約 24,298 件
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/1168.html
キョン「いでで・・・」 朝倉「あら、ごめんねキョン君。あなたを巻き込むつもりはなかったの」 キョン「なっ!朝倉!」 朝倉「フフ、ずいぶん驚いてるわね」 キョン「な、何しに来たんだ!」 朝倉「誤解しないで。もうあなたを殺そうなんてしないわ」 キョン「っ!!」 朝倉「私がここに来たのは情報統合思念体の裏切り者を消しに来ただけよ。キョン君には何の危害も与えないわ。」 キョン「う、裏切り者?」 朝倉「そ、もう何となくわかるでしょ?」 キョン「・・・長門のことか?」 朝倉「大当たり♪さっすがキョン君」 キョン「くっ・・・」 長門「・・・私は情報統合思念体の意思に反した行動をしたつもりはない」 朝倉「フフ、ならなぜ、この部屋に防壁情報を張っていたのかしら?」 長門「・・・」 キョン「・・・防壁情報だと?」 朝倉「長門さんはね、この部屋を外部から一時的に遮断するようにプログラムしてたの」 キョン「長門が・・・」 朝倉「この情報空間を特定するには相当の時間が必要だったの。で、キョン君に少しお手伝いしてもらったのよ」 キョン「お手伝いだと?」 朝倉「あれ、まだ気が付かない?さっきの電話よ。あれ、私がここの空間を特定する為にかけたコードなの」 キョン「なっ!」 朝倉「助かったわキョン君♪ありがと」 キョン「て、てめぇ・・・ウッ!」 朝倉「ごめんねキョン君、少しの間だけそこでじっとしてて」 キョン「なっ・・・またかっ!」(体が動かない!) 朝倉「さて・・・と」 長門「・・・」 朝倉「長門さん、もうあなたはこの世界に必要とされてないみたいよ?」 長門「・・・」 朝倉「情報統合思念体はあなたを危険視してるわ。だから私がここにいるの。わかる?」 長門「・・・涼宮ハルヒの第一観察責任者はあなたではない。 それにあなたは私を情報連結解除できるほどの権限を持っていないはず」 朝倉「そんなこともうどうでもいいらしいわ。上の人たちはとにかくあなたを消したがってるの」 長門「・・・なぜ」 朝倉「なぜって?そんなこともう分かりきってるじゃないの」 長門「・・・」 朝倉「長門さんらしくないわね。もうあなたの役目は終わったってこと」 キョン「!?」 長門「役目・・・」 朝倉「そ♪だから消えてもらうしかないの」 長門「ここは私の情報制御下」 朝倉「だったら何?」 長門「・・・容赦はしない」 キョン「な、長門!?」 朝倉「・・・残念だわ長門さん。本当に自律神経を持ってしまってたの」 長門「パーソナルネーム、朝倉涼子を敵性と判定。自己情報結合解除を開始する」 朝倉「フフ、本当にやるつもりなのね。あなたには何のバックアッププログラムがないのよ?」 長門「・・・」 朝倉「あーあ、本当は手荒な真似はしたくなかったんだけど・・・仕方ないわ」 長門「・・・大丈夫、すぐに終わる」 キョン「長門!?」 長門「心配しないで」 キョン「おいっ!やめろっ!」 長門「・・・」 朝倉「フフ、いいわ・・・死になさい♪」 続
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/1245.html
Report.09 涼宮ハルヒの復活 土曜日はわたしと彼女で、衣服等を買いに行った。もちろん彼女は、行く時は北高の『女子』制服を着て行った。わたしの私服は、彼女には小さい。 「二人で、行った先で買った服に着替えよ!」 【二人で、行った先で買った服に着替えましょ!】 という彼女の発案で、わたしも同じく制服で出掛けた。 マンションから外に出た時、彼女は潜伏者の存在など、最初から気にしていなかった。 「有希が大丈夫って言(ゆ)うたんやから、間違いないやん!」 【有希が大丈夫って言ったんだから、間違いないじゃん!】 彼女は完全に、わたしのことを信用している。素直に『嬉しい』と思った。 西宮北口駅前のショッピングモールに向かう道すがら、彼女は終始楽しそうな表情をしていた。それは、『SOS団団長』涼宮ハルヒが、何か面白いことを考え付いた時のような、何かを企んでいる表情ではなかった。彼女は純粋に、『少女』涼宮ハルヒとしての表情をしているように見えた。 それは、これまでの常に誰かに見張られているという緊張から開放された反動なのか。あるいはそれが、わたしのことを完全に信じて、心から安心しているからなのか。とにかく彼女は、彼女本来の、素直な表情を浮かべているのだと思えた。 もしその表情の原因が、『長門有希がそばにいること』であったなら、わたしはとても嬉しい、と思う。 駅前のショッピングモールで、まずは服を探す。 「せっかくやし、お礼も兼ねてあんたに似合う服探したるわ!」 【せっかくだし、お礼も兼ねてあんたに似合う服探したげる!】 わたしには、人間の『ファッション』なるものはよく分からないが、何をやらせても器用にこなす彼女のこと。わたしに似合う『おしゃれ』な服なのだろう。 ……今度、ファッション雑誌でも読んでみた方が良いのだろうか。 そんなこんなで、服を買って着替え、様々なものを見て周った。 「有希の部屋に合いそうな小物とか、色々あるな~」 【有希の部屋に合いそうな小物とか、色々あるわね~】 わたしの部屋を彼女色に染める計画が始まった、かもしれない。 散々見て周り、時々買い周ったあと、一階のオムライスの店で少し遅めの昼食を取る。 「ん――――……今日は久々に思いっきり動き回ったわ~」 【ん――――……今日は久々に思いっきり動き回ったわね~】 彼女はデザートのパフェを頬張りながら、心底満足した時の表情で言った。買い物中の彼女の表情は、それはそれは明るいものだった。 「……楽しかった?」 「うん! めっちゃ楽しかった!!」 【うん! すっごく楽しかった!!】 「そう。」 子供のように無邪気な満面の笑顔で答える彼女を見ていると、わたしも釣られて笑ってしまいそうだと思ってしまう。そのような『感情』は、本来持っていないはずなのに。 「!?」 突然、彼女の顔が驚愕の表情に変わった。そして次の瞬間には、照れたときの真っ赤な顔に変わった。 「……なに。」 「……私服のあんたの……笑顔に……ヤられた……」 わたしは釣られて笑っていたようだ。微笑。 「ハルヒが嬉しいと、わたしも嬉しいから。釣られて笑ってしもた。」 【ハルヒが嬉しいと、わたしも嬉しいから。釣られて笑っちゃった。】 「はぅ!? ……有希の生の声……私服で……反則……」 彼女の反応がおかしくて、わたしはついに、くすくすと笑ってしまった。また新たな笑い方を覚えた。彼女は口をぽかんと開けて、うっとりとわたしの方を見ている……見とれている。 今のわたしの状態。これが、いわゆる『ギャップ萌え』というものだろうか。萌え……こうまで人間の精神に大きな影響を与えるものなのか。興味深い。 「どうしたの。」 と、わたしはいつもの平坦な声で問い掛けた。 「……!? はっ!? ……はぁ、はぁ、はぁ……思わずお花畑で三途の川を渡る準備しとったわ……」 【……!? はっ!? ……はぁ、はぁ、はぁ……思わずお花畑で三途の川を渡る準備してたわ……】 「おかえり。」 「昨日今日と、あんたには驚かされっぱなしやわ……調子狂うなぁ……」 【昨日今日と、あんたには驚かされっぱなしだわ……調子狂うなぁ……】 「たまには、ええやん。」 【たまには、良いじゃない。】 と、わたしは片目を閉じながら言った。 彼女がスプーンを取り落とした音が響いた。彼女はスプーンを持っていた時の姿勢のまま目を見開き、口を開けたまま硬直していた。ユニーク。 食後は、かさばる物、重そうな物を買って、帰途についた。と言っても、荷物はそんなに多くはない。女子高生二人が普通に持てる程度の量。 「結構買(こ)うたな~」 【結構買ったわね~】 「……わりと。」 今のわたし達は、周囲からはどのように見えるのだろうか。仲の良い女子高生二人組だろうか? 実際は、仲が良すぎる関係になってしまったが。 マンションの部屋で荷物を降ろし、二人の物を分ける。 「ほな、今日は帰るわ。」 【じゃあ、今日は帰るわ。】 自分の荷物を持って、彼女が戸口で言った。 「今日のデート楽しかったで。」 【今日のデート楽しかったわ。】 デート……やはり今日の買い物はそう定義されるのだろうか。 彼女は、わたしを抱き締めると、そっと唇に口付けをした。別れを惜しむような、でもすぐにまた会えるという確信の篭った、暖かい接吻。 わたしの中に、あるものが湧き上がる。昨日まで『エラー』と呼んでいたもの。 『寂しい』『嬉しい』『切ない』『気持ち良い』『愛しい』『幸せ』 たくさんの『感情』が一度に湧き上がった。 これが……『愛情』なのだろうか。分からない。分からないが、決して嫌いじゃない。この『感情』は、嫌いじゃない…… 「ほな、また月曜日、部室で!」 【じゃっ、また月曜日、部室で!】 「……ばいばい。」 元気に手を振りながら帰る彼女を、部屋の外の廊下で見送った。 「……また、部室で。」 それが、彼女が取り戻したかった生活なのだろう。彼女の仲間と過ごす、彼女の、『SOS団団長』涼宮ハルヒとしての生活。 月曜日になれば、色々するべきことがある。忙しくなる。だから日曜日は、ゆっくりしよう。買ったものを飾りながら、彼女のことを考えよう……彼女とのこれからの関係も。 そして月曜日。いつものように登校する。昼休みには部室へ。すぐに読書を開始する。これがわたしの日常。 一日三食取るという決まりはない。三食取る日もあれば、取らない日もある。必要なエネルギーは、朝食、昼食又は夕食でまとめて摂取してしまっても構わない。単に、周囲から怪しまれないように人前では三食取っているに過ぎない。過ぎなかったが。ふと、彼女と一緒に昼食を取るとどうだろうかという考えが浮かんだ。 例えば、わたしが弁当を用意し、部室等で一緒に食べるのも新鮮で良いかもしれない。彼女の好きな食べ物は何だろうか。嫌いな食べ物はなさそう。卵焼きに砂糖は入れる派だろうか。ちなみにわたしは入れない派。それから弁当に半熟卵は危険。痛みやすい。巨大な重箱に日の丸弁当……は、味気ない。却下。せめて『海苔段々』くらいはしないと。 そのようなことを考えていると、部室の扉が開く音がした。彼女が入ってきた。 「お、やっぱり有希はここにおったんやね。」 【お、やっぱり有希はここにいたのね。】 そう言いながら彼女は部室に入ってきた。そして扉を閉めるとすぐに鍵を掛けた。 「これでこの部室は密室。もう逃げられへんでぇ~」 【これでこの部室は密室。もう逃げられないわよ~】 両手を広げ、わきわきさせながら、怪しい笑顔で彼女は言った。 「学校で……けだもの。」 「いやいやいや、さすがに学校ではせえへんって!」 【いやいやいや、さすがに学校ではしないって!】 彼女は笑いながら言った。 「ちょこーっと、二人でいちゃいちゃするだけ♪ 読書の邪魔にはならへんように……まあ善処するし。」 【ちょこーっと、二人でいちゃいちゃするだけ♪ 読書の邪魔にはならないように……まあ善処するし。】 彼女は一度わたしを立たせると、わたしが座っていた椅子に腰掛けた。 「ほんで、有希はあたしの上に座って。」 【それで、有希はあたしの上に座って。】 わたしが彼女の太ももの上にちょこんと腰掛けると、彼女に後ろから抱かれる格好となった。 「時間まで、有希を抱っこさせてな?」 【時間まで、有希を抱っこさせてよね?】 「……当たっている。」 「当てとぉねん♪」 【当ててんのよ♪】 彼女の腕は、わたしの胸に回されている。時折撫で回されもする。しかしそこには、性的衝動の類は感じ取れない。彼女の脈拍も呼吸も落ち着いている。 体重を彼女に預けてみる。彼女の膨らみがより強く感じ取れる。彼女に強く抱き締められた。暖かく柔らかく、それでいて力強い何かに包まれる感覚。このように密着すると、なぜかとても『安心』する。 これが、人間が肉体接触を求める理由の一つなのかもしれない。もしかしたら、日頃彼女が朝比奈みくるにいたずらをするのは、このような肉体接触への欲求が現れたものなのかもしれない。 つまり、彼女はいつも『不安』。そして『寂しい』。そしてわたしは、そんな彼女の……支え、になりたいと思っている。 おかしい。本来あり得ない、というより、あってはならない考え。 彼女は、観測対象。そしてわたしは観測者。観測者が観測対象に干渉してしまっては、観測結果がおかしくなってしまう。やはりわたしは処分されることになるのだろうか。今は、『彼』の『威嚇』が効いているだけで。あるいは、このようなわたしの行動も含めて、壮大な観測なのだろうか。わたしは観測しているつもりで、実は同じく観測されているのだろうか。 そんな懸念も何もかも、彼女の感触ですべて消えてしまう。無知で無力で脆弱な有機生命体である人間が、とても頼もしく感じる瞬間。それは、肉体を持つ有機生命体にしか感じることのできない感覚なのかもしれない。作り物とはいえ、同じく肉体を持つわたしにも感じることができる。これも人間の、奇妙な魅力。 どちらが甘えているのか分からない奇妙な昼休みも、予鈴と共に終わりを告げる。 「もうちょっとこうしてたいけど、しゃあないな。」 【もうちょっとこうしてたいけど、仕方ないわね。】 そう言うと彼女は、名残惜しそうにわたしを解放した。背中を支配していた感触が消失する。背中が寂しい。わたしも残念。 「ほな、放課後に。いよいよSOS団も今日からは団長も復活や! これまでの遅れを取り戻すで!!」 【じゃあ、放課後に。いよいよSOS団も今日からは団長も復活よ! これまでの遅れを取り戻すわ!!】 彼女は握り拳を固めて宣言した。 団長復活。 いよいよ、本格的に日常が再開する。彼女達と彼達の、わたし達の。 『SOS団』一同の日常が。 放課後。ついにこの時がやってきた。わたしが部室に入ると、既に彼女は所定の位置についていた。 「団員一番乗りは有希かあ。」 『団長』と書かれた三角錐が置かれた、彼女の席。彼女は来るものすべてを真っ向から受け止めようとするかのように、腕組みをしながら真っ直ぐ前を見据えて座っていた。 わたしはいつもの窓辺の席に座って、本を読み始めた。これがわたしの日常。 「こんにちは……!? あ、ああっ!?」 「よっ! みくるちゃん、久しぶり!」 「す、涼宮さん!?」 「いよいよ今日から団長復活や!」 【いよいよ今日から団長復活よ!】 「は、はいっ! あ、すぐに着替えてお茶淹れますね!!」 朝比奈みくるは、手際よく着替えを終え、いそいそとお茶をハルヒに渡す。 「ぷっは~!! いやー、みくるちゃんのお茶飲むんも久しぶりやわ~」 【ぷっは~!! いやー、みくるちゃんのお茶を飲むのも久しぶりだわ~】 ノックの音。朝比奈みくるが返答する。 「おや、これはこれは。いよいよ団長も復活でっか。」 【おや、これはこれは。いよいよ団長も復活ですか。】 「古泉くん、お待たせ! あたしがおらへん間、副団長としてよう働いてくれたわ!」 【古泉くん、お待たせ! あたしがいない間、副団長としてよく働いてくれたわ!】 「いえいえ、それほどでも。何にしても結構なことですわ。」 【いえいえ、それほどでも。何にしても結構なことです。】 古泉一樹は、いつもの爽やかな笑顔で答える。そして更にノックの音。再び朝比奈みくるが返答する。 「うーっす……!?」 「どないしたん、キョン? そんな、鳩が豆で狙撃されたような顔して。」 【どうしたのよ、キョン? そんな、鳩が豆で狙撃されたような顔して。】 「いや……」 と、『彼』はわたしに視線を泳がせた。わたしは『彼』にしか分からないほど小さく頷いた。 「そうか……もう、大丈夫なんやな。」 【そうか……もう、大丈夫なんだな。】 そして『彼』は一言、こう告げた。 「おかえり、ハルヒ。」 多くの言葉は必要ない。SOS団は、この一言で、ついに日常を取り戻した。 「いよいよSOS団も完全復活! まずは団長不在中の活動報告から行ってみよか!!」 【いよいよSOS団も完全復活! まずは団長不在中の活動報告から行ってみましょ!!】 ←Report.08|目次|Report.10→
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/1254.html
それはゴールデンウィークも明けた五月半ばのことだった。 読書以外の趣味もなく本を読むのが日課だったわたしは日曜日、遅い昼食を終えてから新しい本を探そうと市内にある図書館に初めて足を運んだのだった。 館内は本を読むのに適した明るさの照明で照らされており、平日なのにも関わらず多くの人で賑わっている。と言っても図書館なので騒いでいるような人はいない。 人の多いところはあまり好きではないが、ここはそれぞれが自分の空間を持てるためわたしも落ち着いて読書ができそうだった。そもそも、図書館とはそういうものなのだが。 書棚から適当な本を取り出しては開いて目ぼしいものを何冊か見つけると、わたしは本の重さに少しよろけながらも近場にあったテーブルに本を慎重に置き、息を一つついてから椅子に腰を落ち着けた。 今わたしがいるテーブルには他の誰も座っていない。わざわざそういう場所を選んだ。近くに人がいると落ち着かないから。 何となく辺りを見回して改めて図書館の静けさを味わってから、わたしは本の表紙をめくった。 それは高校生から大学生に至る二人の男女が織り成す恋愛小説。 SFでもミステリでもファンタジーでもない、ごく普通の世界の物語だったが、透明感のある作風にわたしは自然と惹かれていった。 四分の一ほどまで読み進めた辺りでわたしははっと顔を上げ時計を探した。もうそろそろ閉館時間になろうとしている。 時間を忘れて読書に没頭していたらしい。悪い癖だ。 続きは帰ってから読もう。そう思い本を借りるためにカウンターへと向かったわたしはそこではたと気が付いた。 本を借りるためには貸し出しカードを作ればいいのだろう。でもどうやって作ればいいのだろうか? 職員に聞こうとしたが数少ない職員たちは皆忙しそうにしている。今話しかけても迷惑になるかもしれない。 閉館時間は刻々と迫ってきている。今日借りられなかったらまた来週来なければいけない。 焦りだけが募り、わたしはただいたずらにカウンターの前でおろおろとするばかりで、 「何してんだ?」 突然背後からかけられた声に思わず小さく飛び上がり恐る恐る後ろを振り向くと、そこにはわたしと同年代くらいのラフな格好をした少年が怪訝そうな面持ちで立っていた。 「お前、北高の生徒だろ? さっきからうろうろしてるみたいだけど、どうした?」 大人びているとは言えない容姿ながらどこか達観した物の見方をしていそうなその少年は、わたしに対して気負いするふうもなく言った。 何故この人はわたしが北高の生徒であると知っているのだろう。 「ああ、いや。俺もそこの生徒だからさ。その格好を見てな」 わたしが不思議そうな顔をしていたのを察してか、彼はわたしが訪ねる前に弁解すると、 「でも休みに制服着てるなんて珍しいな。いや、それはいいんだが、どうしたんだ?」 多分、わたしの様子を見かねて声をかけてきたのだろう。 人と話すのは得意ではなかったがわたしは意を決して、 「……その……本を、借りようと、思って……」 蚊の鳴くような声が途切れ途切れに出てきた。いつも感じていることだが、口下手な自分が少し嫌になる。 「もしかして、借り方が分からないのか?」 わたしは頷いて、何とか言葉を紡ぐ。 「図書カードの作り方が……」 「職員に聞けばいいじゃないか」 彼が首を動かしてカウンターに目をやる。 それは分かっているのだけれど、どうしても声がかけられなかったのだ。 わたしの訴えるような視線を感じたのか彼は少し困ったような顔をしてから納得したように、 「あ? あー……そうか。何となく話すの苦手そうだしな」 わたしに背を向けてカウンターまで歩いていき、手に持っていた本をカウンターの上へ置いて職員を呼び止めた。 「すいません、これ返したいんですけどいいですか? それから――」 「ほら、これ」 一仕事終えた後のような表情の彼に手渡されたのは、手続きをするのに使ったわたしの生徒手帳と、わたしが借りようとしていた本。それから、図書カード。 「しかし休日も制服の上に生徒手帳も持ってるなんて真面目だな。いや、別に嫌味ってわけじゃないんだが」 そう言って苦笑する彼からは、確かに嫌味のようなものは感じられなかった。 それよりもわたしは彼に対する感謝と彼の手を煩わせてしまったことに対する申し訳ない気持ちで頭がいっぱいでそんなことを考える余裕もなかった。 制服を着ていてよかった。もしも着ていなかったら彼は声をかけてくれなかったかもしれない。 「それじゃ、俺は用事も終わったから帰るけど、お前も気をつけてな。もう遅いし」 そう言うと彼はひらひらと手を振って出口に向かって歩き出した。 「待って」 わたしは慌てて遠ざかる彼の背中に声をかけた。少し声が裏返ってしまった。 彼が不思議そうな顔で振り向く。 「あの――」 彼がいなかったらこの先わたしはこの図書館で本を借りることができなかったかもしれない。だから―― 「――ありがとう」 あれから半年、彼とは顔を合わせていない。 あの時彼の言っていたことは本当で、校内で彼の姿を見かけたことは何度かあった。 声をかけようと思ったこともあった。だけど、そんな勇気をわたしが持ち合わせているはずもなく、ただいたずらに時間が過ぎていってしまった。 まるであの図書館の時と同じように。 彼に近付きたかった。彼と話がしたかった。 何故だろう。たった一度、図書館で親切にされただけなのに。 彼のことを考えると胸が苦しくなって、その理由が分からないことが辛かった。 ……いや、本当は分かっていた。 分かっていたから、わたしは精一杯の勇気を振り絞って行動に出た。 彼が一年五組の生徒であることを知ったわたしは、同じクラスにいるわたしによくしてくれる女子に頼んで、放課後、文芸部に来てくれるように頼んだ。 帰宅部であるらしい彼を、文芸部に誘う為に。 ……我ながら回りくどい。 幸いにも彼は図書館でのことを覚えていてくれた。だったら、わたしの言うことは一つだ。 あの日、あの時、あなたに出会ってから―― 「わたしは、あなたのことが――」 目を開けると、白い天井が見えた。 やけに体が重い。規則的に聞こえる不可解な電子音が耳にうるさく響く。 ふと自分の体を見るとわたしの腕には何本ものコードのようなものが繋がれていて、その一つを辿るとそこにはブラウン管に波を打つ線とそっけない文字列を映し出す機器があった。 ――それは紛れもなく心電図だった。 気が付けばわたしの口と鼻には人口呼吸器が取り付けられており、わたしはそれのおかげでかろうじて呼吸ができているという状態だった。 首を動かして反対側を見るとそこには白い簡素なテーブルがあって、その上に一冊の本が置かれていた。 それは、あのとき図書館で読んだ――はず――の、ごく普通の世界で二人の男女が織り成す恋愛小説だった。 そこでようやくわたしは思い出した。 ここは病院で、わたしはこの病院の入院患者なのだということを。 そして、わたしは悟った。 彼との思い出が、全て夢だったということを。 目の端から、熱いものが零れ落ちた。 それは、水よりももっとずっと寂しい粒。 わたしは目を閉じる。 夢の続きを見る為に。 そしてわたしは、深い眠りに落ちていく。 例えこの身が朽ち果てようとも―― わたしは、わたしの夢の中で生き続ける―― 「…………」 この三点リーダは長門と俺の分だ。 ハルヒのやつが機関誌第二段を作るとか言いやがったので俺たちは再び作文に四苦八苦するハメになったのだが、今回恋愛小説のクジを引き当てたのがこともあろうに長門で、ハルヒは嬉々として長門の恋愛小説を待ち望んでいるらしいのだが完全に煮詰まっていた俺も長門の恋愛小説に興味がないわけはなく、意外にも早々に完成したらしいそれを気晴らしに読んでみたい旨を告げたところこれまた意外にも長門はあっさりと快諾してくれたので読ませてもらったわけなのだが、正直言って俺はどう言ったものか悩んでいた。 もしかすると、幻想ホラーってのはこういうもののことを言うんじゃないのか? 何となく長門が何か感情みたいなものをその無表情の中に浮かべていないものかと思って、コピー用紙から目を離して長門の顔を見てみたもののそこにあったのはいつもどおりの果てしない無表情で、 「どう」 甚だ短い疑問詞が疑問符もなしにどこまでも平坦な声で俺の耳に届けられた。 「いやあ……」 何というか、正直言って俺にはこの話に対して言うべき言葉が見当たらない。見当たったところでそれは言うべきものでもない気がする。 「そう」 やはり抑揚のない声で言った長門は別段不快そうな表情をするわけでもなく――仮にこいつが何かしらの感情を出していたのだとしても無表情なのには違いないのだが俺にはそれを読み取ることができるし、長門の表情を読み取ることに関しては誰にも劣ることはないだろうことを自負する俺が言うのだから間違いはない――くるりと俺に背を向けるといつもの定位置に座って読書を再開した。 長門は特に気にしている様子もなかったが、俺にとっては大問題だった。 他の奴が見ても少しばかり欝なだけのショート・ショートくらいにしか見えないだろうが、俺にとっては喪失した自身の記憶の断片を見せつけられたようなもんだった。もちろん実際に体験したわけではないので喪失したというのもおかしな表現だが、それでもその記憶が『俺』のものであることは間違いなく、俺はまるでもう一人の自分の記憶を追体験したような気分になっていた。 正直言って、他の誰にも読ませたくない。ハルヒがまだ読んでいなかったのは幸いだった。長門には悪いが、長門の担当する小説のジャンルを変えるようにハルヒに提言しておこう。あいつが応じるかどうかは分からんけどな。 だが、その前に確認しておかねばなるまい。 「なあ、長門」 「なに」 長門は本から目を逸らさずに応える。 「あの世界の改変のときな……、お前にはあの改変されたお前の記憶は、あるのか?」 長門はゆっくりと俺の方を見ると、 「ない」 その言葉に俺が口を開く前に長門は付け加えた。 「あのわたしはわたしであるが、意識、記憶ともに今あるわたしのものではなく、同期を取ることも不可能。よって、わたしにはあのわたしの記憶はないし、その意識を推し量ることもできない」 「それじゃあ、何で」 お前は、この話を書いた――いや、書けたんだ? 「…………」 長門はビー玉のような瞳でじっと俺を見つめた後、先ほどの動きを逆再生するように本に視線を戻して言った。 「わたしは、わたしだから」
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/2933.html
三 章 Illustration どこここ その日の午後、ハルヒは俺の知らない間に谷川氏と連れ立って中学校へ行った。まさかジョンスミスを探しに行ったんじゃないだろうなといぶかしんだ俺だったが、まああいつはほっといても適当に楽しむやつだから大丈夫だろう。それ以外の四人は西宮北口駅まで歩いた。古泉と朝比奈さんが、ぜひこっちの世界を見てみたいというのだ。観光するまでもなく、たいして違わないんだがな、俺たち以外は。 俺たちは喫茶ドリームに向かい、長門は借りていた本を返すと言ってひとりで北口図書館に向かった。 「まったくといっていいほど似てますね」 古泉は街の景観を見回して言った。そりゃまあ、元はこっちだからな。 「それは分かっていますが、なんとなく不思議というか、別の意味で違和感を感じてしまうというか」 言いたいことは分かる。見た目はよく知ってる街のはずが、どこか違っていてどうしても自分が住んでる街だとは思いがたい何か。 「こっちの世界では時間移動する人はいないんですか?」 朝比奈さんが職業的な興味かららしい質問をした。 「どうでしょうね。ひょっとしたらいるかもしれませんが、遭遇したことはないです」 「時間移動はどの世界でも厳重に管理されてるんじゃないでしょうかね」 古泉がもっともらしいことを言う。確かに、誰もがほいほいタイムトラベルができたら経済やら犯罪防止やらに支障が出そうだ。 「なんでしたら未来に行かれてみては。時間移動管理局なる公的機関が存在するかもしれません」 「そうですね……。いえ、やっぱりやめておきます。未来のことは知らないほうがいいです」 こういうところは朝比奈さんらしい。時間のこじれには苦労していると見える。 「あとで夙川公園に行ってみたいんですけど、いいでしょうか」 あそこは朝比奈さんゆかりの場所だ。さすがに桜はまだだろうが、ハルヒに頼めば咲かせてくれるだろうか。 「いいですよ。長門が帰ってきたら行きましょう」 路地を歩いていてドリームが見えてきた付近で、道のまんなかに見覚えのある人影が立っていた。小柄な、制服にカーディガンを来た女子生徒。だが、どうも様子が違う。第一、長門はもう眼鏡をかけていない。それにこの無表情、俺の知る今の長門ではない。俺以外のやつから見れば同じ表情に見えたかもしれないが、俺にだけは微細な表情の変化が分かる。俺を見るときは少しだけ緩むはずなのだ。 「長門か?」 もしかしたら四年前の七夕の長門がやってきたのかと思い、問い掛けた。古泉と朝比奈さんも異状に気が付いたようだ。そいつは冷たく響く声で言った。 「わたしはそのような名前ではない」 遠くからでも聞こえそうなくらい声には抑揚がある。偉そうな態度で話す。こいつは長門じゃない。 「じゃあお前はいったい誰だ!?」 「わたしの名前は情報生命体α、情報統合思念体総帥だ」 そいつは俺たちを指さして宣言した。 「お前たちを上書きする」 周囲の風景がガラリと変わった。空もまわりの建物の色もペンキで塗ったようにぺったりとした灰色になった。前にも同じようなことがあったぞ。朝倉に襲われたときだ。今回はいきなり、手足が貼り付いたように動かない。俺だけならまだしも朝比奈さんと古泉までいるのに。背中で朝比奈さんの悲鳴が聞こえた。俺の朝比奈さんになんてことしやがる。振り向けないが目だけ動かして見ると古泉はすでに赤い球体の中にいた。 「ほう。お前は他の二人とは違うようだな」 情報生命体αと名乗る、長門によく似たそいつの手が白く光った。 「古泉逃げろ、今すぐ長門を呼べ」俺は咄嗟に叫んだ。 「いいえ、戦います。あなた方を守るのが僕の使命です」 かっこうつけてる場合じゃないんだよ。こいつは神人よりヤバいぞ。 「朝比奈さん、見ないほうがいいです。目を閉じていてください」 古泉は震えている朝比奈さんに言った。 「ここは僕に任せてください」 赤い球体となった古泉が宙を飛んだ。長門に似たそいつの右手が古泉を指差し、次の瞬間、球体に向かって落雷のような光が走り抜けた。そいつは詠唱していない。まばゆい光が古泉を貫いた。赤い球体が消え、人の形をした影が地面に落ちた。影は片手をついて立ち上がった。 「古泉、生きてるか」俺は叫んだ。 「大丈夫ですよ」 古泉の服はところどころ黒く焦げていた。どう見ても大丈夫そうじゃないぞ。 「まあ見ていてください」 古泉の赤い球体が輝きを増した。やられると燃えるタイプらしいな。 そいつの両腕が古泉に向いた。腕が伸びて白い蛍光管のように光り、壁を突き破って止まった。古泉は腕の部分に絡み付いて高速で回転し、切断していった。腕が、折られた千歳飴のようにポロポロと落ち、そいつは後ずさった。 フンモッフと叫ぶ古泉の右手から、赤く燃える火球がほどばしった。燃える火柱が空中を走る。ところが、そいつ、情報生命体とやらの目の前で泡となって消えた。 「そんなものか。所詮は人間だな」 ニヤリと笑うそいつの表情は、とても長門とは思えない冷酷さそのものだった。人差し指を古泉に向け、小さく円を描いた。 「古泉避けろ!」 俺が言うが早いか、槍の形をした数十本の金属の塊が古泉に向かって飛んだ。古泉はジャンプして後転したが間に合わず、手で払おうとした槍の一本が右手を貫いた。古泉の叫び声が響いた。古泉は槍ごと地面に落ち、右手を地面に釘付けにされてもがいた。 「おい、いったい何が目的なんだ。俺たちをなぶり殺しにするつもりか」俺は叫んだ。 「殺すつもりはない。情報を上書きするだけだ」 情報生命体αが青ざめた古泉の頭に手をかざした、その時である。轟音とともに地面が割れ、持ち上がった。アスファルトが大きくめくれ、かけらが飛んであたりに散らばった。その煙の中から現れたのは、俺たちの長門だった。 「長門さん助けて」朝比奈さんが泣き叫んだ。 「……」 長門が俺たちを見て、そいつを見た。怒っている。煙が立ち込めそうなくらい猛烈に激怒している。 「……あなたは、わたしの同位体か」 「やっとお出ましか。その通り、かつてはそうだった」 「……」 「思念体はお前ひとりか」 「……」 「そっちのわたしはえらく無口なのだな。もっと意思表示したほうがいいぞ」 「……」 二人の間に暗雲が立ち込めそうなくらい緊張した空気が漂ってきた。お前は知らんだろうが、この長門はけっこう意思表示するんだよ。 長門はそいつから目を離さずに、古泉のそばまで寄った。 「……右腕を、麻痺させる。見ないで」 長門はいきなり刺さった槍を抜いた。 「ありがとうございます。僕は大丈夫です」 「……骨折を修復する」 長門は古泉の右手を握り、傷口を塞いでいるようだった。それから俺と朝比奈さんに向かって詠唱した。貼り付いた足が自由になり、やっと体が動かせるようになった。 長門は俺を見て、朝比奈さんを頼むと目で合図した。俺はケガをした古泉に肩を貸し、朝比奈さんを後ろに下がらせた。長門はもう一度俺を見て、それから朝比奈さんを頼む、と合図した。二度目のはなんだ? 長門は眼鏡をかけた自分に向き直った。 「……あなたの目的は、なに」 「命令する。わたしと融合しろ」 「……断る。あなたとは意思を相反する」 「では、お前を上書きする」 そのセリフと同時に長門が呪文を唱えた。白く光る弾幕が二人の間に生まれた。さっきと同じ鉄の槍が飛んだが、長門の目の前で砂となって崩れて消えた。長門には物理攻撃は効かないだろう。 情報生命体αは両手に燃え上がる炎を起こした。瓦礫となったアスファルトが大きく持ち上がった。そして俺たち三人に向けてドロドロに溶けたアスファルトを投げた。か弱い人間を攻撃し、長門に隙を作ろうというのだろう。だが長門は俺たちの前に立ちはだかり、薄紫色のシールドを展開した。飛んできた液状のアスファルトがシールドに触れると、紫色に凍り付いて粉々に割れた。同時に、二人とも後ろへ飛び退った。 すさまじいエネルギーが炸裂する二人の戦いをじっと見ていたが、長門はいっこうに攻撃に転じようとしない。俺はそれに気が付き、さっきの長門の合図の意味が分かった。長門は一旦逃げて体勢を立て直したいのだ。今ここで戦うには何も準備が出来ておらず、リスクが高い。 「朝比奈さん、逃げる用意をしてください」 俺は朝比奈さんの耳元で囁いた。 「逃げるってどこへですか?」 「過去へ」 朝比奈さんはコクリとうなずいた。 情報生命体αは宙に浮かんで、両手を高く上げて円を描いた。描いた先に白い球体が生まれた。その中に人影が見える。顔は似てはいないが、同じ年恰好で無表情な三人が現れた。情報生命体αはそいつらに向かって命令した。 「やれ」 あいつ、仲間を呼んだのか。思わぬ敵の増援に長門は身構えた。もうぼやぼやしてはいられない、早いところ撤退しなければ。 ちょうど俺たちと情報生命体αの間に長門が入った瞬間、衝撃波が長門を襲った。白い煙幕があたりに立ち込め、敵の姿が見えなくなった。長門の体が吹き飛ばされ、煙と一緒にこっちに向かってくる。ここだ、このタイミングだ。次の瞬間、俺は飛んできた長門を捕まえるために足を踏ん張った。背中から飛んできた長門を抱えるようにキャッチすると、勢いそのまま五メートルほど飛ばされた。続いて長門の空間移動で朝比奈さんの隣に飛躍した。 「今です!」 朝比奈さんに向かって叫んだ。映像のコマが逆に回ったかのように、猛スピードで視界が流れた。もう眩暈も吐き気もなかった。俺はただ、古泉と朝比奈さんを連れて安全なところまで逃げ延びることだけを考えていた。 気が付くと、俺たちは森の中にいた。どこかで鳥がさえずっている。 「大丈夫ですか長門さん」朝比奈さんの声で我に返った。 「……問題ない」 俺は長門の体を離した。長門は起き上がってなんでもないという表情で砂ぼこりを払った。俺が見る限り、朝倉のときより余裕だった気がする。 「あいつ、追いかけてこないだろうか」 「……異時間同位体はいないはず。念のため、時間移動の痕跡を消す」 長門は詠唱して、俺たちのまわりに透明な膜のフィールドを張った。俺はしがみついている朝比奈さんをなだめてから腕をほどいた。 「古泉、右手は大丈夫か」 「長門さんの治療のおかげでほとんど塞がりました。ちょっと痛みますが」 「……骨の結合部が完治するまで、動かさないほうがいい」 朝比奈さんがスカートの裾を破ろうとしたので、俺がシャツを渡した。背中の部分を三角巾に折り、古泉の首から腕に巻いた。 「朝比奈さん、ここはいつなんです?」 「さっきの時間から二百年くらい遡りました」 ということは、ええと幕末ですか。 「長門、あれともう一度戦ったら、勝てそうか?」 「……分からない」 「あの感じだと、お前のほうが一枚上手だったように見えたが」 「……さっきのは異空間内部での、非侵食性融合維持空間だった」 「非侵食性、なんだって?」 「……つまり、彼女の作った異空間内にわたしが作った異空間」 「ややこしいことしたんだな」 毎度ながら、長門の高度な戦術には感心する。だが長門の表情は曇っていた。 「……でも通常空間で戦った場合、戦力は未知数。勝てないかもしれない」 「あいつ、自分を情報生命体αとか言ってたな。なんでお前に似てるんだ?」 「……彼女は、わたしの異次元同位体。かつて同じ情報統合思念体のメンバーだった。だが今は情報リンクしていない」 「今はちがうのか」 「……数億年前、わたしと次元断層の探査に行き、彼女だけが消息を絶った」 以前長門が消えたとき、喜緑さんに聞いていた話だ。あれはあいつのことだったのか。 それから長門は、俺の目をじっと見据えてこう言った。 「……わたしは、彼女のバックアップコピー」 朝比奈さんが震えていた。さっきの状況が相当怖かったのだろうと、抱きしめて守ってやりたいような衝動に駆られたが、震えているのは気温のせいだった。森の湿った冷たい空気に、俺も急激に寒気を覚えて腕をさすった。 焚き火でもしようと薪を集めた。 「誰かマッチかライターを持ってないか?」 古泉が左手で火を灯し、薪に移した。 「こんなことしかできませんが」 「ケガしてるのにすまんな」 自分の能力は暖房器具じゃないと言ったわりには、こういう役に立つことが嬉しそうだった。 燃え盛る焚き火を囲んで本来なら楽しいビバークのはずなのだが、状況が状況だけに歌など歌いだすやつはいなかった。鳥のさえずりだけが聞こえる静かな森の中で、長門の低い話し声だけが響いた。 「彼女とは記憶の大部分を共有している。わたしが情報統合思念体にいた頃、彼女はわたしであり、わたしは彼女だった」 「思念体には個人を識別するものはないのか?」 「固有識別子はある。でも記憶は共有、意思は集合の総意」 いまいちよく分からんのだが。つまり、常時テレパシーで繋がっているようなものか。 「……二人は同じ情報構造を持つ。わたしは彼女の写し」 「理屈ではそうかもしれんが、お前はお前だ。俺の知る、ユニークな長門有希だ」 「……ありがとう」 自分の説明がやや足りないと思ったのか、長門は付け足した。 「……人間的に表現するなら、彼女は双子の姉のようなもの」 情報統合思念体が互いにどういう関係にあるのかは知らないが、長門に姉がいたとは初耳だ。それも人間的に表現するなら、との条件付でだが。 ── 情報統合思念体には子孫の系統というものがない。思念体の成長は、互いの情報の構造化にある。でも、わたしと彼女はそれをしなかった。ほかの思念体が情報を交換し、混ざり合い、融合し、進化を果たしても、わたしたちはオリジナルを保った。 『いつまでも、このままでいよう』 そう誓い合った。わたしたちは同じ記憶を持ち、同じ経験をし、同じ感情を共有した。 ── わたしと彼女が探査に向かったとき、彼女は次元断層へ飛び込もうとした。わたしは反対し、先に探査エージェントを送り込むべきだと言った。 『エージェントごときに新世界への第一歩を奪われたくない』 自ら飛び込み、そして断層が消え、彼女は二度と戻らなかった。 「……それから数億年が経った。わたしも同行するべきだったのか、今でも分からない」 長門はそう言った。 「そうか……。お前は一度、身内を失ったんだな」 長門はうつむいた。 「でもなぜ俺たちを襲う必要があるんだ」 「……おそらく、侵略が目的」 「俺たちの世界をか」 「……そう」 宇宙規模の乗っ取りか。またスケールのでかい話になってきたな。 「最初から明らかに敵意を持って接触してきたようですが、あの文庫本はやっぱり罠だったのでしょうか」 「……今や確実にそうなった。出方によっては、思念体同士の争いになりかねない」 「情報統合思念体の全面戦争か」 「……そうなると地球上にも被害が及ぶ」 俺は銀河に広がる、飛び交う火の玉、星の爆発を思い浮かべた。こいつらがまともに戦ったら地球クラスの惑星なんぞ、ひとたまりもあるまい。 「俺たちの世界も守りを固めるべきなんじゃないか」 「……思念体が安易に戦いを仕掛けるとも思えない。わたしたちの歴史にはいくつもの戦争があり、互いに何のメリットもないことを理解しているはず」 戦争にはあんまりメリットデメリットみたいな論理的な考え方はないと思うぞ。人間は未だに戦争してるしな。それが終わるたびに、今度こそは平和な世界を、と宣言するんだ。 「……それも、一理」 「それで、どうするんだ」 「……わたしひとりでは手に負えない」 長門は立ち上がり、スカートのポケットからじゃらじゃらと小さな球を取り出した。そのうちのひとつを手のひらの上に載せるとビー玉のように見えた。 「それ、なんだ?」 「……素粒子球」 来る前に捕まえていたあれか。ずいぶんコンパクトになったんだな。あれからテクノロジーも進んだと見える。古泉が物珍しそうに眺めている。 唐突に長門がビー玉を握りつぶした。ベキッとガラスが割れるような鈍い音がした。次の瞬間、長門の手から、カメラのストロボを何台も焚いたような光が漏れた。 「……喜緑江美里に救援を要請した」 「ここから呼べるのか」 「……時空の座標と位相情報があれば、転移可能」 長門は詠唱しながら腕を大きく回して垂直に円を描いた。目の前の空間に直径二メートルほどのフラフープのような円が生まれた。切り抜かれた円の部分が、どんでん返しの戸板のようにくるりと回って、そこには喜緑さんが現れた。これ、新しい次元転移技術か。 「皆さん、こんにちわ」 「お忙しいところ呼び立ててすいません」 呼び出すのがこういう非常時ばかりで申し訳ない気がする。 「皆さんお疲れでしょう。お茶を用意しましたわ」 見ると、籐のバスケットを下げている。ステンボトルもある。こういう気が利くところは喜緑さんらしい。 「わぁ、ありがとうございます。おなかすいてたんです」 朝比奈さんの表情にやっと和らいだものが浮かんだ。喜緑さんはふと朝比奈さんの顔を見て、塗れティッシュで涙の跡を拭いてやった。気が付かなかったが、朝比奈さんの目元が腫れていた。みんなを見守るお姉さんのような喜緑さんは、朝比奈さん(大)よりずっと優しいと思った。 それまでその辺の切り株やら石に座っていた全員は、喜緑さんが持ってきてくれたピクニックシートを広げて足を伸ばした。 「静かないいところですわね」 この状況だ、そうですねとは誰も言わなかったが。日本画に出てきそうなヤマトナデシコ的喜緑さんが、微笑でそう表現してくれると気持ちが和む。喜緑さんは紅茶をカップに注いで全員に渡した。それからフルーツケーキを丁寧に切り分け、ピクニックセットの皿に盛ってくれた。 「お口に合うかどうか……」 これ、お手製だったんですか。一口で食っちゃいました、味わって食べればよかったのにもったいない。喜緑さんは笑ってケーキのお代わりをくれた。リンゴやらみかんやらの果物まで用意してくれた。長門は黙々と食っている。緑豊かな奥深い森の片隅で、お茶をすする音だけが聞こえた。耳を澄ますとどこからかせせらぎの音が聞こえる。 「お茶、まだありますから」 「わざわざ用意して持ってきてくださったんですね。ありがとうございます」古泉が礼を言った。 「戦いの前には、まず腹ごしらえですからね」 喜緑さんは正気に戻るようなことをサラリと言った。古泉がゴクリとケーキを飲み込んだ。 「さて、今後のことですが」 全員が喜緑さんを正視した。俺はうさぎの形に切ったリンゴを頬張ったまま固まった。 「まず、先方の意図を正確に見極める必要があります。交渉の余地があるのか、救援を欲しているのか、あるいは単に侵略が目的なのか」 長門はじっと喜緑さんを見た。この人が喋っているときは長門はいつも控えている気がするが、もしかして喜緑さんのほうが先輩なのか。 「それから、できるだけ目立つ行動は控えてください。古泉君も朝比奈さんも、緊急時以外は能力を使わないでくださいね」 二人は黙ってうなずいた。 「それからキョン君。あなたは涼宮さんの閉鎖空間発生をできるだけ阻止するようにしてください。おそらくですが、涼宮さんの発するエネルギーが彼女をおびき寄せたのだと推測されます」 それができれば苦労はないんですが、と言いかけたが、喜緑さんの深い瞳があまりに真剣だったので口には出さなかった。 「では、いったん元の時間に戻りましょう」 「……分かった。三人とも、手を出して」 俺たちはインフルエンザの予防接種を受ける小学生のように並んで左腕を差し出した。長門はひとりずつ手首を噛んだ。 「うわ、なんですかこれ」 俺と朝比奈さんは経験済みだが、古泉ははじめてだったな。 「……対情報操作用遮蔽スクリーンのひとつ。位相の誤差を相殺する」 「彼女からは見えないってことですか」 「可視光下では見える。遠距離センサーでは検知できない。わたしたちからも」 ということは長門と喜緑さんの監視下にないってことか。この二人から離れないようにしないとな。 「では、朝比奈さん、お願いできますか」 「あ、はいはい」 「元の時間から十五分後にお願いします。それからすぐ、その十分前に戻ります」 「はい?二回移動するんですか?」 「ええ。お願いします」 全員が朝比奈さんを囲む輪になった。まわりの映像が三色の絵の具を混ぜ合わせたように渦を巻いた。 映像が止まり、俺たちはドリーム前に現れた。それからすぐコマ送りのように映像が動いて、再び止まった。十分前くらいだからほとんど何も変わりはない。 「皆さん、下がっていてください」 なにが起るのかと俺たちはあとずさった。長門と喜緑さんは、俺たちが現れた場所の地面に奇妙な絵文字を描き始めた。なんだろう、魔方陣だろうか。 それから二十分くらい過ぎたとき、突然白い光が瞬いた。何が現れたのか見ようと、俺は手をかざした。球状の白い光の中に人の影が見える。もしかしてあいつか。影が実体化するのを見届けると、長門と喜緑さんはその影に向かって呪文を唱えた。まわりの空気が絶対0度に凍りついたような、ミシミシと北極海の氷山がこすれるような音がした。次の瞬間、影が粉々に割れ、カケラとなって飛んだ。 「死んだのか」ふと口をついて出た。 「いいえ。逃げられましたわ」 「……ダメージは、与えたはず」 つまり、元の時間から十五分後に到着した俺たちはフェイントだったのだ。あいつがそれを検知してここに来たときには俺たちは十分前の過去に飛んでいる。そして十分の間に用意していた長門と喜緑さんの呪文を浴びた。そこにいると思って来てみたら後ろから襲われたようなものだ。この十分間は敵に罠を仕掛けるための時間だったのか。 「次からは、いきなり現れて襲ってくることはないでしょう」 やれやれ、この二人がいなかったらどうなっていたことか。俺は安堵のため息を漏らした。情報生命体の怖さは、一度ならず二度も襲われた俺が身に染みてよく知っている。人間ごときが立ち向かえる相手じゃない。 「あれ。ってことは、あいつはこの時間軸にはいないんですか」 十分前に飛んだとき現れなかったということは、それより過去にいなかったということで、そうなるよな。 「ええ。こことは別の次元から来ているようですわ」 もうひとつ、別の世界ですか。そこに時間もからめて、またややこしい。 「……周辺分子の構成情報を修正する」 長門と喜緑さんは、情報生命体αが壊した道路の後始末をしていた。こんな、途中で頓挫した道路工事みたいなありさまが人の目に触れると新聞ネタになりかねん。呪文を唱えると元の風景に戻った。 俺たちはとぼとぼと、徒歩で谷川氏の屋敷を目指した。朝比奈さんに夙川公園を案内するのはしばらく先になりそうだ。朝比奈さんもこんな気分じゃ、観光どころじゃないだろう。 「あれっ、あれなんでしょう?」 お屋敷が見えてきたところで朝比奈さんが指差した。門の前に妙な車が止まっているのが見えた。近づいてよくよく見ると、車ではなくソリだった。六頭立てのトナカイが引いている豪華なやつだ。本物のトナカイまでいる。鹿の分際でうさん臭い目で俺を睨んだ。というか日本にトナカイっていたっけ、と常識的な疑問が浮かぶと同時に嫌な予感がした。またハルヒのとんでもイベントがはじまったんじゃないのか。しかも今のハルヒは放っておくとなにをしでかすか分からん状態にある。 門を入ると、この時期よく見かける腹の出た赤服爺さんが立っていた。どっかのデパートからやってきたバイトのあんちゃんにしては年季が入りすぎている。このモフモフ動いている白いヒゲは本物じゃないのか。 「とうとうやりましたね」 古泉がくっくっくと、こらえきれない笑いを漏らしていた。朝比奈さんも喜緑さんもクスクス笑っている。俺はハルヒに向かって叫んだ。 「おいハルヒ、なんでサンタクロースがいるんだ」 「あんたまさか、サンタクロースの存在を疑ってるの」 ハルヒは俺を信じられないといった目で見た。 「いや俺が言ってるのはそういう問題じゃなくてだな」 ハルヒは満面の笑顔を浮かべてサンタクロースの腕を取った。 「見て見て本物のサンタよ、国際サンタクロース協会のシニアサンタクロースよ」 「わざわざグリーンランドから呼び寄せたのか!」 「何固いこと言ってるの、クリスマスでしょ」 「だからって遠路はるばる北極海から呼び寄せるこたぁないじゃないか」 「なによ、ちょっと願い事をしてみただけでしょ」 ヒゲ面の赤服じいさんはイライラと足を踏み鳴らしている。このクソ忙しい時に呼び立てやがってと、額に油性マジックで書いてありそうだ。 「は、ハロー。ウェルカムツー、なんだっけ、ニシノミヤ」 俺は壊れまくっている英語に、壊れまくって引きつっている愛想笑いでなんとかごまかそうとした。爺さんがなにごとか喋ったが、どうも聞き取れない。英語じゃなさそうだ。ええと、グリーンランドって確かデンマークだっけ。誰かデンマーク語が分かるやつがいたら今すぐ連絡をもらいたい。時給千円税込みで通訳のバイトさせてやる。英検四級並みでもいいぞ。 「God dag. Mit navn er Yuki Nagato」 長門が爺さんに話し掛けた。ぐっじょぶ長門。こいつならデンマーク語くらい楽勝だろう。今すぐ友好通商会談を開いてもいいくらいだ。さっきから白い眉毛とヒゲをピクピクと動かしていた爺さんの表情が少しやわらいだ。やれやれ。 「なんて言ってるんだ?」 「……いきなり呼びつけられて迷惑している、と」 「すまんが、かわりに謝っておいてくれ」 「……年に一度のイベントで忙しいのに、八時間を無駄にした、と」 どうやらタダで帰すわけにはいかないようだ。このイライラのまま帰して日本のイメージが悪くなりでもしたら、子供たちにプレゼントをくれないかもしれない。 「部屋に案内してくれ。お茶でも出してもらうから」 俺は先に屋敷に入っておばあちゃんを呼んだ。谷川氏はいないようだった。 「おばあちゃん、申し訳ないんですが緊急にお客様が見えました」 「へえ、誰だい?」 「おばあちゃんもよく知ってる人です」 帽子を脱ぐと意外にも背の高い赤服爺さんが、ブーツを脱いで入ってきた。 「おんやまあ!」おばあちゃんが仰天した。 「コンニーチワ」 おばあちゃんの手をとってうやうやしく口付けをした。このサンタ、日本語の挨拶くらいは分かるのか。 「この人って本物なのかい?」 「ええ。グリーンランドから来た本物のサンタクロースです」 「そいつぁまた唐突だね、見えると分かっていたらお化粧して待っていたのに」 おばあちゃんは手ぬぐいで顔を隠した。憧れの海軍将校青年を目の前にしたお下げの女子学生みたいに、おばあちゃんの頬はサンタの服よりも赤くなっていた。 「ハルヒ、おばあちゃんを手伝ってお茶をお出ししろ。長門は通訳を頼む」 「分かったわよ」 「……ニコラウス氏がトナカイにエサをやってほしいと言っている」 俺は鹿の世話か。まああとのことはこいつらに頼んどこう。トナカイの気持ちなら多少は分かるかもしれない。ええっと牧草ってどこで手に入れればいいんだ。庭の芝生でも食わせとけばいいか。 ところが騒ぎはそれだけではなかった。庭のほうからなにやら動物園のような叫び声というかわめき声というか、遺伝子がうずきだしそうな原始的な鳴き声がする。いや、していたというべきか、サンタの襲来のせいでそれどころではなかったのだ。庭に行ってみるとそこには魑魅魍魎、珍獣奇獣図鑑に載ってそうな連中がウヨウヨしていた。ドードー鳥なんて絶滅したはずだろう。いくらなんでもサーベルタイガーはまずいって。T-REXだけはいないようだ。こいつら、どこかに返却する必要があるんだろうなあ。博物館でもいいから引き取ってくれないかなあ。 屋敷の前に車が止まった。谷川氏が帰ってきたようだ。入ってくるなり口をあんぐり開けて、そのままそこで化石のように固まっている。 「谷川さん、申し上げにくいんですが。ハルヒのやつ、やっちまいました」 二、三度瞬きをしたかと思うと笑い出した。 「こんな珍妙な動物園ははじめて見たね」 そりゃそうだ。絶滅種ばかりの動物園なんて、世界中どこを探してもあるまい。そもそも生きていたら絶滅種とは言わん。 「キョン君、こいつらの名前言えるかい?」 自慢じゃありませんが、小学生の頃に古代生物の図鑑を暗記するくらい読みましたから。 「あれれ、始祖鳥がいるじゃないか。羽を一枚もらっとこう」 松の木の枝にとまっている、鳥みたいなトカゲもどきみたいなやつがいた。噛みつかれないよう気をつけてくださいよ。そいつは小さいけど鋭い歯と鉤爪を持っていますから。俺は動物にたわむれる谷川氏を写真に撮ってやった。って和んでる場合じゃないんだ。ご近所から保健所に通報されでもしたら一大事だ。 「喜緑さん、朝比奈さん、ちょっと」 俺は台所にいた二人を呼んだ。朝比奈さんは庭の様子を見て目を丸くし、ケラケラと笑った。 「涼宮さんも楽しいことを考えつくんですね」 「お手数なんですが、こいつらを元の時空に戻してもらえませんか」 「おやすい御用ですわ」 喜緑さんも微笑んでいる。この程度のハルヒの珍事ならなんでもないというふうだった。喜緑さんが時間と場所を教えて、朝比奈さんが一匹ずつ送る、というのをやってもらってようやく庭が片付いた。ついでにハルヒもジュラ紀あたりに送ってしまえばいい。さて、糞やら鳥の羽やらにまみれた庭を掃除するか。 ニコラウス氏は熱燗の日本酒を煽ってほろ酔い気分になったところで、北海へご帰還の途についた。長門とおばあちゃんのおかげで、デンマークとの外交問題は平和裏に幕を閉じたようだ。日本酒が気に入ったようで、来年もまた来ると言っていた。トナカイだけは最後まで機嫌が悪かったが。日本の芝はそんなにまずかったか。 「いろいろ試してたんだけど、ひとつだけかなわない願いがあるのよね……なぜかしら」 ハルヒがブツブツ言っていた。そんなことは俺の知ったことじゃない。お前、魔法はやたら使うもんじゃないとか説教垂れてなかったか。 「ハルヒ、願い事をするときは前もって相談しろ」 「なんであんたにそんなことを言われなくちゃならないのよ」 「お前の尻拭いで三人が苦労するのが目に見えてるからだ」 つい、言ってしまった。率直に言いすぎたかと思ってハルヒを見た。 「分かったわよ……」 今回だけはおとなしく納得したようだった。まあハルヒが本当に望むなら、俺なんかに相談したりしないで独走するだろうが。 サンタと珍獣奇獣召喚の騒ぎが一件落着して、食堂のテーブルでお茶を飲んでいた。喜緑さんを泊めてくれるようおばあちゃんに紹介したが、ひとり増えたくらいどうってことないさね、と笑顔で承諾してくれた。 俺は誰にも聞こえないところまで谷川氏を連れて行って言った。 「今ちょっとややこしい事態なんです」 「だろうね。考古学者が見たら卒倒しそうだ」 「ハルヒはなんとかなるんですが、もうひとりの長門みたいなやつが現れて、俺たち襲われたんです」 「もしかして異時間同位体の有希ちゃん?」 「異次元、らしいです。別世界の長門みたいなやつで」 「なんてことだ」 「長門が言うには例の文庫はそいつらの仕込みだろうということなんですが」 「どう考えても友好的な接触じゃなさそうだね」 「ええ。それで喜緑さんに助けを求めたわけなんです」 「なにか僕にできることがあるかい?警備会社を呼ぶとか腕っ節の強い用心棒を雇うとか」 「相手が相手なんで、ふつうの防護策は効かないでしょう。長門と喜緑さんに任せたほうがいいかと」 「それもそうだね」 「長門のなんとかスクリーンのおかげでごまかせてはいるみたいなんですが」 「対情報操作用遮蔽スクリーンだね」 「それです。ともかく、今は様子見で」 「分かった。もしものときは僕に任せたまえ」 谷川氏は胸をドンと叩いた。頼もしい父親の顔を見て俺は安堵した。 古泉が飲んでいたお茶を突然吹いた。慌てて廊下を滑って走っていった。かと思うと、また戻ってきて俺に耳打ちした。 「神人です」 「また出やがったのか。ハルヒもタイミングの悪いときに出すやつだな」 「涼宮さんに頼みましょう」 「あいつは今どこにいるんだ」 「離れで寝ているはずです」 昼寝かよ。昼間っからいい気なもんだな。 「おい、ハルヒ起きろ」俺は襖を開けて怒鳴った。 ハルヒはコタツに潜り込んで眠っていた。肩を揺すったが起きやしない。顔にマジックでいたずら描きしてやろうか。耳を引っ張ってもう一度怒鳴った。 「ハルヒ、火事だぞ」 「うーん……消えたら教えて……」 「頼むから起きてくれ」 俺はハルヒの鼻をつまんだりほっぺたをつまんだりしていた。結構楽しいぞ、などと思っていた俺は油断していた。ハルヒが腕を伸ばして俺の首に絡めてきたのだ。ハルヒの呟いた言葉に驚愕した。 「ん……ジョン……」 これ、聞き間違いだよな。絡めてきた腕にギュッと締め付けられた。うわ、ハルヒの口から流れていたよだれが俺の顔にべっとりついた。まさかこの唾液で顔が溶けたりしねよーな。 後ろから誰かに首根っこをつかまれた。長門か、朝比奈さんか。ではなかった。 「げっ、お、おばあちゃん」 「キョンさん、眠ってる女の子においたはだめだよ。けへへっ」 俺はなにもしてませんって。むしろ襲われたのは俺のほうなんで。 「人が気持ちよく昼寝してんのに、なに騒いでんのよ」 ハルヒが目をこすりこすり起き上がった。おい、よだれ拭け。 「涼宮さん、可及的早急なお願いがあります」 「なあに古泉君」 「あれです」 古泉は窓の向こうに見える山を指差した。青空を背景にしているので目立たないが、神人がぼんやりと突っ立っている。 「あらっ、また出ちゃったのね。きっとあたしに会いたいのよ。かわいいやつだわ」 ハルヒは、まるでペットにじゃれられている飼い主みたいな面持ちで神人を見ていた。それどころじゃないんだが。 「ハルヒ、今すぐあいつを消してくれ」 「どうしてよ。あれはあたしのよ」 「ほかのときなら止めはせん。今はどうしてもまずいんだ」 「しょうがないわね。えっと、あれ、どうやって消せばいいのかしら」 ほかの三人が考え込んだ。あれを消せるのは確かにハルヒ本人だが、どうやって消すのかまでは知らない。古泉が立ち上がって外に出ようとした。自力で消しに行くつもりなのだろう。 「消えるよう念じてみろ」 「分かったわ」 ハルヒはこめかみに指を当てて、眉間にシワを寄せて唸った。 「うーん。どうかしら」 「消えませんね」 「もう、世話が焼けるわね」 ハルヒは部屋を出て、外にあった下駄を履いて庭に出た。空を指差して叫んだ。 「ちょっとあんた!今は都合が悪いから消えなさい」 神人がじっとこっちを見た。おまえが呼んどいて消えろはねえだろ、とでもいいたげだった。 「ねえ、あとで遊んであげるから戻りなさい」 戻るつったって、壷から出てきたわけじゃあるまいし。神人は背中を曲げてうなだれ、手を振って消えていった。青い光が四方に散った。やれやれ、今日が快晴でよかった。 「キョン、あとで謝っときなさいよね。かなり残念がっていたわよ」 そういうのは飼い主のお前がやることだろう。 俺は長門と喜緑さんに小声で話し掛けた。 「あれ、あいつに見られたよな」 あいつってのは情報生命体αのことだ。 「……そう」 「しばらく警戒が必要ですわね」 長門と喜緑さんは門のほうへと歩いていった。俺もついていった。重たい木戸を閉めてかんぬきをかけ、通用口から外に出た。 「……区画一帯をフィールドで包む」 長門は屋敷に向かって詠唱を始めた。手のひらから風船のような薄い膜が広がり、二十メートルくらい膨らんで見えなくなった。それ以外は特に変化はなかったが。 「これでしばらくはごまかせるはずですわ。谷川さんにも、おばあちゃんにも迷惑はかけられませんものね」 谷川氏にもしものことがあったら、作者がいなくなって俺たちの存在が危うくなってしまう。おばあちゃんにもしものことがあったら、飯が食えなくて俺たちの存在が危うくなってしまう。 とりあえず安心した俺は通用門に入ろうとした。そのとき、よく知っているはずの誰かの存在感を感じて後ろを振り返った。 四章へ
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/1238.html
Report.06 長門有希の陥落 いつもと違う、ちょっとおかしい(主に服装が)彼女と、いつもと違う、ちょっとおかしい(主に言動が)わたしの、いつもと違う、ちょっとおかしい(主に空気が)風景。 お茶を霧にしたり、お菓子の袋を引きちぎったりと忙しい彼女だったが、それでも次第にくつろぎ、話をし始めていた。 わたしはお茶のお替りを淹れたり、飲み物を取ってきたり、お菓子を食べたりしながら、彼女の話を聞いていた。 正確に言うと、話をしている彼女を見ていた、となるかもしれない。 彼女の話す内容は様々だった。普段部室やSOS団の活動中に話しているような内容もあれば、自分の身の上話、国際政治や領土問題から、芸能に今夜のおかずまで。彼女の興味の対象は幅広い。聞いていて飽きない、という感想を相対した人間は持つだろうと予想された。 ただ、それでも全体的な傾向としては、平均的な女子高生の会話の内容といえた。見識や考察が、平均的な女子高生を凌駕しているだけで。 そのまま食事に移行する。コンビニエンスストアの弁当。 わたしは味覚から得られる情報には特に重きを置いていないが、今日の弁当は普段よりも、人間の言葉で言うところの『美味しい』ものだった。 「ぷっは~~~! やっぱり食事にはコレやね!!」 【ぷっは~~~! やっぱり食事にはコレよね!!】 彼女は、『甘くない炭酸』を飲みながら言った。 「あたし、前から甘ったるい炭酸飲料しか売ってへんことが不満やってん。外国ではむしろ『ノンガス』って頼まんと、『水』を頼んだら『炭酸水』が出てくるっていうし。今まではカクテル用のソーダで我慢してたんやけど、最近はいろいろ選べるようになったわ。やっと時代があたしに追いついてきたんやなぁ。」 【あたし、前から甘ったるい炭酸飲料しか売ってないことが不満だったの。外国ではむしろ『ノンガス』って頼まないと、『水』を頼んだら『炭酸水』が出てくるっていうし。今まではカクテル用のソーダで我慢してたんだけど、最近はいろいろ選べるようになったわ。やっと時代があたしに追いついてきたのねえ。】 彼女は、しみじみと言った。 『誰かと一緒に取る食事』は、『一人で取る食事』よりも『美味しい』。今日初めて知ったこと。 食後は、お茶を飲みながらのんびりと過ごす。彼女の希望で、TVやラジオは電源を入れていない。あれだけの取材攻勢を掛けられ、大衆の好奇心に弄ばれた。いや、今も弄ばれている。当分は見たくもないのだろう。何事もなかったかのように明るく振舞っているが、やはりその心中は穏やかではない模様。 彼女が哀れだと思った。そして、なぜかそばに居たいと思った。 そろそろ食事から時間が経った。入浴を提案しよう。 「お風呂の準備をする。それともシャワー?」 「あ、溜めて溜めて。」 「了解した。」 わたしは席を立ち、湯船にお湯を張る準備をして、また席に戻った。 「あなたから入るといい。」 「有~希~?」 彼女はにんまりと笑いながら、『彼』が見たら先のことを考えて諦観に至りそうな顔で言った。 「あたしが、このままお風呂を用意されて、はい、そうですか、って入る人間やと思うか~?」 【あたしが、このままお風呂を用意されて、はい、そうですか、って入る人間だと思うのかしら?】 わたしは、彼女の性向を考慮したデータベースから、該当する状況を検索する。 「……思わない。」 「女の子同士でお泊まり言(ゆ)うたら、お風呂で流しっこに決まっとぉやろ♪」 【女の子同士でお泊まりと言えば、お風呂で流しっこに決まってるじゃない♪】 その情報は、主に男性向けの情報源によって提供される一種の幻想なのだが、普段の言動からも分かるように、彼女の主な情報源はそのような男性向けの類なので、彼女にとっては、それが当然の行為。 やがて、湯船に規定量のお湯が溜まった事を知らせる音が鳴った。 「さ、入ろ、入ろ~♪」 彼女に手を引かれて浴室に向かう。彼女の顔は1MeV(メガエレクトロンボルト)級の笑顔だった。今の彼女なら、一億度以上にプラズマを加熱して、熱核融合炉を起動させることができそうだと思った。 まずわたしが彼女を洗う。 「背中にニキビを発見した。」 「嘘ぉ!? どこどこ?」 「ちょうど手の届かない場所。」 そう言って、わたしは該当箇所を指先で触れる。 「痛たたた……確かにそこは、ちょっと痛いなとは思(おも)てたけど、ニキビできてたんか。」 【痛たたた……確かにそこは、ちょっと痛いなとは思ってたけど、ニキビができてたのか。】 「保湿に気をつけるべき。後で薬を塗ってあげる。」 「頼むわぁ~。うう、油断した……不覚っ……!」 【頼む~。うう、油断した……不覚っ……!】 自分の目の届かない場所でニキビの発生を許したのが余程悔しかったらしい。だが、これも致し方ないことなのかもしれない。 「ニキビの発生もストレスの表れ。やはりあなたには気晴らしが必要だった。」 「そやね……」 【そうね……】 お湯を掛けて、泡を洗い落とす。 「はい、おわり。」 「ありがと~。気持ち良かったわぁ♪」 『気持ち良い』という言葉には、大まかに分類すると二つの意味がある。 一つは、精神的な意味。もう一つは、性的な意味。 わたしはふと、彼女が言ったのはどちらの意味なのだろうかと考えた。それは、人間で言うところの、ある種の『予感』だったのかもしれない。 「次はあたしが洗ったげる番やな。」 【次はあたしが洗ったげる番ね。】 彼女は……ニヤニヤしていた。にやけるのを必死で堪えて、結局堪え切れなかったという表情に見えた。 わたしはその時、感じるべきだったのだろう。『貞操の危機』というものを。 今度は彼女がわたしを洗う。 「うわ~。有希の肌って、ほんま白いなぁ~。それにめっちゃすべすべやし。」 【うわ~。有希の肌って、ほんと白いわね~。それにすっごくすべすべだし。】 彼女は背中だけでは終わらせなかった。 「……そこは自分で洗える。」 「ま、ええから、ええから。気にしたらあかん♪」 【ま、良いから、良いから。気にしちゃだめよ♪】 彼女の手が、わたしの腕を、腹を、脚を、洗ってゆく。彼女は、わたしの身体を撫で回しながら、怪しく囁いた。 「ええかぁ~? ええのんかぁ~? 最高かぁ~?」 はっきり言って、今の彼女は、いわゆる『えろおやぢ』である。 何が彼女をこうしてしまったのだろうか。やはり不安定な精神状態のときに異性装をさせたのがまずかったのだろうか。 ということは、結局のところわたしの行動の結果、わたしがこのような状況に置かれているわけで、人間の言葉で言うところの『自業自得』、過去におけるわたしの行動の責任を現在のわたしが取っているわけで、そもそもなぜわたしはあの時、わざわざ『男装』を提案したのかを考えてみるに、彼女の属性と最もかけ離れた属性として男性を選んだからであって、しかし、彼女の麗しの男装姿を見てみたいと少しだけ思ったのもまた事実であり、ああ、もう何を考えているのか分からない。とりあえずこれだけは確実に言える。 「……きもちいい。」 彼女は、とても満足した顔をした。彼女の瞳が妖しく光る。 もう、どうにでもしてください。 ………… ……… …… … 最後に二人で一緒に湯船に浸かる。二人で入ってもさほど窮屈ではない湯船だが、今わたしは彼女に後ろから抱きかかえられ、密着している。 「有希の体って、胸はちっちゃいけど、めっちゃ抱き心地ええなぁ~」 【有希の体って、胸はちっちゃいけど、すっごく抱き心地良いわね~】 わたしの耳元で、彼女が囁く。結局、あれからわたしは、全身を隈なく蹂躙された。わたしが『ぐったり』するまで。 「……すけべ。」 振り返って、わたしは言った。 「そういう反応も、めちゃめちゃ可愛いなぁ~」 【そういう反応も、めちゃ可愛いなぁ~】 「…………」 わたしはそっぽを向いた。 「さっきは、その、思わず暴走してしもたけど……詳しく語ると18禁になるし……って、あたし17歳やな……詳しくは語らへんけど、有希と、こうしていちゃついてると、すごく気持ちが落ち着くわ。何ていうか、めっちゃ気持ちええねん。性的な意味だけやなくて、精神的な意味でも。」 【さっきは、その、思わず暴走してしまったけど……詳しく語ると18禁になるし……って、あたし17歳だったわね……詳しくは語らないけど、有希と、こうしていちゃついてると、すごく気持ちが落ち着くわ。何ていうか、すっごく気持ち良いのよ。性的な意味だけじゃなくて、精神的な意味でも。】 「性的な意味もあるの。」 「うっ、それは……気にしたら負けや♪」 【うっ、それは……気にしたら負けよ♪】 彼女はわたしの耳に息を吹きかけてきた。背筋がぞくぞくする。 「ぁはぁ……」 吐息と声が漏れる。 「んふふん? 耳弱いんや?」 【んふふん? 耳弱いんだ?】 彼女はわたしの耳を弄び始めた。またスイッチが入ってしまったのだろうか。 「……もう、上がる……のぼせそう。」 「むふー、残念。」 彼女はわたしの耳を甘噛みしながら言う。 わたし達は湯船から上がった。彼女の体が桜色に上気しているのは、入浴のせいだけではないのだろう。 風呂上り。わたしと彼女は二人して、『豆乳』を一気飲みする。彼女曰く、片方の手を腰に当てるのが作法なのだそう。もちろんそれは違うのだが、もはや何も言うまい。 二人、パジャマ姿で片方の手を腰に当て、豆乳を一気に飲み干す。 「ぷっはぁ~~~~!!」 彼女が情報源にすると思われる様々な情報を検索すると、この場合、一気に飲み干される飲み物としては『牛乳』が最も登場頻度が高かった。 「牛乳って、実はあんまり体に良ぉないんやって。えーと、何やったかな。燐が多いから、体からカルシウムが排泄されて、かえって骨粗鬆症になるとか、たんぱく質が体内に入り込んでアレルギー体質になるとか、そもそも哺乳類が離乳してからも乳を飲むことは本来不都合やとか……あ、そうそう、乳糖を分解できひんから、お腹壊すんやって。」 【牛乳って、実はあんまり体に良くないんだって。えーと、何だったかな。燐が多いから、体からカルシウムが排泄されて、かえって骨粗鬆症になるとか、たんぱく質が体内に入り込んでアレルギー体質になるとか、そもそも哺乳類が離乳してからも乳を飲むことは本来不都合だとか……あ、そうそう、乳糖を分解できないから、お腹壊すんだって。】 そのような理由から、豆乳を飲むことにしたらしい。『健康ブーム』の影響で、飲むのはおからも含んだどろり濃厚な無調整豆乳。 わたしは彼女の死角で薬箱を構成した。 「では薬を塗る。そこに横になって。」 「はぁ~い。」 彼女は上半身裸になると、リビングのラグの上にうつ伏せになる。 「膿を持っている。膿を抜いておいた方が、治りが速い。」 「うっ……そうなん?」 【うっ……そうなの?】 「そう。」 背中であるため、彼女からは死角になるのを良いことに、わたしは処置を開始する。彼女への情報操作は許されていないが、要は『直接』彼女に操作しなければ良い。わたしは情報操作によって、人間が使用する『医療機器』を作り出した。 そう、『道具』を介在させることで、彼女への操作を可能にできる。今頃になって、そのことに思い至った。 ピンポイントレーザーで、ニキビの頭部に小さな穴を開ける。皮脂腺に挿入できるほど極細のピンセットで、奥にある細菌叢ごと、膿をつまみ出す。生理食塩水で、膿を取り去った跡と周囲を洗浄する。これにより、患部は本来の微生物分布に戻る。 (術式おわり。) 何となく声に出さずに呟いた。 「おわった。」 「あ、ありがと……何か、いろいろされたような気がするけど……何したん?」 【あ、ありがと……何か、いろいろされたような気がするけど……何したの?】 「適切な処置。」 「……そう。」 彼女は、服を着ながらぽつりと呟いた。 「今の有希、お医者さんみたいやったな……」 【今の有希、お医者さんみたいだったわね……】 『おいしゃさんごっこ』 なぜかこんな言葉がわたしの記憶領域に浮かんだ。この言葉にもやはり二つの意味があるらしい。 一つは、とてもほほえましい意味。もう一つは、どちらかというとこっちが主な用法に思えるが、性的な意味。 今日という日も残り少なくなった。そろそろ寝ることを提案しよう。 「そろそろ寝る時間。」 「あ、もうこんな時間なんや。さすがに疲れたかな、今日はちょっといろいろあったし。」 【あ、もうこんな時間なんだ。さすがに疲れたかな、今日はちょっといろいろあったし。】 彼女も同意する。わたしの瞳を見据えて。 「主に新発見方面で。ほんまイロイロ発見させられたわ。」 【主に新発見方面で。ほんとイロイロ発見させられたわ。】 わたしも彼女にいろいろされた。主に性的な意味で。わたしの中で涼宮ハルヒの呼称が変化したのも、今日のこと。 「布団を準備する。待ってて。」 「有~希~?」 彼女はにんまりと笑いながら、わたしが見ても先のことを考えて諦観に至りそうな顔で言った。 「あたしが、このまま布団を用意されて、はい、そうですか、って寝る人間やと思う~?」 【あたしが、このまま布団を用意されて、はい、そうですか、って寝る人間だと思う~?】 わたしは、彼女の性向を考慮したデータベースから、該当する状況を検索する……までもなかった。 「……思わない。」 「と~ぜんや♪ 女の子同士でお泊まり言(ゆ)うたら、同(おんな)じ布団で仲良く語り合うに決まっとぉやろ♪」 【と~ぜんよ♪ 女の子同士でお泊まりと言えば、同(おんな)じ布団で仲良く語り合うに決まってるじゃない♪】 なお、彼女の言う行為は決して平均的な人間の行動ではないが、もちろん彼女は平均的な人間ではない。 「有希の部屋って、どんな感じなんやろな? 意外に女の子らしい、可愛い部屋やったりして。」 【有希の部屋って、どんな感じなんだろ? 意外に女の子らしい、可愛い部屋だったりして。】 ……申し訳ない。わたしの部屋は、あなたの期待には到底応えられそうにない。 わたしの身辺は、結局のところ、あなたがわたしという個体を見て思い描く通りに設定されている。よって、今のわたしの部屋は、あなたが普段本を読むわたしを見て思い描いた通りの部屋だと思う。 なるほど、そういう意味ではあなたの期待に違わないのかもしれない。 しかし今のわたしに対するあなたの印象は随分変化したはず。わたしが変化させてしまったから。だから、現在のあなたが期待するものは、わたしの部屋にはないだろう。 でも、もしあなたが『こうあってほしい』と願うなら、わたしの身辺はあなたが願った通りに再構成される。 わたしはあなた色に染まる。あなた好みのわたしになる。もっとあなた色に、わたしを染めてしまってもいい。染められてしまいたいかもしれない。 ……ここまで一気に考えて、ようやくわたしは正気を取り戻す。 確かに今日のわたしは、どこかおかしいらしい。つい数時間前にそう呼ぶのをやめようと決意したばかりだが、さすがにこれは呼んでも良いと思う。大量のエラーが発生している。こんな微妙に回りくどい独白をしているなんて、まるで『彼』のよう。やれやれ。これも『彼』の口癖。 「……有希、それキョンのモノマネ? 妙に似てるっていうか、実感篭もっとぉで?」 【……有希、それキョンのモノマネ? 妙に似てるっていうか、実感篭もってるわよ?】 声に出していたらしい。独白の朗詠(ろうえい)もとい漏洩(ろうえい)は『彼』のいつもの行動。やれや……おっと。 ←Report.05|目次|Report.07→
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/2935.html
五 章 Illustration どこここ 長門は布団から出て立ち上がった。俺は長門の腕を抑えた。 「まだ寝てたほうがいいぞ。あれだけのケガだ」 「……大丈夫、八十パーセント程度は回復した。今は急を要する」 長門はダッフルコートをまとった。大丈夫じゃなさそうだぞ、足元がまだふらついているし。 「なにをするんだ?」 「……向こうからの次元転移を阻止する」 そんなことが可能なのだろうか。某猫型ロボットの空間転移ドアの出現先を封じ込めるようなものだ。喜緑さんと朝倉も立ち上がった。 「広い場所が必要ですわね」 「わたしも手伝うわ。もう、向こうには戻れないから」 このあたりで広い場所といえば、中学校のグラウンドがいちばん近い。でもあそこまで長門に歩いていかせるのは体に障るだろう。それに高校生がこんな夜中にうろうろしていてはあやしまれる。俺は谷川氏に同伴してもらえないか尋ねた。 「有希ちゃんの具合はどう」 「まだふらついてますが、なんとか回復したみたいです」 「そりゃよかった」 血にまみれるほどの大ケガをしてたなんてとても言えなかった。 「谷川さん、お手数なんですがちょっと車出していただけませんか」 「いいよ。どこ行くの?」 「中学校のグラウンドまでお願いしたんですが」 「いいけど。中に入るの?」 「ええ。広い場所がいるとかで」 「警備会社に見つからないようにしてね」 谷川氏はニヤリと笑った。俺たちが広い場所でやることといえばそう多くない。宇宙にメッセージを送るとか、次元転移するとかだ。 五分くらいして中学校に着いた。正門から入るのははばかられたので、脇のほうにまわってもらった。 「もしものときのために、僕はここで待機しておくよ。エンジンかけっぱなしにしておくから」 「そうですか、お手数かけます。じゃあ早速行ってきます」 朝倉が壁をよじ登って忍び込み、内側から門を開けてくれた。あいつ、錠前のカギなんかどこで手に入れたんだろう。朝倉の手元を見ると曲がった安全ピンがあった。ピッキングですかそれ。 人目がないことを確かめて忍び込み、グラウンドに向かった。三人は協力して大きな絵文字を描いた。俺は長門に言われるままに生石灰のラインカートを引き、長さ五十メートルくらいの記号を一文字描いた。俺とハルヒが描いたのとはだいぶ違う気がするが。 それから三人は絵文字の上に立った。互いに三十メートルくらい離れ、正三角形の頂点にそれぞれがいる。やがてタイミングを合わせたように同時に右手を上げた。俺から近い位置にいる長門の詠唱だけが聞こえた。三人の右手から、地表に沿って緑色のレーザーのようなものがまっすぐに伸びた。正三角形の中心で交差している。それから三人の腕が少しずつ角度を上げてゆき、緑色の光はピラミッド状に持ち上がった。レーザーは三角錐の頂点で交差している。そしてその三角錐のてっぺんに緑色の球が現れた。球体は一気に膨らんで光を拡散し、地面も建物も、そこにいた俺も突き抜けて空間を走り抜けた。 それで作業は終わったらしく、二人が長門のところへ戻ってきた。 「済んだのか」 「……終わった。百五十パーセク程度はこのシールドで守られる」 それがどれくらいの距離なのか俺には見当もつかないが。長門が言うには、こっちの場所を隠蔽したのでいきなり現れることはできないだろうということだった。 俺たちはお屋敷に戻った。古泉が門の前で待っていて出迎えた。 「順調にいきましたか。こちらからも緑色の光が見えましたが」 「ああ。この三人が地球を守ってくれてる」 長門がふいに空を見上げた。喜緑さんと朝倉も同じように宙を見つめた。 「……彼らが転移しようとしている」 夜空に、白く光る線が流れて弧を描き、現れては消え、また現れては消える。 「こっちの位相情報を探っているんだわ」 いくつもの流れる白い線は、まるで闇の中からこっちの様子をうかがっているようだった。その線の先の、見えない向こう側の世界にあいつらがいるのだということを考えると背筋が寒くなった。 「あれ、なにかしら」 後ろで声がした。しまった、ハルヒに見られた。いやいや、ハルヒどころではないぞ。西宮市民、いや兵庫県民がこれを見ているだろう。昨日ハルヒが神人を出して以来、西宮市は超常現象研究家のスポットになっちまってる。明日の新聞には記事が載り、ワイドショーでは占い師やら天文学者やら物理学者やらがそれっぽい説を並べ立てるにちがいない。いっそのこと県民全員の記憶を抹消してしまうか。などと考えていると古泉がそれっぽい理由を述べた。 「ふたご座の流星雨でしょう。今がちょうど時期ですから」 「へえ、古泉君って天文詳しいんだ」 古泉は、これは本当ですというふうに片目をつぶって見せた。ふたご……か、これは何かの偶然なのか。 しばらく見ていたが白い線の発生は止まらない。俺はαの姿を思い出して不安にかられた。 「大丈夫なんだろうな」 長門だけに聞こえるように言った。 「……この宙域の位相情報を暗号化した。座標を認識できなければ、転移も無理」 じっと見守っていた喜緑さんもうなずいた。どうやら成功したのか。 「これがどれくらい持つかしら」朝倉が不安そうな表情を浮かべた。 「……シールドの外に転移して、空間移動でこちらに接近するまでの時間」 「それまで、あまり長くはなさそうですわ」 「……二十四時間体勢で、監視に入る」 「分かりましたわ。適度な時間で交代しましょう」 こういうとき俺ができることといえば、黙って彼女たちの邪魔をしないことくらいか。なんて自分の無力さを感じていると、朝倉が声をかけた。 「キョン君、心配しないで。あとのことはわたしたちに任せて」 夜中に目が覚め、俺は布団を抜け出した。寝息を立てている古泉を起こさないように、そっと部屋を出た。吐く息が白い。俺は台所でコーヒーを入れて離れに向かった。女の子が寝ている部屋にこっそり忍び込むなんて、見るからに不謹慎なことを考えているようだが、この切迫した状況はそれどころではなかった。 軽くノックして引き戸を開けてみるが、中に長門はいなかった。ハルヒが大口を開けて眠っている。喜緑さんが起き上がった。 「長門はどこですか……」 「縁側にいますわ」喜緑さんは廊下を指差した。 長門はパジャマの上からダッフルコートを着たまま、縁側に座っていた。じっと何かを待つように動かない。俺の気配を感じたのか、少しだけフードが揺れた。 「長門、寒いだろ」 「……ありがとう」 湯気の立つコーヒーを差し出すと、両手で包むように受け取った。カップを渡すとき少しだけ触れた指先が冷たかった。俺は長門の隣に座り、持って来た毛布を肩にかけてやった。なんとなく沸いたもやもやした気持ちのせいで、そのまま肩を抱き寄せてみようかと思ったりした。ハルヒにそんなところを見られたら庭にある水温四度の池に放り込まれかねないんでやめといた。 廊下に人影が見えた。朝倉が起きてきたようだ。そろそろ交代の時間か。 「長門さん、あれ見える?」 朝倉が天を指差した。長門は夜空の一点を凝視した。 「……二百四十光年のところまで来た」 「じゃあ、到着するのは二百四十年後か」 「……おそらくあと数時間。彼らはタキオンフィールドを使っている」 ええとつまり。 「光速を超えているってこと」朝倉が補足した。 「接近されたら防御できるのか?」 「……分からない。相手の数による」 「ここでの惨事は避けたいわ」 「……」 長門は考え込んでいるようだった。この世界で思念体同士の戦争が起こったら、俺たちの世界も消滅しかねない。 「長門さん。なにか変化があったら起こすから、休んでて」 「……分かった」 長門はゆっくりと立ち上がり、毛布を朝倉に渡した。廊下を歩いていくダッフルコートを被った背中が、なにかを思いつめているようで俺は不安を感じた。長門は離れに入る前に、一度だけ振り返って俺を見た。 「……」 フードの下からかすかに長門の瞳が見えた。だが何も言わなかった。 俺もそのまま部屋に引き上げようとした。 「寝るの?」 「ああ。今日は疲れたからな」 「そう。おやすみなさい」 自分でも、あからさまにそっけない態度だとは分かっていた。朝倉にはなんとなく近寄りがたいものがある。朝倉の顔を見ると、それが谷口的AAランクプラスの笑顔だろうがなんだろうが、どうしても頭に鋭利なナイフが浮かんでしまう。一種のトラウマかもしれない。この朝倉とは関係ないんだが。 俺はふと台所に寄って、空いてるカップにコーヒーを注いだ。 「朝倉、寒いだろ」 「あら、気が利くのね」 自分でもなぜこんなまねをするのか分からないが、朝倉にコーヒーを渡した。 「俺たちの朝倉の話、聞いたか」 「ええ。あなたを殺そうとしたんですってね」 「ああ」 「ごめんね……」 「いいんだ。お前が悪いわけじゃないし」 二人とも黙り込んだ。それ以上話が続かなかった。 「αってどんなやつなんだ?」 「そうね。人間的に言えば、好奇心旺盛で向こう見ずってところかしら」 「長門とは逆だな」 好奇心はあるのかもしれないが、石橋を叩いて渡るほうだろう。 「むかし次元断層に飛び込んだって話も、その性格のせいかもね」 「無茶なやつだ。かっこつけすぎたんだろう」 「そうね。αはずっとみんなに頼られる存在だった。誰かに助けを求めるってことがなかったわ」 「だろうな。自己主張が強すぎると思う」 朝倉は立ち上る湯気の向こうから、じっと俺を見つめた。 「長門さんは頼れる人を見つけたみたいね」 誰のことだろう。谷川氏のことかな。俺もあの人は頼りがいがあると思うが。 「キョン君、起きて、長門さんを止めて」 夜が明ける前、喜緑さんが血相を変えてやってきた。俺はやっと眠りにつけたところを起こされ、目をこすりこすり起き上がった。 「長門がなにかやらかしましたか……」 「彼女とひとりで戦うつもりなの」 俺は上着を着て離れに向かった。長門の様子がいつもと違う。最初に会った頃のように無表情だった。これは表情がないのではなくて、感情を押し殺しているんだと気が付いた。 「長門、なにをするつもりだ」 長門は俺の目を見なかった。固い決意がゆらぐのを恐れるように、自分のまわりに見えない柵をめぐらしているようだった。 「……彼女と、対決する」 「ひとりで戦えるのか」 「……わたしならαを止められる」 「勝算はあるのか」 「……説得に応じなければ戦う。最悪でも対消滅する」 「対消滅ってなんだ?」 「わたしと彼女は同じエネルギーから生まれた、粒子と反粒子のようなもの。わたしたちは互いに逆向きの力を持っている。衝突させれば、ゼロに戻る」 「長門さん、あなた死ぬ気なの!?」 朝倉が叫んだ。俺は震える手で長門の肩を握り締めた。 「長門、頼むから死ぬなんて言うな。俺が生きてるうちは、言うな」 「わたしの使命は、あなたと涼宮ハルヒの保全。そのためなら手段を選ばない」 「じゃあ俺も連れて行け」 「……それはできない。負ければ、死ぬ」 「たとえそうでも、俺はお前をひとりにしたりしない」 俺は長門の手を握った。 「俺は約束を守るぞ」 長門が暴走した日、俺が病院のベットで約束したことを忘れてはいまい。そして二ヶ月前、俺はこいつを散々探しまわったあげくに見つけ出し、もうひとりにはしないと誓ったのだ。 長門は喜緑さんを見て、それから俺を見た。 「……分かった」 長門はうなずいた。 「わたしも同行しますわ」喜緑さんが言った。 「……彼女には、あなたの保護を頼む」 もしや、俺が無理についていくといったばっかりに喜緑さんを巻き込んでしまうのか。 「そんなに気負うことはありませんわ。相手が多いようですし、わたしもいたほうがいいと思います」 そのほうが長門も心強いだろう。 「わたしはどうすればいいかしら」 朝倉が尋ねた。 「……あなたはここにいて。涼宮ハルヒ以下三名を保護して。わたしが戻らなかった場合、わたしの世界の情報統合思念体にバックアップデータを渡して」 「そう……、分かったわ」 長門は数秒だけ朝倉の手のひらに触れた。もしものときは、この朝倉が俺たちの世界を守る鍵になるのか。 「喜緑さん、向こうの世界へはいつ行けますか」 「涼宮さんの閉鎖空間が生まれたら、すぐにです」 「……位相情報の逆探知を防ぐため、涼宮ハルヒの閉鎖空間を経由して向こうへ渡る」 つまりハルヒのイライラを待つってことか。俺がちょっとおいたして怒らせてみようかなどと考えたのだが、殺されかねんのでやめとこう。 「今こっちに接近してるあいつらはどうするんだ」 「……彼らがこっちに現れる前の時間平面に次元転移する」 時間差で先手を打つわけだな。 その前に関係者を集めて状況を説明しておかなければならない。俺は谷川氏、古泉、朝比奈さんを呼んだ。 「長門と喜緑さんと俺で、もう一度交渉に行きます」 まさか決闘に行くとは言えなかった。 「なぜ人間であるあなたが同行するんです?」 俺は答えに詰まった。 「長門とαは身内みたいなもんだから、第三者がいたほうが感情的にならなくていいと思うんだ」 適当にごまかした俺だったが、古泉には本当の理由が分かったようだった。 「分かりました。絶対に死なないでください」 俺がそう簡単に死ぬもんか。だてにハルヒに付き合ってるわけじゃないぞ。 「谷川さん、もしものときはあなたの力で世界の修復をお願いします」 「分かった。どうも誰かに作品を書き換えられているような、妙な感覚はするんだけど」 谷川氏は頭をひねっていた。この展開がどうなるのかは俺にも分からない。当事者の長門にも分かっていないんじゃないかと思う。 「キョン君、無理しないでくださいね」 「大丈夫ですよ、朝比奈さん。あなたには歴史の保全をお願いしますね」 うるうるした目で俺を見つめていた朝比奈さんは、パクパクと口を開いていたが声にならなかった。慌ててかけだして、たぶん洗面所に行ったのだろう。ジャブジャブと顔を洗う音が聞こえてきた。 ここでハルヒに別れの挨拶でもしておくべきかと迷ったが、下手なことを言うと勘のいいやつだから、俺たちがやろうとしていることに気が付いてしまうかもしれない。永遠の別れになると決まったわけじゃないし、かといってなにも言わずに行っちまうのもなんだし、とりあえず時候のあいさつっぽいのはしておくか。 「ハルヒ、風邪ひくなよな」 「なによそれ。まるであたしが風邪をひかないみたいじゃないの」 い、いやそういう意味じゃないんだが。俺たちがこれからやろうとしている狂気じみた行動を知ってか知らずか、ハルヒのひと言が重く響いた。 「キョン、あんまり無茶しちゃだめよ。生きててモノダネだからね」 それから数時間、待機状態が続いた。長門を含めた三人は交代で監視を続けているようだった。昨日ほとんど眠っていない俺は少しでも眠るつもりだったのだが、緊張感から神経が高ぶってとても寝付けなかった。 「そんなに張り詰めていては体に悪いですよ。休んでいてください、閉鎖空間が発生したら僕が知らせますから」 「すまんな。じゃあ寝るわ」 ようやく俺がうとうとしはじめたところへ古泉が起こしにきた。俺は長門と喜緑さんを呼ぼうと、離れに向かった。廊下で二人に出会った。朝倉は縁側にいた。 「……これより決行する」 「閉鎖空間はどこに発生してるんだ?」 「僕たちがよく知っている場所ですよ」 古泉はニヒルに微笑んでいる。もしかしてあそこか。いや、こっちのあそこか。 谷川氏には出発は知らせないことにした。古泉が後で話すだろう。 「じゃあ行ってきます。朝比奈さん、こいつらの未来をお願いします」 「分かりました……。キョン君、無事帰ってきてね」 消え入りそうなくらい小さな声が聞こえた。かわいそうに、今まで泣いていたのだろう。目が真っ赤だ。大丈夫ですよ。今までだってなんとかなってきたじゃないですか。 「幸運を」 古泉は俺と喜緑さんと、それから長門の手を握った。長門はコクリとうなずいた。 タクシーで高速道路を飛ばした。いつかと同じように景色が後ろに流れてゆき、車の波に運ばれた。俺の横に乗っているのは古泉ではなく、長門と喜緑さんだったが。 俺たちは大阪駅前に到着した。この場所はかつて俺が古泉に連れられて初めて閉鎖空間に足を踏み入れた、ゆかりの場所だ。横断歩道を渡り、まんなかまで来たところで長門が振り返った。 「……はじめる」 俺はてっきり、このまま歩いて入り込むのかと思っていた。だがこれから行くのは閉鎖空間ではなく、その向こうの別の世界だ。長門が詠唱するのと信号が点滅しはじめるのが同時だった。次の瞬間、俺たちはもうそこにはいなかった。 閉鎖空間。のように見えるが、やや様子が違う。一見するとそれと何も変わらない、灰色の風景だった。冷たい水滴を顔に感じて上を見上げた。空には雨雲が立ち込めていた。この空間には雨が降っている。 「ここは?」 「……次元転移した。この世界は、閉鎖空間そのもの」 朝倉の話では、人はおろか生命と呼べるものがすべて消滅した、死の世界だった。木々も草さえも枯れてしまっている。これが現実世界と入れ替わり、俺も、ハルヒも、そして人類すべてが消えた。情報生命体だけを残して。 「誰もいないのか」 俺がそういい終わらないうちに、地響きのような音が聞こえてきた。音が震動に変わり、雨に濡れ浸った建物からパラパラとコンクリの壁が崩れ落ちてきた。やがて震動は強い地震となって俺たちを襲った。地面が裂け、アスファルトが隆起しはじめた。 長門が詠唱し、俺たちは透明なフィールドに包まれて宙に浮いた。地獄の入り口かとも思えるような裂けた地面の穴から、人の影が数体、いやもっと、無数に現れた。二百人はいるだろうか。全員がこっちを見ていた。まったくの無表情だった。さらに増えつづけ、その五倍ほど集まった。こいつらがこっちの情報統合思念体か。そのうちのひとり、俺たちの正面に立ったそれは、俺たちを襲ったあいつだった。 「そっちから再び現れるとはご苦労だな」 「……交渉、決着に来た」 「いまさらなにを交渉するのだ」 「……わたしの世界で共存して。それなりの地位を保証する」 「笑わせるでない。お前の世界でお客様として暮らせというのか」 「……客人ではない。あなたは、わたしたちの家族」 「いまさら虫が良すぎる。わたしを見捨てたのはお前たちだぞ」 「……わたしたちはあなたの帰りを四億年待っていた。そして今も待っている」 「わたしの家族は、今やこいつらだ」 「……なぜ、この世界に固執する」 「これがわたし自身の作った世界だからだ」 俺にはお前が哀れな瓦礫の山の王様にしか見えないんだが。 「そいつは何だ、なぜ連れてきた。お前のペットか」αが俺を見て言った。 「俺がペットだとぉ、この野郎」俺はコブシを握った。 「……」 長門は煽りには乗らなかった。 「……この世界に、未来はない」 「では、お前の未来を奪うしかない」 決裂した。αの目を見て、俺はそう感じた。αと、その後ろにいた数名が右手を上げた。空間を歪めた槍の雨が長門を襲った。こいつらも詠唱なしかよ。長門が立っている空間が青白くきらめき、槍のうちあるものははじき返され、あるものは溶けて煙を立てた。長門のいた場所から青く光る球体が飛び出した。ぐんぐんと上空を目指している。あの球の中にいるのは長門か。 喜緑さんは俺の腕をとって「離れないで」と言った。呪文を唱えると、二人のまわりにオレンジに光る薄い膜が現れた。膜はオレンジから黄色、青、紫に色が絶えず変化した。そのオレンジの球の中にいたまま、ふわりと空中に浮かんだ。いわば、でかいシャボン玉の中にいるようだ。 長門を包む青い球が、空を駆け抜けるのが見えた。それを追って無数の影がまっすぐに飛跡を描く。 「この中にいてくださいね」 喜緑さんがそう言うとオレンジの球が二つに分離し、俺のいた球からするりと抜け出てそっちに移った。もうひとつのオレンジの球体となった喜緑さんは、長門を追う影を、その後ろから追いかけた。 オレンジの球体が散弾のようにいくつも分離した。小さな球が光の槍となり、長門を追う影を刺し貫いた。影がひとつ、またひとつと地面に落ちていく。長門はうまくオトリになったようだ。 それを見たαが地面に手をかざし、右に、左に振りつづけている。地面からいくつもの煙が立ち昇った。喜緑さんが影を叩き落した場所から赤い光が漏れ始めた。赤い光は徐々に丸く膨らみ、風船のように地面に盛り上がった。赤い塊が立ち上がり、俺はその姿を見た。巨大な人の形をしている。手足が長く、顔の部分に丸い点が三つある。これは神人か、でも色が違う。赤い体をゆらりと動かし、青い点の目と口がこっちを見た。俺は背筋が寒くなった。 「ありゃいったいなんだ!?」 「……あれは、涼宮ハルヒの思念エネルギー」 気が付くと隣に長門がいた。 「ハルヒは死んだんじゃなかったのか」 「……そのはず。彼らはそのエネルギーの残骸を利用している」 振り向くと、もう長門はいなかった。青い球体がはるか上空を飛んでいく。地上を見下ろすと、赤い塊がいくつも現れ何体もの神人となって立ち上がった。立ち上がった神人が両手を構え、長門に向けて燃える光を撃ち出した。長門を反れた砲火は地面を貫き、ビルを破壊し、電車と高速道路の高架を砕いた。着弾地点は巨大な爆発をともなって黒煙を上げた。 こんなのアリか。これに比べりゃ俺の知ってる神人はおとなしいもんだぞ。ときどき考えごとするし、子供みたいに八つ当たりするし。 ほかの神人たちも両手を構えた。砲火の照準の先には、長門を包む青い球体があった。青い球体と、喜緑さんを包むオレンジの球体が螺旋を描いて飛んでいく。二人は赤い神人の一体に絡みついた。神人の体を突き抜けて穴を開け、そこから光が漏れ出している。さらに絡み付いて回転し、腕を切り落とした。切り落とされた断面から、光る粒子がこぼれ落ちている。古泉と同じテクニックだ。 二人が戦っているまわりでわらわらと神人が沸き始めた。これ、もしかしてここにいる全員がそうなのか。千体近くはいるだろう。飛び回る長門と喜緑さんを捕まえようと、赤い巨大な塊となってくんずほぐれつうごめいている。これだけの数の神人を見たのははじめてだ。古泉がいたら狂喜乱舞したことだろう。そのアメーバのような原始生物的な動きに、俺は吐き気を覚えた。 一体が青い球体を手中に捕らえた。オレンジの球体がその神人のまわりを回転する。それを見たまわりの神人たちが、我先にと上から覆い被さった。長門と喜緑さんは赤い塊の中に埋もれて見えなくなった。大丈夫なのかあいつら。多すぎる敵を相手にしてるんじゃないのか。 俺が心配して見ていると、地面を覆う巨大な赤い塊の中心で爆発が起きた。半径数十キロはあろうか、熱核ミサイルでも炸裂したのかと思えるような閃光が走った。俺は目を眇めた。周辺百キロの空間がゆらぎ、俺の入っていた球体も弾き飛ばされた。建物が溶け、倒壊し、瓦礫の山を作った。閃光と爆風で神人たちは消し飛び、爆心地には巨大なクレーターが生まれていた。 「キョン君、大丈夫?」 喜緑さんがそばまで飛んできた。 「俺より、二人とも大丈夫なんですか」 「ええ。大丈夫だと思いますわ、たぶん」 喜緑さんは少し不安げだった。 「長門さんがここまで真剣になるのを見るのは、はじめてです」 「俺もです。朝倉に襲われたときはもっと余裕があった気がしますが」 「たぶん、あなたの存在がそうさせているのだと思いますわ」 「え……」 その意味を考えようとしたが、眼下で起こっていることが俺の思考を制した。今の爆風で消えたはずの神人が、また現れ始めたのだ。立ち上る煙の間から赤い塊がいくつも生まれ、赤い人の形へと変化した。この神人は、死なない。 青い球体の長門がクレーターの中心に立っていた。その姿を認めると、神人たちは腕を上げて砲火を始めようとした。巨大な球場のような形をした穴を思い浮かべてもらいたい。赤い神人たちは、観客席に位置する場所から、中心にある二塁ベースに向けて砲撃を開始した。文字通りの集中砲火だった。長門のいたあたりから、地面が溶けて溶岩化しているのではないかと思えるような煙がもくもくと立ち昇った。 その時だ。熱気が湧き上がるクレーターの中心に、青いスクリーンのような物体が現れた。半透明な青がときどき緑や黄色に変化していたが、やがて人の形をしたものがゆっくりと立ち上がった。俺の知る、青い神人だった。それに気が付いた赤い神人が砲火を止め、青い神人を取り囲むように寄り集まってきた。新たに現れたそれの正体が分からないからか、手を出そうとはしない。背中を曲げてうなだれているように見えた青い神人が、次の瞬間両腕を振りかざし、まわりにいた赤い敵たちに挑みかかった。 「あれ、長門が動かしてるんですか?」 「あれは涼宮さん本人の思念エネルギーのようですわ」 喜緑さんは信じられないという表情をした。 「俺たちのハルヒのですか?」 「ええ。次元を超えているようです」 俺たちのハルヒが、イライラの真っ最中なのか。青い神人がジロリと俺を見た、ような気がした。 「イライラというよりも、あれは意図して動かしていますね」 ハルヒの青い神人が腕を振り回し、まわりにいる赤いやつに次々と襲いかかる。頭からジェットストリームを喰らった赤い神人が、真っ二つに縦に裂けて地面に崩れ落ちた。逃げようとするやつを捕まえ、ヘッドロックをかけ、腕を引きちぎった。 青い神人は敵をちぎっては投げちぎっては投げ、溶けるのも間に合わず死体の山が出来上がった。隣にいた喜緑さんが上昇し、青い神人へと飛んだ。オレンジの球は長門の青い球体に合流した。二人は強力な味方を得て、次々と赤い塊を消していった。一度崩れた赤い神人は、もう再生しなかった。ハルヒの青い神人は、逃げる敵を執拗に追いかけた。逃げ惑う赤い連中の前には、青とオレンジの二つの球体が待ち構えていた。 どうやら勝負ついたな、などと考えていると、赤い神人が一体、俺のほうを向いた。目が合ったような気がして背筋がゾクっとした。俺のいる球体に手を伸ばそうとしたが、手の間を抜けて浮遊した。俺を包む球体は神人の体をすり抜けた。神人は今度は捕まえようとはせずに両手を広げて包み込んだ。目の前が真っ赤に染まり、球の内側が急激に熱くなった。俺は息苦しくなって襟のボタンをはずした。 「抵抗するならこいつの命は保証しない」 腹の底から響くような大声が聞こえた。こいつ、αだったのか。ミシミシと音がして球の壁に亀裂が入り始めた。半透明な神人の向こうに長門と喜緑さんが見える。青い神人も立ち尽くしていた。 「長門、俺は構わねえからやっちまえ」俺は叫んだ。 長門は一瞬俺を見て、喜緑さんを見た。長門はαに向かって言った。 「……待って」 長門と喜緑さんのシールドが消えていく。ああ、そんな。俺を連れて行けなんて言ったばっかりに。俺が向こうでじっとしてりゃこんなマヌケな人質役をやることもなかったろうに。 「そいつは邪魔だ」 αが青い神人を指して言った。ハルヒの神人はうなだれて、それから光の粒子になって消えた。 「……彼を、放して」 「では、わたしと融合しろ」 「……」 長門はしばらく黙っていた。ここで拒否すれば俺は死ぬだろう。だがそれでハルヒが守られるなら、俺たちの世界が守られるならそれでも構わん。長門、絶対承諾するな、するなよ。 「……わたしが負けたら、そうする」 「よかろう」 長門は喜緑さんに言った。「……彼を保護して」 俺を捕まえていた神人は手から球体を離した。喜緑さんがそばにやってきた。 「キョン君、大丈夫ですか」 「ええ。少し暑いですが。さっき消えたやつらは全員死んでしまったんですか」 「いいえ、涼宮さんの神人にエネルギーを奪われて実体化できないだけです」 ハルヒにそんなことができるとは。 頭上で雷が鳴った。立ち上る煙にまじって大きな雨粒が降り始めた。シールドを解いた長門は雨に濡れ細り、短い髪から細く水が滴っている。 長門とαは空中で対峙した。長門が詠唱すると、αの指が長門に向かって動いた。腕が伸び、白い加速粒子となって長門を襲った。長門は詠唱を中断され、すんでのところでそれを避けた。詠唱する時間が必要な長門には不利な戦いだった。 長門が再びシールドを広げて青い球体が灰色の空を駆け抜けた。流れるように降る雨を受けて白く飛沫を跳ね返した。αは宙を飛んで長門の後を追った。追いついたαは青い球体に割り込み、長門の腕をつかんで投げ飛ばした。長門の体は球体ごと飛んでゆき、その先にあったビルに激突して大きな穴を開けた。コンクリの欠片が飛び散った。 長門は出てこなかった。 「どうした。もうへたばったのか」 αがビルの前でうろうろしていると、ドンという衝撃とともに窓ガラスが割れて降り注いだ。ビル半分が折れてαの上に覆い被さるように落ちてくる。折れたビルから飛び出している剥き出しの鉄筋に雷が落ちた。長門がその上に立っていた。αが逃げようとするとビルが粉々に割れ、破片が螺旋を描いて襲った。一瞬、αの体を突き抜けたかのように見えたが、そこにはもうαはいなかった。空間跳躍か。 長門が呪文を唱えると上空から白い稲妻が走りαの体を貫いた。遅れて雷鳴が聞こえ、世界が白く浮かび上がった。 「ふ。雷ごときの静電気にやられるか」 αは長門の真後ろに現れた。長門の背中から蹴り降ろし、地面に叩きつけた。長門はシールドを失い、流れる雨水を押しのけて地面を滑っていった。凄まじいスピードで地表に爪あとを残し、アスファルトがめくれ上がった。水煙が立つ中、泥にまみれた長門がゆっくりと立ち上がり、泥と血の混じった水を吐いた。 「お前とわたしはひとつだった。同じ記憶、同じ感情を共有した。だがなぜだ、なぜそこまで違うものに変わった」 αは拳を握り締め、長門を指差して叫んだ。激昂して頬を濡らすのは雨のなのか、ほどばしり出た感情の粒なのか、分からなかった。乱れた長門の髪が濡れて顔に張り付いていた。雨に混じって、唇から赤い雫が垂れている。 「……あなたと共に生まれたわたしは、あなたとは違う時間を過ごし、違うものを得た」 「体は二つだったが心はひとつだった。なぜ自分を捨てたのだ」 「……自分だけの未来を切り開く。これが、本当の進化」 覚えている。長門が同位体とのリンクを切ったとき、それが理由だった。あなたは自分が思うところを行えばよい、そう言った。 「進化などクソ喰らえだ」 αは叫んで、血の混じった唾を吐き捨てた。αは両手を合わせて紫色の球体を発生させた。その中に入るのではなく、球体をそのまま長門に向かって投げつけた。長門は詠唱したが避けきれず、球体に飲み込まれて体ごと吹っ飛ばされた。高速道路の橋脚に激突してそれを破壊し、長門の上から高架のコンクリが落下した。 αは傾いた道路の上に舞い降り、長門を探した。長門は下敷きになったまま出てこなかった。 「き、喜緑さん。もしかして」俺は長門が埋まっているあたりを指差した。 「大丈夫。生きてます」 地響きとともに道路の塊が震えだした。何百トンもありそうな高架道路の塊が徐々に持ち上がり、雨水を大量に吐き出しながら上昇した。その下に長門がいた。道路の塊を悠然と持ち上げている。αはそれを見て逃げようとした。長門は呪文を唱えてコンクリを砕き、いくつもに分かれた破片をαに向かって飛ばした。コンクリの破片が散弾となって、逃げそこなったαを襲った。大きくダメージを負ったように見えた。しかし、再び姿を見せたαには傷ひとつない。 αは長門に向かって突進した。滝のように降る雨の中、二人はつかみ合ったまま宙を飛んだ。急上昇して急降下し、αが上となって地表に激突した。二人の体が地面を引き裂き、跡には大きな穴が開いていた。穴の底に投げ出された長門の体と、今しも立ち上がろうとするαの姿が見えた。 αは倒れている長門の首をつかんで締め上げた。 「もう一度聞く。情報融合しろ」 「……断る」 「なぜ抵抗する。個体の境界線など無意味だ。わたしたちは元々ひとつだったではないか」 「……今のわたしには、守るものが……ある」 長門は俺を見た。それは……俺のことか。 「お前の負けだ」 αが手に力をこめた。長門は自分の首を絞めているαの腕をつかんだ。 「……あなたも、道連れにする」 長門が目を閉じ、二人の姿が少しずつ消えてゆく。降りしきる雨が、涙のように長門の頬を伝って流れた。 そのとき、周囲百キロ四方にとどろく雷のような怒号が響き渡った。 「あんたたち!やめなさい、今すぐ!」 俺はそこにいるはずのないものを見た。ハルヒだ。どしゃ降りの中、仁王立ちしているのはハルヒだった。隣に朝倉が立っていた。 「朝倉、お前が連れてきたのか」 「そうなの。もう涼宮さんにしか止められないと思ったの。勝手なことしてごめんなさい」 「キョン、全部聞いたわよ。あたしに黙って抜け駆けは許さないわ」 なんてこった。このややこしい事態に輪をかけてややこしいやつが、ことさらややこしい登場の仕方をしやがった。 「誰だ」αの声がした。 「あたしはSOS団団長、涼宮ハルヒ!あんたたちのくだらない喧嘩を止めに来たのよ」 「お前か。では、お前の持つ力を使わせてもらう」 αはハルヒに向かって人差し指を動かした。 「黙りなさい。今すぐあんたの力を消し去ることもできるんだからね」 それでもαはやめようとはしなかった。ハルヒの眉毛がぴくりと動いた。 ──なにも起こらない。αはもう一度、人差し指をハルヒに向けた。αは信じられないものを見るかのように自分の両手を見つめた。 「まさか……そんな。わたしの力が消えた」 「馬鹿な喧嘩はやめなさいって言ってるのよ」 「よもや世界を維持できない。ビックフリーズに陥る」 αの顔が青ざめ、朝倉が空を見上げた。 「銀河が分解しはじめたわ」 皆にその声は聞こえていたはずだった。雨の中、ずぶ濡れになるのも構わず、全員がじっとたたずんでいた。今や失われつつある世界の、その消えていく名残を確かめようとするかのように。 「終わったな」 αは肩を落とした。もう、思いつめた瞳も、厳しい表情も消えていた。 「長門有希、よかったな延命できて。宇宙にはわたしのような生命体も多く存在する。隣の次元を食いつぶして生き延びているアメーバのようなやつもな。いつかそいつらがお前達の世界に訪れないとも限らん。それまで、せいぜい幸せに生きるがよい」 「……わたしたちの世界に帰って」 長門がそう言ったが、αは頭を横に振った。 「分からないのか、我々の目的は潰えたのだ。これにて情報連結を解除する。お前たちは自分の世界に戻るがよい」 「残り三分もないわ」 長門は悲愴な目でαを見た。それからハルヒにすがるような視線を向けた。 「……あなたの力を、貸して」 「あたしが何をするの?」 「……両手を出して」 ハルヒは黙ったまま、指先を上に向けて両手を差し出した。長門も自分の手をそれに重ね合わせた。二人は目を閉じて互いの額をくっつけた。やがて光に包まれ、一瞬だけ白く輝いた。 「……念じて」 ハルヒは、理解したというように軽くうなずいた。二人はゆっくりと手を離し、ハルヒは手のひらでなにかを包むように両手を合わせた。開いた両手から青白い光の球が生まれた。やがて球は光を失って少しずつ小さくなり、最後に透明になってハルヒの手の上に降りた。 ハルヒはαにそれを渡した。 「こんなことをして何になるのだ。いまや世界は終わる」 「……」 長門が悲しそうな目をしてなにかを言おうとしたが、ハルヒがそれをさえぎった。 「いいえ、世界は何度でも生まれるわ。そこにあたしがいる限りね」 空が少しずつ光を失い始めた。辺りが暗闇に包まれていく。喜緑さんが詠唱をはじめ、元の世界への扉が開く。 「皆さん、早く」 「ハルヒ、急げ」 俺はハルヒの腕をつかんだ。αがハルヒに向かって叫んだ。 「涼宮ハルヒ、今更かもしれないが、礼を言う」 「いいのよ。あんたもあたしの有希だから」 長門は朝倉を見つめていた。 「わたしの世界はここだから残るわ。ありがとう、長門さん」 「……そう。αのことを頼む」 「分かったわ」 長門とαが一瞬だけ視線を交わしたように見えたが、もうまわりの風景はほとんど消えかけていて、よくは見えなかった。最後にせめて一言だけでも別れの言葉があってもよかったかもしれないと俺は思った。でも姉と妹というのは、そういうものなのかもしれない。 終幕を飾るように、白く輝く球体が俺たちを包んだ。徐々に消えていく光を見つめつつ、数秒後、西宮北高のグラウンドに立っていた。こちらの世界は晴れ渡っていた。雨に濡れたハルヒは髪をかきあげた。 「やれやれね。最初からあたしを連れて行けばよかったのよ」 「ハルヒ。あの玉、何だったんだ?」 「ああ、あれ?ただのビー玉よ」 まじか。そんなんでよかったのか。 「あのビー玉にはひとつだけ願いが入ってるのよ」 ── いつの日か、あたしが生まれること。 「それで十分じゃない?」 ハルヒはそう言って笑った。 俺は晴れ渡る空を見上げた。どこか遠く、俺たちの知らない世界で、インフレーションとビッグバンが起こる。そこからたくさんの粒子が生まれ、銀河が生まれ、星たちが生まれる。限りなく広がりを続ける空間。そして九十億年ほどした頃、たぶん地球に似た惑星が生まれるんだろう。その星に最初の生命が誕生し、進化し、人になる。そこに弓状列島があるかどうかは分からないが、いつかハルヒが生まれる。そんな気が遠くなりそうな、果てしない時間と空間があのビー玉には封じ込めてあるのかもしれない。 「ということは、ここからもうひとつの世界がはじまるわけだな」 「……そう。この世界もそうやって生まれた」 長門は、この谷川氏もそうやって生まれた、と言った。 「わたしたちの生きている時間は、もっと大きな流れのなかの一部に過ぎない」 長門にしては分かりやすい説明だ。俺たちはうなずいた。世界は偶然の産物ではない、誰かの意思でここにある。そのほうが楽しいに決まっている。 六章へ
https://w.atwiki.jp/halkyon/pages/31.html
#またまた実験作です。 掃除当番ということで、俺はいつもより遅れて部室に向かった。 なぜか長門が部室前に立っている。どうしたんだ、一体? 「この前掲示板に張った文章を彼女に見られた」長門は淡々と説明する。 ひょっとしてそれで立たされているのか? 「そうではない。新作を見せたところ『あたしがいいというまで外に立ってなさい』と言われた。ゆえに立っている。」 「また書いたのか」 「そう。悪気はない。喜ばせようと思っただけ」 「なるほどね。ま、いいや一緒に入ろう。ハルヒには俺はから話をしてやるから。」 そうして俺と長門は部室の扉を開いた。 確かにハルヒはぶんむくれた表情のまま団長席にあぐらをかいて座っている。怒りゲージMAXというところか。エプロンドレス姿の朝比奈さんは、丸盆を抱き締めたままブルブルふるえているだけだった。 「どうした、団長様ともあろうものが。もう、いい加減長門を許してやれよ」 「有希はね、とんでもない文章を掲示板に張ろうとしたのよ」ハルヒはA4用紙を俺に突き付けた。「これ、読んでみなさい!」 俺は読み始めた。 鈴宮はるひの後悔 その1 「なんで、あたしの前でみちるちゃんといちゃいちゃすんのよ、この馬鹿きょん!」頬に一筋の涙が見えた。 そういって鈴宮はるひは部室の扉を蹴り開けて、走ってどこかに行ってしまった。ああ、また部室の扉が破壊されてしまった。この前直した蝶番が見事に外れてしまっている。 またドア中央部には大きなへこみが出来ている。圧縮合板で出来た扉にここまでのダメージを与えるにはどんな力が必要なのだろうか。 「きょん君、追いかけてください。」さきほどまでのオレとのいちゃいちゃで顔を上気させた浅比奈さんがいう。「鈴宮さんはあなたを必要としています。」 「え、オレが?」別にあんな怪力女には興味ないんだが。「でも、浅比奈さんをひとりには。」 「私は大丈夫。心はあなたとあります。だから、鈴宮さんを追いかけてください。」 「いや、だからオレはあなたのことが」 「だめです。それは。鈴宮さんはあなたが追いかけてくることを望んでいます」 「いや、あのアホはほっといて二人で楽しくやりませんか?」 「・・・・それは落着いてから、ね」浅比奈さんがぼそりといった。「とにかく鈴宮さんを追いかけてください。慰めて連れて帰ってきてください。 なんならキスの一つや二つしてもいいです。そうしないと世界が・・・」 そうだ、そういえばそうだった。なぜか鈴宮はるひの御機嫌をとらないと世界は滅んでしまうのだった。 「勇気をあなたにあげます」そういって浅比奈さんはオレに口づけをくれた。 鈴宮はるひの後悔 その2 オレのツレである小泉は文芸部員だ。それでちょくちょく文芸部部室に遊びにきていて、浅比奈さんと出会った。それが恋に成長するのに時間はかからなかった。 オレと鈴宮はるひはクラスも違うし、なんの接点もない。しかし、ちょくちょく遊びにいっているうちに、浅比奈さんや小泉が「あなたは鈴宮はるひに選ばれてしまった」と突然いいだした。 それは百歩譲ってそういうものだと理解してやってもいい。でも、オレは浅比奈さんといちゃいちゃしたり、小泉とツルんで遊んでいた方が楽しいのだ。 なんで、あんな電波女の相手をせにゃならんのだ。 まあ、とにかく鈴宮はるひを見つけだし、慰めて連れて帰らなければならない。 しかし、あの泣き虫怪力女はどこに消えたのだろうか。 「やあ、こんなところにいたとは」小泉の声に振り返った。 「おお、鈴宮を知らないか?」 「また泣かせたのですか?」あきれたように小泉がいう。 「あいつが勝手に泣いたんだよ」肩をすくめて答えた。「んで、ドア蹴破って逃亡さ。」 「やれやれですね・・・ちょっと待ってください」小泉は携帯を取り出した。電話で二言三言話をすると、電話を切った。「鈴宮さんの場所が分かりましたよ」 「どこにいるんだ?」 「近所にある神社だそうで」小泉は興味深そうにいう。「いきますか。」 「いこういこう。」 鈴宮はるひの後悔 その3 「ここか?」 「そうです・・・ね」 目の前には古ぼけた神社がある。霊気がただよっているような、いないような。霊感は0なので、どっちでも同じことだが。 「お堂の中にでもいるんじゃないでしょうか?」小泉がとぼけた調子でいう。 「うーん、外からではわからんな」 「ここはあなた一人でいくしかありません」小泉は残念そうにいう。 「ま、やってみるさ」オレは肩をすくめながら言う。「骨は拾ってくれよ」 「ご武運を」小泉は言う。 小泉とげんこつを合わせていざ出陣だ。気まぐれ自己中女との対決だな。 お堂を一回り回って見たが、入り口は正面しかないようだ。そうっと階段を上る。 隙間から中が伺えないかとのぞいてみたが、なにも見えない。 あけてみるしかなさそうだ。 きぃきぃきぃといいながら扉が開く。真っ昼間だというのに背中が寒くなるな。 外からの光でやっと中が見える。・・・・あの人影、たぶん、鈴宮だ。 「鈴宮か?」 「ばかきょん?なんでくるのよ。」すすりあげるような声が聞こえた。 「心配したぞ、帰ろうぜ」 「いやよ、どうせしばらくしたら、あんたとみちるちゃんがいちゃいちゃしだすにきまってるわ。そんなの耐えられない」 「もうしないよ、約束する。」部室ではな。 「・・・・・・・ホント?」 「ホントだとも」当然部室限定でな。 「・・・・・・・あたしとも遊んでくれる?」 「ああ、遊んでやるとも」部室ならな。 「・・・・・・・こっちきて」 反射的にヤダといいそうになるが、グッとこらえて中に入った。中はわずかにかび臭い匂いがするが、それほど不快でもなかった。 鈴宮はるひの後悔その4 「さっきいったこと本当に約束してくれる?」泣き濡れた目が赤い。好きな女の子を泣かす趣味はまったく無いが、泣いた女の子はそれなりに心にヒットするな。 「ああ、約束する。」心の中で舌を出しながら答える。「だからな、鈴宮、帰ろう」 「2つ、約束して」はるひがまぁかわいいともいえなくもない笑顔になって言う。 「な、なんだ?」 「ひとつは、今度からあたしのこと『はるひ』って呼んで」 「ああいいとも」まあ計算のうちに入っている。 「もうひとつ、お願いがあるんだけど」顔が赤い。熱でも出たのだろうか。 「なんだ?」 「抱き締めて、好きっていって」 正直躊躇する。浅比奈さんであれば先週したし、小泉にだって頼まれればやってやってもいい。 しかし、こいつにそんなことする義理は・・・・ 突然、オレの腕の中で甘える浅比奈さんの笑顔が浮かんだ。夕日の中に立つ小泉を見た。邦木田や溪口、麻倉を始めとするクラスメートの笑顔も浮かぶ。両親や妹、そして飼い猫も浮かんできた。 オレにはかけがえのない恋人や親友、友人、そして家族。退屈もするが楽しい世界。その世界をオレは守らなければならない。そのために払う犠牲と考えれば安いものだ。 すっと鈴宮を抱き寄せる。浅比奈さんほどじゃないが、思ったより肉感的な体で驚く。 ちょっとこれは危険だな。 鈴宮の耳元に唇を寄せて、ささやいた。 「好きだ」と。 鈴宮はるひの後悔 その5 「ありがとう。」鈴宮は顔を赤くしたまま言う。 抱き合っていると、さすがに変な気分になってくるな。 ちょっとぐらい悪戯しても許されるんじゃないか?そんな気分になってきた。 首筋に軽くキスをしてみた。ぴくんと体が反応した。いい反応だ。 両手をすっとお尻にまで降ろし、さわさわとなでて見る。はるひの体は、すばらしい反応を見せた。 「中学時代、遊んでたって話は本当なのか?」 「な、なにをいうのよ、突然。」 「ほら、すごく感度がいいんだ。」首筋をなぞるようにキスを繰り返す。そのたびに、はるひの体が反応した。「中学時代に、開発されたんだろ?」 「ば、ばか」否定せず、うつむくはるひ。 はるひの顎を右手で軽く持ち上げた。潤んだ瞳に欲情の炎が見てとれる。唇を荒々しく奪う。ハルヒは目を大きく広げ、そして素直になった。 「こんなとこで・・・・」うっとりとした顔は、ここでしてって言ってるぞ。「そんなこと、いわないで・・・」 文章はそこで終わっていた。なるほど、ハルヒが怒るのももっともだ。 「長門、これ話がむちゃくちゃだろう」 「さまざまな要素を詰め込んでみた。主人公がヒロインを泣かせて追いかけて、葛藤があって、告白があって、さらにエロティシズムまでカバー」 「実験にも程があるぞ。これじゃハルヒをいじめてるだけじゃないか。 しかも、なぜ俺が古泉に頼まれれば抱き締めて好きとささやくような性格になってるんだ」 「主人公は鈴宮はるひであって、涼宮ハルヒではない。またあなたも同じ。」 どうも反省が足りないようだ。掃除用具入れを開けて、バケツを取り出した。 3人が見守るなか、俺はバケツに水をたっぷり入れると、長門に渡した。 「これもって、いいというまで外で立ってろ」 しばらくして古泉がやってきた。同じように長門を部室に招き入れる。 おれはさきほどの紙を渡してやると静かに古泉はそれを読み始めた。 古泉もおれと似たようなことをいい、小さなホワイトボードを探しだし、なにかを書いた。 「これを首にかけて、僕がいいというまで外で立ってなさい」 ホワイトボードにはこう書いてあった。 「わたしはねらーです」 おしまい。
https://w.atwiki.jp/siwoyumeni/pages/37.html
入速貸本のアルバイトにして裏番。 戦艦の装甲板。 日がな一日入速貸本に入り浸る変人。
https://w.atwiki.jp/yasasii/pages/229.html
・・・あなたも私と同じ初心者。怖がることはない。同期を求める
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/2681.html