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―弥生の頃― 【3月3日 上巳】 前編 世間一般に、雛祭りと呼ばれる日の朝。 翠星石はパジャマの上にカーディガンを引っかけ、PCを起動していた。 今日は金曜日。大学は春休みでも、バイトに行かなければならない時間だ。 にも拘わらず、翠星石は落ち着き払って、電子メールの確認などしている。 階下から、祖母の「起きなさ~い、翠ちゃ~ん」という声が届いた。 そう言えば……と思い出して、翠星石は席を立ち、ドアを開ける。 ひょこんと顔を覗かせると、階段の下で、祖母が見上げていた。 「何してるの? お仕事に、遅れるわよ?」 「言い忘れてたです。今日は、バイトが振り替え休暇になったですぅ」 「振り替え?」 「先週の土曜日に、休日出勤したですよね」 「ああ! そうだったわね。じゃあ、今日はお休みなのね?」 「だ~から、そう言ってるですぅ~」 若者と老人の会話は、少しばかり、時間と意志の疎通にズレが生じる。 毎日、会話しているから慣れているものの、翠星石は痺れを切らして、 扉を閉めてしまった。 ほんの少しの間だったのに、廊下から流れ込んでくる冷気で、 足の先が、痛いくらいに冷え切っていた。 「あぁ、もう。こうなりゃベッドに潜り込んで、ネットするですぅ」 手軽に持ち運びできるのが、ノートパソコンの利点だ。 生憎、ベッドの近くにコンセントは無いが、バッテリーで充分に事足りる。 LANケーブルの長さだけ気にしながら、翠星石は枕元にパソコンを置き、 ベッドに潜り込んで肘を突き、背を反らせた。 「んん~。ぬくぬく……ですぅ」 準備は万端。タッチパッドでカーソルを操作して、電子メールの着信を調べた。 一通、蒼星石から届いている。 履歴を見ると、翠星石が床に就いた後、昨夜遅くに着信したコトが判った。 「今日は、どんなメールの内容ですかねぇ。wktkですぅ」 逸る気持ちを抑えて、ファイルを開く。 内容は、蒼星石の近況と、桃の節句にちなんだ画像が貼り付けてあった。 「桃の花……そこはかとなく、意味深ですね」 桃の花言葉は『天下無敵』『チャーミング』『あなたのとりこ』だ。 最初の天下無敵はともかく、後ろの二つは、非常に気になるところだった。 「蒼星石は、私を魅力的だと想ってくれてるです? それとも……」 『姉さん。ボクは、姉さんのとりこ――だよ?』 「イ、イヤです、蒼星石ぃ~。なに言いやがるですか~」 脳内で蒼星石の音声を再生して、翠星石はベッドの中で身悶えした。 ひと頻り悶絶しかけて、ファイルを閉じようとした時、ふと―― 翠星石は、添付ファイルの存在に気付いた。 「? なんですか、これは?」 ファイル名は“Triffids.jpg”紛うコトなき、画像ファイルである。 「トリフィド? ……はっはぁ~ん。 この前のイタズラの、仕返しって魂胆ですね。 大方、私を怖がらせようとして、グロ画像でも貼り付けてあるです」 バレバレですぅ、と得意げに呟き、翠星石はファイルを閉じ…… ……ようとして、ちょっと考えた。 今なら外も明るいし、グロ画像と言っても、そんなに気持ち悪くはならないだろう。 それに、怖いモノ見てみた~い、という厄介な好奇心が、頭を擡げ始めていた。 「ちょっとだけ……ちょっとだけです。 怖かったら、すぐに消してやるですよ」 ぐびびっ……と、生唾を呑み込み、アイコンをクリックすると―― 「!? はぅあっ! こここ、これはっ!?」 液晶ディスプレイに表示された画像は、 ティランジアみたいな観葉植物のクローズアップ写真と、 蒼星石のバストアップ写真を合成したものだった。 下着姿の蒼星石が、巨大な植物の蔓に絡み付かれているような構図だ。 僅かに眉を顰めた蒼星石の顔が、やけに艶めかしく、エッチな表情に見えた。 【姉さん、事件です。ボク、トリフィドに襲われちゃったよ♪】 そんなメッセージが、添え書きされている。 「ば、ばっ、バカですか、蒼星石はっ! こんな合成写真なんかっ、も……も、萌える……ですぅ」 顔が熱を帯びていくのを感じながら、蒼星石の半裸を凝視しようと、 身を乗り出した次の瞬間! ぽた……ぽたぽた……ぽたっ。 ノートパソコンのキーボード部分に、深紅の薔薇が咲いた。 「はわわわわわ……はは、鼻血でたですぅ!」 慌ててティッシュを取ろうとして、翠星石はベッドから転げ落ちてしまった。 騒ぎを聞き付けた祖母が、階段を駆け昇ってきて、ノックもせず扉を開けた。 「どうしたのっ、翠ちゃんっ!」 「お、おばば……なんでもな――!!」 祖母の視線が、ベッド上のパソコンに釘付けとなっているのを見て、 翠星石は慌てて、ノートパソコンを閉じた。 その際に、思いっ切り指を挟んでしまったが、痛みを堪えて笑みを作る。 「翠ちゃん…………今のって……」 「な、なんでもねぇですっ。ただの、映画のポスターですぅ」 「そうなの? って、大変! 鼻血が出ているじゃないの!」 「あ……忘れてたです」 「パジャマ、早く脱ぎなさい! 洗濯しなきゃあ」 祖母に促されて、翠星石は鼻にティッシュを詰めてから、パジャマを脱ぎ始めた。 朝からドタバタしたせいで、すっかり目が冴えてしまった。 もっとも、二度寝するつもりは無かったので、構わないけれど。 翠星石は着替えを済ませると、ちょっと遅めの朝食を摂った。 洗面所で歯を磨き、自室に引き上げるべく、電話の前を通り過ぎたとき、 その瞬間を見計らったかのように、電話がけたたましく鳴り出した。 「ひぇっ! な、なんです。電話のクセに、脅かすなですっ」 悪態を吐きながらも、翠星石は受話器を取って、もしもし……と応じた。 「翠ちゃん、おっはようなのーっ!」 受話器の向こうから届くハイテンションな声が、翠星石の鼓膜を刺激する。 翠星石は反射的に、受話器を遠ざけていた。 耳から二十センチは離れているというのに聞こえる、雛苺の声。 「あー、おバカ苺? もう少し、静かに話しやがれです。 おめーのキンキン声で喚かれると、アタマが痛くなるですぅ」 「うょ……ごめんなさいなの」 「別に、謝る必要はねぇですよ。それより、今日は、どうしたです?」 「もぉ~。忘れちゃったの? 今日はねぇ――雛祭りなのよーっ! それで、翠ちゃんを招待しようと思ったのっ!」 静かに話すように諭した側から、このテンション……。 翠星石は、キーンと高周波な耳鳴りを堪えながら、受話器に向かって話しかけた。 「わ~かったです。すぐに行くですよ」 それだけ告げて、受話器を置いた。耳鳴りは当分、治まりそうにない。 自宅と一体化した時計店で開店準備をしていた祖父母に、出かけてくる旨を伝えて、 翠星石は、雛苺の自宅へと向かった。 今日は三月三日。五節句の一つ、上巳。 またの名を雛の節句、桃の節句とも言う。 雛苺の家では、毎年、この日に盛大な雛祭りが執り行われる。 愛娘に贈る、両親の心づくしであるのは疑いない。 けれど、翠星石には『普段、あまり構ってあげられないコトへの罪滅ぼし』 という性格が、強く感じられる行事でもあった。 見かけは華やかでも、中身が空虚な…… まるで、過剰包装のお中元みたいな、どこか虚しさが漂うお祭り。 雛苺という主賓は居ても、両親という主催者が不在では、興も醒めるというものだ。 だから、翠星石を含めた賓客は、持ち回りで主催者を務めて、 毎年、いろいろとアイデアを出し合っていた。 「今年は、真紅がホスト役ですね。どんな催しを考えたのやら」 去年の雛祭り―― 薔薇水晶がホストで、コスプレパーティーとなった記憶が、まざまざと思い出される。 クジ引きで、アッガイの着ぐるみを着せられ、屈辱的な写真まで撮られたのは、 青春という名の日記に残された、苦い経験の1ページ。 まあ、ファンタジーRPGにありがちな、肌の露出度が高い衣装の蒼星石を見られたから、 結果的には満足だったのだけれど……。 「ガチガチ真面目な真紅だから、変なコトにはならねぇハズですぅ」 とは思うのだが、真紅も時々、ウケを狙いすぎたボケを、かましてくれる。 どうなるかは、着いてからのお楽しみだった。 翠星石が雛苺の家に到着した頃には、主立った面々が、もう勢揃いしていた。 水銀燈と、金糸雀、真紅に、雪華綺晶と薔薇水晶の姉妹も。 けれど、1番の親友である巴の姿はなかった。都合が悪かったのだろうか。 「みんな、今年も来てくれて、ホントにありがとうなのっ!」 雛苺の挨拶で、宴は賑々しく幕を開ける。 ジュースで乾杯の後、ホスト役の真紅が、優雅な仕種で立ち上がった。 「えぇと。それでは……私こと真紅が、今年の進行役を――」 「前置きは良いから、さくさく始めるかしらー」 「うるさいわねっ! 話には枕があるのだわ」 「……ヒナも、早くして欲しいのぉ」 「ま、まあ……主賓がそう言うなら、前置きは割愛するのだわ。 と言うワケで、早速、みんなで『レッツ! 利き茶』としゃれ込むわよ!」 その一言で、座は一気に興醒めした。 この、紅茶バカ一代―― 口には出さないが、誰の顔にも、そんな想いが、ありありと現れていた。 このまま終了? そんな空気が漂い始めた時、救いの女神が降臨する。 「やぁよぉ~。そんなの、つまんなぁい。 どうせならぁ、みんなで甘酒を作って、コンテストをしましょうよぉ」 「おおっ、銀ちゃんナイスっ! その企画でGOかしら!」 「面白そうですぅ。おばば直伝の甘酒、とくと味わってもらうですよ」 「薔薇しーちゃん。私たちも頑張りましょうね」 「まかせて、お姉ちゃん。……ラプラス秘伝の裏ワザで……勝ちに行く」 意気揚々と台所に向かう、面々。 真紅は独り、ぽつねんと取り残されてしまった。 「ちょっ! 貴女たち、待ちなさいっ!」 それから、なんやかやワイワイと、甘酒造りは行われて……。 一時間後、全員の前に、各人の名前が書かれた七つの紙コップが置かれていた。 中身はモチロン、ほかほかと湯気の立ち上る甘酒。 ――の筈なのだが、妙な色をしているものも、ひとつ、ふたつ。 「それでは、甘酒コンテストを開始するのだわ。 こけら落としは、私の甘酒よ。さあ、じっくりと堪能しなさい」 言われて、全員が真紅と書かれた紙コップを手に取り、くいっ……と呷る。 直後、誰もが珍妙な顔になった。 「なぁに、これぇ……変な味がするわぁ」 「薫り付けに、ダージリンを混ぜたのだわ」 「…………真紅、失格」 「薔薇しぃの言うとおりですぅ。こんなの、甘酒なんて認めねぇですっ。 それ以前に、マトモな人間の飲むものじゃねぇですよ!」 「し…………失……格? この、私が? そんな……コトって」 どーん! と意気消沈して、跪いた真紅に代わり、金糸雀が立ち上がる。 「次は、カナの番かしら。ふっふっふ…… 最強にして、妙なるハーモニー。とくと味わってもらうかしらー」 「……うぇ。ヒドイ臭いですっ! なんなんですか、これはっ」 「ショウガ・ニンニク・麻黄・唐辛子・ガラナなどの生薬を、ふんだんに――」 「あっきれたぁ……空前絶後の、おばかさぁん。第一、ガラナって生薬ぅ?」 「…………金糸雀……問っ! 題っ! 外っ!」 「薔薇しーちゃんの言うとおりですわね。 ドクターペッパーの方が、よっぽどマシですわ」 「も……問題外?! 以前、本で読んだとおりに……作ったのに」 「それって、民明書房の本なんじゃねぇですかぁ?」 哀れ、金糸雀も轟沈。 けれど、乙女たちの宴は、まだ続くのだった。
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1947.4.16 東プロイセン ラステンブルク郊外 「距離…………3000。11時方向」 赤色灯が点された薄暗い空間に、若い娘の、低く押し殺した固い声が流れる。 狭い室内に立ちこめる空気はピリピリと張り詰めて、息苦しいほどだ。 ――とても蒸し暑い。気流というものが、殆ど感じられなかった。 だが、その場にいる誰もが、白く瑞々しい柔肌に汗をまとわりつかせていながら、 文句のひとつも言わず、黙々と人いきれを堪えていた。 「翠星石、貴女の方でも『毒ヘビ』との距離を、見積もってちょうだい。 索敵状況は、どうなっているの、金糸雀?」 カールツァイスの双眼鏡を目元から離すことなく、真紅は指示を飛ばす。 すぐに、打てば響くような反応があった。 ヘッドホンを通じて、最初は操縦手席にいる翠星石から。 それが終わるのを待って、無線手である金糸雀からの報告が続く。 「距離は……んん~……およそ2900ってトコですぅ」 「履帯音より照合したかしら。敵はT-34sが1両、自動人形が6体。 頻りに、暗号で通信してるわ。斥候と見て、まず間違いないかしら」 「……ありがとう。いつもながら優秀だわ、貴女たちは」 敵の姿は、砲塔上部に設けられたペリスコープを通して、真紅も確認していた。 これから狩ろうとしている獲物からは、片時だって目を離したりしない。 にも拘わらず、わざわざ二人に確認を取ったのは、万全を期するためだった。 情報は持ち寄った数だけ、その信頼性を増すものだからだ。 加えて、迅速な意志の疎通を図る訓練……という目的もある。 些細なコミュニケーションを繰り返すことで、仲間意識を強め、信頼関係を築く。 それによって、一蓮托生をイメージさせて、各自のベストを尽くさせるのだ。 今しがた二人の娘が見せた鋭敏な反応も、これまでの積み重ねの賜物だった。 双眼鏡の向こうにいる敵は、ディーゼルエンジン特有の褐色の排煙を上げながら、 ゆるゆると接近してくる。金糸雀の報告どおり、T-34s『バジリスク』だ。 ソ連軍の中戦車T-34/76の改造型で、自律制御型の無人戦車である。 『毒ヘビ』と言ったら、この物騒な【おもちゃ】を指していた。 その周りを、カカシかヤジロベエのように一本脚で跳ねているシルエットが、6つ。 背丈は、丁度、子供くらいの上背だろうか。 こちらもT-34s同様、自動制御の機械人形だ。『ポーン』と綽名されている。 純然たる工業製品で、動力はバッテリーと油圧。 大量生産を念頭に置いた設計により、複雑で繊細な動きは犠牲にされていた。 そもそも、スチール製の外観からして、造りの粗雑さは瞭然である。 プレスしたままの、のっぺりした曲面を描くボディは、塗装すら施されていない。 跳ね回る自動人形が反射する陽光は鋭利で、双眼鏡を覗く真紅に、瞳の痛みを覚えさせた。 猛然と迫り来る、機械の群。ヤツらの稼働目的は、人間の殲滅。 こうして彼女たちの前に現れるまでにも、多くの命を屠ってきたことだろう。 与えられた仕事を忠実に、かつ淡々と処理することは、機械の本分に則った行為だ。 ……が、それは所詮、向こうの都合にすぎない。 人類は、道具として使役するために、機械を生み出したのだ。 たかが一介の道具に過ぎない機械の義務に付き合い、殺されてやる義理などない。 ましてや、戦わずして滅びを待つなど……愚かしいにも程がある。 だからこそ、真紅は仲間の娘たちと共に、過酷な戦いへと身を投じたのだ。 ――すべては、生き延びるため……。 それだけの為に、彼女たちは猛獣の名を冠する鋼鉄の塊を、飼い慣らしてきた。 機械を手足の如く操って、多くの機械を破壊してきた。 「蒼星石、Pzgr43/44(徹甲弾)装填。2500で撃つわ。急いで」 「了解、真紅」装填手である蒼星石が、30kg近い128mm砲弾を両腕で抱え、 蹌踉めきながらも砲尾へと押し込み、淡々と報告する。「装填完了したよ」 「早いわね、上出来よ。金糸雀、その後の索敵状況に、変わりはない?」 「自動人形を随伴させたまま、道なりに近付いてくるかしら。 ……まだ、気付かれてないみたい。数は、増えも減りもしてないかしら」 「それは、なによりだわ。 茂みに潜んで偽装しているとは言っても、油断はできないものね」 言うと、真紅は双眼鏡から顔を逸らせて、ふ……と、詰めていた息を吐く。 暑い。まるでサウナにでも入っているように、全身から汗が噴き出してくる。 ややもすれば、熱気に中てられ、クラクラと気を失ってしまいそうだ。 早く狩りを終えて、風に当たりたい。それは真紅のみならず、全員の本音だった。 水筒の温い液体で、その場しのぎに喉を潤した真紅は、彼女の目の前―― 戦車兵の証である黒い軍服を纏った砲手の背中に、ひたと視線を送った。 「そろそろ出番よ、水銀燈。砲弾も少なくなってきたわ。外さないでね」 「ふふっ……誰に言ってるの、真紅ぅ」 砲手の娘は、単眼式のTZF.9f照準器を覗き込んだまま、不敵に含み笑う。 真紅には見えていなかったが、彼女は嗜虐的に歪めた唇を、ねっとりと舐めていた。 落ち着き払って微動だにしない背中が、揺るぎない自信のほどを窺わせた。 水銀燈が覗いている照準器には、距離を測るため、三角形の指針が七つ並んでいる。 底辺と高さが4シュトリヒの主指針と、底辺と高さが2シュトリヒの補助指針だ。 中央に主指針があって、その両脇に3つずつ補助指針が配されていた。 ちなみに、1シュトリヒは360°÷6400で算出される単位で、 英語ではミル角と呼ばれる。 「この128mmなら、3000でも百発百中よ。一撃でジャンクにしてやるわぁ」 「心強いわね。頼りにしているわよ」 水銀燈の背に微笑みを投げかけて、真紅が再び双眼鏡を覗き込もうとした矢先、 金糸雀の切迫した叫び声が、ヘッドホンを通じて全員の耳に届いた。 「砲塔の旋回音を確認っ! こっちの位置を特定されたかしらっ」 偽装から突き出した砲身を、探知されたのだろう。 機械人形のクセに、敵もなかなか目がいい。 真紅は小さく舌打ちして、金糸雀に負けないくらいの大声で叫んだ。 「水銀燈っ、照準の調整は済んでいるわね?」 問われて、水銀燈は照準器から目を離しもせず「当然よ」と短く答えた。 その声は掠れていたが、緊張のためか、暑さによる渇きのせいかは、判然としなかった。 敵戦車は今や、主指針の三角形の頂点に、ピタリと収められている。 真紅と翠星石の報告によって、照準器の距離設定は、調整ずみ。 射角も方位角も、すべて問題なし。敵の移動に合わせて、微調節するのも怠りない。 そればかりか、優秀な砲手である彼女は、指針から敵との距離すらも逆算していた。 「今2500……ってとこねぇ。あっちの76.2mmじゃあ、まだ射程圏外よ。 まぐれで届いたところで、こっちの前面装甲を撃ち抜けやしないわ」 その数字を聞いて、真紅の表情が、少しだけ和らいだ。 「――そう。こちらは悠々、有効射程内ね。水銀燈! 射撃用意!」 「いつでも良いわよぉ。 ちょぉっと遠いけどぉ……任せておきなさぁい。当ててみせるからぁ」 「信じてるわよ。翠星石は、移動する準備をしておいて」 「はいですぅ!」 ヘッドホンから、操縦席に座る翠星石の、元気のいい声が返ってくる。 真紅は双眼鏡を手に、ペリスコープを覗き、命令を下した。 「Feuer!」 水銀燈が、主砲の俯仰調整ハンドル脇にある発射レバーを、右手で軽く引く。 直後、爆音を轟かせて、55口径128mm砲が火を噴いた。 戦闘室内の空気も、ズシンと震えて、彼女たちの肺腑を圧迫する。 ヘッドホンで保護していなかったら、すぐに鼓膜がイカレるだろう。 放たれた徹甲弾は初速920m/s超で空を切り、T-34s目がけて飛んでいく。 そして、約2.7秒の後、真紅が見守る先で、敵の前面装甲を穿っていた。 車内で砲弾が誘爆したらしく、T-34sの砲塔が、フワリと宙を舞う。 「命中……撃破確認。蒼星石、念のため次弾装填よ」 「解ったよ。次も、Pzgr43/44で良いのかい?」 「ん……そうね。それで良いわ。 さあ、急いで離脱するわよ。自動人形や攻撃機に、捕捉されない内に」 「RM動力機関、始動したですっ。いつでも発進できるですよ」 「Panzer vor! 金糸雀は索敵を継続」 「うっし! 行くですよ、ティーガーⅢ。キリキリ歩きやがれですぅ」 「諒解かしら!」 翠星石と金糸雀の返事が重なった直後、獰猛な鋼鉄の獣は大地を揺らし、歩を進める。 まとわりつく偽装の枝葉を振るい落としながら、65tの巨躯を白日の下にさらした。 通常、戦車には引火しやすいガソリンエンジンではなく、ディーゼルエンジンが積まれる。 しかし、ティーガーⅢは化石燃料に頼らない、最新鋭のRM動力機関を搭載していた。 ポルシェ博士の電気自動車理論を、優秀な科学者の顔を併せ持つ職人ローゼンが発展させ、 45年のベルリン攻防戦が始まる直前、たった一機のみ試作された動力機関である。 それを、ティーガーⅡのシャーシを改造して組み込んだのが、ティーガーⅢだった。 128mmという巨砲を載せるため、砲塔も僅かながら、大型化されている。 長く突き出した128mm/L55の砲身には、実に40本以上の白線が描かれている。 キルマークと呼ばれるソレは、文字通り、敵戦車の撃破数を示していた。 その殆どはT-34s相手に稼いだスコアだったが、M26A『アリゲーター』や、 JS2c『クロコダイル』も少なからず含まれている。 どちらも自動制御化された戦車で、重装甲・強武装を誇る強敵だ。 ティーガーⅢをも一撃で粉砕し得るだけに、できれば遭遇したくない相手だった。 移動を始めて間もなく、索敵していた金糸雀が、悲鳴に近い声を上げた。 「真紅っ! 周囲3000圏内に、新たな敵の反応多数かしらっ! T-34sが5、自動人形は……さ、30近くいるかしらぁーっ?!」 やはりね――と、真紅は独りごちて、ヘッドホンのマイクに命令を吹き込む。 斥候が動いているならば、その後ろに本隊が居るのは当然のこと。 発見された時点で、無線で増援を呼ばれたことは、予想の範疇だった。 ココロの準備ができていただけに、真紅は落ち着き払って対応してゆく。 「まずは、毒ヘビから黙らせるわよ。 自動人形は、後回しでいいわ。ヤツらが接近するには、まだ距離があるもの」 優先順位は、長射程で破壊力のある戦車が一番。自動人形は、二の次だ。 とは言え、自動人形も侮れない存在である。 手榴弾は勿論、対戦車兵器を携行するタイプの人形もいるから、肉薄されれば危険だ。 その対抗手段として、主砲には7.92mm同軸機銃が装備されている。 いざとなれば無線手の金糸雀も、前面のMG34機関銃を撃つ役目を担っていた。 「翠星石、すぐ左手にある窪地に入ってちょうだい。起伏を掩蔽地にするのよ。 砲塔、三時方向に旋回。分散される前に、毒ヘビを退治するわ」 ただちに真紅の指揮どおりの動きを見せる。 窪地から砲塔だけを突き出す格好で、彼女たちの戦車は停止した。 水銀燈が、足元のペダルを踏んで電動モーターを呻らせ、砲塔を敵に向ける。 優れた砲手がどうかは、概ね、この時点で解る。 旋回させすぎたりせずに、必要最低限の時間で、ピタリと敵を照準に納められるか…… その僅かな時間にこそ、明日への扉を開くためのカギが隠れていた。 真紅が距離を告げ、水銀燈が素早く微調節を済ませる。 号令一下、128mmが轟音を放ち、たちまち一両の戦車を屠った。 砲身から廃莢されると同時に、刺激臭のする硝煙が吐き出される。 そのニオイは、戦闘室内に充満して、彼女たちの軍服に染み込んでいった。 しかし、機械である敵は、怯むということを知らない。数を頼りに圧してくる。 すぐに真紅が方向と距離を見積もって指示を飛ばし、水銀燈が砲塔を旋回させ、 蒼星石が砲弾を装填する。その一連に要したのは、およそ20秒。 それ以上かかっているようでは、まず生き残れない。 約1分の間に3回の砲撃が行われて、ことごとく命中、撃破する。 戦車の誘爆に巻き込まれた自動人形の首が、爆風によって引きちぎられた。 油圧のオイルを撒き散らしながら倒れ、そのまま動かなくなる。 その様子を、真紅は双眼鏡を通じて、澄んだ蒼い瞳に焼き付けていた。 けれど、いちいち感傷になど浸っていられない。 破壊することにも、破壊されることにも、もう慣れきっていた。 残り二両となったところで漸く、敵も分散を始めた。 一両が囮になり、もう一両はティーガーⅢの後背へ回り込もうとしている。 戦車は前面装甲こそ分厚いが、側背面や上部装甲は薄く、弱点だからだ。 そのことは、戦車兵の常識として、必ず頭に叩き込まれる。 ティーガーⅢにおいても、この戦闘のセオリーに例外はなかった。 「翠星石っ、後退しつつ左旋回! 砲塔は三時に固定のままよ。 まずは、後ろに食い付こうとしている敵を一撃するわ!」 ティーガーⅢは、その巨躯に似合わず、素直に真紅が思い描いたとおりの動きをする。 真紅が「いい子ね」と呟くのと同時に、128mmの徹甲弾が発射され、 また、T-34sが一両、一瞬にして鉄屑と化した。 残った一両は、ティーガーⅢめがけ、猛然と突進してくる。 全速を出していることは、吐き出しているディーゼルエンジンの黒煙で判断できた。 だが、それは完全に機を逸した、無謀とも言える突撃だった。 「引き際というものが解ってないのね。ふふ……教育してあげるわ。 砲塔、12時方向に旋回よ。距離、1800!」 「自動人形との距離も、2200を切ったかしらっ!」 「Pzgr43/44装填完了したよ、真紅っ」 「こっちも照準いいわよ、真紅。いつでも撃てるわ」 戦闘室内に殺気だった怒号が飛び交い、生死をかけた数秒が流れる。 こちらが撃つのが先か。それとも、敵に撃破されるのが先か。 敵の砲撃が、先だった。しかし、走行しながらのため精密さを欠いていた。 ティーガーⅢの遙か前方に着弾した徹甲弾が、僅かに土を巻き上げたのみ。 「Feuer!!」 真紅の号令一下、巨砲が火を噴き、車内の空気が震える。 その一撃は、T-34s砲塔前面の装甲を易々と撃ち抜き、沈黙させていた。 数秒の後、爆発、炎上する様を一瞥しただけで、真紅は次の命令を発する。 「次は、残った自動人形どもを一掃するわよ。翠星石、微速後退。 蒼星石、Sprgr.L5.0(榴弾)を一発だけ装填。 金糸雀は、索敵しつつMGの射撃準備に入って。対空警戒は、私がするわ」 真紅は命じながら、ハッチを静かに開いて、僅かに頭を覗かせた。 狙撃タイプの自動人形が随伴していないことは、既に確認していたし、 もし居たとしても、2000m以上の距離が開いていれば、銃弾など届かない。 榴弾の砲撃が済むのを待って、真紅は思い切って、上半身を乗り出した。 彼女の瞳に映る美しい蒼穹は、立ちのぼる黒煙によって、薄汚れていた。 弾薬食料の補給のため、ラステンブルクの司令部および補給廠へ向かう道すがら。 真紅は換気と見張りを兼ねて、キューポラのハッチを開き、半身を乗り出していた。 ある程度の広さはあっても、所詮、気密性の高い鋼鉄の箱。 換気ファンは常に回されているが、暑苦しさと、息の詰まる感じは拭いきれない。 さっきの戦闘による硝煙のニオイも、まだ車内に残っていた。 ここが自分たちの棺桶になるかも知れない。そう思うと、流石にゾッとしなかった。 吹き過ぎる風が、汗ばんだ肌を優しく撫で、彼女の金髪を靡かせる。 戦闘の興奮で火照った身体が、心地よく冷やされていった。 ふと、草原に転がっている、赤茶けた物体が真紅の視界に入った。 破壊され、打ち捨てられたままの自動人形だった。 のっぺりとした装甲の体躯は、量産目的であっても、造りが粗雑すぎる。 損壊の激しい人形は雑草に抱かれながら、どこまでも高く蒼い空を、恨めしげに見つめていた。 (この子もまた、被害者なのかも知れないわね) 真紅は、後方へと過ぎ去っていく壊れた人形を目で追いながら、 胸の中で問いかけた。 (――お父様。あなたは、何をお考えなのですか?) 今はどこにいるとも知れない、偉大なる職人―― 彼女たちが駆る、この鋼鉄の猛獣を生み出した科学者にして、 自動人形たちの原型、オリジナル・ローゼンメイデンを作り出した男へと。 (お父様…………なぜ、こんなにも虚しい戦いを続けさせるのですか? もう、世界は充分すぎるほど傷つき、荒れ果ててしまいました。 人々は、自ら流した血と涙の海で溺れて、沈みそうになっているのに…… どうして、まだ混乱の渦を拡げ、人類を滅びに向かわせようとするの?) 真紅には、父の考えが全く解らなかった。 解らないからこそ、再び父と相見え、問い質そうと思った。 そのために、なにがなんでも、生き延びてやろうと決意していた。 『闘うことは、生きること……』 かつて、父が教えてくれた言葉。 そんなものが、彼女の心の拠り所になっているなんて、なんとも皮肉だった。 ――∞――∞――∞――∞―― 1947.4.16 今日の戦果は、6両のT-34sと、自動人形が35体。 けれど、こんな戦果なんか、焼け石に水でしかない。 敵はすぐに、損害を補充してくるもの。 私たちは――死んだら、それで終わり。修理も補充も効かない。 私たちは、いつまでこんな戦いを続けなければならないの? いつになれば、埃と硝煙にまみれ、汗と血で汚れた軍服などではなく、 煌びやかなドレスに身を包んで、幸せな乙女として暮らせるの? 教えてください、お父様。 ――∞――∞――∞――∞―― 日記代わりの手帳に想いの丈を綴って、真紅はそれを、軍服の胸ポケットに押し込んだ。 不条理な現実に憤る感情を、華奢な身体に詰め込んで押し潰すように、 力強く……。 世界を巻き込んだ二度目の大戦は、もはや枢軸軍も連合軍もなく…… 人類と自動人形の群は、武器を手に、非生産的な戯れを繰り返していた。 この『Panzer Garten』で――
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「二葉さんはね、日本という極東の島国から、訪ねてきたのよ」 そう語るコリンヌの声は、雪華綺晶の耳を、右から左へと通り抜けてゆく。 写真の中の、優しそうな目元と、社交的であることを思わせる微笑。 潤んだ金色の瞳は、二葉という青年に、釘付けとなっていた。 この既視感は、なに? ずっと以前にも逢っている……みたいな。 だが『いつ、どこで』に当たるパズルのピースは、見つからなかった。 二年前に、二葉が渡仏した際のことか。それとも、もっと他の時期なのか。 雪華綺晶が手繰る記憶の糸は、どれも、ぷっつりと途切れてしまう。 コリンヌと出逢うまでの経緯さえ、夜霧に巻かれたように、茫漠としていた。 「二葉さまは、どのくらい、このお屋敷に滞在なさってたのですか?」 「そうね……一ヶ月以上は、お泊まりになっていたはずよ。 わたし、殆ど毎晩のように、二葉さんに日本の話を聞かせてもらってたっけ」 「この写真も、その時の?」 「ええ。写真ってステキね。美しい思い出を、より鮮やかに留めておけるから。 眺めながら想うだけで、息づかいが聞こえるほど、彼を身近に感じられるのよ」 楽しかった日々の思い出に浸っているコリンヌは、いつになく上機嫌だ。 目の前にいる雪華綺晶が、想い人であるかの如く、一言一言、声を弾ませる。 蒼い瞳を輝かせて、口早に喋るさまは、恋する乙女そのものだった。 第八話 『Feel My Heart』 ――なんて健気なんだろう。雪華綺晶のココロが、キュッと痛くなった。 写真を眺めて、手紙のやりとりをして…… 二人を隔てる距離にも屈せず、二年もの間、一途に想いを紡いでいる。 そんなこと、よほど強い気持ちがなければ、できやしない。 コリンヌの思慕には、特別な意味があるのだと、雪華綺晶は悟った。 「もしかして、あなたと二葉さまは、将来を誓った仲ですの?」 「それは……いいえ、まだよ」 伏し目がちに、か細い声で呟いたコリンヌの頬は、桜色を帯びている。 奥ゆかしい仕種ながら、彼女の気持ちは、あからさまだった。 「だけど、いつかは――ね。そう願いながら、手紙をしたためているの。 子供じみた夢……かも知れないけれど」 「想いは届きますよ、きっと。いえ……もう届いているのでしょう。 ですから、二葉さまも頻繁に、手紙を書いてくださるのです」 「そうね。そうよね」 言って、コリンヌは端正な表情を、パッと綻ばせる。 けれども、その美しく澄んだ蒼眸の奥に、一抹の不安が宿っていることを、 雪華綺晶は見逃さなかった。 彼を信じていない訳では、ないだろう。 だが、コリンヌはまだ若い。喩えるなら、苗木のようなものだ。 激しい雨に土壌を浚われれば倒れるし、突風に薙ぎ払われもする。 脆弱な根元は、些細な変化であっても、呆気なく揺らいでしまう。 彼の声を聞きたい。優しく、髪に触れて欲しい。 コリンヌが心から望んでいることは、きっと、そんな自己満足だけ。 少女は今、想いを貫くために、確かな絆を求めずにはいられない年頃だった。 「ねえ、コリンヌ」 主人の背後に回った雪華綺晶は、目の前にある細い肩を、両腕で包みこんだ。 そっと近づけた頬に、コリンヌの耳が触れる。驚くほど熱くなっている。 でも、なんだか気持ちいい熱。彼女は、ますます頬を擦りつけて囁いた。 「もっと……二葉さまのお話を、聞かせてください」 彼を思い出すことで、コリンヌの寂しさが少しでも紛れるのであれば―― 聞き役となることに吝かでない。 保護してくれたばかりか、こうして側仕えまで許してくれたコリンヌへの、 せめてもの恩返しができるなら……と。 しかし、それだけが理由ではなかった。 雪華綺晶もまた、二葉という存在に、並々ならない興味を抱いていたのだ。 なぜ、彼が夢の中に現れたのか……その理由が知りたい。 だからこそ、彼のことを、もっと教えて欲しいと望んでいた。 ~ ~ ~ コリンヌは、それこそ湧き出す泉の如くに、二葉についてを語り続けた。 やがて日が傾き、夜が訪れても、彼女の回想は止むことを知らない。 食事を自室に運ばせてまで、雪華綺晶とのお喋りに熱中していた。 この会話の終了が、二葉との縁の切れ目になると怖れているような―― そんな素振りだった。 「二葉さんには、双子のお兄さまがいらっしゃるのよ。 ご兄弟で、新しい事業を展開しているの。かなり大掛かりな計画らしいわ」 そんな話題が切り出されたのは、一緒に食後のシャワーを浴びている時のこと。 二葉のことを話している時のコリンヌは、本当に愉しそうだ。 雪華綺晶は、かいがいしく主人の背中を流しながら、笑みを交えた相槌を打つ。 けれど、その笑顔の裏で、雪華綺晶はじわじわと興醒めていた。 自ら望んだことながら、コリンヌが他人の名を口にするのが、面白くない。 いま、最も側にいて、触れ合っているのは自分なのに…… どうして、遠く離れた国の青年のことばかり、嬉しそうに話すのだろう。 嫉妬と思慕の情が、もやもやした欲求不満を募らせる。 雪華綺晶の胸で、独占欲が燻りだしていた。 インプリンティング――という言葉がある。 鳥類や哺乳類が、産まれて直ぐに見た物体を親と認識する学習能力のことだ。 雪華綺晶の、コリンヌに対する感情も、それに近いものかも知れなかった。 (あなたは…………私だけのマスター) コリンヌは今、確かな温もりを求めている。雪華綺晶は、それを与えられる。 だから、行動することに、なんの躊躇いもなかった。 「続きは、お部屋で聞かせてください。夜が明けるまでの、寝物語に――」 雪華綺晶は背後からコリンヌを抱きしめ、濡れた素肌を、ひたと重ね合わせた。 そして、返事を促すように……主人の白い首筋を、ちゅぅ――と吸った。 花弁のような少女の唇から、驚きの中にも悦びを滲ませた声が漏れる。 ひくん……コリンヌは喉を蠢かせて、おののきながらも、こくっと頷いた。 第八話 終 【3行予告?!】 いま、私の願い事が叶うならば……翼が欲しい―― 空を飛べるなら、すぐにでも貴方の元へ行きたい。 どれだけの恋人たちが、そんな願いを、この空に溶かしてきたのかしら……。 次回、幕間2 『azure moon』
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めぐを救いたい―― 水銀燈の切々たる願いには、まったくもって同情を禁じ得ない。 彼女の境遇に立たされれば、同じことを考えただろうと、雛苺は思った。 だが、しかし、それは子供がオモチャをねだるほどに気安いことではない。 結論を先に言えば、どうしようもない。 外傷ならば、いざ知らず……めぐの病気は、心臓にあるのだ。 しかも、雛苺はこれまで、正常な心臓とやらを見たためしがない。 そんな状況で、どんな絵を描いたら治せるのかなんて、判ろうはずもなかった。 「めぐは、この数年、人並みの生活さえ許されなかった。 その彼女に、やっと、ささやかな幸せが訪れようとしているわ。 だから、お願い。なんとか、善処してあげて」 「そ、そうは言われても……困っちゃうのよ」 できることなど、なにもない。ココロに浮かぶのは、その台詞だけ。 しかし、言葉にはできない。言ってしまえば、楽になると解ってはいても。 口の中に広がる苦さに顔を顰め、雛苺は水銀燈の視線から、眼を背けた。 「ヒナ、分かんない。どうしたらいいのか、解らないなの」 「とりあえず……明日にでも、その娘に会って話してみたら?」 そう助け船を出したのは、真紅。至極もっともな意見だ。 たとえ描くにしても、本人の意思は確認しておくべきだろう。 答えの繰り延べに過ぎないのかも知れないけれど、雛苺は、その案に飛び付いた。 「うん……そうするの。銀ちゃんも、それでいい?」 「もちろんよぉ。私のワガママを、聞き入れてくれるんだものね。 たとえ嬉しくない結果になっても、恨んだりしない。これも運命と諦めるわ」 「話は決まりね」 スパッと締め括るように言って、真紅は雛苺の左手を握り、手繰り寄せた。 なにごとかと思えば、どうやら腕時計に用事があったらしい。 「あら、いけない。9時を6時間も過ぎてしまったわ。もう寝ないと」 「……そうね。お休みなさぁい」 また水銀燈が小馬鹿にするかと思いきや、彼女は、くすっと笑うだけだった。 傷病人である真紅を、気づかったのだろう。 スツールから腰を浮かせた水銀燈は、足音を忍ばせ、病室を出ていった。 雛苺は、その様子を黙って見ていたが、真紅に手振りで促され、後を追いかけた。 水銀燈は、ナースステーションの前で立ち止まっていた。 なにやら小声で、夜勤の看護士と、話をしている。 夜の静けさもあって、間近に行かなくとも、会話の内容は聞き取れた。 「ねえ、桑田さぁん。今夜だけ、真紅の病室に泊まらせてぇ。ね……お願ぁい」 「ダメです。病室は患者さんのためにあるのよ。ホテルじゃないんだから。 どんなに頼まれても、規則なので――」 「私ぃ、そういうアタマ固いのって嫌ぁい。今ここで暴れたっていいのよぉ?」 「…………まったく。貴女たちは有言実行だから、困ったものね。 仕方ありません。もう遅いし、今夜だけ特別よ。あと、婦長さんには内緒にね」 「ふふ……ありがとぉ♪」 なにやら、とても親しげな2人。いや……その割に、桑田さんは憂鬱そうだが。 状況が分からず、雛苺が戸惑っていると、水銀燈が戻ってきて病室へと促した。 「ねえねえ、あの看護士さんと知り合いなの?」 問うと「そうよぉ」だなんて、悪びれない返事。 今のは、どう聞いても脅迫だったが…… それが許容されるほど親しいのは、まず間違いない。 「あの人ねぇ、実は、私のお姉さんなのよぉ」 「えっ?!」 「……なぁんて、ウソ。ビックリしたぁ?」 「う、うい。思わず、信じちゃったのよ」 「そんなワケないじゃなぁい。ま、ここに入院してたから、その縁でねぇ」 「入院って、銀ちゃんが?」 「聞いてなぁい? 行き倒れてた私が担ぎ込まれたのが、この病院だったのよ。 そして、めぐも、ここに居るわ。フロアが違うけれど」 桑田さんが「貴女たち」と言ったのは、そういう意味か。 有栖川と名乗っていたのも、身元を隠すため、咄嗟にこの病院の名を……。 病室に戻ると、眠っている真紅を気づかい、雛苺たちは話を続けた。 水銀燈が語るには、退院後も、定期的に検査と薬の処方を受けているから、 どうしても医師や看護士とは、顔見知りになってしまうのだとか。 確かに、水銀燈ほど人目を引く容貌ならば、それも無理からぬことだ。 「さ……そろそろ、私たちも眠りましょ。今日は、いろいろあって疲れたわぁ」 「うん。明日……めぐさんに、ヒナのこと紹介してね」 「ええ。明日、ね」 言って、水銀燈は、真紅の隣のベッドに横たわった。 雛苺も、空いているベッドに寝転がる。 病院に寝泊まりするだなんて、雛苺には、初めての体験だった。 ~ ~ ~ 真紅に叩き起こされ、腫れぼったい瞼を、こすりこすり。 重たい頭を、全力で枕に預けていたい欲求に抗って、雛苺は半身を起こした。 腕時計を見れば、午前7時を、少し過ぎたところ。 「うゆぅ~。あと5分だけ寝させてなの~」 「そんな暢気なこと言ってる場合じゃないでしょう、お寝坊さん。 事情を知らない日勤の看護士さんに叩き出されても、知らないわよ」 言われてみれば、そのとおり。 水銀燈は、出てきたときのパジャマにカーディガンを羽織っただけの格好だから、 まあ、入院患者と誤魔化せなくもない。 しかし、私服姿の雛苺がベッドで寝ていたら、怒られること間違いなかった。 「あふ……起きますなの」 「いい子ね。早く、身だしなみをしていらっしゃい」 言われるがまま、デイパックを引っ掴んで、洗面所へと向かう。 その際に、アルバイト先へ休む旨を連絡しておいた。 当日になってのことなので、主任には少しばかり嫌味を言われたが、仕方がない。 成り行きとはいえ、柿崎めぐに対する興味は、勤労意欲よりも勝っていたから。 顔を洗ったり、髪にブラシを入れたり、諸々…… 身だしなみをして、洗面所を出てきた雛苺を、ちょっとした賑わいが出迎えた。 なにごとかと見れば、入院患者の老人たちが、水銀燈を取り囲んでいた。 聞き耳を立てると、老人たちは水銀燈の来院を、歓迎しているようだ。 その姿は、アイドルに声援を送る、熱烈なファンを彷彿させた。 実際のところは、孫娘のように可愛がっているだけかも知れないけれど。 一応、にこやかに受け答えしているが、水銀燈の笑顔は、微妙に引きつっている。 さすがに辟易していたらしく、雛苺を眼にするや、これ幸いと近づいてきた。 「あらぁ、身支度は終わったぁ?」 「うーい! このとーり、バッチリ済ませたのよー」 「じゃあ、食事の調達に行きましょぉ。と言うワケだからぁ、まったねぇ~」 と、老人たちに別れを告げて、雛苺の手を握り、そそくさと歩きだした。 「すっごい人気なのねー」雛苺が話しかけると、彼女は前髪を掻き上げながら、 「なんだかねぇ……目立つのも考え物だわぁ。まったく」 だなんて、さも迷惑そうな口振り。 けれど、言うほど嫌がってはいないらしく、目元は笑っている。 素っ気なく振る舞うけれど、その実、面倒見のいい姉御肌なのだろう。 薔薇水晶の家での、かいがいしい姿を思い浮かべて、雛苺は独り合点した。 ~ ~ ~ 購買コーナーのある2階、および1階は、矢庭に騒がしさを増していた。 月曜日の朝だと言うのに、多くの老若男女が、眼下のロビーに屯している。 目を丸くする雛苺に、外来の受付が始まったのだと、そっと水銀燈が耳打ちした。 パンや飲み物、間食用のお菓子などを買い揃え、雛苺たちが病室に戻ると―― 真紅はもう、ベッドに備え付けのテーブルに、病院食を並べて待っていた。 「遅いわよ。どこで寄り道していたの」 「ごめんねぇ、お店が混んじゃってたからぁ。はい、紅茶」 水銀燈の差し出す、紙パックのオレンジティーを見て、露骨に嫌な顔をする真紅。 「もっと、ちゃんとした紅茶が飲みたいのだけれど」 「あのねぇ……病院で売ってるわけないでしょぉ。ホぉント、おバカさん。 イヤなら、別に飲まなくたっていいのよ」 「…………仕方ないわね。それで我慢してあげるわ」 「あぁら、無理しちゃって。イヤなんでしょ? ゴエモンにしときなさぁい」 と、水銀燈は薄ら笑い、緑茶のPETボトル――『午後の伊右衛門』を突きだす。 なにもコトを荒立てなくたっていいのに。雛苺が内心ハラハラしていると…… 案の定、真紅は、いつもの淑女然とした形振りも忘れ、ムッと唇を突きだした。 「もう! 意地悪ね」 「うっふふふ……怒った顔も、相変わらずブサイクぅ」 「ぐ……うるさいわねっ。誰のせいだと思っているの!」 「あら怖ぁい。私のせいじゃないもぉん」 向けられた憤りも、まともに受けなければ、柳に風というもので。 水銀燈は、ひょいと肩を竦めて、パックの紅茶を差し出す。 そんな張り合いのなさに気疲れしたのか、真紅は無言で、それを受け取った。 けれど、彼女が難しい顔をしていたのも、食事が始まるまでのこと。 病院食が物珍しいらしく、真紅は「優しい味だわ」とか、意外に楽しそうで。 その様子を見て、雛苺の胸を占めていた緊張も、やっと和らいだ。 「ねえねえ。真紅って、左利きだったなの?」 ふと、雛苺が訊ねた。と言うのも、真紅が箸を使っていたからだ。 スプーンもあるのに、敢えて、箸。しかも、とても慣れた手つきで、器用に。 「いいえ」真紅は、煮豆を摘み、口に運んで嚥下すると、また続けた。 「元々は、右利きだったわ。これは練習の賜物よ」 左利きにならざるを得なかった理由は―― 水銀燈の表情が、サッと翳るのを、雛苺は見逃さなかった。 もちろん、真紅とて、それを言えば旧友を不快にさせると解っていよう。 でも、それなのに……。彼女は冗談めかした声音で、友人たちに話しかけた。 「そうそう。左手を頻繁に使うようになってからね、色々な発見もあったのよ。 インスピレーションと言うのかしら。いいアイディアが、よく浮かんでね。 右脳が刺激されて、新たな能力開発になっているのかも知れないわ」 そうかも知れない。違うのかも知れない。 ここは愛想笑いするところ? 雛苺は戸惑い、水銀燈は、相も変わらず暗い顔。 なんとなく、いたたまれない空気。真紅は咳払いして、箸を動かし始めた。 「それにしても……こうして、また一緒にお食事ができるなんてね。 本当に、夢のようだわ。ねえ、水銀燈?」 しみじみと。 感慨深げに紡がれた真紅の心情は、偽りない想いだろう。 「大袈裟ねえ。バカみたい」例によって、水銀燈は木で鼻を括るように応じる。 真紅は唇に笑みを湛えながら、そんな彼女の瞳を、ひたと見据えた。 「そんな風に言わないで。貴女が行方不明になってから、心配で、不安で―― 新聞やニュースで、身元不明の遺体が発見されたと聞かされる度に、 私の胸は、張り裂けそうに痛んだわ。ずっと、生きた心地がしなかったのよ」 幼なじみに注がれた蒼眸から零れる、一筋の雫。 真紅は、泣いていた。見苦しく噎び泣いたりは、意地でもしないだろうけれど。 震える肩と、唇と。こみ上げてくる感情は、留めようもなく。 「本当に、無事でよかった。……おかえりなさい、水銀燈」 涙まじりの掠れ声に、水銀燈は柳眉を八の字にして、笑みを浮かべた。 「ああ……まだ、言ってなかったわね。えぇっと…………ただいま、真紅」 真紅も、指先で目元を拭って、微笑みを返す。 「順序が逆だけれど、まあ、いいわ。それよりも、ひとつだけ誓いなさい」 「はぁ? いきなりね。なにを誓わせようって言うのよ」 「もう絶対に、黙って居なくならないで。それから、隠し事もなしにしてね」 「……ひとつだけって言ったじゃない」 「『居なくならないで』が約束。『隠し事なし』は、友人としてのお願いよ」 「ふぅん? いいのぉ? 私はホントに、疫病神かも知れないわよぉ」 「そんな……もう、そんなに苛めないで……」 眉を曇らせ、真紅は、長い睫毛を伏せた。 そんな彼女の様子に、少しばかり、胸の痛みを覚えたのだろう。 水銀燈は徐に腰を上げると、ベッドの脇に寄って、俯く真紅の頭を抱き寄せた。 「ごめん。私って、ひねくれ者だから」 「知っているわ。昔から、貴女って、そうだもの。 でも、解ってはいてもね……やはり、悲しい気持ちになるものよ」 「そうね。お詫びってワケじゃないけど、さっきの話……約束、してあげるわ」 「本当に?」 訊ねながら、真紅は確かなものを求めるように、水銀燈の胸に頭を預けた。 そして、水銀燈は想いに応えるように、ちょっとだけ抱く腕の力を強めた。 「ホントよぉ。もう蒸発なんてしないわ。 私は……水銀燈は、気高く生きてゆくための誇りを、取り戻したんだもの」 「きっと、約束よ」 真紅は消え入りそうな声で言って、水銀燈のカーディガンを掴んだ。 白い指が、更に白くなるほど強く、握りしめた。 「うんうん。よかったのよー」 2人の優しい抱擁を、微笑ましく思いながら、雛苺は想いを口にしていた。 人生とは、変幻自在にして縹渺たる迷宮のようなもの。 そこでは、なまじ常識や教養があるばかりに、混迷し、臆してしまうことがある。 真紅も、水銀燈も、おそらく誰であっても例外なく、だ。 その時、子供のように泣き喚いたところで、助けてもらえるとは限らない。 でも、彼女たちなら―― 手を取り合って、歩いてゆける人を見つけた真紅たちならば、もう平気だろう。 どんなに道を間違えても、正しいほうへと向かってゆけるはずだ。 ――涙の乾いた後には、夢への扉がある。 いつだったかに聴いた歌のフレーズが、雛苺の胸に谺していた。 ~ ~ ~ もうひとつ、解かなければならない難問が残されている。 他でもない、柿崎めぐ、の件だ。 雛苺は、彼女の病室を訪ねるべく、水銀燈と連れ立って歩いていた。 その、途中―― 「ねえねえ、銀ちゃん。訊いてもいーい?」 訊いておきながら、雛苺は返事も待たずに続けた。 「ばらしーたちに保護されるまで、どこに隠れてたの? 真紅は、銀ちゃんのこと、手を尽くして探したって言ってたわ。 かかりつけの病院にも当たったけど、やっぱり見つけられなかったって。 それに、銀ちゃんのご両親だって、必死になって探したんじゃあ――」 「ああ……その話」場所を憚ってか、水銀燈は声を潜めた。 「私ね――最初は、死のうと思ってたのよ。どこか山奥で、独りっきりで。 だから、余計な荷物なんか、持っていかなかったわ」 消えゆこうとする者は、多くの物を持たない。 愛着のあった物との繋がりを自ら絶つことで、この世への未練も捨てるからだ。 もう要らない世界、もう要らない命――そんな迷妄に囚われたまま。 「それで、小銭と『ドクトル・ジバゴ』の小説しか持ってなかったのね」 「ええ。だけど、山に向かう途中、発作で倒れてね。そのまま意識を失って…… 気づいたときには、この有栖川大学病院に、搬送されてたのよ。 それで、病状から治療歴を辿られて、私の身元は早々にバレちゃったわけ」 雛苺は、素っ頓狂な声をあげた。薔薇水晶から聞いた話と、違う。 身寄りがないから、一時的に、槐邸で身柄を預かっていたのではなかったのか? それを雛苺が訊ねると、水銀燈は、スッと眼を細め、首肯した。 「つまりね、こういうことよ――」 -つづく-
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双子の姉妹に連れられ、訪れた山腹の茶畑―― そこは、雛苺の予想を遙かに超えて広く、また風光明媚な世界だった。 きりりと澄んだ空気の向こう。 冬晴れの高い空と、山の斜面に広がる茶樹の緑。 その取り合わせは、さぞや写真うつりも良かろう。雛苺の素人目にさえ、そう思わせるものがあった。 彼女たちを乗せてきた軽トラックは、茶畑に横付けされている。 その車内で、雛苺は冷気に指がかじかむのも構わず窓を全開にして、 一心不乱にスケッチをしていた。 「おチビ――っ!」 スケッチブックに走らせていた鉛筆を止めて、雛苺は顔を上げた。 よく通る声で呼んだのは、双子の姉の、翠星石。 この広い茶畑でも、彼女の声量なら、普通に会話ができるに違いない。 見れば、灌木の列を間に挟んで、姉妹がゆっくりと歩いてくる。 蒼星石が手を振っていたから、雛苺もトラックの助手席から降りて、手を降り返した。 「お帰りなさいなのっ。ふたりとも、中休み?」 「はぁ? おめーは、ナニ言ってるですか」 雛苺としては、至って真面目に訊いたのだが、翠星石に呆れられてしまった。 蒼星石が、姉の言葉の足りなさを補うように、腕時計を掲げて微笑んだ。 「もう、お昼だよ。絵を描くのに夢中で、気がつかなかったのかい?」 そう言われて、雛苺も、体調の変化を思い出した。胃の辺りが心許ない。 冬の乾燥した空気を吸い続けていたせいか、喉もヒリヒリする。 「おにぎり握ってあるですよ。おばば直伝の味ですぅ」 「わーいっ! ヒナ、おなかペコペコなのよー」 「それじゃあ、休憩所に行こうか」 「近くですから、歩いていくですぅ」 3人は軽トラックをそのままに、駐車場へと続く未舗装の農道を歩きだした。 駐車場を横切り、細い林道を渡ってしまえば、作業員のための休憩所がある。 外観は、避暑地にありそうな、ペンションばりの二階建て。 ガスはプロパンだが、上下水道は整備されていた。 もちろん、トイレも水洗だし、テレビや携帯電話も、受信可能ときている。 「山の中なのに、すっごい設備なのね。これなら普通に生活できちゃうのー」 「ったりめーです。その目的で、作られてるですから」 「ここは宿泊施設でもあるんだよ。1ヶ月に1度、持ち回りで夜勤の週があるんだ」 蒼星石は、コトも無げに言った。 訊けば、翠星石たちの勤務形態は、基本的に週休二日なのだけれど、 2名が常駐するように休暇を割り振るため、カレンダーどおりには休めないと言う。 しかも、夜勤は1人きりで6日勤務。5人で持ち回って30日になる計算だ。 「でも、どうして夜勤なんて必要なの?」 翠星石お手製おにぎりを頬張りながら、雛苺が疑問を口にする。 それについて、翠星石の語るには、獣害や人害、自然災害から茶樹を護るためだとか。 獣害とは、この山に棲むシカやイノシシによる食害。 人害とは、茶葉の盗難や、産廃の不法投棄による土壌汚染など。 自然災害は、主に風雨。この季節だと、霜による若芽への被害も警戒しているらしい。 翠星石は、籐編みのバスケットから魔法ビンを取り出すと、それぞれのカップに深紅の液体を注いだ。 立ちのぼる湯気とともに、得も言えない薫香が、辺りに広がる。 その香りには、雛苺も憶えがあった。ここで栽培されている『ローザミスティカ』の香りだ。 「……ふぅ。気持ちが落ち着くですぅ」 「ホントに、いい香りなの。これって、翠星石たちが生みだした香りなのね」 「私たちの手柄じゃねーですよ」 双子の姉妹は、ちらと顔を見合わせて、小さく頷いた。 「この紅茶は、真紅と銀ちゃんの夢の結晶ですから」 「ボクたちは、彼女たちの手伝いをしているだけさ」 彼女たちは言う。 それでも……たとえ手伝いに過ぎなくても、この仕事を誇りに思っているのだ、と。 だから、夜勤だって辛いと思ったことは、一度としてない――と。 「だけど、女の子ひとりで夜勤なんて、危なくないのー?」 「それについては、真紅も案じてるところでね。 近く、ここに住み込みで常駐できる人を、雇う予定らしいよ」 「雇用条件が、20歳から40歳くらいまでの夫婦でしたねぇ、確か」 随分と年齢幅が広いが、その条件なら、案外すぐに希望者を見つけられるかも知れない。 リストラで再雇用もままならない中年の夫婦なら、応募するのではないか。 「さて、と――」 蒼星石は、紅茶を飲み干して、腕時計に目を留めた。 「ボクたちは、夕方まで仕事していくけど……キミは、どうするんだい?」 「うっと……。もう下書きはできたから、戻ろうかと思ってるのよ」 「それなら、麓まで送ってやるですぅ」 「あ、ううん。2人は、お仕事しててなの。ヒナ、歩いて帰りたいから」 「でも、だいぶ距離あるよ?」 「平気なのよ。まだ早いし、一本道だもの」 彼女たちの気遣いと、案内してくれたことに謝意を述べて、雛苺は茶畑を後にした。 雨の心配もなさそうだし、のんびりと、森林浴でもしながら降りればいい。 そんなつもりだった。 足音が、とても大きく聞こえる。 ここには、街の雑踏も、人々の賑わいも、行き交う車やバイクの騒音もない。 頭上からは、風に揺れる葉擦れが降ってくる。 足元からは、遠く、沢の水音が湧いてくる。 ささやかな森の息吹は、都会の雑音みたいに不快ではなく、とても心地がよかった。 こんなところで暮らすのも、悪くないかも。 翠星石たちと茶畑を見守りつつ、空いた時間は絵を描いたり、お菓子づくりをしたり。 そんな妄想のヴィジュアルを脳裏に広げていると、不意に―― ひとつの選択肢が、雛苺の中で生まれた。 ――もしも、誰かと結婚したら。 あの雇用条件を満たせたとしたら、真紅は雇ってくれるのかしら? 愚にもつかない思いつきだ。雛苺は自嘲した。 そもそも、恋人さえいないと言うのに。 「んー。恋人……かぁ。考えてみたら、男の子の友だちって少ないのよー」 パッと思い浮かぶのは、幼なじみの桜田ジュンくらい。 あとは、彼の友人の笹塚くんとか、ベジータとか。 だが、彼らとは親しいと言っても、友人以上、恋人未満の間柄でしかない。 政略結婚じゃあるまいし、雇用条件を得るためだけに所帯を持つなんて、絶対に後悔する。 ならば……いっそ、あのパステルで自分のウェディング予想図でも描いてしまおうか。 雛苺は一瞬、本気で、そんなことを考えた。 新郎の顔は、理想の男性像を描けばいい。 あのパステルの効果が本物ならば、それさえも現実になるはずだ。 けれど結局、馬鹿げているとの結論に行き着いて、肩を落とした。 絵に描いた餅、とは違うが、紛い物という点では、絵に描いた幸福も同じこと。 幸せそうに見えるというだけで、所詮、現実に幸せなワケではないのだから。 しばらく歩くと、林道は下りながら、急なカーブにさしかかった。 真新しいガードレールが、嫌でも雛苺の目を惹く。真紅が事故を起こした場所だ。 なんとなく、忌まわしい雰囲気に、ざわざわと胸が騒いで…… 雛苺は顔を背け、足早に、その場を通り過ぎようとした。 ――が、そんな彼女を邪するように、車が1台、徐行しながら林道を登ってきた。 やたらと平べったくて、異様な風貌をしたスポーツタイプ・クーペだ。 雛苺は知らなかったが、それは『オロチ』というマシンだった。 完全受注生産のため、納期までが長く、価格も一千万円はする代物である。 林道は、軽トラックでさえ、窮屈に感じるほどの道幅である。 そこに幅の広い車が来れば、どうなるのかは、自明の理というもので。 「うゆ……これじゃ通れないなの」 崖っぷちの路肩に寄って、通過まちをする雛苺の2mほど手前で、その車は停まった。 運転席のドアがスライドアップして――意外にも、うら若い女の子が降りてきた。 その娘は、白銀っぽい艶やかな長い髪の持ち主で。 一瞬、雛苺は、もしや水銀燈ではないのかと息を呑んだ。 しかし、違う。 真紅の家で見せてもらった写真の水銀燈とは、まったくの別人だった。 左の眼を、紫色のアイパッチで覆った、押し迫るような威圧感を放つ娘だ。 「こんにちは」 言って、彼女は、棒立ちする雛苺の警戒心を解こうとしてか、笑い掛けてきた。 だが、眼帯の威圧感ゆえに、逆効果。 無駄に『なんだか怖そうな人』という印象を、植え付けただけだった。 「ねえ……貴女。ちょっと、道を教えて。店を……探しているの」 「う、と。あ、あのね。ヒナも、この辺のことは、あんまり詳しくないなの。 でも、この先には、お店なんて無いのよ」 眼帯の女の子は、ぽりぽりとアタマを掻いて。「あちゃ……困った」 そう言いながらも、たいして困ってそうもない風情に、雛苺は笑いを誘われた。 見た目が怖そうなだけで、根は陽気な人らしい。 「どういうお店なのー? 名前は分かってるの?」 雛苺は、あまり力になれないことは承知で、訊ねてみた。 いざとなったら、この娘の車で茶畑まで引き返し、翠星石たちに訊くつもりで。 ……が、現実には、そんな必要すらなかった。 「紅茶を売ってる。確か……ジェイソン……とか」 「もしかして、ジョナサン?」 「あ……それよ、それ。ジョンソン」 「だから、ジョナサンだってばっ。ワザと間違えてるんじゃないのー」 「ソンナコト、ナイヨ?」 からかっているのか、それとも、大まじめに間違っているのか。 雛苺には判断のしようもなかったが、ここで会ったも他生の縁だ。 「よかったら、ヒナが案内してあげるのよ?」 「ホント? じゃあ……乗って」 眼帯娘は、細い顎をしゃくって、雛苺を助手席へと促す。 そして、雛苺がシートに収まり、シートベルトを装着するや―― 「いくよ」 短く言って、彼女はアクセルを踏み込み、車を急発進させた。 こんな細く曲がりくねった林道で、時速70kmオーバー。雛苺は肝を潰した。 「びゃっ?! は、は、早すぎなのーっ! 落ちちゃうーっ!」 恐怖のあまり蒼白となり、慌てて停めようとするが、すべて無駄な足掻き。 「ふ…………くふふっ」 「ふきゃ――っ?!」 眼帯娘は壊れた笑みを浮かべながら、愛車を爆走させ続ける。 あっと言う間に、茶畑の駐車場に着いた途端、いきなりサイドターン。 スリップ音を聞きつけ、顔を上げた双子姉妹に砂煙を浴びせて、今度は来た道を引き返す。 とんでもない運転だ。ハリウッド映画じゃあるまいし、なんて車に乗ってしまったのか。 雛苺は自分の迂闊さを呪い、四肢を突っ張って、ただただ対向車の来ないことを祈っていた。 ~ ~ ~ 喫茶店ジョナサンに着いたとき、雛苺は抜け殻のようになっていた。 腰も抜けてしまって、すぐには、車から降りられなかった。 まず間違いなく、数年分は寿命が縮んだろう。 「……平気?」 「ちょっとチビった……じゃなくて。だ、大丈夫なのよー。へへぇ~」 強がって作り笑うものの、膝まで笑っていては締まらない。 仕方なく、眼帯娘に引きずり出されるかたちで、車を降りた。 「あ、ありがとなの。えぇっと――」 「薔薇水晶……私の名前」 貴女は? と訊かれ、雛苺も名乗ったついでに、話題を振った。 「薔薇水晶は、どうしてジョナサンに?」 「紅茶を買いに来たの。お父さまに……飲ませてあげたくて」 「へえぇー。お父さま想いなのね」 「ええ。大好き」 言って、薔薇水晶は頬を染める。 その仕種に、雛苺は親子の愛情というより、恋慕に近いものを感じた。 いったい、なにが彼女に、そこまで父親を慕わせているのか。 試みに水を向けてみると、薔薇水晶は語った。 彼女が小学生にあがる直前に、母親が亡くなったこと。 それからは、父親が男手ひとつで、今日まで育ててくれたのだ、と。 「小さな頃から、私……家事とか、お料理とか……ずっとお手伝いしてきた。 友だちと遊ぶ時間もなくて…………人づきあいが苦手になっちゃったけど…… でも、そのことで、お父さまを責めるつもりなんて、ない。 お父さまのお役に立てることが……私の生き甲斐だから」 「一途なのね」 父1人、娘1人。様々なものを共有し、互いを支え合いながら、生きてきた。 そういった環境が特別な感情を育むのも、ある意味、当然と言えよう。 どこかの誰かが決めた倫理なんてルールでは、決して引きちぎれない絆だってあるのだ。 まるで、長年連れ添った夫婦みたい。 雛苺は、ふと頭に浮かんだ感想に、ハッとした。 あの茶畑の休憩所に、住み込みで働いてくれる人を、真紅は探していた―― 夫婦という条項には反するが、薔薇水晶の親子では、どうだろう? 脈がありそうなら、真紅に引き合わせてみるのも、いいかも知れない。 「ね、薔薇水晶のお父さまって、どんな仕事してるなの?」 「人形師。その業界では有名」 「うゅ……ごめんなさい。ヒナ、よく知らないなの。お仕事は忙しい?」 「かなり忙しい。海外で何泊かすることも……よくある。 私も、たまに出張のお供して……お手伝いしてるの」 そういう状況では、とても住み込みの管理人など務まるまい。 雛苺は諦めて、薔薇水晶を店内へと誘った。 「いらっしゃいませかしら~!」 ドアを開けるや、耳を右から左へ突き抜けるほどの、元気のいい声が出迎えた。 あの、カウボーイ風の制服に身を包んだ金糸雀が、トレイ片手に歩いてくる。 しっかりとした足取り。今朝方のローテンションが、ウソのようだった。 「あら、雛苺。早速、お友だちにも、この店を紹介してくれたのかしら?」 「違うの。この子がジョナサンを探してて、道に迷ってたから、案内してあげたのよ」 「そうだったの。ま、理由はどうあれ、新しいお客さんは大歓迎かしら。 駆けつけ三杯じゃないけど、お茶はいかが?」 「折角だから、ヒナは寄ってくのよー。薔薇水晶は、どうする?」 「じゃあ……私も」 「まいど~! 2名様ごあんなーい、かしら」 なかなかに客引きが巧い。あるいは、自分のペースに引き込むのが巧い、と言うべきか。 名は体を表す――と言うが、金糸雀は、人を寄せる歌を謡えるようだ。 しばし、雛苺たちは紅茶とお喋りを楽しみ、席を立った。 薔薇水晶は、レジの隣にある販売コーナーで、本来の目的だった紅茶を選んだ。 このとき初めて雛苺も知ったのだが、紅茶『ローザミスティカ』には、 発酵の度合いによって、7種類の番号が付けられていた。 金糸雀の説明によれば、店で出している紅茶は、味と香りに定評のある5番だと言う。 結局、薔薇水晶は85g入りの缶を、それぞれ2缶ずつ買った。 「やっと……手に入れた。ローザミスティカ……お父さまのために」 「インターネットで通販もしてるから、そっちのご利用も、よろしくかしら!」 「……それだと、価値がない。苦労して手に入れるから……価値があるの」 そんな彼女のこだわりも、偏に、愛情の表れなのだろう。 楽して得た物を、想いの代名詞にするなど、プライドが許さないのだ。 きっと、バレンタインデーのチョコレートや、誕生日のケーキも、自作しているに違いない。 「あの……今日は、ありがと」 店を出たところで、薔薇水晶が、消え入りそうな呟きを投げかけてきた。 「え?」と、雛苺が振り向くと、彼女は気恥ずかしげに顔を逸らして、続けた。 「私、友だちが少ないから……こうして、お茶するのって……滅多にない。 だから……とっても、楽しかった」 「ヒナも、楽しかったのよ。ドライブは、ちょっと怖かったけど」 雛苺の陽気な声が、再び、薔薇水晶を振り向かせる。 「ヒナでよければ、お茶ぐらい、いつでも付き合うなの」 「ホント? 友だちに、なってくれる?」 「うい! メアド交換する?」 「あ……うんっ」 携帯電話を操作する薔薇水晶は、本当に嬉しそうだった。 「いつでもメールしてなの。それじゃ、また――」 「あっ……待って」 「うよ?」 別れようと思った矢先に呼び止められて、雛苺が怪訝そうに振り返る。 その先では、なにやら思い詰めた感じの薔薇水晶が、じっと雛苺を見つめていた。 「もし、よかったら……ウチに来ない?」 「今から?」 「お父さまに、紹介したいの……友だちだから。ダメ……かな」 明日は、月曜日。アルバイトに行かなければならない。 だが、次に放たれたセリフが、雛苺に『ノン』と言うことを躊躇わせた。 「お姉ちゃんにも……会って欲しいし」 一人っ子ではなかったのか。 訊ねようとした雛苺を制して、薔薇水晶が「この人よ」と、携帯電話を突き出す。 小さなディスプレイの中で、ひとりの女性が、優しい微笑みを浮かべていた。 陽光に輝くロングヘアーは、美しく鮮やかな銀色。 雛苺は憑かれたように、その緋色の瞳に魅入っていた。 -つづく-
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何を言ってるの? 蒼星石には、悪い冗談としか聞こえなかった。 翠星石は、自分の気持ちを表現するのが下手な女の子。 気恥ずかしさから、つい、意地悪をしてしまう精神的な幼さを残していた。 本当は嬉しいのに、素直に喜びを言い表せなくて…… からかい口調で茶を濁した結果、落ち込む彼女を宥めることは、幾度もあった。 きっと、今の冗談も、いつもの悪ふざけに違いない。 蒼星石は、そう思おうとした。からかわれているのだ、と。 だから、翠星石が「ウソですよ」と戯けてくれるコトを大いに期待していたし、 その時には、ちょっと拗ねて見せて……そして、一緒に笑い飛ばすつもりだった。 ――なのに、蒼星石の期待は、あっさりと裏切られた。 「私……誰……です?」 「な、なに言ってるのさ。やだな……いい加減にしないと、怒るよ」 「ふぇ?」 「どうして、再会できたことを、素直に喜んでくれないのさ。 ボクが、どんな想いで、ここまで来たと思ってるの?」 もどかしい。蒼星石は更に力強く、翠星石の痩せた背を抱きしめる。 彼女の腕の中で、翠星石は苦しげな息を吐いた。 「ぃや……ぁっ!」 思いも寄らない膂力で突き飛ばされて、蒼星石は姉の身体を放し、後ずさった。 ~もうひとつの愛の雫~ 第19話 『星のかがやきよ』 どうして、拒絶されるのか。蒼星石の双眸が、驚愕に見開かれた。 潤んだ緋翠の瞳に映る姉は、胸を護るように両腕をかかげて、ぎゅっと拳を握り―― 怯えきって、今にも泣き出しそうだった。 いや……もう、しゃくりあげていた。 でも、泣きたいのは蒼星石も同じ。焦れったくて、苛立たしくて、頬が熱くなる。 気を緩めたら嗚咽が溢れてしまいそうで、蒼星石は奥歯を噛み締めた。 「翠星石……キミは……」 本当に、ボクを忘れちゃったの? 続けようとした言葉を――最も知りたいコトを、蒼星石は呑み込んだ。 嗚咽を堪えようとしたのもある。みっともなく泣いてしまうのが、イヤだったから。 だが何よりも、肯定されるのが怖くて、もう傷付きたくなくて、訊けなかった。 そこで躊躇ってしまうのは、答えが解っている証拠なのに。 互いに言葉を失い、向かい合ったまま立ち尽くす姉妹。 まるで時が止まってしまったかのような二人の間に、小さな影が割って入った。 「まあ待ちなよ。そっか……やっぱり、この子は翠星石って名前なんだね。 どうやら『無意識の海』で、いろいろと記憶を落としてきちゃったらしいね」 やっぱり? まるで、解っていたけど答え合わせをした――みたいな。 少年の一言が引っかかって、問い返そうとした矢先、 蒼星石の視線に晒されていた翠星石は、サッと屈み込んで、少年の背後に隠れた。 おずおずと、少年の肩越しに様子を窺う姉の眼差しが、蒼星石の胸を揺さぶる。 彼女を庇うのは、彼女が縋り付くのは、自分の背中だったハズなのに。 なんだか面白くない感情が、蒼星石の胸中に、モヤモヤと広がってきた。 知らず、蒼星石の顔は強張っていたのだろう。 男の子は、心配いらないよ、と言わんばかりに笑いかけた。 なんだか邪推を見透かされ、憫笑されたようで、ますます面白くない。 柳眉を吊りあげる蒼星石に、少年は飄々と、噴飯ものの戯言まで告げた。 「だから、君が拾い集めてあげるんだ。この子が喪失した記憶を」 言葉を口にすれば、全て実現できると、信じているのだろうか。 子供らしいと言えば、それまでだが、幾らなんでも無責任に過ぎる。 胸のモヤモヤと相俟って、蒼星石は急な腹立たしさを覚えた。 「そ、そんな……簡単に言わないでよ!」 記憶にカタチなど無い。拾い集めるなんて、できっこない。 いきりたつ彼女に、男の子は「できるよ」と切り返す。 なんだか堂々めぐりの水掛け論になりそうだったが、蒼星石は口を噤まなかった。 「なんなのさ、キミは! できると言うからには、方法を知ってるんでしょ? だったら勿体ぶらないで、それを教えてよ!」 「それはね……砂浜で探すんだよ。珍しい貝殻を探すように、ね」 「浜辺? ホントに?」 蒼星石の眼が、胡散臭そうに細められた。 俄には、想像できない。記憶が転がっている砂浜とは、どういう光景なのか。 しかし考えてみれば、この島を囲んでいる海は、現実の海とは違う。 『無意識の海』という、人々の記憶が溶け込み、混ざり合った坩堝なのだ。 とすれば、波に運ばれた記憶の断片が、浜辺に漂着することだって……。 「実を言うとね……僕も、ここに来たときは、殆どの記憶を失ってたんだ」 男の子の声が、思索に耽っていた蒼星石を、現実に引き戻す。 彼はバツ悪そうに後頭部を掻きながら、身の上話を続けた。 「どうして、中途半端な異邦人になっちゃったのか。 それ以前に、最初はこの娘と同じく、僕が何者なのかも解らなかったんだよ。 でも、結菱さんに教えられて、コツコツと記憶を拾い集めてきたお陰で、 今では色んなコトが解るようになったよ。生前のコトも、いろいろとね」 「異邦人になった、理由も?」 蒼星石の問いに、男の子は「うん」と睫毛を伏せ、暗い顔で頷いた。 「僕はね、事故死だったんだ。本当に突然のコトで、なにも出来なかった。 死にたくなかったよ。だって僕には、護らなきゃならない大切な家族が居たんだから。 年老いた両親と……子供たちがね」 「ええっ? キミ、子供が居たのっ?!」 「記憶を無くした影響で、今でこそ子供の姿をしているけれど、本当は君より年上だよ」 素っ頓狂な声をあげた蒼星石に、男の子は大人びた微笑みを向ける。 あどけない表情には、似つかわしくない仕種だったけれど…… 蒼星石の瞳には、どこかで見た憶えのある笑顔として映っていた。 自然と彼女も微笑み、そして、不思議と懐かしいような、温かい気持ちになった。 「家族への未練。生への執着。そんなモノが、僕を異邦人たらしめていた。 だけど、鍵が揃ったから……そろそろ、旅に出る時期みたいだ」 「鍵? 旅? どこへ?」 「妻を探しにだよ。彼女は、僕と一緒に事故に巻き込まれて、死んでしまったんだ。 彼女は子供たちを溺愛していたからね。僕以上に、心残りだったと思う。 今も未練を引きずり、異邦人として彷徨ってるかも知れない。 だから、僕が探してあげないと。君が、その子を探しに来たみたいにね」 そう告げた男の子の身体が、いきなり眩い光を放ち始めた。 幼さかった面差しが、見る間に失われていき、大人の面持ちへと変わっていく。 併せて、まるで早送りのVTRみたいに、彼の身体も急な成長をみせる。 出し抜けの変貌に、翠星石が小さな悲鳴をあげて、へたり込んだ。 蒼星石は、そんな彼女の隣に駆け寄って、両腕で細い肩を包み込んであげた。 今までずっと、庇い、宥めてきたように。 身を寄せ合う姉妹の前で、やがて男の子は、立派な青年へと―― 彼女たちにとって、特別な意味を持つ男性の姿に変わっていた。 「そん……な。……お…………と」 口をパクパクさせながら、必死に言葉を紡ぎだそうとする蒼星石の唇に、 青年の人差し指が、そっ……と封をする。 そして、彼は、ゆるゆると首を横に振った。 何も言わなくていい。彼の澄んだ瞳が、そう語りかけていた。 「これを渡しておこう。浜辺へ行くには、必要な物だからね」 青年が、蒼星石の目の前に、徒手を差し伸べる。 何もない。と思いきや、ソレは手品のように、彼の両手にパッと現れた。 凝った装飾を施された、一挺の剪定鋏。しかも、刈り込み鋏かと見紛うほど大きい。 「これは『庭師の鋏』と言ってね。人のココロを護るためにある物なんだ」 「庭師の……鋏?」 「そうだよ、蒼星石。浜辺に続く道は、繁茂した茨が塞いでいる。 これを使って道を切り開き、翠星石の記憶を取り戻してあげなさい」 青年の手が、蒼星石の手に、庭師の鋏を握らせる。 金属製の鋏の冷たさが、彼の手を、殊更に温かく感じさせた。 「翠星石……蒼星石……本当に、大きくなったな。 お前たちに逢えて、とても嬉しかったよ。 今度は、きっと――母さんを連れて、会いに来るからね」 その言葉と、屈託ない子供みたいな笑顔を残して、青年は光に包まれ……消えた。 あの日、幼い彼女たちの前から居なくなってしまった様に、いきなり。 折角、久しぶりに逢えたのに……。 嬉しいのなら、何故もっと一緒にいて、いっぱい話をしてくれないのか。 今までの空白を埋めるくらいに、思いっ切り甘えさせてくれたって良かったのに。 姉の肩を抱き寄せたまま、俯いて唇を噛む蒼星石の背後で、石畳を踏む靴音が響く。 「そうか。彼は…………かずき君は、旅立ってしまったのだな。 君たちの名前は、それぞれ未練と執着を解き放つための、二つの鍵。 それを思い出したことで、彼は力強く羽ばたける翼を得たのだろう」 振り返ると、悲しい目をした二葉が立っていた。 涙こそ流していなかったが、ココロを痛めているのは、引き攣る頬を見れば分かる。 性別と人生経験の多寡に拘わらず、別れはいつも、淋しいものだから。 彼は気分を変えるように、蒼星石が手にした『庭師の鋏』に目を留めて、うむと唸った。 「すぐに行くのかね。その娘が落とした、記憶のカケラを探しに」 「はい。ボクは必ず、姉さんの記憶を見つけてみせます。 たとえ、どれほど時間がかかろうとも、きっと」 「……記憶のカケラは、眩い光輪を放つピンク色の結晶だ。それを探したまえ。 ああ、それから、茨の棘は鋭い。搦め捕られないように、気をつけて行くことだ」 「ご忠告は、肝に銘じておきます。さ……行くよ。立って、姉さん」 返事をするでもなく、ただ身震いするだけの翠星石が、あまりにも儚げで、 彼女を支える蒼星石の腕に、おのずと力が込もった。 「怖がらないで。大丈夫だよ。何があっても……ボクは、キミを護るから」 そろりと夕闇が忍び寄る空の元、二人は無言で、波打ち際を目指す。 蒼星石は、銀色の月と無限の星を見上げて、そっと祈った。 ――月の光よ。星のかがやきよ。姉さんの記憶のカケラを、照らし出して。 ~もうひとつの愛の雫~ 第19話 おわり 三行で【次回予定】 手にしたのは、道を切り開くための、庭師の鋏。 立ちふさがる障害を取り除いて、彼女たちは砂浜へと辿り着く。 そして、二人が手にしたのは―― 次回 第20話 『悲しいほど貴方が好き』
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駅前のスクランブル交差点に面したビルに設置された大型ディスプレイの中で、 彼女は今日も楽しげに歌っていた。 流れているのは、つい先週に出たばかりのラブソング。 生活スタイルが異なり始めた二人が、すれ違い、もつれ合いながらも、 ハッピーエンドに向かって駆け抜ける……という歌詞だ。 『終わらないストーリー』 ディスプレイに映る彼女に見入っていた僕の腕を、薔薇水晶が引っ張った。 「笹塚くん。信号、変わったよ」 「ん……ホントだ。早く渡ろう」 僕たちは手を繋ぎながら、彼女の歌をBGMにして横断歩道を渡っていく。 今日は、久しぶりにウィンドウショッピングを愉しむ約束だった。 「この曲、すごく良いよね」 横断歩道を渡り終えたところで、薔薇水晶は僕の横顔を眺めながら言った。 「私、CD買っちゃった」 「ああ、僕もだ。結構、売れ行きも良いみたいだよ。 オリコンチャートを見たら、ミリオン近い数字が出てた」 「本当に? なんか、凄いよね。同級生にアイドル歌手が居るなんて」 「だよなあ。正直、ここまでメジャーになるなんて思わなかったよ」 翌日、珍しく彼女が登校していた。 「よお。久しぶりだな、めぐ」 「あら。おはよう、笹塚くん。会いたかったわ♪」 「今日は来られたんだな。最近、休みがちだったから心配してたんだ」 「出席日数がヤバいのよ~。留年したら、どうしよっかな」 突然のスカウト。そしてデビュー。 天性の美貌と持ち前の歌唱力で瞬く間にスターとなったにも拘わらず、 めぐは三ヶ月前と変わらず、至って普通の高校生然としていた。 余りにも突然の激変で、彼女自身、まだ戸惑っているのかも知れない。 「でも、みんな応援してくれてるし、頑張らないとね」 「あんまり無理するなよな」 「大丈夫大丈夫。笹塚くんに会えて、元気が出たから♥」 けれど、そう呟いた彼女の横顔には、少しだけ疲れが見えた。 テレビや雑誌でメグの姿を見る回数に反比例して、登校する回数は減っていった。 そんなに仕事が忙しいのだろうか。 時々、携帯のメールで連絡を取り合うけれど、なかなか都合が付かなかった。 たまには、会って話をしたいよ。 「最近、めぐちゃん学校に来ないね。元気にしてるのかなぁ」 「うん。歌番やバラエティで見てる限りじゃ、元気そうなんだけど」 「この頃はメールの数も減ってるし、なんか心配だなぁ。 笹塚くんは彼氏なんだから、電話で話とかしてるよね?」 「彼氏ったって、形ばかりの関係だよ。 最近じゃ、話すどころか週末に会うことすら出来ないんだから」 「そうなの……なんか寂しいね。あ、ちょっと駅前の本屋に寄って良い?」 「ああ、いいよ」 駅前に来て、あの大型ディスプレイを見上げた僕たちは、思わず言葉を失った。 「ちょっと、笹塚君! あれって――」 午後のワイドショーを垂れ流すディスプレイには、 芸能関係のスクープが下衆なタイトルと共に、 しつこいほど繰り返し映されていた。 【大物新人アイドルと、有名若手俳優の交際疑惑】 【熱愛発覚!! 新人アイドルと――】 【深夜のお泊まりデート激写!】 それは紛れもなく、めぐを誹謗するものだった。 が、全てを嘘と言い切る根拠もない。 裏切られた――いや、そもそも僕なんて凡人が、彼女と釣り合う筈ないじゃないか。 悔しくて、情けなくて……僕は薔薇水晶を置いて、家まで逃げ帰った。 彼女はもう、違う世界の人間なのだと思い知らされた。 何が彼氏だよ。僕には、彼女を追い掛けるだけの能力も、ルックスも無い。 携帯に、めぐからメールが届いた。 【めぐだよー。今度の土曜日に、会えないかな?】 今更、会ってどうなるって言うんだろう。 例のスクープについて、言い訳を聞かされるだけじゃないのか? 惨めすぎる、そんなの。 【ゴメン。都合が悪くていけない】 送信しようとして、思い止まった。良い機会じゃないか。 この際、彼女と別れよう。会って、ハッキリ伝えるんだ。 了解の返事を打ち込んで、僕はメールを送信した。 薔薇学園の裏にある明伝城址公園で、僕たちは待ち合わせていた。 「お待たせ、笹塚くん。ちょっと、遅くなっちゃった♥」 ベンチに座っていた僕を見て微笑み、めぐは隣に腰を降ろした。 私服姿の彼女は、以前よりもずっと華やいで見えた。 そりゃ当然だろう。僕らなんかとは住む世界が違うんだ。 服だって、僕らはユニクロ。彼女のは、きっとブランド物さ。 「別に、大して待っちゃいないさ。それより、今日はどうしたんだよ」 「ちょっと、ね。最近、色々と有りすぎて疲れちゃった」 「お忍びで息抜きってやつか」 「まぁね。それに、笹塚くんとは最近デートしてなかったし」 デート、か。なんだか、お情けをかけられてるみたいだ。 惨めだな、まったく。 「デートなら、僕より相応しい奴等が居るだろ」 めぐが息を呑む音が聞こえた。 実際、今の彼女には最も触れられたくない話題だと思う。 けど、だからこそハッキリ言わなきゃならないんだ。 「最近、ワイドショーとかで騒がれまくってるだろ。そいつと――」 「待って! ちょっと、私の話を聞いて」 めぐは強い口調で、僕の言葉を遮った。 「ねえ、笹塚くん。まさか、あんな報道を信じてなんかないわよね?」 「信じるなと言われたって、ああも写真週刊誌とかで書かれてるとな。 別に、良いんじゃないか? めぐはもう雲の上の人物なんだし、 派手な私生活も、芸能人のステイタスみたいなもんだろ」 「ばっ、バカねえ。あんなの全部、誤解なんだって」 誤解でも、何でも良い。もう、諦めはついてるんだから。 「あのさ……めぐ。僕たち、もう別れないか」 「えっ――」 信じられないと、彼女の見開かれた眼が語っていた。 どうして? と。リップグロスを塗った彼女の唇が、戦慄いている。 何かを言おうとして、言葉にならない。そんな様子だった。 「――どうして、そんな事を言うの? 最近、殆ど会えなかったから?」 「言ったろ。住んでる世界が変わったんだよ。 こんな関係を続けるのは、お互い、もう無理なんだ」 「そんなの身勝手だわ! お互い、もっと会う時間をつくる努力すれば、いいだけの話じゃないの」 「そりゃ、出来ることなら、そうしたいよ! けど――」 僕には、君を引き留めておくだけの力は無いんだ。 「もう、ダメなんだよ。僕たちは」 「――――っ!」 ぱんっ! 「笹塚のバカっ! あんたなんか最っ低の大バカよ! 大っ嫌い!」 めぐは僕の頬を叩き、一頻り喚いて、目の前から走り去ってしまった。 胸が苦しかったけど、これで良いんだと自分を慰めた。 僕はまだ、彼女のことが好きで好きで堪らない。 でも、だからこそ彼女の足枷になってはいけなかったんだ。 そう…………これで良かったのさ。 「どうして、めぐちゃんをフッたの?」 その夜、薔薇水晶が家に訪ねてくるなり発した質問だ。 僕なりの考えを答えたら、薔薇水晶にも頬を殴られた。 なんて日なんだ、今日は。 「どうして、信じてあげられないの? めぐちゃんは笹塚くんのこと、大好きなんだよ?」 「だからって、高校生の僕が出来ることなんて、高が知れてるだろ」 「相談に乗ってあげることくらい出来るじゃない!」 「話を聞いたって、解決できるかどうか分かんないだろ! もう帰ってくれよ!」 「ヤダ! 笹塚くんがめぐちゃんに謝るまで、ぜったい帰らないっ!」 薔薇水晶はいつになく強引だった。こんな彼女を見るのは初めてだ。 僕は彼女の気迫に圧されて、渋々ながら、メグの携帯に電話を掛けた。 「もしもし…………笹塚だけど」 「――――何の用……なの?」 「これから、少しだけ会えないかな? 明伝公園で待ってるから」 「――――良いわよ。じゃあ、後でね」 「じゃあ、僕は出かけるからな。薔薇水晶は先に帰ってて良いよ」 「私も一緒に行くわ。笹塚くん一人じゃあ、また喧嘩別れになりそうだから」 「もう、そんな事しないって」 とは言ったものの、情けない話だけれど、薔薇水晶が居てくれるのは心強かった。 ついさっき別れたばかりで、どの面下げて、めぐの前に立てるだろうか。 一人きりじゃ、絶対に直前で尻込みしてた。 明伝公園に僕たちが着いた時、めぐは街灯の下のベンチに座って項垂れていた。 学園では常に朗らかで、行動派だった、めぐ――彼女が、あんなにも憔悴しているなんて。 僕たちの接近に気付いてハッと顔を上げた彼女は、一瞬、嬉しそうな表情を浮かべ…… ……複雑な面持ちとなった。 「私に、あなた達の仲を見せ付けに来たの?」 「笹塚くんが逃げ出さないように、見張ってるのよ」 思わず答えに窮したところに、薔薇水晶のフォローが入った。 格好悪いが、やはり一緒に来てもらって、良かったと思った。 ふぅん……と、めぐは僕らを交互に見据えて、クスッと笑った。 「まあ、いいわ。それなら、笹塚くん。どうして、私を呼びだしたの?」 「さっきの事、謝りたくてさ。それと、伝えたいことも有る」 「ヨリを戻したい……なんて虫のいい話なら、お断りよ。 私のプライドはずたずたに傷付けられたんだから」 「僕だって、そんな恥知らずじゃない。ただ、めぐを信じるって、伝えたかったんだ。 あんな写真週刊誌のゴシップ記事なんか、くそくらえだって」 「そう……」 めぐは少し口を噤んで、溜息を吐いた。乱れた気持ちを整理するように。 そして、迷いが吹っ切れたように明るい笑顔を浮かべた。 薔薇学園で、毎日みんなを和ませてくれた、あの笑顔を――。 「私ね、アメリカに渡ろうって決めたの」 夜空の月を見上げて、めぐは自分の抱負を語ってくれた。 「スクープだなんだと騒がれまくって、ちょっと嫌気がさしてたのよ。 良い機会だし、留学して一から出直そうって考えたの」 「凄いな……。僕と同い年なのに、そんなにもスケールの大きい目標があるんだから。 僕なんか、何をしたいのかすら分かってない」 「人それぞれだもの。でもね、探し続けなければ、答えは見付けられる筈がないわ」 「そうだね。僕はまだ、真剣に人生と向き合ってない。甘えているんだと思う」 甘えているから、物事の本質が見えなくて、 肝心な時に大切な人を傷付けてしまったんだ。 僕は、めぐの目を真っ直ぐに見詰めて、思いの限りを伝えた。 「僕には、めぐみたいに天賦の才能なんかない。だけど、探し続けるよ。 そして、いつか君に追い付けた時、僕は必ず伝えるから。 今度こそ、どこまでも一緒に歩いて行けるよって」 「ふふ……それって、いつ頃になる予定なの?」 「それは、その……今すぐにとは言えないけど、出来るだけ努力するから」 「ふぅん? まあ、気長に待つとするわ」 笑いながら、めぐは右手を差し出した。 「暫く、お別れね。でも、忘れないで。世界の何処で歌っていようとも、 私は……不特定多数の誰かにではなく、貴方の為に歌っていることを」 忘れないよ。絶対に、忘れるもんか。 僕はメグの温もりを忘れないように、しっかりと握り締めた。 ――クリスマス 毎年恒例のメロディが満ち溢れた駅前に、僕と薔薇水晶は買い物に来ていた。 何処に行っても、ジングルベルや、山下達郎のクリスマスソングが流れている。 毎年、飽きもせず繰り返される光景。 駅前のスクランブル交差点で信号待ちをしていた時、 薔薇水晶が正面の大型ディスプレイを指差した。 「あっ! 笹塚くん、めぐちゃんが映ってるよ」 「本当だ。あいつ、向こうでも大人気だもんなぁ」 渡米して一ヶ月と経たず、めぐは人気ロックバンド【Rozenmaiden】のボーカルとして、 その名を世界中に知られる存在になっていた。 あのゴシップ記事も直ぐに忘れられて、国内でも彼女の人気は回復している。 本当に、めぐは大空を羽ばたく鳥のように、どんどん遠くへ行ってしまう―― 「笹塚くんも大変だね。今や世界的な有名人に追い付かなきゃいけないなんて」 「確かに、途方もない目標だなぁ」 だけど、僕は約束したんだ。必ず追い付いて、一緒に歩いて行くと。 ♪終わらないストーリー クリスマスの街に、めぐの歌が流れ続ける。 毎年、飽きもせず繰り返される光景。 だけど、今年は――――少しだけ違って見えた。
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薄っぺらなガラス一枚で隔てられた向こうは、宵の口。 引きも切らさず車窓を過ぎゆく光華は、夜の訪れるにつれて数を増してゆく。 薔薇水晶と、雛苺――疾駆する車内に、2人だけ。 ジョナサンの駐車場を出てから、もう相当な時間が経っていた。 助手席に座る雛苺は、窓越しの景色に、そわそわと目を彷徨わせるばかりで。 その落ち着きのなさは、隠し事が下手な彼女の、逡巡の表れだった。 薔薇水晶が見せてくれた、携帯電話の待ち受け画像―― たおやかな乙女の微笑みが、雛苺のアタマに焼き付いて離れなかった。 あの銀髪の女性が、水銀燈その人であるなら…… 真紅に教えれば、すべての予定をキャンセルしてでも、同行を申し出たに違いない。 彼女は、それこそ無我夢中で、幼なじみの行方を探していたのだから。 けれど……そうと知っていながら、雛苺は敢えて、真紅に伝えなかった。 正確には、言い出す余裕がなかった。 いきなりのことでアタマが働かず、金糸雀かサラに、伝言を頼む発想もなくて。 「あの、ね」 信号待ちで停車したのを見計らって、雛苺は切り出す。 「なに?」と、ハンドルを握る薔薇水晶が、不思議そうに首を捻った。 「おトイレ……行きたくなった? なら、どこかのコンビニに――」 そうじゃなくて。 雛苺は、頭と手を横に振って、続けた。「訊き忘れてたのよ」 さらに言いかけたところで、間が悪く、信号が青に変わる。 薔薇水晶は前に向きなおると、徐に、アクセルを踏み込んだ。 思いがけず急な加速が、彼女たちの痩身を、ぐん……と、シートに沈み込ませる。 いつもより重たく感じるアタマを、ヘッドレストに預けたまま、雛苺は口を開いた。 「薔薇水晶の、お姉ちゃんのことだけど――」 運命の糸車は、この車のタイヤと同じ速さで、目まぐるしく廻りだしている。 それによって紡がれる糸は一体、どのような未来を、たぐり寄せているのだろう。 およそ考えにくいことだが、他人のそら似という可能性は、捨てきれない。 本人だったとしても、決別の理由が理由だけに、いきなり引き合わせるのは、どうか……。 やはり、実際に会って、確かめてからにしよう。再会の席は、日を改めて設ければいい。 ――と、さんざん悩んで辿り着いた結論ながらも、雛苺は依然、迷いを払拭できずにいた。 進むべきなのか。今更ながらでも、取って返すべきなのか。 雛苺は、頬に不自然な強ばりを感じた。携帯電話を握る手にも、チカラが入っている。 ひとつのことに気を取られると、知らず、胸に蟠る煩悶が顔に表れてしまう。 巧く立ち回れない自分。自嘲めいた作り笑いで、強ばりを突き崩し、雛苺は続けた。 「お名前は、なんていうなの?」 「有栖川アリス」 目の覚めるような即答。「推理作家みたいで、かっこいいでしょ」 言って、薔薇水晶は「でも、文章は苦手らしいけど」と、口元を弛めた。 一方、雛苺は『鍵姫物語』という漫画を想像していたが、 その話題を出汁にして、薔薇水晶と一緒になって笑う気には、なれなかった。 真に欲する答えを得られなかった憤懣が、そうさせていたのだ。 「水銀燈……じゃなくて?」試みに、彼女は手の内にあるカードを一枚、明かしてみる。 ――が、薔薇水晶は、きょとんとした面持ちで、素っ気なく「誰、それ?」と。 しらばっくれている風ではない。少なくとも、雛苺には、そう感じられた。 大体、それらしい嘘を吐くのなら、答えるまでに不自然な間が空きそうなものだ。 それがない……と言うことは、本当に知らないのか。 さもなくば、どんな時でも自然体を装えるように、普段から訓練されているのか。 雛苺は、我ながら荒唐無稽な発想に、微苦笑を禁じ得なかった。 まったくないと言い切る根拠もないが、それにしても、後者の線は考えにくい。 やはり、本当に知らないと見るのが正解だろう。 と言って、有栖川アリスという女性が、赤の他人と断定するのは早計にすぎる。 水銀燈が身分を隠すために、名を偽っているのかも知れない。 はたまた、別の理由だって考えられる。 たとえば、花瓶をぶつけられた後遺症で、記憶障害を引き起こしている……とか。 挙げようと思えば、推測の2、3は列記できた。 だが、それらはすべて雛苺の勝手な見解であり、およそ適正とは言い難い。 話したことは疎か、会ってさえないのだから、率直に言えば中傷の類だ。 真紅に聞かされた話だけでは、水銀燈の本当の姿まで見抜けるはずもなかった。 「うっと……ね。ちょっと、失礼なコト訊いてもいい?」 「……程度にもよるわ」 いきなり、薔薇水晶の声に、不穏な響きが宿る。 「侮辱するなら、友だちでも許さない」 「ち、違うの! そういう意味じゃなくて」 「じゃあ……なに?」 「2人は、実の姉妹なのかなって」 「違う」 またもや即答。しかも、えらく端的だ。 人見知りとまでは言わずとも、口数の少なさが、内向的な感じを醸している。 雛苺は薔薇水晶に対して、会話慣れしていない印象を抱いた。 友だちが少ない……と言っていたのは、紛れもない事実なのだろう。 「それじゃ、お隣とか、ご近所の人? いつから知り合いなの?」 こういうタイプは、趣味とか、共通の話題になると、急に多弁になったりする。 それを知っていた雛苺が水を向けると、案の定、薔薇水晶は滔々と語り始めた。 彼女の話によれば、2年ほど前の事件が、発端だという。 「うちの前で倒れていたの。ひどく衰弱してて――昏睡状態だった。 お医者さまにも、あと少しで手遅れだったって言われた」 しかも、この行き倒れ娘は、一冊の小説と、わずかな小銭しか持っていなかった。 名前はもちろん、どこの誰とも判らず。外国人である可能性も、否定できない。 と言って、瀕死の病身と知りつつ厄介払いするなんてワケにもいかず…… やむを得ず、薔薇水晶の父親が、医療費などを肩代わりしたとのことだった。 「警察には、通報しなかったなの?」 「そのつもりだった。なにかの事件に、巻き込まれたのかも知れないから」 それが当然の判断だし、常識的な対応だ。 身元の証明が為されれば、そちらの親族に、立て替えた医療費も請求できる。 ところが、薔薇水晶は「でもね――」と。 そう簡単な話ではなかったことを、暗に告げた。 「話を聞いたら、お姉ちゃんには、身寄りがないことが判って」 「それなら、なおさら警察に任せたほうが、よかったんじゃないの?」 だのに、有栖川女史は今なお、『お姉ちゃん』のポジションに収まっている。 警察への通報が、なされなかった証拠だ。 どうして? 雛苺が問うと、薔薇水晶は当時のことを思い出したらしく、声を落とした。 「だって……お姉ちゃん、泣きながら縋りついてきて、お願いするんだもの。 それだけは、やめて。なんでもするから、そばに置いてください……って」 なぜ、そこまで警察沙汰になることを嫌がるのだろう。 事件に巻き込まれているのか訊くと、それについては、きっぱり否定したという。 薔薇水晶も、彼女の父親も、理解に苦しんだろうことは想像に難くない。 「仕方ないから、お医者さまとも相談して、うちで預かることになった。 症状が快復して、気持ちが落ち着けば、彼女の考えも変わるだろうと――」 そして、2年を経てなお、家族ごっこは続いているワケだ。 ぬるま湯に浸かるような生活の心地よさに溺れ、闖入者への警戒心さえ忘れて。 それほどまでに、有栖川と名乗った女性は、出来た人物なのだろうか。 「お姉ちゃんって、どんな人なの?」 ややあって放たれた雛苺の問い掛けに、薔薇水晶は一転して、声を弾ませる。 「とってもステキな人! 優しいし、知的だし……私にとって憧れの存在よ」 随分とまあ、懐いている。 人づきあいに奥手らしい薔薇水晶をして、ここまで慕わしめるのだから、 確かに、並大抵の女性ではないようだ。 少なくとも、人心を掌握する術には長けているみたいと、雛苺は推察した。 如才ない才媛―― 真紅の自宅で、初めて水銀燈の写真を見たときの直感が、胸に甦る。 よく言えば怜悧。悪く言えば狡猾。 考えれば考えるほど、まだ見ぬ『お姉ちゃん』に、水銀燈のイメージが重なる。 「ヒナも、早く会ってみたいのよ。とっても楽しみなの」 雛苺は、胸の動悸を抑え込むように手を当てながら、にこやかに返した。 その言葉も、笑顔も、決して社交辞令のお愛想などではなかった。 ~ ~ ~ ――右肩を揺すられ、雛苺は、「ぴゃぁっ」と息を呑んで仰け反った。 いつの間にか、微睡んでいたらしい。 指先で目元をこすりつつ、左に顔を向けた彼女の視界を、コンクリート壁が遮った。 「着いた……なの?」 「うん。車庫入れが済んだとこ」 皓々たる蛍光灯の明かりが、彼女らの置かれた世界の全貌を、露わにしている。 薔薇水晶の言葉どおり、ガレージなのだろう。 車のボンネットの先には、頑丈そうなシャッターが降ろされていた。 「ここから、すぐ家に入れる」 ついてきて、と。買い物袋を手にして、薔薇水晶は車を降りた。 彼女を追いかけて、雛苺もドアを開ける。 あらためて見渡すガレージは、意外に広く、物置も兼ねているらしかった。 「……こっちよ」 「あっ、待ってなの」 薔薇水晶は既に、ガレージの片隅に設けられたドアのノブに、キーを差し込んでいた。 そこが、本来の玄関に抜けるための通路なのだろう。 開けられたドア越しに、上へと続く階段が見えた。 ガレージ内の消灯と、ドアの施錠を済ませて、薔薇水晶が先に立つ。 「足元、気をつけてね」 「うい」 雛苺はデイパックを背負いなおして、しっかりと足を踏みしめる。「んしょんしょ」 そうして、コンクリート製の階段を十段ほど登ると、やおら視界が開けた。 小さなロビー。足元は、茶褐色のタイル張り。重厚なウッドのドアが、ひとつ。 早い話が、この家の玄関だった。 「ただいま」 薔薇水晶の呼びかけに、家の奥から、ぺたしぺたし……。 小走りに近づいてくるスリッパの音と、鈴の音を思わす女性の声が、2人を出迎える。 「お帰りなさぁい」 瞬間、雛苺の全身を、電気が駆け抜けた。 その声の主こそ、彼女が会いたいと切望した人だと、直感で悟っていた。 おずおずと顔を上げれば、銀糸のような髪をリボンで束ねた、エプロン姿の女性が……。 やっと会えた。興味本位で先走った感はあるが、それ以上に、歓喜の念が勝っている。 逸る気持ちが、雛苺の足を、前に出させたがっている。 だが一方で、緊張のあまり身体が竦み、腰が引けるのを抑えきれない。 ――結局、雛苺は薔薇水晶の背に隠れて、固唾を呑むことしかできずに。 「ただいま、お姉ちゃん。友だち……連れてきた」 「あらぁ、珍しい。その子ね? いらっしゃぁい」 口振りこそ大仰な感じだけれど、その表情は、とても嬉しそうだ。 「こんばんわぁ」と向けられた笑顔に勇気を得て、雛苺もはにかみ、進み出た。 「う、と……こ、こんばんわ、なのよ。雛苺っていいます、よろしくなの」 「私の名前は、有栖川アリスよ。こちらこそ、よろしくねぇ」 歌うように言って、有栖川は、たおやかにお辞儀をした。 なんとも落ち着いた物腰だ。親しげで、取っつき難さや、壁を感じさせない。 その割に、押しつけがましさや、ベタベタした馴れ馴れしさなどなくて…… 雛苺は、沢を吹き抜ける風に包まれたような、爽やかな心持ちにさせられた。 「さぁさぁ。挨拶は、このくらいにしておきましょう。 お客さまを、いつまでも玄関に立たせてるなんて、失礼にも程があるわぁ」 「そだね。雛苺……遠慮なく上がって」 そこへもって、2人から誘われれば、断れるはずもない。 もっとも、雛苺とて最初から、すんなり引き上げる気ではなかったけれど。 「それじゃ……ちょっとだけ、お邪魔しますなの」 「ちょっとだなんて言わず、お夕飯、食べていかない?」 三和土に腰を降ろした薔薇水晶が、靴を脱ぎながら、雛苺に訊ねる。 そして間髪いれず、振り返って、もう一言。「いいよね、お姉ちゃん?」 問われた有栖川は、慌てた様子もなく頷いた。 「ええ。材料なら残ってるし、もう1人分くらい、すぐに用意できるわ。 貴女は先に、お風呂に入ってきちゃいなさぁい」 「そうする。これ……ローザミスティカ。教えてもらったお店で、買ってきた」 ずい、と。薔薇水晶が、紅茶の缶が詰まった袋を差し出す。 その思いがけない量には、さすがの有栖川も目を丸くした。 「あらまぁ。随分と、まとめ買いしてきたのねぇ」 「7種類もあったから……ひととおり揃えてみたの。こんぷりーと」 「それじゃ、食後に頂く紅茶は、先生に選んでもらいしょうねぇ」 くすくす……。有栖川は、幸せそうに微笑みながら、袋を受け取った。 こうして見ると、お姉ちゃんというより、むしろ若いお母さん、みたいな印象だ。 些細な立ち居振る舞いにも、大きな包容力を感じとれた。 軽やかに階段を昇ってゆく薔薇水晶を見送ると、有栖川は、その笑顔を雛苺へと向けた。 「さ、貴女も、上がってちょうだぁい。すぐに、お茶を煎れるわね」 「あの……ホントに、お構いなくなのよ」 もちろん、それは建前。本音は、大いに構ってもらいたかった。 理想は、2人っきりで話せる状況だけれど……どうやって、そこまで誘導したものか。 雛苺のアタマに、あのパステルが思い浮かぶ。 ……が、悠長に絵を描く暇があるなら、折を見て、直撃リポートするほうが早かろう。 声を掛けるキッカケを見つけたら、それらしいネタ振りで―― たとえば、彼女が倒れるときまで持っていたという、小説についてでもいい。 チャンスは食後の、わずかな時間。 それまでは、自然な動作を心がけなければ。 くれぐれも、意識しすぎてボロを出さないように。 前を行く有栖川の、さらさらと揺れる銀髪と腰つきに目を注ぎながら、 雛苺は、それに向けてのディスカッションを始めていた。 -つづく-
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『褪めた恋より 熱い恋』 (ジュン×みつ 三部作 最終章) 前編 中編① 中編② 後編
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翌日の日曜日、蒼星石は、いつになく早い時間に起床した。正直、まだ眠い。 けれど、昨晩の事を思うと胸が疼いて、とても二度寝する気にはなれなかった。 『私はもう、蒼星石を1番には想えないのです』 『何故なら、今の私にとって1番のヒトは――』 また、ズキズキと胸が痛み出す。嫌だ……。額に手を当てて、蒼星石は嘆息した。 なんだか、底なし沼に踏み込んでしまった気分だった。 足掻けば足掻くほど、ずぶずぶ深みに填っていく。 考えれば考えるほど、どんどん出口が見えなくなってしまう。 きっと、自力では、この悪循環から抜け出せないのだろう。 誰かに引っぱり出してもらわなければ…………ずぅっと、このまま。 洗面所で顔を洗っても、蒼星石の心は晴れない。 鏡に目を転じれば、そこには水滴をちりばめた暗い顔。 瞼を泣き腫らして、憔悴しきった惨めな表情に、姉の泣き顔が重なる。 鏡像の奥には、洗濯機と、洗濯カゴに積まれた二人分のパジャマ。 それを見るなり、昨夜の映像が脳裏で再生されて、蒼星石は顔を顰めた。 「傷つけるつもりなんか、なかったのに……」 この家に居ると、気が滅入る。際限なく、心が打ちひしがれてしまう。 早起きの祖父母と軽めの朝食を摂った蒼星石は、簡単に身支度を済ませると、 財布と携帯電話だけ持って、秋晴れの町に飛び出した。 首輪とリードで繋がれた犬が、それでも自由になろうと、躍起に狂奔するかのごとく―― 第九話 『もっと近くで君の横顔見ていたい』 ここ最近、いよいよ秋も深まり、朝夕はぐっと冷え込むようになった。 固さを増した早朝の風が、蒼星石の頬を撫で、栗色の髪を、ふわりと掻きあげていく。 ちょっと肌に刺さって痛いけれど、しっかり目を覚ますには、心地よい感触。 見上げた秋晴れの蒼穹は、どこまでも高く澄み渡って、とても清々しい。 深く息を吸い込むと、空が全身に浸透してくる気がして、不思議な一体感を覚えた。 それはきっと、空と蒼星石が今という時間を一緒に過ごし、世界を共有しているから。 「ボクも、姉さんと――」 風を肌で感じるように、ごく自然に寄り添って、同じ時間を生きていたい。 呼吸するように、ごく自然に温もりを持ち寄って、二人だけの世界を生みだしたい。 誰よりも大切なヒトだからこそ、どんな事でも、どんな物でも、余す所なく共有したかった。 お互いの心までも、例外なく。 蒼星石が望む二人の関係は、それだけ。 彼女がそうであるように、姉の中で『蒼星石が1番』であってくれさえすれば、 それで満足できた。揺るぎない安心を得られる筈だった。 それなのに、翠星石は解ってくれなかった。 いや……解っていながら、願いを聞き入れてくれなかった。 蒼星石が最も聞かせて欲しかった言葉など、容易に察しが付いただろうに。 「例え、その場限りのウソでも…………ボクは構わなかったのに」 冬の気配を漂わせる風に首筋を撫でられ、蒼星石は小さく身震いした。 一応、ジーンズにブラウス、セーターも着込んできたのだが、 この季節にしては、ちょっと薄着しすぎたらしい。 ロングコートは必要ないにしても、マフラーくらいは持って出るべきだった。 胸を締め付ける孤独感も、体感温度を引き下げている原因かも知れない。 ゾクゾクと悪寒に苛まれて、蒼星石は鳥肌の立った腕を抱き寄せ、背を丸めた。 このままでは、風邪をひいてしまいそう。 そうは思うものの、マフラーを取りに戻ろうとは思わなかった。 「自販機で、あったかい飲み物でも買おう」 ブラウスの襟を立てながら、まだ開いていない商店を目指して、小走りに近付く。 木枯らしに晒された数台の自販機は、まるで身を寄せ合い、寒さに耐えているスズメの様だ。 そんな風に、見るもの全てに物悲しさを感じるのは、やはり心境のせいだろうか。 「やだやだ……らしくないな、こんなの」 かぶりを振って、蒼星石は自販機で温かいミルクココアを買った。 ちょっとだけ両手の中で転がし、暖を取ってから、タブを起こす。 甘くて温かいココアを口に含むと、なんとなく気分が落ち着いて、吐息が漏れた。 ココアを飲みきるまで暫し、自販機の影で寒風を避けながら、 蒼星石は空を見上げて、これから何処に行こうか迷っていた。 「この時間から、駅前のファミレスに入り浸るのも……ちょっとね。 たまには、マンガ喫茶でインターネットでもしてみようかな」 念のために確認した財布の中には、五百円にも満たない小銭が入っているだけだった。 昨日、水銀燈にお昼を奢った上に海まで行ったから、だいぶ出費が嵩んでいたのだ。 家に帰ったら、貯金箱から幾らか引き出しておこうと思っていたのに、 昨夜のゴタゴタもあって、すっかり忘れていたのである。 「……最悪。なにしてるんだろ、ホントにもぅ」 駅ビルのショッピングモールは、まだ開店していない。市民図書館も、同様。 他に行く当てもなかったが、それでも、蒼星石は家に帰りたくなかった。 翠星石も、そろそろ起き出す頃だ。 もし鉢合わせたら、きっと姉はツン! と顔を背けて、知らんぷりするだろう。 それとも、蒼星石など居ないという風情で、ひたすら無視を決め込むか。 いずれにしても、展開が読めるだけに、尚のこと意固地になってしまう。 「仕方ない。あと少し、どこかで時間を潰そう」 溜息をひとつ吐き、蒼星石は再び、寒風の中に身を晒した。 日曜日の朝で、しかも寒いとあっては、人の出が少ないのも当然の結果だろう。 そのお陰で、足元を見下ろし、取り留めもないことを考えながら歩いるにも拘わらず、 蒼星石は誰ともぶつからなかった。 彼女の足が止まったのは、爪先を掠めるように野良猫が横切った時だった。 ビックリして無様に肩を震わせ、一瞬にして粟立った肌が落ち着きを取り戻すと、 次は羞恥心が頭を擡げてくる。 今の醜態を、誰かに見られただろうか? 立ち止まって、辺りを見回した蒼星石は、そこで初めて、神社の前に居ることに気付いた。 子供の頃には遊び場のひとつとして、毎日のように訪れていたこの場所も、 今では夏と秋に催される祭りや、初詣くらいしか来ることがない。 毎日、ここに足を運ぶのは、近所のお年寄りくらいのものだろう。 ざわざわと杉の木立が騒ぐ境内に、人の気配は全く感じられなかった。 「こんな所で、ゆっくり自分を見つめなおすのも良いか」 蒼星石は鳥居をくぐり、石畳に敷き詰められた銀杏の枯れ葉を踏みしめ、社殿に向かった。 誰も居ない神社で、独り、今後の身の振り方を考えてみようと思ったのだ。 それに、社の陰に入れば木枯らしも防げる。 ――だが、境内には、たった一人だけ先客が居た。 蒼星石の接近を知ると、その人物は首だけを巡らして、口元を綻ばせた。 「あら……おはよう、蒼星石さん。日曜日なのに早いわね」 「柏葉さんこそ、休日の朝早くから練習してるだなんて、知らなかったよ」 この肌寒い中で、道着姿の巴は、額や首筋に汗を浮かべている。 彼女は正眼に構えていた木刀を降ろすと、石灯籠の下に置かれたバッグからタオルを抜き取り、 顔と首筋を拭った。頭の揺れに合わせて、美しい黒髪が、さらさらと流れる。 汗で肌にまとわりついた髪を指先で払い除け、タオルを首に掛けたまま、 巴は500ml容量のポットを引っぱり出した。 「散歩の途中だったの?」 蒼星石に訊ねながら、彼女はポットの蓋に、湯気の立つ褐色の液体を流し込んでいく。 寒々とした風に乗って、コーヒーのいい香りが、蒼星石の鼻先に漂ってきた。 「飲む?」と、差し出された蓋を、蒼星石は受け取って口元に運んだ。 「……はぁ、美味しいね。ちょっと熱いけど、すごく温まるよ」 「でしょう? でも、良かった。蒼星石さんがコーヒー嫌いじゃなくて」 飲み終えて、蒼星石は「ごちそうさま」と、蓋を手渡した。 巴はそれを受け取ると、再びコーヒーを注いで、至って自然に口を付ける。 (え? ちょっ、それって……) すぐに間接キスだなんて言葉が浮かぶのは、意識しすぎなのだろうか。 煩悶する蒼星石に目を向けて、巴は不思議そうに首を傾げた。「もう一杯、欲しい?」 「え、と……あの」 「……ふふっ。遠慮しなくていいのよ。はい、どうぞ」 にこやかに差し出されると、どうにも断り辛い。 蒼星石は巴に見守られながら、コーヒーを満たした蓋に、指を添えた。 何故か、胸がドキドキして落ち着かない。身体がウズウズして、妙な気分。 神式の婚儀でもあるまいに、杯を交わしたくらいで、何を動揺しているのか。 深く息を吸って、カタチだけ気持ちを鎮めてから、コーヒーを飲み干す。 そして、蓋を返しながら、蒼星石は冷静を装って話しかけた。 「ありがと。柏葉さんは、まだ練習していくの?」 「ええ。もう少しだけね」 「そう……あのさ、もし良ければだけど……練習を見せてもらってもいい?」 「もちろん構わないけど。でも、どうして?」 なんとなくだけど……今はね、もっと近くで、君の横顔を見ていたいんだ。 姉の言葉で穿たれた心の空隙を、何かで埋めてしまいたくて―― 言葉にできない想いを、そっと胸の内で呟く蒼星石だった。 第九話 おわり 三行で【次回予定】 失望と落胆を払拭するべく、少女は新たな絆と触れ合う。 そして、戸惑いながらも、新たな世界に自分の居場所を見出そうとしていた。 複雑な表情で、重い息を吐くもう一人の娘のことなど、顧みもしないで。 次回 第十話 『こんなにそばに居るのに』