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ボクと水銀燈が、コミケのコスプレ会場を訪れた理由は、単純にして明快。 この人混みの中から、水銀燈の親友である柿崎めぐさんを探し出し、保護するためだ。 柿崎さんは、『えーりん』とか言う謎のコスプレをしているらしいんだけど……。 どこを見渡しても、人、ヒト、ひとだらけ。 しかも、煌びやかで凝った衣装のコスプレイヤーが、ほとんどだ。 真夏の強烈な日射しに、眩しいコスチューム……なんだか目が痛くなってきたよ。 もう帰りたい。誰でもいいから、ボクを、おうちに連れ戻してよ。 つい、いままで懸命に呑み込んでいた弱音が、だらしなく口から溢れそうになった。 けれども、運命の女神は、そんな甘えさえも許してくれないらしい。 「あぁっ!?」 見つけてしまったよ。間近な人混みに佇む、赤と青のツートンカラーの後ろ姿を。 肩の丸みや腰つきからして、女の子なのは確定的に明らかだ。 およそ有り得ない白い長髪が奇妙だけど、おそらく、ウィッグだろう。 そのコスプレさん以外にも、多くの人が髪を染めたり、カラフルなウィッグを使用していたからね。 すぐ腕を伸ばせば、肩を掴める距離だと直感で悟った瞬間―― 咄嗟に、の表現がドンピシャなほど、そこからのボクの行動は反射的だった。 右手で水銀燈の服を掴んで引っぱり、左手では、柿崎さんと思しい女の子の肩を叩いていた。 我ながら、器用な真似をしたものだね。 「なにっ?!」水銀燈が、ギョッと振り返り。 「ひぁっ?!」コスプレさんも、ビクッと弾かれたように身体を震わせる。 そして、コスプレさんが振り向いて数秒―― ボクたちは仰天するあまり口を開けっ放しで、二の句を失ってしまった。 なんとか喋れるようになっても、絞り出せたのは呻き声だけ。 どうして、そんなにも驚愕したかと言えば、そのコスプレさんというのが…… 「あれ? 銀ちゃんと、蒼ちゃん……だよね?」 「そう言う貴女は、もしかしなくても薔薇水晶っ!」 水銀燈に名前を呼ばれて、薔薇水晶は、にこりと白い歯を浮かべた。 トレードマークの眼帯を外してしまうと、コスプレと相俟って、まるっきりの別人だよ。 「キミって、コスプレイヤーだったのかい?」 「そうだけど……知らなかった?」 「聞いてないわ! なんなのよ、もぅ。頭がおかしくなりそう。どうしたらいいの?」 「人生……山あり谷あり。諦めが肝心」 しれっと答える薔薇水晶。それって、あんまり答えになってないような気がする。 水銀燈は頭痛を催したらしく、額に手を当てている。いやはや、ホントに『どうしたらいいの?』と言いたい。 驚かされてばかりで、もう身もココロも疲労困憊の極致だよ。 「――あれ? でも、ちょっと待って」 ボクの中に、素朴な疑問が生まれた。 雪華綺晶は最初っから、妹の薔薇水晶に売り子を頼めばよかったんじゃないのかな? 現に、こうしてコスプレには参加してるわけだし。 その疑問をぶつけると、薔薇水晶はまたも、淡々と返してきた。 「全力で拒否った。お店番……退屈だから」 「そうだね。キミはとても賢明だよ、薔薇水晶。ボクは真相を知らなすぎた」 「私も、バカだったわ。きっぱり断っておけばよかった」 お陰で、揃いも揃って生き恥を曝す羽目になったんだからね。 顔を見合わせたボクと水銀燈は、飽きもせずに眉を曇らせ、吐息した。 すべては今更だけど、それでも。 しかし、夏日に炙られて萎れた花みたいに、悄気てばかりもいられない。 気を取り直したボクは、薔薇水晶に柿崎さん捜しを手伝ってもらえないか訊ねた。 人数が多いほうが、担当エリアを絞れる分、早期発見も期待できるからね。 ひいては、ボクの帰宅も早まるというワケだ。 「手伝っても……いいよ」 「ホントに? ありがとう、薔薇水晶」 「ただし、条件がある……ひとつだけ」 「仕方ないね、大概の無理は聞くよ。少し遅くなってもいいなら、夕飯でも奢ろうか」 ファミレスで食事するくらいなら、みっちゃんが払ってくれる約束の日当で賄えるだろう。 より以上を所望されたら、残念ながら、引き下がるしかないね。 ボクの提示した条件に、薔薇水晶は両腕で頭上に○を作る……かと思いきや、いきなり×に変えた。 「じゃあ、どうしてもらいたいの、キミは」 「儀式を執り行ってくれれば……おk」 「なにを?」 「ばらりん♪ばらりん♪助けてばらりん♪……って。こう、右腕を振りながら」 なんなのさ、そのワケの解らない狂行は! あぁ、とうとう、水銀燈が頭を抱えて蹲っちゃったよ。 ボクも水銀燈も、もう半日以上は会場にいる計算だけど、絶対、このノリには馴染めっこない。 所詮、アウトサイダーだ。ならば、もう好き好んで、ここに長居するべきじゃないだろう。 いよいよ帰りたい衝動を抑えきれなくて、ボクは自棄気味に、薔薇水晶の求めるがままにした。 薔薇水晶、会心の笑みを浮かべて、ビキィン! とサムズアップ。 「銀ちゃん……。めぐさんは、私と同じ永琳コスで……間違いない?」 「ええ、そう。それと同じデザインよ。どういう経路で手に入れたのかは、不明だけど」 言って、水銀燈は自分の服を見おろし、顔を赤らめた。 「この恥ずかしいコスチュームだって、めぐが用意したものでね」 その言を受けて、薔薇水晶の瞳が光を放った。 類は友を呼ぶ。同じ病を患う者同士、通じ合うモノがあるのかな。 薔薇水晶は、柿崎さんに仲間のニオイを嗅ぎ取ったみたいだ。 「気が合うかも。めぐさんとは……ゆっくり、お話してみたい」 ボクが水銀燈に聞いたところでは、柿崎さんは先天的な持病で、長期入院しているらしい。 そんな環境ならば、病室で退屈しのぎに、マンガ雑誌を読んだりもするだろう。 自覚のないまま、ほにゃららフリークになってることだって、充分に考えられる。 しかし、眉間に深い皺を刻んだ水銀燈が、不満そうに口を挟んだ。 「よしてよ。めぐはねぇ、音楽を聞いたり、歌っているのが大好きな娘だったのよ。 それが、急にコミケに行きたいなんて言いだして……理由を訊いても、はぐらかすし。 どうにも、腑に落ちないのよ。さては、誰かに唆されたに違いないわ!」 唆されたとは、水銀燈の勘繰りすぎじゃないのかな。 柿崎さんも、なにかの弾みでコミケに興味をそそられたのかもしれないし。 たとえば、同年代の入院患者にマンガ好きな子がいて、その子に触発された……とか。 「テレビやラジオで見聞きして……楽しそうって思ったのかも」 「薔薇水晶の意見も、充分に考えられる線だね。その可能性はないのかい、水銀燈?」 「うーん。皆無と言い切る根拠も自信も、さすがにないわねぇ。四六時中、めぐと一緒にいられるワケじゃないしぃ」 そういうこと。物事を変えるキッカケなんて、どこに転がってるか判らないもの。 なのに、勝手な思い込みで決めつけるのは、不毛な諍いの種を増やすだけだ。 水銀燈に限らず、ボクの友人たちには、そんな美しくない真似はしてほしくないものだね。 「ひとまず、原因の追求は後に回そう。柿崎さんを保護するのが先決なんでしょ」 「……そうね。いい加減、私も帰りたいしぃ」 「今日はなんだか、キミとよく気が合うね。全面的に賛同するよ」 ――と、捜索を再開しようとしたんだけど……いきなり出鼻を挫かれた。 「おーい。なにしてるのさ、薔薇水晶」 ちょっと目を離した隙に、薔薇水晶が、見ず知らずのカメラマンの前でポーズをとっていたんだ。 そりゃあね、そういう場所かもしれないよ、ここは。 薔薇水晶だって、一生懸命つくった衣装を褒めてもらえたら嬉しいだろうし。 だけど、敢えて利己的な意見を述べさせてもらえば、柿崎さん捜しに集中してほしかったよ。 「硬いこと……言いっこなし。じゃあ、次は……三人で撮ってもらうお」 「え? ちょっと貴女、なに勝手に仕切ってるワケぇ」 「ふふ~ん。銀ちゃんってば照れちゃって……かーわいいんだぁ」 「なっ、バカじゃないの! ふざけないでよ、たかが写真じゃない」 うーん。キミは乗せるのが巧いね、薔薇水晶。 それとも、水銀燈が単純すぎるのかな。すっかり撮影される気になってるよ。 まあ、いつものように勢いで押し切られちゃうボクが、彼女を揶揄できた義理じゃないけど。 その後も、タチコマという着ぐるみのコスプレイヤーさんとも、ツーショットで撮られたり。 あちらこちらでお願いされるたびに撮影してもらいつつ、柿崎さんを捜していると―― 「あっ、見て見て、あれ!」 薔薇水晶が嬉々とした声で言うので、もしや柿崎さん発見かと、目を向けてみれば…… コスプレイヤーさんには違いなかったけれど、それは身長2メートル近い、大柄な男性だった。 しかも本格的な、ヴィジュアル系バンドを彷彿させる人間離れしたメイクまで施している。 「あれなら、ボクでも知ってるよ。映画にもなったDMCでしょ」 「そそ、クラウザーさん。最高……カッコイイね」 「どこが格好いいワケぇ? どう見たって、バカそのものじゃない」 「ちょっと、水銀燈。声が大きいよ。聞こえちゃったら、どうするのさ」 「ふん! 構うもんですか。聞こえたら、どうだって言うのよ」 「あぁもう。すっかり、やさぐれモードに……」 果たして、水銀燈の嘲りが聞こえてしまったらしく。 クラウザーさんは、のしのし大股でボクたちのほうに歩いてくると、徐に―― 「レイプ(×10)! はてなようせいなどレイプしてくれるわ~~~!!」 ヒイィ、どういうコトなのさ。激しく腰をカクカクしちゃって、このヒト変だよ! もう、どう対処したらいいか判らないボクとは対照的に、水銀燈は落ち着いたもので。 冷ややかに睨んでいたかと思えば、次には、クラウザーさんの股間を蹴り上げていた。 その際に、特殊なカットのスカートが捲れあがって、その……白いのが丸見えに……。 レオタードだよね、きっと。あんまり露出の際どいコスプレは禁止だって聞いたし。 ともあれ、騒ぎになる前にフォロー入れとかなきゃ。 ボクは、股間を押さえて蹲ったクラウザーさんの脇に駆け寄り、腰の辺りをさすってあげた。 「すみません。友だちが酷いコトしちゃって」 「イテテ……あ、平気だから、心配しないでいいよ……蒼星石」 「えっ? どうして、ボクの名前を?」 こんな背の高い男の人に、知り合いなんていないハズだ。 そう言えば、前に一度だけ会った薔薇水晶のお父さんは、背が高かったけど……まさか?! 「ハト豆な顔してるな。まあ、それも無理ないけどさ、これじゃあ」 乾いた笑いを漏らすと、男性は懐からナニかを取り出し、顔に装着した。 「僕だよ、蒼星石」 「ウソッ?! キミは…………ジュン君なのかい? ホントに?」 自分の目が信じられなかった。 でも、前にいるのは紛れもなく、同級生にして学級委員のメンバー、桜田ジュン君だ。 「でも、あの……言ったら失礼だけど、キミはもっと小柄で――」 「シークレットブーツだよ。40センチくらい嵩上げしてるんだ」 「あぁ、どうりで臑が異様に長いと思った。40センチも高くしたら、もう全然シークレットじゃないよね」 「気にするな。そんなの言葉のアヤだ」 伝家の宝刀『言葉のアヤ』で両断されたんじゃあ、後の句は続けられないお約束。 言葉に詰まったボクと入れ替わりに声を発したのは、水銀燈だった。 メガネをかけたことで、彼女にも辛うじてジュン君だと判別できたらしい。 「やぁね、どこのおバカさんかと思えば。貴方までコスプレ狂だったなんて」 大仰に肩を竦めて、続ける。「まったく、今日はどういう日なのかしら」 どう考えても厄日だと思うよ。まあ、言えば皮肉になるから、黙っておくけどさ。 いい加減、瑣末なことに心を波立たせるのにも疲れていたし。 「まあまあ、水銀燈。ここで逢ったのも、なにかの縁だよ。ジュン君にも、柿崎さんを探す手伝いをしてもらおう」 「それもそうね。めぐったら、どこをほっつき歩いてるんだか」 「……なんだ、おまえら。柿崎を探してたのか?」 さらっと、ボクと水銀燈の会話に、聞き捨てならない一言が割り込んだ。 「ジュン君! キミ、柿崎さんを知ってるのかい?」 「知ってるもナニも、あいつに頼まれてコスプレ衣装を縫ったの、僕だし」 「ちょっ、なに? めぐと貴方が知り合いだったって……聞いてないわよぉ!」 「そりゃまあ、SNSで交流し始めて、まだ日が浅いからな」 SNS……mixiかな? それにしても、また意外な真相が発覚したね。 柿崎さんと水銀燈のコスチュームの出所が、こんなカタチで明確になるとは思わなかったよ。 「ひょっとして、柿崎さんにコミケのことを吹き込んだのも、ジュン君だとか?」 「なんの話だ? 僕は関係ないぞ」 「……ううん。知らないなら、いいんだ。気にしないでね。それより、柿崎さんのことだけど――」 キミは、彼女の居場所を知っているのかい? 一縷の望みに期待して訊くと、ジュン君は自信に満ちた様子で頷いた。 「もちろんだ。さっきまで一緒にいたからな。案内してやるよ、こっちだ」 思いがけず急展開。それも、いままでのフラストレーションを一掃する大逆転だ。 「めぐさんに逢えるよ……やったね銀ちゃん」 「うっ、うぅっ。ホント、よかった。これで……これで、やっと帰れるわぁ」 薔薇水晶の言葉に、水銀燈が声を震わせる。泣いちゃうほど感激しているんだね。うんうん、解る解る。 かく言うボクも、ええい、あぁ、キミからもらい泣き~。 出がけの感じだと、みっちゃんのスペースに戻った頃には、もう完売してそうだし。 これで、これで……ボクはまた一歩、家路に近づけたんだ。こんなに嬉しいことはない。 ★ 「――で、柿崎さんと合流できたんです。まったく、人騒がせな話ですよね」 心地よい達成感から、みっちゃんにコトの顛末を語って聞かせるボクの声も弾んでいた。 「再会できたときの、水銀燈の嬉しそうな怒り顔ったら……あんな顔、初めて見たな」 「一件落着ね。これでコミケを嫌いにならないでくれたら、なおよしなんだけど」 「ボクに限ってならば、それは、ないですね」 嘘ではない。貴重な体験をさせてくれたコミケという小宇宙が、少しだけ好きになっていた。 とは言っても、二度とは訪れないだろうけれど。 そう告げると、みっちゃんは世界の終わりを迎えたかのような顔をした。 「残念ね。これを機に、コスプレに目覚めてくれないかな~、なんて期待してたんだけど。 まっ、仕方ないかー。蒼星石ちゃんの気持ちを尊重すべきだものね。 あ、でも万が一にでも気が変わったら、遠慮なく連絡ちょうだいねー」 心変わりなんて、絶対にないと思う。でもまあ、それは言わないでおいた。 なにも好き好んで他者との間に壁を設けななくても、いいんだからね。 「さって、と。あらかた売り尽くしたし、そろそろ店じまいしましょー」 「もう、片づけるんですか?」 「成果は充分よ。それに、私も島巡りして、掘り出し物をゲットしたいしー。 ホントに、今日はありがとう。蒼星石ちゃんのお陰ね」 そんな風に言われると照れる。 どこまで役に立てたのかは、実際のところ疑問だけど。折角なので、素直に喜んでおいた。 「これは、ほんの御礼の気持ち。受け取ってちょうだい」 言って、みっちゃんが差し出してきた封筒は、予想外に厚めだった。 詳細は伏せておくけれど、正直、こちらが申し訳なくなってしまうほどの額だったんだ。 その晩の日記は、いろいろとネタが多すぎて、なかなか書き終わらなかった。 一生に一度きりの、貴重な一日だからね。ちゃんと書き残しておかなきゃ。 でも、家族に話す気はない。親しき仲にも、言葉にできない秘密は、あるものだからね。 以降は、これといって大きなイベントもなく―― 夏休みは猛暑と蝉時雨の中へと、穏やかに融けていった。 ★ そして、月が変わり、いよいよ始業式の日。 「それじゃあ行こうか、姉さん」 「はいですぅ。おじじー! おばばー! 行ってくるですよー」 姉さんが大声で、玄関から奥の台所に声をかける。 最近、おじいさんたちも、歳のせいで耳が遠くなり始めたからね。 それを気づかってのコトなんだろうけど。 「そんな大きな声ださなくたって、ちゃんと聞こえてると思うよ。 姉さんの声って、ただでさえ、よく通るんだもの」 「一応ですよ、一応。ささ、ちゃっちゃと登校しちまうです」 「はいはい。張り切るのはいいけど、忘れ物しないでよ?」 「へーきのへーざですぅ」 ――なんて、新学期になっても、いつもどおり仲良し姉妹のボクたち。 でも、あのコミケの一件だけは、姉さんには秘密にしている。 雪華綺晶や水銀燈、ジュン君にも、ナイショにしてくれるよう電話で頼んであった。 およそ一ヶ月ぶりの学校は、若い活気に満ちあふれている。 多くの生徒は気怠そうだけど、その肌は健康そうに日焼けしていた。 「ん? なんですかね、昇降口が騒がしいですぅ」 周囲を観察していたボクのワイシャツの背を引いて、姉さんが話しかけてきた。 見れば、確かに人だかりができている。新学期の注意とか、掲示されてるのかな? しかし、それなら各教室のHRで先生が話すなり、プリントを配ればいいだけだよね。 興味津々の姉さんに腕を引かれ、行ってみると……。 「ウソっ?!」 思わず、ボクは声をあげて、口に手を当てていた。 掲示板に貼ってあったのは、学校行事についてではなく、大判に引き延ばされた写真だった。 それも、タチコマの着ぐるみとボクとの、コスプレツーショット。 「そっ、蒼星石?! これ、蒼星石ですよね? 一体、どういうコトですぅ!」 姉さんが、よく通る声でボクの名を呼んだりするものだから、生徒たちが一斉に振り向いた。 そして、無遠慮な視線と共に、ヒソヒソと囁きを浴びせてくる。 『ああ、あの子ね。真面目そうな顔して、こんなコトしてたんだ』 『やぁだ、恥っずかしいー』 『人は見かけによらないね~』 『やっべー。エロすぎだろ、これ』 『けど、スタイルいいよなあ』 『も、ももも、んもももも萌えぇ~』 『ハァハァハァハァハァハァハァハァ……ッ!』 どうして……誰が、こんな真似を? なんで、こんなコトに……。 ああ、痛い。周りの空気が痛いよ。姉さんまで、そんな眼でボクを見ないでぇっ! 「う……やだ…………イヤだぁっ!!」 もう限界。いたたまれなくて、ボクは泣きながら学校から逃げ出した。 姉さんの引き留める声にも立ち止まらず、家まで駆け戻り、ベッドに倒れ込んだ。 ★ 「…………あ……れ?」 ――気がついたら、ボクは制服姿のまま、ベッドに横たわっていた。 なんで、こんなコトしてるんだっけ? 頭が朦朧として、よく思い出せない。 濃霧が立ちこめた森の中を、手探りで進んでいるみたいで、なんだか心許なかった。 「制服、着てる…………あ、学こ……うぅっ!」 いきなり、頭に鋭い痛みが走って、思わず顔を顰めた。 それ以上の思考を閉め出そうとするみたいに、頭痛は収まらない。 ボクは両手で頭を抱えながら、なにか違うコトを考えようとした。 「今日は……何日だっけ? えと……9……痛っ! …………8…………あれ?」 不意に、頭痛が和らいだ。8。そう。8という数字が、とても気持ちよく思えた。 「――そうか。あははっ」 その意味するところを悟ると、笑みがこみ上げてきた。「今日はまだ、8月なんだ」 いけないな。どうやら夏休みボケしてたらしい。日付を間違えてしまうだなんてね。 そうだ。折角だから、このネタを日記に残しておこう。後々の笑い話として。 足取りも軽く机に向かい、ボクは開いたページに、一行目を記した。 【ボクの夏休み。8月32日――】 この直後だった。手元の携帯電話が鳴りだしたのは。 表示された電話番号は、ボクのよく知る人物のものだった。 -4-
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――例えば、こんな状況を思い浮かべてみるですぅ。 仲の良い友達と出かけた、愉しいドライブ。 その帰り道で…… ほんの一本、道を間違えて、山道に迷い込んでしまったです。 日が暮れて、うら寂しい山道は、どんどん狭くなっていくですよ。 でも、方向転換しようにも、細い一本道なので出来ないですぅ。 直進しか出来ない一本道。 やがて、ぽっかりと黒い口を開いたトンネルに差し掛かったです。 そのトンネルが……曰わく付きのトンネルだったとしたら―― これは、そんな不思議な体験をした姉妹の物語ですぅ。 ちなみに、語り口調が稲〇〇二に似てるのは、気のせいです。 『コワイ話』 その日、翠星石は妹の蒼星石が運転する車で、ドライブを愉しんでいた。 免許を取ったばかりとは言え、危なっかしいところは全くない。 基本に忠実という、蒼星石の性格的な部分も、多分にあるのだろう。 まあ、それでも…… 本当に細々した難点を挙げれば、法定速度を遵守しすぎるところか。 ちょっと観光地で遊んだ後、明るい内に、帰途に就いた二人。 朝、早起きしてお昼のサンドウィッチを作った事もあってか、 アシストシートの翠星石は、ついウトウトと居眠りを始めてしまった。 そんな姉を気遣って、蒼星石もカーステレオの音量を下げる。 この和やかな雰囲気のまま、夕方までには帰り着ける……ハズだった。 突然、タイヤを鳴らして車が急停止。翠星石は、眠りの世界から呼び戻された。 車窓の外は、暗い。もう日が暮れてしまったらしい。 「蒼星石ぃ、ここ何処ですぅ?」 寝ぼけ半分に問い掛ける姉に、蒼星石は地図を片手に、申し訳なさそうに呟いた。 「ごめん、姉さん。道を、間違えちゃったらしい」 間違えた……で済まされても困る。 こんなコトなら、カーナビを装着しておけばよかったと思っても、後の祭り。 ヘッドライトに照らし出される景色は、不気味に静まり返った木々。 光の及ばない先には、暗い闇が、ひっそりと息を潜めている。 疎らに点在する街灯が、余計に心細さを募らせるのは、皮肉としか言いようがない。 翠星石は不安げに頬を強張らせて、困り顔の妹をせっついた。 「気味が悪いですぅ。早く、引き返すですよ」 「そうしたいのは山々なんだけどね。ここ……狭い一本道なんだよ。 何度か切り返してみたけど、ちょっと方向転換は無理だね」 確かに、右側は山の斜面。左は、谷間。 木々の枝に遮られて下は見えないが、かなり落差がありそうだった。 ムチャをして、ガードレールを突き破りでもしたら、それこそ一巻の終わりだ。 「もう少し走れば、その内、転回できる場所があると思うよ。 こう言うときは変に心配しないで、気楽に行こう」 「うぅ……解ったです」 通常、こういった山道には、故障車を停める待避所が設けられているものだ。 そこまで辿り着ければ、こんな暗い山道とも、お別れできる。 ――けれど、更に進んでみても、待避所は無かった。 街灯の数は、進むにつれて、どんどん少なくなっていった。 さっき相談した時から、擦れ違う対向車すらない。山道は、闇に沈んで行く。 そんな寂しさを紛らしたくて、楽しい話をしようと思うのだけれど…… 翠星石も、蒼星石も、ココロまで夜闇に閉ざされてしまったように、 明るくて楽しい話題を、見つけられなかった。 ラジオをつけても、山間と言うこともあって、ノイズばかり。 結局、翠星石がノリの良いCDを選んで、カーステレオに放り込んだ。 やがて、道幅は更に狭まり、林道かと思えるほどになった。 二人とも敢えて口には出さないけれど、不安に駆られているのは明らかだ。 車内の空気が、重い。 垂れ流しのディスコミュージックが、ヤケに白々しく聞こえた。 ――不意に。 ヘッドライトの光芒に、古びたトンネルが浮かび上がった。 色褪せたコンクリートは、苔や雑草に呑み込まれようとしている。 しかもトンネル内は、やはりライトが設置されていないのか、真っ暗だ。 今どき、舗装されている道で、こんなトンネルは珍しい。 「蒼星石ぃ~。あそこ、通るですか?」 「確かに、薄気味悪いけど……仕方ないよ。さっさと通り抜けちゃおう」 オドオドと声を震わす翠星石は、今にも泣き出さんばかりの顔をしている。 彼女は、こういったコワイ話系が苦手なのだ。 おっかなびっくりの姉を宥めながら、蒼星石は、トンネル内に車を滑り込ませた。 そして、トンネルの中程くらいまで進んだとき―― それまで全く異常なかったエンジンが、ぷすん……と、停止してしまった。 「なっ、なななな……なに悪ふざけしてるですかぁっ!」 「ちょ! グーで撲たないでよ! ボクのせいじゃないってば。 変だなぁ……急に、どうしたって言うんだろう?」 ガソリンは、まだ半分以上も入っている。ガス欠ではない。 蒼星石は、何度もキーを回してみたが、セルは始動しなかった。 ヘッドライトは点いたままなので、バッテリーが上がった訳でもない。 「何してるですっ! 早く、出発するですぅっ!」 「分かってるよ! だけど、エンジンが、かからないんだってば!」 どうして? 蒼星石は焦りで我を忘れそうになったが、ここは一回、深呼吸。 改めて、エンジンスタートの手順を、アタマの中で辿ってみる。 ……と、ギアが『D』のままだった。 「あ、ゴメン。これじゃセルが回る筈ないや」 「もぉっ! なにやってるですか、バカチンっ! 脅かすなですっ!」 「だから、ゴメンってば」 苦笑しながら言って、蒼星石はギアを『N』に戻し、キーを回す。 今度は、セルも一発で始動した。 翠星石が、ホッと息を吐くのが聞こえて、蒼星石は思わず吹き出した。 本当に、怖がりなんだからなぁ。 さて、早く抜けてしまおう。 そう思った矢先、今度はルーフが、どぉんと鳴った。 これには、流石の蒼星石も小さな悲鳴を上げて、ビクリと肩を震わせた。 後から、じわじわと肌が粟立ってくる。 「なな、なんです、今の音は?」 「落石……かなぁ? 古いトンネルだからね。有り得るかも」 ちょっと見てくる、とシートベルトのバックルに添えられた蒼星石の手を、 翠星石は素早く握りしめて、必死の形相で引き留めた。 「行くなですっ! 確かめるなら、トンネルを出てからにしやがれですっ」 「……うん。解ったよ。早く抜けてしまおう」 蒼星石は静かにアクセルを踏み、ゆっくりと車を走らせ始めた。 ごとん! べこん! ごん! 幾らも走らない内に、またルーフが鳴った。 今度は、誰かが叩いているように、何度も、何度も。 ばかりか、掌でリアウインドゥを叩いているような、ビタビタという音まで! カーステレオさえも、メチャクチャな旋律を吐き出している。 背後に――リアシートに、ナニかが居る。 気配は感じているのだが、二人とも振り返ろうとはしない。 蒼星石も、努めてバックミラーを見ないようにしていた。 「ぅひぃぃ! な、なんです! なんなんですぅ!」 「わ、解らないって。ボクに聞かないでよっ!」 とうとう、翠星石は泣き出してしまった。 蒼星石が、ぐいとアクセルを踏む。 エンジンの唸りが、トンネルの中に、おんおんと響き渡る。 ぐんぐんとスピードが増し、トンネルの出口が、仄かに見えてきた。 「あっ! 出口だよ、姉さん!」 「もうイヤですっ! 早く出るですぅっ。早く早く早くっ!」 すっかりパニック状態の翠星石に急かされ、蒼星石は床に着くまでアクセルペダルを踏んだ。 そして―― 車は風を切って、やっとトンネルを抜けた。 だが、今度はすぐ前方に、ライトに浮かび上がるコンクリートの壁が見えた。 右曲がりの急カーブ。壁の先は奈落の闇が広がっている。 このスピードでは、とても曲がりきれない。 ライトの光芒が、狭い路肩に、風化した花束や供物を映し出した。 「バカバカバカバカっ! 停まるですぅっ!」 慌てる翠星石に対して、蒼星石は―― なぜか、異様なほど穏やかに、こう告げた。 「ごめん――ダメなんだ」 「なぜですっ!」 「だって…………ボクの両脚、誰かに掴まれてて…… 動かせないんだもの」 ウソっ! 運転席を見た翠星石は、妹の足元にしがみつく白い腕を眼にして、絶叫した。 「ひいぃいぃいぃっ! イヤですうぅっ!」 翠星石は咄嗟に、サイドブレーキを握り締め、思いっ切り引き上げた。 山間部に轟き渡る、四つのタイヤが立てた悲鳴。 蒼星石は懸命に、姿勢を立て直そうとハンドルを操作する。 だが、横滑りした車体は、容赦なくコンクリートの壁に急接近していく。 ……助手席側を、先にして。 「い、イヤあぁぁぁぁ――――!!」 突然、肩を叩かれ、翠星石はビクン! と飛び上がった。 「どうしたのさ、姉さん。そんなにコワイ顔しちゃって」 「えっと……いま、インターネットで名前変換ホラー小説を読んでたですぅ」 蒼星石がパソコンのディスプレイを見ると…… なるほど、グロテスクなイラストが貼り付けられた黒い画面に、 白いテキストが、ちまちまと躍っていた。 「これ、凄く怖ぇですぅ」 「しょうがないなぁ、姉さんは。 こう言うの苦手なクセに、どうして見たがるんだろうね?」 「うぅ…………今夜は眠れねぇですよぅ」 蒼星石は溜息を吐き吐き、ポリポリと頭を掻いた。 「まあ、自業自得だからね。ボク知~らない」 「そ、そんなっ! 待つですぅ、この薄情モノ!」 アハハと笑って立ち去る蒼星石の後を負って、翠星石は部屋を飛び出した。 ……が、暗い廊下に、蒼星石の姿は無かった。 五秒と経っていないのに、妹は居なくなっていた。 本当に、煙のように……跡形もなく。 「蒼……星石?」 翠星石を怖がらせるために、急いで自室に駆け戻ったのだろうか? だが、それなら足音や、ドアを開閉する音が聞こえても、よさそうなもの。 少なくとも、翠星石は難聴などではない。 そんな物音を聞いていないというコトは、蒼星石が部屋を出た途端に、 忽然と消えたことを意味していた。 「そんな……ウソです」 翠星石が、部屋の前で茫然と立ち尽くしていると、 「あれ? そんなところで、ナニしてるのさ」 洗い髪をバスタオルで拭きながら、階段を昇ってくる蒼星石に話しかけられた。 「そそ、蒼星石っ?!」 「? なんなの、そんなに驚いちゃって。ボク、なにか変かな?」 「そうじゃなくって……えと…………今まで、ナニしてたですか?」 「ナニって、見て分からない? お風呂に入ってたんだよ」 「今まで……ずっとです?」 「うん。ずっとだよ」 キョトンとした顔で受け答えする蒼星石の態度に、わざとらしい素振りは無い。 そこまで妹が演技上手でないことは、双子の姉として承知していた。 入浴中だったのは、疑いないだろう。 ……では、ついさっき部屋で、翠星石の肩を叩いたのは……誰だったのか? 「あう…………あう…………」 「大丈夫なの? 青ざめた顔してるよ、姉さん」 「そ、蒼星石……ここ、今夜一晩……特別に、私が側に居てやるですよっ」 「え? いや、別にいいよ。宿題しなきゃいけないし」 「私の部屋でやりゃいいですっ。言うこと聞きやがれですぅ!」 「……んもぅ、強引だなぁ。解ったよ。一緒に居てあげるから」 「それでこそ蒼星石ですぅ。いー子いー子♪」 ぽふぽふと、妹の洗いたての髪を軽く叩き、部屋に戻った翠星石は、 ベッドの端に腰を降ろして、勉強道具を手にした蒼星石が来るのを待った。 ……が、5分経っても、10分経っても、蒼星石は来ない。 変だな? 忘れてるのかな? 時間が、かかりすぎだ。 そんなコトを思った時、翠星石はやっと思い出した。 今夜、蒼星石は友達の家に泊まりに行って、不在だということに。 怪を語れば怪至る――という。 掌にはまだ、生乾きの髪の感触が、生々しく残っている。 確かに存在していたアレは、一体……誰だったのか?! 「お……おじじーっ! おばばーっ!」 翠星石はガタガタ震えながら、それこそ転がるように階段を駆け下り、 這々の体で、祖父母の元に逃げ込んだ。 その晩、何年かぶりで祖母の隣で床に就いたが、 翠星石は結局、朝まで戦々恐々として、眠れなかったという。 「もう、コワイ話なんか懲り懲りですぅ」
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~第四十七章~ 真紅の繰り出した突きと、鈴鹿御前の突き出した皇剣『霊蝕』が交差して、 切っ先は互いの身体へと吸い込まれていった。 鈴鹿御前の剣は、法理衣に遮られて、真紅には届かない。 対して、鈴鹿御前には、もう身を護る障壁がなかった。 ――これで終わった。 敵も味方も、誰もが、そう思っていた。 その予測が覆ることなど、有り得ないとすら考えていた。 しかし、その直後、鈴鹿御前は予想もしていなかった行為に出る。 突如として、右手の皇剣『霊蝕』を手放したのだ。 これには、真紅も意表をつかれて絶句した。 すんでの所で身を捩り、神剣を躱した鈴鹿御前は、伸びきった真紅の右腕を掴んで、 しっかりと右脇に挟み込んだ。 法理衣の防御効果で、鈴鹿御前の手や腕から、白煙が立ち上り始める。 だが、真紅の右腕を放したりはしなかった。 「かかったな、真紅っ!」 嬉々として叫び、左手の龍剣『緋后』を逆手に握り直して、真紅に突き立てようとした。 龍剣『緋后』は、精霊の能力を無効化する、特殊な剣だ。 進化した法理衣の防御障壁でも、容易く貫通されるかも知れない。 右腕を捉えられた状態で、この至近距離とあっては、回避など不可能。 「!? しまった! これを狙っていたのね!」 まさに、肉を斬らせて骨を絶つ覚悟。 けれども、他の娘たちは真紅の援護をせずに、息を呑んで成り行きを見詰めていた。 何故ならば、元々は一心同体だった二人の勝負に水を注すことなど、 誰にも出来なかったのだから。 「消えろぉぉっ! 真紅ぅっ!」 「っ! 貴女なんかに――」 鈴鹿御前の左腕が振り下ろされる直前、真紅は両脚を踏ん張って、 右肩で鈴鹿御前の身体を押した。 「負けないのだわ! 絶対にっ!」 「な、にぃっ」 真紅の気迫が、鈴鹿御前の体躯を押し戻した。 そのまま更に押し込むと、鈴鹿御前は脚を縺れさせて、仰向けに倒れそうになった。 ここで倒れたら、敗北は必至。 体勢を整えるべく、彼女は捉えていた真紅の右腕を放して、数歩、後ずさった。 「はあぁぁ――っ!」 「うおおぉぉ――っ!」 間髪入れずに、真紅は下段から斬り上げる。 殆ど同時に、鈴鹿御前が大上段から斬り下ろす。 どちらの剣撃も、ほぼ等速。 真紅の一撃が、先に鈴鹿御前の息の根を止めるか。 それとも、鈴鹿御前の斬撃が、法理衣の防護壁を裂いて、真紅の頸動脈を絶つか。 二人の攻撃に、一切の躊躇いは無かった。 最早、彼女たちの目には、大義も、理想も、世界も、仲間たちも映っていない。 ――目の前に立つ、鏡写しの自分を斃す! 極論すれば、目的を果たせるなら、たとえ相討ちでも構わなかった。 ぶつかり合う、意地と意地。 相反する水の流れが渦を描くように、二人の気迫もとぐろを巻いて逆巻き、 謁見の間に居る全ての者達――生者、死者の分け隔てなく――を、威圧していた。 誰もが固唾を呑み込み、凝視する中で、空を斬り、肉を斬る音が鳴り響いた。 「あ……っ!?」 「ぬぅ……っ?!」 真紅の右肩がスッパリと裂けて、緋色の飛沫が舞い上がった。 そして―― 「っぐぅあぁぁぁぁぁ――――っ!!!!」 鈴鹿御前は左腕の肘から先を裁断されて、筆舌に尽くしがたい激痛に苛まれ、絶叫した。 勝敗を分けたのは、利き腕か、そうでなかったかの違いだけ。 左腕で斬りつけた分だけ、鈴鹿御前は真紅に遅れを取ったのだった。 切断面から墨汁を想像させる黒い血を迸らせながら、鈴鹿御前は歯軋りしていた。 真紅に斬り負けた屈辱からか、それとも、激痛に耐えるために、 歯を食いしばっているのだろうか? どちらにせよ、彼女が真紅に目を向けた時にはもう、 突き出された神剣の切っ先が鈴鹿御前の鳩尾を裂き、背中へと突き抜けていた。 「っか……っはぁ……」 だらしなく開かれた唇から漏れ出るのは、消え入りそうな吐息と、黒い血液だけ。 双眸を見開き、真紅を睨むが、鈴鹿御前の瞳は、徐々に光を失いつつあった。 「お……のれ。真…………紅ぅ」 「……貴女の負けよ、鈴鹿御前。鬼と言えども……その傷では、長くないわ」 「言われずとも……そのくらい」 神器で斬られては、自力での再生が出来ない。 また長い年月、生娘の鮮血に身を浸し、眠りながら力を蓄える必要があった。 「だが、わたしは……怨念の化身。この程度で、滅びたりなど――」 「いいえ。貴女は、ここで滅びるのよ」 真紅は静かに、しかし、はっきりと告げると、神剣を引き抜いた。 唯一の支えを失い、鈴鹿御前は蹌踉めき、膝から崩れ落ちる。 そして、遂には仰向けとなった。 鈴鹿御前が斃されたと知るや、穢れの者たちは一体、また一体と、得物を捨てて、 その場に座り込んでいく。まるで、敗北を悟り、自害する覚悟であるかの様だ。 ほんの僅かな場所から始まった動きは、たちどころに全軍へと伝播していく。 無数に犇めいていた穢れの者どもは、全員が武器を打ち捨て、胡座をかいて項垂れていた。 「もう、誰も貴女を助けようとはしないわね」 「……ふふん。それが、どうした。わたしを憐れむと言うのか? 愚かしいな。穢れの者どもなど、己の欲望にのみ忠実な亡者なのだぞ。 奴等は盲目的に、力ある者に付き従い、忠誠を誓うに値せぬと見なせば、 忽ち離反してゆく。大方、新たなる主君に、お前を選んだのだろうよ」 鈴鹿御前が言葉を発する度に、鳩尾から黒い血が溢れ出した。 「貴女は何故、そんな酷い事を言うの? 四天王も、巴や、めぐも、その他の武将たちも、一兵卒に至るまで、 貴女の命に従い、貴女のために闘ってきたのよ。 それなのに、貴女は忠臣たちを蔑むばかりで、一言だって労おうとしない。 ――どうして?」 「……言ったであろう。状況に応じて、いとも容易く主君を変える連中だ、と。 そんな使い捨ての駒なんかを、わたしが信用すると思うか?」 言って、せせら笑う鈴鹿御前を、真紅は真っすぐに見詰めて、徐に口を開いた。 「信じていなかったら、そもそも手駒に加えようとは、しないでしょう? それに、ここに居る穢れの者どもが、貴女の言うような連中だったなら、 十八年前に離反されている筈よ。でも――」 真紅は、ぐるりと全周囲を見回した。 穢れの者たちは、真紅たち八犬士と、鈴鹿御前を中心にして車座になっている。 彼女の言うように、新たな主君に対して平伏しているのであれば、 胡座ではなく、正座して平身低頭するのが当然の礼儀である。 「彼らは、貴女が封印されてから、今に至るまで忠誠を誓い続けてきたのよ。 貴女だって、本当は解っているんじゃないの?」 「……それは、お前の憶測に過ぎん。わたしは……信じていないわ」 鈴鹿御前の言い種は、ただの強がりとして、真紅の耳に届いた。 本当は、信じたいのだろう。 けれども、裏切られる恐怖と失望を知ってしまった彼女は、我知らず心を歪ませ、 誰かを信頼する事を拒絶するようになっていた。 その歪みが、四天王や、御魂を分けた二人の娘をも生贄としか見なさない狂気となり、 結果的に自身の滅びを早めたのだ。 「解ったわ。だったら、そう言うことにしておきましょう。 但し、これから貴女の命が尽きるまでの間は、私を信じなさい」 突然の発言に、鈴鹿御前は唖然として、次に、嘲笑を浮かべた。 「なかなか面白い戯言だな。何故、わたしに、お前ごときを信じろと?」 「私と貴女は、鏡写しの存在だからよ。それは、どう抗っても逃げきれない事実。 目を逸らしても、鏡を叩き割っても、現実は現実として進んで行くわ。 だから、鏡に写った自分が、どんなに嫌な姿であっても……直視して、 信じて、受け入れなければならないのよ」 「…………なるほど。最後に、お前を信じてみるのも一興かも知れぬな」 鈴鹿御前は、少しだけ楽しげに微笑んで見せた。 真紅と瓜二つの笑顔は、とても魅力的で、何処にでも居そうな普通の娘に見えた。 「それで……この後は、どうするつもり?」 「鬼畜生に身を窶し、数多の穢れの元凶となった貴女を、祓うわ。 そして、貴女を成仏させる。私の……いいえ、私たちの能力でね」 「ほぉう? そんな事が、可能だと思うのか? わたしを成仏させるだなんて、質の悪い冗談にしか聞こえぬぞ」 「言った筈よ。最後の時まで、私を信じなさい……って」 真紅が軽く睨むと、鈴鹿御前は「そうであったな」と、瞼を閉じた。 「それじゃあ、始めるわよ! 水銀燈、金糸雀、翠星石、蒼星石、雛苺、 薔薇水晶、雪華綺晶。私に、力を貸してちょうだい」 「最初っから、そのつもりよぉ」 「カナたちは一蓮托生かしら」 「どんな事だろうと、私たちは真紅に協力するですぅ~」 「ボクたちは、御魂の絆で結ばれた、姉妹なんだからね」 「みんなで力を合わせれば、きっと大丈夫なのっ!」 「……信じる力が、無限の可能性を生み出すから」 「私たちに、出来ないことなど有りませんわ」 「ありがとう、貴女たち」と呟いて、真紅は左腕を前に突き出し、右手で印を結んだ。 他の七人も、鈴鹿御前を中心にして輪となり、真紅に倣って、左腕を伸ばす。 程なく、全員の手の甲にある真円の痣に『仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌』の文字が、 浮かび上がってきた。 しかし、それは次の瞬間『如・是・畜・生・発・菩・提・心』へと変化を遂げた。 この急変には、誰もが目を見開いた。 「なっ?! なんなのぉ、これぇ?」 「鬼畜生となった鈴鹿御前に、菩提心を芽生えさせる意味かしらっ!」 「それで、穢れの元凶を静めるんだね」 真紅は頷き、聞き慣れない祝詞を唱えながら、印を切った。 八人の痣から眩い光球が飛び出し、くるくると回りながら、糸を紡ぐように纏まっていく。 そして、ひとつになった真っ白な光球は、鈴鹿御前の身体に飛び込んだ。 ビクン! と、一度だけ、鈴鹿御前は身震いした。 「調子は、どう?」 「…………温かいな。それに、不思議と気分が安らいでいる。 今までは、常に心の奥底から、不安や怒りの感情が溢れだしていたのに」 「怨嗟は思慮に、憤怒は慈愛に。貴女の魂はもう、鬼ではないわ。 過去の束縛を絶ち、成仏しなさい」 鈴鹿御前は、真紅の諭す声を聞いて、一切の嘘偽りを含まない笑みを見せた。 過去の因縁から解放されて、漸く、手に入れた自由。 それを与えてくれた真紅に、鈴鹿御前は一言一言、噛み締めるように話しかけた。 「わたしは今まで、鬼となる為に、お前を切り捨てたのだと思っていた。 でも、違ったのだな。切り捨てられた病巣は、わたしの方だった。 たった今、その事に気づいたわ」 「別に、どっちでも良いことよ。今となっては……ね」 「……そうね。感謝するわ、真紅。わたしを救ってくれて、ありがとう」 穏やかな、春の日射しを想わせる微笑み。 それが、彼女がこの世に遺した、今際の表情だった。 身体から抜け出した鈴鹿御前の魂は、赤い蛍となって八犬士の頭上を旋回して、 周囲を取り囲む穢れの者どもに、語って聞かせた。 「皆の者! わたしは、今より遠い地を目指して、旅に出なくてはならぬ。 その土地は、おそらく過酷で、苦難に満ちていよう。 だが、わたしは行かねばならぬ。自ら撒いた種を、刈り取らねばならぬ」 謁見の間は静寂に包まれ、鈴鹿御前の澄んだ声だけが、朗々と響き渡っていた。 「……こんな事を言えた義理ではないと、承知している。 落ちぶれた身の上で、頼める訳がない事は、理解している。 しかし、言わせて欲しい。そして、聞いて欲しい。 いま一度、こんな……わたしに……付いてきては、くれないだろうか? わたしを、今までと変わらず、支えてくれないだろうか?」 鈴鹿御前は、それだけ言うと、口を噤んだ。 途端、周囲の穢れの者どもは一斉に立ち上がり、鬨の声と共に、拳を天に突き上げた。 謁見の間は、どよめきに支配されて、空気が震えている。 穢れの者どもは、いつの間にか骸骨ではなく、普通の人間の姿に変わっていた。 だが、その姿も直ぐに、赤い蛍へと変化してゆく。 その光景を、八人の乙女たちから少し離れた場所から見守る、二人の男が居た。 桜田ジュンと、彼に肩を貸しているベジータである。 彼らは、鈴鹿御前と真紅の一騎打ちから、一部始終を見続けていた。 「まったく……凄ぇもんだぜ、あいつら」 「ああ、そうだな。彼女たちは強いよ。僕たちなんかより、ずっと」 「言えてる。俺なんか、ただの一撃で気絶させられたのに、 あいつらは勝っちまうんだからな」 「そうだったな」と、ジュンは笑った。 翼を広げて飛び込んできた鈴鹿御前に、頬を蹴り飛ばされたベジータは、 腫れた頬を撫でながら苦笑した。 「俺は、金糸雀を手助けに来たってのに、ざまぁねえぜ」 「卑下するなよ。お前は立派に、彼女の支えになってたさ」 「……だったら良いんだが」 眉を顰め、言葉尻を濁すベジータに、ジュンは陽気に話しかけた。 「お前、彼女に扱き使われてないか? 雑用を任されたりとかさ」 「おう。それなら、殆ど毎日……」 「それが、頼られてる証拠さ。深く考える必要なんて無いんだ。 彼女たちは強いけど、純粋すぎて脆いところも有る。 僕たちは側にいて上げて、彼女たちが挫けてしまいそうな時に、 黙って支えてあげれば良いんだ。 その程度なんだよ、僕たちの役割なんて」 ジュンが、そんな独り言を口にした、丁度その時、穢れの者どもが変じた蛍の群が、 鈴鹿御前の蛍を先頭にして、飛び去るところだった。 その様子は、見る者に、まるで夏の夜空を飾る天の川を彷彿させた。 「……綺麗だな」 「ああ。これが、命の輝きってヤツなのか。 人間ってのは、こんなにも光り輝けるものなんだな。初めて知ったぜ」 「僕たちも、命を輝かせながら、良い人生を送るように心がけなきゃな。 それが、生き残った者の努めだよ」 ベジータは、ジュンの言葉を聞いて、違いねえ、と頷いた。 ――やっと、終わった。 鈴鹿御前と、穢れの者どもを見送った八犬士の表情にも、漸く、安堵の色が現れた。 辛いこと、悲しいこと……本当に、色々なことが有ったけれど、 八人の娘たちは互いを信じ、協力しあって艱難辛苦を乗り越えてきた。 諺に『艱難、汝を玉にす』と言うが、彼女たちも今度の一件を乗り越えて、 ひと回り大きく成長したようだ。 「みんな……今まで、本当によく頑張ってくれたわ。 貴女たちが居てくれなかったら、きっと私は勝てなかった。 十八年前みたいに、引き分けることすら出来なかった筈よ。 だから、何度でも、お礼を言わせてちょうだい」 言って、真紅は、深々と頭を下げた。 みんなは彼女の金髪を見詰めて、ふと、何か足りない事に気づいた。 「あれ? 真紅の頭に生えてた狗耳が、無くなってるです」 「そう言えば、尻尾も消えちゃってるのよー」 「えっ? ウソ……」 ひょいと顔を上げて、真紅が右手を自分の頭、左手を腰に遣ったところ、 確かに、狗神の徴は消え去っていた。 更に、金糸雀が、素っ頓狂な声を上げて真紅の瞳を指差した。 「眼の色も、元通りに戻ってるかしら!」 「ええっ?! と、言う事は――」 「……まさか」 薔薇水晶と、雪華綺晶が顔を見合わせて、互いの瞳を凝視する。 しかし、そこに嘗ての赤目は、存在していなかった。 「これって……私たちが、狗神筋の人間ではなくなったという事なのでしょうか?」 「なんか、ウソみたい。ウソじゃない……よね?」 あんなにも苦しめられてきた因縁が、こうも呆気なく消え去ってしまうなんて、 信じられないことだった。 けれど、目の前の現実は、紛れもない事実。 薔薇水晶と雪華綺晶の姉妹は、その意味をしっかりと噛み締めて、感涙に咽び泣いた。 二人に優しい眼差しを送っていた蒼星石は、零れそうになる涙を指で拭おうとして、 左手を目元に添えた。手の甲も、自然と視界に入る。 そこで、ある事に気づき、驚きの声を上げた。 「?! みんな、見てっ! 痣が消えてるよ」 「なに言ってるです、蒼星石。そんなコトが……って、ホントに消えてるですぅ!」 「これも、真紅の仕業なのぉ?」 「い、いいえ。私じゃないわよ。こんな事って――」 真紅自身、自分の左手を茫然と眺めている。彼女の意図でない事は、確かだった。 御魂と共に、八つに分かたれていた房姫の思念が、ひとつに纏まって、 鈴鹿御前を成仏させる念願を果たした。 この奇跡は、彼女から八人の娘たちへ向けた、祝福だったのかもしれない。 誰もが左手の甲を撫でたり、矯めつ眇めつしている時に、 水銀燈は、蒼星石と金糸雀の肩を優しく叩いて、声を掛けた。 「貴女たちには、まだ為すべき事が残っているみたいねぇ」 「え?」 「カナたちが?」 いきなり言われて、何のことかと頚を傾げる二人に、水銀燈は「ほぉらね」と、 少し離れた場所を指し示した。 そこには、二人の青年が立っている。どちらも満身創痍だが、血色は良い。 「ジュンっ!」 「ベジータ! あなた、無事だったかしらっ!」 水銀燈が、二人の背中を軽く押すと、彼女たちは一斉に走り出した。 蒼星石は、ジュンの元へと全力疾走すると、殆ど体当たりの勢いで抱きついた。 ジュンも蹌踉けたものの両脚を踏ん張り、蒼星石をしっかりと抱き留め、頬を寄せた。 彼女の緋翠の瞳から、忽ち、歓喜の雫が溢れてくる。 それは尽きることなく流れ続けて、擦り寄せられた二人の頬を濡らした。 「ジュンっ! ジュンっ! 本当に……本当に、キミなんだね」 「ああ。僕だよ、蒼星石。ゴメンな、辛い想いばかりさせて」 「……いいんだ。そんな事なんか、もう、どうでも良いの。 キミが、キミで居てくれるなら、ボクはそれ以上、何も望まないよ」 嗚咽する蒼星石の背中を、ジュンは力強く抱き締め、彼女の耳元に囁いた。 「そんなに無欲じゃあ、幸せを逃がしちゃうよ。 せめて、ひとつくらいは、望みを持たないとね。君は、なにを願うんだい?」 「え、と……ボクは――」 「僕の望みはね、蒼星石。君が、いつまでも僕の側に居てくれることなんだよ。 この想いを伝えたくて、僕は君を追い掛けてきたんだ」 「…………」 「やっと、蒼星石を捕まえたんだ。もう、絶対に逃がさないぞ。 君を、どこにも行かせないからな」 「……じゃあ、もう放さないでよ。ボクの手を、しっかりと握っていて。 ボクを、しっかりと抱き締めていて。 もう……離ればなれになるのは、イヤだから」 涙声で、消え入りそうに話す蒼星石の頬と耳が、熱を帯びている。 寸分の隙間無く触れ合っていたから、ジュンには、よく分かった。 「言っただろ。絶対に、逃がさない……って」 そう囁くなり、ジュンは蒼星石の返事を待たずに、彼女の唇を奪った。 二人が熱烈な口付けを交わす隣で、金糸雀とベジータは、居心地悪そうに肩を竦めた。 しかし、折角ここまで来て、ただ向き合っている訳にもいかない。 金糸雀は、自分の頚に掛けられていた純銀の十字架を外して、ベジータの頚に掛けた。 「ありがとう、ベジータ。約束どおり、これを返しに来たかしら」 はにかんで、金糸雀は顔を斜に向けた。 「それと、その…………来てくれて、とっても嬉しかったかしら」 「……それだけかよ?」 「はい?」 予想だにしなかった返事に、金糸雀は意味が理解できず、ベジータの顔を見詰めた。 ベジータは照れ臭そうにジュンと蒼星石を横目に見ながら、自分の唇を指差して見せた。 「その……俺たちも、どうよ?」 「ばっ! バカぁっ!!!」 顔を真っ赤にした金糸雀は、やおら袖から拳銃を引き抜くと、銃口を彼に向けて、 躊躇なく撃鉄を落とした。 謁見の間に、カチリ……と、乾いた金属音が木霊する。 「あ~ら、残念……弾切れだったかしら。命拾いしたわね、ベジータ」 「勘弁してくれ。一瞬、地獄を見たぜ」 心底、肝を冷やしたらしく、額に滲み出した冷や汗を手の甲で拭うベジータ。 らしくなく青ざめた彼を見て、誰もが声をあげて笑った。 =終章につづく=
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ぽっかりと抜け落ちた、パズルのピース。 過半数に及ぶ空隙に当てはまるスペアは無く、虚ろな世界が口を広げるのみ。 翠星石の部屋で、蒼星石は虚脱感の促すままに、くたりと寝転がって動かない。 目を閉ざせば、瞼の裏に焼き付いた光景が、色鮮やかに蘇ってきた。 息吹を止めた、姉―― すべすべで温かかった柔肌は、時と共に色を失い、冷たく固まってゆく―― まるで、精巧に作られた蝋人形のよう―― 「……イヤだ…………そばに来てよ、姉さん」 思い出すたび、飽くことなく繰り返される、嗚咽。 蒼星石は頭を抱え、身体を丸めて、溢れ出す涙を流れるに任せた。 それは短く切りそろえた髪を濡らし、姉の匂いが染みついたカーペットに馴染んでゆく。 しゃくりあげる蒼星石を、ふわりと包み込んでくれる、翠星石の残り香。 この部屋には、まだ確かに、姉の面影がひっそりと息づいていた。 それは、悲しみに暮れる妹を優しく抱き締め、慰めてくれるのだった。 第十四話 『君に逢いたくなったら…』 翠星石の葬儀には、週の半ばであるにも拘わらず、実に多くの人々が足を運んだ。 親類縁者は勿論のこと、級友や教員、近所の方々に至るまで…… 皆が皆、うら若い少女の早すぎる死を心から悼み、落涙を惜しまなかった。 いかに翠星石が人々から慕われていたか。その事実だけが、参列者たちの胸に刻みこまれた。 そんな中で、蒼星石だけは通夜にも、告別式にも顔を出さなかった。 葬儀で、棺に横たわる亡骸を見たくなかったから。全てがウソだと、信じかったから。 ――だから、蒼星石は病院に駆けつけた時からずっと、制服を着たまま。 着替えることすらも、姉が消えた日を過去に流して、姉の死を肯定する行為に思えたのだ。 蒼星石にとって、あの日はまだ、終わっていない。どれだけ昼夜が繰り返されようとも。 永続する一日を、姉の部屋に閉じこもり、起きている間は泣き続け、疲れたら眠り続けた。 けれど、夢の中でも……翠星石には再会できなかった―― そんな生活を、実際にはもう、四日以上も続けている。 祖父母も、失意のあまり寝込みがちで、火の消えたような雰囲気だ。 湿った空気と、線香の匂いだけが、死と生をひとつに結びつけていた。 つくづく、この家族にとって、翠星石は太陽のような存在だったのだと実感させられる。 そして蒼星石は、太陽が生み出した陰でしかない自分を、惨めに思った。 雨戸とカーテンを閉め切った、真っ暗な部屋の中で、蒼星石は、むくりと身体を起こす。 今は昼間なのか、夜なのか……時間の感覚すら失いつつある。 だが、ずっと閉じこもっているワケにもいかない。 生きている限り訪れる最低限の欲求を満たすため、たまに、こっそりと部屋を出る。 冷蔵庫をあさって、僅かばかりの空腹を満たし、泣き疲れて乾ききった喉を潤し、 トイレに行ったりして、また閉じこもる。それの繰り返しだった。 しかし、どれだけ気力を失おうとも、たったひとつ、絶対にしないと決めた事があった。 それは、仏壇に目を向けること。変わり果てた姉を、見てしまわないように……。 部屋を出ると、廊下も真っ暗だった。外の世界には、何度目かの夜が訪れていた。 蒼星石は明かりも点けず、住み慣れた家の中を、猫のように足音忍ばせ移動する。 そして、誰も居ない台所で、蒼星石はいつものように、もそもそと菓子パンにかぶりついた。 蛍光灯の白々した明かりに、皺くちゃの制服が照らし出され、ひどく見窄らしい。 ポットのお湯を急須に注ぎ、出涸らしのお茶を飲んで、呆気なく食事を終えた。 このところ、ずっと一日一食。栄養失調だろうか、肌荒れが目につく。 腕や足が細くなったように見えるのも、気のせいばかりではあるまい。 衰弱した身体を引きずり、手すりにしがみつきながら、階段を昇り始める。 一段、一段……踏みしめる足を、激痛が駆け昇ってきた。 蒼星石の両脚は、傷口の化膿によって倍ほども腫れあがり、むくんでいた。 そのうち壊死して、そこから毒素が全身に回り、死んでしまうかも知れない。 けれど、蒼星石はもう、どうなってもいいと思っていた。 今はただ、終わりを待つために、惰性で生きているだけなのだから。 いつもなら30秒とかからず登れた階段を、5分近くかけて登り切る。 たった、それだけの事なのに、もう息切れしていた。 とても怠い。早く、翠星石の部屋に戻って、横になりたい。 廊下の壁に手を着きながら、自分の部屋の前を通り過ぎようとして、今更ながら気付く。 開け放たれたドアの向こうは、仄かに明るかった。 レースのカーテンを透して、月明かりが青く降り注いでいたから。 「呼んで……るの?」 声が聞こえたワケではない。ただ、月に手招きされたように思えただけ。 四日ぶりで、蒼星石は自分の部屋に、足を踏み入れた。 その直後だった。机の隅で瞬いている、小さな光に気付いたのは。 何かと思えば、それは充電器に載せたままの、携帯電話。 明滅しているのは、着信を報せるLEDだった。 ――翠星石が事故に遭った日から、ずっと失念していたもの。 ふらつきながら机に近付いた蒼星石は、暫しの逡巡を置いて、腕を伸ばした。 「メールなんて、誰から?」 全く心当たりがない風な口振り。 だが、独りごちた言葉とは裏腹に、強い予感を抱いていた。 きっと、姉さんからだ……と。 予感は見事に的中。十件を超える履歴は、ことごとく姉からのメールだった。 一体、こんなに多く、何を伝えてきたのだろうか。 最初の一件目を開くと、あまりにも短いメッセージが、ぽつりと記されていた。 『逢いたい』 一切、飾りのない言葉。端的に、核心を突く4文字。 二件目を開いてみたら、また、同じ言葉が綴られていた。 三件目も―― 四件目も―― 最後まで、ただ『逢いたい』とだけ。 「……今更、なにさ」 蒼星石は、携帯電話を握りしめながら、吐き捨てた。「逃げ回ってたのは、姉さんの方じゃないか」 翠星石には、少しばかり独り善がりで、自分本位なところがあった。 自分の都合で、他者を引きずり回してしまうような、身勝手さが。 でも、これは……あまりにも、酷い仕打ちだ。 蒼星石が温もりを求めたときには、突き放したクセに。 「それを……今になって、こんなの……ないよぉ」 腫れぼったい瞼に熱い雫が溢れて、蒼星石は青白い天井を仰ぎ、奥歯を噛み締めた。 どうしようもなく悔しくて、持て余した憤りが、涙を作り続ける。 それは、姉の身勝手に対するものではなく、自分の失態に対する悔恨。 認めたくない過去が、悲しい現実となって、蒼星石の胸に押し寄せてくる。 あの日、自分が携帯電話を忘れたりしたから―― あの時、もし、メールで気持ちを伝えあっていたなら―― 翠星石は、死なずに済んだかも知れないのに。 仲直りして、他愛ない話で盛り上がって……笑い合えていたかも知れないのに。 涙で滲んだ目を瞬かせながら、携帯電話の履歴を調べると、留守録のメッセージに気付いた。 音声再生の操作をして、蒼星石は嗚咽を堪えながら、電話機を耳に当てる。 やや音割れして、くぐもっているものの、紛れもなく翠星石の声が語りかけてきた。 『あ、えっと…………な、な……なにやってるですか、蒼星石っ! 何度もメールしてやってるのに、一回も返事をよこさねぇとは、どーいう料簡です。 反省しろです! それから……さっ……さっさとメールを、返信しやがれですぅっ!』 録音時間に間に合わせようとして、あくせくと一息に捲したてたのだろう。 メッセージの終了寸前、はぅ……と、小さな吐息が吹き込まれていた。 姉さんらしいや。涙の跡が残る頬を、少しだけ綻ばせて、蒼星石は二件目の再生に耳を傾けた。 『…………何故です? どうして…………連絡をくれないのです? 話をするのもイヤですか? そんなに、怒ってるですか? お願いだから……声を……聞かせてください。ずっと……待ってるです』 一転して、とても寂しそうな声。それは杭となって、蒼星石の胸に突き刺さり、引き裂こうとする。 もし一件目のメッセージを聞いていたなら、こんな想いは、絶対させなかったのに。 打ちひしがれ、辛い気持ちで、三件目のメッセージを聞く。 『ホントは……こんなカタチじゃなくて、ちゃんと向き合って話したかったです。 でも、蒼星石が応えてくれないから……仕方ないですね。 とっても不本意ですけど……こうして、私の正直な気持ちを……伝えておくです。 ――あのね、蒼星石。 私は…………翠星石は………… 蒼星石のことが……大好きですぅ。世界中の誰よりも、どんな時でも、1番に想ってるですよ。 ずっと、ずぅっと――――たと』 途切れたメッセージ。最後まで語られることなく、録音時間は無情にも終了していた。 でも、蒼星石には解っている。姉が、何を言いたかったか。伝えたかったのか。 「キミに逢いたくなったら……キミの香りに抱かれて眠り、夢で出会うしかないと思ってた。 でも、それは間違いだったんだね。ただ待ってるだけじゃ、キミは、どんどん離れていっちゃう。 だから……ボクは、追いかけるよ。そして――ずっと一緒に居よう。たとえ、生まれ変わっても」 蒼星石は指先で睫毛の涙を拭うと、とても清々しい表情で、机の引き出しからカッターナイフを取り出した。 そして……左の手首に宛った鋭利な刃を、微塵の躊躇いも見せずに滑らせた。 第十四話 おわり 三行で【次回予定】 擦れ違い、迷走を続けた末に、再会を果たしたふたつのココロ。 幸せを追いかける代償として、新たな不幸は求められるのか。 彼女が夢みた未来に待ち受けるのは―― 次回 第十五話 『負けないで』
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『家政婦 募集中』 電柱に貼られた、そのチラシを見たのは、五月の半ば…… ゴールデンウィークが終わって、すぐのことだった。 「家政婦……か」 思わず口を衝いた独り言が、やたらと虚しく聞こえたのは、暗澹たる心境のせい。 それは、見聞きするもの全てに灰色のフィルターをかけて、色褪せさせる。 もう随分と長い間、原色の世界を見ていない。 私はいま、人生に迷っていた。 私の人生を動かす時計に、狂った歯車が組み込まれたのは、何時のことだったのだろう。 マイクロ、いや……ナノか、ピコか、フェムトか―― 恐ろしく微細な誤差を持った部品が、元々あった部品と付け替えられ、 なに食わぬ顔で動き続けていたのだ。気付かない私を、嘲笑いながら……。 私はさながら、病原菌に感染した病人だった。 命を蝕まれていることを自覚できずに、光あふれる幸せな未来に向かっていた。 いや、向かっていると、思い込んでいた。 自分の足元から伸びる影が、危害を及ぼす病魔だなんて、考えもせずに。 中学、高校、大学―― ここまでは順調だった。なにもかもが順調すぎて、それが当たり前になっていた。 私の人生時計に変調が現れ始めたのは、大学2年の時だろうか。 本当は、それ以前から微かな予兆がでていたのだろうけれど、 私がハッキリと自覚できたのは、あれが最初だったと思う。 高校の時から交際していた笹塚くんとの破局。 なにがいけなかったのか、私には解らない。彼にも、解らなかったと思う。 ただ、今まで経験したことのない、不自然で大きな波が訪れたのは、確かだった。 世界の全てが、繋がれた二人の手を引き裂こうとするように周り、 私たちは洗濯機に放り込まれた衣類のように翻弄されて――手を放してしまった。 あとはもう、なにがなんだか解らず、野となれ山となれ。 幸せを詰め込んだ宝箱―― そう信じて、私が手にしていた物は、結局……ただの空き箱だった。 綺麗な印刷が目を惹くけれど、その実、中身はからっぽ。 幸せのカケラだと思って、躍起になって拾い集めてきたソレは、ガラクタでしかなかった。 プラチナ、ゴールド、エメラルド、サファイア、ルビー、オパール、アメジスト、ダイアモンド。 夢中になって磨いていた貴金属や宝石は、悉く、アルミや真鍮、ガラス片だった。 (あの時は、ホントに虚しかったなぁ) それまでの価値観が、根底から覆されて、私の中から『希望』の文字が失われた。 地崩れに遭った木のように、ただ、谷へ奈落へと滑り落ちていくだけ。 誰も、なにも……私の支えには、ならなかった。 ――そして、現在。 辛うじて大学を卒業した私は、今をときめくフリーターに成り果てている。 いわゆる、ワーキングプア。随分とまあ、堕ちてきたものだ。 働けど働けど、我が暮らし楽にならざり…… そう詠ったのは、武者小路実篤だっけ? いや、違う。石川啄木だった。 最近、どうも頭の回転まで鈍くなったように思う。 ひょっとして、若年性の痴呆だとか…………いや、まさかね。 鬱々と沈みがちな気分を紛らすように、努めて顔を上げる。 目の前には、相も変わらず、電柱と……家政婦募集の貼り紙があった。 先方が希望する勤務時間は、丁度、バイトの合間に当てはまっている。 「やって……みようかな」 最初は、そんな軽い気持ちだった。 携帯電話で連絡を入れ、履歴書を手に訪ねた家は、私のココロを激震させた。 そこは、高校一年生時代に同級生だった男の子の住まい。 ちょっとしたトラブルで、登校拒否と引きこもりを始めたんだっけ。 あれ以降、彼の顔を見た憶えがない。 葬儀が行われた記憶がないから、多分、まだ生きてはいるハズだけれど。 来ない方がよかったかな。少し、躊躇と後悔が、顔を覗かせる。 でも、電話でアポ取った手前、ドタキャンするのは失礼だ。 「あれから、もう何年も経ってるんだし……平気よ、きっと」 門の前で拳を握り、自分に言い聞かせる私を、周囲の人はどんな目で見たのだろう。 ヘンな女。きっと、そうだわ。だって、自分でも、そう思うもの。 私を出迎えてくれたのは、とても人の好さそうな女性だった。 緩くウェーブのかかった髪と、まん丸で大きなメガネの奥の、愛嬌たっぷりの笑顔。 ずっと以前に、一度だけ会ったことがある。彼のお姉さんだ。 あれは……親友の巴に付き合って、プリントを届けに来た時だったかな。 「本当に、よく来てくれたわぁ。チラシを見て、来てくれたの?」 彼女――桜田のり(年齢不詳)さんは、そう言いながら、 ソファに座る私の前に、ティーカップを置いた。 私は「ええ、まあ」と、気の利かない挨拶しか出来なくて、自分がイヤになった。 昔はもっと、社交的に振る舞えたハズなのに。 「あ、あの……これ、履歴書です。お願いします」 「はぁい。じゃあ、お預かりしますねぇ」 私と向かい合わせで、のりさんは優雅な仕種で、ソファに腰を降ろした。 あまりに上品なものだから、つい、目を奪われてしまう。 だが、彼女の瞳が、手にした履歴書を走るにつれて、私の緊張も高まっていった。 「桑田……由奈さん」 「は、はひゃっ」 それほど突然のことでもなかったのに、私の返事は裏返り、彼女の笑いを誘った。 「そんなに、緊張しなくても良いのよぅ。さ、お茶でも飲んで、くつろいでね」 言って、のりさんは自分もティーカップに唇を付けた。 私に遠慮させないためだろう。彼女の細やかな配慮が、嬉しかった。 それから暫くの間、私たちはお互いを理解するため、暢気に語らい合った。 女の子同士で、歳の近さもあり、共通の話題は幾らでも見つけられる。 のりさんは気さくに接してくれるし、にこやかに私の話を聞いてくれるので、 ついつい、私も話を広げすぎてしまった。 「女子大生の就職が厳しいとは聞いていたけど、ホントそうですよ。 才能とか、容貌とか、ほかの娘より傑出したものがないと、勝負にならないです」 「そうよねぇ。でも、由奈ちゃんくらい可愛かったら、どこか採用してくれそうだけど」 「お茶くみ係として? それとも、マスコットとして?」 自分でも、イヤな言い方をしたものだと思い、後悔した。 素直に『可愛い』と言ってくれたことを喜べばいいのに、憎まれ口を叩くなんて。 ひねくれた自分の性根を垣間見て、また、自分が嫌いになる。 「私は……そんなのイヤ。私は、会社や上司の人形じゃないもの。 ちやほやされるのは若い内だけで、30過ぎればお局様よばわりでしょ。 この世は所詮、見せかけばかりの平等で、実際は男尊女卑が罷り通っているのよ。 だから、女は子供を産む機械だなんて、バカなこと言う輩でも議員になれるんだわ」 「あらあらぁ。居たわねぇ、そんな人が」 「あれが、外国の政治家を欺くため暗愚を装う策だったとしたら、 私『貴方のためなら死ねます』って平伏しちゃいますよ、ホントに」 よほど日頃の鬱憤が溜まっていたのか、一気に捲したてていた。 そして、急に気恥ずかしくなり、テーブルのティーカップに目を落とす。 私は、ここに面接を受けに来たのに……なにしてるんだろう。 口を噤んだ私に、のりさんは大人の余裕を湛えた笑みを見せて、言った。 「ジュン君に、会ってくれる?」 彼の名を耳にして、私の心臓が一拍、躍った。 桜田くんが登校拒否するようになった一因は、私にもあるからだ。 もちろん、私が仕向けたワケじゃあないけれど、やはり気後れしてしまう。 「巴ちゃんは今でも、よく来てくれるのよぅ」 その声で、私は顔を上げた。「巴が?」 「ええ」と、のりさんは頷いた。 「由奈ちゃんは、巴ちゃんと会ってないの? お友達でしょう」 「高校を卒業してから、あの子とは会ってないです。別の大学に進んだので。 親友と言っても、疎遠になるときは、呆気ないものですね」 まるっきり他人事のように喋る自分に、驚かされる。 私は、こんなにも変わってしまったのかと思い知らされて、愕然とした。 ほんの数年のことなのに、今では、海の果て、空の彼方……いや、それ以上。 まるで、歴史の教科書を眺めて、過去に想いを馳せている気分だった。 でも、のりさんは……初めて会った頃と変わらぬ笑みで、私を諭す。 「その気になりさえすれば、距離は縮められるものよぅ。 だって、みんな同じ時代を生きてるんだもの」 自明の理だ。それすら失念していた自分が滑稽で、私は噴き出していた。 と、そこへ―― みしり、みしり。 階段を踏む音が降りてきて、私たちは唇を閉ざした。 程なく、ひとりの青年が、私たちの居る応接間に顔を見せた。 高校一年の頃より、すらりと背が伸びて、顔つきは険しくなっている。 メガネを掛けていたけれど、間違いなく、桜田くんだった。 引きこもりだから、もっと、こう……お相撲さんみたいに太った姿を想像していた私は、 意外さのあまり、まじまじと彼を見つめてしまった。 「あ――」呻きともつかない声を漏らした彼の表情が、見る見るうちに強張り、青ざめていく。 なんで、お前がここにいるんだ? 彼の目が、そう問いかけてくる。 「ひ……久しぶりね、桜田くん。私――」 あまり刺激しないよう、穏やかに挨拶したつもりだったけれど、 彼は口元を押さえるなり、脱兎の如く走り出した。 のりさんは慣れているのか立ち上がらず、私に哀しげな目を向け、言った。 「ジュン君の様子を、見に行ってあげて。お願いよぅ」 何故かは解らないけれど、私は素直に頷き、彼の後を追いかけていた。 桜田くんは、トイレでひどく嘔吐していた。私は隣に膝をつき、彼の背を撫でさする。 彼は咳き込みながらも、徐々に、呼吸を落ち着けていった。 頃合いを見計らって「大丈夫?」と、声を掛けてみた。 本音を言うと、怖かった。彼に「うるさい!」と怒鳴られ、突き飛ばされるんじゃないかって。 でも、桜田くんは――寂しげで、弱々しく、疲れ切った眼差しを私に向けて、 「ありがとう」と、ただ一言だけ。 その時、私の中に、不思議な感情が芽生えた。 落ちぶれた者同士が、慰め合う相手を見付けて、縋りたかったのかも知れない。 それでも私は、こう思っていた。彼の側に、居てあげたい……と。
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―弥生の頃 その2― 【3月3日 上巳】 後編 真紅、金糸雀と相次いで轟沈する中、三番手に名乗りを上げたのは、水銀燈。 「それじゃあ、口直しに、私の甘酒を召し上がれぇ」 「あぁ、助かったです。これは、まともそうですぅ」 「本当ですわね。良い香りですわ」 「うっふふふふ……当然よぉ。私の辞書に、不可能の文字なんてないわぁ」 ちらり……。萎れている真紅と金糸雀を横目に見遣って、 水銀燈はニタァ……と、口の端を吊り上げた。 「真紅や金糸雀みたいな、薔薇乙女ならぬバカ乙女なんかとじゃあ、 端っから勝負になるワケないじゃなぁい♪」 「……き、聞き捨てならないのだわ」 「でも、反論できないかしらー」 「二人とも、そう落ち込まないでなの。とにかく、飲んでみるのよー」 雛苺のフォローで、全員が「では――」とコップを手に取り、口元に運ぶ。 見た目、良し。匂い、良し。あとは、口にしてみるだけ。 みんな一斉に、ぐいっ……と、呷る。 そして、一斉に噴き出した。一人、水銀燈を除いて。 「ちょっ……なんですか、これはっ! メチャクチャ強烈ですぅ」 「甘酒を蒸留して、ブランデーを、ちょびっと垂らしたのよぉ。 何も足さなぁい、何も引かなぁい……ってねぇ」 「なんで、ムダに蒸留なんかしてるですかぁっ!」 「思いっ切り、足してるじゃないの! 貴女もバカ乙女の仲間入りよ、水銀燈っ」 「なっ!? まさか、私がぁ? そんなぁ~」 「…………銀ちゃん。おバカさぁん」 薔薇水晶に口癖を奪われ、へなへなと頽れた水銀燈を、 真紅と金糸雀が、おいでおいで……と手招きする。 能面の『若女』を思わせる笑みを、満面に貼り付かせながら。 水銀燈は、フラフラと二人の元に引き寄せられていった。 「私も……バカ乙女だったなんてぇ。ショックぅ~」 「まあまあ、そう気落ちしないで下さいな。 ご自身の愚かさを自覚できたのですから、ケガの功名というものですわ」 「……お姉ちゃん。フォローになってない」 「平然と、奈落の底に突き落としやがったです。 きらきー……怖ろしい子ですぅ」 「銀ちゃん、可哀想なのよ。じゃあ、四番手はヒナ――」 雛苺が名乗りを上げようとした矢先、狼狽えた様子で、翠星石が立ち上がった。 「つつ、次はっ、私の番ですよっ! これぞ正統派の味で勝負ですぅ」 「うゅ……翠ちゃん、割り込みはダメなのよ」 「良いじゃないの、雛苺。主賓は、最後に登場するものなのだわ」 真紅にそう言われては、雛苺も返す言葉がない。 不承不承、といった風に頷いた。 四番手が決まり、全員が、翠星石の名前が書かれたコップを手にする。 見た目も、香りも、これぞ甘酒という出来映えだった。 「ミルキーはママの味。甘酒はおばばの味。さぁ、イッキにいくですっ!」 お祖母さんの味と言われると、なんとなく、郷愁を誘われる。 しかも、翠星石の作った甘酒は、仄かな甘みと、優しい味で、 懐かしい記憶を呼び覚ましてくれる一品だった。 口に含むなり、みんな、しんみりと黙り込んでしまうほどに……。 「はぁ……美味しいわぁ。なんだかぁ、優しい気持ちになれるわねぇ」 「本当に、お世辞抜きで美味なのだわ」 水銀燈と真紅を始め、誰もが口々に褒め称えた。 これなら優勝は間違いない。翠星石が「きしし……」と、ほくそ笑む。 しかし、そうはさせじと、さり気なく金糸雀の妨害工作が入った。 「でもねぇ、美味しいけど、普通すぎて特徴が無さすぎかしらー」 「言われてみればぁ……その通りよねぇ」 「…………平凡かも。だから、保留」 「なっ!? なんで、そうなるですっ!」 「気にしたら負けですわ。次は、私の甘酒を召し上がって下さいな」 五番手は、雪華綺晶。こちらもまた、見た目だけは、至って普通。 翠星石の後というコトもあって、全員、なんの警戒心もなく口に含んだ。 そして――――吐いた。 「み、皆さん?! どうなさったのですか?!」 一人、狼狽える雪華綺晶に、みんなの非難が殺到した。 「どうしたも、こうしたも……しょっぱいのだわ!」 「そ、そんな……私は、ちゃんと砂糖を――ゴブファーッ!」 砂糖を加えた筈が、塩でした! という、お約束のオチらしい。 真紅、金糸雀、水銀燈のバカ乙女トリオが、雪華綺晶を手招きした。 お前も、こっちの人間だ。そう言わんばかりの笑みを浮かべながら―― 「みんな……ダメダメ。次……私の」 「六番手は、薔薇しぃですか。いい加減、まともなヤツを頼むです」 薔薇水晶の名前が書かれたコップを持ち上げ、みんな、ヤケ気味に呷る。 ヒドイものばかりなので、誰もが、投げ遣りな感じだ。 もう、どうにでもして! そんな雰囲気が、室内に漂っていた。 直後、部屋の空気が一変する。誰の瞳も、驚愕に見開かれていた。 「こ、これって、お酒かしらー?!」 「間違いないわぁ。甘酒じゃなくて、どぶろくよぉ」 「どーいうコトです、薔薇しぃ! 本物の酒を出すなんて、正気の沙汰じゃねぇです!」 「……らぷらす印の濁り酒……おいしいよ? 秘密の酒屋さんで売ってる」 「確かに、口当たりがまろやかでぇ、んまぁ~い……って、ヤバいでしょぉ!」 「これって、密造酒……よね。しかも密売だなんて、犯罪なのだわ?!」 「そ、そう言えば……最近、執事さんを見てないかしらー」 「ば……薔薇しぃ。ラプラスさんは、今どこに居るです?」 狼狽える一同に、薔薇水晶と雪華綺晶は、コトも無げに、こう言った。 「…………連れて行かれた。もう……三日も留守」 「一人でバカンスなんて、ズルいですわよねぇ」 そりゃ逮捕されたんだよ……とは、誰も言わない。言えるワケがない。 どんよりと重苦しい空気に包まれて、雛苺を除いた六人は、がっくりと項垂れていた。 けれど、まだ終わりではない。 最後の審判が下される瞬間が、訪れようとしていた。 「それじゃあ、いよいよ、ヒナの甘酒を飲んでもらうのよー!」 しかし、その色は薄桃色で―― 「あー。なんとな~く、味の予想が付いちまうですぅ」 「どう……なさいます?」 「主賓の出してくれたものは、戴くのが礼儀だけどぉ」 「じゃあ、銀ちゃん……お先にどうぞ、ですぅ」 ご機嫌を窺うように、みんなで雛苺を一瞥する。 彼女は無邪気な笑みを浮かべて、自分の甘酒を飲んでもらえる瞬間を、 今か今かと、心待ちにしている様子だった。 (早くっ♪ 早くっ♪ 感想、聞っかせて欲っしいのよー♪) 誰の耳にも、雛苺のココロの歌が聞こえていた。アタマに電波が飛んできた。 正直、飲みたくない。でも、飲まなければいけない。 拒否できない空気が、場を占めていた。 「貴女たち、覚悟は良い? 遺書は書いたわね? じゃあ…………みんなで一斉に飲むのだわ」 それでは……と、 真紅の音頭で、誰もがギュッと目を閉じ、コップの中身を呷った。 予想どおりの味? いいや、もっとヒドイ。 雛苺の甘酒には、すり下ろした苺が、たっぷりと溶け込んでいたのだ。 殺人的な甘さに、誰もが口元を抑えて、目に涙を浮かべていた。 正確には、雛苺と、薔薇水晶を除いた五人が―― 「ウォォ~、アンマァ~。とっても美味しいのよー♪」 「……うん。おいしいね」 「薔薇しぃ、おかわりなら、いっぱい有るのっ」 「それじゃあ…………マヅイ~っ! もう一杯ぃ!」 「ええっ?! 美味しいって言ってくれたのは、ウソだったのー?」 「…………言葉のアヤ。気にしちゃダメ」 やおらコントを始める二人を余所に、真紅たちは口直しにと、 翠星石の作った甘酒をガブ飲みしていた。 ある程度、酔いが回ってくると、だんだん味も解らなくなってくる。 結局、金糸雀の漢方甘酒だけが売れ残り、他は全て、飲み干されてしまった。 その中には、水銀燈と薔薇水晶の、本物の酒も含まれていたワケで―― 泥酔した乙女たちは、思い思いの姿勢で、眠りに就いていた。 ふと、目を覚ました翠星石は、座布団を敷いて寝転がっている雛苺を見遣った。 楽しそうに微笑みながら、眠りこけている。みんなの寝顔も、幸せそうだ。 今年の雛祭りに、蒼星石が居なかったのは残念だけど…… これはこれで、面白かった。 心安らぐ、ひととき。たまには、こんな雛祭りも良い。 翠星石は、ふ……と、鼻先で微笑すると、 再びテーブルに突っ伏して、夢の世界に旅立っていった。
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『ひょひょいの憑依っ!』Act.10 金糸雀を、成仏させてやって欲しい―― それは元々、ジュンが頭を下げて、めぐと水銀燈に請願したこと。 カゴの中の小鳥に等しい生活を、半永久的に強いられている金糸雀が哀れで、 大空に解き放ってあげたいと思ったから……。 でも……四肢を失い、力無く横たわったままの金糸雀と、 その彼女を、無慈悲に始末しようとする水銀燈を目の当たりにして、疑問が生じました。 ――違う。これは、自分の期待していた結末じゃない。 金糸雀を捕らえている縛鎖を断ち切ってあげてくれとは頼みましたが、 こんな、一方的かつ事務的な…… 害虫駆除さながらに排斥することなど、望んではいなかったのです。 (僕が、あいつの立場だったなら、こんなの――) とても受け入れられずに、猛然と刃向かったでしょう。 手も足も出ない状況でも。逆立ちしたって敵わないと、解っていても。 権利は自ら勝ち取り、守り抜くもの。自由とは、そういうコトなのですから。 (だから、金糸雀は戦った。薄幸だった人生を、やり直したくって。 真紅の身体を乗っ取ろうとしてまで、僕の側で生きようとした) 普通の女の子として、ささやかな幸せを欲した、地縛霊の娘。 その想いを遂げるために金糸雀が採った策は、人として赦されざる所業です。 ……が、それでも。 人道に悖ると解っていても、止められない想いが、この世には確かにあって―― 金糸雀は、誰もが密かに願っているように……自らの気持ちを尊重、最優先しただけ。 それによって、有史以来、この世界のどこかで絶えず行われている痴情のもつれが、 たまたまジュンたちの間に起きただけなのです。 なのに、タブーを犯したからといって、情状酌量の余地も認めず祓うのは、 いささか乱暴に過ぎないでしょうか。 そう考えて……胸に当たった結論は、ジュンに強烈な眩暈を催させました。 (……結局、水銀燈の言ったとおりじゃないか。 僕はココロのどこかで、真紅を目の敵にする金糸雀のことを、疎んでいたんだ。 真紅を守るためと嘯いて、金糸雀の気持ちを考えようともしないで…… 体良く、あいつを遠ざけようとしてたんじゃないか) それなのに、水銀燈に祓ってもらうことが、金糸雀のためになると―― 自分自身すらも謀っていたのです。なんて独善的で、白々しい屁理屈。 これでは、ボウヤと罵られても、文句を言う資格すらありません。 (甘えてたんだ、きっと。放っておけば、なるようになる……って。 もっと早く……こうなる前に、手を打てたハズなのに。 切羽詰まるまで、僕は何もしなかった。悩むことさえ、しなかった) もう、残された答えは、ひとつだけなのでしょうか? このまま、真紅を襲った罪を盾にとって、金糸雀を糾弾、断罪することで―― 彼女を生贄の羊にすることで、全てが円満な解決を迎えるのでしょうか? ジュンは、カナ縛り状態の真紅を抱きかかえながら、決然と顔を上げました。 まだ間に合うなら……やり直したい。その強い意志を、瞳に込めて。 一縷の希望に縋ろうとするジュンの目の前では、水銀燈が太刀を振り翳し、 床に転がった金糸雀を、いま正に、叩き割らんとしています。 金糸雀はと言えば、先程のダメージが大きすぎて動けないところに、 水銀燈の霊圧によって抑えつけられ、声すら出せない様子でした。 ――ダメだ! 叫ぼうとしますが、水銀燈の霊圧は冗談抜きに凄まじく、 ジュンは息苦しいまでの疼痛を胸に覚えながら、懸命に口を開き、声を出そうとします。 そして、やっと―― 「やめてくれ!」 嗄れて聞き取りにくい声を、呻くように絞り出したのです。 ひた……と、水銀燈は頭上に太刀を掲げたまま、 冷ややかな瞳で、苦しげに表情を歪めるジュンを射竦めました。 「なぁにぃ? 今になって情けをかけるワケぇ?」 「身勝手なのは、よく解ってる。土壇場で考えを翻すほど、甘ったれだってコトも。 だけど……金糸雀が痛めつけられるのは、もう……見てらんないんだ!」 「は! カッコつけちゃってぇ…………貴方、ホントに解ってるぅ? この地縛霊に憑かれっぱなしだと、じきに衰弱して死んじゃうのよぉ?」 「その前に、金糸雀の未練を解いてあげればいいんだろ! あいつが納得して成仏できる方法を、僕は探してやりたいんだ!」 ジュンは真剣な面持ちで、水銀燈と真っ向から睨み合いました。 彼女の眼光は怖ろしいまでに鋭くて、ちらと瞳を合わせただけでも、 気が遠くなり、命を吸い取られそうな感覚に陥ります。 本当は、すぐにでも目を逸らし、逃げ出してしまいたいけれど―― ぐっ……と、畏怖の念を胸の奥に押し込めたのです。 どれくらいの間、そうしていたのか…… やおら、水銀燈が鼻を鳴らして、吊り上げていた目尻を弛めました。 「ホぉント、呆れたわぁ」言葉そのものの嘲笑と、大仰に肩を竦める仕種を見せて、 水銀燈は背中の黒い翼と、太刀を納めたのです。 それに伴い、部屋中に満ちていた重い霊圧も、拭き取ったように雲散霧消しました。 「ほんの数日、ままごとみたいに暮らした地縛霊に、情が移っただなんてねぇ。 バっカみたぁい。だから、ボウヤだって言うのよ」 水銀燈の嘲りはひっきりなしで、ジュンに反論の隙も与えません。 それはもう、バケツに満たした冷水を、柄杓で頭からザブザブ浴びせるように。 「大体ねぇ、その根性が気に入らないわ。 誰も傷つけないように、如才なく振る舞おうとする、その姑息さがね。 他人に……幽霊に同情できるほど、貴方、偉いワケぇ? 差し伸べるための救いの手すら、他人の手を借りてるクセに。 言っとくけどね、中途半端な思いやりなんか、侮辱と冒涜でしかないのよ!」 「水銀燈……もう、そのくらいで充分でしょ」 「めぐは黙ってて。まぁだ言い足りないわぁ」 めぐの横槍を、アッサリと脇に退けて、水銀燈の叱責は続きます。 ジュンは項垂れたまま、彼女の言葉を受け止めることしか、出来ませんでした。 「貴方……他人を傷つけなければ、自分も傷つけられずに済むと思ってなぁい? 理解あるフリして、妥協して、ぶつかり合うコトから逃げ回って―― いい? 傷つく覚悟がなければ、誰かと愛を育むコトなんかできっこないの。 そこのところ、よーく考えてみるのねぇ」 水銀燈の言うような一面を、確かに、ジュンは持っていました。 傷つきたくない。他人と深く関わりを持つのが、怖い。 それは過去の、ある事件によってココロに負った、今も癒えぬ深い傷のせい。 人付き合いを潜在的に怖れるあまり、自己防衛として、八方美人になっていたのです。 「あ~ぁ、やってらんなぁい」 つまらなそうに言い捨てて、水銀燈は、ジュンたちに背を向けました。 「行きましょぉ、めぐ。とんだ茶番劇だったわぁ」 「いちいち憎まれ口を叩かないの。 桜田くん。私たち、これで失礼するけど……何かあれば、また連絡して」 それだけを告げて、めぐと水銀燈は、真紅の部屋から立ち去りました。 玄関のドアが閉ざされる音を合図に訪れる、深夜の、耳が痛くなるほどの静寂。 金糸雀の啜り泣きだけが、時の経過を報せるように……ひっそりと、響く。 「……金糸雀」呼びかけたジュンの声は、思いの外、大きく聞こえて。 更に、声を潜めました。「真紅のカナ縛りを、解いてくれないか」 その声に、金糸雀が小さく頷くと―― はふぅ……。ジュンの腕の中で、硬直の解けた真紅が、深く息を吐きます。 そして、頻りに瞬きしながら、大粒の涙をボロボロと零し始めたのです。 ジュンは安心させようと微笑んで、華奢な彼女を抱きしめました。 ガラス細工を扱うみたいに、そっと……そっと……。 「……真紅。無事で良かった……ホントに」 「ジュ……ン、私……私っ」 さめざめと涙を流し続けながら、真紅はジュンのジャンパーを掴みました。 まるで、親に縋りつく幼子のように、指が白くなるほど、強く。 ジュンは今まで、ずっと真紅の側に居て、彼女をよく知っているつもりでした。 生まれ育ちが良くて、いつも気高く、品位があって―― それでいながら、ただ高慢ちきなワガママ娘などではなく、 気を許した者には、とても甘えん坊でキュートな一面を見せてくれることも。 普段は、気丈に振る舞うけれど、恥じらいも慎みも備えているお嬢様。 しかし、素顔の真紅は、今もピュアな夢を大切に抱き続けている、小さな女の子。 ですから、ジュンは使いっ走りに甘んじようとも、彼女から離れられずに…… いつの頃からか、ひとかたならず、想いを寄せるようになっていたのです。 けれど、いま腕に収まっている彼女は、まるで氷像のように儚げで、 強く抱きしめたら、さらりと溶け去ってしまいそうなほどに透明で、 ……ジュンですら初めて目にする、知らない顔の真紅でした。 いつもならば、こんな風にベタベタと馴れ馴れしく触られることを嫌って、 ビンタのひとつも飛ばしてくる場面なのに…… 子供みたいに怯えきって、意地を張ることも忘れ、涙している。 ここまで真紅を追いつめたのは、金糸雀です。 けれど、それも元を質せば、ジュンの優柔不断が引き起こしたこと。 それが筆舌に尽くしがたいほど口惜しく、申し訳なく思うのに―― 「ごめんな……真紅」 弱さをさらけ出した彼女に、気の利いた言葉のひとつも、かけてあげられない。 情けなくて、もどかしくて…… ジュンはただ、真紅の細い身体を抱きしめ、髪を撫でてあげることしか出来ませんでした。 「……いいのよ。貴方は、来て……くれたんだもの」 ポツリ、と。真紅は囁いて、ジュンの痩せた胸に頬を寄せて、体重を預けました。 ジャンパーを握り締めていた手は、いつの間にか、彼の背中に添えられて、 きゅっ……と、控えめに、この抱擁が続けられることを求めていたのです。 言葉少なに抱き合う、ジュンと真紅の、仲睦まじそうな姿。 それは金糸雀に、胸が引き裂ける痛みと、はらわたが千切れる想いをもたらしました。 何もできない状況で。自分では、寝返りを打つことさえ儘ならない状態で。 二人の、あんなにも親密な関係を、見せつけられている。 (こんなの……酷い。こんな惨い仕打ちって、ないかしら! カナだって、ジュンに抱きしめて欲しいのに。カナは、ここにいるのにっ!) 堪らず、話しかけようとした途端、人形の喉に亀裂が走って、空気が漏れました。 ビスクドールのボディーは、損壊の一歩手前までダメージを受けていたのです。 ジュンの名を呼ぼうとするのに、ひゅうぅ……ひゅうぅ…… 必死の想いも、声にならない。それが悔しくて、また、睫毛が濡れてゆきます。 (イヤ……こんなのイヤ……ジュンっ! お願いかしら。こっちを……カナを見て! カナの名前を呼んで! 真紅にしてるみたいに、カナを抱きしめて欲しいかしら!) 諦めきれない。金糸雀は口をパクパクさせ、身じろぎして、アピールを試みます。 ……が、それによって全身にヒビが入り、胸が、喉が、顔までが、割れ始めて―― (ああぁぁっ! ダメかしらっ! まだ壊れちゃダメかしらぁっ!) ――ジュンっ。 紡ごうとしたココロの叫びは……無情にも、人形のボディーと共に砕け散ってしまいました。 すっかり寝静まった深夜の街に響く、二人分の靴音。 車の通りが止んだ車道の真ん中を、千鳥足で歩いているのは、めぐと水銀燈。 彼女たちの足元には、濃い月影がチョロチョロ憑きまとっています。 街灯など必要ないくらいに、明るい夜でした。 「ねえ、水銀燈。今夜は月が綺麗ね。まるで、ステージ照明みたい。 そう思うと、街灯がスポットライトに見えてこない?」 中央分離帯をなぞって踏みながら、隣を歩く娘に訊ねる、めぐ。 話しかけられた水銀燈は、かったるそうに、彼女を流し目に見ました。 「なによぉ。まぁた、いつかみたいに『Shall we dance?』とか、 おバカさんなこと言って社交ダンスに付き合わせる気ぃ?」 「ダメなの? じゃあ……歌なら唄ってくれる? この星屑のステージで」 「どんな歌よぉ」 「月に因んで、ゲンコツ山の~タヌキさん~♪ はいっ、続きは水銀燈が唄って」 「…………やぁよ。大体、月と何の脈絡も無いじゃない」 「えー? 唄ってくれないなら、背中にゲロ流し込むからね」 「…………オ……オッ……オッパ……ばっ、バカじゃないのっ!」 なぜか両腕で胸を隠し、夜目にもハッキリ分かるほど赤面した水銀燈を眺めて、 めぐは鈴のように笑いながら、「なぁんてね。冗談よ、じょーだん♪」 戯けた調子はそのままに、ひょいと水銀燈の前に立ちふさがりました。 「なんで、あの地縛霊ちゃんを祓わなかったの? 簡単にできたハズでしょ」 「別にぃ」照れ隠しか、水銀燈は前髪を掻き上げ、鼻で笑いました。 「ただ、あのボウヤの煮え切らない態度が、気に入らなかっただけよ。 少しくらい苦労させてやろうってカンジぃ。弱い者イジメの趣味も無いしぃ」 めぐは「ふぅん」と相槌こそ打ちましたが、言葉どおりには解釈していない様子。 流石に、付き合いの長い二人。なんとなーく通じ合うモノが、あるみたいです。 「あの娘に同情しちゃったのは、桜田くんばかりじゃなかったってコトね」 「はぁ? なに言って――」 「彼女……私と出会う前の水銀燈と、境遇が似てるもんね」 人々に忘れ去られ、朽ち果ててゆく神社に閉じ込められていた水銀燈には、 金糸雀の寂しさ、人のココロの温かさを求める気持ちが、痛いほど解っていました。 ですから、つい……水銀燈自身も気づかぬ内に、感情移入していたのでしょう。 ジュンをキツく詰ったのも、中途半端な気持ちで付き合い続けるならば、 不幸な結末が待っているだけと、諭したかったからで……。 「どぉでも良いじゃない。あ~ぁ、今夜は馬鹿馬鹿しいコトばっかりだわ。 早く帰って飲み直しよぉ、めぐ」 「はいはい。明日は仕事もお休みだし、久しぶりに飲み明かすとしましょ」 素直に優しさを表現しない、意地っ張りな水銀燈が、めぐは好きでした。 いえ。そんな風に、ひねくれた彼女だからこそ、余計に惹かれたのかも知れません。 めぐにとって、淑やかで女の子女の子した娘は……性格的に、鬱陶しく想えたのです。 微笑みを交換し合って、再び、並んで歩き始めまる二人の乙女。 ……が。その足取りは、三歩と進まない内に、ビクリと止められました。 二人の行く手に、人影が立ちふさがっていたからです。 「……愛の夢…………第三番」 意味不明な言詞を吐いて、妖しく唇を歪め嗤う、左目を眼帯で隠した娘が―― ――同じ頃。金糸雀は、紺色の世界で、目を覚ましていました。 夜の漆黒と、窓から射し込む月光が混ざり合った、濃紺色の中で。 この景色は、見憶えがある。 確かめるべく、ムクリと起きあがった金糸雀の眼前には、 イヤと言うほど瞳に焼き付いた光景が、彼女を嘲笑うように横たわっておりました。 「やっぱり……ここに戻ってきちゃったかしら」 人形という依り代を喪ったことで、金糸雀の魂は地縛霊の特性によって、 ジュンの部屋まで引き戻されていたのです。 結局、幽霊のままでは、この部屋から逃げられない。 それが無性に悔しくて、金糸雀はキュッと唇を噛みました。 絶望よりも虚しさが募って、両の拳を握りしめながら、泣き濡れました。 「もう、イヤ……かしら。カナは、こんな部屋に居たくないっ! 独りぼっちは、もうイヤぁっ! このままじゃ……気が狂っちゃうかしらぁっ!」 両手で頭を抱えて喚きながら、ふらふらとジュンのベッドに倒れ込んで、 彼のニオイが染み込んだ枕に顔を埋め、ひたすらに嗚咽するも、 ささくれだった彼女のココロは、決して晴れませんでした。 「ジュン……お願いだから、早く帰ってきて。一秒でも早く、カナの側に戻ってきて。 そして、カナを抱きしめて。この張り裂けそうなココロを、癒して欲しいかしら」 たとえ、それでジュンを取り殺してしまうとしても―― こんな風に、彼の背中に頬ずりしたい。彼の腕に抱かれながら、眠りに就きたい。 ココロに落ちる、淫魔の禍言―― ――ジュンの全てが……欲しい。 それは金糸雀の欲望を激しく燃え上がらせ、熱情を駆り立てるのでした。
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「――その後の、雪華綺晶の行方は判りません。 お祖母様も、手を尽くし探したそうですが……何も。 今となっては、これだけが彼女の名残……存在した証です」 言うと、彼女は胸元のペンダントを手にとり、物悲しそうな眼差しを注いだ。 そして、気持ちを切り替えるように、少しだけ残っていたお茶を飲み干した。 僕も、彼女に倣って缶を呷る。 仰ぎ見た夏空は、より蒼を深くして、夕暮れの近いことを仄めかしていた。 それからの数分の間、僕らは、言葉を探していた。 ――と言うか。ただ、お互いを気遣い、遠慮し合ってたんだと思う。 僕も、彼女も……。 時折、もごもごと、言葉と呼ぶにはほど遠い音を、口の中で転がすだけで。 相も変わらず、四方八方から、アブラセミの喧しい声が降ってくる。 なんだか囃し立てられているようで、黙ったままでいるのは面白くなかった。 「もしかしたら――」 だから僕は、セミを無視して、センチメンタルな思いつきを口にしてみた。 「雪華綺晶は、槐さんの元に帰ったんじゃないかな」 墓とは、そういうものだ。先祖代々が暮らすための、もうひとつの住居。 不幸だった父娘……常世の国では、せめて幸せであって欲しい。 そう願ってしまうのは人情だろう。 隣りに座る彼女も「――そうですね」と、悲しげに睫毛を伏せた。 「本当に……そうであれば、いいと思います」 「槐さんの工房には、その後、誰も確かめに行かなかったのかい?」 「雛苺が、一度だけ行きました。修理に出していた『水銀燈』を引き取りに。 支払う相手がいなくなってしまったけれど……それでも、代金を置いてきた、と。 帰宅した雛苺の話では、これと言って変わったところは無かったそうですよ」 本当だろうか? 僕には、気になっていることがあった。 それは、世界霊魂を具現したという謎の結晶……ローザミスティカの行方について、だ。 雪華綺晶が去るときに置いていったのは、ペンダントだけ。 では、彼女がローザミスティカを持ち去ったとして――それは、何のために? そもそも、彼女は二度目の死の訪れを待つ数日間、何を考えただろう? 何をして、過ごしたのだろう……。 父を手に掛けてしまった――させされた、のほうが正しいのかな――ことへの後悔と絶望か。 白い肌が黒灰色に染まり、悪臭を放ちながら溶けてゆく様への、恐慌と狂乱か。 ……まずもって、まともな精神状態だったとは、考えられない。 幼子のように泣いて、震えて―― 雪華綺晶は、それこそ必死に、縋りつける何かを求めてたんじゃないかな。 それとも、いつの間にか身体にわいた蛆の群に、思い出の数々を投影して、 夢の名残を摘み取るように、ひとつひとつ潰しながら、終わりの時を待っていたんだろうか。 幕間4 『Old Dreams』 人は得てして、孤独を感じたとき、楽しかった頃に想いを馳せるもの。 いま感じているストレスを、過去の幸福で相殺させるべく、自己防衛が働くのだろう。 雪華綺晶もまた、その例にもれず、父娘の紡いだ幸せな思い出に縋ろうとしたのなら―― さっきの思いつきのとおり、住居もかねた工房を目指した可能性が高い。 そして、ひょっとしたら……偶然にも、ローザミスティカに関する記述を見つけたかもしれない。 槐氏は、病死した娘――薔薇水晶を生き返らせるために、それを欲した。 寄せ集めの材料と、師匠ローゼンの手記を頼りに、自作すら試みたと言うじゃないか。 彼は確かに、ローザミスティカの組成と効用、および使用法を知っていたんだ。 それらの重要書類は、第三者の判り得ない場所に、巧妙に隠してあったに違いない。 もし、雪華綺晶が、その書物の在処と持ち出す術を知っていて、読み、理解できたとしたら? ……『甦生』という単語に取り憑かれ、呪文のように唱えたかもしれない。 もう一度、普通の女の子として生き直せるかも……。 そんな希望が、妄執に置き換えられることは、充分に考えられることだ。 そこに、お誂え向きの存在――雛苺が現れた。しかも、たった独りで。 雪華綺晶にとっては、千載一遇のチャンスだ。衝動的に、雛苺に成り変わることを企んで……。 「――ひどい妄想だ」 思わず、僕は独りごちていた。いくら仮定と言っても、突飛に過ぎる。 『~だろう』『~かも』ばかりで、確たる道標もなく、思索だけが独り歩きしている。 仮定とは事実の究明の手段であるべきなのに…… 仮定を仮定で補うなんて、まったくもってナンセンス。 僕の呟きを聞きつけて、隣から、険を孕んだ声が届いた。 「お祖母様は、ウソを吐くような人じゃ――」 「いや、待って。違うんだ。ちょっと別のこと考えてて…… 君の話を、妄想よばわりしたんじゃないよ」 「……そうでしたか。ごめんなさい、ムキになったりして」 「いいんだ。誤解を招く言い方をした僕も悪かった。 ところで、雛苺さんと会って、話をしたことは?」 「いいえ……残念ながら。彼女の消息は、分からなくなってしまったから」 「そりゃまた、どうして」 「すべての絆は、引き裂かれてしまったの。人類が生み出した、2度目の地獄によって」 2度目の地獄。なんのことかと、暫し考えて……あっ、そうか! 僕は声をあげていた。 1937年――雪華綺晶の失踪から4年後、日本は盧溝橋事件を契機に、日中戦争に突入している。 更に2年後の、1939年。ポーランドに侵攻したドイツに対し、イギリス、フランスが宣戦布告した。 第二次世界大戦の勃発は、数千万もの人命を奪い、傷つけ、生き延びた者の人生をも狂わせた。 コリンヌさん達の塗炭の苦しみに比べたら、僕が抱えてる悩みなんか、まだケーキみたいな甘さだろう。 「緒戦で敗北したフランスが、ドイツ・イタリアと休戦協定を締結したのは、ご存知ですか? 国土は4つの地区に分割され、そのひとつの自由地区に、フランス政府の首都が移されたの」 「ヴィシー政権だね。首相は『ヴェルダンの英雄』ペタン元帥だったっけ」 「そうです。新政府は【労働・家族・祖国】をスローガンに、占領下でのフランス再生を目指しました。 でも、実状はドイツの傀儡政権でしかなく、突きつけられる要求は酷くなるばかりで……。 曾祖父の会社も、かなり劣悪な条件で、対独協力させられたと聞いています」 「そういった不満の蓄積が、民衆をレジスタンス運動に駆り立てたんだろうね」 「ええ。曾祖父もドイツに協力しつつ、裏で、レジスタンスの活動資金を援助していたそうです。 会社や家族を護るため、きわどいダブルスタンダードも、やむを得ない時代だったんでしょうね。 けれど、戦況が不利になると、ドイツは自由地区さえも占領してレジスタンスの摘発を強めました。 そして――とうとう、悲劇の日が、訪れてしまったんです」 穏やかじゃないね。そう切り返して、僕は横目に、彼女の様子を窺った。 ……が、僕の位置からだと夕日が逆光になり、翳った表情を読むことはできなかった。 これ以上、思い出すのが辛そうなら、ここでお開きにしてもいいんだけど、どうしたものか。 迷っていると、彼女は重い息を吐いて、手中のアルミ缶を握りつぶし、口を開いた。 「レジスタンスへの資金援助が発覚して、曾祖父は親衛隊(SS)に連行されました。 それっきり……曾祖父は、二度と戻らなかったそうです。 会社や屋敷もドイツに接収され、雛苺や使用人たちとも、離ればなれに―― それ以後、彼らの消息は不明のまま。僅かな手懸かりさえ、掴めていません」 何年も寝食を共にした仲ならば、きっと懸命に、お互いを探し続けたに違いない。 なのに、何十年もの歳月を経てなお、コリンヌさんは誰とも再会を果たせなかった。 逢いたくても、逢えなくなった……。そう考える方が、状況的に見て、自然だろう。 つまり―― いや、やめておこう。これ以上、過去の不幸を掘り返したところで、何も変えられない。 しつこく詮索して、空気の読めない男だと思われるのも、心外だし。 彼女のためを思うのであれば、結菱二葉氏の所在を探してあげるべきじゃないか。 「だいぶ日も傾いてきたし、そろそろ――」 言って、立ち上がりかけたものの、なんだか身体が重くて、僕はまたベンチに腰を落とした。 夏バテかな? なんて……我ながら、わざとらしさに失笑を禁じ得ない。 いま感じた重みの正体は、分かってる。この胸に蟠っている、モヤモヤの重みだ。 有り体に言えば、未練だった。この娘と、このまま別れたくない……という。 もっと、たくさんの言葉を交わしてみたい。もっと親しくなりたい。 僕は、突然この胸に湧いた、思春期の少年みたいな強い想いを持て余して―― ふと我に返ったとき、彼女に名刺を差し出していた。 「僕の方でも、結菱邸がどの辺に立ってたのか、調べてみるよ。 この一帯は空襲で焼け野原になったはずだから、戦前の地図を見た方が早いと思うんだ。 二葉氏の現住所についても、なにか判り次第、連絡するからさ」 また逢いたいがための、姑息な口実。下ゴコロ丸見えになってやしないか、心配になる。 彼女は名刺を手にして、そこに印刷された僕の名と肩書きに、目を走らせた。 そして――信用に値すると認めてくれたらしく、ひとつ、頷いた。 「でも、いいのかしら? お仕事の妨げには、なりません?」 「心配いらないさ。今は、夏休み中だからね。喜んで協力するよ」 「じゃあ素直に、ご厚意に甘えさせていただきますわ。 あの……名刺をもう一枚、いただけません? それと、ペンを」 求められたものを手渡すと、彼女は名刺の余白に、細々とした字を書き連ねた。 「私の携帯電話の番号と、メールアドレスです。一応、宿泊先のホテルと部屋番号も」 「オディール=フォッセーさんだね。連絡するのは、いつでもいいかな?」 「ええ、お願いします。少しくらい遅い時間でも構いませんから、きっと電話してね」 約束ですよ――と。彼女は、握った右手を突き出して、弾くように小指を立てた。 女の子と指切りするのなんて、何年ぶりだろう。なんだか緊張するなぁ。 僕は、胸のドキドキを悟られまいと、余裕っぽく頬を弛めながら……彼女の白い指に、小指を絡めた。 ~ ~ ~ 家に帰るなり、夕飯も食べず、風呂にも入らず、パソコンに向かう。 オディールさんのためにも、一刻も早く、結菱二葉氏の情報を収集したかったからだ。 開始8分――僕の求めるものは、拍子抜けするほど簡単に見つかった。 結菱家は旧華族で、戦前は貿易の他にも、造船、航空、製鋼などの企業をまとめ、 国内で五指に数えられる巨大な資本を有していた。いわゆる、財閥だ。 日本の無条件降伏の後、進駐したGHQによって財閥解体が行われたものの、 結菱グループは今もなお巨大資本を誇っているんだから、大したものじゃないか。 僕が見つけたファイルには、双子の兄、結菱一葉氏の死についても触れられていた。 昭和32年、大西洋で沈没した豪華客船ダイナ号に乗船していた、唯一の邦人―― それが、一葉氏だった。彼はその事故で、不幸にも、帰らぬ人になったそうだ。 弟の二葉氏は、兄の急逝に大きなショックを受け、一時期、人前に出なかったらしい。 そして、どうにか復帰した時、穏和だった彼の人柄は、すっかり変わっていたと言う。 以来、結菱グループ総裁として辣腕を振るい、一線を退いた今も、名誉顧問に就いて隠然たる影響力を持っているとか。 現住所については、少しばかり手こずったけれど、なんとか目星を付けることができた。 古都・鎌倉にある結菱グループの別荘に、どうやら二葉氏は隠居しているらしい。 取り急ぎ、彼女に電話をかけた。その場で、明日、二人で彼を訪ねる約束もした。 ――思いがけず早々に目的が果たされてしまって、なんだか物足りない気分だ。 そこで僕は、他の人物についても、調べてみることにした。 コリンヌ=フォッセーもまた、意外に著名人だったらしく、速やかにデータが上がってきた。 彼女は戦後、曾祖父の会社の代表取締役に就き、収益の一部を戦災孤児の救済基金に充てている。 また、奨学金としてフォッセー基金を設立するなどの功績に対し、近年、フランス政府から表彰されていた。 国家功労勲章の表彰式典の写真に、勲章を手に品よく微笑む、小柄な淑女を確認できた。 ゆったりと胸の辺りまで伸ばされた、柔らかそうな金髪の毛先が、くるんと縦にカールしている。 ライム色の澄んだ瞳と、ふっくらした頬、全体的に丸っこい面差しがチャーミングだ。 若かりし頃は、かなりの美人だったんじゃないか……なんて、ついつい、想像を膨らませてしまう。 この人とも、一度でいいから、話をしてみたかったな。 次に調べたローゼン・槐の両氏については、うわさ話の域を出ない、信憑性に乏しい情報ばかりだった。 ローザミスティカや、エーテル・クリスタルなんて単語に至っては、検索にすらヒットしない。 けれど……興味を惹く記述も、僕は引き当てていた。ローゼンもまた、孤児を集め、養っていたらしい。 彼は、子供たちの才能に応じて、さまざまな自活のための技能を教えたと言う。 槐氏も、あるいは、才能を見出されて弟子となった孤児の一人だったかもしれない。 他には、ローゼンは実の娘(一人娘だったらしい)に惨殺されたらしいなんて情報も出てきたけど…… さすがに、これはガセだろうね。インターネット上にある情報の全てが、真実とは限らないし。 ――まあ、とにかく。より詳しい話は、明日、当事者に会って聞くほうがいい。 すっかり遅くなった夜食を済ませ、シャワーを浴びた僕は、いつもより早く床に就いた。 幕間4 終 【3行予告?!】 遠ざかる人なら、なにも告げはしない。悲しみは私だけのもの―― ぐるぐると――それこそ未来永劫、二人の想いが廻るだけ。 それが、私の望む世界の、すべて。 次回、エピローグ 『ささやかな祈り』
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―葉月の頃 その3― 【8月13日 混家】後編 作者の名前を、じぃ……っと眺めていた蒼星石の唇が、物思わしげに動く。 「これって――」 そこは、ジュンと巴と、翠星石の時が止まった世界。 三人が三人とも、塑像のように固まったまま、続く蒼星石の言葉を待っていた。 心境は、さながら、裁判長の判決を待つ被告人といったところか。 本心では聞きたくないと思いながらも、 彼らは現実逃避――耳を塞ぎもせず、その場から逃げ出しもしなかった。 カラーコピーの表紙を眺めながら、蒼星石が口にしたのは―― 「外人さんが書いたマンガなんだね」 途端、硬直していた三人が、詰めていた息を吐き捨て肩を落とす。 翠星石は引きつった笑みを貼り付かせつつ、蒼星石の手から冊子をかっさらった。 「そそ、そうですぅ。きっと、ジュンたちは……えぇっと、そう! 雛苺の参考になればと思って、持ってきたですよ。 そ う で す よ ね?」 「お?! お、おう」 「ええ、ええ。勿論そうよ。ねえ、桜田くん? あはは……」 いきなり話を振られたにも拘わらず、ジュンも巴も、コクコクと頚を縦に振った。 かなり不自然な態度だったのだが、蒼星石は不審に思った風もなく、得心して頷く。 雛苺だけが、ワケが分からず『?』という顔をしていた。 長話をしてボロが出る前に、場所をかえるのが得策というものだろう。 翠星石は、コピー本を巴に返すと同時に、雛苺の本を一部ずつと、 ジュンのマスコット人形全種もヒョイヒョイと手にして、渡した。 「折角だし、これだけ買っといてやるですぅ。 受け取ったら、そろそろ行くですよ、蒼星石。 あんまり商売の邪魔しちゃー悪いですしぃ~」 「うん、そうだね。いい加減、オディールも探してあげないと」 巴が商品を袋に詰めている間に、翠星石はジュンに紙幣を差し出した。 お釣りと商品を受け取って、雛苺たちに別れを告げ、その場を後にする。 そして、歩くこと数分―― 蒼星石が、翠星石の肩を掴んで、力強く引っ張った。 「あ……姉さん! あそこに金髪の女の子がいるよ」 「あれ、オディールです? 人垣に邪魔されて、後頭部しか見えねぇですぅ」 「行ってみれば判るでしょ」 「それも、そうです。じゃあ――こうして行くですよ」 翠星石は、すっ……と手を伸ばして、蒼星石の手を握った。 返事の代わりに、キュッと握り返される手は、温かく、柔らかい。 会場の熱気も手伝って、掌は直ぐに汗ばんだけれど、二人は、手を離そうとしなかった。 寧ろ、互いの汗がひとつに混ざり合うことに、喜びすら感じていた。 前後左右から押し寄せてくる人の流れをかいくぐり、やっと思いで、 金髪娘の元まで到達した彼女たちが目にしたのは―― 「…………セーラームーンのコスプレイヤーさんだったね」(;゚д゚) 「…………しかも、男が女装してやがったですぅ」(゚д゚;) この世には【あなたの知らない世界】というものが実在するのだと、 あらためて認識したのだった。 その後も東館を隈なく回ってみたものの、それらしい人物は発見できず終い。 蒼星石いわく、オディールは大人しそうな外見に似合わず行動的とのコトなので、 もう別の場所に移動しているのかも知れなかった。 二人は行き交う人々の中に彼女を捜しつつ、正面ゲートまで戻ってきた。 周囲の日陰には、大勢の人間が、グッタリと座り込んでいる。 眠っている者。買い漁った同人誌を読んでいる者。携帯電話を耳に当てている者。 種々雑多、思い思いの行動を採っているが、 誰の顔にも、共通して疲労困憊の色が濃く現れていた。 「うわぁ……みんな、疲れ切った顔してるなぁ」 「死屍累々ってヤツですかね。この暑さじゃ、無理もねぇですぅ」 「そうだよね。ボクたちも、ちょっと外で涼んでいこうよ。 館内は蒸し暑かったからさ、汗かいちゃった」 「それじゃあ、冷たいジュースでも飲んで、一服するですよ」 カフェテリアやラウンジは幾つかあるが、この調子では、どこも満席だろう。 だったら、自販機で買った方が早い。 照りつける陽光を避けるように日陰を渡り歩き、やっと見付けた自販機で、 翠星石がジュースを買おうとした矢先、それは耳に飛び込んできた。 「ああ、喉乾いたわねえ。貴女は、なに飲むー?」 ……と、どこか聞き覚えのある声。 自販機の陰から、ひょいと顔を覗かせた翠星石の瞳に映ったのは、女性二人組。 一人は大学でいろいろと世話になっている講師。 そして、彼女の後ろには――探していた人物が立っていた。 「みっちゃんに、オディールっ!?」 「あら、翠星石ちゃんも来てたのね。 おっ? そっちの彼女、ウワサの蒼星石ちゃんか。話をするのは初めてね」 みっちゃんは自販機から取り出した缶をふたつ、ほいほいとオディールに放り投げ、 やおら頸に下げてあったデジカメを手にしてシャッターを切った。 「やったね、双子のツーショット。いきなりゲッチュ♪」 コスプレ会場は、華やいだ衣装に身を包んだプレイヤー達で溢れ返っていた。 現実離れした世界。日常から、かけ離れた幻想空間。 片隅に陣取った4人は、賑々しい雰囲気を眺めつつ、ジュースの缶を口元に運ぶ。 どれほどか経って……最初に口を開いたのは、蒼星石だった。 「……なんて言えば良いのかな。 陳腐な表現しか思い浮かばないけど……ボクね、今とっても感激してる」 蒼星石の隣に座っていたみっちゃんが、眼鏡の奥で、興味深そうに瞳を輝かせた。 「ふぅん? そりゃまた、どうして」 「だってさ、みんな、すごく情熱を傾けている。心から楽しんでるんだもの。 会場全体が、創造する喜びとか、熱意に満ちあふれてる。すごいと思うよ。 こんな風に感じるのは、初めてコミケに来たからなんだろうね」 「それは違うなぁ。足を運んだ回数なんて、関係ないって。 あたしなんか毎回来てるけど、その度に感激してるもの」 みっちゃんは一旦、言葉を切って、コスチューム・プレイヤーたちを見遣った。 ここを、神々が集いし巨大な社と見るなら、 彼ら彼女らは、晴れ着を纏った神官であり、巫女。 心の奥底に刷り込まれている原始的な自然信仰の記憶が、心を躍らせるのかも知れない。 しかし、その祭典も――――もうすぐ幕を下ろす。 翠星石の瞳に映った彼女の眼差しは、どこか夢見るようであり、 また、どこか寂しげでもあった。 ……が、みっちゃんはすぐに気を取り直し、 手をひらひらさせながら、気恥ずかしそうに微笑んだ。 「まあ、とにかく……お祭りの雰囲気って、ステキよね。 こんなにも胸が躍ることなんて、普段の生活じゃあ、そうそうないから」 「あったらあったで、困りもんですぅ。 四六時中、心臓バクバクいわせてたら早死にしちまうですよ」 にべもない翠星石の返事に、他の三人は一斉に苦笑した。 そんな空気を払拭するかのように、今度はオディールが口を開いた。 「実を言うと、私……ちょっと馬鹿にしてたの。ただHな本を売ってるだけじゃないのって。 でも、違った。それだけじゃあ、ないのよね。 暑苦しくて、汗まみれの腕がくっついたりして気持ち悪くなったりもしたけど、 今では……来て良かったって思えるわ」 言って、彼女は清々しく笑った。 丁度、今日のような青く晴れ渡った空のように。 「そよ風が立てる漣に揺られて、静かに微睡むのも良いけれど、 時には、津波や渦潮みたいな、激しい刺激を嗜むのもいいわね」 穏やかな日常と、祭りの華やぎ。ケ(褻)と、ハレ(晴れ)。 それは、人類が文明に目覚めた日から連綿と受け継いできた、魂の営み。 この雰囲気に身を任せ、一時でも現実を忘れるのが、ある意味、自然な行為だろう。 結果的に、オディールも、祭りを楽しめたようだ。 みっちゃんはジュースを飲み終えると、デジカメに手を遣って、 撮影した画像をディスプレイで確かめながら、誰にともなく語り始めた。 「あたし……ね。今でこそ大学の講師なんて仕事に就いてるけど、 学生の頃まで服飾関係の方に、すっごく興味もってたのよ。 友達のコスプレ衣装とか、何着か縫ってあげたりもしたっけなぁ」 「それで、今でも、こうして?」 オディールの問いに、みっちゃんは頚を縦に振る。 「詮無いこととは解ってるんだけどねぇ…… ついつい、ここに足を運んで、あの頃の夢を思い返すのよ。 服飾関係に進んでたら、今頃どうなってたかなぁって。 そんなパラレルワールドの自分に、想いを馳せてみたり――ね」 そう告げたときに、みっちゃんが垣間見せた遠い眼差しは、 さっき翠星石が見た、あの寂しげに夢を見つめるような目だった。 あの時、ああしていれば――なんて、考えるだけムダ。 実際、そのとおりかも知れない。 過去に戻って、人生をやり直すことなど、神様にだって出来はしない。 だが、翠星石は、必ずしもムダだなんて思わなかった。 過去を振り返る……それは、実験をして得られた結果に対する考察。 それが、これからの人生を、より良く生きていくための指針となるのだから。 「みっちゃん。生きるってコトは、常に実験の連続なのだと、私は思うです。 一つの動作に、一つの考察。 人は、試行錯誤を繰り返しながら、成長していくですよ。 だから……夢を見つめなおすコトは、決して詮無いことじゃねぇです」 それを教えてくれたのは、蒼星石だ。 彼女が目の前から去り、独りになって、翠星石は色々と考えさせられた。 結果、あの頃の自分よりも、色々と変われたと思う。 寂しがって泣いてばかりじゃないし、友人たちとの付き合いも、頻繁になった。 ただ単に『慣れ』なのかも知れない。 けれど『慣れ』もまた『成長』の証なのだ。 「人生の成否なんて、死ぬ寸前にならなきゃ分からねぇですぅ。 記憶のアルバムをひっくり返して、最後に舞い落ちた写真が幸せな思い出だったなら、 きっと、人生という実験に成功したってコトなのですよ」 「……ふぅん? なかなか面白い発想ねえ、それ。 レポートだったら最高点を付けてたかも。 あーあ。教え子に諭されるなんて、あたしも年寄りってコトなのかしらん」 みっちゃんは溜息を吐きながらも、屈託なく笑って、 翠星石の頭を、ぽふぽふと叩いた。 「さってと、休憩おーわり。閉会まで、ラストスパートいくわよぉ!」 「ええっ? まだ見て回るですか?」 「モチロン! いろんな衣装を撮影したいしね~」 呆れ顔で訊いた翠星石に、みっちゃんは陽気なウインクを返した。 「今日は、貴女たちと話が出来てよかった。結構、有意義な時間だったわ。 オディールちゃんにコスプレさせられなかったのが、唯一の心残りだけどぉ」 「……それなら、ボクたち三人の集合写真を、撮ってもらえない? オディールのコミケ来場記念に、ね」 「なるほど、蒼星石ちゃんナイスアイディア。それじゃあねぇ―― オディールちゃんが真ん中にしゃがんで、二人は後ろに並んで中腰になって。 ……そう、そんな感じ。じゃあ、一枚目いくわよー」 足を揃えて腰を降ろしたオディールが、スカートの裾を整え、 翠星石と蒼星石は、膝に手を衝いて、肩を寄せ合う。 全ての準備が終わったところで、シャッターが切られた。 三人が一斉に、ホッ……と、詰めていた息を吐く。 「みんな、表情かたいなぁ。もうちょっと笑って。もう一枚いくわよー」 みっちゃんの合図で、再び同じポーズをとる。 今度は、ちょっとだけ、微笑んで。 そして、シャッターが切られる寸前―― 翠星石の頬に触れる、柔らかな感触。 蒼星石にイタズラでキスされたのだと理解するまでに、翠星石は暫しの時間を要した。 理解すると、今度は言葉が思い浮かんでこなくなった。 耳まで朱に染めて、馬鹿みたいに、口をパクパクさせるだけ。 「な、なな……なにしやがるですかっ!」 「いいじゃない、記念なんだしさ」 やっとの思いで放った声に返される、素っ気ない台詞。 その言葉を紡ぎだした唇の主も、頬を上気させて、はにかんでいた。 自分の頭上で何が行われたのか判らず、不思議そうに二人を見上げるオディール。 そして、みっちゃんは…………デジカメを構えたまま、鼻血を噴き出していた。 帰りの電車は、幸いにして空いていた。 翠星石を真ん中にして、三人はシートに座った。 蒼星石とオディールを隣り合わせにさせない為だったが、 そのオディールは、今や翠星石の肩にもたれ掛かって、寝息を立てている。 慣れない人混みに揉まれて、流石に疲れたのだろう。 かく言う翠星石も、安堵から気が緩んで、ウトウトし始めた。 と、そこへ――蒼星石の囁きが。 「今日は、来て良かったよ。思いがけない収穫もあったし♪」 「それって……雛苺の本のコトです? それとも、ジュンの?」 「……あのコピー本ってさぁ」 「っ?! そ、蒼星石……おめー、まさか――」 「ボクが気付かなかったとでも、思ってたの? ふふ……姉さんの弱み、握っちゃった。みんなにバラしちゃおうかなぁ」 「あううぅ――――そ、それだけはぁ」 羞恥のあまり紅潮して、涙ぐんだ姉の顔を、蒼星石は上目遣いに覗き込む。 そして、ニッコリと笑いかけた。 「じゃあ、当分の間、ボクの頼みを聞いてくれるよね……姉さん♪」 「…………好きに……しやがれです」 「ふふっ。今度の旅行が楽しみだなぁ」 姉の肩にアタマを預けて、蒼星石は幸せそうに微笑んでいた。