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1947.4.19 未明 “兎の砦” LM計画――それは、真紅が初めて耳にする言葉だった。 それも、当然のことだ。国家的な極秘プロジェクトを、一個人が知る術はない。 たとえRM計画の主任だった男の娘であっても、例外ではなかった。 「槐さん……その、LM計画って、なんなの?」 「LMとは――」 槐は、まるで禁忌の呪詛の詠唱を躊躇うかのように、暫し、口を噤んだ。 室内が静寂で満たされ、僅かな仕種の衣擦れでさえ、ハッキリ聞こえる。 真紅は、逸る気持ちを抑えながら、槐の言葉を待ち続けていた。 「LMとは『Laplace Material』の頭文字なのだよ」 「ラプラス……素材?」 「真紅。君は、ラプラスの悪魔という言葉を、聞いたことがあるかい?」 彼の問いに、真紅は首を横に振る。だいたい、悪魔だなんて縁起でもない。 それが当然の反応と言わんばかりに、槐は頷いた。 「ラプラスの悪魔とは、物理学で使われる言葉だよ。 現在の状態によって、未来は既知のものだとする思想を、決定論と言う。 その決定論で仮想される超越的存在を、ラプラスの悪魔と呼ぶんだ」 そんな解説をされても、寧ろ、余計に混乱してしまう。 真紅は槐の言葉を反芻しながら、理解しようと努めた。 「LM計画って、まさかその悪魔を呼び覚まして、戦況を逆転しようという企み? 現状で未来が解るなら、その逆だって可能なのだわ。 希望する未来に繋がる現実を、選ぶことも可能よね」 「道理だな。LM計画の理想は、概ね、君の考えた通りだ」 満足そうに微笑む、槐。けれど、その笑みは長く続かない。 彼は真紅の青い瞳を鋭い目で見据えながら、再び、言葉を紡ぎだした。 「本来、戦争は政治的な解決を得るための、ひとつの手段。根は、同じなのだよ。 クラウゼヴィッツも、著書の中でそう語っている。 では……戦争を終わらせるためには、どうすれば良いと思う?」 「少なくとも、敵を殲滅するのは、愚行なのだわ。 対外的ストレスが失われれば、民衆の不満は自国の政治へと矛先を変えるもの。 その他、貿易などにおいても、損失の方が大きいでしょうね」 「そうだ。隣国を滅ぼせば、やがて自国も滅びる。それは歴史も証明していることだ。 いつの時代でも、国家同士が対等に付き合って行かねば、繁栄など望めないのさ」 真紅にも、だんだんとLM計画の目的が見えてきた。 ラプラスの悪魔というのは通称で、実のところは、強力な新兵器なのだろう。 悪魔と冠するあたりに、凶悪な大量破壊兵器の気配を感じた。 「なるほど。敵を滅ぼさずに、戦争にも負けない方法と言えば――和睦ね。 敗北必至の戦況を一転できれば……講和を呼びかけることも可能だわ」 45年当時、政府首脳の方針は概ね、真紅の考えたとおりだった。 新たなエネルギー資源の確保。そして、強力な新兵器を後ろ盾に、 可能な限り有利な条件で、連合国側と講和を結ぼうと企んでいたのである。 それこそが、最悪な結末を回避する、唯一の方法だった。 けれど、その企みは父ローゼンと、コリンヌ=フォッセー博士の失踪により潰え、 ベルリンに殺到するソ連軍を前に、ヒトラーは地下壕にて拳銃自殺。 次期総統に潜水艦隊司令長官カール=デーニッツが就いたが、 もはや無条件降伏を待つばかりだった。 ローゼンが、自動人形の軍団を率いて、全人類に戦争を挑むまでは―― 「お父様は、どうして……人類を滅ぼそうとするのかしら」 憔悴と疲労を顔に滲ませ、真紅はソファに身を沈め、項垂れた。 自分の娘すらも敵に回して、いったい、何をしようと言うのか。 槐は、苦悩する彼女を、同情の眼差しで見つめていた。 自分の父親に抗い、事によれば、その手で父の命を奪わねばならない。 うら若い乙女が背負うには、あまりにも過酷な試練だ。 「師は、おそらく……ホモ=サピエンスという種族に失望したのだろう。 肌の色、文化の違い、宗教という思想の対立……。 有史以来、人類は血なまぐさい闘争の歴史を刻み続けてきた。 その根元が、遺伝子という箱船に組み込まれたプログラムだとしたら、 もう変えることなど出来ないのさ。 ……新たな人類を、誕生させる以外にはね」 新たな人類……という単語に、真紅が機敏な反応を見せた。 かつて、父の口から語られた名詞が、彼女の頭に閃いたのだ。 「まさかっ! オリジナル・ローゼンメイデン?!」 断言は出来ないが、と前置き、青年は言葉を継いだ。 「遺伝子を辿っていくと、人類のルーツは、アフリカに居た一人の女性だという。 ミトコンドリア・イブと呼ばれる存在だよ。 もしかしたら、師は新たなミトコンドリア・イブとして、究極の少女を…… オリジナル・ローゼンメイデンを生み出そうとしているのかも知れない」 自動人形たちの原型、オリジナル・ローゼンメイデン。 真紅ですら、実際にその姿を見たことはない。 父の失踪後、手懸かりを求めて書斎を探索していたときに覚え書きを見付け、 それによって初めて、オリジナルの存在を知ったのだ。 「お父様は、人類を滅ぼして、新たな人種による世界を創ろうとしているの? そんな…………なんて傲慢な!」 それっきり口を噤むと、真紅は両手で頭を抱えて、くしゃくしゃと髪を掻き乱した。 槐は、ソファに歩み寄って、丸められた彼女の小さな背中を、そっと撫でた。 「疲れただろう。部屋まで案内させるから、今夜はもう休みたまえ」 内線で呼び出された薔薇水晶は、イヤな顔ひとつせず、真紅を案内してくれた。 そもそも、彼女は表情に乏しく、口数も少ない。 よく言えば、お淑やか。悪く言えば、無愛想。 この娘に、真紅の仲間たちのような姦しさは、全くなかった。 「こっち……」 先導していた薔薇水晶が、通路の一方を指差し、さっさと歩いていってしまう。 真紅は小走りに、彼女の後を追いかけた。 そして、二人は窮屈な連絡通路から、広々とした空間へと抜け出した。 アリの巣状のアジトを想像していた真紅にとって、この変化は充分、驚愕に足るものだった。 「ここって、集会所みたいなもの?」 訊くと、薔薇水晶は肩越しに振り返り、こくりと頷く。 つくづく愛想のない娘だ。真紅が胸中で苦笑した折りも折―― 「しん……く?」 いかにも怖々と言った感じの、控えめな声が、彼女を呼び止めた。 こんな所で、誰が? 意外に思いつつ振り返った先には、眉を曇らせ彼女を見ている娘が、ひとり。 その少女は真紅だと判明するや、不安そうだった表情を一変させ、しがみついてきた。 「やっぱりなのっ! 真紅っ! 真紅ぅー!!」 「あっ、貴女……雛苺っ。無事だったのね!」 「うんっ。ヒナは、このとおり元気なのよ」 雛苺は、真紅と同じ街区に住んでいた娘で、幼なじみだった。 真紅と同じ歳なのだが、昔から、雛苺は妹みたいな存在である。 小柄な少女と抱擁を交わし、真紅は懐かしそうに、彼女の柔らかい金髪を撫でた。 「ずっと、貴女のことを心配していたのだわ。 私が出撃した数日後に、連合軍の無差別爆撃があったと聞いていたから。 貴女のご両親にも、挨拶がしたいわ。どちらに、いらっしゃるの?」 途端、真紅の腕の中で、雛苺はピクリと身体を震わせ、徐に嗚咽を漏らし始めた。 「……あのね。ヒナのお家…………焼けちゃったの。無くなっ……ちゃったの。 ヒナの……パパとママも、たくさんの思い出も、みんな……燃えちゃったのよ」 今度は、真紅が息を呑む番だった。 雛苺の両親は温厚な人たちで、真紅のことを、実の娘のように可愛がってくれた。 真紅が戦場に赴くと知ったときには、ひどく悲しんで、無事を祈ってくれたものだ。 だから、真紅も、雛苺と彼女の両親を、家族のように慕っていた。 それなのに―――― 「ごめんなさい、雛苺。辛いことを、思い出させてしまったわね」 「……真紅は悪くないの。悪いのは、戦争を始めた人たちなのよ。 ヒナ、戦争なんて……だぁいっキライ!」 「私だって、戦いたくなんてないわ」 呟いた真紅の表情は、苦痛に歪んでいた。 彼女たちの想いを嘲笑うように、戦争は、まだ続いていくだろう。 しかも、その泥沼を創り出したのは、他でもない真紅の実父なのだ。 雛苺の嗚咽に責め苛まれて、心にズキズキと痛みを感じた。 唇を引き結び、歯を食いしばって堪えていたけれど―― 不覚にも、強張った真紅の頬を、一筋の滴が流れ落ちた。 今まで張り詰めていた緊張の糸が、フッ……と切れてしまった気がした。 「ごめんなさい…………本当に……ごめん…………なさい」 一度、堰を切ったように溢れた涙は、止めようもなく彼女の頬を濡らし続ける。 その頬に触れる、雛苺の温かい指先。 彼女はしゃくり上げながら、両手で真紅の頬を包み込んでいた。 「……真紅ぅー。戦争は、いつまで続くの? ヒナたちは、いつまで地下に隠れ住まなければいけないの?」 潤んだ瞳を、ひたと向けてくる雛苺に、真紅は答えることができなかった。 ただ一人を除いて、確かなことは言えないだろう。 この戦争を終わらせる術は、彼女の父、ローゼンだけが握っているのだから。 もはや交わす言葉もなく、優しい抱擁を交わし、愁眉を寄せ合う二人の少女。 薔薇水晶は何も言わず、鋭い光を湛えた琥珀色の瞳で、真紅を見据えていた。 どこか敵意のある、冷たい眼差しで―― ――∞――∞――∞――∞―― 1947.4.19 今夜は、もうひとつ書くことが出来たわ。 雛苺が生きていてくれたのよ。 会えて、よかった。本当に、嬉しい。 だけど……喜んでばかりは、いられなかった。 彼女のご両親が、亡くなったという―― ――∞――∞――∞――∞――
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5. ラストオーダーは、最初と同じカクテルを注文した。 これで、楽しかった宴も、おしまい。 消えゆく幸せな時間を名残り惜しむように……僕らはゆっくりと、それを飲み干した。 たおやかに奏でられる旋律に、耳を傾けながら―― その曲がドビュッシー作の『夢』だと知ったのは、この数日後だった。 「だいぶ、酔ったな」 「……ですねぇ」 来たとき同様、足どりの怪しい薔薇水晶を支えつつ、控え室まで戻る。 彼女が、「どうしても着替えて帰る」と言い張ったから、仕方なくだ。 「そのドレス、着たままタクシーで帰ってもいいよ」 クリスマスだし、プレゼントすると言ったけれど、聞き入れられなかった。 薔薇水晶は頑として、首を縦に振ろうとしない。 僕のデザインしたドレスなんか、どうせ、もらったって嬉しくないよな…… なんて、ヘソを曲げたフリで困らせてみようかとも思ったが、大人げないから止めた。 「プレゼントなら、もう戴いてますから……気持ちだけで充分です」 受け取るのは、ひとつだけ。 彼女は、彼女なりの決意や信念を、貫こうとしているのだろう。 そういう拘りは、僕にもある。それは大概、砕かれると無気力を生む。 いわゆる『失意』と言うヤツだ。 だから、僕も、無理強いはしなかった。 彼女が、バスルームで着替える間、僕はベッドで仰向けなっていた。 見るとはなしに天井を眺めながら考えるのは、薔薇水晶のこと。 断っておくが、いやらしい妄想を膨らませていたわけではない。 どうして、専属モデルになるのを拒否したのか――その理由が、気になっていたのだ。 静かな室内に、ドアロックの外れる音が、大きく響く。 そちらに頭だけ巡らすと、バスルームから出てくる薔薇水晶と、眼が合った。 カラーコンタクトを外したらしく、琥珀色の瞳が、ネコのように輝いて見えた。 服装はカジュアルで、あか抜けない印象だ。 着替えのついでに顔も洗ったようで、さっきよりは、サッパリした表情になっている。 「あの……お、お待たせ……しました」 「ん? そんなに待ってないよ」 酔いが回って怠い身体を起こし、ベッドの端に座りなおす。 そして、もう一度、まじまじと薔薇水晶の顔を見つめた。 メイクを洗い流した素顔には、高校生だった頃の面影が、僅かに見て取れる。 ガラス玉のように澄んだ瞳も、あの頃のままだ。 淡い色のルージュを塗ってはいるが、カムフラージュと呼べるほどではなかった。 先刻までの人なつこさは、どこへやら。 薔薇水晶は、僕の視線から逃れるように、もじもじと、顔を逸らした。 気恥ずかしそうに、丁寧に畳んだライトグリーンのドレスを差し出してくる。 「このドレス、お返しします。どこに置けば?」 「適当に、その辺でいいよ。それよりさ」 単刀直入に切り出す。「どうしても、【JaM】のモデルになってくれないのか」 我ながら、未練がましいとは思う。 だが、これほどの逸材を手元に置きたいという欲望は、そう簡単に納まるものでもない。 叶わないのであれば、確かな口実――諦めるに足る理由を、代わりに与えて欲しかった。 「え、と……」薔薇水晶は、困った顔をして、短く吐息した。 僕は、辛抱づよく待ち続けた。 そんなふうに、たっぷり五分は費やしただろうか。 身じろぎもせずに立っていた薔薇水晶は、ドレスを手にしたまま、傍の椅子に座った。 それから、僕と顔を合わせ、徐に唇を開いた。 「奥さんとは、インターネットで知り合ったのよね」 いきなり話が飛ぶ。どうして、女の子というのは、突如として論点をすり変えるのか。 しかし、そこで短気を起こして非難めいたことを口にすれば、会話は終わりだ。 本題を切り出すための前振り……と、ここは好意的に解釈しておくのがスマートだろう。 「そう言えば、雑誌のインタビューで話したことあったな、そのエピソード。 交流の始まりは、ひきこもり時代だったよ。高二の夏だ。 なんとなくネットで検索していたら、彼女の運営するサイトに辿り着いてね」 「どんなサイトでしたっけ?」 「ビスクドールって、大きい人形用のドレスを自作、発表、販売してたサイトだよ。 こんな趣味の世界もあるんだなと知って、ちょっと興味を覚えてさ。 ひと通り作品を見てから、デザインについてとか、意見を書き込んだら、 神の子を見つけちゃった――なんて、レスしてきてさ。それが、おっかしくって。 ……で、なんとなく、意気投合したんだ」 「ネットだから、顔を会わせないで済む気安さも、あったのかもね」 「それと、彼女の雰囲気が、うちのアホ姉貴と似てたのも大きいな」 「へぇ。貴方って、実は姉萌え系?」 「否定はしない。何かと面倒くさそうな妹よりは、甘えさせてくれる姉を選ぶよ」 威張れるような嗜好じゃないけどね。 自嘲を交えて付け加えると、薔薇水晶は、首を横に振った。「そんなコトないです」 その言葉どおり、侮蔑や嘲笑めいた気配は、どこにもない。 「それで……いつから彼女を意識し始めたの?」 ウェブの世界から抜け出して、実際に、会うようになったキッカケは―― 知り合って、まだ一ヶ月と経たない頃だった。 「彼女が、その手のイベントに出品するから、作品をチェックして欲しいって。 できれば、制作を手伝ってくれないか……とも、ね」 「貴方が男性だと、知らなかったのね」 「いや……知ってたよ。頻繁にメールするようになって、互いに自己紹介したし」 それでも、僕に助力を頼むほどだから、よほど信頼してくれていたのだろう。 男として認識されてなかったのなら、ちょっとばかりショックだな。 まあ……当時は高校生だったし。子供扱いされても、仕方なかったけど。 「僕は、彼女の申し出を受けた。どうせ、暇を持て余してたし、退屈しのぎにね。 でもさ、いざ始めてみると、なかなか楽しかったんだな、これが。 夏のイベントで、僕の作ったドレスが売れたときは、正直、身体が震えたよ。 それから、じわじわと……自信みたいなものが、沸いてきたんだ」 ひきこもっていた僕は、必要以上に、自分を過小評価していた。 取り巻く環境を蔑視しながら、そこから離れられず、また、馴染むこともできない自分が、 くだらない最低の人間に思えて、惨めだった。 しかし、偶然にも彼女と知り合い、世界が拡がったことで、僕の中に光明が射した。 自分で思っているほど、僕は無能じゃないのかも……そう思えるようになった。 「イベント終了後、僕は、彼女のマンションに招かれた」 「えっ?! それって――」 「邪推するなよ。早い話が、荷物持ちだ。まったくもって、色恋沙汰なんかじゃない。 けど……その後で、打ち上げも兼ねた豪華な夕飯を、ご馳走になってさ」 彼女は、ほろ酔い加減ながら、ハッキリとした口ぶりで夢を語ってくれた。 あたしだけの宇宙を創る――と。 あのとき、背筋を駆け抜けた衝撃を、僕は今でもハッキリと憶えている。 一心不乱に、夢に向かって走り続ける彼女の生き様に、新鮮な風を感じた。 僕の中で、特別な想いが芽生えたのは、まさに、あの瞬間だった。 自信と目標を得た僕は、もう卑屈になったりしなかった。 そんな暇もないほど、日々が充実しだしたからだ。 彼女を手伝ってイベントに参加してたら、他人とのコミュニケーション能力も上がった。 「貴方の不登校が治ったのも、奥さん――みつさんのお陰なんですね」 「そうだな。今の僕があるのは、彼女のお陰だ」 【JaM】というブランド名も、【J and M】の意味だ。 彼女の夢なのに、Jが先にきているのは、語呂を優先させたからに他ならない。 「今日は、来てませんでしたよね」 「そりゃそうさ。娘の育児中だし、二人目が、もう一ヶ月後の予定だから」 「あらま、おめでとう。シアワセ街道まっしぐら、ですね」 「順調すぎて、心配なくらいだ」 嘘ではなく、いい知れない不安に苛まれるときがある。僕の悪い癖だ。 そんなときは、いつも、多忙な状況を作るようにしている。 ガムシャラに仕事していれば、余計なことは考えられなくなるから。 おっと、閑話休題。そろそろ、本題に入らなきゃいけない刻限だ。 談笑の空気を保ったまま、僕は水を向けた。 「きみが、モデルを引き受けたがらないのは、彼女に気兼ねしているからか?」 「それもあるけど……強いて言うなら、ケジメ……です」 「ケジメ?」 「私の、気持ちの――」 それだけ言って、薔薇水晶は勢いよく、椅子から立ち上がった。 酔いも醒めてないだろうし、立ち眩みして倒れるんじゃないかと危ぶんだが、 彼女は確かな足取りで、僕の前まで歩いてきた。 そして、ちょっとだけ身を屈め―― 「メリー……クリスマス」 僕の頬に、そっと触れた、柔らかく滑らかな感触。 「こんなプレゼントしか、あげられませんけど」 もちろん、何をされたのか解らないほど、僕は鈍感じゃない。 まだ余韻の残る頬を、指先でなぞりながら、追いかけるように顔を上げた。 でも、薔薇水晶はもう踵を返して、僕から離れていた。 ふわり……。靡いた髪の、甘いコロンが、腰を浮かしかけた僕を押し戻す。 薔薇水晶は、ドアを開けて立ち止まり、肩越しに僕を見た。 琥珀色の瞳が、まっすぐに、僕の瞳を射抜いた。 ずっと以前にも、似た状況で、こんなふうに見つめ合った憶えがある。 卒業式の日――体育館の出入り口で、ふと佇んだ彼女が、振り返って見せた眼差し。 あのときと同じ視線を、今、僕に投げかけていた。 当時の僕らは、学校という箍で無理に束ねられた部材にすぎなかった。 その縛めを解かれれば、バラバラになって当たり前の存在。 それは、現在の僕らもまた、同じ……。 「ありがとう。今夜は、楽しかった。最高のクリスマスプレゼントでした。 夢のように素敵な時間を、私、忘れません。一生――」 彼女の、薔薇の花弁を想わせる唇が、言葉を紡ぐ。 「さよなら…………またね」 それだけ言うと、薔薇水晶は、部屋を出ていった。 ドアが閉まってしまうと、空虚な静けさだけが、室内に残された。 カーペット敷きの廊下を行く彼女の足音など、もはや聞こえようもない。 「またね、か」 別れは必然。彼女と僕は所詮、旧友以外の何者でもない。 それなのに――なんだって言うんだろう? この、胸に残るモヤモヤは。 薔薇水晶の、さばさばした別れ際の言葉が、なぜか耳に残って消えない。 だけど、僕は追いかけなかった。 また、一緒に仕事をするときがくる。そう思っていたから。 ……そう。確信すらしていた。なんの保証もないままに。 6. 早いもので、クリスマス・コレクションの大成功から、もう半年が経つ。 その間、薔薇水晶と僕が会うことは、一度としてなかった。 もっと言えば、音信不通。連絡すら付けられずにいた。 派遣会社の線から足取りを辿ってもみたが、徒労に終わった。 薔薇水晶は、あのクリスマスの直後に、辞めていたからだ。 先方の人事部でも、彼女のその後については把握していないという。 『立つ鳥跡を濁さず』と言うけれど、本当に、綺麗サッパリだ。 このところ、今更ながら思い出すことがある。 砂漠を彷徨っているとき、どう行動するか――彼女がした、あの奇妙な問いかけだ。 もしかすると、あれは薔薇水晶の、当時の状況を喩えたものだったのではないか? だとして、パッと思いつく選択肢は、3つ。 進む先に、オアシスがあると信じて、ひたすらに歩き続けるか。 その場に留まって、飢えと渇きに耐えながら、救助を待つか。 すべての苦しみから逃れるため、自ら死を選ぶのか。 自助、依存、あるいは……。 そこまで考えて、僕はいつも、ムリヤリに想像を締め括る。 彼女なら、きっと元気にやっているさ……と。 そうしなければ、悪い方に想像が傾いて、滅入ってしまうから。 「どうかした?」 溜息を吐いた僕に、柏葉が訊ねてくる。 「いや、なんでもない」曖昧に誤魔化して、窓の外の梅雨空に眼を向けた。 表参道に構えたブティック。ここが、僕らの創った宇宙。 わが最愛の相棒は、自宅で育児の傍ら、ネット関連の業務を取り仕切ってくれている。 ブティックの方を切り回すのは、僕と柏葉を含めた、数名のスタッフだった。 「それなら、いいけど。最近、溜息が多いから気になって」 剣道で培われたのか、柏葉の観察眼と注意力は、大したものだ。 そこに面倒見のいい性格とあって、他のスタッフからも慕われている。 僕としても、作品について的確なアドバイスをくれるので、全面的に信頼していた。 「このところ、ずっと雨よね。梅雨だから、仕方ないけど」 僕の視線を辿って、柏葉も、窓の外を眺める。「ちょっと憂鬱、かな」 確かに。湿度が高いのは、いただけない。客足も鈍る。 「でも、どっちかと言えば、僕は好きだよ」 特に、降りしきる雨を眺めながら、クラシックの旋律に耳を傾ける時間が。 以前は、あまり興味がなかったけど、聞き慣れると、これがなかなか心地よかった。 『たまには、贅沢に時間を使ってみるのも、いいものですよ』 そんな薔薇水晶の言葉が、なんとなく、耳に甦ってくる。 ――薔薇水晶、か。 彼女は今、どこに居るのだろう? 何を考えながら、何をしているのだろう? 願わくば、僕と同じく、この雨空を見上げていて欲しい、と思う。 短絡的で衝動的な、みっつめの選択肢にだけは囚われないでくれ……と。 「ねえ、桜田くん」横から、柏葉が話しかけてきた。 「今、彼女のこと、考えてたでしょ」 「……誰のことだよ」 「薔薇水晶」 「まさか」 苦笑った顔を、柏葉に向ける。 柏葉は、よく見なければ分からないほど薄い笑みを浮かべ、僕を見ていた。 「相変わらず、隠し事が下手ね。声に出てる」 本音が顔に出る――とは聞いたことがあるが、どうやら声にも出るものらしい。 まあ、僕が薔薇水晶を探しているのは周知の事実だし、そこそこの想像力があれば、 そういう結論にも辿り着けるか。 ……とは言え。僕が秘密を隠し通せない性分なのも、確かだろう。 これは困ったことだ。安易にウソも吐けないな。 嘘も方便という場面では、別の人に代わってもらおう。うん、そうしよう。 「まいったなぁ。なんか、隠し事してると、落ち着かなくてね」 「やっぱり考えてたのね」 「ああ……考えてた。また会いたいな、って」 「倦怠期に入って、浮気したくなった?」 「違うよっ。て言うか、なんで瞳を輝かせてるんだ」 「ちぇ。なんだ、つまんない」 冗談めかしてはいるが、柏葉の口振りは、どこか本気っぽい気配も滲ませている。 僕が返答に窮していると、彼女は呆れたように、眦を下げた。 「そこで黙られちゃうと、私も困るんだけどな」 「いや、その――」 「お酒が入ったときは、饒舌になるのにね」 「ほっとけ」 「ふふ……はいはい」 柏葉は、僕の肩を軽く叩きながら、「でも――」と、続けた。 「たぶん、もうすぐ彼女は来るよ。桜田くんに、会いに来る」 なんで、そんなコトが言い切れるのか。 訊ねると、「女の子の勘よ」なんて答えが、臆面もなく返ってきた。 僅かでも期待した僕が、バカみたいに思えてくる。 いや……『みたい』じゃないな。僕はバカだ。 ならば、バカはバカらしく、柏葉の言葉を鵜呑みにしてやろうじゃないか。 「信じておくよ、柏葉の勘ってヤツ」 「大丈夫、大丈夫。信じる者は救われるよ。うんうん、モテる男は辛いね~」 「……柏葉って、そんな性格だったか?」 「どうだったかなぁ」 なんて、ゆるいお喋りをしていた僕らの頬を、ふわり―― 梅雨時の、湿った風が撫でた。 自動ドアの開いた気配。店内に響く、小刻みな足音。 「あ、いらっしゃい」 僕と柏葉は、ほぼ同時に言って、振り返った。 そこに佇んでいたのは、一足はやく夏を意識したような、カジュアルウェアの乙女。 傘も差さず走ってきたのか、白く艶やかなロングヘアーに、雨の雫を鏤めている。 乙女が、前髪を掻きあげる。 その瞬間、彼女の白皙たる美貌を飾るように、一輪の花がパッと咲いた。 この季節に相応しい紫陽花ではなく、紫色の薔薇が―― 〆
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―如月の頃 その2― 【2月4日 立春】 日付が変わり、二月四日を迎えた頃―― 救急病院の、薄暗く、うら寂しいロビーに、二つの人影があった。 どちらの影も、常夜灯が点された真下のソファに腰を降ろし、項垂れている。 「なんという事だ…………まさか、翠星石が……」 両手で頭を抱えて、柴崎元治は嘆息した。 鎮痛剤を飲んで就寝していたところを、事故の知らせに叩き起こされたのだ。 事故を起こしたバイクのライダー共々、救急車で運び込まれた翠星石は、 いま、治療と精密検査を受けていた。 「あの子に、もしもの事があったら、儂は……かずきに合わせる顔が無い」 「お祖父さん――」 彼の妻、柴崎マツは、悲嘆に暮れる亭主の背中に、そっと手を当てて囁いた。 「しっかりして下さい。きっと、大丈夫ですよ」 ついさっき、担当の医師に簡単な説明を受けたばかりだ。 目立った外傷は無く、大きな骨折も見られないという話だった。 けれど、接触の衝撃で全身を強打しており、意識不明の状態である……と。 息子夫婦が残してくれた愛娘の快復を祈り続ける老人たちの元に、 看護士が一人、近付いて声を掛けた。 「柴崎さん。お孫さんの容態について、なんですが――」 なにやら……真っ白な世界に、彼女は立ち尽くしていた。 ここは、どこ? 自分は、いつから……ここに居るの? なんの為に? ――解らない。何も。 自分の名前すらも思い出せない。喉元まで込み上げている言葉を、吐き出せない。 何をすれば良いのか。何をすべきなのか。 答えを探しても、思考はすぐに、アタマの中に立ち込めた白い靄に撒かれてしまう。 (私は…………何かを……してた?) よく覚えていないが、何か、とても恐ろしい物――例えば怒濤のような――から、 逃れようとしていた気がする。 思い出そうとすると、心臓が早鐘のようにドキドキして、今にも張り裂けそう。 ざわざわと肌が粟立って、身体の芯から震えが湧きだしてくる。 (何が、どうなってるです?) だが、見渡しても、恐ろしい物は何一つ無い。身の危険を感じさせる者も居ない。 真っ白な空間に、独りぼっち……。 こんな時には、いつも誰かが、側に居てくれた。そんな憶えがある。 あれは…………誰だっけ? 『こんなところで、何をしているんだい?』 いきなり背後から話しかけられて、彼女は軽く1センチほど飛び上がってしまった。 誰も居ないと思っていたのに、いつの間に、近付いていたのだろうか。 彼女が振り返った先には、穏やかに微笑む、スーツ姿の青年が立っていた。 (…………誰、です?) おっかなびっくり誰何する。けれど、なぜか、この青年を知っている気がした。 どこかで出会っている。漠然と……でも確かに、見憶えがあった。 『もう忘れてしまったかな? まあ、無理もないか。 最後に会ったのは、お前たちがまだ、こんなに小さかった頃だからね』 言って、青年は中腰の姿勢になり、足元から80センチくらいの高さに掌を翳した。 何歳くらいの時かは解らないが、子供の頃だと言うことは把握した。 (私を知ってるですか? 私は……誰なのです?) 『お前の名前は、翠星石だよ。そして、蒼星石という双子の妹が居るんだ』 (そう……せい、せきぃ…………そ、蒼星石っ!?) 『思い出したかい? それなら、お前はもう、ここに居てはいけないよ。 記憶の断片を手に入れた以上、みんなの元へ帰るんだ。 お前を待っている、みんなの所へ――』 (でも、どうすれば良いです? 私には、ここが、どこなのかも解らねぇですぅ) 『ここは、9秒前の白……という世界なんだ』 青年は白い歯を見せて笑うと、翠星石の両肩に手を置いて、クルリと向きを反転させた。 『でも、心配はいらない。お前は、絶対に迷ったりしないから。 ほら、聞こえるだろう? お前を呼ぶ声が』 ――翠星石。帰ってきておくれ。 ――戻ってきてちょうだい、翠星石。 ハッキリと聞こえたソレは、祖父母の声。 とても必死で、とても悲しげな呼び声だった。 翠星石の胸が、キュッと締め付けられる。 帰らなければならない。なんとしても戻りたい。優しい祖父母の元に。 『さあ、行くんだ、翠星石。あの声が、お前を導いてくれる』 青年が、翠星石の肩を軽く押した。促されるまま、翠星石は歩き始める。 一歩一歩、遠ざかる翠星石を、青年の声だけが追い掛けてきた。 『僕の代わりに、父さんたちの心を癒してあげておくれ』 その一言で、翠星石は思い出した。あの青年が、誰であったかを。 道理で、見憶えが有ったハズだ。毎朝、仏壇で顔を合わせていたではないか。 むしろ、今の今まで思い出せなかったコトの方が不思議で、申し訳なかった。 (お父さ――) 嬉々として振り返ったものの、呼びかけた言葉は途切れ、笑顔が俄に曇った。 そこは、何もない、誰も居ない、音も聞こえない、真っ白な世界。 また…………独りぼっち。 (どうして? こんなのイヤですっ! お父さん、お母さん……蒼星石。 なぜ……みんな、私を置き去りにしてしまうですか?) じわりと熱を帯びる目頭を、指先で擦った。 涙が溢れてしまわないように、瞼を閉じて、手で覆い隠す。 けれども、彼女の細い指の間を抜けて、涙は手の甲へと滲み出してきた。 翠星石はその場に座り込み、小さな少女に戻って泣きじゃくった。 (私は、そんなに悪い娘なのです? 足手まといですか?) 誰にともなく問いかけた矢先、また、祖父母の声が聞こえた。 さっきよりも近くで、はっきりと。 ――儂らにはもう、お前たちしか居ないのじゃ。 ――貴女たち姉妹が、私たちの生き甲斐なのよ。 それで、気が付いた。泣いている場合ではない。 帰らなければ! 自分の居場所に! 翠星石は立ち上がって涙を拭うと、瞼を閉じて、聴覚を研ぎ澄ませた。 こんな真っ白な世界では、目を開けていたって仕方がない。 むしろ、見えるばかりに、変な幻に惑わされかねなかった。 (おじじ……おばば……すぐに、会いに行くです) 自分を必要としてくれる人たちが居る。 その人たちの心を満たしてあげられるのは、自分しか居ない。 ……だから、行かないと。たった今、父に託された想いと共に。 とても意外だけれど、目を閉じたまま歩いても、全く恐怖は感じなかった。 日常の街角では、恐ろしくて1メートルと歩けないのに。 躓いたり、ぶつかったりする物が何も無いと解っているからだろう。 翠星石は、祖父母の声がする方へ、どんどん進んでいった。 途端、彼女の足が、宙を掻いた。慌てて両目を見開き、両手をバタつかせたが、 掴む物など何もない。有るのはただ、真っ白な空間だけ。 翠星石の身体は、上下左右も解らない空間で落下し続け、奔流の中に墜ちた。 激流にもみくちゃにされて、翠星石は洗濯機で洗われる衣服になった気分だった。 けれど、なぜか息苦しくない。どうやら、普通の水ではなく、概念的なものらしい。 水と思えば、奔流。風と思えば、突風になる。 流れがあるのは、時間そのものが流動的だからか。 では、目の前に出口が在ると思ったら、どうなるだろう? 目を閉じて、扉を思い浮かべる。そこを潜れば、祖父母の元に行けると信じて。 翠星石は、徐に、瞼を開いた。緋翠の瞳に映るのは、一枚の扉のみ。 巧くいったようだ。翠星石は躊躇いもなくドアノブを回して、扉を開いた。 扉の向こうは、こちらと対照的な、真っ暗な世界。 でも、翠星石はもう怖がらずに、闇の中へと歩き始めた。 ――微かに鼻を突く医薬品の臭いで、翠星石の意識は覚醒した。 霞む視界を、何度か瞬きしてクリアにする。 ……と、薄明かりに照らされた、祖父母の青ざめた顔が見えた。 明かりは窓から差し込んでいる。夜が、白々と明け始めたのだろう。 「お……じじ? おばば……」 「お、おお。おおおっ!」 「すっ……翠ちゃ――」 祖父母は顔をくしゃくしゃにして、医療用ベッドに横たわる翠星石に、縋りついてきた。 この光景、どこかで見た憶えがある。 そう……あれは、両親の通夜の席でのこと。 弔問客が帰って、しんと静まり返った深夜―― 二人は棺を前にして、こんな風に肩を寄せ合って悲しんでいた。 『僕の代わりに、父さんたちの心を癒してあげておくれ』 父の言葉が、脳裏に甦る。翠星石は、祖父母の肩に両腕を回し、力を込めた。 祖父母の悲しみは、きっと癒してみせる。 独りでも、きっと―― 今日は立春。暦が、春に変わる日である。 祖父母の心に蟠る冬も、今日を境に、春に変わってくれたらいいのに。 翠星石は、嗚咽する祖父母の肩を優しく抱き寄せながら、そうなる事を願った。
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「うーん……どれが良いかなぁ」 ケーキが並ぶウィンドウを覗き込みながら、蒼星石の目は、ココロの動きそのままに彷徨う。 どれもこれも、とっても甘くて美味しそう。 だけど、水銀燈の好意に応えるためにも、翠星石に喜んでもらえるケーキを選びたかった。 「……よし、決めたっ。すみません、これと、これと……これを」 選んだのは、苺のショートケーキ。祖父母には、甘さ控えめなベイクド・チーズケーキを。 それと、絶対に外せないのは、姉妹と亡き両親を繋ぐ、思い出のケーキ。 甘~いマロングラッセをトッピングした、モンブランだった。 (これなら姉さんだって、少しくらい具合が悪くても、食べてくれるよね) そうでなければ、苦心して選んだ意味がない。 一緒に、ケーキを食べて……にこにこ微笑みながら、仲直りがしたいから。 いま、たったひとつ蒼星石が望むことは、それだけだった。 会計を済ませて、ケーキ屋のガラス扉を潜った途端、喧噪が蒼星石を包み込んだ。 道行く人の話に耳を傾けると、どうやら事故があったらしい。救急車のサイレンが近い。 そう言えば、ケーキ選びの最中に、けたたましいブレーキノイズを聞いた気も……。 でもまあ、これだけの交通量だ。事故のひとつやふたつ、発生しない方が不思議だろう。 「おっと……暢気に見物してる場合じゃないね。早く、姉さんを追いかけなきゃ」 蒼星石は、事故現場の混雑を避けて、自宅へと歩き出した。 第十三話 『痛いくらい君があふれているよ』 折角のケーキが崩れてしまわないように、箱を真っ直ぐに保ちながら、歩く。 考えることは、学校を早退した姉のことばかりだった。 もう、翠星石は帰宅しているはず。 あと少しで、翠星石に会える。 (今度こそ、ボクの気持ち伝えなきゃ) そして、もう一度しっかりと触れ合い、大好きな姉の温もりを、全身で感じたい。 お互いの存在を持ち寄り、分かち合って、二人の絆に新たな一本を加えたかった。 様々な感情が、蒼星石の胸いっぱいに溢れ出してくる。 募る想いは、押し止めようとすればするほど、ますます膨らんでいくのだった。 晩秋の風を切って、颯爽と歩く蒼星石の視界に、自宅の門構えが入った。 やっと会えるのだと思うだけで、疲れなんか吹っ飛んでしまう。 最後の直線。逸る気持ちを抑えつつ、競歩みたいなラストスパート。 ゴールテープを切るように門柱を潜り抜けて、玄関のドアノブに指をかける。 だが、ノブを回して開けようとしたところで、施錠されていることに気付いた。 「あれ? 普段は鍵なんか掛かってないのに……お祖母さん、出かけてるのかな」 翠星石の為に、薬を買いに行ったのか。 あるいは、思いのほか症状が重く、病院まで付き添っているのかも知れない。 首を傾げつつ、合い鍵でドアを開けて、蒼星石は家に入った。 「ただいまー。あ……やっぱり」 玄関には、姉と祖母の靴がなかった。 思ったとおり、二人で病院に行っているのだろう。 祖父ならば、詳しいことを知っている筈だ。 蒼星石は靴を脱ぎ、廊下を横切って、自宅の一角を改装した店舗へと回った。 いつもなら、そこで祖父が仕事をしている。 しかし―― 「あれ? 何なのさ……いったい」 祖父は居なかった。 そればかりか、シャッターが降ろされ、真っ暗な店内は静まり返っている。 一応、照明のスイッチを入れてみたものの、やはり誰も居ない。 「みんなして、どこに行っちゃったんだろう」 なんとなく、嫌な胸騒ぎ。 蒼星石は廊下に取って返し、台所に向かった。 携帯電話を使いたがらない祖父母は、何か連絡事項があると、 台所のメッセージボードに書き込む習慣がある。 ケーキの箱を置きがてら、それを確認しようと思ったのだ。 果たして、蒼星石の期待どおり、祖母からのメッセージが残されていた。 そこには、市立病院の文字と……急いで来るように、との伝言が―― 「な……に? どういうコト?」 どきん! と、胸に強い痛みが走る。 軽い眩暈を覚えて、蒼星石は食卓に両手を付き、身体を支えた。 なにか、非常に良くないことが、姉の身に起きたのだ。 虫の報せか、あるいは双子に備わる不思議な力によるものか。蒼星石は直感的に悟っていた。 「行かなきゃ!」 蒼星石は、何の荷物も持たず――靴すら履かずに――玄関を飛び出した。 ドアの施錠など、端っから念頭にない。 白い靴下が汚れることなど、日常の注意点の、順位にすら入っていない。 ただただ、市立病院に急ぐことしか考えていなかった。 (姉さん! 姉さんっ! 何があったの、姉さんっ!) それが、蒼星石の頭を占めている、全て。 尖った小石を踏み、刺さった痛みも、彼女には感じられなかった。 肩で荒い呼吸をしながら、やっとの想いで辿り着いた蒼星石を、焦燥顔の祖父がロビーで迎えた。 祖母は、病室で翠星石に付き添っているという。 病室の番号を聞くや、再び走り出そうとする彼女を、祖父が驚いた声で呼び止めた。 「蒼星石っ。お前……その足は」 制服のスカートから伸びる両脚は、血色も良く、健康そのもの。 けれど、清潔的に白かった靴下は、今や踵から爪先までが褐色に変わっていた。 泥汚れ以外にも、石や金属片などで切った傷から、血が滲んだのだろう。 それを目にした途端、蒼星石は漸くにして、痛みを思い出した。 「待つのじゃ、蒼星石。お前の治療も――」 「ボクのことは…………どうでもいいっ! 姉さんに会わせてよっ!」 蒼星石は歯を食いしばって、案じる祖父を脇に押し退け、エレベーターに駆け込んだ。 鮮血の足跡を残して進む蒼星石に、擦れ違う誰もが、奇異な眼を向ける。 呼び止める看護士も、何人か居た。 しかし、みんな蒼星石の気迫に圧されて、道を開けることしか出来なかった。 ICU――集中治療室のドアを、ほんの少し横滑りさせた隙間から、 祖母の弱々しい嗚咽が漏れだしてくる。 覚悟を決めるように一度、唾を呑み込んで、蒼星石は病室に踏み込んだ。 ひとつだけしかない、ベッド。 その上に、包帯やガーゼをベタベタと巻きつけられ、横たわる人影……。 じっくり眺めるまでもなく、翠星石だと解った。 「……お祖母さん」 「ああ、蒼ちゃん! 来てくれたのね」 スツールに座って、翠星石を見つめていた祖母が、蒼星石の呼びかけに振り返る。 深く刻まれた皺に染み込んだ涙をハンカチで拭うけれど、またすぐに、涙が落ちてきた。 乱れた髪に、悲痛に歪んだ表情に、突然の変化がもたらした焦燥のほどが垣間見える。 いつも以上に、祖母が小さく見えた。 「姉さん……寝てるの?」 そう思いたかった。薬が効いて、眠っているだけなのだ、と。 しかし、祖母の首は、無情にも横に振られる。 口元に手を当てて、嗚咽を堪えながら……祖母は訥々と、蒼星石に状況を説明した。 横断歩道が赤信号の時に、車道へ飛び出し、乗用車にはねられたのだという。 「ほんの今しがたまで……本当に、数分前まで―― 蒼ちゃんを呼んでいたのよ。ずっと、ずぅっと――」 「……そんな。ウソだよ……そんなの」 蒼星石は、祖母を押し退けてベッドに近付き、跪いた。 そして、ピクリとも動かない姉の手を、しっかりと両手で包み込んだ。 「起きてよ、姉さん。ボク、追いついたんだよ。目を開けて……話を聞いてよ」 握りしめる柔らかい手には、まだ温もりが残っている。 小さな子供の頃から、ずっと繋いできた姉の手。 重ねた手に落ちた蒼星石の涙が、指の隙間に吸い込まれて、二人の隙間を満たしてゆく。 ――お願い。もう一度、ボクの声に応えて。 けれど、願いは届かない。姉の手は、どれだけ強く握りしめようとも、握り返してくれない。 やっと触れ合えたのに。やっと謝れると……また仲良く暮らせると、思っていたのに。 翠星石はまた、蒼星石を独り残して、遠くへと旅立ってしまったのだ。 その寝顔は、意外なほど穏やかで――微かに笑っているようにも見えた。 蒼星石の中に、姉と紡いできた思い出が甦ってくる。 春夏秋冬、喜怒哀楽、どんな時も、記憶の中の二人は手を携えて歩んできた。 胸に、痛いくらい翠星石への想いが溢れてくる。尽きることなく湧きだしてくる。 そして―― 『お前なんか、大っ嫌いですっ! 顔も見たくねぇですぅっ!』 最後に、あの夜の泣き顔を思い出した直後、蒼星石の胸で、何かが弾けてしまった。 その後はもう、感情を抑えることができなくなって…… 蒼星石は、二度と目を覚ますことのない姉の胸に縋り付き、泣き喚いた。 「…………ボクだって、姉さんなんか嫌いだよ! 世界で1番、大っ嫌いだっ!」 第十三話 おわり 三行で【次回予定】 かけがえのない半身を失ってしまった少女は、生きる目的まで見失う。 娘の無気力に誘われるように忍び寄る、影。 それは、悲しみに暮れる魂を救済すべく降臨した天使か、それとも死神か―― 次回 第十四話 『君に逢いたくなったら…』
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『絵のココロ』 雪華綺晶は、ゴールデンウィークの連休を利用して、別荘を訪れていた。 ただ、趣味のためだけに。 普段は忙しくて、なかなか打ち込むことが出来ない、彼女の趣味。 それは、油絵を描くことだった。 別荘のベランダからの眺望は、絶景の一言に尽きる。 緑豊かな森と、山々の懐に抱かれた、小さな湖。 彼女は、小さな頃から、この景色が大好きだった。 「さて、と。少し休んだら、デッサンに行きましょう」 部屋の隅に荷物を置いて、スケッチブックとペンケースを取り出す。 ペンケースの中には、様々な芯の鉛筆が収められている。 どの芯も、先が鋭く削られていた。 「今日は、湖の畔まで歩いてみようかしら」 ベランダ越しに、煌めく水面を見遣る。 すると、湖の岸辺に、小さな人影が見えた。 遠い上に、陽光の反射で良く判らないけれど、髪の長さから女の子らしいと見当が付いた。 その子は、膝くらいまで湖に入り、立っている。 はしゃぐでもなく、動き回るでもなく……。 ただ、その場に立つ尽くすのみだった。 あの子は、何をしているのかしら? 雪華綺晶は、興味をそそられた。不思議な魅力を感じた。 そして気付けば、スケッチブックを広げて、さらさらと湖に立つ少女を描いていた。 ラフスケッチながら、なかなかの出来映え。 これを元にして、後でキャンバスに描いてみましょう。 会心の笑みを浮かべながら、もう一度、湖に目を向ける雪華綺晶。 けれど、そこにはもう、あの少女の姿は無かった。 「近所の子供かも、知れませんわね」 だったら、その内に、また会える。 今度は、近くで描かせて貰おう。心の底から、そう思った。 湖の畔まで、散歩がてらの二十分。 意外に、歩き出がある。五月の陽気でも、全身、汗でびっしょりだった。 イーゼルやキャンバスを担いで来るには、少しばかりキツい。 スケッチブックで顔を扇ぎつつ、周囲を見回すと、お誂え向きの場所を見付けた。 木陰のベンチ。しかも、周りに人は居ない。 雪華綺晶は、そそくさとベンチに座って、眼前に広がる光景にココロを解き放った。 ――風のそよぐ音。揺れる木立のざわめき。 ――波立つ水面が、岸辺でちゃぷちゃぷと砕ける音。 有りとあらゆる自然現象が、雪華綺晶の創作意欲を掻き立ててくれる。 スケッチブックに、鉛筆を走らせる。 時折、目の前の風景に目を遣り、再びデッサンに勤しむ。 そんな事を、どのくらい続けていただろうか。 「お姉ちゃん……絵……上手だね」 いきなり背後から声を掛けられ、雪華綺晶は胸から心臓が飛び出すくらい驚いた。 振り返ると、薄紫のドレスを着た女の子が、木にもたれかかっていた。 右眼には、お洒落なデザインの眼帯。 近くで、仮装パーティーでも有ったのかしら? にしては、何処かで会ったような……無いような。 雪華綺晶は既視感を覚えて、少女をじろじろと眺め回していた。 「…………失礼じゃない?」 徐に言われて、雪華綺晶は我に返った。確かに、失礼だ。 初対面の人を観察してしまうなんて。 「ごめんなさい。悪気は無かったのよ」 「…………」 「ただ、以前にも、お会いしてたかしら……と」 雪華綺晶が告げると、少女はくすくす……と笑った。 「会ったこと……ある……かもね」 「貴女、お名前は?」 「……薔薇……水晶」 薔薇水晶? 口の中で、何度か呟いてみる。 記憶を辿っても、そんな名前の子は知らなかった。 そもそも、目の前の少女は、どう見ても小学生高学年から中学生くらい。 その年齢の子に、知り合いは居なかった。 (本当に、以前に会っているのでしょうか?) 雪華綺晶の戸惑いを、表情から読み取ったのだろう。 目を細めて笑った薔薇水晶は、雪華綺晶の手にあるスケッチブックを指差した。 「さっき…………描いてくれてたでしょ」 「え? ……ああっ!」 『さっき』というキーワードを得て、雪華綺晶はスケッチブックを手繰った。 別荘の部屋から、衝動的に描いてしまったラフスケッチ。 あの時は、後ろ姿しか描いていない。 けれど、改めて見直してみると、確かに少女のドレスと、絵の中の少女の服は似ていた。 「私がスケッチしていた事が、分かったと言うの?」 そんな筈はない。だって、湖畔から別荘まで、徒歩で二十分もかかるのだもの。 それだけの距離が、隔たっているのに……。 雪華綺晶の戸惑いを余所に、薔薇水晶は、にこにこと無邪気に笑っていた。 「ねえ、お姉ちゃん。もっと……私の絵……描いて?」 「え、ええ。良いですわよ、勿論」 薔薇水晶に促されるまま、雪華綺晶はスケッチブックに、少女の似顔絵を描いた。 柔らかそうな髪、なだらかな頬のライン。 髪飾りの紫水晶と、洒落た眼帯は、いいアクセントになる。 しかし……。 不思議なことに、彼女の右眼を描くことに、強い抵抗を覚えた。 画竜点睛ではないけれど、これでは完成しない。 さんざん迷った挙げ句、雪華綺晶は少女の右眼を、閉じた状態で描いた。 「はい、出来ましたわ」 「どれどれ……わぁ……上手上手」 「お粗末様ですわ。でも、喜んで頂けたなら、描いた意味がありましたわね」 「ねぇねぇ……今度は……もう少し、大人っぽく描いてみて?」 ――大人っぽく? また、おかしな注文が付いたものですね。 おそらく、少女が抱く、大人の女性への憧れを具体化して欲しいのだろう。 雪華綺晶は「そうですわねぇ」と微笑しながら、少女の成長した姿を想像した。 女子高生の薔薇水晶。髪は、長いまま。面差しを、今よりも細めに描く。 そこで、初めて気が付いた。この娘……将来、スッゴイ美人になる。 けれども、いざ完成の段になると、やはり右眼を描くことに抵抗を感じた。 何故なのだろう? 今まで、人物画は何枚も描いてきた。 しかし、一度だって、こんな気持ちになった事など無かった。 結局、この絵も右眼を閉ざした笑顔にして、描き上げた。 「はい、おまちどおさま」 「わぁい。スゴイスゴイ……カッコイイなぁ」 薔薇水晶は、大人になった自分の絵を見て、夢見がちな目になった。 雪華綺晶には、薔薇水晶の気持ちが解った。 自分にも、同じような時期があったから。 将来の自分に、根拠のない妄想を重ね、勝手に憧れて……自己嫌悪に陥ったり。 「でも、どうして、目が閉じてるの?」 「その方が、可愛らしいからですわ」 ――ごめんなさい。嘘つきました。 本当は、描きたくなかったからだ。今日は、どうしてしまったのだろう。 もしかしたら、旅の疲れが出たのかも知れない。 「お姉ちゃん……もっと、描いて?」 「ごめんなさい、薔薇水晶ちゃん。今日はもう、疲れてしまったの。 明日で、構わないでしょうか?」 「しょうがないなぁ…………じゃあ、明日ね? それと、私を呼ぶ時は、 薔薇しぃ――で良いから」 「え、ええ。それじゃあ、薔薇しぃ。また、明日ね」 別れの挨拶を交わすと、薔薇水晶は脱兎の如く駆け出し、木陰に消えた。 本当に、不思議な少女だ。 彼女をモデルに絵を描くのも、決して厭ではなかった。 ただ一点――眼を描き入れたくない事を除けば。 「明日も……来てくれるのでしょうか?」 東の空が、白々と明るみ始めた早朝。 山奥の清々しい空気を満喫しながら、雪華綺晶は別荘のベランダで、軽い食事を摂っていた。 とても優雅で、贅沢な気分だ。 「今日も、納得のいく絵が描けたら良いですわね」 良い絵が描けるとき……。 それは、大概、今朝のように寝覚めが良く、気分がスッキリと優れている時だ。 雪華綺晶は、昨日の少女、薔薇水晶に想いを巡らした。 今日は、あの子の眼を描き込んであげられるだろうか? 昨夜は疲れからか、スケッチを見直す間もなく、眠りに就いてしまった。 スケッチブックに手を伸ばした雪華綺晶は、湖の湖畔に立つ人影に気付いて、視線を向けた。 「……薔薇しぃちゃん?」 薔薇水晶は、昨日と同じように、湖に足を浸して立っていた。 違いを挙げれば、今朝は、こちらを向いている――と言うこと。 「随分と早起きなのね、あの子」 素早く身支度を整え、雪華綺晶はキャノンデールのマウンテンバイクに跨ると、 まっしぐらに湖畔を目指した。 雪華綺晶が湖畔に着くと、昨日のベンチに、薔薇水晶が座っていた。 けれど、その姿は小学生ではなく、自分と同い年くらいに成長していた。 一瞬、別人かと思ったほどだ。 「おはよう…………お姉ちゃん」 「薔薇しぃ、貴女……何故、大きくなっているの?」 「お姉ちゃんが……描いてくれたから……お姉ちゃんのお陰」 「わたしの、お陰?」 狐に摘まれた様な顔をする雪華綺晶に、薔薇水晶は突拍子もない事を語り始めた。 「私は……この湖の……精霊だよ」 「……はい?!」 「信じなくても良いよ。でも……ホントのことだから」 「わ、解りましたわ。とりあえず、続けて下さいな」 落ち着いて返事をしたつもりだったが、雪華綺晶の声は、緊張で戦慄いていた。 なにを怖がっているのだろう。こんな事、有り得るはずがないのに。 そんな彼女を和ますように、薔薇水晶は湖の水面の如く穏やかな笑みを浮かべた。 「私は……もうすぐ消えるの」 そう前置いて、薔薇水晶は、つらつらと身の上を話し続けた。 人々の信仰心が薄れるにつれて、力を失い、実体化が難しくなったこと。 もうすぐ消えゆく運命だと悟って、せめて自分の存在した証を残したかったこと。 絵を描いてくれる人を、一日千秋の想いで、ずっと待ち続けたこと。 でも、誰も自分の存在に気付いてくれなかったこと。 「だからね……お姉ちゃんが気付いてくれて…… 私を描いてくれた時は、とっても嬉しかったんだよ♪」 言って、薔薇水晶は満面の笑みを、雪華綺晶に向けた。 彼女の瞳が、潤んでいるのが分かった。 ベンチから立ち上がって、薔薇水晶は両腕を広げ、雪華綺晶の前で、くるりと回って見せた。 「ねぇ……あと一枚だけ……私を描いてくれない? 私が、消えてしまう前に……。あと……一枚だけ」 「……喜んで……描いて差し上げますわ」 知らず知らずの内に、雪華綺晶は涙を流していた。 これでは描けない。しっかりするのよ、私。 雪華綺晶はハンカチで目元を拭い、ベンチに腰掛けて、深呼吸を繰り返した。 スケッチブックを開いて、意識を集中する。 一期一会……この出会いを描く為に、全身全霊を注ぐ。 薔薇水晶は愉しそうに笑いながら、膝まで湖に入って、はしゃいでいる。 無邪気な笑顔。 その一瞬を、雪華綺晶は切り取って、スケッチブックの中に貼り付けた。 そして最後に、描けなかった想いを―― 薔薇水晶の右眼を、しっかりと描き込んだ。 「出来ましたわ……薔薇しぃ」 雪華綺晶の絵を、薔薇水晶は穴が開くほど、じっくりと見詰めた。 そして、満足そうに、ニッコリと笑った。 「ありがとう。すごく、ステキ」 薔薇水晶の頬を、水晶の様な雫が、ぽろりぽろりと滑り落ちる。 「貴女の絵には……ココロが宿ってる。それは、とても素敵なことよ」 「そんなに褒めても、なにも出ませんわ」 そう応じた雪華綺晶の瞳からも、宝石を想わせる涙が、溢れては落ちた。 「お姉ちゃん……本当に…………ありがとうね。 私、これで…………何も思い残すことなく、消えてしまえるよ」 「……」 「そんな顔、しないで。私が消えてしまう事は、なにも気にしなくていいの。 それが、時代の移り変わりと言うものだから……誰のせいでもないの」 「だけど……薔薇しぃが……」 「私に会いたくなったら、その絵を見れば良いのよ。 言ったでしょう? 貴女の絵にはココロが宿る……って。 私はここで消えるけれど、ココロはいつも、貴女と共にあるから」 山間から、やっと朝日が射してきた。 眩い光の中に、薔薇水晶の姿が薄れ、溶けて行く。 「お姉ちゃん、ありがとう…………さようなら」 「薔薇しぃっ!」 薔薇水晶は、微笑みだけを残して、消えてしまった。 別荘から自宅に帰り着くなり、雪華綺晶はキャンバスに向かい、一心に絵を描き始めた。 タイトルは 『湖に戯れる乙女』 薔薇水晶が存在した証を、みんなに教えるために、ひたすら絵筆を走らせ続けた。 朝が昼になり、夜が訪れ、再び、東の空に太陽が昇る頃―― 雪華綺晶は、キャンバスの左下に、自分のサインを描き入れた。 絵の中の薔薇水晶は、温かい眼差しをしている。 「……出来た。これで、貴女のことを、みんなが忘れずにいてくれますわ」 緊張の糸が切れて、雪華綺晶は急激に、身体の重さを感じた。 旅疲れに加えて、久しぶりに徹夜までしたので、酷く眠い。 雪華綺晶はベッドに倒れ込むと、直ぐに寝息を立て始めた。 ――ふと、誰かに揺り起こされる感覚。 誰? 申し訳ないけれど、今は眠っていたいの。 一度は気付かないフリをしたが、二度、三度と揺すられて、彼女は諦めた。 誰なの? この時間、両親は家に居ない筈なのに……。 雪華綺晶が瞼を開くと、そこには絵の中の娘が、にこにこと微笑みながら立っていた。 「えへへ……なんか解らないけど……戻ってきちゃった」 「ば……ら……」 「素敵な絵だね。色が着くと、尚更――」 「薔薇水晶っ!」 雪華綺晶は、薔薇水晶にしがみついて、誰憚ることなく嗚咽を漏らした。 そんな彼女の身体を、薔薇水晶も、しっかりと抱き締めるのだった。 「もしかしたら、お姉ちゃんの絵が、私を呼び戻してくれたのかもね」 「どうでも良いですわ、理由なんて! 貴女が戻ってくれさえすれば、私は、それだけで嬉しいのですから」 「そっか……そうだよね。ありがとう」 抱き合って、再会を喜び合う最中、雪華綺晶は薔薇水晶に訊ねた。 「これから、どうするの?」 「分かんない。何をすべきか……どうすれば、良いのか」 「そう。じゃあ……私の妹にならない?」 突拍子もない提案だという事は、雪華綺晶とて承知している。 しかし、折角また巡り会えた彼女を、厄介払いする気にはなれなかった。 「私の妹として暮らして……一緒の学校に通って……いろいろな事を学べば良い。 これからの事は、ゆっくりと決めれば良いのですわ。 焦る必要なんて、無いのですから」 「そうね。それじゃあ……お願いします、お姉ちゃん」 「はいはい。あ、でも、お父様とお母様には、どう伝えれば良いのでしょうか」 「それなら、任せて。精霊の力は、伊達じゃない」 夏休みが終わって、二学期が始まる頃。 教室で、担任が、転校生の女の子を紹介していた。 転校生の美貌に、男子生徒ばかりか、女子生徒まで驚嘆の声を上げている。 ただ一人、雪華綺晶だけは、鼻高々に教壇に立つ女の子を見詰めていた。 ――彼女の名前は、薔薇水晶。 私、雪華綺晶の、大切な妹ですわ。 その声が聞こえたのかと思えるタイミングで、薔薇水晶も、ニコッと微笑した。
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―文月の頃 その4― 【7月23日 大暑】 今日は大暑。一年で最も暑さの厳しい時期とされる、日曜日。 大学が夏期休暇に入るまで、残すは一週間となっていた。 明日の試験に備えて、机に向かっていた翠星石だが、勉強など手に着かなかった。 窓の外に眼を向ければ、カラリと晴れ渡った空の青さが目に滲みる。 気も漫ろで、胸が騒ぐ。ココロがざわめいて、仕方がない。 身体がウズウズして、ギラギラ照りつける日射しの下に、飛び出したい気分だった。 「あうぅ……あ、あと少し……我慢……するです」 なんて言いつつ、机の下では、そわそわと足踏みしている。 事情を知らない他人が見たら、トイレでも我慢しているのかと思っただろう。 だが、違う。待ちわびた至福の瞬間を目前にひかえて、落ち着けなかったのだ。 しかし……足踏み程度では、却って、気忙しさが募る感じだった。 時計を見遣ると、現在、午前10時を少し回ったところ。 机に向かってから、三十分も経っていなかった。 「あんがー! 昼までなんて、待ちきれねぇですっ。 アタマが変になっちまいそうですぅー!」 とうとう錯乱。 叫ぶやいなや、両手でアタマを抱えて、わしわしと髪を掻き乱す始末だ。 ここまで彼女のココロを、千々に乱れさせる理由は、ひとつ。 ――今日、蒼星石が帰国する。 その報せが二日前に届いてからというもの、夜もロクに眠れず、 今日という日を、一日千秋の思いで待ち望んでいた。 蒼星石は、昼頃、空港に到着する予定だという。 もう我慢も限界とばかりに、翠星石はペンを投げ捨てて、席を立った。 いくら試験勉強を頑張ってみたところで、この調子では身にならない。 ハッキリ言えば、やるだけムダ。 「こうなったら、ちょっと早いですけど、空港に殴り込みですぅ!」 あと二、三時間なら、空港に向かっている間に経ってしまうだろう。 唯一、問題があるとすれば―― 空港みたいな、多国籍地帯に独りで行くのは怖い……という点だ。 翠星石は携帯電話を手に取って、いつもながらの安易な解決策を選択した。 「……あ、もしもし。雛苺です?」 「うぃ~……ふぁ。ヒナ、まだ眠いのよ~」 「ま~だ寝てやがったですか、おめーは。 もう『寝る子は育つ』歳でもねぇですのに」 「むー。そういうこと言うなら、もう切っちゃうのっ」 「わ、わ! 心の友よ……ちょーっと待つですよ。 実は……折り入って頼みがありますですぅ」 「うよ? なんなのー?」 「うにゅーやるから付き合えです。断ったら、ブン殴るです」 「…………翠ちゃん。それってジャイアンっぽいのよ」 と、愚図りながらも、結局は付き添ってくれるのが、雛苺のいいところ。 なんだかんだ意地悪することはあっても、翠星石は雛苺を可愛がっていたし、 雛苺もまた、翠星石を実姉のように慕っていた。 だから、蒼星石の出迎えに付き合って欲しいと突発で頼まれても、 渋ったり、嫌な顔はしなかった。 昼近くにもなると、電車も、空港に向かうモノレールも空いていた。 日曜日だからかも知れない。 二人はシートに並んで座って、暫くは雑談に花を咲かせていた。 ――が、段々、雛苺の口数が減ってゆき……。 ほどなく、雛苺は翠星石の肩にもたれかかって、寝息を立て始めた。 電話を掛けた時には起き抜けだったから、まだ眠気が残っていたのだろう。 そこへ、電車の揺れが加われば、心地よく夢に誘われること請け合いだ。 (巴の話では、最近、夜更かしして絵を描いてるみてぇですけど……) 趣味と学業を両立すべく、睡眠時間を削っているのだろう。 本当に好きでなければ、その生活を継続していくことは難しい。 続けている間に、好きだった気持ちは苦労や惰性に変わって、嫌になってしまうから。 そこまで打ち込める趣味に出会えたコトは、きっと、とても幸せなことなのだ。 (ホントは蒼星石専用なのですけど……今だけは特別に、肩を貸してやるです) 健やかな寝顔を見せる雛苺を、起こしてしまわないように―― 翠星石は、なるたけ身動きをしないでおいた。 空港に到着すると、すぐに飛行機の発着予定時刻に、目を通した。 蒼星石が乗っている便は判っている。到着まで、もう一時間ない。 二人はロビーのソファに腰を降ろして、そわそわと肩を揺すっていた。 「い、いよいよですぅ」 「ゴールデンウィーク以来なのね。ヒナも、早く会いたいのよー」 「はぁ…………私、なんだか……心臓がバクバクしてるです」 「それはきっと病気なの。そのまま放っておくと、大変なことになりますなのっ」 雛苺は冗談めかして言ったけれど、翠星石は笑えなかった。 病気。それは、あるかも知れない。医者でも温泉でも治せない、ココロの病。 自分は、不治の難病を患っているのだ。それも、実の妹に対して。 そう思うと余計に、翠星石の胸は、きゅうきゅうと苦しくなる。 時計の針は、焦れったいほど静かに――だが確実に――出会いを招き寄せる。 そして告げられる、待望の瞬間。 来た! 戻ってきた! 蒼星石が帰ってきた! 翠星石は矢も楯もたまらず、ソファを立ち上がって、乗客の流れに目を凝らした。 この中に、あの娘は、きっと居る。 彼女より先に自分が見付けて、背後から飛び付き、驚かせてやろうと思っていた。 そして、緋翠の眼差しは、人混みの中に栗色のショートカットを見出した。 曇りがちだった翠星石の表情が、真夏の太陽のように輝きを増す。 「――――あはっ♪ 見付けたですぅ。蒼せ――」 ……しかぁし。喜んだのも束の間。 いきなりの衝撃。歓喜一色だった彼女の表情は、一転して凍り付いてしまった。 ( ゚д゚) …… (つд⊂)ゴシゴシゴシ (;゚д゚) …… (つд⊂)ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシ (; Д ) ゚ ゚ 「ほあ――――!?!?」 翠星石は我が目を疑ったが、いくら確かめても、現実は変わらない。 最愛の妹、蒼星石の隣には……仲睦まじげに腕を絡めて立つ、女の姿があった。 「す、翠ちゃん? どうしちゃったのー?」 「お、お、おおおおお……」 態度を豹変させた翠星石に、雛苺が怪訝な目を向ける。 そして、翠星石が震える手で指差す方角を見遣ると…… 全ての答えが、そこにあった。 「あーっ! 蒼ちゃんに、オディールなのー」 ロビーの喧噪にあっても良く通る、雛苺の高い声。 蒼星石が、ハッと頸を巡らした。 そして、翠星石と雛苺の姿を目にするや、満面の笑みを浮かべた。 「姉さんっ! 雛苺っ! 迎えに来てくれたんだね」 大きな荷物をオディールに預けて駆け寄ってくる彼女は、ココロから笑っている。 とても、嬉しそうに。とても、懐かしそうに。 だが……翠星石は、素直に微笑み返すことが出来なかった。 なぜ彼女が、蒼星石と一緒に来たのか―― その理由を考えることで、アタマが一杯だった。 呆然と立ち尽くす翠星石の肩に、蒼星石の両腕が絡み付き、ギュッと力が込められた。 ふぅわり……と、鼻先をくすぐる懐かしい匂い。 我に返った翠星石の耳元で、最も聞きたかった声が、最も欲しかった台詞を囁く。 「ただいま、姉さん。約束どおり……ボク、帰ってきたよ」 「そ――――蒼星石ぃ~っ!」 気付けば、翠星石も蒼星石の背中に腕を回して、きつく抱き締めていた。 彼女の声。彼女の鼓動。彼女の温もり。 この数ヶ月、求めて止まなかったものの全てが、両腕の中にあった。 その喜びは、嬉しいなんて表現では到底、語り尽くせなかった。 「会いたかった……です。本当に……本当に……蒼星石に、会いたかったですぅ!」 「……うん。ボクもだよ。こうして……姉さんの温もりを感じたかった」 翠星石の声も、蒼星石の声も、涙に震えていた。 しっかりと抱き合う彼女たちの元に、二人分のスーツケースを引きずって、 オディールが近付いてくる。 翠星石は瞳を潤ませながら、本能的に、蒼星石を抱き締める腕に力を込めた。 渡したくない! 取られたくない! 早鐘のように脈打つ鼓動で、胸が張り裂けそう。 そんな翠星石の気持ちを、知ってか知らずか―― 姉妹とオディールの間に、雛苺が、するりと割り込んだ。 「オディールっ! 久しぶりなのよー♪」 「ふふふっ。こんにちは、雛苺。五月に会って以来ね」 「あれから、もうすぐ三ヶ月なの。月日の経つのは、ホントに早いのよ。 あ……ヒナが、蒼ちゃんの荷物を持ってあげるのっ」 和やかに談笑していた雛苺が、ほんの一瞬、ちらりと翠星石に目配せした。 ――オディールの相手は、ヒナに任せておくのよ。 そんな、雛苺の心の声が、聞こえた気がした。 (ありがとです、雛苺) 彼女の細やかな心遣いに触れて、翠星石はモーレツに感動していた。 蒼星石との再会。そして、雛苺の配慮。 二重の感激にココロ打たれた翠星石は、もう、涙を止められなくなっていた。 こんなに涙もろかったっけ? 翠星石は、人目も憚らずに、声を上げて泣いた。 四人が、連れ立って家路に向かっていた、その途上。 翠星石は、耳を疑わずにはいられない話を、蒼星石から聞かされた。 オディールと雛苺に聞かれない様に、ヒソヒソと内緒話を進める。 「そ……蒼星石? それ、本気で言ってるです?」 「うん。だって、ウチには使ってない部屋もあるでしょ。 オディールが、日本を訪れてみたいって言うからさ。この機会に、どうかな~って」 「だからって……夏休みの間、あいつをウチに泊めてやるだなんて――」 「でも、一ヶ月もホテル暮らしじゃあ、出費が大変だよ。彼女だって学生なんだし」 「そりゃあ……その辺の都合は、十二分に理解できるですけどぉー」 突然の話だけど、無理じゃないと思うんだ……と、蒼星石は締めくくった。 実際、蒼星石には甘い祖父のことだ。頼まれれば、二つ返事で了承するに違いない。 十中八、九は、オディールを泊めることになるだろう。 (むうぅ~。とーんだお邪魔虫が、紛れ込んできやがったですぅ。 折角、蒼星石と水入らずで、バケーションを楽しめると思ってたですのにぃ~) 見る見るうちに、翠星石の眉間に、深い縦皺が刻み込まれていった。 不機嫌さも露わな姉の様子に、蒼星石は「変わってないなあ」と苦笑をもらした。 「人見知りの姉さんには、嫌かも知れないけど……解ってあげてよ。 ね? おねがいだから」 「で、でもぉ――」 「なんなら、オディールにはボクの部屋を使ってもらって、 ボクが、姉さんの部屋に寝泊まりしてもいいよ?」 その一言を訊いた途端、翠星石は両目から光を放って、たちまち態度を一変させた。 「困ったときは、お互い様ですぅ~♪ オディールを泊めるぐらいお構いなしの、へーきのへーざですよ。きしししっ」 不気味な含み笑いを浮かべる姉に、蒼星石は引きつった笑顔で応えるのだった。
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なんとしても、喉から手が出るほどに、この身体が欲しい。 それも、なるべく綺麗な状態で。 故に、『彼女』は、このまま喉を噛み続けて、縊る手段を選んだ。 ナイフで急所を突いたり、喉笛を斬るなんて、まったくもって問題外。 手や荊で絞め殺すのも、頸に一生モノの痣が残ってしまうかもしれない。 その点、ちょっとくらいの噛み傷なら、数日もすれば癒えて、目立たなくなろう。 喉元なら、チョーカーなどのアクセサリで隠すことも可能だ。 程なく、コリンヌが痙攣を始めた。 肌に食い込ませた歯に、なにかが喉を駆け上がってゆく蠕動が伝わってくる。 密着させた下腹部にも、温かい湿気が、じわり……。 嘔吐と失禁――窒息から死に至る際の、典型的な兆候だった。 ここまでくると酸欠で脳が麻痺するので、苦しみはもう感じず、むしろ気持ちいいのだとか。 実に上々。もうすぐ、コリンヌの息吹は永久に絶えて、理想の器が手に入る。 あまりにも思惑どおりに運びすぎて、どうしても、『彼女』の頬は緩んでしまう。 「くっ……うふっ」 我慢できずに、つい噴き出してしまった、その一瞬―― 吐瀉物で詰まっていたコリンヌの喉が、僅かな隙間を得て、ひゅうと鳴る。 そして、少女はひどく咽せながら、短く……嗄れた声を吐いた。 たった一言。しかし、『彼女』たちにとっては、大きな意味を持つ名詞を。 途端、内側から胸を強打されて、『彼女』はホウセンカの実が弾けるように仰け反った。 それでも、突然の動悸は止むことを知らず、『彼女』の呼吸を妨げつづけた。 第十六話 『出逢った頃のように』 息ができない。喘ぐのに必死で、涎を垂らすことさえ、羞恥と感じなかった。 鬱血のためか、闇に慣れた彼女の視界が、さらに濃い黒へと収束する。 それは圧倒的な重力を持つブラックホールのように、『彼女』を引きずり込んだ。 どこまでも真っ黒な、原油を彷彿させる、無意識の溜まりへ――と。 ふと気づくと、『彼女』は闇の淵のほとりに、ぽつんと立ち尽くしていた。 ここに至って、『彼女』は初めて、底知れない怖れを抱き、震える歯を食いしばった。 早く逃げなければ。そう思うのに、根を張ったみたいに、足が竦んでいる。 ばかりか、いつの間にか、黒い荊が身体に絡みついて、『彼女』の動きを妨げていた。 それなのに、胸裡からの殴打が、先へ……闇の淵に踏み込めと強いる。 ぷかり……。黒の水面に、小さな白い瞬きが、ひとつ。 それを端緒に、幾つもの水泡が生まれては消え、その数だけ白い波紋を描きだした。 『彼女』は、頬を引きつらせた。来る! あいつが来る! 全てを奪い返しに来る! 絶望という盤石に押し潰されて、ココロの深淵――無意識の中に沈んだ娘が。 冗談じゃない。気合い負けを嫌うように、揺らぐ深淵を睨み、『彼女』は毒づいた。 名前を呼ばれたぐらいで、性懲りもなくしゃしゃり出てくるなんて…… (ばかじゃないの! まるで犬ね。この娘のペットってわけぇ? だったら、今度から『シロ』とか『ユキ』とでも、呼んであげましょうか!) 果敢な罵詈も、怯えを滲ませていては、ただ嘲弄を誘うだけ。 けれど、白の自己(ゼルブスト)は黙っていた。嗤う代わりに、スピードをあげた。 『彼女』への圧迫が強まる。動悸も、より速く、激しいものへ。 急激な血圧の変化が、眩暈を引き起こし、『彼女』の意識を白く染めてゆく。 なにもかもが霞みゆく中で、『彼女』はココロの深淵に、闇の雫を滴らせる白い腕を見た。 そして――背中を打たれた痛みで、『彼女』が我に返った時…… 目の前に、白の自己が居た。『彼女』は押し倒されて、馬乗りに抑え込まれていた。 完全なマウントポジション。優劣の逆転。 今や、『彼女』が狩られる側となったのは、歴然にして明白だった。 ……が、『彼女』の強すぎるプライドが、無様な敗北を許さない。 どうせ捨てる身体の主と言えども、いや、不要なゴミと見なしていたからこそ。 生意気にも刃向かい、僅かでも畏れを抱かせた存在に、温情をかけようとは思わなかった。 精神までも徹底的に壊して、それで生ける屍と化しようが、知ったことではなかった。 けれど、それも所詮は強がり。土壇場での大逆転劇など、虚しい妄想にすぎない。 『彼女』は承知していた。押し戻すだけの余力が、もう自分に残されていないことを。 「私は、どうなっても構いません。でも――」白の自己、雪華綺晶の意志が迸る。 それは、『彼女』による支配の終焉を告げる、審判の鉄槌。「コリンヌは渡さない。私だけのものだから」 決別の言葉が振り下ろされ、雪華綺晶の右手が、『彼女』の左胸を穿った、直後。 現実世界では、黒い荊の一束が、雪華綺晶の左胸を貫いて突き出していた。 粘っこい血を滴らせたその先端に、弱々しく明滅する結晶――ローザミスティカを携えて。 コリンヌと、雪華綺晶。 二人の間を満たす淡紅色の光によって、凄惨な光景がさらけ出される。 右の眼窩から伸びる、紅い蜜を滴らせた白薔薇。裂けた腹部から這い出した、黒い荊。 酸欠で朦朧としていたコリンヌも、それを目にして、完全に覚醒した様子だった。 「な……に、こ……れ?」 雪華綺晶は、問いかけた掠れ声から逃れるように、顔を背けた。 それ以上の追求を、暗に拒絶したのか。あるいは、醜く変わり果てた姿を恥じたのか。 緩慢な動作でベッドを降りるときも、ずっとコリンヌを見ようとしなかった。 「なんなの、これ? どうして、こんなっ」 やはり、答えは返ってこない。雪華綺晶は、なおも遠ざかってゆく。 普通に訊ねるだけでは、答えは返ってこない。コリンヌは一計を案じた。 「――いいわ。それなら、主人として命じます。雪華綺晶、すべてを話しなさい。 貴女は、なんの理由もなく、こんなコトする娘じゃないわ。そうでしょう?」 毅然とした声に背中を叩かれて、やっと、雪華綺晶の歩が止まった。 あんな恥辱を受けてなお、コリンヌは、自分を信じてくれようとしている。 ならば……信用には、誠意をもって応えなければ。それが人の世の礼節と言うものだ。 雪華綺晶はベッドに向きなおり、へたり……と、腰を落とした。 ~ ~ ~ それから、彼女の口から、洗いざらいが告白された。 二年前に、この世を去った存在であること。 ローザミスティカに操られて、槐という人形師を――父を殺してしまったこと。 この身体が、あと数日で朽ち果てることさえ、包み隠さずに。 コリンヌは雪華綺晶の話を聞くあいだも、聞き終えても、頻りに頭を振っていた。 「信じられない……そんな話、信じられっこないわ」 「でも、事実なのです。ほら。私の……この醜いさまを、ご覧になって」 その言葉は、容赦なく、惨酷な事実を突きつける。 雪華綺晶を家族の一員のように想っていたコリンヌには、到底、受け入れがたい現実を。 だから、彼女は顔を伏せるに留まらず、両手で目を覆って、イヤイヤをした。 幼子が駄々をこねるように、ずっと。 雪華綺晶は、絶え間ない激痛に苛まれながらも、呻きひとつ漏らさずに立ち上がり…… ベッドに歩み寄って、コリンヌの頭を愛おしげに抱き寄せ、艶やかな金髪に鼻を埋めた。 「叶うものなら、出逢った頃に戻りたい。私だって……いつまでも、コリンヌのそばに居たい」 「じゃあ、そばに居てよ! これからも、一緒に暮らしましょう。ね?」 「……できませんわ。私は、まぼろし。この身は、二年前に死んだ娘の蜃気楼。 あなたは、束の間の仮寝をしていただけ。夢の中で、私と戯れていただけ。 そして、悪い夢も、楽しい夢も……どんな夢も、すべからく醒めるべきものなのです。 ――ほら。窓の外を、ご覧になって。空が白み始めています。 あなたと私の、夢の劇場も……そろそろ、幕を引く時間ですわ」 「それなら、わたしは眠り続けたっていい! 貴女を失わないで済むのなら」 「わがまま……ですのね」 仕方のない人。雪華綺晶は淋しげに微笑み、コリンヌの柔らかな頬に、そっと口づけた。 そして、雪の結晶を模したネックレスを外して、少女の手に預けた。 「ふたつだけ、私のお願いをきいてください。あなたにしか、頼めないことなの。 これを……私の代わりとして。いつも、ね。片時も離さず、身に着けていて。 そして、どうか、あの人と……二葉さまと、幸せになって。私の分まで、いっぱい。 私が、この胸で温めていながら孵せなかったら想いを、あなたが叶えて、育ててください」 「待って、雪華綺晶っ! わたし、イヤよ! こんな物いらない!」 「……では、捨ててくださいな。夢のカケラなんて――」 くるり、と。コリンヌに背を向けた雪華綺晶は、足早に窓に向かい、開け放った。 夜露を吸った重たい風が、部屋の中に流れ込んできて、雪華綺晶の長い髪を靡かせる。 彼女は、そこでもう一度だけ、涙顔の微笑みを、コリンヌに向けた。 「私を……私なんかを、お友だちと呼んでくれて……本当に、嬉しかった。 あなたと出逢い、普通の女の子として過ごせた日々は、本当に、楽しくて―― いつまでも、このままで……って、ずっと祈っていたのですけれど」 「主人の命令よ、雪華綺晶っ! 待ちなさいっ! 戻ってきてっ!」 「お別れ、です。 いつか、また、夢で逢えたのなら―― もう一度、可愛がってくださいね。マスター。 ――好き、でした」 少女の悲痛な叫びも、雪華綺晶を繋ぎ止める楔とは、なり得なかった。 窓辺に白い影だけを残して、彼女は、朱に染まりだした世界へと身を投げ出していた。 第十六話 終 【3行予告?!】 もしも願いが叶うなら、吐息を白い薔薇に変えて―― 還るべき場所を思い描きながら、私は今日も、彷徨い続ける。 いつか、花咲き乱れる楽園に辿り着けると淡く期待しながら、歩き続けている。 次回、幕間4 『Old Dreams』
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―文月の頃― 【7月2日 半夏生】 夏至から11日が過ぎても、依然として梅雨が明けない、七月最初の日曜日。 翠星石は、週末恒例ゆるゆる朝寝を楽しんだ後、机上のノートパソコンに向かい、 文月の名に相応しく、蒼星石からの電子メールを確認していた。 この作業も、すっかり日常生活に織り込まれてしまった感がある。 「うふふ……今日も来てるですね。流石は、私の妹。律儀で感心ですぅ」 気忙しく、新着メールを開く。 ここ数日の話題は、専ら、夏休みのことばかりだった。 気が早いとアタマで解っていても、会いたい気持ちは抑えられない。 【おはよ、姉さん。そっちは、もう梅雨明けした? こっちでは、だいぶ気温が上がって、夏らしくなってきたよ。 昨日は、オディールが――】 そこまで読むと、翠星石は眉間に深い皺を刻んで、メールを閉じてしまった。 昨夜から、心待ちにしていたにも拘わらず、である。 何故? 理由は単純で、他人からみれば、至極つまらないことだった。 つまりは、二人だけのナイショ話にオディールの名前が割り込んできたから。 それで、どうにも気分が悪くなったのだ。 例えるなら、我が家の居間に土足で上がられたような―― 最近、メールの中で頻繁に、彼女の名前を見かけるようになった。 それは取りも直さず、蒼星石とオディールの親密度が増したコトを意味する。 実際、彼女たちはルームメイトであり、同じ大学に通う学生なのだから、 仲良くなるのも当然の帰結と言えよう。 メール以外に時間を共有する術を持たない翠星石では、 一日の大半をリアルタイムで過ごせるオディールに、太刀打ちできる訳がない。 翠星石が、一刻も早く蒼星石と会いたがったのには、そういう焦りも関係していた。 実際に会ってみて、悪い娘ではないと判ったものの、彼女が蒼星石の側で、 同じ空気を呼吸していると思うと、心が乱れて平常心を保てない。 翠星石の脳裏に、歪な妄想が拡がり始めていた。 《以下、名無しにかわりましてmのフィールドがお送りします》:sage:2006/07/02(日) 二段式のベッドで、ほぼ同時に目覚める蒼星石と、オディール。 上で寝ていたオディールが身を乗り出し、蒼星石の居る下の段を覗き込んで、 おはよう、と囁く。 彼女の肩から、プラチナブロンドが滝のように流れ落ちた。 だが、次の瞬間っ! 寝惚け半分だったオディールが、体勢を崩して上の段から落下してきた。 『危ないっ!』 叫ぶが早いか、蒼星石は飛翔して、彼女の身体を空中で捕らえる。 その勢いのまま、自らをクッションにすべく背中から床に倒れ込んだ。 『痛たたぁ…………随分と派手な起こし方をしてくれるね、オディール。 ん? 心配しなくていいよ。ボクなら平気……だから、もう泣かないで』 泣きじゃくって謝る彼女の台詞を、蒼星石は、そっ……と重ねた唇で遮った。 ・・・続くですぅ>< 「だぁ――――っ! なんなんですかっ! その同人誌にありそうな、ベタでエロリーメイトな展開はぁっ」 束の間、妄想に支配されていたアタマを両手で抱え込んで、翠星石は身悶えした。 冗談じゃない。今のは単なる絵空事。現実に起こり得るワケがない。 翠星石は必死の思いで、自分に言い聞かせていた。 そんな彼女の動揺に付け込み、怪しくも妖しい妄想が再び、押し寄せてくる。 《以下、名無しにかわりましてmのフィールドがお送りします》:sage:2006/07/02(日) 早朝。真新しい陽光が溢れるキッチンは、清潔そのもの。 二人は談笑しながら、朝食に添えるサラダを並んで調理をしていた。 慣れた手つきでフレンチドレッシングを作っている、オディール。 その横で、蒼星石は、新鮮なレタスを適当な大きさに千切って、 サラダボウルに盛りつけていく。 鮮やかなレタスの緑を、トマトとタマネギのスライスで覆って色付けし、 飾りとしてプチトマトを、ちょこんと乗せる。 おいしそうね、と微笑むオディール。 蒼星石は、余ったプチトマトを摘むと―― 『キミの可愛らしい唇だって、とっても美味しそうだよ』 オディールの横顔に甘く囁いて、プチトマトを唇に銜えた。 そして、悩ましげに目を細め、オディールに顔を近付けていく。 オディールは羞恥で頬を朱に染めながら、瞳を閉じて………… 雛鳥が親からエサを貰うかの様に、蒼星石が銜えたプチトマトを啄んだ。 ・・・まだ続くですぅ>< 「うひいぃ――――っ! もう止めるですぅ!」 思わず口を衝いて出た叫び声が、翠星石の意識を、現実に引き戻した。 恐るべし、mのフィールド。 胸に抱いた微かな不安を、こうも歪めて増幅・投影されるとは、予想だにしていなかった。 あのまま破滅的な妄想に曝され続けていたら、毒電波の侵蝕によって、 翠星石は思考ばかりか、人格までジャンクにされていたかもしれない。 「……はぁはぁ……このまま悶々としてたら、また…… mのフィールドに捕まっちまうです。 今度つかまったら、逃げられるか判らねぇですぅ」 二度あるコトは三度ある。家の中で、ウジウジと腐っていたら危ない。 気分転換に、誰かを誘ってウィンドウショッピングでもしようか? しかし、窓の外は雨。出掛けるのは億劫だ。足元が濡れるのも気持ち悪い。 「あ! そう言えば、みんなで旅行する目的地を決めてなかったですよ。 丁度いいから、雛苺を呼んで、相談するですぅ」 翠星石は携帯電話で雛苺と約束を取り付けると、そそくさと身支度を始めた。 昼食を摂り終えて三十分ほど経った頃、翠星石は雛苺の到着を待ちつつ、 インターネットで候補地の検索を行っていた。 だが、懸命に探している時ほど、意外に目的の物は見付からないもので…… 翠星石は溜息を吐いて、椅子の背もたれに体重を預けた。 食後ということもあり、何の前触れもなく、翠星石の元に睡魔が忍び寄ってきた。 うとうと……と、船を漕ぎ始める。とろんとした微睡みが、なんとも心地良い。 翠星石は午睡の魅惑に抗おうともせず、ノートパソコンを押し退け、机に突っ伏した。 そこへ、またもや忍び寄る、妖しい影。mのフィールドの気配。 早く、眼を覚まさないと! アタマでは解っているのだが、どうしてか、自発的に覚醒できなかった。 《以下、名無しにかわりましてmのフィールドがお送りします》:sage:2006/07/02(日) 薄暗い空間。カーテンの隙間から射し込む、一筋の月明かり。 月の女神ルナが、淡い蠱惑の光芒で指し示すは、狂気の精霊に取り憑かれた二人。 シングルベッドの中で、窮屈そうに身を寄せ合う、彼女たち。 あられもなく剥き出された柔肌は、じっとりと汗ばみ―― (い、イヤっ! そんな光景、見たくねぇですぅ!) 妄想の中だというのに、翠星石は必死に顔を背けようとした。 けれど、これは自分の邪推が生み出す、歪んだ妄想。 どこまで逃げても、切り離せない影と同じ。 逃れる術は、目覚めるより他にない。 それも、更なる衝撃映像を見せられてしまう前に。 (こうなったら…………力尽くでも起きてやるですっ) 翠星石はギュッと目を瞑って、力一杯、自分の頬を引っ叩くために両腕を広げた。 弓弦を引き絞るように、ゆっくりと……確実に……。 彼女の身体が激しく揺さぶられたのは、今まさに、夢の中で頬を叩こうとした時だった。 ビクゥッ! と跳ね起きたため、あわや椅子から転げ落ちそうになった翠星石を、 誰かの腕が力強く支えた。 祖父母の頑丈な腕とは異なり、ほっそりと華奢でありながら、とても頼もしい腕。 うっすら小麦色に日焼けした、思慕の情を掻き立てる懐かしい腕。 (あれ? この感触…………蒼……星石?) ――違う。とても似ているけれど、僅かに、蒼星石の腕とは違う。 じゃあ、これは誰の腕? 翠星石は、肩を支えてくれた誰かの腕に両手を添えて、静かに頚を巡らした。 すると、驚くほどの至近に、雛苺の気遣わしげな顔があった。 「間一髪だったの。転んでたら、ケガするところだったのよー」 「……雛苺。おめーが、揺すり起こしてくれたですか?」 「ヒナが来てみたら、翠ちゃん、うんうん唸って、凄くうなされてたのよ? もうビックリしちゃって、つい……チカラの加減ができなかったの。 ホントなのよ? ワザとじゃないのよー」 「ふん……おバカ苺がしでかしそうなコトは、百も承知してるですぅ」 雛苺の腕を無愛想に振り解いて、翠星石は大仰に肩を竦めた。 が、素っ気ない態度とは裏腹に、ココロの中では深く感謝していた。 もしも彼女が起こしてくれなかったら、今頃、どうなっていたか判らない。 口を開けば、また諍いの種を蒔くだけだろう。 ならば、なにも言葉に限る必要なんて無かった。 気持ちを伝える術は、多種多様。一挙手一投足でも、意志の疎通はできる。 翠星石は席を立つと、悄気返っている雛苺のアタマを、愛情込めて叩いた。 「…………ありがとです。来てくれて……そのぉ………… か……感謝……してやるですぅ」 「うよ?! 今日の翠ちゃん、不気味に素直なのっ。な、なに企んでるのー?」 「ぬなっ!! なんにも企んでやしねぇですっ!」 額にビキビキと青筋を浮き上がらせた翠星石は、猛然と腕を振り上げた。 そのまま、雛苺の脳天に手刀を叩き込……もうとして、寸止めする。 頚を竦めていた雛苺は、衝撃と激痛が、いつまで経っても訪れないことを訝しんで、 怖々と双眸を開いた。 すると―― 「止ぁめ止め。じゃれ合う暇があったら、さっさと旅行先を決めちまうですぅ」 翠星石は既に、ノートパソコンに向かっていた。 そして、どこから掻き集めてきたのか、パンフレットの束を、雛苺に手渡した。 「雛苺は、ここから良さそうな場所をピックアップしとけですぅ」 「う、ういー。翠ちゃんの希望は、山奥の鄙びた温泉なのね?」 「美味しい特産品があれば、なお良しです」 「らじゃーなの。ヒナ、張り切っちゃうのよー」 「張り切るのは勝手ですけど、空回りすんなですぅ」 軽口の応酬を続けながら、二人は旅行の計画を煮詰めていった。 所要時間や費用など、大雑把なドンブリ勘定だったが、あれこれ考えるのは面白い。 あるいは、実際に旅立つよりも、計画を立てている時の方が楽しいのかも知れない。 二人の娘は、終始笑顔のまま、夕暮れ時を迎えたのだった。 輝かしい夏の記憶が、二人の胸にしまってある日記に、書き加えられてゆく。 一生に一度しかない、楽しくて、かけがえのない思い出が、また一つ……。
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―葉月の頃 その6― 【8月23日 処暑】③ 焼けつくような夏の日射しも、太陽が西へと傾くにつれて、和らいでいった。 だいぶ暑さが弱まって来た夕方、三台の車は無事に、旅館の駐車場に並んだ。 所要時間、およそ7時間。途中で何度か休憩を挟んだこともあるが、 その殆どは、一般道を抜けるためだけに費やされた時間だった。 お盆休みのピークを過ぎたとは言っても、まだまだ夏休みシーズン真っ直中である。 現に、この鄙びた温泉宿にも、彼女たち以外の車が何台も停められていた。 「ふぃ~。やっとこさ着いたですね。腰が……ちょっとだけ痛いですぅ」 翠星石は、身を捩ってシートベルトを解きながら、重い息を吐いた。 さすがに慣れない長距離ドライブで、気疲れしたのだろう。 ちょっとだけ――というのは、せめてもの強がりらしい。 そんな彼女に、助手席の雛苺が「お疲れさまなのよー」と、キンキン声で労う。 いつもの翠星石なら、すかさず毒舌で反撥、いびりで応戦しているところだが、 今の状態では、弱々しい笑みで応じるだけだった。 『身から出た錆』という照れ臭さも、あったのだろう。 水銀燈を昏倒させてさえいなければ、もっと楽な旅路となったハズなのだ。 それについては、翠星石が蒔いた種だけに、誰を責めることも出来なかった。 「ヒナが免許もってたなら、運転を代わってあげられたのに―― なんか、悪いことした気がするのよ」 しゅん……と、しおらしく表情を翳らせる雛苺。 翠星石は、そんな彼女の額を、指先でちょいん! と小突いた。 「おめーの運転じゃあ、いつ事故るかとヒヤヒヤしまくりですぅ」 「もぉ~。すぐそうやって、ヒナのことバカにするのね。 翠ちゃんだって、ジェットコースター並みに荒っぽい運転するクセになのっ」 「なに言うですか。私をヘタクソ呼ばわりたぁ、失礼なヤツですねぇ。 ほれ……目ぇかっぽじって、よく見ろです。私の免許はゴールドですよ~♪ 運転なんてものは所詮、ぶつけなけりゃ、へーきのへーざなのですぅ」 その理屈こそ、とんでもなく乱暴というものである。 呆れて言葉もない雛苺が、ポカーンと翠星石の顔を見ていると…… 「こっち見んなです」 やおら、ビシリ! と、デコピンをプレゼントされた。 だが、そこに普段の威力はない。肩に落ちた髪を払うような、軽い一撃だった。 実際のところ、雛苺が思っている以上に、翠星石は疲れているのだろうか。 それとも、彼女の気まぐれな優しさが、ちょっと顔を覗かせただけなのか。 いずれにせよ、このまま車に乗っていても始まらない。 昏々と眠り続けている水銀燈も、どうにかしないと。それも早急に、である。 「ひとまず話は後にして、銀ちゃんをお部屋に運び込むのよー」 「ん……そうですね。私たちの荷物も、ちゃちゃっと降ろしちまうです」 ドアを開くと、耳鳴りがするくらいの蝉しぐれ。 それに続き、カーエアコンとはまた違った冷気が、彼女たちの肌を刺激した。 都会の、ギラギラ熱くジトジト蒸した空気とは、根本的に異なっている。 気温は確かに高いけれど、湿度が低いのか、とても爽やかな風だ。 木々の緑濃い山奥だからこそ――なのかも知れない。 「ん~……清々しいですぅ。じっとしてたら、うたた寝しちまいそうです」 そよ吹く風に肌を撫でられながら、翠星石は両腕を高々と突きあげ、背を伸ばした。 横目に見た友人たちは、既に、荷物を降ろし始めている。 そこに妹の姿を探す翠星石の鼻先を、赤トンボが、ついっと横切っていった。 「……山には、もう秋が訪れ始めてるですかぁ」 八月も末――夏の終わりは、確実に近づいている。 それは休みの終焉を告げると共に、もうひとつの終幕をも意味していた。 永続する『今』など、ありはしないと解っているのに…… もっともっと、彼女と一緒に居たいと願ってしまう気持ちが、抑えられない。 「ずぅっと夏休みのままなら、いいですのに」 しんみりと呟く翠星石の背後で、雛苺はリアシートから水銀燈を降ろそうと、 うんうん唸りながら悪戦苦闘していた。 水銀燈の方が上背に勝っているため、思うように引っぱり出せないらしい。 「あーん。翠ちゃ~ん。手伝ってなのよ~」 「もうっ! うっさいヤツですねぇ。ちょっと待ってろですぅ」 うるさいほどに賑やかな雛苺と一緒では、感傷にひたる暇もないらしい。 ぶちぶち文句を垂れつつも、やむなしとばかりに吐息して、翠星石は踵を返した。 見れば、水銀燈の位置は、殆ど変わっていない。 相変わらず、仰向けに寝転がっている。屈めていた脚が、伸ばされただけだ。 おまけに、さんざん揺さぶられたにも拘わらず、彼女は眠ったままだった。 よもや二度と目を覚まさないのでは……。翠星石は危惧して、眉を曇らせた。 「非力なヤツですね、おめーは。銀ちゃんは私が車から降ろしておくですから、 雛苺は、荷物を運び込んどけです。私と銀ちゃんの分もですよ」 「う、うぃー。任されたのよ」 言って、雛苺は三人分の荷物を持って、ヨタヨタと旅館の玄関へと歩いていく。 その後ろ姿を溜息まじりに見送り、翠星石は後部座席に半身を乗り入れた。 「銀ちゃーん、着いたですよ~。さっさと起きるですぅ~」 翠星石は、声をかけながら水銀燈の肩を揺さぶってみた。 ……が、水銀燈は口の中でムニャムニャ言うだけで、瞼を開けようとしない。 元々、低血圧の気はあったが、クスリのせいで更に寝覚めが悪くなっているらしい。 よほど楽しい夢でも見ているのか、寝ながら微笑んでいた。 「とぉんだネボスケさんですねぇ。やれやれですぅ」 あきれ果てた口振りの割に、翠星石はニタァ~と唇を歪める。 そして、溢れそうになる笑みを、喉元に押し込めながら―― 「起きないなら、こうして……ほぉ~ら、カルデラ湖ですよぉ~」 仰向けの姿勢ながら、しっかりと聳えている水銀燈の双丘の頂を、 人差し指でフニフニと陥没させた。 ずっと以前、眠りこけている蒼星石に同じコトをした時には、 顔を真っ赤にして飛び起きたものだが…… 翠星石の意図を裏切り、水銀燈は、くすぐったそうに鼻を鳴らしただけだった。 いっそ、デコピンを見舞った方が効果覿面かも知れない。 そう思った翠星石は、やおら携帯電話を取り出して、デジカメを起動させた。 「とは言え……このチャンスを、みすみす無駄にするのは勿体ねぇですねぇ。 起こす前に、銀ちゃんの恥ずかしい画像でも撮影しとくですぅ♪」 言って、含み笑った翠星石は、水銀燈のポシェットに目を遣った。 その傍には、まるで示し合わせたかのような黒のサインペンが! 「うししし……ここはひとつ、おたふくメイクにしてやるですよぉ」 まずは、水銀燈のポシェットからルージュを抜き取って、塗ることにする。 両の頬に大きな赤丸を描き、思いっ切りタラコ唇にしようと考えていた。 ルージュを手に、薄ら笑う翠星石が身を乗り出した、その拍子―― 翠星石のブラウスのボタンに、水銀燈のTシャツの裾が引っかかって、捲り上げた。 それに伴い、白磁のような柔肌と、ポツンと窪んだおヘソが、さらけ出される。 腹部に感じた冷気に、ほんの一瞬、微睡みの中で意識が醒まされたのだろう。 水銀燈は、思いもかけない素早さで両腕を振り上げて、翠星石を捕らまえた。 そればかりか、骨も折れよとばかりに締めつけてくるではないか。 ひと溜まりもなく、翠星石は苦しげな息を吐いた。 「ぐぇ……ぎ……銀……ちゃ、痛…………苦」 「ぁにゃ……し…………んくぅ」 「違……私……真紅じゃ……な」 「――あはぁ♪ しぃ~ん……くぅ~」 やたらと間延びした寝言が紡ぎ出された、次の瞬間! 翠星石の頭は、水銀燈の腕にグイと引き寄せられて―― んぶぢゅううぅぅぅ――――っ! (qあwせdrftgyふじこlp;)><; いきなりのディープキスによって、翠星石の思考は、完全にホワイトアウト。 しかも、不運とは重なるタチのものらしく、これだけに留まらなかった。 「なにモタモタしてるのさ、姉さん。みんな、部屋で待――」 いつまでも来ない翠星石たちを案じて、蒼星石が様子を見に来たのである。 「そそ、蒼星石っ?! 違うです、これは……ぁんむぐぅ!?」 翠星石は慌てて弁明しようとしたものの、またもや寝ぼけた水銀燈に唇を塞がれて、 更なるドツボ状態に陥ってしまった。 あまりの衝撃映像に、蒼星石は言葉を失い、双眸を見開いて固まっていた。 持ち前の気丈さで我を取り戻したものの、すぐにオロオロそわそわし始める。 か細い声を震わせ、口元を手で覆った姿は、周章狼狽の一歩前だった。 「あの……ボク、知らなくて……邪魔する気なんか――」 「ん――っ! ン――っ!」 喋ることも儘ならず、かと言って逃れることすらできない翠星石は、 せめてもの意志表示とばかりに呻いた。これは偶発的なアクシデントなのだ、と。 けれど、平常心を失っている妹が、姉の真意を理解することはなかった。 「ごめんなさいっ!」 謝った声は、涙声。蒼星石は、身を翻して走り去ってしまった。 水銀燈の抱擁から逃れられないまま、遠ざかる妹の足音を耳にした翠星石は―― (あ……はは…………明日は…………どっちですぅ?) 身もココロも、真っ白に燃え尽きていた。 おいしくて豪華な晩餐も、旅の楽しみである。その土地の銘酒が揃えば、尚のこと。 誰もが【キタ━━(*゚∀゚)=3━━!!】な気分で、忙しなく箸を動かす中で、 【ショボ━━(´・ω・`)━━ン↓↓】と不景気な顔をする娘が、ふたり。 翠星石も、蒼星石も、黙々と料理を口に運ぶものの、味など分かっていなかった。 たまに、互いの顔色を盗み見て、視線がぶつかっては目を逸らし、 誰にも気づかれないように、微かな吐息を漏らす。 双子の姉妹は食事の最中、飽きもせずに、そんな事を繰り返していた。 賑々しい夕食が終わると、銘々、適当に自由な時間を過ごし始める。 酔いと満腹で、横たわるなりウトウト始める者。 温泉一直線の者。なんとはなしにテレビを見ながら、食後のお茶を楽しむ者。 翠星石はと言うと、のんびり温泉に浸かって、気持ちを整理するつもりだった。 ――どうしても、先刻のアクシデントが頭を離れない。 犬に噛まれたようなものと思って、忘れてしまえたら良いのに…… 彼女の努力を嘲笑うが如く、記憶はありありと甦ってくる。 水銀燈の匂い、体温、吸い付いてくる汗ばんだ肌、柔らかな唇の感触さえも。 (あああああ! もうっ! もうっ! どーして、こんなコトにぃ……) 食事中も、ずっとこんな風に、ココロが千々に乱れっぱなしだった。 水銀燈を見ると頬が熱くなったし、蒼星石を見ては胸が苦しくなっていた。 なのに、コトの元凶である水銀燈は、ケロッと涼しい顔をしている。 さっきの事件のことなど、まるで憶えていないのか、平然としたものだ。 それが余計に、翠星石の苛立ちを募らせていた。 (あうぅ……まったく、とんだ厄日ですぅ) 思い返してみると、今日は朝から、やることなすこと裏目に出ていた。 この分では、温泉に浸かって気分転換を図っても、また悪い目に遭うのでは? 脚を滑らせて転倒とか、のぼせて溺れそうになるとか…… そこはかとなく不安に駆られて、翠星石はアタマを抱えた。 背後から話しかけられたのは、そんな時だった。 聞き馴染んだ声に、翠星石が振り返ると、ぎこちなく微笑む蒼星石が居た。 「先に、お風呂いくの?」 「そのつもりですけど……何か用です?」 「えっと……良かったらさ、そのぉ……夕涼みも兼ねて、散歩しない?」 珍しく、蒼星石からのお誘い。きっと、彼女も先程のコトが気掛かりなのだ。 ナニも見なかったと自分を偽り、有耶無耶にしたまま悶々と夜明けを待つよりは、 ちゃんと言葉を交わす方が良いと、考えたのだろう。 それが、どんなに残酷な結末を招き寄せるとしても、逃げるよりはマシ……と。 「いいですよ。腹ごなしがてら、懐中電灯もって出発ですぅ」 翠星石は、部屋割りで同室となったみっちゃんに一言告げて、妹の手を引っ張った。 すっかり日が暮れた山中の空気は、驚くくらいヒンヤリしている。 エアコンのない柴崎家なら、いま時分、いつもの熱帯夜に茹だっている頃だ。 その延長的思考でいた翠星石は、半袖ブラウスにロングスカートという軽装だった。 彼女の隣を歩く蒼星石も、ポロシャツにスラックスと、涼しげな恰好である。 二人とも頻りに、剥きだしの腕を掌で擦っていた。 「思ったより肌寒いね。なにか、羽織ってくれば良かった」 「ですぅ……。蒼星石、もっと私の近くに寄るですよ」 右手にライトを持ちながら、翠星石は左手を妹の腰に回して、 控えめに――だが、しっかりと――抱き寄せた。 それに応えて、ぴとっ……と寄り添った蒼星石も、姉の長い髪に右腕を埋めた。 温かいねと呟き、嬉しそうに微笑みながら、翠星石の細い腰を引き寄せる。 お互いが少し前まで感じていた気持ちの隔たりは、もう消え失せていた。 身を寄せ合って温もりを共有しながら、どちらからともなく、夜空を仰ぎ見る。 そこには満天に鏤められた星と、新月を迎える前の細い月があった。 八月は、月見月とも呼ばれる。でも、今夜の月は痩せすぎていて、趣が無い。 「……あのね、蒼星石」翠星石は夜空を見つめながら、徐に語り始めた。 「さっきの、アレは――事故だったですよ。銀ちゃんってば、寝ぼけてて……」 「うん」と、蒼星石は、なんの疑いもない様子で頷く。 「あの時は狼狽えて逃げちゃったけど、あとでね、冷静になって考えたんだ。 そしたら、何かヘンだな……って。だって、そうでしょ? 人一倍、恥ずかしがり屋の姉さんが、白昼堂々あんなことするワケないよね」 さすがに双子の妹。翠星石の習癖は、手に取るように解るらしい。 翠星石は安堵の溜息を漏らすと、妹の撫で肩に、熱を帯び始めた頬を載せた。 彼女の髪に耳元を擽られて、蒼星石は小さく、熱っぽい息を吐いた。 「よかった。誤解されて、嫌われちゃうんじゃないかと、心配だったです」 「……実を言うとね、ボクも……すごく不安だったんだよ。 まさかとは思ってた。でも、もしも……姉さん達が、そういう仲ならば―― もう、ボクたち、一緒に居ない方が良いのかなって」 なに言うですか。翠星石は、声色に少しの怒りを滲ませて、続けた。 「蒼星石は、そんな簡単に、私のことを手放してしまうですか? そうやって、また独りで、遠くに行ってしまうですか?」 「…………え?」 「今まで、私がどんな想いで過ごしてきたか、解らないのですか? 切なくて――どれだけココロを痛めたか、解ってくれないですか?」 「…………姉…………さん」 「ばか……バカ、馬鹿、ばか…………バカ…… 蒼星石は…………とんだ……姉不幸者ですぅ」 蒼星石は右の肩に、姉の体温とは違う熱さと、湿り気を感じた。 理由を察した彼女は、翠星石と向かい合うなり、ぎゅうっと抱きしめた。 「ごめんね……姉さん。ボクは、悪い子だね」 「蒼……星石ぃ……っ」 情緒纏綿という言葉がある。深い愛情で結ばれて離れ難い、という意味だ。 そんな表現があることを、二人は知らない。 だが、意味については、経験的に熟知していた。 翠星石はライトを手放し、妹の背に両腕を回して、しっかりと縋りついた。 ここに、蒼星石が居ることを確かめるように、背中を撫で、シャツを掴んだ。 照明の乏しい山道に落ちたライトが、二人の足元だけを照らしている。 頼りなげな星明かりの下、しゃくり泣く翠星石の声に、虫の声が重なる―― 尽きることのない涙で緋翠の瞳を曇らせる姉を、蒼星石は黙って抱きしめていた。 どれだけの時間、抱擁を交わしていたのだろうか。 暗い森の中で、不意に啼いたセミの声に、二人がビクン! と肩を竦める。 それで我に返った時、彼女たちの服は、仄かに汗で湿っていた。 「それにしても……一生の不覚だったですぅ」 抱きしめる腕の力を、気持ち弛めて、翠星石がポツリと呟いた。 なにが? 蒼星石の問いかけは、しかし、放たれる寸前、姉の声に遮られる。 「初めての……キス……でしたのに」 翠星石の手が、キュッと蒼星石のシャツを握りしめた。 おそらく、車の中で水銀燈にされたコトを、言っているのだろう。 蒼星石は、口の端を苦笑で歪めながら、ココロの中で囁いていた。 (ゴメンね、姉さん。キミのファーストキス、ボクが貰っちゃったんだ。 そして――ボクのファーストキスは、キミにあげたんだよ) プールサイドでの人口呼吸なんて、キスとは呼べないかも知れない。 だが、蒼星石にとっては、あれが初めて他人と唇を重ねた瞬間だった。 しかも、それが大好きな翠星石だったのだから、特別な記憶として残っていた。 ふと、蒼星石の胸の奥で、心臓が一拍した。 それを機に、はしたない衝動が、疼きを生み出す。 蒼星石は、翠星石の肩に手を置き、ちょっと引き離して…… お互いの鼻先が触れ合うくらい近くで、翠星石と見つめ合った。 「ボクは、二番目でも構わないよ。だから、ねえ…………キス、しよ?」 「なっ?! なに言い出すですっ?」 「いいじゃない。この暗さだし、誰も見てないよ。 それに、コミケの帰り道で約束したでしょ。ボクの頼み、聞いてくれるって」 「う……………………しゃ…………しゃーねぇ……ですぅ」 夜闇に紛れて繋がる、二つのシルエット。 ただ触れるだけの、焦らしているのかと訊きたくなるほどの、気安いキス。 すぐに離れていった柔らかな感触を、今度は蒼星石が追いかけて、啄んだ。 その、あまりにも積極的な妹の攻めに、翠星石は絶句して、俯いてしまった。 「ありがと、姉さん」 蒼星石は、足元のライトを拾いながら、話しかけた。「嬉しかったよ」 「そそ……それは、そう! 姉としての義務みてーなもんですぅ!」 「いいよ、同情でも。それよりさ、冷えてきたし……戻って、お風呂はいろ?」 「……そうですね。折角、温泉に来たですから」 翠星石は、まだドキドキしている胸に手を当てながら、答えた。 そして、あんなコトをしていながら平然と構えている蒼星石を横目に睨みつつ、 宿への道を、仲良く並んで戻っていった。
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