約 24,298 件
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/4904.html
三 章 Illustration どこここ 翌朝、俺はわざと遅れて自転車で会社に行った。昨日長門に謝ろうとずっと電話していたのだが電源を切っているか電波が届かないが延々続いて結局そのままになってしまった。 ハルヒは俺が出社しないうちに二人を連れて中河に会いに行った。俺は知っていてわざと遅刻したのだが、今度は先方の取締役会と親会社の役員に会うらしい。さっさと進めてしまいたい気持ちは分かるんだがな、交渉ごとを急いでやると損するぞ。 ── というわけなので、以下は聞いた話である。 中河テクノロジーの親会社、つまり筆頭株主だが、揃いもそろってでっぷり太ったお偉いさんばかりだった。バブル崩壊を潜り抜けて来たつわもの共で、きっとあくどい事をして稼いできたに違いないと思わせるような連中だった。こういう連中は市場の注目を浴びそうな目新しい技術がお好みらしく、人工知能を使った業務支援プログラム技術というものに惹かれているらしい。 「これまで、人工知能と謳われた技術のうち実用化したものは、限定された環境においてのみ稼動するものばかりでした。実用化のコストもさながら、どんな情報にも応じられる汎用性の高いプログラムロジックは実現が難しいとされてきました」 中河のプレゼンだが、技術的な話を延々述べても右から左に素通りするだけだろうというので、深く突っ込んだ話はしなかったらしい。まあこいつらは金を出すだけだからな。 「ここに新時代の人工知能技術を設計された長門有希さんを紹介します。彼女を取締役最高技術責任者として迎え、海外も含めた事業展開を任せたいと考えています」 会議室に全員の拍手が響いた。ハルヒも椅子から立ち上がって深々と頭を下げている。 突然拍手の波を破ったのは、固いテーブルをドンと叩いた長門の拳だった。経営陣を、それから中河を睨みつけていた。 「……この買収、断る」 「有希ったら、いきなりどうしたのよ」 長門は中河を指差して叫んだ。 「あなたはわたしに近づくために会社を買い取る。わたしは、売り物ではない」 「い、いえ、そんなつもりはまったくありません」 中河は顔を真っ赤にして弁解した。長門は皿のような目で一堂を見回してから、文字通り席を蹴って出て行った。座っていた椅子がクルクルと床に転がった。 「皆さん申し訳ありません、私の言動が誤解を招いたようです」 「とんでもありません、長門が失礼を申しまして、すいませんすいませんっ」 ハルヒが冷や汗をかきかき、平謝りに謝った。 「、ということがありましてね」 「そりゃみんな驚いただろうな」 「ええ。結局会議は中座しまして、鶴屋グループの会長と取引銀行も呼んで金額的な折り合いをつけようということになりました」 「鶴屋さんの親父さんか。俺たちがふだん動かしている金とは桁が違うから、そういうベテランがいたほうがいいかもしれんな」 「それはそうと、ちょっと耳に入れておきたいことがあります」 「なんだ」 「実はこの件が持ち上がってから中河テクノロジーの株が買われています」 「どういうことだ」 「調べてみましたところ、親会社の役員筋からネタのリークがあったようです。どうやらインサイダーの匂いがしますね」 「買収ネタで株価操作しようってのか」 「インサイダー無法地帯の日本ではよくあることですが」 よくあるっつったって違法は違法だろうが。そりゃまあ株価ってのはどんなネタでも上がったり下がったりするもんだから、さして驚きはしないが。 「そして今日、長門さんが交渉の場を蹴ってしまうと買いがぴたっと止まりました」 「ざまあ見ろだな。俺たちをネタにして濡れ手に泡で儲けようなんてやつがいるとは、ハルヒが聞いたらぶち切れるぞ」 「切れているのは長門さんのほうで、もしかしたらすでにご存知なのかもしれません」 いやまあ、長門が怒っているのは俺に原因があるんだが。 「それにしても、長門さんがあのように感情を露にされるのを見るのははじめてです。僕も唖然としてしまいました」 俺はといえば、長門、よくやったという気持ちだった。最初この話があったとき、長門の評価がもっと上がればいいという正直な気持ちも確かにあった。ところが上がったのは中河テクノロジーの株価だったってわけだ。 いやいや、株価なんかはどうでもいいんだがなにか腑に落ちない。ここに来てなにが不満なのかよく考えてみたが、俺たちの作ったSOS団を誰か外部の人間に操られるのが嫌だという、非論理的でマネージメントともビジネスともまったく関係ないところから来る率直な気持ちだった。SOS団を金を生むためのネタにされるのが嫌なのだ。金にあかせて会社を食っちまうアメーバみたいな大手グループなんぞにSOS団を渡してなるものか。中河なんぞに長門を渡してなるものか。これは俺の会社だ。俺の長門だ。 その日、長門はとうとう会社には戻らなかった。自宅の電話にも携帯にも出ない。 「もう、有希ったらいったい何考えてんのかしら」 「SOS団が売りに出されるのが嫌なんじゃないか」 「売るわけじゃないわよ。手漕ぎのボートから豪華客船に乗り換えるだけじゃない」 「俺は長門の気持ちは分かるぜ。金を稼ぐだけが目的の仕事は嫌なんだろう」 「もう、場合によっちゃ取締役から外すからね」 「まあ長門には俺から話すから待ってくれないか」 「いいけど、この交渉がこじれたら有希のせいだからね」 俺は少しだけハルヒをじっと見て、それから言った。 「お前、中河が長門を誘ってたの知ってたか」 「えっ……」 「たぶん長門は、自分が買い取られるように感じたんだろう」 「そんなこと有希はひとことも言わなかったのに」 「言うわけないさ。俺しか知らん」 「で、あんたはなんて言ったの」 「好きにすればいいと答えた」 「あんた、ずっとバカだと思ってたけど、ほんと最低ね」 「自分でもそう思う」 「あのねキョン、この際だから言うけどね。有希がどれだけ気持ちを溜め込んでるか分かってないでしょ」 「俺なりに多少は分かってるつもりなんだが」 「あたしだったらね、好きだと思ったら嫌われても真正面から好きと言うわよ。でも有希は簡単に表に出すタイプじゃないわ」 「お前が長門を観察してたとは意外だな」 「あったりまえじゃないの。団員の精神状態くらい把握してるわよ」 長門の微妙な心の動きを察知できるのは俺だけだと自負していたが、実はなにも分かっちゃいなかったのかもしれない。長門の表情に広がる小さな波紋はちょっとした眉毛の動きとか瞬きのタイミングとか視線の流れとか、あるいは口元の緩みなんかなのだが、それを見ていれば今どう思っているか分かる。でもあいつの心の中にある、見えなくて時間のずっと先にあるものは分かっていなかった。 「今から有希に会って謝ってきなさい」 「俺だけが悪いのかよ」 「当たり前でしょ、有希にとっちゃ中河さんなんてどうでもいいのよ。問題はあんたよ。ちゃんとフォローしなさいよね」 「分かってるさ。二三日したら長門も落ち着くだろうと考えてたんだよ」 ハルヒはイライラと眉毛を吊り上げた。 「あんた、あたしが今までやったことでひとつだけ後悔してることがあるの、知ってる?」 「さあな。自信家のお前が後悔するようなことがあったのか」 ハルヒはまっすぐ俺の目を見据えて言った。 「十一年前に、ジョンスミスの電話番号を聞かなかったことよ!」 俺はどう答えていいのか分からなかった。その件に関しちゃ、別の意味で責任を感じているわけなのだが。 「そのときはどうでもいいことのように感じたけど、あれから気になって毎日のように探したわ。近隣の電話帳で探した。身元調査会社も雇ったわ。市役所で調べてもらおうとしたら断られた」 「まあ、そりゃそうだろう」 「何度もあきらめようと思ったし、いっそ別の誰かと付き合おうかとも考えたわ。見合いをしたのはかなりヤケだったけど」 「そうだろな。あれは見ていて痛々しかった」 「そんなことはどうでもいいのよ。あたしが言ってるのは、一度の出会い、一度のデート、一度のキスがそれからの一生を決めることもあるってことよ」 俺はなにも言えなかった。 「昔の人はいいことを言ったわ、一期一会ってね。あんたは十年も待てるタイプじゃないでしょ?」 このハルヒの一言は、俺にはかなり重くのしかかった。もし俺がハルヒの立場だったら。簡単にあきらめてさっさと別のやつに視線を移していたに違いない。 「分かった……。これから行ってくる」 「ちゃんとバラの花束を持っていくのよ」 分かってるさあ、いちいち。 長門になんて謝ろうかと難しい顔をしつつロッカーから背広を取り出していると、古泉が、二人の間になにがあったかは知らないけどがんばってくださいとニヤつきながら言った。歴史改変のときには散々ハッパをかけたこいつに言われるとはな。 「なあハルヒ、思ったんだが」 「まだいたのあんた、さっさと、」 「お前が打ち合わせに行くたびに中河テクノロジーの株価が動いてるの知ってるか」 「そうなの?」 ハルヒが古泉に向かって首をかしげると黙ってうなずいた。 「買収の目的が一緒に仕事をしたいってのは表向きで、情報やら技術やらを金のネタにされた挙句骨抜きにされるなんてことはよくある話なんだが」 「中河が株価操作してるっていうの!?」 いきなり呼び捨てかよ、さっきまでさん付けだっただろう。 「そうとは言い切れないが、グループの中に俺たちをネタに一儲けしようってやつがいるのは確かだ」 「それくらい、業界じゃふつーのことでしょ」 「会社経営はそういうもんだってのは分かってるさ。だがなハルヒ、お前はSOS団が汚い金にまみれてしまうところを見る覚悟があるか?」 ハルヒは黙った。俺たちには金の質をとやかく言うほどの経験もないし経営判断ができるわけでもない。 「でも、SOS団にないものが中河テクノロジーにはあるのよね」 「中河テクノロジーのリソースじゃなくて、鶴屋さんのリソースを借りるほうがまだ安全だろ」 俺たちは傘下にいながら鶴屋グループのことをほとんど知らない。正式には傘下ではなくて鶴屋さんのポケットマネー的な孫会社ってことになっているのだが、ハルヒはそれもそうねぇという表情をしていた。 あーそうだ、鶴屋さんといえば花を買っていこう。俺は長門のマンションに向かう前に鶴屋さんの店に寄った。 「いよっ、キョンくんじゃないか。今日も疲れた顔してるねっ」 「どうもです鶴屋さん。長門の件はすいませんでした。もしかしたら今回の話は見送りになるかもしれませんが」 俺は腰四十五度の礼をした。 「いやいや、いいっさ。もう買収交渉はうちの親父に任せることにしたから、あたしはノータッチなのさっ。ハルにゃんがやりたいようにやるのがいいさ」 「なんというか、鶴屋さんの親父さんにまでご迷惑をおかけして申し訳ないです」 「わははっ、固い話は抜き抜き。あたしはただの花屋さっ」 世間話に来たんじゃないんだった。 「花束をひとつお願いしたいんですが」 「ほほーう。して、どういうシチュエーションなんだい?」 「実は長門を怒らせてしまいまして」 「あははは。怒った長門っちには萌えそうだね。まあ、男と女にゃそういうこともあるっさね」 「ピンクのバラを入れてもらえますか」 「ようがすっ。ちょい待ち」 予算は一万円くらいにしてもらった。今月はあれこれ出費がかさむ。 「メッセージカードは入れるかい?」 「ええと、ください」 マジックで、ごめんよ長門と書いて刺してもらった。俺にはラテン語なんて書けない。 「まいどありっ。がんばれキョンくん、キミならやれる!」 右肩をガシっと叩かれ、二十四時間元気営業中の鶴屋さんパワーをもらって少しだけ気分が軽くなった。自転車の前カゴにバラの花束をのっけて鼻歌なんか歌ってしまうくらいに意気揚々と長門のマンションへと向かった。 玄関で長門の部屋の番号を押したが、出てこなかった。もしかして眠ってるか、あるいはまだ怒ってて出てこないか。俺は四桁の番号を押して自動ドアを開けて入った。部屋のドアの前でインターホンを押してみるが出てこない。いないのか? 電話をかけてみるが部屋の電話にも携帯にも出なかった。あいつがこの時間にひとりで出かけてるとは思えないんだが、図書館はもう閉まってるし。気になってあちこちかけてみたが誰も行方を知らないようだった。 俺は喜緑さんにかけてみた。 『喜緑です』 「もしもし、キョンです。ご無沙汰してます」 『あら、こんばんわキョンくん』 「長門が昼過ぎくらいからいなくなってしまいまして、もしかして行き先にお心当たりがあるんじゃないかと」 『ちょっと待っててくださいね』 喜緑さんは送話口を手でふさいで、なにか話しているようだった。 『キョンくん、あのね。長門さんここにいるんですけど、今は会いたくないらしいんです』 な、なんですと。長門に避けられてるなんて俺も終わりだ。 「ちょっとだけ話したいんですが、電話に出してもらえませんか」 『えっと……ごめんなさい、いやだって言ってますわ』 これは困った。何号室かは知らないが喜緑さんってたぶんこのマンションだよな。新聞の勧誘のフリをして一軒ずつノックして確かめてみるか。 「ドアの前に花束を置いておくので水に挿してくれ、と伝えてもらえます?」 なんだか古泉のときと同じ展開だな。バケツの水を被せられないだけマシか。 『分かりました』それからヒソヒソ声で、『あのねキョンくん、落ち着くまで少し時間を置いたほうがいいと思いますわ』 それもそうだな。とりあえず居場所は分かったんで、俺はよろしくと頼んで電話を切った。喜緑さんならなんとか取り成してくれるかもしれない、なんて甘いことを考えつつ。 マンションを出て、俺は建物を見上げた。すべての部屋の明かりが灯っている中で、長門の部屋の窓だけが暗かった。 このまま長門が別れるなんて言い出したらどうしよう。中河と仲睦まじく会社経営にいそしむようになったら、なんかの拍子に中河と付き合うようになったりしたら。中河も悪いやつじゃない、カリスマ的で誰もが安心して頼れるタイプだ。俺でも男惚れする。俺は蚊帳の外、取締役が決まっているハルヒとも会えず、古泉とひっそり昼飯を食うだけの毎日。たぶんだが俺はやる気をなくして会社をやめちまうだろうな。 ついこないだ高校一年の俺を見てあまりのだらしなさに腹が立って殴ったが、根本的に中身が変わってない気がする。こんな俺に誰か喝を入れてくれないものか。そんな他力本願なことを考えてるからダメなんだということは重々承知しているんだが。 そのまま家に帰る気にはなれなくて、俺はなんとなく公園に足が向いた。街灯の下に黄色いベンチがぼんやりと浮かんでいる。俺は自転車を止め、ため息をつきながら腰を下ろした。 「はあ……」 別に目的があって来たわけじゃなくて、考え事をするときなぜかここに来るのだが、思えばこのベンチにもいろんな思い出があるよな。ここに来ればパブロフ的に安心するというか、時間と空間がからむようなトラブルには必ずといっていいほどここにやって来たものだ。今でも街灯の下でぽつりと座っている長門がいるような気がするし、振り返れば茂みの中に朝比奈さんがいるような気さえする。いつでも俺を待ってくれていた。 公園の入り口のほうから人影が歩いてきた。 「キョンくん、こんばんわ」 「あれ、喜緑さんですか。さっきはどうも」 「お元気そうね」 「元気といいますか、まあ、精神的にはかなり参ってますが。長門のことでいろいろお世話かけてすいません」 「いいんですよ。男性と女性にはいろいろありますから」 この人には色恋沙汰というものがありそうでなさそうで、日ごろがおっとりしているだけに恋愛したらハリケーン並みの嵐になるんだろうななんて失敬なことを考えている俺だが、にっこりと微笑む喜緑さんを見ていると少しだけ気持ちが癒された。 「では、行きましょう」 「行きましょうって、いったいどこへです?」 「キョンくんに会いたがっている人がいるんです」 こんな唐突にいったい誰だろう。俺が不思議がっていると「キョンくんの古い知り合いです」と言った。昔テレビでやってた初恋の女の子とご対面みたいな感じがしなくもないですが、今の俺はそんなやつに会っても愛想笑いのひとつもできんと思いますよ。 喜緑さんは俺の隣に座って手を握り、 「ちょっと揺れますから、目を閉じていてくださいね」 手が触れたときちょっとドキリとしたが俺は言われるままに目を閉じ、深呼吸をした。たぶん時間移動かなんかだろう。と思った途端やっぱり重力が上下反転する感覚に襲われ、閉じているはずの目蓋の裏で明滅する幻影がぐるぐると浮かんでは消えた。 「もういいですよ」 二人はベンチに座ったままだった。 「どこですかここ」 「駅前公園のベンチです」 時間移動したんじゃなかったのかと周りを見回したが、夜空も公園の木々も同じままで俺の知る風景となんら変わりはなかった。もしかして茂みの中に朝比奈さんが潜んでいるのかと目を凝らして待ったが、ウサギの気配すらない。 「その相手ってのはどこにいるんです?」 「線路沿いの道を下っていくといます」 「そっちって長門のマンションじゃないですか」 「わたしはここで待っていますね」 「喜緑さんも一緒じゃないんですか?」 「ええ、キョンくんだけで会ってきてください」 見も知らない人にひとりで会いに行くのかと、俺が不安げな表情を見せると喜緑さんはにっこり笑って大丈夫と言った。 喜緑さんは俺の耳元でそっと囁いた。 「ちょっと驚くようなことがあるかもしれません」 言われるままに俺は公園から出て道なりに進んだ。また妙なことになりそうな予感がして、心細げに後ろを振り返りつつ道を歩いた。もうすぐ通いなれた長門の住むマンションだが。俺の古い知り合いで最近は会ってなくて、俺に一人で会えってことは朝倉なんかじゃなさそうだし谷口やら国木田なんかに呼び出される筋合いはまったくないし、いったい誰だろう。俺は同級生の顔をいくつか思い浮かべた。まさか中河が俺に用があるとかでこんな呼び出し方をしたのか、なわけはないよな。この先にはハルヒが地上絵を描いた中学校もあるが、もしかしたらそこかもしれない。 右手に、さっき出てきたばかりの長門のマンションが見えてきた。敷地の入り口に人影が立っていて、じっとこっちを見ていた。近づくとよく見知っている女の子がゾウリ履きにワンピースという姿で門柱に隠れるようにしていた。 「……キョン?」 やっぱり長門だったが、俺を二人称代名詞でなくてあだ名で呼んでくれるなんて珍しいじゃないか。昨日から今日の間にずいぶん変わっちまったな。 「そ、そうだが」 「もっと、顔をよく見せて」 長門は目を細めて俺を凝視し、メガネを外してハンカチでレンズを磨いた。よく見ると伊達メガネじゃなくてレンズに度が入っている。 俺の知ってる長門じゃなかった。あだ名であろうと偽名だろうと、俺のことを名前で呼んだりはしない。この長門は頬を染めて俺に駆け寄るなり両手を握り締め、嬉しくて同時に悲しいという俺でも滅多にしないような複雑な表情をしていた。もしかして俺の歴史改変のせいで長門がこんなに表情豊かに変わっちまったのかとまで疑いもした。潤んでくる目をメガネを外して何度も拭い、ここに俺が存在するのが信じられないという様子で何度も目をパチパチと瞬きした。 「……ぜんぜん、変わってない」 「長門、だよな?」 「そう。わたしが分からないの?」 なぜか俺にはそれが分かった。人間の、長門だった。 長門はまるで俺に逃げられるのが不安とでもいうようにずっと手を離さず、お茶を入れるから上がって上がってと言いながら部屋のドアまで手を引いた。長門に引っ張られて部屋に入るなんて前代未聞だぞ。 脱いだ靴も揃えぬまま、ともかくテーブルの前にペタン座りをさせられ、長門がキッチンへ駆け込んでいって急須に茶葉を入れてお湯を注ぐ音をじっと聞いていた。 「ええと、聞きたいんだが、ここはどういう世界なんだ?」 「どういう世界、とは?」 「ここが過去なのか未来なのか、お前なら分かるんじゃないかと思ったんだが」 長門はまた妙なことを言うやつだという目で俺を見つめ、 「あなたは、前にも同じようなことを言った。わたしが宇宙人だとか」 抑揚がないところは似ているが、この長門は表情筋の動きが活発で、しゃべりも流暢でたまに身振りすら入れる。それにいつもは少し間を置いて無言からはじまる会話がない。 見たところマンションの様子も部屋の様子もあまり変わりはないし、俺の知っている長門の部屋と違和感はない。若干カーテンやら家具のデザインやら、インテリアの趣味が華やかな気もするが。にしても、こいつがヒューマノイドインターフェイスでなくて人間なのはなぜだろう。喜緑さんは俺になにをさせたかったんだろう。こいつはいったい誰なんだ、情報統合思念体はとうとう長門を人間の女の子にしちまったのか。 「それっていつのことだっけ」 「高校の頃、はじめて文芸部部室に来たとき」 文芸部部室にはじめて訪れたのは、ハルヒが部活をはじめるからというんで首根っこをひっつかまれた仔猫のようにして連れてこられたときのはずだが、俺が改変した歴史だと長門に勧められて入部したときだったか。どっちにしても長門とそんな会話したっけ。宇宙人の話はむしろ長門がしてくれたんじゃ……。 「涼宮さんはあなたが部室に連れてきた。他校の生徒だったので驚いた」 「ハルヒがよその学校の生徒?」 俺はしばらく考え込んだ。ふと、あるシーンが目に浮かんだ。はにかみながら白い紙片を差し出す長門。門の前で体操着に着替えるハルヒ。学ランを着た古泉。朝比奈さんのグーパンチ。つまりこいつは長門が自らと世界を作り変えちまったときの長門か!?俺はまたあの日に戻ってきたのか!? 「それにしちゃ、いろんな意味で俺の記憶と違う気がするんだが」独り言がポロリと漏れた。 「あなたの記憶?」 「あ、いやなんでもないんだ。最初に会ったときのことを詳しく聞かせてくれ」 「あなたと会ったのは、本当はもっと前。中央図書館がはじめてで戸惑っていたわたしに貸し出しカードを作ってくれた。あのときのあなたはとても親切で印象に残っていた」 「そのへんは覚えてなくてな。学校でもあれがお前だとは気がつかなかったんだ」 それは長門が作った俺との馴れ初めストーリーだな。あんときは過去を捏造されたんだとばかりにイライラしたが、あれは長門流のロマンスだったのかもしれない。 「そう。それから二度目は冬、あなたが突然部室に現れた。わたしが宇宙人だと言い張って戸惑った」 あんときの俺はそりゃもう必死だったからな。今思い出しても赤面するぜ。 「それからわたしが誘って、ここでおでんを食べた。朝倉さんが作ってきてくれた」 おかしい、この長門はなぜすべてを遠い過去形で語っているんだろう。凝視していると長門は顔を赤くしてうつむいた。それでもじっと見つめていると、俺の長門とは微妙に違うところに気がついた。 「長門、ちょっと立ってくれないか」 「なに?」 長門はテーブルに手を着いてスクと立ち上がった。薄手のワンピースの裾が揺れる。 「身長は今いくつだ」 「ずいぶん測っていないけど、一六〇くらい。どうして?」 あのときとは背丈が違うな。スラリとしていてどっちかというとスレンダーっていうか。 「今、何歳なんだ?」 「二十四。なぜ?」 その答えに衝撃が走った。あの日から八年も経っている。長門によって改変された世界は十二月十八日の未明に俺たちの手によって上書きされ、なにもなかったことになったんじゃなかったのか。古泉の説明を信じるなら、時間軸が交差して無限記号のような二つの十二月十八日があり、未来からの干渉で事態を修復したんじゃなかったのか。この長門はあれから八回のクリスマスを数え、北高を卒業して成人を迎えて今ここにいる。未来の本人によって修正プログラムの短針銃を打たれたにもかかわらず、こうして俺の前でメガネをかけたままでいる。じゃあ朝倉はまだ健在で相変わらずおでんを作ってきたりするのか、ハルヒや古泉はどうしているのか。この世界がどうなっているのか、俺になにをさせたいのか喜緑さんの意図が分からない。 長門は続けた。 「その次の日にあなたは三人を連れてきた。ひとりは北高の二年生、あとの二人は光陽園学院の生徒だった。そしてあなたはパソコンの電源を入れて忽然と消えた。わたしたち四人を残したまま」 俺は言葉を失った。あの後がどうなったかなんて考えもしなかった。世界は元通りになり、全員がなにごともなかったと同じように暮らしているとばかり思っていた。 突然消えたりして残された人がいったいどんな気持ちになるか、心配どころか悲嘆に明け暮れそれが身内なら飯も食えない日々だろう。自分がそんな仕打ちを周りにしていたなんて今になってショックを受けている。結果がどうなるか、Enterキーを押す前に長門のメッセージの意味をもっと深く考えるべきだった。それを受け入れるだけの覚悟が自分にはあるのかちゃんと考えるべきだった。 俺はあの日に文芸部部室に置き去りにした長門を見た。せめて旅に出るくらいの一言はあってもよかっただろうに。 「その後はどうなったんだ?」 「覚えてない?」 「すまん、記憶が曖昧でな」 「次の日の朝、あなたはカナダへ転校したと聞いた。それ以降まったく音沙汰もなかった」 「そうだったのか……」 「……そして八年経った今、突然現れた」 つまり、こっちの世界から消失したのは俺で、朝倉の代わりに俺自身が行っちまったのか。別れの挨拶もなしに消えた俺を知って谷口の唖然とした顔が目に浮かぶようだ。 静かな部屋の中で沈黙が二人を包んだ。俺は詫びることすらできなかった。この長門は白くなるまで唇をかみ締め、その後に訪れた俺のいない空白の時間を思い返しているようだった。いくら自分の世界に戻るためとはいえ、俺はこの長門を別れも告げずに置き去りにしたのだ。意図的ではなかったにしろ長門を八年も独りにしてしまった。信じてくれなくても事情くらいは知っておいてもらうべきだった。 俺は自分がしでかしたことよりも八年という長い時間が経っていることのほうがショックで呆然としていた。 「長門、すまなかった」 ようやくそれだけが口からこぼれ出た。 「なぜ消えたのかどうして今になって戻ってきたのか、なにがあったのか教えてほしい。それに、わたしが驚いているのに、あなたは再会を喜んですらいないのはなぜ」 この長門は少し怒っている風でもある。その様子を見てなんとなく安心した。なんというか、人間には不条理なことに遭うとそれに対して怒ったり嘆いたり感情を露にすることで少しは落ち着くという、はけ口みたいなものがある。俺の長門みたいに処理不可能なエラーが延々積もったりはしない。それで気が晴れるなら俺を恨んでくれてもいいさ。 「朝倉の知り合いで喜緑さんって人がいてな、その人が俺をここによこしたんだ」 「……」 長門は疑いの目を向けていた。これだけじゃ説明になっていないよな。いっそのことすべてを話すことができたなら、いや、話しても信じてくれるかどうか自信がない。 長門は俺の手の上に自分の手を載せた。その温かさに動かされるように、俺は口を開いた。ここまで心配かけたんだ、空白の時間を償えるならすべてを明かしてもかまわないだろう。 「長門、お前は異世界を信じるか」 「異世界?」 「うまく説明できるかどうか分からんが、これから話すことは人間のお前には信じられんことかもしれん ──」 俺はいつかの長門を思い出してひとり笑いした。長門流に言うなら、情報の伝達に齟齬が発生するかもしれない、ってところだな。心配するな長門、ちゃんと伝わったから。 ── そう、まるで夢のような話だ。 俺は、俺自身の世界で最初にハルヒに会ったときからの過去をかいつまんで聞かせた。長門はじっと黙って聞いていた。ときどきうなずいたりはして、俺の長門が世界を改変してしまった日の話にかかると、空想世界の話を聞いているような表情は少しずつ消えていった。 話の途中でふと思い出してポケットから財布を出した。今も持ち歩いている、存在しないはずの西宮中央図書館のカード。 「これは長門が、つまり向こうのお前が作ってくれたんだ。あのときみたいにな」 長門は見慣れない図書カードを手にして不思議そうにいじっていた。それから一枚の写真。ホームレスのおっさんたちに握り締められて、もうよれよれになって色あせたハルヒと長門のツーショット写真だ。 「これがもう一人の、つまり俺が親しくしてる長門だ。こっちはハルヒで、世界をひっくり返すんじゃないかと超恐れられている存在だ」 「そう。涼宮さんとはときどき会う」 「こっちのハルヒは、あいつらはその後どうしてるんだ?」 「あなたが消えてからかなり怒っていた。いきなりやってきて宇宙人や未来人の話をした挙句、忽然と消えたりするのは卑怯だと」 「あいつらしいな。まさかSOS団の活動を続けたりしてないだろうな」 「続けていた。市内不思議パトロールであなたを捜索していた」 ま、またそんな不毛なことを。やみくもにジョンスミスを探してるなんて俺たちのハルヒと同じじゃないか。まあ唯一の救いはといえば、こっちのハルヒのイライラで閉鎖空間が発生したり世界が滅亡の危機にさらされたりしないことか。 「向こうのハルヒは猫にモノしゃべらせたり目からレーザーを出したりする映画作ったもんだが」 「映画はわたしたちも作った。特殊効果はなかったが、社会問題を扱ったドラマを作った」 「ハルヒが社会派の映画か、俺も見たかったな。四人とも学校が違うのに撮影大変だったろ」 「サークルで作った。四人は同じ大学に入って活動をした」 なるほどね。三年遅れだが結局はみんな同じところに集まったんだな。 思えば、うらやましい環境かもしれない。ハルヒは世界を作り変えたりせず、長門はエラーを起こさず、朝比奈さんは上司にパシリを命じられたりせず、古泉は神人と戦ったりせず、シャミセンは日本語をしゃべったりしない。この世界には宇宙人的魔法も時間移動も、世界を救うための超能力も、そしてなにより世界を覆す力もない。当然、俺というハルヒのストッパー役がいないのでそれはそれでバランスは取れているのかもしれないが。 でもまあ、もしあの日と同じ十二月十八日がもう一度あったとしても、俺は元の世界を選ぶだろう。ハルヒのセリフじゃないが、だってそのほうが面白いからな。 「あのとき俺がEnterキーを押したのは、向こうの世界が好きだったからなんだ」 「そう。二つのうちどちらかを選べと言われたら、たぶんわたしも自分の世界を選ぶ」 和らいだ表情で人間の長門はうなずいた。 「あれからどうなったんだ?長門は今はなにをしてるんだ?」 「大学を出た後、図書館で司書をしている」 俺は中央図書館のカウンターで静かに座っている長門を想像した。俺の長門は実験着を着て論文を書いたり、パソコンのキーボードを光の速さで叩いたりしているが、図書館の司書は本が好きなこいつにいちばん似合う職業かもしれない。 「あいつらはなにをしてんだ?」 「涼宮さんは大学院に進んだ。量子物理専攻だったと思う。朝比奈さんは教職課程を取って小学校の先生。古泉くんは、確か警察庁幹部候補」 古泉がおまわりかよ!趣味の推理好きが高じて仕事になりましたって感じがしないか。 「涼宮さんと古泉くんは去年結婚した」 ま、まじっすか。やっぱりその展開になったのか。尻に敷かれてんだろうなぁ、古泉。北高に入学して来なかったところを見るとこっちのハルヒにとっちゃジョンスミスはあんまり重要な位置づけじゃなかったようだし、それはそれでいいとするか。 「長門は好きな人はいないのか?」 「いる。婚約している」 なにげなく聞いた質問だったのだが、その答えに落雷が落ちたような衝撃が走ってすべての髪の毛と体毛が逆立った。そ、そうだよな、二十四歳だもんな。この美貌じゃ男どもが放っておくはずがないよな。 長門はキャビネットの中から写真立てを持ってきた。野郎と並んで長門が写っている。極上なスマイルを浮かべながら長門の肩に手をやった野郎の姿が非常に嫉妬を掻き立てる。えらく体格がいいな。なんか、知ってるやつのような気がするんだが。 「こ、これ、中河じゃないか!!」 「そう。なぜ知ってるの」 「中学校のときのクラスメイトでな」 っていうか、俺のいたの世界じゃ中河が長門に遭遇するのは高校一年の冬休みで、長門が世界を改変する出来事の後のことなんだが、時系列がおかしくないか。 「彼とは大学で一緒だった」 なるほど、世間は狭いっていうがまさにそれだな。そういや中河が長門を見初めたのは高校一年の五月ごろのことで、あれがそのまま引き継がれてこっちの世界にも繋がってるんだとしたらありうる話かもしれん。 っていうか、あんな小型のブルトーザーみたいなゴツイ男のどこがよかったん、……。 「……」 「なに?」 「いや、なんでもない」 こいつにはこいつの人生があって、幸せになる権利がある。いや、幸せにならないといけない。二人を祝福してしかるべきことのはずが、なぜだか悲しい。 「それがお前の望んだ幸せならいいんだが」 「そう。わたしは今、幸せ」 「そうか、ならよかった」 何度も言うが、こいつにはこいつの人生がある。ハルヒのときだって、朝比奈さんにだって、俺は勝手に嫉妬したり干渉したりしていた。長門のときだって、中河が今にも燃え出しそうな情熱的なラブレターを俺に託したときも正直いい気はしなかった。できることならほかの男をそばに寄せたくはなかった。 ── あなたは、彼女には彼女の人生があるということを知るべき。 長門の声が耳にこだまする。それを聞いたのはいつだったろうか。 喜緑さんが俺をここへよこした理由が、なんとなく分かった気がする。ハルヒに釘を刺されたセリフじゃないが、人生なんてたったひとつのタイミングで簡単に変わってしまう。干渉したり嫉妬できるうちはまだいいが、一度流れが別のほうへ変わってしまえば、ダダをこねようが地団太を踏もうがどうすることもできない。人生もそれぞれ、行く道もそれぞれ、重なり合った二人の時間線がふとしたことで永久に離れてしまうこともあるんだ。 「よかったらこの写真もらえないか」 「え……これでいいの?」 「ああ。幸せそうなお前が写っているこの写真が欲しい」 「そう。それでよければあげる」 喜緑さんのことを思い出してふと時計を見ると九時回っていた。だいぶ話し込んでしまった。 「すまんがそろそろ帰るわ。人を待たせてるんだった」 「そう、」 長門がそう言い終えないうちに電話がかかってきた。長門はうんとかええとか返事をしていたが、やがて、 「彼が今から寄ると言ってる」 「中河か、これからか」 「そう。あなたにも会ってほしい」 どうしよう。俺はその、なんというかいくらガタイのいい中河でもあいつが怖いなんてことはないが、向こうのあいつは俺にひどい仕打ちをしてくれてるわけで、面と向かって堂々と話をするなんてことはできそうにないぞ。 「すまん、やっぱ落ち着いて話をするのは無理だ。いくら異世界でもお前はやっぱり俺の長門だし、その婚約者なんかと堂々と話ができるほど度胸の座った男じゃないし」 「そう」 「小心者だからな」 そういうと長門は目を細めてクスクスと笑ってみせた。ああ、この長門はちゃんと笑うんだな。 立ち上がって腰を伸ばそうとすると、足元でみゃあという鳴き声がした。鼻のまわりと前足だけが黒い、真っ白な猫がズボンの裾にまとわりついていた。俺にシャミセンのにおいがついているのかもしれない。 「猫飼ってるのか」 「そう。あなたに言われてから飼っている」 ここはペット禁止だったはずなのだがまあバレなければいいか。俺はその猫を抱き上げた。妙に見覚えのあるその表情と模様に、もしかしたらこいつは時空に対して曖昧な長門んちの猫なんじゃないかと、その名前を呼んでみた。 「おい、ミミ」 猫の姿は消えるはずもなく、みゃあと一声だけ鳴いた。 「なぜこの子の名前を知ってるの」 「いや、なんだかそんな気がしたんだ。俺のいた世界でお前がちょうど逆の模様をした猫を飼ってる」 「そう……」 これはたぶん偶然なんかじゃなくて、なにかの因果ってやつだろう。ミミ、長門のことをよろしく頼むぜ。 靴を履いて玄関を出るとビーチサンダルをペタペタと鳴らして長門がついてきた。エレベータの前に立ち止まり下向きボタンを押して待った。エレベータのドアが開いて中に入り、ここでいいよと手を振ったのだが、長門はそのままドアの内側に入り込み俺から離れようとしなかった。ドアが閉まり、そこが密室になると長門はじっと俺の目を見つめた。 「あなたが……好きだった。今でも」 湧き上がる気持ちを抑えきれないように俺の背中に腕を回し、肩に顔を埋めた。俺は心拍数が少しずつ上昇するのを感じた。なにやら名状しがたいモヤモヤが胃の辺りで生まれて止まない。こいつを連れて遠くに逃げたいという衝動となぜだか泣き出したくなるような衝動が、水面に垂らした絵の具のようにぐるぐると渦巻いて心の中に溶け込んでいく。俺も長門の小さな背中に腕を回してギュッと抱きしめた。このまま永久にエレベータが止まらず下降し続ければいい、そう願った。そして俺の長門がこれを見たらどう思うだろうかという説明しがたい後ろめたさに充たされた。 「ああ、知ってた。許してくれ……」 長門は俺の胸に顔を埋め、じっと鼓動を聞いていた。 「ごめんなさい。ずっと言えなかった。やっと言えた」 あんまり俺を責めないでくれ。もう少しで泣きそうだから。 「もし誘ったらだが、俺といっしょに来るか?」 言ってはならないことを言ってしまった気がする。婚約までした長門が相手を裏切るなんてことはありえないのは分かっていた。いくら感傷的になっているとはいえ俺は裏切りをそそのかすようなことを言う自分を恥じた。だが長門は一瞬の躊躇も考えることもなく、 「あの人はずっとわたしを待っていてくれた。だから、彼に報いたい」 「そうか。安心した」 中河は一途なやつだ。十年経ったら迎えに来るとまで誓った男だ。最近じゃ誘うほうも誘われるほうも恋愛が極端に簡単になっちまって、一人の女のために人生を投げうてるやつはそうそういない。俺なんかよりよっぽど根性ある男だと思う。この長門だって、ここで一時の感情に流されるより、心に決めたやつと一緒になるほうが幸せになれるさ。 「変なこと聞いてすまんな、今のは忘れてくれ」 「いい。ときどき遊びに来て。年に一度でもいい」 それができるのかどうかは、俺には分からない。この世界と向こうの世界がどうやって繋がっているのかも俺には分からないのだ。 「約束はできんが、もし来れたら向こうの長門を連れてくるよ」 この長門はにっこりと笑ってうなずいた。 エレベータのドアが開いた。さっきまで密室を満たしていた重たい空気は少しずつ薄まってゆき、昼間の名残の匂いのする微風にまじって流れた。 玄関の自動ドアを出てマンションの門柱のところで長門はぴたりと止まった。俺は数歩歩いて手を振り、また少し歩いては手を振った。もうひとりの長門、会えてよかった。さよならだ。 振り返ると、マンションの明かりを背に受けた長門の小さな影がぽつりと見えた。それに歩み寄る別の影がひとつ、そして二つの影が寄り添い互いに抱き合ってひとつになった。長門がこっちを指差してなにかを話していた。 ここで中河と話をする勇気はさらさらない俺だが、一声だけ叫んだ。 「こら中河!長門を不幸にしたらタダじゃおかんぞ!」 俺はそのまま走った。走って逃げた。ニヤニヤ笑いを浮かべながら。 「おかえりなさい」 駅前公園に入ると喜緑さんが笑っていた。さっきのが聞こえていたようだ。 「喜緑さん、長らくお待たせしました」 「いかがでしたか」 「ええ。あいつも元気そうで安心しました」 「それはよかったですわ」 「あの長門、ヒューマノイドインターフェイスじゃないですよね」 「ええ」 「あれは人間の長門でしょう」 「あの子は長門さんがそうなりたくて生まれた長門さんです。八年前の十二月十八日に」 「ここがどういう世界のなのかなんとなくは分かったんですが、古泉の話だとあの日は確か未来からの干渉で上書きしたんじゃないですか?ええと、ベルヌーイ曲線でしたっけ」 「いいえ、上書きはされていないんです。ただわたしたちの時間軸から切り離されただけ」 「俺たちの時間とは別に存在してたんですか」 「そうです。十二月十八日の未明を境に、情報統合思念体によって切り離されたものなんです。この時間軸はわたしたちのいる世界とは二重化された世界。一枚の紙の裏側みたいなものですね」 なんだか難しい話になってきたが、つまり並行世界みたいなものか。長門も似たようなことを言ってたような覚えがあるんだが、思い出せない。 「でも、長門のエラーから生まれたこの世界をなぜ残したんです?」 「……」 喜緑さんはそこで少し考え込む様子を見せた。 「たとえばですが、キョンくんが別の世界を作ったとして、それが失敗だったからといって消してしまうでしょうか」 「難しいですね……」 前にも同じジレンマを感じた覚えがあるが、あれはいつのどんな事情だったか。ハルヒならそれをやりかねんが、俺自身がそれをやるかどうかと言えばたぶん無理だろう。どんな世界でもそれが最初から存在するべきでなかったなんてことは俺には言えない。少なくとも、そこに長門がいる限りは。 「時間線と世界線はつねに同じ点で繋がっているんです。時間のほうだけを都合よく修正することはできないんです」 「でもまさか、俺のいない世界が八年も存在し続けていたなんてショックです。俺自身が突然消えてしまったわけですから」 「ええ。わたしたちも放置していたわけではなくて、キョンくんの周辺はできるかぎり調整を施しました。この時空は、今は情報統合思念体の管理下にあります」 「ということは俺の家族なんかも、俺がいなくてもいつも通り生活してるわけですか」 「はい。長門さんが二重化したために複雑な修正を施してしまいましたが、今のところちゃんと機能しているようです」 単に時間を元に戻すだけだと思っていた、俺たち人間の考えが浅かったってことだな。そういうことならまあ、こっちの長門とハルヒと、それから朝比奈さんをよろしく頼みます。古泉?あいつは俺のコンプレックスの塊みたいなやつなんでどうでもいいですが。 「こちらでのみなさんはごく平均的な人生を過ごしている、と観測されています。ただひとり、あなた以外は」 そこで喜緑さんは俺に伺うような目線になった。 「これで……よかったでしょうか?」 「よかった、とは?」 「わたしたちは人の幸福という概念について研究して来ましたが、まだ不明な点が多いんです。それに関与する資格はないのかもしれません」 「それは人間自身にも分からないことですよ、きっと」 「キョンくん不在の穴埋めが本当にできたのかどうか分からなくて……」 銀河を支配する集団にしちゃえらく控えめなこの質問は、穏健派の喜緑さんだから腰が低いのか、あるいは、すべての派閥を代表する率直な気持ちなのか。 思い起こせば、あの日に起こったのは長門のエラーなんかじゃなかったのかもしれない。長門は俺に二つの人生を用意してくれた。毎日が全力疾走で手段を選ばず願望を叶えるハルヒに特殊な力を持った三人がそのフォローに追われる世界と、かたや、ハルヒの引き起こすドタバタに魔法や時間移動や超能力を使わなくても生きていける世界。 ハルヒだって長門だって、特別な力がなくても幸せになれるんだ。願望を実現する能力があってもなくても毎日がドタバタなのには変わりない。こっちの長門に会ってみてそれが分かった。どっちの世界の住人もそれなりに幸せを享受していて、それなりに苦労していて、ああだこうだ言いつつもやっぱりこっちがよかったとそれぞれが思うに違いない。隣の芝は青い、青すぎてそこに住んでみたくなるなんてことはなくて、いくら雑草がはびこっていても庭は庭、自分ちの敷地が住みやすいもんだ。 「喜緑さん、ボスに伝えてください、ありがとう、と」 喜緑さんのやや不安げな表情は消え、にっこりと微笑んだ。 「では、帰りましょうか」 「またいつか、来れますよね」 喜緑さんはただ微笑むだけで肯定も否定もしなかった。 喜緑さんが右手を上げて詠唱し、二人の周囲にぼんやりとオレンジ色の球体が生まれた。俺たちを包む球は最初ゆっくりと浮上し、地面を離れてからぐんぐんと急上昇した。町の明かりが次第に小さくなってゆき暗い宇宙が目の前に迫ってきた。だんだんと気が遠くなる。今までのことがすべて意識の彼方に飛んでいく。 気がつくと俺はベンチで眠っていた。公園だった。見上げると星が出ていた。 「喜緑さん?」 見回してみるが気配はない。先に帰っちまったのかそれとも最初からいなかったのか、もしかしたらあれはすべて夢だったんじゃないか。確かに眠ってはいたが夢にしちゃリアルすぎるだろ。 俺はかくも長き長編映画を見た後のような余韻に包まれ、しばらく頭がぼーっとしていた。気温はかなり下がっているはずだがなぜか顔だけは火照っている。メガネをかけた長門を思う後ろ髪を惹かれるような気持ちと自分の現実に帰ってきた安堵とがないまぜになって、浮かんだ花びらのように俺の心の水面をくるくると踊っていた。 やがて俺の長門のことを思い出し、エレベータの中での心臓が締め付けられるようなあのモヤモヤは少しずつ消えていった。 俺はポケットを探って携帯を取り出した。ベンチの背もたれに体を預けたまま星空を見上げ、呼び出し音を数えた。向こうの中河がどうあれ、こっちの中河には話をつけておかなければならん。俺のモチベーションが下がらないうちにな。 『なんだ、キョンか。どうした』 「おい中河、お前に言っておくことがあるっ」 必要以上にハァハァと鼻息が荒い気がするんだが、まあ普段からこういうことに慣れていないからだな。 『尋常じゃないな、なにがあったんだ』 「愛してるんだ。誰にも渡さん」 『は?大丈夫か、酔ってんのかキョン』 「俺は八年をかけてやっと本当の愛に目覚めたんだ。横槍を入れるやつは断じて許さん」 『気持ちは嬉しいんだがキョン、すまんが俺にはそういう趣味は、』 気のせいか前にも同じシーンがあったような。 「俺の女に手を出すなつってんだよ。お前がいくら体育会系アメフト出身でも喧嘩の相手くらいなってやるぞ」 体力勝負からいってタックルは無理だがコイントスなら勝てる自信はあるぞ。 『な……』 中河はしばし沈黙したまま、どう答えていいのか分からないようだった。 『もしかして長門さんのことか』 「あったりまえだろうが」 『その……なんだ。キョン、すまん。俺が思い違いしてたようだ。お前はてっきり涼宮さんと付き合ってるのかと思ってたんだ』 ま、またそれか。ったくどいつもこいつも俺とハルヒをくっつけないと気がすまんのか。 「ハルヒは古泉と付き合ってるんだよ」 『知らなかった、あのハンサムなニヤけ男とか』 ニヤけ男は合っているが、お前に言われるとなぜか腹が立つな。 「いくら長門が好きでも先に誰かに打診するもんだろうが。たとえば俺にだな」 『そうだな。いや、八年前に道化師を演じた大失態があるから分かってくれてるだろうって思ってたんだが』 まあ、気持ちは分からんでもない。あの一件以来、中河といや俺たちの間ではピエロだったからな。 『どうだ、これから飲みにいかないか。お詫びに俺のおごりだ、長門さんも呼べばいい』 俺は腕時計を見たがすでに十時を回っていた。あ、ええっと、どうだろう。 「今ちょっと長門とトラブっててな、今日は無理だな」 『なにかあったのか』 「お前のせいで長門を怒らせちまったんだよ。俺と中河の好きなほうを選んでいいなんてことを言っちまったのさ」 『俺もかっこ悪いが、お前も相変わらずだな』 携帯のスピーカーから中河の笑い声が漏れてきた。つられて俺も他人事のように笑った。 『まあ、俺が言うのもなんだが、長門さんを大事にしろ。ああいう女性は滅多にいない』 当たり前だろ。長門みたいな女は世界中、いやこの宇宙のどこを探しても見つかるまい。この銀河を統括するやつらの中でもユニークな存在なんだぞ。 「ああ、それからな中河」 『なんだ』 「今回の買収の件なんだが、ほんとは長門が欲しかったんだろ」 中河は少し黙り、電話の向こうではたぶん顔を赤くしているんだと思うが、 『図星だ。長門さんと二人で仲むずまじく会社経営なんて甘い夢を見てた』 「なんとまあ、お前もよく夢を見る男だな」 中河は、それが俺の生きるためのエネルギーさ、と言って笑った。 「ここんとこ会社の株価が上がってるのはお前の仕込みなのか」 『ああ、あれか。俺自身は関与してないがグループ内の金融機関でやってる買収の資金繰りみたいなもんでな、一部は別会社を経由してSOS団に流れるはずだった。厳密に言えばまあインサイダーなんだが』 自社の株価を操作して資金調達する仕組みになってたのか、知らなかった。 「買収はきれいごとばかりじゃないってことか」 『ああ。だが長門さんの協力が得られないのなら今回の話はあきらめようと思う』 「まあそう急ぐな。無理に傘下にしなくてもビジネスパートナーとして付き合っていけばいいじゃないか」 『長門さんが許してくれればいいんだが』 「あいつは根に持つやつじゃないさ。ひとこと詫びを入れとけばいいだろ」 『そうか。お前にも悪いことしたよ』 中河は悪いやつじゃない。女のことになるとちょっと空回りするってだけだ。空回りしすぎてひとりクラッシックバレエを踊ってしまうことも多々ありだが、世の中に男と女がこれだけいりゃ、こういうこともあるさ。 『なあキョン』 「なんだ」 『あのときの長門さんの怒った顔』 「それがどうした」 『正直、惚れた……』 な、中河てめえ!この期に及んでホの字になってんじゃねえ。 四章へ
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/1864.html
休日ということもあって車通りの多い道をさすがに危険なので交通法規を守りながら、急いでいる時に限って待っている時間が長く感じるという人間の曖昧な体感時間にイライラしつつ、全速力でチャリを走らせても結局信号待ちに出くわしたりして何度も舌打ちしていた俺は、ようやっとのことで有希の待っている高級分譲マンションに辿り着き、鍵をかける時間もわずらわしく感じながら愛車を少々乱暴に駐輪所に放置して、駆け足で玄関へと向かいパネルに有希の部屋番号を入力しベルボタンを押した。 『…………』 来るタイミングが分かっていたのか、それともずっと待機していたのか、一瞬で反応が返ってくる。 「有希、俺だ。待たせてすまない」 『……、入って』 何かを言いかけて、言いとどまったような雰囲気の声が聞こえてきたが、有希が口にしたのはそれっきりだった。少々気になるが、今はそれよりもすぐに有希の姿を見たい。 開錠されたドアを俺は即行でくぐってエレベータへと向かう。ボタンを押すと、他に利用する住人がいなくてよかった、すぐにエレベータが降りてきて俺は滑り込んで7階のボタンを押し、指を滑らせるようにして開閉ボタン押してドアを閉じる。 エレベータが7階まで上昇するのにかかった時間はほんの十数秒程度だったと思うが、その時間すら惜しく俺はだんだんと足踏みをしながら7階に到着するのを待ち、ドアが開いた瞬間にはじかれたように8号室の前まですっ飛んで行った。 インターホンを押さずに、いつものようにドアをノックする。 一瞬の間があった後ドアがゆっくりと開かれ、俺は転がり込むように、 「有希――」 部屋の中に入ったものの、有希の姿が見当たらない。おかしい、ドアはひとりでに開いて――。 「――んむっ!?」 次の瞬間、俺は横から強い衝撃を受けて玄関の壁にもたれかかる体制でずるずると座り込んだ。 いや、だがそれはいい。押し倒されことよりも、もっと重要なことは、 「ん、ふ……ちゅ」 有希が、俺の首にしがみつくようにして俺の唇を、自分の唇で塞いでいた。 有希。と呼びかけようとしたものの何分唇に強く吸い付かれてるせいで言葉を発することができない。 何だなんだ。いったいどうしたってんだ? 「んちゅ、ちゅ……んぅ」 ガチャン、という音がしてゆっくりとドアが閉じられる。密室になったおかげで俺と有希の唇が触れ合う音だけが反射して、やけに大きく聞こえた。 「ちゅ……ん、ちゅく、ちゅる」 有希は首に回していた腕の位置をずらすと両手で俺の顔をホールドし、舌で俺の唇をこじ開けて自分の舌を絡ませてきた。突然の行動に唖然としていた俺だったが、反射的に自分からも舌を絡ませる。床についていた手をジーンズで軽く拭うと、片手を有希の背中に回して抱き寄せ、もう一方の手を有希の頭に手を添えてその柔らかい髪をそっと撫でた。 「んむ、ぅ……」 すぐ目の前にある有希の瞼が薄く開かれ、その目が熱っぽく潤んでいるのを見て俺は更に驚いた。そういえばさっきから聞こえてくる有希の声も、何だか今にも泣き出しそうな感じに震えているようにも思える。 有希はほんの少しだけ眉を下げると――有希が喜んでいる時に見せる表情だ――、また目を閉じて俺とのキスに没頭し始める。 有希が唇を触れさせる度、舌を絡ませてくる度に、体が痺れていくようだ。 ほとんど反射的にキスを返しながら、俺にすがりついてくる有希の姿が切なくて、俺は胸が締め付けられるような思いがした。 「ふぅ……、ちゅ、ちゅく……」 有希は唇と舌を押し付けながら、胸も押し付けるように擦り寄ってくる。 ふと、有希の頬に一筋の透明な線が引かれたのを見て、心臓が強く跳ねたのを感じた。 「ちゅる、ちゅ……。……ふぁ」 ようやく、有希は俺の肩に手をついて体重を支えながら唇を離した。繋がっていた透明な橋は、自重に負けてすぐに切れ落ちてしまう。 「はぁ……、は……ぁ」 今日の有希の様子は、どこかおかしかった。普段なら――いや、普段でもキスしてる時のこいつは何というか色っぽいというか、ええい、それはいいんだが、ここまで乱れるようなことはなかったはずだ。 「は……ふ、ぅ」 有希はまだ俺の肩に手をついて息を整えている。そして、一つ大きく息を吸い込むと、 「……、…………」 「ゆ……き?」 唇の端を僅かに持ち上げて、微笑んだ。しかもその目は、誰が見ても分かるくらいに潤んでいる。 「……待っていた」 今にも消え入りそうな表情のまま、蚊の鳴くような声で有希は、 「あなたを、ずっと」 「有希……」 そっと頬に手を添えると有希は嬉しそうに目を細め、そのまま眠るように目を閉じて俺の手にその柔らかい頬を摺り寄せてくる。 もう一方の手を細い腰に回すと、ゆるゆると倒れ込んできてまた俺の首に腕を回す。頭を肩の辺りに預け、今度は頬と頬を摺り合わせてきた。 「……寂しかったのか?」 「…………」 僅かにゆっくりと縦に揺られる感覚。 「……ごめんな」 「……ん……」 小さな体を抱き締め、小さな頭を撫でる。髪を指の間に滑らせ、その柔らかい感触を愉しむ。 「…………」 ふと気がつくと、有希が目を半分ほど開けて俺をじっと見つめていた。他の奴が見たら無表情にしか見えないかもしれないその顔に、俺はちゃんと有希の感情の揺らぎを見出し、それに応えてやる。 「ん……、……ちゅ」 髪を撫でていた手で有希の頭を引き寄せると、そのまま唇同士を合わせる。触れた瞬間に有希は俺の唇に吸い付き、首に回す腕に力を込めてきた。 「ちゅぅ……ちゅ、ちゅ……」 だけどその力は弱々しく、多分普通の女の子と同じくらいか、もしかしたらもっと弱いもので、 「ん、ちゅ……ん、ふ」 小鳥が餌をついばむように、必死で俺の唇を貪るその儚げな姿そのままだった。 その姿が、どうしようもなく愛おしくて、切なくて、俺は、 「は……む、ちぅ……、ぅ、んぅっ」 今度は自分から、有希の唇を奪った。 「んく、ちゅ、んぅぅ……」 有希の体が強張るのを感じたが、俺は構わずに小さな唇に強く吸い付く。舌先で有希の唇をつついてやると、有希は唇を僅かに開いた。俺はすぐにその隙間に自分の舌を差し込む。 「ふ……ぅ、ちる、ちゅ……」 さっきまで自分から同じことをしていたのが嘘のように、有希はおずおずと舌を差し出してきた。舌先を僅かに触れさせると、俺はすぐに有希の舌を絡めとって容赦なくその小さな口内を蹂躙する。 「ん、く、ちゅ、ちゅる……」 触れ合った唇から、絡め合った舌から、そして抱き締めた体から、有希の熱が伝わってくる。 気持ちいい。 触れ合っている時の心地よさが、キスをするだけで全て快感へと変換される。それは多分、有希も同じだ。 「ちゅ、ん……ふ、ぷぁ」 唇を触れ合わせている時だけならまだいいが、舌も絡ませているとすぐに息が切れてしまう。限界になった俺はゆっくりと唇を離した。 「……っは……」 いつも思うことだが、キスをしている時のこいつは本当に幸せそうな顔をする。今もこうやって、俺だけが分かる極上の笑みを浮かべるもんだから――。 「……、……ン……」 ――ああもう、可愛いやつだなこいつは。と、こうなるわけである。 「……んゃ……ぁ」 頭を肩口に引き寄せると、有希はまた懐いた猫みたいに頬を摺り寄せてきた。 ……ちなみに、さっき有希が何て呟いたのかは、教えるつもりはない。 「……ん?」 また有希の頭を撫でていた俺は、ふと違和感に気がついた。有希の髪から漂う微かな香り。そういえば何だかいつもよりしっとりさらさらなこの感触はもしかして、 「有希、風呂入ったのか?」 「……あなたが来る日だったから」 ズキューン! と、銃かキューピッドの矢かに打ち抜かれたような音がしたのはもちろん俺の頭の中だけである。 実にいじらしいことこの上ないが、そうなると少しばかり問題が発生するわけで、 「……チャリぶっ飛ばしてきたから汗だくなんだが」 「……問題ない」 いや、問題あるって。汗臭いって。っていうかそういえばここ玄関じゃないか。汚れるだろ。 「……あなたの汗の匂いは、好き。それに、汚れてもあなたとならかまわない」 有希、お前はいつから匂いフェチになったんだ。ってそうではなく。 俺となら汚れてもいいなんてよからぬ想像をしてしまいそうじゃないか。ってそうでもなく。 「せっかく風呂に入ったのに、ええと、もったいないじゃないか」 そういう問題じゃない気もするが、ここは日本だMOTTAINAI精神だ。 「だから、ほら。離れた方がいいって。そうだ、風呂貸してくれよ。俺もこのままじゃ悪いしさ」 さっきまで散々絡み合ってたくせにこれだから俺も薄情なものである。ゆっくりゆっくりと俺から体を離した有希は当然寂しそうな顔をしてくれるわけで、 「……浴室を?」 「ああ、シャワーだけでも浴びときたいから……」 「……そう」 不意に表情を緩めた有希を見て、俺は自分の軽率な言動を後悔することになる。 ……全ては、計算づくだったのかもしれない。 「…………一緒に?」 こしゅこしゅこしゅこしゅ……。 絶妙な力加減で頭皮ごと髪を擦り上げられる。いや、気持ちいいもんだね。自分でやると適当になりがちなんでどうしても洗った後に微妙に痒かったりするんだがこれならそんなことはあるまい。 それはいいとしてだ。 「なあ、有希」 「なに」 あらかじめ断っておくが、俺の頭はシャンプーの泡だらけで目が開けられる状態じゃない。そして俺の記憶が正しければ有希はちゃんとバスタオルを体に巻いて浴室に入ったはずだ。はずなんだが。 「さっきから体を押し付けてきてるのはわざとか?」 「…………」 洗うスピードを上げるのはいいから答えなさい。沈黙は肯定だと偉い先生も言っていたぞ。多分。 「そして身に着けていたはずのバスタオルはどこへやった?」 さっきから背中に非常によろしい感触を二箇所程感じているのですが、有希さん。 「………………」 洗うスピードが1.5倍くらいになった。やっぱりか。 「いや、決して悪くはない。むしろ嬉しい。だけどさ、もう少し恥じらいだとかそういう――」 「……………………そう」 「――いや、ええと、ごめんなさい」 今更何を言っているのだろうか、俺は。むしろいつも有希を辱めてるのは俺の方で――ああいや、何でもない。何でもないぞ。 「…………」 「はぅ」 断っておくが「はぅ」は俺のセリフである。 何を思ったのか有希は(俺の推測が正しければ――いやまあ間違いないとは思うが)、一糸纏わぬ姿のまま背中から俺に抱きつき、俺の腕をホールドして抵抗できない状態にしてしまった。 「……何のマネだこれは」 「…………」 有希と風呂に入ったことは何度かある。が、こんなふうにふざけたり(これが一番正しい表現だと思う)したことはなかった。やっぱり今日のこいつは何かおかしい。 「――っておい!」 「…………」 どことは言わない。だけどな、それは擦る場所が違いすぎるだろう。位置的に間違えたなんてこともないだろう。わざとだよな。わざとやってるんだよな。お前もなかなか男というものが分かってきたじゃないか。そうさ、お前みたいな可愛い女の子と一緒に裸でいるっていうこの状況でどうにかならない男はそれこそどうにかしてる。そんなわけでお前が触れる前から俺のここは元気一杯だったさ。だけど抵抗できないこの状況でいじることはないんじゃないのか? 言っておくが俺はいじめて君じゃないからな。こんなことで屈すると思ったら大間違いだぞ、有希よ。そりゃあ気持ちよくないと言ったら嘘になる。有希のすべすべした手は触れるだけで気持ちいいんだからこんな急所を責められたんじゃどうしようもない。どうしようもないわけだが、ここで果てたら俺のプライドが廃るわけだ。もしかして勝負か? いつも俺が責める方だから形成を逆転しようと言うのか? 何ならその勝負受けて立とうじゃないか。せっかくだからお前が満足するまで――。 「…………」 ――などとどうでもいいことを考えていた俺の思考は勢いよく噴出すシャワーの音によってかき消された。シャワーによって自然に流された泡が体に落ちてきて、俺の体はあっという間に泡だらけだ。 ……実は今の俺は物凄くみっともない格好かもしれない。 シャンプーが終われば次はもちろんリンスなわけで、再び有希の手の感触が頭でするわけだが、俺のを触った手はちゃんと洗ってくれたんだろうか。 「洗った」 「……そうか」 リンスをしっかりと髪になじませるように丁寧に動かされる有希の手の感触は気持ちいいのだが、やっぱりまた背中には別のよろしい感触があるわけで、ああもういいや。好きにしてくれ。 「……終わった」 泡を全部流し終えると有希はタオルで俺の頭を丁寧に拭いて水気を取り、 「次は体」 さっさとスポンジにボディソープを出して泡立て始めた。 「……なあ」 「なに」 「……いや、何でもない」 「……そう」 俺の背中を洗い始めた有希は、間違いなく楽しそうで、 「前は自分で洗うんだよな、やっぱ」 「そう」 俺からしてみれば、いつ笑い出してもおかしくないような声色で言った。 「……お預け」 ……ふふふ、そうか。まあ何となく分かってたけどな。 だが有希よ。 「本当に我慢できないのはお前の方なんじゃないのか?」 「…………」 図星か? 図星なのか? 「…………いじわる」 ……皆には是非とも、俺を罵倒したり殴ったりする前に、ここで理性を失わなかった俺を褒めてもらいたい。 この後は洗う係を交代して俺が有希の頭と背中を流してやった。もちろん自分でするような適当なものではなく、有希がしてくれたみたいに丁寧にだ。そして、有希は微妙に不服そうだったが前は自分で洗わせた。前までやったら流石に理性がもたんかもしれんからな。 で、更にその後は二人で背中合わせに(これはある意味保険だ)湯船につかってぼんやりしていたわけだが、晩ご飯を作ると言って有希は先に出て行ったので今は浴室には俺一人だ。 しかしまあ。 いつの間にやらこういうことを普通にやってるわけだから慣れというものは恐ろしいわけである。 まあそもそも“あの日”に結局ここでいろいろとしてしまったわけだから……今更どうこう言うのは逆におかしい気もするけどな。 「さて……と」 体の芯まで温まったところでそろそろ風呂を出ようか。さっき作り始めたばかりのようだから、まだ飯はできていないだろう。できるまでずっとつかってるってのも何だしな。 俺は湯船から上がるとシャワーで軽く汗を流し、洗面所のタオル掛けに掛けてあったしっとりと濡れたバスタオルで適当に体を拭く。 何で濡れてるかといえば、それはまあ有希が体を拭いたものだったからなわけだが、もはや気にせずにそれを使っている自分がいるのに気付いてやはり慣れというのは恐ろしいものだと思う俺だった。 ……いい匂いがするのはきっとシャンプーとかだけのせいじゃない。そして俺は決して匂いフェチとかじゃない。 「…………」 ドライヤーで髪を乾かしながら鏡で自分の姿を確認する。うむ、我ながらあまりルックスがいいとは言いがたい。もしも古泉程度のルックスがあったらナルシストになってしまっていたかもしれない。……いや、決して羨ましくはないぞ。妬ましいが。 家から持参した下着を身に着けると、その上にパジャマを着込む。これで湯冷めする心配はない。 一晩泊まるだけなのに下着が二組入っているのは……まあ、そういうことだ。 さっぱりしたところで洗面所を出ると、食欲をそそる匂いが鼻に届いた。どうやら今日はカレーらしい。 有希といったらレトルトカレー、レトルトカレーといったら有希、みたいな認識をどこかの誰かさんたちにはされてそうだが、決してカレーと千切りキャベツばっか食ってるわけじゃあない。 いつかハルヒが言っていたとおり万能選手である有希は料理もお手の物だ。今までろくに料理もしていなかったのはただ単にそうする必要がなかったからであって、有希の手料理が食いたいという俺の半分冗談な提案を頷き一つで快諾してくれた有希は、俺が家にお邪魔する度に手料理を振舞ってくれると、こういうわけだ。 従って、今有希が作っているであろうカレーももちろんレトルトなんかではない。かと言ってルーから作るような本格的なものでもないが、市販のルーを二種類混ぜたり、タマネギをペースト状になるまで炒めたり、隠し味にリンゴやらハチミツやらヨーグルトやらを入れてみたりといった、お袋がやるようなごく一般的な日本の家庭料理的手作りカレーライスである。 だがその味のバランスは見事の一言で、スパイスの配合やら野菜、肉の切り方、煮込み方にいたるまで完璧な、食材のオーケストラとでも言うべき素晴らしいカレーは、有希の手作りであるという点を除いても確実に星3つと叫んでみたくなるような究極的仕上がりなわけだ。 ちなみに、多分料理もいつかのギターみたいな感じで覚えたんだろうなと思ってそれとなく聞いてみたところ、 「……本で勉強している」 「わざわざか? そりゃまた何で」 「……ちゃんと努力して、あなたの喜ぶ顔が見たいから」 という一連の対話が行われ、当然の帰結として俺は有希を抱き締めたわけだが、まあそれはいい。 そんなことを思い出しながら台所へと向かった俺は、パジャマにエプロンという何とも微妙ないでたちで料理をしている有希を発見した。いつもなら制服にエプロンで有希がこっちを向いたときにエプロンから覗く生足という男心をくすぐる画が見られるわけだが今回は先に風呂に入ってしまったのでそうもいかなかった。 まあどの道エプロンをつけて料理をしている有希というのは、少なくとも俺にとっては微笑ましい光景であるわけで、文句などは何一つない。 そもそもこうして有希が俺だけのために料理をしてくれているという事態は奇跡とすら呼んでもいいほどで、俺は毎回それに感動を覚えるわけである。 「有希」 「…………」 俺の呼びかけに有希は首だけを僅かに振り向かせる。 「から揚げか?」 「そう」 有希は小麦粉をまぶした鶏肉を油の入った中華鍋で揚げている最中だった。残りの肉を鍋に放り込むと有希は体をこちらに向ける。 これは余談だが俺はカレーに鶏肉といえばチキンカツよりから揚げ派である。有希は俺の好みも宇宙的パワーを使わずに研究しているらしく、料理の味はご馳走になる度に俺の好みに近付いており、そんな健気な有希を抱き締めたくなるのは男として当然の衝動なわけだが、揚げ物をしているとなるとそういうわけにもいかず、俺は代わりにそっと有希のまだ乾ききっていない頭に手をおいて髪をくしゃくしゃと撫でた。 「……ん、ふ……」 何とも艶かしい溜息を小さく吐いて有希はくすぐったそうに目を細める。有希の口元がほんの僅か緩んでいるのを見た俺は、思わず有希の体を抱き締めてしまっていた。 有希は何も言わず俺に抱かれたままでいる。パチパチという油が立てる音が、まるでショートしちまった俺の頭が立てている音のように聞こえた。 「……雨、降ってたんだな」 「……そう」 部屋が薄暗くなっているのに気付いて窓の外を見やると、空は曇りポツポツと雨が降り出していた。 「今夜は冷えるかもな」 「…………」 梅雨が明けたと思っていたらまた雨か。天気予報では晴れるって言ってたのに、アテにならないもんだ。だがまあ、今夜は雨が降っていても文句はない。何故なら、 「夜は、ずっとくっついてられるな」 「…………ん」 そろそろ暖かくなってきたからあまりくっついているのも辛くなってくる頃だ。まあ有希は体温が低いから暑い日でも俺の方は意外と気持ちよかったりするんだが、有希の方はそうもいかないだろう。 以前のこいつなら暑いだの寒いだの、そういう不必要な感覚を切ることもできたろうが、今は有希自身がそれを望んではいない。インターフェースとしてではなく、人間としての生活を望んだこいつは、今は情報操作能力とやらを制限し、本当に必要な時以外は使わないようにしている。まあ元々必要な時以外に能力を使うようなことはなかったんだが、今は真実人間と同等の存在になってるってわけだ。 「…………」 ふと気がつくと有希が何かを言いたげに俺の顔を見上げていた。じっと俺を見つめる子犬みたいな仕草にまた萌えてしまった俺だったが、有希が伝えようとしている何かを受け取らないわけにはいかない。 「どうした?」 俺が聞くと、有希は少し困ったように、 「……から揚げ」 ああ……そうか。 「焦げるか?」 「…………」 僅かに顎を引いて有希が肯定を示した。 「それはまずいな」 有希の体を名残惜しさを感じながらそっと離すと、有希も少し残念そうな顔をする。頼むからそんな目で見てくれるな。このままではから揚げが焦げるような事態になってしまう。 だが寂しそうな顔をしている有希を放っておくわけにもいかず、 「手伝おうか?」 「…………」 とっさに出たその言葉に有希はかくりと頷いて、 「……おねがい」 俺の目をじっと見つめて呟いたその姿に、俺が激しく萌えたのは言うまでもないことだろうな。 手伝おうか、とは言ったものの実際俺がしたことと言ったら、有希が皿に盛り付けた料理を居間のちゃぶ台に運ぶことくらいだった。ゆで卵の殻を剥いて、名前は知らないが卵を輪切りにしてくれるという便利道具で輪切りにし、有希が盛り付けたサラダの上に並べたりもしたが、あえてこうして細かく描写するような仕事でもなく、今の時代男も料理くらいできなきゃいかんなと改めて痛感する俺である。 有希はあの後手早くから揚げを中華鍋から掬い上げるとキッチンペーパーを敷いた皿に盛り付け、すぐさまサラダ作りに取り掛かった。あらかじめ作っておいて、ラップでもかけて冷蔵庫にでも入れておけばいいとは思うのだが、それでは鮮度が落ちてしまうということで、サラダのような生野菜を使ったものは食事の直前に作るのが有希のちょっとしたこだわりのようだった。まあ、普通の家庭でもそんなもんかもしれないが。 で、俺はカレー鍋の隣で火にかけてあった小鍋から卵を取り出し流水で冷やして、後は先に言ったようなことをしたわけだ。 から揚げとサラダ、それから深皿に山盛りのカレーライスがちゃぶ台に並べると、俺たちは腰を下ろした。改めて見るとレトルトカレーにキャベツオンリーサラダのみだったあの時と比べるとえらい違いだ。 朝比奈さんあたりにも是非味わってもらいたいものだ――とは思ったものの、ハルヒは有希が料理上手であることを知っていることから察するに、もしかしたら例のチョコ作りの時に他の料理もやっていて、ハルヒも朝比奈さんも有希の料理の味は知っているのかもしれないな。 「……食べて」 「いただきます」 いつかのようなやり取りをしてから、俺はまずカレーライスを一口。 「……どう」 「ああ、すげえ美味い」 有希の手作りカレーを食べるのもけっこう久しぶりだが、やはりとてつもない美味さだ。正直どこぞのカレー専門店なんぞで食うよりも美味い。有希が作ったというのももちろんあるが、それを抜きにしてもこの美味さはハンパない。 「……そう」 嬉しそうに言ってから(この表情もまたいいんだ、これが)有希は自分のカレーに手をつけた。こいつの食欲は相変わらずで、一度食べ始めるといつ終わるのか分からん。まあこいつは食ってる時はけっこう幸せそうだしモウマンタイだ。 食事中の有希を眺めてるのもいいもんだが、ずっとそうしてるわけにもいかず俺も負けじと食べ進める。 ここでまた余談なわけだが、俺が個人的に好きなカレーの食べ方を述べておこう。まずはから揚げとまるのままのゆで卵を用意する。ゆで卵は半熟だとなおいい。それをカレーライスにぶち込み、カレーとご飯と一緒に食す。 右手でスプーンを持ち、から揚げと卵をカレーライスと一緒に掬い、食す!左手では難しいので諦める! そんなわけでハムサラダの上の輪切り卵とは別に、まるのままのゆで卵が一緒に並んでいるわけである。 ちなみに飲み物は牛乳だ。カレーライスといえば水、というのが基本かもしれないが、実際水は辛いものと一緒に飲むと辛さを抑えるどころか増してしまう。その点牛乳ならば、含まれている乳脂肪が辛味成分を抑える働きをするのでより食が進むという寸法である。 有希のカレーはまろやかな味わいながらも、若干辛めに作ってあるのでこれは正しい選択だろう。 もう一つちなみに……飲み物を牛乳にすることを提案してきたのは有希の方だったわけだが、有希が自分の胸の大きさを気にしていることとの因果関係は……多分、ない。 「…………」 「ぬぉ?」 ふと隣に気配を感じた俺が横を向くと、すぐそこに俺をじっと見つめる有希の姿があって俺は思わず間抜けな声を出してしまった。 「ど、どうした、有希?」 「…………」 有希はおもむろに箸でから揚げを取り上げると口に含み、顎と頬を可愛らしく動かしながらから揚げを咀嚼し、 「…………ん」 俺に顔を近づけて目をつぶると、心持ち唇を突き出してきた。 ……えーと、有希さん? これはあれですか、口移しというやつなんでしょうか? 「…………」 有希は何も言わず俺の反応を待っている。 朝の間接キスの件といい、やっぱり今日のこいつはちょっとおかしい。甘えてくれるのは嬉しいのだが、今日のこいつからは焦りと言うか、不安と言うか、ともかくそんな感じのものを感じる。 だが言うまでもなく有希に甘々な俺が有希の誘い(?)を断れるわけもなく、 「……ん、ちゅ……」 有希の体をそっと抱き寄せて唇を触れさせた。唇を薄く開いてやると、有希の舌と一緒に有希が咀嚼したから揚げが口に押し込まれる。 「ん……く、ちゅ、んむ……ぅ」 有希の唾液と絡まり合ったから揚げは妙に甘ったるく、から揚げが全部俺の口に運ばれて、俺の喉を通った後もそのまま俺たちは舌を絡ませ合っていた。 「ちゅる、ちゅ……ちゅ、……ふ、ぅ」 しばらく互いの唾液を交換し合い、やっと唇を離す。 「……有希よ」 「……なに」 「どこで覚えた、こんなこと」 「……本で読んだ」 ――ああもう。 「……わたしにも、して」 ああもう、このえっちな長門有希さんめ!俺もえろいがお前もえろい!それでいいのか!!いいのだ!! 俺はすぐさまから揚げを口に放り込んで咀嚼し、十分に柔らかくなったと思ったところで、俺を待っているように薄く開かれていた有希の小さな唇をそっと奪った。 「ふ、む……ちゅぅ」 隙間から舌を挿し込み、から揚げを流し込む。と、同時に有希の舌を絡め取った。 「んぅぅ……ん、ちゅ、こく……ん、く」 有希の喉が小さく音を立てる。から揚げはとっくに二人の口内からなくなているはずなのに、まだ有希が喉を鳴らす音が聞こえるのは俺の唾液を飲んでいるからだろう。 「ちゅ……ふ、ん、むぐ……ぅ」 抱き締める力を強めて、唇を押し付けたまま俺は首を少し下向ける。結果的に有希が上を向く形になり、重力によって俺が一方的に唾液を流し込めるという寸法だ。 ちょっとした悪戯のつもりだったのだが、 「ん、ふ……こく……、ちゅ、ちゅく……こく、ん」 有希は手強かった。抵抗するどころかまるで何でもないように俺の唾液の侵攻を受け入れている。口の端から飲み切れなかった唾液が垂れているのも気にせずに、有希は俺とのキスに没頭していた。 ……えーと、俺が言うのもなんだが、今って確か食事中だったよな? 「くぅ……ん、ふ、こく……ん、ぅ……ぷぁ、……は……ぁ?」 俺が唇を離すと有希は不思議そうに――というか、頬をほんの僅か上気させて酩酊したように目をとろけさせるという何とも艶かしい表情で――俺を見つめてきた。 「えー、と、だな。有希」 「…………なに」 熱っぽく息を吐きながら聞き返す有希に俺はまたしても暴走しかけたが何とか思いとどまり、 「……飯、食おうか」 「…………そう」 有希は有希で、そういえばそうだった、みたいな顔をしたもんだから俺は思わず苦笑を漏らしてしまった。 ……やれやれ。何だか最近二人して段々バカになってきてる気がするぜ。 結局あの後隣に座ったまま有希が動こうとしなかったため、俺たちは二人なのに隣同士に座って飯を食べるという微妙に珍妙なことをしていたわけだが、このポジションを活かさない手はないとでも思ったのか、スプーンで掬ったカレーライスを俺の顔の前に持ってきて、 「……口を開けて」 いわゆる“アレ”である。世のバカップルにはお馴染みなのだろうと思われる“アレ”である。そういえば一緒に風呂に入ったことはあるくせに、間接キスだとかいい口移しだとかもっとレベルの低いのをやったことがなかったな。口移しがレベル低いとは言わないが……。 「…………んぁ」 せっかくだから俺は口をあんぐりと開けてみた。「あーん」などとは間違っても言えない。それはさすがに恥ずかしい。いや、有希がそれを望むというならやぶさかではないのだが、 「…………」 有希はそれで納得してくれたようでスプーンを俺の口へと運んできた。俺がそいつを口で捕らえると、有希はそれを確認してゆっくりとスプーンを俺の口から抜き取り、 「おいしい?」 美味いに決まってるだろう。お前の手で俺の口に運ばれた料理は美味さも倍増だ。……ただ、口移しと順番が逆になってる気はするけどな。何となく。 「……わたしも」 そう言って可愛らしく口を開ける有希。くそう、こいつは何で口を開けた姿まで可愛いんだ。それともこれは俺の主観だからか? 客観的に見ると正直どうなんだ? でもまあここには俺たちしかいないしどうでもいいさ、そんなことは。 「ほれ」 「……ん」 ぱくっ、という音が聞こえてきそうな感じに有希がスプーンを咥えると、俺はスプーンをゆっくりと有希の口から引き抜いた。 「…………」 何度か咀嚼した後、有希はカレーライスを喉の奥に流し込む。 「美味いか?」 「……わりと」 「そうか」 俺の好みに合わせて作っているみたいだから有希が美味いと思っているかどうかは正直なところ分からないが……。 まあ、こうして嬉しそうにしてる有希を見ると、決してこいつの口に合わないものじゃないんだろうと思うわけで、もしも万が一いつも食ってる有希の料理が有希の口に合わないんだとしたら、有希の好みの味を再現してもらうというのもいいかもな。 などと思いながら、俺は有希が親鳥が餌を運んでくるのを待ちわびている雛のように開けている口に、掬ったカレーライスを再び運んでやるのだった。 飯を食い終わり片付けと洗い物も終わり歯磨きも終えた俺たちは、とりあえずまったりしていた。 何故まったりしているのかというと食後すぐに運動するのは体に悪いからだ。 何の運動かって? それを訊くのは野暮ってもんだぜ。 「…………」 有希が本のページをめくる音がする。後は何も聞こえない。 和む。実に和む時間だ。 ちなみに今いるのは有希の寝室で、どんな状態かと言うと俺が壁に背を預けて足を投げ出し、有希は俺の投げ出した足の間に同じように足を投げ出して俺の体に背中を預け、俺の腕は有希の腰に回されているってな感じだ。 「…………」 紙の擦れる音がする。その音が、妙に心地いい。 何かもうこれだけで幸せだ。 「…………ん」 俺が顎を有希の肩に置くと有希の体がぴくりと反応した。が、すぐに本を読むことを続行する。 「…………ちゅ」 「……っ」 何となしに首筋に口を付けると、有希の体がさっきよりも若干大きく跳ねた。 相変わらず弱いな。 「有希……」 「ぁ……」 有希の本のページをめくる手が止まるが、俺は構わずに首筋に唇を這わせて、そのまま耳の裏側を舌でちろりと舐めた。 「ふ……ぅ、……だ、め」 ふるふると小さく震える有希の姿に俺は悪戯心がふつふつと沸き上がってくるのを感じていた。ああ、本当に俺は有希と二人きりだとバカになっちまうんだな、などという自己嫌悪はとうに乗り越えてしまったので今更そんなことは気にしないのが俺である。 「……嫌か?」 答えは分かっていたが、意地悪してそんなことを聞いてみる。 「いや……じゃ、ない。けど、だめ」 「何で?」 有希は首を振り向かせて困ったような表情を浮かべ、 「……だめ」 「そうか、それは残念だ」 「あっ」 口ではそんなことを言っておきながら俺はすかさず有希のパジャマの裾から腕を差し込んで小振りだが形のいい胸に手を添えた。 「…………ん」 「今日はあんまり有希と一緒にいられなかったからな。それに、今夜は冷えるしもっと有希とくっついてたいんだけど……」 「…………」 有希は困ったように俺を見ているが、抵抗はしない。抵抗しないってことは、こいつにとって今の状況はアクションを起こす必要がないってことであって、それはつまりこいつも俺のことを求めてくれているってことだ。 ……ま、さっきのセリフは本音半分、建前半分って感じだけどな。 「有希……」 「んぅ」 ふにふにとした胸の感触を愉しみつつ、をこっちを向いたままの有希の唇にキスをする。ちょっと無理な体勢だが、こういうのも気持ちいい。 「ふ……ちゅ、んぅ」 少し苦しさを感じながら舌を絡ませる、唇と唇が密着しないため、目を開ければ舌が絡まり合う様子が見えた。 「ん……ちゅぅ。……んっ」 「おぅっ」 突然有希が俺の腕から逃れ、体を半回転させると俺の首にしがみついてきた。次の瞬間には俺の唇は有希の唇に塞がれており、有希は多少強引に舌を俺の口内に侵入させてくる。 「ちゅ、ちゅる……ふ、ちぅ……」 思わず目を見開いた俺は、閉じられた有希の目の端がうっすらと濡れているのを発見した。 ……しまった。またやっちまった。 「ちゅく……ん、んぅ……っは……」 やっと有希が唇を離す。だけど腕はしっかりと俺の首に巻きつけたままだ。 「……えーと、その、何だ」 「…………」 有希がじっと俺の目を見つめている。いかん、これは相当キてるな。 「……いや、すまなかった」 「…………」 謝る俺を、有希は抗議するような目つきで見つめ続け、 「…………………………………………ばか」 長い沈黙の後に聞こえてきた文句は、甚だ短いものだった。 「あなたは、ずるい」 やられた。完全にやられた。 「わたしが我慢できないのを知っているのに……」 もうだめだ。理性が限界です。アドレナリン全開です先生。 「責任、とって」 俺のラヴシグナル、点灯OK? 本能スイッチON。 「……分かった、お前が満足するまで付き合ってやる」 ま、元々そのつもりだったんだけどな。 「…………そう」 有希は俺の言葉を聞くと、ふわりと表情を緩め、 「……………………えっち」 ほんの少しだけ顔を赤らめて、そう呟いた。 ……今日の夜は、とても長くなりそうだ。
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/1795.html
休日ということもあって車通りの多い道をさすがに危険なので交通法規を守りながら、急いでいる時に限って待っている時間が長く感じるという人間の曖昧な体感時間にイライラしつつ、全速力でチャリを走らせても結局信号待ちに出くわしたりして何度も舌打ちしていた俺は、ようやっとのことで有希の待っている高級分譲マンションに辿り着き、鍵をかける時間もわずらわしく感じながら愛車を少々乱暴に駐輪所に放置して、駆け足で玄関へと向かいパネルに有希の部屋番号を入力しベルボタンを押した。 『…………』 来るタイミングが分かっていたのか、それともずっと待機していたのか、一瞬で反応が返ってくる。 「有希、俺だ。待たせてすまない」 『……、入って』 何かを言いかけて、言いとどまったような雰囲気の声が聞こえてきたが、有希が口にしたのはそれっきりだった。少々気になるが、今はそれよりもすぐに有希の姿を見たい。 開錠されたドアを俺は即行でくぐってエレベータへと向かう。ボタンを押すと、他に利用する住人がいなくてよかった、すぐにエレベータが降りてきて俺は滑り込んで7階のボタンを押し、指を滑らせるようにして開閉ボタン押してドアを閉じる。 エレベータが7階まで上昇するのにかかった時間はほんの十数秒程度だったと思うが、その時間すら惜しく俺はだんだんと足踏みをしながら7階に到着するのを待ち、ドアが開いた瞬間にはじかれたように8号室の前まですっ飛んで行った。 インターホンを押さずに、いつものようにドアをノックする。 一瞬の間があった後ドアがゆっくりと開かれ、俺は転がり込むように、 「有希――」 部屋の中に入ったものの、有希の姿が見当たらない。おかしい、ドアはひとりでに開いて――。 「――んむっ!?」 次の瞬間、俺は横から強い衝撃を受けて玄関の壁にもたれかかる体制でずるずると座り込んだ。 いや、だがそれはいい。押し倒されことよりも、もっと重要なことは、 「ん、ふ……ちゅ」 有希が、俺の首にしがみつくようにして俺の唇を、自分の唇で塞いでいた。 有希。と呼びかけようとしたものの何分唇に強く吸い付かれてるせいで言葉を発することができない。 何だなんだ。いったいどうしたってんだ? 「んちゅ、ちゅ……んぅ」 ガチャン、という音がしてゆっくりとドアが閉じられる。密室になったおかげで俺と有希の唇が触れ合う音だけが反射して、やけに大きく聞こえた。 「ちゅ……ん、ちゅく、ちゅる」 有希は首に回していた腕の位置をずらすと両手で俺の顔をホールドし、舌で俺の唇をこじ開けて自分の舌を絡ませてきた。突然の行動に唖然としていた俺だったが、反射的に自分からも舌を絡ませる。床についていた手をジーンズで軽く拭うと、片手を有希の背中に回して抱き寄せ、もう一方の手を有希の頭に手を添えてその柔らかい髪をそっと撫でた。 「んむ、ぅ……」 すぐ目の前にある有希の瞼が薄く開かれ、その目が熱っぽく潤んでいるのを見て俺は更に驚いた。そういえばさっきから聞こえてくる有希の声も、何だか今にも泣き出しそうな感じに震えているようにも思える。 有希はほんの少しだけ眉を下げると――有希が喜んでいる時に見せる表情だ――、また目を閉じて俺とのキスに没頭し始める。 有希が唇を触れさせる度、舌を絡ませてくる度に、体が痺れていくようだ。 ほとんど反射的にキスを返しながら、俺にすがりついてくる有希の姿が切なくて、俺は胸が締め付けられるような思いがした。 「ふぅ……、ちゅ、ちゅく……」 有希は唇と舌を押し付けながら、胸も押し付けるように擦り寄ってくる。 ふと、有希の頬に一筋の透明な線が引かれたのを見て、心臓が強く跳ねたのを感じた。 「ちゅる、ちゅ……。……ふぁ」 ようやく、有希は俺の肩に手をついて体重を支えながら唇を離した。繋がっていた透明な橋は、自重に負けてすぐに切れ落ちてしまう。 「はぁ……、は……ぁ」 今日の有希の様子は、どこかおかしかった。普段なら――いや、普段でもキスしてる時のこいつは何というか色っぽいというか、ええい、それはいいんだが、ここまで乱れるようなことはなかったはずだ。 「は……ふ、ぅ」 有希はまだ俺の肩に手をついて息を整えている。そして、一つ大きく息を吸い込むと、 「……、…………」 「ゆ……き?」 唇の端を僅かに持ち上げて、微笑んだ。しかもその目は、誰が見ても分かるくらいに潤んでいる。 「……待っていた」 今にも消え入りそうな表情のまま、蚊の鳴くような声で有希は、 「あなたを、ずっと」 「有希……」 そっと頬に手を添えると有希は嬉しそうに目を細め、そのまま眠るように目を閉じて俺の手にその柔らかい頬を摺り寄せてくる。 もう一方の手を細い腰に回すと、ゆるゆると倒れ込んできてまた俺の首に腕を回す。頭を肩の辺りに預け、今度は頬と頬を摺り合わせてきた。 「……寂しかったのか?」 「…………」 僅かにゆっくりと縦に揺られる感覚。 「……ごめんな」 「……ん……」 小さな体を抱き締め、小さな頭を撫でる。髪を指の間に滑らせ、その柔らかい感触を愉しむ。 「…………」 ふと気がつくと、有希が目を半分ほど開けて俺をじっと見つめていた。他の奴が見たら無表情にしか見えないかもしれないその顔に、俺はちゃんと有希の感情の揺らぎを見出し、それに応えてやる。 「ん……、……ちゅ」 髪を撫でていた手で有希の頭を引き寄せると、そのまま唇同士を合わせる。触れた瞬間に有希は俺の唇に吸い付き、首に回す腕に力を込めてきた。 「ちゅぅ……ちゅ、ちゅ……」 だけどその力は弱々しく、多分普通の女の子と同じくらいか、もしかしたらもっと弱いもので、 「ん、ちゅ……ん、ふ」 小鳥が餌をついばむように、必死で俺の唇を貪るその儚げな姿そのままだった。 その姿が、どうしようもなく愛おしくて、切なくて、俺は、 「は……む、ちぅ……、ぅ、んぅっ」 今度は自分から、有希の唇を奪った。 「んく、ちゅ、んぅぅ……」 有希の体が強張るのを感じたが、俺は構わずに小さな唇に強く吸い付く。舌先で有希の唇をつついてやると、有希は唇を僅かに開いた。俺はすぐにその隙間に自分の舌を差し込む。 「ふ……ぅ、ちる、ちゅ……」 さっきまで自分から同じことをしていたのが嘘のように、有希はおずおずと舌を差し出してきた。舌先を僅かに触れさせると、俺はすぐに有希の舌を絡めとって容赦なくその小さな口内を蹂躙する。 「ん、く、ちゅ、ちゅる……」 触れ合った唇から、絡め合った舌から、そして抱き締めた体から、有希の熱が伝わってくる。 気持ちいい。 触れ合っている時の心地よさが、キスをするだけで全て快感へと変換される。それは多分、有希も同じだ。 「ちゅ、ん……ふ、ぷぁ」 唇を触れ合わせている時だけならまだいいが、舌も絡ませているとすぐに息が切れてしまう。限界になった俺はゆっくりと唇を離した。 「……っは……」 いつも思うことだが、キスをしている時のこいつは本当に幸せそうな顔をする。今もこうやって、俺だけが分かる極上の笑みを浮かべるもんだから――。 「……、……ン……」 ――ああもう、可愛いやつだなこいつは。と、こうなるわけである。 「……んゃ……ぁ」 頭を肩口に引き寄せると、有希はまた懐いた猫みたいに頬を摺り寄せてきた。 ……ちなみに、さっき有希が何て呟いたのかは、教えるつもりはない。 「……ん?」 また有希の頭を撫でていた俺は、ふと違和感に気がついた。有希の髪から漂う微かな香り。そういえば何だかいつもよりしっとりさらさらなこの感触はもしかして、 「有希、風呂入ったのか?」 「……あなたが来る日だったから」 ズキューン! と、銃かキューピッドの矢かに打ち抜かれたような音がしたのはもちろん俺の頭の中だけである。 実にいじらしいことこの上ないが、そうなると少しばかり問題が発生するわけで、 「……チャリぶっ飛ばしてきたから汗だくなんだが」 「……問題ない」 いや、問題あるって。汗臭いって。っていうかそういえばここ玄関じゃないか。汚れるだろ。 「……あなたの汗の匂いは、好き。それに、汚れてもあなたとならかまわない」 有希、お前はいつから匂いフェチになったんだ。ってそうではなく。 俺となら汚れてもいいなんてよからぬ想像をしてしまいそうじゃないか。ってそうでもなく。 「せっかく風呂に入ったのに、ええと、もったいないじゃないか」 そういう問題じゃない気もするが、ここは日本だMOTTAINAI精神だ。 「だから、ほら。離れた方がいいって。そうだ、風呂貸してくれよ。俺もこのままじゃ悪いしさ」 さっきまで散々絡み合ってたくせにこれだから俺も薄情なものである。ゆっくりゆっくりと俺から体を離した有希は当然寂しそうな顔をしてくれるわけで、 「……浴室を?」 「ああ、シャワーだけでも浴びときたいから……」 「……そう」 不意に表情を緩めた有希を見て、俺は自分の軽率な言動を後悔することになる。 ……全ては、計算づくだったのかもしれない。 「…………一緒に?」 こしゅこしゅこしゅこしゅ……。 絶妙な力加減で頭皮ごと髪を擦り上げられる。いや、気持ちいいもんだね。自分でやると適当になりがちなんでどうしても洗った後に微妙に痒かったりするんだがこれならそんなことはあるまい。 それはいいとしてだ。 「なあ、有希」 「なに」 あらかじめ断っておくが、俺の頭はシャンプーの泡だらけで目が開けられる状態じゃない。そして俺の記憶が正しければ有希はちゃんとバスタオルを体に巻いて浴室に入ったはずだ。はずなんだが。 「さっきから体を押し付けてきてるのはわざとか?」 「…………」 洗うスピードを上げるのはいいから答えなさい。沈黙は肯定だと偉い先生も言っていたぞ。多分。 「そして身に着けていたはずのバスタオルはどこへやった?」 さっきから背中に非常によろしい感触を二箇所程感じているのですが、有希さん。 「………………」 洗うスピードが1.5倍くらいになった。やっぱりか。 「いや、決して悪くはない。むしろ嬉しい。だけどさ、もう少し恥じらいだとかそういう――」 「……………………そう」 「――いや、ええと、ごめんなさい」 今更何を言っているのだろうか、俺は。むしろいつも有希を辱めてるのは俺の方で――ああいや、何でもない。何でもないぞ。 「…………」 「はぅ」 断っておくが「はぅ」は俺のセリフである。 何を思ったのか有希は(俺の推測が正しければ――いやまあ間違いないとは思うが)、一糸纏わぬ姿のまま背中から俺に抱きつき、俺の腕をホールドして抵抗できない状態にしてしまった。 「……何のマネだこれは」 「…………」 有希と風呂に入ったことは何度かある。が、こんなふうにふざけたり(これが一番正しい表現だと思う)したことはなかった。やっぱり今日のこいつは何かおかしい。 「――っておい!」 「…………」 どことは言わない。だけどな、それは擦る場所が違いすぎるだろう。位置的に間違えたなんてこともないだろう。わざとだよな。わざとやってるんだよな。お前もなかなか男というものが分かってきたじゃないか。そうさ、お前みたいな可愛い女の子と一緒に裸でいるっていうこの状況でどうにかならない男はそれこそどうにかしてる。そんなわけでお前が触れる前から俺のここは元気一杯だったさ。だけど抵抗できないこの状況でいじることはないんじゃないのか? 言っておくが俺はいじめて君じゃないからな。こんなことで屈すると思ったら大間違いだぞ、有希よ。そりゃあ気持ちよくないと言ったら嘘になる。有希のすべすべした手は触れるだけで気持ちいいんだからこんな急所を責められたんじゃどうしようもない。どうしようもないわけだが、ここで果てたら俺のプライドが廃るわけだ。もしかして勝負か? いつも俺が責める方だから形成を逆転しようと言うのか? 何ならその勝負受けて立とうじゃないか。せっかくだからお前が満足するまで――。 「…………」 ――などとどうでもいいことを考えていた俺の思考は勢いよく噴出すシャワーの音によってかき消された。シャワーによって自然に流された泡が体に落ちてきて、俺の体はあっという間に泡だらけだ。 ……実は今の俺は物凄くみっともない格好かもしれない。 シャンプーが終われば次はもちろんリンスなわけで、再び有希の手の感触が頭でするわけだが、俺のを触った手はちゃんと洗ってくれたんだろうか。 「洗った」 「……そうか」 リンスをしっかりと髪になじませるように丁寧に動かされる有希の手の感触は気持ちいいのだが、やっぱりまた背中には別のよろしい感触があるわけで、ああもういいや。好きにしてくれ。 「……終わった」 泡を全部流し終えると有希はタオルで俺の頭を丁寧に拭いて水気を取り、 「次は体」 さっさとスポンジにボディソープを出して泡立て始めた。 「……なあ」 「なに」 「……いや、何でもない」 「……そう」 俺の背中を洗い始めた有希は、間違いなく楽しそうで、 「前は自分で洗うんだよな、やっぱ」 「そう」 俺からしてみれば、いつ笑い出してもおかしくないような声色で言った。 「……お預け」 ……ふふふ、そうか。まあ何となく分かってたけどな。 だが有希よ。 「本当に我慢できないのはお前の方なんじゃないのか?」 「…………」 図星か? 図星なのか? 「…………いじわる」 ……皆には是非とも、俺を罵倒したり殴ったりする前に、ここで理性を失わなかった俺を褒めてもらいたい。 この後は洗う係を交代して俺が有希の頭と背中を流してやった。もちろん自分でするような適当なものではなく、有希がしてくれたみたいに丁寧にだ。そして、有希は微妙に不服そうだったが前は自分で洗わせた。前までやったら流石に理性がもたんかもしれんからな。 で、更にその後は二人で背中合わせに(これはある意味保険だ)湯船につかってぼんやりしていたわけだが、晩ご飯を作ると言って有希は先に出て行ったので今は浴室には俺一人だ。 しかしまあ。 いつの間にやらこういうことを普通にやってるわけだから慣れというものは恐ろしいわけである。 まあそもそも“あの日”に結局ここでいろいろとしてしまったわけだから……今更どうこう言うのは逆におかしい気もするけどな。 「さて……と」 体の芯まで温まったところでそろそろ風呂を出ようか。さっき作り始めたばかりのようだから、まだ飯はできていないだろう。できるまでずっとつかってるってのも何だしな。 俺は湯船から上がるとシャワーで軽く汗を流し、洗面所のタオル掛けに掛けてあったしっとりと濡れたバスタオルで適当に体を拭く。 何で濡れてるかといえば、それはまあ有希が体を拭いたものだったからなわけだが、もはや気にせずにそれを使っている自分がいるのに気付いてやはり慣れというのは恐ろしいものだと思う俺だった。 ……いい匂いがするのはきっとシャンプーとかだけのせいじゃない。そして俺は決して匂いフェチとかじゃない。 「…………」 ドライヤーで髪を乾かしながら鏡で自分の姿を確認する。うむ、我ながらあまりルックスがいいとは言いがたい。もしも古泉程度のルックスがあったらナルシストになってしまっていたかもしれない。……いや、決して羨ましくはないぞ。妬ましいが。 家から持参した下着を身に着けると、その上にパジャマを着込む。これで湯冷めする心配はない。 一晩泊まるだけなのに下着が二組入っているのは……まあ、そういうことだ。 さっぱりしたところで洗面所を出ると、食欲をそそる匂いが鼻に届いた。どうやら今日はカレーらしい。 有希といったらレトルトカレー、レトルトカレーといったら有希、みたいな認識をどこかの誰かさんたちにはされてそうだが、決してカレーと千切りキャベツばっか食ってるわけじゃあない。 いつかハルヒが言っていたとおり万能選手である有希は料理もお手の物だ。今までろくに料理もしていなかったのはただ単にそうする必要がなかったからであって、有希の手料理が食いたいという俺の半分冗談な提案を頷き一つで快諾してくれた有希は、俺が家にお邪魔する度に手料理を振舞ってくれると、こういうわけだ。 従って、今有希が作っているであろうカレーももちろんレトルトなんかではない。かと言ってルーから作るような本格的なものでもないが、市販のルーを二種類混ぜたり、タマネギをペースト状になるまで炒めたり、隠し味にリンゴやらハチミツやらヨーグルトやらを入れてみたりといった、お袋がやるようなごく一般的な日本の家庭料理的手作りカレーライスである。 だがその味のバランスは見事の一言で、スパイスの配合やら野菜、肉の切り方、煮込み方にいたるまで完璧な、食材のオーケストラとでも言うべき素晴らしいカレーは、有希の手作りであるという点を除いても確実に星3つと叫んでみたくなるような究極的仕上がりなわけだ。 ちなみに、多分料理もいつかのギターみたいな感じで覚えたんだろうなと思ってそれとなく聞いてみたところ、 「……本で勉強している」 「わざわざか? そりゃまた何で」 「……ちゃんと努力して、あなたの喜ぶ顔が見たいから」 という一連の対話が行われ、当然の帰結として俺は有希を抱き締めたわけだが、まあそれはいい。 そんなことを思い出しながら台所へと向かった俺は、パジャマにエプロンという何とも微妙ないでたちで料理をしている有希を発見した。いつもなら制服にエプロンで有希がこっちを向いたときにエプロンから覗く生足という男心をくすぐる画が見られるわけだが今回は先に風呂に入ってしまったのでそうもいかなかった。 まあどの道エプロンをつけて料理をしている有希というのは、少なくとも俺にとっては微笑ましい光景であるわけで、文句などは何一つない。 そもそもこうして有希が俺だけのために料理をしてくれているという事態は奇跡とすら呼んでもいいほどで、俺は毎回それに感動を覚えるわけである。 「有希」 「…………」 俺の呼びかけに有希は首だけを僅かに振り向かせる。 「から揚げか?」 「そう」 有希は小麦粉をまぶした鶏肉を油の入った中華鍋で揚げている最中だった。残りの肉を鍋に放り込むと有希は体をこちらに向ける。 これは余談だが俺はカレーに鶏肉といえばチキンカツよりから揚げ派である。有希は俺の好みも宇宙的パワーを使わずに研究しているらしく、料理の味はご馳走になる度に俺の好みに近付いており、そんな健気な有希を抱き締めたくなるのは男として当然の衝動なわけだが、揚げ物をしているとなるとそういうわけにもいかず、俺は代わりにそっと有希のまだ乾ききっていない頭に手をおいて髪をくしゃくしゃと撫でた。 「……ん、ふ……」 何とも艶かしい溜息を小さく吐いて有希はくすぐったそうに目を細める。有希の口元がほんの僅か緩んでいるのを見た俺は、思わず有希の体を抱き締めてしまっていた。 有希は何も言わず俺に抱かれたままでいる。パチパチという油が立てる音が、まるでショートしちまった俺の頭が立てている音のように聞こえた。 「……雨、降ってたんだな」 「……そう」 部屋が薄暗くなっているのに気付いて窓の外を見やると、空は曇りポツポツと雨が降り出していた。 「今夜は冷えるかもな」 「…………」 梅雨が明けたと思っていたらまた雨か。天気予報では晴れるって言ってたのに、アテにならないもんだ。だがまあ、今夜は雨が降っていても文句はない。何故なら、 「夜は、ずっとくっついてられるな」 「…………ん」 そろそろ暖かくなってきたからあまりくっついているのも辛くなってくる頃だ。まあ有希は体温が低いから暑い日でも俺の方は意外と気持ちよかったりするんだが、有希の方はそうもいかないだろう。 以前のこいつなら暑いだの寒いだの、そういう不必要な感覚を切ることもできたろうが、今は有希自身がそれを望んではいない。インターフェースとしてではなく、人間としての生活を望んだこいつは、今は情報操作能力とやらを制限し、本当に必要な時以外は使わないようにしている。まあ元々必要な時以外に能力を使うようなことはなかったんだが、今は真実人間と同等の存在になってるってわけだ。 「…………」 ふと気がつくと有希が何かを言いたげに俺の顔を見上げていた。じっと俺を見つめる子犬みたいな仕草にまた萌えてしまった俺だったが、有希が伝えようとしている何かを受け取らないわけにはいかない。 「どうした?」 俺が聞くと、有希は少し困ったように、 「……から揚げ」 ああ……そうか。 「焦げるか?」 「…………」 僅かに顎を引いて有希が肯定を示した。 「それはまずいな」 有希の体を名残惜しさを感じながらそっと離すと、有希も少し残念そうな顔をする。頼むからそんな目で見てくれるな。このままではから揚げが焦げるような事態になってしまう。 だが寂しそうな顔をしている有希を放っておくわけにもいかず、 「手伝おうか?」 「…………」 とっさに出たその言葉に有希はかくりと頷いて、 「……おねがい」 俺の目をじっと見つめて呟いたその姿に、俺が激しく萌えたのは言うまでもないことだろうな。 手伝おうか、とは言ったものの実際俺がしたことと言ったら、有希が皿に盛り付けた料理を居間のちゃぶ台に運ぶことくらいだった。ゆで卵の殻を剥いて、名前は知らないが卵を輪切りにしてくれるという便利道具で輪切りにし、有希が盛り付けたサラダの上に並べたりもしたが、あえてこうして細かく描写するような仕事でもなく、今の時代男も料理くらいできなきゃいかんなと改めて痛感する俺である。 有希はあの後手早くから揚げを中華鍋から掬い上げるとキッチンペーパーを敷いた皿に盛り付け、すぐさまサラダ作りに取り掛かった。あらかじめ作っておいて、ラップでもかけて冷蔵庫にでも入れておけばいいとは思うのだが、それでは鮮度が落ちてしまうということで、サラダのような生野菜を使ったものは食事の直前に作るのが有希のちょっとしたこだわりのようだった。まあ、普通の家庭でもそんなもんかもしれないが。 で、俺はカレー鍋の隣で火にかけてあった小鍋から卵を取り出し流水で冷やして、後は先に言ったようなことをしたわけだ。 から揚げとサラダ、それから深皿に山盛りのカレーライスがちゃぶ台に並べると、俺たちは腰を下ろした。改めて見るとレトルトカレーにキャベツオンリーサラダのみだったあの時と比べるとえらい違いだ。 朝比奈さんあたりにも是非味わってもらいたいものだ――とは思ったものの、ハルヒは有希が料理上手であることを知っていることから察するに、もしかしたら例のチョコ作りの時に他の料理もやっていて、ハルヒも朝比奈さんも有希の料理の味は知っているのかもしれないな。 「……食べて」 「いただきます」 いつかのようなやり取りをしてから、俺はまずカレーライスを一口。 「……どう」 「ああ、すげえ美味い」 有希の手作りカレーを食べるのもけっこう久しぶりだが、やはりとてつもない美味さだ。正直どこぞのカレー専門店なんぞで食うよりも美味い。有希が作ったというのももちろんあるが、それを抜きにしてもこの美味さはハンパない。 「……そう」 嬉しそうに言ってから(この表情もまたいいんだ、これが)有希は自分のカレーに手をつけた。こいつの食欲は相変わらずで、一度食べ始めるといつ終わるのか分からん。まあこいつは食ってる時はけっこう幸せそうだしモウマンタイだ。 食事中の有希を眺めてるのもいいもんだが、ずっとそうしてるわけにもいかず俺も負けじと食べ進める。 ここでまた余談なわけだが、俺が個人的に好きなカレーの食べ方を述べておこう。まずはから揚げとまるのままのゆで卵を用意する。ゆで卵は半熟だとなおいい。それをカレーライスにぶち込み、カレーとご飯と一緒に食す。 右手でスプーンを持ち、から揚げと卵をカレーライスと一緒に掬い、食す!左手では難しいので諦める! そんなわけでハムサラダの上の輪切り卵とは別に、まるのままのゆで卵が一緒に並んでいるわけである。 ちなみに飲み物は牛乳だ。カレーライスといえば水、というのが基本かもしれないが、実際水は辛いものと一緒に飲むと辛さを抑えるどころか増してしまう。その点牛乳ならば、含まれている乳脂肪が辛味成分を抑える働きをするのでより食が進むという寸法である。 有希のカレーはまろやかな味わいながらも、若干辛めに作ってあるのでこれは正しい選択だろう。 もう一つちなみに……飲み物を牛乳にすることを提案してきたのは有希の方だったわけだが、有希が自分の胸の大きさを気にしていることとの因果関係は……多分、ない。 「…………」 「ぬぉ?」 ふと隣に気配を感じた俺が横を向くと、すぐそこに俺をじっと見つめる有希の姿があって俺は思わず間抜けな声を出してしまった。 「ど、どうした、有希?」 「…………」 有希はおもむろに箸でから揚げを取り上げると口に含み、顎と頬を可愛らしく動かしながらから揚げを咀嚼し、 「…………ん」 俺に顔を近づけて目をつぶると、心持ち唇を突き出してきた。 ……えーと、有希さん? これはあれですか、口移しというやつなんでしょうか? 「…………」 有希は何も言わず俺の反応を待っている。 朝の間接キスの件といい、やっぱり今日のこいつはちょっとおかしい。甘えてくれるのは嬉しいのだが、今日のこいつからは焦りと言うか、不安と言うか、ともかくそんな感じのものを感じる。 だが言うまでもなく有希に甘々な俺が有希の誘い(?)を断れるわけもなく、 「……ん、ちゅ……」 有希の体をそっと抱き寄せて唇を触れさせた。唇を薄く開いてやると、有希の舌と一緒に有希が咀嚼したから揚げが口に押し込まれる。 「ん……く、ちゅ、んむ……ぅ」 有希の唾液と絡まり合ったから揚げは妙に甘ったるく、から揚げが全部俺の口に運ばれて、俺の喉を通った後もそのまま俺たちは舌を絡ませ合っていた。 「ちゅる、ちゅ……ちゅ、……ふ、ぅ」 しばらく互いの唾液を交換し合い、やっと唇を離す。 「……有希よ」 「……なに」 「どこで覚えた、こんなこと」 「……本で読んだ」 ――ああもう。 「……わたしにも、して」 ああもう、このえっちな長門有希さんめ!俺もえろいがお前もえろい!それでいいのか!!いいのだ!! 俺はすぐさまから揚げを口に放り込んで咀嚼し、十分に柔らかくなったと思ったところで、俺を待っているように薄く開かれていた有希の小さな唇をそっと奪った。 「ふ、む……ちゅぅ」 隙間から舌を挿し込み、から揚げを流し込む。と、同時に有希の舌を絡め取った。 「んぅぅ……ん、ちゅ、こく……ん、く」 有希の喉が小さく音を立てる。から揚げはとっくに二人の口内からなくなているはずなのに、まだ有希が喉を鳴らす音が聞こえるのは俺の唾液を飲んでいるからだろう。 「ちゅ……ふ、ん、むぐ……ぅ」 抱き締める力を強めて、唇を押し付けたまま俺は首を少し下向ける。結果的に有希が上を向く形になり、重力によって俺が一方的に唾液を流し込めるという寸法だ。 ちょっとした悪戯のつもりだったのだが、 「ん、ふ……こく……、ちゅ、ちゅく……こく、ん」 有希は手強かった。抵抗するどころかまるで何でもないように俺の唾液の侵攻を受け入れている。口の端から飲み切れなかった唾液が垂れているのも気にせずに、有希は俺とのキスに没頭していた。 ……えーと、俺が言うのもなんだが、今って確か食事中だったよな? 「くぅ……ん、ふ、こく……ん、ぅ……ぷぁ、……は……ぁ?」 俺が唇を離すと有希は不思議そうに――というか、頬をほんの僅か上気させて酩酊したように目をとろけさせるという何とも艶かしい表情で――俺を見つめてきた。 「えー、と、だな。有希」 「…………なに」 熱っぽく息を吐きながら聞き返す有希に俺はまたしても暴走しかけたが何とか思いとどまり、 「……飯、食おうか」 「…………そう」 有希は有希で、そういえばそうだった、みたいな顔をしたもんだから俺は思わず苦笑を漏らしてしまった。 ……やれやれ。何だか最近二人して段々バカになってきてる気がするぜ。 結局あの後隣に座ったまま有希が動こうとしなかったため、俺たちは二人なのに隣同士に座って飯を食べるという微妙に珍妙なことをしていたわけだが、このポジションを活かさない手はないとでも思ったのか、スプーンで掬ったカレーライスを俺の顔の前に持ってきて、 「……口を開けて」 いわゆる“アレ”である。世のバカップルにはお馴染みなのだろうと思われる“アレ”である。そういえば一緒に風呂に入ったことはあるくせに、間接キスだとかいい口移しだとかもっとレベルの低いのをやったことがなかったな。口移しがレベル低いとは言わないが……。 「…………んぁ」 せっかくだから俺は口をあんぐりと開けてみた。「あーん」などとは間違っても言えない。それはさすがに恥ずかしい。いや、有希がそれを望むというならやぶさかではないのだが、 「…………」 有希はそれで納得してくれたようでスプーンを俺の口へと運んできた。俺がそいつを口で捕らえると、有希はそれを確認してゆっくりとスプーンを俺の口から抜き取り、 「おいしい?」 美味いに決まってるだろう。お前の手で俺の口に運ばれた料理は美味さも倍増だ。……ただ、口移しと順番が逆になってる気はするけどな。何となく。 「……わたしも」 そう言って可愛らしく口を開ける有希。くそう、こいつは何で口を開けた姿まで可愛いんだ。それともこれは俺の主観だからか? 客観的に見ると正直どうなんだ? でもまあここには俺たちしかいないしどうでもいいさ、そんなことは。 「ほれ」 「……ん」 ぱくっ、という音が聞こえてきそうな感じに有希がスプーンを咥えると、俺はスプーンをゆっくりと有希の口から引き抜いた。 「…………」 何度か咀嚼した後、有希はカレーライスを喉の奥に流し込む。 「美味いか?」 「……わりと」 「そうか」 俺の好みに合わせて作っているみたいだから有希が美味いと思っているかどうかは正直なところ分からないが……。 まあ、こうして嬉しそうにしてる有希を見ると、決してこいつの口に合わないものじゃないんだろうと思うわけで、もしも万が一いつも食ってる有希の料理が有希の口に合わないんだとしたら、有希の好みの味を再現してもらうというのもいいかもな。 などと思いながら、俺は有希が親鳥が餌を運んでくるのを待ちわびている雛のように開けている口に、掬ったカレーライスを再び運んでやるのだった。 飯を食い終わり片付けと洗い物も終わり歯磨きも終えた俺たちは、とりあえずまったりしていた。 何故まったりしているのかというと食後すぐに運動するのは体に悪いからだ。 何の運動かって? それを訊くのは野暮ってもんだぜ。 「…………」 有希が本のページをめくる音がする。後は何も聞こえない。 和む。実に和む時間だ。 ちなみに今いるのは有希の寝室で、どんな状態かと言うと俺が壁に背を預けて足を投げ出し、有希は俺の投げ出した足の間に同じように足を投げ出して俺の体に背中を預け、俺の腕は有希の腰に回されているってな感じだ。 「…………」 紙の擦れる音がする。その音が、妙に心地いい。 何かもうこれだけで幸せだ。 「…………ん」 俺が顎を有希の肩に置くと有希の体がぴくりと反応した。が、すぐに本を読むことを続行する。 「…………ちゅ」 「……っ」 何となしに首筋に口を付けると、有希の体がさっきよりも若干大きく跳ねた。 相変わらず弱いな。 「有希……」 「ぁ……」 有希の本のページをめくる手が止まるが、俺は構わずに首筋に唇を這わせて、そのまま耳の裏側を舌でちろりと舐めた。 「ふ……ぅ、……だ、め」 ふるふると小さく震える有希の姿に俺は悪戯心がふつふつと沸き上がってくるのを感じていた。ああ、本当に俺は有希と二人きりだとバカになっちまうんだな、などという自己嫌悪はとうに乗り越えてしまったので今更そんなことは気にしないのが俺である。 「……嫌か?」 答えは分かっていたが、意地悪してそんなことを聞いてみる。 「いや……じゃ、ない。けど、だめ」 「何で?」 有希は首を振り向かせて困ったような表情を浮かべ、 「……だめ」 「そうか、それは残念だ」 「あっ」 口ではそんなことを言っておきながら俺はすかさず有希のパジャマの裾から腕を差し込んで小振りだが形のいい胸に手を添えた。 「…………ん」 「今日はあんまり有希と一緒にいられなかったからな。それに、今夜は冷えるしもっと有希とくっついてたいんだけど……」 「…………」 有希は困ったように俺を見ているが、抵抗はしない。抵抗しないってことは、こいつにとって今の状況はアクションを起こす必要がないってことであって、それはつまりこいつも俺のことを求めてくれているってことだ。 ……ま、さっきのセリフは本音半分、建前半分って感じだけどな。 「有希……」 「んぅ」 ふにふにとした胸の感触を愉しみつつ、をこっちを向いたままの有希の唇にキスをする。ちょっと無理な体勢だが、こういうのも気持ちいい。 「ふ……ちゅ、んぅ」 少し苦しさを感じながら舌を絡ませる、唇と唇が密着しないため、目を開ければ舌が絡まり合う様子が見えた。 「ん……ちゅぅ。……んっ」 「おぅっ」 突然有希が俺の腕から逃れ、体を半回転させると俺の首にしがみついてきた。次の瞬間には俺の唇は有希の唇に塞がれており、有希は多少強引に舌を俺の口内に侵入させてくる。 「ちゅ、ちゅる……ふ、ちぅ……」 思わず目を見開いた俺は、閉じられた有希の目の端がうっすらと濡れているのを発見した。 ……しまった。またやっちまった。 「ちゅく……ん、んぅ……っは……」 やっと有希が唇を離す。だけど腕はしっかりと俺の首に巻きつけたままだ。 「……えーと、その、何だ」 「…………」 有希がじっと俺の目を見つめている。いかん、これは相当キてるな。 「……いや、すまなかった」 「…………」 謝る俺を、有希は抗議するような目つきで見つめ続け、 「…………………………………………ばか」 長い沈黙の後に聞こえてきた文句は、甚だ短いものだった。 「あなたは、ずるい」 やられた。完全にやられた。 「わたしが我慢できないのを知っているのに……」 もうだめだ。理性が限界です。アドレナリン全開です先生。 「責任、とって」 俺のラヴシグナル、点灯OK? 本能スイッチON。 「……分かった、お前が満足するまで付き合ってやる」 ま、元々そのつもりだったんだけどな。 「…………そう」 有希は俺の言葉を聞くと、ふわりと表情を緩め、 「……………………えっち」 ほんの少しだけ顔を赤らめて、そう呟いた。 ……今日の夜は、とても長くなりそうだ。
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/4902.html
五 章 Illustration どこここ これからやろうとするやつは誰もが未経験なわけで、結婚の経験が豊富だとかいう人はあんまり幸せでもなさそうなのだが、未経験な人のためにブライダルプロデューサーとかプランナーなどという、ゼロからサポートしてくれる職業があるらしい。結婚専門のプランニング会社ってのもあるのだが、ホテルやブライダルホールにも専属のプランナーがいて、招待状のデザイン、式場の手配から披露宴のシナリオ、スピーチ原稿まで手取り足取り面倒を見てくれる。結婚するカップルを集めて合同の式場ツアーなんかも催されているらしい。 ホテルやブライダルホールの中にミニ教会があったりミニ祭壇があったりして、教会や神社に行かなくてもその場でやってくれるようだ。まあ本格的にやりたい人は現地に出向いて神様の前でやるのがいいんだろうが。 宗教色をなくした人前結婚式ってのも多くて、広々とした芝生の上でやるとかプールなんかでやるカップルもいるらしい。むかし見た映画で一面の芝生が広がる豪華な家の庭に白い椅子を並べてやってるシーンがあったが、あれはやってみたい気もする。 俺も早いとこ披露宴の場所決めとかないとなぁなどとため息混じりにWebサイトを見ていると、今まで居眠りをしていたハルヒがガバと顔を上げて尋ねた。 「そういえばキョン、あんた結納どうすんの?」 俺としちゃ、もうそんな形式ばかりになった日本古来の儀式なんてやめちまっていいと思うんだが。 「親同士の顔合わせだけでいいだろ」 「あんた、めんどくさいからってまた手抜きしようとしてるわね」 「結納なんてもともとお武家様とか由緒ある商家でやってたもんだろ。庶民がマネしてやってもお飾りにすぎんと思うんだがな」 「そういう問題じゃないでしょ!」 ハルヒがまじで怒っている。 「まあ長門がやりたいって言うんなら考えるが」 「分かってないわね。結婚は誓いのキスだけじゃないのよ。二人が出会って好きになってプロポーズして、双方の親に紹介して指輪を選んでウエディングドレスをあつらえて、モチベーションを上げていくすべての過程が結婚なのよ。遠足は家に帰るまでが遠足だって言われたでしょ」 「お前にしては分かりやすいな」 「あったりまえでしょ。女は生まれたときからこの日を夢見て生きてるんだから。言っとくけど、結婚した後は女のほうが大変なんだからね」 「まあ結婚するまでは男が大変なのは分かる」 男の俺はいまいち真剣味が足りないようで、ハルヒはため息をついた。 「いい?一生に一度しかないんだから、やれることは全部やんなさい」 お前まさか、スモークを炊いたステージで新郎新婦の乗ったゴンドラから降りて来いなんて言わないだろうな。あれは恥ずかしいぞ。 「あんなのはただのお芝居よ。結納ってのはね、昔は家と家が契りを結ぶ大事な儀式だったのよ。不精してないでちゃんとやんなさいよね、ケジメよケジメ」 またそれか。日ごろが大雑把かと思えばこういう妙なところでまめなんだからなこいつは。 「長門、結納どうする?」 横でずっと話を聞いていたのだが、長門に改めて問い直した。 「……あなたに、任せる」 式まであんまり時間がないからなあ。略式でも結納品の手配とか手順を覚えたりもあるしな。 「……伝統には興味がある」 「そうか。長門がそういうならやってみるか」 正直、長門の晴れ着姿を見てみたい。いや、単純にそれだけの理由なんだが。 「古泉、ちょっと相談なんだが」 今度はハルヒに聞かれては困る話なのでまたトイレに呼び出した。 「なんでしょうか」 「ハルヒが結納をやれというんで正式なのをやろうと思うんだが」 「あなたにしては珍しいですね」 「長門も興味あるらしいしな。俺的には男尊女卑の名残っぽくてあんまり気が進まないんだが。あれは嫁さんに準備金を渡すためのもんだろう」 「最近は記念品の交換くらいで済ませるカップルも多いと聞きますね。元々は華族とか士族などで家同士の契約の名残らしいですからね」 「うちは武士でも貴族でもないしな。お前ならどうする?」 「僕はどっちかというと洋風で、家族より本人達が主体のほうが好みですね」 「だよな」 俺だけかと思っていたが、男はなんというか、結婚後の生活のほうに夢膨らませていて、あんまり儀式的なことにはこだわらない気がする。結婚するまでの準備期間が楽しいという女には理解できないらしいのだが。 まあそれはともかくだな。 「新川ならいつでもご用意できますよ」 そんな隣の長屋から猫を借りるみたいに、渋くてダンディな新川さんを表現するな。あまつさえ年上なんだから。 「機関の人は事情を知ってるからいいんだが、ハルヒにどう説明するかだ。結納に出るのは両親と決まってるわけだし、まさか長門の父親が突然出てきましたってのも無理がありすぎると思うんだが」 「難題ですね。新川の面は高校のときすでに割れていますし」 「どうしたもんか。ほかに頼めそうな人はいないだろうか」 「それはもう機関は人材には事欠きませんが、別に新川が父親でなくても養父ってことでもいいんじゃないでしょうか」 「執事のかっこした新川さんが長門の義理の父か。それもかなり無理な設定だとは思うが」 「では叔父ではどうですか」 うーん、マンションの管理人のほうがまだ説得力ある気がするが。落語にもあるだろ、大家さんが仲人で親代わりになるみたいな話。 「あのなハルヒ、ちょっと長門のことで話があるんだが」 「なに、有希になんかしたの!?」 なんでそう長門のことになるとムキになるんだこいつは。 「前に長門の親族がどうとかいう話をしたことがあったろ」 「有希が引っ越すかもしれないとかいうあれ?」 「あの親族ってのは実は新川さんなんだ」 「見た目渋くてかっこいい新川先生が有希の親類だったの?実は悪いやつだったのね」 そうか、こいつの記憶では新川さんは臨時の先生だったんだな。 「いや、それは俺の誤解でな。あのときは年端もいかない娘が一人暮らしをしてるのは問題があるだろうってことで行政の児童福祉担当が無理に引っ越させようとしてたらしいんだ」 「問題ってなによ、女の子が一人暮らししちゃいけないっての」 「俺に噛み付くなって。経済的にとか防犯上とか、いろいろと鑑みてのことだろう」 「やっぱりね、お役人ってのは丸いものを四角い枠にはめないと気がすまないのよ。個人の事情なんてお構いなしだわ」 「まあそれはいいんだがな。新川さんに長門の後見人というか、まあ親代わりを頼もうと思う」 「あれ?有希の親御さんってエルサルバドルにいるんじゃないの?」 ううっ、確かに長門がそんなことを言ってたような記憶があるっ。ホンジュラスとかエルサルバドルとか、ヒューマノイドはなぜ中南米にこだわるんだと突っ込んだ記憶もあるっ。 「実は、飛行機事故で、」 「ええっ亡くなったの?いつ?」 「高校を出て、すぐくらい」 「なんで黙ってたのよアホキョン!!」 「俺も、最近知った」 俺がロボット並みに棒読みしてるのにハルヒがまったく疑いもしないことが返って悲しいのだが、本当のことを吐けと首を絞められないだけでもマシなのかもしれん。これもいつかはバレるんだろうなあ。嘘で嘘を上塗りしちまってまたハルヒにドヤされる覚悟を今からしなきゃならんとは。 まるで自分の親の訃報を街頭テレビで知ったかのようにハルヒが呆然としているところへ、ドアが音もなく開いて長門が入ってきた。 「ゆ、有希!!もうなんで言ってくれなかったのよ!!」 雨の日の公園を散歩中に段ボール箱で鳴いている捨て猫を見つけた女の子のように、ハルヒはやおら涙目になって長門に抱きついた。こういう不幸な身の上話には徹底的に弱いとみえる。最近のハルヒは映画を見てもチープな恋愛ドラマを見てもよく泣くらしい。気のせいかもしれんが、たぶん古泉と付き合いだしたあたりからだな。もしかして古泉に不幸な作り話を散々聞かされてるとか。 「……なんの、話」 「あんたのご両親が亡くなってたってことをたった今聞いたのよ」 「……」 長門はいったいなにごとが起こったのだという感じで、首をちょこんと傾けて俺を見る。俺は両手を合わせて、スマン長門適当に話を合わせてくれと唇だけ動かして伝えた。 「……そう。両親は五年前、ホンジュラス経由で渡航中に飛行機事故に遭遇。テグシガルパ空港当局者によれば、着陸時に上空を低気圧が通過中で視界不良、滑走路を二百メートルほどオーバーランして大破した」 って長門、その友達にロイター通信の記者がいますみたいな話の合わせ方は逆にあやしいぞ。仮にも不幸な話なんだから少し悲しい表情をしてくれ。 「あんたのことはあたしが面倒を見るからね、心配しなくてもいいからねっ」 「待て待てハルヒ、その役は俺だ」 「だめよ社会的責任のある人じゃなきゃ」 「じゃあ俺は無責任男かよ」分かっちゃいるけど言われたくないっと。 「あたしが有希を養女にするわ」 「養子縁組って二十五才以上で結婚してないとできないんじゃなかったか」 突っ込みどころ違うだろ、結婚の話そっちのけでなに言ってんだ俺は。 「じゃあうちの親の養女でもいいわ、あたしの妹ってことにすれば。里帰りはうちの実家に来ればいいじゃない」 まさかそこまで言い出すとは考えていなかった。古泉は右手のグーを左の手のひらにポンと打ちつけ、ナルホドその手がありましたねとうなずいた。無責任に感心してる場合かよ、そんな無茶苦茶な姻戚関係が発生したら俺の周辺の家計図はどうなる。ハルヒが俺の義理の姉になっちまうぞ。ハルヒの尻に敷かれるのは古泉だけで十分だ。これまでずっと俺が座布団代わりに敷かれてきたんだからな。 「まあ待て、お前たちには媒酌人を頼もうと思うんだ」 「そ、そうなの?」 媒酌人ってのは披露宴で新郎新婦の両隣に控えている人で、慣習的には夫婦が引き受けるもんなんだが、まあほかに当てがあるわけじゃなし、ハルヒにもなにがしかの役割を与えておかないとなにをしでかすかわからんしな。 「有希、あたしでいいの?」 「……いい。あなたが適任」 「なにより、俺たちが付き合うきっかけを作ったのはお前だからな」 「あ、あたしはそんなことはしてないわよ。キョンがあんまり優柔不断だからケツを蹴ってやっただけじゃない」 真っ赤になりながらそう弁解するハルヒはまんざら悪くもなさそうで、一組の男女の運命を決めた切り札が自分だったことを喜んでいるようだ。 「分かったわ、あたしにまっかせなさい。あんたたちの挙式は我がSOS団が責任を持って取り仕切るわ」 おいおい町内のお祭りかなんかと間違ってないか。今までお前のお遊びでやってきたSOS団のイベントとはわけが違うんだぞ、などという心配はすでに時遅しで、ハルヒの目んたまキラキラ度が三百パーセント増量中だ。 「新規事業として我が社はブライダルプランナーをやるわよ!」 うちはイベント会社じゃないんだが、前回のゲームショウで味を占めたらしいな。やれやれ、とうとう色物事業にまで手を染めちまったか。 長門の親代わりを頼むのに、古泉に新川さんを呼び出してもらった。機関の事務所は実は北口駅から近いらしく、喫茶ドリームで待ち合わせた。 「おひさしぶりでございます」 執事姿でない新川さんが濃いグレーのダブルのスーツにステッキを突いてやってきた。俺みたいななで肩が着るとそうでもないのに、こういう肩幅のある人が着るとスリーピースのダブルも映えるんだよなあ。雰囲気がどことなく大手の経営者とか重役っぽい。うちの取締役に欲しいくらいだ。 「お忙しいところお呼びたていたしまして恐縮であります」 育ちが悪いのか付き合ってるやつらが悪いのか、使い慣れない丁寧語に舌を噛み奉りそうな俺である。 「いえいえ、お役に立てて嬉しく存じます」 「……ご足労、謝意を表する」 長門は丁寧的なのか古風的なのかよく分からん挨拶をした。 「ええと、このたび、長門有希と婚姻の儀を取り計らうことに相成りまして、」 このまま喋ってたら舌噛んで死んでしまいそうなのでふつうに話すことにした。 「ぜひ新川さんにご協力いただけないかと。長門の個人的な事情はご存じでしょうか」 「はい、伺っております。わたくしども機関はあなたがたのサポートが使命です。どんな役目を仰せつかっても完遂する所存にございます」 やる気満々、任務のためなら一命を賭しても悔いはない勢いの新川さんだ。俺たちみたいなの珍奇な集団にそこまで言っていただけるとはどうも恐縮してしまうのでありますが。 「新川さんに長門の親代わりをやっていただけないかと思っていまして」 「喜んで承ります。どのような背景を持った人物をお望みでしょうか」 「ええと、両親のいない長門を引き取って面倒をみていた叔父の役というところでどうでしょう」 「かしこまりました。設定に合わせた簡単な略歴などをご用意しましょう。キョンさんのご両親とスムーズな会話をするために」 毎度ながら、機関の人のこういうところはすごいなあと思うわけだ。 「ええとそれから、これがちょっと厄介なんですが、ハルヒには偽のアリバイを仕込んでありまして」 「伺っております」 新川さんは口ひげを揺らして微笑んだ。 「長門の両親はエルサルバドルにいたことになってまして、で、亡くなったことがつい先日ハルヒにバレて、実は新川さんが血縁だったことが判明した、イマココなわけですが」 「それはまた複雑なイマココでございますな」 「勝手にアリバイの証人に仕立ててしまいまして申し訳ないです」 「いえいえ、長門さんのお身内になれるなら喜んで」 古泉なんかの無責任スマイルとはまったく違う、酸いも辛いも味わった人生観の漂う渋いスマイルを見せる新川さんだった。長門も少し口元を動かして微笑んでいる。 氷の浮かんだコップに口をつけてから新川さんは意外なことを言った。 「ひとつだけ問題がございます。わたくしは実は独身でございましてね。叔父とはいえ祝いの席に出るには夫婦そろっての役のほうがよろしいのではないかと」 「え、そうだったんですか」 「恥ずかしながら、離婚暦がございます」 まれに見るシブメンの新川さんがバツイチだとは知らなかった。なんというかその渋さは苦労したがゆえの哀愁から来ているのかもしれない。 「身の回りが軽い相方がいればよいのですが、あいにくとこればっかりは妥当な人材がおりませんで」 つまり新川さんに歳の近い未亡人か独身女性で、長門の事情を知った上で親代わりとしてあれこれ面倒を見てくれそうな人ってことですか。そんな特殊な身分の人は日本中を探してもいないだろうな。 「片親でもいいんじゃないでしょうか。最近は多いようですし」 「結納に片親だけでは少し寂しい気もいたしますが、長門さんのお気持ちのほどはいかがでしょうか」 「……気持ちだけで嬉しい。贅沢は言わない」 長門は控えめにボソリと答えた。本当は家族に似たものが欲しくて、一度は消えた朝倉を呼び戻したり失踪した姉を数億年も待っていたりしたことを俺は知っている。だからなおのことだ。かりそめでもいいから長門にも身内と呼べるものを作ってやりたい。 「お待たせしました」 三人で考え込んでいるところへコーヒーが来た。どうもなじみのある雰囲気がして顔を上げた。 「あれれ喜緑さんじゃないですか。こないだはどうも」 「こんにちは、皆様おそろいで。ホットコーヒー三つですね」 「こんなところでなにやって、」 「もちろんアルバイトですわ」 この喫茶店でもたまにしか見かけないこの人が、日ごろの糧をどうやって得ているのか非常に気になるところだが。 「ええ。ときどきここで雇っていただいています。こちら伝票になります」 お盆を脇に挟んでしずしずとカウンタへ戻っていく喜緑さんを眺めた。 「あの、ちょっと待ってください喜緑さん、」 「はい?」 重要なことを忘れていた。俺の知る限りこの地球上で長門の唯一の関係者がここにいる。長門の身内がひとりもいないなんてとんでもない勘違いじゃないか。新川さんも気がついたようで、これはしたり大事なことを忘れておったわいという感じで眉毛を髭と同じ角度のハの字に曲げている。 「ちょっとここへ座って話を聞いていただけませんか」 「あいにくと勤務中ですから……」 「重要な話なんです」 俺は店のマスターにちょっと従業員を借りますという感じで指を刺して合図した。あとで心づけを払っておかんといかんな。 喜緑さんは俺の向かい側、新川さんの隣に音もなく座った。 「お話とはなんでしょうか」 「じ、実は長門と結婚します」 「そうですか。お二人様、ご婚約おめでとうございます」 思念体の情報網とか話の流れからしてすでに知ってはいたとは思うのだが、喜緑さんは立ち上がって丁寧にお辞儀をした。俺もなんだか条件反射的に立ち上がって何度もハアドウモアリガトウゴザイマスとペコペコしてしまった。 「ちょうど新川さんに長門の親代わりをお願いしていたところなんです。突然でまったく申し訳ないんですが喜緑さんに相方をやっていただけないでしょうか」 「まあ……わたしにですか。嬉しいですわ」 喜緑さんはなんというか、ほんとうにそうなれれば幸せなのになという感じで新川さんを見つめてポッと頬を染めてみせた。 「でも、わたしは年齢的には娘さんの世代ですから」 「娘ということではいかがでしょうか」新川さんが言った。「わたくしが長門さんの叔父、喜緑さんがその娘ということで」 「つまりわたしが長門さんの従姉妹ですか」 バツイチの叔父にその娘ってことなら一般的にありそうだな。無理にこじつけて叔父夫婦を用意しなくてもいいわけだ。なんとなくだが、不ぞろいだったパズルのピースがはまりそうな気がする。 「それでいきましょう。意外にもリアリティあっていいですね」 新川さんの渋い顔が苦笑になってしまった。ややリアリティがありすぎたのかもしれない。 長門がひとこと、喜緑さんに向かってつぶやいた。 「……借りができた」 「そんな、水臭いですよ長門さん」 にっこりと笑う喜緑さん。この二人を見ているといつも思う、喜緑さんが姉で長門が妹という設定でこの地上に現れてもよかったんじゃないかと。 「新川さん、喜緑さん、お手数おかけしますがよろしくお願いします」 「……謹んでお願いする」 珍しく長門も深々と頭を下げた。それから二人の出番になりそうな当面の予定を伝えた。 スケジュールと呼べるほどの余裕はまったくない唐突にはじまってすでに進行中の日程だが、まず親同士の顔合わせ、その後で結納、式場の見積もりと披露宴のプラン、招待客のピックアップと招待状の発送、衣装とヘアメイクの準備、ハネムーンの手配、などなど、覚え切れなくて俺でなくてもため息が出そうなくらいやることがある。しかもこれを一カ月以内にこなさないといけないなんて尋常じゃないわな。だから言ったじゃないのというハルヒの声が聞こえてきそうだ。 ロケット打ち上げ計画書の頭から二百ページ分を省略したいくらいの気分なのだが、式と披露宴はハルヒに任せてあるのでその部分は省略するとしよう。はじめての結婚式の仕切りにハルヒがやたらとはりきってるが、あいつに任せたらなにが飛び出てくるか分かったものではないので監視役に古泉をつけて二人で立案しろと言っておいた。ミイラ捕りがミイラになっちまう不安もないのではないのだが。 うちの両親と新川さん喜緑さんを引き合わせるのに適当な場所が思い浮かばなくて、近場の料亭でお座敷をチャージして晩飯にすることにした。自宅に呼んでもよかったんだが、唐突過ぎておふくろがパニくってしまい、なにを着ればいいのか寿司を取ればいいのか中華を取ればいいのかバナナはおやつに入るのかなどと、どうでもいいことでフル回転していたので外に連れ出すことにした。 「キョン、あんたそんなかっこうでいいの?」 「そんなかっこうって、スーツでいいだろ」 「仕事着でしょう、それ」 「いいんだよこれで。向こうは顔見知りなんだから」 とは言うがこれ以外のスーツは持ち合わせていない俺だった。フォーマルなやつをひとつ新調しなくてはな。 「……どうだ」 「あんた、似合ってるわよ」 親父は妙にかしこまってダークスーツなどを着ているありさまだ。まあ初めての挨拶だからあながち間違いではないんだが。 玄関を入って名前を告げると長い廊下の先にある座敷に通された。こないだと同じスーツ姿の新川さんが待っていた。 「お待ちしておりました」 「……は。はじめまして、キョンの父であります」 水を吸った水飲み鳥のように何度も何度も深々と頭を下げていた。見ていてこっちが赤面してしまうが、この世代の挨拶はこれなんだろうな。 「こちらこそ、はじめまして新川と申します。こっちは娘の江美里です」 「お初にお目にかかります。よろしくお願い申し上げます」 喜緑さんは襟が広めのオレンジのワンピースを着ていた。その隣で長門が無表情に座っている。 「は、はいよろしくお願いします。この度はうちの息子が有希さんを見初めたようで、なにとぞよしなに、よしなに。こらキョン、あんたも頭下げなさい」 親父とおふくろはまるで自分が結婚するかのように緊張しっぱなしでペコペコと頭を下げていた。ふつうに食事会なんだからそんなに冷や汗を垂らさなくてもいいのに。ともあれまあ、このギクシャクした雰囲気も酒が入ればなんとかなるだろう。 「有希さんにこんなきれいなお従姉妹さんがいらしたなんて知りませんでしたわ」 「有希が親を亡くしてからというものは、ずっと姉がわりの江美里の背中を見て育ったものです」 「それはそれはまあ、ご苦労なさいましたねえ」 「素直で優しく育ったこの子の晴れ姿を両親に見せてやれたらと思うと、まったく不憫でなりません」 「まったくよくできた娘さんですね。キョンにはもったいないお相手だわ」 おふくろはヨヨヨと涙に誘われていた。某国営放送の連ドラにでもありそうな展開だな。 「……いやあ、キョンみたいな息子をこんな美しい娘さんが好いてくださるとは、もうなにも思い残すことはありませんな」 親父は酒が回ってきたらしく饒舌になっている。俺はそろそろ飽きてネクタイを緩め、あと何分くらいここにいればいいだろうかなどと考えていた。おふくろが俺の耳をひっぱって、キョンなに胡坐かいてんのよちゃんと正座しなさい正座と耳打ちした。 「すまん、ちょっとトイレ」 俺は立ち上がりかけたのだが足に力が入らず、みんなの前でゴロンと転んだ。 「キョンなにやってんのあんた!」 おふくろは真っ赤になって怒りあわてて俺の腕を引いて起こした。なんつーか笑いを取ろうとしたわけじゃなくて足がしびれて動かなかっただけなのだが。長門がクスリと笑っている。 新川さんと喜緑さんは終始笑顔を崩さず、たまにお酌をしたりされたり、長門の架空の昔話をしたりしていた。人間の長門だったらそういうエピソードもあったのかもしれないと思えるくらい、デティールに凝っていた。このへんはどうやら古泉の仕込みっぽい気がするな。 俺と親父がホロ酔いになったところで宴はお開きになった。 「……有希さん。出来の悪い息子で申し訳ない」 「……問題ない」 「……親に似てまったくふつつかな息子だが、よろしく面倒みてほしい」 「……承知した」 素直に承知してくれる長門も嬉しいんだが、もともと酒に弱い親父が何度も同じことを言いはじめたので、俺は二人をせかしてさっさと帰ることにした。 帰りのタクシーの中でおふくろがボソリと言った。 「いい家族ね」 「……そうだな」 即席だが、いい感じの叔父と従姉妹だったと思う。これからは俺が本物の家族になってやらないとな。 『やあキョンくん、長門っちと結婚するんだって?』 二日酔いで頭痛のする翌朝に電話がかかってきた。 「あ……どうも、いつもお世話になっております」 『水くっさいなあ、あたしも噛ませておくれよ』 「え、あ、そうですね。お手数おかけします」 冬眠から覚めたと思ったらまだ雪の中だった熊並みに脳の反応が鈍い。えっと、俺はいったい誰と何の話をしてるんだ。 「あのすいません、どなたですか」 聞けば、昨日ハルヒと呑んでいて、俺がとうとう結婚するという話で盛り上がったらしい。人の婚姻をネタに酒を呑むなと言いたいところだが、どこの酒の席でもそれは常だからな。 『それで、結納は終わったのかい?』 「まだ昨日やっと親同士の顔合わせが終わったところなんです」 『じゃあうちの座敷でやんなよ。うちの床の間広いよ、畳二枚分はあるんだから』 「床の間?」 『知らないのかい?古来より結納品は床の間に飾るんっさ』 そいやシキタリについてはまだなにも調べてなかったな。 「じゃあちょっと長門と相談して後ほどお電話入れます」 『あいよっ』 朝から元気のいい人だ。今朝まで呑んでたらしいんだが。 結納結納っと、少し予習しとかないとな。 結納てのは、嫁さんの両親に今まで娘さんを育ててくれてありがとうという挨拶と、旦那の親から嫁さんへよろしくという挨拶を形式的に表したものだという。実際は衣装やら嫁入り道具やら、いろいろとモノ入りな女のために結婚準備金を渡すための儀式なのだが、地方によって決まりごともシキタリも違うし、いつごろから始まったというはっきりした歴史があるわけでもないらしい。 正式には仲人がすべてを取り仕切るもんで、まず仲人が新郎の家に結納品と目録なんかの書類を取りにゆき、新婦の家に届ける。二人は挙式まで顔を合わせない。今は仲人なしの略式結納ってのが多いらしいが、その場合は新郎が両親と連れ立って新婦の家に挨拶に行くのか。嫁に来てもらうわけだから当然そうなるわな。 結納品は紅白のノシで飾られた品で、五個とか七個とか九個とか、小数点を使わないと二で割り切れないセットで用意する。これが勝男武士(かつおぶし)とか寿留女(するめ)とか子生婦(こんぶ)とか、漢字を習いたての小学生でも使わないような、ダジャレにもほどがあるというかガード下の落書き夜露死苦を上回る勢いの当て字で名前をつけてある。いくらなんでも結美和(ゆびわ)はやりすぎだと思うんだが。 それを寿の文字がでかでかと書かれた箱に入れて大風呂敷に包んで新婦の家までいそいそと運ばにゃならんのだが、今は店頭から直送してくれるらしい。新婦の家に着いたら軽く挨拶をし、床の間を借りると断って飾り付ける。床の間に赤い布を敷いて、松竹梅の模型を飾る。この松竹梅の下に結納金を置くことになっている。指輪はすでに渡してあるわけだから、九品の中でいちばん高価なのはこのプチ盆栽セットってことだな。 飾り付けが終わるとみんなで対面して並び、新郎の親が前の晩に必死で覚えたセリフ「本日はよいお日柄で……」とはじまる。目録を渡すと新婦の親がリストを確認して、受け取りの証書みたいなものを返して一件落着となる。 とても覚え切れんわ。こりゃあ身内でリハーサルやらんといかんな。 「もしもし長門か、俺だ」 『……頭、痛い』 長門よ、お前が二日酔いするなんてガソリンでも飲んだのか。 「鶴屋さんが結納するのに座敷を使えって言ってくれてるんだが」 『……歓迎すべき提案。うちには床の間がない』 「じゃあ鶴屋さんちで場所を借りることにするわ」 『……分かった』 「また後で連絡する」 「、ということでした。お願いしてもよろしいでしょうか」 『鶴ちゃんにお任せっ、なあに、あたしはこういう祝い事は好きでね。うちのおやっさんもあたしのリハーサルだと思えばいいっさ』 「まことに唐突なんですが、」 『うちは明日でもいいよ』 いやぁ、こういう即対応してくれる人にはほんとに助かる。 「次の土曜日あたりはご都合いかがでしょうか」 『ほいさ。土曜日ねえ、っと友引か。じゃあ夕方ってことにするさ。いいかなっ』 そいや仏滅とかだめなんだよな。六曜までは気にしてなかった。 「それでお願いします。じゃあ俺は出席者全員に伝えます」 『うちにも毛せんとか風呂敷もあるから、もし足んなかったら使うといいっさ』 「なにからなにまでありがとうございます。そのときはお願いします」 その週末、風呂敷で包んだミカン箱を三つ抱えて鶴屋さんのお屋敷まで車を出した。直接鶴屋さんちに発送してもらってもよかったんだが、妹が結納品を見たいとせがむのでやむなく自宅に配達してもらった。まあ親同士の顔合わせのときに連れて行かなかったんでだいぶスネてたからな。 親父はダークスーツ、おふくろも黒のフォーマルドレスを着ていた。俺はというと、いつものスーツに長門からプレゼントされたネクタイだが。妹はここぞとばかりに新しいドレスをねだり、両親もいろいろとモノ入りで金銭感覚が緩くなっているのか二度返事でOKしてやった。こいつが結婚するときはさぞかし派手なんだろうなあ。娘がひとりでよかった。 鶴屋さんちの前に車を停めて、親父と二人でミカン箱を運ぶ。両親はその屋敷の豪華さに圧倒されて終始無言だった。門から母屋の玄関までがやたら長いんでいったいいつたどり着くのかとキョロキョロしていた。昔の結納は庭の縁側から入ったらしいんだがな。 俺は何度も来ていて手馴れているところを見せようと、玄関の扉を開けて、ちわー結納の品お届けに参りましたぁ、などとジョークを飛ばそうとしていたのだが、最初の「ち」のところで親と同じく無言の行に陥ってしまった。玄関に並んだ靴の数々。いくら鶴屋さんがマリーアントワネット張りの生活をしているとはいえ、この靴の数は多すぎる。急に足の数が増えたのか、にしちゃサイズがまちまちじゃないか、ハイヒールと革靴が並んでるのはどういうアンバランスだ、などとなかなか正しい解答にたどり着かない俺である。 「キョン、おっそいじゃないの、もうみんな待ってるわよ」 「な、なんでお前がここにおるんだ」 「なにいってんの部下の結納には、あら、お父様にお母様。お久しぶりでございます」 なにそのいきなり猫かぶりに豹変する態度は。カメレオンでももう少し時間をかけて変身するもんだぞ。 「あらハルヒちゃんじゃないの、古泉くんは元気?」 「元気元気、もうカラ元気よ」 おふくろとはなぜか気の合うハルヒであるが。まあハルヒの第一声のおかげで両親の緊張が一気にほぐれたことだけは感謝しておこう。 「お父様、相変わらずお元気そうでなによりです」 「……」 親父は顔だけで声もなく笑っていた。 座敷のほうがやたら騒がしい。俺が真顔に戻って座敷の障子を開けると、鶴屋さんを筆頭に、古泉、部長氏、開発部の面々、それから森さんに多丸兄弟がずらりと並んで座っていた。今日は神聖にして荘厳なる儀式だってのになにやってんだこいつらは。古泉がビデオカメラなんか構えてるが、お祭りじゃないっての。あ、来てくれてたんですね朝比奈さん、あなただけは大歓迎ですよ。 二つの和室が敷居で繋がった超広いお座敷で、片方にギャラリー、片方に出演者が座っている。床の間に向かって左側に黒スーツの新川さん、留袖の着物の喜緑さんが座っている。右側に俺の両親と俺が座る。結納の出演者には座布団は敷かないものらしい。 親父が両手をついて頭を下げ、 「床の間をお借りいたします」 寿と書かれたミカン箱を床の間の前に運び、赤い布を敷いた。厚手のフェルトの布なんだが、これが毛せんという。ちゃんと把握してくれている鶴屋さんが、鶴と亀の掛け軸を掛けてくれていた。こういうときは縁起物の掛け軸をかけるのが慣わしらしい。 箱を開けて、松竹梅のジオラマ、白髪の爺さんと婆さんのフィギュア、熨斗(のし)から柳樽料(やなぎだるりょう)までを丁寧に配置してゆく。 飾り付けが済むと一同がシンと静まり返った。新川さんが隣の部屋から長門を連れてきた。スルスルと裾が床をすべる音がする。 「おおー」 こんなときに大声を上げるなんてマナー違反もいいところだが、みんなが感嘆の声を上げた。はじめて見る、長門の振袖姿だった。濃い紫色の生地に七色の花柄をあしらったきれいな振袖だった。短い髪もうまくまとまっている。ハルヒと鶴屋さんがごにょごにょと内緒話をしているところをみると、この二人が着付けをやったらしい。いや、ご苦労だったな。 長門がしゃなりと座り、喜緑さんが振袖の袂を広がるように整えた。膝の前に扇子を置くのだが、実はこれ相手との間に衝立を置く意味らしい。 「……」 この無言は長門ではなくて、うちの親父が完全に固まっていた。長門の姿を見て脳の思考停止に陥ったようだ。おふくろが肘で突付くとやっと我に帰り、再生ボタンを押されたCDプレイヤーのようにしゃべり始めた。 「オホン。……この度は良いご縁談を賜り誠にありがとうございます。本日は良いお日柄につき、ご婚約の印として結納のご祝儀を持参いたしました。幾ひさしくお納めください」 ほとんど棒読みだったが、おふくろが結納品のリストを書いた目録をふくさに包んで親父に渡し、親父が新川さんに渡す。新川さんが目録を開いて一読し、 「結構な結納の品々、誠にありがとうございます。幾久しくお受けいたします」 新川さん、喜緑さん、長門が手をついてお辞儀をする。 次に、喜緑さんがふくさに包んだ受書を新川さんに渡し、新川さんが親父に渡す。受書ってのは受領書みたいなもんだ。 「結納の受書にございます。お改めください」 親父が中身をチラ見して、 「無事、結納をお納めすることができまして、本日はありがとうございました。今後とも幾ひさしくよろしくお願い申し上げます」 「こちらこそ、幾ひさしくよろしくお願いいたします」 両者が深々と頭を下げる。 終わりの合図がどれなのか分からず、そのまま無言のままじっとしていた。おふくろががホゥとため息をついたのをきっかけにギャラリーから拍手が沸いた。芝居じゃないってんだが、アンコールも必要か。 「キョンくん、よくやったねっ」 なんというか、俺は座っていただけでほとんどなにもしてなくて、途中かなりはしょったりもしたんですが、そう褒められると背中がムズムズします。 「鶴屋さん、お座敷を貸していただいてありがとうございました。親父さんに厚くお礼を言っていたとお伝えください」 「いいってことさぁ、キョンくんと長門っちのためなら、ひと肌でもふた肌でも脱いじゃうからね」 着物の袖を捲り上げてガッツポーズを取る鶴屋さんだった。 鶴屋さんが手でラッパを作って叫んだ。 「さあっみんな、向こうの部屋に酒が並んで待ってるよっ、早いもの勝ちだよ」 そう言うが早いか、ハルヒを先頭に縁側をドタドタと走って全員が消えた。この家にはいったいいくつ客間があるんだろうね。って妹はまだ未成年なのだが。 同じ広さの和室にテーブルがコの字に並べてあり、まるで披露宴かと思えるような料理の品々が並んでいた。まさか仕出しを頼んでくれていたなんて、ずいぶん予算を使わせちまったなあ。 「ちっちっち、これうちで作ったんさ」 それまた手間を取らせちまって、なんというか鶴屋さんには一生頭が上がらない気がする。今日から屋敷に足を向けて寝れないな。 俺は帰りの運転があるんでずっとウーロン茶を飲んでいたのだが、妹はすでに回ったらしく朝比奈さんの膝枕で眠っていた。さぞかしいい夢を見てんだろうね。 「キョンくん、おめでとう。いよいよ結婚するのね」 「ありがとうございます朝比奈さん。よく時間と場所が分かりましたね」 「えへ。スケジュール通りだから」 まあ未来人からしたらすべては時間通りってことだな。 「古式ゆかしい結納の儀式をはじめて見たわ」 「未来ではもう結納はやってないんですか」 「伝統を残そうって人たちがやって……。あっ、これ禁則事項ですね」 朝比奈さん、今なんか情報漏れが。 古泉を見ると酔って大騒ぎをしているハルヒをずっとビデオカメラに収めていた。お前、それ後日なにかに使うつもりだろ。 みんな腹も膨れて酔いもまわったところだが、まあこれが本番の披露宴ってわけでもないんで適当なところでお開きになり、タクシーを呼んだり迎えが来たりしてそれぞれ帰っていった。 誰もいなくなって静かになった座敷で、うちの親と新川さんが静かに昆布茶を飲みながら鶴屋さんに礼を言っていた。 「鶴屋さんのお嬢さん、とてもいいお屋敷ですね」 「あははっ、でも固定資産税がハンパじゃなくってね。せめてこういうときのためのもんだとあたしは思ってるよ」 「お嬢さんがお屋敷を継がれるんですか」 「そうするっきゃないねえ。あたしはひとりっ娘だから」 「じゃあいいお婿さんを捕まえないといけませんなあ、はっはは」 「いやあ、キョンくんみたいないい男がなかなかいなくってねぇ、あはははっ」 鶴屋さんは真っ赤になって俺のほっぺたをつねった。これ、冗談だよな。 六章へ
https://w.atwiki.jp/niko2/pages/110.html
暗黒長門 【元ネタ】 涼宮ハルヒの憂鬱シリーズ 【参考動画】 愛しの彼が振り向かない ~暗黒長門~ 歌入りFullver http //www.nicovideo.jp/watch/sm657560 【関連人物への呼称】 一人称→「わたし」 二人称基本→「あなた」 キョン→あなた(一度も名前を呼んだことがない) 涼宮ハルヒ→涼宮ハルヒ 古泉一樹→ キョンの妹→不明 朝倉涼子→朝倉涼子 【キャラ紹介】 TFEI端末、一言で言い直せば宇宙人。 基本的な設定は本家に準じるが、暗黒長門は本家と違い腹黒ヤンデレキャラである。 自分の幼児体型に強いコンプレックスを持っているのも本家との相違点の一つ。 【能力】 早口でプログラムのようなことを詠唱すると物理法則を無視したり、著しく身体能力を向上をさせたり、 記憶やプログラムを改ざんしたり…といった超常現象を起こせる「情報改変能力」を持つ。 以下、本ロワでの動向(ネタバレ) + 開示する 初登場話 20 ぺったんぺったんつるぺったん ~五十歩百歩~ スタンス 奉仕(キョン) 現在状況 1日目・午前の時点で死亡 現データ 77 蝕時点 愛しの彼(キョン)の捜索を最優先。 しかし、最初に出会った伊吹萃香とは喧嘩別れ。 次は自殺を図った双海亜美に出くわした所をオメガモンに見咎められて、怪我を負う羽目に。 何もかもが思い通りにいかずにイライラしていた所でキョンの死を知り、優勝してキョンの蘇生を目指すことにする。 手始めに歌を歌っていた福山芳樹を狙撃し殺害するが、その報復に来たYOKODUNAによって致命傷を負わされる。 このまま息絶えるかと思われたが、自分の最期を見届けに来た朝倉涼子の体を乗っ取ろうとして相討ちとなる。 その後遺体は埋葬されるが、クラモンAによって喰われて4つの人格の一つとなる。 主に情報改変を使っての戦闘のサポートや怪我の治療を担当する。 吸収後はキョン絡みの事象以外では特に取り乱す事も無く冷静沈着。且つ甘言でロールちゃんを唆すなど更に腹黒くなった。 キャラとの関係 名前 関係 解説 初遭遇話 キョン 仲間 愛しの彼。 未遭遇 涼宮ハルヒ 仲間 愛しの彼を誑かす腐れ女。 未遭遇 古泉一樹 仲間 ガチホモ。 未遭遇 朝倉涼子 敵対 体を乗っ取ろうとするも、相打ちに 77 蝕 伊吹萃香 敵対 邪魔すんな、つるぺた幼女。 20 ぺったんぺったんつるぺったん ~五十歩百歩~ 双海亜美 その他 自殺した所に出くわす。 38 不完全自殺マニュアル―思い出をありがとう― オメガモン 敵対 誤解から戦闘になる。 38 不完全自殺マニュアル―思い出をありがとう― 福山芳樹 敵対 狙撃して殺害する。 66 十一色の誓い YOKODUNA 敵対 狙撃の報復として致命傷を負わされる。 66 十一色の誓い
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/5006.html
「…………」 「…………」 「…………」 のっけからすまないな。 訳が分からんだろう。 そんなお前さんの為に今の状況を説明してやろう。 我が家では毎日俺を使う優先権みたいなものが変わるんだ。 使うってのはおかしな表現かもしれないが、語彙力が無いだけだ許してくれ。 でもって、今日は妻の有希の方にその優先権があったわけなんだが、 有希が野暮用かなんかで家を出ている間に娘が俺を使ってたもんだから有希と娘がケンカしているんだな。 無言の応酬がケンカ? って思うかもしれんが、我が家では、 いや、有希と娘のケンカは何時でもこうやって無言で相手を穴が開くんじゃね? って位に見まくるのがデフォなんだ。 そんでもって、俺は何時も二人の間で肩身の狭い思いをしてるってな訳だ。 これでだいたいの状況を理解してもらえただろう。 「……何故、約束を破ったのかを三行で」 おお、有希が喋った。 「……破ったつもりはない」 それって三行か? いや、むしろ何で三行なんだ? 「…嘘、これを破ったと言わずに何と言うの」 「……母さんが居ないのが悪い」 「……私は用事があったから家を空けていた。理由にはならない。…よってあなたはルールに反したと言える。 だから、明日も私の日とする」 「…いやだ」 「…あなたに拒否権はない」 …あの~ 有希さん? 怖いです。 ガチなのか? 頼むから穏便に済ましてくれよ。 「……父さんに決めてもらう」 んな!? 娘よ俺を巻き込むのか!? いやな、確かに俺にもこうなった責任の一端はあるが… 選択次第では命の危機に直面するやもしれないんだぞ。 「……推奨しない。というより拒否する」 よく言った有希。 二人で穏便に決めてくれ。 「…どうして?」 「…彼は優しい。故にあなたと私の主張の中間点の意見を採用するに違いない。 …それでは私の気持ちが収まらない」 「…………」 「…その無言は肯定と証であると見受けた。でわ明日も私の日とさせていt 「なあ、有希?」 「……何?」 「いや、俺が言って良いのか悪いのか分からんような分かるような…」 「…はっきり言って」 …すんません。 だから無表情で怒るな。 何かちびりそうだ。 「流石に可哀想じゃないか? 自分で言うのはこっぱずかしいが、 楽しみを奪うみたいでさ」 「…ルールを破ったのはこの娘。罪には罰を」 「う、まあそうだがな…」 …こいつあテコでも動かんな。 「……もういい。母さんと父さんは一生乳繰り合ってればいい」 「お、おい、何処行くんだ?」 「…何処だっていい」ダッ 「待t「…行く必要はない」 「…あのな有希、お前の気持ちも分かるさ」 一応、高校の頃に比べてたら成長したつもりだからな。 「出来ることなら俺と居たいんだろ?」 首肯。 うん、いつも通りだ。 「だけど、あいつもそうだってのは分かるよな?」 「…………」 無言は肯定なんだよな? そうだよな? 「その中でお前さんが妥協して今のルールを作ったってのも分かる。 だがな有希、お前はあいつの事嫌いなのか?」 「! ……そんなことはない」 「だろ。だったら今回のことは水に流してやろうぜ?」 「……やっぱりあなたは優しい。迷惑なほど優しい。 だけど、そこがあなたの魅力。そこに私が惹かれたのも事実」 そこまで褒めてくれるとはな… ありがとよ。 「…近所の公園にいる、早く行ってあげて。でないと風邪を引いてしまう」 「あいよ」 「……そのかわり」 「ん? そのかわり何だ」 「……今日は寝させない、覚悟するように」
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/1208.html
Report.08 長門有希の操作 今日、すること。この流れなら言える。以前試みて、できなかったこと。 ネット上の、彼女に関する個人情報を消去する。 やはり彼女が日常生活を取り戻すためには、この過程は必要となる。情報統合思念体としても、涼宮ハルヒが世間に妙な注目を浴びて、余計なストレスを受けることは好ましくないと大勢は判断している。対処が難しくなるから。 そしてもちろん、わたしという個体も、彼女が日常を取り戻すことを……強く、願っている。 実現のために必要なことは……彼女、涼宮ハルヒの同意。 どのように話を持って行くか。考える。昨日、わたしは彼女と一緒に帰宅するために、彼女に変装……男装をさせた。 そう。彼女は、そのままでは誰かと一緒に歩くことも叶わない。そして何より、彼女の仲間……SOS団に近付くことさえできない。団長であるというのに。このままで良いのか、彼女に問い掛ける。彼女は否定すると予想される。 そこで、日常に戻れる方法として、ネット上の個人情報を消去することを提案しよう。この線だ。 彼女が同意さえすれば、情報の消去はたやすい。むしろ、彼女に対する偽装工作の方が重要となる。どのように彼女に現象を納得させるか。 あくまで、一般的な人間の理解の範囲から余り外れない方法で納得させるのが望ましい。その方法については、一つ心当たりがあった。少し無理があるかもしれないが。 方針は決まった。 以上のことを、わたしは彼女と抱き合いながら、耳元で囁きあいながら、考えていた。まだまだ彼女とこうしていたいという『願望』はあったが、それは好ましくない。 「……そろそろ起きないと。」 「むふー、残念。」 わたし達はゆっくりと体を起こした。ようやく今日という一日が始まった。 洗面台。わたし達は並んで歯を磨く。彼女は歯磨き剤を使わない。いつまでも口の中に味が残って、食事の味が変わるのが嫌なのだという。 「なんで、歯磨きって、ミント系の味しかないんやろな? 揃いも揃って。他の味、というか、あんまり味がせえへんやつ、味が残らへんやつがあってもええと思うんやけどなー。」 【なんで、歯磨きって、ミント系の味しかないのかしら? 揃いも揃って。他の味、というか、あんまり味がしないやつ、味が残らないやつがあっても良いと思うんだけどなー。】 などと言いながら、わたし達は同じタイミングで同じ動作をしていた。うがいのタイミングまで同じ。 朝食は、昨日買ってきたコンビニエンスストアの弁当その2。彼女もわたしも、Tシャツとパンツだけを身に着けている。 「女同士、気にすることないやろ? 一緒にお風呂入った仲やんか。それに……(ごにょごにょ)」 【女同士、気にすることないでしょ? 一緒にお風呂入った仲じゃない。それに……(ごにょごにょ)】 とは、彼女の弁。なお、不明瞭な後半部分は、あえて記すこともないと判断した。 わたしは、いつもの無表情の裏で、話を切り出す時機を窺っていた。 人間が服装に特別な『思い入れ』を持っていることは、知識としては知っている。 衣服を身に纏うことは、毛皮も鱗も持たない有機生命体である人間が、生命活動を維持するために気温等周囲の環境から身を守る行動。 しかし人間は、衣服に別の情報を付与した。 『おしゃれ』 衣服その他を用いて、人間は自らの身体を装飾することを覚えた。最初それは、他の生命体同様、繁殖のために異性を惹き付けるための行動だった。例えば孔雀のオスの華美な羽や、タナゴやオイカワに現れる婚姻色の代替手段として。毛皮等を持たず、明確な発情期がなく、身体に余り変化が現れない人間にとって、衣服で異性を惹き付けることは、制限から生まれた苦肉の策といえる。 またしても、制限による工夫。 当初は異性を惹き付けるための苦肉の策であったおしゃれ。 これは換言すると、『他者とは違う格好をすることに意味を持たせる』行為。 そこに、新たな情報が生まれた。 人間は、性別、地位、職業その他の様々な属性の違いに応じて、服装を変えることで違いを表示するようになった。例えば『制服』。人間は、一定の職業と性別に合わせて、一様の衣服を着ることで職業と性別を表示する。そうすることで、他の職業の人間との区別を行いやすくし、その職務執行を円滑にしている。 そして涼宮ハルヒが朝比奈みくるに行わせている『コスプレ』や、昨日わたしが彼女に提案した『変装』及び『男装』は、こうした属性を表示する制服の機能を利用した行為。 そういえば、『萌え』という感情は、人間の性的衝動と深い関係があることが分かってきたが、萌えを刺激するコスプレや異性装が、元々は着飾ることの原因だったものの、後に切り離されていった性的衝動に再び繋がるのは興味深い。 わたしは、服装についての情報に重きを置いていない。周囲の環境から身を守るという機能は、わたしにとって無意味。たとえ裸であっても、機能上は全く問題はない。 裸で表を出歩かないのは、身体を覆わないことを禁則事項とする認識が人間社会に共通して存在するから。身体を覆う面積は地域、文化、風習等で差異が生じるが、どれだけ覆う面積が小さい、裸に近い姿で生活している文化でも、生殖器だけは何らかの方法で覆うことは共通している。そこにどのような意味、あるいは『意識』が込められているのか、わたしには実感できない。 ここからは推測になるが、それには『生殖能力』が関係しているのではないだろうか。 わたしには、『生殖能力』は存在しない。『性器』は有するが、『生殖器』としては機能しない。必要がないから。 だが、もしかすると、人間をより詳細に観測するためには、なくても良いと判断できるような機能でも、備えているといないとでは、観測結果に微細な又は重大な差異を生じるのかもしれない。 この点について、現時点では情報が不足している。情報の不足を解消するためには、やはり実験してみる必要があるだろう。わたしを使うのか。あるいは別のインターフェイスを使うのか。どのような手法によるものかは分からない。 長々と服装について考察していたのには理由がある。わたしが立案した計画は、服装も大いに関係がある。わたしは待った。 「ごちそーさまっ。」 「食後はコーヒー?」 「えっ! 淹れてくれるん!?」 【えっ! 淹れてくれるの!?】 「待ってて。」 わたしは台所に行き、お湯を沸かしながらドリッパーを準備する。 「あたしはカフェオレでお願い! 豆乳でー!」 コーヒーを淹れ始めると、すぐにコーヒーの香ばしい匂いが立ち込める。フィルターを外して蓋に差し替え、リビングに向かう。カップセットは二つ。砂糖はなし。 「ブラックはよう飲めへんけど、甘いのもあんまり好き違(ちゃ)うねん。」 【ブラックはとても飲めないけど、甘いのもあんまり好きじゃないのよ。】 甘くないカフェオレが一番具合が良いそうだ。わたしはブラックで飲む。 『ふ――――っ。』 思わず息をつく。一人で飲んでも特に何も感じるものはなかったが、今は二人。これもまた食事と同じく、美味しいものだった。 「さて、今日はこれからどないしよ?」 【さて、今日はこれからどうしようか?】 彼女はぽつりと呟いた。 来た。 「朝の続きする?」 彼女はにんまりと笑いながら言った。 「それは推奨できない。他にやるべきことがある。」 わたしは彼女の瞳を真っ直ぐに見据えて言った。 「わたしに考えがある。」 「あなたは現在、表を普通に出歩ける状態ではない。買い物もできない。この原因は一つ。ネット上に晒されたあなたの個人情報。これを消去しない限り、あなたへの来襲は止まない。でも、ひとたびネット上に掲載された情報は、無限に複製し拡散できるため、完全な消去は困難。」 「ほな、どうすんの?」 【じゃあ、どうするの?】 彼女が食いついてきた。行ける。 「一つ手段がある。」 わたしはそこで言葉を区切る。彼女は続きを無言で促す。 「友人のスーパーハッカーに協力を要請する。」 彼女の目が見開かれた。 「スーパーハッカー!? 何それ!?」 これはとあるネット上でのやり取りに登場する一種のジョークに由来するが、彼女は知らないらしい。 「IT関係にとても詳しい人。この人に任せれば間違いない。」 「すごい知り合いがおるんやなぁ……それで、その人にはどうやって連絡すんの?」 【すごい知り合いがいるのね……それで、その人にはどうやって連絡するの?】 「実はもう、手配済み。」 「早っ!!」 「あなたの同意があれば、すぐに着手できる。よく考えて。」 彼女は真剣な表情でわたしを見ている。 「あなたは今、団長でありながら、活動はおろか、団員にさえ近付くことができない。あなたは今のままで良いの?」 「……ええわけ……ええわけないやんかっ!!」 【……良いわけ……良いわけないじゃないっ!!】 彼女は立ち上がった。両手に握り拳を作っている。 「いつまでもしつこくしつこく、散々付き纏いよって! もううんざりや!!」 【いつまでもしつこくしつこく、散々付き纏って! もううんざりよ!!】 彼女は親指で力強く床を指差す。 「ええわ、有希! やっちゃって! その友達のスーパーハッカーさんとやらにすぐに連絡して!!」 【良いわ、有希! やっちゃって! その友達のスーパーハッカーさんとやらにすぐに連絡して!!】 「わかった。」 わたしは彼女の携帯電話を借りると、あるサイトを表示した。いわゆる『まとめサイト』。 「ここにあなたの個人情報が掲載されている。」 「うわ……ほんまや。住所、電話番号に通学経路から家族構成まで!」 【うわ……ほんとだ。住所、電話番号に通学経路から家族構成まで!】 「分かりやすい指標として、このサイトが今から消滅する。」 わたしは席を立ち、固定電話に向かった。彼女からは見えない角度で、0120…から始まる一連の番号を入力する。電話口から声が聞こえてくる。 『こちらは、NTT西日本サービスガイドです。音声でお聞きになる方は01……』 わたしは通話口に語りかける。 「わたし。……そう。同意が得られた。……そう。……わかった。」 電話を切ると、わたしは彼女の元に戻って座った。 「どう!?」 「すぐに着手する。数分もすれば、すべて終わる。」 そしてわたしは情報介入を開始した。今度は弾かれない。しばらく待ってから、時計を見やる。三分経過。もう良いだろう。 「終わった。」 「早っ!?」 「そのページをリロードしてみて。」 「……!? あれ!? ……!? 嘘っ!? 消えてる……」 当該情報の電網空間からの完全消滅を確認。 「情報発信の中心だったそのサイトが消滅した。見える範囲以外の、バックアップデータ等もすべて消去されたと思われる。」 わたしは、コーヒーセットを片付けながら言った。 「彼女の仕事は正確。」 「女の人なんや、そのスーパーハッカーさんて……」 【女の人なんだ、そのスーパーハッカーさんて……】 念のため、『彼女』にも検証を依頼した。すぐに答えが返ってくる。 『全く問題ありませんよ、長門さん。さすがです。相変わらずいい仕事してますね。』 喜緑江美里からの返答が伝わってきた。 『協力に感謝する……ありがとう。』 『どういたしまして。』 あとは人間に残る記憶の方だが、これは単純に情報に触れた人間を片っ端から操作して、一人一人丹念に記憶を消去していくしかない。これは膨大な情報を処理する必要があるため、情報統合思念体が直接行うことになった。わたしが操作するのは、ここまで。10分もあれば、すべて終わるだろう。 これでようやく、彼女は元の生活を取り戻せる。 そんな異常な生活を楽しんでいるのではないか、という意見も一部にはあったが、今のわたしなら断言できる。 それはない。 これで、彼女の行動に対する制限事項は無くなった。 もしかしたら、これまで考察した通り制限に人間の進化を促すきっかけがあるとしたら、彼女が進化するきっかけを失ってしまったのかもしれない。だが、反省も後悔もしていない。他に方法はなかった。少なくとも今は、これで良いと思う。 物事には順序がある。 今の彼女は、制限事項を受け入れる準備ができていない。それはこれから、彼女が様々な経験を通し、『成長』して獲得するもの。これまでの人間の観測結果から、そのような結論が導き出される。 今後彼女は、自身の持つ力を自覚しても何ともないほどに成長するのかもしれない。まだまだ、精密な観測が必要だと思われる。わたしの任務も続くことになる。 でも、それでも良いと思った。むしろそうなってほしいかもしれない。 任務……観測が続けば、それだけ長く彼女を見続けることになる。見続けていられる。 それだけ――彼女のそばにいられる。 ←Report.07|目次|Report.09→
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/2209.html
Report.18 長門有希の憂鬱 その7 ~朝比奈みくるの報告(後編)~ あたしの照準でたらめな『みくるビーム』は、それでも開戦を告げる合図にはなったようです。 あたしが視線を巡らせた辺りには、焦げ目の付いた人型が多数現れました。……自分で撃っといて何ですけど、すごい威力です。こんなものを無意識に撃てるよう改造しちゃうんだから、やっぱり涼宮さんはすごいとしか言いようがないです。 空中では、古泉くんの赤い軌跡が幾つもの緑色の軌跡と激しくぶつかり合っていました。あまりにも速過ぎて、目で追うのは無理です。 敵航空戦力はとりあえず古泉くんにまかせることとし、あたし達地上部隊は敵地上戦力を叩くことに集中します。戦法は、あたしと喜緑さんの砲撃で姿を表した近距離の敵を、キョンくんが短機関銃のフルオート射撃で片っ端から倒すだけ。単純明快です。 「弾切れせえへん銃って、ゲームに出てくる隠し武器みたいやな……」 【弾切れしない銃って、ゲームに出てくる隠し武器みたいだよな……】 キョンくんのそんな呟きが聞こえてきました。確かに、こんなでたらめな戦い、ゲームみたいと言わざるを得ません。 「あなたがゲームのようだと認識するのは仕方がありません。もっともなことだと思います。」 喜緑さんがキョンくんの呟きを聞き付けて、静かに、でもはっきりと言いました。 「でも忘れないでください。これはゲームという仮想現実ではなく、れっきとした現実であるということを。」 そう言って喜緑さんはキョンくんに手をかざし、 「真空呪文(バギ)。」 キョンくんの身体を旋風(つむじかぜ)が包みました。 「おわっ!? つっ、痛たたたた……」 キョンくんの着ている服の袖があちこち裂け、所々出血しています。 「まるで現実ではないことのように思えるかもしれませんが、実際はこの通り、痛みもあれば出血もします。大きな損害を受ければ、生命活動が停止するでしょう。これは紛れもなく現実なのです。」 どんなにでたらめな出来事でも、今目の前で起こっているのはすべて現実の出来事。だから……舐めて掛かるな、ということですよね。 「そういうことです。その傷の痛みが、現実に引き戻すきっかけになれば良いのですが。」 「分かりました。俺なら大丈夫です。だから……」 キョンくんは短機関銃を撃ちながら叫びました。 「今は、目の前の敵を倒すことに集中します!」 地上戦力の殲滅は、順調に進捗しています。大火力を持った戦力が三人もいますからね。問題なのは航空戦力です。古泉くん自身の能力の問題じゃなくて、単純に人手不足です。それにどちらかというと古泉くんの能力は一対一用で、あたし達みたいな範囲攻撃用じゃなさそう。 というわけで、手が回りきらない敵航空戦力が、時折あたし達のところに飛来します。 「五指爆炎弾(フィンガー・フレア・ボムズ)。」 慌てず騒がず喜緑さんは、大技で仕留めます。技名の由来は……ある少年漫画でしょうね。もしかしたら喜緑さんは、長門さんがいつも分厚い本を読むように、普段は静かに漫画を読んでるのかもしれません(今度、長門さんに漫画を貸してみようかな)。 一方あたしはというと、対空防御は喜緑さんに任せて、地上・上空の区別なく、ひたすら辺り一面を色々な兵器で薙ぎ払っています。目的は、隠れている敵に印を付け、目視できるようにするため。目視できる状態になれば、それはキョンくんの標的になります。 こうしている間にも、前から後ろから、もうすべての方向から、鉄筋の射撃を受けています。それらはすべて、喜緑さんの防護壁で防がれてますけど、やっぱり生きた心地がしません。 ふと上を見ると、上空で古泉くんが多数の航空戦力に取り囲まれていました。援護しなくちゃ。でも、あまりに動きが速く、また標的も敵味方入り混じってるので、おいそれと撃てません。間違って古泉くんを撃ってしまったら、それこそシャレになりませんし。混戦中の援護射撃は無理かも。 「キョンくん、出番ですよ。」 喜緑さんがそう告げると、キョンくんの端末が変形しました。 「うわっ!? 何(なん)やこれ!?」 【うわっ!? 何(なん)じゃこりゃ!?】 「狙撃形態。PSG-1の外観を模しています。」 PSG-1……この時間平面で使用されているセミオートマチック式狙撃銃で、ある事件をきっかけに開発され、それまでボルトアクション方式しかなかった狙撃専用銃に新たな歴史を開いた、と史料にあります。 「照準はすべてその端末が制御します。迷わず敵を狙撃してください。」 キョンくんは銃口を空に向けました。 「行くぞぉぉぉ古泉ぃぃぃ! 気ぃ付けろぉぉぉ!!」 【行くぞぉぉぉ古泉ぃぃぃ! 気を付けろぉぉぉ!!】 キョンくんの雄叫びと数十発の銃声。そして上空の赤い光を取り囲む緑の光のうち、赤い光に向かって動き始めていた数十個の緑の光が消滅しました。援護射撃成功です。 ちなみに、キョンくんが相手していた地上戦力は、代わりにあたしが相手しておきました(お嫁に行けるか、ちょっと心配になってきました)。 「どうやらこの空間は、要となる敵を倒すごとに、段階的に変化するようです。そして、すべての段階を越さないと、脱出が不可能なようですね。」 喜緑さんは、長門さん達と交信しているようです。 「一体一体倒していくのは効率が悪いですね……」 少し思案顔で喜緑さんは呟きます。『効率』……ちょっと嫌な予感がしました。 「古泉くん。空中の敵をすべて引き付けて、こちらに来てください。まとめて処理します。」 喜緑さんが上空の古泉くんに指示を出しました。まとめて処理? 指示に答えて、上空の赤い光がめちゃくちゃな動きを始めました。その動きに釣られて、緑の光がだんだん狭い範囲に集まり始めました。そして赤い光が、一直線にこちらを目指して飛んできます。その赤い光を追って緑の光もまた…… 「ひえええ!?」 「のあああ!?」 あたしの悲鳴と、再び短機関銃形態になった端末を撃っていたキョンくんの悲鳴が重なりました。空を埋め尽くす、ものすごい数の緑の光点……あまりに多すぎて、もはや光の帯にしか見えません。 あっ、ダメですよキョンくん、上空に向けて撃っちゃ! 古泉くんに中っちゃうし、地上の敵が! 「おわっ、す、すいません。思わず取り乱してしまいました……」 そんなあたし達のやり取りはどこ吹く風で、喜緑さんは上空を見ています。……広げた両手に、吸い寄せられるように何かが集まって光を放っていました。 「ふふふ。さあ、古泉くん……上手くかわしてくださいね……なるべく紙一重で……」 ひいいい、この人、何だかとっても楽しそうです! 誰か止めてください! 「喜緑さん、Hold your fire! って、無理!」 やっぱりキョンくんにも無理でしたね……逃げてー! 古泉くん、逃げてー! 「さあ、もう少し……行きますっ!」 喜緑さんが吼えます! って、あなたはこんなキャラでしたっけ!? 「極大爆裂呪文(イオナズン)!!」 喜緑さんの両手から放たれた光球は、お互いに逆位相の正弦波の軌跡を辿りながら、こちらに向かってくる赤い光の球の方向へ真っ直ぐ飛んで行きました。こ、古泉くん! 直撃、と思われた刹那、赤い光の球は異次元の加速を見せてかわしました。アフターバーナー!? 喜緑さんの放った光球はそのまま直進し、古泉くんを追ってこちらに向かってきた緑の光の帯に近付いて…… 大爆発の後、空には塵一つ残っていませんでした。 「今の攻撃で、敵航空戦力はすべて倒したようですよ。」 あたし達の防護壁の中に降り立った古泉くんは、涼しい顔で報告しました。 あのー、古泉くん? さっき思いっきり囮にされたと思うんですけど、その点についてはコメントなしですか。 「いやー、あれくらい、《神人》との戦いではよくあることですから。」 いつものスマイル。えっと、何て言うか……いえ、やめときます。 喜緑さんは、ええ、分かっていましたとも、とでも言っているかのような顔で、さらりと言いました。 「これで残りは地上戦力ですね。長門さんたちに連絡します。」 トロいといつも言われるあたしにも、はっきりと分かります。この人、とんでもない大技を使う気満々です。 「30秒後に、爆音と閃光が発生します。目を閉じて耳を塞いでください。」 そう言うと喜緑さんは、いつの間にかイヤープロテクターとサングラスを付け、呪文のようにコードを唱え始めました。耳を塞いでいるのに、なぜかはっきりと聞こえてきます。 「Lord of vermillion!!」 そして、瞼越しにもはっきりと分かりました。世界が強烈な光に包まれるのが。一瞬後に、激しい衝撃波と爆発音。防護壁でかなり減殺されてるんでしょうけど、それでも凄まじい余波です。ようやく余波が収まると、あたしは目を開けました…… ああ、大阪湾がきれいに見えます。遮る物も何もなく、はっきりと。遠くの影は淡路島でしょうね。 「あの、喜緑さん。何だか、とても視界が広くなってませんか? 気のせいか、見通しが良くなったような……」 これで空の色がおかしくなければ、とってもきれいな光景なんでしょう。陽光を反射してキラキラ光る海面が…… 「現実逃避はそのくらいにしてください。範囲はこの空間内に限定されますから、御心配なく。」 喜緑さんに、無理やり現実に連れ戻されました。えーと、目の前の光景を端的に表すと。 西宮市の壊滅。 いくら現実空間には影響がないとはいえ、やっぱり息を呑む光景です。史料で見た、この時間平面より少し前の時間にこの土地を襲った大地震の後のように、見渡す限り瓦礫が広がる廃墟になっています。 「呆けている場合ではありません。いよいよ大詰めです。」 喜緑さんがそう言うと同時に、あたし達に影が差します。上を見上げてびっくりしました。巨大な人型が、あたし達を見下ろしていたのです。 「飛翔呪文(トベルーラ)。」 あたし達はいつの間にか喜緑さんに掴まれ、目の前に広がる瓦礫の荒野に移動していました。さっきまで立っていたと思われる辺りには、巨大な人型の足と土煙が見えました。移動が遅れていたら、踏み潰されるところだったんですね。 「これは……《神人》のような……」 「……ラスボス?」 古泉くんとキョンくんの呟きです。 「もう周囲から射撃を受けることはありません。あとはただ、打ち倒すのみです。」 『ガンガンいこうぜ』なんですよね、喜緑さん。もう細かいことは後回しにします。今はただ…… 「《神人》退治の腕は伊達じゃないところをお見せしますよ。」 古泉くんは再び赤い光球に。 「やれやれ……早いとこ終わらせようや。」 【やれやれ……早いとこ終わらせようぜ。】 キョンくんは端末を変形させ。 「クーデターは失敗に終わるものですよ。」 喜緑さんは静かに弓を持ち。 「未来人が過去で命を落とすことは……最大の禁則事項ですっ!」 あたしは拳を固め。 「※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※」 人型が咆哮を上げて腕らしきものを振り上げ。 「Ready...」 皆がお互いに目配せし。 「Fight!!」 次の戦いが始まりました。 「シャープシューティング。」 喜緑さんの放った最初の矢は、不気味な音を立てます。鏑矢(かぶらや)って言うんでしたっけ。開戦を告げる合図です。 「ダブルストレイフィング。」 その後はひたすら二本ずつ矢を放っています。 キョンくんの端末は、今度は…… 「89式5.56mm小銃の形態を模した状態です。」 89式5.56mm小銃というのは、えっと……この時間平面におけるこの『日本』という国の軍隊、当時は軍隊とは呼んでいないんですけど、単に名前が軍隊じゃないだけの、れっきとした正規軍において制式採用されていた武器で、その他には警察の特殊急襲部隊や、海上保安庁の特殊警備隊に系列の銃が配備されていた、と史料にはあります。アサルトライフル(突撃銃)、って言うそうです。 その銃の三点制限点射で、正確に弾を当てていくキョンくん。あたしもライフルダートをガンガン撃ち込みます。今までの敵と違って、最初から姿が見えているので、最初から全力攻撃です。 地上からあたしたちが攻撃しているうちに古泉くんは上空に舞い上がり、人型の周囲を不規則に飛び回って翻弄します。……あの振り回されてる腕、危険だなぁ。 「腕を切り落としますっ! 古泉くん、合わせてくださぁい!」 あたしは叫ぶと、長門さん曰く『超振動性分子カッター』を人型の腕に巻き付けます。……さすがに硬いです。でもそこに、古泉くんが正確に合わせてくれました。 太くて長い腕が肩口から切り落とされました。切り落とされた腕は、落ちるそばから空気に溶けてしまいます。でも、次の瞬間には、 「なっ!? 腕が再生しよった!?」 【なっ!? 腕が再生しやがった!?】 キョンくんの驚愕した声。腕が元通りの形に、一瞬で再生されました。 上空で旋回しながら、古泉くんが言いました。 「これはこれは……《神人》には再生能力はありませんでしたから、これは僕にとっては未知の領域ですね。」 古泉くんはこんな状況でも落ち着いています。一体どれだけの修羅場を潜ったら、あんな境地に達するんでしょうか。 「さすがにほぼ最終段階ですから、一筋縄では行かないようです。一定以上の損害を受けると、修復されるようですね。」 それじゃあ、いずれは疲れ果てたあたし達が倒されるハメに……喜緑さん、どうすれば良いんですか。 「攻撃を一箇所に集めましょう。瞬間的にでも相手の再生能力を上回る損害を与えれば、わたしが再生阻害因子を埋め込めますから。」 その再生阻害因子を埋め込めば相手の再生は止まり、 「ダメージが溜まり続ける状態になる、と。」 「そうすれば、後はひたすら攻撃を撃ち込めば、倒せるってことやな。」 【そうすれば、後はひたすら攻撃を撃ち込めば、倒せるってことだな。】 「そういうことです。」 作戦は決まりました。後は実行するだけです。 キョンくんの端末がロケットランチャーに変形しました。 古泉くんは、しゃがみ込み……クラウチングスタートの構え。準備は整いました。 「竜破斬(ドラグスレイヴ)。」 「みくるビーム Ver.Max!」 二発の攻撃が撃ち込まれ、人型の胸に風穴が開きました。しかしすぐに再生が始まります。そこへキョンくんの撃った攻撃が直撃。穴が塞がろうとするのを食い止めます。 「突貫~! ふんもっふ!!」 そしてその穴をこじ開けるように、古泉くんが光球になって突っ込み、貫通しました。 「死の呪文(ザラキ)。」 再生阻害因子をそう解釈しますか。確かに、今の状況には合ってるかもしれませんけど。しかし、本当に某漫画が好きなんですね、喜緑さん…… そして再生が止ま……いえ、止まってません! やっぱりダメなんですかー!? 「いいえ、攻撃は効いています。作戦の変更はありません。続行します。」 確かに、言われてみれば再生したとはいえ、傷跡が残ってます。 「動きを封じて肉弾戦に持ち込むのが、一番確実なようです。」 動きを封じるということは…… 「脚を使えなくするというわけですね。」 古泉くんはそう言うと、今度は空中で動き回り、人型の視線を上に引き付けます。時折指らしき部分を切り落として、再生に掛かりっきりにさせています。上手いなぁ。 「足の付け根辺りを狙います。わたしは右、朝比奈さんは左をお願いします。」 喜緑さんは体の両側に開いた両手に色違いの光球を作っています。この色は……喜緑さんの意図を察知したあたしは、使用する兵器を選定します。 「げ……俺が真ん中ですか……男として生理的に嫌やなあ……」 【げ……俺が真ん中ですか……男として生理的に嫌だなあ……】 生理的に? 足の付け根の辺りで真ん中っていったら……あ、そうか、『人型』だから……!? 「ちょっと、キョンくん! お、女の子の前で変なこと言わないでくださいっ!」 思わず赤面しちゃいました。ダメダメ、集中しなくちゃ! やれやれと言った感じでキョンくんが照準を合わせ、引き金を引きました。 「食らえ、金的!」 喜緑さんの攻撃がそれに続きます。 「極大消滅呪文(メドローア)。」 その攻撃にあたしが合わせます。 「マイクロブラックホール、行きます!」 三つの攻撃を受け、上半身と下半身が分離しました。分離した下半身部分を、すかさず古泉くんが切り刻みます。 「氷系呪文(マヒャド)。」 切り刻まれ、喜緑さんの呪文で氷結した下半身部分は、古泉くんの突貫を受けて砕け散り、そのまま風に溶けて二度と再生することはありませんでした。 あたし達の、とても素人とは思えない息の合った攻撃(多分、喜緑さんの補助のおかげ)で、ついに敵の動きを封じることができました。上半身だけになった人型は、もうそんなに大きくもありません。 「さあ、朝比奈さん。思う存分暴れてくださいな。」 「ふえっ!?」 「あなたは近接格闘の方が得意そうですからね。」 それはあくまで護身用で、っていうかそれは禁則事項であって…… 「鎧化(アムド)。」 あたしの反論を意に介さず、喜緑さんはあたしに情報操作。あたしの身体は、見る間に装甲に包まれます。えっと、チャイナドレス風の服に、胸や肩、間接部分等にプロテクターが付いた、そう、コスプレ用衣装みたいな。 ちなみに、某漫画の某キャラのように、パンツ丸見えです。これって、見えても良いパンツなんですよね? そうですよね!? 「わたしも援護しますよ。」 そう言ってあたしにナックルダスターを投げて遣すと、喜緑さんは鞭を取り出しました。 「俺も、やっぱり突撃するんですか……」 見ると、キョンくんの端末は釘がいっぱい刺さったバットになっていました。 「……銃剣とか、せめて木刀や鉄パイプにはできんかったんですか?」 【……銃剣とか、せめて木刀や鉄パイプにはできなかったんですか?】 あんまり変わらないと思うんですけど。 「あっ、喜緑さん、俺の装甲を特攻服にせんでええですからね!」 【あっ、喜緑さん、俺の装甲を特攻服にしなくて良いですからね!】 ……喜緑さん、何でそんな残念そうな顔してるんですか。 「…………」 喜緑さんは長門さんばりの三点リーダの後、キョンくんにも装甲を施しました。無難に、ローラースケート用のプロテクターです。何だか、喜緑さんはちょっと不服そうです。 「……漢(おとこ)の突撃には、特服(とっぷく)が正装ではなかったのでしょうか……?」 喜緑さん、それ、多分『おとこ』の字が違ってます。背中に『夜露四苦(よろしく)』とか書いてある服を着るシーンは、漫……もとい、『資料』で見たことはありますけど、キョンくんにはあんまり似合わないと思います。 「物理的にジゴクに落ちるよぉぉぉぉ!!」 キョンくんの攻撃! 会心の一撃! 人型に100のダメージを与えた!! 現実逃避してる場合じゃないですね。大上段から振り下ろしたキョンくんの釘バットが唸ります。 続いて、古泉くんの攻撃。単に体当たりしてるんじゃなくて、手から伸びた棒状の光で斬っているようです。 そしてあたしの攻撃……って、どうすれば!? 「言ったはずです。あなたの格闘能力と連携できるように、制御方法を追加したと。」 言われて、あたしは意識の攻撃系統を組み替えました。何だか力がみなぎってくる感じです。人型のそばに駆け寄りました。この格好からして、素手での攻撃なんでしょうね。 えっと……右、ですか? 「いいえ。」 ひ……左? 「いいえ。」 り、両方ですかあああ? 「はい。」 もしかして、もしかして……オラオラですかーっ!? 「やれば分かります。」 右、左と連続して突くと、体の各部が、エコノミーラインをなぞって動くのが分かりました。 「あたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた!」 こっちですかあああああ!! あたしは某一子相伝の暗殺拳伝承者の如く、ものすごい勢いで人型を殴っています。 「あたぁっ!」 肘で。 「あとうっ!」 脚で。 「おあたっ!」 拳で。 「あたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた!」 両手で。 あたしは、快調に敵を粉砕していきます。……どうか、明日以降キョンくんがあたしを見る目が変わるというようなことがありませんように。 「準備ができました。これで終わりにしましょう。」 さっきから鞭を振るいながら、ひたすらコードを展開していた喜緑さんが、通常言語を発しました。 「皆さん、わたしの後ろに退避してください。」 今度は一体どんな大技を繰り出すのやら……でも、少しだけ、次はどんな技が来るのかと楽しみにしてる自分を発見しちゃいました。 喜緑さんをよく観察します。これから起こることを見逃さないために。 直立不動のまま、目を開けて、胸のところで静かに合掌しています。滑らかに両手を広げました。それと同時に、凄まじい威圧感……闘気が全身から立ち上ります。 広げた両手を頭上に高く掲げ、手を組みます。その両手に闘気が収束していきます。掌底部をくっつけたまま指側を開き……その形がまるで物語に出てくる竜のように見えます。 喜緑さん……やっぱり『アレ』を使うんですね。あなたの元ネタの傾向から言って。組んだ両手を力強く前に突き出して、 『竜闘気砲呪文(ドルオーラ)(!)』 あたしも唱和しました。だって、分かっちゃったんですから。 ふわぁぁ……実際に見ると派手ですねぇぇぇ…… 「朝比奈さん。『重ね当て』行きますよ。」 「ひゃいっ!?」 あああ、喜緑さん! あんまり人の頭の中いじらないでくださいぃぃ! あたしの中で攻撃系統が喜緑さんの手によって、強制的に組み替えられました。これって……あたしの目の前に巨大な赤紫の光る円形の模様、そう、『魔法陣』が現れます。 そしてそこに集中していく高エネルギー反応。光球ができてどんどん膨れ上がります。 喜緑さん! 漫画だけじゃなくて、深夜アニメにも手を出してたんですか!? これが深夜アニメだって分かるあたしも、あんまり人のこと言えませんけどっ! 色々な所からエネルギーをかき集めるように成長する、目の前の光球。 やっぱり……撃つんですね。ええ、撃ちますよ。撃ちますとも。『人間兵器』の名に賭けて……くすん。 『Starlight Breaker!』 喜緑さんの竜闘気砲呪文(ドルオーラ)に負けない、信じられないようなエネルギーの奔流が、人型に襲い掛かります。 『あなたのストレス解消にもなりましたね。』 わっ、わっ、それは禁則事項……って、これは直接通信? 通信ができるっていうことは、つまり。 やがてエネルギーの奔流が止むと、後には何もない空間が広がっていました。 「これで……終わったんですね、戦いが。そうですね? 喜緑さん。」 古泉くんが地に降り立ち言いました。喜緑さんは肯定しました。 「はい、終わりました。間もなく空間封鎖が解除され、通常空間へ復帰すると思われます。」 「ふー、やれやれ。」 キョンくんは、心底くたびれた、という表情でいつもの溜め息です。 キョンくんの端末と装甲、あたしのナックルダスターと装甲が、煌めく砂になって空気に溶けていきます。喜緑さんは、いつの間にか弓も鞭も、どこかへ直して(仕舞って)いました。 ところで喜緑さん。使い終わったから装甲が消えていったんだと思いますけど、何であたしの装甲は、プロテクターは消えたのにコスプレ衣装みたいな服装はそのままなんでしょうか? 「その答えは……」 喜緑さんは、言わずとも分かるだろうとでも言いたげな瞳で、 「……元町。」 はうっ!? なぜそれを!? この間、この時間平面でできたお友達の鶴屋さんと一緒に、神戸・元町の中華街へ遊びに行ったんです。その時に見た、売り子のお姉さんの衣装が可愛くて……確かに、その時、ちょっと、着てみたいな、とは思いましたけど。 「人間の言葉で言うと、似合ってますよ。」 あ、えっと、その……あ、ありがとうございます…… 何でだろう。 男の人にそう言われてドキドキするのなら分かるんですけど、人間ではないにしても、見た目は女の子である喜緑さんにそう言われて、それこそキョンくんにそう言われるよりもドキドキしてるなんて。 ここで、ちょっと実験。もし同じことを鶴屋さんに言われたとしたら? あたしは心の中で、いつも元気いっぱいの、鶴屋さんの言動を想像してみました。 『いっやー、みくる、めがっさ似合っとるっさー! 男と一緒に、あたしまで悩殺する気ぃにょろ?』 【いっやー、みくる、めがっさ似合ってるっさー! 男と一緒に、あたしまで悩殺する気にょろ?】 鶴屋さん、ウィンク。 はい、あたしノックアウト。 ………… 「おや、どうしましたか、朝比奈さん。そんなに落ち込んで。」 古泉くんが声を掛けてくれます。ごめんなさい。ちょっと、あたしの性癖について、本気で悩み始めてます…… 「何にしても、無事に戦闘が終結して、何よりですよ。」 そう言って笑う古泉くんに、キョンくんがしみじみと言いました。 「それがお前の素の言葉なんやな。」 【それがお前の素の言葉なんだな。】 古泉くんは、一瞬『しまった』という顔をした後、すぐにいつものスマイルに戻りました。冷や汗をかきながら。 「……あんさんが何を言いたいのかさっぱり分かりまへんなあ。」 【……あなたが何を言いたいのかさっぱり分かりませんね。】 「戻すな戻すな、バレバレやって。」 【戻すな戻すな、バレバレだって。】 即座にキョンくんのツッコミが入りました。 あ、そうか、これだったんだ。この戦いが始まったとき、あたしが古泉くんに感じていた違和感の正体は。話し方が変わっていたんですね。 「…………」 古泉くんは長門さん並に沈黙した後、頭を掻きながら言いました。 「いやはや。ばれてしまっては仕方がありませんね。」 「最初からバレとぉって。そんな不自然な喋り方する奴おらへんわ。」 【最初からバレてるって。そんな不自然な喋り方する奴いねえよ。】 「これも『謎の転校生』を演出する一環だったんですがね。」 「演出過剰やろ、あれは……」 【演出過剰だろ、あれは……】 「そうなんですか? お察しの通り、僕はこの土地の出身ではありません。だから、方言の違いは余りよく分かりませんでしたもので。」 「まあ、せやろな。色々と誤解された物(もん)の影響を受けた喋りやったし。」 【まあ、そうだろうな。色々と誤解された物の影響を受けた喋り方だったし。】 古泉くんは苦笑を浮かべながら、 「それでしたら、もっと早く指摘していただければよかったのに。」 「それはアレや、お前が明らかにツッコミ待ちやったから、ツッコんだら負けや思(おも)て、誰もツッコまへんかっただけやで、きっと。」 【それは、お前が明らかにツッコミ待ちだったから、ツッコんだら負けだと思って、誰もツッコまなかっただけだぜ、きっと。】 古泉くんは、やれやれと肩をすくめました。 ……あたしの言葉はどうなんだろう? 同じ国の言葉とはいえ、こんな昔の言葉……『古語』は、あたしにとってはほとんど外国語も同然ですから。 よく用法を間違えるし、発音も怪しいし。舌っ足らずで、いつもおろおろあたふたしてるってよく言われます。 ちなみに、これまでの調査結果によれば、この使用する言葉の違いによる会話の齟齬が、涼宮さんにとっては『萌え要素』と認識されているようです(って、これも禁則事項ですよね……長門さん、ここ、まずかったらカットしといてください。)。 【長門有希・注】 原文をそのまま使用した。 やがて、空に亀裂が走り、ステンドグラスが割れ落ちるように、空間封鎖が解除されました。空の残骸が街の廃墟に崩れ落ち、落下地点が通常空間の町並みに戻っていくという、普通とは逆と言うのか、何とも不思議な光景が見えました。壮観です。 「空間封鎖の解除、通常空間への復帰を確認。」 喜緑さんが、息をつきながら告げました。終わったみたいです。 でたらめで、激しい戦いでした。 喜緑さん。終わったんですから、また兵器の中和を…… 「そうですね。では、行きます。」 喜緑さんは、またあたしの顔を固定すると、だんだん顔を近づけてきて……首に腕を回して固定してるので、何だか情熱的な印象を受けるのは気のせいですよね、きっと。 喜緑さんの顔が耳に近付い「ふうっ」 「あひぃん!?」 な、何なんですかー!? 何で、み、み、耳に息を吹きかけるんですかー!? 「ひくっ!?」 は、鼻!? 鼻に噛み付き!? 「耳にするつもりだったんですが、何となく面白そうだったので、ちょっと戯れてみただけです。」 あたしは腰が抜けて、その場に尻餅をついちゃいました。 「それでは、長門さん達と合流しましょう。場所は文芸部室です。」 「……また、あの長い坂を上るんですか……ちょっと休憩さしてくれませんか?」 【……また、あの長い坂を上るんですか……ちょっと休憩させてくれませんか?】 キョンくんが心底疲れた声で言いました。喜緑さんは辺りを見回すと、 「大丈夫です。楽に移動しますから。一箇所に固まって、わたしに触れてください。」 古泉くんはいつもの顔で、キョンくんは怪訝そうな顔で、集まってきて喜緑さんの肩に手を置きました。へたり込んでるあたしの手を掴むと、喜緑さんは言いました。 「瞬間移動呪文(ルーラ)。」 ……ほんと、某漫画好きなんですね…… あたし達の身体は空高く舞い上がり、高速飛行して、あっという間に北高の屋上に着地しました。そこからは、歩いて部室まで移動します。三人の待つ、文芸部室へ。 余談ですけど、飛行中、喜緑さんのスカートの中がちらちら見えて……目のやり場に困りました。 え、どんなのだったかって? えと、この時間平面での言葉で言うと、その……グレーの、ハイレグ、Tバックでした。結構大胆ですよね……形の良いお尻が露に。 あ、思い出してたら、鼻血が……はうう。 長門さんへ 取り急ぎまとめました。 こういう形での報告は初めてなので勝手が分かりませんでしたが、こんな形で良いでしょうか? あたしの頭の中で考えていることをそのまま記録したものなので、読みにくい点は許してください。 ただ、そういうお願いだったので、あえてほとんど削除せずにそのまま書き出してますが、かなり恥ずかしいです。できれば適宜修正を加えてほしいんですけど。 以上、よろしくお願いします。 【長門有希・注】 人間の思考把握の一環として、立場の違う人間の視点からの報告を行うため、未来からの監視員である、朝比奈みくるに協力を要請した。最初は渋っていたが、何度かの交渉の末、協力を取り付けることに成功した。 涼宮ハルヒに関する直接的な観測記録及び考察は、全面的に禁則事項となるため開示は不可能とのことだったが、それ以外については『属人的な関係』をもって、『こっそり』見せてもらう事ができた。 そこで、ちょうどわたしの記録が欠落している部分の補完を行うべく、先の戦闘についての報告を依頼した。 喜緑江美里によるインターフェイスとしての報告とはまた違った、『人間』の視点で語られる貴重な情報であると思料される。 なお、最後の部分は人間の言葉で言う『私信』に相当する部分であるが、朝比奈みくるの思考そのままの情報と、外部に出すために整理された情報とで、内容の違いが際立っていたので、人間の思考の理解に資するため、原文をそのまま報告した。 ←Report.17|目次|Report.19→
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip2/pages/1221.html
それはゴールデンウィークも明けた五月半ばのことだった。 読書以外の趣味もなく本を読むのが日課だったわたしは日曜日、遅い昼食を終えてから新しい本を探そうと市内にある図書館に初めて足を運んだのだった。 館内は本を読むのに適した明るさの照明で照らされており、平日なのにも関わらず多くの人で賑わっている。と言っても図書館なので騒いでいるような人はいない。 人の多いところはあまり好きではないが、ここはそれぞれが自分の空間を持てるためわたしも落ち着いて読書ができそうだった。そもそも、図書館とはそういうものなのだが。 書棚から適当な本を取り出しては開いて目ぼしいものを何冊か見つけると、わたしは本の重さに少しよろけながらも近場にあったテーブルに本を慎重に置き、息を一つついてから椅子に腰を落ち着けた。 今わたしがいるテーブルには他の誰も座っていない。わざわざそういう場所を選んだ。近くに人がいると落ち着かないから。 何となく辺りを見回して改めて図書館の静けさを味わってから、わたしは本の表紙をめくった。 それは高校生から大学生に至る二人の男女が織り成す恋愛小説。 SFでもミステリでもファンタジーでもない、ごく普通の世界の物語だったが、透明感のある作風にわたしは自然と惹かれていった。 四分の一ほどまで読み進めた辺りでわたしははっと顔を上げ時計を探した。もうそろそろ閉館時間になろうとしている。 時間を忘れて読書に没頭していたらしい。悪い癖だ。 続きは帰ってから読もう。そう思い本を借りるためにカウンターへと向かったわたしはそこではたと気が付いた。 本を借りるためには貸し出しカードを作ればいいのだろう。でもどうやって作ればいいのだろうか? 職員に聞こうとしたが数少ない職員たちは皆忙しそうにしている。今話しかけても迷惑になるかもしれない。 閉館時間は刻々と迫ってきている。今日借りられなかったらまた来週来なければいけない。 焦りだけが募り、わたしはただいたずらにカウンターの前でおろおろとするばかりで、 「何してんだ?」 突然背後からかけられた声に思わず小さく飛び上がり恐る恐る後ろを振り向くと、そこにはわたしと同年代くらいのラフな格好をした少年が怪訝そうな面持ちで立っていた。 「お前、北高の生徒だろ? さっきからうろうろしてるみたいだけど、どうした?」 大人びているとは言えない容姿ながらどこか達観した物の見方をしていそうなその少年は、わたしに対して気負いするふうもなく言った。 何故この人はわたしが北高の生徒であると知っているのだろう。 「ああ、いや。俺もそこの生徒だからさ。その格好を見てな」 わたしが不思議そうな顔をしていたのを察してか、彼はわたしが訪ねる前に弁解すると、 「でも休みに制服着てるなんて珍しいな。いや、それはいいんだが、どうしたんだ?」 多分、わたしの様子を見かねて声をかけてきたのだろう。 人と話すのは得意ではなかったがわたしは意を決して、 「……その……本を、借りようと、思って……」 蚊の鳴くような声が途切れ途切れに出てきた。いつも感じていることだが、口下手な自分が少し嫌になる。 「もしかして、借り方が分からないのか?」 わたしは頷いて、何とか言葉を紡ぐ。 「図書カードの作り方が……」 「職員に聞けばいいじゃないか」 彼が首を動かしてカウンターに目をやる。 それは分かっているのだけれど、どうしても声がかけられなかったのだ。 わたしの訴えるような視線を感じたのか彼は少し困ったような顔をしてから納得したように、 「あ? あー……そうか。何となく話すの苦手そうだしな」 わたしに背を向けてカウンターまで歩いていき、手に持っていた本をカウンターの上へ置いて職員を呼び止めた。 「すいません、これ返したいんですけどいいですか? それから――」 「ほら、これ」 一仕事終えた後のような表情の彼に手渡されたのは、手続きをするのに使ったわたしの生徒手帳と、わたしが借りようとしていた本。それから、図書カード。 「しかし休日も制服の上に生徒手帳も持ってるなんて真面目だな。いや、別に嫌味ってわけじゃないんだが」 そう言って苦笑する彼からは、確かに嫌味のようなものは感じられなかった。 それよりもわたしは彼に対する感謝と彼の手を煩わせてしまったことに対する申し訳ない気持ちで頭がいっぱいでそんなことを考える余裕もなかった。 制服を着ていてよかった。もしも着ていなかったら彼は声をかけてくれなかったかもしれない。 「それじゃ、俺は用事も終わったから帰るけど、お前も気をつけてな。もう遅いし」 そう言うと彼はひらひらと手を振って出口に向かって歩き出した。 「待って」 わたしは慌てて遠ざかる彼の背中に声をかけた。少し声が裏返ってしまった。 彼が不思議そうな顔で振り向く。 「あの――」 彼がいなかったらこの先わたしはこの図書館で本を借りることができなかったかもしれない。だから―― 「――ありがとう」 あれから半年、彼とは顔を合わせていない。 あの時彼の言っていたことは本当で、校内で彼の姿を見かけたことは何度かあった。 声をかけようと思ったこともあった。だけど、そんな勇気をわたしが持ち合わせているはずもなく、ただいたずらに時間が過ぎていってしまった。 まるであの図書館の時と同じように。 彼に近付きたかった。彼と話がしたかった。 何故だろう。たった一度、図書館で親切にされただけなのに。 彼のことを考えると胸が苦しくなって、その理由が分からないことが辛かった。 ……いや、本当は分かっていた。 分かっていたから、わたしは精一杯の勇気を振り絞って行動に出た。 彼が一年五組の生徒であることを知ったわたしは、同じクラスにいるわたしによくしてくれる女子に頼んで、放課後、文芸部に来てくれるように頼んだ。 帰宅部であるらしい彼を、文芸部に誘う為に。 ……我ながら回りくどい。 幸いにも彼は図書館でのことを覚えていてくれた。だったら、わたしの言うことは一つだ。 あの日、あの時、あなたに出会ってから―― 「わたしは、あなたのことが――」 目を開けると、白い天井が見えた。 やけに体が重い。規則的に聞こえる不可解な電子音が耳にうるさく響く。 ふと自分の体を見るとわたしの腕には何本ものコードのようなものが繋がれていて、その一つを辿るとそこにはブラウン管に波を打つ線とそっけない文字列を映し出す機器があった。 ――それは紛れもなく心電図だった。 気が付けばわたしの口と鼻には人口呼吸器が取り付けられており、わたしはそれのおかげでかろうじて呼吸ができているという状態だった。 首を動かして反対側を見るとそこには白い簡素なテーブルがあって、その上に一冊の本が置かれていた。 それは、あのとき図書館で読んだ――はず――の、ごく普通の世界で二人の男女が織り成す恋愛小説だった。 そこでようやくわたしは思い出した。 ここは病院で、わたしはこの病院の入院患者なのだということを。 そして、わたしは悟った。 彼との思い出が、全て夢だったということを。 目の端から、熱いものが零れ落ちた。 それは、水よりももっとずっと寂しい粒。 わたしは目を閉じる。 夢の続きを見る為に。 そしてわたしは、深い眠りに落ちていく。 例えこの身が朽ち果てようとも―― わたしは、わたしの夢の中で生き続ける―― 「…………」 この三点リーダは長門と俺の分だ。 ハルヒのやつが機関誌第二段を作るとか言いやがったので俺たちは再び作文に四苦八苦するハメになったのだが、今回恋愛小説のクジを引き当てたのがこともあろうに長門で、ハルヒは嬉々として長門の恋愛小説を待ち望んでいるらしいのだが完全に煮詰まっていた俺も長門の恋愛小説に興味がないわけはなく、意外にも早々に完成したらしいそれを気晴らしに読んでみたい旨を告げたところこれまた意外にも長門はあっさりと快諾してくれたので読ませてもらったわけなのだが、正直言って俺はどう言ったものか悩んでいた。 もしかすると、幻想ホラーってのはこういうもののことを言うんじゃないのか? 何となく長門が何か感情みたいなものをその無表情の中に浮かべていないものかと思って、コピー用紙から目を離して長門の顔を見てみたもののそこにあったのはいつもどおりの果てしない無表情で、 「どう」 甚だ短い疑問詞が疑問符もなしにどこまでも平坦な声で俺の耳に届けられた。 「いやあ……」 何というか、正直言って俺にはこの話に対して言うべき言葉が見当たらない。見当たったところでそれは言うべきものでもない気がする。 「そう」 やはり抑揚のない声で言った長門は別段不快そうな表情をするわけでもなく――仮にこいつが何かしらの感情を出していたのだとしても無表情なのには違いないのだが俺にはそれを読み取ることができるし、長門の表情を読み取ることに関しては誰にも劣ることはないだろうことを自負する俺が言うのだから間違いはない――くるりと俺に背を向けるといつもの定位置に座って読書を再開した。 長門は特に気にしている様子もなかったが、俺にとっては大問題だった。 他の奴が見ても少しばかり欝なだけのショート・ショートくらいにしか見えないだろうが、俺にとっては喪失した自身の記憶の断片を見せつけられたようなもんだった。もちろん実際に体験したわけではないので喪失したというのもおかしな表現だが、それでもその記憶が『俺』のものであることは間違いなく、俺はまるでもう一人の自分の記憶を追体験したような気分になっていた。 正直言って、他の誰にも読ませたくない。ハルヒがまだ読んでいなかったのは幸いだった。長門には悪いが、長門の担当する小説のジャンルを変えるようにハルヒに提言しておこう。あいつが応じるかどうかは分からんけどな。 だが、その前に確認しておかねばなるまい。 「なあ、長門」 「なに」 長門は本から目を逸らさずに応える。 「あの世界の改変のときな……、お前にはあの改変されたお前の記憶は、あるのか?」 長門はゆっくりと俺の方を見ると、 「ない」 その言葉に俺が口を開く前に長門は付け加えた。 「あのわたしはわたしであるが、意識、記憶ともに今あるわたしのものではなく、同期を取ることも不可能。よって、わたしにはあのわたしの記憶はないし、その意識を推し量ることもできない」 「それじゃあ、何で」 お前は、この話を書いた――いや、書けたんだ? 「…………」 長門はビー玉のような瞳でじっと俺を見つめた後、先ほどの動きを逆再生するように本に視線を戻して言った。 「わたしは、わたしだから」
https://w.atwiki.jp/haruhi_vip/pages/5231.html
七 章 lustration どこここ 「お二人様、そろそろ披露宴会場に到着します」 俺と長門は寝ぼけ眼をして、よだれが垂れた口元を拭きつつ起き上がった。シートがふかふかであんまり気持ちがいいので二人とも眠っていたらしい。新川さんが気を利かせて景色のいいところを通ってくれてたようなのだがあいにくと夢すら見ていない。窓の外はそろそろ暮れはじめ夕日が差していた。 「ここどこですか」 「海岸沿いのリゾートホテルです」 リムジンは超高層ホテルのロータリーに止まっていた。ドアを開けて降りると潮のにおいがする。地理的には中央図書館から十五分くらいのところにあるらしい。 俺は花嫁衣裳のままの長門の手を取って車から降ろした。制服を着たドアボーイが胸に手を当てて深々とお辞儀をして俺たちを案内してくれた。長門は裾を引きずらないようにスカートをちまっとつかみ、いそいそと歩く。 ガラス張りのエレベータで最上階まで上った。そこはレストランになっていて俺たちの名前で貸切の札が立ててあった。まわりの海が一目で見渡せるいい場所だ。休日にこんな高級ホテルのワンフロアを借り切るなんてふつーは無理だが、こりゃ古泉の手配だな。 俺たちが車の中でうたた寝していた間に客はもう集まっているらしく、入り口の受付前には人だかりができていた。メイドドレス姿の朝比奈さんが出迎えてくれた。 「キョンくん、有希さん、お待ちしてましたよ」 デジタルカメラでパシャパシャと写真を撮られ、プリンタから出来上がったばかりの写真がにゅるりと吐き出されている。 「写真ができたらウエルカムボードに貼っておきますね」 そのウエルカムボードとやらは読んで字のごとく披露宴の看板のようなもので、畳二枚分はありそうなパネルに二人の等身大イラストが描いてあった。二人だけじゃなくてハルヒも朝比奈さんもなぜか古泉も描いてあるんだが、昔自主制作映画のときに作ったでかいポスターに似てるな。その上に朝比奈さんが撮ったらしい招待客の写真がペタペタとピンで刺してあった。ボードの上には“二人の愛のステージ造りはお任せを!── 株式会社SOS団ブライダル事業部”とでかでかと書かれている。商魂たくましすぎるぞヲイ。 「みなさん、お二人が到着なさいましたよ」 朝比奈さんがファンファーレのようにさえずると拍手が沸いた。受付のテーブルからブライドメイドの喜緑さんがやってきて俺と長門の手を取った。 「さあ急いで、涼宮さんがお待ちですわ」 当然ながらリハーサルもなくハルヒからは披露宴のプログラムも知らされていないんだが、いったいなにをさせられるんだろうね。 「おっそいじゃないのよキョン!」 「いやあスマンスマン、車の中でうたた寝してたんだ」 控え室に入るなりネクタイを引っ張られてゴムがびょーんと伸びた。残念だったな、これは長門にプレゼントされたインスタントネクタイなんだよ。 「キョン、有希、さっそく着替えてもらうわよ」 また着せ替え人形ごっこがはじまったな。ハルヒが用意してきた衣装とやらは黒一色の……、なにこれ紋付ハカマ? 「江戸時代じゃあるまいしこんなん着ろってのか」 「文句言わないの。日本では古来よりこれが正装なんだから」 いやまあ正装なのは分かるが、背中にあるマークがうちの家紋と違うのはなんでだ。いや待て、俺がこれなら長門はどうなるんだ。 「先に有希の着付けやってるから、あんたはそっちで着替えなさい」 「俺ハカマの着方とか知らんぞ」 「いいから適当にやんなさい。後で手伝うから」 しぶしぶ間仕切りカーテンの向こうに隠れてモーニングを脱いだのだが、帯のセットの中に妙な布切れが混ざっているのに気がついた。そのブツがなんなのか理解した俺は顔を赤くして、 「おいハルヒ、お前俺にフンドシを締めろってのか」 「あったりまえでしょ、日本男児がフンドシを締められなくてどうすんのよ」 いや、日本とか国籍とかそういう問題じゃ。 「コスプレは見えないところが肝心なのよ。なんなら古泉くん呼ぼうか?着付けくらいやれると思うけど」 それだけはやめてくれ、俺ひとりでなんとかする。古泉にフンドシの締め方を教わるなんざ日本が鎖国してブリーフとトランクス禁止令が出てもやなこった。 相撲取りが巻いているマワシみたいな六尺とは違って、一反木綿に紐がついたような越中フンドシらしいのだが、へそのところで結んで後ろに垂れた布を前に回して垂らすだけの簡単なものだった。よく見りゃフンドシが入っていた袋にイラスト入りで締め方を書いてある。腰紐をキリリと締め上げると、うむ、なんとなく気持ちまで引き締まった気がするぞ。 日本の古式ゆかしい下着と白足袋まではいいんだがその先はちょっと無理難題だった。 「おーいハルヒ、これどうやって着るんだ」 カーテンの向こう側で長門が着替えてるらしいので覗くわけにはいかんのだが、肌襦袢だか長襦袢だか麻布十番だか知らんが着る順番すら分からない。 「ったくもう、あんたそれでも日本男児なの!?」 「んなこと言ったって百年も前の衣装を俺に自分で着ろってほうが無理だぞ」 「百年じゃないわよ、戦後しばらくまで和服のほうが多かったんだから」 お前はいつの生まれだと突っ込もうとしたのだが、ハルヒは電話をかけて鶴屋さんを呼び出しているようだった。俺たちの知り合いで着付けができるとしたら鶴屋さんくらいなもんか。 ドアが開いてメイド姿の鶴屋さんが飛び込んできた。 「はいよー、着付けインストラクターの登場だよ」 「受付が忙しいのにごめんね鶴ちゃん、キョンがどうしてもひとりで着られないって」 「いいっさぁ、あたしにお任せ」 俺はフンドシ姿を見られそうになって衝立の陰に隠れた。 「さあさあ、恥ずかしがってないでさっさと済ませるよ」 「あ、あの鶴屋さん、俺今パン……フンドシ一丁なんですが」 「心配御無用、そんなもんは見慣れてるさあ」 見慣れてるって言われても俺にも羞恥心というものが。っていうか鶴屋さん、なぜにあなたは男の着付けをご存知なのでしょう。 「は、はあ。お手柔らかにお願いします」 「なかなかいいお尻してるじゃないかね、キョンくん」 鶴屋さんに俺の青っ白い尻をぺしっと叩かれるとなぜか気も心も尻も引き締まった。 シャツの代わりに肌襦袢とやらを着てその上に長襦袢を着る。やや暑苦しい気はするんだが、着物を汚さないための古代人の知恵だそうだ。その上から本当の着物である長着を着る。 普通の和服の場合はこのまま帯を締めるんだが、ハカマを履くときは長着の後ろを上げて腰の紐に挟んで止めておく。これをしないと刀を振り回して走れないからな。時代劇でチャンバラをやる侍を見たことがあると思うが、あれはハカマだからできるんであって普通の着物だと裾が足にまとわりついてとても無理らしい。和服の女の人が小股でしか走れないのと同じだ。 そこでやっと帯を締めてギャザースカートみたいなハカマを履かせられる。前を先に止めて後ろで紐を結び、台形みたいな形の袴板を腰に当てて前で紐を結ぶ。黒の羽織を着て羽織紐を止めると、どんな男でもキリリと締まった純日本男児コスプレの出来上がり。 鏡の前で扇子をパラリと開いてみたが、日本舞踊なんか踊ってしまいそうな雰囲気だ。 「いよっ、なかなか似合うじゃないか色男」 「ありがとうございます。日本に生まれてよかったと思えることで数少ないうちのひとつですね」 「ハルにゃん、ちょっと見てみなよ。めがっさ日本男児だねぇ、どうにょろ」 「へー、馬子にも衣装とはよく言ったものね」ハルヒがカーテンを開けて顔を覗かせた。 「っておい、なんでお前まで着物なんだ。さっきまで神父コスプレだっただろ」 「媒酌人が神父コスなんてネタでしかないでしょ」 忘れていたが、そうだったな。披露宴の席では俺と長門、その両脇に古泉とハルヒが座ることになるわけだ。 「そろそろ時間ね。さあ、お披露目に行くわよ」 「せめて長門とご対面させてくれ」 「ふふっ、見て驚くな」 ガラガラと重いカーテンを開けて現れた長門の姿は、なんというかこう……。 「スマン、眩しくて見えない」 「しっかり目んたまを開いて鑑賞しなさい」 その白無垢に包まれた長門の姿を見て、俺と鶴屋さんは大きくため息をついた。そのまま数秒間固まっていた。白い被り物の下に少しだけうつむいた長門の艶やかな赤い唇が見え、着物には鶴が羽ばたく柄が浮かび上がって神々しいまでに輝いている。なんだか目が潤んでくるんだが気のせいか。 「なにか言いなさいよキョン」 「なんというか……きれいだ。この世のものとは思えないくらい」 「はぁ……」 鶴屋さんはため息しか出ないようだった。 会場の入り口まで連れてこられると部長氏が待っていた。タキシードのままヘッドセットをつけ、マイクに向かってボソボソと話している。進行役でも任されたのか。 「社長、もうすぐオープニングだ」 「お役目ごくろうさん。キョンと有希は合図があるまでここで待ってなさい」 俺たちを残してハルヒと鶴屋さんはさっさと中に入った。部長氏は長門をまじまじと眺め、 「副社長、晴れ姿がとてもお美しいです」 「……ありがとう」 「俺の羽織ハカマはどうです、自分でもなかなかキマってると思うんですが」 「キミはまあ、それなりに似合ってるね」 生涯に一度なんだからそう率直過ぎるよりもっと褒めてくれてもいいんだが、まあ披露宴の主役は花嫁だからな。 「開演三分前。二人とも準備はいいかな」 「OKです」 「……いつでも」 「新郎新婦スタンバイ」 部長氏のGOサインでドアを開けて中に入ると部屋の中はカーテンが閉められ真っ暗で、唯一のスポットライトが俺たちを照らし出した。長門の衣装が白く浮かび上がった。 新郎新婦の入場です、みたいなアナウンスが流れるのかと思ったがなにもなく、ドドンドドンという腹の底から響くような音がホールに響いた。なんだありゃ和太鼓か。祭りとか踊りのリズムじゃなくて、相撲とか和風のイベントのオープニングで鳴らされるようなドンドコドンドコと鳴り響く大太鼓だった。招待客の拍手の中、俺は長門の手を取って床に敷かれた花道の上を進んだ。 ステージの前まで来ると舞台黒子のように椅子の陰に隠れた国木田が、そこで止まってと合図した。もうひとつのライトがともり、ステージの上に羽織ハカマを着た古泉が浮かび上がった。 太鼓の音がやむと古泉がパラリと扇子を開き、唸るような低い声で呪文のようななにかを唱え始めた。呪文じゃなくてええと、そうそうタカサゴだ。いつだったか長門も唱えていたような気がするが。 高砂や この浦舟に帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに出で潮の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて はや住吉に着きにけり はや住吉に着きにけり 暗闇の中に滔々と古泉の謡が流れた。あいつがマイクなしであれだけの声量を出せるとは知らなかったな。にしてもこいつの羽織ハカマ、俺が着るのとは雰囲気も風格も違うんだが同じもんのはずだよな。 謡が終わってパチリと扇子をたたみ、古泉が深々とお辞儀をすると嵐のような拍手喝采だった。歌詞の意味はいまいち分からんのだが雰囲気だけはインパクトあったな。部屋全体の照明がともると、どっから借りてきたのかステージの上に本物の大太鼓が据えてあった。留袖の着物の袂を捲り上げてタスキをかけてるが、ま、まさかハルヒが自分で叩いてたのか。 ここは本当はレストランなのだが大きめの丸テーブルをいくつも置いて客席にしていた。いちばん奥には新郎新婦と媒酌人が座る横長のテーブルがあり、客席には五人掛けくらいのテーブルがぽつぽつと間を空けて置かれている。 花で盛り付けられている新郎新婦のテーブルに案内され、古泉とハルヒに挟まれるようにして俺たち二人が座る。さっきの大太鼓と謡の印象が強かったようで招待客があれこれと感想を言い合っていた。ハルヒと古泉が椅子から立ちグラスをスプーンで叩くと静かになった。 「媒酌人といたしまして、ご挨拶申し上げます」 ハルヒはヘッドセットのマイクを使って話し始めた。着物にその姿はミスマッチすぎないか。 「この度、キョンと有希の挙式が滞りなく行われたことを大変喜ばしく思っております。わたくし涼宮ハルヒは二人が勤務する職場の上司として、この契りを見届ける機会に預かることができ歓喜の至りです」 ふつう挨拶は男のほうがやるもんだが、まあこれもハルヒ流か。それから親族とか二人の経歴なんかを軽くおさらいしていた。 「どうぞ皆様におかれましても、この新しき門出に暖かいご声援を賜わりますようよろしくお願い申し上げます。本日はご多用中のところ、ご光来賜りまことにありがとうございました」 後で聞いたのだがこの舌を噛みそうなセリフは全部アドリブだったらしい。 ステージにライトがともりこれから漫才でもやるのかという野郎がマイクを握って現れた。 「それでは、本日ベストマンの役を賜りましたわたくし谷口が乾杯の音頭をとらせていただきます!」 やたらはりきってんな谷口。場違いな白タキシードが役に立ったじゃないか。客席にシャンペンとビールと枡酒とオレンジジュースが行き渡ったところで谷口がグラスを掲げた。 「キョンに有希さん、結婚おめでとう。キョン、お前とは長い付き合いだがまさか先を越されるとは思わなかったぜ。俺の代わりに有希さんを幸せにしてやってくれい。では、ご両家のますますのご繁栄と、新婦の末永い幸せを願いまして、乾杯!」 俺は招待客に向かって深く頭を下げた。新郎が抜けてるぞヲイ。 「ちなみにわたくし谷口は、キョンと同じ歳でありながら未だ独身であります」 客席がドッと沸いた。どうでもいい宣伝してんじゃねえ。 今回はバイキング形式らしく客の丸いテーブルにはドリンク類しか並んでいない。まあ配膳の手間が省けていいだろう。客が席を立って、和洋中華の色とりどりに並んだテーブルで料理を物色している。長門はそっちが気になるようでチラチラとテーブルのほうを見ているが、花嫁は披露宴では食ったり飲んだりしないもんだから、まあ我慢してくれ。 「お召し上がりの途中かと存じますが、ここで祝電を読み上げたいと思います。えーと、おいキョン、これなんて読むんだ?」 笑いを取るのはいいんだがな、お前は素でやってんのか狙ってやってんのか、リアクションに困るぞ。 祝電と来賓の紹介で何度も名前を読み間違えた谷口からマイクを奪い、ハルヒがステージに立った。 「ここでケーキカットよ。メイドさん登場!」 ハルヒが指を鳴らすとブライドメイドの三人がキャスター付きワゴンを運んできた。レースのテーブルクロスとリボンで飾られたワゴンの上に四角いケーキが乗っている。丸いタワーのようなウエディングケーキだと思っていたが、長方形の、ちょうど百科事典を開いたような形をしたデザインだと分かって俺は笑った。なるほど、本をモチーフにしたケーキね。三つのケーキにはそれぞれチョコレートクリームで文字が書いてあって、 Let s share and write down to the page of life. To one person you may be the world. Love is to looking together in the same direction. 意味は分からんがたぶん恋愛のことわざで、ハルヒか古泉の仕込みだろう。 俺は長門の手を取って、用意された長めのナイフを一緒に握った。ご丁寧にリボンを結び付けてある。勢いよくナイフを振り上げると岡島さんのドラムがバラララと鳴った。なんというか卵とバターと小麦粉と砂糖でできた洋菓子にそこまで気合を入れるのは少し恥ずかしいというか、まあこれも女の子のロマンなのだと理解しておこう。 「みんな、全員分あるから好きなだけ切って食べてね」 追加のケーキがいくつも運ばれてきた。これ全員分あんのか。たぶん会場には辛党の人とか糖尿の人とか甘いのが食えない人も大勢いると思うぞ、ケーキ好きな女性陣に全部お持ち帰りさせてくれ。 「キョン、そこで有希に食べさせてもらいなさい。ファーストバイトよ」 「ファーストバイトって何だ?」 人生初のアルバイトでもなさそうだが。 「知らないの?奥さんから食べさせてもらう最初の一口よ」 そんな儀式があったのか。長門がケーキナイフでささっとケーキを切り取り、手づかみで俺の口に押し込んだ。うぐ、そんな雛にエサをやる親鳥みたいにしなくても。口の周りをクリームだらけにしながら客席をふり返り、うんうまいよ、という感じで無理やり笑顔を作ってみせた。 「……あなたも、して」 長門は軽く両手を合わせて、あーんという感じで口を開けている。そのまま唇に吸い付いてしまいそうな勢いなのであるが、期待されているのはケーキであって俺の唇ではない。イチゴが乗っているところを少し切ってフォークで食べさせてやった。長門がほっぺたについたクリームをしきりに指差し、 「……なめて」 と言うので、そのとおりにしてやったらニヤニヤ笑いの嵐に見舞われ、ヒューヒュー指笛を鳴らしているやつまでいた。 「さーて、お腹も膨らんだことだし、そろそろいい頃合ね」 長門の隣でケーキをもさもさと食っていたハルヒが客席の様子を見て言った。なにをやらかすんだヲイ。今日は俺たちの披露宴なんだから、少し手加減してくれよ。などと願うのはむなしいことだと分かっているのだが。 ハルヒがステージに上ると大げさにスポットライトが当たった。やおら懐から扇子を取り出し、 「さてお立会い。ここにおわす本日の主人公二人、キョンと有希がいったいどこをどう間違ってくっついてしまったのか。知りたい人は近くで聞け、知りたくない人も遠くに聞くがいい、ここが二人の馴れ初めだァお立会い」 ハルヒは扇子でペンペンとありもしない演台を叩いた。なんだそのガマの油売りみたいな始まり方は。 「時は平成、今を去ること六年前、キョンと有希は手と手を繋ぐこともできないシャイで不器用な高校生だった。この二人がくっつくなんてこたぁ、はりまや橋で坊さんがカンザシを買うのを見るくらい、まんずありえない」 はりまや橋がどこなのか知らんが、その例えはかなり無理があると思うぞ。 「そんな二人をここまでベタ惚れにしたのがっ、これ。映画史に残るミリオンセラー『新たなるロマンス Episode_00』です。この映画に出演した主人公の二人があまーいあまい雰囲気に包まれて恋に落ちてしまったのに違いないわ。では、SOS団の血と汗と涙が実を結んだ大ヒット映画の、はじまりぃはじまりぃ」 ありゃ一時間映画だろうが、延々上映すんのかよ!などと突っ込む余裕もなく会場の照明が落とされ、明かりは緑色に光る非常口のライトだけになった。俺もあの絵みたいに逃げ出したいところだ。 ハルヒがディレクションしたEpisode_00シリーズ映画の、ちょうど俺と長門が抱き合っているシーンが入っている映画だ。雑用だったはずなのに急遽キャストとして俺が引っ張り出された、セリフ棒読みのあんなこっぱずかしい映画をここで一時間も見せられるとは、多忙中にもかかわらず集まってくれたお客様に申し訳ない。 「ご心配なく、三十分に圧縮したダイジェストのようですよ」 古泉がボソリと耳元で囁いた。だよな、いくら人が集まってるからって披露宴が上映会になったりしないよな。 映画のストーリーは、なぜかは知らんが突然俺が出演している。 『ユキ、イツキのことが好きなのか』 『……好き嫌いについての質問なら、好きの部類に入る』 『やっぱりな。じゃあ俺は身を引くわ』 『……恋愛の対象としての好きではない』 『どういうことだ?』 『……彼は、わたしの兄』 『な、なんだってー!!』 タイトルからしてネタバレしてんだろと突っ込んでしまいそうな生き別れ兄妹の事実が報じられ、そのままヒシと抱き合って濃厚なキスシーンに変わった。カメラが二人を中心にしてグルグルと回り、長門の背中を支えた俺の手が震えているのが見える。 「うおぃ古泉、こんなシーンいつ撮ったんだ!」 ここは抱き合って終わったはずだが、高校でこんなん上映したら即営業停止だ、免許取り消しだ、ガサ入れだ。古泉はクックックと甘い笑い声を漏らしながら、 「ここでも歴史が一致してませんね」 俺が出てるにもかかわらず俺の記憶にない赤面しそうなシーンがいくつも流れた。歴史が歪んだ原因は俺にあるわけでしょうがないっちゃしょうがないんだが、俺が長門にここまでベタ惚れしてたとは思いもしなかった。せめて上映前に検閲くらいしてくれ。 やたらめったら展開の激しい三十分間の映像が流れた挙句、ジャジャーンと仰々しくシンバルが鳴り響いて圧縮された本編が終わった。なんだか分からん拍手の嵐に見舞われつつ天井の明かりがともり、 「お楽しみいただけましたでしょうか。なお、この映画の本編DVDは本日ご出席の皆様にお持ち帰りいただけます!」 まさか売りつけるつもりじゃあるまいな。百人は来てるはずだから一枚千円としてもええっと十万の利益か。などとどうでもいい皮算用をしている俺だったが、引き出物といっしょに配るらしい。客のほうはダイジェストに踊らされて期待しているようで拍手していた。シリーズ最終話だけ見ても話の流れが分からないだろうに。ってあれ、つまりこれを見たやつは朝比奈ミクルの冒険と長門ユキの逆襲の話が気になるわけか。これも営業か、商魂たくましいぞハルヒ。 再び谷口がステージに上がり、 「それではご親族様、ご友人、同僚などの各代表の方に軽くスピーチをお願いしたいと思いますが、まずはキョンのおとうさ……え?飛び入り?」 谷口がヘッドホンを耳に当ててぼそぼそ言っていた。 「ご紹介します。トップバッターは、SOS団のお得意様です」 お得意様って誰だろ、鶴屋さんの関係者かな。などと思いながら見ていると、ステージに向かってのたのたと歩いてくるやつはこれまた奇妙ないでたちで、赤地に白く丸いまだら模様でミッキーマウスが履いているような五十センチはありそうなやたらでかい靴を履きペタペタと音をさせながらやってくる。 ライトに照らされたそいつの顔は真っ白にメイクされ口の周りが赤く塗られていた。トナカイ並みに真っ赤な丸い鼻がちょこんと乗っている。ぶかぶかの衣装を揺らしながらステージの段の前でつるりと滑って派手に転び、客席からドッと笑い声が沸いた。 マイクスタンドの前で照れ笑いをしながら白い手袋でモシャモシャの頭をかいた。道化師なんか呼んだ覚えはないんだが、いったい誰だこいつ? ピエロのかっこうをしたそいつは手品のようにして何もない空中から風船を取り出し、ぷぅと膨らませてきゅきゅっとひねってプードルの形を作った。それを椅子にちょこんと座っている国木田の娘に渡したが、うまいもんじゃないか。ああ、たぶん古泉が呼んだプロの大道芸人だろう。 そいつはマイクを握って口をぱくぱくやりながらスイッチが入っていないよというパントマイムをした挙句、 「どうも、ご紹介賜りました中河テクノロジーの中河です。キョンとは中学時代からの付き合いになります」 な、なんだ中身は中河だったのかよ!あいつ招待客リストにあったっけ?と長門を見ると首をかしげていた。隣にいたハルヒが、あたしが呼んだのよとニヤリと笑った。なにをやらかす気なんだ中河、なにを企んでるんだハルヒ。 「本来なら私はこの席に呼んでいただくのもはばかられるような不届き者でありまして、そこにいらっしゃる涼宮社長に恩赦をいただいて参じた次第であります」 中河の野太い声が会場内に響いた。なにがやりたいんだ中河。長門ならもう入籍済みで、そんなかっこうをしてどさくさに奪って逃げようたってそうはいかんぞ、などと考えているとハルヒがまあ落ち着きなさいという感じでドウドウと抑えた。 「自分はキョンと有希さんが相思相愛の間柄であることを知らず、有希さんの光り輝くようなオーラに熱を上げて勝手に空回りしてしまいまして、いやはやまったくお恥ずかしい。皆さんお気になさらずに笑ってやってください、ネタですから」 ネタじゃなくてほんとのことなんだが、中河のコスプレにつられたのか笑い声まじりのスピーチに乗せられて客も笑っていた。 「ついでながら昔のエピソードをひとつ。思えば、私の熱にうなされる病は今に始まったことではありませんで、八年前くらいでしたでしょうか、キョンに頼んで有希さんに愛の告白のメッセージを送ったことがあります。今思い出してもまったく赤面して顔から火が出る思いなのでありますが、」 でかいポケットからクシャクシャになった便箋を取り出した。な、なんであれがそこにあるんだよ。年末の大掃除のときにゴミと一緒に捨てたはずじゃなかったのか。ピエロ中河が丁寧に広げた一枚の古びたA4用紙、時を超えてルーズリーフが今俺たちの目の前に現れた。 「SOS団の皆様はすでにご存知かと思いますが、そうです、あのときのラブレターがここにあります。涼宮社長がなにかの記念にと取っておいていただいたそうで、私のバツゲームとしてこれをここで、読み上げます」 お裁きを言い渡すお奉行様のようにやおら広げ、いやもう十分広がってるのだがなにせクシャクシャな上にところどころ破れかかってるもんで改めて広げなおしている。 ── 拝啓、長門有希さま。いても立ってもいられず、このような形で思いを告げる無礼をお許しください。実は私はあなたに一目会ったその日から、 終始汗をかきかき読んでいる中河だったが、客には大ウケに受け、同じ中学だった国木田は腹を抱えて笑っている。十一年後に迎えに行くから待っていてくれというあたりでは沸きに沸いて、スピーカーから流れる中河の朗読がかき消されてしまったほどだった。 「── 敬具。以上、実はこのラブレターは長門さんの目の前でキョンに読み上げてもらったわけでして、キョンの人のよさは昔からのようですね」 全員が俺を見てドッと笑った。中河め、フィニッシュで俺にサヤ当てをして逃げる気か。 「キョン、有希さん、これで赦していただけますか。はっはっは」 赦すもなにも中河よ、自分の黒歴史をネタに自らピエロを演じるとはなんて男なんだお前は。目が潤んでくるよ。 「恥ずかしい昔のネタなど披露して恐縮ですが、ビジネスパートナーからのお祝いの言葉とさせていただきたいと存じます。キョン、有希さん、ご成婚おめでとうございます。末永い幸せをお祈りします」 中河は昔はごつくて鈍い男で、体育会系を体現する熊のような野郎だと思っていたのだが、この人を惹きつけるカリスマ性の高さにおいしいところを全部持っていかれてしまったような気がする。さすがは一社を率いる社長だよな。 中河に続いてうちの親が親族代表の挨拶をしたが、コチコチに緊張して右手と右足が同時に前に出るロボットダンスみたいな歩き方でステージに上がった。用意されたジョークも原稿どおりの棒読みで、聞いているほうも“客ここで笑う”のような棒読みで笑った。まあご愛嬌だな。 ありきたりの慣用句的に三つの袋を大事にしろとか、なりふり構わずてんとう虫のサンバを歌い出すやつとか、まさかいないだろうとは思っていたのに案外まだ生息していて、歌うはずの曲名がかぶって慌てるやつも出てきて苦笑していた。髪の毛に白いものが混じり始めた岡部は説教めいたスピーチをしていたが、意外にもこういう場には似合っていた。 スピーチが続いている中、ハルヒが俺たちに向かって言った。 「さーて、あんたたちにはそろそろお色直しに行ってもらうわ」 「俺も着替えるのか」 「あんたは燕尾服よ」 「燕尾服って、まさか指揮者が着てるあれか」 「なにいってんの、イブニングの礼服は燕尾服に決まってるでしょ」 タキシードとモーニングの違いすら知らない俺だが、どうやら時間帯によって使い分けるものらしい。 ハルヒがヘッドセットのマイクに向かってなにやらボソボソと指令を伝えると、谷口がステージに上がってマイクの前に立った。 「みなさん、ここで新郎新婦にはご退場いただき、気持ちも新たに衣装を一新していただきます。拍手でお送りください」 いやま、なんというか恥ずかしいんでスポットライトはやめてくれ。 俺は長門の手を取って椅子から立たせ、ゆっくりとドアへ向かった。なんせ打掛衣装ってやつは重ね着で重たいうえに裾がやたら長いときている。ラブソングのBGMが流れる中を白い花嫁と黒い花婿がのろのろと歩いていく。いっそのこと俺が背負っていけたら楽なのだろうが、と考えていると長門もイライラした様子で裾をふわりと舞い上がらせて軽々と歩いていった。は、早いぞ。 新郎新婦の席には俺たちが留守中を預かるとかいうミニキョンとミニ長門のヌイグルミがぽつりと座らされていた。俺たちに似せてタキシードとウエディングドレスをまとっている。長門のはよく出来てるな、俺が持って帰ろう。 「さあ、新郎新婦がいない間にお待ちかねのカラオケタイムです。トリはもちろんわたくし谷口が熱唱をお聞かせします!」 会場を出ようとすると後ろで谷口のやたら張り切った声がガンガン響いた。なに舞い上がってんだあいつは、俺と長門の披露宴なのにどっちが主役かわからん、などと思っているとENOZ演奏の懐かしいイントロが流れてきた。 『LOST MY ITEM』 作曲:ENOZ 作詞:谷口 キョンの顔見上げ 誰もいない夕暮れの部屋で あなたはなぜここで 二人抱き合ってるの? 楽しくしてること思うと さみしくなって たそがれの廊下 ひとりきりで走る 大好きな忘れ物よ なくして泣きたくなるの あした目が覚めても ほら きっと見つからない Good bye One way One way I love you I m looking looking for you One way One way I love you WAWAわっすれもの Yay! あのときのシーンを歌ってるのは分かるんだがな谷口、替え歌にしちゃその歌詞はちょっと無理がありすぎるんじゃないか。まったく聞くに耐えん絶唱なので俺と長門は早々に退散した。 ドアの外で部長氏が待っていた。 「朝比奈さんがスタンバイしているよ。僕が控え室までご案内しよう」 部長氏はどうしても新婦のエスコートがやりたいらしく、うやうやしくお辞儀をしてから長門の手を取って歩いた。 控え室の男子ルームに入ろうとしたら朝比奈さんに呼ばれた。 「キョンくん、女子ルームに入っていいわ。衣装はこっちに用意してあるから」 「え、よろしいんですか。じゃ失礼します」 俺は見られても構わんが長門が着替えなくてはならないので部長氏は外に追い出した。 長門が鏡の前に座ると朝比奈さんは白い被り物を取った。雪やコンコンあられやコンコンという歌に“綿帽子”という言葉が出てくるのを知っていると思うが、今長門が被っている白い布がそれだ。白い絹を丸く袋の形にしたもので、高島田の形に結った髪を上からすっぽりと隠すようになっている。 「お嫁さんの髪型って江戸の奥方様みたいになってたんですね」 「そうそう。むかしお武家さんの奥さんがこの形に結ってたらしいわ。あ、もちろんこれはカツラなの」 自前ってわけにもいかないから、まあそれもそうか。朝比奈さんはそういって髪を丸ごと抜き取った。髪をまとめるネットを取ってサラサラにドライヤをかけている。それから白い打掛を取り帯を解いて掛下を取った。着替えるところをまじまじと見るのもなんなので俺は後ろを向いて座っていた。 「キョンくん、いいわ」 振り返ると長門は頭に蒸しタオルを巻き白いガウンをまとっていた。 「二人ともおなか減ったでしょう。食事用意したから食べてていいわ」 「ありがとうございます」 「……分かった」 俺は適当にケーキをかじったりしていたのでそうでもないのだが、白無垢をまとっていた長門はずっとうつむいたままバイキングのテーブルにも行けずじっと座っているだけだった。この着物じゃ身動きとれまい。 バイキングとは別に二人のために用意されたメニューをもくもくと食ったあと、俺は羽織ハカマを脱ぎ捨てて燕尾服に着替えた。シャツのせいで目立たないがピシッと決まった白の蝶ネクタイだ。長門はやたら派手なバラの柄の衣装をまとっていた。袖は短く、襟元が広く黒い生地に赤いバラの絵がちりばめられている。スカートの部分は裾がやたら広くてフリルになっている。足元を見るとかかとの細いハイヒールだ。 「これ、なんていうコスプレなんです?」 「これはラテン系のね、……ふふっ、行けば分かると思うわ」 俺が燕尾服で長門がこれって、いったいなにをさせるつもりなんだろ。 ドアの外で待っている部長氏に長門の衣装を見せてみたが、やっぱり何のコスプレかは分からないようだった。クエスチョンマークを頭の周りに巡らせたまま長門を連れて会場に戻った。ホールの入り口に差し掛かると部長氏がヘッドセットに向かって、 「新郎新婦、スタンバイOK」 部屋の中から谷口の声が響いてきた。 「新郎新婦の再突入です」 それを言うなら再入場だろ、空から降ってくるスペースシャトルみたいに言ってんじゃねえ。 部長氏に背中を押されて中に入ると、またもやスポットライトのビームを浴びた。 「似合ってるわよ有希」 「ハルヒ、こりゃいったい何のコスプレなんだ?」 「ダンス衣装に決まってるじゃないの。キョン、ちょっと前に来て踊ってみなさい」 練習もリハもまったくなしで、二人に踊れってのか。いくらなんでも無茶が過ぎるぞ。 「エノちゃん、ダンスミュージックお願い」 エノちゃんってのは榎本さんの愛称らしく、バンドメンバーが四ビートくらいの軽いダンスミュージックを演奏し始めた。俺にしちゃ四ビートだろうが八ビートだろうが踊れないことには変わらんわけで、こんな早いテンポで体が動かせるわけがない。盆踊りくらいにもっとゆっくりな俺たちに合った曲にしてくれ。 「長門、タンゴのステップは分かるか」 「……タンゴ。アルゼンチン、ブエノスアイレスで発祥したダンス。後にヨーロッパに輸入され、コンチネンタルタンゴとして広まった」 いや、百科事典はいいから。 「……足運びは分かる」 「即席で悪いんだが、俺の脚を動かしてもらえないか」 「……分かった」 タンゴタンゴといってもいろいろあると思うんだが俺が知ってるのは、……と。黒猫のタンゴとかだんご三兄弟くらいか。あんなんでハルヒが納得するんだろうか。 「黒猫のタンゴでいいか。俺はそれしか曲を知らん」 「……妥当」 俺はそばにいた国木田に耳打ちして黒猫のタンゴを頼むと榎本さんに伝えてもらった。 二人がステージの前まで歩いてゆくとスポットライトが後をついてきた。うわ、こりゃかなり緊張するぞ。スピーカーからアコーディオン風の音が流れ始めて俺は長門の手を取った。これだけじゃいまいち盛り上がりに欠けるような気がしてテーブルの上に活けてある花瓶から赤いバラを一輪抜き取り、長門の前で膝をついた。バラの花を捧げるように両手で持ち、長門の前に差し出した。もったいつけた雰囲気がよかったのかパチパチと拍手が沸いていた。 長門がバラを口にくわえ、俺は左手で長門の右手を取った。踊ってるうちにトゲが刺さったりしないだろうな。 俺は膝をついた姿勢から立ち上がって右手で長門の腰を支えた。左に一歩、前に一歩ステップを踏み、そのまま丸く円を描くように歩いた。脚の動きは長門の魔法でほとんど自動操縦っぽい運びなのだが、さすがに足がもつれて何度も長門の足を踏みそうになり、ずっと足元を気にしながら踊っていた。リズムにメリハリのあるオルガンが鳴り響き、軽快というより直線的なステップで動き回るのはなんとなく俺と長門に似合っているような気もする。 動きが滑らかになりだんだんとスピードが乗ってきたのを見たのか、榎本さんは曲のテンポを上げてきて俺はやや振り回され気味だった。バラの花を二人の右手と左手で持ち、まっすぐ横に進み顔を真正面で合わせる。間奏で爪先立ちになった長門の体をクルクルと回すとスカートの裾がヒラヒラと舞った。再びバラを口にくわえて手をパンパンと叩いている。タンゴなのかフラメンコなのか踊りのカテゴリがかなり曖昧になっている二人だが、まあどっちもラテン系ってことでよしとしてくれ。 そろそろ曲終わりかなーというあたりで長門の体を仰け反らせ、チャンチャンと終わった。き、決まったぜ。 「すっごいじゃないのキョン!フラダンスなんかいつマスターしたのよ」 フラダンスは国も衣装も違うだろ。 「いいダンスだったわ。新郎新婦に盛大なる拍手を!」 超インスタントの無国籍ラテン系ダンスだったが、観客からは割れるような拍手をいただいた。俺は踊りつかれて椅子にへたりこみ、汗を拭いながらジュースを飲み干した。長門のほうは汗ひとつかかずに平気な顔をしているようだったが。 『新郎新婦に盛大な拍手を!』 『新郎新婦に盛大な拍手を!』 「なあ長門」 『新郎新婦に盛大な拍手を!』 「なあ長門」 「……なに」 なんだか嫌な予感がして隣を向いた。前にもこの感じはあった気がするんだが。 『新郎新婦に盛大な拍手を!』 「なあ長門、さっきから時間がループしてる気がするんだが」 「……そう」 またやっちまったのかハルヒよ。しかもよりにもよって俺たちの披露宴の最中にとな。 『新郎新婦に盛大な拍手を!』 「なあ長門、さっきから時間がループしてる気がするんだが」 「……そう」 「笑ってる場合じゃないと思うんだが。せめて会話が続くようにしてくれ」 『新郎新婦に盛大な拍手を!』 「……分かった」 「関係者を呼んでくれ。対策を協議したい」 「……了解した」 『新郎新婦に盛大な拍手を!』 「ハルヒが壊れたファービーみたいで怖いんだが、とりあえず一時停止にさせてくれないか」 「……分かった」 『し!』 部屋の照明が、というより全世界が真っ暗闇になった。 「あの……。長門?そこにいるのか?」 「……ここにいる」 「真っ暗でなにも見えないんだが。時間を止めてくれるだけでいいんだけど」 「……止まっている。時間が止まると光の速度も停止する」 そういうことか。時間を止めて好き勝手やってるSFネタの理屈が崩れたな。 「この辺だけ顔が見える程度に明かりをともしてくれないか」 長門の指先がぽぅとオレンジ色に光った。俺と長門と、朝比奈さんの顔が浮かび上がった。長門はまあいつもと変わらないのだが、こんな状況にもかかわらず朝比奈さんは笑顔だった。 「キョンくん、またループかしら?」 「朝比奈さん、またやっちまったみたいです」 「そう。よくあることね」 「あんまり驚いてませんね、未来と連絡がつかないんじゃないですか」 「あのときはなにも知らされてなかったから。今回のことはもう……ふふっ、禁則事項です」 百鬼夜行しそうな暗闇の中でウインクされてもときめいてしまう俺は、とうとう病気の域に達してしまったんでしょうかね。 「喜緑さん、喜緑さんいますか」 「ここにいますわ」 「ハルヒが時間のループをはじめちまったようなんです」 「特に問題はないと思いますわ」 にこにこ笑顔の喜緑さんの顔が見えた。問題ないって、楽しんでるんだかこの人もなんだか緊迫感に欠けるなあ。 「しかしこのままこの時間を繰り返すわけには」 「以前のときも無事抜け出せたのだから、大丈夫だと思いますわ」 以前っていうと、高校のときの夏休みでしたっけ。一万五千と四百と何回だったか、あのときは俺の部屋で宿題をやるなどという本当にそんなんで解決するんだか疑わしくなるようなありきたりな手法だったのだが。 ドタバタとあちこちのテーブルにぶつかる音をさせながら足音が近づいてきた。 「お待たせしました。とんだハプニングですね」 「古泉、ハルヒをなんとかしてくれ」 「こういう問題に関してはあなたのほうが得意だと思いますが」 「お前は自分の立場が分かっておらんようだな」 「いえいえ、重々承知していますよ」 「今じゃお前はハルヒの彼氏だろうが」 「恋愛は恋愛、フォロー役とは別です。あなたにはあなたの役割を担っていただかないと」 「むぅ……」 この野郎、ジョンスミスの名前を封印しろとまで言ったくせに都合のいいときだけ逃げを打つのか。歴史を書き換えてまで役を譲った俺の苦労はなんだったんだ。 「じゃあハルヒはいったいどうしたいんだ」 「この状況からして、涼宮さんは自分が花嫁じゃないことに不満なんじゃないでしょうか」 「ハルヒが長門に嫉妬してるってのか」 「いえ、そういう意味ではなくて“自分が花嫁衣装を着ていない”ことが不満なのではと」 自ら仕切るから任せろと言っておきながら自分が主役じゃないと気に入らないのか。まったくわがままなやつだな。 「それはもう、女性なら誰でも披露宴の主役になりたいものでしょう」 「そうなんですか?朝比奈さん、喜緑さん」 「ええ」 「そうですね」 二人とも異口同音に同じ反応をした。長門、今チラっとだが得意げな顔をしたろ。 「しょうがない、ハルヒにも白ドレスを着せてやれ」 「あなたと有希さんの披露宴で、それはちょっと無理があるかと思いますが」 「いいんだよ、こういう祝い事にハプニングはつきもんだろ」 ハプニングというか、他人の披露宴にウエディングドレスを来て乱入するなんて前代未聞の珍事だが。ここはひとつ俺が仕切ることにしようじゃないか。 「まあここは俺に任せろ。予備のドレスくらい用意してあるだろう」 「新郎であるあなたがいいとおっしゃるのでしたら」 「朝比奈さん、ハルヒのメイクと衣装をお願いできますか」 「えっ、わたしがするの?」 「ええ。なんならハルヒを着せ替え人形にして遊んでもいいです」 「そんな、着せ替え人形だなんて」 朝比奈さんの頬が一瞬だけニヤリと動いたのを俺は見逃さなかった。 「じゃあそういうことでよろしくお願いします。皆さん、それぞれの位置についてもらえますか。古泉はハルヒを運べ」 「分かりました」 「……」 「長門?」 「……わたしも、涼宮ハルヒに付き添う」 「そうか。じゃあ用意ができたら再生ボタンを押してくれ」 古泉はマネキン人形のように固まったハルヒを抱えて控え室に向かった。その後ろを朝比奈さんと長門がついていく。なんだか三人とも背中が小刻みに震えてるような気がするんだが気のせいか。 じっと暗いステージに立っていると突然時間が動き出して世界のライトがともり客席のボリュームが一気に上がった。俺はマイクに向かって喋った。 「それでは、新郎からひとことご挨拶したいと思います」 自分を指して新郎などとはふつうは呼称しないもんだが、突然ハルヒと入れ替わった俺を見て観衆は変わり身の手品でもやったのかと唖然としていた。俺はスタンドからマイクを抜いてステージの真ん中に立った。 「皆さん、今日はお忙しいところ二人の披露宴にお集まりいただきありがとうございます。婚約から一ヶ月という常識では考えられないようなドタバタスピード挙式でしたが、お義父さんに江美里さん、うちの両親、古泉にハルヒ、鶴屋さん。それから、各方面からお越しいただいた関係者の方々。大勢の皆さんのご支援でこうして結ばれることができました。厚くお礼申し上げます」 なんとなく堅苦しい感じがして、リラックスしたくてポケットに手を突っ込んだ。 「さっきの映画ですでに知っているかと思いますが、二人が出会ったのは高校一年のときでした。最初に会ったときはなんて無口で愛想の悪いやつだと思ったものでしたが、豪快快活なハルヒとは対照的で、逆に物静かでおしとやかなところに惚れたといいますか、」 この辺で汗を垂らしながら真っ赤になっている俺だが、客にはそれが受けているようだった。 「実は俺たちをくっつけたのはハルヒ自身なのでありまして、本人は否定してますが、キューピット役のハルヒがいなかったら二人の運命は大きく変わっていたでしょう」 古泉まだか、そろそろ間が持たないぞ。などと冷や汗を垂らしながら話の続きを考えているとホールの後ろのドアが少しだけ開いて古泉が顔を覗かせた。苦笑を見せつつ右手でOKサインを出している。 「では、はなはだ異例のことではありますが、俺からみなさんにサプライズがあります。キューピットの入場です」 スポットライトが一瞬消えて入り口に向いた。ハルヒが顔を覗かせ眉間にしわを寄せていたが、えへへー呼ばれちゃいましたーみたいな感じでパッと営業スマイルに表情を変えた。ドアの直前までなんであたしがこんなことしなくちゃいけないのよ、とブツクサ言っていたに違いない。 現れたのはウエディングドレス姿だった。もとい、ウエディングコスプレだな。肩から裾まですらりと流れるスリムな感じのドレスだった。長いベールは頭の後ろに垂らしてくっつけている。それはいいんだが、朝比奈さん、あなたまで同じコスプレしてるってどういうことですか。後ろから長門も式のときに着た白ドレスでついてきている。これは古泉の陰謀なのかそれとも四人が共謀してやってるのか、いやきっとハルヒの命令だろう。 ジャカジャーンとポップスアレンジの結婚行進曲が高らかに流れ出し、白いドレスに身を包んだ三人は仲良く手をつないでスポットライトの下を歩いてきた。客席からは拍手と指笛がやかましいくらいに鳴り騒ぎパシャパシャとカメラのストロボが光った。俺と長門のときより人気あんじゃねえか。 ハルヒはステージに駆け上がって俺からマイクをひったくった。 「キョン、こんなサプライズ聞いてないわよ」 聞いてたらサプライズとは言わん。眉間にしわを寄せて怒ってるのか笑ってるのかよく分からん表情をしてビシ指をしている。まあいくら怒ってもステージの上でネクタイをひっぱったりはせんだろう。俺はハルヒからマイクを取り上げ、 「ええと皆さん、この三人の中で誰がいちばん似合っているか決めたいと思います。名前を言ったら拍手をお願いします」 「そんなのあたしに決まってんじゃないの」 「聞いてみないと分からんさ」 長門、ハルヒ、朝比奈さんの順で聞いてみたのだがどうやら観客は三人ともに盛大な拍手をしているらしく強弱が聞き取れない。勝者なしのドローということにしておいた。 「女の子の衣装をそういうふうに格付けするもんじゃないわよ」 さっきは自らが一番だと言ってたじゃないか。 「ハルヒ、そのまま一曲踊れ。このままじゃ観客が満足せん」 ハルヒは、いきなりなに言ってんのよ、と言いかけて、 「しょうがないわね。じゃあ有希、みくるちゃんいくわよ。エノちゃん、あの曲お願い」 榎本さんは把握しているといった感じでうなずきギターを抱えた。 ハルヒがワン、ツー、ワンツースリーフォーと両手を打ち合わせて拍子を取り、俺たちがよく知っている曲の演奏が始まった。今日は長門が主役だからだろうか、長門を前にして自分は後ろに下がって踊っている。終幕はウエディングコスプレ三姉妹によるダンスである。 ナゾナゾみたいに地球儀を解き明かしたら みんなでどこまでも行けるね♪ エピローグへ