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『ひょひょいの憑依っ!』Act.8 カナ縛りに捕縛された真紅は、声ひとつ出せず、指の一本すら動かせず…… 出来ることと言えば、にじり寄るビスクドールに、恐怖の眼差しを向けることだけ。 「来たわ来たわ来たわ。ついに、この時が来ちゃったかしらー!」 人形に取り憑いた金糸雀が、嬉々として、言葉を紡ぎだします。 地縛霊として、ずっとアパートの一室に閉じこめられていた彼女にしてみれば、 自分の意志で思いどおりに歩き回れることは、この上ない喜びでした。 でも、所詮は人形の身。まだまだ、不便なことが多々あります。 「苦節5年――やっと手に入れた自由だもの。これを活用しない手はないかしら」 わけても『死』という烙印は、とてつもなく重い枷でした。 自由になりたい。胸を焦がす渇望を潤したいのに……独りでは、何もできなかった日々。 でも、自由への扉を開く鍵――真紅の身体――は、今、目の前に転がっているのです。 気持ちよく晴れた休日には、ジュンと並んで公園を散歩したり―― ウィンドウショッピングとしゃれ込んだり、カフェでランチを楽しんだり―― その気になりさえすれば、今まで出来なかった、切望していたコト全てが可能。 ああ……『生きている』ことは、なんて素晴らしい! 「幸せを掴むのは、この金糸雀かしら。貴女なんかじゃ、決してない!」 ぐっ! と両手で拳を握りながら、金糸雀は舐めるように、真紅を眺め回します。 そして、徐に歩み寄ると……恐怖に歪んだままの真紅の頬に、そっと触れました。 赤ん坊を想わせる小さな手で、優しく撫で上げる仕種は、どこまでも愛しげ。 けれど、人形の唇は仕種と正反対の、酷薄な嗤笑を湛えていたのです。 「すべすべの肌……瑞々しくて、柔らかくって。 髪も艶やかでキレイだし、宝石のように澄んだ蒼い瞳もステキかしら~♪」 ふ……と、人形の双眸が、夢見るように細められます。 金糸雀の声音も、満足そうな陶酔を、ありありと匂わせておりました。 「この身体さえあれば、カナは生まれ変われる。人生を、やり直せる。 ジュンの恋人になって、結婚して、それから――彼の赤ちゃんを…… やぁん♪ 恥ずかしいかしらぁ~」 やおら、頬を染めてクネクネ身悶えする人形。 この超常現象まっしぐらな状況では、もう何でもアリです。 人形が喋ろうが、赤面しようが『よきカナよきカナ』の一言で片づいてしまいます。 ――ふざけないでっ! しかし、当然のことながら、真紅は激しい憤りに駆られておりました。 身体を乗っ取られるばかりか、少なからず想いを寄せる幼なじみまで奪われるなんて、 とんでもない屈辱です。到底、看過できるものではありません。 カナ縛りにさえ遭っていなかったら、こみあげる怒りに身体を戦慄かせて、 自分勝手な戯言をほざく金糸雀を一喝し、張り倒していたことでしょう。 真紅の本心くらい、金糸雀もとっくに察していたハズです。 それでいながら、優位に立つ者の余裕か、金糸雀は悠然と真紅の顔を両手で挟み込みました。 「さぁて……そろそろ、いただきマンマ。明るい家族計画を、始めちゃおうかしら。 口移しに、カラダを下さい――かしらぁ~」 古い角川アニメ映画のキャッチコピーみたいなことを言って、人形は真紅との距離を縮めてゆきます。 ――やめて! 来ないでちょうだい! 真紅はココロの中で必死に叫び続けますが、効果なし。 カナ縛りは、金糸雀の執念を反映したかの如くに、真紅の身体をガッツリ抑えつけています。 瞬きすら出来ず、乾いてゆく視界は、だんだんと近付いてくる人形の顔を凝視するだけ。 朱で塗装されたおちょぼ口からは、なにやら白い真綿状のモノが、ちろちろと……。 それは、いわゆるエクトプラズムと呼ばれる物質でした。 あんな得体の知れないモノが、自分の唇を割って侵入してくる。 そう思うだけで、潔癖な性格の真紅は、おぞましさに総毛立ってしまいました。 ――イヤ! 気持ち悪い! いやぁっ! 無意味と解っていても、しっかりと口を閉じたつもりになって、侵入を拒む真紅。 けれど、人形の繰り出すエクトプラズムは、容赦なく桜色の瑞々しい唇に辿り着きました。 生温かく、ふわふわした触感のソレは、ぺろんぺろんと真紅の口元を舐めたくります。 まるで品定めでもするかのように、何度も……何度でも……執拗に。 ――こんな奴に……悔しい……でもっ……。 いつまでも抵抗は続かないでしょう。このままでは、もう―― 好き放題に蹂躙された挙げ句に、何もかもが奪い尽くされてしまう。 握りつぶされてしまった、あのブローチのように、彼との思い出すらも消されてしまう。 自分という存在が破壊される。それは真紅にとって、とても怖ろしいことでした。 ――早く来て……お願いよっ! もう……私……。 ――――ジュンっ! ふと……誰かに呼ばれたような気がして、ジュンは目を覚ましました。 室内は真っ暗。枕元のディジタル電波時計は、午前零時を十五分ほど回っております。 こんな夜中に名を呼ばれるのも不自然で…………寝惚けたのでしょうか。 釈然としないまま、再び枕に頭を沈めたものの、なんとなく胸騒ぎがして寝付けません。 その段になって、ジュンは厄介な同居人の存在を思い出しました。 「そう言えば、金糸雀はどこに居るんだ」 半身を起こして辺りを見回しますが、姿はモチロン、気配すら感じられません。 またシャワーでも浴びているのかとバスルームに行ってみましたが……もぬけの殻。 大して広くない室内を、隈無く探したものの、遂に彼女を発見できませんでした。 「この部屋から、出られっこないハズだけど」 皓々と明かりを点した室内を、ジュンはもう一度、眺め回しました。 そこで漸く、あのビスクドールが無いことに気付いたのです。 「まさか……あいつ、人形に乗り移って外出したのか」 ジュンの胸中で、急激に膨らんでいく嫌な予感。 真紅に連絡を取ってみようとしたら、携帯電話まで無くなっているじゃあーりませんか。 金糸雀の仕業としか考えられません。どうやら、ただの散歩などでは、なさそうです。 着信履歴から、めぐの存在を突き止め、悪さを働きに行ったか……。 それとも、携帯の電話帳に登録してある住所を辿って、真紅のところへ……? ジュンは即座に、前者の可能性を否定しました。めぐの住所は登録されていませんから。 対して、真紅の方は、金糸雀に敵愾心を抱かれています。 「あーもうっ! なんなんだよ……この嫌な気分は」 居ても立ってもいられず、ジュンは深夜も憚らず真紅の部屋に行くため、身支度を始めました。 春は名のみの、風の寒さや。夜はまだ冷え込みますから、油断できません。 ベッドに放り出してあった、いびつなセーターを着込んで、ジャンパーを羽織りました。 「取り越し苦労であってくれよ」 独り言を吐いて、ジュンはアパートを飛び出し、真紅のマンションを目指したのです。 深夜の商店街に人影はなく、悠々と走ることが出来ました。 このペースで行けるならば、あと10分くらいで真紅のマンションに着けるでしょう。 問題があるとすれば、運動不足気味の身体が、どこまで保つか。 (それと、妨害が入らな――) ジュンが、邪魔者の姿を脳裏に思い描こうとした、次の瞬間っ! 細い脇道から、もの凄い勢いで、ナニかが飛び出してきたじゃあーりませんか。 全くの不意打ちでしたので、直撃を食らったジュンは、豪快にすっ転んでしまいました。 罵声を喉元で抑えつつ、ぶつかってきたナニかを睨め付けると…… 「……いったぁ~い……」 いきなりビンゴ! あの、左目を眼帯で隠した娘が、尻餅をついていたのです。 しかも、彼女が履いていたスカートは、太股までめくれ上がっていたから、さあ大変。 網膜に焼き付く、眩しいシルクの白。柔軟剤も使ってるのかっ?! ああ……水色のストライプが入っているような、いないような。 忽ち、あらゆる意味で、ジュンの頭に血が昇りました。 見てはいけない、でも見たい。葛藤に苦しむこと0.7秒。 結局、赤面した顔を背けて、照れ隠しに罵倒を浴びせることしか出来ませんでした。 「いきなり飛び出してくんなよっ! 僕は急いでたのに――」 「…………見たでしょ」 「あん?」 「ひどい辱めを受けた…………責任とって」 「なんで、そうなるんだよっ!」 冗談じゃありません。勝手にぶつかってきたクセに、難癖つけるとは言語道断。 これでは当たり屋です。サッカーでアズーリがカテナチオです。(意味不明) 「う、うるさいなっ。急いでるって言ったろ! お前なんかに構ってられないんだ」 ――なんて言いつつも、手を差し伸べてしまうのがヘタレクオリティ。 彼女を立ち上がらせたジュンは、服の汚れを払うのもそこそこに、背を向けました。 「と、とにかくさ……今度から気を付けろよな」 「無駄に優しいね。やっぱり…………スケコマシ」 「違うっ! あーもう、付き合いきれるかっ!」 癇癪を起こして走り去ろうとするジュン。その背中に投げ付けられる、眼帯娘の嘲り。 「どうせ叶わぬ恋なのに、ね」 叶わぬ恋とは、ジュンと真紅のことでしょうか。まさか、真紅の身に危機が迫っているとでも? もう、ジュンは真紅のこと以外、考えられませんでした。ひたすらに全力疾走。 やっとの想いで、真紅のマンションに到着した時には、息も絶え絶えでした。 でも、立ち止まってなど、いられません。重い脚を引きずり、エレベーターに向かいます。 その時でした。暗い夜道を、ふらふらと歩いてくる、二つの人影を見つけたのは。 正体が判然としなかったのも束の間、彼我の距離が縮まるにつれて、相手の顔が見えてきます。 それはよく見知った人物……めぐと水銀燈ではあーりませんか! これから金糸雀と対峙しようという時に、なんという偶然。 あの眼帯娘とぶつかっていなかったら、間違いなく行き違いになっていたでしょう。 そう考えたら、先程のアクシデントも怪我の功名というもの。 ジュンだけでは金糸雀に太刀打ちできませんが、この二人が居れば、心強い限りです。 早速、声を掛けようとした矢先、彼女たちもジュンに気付きました。 「あれぇ? 桜田くんじゃない。こんな夜遅くに、奇遇ね。どうしたの?」 「鈍いわねぇ、めぐ。夜這いに決――」 「違うから」 毎度のことながら、この二人、だいぶ酔っ払っているようです。 ……が、モノは考え様。これなら『ガス欠』ならぬ『酒気切れ』は起きないでしょう。 彼女たちの戯れ言をバッサリ一刀両断にして、ジュンは緊迫した事態を伝えました。 「そんなワケで、一緒に様子を見に行って欲しいんだ」 「なるほど、切羽詰まってるのね。水銀燈、貴女なら見つけられるんじゃない? 地縛霊だったら、依り代を使っても魂が土地に引かれっぱなしのハズよ」 「…………ええ。あるわね、不自然なカタチの魂が。 普通、魂は真円なのに、ひとつだけ楕円が混じってるわ。あの歪んだ魂が、多分――」 言って、水銀燈は徐に、真紅の部屋の辺りを指差します。 不吉な予感が、確信に変わった瞬間、エレベーターに駆け込む三人。 目的の階に着いても、深夜ですのでドタバタ喧しくはできません。 もどかしさに胸を焦がしながら足音を忍ばせ、やっとこさで真紅の部屋に辿り着くなり、 ジュンはドアノブを握りました……が、当然の事ながら施錠されております。 「どうしよう。管理人さんに、スペアキーで開けてもらうしかないのか」 「ここまで来といて引き返すなんて、バカじゃない?」 ぐい! と、ジュンを押し退けた水銀燈が、ドアの前に立ちます。 そして、どこから取り出したのか、ひとひらの黒い羽根にキスをして、 水銀燈は鍵穴に羽根を宛いました。 すると、ソレは見る間に鍵穴に吸い込まれて…… 夜の静寂の中、ドアロックが外れる音が、やけに大きく聞こえました。 「さ、開けてあげたわよ。さっさと踏み込みなさい」 「え? 僕が先頭かよ」 「当然でしょぉ? 当事者なんだから」 仰る通り。ジュンが行かずして、誰が金糸雀を説得し、真紅を護ると言うのか。 ジュンはドアを開けるなり、靴を脱ぐのも面倒くさげに、呼びかけました。 「真紅っ! 居るんだろ?」 通路の奥、簾で仕切られたリビングからは、明かりが漏れています。 しかも、なにやらガタガタと慌てたような物音まで、聞こえてきました。 真紅が居る。ジュンは、小走りに通路を進み、簾を掻き分けます。 ――そして、衝撃の光景を、目の当たりにしたのです。 ぐったりと仰向けに横たわる、ネグリジェ姿の真紅。 彼女の胸の上には、あのビスクドールがのし掛かって顔を近付け―― あろう事か、今にもキスしようとしてるじゃあーりませんか。 「やめるんだ、金糸雀っ!」 短く怒鳴って、走り出すジュン。 そんな彼の脇を追い越していく、帯状の黒い固まり。 驚いて足を止めたジュンが見たモノは、束となり空を斬る、無数の羽根でした。 振り返れば、それは水銀燈の背中に広げられた黒い翼から、放たれています。 狙いはモチロン、金糸雀が宿っている人形の破壊です。 「誰よ貴女っ! 邪魔しないで欲しいかしらっ! 出番よ、ピチカート」 金糸雀は火の玉を憑依させたパラソルを広げて、黒羽根の猛射を防ぎます。 パラソルで覆われていない真紅の身体に、あわや羽根が突き刺さりそうになって、 それを目にした水銀燈は、攻撃を止めざるを得ませんでした。 その隙を、金糸雀が見逃してくれるハズもなく…… 素早くパラソルを畳むや、槍のように構えて、素早い跳躍で水銀燈に迫ったのです。 咄嗟に、翼を前面に掲げて防御する水銀燈。 でも、それはフェイクでした。金糸雀の本当の狙いは、彼女の後ろ―― 水銀燈に力を与えている禍魂憑きの娘、めぐでした。 「あはははっ。将を射んと欲すれば、まず馬を射よ。兵法の基本かしら!」 「きゃぁっ!」 「め、めぐっ?!」 火の玉が憑依して青白く燃え立つパラソルは、正しく一撃必殺の魔槍。 金糸雀は一切の迷いなく、めぐの心臓めがけて、突きを繰り出します。 めぐさえ屠ってしまえば、水銀燈など陸に上がったカッパ同然。敵じゃありません。 その後は、ゆっくり真紅の身体をゲットしてハッピーエンド一直線です。 酔いが回って、足元のおぼつかないめぐは、この突きを躱せやしない。 金糸雀は高を括って、勝利を確信しました。 しかし―― 「ダメだっ!」 めぐと金糸雀の間に割って入る、一陣の風ならぬ影。 「ジュンっ?!」 金糸雀が、悲鳴にも似た驚きの声をあげました。自殺行為もいいところです。 咄嗟にパラソルを逸らしたのですが、間に合いません。 両腕を広げて立ちはだかるジュンの左肩を掠めて、一瞬、青白い炎が広がりました。 ほんのりと鼻を突く、化繊と肌が焼ける臭い。 ジュンは激痛に顔を歪めながら、足元に降り立った金糸雀を睨め付けます。 「いい加減にしろ! お前は、もう死んだ人間なんだぞ! いつまでも彷徨ってるなよっ!」 ジュンを見上げる人形の眼が見開かれ、じわりと溢れてきた涙が、頬を流れ落ちます。 「そんな……酷い。カナは……ジュンの側に居たい。一緒に暮らしていたいかしら。 普通の女の子として、ささやかな幸せが欲しいだけ……ただ、それだけなのに…… 死んだ人間は、人を好きになっちゃいけないの? 幸せを夢見ることすら許されないの?」 胸を締め付ける、金糸雀の哀切。ジュンは少しの間、応えに窮してしまうのでした。
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『ひょひょいの憑依っ!』Act.6 「あーん、もうっ。カナ、独りぼっちで寂しかったんだからぁ。 ジュンったら、どこ行ってたかしら~」 帰宅早々、熱烈歓迎。 甘えた声色に相反して、金糸雀の腕は、容赦なくジュンの頸を絞めます。 猫のように、頬をスリスリしてくる仕種は『可愛いな』と想わせるのですが、 これではまるで、アナコンダに締め上げられるカピバラ状態。 喜びの抱擁が、悲しみの法要になってしまいます。 無防備に押し当てられる、彼女の柔らかな胸の感触を名残惜しく思いつつ、 ジュンはこみあげてくる鼻血を、理性でググッと我慢するのでした。 「ちょっと、外でメシ食ってきただけだって。 お前に作ってもらおうと思ってたけど、ちっとも風呂から出てこないから」 真紅のところに行ったことは、伏せておくのが吉でしょう。 とかく人間関係には、ヒミツがつきもの。 それがあるから、この世は歪みながらも、それなりに巧く回っているのです。 街並みがバリアフリーになれば、人に優しい環境と呼べるでしょうが、 人の心は、ビルや住居ではありません。時には隠し事するのも、優しさの裏返し。 (本当のことをベラベラ喋ったら……コイツのことだ。 何をしでかすか、解らないからな) 注意一秒ケガ一生。そんな標語が、意味もなくジュンの脳裏に浮かびました。 「お前、どれだけ長いことシャワー使ってたんだよ」 「ご、ごめんなさぁい……かしら」 「まあ、いいけどな。たまには外食するのも、気分転換になるし」 「明日は、きっとご飯作るからっ! ジュンは、なにが食べたいかしら?」 「そうだなぁ…………キノコ鍋とか、どうだ」 やおら口をへの字に歪めて、頬を引きつらせる金糸雀を見て、 ジュンは気分よさげに笑いながら靴を脱ぎ、カバンを手に部屋に向かいました。 それを目敏く見つけた金糸雀が、ちょこちょこと彼の後ろに付き従って訊ねます。 「そのカバン、なぁに? ははぁん……もしかして、カナにプレゼント?」 「なんで、お前なんかに」 木で鼻を括るようなジュンの態度に、金糸雀が「むー」と頬を膨らませました。 ――が、それも、カバンの中身を目にするまでのこと。 中に納められていたのが、可愛らしい人形と判ると、たちまち瞳を輝かせたのです。 「わ! わ! ねえねえっ! どうしたの、このお人形っ!」 「いやさ、なんかムリヤリ買わされた」 「ふぅ~ん。いいなぁ……可愛いなぁ……」 金糸雀は幼子のように指を銜え、カバンに横たわる人形に、物欲しげな眼差しを浴びせます。 女の子という生き物は、どうして、人形やヌイグルミといった物が好きなのでしょう。 いくつになっても、ココロの片隅に、ピュアでメルヘンチックな部分を持っているようです。 (母性本能とか、ホルモンの関係なのかなぁ) 男の子のジュンには、その程度の、無粋な発想しかできません。 しかし……傍らに居る女の子を、喜ばせてあげたい気持ちが芽生えていたのも確かでした。 どのみち、ジュンにとっては、猫に小判というものです。 それに、もしかしたら、これがいいキッカケになるかも知れません。 人形を愛でることで、金糸雀の真紅イジメが止むならば、儲けものでしょう。 「この人形が……欲しいか? 欲しければ、くれてやる」 「それなんてジャバウォック? ……じゃなくてっ! ホント?! ホントに、カナにくれるのかしらっ?」 「ああ。僕が持ってても、カバンに詰め込んだままになるだろうからな。 それじゃ、人形とは言え、さすがに可哀相だし」 「あ…………ありがとぉーっ!?」 金糸雀が、満面の笑顔でジュンに抱きつきます。 どういうワケか彼女の腕は、頸に絡みついて、キュッ! と絞めてくるのでした。 (いつか、ホントに絞め殺されて、丸呑みされそうだな……僕) ――翌朝。 心地よい微睡みに沈んでいたジュンの意識を、調理の音と、芳しい匂いと、 陽気な歌声が揺さぶってきます。 「女の子は~、恋をした時からぁ~♪」 なんだか懐かしいメロディ。昔みたアニメのエンディングが、思い出されました。 あったなぁ、こんな歌――瞼を閉ざしたまま、回想にふけるジュンの耳に、 聞かれているとも知らない風情で、歌の続きが流れてきます。 「チョー1流のぉ~、孔明に早変わりぃ~♪」 (おいっ! なんか今、おかしくなかったか?) 頬を叩かれたようなショックで、百年の眠気も一撃粉砕、猫灰だらけ。 跳ね起きたジュンの頭は、寝起きも相まって、混乱しまくりです。 金糸雀は、元気な中に、ちょっとの不安を覗かせた挨拶を投げてきました。 「おはよ、ジュン。起こしちゃったかしら?」 「……そうだな。叩き起こされた気分だ」 「ごめーん。でも、もうすぐ朝食ができるから、丁度よかったかしら。 早く、顔を洗ってくるかしらぁ~♪」 なにやら、朝からゴキゲンの彼女。プレゼント効果は覿面のようです。 これほどならば、もっと早くに、こうすれば良かった。 ジュンは少しだけ、後悔してしまいました。 そうすれば、不必要に、真紅を傷つけることもなかったのに……と。 雑談に興じつつ、和やかに過ごす朝の食卓。 もしも金糸雀と出逢わなかったら、今頃は独り寂しく、 ぼそぼそとシリアルを口に運んでいたことでしょう。 (朝飯つくってくれたんだし、そこのトコだけは、感謝しておくか) ちゃぶ台を挟んで向かいに座る金糸雀に、ちらと見遣ります。 その一瞬、不意に視線がぶつかり、ジュンはドキリと目を逸らしてしまいました。 「ん? なぁに、ジュン」 「いや……その、えっとさ……さっきの歌だけど」 なんとなく言いそびれて、別の話題を振ることで、誤魔化そうとします。 「なんで、恋した女の子は孔明に早変わりなんだ?」 「やぁね……盗み聞きしてたかしら」 「勝手に聞こえてきたんだよ。人聞き悪いなぁ」 「あははっ、ごめーん」 ――と、朗らかな笑顔を振りまく金糸雀でしたが、急に表情を引き結びました。 それから、険しい目をして、ちゃぶ台に身を乗り出し、声を潜めて言ったのです。 「い~い? 女の子ってね、生まれながらにして策士なのかしら。 好きになった人を繋ぎ止めておくためなら、なんだってしちゃうんだから」 「な……なんでも?」 「ええ。ニュースの殺傷事件でも、痴情のもつれって、よく言ってるでしょ。 開闢以来、連綿と受け継がれてきたことよ。本能みたいなものかしら。 好きで好きで……しまいには、その気持ちに歯止めが利かなくなって、 ふとしたキッカケから、暴走しちゃうワケね」 「物騒だなぁ。男の方が粗暴で残虐なイメージあるけど、女の方が残忍なのか?」 「そういうこと。女の子って、実は、とぉっても陰湿で残忍な面を隠してるの。 歴史の陰に女あり……ってね。男は所詮、キリキリ働く道具みたいなモノかしら~」 冗談じゃない。ジュンは朝から、憂鬱な溜息を吐いてしまいました。 言われてみれば、世の中には悪女列伝なるものが存在します。 目の前の金糸雀は、にこやかに構えていますが……イザとなれば、鬼になるかも知れません。 そんな猛獣たちと一緒に生活するなんて、とんでもなく恐ろしいことです。 もう一度、引きこもっちゃおうかな……冗談とも本音ともつかない考えが、頭を占めます。 ジュンの携帯電話に着信が入ったのは、そんな時でした。 ディスプレイに表示された電話番号は、電話帳に登録されていないものです。 間違い電話かと訝りましたが、一向に鳴り止む気配がありません。 5回コールを数えて、仕方なく、電話に出ました。 『あ……もしもーし。桜田くん?』 「え、ええ……まあ。どちら様ですか?」 『私よ、私。柿崎だってば。昨日はゴメンね~』 笹塚くんに番号を訊いたのでしょう。 金糸雀の目を気にしたジュンは「おお、そっかそっか」と曖昧な返事をして、席を立ち、 至って自然な動作でベッドに腰を降ろしました。 その口振りは、あくまで笹塚くんと話しているように。 「気にすんなよ。それで、なんの用なんだ?」 『……ちょっと馴れ馴れしすぎない?』 「いいって事さ。僕とお前の仲じゃないか、遠慮するなって」 『ど、どういう仲だって言うのよっ! 折角、これからで良ければ、昨日の相談に乗ってあげようと思ったのに』 「マジで?! ははは……こやつめ。 取り敢えずさ、電話じゃ金かかりすぎるし、会って話をしないか」 『……偉そうな態度が気に入らないけど、良いわよ。どこにする?』 「駅前で落ち合うか。ゲーセンとかあるし」 『解ったわ。じゃ、後でね』 「おう、またな!」 なんとか凌ぐと、ジュンは通話を切って、金糸雀に「笹塚からだよ」と嘘を吐きました。 「お前も一緒に来るか? 野郎同士の集まりなんて、退屈だろうけどさ」 退屈という単語を耳にして、金糸雀は渋面を浮かべます。 あるいは『野郎同士の集まり』と聞いて、銭湯の男湯を思い出したのかも知れません。 それでも、今までならば変に勘ぐって、無理にでも憑いてきたでしょう。 しかし―― 「うーん……カナは遠慮しておくかしら。ジュンだけで、楽しんできて」 「えっ? いいのか?」 「家事もしないといけないし……男の子だけの方が、気を遣わなくていいでしょ? 笹塚くんにも、よろしく伝えて欲しいかしら」 どうやら、ジュンが成り行きで吐いてしまった嘘を、信じ切っているようです。 それとも、気付いていながら、騙されたフリをしてくれているのでしょうか。 いずれにせよ、金糸雀の上機嫌がプレゼントした人形に起因しているなら、凄い事です。 おそるべし! ドール・セラピー。 「ああ、うん。そう言ってくれるなら、楽しんでくるよ。ゴメンな……金糸雀」 その言葉は、彼女の気遣いに対してではなく、騙したことへの謝罪。 ちょっとの罪悪感を抱きながら、ジュンは金糸雀の微笑みに送られて、部屋を出ました。 駅前に着くと、待ち合わせの人物は、すぐに見付かりました。 上着は、ブルーデニムのジージャン。穿いているジーンズも、いい具合に色褪せて味わい深い。 いかにも颯爽という風情で、ジュンは『カッコイイな』と目を奪われてしまいました。 彼ばかりでなく、道行く男たちも、何気ない素振りを装って、彼女をチラチラ盗み見ています。 「すみません。遅くなっちゃって」 「あ、来た来た。女の子を待たせるなんて、感心しないぞ」 そんな彼女――柿崎めぐに親しく話しかけられて、ちょっぴり優越感を覚えるジュンでした。 「取り敢えず、話の内容がアレだし……静かな公園に行かない?」 ジュンにしてみれば、相談に乗ってもらえるだけでも、ありがたい事です。 異存などあろうハズもなく、めぐの提案に従いました。 三月も後半の平日。学校も春休みですから、子供たちが多いかと思いきや―― 公園内は閑散としていて、若者よりも老人を多く見かけます。 暖かな日射しが降り注ぐ芝生に寝転がれば、すぐにでもウトウトしそうでした。 「昨日の夜は、ホントにごめんなさいっ! お酒についてはワケありで」 並んでベンチに座るなり、めぐが膝に着くくらい深々と頭を下げます。 そんな真似をされては人目が気になるというもので、ジュンは即座に宥めました。 「いえ、もう良いんですよ。元々、怒ってなんかないし。 笹塚にも、柿崎さんと水銀燈さんは、飲み友達だって聞いてたし」 言って、ジュンは今更ながら気付きました。「そう言えば、今日は彼女と一緒じゃないんですね」 まだ数回しか会っていませんが、めぐと水銀燈は、いつもベッタリくっついておりました。 そんな姿を見慣れていたので、めぐ一人だけですと、違和感があったのです。 「あら。もしかして、お目当ては水銀燈だったの?」 「そうじゃなくて、なんて言うか……太陽の下に居ながら影がない……みたいな」 「不自然ってコト?」 「気に障ったなら謝ります。僕の勝手なイメージですから」 「いいよ、別に。桜田くんの言うように、水銀燈と私は、特別な関係だから」 めぐは、さらりと気になることを言い続けます。「ねえ……マガタマって、知ってる?」 「勾玉って、古墳時代のアレでしょ。三日月型のヤツ」 「そっちを思い浮かべるわよね、やっぱり。まあ、知らないのが普通の反応だけど」 「じゃあ、他にもある……と? どうにも、話の流れが解らないな。 水銀燈さんのコトから、なんで勾玉になるんですか」 ジュンの問いに、めぐは言葉を返しませんでした。 代わりに、黙ってシャツのボタンを外すや、「見て」と胸元を広げたのです。 ちらりと見えるブラジャーを、ジュンは思わず、食い入るように凝視してしまいました。 それはもう、眼球が飛び出して、メガネのレンズを割ってしまうくらいに。 しかしっ! 次の瞬間っ! 「いい加減にしなさぁいっ!」 ジュンの脳天に落とされる手刀。それは、めぐの所行ではなく…… 痛みを堪えて振り向いた彼の眼前には、怒りに戦慄く水銀燈の姿があったのです。 いつの間に、背後に来ていたのでしょう。接近する気配は、微塵も感じなかったのに。 「まあまあ、水銀燈。乱暴しちゃダメよ。見せたのは、私の方なんだし」 「……にしたって、見る場所が違うでしょぉ? 胸ばかり、ジロジロと……」 「男の子なら、自然な反応だってば。ゴメンね、桜田くん」 「イテテテ……あ、いえ。僕の方こそ、みっともない真似して、スミマセンでした」 両手で脳天をさすりさすり謝るジュンに、めぐは「気にしないでいいよ」と苦笑しつつ、 憮然としている水銀燈に掌を向けて、紹介しました。 「実は…………水銀燈はね、私に取り憑いてる禍魂(マガタマ)なのよ。 そのせいで、私は浴びるほどお酒を呑まなきゃならない身体にされちゃったワケでね」 めぐの言を受けて、水銀燈は鼻を鳴らし、大仰に肩を竦めました。 「如何にも不幸な被害者って口振りねぇ。自業自得のクセにぃ」 「あちゃー。それを言っちゃあ、おしまいよ」 いつもの如く、親しげに語らう二人。 その内容も、二人の関係も、一般人からすれば紛うことなき超常現象です。 しかし、金糸雀に取り憑かれたジュンにとっては、日常茶飯の現象にしか思えませんでした。 「自業自得? いったい、何があったんです? どうして、柿崎さんは――」 「私って、子供の頃に、長いこと入院しててね」 「ああ。その話なら聞いた憶えが。その頃に、幽霊を見て、霊感体質になったとか」 「んー。ちょっと違うわ。正確には、臨死体験をしたから……ね。 私の病気は、心臓にあったのよ。先天性の病気で、5歳までに死ぬと言われてたの。 でも死ななくて、次は7歳……その次は10歳……それでも、全然、死なない。 いい加減、みんなも、私も、疲れちゃってね。それで、12歳の時に――」 「自殺未遂を?」 ジュンの問いかけに、めぐは頷き、水銀燈が言葉を継ぎました。 「その手段がケッサクなのよぉ。この子ったら、どうしたと思う? なんと! 闇ルートでウォッカを入手して、イッキ呑みしたの。12歳の子供がよぉ? 急性アルコール中毒で死にかけて、蘇生した後は、病気が快方に向かったんだから、 余計に笑えるわ。人体って不思議よねぇ~」 キャハハッと腹を抱えて笑う水銀燈と、苦笑うめぐと、ジュン。 三人は、木陰から様子を盗み見ている眼帯娘の存在に、全く気付いていませんでした。 「…………そろそろ…………かもね」
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晩秋の浜辺は、とても静か……。 波は穏やかで、心配していた風も、それほど強くない。 いつもなら、波間にちらほら浮かぶサーファーの姿を見られるのだが、今日に限って皆無だった。 当然だろう。凪の状況では、サーフィンなどできよう筈もない。 けれど、彼女たちにとっては、その方がありがたかった。 「貴女の言ってたとおりねぇ。私たち以外、だぁれも居ないわぁ」 「こんな雰囲気は、寂しすぎてイヤ?」 「……逆よ。煩わしくなくて、清々するわぁ」 言うと、水銀燈は少女のように砂浜を跳ねた。 そよ吹く潮風に舞い上がった銀糸の束が、西からの斜光を受けて煌めく。 彼女の唇に浮かぶ微笑みは、無垢な幼女のようでありながら、 どことなく妖艶な気配をも漂わせている。 「ねえ――――少し、歩きましょうよぉ」 「あ、そ……そうだね」 蒼星石は、目の前に佇む娘を見て美しいと想い、頬が熱くなるのを感じた。 女の子同士でありながら、目を惹かれ、心を奪われていた。 第六話 『心を開いて』 潮騒と、海特有のにおいに包まれながら、二人、並んで砂を踏みしめる。 波打ち際を歩く水銀燈が、寄せる波から逃れようとして、砂に足を取られた。 よろめいた華奢な身体を支える蒼星石の鼻先に、ふわりと乙女の色香がたなびく。 「あ……ありがとぉ」 「どういたしまして」 他愛ない言葉のやりとり。たった、それだけのこと。 なのに、蒼星石は掴んだ彼女の肩を手放すのが惜しかった。 海風に吹かれて冷えた身体が、知らず、温もりを求めていたのかも知れない。 しばらくの間、二人はそのままの姿勢で、夕日に彩られる海原を眺めていた。 「……座ろうか、水銀燈」 「そぉねぇ」 再び、短いセリフのキャッチボール。多くの言葉が不要だった訳ではない。 お互いに、何から話していいのか、よく解っていなかったのだ。 彼女たちは乾ききった砂の上に腰を下ろし、肌寒さを堪えるように、肩を寄せる。 一日中、太陽を浴びていた砂浜は、まだ温かかった。 「……なんだか、懐かしさを感じるわねぇ」 紅い瞳に夕日を映しながら、水銀燈が、しみじみと呟いた。 無言で頷く蒼星石。 水銀燈は、彼女が何も言わないのを見計らって、静かに問いかけた。 「何か……悩みがあるんじゃなぁい?」 「気付いてたの?」 「当然でしょぉ。今朝から、ずぅっと浮かない顔してるんですもの。 貴女も意外と、おばかさんよねぇ」 「……ボクは、利口なんかじゃないよ」 賢いのであれば、こんな時の処世術も、心得ていよう。 今みたいに、何がしたいのかも分からず、モヤモヤと思い悩み続けたりしない筈だ。 蒼星石は、自嘲して両脚を抱え、膝の上に細い顎を載せた。 そんな彼女のことを、からかうでもなく、慰めるでもなく…… 水銀燈も蒼星石と同じ姿勢をとって、憂愁の色に満ちた娘の横顔を覗き込んだ。 なにも言わず、ずっと。 その沈黙こそが、話の続きを促している事に気付いて、蒼星石は重い口を開いた。 「あのさ、水銀燈。もし…………もしも、の話なんだけどさ。 キミが心から大切に思っているものを、失ってしまったら……どうする?」 「有り得ないわねぇ。私だったら、失う前に、なくさない方法を模索するものぉ。 それでも、なくしたとしたら……それは多分、私にとって大切なモノじゃなかったのよ。 失うことって結局、心のどこかで、要らないと見なしている証拠だと思うから」 水銀燈らしい現実的な考え方だと、蒼星石は夕日を眺めながら、鼻先で笑った。 けれど、その笑みも刹那のこと。和んだ彼女の表情は、すぐに堅さを取り戻す。 黄昏色に染め上げられた蒼星石の目は、潤んで見えた。 「……翠星石のこと?」 水銀燈がカマをかけると、蒼星石はピクリと肩を震わせ、徐に首を巡らした。 緋翠の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。 「どうして、姉さんが出てくるの?」 「貴女……私をバカにしてるぅ? 見くびられたものねぇ。 もしもの話だなんて誤魔化したって、この水銀燈さんはお見通しよ。 喧嘩でもしたのぉ? さっさと白状しちゃいなさぁい」 「……うん」 この際だし、心を開いて、相談してみよう。蒼星石は、そんな気分になった。 解決策が見付からなくとも、誰かに話すことで、胸のつかえが取れることは間々ある。 モヤモヤした悩みなんて、夕日と共に、海の彼方へ捨ててしまえばいいのだ。 「喧嘩したワケじゃないんだけど……最近ね、なんとなく……不安になっちゃって」 「なにがぁ?」 「ボクたちは双子の姉妹として、小さな頃からずっと一緒に居たでしょ。 それが当たり前だったし、これからも、ずっとずっと続いていくと信じていた。 でも…………ホントにそうなのかな? って思ったら、とても怖くなったんだ」 総じて時間の束縛を受けるこの世にあって、有形無形の区別なく、永遠不滅のものなど無い。 蒼星石の疑問は、ごく当たり前のこと。 当たり前すぎて、誰もが疑問にすら思わないことだった。 「姉さんは一見すると臆病だけど、新しい世界に飛び込んでいく勇気を持ってる。 だけど、ボクは……変化を怖れている。 このままじゃいけないと解っていながら、今の状態が永続することを願ってる」 再び、遠い夕日に顔を向けて、蒼星石は思いの丈を吐露した。 水銀燈も、彼女に倣って沈みゆく太陽を眺め、潮騒より少し大きな声を出した。 「誰だって変化は怖いわ。私なんて、ほら……この容姿でしょぉ。 新しい世界に行く度に、疎外されやしないか、戦々恐々としてるんだからぁ」 「キミみたいな人でも、そう思うの?」 「……失礼ねぇ。そりゃあね、いつもの突っ張った態度を見てれば、 そう思われるのもムリないわよ。でも、ホントは――」 蒼星石は、意味深長に言葉を伸ばす水銀燈の横顔を、横目で盗み見た。 夕日に照らされる彼女の顔は、心なし、赤らんで見えた。 「――ただの強がりなのよ。強く見せようと演技しているだけ。本当の私は……弱い」 「どうして、ボクにそんな事を教えてくれるの?」 「貴女が心を開いてくれたから、私も心を開いただけよ。 いい? 貴女だけに話すんだからぁ、言いふらしたりしたら承知しないわよぉ」 「しないよ」と蒼星石が首を縦に振るのを見届けて、水銀燈は口元をほころばせた。 夕焼けを宿して、ひときわ紅く輝く瞳が、じっとりと蒼星石を見据える。 水平線の彼方に陽は落ち、空を染める残照の下、彼女の唇が……動く。 「そうそう、さっきの『もしもの話』だけどぉ、対策は二つじゃないかしらぁ? なくした大切なものを、必死になって捜すか……諦めて代わりのものを探してみるか、よ。 私だったら、迷わず後者を選ぶわね。生きるって、妥協することだもの。 何もせずに泣くだけっていうのは、最も下らないし、そもそも対策ですらないわぁ。 とにかく、失うことを怖れるなら、大切なモノを死ぬ気で愛することよ。 たとえ別れが訪れても、貴女の心で大切な思い出が生き続けるくらいに、真剣にね」 言われて、蒼星石は矢庭に眉を曇らせる。その反応を見て、水銀燈は重い息を吐いた。 「そもそも、貴女って愛されることには慣れていても、愛する事には不慣れよねぇ。 まずは、その不器用なところから変えていかないとダメよぉ」 愛することに不慣れ――というのは、あるかも知れない。 水銀燈の言うように、こと恋愛に関して蒼星石は奥手で、経験に乏しかった。 だから、変えていかなければと言われても、どうすればいいのか解らなかった。 「あの……水銀燈。こんなこと訊くのはバカみたいだけど、人を愛するって、どういうコト?」 「大切なヒトを、温かく幸せな気持ちで満たしてあげられること」 噴き出しもせず即答した水銀燈は、妖しく微笑みながら蒼星石の肩に腕を回し、抱き寄せた。 「恋愛は試行錯誤の繰り返しよ。 まずは……私の心を、幸せな気持ちで満たしてちょうだぁい」 第六話 おわり 三行で【次回予定】 寂しがり同士、夕闇に包まれる浜辺で交わした、本音。 銀髪の乙女の導きによって、彼女は人を愛する気持ちについて懊悩する。 大切なヒトを幸せにできないなら、その愛は空虚な欺瞞でしかない。 次回 第七話 『ハートに火をつけて』
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(なんで、こんなコトしてるのかな――) もう何度目かなんて分からないほど繰り返した文句を、飽きもせず胸裡で呟く。 おそらく、ひきつっているだろう笑顔を、辺り構わず振りまきながら。 (あのとき、キッパリ断ってさえいれば――) そうしたら、こんな恥辱にまみれた格好で、こんな場所に立ってやしなかった。 段ボールに手書きの粗末な看板を高々と掲げて、喉を枯らしたりしてなかったのに。 本当に、本当に、自分の安請け合いが悔やまれてならない。 「どうぞー! お気軽に見ていってくださいねー!」 もう半ば自棄。 乾ききって掠れた声で、誰彼なしに呼びかけ続けて、もう何時間が過ぎたのか……。 それなのに、前を行き過ぎる人々の視線が、いまだ気になって仕方がなかった。 ある人は、気まずそうに俯きながら、こちらをチラチラと横目に盗み見る。 かと思えば、臆面もなく、文字どおり舐めるように眺め回していく人もいる。 いずれにしても、視線を向けられる度に、おしりから背中にかけてがモゾモゾして落ち着かなかった。 場違いだ、と思う。つくづく。 往来する人々と自分の温度差と言うか、すべてにおいてギャップが有りすぎる。 彼らは実に熱心だ。辛抱強く、目的の完遂ただそれだけのために行動しているのが解る。 どんな苦痛にも、へこたれない。脇目も振らず、我が道を行くのみだ。 季節は、夏真っ盛りの八月半ば。 海に面していながら、会場の中は風の動きが緩く、蒸し風呂の様相を呈している。 こんな過酷な世界でも、滑るように行き来する彼らを見ていて、思った。 ある意味、宗教的な儀式。山伏などの苦行僧にも似た、鬼気迫る空気だな、と。 まあ……ミもフタもない表現をしてしまうと、暑苦しいの一言に尽きるけれど。 夢中になっている人の群というのは、往々にして、そういうモノなのだろうね。 「ほーらぁ、なに辛気くさい顔しちゃってるのー。スマイルスマイル~」 ついつい人間観察に没頭していたところに飛んできた、気安い注意。 振り向けば、カジュアルな出で立ちのクライアントが、ウインクしながら微笑んでいた。 「慣れないことばかりで、疲れちゃった?」 「いえ……そんな」 慌てて言葉を濁したけれど、我ながら嘘くさい。 そして当然ながら、彼女は、こちらの動揺をバッチリ見抜いている風だった。 「まっ、しょうがないよねー。独特の空気だし、汗ビッショリになるほど暑いし。 そこにきて、蒼星石ちゃんはコミケ初めてだものね。いろいろ戸惑うのも無理ないって」 「……すみません。ボク、お役に立ってないですか」 「こらこら、そこでまた気落ちしなーいのっ」 言うと、彼女はボクの手から段ボールの看板を取りあげつつ、 「そろそろ交代しよっか」と、意外に強い腕力で、背中を押してくる。 「それぞれの値札はタグに書いてあるから、ちゃんと確認してね」 有無を言う暇さえ与えられず、売り子の席へと追い立てられる。 しかし本音を言えば、立ち疲れて足の裏も痛かったし、座れるのは嬉しかった。 あと少しのワガママが許されるなら、掠れた喉に潤いを求めたいところだけど。 「あ、そっちのミニクーラーにジュース冷えてるから。水分補給しておいて」 「用意がいいんですね。さすがだな」 なんとまあ、こちらの思考を読んだかのようなタイミング。 ボクを見て不敵に笑う雇用主の女性は、いかにも百戦錬磨の兵といった風情だ。 まったく……思えば、今朝から驚かされることばかりだね。 「それじゃあ遠慮なく、いただきます」 一応の断りを入れて、ミニクーラーを開けると、そこには―― 「ドクターペッパーだけ?」 まいった。ボクは、この薬品チックな風味が、大の苦手だ。 フリークの談によれば、昔よりフレーバーがマイルドになって物足りないらしいけれど、本当かな? ちなみに、そのフリークというのは他でもない、我が家の元治おじいさん。 「これさえあれば、あと十年は戦えるよ。わははは!」 なんて言って、頻繁にダース買いしてはいるんだけど、 「マズイ~。ゲフゥー。わははは、もう一杯じゃ~!」 とか戯けて、すぐ飲み切ってしまうんだよね、これが。 いや、飲むのは一向に構わないんだけどね……。 いつも聞こえよがしにゲップするのは、やめて欲しい。 「あの、みっちゃんさん。これ」 「んー? あぁ、もしかして、別のがよかった?」 もしかしなくても、別の銘柄を選びたい。 できれば炭酸じゃなくて、レモン水とかお茶みたいに、サラッとした喉越しの飲み物を。 と言って、こんなに広い会場ホールの人混みの中を、自販機まで一人で移動するのは気が引ける。 ボクらが陣取っているのは、『島』と呼ばれるポジションの、ちょうど中間だった。 通称『島中』というらしい。今日になって、初めて学んだ単語だ。 困ったことに、ここからホール外の自販機コーナーまでは、ちょっとばかり距離がある。 しかも、この蒸し暑さだ。誰もが喉の渇きを覚えるに違いない。 苦労して辿り着いたのに、すべて売り切れという可能性も、十二分に有り得た。 更に言えば、いま現在のボクの格好――これが少々……いや、かなり難アリで。 「どうしても嫌だったら、自販機で買ってくるしかないんだけどー」 「いえ、いいです。これで」 今更とは言え、この姿を衆目に晒す恥辱に比べれば、ドクターペッパーの風味ぐらい我慢できるさ。 ボクは冷え冷えの缶を手に取ってタブを開け、ぐびりと呷った。 渇ききった喉に、炭酸がチリチリと痛い。けれど、何故だろう。それほど悪くなかった。 「……美味しいなぁ。やっと人心地つけた感じ」 独りごちたところに、みっちゃんの微笑が重なる。 「喉カラカラだったから、癒されるでしょ。熱心に呼びかけてくれてたものねー」 「それは、まあ。手伝いにきてるんだもの、きちんと働かないと」 ボクの答えに、みっちゃんは「ふぅん」と涼しげに瞼を細めた。 「蒼星石ちゃんは、真面目キャラなんだねー。ただ、ちょっと浮いてる感じかな。 なんだかねー、大都会のオフィス街に、カワセミがポツンといるみたい」 それから一転して、「ねね、コミケの雰囲気って、どう? 楽しめてる?」と。 みっちゃんは興味深げに瞳を輝かせながら、訊ねてきた。 「どうと言われても……うーん」 目まぐるしい会話のペースに翻弄されつつ、顎に指を当てて考える。さて、どう答えたものか。 ちょっと思案したけれど、嘘も方便なんて打算は嫌いなので、素直な感想を口にした。 「居心地は、お世辞にもよくないです。元々、大勢で馴れ合うのって好きじゃなくて」 「なーるほどー。学校行事なんかも、積極的には参加しないほう?」 「まあ、そうかな。でも、学校ではクラス委員長ですよ。推薦と投票で決められちゃったんだけど」 「ふむふむ……なんとな~く、普段の蒼星石ちゃんが想像できるわぁ。 物静かで、秀才肌なクールビューティーで、孤高の一匹狼っぽいタイプなんだねー。 自分からは気安い交流を求めないけれど、他人から話しかけられるのを期待してたりしない? どうよ? 当たらずも遠からずでしょー」 こんなところで、プロファイリングの真似事をされても困る。 そもそも、今日が初対面なのに、なぜこうも馴れ馴れしく振る舞えるんだろう。 感情が露骨に表れないよう注意しながら、ボクは強引に話題を変えた。 「この格好も不自然で、落ち着かないんですけど。さっきから、胸がキリキリ痛みっぱなしで」 「そこはそれ、看板娘は目立ってナンボだから。だーいじょうぶ。よく似合ってるわよ」 「いや……そういう問題じゃなくて」 「まっま、コスプレはねー、慣れない内は、心理的な抵抗や葛藤があると思うわ。 でも、一線を越えちゃうとね、注目を浴びるのが気持ちよくなってくるんだなー、これが」 それって単純に、羞恥と愉悦を取り違えているだけなのでは? もしくは、些細な変身願望が充足されたことに、悦楽のイメージを重ねているとか。 まあ……なにはどうあれ、ボクには理解できないだろうし、する気もないけれど。 「だからね、蒼星石ちゃんも、もっと弾けてみない?」 「これっきりです、コスプレなんて」 「えー? 勿体ないよ。蒼星石ちゃん、割とスタイルいいし、結構イケると思うけどなー」 「普通の服でいいですよ、ボクは。こんな――」 そこで言葉を切って、ボクは自分の身なりに眼を落とした。 ボディコンとは、ちょっと違う。レオタードとボンデージを足して、2で割ったような…… やたらとボディラインがむっちりぴっちり強調される衣装だ。トップやウエストの辺りが、特に。 下世話な表現をするならば、『扇情的な、やらしい格好』そのもの。 水着とは似て否なる物と言って、差し支えない。見れば見るほど、顔から火が出そうだ。 「だいたい、このコスチュームって、なんなんですか」 「草薙素子のコスプレよ。攻殻機動隊、知らない? 映画やアニメにもなったんだけど。 いやー、射命丸とか小傘コスも捨てがたかったんだけどねー、うんうん」 「……話についていけないんですけど。マンガは、あまり読まないもので」 「そーお? ああ、同人誌でよければサンプル画像あるけど、読む?」 「興味ないです」 「素っ気ないなぁ……。蒼星石ちゃんは、真面目キャラなんだねー」 なんとなく、会話が振りだしに戻った気がする。 でも、そんなことは祖父母との老人的会話で慣れっこだった。 お年寄りは同じ話題をよく繰り返すので、聞き役に徹していると、根気が培われるのだ。 さて、気を取り直して、仕事仕事。ボクの意地にかけて、売り子としての務めは完遂してみせよう。 おしゃべりの時間は、それっきり。来客の対応に忙殺され、それどころではなかったからだ。 みっちゃんが運営するサークルは、密かに人気があるらしく、客足の絶える暇がない。 慣れない物販業務ということもあり、きりきり舞いさせられたよ、ホント。 「そう言えば、この同人誌って全部、みっちゃんさんが描いたんですか?」 「いやー、本音を言えば、私だけのスペースを創りたいんだけどー。 専業じゃないからね、さすがに全部は無理だわ。んー、ちょうど半分ね」 「え? じゃあ、もう半分は誰の――」 「蒼星石ちゃんを紹介してくれた娘よ」 は? ボクの喉から、間抜けな声が漏れた。 同人誌を描いてた? あの、お嬢さま然とした彼女が? とても想像できない。 「ペンネーム『ゆっきー』っていうのが、きらきーちゃんの本なんだけどー」 該当する一冊を、手に取ってみた。 表紙はカラー印刷。肝心の絵も、ものすごく巧い。 市販のコミック本とは比較にならない薄さだけど、ちゃんと製本されてて本格的だ。 よもや彼女が、こんな趣味と特技を持っていただなんて―― 「驚いたな……ちっとも知らなかった」 「まあ、誰しもヒミツのひとつやふたつ、あるものよ。どんなに親しくてもね」 確かに。ましてや、ボクと彼女は、ヒミツを共有できるほど親密じゃなかったし。 でも、今回のことで、ちょっと雪華綺晶という一個の人間に興味が沸いてきた。 次に逢ったときは、もう少しだけ言葉を交換し合ってみよう。そこからまた、新たなヒミツを見つけられるかも。 漠然とした期待ながら、胸が躍った。 そこそこに品物も捌けて、元々閑散としていたテーブルの上が、更に寂しくなってきた。 もう少しで完売しそうだ。この感じならば、充分に役目を果たせたんじゃないかな。 眼に見える成果を前にして、肩に掛かっていた重圧が、やっと軽くなった気がする。 少しの待ち時間に、相も変わらず絶讃混雑中の会場内を見渡しながら、思う。 もしも雪華綺晶が話を持ちかけてくれなかったなら、こんな体験できなかったんだよね。 その一点だけは――今日の日記のネタを提供してくれたコトだけは、感謝してもいい。 しかしながら、同時に赦し難かった。彼女の詐欺まがいの所行だけは、絶対に。 そう。本来ならば、今このパイプ椅子に座っているのは、ボクじゃなかった。 ★ 「あらまあ、奇遇ですこと」 同じ高校に通う雪華綺晶が、そう切り出してきたのは、夏休みに入って間もない頃。 虫さされの塗り薬を買いに寄ったドラッグストアで、偶然にも鉢合わせたときだ。 少しだけ額に汗の浮かんだ顔に、穏やかにして艶やかな笑みを作り、彼女は切り出した。 「今夜にでも、電話しようと思っていましたのよ。折り入って頼みがありまして」 「珍しいね、キミが頼み事だなんて」 「あら、そうでしょうか?」 「少なくとも、ボクだけに、というのはね。姉さんや他の娘になら、まだしも」 「蒼星石さんの、気のせいではなくて?」 さも心外そうな声。ちょこんと小首を傾げた様子にも、仄かな困惑が見て取れた。 雪華綺晶としては、他の娘たちと同じようにボクと接している“つもり”なのだろう。 だけど実際のところ、意識しない仕種にこそ、本音はしゃしゃり出てくる。 彼女がボクに対して、付き合いにくさを感じているのは、なんとなく判っていた。 「それで――」 居心地の悪さを感じて、ボクのほうから水を向けた。「頼みって、なに」 それほど親しくはなくても、知人が困っているなら、助けてあげるに吝かでない。 ただし、それはボクにできる範疇でのこと。 借金の連帯保証人になってと泣きつかれたって、一介の女子高生には無理な話だ。 「そう身構えないでくださいな。難しいことでは、ありませんから」 ほんの僅かな受け答えから、こちらの困惑を鋭く察したのだろう。 雪華綺晶は如才なく、さらりと続けた。「お仕事を、手伝って欲しいだけです」 「誰の仕事を?」 「私の」 「みんなで?」 「いいえ。貴女だけで」 ボクだけで、というのが引っかかる。ますますもって奇妙だ。 姉さんたちには、もう断られた後なんだろうか。訊くと、雪華綺晶は違うと即答した。 「どうして、ボクなのさ?」 「向き不向きの問題と、申しておきましょう。貴女が適任なのです」 それは、喜んでもいいことなの? それとも、よくないことなのかな? ここでスッパリと断ってさえいれば、なんの後腐れもなかったのに…… 珍しくボクを頼ってきた雪華綺晶を無下に振り払えなくて、返答に窮してしまった。 彼女の仕事とやらに、なにか抗いがたい興味も生まれていたからだと思う。 「それって、いつの予定なの?」 けれど、他方では胡乱な気配を嗅ぎ取って、断る口実を探していたのも事実だ。 日程の都合が悪いことにすれば、後ろめたさは残るものの、相手を納得させられる。 そんな、どうにも姑息な感が否めない発言だったのに、雪華綺晶は気にかけた風もなかった。 「ちょうど、お盆の時期ですね。もしかして、帰省などされます?」 それはない。帰省する本家と言ったら、現住所なんだもの。 出かけるとしても、日帰りでお墓参りをするとか、そのくらいかな。 おじいさんも、おばあさんも、それはそれは律儀で几帳面な人たちだ。 祝祭日には必ず国旗を掲げるし、法事などの行事を蔑ろにすることもない。 その影響を受けたボクも、もう何年も、欠かさず日記を付けていたりする。 まあ、それはともかく、今年のお盆もきっと、例年どおりのスケジュールだろうね。 ボクは観念して、首を横に振った。 「ううん。その予定は、ないよ」 「でしたら、引き受けてくれますわね?」 「随分とせっかちだね。キミって、いつもそうだったっけ?」 「ふふ……意外でしたか? ええ。私、これで結構、我が強いんですよ」 悪びれもせずに言う。この分では、目的を果たすまで執拗に迫られそうだ。 しかしながら、仕事とやらの詳細が解らないでは、簡単に承諾などできない。 「キミはいったい、ボクに、なにをさせたいのさ? 返答次第では、ここまで聞いておいてなんだけど、断らせてもらうよ」 「実に、ごもっともな意見ですわね。ええ、まったく」 雪華綺晶は艶然と笑いながら、言った。 「ご心配なさらず。力仕事などでは、ありませんから。要は、店頭販売員です」 もっとも、真夏の暑い盛りですから、体力は必要かもしれませんけどね―― 駄菓子にオマケを付け加えるような勢いで、雪華綺晶は挑むように瞼を細めた。 店頭……販売員? それってつまり、携帯電話のセールスみたいな? それとも、某ファーストフード店のシェイク売りとか? 訊いたところ、そのイメージで間違っていないと、雪華綺晶はにこやかにサムズアップした。 ★ ――とまあ、これが、引き受けた理由。ボクは、このとき決定的な取り違えをしていた。 路上で通行人に呼びかけ、商品を売り込むだけの簡単な仕事だろう、と。 そして、これはボクの勝手な見解なのだけれど……雪華綺晶はおそらく、こちらの誤解に気づいていた。 それでいながら、訂正しようとしなかったんだ。都合よく、コトを運ぶために。 そりゃあね、勝手な思い込みをしたのは貴女だと言われたら、二の句が継げないよ。 でも、誤解を招くような……曖昧な言い方をした雪華綺晶にだって、絶対に非があるはずだ。 ああ……考えまいとすれば、殊更に忸怩たる想いで胸が痛くなってしまう。 またもや溜息が漏れそうになったところで、みっちゃんに頬をつんつんされた。 「ほらほら。お客さんよ、蒼星石ちゃん」 「うわっ、ごめんなさい! えぇと、こちらは400円です。ありがとうございます」 「どーもー。また、よろしくお願いしまーっす!」 ふぅ……変な汗が出てきちゃった。いけないな、仕事に集中しなくちゃ。 ――と、気持ちを切り替えた折りもおり。 「暑さで朦朧としちゃった? もう売り切れ間近だし、涼んできていいよ」 みっちゃんに気遣われてしまった。 ボクの注意力散漫は、暑さのせいばかりじゃないんだけどね。 それに、申し出は嬉しいけど、コスプレしたまま歩き回るのも恥ずかしいし。 だけど……と、会場ホールの裏手に目を向けて、思い直した。 換気用にシャッターの開け放たれた通用口から、外の汎用通路が見える。 トラックやフォークリフトが、設営の準備の際、会場に乗り入れるためのものだ。 そこならば比較的、人も少なそうだった。 ちょっと気詰まりしてるのも確かだし、外の空気を吸ってきたほうが、いいかもしれない。 思ったときにはもう、みっちゃんに話しかけていた。 「少しだけ、席を外してもいいですか」 「全然おっけー。少しと言わないで、ゆっくりしてきてね」 「すみません、お言葉に甘えさせてもらいます。なるべく、すぐ戻りますから」 「いいの、いいの。ホントに、気にしなくていいからね。 なんだったら、ちょっと会場を見て回ってみたら? いろいろ見所あるわよー」 さすがに、それは遠慮したい。普段着でならまだしも、この格好ではね。 どうせジュースの一本も飲んで、戻ってくるつもりだったし。 そう告げようとしたボクを、携帯電話の着メロが遮った。 みっちゃんが即座に電話に出たため、結局、言えずじまいに。 まあ、敢えて言い置きしなきゃいけないほど重要でもないし、いいんだけど。 ボクは、みっちゃんに軽く会釈して、その場を離れることにした。 背後から、「役者は揃ったわね」とか、「手筈どおりに」なんて―― そこはかとなく物騒な、みっちゃんの話し声が聞こえてきたけれど。 「お祭りに浮かれた、悪ふざけの軽口だよね、きっと」 大方、親しくしている他のサークルの人との、なんてことないお喋りなのだろう。 みっちゃんの同人誌を買いに来た人たちも、似たような雰囲気だったし。 ……うん。きっと、いちいち気にすることじゃあないよね。 ボクは足を止めることなく、会場の外へと向かった。 このときの、精神的にも体力的にも疲弊していたボクに、どうして知る由があっただろう。 まさか、まさか、あんな―― 自分が向かっている先に、予想だにしなかったモノが待っていたなんて。 -2-
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―睦月の頃 その2― 【1月1日 元日】 骨折り損のくたびれもうけだった初日の出見物から戻った翠星石は、 入浴後、おせち料理を少し摘んで、お婆さん特製の雑煮を味わった。 「ふっふっふ……この味、この香りこそ正月よ……ですぅ」 と、独りごちて、やおらキョロキョロと周囲を見回す。 誰にも聞かれていなかったコトを確認して、ホッと安堵の息を吐いた。 醤油仕立ての熱い汁を慎重に啜りながら、翠星石は去年の正月を回想した。 『これを食べないと、年が明けた気がしないんだよね』 そう言って、美味しそうに雑煮を食べる蒼星石。 一緒に雑煮を食べる事は、姉妹が幼い頃から遵守してきた年頭行事である。 それは、今は亡き両親との大切な思い出でもあった。 祖父母に引き取られてからも、絶やすことなく続けていこうと誓い合ったのだ。 それなのに、今年の正月は、蒼星石が居なかった。 寝耳に水も同然の、いきなりの留学から、早三ヶ月。 最初の頃に感じていた孤独感は、友人たちとの日常によって薄らいではいるが、 自宅にいると嫌でも蒼星石の影がチラつき、寂しさ愛執が募ってしまう。 「はぁ……ダメですね。新年早々、こんな気持ちじゃあ――」 腹ごしらえを終え、気分転換に祖父母と少しお喋りを楽しんだ後、 翠星石は自室に戻って、ノートパソコンを起動した。 蒼星石と連絡を取り合うために、祖父母に代金を前借りして買い揃えたPC。 その返済のために、遅い時間までアルバイトをすることもあって…… お互いの都合が付かず、チャットする時間が減っているのは、皮肉な話だった。 今では専ら、時間を選べるメールのやりとりが、連絡手段になっている。 「あぁ、もう! 早く繋がりやがれですぅ」 OSの読み込みが重くて、もどかしさのあまり、 つい、マウスを何度もクリックしてしまう。 イライラしながらも辛抱強く待っていた翠星石は、 漸くにして確認できた結果を見て、落胆してしまった。 蒼星石からの新着メールは、届いていなかった。 毎日、このくらいの時間にメールを送ってくれるのに、今日は遅い。 「まさか…………蒼星石の身に、なにかあったんじゃあ――」 不安な妄想が、またぞろ頭をよぎった。つくづく、過度の心配性だと思う。 妹からのメールが来ないだけで、こんなにも心を掻き乱されるなんて。 翠星石は、前髪を掻き乱して自嘲すると、新規メールを製作した。 「蒼星石にも都合があるのですから、少しぐらい遅れるのは良くあるコトです。 そのくらい、私には、ちゃぁんと解ってるですぅ」 寂しさを感じ始めたココロを宥めるために、言い訳がましいことを口にする。 たまには声を聞きたい……という欲求を、無理矢理に心の底に押し込めた。 もし、聞いてしまったら―― 切なくなって食事も喉を通らなくなるのが、分かり切っていたから。 早く返事よこせ! という内容のメールを飛ばして、翠星石はひとつ欠伸をした。 今朝の早起きに加え、お腹がくちくなったので眠気が襲ってきたのだ。 雛苺と約束した夕方までは、まだ余裕がある。少しだけ、仮眠を取るのもいい。 パソコンの電源を入れっぱなしにして、翠星石はベッドに歩み寄った。 そこで、ふと思い付く。どうせなら、蒼星石の部屋で寝ようか……と。 翠星石は時折、思慕が募ると、蒼星石が使っていたベッドで眠りに就いていた。 せめて、夢の中だけでも蒼星石と逢えたなら―― そう祈りながら、枕を涙で濡らす夜を、どれだけ繰り返したか分からない。 翠星石はマクラだけを持参して、蒼星石の部屋を訪れた。 部屋の主は三ヶ月も不在だというのに、室内の空気は蒼星石の匂いに溢れている。 ドアを閉じて深呼吸すると、翠星石の胸がトクントクンと高鳴った。 「はぁ……なにしてるですか、私は。これじゃ、ただの変態ですぅ」 自らの愚行を恥じらいつつも、翠星石は蒼星石のベッドに横たわる。 そして、布団を頭から引っ被った。頬に触れる、冷えたシーツの感触が心地よい。 翠星石は横たわったまま膝を抱えて、猫の様に丸まった。 ベッドから微かに立ち上る蒼星石の匂いと、彼女の体温が籠もってゆくにつれて、 睡魔が素早く忍び寄ってくる。 「…………蒼星石。やっぱり……会いたいですぅ。 側に……居て欲しいですよ」 呟く声が、震えた。不意に、涙が零れる。泣くつもりなんてないのに。 こんな事ではダメだと承知していても、割り切れるほど大人じゃないし、 憎まれ口を叩いて鼻であしらえるほど、臍曲がりでもなかった。 布団の中で蹲ったまま、蒼星石の名前を囁きながら、泣き寝入りする。 翠星石の切なる願いも虚しく、その時は、何の夢も見られなかった。 三時間ほどのつもりが、つい熟睡してしまった翠星石は、 祖母に叩き起こされて時計を見るなり、血の気を失った。 また、寝坊。今から晴れ着の着付けをしていては、遅刻確定だ。 「やっばぁ……もう間に合わないです! 私服のまんまで良いですよ」 「翠星石。女の子なんだから、寝癖ぐらい直して行きなさい」 「はいですぅ」 待ち合わせの時間は、着々と近付いている。 翠星石は階下の洗面所に駆け込んで、涙の跡が残る顔を洗うと、 自室に戻って鏡台の前に座り、艶やかな栗毛を梳った。 続いて、電光石火の早業で着替えを済ませて、玄関へと向かう。 祖母が何やら引き留めたが、耳を貸している暇など無い。 靴を履くと玄関を飛び出して、待ち合わせ場所に急いだ。 「今日は朝から忙しねぇです。まったく、なんでこうなるんだか……」 ブツブツと文句をたれる翠星石。自業自得だとは微塵も考えない。 15分遅れで到着した待ち合わせ場所では、晴れ着姿の雛苺が頬を膨らませていた。 「んもう! 翠ちゃん、朝に続いて遅刻なのよー!」 「ゴメンナサイですぅ。あ、それより、もう具合は良くなったですか?」 「うぃっ。元気がヒナの取り柄なのよー」 「それ『だけ』が、ですけどねぇ」 「……いま、さらっとヒドイこと言ったの。謝罪と賠償を要求するのよー!」 「はいはい。遅刻したお詫びも兼ねて、何か買っ――?」 スラックスのポケットを手探りしていた翠星石の表情が凍りつき、 顔色が、さぁーっと青ざめていく。 「うゅ? どうしたの、翠ちゃん?」 「……財布……忘れたです」 「もう! 何やってんの、翠ちゃんっ!」 「自分で自分が情けねぇですぅ。トホホ……」 「今朝からヘマばっかりしてるの。ボケまくりなのっ! ボケッティアなのっ」 「……なんか今、もの凄い精神的ダメージを受けた気がするですぅ」 仕返しにと、翠星石は雛苺の頭を引っ叩き――かけて、手を止めた。 こんな人混みの中でケンカするのは恥ずかしいし、くたびれ損の骨折り儲けだ。 年明け早々くらいは、お淑やかでいないと。 「取り敢えず、奢る約束は、また今度にして欲しいです」 「う~、まあ仕方ないの。それなら今日は、ヒナが奢ってあげるのよ」 「雛苺……おめーは良いヤツですぅ。ついでに、お賽銭も貸して……下さいです」 「うふふ……しょうがないのね、翠ちゃんは」 『しょうがないな、姉さんは』 一瞬、雛苺の台詞に蒼星石の声が重なった気がして―― 翠星石は、ビクリと身体を震わせた。幻聴が聞こえるなんて、どうかしている。 「どうしたの、翠ちゃん。なんだか……元気ないのよ?」 「え? あ……な、なんでもないですよ。ささ、露店を冷やかしに行くですぅ」 「その前に、お参りしないとダメなのー!」 雛苺に手を引かれて、翠星石は参拝客でごった返す境内へと呑み込まれていった。 もみくちゃにされ、時々、足を踏まれたりもしたけれど、 翠星石と雛苺は離れ離れになることなく、賽銭箱の前まで辿り着いた。 雛苺に借りた五円玉を投げ入れて、柏手を打ち、願うことは……たった一つ。 それから、二人は軒を並べる露店を見て回った。 店の種類も、配置も例年どおりだ。なんとも、代わり映えがない。 そんな折、植木を売っている店の前で足を止めたのは、雛苺の方だった。 「わぁ……こんな寒い季節に、黄色い花が咲いてるのー」 「福寿草ですよ。別名、元日草。『希望』『幸福』の花言葉がある縁起物ですぅ」 「それに『最上の愛』という意味もあるのよ」 「あれ? よく知ってるですね、雛苺」 「ヒナだって、女の子だもの。そのくらい、常識なのっ」 たまたま知っていただけなのだろうが、自慢げに胸を張る雛苺の仕種が可愛らしくて、 翠星石は微笑みを浮かべながら「大したもんです」と雛苺の頭を撫でた。 嬉しそうに目を細めて微笑む雛苺を見ていると、翠星石は不思議と、 澱の如く胸の底に沈殿していた寂しさが、薄らいでいくのを感じた。 「雛苺は、これから、どうするです? なにか、買って食べるですか?」 「お夕飯なら家に帰って食べるの。今日は初詣に来られただけで満足なのー」 「……そうですか。まあ、私も財布を忘れたから、他にすることねぇですケドね」 「翠ちゃんは、食べたいものとか無いの? 約束通り、奢ってあげるのよ?」 「その気持ちだけで充分です。特に、欲しい物もないですし、今日は帰るです」 「そう――」 雛苺は少しだけ、物足りない様な……寂しげな表情を浮かべた。 しかし、すぐに朗らかな笑みを翠星石に向けて、沈鬱な空気を払拭した。 「じゃあ、ここでお別れするの。翠ちゃん、また遊ぼうね」 「うん、また今度。なんなら明日も、ドライブに連れてってやるですぅ」 「うゅ……それは、もう懲り懲りなのぉ」 互いに手を振って、二人は別れた。雛苺の後ろ姿が、雑踏の中に消えていく。 彼女の小さな背中を見送って独りになると、翠星石はなんとなく心細くなった。 蒼星石が居た去年は、夜が更けるまで遊び歩いたものだったのに―― 「あ……そう言えば、パソコンを起動したままだったですね」 蒼星石から、メールが届いているかも知れない。 それを楽しみにして、翠星石は駆け出した。長い髪を風に靡かせ、帰途を急ぐ。 帰り着くと、ただいまの挨拶もそこそこに階段を駆け上り、自室に籠もった。 「蒼星石から、メールは来てるですかねぇ……あ、来てる! 来てたですぅ」 翠星石は嬉々として椅子に腰掛け、メールを開いた。 【姉さん、元気? お正月なのに、帰れなくてゴメンね。寂しくって泣いてるんじゃない?】 「……バカ。泣いてなんかねぇです」 独り言を呟きながら、マウスのホイールを、中指で、そっ……と転がしていく。 スクロールしていく文字は、無機質で味気ないビットの集合体だけれど、 蒼星石がタイピングしたのだと思うと、なんだかキレイな絵のように見えた。 【ボクは、元気でやってるよ。でもね、時々……疲れてる時に、 姉さんの声が聞きたくなっちゃうんだ。甘えん坊だね、ボクは。 いつまで経っても、姉さんに寄りかかってしまうなんてさ】 「それを言ったら、私だって甘えん坊ですぅ。 蒼星石の声が聞きたい。蒼星石に触れたい。願うのは、その事ばかりです」 【白状するとね、ボクが留学を決めたのは―― こんな甘ったれた性根を、叩き直すためだったんだ。 姉さんの重荷になってやしないか、心配になっちゃったんだよ。 だから……ボクは、まだ帰らない。帰れないんだ】 「蒼星石の考えてた事くらい、ちゃぁんと解ってたですよ」 そう独りごちた翠星石の頬を、一粒の雫がこぼれ落ちた。 「まったく……バカちんな妹です。重荷だなんて、思うワケねぇですのに。 むしろ、もっと頼って欲しいですよ。私を、必要だと思って欲しいのです。 唯一無二の存在として、片時も手放さないで欲しいのですぅ!」 【ゴメンね、姉さん。お正月から、こんな話題しか切り出せなくて。 今は、まだ会えない。でも、きっと会えるから】 「うん。きっと会えるです。今日も、初詣に行って神様にお願いしてきたですよ」 蒼星石に会いたい。 それが……たった一つの、翠星石の願い。 【取り敢えず、お正月だから、それに因んだ画像を貼り付けておくよ。 それじゃ、また明日ね。……おやすみ、姉さん】 メールの本文は、そこで締め括られている。 添付ファイルを開くと、それは福寿草の写真だった。 初詣の時に雛苺と立ち寄った露店で、去年は蒼星石と、福寿草を眺めていたっけ。 ディスプレイの中の黄色い花が示す意味は、最上の愛、希望、そして……幸福。 翠星石は返信のメールに、たった一言だけ書き込んで、蒼星石の元へと送った。 「私も『愛してる』ですよ。おやすみです、蒼星石」
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『古ぼけた雑貨店』 午前1時を過ぎる頃、私の足は、いつもの場所に向かう。 持ち物は、財布と携帯電話。それと、マフラー。 私のお目当ては、24時間営業のコンビニではない。 如月の夜風に揺れる、赤提灯でもない。 なにを隠そう、古ぼけた雑貨店なのだ。 その店を見つけたのは、去年の夏ごろ……蒸し暑い夜のことだったと記憶している。 会社の同僚と飲みに行って泥酔した私は、うっかり電車で寝過ごしてしまったのだ。 乗っていたのは終電で、反対方向の電車も既に走っていない。 と言って、乗り越したのは二駅だったから、タクシーを拾うのも馬鹿馬鹿しい。 やや迷った挙げ句、酔いざましも兼ねて、歩いて帰ることにした。 そして、普段は通ることのない路地裏で、件の雑貨店に巡り会ったというワケである。 ――こんな夜遅くまで、営業しているなんて。 我知らず、双眸を見開いていた。 辺り一面の夜闇の中で、明々と照明を灯した雑貨店は、 さながら大海原にポツリと浮かぶ孤島の様だった。 千鳥足で近付いていくと、軒先に店員とおぼしい娘が座っているのが見えた。 随分と若くて、髪の長い、可愛らしい女の子だ。歳の頃は十七、八と言ったところか。 暑っ苦しそうに、ウチワで喉元をはたはた扇いでいる。 後で判ったことだが、その店は老夫婦と、孫の姉妹が切り盛りしていた。 いらっしゃいませ。 よほど、私が物珍しげにジロジロ見ていたからだろう。 店員の娘が、ひょいと立ち上がって、鈴の音のような声で囁きかけてきた。 声を潜めたのは、深夜ということで周囲に配慮したのかも知れない。 それにしても、こんな時間まで、何を商っているのだろうか。 ちょっとの酔狂から――娘の愛らしさに惹かれた事もあって――私は足を止め、 明るい店の中に目を遣った。 雑多に並ぶ商品は、日用雑貨から菓子食品まで、幅広く取りそろえてある。 値札に注目してみると、どれも一律だ。 いわゆる、百均というやつだった。 そこそこ酔いもさめて、小腹が空きはじめていたところだ。 私は、食品の並ぶ棚から、おにぎり3個入りのパックと、スナック菓子を幾つか選んだ。 毎度ありですぅ。 私の手から商品を受け取った娘は、ぺこりと礼儀正しくお辞儀をする。 今どき珍しい三角巾の鮮やかな花柄が、照明に映えた。 三角巾なんて、小学校の頃だかに、給食当番で使った程度だ。 幼年時代を思い出して、ふと『あの頃は――』なんて回想してしまうのは、 私が歳をとったからだろうか。やだやだ。 735円になるですよ。 ココロに浮かんだ世迷い言は、娘の声に掻き消された。 代金と引き替えに、商品を詰めた白いビニール袋を受けとる。 そのついでに、ほろ酔い加減の私は、意地悪な質問をしてみた。 こんな遅くまで営業してて、儲けがあるのか……と。 基本的に、百円ショップは薄利多売。 こんな路地裏で、しかも深夜営業ときては、客足など期待できまい。 採算度外視の慈善事業じゃあるまいし……いくら何でも無謀にすぎる。 ところが、問われた方は汗ばむほどの熱帯夜にも拘わらず、涼しい顔だ。 そして、意外に利用客が多いことを、微笑みながら教えてくれた。 ほら……と彼女が指差した先には、片手をあげて近付いてくる、メガネをかけた少年の姿。 彼に話を聞いてみると、店員の娘とは高校の同級生だとか。 なるほど、買い物をしながら語らう仕種は、とても親しげだ。 暫くすると、右目を眼帯で隠した、人形のように美しい娘もやってきた。 夜中にお腹が空いて、食べ物を買いに来たのだと言う。 スレンダーな体型をしていながら、その実、痩せの大食いらしい。 この店のおにぎり、美味しいんですよ。 おにぎりは、お祖母さんと、さっきの店員の娘が握っているらしい。 このお嬢さん曰わく、お祖母さんが握った方は、少し塩っ気が多いのだとか。 それで、おみくじ紛いの遊びをしているという。なるほど、面白そうだ。 私は、眼帯のお嬢さんを始め、店員さんと少年に別れを告げ、家路に就いた。 その途中でも、あの店に行くと思われる銀髪の女の子と擦れ違った。 この町の人間は、なかなかに宵っ張りが多い。 家に帰り着いて食べたおにぎりは、少ししょっぱい気がしたけれど…… 私は、あの店が好きになった。 ――あれから、もう半年が経つ。 寒々とした冬空の下、月明かりを頼りに、あの店を目指す。 そういうライフサイクルが、すっかり身体に馴染んでしまった。 あの店員の娘の笑顔を見ないと、翌日の寝覚めが悪くなるほどだ。 断っておくが、私は別に、下心とかあって行くワケではない。 言うなれば『癒し』を求めているのだ。 あの、温かな雰囲気に包まれた、宵っ張りどもの集会所に。 つまるところ、それはインターネットでチャットに興じるのと同じだった。 まぁた来やがったですか。寒いのに、物好きなヤツですぅ。 夜の静寂の中、私の足音を聞きつけたのだろう。 店員の娘が、今夜も色鮮やかな三角巾を頭に頂き、腰に手を当てて立っている。 呆れ口調の割に、どこか嬉しそうに見えるのは、私の目が悪いせいか? もう日課になっているのだと告げると、彼女は朗らかに微笑み、私の背を叩いた。 だったら、今夜も売り上げに貢献しやがれですぅ。 元より、そのつもりだ。 さて、今夜は何を買おうか。例によって、おにぎりは欠かせない。 あれこれと品定めしていると……ほぉら、他の常連たちも白い息を弾ませながら、 マフラーを巻いた頸を竦めて集まってきた。 つくづく、コウモリみたいに夜更かしの好きな連中である。 ド近眼な私を含めて。 でも、本当は―― みんな、この時間に、この店に来るために、夜更かししているのかも。 私と同じように。 だから、私はこの店と、ここにくる連中が大好きだ。 ――明日は、カメラを持ってこようかな。 そんな事を思いながら、今夜も……顔見知りとなった常連たちを、笑顔で迎えた。 おわり
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―卯月の頃― 【4月5日 清明】 四月に入り、長かった春休みも、残すところ数日。 三月末まででバイトは終了しているので、今は四年目の大学生活に向けて、 あれこれと準備を進めているところだ。 就職か、修士課程への進学か……それも迷っていた。 「早いもんですぅ。もう四年生になっちまったですね」 翠星石は、自室の壁に掛けたカレンダーを眺めて、しみじみと独りごちた。 もう、四月。蒼星石が海外の大学の編入試験に合格して、この家を出てから、 半年以上が過ぎたことになる。 留学というと、費用面など諸々の問題で、大概は半年間を選択する。 しかし、蒼星石が選んだのは、一年間のコースだった。 『半年で学べる量なんて、高が知れてるでしょ。 だから、ボクは一年間、勉強してくるよ。 中途半端な留学なら、しない方がマシだと思うから』 そんな台詞を残して、彼女は海外へと飛び立って行った。 毎日、電子メールが送られてきて、時々、祖父母宛に絵葉書が届く。 でも、蒼星石は帰って来ない。 自分の信念を貫いて、一年間は、一度も帰国しないつもりなのだろうか。 会えない寂しさを紛らすために、翠星石は今日も、ノートパソコンに向かう。 「あ、新着メールが来てるです」 アドレスで、蒼星石からだと分かった。昨夜の内に、着いていたらしい。 逸る気持ちを抑えようともせず、翠星石はメールを開いた。 内容は、いつも通りの近況報告だ。今日も元気に、頑張っているみたい。 短い文面には、異国の地での苦悩など、全く見て取れなかった。 半年以上を過ごして、異国の生活リズムに慣れてきた証拠だろう。 本来なら、蒼星石の努力を賞賛すべきなのだが―― (また……ちょっとずつ遠ざかっていくですね) 最愛の妹が、更に手の届かない遠くへと行ってしまうみたいに思えて、 翠星石は、素直に喜ぶコトが出来なかった。 不謹慎だけれど、蒼星石の身に何かが起きて、緊急帰国する必要が生じたなら、 きっと、翠星石は心の中で拍手喝采したに違いない。 つい、そう思ってしまうくらい、彼女の寂寥感は募っていた。 「……会いたいですよ、蒼星石」 ポツリと呟きながら、ふと添付ファイル欄を確認すると、 珍しく、画像ファイルが添付されていた。 月が変わったから、四月の誕生花である藤の花を、添付してきたのかも。 何気なくファイルを開いた翠星石は、思いがけない写真を眼にして、 思わず、ひぅっ! と息を呑んだ。 『姉さん。新学期から、新しいルームメイトが出来たよ』 写真の添え書きには、そうあった。 大学の構内で撮影されたのだろうか。花壇を背にして、穏やかに微笑む蒼星石。 その隣には、鮮やかな金髪の娘が肩を寄せて並び、はにかんでいた。 服装は、変に飾りっ気のない、清楚な感じ。面差しも大人しげで、可愛らしい。 ハッキリ言って、なかなかの美人である。 「ルームメイトって……同居人ってコトじゃねぇですかっ! こいつは何者ですっ?!」 娘の名前は、書き忘れたらしくて、どこにも記載されていない。 けれど、名前なんて、この際どうでも良い。 一番の問題は、この娘が、蒼星石と同じ部屋で寝起きしている――と言うこと。 この娘が、蒼星石の隣で微笑み、寝食を共にして、一日の大半を共有している。 そう考えるだけで、翠星石のココロは千々に乱れた。 「こ、この娘が……蒼星石と…………買い物したり、食事したり? まさか、まさか……一緒にシャワー浴びたり、一緒のベッドで寝たり? き、きぃ――っ!! ゆゆゆ、許せねぇですぅ! 呪い殺してやるですっ!」 錯乱気味に、なにやら物騒なコトを翠星石が口走った直後、 パソコンの脇に置いてあった携帯電話が鳴った。通常着信だ。 翠星石はビクッ!? と肩を震わせて、電話に出た。 「も……もしもし、ですぅ」 「翠ちゃん? おっはよーなのーっ!」 「うっ……朝からテンション高ぇですね。鼓膜が痺れたですぅ」 電話の相手は、朝からムダに元気な雛苺だった。 雛苺は、何やら興奮気味に声を弾ませて、話を続ける。 「聞いて聞いて! ヒナね、今朝、すっごい発見をしちゃったのよー♪」 「おバカ苺。『すっごい』と『発見』の間に『下らない』が抜けてるですよ」 「ああっ! なんてヒドイこと言うのー? 信じらんないのっ」 だって、いつものコトだから。 ココロで思っても、無論、決して口にはしない。 それが大人のレディの対応ですぅ、と胸裏で呟き、口では雛苺を宥めた。 「そう拗ねるなです。話くらい聞いてやるですから、とっとと話しやがれですぅ」 「……なんで、そんなに偉そうなのか解らないけど……特別に教えてあげるのよ。 耳の穴かっぽじって、よぉ~く聞きやがれ、なのー」 「雛苺こそ、最近、ヤケに口が悪くなったですぅ」 その理由が自分に有るとは、夢にも思わない翠星石だった。 「今朝、目が覚めたときのコトなのっ。 実は、今日って陰陽師の、あべのせいめいの誕生日だったのよー!」 「な、なんだってー!? ですぅ。でも……どうして解ったです?」 「カレンダーを見ると、清明って書いてあるのっ」 「…………おバカ」 「うよ?」 「清明って言うのは二十四節気のひとつで、春分から十五日目のコトですぅ。 おまけに、字が違うです。安倍晴明は、晴れの字、清明は清いの字ですよ」 「…………そ、それは……そう! こーめーの罠なのよー!」 見苦しい言い訳をする雛苺に、翠星石の声は自然と大きくなった。 「間違ったクセに開き直るなんて、言語相談ですぅ!」 「それを言うなら、言語道断なの」 「……と、とにかく、下らない電話して、私に迷惑かけた罪滅ぼしをするですっ」 「うゅ~。解ったのよ。ヒナは、どうすれば良いの?」 「とりあえず、今日の遊行費は雛苺が持つですよ」 少しばかり悄気てしまった雛苺に、翠星石は遠慮会釈なく言い放った。 だがモチロン、半分は冗談だ。自分が遊ぶ費用くらい、自分で出す。 もう半分の本音とは、いささか遠回りに過ぎる言い方なのだが、 『これから一緒に、遊びに行こう』との誘いだった。 しかし、そこは付き合いの長い雛苺のこと。 すぐに翠星石の真意を悟って、了承の返事を返してきた。 それから数時間後、翠星石と雛苺は、新副都心の方をブラブラと散策していた。 これといった当てを決めず、一日乗車券を使って散歩するのも、なかなか楽しい。 けれど、どこに行っても、翠星石のココロは晴れなかった。 蒼星石のメールで見たルームメイトの娘が、どうしても気になってしまう。 結局、丸一日を費やして、雛苺と遊び倒したのに、気分は重いままだった。 翠星石は、自宅へ帰るなり、パソコンに向かってキーボードを叩いた。 人の気も知らないで、なんてメールを寄越したんだろう。 やり場のない腹立たしさが、ついつい、タイピングを荒っぽくさせる。 『蒼星石のバカちん! ルームメイトの娘の名前が、書いてねぇです』 マウスカーソルを、送信ボタンへと滑らせる。 翠星石は「バカぁ」と涙声で呟いてから、そっと……左クリックした。