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『色褪せない思い出を』 朝の登校時間が、薔薇水晶の気に入りだった。 銀色の髪を風に靡かせて歩く彼女と、一緒に居られるから。 ――二人だけの時間。二人だけの世界。 隣に並んで歩いているだけでも充分に楽しい。時が経つのも忘れるくらいに。 まして、言葉を交わそうものなら、天にも昇る心地になるのだった。 どうして、こんなにも水銀燈の事が愛おしいのだろう。 記憶を辿っても、これほどに他人を好きになった事は、生まれて始めてだった。 「ねえ……銀ちゃん。今日、帰りがけにケーキ食べて行かない?」 「また『えんじゅ』のケーキバイキング? 薔薇しぃも好きねぇ」 「育ち盛りだから…………えっへん」 悪戯っぽく胸を反らす。制服が押し上げられ、ふくよかな双丘が強調された。 水銀燈には及ばなくとも、薔薇水晶だって日に日に大人へ近付いている。 背の伸びは流石に止まったけれど、ボディラインはなだらかに成長中だ。 「まぁ、いいけどねぇ。あそこのケーキは、しつこい甘さじゃないからぁ」 「ホント? じゃあ、約束だよ♪」 楽しく過ごす、ひととき。こんな時間が、もっと続けばいいと思う。 今日の放課後もまた一緒に居られると考えると、薔薇水晶の心は躍った。 ――そこに、薔薇水晶の浮かれた心に冷や水を掛ける様な声が届いた。 「もう帰りの予定を立てているの? まだ学校にも行っていないのに」 真紅の声を受けて、水銀燈は徐に振り返った。 子供みたいに無邪気な笑顔。真紅と話す時、水銀燈はいつも、そんな顔をした。 薔薇水晶には、ただの一度も向けたことがない笑顔―― 「あらぁ? 珍しいわねぇ、真紅ぅ。貴女が遅刻なんてぇ」 「ちょっと、目覚ましの調子が悪かったのだわ」 「本当かしらぁ。実は、二度寝して大慌て……ってトコじゃないのぉ?」 「ばっ……ばか言わないでちょうだい! この私が、そんな無様な――」 慌てて否定する真紅。水銀燈は、並んで歩きながら談笑を続ける。 薔薇水晶の脚が、止まった。二人の姿を見ていると、間に入るのが躊躇われた。 なんだか、言いようのない感情が心の奥底から沸き上がってくる。 たかが幼馴染というだけで、すんなりと水銀燈の隣に収まってしまう真紅が、 疎ましくさえ思えた。 「どうしたのぉ、薔薇しぃ。置いてっちゃうわよぉ?」 水銀燈の声にハッと顔を上げると、二人は随分と先まで進んでいた。 あんなに先まで…………私の存在なんか、すっかり忘れられてたのね。 「あ、待ってよ~。銀ちゃ~ん」 笑顔を見せて、駆け出す薔薇水晶。けれど、それは作り笑いでしかなかった。 心は笑っていない。ちっとも面白くなかった。 さっきまでは、あんなに幸せを感じていたのに……。 ――どうして…………こんな気持ちになるの? 教えてよ、銀ちゃん。 教室でも、昼食の時でも、薔薇水晶は水銀燈の側に居た。それこそ、影の様に。 彼女の呼吸を感じるだけで安堵できる。ここは薔薇水晶にとって、特別な場所。 水銀燈の側に居るためなら、他のことなど蔑ろにしても構わなかった。 「ちょっと、薔薇しぃ……幾ら何でも、授業中にくっ付きすぎよぉ」 「だって……こうしてるのが好きなんだもん」 授業のノートも取らずに、薔薇水晶は隣の席に座る水銀燈の左手を、 ぎゅっと握りしめていた。 楽しい。こうしているだけで、凄く愉しい。 授業も成績も、どうだっていい。銀ちゃんと、色褪せない思い出を紡げるなら。 ――休憩時間。 トイレから戻った薔薇水晶は、教室に入ろうとして、 愉しげに話す真紅と水銀燈を見るなり立ち止まった。 扉の陰に隠れて、思わず聞き耳を立てる。一体、何を話しているのだろう? 「薔薇水晶に、随分と好かれているのね。でも、さっきの授業中の態度はなに? あまり関心はしないのだわ」 「そうは思うのよねぇ。でも、薔薇しぃも悪気があってやってる訳じゃないし。 あんなに懐いてくれると、私としても悪い気しないのよねぇ」 「もう少し、素っ気なくしてもいいと思うわよ? 薔薇水晶の為にも」 「確かに、私にべったりなままじゃあ、他の誰とも仲良くなれないわねぇ」 なにそれ。私のため? よしてよ、冗談じゃない。 私は今のままで充分に幸せなのに……どうして、そんな事を言うの? 薔薇水晶は扉の陰で、唇を噛み締め、拳を握った。 水銀燈が話しかけてきたのは、六限目が終わって、帰ろうとした矢先の事だった。 「薔薇しぃ。今朝の約束なんだけどぉ……ごめん」 「ダメなの?」 「今日、急な用事が入っちゃったのよぅ。本っ当に、ごめんなさぁい」 両手を合わせて謝る水銀燈に、薔薇水晶は「いいよ」と応じた。 そりゃあ残念だけれど、急用ならば仕方がない。 駄々をこねて嫌われるのも厭だ。 「その代わり、今度なにか奢ってね」 「うんうん。そりゃあもう、何でも御馳走してあげるわぁ」 「嬉しいっ! 期待してるからね」 「ちょっ……んもぅ、すぐ抱き付くんだからぁ」 温かい。水銀燈の体温を感じているだけで、心が安らいだ。 ずっと、こうしていたい。このままで居させて。 けれど、薔薇水晶の願いは水銀燈の腕によって、やんわりと拒絶された。 「あ…………」 「ごめんね、薔薇しぃ。そろそろ行かなきゃ。待ち合わせてるからぁ」 「う、うん…………じゃあ……また明日ね」 水銀燈は薔薇水晶に微笑みかけて、鞄を手に、教室を後にした。 小走りに駆けて行く彼女の背中は、なんだか嬉しそうだ。 誰と待ち合わせているのだろう。ちょっとだけ、心が痛かった。 ――ひとりぼっちの帰り道。 偶然、ショッピングモールへ消えゆく彼女たちを見かけた。 水銀燈と…………真紅。 酷い。私との約束を反故にして待ち合わせていたのは、彼女だったなんて。 ちらりと見えた二人の横顔は、とても愉しそうだった。 「真紅…………貴女は何故、私と銀ちゃんを引き離そうとするの?」 真紅のせいで、銀ちゃんは私との約束を守らなかった。 薔薇水晶は自分の中で、羨望が妄執に変わっていくのを感じた。 貴女と、銀ちゃん。 幼馴染みという関係を、どれだけ私が羨んだか……貴女には解る? きっと、解らないわよね。解る筈がない。 貴女にとって、それは息をするほどに自然な事なのだから。 「貴女が羨ましい。当たり前のように、銀ちゃんと並んで歩ける貴女が」 私も、水銀燈の隣に収まっていたい。今の、真紅みたいに。 出来るものならば、私と真紅の立場を入れ替えてしまいたい。 そうすれば、きっと私の心は救われる。銀ちゃんも、私だけを見てくれる。 「そうよ…………そうすれば、きっと――」 その日の夜、薔薇水晶は学園裏の城址公園に、真紅を呼び出した。 手には、長細い紙包み。それを両腕で覆い隠すようにして、胸に抱え込んでいた。 【薔】渡したいものが有るの……午後九時ごろ、城址公園に来て下さい。 メールの内容は、それだけ。 送信した後、真紅からメールが何回か届いたけれど、すべて無視した。 電話がかかってきても、全く無視。 真紅は、来るだろうか? 来てくれるだろうか? 来てくれないと困る。 腕時計を確認すると、あと十分で九時になるところだった。 薔薇水晶の身体が震えた。冷たい夜風のせいか。 それとも、これから自分がしようとしている事への戦慄きか―― ざっ―― 薔薇水晶の背後で、砂利を踏む音がした。 「待たせたわね、薔薇水晶。渡したいものって、何なのかしら」 真紅は一人だった。周囲には自分たち以外、誰も居ない。 「ありがとう、真紅。ごめんね……こんな時間に呼び出したりして」 「構わないのだわ。それより、どういう事なの? 電話にもメールにも返事が無いから、何か有ったのかと心配したのよ」 「別に、何も。それより…………渡すもの……あるから」 それは、一瞬の出来事だった。 ざっ―― 砂利を蹴って真紅の正面に飛び込みながら、薔薇水晶は紙包みを破り捨てて、 鋭利な輝きを放つ凶器を取り出していた。 そのまま、驚愕のあまり硬直した真紅に、身体ごとぶつかっていく。 鈍い衝撃。薔薇水晶の手に、生々しい手応えが伝わってきた。 真紅は茫然と、目の前の少女を眺めていた。お腹が、灼けるように熱い。 刺されたのだと解ったのは、五秒以上も経った頃だった。 握り締めていた携帯が、指の間から滑り落ちた。 「ば…………ら、水晶?」 「…………真紅……貴女に渡したいものって…………引導なの」 細身の刺身包丁は、真紅の鳩尾に深々と突き刺さっていた。 薔薇水晶が手首を捻ると、胃を切り裂いたのか、真紅は吐血した。 「どう……し……て?」 「ゴメン…………真紅…………邪魔なのよ、貴女が」 「?!」 「貴女が居ると、銀ちゃんは私を見てくれなくなる。だから……消えて!」 思いっ切り、刺身包丁を引き抜く。 そして、渾身の力を込めて、再び真紅の腹を刺した。 「消えて! 私の前から消えて! 銀ちゃんの前から消えてよっ!」 真紅は、仰向けに横たわったまま、虚ろな眼差しで夜空を眺めていた。 もう動かない。真紅の服は、彼女の名を示すように、紅く染まっている。 「貴女が悪いのよ、真紅。私の居場所を……奪おうとしたんだから」 夜風に温もりを奪われていく真紅の亡骸を見下ろしながら、薔薇水晶は呟いた。 糸の切れた操り人形みたいに倒れている真紅。 不意に、喉の奥から酸っぱいモノがこみ上げてきて、薔薇水晶は吐き散らした。 ホントに、これで良かったの? そんな思いが、胸に去来する。 「良かったのよ、これで。当たり前じゃないの」 自らの弱気を振り払うように、薔薇水晶は吐き捨てた。 今更、後戻りなんて出来ないんだから。 これからは、私が真紅のポジションに入るのよ。誰よりも、銀ちゃんの近くに。 まずは、真紅の遺体を片付けなければならない。 私が犯人だと言う事は、誰にも知られてはならない。 死体を埋める穴は、前もって掘ってある。シャベルも置きっ放しにしてあった。 後は、そこに運ぶだけ。速やかに埋めてしまうだけ。 「さあ……真紅。あっちに、行こう?」 薔薇水晶は真紅の傍らに跪いて、眠った子供を起こすように囁きかけた。 その時、一筋の光芒が薔薇水晶を照らし出した。 驚いて振り返った薔薇水晶の眼を、眩い光が刺激した。闇に慣れた目が眩む。 こちらからは影になって、相手が誰か解らなかった。 声を、聞くまでは―― 「真紅っ! 薔薇しぃ!」 「銀……ちゃん」 どうして、彼女が此処に? 薔薇水晶は狼狽えた。 最も見られたくなかった相手が、よりにもよって、最も初めに来てしまうなんて。 「銀ちゃん…………何故、ここに?」 「真紅が電話してきたのよ。これから、薔薇しぃと城址公園で会うから、 一緒に来てくれないかって。これは一体、どういう事なのよぉ!」 「こ……れは、……えっと」 「どきなさい! 真紅っ! しっかりするのよ! 死んじゃダメぇ!」 水銀燈は服やスラックスに血が付着する事も構わずに、真紅の身体を抱き上げた。 脈は無い。呼吸も停止している。 水銀燈は力無く弛緩した親友の顔に頬を摺り寄せて、はらはらと涙を流した。 「そんな……真紅ぅ…………真紅ぅ……私、こんなの……イヤよぉ」 「銀ちゃん……私……」 ――ごめん、銀ちゃん。真紅を殺したのは、私なの。 本当のことなど、絶対に言えない。何とかして、誤魔化さなければ。 でも、動揺を抑えきれない。焦れば焦るほど、思考は空回りしてしまった。 水銀燈が、思い出したように携帯を取り出した。 「ぐすっ……とにかく…………通報……しなきゃ」 通報?! ダメだよ、そんなの。 警察に知られたら、凶器に残った指紋から、私が犯人だとバレてしまう。 もう、銀ちゃんの側には居られなくなってしまう! ――それだけは、厭! 絶対にイヤだ! 折角、真紅を追い払ったのにっ! 次の瞬間、薔薇水晶は水銀燈の手を叩いて、彼女の手から携帯を跳ね飛ばしていた。 そして、水銀燈が言葉を発するより早く、彼女の肩を抱き締めていた。 「ダメだよっ! 通報なんかしちゃ、絶対にダメよ!」 「……え。薔……薇……しぃ?」 「お願いだから、通報なんてしないで! 誰にも言わないで!」 「――っ! まさか、貴女が……真紅を?!」 どんっ! 水銀燈は薔薇水晶を突き飛ばして、後ずさった。 怯えた眼差しで、薔薇水晶を凝視している。 薔薇水晶は、血だまりに落ちていた刺身包丁を拾い上げて……。 「お願い…………ずっと、私の…………側にいてよ」 衝動的に、二人を殺してしまった。取り返しの着かない事をしてしまった。 薔薇水晶は足元に転がる二人の亡骸を、茫然と見下ろしていた。 私は一体、何をやっているの? 二人の身体から流れ出した血液が、砂利の上で一つに混ざり合っていた。 この二人は、死して尚、一緒に居ようとするのね。 結局、私がしたことは二人を永遠に結び付けただけ……。 「だけど…………私は…………諦めない!」 ――何時までも、何処までも、一緒に居たいと願ったから。 薔薇水晶は、自らの喉に、包丁の切っ先を突き付けた。 私の魂は、二人と同じ場所へは行けないかも知れない。 だけど、せめて…………この世界では、一つに成りたかった。 一つに混ざり合って、お別れしたかった。 腕に、力を込める。 自分の身体から溢れ出す血が、二人の血だまりへと流れ落ちていく。 薔薇水晶は、心からの微笑みを浮かべた。 ――私も、混ぜてよ。銀ちゃんと真紅の血液に。 意識が途切れる直前、薔薇水晶は一陣の風が自分を包み込むのを感じていた。 なんだか、とても温かくて、懐かしい感覚。 これは、一体―― 「これはまた……随分と、直情径行の強いお嬢さんですね」 「だ、誰? どこに――」 「貴女の後ろに居ますよ。お嬢さん」 そう話しかけられて振り返った薔薇水晶が目にしたのは、 タキシードを着て、小さなシルクハットを被ったウサギの紳士だった。 「あなた……誰なの?」 「日常と非現実を渡り歩く道化に、名など有りませんよ。 ワタシはただ、お嬢さんの希望を知って、お節介を焼きに来ただけです」 「私の希望?」 「ええ。あの二人と、一緒に居たい……と、願ったはずですよ」 そう。確かに、そう! 私は、二人と一緒に居たいと思った。 血だけでも、一つに混ざり合いたいと願った。 だから、私は…………自ら喉を刺し貫いた。 薔薇水晶は、そこで違和感を覚えた。 刺した筈なのに。さっきまで、もの凄く痛かったのに……。 気付けば、傷は無かった。 「まさに間一髪、でしたね。今回は流石に肝を冷やしました」 道化ウサギは額に手を遣って、汗を拭う仕種を見せた。 ふっ……と、薔薇水晶の頬が緩んだ。 「私は、罪を償うまで死ぬ事を許されない…………と言うの?」 「そうです。アナタは自分の過ちに気付き、贖罪しなければならない」 私の過ちは……銀ちゃんの側に居たいが為に、安易な解決策を採ってしまったこと。 色褪せない思い出が欲しくて、真紅を邪魔だと思ってしまったこと。 あの二人の絆に、考えを巡らせたりはしなかった。 「結局、色褪せない思い出なんか無かったのね」 「心の中で美化し続ける事は可能でしょう。 けれど、それは最早、最初に感じた美しさとは違います。 継ぎ接ぎだらけの形骸にすぎない」 「思い出は、生きていればこそ紡ぎ続けられていくもの……か」 「その通り。殺してしまったら、新たな思い出を作ることも出来ません。 ただ、過去を偲び、楽しかった思い出を美化して行くだけです」 それが、私の…………本当の過ち。 思い出を守り、これからも作り続けたいなら、二人の絆に飛び込むべきだったのだ。 二人の絆に溶け込んで、やがて一つになれるまで、徹底的に付き合うべきだった。 「やり直せたら…………良いのに」 「チャンスは、誰にでも与えられるものですよ。勿論……アナタにもね」 道化ウサギは目を細めて笑うと、懐中時計を取り出して、針を動かし始めた。 ――朝。 執事に起こされて、薔薇水晶の一日は始まる。 「お嬢様。お急ぎになられませんと、水銀燈お嬢様を待たせてしまいますぞ」 水銀燈とは、毎朝、待ち合わせをしている。 薔薇水晶は顔を洗っても寝ぼけ眼のまま朝食を摂り、身支度を始める。 歯を磨き、制服に着替えて、髪を梳く。 今日の授業日程を見ながら、鞄に教科書を詰め込んでいく。やばい、もう時間だ。 「いってきま~す!!」 弾丸のように玄関を飛び出し、約束の場所へ―― 銀ちゃんはもう、来ているだろうか。早く会いたい。会いたくて仕方なかった。 いつもの待ち合わせ場所で、彼女たちは雑談をしていた。 銀ちゃんと、真紅。とても仲がよさそう。 薔薇水晶の脚が、止まる。けれど、次の瞬間には全力疾走していた。 そのまま、水銀燈と真紅に飛び付いて、ギュッと抱擁する。 「おっはよーう!!」 「ちょっと、薔薇しぃ…………朝からテンション高すぎよぅ」 「まったくだわ。貴女、その抱き付き癖、なんとかならないの?」 えへへ……と照れ笑いながら、薔薇水晶は二人にしか聞こえないほどの小声で、そっと囁いた。 「二人の事が…………大好きだからだよっ♥」 「やれやれ……本当に、世話の焼けるお嬢さん達ですねえ」 道化ウサギは、屋根の上から三人の薔薇乙女を見下ろしていた。 その眼差しは優しい。まるで、愛娘を見守る父親のようだった。 「手の掛かる子ほど可愛い……というのも、あながち間違いではないようです。 まあ、この調子なら三人の絆が一つになるのも、そう遠くないでしょう」 さて……と、道化ウサギは両腕を天に突き上げて、背筋を伸ばした。 「道化は早々に退散すると致しましょう。そうそう。お節介ついでに、もう一つ。 薔薇乙女達に、尽きる事なき幸福が訪れんことを」 祝福の言葉を残して、道化は一陣の風と共に消えた。
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プロローグ ―師走の頃― 【12月22日 冬至】 クリスマスも差し迫った年の瀬に、夜更けの街を歩く、独りの影。 その周囲を、疲れた顔のサラリーマンや、OL、若いカップルが流れていく。 彼等の間を縫うようにして、翠星石は背中を丸めながら、歩いていた。 特別、行きたい場所があった訳ではない。 と言って、なんとなく、まだ家に帰る気にもなれずにブラついていた。 凍てつく真冬の風に吹き曝されて、ぶるっと身震い。 翠星石は歩きながら、羽織ったコートの襟元を掻き寄せて、重い溜息を吐いた。 吐息は白い霞となって棚引き、夜の闇の中に流されていく。 冬という季節は、どうにも陰気なイメージで、昔から好きになれない。 とりわけ、今年の冬は憂鬱だった。 「蒼星石……」 俯きながら、ポツリと妹の名を呼ぶ。彼女の呼びかけに応える者は、居ない。 去年の今頃は、隣を歩いていた蒼星石。 彼女は今、遠い異国の地で、姉とは違う人生を歩んでいる。 自分の夢を追うために、家族の元を離れ、留学してしまったのだ。 「蒼星石……私は、寂しいですぅ」 ふと立ち止まって、夜空を見上げる。 半分ほどに欠けた月が、皓々たる銀の光を降り注いでいた。 けれど、街の照明の方が明るくて、和歌に詠まれる風情などは感じられなかった。 今夜は、冬至。一年で、昼が最も短くなる日だ。 裏を返せば、夜が長いと言うこと。 蒼星石の居ない家で、長い長い夜を、持て余すだけと言うこと。 どう過ごせば、この退屈を紛らすことが出来るだろう? そんな事は、さんざん試した。 本を読んだり、祖父母と話をした。友人たちから借りたCDを聞いたりした。 映画のDVDを視たり、編み物にも手を出してみたり。 週末や祝祭日には、料理やハーブティーの研究もした。 が、どんな事をしても、途中から気分が萎えていく。ちっとも愉しくない。 お菓子を作っても、その後に続くものが無ければ…… 一緒にお茶して、お喋りしてくれる人が居なければ、張り合いがないのだ。 そんな状況で、翠星石の唯一の娯楽は、毎晩のインターネット。 決まった時間に、蒼星石とチャットすることだった。 けれど、それも時差の都合などで、僅かな時間しか出来ない。 愉しみにしていた分、回線を切った後の寂寥感は、得も言われぬ胸の痛みを生んだ。 蒼星石は時折、向こうでの生活を映した、動画メールを送ってきたりもした。 ディスプレイの中の蒼星石は、いつも元気そうに動き、笑い、話している。 それを視た夜には切なくなって、涙で枕を濡らした事も有った。 だから、最近では、蒼星石との定時連絡を終えると、 気分転換に、夜更けの街を散歩するのが翠星石の習慣になっていた。 自室で蒼星石の写真を眺めながら、クヨクヨ悶々してる自分が、イヤだったから。 もっとも、近頃めっきりと冷え込んできたので、散歩も楽じゃないけれど。 「うぅ~。流石に冷え込んできたですね」 心ばかりか、身体まで寒くなって、翠星石は身震いした。 いつもより少し早いけれど、そろそろ帰ろうか。 コートの襟を立て直して、彼女は俯きがちに歩き始める。 途端、前から歩いてきた誰かに、ぶつかってしまった。 「うひゃっ!」 「あっ! ご、ごめんなさいですぅ」 翠星石は、ぺこりと頭を下げた。 危ない。ちょっと、ボサッとしすぎていたらしい。 年の瀬に怪我をして、病院で年越しだなんて馬鹿げているし、なるべく遠慮したい。 「うゅ? 翠ちゃん……なの?」 平謝りするだけの翠星石に、ぶつかった相手が、話しかけてきた。 喋り方から、すぐに雛苺だと解った。 子供の頃には随分とイジメたものだが、今では仲のいい親友だから、縁は異なモノ。 「ナニしてるの、翠ちゃん? こんな時間に」 「それは、私の台詞ですぅ。おめーこそ、ナニ夜中にほっつき歩いてやがるです」 「ヒナはね、巴の家に行ってたのよ。翠ちゃんは?」 「え? わ……私は、ちょっと……コンビニまで買い物に行ってただけですっ」 雛苺は「ふぅん」と、小首を傾げた。 買い物に出た割に、翠星石が荷物を持っていないことを訝ったのだろう。 しかし、すぐにいつもどおりの屈託無い笑顔を浮かべて、翠星石に訊ねた。 「ねえねえ、翠ちゃん。もし良ければ、一緒に帰ろ? 夜道って怖いのよ」 「怖いなら、こんな時間まで巴の家に居なくてもいいじゃねぇですか」 「えへへ……ちょっと話し込んじゃって、お夕飯も頂いてきちゃったの♪」 まあ、そういう日もあるだろう。翠星石は、一緒に帰る事に同意した。 「ねえ、翠ちゃん。手を繋いでも良い?」 「はぁ? なんでですか? 子供じゃあるまいし、やーですぅ~」 「うゅ~。ダメ、なの?」 雛苺に潤んだ瞳で見詰められて、翠星石は言葉に詰まり、 照れ臭そうに顔を背けながら、そろそろと手を差し出した。 「まあ……たまには……お情けで、手を繋いでやるですよ」 仕方ないから、繋いでやる。あくまで、そんな役を演じる翠星石。 雛苺は嬉しそうに笑って、ギュッと握ってきた。 「翠ちゃんの手、冷たいのよ」 「そりゃあ、こんな真冬に手袋もしてなかったですからね。 雛苺だって、氷みたいに冷たい手をしてやがるじゃねぇですか」 「えへへ~。そうなの。だから、翠ちゃんと手を握りたかったの~」 「……なるほど。じゃあ、こうしてれば…… もうちょっとだけ、温かくなるですよ」 翠星石は雛苺の手を握り返して、自分のコートのポケットに差し入れた。 狭いポケットの中が、二人分の体温で満たされてゆく。 たった生地一枚とはいえ、夜風に晒されなくなった分、暖まるのは早かった。 「ホントだぁ~。翠ちゃんの手、温かぁいの」 「ふふっ。今夜だけは特別に、家に着くまで、こうしててやるですぅ」 なんだか、不思議と安心する。 雛苺と並んで歩いている内に、翠星石の悲しみは、薄らいでいた。 手の掛かる子ほど、愛情が募るものだと聞く。 雛苺の無邪気さに、母性本能を擽られたのかも知れない。 きっと、そのくらいのコトなのだと、翠星石は納得しようとした。 歩きながら、他愛ない話に花を咲かせていただけ。 なのに、翠星石は楽しんでいた。時間の経過を、忘れるくらいに。 もっと、この娘と、お喋りしていたい。ココロから、そう思った。 でも、雛苺の家は、もう目の前に在る。 翠星石は、たったいま思い出したような素振りで、しれっと訊ねた。 「雛苺は元日、初詣に行くです?」 「ううん、行かないの。巴の都合が悪くて、行けなくなっちゃったのよ」 「へぇ。他の誰かと、行けばいいじゃねぇですか」 「うん……ホントはね、すっごく行きたいの。ヒナは、お祭りって大好き♪ でも、一人で行くのは……ちょっと不安なのよ」 落胆する雛苺を見ていると、なんだか翠星石も、暗い気持ちになってしまった。 本当の翠星石は、とっても寂しがり屋さん。 日頃、明るく振る舞って見せても、ちょっとした事で涙が出てしまう。 そして、ソレは雛苺にも言えることだった。 だからこそ――相通ずるナニかがあるワケで。 気付けば、翠星石は雛苺に、我ながら驚く提案をしていた。 「だったら、私と行かないですか? 初詣」 「えっ?! 良いの?」 途端に、雛苺の表情が、パッと輝きを取り戻した。 夜だというのに、まるで太陽みたいに明るく、眩しい笑顔だった。 「行くの行くの行くのっ! ヒナ、翠ちゃんと一緒に、初詣に行くのっ!」 「わわ、解ったから、ちょっと落ち着きやがれです。近所迷惑になるですぅ」 「うぃ……ごめんなさい。でもねでもねっ、ヒナ、とっても嬉しいのよ?」 「そんなの、見ただけで判るですよ」 翠星石は苦笑した。分かり易い娘だ。まるで、子犬みたい。 でも……そこがまた可愛くて、ついイジメてみたくなるのは、悪い癖。 「じゃあ、約束です。大晦日にでも電話して、時間を決めるですよ」 「うん。じゃあね、翠ちゃんっ。お休みなさいなの」 手を振って雛苺と別れ、翠星石も帰途に就いた。 もう、さっきまでの心細さや寂しさは、雲散霧消していた。 それどころか、雛苺と話をして、温かい気持ちにすらなっている。 「叶うものなら、今すぐにだって、蒼星石に会いたいです。 けど……も少し、前向きに頑張ってみるですよ」 蒼星石だって、独りで頑張っているのだから。 ――私も、強くならないと。 翠星石はココロの中で、自分自身を励ました。
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《 元気にしていますか? おなかを壊したり、していませんか? 》 書き出しは、いつも同じ。少女も、いつものように、ふ……と口の端を弛めた。 彼女はいつだって、なにをさておいても、手紙の枕に少女を気づかう言葉を置く。 それは、おそらく無意識下での、ごく自然発生的なもの。 彼女の――変に気位が高く依怙地な義妹の胸に宿る、義姉への愛情の発露なのだろう。 顔を合わせれば、生意気な憎まれ口しか叩かないのに……。 そんな感想と共に、義妹の澄ました様子が思い出されて、少女は頬を綻ばせた。 要するに、あの娘は他者との距離の取り方が、まだ上手じゃないのだ、と。 手にした便箋を、鼻先が触れるほどに寄せて、静かに、ゆっくりと、息を吸い込む。 恥知らずな【R機関】に検閲され、【処理】を施された、封のない手紙。 けれど、少女の切望していたものは、ちゃんと残っていた。 真新しい紙の滑らかなにおい。ツンと鼻腔を突くインクのにおい。 小さな孤児院の中に満ち満ちた、静謐で平穏な暮らしの、懐かしいにおい。 それらの隙間から、針の如く細かに抜けてくる、義妹たちの柔らかな髪のにおい。 少女の胸に、愛おしい気持ちが大きく膨らんだ。 ふ……。少女は深い安堵から、目元を和ませた。これも、いつものこと。 「よかった」と独りごちると、改めて便箋を遠ざけ、整然と並んだ文章に目を落とした。 その中に、生真面目な彼女にしては珍しく、ぐりぐりと塗りつぶした訂正箇所が、ちらほら。 いつも目にする【R機関】の【処理】とは違う。明らかに、書いた本人の手による仕事だ。 うっかり字を間違えたのか。……いや、それなら書き直すはずだ。真紅ならば。 過剰とも思える配慮から、【こちら】を刺激しかねないデリケートな単語を亡き者にしたのだろう。 手紙の内容は、【あちら】での、他愛のない日常生活のこと。 父も義妹たちも、つつがなく暮らしているようだ。 「……よかった」 もう一度、独り言を繰り返して、少女は胸を撫でおろした。 けれど、その整った顔立ちには、妙齢の乙女らしからぬ苦悩が刻まれている。 いつだって、少女の風貌から憂いが消えることはなかった。 決して消えることのない翳りが、油汚れの如くに、しつこく染みついていた。 すべては、あの日からだ。少女は瞑目して、過去の記憶を掘り返す。 孤児院での、貧しく質素ながら、心はいつでも豊かだった日々。 優しくて、大きくて、温かい父の存在。 やんちゃで手の掛かる、それでも可愛くて仕方がない義妹たち……。 「お父さま……みんな……」 帰りたい――と、双眸を潤ませる。好きで、こんな場所に来たのではない。 その想いが、憤りの芽となって、少女の胸裡で燻っていた。 同じことの繰り返し。 たった一人、家族と引き裂かれてしまった、あの日から。 『歪みの国の少女』 ~繋げる希望~ 読み終えた手紙を、机の上に滑らせて、少女は窓辺に歩み寄った。 真っ新なレースのカーテンの端を摘んで、澄んだ瞳を、外の世界に彷徨わせる。 その表情は、相も変わらず暗い。若く瑞々しい唇を、キュッと噛んでいる。 あと少しの刺激に背を押されれば、泣きだしてしまいそうな気配だった。 ここは、少女のために設えられた部屋。 瀟洒な屋敷の中の、なに不自由のない生活を約束された空間だった。 とは言っても、すべての望みが叶えられることなど、ないのだけれど……。 ドアがノックされる音に、少女はハッと振り返って、「どうぞ」と。 扉の向こうの訪問者に呼びかけた時にはもう、愛くるしい笑みを完成させていた。 こんなことばかり巧くなっても仕方がないのに、と胸裡で自嘲しながら。 「失礼するよ」 ドアノブの廻る音がしてすぐに、訪問者のよく通る声が告げた。 穏やかだが、抑揚のある口振り。ある種の威厳も、低く響く声音に潜んでいる。 室内へと、自らの座る車椅子を進めてくる姿だって、実に矍鑠としたものだ。 少女は駆け寄ろうとしたが、老紳士に手で遮られ、浮かした踵を絨毯に沈めた。 「どうかね。不便なことは、ないかね?」 「ええ。結菱さんには、お世話になってばかりで。なんてお礼を言ったらいいのか」 「慣れないものだな。そう畏まることはないと言い続けて、ひと月が経つのに」 口調とは裏腹に、老紳士の猛禽を彷彿させる眼光が、雪の溶けるように和らぐ。 少女も、気恥ずかしげに俯いて、透けるほどに白い頬を、春めいた桜色に染めた。 この眺め、事情を知らない者の目には、孫娘と好々爺と映りそうである。 が、もちろん違う。少女と結菱は、ほんの一ヶ月前まで赤の他人同士だった。 少女の前で車椅子を止めた結菱の視線が、机の上の手紙へと吸い寄せられる。 彼の老眼では、文面を判読できない。けれど、およその内容は把握しているらしい。 「ご家族は、元気にしているようだね」 「ええ。みんな、特に変わりないみたい」 「結構なことだ。しかし、不憫なことでもある」 言って、鷹揚に頷いた結菱は、節くれ立った手を伸ばして少女の白い手を包み込んだ。 労るように。慰めるように。そして、どこか愛おしげに。 「悔やまれてならない。私に、あと少しの若さと権力があれば、と」 「そんな……なにを謙遜するのですか。結菱さんは立派に――」 「立派かね。満足に歩くことすら叶わず、老醜を晒しているだけの、この私が」 老人の嗄れた自己批判は、少女の喉の奥に、苦くて重々しい塊を残した。 「やめてください!」瞼を閉ざして、いやいやをする。「そんな風に言わないで」 少女の眉間に刻まれた深い皺に、辛い心境が、如実に現れていた。 「すまない。失言だったようだ」 照れ臭さを露わに話す結菱の表情には、思春期の少年のような顔が垣間見えた。 「いかんな、年寄りは。つい、気弱になって、愚痴ばかり零してしまう」 「老若は関係ないんじゃないかしら。こんな状況だもの、誰だって卑屈になるわ」 「こんな状況では、か」 ふたりは揃って窓に顔を向け、ぼんやりと外の景色を眺めた。 薄いガラス一枚で隔てられた先には、長閑で平々凡々とした街並みが広がっている。 ありとあらゆる、すべての物が、溢れんばかりの日射しを浴びて輝いていた。 その美しく平穏な景観に、彼らを悲観させる要素などは、微塵も窺えない。 けれど、少女も老紳士も知っている。 ここにある輝きは平和の縮図などではなく、死に逝く者たちの断末魔であることを。 長閑なのではない。この街は病魔に蝕まれて、息も絶え絶えに横たわっているだけだ。 「あと――」 言いかけて、少女は力なく、放たれるはずだった問いを呑み込んだ。 どれだけの猶予があるのかなど、誰にも確約できはしない。 結菱にも。少女にも。おそらくは、ノーベル賞を授与されるほどの物理学者でさえも。 「窓を、開けてくれないかね」 少女は求められるまま、レースのカーテンを左右に分けて、観音開きの窓を開け放った。 結菱は頷き、吹く込む風に抗い、窓の先に突きだしたテラスへと車椅子を進める。 彼に続いて、少女も降り注ぐ陽光の下に出た。 「風のにおいは、変わらないものだな」 「そう……なの?」 「うむ。君には馴染みが薄いだろうが、私にとっては何十年と慣れ親しんだ風だ。 鮭が自分の生まれた川の水を忘れないように、私もまた、この風を忘れはしない」 少女にそう告げた老紳士の横顔には、懐旧だけではない、様々な想いが浮かんでいた。 いろいろな事があったのだろう。少女の想像など及びもしない、喜怒哀楽が。 そして数多の思い出を抱きながら、結菱は役を演じきった俳優として、舞台袖に消えるはずだった。 なのに、とんだカーテンコールが待っていたものだ。 少女は緑青の浮いたブロンズの手すりに凭れて、目を閉じ、吹き抜ける風に身を委ねた。 【こちら】にある物すべては、【歪み】に汚染された忌々しい代物―― けれど、少女は頬を撫でてゆく柔らかな風を、確かに心地よいと感じていた。 叶うものならば、ココロを託してしまいたい。そんな想いが、少女の胸に募る。 この気持ちに【歪み】が生じてしまう前に、大好きな人たちに届けて……と。 「お茶にしないかね」 穏やかな老紳士の声に、少女は瞼を開く。微笑み、頷いた。 「いいですね。それでは、すぐに支度しましょう」 気持ちのいい陽気だった。一時の錯覚でも、苦い境遇を忘れられそうな気がした。 ひらり、と。少女は飛んだ。テラスの手すりの向こうへと、華奢な身体を躍らせた。 けれども、階下に墜落したりはしない。 ここは【歪み】の世界。ダリの絵を彷彿させる、【記憶の固執】を嘲笑う非常識な世界。 眼に映る物すべてが【現】であり、また【幻】でもあるのだから。 それこそ一瞬のうちに、少女は屋敷の厨房に辿り着いていた。 冷蔵庫で湯を沸かしつつ、広げたキッチンタオルに、ティーセットを並べる。 【歪み】に対するせめてもの逆心から、茶葉だけは、なんの捻りもない銘柄を選んだ。 結菱の待つテラスまで戻るときも、少女はきちんと歩き、階段を昇った。 ティーセットを載せたキッチンタオルを手に、器用に自室のドアを開ける。 それを、机に仮置きしてから、少女はテラスに小ぶりのテーブルを運び出した。 「お待たせしました」 「いいさ。至福のひとときを迎えるためには、待つことも大切な儀式なのだよ」 さらりと、気障ったらしさを感じさせずに言える老紳士の格好よさが、少女は好きだった。 威厳と円熟味を備えた結菱に、今は離れて暮らす父の影を、重ねていたのかもしれない。 カップを並べながら、少女は父にしていたように、懐っこく微笑みかけた。 「いい香りだ。ダージリンかね」 「ええ。別のお茶が、よかったかしら」 「そうではない。この香りも、まだ【歪】んでいないのだなと、嬉しくなってね」 「……そうね。ええ、本当に」 カップは、ウェッジウッドのボーンチャイナ。 乳白色の器は日射しを吸い込んで、蛍のように淡く光って見える。 そこに満たされた深紅の液体は、束の間、老人と少女の瞳と鼻腔を愉しませた。 「――美味しい」 まだ舌を火傷するほど熱い紅茶をひと啜りして、少女が独りごちた。 「こう感じる私たちの味覚も……いずれは【歪み】に蝕まれてしまうのでしょうか」 結菱は、うむ、と唸った。「いずれは、そうなるのだろうな」 即座に、少女が問う。「どうしても? 逃れる術は……絶対にない?」 諦めと後悔を以て、この状況に慣れてゆく道を、歩み続けるより他にない―― だとしたら、あまりにも虚しすぎると、少女は思った。 この【歪み】の世界を生みだしたのは、人間の弱くて甘えた心ではないか。 それを克服する術もまた、人間の心で生み出せるはずなのに。 「とても残念だが、【R機関】は外科手術だけが唯一の治療法だと信じ切っている」 「あるいは、信じたいのかもしれないわね。誤った教条主義だけど」 「確かに、そういう面はある。連中が推進するプロジェクトは、中世の対症療法だよ。 目の前の安寧を得ることに躍起で、問題の抜本的な解決には怠慢なままなのだ」 だから、やがて世界は自滅する形で【歪み】に呑まれるだろうと、結菱は続けた。 少女にも、それは解る気がした。失敗は挽回によってこそ払拭されるもの。 しかしながら【R機関】の方策には、そこに至るための確たる道筋が見られなかった。 およそ半年前まで、栄華を極めていた人類。 巷には、種々雑多な願望を短時間で可能にする文明の利器が、溢れていた。 そこに暮らす大多数の人間は小利口な怠け者であり、いつだって楽することを考えていた。 それを絶対悪だと論ずるつもりなど、少女にはない。 なぜならば、楽をしたい欲求が、少なからず偉大な発明を生んできたからだ。 少女も、この世に誕生してから数え切れないほど、先人の恩恵に与ってきた。 だから、たぶん人類は、小利口な怠け者のままが最も幸せだったのだろう、とは思う。 ――ある日、またひとつ偉大な発明が、人類史の中に生み落とされた。 多くの人間が脳裏に描いては、苦笑の糧にしてきた【夢】の装置。 【夢】は人々の絶大な支持を以て、モバイルフォンの如く、速やかに普及していった。 「もしも、【テレポ】……瞬間移動装置が、発明されていなかったら」 「よしなさい。詮ないことだ。過去を悔やむだけでは、取り返しなどつかんよ」 「解っています、それは。でも――」 考えてしまう。見えない未来より、見てきた過去を思う方が楽だから。 けれど、それでは【R機関】と大差ないのだろう。所詮は、その場しのぎ。 少女は、冷えてゆく紅茶に目を落としながら、事故の記憶を呼び覚ました。 【テレポ】の氾濫と乱用による、世界規模の【歪み】の発生―― その原因は、装置が使われる度に生じた、時空の微細な瑕疵によるものだった。 被害は瞬く間に、GPSを媒介して地球全体に拡散した。 なす術なく動揺する人類に、更なる追い打ちがかけられる。 人体もまた時空を構成する一要素であり、【歪み】汚染者が更なる【歪み】を生むとのレポートが、それだ。 ただちに国境を越えた修復(Restoration)のための対策組織――通称【R機関】が編成され、 検査によって汚染者【歪徒】を狩りだし、隔離収容が始められた。 それは巨大な力による、正義という欺瞞の下に行われた人権弾圧。 大多数の人間が【歪徒】としての自覚症状もないまま、捕縛、収監された。 【テレポ】を使うどころか、触れたことさえなかった少女すらも、問答無用に。 しかし、その努力は皮肉にも、焼け石に水どころか、火に油を注ぐ結果となった。 砂の一粒が、吹き寄せられて岩となり、いつか山を形づくるように。 朝露の一滴が、せせらぎを生んで、やがては海を成すように。 隔離によって凝縮された【歪み】は増殖し、もはや手の施しようがないほど巨大に膨れ上がっている。 ――それが、少女たちの暮らす【こちら】の世界。 「あ……」 不意に、耳障りなサイレンが街に鳴り響き、少女は顔を顰めた。「また、脱走」 結菱もまた、苦虫を噛みつぶしたような面持ちになる。 「無理もない。望まぬ世界に閉じこめられて、安穏でいられる者などいない」 彼らは言わば、情報弱者だった。それも極度の。 携帯電話もインターネットも、テレビやラジオなどのメディアも、この隔離エリアには存在しない。 【歪み】が電磁波やウェブにより伝播、拡散するのを防ぐ目的からだ。 ただひとつ許された【あちら】との通信手段は、【R機関】の検閲を介する手紙のみ。 そんな収容生活に恐慌をきたした【歪徒】が、やがて外との繋がりを求め、脱走者となる。 彼ら脱走者が、どのような末路を辿るのかは、想像力を逞しくするより他にない。 一度として、彼らが戻った試しはなかった。出ていったきり、消えてしまう。 【あちら】からすれば、少女や結菱もまた既に、亡霊【ワイト】なのかもしれないけれど。 「それでも……」 少女は両手でティーカップを包みながら、呟く。「希望は、捨てたくない」 明日には、奇跡が起きるかもしれない。 【歪み】を矯正する技術が確立されて、家族の元に帰れるかもしれないのに…… その望みを、自ら摘み取ってしまうのは、自殺と同じではないか。 「だから、手紙を書くわ。家族にも、友だちにも、ずっと伝え続けるつもりです。 私は絶対に、挫けたりしない……って」 紡ぐことは、繋げること。少女は、そう信じた。信じていたかった。 【あちら】の人々がn[negation]のフィールドと揶揄して忌み嫌う、この【歪み】の国で、 真っ直ぐに生きることもまた、形を変えた【歪み】なのかもしれないけれど。 それでも、無気力にnの意味を[necropolis]へと変えてしまうよりは幸せだろう、と。 「そうだな。それこそが、正解なのかもしれん」 結菱は柔和に笑って、静けさの戻った街並みに、目を彷徨わせた。 「君のような強い存在が、いつの時代も道を切り開いて、人々を導いてきたのだろう」 強いだなんて――と。はにかみながら、少女は両手で頬を包んだ。 女の子に強いという形容は、褒めているのか、いないのか。 ひとまずは、好意的に捉えておいた。 「あ……あの」 「うん?」 「お茶が済んだら」 「ふむ」 「少し、歩きませんか。いい天気だし……お買い物のついでに」 なぜ、そんな心境になったものか。実のところ、少女にもよく解らなかった。 ただ唯一、確かなことがあるとしたら、 「それはいい提案だ」 老紳士が、自分の誘いを快諾してくれた事実に対して、歓喜していることだ。 胸躍る昂揚の理由を問われても、嬉しいからとしか答えようがない。 この閉塞空間にあって、少女の孤独に潰されそうな心が、渇望していたのだろう。 父性の包容力を。安心して身を委ねられる力強さを。 老紳士に好意を寄せたのも、きっと、そんな姑息な理由からに相違ない―― 少女は一息に紅茶を飲み干しながら、独り合点した。 その日の夜更け、少女は手紙の返事をしたためた。 《 お変わりありませんか、お父さま。みんなも、元気にしている? 私のことは心配しないで。毎日、心静かに暮らしています 》 ――みんなに会えないのは、とても寂しいけれど。 少女は胸の痛みに眉を曇らせながら、便箋の右下に小さく“水銀燈”と署名して、万年筆を置いた。 それから、仄暗いランプの灯りの下で、机の傍らにある姿見の鏡を覗き込んだ。 ああ……。憂い顔の少女の唇から、苦渋に満ちた吐息が漏れる。 検閲される手紙に、迂闊なことは書けない。その欲求不満からだ。 この文面をして、【R機関】に脱走者予備軍とマークされることは、大いにあり得た。 ――檻の中のモルモット。それ以外の、何者でもない。もう嫌……。 抑鬱を紛らそうと、少女は自らの鏡像に、父や義妹たちの面影を映そうとした。 そんなときだ。少女の中に、天啓の如く妙案が閃いたのは。 「そうよ……会いに行けないのなら、来てもらえばいいんだわ」 こんな単純な発想の転換が、どうして今まで、浮かばなかったものか。 少女は嬉々として、置いたばかりの万年筆を手に取った。 不思議なことに、アイデアは後から後から、滾々と溢れてきた。 父や義妹たちに【歪み】を植えつける手段は、手紙しかない。 そして【R機関】の検閲と処理を潜り抜けるためには、自然な文面が望ましい。 ならば、と。少女は、手紙を書き直した。文脈も、簡素だが難解なものへと。 慣れない作業に四苦八苦しながらも、異様なまでの情熱が、尽きることはなかった。 「……できた」満足そうに呟く少女の手には、書きあげた手紙。 そこに整然と並ぶのは、反射文字のアルファベット。鏡に映さなければ読めない四行詩だ。 これを見た家族は、どんな顔をするだろう。想像して、少女は、くくっと含み笑った。 ぱたぱた……。灯されたランプにぶつかって、一匹の蛾が机に落ちた。 仰向けになった蛾は、羽根をばたつかせつつ、六本の脚で頻りに宙を掻いている。 少女は、琥珀色の隻眼で、その様子をしばし面白そうに観察すると―― やおら、手にした万年筆を振り下ろし、ペン先で蛾を串刺しにした。 ぷちっ。蛾の脚が、断末魔の苦しみに震えながら、縮こまってゆく。 その変化を、怪しく濡れた瞳で眺めて、少女はまた、くすくすと忍び笑う。 ランプの光を浴びて、背後に長く伸びた少女の影が、ゆら、ゆらり……。 炎の加減で怪しく蠢くそれは、真っ黒いドラゴンを彷彿させた。 「私からの招待状よ。さあ、みんな一緒に、会いにいらっしゃい。 ここは暗くて、何も見えない。とても、とても寂しい場所なの。 だから急いで。早く、早く――私の心が壊れてしまう前に」 戯けるように、しかし切羽詰まった調子で、少女は夜闇に囁く。 その爛々と輝く瞳の奥には、妖しい炎が揺らめいていた。 〆
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~第十八章~ 初夏の風に揺れる木立のざわめきに、小鳥の囀りが混ざり合う。 長閑な雰囲気の中で、雛苺は竹箒を手に、境内の掃除をしていた。 この季節は、まだ掃除も楽だ。 秋ともなると落ち葉が酷くて、掃き集める側から、落ち葉が積もる有様だった。 もっとも、焚き火で作る焼き芋は、とても愉しみだったけれど。 「雛苺、ちょっと来なさい」 「うよ? はいなのー、お父さま」 竹箒を放り出すと、雛苺は小首を傾げながら、ペタペタと草履を鳴らして社殿に向かった。 どうしたのだろう? なんとなく、声の質が硬かったけれど……。 怒られるようなコト、したっけ? 「お父さま~、何のご用なのー?」 「おお、来たか。雛苺」 育ての父、結菱一葉は一通の書状を手に、硬い表情をしていた。 そう言えば、ついさっき……お城から早馬が来てたっけ。 雛苺の視線は、書状に釘付けとなった。 「お手紙なのね。なんて書いてあるの、お父さま?」 興味津々で瞳を輝かせている雛苺に対して、一葉の表情が和らぐ事はなかった。 彼は、懐に書状をしまい込みながら、話を切り出した。 「旅の支度をしなさい、雛苺」 「……うよ?」 「狼漸藩で、なにやら良くない事が起きたようだ。お前も、ついて来なさい」 「わぁい! お出かけなのー!」 『良くない事』に深刻さを全く感じていないらしく、雛苺は陽気にはしゃいだ。 普段から、あまり遠出をする事がないので、余計に嬉しいのだろう。 けれど、一葉は雛苺の態度を、不謹慎だと叱ったりしなかった。 寧ろ、頼もしげな感すら有ったほどだ。 彼は狼漸藩の方角から押し寄せてくる何かの気配を、鋭敏に感じ取っていた。 (今度の一件、雛苺には厳しいかもわからん。 だが、この娘の陽の気が必要なのも、疑いない) 青々と木々が繁る稜線に遮られて、ここからでは狼漸藩の様子が全く判らない。 あの尾根まで登れば、なにか解るだろう。 「うゆぅ~。お父さま……ヒナね、なんか凄ぉく気持ち悪いの~」 一葉の真似をして狼漸藩の方角を見ていた雛苺が、胸元に手を当てて呻いた。 ちょっと目を向けるだけで、強烈に邪気を感じ取ったらしい。 やはり、雛苺には強い能力が眠っているのだと、一葉は確信した。 長年の修行の末に開眼した自分と違って、才能を持って生まれてきたのだ……と。 「出かけるのが辛いなら、此処に残っていても良いのだぞ」 「……平気なの。お父さまと一緒に、お出かけするのっ」 「ならば、急いで支度を済ませてきなさい」 促されて、雛苺は元気良く自室へと駆け出していった。 一身を賭して、雛苺を守り抜く。一葉の眼差しには、確たる意志が宿っていた。 ――六人の犬士たちが柴崎老人の邸宅を後にして、早くも一日が過ぎようとしている。 暮れなずむ空を見上げながら、とぼとぼと歩く山道。 金糸雀の幼少時代、色々と面倒を見てくれた女性が、この近くの村に嫁いだと 聞いて、情報収集も兼ねて立ち寄ってみたのだが……。 「ねえ、金糸雀ぁ。本当に、もうすぐ着くのぉ?」 「う、うん……その筈、かしら」 「その筈って、なんです! 適当で無責任なヤツですね、お前はっ!」 周囲は木々が生い茂り、見晴らしが悪い。 夜の帳が降り始めて、尚更、村の所在を確認する事が困難になっていた。 「しゃ~ねぇです。私が先に行って、確かめてくるですぅ」 痺れを切らして走り出そうとした翠星石の手を、蒼星石が掴んだ。 「ダメだよ、姉さん。まだ、傷も完治してないんだからね」 「で、でも蒼星石。このままじゃ埒が開かねぇですぅ」 「それでも、ダメだよ」 手を離そうとせず、にっこりと微笑む蒼星石の気迫に圧されて、 翠星石は渋々と引き下がった。 下手に逆らおうものなら、鳩尾に当て身が飛んで来ること請け合いだ。 そうこうする内に、事態が進展を見せぬまま、辺りはどんどん暗くなっていく。 「あう~。みんな、ごめんなさいっ! どうしよう~、困ったかしら」 「心配ない……もうすぐ、着くから」 「え? 貴女、知っていたの?! だったら最初から言いなさい!」 声を荒げる真紅に、薔薇水晶は「訊かれなかったし」と呟いて、前方を指差した。 村に到着して、ちょっと探すと、金糸雀の知り合いは直ぐに見つかった。 「あら! やだぁ、カナじゃないの! どおしたのよ~!」 「ちょ……みっちゃん! ちょっと、待つ、かしらーっ!」 戸板を開けて顔を覗かせた女性は、金糸雀を見るや抱き付いて、頬ずりを始めた。 そんな二人の様子を、呆然と眺める五人の娘たち。 この人たち、一体どういう間柄だったのか……。 「ねぇ……あの女の人、なんなのぉ?」 「ま、まあ、なに? 浅からぬ仲だって事は、解ったのだわ」 「……はっきり言えば……キチガもごもご」 「はっきり言わねぇでいいです。お前はホントに、バカ水晶ですぅ」 「姉さんも、そこまで明言しなくたって……」 みっちゃんと呼ばれた女性は、ひと頻り金糸雀を愛でると、五人に目を向けた。 眼鏡の奥で光る瞳は、次なる獲物を狙う猛禽のそれに似ていた。 「ちょっとちょっと。カナぁ、この可愛い娘たちは誰ぇ?」 「一緒に旅をしてる仲間かしら。山道を越えようとして、夜になったから」 「ははぁん……それで、今夜は泊めて欲しいって言うのね?」 「納屋でも構わないから、貸して頂けると助かるのだけど」 「なに言ってるの! カナの知り合いなら、部屋に泊めてあげるわよっ」 「でも、ボクたちが居たら、ご家族に迷惑なんじゃあ――」 「だぁいじょうぶ。旦那は留守だし、子供もいないからぁ」 実は、独りで寂しかったのだろうか。みっちゃんは大喜びで、彼女たちを迎え入れた。 質素だが、温かな夕食を取った後―― みっちゃんの餌食になったのは、意外にも薔薇水晶だった。 どうやら、洒落た眼帯が、みっちゃんのツボにハマったらしい。 食後のお茶を飲みながら旅の話に耳を傾ける間、彼女は薔薇水晶の肩を抱き締め、 決して手放さなかったのだ。 薔薇水晶は露骨に嫌な顔をしたが、みっちゃんは一向、気にする様子がない。 他の娘たちも身代わりにはなりたくないらしく、頻りに頬ずりされる薔薇水晶に 同情の眼を向けつつ、笑いを堪えるばかりだった。 ――そして就寝時間。 「酷いよ……みんな……」 涙を浮かべて膝を抱える薔薇水晶の肩を、翠星石がバシバシと叩いた。 「まあ、気にするなです、薔薇しぃ。人生、何事も経験ですぅ」 「……だったら、翠ちゃんも……やられれば良かったのに」 「わ、私は、頬ずりなんて経験済みだからいいです。ねぇ、蒼星石?」 「知らないよっ! なんで、ボクに話を振るの!」 蒼星石は夜目にも判るくらい頬を染めると、寝転がって背を向けた。 その後も「まったく、姉さんは……」と、なにやらブツブツ言い続けていた。 「それにしても、最後の貧乏クジは真紅だったわねぇ」 「みっちゃん、昔っから寂しがりだから……」 就寝前、みっちゃんは真紅に、一緒の部屋で寝て欲しいと願い出たのだ。 たった一晩とは言え、ご厄介になる以上、無下に断る訳にはいかなかった。 なぜ、こんな状況になっているのか。 布団の中で、身を強張らせる真紅。枕を並べた、一組の布団。 これ即ち、同衾……と言うヤツである。 てっきり二組の布団を敷くものと思っていたが、勝手な思い込みだったらしい。 真紅はみっちゃんに背を向け、両手でしっかりと神剣を握りしめた。 金糸雀には悪いが、ちょっとでも変な真似をしたら、躊躇なく斬るつもりだった。 「そんな物騒な物、布団に持ち込まなくてもいいじゃないの」 「ここ、これは大切な剣だから、肌身離さず持つのは、と、と、当然なのだわ」 「そぅお? 寝返り打った時とか、痛いでしょお?」 「で、でも……」 「せめて、枕元に置いておきなさいな」 確かに、みっちゃんの言う通りだった。 剣を抱えたままだと寝返りを打ち難いし、変に身体を乗せてしまうと、物凄く痛い。 第一、布団の中に持っていては掛け布団が邪魔して、即座に抜刀できないだろう。 枕元に置いておく方が、よっぽど瞬時に対応できる。 (どうせ、穢れの者は神剣に触れないし――) 間違いが起きそうになったら、大声を出せば、みんなが駆けつけてくれる。 真紅は躊躇いがちに、神剣を枕元へ置いた。 それを見て、みっちゃんは、にへら……と、嫌らしい笑みを浮かべた。 「うふふふふ…………手放したわねぇ、お間抜けさん」 「えっ?」 みっちゃんは半身を起こすと、袖の中から、しゃっ……と短刀を抜き出した。 行燈の仄かな明かりに、みっちゃんの眼鏡が怪しく輝く。 逆手に握った短刀の刃が、ギラリと鋭い光を放った。 「……っ! ……っ!?」 「うふふふ。声が出ないでしょお? 身体だって、動かない筈よぅ?」 確かに、真紅の身体は全く動かなくなっていた。 ついさっきまで、なんでもなかったのに―― 意識を集中して、全身に気を送っても、金縛りは解けない。 自分の身に何が起きているのか、全く把握できなかった。 「神剣の加護がなければ、所詮は、普通の女の子。他愛ないわあ」 「! …………っ!」 「怖い目で睨んだってダぁ~メよぅ。 めぐの放ったムカデの毒に、全身を蝕まれているんだから。 ムカデの毒は、やがて貴女の心臓すらも麻痺させるわ。 どお、怖い? 死ぬのが怖い? でも大丈夫よ。貴女がムカデの毒で死なずに済む方法は、ひとつだけ有るから」 勿体ぶった言い方をして、みっちゃんは真紅の顎を、ぐいと押し上げた。 狡猾そうな冷笑を浮かべて、真紅の顔を覗き込んでくる。 「毒の恐怖から解放される、唯一の方法を――知りたい?」 みっちゃんは、真紅の耳元で、心底楽しそうに囁いた。 「簡単なコトよぅ。毒が全身に回りきる前に、死んでしまえば良いの」 「っ!! っ!?!」 「可哀相だから、お姉ちゃんが貴女を死の恐怖から解き放ってあげるわ。 ゆっくり……そう、ゆっくりと殺してあげるから」 矛盾に満ちた言葉を吐いて、みっちゃんは真紅の喉に、軽く歯を立てた。 最初は、甘噛み……。 それから宣言どおりに、じわじわと……徐々に、顎の力を増していった。 このままでは気管を圧迫されて窒息するか、喉を食い千切られるか、二つにひとつ。 ――なんとか、しないと。でも、どうすれば良いの? 全身を襲う痺れで、指一本を動かすことすら叶わない。 神剣を手放し、加護を受けなくなった途端、めぐの術に陥ってしまったなんて。 所詮、この程度でしかないのか。 真紅は自分の力の足りなさに、失望を禁じ得なかった。 【義】の御魂ひとつだけでは、四天王の術にすら満足に対抗できない……それが現実。 なんて、ちっぽけで、弱々しい存在なのだろう。 (それでも、私は――) やはり、みんなの御魂を集める気にはなれない。 そして勿論、こんなところで殺されるつもりも、断じて無い! (房姫……私の声が聞こえているなら……お願い! 力を貸してちょうだい!) 直後、真紅の身体が仄かな光に包み込まれる。法理衣が自発的に起動していた。 真紅の喉元で、ジュッ! と何かが焼ける音と、臭いがした。 「ふぐあっ!」 真紅の喉に噛みついていたみっちゃんは、両手で顔面を覆い、絶叫をあげた。 すぐさま、襖が乱暴に開け放たれ、五人の娘が雪崩れ込んでくる。 「真紅っ! 今の絶叫は何なのっ?!」 「……これは、どういうつもりぃ? 悪ふざけにも程があるわよっ」 蒼星石と水銀燈が、素早く左右に分散する。 薔薇水晶が正面で二本の小太刀を構え、みっちゃんの背後には翠星石が回り込んだ。 「金糸雀は、真紅の容態を診やがれですぅ!」 「わ、解ったかしら!」 金糸雀は短筒の照準をみっちゃんに合わせつつ、真紅の元に駆け寄った。 身体が麻痺しているらしい。声も、出せないようだ。 真紅の喉に残る歯形を目にして、金糸雀は何をされたかを悟った。 「誰なの、あなたは! 本物のみっちゃんは、こんな事しないかしら!」 「ふふふ……あ~あ、残念。もう少し遊んでいたかったのに」 みっちゃんの輪郭が、徐に、ゆらりと波立つ。 そして、一瞬の後には、眼鏡を掛けた娘の姿に変貌していた。 「お前は、のり!」 「あら? 憶えててくれたのね、蒼星石ちゃん。お姉ちゃん、嬉しいわ」 「いつもいつも、ふざけたヤツですぅ!」 「みっちゃんは! みっちゃんを、どうしたかしらっ!」 金糸雀は、半狂乱になって、がなりたてた。 そんな彼女を、のりの冷たい視線が射抜き、冷水の様な笑みが吹きかけられた。 「馬鹿ねえ。あんな女、とっくに食べちゃったに決まってるでしょお? この村の連中も、お姉ちゃんが一人残らず食らい尽くしてやったわ」 「な……っ!」 「なのに、貴女たちったら全然、気がつかないんだもの。 お姉ちゃん、笑いを堪えるので大変だったんだから。あはははっ!」 「この……外道めっ!」 「んふふっ。あら嬉しい。蒼星石ちゃんから、最高の誉め言葉をもらっちゃったぁ」 四面楚歌であるにも拘わらず、のりは悠然と笑みを浮かべていた。 絶体絶命の危機に陥っていながら、何故、余裕綽々としているのか。 ハッタリか。それとも、まだ……何か罠を仕掛けているのか。 「かかって来ないのぅ? つまんなぁい。こっちから仕掛けちゃおうかな」 言って、のりが指を鳴らした途端、轟々と四方の壁が燃え上がり、 八畳間は忽ち、焦炎地獄と化した。 幻覚などではなく、本物の炎だ。肌が、ちりちりと痛くなった。 「これで、貴女たちは袋の鼠。このまま蒸し焼きにしてあげるわ」 「その前に……お前を、殺せばいいだけ」 薔薇水晶は発動型防御装甲『圧鎧』を起動して、のりに斬りかかった。 =第十九章につづく=
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―葉月の頃 その5― 【8月23日 処暑】② 高速道路で二度目のサービスエリアに入るや否や、 弾かれたように車を飛び出した翠星石は、タオル片手にトイレへと駆け込み、 ぽぉ~っと熱を帯びた顔をすぐにも冷やしたくて、ざぶざぶ洗った。 なんだか、まだ身体中がムズムズして、気分が落ち着かない。 それもそのハズ。『もふテク』108式すべてを体験してしまったのだから。 思い返すだけで、翠星石の背筋に悪寒が走り、顔から火が出そうだった。 「あー、ヤバかったですぅ。危なく溺れ乱――」 「なにで溺れそうになったのですか?」 タオルで顔を拭いながらの独り言に、背後からタイミング良く問い返されて、 翠星石は、わたわたと両腕をバタつかせた。一瞬にして、総毛立っていた。 ぎしぎしと頸椎を軋ませながら、翠星石が顔を向けた先には…… 「?」顔の雪華綺晶が、翠星石のことを見つめていた。 彼女の右後ろには、守護霊のように寄り添う薔薇水晶の姿も。 「なにやら、お顔の色が赤いですわね。車酔いでしょうか? それとも、軽い暑気あたりとか――」 「おk……把握。私、おクスリ持ってる」 と、薔薇水晶がウエストポーチから取り出したのは、プリザエース。 いったい全体、どういう発想で、なにを把握したというのか。 あまりにもお約束すぎて、翠星石はもう怒る気も失せ、長い息を漏らした。 「気持ちだけ、受け取っておくです。大したコトじゃねぇですから」 「……そう。入り用になったら……いつでも言って」 薔薇水晶は、さも残念そうに睫毛を伏せて、錠剤をポーチに戻した。 その隣で、雪華綺晶が物思わしげな顔を作っている。 「でも、とりあえず、涼をとった方が良いかも知れませんわね。 ソフトクリームでも、ご一緒にいかが?」 翠星石は、腕時計に目を落とした。集合時間までは、いくらか余裕がある。 ソフトクリームくらいなら、さくっと食べてしまえるだろう。 それに、折角の気遣いを無碍に断るのも、礼を失するというものだ。 そう考えて、翠星石は、雪華綺晶のお誘いを受けることにした。 お盆休みシーズンを過ぎたとは言え、まだまだ結構な混み具合だ。 売店でソフトクリームを買った三人は、カンカン照りの室外に出ると、 ちょうど空いていたパラソル付きのテーブルで、車座になった。 「さあ、いただきましょう」言うや、雪華綺晶はパクっ! と頬ばって、 唇に残るクリームを、艶めかしく舐め取る。「うふふ……アンマァ~」 彼女の満足げな声に、翠星石は、ギクリ。 まさに【パブロフの犬】的条件反射。ついさっきまでの刺激が強烈すぎて、 どうにも『アンマァ』という響きに過敏な反応を示してしまう。 そんな翠星石の微々たる変化を、目敏く捉えていた者が、ひとり。 「どうか……した?」 薔薇水晶は訊ねて、翠星石の顔を、じぃ……っと見つめている。 なにか答えない限り、ずっと見ているつもりだろうか。 翠星石は「なんでもねぇです」と、素っ気なさを装って視線を逸らし、 バツの悪さを隠すように、自分のソフトクリームに口を付けた。 「はもはも……ん~。冷たくて、美味しいですぅ~。 くどくない甘さで、舌の上でサラッと溶ける感じが、また格別ですぅ」 「原料の鮮度が、味の決め手なのかも知れませんわね。 カウンターのところに、ポスターが貼ってありましたもの。 この近くに牧場があって、そこから搾りたてのお乳を仕入れているとか」 再び、笑顔を凍り付かせる翠星石。明らかに、意識しすぎている。 そして今度もまた、薔薇水晶は些細な変化を見逃していなかった。 「お乳……搾りたて」 今度は、ニヤッと嗤って、これ見よがしに指をわきわき動かしている。 彼女の隻眼が向けられているのは、翠星石の……胸。 翠星石は、かぁ~っとアタマに血が昇って、耳まで熱くなるのを感じた。 「なっ、なっ…………なに、おバカなこと言ってやがるですか! おめーには根本的に、乙女の恥じらいってモノが足りねぇですぅっ」 「……どうして、そんなに怒るの?」 「暑いからと言っても、ちょっとカリカリしすぎですわね。 翠星石さん、貴女……きちんと乳酸菌を摂っていますか?」 薔薇水晶の問いを受け、雪華綺晶までもが、訝しげに翠星石を見る。 じろじろと二人の視線に晒されて、言葉に詰まった彼女は―― 赤らんだ顔をぷいっと背けて、黙々とソフトクリームとコーンを完食した。 しかし、このまま何も喋らずに立ち去るのも、逃げ帰るみたいで癪に障る。 角が立たないほど自然で、適当な口実は、なにか無いものだろうか? (……あ。そうですぅ) あれこれ考えていたところに、ふと、天啓が降りてきた。 翠星石は、薔薇水晶が食べ終わるのを見計らって、身を乗り出した。 「ねえ、薔薇しー。よく効く眠り薬って、持ってねぇです?」 「眠り薬なら……そこで売ってる」 言って、薔薇水晶が指差した先には―― 「缶ビールの自販機じゃねぇですか、おバカ水晶っ!」 「軽い冗談……怒っちゃダメ。ちょっと待って…………ほい、コレ」 と、彼女が差し出したのは、なにやら不可思議なタブレット。 1ダースの錠剤がパッキングされていて、裏面には製品名らしき印刷と、 製薬会社のマスコットキャラと思しい吊り目の白ウサギが、見て取れた。 「nft……っていうですか、このクスリ。なんか小室ファミリーみてぇです」 「trfちゃうねん。『n field tripper』の略称。 効くよ……コレ。飲めば一瞬で……ユメの世界にトリップできる」 「おお……なんか凄そうです。そんな強力な効果で、副作用は心配ねぇのです?」 「まったくもってモウマンタイ。二度と目覚めないコトも……よくある」 「メチャクチャ問題ありまくりじゃねぇですかっ!」 大声を出したものの、それ以上の狼藉は働かずに、翠星石は二人と別れた。 ただし、nftは貰っておいた。モチロン、自分で服用するワケではない。 「このクスリで、おバカ苺を眠らせちまえば、もう安心ですぅ」 だが、雛苺だって、こんなアヤシイ錠剤を素直に飲みはしないだろう。 となれば、飲み物や食べ物に混ぜて、飲ませてしまえばいいのである。 翠星石は売店に入って、雛苺が食べたくなりそうなモノを探した。 すると―― 「お! 雪苺娘じゃねぇですか。これは、お誂え向きですぅ~。きししし」 冬限定の代物のハズだが、どうして真夏に売っているのやら。 首を傾げつつも、翠星石は迷わずゲットする。それも3つ。 ひとつだけだと警戒されかねないが、人数分なら変に思われまい、との配慮だ。 会計を済ませた翠星石は、人目を気にしながら、そそくさと物陰に入った。 そして、もう一度ぐるり見て、誰にも見られていないことを確認。 手早く(だが丁寧に)パッケージを開き、雪苺娘の底面から錠剤を埋め込んだ。 「はふぅー。準備完了……っと、ヤバっ! もう出発時間じゃねぇですか!」 時計を見て慌てた翠星石は、咄嗟にクスリ入りの雪苺娘をレジ袋に放り込んで、 炎天下を全力疾走した。 「ご、ごめんなさいですぅ!」 息せき切らせた彼女を、水銀燈と雛苺が出迎える。二人とも眉を集めていた。 「もぉ。遅いのよー、翠ちゃん」 「ナニかあったのかと心配するじゃない。あらぁ……なにを買ってたのぉ?」 「……実は、こんなモノを見つけたから、一緒に食べようと思ったですぅ」 と、翠星石が、手にしたレジ袋から雪苺娘を恭しく取り出すと、 二人の態度と表情はコロッと変わった。 特に、雛苺のはしゃぎようは、もはや異常と言ってもいいくらいだった。 ――が、事ここに至って、翠星石は自らの過ちに気づいた。 (うっ! 走ってきたから、袋の中でゴッチャ混ぜになって、 どれがクスリ入りだか、分からなくなっちまったですぅ) なぜ、目印のひとつも残しておかなかったのか。自身の迂闊さが恨めしかった。 しかし、二人に渡す前に調べるなんて、不自然きわまりない。 『一服盛っといたですぅ』と、自白しているに等しかった。 どうしようもない。翠星石は、もう、どーでもいい気分になって…… (し、しゃーねぇです。女は度胸! なんでも試してみるもんですぅ!) 二人に雪苺娘を渡し、自分もパクっと食らい付いた。 そして、次の瞬間っ! ガリリッ…… 小石でも噛んだような音に続いて、卒倒する水銀燈。 「あぁっ! ぎ、銀ちゃん、どうしちゃったの? しっかりするのーっ!」 「はっ! きっと熱中症ですっ! 早く、銀ちゃんをリアシートに乗せるですよ。 エアコンで急速冷却フリーズドライにしてやるです」 「う、ういー!」 ……なんて。咄嗟の機転を利かせて、なんとかその場を誤魔化した翠星石は、 再びハンドルを握って、車を転がしていた。 後部座席には、ぐったりと横たわって、目覚める気配のない水銀燈が……。 雛苺は助手席に移って、翠星石との雑談に興じていた。 いくらか走った頃、雛苺がニコニコしながら、翠星石に話しかけた。 「ねえねえ。銀ちゃんが倒れたの、翠ちゃんの仕業なのよね?」 「なな、なんのコト……です? 私には、さっぱり――」 「誤魔化したってダメなの。ヒナには、バレバレユカイなのよ?」 言って、雛苺はハンカチを取り出し、翠星石の左頬に滴った冷や汗を、優しく拭う。 あくまでも、天使のような微笑みを絶やさないままに。 「宿に着いたら、覚悟しておくのー♪」 藪をつついてワニを出す。 新たな格言が、産声をあげた瞬間だった。(民明書房刊)
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「ローゼンメイデン」で八犬伝をやってみたら…… これは、そんなSSです。 滝沢馬琴さんの『南総里見八犬伝』を、こよなく愛する方には、 受け入れがたい内容かも知れません。あらかじめ、ご了承ください。 (※百合、死にネタが含まれます) ~序章~ ~第一章~ ~第二十一章~ ~第四十一章~ ~第二章~ ~第二十二章~ ~第四十二章~ ~第三章~ ~第二十三章~ ~第四十三章~ ~第四章~ ~第二十四章~ ~第四十四章~ ~第五章~ ~第二十五章~ ~第四十五章~ ~第六章~ ~第二十六章~ ~第四十六章~ ~第七章~ ~第二十七章~ ~第四十七章~ ~第八章~ ~第二十八章~ ~終章~ ~第九章~ ~第二十九章~ ~第十章~ ~第三十章~ ~第十一章~ ~第三十一章~ ~第十二章~ ~第三十二章~ ~第十三章~ ~第三十三章~ ~第十四章~ ~第三十四章~ ~第十五章~ ~第三十五章~ ~第十六章~ ~第三十六章~ ~第十七章~ ~第三十七章~ ~第十八章~ ~第三十八章~ ~第十九章~ ~第三十九章~ ~第二十章~ ~第四十章~
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ベッドに入ってから一睡もできなかったというのに、頭は妙にスッキリしていた。 気怠さや、疲れも感じない。肌だって瑞々しくて、パッと見、荒れた様子はなかった。 これが若さなのかな? と蒼星石は洗面所の前で、小首を傾げてみた。 鏡の中の彼女は、不思議そうに、自分を見つめ返している。 そこに、昨夜の雰囲気――柏葉巴の影は、全く見受けられない。 今日、学校に行ったら……話しかけてみよう。 夕暮れの体育館で見た凛々しい姿を思い出しながら、もう一度、昨夜の決心を繰り返す。 おとなしそうな彼女だけど、果たして、呼びかけに応えてくれるだろうか。 人付き合いは、やはり、第一印象が大事。変な人と思われないように、気を付けないと。 蒼星石は、鏡の中の自分に、ニッコリと笑いかけてみた。 大きな期待の中に、ちょっとの不安を内包した、ぎこちない微笑み。 少しばかり表情が硬いな、と思っていると―― 「朝っぱらから、鏡の前で何ニヤついてるです?」 「わぁっ! 驚かさないでよ、もぉ……」 いつから見ていたのだろう。 蒼星石は耳まで朱に染めて、ニタリと笑っている姉の脇をすり抜けた。 第三話 『運命のルーレット廻して』 揃って朝食を済ませ、支度を終えた姉妹は、一緒に玄関を出た。 秋も深まり、日一日と風が冷たくなる時候ながら、今日は普段より暖かい。 小春日和の日射しに包まれていると、なんだか…… 何年もそうしていなかったような、とても懐かしい気がする。 (姉さんも、ボクと同じ気持ちなのかな?) ちらりと盗み見ると、翠星石は口に手を宛い、大きな欠伸をしていた。 しばしばと瞬いて、滲み出した涙を堪えている様子が微笑ましい。 「随分と、眠そうだね」 言ったそばから、姉の欠伸が移ったのか、蒼星石も大きな欠伸を放つ。 それを見て、翠星石は愉しげに目を細めた。 「蒼星石だって、他人のこと言えねぇです」 「……らしいね。シャワー浴びたせいか、あれから目が冴えちゃってさ」 「実は、私も――――ずっと眠れなかったですよ」 そう呟いて、隣を歩く妹に、咎めるような眼差しを向ける翠星石。 「蒼星石が、あんなコトするから……」 「はは……ごめん。そう言えば、姉さんってスキンシップに弱かったっけ」 「知ってるクセに抱きつくなんて……とんだ悪党ですぅ」 赤らめた頬を、可愛らしく膨らます姉の仕種は、しかし、長く続かなかった。 やおら真顔に戻ったかと思うが早いか、蒼星石の背中をバシンと引っ叩く。 照れ隠しのためとは言え、あまりの手加減のなさに、蒼星石は息を詰まらせた。 「い、痛いよ姉さん! 何するのさ」 「それでチャラにしてやるですぅ。さっ、気を取り直して、学校に行くですよ」 「……はいはい。とにかく、授業中に居眠りしないように、気をつけなくっちゃね」 「今日は土曜日ですから、午前中さえ凌げば大丈夫ですぅ」 答えた途端に、またぞろ大欠伸をする姉を見て、蒼星石は、ふっ……と口元を綻ばせた。 そして、こんな二人だけの時間が、もっと欲しいと思って―― 「今日の午後、たまには二人で、パフェとか食べに行かない?」 翠星石を、遊びに誘った。彼女から誘うなんて、真夏に雪が降るくらいに、珍しいことだ。 だからこそ、彼女は翠星石が「はい」と頷いてくれるものと信じていた。 しかし、蒼星石の期待は、呆気なく拒否される。 「とっても嬉しいですけど……今日は都合が悪いですよ」 「そう……なんだ。残念だなぁ」 「ゴメンナサイです、蒼星石。この埋め合わせは、近い内に、きっとするです」 「別に、いいよ。気にしないで」 心底、申し訳なさそうに項垂れる彼女を、蒼星石は笑って宥めた。 けれど、二人の間に漂うギクシャクした空気は、学校に着いても薄れることがなかった。 学校に到着して、カバンを机に置くなり、蒼星石は隣のクラスに向かった。 昨日から頭を離れない彼女――柏葉巴と、一言でも話をするために。 HRが始まるまで、まだ十分ほど余裕がある。 (もう来てる頃だよね) 学級委員を務めるほどだ、遅刻するような問題児ではあるまい。 そう思って、教室の後ろの扉から、そぉっと様子を窺うと…………居た。 なんの偶然か、彼女が丁度、教室から出てくるところに鉢合わせたのだ。 巴は、蒼星石の姿を認めると、控えめに微笑んだ。 「おはよう。誰かに用事? 呼んできてあげようか」 「あ……おはよう、柏葉さん。ボクは……キミに会いに来たんだ」 「わたしに?」 「ちょっと、話がしてみたくてさ。今、少しだけ時間つくれる?」 問いかける言葉に、不思議そうな表情を浮かべる巴。その反応は、蒼星石の想定内だった。 体育の授業は隣のクラスと合同で行うから、二人は一応、顔見知り。 だけれども、今日に至るまで、交流を図る機会には恵まれていなかった。 「……ダメかな?」 蒼星石が不安げに訊ねると、巴はシンプルな造りのアナログ腕時計にチラと目を遣り、 「いいわよ」と、にこやかに応じた。 巴にしてみれば、なぜ今になって蒼星石が近付いてきたのか、その理由に興味があったのだろう。 クラスメートの視線を気にしてか、廊下に出た彼女は、後ろ手で教室の扉を閉ざした。 室内の喧噪は遮られ、話をする環境が整えられる。 巴は、背格好の似通った娘の双眸を、その鳶色の瞳で、ひた……と見据えた。 「それで、お話ってなぁに? 蒼星石さん」 「ボクの名前……知ってたの?」 「ええ。自覚してないみたいだけど、貴女は割と有名だもの」 「正しくは、ボクの姉さんが有名……でしょ」 姉と自分は、二人でひとつ。生まれながらにして、二人はいつも一緒だった。 別個の存在でありながら、一心同体。 蒼星石の半分は翠星石であり、姉の半分は妹で占められている。 そう。本来ならば、彼女たちは対等の関係である筈だった。 しかし、等しく浴びる筈だった陽光は、いつだって姉にのみ注がれてきた。 蒼星石の存在は、煌びやかに光り輝く姉の足元に落ちた影と同じ。 言わば、彼女の『おまけ』でしかない。名前を間違えられることも、しばしばだった。 (でも、ボクは――それがイヤじゃない) 寧ろ、姉の名で呼ばれると嬉しくなったし、彼女とひとつになることは密かな望みだった。 触れ合い、癒着し、どろどろに溶けて、混ざり合ってしまいたい。 そして、コールタールの様な混沌から、たった一人―― 至高の美しさを持った少女として生まれ変われたのならば、どんなに素晴らしいだろう。 ――が、所詮は、実現不可能な世迷い言。正気と妄想の狭間に産まれた悪夢。 我ながら、馬鹿げた願望だ……と、蒼星石は自嘲した。 「ごめんなさい。何か、気に障ること言ったみたい」 間近で紡がれた声で、蒼星石は我に返った。 声の主は、困惑の表情を浮かべて、自分を見つめている。 「ご、ごめん。ちょっとボーっとしちゃってた。怒ってたワケじゃないよ」 「……よかった。急に黙っちゃうから、心配したわ」 その言葉どおり、巴は安心したように小さく笑って、付け加えた。 「でも、貴女が有名っていうのは本当のことよ。魅力的な人だなって、わたしも思うもの」 「ボクが? ははっ……まさかぁ。ボクなんかよりも、キミの方がずっと素敵だよ」 「え?」 「昨日の放課後、体育館で剣道の練習してるキミを見たんだ。 すごくカッコよくて…………思わず見惚れるくらいに綺麗だった」 「汗まみれな姿を見られてたなんて、恥ずかしいわ。それに、お世辞でも誉めすぎよ」 両手で頬を包み、はにかむ巴の仕種は、蒼星石の眼に、とても初々しく映った。 やがて、HRの始まりを告げる予鈴が鳴り、廊下にまで溢れていた喧噪が静まる。 もう、それぞれの教室に戻らねばならない。だけど、もう少し話していたい気分だった。 だから彼女たちは、ごく自然に、同じ言葉を口にしていた。 「また、後でね」 第三話 おわり 三行で【次回予定】 相まみえて、たちまち意気投合する乙女たち。 縁と浮世は末を待て。彼女たちは時を積み、言を重ね、情を育む。 その間も、運命のルーレットは休みなく廻る、回る―― 次回 第四話 『今日はゆっくり話そう』
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『奔流の果てに』 老善渓谷は折からの集中豪雨で増水していた。 降りしきる雨の中、激流に浚われまいと必死で岩にしがみつく人影が二つ。 「おい! 絶対に諦めんじゃねぇぞ!」 「あ? なんだって? 聞こえないよ!」 轟々と落ちる水の音が、二人の会話を完全に遮る。 これでは意志の疎通もままならない。 ジュンも頭と腕に負傷しているし、いつまでもこうしている訳にはいかなかった。 (この天候じゃあヘリも飛ぶまい。どこか、休めそうな場所はないのか――) 先行するベジータは、顔を打つ雨と水飛沫に目を顰めつつ、周囲を見渡した。 岩の、ちょっとした窪みでも良い。奔流に滑落する畏れがなくなるならば。 (俺ひとりなら、麓まで飛んで行けば良いだけなんだがな) 自分の素性を知られる訳にはいかなかった。 だからこそ、今まで馬鹿なフリをしてでも、周囲の目を誤魔化し続けてきたのだ。 たとえジュンが無二の親友であっても、決して例外ではない。 寧ろ、親友だからこそ秘密にしておきたかった。 ――時を遡ること半日 薔薇学園の生徒は一泊二日の課外授業として、老善渓谷を訪れていた。 基本的には渓流でのキャンプ生活と、山歩きの体験学習である。 自然災害に直面したときの自活術を学ぶ……というのがカリキュラムの目的だった。 「――であるから、山でキノコを見付けても、安易に口にしたらダメだぞっ」 梅岡先生の引率で山歩きをしながら、生徒達は山菜全般について学んでいた。 ジュンとベジータも、その中に居た。 「あ~あ。退屈だぜ、まったく」 「そう言うなよ、ベジータ。これも授業なんだからさ」 「だから退屈なんだろうが。俺はな、もっとこう…… 蒼嬢とアバンチュールな体験を楽しみたいわけだ。震えるぞハート、燃え尽きる――」 「その台詞は言わんでいい」 ジュンはベジータの額に裏拳を叩き込み、横目でジロリと睨んだ。 「……どうせ、夜中にテントへ潜り込むつもりだったクセに」 「へへ……バレてたか。お前も一緒にどうだ? 俺が蒼嬢、お前が翠嬢。イッツオンリーラブ」 「福山雅治かよ。ていうか、意味わかんないぞ」 「頭で考えるな、魂で感じ取れよ。で? どうよ、今夜……やらないか?」 「悪いけど、僕は真紅と約束してるから……」 「けっ! すっかり尻に敷かれてやがるのか。やれやれだぜ」 腑抜けた野郎だ、とベジータが吐き捨てるのを耳にして、ジュンの額がビキビキと鳴った。 「尻に敷かれてる訳じゃないさ。僕だって、他の子とも仲良くしたいし」 「だよなあ。それなら、翠嬢とスキンシップとったって構わねえだろ」 「けど…………真紅を悲しませるのは、気が引けるな」 「か~っ! まったく、おたくシブイぜ」 訳の解らない台詞を吐いて、ベジータは天を仰いだ。 なんとまあ義理堅い奴だろうか。 義に厚く、情に脆いジュンは、確かに良くできた人間だと思う。 割と面倒見が良いし、周囲への気配りも、高校生らしからぬくらいだ。 そして何より、ジュンの側に居ると誰もが和やかな気分になれた。 異星人のベジータでさえもだ。 (だが、俺にはどうも、こいつの態度が八方美人に思えて仕方ねえ。 紅嬢との関係にしても、なんか『意中の人』というより『愛の足軽』って感じなんだよな) 真紅の采配ひとつで、戦場の矢面に立たされる存在。 弁慶の如く矢で射られて、立ったまま大往生を遂げるジュンの姿が目に浮かび、 ベジータの頬に一滴の涙が流れ落ちた。哀れだ、哀れだぜジュン! ここはダチ代表として、是が非でもジュンの性格を叩き直してやらねばなるまい。 お前のためなら、俺は憎まれ役にだって喜んでなるぜ。 ベジータは目にも留まらぬ俊敏さでジュンにヘッドロックをかけると、 耳元でボソリと呟いた。 「問答無用だ。一緒に来い。今夜はお前を帰さないからな」 突然、ミョーな事を口走られて狼狽えない者は居ない。 ジュンもまたご多分に漏れず、ベジータの腕を振り払って、一定の距離を置いた。 「じょ、冗談じゃないぞ! 僕には、そんな趣味は無い!」 「ああ? お前、なんか勘違いしてねぇか?」 「してないよ! と言うか、みんな先に行っちゃってるぞ。早く追いつかないとな」 「あっ! 待て、ジュン! お前の足元が――」 ベジータは走りだすジュンの足元が崩れかけていたのを目敏く見付けていたが、 一瞬だけ警告が遅れていた。 ごろっ―――― 突如として岩が崩れ、ジュンは声を上げる間もなく渓谷へと転がり落ちていった。 助けを呼びに行ってる暇など無い。ベジータは躊躇わず崖下に飛び降りた。 「くそっ! かなり下まで落ちたらしいな。生きててくれりゃ良いが」 山道から三メートルほどが垂直で、その下は急勾配の斜面になっていた。 斜面は厚く堆積した腐葉土に覆われていて衝撃吸収性は良いが、 転がり落ちるジュンを食い止めるだけの堅さが無かった。 急勾配に残るジュンの滑落痕を辿りながら、ベジータは一心にジュンを探し続けた。 ジュンは、崖にしがみつくように生えた木の幹に引っかかっていた。 その先は切り立った断崖絶壁となっており、五メートルくらい下に渓流が見えた。 もし引っかからなければ、死んでいたかも知れない。つくづく運のいい奴だ。 「ジュン! おい、ジュン!」 近付いて声を掛けるが、気を失っているらしく返事がなかった。 「頭から出血してるのか。それに、脊椎を強打してるかも知れねえ。 いま下手に動かすのは、得策じゃない」 と言って、木に引っかけたままなのも危険なので、 ベジータは細心の注意を払ってジュンを近くの岩に運んだ。 怪我の程度は、頭部の裂傷と複数箇所の打撲、それに腕の骨に亀裂。 取り敢えず、応急手当だけでもしておくべきだろう。ベジータは下の川に降りて、 タオルを冷たい水に浸した。だが、そこで水が濁っている事に気付いた。 渓流の水は本来、奇麗に透き通っているものなのに。 頭上を見上げたベジータの目に、山頂から沸き立つ黒い雲が飛び込んできた。 「こいつぁ、ひと雨きそうだな。ここからが本当の地獄……か」 こうしてはいられない。ベジータは急いで、ジュンの元へと戻った。 雨が降り出した。それも、ただの雨ではない。バケツをひっくり返した様な集中豪雨だ。 渓谷全体に靄が立ちこめて、視界はかなり悪い。 学園のみんなも、ベジータ達が居なくなっているに気付いただろう。 だが、この雨の中で捜索するなんて危険を、敢えて冒すとは思えなかった。 「ちくしょう。ジュンの奴、この雨の中でも目を覚まさねえとは、どういう神経だ。 死んでるんじゃねえだろうな?」 都合良く見付けた岩の陰で雨を凌ぎながら、ベジータは悪態を吐いた。 勿論、冗談だ。ベジータはジュンの生命反応を明瞭に感じ取っていた。 「おい! いい加減に起きねえと、紅嬢に蹴飛ばされるぜ」 言いつつ、ベジータが爪先で頭を小突くと、ジュンは微かに呻いて、瞼を開いた。 暫し茫然としていたが、ジュンは何回か瞬きをして、徐に声を発した。 「ここは…………どこなんだ?」 「崖の下だ、馬鹿野郎が。お前がドン臭いから、俺はとんだ貧乏クジだぜ。 今頃は蒼嬢と、ムフフな世界に入り浸ってる予定だったのによぉ」 「くくっ……っ痛ぇ。笑わせるなよ」 「ま、笑えるだけ意識がハッキリしてるなら安心だな。 お前、頭を打ち付けてたんだぜ」 ジュンが額に手を遣ると、確かに何かが巻かれていた。 こんな山奥に包帯なんて有ろう筈がない。 見れば、ベジータは上半身裸だった。自分のTシャツを引き裂いて、 包帯の代わりにしてくれたのだろう。 ジュンは、今朝ベジータが着ていた水色のTシャツを思い浮かべた。 (あのTシャツは、蒼星石から誕生日にプレゼントされた物だった筈なのに) ベジータはそれこそ宝物であるかの様に愛用していた。 殆ど毎日と言ってもいいくらいに。 『蒼嬢の愛を一身に受けてるぜ』とか舞い上がっていたが、 実際、昇天寸前の嬉しさだったのだろう。 そんな大切にしていた物を、自分の怪我の治療に使わせてしまった。 破らせてしまった。 ジュンは申し訳なくて、どう話しかけて良いか言葉に窮した。 「あ、あのさ、ベジータ。済まなかったな、Tシャツ……」 「へっ! 怪我人のクセに、俺様に気を遣うなんざ十年早えんだよ」 ぶっきらぼうに言い返すベジータだったが、その表情はとてもサッパリとしていた。 何の後悔も無い。 ダチの命を救えたなら、Tシャツの一枚など安い物だ……と、彼の顔は物語っていた。 「それによ、お前を助ける為だったら、蒼嬢だって許してくれるさ。 寧ろ、こうしてなかったら、俺は蒼嬢に絶交されてただろうぜ」 「今だって、単なるクラスメートでしかないけどな」 「うるせえよ、怪我人。恋愛の基本は『お友達』から、だろ?」 「ぷっ! ふ……古くせぇ……っ痛ててっ、笑わすなってのに。痛えなぁ」 「バーカ。お前が勝手に笑ってやがるんだよ」 ベジータがニヤリと笑い、顔を見合わせたジュンもまたニヤリと笑った。 気の置けない親友同士だからこそのコミュニケーションだった。 そんな二人を余所に、雨の降りは更に激しさを増していた。 幅の狭い渓谷の水嵩は、意外なほど速やかに上昇してきた。 タオルを浸しに降りた時には丸々五メートルだったのが、 今や目と鼻の先、数十センチに達している。 このままでは、ここもいずれ水没しかねない。 (いっそ、ジュンに本当の事を打ち明けて、空を飛んで麓に降りるべきか) そんな考えが頭を過ぎったが、ベジータは思い止まった。 ジュンならば秘密を守り通すだろう。だが、自分の心に生じた甘えは、 いずれ今の生活を破綻させる。 今までの学園生活を続けたいなら、これまで通りに秘密を隠し通す、 強い意志を持たねばならないのだ。 「くそっ! ジュン、ここはもうヤバイ。歩けるか?」 「ああ。脚は、なんとか平気だ。打ち身が酷くて、身体が軋むけどな」 「そのくらい、俺が支えてやる。行くぞ。足元に気を付けてろよ」 雨を吸い込んだ腐葉土は予想以上に沈み、歩きづらい。 まるで分厚いスポンジの上を歩いている気分だった。 水はもう、足元まで達している。 一向に止む気配を見せない雨を呪いながら、二人はフラフラと下流を目指した。 ずるっ! 激流が脚を捉えたのは、ベジータがジュンを抱え直そうとした、ほんの一瞬の出来事だった。 あろうことか脚を滑らせたベジータは、支えを失ってバランスを崩したジュンもろとも、 激流に落下した。 「掴まれ、ジュンっ!」 「ベジータっ!」 荒れ狂う奔流の中で、二人はしっかりと手を繋ぎ会った。 ベジータの腕が、岩肌を捕まえた。 ぐいと腕を引き、水に押し流されようとしているジュンを手繰り寄せた。 降りしきる雨の中、激流に浚われまいと必死で岩にしがみつく。 「おい! 絶対に諦めんじゃねぇぞ!」 「あ? なんだって? 聞こえないよ!」 轟々と落ちる水の音が、二人の会話を完全に遮る。 これでは意志の疎通もままならない。 ジュンも頭と腕に負傷しているし、いつまでもこうしている訳にはいかなかった。 (この天候じゃあヘリも飛ぶまい。どこか、休めそうな場所はないのか――) 先行するベジータは、顔を打つ雨と水飛沫に目を顰めつつ、周囲を見渡した。 岩の、ちょっとした窪みで構わないんだ。休める場所は―― けれども、ベジータの願いは虚しく水に呑まれていった。 もう、ジュンの体力も限界かも知れない。 ここは一か八か、自分の身体の頑丈さに賭けてみるしかなかった。 「ジュン! 来いっ!」 短く叫んで、ベジータはジュンを両腕で抱え込んで、奔流に身を任せた。 このまま押し流されれば、最短時間で麓まで着ける。 問題は、ジュンの息が続くかどうか。 それに、ベジータの身体が岩壁に打ち付けられて耐えられるかどうか。 「ジュン! 絶対に死ぬんじゃねぇぞ! 俺は、絶対に死なねえからな!」 息も絶え絶えのジュンに発破をかけるベジータを、奔流は無情に呑み込んでいった。 気付いた時、ジュンとベジータは同じ病室の、隣のベッドに寝ていた。 頭を巡らしたジュンに、ベジータは「よお」と包帯の巻かれた右腕を上げた。 「どうやら、生きてたみたいだね」 「悪運だけは強いらしいぜ。俺も、お前もな」 「僕たちは一体、どうやって助かったんだろう?」 「なんでも、麓に流されてきたところを、スネーク先生に保護されたんだとさ」 「そっか…………あんな雨の中でも、僕たちのことを探してくれてたんだな」 思えば、みんなに迷惑をかけてしまった。 停学処分くらいは覚悟しておくべきかも知れない。 まあ、どのみち数日間は動けそうにないから構わないけれど。 ふと、病室の扉がノックされ、こちらの返事を待たずに開け放たれた。 いつもの七人が、怒濤の如く見舞いに駆け付けたのだ。 「ジュン! 貴方、どこまで間抜けなのかしら。みっともないのだわ」 「あらぁ、二人ともピンピンしてるじゃなぁい。でも一応、乳酸菌とっておいてねぇ♥」 「無事で良かったなのー。真紅がジュンのこと心配してたのよー」 「雛苺っ! 余計なことは言わないで良いのよ!」 「崖から落ちて流されてくるなんて、ホント、お馬鹿な連中ですぅ」 「課外授業をサボったバツなのかしら」 「…………これ、あげる」(と、鉢植えを二つ差し出した) ベッドに歩み寄った蒼星石は―― 「ベジータ君。これ、ちょっと早いけど退院祝いに」 「おお、ありがとよ蒼嬢。開けてもいいか?」 「勿論さ。と言っても、大した物じゃないんだけどね」 蒼星石が手渡した紙袋には、真新しい水色のTシャツが入っていた。 たまには、こんなのも良いよな? ジュンとベジータは顔を見合わせて、気の置けない者同士、ニヤリと笑った。
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はじめに これはJKスレ最終回に、間に合わせで書き上げたSSです。 最後でしたから、スレタイ物として完成させました。 それがケジメかな……と、勝手な解釈をして。 《使用しているスレタイ》 【寒い季節 二人で・・・・】 【春は もうすぐ♪】 【さよならは 言わないよ】 【花咲く頃は 貴方といたい】 【ねぇ 手、つなご?】 【笑顔が咲く季節】 【この気持ち 忘れない☆】 『煌めく時にとらわれ・・・』 ――春先にありがちな強い風が吹く、小雨降る一日だった。 舞い落ちた桜の花びらは濡れた地面に貼り付き、踏みしだかれていく。 沈鬱な空模様と相俟って、校門をくぐる誰の足取りも、重い……。 今日、私立薔薇学園高等学校は、卒業式を迎える。 整然と椅子が並べられた体育館に、穏やかな曲が流れ続ける。 「意外に、あっけないもんだな」 在学中は、あんなに早く卒業したいと思っていたのに―― いざ終わるとなると、なんとも不完全燃焼な気分だった。 静寂が広がる館内の中心に、ジュンは立っていた。 真正面にステージを見据えて、この三年間の思い出を回想する。 ……学祭の時には、バンド演奏した事があった。 ……舞台で演劇をしたこともあった。 ……バスケや卓球に白熱した事もあったっけ。 四季折々、様々な光景が頭をよぎり、いい知れない感情が胸に去来する。 過ぎ去った日常…………二度と、取り戻せない青春。 「この体育館って、実は結構、広かったんだな」 呟いたジュンの白い吐息が、ふわり……と宙に散った。 何を感傷的になってるんだろうな、僕は。 これが、今生の別れって訳でもないのに―― 失笑が、溜息に代わる。 こんなの……柄じゃない。 教室に戻るか―― センチメンタルな自分を鼻で笑って、踵を返すジュン。 ふと体育館の入口に目を向けて、彼の脚が停まった。 ――静かに佇む、七人の薔薇乙女たち。 「どうしたんだよ、みんな。式には、まだ早いだろ」 「一生に一度のイベントだもの。少しでも長く、胸に刻み込みたいのだわ」 「寂しいよね……でも、ボクは、さよならは言わないよ」 「そうです。別れなんて束の間ですよ。新しい出会いの季節、春はもうすぐ♪ ですぅ」 明るい口調で、陽気に振る舞う翠星石。彼女の瞳には、しかし涙が光っていた。 やおら、しゃくりあげる彼女に、雛苺が歩み寄る。 「うみゅ……泣いちゃダメなのぉ。ねぇ……手、つなご? そうしたら、きっと、元気が出るのよ」 「う……うぅ……ほ、ほっときやがれですぅ」 と言いつつ、翠星石は、差し出された雛苺のを、がっし……と握った。 金糸雀が、湿っぽい雰囲気を嫌って、声を上げる。 「まあ、みんな一緒に卒業できて嬉しかったかしら。 カナは一生、この気持ち忘れない☆」 「そうね……みんなで、笑顔が咲く季節へ、歩いて行くのだわ」 「来年も…………寒い季節……二人で・・・・」 ひとり、ちぐはぐな事を口にして、水銀燈に抱き付こうとする薔薇水晶。 しかし、水銀燈は彼女の腕をするりと抜けて、ジュンと腕を組んだ。 「今日が、一生の別れじゃないものねぇ。ジュン……私ねぇ――」 徐にジュンの頬に唇を寄せて、水銀燈は彼の耳元で囁いた。 「いつまでも……花咲く頃は、貴方といたいわぁ」 その場にいた誰もが、二人のラブラブな雰囲気に当てられて辟易していた。 この二人には、卒業式のしんみりした空気も関係ないようだ。 ――厳かに執り行われる卒業式。 校長の挨拶……卒業証書授与……その他、諸々。 さしたるアクシデントもなく、式は静かに締め括られた。 在校生に見送られながら、体育館を後にする卒業生たち。 外に出ると、朝から降りしきっていた雨は、いつの間にか止んでいた。 雲の切れ間から、新たに巣立つ雛鳥たちを祝福するように、柔らかな陽光が降り注いでいる。 ――煌めく時にとらわれ……僕らは旅立つ。 「でも、いつだって会えるよな。だって僕らは――」 『みんなの心の中に、生きているんだから♪』 私立薔薇学園高等学校に巡り会い、薔薇乙女たちと出会えた幸運に感謝する。 すべての生徒、すべて住民たちの幸せを願って……今まで、本当にありがとう。 JKスレ最終回の即興SS。 この日、『ローゼンメイデンが普通の女の子だったら』スレが誕生した。