは分かっている。早く、袖を通してみたい。 私は、緩む頬をピシャピシャ叩いて、彼が来たときのために、タオルなどの用意を始めた。 ポットのお湯を沸かし、お風呂の用意もしておく。 準備をしている時の私は、間違いなく、世界中の誰よりも幸せだった。 もうすぐ、ジュンが来る。濡れネズミになって、玄関のドアを潜ってくる。 私は玄関に座り込んで、彼が飛び込んでくるのを待った。 出迎えた時にかける言葉を考えていると、寂しいどころか、嬉しくて仕方なかった。 やがて10分が過ぎ、1時間になって、3時間が経った。 けれど、どれだけ待ち続けても…………彼が来ることは、なかった。 その報せは、お母さんの口から伝えられた。 近くを流れる河に架かる橋のひとつが、濁流によって、押し流されたという。 降り続いた雨で、いつの間にか、限界水位を超えていたらしい。 胸が締め付けられるように痛くなって、息をするのも苦しくなった。 彼の家から、私の家まで来る間に、必ず河を渡らないといけないのだ。 もし、件の橋が、彼を乗せたまま押し流されたのだとしたら……。 得てして、不安というものは、最悪のカタチで現実となる。 あのドレスは、しっかりラッピングされた状態で、橋から少し下流の木に引っかかっていた。 そして、付近に、彼の姿は無かった。 ジュンが行方不明のまま、私の手元に渡ったドレス。 純白であるべきソレは、僅かに染み込んだ泥水によって、みにくく斑に汚れていた。 落ちぶれたプリンセスには、相応しい衣装かも知れない。 結局、私はどこまでも堕ち続ける運命なのだろう。 時計に組み込まれた、狂った歯車を取り除かない限り、ずぅっと狂いっぱなし。 梅雨前線の勢力が弱まると、私はドレスを携え、彼の家に向かった。 橋は壊れたままで、かなり遠回りしなければいけなかったけど、苦にならなかった。 このドレスを最初に着るのは、彼の前で―― そう、ココロに決めていたから。 突然の訪問にも拘わらず、のりさんは寂しさ隠し、喜んで迎え入れてくれた。 彼の消息が分からなくなって、もう2日。捜索は続けられているけど、進展はない。 認めたくはないけど、ほぼ絶望的だった。 もう、彼は海まで流されて、冷たい水底に横たわっているのかも知れない。 言葉にしないだけで、誰もが薄々、悪い想像を膨らませている。 「彼の部屋で、着替えさせてもらって、構いませんか?」 「もちろんよぅ。さあ、遠慮しないでぇ」 最初は、自分の部屋で着替えて、彼を追いかけようと思っていた。 ジュンが見に来てくれないなら、私の方から、見せに行こうと。 ――でも、結局、私は行動できなかった。 だって、彼はまだ見付かっていない。死んでしまったと、決まったワケじゃない。 早とちりで、ロミオとジュリエットになるのは馬鹿げている。 しかし……彼が見付かるのを、ただ待ち続けることも、できなかった。 じっとしていると悪い妄想ばかりがココロを占めて、気が狂いそうになる。 何かをしなければ……。そんな強迫観念が、更に私を苦しめた。 そこで考えたのが、彼の部屋で、ドレスを着ることだった。 彼の部屋で、彼の代わりに、彼の写真に見てもらおうと思ったのだ。 汚れたプリンセスと、写真のナイト。 惨めで、貧乏ったらしくて、お似合いのカップルだと思わない? 部屋のカーテンを閉ざし、薄暗い部屋の中で、私は着替え始める。 それが、虚しさ募らせる私に許された、せめてものココロの慰め。 惜しげもなく、あしらわれたフリル。 ふんだんに、と言って、しつこさを感じさせないリボンの群。 品格と美しさを併せ持った、クラウン。 独りで着るのは、意外に大変で、鏡を前に悪戦苦闘していた。 ドタバタうるさかったからだろう。のりさんが、手助けに来てくれた。 ドレスのスケッチを眺めながら、あれこれ試行錯誤していると、矢庭に、外が騒がしくなった。 なんだろうと、二人して首を傾げていた所に、インターホンが鳴る。 「まさか!?」 私と、のりさん。二人の声が見事に重なる。 のりさんは弾かれたように走り出して、あちこちの壁にぶつかりながら玄関に向かった。 でも、私は着替え中だから、人前に出られない。 ヤキモキしながら、階下から届く、くぐもった話し声に聞き耳を立てるしかなかった。 そして―― 階段を駆け昇ってくる、軽快な足音。あれは、気が急いている時の足音。 私には、すぐに分かった。だって、一ヶ月以上も聞き続けてきたんだもの。 涙に曇る視界の向こう……ドアの前に立つ彼の姿を目にして、私の喉から絞り出されたのは、 「どうして?」 ――とだけ。 それは、ありとあらゆる『どうして?』の集約。 どうして無茶なんかしたの? どうして、無事ならすぐに連絡くれなかったの? どうして――――戻ってきてくれたの? 今こそ聞きたかった。映画館で聞くのを躊躇った、ジュンの答えを。 「言ったろ。大丈夫だ……って。由奈との約束は、どんなことでも、必ず守るよ。 これからだって、きっと守っていく」 臆面もなく、彼が言う。 だから、私も照れや恥じらいをかなぐり捨てて、伝えた。 「こんな、見窄らしく薄汚れたプリンセスだけど、良いの?」 「それを言ったら、僕だって傷だらけのナイトさ」 ジュンは、包帯の巻かれた腕を上げ、イテテ……と涙を浮かべながら笑った。 後で聞いた話だけれど、ジュンは河口の岸辺に流れ着いて、病院に収容されてたんだって。 まるまる二日、意識不明で、身元を確認する物を持ってなかったから、 歯形を元に、歯科医の治療履歴から身元を照合したそうよ。 それで、生存確認の連絡が遅れたんだって。気を揉ませてくれるわ、ホントに。 部屋に踏み込もうとして蹌踉めいた彼を、私は駆け寄って、しっかりと両腕で支えた。 高校の、学年集会の時は背けてしまった顔を、今は、真っ直ぐ彼に向けて。 「本当に、私で……良いの? 巴じゃなく?」 「くどいな。なんで柏葉が出て来るんだ。 僕は、由奈のために、そのドレスをデザインした。他の、誰のためでもない」 「私の……ために」 「それに、マイナスとマイナスは、かけ算すればプラスになるだろ。 だったら僕らは、まさにベストカップルじゃないか」 どうしようもない、中学生じみた冗談を言って屈託なく笑う彼に、私は抱きついていた。 こんな、平凡すぎる生活も、満更じゃない。 いい加減、肩肘はって生きるのにも疲れてたし…… やっと、堕ちてゆく私を受け止めてくれるヒトの胸に、安らげる場所を見付けたんだもの。 私の涙は、少し薬品くさい彼の服に、音もなく吸い込まれていく。 もしかしたら、それは狂った歯車がこすれて、磨耗したカケラだったのかも知れない。 キラキラと落ちてゆく涙を見つめながら、彼の温もりを感じているだけで、 不自然な回転が生み出していた不協和音は、徐々に、素直な旋律へと変わっていった。 ジュンの手が、私の露わになった背を――素肌を――愛おしげに、撫でる。 その優しい指の感触は、得も言われぬ幸福感を、私に与えてくれた。 夢みるような心地に、私を導いてくれた。 「さあ。僕が手伝って、ちゃんと着せてあげるから、離れて」 「……うん。でも…………もうちょっとだけ――」 のりさんが遅ればせながら顔を見せたけれど、キニシナイ。 私は…… この世で最も大切な人と、1秒でも長く、唇を重ねる。 今や、彼がくれる新たな息吹こそが、私の人生時計のクォーツを振動させる源なのだから。 貴方だけのプリンセス。 ユメみていた日が、こんなにも早く訪れるなんて、夢にも思っていなかった。 幸せすぎて怖くなるなんて、初めての経験だった。 だから、震えを止めて欲しくて、ジュンに囁く。きつく抱き締めて……と。 泥だらけのドレスを来たお姫様と、包帯だらけの勇敢な騎士。 ふたり並んで、のりさんに撮ってもらった写真は…… アルバムの、一番初めのページで――幸せそうに、はにかんでいる。 「すっごくいい顔してるわ」 高校を卒業して以来、初めて顔を合わせた親友は、満面の笑みで、そう言ってくれた。 昼休みの時間帯、オフィス街の喫茶店で、再会を果たした時のことだ。 窓辺のテーブルと言うこともあり、初夏の眩しい日射しが、巴の笑顔を輝かせていた。 巴は本当に、ココロから、彼が立ち直ってくれたことを喜んでいる。 そして、私たちが幸せになったことを、誰よりも祝福してくれていた。 もしかしたら、私に彼を取られて、悲しんでしまうかとハラハラしてたけど―― 杞憂だったみたい。巴は、私なんかより大人で、強い人なのね。 彼に縋らなければ、もう生きていけそうもない私なんかより、ずっと強い。 「巴も、彼のことが好きなんでしょ」 二人だけという気兼ねのなさが、無思慮な言葉を誘う。 訊かずとも、答えは解っている。訊けば、巴を傷つけることも。 しかし、彼女が笑顔を崩すことはなかった。 「ええ、大好きよ。これからも、ずっと……大好きでいると思う」 「一途なのね。どうして、その想いを伝えなかったの?」 「それは…………私は、桜田くんに必要とされなかったから」 なんの冗談かと問い返すより先に、巴の深く澄んだ瞳が、私を制した。 「気付いてなかったの、由奈。彼が本当に必要としていたのは、貴女なのよ」 「……ウソ?」 「本当よ。その証拠に、彼は由奈と再会して、殻を破ることが出来たわ。 私が、どれだけ通い詰めて、励ましても、気持ちは届かなかったのにね」 言われてみれば、確かに、そうだった。 彼の元を訪れた回数ならば、巴の方が、間違いなく多い。 にも拘わらず、彼は私を選んでくれた。巴じゃなく、私を。 そして、私と一緒に居ることを、望んでくれた。 これ以上の喜びは、ちょっとやそっとで見付けられそうもない。 巴は「そういうコトなのよ」と呟いて、カップに残る冷めたコーヒーを飲み干した。 本当は辛いだろうに、相変わらず気丈な人ね。 そんな貴女だから、たくさんの人に好かれるんだろうけど。 「あ……わたし、そろそろ行かなきゃ」 巴は腕時計に目を落とし、伝票を摘んで席を立った。 そして、私に向けて、不器用なウインクをひとつ飛ばした。 「もし、由奈が桜田くんに飽きた時には、連絡して。いつでも引き取りに行くから」 「巴に新しい恋人ができる方が、先じゃないかしら?」 「……そうかも」 「そうよ。間違いないわ」 私は自信たっぷりに、そう伝えた。 他人の幸せを、ココロから喜ぶことができる巴だもの。きっと、素敵な人に巡り会える。 そうじゃなきゃ、天にまします誰かさんは、とんでもなく底意地が悪い。 「また――会おうね」去りゆく巴の背に、再会の約束を投じる。 振り向くことなく「ええ、また今度」と答えた彼女の声は、一点の曇りもなく澄み切っていた。 それから数分と経たず、彼が喫茶店に入ってきた。 きょろきょろして、小さく手を振る私を見付けると、足早に近付いてくる。 私の腕時計は、13:00を表示している。 「驚いたわ。ホントに、約束の時間ぴったりね」 「だから言ったろ。由奈との約束は、きっと守るって」 どうだと言わんばかりに胸を張るけれど、息切れまでは隠せない。 なんだか、こっちが気の毒になってしまう。 でも……なにげない彼の気遣いが、とても嬉しい。 「もうちょっと早く着いてたら、巴に会えたのに」 「そうだったのか。柏葉、元気だった?」 「ええ、とっても。貴方を奪い取るって、息巻いてたわ」 「ヒドイ冗談だな」 肩を竦めて、彼が、さっきまで巴が座っていた席に座る。 それを不快だとは思わなかった。だって、ほら……彼の瞳は、いつでも私を見てくれる。 私が集めていたのは、貴金属に似た卑金属や、色ガラスばかりだと思っていた。 でも、たくさんの紛い物の中には、数える程度だけれど、本物も混じっていたのよね。 私はテーブルの上に両手を伸ばし、ちょん……と、彼の指先をつつく。 手を握って欲しい。それが、二人だけの合図。 彼の手が、まるで壊れ物を扱うかのように、私の手を柔らかく包み込んでくれた。 「考えてみたら、まだ一度も言ってなかった気がするわ」 「なにを?」 「貴方が好きです。愛…………してます」 偽りない気持ち。 こんなにも素直な想いを、こんなにも素直に伝えられる。 ああ、なんて気分がいいんだろう。 私に生まれ変わるキッカケをくれたのは、貴方。 貴方と出会えなかったら、私はまだ、萎れた花みたいに下ばかり向いていたハズだ。 だから、今は……天にまします誰かさんの気まぐれに、感謝しておこう。 「私、いま……すごく幸せ」 「もっともっと、幸せにするよ。約束だ」 「信じてる――」 だって、貴方は今まで一度も、私との約束を破ったことがないもの。 だから……きっと。 幸せになろう。 本当は、高校一年生の時から結ばれていた、この人と。 窓越しに見上げた、昼下がりの夏空は―― ――雲ひとつない蒼穹なのに、雨模様だった。 ~fin~
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―如月の頃 その4― 【2月19日 雨水】 入院騒動があってから、早、半月が過ぎようとしていた。 結局、検査入院では何も異常が見られず、翌日の日曜日には退院できたのだ。 そして、月曜日からは通常どおり、バイトに勤しむ日々が訪れていた。 今日は日曜日だけれど、早起きをして通院し、経過を診てもらった。 問診だけで、もう精密検査などは行わない。お陰で、用件は直ぐに済んだ。 もう心配ないだろうと、医師の太鼓判(或いは、お墨付き)を頂けたので、 翠星石の気分は、頗る良かった。 取り敢えず、家に帰って祖父母に診察の結果を知らせてこよう。 それから、蒼星石にメールを送って―― そんなコトを考えながら、独り歩いていると、やや前方に見知った姿を認めた。 声を掛けようとして、思い留まる。相手はまだ、こっちに気付いていない。 翠星石は足音を忍ばせつつ、小走りに近付いて、バシン! と肩を叩いた。 相手は、翠星石の思惑どおりに、びくぅっ! と身体を震わせた。 人を驚かすという行為は、意外に楽しいものなのだ。 ビックリさせられた当人は、振り返って相手の正体を知るなり、頬を膨らませた。 「なにするのぉ? 翠ちゃんってば、ヒドイのーっ」 「軽いスキンシップですぅ。そんなに怒るなです」 まったく悪びれた様子も見せずに応じる翠星石に、雛苺は「もぉ」と呆れると、 翠星石をその場に残し、踵を返して歩き始めた。 その背中を、翠星石が慌てて追いかけ、並んで歩き始める。 「あぁん、待つですぅ。ごめんなさいです。私が悪かったですぅ」 「……ちっとも誠意が感じられないの」 「それなら、いちご大福24個入りを、どーんと一箱プレゼント! という線で手を打つのは、どうですぅ?」 「う……ヒ、ヒナは食べ物に釣られるほど、いやしんぼさんじゃ……ないのよ?」 と言って、雛苺は拗ねたようにそっぽを向いたが、頬の弛みや輝く瞳から、 満更でもないのだと察しが付いた。 けれど、ここで無理に勧めても、却って頑なに拒否されるだけだろう。 意外に、雛苺も強情なところがあるのだ。 翠星石は慎重に言葉を選びながら、話を続けた。 「私が、たまには食べたいかなぁ~と、思っただけです。 これから買って帰って、一緒にお茶でも飲まねぇか? ですぅ」 「でも、今の時間からお茶したら、お昼が食べられなくなるのー」 至極もっともな意見を返され、翠星石は言葉に詰まった。 確かに、腕時計の時刻は、午前11時を回っている。 今から飲み食いするとなると、昼食代わりになってしまう。 「……間が悪かったですね。一緒にお茶するのは、また今度にするですぅ」 「また今度――なんて言わずに、おやつの時間にお茶すれば良いのよ?」 「おお、なるほど! その通りですぅ。 おバカ苺にしては、やたらと冴えてやがるですね~」 「ねえ、翠ちゃん。それよりも、これからヒナに付き合わない?」 翠星石の淡い毒舌を聞き流して、雛苺は「用事があるならいいのよ」と、 断りを入れて彼女を誘った。 元より、翠星石に異存はない。診察結果は祖父母に電話して報せればいいし、 蒼星石へのメールは、夜に一括送信すれば良いのだから。 「しゃーねぇから、付き合ってやるです。どこに行く気です?」 「教えてあげないの。秘密なのよー」 言って、雛苺は歩く速度を、気持ち早めた。 雛苺に連れられてやって来たのは、市立図書館だった。 小綺麗な建物の日陰に、先週末に降った雪が、まだ消えずに残っていた。 すっかり泥汚れして、雪と言うより、氷の塊と化している。 雛苺が、それを目に留めて感嘆の声を上げた。 「凄ぉいの~。降ってから一週間も経ってるのに、まだ残ってるのよ」 「この寒さですからねぇ。雨でも降らない限り、なかなか消えねぇです」 答えながら、翠星石は今朝、台所で見た日捲りカレンダーを思い出した。 「そう言えば、今日は雨水ですぅ」 「うすい……って、なぁに?」 「二十四節気のひとつです。氷が溶けて水になり、雪が雨に変わって、 植物が芽吹く頃とされてるですぅ」 「へえぇ。あ、見てみて。あの木、花が咲いてるの。桜……なの?」 「……おバカ苺。あれは梅ですぅ」 梅はバラ科の植物で、早春に白や紅い花を付ける。二月の誕生花でもあり、 花言葉は『高潔』『潔白』『忠実』『貞操』だった。 今夜のメールには、家の庭にある梅の花をデジカメで撮って、添付しようか。 なかなか、いい思い付きかも知れない。 「もぉ! バカって言わないでなのー。ちょっと勘違いしただけなのっ!」 「はいはい……。それより、ほれ。早く用事とやらを済ますです」 「あ、そうなの。翠ちゃんにも、本を探すの手伝って欲しいのよ」 「本探しですか? その位なら、お安い御用ですぅ~」 図書館に備え付けのパソコンで検索して、データを紙に書き取り、書架に向かう。 パソコンが普及してからと言うもの、本探しも随分と楽になった。 翠星石は雛苺に頼まれた分の書籍を集めると、窓際の席に陣取った彼女に渡した。 大学の講義に関連のある専門書から、彼女の趣味と思われる本まで、多種多様だ。 まあ、最も多かったのは、マンガの単行本だけれど。 熱心に読書を始めた雛苺の様子を見て、暫く帰れそうにないと判断した翠星石は、 自分の趣味に合った本を探しに、書架へと引き返した。 「たまには……娯楽系の小説を読んでみるのも、いいかも知れねぇです」 図書館の利点は、文学全集など、個人では揃えにくい書物が保管されているコトだ。 しかし、枕草子などの古文調となると、気軽には読めない。 最悪、2、3ページ読み進んだところで、夢の世界に旅立つこととなる。 どのジャンルが良いかと悩んでいた翠星石の目の前に、SF作品の書架が現れた。 なんという、運命的な出会い! 翠星石は幼い少女のように緋翠の瞳を輝かせて、期待に胸を躍らせた。 「これです! やっぱり、適度な緊張感を求めるならSF文学ですぅ」 そして、翠星石が『植物』という単語に反応して、手に取ったのが…… 『怪奇植物トリフィドの侵略』 ジョン=ウインダム著 という本だった。 旧ソ連が開発したバイオ生物『トリフィド』が、全地球に繁殖していき、 地球の脇を通り過ぎた流星を眺めて失明してしまった人々を襲い始める―― という内容である。 コワイ話は苦手だけれど、興味を惹かれてしまう。 パラパラと読み始めると、翠星石はすぐに、物語の世界に引き込まれていった。 世界中の人々が、流星の光で網膜を焼かれて失明する衝撃。 目の見えなくなった人々を襲う、自立歩行型の植物『トリフィド』の不気味さ。 辛くも失明を免れた主人公たちが、トリフィドと戦うために織りなす人間ドラマ。 翠星石は壁際に置かれた椅子に腰掛け、夢中で読み耽っていた。 お昼になり、雛苺が迎えに来たのも気付かないくらいに。 「そんなに面白いなら、借りていけばいいのよー」 「そうするです。続きwktkで眠れねぇですぅ」 カウンターで貸し出しの手続きを済ませて、翠星石と雛苺は、図書館を出た。 二月も半ばを過ぎたが、まだ風が冷たい。 けれど、いつか氷は溶けて、流されていく。 季節が移ろい、人の心もまた、変わってゆく。 蒼星石への想いは……変わらずに、いられるだろうか? ふと、心に暗い影が落ちる。それは、運命という名の、気紛れで残酷な天使。 あるいは、試練を与えるだけで、答えは絶対に見せない意地悪な小悪魔か。 不吉な影を追い払うように首を振って、翠星石は、隣を歩く雛苺に話しかけた。 「お昼を食べ終わったら、梅の花でも見に行かねぇですか? 公園には、ちょっとした梅林があるです。きっと、いまが見頃ですぅ」 公園の梅林は、双子の姉妹と亡き両親の、思い出の場所。 翠星石と蒼星石は毎年、追悼の意味も込めて、この時期に訪れていた。 けれど、今年は……蒼星石が居ない。 ずっと続けてきた、二人だけの年中行事だったのに。 硬く結ばれた絆だと思っていたのは、氷の彫像だったのだろうか。 やがては溶けて流れて、消えてしまうような、儚い関係だったのだろうか。 (それでも……止めるワケにはいかねぇのです) 止めてしまったら、本当に、何もかもが終わってしまう。 独りでも、続けなければならない。でも、独りだと泣いてしまいそう。 だからこそ、雛苺には付いてきて欲しかった。 「もしかして、ダメ……です?」 なかなか返事をしない雛苺に、翠星石は、おずおずと問い掛ける。 雛苺は、不安げな翠星石に、満面の笑みで応じた。 「ヒナで良ければ、幾らでも付き合ってあげるのよ」 そう言った後に「でも、うにゅーの約束は守ってもらうのっ」と釘を差してきた。 ちゃっかりしている。 翠星石は苦笑いながらも、頚を縦に振った。 「モチロンです。たまには、梅を見ながら、いちご大福を食べるのも乙なもんです」 「決まりなの! じゃあ、また後でね」 「解ったです。二時くらいに、迎えに行くですよ」 自宅へと駆けていく雛苺を見送って、翠星石も帰り道を急いだ。 いちご大福を買う時間も必要だ。早く昼食を摂って、準備をしないと。 折角だし、デジカメで公園の梅林を撮影して、蒼星石にメールで送ろう。 二人で訪れることが出来ないなら、せめて、こんな形ででも一緒に花を眺めたかった。 今日は雨水。 氷が水に変わるなら、凝り固まった悲しみは溶かして、過去へと流してしまおう。 雪が雨に変わるなら、雨降って地固まるの諺どおりにしてしまおう。 為せば成る。どんなコトも、きっと―― その夜、翠星石は今日の出来事を日記風にまとめて、蒼星石にメールを飛ばした。 公園の梅園と、家の庭に植えてある梅の写真と―― 自分で書いたトリフィドの挿し絵を添付して。 その日の夢は、トリフィドに追いかけ回される悪夢だった。 トイレに行きたいのを我慢して、膀胱炎になりかけたのは、彼女だけの秘密である。
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~第十九章~ 四方を囲む炎が勢いを増す中、薔薇水晶の小太刀と、のりの短刀が火花を散らす。 矢継ぎ早に繰り出される斬撃を、のりは一振りの短刀だけで易々と捌いていた。 薔薇水晶の剣撃だって、決して軽くはない。 それを片腕だけで受けきるのだから、のりの膂力は常人のそれを遙かに凌駕していた。 ともかく、早くここから脱出しなければ、本当に蒸し焼きになってしまう。 水銀燈は得物の長さを利用して、隣室に続く襖を叩き斬った。 幸いなことに、炎は隣室にまで達していない。 「金糸雀! 翠ちゃん! 真紅を、隣の部屋へ連れていきなさいっ」 みっちゃんの死を聞かされて愕然とする金糸雀を叱責しながら、翠星石が、真紅を抱える。 退避する三人を援護するため、水銀燈は薔薇水晶と共に、のりに斬りかかった。 だが、元より必中は狙っていない。 水銀燈は、切り込んだ勢いのまま、のりの背後に回って神剣を回収した。 「狭い室内では、こっちの方が扱いやすいのよねぇ」 「あらあら。最初から、そっちがお目当てだったの?」 「蒼ちゃん! 悪いけど、これ持って真紅たちを援護しに行って」 水銀燈が放り投げた太刀と神剣の鞘を空中で掴むと、蒼星石は「解った」と頷き、 真紅たちを追いかけた。意外に火の回りが早く、室内に煙が充満し始めている。 袖で口元を覆うが、焦げ臭さが鼻を突き、思わず咳き込んだ。 「銀ちゃん! 私たちも、そろそろ――」 「逃げないと拙いわねぇ、これは」 煙に視界を遮られて、隣室の方角どころか、互いの位置さえ把握できない。 水銀燈は床に着くぐらい姿勢を低くして、煙の下から方角を確かめようとした。 が、顔を巡らした途端、大蛇の頭とばったり対面してしまった。 大蛇は口を大きく開いて、水銀燈の頭を呑み込もうと、飛びかかってきた。 「うひゃあっ! な、なんなのよぉ!」 咄嗟に避けて剣を振るったが、大蛇は素早い動きで、煙の中に姿を隠した。 けれど、気配で判る。煙の中から、眈々と狙いを定めている……。 こっちが煙に巻かれて動けなくなるのを待っているのだろう。 「きゃぁっ! ぎ、銀ちゃんっ!」 「ど、どうしたのっ?!」 悲鳴の後に、どさっ……と倒れる音が続く。 水銀燈は床に這い蹲って、声のした方に目を向けた。 すると、大蛇に巻き付かれ、身体を締め上げられている薔薇水晶を見つけた。 「……銀……ちゃ…………助け……」 「いま行くわ! もう少し、頑張るのよ!」 形振りなど構っていられない。水銀燈は肘を着いて、匍匐前進で近づいていく。 その時、彼女の右真横から、もう一匹の大蛇が飛びかかってきた。 咄嗟に右腕を翳して、頭を庇う。 彼女の腕に、大蛇はバックリと食らいついた。 「うふふふ。一匹だけと思って、油断したわね」 煙の中から、のりの声だけが聞こえてくる。 位置を特定しようにも、煙が目に染みて、長く見回していられない。 やおら、大蛇は水銀燈の右腕に噛み付いたまま、鎌首を擡げた。 水銀燈の身体が、ふわりと宙に舞う。いや、振り上げられたと言う方が正しい。 煙の中を、訳も分からず振り回されて、思いっきり床に叩きつけられた。 「くぁっ! 痛っぅ……」 凄まじい衝撃で、失神しそうになった。 だが、水銀燈が気を失うより早く、大蛇は再び彼女を振り回して、叩きつける。 獲物を呑み込む前に、骨を砕いて柔らかくしようと言うのか。 激痛のあまり、思わず神剣を取り落としそうになる。 「こ……のぉ」 三度、空中で振り回されながら、水銀燈は神剣を左手に持ち替え、握り締めた。 こんな爬虫類ごときに、いつまでも好き勝手に弄ばれているのは面白くない。 水銀燈は神剣を構え、煙に滲みる眼を瞬かせながら、大蛇の瞳に狙いを定めた。 ――目玉を貫き、脳を穿ってやる! だが、やはり大蛇の方が、一瞬だけ早かった。 水銀燈が神剣を突き出す直前、大蛇は大きく頭を振って、 彼女を強烈に叩きつけていた。右肩の関節が外れた感じがした。 頭を強かに打って、彼方に飛びかけた意識を、右肩の脱臼による痛みが喚び醒ます。 冗談じゃない。これでは正真正銘『蛇の生殺し』だ。 あまりの苦痛に呻くことしか出来ない水銀燈を、大蛇は燃えさかる炎の方へ引きずっていく。 気を失いかけていた彼女は、抗うことも出来ずに、引きずられていった。 一方、屋外へ脱出した蒼星石たちも、穢れの者どもの攻撃を受けていた。 しかも、今までのような、ただ闇雲に斬りかかってくる攻撃ではない。 充分な間合いを取りつつ包囲して、じっくりと相手の消耗を待つ攻め方だった。 右手に太刀、左手に神剣の鞘を握り、射かけられた矢を払い落としながら、 蒼星石は歯噛みした。防御に専念するばかりで、反撃に出る余裕がない。 立て掛けた戸板の陰では、金糸雀が、苦しそうに喘ぐ真紅の治療に専念している。 この状況で、勝手に持ち場を離れる訳にはいかなかった。 「嫌らしい戦法を使ってくるね、ホントに」 「こいつら、真紅の消耗を見計らってやがるです」 「……真紅の容態は、どうなのさ?」 「これは、ただの毒じゃないかしら! 蠱毒に近いわ。薬が効かないの!」 「呪詛の類か……厄介だね。ボクたちの手には負えないよ」 「あ~もうっ! この非常時に、薔薇しぃと銀ちゃんは、何してるですか」 二人は、未だに燃え盛る家屋から出てこない。 早く脱出しなければ、梁が焼け落ちて、下敷きになってしまうのに―― 煙に巻かれて、出口を見つけられないのだろうか。 (まさか、二人とも……のりに斃された、なんてコトは?) 頭をよぎった不吉な考えを、蒼星石は即座に振り払った。 何を考えてるんだろう。縁起でもない。 馬鹿なことを考える暇があるなら、現状を打開する事に専念すべきだ。 「金糸雀! 真紅の容態は、ボクが診る。短筒で、弓足軽の数を減らして」 「わ、解ったわ。頼むかしら!」 金糸雀と入れ替わりに、蒼星石は真紅の脇に跪いた。 真紅の額に浮かんだ脂汗が、玉となって流れ落ちる。 代わって容態を見ると言ったは良いが、何をどうしたものだろう? 蒼星石は途方に暮れて、真紅の汗を拭うことしか出来なかった。 「どうしたら……蠱毒が解けるの?」 呪詛に対しては、二つの方法が有る。 ひとつは呪術者を斃すこと。もうひとつは、より強力な術で跳ね返すことだ。 しかし、当然の事ながら、呪術者はひっそりと隠れていて発見し難い。 周囲を見回しても、呪術者らしき人影は見えなかった。 二つ目の方法を採ろうにも、それが出来そうなのは、真紅以外に居ないのだ。 「せめて、護符とか、何かの加護があれば――」 完治は無理にせよ、症状を軽減させることくらい出来よう。 蒼星石は藁にも縋る想いで、真紅の両手に、神剣の鞘を握らせた。 たかが鞘だけれど、神剣と対を成す物には変わりない。 少しでも蠱毒の進行を遅らせる事が出来るなら、儲け物だ。 「あーもうっ! 埒が開かねぇですぅ! 蒼星石っ! 私、銀ちゃんたちを連れ出して来るです」 「ダメだよ! もうすぐ焼け落ちるかも知れない。飛び込むのは危険だ」 「けど、このままじゃ……」 「カナも、翠星石の意見に賛成かしら」 金糸雀は廃莢と再装填をしながら、二人の会話に割り込んだ。 「崩れそうだからと尻込みして、二人が下敷きになってから悔やんでも遅いかしら。 カナが弾を撃ち尽くしてしまう前に、早く行って来て」 「それなら、ボクが行く。姉さんは、ここに残っているんだ」 「何を言うです、蒼星石! 守りの要が抜けたらダメですっ」 「けど、怪我人の姉さんが行っても、却って足手まといになるよ。 状況的に見ても、ボクが行くのが一番なんだ」 「やめるです! 危ねぇですぅ!」 「その危ないところに、自分は行くつもりだったクセに!」 蒼星石が詰るような視線を向けると、翠星石は言葉に窮して緋翠の目を伏せた。 それを指摘されると、返す言葉がない。 「約束したよね? もう、無茶な真似はしない……って」 「……はい。したですぅ」 「なら、そういうコトだよ。姉さんは此処で、真紅と金糸雀を護ってあげて」 「あっ! ちょっと待つです!」 言い終えて走り出そうとした蒼星石の背に、姉の心配そうな声が投げかけられた。 肩越しに振り返り「なに?」と訊ねた妹に向けて、翠星石は、たった一言だけ呟いた。 「必ず、無事に帰ってくるですよ」 それは出来ない約束だ。切迫した事態では、結果がどう転ぶか解らない。 下手をすれば、これが永遠の別れになるとも限らなかった。 けれど、蒼星石は―― 「約束するよ、姉さん。きっと無事に戻ってくるから」 柔らかい微笑みを翠星石に送って、燃え盛る家に向かって走り出した。 掛け替えのない同志……水銀燈と薔薇水晶を救出するために。 朦朧とした意識の中で―― 水銀燈は、優しい声を聞いた気がした。 それは、聞き覚えのない、女性の声。でも、不思議と懐かしさを感じた。 誰だろう? 息を殺し、じいっ……と耳をそばだてる。 ――水銀燈。しっかりと、気を保つのです。 今度は、ハッキリと聞き取れた。 しかも、瞼を閉じている筈なのに、目の前には巫女装束の女性が見えていた。 滑らかで、真っ直ぐな金髪を、風に遊ばせている。 (だぁれ? ……真紅ぅ?) 心の中で呟いたものの、その一方で、別人だと気付いていた。 背格好や面差しは、非常によく似ている。 けれど、身に纏った雰囲気が、全くの別物だったからだ。 こちらの女性の方が、真紅と比べて、ずっと大人びている。特に、胸とか……。 (ひょっとしてぇ、貴女は……房姫?) 問い掛けると、女性は嬉しそうに目を細めて、水銀燈に手を差し伸べた。 転んだ幼子を抱き起こそうとする母親のような、温かい雰囲気。 水銀燈は、差し出された手に、おずおずと腕を伸ばした。 (…………熱っ!) 指と指が触れ合った瞬間、水銀燈は灼熱を感じて、腕を引っ込めた。 気付いた時、水銀燈の右腕は大蛇に銜えられ、炎に炙られ始めたところだった。 水銀燈は迷わず、左手に握り締めていた神剣を振り抜き、大蛇の頚を絶ち斬った。 「ぎゃああぁっ!」 のりの絶叫と同時に、どおん! と壁をブチ抜く音が、部屋中に鳴り響いた。 右腕の自由を取り戻した水銀燈は、脱臼による痛みを堪えながら、周囲を見た。 突然に開かれた換気口によって、充満していた煙が急激に薄れていく。 (薔薇しぃは……どうなっちゃったのぉ) あの娘も大蛇に巻き付かれて、締め上げられていたけれど、無事だろうか。 頭を巡らすと、袖で口元を覆った薔薇水晶が、小走りに近づいてくるのが見えた。 「銀ちゃん、大丈夫? しっかりしてっ!」 「……私は、しっかりしてるわよぉ。貴女の方こそ、平気なの?」 「圧鎧に護られてたから。とにかく……脱出が先」 薔薇水晶は水銀燈の身体を抱え起こして、左腕の下に、自分の肩を割り込ませた。 パッと見て、水銀燈が右肩を脱臼していると見抜いたのだろう。 ささやかな心遣いを、水銀燈は嬉しく思った。 炎を潜り抜け、壁に穿たれた穴から二人が飛び出した直後、屋根が焼け落ちた。 正に、間一髪。 あと僅か、脱出が遅れていたら、生きながら荼毘に付されるところだった。 けれど、安堵したのも、ここまで。眼前には、のりの姿があった。 どす黒い体液が流れ出す左腕を押さえて、憎々しげに水銀燈を睨めつけている。 見れば、のりの左腕は、肘から先が失われていた。 二匹の大蛇とは、もしかして彼女の両腕だったのだろうか? 「よくも、やってくれたわね! もう容赦しないわよぅ」 のりの気迫が、周囲の空気をビリビリと震わせた。 宣告どおり、次は一気にケリを付けるつもりなのだろう。 薔薇水晶は水銀燈の手から神剣をもぎ取って、正眼に構えた。 だが、剣の切っ先は小刻みに震えている。 一見すると無傷だが、彼女もまた、身体中に後遺症を残していたのだ。 のりの口元が、嫌らしく歪んだ。 勝利を確信した笑みと、弱者に対する侮蔑が込められた嘲笑。 それらが綯い交ぜになった、見る者に不快感を与える嗤いだった。 のりは、二人に向かって猛然と突進してきた。 「あはははっ! ふたり仲良く、あの世に送ってあげるわ」 「そうは、させないよっ!」 「なにっ!?」 いきなり脇から斬り付けられて、のりは弾かれたように飛び退いた。 のりの左肩から、墨汁を思わせる、どす黒い血が噴き出す。 咄嗟の判断で退いたまでは良かったが、蒼星石の鋭い剣撃は躱し切れなかったらしい。 のりにしてみれば、面白くない展開だろう。 圧倒的な優勢が、たった一人の参戦で、一転して不利になったのだから。 彼女は左肩の裂傷を押さえながら、殺意の籠もった瞳を、蒼星石に向けていた。 しかし、そう言った視線に晒され慣れている蒼星石は、微塵も動じない。 愛剣『月華豹神』を構え、冷徹な光を緋翠の瞳に宿して、のりを見詰めていた。 「今日こそ、決着をつけさせてもらうよ。 キミに殺された、多くの人々の無念を晴らす為にも、ね」 蒼星石の踏み込みは、凄まじく速かった。一言で表せば、疾風迅雷。 余りの速さに、のりは躱す事すら忘れて、棒立ちするばかり。 のりが両断される場面を、誰もが脳裏に思い描いていた。 ――が、両者の間に紅い旋風が割り込み、蒼星石の斬撃を食い止めた。 「なっ! これは――」 「まさかっ! め……めぐっ!」 風が止み、緋色の甲冑を纏った黒髪の娘が、立ちふさがる。 「そこまでよ。のりさんを斬らせるわけには、いかない」 「めぐ! 助かったわ」 「のりさんは、ひとまず退いて。ここは私が引き受けるわ」 蒼星石と鍔迫り合いを演じながら、めぐはのりに話しかけた。 のりは「ゴメンね」と言い残し、夜闇の中へ消えた。 「さて……三人まとめて、さっさと始末しようかしらね」 「キミに出来るのかい?」 「ま……待って! やめなさい、二人とも!」 水銀燈の制止も虚しく、めぐと蒼星石の剣が、ぶつかり合い、火花を散らす。 二人の間に割って入ろうとする水銀燈を、薔薇水晶は渾身の力で、抑え付けた。 =第二十章につづく=
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好きになれない―― タオルで撫でるように濡れ髪を拭きながら、彼女は憂い顔で言った。 「だって、この湿気で、髪もお洋服も重たくなってしまうんですもの。 泥水が跳ねたりして汚れるし……毎年、この時期になると憂鬱で」 そりゃあ、足元まである長いウェービーヘアならば、当たり前だろう。 どんなに広い傘をさしたって、吹きつける雨を完全には遮れやしない。 あれだけ髪のボリュームがあると、アップにするのも限界があるだろうし。 「うーん。それって、ラーメンの縮れ麺にスープが絡みやすいのと同じ原理だよねー」 にこやかに切り返したら、きらきーちゃんに顰めっ面された。 「どういう発想ですの、それ?」 「やーまぁ、なんて言うか。きらきーちゃん、美味しそうだなぁって」 「それはそれは。お褒めいただき恐悦至極ですわね」 きらきーちゃんはニッコリ笑ってタオルを投げ捨てるや、むにに、と私の頬を摘んだ。 「――なんて言うワケないでしょう。 もう梅雨ですものね。貴女の脳にも、カビが生えてるのではなくて?」 うわぁー言う言う。しかし、このアッサリ毒味の軽口は、なかなか癖になる。 不肖このマゾッ子みっちゃんの脊髄に、ゾクゾク電気が流れたわよ。痺れちゃったわよ! 「ハァハァ……いいわ…………もっと罵って」 「ちょっと。呼吸が乱れてますけど、平気ですの? 救急車を呼びましょうか?」 「あ、心配しないで。いつもの発作だから、平気へっちゃら屁のカッパ」 「いえ、発作なら尚のこと――」 「キニシナイ、キニシナイ。ひと休み、ひと休み」 私は一休さん気取りで笑いながら、手をひらひらさせた。窓の外の雨模様に目を向ける。 「で、唐突に話は変わるんだけど。私は割と好きよー、雨」 「マイナスイオンで癒される気分になるから?」 「それもあるけど、なんて言うのかな……アニミズム的な、そんな感じなんだけど」 「……はあ」 よく分からない。きらきーちゃんの顔には、そう書いてある。 だから、私は言葉を並べるよりも唇に指を当てて、彼女に静粛を促した。 「聞こえるでしょ」 きらきーちゃんは、「なにが?」とは訊かなかった。 なぜなら、スタジオ内に響いている音は、雨だれしかなかったから。 窓や屋根を軽やかに打つ水滴の音は、クラリネット。 ごうごうと樋を落ちる水流の呻りは、ティンパニ。 走り抜ける車のタイヤに割られた水面の叫びは、コントラバス。 それらが演じるフーガに、しばし、私たちは耳を傾けていた。 「――ね?」 「と、水を向けられましても、どう答えていいものやら」 「雨が織りなす妙なる調べも、なかなか乙でしょ……ってコトよ」 「まあ…………悪くはない……かも知れませんわね」 「なーに、その回りくどい言い方は。テンション低いなぁー」 「草笛さんが無駄にテンション高すぎるだけでしょう」 溜息を吐く、きらきーちゃん。 湿った服を着続けていることで、すっかり鬱モードになっているらしい。 まあ、分からなくもないけど。靴がグジュグジュに濡れるのは気持ち悪いし。 生乾きの服を替えられないのは、ある意味、拷問だものね。 どういうワケか、自分の体臭にまで過敏になって、気力もゲロ萎えだったり。 とまあ、共感ばかりしてても始まらない。 被写体の気持ちと表情が曇りっぱなしじゃあ、こっちとしても困る。 カメラマンとして、ムードメイキングは必須のスキルだよねー。 「♪ Raindrops keep fallin’on my head ♪」 徐に私が口ずさむと、きらきーちゃんは『おや?』という風に小首を傾げた。 「その曲、よくラジオなんかで耳にしますね。有名な歌なんですか?」 「この歌? 『雨にぬれても』ってタイトルよ。 有名なのは『雨に唱えば』なんだけどー、私は『ぬれても』の方が好きなのよね」 「雨に、ぬれても……」 「スローテンポで、だけど軽妙なテンポで、あんまり雨の歌って感じじゃないでしょ」 「ですね。なんだか気持ちがウキウキしてきます」 「うんうん。雨の日だってね、気の持ちようで愉しくもなるってコトよ」 そう。結局は、そうなのだ。人生ポジティブにいかなきゃね! 嫌なことさえ楽しみに変えてしまう。それが自在にできるなら、最高に幸せだ。 「気の持ちよう……」 きらきーちゃんは雨に煙る景色を眺めながら、なにやら考えている。 そして、決心したように、ひとつ頷いた。 「草笛さん。今日のグラビア撮影ですけど……屋外でしませんか?」 ちょっとは、好きになれるかもしれない―― 濡れ髪を指で梳きながら、彼女は歌うように言って、照れ笑った。 私としても、ライトよりは自然光の下で撮りたかったから、二つ返事で承諾した。 撮影は大成功。きらきーちゃんはズブ濡れだったけど、素晴らしいカットが何枚も撮れた。 濡れた白い肌に、ブラウスやスカートがピッチピチに張りついて…… 透けブラとか、ショーツのラインとか……おっと、不覚にも鼻血が。 ……失礼。とにもかくにも、実に艶めかしく、扇情的だった。 てなワケで! ネット通販しちゃいます。 薔薇乙女写真集 第3弾 『雪華りん★エヴォリューション』 今回はなんと、ばば~んと限定1000部! きらきーちゃん直筆サイン付き! A3版、全50Pフルカラー。税込み価格10万円ポッキリ! お求めの際にはワッフルワッフルとコメントしてくださいねー♪ 第1弾 『カナリアンナイト』 限定500部 完売 再販の予定なし 第2弾 『紅天女』 限定500部 完売 再販の予定なし そして予告。 薔薇乙女写真集 第4弾 『妖獣マメヒナ』 ロリィでキュートで、ちょっぴりエッチな魅力を余すことなく紹介しちゃいまーす。 (仕様は予告なく変更される可能性があります) 「ふふふ……感じる! 感じるわ! 大儲けの予感が、この脊髄にビンビンとっ! みっちゃん幸せ~」 「草笛さん。ちょっと」 「あら、きらきーちゃん。なーに?」 「1000部にサインしたら腱鞘炎になってしまいました。 立派な労災ですわよね、これって。 はい、治療費の明細です。それから、慰謝料も払ってくださいね」 「え? …………フギャー!? なにこの金額っ!」 「払ってくださいね」 「ちょ、ま、待ってよ」 「払 っ て く だ さ い ね ♪」 いや、そんな――にこぉ~、と無垢な笑顔で言われましても。 今回の売り上げの9割は持ってかれる計算なんだけど……。 ボッタクリ! ボッタクリよ、これ! マジ有り得ない! 誰っ? いま『おまえが言うな』って笑ったのは! ああ、でも無視することもできないし……。美味い話にゃ御用心ってワケね。 儲けどころか大赤字だわ、これ。 そのとき、私の心はドシャ降りだった。 バケツをひっくり返したように、とめどなく涙の雨が降りしきっていた。 溺れそうになりながら、私は震える声で歌う。クリスタルキングの『大都会』を。 ――こんな俺でも、いつかは光を浴びながら、きっと笑える日が来るさ。 【雨の】【歌声】 〆
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『Panzer Garten』 †アリスの胎動† Szene-1: 1947.4.16 Szene-2: 1947.4.17 Szene-3: 1947.4.18 Szene-4: 1947.4.19 Szene-5: 1947.4.19 未明 Szene-6: 1947.4.20 払暁
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『ある休日のこと』 なんとなーく気怠い、五月の日曜日の、午後のこと。 庭木の手入れを終えた翠星石は、髪を纏めているバンダナもそのままに、 リビングのソファに身体を横たえ、マターリとくつろいでいた。 穏やかな陽気と、休日の解放感。それに、庭いじりの軽い疲労も相俟って、 じっとしていると、なんだか……アタマが、ポ~ッと白く―― 昨夜は、小説を読む手が止まらなくて、ほんの小一時間くらいだけれど、 いつもより夜更かしした。それも、原因かも知れない。 ソロリ忍び足で近づいてきた睡魔が、妖しく腕を伸ばしてきて…… 翠星石の意識を、どこかに連れ去ってしまおうとする。 「……ぁふ……」 ちょっと気を許せば、ほら、お行儀悪く大欠伸。 翠星石は瞼を閉じたまま、もそもそと背中に当たるクッションを手探りして、 それをアタマの下に敷いた。たまには、睡魔に攫われてみよう。 数秒、据わりのいい位置を探して、小刻みにアタマを動かす。 長い髪が、変なカタチに分かれていくのが解ったけれど、キニシナイ。 どうせ外出の予定はない。だったら、寝癖のひとつふたつ、どうってコトも無い。 「少ぉし……お昼寝するですぅ」 このまま、幸せな気持ちで、幸せな夢に浸るのも悪くない。 翠星石の身体は、眠りを求めて、もう弛緩し始めていた。 うつらうつら……心地よい微睡みの中へ―― ――が! 睡眠と呼ぶには遠く及ばない浅き眠りは、突然に破られる。 聞き慣れた声が放った、聞き慣れない声によって。 「ぁあぁっ!」 それは、双子の妹、蒼星石の声に間違いなかった。 だけれども、その声は、いつになく悲痛な色を帯びて…… 普段なら、まず聞くことがないような艶をも匂わせていた。 「お……お祖父さん…………ま、待ってよぉ」 「ふふ。まだまだじゃのぅ、蒼星石。こんなに乱れてまくって」 「だ、だってぇ」 祖父と蒼星石の会話は、隣の和室から聞こえてくる。 いったい全体、何をしているのか? 翠星石は、とりあえずタヌキ寝入りしつつ、耳をそばだてた。 ふすま越しなので、少しくぐもっているが、何を話しているのかは良く聞こえる。 「どれ……ここが弱そうじゃのぉ」 「あっ! ソコは――」 「こっちは、どうじゃ?」 「ひぅ……そんなトコまで……」 「ここも――か?」 「あぅ……キツイよぉ」 なにやら意地悪い祖父の声と、艶めかしくも弱々しい妹の声。 それを聞いているだけで、翠星石は胸がドキドキして、頬が熱くなってきた。 真っ暗な瞼の裏に、時代劇にありがちなワンシーンが―― おじじ扮する悪代官が「そぉい!」と帯を引っ張ると、 蒼星石演じる町娘が「あ~れぇ~」と、コマのように、ぐるぐる回ぁーる。 (な、な、な……) まさか、祖父と蒼星石に限って、そんなコト―― 信じられない。想像もできな……いや、たった今した。 考えてみれば、蒼星石は昔っから、いわゆる『お祖父ちゃんっ子』だし、 祖父も、素直に懐いてくれる蒼星石を、大層かわいがっている。 それはもう、目に入れても『イタクナーイ』とカミソリのTVCMを想起させるほどに。 (まさか、まさか、まさか……) じりじりと焦れてきて、親指の爪をガジガジ噛み始めた翠星石を煽るように、 隣室から漏れてくる声は、とどまるところを知らない。 「それ、まぁだ行くぞぃ」 「あひぃっ」 「これは、受けきれるかのぉ?」 「だ、ダメぇ。強すぎるよぉ」 「ふふ……よぉーし。このまま一気に――」 「も、もぉ……許してぇ」 蒼星石の涙声を聞くに至って、とうとう翠星石も堪えかね、 ほあ――っ! と開眼した。ますますもって、退っ引きならない状況らしい。 たとえ、同意の上だったとしても! 歳の差を覆すほど激アツ鬼アツな愛が、二人の間に育まれていたとしても! かわいい妹が泣いているとあれば、慰めに行くのが姉の本分である。 ソファから飛び起きた翠星石は、ドスドスと足を鳴らし、肩を怒らせ、 祖父と蒼星石の密会場――隣の和室に突撃した。 | __ |二. .-.―.-. . ._` ー 、 | ,. - _ 二 `丶、`ヽ、 | / イ l \ \ |ヽ _|_ _ ノ }ヽ. ヽ |` 〉、_j_ ̄ ノ ハ ヽ ヽ | {j人Tー- ァ― ´ /┘L ヽ ヽ | ヽーjニ‐_ ニ ヘ _lユ┌} , i |`ー ´  ̄〉=ニ二 ヽ|、 リ ! l | { {jノ  ̄ヽ/ l l |` ー、_ ヽ ノ/ / リ′| |// ヽメ } ` == 彡 / / | | V 、_,. , イ-― 「おのれ、おじじっ! 蒼星石に、ナ ニ し て や が る で す か !」 その形相は、般若のように―― スパーン! と、ふすまを開いて、怖ろしい面貌を覗かせた翠星石を、 祖父と蒼星石の、呆気にとられた表情が出迎える。 「姉さん……なんて顔してるのさ」 「ナニって…………相手をしてもらってたんじゃよ。将棋の」 「へっ?! しょ……しょお……ぎ?」 「うん。将棋だよ。ほら」 ――と、蒼星石が、自分と祖父の間を指差した。 そこには確かに、木目も見事な檜の将棋台が、鎮座している。 盤上、かなり駒が入り乱れているが、どうやら蒼星石が詰む寸前らしい。 「そ、それで蒼星石は、泣きそうな声を出してたです?」 「お祖父さん、すごく強いのに、ちっとも手加減してくれないんだよ。 ボクも、ついムキになっちゃって――」 「こんな老いぼれの暇つぶしに、せっかく付き合ってくれるんじゃからな。 子供扱いして、手を抜いたりはせんよ」 「これだもの」 蒼星石は、ひょいと肩を竦めて、茫然と立ち尽くしている姉に笑いかけた。 「それにしても……姉さんはなんで、怖い顔して怒鳴り込んできたの?」 「なんで……って、蒼星石が――」 イエナイ。ゼッタイニ、イエナイ。 ほんの僅かでも、祖父と蒼星石のいかがわしい関係を妄想しただなんて。 翠星石は自分の愚行を恥じて、言い訳するのもイヤになり、ふすまを閉ざした。 でも――やっぱり、バツが悪すぎる。 あの二人は気にしないだろうが、翠星石の方が、なんだか落ち着かない。 と言って、正直に早合点したことを伝えて、素直に謝るコトは出来そうもない。 そこで、翠星石は閃いた。ギャグで誤魔化してしまおう! 逆転の発想だった。 ひとつ、深呼吸。今度は、ソロリ……と、ふすまを開く。 そして―― | __ |二. .-.―.-. . ._` ー 、 | ,. - _ 二 `丶、`ヽ、 | / イ l \ \ |ヽ _|_ _ ノ }ヽ. ヽ |` 〉、_j_ ̄ ノ ハ ヽ ヽ | {j人Tー- ァ― ´ /┘L ヽ ヽ | ヽーjニ‐_ ニ ヘ _lユ┌} , i |`ー ´  ̄〉=ニ二 ヽ|、 リ ! l | { {jノ  ̄ヽ/ l l |` ー、_ ヽ ノ/ / リ′| |// ヽメ } ` == 彡 / / | | V 、_,. , イ-― 「悪い子はいねが~…………ですぅ」 翠星石の再登場に、蒼星石も、祖父も、ポカーンと口を開いた。 一瞬にして白ける室内。ナマハゲの真似で御茶を濁すハズが、全くの逆効果。 藪をつついて、蛇どころかワニを出した感すらある。 「もうっ! さっきっから、なんなのさっ。 言いたいコトがあるなら、ハッキリ言いなよ姉さんっ!」 「うっ……」 「う? なぁに?」 言葉に詰まった翠星石を、蒼星石が詰るように見つめる。 その態度が、ますます翠星石を依怙地にさせた。 「うっ……うっせーですよっ! 蒼星石のバカぁ――っ!」 「はぁ?」 蒼星石にしてみれば、全くもって青天の霹靂の、ハト豆状態。 勝手に勘違いしたのは翠星石の方なのに、 どうして、自分がバカ呼ばわりされなければいけないのだろう? ベソをかきながら遠ざかる姉の背中を、やれやれ……と見送る蒼星石に、 祖父は盤上の将棋駒を片づけながら、話しかけた。 「追いかけておあげ」 「……はぁい」 放っておくのも、たまには良い薬なのだろうが、そこはやっぱり双子の姉妹。 あんな去られ方をしては、どうにも気持ちが揺らいでしまう。 結局、いつものように―― 蒼星石は、軽快なステップで姉を追いかける。 そんな彼女を後押しするように、祖父は柔らかな笑みを贈った。 「うむうむ……微笑ましいのぉ。 YO! YO! なんで~こんな~に可愛いのかYO~」 などと、ついつい演歌の一節をラップ調にして、口ずさんでしまう。 お茶を運んできた祖母は、それを聞きつけて、やはり穏やかに微笑んだ。 「お祖父さんったら、すっかり『孫』が十八番になったのねぇ」 「いやいや、この一節しか憶えてなくてな」 祖母が差し出す湯飲みを「アチチ、アチ」と、郷ひろみの真似しながら受け取り、 祖父は旨そうに茶を啜って、ほぁ――と、満足げに吐息した。 なんてことない、ある休日のこと。 柴崎家では、よくあるコトだった。
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さてさてさて……8月に入って、街中にも夏休みムードが色づいてきましたね。朝の電車も、少しだけ空いているカンジぃ?今年は久々に、ちゃんとお盆の時期に休みを頂けそうなので、ちょっと嬉しいですね。夏コミにも行けそうですし。まぁ、遊びに行くなら、お盆休みを外した方が良いんですけどね。東北道で100km以上の渋滞とか、マジ有り得ないのよー。さておき、7月最後の週末は、近所のお祭りでした。お祭り大好き人間としては、放っておけんです。日中は渓流で釣り。日が暮れてから祭り見物。うーん、いよいよ夏本番って感じですかね。しかーし……タコ焼きで舌を火傷し、じゃがバターを食べては胃もたれ。あんまり良いコトありませんでした。orz良いコトない、と言えば――私、手に入れてしまったんです。ある筋では(つまらない事で)有名な、アレを。その名も『アーリャマーン EPISODEⅠ:帝国の勇者』。インド映画のDVDですがな。早速、視聴したところ…………なんと言いましょうか。もうね、初っ端から、いろいろと ( ゚д゚) ・・・ (つд⊂)ゴシゴシ (;゚д゚) ・・・ (つд⊂)ゴシゴシゴシ _, ._ (;゚ Д゚) …!? ……な、内容でしたわ。まんま劣化番スターウォーズ。ラストなんて、まさに。ある意味、すごいショックを受けた映画でした。ハッキリ言います。オススメしません。 -- ヘタレ庭師 (2007-08-03 01 46 32) 世間は、いよいよお盆休みですねぇ。今日から、帰省ラッシュが激化するのかしらん?ま……私は来週の火曜日まで、お勤めですがねぇ。orzとまあ、そんなコトより――最近、今更ながらアニメ『仙界伝 封神演義』を見たんですよ。なかば、友人に押し付けられた感じで。これまでは、イラスト的に「妲己さま萌え (*´д`) ハアハア……」――な内容だろうなぁ、なんて食わず嫌いしてました。ところが、どうしてどうして……ギャグ漫画みたいに物語が進んでいながら、あっさりと人が死ぬ!うわぁ、思いがけずSFチックだし、面白いじゃなぁい。結局、4日がかりで全話を見終わりましたぁ。アーリャマーンより、ずっと良かったわ! (まだ根に持ってる) -- ヘタレ庭師 (2007-08-11 02 50 53) たまには、完全休業日があったっていい。そうは思いつつも、暑さに耐えつつ昼間っから酒を片手にDVDなんぞを視ておりますとね、ふと話のネタを考えてる自分がいるワケですよ。モノになるかは、さておき――ですけど。折角の夏期休暇だし、またB級映画の発掘に勤しみますかね~。-- ヘタレ庭師 (2007-08-17 02 13 36) 金・土の二日がかりで御殿場の方に脚を伸ばし、釣り三昧の生活を満喫してきましたぁ!19日は当初の予定どおり、台場へGO!日焼けして、腕と首筋がヒリヒリしてるですよ。気付けば、もう休みも終わり……帰省すらしてねぇですぅ。orzまあ、帰省は9月の3連休にでも――ですかね。とりあえず、執筆の方はマターリと進めつつ、ネットサーフィンと、専ブラの手入れをしておりました。一応、こんな感じ↓ -- ヘタレ庭師 (2007-08-20 02 00 30) まずはスレ完走オメ!休み明け1日目……まだ余力あります。これが金曜日ともなると、だいぶバテているんでしょうけどね。ずっと私のターンですぅ……くらいの勢いが欲しいところ。とりあえず、ベストを尽くせぇー! な気分でテンションうp。夏休みの間に思ったこと……なんで『あなたの知らない世界』やらねぇですか。昔は盆暮れになると、必ずやってて、それが楽しみだったのにぃ。奇跡体験アンビリバボーでも、心霊特集ってやらなくなったし。なんですかね。今日日、流行らないんですかね?怪談なんて、まさに夏の風物詩だって言うのに。まあ、視聴者の投稿だけじゃ限界があるですかもぉ。仕方がないので、本屋で『「超」怖い話H』を買って、電車に揺られながら読んでおります。あれ? なんだか冷房が効きすぎてる気が……。(;゚Д゚)ガクガクブルブル -- ヘタレ庭師 (2007-08-21 01 32 29) やっとこさ週末。明日(というより今日か)も釣行予定ナリ。暑そうですけど、残り短い夏を満喫しないとね!9月になれば、また忙しくなるでしょうし……。さて、先週末には、また近所で祭りがあったワケですが――この頃は夜が涼しくなって、過ごしやすいですね。祭りの熱気も、それほど苦になりませんでした。(たまには金魚すくいの風景でも眺めてみようかなぁ)なんて。ちょっと、酔狂な心持ちになってみたり――そこで、子供たちの背後から金魚のプールを覗くと、アレ? ちょい待ち。赤金が9割方、これは解る。黒デメ金が少々、これも解る。だが――あの灰色の細いヤツって、ドジョウじゃね?それに、やたらとデブで丸っこいヤツも混じってる。アレって、ウシガエルのオタマジャクシじゃね?金魚すくいも、時代と共に変遷してるんだなぁ、と。そんな、小さな発見をした祭りの夜でした。 -- ヘタレ庭師 (2007-08-25 01 40 32) まずは、うpし忘れていた分を編集っと。9月も第二週から、いきなり怒濤の忙しさとなってます。連日、帰りが遅く、テレビつけっぱなしで眠ってしまうほど。おまけに部下持ちの身となり、じわじわ心労も……。辛うじて、まだヘタレないで済んでます。折角の三連休なので、友人と映画へGO!『トランスフォーマー』を視てきたのですが……うん。CGは凄い出来映えですぅ。ロボット物が好きな人なら、純粋に楽しめるのではないでしょうか。ただ――個人的には、もっとSF色が濃くても良かったかな、と。帰りがけにY電気で廉価版DVDを見て回ったところ、『ショーシャンクの空に』が売っていたので、久々に視たくなり買っちゃいましたぁ。イイ映画です、ホントに。ラストシーンのブルーが目に浸みる。……さて。いい刺激を受けたことですし、執筆の方を頑張りましょうかね。 -- ヘタレ庭師 (2007-09-16 00 55 48) さてさて、今日は(もう昨日のことか)御殿場方面に遠征して、フライフィッシングを楽しんでまいりました。釣果はイワナ・アマゴ・ブラウントラウトに、多数のレインボートラウト。いやまあ、管理釣り場なので釣れて当然なのですが……。とりあえず、携帯のデジカメで撮ったブラウントラウトうp↓ さて、もう一件。一昨日『トランスフォーマー』を視てきたことで、因果を感じたコトが……ズバリ! ダースベイダー卿がトランスフォームでデススターにっ!なんの事か解らないと思うが、私も自分の目がおかしくなったのかと思った。この発想はなかったわ。以下、その証拠画像↓ -- ヘタレ庭師 (2007-09-17 00 52 15) なんとなく上の写真を見ていて思ったこと。アッシマーっぽい?それはさておき、とりあえず近況だけ。かねてより予定していたとおり、この連休には帰省して、お墓参りにも行ってきました。後は、実家のメタボ猫軍団をからかったり、眠りを満喫してたり……PCは持っていったものの、創作やインターネットするどころか、起動さえしない有様で。まあ、久々にのんびり過ごせて良かったんですけど。実家の弟がPS2を持っているので、久々にゲームに興じる。『イースⅠ・Ⅱ エターナルストーリー』ですがね。いやはや懐かしいのなんのって。PC-88の頃には何度もプレイしたゲームなのですよ。そのお陰か、グラフィックが変わってもダンジョンの構成など憶えていて、キャラを歩かせながらイベントを思い出して悦に入ってました。サウンドもYK2こと古代祐三さんの作曲で、ゲームにマッチしてましたし。86ベーシックで、せっせと曲をコピーしてた時代でした。cmdplayとかサウンドボードとかFM音源SSG音源とか、なんだかんだ言って、けっこう憶えてるもんですぅ。あの当時、ファルコムと言えば知らぬ者なしというほどでしたが、最近はどうなのでしょうね。英雄伝説の最新作はまだ買ってませんが……。 -- ヘタレ庭師 (2007-09-25 00 39 25) 久しぶりに時間が出来たから、さて執筆に入ろうかと思いきや、 いやいやいや……なまりますね、速さも、表現も。 たった10レスくらいなのに、まあ遅々として進まないこと……。orz 最近はニコニコ動画の方ばかり見てるので、それが最たる要因か―― 2ちゃんねらには評判が悪いニコニコですが、 あそこには、プロじゃないの? と思える人々が多いのですよ。 才能の無駄遣いというヤツでしょうか。 なかなか面白いので、つい時間を忘れて見てしまうんですなぁ。 アンストきしめんみっくみく――が、耳に残って仕方ない。 とりあえず、以下にニコニコで面白かったものを2つほど。 画質もイイし、神編集だなぁと感心してしまいました。 ニコニコ動画のアカウントない人は見られないので、興味があれば登録してみて下さいな。 http //www.nicovideo.jp/watch/sm663603 http //www.nicovideo.jp/watch/sm608080 ローゼンメイデンじゃなくてスミマセン。 割と有名だったりして……。 -- ヘタレ庭師 (2007-10-08 23 11 33)
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「おとーさま」 ここには、私の欲しかったものが、すべて有った。 ふかふかのベッドも、美味しい食事も、愛情に満ちた温かい両親も。 けれど、育ちがよくない私は貪欲で、満ち足りるということを知らずに…… いつだって、あなたの広く逞しい背中に縋りつくため、なにかしらの口実を探していた。 「どうしたんだい?」 そして、あなたは―― どんな時でも。たとえ仕事中であろうと、家事の途中だろうと。 私の呼びかけに振り返って、柔和に微笑み、膝に抱き上げてくれた。 いかにも職人らしい傷だらけの大きな手で、私の髪や頭を撫でてくれた。 私にとって至福と呼べるのは、お父さまに愛惜されることだけ。 かけがえのない愛情と温もりを独り占めにできる、その瞬間こそが、最高の幸せなのだ。 「寂しそうな顔をしてるね。独りにして、悲しませてしまったのかな。ごめんよ」 「……ううん。おとーさまがいるから、ばらしー、寂しくない」 「そうか。でもね、本当に悲しいときは、我慢せずに泣いてもいいんだよ」 「泣いたりしないもん」 あなたの前でだけは、そんな強がりを言えた。 独りぼっちは慣れっこだったのに……今では、独りで居ることが、とても怖い。 愛という概念を得てからの私は、すっかり臆病になってしまった。 お父さまが、私の脆弱さに気づいていなかったワケがない。 すべて承知で、強情を張る私を、温かく見守ってくれていたのね……いつでも。 10年という歳月は、長いようで、意外にも速やかに過ぎ去り―― 私は今年で18歳になった。相変わらず、親離れできない甘えんぼのままで。 でもまあ、それは、お父さまにも言えることだけれど。 出逢った頃と変わらず、私を宝物のように、大切にしてくれている。 それは、幸せなこと。誰彼かまわず自慢して回りたいくらいに、嬉しいこと。 だのに……歓びとは裏腹に、最近、些細なことでも鬱ぎがちになっている。 私は、他人様に誇れるほど、アタマのいい女の子じゃあないけれど…… それでも、気持ちが沈む原因には、思い当たるモノがあった。 ――ここのところ、お父さまは元気がない。 ふと見れば、いつだって遠い眼差しをして、どこか思い詰めた顔をしている。 工房に籠もっている時間も、以前に比べたら、かなり長くなって。 あなたと顔を合わせるたび、言葉を交わすたび、私の不安は駆り立てられる。 いつも、私の作る料理は残さず食べてくれるから、病気ではない……と思う。 仕事がはかばかしくなくて、気落ちしているだけなら、笑い話で済ませられるんだけど。 なんとかしてあげたい、とは思う。そして、もどかしさに唇を噛む。 家族なんだもの。遠慮しないで、私を頼ってくれたなら、喜んで手伝うのに。 お父さまは決して、弱さをさらけ出してくれない。 私は、そんなにも――アテにしてもらえないほど無力で、無能なの? ――日付の変わる頃、私は今夜も、ココロを込めて煎れた紅茶を工房に運ぶ。 上陸しつつある台風が、家の窓という窓を、喧しく叩いていた。 「お父さま」 呼びかけると、この時だけは、お父さまも作業の手を止める。 普段どおりに振り返って、穏やかに口元を緩めた。「ありがとう。いつも、すまないね」 あまり、無理はしないで。そうお願いするのが、私の日課。 「していないよ」と、目尻を下げて答えるのが、あなたの日課。 「……うん。いい香りだ」 言って、お父さまは深紅の液体を、ゆるゆると喉に流し込む。 幸せそうな顔。だけど、頬や目元には、明らかな窶れが刻まれている。 どうして、たかが人形作りに、そこまで没頭するの? なぜ、死に急ぐみたいに、自分を虐げるの? その想いを呑み込めば、ココロの中で、また――無力感が膨張してゆく。 私には……お父さまを止められない。窶れの元凶を、取り除いてあげることも。 この虚しさこそが、先に言った、私を鬱にさせる原因なのだ。 やるせない気持ちで、そっと目を伏せる。 私の目線は、作業台の隅に置かれたフォトスタンドに、吸い寄せられた。 小さな長方形の窓ごしに、ブロンドの美女が、笑いかけている。 ――真紅。お父さまの師匠の娘で、私のお母さまでもあった人。 2人は同い年で、お父さまの方が、ぞっこん惚れていたって聞かされた。 彼女がイギリスに留学したときも、足繁く会いに行ってた……って。 物静かで、口数の少ない人だけれど、その実、一途で情熱的な求道者なのよね。 彼の熱意に当てられたのね、きっと。 クラッと眩暈がして、気づいたら恋に落ちていたのだわ―― ――とは、在りし日の、お母さまの談。 彼女の大学卒業を待って、2人はめでたく結婚した。 22歳の仲睦まじい若夫婦を、誰もが羨み、祝福してくれたと言う。 お父さまたちは、この海辺の街に移り住んで、工房と直売の店舗を構えた。 堅実かつ聡明な真紅の助力で、2人の蜜月は順風満帆だった……らしい。 その頃のことは、伝え聞くばかりで、よく知らない。 2人の甘く幸せな生活に、私が加わったのは、それから程なくしての話だから。 打ち明けると、私は……お父さまたちの、本当の娘ではない。 別の街で路上生活をしていた孤児で、私が8歳のとき、養子として迎えられた。 本当の両親なんか、顔も憶えていない。当然、名前も付けてもらってない。 戸籍とか『なにそれ、美味しいの?』って、知識レベルでしかなかった。 その頃の私が持っていたのは、生き抜くための技能……スリングによる投石術だけ。 闇夜でも正確に石礫を当てるところから、仲間たちに付けられた綽名は、ノクトゥルネ。 標的を、ただの一撃で夢の世界に誘うから『夜想曲』とはね。 今にして思うと、背中がムズ痒くなって仕方がない。 それまでの私の人生は、言葉から想起されるような、清廉潔白な生き様じゃなかった。 食べるために盗みも働いたし、イタズラ目的で近づいてくる輩を半殺しにして、金品を奪いもした。 そういった悪行が原因で住処を追われ、この街まで逃れてきたのだ。 喩えるなら、道端の物陰に蹲って、絶えず周りを威嚇し続けているノラ猫。 身もココロも汚れきって、怯えながら、付け入る隙を窺うばかりの生活しか知らなかった、私。 あなたたちは、そんな私に、そっと手を差し伸べてくれた。過去や素性を、詮索もせずに。 『薔薇水晶』という、ステキな名前まで、プレゼントしてくれた。 初めて知った他人の温かさ。安心して眠りに就ける夜の心地よさ。飢えも渇きもない生活。 育ちの悪い私に対する、お母さまの躾や教育は厳しくて、反撥もしたけれど…… それでも、汚濁と屎尿の臭気に満ち満ちた橋の下に比べれば、ここは別天地だった。 1匹の動物にすぎなかった私は、2人の愛情によって洗い清められ、 1人の人間――ひとりの女の子として生まれ変われたのだ。 もちろん、幸せなことばかりじゃない。悲喜こもごも、様々なことがあった。 最も衝撃だったのは、ここに来てから2年が過ぎた日のこと。 ちょうど、今夜みたいな、台風の日だった。 強風に飛ばされた大きな看板から私を護るため、お母さまは、その身を楯にして―― 風のように、舞台から去ってしまった。 おなかに宿っていた、新しい命――私の妹も連れて。 あの日から、もう8年。 彼女の急逝は、私たち残された者のココロに、一生かけても癒えないだろう深い傷を残した。 私も、お父さまも……今もって、この胸に埋めようのない空隙を抱え続けている。 葬儀の席で、穏やかに微笑むお母さまの遺影を見つめながら、私は懺悔し続けた。 すべて私のせい。嵐が来ているのに、私が外に出たりしたから。 きっと、あれは天罰だったに違いない。 私が働いてきた悪事の清算として、彼女と赤ちゃん、2つの命が支払われたのだ。 当時は、そうとしか考えられなかった。 ……ううん。今も、そうとしか考えられないでいる。 ごめんなさい、お父さま―― ごめんなさい、お母さま―― ごめんなさい、実体を持って産まれることなく消えてしまった、私の妹―― 私が死ねばよかったの。私なんか、ここに来なければよかったの。 いっそ、どこかで野垂れ死んでさえいれば……。 お母さまが大地に抱かれ、二度と会えない世界に旅立った、その晩。 私の過去を、お父さまに話した。お母さまを死に追いやったことを謝った。 そして、こうも続けたよね。 さよなら。もう、迷惑かけられないから、出ていく――って。 直後、私は殴られていた。思いっ切り頬をひっぱたかれて、吹っ飛んでいた。 それが、お父さまに撲たれた、最初で最後の記憶。 これで終わり。楽しかった日々も、なにもかも、ぶち壊し。 頬の熱さと耳鳴りの中で、そう思っていたのに…… お父さまは跪いて、子供のように泣きじゃくりながら、私を力強く抱きしめた。 「バカなことを言うな! どこにも行かせるものか。 誰がなんと言おうと、きみは薔薇水晶だ。ぼくたちの大切な娘なんだ!」 普段は寡黙な、お父さまが……矢継ぎ早に迸らせた言葉の数々―― あの、肺腑を衝く叱責が、私を本当の意味で、薔薇水晶にしたのだと思う。 名無しの『夜想曲』ではなく、どこにでもいる、幸せな女の子に。 その日から――私は、もう泣かないと、お母さまと妹に誓った。 私まで悲しみ続けていたら、お父さまは、もっと辛くなってしまうから。 彼女たちの分まで愛して、支える。それが……生き残った私の使命だ。 愛用していたスリングを眼帯に作り替えて、私は自らの左眼を封印した。 強くあるための、おまじない。泣かないための自己暗示。 その奥に涙を押し込めて、私は、この8年を生きてきた。 「おいしかったよ。ごちそうさま」 空になったティーカップが、差し出される。私は黙って、それを受け取る。 いつもならば、このまま引き上げていた。 でも、今夜は……そんな気分になれなくて。 「お父さま」 作業に戻ろうとする背中に、そっと呼びかける。 そして、お父さまが振り返るより速く、大きな背中に身体を寄せた。 私の指を離れたティーカップが、床で砕けたけれど、キニシナイ。 がっしりとした肩に手を乗せ、広い背中に頬を擦りつけて…… シャツに滲みたお父さまの匂いを、胸いっぱいに吸い込んだ。 「今夜はもう、お休みになって」 「……薔薇水晶?」 明らかな戸惑いが、僅かな挙動から伝わってくる。 それを分かっていながら、私は喋ることを、やめようと思わなかった。 「お父さまは、つかれている。私には分かるわ。私だから分かるの」 「どうしたんだい? 今日はまた、随分と甘えんぼだね。 ははぁん……さては、なにか欲しいものがあるのかな?」 「茶化さないで」 普通に言ったつもりが、私の口調は、私自身でさえ戸惑うほど、強いものになっていた。 お父さまも、らしからぬ私の様子に驚いて、口を噤む。 黙りこくった私たちの間に、がたごと……。 雨と風が、ひっきりなしに揺らす窓の喧噪が、割り込もうとする。 私は、それらを―― ありとあらゆる邪魔者を排除したくて、背後から、お父さまを強く抱きしめた。 「今、お父さまが作っている人形――」 両腕に、あらん限りの力を込める。 身体を密着させながら、私はあなたの肩越しに、作業台の上を覗き見た。 そこに横たわっているのは、ビスクで作られた、うら若い乙女のボディ。 膝まで届く金色のウィッグと、紺碧のグラスアイ。 「それ……お母さまなんでしょ?」 見紛うはずもなかった。表情の一片に至るまで完璧に、お母さまを再現していた。 やはり、お父さまは稀代の天才人形師。でも、才能の使いかたを間違っている。 あなたの窶れは、仕事に疲れているからではない。 真紅の幻影に、今もって、憑かれているからだ。 それは、ある意味、私の望みだった。夫婦仲がよい家庭に、憧れていたから。 けれど……別の意味で、私が最も拒絶したい現実でもあった。 お父さまの愛情が、私以外に向けられることを、いつからか嫌悪するようになっていた。 どうして―― なぜ今更、お母さまの人形が必要なの? 人形のお母さまを愛そうと言うの? ここにいる、私ではなく? 私は、フォトスタンドの中で微笑んでいる真紅を、横目に睨みつけた。 そして、ココロの中で、彼女をなじった。 ……貴女は卑怯よ。 お父さまへの愛を、私と競い合うこともなく、勝ち逃げしてしまうなんて。 私、これから、どうすればいいの? ――解らない。考えれば考えるほど、煩悶はガン細胞のように増殖するばかりで。 アタマが、どうにかなってしまいそう。 ねえ、どうしたらいいの? 教えて……お母さま。 「私では、ダメなの? 支えにも、慰めにもならない?」 「……薔薇水晶」 「私は、こんなにも…………お父さまのこと、誰より好きなのに」 「よさないか、薔薇水晶」 「イヤっ!」 私は激しく頭を振って、駄々をこねる。 でも、抱きしめていた腕は、大きな手によって、そっと引き剥がされた。 その手を振り解いて、私はまた、しっかりと抱きつく。 あなたの溜息が、私のココロを突き放そうとするように、長く尾を引いた。 「僕だって……きみのことを、誰より大切に想っているさ」 「娘としてだけ、でしょ? 私は、ささやかな愛情を求めてるんじゃない。 人形のように愛でられるのを待っているだけなんて、イヤ! 一方通行の愛じゃなくて、1人の女の子として、愛して欲しいの」 お母さまに――真紅に勝ちたい。私は、激情に胸を焦がした。 死んだ人間には勝てないかも知れないけれど、それでも。 棄権したら、なにも掴めないまま、道端で冷たくなるだけ。 路上生活者だった頃の経験則で、イヤと言うほど、それを知っていたから。 「お母さまの代わりになんか、なれないし、なるつもりもない。 だけど、これ以上、家族ゴッコを続けるのは、もうイヤなの! 娘としてじゃなく、女として、あなたと幸せな家庭を築きた――」 私の告白は、突然に遮られた。 お父さまが、弾かれたように椅子を立ったから。 そして、驚き、後ずさった私に、あなたは容赦なく平手を振り下ろした。 左の頬が痺れ、少し遅れて、じわりと熱を帯びてきた。 撲たれた拍子にはずれた眼帯が、ぽとり……と、足元に転がった。 2度目の殴打。それは私に、二度と泣かないという誓いを破らせた。 8年もの間、ずっと溜めてきた涙が、奔流となって瞼から溢れてくる。 滲んだ世界の向こうで、お父さまは、苦渋に満ちた顔をしていた。 そして、気まずさに耐えかねたように、私から顔を逸らして―― お母さまのフォトスタンドを、手にとった。 写真に注がれた悲しげな目が、問いかけていた。 きみだったら、こんなとき、どう諭すのだろうか……と。 私は、打ちひしがれた。あなたは今も、お母さまを想い続け、頼りにしている。 この8年、一緒に暮らしてきた私ではなく、既に過去の人である真紅を―― いたたまれなかった。本音をぶつけた私から、瞳を逸らさないで欲しかった。 恥ずかしさと、悔しさと、胸が張り裂けるほどの悲しさと。 すべてが綯い交ぜになった感情を抑えきれず、私は踵を返して、その場を逃げ出した。 そうするより他に、自分を保っていられる自信がなかったから。 着の身着のまま、家を出た。その途端、痛いほどの豪雨に、肌を打たれた。 玄関先で、私は一度だけ、歩みを止めた。 でも、あなたは追いかけて来てくれなくて―― 「さよなら……お父さま」 涙を溢れるに任せて、私は深夜の街を駆け抜けた。 もう二度と、ここには戻らないつもりで。 だけど、どこに行けばいいのか? 私は土砂降りの雨の中、立ち尽くした。 生きてゆくには、先立つモノが必要だ。 お金……ワケありの女が、手っ取り早く、かつ確実に稼ぐとなると…… やっぱり、女であることを最大限に利用して、春をひさぐしかない。 そういう店なら、当面の住処も世話してくれるだろう。 私は、そんな生き方をする星のもとに、生まれついたのかな。 顔も知らない実の母親も、案外、娼婦だったのかも知れない。 客と商売女の、ゆきずりの関係でできた娘――それが、私? 仮定にすぎないけれど、その発想は妙に、しっくりと胸に落ち着いた。 それによって、ネガティブな思考が、ドミノ倒しになって押し寄せてきた。 そう。私は望まれずに産まれ、厄介払いされたに違いない。 誰にとっても、私なんか必要ではなかったのだ。 お父さまたちだって……捨てネコでも拾う感覚で、私を保護したのだろう。 いっそ、本当にネコとして産まれていたなら、よかったのに。 そうしたら、まだ幸せでいられたかも知れない。 仕事中は、お父さまの膝の上に、丸くなっていられるし。 夜は、あなたと同じベッドで眠れるから。 「……馬鹿みたい。もう戻らないって、決めたのに」 吹き荒れる雨風の中で、私は弱音と溜息を混ぜ合わせて、宙に投げ捨てた。 その未練の塊は、もみくちゃにされ、跡形もなく散っていった。 もう帰れない。だけど、新しい生活を探すことも億劫で。 私の足は、海へ――港の防波堤へと、向かっていた。 遠目にも、激しく波が砕け、飛沫の散る様子が見て取れる。 「……あはっ。いいこと思い付いちゃった。 お母さま……今から、そっち行くね。そうしたら、勝負しましょう。 私は貴女に勝ってみせる。必ず勝って、生まれ変わるの。そして――」 今度こそ、愛する人の隣りで、愛されながら暮らすのだ。 防波堤に近づくのは、意外に大変だった。 吹きっさらしの暴風が、華奢な私を、押し戻そうとする。 横殴りの雨と、海水の飛沫に顔を打たれて、目を開けるのも辛い。 けれども、その程度で、私を止めることなどできない。 どうせなら、もっと荒れ狂うがいい。私は胸裡で嘲笑ってすらいた。 最後まで波瀾万丈。なんとまあ、私に相応しい幕引きだろう。 「すべて洗い流して。私の生きた証も、この身に染みついた咎も」 防波堤の先端までゆく間に、何度か、打ち寄せた波に足を取られて、転んだ。 服と言わず髪と言わず、全身びしょびしょ。打ち身と擦り傷が、痛い。 その上、絶え間なく吹きつける海風に、体温を奪われ続けていた。 足元を洗う波の方が、むしろ温かく感じられる。 「もっと、早く……こうすればよかった」 それが、ココロに浮かぶ、偽りない心境。私は10年前に、こうすべきだったのだ。 あなたたち夫婦と、巡り会ってしまう前に。 そうしたら、お母さま――真紅は、この世を去らずに済んだ。 妹は無事に産まれ、あなたは愛する妻子と一緒に、今も笑顔でいただろう。 「ごめんなさい」 償いの言葉を口にして、私は暗くうねる海へと、この身を投げ出した。 中編につづく
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深淵……とは、こんな場所のことを指すのだろうか。 何もない、茫漠たる世界。天地方角の区別すら、ここでは無意味かも知れない。 唯一、想像と違っていたのは――この世界が漆黒の闇ではなく、純白だったこと。 まるで、ヨーグルトの中を漂っている気分だった。 何かをしなければと思う傍ら、何もしなくていいよと、怠惰な心が囁く。 (そうだね……どうせ、何もない……誰も居ないんだから) 言って、瞼を閉ざした蒼星石の額に、誰かの手が触れた。 不意打ちに驚き、見開いた眼差しの先には、翠星石の穏やかな笑顔があった。 いつの間にか、姉の膝枕で微睡んでいたというのか。 蒼星石は、自分の髪を撫でる彼女の温かい手を、両手で握り締めた。 「……姉さん。ボク達、ずっと一緒に居られるよね?」 その問いに、翠星石は悲しげに目を伏せ、妹の手を振り払った。 「それは……出来ねぇです。だって、私は―――― 愛する人と、結婚するですから。蒼星石とは、もう……アバヨですぅ」 第二話 『眠れない夜を抱いて』 ひうっ! と息を呑んで、蒼星石は身体を撥ね起こした。 目の前は、真っ白ではなく、真っ暗。 月明かりだけが、レースのカーテンを透き抜けて、部屋の中を照らしている。 「……ひどい夢」 額に手を当てる蒼星石の唇から、溜息と共に吐き出される、呟き。 心身共に憔悴しきった感じの、重苦しい吐息だった。 なんとなく、すぐに寝直すのは躊躇われた。 また、同じ夢を見てしまうのではないかと思うと、横になる気が失せる。 蒼星石はベッドの上で膝を抱えて、背中を丸めた。 多量の寝汗を吸って、びっしょりと湿ったパジャマが肌に触れて、冷たい。 程なく、ぶるっ……と、身震いした。 このままだと、風邪を引いてしまいそうだし、気持ち悪くて眠れない。 どうせ着替えるのであれば、シャワーを浴びてサッパリしようと思って、 蒼星石は枕元の時計を手にした。 「まだ、三時前か……いくらなんでも、起きるには早すぎるよね」 こんな時間にシャワーなんて使ったら、二階で眠る翠星石はともかく、 階下で休む祖父母を起こしてしまうかも……。 だが、悶々としていても埒があかないので、蒼星石は着替えを持って部屋を出た。 ぬるめの湯で汗を洗い流し、髪を洗うと、だいぶ気持ちが落ち着いた。 マイナスイオン効果というのも、ある程度は影響しているのだろうか。 さっきまで頭の中に靄がかかっていたのに、今はスッキリしている。 (寝直すために浴びたのに、目が冴えちゃったら逆効果だね) バスタオルで身体を拭きながら、くすっと鼻先で笑う。 深夜の静寂の中では、そんな含み笑いすらも、大きく聞こえた。 湯冷めしない内に、手早く下着とパジャマを纏うと、 蒼星石は洗面所の鏡に向かい、濡れた髪に櫛を入れた。 ドライヤーは、うるさくしてしまうから使わない。 ――すると、鏡を覗き込んでいた彼女は、ふと、あることに気付いた。 生乾きの、しなだれた髪を撫でつけた自分が、どことなく柏葉巴に似ている――と。 無論、髪の色は違うし、瞳の色だって全く違う。 けれど、全体的な印象が、彼女と重なって見えるのだ。 (柏葉さん……か。どういう人なんだろう) 髪を梳く手を止めて、蒼星石は、鏡の中の自分を見つめた。 以前なら、そこには姉、翠星石の面影がチラついたものだが…… 今は、柏葉巴の姿が見え隠れしている。 悪戯心から微笑んでみると、巴に笑いかけられた気がして、胸の高鳴りを覚えた。 「もう少しイメージチェンジしたら、ボクも彼女みたいに――」 女の子らしく見えるのだろうか。 そうしたら、もっと親しい人が増えるのだろうか。 もし、大好きな姉が自分の前から姿を消してしまっても…… ずっと一緒にいてくれる素敵な人と、巡り会えるのだろうか? そうであって欲しい、と思う。 だけど、そう簡単に自分を変えられないことも、承知していた。 誰かに背中を押されたり、腕を引っ張られなければ、何も決断できない臆病な子。 いつからだろう、そんな自分が当たり前になってしまったのは。 (彼女と仲良くなれたら、こんなボクでも……変われるかも知れない) 今日、学校に行ったら話しかけてみよう。 そんな至極単純な答えでさえ、昨日から考え続けて、やっと導き出したものだ。 「さぁーてと。そろそろ寝なきゃ、明日の朝が辛くなるね」 気を取り直して、浴室の引き戸を開けた蒼星石は、次の瞬間、心停止しそうなほど驚いた。 扉の向こう側に、翠星石が立っていたのだから。 彼女もまた、驚愕に目を見開き、咄嗟に上げた両の拳を、胸元で握っていた。 「ど、どうしたの……こんな夜更けに」 「そ……蒼星石こそ、なんで、こんな時間にシャワー浴びてたです?」 「ちょっと、寝汗かいちゃってさ。気持ち悪かったから」 「私は、喉が渇いて目が覚めたから、お茶を飲みに降りてきたですよ」 そんな他愛ない会話でさえ、なんだか久しぶりに思える。 昨日の夕方、体育館の前で話したけれど、あの時には心が擦れ違っていた。 でも、今は違う。緋と緋、翠と翠、それぞれの瞳が、真っ直ぐに結びついている。 しっかりと、心が通い合っている……そんな気がした。 ほんの数秒、見つめ合っていた二人は、鏡写しのように微笑みを交わした。 「それじゃ、私はもう寝るです。湯冷めに気を付けるですよ、蒼星石」 「うん……ありがと。お休み、姉さん」 「おやすみなさいですぅ」 ひらひらと手を振って、翠星石は背を向け、階段に向かって暗い廊下を歩いていく。 その様子を眺めている内に、蒼星石は、なんだか置き去りにされるような、 どうしようもなく不安な気持ちになった。胸が、きゅっ……と苦しくなる。 待って! ボクを置いていかないで! こみ上げる衝動のままに、歩に合わせて揺れる姉の長い髪に駆け寄り、しっかりと抱きついた。 「そ、蒼星石?」 「ちょっとだけ、こうさせて……」 触れ合った身体に感じる、翠星石の温もり。 とくん、とくん、とくん……。 蒼星石の掌に、姉の鼓動が伝わってくる。そのリズムを感じているだけで、気持ちが安らいでいく。 多分、蒼星石のソレも、翠星石の背中に伝わっていることだろう。 「どうしたですか、蒼星石。怖い夢でも見たです?」 「……うん。姉さんが、遠くに行っちゃう夢」 知らず知らずの内に、蒼星石は抱きしめる腕に、力を込めていた。 けれど、翠星石は文句ひとつ言うでもなく、妹の手に、自分の手を重ねた。 「お願い。ボクを独りにしないで」 「……甘えんぼですね、蒼星石は。私は、いつだって側に居るです」 「ホント? じゃあ、明日は一緒に登校してくれる?」 「いいですよ。蒼星石が願うなら、眠るまで見守っててやるですぅ」 「ありがと……姉さん。でも、大丈夫。独りでも眠れるよ」 『側に居る』その言葉を聞けただけで、蒼星石は満足だった。幸せすぎて、身体が震えてしまうほどに。 だから、姉を捕らえていた腕を解いて、ゆっくりと離れ―― もう一度「お休み」と囁き合っても、もう寂しさを感じなかった。 ――しかし、自室に戻って、ベッドに潜り込んだものの、蒼星石は眠れなかった。 不安のためではなく、歓喜によって気持ちが昂ぶり、目が冴えてしまったからだ。 結局、朝が訪れるまで、彼女はベッドの中で火照る身体を持て余していた。 第二話 おわり 三行で【次回予定】 ――乙女は、自分の弱さを克服すべく、新たな一歩を踏み出す。 その足が踏み締めるのは、幸せな未来へと続く道か。 或いは――――奈落への入り口か。 次回 第三話 『運命のルーレット廻して』
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『絆をください』 予想外に急変した空模様を、ジュンは部屋の窓から眺めていた。 下校時間になってからの、突然の夕立。 夏場は、これだから油断がならない。 外は文字通り、バケツをひっくり返した様なドシャ降り。時折、暗雲の中で 閃光が瞬き、数秒遅れて轟音が鳴り響いた。 「暫く、止みそうもないな。ほら、タオル。頭、ちゃんと拭いとけよ」 「まったく、酷い目に遭ったですぅ。あ、ハンガー貸して欲しいです」 「ハンガーは、これ使ってくれ。そっちが着替えな」 「解ったです。どうも、ありがとですぅ。あと、お風呂……」 「遠慮ねえな、お前。いま沸かしてるから、三十分ほど待ってろよ」 帰宅途中に降られて、二人はすっかりズブ濡れになっていた。 元々、桜田家に遊びに行く予定だったから、雨宿りもせず走って帰り付き、 今に至っている。 「じゃあ……ちょっと、紅茶を煎れてくるからな」 濡れた栗色の髪を拭きながら、翠星石は微笑み、頷いて見せた。 気を利かせてくれたジュンの好意を、無駄にしてはいけない。 翠星石は窓のカーテンを引くと、雨を吸い込んで重くなったブレザーをハンガーに掛けて、 スカートと、ワイシャツを脱ぎ捨てた。 「ごめんな、翠星石。お茶菓子、こんなもんしか無かった」 「ううん……お構いなくです。 はぁ~、ジュンが煎れてくれる紅茶は、いつ飲んでも美味しいですよ」 「そりゃどうも。お世辞でも嬉しいよ」 「ジュンにお世辞なんか言った事、一度だって無いですぅ」 ジュンに借りたTシャツとジャージを着た翠星石は、ティーカップを手に、 幸せそうな表情を浮かべた。 そんな彼女を眺めるジュンの眼差しは優しい。 二人が正式に付き合い始めて、早二ヶ月。 幼なじみだった少女が、高校で同級生となり、今や肌を交わす存在に なっているなんて、想像もしていなかった。 子供の頃から本音をぶつけ合ってきた二人には、互いの距離が近すぎて、 側に居るのが当たり前になりすぎていた。 だからこそ、殊更に互いを求めようとは考えなかったのかも知れない。 その必要を感じなかったから。 そんな幼い関係が愛へと昇華したのは、彼女の妹、蒼星石が、 二人の間を取り持ってくれたからだった。 「お……翠星石。そろそろ、風呂が沸く頃だけど」 「もう? じゃあ、遠慮なく借りしてもらうです。で、そのぅ――」 「なんだよ。制服なら、いま乾燥機で乾かしてるぞ」 「ち、違うです! あの…………ジュンも、一緒に……入るです♥」 浴室に響く翠星石の嬌声は、徐々に大きく、艶を帯びていった。 荒い息づかいと、激しくぶつかり合う音が重なる。肌を撫でる指の感触。 途切れ途切れに交わされる『好き』という呪文。揉みほぐされていく肉体。 呼吸困難になるくらい動き続けても、まだ、お互いを求め足りなかった。 そして―――― 翠星石は前歯で指を噛み締め、声を押し殺しながら身体を震わせた。 彼女の奥深くで欲望を解き放ったジュンは、翠星石の頬を慈しむように撫でて、 頻りに吐息を洩らす唇を優しいキスで塞いだ。 「そろそろ、姉ちゃんが帰ってくる頃かな」 「もう、おしまいなんですね。ちょっとだけ……胸が切ないです」 「翠星石が見られても構わないって言うなら、もう一回するけど?」 「ばっ……バカ言うなですぅ!」 風呂から上がり、翠星石が制服に着替えて一分と経たない内に、 部活を終えたのりが帰宅した。 「あらぁ。翠星石ちゃん、いらっしゃ~い。晩御飯、ウチで食べてくぅ?」 「そうしろよ、翠星石」 「うふふ。そ、それじゃあ……お言葉に甘えるです」 やがて、楽しい晩餐も終わり―― 「家まで送るよ。夜道の独り歩きは危ないからな」 「うふふ……ジュンは優しいですね。でも、近いから大丈夫ですぅ」 玄関先で暫く立ち話をした後、翠星石は別れの挨拶をして、 夜の町並みを駆け出していった。 桜田家から彼女の家までは、距離にして四百メートル弱。 街灯も多いし、この付近で痴漢が出たとの話は聞いていなかったので、 特に心配はしていなかった。 翠星石が、いつもの交差点に差し掛かる。 あそこを左折すれば、あとは真っ直ぐだ。 彼女の後ろ姿が角の家の塀で隠れるのを見送ったジュンは、自分も家に入ろうと踵を返した。 その時、ジュンの視界に猛然と交差点を走り抜ける原付が飛び込んできた。 明らかなスピード違反に加え、2ケツ――二人乗りをしていた。 その原付は翠星石と同じ方角へ向かった。 ジュンは、なにか厭な予感がして、気付くと走り出していた。 何も……何も起きないでくれ! 無事でいてくれ、翠星石! ただ、それだけを念じながら、ジュンは走り続けた。 さっきの交差点――ここを左折すれば! 角を曲がったジュンは、百メートルほど先の街灯の下に倒れている人影を 目の当たりにして、息を呑んだ。 間違いない、彼女だ! 「す……翠星石っ!!」 ジュンは無我夢中で駆け寄り、翠星石の身体を抱き上げた。 警察の話では、原付でのひったくりに巻き込まれたという事だった。 翠星石の鞄は、近くの河原に投げ捨てられていたところを発見された。 ――そして、翠星石は病院のベッドに横たわっていた。 腕には擦過傷。鞄をひったくられた時、十メートルほど引きずられたらしい。 「意識が……戻らないんだ」 蒼星石が茫然と呟いた言葉は、ジュンの心にギリギリと捻り込まれる様な 痛みを覚えさせた。ハッキリと口に出したりしないが、蒼星石の口調には、 ジュンに対する憤りが込められていた。 どうして、姉さんを護ってくれなかったの? いたたまれなかった。あの時、どうして有無を言わさず翠星石を送っていか なかったのだろう。 どれだけ後悔しようとも、翠星石はベッドの上で眠り続けていた。 「蒼星石。その……ゴメン。僕が、ちゃんと送っていれば――」 「ジュン君の責任じゃないよ。悪いのは、ひったくり犯さ」 蒼星石は拳を握り締めて、怒りに肩を震わせていた。 そんな蒼星石に、ジュンは何も、掛ける言葉を思い付かなかった。 この日から、学校が終わると病院に足を運ぶのが、ジュンの日課になった。 十日経ち、二十日が過ぎても、ジュンは一日も欠かさず翠星石を見舞い続けた。 相変わらず、翠星石は目を覚まさない。 何度もキスを交わした瑞々しい唇も、今では人工呼吸器のマスクに覆われて、 かさかさに乾いていた。それに、なんだか身体中が骨張ってきた感じだ。 点滴だけで補給できる栄養素など、高が知れていた。 ベッドの端から、翠星石の左腕がはみ出している。こんなに、細くなって―― ジュンはベッドの脇に跪くと、翠星石の手を、両手で包み込んだ。 学園からの帰宅途中に繋いで歩いた手の感触とは、明らかに異なっていた。 悲しみに胸を詰まらせたジュンの目から、不意に熱いものが零れ落ちる。 ジュンは涙に濡れた頬に、翠星石の手を擦り付けた。 「お願いだ、翠星石。目を……お願いだから、目を開いてくれよ。 そして、いつもみたいに僕を見詰め返してくれよ! なあ……おい、翠星石! 聞こえてるんだろう? 寝たフリなんか、してんなよ。 このまんまじゃ、お前……痩せ衰えて……死んじゃうんだぞ?」 ジュンは涙と鼻水でグシャグシャの顔で、翠星石に語り続けた。 少しでも、自分の言葉が彼女に聞こえるように祈りながら―― 「起きろよ、翠星石! もう……朝なんだぜ。早く…………起きて…… 学……校へ、行く支た……く…………ううぅ……うわぉああああぁぁ!!」 人形の様に無反応な翠星石。 あんなにも愛らしく、感情豊かだった翠星石。 たった一度で構わないのに、君は天使のような微笑みを、もう向けてはくれない。 ジュンはベッドに顔を埋め、シーツを堅く握り、堰を切ったように嗚咽し続けた。 ジュンが目を覚ますと、翠星石の枕元に花束が置かれていた。 多分、蒼星石が来たのだろう。泣き疲れて眠っていたジュンに気を遣って、 そっと帰ったようだ。窓の外は、もう真っ暗だった。 折角だからと花瓶に生けようとしたが、花瓶は空だった。 「――丁度いいや。ついでに顔、洗ってこよう」 トイレの水道で、ジュンは顔を洗った。下の瞼が赤く腫れている。 あんなに泣いたのは、久しぶりだった。 「我ながら、ひでえ顔してるな」 思い出すと、また目頭が熱くなった。涙は、まだ尽きていなかったらしい。 花瓶に水を汲み、ジュンは薄暗い廊下に出た。 翠星石の病室に戻り、蒼星石が持ってきた花を生けた。 少しだけ、病室の雰囲気が和らぐ。だが、所詮は誤魔化しにすぎない。 窓から射し込む月の光に照らされ、窶れた翠星石の顔が死人のように見えた。 そんな彼女を見たくなくて、ジュンはカーテンを引いて月光を遮った。 「誰でも良い。翠星石を……目覚めさせてくれ。 頼むから、翠星石を――」 神でも仏でも悪魔でも構わない。 翠星石を救ってくれるのならば、ジュンはどんな事でもする覚悟だった。 ふわり―――― 夜風を孕んだカーテンが、ジュンの背後で舞い上がった。 おかしい。窓は全て閉じられて、施錠もしてあった筈だ。 そして、背後に何者かの気配―― 振り返ったジュンが目にしたのは、タキシードを着てシルクハットを被った ウサギの紳士だった。 「こんばんわ、非現実を求めし少年よ」 「なっ……なんだ、お前は!」 「日常と非現実を渡り歩く道化に、名など有りませんよ。ワタシはただ、 キミの要求を知って、お節介を焼きに来ただけです」 「お節介、だって?」 鸚鵡返しに訊いたジュンに、道化ウサギは無言のまま頷いた。 「キミの願いは、そのお嬢さんを助けること。 しかし、一筋縄ではいかない。 何故なら、キミと彼女は魂が反撥し合っているのですから」 「ふざけた事を言うな! 僕も翠星石も子供の頃から一緒に居るんだぞ」 「だから、反撥など無い――と? いいえ。キミが気付いていないだけで、 水面下では現実に反撥しているのですよ。例えるなら、その特性は…… そうですね、コレに似ているでしょうか」 言って、道化ウサギがタキシードのポケットから取り出したのは、 赤と青に塗り分けられた、一本の棒――――棒磁石だった。 「キミをN極とすれば、彼女もまたN極なのです。 本来なら同じもの同士が引き合い、結合するのが自然なのですがね」 道化ウサギは右と左の拳を軽くぶつけて、ぱっ……と五指を開いた。 そして、当惑するジュンの顔を見て、愉快そうに目を細めた。 「キミ達は心で惹かれ合いながらも、どこかで―― 一定の距離を保った関係を甘受していたのではないですか?」 ウサギの指摘は核心を衝いていた。幼なじみという繋がりに甘えて、 そこから先の関係……恋人同士になりたいだなんて考えもしていなかった。 そんな努力をせずとも、いつだって一緒に居られると思っていたから―― 「キミ達がN極同士でありながら繋がりあえた理由は、ひとつ」 道化ウサギは棒磁石をジュンの眼前に掲げて、片方の端をトントンと指で叩いた。 「S極が、とても身近に存在していたからですよ」 道化ウサギの言うS極が誰なのか、ジュンは直ぐに解った。 翠星石との仲を取り持ち、新たな関係を築く事に戸惑う自分たちの背中を押して、 一歩踏み出す勇気をくれた娘…………蒼星石の存在なくして、二人の交際は有り得なかった。 「このお嬢さんを目覚めさせるには、彼女の存在が必要なのです」 翠星石は日常の非現実面に陥っていると、道化ウサギは話していた。 現実世界から抜け落ちて、帰り道を見失っているのだ――と。 「だったら、蒼星石にどうして貰えば、翠星石は目を覚ますんだ? 僕が身を引いて、姉妹が一つの磁石に戻れば全ては円満に解決するのか?」 ジュンの問いに、道化ウサギは頸を横に振った。 今更、ジュンが翠星石から離れたところで、現状は何も変わらない。 寧ろ、翠星石を見殺しにするに等しい行為だった。 ジュンが日常の非現実面に落ちて、翠星石に現実を悟らせなければならない。 道化ウサギは確かに、そう言った。 非現実面は、日常生活のあらゆる場所に点在している。 そこから、入り込むのだ――とも。 では、どうやったら、日常の非現実面に入れるのかと問えば、 向こうの世界でジュンと翠星石の間を引き裂こうとする蒼星石を、 現実面で始末すれば良いと答えた。そうすれば、一石二鳥。 必ず非現実面に落ちることが出来て、しかも邪魔者が消えているとあれば、 この上なにを不満と考えようか。 「このお嬢さんを死の罠から救い出すには、この方法しかないのですよ」 ――これしかない。 それは、ジュンにとって決定的な一言となった。 躊躇いが全くない訳ではない。 だが、今のジュンにとって、翠星石を助ける目的以外は、悉く些末な問題だった。 「決行は――――明日だ」 そして日付は変わり―― 「こんにちわ、ジュン君。大事な話って、なに?」 「悪いな、急に呼んだりして。取り敢えず、上がってくれよ」 「ああ、うん……お邪魔します」 桜田家を訪れた蒼星石を、ジュンは満面の笑みで迎えた。 蒼星石の挨拶に、のりの返事は無かった。 「姉ちゃん、今日は部活で居ないんだ。先に、部屋へ行っててくれ。 紅茶、煎れてくから」 「うん。解ったよ」 短く答えて、蒼星石は足取りも軽く階段を昇っていった。 ジュンは、キッチンの収納扉から、今日のために研いでおいた出刃包丁を 抜き出した。 切っ先が蛍光灯の明かりを拾って、鋭く光った。 「これしかないんだ。翠星石を救うには、これしかないんだ」 呪文のようにブツブツと呟きながら、出刃包丁を逆手に掴んだジュンは階段を昇り始めた。 蒼星石の待つ、自分の部屋へと向かって……。 包丁を握りしめて現れたジュンを見るなり、蒼星石は血相を変えて後ずさった。 「な、なんなの、ジュン君……変な冗談は止めてよ!」 「――――なんだ。翠星石を…………これしか」 「ちょっ……やだっ! 来ないでよっ!! 近づかないでったらっ!!!」 本・文具・目覚まし時計・ぬいぐるみ・ハンガー・棚の上の呪いグッズ。 蒼星石は辺りにある物を手当たり次第に掴んではジュンに投げ付けたが、 それでジュンの接近を止める事など出来なかった。 部屋から逃げ出そうにも、扉と蒼星石の間をジュンが遮っている。 武器になりそうな物を探して辺りに視線を走らせるが、もう机上の液晶ディスプレイくらいしか残っていなかった。 じわじわと部屋の片隅に追い詰められていく。 蒼星石の膝裏が、ベッドに当たった。 「蒼星石ぃ――っ!」 「いやぁぁっ!」 蒼星石をベッドに押し倒して馬乗りになると、ジュンは右腕を振り上げた。 何かに取り憑かれた瞳――濁った目をしたジュンの顔は狂気に歪んでいた。 「もう、これしかないんだっ! 翠星石を助けるためには、これしかっ!」 「いやっ! いやぁっ!! こんなの、いやあぁーっ!」 暴れる蒼星石の両腕を、ジュンは左手と右足で抑え付けた。 もう、何も障害は無い。この包丁を振り下ろせば、翠星石を連れ戻せる。 しゃくり上げ、嗚咽する蒼星石を見下ろしながら、ジュンは―― 束の間、逡巡して…………包丁を振り下ろした。 それは、ほんの一瞬の出来事だった。 きつく目を閉じて、顔を背けた蒼星石。涙が光る彼女の横顔に、あの夜、 街灯の下で気を失っていた翠星石の横顔が重なって……消えた。 (違うっ! 僕は、ただ――翠星石を救いたかっただけなんだ!) 狂気の中で、ジュンは理性の叫びを聞いた。 (だからこそ、蒼星石に危害を加えちゃ駄目だ!) どすっ! 「――――っ!」 ――部屋中に、純白の羽毛が舞い上がった。 枕に突き刺さった包丁は、蒼星石の首筋から五センチと離れていなかった。 ジュンは両手で頭を抱えて、恥も外見もなく号泣していた。 「ごめん、蒼星石……僕は、なんて事を…………してしまったんだ。 翠星石が戻ってきたって、蒼星石が居なければ……僕たちだけでは…… ひとつに、なれないのに――」 蒼星石の上から退いたジュンは、まるで小学生のように泣き喚いて膝を抱えた。 そして、蒼星石も抑え付けられていた姿勢のまま嗚咽を洩らし続けた。 夕暮れの病室に佇む、二つの人影……ジュンと蒼星石だ。 ベッドの上では痩せ衰えた翠星石が、暢気なほど穏やかな寝息を立てている。 「始めようか、ジュン君」 「ああ、始めよう」 ジュンと蒼星石は、とても清々しい顔をしていた。 泣きたいだけ泣いて、今まで胸の内に溜め込んできた鬱憤の全てを、 吐き出し尽くしたのかも知れない。 漸く、気持ちの整理がつけられた気分だった。 ジュンは翠星石の口元を覆う酸素吸入器を掴んで、静かに外した。 こんな事をすれば彼女は死んでしまう。 だが、これこそ蒼星石が提案した非現実世界への渡航チケットだった。 これから助けようといている者を、自らの手で殺す矛盾。 それが日常の中の、非現実的な場面を呼び覚ます。 ふと、病室に一陣の風。 「ほう? なるほど、そういう手できましたか」 やはり……来た。ジュンと蒼星石は、互いに目で合図を交わして頷いた。 事前に検討していたとおりに、事は運んでいる。 静かに振り返る二人。そこには、目を細めて笑う道化ウサギが立っていた。 「てっきり、その娘を殺すものと確信していたのですがね」 「くっ! お前が、ジュン君を誑かした道化かっ!」 「待つんだ、蒼星石!」 今にも殴りかからんばかりの勢いで立ち上がった蒼星石の腕を、ジュンの手が繋ぎ止めた。 血気に逸って行動すれば、自分の様に心の隙を利用されかねない。 「僕達には、こいつと無駄口を叩いてる暇なんか無い」 「でしょうね。そこのお嬢さんの余命は、あと僅か。命の炎が消える間に、 キミ達が彼女の心を呼び覚ませるかどうか…… 久しぶりに、面白い物が見られそうですね」 言って、道化ウサギは病室の扉を指差した。 「ほら、もう非現実世界は開いていますよ。あの扉が境界としてね」 一見すると、何の変哲もない病室の扉。 けれど、あの向こうには翠星石の心を呑み込んだままの非現実が広がっている。 その場所が如何に恐ろしいかろうとも、逃げ出す訳にはいかなかった。 「行こう、蒼星石。翠星石を探し出して、必ず……連れ戻すんだ!」 ジュンが差し出した右手。 蒼星石は、彼の手と眠り続ける姉の顔を交互に見遣り、しっかりと握った。 もう一度、この二人に確かな絆を取り戻させるために。 病院内は疎か、非現実世界は街中ですら、不気味なほど静まり返っていた。 もっと魑魅魍魎の跋扈する地獄の様な空間をイメージしていた二人は、 あまりの静けさに却って不安を覚えた程だった。 二人は手を繋ぎながら、有る場所を目指して静寂な街を走り続けていた。 「翠星石は僕との暮らしを楽しんでいると、あいつは言っていたんだ」 「だとしたら、姉さんはきっと、ジュン君の家に!」 「ああ。とにかく、行って見るしかないさ」 桜田家に着いて、ジュンと蒼星石は垣根越しに家の様子を窺った。 花壇は奇麗に整備され、庭やベランダの物干し竿には真っ白な洗濯物が 下げてあった。間違いない。誰も居なければ絶対に生じ得ない生活臭が、 この家には濃く感じられた。 「ジュン君! 居たよ、一階のリビングだ」 蒼星石に服を引っ張られて、ジュンは庭の向こう……閉ざされたリビングの 窓を凝視した。 探し求めていた最愛の人、翠星石。 彼女はリビングのソファに座って、テーブルに突っ伏していた。 よく見れば、丸めた背中は小刻みに震えている。泣いているようだった。 ずっと、こんな世界に、ひとりぼっちで閉じこめられていたのだろう。 会いたかった。これで、やっと会える。 ジュンの胸は、思慕の情で今にも張り裂けんばかりだった。 ジュンは玄関のブザーを押すのも間怠っこしくて、ジュンは庭を横切り、 リビングの窓を叩いた。 翠星石に触れたい。彼女と話をしたい。確かに存在する証が欲しい。 コンコンコン……。 窓を叩く音に、翠星石は頚を巡らせた。 ――立っていたのは、ジュン。 風にはためく洗濯物を背景に、彼は微笑んでいた。 胸が締め付けられる。翠星石は言葉を失って、口をパクパクさせていた。 ずっと探し求めていた、かけがえのない存在。 その彼が、今、手を伸ばせば触れられる距離に居る。 翠星石は勢い良く駆け出して、窓を開け放った。 「ジュンっ!」 「やあ……迎えに来たよ、翠星石」 ジュンが最も見たかった満面の笑みを、翠星石は惜しみなく浮かべてくれた。 だが、それは三秒と持たずにくしゃくしゃ歪んで、涙の大洪水に変わった。 蒼星石が、ジュンの背中をポン……と押した。 一歩、踏み出したジュン。 それに応じるように、翠星石も一歩を踏み出し、素足のまま庭に降り立った。 互いの瞳に映る顔は泣き笑いだけ。ジュンもまた、気付かぬうちに泣いていた。 二人は、失われた時間を取り戻そうとするかのように、しっかりと抱き合った。 求めていた笑顔。求めていた温もり。 現実世界から切り離された翠星石の心が、いま此処にある。 ジュンは翠星石の華奢な身体を抱き締めながら、栗色の長い髪を撫でた。 「会いたかったよ、ずっと」 「うん……私もです。ずぅっと、ジュンのことだけ考えてたですぅ♥」 短い会話。もっともっと話したいことがあったのに、今は何も思い浮かばない。 こうして触れ合っているだけで、ジュンと翠星石は心が満たされていった。 もっと、心の渇望を満たしたい。 二人は少しだけ身体を離して見つめ合い、徐に顔を近付けていった。 「あのさぁ……折角の良いムードを邪魔するのはとっても忍びないんだけど、 あまり悠長には構えてられないみたいだよ」 蒼星石に言われて、ジュンは我に返った。 ここは非現実の世界。本来、彼等が暮らすべき場所ではないのだ。 病院に開いた境界線は、まだ繋がっているのだろうか。 仰ぎ見たジュンは、病院の上空に怪しい暗雲が広がり始めているのを目にして表情を曇らせた。 「確かに、急いだ方が良さそうだな。走れるか、翠星石?」 「いざとなったら、ジュン君に背負ってもらえばいいよ」 「大丈夫。早く行くです!」 翠星石が靴を履くのを待って、三人は病院へ向かって走り出した。 病院の上空に立ちこめた暗雲は、さらに濃さを増していた。 それは、現実世界の翠星石が瀕死の状態だという証拠。 境界線が途切れるまで、あと、どれだけの時間が残されているだろう。 焦るジュンの隣で、翠星石は不意によろめき倒れた。 「翠星石!」 抱き起こしてジュンが呼びかけると、翠星石は弱々しく微笑んだ。 彼女の顔から、急速に血の気が失せていくのが分かった。 まるで、この世界そのものが、翠星石を引き留めようとしているみたいだ。 「くそっ! 僕は諦めないからな」 ジュンは両腕で翠星石を抱き上げ、蒼星石と並んで走り続けた。 息が切れて、気を張り詰めていないと脚が縺れそうになる。 けれど、ジュンは決して脚を止めようとしなかった。 病院の玄関を潜り、ロビーを横切って階段を昇り続けた。 喉はカラカラで、脚の筋肉もすっかりパンパンに張っている。 「も、もうちょっとだぞ、翠星石。しっかりするんだ!」 「姉さん! 此処まで来たのに、死んじゃ駄目だよ!」 さっきから声をかけ続けているものの、翠星石の容態は深刻だ。 早く、現実世界に連れ戻さなければ! だが、現実と非現実を結ぶ境界線を目にしたジュン達は、言葉を失った。 境界線は、今にも消滅しそうなほど小さくなっていた。 「くっ! まだ、消させないっ!」 蒼星石は境界線に駆け寄ると身体をねじ込ませ、四肢を突っ張って空隙を広げた。 「ジュン君、今の内に、早く……姉さんを!」 「すまん、蒼星石!」 辛うじて蒼星石が支えてくれているものの、境界線は人ひとりが漸く這って 進めるくらいのものだった。 ジュンは昏睡状態の翠星石を脇に抱えながら進み、なんとか境界線を越えた。 「やったぞ! 今度は僕が支えるから、蒼星石も早く来るんだ!」 「良かった……なんとか、間に合ったね」 境界線の向こうで、蒼星石は嬉しそうに微笑みながら、寂しそうに呟いた。 「――悔しいな。正直、もう……支え……切れない」 「なっ! なに弱気になってんだ! こんな時に悪い冗談なんか言うなよ!」 「あ、はは…………ごめん、ジュン君」 蒼星石の膝ががくりと折れて、彼女を押し潰さんばかりに境界線が狭まった。 ジュンは急いで境界線の縁に指を掛けて、渾身の力で引っ張った。 「諦めるなよ、蒼星石! 早く出てこい!」 ジュンの努力を嘲笑うかの様に、境界線はどんどんと小さくなっていった。 「あのさ…………こんな時に言うのも、何なんだけど」 バスケットボールくらいに収縮した境界線の向こうで、蒼星石が言った。 「白状すると、ボクもね……姉さんに負けないくらい、ジュン君のこと―― 大好きだったよ」 「蒼星石! 馬鹿なこと言ってる余裕があるなら……」 「そうだよね。ごめん……変なこと言って」 境界線が更に収縮して、ハンドボール大になった。 「だけど、伝えておきたかったんだ。だって――」 顔が真っ赤になるほど力を込めて引っ張っているにも拘わらず、 野球ボールくらいまで小さくなっていき―― 「もう、二度と会えないかも……知れないから」 「ふざけるなっ! そんな事、僕は許さないぞ!」 「ふふ……ありがとう、ジュン君。さようなら――――」 「!!」 境界線は、蒼星石を呑み込んで消えた。 「……ジュン」 境界線が存在していた辺りを茫然と眺めていたジュンの背中に、 翠星石の掠れた声が投げかけられた。 「蒼星石は……どこに居るですか?」 ジュンは何も言わずに立ち上がると、ベッドの上で上半身を起こした翠星石の側に行き、 涙を堪えながら彼女の肩を抱き締めた。 翠星石が、やっと目を覚ましてくれた。 それは蒼星石が絆となって、二人を結び付けてくれたからだ。 彼女が残した最後の言葉を、翠星石は聞いていただろうか? やるせない想いが、ジュンの心に溢れていた。 「翠星石……あのな。蒼星石は――」 だが、本当のことを伝えなければならない。 意を決して口を開いたジュンに、翠星石は言葉を重ねた。 「私達の為に……向こうの世界に、残ったんですね」 翠星石の声は震えていた。 病室を出て、ジュンと翠星石は玄関先の花壇を眺めていた。 よく晴れた日の、ありふれた昼下がり。 そよ風に吹かれて、色とりどりの花が一斉に揺れた。 けれど、そんな自然の美しさを目にしながらも、二人の心は沈んでいた。 蒼星石の事を思うと、翠星石が目を覚ました喜びも半減した。 結局のところ、結末は道化ウサギの言っとおりになった訳だ。 翠星石を救うために、蒼星石を犠牲にする。 それは、かけがえのない絆を失った事を意味した。 僕たちは、これからも付き合っていけるのだろうか? ジュンの胸に、そして翠星石の胸に、一抹の不安が影を落としていた。 そこに、一陣の風。 道化ウサギが来たのだろうか? ハッと顔を上げた二人の目の前で、突然の落雷が生じた。 こんな晴れた日に、落雷など有り得ない。 ジュンと翠星石は驚愕に目を見開いたまま、肩を寄せ合った。 ――そんな彼等の後ろに、腰に手を当てて立つ女の子が、ひとり。 「しょうがないな、キミたちは。やっぱり、ボクが居ないとダメなんだね」 一斉に振り返る二人。 駆け寄る蒼星石。 柔らかい日射しの下で、三人はしっかりと抱き合った。 その様子を、病棟の屋上から見下ろす影が、ひとつ。 シルクハットを頭に載せた、あの道化ウサギだった。 「立派に死ぬことは、大して難しいことでは、ありません。 本当に難しいのは、立派に生きてゆくこと。そう……あなた方のように、ね」 ――それでは。いずれ機会がありましたら、またお会いしましょう。 道化ウサギの声が、吹き抜ける風の中に谺する。 けれど、その姿はもう、屋上から消え失せていた。