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『愛って、なんですか?』 キミに初めて会ったのは、穏やかに晴れた、春の昼下がりだった。 病院の中庭で蹲り、苦しそうに咳き込んでいたキミを見付けて―― ボクは、手を差し伸べずにはいられなかった。 ――それが、ボク達の馴れ初め。 あれから、もう半年が過ぎようとしている。なのに、彼女の病状は相変わらずだ。 心臓の病だと聞かされたときは、流石にショックで、目の前が真っ暗になったのを、 今でも憶えている。 同い年の娘が、刻一刻と近付く今際の時を待ちながら日々を送っているなんて、 考えたこともなかった。 でも、世界中では常に起きていること。 ボクより若くして、この世から去っていく人たちだって居る。 だから、ボクは毎日を大切に生きようと思い、今日もまた、彼女の元を訪れる。 高校のクラスメートにして、彼女の親友でもある水銀燈と一緒に。 「はぁい。今日も来たわよぉ。麗しき乙女たちの御登場ぉ~♪」 病室の戸を軽快にノックするや、水銀燈は彼女の返事を待たずに、扉を開く。 ボクは苦笑しながら、水銀燈の後ろに付き従う。 二人でお見舞いに来る時は、いつも、この順番だった。 水銀燈と彼女の関係を知って、なんとなく、そうした方が良いと思えたから。 彼女と私の邂逅は、もう半年は前のことになる。 空は穏やかに晴れて、例年になく温かな、春の昼下がりだった。 病室のベッドでひなたぼっこしていたら、とても気持ちよくて―― 春の陽気に誘われて、病院の中庭を散歩してみた。 私にしては珍しい心境の変化だ。普段は、トイレに行くことすら物憂いのに。 けれど、訪れた中庭の花壇には、何も植えられていなかった。 乾燥した冷たい風に晒されて、土は水を求めるかの様に、黄褐色に渇ききっている。 それに対して、中庭の中央に聳える木は、青々と葉を茂らせていた。 他の木々は、去年の衣を全て脱ぎ捨て、貧相な体躯を晒しているというのに。 (なんて言う名前の木なのかな?) 木を見上げた私の髪を、冷たい春の風が舞い上げて、首筋を撫でた。 今にして思うと、あれは風じゃなく、死神の吐息だったのかも知れない。 なぜなら、その直後、私は激しく咳き込んで、立っていられなくなったのだから。 その場に蹲り、呼吸困難で吐き気すら覚えていた。 このまま、死んでしまうんだと思っていた。 苦悶に喘ぐ私の背中を、優しく撫でてくれたヒト……。 それが、運命の人との、運命の出会いだった。 栗色のサラサラした髪を風に靡かせ、彼女は春の光に包まれ、優しく微笑んでいた。 「大丈夫?」 その時に思ったことは、今も忘れない。 『見れば判るでしょ! 大丈夫なワケないじゃない! バ~カ!』って、思ったのよ。 あの時の事を思い出すと、ボクは顔から火が出るくらいに恥ずかしくなる。 我ながら、間抜けな質問をしたものだ、と。 暫くの間、彼女の背中を撫でてあげてたら、咳は徐々に収まっていった。 そして、彼女はボクを横目に睨みながら、こう言ったんだ。 「ねえ、おバカさん。この木が、なんて言う名前か、解る?」 初対面の人間に対して、なんて無礼な口を利くんだろうと、その時は腹が立った。 でも、入院患者が薬品の副作用や、ストレスで情緒不安定になる事は良くあること。 ボクは、彼女が指差した木を見上げて、教えてあげた。 「この木はね、柚だよ。寒さに強い木なんだ」 「……へぇ。それで、葉っぱが、あんなに青々としてるのね」 「患者さんに気を遣って、冬でも葉が散りにくい樹を植えたのかもね。 花言葉も二つ有って『健康美』……って意味が含まれているんだ」 「健康美、かぁ。今の私には、叶わぬ願いね」 言って、彼女は、とても白けた様な表情を浮かべた。 当時のボクは、どうして彼女が、そんな顔をするのか解っていなかった。 「ねえ、花言葉は二つ有るって、言ったわよね。もう一つは?」 唐突な質問に、ボクは素直に答えてしまった。 「もう一つは『恋のため息』だよ」 「恋の……ため息ぃ?」 あの時の事を思い出すと、私は顔から火が出るくらい、恥ずかしくなる。 我ながら、幼稚な態度だったと、つくづく思う。 お腹を抱えて爆笑する私を見て、彼女はきっと、軽蔑したことだろう。 性格の悪い娘だ……と。 でもね、本当は、あの時……既に、心を奪われていたのよ。 彼女のことを、私だけの天使だと思っていた。何故だろうね? 「ねえ、貴女の名前は?」 「ボクは、蒼星石。キミは?」 「私、めぐ。柿崎めぐ」 お互いに名乗った後、私は蒼星石に、病室まで付き添ってもらった。 その辺の看護婦さんは、どうにも好きになれない。 上辺の作り笑いばかりで、見ているだけで虫酸が走ったわ。 私の病室は五階で、とても見晴らしが良い。いい加減、見飽きたけれど。 まあ、誰に気兼ねしなくても良い一人部屋なのは、嬉しいけどね。 窓の外に広がる景色を、蒼星石は眩しそうに眺めていた。 そんな彼女を、私の方に振り向かせたくて……私は、他愛ない話を切り出した。 「もうすぐ、桜の季節ね。蒼星石は、お花見とかするの?」 「うん、するよ。お爺さん、お婆さん、それに、姉さんと。キミは?」 「しないわ。散りゆく花は美しいって他人は言うけど、私は、そう思わない。 周囲に花弁を撒き散らして、汚しているだけよ。ちっとも綺麗じゃないわ」 「めぐは、現実的なんだね。キミの性格からすると、花より団子?」 そんな冗談を言われても、いつもは笑えなかった。 でも、その時は……心から笑える私が居た。 あれから半年。月日が経つのは、本当に早い。 出会ってから今日まで、ボクは毎日、めぐの元を訪れている。 平日は放課後、水銀燈と一緒に。週末ならば、都合が良い時間に。 今日は金曜日。水銀燈と一緒に、花屋に寄ってコスモスを買ってきた。 本来ならば秋の花なんだけど、最近では年中、買えたりする。 風情も情緒も、あったもんじゃない。 「めぐ。この花、ボクと水銀燈からの気持ちだよ」 「花言葉は乙女の真心よぉ? ありがたぁく受け取ってよねぇ、めぐぅ」 「ありがとう、二人とも。私、幸せよ。ホントなんだからね」 めぐは、くどいくらいに『ホント』を強調して、嬉しそうに微笑んだ。 そこまで喜んでもらえれば、ボク達も嬉しい。 水銀燈はコスモスを生けるため、花瓶に水を汲みに行った。 そして、ボクはめぐと、他愛ない話を始めた。 「もしも……そう。もしも……の話だよ?」 「なんなの? 『もしも』ばっかり並べ立てて……もしもシリーズ?」 「ちょっとした例え話だってば。もし、願った姿に変えてもらえるとしたら、 めぐは、何に成りたい? どんな姿を夢見るの?」 「夢? 私の? そおねぇ…………私の夢は☆になること、かな? 夜空に瞬く星になって、毎晩、貴女の寝顔を眺め続けるの。ステキでしょ?」 ステキかどうかは、よく解らない。 けれど、たとえ冗談だったとしても、めぐに想われるのは不快じゃない。 それどころか、とても嬉しかった。心が震えてしまうくらいに。 どんよりと曇った日も、カンカン照りで暑い日も、鬱陶しい雨降りの日も、 蒼星石は欠かさず来てくれる。今日は土曜日だというのに。 私なんかの為に、どうして、そこまでするの? してくれるの? 同情? ううん……少し、違う気がする。 今日も、窓の外はスッキリと晴れ渡っていた。 小さな雲が、一つ、二つ、流されて行く。 「蒼い空の向こう側って、どうなっているんだろうね。飛んで行きたいなぁ」 思い付いたままを口にすると、蒼星石は「うん」と頷き、遠い目をした。 「翼さえ有ったら、飛んでいけるのにね」 「蒼星石も、そんな風に思うんだ?」 「ボクだって、女の子だよ。夢で理想を見るし、現で恋を探したりもするさ。 時には、センチメンタルな幻想を追い求めることも……ね」 「だったら、今日は幻想を追いかける日なのかなぁ」 「ふふ……そうかもね」 含み笑う蒼星石を、私は散歩に誘うことにした。 こんなに天気が良いんだもの。 少しくらい歩かないと、退屈で退屈で、身体中にカビが生えてしまうわ。 「蒼星石。ちょっと、その辺をブラブラしない?」 「珍しいね、めぐから誘って来るなんて」 「そんな気分なのよ。もっと……一緒に居たいの」 何気ない呟きが、実は思いがけない大胆発言だったと気付いて、 私は……身体が熱くなるのを感じた。 彼女の呟きは、本心? それとも、いつもの冗談? ボクの心に、妖しい空気が流れ込んできた。なんとなく恥ずかしい。 だけど、ボクはこの雰囲気を大切にしようと思った。 ベッドから降りて、靴を履いた彼女に、ボクはそっ……と、腕を差し出す。 「手を繋ごうよ。こうして……ほら。僕の右手に君の左手」 「エスコートする男性役? 知らないのね。普通は、男の人が右に来るものよ。 だから、繋ぐ手も逆だわ」 そう言えば、雛人形だと、お内裏様がお姫様の右隣に来てたっけ。 ボクとしたことが、迂闊だった。なんて格好悪い。 「ほらほら、早く出かけようよ、蒼星石っ♪」 めぐは、さり気なくボクの左手を右手で握って、グイと引っ張った。 温かく、柔らかい掌の感触。 ボクは彼女の手を握り返して、病室を後にした。 やって来たのは、思い出の中庭。九月の陽気は、まだ夏を思わせるほどに暑い。 めぐと出会った頃は土が剥き出しになっていた花壇も、今は薔薇の花で飾られていた。 「へえぇ。綺麗に咲き誇ってるね。でも、ちょっと手入れが雑かなぁ」 いつものクセで、つい薔薇の花に手を伸ばしてしまったとき、指に棘が刺さった。 らしくない。何をしてるんだろう、ボクは。 刺した箇所から溢れ出した血が、玉のように膨らんでいく。 「何してるのよ。薔薇の棘には御用心。意外に、そそっかしいのね、貴女」 私は、蒼星石の手を取って、彼女の指を銜えた。 本当なら、感染症予防の理由などで、口に銜えるのは避けるべき事だけれど。 でも、私は胸の奥底から込み上げてくる衝動を、抑えることが出来なかった。 蒼星石の指をしゃぶって、彼女の血を味わった。 「ちょっ……めぐ……そんなに舐めたら、くすぐったいよ」 頬を紅潮させて、蒼星石は恥ずかしそうに囁く。周囲の眼を、気にしているのかしら。 誰かに見られているかも……と思うと、流石に、私も恥ずかしくなった。 身体が火照って、ヘンな汗が出てくる。けれども、不思議と、心地よかった。 トクン、トクン、トクン……。 いつもより、心臓の調子も良いみたい。 「めぐ……顔が赤いよ? 病室に戻った方が良いんじゃない?」 「そ、そうね。戻ろうか、蒼星石」 私は蒼星石に付き添われて、少し前に出たばかりの病室に戻ってきた。 ベッドには、まだ温もりが残っている。 「あ~ぁ。ずっと一緒に……居たかったのに」 あまりの名残惜しさに、そんな戯れ言を口にしてみた。 蒼星石は「いいよ」と囁くと、扉に面会謝絶の札を下げ、施錠して、窓のカーテンを引いた。 「君が好きだから、誰よりも長く、誰よりも近くに居てあげる」 そう言って、蒼星石は……私を、ゆっくりとベッドに押し倒した。 ボクは、残暑の熱に浮かされていたのかも知れない。 若さ故の過ちだったのかも知れない。 幸せそうな、めぐの寝顔を眺めながら、ボクは自己嫌悪していた。 さっきの行為を思い出すだけで、恥ずかしすぎて、死んでしまいたくなる。 だけど――めぐを好きだって気持ちは、嘘じゃなかった。 寧ろ、その想いは今も、強くなっている。どんどん、強くなってゆく。 ボクは、乱れた着衣を整えて、カーテンを開いた。 いつの間にか陽は西に傾き、空は薄紅に染まり始めている。 病室の白い壁が、射し込む西日によって、鮮やかな黄昏色に染め上げられた。 「う……ぅん」 背後で、めぐが目を覚ます気配がした。 振り返ると、ボクとめぐの目が合ってしまった。 めぐは、慌てたように顔を背けて、窓の外に視線を向ける。 「き、き、綺麗な……夕焼けね。明日は晴れるわ。きっとよ」 照れ隠しか、そんな取り留めのない事を口にした。 「本当に、綺麗な夕日だね」 ボクは相槌を打って、めぐの側に歩み寄り、彼女の黒髪を撫でた。 「……明日も、きっと来るから」 《中編につづく》
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ひとりの乙女が綴った、手紙。 想いを包み込んだ、日焼けした封筒は、いま―― 知り合って間もない、純朴そうな男性の手の中に横たわり、眠りに就いている。 遠くて高い青空に、真一文字の白線が、引かれてゆく。 彼は、その飛行機雲を目で追いながら、ふぅん……と、呻るように吐息した。 そんな彼の横顔を見つめながら、私は温いコカ・コーラを口に含む。 ワインのテイスティングをするみたいに、そっと舌先で転がすと、しゅわぁ…… 弾ける泡の音が、耳の奥で、蝉時雨とひとつに溶けあった。 「大きなお屋敷に住んで、お抱えの運転手がいたり、使用人を雇ったり…… 話を聞いてる限りじゃあ、君の家は、随分と資産家だったんだね」 やおら口を開いたかと思えば、その三秒後。 彼はいきなり、あっ! と大きな声をあげて、気まずそうに頭を掻いた。 本当に突然だったので、私は危うく、飲みかけのコーラで咽せ返りそうになった。 「ごめんな。だった――なんて過去形は、とんでもなく無礼だよね。 ……ダメだなぁ、僕は。どうにも口が下手で、よく失敗するんだ」 「いいえ……気にしてませんよ。実際に、零落した家柄ですから」 私の言葉は、決して謙遜でも、彼を気遣ってのことでもなかった。 かつての土地や屋敷は、戦後の混乱で、他人の手に渡ってしまったのだから。 他人様に胸張って『資産』ですと誇れるモノなんて、本当に、何もなかった。 幕間1 『恋文』 少しばかり、気まずい空気。私も彼も、相手の言葉を待つばかり。 木陰のベンチに並んで座ったまま、汗ばむ肌を、吹き抜ける熱い風に晒していた。 どれほどか――私が一本目のコーラを飲み干してしまうくらいの時間が経って、 「よかったら、教えて欲しいんだけど」 やっと、彼は口を開いてくれた。「ひいお祖父さんは、どんな仕事を?」 別段、秘密にするようなコトでもない。私は正直に答えた。 「小さい頃から、お祖母様に繰り返し聞かされてきた話ですと、 曾祖父は、海運会社を立ちあげ、一代で財をなした傑物だったそうです」 「海運かぁ。世界大恐慌が1929年10月以降のことだから…… 1932年当時といったら、海運業も厳しい時代じゃなかったのかな」 「ところが、そうでもなかったみたいですよ。 フランスは、イギリスやアメリカ同様、ブロック経済政策を採りましたから。 曾祖父の会社は、本国とマダガスカルを結ぶ航路で収益をあげていたみたい」 彼は「なるほどなぁ」と顎のラインに指を滑らせ、頻りに頷いていた。 それにしても、この人……見かけは凡庸だけど、なかなか知的なのね。 すらっと年代が出てくるあたり、世界史の知識は、それなりにあるらしい。 私は彼に促されて、昔話を続けた。 「少し、時間を遡ります。1930年のことだったと、お祖母様は仰ってました。 事業の拡大を考えていた曾祖父の元に、一人の日本人青年が訪ねてきたそうです」 「日本人…………そうか! それが、この【Yuibishi】氏だね?」 「ええ。彼は日本の財団経営者で、新しい事業を興そうと考えていました」 当時、世界大恐慌の影響で、日本でも昭和恐慌という事態に陥っていたと聞く。 ただでさえ、ブロック経済により高い関税障壁が立ちふさがっているのに、 対外貿易を展開しようだなんて、分の悪い賭博もいいところだわ。 どう考えてもハイリスク・ローリターン。最悪ノーリターンという場合も……。 堅実な商売人ならば、絶対に頚を縦には振らなかった筈よね。 「事業提携を持ちかけた訳だね。結果は、どうだったんだい?」 「それはもう、トントン拍子に。曾祖父にとっても、渡りに船でしたから。 異国からの客人を自宅に宿泊させて、もてなしたそうです」 「君のお祖母さんも、その時に【Yuibishi】氏と会ってたんだな」 「……はい。その当時、お祖母様は14歳。青年は18歳だったと―― お互いに歳が近く、青年がフランス語に堪能だったことも手伝って、 二人はすぐに打ち解け…………淡い恋心を抱くようになりました」 「すると――」彼は手にしていた封筒を、ひらりと振った。「これって、まさか」 彼が言わんとする事は、私にも解った。 「多分、あなたが考えているとおりでしょう。それはラブレターです。 二人は離ればなれになっても、頻繁に便りを出し合っていました」 そして……と、私は75年の歳月が染み込んだ封筒を指差して、告げた。 「それが、二人の間で交わされた、最後の手紙だったんです」 最後という単語に興味をそそられたらしく、彼は瞳を輝かせた。 「ちょっとだけ、この手紙……読ませてもらっても、いいかな」 どうぞ、と。私は気軽に応じた。 便箋を抜き出して、慎重に広げた彼は、やおら眉を顰めて呻った。 「これって、どこの言葉だろう? アラビア語……とか?」 読めなくて当前。ブルーブラックのインクで綴られた文章は、フランス語よ。 ただし、鏡に映さなければ読めない、逆さ文字だけどね。 私は、困り顔の彼を眺めて、堪えきれなかった笑みを、クスッと漏らした。 そして、笑ったお詫びに、手紙の内容を諳んじてあげた。 私のカラダが醜く老いさらばえ、朽ち木の如く滅びようとも―― 私のココロは必ず、その骸を苗床にして、新たな命を芽吹きます。 いつまでも……それこそ未来永劫、あなたを想い続けるでしょう。 いつか、この胸に宿した片想いが、あなたに届くと信じたままに。 けれど……もしも―― 私の醜い本性を、あなたが知ってしまった時は……どうなってしまうの? 私の声に、あなたが応えてくれなくなった時は……どうなってしまうの? 仮定を仮定で補って――絵空事を描くことだけ、ひとり上手になってゆく。 怖い。とても……恐い。 カラダが朽ち果てて、ひと握りの土に還ることよりも―― ココロの死と共に、大切に温めてきた想いが、滅びてしまうことが。 幸せも、歓びも、すべてが空虚な幻だったと、解ってしまうことが。 愛しています。 愛して下さい。 ぐるぐると――それこそ未来永劫、二人の想いが廻るだけ。 それが、私の望む世界の、すべて。 「――と、書かれているんです。悲壮で、いかにも最後って感じですよね? まあ、ともかく……お話を続けましょうか。古い古い、夢のお話を――」 彼は無言で頷いた。蝉時雨の合間に、ごくり……と、喉の鳴る音が聞こえた。 幕間1 終 【3行予告?!】 二人を繋ぐ糸が見えたらいいねと、目を閉じた微笑みを、今も憶えてる―― ふとした小さなキッカケが、大きな変化をもたらすことは、よくあります。 水面に落とした礫が、波を生んで、岸辺の土を抉りとってしまうように。 次回、第五話 『Dear My Friend』
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~第二十五章~ 眼帯を外しさえすれば、全てが判る。 この娘が、幼い頃に生き別れになった姉なのか、どうか。 薔薇水晶は幾度も唾を呑み込みながら、震える指を雪華綺晶の眼帯に伸ばした。 けれど、巧く掴めない。 ここまで来て、何をやっているんだろう。ああ、もどかしい。 つい、乱雑に剥ぎ取ろうとして、思わず雪華綺晶の額を引っ掻いてしまった。 途端、カッ! と、雪華綺晶の左眼が見開かれる。 彼女は鋭い眼差しで、薔薇水晶をジロリと睨みつけた。 「ひゃぁっ!」 あまりの気迫に圧されて、薔薇水晶は尻餅を付いて、後ずさった。 何の騒ぎだという風に、みんなの視線が彼女に注がれる。 そして、彼女の隣で目を覚ましている雪華綺晶を目の当たりにして、全員に戦慄が走った。 「これは、なんの真似ですの? 捕虜にしたつもりなのでしょうか?」 手足を縛られた雪華綺晶は、直立姿勢のまま、 見えない糸に吊り上げられる様に起き上がった。 得物を手に立ち上がった犬士たちを眺め回し、最後に薔薇水晶で視線を止める。 当の薔薇水晶は、さながら蛇に睨まれた蛙のごとく、身を強張らせていた。 「貴女…………薔薇水晶……ですね?」 「あぅ……う……うん」 「皮肉な運命ですわ。貴女が犬士になっていたなんて」 溜息混じりに呟いた雪華綺晶の表情は、しかし、妖しい笑みを湛えていた。 金色の左眼が、狂気の輝きを増していく。 「でも、モノは考え様ですわね。どんな形であれ、再会できたのですから、 私の手で穢れを植えつけてあげましょう。 そうすれば、また……仲良く暮らせますわ。昔みたいに」 雪華綺晶の髪が、すきま風が吹いた訳でもないのに、ざわざわと逆立った。 彼女の背後から、真っ黒な双頭の魔犬が姿を現す。 と同時に、雪華綺晶の縛めが、ぶちぶちと千切れ飛んだ。 「どうせですから、全員まとめて、相手して差し上げましょうか」 「随分と自信たっぷりだね。独りで、ボクたちに勝てると思っているのかい?」 「召還精霊だけで、私たちに勝負を挑むなんて、考え甘いわよぉ」 召還精霊は、剣同体型精霊や防御装甲精霊と異なり、本人と同体化している。 故に、雪華綺晶が気絶していたにも拘わらず、奪っておけなかったのだ。 それに、もし召還されても水銀燈、蒼星石、翠星石、金糸雀の攻撃系精霊を駆使すれば、 楽に撃退できると安易に考えていた節もあった。 流石に、分の悪いことは、雪華綺晶とて承知している。 獄狗に古刹の壁をブチ破らせると、ひらりと外に躍り出て、右手を天に翳した。 彼女の右手に、黒い靄が何処からか集まってきて、棒状に凝結し始める。 全員が注目する中で、それは鬼気迫る気配を宿した槍として具現化した。 「狭い室内ならともかく、機動力を活かせる森の中に出てしまえば、 私の方が有利ですわよ」 言って、雪華綺晶は、身軽な動作で獄狗の背に跨った。 彼女を追って古刹から出てきた犬士たちに、槍の切っ先を向け、嘲笑する。 「この鬼槍『天骸』は、邪鬼の骸を元に鍛え上げられた、穢れの塊。 独り残らず、穢れた骸にしてあげましょう」 「それは勇ましいわね。けれど、貴女の場合は蛮勇に過ぎないわ」 「蛮勇かどうかは、実際に手合わせすれば判ること」 俊敏な獄狗を駆った雪華綺晶の突撃は、かつて体験した事が無いほど強烈で、 破壊の衝動に満ち溢れていた。 雪華綺晶の槍を、辛うじて弾き返した水銀燈に、獄狗の牙が襲いかかる。 「くっ! 間に合わ……」 重い突きを跳ね返す為に両脚を踏ん張っていたので、咄嗟には躱しきれない。 だが、牙が彼女に届く寸前、蒼星石の斬撃と金糸雀の氷鹿蹟が、妨害に入った。 氷鹿蹟の角は、思いの外、効果が見られる。 それに比べて、蒼星石の煉飛火は威力不足だった。相性が悪い様だ。 「た、助かったわ。ありがとぉ、二人とも」 「お礼には及ばないかしら。それより、煉飛火が――」 「うん。あの精霊には……煉獄の炎は効果が薄いみたいだね」 忌々しそうに、小さく舌打ちする蒼星石。 真紅は、そんな彼女に変わって、前衛に出た。 「ならば、私の神剣で、斬り捨てるのみよ」 「何にしても、あいつの動きを止めないとダメねぇ」 「将を射んとせば、まず馬を射よ。兵法の基本かしら」 「それじゃあ、ボクと水銀燈が右の頚。金糸雀は左を頼んだよ」 「私と薔薇水晶は、正面から仕掛けるのだわ」 手短に打ち合わせて、素早く陣形を整える。 今まで一緒に戦ってきただけに、流石に息が合ったものだ。 雪華綺晶を乗せた獄狗が、猛然と突撃してくる。 水銀燈と蒼星石、金糸雀が、絶妙の呼吸で両側から挟撃した。 けれど、雪華綺晶とて伊達や酔狂で四天王の看板を背負っている訳ではない。 獄狗を跳躍させて、両翼からの挟撃を、易々と回避した。 更に、正面に陣取った薔薇水晶たちの頭上を飛び越し、真紅の背後に着地する。 ――狙いは最初から、真紅ただ一人。 「貴女もしぶとい娘ですわね、真紅。ムカデの毒で、死ねば良かったのに」 「お生憎さま。そう簡単には殺されてあげないわ」 「……ならば、試してみましょうか」 雪華綺晶の槍が、無防備に晒された真紅の背中を狙って突き出された。 予測を遙かに上回る速さ。法理衣の起動が間に合わない。 「ダメだよ、お姉ちゃんっ!!」 穂先が真紅を貫くより僅かに早く、薔薇水晶は二人の間に割り込んでいた。 圧鎧を起動していたお陰で、槍は彼女の脇腹を痛打しただけで済んだ。 しかし、それだって並大抵の衝撃ではない。 薔薇水晶は息を詰まらせ、脇腹を手で押さえながら、吐き気を堪えていた。 反撃に移る気力を、どれだけ振り絞ろうとも、身体が言う事を聞いてくれない。 「よくも邪魔してくれましたわねっ! このっ!」 「あうっ!」 槍の柄で力任せに左頬を殴り飛ばされ、薔薇水晶はもんどり打って倒れた。 その拍子に外れたのだろう。彼女の洒落た眼帯が、宙に舞った。 苦痛に呻きながら、薔薇水晶は顔を上げ、雪華綺晶を睨めつけた。 今まで眼帯で隠し続けてきた彼女の左眼は、真っ赤な色をしていた。 けれど、翠星石や蒼星石みたいな、美しく澄んだ緋色ではない。 血液を彷彿させる、濁った赤。しかも、結膜炎なんて生易しいものではない。 まるで、ウサギの瞳の様な……赤色だった。 「薔薇水晶! 貴女、その眼は狗神の――」 真紅の声に、薔薇水晶は答えようとしない。 ただ黙って眼帯を掴むと、素早く左眼を覆い隠して小太刀を引き抜いた。 彼女の右眼に宿るのは、僅かな悲しみと、静かな怒りの炎。 この人は、自分の知っている姉ではない。 きっと、心まで穢れきってしまったのだ。 ならば、もう迷わない。 みんなを護るため、そして姉の魂を救うために……私が、この手で斬る! 「……本気で行くよ」 突進する薔薇水晶を目がけて、獄狗の牙と、前足が襲う。 牙は言うに及ばず、前足の鉤爪も、強烈な殺傷能力を秘めている。 装甲精霊に護られているとはいえ、油断は禁物だった。 他の犬士も加勢して、雪華綺晶の攻撃を分散させる。 これだけの混戦になると、冥鳴や氷鹿蹟のような攻撃精霊は、使いにくい。 同士討ちの危険が有るからだ。 けれど、そうなると今度は、決定力が足りなかった。 こうなれば、不意を衝いて獄狗の脚を止めるしかない。 それには、彼女の協力が必要不可欠となる。 翠星石は隙を見て古刹に駆け込み、部屋の片隅で怯えている雛苺の肩を掴んだ。 「しっかりするです、雛苺っ!」 「で、でもっ……ヒナ、こ、怖いのぉっ!」 「誰だって、怖いですっ! 私だって、今すぐにでも逃げ出してぇですよ! でも、みんな恐怖に堪えて、必死に戦っているですっ」 「…………」 「蒼星石や真紅、銀ちゃんは、敵と肉迫して斬り合っているですよ。 斬られたら痛いのに……死ぬかも知れないのにです。なぜか解るですか?」 「うゅ……そ、それは?」 「みんなを護るためですっ! 結菱のおじじや、雛苺を護るためですっ! お前は、護られているだけで良いですか? 自分の力で、みんなを護りたいとは思わねぇですかっ?」 翠星石は、そこまで言うと、口を閉ざして雛苺の目を見つめた。 いつになく真剣な彼女の眼差しに、雛苺は震える唇を引き結んで、頷く。 そして、決然と言い放った。 「……思うの。ヒナも、みんなを……護りたいのっ!」 力を宿した瞳を見て、翠星石は口元を僅かに綻ばせ、雛苺の頭をポンと叩いた。 「それでこそ、私の妹です。感心感心、ですぅ」 「うぃ? でもでも、ヒナがお姉さんかも知れないのー」 「そ・れ・は・絶対に、ねぇですっ!」 「うゅぅ~」 「くだらねぇ話は、これくらいにするです。いいですか、雛苺。 これから教える作戦を、確実に、そのカラッポ頭に叩き込んどけです!」 さりげなく酷いことを言いつつ、翠星石は雛苺に攻撃の手順を教え始めた。 古刹の外では、相変わらず、真紅たちが苦戦を強いられている。 ただでさえ俊敏な獄狗に、木々の間を跳梁跋扈されては捕捉しきれない。 なんとか黒い旋風に打撃を加えようとするも、水銀燈や蒼星石の剣撃ですら、 すんなりと躱されてしまう。 しかし、森の中という状況で有利になるのは、雪華綺晶だけではなかった。 「始めるですよ、雛苺」 「うぃ。準備は出来てるのっ」 「じゃあ、行くですっ!」 翠星石が、黒い旋風めがけて走り出す。 その背後で、雛苺は発動型浄化精霊を起動した。 「お願いなの…………縁辺流ぅ!」 雛苺も精霊の制御に慣れてきたらしく、縁辺流は迅速に目的の場所に移動した。 周囲一帯に、清浄なる白い光が振り撒かれる。 遮る物の無い空中で、光の直撃を浴びて、雪華綺晶と獄狗は苦しげに呻いた。 目が眩んだのか、地面に降り立ち、束の間、動きを止める。 その瞬間を狙い澄まし、翠星石が特殊攻撃精霊を起動した。 「睡鳥夢っ! さあ、真紅っ! 今の内に、ヤツを斬るですっ!」 「っ! く……小賢しい真似を――」 睡鳥夢によって成長を促進された木々の枝が、雪華綺晶と獄狗を拘束した。 蜘蛛の巣状に伸びた木々の枝を潜り、または飛び越えて、真紅は突き進んだ。 雪華綺晶と、その精霊が身動き取れなくなっているのは、僅かの間だけだろう。 雛苺と翠星石が作り出してくれた、この好機。みすみす見逃すつもりは無い。 この一撃で終わらせるつもりで、真紅は斬りかかった。 「穢れに染まりきった哀れな存在よ。滅びなさいっ!」 「こんな……ところで……」 頭上に振りかぶった神剣を、真紅は、躊躇なく振り下ろす。 雪華綺晶は、両腕を絡め取った樹木の枝を、渾身の力で引き千切った。 そして、繰り出された真紅の斬撃を、鬼槍『天骸』の柄で受け止める。 「負けませんわっ!」 「往生際が悪いわねっ!」 力と力が、ぶつかり合い、鬩ぎ合う。 鬼槍『天骸』の柄が、嫌な音を立てた。今にも砕けそうに軋んでいる。 このままでは折れそうだが、と言って、退く事も出来ない。 雪華綺晶の額に、じわり……と、脂汗が滲み始めた。 めきっ! ついに、天骸の柄が爆ぜた。拙い、折れる! 雪華綺晶は咄嗟に、両腕で槍を押し戻した。 火事場の馬鹿力、というヤツだろうか。 力任せに圧されて、真紅は足場にしていた睡鳥夢の枝から、放り出された。 けれど、その一押しで鬼槍『天骸』の耐久力も限界を超えてしまった。 槍の柄が砕けただけだと言うのに、雷鳴の如き凄まじい轟音が鳴り響いた。 耳をつんざく爆音に、誰もが行動不能に陥る。 その影響は、当然の帰結ながら、槍を手にしていた雪華綺晶が最も強く受ける事となった。 最初に動いたのは、真紅と、薔薇水晶。 防御精霊に護られていた分、他の者より衝撃が軽かったのだろう。 「……退いて、真紅」 薔薇水晶は、併走する真紅に声をかけて、彼女を脇へ突き飛ばした。 突然の事に不意を衝かれ、真紅は足を縺れさせて、小さな悲鳴と共に転倒した。 そのまま走り去る薔薇水晶の背中を、真紅の声が追いかける。 「薔薇水晶、何のつもりっ!」 「決着は……私の手でつける。誰にも…………邪魔は、させない!」 獄狗の前で跳躍する薔薇水晶。 右手に握り締めた小太刀『焔』を、躊躇なく振り下ろした。 狙いは、雪華綺晶の首筋―― けれど、薔薇水晶の刃は、眼前の敵に届かなかった。 雪華綺晶が、真っ二つに折れた槍の片方で、小太刀を受け止めていたのだ。 「うふふっ……その程度の実力で、私の頸を狙うなど、笑止千万ですわ」 薔薇水晶は即座に左手の『樹』を振ったが、それも易々と止められてしまう。 得物を折られたことが勿怪の幸いになるとは、なんという皮肉だろうか。 雪華綺晶は、薔薇水晶に向けて、小馬鹿にするような薄ら笑いを浮かべた。 実際、侮辱しているのだろう。 その態度にカチン! ときた薔薇水晶は―― 「……まだ、だよ」 左足を振り抜き、雪華綺晶の横っ面を思いっ切り蹴り飛ばした。 薔薇水晶の爪先が、彼女の右頬に食い込む。 その拍子に――意図していなかったが――雪華綺晶の眼帯をもぎ取っていた。 「さっきのお返し。……ざまみろ」 「くっ! 小癪な真似をっ!」 雪華綺晶は、即座に向き直って、薔薇水晶を睨みつけた。 その右眼は……。 「なっ!? なんなの、それ?!」 薔薇水晶は愕然としつつも、慌てて飛び退き、着地した。 その周りに、先程の衝撃から回復した犬士たちと、結菱老人が集う。 そして、雪華綺晶の右眼を見た誰もが、驚愕と当惑の声を上げた。 「あれは…………穢れの……」 「間違いない。あれは怨嗟の血が染み込み、穢れた地に咲く寄生植物だ」 雪華綺晶の右眼からは、鮮血の様に赤い、一本の薔薇が伸びていた。 花の中央に在るのは、雄しべや雌しべではなく、鋭い牙の生え揃った小さな口。 それは蛇の様に細い茎をうねらせ、歯を鳴らして、真紅たちを威嚇していた。 =第二十六章につづく=
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『昼下がりの邂逅』 ――つまんない。 土曜日の午後なのに、薔薇水晶は独りだった。 みんなは部活や、諸々の用事に追われていて、遊ぶ約束も出来なかった。 退屈だけが、薔薇水晶の心に鬱積していく。 ベッドに寝転がったまま、窓の外に目を向ける。 よく晴れている。雲が高い。それに、とっても青い空。 「なんか……勿体ないなぁ」 宿題は無いし、急用が有るわけでもない。 と言って、このまま惰眠を貪る気分にもなれなかった。 少し、散歩でもしてこよう。薔薇水晶はベッドから跳ね起きると、 ジャケットを羽織って外に出た。 ――さて、何処へ行こうか? 「城址公園にでも行ってみよう。この間、植えたバラの苗を見に」 学園の緑化運動により、園芸部が接ぎ木・栽培した苗を植えたのは、一ヶ月前。 花が咲くには早いだろうが、どうせ暇つぶし。 長い石段を登っていると、上から運動部の一年生部員たちが駆け下りてきた。 練習、頑張ってね。ナニ部だか分からないけど。 花壇の近くには、誰も居なかった。 春が日一日と近付く今日この頃だけど、まだ風も冷たいし、散歩を楽しむ 陽気ではない。桜の蕾も、もう暫くしないと膨らんでこないだろう。 「今年も……お花見に来たいなぁ」 出来れば、銀ちゃんと二人きりで。 そして、こっそりお酒を飲んで……後は酔った勢いのまま―― 昼間から、つい、はしたない妄想を広げてしまった。 「ん? あれは――」 五百本の苗が植えられた花壇の前まで来た時、人の気配を感じて、 薔薇水晶は思わず足音を忍ばせた。 花壇の中に…………誰か居る。がさがさと音がしている。 園芸部の部員? それとも、まさか花泥棒? 静かに近付いて、様子を窺う。どうやら人ではないみたい。もっと小さい。 薔薇水晶は一定の距離まで近付くと、屈み込んで花壇の中を覗き見た。 ――がささっ!! 「……わひゃぁっ!」 突然、ナニかが飛び出してきて、薔薇水晶は思いっ切り尻餅をついてしまった。 一体、ナニが? 驚愕しつつも、反射的にスカートの裾を降ろしていた。 まさか、誰かにパンツ見られてないよね。 頬を赤らめながら周囲を見回すが、誰も居なかった。 ホッと一息。そうだ、いま飛び出してきたのは、何だったんだろう? 改めてナニかが走り去った方向に頚を巡らすと、少し離れた所に、 薄汚れた黒猫が蹲っているのが見えた。 苗をガサガサと揺らしていたのは、あの猫らしい。 大方、爪研ぎでもしていたのだろう。 「? なにか…………様子が変」 あれほど勢い良く飛び出して来たにも拘わらず、黒猫は突っ伏したまま、 動こうとしなかった。それどころか、とても具合が悪そう。 けれど、目立った外傷はなさそうだった。 「……おいで」 試しに、呼んでみる。しかし、猫は薔薇水晶の方を見向きもしなかった。 お腹が空いているのだろうか? 残念だけど、今は何も持ってない。 買いに行くにしても、最も近い店は学園の購買だ。 土曜の午後なんて、もう閉まっている。 第一、野良猫に餌を与えているところを見られたら、何かと煩く言われるかも。 「困ったなぁ…………どうしよう」 捕まえるにしても、独りでは無理だろう。あっちの方が、小さくて素早い。 本当に、どうしようかな? 背後から声を掛けられたのは、その時だった。 「あれ? そんな所で、なにしてるの薔薇しぃ」 「あっ……蒼ちゃん。あのこ……なんだけど」 「クロベエが、どうかした?」 蒼星石の口から猫の名前が飛び出した事で、薔薇水晶は少しだけ安堵した。 なぁんだ。あの猫は、蒼星石の家の飼い猫だったわけね。 「クロベエって言うんだ?」 「うん。ボクと姉さんは、そう呼んでるよ。野良猫なんだけどね」 「飼ってるんじゃないの?」 「この花壇を手入れしに来た時、たまにお弁当の残りをあげてるくらいだよ。 残念だけど、ウチは庭木や鉢植えが多いから飼えなくてね」 蒼星石が呼ぶと、黒猫は「にゃあん」と甘えた声で啼きながら、 のそのそと近付いてきた。 「随分と慣れてるね。やっぱり……ゴハンくれる人が解るんだ?」 「それも有るけど、この猫は人懐っこいよ。元は飼い猫だったんだと思う」 なるほど、言われてみれば確かに、黒猫の毛並みは柔らかそうだった。 トリミングすれば、きっと奇麗になるだろう。 「ねえ、蒼ちゃん……この猫、私が貰っちゃ……ダメ?」 薔薇水晶の申し出に、蒼星石は嫌な表情を浮かべるどころか、満面の笑顔を見せた。 「薔薇しぃの家で、面倒を見てくれるの? そうしてくれたら嬉しいな」 「任せて。可愛がるから」 薔薇水晶は黒猫を、ひょい……と抱きかかえた。 蒼星石の言う通り、確かに人懐っこい。 慣れない猫なら、抱かれることすら嫌がって暴れるというのに。 これから花壇の手入れを始める蒼星石と別れて、薔薇水晶は足取りも軽く、 自宅へ戻った。この子と一緒に、お風呂に入ろう。 奇麗になった黒猫を脳裏に描きながら、薔薇水晶は幸せそうに微笑んだ。 「私達…………友達に…………なれるよね?」 「にゃおん」 「あれ? お返事できるんだ……お利口だね♥」 ――湯上がりの午後。 薔薇水晶はベッドの上で気持ちよさそうに眠る黒猫を撫でながら、 ふと名前を付けていない事に気付いた。 野良の時はクロベエでも、ウチに来たなら、ちゃんとした名前を付けてあげなきゃ。 「そうね……お前の名前は…………うん……決めた」 満足げに頷く薔薇水晶。 「お前の名前は…………ラプラス!」 扉を隔てた向こう側では、タキシード姿の執事が号泣していた。 「お嬢様…………それは酷すぎます」 執事の名こそが、本家本元のラプラスだった。
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――どこかで、カラスの群れが騒いでいる。 いつ聴いても、不安を掻き立てられる声だ。 近い。耳を澄ますまでもなく、気づいた。窓のすぐ外で啼いているのだ、と。 いつ籠もったのか記憶にないが、雛苺はベッドの中に居た。渇ききった喉が痛い。 腫れぼったい瞼を押し上げて、枕元の時計に目を遣れば、午前八時を少し回ったところ。 普段より30分ほど早い目覚めだった。カーテンの隙間から、眩い朝日が射し込んでいる。 まだ眠い――が、喧しいカラスを散らさないことには、二度寝もできそうにない。 指先で、目元を、こすりこすり……欠伸を、ひとつ。 その直後だった。なにか重たい物が、ドサッ! と、彼女の上に落ちてきたのは。 「ぴゃっ?! 痛ぁ……ぃ。もぉ、なんなの~?」 呂律の回らない口振りで、雛苺は頭を浮かせて、重みを感じる腹部を見遣った。 布団の上に、なにやら見慣れないモノが、転がっている。 ――いや、違う。 見慣れたモノではあったが、見慣れない姿へと変貌を遂げていた。 「あ……れえぇ!? か、か、形が変わってるのーっ!」 紛れもなく、本棚に置いてあったベヘモス神像だ。 だが、直立姿勢だった石像は、ボディビルで言うところの『サイドチェスト』のポージング。 それは昨夜、彼女がスケッチブックに描いた姿、そのままだった。 机に置かれている木箱に顔を向けて、雛苺は、ヒリヒリする喉に生唾を流し込んだ。 石像の形さえも自在に変える効力が、このパステルには、ある。 と言うことは、つまり―― 雛苺は、細い身体を戦慄かせた。「怖い……これ」 とんでもなく危険な代物であることに気づいて、瞳を潤ませた。 たとえば、富士山が噴火するイラスト。 たとえば、100mもある大津波に呑まれる百万都市。 それらさえも生温く思えるほどの、阿鼻叫喚の地獄絵図さえも……。 このパステルで描けば、雛苺の産みだす絵空事が、すべて現実になってしまう。 それこそSFマンガでも描く気分で、人類を滅ぼすことだって可能だろう。 雛苺が、その気になりさえすれば。 できっこない。雛苺はベッドの中に潜り込んで、膝を抱えた。 彼に――ジュンに返してしまおうか、とも思った。手元に無ければ、使うこともない。 そうすれば、少なくとも、大好きな絵で誰かを傷つける心配はなくなる。 こんな風に、過ぎたチカラを持て余し、戦々恐々としなくて済む。 けれど……と、雛苺は考え直した。それって、ただの責任転嫁じゃないの? たとえ彼女が描かずとも、このパステルが存在する限り、危険は無くならない。 雛苺は布団を払い退けて、自分の小さな手を、朝日の中に翳した。 この手で処分するなり、二度と日の目を見ないように、封印すべきなのかも。 それが、託された者の責務ではないか。 「しっかりしなきゃ……なの」 パジャマの袖で目元を擦りながら放たれた、弱々しい呟き。 しかし、それは細くとも強靱な、ピアノ線を彷彿させる決意を秘めた口振りだった。 冷たい水で顔を洗って、喉の渇きを癒し、軽い朝食を摂ると、少しだけ気分が落ち着いた。 けれど、胸に澱んだ重みは、おいそれと消えそうにない。 あのパステルを、どうにかするまでは―― ……いや。手放したところで、おそらく一生涯、胸を痛め続けるのだろう。 マグカップに残るミルクを飲み干して、雛苺は鬱々と、息を吐いた。 母親がキッチンから顔を覗かせ、心配そうに訊ねたが、「まだ少し、眠いだけなの」と。 曖昧に笑みを返して、席を立とうとした、その矢先。 見るとはなしに眺めていたテレビ画面に流れたニュース映像が、雛苺の関心を惹いた。 どうやら、原子力発電所で、事故があったらしい。 放射能が漏れるほどの規模ではなさそうだが、報道の仕方は、物々しかった。 この日本という国は、とかく、原子力や核関連ともなると、病的なほどに過敏になる。 そのうち、アナフィラキシーショックで死んでしまうのではないかと、案じるほどに。 確かに、放射能汚染は怖い。原発の近隣住民にとっては、死活にかかわる問題だ。 ……が、だからといって、すべての原子力を手放すことなど、できはしないだろう。 普段の生活においても、もうドップリと、その恩恵に与っているのだから。 仕方のないこと……。雛苺は醒めた気分で、食器をシンクに置くと、食堂を後にした。 しかし、その途中。階段を昇っているときに、ふと、閃くものがあった。 「あのパステルも、原子力と同じかも知れないのよ?」 使い方を誤れば、多くの不幸を生む。 しかし、用法によっては―― 原子力が、文明の繁栄を支えているように、あのパステルで、人々のココロを豊かに出来るはずだ。 核、と、描く。 『nuclear』ではなく、『new』+『clear』―― 恵まれない今日の上に、よりよい未来を重ね描きできるものならば、そうすることに吝かでない。 ダジャレじみた発想だけれど、やってみる価値はある。 ふと気づけば、雛苺の胸に蟠っていた黒い霧は、一寸先が見える程度にまで薄らいでいた。 「それが……ヒナも救われる、たったひとつの解決法かも」 事故で身体の一部を失ってしまった人に、元どおりの人生を与えられるかもしれない。 あるいは、難病の苦しみを、取り除いてあげられるかも。 いずれにせよ、封印したり、遺棄したり、我欲を満たすために使うよりは、よほど有意義だ。 もう、楽しく絵を描くことは、できないかもしれないけれど―― 「やってみる! 行動しなきゃ始まらないのよ!」 パステルは使い続けていれば、いつか尽きる。そのときまで、頑張ればいい。 階段を駆けのぼる雛苺の足取りに、もう迷いは感じられなかった。 まるで、蒼穹へと翔けのぼるほどに軽やかで…… 小さな背中には、力強く羽ばたく翼さえ見えるようだった。 思い立ったが吉日と、雛苺は旅支度を始めた。 この週末二日で、少しでも多く、パステルの効果を試しておきたかった。 パステルと鉛筆。お気に入りのスケッチブック。傘とタオル。念のための着替え。 それら一切合切を、デイパックに放り込んで、準備はおしまい。 旅費なら、先月分のアルバイトの給料が、ほぼ手つかずで貯金してある。 あとは――行動を。目の前の扉を、開けるだけだ。 デイパックひとつの軽装で、自転車に跨り、最寄りのJRの駅へ―― 駐輪場に自転車を置いた雛苺は、銀行に寄ってから、緑の窓口に向かった。 こういうアテのない旅をするときは、乗り降り自由の『青春18きっぷ』が便利なのだ。 「とりあえず、失敗しても被害の少なそうなところ……郊外に出てみるのよ」 アテもなく電車に揺られ、なんとなく気を惹かれた駅で降りてみるつもりだった。 見知らぬ町並みを歩いているうち、これと想う景色に、辿り着けるかも……。 そんな運命の巡り合わせを、彼女は淡く期待していた。 まず雛苺が目指したのは、何本もの路線が乗り入れているターミナル駅。 そこからは、足の向くまま気の赴くままに、4両連結のローカル線に乗り換えた。 土曜日の午前中で、しかも郊外に向かう列車とあってか、乗客は疎らだ。 部活に行くと思しい学生。ハイカーらしい初老の男性。マスクをした中年女性。 目の届くかぎりでも、雛苺と同じ車両には、彼女を含めて4人しか乗っていない。 4人掛けのボックス席も、まったくの貸し切り状態。 シートの窓際に腰を降ろした雛苺は、デイパックを抱えて、ふぅ……と吐息した。 いつもより早起きしたせいか、中途半端に瞼が重たい。目がショボショボする。 コーヒーか紅茶でも買ってこようかと思ったものの、発車時刻までは、あと3分ほど。 きわどい時間だ。この電車を乗り過ごすと、次発は40分後になる。 仕方がない。この際だから、飲み物はガマンして、少し眠っておこう。 雛苺は、携帯電話のアラームを2時間後にセットして、冷えた窓に頭を預け、目を閉じた。 ――だが、いつまで経っても、ちっとも微睡めない。 パステルのことを気にするあまり、知らず、睡魔を遠ざけているようだ。 雛苺は瞼を閉じたまま、あれこれとココロに浮かんでくる疑問に、想いを巡らした。 このパステルは、石像のカタチすら変えちゃったのよ。 じゃあ、崩落した山の、崩れる前の姿を描いても――元どおりになるの? 常識で考えたならば、有り得ない。 そんなことが可能だったら、時間を巻き戻せる道理になってしまう。 けれど、もし―― 自然環境すら変えられるのであれば、これは、とんでもないことだ。 干ばつや洪水による災害を、早急に復旧できてしまう。 広がり続けている砂漠を、木々の緑で覆い尽くすことだってできよう。 それどころか、喪われた生命さえも、取り戻せるかもしれない。 古生物の絵を描いたら、シーラカンスのように、生きた化石として現世に顕れる? ダヴィンチの全身像を描けば、彼がキリストみたいに復活する、とでも? ――まさか、ね。 雛苺は、くふん、と鼻を鳴らした。いくらなんでも、妄想が過ぎる。 あのパステルが影響を及ぼせるのは、現存するモノ【者/物】の未来に対してのみだろう。 時間の遡及など、SF小説の中だけで充分だ。 考えるのを止めて、暫くすると、ウトウト……。 待ちかねていた瞬間の訪れ。どうやら、このまま眠れそうだ。 雛苺は意識を手放して、なにかに牽かれるまま、真っ白な世界へと沈んでいった。 ――あれ? いま……なにかが……。 夢の中で、白いウサギを見た気がした。 その直後、車内アナウンスが、耳に馴染みのない駅名を告げた。 いけない。うたた寝のつもりが、すっかり熟睡していたらしい。 口の端に違和感がある。ヨダレまで垂らしていたなんて、みっともない。 恥じらうあまり、顔が熱くなり、変な汗が額に滲んでくる。 雛苺は窓に顔を向け、景色を眺めるフリをしながらポケットティッシュを抜き出すと、 さりげなく、唇に塗ったリップクリームごと、ヨダレを拭きとった。 もしかしたら、無防備に晒した寝顔を、誰かに見られていたかも……。 その現場を想像すると、僅かに残っていた眠気も、羞恥の熱で揮発してしまった。 まあ、過ぎてしまったことは、仕方がないとして。 「どこなのかしら、ここ?」 改めて、車窓の向こうに眼を向けて、雛苺は「ふわぁ~」と感嘆した。 そこに広がっていたのは、およそ首都圏ではお目に掛かれない、長閑な田園風景。 いい気持ちで眠っている間に、すっかり遠くまで運ばれてしまったらしい。 枯れ草色に塗りつぶされた早春の田畑には、白々と霜も見えて、雛苺を寒々しい気分にさせた。 この駅で降りたのは、雛苺だけだった。 デイパックを背負って、ホームに降り立つなり、雛苺は肌を刺す冷気に首を竦めた。 春は名のみの、風の寒さや。3月の陽気は、あまりにも有名な、あの歌のとおりだ。 日毎に日射しが暖かさを増して、桜の蕾を膨らませるけれど、冬の勢いは依然として強い。 ここで春の足音を聞けるようになるのは、もう少し先――4月の中旬くらいか。 「ふぁ……ぷちゅんっ!」可愛らしいクシャミを、一発。 大仰に身震いした彼女は、ハーフコートの襟を立てて、閑散とした古い駅舎に足音を響かせた。 初めて訪れる土地で嗅ぐ空気は、いつだって、孤独感と郷愁の情を募らせる。 心細さに吐いた溜息が、いまだ冬を色濃く残す世界に、さらりと溶けていった。 山から吹き下ろす風のせいか、実際の気温よりも、体感温度は低かった。 鋭い冷気が、スラックスの生地をあっさり突き抜け、容赦なく肌を刺してくる。 スケッチする場所を求めて散策する前に、まずは暖を取りたい。 もじもじと脚を摺り合わせながら、雛苺は風を避けられそうな場所を探した。 「駅前なら、喫茶店くらいあるはずなのよ」 スターバックス、ドトール、マクドナルド…… ライム色のつぶらな瞳が、見慣れた看板を求めて、人っ気のない駅前を彷徨う。 そして、1分と要さず、思い知らされた。都会の常識など、鄙では世迷い言なのだ、と。 ここには、都会にありがちな人いきれや、ビル街の陰から漏れてくる饐えた臭いがない。 行き交う車の騒音も、雑踏も、なにもかもが稀薄だった。 雛苺は唸った。電車でたった数時間の距離に、こんな垢抜けない土地があるなんて……。 ……ともかく。吹きっさらしに突っ立って、無いものねだりをしていても始まらない。 茫然としている間に、温かい缶ジュースでも買うほうが、よほど前向きだ。 そう考えて、自販機の前に立った雛苺の目に飛び込んできた、毒々しいまでに黒い缶。 一見、ブラックのコーヒーかと思えば、そうではなかった。 黒の地に、ドクロみたいな苺のイラストが、ひとつ……。こんなデザイン見たことない。 「ハバネロ苺? 初めて聞いたのよ~」 いわゆる、地域限定商品か。こういった珍品を試してみるのも、旅の醍醐味である。 なにより、イチゴと聴けば『ヒナまっしぐら』な彼女のこと。 ホットの列に並んでいることもあって、躊躇いもなく、購入していた。 プルタブをあげて缶を覗き込むと、ありがちなイチゴ色が揺れている。 温められた甘ったるい人口香料が、ほわんと立ち上った。 その薫香は、雛苺がココロで嗅ぎ取っていた微かな地雷臭を、容易に消してしまった。 「ん~。アンマァな匂いがするの~。いっただきまぁーす! …………ん? ん゛むっ?! ん゛ん゛ん゛――っ?!」 花の香に誘われたミツバチのように、なんの警戒もせず呷ってみれば…… いきなりすぎる強烈な刺激に襲われ、雛苺は涙ぐんで、口元を手で押さえた。 炭酸とか、メンソールなんて、そんな生易しいものではない。 嚥下? またまたぁ、ご冗談を。飲み込むだなんて、とてもとても……。 ジュースとは名ばかりの、劇薬と呼んだって差し支えないほどの代物である。 ガマンの限界。ダムは決壊寸前。間欠泉なら待ったなし。 なんとか口に含んだまま堪えていた雛苺も、息苦しさには抗えず、膝を折った。 人目を憚る余裕などない。自販機の脇の植え込みに、すべてを吐き出した。 その直後だった。ガラスを引っ掻いたような甲高い悲鳴が、雛苺の背を叩いたのは。 「きゃぁっ?! あ、あ、貴女っ! どうしたのよ? 一体、なにが――」 いかにも難儀そうに頸を巡らした雛苺の瞳に、人影が、ひとつ映り込む。 年の頃は、雛苺と同じか、やや上か。見目うるわしい乙女だ。 長く艶やかなブロンドや、バーバリーと思しいトレンチコートから、並々ならぬ気品が漂っている。 名も知らぬその女性は、眉を曇らせたまま、おずおずと雛苺に近づいた。 「具合が悪いのね? もう少し我慢なさい。いま救急車を呼ぶのだわ」 「ふゅ? あのぉ……ヒナは別に、なんともないのよ」 「ウソよ! 吐血してたじゃないの!」 吐血? 雛苺は、自分の足元を見て……ああ、なるほど。即座に得心した。 この女の人が、どうして悲鳴を上げて、青ざめていたのか――その理由に。 雛苺は、手中にあった『ハバネロ苺』のアルミ缶を、女性の鼻先に突き出した。 「紛らわしいコトしちゃって、ごめんなさいなの。 ヒナが吐いちゃったのは、このジュースだったのよ」 「は? え……えっ? ……ジュース?」 「うい。すっごく不味くて、どうしても飲み込めなかったの」 「……なによ、もぅ。驚かさないでちょうだい。 独りで勝手に取り乱したりして……バカみたいだわ、私」 斜を向いた頬が朱色に染まっているのは、冷たい春風によるものか。それとも―― 大人びた印象の彼女が見せた、しおらしい仕種に、雛苺は口元を綻ばせた。 なんだか急に、この妙齢の美女が愛おしくなり、親睦を深めたくなった。 「あのね、あのねっ。ヒナは、雛苺っていうのよ。 よかったら、貴女のお名前も教えて?」 「私の?」彼女は、警戒心も露わな眼差しを、雛苺に向けた。 あまりに馴れ馴れしくはないか。なにか企図があって、近づいてきたのかも。 さっきの嘔吐も、関心を誘うための芝居だったのでは……。 ――が、雛苺の無邪気すぎる微笑みを見ている内に、毒気を抜かれたらしく。 彼女は、やおら頬を緩めて、かぶりを振った。 さらさらの金髪が、頭の動きにやや遅れて、優雅に揺れた。 「私は、真紅よ。この町で、小さな製茶工場と茶店を営んでいるわ」 「うよー。若いのに実業家なのね。かっこいいの~」 「ふふ……そんな大したものじゃないわ。趣味が高じた程度のものよ」 真紅の口振りは、謙遜でもなさそうだった。 おそらくは、辛うじて工場と呼べるくらいの、こじんまりした規模なのだろう。 「どんなお茶なの? 玉露とか?」 「紅茶よ。銘柄は『ローザミスティカ』と言うのだけれど」 「う……と。ご、ごめんなさいなの。ヒナ、紅茶には詳しくなくって」 「知らなくても当然かもね。積極的な売り込みなんて、していないもの」 自社製品の知名度について、真紅は、あまり拘っていない様子だった。 販路も、インターネットのウェブショップや、茶店のみに絞っているのだろう。 大量生産の薄利多売よりも、稀少な高品質。玄人ごのみの本物志向が、モットーらしい。 「ところで、雛苺さん」 「呼び捨てで、いいのよ。ヒナも、真紅って呼んでもいい?」 真紅は「ええ、構わないわ」と、人好きさせる笑みを浮かべて、続けた。 「それで、なのだけれど――急ぐ用事がないのであれば、うちに寄っていかない? 身体が冷えてしまったし……貴女も、不味いジュースの口直しをしたいでしょう。 温かい紅茶をご馳走するわ」 その申し出は、暖を求めていた雛苺にとって、渡りに船だった。 真紅とも親しくお喋りしてみたかったから、断る理由など、あるはずもない。 雛苺は、喜色を満面に広げて、一も二もなく頷いた。 真紅に連れられ、訪れた製茶工場は、小さいが極めて衛生的な建て屋だった。 従業員は20人ほどで、その内の5人が畑に常駐して、茶葉の品質管理をしていると言う。 なんでも、近くの山の中腹に、南に面した広い茶畑を持っているそうだ。 「うちで品種改良した茶樹を栽培して、年に何度か、葉を収穫するのよ。 摘んだ葉の熟成や発酵、等級の分類にも、少なからぬ人手を掛けているわね。 温度、湿度などのデリケートな管理だけは、機械に任せているのだわ」 工場の脇を通り抜けざま、簡単な説明をする真紅の表情は、とても誇らしげだ。 いい物を作っているという自負が、ありありと現れている。 やっぱり、かっこいい。雛苺は、気品に満ちた乙女の横顔に、羨望の眼差しを送っていた。 程なく、雛苺は、工場に隣接する瀟洒なコンクリート住宅に招き入れられた。真紅の自宅らしい。 てっきり、工場の一角にあるという茶店に案内されると思っていた雛苺は、遠慮がちに訊いた。 「お邪魔しても、いいの?」 「大切なお客様ですもの。手ずから、おもてなしするのは当然なのだわ。 さあ、遠慮しないで、上がって。散らかってて、恥ずかしいのだけれど」 言って、真紅は丁寧に靴を揃えて脱ぎ、さっさとフローリングの廊下を進んでゆく。 置いていかれまいと、雛苺もいそいそ靴を脱いで、足早に彼女を追いかけた。 「こっちが応接間よ。すぐにお茶の支度をするから、ソファに座っててちょうだい」 真紅は廊下でコートを脱ぎながら、客人が追いついてくるのを待っていた。 すっかり恐縮しつつ、愛想笑って近づいていった雛苺は、ふと―― どこかアンバランスなものを察知して、歩を止めた。なにか、おかしい。 雛苺の目が、吸い寄せられるように、違和感を醸している箇所を捉えた。 その箇所とは、真紅の洋服――だらりと下げられた右の袖。 袖の先に伸びているべき右手も、そこにない。 あろうことか……真紅には、右腕そのものがなかった。 -つづく-
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「ふざけないでっ!」 突然の喝破に、雛苺は身体を震わせ、猫のように首を竦めた。 不思議な『パステル』の効能について、洗いざらいを話し終えたときのことだ。 あのパステルを使えば、良かれ悪しかれ、真紅の人生を狂わすことになる。 下手をすれば、一生の恨みを買うことにさえも。 だからこそ、隠し事なんて、したくなかったのだ。 いい返事を得たいがためと邪推されるのは、雛苺の本意ではなかったから。 半身を起こした真紅が、脚に落ちたタオルを掴み、雛苺に投げつけようと腕を振り上げる。 その瞬間、夢で見た病室でのシーンが、脳裏に甦って―― 雛苺の怯えた瞳が、水銀燈の悲しげな眼差しと重なり、真紅の激情は急速に冷めていった。 「――ごめんなさい。お客さまに対して、声を荒げてしまうなんて…… ダメね、私。腕を失くしてから、たまに、自分を抑えられなくなるの」 「風が吹けば、地面から埃が舞い上がるし、水面には漣が生まれるわ。 気持ちが激しく動くのは、真紅のココロが凍ってないことの証しなのよ」 だったら、いっそ氷結してしまえば、楽になれるのだろうか……。 真紅は再び、ソファに仰臥して深く息を吐くと、雛苺へと頸を巡らせた。 その表情には、もう一喝したときの険しさなど、欠片もなかった。 「ねえ、雛苺。貴女、本気で、私の右腕を元どおりにできると信じているの?」 「う、うゆ……」 「羨ましいほど幸せなのね。そんなのは、おとぎ話だわ。ただの夢物語よ」 描いた絵が現実になるパステルだなんて、童話じゃあるまいし。 理性も分別もある大人なら、誰もが、馬鹿げたフィクションだと一笑に付すだろう。 真紅は苦労を重ね、社会的な成功を勝ち取ってきた、理知的な大人の女性だ。 その課程で、無邪気なココロに、現実というヴェールを幾重にも被せてきたはずである。 お気楽な子供っぽさを、弱さと思い込んで。 「貴女の気づかいは、嬉しく思っているわ。本当よ」 長い沈黙の末に、優しく紡がれた言葉。 真紅は、余裕ある温かな笑みを、雛苺に向けていた。 さながら、落ち込む我が子を宥めようとする、母親みたいに。 「でもね――私は、このままで構わないのよ。 一生、片腕のままで、自らを縛めながら暮らさなければいけないのだわ」 「そんな……どうしてなの?」 「贖罪だから。あの子を傷つけたことへの、私なりの罪滅ぼしよ」 穏やかではない単語に、雛苺は固唾を呑んだ。 そこまでの覚悟をさせるほど、真紅は水銀燈に、酷い仕打ちをしたのだろうか。 気にはなる。……が、これ以上、無思慮な真似もできなくて―― 「ヒナ……そろそろ、おいとましなきゃ。 紅茶、美味しかったのよ。ごちそうさまでしたなの」 雛苺はデイパックを手に、立ち上がった。 ぺこりと一礼して、応接間を出ようとした、その矢先。 「お待ちなさい」 凛とした真紅の声が、小柄な娘を、その場に縫い止める。 振り返ると、宝玉を想わす蒼眸に、ひた……と。雛苺は捉えられた。 「もし、よければ――なのだけれど」 そう呟く真紅の声音は、震えていた。 よほど耳を澄まさなければ分からないほど、微かに。 「いまの私を、描いてみてちょうだい。ありのままの私を」 「ホントに、いいの?」 「ええ。でも、貴女の腕が確かならば……って条件つきなのだわ」 「うい! それなら大丈夫なのっ。ヒナ、こう見えても美大生なのよー」 「ウソ……てっきり、中学生の1人旅かと思ってた」 「ぶー。失礼しちゃうなのっ。そりゃあ、ヒナはちっちゃいし、 子供っぽいって、みんなからよく言われるけど――」 普通、女の子は若く見られると嬉しいものだ。 しかし、それも程度の問題。度を越せば、ただの侮辱になってしまう。 顔を真っ赤にして反駁する雛苺を、真紅は神妙な面持ちで宥めた。 「ごめんなさい。確かに、不躾な言い種だったわね」 「うんうん。解ってくれればいいのよー。えへへ~」 なんともまあ、気持ちの切り替わりが早い。真紅は文字どおり、舌を巻いた。 そういう精神的な落ち着きのなさが、子供っぽさを助長しているのだが、 当の本人は、それを自覚していないようだった。 「それで? 私はどういうポーズをとったらいいのかしら」 「少し長くなるから、楽な姿勢でいいのよ。 うーっと、そうね……ソファの左端に寄って、肘かけに腕を乗せてみて」 「こんな風に?」と、ソファの背もたれに、ゆったりと身体を預ける。 これなら肘と背中で支えられるので、たいして疲れないだろう。 でも、あまり長引くようだと、腰が痛くなりそうね……と、真紅は思った。 「うい! それで、あとは深く座っててくれれば、バッチリなの」 「解ったわ。こうね」 真紅が頷いてみせると、雛苺も首肯して、道具の準備に入った。 「表情も、ずっと変えずにいたほうがいいのかしら?」 「顔は最後に描き込むから、その時だけ集中してくれたらオッケーなの。 それまでは、普通にお喋りしてても構わないのよ」 雛苺は2Hの鉛筆を手にして、スケッチブックを開いた。 さすがに失敗の許されない状況で、パステルでの一発描きなんて冒険はできない。 ある程度の当たりを付けてからが本番だ。 しん、と静まり返った室内に、紙面を走る鉛筆の音だけが、微かに聞こえる。 静かすぎるあまり、却って気が散りそうになった雛苺は、「あ、あのね……真紅」 手を止めて、上目遣いにブロンドの乙女を見た。 「少し立ち入った話、訊いてもいい?」 「それは、私を描くために不可欠なこと?」 「不可欠ではないけど、絵にココロを宿すためには、大切なコトなの。 ヒナはいつでも、描く対象に気持ちを近づけてるのよ」 「絵に、命を吹き込む……という意味?」 「そんなに大それたコトじゃないけど、だいたい、そんなところなの。 だから――ヒナに真紅や水銀燈のこと、教えて欲しいのよ」 イヤなら話さなくてもいいけど、と締め括って、雛苺はまた手を動かし始めた。 結果、聞けずじまいになったとしても、さっきの雑談から、ある程度のことは推し量れる。 それで、真紅の胸にある悲しみを、絵に反映しきれるかどうかは、怪しいところだが。 ――暫し。沈思黙考がなされた。 「なにから話せば、いいのかしら」 さり気なく紡がれた台詞は、了承の証し。 いま、真紅の中では様々な想いが、ぐるぐると廻っていることだろう。 情報が茫漠としすぎていて、話題を搾りこめない苦しみが、雛苺にも伝わってきた。 「それじゃあ――」 だからこそ、雛苺は核心を衝いた。「真紅が右腕を失った理由を、聞かせてなの」 それこそが真紅と水銀燈を隔てた理由であり、 彼女の苦悩を生みだしている元凶に違いないと、目星がついていたから。 真紅は、悲しげに睫毛を伏せて、深く息を吐いた。 気持ちの整理をするためには、誰であれ、多少の時間を要する。 その間、雛苺はスケッチを続けながら、真紅が口を開くのを待っていた。 「事故だったのよ」やおら、真紅の語りが始まる。 「ちょうど、梅雨時でね。連日、激しい雨が降り続いていたわ」 それが、長いモノローグの始まりだった。 このままでは、新たに開いた茶畑が、流されてしまうかも。 案じた真紅と水銀燈は、真紅の運転する車で、巡回に向かった。 こんなことで……たかが雨ごときで、夢を潰えさせてなるものか。 2人はレインコートを着て、茶畑の補強に全力を費やした。 「でも、悪いことって重なるものなのね。 見回りの最中だったわ。水銀燈が発作を起こして、倒れてしまったのは。 あの子、苦悶で顔を歪めて……涙ながらに繰り返すのよ。 『真紅……助けて』と、私の腕に縋りながら―― いつ発作が起きてもいいように、彼女は薬を持ち歩いてたのだけれど…… でも、その時は、どんなに探しても見つけられなかったの。 もしかしたら、作業中に落として、気づいてなかったのかも知れないわ」 一刻の猶予もない。真紅は、なんとか水銀燈を助手席に押し込み、車を発進させた。 豪雨。ぬかるんだ林道。容赦なく降りてくる夜の帳。 その中を、2人を乗せた車は、泥水を撥ね散らしながら、猛スピードで駆け抜ける。 「あのときの私は、もう……とにかく、水銀燈を助けたい一心で。 他には何も、考えられなくなっていたのね、きっと」 ほんの一瞬の判断ミスで、真紅の運転する車は、崖の下へ―― 「車が宙に浮いたとき、これで死ぬんだ――って思ったわ。 今際に走馬灯が甦るって話ね……あれ、本当よ。 私も、見たの。子供の頃から、水銀燈と歩いてきた日々の記憶を。 そうしたらね、なんだか……達観したような、不思議な気持ちになったのだわ。 このまま、水銀燈と一緒に人生を終えるのも、悪くないかなぁって」 そこで意識が遠退き、目覚めたら病院のベッドに横たわっていたと、真紅は語った。 右腕を失い、両脚にも酷いケガを負っていたのだ、と。 「つまり、誰かが事故の現場を見てて、救急車を呼んでくれたのね」 言って、安堵の笑みを浮かべた雛苺に、真紅は「いいえ」と。 苦渋に満ちた表情から、更なる悲愴を滴らせながら、首を左右に振った。 「居なかったわ。私たち以外には、誰も」 「うゅ? それじゃあ……」 「――ええ、そうよ。私を運んでくれたのは、水銀燈なのだわ。 激しい雨に打たれ……苦悶に喘ぎながら……それでも、私を担いで歩き続けて。 麓の病院まで辿り着いたとき、彼女もまた、息も絶え絶えだったそうよ」 後から看護士に聞かされたのだけれど―― 真紅は、指が食い込むほどにソファの肘かけを強く握り、顔を伏せた。 「あと少し治療が遅れていたら、私は失血死していたんですって。 私が、今こうしていられるのも、水銀燈のお陰だったのよ。 それなのに、私は…… 右腕を失ったショックと、絶えず全身を襲う激痛に、苛立つばかりで。 愚かにも、理不尽な憤りを彼女にぶつけて、突き放してしまったのだわ。 私が、バカだったばかりに!」 「いまからでも謝って、仲なおりするコトはできないの?」 誤解は、誰にでもある。どんな聖人君主だって、過ちを犯す。 そのくらいは水銀燈だって解っているだろう。謝れば、真紅を許してくれるはずだ。 雛苺は、そう信じていた。ずっと一緒に……と誓い合った2人なのだから。 けれども、俯いた真紅の瞼からは、大粒の雫が、ぽろ、ぽろ……。 それは、あの日の豪雨のように降り続けて、彼女の胸元を濡らしてゆく。 「できないの。もう……手遅れなのよ」 「どうして?」 「水銀燈は、病室を出たっきり、行方を眩ませてしまったから。 マンションは引き払われ、携帯電話も解約されていて、連絡も取れない―― どんなに手を尽くしても、あの子の消息は、杳として掴めなかったのよ」 「病院は? 持病を患ってるんだから、通院しなきゃ大変なのよ」 「その線も辿ったわ。だけど……かかりつけの病院にも行っていないの」 身辺を整理して、持病を抱えているにも拘わらず、薬も持たずに出奔。 どうしても、雛苺の胸に、嫌な想像が広がってしまう。 そうなるとココロの動揺が誘発されて、スケッチする手にも乱れが生じた。 「いまの私にできることは、毎日、駅に行くことだけ。 いつか……あの子が帰ってきてくれるのではないかと…… 改札を出てくる水銀燈の姿を思い浮かべながら、待つことしかできないのよ」 そこで、雛苺と真紅は、巡り会ったというワケだ。 ただの偶然と言ってしまえば、それまでだけれど。 女の子の心情としては、どうしても、そこに一抹の運命を見出したくなる。 知り合って間もないが、雛苺には、真紅の人柄がよく理解できた。 健気で、ある意味、愚直な性格を。 片腕でいることを、贖罪と……彼女なりの罪滅ぼしと言っていたけれど。 ――違う。真紅は水銀燈のために、欠落することを望み、現状を甘受しているのだ。 雛苺の中で、揺らぎは収束するどころか、なおも増幅してゆく。 いつにも増して、鉛筆が重い。芯先も、うまく滑ってくれない。 だが、線画だけなら、大まかな構図はできている。 雛苺は息を吐いて、手を休めた。仕上げは後にしよう、と。 「少し休憩するの。ヒナ、ちょっとアタマが重たくて」 「もしかして、風邪? ベッドで横になったほうが――」 「ううん。ソファーでいいのよ。ちょっとだけ、休むだけだから」 「それなら、なにか掛ける物を持ってくるわね」 言って、真紅が腰を上げる。 その背中を見送って、雛苺はドサリと、ソファーに倒れ込んだ。 ◆ ◇ 夢を見ているのだと、雛苺は、すぐに自覚できた。 彼女の前には、真紅の屋敷になかったものが、存在していたからだ。 大きなテーブルと、ウサギとネズミ、それに、男が1人。 それが何であるのか、思い当たるモノがあって、雛苺は「あっ」と声をあげた。 よく読む『不思議の国のアリス』の中でも特に好きな、奇妙な茶会のシーンだ。 キチガイウサギ、居眠りネズミ、帽子屋―― 雛苺は、おかしな3人の茶会に迷い込んだ、アリスの役だった。 どうして、こんな夢を? 茫然と立ち尽くす雛苺を気にも留めず、居眠りネズミが、ぼそぼそと語り始める。 「ずぅっと昔の話だよ。井戸の底に暮らす、3人の姉妹が居たんだよ。 彼女たちは絵を習っていてね、いろんな絵を、たくさん描いてたんだよ」 雛苺の胸が、ドキリと一拍した。 いろんな絵を描いてるなんて――雛苺のことを言っているみたいではないか。 そこに、帽子屋が横槍を入れてくる。 彼は自分の帽子から、トランプのカードを一枚だけ抜きだして、ニヤリ……。 「おやおや、クローバーの3だ。なんと奇遇な」 こんな描写あったっけ? 雛苺は首を捻って、ふと――あることに気づいた。 おかしな3人。井戸の底の3人姉妹。クローバーの3。 更に、キチガイウサギは3月ウサギとも呼ばれるし…… 帽子屋が時間とケンカしたのも、確か、3月だった。 悉くに、3が絡んでいる。なにかを示唆しているのか。それとも、ただの偶然? 3という数字が、雛苺に童話の決まり事を思い出させる。 「叶えてもらえるお願いは、3つだけ……なの?」 呟くなり、どういうワケか、パステルの箱書きが瞼に浮かんできた。 虫食いになっていて判読不能だった、あの部分。 あそこに、3度までと記載されていたかも知れない。 もし、そうであるならば―― ◇ ◆ 浅い眠りから帰還した雛苺は、真紅に声を掛けて、すぐに絵の仕上げを始めた。 これで、2度目。 仮定が正しければ、残された猶予は、あと一度のみ……。 -つづく-
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――どこからか、途切れ途切れにグランドピアノの妙なる調べが、流れてくる。 初めて耳にする旋律なのに、なんだか……ずっと以前に聞いたことがあるような。 そのくせ、記憶を辿ろうとすると、ちぐはぐなメロディしか浮かんでこない。 「うーん……なにか引っかかるんですけどぉ……思い出せませんわねぇ」 そう口にする雪華綺晶は、しかし、大して考え悩んだ様子でもなかった。 漏れ聞こえるピアノに合わせ、ふんふんとハミングしながら、腰を揺らしている。 彼女は今、コリンヌの部屋を掃除している最中だった。 窓辺に据え置かれた広い机の上を、おろしたての布巾で丁寧に拭いてゆく。 ひととおり拭いた後で、布巾を裏返してみても、塵芥は殆ど付いていなかった。 埃が積もる間もないほど、頻繁に使われている証しだろう。 「本当に勤勉な方ですのね、マスターは」 雪華綺晶は感嘆の息を吐きながら、机の隣に鎮座している書架に顔を向けた。 そこには多くの本が並び、どれも背表紙が薄汚れている。 中でも、目立って痛んでいる本が一冊、雪華綺晶の眼に留まった。 「これは……『レ・ミゼラブル』。ヴィクトル・ユーゴーの小説ですわね」 痛みが激しいのは、裏を返せば、それだけ手に取られている――ということ。 興味を惹かれた雪華綺晶は、腕を伸ばして、その本に指をかけた。 そして、何の気なしに広げた途端、ソレを見つけてしまった。 第五話 『Dear My Friend』 あっ! ソレが現れるや、雪華綺晶は、可愛らしい声を出していた。 パカッと割れるように開いた本の間に、封筒が挟み込まれていたのだ。 そのページは、19年の徒刑生活で憎悪の塊と化したジャン・ヴァルジャンが、 ミリエル司教の慈悲により、正直な人間として生まれ変わる道を示される場面だった。 「これは……マスター宛ての手紙ですわね」 手にして、矯めつ眇めつしてみる。封は切られていた。 つまり、コリンヌが、この手紙を読んだことを意味している。 でも、誰が、どこから? 封筒に差出人の記載はなく、消印は、雪華綺晶にとって見慣れない文字だった。 「海外郵便――栞代わりに挟んで、忘れてしまったのでしょうね」 こんな扱われ方をするくらいだから、あまり重要な手紙でもないのだろう。 ――とは思うものの、海外からの郵便物という点が、雪華綺晶の興味をくすぐる。 「今なら誰も居ませんし……ちょっとだけ、読んでみちゃったりして」 イケナイこととは解っていても、秘密を暴きたくなるのは、人間の性。 響きのいい言葉に置き換えるなら、知的探求心の充足という行為である。 雪華綺晶は机に本を置くと、震える指で、封筒から便箋を抜き取った。 そして、呼吸を整え、さあ読もうかと意気込んだ矢先―― 「きっらきーっ! お掃除、もう終わったなのーっ?」 ノックも無しに、雛苺がドアをバァン! と開けて飛び込んできたから寿命が縮む。 雪華綺晶は「ひぁっ?!」と息を呑んで、ビクーン! と飛び上がった。 しかも、指先に巻いた包帯で紙が滑り、便箋を取り落としたから、さあ大変。 かさりと床に舞い落ちた紙片に、雛苺の碧眼が吸い寄せられた。 彼女は、じぃっと便箋を見つめ……続いて、雪華綺晶の顔を、じぃっと覗き込んできた。 「――いけないのよ。コリンヌお嬢様のお手紙を、盗み読むなんて」 「えと……あの……こ、これは……そのぉ~」 「きらきーは悪い子なのね。お嬢様に言いつけちゃうのっ」 「ま、待って! マスターには内緒にしてください! お願いですからぁ」 「えー? どうしよっかなぁ~」 雛苺はニタリと笑って、雪華綺晶の足元に落ちた便箋を拾った。 雪華綺晶はと言えば、肩を竦め、捨てられた子犬みたいに、ぶるぶる震えている。 そんな彼女の前で、雛苺は便箋を広げて、瞳を走らせた。 「元気かい、コリンヌ……って、書いてあるのよ」 「――え?」 「へへ……。ヒナも、お手紙を勝手に読んじゃった。だから、ヒナも同罪なのよ。 このこと、二人だけのヒミツよ? お嬢様には、内緒にしておいてあげるの」 「あ……」 「いい、きらきー? もう二度と、こんなコトしちゃ、めっめっーなのよ」 「雛苺さん…………あ……ありがとうございますっ!」 雪華綺晶は、感激した勢いそのままに、雛苺をひしと抱き締めた。 よしよし、いい子いい子。 雛苺は、子供っぽい外見に似合わず、大人びた余裕で雪華綺晶の髪を撫でる。 「さあ。お掃除を終わらせたら、コリンヌお嬢様とお茶しに行くのー」 「……はぁい」 涙の滲んだ目元に、雪華綺晶は思わず、机を拭いた布巾を押し当てていた。 ~ ~ ~ ――その夜、寝床の中で、雪華綺晶は夢を見た。 なんだか、全体的に色褪せた、古い映画のような夢だ。 とりとめなく彷徨わせていた彼女の隻眼が、背を向けて佇む人影を捉えた。 男性だろう。肩の幅が広い。短く刈り揃えた褐色の頭髪が、清潔そうだ。 あら? あなたは……。雪華綺晶の胸に、そこはかとない懐かしさが甦ってきた。 この人とは、以前にも会っている気がする。 名前が、すんなりと出てこないけれど……確かに、見憶えのある背中だった。 まるで、彼女のココロの声が聞こえたように、人影が振り返る。 とても優しそうな面持ちの男性で、雪華綺晶の姿を認めると、にこり…… 並びの良い真っ白な歯を見せて、微笑みかけてきた。 なんて、心が暖かくなる微笑。 雪華綺晶は、奇妙な胸の昂りを抑えきれなくなって、走り出していた。 ああ……ずっと会いたかった…………あなたに。 触れ合いたい。あなたの温もりが欲しい。あなたの胸に、この身を預けたい。 ただ、その一心で雪華綺晶は走り続け、腕を伸ばした。 ――だが。 突如として、足元から飛び出してきたナニかが、彼女の腕に絡みつく。 避ける暇もあればこそ。たちまち、腕のみならず、脚を、身体を、束縛されていた。 なにか尖ったものが、雪華綺晶の柔肌に幾つも突き刺さり、耐え難い激痛をもたらす。 「痛ぁっ!」 堪えきれず絶叫して、左眼を見開いた雪華綺晶が、潤んだ瞳に映したモノ―― それは、長く鋭い棘を無数に突きだした、太くどす黒い荊の蔓だった。 第五話 終 【3行予告?!】 百万の薔薇のベッドに埋もれ見る夢よりも芳しく、私は生きてるの―― きっと、忘れたままの方が……今のままでいる方が、幸せだったのでしょう。 でも、わたしは思い出してしまったのです。この胸を疼かせる、仄かな想いを。 次回、第六話 『Shapes Of Love』
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オディールさんは、揺れる瞳で、僕を見つめていた。 情けない話だけれど、その目に射竦められて、僕は声も出せなくなっていた。 彼女が、掠れた声を絞り出すまでは―― 「どうして……二年なの?」 「――実は、僕の受け持つクラスに、素晴らしい才能を持った生徒が居るんだけどね…… ある時、彼のココロを、深く傷つけてしまったんだ。僕の軽挙妄動によって。 良かれと思ってたんだ。こんなにも優秀な才能は、もっと広く評価されるべきだ、と」 「……けれど、彼は注目され、批評されることを望んでいなかった?」 「そうだね。彼は同年代の子たちより、感受性が研ぎ澄まされ過ぎてたんだと思う。 誰よりも純粋に物事を捉え、誰よりも繊細な方法で表現できた―― だからこそ、彼の造る物はどこか儚げで、それゆえにピュアな輝きを放っていたんだ」 「純粋にして繊細……針の上に置かれたコインみたいに、絶妙のバランスですわね」 「うん。衆目がもたらす風に揺らされたのは、コインか、針か。それは分からない。 どっちにしても、彼の鋭敏な感覚は、堪えきれなかった。 ココロを閉ざして、不登校になって……昨日も、君と会う前、彼を訪ねてたんだよ。 これはね、僕なりのケジメなんだ。ただの独善かもしれないけど、それでも―― 彼に立ち直って欲しいし、立派に卒業してゆく姿を、ちゃんと見送ってあげたいんだ」 「そのための、二年でしたのね」 「待っててくれるかい?」 ひとつ頷いて、彼女は鼻を啜りながら、はらはらと涙を流した。 「ホント、バカみたいだわ、私。早とちりして、勝手に怒って……あなたのこと、バカ、だなんて」 「実際、バカだからね。もっと早く返事してあげられなくて――本当に、ごめん」 「いいんです。あなたは、こうして……ちゃんと来てくれたから。 でも、そうね。二年も待たされるんですもの。この場で、契約してもらわなくっちゃ」 そう言うが早いか、彼女は泣き顔のまま、僕のネクタイを掴んで、グッと引っ張った。 思わず前のめりになった僕の唇に、柔らかな感触が吸い付く。 とても情熱的で支配的ながら、どこか、献身的ないじらしさを感じさせるキス。 その瞬間、僕の胸に、江ノ島で鳴らした『龍恋の鐘』の音が、鮮やかに甦った。 「ふふ……もらっちゃった。契約の証」 「――まいったな。こんな所で、こんなこと……心臓が破裂しそうだ」 「私も。すごく、ドキドキしてます」 周りの人の目が気になって、正直、死にそうなほど恥ずかしい。 だけど、涙も拭かずにはにかむオディールさんを見ていると、幸せな気持ちが募って…… このまま帰したくない。そんなワガママが、喉まで出かかっている。 僕は、それを言う代わりに、彼女の肩をしっかりと抱き締めて、もう一度キスをした。 完全な不意打ち。オディールさんは、僕の腕の中で固まっていた。 「契約は、相互信頼の元に結ばれるものだよ。だから、これでカンペキだね」 「…………もぅ……バカぁ」 彼女は、顔ばかりか肌まで朱色に染めて、また、啜り泣いた。 僕を見上げる潤んだ瞳。形のいい鼻梁。キスしたばかりの唇は、ひときわ紅く濡れている。 更に、その下――すらりと尖った顎のライン越しに見えた奇妙な色合いが、僕の目を惹いた。 オディールさんの喉に、三日月状の痣が浮いていた。気道の左右に一本ずつ、向かい合うように並んで。 どうやら肌が上気したときだけ現れる古傷みたいだけど……なんだろう? 歯形……みたいな? 僕の視線の先に気づいたらしく、彼女はさりげなく襟元を手で覆って、顔を伏せた。 「あ、あの……私、そろそろ行かないと」 「タイムリミットか。じゃあ、仕方ないな」 「ねえ。毎日とは言いませんけど……四日に一度くらいは、連絡してくれる?」 「二日に一度、電話するよ」 僕は言って、オディールさんの手に、お土産の夫婦饅頭を渡した。 彼女は、本当に嬉しそうに笑って、その包みを胸に抱いた。 「約束ですよ。ずっと、ずっと、夢でも現でも、いつでも待っていますわ。 もしも私を裏切ったりしたら……黒い天使さんが、お仕置きに行っちゃいますからね」 「おいおい……。笑顔で、さらっと恐いこと言わないでくれよ」 「このくらいは契約の内でしょう? うふふ……今から、とっても楽しみです。 あなたは、私に――どんな色を着けてくださるのかしら」 どういう喩えだろう? ボディペイント? それとも、あなた色に染めて――って意味なのか。 うーん。いまいち、女の子の気持ちって解らないなぁ。 だけど、そんなコト言われて、悪い気はしない。むしろ、嬉しかった。 僕らは、置きっぱなしになってる彼女の荷物を取りに戻った。 キャスター付きのスーツケースと、機内持ち込み用と思しい黒い鞄。 彼女は黒い鞄の方に、夫婦饅頭をしまい込んだ。 その際、チラッと――鞄の中に人形みたいな影が見えた……気がしたけど、目の錯覚かな。 オディールさんの搭乗手続きも終わり、僕らも、いよいよ別れなければならない。 なのに、こんな時に限って、僕の頭は巧く働かない。 気の利いた台詞のひとつも思い浮かばず、かと言って、さよならだけじゃ物足りなくて―― せめてもの時間稼ぎとばかりに、僕は彼女に問いかけていた。 「結局のところ、ローザミスティカって、なんだったんだろう。君は、どう思う?」 なんともまあ、色気も何も、あったもんじゃない。 もっと、この場に相応しい話題が、ありそうなものなのに。 でも、彼女は、呆れたり、嫌な顔もしないで、答えてくれた。 「古い写真を収めたアルバムみたいなもの――では、ないでしょうか? 現代風に言うと、デジタルカメラのメモリカードに、近いかもしれませんね。 そこに収められていたのは、実の父に対して偏執とも言うべき愛情を抱いてしまった娘の、断片的な記憶で…… ある種のパスワードに反応して、目覚めてしまったんじゃないかしら」 「ローザミスティカを呑んだ雪華綺晶は、それによって狂わされた、と?」 「……さぁ? ただの推測です。今となっては、確かめようもありませんし」 「まあ、そうだよね」 あれこれ気を回したところで、過去を書き換えることなど、誰にもできはしない。 大切なのは、今を生きて、これからを切り開いてゆくことだ。 肝心なところで思慮の足らない僕のことだから、この先も、いろいろと失敗するだろう。 誰かを傷つけてしまうことも、あると思う。 だけど、それを怖れて立ち竦みたくはない。それが、僕の生き様だから。 失敗したら、次は成功するように、努力すればいい。傷つけたなら、ケアすればいい。 挫折と克服。人生なんて、その繰り返し。その程度のことでしかないと、思っているから。 「それじゃ、元気で」 「あなたもね、梅岡センセ。例の生徒さん、立ち直ってくれるといいですわね」 「頑張ってみるさ。僕だけじゃ、どうにもできない問題かもしれないけど」 「迷って、挫けてしまいそうなときは、相談してください。私でも、少しなら役に立てるかも」 ありがとう。彼は人好きのする笑みで、出国手続きに行く私を、見送ってくれた。 私も、スーツケースを引いていた手を放して、小さく、バイバイ……。 歩きながら、何度か振り返ってみたけれど、彼はずっと、優しい笑顔を崩さなかった。 そして――最後に振り返ったとき、彼が、言った。 「会いに行くときは、もっといいお土産を持ってくから!」 言って、彼は両腕を上げると、頭の上に大きな円を作った。 なぁに? まさか、指輪? それとも、また――夫婦饅頭でも持ってくる気かしら? あの人なら、やりそうね。金箔をまぶした夫婦饅頭とか、ね。 「楽しみにしてますわ!」 それは、皮肉なんかじゃない。私の偽らざる本音。本当に、楽しみで―― いつの間にか、私は笑っていた。ココロから幸せを感じて、笑っていた。 こんなこと……何十年ぶりかしら。 出発を待つ機内で、鞄の中から水銀燈が囁きかけてきた。 彼を繋ぎ止めている生徒の命を、いまから搾り尽くしてきましょうか、と。 そうすれば、くびきを解かれた彼が、すぐに私を追ってくると考えたみたい。 私は――彼女の気遣いにお礼を言って、続けた。「でも、いいのよ。このままで」 彼は生徒さんを傷つけたことに対して、強い責任を感じている。 もし、その子を死なせたら、彼まで自殺してしまいかねないほどに。 だから、これでいいの。時間なら、たっぷりあるし。私はただ、ゆっくりと実りを待てばいい。 私はシートに背を沈めて、瞼を閉ざし、ささやかに――近い未来を夢中に描いた。 愛しています。 愛して下さい。 ぐるぐると――それこそ未来永劫、二人の想いが廻るだけ。 それが、私の望む世界の、すべて。 -fin-
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『ひょひょいの憑依っ!』Act.12 玄関に立つ眼帯娘を目にするなり、金糸雀は凍りついてしまいました。 そんな彼女に、「おいすー」と気の抜けた挨拶をして、右手を挙げる眼帯娘。 ですが、暢気な口調に反して、彼女の隻眼は冷たく金糸雀を射竦めています。 「あ、貴女……どうし……て」 辛うじて訊ねた金糸雀に、眼帯娘は嘲笑を返して、土足で廊下に上がりました。 ヒールの高いブーツが、どかり! と、フローリングを踏み鳴らす。 その重々しい音は、ピリピリした威圧感を、金糸雀にもたらしました。 「……お久しぶり。元気そう……ね?」 どかり……どかり……。 眼帯娘は、一歩、また一歩と、竦み上がったままの金糸雀に近づきます。 妖しい笑みを湛えた唇を、ちろりと舌で舐める仕種が、艶めかしい。 その眼差しは、小さな鳥を狙うネコのように、爛々と輝いて―― 「……イヤ。こ、こないで……かしら」 金糸雀にとっては、眼帯娘の一挙一動に至るまで畏怖の対象らしく、 ガクガク震える脚を、なんとか気力で動かし、後ずさろうとします。 そんな金糸雀の足掻きに憫笑を送りながら、眼帯娘は、早足に間合いを詰めました。 黒いローブを割って、白い細腕が、するすると金糸雀の頚へと伸びてくる。 とうとう恐怖に堪えられなくなった彼女は、悲鳴を上げて踵を返すと、 這々の体でリビングに駆け込み、ベランダへと逃れようとしたのです。 脚が縺れる。ベランダに続く窓が遠い。この部屋、こんなに広かった? 金糸雀は歯を食いしばって、目一杯、腕を伸ばします。 しかし―― フローリングの床から、突如として紫水晶の柱がザクザクと林立して、 金糸雀の行く手を遮断してしまいました。 ばかりか、ビックリして立ち竦んだ金糸雀の左右にも、水晶柱の壁が構築され、 彼女はすっかり退路を断たれてしまったのです。 残る脱出路は、もう眼帯娘を倒して、切り開くしかありません。 ハッキリ言って、勝算は、限りなくゼロに近い。 しかし、それでも…… もう一度、ジュンに逢って、幸せな愛の夢を見続けるためには、やるしかない。 「行くかしら、ピチカート!」 いつでも彼女に従順な火の玉が、火勢を強めて、眼帯娘に迫ります。 けれど、当の眼帯娘は薄ら笑ったまま、左手ひとつで火の玉を鷲掴みにして、 呆気なく……本当に止める暇もなく、ぷちっ! と、握り潰してしまいました。 かつて、金糸雀が真紅にした仕打ちと、同じコトを。 「イヤぁぁぁっ!!」 彼女にとって、ピチカートは単なる火の玉ではなく、たった一人の親友でした。 その親友が、いま……目の前で、無惨に消されてしまったのです。 金糸雀は悲痛な叫びをあげて、ぺたりと腰を落としてしまいました。 喘ぐように開けた口を閉ざすことも忘れた彼女に浴びせられる、眼帯娘の声。 「まだ……未練があるの?」 その声は、我が子に訊ねる母親のように穏やか、かつ、威厳に満ちて、 裏側に『もう諦めなさい』というニュアンスが縫いつけてありました。 「貴女が懇願したから…………私は、5年の猶予を与えた。 もう……充分でしょう?」 「……そのコトについては、感謝……してるかしら」 我に返った彼女は、呻きながら応じました。 ――5年前、不慮の事故によって、身体を失ってしまった金糸雀。 本来ならば、彼女の魂は、戻るべき場所に連れて行かれるハズでした。 けれど、金糸雀とて、ステキな恋愛を夢見る女の子。 若い身空で、恋のひとつもできずに死んでしまったことが、心残りだったのです。 それ故に、あの時、目の前に現れた眼帯娘に、金糸雀は嘆願しました。 いま暫く、恋をする時間を与えて欲しい――と。 「でも、カナは……まだ逝きたくなんてないかしらっ! やっと……やっと、カナと対等に付き合ってくれる彼と、巡り会えたの。 ずっと待ち望んでた幸せな恋に、この指が触れたんだからっ」 金糸雀は血を吐きそうなほど叫んで、形振り構わず、眼帯娘の脚に縋りました。 「お願いかしらっ! もう少しだけ……1日だけでいいから、待ってっ! それがダメなら、せめてジュンが帰ってくるまで、待ってっ! このまま消えるのはイヤかしらっ! まだ消えたくないかしらっ! ジュンと、もう一度だけ、お喋りする時間が欲しいかしらぁっ!」 涙を流し、必死に喚き散らす彼女を見下して、眼帯娘は―― ふっ……と鼻で吐息するや、いきなり金糸雀を蹴り飛ばしたのです。 金糸雀はアメジストの柱に背中を打ち付けて、小さな悲鳴をあげました。 「愉しい戯れの時間は……おしまい。いい夢……見れたでしょ?」 言って、黒いローブから突き出された眼帯娘の手に、光の粒子が集まり、 一秒の後には、巨大な草刈り鎌を象っていました。 その刃は、アメジストの如く、鋭く冷たく透き通っています。 「貴女は――」 金色の隻眼が、ギラリと光るやいなや、金糸雀は身動きを封じられてしまいました。 「恋愛の真似事がしたいばかりに……『恋』と名付けた妄想を……愛でていただけ。 そして、結果を焦るあまり……禁忌に触れた。到底、看過できない……禁忌に」 禁忌。それは、何について宛われた言葉なのか? なんとなく、金糸雀には、予想がつきました。 「真紅の身体を、奪おうとしたコト――かしら?」 「そう。貴女は……彼女を傷つけた。 彼が大切に想っていた存在に……危害を加えた」 「だ、だって……そうしなきゃ、カナはジュンと一緒に居られないから――」 「まだ……解らないの? 可哀相……貴女は、とても」 そう告げた声には、蔑みも、呆れも、嘲りすらもなく、 哀憐の情ただ一色に彩られておりました。 「貴女は、身勝手な欲望によって……彼の愛する者を奪おうとした。 それは彼のココロを抉り、傷つけるコトなのに……罪悪感すら、抱かなかった」 「だ、だけどっ! カナにはもう、それしか方法がなかったかしら! ジュンの隣で幸せに暮らすためには、もう、それしか――」 「……ウソつき。貴女は、ただ……真紅のことが嫌いだっただけ。 彼女は……知性も、財力も、美貌も……貴女にないモノ全てを、持っていたから。 だから貴女は……羨んで、妬んで、憎悪した。 彼の側に居るためと、自分すら偽って……真紅から、全てを奪おうとした」 「そんなっ! 違うかしらっ!」 金糸雀は、ブンブンと頭を振って否定しますが、すぐにチカラを失いました。 眼帯娘に言われるまでもなく、彼女自身、薄々と気づいていたのです。 真紅に抱いていた敵愾心の、本当の理由を。 こんなにも醜い自分の性根が、どうしようもなく恥ずかしくて、 がっくりと項垂れた金糸雀は、確かに――と。 嗚咽に肩を震わせながら、苦しげに言葉を絞り出しました。 「確かに、最初は……ただの恋愛ゴッコだったかも知れないかしら。 でも、ジュンのことを知るほど……彼の優しさに触れるほど…… カナは本気で、ジュンと一緒に居たいと思うようになったかしら。 この気持ちは、絶対に、妄想や錯覚なんかじゃないかしらっ!」 「…………貴女に、誰かを愛する資格なんて……無い」 冷たく言い捨てて、眼帯娘は巨大な草刈り鎌を、高々と振り翳す。 「私は言った。あまり……深入りしない方が、いい……と。 でも、貴女たちには目先にある『たまご焼き』しか……見ていなかった。 ふんわりふわふわ……恋と言う名の、甘~い『たまご焼き』しか、ね。 優しさの安売りが、互いのココロを形骸に変えると教えたのに…… 貴女たちは、私の忠告を聞かずに……馴れ合いを続けた」 眼帯娘は、珍しく饒舌になったことで息苦しくなったのか、 口を噤んで、深く息を吸い込みました。 夜のしじまに、異様なほど大きく響き渡ったその音は、 もしかしたら、眼帯娘の歎息だったのかも知れません。 「でも――彼は気付いた。その『たまご焼き』が……いつか腐ることに。 だから……彼は捨てようとした。餓えていた貴女は、食べちゃったけどね」 そう。ジュンは、めぐと水銀燈に依頼して、金糸雀を祓おうとした。 あの時、金糸雀は既に、恋という甘い『たまご焼き』を口にしていたとも悟らずに。 結果、もたらされたのが、この現実でした。 「私が彼に渡した、あの……お人形。 貴女は……あの身体を得て、人形として生きる道で……満足すべきだった。 彼も、ただの人形として……貴女を愛でるべきだった。 それなのに……眠れる稚児は、起きてしまった。 幸福を掴もうとして……腕を伸ばした先に、奈落があるとも知らないで」 金糸雀は、項垂れていたアタマを、億劫そうに上げました。 「カナにはもう……チャンスは与えられないの?」 その問いに、眼帯娘は、こくんと頷く。 「言ったでしょう。そろそろ……夢の終わり。眠りを覚ます夜明けは、必ず訪れる。 貴女は今まで、ずっと……ただ『愛の夢』を見てきただけ。 ホントは全て……5年前に終わっていた。 私が、情にほだされ……貴女に猶予さえ与えなければ……それで」 でも、死者の魂を導く役目を司る彼女も、やはり女の子でした。 金糸雀の気持ちが、痛いほど解ってしまうから、非情に徹しきれなかったのです。 そうね。金糸雀は相槌を打つと、涙に濡れた瞳で、眼帯娘を見据えました。 口元には、清々しいほどの微笑みを浮かべながら。 瞳の奥には、黒々とした炎を、燃え上がらせながら。 「元はと言えば、カナが頼んだことだけど…… そんな筋合いじゃないって、解ってるけれど…… だけど……カナは――――貴女を怨むかしら。 こんなにも辛く、苦い夢に遭わせた貴女を、ココロの底から憎むかしら」 「…………ごめん…………なさい」 眼帯娘の唇から、ブツ切りの謝辞が零れた直後―― ひゅっ! 空を斬る音がして、巨大な草刈り鎌が、振り下ろされました。 それは、あやまたず金糸雀の鳩尾を刺し貫いて、 彼女が背にしていた水晶柱を、数多の結晶に変えてしまったのです。 ほどなく、金糸雀の姿は、砕け散った水晶柱と同様に、 小さな光の粒子になって散り始めました。 「あ…………あぁ…………。 ジュン…………カナ、は……本……当…………好」 言葉に出来たのは、そこまで。 金糸雀の身体が、彼女の未練を代弁するように、ひときわ輝いた直後―― すべては春の夜のホタルみたいに、幻と消えてしまったのです。 「死者の想いが辿る先は…………いつだって同じ。 どうせ叶わぬ恋なのに、ね」 紡がれた眼帯娘の声は、涙声でした。 でも、彼女の頬は、決して濡れることなく―― 「……『愛の夢』3つの夜想曲。その旋律は……夢見るように」 ポツリと口にすると同時に、草刈り鎌を宙に融かしました。 そして、ローブの裾をバサリと翻し、くるりと踵を返すと、 高らかにブーツのヒールを鳴らしながら、玄関に向かったのです。 「さあ……行きましょう。貴女が……居るべき場所へ」 玄関のドアを開ける矢先、惨劇の現場を振り返ることなく、彼女が囁く。 すると、彼女の黒いローブが、ふわり……と揺れました。 ――風もないのに。 その頃、めぐは、 「あったわよ、水銀燈。『愛の夢 3つの夜想曲』について」 帰宅するなりパソコンで検索をかけて、答えに辿り着いていました。 あまりにもアッサリ見付かって、拍子抜けするほどでしたが、 裏を返せば、それだけ有名と言うことなのでしょう。 「元々は歌曲で、第一番、第二番は、ドイツの詩人ウーラントの作詩ですって。 第三番だけが、フライリヒラートの詩なのね」 「誰の作だって良いわよ。問題は、そこに何の意味があるかってことでしょぉ? 特に、私たちが言われた『第一番』の意味が、ねぇ」 「あ、そうよね。ええっと―― 第一番は【高貴なる愛】というサブタイトルよ。 『地上の幸福を捨て、天上の愛を求めて生きる』って意味らしいわ」 あの眼帯娘が、めぐと水銀燈を『第一番』と呼んだのは、つまり…… 人間と禍魂の関係に、詩の意味を当てはめてのコトでしょう。 とすると、残り二曲の意味も、気になってしまいます。 「最初に、彼女が言ってた『第三番』は【おお、愛し得る限り愛せ】ね。 要は、死が二人を分かつ時まで、愛せる限り、懸命に愛し合えって意味よ。 あらまぁ、なかなかに意味深長だこと」 「…………なによ、その物欲しげな流し目は。バカじゃない?」 「あちゃー。水銀燈ったら、イケズぅ~。 ……とまあ、冗談はさておき、第二番は――――え? なに……これ」 「なぁに? イカレた貴女が驚くほど、イカレたことでも書いてあ――」 液晶ディスプレイを覗き込むなり、水銀燈は言いかけた台詞を引っこめて、 めぐと神妙な顔を突き合わせました。 そこに浮かぶ、ひどく物騒な単語。 【私は死んだ】 その詩が歌う内容は―― 『私は死ぬことによって、あの人の腕に抱かれ、愛の夢を見る』 それから、更に数時間が経った明け方。 ジュンは、眠っている真紅を起こさないようにベッドを抜け出して、 静かに彼女の部屋を出ました。 このマンションは、全室オートロックなので、ドアを閉めれば勝手に施錠されます。 「なんか……まだ、夢を見てるみたいだ」 言って、ジュンは締まりなく相好を崩しました。 我ながら、だらしないと思うのですが、どうにも幸せすぎて、 口元のニヤケを、堪えることが出来ません。 「巧く言えないけど、この感覚は……嬉しくて怖いな」 今までも、ジュンにとって真紅は『特別』な存在でした。 しかし、それは親友としての『特別』という意味で、早い話が筒井筒。 より以上の、性別に起因する強い絆とは、根本的に違っていたのです。 昨夜、二人して人生の分水嶺を越えるまでは―― 「これからは、もっと頑張らなきゃいけないんだよな、僕は」 一度でも手にしたモノは、失いたくない。それは、素直なワガママ。 真紅が言っていた、3つの見えない翼を持つモノが、思い出されます。 『お金』と『人のココロ』と『幸福』と。 『人のココロ』は目を離すと、すぐに飛び去ってしまう。 それは多分、本質でしょう。この世界に数多ある定義を保証する、ひとつの本質。 言うなれば【1+1=2】を証明する、数学的定理。 本質は不変。つまり、人の心変わりもまた、避けられないと言うこと。 故に、ずっと真紅に好きでいてもらいたければ、今よりもっと彼女を好きになって、 あらゆる幸せを分かち合う努力を、続けなければなりません。 愛は、甘いばかりの恋と違って、苦みも渋みもある味わい深いものですから。 「差し当たって、まずは金糸雀とのこと……か」 災い転じて福となす――ではありませんが、縁は異なモノ、味なモノ。 なにが禍福を決めるファクターとなり得るか、なかなか判らないモノです。 真紅との関係も、金糸雀が居てくれたからこそ、転機が訪れたのでしょう。 彼女に出逢わなかったら、おそらく今も、ジュンと真紅は平行線のまま、 くっつくことも、離れることも、なかったハズですから。 その意味では、金糸雀はキューピッドでした。御礼ぐらいは、すべきかも。 「……手ぶらで帰るのは、気が引けるな」 独りごちて、ジュンはコンビニに立ち寄り、出汁巻き卵と線香を買いました。 真紅の部屋から、忽然と居なくなってしまった彼女は、地縛霊。 だから、きっと、あの部屋に戻っている。そう信じて疑わなかったのです。 もしかしたら、一晩中、泣いてたんじゃないか――とすら。 けれど、浮ついていたジュンのココロは、帰宅するや凍てつきました。 リビングに林立する水晶柱。床に散乱する、アメジストのカケラ。 そして――キッチンに残された、作りかけの料理。 部屋中のモノ全てが、冷え冷えとした雰囲気を放っていたのですから。 「なんだ、これ? 金糸雀…………おい、居るんだろ?」 問いかける声に答えるのは、壁に跳ね返った彼の言葉のみ。 ジュンは居ても立ってもいられずに、彼女を探し始めました。 浴室も、トイレも、押入も…… しかし、どれだけ隈無く探しても、金糸雀は見つかりませんでした。 「なんなんだよ……散らかしっぱなしで。あいつ、どこ行ったんだ」 不機嫌そうに吐き捨てる、ジュン。 金糸雀は、辛くても明るく振る舞って、出迎えてくれると―― あまりに虫のいい考えを、どこかで期待していたのかも知れません。 「居なくなるんなら、せめて、片づけていけよな」 ぎゅっと拳を握り、強く歯を食いしばって…… ジュンは、胸がズキズキ疼くのも構わず、強がりを口にしました。 ――と、その時です。ベランダに続くガラス戸が、コツコツ鳴りました。 なにか小さなモノで……指先で、軽くノックするように。 沈んでいたジュンの表情が、矢庭に輝きを取り戻します。 「な、なんだ……ベランダに隠れてたのかよ。 僕を焦らせようって魂胆だったのか? この性悪自爆霊め」 あんなコトがあった直後ですから、面と向かうのが照れくさかったのかも。 そんな推測をしつつ、ジュンは嬉々として、ガラス戸を開きました。 その途端―――― ジュンの胸元に、ナニかが飛び込んできたのです。 驚いた彼が、咄嗟に腕を翳すと、そのナニかは、彼の腕に乗りました。 よくよく見れば、それは小さな黄色い小鳥――――カナリアでした。 「え? え? な、なんだよ……こいつ」 よほど人慣れしているのか、少し腕を振っただけでは、逃げません。 戸惑いを隠しきれないジュンを、カナリアは小さな黒い瞳で見上げながら、 チッチッ……と。 頻りに小首を傾げつつ、甲高く、可愛らしい声で謡いました。 音が同じだからでしょうか。その小鳥を見ていたら、なんだか―― ジュンったら、カナのことが判らないなんて、ヒドイかしらー。 金糸雀が、そう言った気がして。 ジュンは不覚にも、胸を締め付ける痛みに、呻いてしまいました。 そして、どういう心境の変化か―― 逃げようとしないカナリアの背中を、そっ……と、指先で撫でたのです。 言葉もなく、声すら出さずに、静かな涙を流しながら。 彼に撫でられることが、よほど気持ちいいのか。 カナリアは薄い瞼を閉ざして、じっと……されるがままです。 その仕種は、まるで―― 愛しい人の腕に抱かれて、いっときの愛の夢に、微睡んでいるようでした。
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貸し切りの星空の下―― 彼女たちは一糸纏わぬ姿のまま、白く泡立つ波打ち際へと歩きだした。 この幸せな夢が覚めてしまわないように、しっかりと手を繋ぎながら。 ――しかし、波打ち際で……翠星石の足が止まる。 緊張した彼女の横顔に、どうしたのと訊きかけて、蒼星石は思い出した。 ここは普通の海ではない。様々な感情、無数の記憶が溶け込んだ海なのだ。 ただでさえ夜闇に包まれて不気味な水面が、一層、得体の知れない世界に思えた。 「……怖い?」 「怖くないなんて、強がりでも言えねぇです」 「そうだね。解るよ、その気持ち。ボクも、少しだけ怖じ気づいてるから」 なにが起きるか予想ができない事柄ほど、恐怖を煽るものはない。 二葉は言っていた。魂が『記憶の濁流』に洗われることで、記憶は失われるのだと。 それが真実であるなら―― 海に入った途端、彼女たちの記憶も、綺麗サッパリ洗い流されてしまうかも。 そして、街で見た、あの白い影のような曖昧模糊とした存在になり果てるとしたら。 再会できたばかりなのに、また離ればなれになるなんて、絶対にイヤ。 蒼星石の怖れが、繋いだ姉の手を、強く握らせる。 「気が進まないなら、止めてもいいんだよ」 言って、蒼星石は自分の台詞の白々しさに、自己嫌悪した。 翠星石を気遣った? 違う。土壇場になって足踏みしたのは、蒼星石の方だ。 『今』を失いたくなくて、お為ごかしを口にしただけ。 翠星石は……返事を紡ぐ代わりに、妹の手を引いた。 躊躇いがちな蒼星石の手を、いつも引っ張ってくれたように、力強く―― ~もうひとつの愛の雫~ 第21話 『瞳閉じて』 驚いた蒼星石が「ホントにいいの?」と念を押した。 そうすることで、思い留まって欲しかったのかも知れない。 全てが水泡に帰しかねない危険を冒してまで、海に入る必要がどこにあろうか。 二人でのんびり暮らしながら、やがて姉の『記憶のカケラ』が浜に漂着するのを、 じっくり待っていればいいのだ。彼女たちの父親が、そうしたように。 けれど、翠星石は翳りも憂いも迷いもない笑みで、蒼星石に答えた。 「蒼星石が一緒なら、私は、どんなことにも立ち向かえるですよ」 月明かりに照らされた彼女の笑顔は、とても美しくて―― 白い肌に残る睦みごとの刻印と相俟って、蒼星石の胸を、はしたなく高鳴らせた。 いつの頃からだろう、翠星石とひとつになることを、密かに望んでいたのは。 触れ合い、癒着し、どろどろに溶けて、混ざり合ってしまいたい……。 その望みが叶えられたのに、折角の幸せを手放すことなど、どうして出来よう。 説得するべく、開きかけた蒼星石の口に、翠星石の手が、そっと添えられた。 「蒼星石と暮らしてきた日々が、どんなにステキだったのか……私は知りたいです。 そして、もっと幸せな気持ちで、これからの日々を綴っていきたいですよ」 どんなことにも、リスクは付き物。 そう告げて、翠星石は妹の唇から、細い指を離した。 「……強いんだね、キミは」 昔から、そうだった。二人で歩き出すとき、先に立つのはいつも、翠星石。 蒼星石は、ただ手を引かれて、付いて行くだけで―― それなのに、楽しくて、嬉しくて……なにより、幸せだった。 手を繋いでいるときは、大好きな翠星石を、独り占めできたから。 或いは、蒼星石の引っ込み思案も、構って欲しい気持ちの裏返しだったのかも。 「解ったよ。ボクも、もう迷わない。姉さんと一緒に、どこまでも行くよ」 たとえ、その結末がどんなものであれ、後悔などしない。 目と目で語り合った二人は、繋いだ手に力を込めて、海に向かい始めた。 湿った砂を踏みしめる爪先を、白波が舐めていく。 思いの外、海水は温かくて、脚湯のように気持ち良かった。 腰まで海水に浸かると、姉妹は示し合わせて、屈み込んでみた。 身体中にこびり付いていた砂の粒が、肌をくすぐりながら、はらはらと落ちてゆく。 茨の棘と、姉の爪に付けられた引っ掻き傷が、ピリピリ浸みた。 その痛みは、あっと言う間に身体の奥まで染み込んできて、蒼星石の胸に、 置き去りにしてきた親しい人たちの、悲しみに暮れる顔を浮かび上がらせた。 多くの人たちに辛い想いをさせた悔恨は、少なからずある。 ……が、それらを『どうにもならない過去の記憶』として、 忘却の彼方に捨ててしまおうだなんて思わないし、その想い故か、 記憶が流れ出していくような変調は、待てど暮らせど現れなかった。 (沖に出なければ、何も起こらないのかな?) 『記憶の濁流』というくらいだから、よほど大きな潮流なのだろう。 こんな、岸から十数メートルの距離では、影響なんて殆ど無いのかも知れない。 蒼星石が、その考えを話そうとした矢先、握っていた姉の手が、するりと抜けた。 「ね、姉さんっ?!」 ビックリして振り向くと、そこに翠星石の姿は無く―― ひと抱えほどもある大きな卵が、波間を漂っていた。 まるで、ハンプティ・ダンプティの卵。幼い頃、姉と読んだ絵本が思い出された。 もしかして、この卵こそが、翠星石のなれの果てなのか? 解らない。でも、そうとしか考えられない。 蒼星石は波を掻き分け、必死になって縋り付いた。 「姉さんっ! しっかりしてっ! どうしてっ! なんで、こんなっ!」 喉が涸れるほど呼びかけながら、大きな卵を抱き上げて、浜を目指す。 ヤケに重たい。それに、やたらと滑りやすい。 万が一、落として割ってしまったら……どうなるのだろう? 息も絶え絶えになりつつ、漸くにして辿り着いた砂浜に卵を横たえるや、 蒼星石は真っ白な外殻に、ぴったりと耳を近付けた。 ……と、微かに、何かが聞こえた。それは、途切れ途切れで…… 小さな子が、啜り泣いている様子を、蒼星石に想い描かせた。 試しに殻をピタピタ叩くと、ほんの少し、内側からの音が大きくなった気がした。 「この中に、姉さんが? でも……どうしたら」 卵の殻は堅くて、とても素手で割れそうにない。何か、道具があれば―― そう思った直後、思い当たった。道具ならある。『庭師の鋏』が。 危険かも知れない。中に居る誰かを、傷つけてしまうかも。 「だけど、ボクは――」 どうしても、翠星石を取り戻したい。 だから、思い切って『庭師の鋏』を振り下ろした。 一撃。たった一撃だけ。それだけで、卵の殻に亀裂が走り、粉々に砕け散った。 散乱した殻は、更に細かく砕けて、浜辺の砂と混ざり合う。 そして…………胎児のように身を屈めた翠星石が、そこに居た。 「姉……さん?」 おそるおそる、投げかけられた声に、翠星石の撫で肩がピクリと微動する。 彼女は……両手で顔を覆って、啜り泣いていた。 「どうしたのさ。なんで泣いてるの?」 蒼星石の胸が、キュッと締め付けられて、息苦しくなる。 この胸の痛みは、翠星石の悲しみがもたらすものか。 それとも、得体の知れない、漠然とした不安を感じたため? 涙の理由を知りたい。ココロに生じた衝動が、後者の気配を匂わせている。 まさか、更に記憶を失ってしまったのでは―― 蒼星石は、おののく手を姉の濡れた頬に添えて、静かに向き直らせた。 「お願いだから、泣いてる訳を聞かせてよ」 「……蒼……星石」 その一言は、濾紙のように。 涙声ながら明瞭に囁かれた名詞が、蒼星石の不安を少しだけ漉し取った。 どうやら、会話もできないほど記憶を失ったワケではないらしい。 やや表情を和らげ、蒼星石は、姉の頬に貼り付いた濡れ髪を、指先で弾いた。 「ボクのこと、解るんだね?」 「忘れたりなんか……できっこないです」 二人の瞳が、ひたと繋がり合う。 頬に触れた蒼星石の手に、引きも切らさず、熱い雫が落ちてくる。 一体どこに、これほどの涙が溜め込まれていたのだろう。 翠星石は、一向に泣きやむ素振りを見せなかった。 「ちゃんと思い出せるですよ。なにもかも、全部」 「それって、『記憶のカケラ』を取り戻したってコト?」 「ううん……そうじゃないです」 じゃあ、どういうコトなの? 訊ねようとする蒼星石の機先を制して、翠星石は震える声で続けた。 「最初から、私は『記憶のカケラ』を失ってなんか、なかったのです」 「じゃあ、なんで再会したときに、ボクのことを忘れてたのさ?」 「それは――――」 潤んだ緋翠の瞳が、また……脇に逸れる。「蒼星石を、忘れたかったから」 「ウソ…………なんで?」 翠星石の想いが、また見えなくなって――それ以上、言葉が繋がらない。 幼い日に、ずっと一緒にいると、約束してくれた翠星石。 携帯電話の留守録で、蒼星石が大好きだと言ってくれた翠星石。 その彼女が、なぜ『蒼星石を、忘れたかった』なんて言うのだろうか。 悪い想像は、悪い連鎖しか生み出さない。 捨てられたような、惨めな気分が、どんどんネガティブに傾いでゆく。 気付けば、蒼星石の目頭は熱くなっていた。 「分かんないよ。どうして? 姉さんにとって、ボクは要らない子なの?」 「そんな! 違うです! そうじゃなくって――」 いつになく必死な声。 滲む世界の向こう側で、翠星石は真っ直ぐに、蒼星石を見つめていた。 「私は――――蒼星石のことが好きですよ。現在進行形で、大好きです。 でも……それは姉妹だからとか、親友みたいな関係の『好き』とは違う。 もっと、ずっと、ココロの深いところから込みあげてくる想いなのです」 それを言葉にするなら、ひとくくりに『愛』と表現できるかも知れない。 もしくは、恋心と。 今まで、蒼星石は正に、その恋心を抱いてきた。他ならぬ、実の姉に対して。 そして……翠星石にも自分と同じ気持ちを抱いて欲しいと、密かに願っていた。 本当は、願う必要すらなかったのかも知れないのに―― 「蒼星石のコトを想うと、いつも胸が苦しくて……でも、こんなの背徳的だし、 みんなだって、異常で不潔だと思うに決まってるです。だから――」 「世間体を気にして、自分の気持ちを欺こうとしたの? 封じ込めたかったの?」 バカみたい。小さく吐息して、蒼星石は告げた。「ホントに素直じゃないよね」 どれだけ翠星石を慕っていたか。特別な感情を抱いて接していたか。 彼女なら、わざわざ言葉に変えなくても、とっくに気付いてくれていると思っていた。 だが、それは蒼星石の独りよがり。お互い様の、どっちもどっち。 「ボクも、姉さんも……ホントに素直じゃなかった。気持ちは一緒だったのにね」 「それは……しゃーねぇですぅ。生きる事は、いろんな倫理に縛られる事ですから」 「うん。だけど、お互い、もう意地を張るのは止めようよ。 この世界にまで、あっちの世界の倫理を持ち込むのは、ナンセンスだよ」 姉妹だから。女の子同士だから。そんなの、恋愛を否定する理由にはならない。 倫理なんて所詮、集団の営みにおいて必要とされる、最低限のルール。 それ以上でも、それ以下でもない。 彼女たちにとっては、大好きという気持ちが結ばれない方が、絶対的に不幸だった。 『悲恋』を美しさの代名詞にするような世界なら、いっそ捨てても悔いはなかった。 「ボクは、ずっと……キミだけを想ってきた」 「……私も……ですぅ」 交わした言葉は、それだけ。足りない分は、仕種で充たせばいい。 瞳を閉じると、二人は隔てるもの全てを押し退けて……契りを結んだ。 二人の涙が溶け合って、砂浜に吸い込まれていった。 ~もうひとつの愛の雫~ 第21話 おわり 三行で【次回予定】 二人で、ひとつ。 生まれたときから、ずっと……それが当たり前だった。 互いに持ち寄った絆は、月夜の浜に結実し、やがて永遠へと昇華する。 次回 最終話 『永遠』-前編-