約 25,197 件
https://w.atwiki.jp/holyland4/pages/481.html
迷ド探偵たまき第4推理・終わりとはじまりと目的 「ただいまーと言ってもだれもいるわけないですぅ~」 たまきは自分が眠らされていた廃工場に戻ってきていた。 この場所は推理のスタート点でもあり、思考をまとめるにはもってこいの場所だ。 「今日は色んな話が聞けたですぅ~、一緒に転校生討伐したメンバーは変わってるけど 犯人じゃなさそうだし、何よりパルプちゃんからの情報が聞けて大きく前進できたですぅ~」 ウキウキ気分のたまきは忘れないうちに巫女から貰った酒の容器を取り出す。 「さあ、これで服装のガードをさらに固くして後半も鉄壁衣装でいくですぅ!」 容器からおちょこに移した謎の酒状の液体をぐいっと流し込む。 「んー、特に味はしないですぅ」 そう思った次の瞬間、 「んぎゃあああああああああああああああーーーーー!!!!!!!!!」 全身の毛穴から湯気を出し、ロケットの様にぶっ飛びながらたまきは天井に激突、 落下後顔を真っ赤にしながらのたうちまわった。 「んげえええええええーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!」 内臓を全部裏返された如き激痛、吐き出そうにも既に粘膜から成分は吸収されている。 たまきは何分も何十分も苦しみ続け、そして、何故自分がこの酒で苦しむのか わからないままその意識を失っていった。 たまきがぴくりとも動かなくなってから一時間後、 「ふあああああ~、なんか早くない?」 そのメイドはゆっくりと何事もなかったかのように目を覚ました。 キョロキョロと辺りを見回し、それまで使い方も分からなかった 廃工場の設備を手早く操作しモニターにデータ画面を映す。 「何よ、まだ半分過ぎたとこじゃない。股間も何ともなってないし 戦闘記録も再起不能とはなってないわね。どういう事よオカマッ」 今迄たまきと名乗っていたその人物はモニターに監視カメラ映像を映し 巻き戻していくと自分が逸脱者の毒で死にかけた事を確認し納得した。 「あー、これは想定外だわ。開催前はあいつらこんなイベント言ってなかったし。 って事は、他にも変更された箇所があるかもしれないわねっと」 大会参加者向けの情報を確認していくと、賞品の少年の逃亡と自分が次の試合 神藤と勝負するつもりであった事が目に止まった。 「やっばー、何考えてるのよアイツは!って私のせいか!まあ、あのバイブ女に 全身震わされながら正体暴かれるのを世界に中継されるのも面白そうだけど、 せっかくあのボウヤが来てくれるんだからやっぱりこっちよねー」 皆さんもうおわかりだろうが、残念ながら正義の為に戦う探偵はもういない。 今のコレは疑似レズ展開にヨダレを垂らす最低のオカマである。 マタンキは伝言掲示板に行動予定のキャンセルを書き込んだ。 「これでよし、と。フッフフ、まってなさーいボウヤ。私が可愛がってあげるわぁ~。 あ、そうだ、念の為にあっちも確認しておこうっと」 マタンキはモニターの前から部屋の隅のロッカーへと移動する。 ダイヤルキーを回転させて一番端のロッカーを開けるとそこにはじぶんそっくりの 少女が立ったまま眠らされていた。 「ムニャムニャ、都会のエビフリャ-は名古屋とは一味ちがうみゃあ~」 「よーく、寝ているわね。よしよし、そのまま大会が終わるまでじっとしていてね」 こうしてたまきの推理は実を結ぶ事なく終わった。 大会はこのままマタンキのオナネタに使われてしまうのだろうか。 BADEND
https://w.atwiki.jp/orealn/pages/197.html
2017年、僕にとって最初の作品で、気持ちのいいスタートが切れたことを覚えています。監督や俳優など、すべての面を考えても最初から最後まで楽しく撮影できた作品でした。台本を読んだらとても面白かったので、読んでから撮影に入るまで、そんなに時間が空くこともなく、短期間で準備のできた作品でした a href="http //www.doramaset.com/My-Golden-Life-1173.html" 黄金色の私の人生 DVD /a 。 -演じられたハ・ワンスンのキャラクター紹介をお願いします。 初恋の相手が失踪するのですが、彼女がまだ生きていると信じて捜査を続ける刑事の役どころでした。直感的に事件を解決していく刑事ですが、チェ・ガンヒさん演じるユ・ソロクが現れて、彼女の珍しい能力に嫉妬でもないような嫉妬をするようになり、いつの間にか頼るようにもなって事件を解決していく、生活密着型ドラマの刑事を演じました。 -生活密着型とおっしゃいましたが、作品やキャラクターの魅力はどういったところでしょうか a href="http //www.doramaset.com/Bad-Guys-City-of-Evil-1240.html" バッドガイズ2 DVD /a 。 「推理の女王」のいい所は、事件などの内容がしっかりしていて、普段から身の回りで起こり得るようなことが大きな事件になっていくという点が、現実味があったと思いますし、ワンスン自体も視聴者を飽きさせない愉快な面のあるキャラクターだったところが、この作品の魅力だと思います。 -ガンヒさんとは16年ぶりの再会だったそうですね a href="http //www.doramaset.com/A-Korean-Odyssey-1239.html" 花遊記 DVD /a 。 16年前に同じドラマに出演はしたのですが、一緒に撮影をしたことはないと思います。待機をしていたら見かけて挨拶する程度で。ですから、今回は初めての共演作品とも言えます。でも、そうやって以前、面識があったのでやりやすかったですね。 -今作品で、今でも覚えている2人のエピソードなどはありますか。 ガンヒさんと共演した部分は、全話を通してすべて覚えています。楽しかったんです。撮影をしていて少し余白の部分ができると、僕が思いつくままにアドリブをします。そうしたらガンヒさんが思いも寄らないアドリブをしてくれました。お互いに息が合ったんでしょうね。
https://w.atwiki.jp/gg_pmi/pages/24.html
すべての感情で出現する被写体 被写体名 効果 遺されたアドレス 上に記された人物の回廊を解放し、魂の中心部から侵入を可能にする。 スペルキャスター 撮影するとスペルを1文字得る。 忌み影 死亡時刻よりも前に出現し、この回廊が犠牲者のものではなく、犯人候補のものであることを示す。ただし特性「悲哀」「憤怒」「アウトレイジ」に注意。 肖像 この回廊の人物。飾られることも、飾られないこともあるが、もしこの人物が犠牲者なら、死亡時刻以降は絶対に飾られない 特定の感情のみで出現する被写体 被写体名 効果 決別の火酒 死亡時刻以降に出現。ここが犠牲者の回廊なら30%の確率で犯人のスペルを2文字得るが、使用する度に魔女が少し接近する。 堕落の音 死亡時刻以降に出現する。ここが犠牲者の回廊なら、犯人の通報と同様の効果がある。犠牲者の回廊でなかった場合、魔女が接近する。
https://w.atwiki.jp/rozenindex/pages/64.html
誰が裏切り者だろうね。 候補者 北条(薗崎姉妹に関わるよう仕向けたから) くんくん(同上) ばらしー 雛苺(なぜか一緒に張り付けられたから) -- (もにきゅっきゅ) 2008-09-25 21 28 13 ↑パッチ -- (名無しさん) 2008-09-26 14 39 10 パッチ当ててどうすんんだよwww -- (もにきゅっきゅ) 2008-09-26 18 42 13 その後の展開で真紅だけがいなかったから真紅も候補者に追加で。 -- (うに) 2008-10-14 22 50 04
https://w.atwiki.jp/sinapusu2002/pages/412.html
夢を見たので少し脚色して忘備録 夢なので整合性が薄い。 今日は親戚全員が集まる親族交流の日。 その場で僕は1年前にあった痛ましい惨劇の写真を見ていた。 親戚のオジサンの家でパーティがあり、参加していた全員が焼死した事件だった。 警察の見解では、オジサンが参加者の4人を殺し、最後にオジサンが火を放って自殺したというのだ。 僕は、その時消防団の人からもらった事件現場の写真を見ながらふとつぶやいた。 「オジサン以外靴を履いてないが、オジサンだけ靴を履いている」 僕がふと放った一言から、あの事件の犯人は本当にオジサンだったのか親族交流の場は親族会議の場になった。 次々と判明する親族の確執。 家族会議の進行とともに疑惑が疑惑を呼ぶ。 結局、会議は警察の見解を支持して終わった。 でも僕は疑惑ぬぐいきれなかった。 もしかしてあの人が4人を殺しオジサンに罪を擦り付け、親族交流の場に何食わぬ笑顔で参加していたあの人が犯人だったのではないか? 僕はその疑惑をぬぐえないまま物語が終わる。
https://w.atwiki.jp/genroukoku/pages/57.html
◆村情報 分類 人数(見学) 更新時間/間隔 役職配分 投票方法 登場人物 発言制限 閲覧制限 備考 RP村 11人(10人) 05 00/24h 特殊 無記名 東方 多弁+(1500pt) 15歳以上 ゆる推理ありRP村 村過去ログリンク ◆村紹介 第一回公演の演目は『とある村で起こった人狼異変』だ! 客席からの飛び入り参加も加わって、てんやわんやと始まった! そんな劇がただ整然と進むはずもなく、なんだかんだと大波乱! 「黒狸亭名物のぬるいビールとレバーを出そうかの」 「裏切り者は、お前か――ッ!」 「ち、違う!わ、私じゃない!」 「俺を信じてくれ。そして共に明日を迎えてくれ」 「“ あ り が と う ”」 「気付いてしまえば簡単なことさ」 「これは最早戦争だよ。直接的でないだけでな」 「これは戦争――どちらかが滅びるまで、終わらない」 「だけど、やらなくちゃいけないなら。私は、やるよ」 「精々後悔しない様にしなさい」 そして最後の最後に巻き起こった、すったもんだの結末とは!? 是非とも皆さんの目で確かめて頂きたい!
https://w.atwiki.jp/asianmystery/pages/121.html
2011年4月30日 大きな地図で見る 最近、日本で北欧ミステリが注目を集めている。その一番の要因としては、スウェーデンの作家であるスティーグ・ラーソンの『ミレニアム』(1~3、各上下巻、早川書房)が2008年末から2009年にかけて日本のミステリ界を席巻したことが挙げられるだろう。『ミステリマガジン』2010年11月号では北欧ミステリの特集が組まれ、今年に入って以降も、4月にハヤカワ・ポケット・ミステリからスウェーデンの作家ヨハン・テオリンの『黄昏に眠る秋』が出て話題になっているのみならず、5月にはノルウェーの作家カリン・フォッスムの『湖のほとりで』の刊行が予定されており、また年内にはアイスランドの作家アーナルデュル・インドリダソンの長編2作品の東京創元社からの刊行も予定されている(※2012年に延期)。 このページでは、逆に北欧では日本のミステリがどれほど読まれているのかを知るため、国際交流基金が作成している「日本文学翻訳書誌検索」を基礎資料として、それに独自に調査した分を加え、北欧諸言語に翻訳された日本のミステリをまとめている。なお、国際連合の区分では、バルト海を挟んでスウェーデン・フィンランドの対岸にあるバルト三国、すなわちエストニア、ラトビア、リトアニアも北欧5カ国とともに「北ヨーロッパ」に分類しており、また言語系統的にも北欧5カ国の一部とバルト三国の一部は関係があるため、このページではバルト三国での翻訳状況も一緒に扱うことにする。 北欧およびバルト三国の言語について 北欧に「ガラスの鍵賞」というミステリの賞がある。これは、北欧5カ国、すなわち、アイスランド、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク、フィンランドの5カ国で1年間に発表されたミステリの中で、最優秀ミステリを決定しこれを表彰する賞である。この5カ国ではどの国でも国名に「 - 語」を付けた言語が使われていて、つまりこの賞は言語の壁を越え、5つの異なる言語で書かれたミステリから最優秀作を選ぶという、非常に手間のかかっていそうな賞なのである。 『ミステリマガジン』2009年10月号でミステリ評論家の松坂健氏は、「仮にアジアでこのようなミステリ大賞をつくって、日本、韓国、台湾、中国などとミステリ作品を競わせることができるだろうかと考えると、難しいだろうなあと思う」と述べているが、これは確かにそうだろう。北欧5カ国でこのような賞が可能になっているのは、その言語の近さによるものだと思われる。北欧5カ国の言語は、まったく言語系統の異なるフィンランド語を除けば、どの言語も北方ゲルマン語群(英語やドイツ語の親戚)に属し、「知識人であればどの北欧語も読めるというほど互いに似通っている」のである。なかでもノルウェー語話者は、特に訓練をしなくても、「スウェーデン人とデンマーク人の間では両者の仲介が出来、アイスランド人の発言の通訳が出来る」のだという。また、唯一系統の異なる言語を使用しているフィンランドでも、フィンランド語とともにスウェーデン語が公用語となっており、国民の94%を占めるフィンランド語母語話者の中にはスウェーデン語を理解できる人も多いという。東アジアの日本、韓国、台湾、中国は同じ漢字文化圏に属するとはいえ、言語は日本語・韓国語・中国語でまったく異なっており、翻訳の手間だけを考えても、北欧の「ガラスの鍵賞」と同じような賞の実現は難しいと言わざるを得ないだろう。 北欧5カ国の言語の中で唯一系統の異なるフィンランド語は、バルト三国のうちのエストニアの公用語であるエストニア語と非常に近い関係にある言語で、「相互理解も困難ではない」という。ただし、バルト三国の言語の中でフィンランド語に近い関係にあるのはエストニア語だけで、ラトビア語とリトアニア語は、北欧5カ国の言語やエストニア語とは異なる別系統の言語である。(言語に関する引用箇所は『世界のことば』(朝日選書、1991年)より) Index アイスランド (Iceland)桐野夏生 (Natsuo Kirino) ノルウェー (Norway)桐野夏生 (Natsuo Kirino) 高見広春 (Koushun Takami) 戸川昌子 (Masako Togawa) スウェーデン (Sweden)桐野夏生 (Natsuo Kirino) 戸川昌子 (Masako Togawa) デンマーク (Denmark)桐野夏生 (Natsuo Kirino) 鈴木光司 (Koji Suzuki) 戸川昌子 (Masako Togawa) 宮部みゆき (Miyuki Miyabe) フィンランド (Finland)高木彬光 (Akimitsu Takagi) 松本清張 (Seicho Matsumoto) ――北欧5カ国まとめ―― バルト三国のミステリ エストニア (Estonia)松本清張 (Seisho Matsumoto) ラトビア (Latvia) リトアニア (Lithuania)小林久三 (Kyuzo Kobayashi) 鈴木光司 (Koji Suzuki) 松本清張 (Seisho Matsumoto) 森村誠一 (Seiichi Morimura) 参考文献 リンク 以下、ISBNをクリックすると、現地のネット書店等の該当ページが開くようになっている。 「★追加」と注記した書籍は、国際交流基金のデータに掲載されていないものである。 アイスランド (Iceland) アイスランド語:母語話者数 約32万人(北欧5カ国およびバルト三国の中で最少) 桐野夏生 (Natsuo Kirino) Næturvaktin / 『OUT』 ISBN 9789979788157 (2005年) 翻訳者のJón Hallur Stefánsson氏(ノルウェー語版Wikipedia)はアイスランドの推理作家。 アイスランド語から(直接・間接問わず)日本語に訳されたミステリは、イルサ・シグルザルドッティル『魔女遊戯』(集英社文庫、2011年)、アーナルデュル・インドリダソン『湿地』(東京創元社、2012年6月)、『緑衣の女』(仮題/東京創元社から出版予定)などがある。 ノルウェー (Norway) ノルウェー語:母語話者数 約500万人 桐野夏生 (Natsuo Kirino) Ute / 『OUT』 ISBN 9788205352513 (2006年) 翻訳者のIka Kaminka氏は、ほかに村上春樹や夏目漱石、パトリシア・ハイスミスのノルウェー語訳を手掛けている。(日本の作品は、英語からの重訳だろうか?) 高見広春 (Koushun Takami) (ノルウェー語版Wikipedia) Battle Royale / 『バトル・ロワイアル』 ISBN 9788204105134 (2006年) 翻訳者のYngve Johan Larsen氏は、ほかに村上春樹の翻訳などを手掛けている。 戸川昌子 (Masako Togawa) Blodig dagbok / 『猟人日記』 ISBN 9788251403566 (1990年)(リンク先 書影なし) 翻訳者のAtle Næss氏(英語版Wikipedia)は、ノルウェーの小説家。 ノルウェー語から(直接・間接問わず)日本語に訳されたミステリは、ベルンハルト・ボルゲ『夜の人』(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、1960年)、アンネ・ホルト『女神の沈黙』、『土曜日の殺人者』、『悪魔の死』(集英社文庫、1997-1999年)、トム・エーゲラン『狼の夜』(扶桑社ミステリー、2008年)、ジョー・ネスボ『コマドリの賭け』(ランダムハウス講談社文庫、2009年)、カリン・フォッスム『湖のほとりで』(PHP文芸文庫、2011年5月)などがある。 スウェーデン (Sweden) スウェーデン語:母語話者数 約1000万人(北欧5カ国およびバルト三国の中で最多) 桐野夏生 (Natsuo Kirino) (スウェーデン語版Wikipedia) Fri / 『OUT』 (★追加) ISBN 9789170022180 (2007年) ISBN 9789170026645 (2008年) 翻訳者のLars Vargö氏は、ほかに夏目漱石や安部公房の翻訳を手掛けている。 戸川昌子 (Masako Togawa) Kvinnojägaren / 『猟人日記』 ISBN 9789150209181 (1988年)(リンク先 書影なし) 英語からの重訳。翻訳者はÖjevind Lång氏。 ほかの北欧の国々と比べると、スウェーデンのミステリの邦訳は以前からそれなりになされており、古くは『新青年』にS・A・ドゥーゼやフランク・ヘラーの作品が邦訳されていた。1970年代から80年代にかけては、マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールーのマルティン・ベックシリーズ全10作(角川書店)や、ヤーン・エクストレム『誕生パーティの17人』(創元推理文庫、1987年)が注目を集め、その後もヤン・ギルー(1995年)、シャスティン・エークマン(1998年)の邦訳が刊行されている。21世紀に入ってからは、2001年にヘニング・マンケルのミステリ作品が刊行されたのに続いて、リサ・マークルンド(2002年)、ホーカン・ネッセル(2003年)、カーリン・アルヴテーゲン(2004年)、アンデシュ・ルースルンド&ベリエ・ヘルストレム(2007年)、オーサ・ラーソン(2008年)、スティーグ・ラーソン(2008年)、カミラ・レックバリ(2009年)、ヨン・アイヴィデ・リンドクヴィスト(2009年)、ラーシュ・ケプレル(2010年)、ヨハン・テオリン(2011年)と、次々に新たな作家の邦訳が続いており、日本ではスウェーデンは、英米やフランスに次ぐミステリ大国として認知されているといっていいだろう。 デンマーク (Denmark) デンマーク語:母語話者数 約600万人 桐野夏生 (Natsuo Kirino) Ude / 『OUT』 (★追加) ISBN 9788791812309 (2008年) 鈴木光司 (Koji Suzuki) (デンマーク語版Wikipedia) Ring / 『リング』 (★追加) ISBN 9788759525012 (2005年) Spiral / 『らせん』 (★追加) ISBN 9788759526132 (2006年) 戸川昌子 (Masako Togawa) En kvindejægers dagbog / 『猟人日記』 (★追加) ISBN 9788777243462 (1993年)(リンク先 書影なし) 宮部みゆき (Miyuki Miyabe) Skyggefamilie / 『R.P.G.』 (★追加) ISBN 9788711431740 (2010年) 題名から判断して、英訳版『Shadow Family』からの重訳だろう。 デンマーク語から(直接・間接問わず)日本語に訳されたミステリは、アーナス・ボーデルセン『轢き逃げ人生』、『罪人は眠れない』、『殺人にいたる病』、『蒼い迷宮』、アイザック・ディネーセン(カレン・ブリクセン)『復讐には天使の優しさを』、ペーター・ホゥ『スミラの雪の感覚』(新潮社、1996年)、『ボーダーライナーズ』(求龍堂、2002年)などがある。 フィンランド (Finland) フィンランド語:母語話者数 約600万人 高木彬光 (Akimitsu Takagi) Ilmiantaja / 『密告者』 ISBN 9789510064917 (1974年) 翻訳者はMarjukka Iizuka氏。名字から判断して、日系の人が日本語から訳したのかなと思ったが、WorldCatによれば英語からの重訳だそうだ。 松本清張 (Seicho Matsumoto) Junaongelma / 『点と線』 ISBN 9789510059869 (1973年) 翻訳者はKristiina Kivivuori氏。 フィンランド語から(直接・間接問わず)日本語に訳されたミステリは、マウリ・サリオラ『ヘルシンキ事件』(TBS出版会、1979年)、ペンッティ・キルスティラ『過去よさらば』(新樹社、2000年)などがある。 ――北欧5カ国まとめ―― フィンランドを除く4カ国 桐野夏生『OUT』が4カ国すべてで翻訳されているのは、やはりエドガー賞の候補になったというのが大きいのだろう。またアイスランドを除く3カ国では、戸川昌子『猟人日記』が翻訳されている。戸川昌子は、ジュリアン・シモンズの推理小説研究書『ブラッディ・マーダー』でも取り上げられており、欧米ではある程度知名度があるようだ。あとは宮部みゆきの作品がデンマークで刊行されているぐらいで、有名どころの江戸川乱歩、松本清張、夏樹静子の本が出ていないか各地のネット書店等で検索してみたが見つからなかった。広義のミステリまで目を配ると、ノルウェーで高見広春『バトル・ロワイアル』、デンマークで鈴木光司の『リング』、『らせん』が訳されている。 フィンランド 言語系統が違うことが影響しているのか、翻訳されている作品もほかの4カ国とは異なっている。北欧5カ国およびバルト三国の8カ国の中で、唯一、高木彬光の作品が刊行されている。 上では単行本として刊行されたもののみまとめたが、短編では、スウェーデンの雑誌『CDM』(Short Stories of Crime, Detection Mystery)に宮部みゆき「うそつき喇叭」が掲載されている(情報源:『ミステリマガジン』2009年1月号、p.37)。また、国際交流基金のデータによると、ノルウェーのHalldis Moren Vesaas氏(英語版Wikipedia)が1988年に岡本綺堂の「平家蟹」(青空文庫)を翻訳している(ノルウェー語タイトル: Heike krabbane )。 ほかに、小松左京『日本沈没』(日本推理作家協会賞受賞作)のスウェーデン語訳(Japan sjunker、1980年刊行)もある。 国名 人口 公用語とその母語話者の数 推理作家一覧(各言語版Wikipedia) アイスランド 32万人 アイスランド語(32万人) ノルウェー 494万人 ノルウェー語(500万人) Kategori Norske krimforfattere (カテゴリ:ノルウェーの推理作家/146人) スウェーデン 942万人 スウェーデン語(1000万人) Kategori Svenska kriminalförfattare (カテゴリ:スウェーデンの推理作家/111人) デンマーク 556万人 デンマーク語(600万人) Kategori Krimiforfattere fra Danmark (カテゴリ:デンマークの推理作家/35人) フィンランド 538万人 フィンランド語(600万人) Luokka Suomalaiset rikoskirjailijat (カテゴリ:フィンランドの推理作家/74人) (フィンランドでは、国民の6%が母語とするスウェーデン語も公用語になっている) (母語話者数は、国外居住者も含む) バルト三国のミステリ 国名 人口 公用語とその母語話者の数 エストニア 134万人 エストニア語(105万人) ラトビア 223万人 ラトビア語(150万人) リトアニア 325万人 リトアニア語(400万人) (比較:横浜市の人口が約370万人) (母語話者数は、国外居住者も含む) バルト三国のミステリについて書かれている日本語の文献は今までに見かけたことがない。乱歩が世界のミステリについて手紙のやり取りをして苦労して情報を集めた時代とは異なり、現代ではインターネットという便利なものがある。 Google翻訳を使いつつWikipediaの記事を辿っていくと、以下の記事が見つかった。北から順に並べる。 エストニア語版WikipediaKriminaalromaan (推理小説) Eesti kriminaalkirjandusteoste loend (エストニアの推理小説リスト) Kategooria Eesti kriminaalkirjanikud (カテゴリ:エストニアの推理作家) ラトビア語版Wikipediaなし リトアニア語版WikipediaDetektyvas (推理小説) Kategorija Lietuvos detektyvų rašytojai (カテゴリ:リトアニアの推理作家) 「エストニアの推理作家」のカテゴリには10人の作家の記事がある。その中でも一番若い Indrek Hargla (1970年生まれ、男性)の作品はフランス語やロシア語、フィンランド語に翻訳されているとのことだが、amazon.frではそれらしき書籍が見つけられなかった。長編ではなく短編が翻訳されただけなのだろう。SFやホラーも書く作家のようだが、2010年には、15世紀のエストニアの首都タリンを舞台に、薬剤師のメルキオール(Melchior Wakenstede)が事件の謎を解く『Apteeker Melchior ja Oleviste mõistatus』(薬剤師メルキオールと聖オラフ教会の謎)(書影)と『Apteeker Melchior ja Rataskaevu viirastus』(薬剤師メルキオールとラタスカエヴ通りの幻影)(書影)を発表している。 ラトビア語版Wikipediaでは推理小説に関連する記事が見つけられなかった。エストニア語版Wikipediaが約8万の記事を擁しているのに対して、ラトビア語版Wikipediaは総記事数が3万ほどなのでこれは仕方がないか(比較:日本語版の総記事数は約73万)。 「リトアニアの推理作家」のカテゴリには8人の作家の記事があるが、他言語へ作品が翻訳されている作家はいないようだ。古い時期の作家の記事が多いが、1950年以降生まれの作家に、Juozas Šikšnelis(1950年生)とSaulius Stoma(1954年生)がいる。 この3言語では、日本の推理作家の記事は書かれていない。 エストニア (Estonia) エストニア語:母語話者数 約105万人 松本清張 (Seisho Matsumoto) Mäng sõiduplaaniga / 『点と線』 ISBN不明 (1974年版) 1974年?(国際交流基金のデータでは1972年)、エストニアの出版社「Eesti Raamat」から刊行。翻訳者はAgu Sisask氏。 エストニアでの刊行が確認できる日本のミステリはこの一作のみ。エストニアでの刊行とほぼ同じ時期に、フィンランドでも『点と線』が刊行されている。フィンランド語とエストニア語が非常に近い言語であることが関係しているのだろうか。 ほかに、国際交流基金のデータによれば、1962年に江戸川乱歩の短編「人間椅子」が翻訳されているとのこと(エストニア語タイトル: Inimtooi )。 ラトビア (Latvia) ラトビア語:母語話者数 約150万人 国際交流基金のデータでは翻訳なし(ミステリに限らず、ラトビア語への翻訳のデータが1件もない)。上で示したように、日本のミステリのデンマーク語への翻訳については、国際交流基金のデータではゼロだったが実際には翻訳があったので、ラトビア語訳も実際には刊行されているかもしれない。 リトアニア (Lithuania) リトアニア語:母語話者数 約400万人 小林久三 (Kyuzo Kobayashi) Rugpjūtis be imperatoriaus / 『皇帝のいない八月』 ISBN不明 (1984年) 1984年、リトアニアの出版社「Mintis」から刊行。翻訳者は(国際交流基金の記述では)Damute Skuoziuniene氏(正しくは Danutė Skuodžiūnienė か?)。 英訳やフランス語訳、ドイツ語訳も出ていない作品が突如出てきたが、この作品はロシア語訳が出ているので、おそらくロシア語からの重訳だろう(翻訳者の名前 Danutė Skuodžiūnienė で検索すると、ロシア語からリトアニア語への翻訳者であったことが推察できる)。表紙に書かれた作者名は「K. Kobajasis」となっている。 鈴木光司 (Koji Suzuki) Skambutis / 『リング』 ISBN 995597253X (2005年) Spiralė Skambutis II / 『らせん』 ISBN 9955700009 (2006年) Kilpa Skambutis III / 『ループ』 ISBN 9789955700104 (2007年) Tamsus vanduo / 『仄暗い水の底から』 ISBN 9789955972556 (2005年) 松本清張 (Seisho Matsumoto) Juodoji evangelija / 『黒い福音』 ISBN 5415001964 (1991年版) 1969年、リトアニアの出版社「Vaga」から刊行。翻訳者はJuozas Vaišnoras氏。 松本清張の作品の中で、なぜ英訳もフランス語訳もドイツ語訳も出ていないこの作品が?と思ってしまうが、この作品もロシア語訳が出ているので、その重訳だろう。なお、リトアニア語では清張の名前は「Seitė Macumotas」と書くようだ。発音は「セイチョー・マツモタス」でいいんだろうか。 森村誠一 (Seiichi Morimura) Mirties konteineriai/ 『死の器』 ISBN不明 (1986年) 1986年、リトアニアの出版社「Mintis」から刊行。翻訳者はStanislovas Nekrašius氏。国際交流基金のデータではタイトルの綴りに誤りがある。表紙に書かれた作者名は「S. Morimūra」。 国際交流基金のデータでは原題が書かれていないが、1986年以前にロシアで刊行された森村誠一作品を探したところ『Контейнеры смерти』(死の器)が見つかったので、リトアニア語版のタイトルからみても、これの翻訳と見て間違いないだろう。 参考文献 北欧5カ国のミステリについて:『ハヤカワミステリマガジン』2010年11月号【特集 北欧ミステリに注目!】(早川書房、2010年9月)(小山正「北欧ミステリ徒然草」、およびその他の北欧ミステリ特集記事) 北欧5カ国およびバルト三国の言語について:『世界のことば』(朝日選書、1991年)(池上佳助「アイスランド語」、大島美穂「ノルウェー語」、本間晴樹「スウェーデン語」、村井誠人「デンマーク語」、百瀬宏「フィンランド語」、松村一登「エストニア語」、志摩園子「ラトビア語」、村田郁夫「リトアニア語」) リンク Hið íslenska glæpafélag (アイスランド推理作家協会) Rivertonklubben (リバートンクラブ) ※ノルウェーの推理作家団体 Svenska Deckarakademin (スウェーデン推理作家アカデミー) Det Danske Kriminalakademi (デンマーク推理作家アカデミー) Suomen dekkariseura (フィンランド推理クラブ) Asociación Internacional de Escritores Policíacos (国際推理作家協会)北欧支部:Skandinaviska Kriminalsällskapet (スカンジナヴィア推理作家協会)Glasnyckeln - The Glass Key (ガラスの鍵賞) 「日本ミステリの海外刊行」に戻る
https://w.atwiki.jp/kt108stars/pages/11157.html
46 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 10 48 41.59 ID PF/Wk+Ct0 ミスリードとはちょっと違うかもだけど結果的にミスリードになってしまった事で責められた事がある 目標値制のゲームではないゲームで、序盤に出てきた情報からのメタ読みでボスの正体を間違って推測し、間違った対策を行って さらなる情報収集を振ってみたものの不要と断じられ、その結果大苦戦&ボス取り逃がしのバッドエンドとなった 序盤の少ない手がかりと間違った推理を繰り広げたのに対しても「そういう推理ができちゃうような誤情報を配置したのがいけない」と言われた 47 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 10 57 15.03 ID PRO1/1y/0 [1/2] 自分でミスリードしたのが分かってて無理やりGMに責任かぶせたんだろうね ただのゲスです乙でした 48 名前:ゲーム好き名無しさん[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 11 13 36.16 ID rwAnytl50 [1/2] 初手でしくじったとしても情報なんて多ければ多いほど精査できると思うのに なんで不要だと思うんだろう、その脳筋。 スレ433
https://w.atwiki.jp/asianmystery/pages/136.html
2011年5月9日-30日 ロマン・キム (Роман Николаевич Ким, 1899-1967, ロシア語版Wikipedia(1言語)) 長編『切腹した参謀達は生きている』(高木秀人訳、五月書房、1952年1月)※一部がカットされている 『切腹した参謀たちは生きている』(長谷川蟻訳、晩聲社、1976年12月)※完訳 Index ソ連のスパイ小説作家 ロマン・キム『切腹した参謀達は生きている』(五月書房、1952年) 未訳作品と中国での刊行状況 乱歩とロマン・キムの文通 ロマン・キムの生涯生い立ち~日本留学時代 ソ連での大学生~教員時代 1930年~1947年の「謎」 作家としての活動 ロマン・キム企画の雑誌・アンソロジーは実現したか 注 参考文献 リンク ソ連のスパイ小説作家 ロマン・キム 『切腹した参謀達は生きている』(五月書房、1952年) ロマン・キムの名はほとんど日本では――少なくとも日本のミステリ界隈では知られていない。作品を読んだことがあるミステリファンは数えるほどだろうし、その邦訳が刊行されていることを知る人も少ないだろう。あるいは熱心な江戸川乱歩ファンであれば、その随筆に名前が登場するソ連の推理作家として、彼のことを記憶にとどめているかもしれない。江戸川乱歩は2人の「キム氏」と文通をしている。1人は韓国の推理作家の金来成(キム・ネソン、1909-1957)であり、もう1人は、ここで紹介するソ連の推理作家のロマン・キム(1899-1967)である。 ロマン・キムは、たとえば権田萬治編『海外ミステリー事典』(新潮社、2000年)にも項目がないが、邦訳状況を考えるとこれは仕方がないと言える。ロマン・キム作品で邦訳されているのは、第二次世界大戦および朝鮮戦争を背景とするスパイ小説『切腹した参謀達は生きている』の1作のみである。これは、乱歩がロマン・キムと文通を始める4年前の、1952年に刊行されている。 ロマン・キム『切腹した参謀達は生きている』(高木秀人訳、五月書房、1952年1月)/ Тетрадь, найденная в Сунчоне (1951) 原題は直訳すると『スンチョン(順川)で発見されたノート』で、1951年にソ連作家同盟の機関誌『ノーヴイ・ミール(Новый мир/新世界)』に発表された。翌1952年1月には早くも日本語になったわけだが、この作品は先にも述べたように第二次世界大戦と朝鮮戦争を背景としており、日本やアメリカの人物が実(・)名(・)で(・)登場するスパイ小説であったため、GHQの管理下にあった当時の日本ではそのまま刊行することができず、4分の1ほどが自主的にカットされている。それから24年経った1976年に、完訳版『切腹した参謀たちは生きている』(長谷川蟻訳、晩聲社、1976年)(「達」が平仮名表記になった)が刊行された。 ソ連の推理小説の邦訳は、1920年代末から30年代初めにかけて刊行されたマリエッタ・シャギニャン(ジム・ドル名義)『革命探偵小説 メス・メンド』、アレクセイ・トルストイ『ソヴエト・ロシア探偵小説集1 技師ガーリン』以来、少なくとも単行本の刊行は皆無だったと思うが、戦後にはわりと早い段階でソ連の推理小説が単行本で登場していたことになる。もっとも、この作品が推(・)理(・)小(・)説(・)と(・)し(・)て(・)刊行されたとは言えない。1952年の版を刊行した五月書房はレーニンなどの著作を出していた共産党系の出版社で、ソ連の大使館筋が日本での出版を急がせたという話がある(津村1976)。ロマン・キム自身は、政治的な思惑とは関係なくさまざまな地域を舞台にスパイ小説を書いていたようだが、『切腹した参謀達は生きている』の日本での刊行は、政治的な意図を強く感じさせるものだった。その24年後の完訳版も、推理小説とはゆかりのない出版社から刊行されている。 その出版意図はどうあれ、「(当時の)現代のソ連にも推理小説がある」と知らしめることになったという点で、この作品が刊行された意義は大きかった。このことについて、翻訳家の袋一平(1897-1971、日本語版Wikipedia)氏は以下のように述べている。袋氏は、1930年にモスクワの大学に映画の勉強をしに行ったときに、その大学の講師をしていたロマン・キムと会っており、映画輸入のことで手助けしてもらったり、自宅に招いてもらったりしている。いつ頃からかは分からないが、1965年ごろには文通もしていたようだ。 袋一平(1965)「キムさんとSF」(『S-Fマガジン』1965年1月号)より すでに戦後になって、キムさんが作家活動にいそしんでいることを新聞や雑誌で知った。そして1952年には、キムさんの作品の翻訳が日本でも出た。『切腹した参謀は生きている(ママ)』(原名『フムチョンで発見された手帖』)がそれで、推理・スパイものである。これはソ連では最も新しいジャンルの一つであり、ソ連には推理ものはない、という私たちの定説を破るものであった。ひきつづきキムさんは、『広島からきた少女』、『枕の下のコブラ』、『特務機関員』といった同じ傾向の作品を活発に書いている。(改段落)現在キムさんはシェイニン、サモイロフ、ウィリン(ママ)、アレフィエフなどとともに、ソ連有数の推理小説であり(ママ)、しかもソ連では推理小説とSFとは深い兄弟の間柄なので、SF畑にもつっこんだ関係をもっている。 袋氏は1922年に探偵雑誌『新趣味』誌上でジヱフワリ・フアーノル(Jeffery Farnolか?)「呪ひの影」(7月号)、エドウィン・ベアード(Edwin Bairdか?)「赤い弾丸」(9月号)を訳して以来、しばらく探偵雑誌とは関わっていなかったが、この『切腹した参謀達は生きている』でソ連にも推理小説があると知ったことがきっかけとなったのか、1955年から1957年にかけて引用中に見られるソ連の推理作家S・アレフィエフ、L・サモイロフ=ヴィリン、レフ・シェイニンやアナトーリィ・ベズーグロフの短編を翻訳し、ソ連ミステリ紹介の日本における草分けとして大きな役割を果たすことになる。(1965年に早川書房より刊行されたユリアン・セミョーノフ『ペトロフカ、38』は決して「本邦初登場!」(裏表紙)のソ連の探偵小説ではない) 未訳作品と中国での刊行状況 ロマン・キムは、スパイが活躍する国際謀略小説を主に書いた作家である。1965年の秋にモスクワで開かれた日ソ文学シンポジウムでは、日本代表の約20名のうちの1人として参加した日本のスパイ小説作家中薗英助(1920-2002、日本語版Wikipedia)と議論したこともあった。(中薗英助作品は英語圏・西欧では刊行されていないが、旧ソ連やポーランドなどでは刊行されている) 邦訳された『切腹した参謀達は生きている』以外に、ロマン・キムには以下のような作品がある。 ロマン・キムの主要作品『広島からきた少女』/ Девушка из Хиросимы (1954)「原爆が投下されたとき広島にいながら、奇跡的に無事だった少女の運命を物語」った作品(『切腹した参謀たちは生きている』訳者あとがき) 『特務機関員』/ Агент особого назначения (1959年、青少年向けの文学雑誌『若き親衛隊』に2号にわたって掲載、1962年に単行本化)「新中国における外国諜報組織の陰謀をテーマにした」作品(飯田1965) 「アフリカを舞台にした」作品(佐々木1962b) 「筋もかなりこみ入っていて推理もふかく、ハードボイルドな文体もなかなか新鮮味があって面白い。」(黒田1960) 『枕の下のコブラ』/ Кобра под подушкой (1962)「1943年のカサブランカを舞台にしてソ連のジャーナリストに対するイギリス諜報機関の追及を描いた」作品(飯田1965) 『読後焼却すべし』/ По прочтении сжечь (1962)「真珠湾攻撃前夜の日米スパイ合戦を描いた」作品(飯田1965) 『幽霊学校』/ Школа призраков (ロシア語版Wikipediaを見ると、ほかにも「Дело об убийстве Шерлока Холмса(シャーロック・ホームズ殺人事件)」などの作品を書いているようだが、ほかの文献で未確認) このうち、『広島からきた少女』(『広島の娘』、『ヒロシマのおとめたち』などとも)は、佐々木千世(1962a)によれば「二十数カ国語に翻訳され、評判をよんだ」そうだが、具体的にどの言語に翻訳されているのかは確認できていない。江戸川乱歩(1956)では「「スンチョン(註、朝鮮の地名か)で発見されたノート」「広島の娘」(邦訳あり)」とされているが、ほかの人がロマン・キムについて触れた文献では『広島からきた少女』に邦訳があると書いてあるものはないので、これは誤りだろうと思う。 また、日本の下山事件に興味を持ち資料集めをしていたこともあったようだが、それが作品として結実しているのかは分からない。 日本では1作しか読むことができない一方、中国ではソ連の推理小説を語る上では欠かせない作家の1人とされており(曹正文(そう せいぶん)『世界偵探小説史略』(1998)第14章「旧ソ連と東欧の探偵小説」第1節「旧ソ連探偵小説の形成と特徴」)、少なくとも以下の4作が刊行されている。名前の表記は、金羅曼(きん らまん/ジン ルオマン/Jin Luoman/金罗曼)または、羅曼・金。 《在顺川发现的一本日记》(スンチョン(順川)で発見されたノート)=邦題:切腹した参謀達は生きている 《特殊使命的间谍》(特務機関員) 《枕头底下的眼镜蛇》(枕の下のコブラ) 《看完烧毁》(読後焼却すべし) 乱歩とロマン・キムの文通 乱歩はロマン・キムと1956年に文通を始めている。ロシア文学者の原久一郎(1890-1971、日本語版Wikipedia)氏が、ソ連および中華人民共和国から正式な招待を受けて両国を視察することになったため、以前にソ連で自分の作品が話題になったということを耳にしていた乱歩は、完成したばかりの自分の英訳短編集を原久一郎氏に託したのである(乱歩が日本探偵作家クラブ会員のJ・B・ハリス(平柳秀夫、1916-2004、日本語版Wikipedia)と二人三脚で作り上げた初の英訳短編集『Japanese Tales of Mystery Imagination』は、1956年5月中旬に完成した)。 江戸川乱歩「探偵小説の世界的交歓 チェーホフの長篇探偵(?)小説」(『宝石』1956年10月号)より 原久一郎さんは日ソ親善協会の文化使節団長としてソ聯、中共を視察、六月九日出発、七月二十日帰国された。(中略)モスクワの一行の旅宿へは文化関係のソ聯人や岡田嘉子さんなどが次々と訪ねてきた中に、ソ聯作家同盟の一員であり、ソ聯では冒険小説作家(探偵小説を含む)と呼ばれているロマン・キム氏があった。 このキム氏のことは私は三十年前から知っていた。 昭和二年【1927年】、平凡社の「現代大衆文学全集」の「江戸川乱歩集」の附録月報に、平凡社編集長の志垣氏が、ロシヤで私の作品が話題にのぼっているという記事を書き、東洋語学院教授ニコライ・キンという人が、志垣氏も列席したモスクワの会合で私の作品のことを噂したことを紹介したので、これが深く記憶に残っていた。そのキン氏が今もモスクワで活動しておられることを、近頃も何かで読んだので、原さんが出発するとき、私の英訳短篇集を托し、キン氏に会ったらあげてくれるように頼んでおいた。それがキン氏の方から原団長を訪ねてきたわけである。志垣氏の書いたニコライ・キンは間違い。ロマン・キム(Roman Kim)が正しいのである。 (中略) 原さんは前記の私の英訳本をキム氏に贈り、私の伝言をつたえてくれたのだが、するとキム氏は私あての長い手紙を原さんに托し、数日前、私はこれを受け取った。 ロマン・キムからの手紙は、原久一郎氏の息子でロシア文学者の原卓也(1930-2004、日本語版Wikipedia)氏が訳し、全文が『宝石』1956年10月号に転載された。乱歩が8月末に返事を送ると、続いて第二信が届き、これも同じく原卓也氏の訳で、全文が『宝石』1957年1月号に転載されている。 第三信は、乱歩が文通を始める以前の1955年ごろからすでにロマン・キムとの文通を開始していたロシア文学者の木村浩(1925-1992、日本語版Wikipedia)氏経由で届いた。これは木村氏が訳し、その大部分が『宝石』1957年8月号に転載されている。 (その後については、未調査) これらの手紙でロマン・キムは、日本のミステリに関して驚くべき博識ぶりを示している。彼は乱歩の『幻影城』や『探偵小説三十年』を読んでおり、彼が当時企画していた日本の推理小説のアンソロジーでは、収録予定の作家として乱歩、木々高太郎、大下宇陀児、城昌幸のほか、当時まだ新人だった高木彬光や島田一男の名を挙げている。ロマン・キムは小学校・中学校時代に日本に留学した経験があり日本語が読めたため、多数の日本の推理小説を収集し、原文で読んでいたのである。乱歩はロマン・キムの求めに応じて、少なくとも自著の『猟奇の果』や『プロメテ』1947年1月号(推理小説特輯号)、雑誌『密室』、雑誌『黄色い部屋』を送っている。ほかにロマン・キムは手紙の中で、乱歩の『黄金仮面』『十字路』、木々高太郎『美の悲劇』(※未完)、坂口安吾『不連続殺人事件』、中島河太郎『探偵小説事典』などをもしできれば送ってほしいと乱歩に頼んでいるので、これらもおそらく送っているだろう。 ロマン・キムは手紙の中で、推理小説に対する自分の立場を以下のように表明している。「私は文学的本格派(つまり探偵小説の興味を保持しながら、出来るだけ文学的にする)の道こそ探偵小説の本道であるという点で、先生と同意見です。先生は「幻影城」やその他の著書、論文の中で、探偵文学がその文学的レベルを高め探偵小説の中にも充分性格が描き出された人物が登場し、背景や生活などが充分示されるべきことを強調しておられます。私も全く同意見です。」(第一信) ロマン・キムの手紙には、帝政ロシア末期以降のロシア・ソ連ミステリの歴史や、当時のソ連ミステリ界の最新状況、ソ連ミステリ界と中国ミステリ界の交流などの貴重な情報が詰まっているが、このページではロマン・キム本人についてまとめるにとどめ、ロマン・キムの手紙の内容については、別のページでまとめる。 ロマン・キムの生涯 ロマン・キムについては、乱歩より先にロマン・キムとの文通を開始し、乱歩への第三信を訳した人物として上で名前を挙げたロシア文学者の木村浩氏による「〈ある作家の肖像〉ソ連の推理作家 ロマン・キムの謎の部分 三つの祖国を持ち歴史に翻弄された男の一生」(『文藝春秋』1984年1月号、pp.316-332)がおそらく日本語で読める最も詳しい評伝である。木村浩氏は1955年頃にロマン・キムと文通を開始し、1958年以降、何度かモスクワのロマン・キム邸を訪れている。ロマン・キムの晩年まで付き合いがあった木村浩氏が、彼の口から直接聞いた証言に加え、さらに詳細な調査を行って執筆したもので、今後もこれ以上の評伝はなかなか現れないだろう。 生い立ち~日本留学時代 それによれば、ロマン・ニコラエヴィチ・キムは1899年7月20日(新暦8月1日)にロシアのウラジオストックで生まれた。両親は朝鮮人であったが、反日派の政治家だった父が帝政ロシアに政治亡命しており、ロマン・キムはそこで生まれたのである。朝鮮名は金夔龍(きん きりゅう/キム ギリョン/김기룡)。母は北京のカトリック系女学院を卒業した才女で、フランス語が堪能だったという。1906年9月、ロマン・キムは日本の慶應の幼稚舎(=小学校)に入学する。これは「敵国日本」を知るためには日本の教育を知らなければならないという父の方針だった。預けられた先は、若き日の昭和天皇の教育係も受け持った杉浦重剛(すぎうら じゅうごう、1855-1924、日本語版Wikipedia)の家だった。最初は学校でいじめられることもあったが、ロシアの観光団が学校に見学にやって来たときにその通訳をやってみせて、株が急に上がったという。ほかに本人の証言によれば、『明星』の与謝野鉄幹のためにロシアのシンボリズムの詩を訳したこともあり、「金先生」と書いた礼状が届き、級友に自慢したという。1913年には、杉浦家の親戚の子供のない家庭に養子として迎えるという話も出たが、それを聞いた彼の父は彼をロシアに呼び戻している。退学時の慶応普通部(=中学校)の学籍簿では名前は「杉浦龍吉」となっているそうだ。(慶応の学籍簿では1913年に退学と記録されているそうだが、一方で、1917年にロシアに戻ったとの情報もあり、木村浩氏も、この辺りについては分からなかったとのこと) ロマン・キムの慶応時代の同級生に、志賀直哉の弟の志賀直三がいる。志賀直三は、自伝『阿呆伝』(新制社、1958年)でロマン・キムについて書いている(この本ではロマン・キムは「金基劉」と表記されている)。ただし、木村浩氏がほかの同級生からもさまざまな証言を集めたところ、『阿呆伝』にはかなりの誤りがあることが分かったそうだ。また、浮世絵研究家の高見澤忠雄も当時ロマン・キムと親しかったという。 ソ連での大学生~教員時代 今まさに「帝政ロシア」から「ソビエト連邦」へと国が変わっていくただなかにロマン・キムは帰国した。ウラジオストック大学(極東連邦大学)東洋学部に入学し、1923年に卒業。このころには、のちに作家となるアレクサンドル・ファジェーエフ(1901—1956、ロシア語版Wikipedia)と交流があったそうだ。ロマン・キム本人によれば、ファジェーエフの長編『壊滅』(1927)の初版には「学生キムが黒板にストライキ万歳と書いた」という一節があり、これはロマン・キムのことだったが、この一節は後にロマン・キムとファジェーエフの仲が悪くなったため削られてしまったのだという。 1920年(※「シベリア出兵」の時期)、ウラジオストック大学の学生だったロマン・キムは、沿海州電報通信社の特派員としてニコリスク市(現・ウスリースク市、ウラジオストックから北に約70km)で開かれた「ソビエト極東勤労民代表者大会」に参加するが、その帰路、外国およびロシアの記者団を乗せてウラジオストックに向かっていた列車が日本の憲兵に停止させられ、臨検が始まる。そこでロマン・キムは、憲兵に見咎められてしまう。 彼らは、私の持っていた鞄の中に、外国の占領軍のことを悪く書いた私の手記やポスターなどを見つけました。憲兵将校は私を『不逞鮮人』として逮捕すると宣告しました。 憲兵らは私の手を摑んで客車の出口の方へ引張っていこうとしました。すると、その瞬間でした。ひっそりとした車内の緊張――恐ろしき沈黙――を破って落ちついた声が聞えてきました。『これは私の秘書で日本人です。車内に置いといて下さい』この言葉の主はわたしがこの旅行のなかで知り合いになった、日本の新聞記者大竹博吉であったのです。 この後、ロマン・キムはなんとか事なきを得るが、木村氏が聞いたところによれば、ロマン・キムと大竹博吉が知り合ったのは、このほんの一時間ほど前だったという。さて、ここで急に出てきた「大竹博吉」という名前に心当たりがある人はあまりいないだろうが、1920年代末から1930年代初めにかけて、ソ連の〈赤い探偵もの〉、『メス・メンド』や『技師ガーリン』を日本に翻訳紹介した広尾猛は、本名、大竹博吉(1890-1958、日本語版Wikipedia)。ここでロマン・キムの命の恩人となった人物と同一人物である。この後、ロマン・キムと大竹博吉(広尾猛)は、生涯にわたる特別な友となった(上に引用した文は、大竹博吉が亡くなったときにロマン・キムがモスクワから寄せた文章の一部、木村氏の記事より孫引き)。ロシア・東欧SFの翻訳で知られる深見弾(1936-1992、日本語版Wikipedia)氏は、大竹博吉の訳業について、「大衆文芸小説もしくは冒険推理小説の変型としてかれが日本へ紹介した作品は、ソ連では今日でも読まれている名作ばかりであることから考えても、その選択眼の確かさには驚かされる」(深見1978)と述べているが、そこにはロマン・キムの協力があったのかもしれない。 ロマン・キムは1923年にウラジオストック大学を卒業し、1923年から1930年まではモスクワの大学で中国文学と日本文学を教えている。袋一平氏がロマン・キムと会ったのはこのころである。女優の岡田嘉子の本によれば、「なかなかのダンディで、ダンスがうまく、機智に富み、座談が巧みで、しかも流暢な日本語をしゃべるキムさんは、一時教鞭をとっていた外語大学の日本語科に学ぶ女子学生の間で、ものすごい人気だったと聞きました」とのこと(岡田嘉子『心に残る人びと』(早川書房、1983年)、木村氏の記事より孫引き)。 1930年~1947年の「謎」 さて、1930年から1947年までのロマン・キムについては、木村氏のことばを借りれば、「謎にみちみちている」。この時期のことについてはロマン・キム本人はあまり語らなかったが、木村氏が見聞したところによれば、どうやらKGB(カー・ゲー・ベー/ソ連国家保安委員会)の前身の組織のNKVD(エヌ・カー・ヴェー・デー/内務人民委員部)に所属し、スペイン内戦(1936-1939)に参加したりしていたらしい。スペイン内戦の時の友人として、ロマン・キムは作家のレフ・スラーヴィン(Лев Исаевич Славин、1896-1984、ロシア語版Wikipedia)とサーヴィチ(Овадий Герцович Савич、1896-1967、ロシア語版Wikipedia)の名を挙げ、実際にこの2人を自宅に招き、木村氏に紹介している。 ソ連のスペイン内戦への介入は失敗し、スペイン内戦に参加した人々の中には粛清に倒れた人もいた。木村氏が見聞したところによれば、ロマン・キムはスペイン内戦後、スターリン時代の収容所でも特に苛酷だったことで知られるコルイマ収容所に収容されていたらしい。第二次世界大戦ではベルリン戦線に参加したとロマン・キム本人が木村氏に語っており、木村氏は、収容所からの出征でベルリンに行ったのだろうと推測している(収容所から前線へいくことを志願して許可されるケースは実際にあったとのこと)。 一方で、ロシア語版Wikipediaのロマン・キムの記事をロシア語→英語(ロシア語→日本語よりは幾分かましだろう)の機械翻訳で読むというはなはだ不確かな方法によると、ロマン・キムは1930年にソ連の対外諜報機関に入り日本で活動したが、1937年に日本のスパイだとして捕まり、その後は逮捕されたまま翻訳者・通訳者として従事し、1946年に釈放されたのだという。少なくとも、スペイン内戦に参加したというのは、木村氏がロマン・キム本人の口から聞いていることなので間違いないのだと思うが、この辺りについてはより新しい文献などで確認した方がいいかもしれない。 作家としての活動 その後の経緯は分からないが、戦後になってロマン・キムは、本格的に作家としての道を歩み始める。その主な著作は、先にページ上部で示した。当時のソ連では、推理小説、探検小説、SF小説を総称して冒険小説と呼んでおり、ロマン・キムも冒険小説作家と認識されていたようである。ロマン・キムが『切腹した参謀達は生きている』を発表した1951年には、一般の犯罪を描いた推理小説の執筆は許されておらず、このころに書くことができたのは国家的な犯罪・謀略を描くスパイ小説だけだった。ロマン・キムが当時のソ連の唯一の推理作家だなどと書かれている場合があるが、まったくそんなことはなく、1951年当時にスパイ小説を書いていた作家はほかにレフ・シェイニンやニコライ・トマンらがいる。スターリンの死後の1956年ごろからは、一般の犯罪を描く推理小説も発表できるようになったが、以降もロマン・キムは、日本語の文献からわかる限りでは、国際謀略小説を書き続けていたようである。 ほかに文学とのかかわりでは、若い頃に芥川龍之介の「藪の中」のロシア語訳をしたこともあり、晩年には志賀直哉の短編を訳したがっていたという。これは病気のため実現しなかった。 戦後はモスクワに、ポーランド系のリューバ夫人とともに暮らした。非常に社交的な人物だったようで、モスクワを訪れた日本人で、ロマン・キムの世話にならなかった人はいないぐらいだと言われている。日本人とは日本語で歓談したが、その日本語は慶応調の綺麗な日本語だったという。また一方で、ロシア語に関しても、作家仲間でも評判の美しさだったという。 ソ連作家同盟国際局幹部、日ソ協会幹部などを務め、年鑑アンソロジー『冒険の世界』(推理、探検、SF)の編集委員のひとりにもなっている。また作家グループの一員として、中国の北京や上海を訪れ中国の推理作家と交流したり、東西ヨーロッパやアメリカをまわったりしたこともあったそうだ。当時のソ連の作家がこんなにも国外の作家との交流が活発だったとは意外である。ほかにエジプトやエチオピアなども訪れており、アフリカを舞台にした作品も執筆している。しかし、日本を再訪できる日はついに訪れなかった。1958年には、慶應義塾百年祭に招かれているが、このときも仕事関係の旅行でヨーロッパをまわっており、来日は叶わなかった。 1966年秋、木村氏が作家の安部公房を伴ってロマン・キム邸を訪れると、胃潰瘍の手術の後だったロマン・キムは体調が思わしくなく、寝そべったままで話をしたという。その約8か月後の1967年5月14日、モスクワの自宅で息を引き取った。享年67歳。その数日前、ある特派員夫人の好意で50年ぶりに日本の味付けの蒲焼きを食べ、涙していたという。 ソ連の文学、SFの邦訳への協力 邦訳された作品はスパイ小説1作品に過ぎず、ロマン・キムの名が日本の文学史上で取り上げられることはないが、日本でのロシア文学の紹介に関して、見えないところで大いに貢献している。 たとえば、スペイン内戦について多くのページを割いているイリヤ・エレンブルグ(1891-1967、日本語版Wikipedia)の回想録『わが回想 ――人間・歳月・生活』を木村氏が翻訳するときは、ロマン・キムはエレンブルグのところを再三訪れて木村氏のために資料を入手したりしている。また、木村浩氏がソルジェニーツィン『イワン・デニーソヴィチの一日』(→Amazon(新潮文庫版))を翻訳する際には、自身の収容所での経験をもとにしたものか、ソ連の収容所の俗語リストとその詳しい注釈をつけた分厚い資料を作成し、翻訳を助けた。 1930年前後にソ連の空想科学探偵小説を翻訳した広尾猛(大竹博吉)との関係はすでに述べたとおりだが、ほかにも袋一平(1965)によれば、ロマン・キムは1965年当時は日本の『S-Fマガジン』を毎月入手しており、袋一平氏にお薦めのソ連SF作家を教えたり、ソ連のSFアンソロジーの原書を送ったりしている。袋氏は1960年代に、ソ連SFの翻訳で有名な深見弾氏に先駆けてソ連のSFを日本に紹介しているが、ここにもロマン・キムの協力があったと思われる。 しかし一方で、ロマン・キムが乱歩への手紙で紹介したソ連の推理小説は、現在にいたるまでまったく邦訳が出ていない。アルカージイ・アダモフの『雑色事件』などは木村浩氏が翻訳するという話も乱歩への手紙の中で出ているが、結局訳されなかった。この作品は、中国では1998年に、エラリー・クイーン、アガサ・クリスティ、夏樹静子、松本清張、森村誠一らの作品と並んで、第1回北京偵探推理文芸協会賞を受賞したソ連を代表する推理小説である。翻訳が実現しなかったことが悔やまれる。 ロマン・キム企画の雑誌・アンソロジーは実現したか 袋一平「ソヴエト推理小説の動向」(『探偵倶楽部』1955年10月号) ソヴエトでも近来は科学空想小説、冒険小説、そして推理小説が非常に盛んになってきました。ジュール・ヴェルヌやコナン・ドイル、ジャック・ロンドンやアラン・ポーなどはいわゆるベストセラーの中にはいっております。またモスクワでは作家ロマン・キム氏などを中心として推理・探偵もの専門の雑誌を発行する、というような計画も聞いています。ソ連としては真に破天荒な話といわなければなりません。 キム第一信(『宝石』1956年10月号) 現在私は探偵文学史の仕事を準備中ですが、そのあとで、イギリス、アメリカ、フランスの作家たちの優れた作品を翻訳したいと思っております。またこの全集には江戸川乱歩、木々高太郎、大下宇陀児、島田一男、高木彬光、城昌幸その他の人々の作品をも収録したい考えです。 キム第三信(『宝石』1957年8月号) 唯今、小生はまず最初に欧米作家の、次に日本作家の、短篇探偵小説傑作集を出すはこびになったと申上げていいと思います。最初の集は「若き親衛隊」社から出版される予定です。この選集の編集は小生に一任されており、小生は一連の信頼すべき翻訳家たちに仕事をしてもらっています。(中略)そして、この仕事と並んで、日本のすぐれた短篇探偵小説選集を編むというプランが生れたのです。この選集のなかへどんな作品を加えたらいいか、先生からご忠言をいただければ幸甚に存じます。先生の作品からは「ザクロ」「二銭銅貨」「二廃人」をいれたいと考えています。ただ今のところこの選集がどのくらいの規模のものになるかは分っておりません。つまり、まだ企画中というわけですが、しかし、小生は何としても日本の探偵作家のすぐれた作品をソヴェトの読者に紹介したいと考えております。この点について、先生から翻訳をすいせんされる作品のリストをお送りいただければ幸いです。 1962年の段階で、「推理・探偵もの専門の雑誌」はまだ実現していないが、欧米の推理作家のアンソロジーについては実現している。 佐々木千世(1962b) 氏【=ロマン・キム】の探偵小説に注ぐ熱情はたいへんなもので、数年来、ミステリーの月刊誌の発行を計画している。ただこれがまったく新しい企てだけに、《雪どけ》模様のソ連文壇でもさすがに慎重で、微妙な政策変更のニュアンスに左右されているという現状らしい。(改段落)雑誌発行の宿願は果たせぬながらそのかたきというわけでもなかろうが、彼が積極的に乗り出し、編集に当たったミステリーの翻訳がようやく日の目を見た。――「欧米探偵小説傑作集」がそれで、なかなか評判だったらしい。 『ミステリマガジン』1991年12月号の深見弾「ソビエト・ミステリ界の現状」によれば、ソ連最初のミステリ専門誌は、ロシア共和国推理作家同盟の総裁だったアナトーリィ・ベズーグロフが編集長を務めた1991年頃創刊の『インターポール・モスクワ』なので、ロマン・キムが計画していたミステリ専門誌は実現しなかったようである。 日本の推理作家のアンソロジーが実現したかどうかは、現時点では確認できていない。 注 朝鮮名の漢字表記について文藝春秋の記事では「金虁龍」となっているが、韓国では冠が「北」になっている「虁」よりも草冠の「夔」を使うのが普通なので、ここでは草冠の「金夔龍」を採用しておく。 参考文献 ロマン・キムおよびその作品についての文献 袋一平(1965)「キムさんとSF」(『S-Fマガジン』1965年1月号)p.75 秘密兵器(1976)「時標 政治 "切腹した参謀達は生きている"」(『新日本文学』1976年5月号)pp.9-10 津村喬(1976)「ロマン・キム『順川で見つけた手帖』を読みかえす ――朝鮮戦争二六周年に」(『新日本文学』1976年7月号)pp.46-55 木村浩(1984)「〈ある作家の肖像〉ソ連の推理作家 ロマン・キムの謎の部分 三つの祖国を持ち歴史に翻弄された男の一生」(『文藝春秋』1984年1月号)pp.316-332 ロマン・キムに言及している文献 袋一平(1955a)「ソヴエト推理小説の動向」(『探偵倶楽部』1955年10月号)p.271 江戸川乱歩(1956)「探偵小説の世界的交歓 チェーホフの長篇探偵(?)小説」(『宝石』1956年10月号)pp.68-77 - ロマン・キムからの第一信の全文が転載されている(原卓也訳) 江戸川乱歩(1957)「ソ連と中共の近況 ――ロマン・キム氏から第二信――」(『宝石』1957年1月号)pp.137-140 - ロマン・キムからの第二信の全文が転載されている(原卓也訳) 江戸川乱歩(1957)「海外近事 ――アメリカ、ソ連、オランダ――」(『宝石』1957年8月号)pp.238-243 - ロマン・キムからの第三信の大部分が転載されている(木村浩訳) 黒田辰男(1960)「ソヴェトの推理・科学小説 善人・英雄など肯定的人物を描く」(『日本読書新聞』1960年11月28日、6面) 佐々木千世(1962a)「ソ連の推理作家 上 数奇な半生のロマン・キム氏」(『東京新聞』1962年1月13日夕刊、8面) 佐々木千世(1962b)「ソ連の推理作家 下 読者の要望に応じたスパイ物」(『東京新聞』1962年1月14日夕刊、8面) 飯田規和(1965a)「ソ連の探偵小説」(『EQMM』1965年4月号)pp.70-72 飯田規和(1965b)「ソ連の探偵小説と『ペトロフカ、38』」(ユリアン・セミョーノフ『ペトロフカ、38』(早川書房、1965年)巻末、pp.251-258) 上の文献とほぼ同じ その他 深見弾(1978)「ロシヤ・ソビエトSFはこんなに訳されている(戦前)」(ナウカ株式会社『窓』1978年3月号(24号)、pp.40-47) 深見弾(1991)「ソビエト・ミステリ界の現状」(『ミステリマガジン』1991年12月号)pp.50-52 曹正文(そう せいぶん)『世界偵探小説史略』(1998)第十四章 前苏联与东欧的侦探小说 (旧ソ連と東欧の探偵小説) 第一节 前苏联侦探小说的形成与特点 (旧ソ連探偵小説の形成と特徴) また、以下の書籍の「訳者あとがき」類を参考にした。 ロマン・キム『切腹した参謀たちは生きている』(長谷川蟻訳、晩聲社、1976年) Wikipediaの記事にリンクを貼った箇所が複数あるが、Wikipediaの記事は、ロマン・キムの経歴がWikipediaでどう書かれているかを説明した箇所以外では、情報源として使用していない(ただし、主要人物以外の生没年に関しては、Wikipediaの記載を検証せずにそのまま書いている場合がある)。 リンク 木村浩(1984)「〈ある作家の肖像〉ソ連の推理作家 ロマン・キムの謎の部分 三つの祖国を持ち歴史に翻弄された男の一生」(『文藝春秋』1984年1月号)を韓国語で要約した記事を見つけたので、韓国語がわかる方はこちらをどうぞ。 이가형 / 세 개의 조국을 가진 로만 킴의 수수께끼 1 이가형 / 세 개의 조국을 가진 로만 킴의 수수께끼 2 ソ連/ロシア推理小説翻訳史 目次に戻る
https://w.atwiki.jp/asianmystery/pages/138.html
2011年5月9日-23日 ※未完成 アナトーリィ・ベズーグロフ (Анатолий Алексеевич Безуглов, 1928- ) 短編「にせのサイン ――弁護士の日記より――」(『宝石』1956年2月号、pp.72-82) (アナトーリ・ベズーグロフ) 「予審判事の捜査記録」(『ミステリマガジン』1991年12月号、pp.53-77) インタビュー最新ソビエト・ミステリ事情――人気作家にインタヴュー「アナトーリィ・ベズーグロフ「ドストエフスキーのような作家になるのが目標です」」(1991年7月23日収録、『ミステリマガジン』1991年12月号掲載、pp.46-49) 言及袋一平(1957)「ソ連の探偵小説界近況」(『日本探偵作家クラブ会報』第120号、1957年7月) 深見弾(1991)「ソビエト・ミステリ界の現状」(『ミステリマガジン』1991年12月号、pp.50-52) 略歴 『探偵倶楽部』に短編が掲載されてから実に35年、ようやく再びミステリ雑誌にベズーグロフの短編が翻訳掲載された。同じ号にベズーグロフのインタビューが載っている。ソ連崩壊の約5か月前に収録されたインタビューなので、その後状況はいろいろ変わっているだろうが、まずはこのインタビュー内容に従って、ベズーグロフの経歴などを紹介する。 A・ベズーグロフは、1928年にロストフ州ブデンノスカ市で生まれ、モスクワ法科大学で法律とジャーナリズムを学び、法学博士の学位をとった。6年間、検事の職に就き、後にマスコミ界に転じて、ラジオの法律問題の番組のディレクターとして知られるようになる。現在は、モスクワ法律専門大学で教授として教鞭をとるかたわら、今年創刊された雑誌《インターポール・モスクワ》の編集長をつとめ、さらに、作品も発表している。 これまでに『民警刑事』『蛇狩りをする男たち』『特捜班』『検事の手記』『検事のこと』『判事』『犯罪者』『黒い未亡人』『マフィア』『法は法』『検事』など多くの作品を発表し、今年の春、インテルデテクチフ社から新作長篇『掠奪者』を出した。「ソ連内務省文学賞」「ロシア共和国作家同盟文学賞N・Iクズネツォフ名誉金賞」を受賞。創作活動のかたわら、ソ連最初のミステリ専門誌のために取材活動や経営問題で海外出張を精力的にこなしている。 同号掲載のインタビューによれば、ベズーグロフは情報通信社インテルデテクチフ社の総裁でもある。また、ロシア共和国推理作家同盟の総裁でもある。この推理作家同盟は、作家やジャーナリスト、映画監督、アーティスト、編集者など広い意味でミステリと関わっている人たちの集まりで、インタビュー時には「まだ結成したばかり」だったそうだ。この団体がその後どうなったのかは分からない。 邦訳 『宝石』1956年2月号、アナトーリ・ベズーグロフ「にせのサイン ――弁護士の日記より――」(訳:袋一平)/ Анатолий Алексеевич Безуглов "(原題未調査)" 『探偵倶楽部』1955年10月号および11月号にL・サモイロフ=ヴィリン「夜の雷雨」(訳:袋一平)が掲載されると、当時の探偵小説の牙城たる『宝石』の編集部はこれにすぐ目を付けたようで、『宝石』1955年12月号には袋一平氏のコラム「ソヴエトの推理小説」が掲載されている。そして『宝石』1956年2月号には短編の翻訳も掲載された。どこの国のものであれ、面白いものがあればどんどん紹介していこうという気概があったのだろう。同号の編集後記には以下のようにある。 鉄のカーテンの向うのソビエートではどんなふうに探偵小説が変化してきているかと、袋一平氏に訳していただいたのが、アナトーリ・ベズーグロフの、「にせのサイン」です。探偵小説愛好の人間性は本質的なもので、政治力以上のものだとまた教えられました。(ながせ) もっとも、おそらくこの「にせのサイン」以降、『宝石』にソ連の推理小説の翻訳は掲載されていない(要調査)。この年の6月には日本版『EQMM』が創刊され、以降も英米の作品の紹介に主眼を置いた『マンハント』(1958-1964)、『ヒッチコック・マガジン』(1959-1963)が創刊される。これにより、英米のみならずフランスやドイツ、ソ連、中国など各地から面白そうな作品を見つけてきて「探偵小説」として紹介する「翻訳探偵小説」の時代は終わりを告げ、英米の「mystery」を系統立ててかつ大量に翻訳していく「翻訳ミ(・)ス(・)テ(・)リ(・)」の時代が到来する。以降、英米以外の推理小説の紹介頻度は極端に下がることになった。 『ミステリマガジン』によるインタビューと短編掲載(1991年12月号) 『ミステリマガジン』1991年12月号、アナトーリィ・ベズーグロフ「予審判事の捜査記録」 ソ連最初のミステリ専門誌『インターポール・モスクワ』 ロシア初の推理小説専門誌『インターポール・モスクワ』もインタビュー当時はまだ第1号がでたばかりだった。編集局長はベズーグロフで、編集委員には内務省アカデミー会長のA・アレクセーエフ、ソ連ミステリ界の(当時の)長老格であった作家のゲオルギー・ワイネル(1938-2009)のほか、日本評論家協会副理事の竹内陽一や、その他のフランス、イタリア、ドイツ、カナダの人物も加わっていた。創刊号は316ページで、ページの大半をイアン・フレミングの『女王陛下の007』が占めている。ほかに、ロシア人作家の作品が1編と、日本人作家の作品が1編掲載された。ロシア人作家の作品は、鉄道公案もので有名で、ソ連推理小説界のやはり長老的存在であったレオニード・スローヴィムのハードボイルド調の作品「深夜固定料金」。日本人作家の作品は、エラリー・クイーン選『日本傑作推理12選』から選ばれた筒井康隆「如菩薩峠」。 ソ連/ロシア推理小説翻訳史 目次に戻る