約 24,298 件
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/1205.html
Report.06 長門有希の陥落 いつもと違う、ちょっとおかしい(主に服装が)彼女と、いつもと違う、ちょっとおかしい(主に言動が)わたしの、いつもと違う、ちょっとおかしい(主に空気が)風景。 お茶を霧にしたり、お菓子の袋を引きちぎったりと忙しい彼女だったが、それでも次第にくつろぎ、話をし始めていた。 わたしはお茶のお替りを淹れたり、飲み物を取ってきたり、お菓子を食べたりしながら、彼女の話を聞いていた。 正確に言うと、話をしている彼女を見ていた、となるかもしれない。 彼女の話す内容は様々だった。普段部室やSOS団の活動中に話しているような内容もあれば、自分の身の上話、国際政治や領土問題から、芸能に今夜のおかずまで。彼女の興味の対象は幅広い。聞いていて飽きない、という感想を相対した人間は持つだろうと予想された。 ただ、それでも全体的な傾向としては、平均的な女子高生の会話の内容といえた。見識や考察が、平均的な女子高生を凌駕しているだけで。 そのまま食事に移行する。コンビニエンスストアの弁当。 わたしは味覚から得られる情報には特に重きを置いていないが、今日の弁当は普段よりも、人間の言葉で言うところの『美味しい』ものだった。 「ぷっは~~~! やっぱり食事にはコレやね!!」 【ぷっは~~~! やっぱり食事にはコレよね!!】 彼女は、『甘くない炭酸』を飲みながら言った。 「あたし、前から甘ったるい炭酸飲料しか売ってへんことが不満やってん。外国ではむしろ『ノンガス』って頼まんと、『水』を頼んだら『炭酸水』が出てくるっていうし。今まではカクテル用のソーダで我慢してたんやけど、最近はいろいろ選べるようになったわ。やっと時代があたしに追いついてきたんやなぁ。」 【あたし、前から甘ったるい炭酸飲料しか売ってないことが不満だったの。外国ではむしろ『ノンガス』って頼まないと、『水』を頼んだら『炭酸水』が出てくるっていうし。今まではカクテル用のソーダで我慢してたんだけど、最近はいろいろ選べるようになったわ。やっと時代があたしに追いついてきたのねえ。】 彼女は、しみじみと言った。 『誰かと一緒に取る食事』は、『一人で取る食事』よりも『美味しい』。今日初めて知ったこと。 食後は、お茶を飲みながらのんびりと過ごす。彼女の希望で、TVやラジオは電源を入れていない。あれだけの取材攻勢を掛けられ、大衆の好奇心に弄ばれた。いや、今も弄ばれている。当分は見たくもないのだろう。何事もなかったかのように明るく振舞っているが、やはりその心中は穏やかではない模様。 彼女が哀れだと思った。そして、なぜかそばに居たいと思った。 そろそろ食事から時間が経った。入浴を提案しよう。 「お風呂の準備をする。それともシャワー?」 「あ、溜めて溜めて。」 「了解した。」 わたしは席を立ち、湯船にお湯を張る準備をして、また席に戻った。 「あなたから入るといい。」 「有~希~?」 彼女はにんまりと笑いながら、『彼』が見たら先のことを考えて諦観に至りそうな顔で言った。 「あたしが、このままお風呂を用意されて、はい、そうですか、って入る人間やと思うか~?」 【あたしが、このままお風呂を用意されて、はい、そうですか、って入る人間だと思うのかしら?】 わたしは、彼女の性向を考慮したデータベースから、該当する状況を検索する。 「……思わない。」 「女の子同士でお泊まり言(ゆ)うたら、お風呂で流しっこに決まっとぉやろ♪」 【女の子同士でお泊まりと言えば、お風呂で流しっこに決まってるじゃない♪】 その情報は、主に男性向けの情報源によって提供される一種の幻想なのだが、普段の言動からも分かるように、彼女の主な情報源はそのような男性向けの類なので、彼女にとっては、それが当然の行為。 やがて、湯船に規定量のお湯が溜まった事を知らせる音が鳴った。 「さ、入ろ、入ろ~♪」 彼女に手を引かれて浴室に向かう。彼女の顔は1MeV(メガエレクトロンボルト)級の笑顔だった。今の彼女なら、一億度以上にプラズマを加熱して、熱核融合炉を起動させることができそうだと思った。 まずわたしが彼女を洗う。 「背中にニキビを発見した。」 「嘘ぉ!? どこどこ?」 「ちょうど手の届かない場所。」 そう言って、わたしは該当箇所を指先で触れる。 「痛たたた……確かにそこは、ちょっと痛いなとは思(おも)てたけど、ニキビできてたんか。」 【痛たたた……確かにそこは、ちょっと痛いなとは思ってたけど、ニキビができてたのか。】 「保湿に気をつけるべき。後で薬を塗ってあげる。」 「頼むわぁ~。うう、油断した……不覚っ……!」 【頼む~。うう、油断した……不覚っ……!】 自分の目の届かない場所でニキビの発生を許したのが余程悔しかったらしい。だが、これも致し方ないことなのかもしれない。 「ニキビの発生もストレスの表れ。やはりあなたには気晴らしが必要だった。」 「そやね……」 【そうね……】 お湯を掛けて、泡を洗い落とす。 「はい、おわり。」 「ありがと~。気持ち良かったわぁ♪」 『気持ち良い』という言葉には、大まかに分類すると二つの意味がある。 一つは、精神的な意味。もう一つは、性的な意味。 わたしはふと、彼女が言ったのはどちらの意味なのだろうかと考えた。それは、人間で言うところの、ある種の『予感』だったのかもしれない。 「次はあたしが洗ったげる番やな。」 【次はあたしが洗ったげる番ね。】 彼女は……ニヤニヤしていた。にやけるのを必死で堪えて、結局堪え切れなかったという表情に見えた。 わたしはその時、感じるべきだったのだろう。『貞操の危機』というものを。 今度は彼女がわたしを洗う。 「うわ~。有希の肌って、ほんま白いなぁ~。それにめっちゃすべすべやし。」 【うわ~。有希の肌って、ほんと白いわね~。それにすっごくすべすべだし。】 彼女は背中だけでは終わらせなかった。 「……そこは自分で洗える。」 「ま、ええから、ええから。気にしたらあかん♪」 【ま、良いから、良いから。気にしちゃだめよ♪】 彼女の手が、わたしの腕を、腹を、脚を、洗ってゆく。彼女は、わたしの身体を撫で回しながら、怪しく囁いた。 「ええかぁ~? ええのんかぁ~? 最高かぁ~?」 はっきり言って、今の彼女は、いわゆる『えろおやぢ』である。 何が彼女をこうしてしまったのだろうか。やはり不安定な精神状態のときに異性装をさせたのがまずかったのだろうか。 ということは、結局のところわたしの行動の結果、わたしがこのような状況に置かれているわけで、人間の言葉で言うところの『自業自得』、過去におけるわたしの行動の責任を現在のわたしが取っているわけで、そもそもなぜわたしはあの時、わざわざ『男装』を提案したのかを考えてみるに、彼女の属性と最もかけ離れた属性として男性を選んだからであって、しかし、彼女の麗しの男装姿を見てみたいと少しだけ思ったのもまた事実であり、ああ、もう何を考えているのか分からない。とりあえずこれだけは確実に言える。 「……きもちいい。」 彼女は、とても満足した顔をした。彼女の瞳が妖しく光る。 もう、どうにでもしてください。 ………… ……… …… … 最後に二人で一緒に湯船に浸かる。二人で入ってもさほど窮屈ではない湯船だが、今わたしは彼女に後ろから抱きかかえられ、密着している。 「有希の体って、胸はちっちゃいけど、めっちゃ抱き心地ええなぁ~」 【有希の体って、胸はちっちゃいけど、すっごく抱き心地良いわね~】 わたしの耳元で、彼女が囁く。結局、あれからわたしは、全身を隈なく蹂躙された。わたしが『ぐったり』するまで。 「……すけべ。」 振り返って、わたしは言った。 「そういう反応も、めちゃめちゃ可愛いなぁ~」 【そういう反応も、めちゃ可愛いなぁ~】 「…………」 わたしはそっぽを向いた。 「さっきは、その、思わず暴走してしもたけど……詳しく語ると18禁になるし……って、あたし17歳やな……詳しくは語らへんけど、有希と、こうしていちゃついてると、すごく気持ちが落ち着くわ。何ていうか、めっちゃ気持ちええねん。性的な意味だけやなくて、精神的な意味でも。」 【さっきは、その、思わず暴走してしまったけど……詳しく語ると18禁になるし……って、あたし17歳だったわね……詳しくは語らないけど、有希と、こうしていちゃついてると、すごく気持ちが落ち着くわ。何ていうか、すっごく気持ち良いのよ。性的な意味だけじゃなくて、精神的な意味でも。】 「性的な意味もあるの。」 「うっ、それは……気にしたら負けや♪」 【うっ、それは……気にしたら負けよ♪】 彼女はわたしの耳に息を吹きかけてきた。背筋がぞくぞくする。 「ぁはぁ……」 吐息と声が漏れる。 「んふふん? 耳弱いんや?」 【んふふん? 耳弱いんだ?】 彼女はわたしの耳を弄び始めた。またスイッチが入ってしまったのだろうか。 「……もう、上がる……のぼせそう。」 「むふー、残念。」 彼女はわたしの耳を甘噛みしながら言う。 わたし達は湯船から上がった。彼女の体が桜色に上気しているのは、入浴のせいだけではないのだろう。 風呂上り。わたしと彼女は二人して、『豆乳』を一気飲みする。彼女曰く、片方の手を腰に当てるのが作法なのだそう。もちろんそれは違うのだが、もはや何も言うまい。 二人、パジャマ姿で片方の手を腰に当て、豆乳を一気に飲み干す。 「ぷっはぁ~~~~!!」 彼女が情報源にすると思われる様々な情報を検索すると、この場合、一気に飲み干される飲み物としては『牛乳』が最も登場頻度が高かった。 「牛乳って、実はあんまり体に良ぉないんやって。えーと、何やったかな。燐が多いから、体からカルシウムが排泄されて、かえって骨粗鬆症になるとか、たんぱく質が体内に入り込んでアレルギー体質になるとか、そもそも哺乳類が離乳してからも乳を飲むことは本来不都合やとか……あ、そうそう、乳糖を分解できひんから、お腹壊すんやって。」 【牛乳って、実はあんまり体に良くないんだって。えーと、何だったかな。燐が多いから、体からカルシウムが排泄されて、かえって骨粗鬆症になるとか、たんぱく質が体内に入り込んでアレルギー体質になるとか、そもそも哺乳類が離乳してからも乳を飲むことは本来不都合だとか……あ、そうそう、乳糖を分解できないから、お腹壊すんだって。】 そのような理由から、豆乳を飲むことにしたらしい。『健康ブーム』の影響で、飲むのはおからも含んだどろり濃厚な無調整豆乳。 わたしは彼女の死角で薬箱を構成した。 「では薬を塗る。そこに横になって。」 「はぁ~い。」 彼女は上半身裸になると、リビングのラグの上にうつ伏せになる。 「膿を持っている。膿を抜いておいた方が、治りが速い。」 「うっ……そうなん?」 【うっ……そうなの?】 「そう。」 背中であるため、彼女からは死角になるのを良いことに、わたしは処置を開始する。彼女への情報操作は許されていないが、要は『直接』彼女に操作しなければ良い。わたしは情報操作によって、人間が使用する『医療機器』を作り出した。 そう、『道具』を介在させることで、彼女への操作を可能にできる。今頃になって、そのことに思い至った。 ピンポイントレーザーで、ニキビの頭部に小さな穴を開ける。皮脂腺に挿入できるほど極細のピンセットで、奥にある細菌叢ごと、膿をつまみ出す。生理食塩水で、膿を取り去った跡と周囲を洗浄する。これにより、患部は本来の微生物分布に戻る。 (術式おわり。) 何となく声に出さずに呟いた。 「おわった。」 「あ、ありがと……何か、いろいろされたような気がするけど……何したん?」 【あ、ありがと……何か、いろいろされたような気がするけど……何したの?】 「適切な処置。」 「……そう。」 彼女は、服を着ながらぽつりと呟いた。 「今の有希、お医者さんみたいやったな……」 【今の有希、お医者さんみたいだったわね……】 『おいしゃさんごっこ』 なぜかこんな言葉がわたしの記憶領域に浮かんだ。この言葉にもやはり二つの意味があるらしい。 一つは、とてもほほえましい意味。もう一つは、どちらかというとこっちが主な用法に思えるが、性的な意味。 今日という日も残り少なくなった。そろそろ寝ることを提案しよう。 「そろそろ寝る時間。」 「あ、もうこんな時間なんや。さすがに疲れたかな、今日はちょっといろいろあったし。」 【あ、もうこんな時間なんだ。さすがに疲れたかな、今日はちょっといろいろあったし。】 彼女も同意する。わたしの瞳を見据えて。 「主に新発見方面で。ほんまイロイロ発見させられたわ。」 【主に新発見方面で。ほんとイロイロ発見させられたわ。】 わたしも彼女にいろいろされた。主に性的な意味で。わたしの中で涼宮ハルヒの呼称が変化したのも、今日のこと。 「布団を準備する。待ってて。」 「有~希~?」 彼女はにんまりと笑いながら、わたしが見ても先のことを考えて諦観に至りそうな顔で言った。 「あたしが、このまま布団を用意されて、はい、そうですか、って寝る人間やと思う~?」 【あたしが、このまま布団を用意されて、はい、そうですか、って寝る人間だと思う~?】 わたしは、彼女の性向を考慮したデータベースから、該当する状況を検索する……までもなかった。 「……思わない。」 「と~ぜんや♪ 女の子同士でお泊まり言(ゆ)うたら、同(おんな)じ布団で仲良く語り合うに決まっとぉやろ♪」 【と~ぜんよ♪ 女の子同士でお泊まりと言えば、同(おんな)じ布団で仲良く語り合うに決まってるじゃない♪】 なお、彼女の言う行為は決して平均的な人間の行動ではないが、もちろん彼女は平均的な人間ではない。 「有希の部屋って、どんな感じなんやろな? 意外に女の子らしい、可愛い部屋やったりして。」 【有希の部屋って、どんな感じなんだろ? 意外に女の子らしい、可愛い部屋だったりして。】 ……申し訳ない。わたしの部屋は、あなたの期待には到底応えられそうにない。 わたしの身辺は、結局のところ、あなたがわたしという個体を見て思い描く通りに設定されている。よって、今のわたしの部屋は、あなたが普段本を読むわたしを見て思い描いた通りの部屋だと思う。 なるほど、そういう意味ではあなたの期待に違わないのかもしれない。 しかし今のわたしに対するあなたの印象は随分変化したはず。わたしが変化させてしまったから。だから、現在のあなたが期待するものは、わたしの部屋にはないだろう。 でも、もしあなたが『こうあってほしい』と願うなら、わたしの身辺はあなたが願った通りに再構成される。 わたしはあなた色に染まる。あなた好みのわたしになる。もっとあなた色に、わたしを染めてしまってもいい。染められてしまいたいかもしれない。 ……ここまで一気に考えて、ようやくわたしは正気を取り戻す。 確かに今日のわたしは、どこかおかしいらしい。つい数時間前にそう呼ぶのをやめようと決意したばかりだが、さすがにこれは呼んでも良いと思う。大量のエラーが発生している。こんな微妙に回りくどい独白をしているなんて、まるで『彼』のよう。やれやれ。これも『彼』の口癖。 「……有希、それキョンのモノマネ? 妙に似てるっていうか、実感篭もっとぉで?」 【……有希、それキョンのモノマネ? 妙に似てるっていうか、実感篭もってるわよ?】 声に出していたらしい。独白の朗詠(ろうえい)もとい漏洩(ろうえい)は『彼』のいつもの行動。やれや……おっと。 ←Report.05|目次|Report.07→
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/3916.html
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/2939.html
おまけ NG集 ---- 「車まで運んだはいいが、後どうしよう?」 「……わたしが運転する」 「長門、運転できるのか」 「……理論はわかる」 理論って、長門なら学科試験は簡単に通るだろうが……。しょうがない、完璧を期する長門の力学的正確さに任せよう。 俺が助手席に座り、後ろの三人の膝の上に谷川氏を寝かせた。長門の、おそらく生涯初であろう車の運転をハラハラしながら見守った。 「……左右確認。アクセル、発進」 「うわあああ、長門そりゃバックだ!」 「……問題ない」 バックのまま高速走行する長門。 ---- 俺は目を疑った。あ……朝比奈さんが、「朝比奈さんが十一人いる!」 「長門、ちょっと状況を説明してくれ」 「……次元断層によって複数の分岐が同時に生まれた。複数の未来軸が発生」 なんてこった。 「つまり、調査に訪れた朝比奈さんが十一人いる結果に」古泉が肩をすくめた。 「キョン君」「困った」「ことに」「なっちゃい」「ましたぁ」 「お願いです、誰かひとり代表してしゃべってもらえませんか」 「代表なんていないわ!我は個別の十一人!」 みくるちゃん、それって別のアニメやろ。 「えへっ。ちょっと言ってみたかったんですぅ」 ---- 部室棟の階段を上がると、文芸部部室がやたら静かだ。ハルヒが新人勧誘をおっぱじめるわけはないよな。 ドアを開けるなり「……!」と聞きなれた無言がエコーして聞こえた。 なんだこのスタジオの壁並みの吸音効果は。 俺は目を疑った。な……長門が、「長門が十一人いる!」 「長門、ちょっと状況を説明してくれ」 「……今のは、量子飛躍」 それがやりたかっただけか。 ---- 「ねえキョン、見て見て。神人がハレ晴レユカイ踊るわよ。しかもスペシャルバージョンよ!」 「なにやってんだお前」 「これは貴重な映像ですね」 「って古泉、ビデオカメラ回してるんじゃない」 「……閉鎖空間、絶賛拡大中」 長門ピース。 ---- 「そっちのわたしはえらく無口なのだな。もっと意思表示したほうがいいぞ」 「……あなたこそ、まだメガネをかけているの」 あたりに暗雲が立ち込めそうなくらい緊張した空気が漂ってきた。怒ったαの顔が紅潮した。 「こ、これはファッションなのだ!レノマだぞレノマ!」 「……プッ。わたしにメガネ属性はない」 「メガネ属性って何だ、教えろ」 「……教えないもん」 ぷいと横を向く長門。 ---- 「なぎ払え!」 ── うぼああぁ 「どうしたのよ!それでも世界を焼き尽くした神人なの!?」 ── うぼ……うぼぉぁ? 「ちょっと古泉君、なんとかして」 「別のアニメと間違えてないかって言ってますが」 「チッ、腐ってやがる」 (保守で貼ったやつ) ---- 「……谷川、話がある」 「何か用かな有希ちゃん」 「……わたしを主役に匹敵する活躍をさせないと、あなたを情報連結解除する」 「だ、誰か助けて、朝倉さん!」 「さあてね。わたしをヒロインにしてくれたら助けてもいいと思うのね」 「なにをおっしゃいますか。主役の座はわたくししかいませんわ」 「次回、主役の座を巡ってTFEIの全面戦争、お見逃しなく」 「ねえよ」 ---- 「谷川、ジョンスミスって実はあんたでしょ?」 「え……なんでそんなことに」 「やっぱりね。隠さなくてもいいのに、うふふっ」 「だ、だめだよハルにゃん。僕は今年38歳なんだから」 「いいのよ、あたしは中年が好みだから」 なにこのフラグ。 ---- 「えーっとタバコタバコ、っと。あれ、マッチどこやったっけか」 「谷川さん僕の力でよろしければどうぞ」 「ああ、ありがと」 ボン! 「……」 「す、すいません。火力の加減を間違えました」 ぷすぷす。 ---- 「……たぁかぁさぁごぉやぁ、このうらぶねにぃほぉあげて~」 「……」 「……ま~いおりた、あいわずすのぅ~」 ---- 「そこで浮かんでるの古泉君なの?」 「実は僕はラマ僧でして、空中浮遊ができるんです」 宙に浮いていた古泉がマヌケ面をして降りてきた。これは困ったことになった。どう説明したらいいのか。長門もフォローのしようがないという顔をしていた。 「ラマ僧って頭剃ってるんじゃなかったかしら」 「そのとおりです、ほら」 ってお前、ヅラだったのかよ! ----
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/4905.html
二 章 Illustration どこここ 「……起きて」 長門の声で目が覚めた。 「おう、おはよう」 俺はこめかみを抑えた。自分の声が頭にガンガン響く。長門が二日酔い用の薬と水を持ってきてくれた。 「すまんな……」 俺は頭をかきむしりながら起き上がり顔を洗いにシンクに向かった。リビングの壁にかかった自分のスーツを見て、言うべきことを思い出した。 「長門、昨日はすまん。俺どうやってここまで来たんだ?まったく覚えてないんだが」 「……午前一時に、電話があった」 「それで俺、なにか言ってた?」 「……意味消失していたが、昔好意を抱いていた女性の話」 ま、まじか。そんなたわけ話をしたのか俺は。 「そ、それから?」 「……会話の途中で意識を失った。わたしが迎えに行った」 長門に抱えられてここまで来たのか。マンションの七階まで。なんて野郎だ。 「あの、俺、なんか変なこといたしました?」 妙に壊れた敬語だが、聞くのも怖い。 「……なにも。そのまま眠った」 よかった。長門の表情をもう一度探ってみたが、どうやら本当のようだ。 「あのさ、俺が酔って変なことしようとしたらブン殴ってくれ。気絶させてもいいから」 「……分かった」 まじめにうなずいた長門はちょっと怖かった。北高の教室で朝倉と戦ったとき長門に蹴飛ばされた、あの脚力を思い出した。しばらく酒は飲まないことにしよう。 顔を洗って鏡を見るが、ふつーのいつもの俺だった。顔色は悪いが。 「あの、長門?」 「……なに」 「このペアのパジャマいつ買ったんだ?」 「……むかし」 長門はそれしか答えず、少しだけ微笑した。かなり前ってことは確かだな。 「シャワー借りていいか」 「……いい。バスタオルを用意しておく」 熱めのお湯を頭からかぶった。これで酒が抜けてくれると助かるんだが、昨日いったいどれだけ飲んだんだ。 浴室の壁にもたれてシャワーの熱をむさぼっていると、少しずつ脳が目覚めた。泡が体を伝って排水口に流れていく。この浴室も、使うのは実は今日が初めてだったりする。 ── ここが、 昨日、鏡の中の野郎が言ったことのそこから先が思い出せない。浴室を出ると棚にバスタオルが置いてあった。その横にカミソリとヒゲ剃り用の泡があった。泡を搾り出して顔に塗った。 なにか分からない、微妙な違和感があった。鏡を見ながら思った。これがいつもの自宅の鏡ならなんでもなかっただろう。横で妹がドライヤをかけていたり足元をシャミセンがうろついて踏んづけそうになったり。だがここは長門の家なのだ。俺は戸惑っていた。神聖にして不可侵な長門空間でヒゲなんか剃っている、ということに。 「あ、痛て」カミソリが横滑りしちまった。 「さっぱりした。ありがとよ」 キッチンをのぞくと、あろうことか長門が……あろうことか長門が……割烹着を着て朝飯を作っていた。その格好はいったいなんなんだと言おうとしたが、振り向いた長門があまりに似合っていたのでドキリとした。こんな朝っぱらからときめいたりして俺も若いよな。 「その割烹着、に、似合うと思うけど」 「……ありがとう」 手ぬぐいを姉さんかぶりにして、おばあちゃんがやるような格好で味噌汁の味を見ている。 「……味、見て」 小皿にダシを注いだ。俺は受け取ってすすった。 「うん。いいんじゃないか?」 俺の推測だが、長門は俺の好みをずっと研究しているようだ。味噌汁の分子構成がどうなっているかは知らないが、長門の作る有機物およびミネラルの化学的配合比は完璧に近い。 それにしても楽しそうだな。ミリ単位で違わぬ長さで刻まれるネギの音がどことなくリズミカルなのは気のせいではあるまい。 「……うん、楽しい」 あうっ、いかん。振り向いた長門の表情にまた萌えた。 味噌汁と卵焼き、焼き魚の純日本の健康的な朝飯が整った。俺と長門は正座して慎ましやかに食卓を囲んだ。長門は茶碗に山のように丸くご飯をよそって俺にくれた。 「……食べて」 「いただきます」 二人は手を合わせていただきますを言った。まずは、青ネギがたっぷり浮かんだ甘味のある白味噌の味噌汁。 「味噌汁がうまいな」 「……そう」 二日酔いの朝には味噌汁がいい。長門はご飯の山を切り崩しながらもくもくと食った。テーブルには箸立てと醤油挿しが並び、窓から射してくる朝日が、二人のお碗からゆっくりと立ち上る湯気を照らしていた。こうして長門と朝の食卓を囲んでいると、ここがまるで──。 「……どうしたの」 「い、いや、なんでもない」 ここがまるで、俺の居るべき場所のようじゃないか。 たいして汚れてないんでいちいち着替えに帰ることもなかろうと、俺は昨日のシャツのまま出社した。昨日電話しそこなったので今朝になって自宅に連絡を入れておいた。飲み会だったんで友達んちに泊まったとごまかしたのだが、妹が邪推して女の人んちでしょ~と歌うようにからかって俺はしどろもどろに否定してしまった。 マンションを出て長門と並んで歩いた。こうやって隣に長門がいるのはいつもならデートなのだが、今日は同伴出勤だ。電車は通勤客でごった返していた。ひとり分空いている席に長門を座らせた。 「……ありがとう」 「いいって。今日は大学はいいのか」 「……学会発表が終わったから、しばらくはいい」 かけもちでご苦労だな。そのうち海外出張とかもあるんだろうけど、博士論文が終わるまではできるだけ支援してやらないとな。 事務所があるビルに入るとき、長門と二人で出社しているところを誰かに見られないかと気になった。別にやましいところがあるわけじゃないんだが、「俺たち同伴です」みたいなところを見咎められたくないような。 長門と付き合い始めた頃にこそこそ隠れたりしてハルヒに怒られたことがあったんだが、かといって堂々と今そこで会いました的な偶然を装って入るのもどうかと。そんな俺の気持ちを察してかどうか、長門は、 「……先に行って」 「分かった」 ああ、内心ほっとしている自分が情けない。 「おっはよ」 「おう。おはよう」 この社長はいつもニワトリ並みに出社が早い。俺が遅刻すると全員にお茶をおごる規則だけはここ八年間変わることがない。後から長門が入ってきた。 「……出社した」 「おっはよ有希、ちょっと待ちなさい二人とも」 「……」 「あんたたち、今日はなんか変ね」 「な、なにがだ」 ハルヒは鼻先をくんくんと俺の顔やらスーツやらに近づけた。 「あんた昨日家に帰ってないでしょ」 な、なんで分かったんすか。 「しかも、シャワー浴びて朝ご飯まで食べてきたわね。そうでしょ、有希」 その鼻は警察犬から移植でもしたんですか。俺と長門は顔を真っ赤にして目をそらした。ハルヒはケラケラと笑った。 「ふーん。お熱いことねぇ」 「い、いや。昨日は酔っててだな。目が覚めたら長門んちにいたんだ」 「ふーん」 「眠ってたから何もなかったんだから」 「あんたなに慌ててんのよ。あたし何も言ってないでしょ。キヒヒヒ」 ううっ。これをネタにしばらくおもちゃにされそうだ。 「あんたたち、いっそのこと一緒に住んじゃえばいいのに」 「お前ったら突然なにを言い出すんですか」 俺は動転している。限りなく動転している。 「家も職場も近いし簡単じゃないの。同棲よ同棲」 「いきなりそう言われてもな」 考えたこともなかったが俺ってウブなのか。俺は長門を見た。長門の表情は、なにかを期待しているような、でもあからさまには言い出したくないような、微妙なところだった。 俺は「それもいいかもしれんな。考えとこう」などと、適当にお茶を濁すような返事をした。たまに泊まってるうちに荷物が少しずつ増えて、なし崩し的に一緒に住んでたりしそうだな。自然発生的でいいかもしれん、なんて甘いことを考えているとハルヒに釘をさされた。 「ただし、ちゃんと相手のご両親に挨拶に行くのよ。隠れてこそこそやっちゃだめよ」 「わ、分かった」 すべてお見通しだった。 古泉と昼飯を食った。 「ハルヒが俺に同棲しろと言うんだが」 「ええっ、あなたと涼宮さんがですか!?」 「俺と長門がだよ」 「考えたらそうですね。失敬しました」 古泉、自分の立場が分かってないだろ。 「まさかないとは思うが、お前同棲した経験は、」 「残念ながら僕にはありませんね」俺が最後まで言い終えないうちに言葉を継いだ。 「じゃあその、未経験ながらどう思う?」 「よろしいんじゃないですか、二人とも大人ですし。自分のすることに責任は取れるはずです」 最近じゃ、ちゃんと責任が取れる大人がどれだけいるかあやしいもんだがな。 「予行演習と思えばいいでしょう」 「な、何の予行演習だ?」 古泉の発した次の言葉が、古代中国宮廷の銅鑼ような音色で俺の脳内に響き渡った。 「結婚ですよ。そのご予定なんでしょう?」 ううっ。考えてもみなかったと言えば嘘になる。ちゃんと計画的に検討していたと言えばそれも嘘になる。いつかはちゃんと考えるつもりだったと言うともっと嘘になる。 俺はいつだって曖昧なのだ。周りが動いているうちはなんとかなると思っている。試験までの残りの日々を数えつつ、まだ大丈夫、まだ大丈夫だと自分を安心させて過ごす。可能な限りのモラトリアムな日々、それが俺の人生だった。 「もうそろそろ考えてもいい時期ですよ。あなたがたは」 ゲームが下手なはずの古泉に、少しずつ攻め込まれて俺は逃げ場を失った。俺は味方だと思っていたチェスの駒が寝返って全部敵になっちまったような気分だった。ポーン一同がこっちを見てニタニタ笑いを繰り広げている。頼みのクイーンもすでにいない。もしかしたら人生のツケがすべて今になって襲ってきているんじゃないだろうか。 「それともあなたは、長門さんがいつまでも待ちつづけるとお思いですか?」 古泉のチェックメイトが、槍のごとく胸に刺さった。 古泉と食った昼飯はまったく味がしなかった。ろくに噛まずにコーヒーで流し込み、打ち合わせがあるからと古泉に千円札を渡して先に戻った。事務所に戻ったが長門ともハルヒとも目を合わせられなかった。俺はなんでもないぞと自分を落ち着かせようと新聞を開いたのだが、そこに印刷された活字がすべて“結婚”に見えて目をしばたいた。めまいがして新聞をゴミ箱に放り込みトイレに駆け込んだ。 顔をザブザブと洗ってペーパータオルを何枚も取り出し、顔を拭いて丸めてゴミ箱に投げ込んだ。鏡に映った自分を見ながらほっぺたをペシペシ叩いた。落ち着け俺。どうってことはない、不用意に長門の部屋に泊まったりしたから動揺してるんだ。そうだ、アレルギーみたいなもんだ、すぐ治まる。 俺は何度も深呼吸して、それだけじゃ足りないかもしれないので風がそよ吹く緑の草原を想像した。それから鏡を見て営業スマイルを作り、ガッツポーズを取った。よし、俺はやれる。なにをだ。 部屋に戻って自分の椅子に座り、開発部に内線を入れてスケジュールの調整を話し合った。なんだぜんぜん平気じゃないか。俺は克服したぞ。俺はメモを渡そうと、受話器を耳と肩に挟んだまま長門のほうを振り向いた。長門の額には大きく結婚の二文字が書かれていた。驚愕に襲われて目をこすったがなにもなく俺は受話器を取り落とした。こいつはいかん、プレッシャーで目がおかしくなっちまってる。 「ちょ、ちょっと下に行ってくるわ」 俺はダッシュで逃げ出した。とくに用事はないのだがほかに逃げ込めるところがなかった。内線で話したのと同じ内容を繰り返すので部長氏は怪訝な顔をしていたが。俺は正直に、ちょっとだけここにいさせてくれと頼み込んだ。 「上で揉めごとでもあったのかい?」 「そういうわけでもないんですが。一時的にちょっと居づらくなってしまいまして」 「はっはは。よくあることさ。好きなだけいていいよ」 「ありがとうございます」 俺はうやうやしく頭を下げた。 「キミもケッコン苦労してるんだね」 「え、今なんと?」 「だから、キミも結構苦労してるんだろう。あの社長のそばにいるのは神経が磨り減りそうだからね」 俺はとうとう耳までどうかしちまったようだ。 「副社長もよく我慢してるね。あんなのと付き合ってたら嫁に行きそびれてしまうだろうに」 くそっここにも伏兵がいたのか。味方が全滅して命からがら逃げのびてたどり着いたところが敵の本拠地だった。誰か助けてくれ。 行く場所も逃げる場所もなく俺はまた自分の机に戻り頭を抱えた。軽くノイローゼになっちまってる。 「キョン、あんたどうかしたの?」 「い、いやなんでもない」 「さっきから挙動がおかしいわよ。熱でもあるんじゃないの」 ハルヒは俺の額に触れようとした。 「俺に触るな」俺はその手を振り払った。 「なに怒ってんのよ、熱を見ようとしただけじゃないの」 ハルヒにぐいと耳を引っ張られた。いかん。完全にどうかしちまってる。 「すまん……ちょっと頭痛がするんで今日は早退するわ」 「具合悪いんだったらちゃんと病院行きなさいよね。最近は若年の脳溢血が多いんだから」 縁起でもないこと言わないでくれ。俺はカバンをひったくって逃げるようにして部屋を出た。 病院には行かず家にも戻らず、俺は電車で終点まで行き映画館で昼寝をしていた。何の映画をやっていたのかすら覚えていない。 最終上映が終わり、掃除に来た従業員に起こされて俺は映画館を出た。時計を見ると七時を回っていた。ふらふらとどこに行くでもなく、腹が減ったのでファーストフード店に入った。四時間は眠ったはずなのになぜかすっきりしないこの目覚め。味気ないハンバーガーをかじりながら俺はぼんやりと窓の外を見ていた。 「あれ、もしかしてキョンじゃないか!?」 後ろから声をかけられビクッとした。こんなところでこんな気分のときに知り合いに遭遇するなんて。振り返ると、ガタイのいい見るからに体育会系のアルマーニスーツ野郎が立っていた。 「ええと、思い出せないんだが。誰だっけ」 「忘れたのか。俺だよ俺」 そいつは地面に膝をついて、右手を脇に抱え、今しもスタートダッシュを切ろうかという格好をしてみせた。 「相撲取りに知り合いはいないが」 「ちがうだろ、アメフトだアメフト」 「ああ、思い出した。中河か」 こいつを忘れることがあろうか。長門にひとめ惚れし、緻密なる人生設計を提出した末、十年後に迎えに行くから待っていてくれと愛を謡ったやつだ。その恥ずかしい恋文を長門の前で読み上げてハルヒに締め上げられたのは俺だったが。 「その節はいろいろとすまんかったな」 中河は体格に似合わず顔を赤く染めた。 「いやまあ、あのときは俺たちも楽しんだ」 「そりゃそうだ。あんなケッタイな手紙は大爆笑モンだ」 中河は大声で笑った。自分の恥ずかしい歴史をすっきり爽快笑い飛ばせるなんて清々しくなったな。思い出して二人で笑った。 「暇なら飲みに行かないか」 「これからか」 「もちろんだ。俺のおごりだ」 おごりってことなら行く。今日はいろいろと忘れたいこともあるんでな。 こいつの通いの店らしい、地下街にあるひなびた居酒屋に入った。 「キョン、あれからどうしてたんだ」 「いちおう会社勤めだ」悲しいことに、ハルヒが社長のな。 「どんなことやってんだ」 「ええと一言で説明するのは難しいんだが、ソフトウェアの開発とかやってる」 「ほう、ってことは同業者か」 中河はポケットから名刺入れを取り出した。俺はうやうやしく受け取った。この両手で小さな紙片をやり取りする日本の習慣が俺には未だに不可思議だ。 「なんと、中河が代表取締役かよ」 「ああ。もう四年になるかな」 「四年ってことは大学には行かなかったのか」 「行ったさ。学生のときに起業したんだ」 すごいな。俺たちがワイワイ遊んでた頃すでに社長だったんだな。 「中河テクノロジーって、そういえばこの会社の名前最近よく聞くな」 雑誌でもよく見る大手グループの傘下だ。 「まあ業界では上昇気流に乗ってるからな。こないだ二部上場した」 こいつの言ってた十年間の人生ロードマップよりすごいじゃないか。軽く五年くらい前倒しだぞ。 「いい人材に恵まれただけさ。俺自身は開発には深く関わらない。いちおう情報工学出だが」 「あのとき言ってた経済学部じゃなかったのな」 「経営者がプロダクツの中身を知らないでどうする」 中河は笑った。そこへ行くと俺は自分がなにを売ってるのかさえ、いまいち理解してない。 「お前んとこはどんなシステム作ってるんだ?」 俺は返答に詰まった。 「ええと、俺はあんまり詳しくないんだが。人工知能を使った他のシステムの統合管理というか」 「ほう。面白いことやってんだな。今度見せてくれ」 「ああ。そういう話は俺より長門のほうが詳しいと思う」 口元まで動いていた中河のグラスがそこでピタリと止まった。その名前を耳にして中河の口元が緩んだ。 「長門有希さんも同じ職場なのか」 「ああ。あの頃つるんでたメンバーはみんないるさ」 「そうか。元気にしているのか、長門さんは」 「相変わらずだ。あのままだな」 俺から見ればだいぶ変わったところもあるが。 それから中学時代の話に戻り、佐々木の一件やらもネタになった後、俺と中河は店を出た。 「いい職場にいるみたいだな、お前」 「そうか?」 「その会社、大事にしろよ。好きなことが自由にやれるってのはシアワセなんだからな」 「ああ」俺はそれなりに苦労してる気もするんだが。 「そのうち挨拶にでも寄るわ。人工知能の構造も見てみたいしな」 「分かった。来るときは電話をくれ」 中河は手を振って夜の町に消えた。その背中が俺なんかよりずっと貫禄があるように見えた。 翌朝、昨日に引き続き頭痛がするからとハルヒに電話して午後出社にしてもらったが、まさか昨日飲んでたなんてことがバレたりしてないだろうな。 昼になってもまだぼんやりとした頭をシャワーでなんとかごまかして、重い体を引きずり電車で出社した。駅前は昼飯を食いに出てくるビジネス街の社員でごった返していた。みんなと同じ時間に出社しないなんてなんとなく後ろめたい気分だ。 いつもより重たく感じる我が社のドアを開けると社長椅子が空いていた。珍しく客が来ているらしくパーテーションの応接室から声がする。 「キョン、ちょっと来なさい。あんたにお客様よ」 「誰だ?」 「おう、キョン」 中河が突然現れた。来るなら電話しろつったのに。 「遅いわよ、あんたを訪ねて見えたのに」 「具合が悪くてな」 昨日一緒に飲んでただろ、という感じで中河はニヤリと笑った。 「ええと、ハルヒ、中河のことは覚えてるよな。アメフトの」 「もっちろんよ。あんたが来るまであのときの話で盛り上がったわ」 中河は体格に似合わず照れた表情をしてわははと笑った。 俺は長門を呼んで引き合わせた。中河は長門の手を取って両手で握った。 「ご無沙汰しております。その節はいろいろとご迷惑をおかけしました」 「……」 かつて惚れられた、というか勝手に熱を上げて勝手に冷めてしまいサヨナラを告げられた相手に、長門もどう応じたものか迷っているようだった。 「羽振りいいんだってね、中河さんのところ」 「ハルヒ、中河の会社知ってるのか」 「当然じゃない。テレビでインタビューに出てるの見たわ」 「いえまあ、仕事内容より名前だけが先走りしてましてね」 中河は体を揺すってはっはっはと笑った。よく笑うやつだな。 ハルヒと中河は同じ経営者同士で話が合うらしく、業界の裏話やらこれから流行るかもしれない技術ネタなんかで盛り上がっていた。ハルヒがIT業界ネタについていけてるとはちょっと意外だったがそれなりに勉強はしているらしい。少なくとも俺よりはな。 「聞けば人工知能を開発されているとか。ぜひ拝見したいものです」 「もっちろんいいわ。キョン、中河さんにうちの開発部を見せてあげて」 「俺は構わんが、部外者に見せていいのか長門」 「……問題ない」 まあうちの商品は簡単にはまねできないようなもんばかりだし、長門の設計をパクれるようなやつはそうそういないだろう。俺は中河を連れて三階の開発部の部屋を案内した。 開発部のドアを開けるとあいかわらず阿片窟のようなありさまで、部長氏に来客を告げるとあわてて雑誌やらパソコンのパーツやら袋菓子やらをロッカーの棚に放り込んでいた。リサーチと称して他社のゲームをやっていた部員はあわててモニタの電源を切った。 「ちょっとあんたたち!昨日までちゃんとかたづいてたのになによこれは」 いや少なくとも二週間はこの状態だと思うぞ。散らかった息子の部屋をかたづけるおふくろのように、ハルヒがイライラとゴミなのか備品なのかわからんクズを段ボール箱にかき集めた。 「部長氏、こっちは中河テクノロジーの中河社長だ。俺の中学のときの同級生だが」 「は、はじめまして。部屋がカオス状態でして恐縮ですが」 「はっはは、弊社も似たようなものです。特にモノが生まれる現場では」 部長氏はウエットティッシュで丁寧に手を拭いてから中河の手を握って振った。 「部長氏、例の人工知能のデモ見せてもらえる?」 「ちょうどいい、次のバージョンをテストしているところだよ」 三十インチはありそうなでかいディスプレイの隅っこに3Dのフィギュアみたいなアシスタントが現れた。メイド服を着て丸いメガネをかけている。 『こ、こんにちわ。あの~、なんなんですか皆さん、その方はいったい誰なんですかぁ、どうしてわたしはメイド服なんですかぁ?』 知ってる誰かに、しかも若い頃にすごく似てる気がするんだが。これ、本人の許可取ってんのか。 部長氏がマイクに向かって話しかけた。 「みちるちゃん、今日の予定教えてもらえる?」 『あ、ちょっと待っててくださいね。ええっと、メモどこやったのかな……んと、んと』 秘書としてはあんまり技能的に秀でてないっていうか、モノ忘れが激しそうっていうか、時間が過ぎてから予定を告げられそうっていうか、これじゃ仕事が進まんだろうけどそれはそれで萌えどころか。 『あ、あった。ありました。ええとですね、今日のスケジュールは、十二時からわたしとお昼ご飯です。ほ、ほんとにわたしなんかでよかったんですかぁ、受付の女の子とかのほうがよかったんじゃ』 飯を食うだけがスケジュールなんてどこの天下りだよ、と苦笑しつつ中河を見ると凝視するほど画面に見入っていた。 ピロリンと音がして画面にメールのアイコンがポップアップした。 『わぁ、誰かからメールが来ましたよ、うふっ』 「みちるちゃん、メール読んでもらえる?」 『えっと、タイトルはですねぇ“十六才の女の子です、お友達になってください”。わあ、女の子からお手紙ですよぅ。きっと学校でお友達ができなくて部長さんにお友達になってほしいんですね。本文はぁ、“夜ひとりでベットでいるのが寂しいの”……こ、これ以上は禁則事項ですっ』 真っ赤になっているミニ朝比奈さん、それは仕事のメールじゃなくて世に言うスパムってやつですよ。 『好青年の部長さんをかどわかすなんてさせさまさせん!わたしが守ってみせまーす。み、み、ミチルビーム』 いつぞやの朝比奈ミクルの変身のテーマがパパララーパパパーと流れ始め、メールのアイコンを目から飛び出すビームで勢いよく燃やした。メイドにしては嫉妬心が強いっていうか怒らせるとファイルを壊されそうで怖いっていうか、どうでもいいくらいに凝った演出の上にセリフを噛んでいるところまで忠実に再現されているようなのだが、いったいどういう技術を使ってるのか実に気になる。 ニヤニヤ笑いの部長氏はCCDカメラのレンズを塞いで中河にメモを渡した。 「中河さん、ちょっとこの番号に電話をかけていただいていいですか」 「え、はいはい」 中河が携帯に耳を当てていると画面の中の電話が鳴ってミニ朝比奈さんが飛び上がった。これ、電話回線と直接対話できるのか。 『キャ、あ、電話だ、どうしましょう』 とりあえず受話器を取ればいいんじゃ、ってダイヤル式黒電話ですか、レトロ趣味にもほどがありませんかそれ。 『あ、あの、もしもし……SOS団開発部です』 デスクトップにペタン座りをして、消え入りそうな声のミニ朝比奈さんが受話器を重そうにしながら耳に当てた。 「中河と申しますが部長さんはいらっしゃいますか」 『あ、あのですね、部長さんは今ご不在で、たぶんそのへんにいらっしゃると思うんですが……もしかしたら机の下でお昼寝中かも』 「じゃあ伝言をお願いしてよろしいですか」 『伝言ですかぁ、伝言なら得意ですっ』 「ではいきますよ、坊主が屏風に上手に坊主の絵を描いた」 『ま、待ってください、ええっと坊主がジョーズの映画を見に行った、と』 どんな生臭坊主だよと突っ込まれそうなくらいにいい伝言ゲームになってるな。 「それから、カエルぴょこぴょこみぴょこぴょこ、」 『か、カエルは苦手なんですっ、ヒヨコとかにしてもらえませんかぁ』 中河、あんまり朝比奈さんAIをいじめるな。 「部長さん、これはどうやって動いているのでしょうか?」 「実は僕たちにもよく分かっていないんですが、正確には自律思考型業務支援仮想人格クラスタと言いまして、副社長の設計によるものです」 部長氏は外様向けの仕様書を中河に見せた。ページをめくる中河の手がプルプル震えている。 「これは今までに例のない次世代のプログラム技術ですね。一社独占で国際特許ものだ」 そんなにすごいシステムだったのかこれは。 「すばらしい、ぜひうちにも導入したい。グループ全社にも紹介したい」 ちゃんと仕様を読んだかオイ、こんな秘書システムでいいのか。じっと食い入るようにモニタを見つめる中河の両目にピンク色のゴシック体太字で“萌”の字が写っていた。やれやれ、こいつも同族だったのか。 「今すぐ仮見積もりを出すわ。まいどありぃ」 ハルヒはニヤリと笑って部長氏の肩を叩いた。やれやれ、ミニ朝比奈さんでお得意様一名確保か。中河ならミニ長門のほうがよかったんじゃないのか。 人工知能と簡単に言ってもいろいろあって、全部が全部、ロボット型の男の子がフェアリーテールを探して旅をしたり、人類を発電所の電池代わりにしてしまったりするというもんでもない。最近よく知られてるのが映像から人の顔を識別する画像認識プログラムで、カメラの映像からその人の顔かたちと一致するかを判断する門番の役をしていたりする。カメラに向かって写真を見せられたら本物と区別できないっていう間抜けな門番だが。ほかにも、身近なところでは大手通販サイトなんかでよく“この商品を買った人はこんなモノまで買っています”なんていう、ただ売りつけたいだけじゃないのかと疑わしくなるような商品列挙をしてくるサービスがあるが、データマイニングという一種の人工知能らしい。カーナビに向かってしゃべるとちゃんと反応して道案内してくれるのも、一応は人工知能だ。 この長門が作った人工知能はカメラからの映像やマイクの音なんかのデータを拾うのは同じだが、ごちゃごちゃしたまわりのデータからテーマを決めて意味のあるものに組み立ててから理解するという今までにはなかった造りをしていて、そこが売りなんだとか。作ったというよりは育てたというか、元はウィルスなんだがね。 中河はこの朝比奈さん、じゃなくて人工知能がいたく気に入ったらしく、俺にはよく分からない専門用語を駆使して長門に質問を浴びせていた。 「バックで動いているDBですが、どういう構造なんでしょうか」 「……人の記憶プロセスを模倣し、複数の時間軸を含めた多次元構造を擬似的にリレーショナルに格納している」 「ということはあのキャラクタは黙っていてもデータを蓄積しているということですか」 「……そう。自らの思考プロセスを含めてすべて記憶している。データ加工の工程もまたデータになる」 「主時間は今までの人工知能にはない概念ですね。しかし主時間を二十四時間記録し続けると膨大な量になりませんか」 「……四六時中というわけではない。業務時間以外にはもっぱら過去データの分析と再構築が行われている。通俗的な用語を用いるなら、昼寝」 長門が、画面上でミニ朝比奈さんがうたた寝しているところを再現してくれて、そのあまりのかわいさに野郎三人共にハァとため息をついた。 突発的なデモが終わりハルヒは中河を連れて開発室を出た。部長氏は突然の来客に緊張していたらしく大きな脱力系ため息とともにソファにぶっ倒れてそのままぐうぐうと眠った。 「涼宮さん、これまでの導入実績の件数はどれくらいですか」 「そうね、まだ両手と両足に余るくらいかしら。なんせ人が足りないからね。この先二年は予約でいっぱいよ」 「そうだったんですか、今日中に仮契約をお願いできませんか。必要なら手付けの小切手を切りますが」 「あら気前がいいわね。いいわ、キョンの知り合いってよしみで最優先でやってあげる」 「おいおい中河大丈夫か。コンビニで買い物するのとはわけが違うんだぞ」 「なに言ってんだキョン、こんな業界をひっくりかえすような製品を手に入れられるチャンスはそうそうないぞ。社長決済で役員を説得してみせる」 八桁の買い物を事後承諾でぺろりと決済できるとは、お前のところはワンマン社長っぽいな。まあうちは売る立場だし、まったく構わんのだが。 「今後の事業展開はどのようにお考えですか」 「そうねえ。信頼できる会社に技術供与をして、代理店契約してもいいかもね。この秘書はまだ特許申請中だけど、ライセンスは高いわよ」ハルヒはニヤリと笑った。 「その折には、代理店第一号をぜひうちにご指名ください」 「いいわ。うちはまだ新参だから流通が狭いしね」 中河の目がキラリと光った。驚くべきことをサラリと言った。 「涼宮さん、よろしければうちの傘下になって流通を使いませんか」 アタックオブ中河 Episode_00とでもタイトルを振ってやろうかという勢いで、突如襲来ではじまったソフトウェア販売契約の話が、妙に利害が一致するらしい社長同士の会話の流れで会社の買収にまで発展してしまった。ハルヒときたら野心丸出しで、相手が上場企業なもんだから世界にSOS団の名前を知らしめる絶好のチャンスだなどとのたまっている。 「俺は反対だ」 「あんたが反対しても鶴ちゃんが決めることでしょ。とはいっても、この会社はあたしに一任されてるわけだし、あたしの一存ってことになるわねぇ」 「そりゃそうだが、俺たちは会社を売るために作ったわけじゃないだろう。モノ作りのためだろ」 「別に会社を売るわけじゃないわよ。先方の持ってる顧客とマンパワーを使わせてもらうだけよ」 「それだけじゃないだろ、傘下になりゃ財政も経営方針も握られてしまうぞ。そうやって提携の泥沼にハマって会社を乗っ取られたりするんじゃないのか」 「これが業界ってもんでしょ、あんたは杞憂しすぎよ」 「俺はずっとこの五人で地味にやっていければと思ってたんだが」 「この会社を作るとき最初に言ったわよね。生き馬の目を抜くスピードの今の時代じゃ、ベンチャーしかないって。会社経営ってのは生モノなのよ。いつまでも同じところにしがみついていたら流れに乗り損なってしまうわ。買収なんて会社が成長していくための小さな流れのひとつよ」 まあ言ってることは分かるんだが、それにはちゃんとした方針っていうか目標っていうか経営の方向性があってのことでだな、行き当たりばったりで好きなことをやってる俺たちが言えることじゃないと思うんだが。 「買収ってことは株主が変わるってことだ。つまり今の取締役会は解散ってことだろ、お前は俺たちをクビにしたいのか」 「あたしはクビにはならないわよ。あんたならまあ、部長にでも採用してあげるけど」 「俺は職が欲しくて言ってるわけじゃないんだがな」 「あんたがそこまで言うなら、いいわ。ストックオプション付けてあげる」 「金の問題じゃねえよ!」 俺はハルヒの机をドンと叩いた。ハルヒが言っているのは、中河の会社の株を安く買える権利をくれるってことなのだが、俺はそんな数年分の年収を越すほどの金が欲しいわけじゃない。……いや、欲しいな。 翌日、ハルヒと長門は会社にいなかった。表向きは業務支援ソフトの営業だと言っていたが、たぶん買収の打診に行ったのだろう。企業買収ってのは資本の横槍が入ったり株価に影響したりするんで、極秘裏に進めるのがセオリーらしい。 「あいつらがいないとやけに静かだな」 「そうですね」 「古泉、お前はどう思ってるんだ」 「どうと申しますと」 「中河の買収話だよ」 「ああ、あれですか。よろしいんじゃありませんか」 「聞くだけ無駄だった。お前はいつでもハルヒの味方だからな」 「なにも贔屓目で賛成しているわけではありませんよ。少なくともここは涼宮さんが作った会社ですから、自分が不利になるような買収は受け入れないはずです。ということはSOS団のメンバーにとって不利益になるようなことは起こらない、と考えるべきでしょう」 「そんな悠長なこと言ってていいのかよ。株式会社ってのは資本を掴まれたらおしまいだぞ」 「今回の買収がどういう待遇で行われるのか、それにもよると思います。独立した事業部として編入されるのか、あるいは別の子会社として存在できるのか」 「跡形も残らないくらいに組織に吸収されたらどうするんだ」 「まあ、どうなるか今後の展開を見てみましょう」 機関という本業が別にあるからか、こいつはSOS団の行く末に少し能天気すぎる。グループ内に入ってしまえば子会社やら事業部なんてどうにでも再編されちまうんだが。 前にも話したかもしれないが、うちは簡単に株式を売ることはできない株式譲渡制限会社で登録している。会社を解散するとか売るとかしたいときは取締役会の同意が必要だ。なはずなのだが、不安に思って登記のときに作った定款を見てみると、役員の過半数の賛成が必要ってことになっていた。あんときはテンプレートを多丸さんにもらってそのままコピーして作ったのだが、今になって考えれば全員一致の賛成票にしとけばよかった。そうなれば俺一人ででも阻止できただろう。 反対と言ってるのはまだ俺ひとりなんだがほかのやつはどうするんだろう。長門は元々ハルヒの監視が役目だし、部長氏は意外とハルヒの尻に敷かれてるから賛成にまわるかもしれない。いやまて、それ以前に株主が株を手放す意思がないと成立しないはずだ。まかり間違って鶴屋さんがうちを叩き売ったりはしないだろうが、ハルヒのゴリ押しで売られないとも限らん。先に根回ししておこう。 俺は電話を取って鶴屋さんにかけた。 「キョンです」 『もしもーし、鶴ちゃんだよ』 「どうも株主さん、いつもお世話になっております。今ちょっと話せます?」 『いいよ。もしかして中河くんのことかい?』 「あれれご存知だったんですか」 『ハルにゃんからちょっと相談があるんだけどってメールが来ててね、近いうちに株主総会を開きたいらしいのさ』 鶴屋さんひとりの株主総会か。なんだか寂しいな。 「じゃあ単刀直入にお願いしたいんですが。鶴屋さん、反対票を投じてもらえませんか」 『キョンくんはいやなのかい?』 「なんというか、考え方が古いのかもしれませんが、俺は別に上場企業にならなくても持ち前の技術を売るだけの経営で細々とやっていきたいんです」 『キョンくんは根が職人なんだねえ。分からないでもないさあ』 その割には技術らしい技術は持ち合わせていませんが。 『買収っていうと聞こえが悪いけど、目的地にたどり着くために乗り物を乗り換えるって考えればいいんじゃないのかな。電車から飛行機に乗る感じでさ。うっとこも、会社そのものじゃないけど経営権を買ったり売ったり繰り返しながらきたんだけどね』 いっぱしの経営者らしく、思いのほか鶴屋さんは平然としていた。 「そうだったんですか。でも、自分が手塩にかけて育てた会社を売るのっていやじゃないですか」 『うーん。あたしはその会社が手を離れるのを“卒業”だと考えてるさ。同じ経営者が続けるより業界と景気にもまれたほうが企業としての競争力が強くなるっていうかね、まあモノにもよるんだけど』 「はあ、そんなもんですか」 『今SOS団は流れの速い業界にいるわけでさ、知識がなくてなにもアドバイスしてやれないあたしなんかが株主やるより、動向を知ってる親会社がついてたほうがいいってのはあるよね』 なるほどね。俺もそれくらい割り切ってこの会社をやっていければいいんですけどね。 「まあ株主さんがそうおっしゃるならしょうがないですが」 『いやいや、あたしはSOS団の経営にはタッチしないつもりだから。今後どうするかはハルにゃんの方針次第ってことさね』 電話を切る前に、鶴屋さんはひとことだけボソリと言った。 『でもね、ゼロから育てた、自分の子供みたいな会社が手を離れるのはやっぱり寂しいさ』 「たっだいまあ、みんな朗報よ!」 「……戻った」 「おかえりなさい、社長、副社長」 勢いよくドアを開いて入ってきたハルヒと長門を古泉が出迎えた。 「みんな集まってちょうだい。取締役会を非常招集するわ」 いよいよ来やがったか。多忙な部長氏も呼んで会議室に五人を集めた。 「聞いてるとは思うけど、我がSOS団がIT業界に躍り出る一世一代のチャンスがやってきたわ。大手企業グループの傘下に入るよう誘われてるの。具体的には中河テクノロジーに吸収合併されるんだけど、あたしたちは独立した事業部として活動できるわ。しかも部下が五十人に増えるのよ」 「すっごいじゃないか社長。中河テクノロジーといえばいまや花形だよ」 部長氏が目を輝かせて喜んだ。やれやれ、事業部編入か。ただの歯車だと思うんだが。 「まだあるわ。現在の取締役は起業とこれまでの労をねぎらって、新株購入権付き社債を受け取れるわ。まあ時価にするとひとり当たり二千万くらいだけど、将来は株価に比例して膨れ上がることは確実よ」 「株主の鶴屋さんはどうなるんだ」 「それはまだこれから相談しないといけないんだけど」 「おそらくですが、株式交換になるんじゃありませんか。もちろんレートは高いほうがいいですが」 まあ好意で出資してくれた鶴屋さんがそれで納得するならいいんだが。 「それにしても、二千万はたいした額の報酬ですね」古泉がうなずいた。「勝手ながら先方のIR情報の裏を取ってみましたが、あの会社の経営状態は非常に安定しているようです。まだ二部上場したばかりですが、顧客数も四半期純利益も右肩上がりに上昇。ITベンダーにありがちな株価の急騰急落もありません」 「でしょでしょ、あたしにはピンと来たわ。これは伸びるって」 お前のピンとやらを安全ピン程度に信用してもいいものかどうか迷うところだが、問題はそういうことじゃない。 「中河テクノロジーの決算書なんかどうでもいいんだがな、俺たちが今までやってきたことはどうなるんだ?」 「もっちろん全部ノシつけて持参よ」 「タイムマシン開発はどうするんだ」 全員が黙り込んだ。と思ったんだがひとり部長氏が不思議な顔をしてたずねた。 「あの、タイムマシンってなにかな?」 やべ、ここにひとりだけ秘密を知らされていない内部の人間がいた。 「あー、部長氏。これは守秘中の守秘で、うちでやってる研究事業のひとつなんですが。絶対に漏らしたりしないでくださいね」 「え……キミ本気で言ってるの?」 今にも笑い出しそうな部長氏だったが、この人はまだまだ正常な人間と見えるな。 「本気に決まってるじゃないの。特許申請もしてるわ」 「そうだったのかい」 「部長さん、これは一世紀くらい未来への投資と考えてください」 古泉が苦笑しつつとりなした。どう見ても冗談ではなさそうな四人の真顔を見て急にまじめな顔になり、部長氏はうなずいた。いざってときには記憶を消してしまうとか禁則をかけるとか、長門の手を借りないといかんな。 「で、どうするんだハルヒ」 「タイムマシンねえ……」 ハルヒは古泉を見て言った。 「実はもうタイムマシン開発の目的は達しちゃったのよねえ」 ハルヒが顔を赤く染めてシナを作り、古泉と目を合わせてニコっと笑ってみせた。 「もしかしてジョンスミスか、ジョンスミスだなオイ」 「えへ、じっつはそうなの」 えへじゃないよまったく。お前のタイムマシン願望のために過去に飛ばされたり未来に行ったり散々だったんだからな。 しかし困ったことになったぞ。歴史改変のフォローは過去だけだと思っていたが、このままだと未来にも影響しかねん。つまりハルヒのはじめたタイムマシン開発は朝比奈さんの時代に繋がっているわけで、それが必要なくなってしまうと俺たちの過去も危うくなる。ここはなんとか続けさせないと、俺は朝比奈さんに未来を託されているわけだからな。 「長門とハカセくんにあれだけ仕事させといて今になってやめるってのはどうかと思うぞ」 「今すぐやめるとは言ってないわよ」 「出資してくれた鶴屋さんにも申し訳ないだろ。秘密裏にでも進めてくれ。お前がやめるってんなら俺がやる」 「あんたに言われなくてもやるわよ」 ハルヒの願望とやらは欲しいものを手に入れてしまうと消えてしまうらしい。もしかしたら宇宙人未来人超能力者も消えてしまいかねん。安易に願い事をかなえてやるのも考え物だ。 「長門は買収についてどう思ってるんだ?副社長として」 「……わたしは部下に過ぎない。社長の意思に準ずる」 「お前が主力製品の業務を担当してるんだから、もっと忌憚なく意見を言っていいぞ」 主観での意見を求められて少し迷っているようだったが、やがて口を開いた。 「……十分な資金力のある企業の内部組織として活動することには一定のメリットがある。ただし将来的に二転三転して売却されることも考えておかなければならない」 かなりシビアな見方だが的を得ているな。買収のときに特許権やら技術資産やらが本社に持っていかれるのは必至だ。その後でもし中河の会社の経営がやばくなったら真っ先に売却候補に挙がるのは新参の俺たちだろう。あるいは中河の会社そのものがグループ内でバラバラに分解されるかもしれない。 今どきはグループ内の資産を分割して整理することが多く、子会社の株をひとつの持ち株会社に集めて経営権を集中管理するようになっているからな。そこで働く人たちも資産として扱われるらしく、正社員だと思って働いていたら実は関連の人材会社からの出向だった、なんてこともよくある話だ。 今は鶴屋さんの暖かい羽の下で好きなことをやって暮らしているが、そんな金と数字に分解されてしまう複雑な仕組みの中に入って俺たちが無事生き残っていけるのかどうか。 「ハルヒに古泉、その辺はどうなんだ?俺たち全員がバラバラになって、中河の企業グループの部品として生きていく覚悟があるのか?」 「次のステップに登るためならそれくらいの犠牲は必要でしょ。今までは経営戦略を固めるための予備期間だったけど、そろそろ実力を発揮する段階だと思うわ。目標は市場のシェア一位よ」 「今までが準備運動だったってのか。俺は今の顧客をベースにしてもっと足場を固めるべきだと思うんだが」 「まあまあ、僕たちはまだまだ小さな企業ですし、今だから冒険ができるというメリットを活かすチャンスでもあります。失敗してもまたやりなおせばいいんです。もし中河さんの会社が解散しても、僕たちが失うものはなにもありません」 「そ、そうよね古泉くん。入ってみて面白くなければやめればいいのよ。またみんなで会社作ればいいんだし」 「言うことはまあ、もっともなんだが」 「とにかくあたしはもっとでかいことをやりたいのよ」 「まあお前がそこまで言うなら、平の取締役の俺にはなんとも言えないさ。ただし、」 「ただしなによ」 「今日の議事録には反対票として記録してもらうぞ」 悲しいかな、それが俺のささやかな意思表示だった。 なんだかんだ言って俺はこの会社が気に入っていた。ハルヒが部活をはじめたときもそうだったが、最初は正体不明でなにをするのか分からない集団が、やっているうちにやめられなくなり、次第にそれなしでは生きていけなくなる。あいつの願望を実現する能力とか奇妙な空間や巨人を作り出す能力とは別で、ハルヒには人にわけの分からない生き甲斐を感じさせるという不思議な力がある。 もちろん本人が楽しいからやるんだろうが、飽きてしまうと別のことに目が行ってしまうのはいつものことだ。俺はどっちかというと同じところで同じ幸福を味わっていたい。可能な限りいつまでもそうしていたいと願うんだ。 ハルヒのやりたいことは分かっている。あいつはいつも遥か上を、自分の手の届かない場所を見つめて生きている。宇宙人を呼んだときも未来人を呼んだときも、タイムマシンを作ると言い出したときも。ハルヒの辞書には満足という文字がないのか、休む間もなく願い事を実現している。あいつにとっちゃ願いの星なんていくらでもあるのかもしれないが、俺にしてみればそんなひとつひとつの流れ星が希少すぎていとおしくて、もう二度と手に入らないかもしれないというか、いつまでも手の中で包んでいたい。今じゃそう思う。 ハルヒと長門と古泉は、鶴屋さんを連れて中河の会社に今後の打ち合わせに行った。俺はどうしても留守番すると言って行かなかった。どうせ平の取締役だ、俺の欠席のまま勝手に決議でもすりゃいいさ。 夕方、ハルヒから電話がかかってきた。受話器を取ると笑い声が漏れ出し、やたら上機嫌なようだ。 『キョン、あたしたち飲み会で直帰するからカギかけて帰ってね。暇ならあんたも来なさいよ』 「……」 俺は何も言わずに電話を切った。別にイライラしてるわけではないんだが、生まれては消えるやり場のないモヤモヤしたこれっていったいなんだ。 事務所のドアを閉めて帰ろうとすると、エレベータの前で長門に会った。 「直帰じゃなかったのか」 「……少し、話がしたい」 帰ってきた長門は少しだけ喜んでいるような、でも後ろめたいような複雑な表情をしていた。 「……本社で取締役の椅子を用意すると言われた」 そりゃまたえらい好待遇だな。社員二百人の会社の経営陣か。 「それで、OKしたのか」 「……まだ。株主と涼宮ハルヒが買収に応じれば、そうなるかもしれない」 そうなったら、技術知識の下地がない俺はいつか追い出されるかもしれんな。長門は天にも届きそうなビルの最上階で個室に秘書付き、俺はもしかしたら営業課長くらいにはなれるかもしれんが、どっちかといえば地面に近いフロアでぺこぺこ頭を下げながら働いている。あるいは退職金で食いつなぎながらハローワーク通いか。急に長門が手の届かない雲の上に行ってしまいそうな気がした。 ところが、長門が次に放った言葉の衝撃はもっと大きかった。 「……わたしと、付き合いたい、らしい」 俺は血の気が引いた。長門はじっと俺を見つめていた。一分くらいそうしていたと思う。 にらめっこは俺が負けて目をそらした。 「お前の好きにしたらいい」 ほんとはこんなセリフを言うつもりはなかったんだが。嫉妬とか自己憐憫とか自暴自棄とか、職を失うかもしれないという寂しさやらがぐるぐると渦巻いて、俺はもうどうにでもしてくれという気分だった。 「……」 「俺はお前を束縛なんかしないから。好きなほうを選んでいい」 「……本気で言ってるの」 「もちろんだ」 二人は真正面から見詰め合った。長門の漆黒の双眸は少し潤んで、握っている手が心なしか震えているように見えた。黙ってつかつかと俺に歩み寄り、右手を大きくふって俺のほっぺたをひっぱたいた。ぺっちんと乾いた音が廊下に響いた。 「……もう、いい」 長門はくるりときびすを返してエレベータに乗った。 「な、なが……」 俺が手を上げて呼び止めようとするも、無残にもドアが閉まった。俺は叩かれたほっぺたをなでつつ、そのまま固まっていた。あいつ、こんな意思表示もするようになったのか……。 三章へ
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/5479.html
第四章 学校を休もうと思っていた。 あの文章を読んで、わたしが独立した存在ではないと悟ってしまったとき、本当に立ち上がれなかった。茫然自失としていた。どんなことを思い、考えたのかも記憶にない。ただ気がつくと窓の外の空が明るくなっていて、わたしの部屋もかすかながら太陽に照らされていたのだった。パソコンはカーソルを物語の最後の文字で点滅させたまま、何十分も前と同じ状態の画面を表示していた。 涙は止まっていた。枯れてしまったのかもしれない。頬を伝った部分には少しだけ違和感があった。 でも確かに、涙に浄化作用はあったらしい。カタルシス。わたしは黙って泣いているうちに、いったい何が哀しいのか解らなくなってしまったのだ。一人暮らししていることなのか、あの物語が『わたし』のものだったことなのか、わたしは存在的に独立した人間ではなかったということなのか、あるいはその全部か。 悲しさも涙と一緒に身体の外に押し流されたのかもしれない。雨が泥を洗うように。そうだったらいい。 朝食を食べているうちに、やっぱり学校は行こうと思い直した。彼の顔を脳裏に思い浮かべると、家にいるよりもいい気がした。 とはいえ、わたしには、今日学校に行ったら何かしらよくないことが起こるだろうことは予測がついていた。 最終期限・二日後。 昨日、彼が部室で見つけた文章にはそう書いてあったのだ。だとしたら明日か、最悪今日、何かが起こる。あのプログラムとやらが起動するのだ。日常の輪郭までもが崩れ去る可能性もあった。 『わたし』は言った。もしプログラムが起動すれば、わたしの世界は彼女の世界に上書きされてしまう、と。 上書き。それがどういう意味を持つのかは解らない。コンピュータ的な考え方をするならば、わたしの世界は消えてなくなってしまうのかもしれない。上書きされれば、元あったデータはなくなる。 でも、それならそれで構わないと思った。どうせこの世界は唯一のものではない。代わりがあるし、わたしの世界はもしかしたらその世界に従属する立場なのかもしれない。わたしだってそうだ。まったく同じ世界があって、そこにはわたしと同じかもっと優秀な『わたし』がいる。ダミーが消えたとしても彼女にとっては痛くもかゆくもない。 もう開き直ってしまった。 やる気はないけれど、今なら世界中を震撼させる大犯罪のひとつやふたつはできそうな気がした。なにしろ、世界はこんなにちっぽけなのだ。 学校に出かける前、朝からずっとそのままだったパソコンを見て、わたしはあの物語のデータを処分した。スクロールしてバックスペースキーを一度押すだけで大量の文章が消えてなくなった。その様子を見ながら、わたしの世界も、もしかしたらこういう扱いを受けているのかもしれないと思った。上書きされ消えゆくデータ群。延々と横たわる砂浜のような真っ白の画面で上書きされ、二度と元に戻らない文章。そして同じように、上書きされて消えてしまう世界。それがわたしたちの世界なのだというのか。 鞄を持って玄関を開けると、目の前に朝倉涼子が立っていた。ぎょっとした。 彼女はすがすがしい微笑みを浮かべていた。わたしが玄関を開けると、彼女は必ずこの顔で出迎える。わたしも、それで少しは日々に希望を持てる気がしていた。穏やかな日常。 でもそれも、今朝は空虚なものに感じられた。 「あら、長門さん。おはよう。ちょうどいいタイミングだったわね。今、ベルを鳴らそうとしていたところ」 「そう」 わたしも小さな声でおはよう、と返した。 「あのさ、悪いんだけど昨日の鍋、今よかったら返してもらえるかな。帰りは時間が違うし、夕方はお互い忙しいかもしれないし」 「わかった」 わたしは一度家に引っ込み、鍋を手にして戻ってきた。それから一緒に五階にある彼女の部屋まで行って彼女が鍋を置いてくるのを待ち、マンションを出た。 いつもと変わらないこと。この生活をわたしは一年近くやってきたのに、たった二日や三日でその日常は崩壊してしまった。 歩きながら彼女と話していると、やがて昨日のことに話題が移った。 「ねえ、昨日の彼とはどんな関係なの?」 彼。あの『わたし』の世界の彼のことだ。確かに家にいるところを目撃されれば誰でも興味は持つかもしれない。 ところでまったく関係ないけれど、彼女は話が本当にうまいと思う。最初は学校のたわいもない話だったのに、それがいつの間にか昨日の彼のことになっている。そこまでにどんな話があって、どんな話のつなぎ方をしたのだろう。とてもそんな話術がないわたしは素直に感心した。 「彼、本当に文芸部に来たの? 入部か何かするつもりで」 また尋ねてくる。わたしは事実なので「来た」と答えた。彼女は少し不愉快そうな顔になった。 「ふうん。でも、たとえそうだとしても、彼はあなたの家に来る必要なんかなかったんじゃない?」 「え……?」 彼女はしごく真面目な表情をしていた。幼い子供にものを教えるように。 「気をつけなさいって言ってるのよ。あなたが。昨日はたまたまあたしが来たからよかったけど、高校生の女の子と男の子がふたりだけになったらどんなことになるかわかったもんじゃないわ。いい? 高校生にもなって、一人暮らしの女の子の家に男の子が入ってきたら、ただご飯を食べるだけじゃ済まないのよ。イヤって言っても無理やり何かされることだってあるんだから」 わたしは驚いた。まさか彼がそんな汚らしい野獣のように思われているとは心外だった。 そんなことはありえないのに。彼はわたしにそんなことをできる人ではないのだ。わたしを見る優しい目が、そんなことを考えるわけがないだろう。 それに――とわたしは思う。 もし仮にそうだったとしても、彼なら、彼が相手なら怖がる必要などないような気もした。 どうせ今日か明日、あの栞に刻まれていた期限というものが来てしまえば、彼かこの世界か、そのどちらかにまず間違いなく変化が起こる。彼が消えるか、この世界が『わたし』の世界に上書きされて消えるかだ。どちらを取っても彼と二度と会えなくなるのなら、ダミーでしかない役立たずのわたしはどうにでもなってよかった。いわばすべての権利が自由という形になってわたしに与えられたのだ。 自暴自棄というならそれでもいい。だから別にわたしの何が壊されても構わなかった。そんなのは彼に近づくための手段でしかないのだ。 抱きしめて欲しい。 またあの感覚がやって来た。ぎゅっと抱きしめて離さないで。そして、わたしはここにいると言って欲しい。 そうでなければ。 わたしの目の裏が急速に熱を持った。視界がぼやけそうになったが、必死でこらえた。横を歩く彼女に気取られないように、眼鏡のつるを押さえた。 今すぐにでも、消えてしまいそうだった。わたしがいなくても世界は何の問題もなしに回るような気がした。 そう。いる必要がないのにいなければならないということほどつらいことはないのだ。存在を誰にも認めてもらえないのに、いないも同然なのに、いなければならない。 本当の孤独は集団の中で生まれる。わたしはそのことを知っていた。 でも、彼ならわたしを抱きしめてくれるかもしれないし、わたしの存在を認めてくれるのかもしれなかった。 今まで誰にもしてもらえなかったこと。親なんか最初からいなくて、学校では誰にも求められないのに存在し続け、隣を歩く女子すらも優しさの仮面をつけているに過ぎない。 けれど、そんな虚しい現実の中で、彼がもしわたしを認めてくれるのなら、わたしは彼と一緒にいたかった。そう。もしわたしにすべての自由が与えられたのなら。 激しい想い。恐怖と希望がぶつかり合って葛藤し、混沌とした感情が渦巻く。何かにここまで心を揺さぶられることなんか今まで一度もなかった。もちろんそれは日常の崩壊を意味していたけれど、はたしてそのことが悪いのかどうかはもう解らなくなっていた。 「あ……!」 突然、彼女がわたしを見て驚いたように口を開けた。 「長門さん、女の子の顔してるみたい」 「…………?」 彼女は何も言わずクスクスと笑って坂を歩くまわりの北高生を見回した。そこらへんに格好いい男子生徒がいるとでも思ったのかもしれない。 でもそれは違う。わたしが考えていたのは彼のことだった。 女の子の顔。 それは、わたしが今までずっと考えまいとしていたことをとうとう露わにした一言だった。この熱い感情。火照る身体。暴走してしまうそうな精神。 わたしはその時、初めて自分が恋をしていることに気づいた。 物質と物質は引きつけ会う。それは正しいこと。私が引き寄せられたのも、それがカタチを持っていたからだ――。 引力の理論を使って恋を説く。個人を個人と認識して、相手と交わるという程度の無機的で原始的な恋。それでも、わたしが頼ってもいいかもしれない希望のカタチ。 恋なんてものははるか遠くにあるものだと思っていた。そもそも、そんなものがこの世界にあるとは知らなかった。お互いの策略がうまいこと合致し、あるいは失敗してどうしようもなくもつれこむような罠のことだと思っていた。科学に支配された空想世界を旅するわたしにとっては、恋は不確実な変数で、意味のないものだった。教室で、誰と誰が付き合っているなんて話を異世界のできごとのように聞いていた。 それが今は、わたしの目の前にあった。 恥ずかしくて誰にも言えない。文章にすらできない。世界の終わりが近いというのに、わたしはいったい何をやっているのだろうか。恋することで何が救われるのだろう。わたしか? それとも彼か、世界か? 世界の終末の恐怖から逃れる気休めにしかならないと、あるいは気休めにすらならないと解っていながらも、わたしには彼を想うことが必要なのだろうか。 教室にいる間中、ずっとそんなことを考えていた。始業のチャイムが鳴ったのでわたしは読んでいた本を机にしまったが、その時に初めて、その本は昨日読み終えたものだと気づいた。神様によって破滅がもたらされた世界のSFだ。内容は一文字たりとも頭に入ってきていなかった。 ぼうっとして身体に熱を持ったような感覚。薄っぺらで遠い世界。その中で妙に立体感のあるわたし。 陶酔、しているのかもしれない。 でも何に。 初恋というのは恋に恋することらしいけれど、わたしもそうなのだろうか。彼なんかではなく、恋している自分に陶酔しているのだろうか。 しかしわたしの場合は違うと思った。きっとこれは恋と呼べるような代物ではない。世の中の女子高生がしているような恋と、わたしのする恋が同じはずがないだろう。わたしが恋しているのは、わたしを認めてくれるかもしれない彼なのだ。恋に恋するなんて、自分のことだけで手一杯なのに、そんな余裕があるわけない。わたしはそんなに甘くはなく、ロマンチストでもない。 いや、やめよう。 こんなのはわたしには似合わない。ヘンテコな服を身につけてしまったみたいだ。この違和感。わたしには恋よりも、宇宙の神秘とか、世界の始まりと終わりとかについて考えるほうが似合っている。 いっそのこと、サイエンスフィクションにどっぷりと浸かって妄想しかできない病気にでもかかれば楽だったかもしれない。そうすれば恋もありえなかった。空想と現実の間をさまようのは大変すぎるということを今、知った。 授業の時間はあっという間に過ぎた。もとより短縮日課だ。黒板と時計とを交互に眺めているうちに授業が終わった。しかし短かったわりに、それはいつになくもどかしい時間だった。 放課後になると、わたしはまっすぐ部室に向かった。いつもそうだけれど今日は特に足を速めた。 明日も部室に行っていいか? 彼の言葉が耳の奥で淡く甦る。優しい声。そして微笑。もしそうならば、わたしは部室で待ち続けなければならない。 ――待ち続ける私に、奇蹟は降りかかるだろうか。 ふと、あの物語の文章が頭に浮かんで、わたしはひとりで気分を悪くした。そして、今のわたしが置かれている状況は彼女の置かれている状況とまるで同じだということに気づいた。部室で彼を待つ。 わたしの人生は『わたし』の人生が反映されるようにできているのかもしれない。そう思った。『わたし』の人生の出来事はわたしの人生にも何かしらの形になって反映されている。過去が謎であることも彼を待っていることも、そして彼に恋をしていることさえも。 だとしたら、わたしの人生は既成のレールを往っているに過ぎなかった。あらかじめ決定されていた未来を淡々とこなす日々。逆らいがたい権力。しかし、そんな思考をどこまで広げても、それはもう悲しさを帯びてはいなかった。ただ、どこまでも広がる茫漠とした砂漠のような途方もなさを感じるだけだ。 しかし、身体も思想もわたしのものではないのならわたしの自我はどこにあるのだろう、と思った。わたしのオリジナルのもの。あの物語はもうオリジナルではない。だったらわたしの自我はどこにある。彼のところにあるのか。この恋い焦れるような感情。 部室では遠くから照らしてくる薄い太陽の影が、物理的に冷たいパソコンや本やパイプ椅子の輪郭をなぞっていた。昨日のままの状態。パイプ椅子が二個広げられているのを見てわたしは急に恥ずかしくなり、一個を畳んで壁際に戻した。なぜ恥ずかしかったのかは解らない。 本を読むか文章を書くかしばらく迷ってから、文章を書くことを選び、わたしはパソコンを立ち上げた。もちろん彼が来るまでには電源を切っておかなければならない。 パソコンがデスクトップを表示すると、わたしはカーディガンの中で温めていた手を出してマウスを操作し、書きかけのSFをごみ箱から取り出して保存してから、『わたし』の物語を表示させた。部室のパソコンには、家にあるパソコンとは違い、物語の最後の部分が少しだけ欠けている。書いている途中で彼がやって来てしまったからだ。しかし、それは幸運かもしれなかった。 そう。わたしは今、ようやく決心した。この物語の続きを書こう。書きかけの、まだ完結していない『わたし』の物語を。いや違う。『わたし』ではない。今度こそわたし自身の物語を創るのだ。あるいは失敗するかもしれない。わたしのありとあらゆるもの――身体であったり精神であったり――が『わたし』に依存してしか存在し得ないなら、自分自身の物語を書くなんて狂言だ。でも、それを綴ることが少なくともわたしの感情の昇華になるのだったら躊躇うことはない。恋というものは不思議だ。わたしに勇気を与えてくれた。しかもそれは、以前はありえなかった、とても積極的な勇気だったのだ。 わたしはディスプレイを見つめた。ここから先は思うように文章が進まないかもしれない。糸を紡ぐような作業かもしれない。でもそれでいい。嘘のようにすらすらとあっという間にできた物語は、やはり嘘でしかなかったのだから。 その部屋には黒い棺桶が置いてあった。他には何もない。 暗い部屋の真ん中にある棺桶の上に、一人の男が座っていた。 「こんにちは」 男は私に言う。笑っていた。 こんにちは。私も彼に言う。私の表情はわからない。 私が立ち続けていると、男の後ろに白い布が舞い降りた。闇の中、その布は淡い光に包まれていた。 「遅れてしまいました」 白い布が言った。それは、白く大きな布を被った人間だった。目にあたるところが丸く切り取られ、黒い瞳が私を見ている。 中にいるのは少女のようだった。声で解った。 ここまでが昨日にわたしが書いた、『わたし』の物語だった。この後、本筋通りならば『私』は棺桶に入れずに物語が終わる。男が棺桶の上に座っていたからだ。 わたしはそこを崩してみようと思い立った。わたしならきっと、棺桶に入れるだろう。苦しみながら文字を連ねる。自分自身の文章を。 男が低い声で笑った。しかし表情は真剣だった。 「時間がありません。あなたの番が近いのです」 私の番。 そうか、思い出した。私は発表会に参加しなければならなかったのだ。だから、そのために私はここへ戻ってきた。しかし、わたしが男にそう言うと男は首を振った。 「いいえ、残念ながらそれは違います」 どうして。 「あなたには発表会に参加する資格がないのです。あなたは発表会を通り過ぎて、速やかに還元されなくてはなりません」 「あなたは還元されるためにここへやってきたのです」 白い少女のオバケも楽しそうに言う。還元。どういうこと。私はどうなってしまうのだろう。 男が柔らかく微笑んだ。 「粒子になるのです。還元されたあなた方はしばらくの間、氷のように固まらなくてはなりません。しかし、氷は溶け水になり、やがて蒸気になります。そうして時が過ぎれば、あなたはまたこの場所に戻ってくるのです」 時。それがどれほど膨大な量なのか私には見当がつかない。しかし、わかる必要もなかった。時間は無意味。ここは偽りの世界なのだから。 男の姿が弾けるように舞い散った。少女のオバケの姿も薄れ、空気に溶け込んだ。棺桶と私だけが部屋に取り残された。 私は棺桶の蓋をずらして中に入る。たったひとりで、還元されるために。底は暗くて見えなかった。 長く横たわっているうちに私はなくなった。そう。なくなった。顔も。記憶も。名前も。すべてが水の結晶のようにはかなく消えていった。これが還元されることなのだ。そう思ったことさえも、すぐに消えた。綿を連ねるような奇蹟が、私からどんどん剥がれ落ちる。 奇蹟が、私から剥がれ落ちていく。 わたしはキーボードを叩く手を止めた。これ以上はもう、書けそうになかった。なにしろ語り手がなくなってしまったのだから。彼女は粒子に還元された。彼女のすべては消滅して彼女は無になったのだ。ちょうどわたしの世界が消滅するときのように。世界も上書きされれば、元あった世界は無になるに違いない。ゼロに還元され、なくなる。そしてまたわたしという個体も、その時は『わたし』に上書きされて無になるに違いなかった。 ただし、それは還元ではなく消滅だ。わたしの意識も身体も、どこにも存在しなくなるのだ。この世界にも彼女の世界にも。ゼロではなく、無なのだ。概念すら消えてしまう。上書きされてしまえば、わたしが存在したという痕跡すらどこにも残らない。それが少し、寂しいような気もした。 わたしはその文章を前の物語とは別に保存した。それからパソコンの電源を切った。おそらく、もうこの文章を読み直すことはないだろう。パソコンを触るかどうかすら解らない。もし今日、世界に異変が起こるのだったら。 時計を見ると、とうに一時を過ぎていた。 彼は来ない。どうしたのだろう。わたしはにわかに不安になった。嫌な予感が頭をよぎった。それは世界が終わってしまうという実質的な予感と共に、彼と二度と会えなくなるのではないかという感覚的な予感もはらんでいた。 わたしはその予感を打ち消すために鞄からパンを取り出した。きっと、考えることをやめれば恐怖も収まる。海がなければ波は立たないし、プレートがなければ地震も起こらない。根本的原因と結果。世界だってひとつしかなかったら上書きされることもなかった。 わたしはパンの袋を開けてひとりでそれを食べた。部室の窓から見える空には厚く灰色の雲がかかっていて、空気は湿り気を帯び、パンはしっとりとした味をしていた。わたしはパンを食べながら、天気のことや、読みかけのハードカバーのことや、推敲したSFのことを考えた。ああ、そういえばあのSFもパソコンの中に取り残してしまった、と思った。実に奇妙なSFだった。まともに読んでいればSFとは気づかないかもしれない。トリックは巧妙に、しかし確実に仕込まれている。同じようで何かが違う世界。原因と結果。日常に変化をもたらす犯人。構成も文章もうまくいっていた。流れは順調だった。そのSFももう、二度と読まないのかもしれない。 とはいえ、わたしに未練はなかった。どうせあのSFを完成させることは不可能だ。少なくとも今日明日でできる仕事ではないし、そして世界の変化という期限は今日明日中にまず間違いなくやってくる。書き上げて文学賞に応募しても選考の結果が解らないまま世界は終了するのだろう。世界の終わりなんてまるでサイエンスフィクションだけれど、現実は冷徹にわたしの前にある。わたしの書いたSFとは違い、この世界の日常と非日常は、今や境がはっきりと解るほどかけ離れてしまった。領土を分割したふたつの国のように。あるいは中世、近代という年号のように。 わたしはいつか彼が来るまで、読書をすることにした。窓辺のパイプ椅子に身をゆだねて風の息づかいを感じながら。それはあと十分の話かもしれない。もしかするとあと三時間待つ可能性だってあるし、今日は来ないこともあり得る。でもわたしは、来るべきその時に備えて本を読んでおくことにした。知的な生の営み。 わたしが読もうと思って手にしたのは、SFの分厚いハードカバーでもミステリでもファンタジーでもなく、薄っぺらな恋愛小説だった。なぜこんなものがこの部室にあるのだろう、と訝ってしまうほど部室の雰囲気と合致しない本だった。 その本はフィクションではあるけれど、ファンタジー性は皆無だった。異世界でもないし特殊な設定があるわけでもない。未来でも過去でもない。でもそれでまったく構わなかった。わたしにはもう、そんな重い小説は読めない。ファンタジックなのは現実だけで充分だ。 わたしは椅子に座って本の表紙をめくった。 もともとたいした期待はしていなかったが、その恋愛小説は読んでみると本当に内容の乏しいものだった。そう。薄っぺら、なのだ。世界観も価値観も人間性も恋自体も。何もかもがはりぼてのように手抜きでつくられていた。意識の上っ面だけをすくい取って書かれた甘すぎるストーリー。登場人物は誰もが感情というものが感じられない、まったく奥深さのない性格をしている。それはまるで、作者の内面を浮き彫りにしたような醜さだ。登場人物は誰ひとりとしてその物語の中で生きておらず、わたしには彼らが感情という概念を与えられた機械に見えた。でも彼らは所詮は機械だから感情を数学的にコントロールしている。だから物事の本質的なところは何ひとつ語られていやしない。肉の臭いも血なまぐささもまったくない。ひたすら爽快で、砂糖を入れすぎたコーヒーのように甘ったるいだけだ。 伏線とそれの回収作業を延々と繰り返すだけの退屈な小説だった。でもわたしは黙ってそれを読み続けた。投げ出すことも、文字から目を離すこともしなかった。確かにそれはまともに評価できるような内容ではなかったけれど、わたしに書けと言われてもとても書けないだろうと思った。なにしろ恋とは何なのか、わたしはまだ理解していないのだから。 恋とは何なのか。そう。それを知るためにこの本を開いたのに、最後まで読んでもこの本は何の回答例も提示してくれなかった。 ようするに、と本を閉じてわたしは思う。 この世界に恋なんてものは本当は存在していないのではないだろうか。確かに、誰かを好きになるということはあるかもしれない。格好いいとか憧れとかあんな風になりたいとか。人を好きになることはある。でもそれがはたして恋や愛と呼べるほどの深い意味合いを持っているのかどうかといわれれば微妙だった。いったいこの世の誰が恋愛をしているのだろうか。鏡の中の自分ではなくて本当に相手のことを思える人がどれほどいるのだろう。その数は数えられるほどしかいないのかもしれない。 少なくともこの本の作者は恋愛などしたことがないに違いなかった。だからこの物語は、はりぼてみたいな見え見えの虚構にしかならないのだ。こんな本があるから読者は愛にだまされる。きれいすぎる恋がこの世にあると信じ込む。 ――あなたにすべての自由が与えられたとき、誰と一緒にいたいか。一緒にいたい相手がいるのだったら、あなたはその人のことを愛しているといってもいいのかもしれない。 それは、わたしが『わたし』に言った言葉だった。しかし今はその言葉さえも意味が霞んで見える。砂漠のはるか彼方に揺れる蜃気楼のように。近づけば消え、手にしようと思ってもクモの糸のようにするりと逃げてしまう、つかみどころのない言葉だった。そんなのはあの人と一緒にいたい、と思いこんでいるだけなのだ。でも、わたしはどうかと訊かれたら、そうではないと信じたかった。 わたしは本を手に立ち上がった。そして丁寧な手つきで本棚に戻し、代わりにハードカバーを出してテーブルに置いた。身体も頭も熱っぽい空間を漂っていた。お風呂のお湯の中にずっと浸かっているように、のぼせた感覚がある。こんな毒気は早く抜かなければならない。世界が終わるときもこんな調子では、わたしは大切な何かをし損じてしまう気がした。 わたしはハードカバーに目を落とす。 時計の短針が二を過ぎた頃、扉にノックがあった。コンコン、と二回。その音は弾んでいるように聞こえた。 わたしは小さく飛び跳ねた。心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。 ついにその時が来たと身体を身構え、身震いして深呼吸をする。その深呼吸はかつてないほど用心深いものだった。肩の力を抜くように大きく、深く、そして念入りに。全身を脱力させてから、またエネルギーを取り込むようにゆっくりと空気を吸収していく。 扉が開く。彼が顔をのぞかせる。 「よう、長門」 「あ……」 わたしは彼を見てもう一度息を吐いたが、どうもそれだけでは済まないらしかった。入ってきた彼の後ろにはさらに三人の人間が隠れていた。それを見てわたしは、とうとう来るべき時が来たと思った。予感は確信に変わった。 彼らには奇妙な印象を受けた。十年来の友達のような感覚を。そう。わたしはずっと前から彼らを知っていた。 彼らはただ者ではなかった。そんな気配がした。 三人のうち、ふたりが女子でひとりが男子だった。彼の真後ろにいたのは、頭にリボン付きのカチューシャをした女子だった。彼女の瞳は丹念に磨かれたガラスのようによく澄み、なおかつ活気に満ちていた。無垢で、底なしの好奇心のようなものがその瞳にはあった。 もうひとりの女子はカチューシャの女子に抱き込まれるようにされて困惑の表情を浮かべていた。亜麻色の髪をしていて小動物を思わせる可愛らしい女子だった。 男子の方は整った顔立ちで微苦笑を浮かべていた。長身で、その様子はわたしにホストなんて言葉を想像させた。カチューシャをした方の女子と微苦笑の男子は体操服を着ていた。 三人の顔を見回してわたしは、直感に似た何かが背筋を、腕を、指の先まで体中のすべての組織を通過するのを感じた。冷たい風が身体を芯まで凍てつかせるように。それは本能だった。あの知らず知らず湧き出てくる文章と同じ感覚があった。おぞましい、ともいえるのかもしれない。彼女たちに、とても強く何かを感じる。月に影響されて満ち引きする潮の流れのような、根本的な何かを。でもそれが何なのか、わたしには解らない。 「こんにちは」 カチューシャの女子が笑顔を振りまきながら明るい声で言い、部室のドアを閉めるとがちゃりと鍵をかけた。その様子を見てもうひとりの亜麻色の髪をした女子がビクリと身体を強ばらせた。 「なんなんですかー?」 半泣きだった。わたしはそれに、頭をバットで殴られるような強い感覚を受ける。記憶を混ぜっ返されているようなこの感覚。 「ここどこですか、何であたし連れてこられたんですか? 何で、かか鍵を閉めるんですか? いったい何を」 「黙りなさい」 カチューシャの女子がぴしゃりと言ってのけ、亜麻色の髪の女子はいっそう縮こまる。ああ、何だろうこれは。記憶の奔流。脳組織をいったん潰して再構成しているみたいだ。彼女の台詞は確かに聞き覚えがあった。 「そっちの眼鏡っ娘が長門さん? よろしく! あたし涼宮ハルヒ! こっちの体操服が古泉くんで、この胸だけデカい小さい娘が朝比奈さん。で、そいつは知ってるわよね? ジョン・スミスよ」 「ジョン・スミス……?」 彼を向くと、彼は肩をすくめた。ジョン・スミス。懐かしい響きがある言葉だ。初めて知ったはずなのにずっと前から知っていた気がする。そのことがわたしに、彼もきっと特別な運命を背負った人間のひとりなのだろうと思わせた。そう。情報統合思念体に造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースのように。 そして、彼女。涼宮ハルヒ。 わたしは大きく息を吸った。そして吐いた。ひんやりした空気が肺をすうっとさせた。 彼女が。 彼女が、彼の探し求めていた女子なのか。涼宮ハルヒ。彼の世界ではここの住人だったらしい女子。彼は初めてこの部室に来たとき、彼女のことをひどく気にかけていた。涼宮ハルヒという名前に聞き覚えはないか、と。 そして、それが見つかったということは、何かしらの崩壊をともなう気配がした。 新しいものがひとつできれば古いものはひとつ消え去る。ただしそれがわたしなのか、彼なのか、この世界なのかは解らない。 わたしは改めてカチューシャをした女子を眺めた。薄桃色の肌。澄み渡って意思の強そうな双眸と、それを縁取る長いまつげ。唇はきっと十文字に引き締まり、顔立ちは整っている。目も鼻も口も。あるべきところにあるべきパーツがある。彼女は見れば見るほど美人だった。そして、彼女の特徴ある瞳には、宇宙の始まりであるビッグバンを予感させる激しさと神秘さが一緒に呑み込まれていた。どこまで見ても透き通っていて、しきりに輝いている。 「ふーん、ここがそうなの。SOS団か。何にもないけどいい部屋だわ。いろいろ持ち込み甲斐がありそう」 彼女は亜麻色の髪の女子――朝比奈さんといったか――から手を離して、興味津々の様子で部室を隅々まで歩き回り、窓の外を覗いたり本棚を眺めたりした。デジャヴ。彼女のこの、窓の外を眺め渡す堂々とした後ろ姿を、わたしはいったい今まで何度見てきたことか。そしてその時は必ず、わたしの手元には本があった。 「でさ、これからどうする?」 彼女が言うと、彼が「お前、何も考えずにここまで来たのか」とあきれた声を出した。 「この部屋を拠点にするのはあたしとしても賛成だけど、交通が不便だわ。学校が終わってからここに来るには時間がかかるしさ。あたしの学校と北高って全然交流ないしね。そうだ、時間を決めて駅前の喫茶店に集合ってことでどう?」 駅前の喫茶店。わたしの身体は知らず知らず、その言葉に反応した。顔を上げて彼女を見ていた。店名は言われなくても解る。ドリーム。そんな名前だったはずだ。なぜそんなことがわかってしまうのか。それは疑いようもなく『わたし』の影響だった。『わたし』の記憶は消し去りがたくわたしに染みついている。それがどうしても嫌で、わたしは心の中で顔をしかめた。 その時――。 ピポ。 突然、背後から電子音がした。何だろうと思って振り向くとパソコンが起動した音だった。誰も手を触れていないというのにパソコンが起動している。 わたしはそのことにはたいして驚かなかった。見越していた、といってもいい。彼ら四人がこの部屋に集まった時点で、きっと何かが起こる、と。 そう。いよいよ仕上げの時間というわけらしい。 「ひえっ?」 朝比奈さんが驚いた様子で後ずさりした。それ以外はみんな、いきなり起動したパソコンに目を向けている。特にパソコンを見つめる彼の目には、驚きの色の中に何か祈るような感じさえ受け取れた。 やがてパソコンのディスプレイは明るくなっていった。 その様子を見ながら、わたしはこれから何か恐ろしいことが始まってしまうのではないかとにわかに恐ろしくなった。未練なんてものは捨てたはずなのに、この世界がなくなってしまうのが怖かった。 そしてそれは間違いなく今から起こることだった。おそらくそれは、このパソコンによってもたらされる。 あまりに怖くて、電源に手を伸ばしそうになったが、ぎりぎりで思いとどまった。どうせ電源を切ったところで意味はない。きっと時間稼ぎにすらならない。この状況は避けがたく、わたしの目の前にあるのだ。回避不可能な地球の滅亡の時のように。それは神様の仕業といってよかった。 「どいてくれ」 彼が明るくなっていくディスプレイを見て真っ先にパソコンの正面に立った。わたしも彼の横からパソコンのモニタをのぞき込む。 すると、それを待っていたかのようなタイミングで、モニタに文字が流れ出した。音もなく、雪のように静かに。 YUKI.N これをあなたが読んでいる時、わたしはわたしではないだろう。 長門有希。夢の中で出会った、彼女だ。わたしに対するあらゆる物事の支配主。そしておそらくは、この世界を創り上げた犯人。 「何? スイッチも押してないのに、びっくりするじゃないの」 「タイマーがセットされていたのでしょうか。それにしても、えらく古いパソコンですね。アンティークものですよ」 背後で涼宮ハルヒと古泉くんが会話をしていたけれど、彼もわたしも聞いていなかった。一字一句見落とすことはできない。瞬きも惜しい。この三日間のありとあらゆる出来事が、この一瞬一瞬に集結しているのだという気がした。 YUKI.N このメッセージが表示されたということは、そこにはあなた、わたし、涼宮ハルヒ、朝比奈みくる、古泉一樹が存在しているはずである。 まるでわたしに読む速度に合わせたようにカーソルは無機質な活字体を紡いでいく。 YUKI.N それが鍵。あなたは解答を見つけ出した。 鍵。この場合のあなたというのが彼であるということは解っていたが、わたしにもはっきりと意味が解った。プログラム起動条件が揃ってプログラムが起動したのだ。 そして、世界は上書きされる。 文書データをデリートして新しい文書を保存するように。ふたつの線路が合流するときに、片方の路線を走っていた電車が脱線するように。 YUKI.N これは緊急脱出プログラムである。起動させる場合はエンターキーを、そうでない場合はそれ以外のキーを選択せよ。起動させた場合、あなたは時空修正の機会を得る。ただし成功は保証できない。また帰還の保証もできない。 文字は続く。 YUKI.N このプログラムが起動するのは一度きりである。実行ののち、消去される。非実行が選択された場合は起動せずに消去される。Ready? それで終わりだった。末尾でカーソルが点滅している。 時空修正。ふたつの世界をひとつにする。 わたしはその時、どうなってしまうのだろう。彼女に上書きされて消えるのか。何の跡形も痕跡もなしに、抵抗すらできずに。 わたしにはこの文章があまりに身勝手なことをいっているように思えた。『わたし』は自分でつくったものを自分で消すのは当然の権利だと思っている。著作権のある人が著作をどうするか決めるように。 そんな馬鹿なことがあってたまるか。とわたしは思った。ここは、この世界は砂のお城ではないのだ。つくって、潰して、そんな自分勝手なことが許されるわけがない。たとえそれが『わたし』であっても。彼女が何の気なくつくってしまったそこには生きている人間がいて、ものを考え、苦しみ、生活しているのだ。しかもそのうちひとりは、世界が変わることを知っている。これから自分自身と世界に何が起こるのか、察しをつけている。 わたしはしばらく静かに青白い炎を燃えたぎらせていたが、そのうちそれも冷めてしまった。考え詰めれば、わたしの怒りはひどく空虚なものに成り下がった。 神様がいるのなら、わたしたちはそれに従うよりほかない。そう思った。それがたとえどんなに過酷な運命だったとしても、世界を創った者がそう言っているのなら、わたしたちは受け入れるしかない。あのハードカバーのように、神様が怒って地球が滅亡しても。 だって、神様がいなかったら、そもそもわたしたちは存在すら許されなかったのだから。 わたしは泣きたいのを必死で堪えた。眼鏡を押さえた。それもかなり長い間。 この世界を創って、わたしを存在させてくれたのは『わたし』だったのだ。この世界がなければ、そもそもわたしという個体は身体も意識も、どこにも存在できなかった。 だったら、最初から存在しなければよかった。存在しなければ今のような苦しみを味わうことはなかった。 そんなことを、わたしは言うつもりはない。この世界に存在できてよかったと、今なら、言うことができる。 あるいは、過去のわたしだったらそう思わなかったかもしれない。最初からいなければよかったと言うかもしれない。 その違いはどこにあるのか。過去と現在のわたしの、考えの違い。 言うまでもなく明らかだった。今のわたしは恋をしていた。熱く燃えたぎる感情。それが過去と現在の大きすぎる違いだった。 彼が近くにいて、こんな感情らしい感情を味わえてよかった。彼はわたしの存在を認めてくれた。この世界にいてひとつだけいいことがあったとするなら、そのことだった。 そして気づいた。唐突に。 『わたし』が持ち得なかったものはそれだ。わたしは持っているのに『わたし』は持っていないもの。言い換えるなら、唯一、わたしのオリジナルのもの。 それはこの感情だった。 なぜなら、彼女には最初からその機能が与えられていなかったからだ。彼女は恋をすることも理解することもできなかった。 彼が言う。 「すまない、長門。これは返すよ」 差し出されたのは白紙の入部届けだった。この瞬間に、わたしは彼の決意を悟った。彼はわたしではなく『わたし』といることを、彼の世界に戻ることを選んだ。 悲しさはなかった。寂しさもなかった。 わたしにはするべきことがあったからだ。彼が戻るなら、それでも構わない。それでもわたしにできることは、ひとつだけある。 夢の中の彼女の言葉が耳の奥に甦る。 「わたしとあなたが同じ一個体だったらよかった」 わたしは答えた。わたしもそう思う、と。 今ならできる。この感情を、彼女には機能として与えられなかったこの想いを、彼女に飛ばそう。そんなことが可能なのかどうかは解らない。でも彼が彼の世界に戻るように、わたしの想いもその瞬間、彼女に伝わらないとも限らなかった。 わたしと彼女は同じ一個体になる。彼女の中で、わたしも生きる。 彼の指がパソコンに伸びた。彼が何をするかはもう解りきったことだった。 その指がエンターキーを押し込んだ。
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/5875.html
第四章 学校を休もうと思っていた。 あの文章を読んで、わたしが独立した存在ではないと悟ってしまったとき、本当に立ち上がれなかった。茫然自失としていた。どんなことを思い、考えたのかも記憶にない。ただ気がつくと窓の外の空が明るくなっていて、わたしの部屋もかすかながら太陽に照らされていたのだった。パソコンはカーソルを物語の最後の文字で点滅させたまま、何十分も前と同じ状態の画面を表示していた。 涙は止まっていた。枯れてしまったのかもしれない。頬を伝った部分には少しだけ違和感があった。 でも確かに、涙に浄化作用はあったらしい。カタルシス。わたしは黙って泣いているうちに、いったい何が哀しいのか解らなくなってしまったのだ。一人暮らししていることなのか、あの物語が『わたし』のものだったことなのか、わたしは存在的に独立した人間ではなかったということなのか、あるいはその全部か。 悲しさも涙と一緒に身体の外に押し流されたのかもしれない。雨が泥を洗うように。そうだったらいい。 朝食を食べているうちに、やっぱり学校は行こうと思い直した。彼の顔を脳裏に思い浮かべると、家にいるよりもいい気がした。 とはいえ、わたしには、今日学校に行ったら何かしらよくないことが起こるだろうことは予測がついていた。 最終期限・二日後。 昨日、彼が部室で見つけた文章にはそう書いてあったのだ。だとしたら明日か、最悪今日、何かが起こる。あのプログラムとやらが起動するのだ。日常の輪郭までもが崩れ去る可能性もあった。 『わたし』は言った。もしプログラムが起動すれば、わたしの世界は彼女の世界に上書きされてしまう、と。 上書き。それがどういう意味を持つのかは解らない。コンピュータ的な考え方をするならば、わたしの世界は消えてなくなってしまうのかもしれない。上書きされれば、元あったデータはなくなる。 でも、それならそれで構わないと思った。どうせこの世界は唯一のものではない。代わりがあるし、わたしの世界はもしかしたらその世界に従属する立場なのかもしれない。わたしだってそうだ。まったく同じ世界があって、そこにはわたしと同じかもっと優秀な『わたし』がいる。ダミーが消えたとしても彼女にとっては痛くもかゆくもない。 もう開き直ってしまった。 やる気はないけれど、今なら世界中を震撼させる大犯罪のひとつやふたつはできそうな気がした。なにしろ、世界はこんなにちっぽけなのだ。 学校に出かける前、朝からずっとそのままだったパソコンを見て、わたしはあの物語のデータを処分した。スクロールしてバックスペースキーを一度押すだけで大量の文章が消えてなくなった。その様子を見ながら、わたしの世界も、もしかしたらこういう扱いを受けているのかもしれないと思った。上書きされ消えゆくデータ群。延々と横たわる砂浜のような真っ白の画面で上書きされ、二度と元に戻らない文章。そして同じように、上書きされて消えてしまう世界。それがわたしたちの世界なのだというのか。 鞄を持って玄関を開けると、目の前に朝倉涼子が立っていた。ぎょっとした。 彼女はすがすがしい微笑みを浮かべていた。わたしが玄関を開けると、彼女は必ずこの顔で出迎える。わたしも、それで少しは日々に希望を持てる気がしていた。穏やかな日常。 でもそれも、今朝は空虚なものに感じられた。 「あら、長門さん。おはよう。ちょうどいいタイミングだったわね。今、ベルを鳴らそうとしていたところ」 「そう」 わたしも小さな声でおはよう、と返した。 「あのさ、悪いんだけど昨日の鍋、今よかったら返してもらえるかな。帰りは時間が違うし、夕方はお互い忙しいかもしれないし」 「わかった」 わたしは一度家に引っ込み、鍋を手にして戻ってきた。それから一緒に五階にある彼女の部屋まで行って彼女が鍋を置いてくるのを待ち、マンションを出た。 いつもと変わらないこと。この生活をわたしは一年近くやってきたのに、たった二日や三日でその日常は崩壊してしまった。 歩きながら彼女と話していると、やがて昨日のことに話題が移った。 「ねえ、昨日の彼とはどんな関係なの?」 彼。あの『わたし』の世界の彼のことだ。確かに家にいるところを目撃されれば誰でも興味は持つかもしれない。 ところでまったく関係ないけれど、彼女は話が本当にうまいと思う。最初は学校のたわいもない話だったのに、それがいつの間にか昨日の彼のことになっている。そこまでにどんな話があって、どんな話のつなぎ方をしたのだろう。とてもそんな話術がないわたしは素直に感心した。 「彼、本当に文芸部に来たの? 入部か何かするつもりで」 また尋ねてくる。わたしは事実なので「来た」と答えた。彼女は少し不愉快そうな顔になった。 「ふうん。でも、たとえそうだとしても、彼はあなたの家に来る必要なんかなかったんじゃない?」 「え……?」 彼女はしごく真面目な表情をしていた。幼い子供にものを教えるように。 「気をつけなさいって言ってるのよ。あなたが。昨日はたまたまあたしが来たからよかったけど、高校生の女の子と男の子がふたりだけになったらどんなことになるかわかったもんじゃないわ。いい? 高校生にもなって、一人暮らしの女の子の家に男の子が入ってきたら、ただご飯を食べるだけじゃ済まないのよ。イヤって言っても無理やり何かされることだってあるんだから」 わたしは驚いた。まさか彼がそんな汚らしい野獣のように思われているとは心外だった。 そんなことはありえないのに。彼はわたしにそんなことをできる人ではないのだ。わたしを見る優しい目が、そんなことを考えるわけがないだろう。 それに――とわたしは思う。 もし仮にそうだったとしても、彼なら、彼が相手なら怖がる必要などないような気もした。 どうせ今日か明日、あの栞に刻まれていた期限というものが来てしまえば、彼かこの世界か、そのどちらかにまず間違いなく変化が起こる。彼が消えるか、この世界が『わたし』の世界に上書きされて消えるかだ。どちらを取っても彼と二度と会えなくなるのなら、ダミーでしかない役立たずのわたしはどうにでもなってよかった。いわばすべての権利が自由という形になってわたしに与えられたのだ。 自暴自棄というならそれでもいい。だから別にわたしの何が壊されても構わなかった。そんなのは彼に近づくための手段でしかないのだ。 抱きしめて欲しい。 またあの感覚がやって来た。ぎゅっと抱きしめて離さないで。そして、わたしはここにいると言って欲しい。 そうでなければ。 わたしの目の裏が急速に熱を持った。視界がぼやけそうになったが、必死でこらえた。横を歩く彼女に気取られないように、眼鏡のつるを押さえた。 今すぐにでも、消えてしまいそうだった。わたしがいなくても世界は何の問題もなしに回るような気がした。 そう。いる必要がないのにいなければならないということほどつらいことはないのだ。存在を誰にも認めてもらえないのに、いないも同然なのに、いなければならない。 本当の孤独は集団の中で生まれる。わたしはそのことを知っていた。 でも、彼ならわたしを抱きしめてくれるかもしれないし、わたしの存在を認めてくれるのかもしれなかった。 今まで誰にもしてもらえなかったこと。親なんか最初からいなくて、学校では誰にも求められないのに存在し続け、隣を歩く女子すらも優しさの仮面をつけているに過ぎない。 けれど、そんな虚しい現実の中で、彼がもしわたしを認めてくれるのなら、わたしは彼と一緒にいたかった。そう。もしわたしにすべての自由が与えられたのなら。 激しい想い。恐怖と希望がぶつかり合って葛藤し、混沌とした感情が渦巻く。何かにここまで心を揺さぶられることなんか今まで一度もなかった。もちろんそれは日常の崩壊を意味していたけれど、はたしてそのことが悪いのかどうかはもう解らなくなっていた。 「あ……!」 突然、彼女がわたしを見て驚いたように口を開けた。 「長門さん、女の子の顔してるみたい」 「…………?」 彼女は何も言わずクスクスと笑って坂を歩くまわりの北高生を見回した。そこらへんに格好いい男子生徒がいるとでも思ったのかもしれない。 でもそれは違う。わたしが考えていたのは彼のことだった。 女の子の顔。 それは、わたしが今までずっと考えまいとしていたことをとうとう露わにした一言だった。この熱い感情。火照る身体。暴走してしまうそうな精神。 わたしはその時、初めて自分が恋をしていることに気づいた。 物質と物質は引きつけ会う。それは正しいこと。私が引き寄せられたのも、それがカタチを持っていたからだ――。 引力の理論を使って恋を説く。個人を個人と認識して、相手と交わるという程度の無機的で原始的な恋。それでも、わたしが頼ってもいいかもしれない希望のカタチ。 恋なんてものははるか遠くにあるものだと思っていた。そもそも、そんなものがこの世界にあるとは知らなかった。お互いの策略がうまいこと合致し、あるいは失敗してどうしようもなくもつれこむような罠のことだと思っていた。科学に支配された空想世界を旅するわたしにとっては、恋は不確実な変数で、意味のないものだった。教室で、誰と誰が付き合っているなんて話を異世界のできごとのように聞いていた。 それが今は、わたしの目の前にあった。 恥ずかしくて誰にも言えない。文章にすらできない。世界の終わりが近いというのに、わたしはいったい何をやっているのだろうか。恋することで何が救われるのだろう。わたしか? それとも彼か、世界か? 世界の終末の恐怖から逃れる気休めにしかならないと、あるいは気休めにすらならないと解っていながらも、わたしには彼を想うことが必要なのだろうか。 教室にいる間中、ずっとそんなことを考えていた。始業のチャイムが鳴ったのでわたしは読んでいた本を机にしまったが、その時に初めて、その本は昨日読み終えたものだと気づいた。神様によって破滅がもたらされた世界のSFだ。内容は一文字たりとも頭に入ってきていなかった。 ぼうっとして身体に熱を持ったような感覚。薄っぺらで遠い世界。その中で妙に立体感のあるわたし。 陶酔、しているのかもしれない。 でも何に。 初恋というのは恋に恋することらしいけれど、わたしもそうなのだろうか。彼なんかではなく、恋している自分に陶酔しているのだろうか。 しかしわたしの場合は違うと思った。きっとこれは恋と呼べるような代物ではない。世の中の女子高生がしているような恋と、わたしのする恋が同じはずがないだろう。わたしが恋しているのは、わたしを認めてくれるかもしれない彼なのだ。恋に恋するなんて、自分のことだけで手一杯なのに、そんな余裕があるわけない。わたしはそんなに甘くはなく、ロマンチストでもない。 いや、やめよう。 こんなのはわたしには似合わない。ヘンテコな服を身につけてしまったみたいだ。この違和感。わたしには恋よりも、宇宙の神秘とか、世界の始まりと終わりとかについて考えるほうが似合っている。 いっそのこと、サイエンスフィクションにどっぷりと浸かって妄想しかできない病気にでもかかれば楽だったかもしれない。そうすれば恋もありえなかった。空想と現実の間をさまようのは大変すぎるということを今、知った。 授業の時間はあっという間に過ぎた。もとより短縮日課だ。黒板と時計とを交互に眺めているうちに授業が終わった。しかし短かったわりに、それはいつになくもどかしい時間だった。 放課後になると、わたしはまっすぐ部室に向かった。いつもそうだけれど今日は特に足を速めた。 明日も部室に行っていいか? 彼の言葉が耳の奥で淡く甦る。優しい声。そして微笑。もしそうならば、わたしは部室で待ち続けなければならない。 ――待ち続ける私に、奇蹟は降りかかるだろうか。 ふと、あの物語の文章が頭に浮かんで、わたしはひとりで気分を悪くした。そして、今のわたしが置かれている状況は彼女の置かれている状況とまるで同じだということに気づいた。部室で彼を待つ。 わたしの人生は『わたし』の人生が反映されるようにできているのかもしれない。そう思った。『わたし』の人生の出来事はわたしの人生にも何かしらの形になって反映されている。過去が謎であることも彼を待っていることも、そして彼に恋をしていることさえも。 だとしたら、わたしの人生は既成のレールを往っているに過ぎなかった。あらかじめ決定されていた未来を淡々とこなす日々。逆らいがたい権力。しかし、そんな思考をどこまで広げても、それはもう悲しさを帯びてはいなかった。ただ、どこまでも広がる茫漠とした砂漠のような途方もなさを感じるだけだ。 しかし、身体も思想もわたしのものではないのならわたしの自我はどこにあるのだろう、と思った。わたしのオリジナルのもの。あの物語はもうオリジナルではない。だったらわたしの自我はどこにある。彼のところにあるのか。この恋い焦れるような感情。 部室では遠くから照らしてくる薄い太陽の影が、物理的に冷たいパソコンや本やパイプ椅子の輪郭をなぞっていた。昨日のままの状態。パイプ椅子が二個広げられているのを見てわたしは急に恥ずかしくなり、一個を畳んで壁際に戻した。なぜ恥ずかしかったのかは解らない。 本を読むか文章を書くかしばらく迷ってから、文章を書くことを選び、わたしはパソコンを立ち上げた。もちろん彼が来るまでには電源を切っておかなければならない。 パソコンがデスクトップを表示すると、わたしはカーディガンの中で温めていた手を出してマウスを操作し、書きかけのSFをごみ箱から取り出して保存してから、『わたし』の物語を表示させた。部室のパソコンには、家にあるパソコンとは違い、物語の最後の部分が少しだけ欠けている。書いている途中で彼がやって来てしまったからだ。しかし、それは幸運かもしれなかった。 そう。わたしは今、ようやく決心した。この物語の続きを書こう。書きかけの、まだ完結していない『わたし』の物語を。いや違う。『わたし』ではない。今度こそわたし自身の物語を創るのだ。あるいは失敗するかもしれない。わたしのありとあらゆるもの――身体であったり精神であったり――が『わたし』に依存してしか存在し得ないなら、自分自身の物語を書くなんて狂言だ。でも、それを綴ることが少なくともわたしの感情の昇華になるのだったら躊躇うことはない。恋というものは不思議だ。わたしに勇気を与えてくれた。しかもそれは、以前はありえなかった、とても積極的な勇気だったのだ。 わたしはディスプレイを見つめた。ここから先は思うように文章が進まないかもしれない。糸を紡ぐような作業かもしれない。でもそれでいい。嘘のようにすらすらとあっという間にできた物語は、やはり嘘でしかなかったのだから。 その部屋には黒い棺桶が置いてあった。他には何もない。 暗い部屋の真ん中にある棺桶の上に、一人の男が座っていた。 「こんにちは」 男は私に言う。笑っていた。 こんにちは。私も彼に言う。私の表情はわからない。 私が立ち続けていると、男の後ろに白い布が舞い降りた。闇の中、その布は淡い光に包まれていた。 「遅れてしまいました」 白い布が言った。それは、白く大きな布を被った人間だった。目にあたるところが丸く切り取られ、黒い瞳が私を見ている。 中にいるのは少女のようだった。声で解った。 ここまでが昨日にわたしが書いた、『わたし』の物語だった。この後、本筋通りならば『私』は棺桶に入れずに物語が終わる。男が棺桶の上に座っていたからだ。 わたしはそこを崩してみようと思い立った。わたしならきっと、棺桶に入れるだろう。苦しみながら文字を連ねる。自分自身の文章を。 男が低い声で笑った。しかし表情は真剣だった。 「時間がありません。あなたの番が近いのです」 私の番。 そうか、思い出した。私は発表会に参加しなければならなかったのだ。だから、そのために私はここへ戻ってきた。しかし、わたしが男にそう言うと男は首を振った。 「いいえ、残念ながらそれは違います」 どうして。 「あなたには発表会に参加する資格がないのです。あなたは発表会を通り過ぎて、速やかに還元されなくてはなりません」 「あなたは還元されるためにここへやってきたのです」 白い少女のオバケも楽しそうに言う。還元。どういうこと。私はどうなってしまうのだろう。 男が柔らかく微笑んだ。 「粒子になるのです。還元されたあなた方はしばらくの間、氷のように固まらなくてはなりません。しかし、氷は溶け水になり、やがて蒸気になります。そうして時が過ぎれば、あなたはまたこの場所に戻ってくるのです」 時。それがどれほど膨大な量なのか私には見当がつかない。しかし、わかる必要もなかった。時間は無意味。ここは偽りの世界なのだから。 男の姿が弾けるように舞い散った。少女のオバケの姿も薄れ、空気に溶け込んだ。棺桶と私だけが部屋に取り残された。 私は棺桶の蓋をずらして中に入る。たったひとりで、還元されるために。底は暗くて見えなかった。 長く横たわっているうちに私はなくなった。そう。なくなった。顔も。記憶も。名前も。すべてが水の結晶のようにはかなく消えていった。これが還元されることなのだ。そう思ったことさえも、すぐに消えた。綿を連ねるような奇蹟が、私からどんどん剥がれ落ちる。 奇蹟が、私から剥がれ落ちていく。 わたしはキーボードを叩く手を止めた。これ以上はもう、書けそうになかった。なにしろ語り手がなくなってしまったのだから。彼女は粒子に還元された。彼女のすべては消滅して彼女は無になったのだ。ちょうどわたしの世界が消滅するときのように。世界も上書きされれば、元あった世界は無になるに違いない。ゼロに還元され、なくなる。そしてまたわたしという個体も、その時は『わたし』に上書きされて無になるに違いなかった。 ただし、それは還元ではなく消滅だ。わたしの意識も身体も、どこにも存在しなくなるのだ。この世界にも彼女の世界にも。ゼロではなく、無なのだ。概念すら消えてしまう。上書きされてしまえば、わたしが存在したという痕跡すらどこにも残らない。それが少し、寂しいような気もした。 わたしはその文章を前の物語とは別に保存した。それからパソコンの電源を切った。おそらく、もうこの文章を読み直すことはないだろう。パソコンを触るかどうかすら解らない。もし今日、世界に異変が起こるのだったら。 時計を見ると、とうに一時を過ぎていた。 彼は来ない。どうしたのだろう。わたしはにわかに不安になった。嫌な予感が頭をよぎった。それは世界が終わってしまうという実質的な予感と共に、彼と二度と会えなくなるのではないかという感覚的な予感もはらんでいた。 わたしはその予感を打ち消すために鞄からパンを取り出した。きっと、考えることをやめれば恐怖も収まる。海がなければ波は立たないし、プレートがなければ地震も起こらない。根本的原因と結果。世界だってひとつしかなかったら上書きされることもなかった。 わたしはパンの袋を開けてひとりでそれを食べた。部室の窓から見える空には厚く灰色の雲がかかっていて、空気は湿り気を帯び、パンはしっとりとした味をしていた。わたしはパンを食べながら、天気のことや、読みかけのハードカバーのことや、推敲したSFのことを考えた。ああ、そういえばあのSFもパソコンの中に取り残してしまった、と思った。実に奇妙なSFだった。まともに読んでいればSFとは気づかないかもしれない。トリックは巧妙に、しかし確実に仕込まれている。同じようで何かが違う世界。原因と結果。日常に変化をもたらす犯人。構成も文章もうまくいっていた。流れは順調だった。そのSFももう、二度と読まないのかもしれない。 とはいえ、わたしに未練はなかった。どうせあのSFを完成させることは不可能だ。少なくとも今日明日でできる仕事ではないし、そして世界の変化という期限は今日明日中にまず間違いなくやってくる。書き上げて文学賞に応募しても選考の結果が解らないまま世界は終了するのだろう。世界の終わりなんてまるでサイエンスフィクションだけれど、現実は冷徹にわたしの前にある。わたしの書いたSFとは違い、この世界の日常と非日常は、今や境がはっきりと解るほどかけ離れてしまった。領土を分割したふたつの国のように。あるいは中世、近代という年号のように。 わたしはいつか彼が来るまで、読書をすることにした。窓辺のパイプ椅子に身をゆだねて風の息づかいを感じながら。それはあと十分の話かもしれない。もしかするとあと三時間待つ可能性だってあるし、今日は来ないこともあり得る。でもわたしは、来るべきその時に備えて本を読んでおくことにした。知的な生の営み。 わたしが読もうと思って手にしたのは、SFの分厚いハードカバーでもミステリでもファンタジーでもなく、薄っぺらな恋愛小説だった。なぜこんなものがこの部室にあるのだろう、と訝ってしまうほど部室の雰囲気と合致しない本だった。 その本はフィクションではあるけれど、ファンタジー性は皆無だった。異世界でもないし特殊な設定があるわけでもない。未来でも過去でもない。でもそれでまったく構わなかった。わたしにはもう、そんな重い小説は読めない。ファンタジックなのは現実だけで充分だ。 わたしは椅子に座って本の表紙をめくった。 もともとたいした期待はしていなかったが、その恋愛小説は読んでみると本当に内容の乏しいものだった。そう。薄っぺら、なのだ。世界観も価値観も人間性も恋自体も。何もかもがはりぼてのように手抜きでつくられていた。意識の上っ面だけをすくい取って書かれた甘すぎるストーリー。登場人物は誰もが感情というものが感じられない、まったく奥深さのない性格をしている。それはまるで、作者の内面を浮き彫りにしたような醜さだ。登場人物は誰ひとりとしてその物語の中で生きておらず、わたしには彼らが感情という概念を与えられた機械に見えた。でも彼らは所詮は機械だから感情を数学的にコントロールしている。だから物事の本質的なところは何ひとつ語られていやしない。肉の臭いも血なまぐささもまったくない。ひたすら爽快で、砂糖を入れすぎたコーヒーのように甘ったるいだけだ。 伏線とそれの回収作業を延々と繰り返すだけの退屈な小説だった。でもわたしは黙ってそれを読み続けた。投げ出すことも、文字から目を離すこともしなかった。確かにそれはまともに評価できるような内容ではなかったけれど、わたしに書けと言われてもとても書けないだろうと思った。なにしろ恋とは何なのか、わたしはまだ理解していないのだから。 恋とは何なのか。そう。それを知るためにこの本を開いたのに、最後まで読んでもこの本は何の回答例も提示してくれなかった。 ようするに、と本を閉じてわたしは思う。 この世界に恋なんてものは本当は存在していないのではないだろうか。確かに、誰かを好きになるということはあるかもしれない。格好いいとか憧れとかあんな風になりたいとか。人を好きになることはある。でもそれがはたして恋や愛と呼べるほどの深い意味合いを持っているのかどうかといわれれば微妙だった。いったいこの世の誰が恋愛をしているのだろうか。鏡の中の自分ではなくて本当に相手のことを思える人がどれほどいるのだろう。その数は数えられるほどしかいないのかもしれない。 少なくともこの本の作者は恋愛などしたことがないに違いなかった。だからこの物語は、はりぼてみたいな見え見えの虚構にしかならないのだ。こんな本があるから読者は愛にだまされる。きれいすぎる恋がこの世にあると信じ込む。 ――あなたにすべての自由が与えられたとき、誰と一緒にいたいか。一緒にいたい相手がいるのだったら、あなたはその人のことを愛しているといってもいいのかもしれない。 それは、わたしが『わたし』に言った言葉だった。しかし今はその言葉さえも意味が霞んで見える。砂漠のはるか彼方に揺れる蜃気楼のように。近づけば消え、手にしようと思ってもクモの糸のようにするりと逃げてしまう、つかみどころのない言葉だった。そんなのはあの人と一緒にいたい、と思いこんでいるだけなのだ。でも、わたしはどうかと訊かれたら、そうではないと信じたかった。 わたしは本を手に立ち上がった。そして丁寧な手つきで本棚に戻し、代わりにハードカバーを出してテーブルに置いた。身体も頭も熱っぽい空間を漂っていた。お風呂のお湯の中にずっと浸かっているように、のぼせた感覚がある。こんな毒気は早く抜かなければならない。世界が終わるときもこんな調子では、わたしは大切な何かをし損じてしまう気がした。 わたしはハードカバーに目を落とす。 時計の短針が二を過ぎた頃、扉にノックがあった。コンコン、と二回。その音は弾んでいるように聞こえた。 わたしは小さく飛び跳ねた。心臓の鼓動が激しくなるのを感じた。 ついにその時が来たと身体を身構え、身震いして深呼吸をする。その深呼吸はかつてないほど用心深いものだった。肩の力を抜くように大きく、深く、そして念入りに。全身を脱力させてから、またエネルギーを取り込むようにゆっくりと空気を吸収していく。 扉が開く。彼が顔をのぞかせる。 「よう、長門」 「あ……」 わたしは彼を見てもう一度息を吐いたが、どうもそれだけでは済まないらしかった。入ってきた彼の後ろにはさらに三人の人間が隠れていた。それを見てわたしは、とうとう来るべき時が来たと思った。予感は確信に変わった。 彼らには奇妙な印象を受けた。十年来の友達のような感覚を。そう。わたしはずっと前から彼らを知っていた。 彼らはただ者ではなかった。そんな気配がした。 三人のうち、ふたりが女子でひとりが男子だった。彼の真後ろにいたのは、頭にリボン付きのカチューシャをした女子だった。彼女の瞳は丹念に磨かれたガラスのようによく澄み、なおかつ活気に満ちていた。無垢で、底なしの好奇心のようなものがその瞳にはあった。 もうひとりの女子はカチューシャの女子に抱き込まれるようにされて困惑の表情を浮かべていた。亜麻色の髪をしていて小動物を思わせる可愛らしい女子だった。 男子の方は整った顔立ちで微苦笑を浮かべていた。長身で、その様子はわたしにホストなんて言葉を想像させた。カチューシャをした方の女子と微苦笑の男子は体操服を着ていた。 三人の顔を見回してわたしは、直感に似た何かが背筋を、腕を、指の先まで体中のすべての組織を通過するのを感じた。冷たい風が身体を芯まで凍てつかせるように。それは本能だった。あの知らず知らず湧き出てくる文章と同じ感覚があった。おぞましい、ともいえるのかもしれない。彼女たちに、とても強く何かを感じる。月に影響されて満ち引きする潮の流れのような、根本的な何かを。でもそれが何なのか、わたしには解らない。 「こんにちは」 カチューシャの女子が笑顔を振りまきながら明るい声で言い、部室のドアを閉めるとがちゃりと鍵をかけた。その様子を見てもうひとりの亜麻色の髪をした女子がビクリと身体を強ばらせた。 「なんなんですかー?」 半泣きだった。わたしはそれに、頭をバットで殴られるような強い感覚を受ける。記憶を混ぜっ返されているようなこの感覚。 「ここどこですか、何であたし連れてこられたんですか? 何で、かか鍵を閉めるんですか? いったい何を」 「黙りなさい」 カチューシャの女子がぴしゃりと言ってのけ、亜麻色の髪の女子はいっそう縮こまる。ああ、何だろうこれは。記憶の奔流。脳組織をいったん潰して再構成しているみたいだ。彼女の台詞は確かに聞き覚えがあった。 「そっちの眼鏡っ娘が長門さん? よろしく! あたし涼宮ハルヒ! こっちの体操服が古泉くんで、この胸だけデカい小さい娘が朝比奈さん。で、そいつは知ってるわよね? ジョン・スミスよ」 「ジョン・スミス……?」 彼を向くと、彼は肩をすくめた。ジョン・スミス。懐かしい響きがある言葉だ。初めて知ったはずなのにずっと前から知っていた気がする。そのことがわたしに、彼もきっと特別な運命を背負った人間のひとりなのだろうと思わせた。そう。情報統合思念体に造られた対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースのように。 そして、彼女。涼宮ハルヒ。 わたしは大きく息を吸った。そして吐いた。ひんやりした空気が肺をすうっとさせた。 彼女が。 彼女が、彼の探し求めていた女子なのか。涼宮ハルヒ。彼の世界ではここの住人だったらしい女子。彼は初めてこの部室に来たとき、彼女のことをひどく気にかけていた。涼宮ハルヒという名前に聞き覚えはないか、と。 そして、それが見つかったということは、何かしらの崩壊をともなう気配がした。 新しいものがひとつできれば古いものはひとつ消え去る。ただしそれがわたしなのか、彼なのか、この世界なのかは解らない。 わたしは改めてカチューシャをした女子を眺めた。薄桃色の肌。澄み渡って意思の強そうな双眸と、それを縁取る長いまつげ。唇はきっと十文字に引き締まり、顔立ちは整っている。目も鼻も口も。あるべきところにあるべきパーツがある。彼女は見れば見るほど美人だった。そして、彼女の特徴ある瞳には、宇宙の始まりであるビッグバンを予感させる激しさと神秘さが一緒に呑み込まれていた。どこまで見ても透き通っていて、しきりに輝いている。 「ふーん、ここがそうなの。SOS団か。何にもないけどいい部屋だわ。いろいろ持ち込み甲斐がありそう」 彼女は亜麻色の髪の女子――朝比奈さんといったか――から手を離して、興味津々の様子で部室を隅々まで歩き回り、窓の外を覗いたり本棚を眺めたりした。デジャヴ。彼女のこの、窓の外を眺め渡す堂々とした後ろ姿を、わたしはいったい今まで何度見てきたことか。そしてその時は必ず、わたしの手元には本があった。 「でさ、これからどうする?」 彼女が言うと、彼が「お前、何も考えずにここまで来たのか」とあきれた声を出した。 「この部屋を拠点にするのはあたしとしても賛成だけど、交通が不便だわ。学校が終わってからここに来るには時間がかかるしさ。あたしの学校と北高って全然交流ないしね。そうだ、時間を決めて駅前の喫茶店に集合ってことでどう?」 駅前の喫茶店。わたしの身体は知らず知らず、その言葉に反応した。顔を上げて彼女を見ていた。店名は言われなくても解る。ドリーム。そんな名前だったはずだ。なぜそんなことがわかってしまうのか。それは疑いようもなく『わたし』の影響だった。『わたし』の記憶は消し去りがたくわたしに染みついている。それがどうしても嫌で、わたしは心の中で顔をしかめた。 その時――。 ピポ。 突然、背後から電子音がした。何だろうと思って振り向くとパソコンが起動した音だった。誰も手を触れていないというのにパソコンが起動している。 わたしはそのことにはたいして驚かなかった。見越していた、といってもいい。彼ら四人がこの部屋に集まった時点で、きっと何かが起こる、と。 そう。いよいよ仕上げの時間というわけらしい。 「ひえっ?」 朝比奈さんが驚いた様子で後ずさりした。それ以外はみんな、いきなり起動したパソコンに目を向けている。特にパソコンを見つめる彼の目には、驚きの色の中に何か祈るような感じさえ受け取れた。 やがてパソコンのディスプレイは明るくなっていった。 その様子を見ながら、わたしはこれから何か恐ろしいことが始まってしまうのではないかとにわかに恐ろしくなった。未練なんてものは捨てたはずなのに、この世界がなくなってしまうのが怖かった。 そしてそれは間違いなく今から起こることだった。おそらくそれは、このパソコンによってもたらされる。 あまりに怖くて、電源に手を伸ばしそうになったが、ぎりぎりで思いとどまった。どうせ電源を切ったところで意味はない。きっと時間稼ぎにすらならない。この状況は避けがたく、わたしの目の前にあるのだ。回避不可能な地球の滅亡の時のように。それは神様の仕業といってよかった。 「どいてくれ」 彼が明るくなっていくディスプレイを見て真っ先にパソコンの正面に立った。わたしも彼の横からパソコンのモニタをのぞき込む。 すると、それを待っていたかのようなタイミングで、モニタに文字が流れ出した。音もなく、雪のように静かに。 YUKI.N これをあなたが読んでいる時、わたしはわたしではないだろう。 長門有希。夢の中で出会った、彼女だ。わたしに対するあらゆる物事の支配主。そしておそらくは、この世界を創り上げた犯人。 「何? スイッチも押してないのに、びっくりするじゃないの」 「タイマーがセットされていたのでしょうか。それにしても、えらく古いパソコンですね。アンティークものですよ」 背後で涼宮ハルヒと古泉くんが会話をしていたけれど、彼もわたしも聞いていなかった。一字一句見落とすことはできない。瞬きも惜しい。この三日間のありとあらゆる出来事が、この一瞬一瞬に集結しているのだという気がした。 YUKI.N このメッセージが表示されたということは、そこにはあなた、わたし、涼宮ハルヒ、朝比奈みくる、古泉一樹が存在しているはずである。 まるでわたしに読む速度に合わせたようにカーソルは無機質な活字体を紡いでいく。 YUKI.N それが鍵。あなたは解答を見つけ出した。 鍵。この場合のあなたというのが彼であるということは解っていたが、わたしにもはっきりと意味が解った。プログラム起動条件が揃ってプログラムが起動したのだ。 そして、世界は上書きされる。 文書データをデリートして新しい文書を保存するように。ふたつの線路が合流するときに、片方の路線を走っていた電車が脱線するように。 YUKI.N これは緊急脱出プログラムである。起動させる場合はエンターキーを、そうでない場合はそれ以外のキーを選択せよ。起動させた場合、あなたは時空修正の機会を得る。ただし成功は保証できない。また帰還の保証もできない。 文字は続く。 YUKI.N このプログラムが起動するのは一度きりである。実行ののち、消去される。非実行が選択された場合は起動せずに消去される。Ready? それで終わりだった。末尾でカーソルが点滅している。 時空修正。ふたつの世界をひとつにする。 わたしはその時、どうなってしまうのだろう。彼女に上書きされて消えるのか。何の跡形も痕跡もなしに、抵抗すらできずに。 わたしにはこの文章があまりに身勝手なことをいっているように思えた。『わたし』は自分でつくったものを自分で消すのは当然の権利だと思っている。著作権のある人が著作をどうするか決めるように。 そんな馬鹿なことがあってたまるか。とわたしは思った。ここは、この世界は砂のお城ではないのだ。つくって、潰して、そんな自分勝手なことが許されるわけがない。たとえそれが『わたし』であっても。彼女が何の気なくつくってしまったそこには生きている人間がいて、ものを考え、苦しみ、生活しているのだ。しかもそのうちひとりは、世界が変わることを知っている。これから自分自身と世界に何が起こるのか、察しをつけている。 わたしはしばらく静かに青白い炎を燃えたぎらせていたが、そのうちそれも冷めてしまった。考え詰めれば、わたしの怒りはひどく空虚なものに成り下がった。 神様がいるのなら、わたしたちはそれに従うよりほかない。そう思った。それがたとえどんなに過酷な運命だったとしても、世界を創った者がそう言っているのなら、わたしたちは受け入れるしかない。あのハードカバーのように、神様が怒って地球が滅亡しても。 だって、神様がいなかったら、そもそもわたしたちは存在すら許されなかったのだから。 わたしは泣きたいのを必死で堪えた。眼鏡を押さえた。それもかなり長い間。 この世界を創って、わたしを存在させてくれたのは『わたし』だったのだ。この世界がなければ、そもそもわたしという個体は身体も意識も、どこにも存在できなかった。 だったら、最初から存在しなければよかった。存在しなければ今のような苦しみを味わうことはなかった。 そんなことを、わたしは言うつもりはない。この世界に存在できてよかったと、今なら、言うことができる。 あるいは、過去のわたしだったらそう思わなかったかもしれない。最初からいなければよかったと言うかもしれない。 その違いはどこにあるのか。過去と現在のわたしの、考えの違い。 言うまでもなく明らかだった。今のわたしは恋をしていた。熱く燃えたぎる感情。それが過去と現在の大きすぎる違いだった。 彼が近くにいて、こんな感情らしい感情を味わえてよかった。彼はわたしの存在を認めてくれた。この世界にいてひとつだけいいことがあったとするなら、そのことだった。 そして気づいた。唐突に。 『わたし』が持ち得なかったものはそれだ。わたしは持っているのに『わたし』は持っていないもの。言い換えるなら、唯一、わたしのオリジナルのもの。 それはこの感情だった。 なぜなら、彼女には最初からその機能が与えられていなかったからだ。彼女は恋をすることも理解することもできなかった。 彼が言う。 「すまない、長門。これは返すよ」 差し出されたのは白紙の入部届けだった。この瞬間に、わたしは彼の決意を悟った。彼はわたしではなく『わたし』といることを、彼の世界に戻ることを選んだ。 悲しさはなかった。寂しさもなかった。 わたしにはするべきことがあったからだ。彼が戻るなら、それでも構わない。それでもわたしにできることは、ひとつだけある。 夢の中の彼女の言葉が耳の奥に甦る。 「わたしとあなたが同じ一個体だったらよかった」 わたしは答えた。わたしもそう思う、と。 今ならできる。この感情を、彼女には機能として与えられなかったこの想いを、彼女に飛ばそう。そんなことが可能なのかどうかは解らない。でも彼が彼の世界に戻るように、わたしの想いもその瞬間、彼女に伝わらないとも限らなかった。 わたしと彼女は同じ一個体になる。彼女の中で、わたしも生きる。 彼の指がパソコンに伸びた。彼が何をするかはもう解りきったことだった。 その指がエンターキーを押し込んだ。
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/39.html
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/5000.html
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/41.html
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/34.html