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※下記は全て、ブリタニカ百科事典(日本版)より引用(ただし※注はこちらで追記) 政治思想ないしイデオロギー 説明 関連ページ 保守主義、及び、保守主義の内実を成す概念 保守主義(conservatism) 既存の価値・制度・信条を根本的に覆そうとする理論体系が現れたときにこれに対する対抗イデオロギーとして形成される。「保守主義の宣言」とも言われる『フランス革命に関する省察』を著わしたE.バークは、人間のあらゆる制度の基礎は歴史であり、具体的な文脈のなかで長い時間をかけて培われてきたものだけが永続性を持つため、抽象的な哲学原理に基づく革命は座絶を運命づけられているとしている。バークは決して変化を拒絶しないが、それは既存のものの漸進的改良として果たされねばならないと考える。歴史的・有機的な社会秩序への人為的介入の排除とその漸進的改革が保守主義の思想的特徴であるが、これは現代のF.ハイエクやM.オークショットにもみられる考え方である。 保守主義とは何か 新保守主義(neo-conservatism) 1960年代後半以降、アメリカでリベラリズムや対抗文化の行き過ぎを批判しつつ登場してきた思想。I.クリストル、D.ベル、S.ハンティントンなどが代表的である。アメリカでは、ベトナム戦争の経験に伴う文化的混乱から若者を中心として性の自由や家族の解体といった急進的な主張がなされたが、反面、こうした潮流に強い危機意識をいだき、西欧的価値を擁護しながらアメリカの文化的同一性を再定義しようという試みも生まれた。これらは資本主義と自由の結びつきを強調し、共産主義に対する批判を共有するもので、現実の政策的提言においても連邦政府が過剰な役割を果たすことには懐疑的で、私的集団の活動の場を拡大する「小さな政府」への方向性を示唆している。このような主張を経済論として展開しているのが、新自由主義である。 自由主義(liberalism) 個人の諸自由を尊重し、封建的共同体の束縛から解放しようとした思想や運動をいう。本格的に開始されたのはルネサンスと宗教改革によって幕をあけた近代生産社会においてであり、宗教改革にみられるように、個人の内面的自由(信教の自由、良心の自由、思想の自由)を、国家・政府・カトリック・共同体などの自己以外の外在的権威の束縛・圧迫・強制などの侵害から守ろうとしたことから起こった。この内面的諸自由は、必然的に外面的自由、すなわち市民的自由として総称される参政権に象徴される政治的自由や、ギルド的諸特権や独占に反対し通商自由の拡大を求め、財産や資本の所有や運用を自由になしうる経済的自由への要求へと広がっていった。これらの諸自由の実現を求め苦闘した集団や階級が新興ブルジョアジーであったため、自由主義はしばしばそのイデオロギーであるとみられた。しかし各個人の諸自由を中核とした社会構造は、その国家形態からみれば、いわゆる消極国家・中性国家・夜警国家などに表象されるように、自由放任を生み、当然弱肉強食の現象を現出させることになり、社会的経済的に実質的な平等を求める広義の社会主義に挑戦されることになった。しかし、20世紀に出現した左右の独裁政治の実態は、自由主義が至上の価値としてきた内面的自由・政治的社会的諸自由などが、政治体制のいかんに関わらず、普遍的価値があることを容認せしめ、近代西欧社会に主として育まれてきた自由主義は再評価されている。 リベラリズムと自由主義 新自由主義(neo-liberalism) (1) 1870,80年代から勃興したイギリスの理想主義運動、なかんずくT.H.グリーンが主唱した社会思想。グリーンは、道徳哲学としてはJ.ロック、J.ベンサムなどの功利主義的自由主義ではなく、カントやヘーゲルの影響を受けた観念論的・理想主義的自由主義を、社会哲学としては、自由放任主義(経済的自由主義)ではなく国家による保護干渉主義(社会政策)を主唱した。しかし決して国家専制主義や全体主義に陥らず、個人の自我の実現、個人の道徳的生活の可能な諸条件の整備に国家機能が存在するとして、自由主義の中心である個人主義を継受した。この思想はイギリス自由党の労働立法・社会政策に思想的根拠を与えた。⇒※注:こちらは正確には new liberalismであり、訳すと文字通り「新自由主義」だが、現在はこちらの意味では使用されなくなったので注意が必要。 リベラリズムと自由主義 (2) 1930年代以降の全体主義国家の台頭や第二次世界大戦中から戦後にかけてのケインズ政策に反発して、再び個人の自由の尊厳を説き、政府の恣意的政策の採用を排し、法の下での自由を強調する思想。このような思想をもつW.オイケン、W.リプケ、L.ミーゼス、G.ハーバラー、F.ハイエク、L.C.ロビンズ、M.フリードマンらの多彩な人材を擁して、47年にモンペルラン・ソサエティーを結成している。恣意的・強権的権力の行使に反対する点ではかっての自由放任的自由主義と共通する面をもつため、その単なる復活と誤解されがちであるが、普遍的な法の強力な支配の必要を説き、法秩序の下での自由を強調する点で、かっての自由放任とは異なる。経済政策面でのその端的な表れは、ドイツに代表される社会的市場政策とシカゴ学派に代表される新貨幣数量説である。⇒※注:こちらが、neo-liberalism(正確に訳すと「再興自由主義」)すなわち現在使用されている意味での「新自由主義」である。 保守主義に隣接・類似するために混同されやすいが、別概念として区別すべきもの 自由至上主義(libertarianism)※注:項目なしのため、リバタリアン(libertarian)の項目で代用 福祉国家のはらむ集産主義的傾向に強い警戒を示し、国家の干渉に対して個人の不可侵の権利を擁護する自由論者。古典的自由主義と同様、リバタリアンも自由市場経済を支持するが、その論拠は自由市場が資源配分の効率性に関して卓越しているということだけではない。より重要なのは集産主義的介入(⇒コレクティビズム)が、自明の権利である個人の自然権や人権を侵害するという点である。リバタリアンの出発点は社会の理解に関する徹底的な個人主義的アプローチである。社会とは何らかの実体ではなく、自律性を権利として保障された諸個人が互いの価値の実現を目指して交流を持つ場である。経験的な意味で国家や政府による合理的計画よりも自律的な個人の活動のほうが社会的利益を最大化するというだけでなく、道徳的な意味でも個人の自律性を国家や政府の干渉によって強制的に縮小しようとするあらゆる試みは、個人の独自性を破壊し社会の目的のための手段といて扱うことになる。個人の価値の追求にはルールによる制約が課せられるべきであるが、それは各人の平等な権利を保障するというに限定されねばならない。国家や政府の役割はそこにあるのである。⇒※補注参照 中間派に何を含めるか 共同体主義(communitarianism)※注:項目なしのため、コミュニタリアン(communitarian)の項目で代用 人間存在の基盤としての「共同体」の復権を唱える一群の政治哲学者たちの総称。J.ロールズの『正義論』(1971)が政治哲学の復権に大きな影響を与え、当初その指導的立場にあったのが、ロールズに代表される福祉国家的な自由主義を主張するリベラリストと、ノージックに代表される個人の自由に対する制限を最小化しようとするリバタリアンであった。一見したところ対立するこの両陣営は「個人」の多元的対立から社会構成の原理を導出しようとする基本的枠組みでは一致している。この個人主義的な人間像・社会像に対して根本的な次元から論争に参加してきたのがコミュニタリアンである。A.マッキンタイア、M.サンデル、M.ウォルツァーらを代表とし、その主張は必ずしも一様でないが、人間的主体性を抽象的なアトム的存在の自律性としてではなく、共同体のもつ歴史・社会的なコンテクストに根付いた具体的存在として捉えようとする点では共通している。コミュニタリアンの登場の背景にはアメリカ社会が極端な個人主義の結果、公共心を衰退させ、そのことが様々な社会問題を引き起こしているという洞察がある。 中間派に何を含めるか ナショナリズム(nationalism) 民族、国家に対する個人の世俗的忠誠心を内容とする感情もしくはイデオロギー。普通、民族主義と訳されるが、国民主義あるいは国粋主義と訳されることもある。しかしこれらの訳語はいずれもナショナリズムの概念を十分に表現しているとはいえない。ナショナリズムの概念が多義的であるのは、ネーション(民族、国民)が歴史上きわめて多様な形態をたどって生成・発展してきたことに起因している。歴史的な重要概念となったのは18世紀末以後のことである。アメリカの独立とフランス革命がその端緒となったとされ、南アメリカに浸透し、19世紀にはヨーロッパ全体に広まり、ナショナリズム時代をつくりだし、20世紀に入って、アジア・アフリカで多くのナショナリズム運動が展開された。ナショナリズムはこうした諸国の独立をもたらす解放的イデオロギーではあるが、民族紛争と戦争の拡大をもたらす危険も大きい。 ナショナリズムとは何か右派・右翼とは何か ※補注:このように古典的自由主義およびその再興であるハイエクに代表される新自由主義(neo-liberalism)と、リバタリアニズム(自由至上主義)は厳密には別概念であるが、特にアメリカではliberalismが「マイルドな社会主義」を意味する言葉に変形してしまったために、ハイエク的な自由主義をも「リバタリアニズム」と呼ぶ場合がむしろ多くなっており、後述の中岡望 著『アメリカ保守革命』でも、正確には新自由主義(neo-liberalism)と呼ぶべきものをリバタリアニズムと呼称しているので注意が必要。(この場合は「リバタリアニズム」=新自由主義=経済保守 となる)
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『旧約聖書』の神は「生めよ増やせよ地に満てよ」と人間に命じている。語源となるオナンの行為は神の意図に逆らう宗教的な反逆である。ユダヤ教・キリスト教では、性交は生殖のために神から命ぜられた行為であると位置づけられているため、生殖を目的としない行為であるオナニーは売春などと同様に神の命令に背く行為とされ[1]非道徳的であり、罪にあたるとする伝統[2]もあった。さらに夫婦間の性交にあっても、生殖を目的とせず快楽のためにもっぱら為される場合には宗教的罪悪感を伴うとされる。両宗教が支配的な文化では、涜神と性的快楽のイメージが強く結びついていることが他の文化との大きな違いのひとつとなっている[要出典]。 近代のプロテスタント運動が高まった時期にも、オナニーの背徳性の教えが説かれた。 ただしオナンの罪とは、正確には生殖を目的としない射精行為でも、無駄に精液を地に漏らしたことでもなく、古代社会のレビレート婚の掟を破り、兄の未亡人に子供を与えねばならぬ義務を果たさなかったことであると前述したように、時代の風潮にあわせてオナンの罪は、微妙に変化してきた。西洋の反オナニー言説を「宗教の産物」と直結することはできない。モッセによると、18世紀以降の反オナニー言説はナショナリズムの産物である。事実、日本でも反オナニー言説は、少なくとも江戸期からあり、明治期には広く流布している(#日本におけるオナニーの歴史の項参照)。 西洋における反オナニーの歴史 ジャン・スタンジェ、アンヌ・ファン・ネック共著の『自慰』によると、17世紀以前にはオナニーを罪とみなす宗教者の言説はあるが、オナニーそのものへの言及はさほど多くない。大した問題だとはみなされていなかったようだ。フーコーによれば西洋では「固まりミルク」と称して村の少年たちが精液の飛ばし合いっこをしていた。またスタンジェは、16 - 17世紀の主流をなしていたガレノス医学では、オナニーはむしろ奨励されていた、と述べる。ただし宗教者の中では、たとえ健康のためであっても自然に反する行為であって許されない、という意見が主流であったという。 スタンジェらによれば、反オナニーが人口に膾炙するきっかけになったのは、1715年の出版以来1730年に第15版が、1778年には第22版が出た『オナニア』(著者匿名)の出版であった。同書はオナニーの有害性を道徳面よりも医学面において特に強調し、著者が独占販売権を握るというオナニー治療に効果的な薬の購入を呼びかけていることから、金儲けが同書刊行の目的だったと、スタンジェ、ネックは結論している。1760年頃には、スイスの医師ティソが De Morbisex Manustupratione[要出典] を、1764年には『オナニスム』を出版する。 これは、ヨーロッパ中に名声を博していた臨床医による、医学面からの有害性を訴えた本であり、ドイツの哲学者カント[3]に影響を与え、またルターもこれを賞賛した。 反オナニーの波へのティソの影響は、ディディエ=ジャック・デュシェ『オナニズムの歴史』でも強調されている。反オナニーは19世紀半ばに最高潮に達する。医師である彼の「学説」によって道徳面以上に医学面での有害性が強調された。原因不明の多くの疾患が、オナニーにより引き起こされるとみなされた(くる病、関節リューマチ、肺炎、慢性カタル、視覚・聴覚の衰えなどなど、主張する者によりまちまちではあるが)。またデュシェによれば、1939年にはカルノー医師により性教育面での言及が行われ、1968年を境に、社会的見解に変化が起こったと述べられている。彼によれば、1882年に、フランスの精神病医専門誌における「二人の少女の神経障害を伴ったオナニズムの症例」(括弧内訳、「オナニズムの歴史」での訳まま)というデミトリオス・ザムバコ医師の記事に、医学アカデミー会員のゲラン医師の示唆により、女性器を焼き鏝で焼却すると脅したことや、ゲラン医師が何人もの女性に、その焼却治療を施し結果を得ていたことが記されていたという。 モッセ『ナショナリズムとセクシュアリティ―市民道徳とナチズム』によると、(反オナニーを含む)セクシュアリティ統制にはナショナリズムの台頭が影響している。18世紀以降の西ヨーロッパ諸国(独英仏伊)では、下層階級からも貴族階級からも自らを差別化しようとする、中産階級の価値観、リスペクタビリティ(市民的価値観)が生まれる。18世紀以降のナショナリズムは、この中産階級の作法や道徳を吸収し、全階級に広めた。その鍵になるのはセクシュアリティの統制であり、「男らしさの理想」である。ここにおいて、マスターベーションに耽るオナニストは顔面蒼白、目が落ち窪み、心身虚弱な人間と表象され、男らしい闘争や社会的達成という国民的ステレオタイプとは相容れないとされた。 またデュシェは、オナニーという私的な空間で行われる行為の禁止を通じて、私的な空間そのものを監視しようという社会の欲望を指摘している。 日本における反オナニーの歴史 13世紀に編纂された『宇治拾遺物語』巻1の第11話には、源大納言雅俊が法会を催すに際して僧を集め、一生不犯である旨の起請(女性との性行為をしたことがなく、今後もしないという誓い)をたてさせたところ、1人の僧が「かはつるみはいかが候べき」(オナニーはどうなのでしょう?)と青い顔をして尋ねたので、一同が大爆笑した、という記述がある。「過ちかもしれない」と考える意識と、それを「笑える」おおらかさが同居していたことが窺える。 江戸期の儒医学者・貝原益軒の『養生訓』(1713年)では、オナニーと性交を区別する記述はないが、精液を減損しないことが養生の基本とされ、性行為そのものを否定はしないが、過度に陥ることは害とされる。赤川学著「セクシュアリティの歴史社会学」(以下、赤川著「歴史社会学」)によれば、このように精液減損の観点から健康維持を説き、性行為が過度に陥ることを戒める発想は、江戸期の性を扱った書物に一般的なものであった。中にはオナニーを性交と区別して否定するものもある。このような発想は武士階層のみならず、漢方医の必携書にも同様の記述が見られることから漢方医を通じ、町人、農民層を含めた広範な範囲に広まっていたと考えられる。これが日本において、明治期の開化セクソロジーに見られる反オナニー言説がすんなりと受容される土台となった。だが、近代以前はそれ以降に比べ、オナニーに関して比較的おおらかであったと言える。民俗学者・伊藤堅吉の山梨県南都留郡道志村調査によれば、道志村には明治末期まで若者宿が残されており、気の合った若衆たちは娯楽場として若者宿に集い、ペニスの大きさを競い合ったり精液の飛ばし合いをしていたという(石川弘義・野口武徳『性』)。 赤川著『歴史社会学』によれば、明治初期には『造化機論』(アストン著、千葉繁訳)を嚆矢としてセクシュアリティに関わる言説が多く生産される(開化セクソロジー)。数々の西洋の書物の訳書、或いは地方の士族、東京の平民、ジャーナリストらによって書かれた書物群では、生殖器や性行為に関して様々な観点から論じられているが、その多くがオナニーの害について述べている。ただし、その理論的根拠には二系統あり、一つは「精液減損の害」という『養生訓』に見られる観点から論じられるもので、必然的に「オナニーの害を被る主体は男。オナニーとセックスはどちらも過度であれば害。害は、身体・健康に関わるもの」となる。もう一方は「三種の電気説」を根拠にするもので「オナニーの害は性別問わず。セックスとオナニーの害は別もの。害は、精神にも及ぶ」という主張。 また、同書によれば、明治10年代の医学界の成立にともない、専門家集団の間でもオナニーの有害性は検討されはじめる。1877年(明治10年)創刊の『東京医事新誌』では、1879年(明治12年)からオナニーの害についての言及が始まる。なかには、性欲を抑制することの害を述べるものもあるなど、全体として単純なオナニー有害論とは距離を置いている。オナニーは神経病の原因か、結果かという問いが、ここで浮上する。1894年(明治27年)、クラフト=エビング[4]の『色情狂編』が出版される。ここでは様々な「精神病」や「色情狂」の症状とオナニーの関係が検討される。オナニーは様々な「病」(精神病・神経衰弱・同性愛や露出狂を含む各種色情狂)の「原因」なのか「誘引」なのかが検討され、「誘引」であると結論される。クラフト=エビングは明治期にオナニーを論じた医学者たち(山本宗一、森鴎外、富士川游)などに多大な影響を及ぼした。巣鴨病院に勤務していた山本宗一は、そこで出会った三人の「手淫偏執狂」の症例報告を行っている。このような例外はあるものの、明治後期の日本の医学者たちによる検討は、全般的に統計的・実証的な調査を行った上でなされたわけではなく、単に西洋の書物の受け売りでしかなく、オナニーは様々な「病」の「原因」か「誘引」かについては、医学者たちの見解は分かれていた。 同書によると、このような背景のもとに、専門家集団は徐々に性的な事柄に関する知識を蓄え、学術書を刊行するようになっていく。明治初期のセクシュアリティに関するテクストは、市井の人々かジャーナリストによって書かれていたが、明治30年代以降、その主な担い手は「医学士」「○○病院院長」などの肩書きを持つ人びと(専門家集団)へと移行する。ただし、医学界といっても、その専門分化によって論理の内実は変わる。医学専門家内部では、オナニーの有害性に相当の疑問がもたれていたにもかかわらず、衛生学のテクストではオナニー有害を前提として、学校や家庭における青年の監視の必要性が主張されている。 オナニー
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1 はじめの一歩 2 無限論と実在論 3 ゼノンのパラドックスの終着点 4 カントによる無限批判 5 形而上学無限の不可能性 6 物理学による形而上学的無限の回避可能性 7 数学的無限と形而上学的無限の不調和 8 結論――実在論の最期 9 無限の派生問題 1 はじめの一歩 人生の道を一歩踏み外せば奈落に落ちる。僅か一歩には生死を分ける重大さがある。それは学問の道でも同様であろう。しかし哲学での無限についての議論では、その一歩の重大さが忘れられているように思える。はじめの一歩を踏み間違えていたなら、その後いくら懸命に歩を進めようと間違った地に行く着くしかない。 ゼノンのパラドックスは二千年以上にわたって夥しい学者たちが反駁を試みてきたが、今日でもなお議論が続いており、未だ万人が納得する解決法が発見されていないように思える。大森荘蔵は、ゼノンの主張は詭弁であるという前提からパラドックスのトリックを見つけようとしてきた学者たちの試みは「ことごとく失敗した」と判定している(*1)。彼らが失敗したのは、はじめの一歩を踏み間違えたからなのではあるまいか。私は改めて、無限論の最初の一歩から考察し直してみたい。 私がこれから道路を歩くとする。その場合、次の前提がなければならないはずである。 [前提A]: 道路には私の足に踏まれる可能性のある全地点が、あらかじめ存在している この前提は当たり前である。私の足に踏まれる可能性のある全地点が、あらかじめ存在していなければ私は歩くことはできない。存在しない場所を歩くような器用なことは曲芸師でも魔法使いでも出来はしない。仮に私が 10メートルの長さの道路を 20歩で歩いた場合は 20の地点が存在してたということになる。一歩の平均歩幅は 50センチである。なお数学や物理学では「地点」ではなく「位置」という語を用いるのだが、ここでは「何かが存在可能な位置」、あるいは「何かが通過可能な位置」という存在論的な意味を含ませて「地点」という語を用いる。また同様のニュアンスで時間上の位置については「時刻」ではなく「時点」を用いることにする。 では、その道路に存在している地点の数は 20個だけだろうか。そんなわけはない。私は一歩 50センチだけでなく、25センチの歩幅で歩くこともできる。ならばその 25センチの歩幅に対応した合計 40個の地点が、私が歩く前からあらかじめ道路に存在していることになる。存在していなければ私は 25センチの歩幅で歩くことができないが、そんなことはないはずだ。さらに私は一歩の幅を 5センチにすることも 3分の 1ミリにすることもできる。論理的な問題として、1メートル以内であれば私はどんな歩幅でも任意に選んで歩くことができる。重要なのは 1メートル以内であれば「歩けない幅」がないということだ。つまり可能的な歩幅の数は無限である。そして可能的な歩幅に対応する地点は全て現実に存在していなければならない、という事実から必然的に次の前提が導かれる。 [前提B]: 道路には無限個の地点が存在する しかし無限とは、限りや終りがないという意味である。たとえば自然数は無限にあり、終わりの数がない。アリストテレスは無限を「通過できないもの」と定義した。これは説得的である。無限のものを通過するというのは自然数を全て数え終わるというに等しいナンセンスである。無限の地点があるとするなら、そもそも通過すべき「最後の地点」を想定することができなくなる。それは自然数の「最後の数」を想定するに等しいからだ。したがって次の結論が導かれる。 ([前提A]と[前提B]より) [結論C]: 私は一歩も歩くことができない どのような歩幅にせよ、その一歩が無限小でなく有限の幅ならば、その幅には無限の地点がある。無限の地点を通過することはできないから、私は一歩も歩けない。「無限の地点を通過する」というのは「自然数を全て数え尽くす」、あるいは「終わりの無いものが終わる」というに等しい矛盾だからである。 もちろん以上の論述はゼノンのパラドックスを変奏したものである。まずここで確認しておくべきことは、[結論C]は純粋に論理的な結論だということであり、経験的なものでないということである。世の大半の人はこのような論理的問題など意に介さず、現実に一歩、また一歩と足を繰り出して道を歩いている。「正当に思われる論理が現実と矛盾する」――これを「パラドックス」というのである。そして問題は人々の日々の「一歩」の正体とは何であるか、ということになる。 一般論として、或る主張がパラドックスに陥る原因には、次の二つが考えられる。 [原因1]: 論証の方法に間違いがある [原因2]: 論証の前提に間違いがある ゼノンの論証方法に間違いはなく、パラドックスの原因は論証の前提にあると私は考える。論証の前提を否定するなら、私は普通に道路を歩くことができるし、ゼノンのパラドックスも「パラドックス」ではなくなる。その前提とは、「無限」が実在するということである。そしてパラドックス解消のために無限の実在を否定するということは、必然的に無限分割の根拠となっている時間と空間の実在性を否定するということに繋がらざるを得ない。それはまた形而上学的実在論という、一つの哲学的立場を否定することでもある。 ゼノンのパラドックスは有名であるにもかかわらず、その本質を理解している者は一部の哲学者に限られている。このパラドックスは「実在」という形而上学の根本的問題を焦点としている。ゼノンの主張の要点は、実在論を前提にするならば、時間や空間は無限分割可能であり、無限の地点や時点が想定されるため運動が不可能になる。それゆえに、無限分割の根拠となる時間と空間(そして時間と空間によって構成されている現象世界)は実在ではない、というものである。 重要なことであるが、ゼノンは存在の無限分割が可能だと主張したのではない。無限分割とはゼノンの論敵の主張であり、ゼノンのパラドックスとは「相手の主張が正しいならば不合理に陥る」という背理法なのである。ゼノンの標的は、世界が「多」からなると主張していたピタゴラス学派などによる多元論と実在論であり、それらへの批判によって師であるパルメニデスの、「一」のみが存在し、感覚が捉える現象世界の多様性と運動は錯覚のようなものであるという、反実在論的な一元論を擁護しようと試みたのである(もっともゼノンは時間と空間の非実在を明示的に語ってはいない)。 ここで二つの道が示されたはずである。一つはゼノンとエレア派の哲学を否定する実在論の道である。もう一つはゼノンとエレア派の哲学を肯定する反実在論の道である。実在論では時間と空間の無限分割を受け入れることになる。反実在論では時間と空間の実在性を否定し、当然それらの無限分割も否定する。ゼノンに反駁を試みて失敗した夥しい人々は、最初の一歩を実在論の道に置いたことがそもそもの間違いなのだと私は考える。 ゼノンのパラドックスの解決法としてよく用いられる方法は主に次の二つである。 [方法1]: 無限級数の収束や極限という数学的概念を用い、無限のステップを完了できると考えること。 [方法2]: 可能的無限の概念を用い、無限のステップとは人の意識の内に可能的にあるだけであり、現実には存在しないと考えること。 いずれの解決法にも問題がある。[方法1]は数学者や物理学者がよく用いるが、この方法の問題点は無限のステップを完了するということが現実世界にあり得るか、ということである。「無限」とは「限りが無い」という意味なのだから、「無限のステップを完了する」とは「終わりなの無いものが終わる」というに等しい語義矛盾であるからだ。その矛盾を直観する哲学者たちが用いるのが[方法2]であるが、この方法の問題点は地点や時点といった概念的なものは人の認識に先立って存在しているのではないか、ということである。私が冒頭で自分が歩くことが可能な地点を考えたのはそれを示すためである。もし地点や時点が認識に先立って存在するならば、それらは有限個であることはできず、無限個というしかない。そして無限のステップを完了させることはできない。 [方法1]と[方法2]はいずれも失敗していると私は考えている。無限のステップというものは現実にはあり得ないので、無限級数の収束ということでパラドックスを解決しようとする[方法1]は間違っている。そして実在論を前提にするならば、冒頭で例として述べたように、私の可能的な一歩の幅の数が無限であることに対応して、地点というものは「無限個ある」というしかない。したがって実在論を前提にする限り[方法2]も間違っているということになる。 [方法1]と[方法2]は、いずれも「実在論を前提とする限り」という条件付での間違いであることは留意する必要がある。私の立場は、実在論を前提にするならば運動は不可能であるというゼノンの主張を肯定するものであり、つまりは時間と空間の非実在(反実在論)を主張するものである。反実在論ならば無限の地点や無限のステップを想定する必要がないからだ。たとえば現象主義というラディカルな反実在論の立場から「アキレスと亀」のパラドックスを解決するならば次のようになる。 アキレスと亀が競争を開始するという[現象]があり、アキレスが亀に接近するという[現象]があり、アキレスが亀に追いつくという[現象]があり、アキレスが亀を追い越すという[現象]がある。 [現象]の数は有限個であるゆえに、何のパラドックスも不思議もない。 もちろん、実在論は不合理だから反実在論を選択すればよいという単純な問題ではない。実在論と反実在論には天国と地獄ほどの、それこそ無限に思える懸隔がある。哲学において実在論の立場を放棄して反実在論を選択するということは、「心の外部に世界が存在している」という信念のコペルニクス的転換を行うということであり、巨大な派生問題を受け入れるということでもある。なお実際に、無限についての問題をきっかけに反実在論を選択し、「認識のコペルニクス的転換」を行ったのが後述するイマヌエル・カントである。 無限の概念にはさまざまあるが、以下の五つは無限を論考する際に念頭に置くべき概念である。 [現実的無限]: 無限の何かが現実に存在するとし、加算や分割を無限に続けたものとしての、無限小や無限大の概念に対応する存在があるとする。アリストテレスの用語である。実無限ともいう。可能的無限の概念と対比させられる。 [可能的無限]: 無限とは加算や分割を「無限に続けることが可能である」という意味だと考え、それを現実に無限に続けたものとしての、無限小や無限大の概念に対応する存在はないとする。アリストテレスの用語である。可能無限ともいう。無限とは操作についての概念であり、存在に対応した概念ではないということである。 [数学的無限]: 数学的対象は現実的無限であるとする。A.W.ムーアの用語であるが、カントの無限論を元にした概念である。数学の世界ではカントール以降、可能的無限ではなく現実的無限が優勢である(*2)。物理的無限や形而上学的無限の概念と対比させられる。 [物理的無限]: 物理的世界は現実的無限であるとする。抽象的な数学的無限に対し、存在論的な無限である。数学的無限を認めても物理的無限を認めることには繋がらない。次の形而上学的無限と類似の意味である。 [形而上学的無限]: 実在は現実的無限であるとする。A.W.ムーアの用語である。物理的無限と類似の意味であるが、形而上学的無限は「実在」を対象としているので形而上学的な含意が強い。物理的無限には形而上学的含意はないが、しかし物理学そのものが形而上学に繋がっているので、両者の境界は曖昧である。 無限の有無が問われる対象には、「数学的なもの」と「物理的なもの」に大別でき、さらに物理的なものは、分割による「時間の無限小」と「空間の無限小(その無限小に対応した物質存在)」、そして加算による「時間の無限大(または無限の因果系列)」と「空間の無限大」に分けられる。 時間や空間の無限分割の可能性と、無限の物理的部分が存在する可能性と、地点や時点という概念的なものが無限に存在する可能性は、それぞれ連関しあっているが異なる問題であり、それらは慎重に論じ分けるべきものである。 私は可能的無限の立場である。以降は形而上学的無限が不可能であること、にもかかわらず実在論では形而上学的無限を認めざるを得ないこと、従って実在論が破綻すること、すなわちゼノンとカントの主張が正しいことを論じていくことになる。 重要なことであるが、実在論の立場では数学的無限を除いて、物理的・形而上学的なものの無限はただの一つでも認めることはできない。「無限」とは加算や分割の行為に終わりがないという操作に対応した概念であって、存在に対応した概念ではない。「無限の何かが存在する」というのは語義矛盾である。矛盾したものは存在しない。したがって無限の物理的・形而上学的存在を認めざるを得ないことは実在論の破綻を認めることになる。 無限論においては、地点や時点という概念的なものが、人の認識作用に先立って存在しているか否かが最大の論点である。もし地点が認識に先立って存在するのなら、冒頭で論じたように私の一歩の幅にも無限の地点が存在すると考えるしかない。したがって実在論は阻却され、必然的に反実在論が帰結することになる。 地点とは物理的世界にあるのではなく、人間の思惟のみに属する「イデア的な存在」(山川偉也)という考えが一般的である。しかし実在論を前提にするならば、その概念的な地点が存在すると考えるしかないこと、またそもそも実在論とは何かという問題を、次節で論じることにする。 2 無限論と実在論 私の前にテーブルがある場合、そのテーブルは私が見ていなくても存在しているし、なおかつ、そのテーブルはほんとうに私が見ている通りに存在している、と考えるのが実在論である。 逆に私の見るテーブルは、私が見ていないときは存在しているかどうかわからない、または、そのテーブルはほんとうに私が見ている通りの姿で存在しているかどうかわからない、と考えるのが反実在論である。 人は誰しも実在論者である。自分が見ていなければ物事が存在しないと考えるなら生活が不可能になる。ただしこのような実在論は実用的実在論とか素朴実在論と言われるものである。それらは生活の手段であって、哲学における存在論としての実在論ではない。存在論としての実在論は、形而上学的実在論や科学的実在論と呼ばれる。 では形而上学的実在論や科学的実在論とは何か。これにはさまざまな定義があり、論者によって実在論に必要だとする条件の定義は異なっている。ここではヒラリー・パトナム、ジョン・サール、戸田山和久、中山康雄の定義を参照してみる。 ヒラリー・パトナムは形而上学的実在論の主張を次のように特徴付ける(*3)。 [特徴1]: 世界は、心から独立な対象のある固定された総体から成っている。 [特徴2]: 「世界の在り方」についての真で完全な記述がただ一つ存在する。 [特徴3]: 真理は、語または思惟記号と外的な事物や事物の集合との間のある種の対応関係を含んでいる。 ジョン・サールによる形而上学的実在論についての論考(『社会的現実性の構成』1995)を、中山康雄は次のように整理している(*4)(以下要約して引用)。 [外部世界に対する実在論]: 実在は、私たちの表象とは独立に存在している。 [特権化された概念図式]: 実在を記述する唯一の概念図式が存在する。 [真理の対応説]: 信念や言明という表象は、事物が現実においてどのようなものかを表象するためのものである。表象が真なのは、それらが現実における事実に対応しているとき、かつ、そのときに限る。 戸田山和久は科学的実在論の主張を次のように特徴付ける(*5)。 [独立性テーゼ]: 人間の認識活動とは独立に世界は存在する。 [知識テーゼ]: 人間は科学によって世界の秩序について知ることができる。 中山康雄は科学的実在論を次のように特徴付ける(*6)。 (a)[外部世界に対する実在論]: サールの[外部世界に対する実在論]と同じ。 (b)[特権化された概念図式]: サールの[特権化された概念図式]と同じ。 (c)[真理の対応説]: サールの[真理の対応説]と同じ。 (d)科学は世界についての特権化された概念図式を把握するという目標を持っており、この目標に絶えず近づいていく。そして、この目標に到達したときには、科学は世界についての究極的真理を表現できる。 なお形而上学的実在論と科学的実在論の相違は、科学的実在論は自然科学についてのテーゼだということである。科学的実在論は形而上学的実在論の一種だと考えてもよい(以下双方を「実在論」と略す)。 四人の論者に共通する実在論に必要な条件は以下の二つになる。 [条件1]: 外部世界の実在 [条件2]: 真理対応説 上記二つは「実在論の二つのドグマ」と呼ぶべき、実在論が実在論であるためのミニマルな条件である。「外部世界の実在」とは、人の心から独立して物質や世界は存在しているということである。パトナムの[特徴1]と戸田山の[独立性テーゼ]もこれに該当する。逆に存在するとは人に知覚されることであると考えるのがバークリーの観念論になる。「真理対応説」とは、人の物質や世界に対する認識は、実在する物質や世界の在り方と正しく対応しているという説である。パトナムの[特徴3]と戸田山の[知識テーゼ]もこれに該当する。逆に人の認識は実在と正しく対応していないと考えるのがカントの超越論的観念論である。 [条件1]と[条件2]が不可分なのは明らかであると思える。たとえば富士山は標高 3776メートルと人に認識されているが、真理対応説を拒否して「人の認識から独立自存する富士山の高さは 37センチかもしれない」という可能性を認めるならば、それは「人の認識から独立自存する富士山の高さは 0センチ(無)かもしれない」と空間の非実在の可能性を認めるに等しいことである。 実際、カントは時間と空間の実在性を否定して現象から独立した「物自体」を措定したが、それは後のドイツ観念論者たちやショーペンハウアー、ニーチェらによって「精神」や「意志」などの、現象や表象をもたらす抽象的な能力へと還元的に解釈された。カントの物自体は実体的なものでなく、単に現象をもたらす抽象的な法則のようなものだと考えても不都合がない。要するに真理対応説を拒否して空間が実在しない可能性を認めるならば、「外部世界の実在」ということにほとんど意味がなくなるわけである。 [条件1]と[条件2]は不可分であり、実在論の必要条件であると考えて間違いはない。なお近年の科学哲学における実在論論争では、素粒子や重力や因果関係など、知覚経験が不可能なものの実在性が焦点になっており、太陽や電車やリンゴなど、知覚可能なものの実在性は最初から前提されており、議論にさえなっていない。それゆえに反実在論の立場に分類される「構成的経験主義」のように、外部世界の実在を認めた上で真理対応説については、観察可能なものについては認めるが、観察不可能なものについては認めないという複雑な立場が現れることになる。ともあれ、ここでは「反実在論」を上述の[条件1]と[条件2]のいずれか、または双方を認めない立場だとして論じることにする。 アリストテレスはゼノンのパラドックス――無限分割を逆用した運動の非実在の論証に対して、無限は可能的なものであって、現実的なものではないと考えることで解消しようとした。つまり分割するとか地点を想定するとかいうのは人の認識作用に属するものであって、運動そのものに属するものではないということである。アリストテレスによる可能的無限と現実的無限の区別は後の哲学者たちにも採用された。可能的無限の概念に基づけば排中律を拒否することによって無限についての様々なパラドックス(後述するトムソンのランプなど)を回避することができるからだ。 今日でもアリストテレスを援用し、無限は可能的であるが現実的ではないという論法でゼノンのパラドックスを解消しようとする者は多い。しかし可能的無限という概念は、「外部世界の実在」と「真理対応説」という実在論の必要条件を満たしていない。つまり可能的無限とは反実在論的な論理であり、これは「実在論を前提にするならば無限の地点が想定されるので運動は不可能になる」という、ゼノンの背理法を論駁したことにはならない。 むしろ世界の現実的無限、つまり形而上学的無限は不可能であり、可能的無限しか認められないという主張はゼノンの主張を肯定するものである。そもそもゼノンのパラドックスとは、時間と空間が「もし実在するならば」という前提で、時間と空間は思考の上で無限分割が可能であるが、現実に無限が存在するなら運動が不可能である、という主旨の背理法である。したがってアリストテレスの可能的無限と現実的無限の区別はゼノンの分類に倣ったものであるともいえるし、ゼノンの反実在論と紙一重ともいえるのである。 ここで可能的無限がイコール反実在論であり、形而上学的無限がイコール実在論であるこを明確化するために、再び私が道路を歩く場合の前提を確認してみたい。 [前提A]: 道路には私の足に踏まれる可能性のある全地点が、あらかじめ存在している 「あらかじめ」という部分が重要である。実在論では、存在するものは人の認識に「先立って」存在するのである。これが実在論の第一条件である「外部世界の実在」ということである。私が道路の或る地点を踏んでからその地点が存在を始めるのではない。踏む前から踏まれる可能性がある地点が存在していなければ私は歩けない。「存在しない地点を歩く」などというのは「猫が消えて猫の笑顔だけが残った」と言うに等しい不思議の国のナンセンスである。 「道路」というものは一定の空間を占める。「空間」というものは意味として既に連続体であることを含意しており、無限に分割と延長が可能である。たとえば「1メートル」は意味として「2メートル」や「5センチ」の存在可能性を含意している。空間の実在を認め、実在論の第二条件である「真理対応説」を認めるならば、空間に無限の部分があることを認めるしかない。私が長さ 10メートルの道路を歩幅 50センチで歩くことができるならば、私の足に踏まれるであろう 20の地点が踏まれる前から存在している。――この事実から、25センチで歩く場合の 40の地点も、5センチで歩く場合の 200の地点も、演繹的に推論できる。そして推論された地点の数は現実に存在する。 私は 10メートルの歩幅で歩くことはできないが、1メートル以内であれば任意の歩幅で歩くことができる。また 1メートル以内のどのような歩幅をも私は思考でき、思考した歩幅によって現実的に私は歩くことができる。歩くことができるのは歩幅に対応した地点が現実的に存在しているからである。存在していなければ私は歩くことができない。そして可能的な地点は思考される以前に現実的に存在している。なおかつ人に思考可能な歩幅の数が有限個であることはできない。たとえば「5万分の 1センチ」はありうるが「5億個の 1センチ」はありえないということはできない(実際にはそんな高精度で歩くことはできないが、ここでは論理的可能性を認めれば良い)。可能的な歩幅の数は無限である。したがって「無限個の地点」があるというしかない。 以上で、実在論では認識に先立って「地点」というものの存在を認めるべきことが明確化されたはずである。また同様の論法は無限の分割だけではなく、無限の加算にも用いることができる。実在論では空間の無限大も認めるしかない。そして「時点」についても同じことである。時間もまた無限分割可能になり、そして(過去に対して)無限の延長が可能になる。実在論では論理的な問題(物理的な問題ではない)として、空間の無限小、空間の無限大、時間の無限小、時間の無限大という、四つの無限の対象を認めるしかない。 実在論者が以上の論法に反駁する方法はただ一つであると思える。0ミリ以上、1メートル以内で、私が歩けない歩幅をただの一つでも挙げてみることである。 無限については、実在論では可能性と現実性が一致する。可能態としての地点は全て現実態として存在しているといってもよい。実在論は形而上学的無限を認めるしかない。もし可能態が現実態と一致しないというなら反実在論である。可能的無限という反実在論に基づく論証で、ゼノンの反実在論を論駁しようとしたアリストテレスの試みは成功していない、というより無限の実在を否定したことによってゼノンの議論を補強しているようにも解釈できる。次節ではそのアリストテレスの議論を含め、ゼノンに反駁を試みて失敗した人々の説を見ていきたい。 3 ゼノンのパラドックスの終着点 まず無限論のパイオニアであるゼノンの背理法――四つのパラドックスを確認しておく。 第一パラドックス「二分割」の概略はこうである。 地点 Aから地点 Bに移動するためには、その距離の半分の地点 1を通過しなければならない。地点 1に行くためにはその距離の半分の地点 2を通過しなければならない。地点 2に行くためにはその距離の半分の地点 3を通過しなければならない……地点の数は無限であり、したがって地点 Aから地点 Bへ移動することはできない ※なお「二分割」には、「残った距離の半分」と考える無限前進型と、「これから進む距離の半分」と考える無限後退型の二つの解釈があるが、ここでは無限後退型を紹介した。 第二パラドックス「アキレスと亀」の概略はこうである。 俊足のアキレスと鈍足の亀が競争する。亀はハンデをもらってアキレスより前方からスタートする。最初に亀がいた地点 1にアキレスが来た時には、亀はいくらかアキレスの前方の地点 2にいる。地点 2にアキレスが来た時にはやはり亀はいくらかアキレスの前方の地点 3にいる……亀は常にアキレスの地点プラス 1の地点にいる。それを何回繰り返しても亀が「プラス 1の地点」にいる状態は変わらないから、アキレスは亀に追いつけない。 第三パラドックス「飛ぶ矢」の概略はこうである。 飛んでいる矢は、それ自身と等しい場所を占めている時は静止している。つまり地点 1にある時は静止しており、地点 2にある時も地点 3にある時も静止している。したがって矢は常に静止している。 「二分割」は空間の無限分割の問題であり、「アキレスと亀」は時間と空間の無限分割の問題である。なお無限分割が現実的に可能であるとした場合に示される不合理が、飛んでいる矢は無限小の地点において止まっている(速度を持たない)という「飛ぶ矢」である。また無限分割を回避しようとして時間や空間の最小単位を考えた場合に示される不合理が、第四パラドックス「競技場」である(これは後述する)。四つのパラドックスはそれぞれが論理的に補完関係にあって、運動の実在性を否定する構成になっている。 アリストテレスは『自然学』第6巻第2章において「二分割」の問題点を、「有限な時間では無限の点を通過することはできない」という虚偽の仮定に基づくことだと指摘している(ただしアリストテレス自身が紹介したゼノンの「二分割」と「アキレスと亀」には時間への言及はなく、「有限な時間」とはアリストテレスの解釈である)。そしてアリストテレスは、空間が無限分割可能ならば、時間も無限分割されることによって、「無限の時間点」によって「無限の空間点」を通過することはできると考える。 「無限なものなら、無限なものを通過できる」というアリストテレスの論法は、一見した所もっともだと錯覚してしまうかもしれない。しかし、空間上に想定される地点が無限個ならば、それを通過するのは「自然数を全て数え尽くす」というに等しい不合理であったことを想起しなければならない。アリストテレスの論法を言い換えるならば「無限なものなら、終わりのないもの終わらせることができる」というようなものであり、これは矛盾に過ぎない。無限なものを用いようと「終わりがないもの」を終わらせることはできないのである。 さらにアリストテレスの論法を細かく分析するならば、無限の時点を終わらせることによって無限の地点を通過し終わる、という主張だと解釈できる。それは「終わりのないものを終わらせることによって、終わりのないものを終わらせる」というに等しい、ナンセンスの上にナンセンスを重ねたようなものである。したがってアリストテレスの解決法は阻却されるしかない。もっとも、アリストテレス自身がこの解決法が不十分である可能性を『自然学』第8巻第8章で認めている。新たな解決法としてアリストテレスが提案したのが、時間と空間の分割は可能的に無限であるが、現実的に無限ではない、とする可能的無限と現実的無限の区別である。 数学的には、「二分割」と「アキレスと亀」については無限級数の収束や極限という概念で、無限のステップを操作して解消できるように思われている。バートランド・ラッセルは哲学者でもあるが、数学者としての性向が強く、物理的世界が数学的無限と対応していることを前提に、ゼノンのパラドックスを収束や極限の概念で解決できると考える。ラッセルの解決法は多くの数学者と物理学者、そして一部の哲学者が採用する方法である。 数学の世界では、カントール以降は数学的対象を現実的無限とみなす立場が優勢である。しかし哲学と数学は大きく異なる。哲学における無限論とは、その無限に対応する「実在」を巡る議論でもある。その点が対応する実在を必要とせず、記号の操作と整合性の議論に終始する数学における無限論との決定的な相違である。 たとえば人は「2」の概念に対応した現実の存在を見ることができる。リンゴが 2個ある場合などがそうである。また「1/3」に対応した現実の存在も見ることができる。ピザを 3等分した場合などである。しかし「∞」に対応した存在を見ることはないし、「1/2+1/4+1/8+…」という無限等比級数に対応した存在を見ることはできない。現実のどこにも無限大や無限小、無限のステップを経て完了する運動は見当たらない。 数学における「収束する」という言葉は、計算において無限のステップを「省略する」という意味に等しい(*7)。しかし現実では、私が道路を歩く場合、私が足で踏む可能性のある地点が存在しているのならば、実在する地点を「省略して通過する」ことはできない。 数学者のヘルマン・ワイルは数学的直観主義の立場から、無限のステップを完了するとみなすことは「無限」の概念と相容れないと考えた。ワイルはゼノンのパラドックスに言及し、次のように逆説的に述べている。 〔……〕もし実際に 1 なる長さの線分が、 切り離された全体 としての、長さ 1/2、1/4、1/8、……なる無限に多くの部分線分から成るならば、アキレスがそれら全部を通り越してしまったということは 完結しえないもの としての無限の性格と相容れない。もし人がこの可能性を認めるならば、一つの機械が相異なる決定行為の無限列を有限時間内に、たとえば 1/2秒後に第一の結果を、1/4秒後に第二の結果を、第三の結果を第二より 1/8秒後に、等々と、あげることにより、完成する能力がないという理由は存しない。このような仕方で、もし脳の感受能力が同様に働くならば、すべての自然数の通過およびこれにより自然数についてのいかなる存在問題にかんしても確実な然り‐否の決定をなしとげることが可能となるであろう!(*8) このワイルの問題提起を受けてジェームズ・トムソンが考案したのが後述する「トムソンのランプ」である。なおワイルは後年立場を変え、ヒルベルトの形式主義に接近したという。 確認しておくべき重要な点は、数学における無限級数の収束という概念は実際に無限のステップを完了したという「事実」を表しているのではなく、無限のステップを完了したものとするという「定義」を表している、ということである。もし実際に無限の地点が実在するのならば、それら無限の地点を通過することは不可能である。したがってゼノンのパラドックスは実在論を前提にするならば、数学では解決できない。 最初に亀がいた地点 1にアキレスが到達した時点で亀は地点 2にいる。その地点 2にアキレスが到達した時点で亀は地点 3にいる……このように亀がいる地点に次々自然数を割り振っていき、アキレスが亀に追いついた時点で亀は最後の地点 Ωにいるとする。するとその「Ω」は論理的に「最後の自然数」という矛盾したことになってしまう(ワイルが指摘した問題である)。 冒頭で論じたように、実在論を前提にするならば、「地点」というものは人の認識に先立って存在しなければならないのだから、自然数に対応付け可能な無限の地点が現実に存在していると考えるしかない。自然数は無限であるが、その「全て」が存在していることになる。「無限のものが完結して存在する」というのは語義矛盾である(自然数の「全て」が存在しているというのだから、存在しているその自然数はそれ以上増えることがなく「完結」しているのである)。 永井龍男(富山大学)は、「ゼノンが提示する手順に従った場合」と前置きした上で次のように述べている。 〔……〕二分割においてスタート地点から目標地点までの距離は(1/2)^n で表され、無限の過程を通じて運動体が占めることのできるあらゆる中間地点での残存距離は(1/2)^n の値から成る無限集合を形成する。そして、もしそのような無限の過程によって運動体が目標地点に到達できるなら、この無限集合にはその要素として 0 が含まれていなければならない。しかし、(1/2)^n の値は決して 0 と一致しない。確かに「n→∞のとき、(1/2)^n→0」とは言えるにしても、(1/2)^n が極限値としての 0 に収束するということは、それが「限りなく 0 に近づく」ということであり、(1/2)^n の或る値が 0 と完全に一致することを意味しないのである。だから、ゼノンの論法に従う限り、仮に無限の過程が実現したとしても、運動体は目標地点に到達できない(*9)。 永井同様の問題提起は山川偉也、野矢茂樹、千代島雅も行っている。山川は無限級数の収束でゼノンのパラドックスを解消しようとする G.ヴラストスに対し、「限りなく近づく」ことと「到達すること」は別であると批判している(*10)。野矢(*11)と千代島(*12)の批判も同様である。なお極限と無限小についての類似の問題提起は、永井俊哉のブログ(*13)にも見られる。 なお「二分割」については、「n→∞のとき、(1/2)^n→0」 の、「 (1/2)^n」の値を「0に近づく」ではなく、仮に「0に到達する」と定義したとしても、実在論を前提にするならば極限値の概念で「二分割」を解決することはできない。実在論では無限個の地点が存在していることを認めるしかないが、その場合「0の直前にある最後の地点(∞-1の地点)」というのが存在できないからである。もし存在できるならその地点は番号付け可能であるが、二分割の最初から、1/2、1/4、1/8、……としていき、0の直前は 1/Ωになるとすると、「∞-1=∞」なのだから、その「Ω」はやはり「最後の自然数」という矛盾したことになってしまう。矛盾したものは存在しない。 数学者のジョセフ・メイザーは次のように述べる。 〔……〕たとえ微積分学による最新の極限の定義を完全に受け入れたとしても、それではゼノンの二分割の逆説を説明したことにはならないだろう。ゼノンの逆説を正確な数学の言葉で述べることはできるが、二分割とは、実のところ自然な力学の結果である。それは物理現象や精神の働きの問題であって、数学の問題ではない。(*14) また永井龍男は、ゼノンが「二分割」で提示する手順をコンピューターのアルゴリズムに模して、次のように表している(*15)。 Step1 目標地点までの距離( x )を 1 とせよ。 Step2 x の中間地点まで進め。 Step3 x = 0 なら停止し, x > 0 なら Step2 に戻れ。 上のアルゴリズムに従う限り、原理的に「二分割を続ける行為」が終了することはない。なぜならこのアルゴリズムからは論理的に「0の直前にある最後の値」というものが導出できないからである。このアルゴリズムに従って制作されたプログラムを実行したなら、最初に Step2で出力される値は 0.5であり、次は 0.25、その次は 0.125、その次は 0.0625、……以下無限である。「0の直前にある最後の値」というのはない。どれだけ高速なコンピューターがあったとしても、コンピューターは存在しない値を出力することはできないので、決して「0」に到達できず、無限ループするしかないことになる。この永井の議論も「二分割」が極限で解けないことを証明している。 ※ただし永井は運動を否定するゼノンの主張を認めるのではなく、運動するものは上のアルゴリズムに従った無限ループによって記述される領域から、それによっては記述不可能な領域へと移動する、ということで運動を肯定している。 永井や山川らの論点は、極限値というものが 0でないゆえに、無限の過程が実現してもゼノンの論法に従えば「二分割」は解消できないということであった。しかし私は、そもそも「無限の過程」というものがありえないと考える。前述したように「無限の過程を終える」というのは「自然数を全て数え終わる」というに等しい語義矛盾である。アキレスが無限のステップを経て亀に追いつくのなら自然数を全て数え尽くすに等しいことである。それは端的な矛盾である。決して数え終わることがないのが自然数であるからだ。 たとえば「球形であり、かつ正六面体の物が存在する」と矛盾した存在を言葉で表現することはできるが、その言葉は決して現実世界に指示対象をもつことはない。「無限の過程を終える」という言葉も同様の矛盾なのである。 「飛ぶ矢」は無限小の地点が存在していると仮定すると陥るパラドックスであった。「速度=距離÷時間」なのだから、飛んでいる矢は無限小の地点においては速度がなく、静止していることになる。もちろん数学的には微分による「瞬間速度」を想定することによってこの問題を回避できるだろうが、哲学的には実在との対応可能性のない無限小を前提すること自体に既に困難があり、多くの哲学者がその困難を指摘している。 なおアリストテレスは『自然学』において、物体が時間的幅の無い点位置にある場合、それは「運動も静止もしていない」と捉えることで「飛ぶ矢」を解消しようと試みており、近年の欧米の研究者 G.ヴラストスや G.E.L.オーエンなどもアリストテレスの方法で飛ぶ矢のパラドクスを解決しようと試みている。しかし永井龍男は、「運動も静止もしていない」ということは「運動」の否定でもあるので、ゼノンに対する反駁にはならないと考えている(*16)。永井と同様の問題提起は大森荘蔵にも見られる(*17)。 確かに矢の「静止」が論証できなくても「運動」が論証できなければ、運動の実在を否定することが目的のゼノンにとっては問題がないであろう。 「競技場」は時間と空間の最小単位を想定すると不合理に陥ることを示すパラドックスである。このパラドックスは量子論の知見によって、素粒子の運動が連続的ではなく断続であることが示されている現代では、深刻に受け止められるべきものかもしれない。このパラドックスにはいくつかの解釈があるが、以下はジョセフ・メイザーの解釈(*18)を参考に説明する。 次のようにA列B列C列が各 3単位づつ並んでいるとする。そしてB列は右へ 1単位、C列は左に 1単位移動する。 A列: AAA B列: BBB C列: CCC 移動の結果は次のようになる。 A列: AAA B列: BBB C列:CCC B列はA列に対して 1単位移動したことになるのだが、C列に対して 2単位移動したことになる。このパラドックスに対してよくある間違った解決法は、相対運動や相対速度の問題だとすることである。もし相対速度の問題なら、どんなに高速で移動しようとB列中央の「B」とC列中央の「C」は、必ず「並んだ瞬間」というものがある。5万分の 1秒であれ 3億分の 1秒であれ通過するのに有限の時間がかかる。ところが、B列もC列も時間と空間の「最小単位」だと仮定しているのだから、それぞれ 1単位を一気にステップするわけであり、つまりB列中央の「B」とC列中央の「C」は「並んだ瞬間」というのがなくなるわけである。これはSF映画のテレポーテーションのイメージに近い。 したがって最小単位を想定することは不合理だということになり、時間と空間は連続的であると考えるしかない。しかし連続的ならば「二分割」や「アキレスと亀」のパラドックスが待ち構えているということであり、どのように考えても運動、および時間と空間の実在を認めることはできない、というのがゼノンの四つのパラドックスの構成なのである。 次に、アリストテレスの可能的無限の概念によってゼノンのパラドックスが解消される可能性を検証してみたい。これは多くの哲学者が採用する解決法である。なおベルクソンは運動の分割そのものを否定するのだが、分割によって見出される時点や地点というものが、運動そのものに属するものではないという考えは、基本的にアリストテレスと同じものである。 ギルバート・ライルと野矢茂樹は、無限分割の問題である「二分割」と「アキレスと亀」について、それは事後的な視点から(可能的に)無限に続けられる説明方法だとして、説明が終わらないことは運動が終わらないことを意味しないと考える。ライルと野矢の議論は次のようなものである(*19)(論点をわかりやすくするため、表現方法をアレンジした)。 母親がケーキを出して子供に「必ずケーキが半分残るように食べていきなさい」と指示したとする。子供はケーキを半分食べる。次に残ったケーキの半分である元の 1/4を食べる。次に残ったケーキの半分である元の 1/8を食べる。子供は「必ずケーキが半分残るように」食べているのだから、無限回食べてもケーキは必ず一定量残っていなければならない。子供が全てのケーキを食べ終わることが決してないように、二分割のパラドックスやアキレスの亀のパラドックスも、決して終わることの無い説明方法なのである。子供はその気になればケーキを全て食べられる。半分食べ、そのまた半分食べ……という終わらない食べ方があることは、ケーキを全て食べる方法がないことを意味しない。 ライルと野矢によれば「二分割」とは、まず「全体」を設定しておいて、その半分、また半分と無限に分割していくものである。「アキレスと亀」も、隠された形ではあるが、やはり時間と空間の「全体」が設定されており、それを無限に分割していくものである。「二分割」も「アキレスと亀」も、説明方法として「必ず一部分が残るように説明していきなさい」という指示に従っているようなものであり、実はパラドクシカルなものではない、というのがライルと野矢の結論である。アキレスは亀を追い抜いた後で、自分がどの地点を通過したか数えることができるだろう。そして数えられる地点の数は無限である。無限の地点を数え終わることが無いということは、運動が無いということを意味しない。「アキレスは亀を追い抜いた」と一気に説明する方法があるし、その追い抜くプロセスを無限に分割する終わらない説明方法もある。しかし終わらない説明方法があることは、終わる説明方法がないことを意味しない、ということである。 ライルと野矢のアイデアは可能的無限の概念と事後的視点の観点を組み合わせたものである。しかし、そもそも可能的無限が反実在論であり、ゼノンに対する反駁としては的外れであることを私は既に論じた。二分割のパラドックスを図にすると以下のようになる(図では「無限前進型」を採用している)。 上の図からは二つの問題が読み取れるはずである。一つの問題は、運動の後に事後的な視点で運動の軌跡を分割して表したのか、それともこれから運動すべき構造を表したのか、ということである。これは区別ができないはずだ。ライルと野矢は事後的な視点だとするのだが、無限分割可能なのは運動の軌跡だけではない。人がこれから運動しようとする場合、その運動のプロセスは思考の上で無限に分割できるのだ。もう一つの問題がここにある。その思考により想定される無限の地点は、人に思考される前に現実的に存在しているのか否か、ということである。 私が冒頭で論じたように、「実在論によれば」地点というものは人の認識に先立って存在するのだから、可能的な地点は全て現実的に存在しており、すなわち無限個の地点が存在していると考えるしかない(そもそも「無限のものが存在する」と考えるしかない時点で実在論は破綻している)。したがってこれから運動する場合、その運動のプロセスは理論の上で無限に分割でき、なおかつ無限の地点が全て存在することになる。しかし無限個の地点を通過するということは不可能である。無限とは通過できないという意味なのだから。 ライルと野矢の主張は、運動を終えたものに対しては妥当であるが、これから運動を開始するものには妥当しない。これから運動を開始するものは、無限の行為を完結させなければならない。「一気に説明する方法」によって、「無限の地点を一気に飛び越す」と言えるかもしれないが、それは「無限を通過する」という矛盾を説明していない。 問題は「説明方法」ではないのである。確かに事後的視点からすると、終わる説明方法と終わらない説明方法はある。しかし「アキレスは亀を追い抜いた」と一気に説明する方法は、実在論が正当であることの論証ではない。それは単に「運動があった」と言っているにすぎず、ゼノンを論駁したことにはならない。問題はその運動が「現象」のみとしてあるのか、「実在」に対応してあるのかということである。 改めて確認しておこう。ゼノンも運動が存在しないと主張しているのではない。ピタゴラス学派など世界が「多」からなるとする立場が、運動の前提としているものを背理法で批判しているのである。それは無限に分割可能な連続体としての時間と空間である。ゼノンの主張は「多」としての連続的な運動は存在せず、「一」として完結した運動(それは運動というより「世界」というべきかもしれない)があり、それは思考の上で可能的に無限に分割できるということである(なお分割するその思考も「世界」に含まれている)。アリストテレスの「可能的無限」の概念はこのゼノンの主張に沿ったものであり、反実在論的である。しかしアリストテレスは実在論者であった。私から見ればアリストテレスは矛盾している。第2節で見たように、「外部世界の実在」と「真理対応説」という実在論の必要条件を前提とするならば、私が歩く場合、私の足に踏まれる可能性のある無限の地点は全て、歩く前に現実的に存在していると考えるしかなく、形而上学的無限を認めるしかないからだ。 ここで僅かに残されているゼノンの断片から、最も肝要と思われる部分を引用しておく。 もし多があるなら、 ある ものどもは無限である。なぜなら、 ある ものどもの中間には、つねに他のものどもがあり、さらに、この他のものどもの中間には、また別の他のものどもがあるのだ。かくて、 ある ものどもは無限である。(*20) ゼノンがいう「 ある もの」には、私がいう「地点」が含まれていると考えればよい。実在論では地点は認識作用に先立って存在しなければならないのだから、形而上学的無限の存在を認めることになり、運動は不可能である。ゼノンのパラドックスとは背理法による反実在論の論証である。ゼノンを論駁するなら反実在論を論駁しなければならないが、アリストテレスの「可能的無限」は反実在論に依拠する無限概念であり、先に検証したライルと野矢の議論も、可能的無限に基づいているゆえに、ゼノンのパラドックスの解決法としては自己矛盾しているのである。 実在論を前提とするならば、アキレスは亀に追い着けないし、私は一歩も道を歩けない。しかし現実には私は道を歩くことができるし、ゼノンも歩いたはずであり、アキレスが実際に亀と競争していたならばた易く追い抜いたであろう。 これらのことから私が考察してきた時間と空間、そして私の日々の「一歩」の正体は明らかである。私やゼノンが歩いてきた際のそれぞれの一歩とは、「実在」ではなく「現象」である。「表象」といっても「観念」といっても「クオリア」といってもいい。それらと対応している「実在」としての空間や時間はないということだ。 現象は無限個存在しない。アキレスが亀を追い抜くとき、それは実在する空間や時間という連続体の中を、無限のステップを経た上で追い抜くのではない。俊足のアキレスが亀に接近するという現象があり、またさらに接近するという現象があり、やがて追いつくという現象があり、次に追い抜くという現象があるだけである。そして「アキレスが亀を追い抜いた」という現象は、可能的に無限に分割できる。しかし形而上学的無限としては存在しない。現象の数は有限である。 以上の考察を三段論法で表すなら以下のようになる。 [前提1]: 実在論では形而上学的無限を認めるが、反実在論では可能的無限しか認めない [前提2]: 形而上学的無限を認めれば運動は不可能であるが、運動は現実に存在する [結論] : したがって反実在論(ゼノンの論証)は正しい しかし次のような疑問が生じるかもしれない。人々の日々の一歩が対応する実在をもたず、「単なる現象」に過ぎないのであれば、なぜアキレスと亀の競争において、アキレスが亀に追いつく時点が正確に予測できるのか、なぜ電車は 1分の遅れもなく正確に駅に到着するのか、なぜ宇宙ロケットを天文学的に複雑な計算によって打ち上げて人工衛星を予定通りの軌道に乗せるという神業が可能なのか、それらの説明がつかない。――これが一般の人の反実在論に対する抵抗感の理由であろう。ちなみに、もし科学的実在論が偽であるならば科学の成功は「奇跡」となってしまう、と逆説的に論じることで科学的実在論を擁護しようとする試みが「奇跡論法」である。 しかし反実在論であってもそれら科学の成果を合理的に説明することはできるのである。それは現象というものは確かに対応する実在をもたないが、「単なる現象」ではないからである。実はそのことを詳細に論じたのがカントの『純粋理性批判』である。 4 カントによる無限批判 イマヌエル・カントの主著『純粋理性批判』の基盤を成すのがアンチノミーの論証である。カントは『純粋理性批判』の執筆開始前、アンチノミー論を冒頭に置く構想だったという(*21)。アンチノミー論とは「理性批判」であると同時に「無限批判」でもある。 ゼノンのパラドックスを解決しうる唯一の方法がカント哲学であると私は考える。ただしカント哲学による解決法はゼノンの間違いを暴くものでなく、ゼノンが正しいことを示すものである。ここでカントのアンチノミーの論証(ここでは第一・第二アンチノミーのみ)のエッセンスをごく簡単におさらいしておく。 第一アンチノミーは時間と空間の無限大の問題である。 [テーゼ]: 時間と空間は無限であることはできず、有限でなければならない。無限とは決して終わらないという意味であるが、仮に時間が無限ならば「現在」までに無限の時間が終わったことになる。これは矛盾である。したがって無限の時間と空間が存在することはできない。 [アンチテーゼ]: 時間と空間は無限でなければならない。仮に時間と空間が有限であったとしても、その時間のより前、その空間のより向こうと、さらに大きな時間と空間が考えられてしまうからだ。仮に世界がある瞬間から始まったのなら、それ以前には「空虚」があったことになるが、無からは何も生じないはずである。したがって世界に始まりはなく無限だと考えるしかない。 第二アンチノミーは無限分割の問題である。 [テーゼ]: 物体が分割において無限であることは不合理であり、世界を構成する究極の要素は一定の大きさを持たねばらない。もし無限小ならば、それはいくら加算しても無限小であり、物体は存在しないに等しいことになるからだ。 [アンチテーゼ]: 世界の構成要素は一定の大きさのものであってはならない。空間は無限分割可能なので、一定の大きさの構成要素があったとしても、それは空間に対応した無限の部分を持つことが想定されてしまうからだ。 時間と空間、そして世界を構成する物質の大きさは、有限であっても無限であっても不合理であり、アンチノミーが生じる。それゆえに時間と空間は「物自体」に属するものではなく、表象、つまり「現象」の形式である ※なおカントにおいては「表象=感覚」であり、感覚による対象の経験が「直観」である。そして直観による経験の在り方が「現象」である。以下では簡略化のため「表象」を「現象」に置き換えて説明する。 意識に現れる現象は全て時間と空間という形式をもっている。現象に伴うその形式は可能的に無限に延長および分割ができる。だから宇宙は無限大だと考えて不合理に陥るのも、逆に有限だと考えて不合理に陥るのも、また物質の最小単位があると考えて不合理に陥るのも、無限分割できると考えて不合理に陥るのも、いずれも現象の形式によって物自体を理解しようとするためなのである。換言するらば、宇宙論的理念に関して理性の「統制的原理」を経験的に、「構成的原理」として使用することであり、純粋理性の誤謬推理なのである。 以上がカントのアンチノミーによる「理性批判」の概略である。アンチノミーの論証がゼノンの背理法による論証と類型であることは明らかだが、ニュートン力学の時代にあってニュートンを強く意識していたカントの議論は、ゼノンよりも遥かに精錬されたものになっている。特に注目すべきは時間と空間の観念性を主張して、基本的に「超越論的観念論」の立場を採りながら、人に経験される現象のア・プリオリ性に着目して「経験的実在論」を主張したことである。このカント哲学こそが、ゼノンのパラドックスに対して人々が感じる不合理を解消できる唯一の方法であると私は考える。 私たちの日々の一歩が対応する実在をもたず単なる現象に過ぎないのであれば、アキレスと亀の競争において、アキレスが亀に追いつく時点が正確に予測できることや、宇宙ロケットが天文学的に複雑な計算によって打ち上げられて人工衛星が予定通りの軌道に乗せられることは、非常に不思議なことであると思える。この不思議さは、人の素朴実在論に基づいている。 人は感覚が曖昧なものであることを知っている。会社へと歩く足取りが重くなったならば、それは自分が疲れているからだと思い、決して会社までの距離が遠くなったからだとは思わない。感覚の曖昧さを修正する普遍的な「実在」があると思うのは素朴な心情である。実在を想定することによって異なる人々とのコミュニケーションも成立する。渋谷のハチ公の像は私の心にある現象としてしか存在しないと皆が考えるなら、ハチ公前広場で他人と待ち合わせる人はいない。実在というものの普遍性が人間生活に不可欠な理由である。 カントが『純粋理性批判』を出版した後、同時代の哲学者たちにはカントの哲学をバークリーの観念論と同一視する者が少なからずいた。その誤解への反発が『純粋理性批判』の解説書といえる『プロレゴメナ』と、『純粋理性批判』の第二版を書くことの動機の一つになったといわれる。『プロレゴメナ』でカントは次のように述べている。 〔……〕空間および時間は感性の単なる形式であって感性の外にある客観においては決して見出されるものでないと考えるならば、――更にまたこれらの表象を、可能的経験に関してのみ使用するならば、かかる表象を単なる現象と見なすことには、誤謬への誘惑はいささかも含まれていないし、また仮象も含まれていないのである。感性的表象は、それにも拘らず経験における真理〔経験的真理〕を成立せしめる規則に従って、正しく連関されているからである。このようにして幾何学のすべての命題は、空間に妥当すると同時に、感官のすべての対象にも妥当する、 〔……〕 それだから空間および時間の観念性に関する私の説は、全感性界を挙げて単なる仮象にするものであるという批難はまったく当たらない。むしろ私の説は、一個の極めて重要な認識――すなわち数学がア・プリオリに提示するところの認識を現実的対象に適用することを保障し、またこの認識を単なる仮象と見なすことを予防する唯一の手段なのである。(*22) カントの発想の斬新さは、人間生活が前提とする普遍性の根拠というものを、現象を超越した実在ではなく、時間と空間という現象の「形式」に求めたことである。これがカント自らがいう認識の「コペルニクス的転回」である。形式としての時間と空間からは、さらに量や関係などの普遍的なカテゴリーが取得される。それらの形式は実在に属するのではない。人間の認識の形式でありながら決して曖昧なものでなく、普遍的で精密なものである。だからこそ数学は普遍的に認識され、数学によって既述される物理法則は人類に普遍的なものとして現れてくる。当然、アキレスが亀に追いつく時点と地点も正確に予測できることになる(なおカントは「物自体」と「実在」を使い分けているのだが、ここでは通常の意味で「実在」を用いる)。 道路であれテーブルであれ、心に現れる物的現象は空間という幾何学的形式を持つ。デカルトが「延長」と呼んだ所以である。その形式は無限に分割と延長が可能である。時間という形式も空間と相関しているゆえに、幾何学的に表現できて無限に分割と延長が可能になる。それらは数式によって精密に表現できる。つまりア・プリオリな総合判断を可能にするものであり、物理現象を予測可能にするものである。 カントのいう時間と空間の「形式」によって、アキレスの運動をデカルト座標で表すならば、以下のように描くことができる。赤い線がアキレスの運動である。 次に亀の運動は以下のように描くことができる。アキレスより前方からスタートしており、アキレスより遅いことが形式によってわかる。 アキレスの運動である赤い線と、亀の運動である青い線を合わせれば、アキレスがどの時点で、かつどの地点で亀に追いつくかは、両者の形式によって瞭然である。 上の図はもちろん抽象的な数式にすることができる。仮にアキレスが秒速 10メートル、亀が秒速 2メートルとし、亀がアキレスの 100メートル先からスタートしたとする。代数にするなら 10t=2t+100となり、アキレスは 12.5秒後、125メートル先の地点で追いつくことが計算できる。 カントが示した重要なことは、アキレスが亀に追いつく時刻が数学的に予測できるということは、時間と空間という現象の「形式」によって可能だということであり、時間と空間の「実在」によって可能なのではないということである。言い換えるとニュートンが数式で表したものは時間と空間の形式だということである。したがって、数学的に運動が正確に予測できるからといって、ゼノンがパラドックスによって主張した時間と空間の反実在論が間違いであるとはいえないということになる。 ちなみにカントは『純粋理性批判』において、アンチノミーを論じる過程で僅かにゼノンに言及しているのみであるが、カントのアンチノミーの論証は、ゼノンおよびエレア派の哲学の完成型として読むことができるはずである。 カントからすれば 10t=2t+100=12.5や、6+3=9という数学的判断はア・プリオリな総合判断である。ア・プリオリである理由は、数学が時間と空間という現象に伴う形式に基づいた学問であるからだ。その普遍的な形式に基づいている限り、人間は 10t=2t+100という代数の問題について 12.5以外の正しい答えを導出することができないし、6+3=という問題について 9以外の正しい答えを導出することができない。そのような数学の普遍性によって、宇宙ロケットを天文学的に複雑な計算によって打ち上げて人工衛星を予定通りの軌道に乗せることができるのである。しかしカントにとって、その形式は「物自体」には適用できない。 時間と空間という形式は連続体として仮定されており、いわば数学的な理想世界である。だからこそ「Σ」や「lim」の概念を用い「n→∞」などとして無限を扱うことができる。前節ではラッセルへの批判に関連し、数学での無限級数の収束という概念は、実際に無限のステップを完了した「事実」を表すのでなく、無限のステップを完了したものとするという「定義」であることを述べた。その定義で運動が上手く予測できるからといって現実に無限の何かが存在するというわけではない。カントからすれば「極限」とは、決して経験によって与えられるものではなく、理性が生み出した「理念」なのである(*23)。 時間と空間という形式が無限分割を「可能」にするものだからこそ、無限が存在するという「定義」によって運動が予測できるのである。無限分割を可能にする「経験の条件」によって、必然的に未来の経験が予測される。それを表したのが前述の図2、図3、図4である。三つの図は「同じ経験の条件」から描かれたものなのだから、数学的に整合的なのは当然なのである。なお図4に以下のようにして線を書き加えれば、直観の形式(ここでは幾何学)が無限分割の「機会」を提供するものであることが瞭然とするだろう。 ア・プリオリな総合判断を可能にする時間と空間の「形式」こそが、物理現象を予測可能にするものである。かくして実在論の立場から主張される「奇跡論法」は回避される。むしろ形而上学的な「実在」こそがオッカムの剃刀によって消去されるべきものである。 もし時間と空間が実在するならば繰り返し論じたように無限である他はないが、「無限が存在する」という言葉は語義矛盾に他ならない。矛盾したものは実在しない。 ところで、哲学の無限論に対するよくある誤解の元がここにある。数学者や物理学者の中には、哲学者がゼノンのパラドックスを現代でも真性の問題とすることを、数学に対する単なる無知か、数学に対する批判だと受け止めることがある。例えば黒木玄の村上陽一郎に対する批判(*24)や、田崎晴明の大森荘蔵に対する批判(*25)などである。しかし数学的理想世界において無限の概念が操作できるからといって、無限が現実世界において実在するとは言えないのだ。 哲学における無限論が形而上学であり、無限が実在するか否かについての議論であることを理解しなければならない。数学の無限論には形而上学的含意がない。数学者や物理学者は形而上学的な実在論を前提にしているわけではないし、実在論論争にコミットする必要もない。哲学者が「無限は不可能である」というとき、それは数学的無限に対応した「実在」はないという意味なのである。またそれは時間や空間の実在性を問うことでもあり、そして数学的無限に基づいて世界を理解しようとする形而上学に対する批判でもある。 しかしゼノンやカントに反し、数学的無限が実在に対応しているとして形而上学的無限を肯定する哲学者も少なくはない。中世では主として神の無限性を確保するため宗教的見地から主張されていた。私見であるが、近代以降では形而上学無限を容認する哲学者は少数派であると思う。次節ではこの形而上学的無限の可能性を検証していきたい。 5 形而上学無限の不可能性 ゼノンのパラドックスとカントのアンチノミーが、形而上学的無限を前提にする実在論では解決不可能な難問であることが、これまでの論考によって明らかになったと思う。形而上学的無限に対しては他にも様々なパラドックスが指摘されているので、いくつか紹介したい。 ガリレオ・ガリレイは『新科学対話』で、ゼノンのパラドックスに似た次のようなパラドックスを紹介している。 物体が静止から時間に比例して加速していくとする。或る時点で物体は或る速度をもつのだが、それより前の時点ではより遅いことになり、さらに前の時点ではさらに遅いことになる。時間が無限に分割できるとすると、「最初に動き出した時点」というのが想定できないから、物体は動かない。 ジェームズ・F・トムソンは既述したヘルマン・ワイルの問題提起を受け、「トムソンのランプ」と呼ばれる次のようなパラドックスを考案している。 無限の速度で反応できるランプがあるとする。最初スイッチを ONにする。次は 1秒後 OFF にする。次は 1/2秒後 ONにする。次は 1/4 秒後 OFFにする。次は 1/8秒後 OFF にする……では、このランプは 2秒後 ON 、OFFのどちらなのか? また 10後はどうなのか? 数学的に考えるならトムソンのランプは極限が 2に収束するのだが、極限の概念では ONであるか OFFであるかは決定できない。また 10秒後についても何も語れない。しかし世界は 10秒後にも存在するはずであり、何らかの答えがなければならないはずである。 古典論理では二値原理を前提とするので、命題は真であるか偽であるかのどちらかであり、収束時のランプの状態について解答があると考えるしかない。直観主義論理では排中律を拒否するので、収束時のランプの状態について解答の必要はない。しかし排中律の拒否は反実在論であり、基本的にゼノンと同じ立場である。 「アキレスと亀」を擬似的なトムソンのランプとみなすことができる。既述の論法を用いるが、最初に亀がいた地点 1にアキレスが到達した時点で亀は地点 2にいる。その地点 2にアキレスが到達した時点で亀は地点 3にいる。……そのように亀がいる地点に次々自然数を割り振っていき、アキレスが亀に追いついた時点で亀は最後の地点 Ωにいるとする。ではその「Ω」は奇数か偶数かどちらなのか? ――これはトムソンのランプと同じことになる。実在論の立場では概念的な「地点」は全て現実に存在していると考えるしかないことを私は繰り返し論じてきた。全ての地点が完結して存在しているのならば、「Ω」は奇数か偶数か古典論理の枠組みで決定できるはずである。実在論はトムソンのランプに合理的に解答しなければならない。 以上のパラドックスは主に無限小のパラドックスである。無限大にも数々のパラドックスが指摘されている。無限小の場合は全体の大きさが設定され、それを無限に分割していくものであった。しかし無限大はそもそも「全体」が決定されず、また「全体」ということの意味が通常とは大きく異なってくるかもしれない。 時間についての無限大のパラドックスには次のようなものがある。 今日までに流れてきた過去の時間が無限だとする。明日になれば「無限+1日」になり、今日より明日の無限の方が長いよう直観的に思われるのだが、数学的には「∞+1=∞」である。つまり明日は今日より 1日長くなるにもかかわらず、同じ長さであるという矛盾したことなる。 ダフィット・ヒルベルトは「無限ホテル」という次のようなパラドックスを考案している。 ホテルが満室であれば新たな客を入れることはできない。しかし客室が無限に連なって存在するならば満室であるにもかかわらず新たな客を入れることができる。つまり無限個の部屋は「どの客室にも隣室がある」ということであり、「隣室がある客室の客は隣室に移動することができる」のだから、満室状態であるにもかかわらず、客の移動によって空室を作ることができ、何人でも新たな客を入れられるという矛盾したことになる。 以上のようにさまざまなパラドックスが主張されていることから、形而上学的無限を擁護することは困難であると思える。物理学者のジョン・D・バロウは、各分野の著名な学者たちの無限についての主張を以下のように分類している。(*26) 「絶対∞」とは神のことである。無神論を公言していたラッセルは神を否定するが、物理的世界は数学的無限と対応していると考えていたようである。ヒルベルトは数学的無限については「カントールの楽園から我々を追放するようなことは誰にもできない」とカントールを擁護していたが、「連続体の無限分割は思考の中にのみ存在する単なる観念」として物理的無限は否定している(*27)。ゲーテルが数学的無限と神を肯定しながらも、物理的世界の無限を肯定しなかったのはカントの影響かもしれない。ゲーテルがカント哲学に傾倒していたことはよく知られている。カントにおいては、物理的世界とは物自体の世界でなく現象の世界である。 バロウの表に載っていない重要な人物の無限論を紹介しておこう。既述したようにアリストテレスとカントは形而上学的無限を否定している。ライプニッツはニュートンとともに微積分の発見者であり、彼の「モナド」は無限小と解釈されることもある。しかし石黒ひでの解釈では、ライプニッツの無限小とは「いくらでも小さくできる」という操作的な概念であり、ライプニッツはコーシーやヒルベルト流の有限的定義の先駆者である。G.M.ロスの解釈によれば、ライプニッツは数学が属す現象界と、モナドが属する叡智界とを存在論的に厳格に区別しており、ライプニッツの無限小は実在でないという(*28)。なおニュートンは「絶対時間」と「絶対空間」を想定していたことから、形而上学的無限を肯定していたと考えられる。ヘルマン・ワイルはヒルベルトの立場に近い。 ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』には次のような文がある。 空間、時間、そして色(なんらかの色をもつということ)は対象の形式である。(2.0251) 対象が存在するときにのみ、世界の不変の形式が存在しうる。(2.026) 前期ウィトゲンシュタイン哲学は一種の独我論であり、「表象」と「私」の一致を主張している(『論考』5.64)。したがって空間・時間はそれ自体で存在するものでなく、現象の形式である。ここにはカント哲学との同型性が見られる。後期のウィトゲンシュタインは前期の独我論を放棄しているのだが、実在論を選択したわけでもない。実在論論争にコミットすることを避けて言語ゲームという実用的実在論を選択したと考えるのが妥当だろう。そして後期ウィトゲンシュタインにおいては、言語の「意味」とは「用法」である。「無限」とは文字通り「限りが無い」という意味である。自然数は無限であるが、それは無限に多くの数が「存在する」ということでなく、数を数える行為に「終わりが無い」という意味である。したがって「無限」という語を存在者を語るときと同様に扱うことは、言語の誤用に他ならない。ウィトゲンシュタインはヒルベルトのいう「カントールの楽園」を否定している。マイケル・ダメットの解釈では、ウィトゲンシュタインは規約主義の立場である(*29)。 近代以降の哲学者では形而上学的無限を否定する者が多数派のように思える。しかし形而上学的無限を肯定する者がいるのも事実であり、ここで彼らの主張を検証していきたい。なおラッセルのように数学的無限と形而上学的無限が対応すると考える立場については、第3節で検証したので省略する。 竹田青嗣はカントの第一アンチノミーについて次のようにいう。 この主張は、このように整理してもたいへんわかりにくい。その理由は明白で、この主張が、カントが繰り返しこれを否定しているにもかかわらず、一つの典型的な詭弁論をなしているからだ。〔……〕 この議論に対して、「無限の時間の中には無限な変化系列が存在するが、それでもそれは決して終わっていない。なぜなら、無限の変化系列はそもそも終わりえないから」、と反論できるだろう。 〔……〕 「無限の変化系列は完結しない」は妥当だが、そこからは「したがって、無限の変化系列ということはありえない」という主張は必然的には取り出せず、これ自身が典型的な誤謬推理である。「完結しない無限の変化系列が存在する」というだけなら、論理的には妥当だからである。(*30) 竹田は、未来と過去の決定的な相違に着目していないように思える。「無限」とは「完結しない」という意味なのだから、仮に「変化の系列は未来に対して完結しない」というのなら論理的に妥当である。しかし過去は「終わっている」のだから、変化の系列は過去に対しては「完結している」というしかなく、竹田の「完結しない無限の変化系列が存在する」という無限解釈は過去には適用できない。ならば「過去は無限であり、それは完結している」というしかないが、それは明らかな語義矛盾である。 長田蔵人はカントの第一アンチノミーを批判して次のようにいう。 N. ケンプ・スミスやB. ラッセルが指摘しているように、無限の過去から現在がどれほど遠くにまで達しているのかを我々が把握しえないということと、世界系列が実際に無限であるか否かということとは、そもそも何ら本質的な関わりはないのである (Kemp Smith 484, Russell 160ff.)(*31)。 認識論的に不可能であることは存在論的に不可能であることに繋がらないという主張である。長田はこの立場の人物として K.スミス、B.ラッセルの他に、J.ベネット、P. F. ストローソンらを挙げている。なお中村秀吉もカントのアンチノミーに対しほぼ同様の主張をしている(*32)。 スミスや長田らの主張は、過去の時間長さ、あるいは限りなさを可能的無限によって理解しようとするものである。しかし繰り返し論じてきたように実在論を前提にするならば、地点や時点といった概念的な存在は、人の「認識に先立って」存在しなければならず、可能的無限は現実的無限と一致せざるを得ない。これは過去の日数または因果関係の数に自然数を対応付けることを考えてみれば明らかである。自然数は数え終わることがない。にもかかわらず「過去は終わっている」のだから、「無限の自然数と対応付け可能な無限のものが完結して存在する」と言うしかない。これは自然数が全て終わっていると主張するに等しい矛盾である。 参考までにアリストテレスは、基本的に形而上学的無限を拒否しながらも、「宇宙の始まり」の問題については、「不動の動者」や「第一原因」を想定せざるを得なかった。アリストテレスは過去については事実上形而上学的無限を認めざるを得なかったのであり、「宇宙の始まり」は哲学と物理学にわたる伝統的な難問といえる。 なお実在論における可能的無限と現実的無限の一致という原則は、空間の無限性についても同様に適用される。実在論では、自然数に対応付け可能な空間の位置が分割においても加算においても、認識に先立って無限に存在していると考えるしかない。しかし「無限が存在する」というのは矛盾に他ならない。何ならヒルベルトの無限ホテルをその無限の空間に並べることを想定してみればよい。空間が無限だというなら無限ホテルは(物理的に不可能であっても)論理的に可能である。しかし無限ホテルは矛盾しているのである。 以上のように検証してきたが、仮に形而上学的無限が実在するとした場合は論理的矛盾が生じ、様々なパラドックスが指摘されることから、形而上学的無限は不可能であると結論するしかない。 繰り返しになるが、そもそも「何かが無限にある」というような文が自体が語義矛盾なのである。無限ということは何かの系列の終わりが「ない」とい意味である。前述した時間いついての無限大のパラドックスにおいて、「無限より 1日長い」という言葉が意味をなしていない理由はカテゴリー錯誤だからである。無限とは「行為」に属する概念であり、存在に属する概念ではないからだ。「無限」と「1」は属しているカテゴリーが違うのである。無限とは行為の終わりがないという意味なのだから、「無限にある」というのは、「ない」ものが「ある」というに等しく、これは端的な矛盾である。「無限」に「存在する」という述語を繋げることはできない。ゼノンやヒルベルトが考案したパラドックスは「無限の量が存在する」という語義矛盾の前提から生じるのである。 長田らのいうように、認識論的に不可能であることは存在論的に不可能であることに繋がらないのは事実であろう。論理学的にも直観主義の立場から排中律を否定するなら、トムソンのランプの問題などに対して明確な答えを出す必要はない。しかし既述のように排中律を否定する立場は反実在論である。実在論では人の認識に依存せず外部世界も出来事も実在していると考えるのだから、トムソンのランプは収束時に ONか OFFかのどちらかであり、アキレスは無限個の地点を通過した上で亀に追いつくのでなければならない。しかしトムソンのランプに合理的な答えはありえず、アキレスがいかに俊足でも無限を通過することはできないのである。 結局、排中律を認める実在論では無限についてのパラドックスが解消できず、形而上学的無限が不可能であることを認めるしかない。しかし排中律を拒否するなら反実在論を認めるに等しいことになる。いずれの立場にせよゼノンの論証とカントのアンチノミーの論証を肯定するしかないはずである。 しかし物理学の知見によって、無限についての問題が解消される可能性があるかもしれない。時間と空間はビッグバンにより始まり、それ以前は存在しなかったのだという考えがある。また時間と空間には最小単位があり、それによって無限分割の問題が回避されるという考えもある。つまり実在論を前提としながらも形而上学的無限を拒否できる――そのような実に都合のよい立場がある可能性は否定できない。次節では物理学による形而上学的無限の回避可能性を検証したい。 6 物理学による形而上学的無限の回避可能性 現代物理学の理論において形而上学的無限は回避される可能性があるかもしれない。しかし仮にそうだったとしても、ゼノンとカントによる無限についての洞察が間違っていたということにはならない。古い論理の枠組みにおいて形而上学的無限が不可能か否かを見極めておくことは重要だということである。 改めて確認しておこう。ニュートン力学的な時間と空間の概念に基づく限り、無限についてのゼノンとカントの論証は正しいということである。時間と空間を無限分割、無限延長可能な連続体と考える限り、論理的にアキレスは亀に追いつけないし、人は宇宙論においてアンチノミーに陥るしかない。 現代物理学では時間と空間の概念がニュートンのものとは変わっている。この新しい論理的枠組みにおいては、形而上学的無限の不可能性から、直ちに反実在論が帰結するわけではないかもしれない。以下の三つの無限について現代物理学の解釈を検証してみたい。 1: 過去の時間(または因果系列)の無限大 2: 宇宙空間の無限大 3: 時間と空間の無限分割(無限小) 物理学的な意味での「時間」はビッグバンにより始まり、それ以前には時間はなかったという主張がある。たとえばアレキサンダー・ビレンキンは大きさゼロの「無(nothing)」から宇宙が誕生したとする「無からの宇宙創生」という説を主張している。その「無」の前には時間も空間もなかったという。 しかしビレンキンの考える「無」は哲学的な意味での無とは異なっていて、宇宙を創造する「確率」を持ったものだとされている(*33)。したがってビッグバンの「原因」を考えずにすませることはできない。ちなみに物理学者の佐藤勝彦によると、量子力学では全てを確率的に捉えるので、「確率が無い状態」というのを認めないという。佐藤は次のように説明している。 概念的または哲学的な意味でのゼロや無という状態は物理的にありえないということも、量子論が明らかにした真実の一つなんです。(*34) 物理学者であっても信仰を持つタイプの人物は、ビッグバンの原因として「神の一撃」というものを想定しているが、その場合でも神が原因となってしまう(アリストテレスの「不動の動者」や「第一原因」を想起させる)。哲学的な意味での絶対的な無からビッグバンが始まったと主張している物理学者はいない。そもそも物理学にはエネルギー保存則という絶対視されている原理がある。「無からは何も生じない」という哲学的原理は物理学の世界でも有効である。 仮にビッグバンの前には物理学用語としての「時間」が無かったのを事実と認めても、「時間」を「変化」と置き換えれば因果関係の系列は無限に遡れるということになる。もちろん因果関係とは人によって見出されるものであり、自然には存在しないということもできるだろうが、そうだとしても「人によって見出すことが可能な無限の因果系列が完結して存在している」のは事実として認めざるを得ないはずである。ここに形而上学的無限が顕在することになる。 無限の因果関係が存在することを認めることはできない。だからといって過去の因果系列において、それ以上遡行不可能な何かを宇宙に想定することも不合理である。したがって時間の無限大についてのカントのアンチノミーの論証は、現代宇宙論の土俵でも有効である。つまり時間、または因果関係の系列は実在ではなく、現象の形式であると考えるのが妥当だということになる。 参考までに、ビレンキンの考える「無」には時間も順序関係もないので、それ以上因果関係を遡ることは無意味だという考え方もある(*35)。しかしその考えは永久主義――時間の非実在を認めることに他ならない。なぜなら時間軸上の各出来事と、時間そのものを生んだ「無」との関係は凍結したように永久に固定されたままになるからである。その「無」には時間も順序関係もないのだから「消える」ということがない。その「無」が宇宙を生んだというなら、永久的に宇宙を生んでいる状態になり、時間軸上の各出来事は永久的にその存在を続けるしかない。逆にもし「無」が宇宙を生むのをやめたとしたら、「無」には順序関係の構造があることになる。順序関係の存在を認めるならば因果関係の系列が無限に遡れるということになる。 次に空間の無限大の問題である。一般相対性理論では、物質やエネルギーの存在によって時空は曲がる。その曲がり具合が「曲率」であり、宇宙全体の形はその曲率の具合によって決まる。そして曲率に応じた次の三つの宇宙モデルがフリードマンによって考えられた(*36)。 [U1]: 曲率が零。平らな宇宙であり、その広さは無限である。 [U2]: 曲率が負。開いた宇宙であり、その広さは無限である。 [U3]: 曲率が正。閉じた宇宙であり、その広さは有限である。 現代の宇宙論では、私たちの宇宙の「形」はこの三つのモデルのうちいずれかであると考える。古い宇宙論の本などでは、「宇宙には果てが無いが有限で、真っ直ぐ進むと元の場所に戻ってくる」などと説明されることがあるが、それはアインシュタインが当初想定した静止宇宙モデルである。2014年 7月の段階では、空間の曲がりは発見されておらず、宇宙は平らな形として考えられている。ちなみに宇宙なぜ平らなのを説明する理論がインフレーション宇宙論である(*37)。インフレーション宇宙論は観測可能な宇宙以上の空間を想定している。 だが空間が現代の技術では観測不可能なほど小さな正の曲率をもち、何兆光年という大きさの天文学的距離において閉じており、[U3]の宇宙モデルが現実である可能性が残されているのは事実である。ちなみに田島正樹は[U3]の宇宙モデルがありうることでカントのアンチノミーが回避できる可能性を示唆している(*38)。 [U3]の宇宙モデルが事実の場合、時間や空間といった概念は「この時空」においてのみ意味をもつのであって、この時空から離れて空間の「外部」を考えることはできず、また宇宙に絶対的中心はなく、地球の表面がどこでも世界の中心でありうるように、宇宙のどの部分も中心なのだと説明される。 しかし仮に[U3]の宇宙モデルが事実であったとしても、形而上学的観点からは閉じた宇宙の「外部」を考えることができる。なぜなら[U3]の宇宙モデルは「私たちの宇宙の形」についての仮説であって、「全宇宙の形」についての仮説ではないからである。宇宙物理学で研究されている「宇宙」とは、ビッグバンで生まれたとされてる「この宇宙」のことである(そもそも絶対経験できない「全宇宙」を考えるなどという酔狂な思索は物理学者でなく哲学者の本領である)。従って仮にこの宇宙が空間的に閉じていたとしても、この宇宙の「外部」は考えられることになる。もちろんその「外部」とはユークリッド空間的な意味に限定されない。 実際に、物理学では宇宙は私たちの住む宇宙だけではないとする「多元宇宙論」主張されている。多元宇宙論にはさまざまなタイプのものがあるが、原理的にはマックス・テグマークが分類したような以下の四つのタイプに基づいている。 M1: 観測可能な宇宙の外部に別の宇宙が想定可能である M2: 別のインフレーションにより生まれた別の宇宙が想定可能である M3: 量子力学の多世界解釈により別の宇宙が想定可能である M4: 多次元による別の宇宙が想定可能である M3とM4について語ることは憚られるので、ここではM1とM2の距離的に離れた別の宇宙の可能性を採り上げる。M1は空間的に繋がっている別の宇宙である。まずインフレーション宇宙論によれば、宇宙は光速よりも大きな速度で膨張しているので、ビッグバンから生まれた同一の空間内に、観測可能な宇宙の外部の空間があることになる。その外部宇宙を別の宇宙だと考えるのがパッチワークキルト多宇宙論である。 M2は空間的に離れた別の宇宙であり、永久インフレーション理論によって想定される。佐藤勝彦は、ビレンキンの無からの宇宙創生説が事実ならば、無から生まれる宇宙は私たちの宇宙だけではなく、いくらでも別の宇宙ができてしまうことになり、ユニバース(宇宙)は必然的にマルチバース(多宇宙)にならざるを得ないという。ただし別の宇宙が存在していたとしても、私たちの宇宙とは(空間的に離れており)因果関係が切れているので、観測は不可能である(*39)。なおテグマークによれば、空間的に繋がっていない独立した宇宙は、私たちの宇宙とは異なる物理定数を持つ可能性があるという。 論理的な問題として、ビッグバン理論は必然的に多元宇宙の可能性を生むことになる。ビッグバンの原因は特定されていないので、ここでは仮に「原因C」としておく。すると、全宇宙に存在した「原因C」は一つだけであることが理論的に証明できなければ、この宇宙以外に別の宇宙が存在することを否定できないことになる。また「原因C」の存在可能な場所が無限にあったことを認めるしかない。もちろんその「場所」は相対論的な空間の内にはない。ライプニッツの関係説的な意味での空間になる。 ここで時空の関係説について説明しておこう。近代科学の黎明期には、時間や空間はその中にある物体と独立に実在するのか、それとも物体と物体の関係としてしか存在しないのか、という議論があった。独立に存在すると考えるのがニュートンの絶対時間・絶対空間の立場、つまり時空の絶対説であり、それに対して物質たちの関係としてしか存在しないと考えるのがライプニッツやマッハの関係説の立場である。 アインシュタインの相対性理論は、時間と空間はそれぞれ相対的なものとみなすが、両者を合わせた「四次元時空」は絶対的なものとみなしているので、ニュートンの立場に近い。現代の物理学で使われる「空間」という用語は相対論的な意味でのものであり、[U3]の宇宙モデルで示されているのは相対論的な意味での「空間」が閉じているということである。 相対論的な「空間」はビッグバン以前にはなかったと考えることができる。その状態では物質も存在しないのだから関係説的な空間も存在しない。しかしビッグバンで空間が生まれたなら、相対論的な意味での空間の誕生と同時に、それを基準にした関係説的な空間も誕生してしまう。つまり「この宇宙から離れた場所」というような言葉が意味を持つことになる。その「場所」にあるのはビレンキンのいう「無」なのかもしれない。関係説的な意味での空間は無限である。「無の場所」は無限にある。したがって私たちの宇宙とは異なる無限の場所のどこかで、「原因C」によって今日もまたビッグバンが生じていると想定するしかないことになる。ビッグバン理論が多元宇宙論を帰結させるのは必然である。 [U3]の宇宙モデルが現実であり、「この宇宙」は有限であるという仮説が事実であっても、関係説的な意味での「空間」、つまり「全宇宙」は無限であると考えるしかない。したがって空間の無限性についてのカントのアンチノミーの論証は、現代宇宙論の土俵でも有効である。つまり空間は実在ではなく、現象の形式だと考えるのが妥当である。 蛇足かもしれないが、「この宇宙が始まる前」とか「この宇宙の果ての向こう側」という極限的な問題については、物理学者であっても哲学者であってもそこら辺の素人であっても、発想の質としては大差のない思弁的な形而上学になるように思われる。既存の物理法則が通用しない問題なのだから当然であるが、ここでは哲学と物理学とSFが融合している。ちなみにテグマークの「究極集合」とノージックの「豊饒性の原理」はほぼ同じものである。またビッグバンの前に時間はなかったという考えは、神が宇宙を創る前は時間はなかったというアウグスティヌスの時間論と似たようなものである。 結局、カントの慧眼を改めて思い知ることになる。人の理性は「宇宙が閉じている」とか「ビッグバンの前はない」とかいう説明で推理を停止しない。宇宙の外部やビッグバンの前を考えざるを得ないし、宇宙の広さと時間または因果関係の系列の長さは無限だと、実在論では想定するしかないのである。 次に無限小についてはどうだろう。現代物理学は無限分割を否定しているだろうか。 現代物理学では時間と空間の概念がニュートン力学とは異なっていても、依然として時間と空間は無限分割可能なパラメーターである。もっとも粒子と粒子の間隔といった極微の世界では微積分学が当てはまらなくなってくるという。数学者の足立恒雄は次のようにいう。 微積分学の基礎にある仮定群が、極微の世界では成り立たないのである。そのような世界では、別の仮定の上に成り立つ、微積分学とは別の数学が役に立つことになる。(*40) しかし粒子と粒子の間隔といった極微の領域といえど、それが一定の空間を占めるものであるならば、やはり「その中間の地点が存在する」という言葉は真でなければならない。ただ分子以下のレベルの大きさになると、冒頭で用いたような「その地点がないと道路を歩けない」という直感に訴える論法は説得的ではないだろう。ここではより抽象的な論証方法を模索してみたい。 「半分を通過する」という言葉は分子以下の極微の世界でも有意味であるはずだ。たとえば「原子核と電子の間隔の半分の地点」は存在していなければならない。でなければ「原子核と電子の間隔の半分の地点を通過せずに歩く」ことが可能になる。しかし空間が実在するという前提ならば、そんなことができるわけはないはずだ。一体、いかにして私は「半分の地点」を通過せずに歩くことができるのだろう? この場合の「地点」とは真空の一点を指すものと考えても良い。もちろん真空の一点は概念的な存在であり、リンゴやテーブルのような物質的対象を持つものではないが、重要なのは、その概念的な地点を通過しなければ私は歩けないということだ。なお量子力学では、測定される前の素粒子の位置は確率によって表されるだけであるが、ここでは素粒子がその地点に「存在できる可能性」が認められればよい。たとえば光子には粒子と波の二重性があるが、観測すると粒子としての位置も定まる。つまりは任意の地点に光子が存在できる可能性が問えることになる。 「私は原子核と電子の間隔の半分の地点を通過する」と考えてから歩いた場合、私は現実的に半分の地点を通過している。「私は原子核と電子の間隔の 5千分の 1の地点を通過する」と考えてから歩いた場合、私は現実的にその 5千分の 1の地点を通過している。そして語句の指示対象となりうる地点は、語句に指示される前から存在している。つまり「半分の地点」というような概念的地点は、概念になる前に存在している。でなければ私は「原子核と電子の間隔の半分」と考えることもできない。これは「ユニコーンの角の半分」というような指示対象が現実に存在しない文とはわけが違う。ニュートリノはユニコーンの角を通過することはできないが、原子核と電子の中間点を通過することができる。ちなみに私たちの身体を構成する原子はほとんどが真空で、甲子園球場までに拡大したとしても、中心にある原子核は一円玉ほどの大きさにしかならないので、電荷をもたず、電磁気の力を感じないニュートリノは、私たちの身体を通り抜けてしまうという(*41)。 ニュートリノが原子核と電子の中間点を通過できるということは、あらかじめその中間点が存在していたからに他ならない。「中間点が存在していなければ中間点を通過することはできない」――この事実が、概念的な「地点」とは事後的な視点で持ち込まれた観念ではない、ということの証明である。そして原子核と電子の間隔において、ニュートリノが通過できるのは中間点だけではない、という事実をひとたび認めるならば、ニュートリノが通過できる地点の数は「無限個」というしかない。 実在論者が以上の論法に反駁する方法はただ一つであると思える。空間において素粒子が存在できない地点をただの一つでも挙げてみることである。 カントによれば空間は無限分割可能な「形式」を持つものである。実在論の立場から、その形式としての空間が「実在する」というならば、思考可能な地点は思考される以前に現実に存在しており、空間は必然的に無限の地点を持つことになる。可能態は現実態として存在していなければならない。認識論的可能性は存在論的現実性であるといってもよい。 「リンゴがある」ということは「リンゴの半分がある」ということと同じである。つまり或る物体を認識するということは「空間を占めるもの」として認識するということであり、「部分を持つもの」として認識するということでもある。「物体は全て延長を持つ」という文は分析的判断の典型としてよく挙げられる。この場合の物体とは空間的に位置を占めるもの(デカルトのいう延長)と定義されているからであり、主語に述語の概念が含まれているからである。「物体は全てその半分の部分を持つ」というのは同様の分析的判断ではないが、これは普遍的な真理である。そもそも人間は「半分の部分」を持たない物体というのを想像することさえできない。カントはこのことから分析判断ではなく、総合判断でもないもの――経験的な知識でありながら、先験的な性質を持つものとして「ア・プリオリな総合判断」を考えた。これには数学や幾何学が該当する。 次の三つの文を比べてもらいたい。 [P1]: 長さ 1メートルの机Aがある [P2]: 机Aの 1/2の部分がある [P3]: 机Aの 1/4の部分がある 三つの文は同一対象の異なる領域を指示している。[P1]は真である。ならば[P2]や[P3]も真である。では私が言語で表現する前は、机Aの 1/2や 1/4の部分は存在しなかったのだろうか。そんなわけはない。実在論では「外部世界の実在」と「真理対応説」という二つのドグマがあった。この二つは実在論が実在論であるためのミニマルな条件である。ならば、「存在を指示する文が真である場合、指示された存在は文にされる前から存在している」ということができる。つまり実在論では、机Aの 1/2や 1/4の部分は、私がそれらを文にする前から、「認識に先立って」存在していたというしかない。 でなければ、私が「机Aの 1/4の部分」と書く前は、「机Aの 1/4の部分は存在しなかった」ということになるが、それは不合理である。 そして、文によって指示可能な机Aの部分は無限であるしかない。[P1]、[P2]、[P3] 以降、次のように続けられる [P4]: 机Aの 1/8の部分がある [P5]: 机Aの 1/16の部分がある [P6]: 机Aの 1/32の部分がある [P7]: 机Aの 1/64の部分がある : : 一瞥してわかるように、これは無限等比級数と見ることができる。そして無限級数の収束ということを認める実在論的立場ならば、「P~」に続く数は無限に存在すると考えるしかない。 机Aを分割していけば、机を構成する分子に行き着く。分子には原子という部分があり、原子にも陽子や中性子という部分がある。そして陽子や中性子も更に小さな粒子から成るとされる。現在では十二種類のフェルミオン粒子と五種類のボゾン粒子が世界の最も基本的な構成要素、つまり素粒子であると考えられている。そして物理学の標準モデルでは素粒子の大きさは無限小ということになっている(*42)。「P」の系列、つまり無限級数は収束して素粒子である無限小の点と一致すると考えてよい。物理学の標準モデルは現実的無限を前提とする数学の標準モデルと相関している ※ただしここで示したのは机の無限分割が可能ということであり、机に無限の部分があるということではない。言うまでもなく机を構成する素粒子の数は有限である。 なお、素粒子が無限小の点であるとすると、電子の質量が無限大になるという深刻な問題が指摘されている。この問題を回避しようとする仮説が超弦理論である(*43)。 超弦理論は物理学の標準モデルではないが、「超弦」を想定すれば無限分割という哲学的問題は回避できるだろうか? しかし超弦が空間に一定の大きさを占めるものなら、やはり「その半分」ということが想定できてしまい、先と同様の問題が提起されるはずである。 一体、いかにして私は「半分の地点」を通過せずに歩くことができるのだろう? 私は概念的な点であっても語句の指示対象となりうる地点は、語句に指示される前から存在していることを幾度も論じた。超弦理論といっても、超弦が空間を占めるものである限り、空間の無限分割を回避することはできないはずである。 もっとも空間については、それ以上分割不可能なプランク長レベルの最小の単位があるとする「空間の量子仮説」あるいは「ループ量子重力理論」が提案されている。これら仮説においては、素粒子の運動は実数直線を動くような連続的なものではなく、最小単位を跳び跳びに動くような断続的なものであると説明される。 以下は直接に空間の量子仮説やループ量子重力理論を表したものではないが、素粒子の運動が断続的なものであることを表した図として引用する(「日経サイエンス 2014年2月号」p.67)。 時間と空間の最小単位を想定することの不合理を示そうとしたのが、ゼノンの「競技場」であった。最小単位を想定することが不合理に繋がるというゼノンの洞察は現代でも生きているように思える。つまり「断続的に動く」とは、或る最小単位から次の最小単位へとスキップすることである。言い方を変えると、最小単位間を持続的に移動するのではなく、「無限大の速度で動く」ということにもなる。これは不合理である。 プランク長レベルの最小単位というのはイメージし難いので、思考実験をしてみよう。或る可能世界Wがあって、そこでは時間と空間の最小単位が 1メートルだと仮定すれば、最小単位を想定することの不合理が直観的にわかるはずである。Wの世界でアキレスと亀(かなり大きなアキレスと亀になるかもしれない)が競争するなら、 1メートルの最小単位を、SF映画のようにテレポーテーションしながら移動することになる。すなわち空間の量子仮説やループ量子重力理論が正しいのならば、それは通常の意味での「時間」と「空間」の非実在を示すものと受け取らざるを得ない。でなければ素粒子に超能力を認めるしかないだろう。 もう一つ指摘しておかなければならないことがある。素粒子の運動が断続的であったとしても、それは「空間が実在するなら無限の地点が存在する」ということを否定するものではない。断続的に運動する素粒子は或る地点をスキップするのかもしれない。しかしその地点に別の素粒子が存在できる可能性が認められるならば、やはり有限の空間には無限の地点があると考えるしかない。運動の最小単位を仮定しても形而上学的無限は完全に排除できないということである。 この節では現代物理学によって以下の形而上学的無限が回避される可能性を検証してきた。 1: 過去の時間(または因果系列)の無限大 2: 宇宙空間の無限大 3: 時間と空間の無限分割(無限小) 結論は、物理学は現在のところ形而上学的無限を解消することはできないということであった。過去の時間の無限大や宇宙空間の無限大については、ほとんどの物理学者は「考えていない」のが実情である。しかし哲学者ならば考えざるを得ないし、過去の時間や宇宙空間が有限だという仮説で推理を停止することはできないのである。 とはいえ、物理学には素人では想像すらできない領域がある。たとえば超弦理論では十の次元が想定されている。人に思考可能なのは三次元の空間に時間を合わせた四次元までである。物理学において将来的に形而上学的無限を回避して宇宙を説明できるアクロバットな理論が登場する可能性は否定できない。 しかし実在論の立場はそのような可能性を根拠にして、ゼノンのパラドックスやカントのアンチノミーを「回避できる」と主張するべきではない。時間の無限大、空間の無限大、時間の無限小、空間の無限小、これら四つの問題全てが将来の物理学によって回避されたとしたら「全くの僥倖」という他はない。哲学は僥倖の可能性を前提に議論するべきではない。宝くじを一枚出して「この宝くじは大当たりの可能性があるので、これを担保に金を貸してくれ」と言うことはできない。きちんとした担保がなければ金は貸せないのと同様に、きちんとした根拠がなく、逆に形而上学的無限という致命的な問題が指摘されているにも関わらず、実在論を主張することはできないはずである。 既存の論理の枠組みでは形而上学的無限を前提に世界を説明することはできない。矛盾したものを前提にするということは、時間と空間が実在ではないという証左の一つとなる。物理学の検証によって、ゼノンとカントの論証の正当性が更に高まったと私は考える。 私は数学的無限は現実世界に存在しないことを論じ続けてきたが、物理学者でも無限を不合理なものと解釈し、数学的無限と物理的無限をイコールの関係とは見做さない者は多い。次節ではあらためて数学的無限と形而上学的無限の差異を確認し、その差異から必然的に反実在論が帰結していくこと、また量子論の知見によっても反実在論が支持されるべきことを論じたい。 7 数学的無限と形而上学的無限の不調和 数学的無限を物理世界に適用した場合は論理的な不整合が生じる。ゼノンのパラドックスは哲学では未だ難問とされているが、物理学においても、素粒子が無限小の点であるとしている現在の標準モデルでは、電子の質量が無限大になるという問題があった。 ヒルベルトの「無限ホテル」とは、数学では集合論によって無限を扱うことができるが、現実に無限の何かが存在することは不可能であることを示すものであった。 先にギルバート・ライルと野矢茂樹によるゼノンの「二分割のパラドックス」の解消方法を紹介したが、そのライルと野矢の議論からも数学的無限と現実の不調和が見えていると思える。ここで両者の論法を再確認しておこう。 母親がケーキを出して子供に「必ずケーキが半分残るように食べていきなさい」と指示したとする。子供はケーキを半分食べる。次に残ったケーキの半分である元の 1/4を食べる。次に残ったケーキの半分である元の 1/8を食べる。子供は「必ずケーキが半分残るように」食べているのだから、何回食べても、仮に無限回食べても、論理的にケーキは必ず一定量残っていなければならない(もちろんケーキを構成する素粒子は有限個であるということと無限分割という問題は異なる)。 ところが数学的に無限級数の収束ということを考えると、子供がケーキを食べる行為は「1-1/2-1/4-1/8…=0」ということになってしまう。つまり「必ずケーキが半分残るように」という指示に従っているにもかかわらず、子供はケーキを全て食べ尽くすという論理的な不整合が生じるということである ※ちなみに野矢は「0.999…1」とする数学の無限論に異を唱えている(*44)。野矢の立場は直観主義と言える。 ゼノンに関連した問題では、「飛ぶ矢」のパラドックスを現代においても真性の難問として受け止める論者は少なくない。大森荘蔵は 1993年の論文「ゼノンの逆理と現代科学」で次のように書いている。 〔……〕持続ゼロの点時刻に物理量や状態がかくかくだということの意味は極めて不安定で無意味にスレスレの所なのである。私が常用する宣伝コピイでは「羊かんの切り口に羊かんはない」である。当然、ゼノンの矢の存在についても同様である。或る点時刻に矢が或る点位置にあるということも無意味スレスレであるし、その矢の速度が幾らとか速度の有無も無意味に限りなく近いのである。 村上陽一郎は 1999年の論文「時間を巡って」において、時間的幅のない「点」においては速度の計算ができないにもかかわらず、微分では「瞬間速度」の存在が前提されていることに疑問を提起している。 〔……〕速さという概念は、あくまで一定の時間が定義されたとき、その時間内に移動する距離との比によって与えられるものだからであり、「瞬間」である限り、そこには一定の値を持つ「時間」が定義できないからである。 それを微分を使って切り抜けて、見事に成功をおさめたのが、近代力学であった。しかし、そこに争い難い問題が残ることも確かである。 それは結局時間幅をゼロに近づければ移動距離もゼロに近付くはずなのに、移動距離の方だけはゼロにはならない、という微分の言い抜けである。 大森、村上と同様の問題は、物理学者の吉田伸夫のブログ「瞬間に幅はあるか(*45)」でも提起されている。吉田はゼノンのパラドックスのうち、今日でも飛ぶ矢のパラドックスだけは「科学的な議論に値する」と述べている。 ジョセフ・メイザーもまた同様のことを述べている。 ゼノンの逆説は、宇宙に関する根本的な問題を引き起こす。時間や空間は、切れ目のない線のように連続しているのか、それともビーズを並べたように単位で区切られているのか。これは、万物理論に近づいていると言われる今日の物理学者までもが、苦労して取り組んでいる問題である。 〔……〕 より精緻な数学を介して運動を理解できるようになると、ゼノンの逆説についても解明が進んだ。しかし、科学の黎明期にゼノンが示した謎にきっぱりと片がつくとすれば、時間と空間の究極の謎を解決することによるほかはない。ゼノンは時代に先駆けていたのである。(*46) 素粒子が無限小の点であるとすると、電子の質量が無限大になるという問題があり、この問題を回避しようとする仮説が超弦理論であった。ジョン・D・バロウは超弦(スーパーストリング)理論について次のようにいう。 ストリング理論が正しいかどうか、物質とエネルギーを最も基本的な水準で描いているかどうかは、まだわからない。しかしこの理論を素粒子物理学者が展開し、受け入れているというのは、物理的無限に関する物理学者の本当の感情は明らかにしている。物理学者は物理的無限が存在するとは思っていないのだ。流体の研究の場合と同様、素粒子に関する計算で無限大が現れるとすれば、それは理論に欠陥があり、有効範囲をはみ出しかけている近似であることを示している。もっと大きな、もっといい理論が、必ずその無限大を取り払ってくれるだろうと、決まって信じられている。(*47) バロウは次のようにも述べている。 数学的無限は紙の上にだけあるが、物理的無限は、宇宙の織物のどこかを破壊するかもしれない。(*48) 物理学者の佐藤文隆は次のように述べている。 無限と聞いて思う第一印象は、物理的なものに無限というものはないということである。科学としての物理学はいつでも暫定的な理論なのだから、そこでは暫定的に無限大や無限小にしておくという期間がある。暫定的にゼロにしておく期間もある。でも技術が進んで、本当に無限大か、本当にゼロか、と実験で調べてみると、やっぱり値があるぞ、ということになる。それが科学の進歩ですよ。 物質の最小構造は何かという問題も同様である。観察の技術が高まるとともに、クォークやレプトンという構造が見えてきた。結局、物質を作る構造の理解は、その時代の技術の水準で決まってくる。 素粒子物理学者にも理論屋と実験屋がいる。プランクスケール(10^-33センチメートル)の手前では面白い構造は何もないだろう、というのが現在の理論屋の予測である。だが、実際に掘っていけば、何らかの構造が見つかるかもしれない、というのが実験屋的発想だ。私も掘ってみないとわからないと思う。(*49)) 以上、数学的無限と形而上学的無限の差異を見てきたが、数学的無限が物理的世界には適用できないケースがあること、つまり数学的無限イコール物理的無限ではないことは、哲学者だけでなく数学者も物理学者も理解しているのだと思う。数学者の足立恒雄は次のように述べている。 数学とは、結局、純粋に頭の中でつくられる理想的な世界である。無限というものがあると仮定すれば、ある種の無限が存在する数学をつくることができる。そうした無限などないという数学をつくることもできる。それぞれが対等に正しい数学なのであって、真実は一つではない。しかし、矛盾が生じる恐れがない限りは、そうした無限が存在すると仮定した方が、きれいに事が運ぶのである(*50)。 ゼノンとカントが無限を論じることによって示したのは、時間と空間は実在しないということだった。しかし物理理論では相対性理論以降も、依然として時間と空間は無限分割可能なパラメーターとして存在している。しかしその時間と空間を「実在」とは見做さず、カントのように直観の形式と考えるならば、物理学は無限という難問を回避できる可能性を見出すことができるのではないだろうか。カントの超越論的観念論の枠内でも、物理学は何ら修正を迫られることなく存立可能なのである。 一般に物理学者が用いる時間と空間の概念には、人の認識を離れて「ほんとうに存在する」というような実在についての形而上学的な含意はない。物理学者は形而上学的な実在論論争にコミットする必要もない。しかし「実在とは何であるか」という形而上学的問題は、哲学と物理学の接続点である。実在の問題は科学哲学の重要なトピックであり、科学と哲学の学際領域である。実際に形而上学的な発言をする物理学者は珍しくはない。時代は物理学者に形而上学へのコミットを強いているような印象を受ける。 二十世紀における量子論の発展は、古典的な実在のイメージを根底から揺るがした。アインシュタインとボーアの論争はよく知られているが、それは実在を巡る論争でもあった。先に空間の量子仮説が時間と空間の非実在を示唆することを述べたが、量子論には他にも、二重スリットの実験やEPR相関など、時間と空間(物質的対象)の実在性を疑わざるを得ないような現象がいくつかある。 古典的な実在論を、物理学では「局所実在論」というが、量子論は局所実在論を包含する理論、つまりメタ理論であるとされている。量子論の主流派であるコペンハーゲン解釈では、常識が通用しない量子の世界と、常識が成り立つマクロの世界を区別しようとした。しかしミクロの現象とマクロの現象が連動している以上、双方は分けて考えることができない。双方の不可分性を示そうとしたのがシュレーディンガーによる思考実験、いわゆる「シュレーディンガーの猫」である。この問題については未だ誰もが納得する解答はないという(*51)。 物理教育者の橋本淳一郎は次のように述べている。 量子力学が明らかにしたことは、位置、速度、エネルギー、時間といった、我々が測定する物理量は、どれも真の実在ではないということである。 〔……〕 デカルトやニュートンは、空間と時間は、(人間抜きに存在する)宇宙の絶対真理だと考えた。カントは、空間と時間は、人間の理性が「アプリオリ」にもっている真理(にしかすぎない)と見なした。カントの方が正しかったのである。(*52) 橋本の見解は一般的な解釈ではないが、特別に極端な解釈というわけでもない。大栗博司も文脈は異なるが時間と空間が実在的ではないことを示唆している(*53)。参考までに時間に関しては、相対性理論の解釈によって実在ではないと主張する学者が少なくない(ヘルマン・ワイル、ポール・デイヴィス、ブライアン・グリーン、ジュリアン・バーバーなど)。 なお近年の科学的実在論を巡る論争では、古典的な実在の概念が量子論で通用しないことから、「構造実在論」が提唱されている。これは新しいタイプの科学的実在論である。物理学と哲学の学位を併せ持つメイナード・カールマンは構造実在論を次のように紹介している。 粒子と場の存在論に関するいかなる修正案にも満足せず、もっと急進的なやり方でこれまでの原子的、点描的な物質世界観からの脱却を図ろうとするものだ。(*54)。 構造実在論には、「認識的構造実在論」と「存在的構造実在論」という二つのタイプがある。 認識的構造実在論は、人の意識に現れる「現象」外部に独立してあるとされる「実在」と、人が現象に対して構築する「科学理論」とを区別し、実在は人とって不可知であり、数学的に記述できる世界の構造としての科学理論のみが真であると主張する。たとえば光子は「粒子」であると同時に「波」であるとされる。これは古典論理学における排中律に反しているよう思われる。しかし光子を実在とみなさず、光子を記述する科学理論のみが実在であるとすれば、論理的にも問題はないと考える。 存在的構造実在論は、以上のような認識的構造実在論の主張を更にラディカルにしたものである。認識的構造実在論が構造の背後に不可知であるが実体を想定したのに対して、存在的構造実在論はそのような対象の実在を認めない。世界の本性や実在は人から隠されているわけではなく、科学理論によって記述される世界の数学的構造こそが世界の実在であり、それ以外には何もないと存在的構造実在論では考える。 実在論の二つのドグマとして、私は「外部世界の実在」と「真理対応説」を挙げたが、認識的構造実在論では「真理対応説」が、存在的構造実在論では「外部世界の実在」が放棄されているのが注目すべき点である。二つのドグマのうち一つでも放棄すれば実在論が成り立たない。構造実在論は、時間・空間・物質といったもの実在性を放棄していると考えても間違いなく、認識的構造実在論はカントの超越論的観念論へ、存在的構造実在論は現象主義に接近していると解釈することもできる。 ※ただし構造実在論が懐疑する理論対象の実在は電子などミクロなものに限られており、人が直接経験するマクロな対象は懐疑していない。しかし上で紹介したように量子論ではミクロな対象とマクロな対象は不可分であり、分けて考えることができないとされている。実際ミクロなものとマクロなものは「程度の差」でしかないという批判が構造実在論に対して成されている。 この節では数学的無限と形而上学的無限の不調和を見てきた。数学的無限が物理世界に適用できないことは多くの学者が指摘しており、物理学は数学的無限を前提にしているものの、超弦理論が期待されているように、多くの物理学者は物理的無限が不合理であることを理解しているようである。 相対論や量子論の知見に基づいて、仮に時間と空間は実在ではないと解釈するならば、形而上学的無限の問題は物理学において解消される可能性が示されている。その解釈を受け入れるということは、ゼノンとカントの論証を受け入れるということ、すなわち反実在論を受け入れるということになるだろう。 8 結論――実在論の最期 無限という問題は二千年以上前から議論が続けられてきた底なしの問題かもしれないが、ここで形而上学的無限に限定して私の結論を改めて述べたい。 形而上学的無限は実在しない。数学的無限というものが操作的な実用性から数学の土俵で肯定されたとしても、それは形而上学的無限を肯定するものではない。形而上学的無限とは矛盾した概念であり、存在不可能である。 この結論によって示されるのはゼノンとカントの論証が正しいということであり、反実在論が正しいということでもある。時間と空間が実在しないなら、それらによって規定される物質的対象も実在しない。「実在世界」という言葉に意味はない。形而上学的な実在論は認められず、ただ素朴実在論や実用的実在論が認められるのみである。 ところで、カントのアンチノミーによる論証を、中島義道は次のように批判している。 〔……〕われわれの住むこの世界においては、「世界は時間的に無限であるか、有限であるか」に関してアンチノミーが生じているから、世界の全体は(物自体ではなく)観念である、ということになり、ここにアンチノミーの成立を根拠とする世界の観念性に関する論証が成立しているように見えます。 しかし、先に考察したように、それは明らかな論点先取です。カントの論証をよく見てみましょう。カントはここで、いくつもの隠された前提に立って次のように論証を進めている。通覧してみましょう。 (一)物自体はいかなるその属性(述語)に関してもアンチノミーは生じない(矛盾対当する)。 (二)世界は時間的に無限であるか有限であるかに関して、アンチノミーが生じる。よって、それは物自体ではない。 (三)物自体でないものは観念である。 (四)よって、世界は観念である。 こうして、カントは幾重もの証明されていない前提を駆使して、世界の観念性を「証明」したつもりになっているのです。 超越論的観念論を無条件で(無前提)で正当化することはできません(もちろんいかなる哲学理論も無条件で正当化できないのですが)(*55)。 この中島のカント批判はアンチノミーに対する反証ではないし、約言するとカントの論証は分析的な真理でないといっているに過ぎない。分析的な真理とは、「野球場には面積がある」というような、主語の概念に述語の概念が含まれているもののことである。したがって分析的な命題とは基本的にトートロジーであり、概念分析だけで終了するものである(なおクワインが分析的と総合的の区別を否定しているのは有名であるが、ここではその議論を省略する)。つまり分析的判断とは確実性は高いが情報量に乏しく、ほとんど役に立たないということになる。中島のカント批判は、観念論を認めたくないがために、実在論の不利を承知で無理に強弁しているとの印象を受ける。問題はアンチノミーの論証が、カントに即していうなら妥当な総合判断でありうるか、ということになる。 カントの論点は時間と空間の実在性である。時間と空間は加算・分割において有限であるか無限であるかのいずれかでしかない。これまで論じてきたように、時間と空間を実在するものと仮定するなら、人間はその時間と空間に限りがあると考えることはできず、無限であると考えるしかない。物理学の標準モデルも無限の分割を前提としている(無限の延長については認めていないが「限界」も想定されていない)。「実在論ならば時間と空間は無限である」ということになる。しかし形而上学的無限は不合理であり、数々のパラドックスが生じることは既に見た。そして時間と空間が現象(観念)ならばパラドックスが生じないことも説明した。したがって時間と空間は実在ではないと考える他はなく、カントの論証は妥当な総合判断だといえるはずである。 人は矛盾した言葉を話したり矛盾した文を書くことがあるが、世界に矛盾したものは実在しない。「球形であり、かつ正六面体なもの」とは、「言葉」として存在しても、その語句の指示対象は実在し得ない。「矛盾したものは実在ではない」というのは「論点先取」ではなく正当な演繹なのである。なお中島はカントを批判するものの、実在論の正当性を全く論じていない。実在論と反実在論は矛盾対当するしかないはずである。 参考までに、反実在論が支持されるべき理由は無限の問題だけでなく「意識のハード・プロブレム」や「人格の同一性」で論じた「意識の超難問」という問題もある。テーマが異なるのでここでは詳しく論じないが、それらは実在論では解消不可能な難問だと私は考えている。仮にアドホックな物理理論で形而上学的無限という問題が回避されたとしても、実在論を肯定するためには更なる難関を越えなければならないということである。 なお近年の時間の哲学においては、マクタガートによる時間の非実在の証明が議論の中心となっており、その議論からさまざまに派生的な時間論が生まれている。マクタガートの議論を要約していえば、「時間の実在の証明は循環論法や無限後退に陥るので、時間は実在ではない」ということになる。私はこのマクタガートの論証よりも、ゼノンとカントの論証の方が遥かに強力であると考える。ゼノンとカントの論証をシンプルにいえば、「時間が実在するならそれは無限であり、したがって矛盾している」ということになる。これは間接的なマクタガートの論証より構造が単純で堅牢である。 私は毎日のように歩いている。その日々の歩みにおいて、果たして無限の地点を通過しているのだろうか。「無限を通過する」などというのは語義矛盾以外の何ものでもない。しかし実在論では人の認識から独立して時間と空間は実在すると考える。ならば人の認識に先立って空間に無限の地点がなければ、私もアキレスも素粒子も任意の地点を通過できない。すなわち実在論では「無限の地点を通過する」という矛盾したことを認めるしかない。 矛盾したものは実在しない。しかし実在論では空間の地点や過去の因果系列が「無限にある」と考えるしかない。したがって実在論は破綻している。私が長さ 1メートルのテーブルを見る場合、知覚現象であるそのテーブルに対応する「実在」なるものはないということである。テーブルが実在しているというなら、テーブルの上に亀がいたとしても、その亀は一歩も動くことができなくなる。 以下のように表してもよい。 [実在論] : 時間と空間が実在する――矛盾である。無限大および無限分割のパラドックスが生じる [反実在論]: 時間と空間は実在しない――矛盾はない。パラドックスはなく、世界が整合的に説明できる 上の二つを比較するならば、反実在論の考えの方が無理がなく、世界を整合的に説明できるのだから、時間と空間はカントのいう通り実在ではなく、現象(観念)であると信じざるを得ない。現象の数は有限であるので、運動は現実的に可能である。 そもそも実在なるものは人類史上誰も見たことがない。原理的に見ることができない実在というものを、見たかのように信じることができる人は神と交信する能力を持つ聖職者ぐらいではあるまいか。形而上学的実在論の提唱者であるヒラリー・パトナムでさえ、自身が提案した「水槽の脳」の思考実験の底の無さを悟って、形而上学的実在論を放棄するに至っている。 観念論が親の仇だとかいう理由で私怨があるならともかく、そうでないなら実在というものに拘るのをやめて、人の認識する世界は現象に過ぎないのだと認めた方が、全てが整合的に説明できるのである。実際、科学的実在論を巡る論争においても、構造実在論では「外部世界の実在」と「真理対応説」という実在論の二つのドグマを維持していない。古典的な「実在」のイメージはもう死んでいる。 もちろん、実用的実在論の立場から形而上学な実在論論争にコミットすることは避けるという哲学的立場はありうるし、その立場なら無限論にコミットする必要もない。しかし形而上学としての実在論は無限論にコミットせざるを得ない。実在論者も毎日のように一歩、また一歩と歩いているはずである。無限の地点をスキップして歩けないならば、無限論をスキップして実在論を主張することはできない。デイヴィッド・ヒュームの箴言を忘れるべきではない。「不可避の懐疑を抑えて実在世界を信じる手段はただ不注意のみ」なのである。 形而上学な実在論論争においては、無限という問題によって反実在論の立場が圧倒的に有利である――これが私の揺るぎなき確信である。またそれは客観的な事実でもあるだろう。 9 無限の派生問題 私がこれまでゼノンとカントを支持して形而上学的無限の不可能性と、それによる時間と空間の非実在を主張してきたのは、それが合理的だからというのが第一の理由であるが、もう一つの理由は、実在論というものを打倒することによって、その背後に広大な形而上学の領域が開かれるからである。 心の哲学では、クオリアという心的なものが脳という物質的なものとどのように因果的に作用しあっているのか、またクオリアがどのように生まれているのかという問題が議論されている。だがその議論内容はデカルトやスピノザの時代から飛躍的に進歩しているとはいい難い。二十世紀以降の脳科学の発展によって、脳とクオリアの対応関係は明らかになり、脳の特定の部位が損傷すればクオリアにも影響があることがわかっている。しかし肝心のクオリアと脳の因果関係、そしてクオリアの生成の問題については、全くわかっていないのが現状である。 この心脳問題についての難問も、時間と空間の非実在を前提とするならば一挙に解決とはいかないまでも、新たな視点が開かれるはずである。現代の心の哲学においても、心的・物的の区別は基本的にデカルトの概念を採用している。すなわち心的なものは時間的であることを本性とし、物的なものは空間に位置を規定できる「延長」である。しかし時間と空間が実在でなく現象であるとするならば、心的なものは時間という形式をもった現象であり、物的なものは空間という形式をもった現象であるということのみになる。心的・物的というものは形式として異なるものの、ともに現象ということで存在論的身分に上下はないということになる。 物理主義は否定される。物理主義とは「心的な現象」を「物的な実在」へ還元して説明しようとする立場である。しかし既述したように、物的現象と対応した物的実在というものはない。もしテーブルが現象としてのみあるのでなく、実在するというならその上に亀がいたとして一歩も動けない。物的対象が実在するという主張は、必然的に無限分割と無限大という解決不可能な矛盾を召喚する。矛盾したものは実在しない。したがって物理主義は間違っている。 「自己」の問題も、時間と空間の非実在を前提するならば新たな視座が得られるはずである。エレア派においては、世界に多数存在しているように思われる個別的な自己は全て錯覚のようなものである。個別の自己を「一」なる全体に還元して位置づけるウパニシャッドの梵我一如的な自我観も可能かもしれない。カントにおいても、「量」という重要なカテゴリーは直観の形式に源泉をもつ悟性の概念であって、物自体に属するものではない。したがって現象は多様であっても物自体も多様だとは限らず、現象世界にいる多数の自己と物自体の一対一の対応関係は否定される。物自体はエレア派が考えたように「一」であるかもしれない。カント哲学からも(カント本人の意図に反して)梵我一如的な自我観を導出することは可能であると思える。――しかし逆に、世界を「私の観念」とみなすならば、それは独我論であると解釈することもできる。私は夢で他者と会話することがあるが、夢の他者に「心」があると考えるのは滑稽である。世界の観念性を主張することはやはり一種の独我論であり、こちらの方が(カント本人の意図に反して)カント哲学の妥当な解釈かもしれない。 心の哲学の問題と関係するのは因果関係の実在性の問題である。デイヴィッド・ヒュームは、因果関係とは人間の心の習慣によって見出されたものであり、必然的なものではなく、実在しているとはいえないと論じた。このヒュームの因果関係論は現代の分析形而上学でも重要なトピックになっている。カントのアンチノミーの論証は、このヒュームの議論に触発されたものでもある。そしてカントは、因果関係は物自体に属するものではないとして、問題の根本部分においてヒュームの主張を肯定している。 時間が実在しないのならば、因果関係も実在しないことになる。そして因果関係が実在しないなら、心的なものと物的なものとの因果関係、つまり心的因果を考えるのは間違いになる。そしてクオリアという不思議なものが、一体どこからなぜ生まれてくるのかと考えるのも間違いになる。物的現象も心的現象も、全てはただ存在しているだけである。ここから大森荘蔵の心身関係論「重ね描き」の妥当性を読み取ることができる。 しかし因果関係が実在しないという主張は、多くの人にとって直観的には受け入れ難いはずである。ビルの屋上から飛び降りると痛いという「結果」が生じるのがわかっているから、自殺志願者以外は飛び降りたりしない。ただし因果関係の実在を否定するということは、どういうことなのかを正確に理解する必要がある。たとえば、私が部屋の照明のスイッチを押し、部屋の照明が点くとする。この場合、因果関係が必然的でなく実在しないというのは次のことを否定するものである。 私がスイッチを押したことを「原因」として部屋の照明が点くという「結果」が生じた しかし次のものを否定するものではない。 「私がスイッチを押して部屋の照明が点いた」という現象がある つまるところ「因果関係」とは、一つの現象を「原因」と「結果」に分割して得られた概念である。たとえば或る人が一枚の板を二つに割って捨てたとする。その二枚の板を拾った哲学者は不思議に思うかもしれない。二つの板の割れ目はぴたりと合うので重要な関係があるに違いないが、その関係に必然性が見当たらない、と。「因果」は人によって見出されたものであり実在ではないとしても、「連結」は現象の事実としてあるのである。そして類似の現象には類似の因果関係が見出せるはずである。これがヒュームのいう「恒常的連接」である。「私がスイッチを押して部屋の照明が点いた」という現象を人為的に原因の部分と結果の部分に分割しても、その原因と結果の関係は論理的な関係ではないし、その連接を必然的と言うのは無意味なわけである。 この私の因果関係論は、進化論にも適用できるかもしれない。因果関係が実在でないという考えは、厳密な意味での進化論を否定することになるだろう。しかし「人類がチンパンジーと共通の先祖から生まれた」という現象の存在は否定しないのだから、キリスト教の創造科学のように進化論を全面的に否定するものではない。 因果関係の実在を否定することによって帰結するのは、全ての現象の存在が偶然的であり、必然的に存在しているものはないということである。確かに、自分が存在しているのは親が存在したからであり、自分が存在するなら親の存在は必然的だと思いたくなる。しかしカントの第四アンチノミーの議論に学ぶならば、全ての存在の「究極原因」を求めることは不可能であり、逆に「無限の因果系列」という矛盾したものも認めることはできない。したがって因果関係は実在しない。 全ての存在が必然的原因を持たずに偶然的に存在しているというのは直観的に受け入れ難いのであるが、しかし全く別な視点から考えれば、それは「不思議」なことではあるが、「摩訶不思議」というほどのことでもないかもしれない。形而上学の根本的な問題として、宇宙には「なぜ何もなにのではなく、何かがあるのか」という、いわゆる「究極の問い」があることを想起すべきだろう。この究極の問いには原理的に解答がない。解答がないとは次のようなことを意味する。仮にこの私が親を含めて一切の必然的原因を持たずに存在するとしたら、それは不思議なことである。しかしそれは、宇宙には「何もないのではなく、何かがある」という摩訶不思議の内に含まれる不思議さなのである。究極の問いは、存在するもの全ての不思議さを包括する究極の摩訶不思議である。 究極の問いに解答がないということ自体が、実は宇宙の真理の一つを示しているのではないか。それは宇宙は絶対的な原因によって生じたものではなく、「ただ存在している」だけだということである。何かの原因によって生じたわけでない宇宙は、ただ存在するということを無限に続けるしかない。この無限は「永久」というべきものである。いや、「続ける」というのなら「持続時間」が想定されるのだから、形而上学的無限という不合理に陥るのではないかと思われるかもしれない。しかし、そうではないのだ。 無限とは、数えるという行為に「終わりがない」という意味なのである。たとえば時間が実在するのなら、現在を基点に無限の過去へ、または未来へと数え続けることができる。そして空間が実在するというのなら、この場所を基点に無限の彼方へと数え続けることができる。もちろん時間と空間は無限に小さく分割することもできる。 仮に、宇宙に次のようなメビウスの帯がぽつんと一つだけあり、他には何もなく、それが永久的に存在しているとしよう。 変化が存在せず、数える者が誰もいないのなら、上のメビウスの帯だけの世界に時間は存在しない。ただそれは「ある」だけである。「無限の過去からあって、これからも無限にあり続ける」ということはできない。メビウスの帯を鳥瞰できる神がいるのなら持続時間を数えることはできるだろうが、そのような神がいないなら「過去の時間」などは存在しなかったのである。それと同様に可算的な空間も実在していないことになる。 数えることができないものが、単に「ある」ということを続ける――これが操作的な概念である可能的無限ではなく、仮象のものである形而上学的無限でもなく、紙の上にのみある数学的無限でもない、真の無限とでもいうべき「永久」であろう。 アリストテレスは『自然学』において、「運動に終わりがあるが始まりは無い」ということを述べている。これは無限小の「点」の実在を否定しようとするものである。つまり運動が終わったものの「軌跡」は可能的に無限に分割できる。点とは軌跡を現実的に無限分割したものとしての仮象のものであり、実際の運動とは無限個の点を通過するものではないということである。これがゼノンのパラドックスを解消しうるのは可能的無限の立場であり、現実的無限ではないという理由である。このアリストテレスの考え方が反実在論であることは既に述べたが、この考え方を延長するならエレア派の哲学に繋がっていくようにも思える。 すなわち、アキレスと亀は運動を始める前から生きていたのであり、アキレスが亀を追い抜いた後も両者はそれぞれの歩みを続けるはずである。すなわち、一つの運動の「終わり」とは別の運動の「始まり」でなくてはならない。アキレスが亀に追いついた時点で世界が分割できるわけではない。結局、運動の分割とは運動の軌跡に対してのみなされると考えるなら、分割対象となるその軌跡は、過去と未来へ限界まで延長されるしかない。つまり最初に「一なる全体」があって、分割された部分とは仮象であるとするエレア派の哲学に接近することになる。アリストテレスの反実在論は、エレア派の哲学と紙一重なのである。 「一」として完結した運動は時間・空間的に宇宙の最初から最後まで延長されるしかない。エレア派の哲学をたとえるならば、宇宙に次々と生起し、次々と消滅しているように見える現象の全てが、一枚の「絵」を織り成すように連なって永久に存在しているのである。そこは非可算的な世界である。 その絵は、上述のメビウスの帯に描かれているようなものである。人間はそのメビウスの帯の内部にいると考えることができる。帯の内部からは世界は無限に見えるが、実際にはその世界は閉じていて有限である。無限に思える有限なものが永久に存在している――これが形而上学的無限を峻拒する立場から必然的に眺望される、宇宙の真の在り方なのだと私は考えている。パルメニデスやゼノンもそう考えたはずであり、カントが物自体と呼んだものも同じなのだと思う。参考までに現代の時間と空間の哲学では、相対性理論の解釈によって、時間と空間はそれぞれ実在ではなく、両者を合わせた四次元時空が永久的に存在しているとする「ブロック宇宙」という世界観が提唱されている。これは基本的にエレア派やカントの哲学と同じものである。 最後に、自分がこれまで一歩また一歩と歩み続けてきた人生の軌跡を振りかえってみたい。形而上学的無限を否定して実在論を峻拒するならば、それぞれの一歩は対応する実在をもたない現象であったと考える他はない。ここで深刻な疑念が生じることになる。それぞれの現象は、明らかに他の現象と厳密な関係を持って存在しているようである。それらには「つながり」がある。エレア派のように「全ては一」というのはたやすい。しかし異質な現象たちが「つながり」、また「一つ」である様を、人間はイメージすることができない。ここには存在論の究極的な問題があるように思える。メタ存在論の問題になるのかもしれない。 私はこれからも日々一歩また一歩と足を繰り出すだろう。新たな一歩を踏み出すとき、この一歩は果たして何なのかと考えることがあるだろう。また、やはり一歩の内に無限を通過しているのかもしれないと思い直すことがあるかもしれない。人の僅か一歩には宇宙の神秘が横溢している。哲学の道に終わりはない。 参考文献 青山拓夫『新版 タイムトラベルの哲学』ちくま文庫 2011年 青山拓夫「アキレスと亀:なぜ追いつく必要がないのか」科学哲学 43-2 2010年 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#1/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/10 19 26 (178) オウム真理教訳語対比表 1 ★内容 苦の詩章 自己の苦しみを喜びとし、他の苦しみを自己の苦しみとする。 オウム真理教では、本来の意味を正確に表わしていない既成の仏教用語は用いず、 パーリ語原点を忠実に翻訳し、吟味した結果、決定した訳語を使っています。以下 に、代表的な言葉の対比表を掲げますので、参照して下さい。 ◎言語対比表◎ 欲界→愛欲界 無間地獄→超期間激苦地獄 叫喚地獄→号叫激苦地獄 針特摩地獄→紅蓮華のような状態になる激苦地獄 阿修羅→不飲酒天 憤怒天→意識堕落天 戯忘天→戯れ堕落天 地居天→地上愛欲神天 四天王衆天→四大王天 持国天→堅固王国天 セイチョウテン トウチヘンゲジザイテンクウテン 増長天→成長天 広目天→統治変化自在天空天 シュショミンガイショウテン 毘沙門天、多聞天→守庶民外傷天 夜叉→人食い鬼神 ユウノウシン とう利天→三十三天 帝釈天→有能神 シ ハイ ルテンソウセイジテン シハイ ルテンソウセイジオウ 夜摩天→支配流転双生児天 閻魔王→支配流転双生児王 ジョレイタンテン 兜率天→除冷淡天 楽変化天、化楽天→創造満足天 イタシンイジンツウソウゾウヨクボウマンゾクジュウジテン 他化自在天→為他神以神通創造欲望満足従事天 悪魔→破滅天 色界→形状界 梵天→神聖天 梵衆天→神聖衆愛欲神天 梵輔天→神聖臣天 大梵天→大神聖天 浄天→美天 遍浄天→総美愛欲本質神天 広果天→偉大果報愛欲本質神天 浄居天→清潔居住天 無煩天→超空間愛欲神天 無熱天→超燃焼愛欲神天 善現天→善安楽愛欲神天 善見天→善現象愛欲神天 色究竟天→超越童子愛欲本質神天 無色界→非形状界 空無辺処→空間無辺境 識無辺処→識別無辺境 無所有処→無所有境 非想非非想処→非認知非非認知境 想受滅→認知経験滅尽 須弥山→完全無欠山 東勝身州→東の高貴なる身体を得る大陸 南せん部州、閻浮堤→南のバラリンゴの大陸 西牛貨州→西の願いがかなう牛の大陸 北倶る州→北の悪しき音の大陸 成劫→再生期 住劫→継続期 壊劫→還元期 シンケン シンリショウシャ クヨウ チコン 釈迦牟尼→サキャ神賢 如来→真理勝者 応供→供養値魂 サイジョウショウカクシャ チトクジョウジュシャ サイジョウゼンゼイ 正等覚→最上正覚者 明行足→智徳成就者 善逝→最上善逝 セケンゲ ムジョウシ 世間解→世間解(変更なし) 無上士→無上士(変更なし) トウタツシンチウンメイコン 菩薩→到達真智運命魂 コウボンノウメツジンタガクナン コウボンノウメツジンタガクニョ 比丘→向煩悩滅尽多学男 比丘尼→向煩悩滅尽多学女 キエ シンナン キエ シンニョ 優婆塞→帰依信男 優婆夷→帰依信女 僧伽→出家教団 長老→高弟 声聞→多学の弟子 沙門→出家修行者 沙弥→少年出家者 遊行者→托鉢修行者 バラモン→祭司 クシャトリヤ→武人 ヴァイシャ→庶民 シュードラ→奴隷 四双八輩→四対の人々-八つの宗教的特性を持つ人々 預流→真理の流れに入ること 一来→(愛欲界に)一度だけ転生すること 不還→不還(変更なし) 阿羅漢→供養値魂 四預流支→四つの真理の流れに入る段階 四聖諦→四つの絶対的真理 苦聖諦→苦しみの絶対的真理 集聖諦→苦しみの生起の絶対的真理 滅聖諦→苦しみの滅尽の絶対的真理 道聖諦→苦しみの滅尽に至る方法の絶対的真理 キオクシュジュウジュツ 四念処→四つの記憶修習述 ニショウダンニショウゴン 四正断→二正断二正勤 断断→現在悪業断 律儀断→未来悪業断 ゴン ゴン 修断→現在善業勤 随護断→未来善業勤 ニョイ 四如意足→四つの如意の基礎 欲如意足→決意如意の基礎 精進如意足→精進如意の基礎 心如意足→思念如意の基礎 観如意足→観慧如意の基礎 五根→五つの潜在性 五力→五つの能力 信根→信の潜在性 信力→信の能力 精進根→精進の潜在性 精進力→精進の能力 念根→記憶修習の潜在性 念力→記憶修習の能力 定根→サマディの潜在性 定力→サマディの能力 慧根→智慧の潜在性 慧力→智慧の能力 七覚支→七つの覚醒段階 念覚支→記憶修習覚醒段階 択法覚支→検討覚醒段階 精進覚支→精進覚醒段階 セイジャク 喜覚支→喜覚醒段階 軽安覚支→静寂覚醒段階 定覚支→サマディ覚醒段階 捨覚支→無頓着覚醒段階 八正道→聖なる八段階の道 正見→正見解 正思惟→正思惟(変更なし) 正語→正語(変更なし) 正業→正行為 正命→正生活 正精進→正奮闘 正念→正記憶修習 正定→正サマディ 三苦→三つの苦しみ 苦苦→苦苦(変更なし) 行苦→悪い構成要素の苦しみ 壊苦→悪化の苦しみ 三受→三つの感覚 楽受→楽の感覚 苦受→苦しみの感覚 不苦不楽受→不苦不楽の感覚 四無量心→四無量心(変更なし) 慈→慈愛 悲→聖哀れみ 喜→聖称賛 捨→聖無頓着 五取蘊→五つのとらわれの集積 色取蘊→形状-容姿のとらわれの集積 受取蘊→感覚のとらわれの集積 想取蘊→表象のとらわれの集積 行取蘊→経験の構成のとらわれの集積 識取蘊→識別のとらわれの集積 五蓋→五つの障害 貪欲蓋→愛欲の興奮による障害 瞋恚蓋→害心による障害 こん眠蓋→頑固と愚鈍による障害 掉挙蓋→興奮と後悔による障害 疑蓋→疑念による障害 五妙欲→五つの愛欲の構成部分 色→形状-容姿 声→声(変更なし) 香→香り 味→味(変更なし) 触→接触 #2/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/10 19 29 ( 78) オウム真理教訳語対比表 2 ★内容 五下分結→五つの下位に結び付けるきずな 有身見→有身謬見 疑→疑念 戒禁取→戒誓のとらわれ 貪欲→愛欲の興奮 瞋恚→害心 五上分結→五つの上位に結び付けるきずな 色貪→形状愛著 無色貪→非形状愛著 慢→慢(変更なし) 掉挙→興奮 無明→悲神秘力 八解脱→八離解脱 八勝処→八勝境 十遍処→十全境 十波羅蜜→十の徹底 十二縁起の法→十二の条件生起の段階 無明→悲神秘力 行→経験の構成 識→識別 名色→心の要素-形状-容姿 六処→六つの感覚要素と対象 触→接触 受→感覚 愛→渇愛 取→とらわれ 有→生存 生→出生 苦→苦しみ 信→信(変更なし) 悦→歓喜 喜→喜(変更なし) 軽安→静寂 楽→楽(変更なし) 三昧→サマディ ニョジツセイツウケンカイ 如実知見→如実精通見解 遠離→現世否定 離貪→離愛著 解脱→離解脱 ゚ク槃→煩悩破壊 般゚ク槃→完全煩悩破壊 中般゚ク槃→中完全煩悩破壊 生般゚ク槃→減少完全煩悩破壊 無行般゚ク槃→形状界にて経験の構成がなく功徳の果報を受けつつある完全煩悩破壊 有行般゚ク槃→形状界にて経験の構成があり真理の実践による完全煩悩破壊 一種者→一種者(変更なし) 家家者→徳の高い家から家へと転生する者 極七返→最高七回流転者 正智→正精通 正解脱→正離解脱 心解脱→心の離解脱 慧解脱→智慧の離解脱 殺生→殺生(変更なし) 偸盗→窃盗 邪淫→愛欲における邪悪な行為 妄語→虚言 綺語→軽薄語 悪口→悪口(変更なし) 両舌→中傷 貪→愛著 瞋→邪悪心 癡→迷妄 愁→不運な出来事 悲→悲嘆 苦→苦しみ 憂→激痛 悩→悩み 五趣→五つの方向 善趣→幸福に向かうこと 悪趣→悲痛に向かうこと カルマ→要素の蓄積 法→法則 梵行→神聖行 布薩→戒誓行 波羅提木叉→約束維持解放 頭陀→断修行障礙 袈裟衣→赤っぽい黄色の衣 衆生→生命体 四大種→四大元素 本生経→輪廻転生談 仏教・ヨーガ言語対比表 愛欲界-現象界 形状界-アストラル世界 非形状界→コーザル世界 愛著-サットヴァ 邪悪心-ラジャス 迷妄-タマス 参考文献 タターガタ・アビダンマ 第二誦品 #3/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/10 22 4 (111) オウム真理教の世界観 全宇宙の構造 ウパティッサ ★内容 世界観 全宇宙の構成 まず、この全宇宙は、愛欲界、形状界、非形状界、そして大完全煩悩破壊界に 分類することが出来ます。 愛欲界とは、今現在私たちが生きているこの世も含まれ、熱優位の粗雑な物質で 出来ている世界です。 形状界とは音優位の微細な物質で出来た世界で、上位形状界と低位形状界に 分かれています。そのうちの低位形状界が、愛欲界と重なっています。 重なっているとは、通じ合っているという意味です。 非形状界とは、光優位のデータの世界です。これは、上位・中位・低位と三つに 分かれています。そのうちの低位非形状界が愛欲界、低位形状界と重なっており、 中位非形状界が上位形状界と重なっています。上位非形状界となると、他のどの 世界とも重なっていません。上へ行くほど、透明な光が強くなり、光が情報として 存在しています。 これらの世界は、どれも下から上に行くに従って、そこに存在する魂の密度が 低くなっています。 仏教的アプローチは、心の成熟を主体とし、霊性の向上を従と考えるがゆえに、 低位形状界、低位非形状界、中位非形状界を経験しません。しかし、タントリズムと ヨーガは、心の成熟よりも霊性の向上に重きを置くが故に、それらの経験もします。 愛欲界は六つのパートからなり、下から順に地獄界、動物界、餓鬼界、人間界、 意識堕落天、そして戯れ堕落天に分類することが出来ます。 ・ ・ ・ ・ ・ 大完全煩悩破壊界 ・ (超非物理的世界) ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 上位非形状界 ・ (空) ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ ・ ・ 中位非形状界 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 上位形状界 ・ ・ ・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ 低位非形状界 ・ ・ (無) ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ 戯れ堕落天 ・ 低位形状界 ・ ・・・・・・(天界)・・・・・・ ・・・・・・・・・ ・ 意識堕落天(阿修羅界) ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 非形状界(無色界 ・ 人間界 ・ ・ (コ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ (超物理的世界) ・ 餓鬼界(低級霊域) ・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ↑ ・ 動物界 ・ 形状界(色界) ・・・・・・・・・・・・・・・ (アストラル 微細次元) ・ 地獄界 ・ (非物理的世界) ・・・・・・・・・・・・・・・ ↑ 愛欲界 (現象界 粗雑次元) (物理的世界) 全宇宙の構成図(EX氏作) 我々が瞑想によって愛欲界を経験するときは、愛欲界の裏側の、低位形状界 を通じて経験します。形状界は音(ヴァイブレーション)の世界ですから、そ れぞれの世界に特有の音楽が流れています。 例えば、地獄はロック、ジャズなどが流れています。動物は軽い歌謡曲のよ うな曲、人間界は演歌のような情のこもった曲、意識堕落天は軍艦マーチや軍 歌のような勇ましい曲、天界はクラシックや日本の雅楽のような曲が流れてい ます。ですから、自分がどのジャンルの音楽を好むかによって、愛欲界のどの 世界の要素を持っているのか推し量ることが出来るわけです。 #4/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/11 2 6 (141) オウム真理教世界観 地獄1 ウパティッサ ★内容 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇ オーム マニ ペメ フーム これは、愛欲界の六つの世界の要素の蓄積を断ち切るマントラです。 これから、愛欲界の一つ一つの世界について説明をしていきたいと思います。 たとえ天界に生まれたとしても、この輪廻の輪を超えない限り、いつかは悲 痛に向かう世界へ落ちてしまいます。故に、我々はまずこの愛欲界の要素の蓄 積を断ち切り、この愛欲界から離脱しなければなりません。 ◇◇◇◇◇ 地 獄 ◇◇◇◇◇ Hell 苦しみだけの世界 地獄に生まれ変わる条件は、心における嫌悪、言葉における悪口、そして 行為における暴力・殺生である。 また、真理に対する妨害や、真理と称して間違った教えを説いた者なども 地獄に落ちるとされている。 普通、地獄に落ちると永遠に抜け出せないような感じを受けるが、実際は そうではない。確かに地獄は六道の中では最も寿命の長い世界だが、無常の 世界にある以上、必ず死はやってくる。天界ももちろん同じである。 それでは、地獄と天界の寿命の長さを見てみよう。 例えば天界は、 ◎第一天界(四大王天)=九百万年 ◎第二天界(三十三天)=三千六百万年 ◎第三天界(支配流転双生児天)=一億四千四百万年 ◎第四天界(除冷淡天)=五億七千六百万年 ◎第五天界(創造満足天)=二十三億四百万年 ◎第六天界(為他神以神通創造欲望満足従事天)=九十二億一千六百万年 (麻原彰晃著「タターガタ・アビダンマ」参照) また、地獄界はさらに長く、八つの熱地獄を例に取ると、 △第一熱地獄(等活地獄)=四大王の神の寿命が一日に相当し、それを五百年生きる。 △第二熱地獄(黒縄地獄)=三十三天の神の寿命が一日に相当し、それを千年生きる。 △第三熱地獄(衆合地獄)=支配流転双生児天の神の寿命が一日に相当し、 それを二千年生きる。 △第四熱地獄(号叫地獄)=除冷淡天の神の寿命が一日に相当し、それを四千年生きる。 △第五熱地獄(大叫地獄)=創造満足天の神の寿命が一日に相当し、 それを八千年生きる。 △第六熱地獄(炎熱地獄)=為他神以神通創造欲望満足従事天の神の寿命が 一日に相当し、それを一万六千年生きる。 △第七熱地獄(大熱地獄)=炎熱地獄よりさらに長い。 △第八熱地獄(超期間地獄)=人間の六十小カルパが一日に相当し、一大カルパ生きる。 (中村元著「沸教語大辞典」参照) というように、人間の時間の感覚では計り知れないほど長い年月を、これら の世界で過ごすことになっている。 地獄や天界を "永遠”と錯覚するのも無理はないかも知れない。しかし、 必ず終わりは訪れるのである。その時が来れば、その長い寿命も瞬間だった ように感じるだろう。 さて、地獄に生まれ変わるシチュエーションには三つのパターンがあると される。それは裁き、ヴィジョン、エネルギーの三つである。 裁きとは、支配流転双生児神、俗にいう閻魔大王の裁きである。生前に積 んだ悪業によって、支配流転双生児神によって地獄行きの判決が下され、地 獄に生まれ変わる、これが第一のパターンである。もちろんこれは例え話で も冗談でもない。 ヴィジョンによる転生とは、例えば地獄のカルマをたくさん持っている人 は、バルドー(死後の中間状態)でものすごく周りが熱くなり、炎に包まれ たような状態になる。そして、嫌悪の強い者は、それを幻影だということを 知らずに、そこから逃れようという心の働きが出てくる。 そしてその後、その炎に包まれた状態で、雪山の大変涼しそうな景色が見 えてくる。そしてああ涼しそうだと飛び込んだ瞬間、寒冷地獄ということに なる。 反対に、体がものすごい寒さに襲われる。その状態で、暖かそうな炎が見 えてくる。そしてああ暖かそうだと飛び込んだ瞬間、熱地獄ということにな る。これが、嫌悪による転生のパターンである。 このときの条件、心の条件を解析してみよう。もし、その自己の周りの炎、 あるいは寒さというものが、自己のカルマであるということを認めることが 出来たならば、あるいはその炎、寒さに対して嫌悪、憎しみの感情を抱かな かったならば、その人は雪山に、あるいは炎に飛び込まなかったであろう。 しかし、嫌悪の感情を持ったがために飛び込んだ訳である。 勿論他のパターンのヴィジョンもある。 では三番目、エネルギーによる転生とは一体どのようなものであろうか? それぞれの世界にはその世界特有の色がある。そして地獄の色と言うのは、 黒である。現在、黒が好きだという方は、気をつけた方がいい。それは地獄 に生まれ変わる可能性が高いからだ。 バルドーに入って、黒い煙が見えてくる。地獄のカルマの強い人はその黒 に魅力を感じ、飛び込む。その瞬間、地獄に生まれ変わっているという訳で ある。 ちなみに、同じ黒でも光沢のある黒の場合は、愛欲界の王であるマーラ( 破滅天)の色である。 さて、この地獄は大きく三つの世界に分けられる。 それは、熱地獄、寒冷地獄、痛みの地獄の三つである。 嫌悪による怒りを発した者は熱地獄に、嫌悪による冷たさを持った者は寒 冷地獄に、嫌悪により他の魂を肉体的に害した者は痛みの地獄に生まれ変わ る。 #5/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/11 8 35 (199) オウム真理教世界観 地獄 2 ウパティッサ ★内容 では、釈迦牟尼はこの地獄をどのように表現していたのか? 南伝大蔵経の「天使経」の中の地獄の記述をご紹介しよう。 「その人に、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、諸々の獄卒は五種連という名の刑 罰を行うのである。まず、五本の赤く熟した鉄の杭を、それぞれ両手と両足 と胸の中央とに刺す。そのとき、彼は非常に激しい苦痛を受ける。しかもそ の悪業が尽きない限りは、その間命が終わる事はないのだ。また、その彼を 諸々の獄卒は、誘っていき、斧で切る。そのとき、彼は・・・(中略)・・ ・その悪業が尽きない限りは、その間命が終わる事はないのだ。また、その 彼を、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、諸々の獄卒は足を上にし、頭を下に置い て、鋭い斧で切る。そのとき、彼は・・・(中略)・・・その悪業が尽きな い限りは、その間命が終わる事はないのだ。また、その彼を、諸々の向煩悩 滅尽多学男よ、諸々の獄卒は車のくびきに付けて、熱く焼け燃えている地上 を行ったり来たりさせる。そのとき、彼は・・・(中略)・・・その悪業が 尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。また、その彼を、諸々 の向煩悩滅尽多学男よ、諸々の獄卒は、炭火が赤く焼け燃えている大きな山 を登ったり降りたりさせる。そのとき、彼は非常に激しい苦痛を受ける。し かもその悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。また、 その彼を、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、諸々の獄卒は、足を上に頭を下にし て捕まえて、熱く焼け燃えている大きな銅の釜の中に投げ入れる。そして、 彼はそこでぐつぐつ煮られる。彼はそこでぐつぐつ煮られて、上に行ったり、 下に行ったり、横に行ったりする。そのとき、彼は非常に激しい苦痛を受け る。しかもその悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。 また、その彼を、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、諸々の獄卒は大地獄の中に投 げ入れる。そして、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、その大地獄は、 四隅があり、四つの門があって、 同じ大きさに区分され、 鉄の壁に囲まれ、 鉄で覆われている。 その鉄でできた大地は 燃え盛る炎に敷き詰められ、 上下左右はあまねく百ヨージャナの広がりがあって、 常に存続している。 そして、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、その大地獄の東の壁で炎が燃え上が り、西の壁に突き当たる。西の壁で炎が燃え上がり、東の壁に突き当たる。 北の壁で炎が燃え上がり、南の壁に突き当たる。南の壁で炎が燃え上がり、 北の壁に突き当たる。下で炎が燃え上がり、上に突き当たる。上で炎が燃え 上がり、下に突き当たる。彼はそこで非常に激しい苦痛を受ける。しかもそ の悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。 諸々の向煩悩滅尽多学男よ、長い時が経過する間のいつかには、その大地 獄の東の門が開かれるときがある。そこで、彼はそこに向かって全速力で走 っていく。全速力で走って行くために、皮も焼かれ、肌も焼かれ、肉も焼か れ、筋も焼かれ、骨も焦がされる。実際に、このような騒乱があるのだ。そ して、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、ようやく彼がたどりつくと、そのとき、 その門は閉ざされてしまうのである。彼はそこで非常に激しい苦痛を受ける。 しかもその悪業が尽きない限りは、その間命が終わる事はないのだ。 諸々の向煩悩滅尽多学男よ、長いときが経過する間のいつかには、その大 地獄の西の門が開かれるときがある。・・・(中略)・・・北の門が開かれ るときがある。・・・(中略)・・・南の門が開かれるときがある。そこで、 彼は全速力で走っていく。彼は全速力で走って行くために、彼は焼かれ・・ ・その門は閉ざされてしまうのである。彼はそこで非常に激しい苦痛を受け る。しかもその悪業が尽きない限りは、その間命が終わる事はないのだ。 諸々の向煩悩滅尽多学男よ、長いときが経過する間のいつかには、その大 地獄の東の門が開かれるときがある。そこで、彼は全速力でそこに向かって 走っていく・・・このような騒乱があるのだ。 そして、彼はその門からでる。 しかし、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、その大地獄にほとんど接するように して、巨大な糞尿地獄が揃って存在している。彼はそこに落ちる。そして、 諸々の向煩悩滅尽多学男よ、その糞尿地獄には針の口を持つ生き物がいて、 皮を破る。皮を破り終わると肌を破る。肌を破り終わると肉を破る。肉を破 り終わると筋を破る。筋を破り終わると骨を破る。骨を破り終わると骨の随 を食らうのである。彼はそのとき、非常に激しい苦痛を受ける。けれども、 その悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはないのだ。 そして、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、その糞尿地獄にほとんど接するよう にして、巨大な熱灰地獄が揃って存在している。彼はそこに落ちる。彼はそ こで非常に激しい苦痛を受ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、そ の間命が終わることはないのだ。 そして、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、その熱灰地獄にほとんど接するよう にして、一ヨージャナの高さにそびえ、指十六本分の長さのトゲを持った、 熱く焼け燃えている巨大な針の木の林が揃って存在している。諸々の獄卒は、 彼にそこを登ったり降りたりさせるのである。彼はそこで非常に激しい苦痛 を受ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、その間命が終わることは ないのだ。 そして、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、その針の木の林にほとんど接するよ うにして、巨大な剣の葉の林が揃って存在している。彼はそこに落ちる。様 々な風に吹き動かされた葉は、彼の手を破り、足を破り、手足を破り、耳を 破り、鼻を破り、耳と鼻を破るのである。彼はそこで非常に激しい苦痛を受 ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、その間命が終わることはない のだ。 その彼を、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、諸々の獄卒は釣針を使って引き上 げ、陸地に立たせて、次のように言った。 『おい、男よ、お前は何か欲しいものはあるか。』 彼は次のように言った。 『すみません、私はお腹がすいております。』 その彼を、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、諸々の獄卒は熱く焼け燃えていて 灼熱した金ばさみで口を開き、熱く焼け燃えてい灼熱した鉄丸を口に投げ込 むのだ。それは、彼の唇をも焼き、口をも焼き、喉をも焼き、胸をも焼き、 大腸と小腸とを持ち去って、下部から出るのである。彼はそのとき、非常に 激しい苦痛を受ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、その間命が終 わることはないのだ。 その彼に、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、諸々の獄卒は次のように言った。 『おい、男よ、お前は何か欲しいものはあるか。』 彼は次のように言った。 『すみません、私は喉が渇いております。』 その彼を、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、諸々の獄卒は熱く焼け燃えていて 灼熱した金ばさみで口を開き、熱く焼け燃えていて熱く煮えたぎる銅を口に 注ぐのだ。それは、彼の唇をも焼き、口をも焼き、喉をも焼き、胸をも焼き、 大腸と小腸とを持ち去って、下部から出るのである。彼はそのとき、非常に 激しい苦痛を受ける。けれども、その悪業が尽きない限りは、その間命が終 わることはないのだ。 その彼を、諸々の向煩悩滅尽多学男よ、諸々の獄卒はもう一度大地獄に投 げ入れるのである。」 まさに恐ろしい世界である。しかし、気をつけなければいけないのは、サ キャ神賢(釈迦牟尼)は神通によって実際に地獄を経験していたのであろう が、それはあくまでも2600年前の地獄だということである。この260 0年の間に人間界の様相が大きく変化したように、当然地獄の様相も変化し ているであろう。しかしもちろん、先にあげた原則的なものは変わらない。 例えば、殺生というものを考えてみても、2600年前にはなかったが現 在はあるというものが多く存在する。例えば堕胎、殺虫剤、等々である。 やったことが同じように返ってくるというカルマの法則から考えて、行い が変われば当然結果も変わってくる。例えば殺虫剤で多くの虫を殺した者が、 同じように殺虫剤のようなもので苦しめられる地獄が存在するということで ある。 では、このような恐ろしい地獄に落ちないためには、どのようにしたらよ よいのだろうか。考えてみれば簡単なことである。条件を一つ一つつぶして いけばよいのだ。例えば、嫌悪の心を持たず、全ての魂に慈愛を降り注ぐ。 悪口を言わず、優しい言葉のみを語る。生き物を殺すことなく、慈しむとい うことである。 しかし、実際はやはり難しいであろう。嫌悪の心を取り払うのは、なかな か大変である。例えば夏の暑い時期に、「暑いのは嫌だ。涼しいところへ行 きたい。」などと考えたりしたら、それも地獄へ落ちる因となってしまうの である。 心の統御に比べると、行為と言葉の統御は比較的簡単だろう。 例えば、蚊が刺してきても殺さずに、慈しみの心を持ってじっと耐える。 人に悪口を言われても言い返さないでじっと耐える。地獄に落ちないために も、ぜひ実践して欲しい。 さて、今度はまた違った観点から地獄に落ちる因を見てみよう。 我々が喜びを求めれば求めるほど、苦しみが増大するということにお気づ きだろうか? 例えば、お風呂を考えてみよう。ここに二人の人がいて、一人は、50度 のお湯はちょっと熱すぎる、30度のお湯はちょっとぬるすぎると考えてい た。彼は30~50度のお湯では苦を感じないのである。 しかしここに嫌悪の強い、そして喜びを求める心の強い者がいたとする。 まあ、喜びを求める心が強ければ強いほど、苦に対する嫌悪も強くなるだろ う。彼は40度前後のお湯にのみ喜びを求め、それ以外の温度に嫌悪してい た。つまり、前者が苦を感じなかった温度にまで、後者は苦を感じるのであ る。同じ条件でも苦しみの領域が広いのである。 我々の周りを見ても、喜びを求めている人ほど苦に対しても敏感である。 例えばここに、味覚の非常に鋭い者がいたとしたら、彼は普通の人が感じら れないような素晴らしい味覚を得ることができるかもしれないが、同時に普 通の人が感じないようなまずい感覚も味わわなければならなくなるだろう。 逆に、例えばオウム真理教の高い成就を成し遂げた方達は、日々楽しみを 求めない生活をしている。食事もわずかなものをとり、もちろん性的な行為 は一切行なわず、外見を着飾ることもなく、また心に於いても救済のみを考 える。このように喜びを求めない生活をしていると、逆に苦しみの領域も減 っていく。例えばオウム真理教の成就者が怪我をして傷口を縫う場合、ほと んどの場合、麻酔を使わない。普段から喜びを求めない生活をしているため、 苦の許容量が大きくなっているのである。 そして全てが心の現れであることを考えると、我々が欲求を滅し、苦の領 域を狭めたならば、或いは完全に欲求自体を無くしてしまったならば、我々 が地獄に落ちる因はかなり減少することになる。 しかしこの欲求というものは我々の無始の過去からの経験の積み重ねから きている。よってそう簡単に滅せるものではない。そしてそれを可能にする 日本でただ一つの修行形態を有しているのが、オウム真理教なのである。 みなさんは、六道がピラミッド型になっているのをご存知だったろうか? つまり、底辺ほど広い。広いというか、そこに存在する魂が多いのである。 別の言い方をすれば、我々が死んで最も生まれ変わる可能性の高い世界が、 地獄なのである。 私たちは、この地獄を完全に捨断することのできる、「真理」に巡りあ ったことに感謝しようではないか。そして巡り会ったはいいがまだ実践に までは至っていない人は、今日この瞬間を境に全力で真理の実践に励むべ きである。死神の大群はいつ私たちを襲うか全く分からないのだから。 あのときもしも 修行をしてたら 今の悲しみは なかっただろうに 何故に無智におおわれ 修行をせず 快楽の幻影を むさぼったの 私はあやまちに 気づいたけれど もう遅い 何もかも 手遅れになった 麻原彰晃尊師 作詩・作曲 「さまよえるバルドー」より #6/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/11 9 29 ( 83) オウム真理教世界観 動物界 ウパティッサ ★内容 動 物 The Animal Realm 六道の第二番目は動物界である。 この動物界は、皆さんも知っての通り、皆さんの視覚的に とらえられる動物全てだけではなく、この宇宙には多くの動 物が遍在している。その動物の特徴は、根本的無智であり、 実際、動物の世界から高い世界へ転生する場合、それは積極 的に高い世界へ転生することはできず、消極的な形でいいカ ルマを持っている者のみがそこから脱却することができるの である。 サキャ神賢は、動物の世界へ転生するとは言わず、「動物 としての発生」という言葉を使っている。 動物としての発生とは、動物として生まれ出るということ であり、わざわざ魂が人間として生まれる人間世界と区別し ているのである。つまり、同じこの愛欲界に生まれるにして も、動物の方がより粗雑であるということを言外に含めてい るのである。 現代の生物学に於いても、発生という言葉を使っているの は興味深いことである。 ところで、この動物としての発生へと至る心の機序は、根 本的無智を背景としている。つまり、低級霊域にいた魂が、 より具体的満足を得ようとしてこの動物の世界へと発生する のである。 『哀しみの動物世界』 作詞・作曲 麻原彰晃尊師 楽しければいいじゃないの 楽しければいいじゃない 楽しければいいじゃないの どうして何が悪いの 楽しければいいじゃないの 楽しければいいじゃない 楽しければいいじゃないの どうして何が悪いの なんとなくでいいの ちょっとだけでいいの あなた そんな 恐い顔しないで なんとなくでいいの ちょっとだけでいいの 善行なんて 私はいイヤだ まっぴらゴメンだ ねー 強いことがすべて だー 支配だけがすべてなんだ 強い者が出てきたなら 逃げろ さあ 逃げろよー 速い者だけが得をする 強い者だけが得られる ボス達だけが得をする それが自然の掟 強い者だけが生きられるのー あなたそばにいてほしい この寂しさ なめてよ 一緒にいてほしい 優しければそれでいい 子供はどこへ行くのだろ もしもあのとき私が 戒め を守っていたならば こんなに 辛い思いをせずに済んだのに 無明の闇がすべてを 狂わせた 堅い牙が 体つぶす 光る爪が 体つぶす 開く口が 私を飲む 恐い 恐い 恐いよー 「助けてー」 功徳だけが私の救い 善行積めばいいじゃない 寂止だけが私の救い 真理の教えが すべてだー! 参考文献 マハーヤーナ 真理 えんじょい・はぴねす 真実!六道輪廻 絶対の真理 飛翔 タターガタ・アビダンマ 第一誦品 #7/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/11 19 21 (121) オウム真理教世界観 餓鬼界 ウパティッサ ★内容 餓 鬼 The Realm of Hungry Ghosts 下から第三番目が餓鬼界である。この餓鬼界は、貪りのカルマの強い魂の行 く世界であり、これは動物界と人間界の間に存在している。 餓鬼のカルマを持つ人の条件を詳しく述べるならば、四つあげることができる。 1.布施の心がない 2.楽をしたがる 3.食べ物の味にこだわる 4.物を集めたがる の四つである。何か現代人にぴったり当てはまるような気がするが・・・ 例えば、人間の形状をしていても、生まれながらにして全く物を食べること ができない、あるいはガンその他にかかり、死ぬ前に物が食べられなくなり、 腹がパンパンに腫れ上がって死ぬ等は、これは餓鬼界へ転生する現われなので ある。 そして、この餓鬼界はお互いがお互いを遮断し、自分の利益のみを考える魂 が存在している世界ということになる。だいたい人にものを施さないで独り占 めし、そして生きた魂は、次の生この世界へ転生するのである。 餓鬼のカルマを切るには、 1.徹底的な財施(真理に対する財産の布施)をすること 2.マニプーラ・チャクラから特殊な方法でエネルギーを上昇させること 3.マントラを唱えることによって餓鬼のカルマを破壊すること という三つの方法を合わせて行なわなければならない。 ただ、餓鬼のカルマを持つ人は、いきなり財産を布施しなさいと言っても無 理だろう。そういう方は一日一円でもいいから、毎日布施をし続ける努力をし てみてほしい。そのうち布施の喜びがわかり、自分のために使うよりも布施し た方がいいという風になるだろう。 ところで、この餓鬼というのは実際はプレータといい、低級霊域を表わして いる。 この低級霊域は、二つの魂の構成から成り立っている。 第一のパターンは、愛欲を有している魂で、具体的な、例えば動物としての 発生とか、人間世界とか、ハッキリと特徴が固定されていない場合である。 第二のパターンは、具体的な世界よりイメージの世界を好む魂で、愛欲を有 している場合である。 前者の方が後者よりこの低級霊域から他の世界へ転生するスピードは早い。 また、餓鬼は人食い鬼神のペットでもあるという。 地獄の色が黒(光のない黒)であることは前に述べたが、餓鬼はどうかとい うと、暗く濁った黄色である。 そして、お気づきになったかも知れないが、この色こそ現代の日本の霊能者 達を象徴する色なのである。前に雑誌の新興宗教特集を見たとき、みんな同じ 暗く濁った黄色を基調としていたのを見てびっくりした事がある。 『貪りの苦しみ』 作詩・作曲 麻原彰晃尊師 人は どうでもいい 他人は どうでもいい 悲しみ越えて 苦しみ越えて 私は集めた 財産 俺の苦労を 誰にわかるか 俺の楽しみは これしかないんだ お金だけが 味方なんだ 欲張りだった あやまちだった 心しだいで すべては決まる 物は どうでもいい お金は どうでもいい 悲しみいっぱい 苦しみいっぱい ガキの世界は苦しい 食べよう リンゴ 石リンゴ 甘い ケーキ 胃が燃える この世界 すべて皆 私の苦しみ ジュースだ 石油だ 黒こげ 缶詰 爆弾 バラバラ 財施極限 カルマ落ちたよ 私は天界楽しいよ 財施の極限素晴らしい あなたも真理を行って 私と天界行きましょう 天界全てが快楽だ お金のカルマを断ち切って 貪り超越するならば あなたも私も天界だ 正しい見解培って すべてに施しなすならば プレータ世界を脱出し 長命・歓喜の天界だ 現世の観念断ち切って 「すべては功徳の現れ」と 功徳の理論に精通し 天での自由と幸福を これはオイラのものだ すべて私のものだ 《すべて私のものだ!!》 これはオイラのものだ すべて私のものだ 見えない世界 知らない世界 私は知らない 無明 救済 真理の伝播 真理だけが全てを明かす オイラ ガキの世界へ 落ちてしまったけれど あなたはきっと 功徳を積んで 天へと至り 歓喜を 参考文献 タターガタ・アビダンマ 第一誦品 マハーヤーナ えんじょい・はぴねす 飛翔 #8/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/11 21 43 ( 89) オウム真理教世界観 人間界 ウパティッサ ★内容 人 間 The Human Realm 下から四番目の世界が、私達の今いる人間の世界である。 この世界は情の世界と言われる。これは、特定のものに対する偏った 執着を意味している。 例えば餓鬼のカルマを持つ者は、何でもかんでも自分のものだという 感じだが、人間の場合はそうではなく、ある特定のものにのみ執着をす るのである。 この情は日本人の一番好きなやつである。人情、愛情、友情・・・た だ、最近は、情よりも嫌悪、無智、むさぼりといった三悪趣のカルマの 強い者がこの人間世界に多いのは否めない事実である。人間界のレベル が落ちているのだ。 この人間界の寿命は、八万才から十才の間を増減すると言われている。 そしてこれはそこに住む魂の善業・悪業の度合いによって決まってくる。 人間界の魂のベクトルが上向きであれば寿命は伸びて行くし、下向きに なれば寿命は減少へと向かうのである。 平均年齢が100才に満たない現代は、相当悪いカルマを持った魂が 集まっていると考えていいだろう。 仏典によると、この人間界は四つの大陸と八つの島々、そして数え切 れない程の名もない島々で構成されている。四つの大陸の名称と形状は、 「東の高貴なる身体を得る大陸(ヴィデーハ州)」という半月形の大陸、 「南のバラリンゴの大陸(ジャンブ州)」という台形の大陸、「西の願 いがかなう牛の大陸(ゴーヤーナ州)」という円形の大陸、「北の悪し き音の大陸(クル州)」という四角形の大陸の四つである。オウム真理 教ではこの大陸というのはプレートを表わしていると考えている。 八つの島々の名称と形状は、東の「身体」という半月状の島、東の「 高貴な身体」という半月状の島、南の「帯状の扇」という台形の島、南 の「別の帯状の扇」という台形の島、西の「動き」という円形の島、西 の「完全な道を踏む」という円形の島、北の「不快な音」という四角形 の島、北の「不快な音の月」という四角形の島の八つである。 この世界に生まれ変わるときのヴィジョンは、セックスである。まず、 後に両親となる男女のセックスのヴィジョンが見え出す。そして男性は 母親にものすごい愛着を持ち、父親に対してものすごい嫉妬心を持つ。 逆に女性は父親に対してものすごい愛着をもち、母親に対してものすご い嫉妬心を持つ。そしてそのときの愛着や嫉妬心というものは生きてい るときの何百倍、何千倍といったものであり、そのものすごいエネルギ ーによって転生先が決まってしまうのである。 人間転生 作詩・作曲 麻原彰晃尊師 あなたと一緒に 苦労をしながら 楽しい家庭を 築きたい 私の すべてを あなたに 捧げたい この愛は 喜びは 無常と知っていながら 求める 安らぎは 幸福は 三苦の形を表し 壊れゆく 子供達は 息子達は あなたのように素適に この夢 壊れさせない 固く守るわ 来世も あなたと一緒に生きたいの 勇敢 ジャンブ州 真理の記憶修習 クル州 千年生きられる エゴが無く 天界のように楽しい 家畜養い ステーキを食べ 焼き鳥 焼き肉 ゴーヤーナ州の楽しみのすべてがここに 五百年生き 巨大身体 ヴィデーハ州 美しい 体持ち 素晴らしい 行動なし 生きるの 人間界へ 生まれたい そのサインは かわら屋根 父母の交わり 家庭のヴィジョン 湖の馬 白い馬 湖のそば 牛がいる 美しい男 美しい女 すべてが道 何度も記憶し 何度も瞑想し 忘れないわ あなたと一緒に 人間世界へ 苦楽と一緒に 暮し育む ジャンブ州だけが 修行の大陸 人の一生は短いぞ 功徳減らして 生きたならば いくら瞑想したとしても おまえの道は 三悪趣だよ 真理を記憶し 真理を行い 功徳を積めば 人間だ 参考文献 タターガタ・アビダンマ 第一誦品 えんじょい・はぴねす 真実!六道輪廻 マハーヤーナ #9/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/12 0 34 (107) オウム真理教世界観 意識堕落天 ウパティッサ ★内容 意 識 堕 落 天 The Heaven of Degenerated Consciousness 第五番目は意識堕落天である。一般には阿修羅界と呼ばれている世界である。 この意識堕落天は、一般的に今現代ではUFOブームだが、このUFOに乗っ ている魂、この魂が意識堕落天であると考えるべきである。 この意識堕落天の世界は、大変科学が発達している。ここで要求されるもの は、純粋な論理性であり、そして自分自身の観念の中において認められるもの に対してのみ、積極的に生きる姿勢である。 この意識堕落天の世界は、そこに住む魂は、否定的であり、そして排他的で ある。しかし、自分の得意分野に対しては、大変優れた才能をそれぞれが持っ ている。 つまり、スペシャリスト・タイプが多いわけである。 そして、自分の専門分野において上に立つ者に対して激しい闘争心を燃やす のである。 麻原尊師は、何度もこの世界の王として君臨したことがあるそうである。 意識堕落天はひとりよがりの天界で、自己向上欲求が強い。ひとりよがりと いうのは、批判によりその魂の行動が限定されるからである。 意識堕落天に生まれ変わるヴィジョンとしては、まず右上方から赤いエネル ギーが射し込んでくる。これは、多くのヴィジョンを含んでいる。そのほとん どが闘争のヴィジョンである。例えば、スポーツ、格闘技等である。そしてそ れを見ているうち、自分も相手を打ちのめしたいとかいう心の働きが出てくる。 この慢、あるいは害心によって、気付いたときには意識堕落天へ生まれ変わっ ているのである。 今の意識堕落天は、大変宗教性が発達し、特に密教や仏教が大いに発達して いる世界なのである。しかし、ここの魂は他人を尊敬することをせず、そして、 自分の担当する役割にだれかが干渉しようものなら、即闘争を挑む。よって、 ここ の世界を闘争の天界と呼ぶこともある。例えば、後期『旧約聖書』などの世界 における天の描写は、まさにこの意識堕落天ということになる。 そして、聖書における御使い(ANGEL)とは、実はこの意識堕落天を表 わしているらしい。ANGELには半神という意味があるのだが、意識堕落天 も半神と表わされるのだ。これは、神(戯れ堕落天)と、動物の両方の要素を 持っているということである。動物界の色は緑、戯れ堕落天の色はどんよりと した白であるから、意識堕落天は緑と白で表現されるのである。 そしてこの意識堕落天は、交わった剣、その周りに炎という象徴で表わされ ている。これはユダヤ教のシンボル・マークと同じである。 この世界の寿命は、だいたい二百年から千六百年ぐらいの間である。 この世界の光は、赤紫である。しかし赤紫といいながらも多様の要素を含ん でいる。大体において、この世界へ転生する魂は、赤紫と黄緑のバルドーを持 っている。 真の意識堕落天の主、あるいは上級の魂というものは、黄緑のバルドーがな い。これはどういうことかというと、純粋に知謀、力、あるいは徳を備えてい るということである。 ところが、意識堕落天へ転生するもう一つのタイプの魂は、そこに餓鬼のカ ルマや、動物のカルマを含んでいる。 つまり、この世界には二つのタイプがいて、支配する側とされる側がハッキ リしているのである。そして、支配する側は完全に純粋に赤紫であり、支配さ れる側は黄緑のパターンが多いということである。 無明憤怒天 作詩・作曲 麻原彰晃尊師 戦い疲れ 功徳を漏らし 天への道を 一人閉ざす 策略は 鏡のよう 真理を知らず ただ立ち向かう 功徳の力は すべてを超える 持戒を保持し 布施を為し 真理の教え だけが すべて 戯忘天 快楽は うらやみの 心起こす 戦い 陰謀 誹謗 け落とし だけが すべて 力 智謀 力 布施がこの世界 破戒 快楽が 戯忘と違う 戒 実践 為すなら 戯忘をしのぐ 戒 実践 為すなら 神聖天へ さあ パンチ 両舌 悪口が カルマ落とす がまんが ジャンプ力 悪業落し 神聖天 持戒を守れば 真理を学べば 遥かに 高い天へと いざなう 智謀だけが 頼りなんだ 功徳だけは 積んでもいい 戒律は まっぴらだ 制約はゴメンだね 俺はカルマを信じない カルマの力でまた悪趣 参考文献 タターガタ・アビダンマ 第一誦品 真実!六道輪廻 超越神力PART2 前生を知れ!死生智の秘密 #10/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/12 9 7 ( 95) オウム真理教世界観 戯れ堕落天 ウパティッサ ★内容 戯 れ 堕 落 天 The Heaven of Trrestrial Desire Gods 愛欲界の最高の世界、戯れ堕落天の説明の入ろう。この戯れ堕落天は、大き く分けて六つのパートに分かれている。下から順に、四大王天、三十三天、支 配流転双生児天、除冷淡天、創造満足天、為他神以神通創造欲望満足従事天の 六つである。 戯れ堕落天の魂は、この世のカルマを肯定する。例えば田中角栄の金権や、 小佐野賢治や児玉誉士夫等の社会的に批判された事業の仕方などについても、 肯定するのである。 なぜならば、現代人が全く重要だと思ってもいない徳の法則というものがあ るのであるが、実はその徳の法則通りに彼らは出世し、あるいは事業を成功さ せたのであると言うことを知っているからである。 そして、戯れ堕落天の魂は、自分自身も徳を積み、力や物質的豊かさ、多く の官能といったものを手に入れるのである。 つまり、意識堕落天は、自己の周囲の諸々の現象に対する否定により、自己 の清らかさを保全する事を特徴とし、戯れ堕落天は、要素の蓄積を肯定し、そ して自分自身もその要素の蓄積の法則にのっとって生き、善果を楽しむ、とい うことが特徴なのである。 しかし、ここでよく考えてみるならば、排他的な心や積んだ功徳を消耗する という心の働きが煩悩であり、結果的には、この愛欲界であるサムサーラ(苦 界)を流転しなければならないと言うことに気付くべきなのである。 ◇天の修行 天の修行は、何をもって善法を増大させ、何をもって悪法を減少させるか、 この一点にかかっている。なぜならば、天というものは、功徳の消耗の激しい 空間だからである。 つまり、天は欲楽の世界である。この欲楽の世界で、その天より上に上がっ て行くためには、善法を増大させ、悪法を減少させる以外にない。よって、す べての現象に対して、これは善法を増大させるのか、あるいはこれは悪法を増 大させるのかの認識をしっかり持ち、善法を増大させるものをよしとし、悪法 を増大させるものを悪しとするのである。 要するに、天の修行のポイントは、いかにその欲望を満足させながら、ある いは欲望を捨断しながら、善法を増大させ、悪法を減少させるかである。 そして、実は、この善法増大、悪法減少の真の意味、ここにタントラの奥儀 が隠されているのである。 戯忘の悲哀 作詩・作曲 麻原彰晃尊師 布施と 持戒が 天の道 一つはずしても 門閉ざす 真理 修習 だけじゃないが 邪道の道はことなる 布施実践 戒実践 邪道でも 天へ行く 真理と違い また悪趣 真理は天からジャンプする 快楽 楽しみ 欲望天 長命 歓喜 戯忘天 功徳の力 持戒の力 和合 慈しみ 欲望天 従順 善行 戯忘天 功徳の力 持戒の力 真理 記憶修習 真理 記憶実践だ 私と 伴に あなたも さあ行こう 真理の道がすべてだ 俺は この世界の 支配者 快楽 すべてが私のもの 天女の魅力 答えられぬ 五妙欲 大満足 欲望天 とろけそう 天女達 戯忘天 功徳の力 我ぞ知る 至上の快楽 この世界 俺は この世界の支配者 すべての天女は 俺のものだ 光が消えた 功徳が切れた カルマが落ちた 地獄だ 参考文献 真実!六道輪廻 飛翔 タターガタ・アビダンマ 第一誦品 超越神力PART2 前生を知れ!死生智の秘密 マハーヤーナ 創世期 尊師、インドを行く #11/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/12 10 49 (124) オウム真理教世界観 四大王天 ウパティッサ ★内容 第一天界 四 大 王 天 The Four Kings この第一天界は、四大王天ともいわれている。四大王天は、堅固王国天、統 治変化自在天空天、成長天、守庶民外傷天の四つに分けることができる。 この世界は、四預流支の実践を行なう者が最も行き安い世界である。 堅 固 王 国 天 Strong Kingdom 第一番目の堅固王国天、これはだいたいにおいて、神を信奉する国、一国一 国に一人ずつの担当の神が存在している。その担当の神が、この堅固王国天の 中に統括されるのである。堅固王国天は、天界に対して崇拝している国をしっ かりと守る働きがあるのである。 ここは、前生に於いて善政をなした聖王が転生する世界である。 少し小さくまとめるならば、例えば会社があり、その会社に対して円満経営 を行なわせ、従業員が大変平安に生活している、こういうところの経営者が行 く世界でもある。 この堅固王国天の侍神はガンダッバである。ガンダッバは、鳥のような羽の 衣をつけ、そして音楽を担当している。これが堅固王国天の侍神たちである。 人間界の天才音楽家たちはこのガンダッパの守護を受けているのである。 統 治 変 化 自 在 天 空 天 Naga’s Heaven 第二番目が統治変化自在天空天である。ここの中心的神はナーガであり、つ まり龍であり、これは天候その他を担当している。 今のナーガの国は仏典をもとに統治されているという。大乗仏教に於いて竜 が出てくる理由というのは、そこに多くのサキャ神賢真理勝者の経典が収めら れているからなのである。 ここは、全ての人の幸福のために天候を祈る、例えば神官などが行く世界で ある。 ここの侍神はナーガである。ナーガは自在に変化し――麻原彰晃尊師はこの 世界の王であったこともあるわけだが――このナーガにも侍神が存在している。 ナーガの侍神は白龍、白い蛇たちなのである。白い蛇たちは、大きなナーガの 木で戯れ、楽しんでいるのである。日本の神社などで白蛇が祭られているのは あれはナーガの使いなのである。 成 長 天 Growth そして、第三番目が成長天である。これは、花や木等の生長、生き物の成長 等を司っている天界である。そして、この御使いは妖精たちである。 ここは、生き物を殺さず、生き物の成長(生長)を暖かく見守った人の行く 世界である。 そして、第三番目の成長天の侍神は、クンバンダと呼ばれる。このクンバン ダは、現代でいうところの妖精であると考えてよろしい。 守 庶 民 外 傷 天 Protecting Common People from Injuries 第四番目は、守庶民外傷天である。これは、天界を崇拝する魂が、ケガ、あ るいは病気などにかからないように守護する天界である。 ここは、軍隊の英雄、あるいは外科の名医などが行く世界であるといわれて いる。 そして、ここの侍神は、人喰い鬼神である。この人喰い鬼神は、悪業を積む 魂を食べてしまうのである。そして、餓鬼(プレータ)をペットとして飼って いる。 これが四大王天、つまり第一天界の内容である。 そして、この四大王天は、それぞれ東西南北を守護している。南の守護神が 成長天であり、北の守護神が守庶民外傷天であり、西の守護神が統治変化自在 天空天であり、東の守護神が堅固王国天なのである。 ◎地上愛欲神天 人間に最も近い天界で、地上に住む神である。ただし、身体は人間より微細であるがた めに、肉眼で見ることはできない。 戯れ堕落天の第一天界の支配下に属している。 参考文献 タターガタ・アビダンマ 第一誦品 真実!六道輪廻 飛翔 マハーヤーナ えんじょい・はぴねす 創世期 原始仏典講義一 #12/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/12 13 6 ( 30) オウム真理教世界観 三十三天 ウパティッサ ★内容 三 十 三 天 33 Gods 次は三十三天である。この第二天界に属する三十三天は、中央の有能神と、 そして四方に八神ずつ配置し、つまり四×八=三十二の神々の、計三十三の神 々で構成されている。 そして、第一天界は、完全無欠山の裾野で生活し、第二天界は完全無欠山の 頂上で生活しているのである。なぜ彼らの住んでいる山を完全無欠山というの かというと、この山は宇宙の創造のときでき、そして宇宙の破壊のとき完全に 灰になるまで、決して壊れることがないから完全無欠山というのである。 ここで、有能神について少し説明しよう。有能神は、愛欲天界の王といわれ ている。彼は智慧に長け、そして耐える力が優れている。 風貌は長髪で、髭を生やし、マントを身につけている。 才能に溢れ、その才能によって救済活動に貢献した魂は、この有能神に生ま れ変わる。 この三十三天界と意識堕落天とは絶えず闘争を繰り返し、優劣を競い合って いるのである。もちろん、若干徳の高いこの三十三天の方が意識堕落天に比べ て勝率が高いことはいうまでもない。 91カルパ前、ヴィパッシー真理勝者がこの人間界へ降りられていたとき、 麻原尊師はここの王、つまり有能神であった。 #13/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/12 18 25 (159) オウム真理教世界観 支配流転双生児天 ウパティッサ ★内容 支 配 流 転 双 生 児 天 The Twins Who Control Transmigration 次は、第三天界の説明に入ろう。第三天界の神の名前は、支配流転双生児天 といわれている。この支配流転双生児天は人間界を含め、自分たちの下の世界、 つまり有能神の世界までの生と死を司っているのである。 日本でいわれている閻魔大王は、この支配流転双生児天の「優れた支配流転 双生児天子」なのである。彼らは、魂の善業と悪業の量を量り、そして次の生 を決定するのである。 そして、彼らには獄卒がついている。獄卒とは何かというと、支配流転双生 児天の意向により、地獄へ魂を連れて行ったり、あるいは動物の世界へ突き落 としたりしている魂のことである。 「優れた支配流転双生児天子」による魂の裁きは、原始仏典の「天使経(デ ーヴァドゥータ・スッタ」に描かれている。ここで、その天使経にもとづいて 麻原尊師が作詩作曲された「地獄」、それから同じく麻原尊師作詩作曲の「エ ンマの数え唄」をご紹介しよう。 『地獄』 作詩・作曲 麻原彰晃尊師 お前は 私を 知ってるか お前は 私を 知ってるか 三体の御使いを 知ってるか 三体の御使いを 知ってるか 私は 私は 知りません 三体の御使いを 知りません お前は 死人をみただろう お前は 死人をみただろう はいはいエンマ様 私は見ました 見ました 確かにたくさんの 死人を見ました 人は死ぬ 必ず死ぬ だから功徳を積まなければ 地獄の道が開かれる お前は 病人を知らないか お前は 病気を知らないか はいはいエンマ様 知ってます 私のまわりは病人だらけ 病院もたくさん ありました 病は 人の無常を教えてくれる 病は いい時期が終わりを告げると 教えてくれる お前は 老人を見なかったか お前は おいぼれを見なかったのか はいはいエンマ様 私の父も年老いました 私の母も年老いました おいぼれるとは 無常を表す おいぼれるとは 無常を表す どんなに若くて元気でも 必ず年を取るんだ お前は三つの御使いを お前は三体の御使いを !!!!!!!!!!!!!!!8+$FCN$C$?$K$+$+$o$i$ H 悪業をなした よってお前は地獄行き よってお前は地獄行き お前が地獄へ行く前に 一つ聞きたいことがある お前は弁護士を知らないのか はいはいエンマ様 私は エンマ様に対して 弁護士など知りません 知りません お前は菩薩をしらないのか お前は真理の流布者を 知らなかったのか いえいえエンマ様 あの人達は現世の楽しみ捨てて バカなことをやってます ですから私は現世において 彼らを嘲笑しました お前はただ一つの生き方を 無智なるがゆえに 捨ててしまった お前は哀れにも 地獄行き お前は哀れにも 地獄行き 血の池 寒冷 大熱 大寒 ひび割れ 八つ裂き 釜ゆで 大針 小針 大トゲ 小トゲ 多くの苦しみ受けなさい すべての魂 カルマの清算 なしには生きてゆけない 《獄卒共よ ひったてろ!》 《地獄へひったてよ!》 《カルマの清算をなせ!》 『エンマの数え歌』 作詩・作曲 麻原彰晃尊師 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ・・・ 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ・・・ 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ・・・ 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ・・・ 悪業を数える、悪業を数える、 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ・・・ 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ・・・ 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ・・・ 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ・・・ 一つ、二つ、裁くぞ! うそをついても、わかるぞ。 私はやってない!潔白だ。 私はやってない!潔白だ。 うそつき、だますな。おまえはうそつき、有罪だ! 大熱、寒冷、大ガキ、小ガキ、畜生。 大熱、寒冷、大ガキ、小ガキ、畜生。 獄卒共よ、ひったてろ! 獄卒共よ、ひったてろ! 獄卒共よ、ひったてろ! ひったてろ! あなたは素晴らしい。 あなたは素晴らしい。正しく生きた、よくやった! 功徳だ!善行だ! 寂静、真理だ! 真理の実践だ! 実践だ! あなたは天へと道ができ、天での生活待っている。 カルマによって、我裁く。 地獄、畜生、プレーダ、人間、天界。 地獄、畜生、プレーダ、人間、天界。 地獄だ!、天界だ!、畜生だ!、人間だ! あなたはカルマを越えられる。 あなた、どこへ行くの? 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ・・・ 一つ、二つ、三つ、四つ、五つ・・・ この世界の住人は、仏像的な体つきをしている。そして、腕をもぎ取っても 腕が生えてくる、首がもげても首が生えてくる。つまり、この肉体そのものが 幻影に過ぎないということがはっきりと分かる世界なのである。 ここでは殺されるということは存在しない。カルマによる死のみが存在する のである。 人々に輪廻の教えを説き、多くの魂をポア(高い世界へ生まれ変わらせるこ と)した魂がここに転生する。 もちろん、葬式をやっている坊さんでも、ポアができなければだめである。 逆に、ポアのできない僧侶、死後の世界を知らない僧侶というのは、死者の魂 を騙しているようなものだから、大きな悪業を積むことになるのである。 参考文献 マハーヤーナ タターガタ・アビダンマ 第一誦品 えんじょい・はぴねす 真実!六道輪廻 創世期 #14/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/12 19 54 ( 47) オウム真理教世界観 除冷淡天 ウパティッサ ★内容 除 冷 淡 天 Absence of Inconsiderateness 第四天界、ここは除冷淡天である。この世界はチベット語の訳では歓喜の園、 歓喜天という訳が与えられている。しかし実際これは結果を論じた訳であって、 正しい訳としては除冷淡天ということができる。つまりこの世界へ転生するた めには、煩悩は有していても、四無量心(慈愛・聖哀れみ・聖称賛・聖無頓着 の四つを指す。)が存在しなければ転生しないのである。そして、あの偉大な 布施をサキャ神賢に対してなしたアナータピンディカ長者も、あるいはマッリ カー妃も、この除冷淡天へと転生したのである。第三天界の支配流転双生児天 までは、冷淡さがあっても徳があれば転生することができた。しかし、いくら 徳があっても冷淡さが存在していれば、この除冷淡天には転生しないのである。 一般的に仏教徒において、在家修行の場合、三十三天や、あるいは第一天界 の四大王天に生まれ変わるか、この除冷淡天に生まれ変わることが多い。あま り、支配流転双生児天へは生まれ変わらない。なぜならば、仏教では裁きとい う言葉が存在しないからなのである。そして、この第三天界、第四天界は、完 全無欠山の上に雲のような形でその空間が形成され、そこで魂は生活をしてい るのである。 一般的に戯れ堕落天というのは、自己の幸福な状態に溺れ、それ以上徳を積 んだり修行をしたりしないため、死後は低い世界に落ちる可能性が高い。しか し、この除冷淡天の神々は、快楽を享受しつつも、徳を積んだり、偉大な指導 者の説法を聞いたりしているため、この天界をさらなる高い世界へのジャンプ 台とすることができるのである。 参考文献 マハーヤーナ 真理 えんじょい・はぴねす タターガタ・アビダンマ 第一誦品 超越神力PART2 前生を知れ!死生智の秘密 創世期 生死を超える #15/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/12 20 56 ( 13) オウム真理教世界観 創造満足天 ウパティッサ ★内容 創 造 満 足 天 Creative Satisfaction 次は、第五天界である。ここは創造満足天と呼ばれ、自分の欲しいものを神 秘的な力によって創造し、楽しむ天界である。ここは、煩悩を満足させるため に修行する魂が行きやすい天界なのである。 参考文献 タターガタ・アビダンマ 第一誦品 #16/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/12 21 52 ( 41) オウム真理教世界観 為他神以神通創造欲望満足従事天 ★内容 為 他 神 以 神 通 創 造 欲 望 満 足 従 事 天 Pleasing Others with Divine Powers 次は、第六天界である。この第六天界の名称はやや長い。為他神以神通創造 欲望満足従事天である。この第六天界へ至るためには、自分自身の神秘的な力、 いろいろな才能等を、グルやあるいは徳の高い魂に供養した者が行く世界であ る。この世界では、自分自身が欲したものを、自分にかしずいている神々が供 養する形で生じてくる。 釈迦牟尼の高弟のアヌルッダは、前生に於いてこの世界の住人であったとい われる。 ◎マーラ そして、ここまでが愛欲界である。そして、この愛欲界の王、彼こそはマー ラ(破滅天)と呼ばれる。このマーラとは、日本語で訳すると悪魔である。つ まり、このマーラはすべての神通を持ち、そして、だれもまねのできない大い なる欲望を持ち、それを満足させ、欲望を完成させることを魂に与えることに よって、その魂たちを支配する魂なのである。そして、このマーラに打ち勝た ない限り、神聖世界へ没入することはできないのである。 釈迦牟尼の二大弟子の一人で、神通第一と言われたマハー・モッガラーナは、 前々生においてこの破滅天であり、修行者の邪魔をしたため、地獄に落ちたと いう話が伝えられている。 参考文献 タターガタ・アビダンマ 第一誦品 マハーヤーナ えんじょい・はぴねす 飛翔 創世期 滅亡から虚空へ #17/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/13 1 18 ( 91) オウム真理教世界観 形状界 ウパティッサ ★内容 上 位 形 状 界 The Upper Rralm of Form それでは、上位形状界の説明に入ろう。上位形状界は、大きく四つに分ける ことができる。その四つは、修行者がどのような心の訓練をしたかということ が、分類の目安となるわけである。 まず、上位形状界の最も下の世界は慈愛が根本となる。この慈愛とは、煩悩 を滅却した魂が、すべての魂の成長を願う心である。そして、この上位形状界 の天界に属するものは四つある。 第二番目の聖哀れみを実践した魂の行く上位形状界の天の世界は三つある。 そして、嫉妬心を完全に捨断し、すべての魂のすべての善行に対して心から 称賛できる心を実践し、成し遂げた魂の行く世界、この世界は上位形状界に四 つ存在している。 そして、いかなるカルマのリアクションに対しても、つまり、いかなるカル マの流れに対しても、そのカルマに対して全く頓着しない心を有している魂の 行く上位形状界の世界は六つ存在しているのである。 十 七 上 位 形 状 界 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・清・超越童子愛欲本質神天 ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・潔・善現象愛欲神天 ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・居・善安楽愛欲神天 ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ 500カルパの寿命 ・ ・住・超燃焼愛欲神天 ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 形 ・天・超空間愛欲神天 ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ 偉大果報愛欲本質神天 ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・総美愛欲本質神天 ・ ・ ・美・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ 状 ・ ・無量美愛欲神天 ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ 4カルパの寿命 ・ ・ ・少美愛欲神天 ・ ・ ・ ・天・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・美愛欲神天 ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ 界 ・光・無量光愛欲神天 ・ ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・少光愛欲神天 ・ 2カルパの寿命 ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・天・光愛欲神天 ・ ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・大神聖天 ・ ・ ・神・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ ・神聖臣天 ・ ・ ・ ・聖・・・・・・・・・・・・・・・ 1カルパの寿命 ・ ・ ・ ・神聖代議愛欲神天 ・ ・ ・ ・天・・・・・・・・・・・・・・・ ・ ・ ・ ・神聖衆愛欲神天 ・ ・ ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ カルパとは、時間の単位である。 この宇宙は、創造・維持・破壊・虚空を繰り返している。この内創造の時期 を再生期、維持の時期を継続期、破壊・虚空の時期を還元期という。ちなみに、 オウム真理教のオウム(AUM)の3文字は、それぞれ宇宙の創造・維持・破 壊を表わしている。 この愛欲界の創造・維持・破壊・虚空のそれぞれの期間の長さを1小カルパ という。そして1小カルパが四つ集まって、1大カルパとなる。つまり、宇宙 の創造・維持・破壊・虚空の1サイクルの長さが1大カルパなのである。そし て、ここでもそうだが、普通1カルパという場合、この1大カルパを指すので ある。 参考文献 タターガタ・アビダンマ 第一誦品 マハーヤーナ えんじょい・はぴねす 創世期 転換人生 #18/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/13 2 54 (181) オウム真理教 四無量心 ウパティッサ ★内容 四 無 量 心 The Four Immeasurables それでは、この四無量心について少し説明をしよう。四無量心は、真理の実 践者が煩悩を滅却した後、実践しなければならない四つの偉大なる心の実践で ある。この実践は、慈愛、聖哀れみ、聖称賛、そして聖無頓着の四つから形成 されている。 これは、この順番通りに習得されていく。 では、何故にこのような形で順番が形成されているのであろうか? それは、まず第一の慈愛、これは皆さんの周りにいる人達、皆さんの知って いるすべての魂に対して本当に真理に巡り会って欲しいと思う心、これは最も 思いやすい心なんです。 第二番目に真理と縁の遠い人、あるいは真理に対して非望・中傷している人 に対して悲哀の実践を行なうことは、これは対象に対して憎しみが減少してい なければ生じない心ですから、これは慈愛に比べてちょっと難しいと言える。 第三番目の称賛の心、これは私たちが修行を進めていく場合、当然使ってい るチァクラが上に上がってくる。そして、闘争心という心は、これは五番目の ヴィシュッダ・チァクラと関係がある。ということは、このヴィシュッダ・チ ァクラを本当に超えない限り、心からの称賛は不可能であるから、もっと難し いということになる。 そして、最後の聖無頓着については六番目のアージュニァー・チァクラの現 世における願望、つまり何かを目的とした生き方、これを超越することになる わけだから、最高に難しい修行ということが出来る。 この瞑想及び実践は、この修習をすることにより、転生を変えてしまうほど の大きな力を持つ瞑想及び実践である。 慈 愛 Benevolence この慈愛は、キリスト教でいう愛と全く同じ意味合いである。つまり、すべ ての魂の成長を願う心。例えば、あなた方の隣人、あなた方の知人、あなた方 の友人、あなた方の親族等が、一人一人が本当に真理を知り、そして真理を実 践することにより、心が浄化され、言葉が浄化され、行為が浄化され、高い世 界へ至ってほしいと願う心、これが慈愛なのである。 ここで、愛情との区別をしなければならない。愛情とは煩悩である。つまり、 相手を好きになりたい。あるいは、その相手が物質的に豊かになってほしい。 あるいは、好きな相手が出世してほしい等である。しかし、これらはすべて見 返りを求める心が対象となっている。よって、慈愛と愛情とは違うのである。 真理における慈愛とは、すべての衆生、縁深きすべての生命体を、そして最 終的には縁の薄いすべての生命体をも、そのカルマをしょい、そして修行させ、 そして神聖世界へ没入させる。そして、神聖世界から次にはより高い教えを実 践させることにより煩悩破壊させ、大完全煩悩破壊させる。これが慈愛の意味 なのである。そして、すべての魂がその真理を実践することに対して心から喜 ぶ心、これが慈愛なのである。 聖 哀 れ み 第二番目の偉大な心の実践、これは聖哀れみである。聖哀れみというのは、 悲、悲しみという言葉で表現される。この悲しみという言葉でなぜ表現される のかというと、哀れみの心と、そして悲しみの心とは大変似ているからである。 しかし、大きな違いが存在している。聖哀れみは、自分自身の不幸、あるいは 自分自身の苦しみについて悲しむのではない。これは、すべての魂の苦しみに 対して悲しむ偉大な心なのである。 例えば、皆さんの周りの魂が、真理に気付かない、あるいは煩悩で苦しんで いる、それを見て悲しむのである。では、なぜ悲しみ、哀れむのかと。それは、 その魂が迷妄なるがゆえに悲しんでいることを知っているから、迷妄なるがゆ えに苦しんでいることを知っているから、悲しみ、哀れむのである。これが、 第二番目の聖哀れみなのである。 聖 称 賛 第三番目は、聖称賛の偉大な心である。この偉大な心は、その心を実践する 魂を偉大な人物へと変えてくれる。もちろん、この上位形状界に入るような魂 に成長していくわけだから、当然偉大な心を有しているといってよいのである。 この偉大な心とは、わたしたちがわたしたちのライバルを否定せず、そしてそ のライバルを心から称賛する心であり、それにより、ライバルの持っている要 素をわたしたちも内在できるようになってくるわけである。 例えば、ある人が偉大なる功徳を積んだと。ところが、自分はまだ功徳を積 むことができないと。それに対して称賛する。そうすると、相手の偉大な功徳 を積むという実践を称賛する心から、自分もそれをまねようとする心が出てく る。そして、いずれ、称賛の対象となった功徳の実践、これを自分自身も行な うことができるようになるのである。 あるいは、ある魂が不殺生の戒を徹底的に守ったと。いかに他人に傷付けら れようとも、じっとそれを耐える。あるいは、いかに他の生き物が自分を害そ うとも、それをじっと耐えると。それに対して称賛の心が生じると、その称賛 の心の生じた人も同じように、じっといろいろな生き物や、あるいは人から被 害を被るようなことがあったとしても、それに対して耐え、そして不殺生の戒 が守れるようになってくるわけである。 このような形で、称賛というものは、わたしたちの心を、知能を、そして智 慧を増大させるのである。 逆に、嫉妬心というのは、相手のいい要素をねたみ、そねむがゆえに、自分 自身もその努力ができなくなってくる。そうなると、このそねみ、ねたみは、 対象に対する妨害の心を生起させるだけではなく、自分自身の知能や智慧の疎 外にもつながるわけである。よって、この聖称賛の心の実践は大変難しいとい うことになる。 聖 無 頓 着 そして第四番目、これは聖無頓着の実践である。聖無頓着とは、いかなるカ ルマの解放に対しても、それに対して頓着しない実践ということになる。 カルマの解放に対して頓着しないとはどういうことであろうか。 わたしたちの構成要素は五つである。これを「五つのとらわれの集積」とい っている。この五つのとらわれの集積は、まず外側から順に、形状-容姿、感 覚、表象、経験の構成、識別である。そして、これらはすべて、過去および過 去世のカルマの蓄積なのである。 ということは、当然わたしたちが修行に入る以前は、大きな悪業をいろいろ と積んでいるわけだから、修行の途上、善業をいくらなしたとしても、あるい は徳の修行をいくらなしたとしても、あるいは心を平安にする修行をいくらな したとしても、あるいは宇宙の大法則にかなった修行をいくらなしたとしても、 過去においてなしたカルマが当然返ってくる時期があるわけである。そのカル マの返りに対して全く頓着しないという修行なのである。 このカルマに対して全く頓着しないということは、どういう結果をもたらす のだろうか。 例えば、わたしたちは苦しいからそこから逃れたいと思い、逃れたいがため に新しい悪業を積む。これを繰り返しているわけである。 しかしもし、ここに真理の実践者がいて、その真理の実践者が、悪業の結果 として苦しいことが今生じていたとしても、それに対してとらわれず、ひたす ら行為において善行をなし、言葉において善行をなし、心において善行をなし ていたならばどうだろうか。悪業は必ずその終焉を迎え、そして善のみの集積 になるわけである。そして、この善のみの集積の完成の段階が、上位形状界最 後の六つの天界なのである。 私達が在家において修行する場合、この聖無頓着の修行こそ、私達をエンラ イトさせるかさせないかの分かれ目となる。なぜならばこの聖無頓着こそ、わ たしたちの悪業を断滅し、その悪業を善業へと変えていく素晴らしい秘法だか らである。 例えば、私達が真理施を行なう。そうすると、縁の薄い魂、あるいは逆縁の 魂はそれに対して反発する。しかし、反発されるが故に、非難されるが故に、 中傷されるが故に、私達はそれによってカルマを落としてもらえる。そしてわ たしたちは、言葉において身において、その魂に対して善業を積むわけだから、 悪業が落ち善業が満ちることになる。もし、私達が心を乱すならば、その善業 の部分がやみ、そして相手に対して嫌悪・邪悪心といった心のけがれが生起し、 結果的に私達にとって、あるいは対象との関係にとってマイナスになる。よっ て、この聖無頓着とは、私達が心を完成して行くための最後の心の実践という ことになる。 北伝仏教においては、この四無量心の四番目は、平等心ということになって いる。オウム真理教でも以前はこの北伝の平等心を採用していたが、検討の結 果、南伝仏教の聖無頓着の方が正しいということで、現在はこの聖無頓着の方 を採用している。 参考文献 タターガタ・アビダンマ 第一誦品 マハーヤーナ・スートラ えんじょい・はぴねす マハーヤーナ 超能力・秘密の開発法 蓮華の心 #19/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/13 11 19 (107) オウム真理教 五つのとらわれの集積 1 ウパティッサ ★内容 私はこのように聞いた。オウム真理教ネットにおいて。 五 つ の と ら わ れ の 集 積 The Five Accumulations of Grasping ついでにここで、五つのとらわれの集積について説明をしよう。五つのとら われの集積とは、まずこの肉体、形状-容姿である。第二番目の感覚。そして 第三番目の表象、イメージ。第四番目の経験の構成。そして第五番目の識別で ある。 そして、この五つのとらわれの集積の働きによって、私達は苦楽を経験させ られている。言い方を変えれば、この五つのとらわれの集積の中に、苦楽の源 が存在しなければ、いかなる状況であろうとも、私達に苦しみというものは存 在しない。 形 状 - 容 姿 Form-Appearance この第一番目の形状-容姿というのは、わたしたちの姿形を表わしている。 これは、わたしたちの言葉がいかに綺麗な言葉であるかが、わたしたちの形状 -容姿の美しさを決めるといわれている。 そしてこの形状-容姿は老いるもの、病むもの、滅びるものである。つまり無 常なのだ。 形状-容姿の無常性を理解できない者は、形状-容姿に対して喜んで貪ってし まう。女性が美しくなろうとして、エステティックや化粧品などにお金をつぎ 込んでしまうことなど、そのよい例であろう。この場合、美しくなろうと貪る わけだ。そして、形状-容姿の無常性を理解していないものだから、それに喜び を感じるので ある。そんな心の状態であれば、今生でもその貪りの程度はエス カレートしていくだろうし、来世においてもそのカルマによって、いっそうの 迷いの生を受けてしまうことになるのである。 反対に、形状-容姿の無常性を完全に理解しきってしまった者の場合はどうで あろうか。たとえ貪ったとしても、そこには空しさが残るのみであるというこ とを知っているから、こういう人は形状-容姿から徐々に離れていくことが出来 る。それが心の解脱をもたらすのである。 これは同じように感覚・表象・経験の構成・識別についても、無常であると 見なければならない。そして、それが最終的には心解脱へと至らしめるのであ る。 ★形状-容姿における二つの苦しみ 例えば、生まれながらにして不具を経験する。これは第一の苦しみである。 次に、身体が健康であったにかかわらず、その身体が、例えば老いや、病や、 事故によって不具になる。あるいはもともと美しい形状-容姿をもっていた者が、 老いや、病や、事故によって不具になる。これが第二の苦しみである。 感 覚 Sensation 第二番目の感覚は、これは強い感覚、弱い感覚、全く感覚がない状態の三つ に分類することができる。 ここでなぜ、フィーリングのいい状態、フィーリングの悪い状態、つまり感 覚のいい状態、感覚の悪い状態が取り上げられていないのかというと、感覚は 元来良い悪いは存在しない。これは、鋭いか鋭くないかだけなのである。 そして、例えばわたしたちが感覚を強く求めようとすればするほど、いい感 覚を強く求めようとすればするほど、必ず悪い感覚、嫌な感覚も強く感じなけ ればならない仕組みになっているわけである。 それはちょうど、大きな波と小さな波を考えていただきたい。大きな波は、 その波の高い部分がある代わりに逆に低い部分が存在する。感覚もこれと同じ なのである。そして、真理の実践は、この波を少しずつ平坦にしていき、最後 は真っすぐな一本の線にする。つまり、一切の感覚を捨断できる状態をつくっ ていくわけである。これによって、苦楽が捨断されるのである。 感覚が無常であることは、認識し安いと思う。例えば視覚。今まで見えてい たものが見えなくなる、あるいは見えづらくなるというのはよくあることであ る。事故や病気等の場合だ。老化による視力障害もこれに含まれよう。この無 常性が苦をもたらすわけである。 つまり、いくらある時喜んでいても、この五つのとらわれの集積は必ず移り 変わり、果てるものなのだ。だから、喜貪すればするほど、それから離れると きの苦しみは大きいのである。それだけでなく、愛欲界に生まれる条件という ものもどんどん増すことにもなる。それは、喜貪することによってつぎの貪り を呼び、愛欲界のカルマが蓄積されるからである。 ★感覚における三つの苦しみ 小さい頃からもともとカルマが悪く、貧しい家に育ち、そして物が食べられ ない。あるいは衣服にしも、あまりないがゆえに、寒さ暑さを経験しなければ ならない。これが感覚における第一の苦しみである。 第二の苦しみは例えばいきなり殴りつけられることによって痛みを経験させ られたり、あるいはいきなり寒い、もしくは暑い場所に移動しなければならな いことによって寒さ暑さを経験するといった、そのものの苦しみである。 第三番目の苦しみは、もともと備わっていた苦しみが、例えば病気によって、 老いによって、事故によってなくなる。あるいは弱くなる。これが第三の苦し みである。 #20/999 資料室 ★タイトル (MQM47158) 92/ 1/13 13 26 (164) オウム真理教 五つのとらわれの集積 2 ウパティッサ ★内容 このように私は聞いた。オウム真理教において。 表 象 Imagery 第三番目が表象、イメージである。これは、わたしたちがいろいろなものを イメージする。そのイメージすることによって内在するデータ、これが三番目 の表象である。 そして、これはダイレクトに心の影響を受けるといわれている。心の影響を 受けるとはどういうことかというと、例えばわたしたちは日々の生活において、 心にいろいろな想念を生起させる。しかし、その想念のすべてを実践するわけ ではない。ところが、この表象にはそのすべてが投影されるのである。 そして、このイメージの世界は形状界の世界と通じており、わたしたちが心 において偉大なる心を実践するならば、十七上位形状界のどこかへ転生するこ とができるし、あるいは、悪い、不徳のイメージを、不徳の心を訓練するなら ば、わたしたちは、愛欲界の低い世界へと生まれ変わらなければならないので ある。 このイメージは、私達に肉体的悪業を積ませないで、いろんな経験をさせて くれる。例えば暴力のシーン、例えばセックスのシーン、例えばグルメのシー ン。これは、目でみる喜びという形で、この現代の日本では、大いに称賛され ている。しかし、このけがれなるがゆえに、わたしたちは、心の傾向というも のを、一つの方向に向けられてしまう。 それはちょうど、動物における学習と同じである。この動物における学習と は何かというと、例えばここに犬を用意して、その犬に食事を出す。そのとき 必ずベルを鳴らす。しまいには食事を出さなくても、ベルを鳴らすだけでよだ れが出てくる。 これと同じように、例えば異姓を見たら、心を磨きあげる対象として見るの ではなく、性的な対象としてしか見られなくなる。例えば、お金イコール綺麗 な服を買う、あるいはおいしい食べ物を食べるといった、パターン化された心 しか持てなくなってしまう。 ということは、この表象、イメージというものは、対象に対して正確に理解 させるものではないと言える。そこで、この表象というものは、実際のところ、 私達に正確に対象を理解させるための条件を与えてくれるものではなく、苦し めるものである、誤謬見解をいだかせるものであると証智しなければならない。 この表象においてもその無常姓を知らないと、心に次々と涌いてくるイメー ジにどんどん巻き込まれていってしまう。イメージに巻き込まれるとは、雑念 にとらわれるということである。ふと気づくと違うことを考えていた、などと いうのがそれである。誰もが経験していることだろう。しかし、もちろんこの イメージも無常である。 ★表象における三つの苦しみ 例えば、もともと暗い家に生存した場合、父母や兄弟、親族等の争いにいつ も耳を傾けるが故に、イメージとしてそういう暗いイメージしか存在しない。 これは、第一の苦しみである。 第二の苦しみは、もともと見たくないものや、聞きたくないもの、それを見 たり聞いたりしたが故に生起するイメージの苦しみである。 第三の苦しみは、今まで対象に対して、こうあってほしい、あるいはこうだ ろうなと思っていたものが、壊れ去るときの苦しみである。 経 験 の 構 成 Formation of Experience 第四番目は、経験の構成である。これはわたしたちが、身・口・意、身の行 ない、言葉の働き、そして心の働きという三つ、この三つの経験を日々培って いるわけだが、その培っている経験がデータとなってインプットされ、次の経 験を呼び起こす、そういう集まりなのである。 例えば、ここにアイスクリームがあったとして、このアイスクリームを一回 食べると。おいしいと考えると。二回食べると。もっとおいしいと考えると。 そして三回目が食べたくなると。あるいは、一回目アイスクリームを食べると。 下痢をすると。二回目アイスクリームを食べると。また下痢をすると。よって、 三回目はアイスクリームを食べないと。これがなぜ起きるのかというと、一回 目、二回目のアイスクリームを食べたときの喜び、あるいは苦しみ、これがデ ータとなって内在し、そして三回目を決定させるわけである。これが第四番目 の経験の構成なのである。 そしてこれは、漢訳仏典では「行」と訳されている。なぜ行と訳されるのか というと、もうおわかりと思うが、つまり経験の構成が、次の動きを決定する からなのである。 経験というのは、それをなすことによって、ひとつの結果をなす事はできる かも知れない。しかし、その経験にとらわれることによって、それより発展し たものについては、とらえることが出来ない。逆に、その発展的なものの考え 方というものを捨断することになるのである。 例えば、その典型的な例が、アインシュタインの登場である。アインシュタ インが登場したとき、その当時の教授陣は、アインシュタインの理論に対して 反発した。そういうことはありえないと。つまり、教授というのは、その経験 を土台として教えている。ということは、その経験が、逆の言い方をすれば、 固定的な観念になっているから、アインシュタインの理論がわからなかったわ けである。 つまり、このような形で、経験というものも、私達に絶対的な幸福を与える ものではないということを証智しなければならないのである。 ★経験の構成における三つの苦しみ 第一の苦しみは、まず前生からの引き継ぎによって挫折し、挫折をすること によって卑屈を修習する苦しみがあげられる。 第二は、目標を設定し、その目標が達成できなかったときの苦しみである。 第三は、目標を達成した後もそれを維持しなければならない場合、それを維 持することが出来なくなったときの苦しみである。 識 別 Discrimination そして第五番目は識別である。この識別作用がもしなければ、わたしたちは この愛欲の世界へと転生することはない。 では、一体この識別とは何かというと、対象に対して、これはいいとか、こ れは悪いとか、これは美しいとか、これは醜いとかいったような心の働きの背 景となっているものである。つまり、四番目の経験の構成は行動にダイレクト に影響を与え、五番目の識別はわたしたちの心の働きにダイレクトな影響を与 えるわけである。 ★識別における苦しみ この識別については、例えば美しい醜い、例えば綺麗な声、醜い声、綺麗な 音、醜い音。あるいは、好きな味覚、嫌いな味覚。あるいは、好きなフィーリ ング、嫌いなフィーリング。あるいは法則やしきたりが、好きである、嫌いで ある。つまりこの識別というものは、もともと二極化しているわけだから、必 ず半分は苦しみであるということになる。 これが、五つの構成要素である。ということは、よく検討してみるならば、 この五つの構成要素は、総じて苦であるということになる。 そして、これらの五つの要素をすべて浄化し、捨断したならば、当然わたし たちがこの愛欲の世界に、あるいは他の世界へ生まれ変わることはないのであ る。 参考文献 仏教真理・五蘊無我 尊師、聖地インドを行く タターガタ・アビダンマ 第一誦品 タターガタ・アビダンマ 第二誦品 マハーヤーナ 実践真理 マハーヤーナ・スートラ
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FFO Replay Version 2.1 tk9//ハイパーソリティアタイム!//魂魄 妖夢-メルラン-小野塚 小町-小野塚 小町- フラン可愛いよフラン//特殊杯//古明地 こいし-古明地 さとり-古明地 さとり-古明地 さとり- 賽が投げられて、フラン可愛いよフランの先攻になりました。 フラン可愛いよフラン では #配置:《想起「うろおぼえの金閣寺」》 tk9 すいません、マリガンです フラン可愛いよフラン はい tk9 何回もします tk9は手札からカードを全部、山札の上に置きました。 tk9はカードを 6 枚引きました。 - マリガン tk9は手札からカードを全部、山札の上に置きました。 tk9はカードを 6 枚引きました。 - マリガン tk9は手札からカードを全部、山札の上に置きました。 tk9はカードを 6 枚引きました。 - マリガン tk9は手札からカードを全部、山札の上に置きました。 tk9はカードを 6 枚引きました。 - マリガン tk9は手札からカードを全部、山札の上に置きました。 tk9はカードを 6 枚引きました。 - マリガン tk9は手札からカードを全部、山札の上に置きました。 tk9はカードを 6 枚引きました。 - マリガン tk9は手札からカードを全部、山札の上に置きました。 tk9はカードを 6 枚引きました。 - マリガン tk9は手札からカードを全部、山札の上に置きました。 tk9はカードを 6 枚引きました。 - マリガン tk9 おkです Turn 2 - tk9//体力24( 20) 呪力1( 1) 手札7( 5) 山33( 34) スペル0( 1) タイマー01 01(00 08) シーン なし 手札:屈折//転生//お迎え体験版//少女覚醒?//宴会準備//斥候//鑑定// Turn 3 - フラン可愛いよフラン//体力20( 24) 呪力3( 1) 手札6( 7) 山33( 33) スペル1( 0) タイマー00 07(01 09) シーン なし #配置:《想起「うろおぼえの金閣寺」》 Turn 4 - tk9//体力24( 20) 呪力2( 3) 手札8( 5) 山32( 33) スペル0( 2) タイマー01 09(00 25) シーン なし 手札:屈折//転生//お迎え体験版//少女覚醒?//宴会準備//斥候//鑑定//鑑定// イベント(tk9):《宴会準備》 イベント(tk9):《斥候》 tk9の呪力が+2 (2) - 宴会準備 tk9は山札を上から 3 枚見ました。 - 斥候 tk9は斥候の『自分のデッキを見る』を選択しました。 イベント(tk9):《屈折》 tk9の呪力が+2 (3) - 宴会準備 tk9は《転生》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - お迎え体験版 tk9は《少女覚醒?》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - お迎え体験版 tk9は《編纂》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - お迎え体験版 tk9は《屈折》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - お迎え体験版 tk9は《斥候》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - お迎え体験版 イベント(tk9):《お迎え体験版》 tk9の呪力が+2 (3) - 宴会準備 tk9は《少女覚醒?》を捨て札から手札に置きました。 イベント(tk9):《少女覚醒?》 tk9の呪力が+2 (3) - 宴会準備 tk9は《宴会準備》を捨て札から手札に置きました。 tk9は《斥候》を捨て札から手札に置きました。 tk9は《屈折》を捨て札から手札に置きました。 tk9は《転生》を捨て札から手札に置きました。 tk9は《編纂》を捨て札から手札に置きました。 tk9は《屈折》を捨て札から手札に置きました。 tk9は《斥候》を捨て札から手札に置きました。 tk9は《お迎え体験版》を捨て札から手札に置きました。 イベント(フラン可愛いよフラン):《うわばみ》 フラン可愛いよフランの呪力が+2 (2) - 宴会準備 フラン可愛いよフランはうわばみの『封印』を選択しました。 フラン可愛いよフラン ^^ tk9 終わったっぽい tk9は《斥候》を無作為に捨てました。 tk9は《斥候》を無作為に捨てました。 tk9は《転生》を無作為に捨てました。 tk9は《編纂》を無作為に捨てました。 tk9は《少女覚醒?》を無作為に捨てました。 tk9は《屈折》を無作為に捨てました。 tk9は《鑑定》を無作為に捨てました。 tk9は《宴会準備》を無作為に捨てました。 tk9は《お迎え体験版》を無作為に捨てました。 tk9は《転生》を無作為に捨てました。 tk9は《鑑定》を無作為に捨てました。 tk9は《屈折》を無作為に捨てました。 Turn 5 - フラン可愛いよフラン//体力20( 24) 呪力5( 3) 手札5( 0) 山32( 27) スペル2( 0) タイマー01 39(02 23) シーン なし #配置:《想起「うろおぼえの金閣寺」》 ↑起動:《想起「うろおぼえの金閣寺」》 フラン可愛いよフランは《想起「うろおぼえの金閣寺」》を準備状態にしました。 フラン可愛いよフランの呪力は今1 (+1)です。 フラン可愛いよフランの呪力は今2 (+1)です。 フラン可愛いよフランの呪力は今3 (+1)です。 フラン可愛いよフランの呪力は今4 (+1)です。 フラン可愛いよフランの呪力は今5 (+1)です。 Turn 6 - tk9//体力24( 20) 呪力4( 5) 手札1( 4) 山26( 32) スペル0( 3) タイマー02 22(01 55) シーン なし 手札:転生// Turn 7 - フラン可愛いよフラン//体力20( 24) 呪力9( 4) 手札5( 1) 山31( 26) スペル3( 0) タイマー01 52(02 27) シーン なし #配置:《表象「夢枕にご先祖総立ち」》 ↑起動:《想起「うろおぼえの金閣寺」》 Turn 8 - tk9//体力24( 20) 呪力5( 4) 手札2( 4) 山25( 31) スペル0( 4) タイマー02 25(02 00) シーン なし 手札:転生//先読み// Turn 9 - フラン可愛いよフラン//体力20( 24) 呪力8( 5) 手札5( 2) 山30( 25) スペル4( 0) タイマー01 57(02 31) シーン なし ☆戦闘:フラン可愛いよフラン - 《想起「うろおぼえの金閣寺」》(相手スルー) ★戦闘結果:フラン可愛いよフラン - === 3 dmg - tk9 #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 ↑起動:《想起「飛行虫ネスト」》 Turn 10 - tk9//体力21( 20) 呪力6( 4) 手札3( 4) 山24( 30) スペル0( 5) タイマー02 29(02 14) シーン なし 手札:転生//先読み//外の世界// Turn 11 - フラン可愛いよフラン//体力20( 21) 呪力8( 6) 手札5( 3) 山29( 24) スペル5( 0) タイマー02 10(02 47) シーン なし ☆戦闘:フラン可愛いよフラン - 《想起「飛行虫ネスト」》(相手スルー) ★戦闘結果:フラン可愛いよフラン - === 4 dmg - tk9 #配置:《想起「プリンセスウンディネ」》 Turn 12 - tk9//体力17( 20) 呪力7( 8) 手札4( 4) 山23( 29) スペル0( 6) タイマー02 48(02 24) シーン なし 手札:転生//先読み//外の世界//頭上華萎// Turn 13 - フラン可愛いよフラン//体力20( 17) 呪力13( 7) 手札5( 4) 山28( 23) スペル6( 0) タイマー02 18(02 58) シーン なし ☆戦闘:フラン可愛いよフラン - 《想起「飛行虫ネスト」》(相手スルー) ★戦闘結果:フラン可愛いよフラン - === 4 dmg - tk9 #配置:《新難題「ミステリウム」》 ↑起動:《新難題「ミステリウム」》 tk9の呪力が-1 (6) - 新難題「ミステリウム」 Turn 14 - tk9//体力13( 20) 呪力7( 8) 手札5( 4) 山22( 28) スペル0( 7) タイマー02 51(02 37) シーン なし 手札:転生//先読み//外の世界//頭上華萎//外の世界// Turn 15 - フラン可愛いよフラン//体力20( 13) 呪力13( 7) 手札5( 5) 山27( 22) スペル7( 0) タイマー02 28(03 03) シーン なし ☆戦闘:フラン可愛いよフラン - 《新難題「ミステリウム」》(相手スルー) ★戦闘結果:フラン可愛いよフラン - === 4 dmg - tk9 tk9の呪力が-1 (6) - 新難題「ミステリウム」 #配置:《新難題「ミステリウム」》 ↑起動:《新難題「ミステリウム」》 tk9の呪力が-1 (5) - 新難題「ミステリウム」 Turn 16 - tk9//体力9( 20) 呪力6( 8) 手札6( 4) 山21( 27) スペル0( 8) タイマー02 55(02 47) シーン なし 手札:転生//先読み//外の世界//頭上華萎//外の世界//外の世界// Turn 17 - フラン可愛いよフラン//体力20( 9) 呪力13( 6) 手札5( 6) 山26( 21) スペル8( 0) タイマー02 36(03 10) シーン なし ☆戦闘:フラン可愛いよフラン - 《新難題「ミステリウム」》(相手スルー) ★戦闘結果:フラン可愛いよフラン - === 4 dmg - tk9 tk9の呪力が-1 (5) - 新難題「ミステリウム」 Turn 18 - tk9//体力5( 20) 呪力6( 13) 手札7( 5) 山20( 26) スペル0( 8) タイマー03 04(02 53) シーン なし 手札:転生//先読み//外の世界//頭上華萎//外の世界//外の世界//探知// Turn 19 - フラン可愛いよフラン//体力20( 5) 呪力18( 6) 手札6( 7) 山25( 20) スペル8( 0) タイマー02 42(03 23) シーン なし ☆戦闘:フラン可愛いよフラン - 《新難題「ミステリウム」》(相手スルー) イベント(フラン可愛いよフラン):《霊撃》 ★戦闘結果:フラン可愛いよフラン - === 5 dmg - tk9 tk9の呪力が-1 (5) - 新難題「ミステリウム」 フラン可愛いよフラン ありがとうございました tk9 ありがとうございました フラン可愛いよフラン まあ何も言うまい・・・ フラン可愛いよフラン 引けなかったら死ぬけど tk9 先手さえ・・・ tk9 まあ、そういうデッキですしね フラン可愛いよフラン では戻りますねー フラン可愛いよフラン ノシ tk9 ノシ 切断されました。
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クトゥルー神話に語られる世界でもっとも有名なネクロマンサーの一人 ネクロノミコンの著者としても知られ、創作であるにも関わらず専門家の間では、その実在が噂されている。 【狂える詩人】あるいは【真なる久遠の戯弄】の狂名で恐れられるカゴモリの養父にして師 七人の魔法使いの一人であり、同時に最狂の魔法使いとして知られる人物。 本来、魔術系統として認知すらされることの無い禁断の魔術、死霊術を編み出した鬼才の持ち主であり、魔道書〝アルアジフ(魔物の咆哮)〟と〝ネクロノミコン(死者の掟の表象)〟の著者としても知られる。 ネクロノミコンは地獄の兵を復活させたとか、時を越えたなどという話もある。この世界に現存する魔道書の中で、間違いなく最高峰の一冊である。 年齢、実に二千三百歳にせまると言われるが、友人でもあるエンペドクレスよりは数百歳ほど若いらしい。(現在の転生後のエンペドクレスよりはやや年上ではあるが) 年齢を重ねているにも拘らず若々しく、初見であれば十七、八歳と見紛うほどだ。 その姿は端麗艶治と呼ぶに相応しいほどに、艶かしく美しい容貌、燃えるような深紅色の頭髪と同系色の真紅の瞳を持つ。 エンペドクレスの長身痩躯の貴翁ともいうべき容姿に比べ、アブドゥルの身の丈は丁度百七十ほど、容姿も若々しく正反対、例えるなら艶治の美童といったところか。 どちらにせよ、何も知らぬ者が見れば、二人が古き友と解る者はいないのだろう。 それ以前に、この少年の年齢が、まさか二千歳を超えているなどとは誰にもわかるまい。 エンペドクレスが集落の長に治まった頃に、多少は住みやすくなったとして魔法使いの集落【木末隠る語り部】フロプトメハシェファに戻ってきた。 それ以前は、エンペドクレスは【英知と探求】の空中都市エリエスファルナにて学院長をしており、アブドゥルに至っては、世界各地を渡り歩いていたことしか解っていない。 その後、しばらく集落の更に奥地に古くよりかまえる自宅、虞骸館(ぐがいかん)と呼ばれる外装の赤煉瓦を年中季節の果実が収穫できる不思議な蔦で覆われ、屋根の風見鶏が特徴的な館に舞い戻っていた。(住民には蔑みの意味を込め、嘲弄館と呼ばれていた) その後、とある事情から一人の赤子を拾いカゴモリと名づけて自らの娘としている。 アブドゥルがこの世界で狂人と恐れられる理由は少なからず存在するが、その中でも伝統やそれに連なる古い教示に何の感慨もないどころか、笑い飛ばしてすらいたことが集落での村八分扱いの理由でもある。 魔術とは、本来、この世にユグドラシルが根付いた頃より始まったとされており、新神暦に至るまでの旧暦では、魔術を行使できるのは、この集落に住む者たちだけの特権でもあった。 その力は秘匿とされ、永きに渡り戒律をもって守られてきた。 当然、いかな赤子といえど集落の外の者を集落に入れることも戒律を破る行為だったが、アブドゥルはそんなこと毛ほども気にしていなかった。 今回のことだけに限らない。こうした態度の全てが住民の反感を買っていたのだろう。 更には、アブドゥルは未だかつて誰一人考え得なかった。或いは、考えたとしても成功し得なかった復活に連なる魔術を作り出した人物でもあるが、これも生命の醜く歪んだ結果であり、死の延長とされ蔑まれた。 もちろん、人間や動物の死体を使ったり、邪精霊や幽霊の類を弄するのだから、この意見ももっともだったのだろう。だが、アブドゥルはエンペドクレスのように万人に優しく、常に耳を傾けるような賢人ではなかった。 むしろ、自らと周り、自分が気に入った者、愛した者以外は他の無機物と大差が無かった。 故に、彼には幽霊や死体を触媒として使うことの不道徳が理解できなかったのだ。 そういった意味では、十二分に狂人と言えたろう。 カゴモリを引き取って以後は、度々集落の中心街に下りてきており、その度に他者に聞こえるほどに『あれの魔術の才は、やはり俺が見込んだとおり素晴らしいものだった』とか『拾ってやって正解だった』とか『いずれは、面白い実験に使えるかもな』とか『どれだけ痛めつけても文句も言わん、つまらん話だ』などと言った話をしながら街を歩く姿が目撃されていた。 この言葉どおり、カゴモリは五歳になる頃には、上位精霊魔術を操り、幼馴染でエンペドクレスの養女でもあったトグマの力量すら凌ぎ、集落の成人すら超えるほどの腕前だった。 だが、実際には、カゴモリに魔術の才などそれほど多くはなかった。 すべてはアブドゥルの計略だったのだ。 アブドゥルは気づいていた。コイツを引き取って育てたところで、俺の子では満足には暮らせまい。と、そこでアブドゥルは考えた。つまりは、コイツが庇護されてしかるべき条件を整えれば問題はクリアされる。そう考えたのだ。 そして、アブドゥルはその日から街へ言っては出鱈目な話を繰り返した、人々の頭から話が忘れ去られる頃には、植えつけるように現れて、また人の耳に入るように話して歩いた。 いつしか噂は一人歩きを始め、アブドゥルの狂人ぶりに尾ひれがつき、同じようにカゴモリの悲壮ぶりと魔術の才に尾ひれがついた。 その後、アブドゥルは虚偽を真実に変えるべく、カゴモリにしつこくも根気よく魔術を系統立てて教え、実演で教え、自然から教え、机上から教えた。 十を聴き十を身に付ける無茶を押し付ける傍らで、自らは百を伝え、千を理解してもらう努力をつづけた。 その結果、カゴモリは高い魔術を身に付けるに至った。 魔力の総量はトグマに遥かに敵わなくとも、研ぎ澄まし変質させる術を徹底させたアブドゥルは、カゴモリを他者よりも突出した魔術師に育て上げた。 カゴモリ曰く、アブドゥルは魔術を教える師といても父としても優しい男だったらしい。 アブドゥルにしてみれば、子供が知らないことは当然のことで叱ることで子供は思考力を落とすのだから、叱らず諭して、回り道により時間をかけて教えれば、結果習得は早まるという合理性の結論なのだそうだが、しかし、朝日と共に我が子を起こし、食事を作り、教え導き、時に遊び、そして夜は眠りに落ちるそのときまで童話を読んで聞かせた姿は、父親そのものであった。 幼少期のカゴモリには不思議に思い、憤ることが多かった。 父であるアブドゥルが集落の中で酷い扱いを受けていることが、返って自分自身の扱いは手厚いもので、集落の人々から可愛がられていることが、不思議であり怒りの対象でもあった。 小父さん(カゴモリはエンペドクレスのことをそう呼んでいた)に聞いても苦い顔をして皺を刻んだ口元を優しく歪めると彼女の頭を撫でるだけだった。 エンペドクレスはその理由を理解していた。簡単なことだったのだ。 古い思想を持ち、新神暦が始まって今だ百年、魔術師たちのプライドは高かった。 それと同時に、優れた魔術の才を持つものは、始祖の魔法使いの血統にそれだけ近いと信じられていた。 つまり、カゴモリに優れた魔術の才があるならば、よそ者であったとしても、それは集落の血身ということだ。 そして、何より、カゴモリはアブドゥルによって実験動物さながらの扱いを受け、そのためだけに拾われ生かされており、アブドゥルはカゴモリを人とは思っていないと皆が信じていた。 もっとも、すべてアブドゥルが語ったことで、同時にそう仕向けるのが目的でもあったが、集落の中では、高度な魔術を駆使し、悲劇的な生活の中でも凛と立つ悲壮感を持つカゴモリと悪魔のような狂人アブドゥルという図式が既に出来上がっていた。 エンペドクレスは、そのことを話すことが出来なかった。 今の、この誰もが真実を知らぬ状況だからこそ狂人の娘はこの集落で生きていけるのだから、アブドゥル以外が引き取っていればよかったのか? しかし、それこそ叶わぬ夢だ。 この集落には、掟に背いてまで外の捨て子を拾い育てる奇特な輩などいないのだから。 カゴモリは、幼い頃、一度父にそのことを尋ねたことがあった。 父はなんでもないことのように『それは、幸福を得るために必要なことだ』と話した。 カゴモリにとっては、この世界は生まれたときからこの形を保っており、誰かがそう仕向けているなどとは思いもしなかった。 そこにある幸福は日常であり、そして間違いなく彼女に与えられた幸福であったからだ。 だから、カゴモリは純粋に、父の言う幸福が父に繋がるものだと信じた。 カゴモリは『父様が酷い扱いを受けることが、父様の幸せにつながるの?』と尋ねた。 アブドゥルは一拍もおかず、淀みなく『ああ』と答え、柔らかく微笑した。 真実を語れば、それはカゴモリの幸せに繋がっていたのだが、今にすれば、それが当時のアブドゥルの幸せだったのかもしれない。 それ以後、カゴモリは、父の幸せに繋がるならと、住人の話に口をつぐんだ。 そして、誰よりも優れた魔術師になることに励んだ。 それから十年ほどが経ち、カゴモリの容姿が父を追い越し始めた頃、彼女は父にネクロマンシーの伝授を願い出た。 彼女にしてみれば、口には出さずとも、父が自分のために責め苦を受けていたことを成長と共に悟っていたのだろう。理解してもおかしくない年齢だった。 それでも、例え問い詰めてもアブドゥルは『知らん』とだけ答えるだろうことも理解していた。 故にカゴモリは、より優れた魔術師に、父の後継足りえるネクロマンサーにという思いを強めていった。 逆にアブドゥルにしてみれば、その魔術だけは永遠に教える気はなかったため、始めは頑なに譲らなかったが、相手は自分の娘、根競べではいい勝負だったようで、最後にはアブドゥルが折れる形で言葉を一つ授けた。 『それは永久に横たわる死者にあらねど、計り知れざる永劫の許に死を超えた者。久遠に伏す引き換えに、死ぬことはなく、その怪異の内では死ですらも終焉を迎える』 この言葉を理解するならば、多少は手解きをしてやる。と約束を交わし、それから三十年以上、カゴモリは根気よく研究を続けた。 その頃には、よく旅に出ては帰ってこなくなった父の帰りを待っては研究を披露したものだった。 そして、最後には『それは死者ではない。永遠の嘘、或いは奇妙な永劫、その内では死さえも死に至る』という結論に行き着き、研究の成果を認めたアブドゥルが死の殺し方、永遠の嘘の作り方とも呼ぶべき手法を学ぶことを許した。(一種の開き直りだったともとれる) その後は、いかにも怪しげなカルドロン(魔術用大釜)やスクライングミラー(黒鏡)などの道具と、破壊を強化するバッドブラッド(蝙蝠の血)愛を強化するドヴズブラッド(鳩の血)能力そのものを強化するドラゴンブラッド(竜の血)などの各種血、死体と死霊の使い方を七十年がかりで教えたらしい。 エンペドクレスはアブドゥルのことをアル、アブドゥルはエンペドクレスのことをクレスと呼んでいた。(カゴモリの見た目が父を追い抜いた頃から、カゴモリもアルと呼ぶことが多かったようだ) 現在から二百年前、カゴモリが一流の魔法使いへと成長すると、古き友エンペドクレスと共に集落を旅立った。 現在は、エンペドクレス共々【果たされざる旧約】バベルの塔で暮らしているらしいが、既に死にリッチとなっているなどと言う噂もある。
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東方銀符律ver9.0 BEFORE 東方銀符律8.0 NEXT 発売日 2013年8月24日 内容 全種類(R枚 U枚 C枚 N枚 CP枚) キャラ種類 イベント種類 アイテム種類 エリア種類 クラッシックパラレル プロモーションカード 今弾より新ルール「エクステンド」「タッグ」が追加。 収録カードリスト 番号 種類 レアリティ 属性 カード名 TH-0666 キャラ C 雪 キスメ(釣瓶落とし) TH-0667 キャラ U 雪 雲居一輪&雲山(拳骨「天空鉄槌落とし」) TH-0668 キャラ C 雪 レティ・ホワイトロック(寒気を操る程度の能力) TH-0669 キャラ C 雪 水橋 パルスィ(花咲爺「シロの灰」) TH-0670 キャラ R 雪 上白沢 慧音(産霊「ファーストピラミッド」) TH-0671 キャラ R 雪 蓬来山 輝夜(難題「燕の子安貝-永命線-」) TH-0672 キャラ U 雪 四季映姫・ヤマザナドゥ(審判「ラストジャッジメント」 ) TH-0673 キャラ R 雪 フランドール・スカーレット(禁忌「恋の迷路」) TH-0674 キャラ U 月 宮古 芳香(忠実な死体) TH-0675 キャラ R 月 メディスン・メランコリー(コンパロ、コンパロ、毒よ集まれー) TH-0676 キャラ U 月 霍 青娥(壁抜けの邪仙) TH-0677 キャラ C 月宙 ルナチャイルド(夜だから眠れない ) TH-0678 キャラ C 月 小野塚 小町(死符「死者選別の鎌」) TH-0679 キャラ U 月 紅 美鈴(気符「地龍天龍脚」) TH-0680 キャラ U 月 鈴仙・優曇華院・イナバ(晴嵐の赤眼) TH-0681 キャラ U 月 蘇我 屠自古(夢殿大祀廟) TH-0682 キャラ R 月 茨歌仙(仙人) TH-0683 キャラ R 月 火焔猫 燐(「死体繁華街」) TH-0684 キャラ R 月 博麗 霊夢(博麗の巫女) TH-0685 キャラ R 月 レミリア・スカーレット(永遠に紅い幼き月) TH-0686 キャラ U 月 豊聡耳 神子(「神霊大宇宙」) TH-0687 キャラ C 花 ミスティア・ローレライ(歌で人を惑わす程度の能力) TH-0688 キャラ C 花 ルーミア(夜符「ミッドナイトバード」) TH-0689 キャラ U 花 秋 静葉(紅葉の神) TH-0690 キャラ C 花 鍵山 雛(疵符「ブロークンアミュレット」 ) TH-0691 キャラ U 花 リグル・ナイトバグ(光る蟲の大群) TH-0692 キャラ C 花 秋 穣子(八百万の秋の神) TH-0693 キャラ U 花 河城 にとり(水符「河童のフラッシュフラッド」) TH-0694 キャラ U 花 本居 小鈴(妖魔本) TH-0695 キャラ R 花 古明地 さとり(想起「濛々迷霧」) TH-0696 キャラ U 花 虎丸 星(毘沙門天の弟子) TH-0697 キャラ R 花 パチュリー・ノーレッジ(得体の知れない魔法の元) TH-0698 キャラ R 花 洩矢 諏訪子(開宴「ニ拝二拍一拝」) TH-0699 キャラ R 花 八意 永琳(蘇生「ライジングゲーム」) TH-0700 キャラ R 花 八雲 紫(符の弐「八雲卍傘」) TH-0701 キャラ R 花 伊吹 萃香(鬼火「超高密度燐禍術」) TH-0702 キャラ C 宙 ナズーリン(宝塔「グレイテストトレジャー」) TH-0703 キャラ C 花宙 スターサファイア(妖精燦々として) TH-0704 キャラ R 宙 魂魄 妖夢(六道剣「一念無量劫」) TH-0705 キャラ C 宙 村紗 水蜜(湊符「幽霊船永久停泊」 ) TH-0706 キャラ U 宙 永江 衣玖(龍宮「タイヤヒラメダンス」) TH-0707 キャラ R 宙 十六夜 咲夜(メイド秘技「操りドール」 ) TH-0708 キャラ C 宙 八坂 神奈子(御柱「メテオリックオンバシラ」) TH-0709 キャラ R 宙 聖 白蓮(「聖尼公のエア巻物」) TH-0710 キャラ U 宙 比那名居 天子(地震「先憂後楽の剣」) TH-0711 キャラ U 宙 霊烏路 空(地底の太陽) TH-0712 キャラ R 宙 風見 幽香(幽夢 ~ Inanimate Dream) TH-0713 キャラ R 宙 西行寺 幽々子(幽冥楼閣の亡霊少女) TH-0714 キャラ U 日 幽谷 響子(平凡陳腐な山彦) TH-0715 キャラ C 日 橙(目にも留まらない化猫) TH-0716 キャラ C 日 犬走 椛(狗符「レイビーズバイト」) TH-0717 キャラ U 日 チルノ(冷体「スーパーアイスキック」) TH-0718 キャラ C 日 リリーホワイト(天空の花の都 ) TH-0719 キャラ U 日 因幡 てゐ(人間を幸運にする程度の能力) TH-0720 キャラ C 日 黒谷 ヤマメ(忍び寄る恐怖の気) TH-0721 キャラ C 月日 サニーミルク(サニールチルフレクション ) TH-0722 キャラ R 日 アリス・マーガトロイド(雅符「春の京人形」) TH-0723 キャラ U 日 八雲 藍(密符「御大師様の秘鍵」) TH-0724 キャラ R 日 射命丸 文(逆風「人間禁制の道」) TH-0725 キャラ C 日 姫海棠 はたて(念写記者) TH-0726 キャラ R 日 古明地 こいし(表象「弾幕パラノイア」) TH-0727 キャラ U 日 藤原 妹紅(焼死しない人間) TH-0728 キャラ R 日 霧雨 魔理沙(魔符「ミルキーウェイ」) TH-0729 キャラ R 日 物部 布都(投皿「物部の八十瓮」) TH-0730 キャラ U 日 東風谷 早苗(準備「サモンタケミナカタ」) TH-0731 キャラ C 日 多々良 小傘(うらめしやー) TH-0732 キャラ U 日 二ッ岩 マミゾウ(「ワイルドカーペット」) TH-0733 キャラ R 日 星熊 勇儀(鬼声「壊滅の咆哮」) TH-0734 キャラ U 無 封獣 ぬえ(アンノウン「原理不明の妖怪玉」) TH-0735 キャラ U 雪 チルノ&大妖精 TH-0736 キャラ U 花 秋 静葉&秋 穣子 TH-0737 キャラ U 宙 東風谷 早苗&八坂 神奈子 TH-0738 キャラ R 宙 豊聡耳 神子&物部 布都 TH-0739 キャラ R 五色 パチュリー・ノーレッジ&小悪魔 TH-0740 キャラ R 五色 博麗 霊夢&霧雨 魔理沙 TH-0741 イベント C 月 ダム計画 TH-0742 イベント C 月 証城寺の狸囃子 TH-0743 イベント R 月 夢の新薬 TH-0744 イベント U 月 鈴奈庵 TH-0745 イベント R 花 狐の奸計 TH-0746 イベント U 宙 紅魔館 TH-0747 イベント C 宙 河童の腕 TH-0748 イベント U 日 灼熱地獄地霊殿跡 TH-0749 イベント U 日 文々。新聞 TH-0750 イベント C 無 抗議 TH-0751 エリア C 無 常温核融合 TH-0752 エリア U 五色 逆さ虹 クラッシックパラレル 番号 種類 レアリティ 属性 カード名 再録元 TH-0341A キャラ U 宙 小悪魔(ヴワル魔法図書館) ver.5.0 TH-0381A キャラ U 雪 霍 青娥(邪符「ヤンシャオグイ」) ver.6.0 TH-0383B キャラ R 雪 古明地 さとり(想起「うろおぼえの金閣寺」) ver.6.0 TH-0384C キャラ R 雪 東風谷 早苗(我欲の巫女) ver.6.0 TH-0385C キャラ R 雪 魂魄 妖夢(剣術を扱う程度の能力) ver.6.0 TH-0385A キャラ U 雪 霧雨 魔理沙(ミミちゃん) ver.6.0 TH-0398B キャラ R 月 聖 白蓮(「スターソードの護法」) ver.6.0 TH-0402A キャラ U 花 多々良 小傘(虹符「アンブレラサイクロン」) ver.6.0 TH-0406C キャラ R 花 博麗 霊夢(ホーミングアミュレット) ver.6.0 TH-0408B キャラ R 花 伊吹 萃香(鬼符「大江山悉皆殺し」) ver.6.0 TH-0414B キャラ R 宙 鈴仙・優曇華院・イナバ(狂夢「風狂の夢(ドリームワールド)」) ver.6.0 TH-0441A イベント R 花 身代わり人形 ver.6.0 TH-0466B キャラ R 雪 聖 白蓮(魔法を使う程度の能力) ver.7.0 TH-0467C キャラ R 雪 博麗 霊夢(夢符「封魔陣」) ver.7.0 TH-0470A キャラ U 月 因幡 てゐ(兎符「因幡の素兎」) ver.7.0 TH-0471A キャラ C 月 大妖精(霧の湖) ver.7.0 TH-0492A キャラ U 花 永江 衣玖(雲界「玄雲海の雷庭」) ver.7.0 TH-0496C キャラ R 花 霧雨 魔理沙(恋心「ダブルスパーク」) ver.7.0 TH-0504A キャラ U 宙 犬走 椛(山のテレグノシス) ver.7.0 TH-0509A キャラ U 宙 寅丸 星(光符「アブソリュートジャスティス」) ver.7.0 TH-0523A キャラ R 日 多々良 小傘(人間を驚かす程度の能力) ver.7.0 TH-0530B キャラ R 日 洩矢 諏訪子(坤を創造する程度の能力) ver.7.0 TH-0536A イベント R 雪 「反魂蝶」 ver.7.0 TH-0543A イベント U 宙 本能「イドの解放」 ver.7.0 TH-0546A イベント R 五色 火水木金土符「賢者の石」 ver.7.0 TH-0547A イベント R 無 博麗神社倒壊する ver.7.0 TH-0555A キャラ C 雪 レティ・ホワイトロック(怪符「テーブルターニング」) ver.7.0 TH-0562B キャラ R 雪 パチュリー・ノーレッジ(木&火符「フォレストブレイズ」) ver.7.0 プロモーションカード 番号 種類 レアリティ 属性 カード名 入手 TH-0673A キャラ P 雪 フランドール・スカーレット(禁忌「恋の迷路」) アニメイト BOX購入 TH-0684B キャラ P 月 博麗 霊夢(博麗の巫女) ゲーマーズ BOX購入 TH-0697A キャラ P 花 パチュリー・ノーレッジ(得体の知れない魔法の元) あみあみ BOX購入 TH-0698A キャラ P 花 洩矢 諏訪子(開宴「ニ拝二拍一拝」) メロンブックス BOX購入 TH-0699A キャラ P 花 八意 永琳(蘇生「ライジングゲーム」) 東方波天宮 BOX購入 TH-0704A キャラ P 宙 魂魄 妖夢(六道剣「一念無量劫」) イベント・公式通販 BOX購入 TH-0722A キャラ P 日 アリス・マーガトロイド(雅符「春の京人形」) O-TRAP&D-STAGE&とらのあな&ホワキャン BOX購入 TH-0728B キャラ P 日 霧雨 魔理沙(魔符「ミルキーウェイ」) イエローサブマリン BOX購入 TH-0683A キャラ P 月 火焔猫 燐(「死体繁華街」) 2013年9月・10月ランキング大会優勝賞 TH-0753 キャラ P 日 ニャリス(猫耳) 2013年9月・10月ノーマル大会・ランキング大会参加賞
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FFO Replay Version 2.1 hai//無邪気「歳考えろ」//八雲 紫-八雲 紫-八雲 紫-古明地 こいし- アロンダイト//AH-Y72 ティーゲルシュベルト//十六夜 咲夜-十六夜 咲夜-十六夜 咲夜-十六夜 咲夜- 賽が投げられて、haiの先攻になりました。 hai いやいや アロンダイト dz hai マリガンです アロンダイト おk haiは手札からカードを全部、山札の上に置きました。 haiはカードを 6 枚引きました。 - マリガン hai おk hai では #配置:《結界「夢と現の呪」》 ↑起動:《結界「夢と現の呪」》 Turn 2 - アロンダイト//体力20( 21) 呪力1( 0) 手札7( 5) 山33( 34) スペル0( 1) タイマー00 01(00 24) シーン なし #配置:《幻符「殺人ドール」》 Turn 3 - hai//体力21( 20) 呪力1( 1) 手札6( 6) 山33( 33) スペル1( 1) タイマー00 25(00 07) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//心符「没我の愛」//紫奥義「弾幕結界」//心符「没我の愛」// ☆戦闘:hai - 《結界「夢と現の呪」》(相手スルー) ★戦闘結果:hai - === 2 dmg - アロンダイト #配置:《心符「没我の愛」》 Turn 4 - アロンダイト//体力18( 21) 呪力3( 1) 手札7( 5) 山32( 33) スペル1( 2) タイマー00 09(00 29) シーン なし #配置:《時符「シルバーアキュート360」》 Turn 5 - hai//体力21( 18) 呪力3( 3) 手札6( 6) 山32( 32) スペル2( 2) タイマー00 30(00 28) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//紫奥義「弾幕結界」//心符「没我の愛」//結界「夢と現の呪」// ☆戦闘:hai - 《結界「夢と現の呪」》(相手スルー) ★戦闘結果:hai - === 2 dmg - アロンダイト #配置:《心符「没我の愛」》 Turn 6 - アロンダイト//体力16( 21) 呪力6( 3) 手札7( 5) 山31( 32) スペル2( 3) タイマー00 46(00 36) シーン なし #配置:《幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」》 ↑起動:《幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」》 Turn 7 - hai//体力21( 16) 呪力6( 1) 手札6( 6) 山31( 31) スペル3( 3) タイマー00 37(01 55) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//紫奥義「弾幕結界」//結界「夢と現の呪」//外力「無限の超高速飛行体」// ☆戦闘:hai - 《結界「夢と現の呪」》 vs 《幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」》 - アロンダイト haiは《結界「夢と現の呪」》の1番目の特殊能力を使いました。 ★戦闘結果:hai - dmg 3 1 dmg - アロンダイト #配置:《結界「夢と現の呪」》 Turn 8 - アロンダイト//体力15( 18) 呪力5( 4) 手札7( 5) 山30( 31) スペル3( 4) タイマー01 54(00 56) シーン なし #配置:《銀符「パーフェクトメイド」》 ↑起動:《銀符「パーフェクトメイド」》 アロンダイトは《チェックメイト》をアロンダイトの《銀符「パーフェクトメイド」》に配置しました。 Turn 9 - hai//体力18( 15) 呪力9( 0) 手札6( 5) 山30( 30) スペル4( 4) タイマー00 56(02 11) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//紫奥義「弾幕結界」//外力「無限の超高速飛行体」//漱石枕流// #配置:《紫奥義「弾幕結界」》 ↑起動:《紫奥義「弾幕結界」》 Turn 10 - アロンダイト//体力15( 18) 呪力4( 2) 手札6( 5) 山29( 30) スペル4( 5) タイマー02 03(01 04) シーン なし hai メイド長…デッキの貯蔵は十分か? アロンダイト フ hai …デッキ危ないのこっちじゃないか^q^ ☆戦闘:アロンダイト - 《銀符「パーフェクトメイド」》 vs 《紫奥義「弾幕結界」》 - hai ★戦闘結果:アロンダイト - dmg 3 1 dmg - hai haiは《紫奥義「弾幕結界」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《神隠し》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《表象「夢枕にご先祖総立ち」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - チェックメイト #配置:《幻象「ルナクロック」》 ↑起動:《銀符「パーフェクトメイド」》 Turn 11 - hai//体力17( 12) 呪力8( 0) 手札6( 5) 山26( 29) スペル5( 5) タイマー01 06(03 04) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//外力「無限の超高速飛行体」//漱石枕流//外力「無限の超高速飛行体」// #配置:《外力「無限の超高速飛行体」》 ↑起動:《紫奥義「弾幕結界」》 Turn 12 - アロンダイト//体力12( 17) 呪力5( 1) 手札6( 5) 山28( 26) スペル5( 6) タイマー02 51(01 19) シーン なし ☆戦闘:アロンダイト - 《銀符「パーフェクトメイド」》 vs 《紫奥義「弾幕結界」》 - hai ★戦闘結果:アロンダイト - dmg 3 1 dmg - hai haiは《二次元と三次元の境界》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《睡眠》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《漱石枕流》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - チェックメイト #配置:《幻葬「夜霧の幻影殺人鬼」》 ↑起動:《銀符「パーフェクトメイド」》 Turn 13 - hai//体力16( 9) 呪力8( 1) 手札6( 5) 山22( 28) スペル6( 6) タイマー01 14(03 22) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//漱石枕流//外力「無限の超高速飛行体」//漱石枕流// #配置:《外力「無限の超高速飛行体」》 ↑起動:《紫奥義「弾幕結界」》 Turn 14 - アロンダイト//体力9( 16) 呪力7( 1) 手札6( 5) 山27( 22) スペル6( 7) タイマー03 06(01 28) シーン なし イベント(アロンダイト):《タネの無い手品》 アロンダイトはカードを 1 枚引きました。 - タネの無い手品 アロンダイトは山札を上から 3 枚見ました。 - タネの無い手品 アロンダイトは山札を上から 3 枚見ました。 アロンダイトは山札のカードを 1 枚、一番下に置き直しました。 アロンダイトは山札のカードを 1 枚、一番下に置き直しました。 ☆戦闘:アロンダイト - 《銀符「パーフェクトメイド」》 vs 《紫奥義「弾幕結界」》 - hai ★戦闘結果:アロンダイト - dmg 3 1 dmg - hai haiは《睡眠》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《境符「四重結界」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《廃線「ぶらり廃駅下車の旅」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - チェックメイト #配置:《時符「シルバーアキュート360」》 ↑起動:《銀符「パーフェクトメイド」》 Turn 15 - hai//体力15( 6) 呪力9( 1) 手札6( 5) 山18( 26) スペル7( 7) タイマー01 33(03 50) シーン なし 手札:心符「没我の愛」//神出鬼没//霊撃//漱石枕流//漱石枕流//罔両「八雲紫の神隠し」// イベント(hai):《神出鬼没》 haiは山札を丸ごと見ました。 - 神出鬼没 haiは《廃線「ぶらり廃駅下車の旅」》を山札から起動状態で場に置きました。 haiは山札を見るのをやめました。 haiは山札をシャッフルしました。 ☆戦闘:hai - 《廃線「ぶらり廃駅下車の旅」》 vs 《銀符「パーフェクトメイド」》 - アロンダイト イベント(hai):《霊撃》 ★戦闘結果:hai - dmg 1 6 dmg - アロンダイト haiは《廃線「ぶらり廃駅下車の旅」》を場から捨て札に置きました。 - 廃線「ぶらり廃駅下車の旅」 haiは《境符「四重結界」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《二次元と三次元の境界》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - 銀符「パーフェクトメイド」 haiは《紫奥義「弾幕結界」》を山札の一番上から捨て札に送りました。 - チェックメイト アロンダイト ありがとうございました hai ありがとうございました~ アロンダイト まぁ霊撃持ってるか hai ありましたねぇ アロンダイト デッキアウト無謀だよなーとは思いつつも hai 結構腐るものの落ちてること落ちてること… アロンダイト 殴り合いするのか?っという hai 停止とかないと殴りあいはしんどいっす;w; アロンダイト うーん アロンダイト 体力の削り合いするには火力を補いきれない アロンダイト 山札を焼くにも間に合わない hai 霊撃3入れて手数で勝負でしょうねぇ hai けど hai 速攻スペルもびみょいぜ… アロンダイト 手数ならむしろ世界複数回使いたいとか考えてしまう hai あれは使える時には使っちゃっていいかと アロンダイト 使えるときにはねwww アロンダイト やっぱ hai 呪力5払って次の攻めが立つならいい感じ アロンダイト 手品いらない気がしてきたww hai 手品入れるなら hai スペルの枚数減らせますぜ hai 下手すりゃ20枚で回る アロンダイト 問題は アロンダイト 撃つ暇が無かったりする hai www hai そこは仕方にぃ;w; hai では、そろそろ戻りますね~ hai ありがとうございました~ノシ アロンダイト 4の弱点補う事考えたら減速なんだろうなぁ アロンダイト ノシ
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FFO Replay Version 2.1 砂井裏鍵//境界の底に沈む薔薇//古明地 こいし-古明地 こいし-古明地 こいし-八雲 紫- taro//仲良し姉妹//古明地 こいし-古明地 こいし-古明地 さとり-古明地 さとり- 賽が投げられて、taroの先攻になりました。 taroの呪力は今1 (+1)です。 taro では 砂井裏鍵 どぞ 砂井裏鍵 後手かぁ; #配置:《本能「イドの解放」》 Turn 2 - 砂井裏鍵//体力20( 20) 呪力1( 1) 手札7( 5) 山33( 34) スペル0( 1) タイマー00 02(00 12) シーン なし 手札:「サブタレイニアンローズ」//根性避け//復燃「恋の埋火」//無意識「弾幕のロールシャッハ」//「嫌われ者のフィロソフィ」//スーパーエゴ//無意識の遺伝子// #配置:《「嫌われ者のフィロソフィ」》 Turn 3 - taro//体力20( 20) 呪力3( 1) 手札6( 6) 山33( 33) スペル1( 1) タイマー00 11(00 07) シーン なし #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 Turn 4 - 砂井裏鍵//体力20( 20) 呪力3( 3) 手札7( 5) 山32( 33) スペル1( 2) タイマー00 05(00 23) シーン なし 手札:「サブタレイニアンローズ」//根性避け//復燃「恋の埋火」//無意識「弾幕のロールシャッハ」//スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女// #配置:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 5 - taro//体力20( 20) 呪力6( 3) 手札6( 6) 山32( 32) スペル2( 2) タイマー00 20(00 11) シーン なし #配置:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 taro 埋火欲しい・・ ↑起動:《想起「飛行虫ネスト」》 Turn 6 - 砂井裏鍵//体力20( 20) 呪力6( 2) 手札7( 5) 山31( 32) スペル2( 3) タイマー00 08(00 58) シーン なし 手札:「サブタレイニアンローズ」//根性避け//復燃「恋の埋火」//スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//復燃「恋の埋火」// #配置:《復燃「恋の埋火」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 7 - taro//体力20( 20) 呪力5( 3) 手札6( 6) 山31( 31) スペル3( 3) タイマー00 54(00 28) シーン なし ☆戦闘:taro - 《想起「飛行虫ネスト」》 vs 《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 - 砂井裏鍵 ★戦闘結果:taro - dmg 1 3 dmg - 砂井裏鍵 #配置:《復燃「恋の埋火」》 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 Turn 8 - 砂井裏鍵//体力17( 19) 呪力7( 1) 手札7( 5) 山30( 31) スペル3( 4) タイマー00 26(01 12) シーン なし 手札:「サブタレイニアンローズ」//根性避け//復燃「恋の埋火」//スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//神出鬼没// 砂井裏鍵 オウフ #配置:《「サブタレイニアンローズ」》 taro 引いた引いた 砂井裏鍵 うーん………… taro げふ ↑起動:《「嫌われ者のフィロソフィ」》 Turn 9 - taro//体力19( 17) 呪力5( 4) 手札6( 6) 山30( 30) スペル4( 4) タイマー01 07(00 52) シーン なし ☆戦闘:taro - 《復燃「恋の埋火」》 vs 《「嫌われ者のフィロソフィ」》 - 砂井裏鍵 taroは《復燃「恋の埋火」》の1番目の特殊能力を使いました。 砂井裏鍵 えー taro パターンどぞ 砂井裏鍵 パターンされたらどうするんですか! 砂井裏鍵 ;;; taro ないのかwww ★戦闘結果:taro - dmg 0 5 dmg - 砂井裏鍵 砂井裏鍵 やばす #配置:《表象「夢枕にご先祖総立ち」》 Turn 10 - 砂井裏鍵//体力12( 19) 呪力9( 2) 手札7( 5) 山29( 30) スペル4( 5) タイマー01 00(02 16) シーン なし 手札:根性避け//復燃「恋の埋火」//スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//神出鬼没//ハルトマンの妖怪少女// #配置:《復燃「恋の埋火」》 ↑起動:《「サブタレイニアンローズ」》 Turn 11 - taro//体力19( 12) 呪力8( 4) 手札6( 6) 山29( 29) スペル5( 5) タイマー02 05(01 17) シーン なし #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 12 - 砂井裏鍵//体力12( 19) 呪力9( 1) 手札7( 5) 山28( 29) スペル5( 6) タイマー01 07(02 39) シーン なし 手札:根性避け//スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//神出鬼没//ハルトマンの妖怪少女//ハルトマンの妖怪少女// 砂井裏鍵 (;´∀`)…うわぁ… ☆戦闘:砂井裏鍵 - 《「サブタレイニアンローズ」》 vs 《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 - taro イベント(砂井裏鍵):《根性避け》 ★戦闘結果:砂井裏鍵 - 【回避】 3 dmg - taro ↑起動:《「嫌われ者のフィロソフィ」》 Turn 13 - taro//体力16( 12) 呪力7( 3) 手札6( 6) 山28( 28) スペル6( 5) タイマー02 29(01 35) シーン なし ☆戦闘:taro - 《復燃「恋の埋火」》 vs 《「サブタレイニアンローズ」》 - 砂井裏鍵 イベント(taro):《スーパーエゴ》 taro ゴゴゴゴゴ 砂井裏鍵 むー ★戦闘結果:taro - dmg 3 5 dmg - 砂井裏鍵 #配置:《想起「テリブルスーヴニール」》 ↑起動:《想起「テリブルスーヴニール」》 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 Turn 14 - 砂井裏鍵//体力7( 13) 呪力8( 0) 手札7( 4) 山27( 28) スペル5( 7) タイマー01 56(03 54) シーン なし 手札:スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//神出鬼没//ハルトマンの妖怪少女//ハルトマンの妖怪少女//結界「夢と現の呪」// 砂井裏鍵 (´・ω・`) 砂井裏鍵 手札死んでる…… ☆戦闘:砂井裏鍵 - 《「嫌われ者のフィロソフィ」》 vs 《想起「テリブルスーヴニール」》 - taro ★戦闘結果:砂井裏鍵 - dmg 0 3 dmg - taro 砂井裏鍵の体力が-1 (6) - 想起「テリブルスーヴニール」 #配置:《結界「夢と現の呪」》 taro シャットダウン引かないかな・・・ ↑起動:《「サブタレイニアンローズ」》 Turn 15 - taro//体力10( 6) 呪力7( 3) 手札5( 6) 山27( 27) スペル7( 6) タイマー03 38(02 57) シーン なし taro ってエゴがいいな taro ・・・ イベント(taro):《シャットダウン》 taroは《「サブタレイニアンローズ」》を目標に指定しました。 ☆戦闘:taro - 《復燃「恋の埋火」》(相手スルー) ★戦闘結果:taro - === 4 dmg - 砂井裏鍵 #配置:《心符「没我の愛」》 ↑起動:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 Turn 16 - 砂井裏鍵//体力2( 10) 呪力9( 1) 手札7( 3) 山26( 27) スペル6( 8) タイマー02 40(05 07) シーン なし 手札:スーパーエゴ//無意識の遺伝子//ハルトマンの妖怪少女//神出鬼没//ハルトマンの妖怪少女//ハルトマンの妖怪少女//結界「夢と現の呪」// 砂井裏鍵 手札ェ;;;; taro ww 砂井裏鍵 なんだこりゃ……… #配置:《結界「夢と現の呪」》 Turn 17 - taro//体力10( 2) 呪力8( 9) 手札4( 6) 山26( 26) スペル8( 7) タイマー04 40(03 50) シーン なし イベント(taro):《シャットダウン》 taro 良い引きだ taroは《「サブタレイニアンローズ」》を目標に指定しました。 砂井裏鍵 割とどうでもいいけどね(´・ω・`) ☆戦闘:taro - 《復燃「恋の埋火」》(相手スルー) ★戦闘結果:taro - === 4 dmg - 砂井裏鍵 砂井裏鍵は《ハルトマンの妖怪少女》を無作為に捨てました。 砂井裏鍵は《ハルトマンの妖怪少女》を無作為に捨てました。 砂井裏鍵は《神出鬼没》を無作為に捨てました。 砂井裏鍵は《ハルトマンの妖怪少女》を無作為に捨てました。 砂井裏鍵は《スーパーエゴ》を無作為に捨てました。 砂井裏鍵は《無意識の遺伝子》を無作為に捨てました。 taro ありがとうございました taro www 砂井裏鍵 ありがとうございました 砂井裏鍵 3枚に積んだ途端これ 砂井裏鍵 積むなってことだな taro 遺伝子で1ターン耐えれるけれど・・・意味無いか(´・ω・`) 砂井裏鍵 えっ 砂井裏鍵 埋火能力………… taro 打点上昇忘れてた^q^ 砂井裏鍵 シャットダウンなんかなくても 砂井裏鍵 発狂2回で死んでるねん taro パターンとか怖いんで・・・ 砂井裏鍵 あったら打ってるわ; taro 普通に今引き警戒ですよ 砂井裏鍵 えー taro 大体のカードゲームにおいて「今引いた」が一番怖い 砂井裏鍵 その今引いたしか効かない上に 砂井裏鍵 パターンあったら俺迎撃しなくても打てるし 砂井裏鍵は山札を丸ごと見ました。 taroは《チームプレイ》を手札から捨て札に置きました。 砂井裏鍵 パターンこわくねぇやんwwwwwwwwww taro 迎撃なしならねw 砂井裏鍵 え? 砂井裏鍵 アンローズ迎撃パターン 砂井裏鍵 回避6 taro あれ?1点・・・足りてる・・・・? 砂井裏鍵 埋火発狂チムぷ 砂井裏鍵 命中7 砂井裏鍵 ほう taro アホす 砂井裏鍵 アホス 砂井裏鍵 戻るか; taro では戻りますか 砂井裏鍵 ノ taro ノシ
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パーン動画 東方系 アレンジ 原曲 同人サークル「上海アリス幻樂団」が発表しているSTG、東方ProjectのBGMとその二次創作楽曲を原曲とするもの。 シリーズ名は『東方頭破七分(とうほうずはしちぶん)』。他の東方系MADと同じく、スペルカード名をもじったコメントがつくことがある。 タグ検索 東方頭破七分 東方アレンジ 久本雅美をお嫁にしなさいっ!/ATMGPしなさいっ! 【原曲】IOSYS「東方萃翠酒酔」『お嫁にしなさいっ!』 2種類あり、動画ありVerとグルメレースへの便乗(?)Verがある。 『久本雅美をお嫁にしなさいっ!』はみんみん氏によるものであり、『~カービィのBGMに合わせて~』にインスパイアされたものとしては最古のパーン動画。 最近よく再うpされているものはにれぞぞ氏制作の『ATMGPしなさいっ!』。再うpで『久本雅美を~』にタイトルを変えられる事も多い。 一時期歌詞がつけられていたことがあった。 +歌詞 走らせていただいてます あたま あたまが あた あたま ぱんぱん あたま あたまが あた あたま ぱんぱん 人間革命 頭が PANG☆PANG ここからはじまる (もうほんっとにびっくりした もうほんとに この信心 すごいって ご本尊様凄いって ねえ またひとつ確信させていただきました) 受け止めて そめた,ほほは,あたまのせいだよ べつに,さまさなくてもいいけど ほんけの,どうが,ゆくえふめいでも フェニックス,は,い,る,よ~ (あたまが ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) おもいをこのおしえ,に~ (人間革命) の,せ,て~ (ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) (勇気と希望と勇気と希望と) ゆめみるおとめはハ~トの ま,ほ,う~ (ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) ねらいはじめたら ひゃっぱつひゃくちゅう は,ず,さ,な,い~ (あたまがあたまがあたまがあたまがあたまがあたまがあたまがあた) ぜぇったいミスらないんだからぁ・・・//// (もぉうほんっとにびっくり) 柴田,わたし,どちらが嫁? ひみつ,すてきなご本尊様なの むてき,ふたりひとつになれ きっと,はじめてりょうおもい ぜんぶ,あいしてほしいの ずっと,たいせつにしてほしいの パーンて,させてみてほしいの まちゃみ,たちをおよ,め,に,し,な,さ,い~ (間奏:女子部による結婚行進曲) きえた,どうが,そうかのちからよ しなの,きかくは,まずつぶれないけど よいも,ふけて,まんげつのぼれば またどうが,あ,げ,る,よ~ (あたまが ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) やわらかく,ぎょうかいを (元気を元気をげげげげ元気を) か,げ,で~ (ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) {(女子部)しょんしょしょsyしょしょしょyそyそよしょs} ふわふわとける○村プロデュースの う,し,ろ~ (ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) つぶしはじめたら (なんだかあったかいっていうか) ひゃくてんまんてん (走らせていただいてます) こ~だ~わ~る~の~ ソウカソウカしちゃう~ (ほんとにほんとに) ワハハ,ほんぽ,くちづけて あたま,かんどうで,ばくはつするの いしかわ,ひこまろ,もんきっきー もっと,みらいに,せきにんもてる (未来に責任,公明党) あたまのこどう,げんかいよ ちょっと,どうにかなってしまうの ギュッと,だきしめてほしいの まちゃみ,たちをおよ,め,に,し,な,さ,い~! (ナレーション:わずかな時間を見つけて 女子部の会合に参加するエア本さん 信仰の悦びが胸いっぱいに広がります) うけとめて 儲 (そうかそうか) 久本雅美の頭がフラドルに合わせて爆発したようです。 【原曲】U.N.オーエンは彼女なのか?×ウサテイ『フラドル』 元祖グルメレースに便乗する形で最初期に作られた動画。代表的作者である一条三位のパーンMADデビュー作。 動画は無いが犬作、鳥肌実などが初登場し、後のパーンMADの方向性を決めた動画となっている。 盗んでいきましたシリーズ 【原曲】IOSYS「東方乙女囃子」『魔理沙は大変なものを盗んでいきました』 創価学会は久本雅美に大変な洗脳を施していきました 言わずとも知れた定番MAD。実は動画は三種類ある。1つは初期バージョンであり、2つ目は1つ目の修正バージョンとなっている。3つ目は既出を知らなかった人が作った作品である。 1つ目の作品は恐らくパーンMADの2つ目に相当し、2番目に古いと思われる。よく聴くと1つ目の作品はグルメレースMADからそのまま切り取った音で作られていることがわかる。修正バージョンでは、素材がちゃんとしたシナノ企画の動画の音源であり、サビ部分等の音階がかなりパワーアップしているが、他の部分は全く違うものになっている。好みが分かれるせいか、今現在でも旧バージョンが再うpされることがある。どちらも良作である。3つ目の作品も実は素材がグルメレースを切り取ったものである。 創価学会は久本雅美に大変な洗脳を施していきましたver.FULL FULLとなって登場したMAD 石川は大変な勧誘をしていきました 石川初MAD。しかし、途中から女子部のMADになっている。 ここは、男子部と女子部のコラボレーションMADと考えよう。 狂気の優曇華院シリーズ 【原曲】IOSYS「東方月燈籠」『患部で止まってすぐ溶ける~狂気の優曇華院』 幹部で止まって頭がパーン!~狂気の久本雅美 元祖に続くシリーズ二つ目のヒット動画にして初期を代表する作品。間奏中に右下に出てくるマークはdeftech(同じく学会員)のものである。 患部で止まってこんばんはー!!~狂気の男子部石川~FULL 最初に投稿された物はお世辞にもうまいとは言えるものではなかったが、入信祭に投稿された修正版は格段に良くなっており視聴者を驚かせた。 オーエンシリーズ M.Y.レボリューションはここから始まるのか?最終鬼畜池田犬作・SGI 【原曲】「東方紅魔郷」『U.N.オーエンは彼女なのか?』+COOL CREATE「東方ストライク」『最終鬼畜妹フランドール・S』 初期版と改訂版あり。後半登場する「万歳教祖様ー」の声はザ・シンプソンズのホーマーの台詞が元である。 動画版が作られる予定だったが、名誉会長が扇子を持って踊りを披露する素材が見つからなかったためお蔵入りとなった。 K.O.んばんはー!!倉地君はいるのか?最終鬼畜18歳クラチトール・F 創価オールスター総出演。オーエンシリーズMAD完成形といえる。 M.Y.Revolutionはここからはじまるのか?Ⅱ 「M.Y.レボリューションはここから始まるのか?」の作者によるセルフリメイク。前半と後半の2つの動画によって成り立っている。 フラン画像集(Sweets Wazukana Time) 【原曲】SYNC.ART S「ゆきうさぎ」『Sweets Time』 動画タイトルの「フラン画像集」は2007年12月29日に投稿されてから2008年6月6日に削除されるまで、権利者の目から逃れ続けた頭がパーン偽装動画のタイトルに由来する。 sweet little master 【原曲】Silver Forest「東方蒼天歌」『sweet little sister』 動画内でエア本さんがドナルドや鎌田吾作に公明党に投票するように電話するが、選挙が近くなると学会員も実際に行う。 創価の怖さがひしひしと伝わってくる仏MAD。 最終鬼畜シリーズ 【原曲】COOL CREATE「東方ストライク」『最終鬼畜妹フランドール・S』 最終鬼畜姉久本・M T.H.実は芸人なのか?最終鬼畜反創価トリハダ.M 鳥肌実の貴重なMAD。 ウサテイシリーズ 【原曲】IOSYS「東方萃翠酒酔」『ウサテイ』 パンテイ パンティーじゃない。初期版と動画付版が存在。ドイツ出身のGさんがゲスト出演する。 フジテレビジョンに権利者削除される。 グサテイ ウサテイシリーズ2作目。約1年ぶりの更新。入信祭に投稿した旨が動画内に記載されている。 フサテイ 手描き非音系MAD。 イシテイ 稀に見る神作品。死ぬまでには1度は見よう たすけてえーりん!シリーズ 【原曲】COOL CREATE「東方ストライク」『Help me, ERINNNNNN!!』 久本雅美が大作先生に助けを求めているようです。(Help me, DAISAKUUUUUU!!) 「えーりん!えーりん!」の掛け声の部分が「先生!先生!」となっており、動画は学会に所属しているという噂(真偽問わず)の芸能人のスライドショーとなっている。 o彡゜(゚∀。)ひさ もと! ひさ もと! ナレーションがエア本さんに変わって( ゚∀。)o彡゜えーりん!えーりん!している。 弾・幕・決・壊シリーズ 【原曲】COOL CREATE「STG×STG」『弾・幕・決・壊』 創・価・学・壊 冒頭に「削除動画【お煎餅ver.】」、締めにグルメレースのラスト(もうほんとに~波平)が組み込まれている。 創・価・学・会 【改】 上記動画よりネーミングを借りた作品。フル尺。第三回音MAD晒しイベント参加作品。 マイロードや24時間テレビ、ポー本さんなどの危ない削除対象リア本素材を網羅した上に波平で〆たエア本史上屈指のカオス度を誇る傑作。 サムネはガチムチ兄貴と池田大作が「平和への対談」をしているというコラだが本編には兄貴は登場しない。 一日で削除されたが、久々の「完成」を喜ぶファンによって動画跡地は削除のお祝いコメントで埋め尽くされた。 素材の削除対象動画が多すぎたためどの権利者によって消されたかは不明。 創・價・學・會【壊】 鳥肌実メイン。上のMADの構造と似ている。 エア本被害届 【原曲】IOSYS「東方真華神祭」『恋色被害届』 行列のできるマイレボリュー所 【原曲】IOSYS「東方真華神祭」『行列のできるえーりん診療所』 『久本雅美をお嫁にしなさいっ!』の右下に定評のある作者、 にれぞぞ氏の二作目。初期版、改訂版、最終版の三種が存在。 サムネと冒頭をガチムチにした再うp版『ガチムチ☆革命』が『週刊SOCALOIDランキング特大号』で17位を獲得。 後にガチムチ、クラッシャー等の派生作品が生まれ、「7月革命」「革命シリーズ」と呼ばれるブームを作り出した。 現在もなお、さまざまな派生作品が製作されている。 ちなみに、創価ネタを使った派生として「カチムチ☆革命」「人間☆革命」の二つが存在する。 「カチムチ☆革命」は頭がパーンしないグルメレースを踏襲した“二番”となっており、 「人間☆革命」は釣りと見せかけてまったく釣らない完全直球勝負の危険な犬作MADである。 ヒサモ⑩ Revolution 【原曲】Silver Forest「東方蒼天歌」『ケロ⑨destiny』 3分超の大作。ガチムチ☆革命に続く兄貴釣りであるが、釣りサムネにとどまらず途中から兄貴もちゃんと登場し、 踊る諏訪本さんの後ろで優雅なケツドラムを披露する。定番のパーン動画から池田大作のスピーチ、 神崎氏の公明党宣伝CM・引っ越しおばさん(MIYOCO)の映像まで使いネタ盛りだくさんの構成。 男子部の石川さんの恐怖を世に知らしめた作品。新キャラクター「だいさ⑨」が生まれた作品でもある。 No Life Souka 【原曲】SOUND HOLIC「SOUND HOLIC MEETS TOHO ~東方的幽々舞踏劇~」『No Life Queen』 わずか9秒の動画である。 東方真華神祭「Border of extacy」PV.flv______________________.exe 【原曲】IOSYS「東方真華神祭」『Border of extacy』 主に兄貴動画を扱う Feuilles mortes氏によって作られた作品。 原曲のPVに似せて作られている。 女子部の会合できゅうり味のビールを飲めばいいのかー 【原曲】IOSYS「東方河想狗蒼池」『きゅうり味のビールを飲めばいいよ!』 『ATMGPしなさいっ!(久本雅美をお嫁にしなさいっ!)』『行列のできるマイレボリュー所』で有名な にれぞぞ氏の東方頭破七分③作目。 後に有志により歌詞が作られた。 +歌詞 純教徒☆純教徒☆純教徒☆純教徒☆純教徒☆純教徒☆純教徒☆純教徒 「走らせていただいてます」 (そーかなのかー) そうか そうか バリバリのそうか そうか そうか すえながくそうか 「カルト教団!」 ふやせ ふやせ 信濃町でふやせ ふやせ ふやせ 折伏してふやせ おしかけ おどし しゃくぶく そのまま入信 たまらない 「に~ん~げ~ん革命♪」 せいきょう しんぶん なげこみ ノルマの達成 とまらない 「ご本尊はいかがですか~ 創価学会のご本尊はいかがですか~」 そうか そうか おぷてぃかる そうか そうか そうか みつからず会合 そうか そうか どこまでもそうか 大作 大作 みつけたら号泣 わずかな じかん みつけて じょしぶの かいごう さんかする 「げげっ、大作が一人あまったよー?」 がっかい なぜか はもんされ にっけん しゅうを ひなんする 「御書に匹敵する小説、人間革命~」 『週刊東方ランキング 7月第2週』で26位(1438Pt)を獲得。 ひれ伏せ愚民どもっ!を実写化してみた 【原曲】PROJECT tM@S「幻想メガ☆ラバ」『ひれ伏せ愚民どもっ!』 聖教新聞を見せられた柴田さん 【原曲】どぶウサギ「弾奏結界 紅魔狂詩曲」『Devil s Go Through the Night』 柴田をMAD素材として使った作品。 ナイト・オブ・ナイツ 【原曲】Unionest.NET「花詠束」『ナイト・オブ・ナイツ』 パーン・オブ・エアモト 速本さん。エア本入信祭の日にマイリストランキング(毎時)で初めに1位を獲得したMADである。 後にドナルドお兄さんがこれを歌っている。 シゴト・オブ・ナイツ 仕事・オブ・無イツ クンツ・ォブ・ふさ子 【MADで分かる】ガッカイ・オブ・ソウカ【創価芸能人】 創価を二人で抜け出す程度の能力 【原曲】IOSYS「東方乙女囃子」『月夜を二人で抜け出す程度の能力』 PV風非音系MAD シナノのパーンフェクトさんすう教室 【原曲】IOSYS「東方氷雪歌集」『チルノのパーフェクトさんすう教室』 そのタイトル、歌詞、映像のパーンホイホイっぷりから元動画が投稿されてまもなく試作品がつくられた。参加者が少ないが一応マハローウィンの第1回エア本MAD統一イベントである。 いぬさ⑨のパーンフェクトさんすう教室 はせな氏作。名誉会長メイン。さんすう教室MAD一番乗りでもある。 ひさも⑩のパーンフェクトざだん会 ^-^氏作。エア本メイン。 エア平のパーフェクト削除教室 にれぞぞ氏作。波平メイン。削除必至のMAD。 【東方頭破七分】無限増殖曲 ~ Earmoto Nocturne 【原曲】どぶウサギ 「弾奏結界 夢幻夜想曲」『無限夜想曲 ~ Eternal Nocturne』 投稿祭の力作。後半のグルメレースとの同時再生は、音程も原曲に依存した高度なものになっている。 フジテレビに削除されたため増殖した。 Bad Atama!! feat. airmoto 【原曲】Alstroemeria Records「Exserens」『Bad Apple!!』 衝撃のフル再生。新素材、沢たまきの毒舌が光る。グロ☆シーン多用につき視聴注意。 後にモザイクフィルターが追加され、下の非表示ボタンでモザイクが外れるようになった。 +歌詞 消されてく 頭の中でも グロ本が ほらグルグル回って WAHAHAから 離れる頭も見えないわ 創価創価 赤字から 消えることなく タイムアウトの狭間に 流され続けて なにそれぇ? 周りのことなど 良いことは良い それだけ 仕事無い? 働いてない? 理解不能な クンツォの言葉 涙出るなんて 疲れるだけよ 信教の喜びが 広がればいいの 戸惑う言葉(クンツォ) 与えられても 自分の頭 ただメルトダウン もし私から 入れるのなら もし入れるのなら 二度と来んじゃねぇ! ↑こんな自分に 出番はあるの↑ こんな動画に 私は要るの? 今上げられたの? 昔作られたの? 自分の設定も 分からないまま 作ることさえ 疲れるだけよ たまきの事など 知りもしないわ こんな私も 入れるのなら もし入れるのなら 鳥になる 上がってく 人気の中でも 赤字職人が ほらグルグル徘徊(まわ)って 私から 離れる赤字も (数)知れないわ そう 最 凶 新 聞 運営が 動くことなく 時の狭間に 忘れ去られて 知らないわ 運営のことなど 私はわずか そう 受話器もって 入ってる? 信じている? 語るも無駄な グロ本ダンス 爆発なんて 疲れるだけよ 工作もせず 過ごせばいいの 戸惑う赤字 流れてきても 自分の頭 ヤマヴォルケイノ もし運営が 動くのならば 全て消すのなら 中止する 無駄な頭に 未来はあるの こんなところに 貴方は要るの? 私のことを 新陳したいならば 言葉で言うなら「エア本さん」 こんなところに マハーローは要るの? エアリスジェイド 私は要るの? こんな私も グロれるのなら もしグロれるのなら 破裂する 今走ってる? 何も食べてない? 食べるも無駄な チェックポイント ホイールなんて 疲れるだけよ ウィング選んで 進めばいいの 戸惑うトマト 与えられても 自分の頭 チェックポイント もし取るのなら 取れるのならば すべてTASならば 走るだけ (視聴)出来ぬのならば 出来ぬのならば すぐに戻るわ すぐに戻るわ 新陳するならば 新陳するならば 私の頭 不夜城レッド 頭のことも たまきのことも グルメレースも まだ知らないの 固い頭を 破裂するなら すべて上げるなら 「 頭 破 七 分 」 【東方頭破七分】ヴォオオヤージュ1992【エア本爆発祭】 【原曲】どぶウサギ 「弾奏結界 夢幻夜想曲」『Voyage 1969』 1992年はエア本さんの頭がパーン┗(^o^)┛した年号。 【東方頭破七分】信濃の町の眠れない夜 【原曲】どぶウサギ 「文弾奏結界 文花風師曲」『東の国の眠れない夜』 豆頁を爆発させる程度の能力? 【原曲】IOSYS 「東方月燈籠」『月夜を隠さない程度の能力?』 原曲の月夜→腋にちなんで、豆頁→頭となる。 グルメレース風遠野幻想物語に久本さんが乱入に動画をつけてみた 【原曲】東方妖々夢『遠野幻想物語』 グルメレースと融合したMAD。 あくまでグルメレース風であり、原曲をそのまま使っていない。 あたまっぱん 【原曲】Silver Forest 東方萃奏楽『つるぺったん』 ナレーション、女子部のシンクロ具合に注目。 東方原曲 久本雅美がリーインカーネイションに合わせて輪廻するようです 【原曲】東方夢時空『Reincarnation』 まさかの旧作出演。 おてんパーン恋娘 おてんパーン恋娘の頭が破チルノ【東方頭破七分】 【原曲】東方紅魔郷『おてんば恋娘』 後者のMADで途中に出てくる霊本さんはオノヅカセブンで使われたものである。 エア本 VS 犬作 in 東方+亡き犬作の為の法蓮華経 【原曲】東方紅魔郷『亡き王女の為のセプテット』 紅魔郷を改造して東方頭破七分のプレイ映像になっている。 スペカ、セリフ、弾、スコアなど細部に至るまで作りこまれている。 +動画内で使ったスペルカード 仏罰「遠いバージンロード」 赤符「千本動画増殖」 与党「公明党幻想」 三色符「トリカラーマイスタ」 「三色の犬作教」 開口一番「面白かったね」 だいさ⑨との激闘の末、久本雅美は創価に入信することになる。 騒価楽団 ~ Airmoto Ensemble 【原曲】東方妖々夢『幽霊楽団 ~ Phantom Ensemble』 女子部の手拍子の真骨頂が垣間見える良作。 幽雅に割れろ、墨染の頭 〜 Airmoto of Life 【原曲】東方妖々夢『幽雅に咲かせ、墨染の桜 ~ Border of Life』『ボーダーオブライフ』 ループする。 Ata - ma - Parntasia 【原曲】東方妖々夢『ネクロファンタジア』 女子部を執るアタマ妖怪。業界{ギョウカイ)を操る程度の能力を持つ。 最後まで再生すると0 06までループする。 +スペルカード一覧 開始「スキマから現れるエア本」 湯ッ栗「藍と橙のイ"エエ(゚∀。)┛」 漫才「動と静のFOO」 会合「僅かと時間の呪」 罔両「信濃町に棲むカルト」 罔両「ヒサモートとパーンの夢郷」 罔両「信濃町での神隠し」 「人間と妖怪の境界」 境符「現実と宗教の境界」 殺界「魅力的な頭部破裂」 廃人「ぶらり信濃町駅下車の旅」 幻巣「御本尊ネスト」 空餌「狂躁高速破裂物体」 空餌「中毒性のある信心」 外力「無限の超高速 頭破七分」 信心奥義「頭破決壊」 もう愛唱歌しか聞こえない 【原曲】東方永夜抄『もう歌しか聞こえない』 はせな氏(病気P)による誕生祭記念動画。原曲を入れ忘れたらしい。 プレインエアモト 【原曲】東方永夜抄『プレインエイジア』 けーねの能力にちなんでパーン動画の歴史が走馬灯のように流れていく。 動画内でだいさ⑨がスペカを使っている。 変色マスタースパーン 【原曲】東方永夜抄『恋色マスタースパーク』 削除されました。 いわゆる「ゆっくり饅頭」や「┗(^o^ )┓三」に似た ┗ノリ、゚ヮ ゚§┓三 が走っている。 狂気のエア本さん ~ Invisible Full Airmoto~ 【原曲】東方永夜抄『狂気の瞳 ~ Invisible Full Moon』 同じく消すと増える動画「狂気のイケメン ~ Visual Eiko Kano」の作者による誕生祭動画。東方頭破七分最高傑作との呼び声が高い。 神秘的な女子部のコーラスは観る者を圧倒する。受話器持ってイェ゙エエエするエア本さんの瞳はまさに狂気。 エア本さんがパーンした衝撃で津波が発生したようです 【原曲】東方永夜抄『竹取飛翔 ~ Lunatic Princess』 宇宙戦士バルディオスMAD。後半がバルディオスの映像に合わせた竹取飛翔MADとなっている。 信濃町まで届け、不死の久本 【原曲】東方永夜抄『月まで届け、不死の煙 ~ Brilliant Silkroad』 どうやらまだ未完成のようだ。 ご本尊様に叱られるから 【原曲】東方風神録『稲田姫様に叱られるから』 柴田姫様を励ませるから 運命の創価サイド 【原曲】東方風神録『運命のダークサイド』 ネイティブ久本 ヒサモトフェイス エアティブフェイス 【原曲】東方風神録『ネイティブフェイス』 最近ではエアティブフェイスが有名。 旧地獄街道を行くエア本さん 【原曲】東方地霊殿『旧地獄街道を行く』 吉幾三MADに次ぐ早さで投稿された。 創価のエア本信仰 ~ Parning Head 【原曲】東方地霊殿『霊知の太陽信仰 ~ Nuclear Fusion』 ☢HONZON!!☢ !!信心融解注意!! ☢HONZON!!☢ +スペルカード一覧 革命「頭破七分制御不能」 驚星「ビックリシター」 革熱「ニュークリアレボリューション」 創火「ヒサメテオ」 爆符「マチャフレア」 扉打「メテオノック・ドアー」 雅星「プラネタリーマイレボリューション」 会合「ニューシンシャ・フュージョン」 「ヘルズイヌサク」 「倉地極楽カルトダウン」 「信濃の信仰太陽」 「ヒサモトマサミサン」 エアヒサモート 【原曲】東方地霊殿『ラストリモート』 速本さんその2。マイレボリュー所に引き続き、ナレーションもラップを披露。 +スペルカード一覧 秘法「久字刺し」 奇声「ミラクルジョシーブ」 神徳「創価学会カルトシャワー」 女子部の洗脳合唱 【原曲】東方地霊殿『ハルトマンの妖怪少女』 ハルトマンMAD完成作としては一番乗り。洗練されたタイトル[カルトウーマンの妖怪老女]がタグで提案される。 +スペルカード一覧 表象「玄関に学会員総立ち」 表象「柴田パラノイア」 無意識「女子部のロールシャッハ」 反応「久本パーングラフ」 反応「学会ポリリズム」 深層「無意識の久本氏」 復燃「石川の勧誘」 本能「イドの革命」 抑制「スーパーアゴ」 「嫌われ者の創価学会」 「ヒサモトニアンロール」