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新聞書評(2021年総括) (朝日新聞)2021.12.25 (今年の3点) 1.阿古智子 東京大学教授 家族不適応殺 あし 『どんぐり喰い』 ペルフロム 県立 6FY91ヘル 市立J949ペ 『ニュージランド アーダーン首相』 世界を動かす共感力 チャップマン 県立 8F289.3ア 市立289ア 公 2.生井英考 アメリカ研究者 表象のベトナム、表象の日本 塩入 ベトナム:ドイモイと権力 増補 女が学者になるとき だ 3.犬塚元 法政大学教授 批評の教室 北村 ちくま新書 あ チャリティの帝国 金澤 あだこ いばらき原発県民投票 佐藤 4.江南亜美子 書評家 精霊に捕まって倒れる ファディマン し ウォーターダンサー コーツ あし 死ぬまでに行きたい海 岸本 あだ 5.大矢博子 書評家 『旅する練習』 乗代 県立 7Fノリ 市立913ノ 大学913.6N96t 六913ノ ヒロシマ・ボーイ 平原 あ 『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』 鈴木忠平 県立 7FX783.7オ 市立783ス 6.押切もえ モデル インドラネット 桐野 あしだろ 『ばにらさま』 山本 県立 7Fヤマ 市立913ヤ 六913ヤ サステイナブルに暮らしたい 服部 あ 7.温又柔 小説家 J・M・クッツェーと真実 くぼた 天路 リービ英雄 あだ 断絶 マー あしろ 8.金原ひとみ 小説家 もう死んでいる十二人の女たちと ソルメ あしだ 長い一日 滝口 あしだろ 『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』 ルーニー 県立 7F933ル 市立933ル 9.柄谷行人 哲学者 『学校、行かなきゃいけないの?』 これからの不登校ガイド 雨宮 6FY12ア 市立371ア 大学371.42A42g 六371ア 『アーミッシュの老いと終焉』 堤 県立 8F198.9ツ 市立198ツ 『ウィリアム・アダムス 家康に愛された男・三浦按針』 フレデリック・クレインス ちくま新書 大学1552 10.坂井豊貴 慶応大学教授 ひらやすみ 真造 『ビジョナリー・カンパニー ZERO』 コリンズ 8FN335コ 『TIME SMART』 お金と時間の科学 ウィランズ タイムリッチへ 青森 締切は延ばす。人材募集は休暇を売り込む 内省、文書化 重要だが、緊急でない事項はやる時間を確保する もし時間があったらリスト 5分、10分、30分、午後 11.須藤靖 東京大学教授 権力は腐敗する 前川 あし 実在とは何か ベッカー 中野のお父さんの快刀乱麻 北村 あしろ 12.戸部秀明 東京経済大学教授 藤井忠俊著作集 持たざる者たちの文学史 吉田 こ 江戸遊民の擾乱 平野 13.トミヤマユキコ ライター 『東京の生活史』 岸編 県立 8F361.7ト 市立361.7ト 大学361.78To46 公 150人の聞き手を公募 TBSラジオ公式読本 『一度きりの大泉の話』 萩尾望都 県立 8F726.1ハ 市立 14.藤原辰史 京都大学准教授 台湾、あるいは孤立無援の島の思想 呉 だ エリック・ホブズボーム エヴァンズ 『麻薬と人間』 100年の物語 薬物への認識を変える衝撃の真実 ハリ 県立 8F368.8ハ 大学368.83H33m 15.保阪正康 ノンフィクション作家 戦争障害者の社会史 北村 だ メルケル 世界一の宰相 マートン あし 清六の戦争 伊藤 あ 16.横尾忠則 美術家 サイコマジック ホドロフスキー だ Bowie's Books 人生を変えた100冊 オコーネル 運命の謎 三浦 17.石飛徳樹 本社編集委員 日本映画作品大事典 山根 沖縄観光産業の近現代史 櫻澤 『星新一の思想』 予見・冷笑・賢慮のひと 浅羽 市立910.268ホ 18.行方史郎 本社論説委員 プルトニウム フォンヒッペル 感染症疫学のためのデータ分析入門 西浦 『北極探検隊の謎を追って』 人類で初めて気球で北極点を目指した探検隊はなぜ生還できなかったのか ウースマ 県立 青森 市立297ウ 大学297.8U96h 19.宮地ゆう 本社社会部記者 『クララとお日さま』 カズオ・イシグロ 人工知能が人間性を乗っ取る 7F933イ 市立933イ 六933イ 『老人支配国家 日本の危機』 トッド 7FS304ト 市立304ト 公新書304To17 コロナ後の世界 内田 あ 20.読書面担当記者・福田宏樹 記憶の図書館 ボルヘス あ 寺山修司の<歌>と<うた> 齋藤 し モミッリャーノ 歴史学を歴史学する 21.読書編集長・村山正司 やさしい猫 中島 あしろ グッバイ・ハロー・ワールド 北村 あ ジョン・レノンをたたえて 堀内 (毎日新聞)2021.12.11, 18 (2021年この3冊) 1.村上陽一郎 科学史 『ヒトラー』 虚像の独裁者 芝 岩波新書 7FS289.3ヒ 大学1895 公 経済社会の学び方 猪木 中公新書 けあだこ 大分県先哲叢書 帆足万里 資料集 第3巻 物理学的内容の「窮理通」で有名な江戸時代の蘭学者 2.渡辺保 演劇評論家 演劇で<世界>を変える 鈴木忠志論 菅 け 『政治家の責任』 政治・官僚・メディアを考える 老川 県立 大学312.1O32s 『山川静夫の歌舞伎思い出ばなし』 県立 市立 3.持田叙子 日本近代文学研究者 鉄幹晶子全集 全40巻 け 芭蕉の風景 小澤 平成金融危機 初代金融再生委員長の回顧 柳澤 4.小島ゆり子 歌人 馬場あき子全歌集 姉の島 村田 けあしだろ 芭蕉の風景 小澤 5.○巣友季子 翻訳家 『シブヤで目覚めて』 ツィマ 7F983ツ 市立989ツ 『旅する練習』 乗代 県立 7Fノリ 市立913ノ 大学913.6N96t 六913ノ 『謎ときサリンジャー』 「自殺」したのは誰なのか 竹内 県立 市立930タ 六930タ 6.橋爪大三郎 社会学者 ニュー・アソシエーショニスト宣言 柄谷行人 けだ <世界史>の哲学 近代編1 <主体>の誕生、近代編2 資本主義の父殺し 大澤 けだ 『9条の戦後史』 加藤典洋 ちくま新書 7FS323.1カ 大学1569 7.中村桂子 JT生命誌研究館名誉館長 『無と意識の人類史』 私たちはどこへ向かうのか 広井 県立 野生性と人類の論理 卯田 『「木」から辿る人類史』 ヒトの進化と繁栄の秘密に迫る エノス 県立 市立652エ 8.池澤夏樹 作家 『「顔」の進化』 あなたの顔はどこからきたのか 馬場 県立 7FS469.4ハ 市立469バ 二人旅 上海からパリへ 趙 名護市安和区 安和誌 9.高樹のぶ子 作家 ドストエフスキー黒い言葉 亀山 あだ 神よ憐れみたまえ 小池 けあしろ 『めいたんていサムくんと なぞの地図』 那須 県立 7FJナス 市立913ナ 六913ナ 10.張競 明治大教授・比較文化 「敦煌」と日本人 榎本 けだ ハロー、ユーラシア 福嶋 『仲人の近代』 見合い結婚の歴史社会学 阪井 県立 市立385サ 11.江國香織 作家 わたしが行ったさびしい町 松浦 けあしだ 『テスカトリポカ』 佐藤究 県立 7Fサ 市立サト 大学913.6Sa85t 六913サ 公 今日でなくてもいい 佐野 けあ 12.伊東光晴 京大名誉教授・経済学 『世界のおすもうさん』 和田 県立 7FX788.1ワ 市立788ワ 日本の構造 橘木 講談社現代新書 けあだこ 『不確かさの時代の資本主義』 ニクソン・ショックからコロナまでの50年 宮川公男 力作 公332.53Mi76 超資本主義で民主主義が弱体化 13.渡邊十○子 詩人 長い一日 滝口 けあしだろ 『アメリカの 周縁 をあるく』 旅する人類学 中村 松尾 大学295.3N37a お人形の家 寿 いがらし 14.若島正 京大名誉教授・米文学 ジュリアン・バトラーの真実の生涯 川本 け 1つの定理を証明する99の方法 オーディング けだ 日本映画作品大事典 け(館内) 15.荒川洋治 現代詩作家 葉山嘉樹短編集 岩波文庫 だ 高田博厚=ロマン・ロラン往復書簡回想録『分水嶺』補遺 高田 し <降誕祭>作戦 ジヴァゴ周遊の旅 駆動 けあ 16.大竹文雄 大阪大特任教授・経済学 教養としてのグローバル経済 斎藤 けあしこ 医療崩壊 鈴木 講談社現代新書 ROCKONOMICS 経済はロックに学べ! クルーガー けだこ 17.中島岳志 東京工業大教授・政治学 『金子兜太』 井口 市立911.36イ 『土偶を読む』 130年間解かれなかった縄文神話の謎 竹倉 市立 大学210.25Ta62d 土偶は食料となる植物を霊として形どったもの。遮光土偶は里イモ。 まとまらない言葉を生きる 荒井 けあだ 18.佐藤優 作家、元外務省主任分析官 ドストエフスキーとの旅 亀山 だ 組織神学 第三巻 パネンベルク 『彼は早稲田で死んだ』 大学構内リンチ殺人事件の永遠 樋田 県立 県立 8F377.9ヒ 市立377ヒ 大学377.96H54k 19.飯島洋一 多摩美大教授・建築評論 ポスト・ヒューマニズム 岡本 エルサレム<以前>のアイヒマン シュタングネト けだ 『あまりに人間的なウイルス』 COVID-19の哲学 ナンシー 県立 大学498.6N48a 20.堀江敏幸 作家 長い一日 滝口 けあしだろ わたしが行ったさびしい町 松浦 けあしだ 言葉の人生 片岡 けあ 21.辻原登 作家 日本映画作品大事典 山根 け(館内) 剥製編 建畠 『ゴシックの解剖』 暗黒の美学 唐戸 県立 22.川本三郎 評論家 リングサイド 林 けあし 『スタジオジブリの想像力』 地平線とは何か 三浦 県立(館内) 8FA770ミ 大学A778.77Mi67s 巷の空 野口 けし 23.角田光代」作家 『つまらない住宅地のすべての家』 津村 県立 7Fツム 市立913.6ツム 大学913.6Ts74t じい散歩 藤野 けあしろ 『カンバセーションズ・ウィズ・フレンズ』 ルーニー 県立 7F933ル 市立933ル 24.湯川豊 文芸評論家 泡 松家 けあし 墨子よみがえる 半藤 けだ 婆娑羅大名 寺田 文春新書 け 25.伊藤あさ 東工大教授・美学 ケア宣言 岡野 ケアの倫理とエンパワメント 小川 哲学の蠅 吉村 あし 26.三浦雅士 評論家 言葉たちに 林 虚空へ 谷川 けあしろ Voix 吉増 27.加藤陽子 東大教授・日本近代史 新書版 性差の日本史 あ 少女たちの戦争 けあしろ 円 劉慈欣短篇集 劉 けあしろ 28.松原隆一郎 放送大教授・社会経済学 『リスク、不確実性、利潤』 ナイト 県立 公 ・p.15 初版序文 この本に根本的に新しいところはほとんどない。これまでなされてきた以上に、従来の経済的教義の根本原理をより正確に提示し、その含意をより明快に示そうとする試みを表したものである。すなわち、この本の目的は洗練であって再構築ではなく、「純粋理論」の研究である。 J.R.コモンズの制度的経済学 柴田 こ 新九郎、奔る! ゆうきまさみ 29.養老孟司 解剖学者 『昆虫館はスゴイ!』 県立 『デジタル時代の子育て』 年齢に応じたスマホ・パソコンとのつきあい方 グレックラー 県立 青森 市立379.9デ 『計算する生命』 森田 県立 市立410モ 大学410.4Mo66k 30.中島京子 作家 『クララとお日さま』 カズオ・イシグロ 人工知能が人間性を乗っ取る 7F933イ 市立933イ 六933イ ヒッピーのはじまり ペリー け 『人工島戦記』 あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科 橋本治 県立 7Fハシ 市立ハシ 31.藻谷浩介 日本総合研究所主席研究員 『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?』 国会議員に聞いてみた。 和田 立憲民主党小川淳也議員取材協力 県立 8F312.1ワ 大学312.1W12j 『日本酒がワインを超える日』 渡邊 県立 ワンオペJOKER 宮川 32.鹿島茂 仏学者 近代日本の美術思想 今橋 近代出版史探索 外伝 小田 け パリ日記 特派員が見た現代史記録 1990-2021 け 33.磯田道史 国際日本文化研究センター教授、日本近世・近代史 立花隆の最終講義 けあ 『人間であることをやめるな』 半藤 県立 7Fハン 市立 愛に始まり、愛に終わる 瀬戸内寂聴 けあし 34.本村凌二 東大名誉教授・西洋史 ヒュパティア ワッツ 『中世の写本ができるまで』 ハメル 県立 市立022ド 小説 イタリア・ルネサンス 塩野 あ 35.内田麻理香 東大特任教授・科学技術社会論 『ワクチンの噂』 どう広まり、なぜいつまでも消えないのか ラーソン 県立 8F493.8ラ 市立493ラ、 『エビデンスの社会学』 証言の消滅と真理の現在 松村 県立 大学361Ma82e 客観性 ダストン けこ 36.岩間陽子 政策研究大学院大学教授・国際政治 『生命海流 GALAPAGOS』 福岡伸一 県立 市立 六462フ ガラパゴスに行く ドイツ史 1800-1866 ニッパーダイ エリック・ホブズボーム 歴史の中の人生 エヴァンズ け 37.2021年日販・年間ベストセラー 人は話し方が9割 『スマホ脳』 ハンセン 県立 7FS491.3ハ 市立491ハ 大学491.37H29s 公 推し・燃ゆ 宇佐見 済 星ひとみの天星術 あし 『本当の自由を手に入れる お金の大学』 両@リベ大学長 7FK591リ 市立591リ 六591リ これはいい。 52ヘルツのクジラたち 町田 鬼滅の刃 塗絵帳 蒼、紅 『よけいなひと言を好かれるセリフに変える言いかえ図鑑』 大野 8F361.4オ 市立361オ 大学361.45O67y 六361オ 新採用向け・中堅どころも 呪術廻戦 逝く夏と還る秋 芥見 (読売新聞)2021.12.26 (2021年の3冊) 1.飯間浩明 国語辞典編纂者 『国語辞典を食べ歩く』 サンキュータツオ 県立 8F813.1サ 市立 自分の<ことば>をつくる 細川 好きを基準に文章を練る極意 戦争とバスタオル 安田 けあ 2.柴崎友香 マザリング 中村 けだ 『ミルクマン』 アンナ・バーンズ 2018年ブッカー賞 県立 7F933ハ 市立933バ 六933バ まとまらない言葉を生きる 荒井 けあだ 3.加藤聖文 歴史学者・国文学 研究資料館准教授 国家の解体 塩川 ソ連崩壊の過程。筆者は研究者の手本 死者の力 高橋 けあ 『嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか』 鈴木忠平 県立 7FX783.7オ 市立783ス 4.長田育恵 劇作家 『レストラン「ドイツ亭」』 ヘス アウシュヴィッツ裁判の物語 県立 7F943ヘ 市立943ヘ 消失の惑星 フィリップス カムチャツカ半島が舞台の小説 けあしろ ここに物語が 梨木 けあし 5.南沢奈央 女優 夜が明ける 西 けあしろ 正欲 朝井 けあしだろ 『九十八歳。戦いやまず日は暮れず』 佐藤愛子 県立 7Fサト 市立914サ 六914サ 6.稲野和利 ふるさと財団理事長 木曜殺人ミステリ オスマン けあしろ 『空鉄』 諸国鉄道空撮記 吉永 鉄道を空から 県立 8FA680ヨ 市立686ヨ 六686ヨ ニュースの未来 石戸 7.梅内美華子 『つながり続ける こども食堂』 湯浅 県立 8F369.4ユ 市立369ユ 六369ユ 生る 中村桂子 宮沢賢治から共生の可能性を考える け 世阿弥最後の花 藤沢周 けあしろ 8.苅部直 政治学者 東京大教授 天路 リービ英雄 けあ 『東京ヴァナキュラー』 モニュメントなき都市の歴史と記憶 サンド 戦後史 県立 大学213.61Sa62t 『「女性天皇」の成立』 高森 県立 7FS313.6タ 大学313.61Ta44j 9.佐藤信 古代史学者 東京大名誉教授 『日本列島四万年のディープヒストリー』 先史考古学からみた現代 森先 市立210.2モ ・ごみ問題、災害対応、人口問題は定住化に伴うもの。 倭国 古市 5世紀の状況 あ 都鄙大乱 高橋 源平合戦の社会激動の全体像 けあろ 10.橋本倫史 ノンフィクションライター 『聖子』 新宿の文壇BAR「風紋」の女主人 森 文壇バー風紋 太宰のメリイクリスマスのモデル 県立 8F289.1ハ 市立289ハ プカプカ 中部 『東京の生活史』 岸編 県立 8F361.7ト 市立361.7ト 大学361.78To46 公 150人の聞き手を公募 11.栩木伸明 アイルランド文学者 早稲田大教授 『ケルト人の夢』 マリオ・バルガス=リョサ 県立 7F963ハ 市立963バ 六963バ コンゴとアマゾン先住民に対する植民地主義の罪を告発したアイルランド人にして大英帝国の外交官ロジャー・ケイスメント 旅する少年 黒川 けし 『描かれた器』 絵画と文学のヨーロッパ陶磁 大平 ヨーロッパ陶磁器 県立 8F751.3オ 市立751オ 12.木内昇 作家 『クララとお日さま』 カズオ・イシグロ 人工知能が人間性を乗っ取る 7F933イ 市立933イ 六933イ 泳ぐ者 青山 けあしろ 板目・柾目 西川 けし 13.瀧澤弘和 経済学者 中央大教授 わからないまま考える 山内 けし きみの体は何者か 伊藤 けあこ 社会主義の理念 ホネット け 14.仲野徹 生命科学者 大阪大教授 もうあかんわ日記 岸田 あだ 『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?』 国会議員に聞いてみた。 和田 立憲民主党小川淳也議員取材協力 県立 8F312.1ワ 大学312.1W12j 辛口サイショーの人生案内DX 最相 あ 15.橋本五郎 特別編集委員 文明の庫 芳賀 幕末から明治 けし 評伝 福田赳夫 五百頭 けあだ 私たちはどこから来たのか 木村 あ 16.国分良成 国際政治学者 前防衛大学校長 『暁の宇品』 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ 堀川 軍隊の失敗談 下支えの仕事や民間を軽視したことが原因 県立 8F396.7ホ 市立396ホ 大学396.7H89a 米中対立 佐橋 けあだ 歴史認識を問う 天日 17.中島隆博 哲学者 東京大教授 『路上のポルトレ』 森 県立 7Fモリ ギリシア哲学史 納冨 始まり。エジプトの意義 けだこ 「現成公按」を現成する 奥村 世界基準の道元解釈の醍醐味 18.小川さやか 文化人類学 立命館大教授 感情史の始まり プランパー だ 風土自治 中村 け 『NEO HUMAN ネオ・ヒューマン』 究極の自由を得る未来 スコットモーガン 8F289.3ス 市立289ス 19.宮部みゆき 作家 『テスカトリポカ』 佐藤究 県立 7Fサ 市立サト 大学913.6Sa85t 六913サ 公 ブランクスペース 熊倉 ぜんしゅの跫 澤村伊智 あし 20.尾崎真理子 早稲田大教授 本社調査研究本部客員研究員 言葉たちに 平林 頁をめくる音で息をする 藤井 し 葛原妙子歌集 川野 21.番外編 読売堂店主 星を掬う 町田 けあしろ 結 妹背山婦女庭訓 大島 波模様 けあしろ、 『Humankind 希望の歴史』 人類が善き未来をつくるための18章 ブレグマン 県立 8F204フ 市立204ブ 大学204B72h (日経新聞)2021.12.25 (回顧2021 私の3冊) 1.北上次郎 文芸評論家 同志少女よ、敵を撃て 逢坂冬馬 アガサ・クリスティ賞 けあし 高瀬庄左衛門御留書 砂原 傑作 けあしだろ 日々翻訳ざんげ 田口 け 2.野崎六助 評論家 「探偵小説」の考古学 メサック 1世紀前の幻の名著 けこ マルペルチュイ レー ベルギーの幻想派 け 機龍警察 白骨街道 月村 けあし (機龍警察 けあし:『機龍警察』けあし、『機龍警察』完全版 あし、『機龍警察 自爆条項』けあし、『機龍警察 自爆条項』完全版み、『機龍警察 暗黒市場』あ、『機龍警察 未亡旅団』あし、『機龍警察 火宅』あし、『機龍警察 狼眼殺手』けあし、『機龍警察 白骨街道』けあし、 3.縄田一男 文芸評論家 海坂藩に吹く風 湯川 藤沢周平の評伝 ろ 陪審員C-2の情事 シメント ミステリー あ 血湧き肉躍る任侠映画 永田 け 4.速水健朗 評論家 『チャイニーズ・タイプライター』 漢字と技術の近代史 マラニー 中国での対応 県立 大学582.33Mu29c 問題の女 平山 本荘幽蘭の評伝 けし 『スニーカーの文化史』 いかにスニーカーはポップカルチャーのアイコンとなったか スミス きっかけはニューヨークの大規模スト 県立 7FP589.2ス 大学589.75Sm5s 5.入山章栄 経営学者 『プロセスエコノミー』 あなたの物語が価値になる プロセスの透明化・ストーリー化が訴求力に 市立336オ 制作プロセスの公開 LISTEN マーフィ 傾聴 あ 定額制夫のこずかい 吉本 6.小谷真理 ファンタジー評論家 『一度きりの大泉の話』 萩尾望都 当時の舞台裏 県立 8F726.1ハ 市立 まぜるな危険 高野 けあしろ 時の子供たち チャイコフスキー 昆虫型文明とのコンタクト あ 7.竹内薫 サイエンス作家 数学ゴールデン 蔵丸 マンガ 『早すぎた男 南部陽一郎物語』 時代は彼に追いついたか 中嶋 県立 市立289ナ 『絶対に面白い化学入門 世界史は化学でできている』 左巻 8F430.2サ 市立430サ 六430サ 8.陣野俊史 批評家 ジュリアン・バトラーの真実の生涯 川本 小説 『TOKYO REDUX』 ピース 下山事件 県立 7F933ヒ 市立933ピ 六933ピ ディエゴを探して 藤阪 9.藤島太 スポーツライター 闇を泳ぐ 木村 けし ダンプ松本『ザ・ヒール』 平塚 『大相撲と鉄道』 木村 県立 7FS788.1キ (経済図書ベスト10) 1.『ナラティブ経済学』 経済予測の全く新しい考え方 シラー 県立 公 2.バブルの経済理論 桜川 だこ 3.『監視資本主義』 人類の未来を賭けた闘い ズボフ 市立007ズ 公 監視社会主義・監視共産主義? 監視資本主義では、人間に関する情報の流れを自動化するだけでなく、人間の行動を自動化することが目的となっている。p.8 監視資本主義者は行動の経済の必要性に気づいた。行動修正の手段の継続的な強化を強いられている。p.389 4.『ジョブ型雇用社会とは何か』 正社員体制の矛盾と転機 濱口 誤解を正す 岩波新書 県立 7FS366.0ハ 市立366ハ 大1894学 公 5.平成金融危機 柳澤 6.『資本主義だけ残った』 世界を制するシステムの未来 ブランコ・ミラノヴィッチ 県立 8F332.0ミ 大学332.06Mi26s 公 米国のリベラル能力資本主義と中国の政治的資本主義 7.『サラ金の歴史』 消費者金融と日本社会 小島 中公新書 県立 7FS338.7コ 大学2634 8.第三の支柱 ラジャン だこ 9.『子育て支援の経済学』 山口 県立 8F369.4ヤ 市立369ヤ 大学369.4Y24k 10.『実力も運のうち』 能力主義は正義か? サンデル 格差 県立 8F361.8サ 市立361.8サ 大学361.8Sa62j 公 メリトクラシーの弊害。(解説 本田由紀)メリトクラシーは能力主義と訳されているが、功績主義という意味の方が原義に即している。 (年間ベストセラー 2021) 1.人は話し方が9割 あしだこ 2.『スマホ脳』 ハンセン 県立 7FS491.3ハ 市立491ハ 大学491.37H29s 公 3.推し、燃ゆ 4.星ひとみの天星術 5.本当の自由を手に入れる お金の大学 6.52ヘルツのクジラたち 7.鬼滅の刃 塗絵帳 8.秘密の法 大川隆法 9.『よけいなひと言を好かれるセリフに変える言いかえ図鑑』 大野 8F361.4オ 市立361オ 大学361.45O67y 六361オ 10.呪術廻戦 行く夏と還る秋
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他者性とは、差異や異質性を指し、しばしばこれらの言葉と互換的に用いられる。17世紀フランスの哲学者ルネ・デカルトRené Descartesは、とりわけ自らの権利の中において「(大文字の)他者Other」の理解をすることに特に留意し焦点を絞った文化的・歴史的なアプローチに向けて、「他者」理解を基礎付け確立した。そもそも他者性の概念はデカルトの「自己self」に見られる哲学的意味を有していたわけだが、いまや、カルチュラル・スタディーズにおけるものへと変化を遂げている。前文に見られるように、概念自体のこうした変容は、大文字の使用か否かによってしばしば区別される。たとえば、「大文字の他者Other」の形は、欲望やG.W.Gヘーゲルの著作に関心を抱いていた精神分析家ジャック・ラカンによって踏襲されてもいる(アイデンティティidentityの項を参照)。カルチュラル・スタディーズにおいて、「他者性」は人種、エスニシティー、ジェンダー、階級といった諸差異をめぐる問題とより深い関係がある。また、ポスト・コロニアル研究(ポスト・コロニアルpost-colonial /ポストコロニアリズムpostcolonialismの項を参照)において用いられるサバルタンの概念は、イタリアのマルクス主義思想家アントニオ・グラムシ(Gramsci 1971を参照)から採用されたものである。サバルタンとは、支配者層であるエリート階級との相違によって規定されるものであり、ポスト・コロニアルの理論上では、被支配者層の固有社会(indigenous societies?)と彼らの文化を指す。 文化的意味において、「他者性」は、ルネッサンス以降のヨーロッパ社会で禁じられつつも欲望された集団、例えば、女性、エクゾチックな集団exotics、ボヘミア人bohemians、未開人、および農民と関係がある。このような文脈では、古典派時代のコンサート音楽において、ワルツに続きメヌエットを使用をすることで「分別のある中産階級は、堕落した上流階級の不穏な魅力と同時に、素朴な庶民的魅力にも折り合いをつけていた」と解釈することもできる(Middleton 2000a、63頁)。 ひいては、ソナタ形式(analysis分析の項を参照)も、結果的に差異の表現を助長し「男性的」第一のテーマに対し、第二のテーマは「女性的」と慣例的に言われてきた(ジェンダーgenderの項参照)。また、調性体系自体が差異を反映しても言える。周知のとおり、モーツァルトは『後宮からの逃走Die Entfuhrung aus dem Serail(1785-86)』のトルコ人の登場人物、オスミンの激怒を表現するさい、調性を慎重に選択した(Kivy1988)。 まさに他者性に関係がある研究分野と言えば、―少なくとも西洋的観点から言えば― おそらく民族音楽学であろう。フィリップ・ボーマンPhilip Bohlmanは、1950年代を通して民族音楽学がいかに非西洋の音楽を「(大文字の)他者Other」として考慮するという態度から新しい展望へと移行したか、次のように概説している。 :音楽の解釈学的(解釈学hermeneuticsを参照)可能性は、ほかのあらゆる音楽― ましてや西洋音楽とは何の関係も持たない―その音楽の独自性の中に、その結実の中にこそあるべきである。…まさにこうして「規範」は逆転した。そこでは、真の「(大文字の)他者Other」の音楽とは、西洋の芸術音楽である…西洋の芸術音楽の「規範」に反発するよりは、むしろより多くのさらに魅力溢れる非西洋音楽の「規範」の方へと目を向けることの方が重要であった。(Bohlman 1992、121頁) この引用は、音楽の規範形成にとって、差異の認識と他者の排斥こそが中心的なものであるという事実を示している。ボウマンは、音楽学の研究分野は、幾多の西洋の単一規範を根底に抱える人種主義、植民地主義および性差別を隠蔽する、と言う…規範は、「偉大な人間Men」から生み出され、「偉大な音楽Music」は「自己self」と「他者Other」の事実上、論破できない区分を創出した。「自己」は、規律のもとに単一化され、「他者」は、過少評価の末、非難されるためであった(前掲書、198頁)。 英国の音楽学者リチャード・ミドルトンRichard Middletonは、とりわけ西洋のクラシック音楽の形式上の「(大文字の)他者」としてのポピュラー音楽(ポップ・ミュージック?)という意味合いでこの議論をさらに発展させた。彼は、「ブラック・アトランティックBlack Atlantic」で展開されているポール・ギルロイPaul Gilroyのモダニズムの発展における役割という観点からの黒い「他者Other」の概念を援用することで、論を進める。ミドルトンは、ギルロイの着想をさらに「低い大西洋」という一考察にまで拡大し、エリート階級に対し大衆を対置してみせることで、「低いこと」と「黒いこと」が、そこでどのように相互に関連しているのかを思考した。ここでミドルトンは、音楽における「他者性」に2つのアプローチを提案する。1つは、ワーグナーが差異そのものを文体上統合し、音楽言語に転化させ、北欧神話を設定することで体現したような、同一化であり(スタイルstyleの項を参照)、他方は、「(大文字の)他者」が「明白な社会的差異の範囲で外面化される」場としての抵抗と投影である。 こうしたことは、「農民舞曲」、「民謡Volkslieder」、「ボヘミンアン・ラプソディー」、あるいは「スコットランド」地方や「スラヴ」地方のキャラクター・ピース(性格的小品)、「農園歌」といったその他もろもろの19世紀のレパートリーの限りない魅力を根拠づける戦略にほかならない。これらの同一化と投影の戦略は、ブルジョア的な自己権威の中に無限の差異によって引き起こされた潜在的な脅威を管理するとともに、そのような差異を安定した階層構造へと還元させることを目的としていた。(Middleton 2000a、62頁) ミドルトンは、モーツァルトのオペラ「魔笛」(1791)を取り上げて、高い(high)登場人物が、多様な低い(low)登場人物、例えば、「女性や「ムーア人」のモノスタトスと奴隷の人々として表象された黒人、そして滑稽な鳥射しパパゲーノとしての庶民」(前掲書、64頁)によって、いかにバランスを保たれているかに注意を促す。啓蒙主義の人間性を尊重する欲望、その切望と限界を明らかにしているにもかかわらず、オペラ全体を通じて、まさに社会集団と個人のヒエラルキーが規定されている。しかも彼はジャズにおける、デューク・エリントンDuke Ellingtonの「ジャングル・スタイル」の開拓をも考察した。ジャングル・スタイルは、白人を魅了したエキゾチックな魅力と「黒人の庶民的な嗜好に根を下しつつもヒップや異種混淆的な現代的芸術であるビバップ」(前掲書、73頁)を志向する都市ジャングルのサブカルチャー様式subculturalismとを結びつけるものであった」。Bernard Gendronはさらに、「他者性」に関するディスコース(ディスコースdiscourseの項を参照)がジャズやポピュラー音楽(ポップ・ミュージック?)で使用される前衛的表現を構成することを促した経緯も分析した(Gendron 2002)。 西洋音楽に見られる差異の区分は、ニュー・ミュジコロジーの学者の著作によって重要視され始めた(ニュー・ミュジコロジーnew musicologyの項を参照)。ある学者は、19世紀の作曲家が、どのように調性・表現・主題の構造的に異なる方法を持って自身の音楽領域を特徴付けていたのかを考察した。アメリカのフェミニスト音楽学者Ruth Solieは、音楽学者にとって重要な問いは「日々の生活で我々が理解し、制定している差異は、ど の よ う に 社会生活や文化によって構築されているのか」であると指摘する(Solie 1993、10頁)。この一連の検討に関して言えば、スーザン・マクレアリSusan McClaryのブラームス第三交響曲(1883)に関するナラティブ・アジェンダの議論を一例として挙げることができる。マクレアリは、不協和とみなされている「他性的」な調性は「統一されたアイデンティティの邪魔になって」、「最終的に、物語閉鎖のために抑制されなければならない」(McClary 1993b、330頁)とする。マクレアリは、19世紀において不協和の調性が頻繁に使用されることになったことを、「当時広く行き渡っていたロマン主義的な反権威主義」(前掲書、334頁)と結びつけ、その作品は概して、「英雄主義、冒険、争い、征服、自己selfの形成、「(大文字の)他者Other」への脅威、そして19世紀末期のペシミズム」 (前掲書、343頁)について語る資料であるとまとめる。 また、「他者性」はスタイルや音楽言語、さらに芸術家の受容の差異をも含意することもあり、ヘンデルやシューベルトといった作曲家が同性愛者であったか否かを研究する学者達を生み出した(Thomas 1994; McClary 1994; ゲイ・ミュジコロジーgay musicologyを参照)。十分に裏付けられた例としては、作曲家自らが他の芸術家や社会とは異質であると感じていたと言えよう――フィリップ・ブレットPhilip Brettは、ベンジャミン・ブリテンBenjamin Brittenが一生涯感じ続けた疎外感をめぐってとりわけ貴重な研究を成した(Brett 1993)。亡命生活を強いられた作曲家は、差異の感覚を必然的に経験するものだ。そして、Peter Franklinはおよそ1940年頃、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、ラフマニノフ、コルンゴルトといった多様な作曲家の家とも言うべき都市、ロサンゼルスの例外的な力に関して考察した(Franklin 2000)。価値が制定され異質の環境と結びついたように戦前のヨーロッパ音楽の価値(価値valueの項を参照)が魅力的な混合であり、映画音楽作曲家、コルンゴルトによって感受されたような差異の感覚(場所placeの項を参照)をこの研究は顕在化させた。 自らが音楽実践の周縁に置かれていると実感した作曲家や音楽家は、彼ら自らの周りを取り囲んでいる障壁を突き崩そうとするだろう。――この主張は、20世紀にニューヨークのヒスパニックの音楽家と同様に、女性の作曲家にも適用できる。それでこそ、彼ら自身の人生期において、自らは外側に位置していると感じていたにもかかわらず、現に今となっては、中心として認められるようになった、例えばワーグナー、エルガー、マーラーという作曲家にさえ、議論は及ぶかもしれない。中心であるか周縁であるかの判断は、歴史につれて不断に変化するものという視点を忘れてはならない。 更に詳しく:McClary 1992; Street 2000 サバルタンについては、(下級者)とでも付記しとくと知らない人が読みやすいかも。exoticsは異境人、bohemiansはボヘミアン(ジプシー又は《ラ・ボーエム》的文脈で)の方がベター?「ブラック・アトランティック」はここでは書名ではなく概念名として登場しているから、「黒い大西洋」として、その後の「低い大西洋」と対比させても良いかも。discourseとnew musicologyは用語統一の頁には「言説」「新音楽学」とあり。終わりから3段落目のRuth Solieの引用で「ど の よ う に 」となっているのに何か意味は?終わりから2段落目最終文、意味不鮮明。最終段落「20世紀に」は「女性の作曲家」だけにかかっている様な気が。 -- Nemoto (2008-1-14 21 43 17) 終わりから3段落目の"narrative agendas(「物語のアジェンダ」の方が?)"を巡るくだり:マクレアリは、不協和として登録された「他者としての」調性が、「アイデンティティの統一の前に立ちはだかって」おり、「最終的に、物語の終結のために打ち倒されなければならない」と指摘する。 -- Nemoto (2008-1-14 21 52 11) 名前 コメント
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2011年05月03日 (火) 02時52分 - 黒木三蔵 (夜、うつくしい魂は涕いて、 ――かの女こそ正当なのに―― 中原中也) 夜、美しい魂は涕いて――かの女こそありきたりなのに――、夜、美しい魂は涕いて、もう死んだっていいようと呟くのであった。とはいえ彼女が自ら命を絶つことなど決してないのである。自殺とは果たして自らを殺すことなのか、それとも犯罪者なき殺人なのだろうか。ふとそんな疑念に煩わされることもあったが、この頃においてはさして問題でもないのだと思うようになった。それよりも注視すべきは死を固定項に閉じ込めようとする全くの別の意志についてなのである。幼い日々より独り遊びが得意ではあったが、孤独そのものと上手な関係を結ぶことができるようになったのは中学卒業の間近になってからだ。彼女にとって憂鬱や哀しみが排他的ではなく、寧ろ肯定的かつ包括的な機能を持つということはもはや珍しいことでもない。自らの身体の表面で、それらの感情、というよりは機械を運動させることは一つの悦楽である。彼女は独りになることを覚えた。誰もいないところで笑い、意味もなく路上を駆け、仄明るい部屋で静かに無為なるままに過ごすことを知り、そうした時間を大事にするようになった。特に夢想を縦横無尽に張り巡らすことは、場所や時を問わず彼女を楽しませる。多様な表象が絶えず相結びつき、自らの皮膚の上を滑って行く。やがて意識はそれ自身に対しても指向性を持つようになり、すると身体の輪郭が失われていくような、そんな錯覚に陥るのだ。彼女は自我なるものが融け、かの同一性なるものも分裂し、外的な事物と未分化するその感触を好んだ。それは偏在の悦びだった。 そこにおいて彼女は性別を持たないか、或いは両性具有者なのである。生物とは本来的にそういうものなのだろう。社会体か乃至言語上において女性は男根を去勢され、男性は子宮と卵巣とを去勢されている。だがそれは飽く迄それを強要する力の下においてにしか過ぎない。事実彼女は、こうした悪意から自らを遠ざけることを体よく学んだ。子供は皆孤児である。そこで彼らから孤独を奪おうとするのは、畢竟教育学者の関心だ。多くの場合、その企ては成功する。孤独者はまるで永遠に外部にいるかのようであり、健康であるとは秩序の内部における生活それ自体に他ならなくなる。だが実際の単独者とは内部と外部を自由に行き来する一人の軽業師であり、体系とは全体の包括というよりも寧ろ境界線そのものだ。彼女は言語を攪乱する術を知っていた。そして憂鬱は全てを自らに接続する一機械であった。彼女においては女性性が幾らか上回っているだけで、自分の中にも男性が潜んでいることを知っていた。だからといってそれを禁忌であると感じ、穢であると思うことなぞ有り得なかった。寧ろ性の錯綜とは、去勢によって始まるのではないか。そんなことさえ考えていた。 そしておそらく、去勢手術の際に残滓として生み出されるのが自我なのではないか。彼女はいつだってこの自我たる者に煩わされてきた。孤独である権利を奪い、不必要な項ばかりを押し付け、時に極端な選択を迫るのはまさにこれなのだ。諸々の機械を安定化した流れの中に放り込み、結果としてその機能を破壊してしまう。全ての事物は排他的となり、目的と原因、全体と外延においてのみその存在を得ることとなる。ここにおいて憂鬱は明確な要因を含有せねばならないし、哀しみや苛立ちは対象を持たなければならない。元々そんなものはなかったにも拘わらず、である。憂鬱は自ずと繁殖を続ける植物であり、それを統べる者や強制する者はどこにもいない。感覚はそれ自体が包含的な独身者であり、つまり哀しみは吐き気であると同時に頭痛であり、眩暈であり、憤怒であり、それは懐疑的な義侠心であって、而して悦びなのである。感情は決して別々の多項により成り立つものでなく、寧ろ互いに侵犯し合う強度なのだ。どうしてここに外部からの因子が入り込むのだろうか。またいつ他者を対象に据えるというのだろうか、かかる強度は常に変化し接続を繰り返す巨大な無意識だというのに。憂鬱が否定的な陰翳を持ち始めるのは、まさにこの意味においてなのである。つまり憂鬱そのものが対象化されて硬化した項の中に閉じ込められた時、悲劇は始まるのである。常に劇作家はこうした策略を練っているのだ。本来、全ての対人関係は一時的な隣席の繋がりでしかない。併し実際にはその繋がりは引き伸ばされ、あらゆる場所に残骸を振り撒き、かくして自己同一化を企てている。或る日、彼女はあらゆる垣根を跳び越えて闊達に歩き回る一人の少女であった。だが自己同一性は、それを不健全なる傾向として、若しくは青年期の悩みや倒錯の一般的帰結として解決しようとするのである。だが出発点においてどこにも問題は与えられていなかった。 彼女に生と死との命題を与えるのも自我の業である。大衆が孤独の領土を侵犯し言語が翻訳を制圧する時、倒錯の奸計は成功するのである。彼女は自らが損なわれつつあるのを知っていった。少なくともそれは問題ではなかった。だが他者がここに入り込むと話は全く変わってしまう。彼女の身体は小さな箱の中に押し込められ、関節は不自然に曲がり、細胞は刻々と腐っていく。自我は時として最も身近な他人であり、それは能動的な無為や繁茂する意志の表面を削り取ることに長けている。しかもそうしたことは全てまず侵入により始まるのだ。彼女はふとした瞬間から目的の欠如を気にかけるようになり、時間や因果律のパラドックス、その陥穽へと自ら落ちていく。それは本当に何のきっかけもなく起こり得る。或る夜彼女は独りで部屋の椅子に腰をかけていた。彼女は孤独であるが故に健康であった。併し気付けば涙が頬を伝い、自分が惨めで薄汚い矮躯を曝け出しているとしか考えられなくなってしまう。どうしてかかる事象が起こるのかは分からない、というのも原因とは常に後から挿入される項に他ならないからだ。だがここで問題となっているのは、突如として欠如なるものが現前することである。而して因子と結果の概念を用いることは当然不可能なのだ。彼女は諸々の欠如の上を反復するようになる。身体は手荒く揉みくたにされ、猜疑ばかりが増幅する。自我は彼女を裁判にかけ、弁護士を与えないままその罪を洗いざらい糾弾する。そして最後には遂に究極の問題、死刑か無罪かを問い質すようになるのである。陪審員は皆総じて死刑を要求する。彼女もまた、救われるのであれば死をも欲するようになる(おお我が御神よ、仏陀、乃至は阿弥陀如来様、私は悪い人間でした。今漸くそれに気付かされたのです)。だが別の場所で、これらを総じて根本より斥けろと反駁する声が上がる。罪なんてどこにもありはしなかった、ただ判決があるばかりだ。彼女は罪を犯さなかったのではなく、寧ろその穢において潔白なのだ。而して弾劾裁判が始まるが、そこに裁判員はおらず、聴衆もおらず、被告すらもいない。ただ裁判所の機能を断絶する為にのみそれは開かれている。かくして残る問題は生と死のみである。自我は改めてこう宣告する、お前は生きなければならないのだ、生きることは義務に他ならないと。しかも彼女は実際としてそれを知っているのである。生きることは権利ではない。だがそれを欲することにより、即ち肯定することによってのみ、生はその様相を変え行為そのものとなるのである。そしてここにおいて死は生の極限ではない。なぜならば死もまた生なのである。彼女は死を欲するが、それは自我における手法と全く形式を異にしており、それは生を望むのと同値なのだ。そして生もまた孤独者であり自我の侵入を拒むものであれば、このことは死についても適用されねばならないだろう。彼女は抑圧を企む全ての言語を遠ざけ、或いは自らをそこから隔離する。憂鬱、悦楽、性などが畢竟身体を横断するものとして保存され、それそのものを縛する他者の目から隠される。斯かる上に彼女は生それ自体を生き、死を許容することとなるのだ。この時彼女の身体の上に精神や器官なぞは存在しない、ただ輪郭だけが、透明色の輪郭だけが残されているのである(即ちこれは言語の勝利であろうか、或いは彼女の敗北であろうか、否、否、否、否否否否否否否否)。 在りし日の事である。彼女は土手の上に立っていた。それは夜の出来事であり、周囲はしんとして誰もいなかった。足許には短い雑草が茂り、所々でその下の黒い土が剥き出しになっていた。目の前にはかつて通っていた中学校があり、近くに電燈は疎らで、街中においてそこだけが一段階暗かった。彼女は過去に何度も往復した坂を見下ろし、それから校舎の壁を見遣った。殆どの窓の向こうでは灯りが落とされていたが、一つだけまだ明るい部屋があり、そこだけが暗闇の中ぼうと浮かび上がっていた。時折湿り気を帯びた風が吹き、木々の梢がその度に揺れた。彼女は何も思い出してはいなかった。通っていた学校はもはや見慣れぬ建築物となってしまっていた。二つの棟を繋ぐ渡り廊下や、校舎からグラウンドへ続くあの細い道を自分が歩いていたのだと思うと、彼女には可笑しな心地がした。彼女は校内の随所に自分が歩いているのを見つけた。併しどうしてもそれは他人事のようにしか知覚することができなかった。彼女は俄かに、かつての自分が現在たる時間を侵そうとしているのではないかという奇妙な焦燥に駆られた。実際それは容易に起こり得そうであり、しかも一度隆起すると過去は奔流となって一斉に押し寄せてくるに違いないのである。彼女は土手を立ち去った。由のない疚しさが背骨に絡みついた。 かつて彼女は一切の悦びだった。自恃さえあれば良いのだ。そう呟きながら彼女は肥大する自尊心を、腫瘍の如く身体に張り付くそれを恨んでいた。全てを失い、以て実在を手に入れた。彼女は兄姉を知らぬまま育った妹であった。 少女がいま校庭の隅に佇んだのは 其処には花畑があつて菖蒲の花が咲いてるからです 菖蒲の花は雨に打たれて 音楽室から来るオルガンの 音を聞いてはゐませんでした しとしと雨はあとからあとから降つて 花も葉も畑の土ももう諦めきつてゐます その有様をジツと見てると なんとも不思議な気がして来ます 山も校舎も空の下に やがてしづかな回転をはじめ 花畑を除く一切のものは みんなとつくに終わつてしまつた 夢のやうな気がしてきます (一、二行目:「妹よ」中原中也、『中原中也全詩集』角川文庫。 最後より十二行(空行含まず):「少女と雨」中原中也、同上)
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概説 知識論法 三種類の応答タイプA タイプB タイプC 派生問題 概説 マリーの部屋(英:Mary s Room)、またはスーパー科学者マリー(英:Mary the super-scientist)とは、1982年にフランク・ジャクソンが提示した物理主義、特に機能主義を批判する内容の思考実験である。 マリーは聡明な科学者であるが、なんらかの事情により、白黒の部屋に閉じこもり、白黒のテレビ画面を通してのみ世界を調査している。彼女の専門は視覚に関する神経生理学であり、我々が熟したトマトや晴れた空を見るときに感じる「色彩」についての全ての物理学的、神経生理学的情報を知っている。また「赤い」や「青い」という言葉が我々の日常生活でどのように用いられ、機能しているかも知っている。さて、彼女が白黒の部屋から解放されたり、テレビがカラーになったとき、何が起こるだろう。彼女は何か新しいことを知るだろうか? マリーは「色彩」を経験し、「赤」や「青」などのクオリアの存在を知るはずである。ならばクオリアというものを除外した上で成り立っている物理主義は間違っている、というのがジャクソンの主張である。 ジャクソンによれば、物理主義とは「全ての情報は物理的情報である」という立場である。これにはクオリアは物理的情報ではない、という含意がある。 注意すべき点であるが、思考実験でジャクソンが批判した物理主義とは、1980年台に主流であった機能主義を指しているということである。機能主義では、心的状態とは客観的に観察可能な「機能」であるとされ、私秘的な現象的側面(クオリア)は除外されているのである。この機能主義の問題点については、既にネッド・ブロックやジョン・サールが独自の思考実験で批判していた。ジャクソンの思考実験もこのような機能主義批判の流れに位置づけられるものである。しかしながらブロック、サール、またジャクソンも、広い意味では物理主義者であり、物理学そのものを否定しているわけではないのである。 知識論法 このタイプの思考実験は「知識論法(Knowledge Argument)」と呼ばれる。マリーは新たにクオリアの知識を得たのだから、心的な状態については神経生理学的な説明で全て事足りる、と主張する物理主義は誤っていることになるからである。ただしジャクソンがいう物理主義とは、全ての知識は物理的事実についての知識のみであるとする認識論的な意味での物理主義であって、あらゆる事物は物理的であるとする存在論的な意味での物理主義ではない。 しかしジャクソンの意図にも関わらず、知識論法には存在論的な含意を読み取ることができ、デイヴィッド・チャーマーズは後にマリーの部屋を発展させた哲学的ゾンビの思考実験によって、存在論的にも物理主義を批判することになる。 すなわちマリーの部屋の思考実験で問題とされるのは、物理的現象とクオリアの知識は異なるものかという「認識ギャップ(epistemic gap)」と、物理的現象とクオリアとは異なる存在かという「存在ギャップ(ontological gap)」の二つとなる。 三種類の応答 チャーマーズは知識論法に対する主要な哲学的見解を三つのグループへ分け、それらを「タイプA」「タイプB」「タイプC」と呼んだ。この分類はその後の知識論法についての議論で頻繁に用いられることになる。 タイプA 「タイプA」は還元主義であり、クオリアなど心的現象の物理学的、還元的説明を認める。この立場ではマリーが白黒の部屋から出ても新たな情報を得ないと考える。つまり認識ギャップと存在ギャップの両者を否定する。 物理的、機能的なものを全て説明すれば意識に関しては全て説明される。哲学的ゾンビは思考不可能であり、またマリーが本当に「物理学的に全知」であるとするならば、解放前からすべての事実を知っているはずである。クオリアについての知識は物理的な情報であり、白黒の部屋で得られる物理的知識からの演繹的推理によってクオリアの情報も得られる。つまりマリーはクオリアの知識をもっていないとする思考実験の前提を否定する。 なお、チャーチランドはこの論証で用いられる「知識」という語が曖昧であると批判している。全ての情報は物理的であるとする物理主義の立場からすれば、白黒の部屋で「全ての知識」を得ているのならば、部屋から開放されても新しい知識は得られないというわけである。 しかし物理学とは神やラプラスの悪魔のような「全知」を目指しているわけではなく、当然マリーの得ている「全ての物理学的知識」とは宇宙の全情報ではない。従ってこの立場は、物理的知識からの演繹によってクオリアの知識が得られる可能性を示すことができないことが難点であり、最も支持する者が少ない立場である。たとえるなら、「数学の知識を演繹すれば美術や恋愛の知識を得られる」というようなものであり、これはカテゴリー錯誤の一種である。またジャクソンは、白黒の部屋のマリーが演繹的推理によってクオリアの情報が得られるとする批判は的外れであり、問題は「想像できない」という点ではなく、彼女が事実として、それを「知らない」という点であると反論している。 タイプB 「タイプB」はクオリアの還元的説明を認めない物理主義であり、たとえクオリアが物理的知識から論理的に導出されないとしても、物理主義は成立すると主張する。つまり認識ギャップを認めるが存在ギャップを否定する。マリーが解放時に新たな事実を知ること、認識ギャップがあること、ゾンビが思考可能であることは認めるが、それらが存在論的含意を持つことはない。 チャーチランドは、マリーが旧知の事実をクオリアという新しい様式で知っただけであると主張した。このタイプBの主張は「旧事実/新様式戦略」と呼ばれる。 D・ルイスは、知識には命題知(地球が丸いというような、事実に関する知識)と技能知(泳ぎ方、というような能力としての知識)を分ける。マリーが部屋の中で習得したのは命題知だから、クオリアを識別する能力としての技能知がないのは当然であり、それはクオリアが物理的でないことを示すものではないという。 ジョン・ビゲロウとロバート・パーゲッターは、物理学的理論へ還元されえないクオリアなど現象的性質に関する知識が存在することを受け入れる。しかしながらこうした知識の存在は、心的なものを純粋に物理的な術語で説明しようとする物理主義プログラムと対立しないと主張した。 ブライアン・ロアーは「概念(concept)」を、「物理的‐機能的概念」と「現象概念」に分けて旧事実/新様式戦略を提示した。白黒部屋でマリーはすべての物理的事実を物理的‐機能的概念によって知っていた。しかしマリーは解放後に新しい何かを学ぶ。ロアーはこの事態を、マリーが現象概念を得たとする。現象概念は物理的‐機能的概念から導出されないため、マリーはそれを白黒部屋で学ぶことができなかった。しかし新しい概念が得られたからといって、それが指示する対象は旧知の物理的対象なのであり、マリーはそれを新しい現象概念で再認識しただけである。このロアーの方法は「現象概念戦略(Phenomonal Concept Strategy)」と呼ばれ、近年注目されている。 タイプBは思考実験についての人々の直感に反していないため、多くの物理主義者によって支持されている。しかしジャクソンは、問題なのはマリーの経験の事実と、他者の経験の事実との相違であり、これは知り方の様式とは関係ない客観的な事実である。知識論法はこうした事実が存在することを主張すると反論している。 なおタイプBの難点は、認識のギャップを認めた時点で存在のギャップに繋がる可能性が生じることである。デイヴィッド・チャーマーズはその可能性を、意味の「一次内包」と「二次内包」の概念で示した。 タイプC 「タイプC」は二元論である。この立場は知識論法が物理主義を棄却すると考える。つまり認識ギャップと存在ギャップの両者を肯定する。チャーマーズと、(当初の)ジャクソンの見解がタイプCに属する。 チャーマーズは知識論法を独自の仕方で形式化した。P をすべての正しい物理的情報、Q をクオリアの情報とし、彼は知識論法を以下のように定式化する。 Pre1 白黒部屋でマリーは P を知っており、かつ彼女は P から「論理的に導出されうる」情報をすべて知っているが、彼女は Q を知らない。 Pre2 物理主義が真であるならば、Q は P から論理的に導出されうる。 Conc よって物理主義は偽である。(Pre1 とPre2 より) チャーマーズはマリー部屋を発展させ、ゾンビ論法(哲学的ゾンビ)を以下のように展開する。 Pre1 ゾンビ世界が存在する可能性がある。 Pre2 物理主義が真であるならば、ゾンビ世界が存在する可能性はない。 Conc よって物理主義は偽である。(Pre1 とPre2 より) このタイプCの立場の難点は、現象判断のパラドックスが生じ、心身関係論において随伴現象説が帰結する可能性が指摘されていることである。 ※参考までに、上記の三つのタイプ以外の立場として、マリーが白黒の部屋ですべての物理的知識を得ていなかったと主張するタイプのものがある。この主張は知識論法の前提を否定し、クオリアも物理情報であるとして、白黒の部屋では全ての物理情報を得られないとするものである。 派生問題 フランク・ジャクソンはこの思考実験によって機能主義を批判したのだが、しかし彼は物理領域の因果的閉包性を認め、全ての行動はなんらかの物理的作用によって引き起こされる、とする広い意味での物理主義者だった。それゆえジャクソンは心身関係論については随伴現象説の立場をとっていた。 しかしジャクソンは後に立場を変え、クオリアについて表象主義の立場をとる。なぜなら、マリーは最初に赤い色を見るとき驚愕するからであり、その「原因」となるのはやはりクオリアでなければならない。このことは随伴現象説と矛盾する。この問題は後にデイヴィッド・チャーマーズによって現象判断のパラドックスという名前で定式化され、二元論の立場から解答が与えられなければならない最も重要なパラドックスと位置づけられた。 なお、ジャクソンが知識論法を放棄したため、現在ではチャーマーズが知識論法の代表的支持者になっている。 参考文献・論文 信原幸弘――編『シリーズ心の哲学Ⅰ人間篇』勁草書房 2004年 大田紘史「知識論証に対するタイプA物理主義的応答」『哲学論叢』Vol. 37 2010年 山口尚 「知識論証――その歴史と展望」2009年 参考サイト http //ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%81%AE%E9%83%A8%E5%B1%8B
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D)〈まことのことば〉の教説としての法華経 〈まことのことば〉は、法華経の教説としての〈まことのことば〉なのではない。〈まことのことば〉の教説として、法華経は法華経としてある。(*1) 本章の要旨を一言で集約すれば、こうなるだろう。賢治の〈まことのことば〉は法華経の教説と正確に違う。彼は救世者を気取っているわけではない。(まったく同じ意味で、彼は救世者ではない。)ほんとうのさいわいや、いずれ信仰も情動も化学と同じになるというセロのような声の語り口。それらは、誤って飲んだ毒に苦しむ子どもたちに薬を飲ませようとする医者の方便の劣化複製であるだろうだろうか? 賢治は、火事になった家で遊ぶ子供らを誘い出す長者に扮した田舎者であるだろうか? 執着せず、妨げられず、知識を示す力を持ち、誤りない知力を持ち、特別の感覚器官の力を持っていると――あらゆることを、自分を感情にいれずに、よく見聞きし、わかり、そして忘れずにいられると――いえるだろうか? それらは最晩年の独白めいた願望でしかない。 〈まことのことば〉はその起源においてなんらかの隠喩ではなく、また論理における真偽の公準でもない。それはただたしかにここにいる、いまだかつて、わたしがここから消えたことはなかったという事実であり、まったく意に反して聴きとられた声である。それがいかなる病因による幻聴であるかは、次章で考察するため、いまは問わないでおこう。ただ、彼が初めて法華経に接して受けた恍惚は、避けがたい束縛の力を行使することとなる。実感された束縛は、しかし、その瞬間から彼に歓喜と罪責感を交互に与えつづける。 〈まことのことば〉は存在の一連のはてしない振動のようなものであるが、なんらかの物体をとおして、つまり、聴覚的に認識できるよう音声を発する者とそれを聞く者との間に介在する空気の拡がりを震動させるようにして、わたしに語られるわけではない。また物体、物質に似たものによって表象される仕方によって語られるわけでもない。林や野はらや鉄道線路の虹や月光から彼は〈まことのことば〉を聴くのではなく、聴いているときにはすでに虹や月光があるのである。 〈まことのことば〉を聴くものは、〈まことのことば〉が聴こえてくるからそれを聴くのであるが、聴くものに聴かれることによって、〈まことのことば〉は存在するわけではない。――これは賢治の幻聴が真実となるために不可欠の命題である。 この命題は、あるいは、こう言いかえられる。「わたしは鉄道線路の反射光や十一月の山風から真実を聴きとる。しかし、鉄の光沢や寒さの知覚が、わたしに真実を吹きこむのではない。〈まことのことば〉が光や風を通じて、わたしに真実を与えた。つまり、わたしが聴きとった声は、反射光や北風の声だったのだが、その声はそれらからのものではなく、それらを通じてのものであった。わたしは、〈まことのことば〉が存在するから聴くわけではない。〈まことのことば〉が存在することによって、わたしは光のプリズムから、満たされた大気から、それを聴くことができるようになるのだ。〈まことのことば〉は真実である。一刹那一刹那、生じては滅するものを明確に知る。それに接するわたしは、わたしをあたかもせわしく明滅する電灯のように感ずる。しかも、わたしは救いがたい蒙昧のなかで、それを、それであることを知らず、あるいはそれであることを完全に忘れて、聴く。聴きとることと、知られることの、いずれが先であるかも知らないままに」 彼の聴きとった〈まことのことば〉が、ほんとうの〈まことのことば〉であるかどうかについて、前述の通り彼自身は決してあらかじめ知ることができず、それゆえに検証することができないからである。「どうしてもこんなことがあるようでしかたない、わたしの聴いている、この、これとはなにか。わからない。だが、わたしは、越えていく。この、これに導かれて。――けれど、この、これを記憶していないなら、どうしてわたしはいま、この、これを、真実として聴いているのだろうか?」 そうした問いが示す領域は途方もなく広大なものである。その問いは、私たちが現在行なっている論理的な推論とは違った推論によってあつかわれるだろう。その推論は、そのほうが、より精緻であるかもしれないが、それのみでは述べ、語ることができない。おそらくは進化論的事情によって、私たちはその推論は使用することができない。(*2) そこで、賢治は消化器とともに語る。つまり、非連続に聴きとられた〈まことのことば〉の断片の幾つかが、――おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません、と。賢治の、共犯者を見つけんとする野心は消化器の象徴によって原始的な形で現れる。幾片かはすきとおったたべものとしてあなたに供えられる。なぜか。なぜ、彼は、彼自身にもわけがわからないものであなたの歓待を試みるのだろうか? しっかりした記憶をもっている世尊でさえ、「最高の希有なものが得られた」と証言するだけでやめておいたにもかかわらず。賢治は、彼自身がほんとうのことだと確信したものが何であるか、それら断片がどのようであるか、それら断片がどのように見えるか、それら断片がどのような形をとるか、それら断片自体の存在がどうであるかを、まったく知らない。なのに、彼の堂々たる細心は、なぜその得体の知れない奇異なものによって、あなたの歓待を試みることを彼に許したのだろうか?(*3) E)転回の再体験 賢治が、彼自身にも真偽の検証ができない〈まことのことば〉。それが真実であるためには、それがそれ自身を真実だと証言するより他にないという〈まことのことば〉。この矛盾に満ち、流通を絶たれた言葉は、けれど無媒介的にあらゆる聴き手に伝達されなければならない。この問題を解決しないままに、賢治が自身の名において語る言葉を、彼自身にとって非常に重要なモチーフであった食に託して伝達しようとしたのはなぜか? この問いを考察するにあたり、大正三年に法華経-智学に出会う以前の賢治についてもう一度考えよう。 まず、本章の最初に触れた座禅の影響であるが、当時の書簡を読むかぎり、静座によって肉体を鍛えて返信するという少年らしい空想を膨らませるにとどまっている。(*1) その後の証言などをみても賢治が座禅を行っていた様子は見られない。また、中学生時代の賢治は友人・藤原健次郎に宛てた封書で、気にくわないクラスメートにいたずらを仕掛けたり、成績の悪いのを自慢している。軍人あがりの体育教師については「奴。来学期は生しておかない。なますにして食ってしまはなくっちゃぁ腹の虫が気がすまねぇだ。」(*2)と呪詛の言葉を書いていることから、浄土真宗の信仰も、後の法華信仰ほどに徹底したものではなかったようだ。 それよりも彼が熱中していたのは登山と植物・鉱物採集であり、仕送られていた小遣いのほとんどが登山関係に使われている。また、父宛の封書では岩手山登山の、中学生にしてはハードな行程が記されている。(*3) また、このころには短歌もすでに作られている。賢治がなぜ最初に短歌という形式を選んだかについては、盛岡中学の先輩・石川啄木の影響が指摘されている。しかし、一読すればわかるとおり、賢治の短歌群は啄木のような叙情高い歌からはほど遠い。むしろ、賢治の短歌群において特徴的なのは、くり返し表される賢治自身を見るものの眼差しである。(*4)対象化された風景を描くのではなく、風景によって表現者が対象化されてしまう事態は、恨みや腹立たしさなどのネガティブな情動とともに賢治を悩ませる。だが、賢治は風景に従属するその位置から離れることはなかった。 宮澤賢治が法華経-田中智学と出会う以前に短歌を通じて表されたこの風景を前にした自身の徹底的な無根拠性は、法華経を通過することによって引き返すことのできない決定的な感覚として、それ以降の彼に痕跡を残すこととなる。法華経-智学を通過したあとに、彼は一時的に法華経と日蓮という〈真理〉を確信し、これに従属することとなるが、そこにおける経典崇拝は日蓮や田中のそれとは異質のものであった。真に信仰に足るものは法華経の言説そのものではなく、〈真理〉の確信という転回そのものである。次章では、その転回が彼の創作においてどのように再演encore-再構築されたかをたどろう。 D)〈まことのことば〉の教説としての法華経 (*1) 田中智学は炯眼だった。賢治は教団からすれば真性の背教者であり、棄教者である。あらゆる教団の構成員は教説を共有することで、抑圧の作用としての真理の開示に出会い、真理を知るが、恥と罪責感という自己意識ときわめて密接な感情と信仰とが不可分に近接している者にとって、流通を許された真理や善など、まったく恐れるに足らない。 (*2) つまり、演繹においてあまりにも慎重であった個体は、類似したものを見たときに即座に「同値である」と推定した個体よりも、より強く淘汰されるダーウィン的-遺伝子的原理が働くからである。たとえば、犬が無数の肉片を前にしたとき、それらを同じ肉であると認識することができなければ、犬は餓死してしまうだろうし、雛鳥が天敵の識別に時間を費やせば費やすほど、逃げのびることは難しくなるだろう。論理学の基礎はここにある。つまり、本来からいって等しいものなどまったく存在しないにもかかわらず、「同値である」と断じる所作に。 (*3) 賢治が食という肉体感覚に過敏だったことは、食事の音を恥ずかしがっていたという証言や彼の菜食主義からもうかがえる。ちなみに、国柱会は在家主義であの、肉食妻帯を許可している。つまり、菜食は智学の影響ではない。 E)転回の再体験 (*1) (1910年9月19日)藤原健次郎あて書簡 (*2)「筋骨もし鉄よりも堅く疾病もなく煩悶もなく候はば下手くさく大層などをするよりよっぽどの親孝行と存じ申し候」 (*3)(1910年10月1日)宮沢政次郎あて封書より。以下、引用。 同行者は嘉助さん、阿部孝さん、私とも一人、外に青柳教諭五年の人々六名にて候へき。合計十一人にて登り私共嘉助さん共四人麓の小屋に宿り三合目迄たいまつにて登りこゝにて他の柳沢にとまれる人々は追付き日の出を四合目に見頂上に上り、御鉢参りをしてそれより網張口へ下り大地ごくのの噴烟の所御釜噴火口御苗代等を経て網張に至り翌日小岩井をかゝりて帰舎仕り候。 (*4)代表的な歌としては、 さすらひの楽師は町のはづれにてまなこむなしくけしの茎噛む 〔明治44年1月〕 褐色のひとみの奥に何やらん悪しきをひそめわれを見る牛 ブリキ鑵がはらだたしげにわれをにらむつめたき冬の夕暮のこと 西ぞらのきんの一つ目うらめしくわれをながめてつとしづむなり うしろよりにらむものありうしろよりわれらをにらむ青きものあり 〔明治45年4月〕
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パーン動画 東方系 アレンジ 原曲 同人サークル「上海アリス幻樂団」が発表しているSTG、東方ProjectのBGMとその二次創作楽曲を原曲とするもの。 シリーズ名は『東方頭破七分(とうほうずはしちぶん)』。他の東方系MADと同じく、スペルカード名をもじったコメントがつくことがある。 タグ検索 東方頭破七分 東方アレンジ 久本雅美をお嫁にしなさいっ!/ATMGPしなさいっ! 【原曲】IOSYS「東方萃翠酒酔」『お嫁にしなさいっ!』 2種類あり、動画ありVerとグルメレースへの便乗(?)Verがある。 『久本雅美をお嫁にしなさいっ!』はみんみん氏によるものであり、『~カービィのBGMに合わせて~』にインスパイアされたものとしては最古のパーン動画。 最近よく再うpされているものはにれぞぞ氏制作の『ATMGPしなさいっ!』。再うpで『久本雅美を~』にタイトルを変えられる事も多い。 一時期歌詞がつけられていたことがあった。 +歌詞 走らせていただいてます あたま あたまが あた あたま ぱんぱん あたま あたまが あた あたま ぱんぱん 人間革命 頭が PANG☆PANG ここからはじまる (もうほんっとにびっくりした もうほんとに この信心 すごいって ご本尊様凄いって ねえ またひとつ確信させていただきました) 受け止めて そめた,ほほは,あたまのせいだよ べつに,さまさなくてもいいけど ほんけの,どうが,ゆくえふめいでも フェニックス,は,い,る,よ~ (あたまが ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) おもいをこのおしえ,に~ (人間革命) の,せ,て~ (ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) (勇気と希望と勇気と希望と) ゆめみるおとめはハ~トの ま,ほ,う~ (ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) ねらいはじめたら ひゃっぱつひゃくちゅう は,ず,さ,な,い~ (あたまがあたまがあたまがあたまがあたまがあたまがあたまがあた) ぜぇったいミスらないんだからぁ・・・//// (もぉうほんっとにびっくり) 柴田,わたし,どちらが嫁? ひみつ,すてきなご本尊様なの むてき,ふたりひとつになれ きっと,はじめてりょうおもい ぜんぶ,あいしてほしいの ずっと,たいせつにしてほしいの パーンて,させてみてほしいの まちゃみ,たちをおよ,め,に,し,な,さ,い~ (間奏:女子部による結婚行進曲) きえた,どうが,そうかのちからよ しなの,きかくは,まずつぶれないけど よいも,ふけて,まんげつのぼれば またどうが,あ,げ,る,よ~ (あたまが ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) やわらかく,ぎょうかいを (元気を元気をげげげげ元気を) か,げ,で~ (ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) {(女子部)しょんしょしょsyしょしょしょyそyそよしょs} ふわふわとける○村プロデュースの う,し,ろ~ (ぱーん☆ぱーん☆ぱーん☆) つぶしはじめたら (なんだかあったかいっていうか) ひゃくてんまんてん (走らせていただいてます) こ~だ~わ~る~の~ ソウカソウカしちゃう~ (ほんとにほんとに) ワハハ,ほんぽ,くちづけて あたま,かんどうで,ばくはつするの いしかわ,ひこまろ,もんきっきー もっと,みらいに,せきにんもてる (未来に責任,公明党) あたまのこどう,げんかいよ ちょっと,どうにかなってしまうの ギュッと,だきしめてほしいの まちゃみ,たちをおよ,め,に,し,な,さ,い~! (ナレーション:わずかな時間を見つけて 女子部の会合に参加するエア本さん 信仰の悦びが胸いっぱいに広がります) うけとめて 儲 (そうかそうか) 久本雅美の頭がフラドルに合わせて爆発したようです。 【原曲】U.N.オーエンは彼女なのか?×ウサテイ『フラドル』 元祖グルメレースに便乗する形で最初期に作られた動画。代表的作者である一条三位のパーンMADデビュー作。 動画は無いが犬作、鳥肌実などが初登場し、後のパーンMADの方向性を決めた動画となっている。 盗んでいきましたシリーズ 【原曲】IOSYS「東方乙女囃子」『魔理沙は大変なものを盗んでいきました』 創価学会は久本雅美に大変な洗脳を施していきました 言わずとも知れた定番MAD。実は動画は三種類ある。1つは初期バージョンであり、2つ目は1つ目の修正バージョンとなっている。3つ目は既出を知らなかった人が作った作品である。 1つ目の作品は恐らくパーンMADの2つ目に相当し、2番目に古いと思われる。よく聴くと1つ目の作品はグルメレースMADからそのまま切り取った音で作られていることがわかる。修正バージョンでは、素材がちゃんとしたシナノ企画の動画の音源であり、サビ部分等の音階がかなりパワーアップしているが、他の部分は全く違うものになっている。好みが分かれるせいか、今現在でも旧バージョンが再うpされることがある。どちらも良作である。3つ目の作品も実は素材がグルメレースを切り取ったものである。 創価学会は久本雅美に大変な洗脳を施していきましたver.FULL FULLとなって登場したMAD 石川は大変な勧誘をしていきました 石川初MAD。しかし、途中から女子部のMADになっている。 ここは、男子部と女子部のコラボレーションMADと考えよう。 狂気の優曇華院シリーズ 【原曲】IOSYS「東方月燈籠」『患部で止まってすぐ溶ける~狂気の優曇華院』 幹部で止まって頭がパーン!~狂気の久本雅美 元祖に続くシリーズ二つ目のヒット動画にして初期を代表する作品。間奏中に右下に出てくるマークはdeftech(同じく学会員)のものである。 患部で止まってこんばんはー!!~狂気の男子部石川~FULL 最初に投稿された物はお世辞にもうまいとは言えるものではなかったが、入信祭に投稿された修正版は格段に良くなっており視聴者を驚かせた。 オーエンシリーズ M.Y.レボリューションはここから始まるのか?最終鬼畜池田犬作・SGI 【原曲】「東方紅魔郷」『U.N.オーエンは彼女なのか?』+COOL CREATE「東方ストライク」『最終鬼畜妹フランドール・S』 初期版と改訂版あり。後半登場する「万歳教祖様ー」の声はザ・シンプソンズのホーマーの台詞が元である。 動画版が作られる予定だったが、名誉会長が扇子を持って踊りを披露する素材が見つからなかったためお蔵入りとなった。 K.O.んばんはー!!倉地君はいるのか?最終鬼畜18歳クラチトール・F 創価オールスター総出演。オーエンシリーズMAD完成形といえる。 M.Y.Revolutionはここからはじまるのか?Ⅱ 「M.Y.レボリューションはここから始まるのか?」の作者によるセルフリメイク。前半と後半の2つの動画によって成り立っている。 フラン画像集(Sweets Wazukana Time) 【原曲】SYNC.ART S「ゆきうさぎ」『Sweets Time』 動画タイトルの「フラン画像集」は2007年12月29日に投稿されてから2008年6月6日に削除されるまで、権利者の目から逃れ続けた頭がパーン偽装動画のタイトルに由来する。 sweet little master 【原曲】Silver Forest「東方蒼天歌」『sweet little sister』 動画内でエア本さんがドナルドや鎌田吾作に公明党に投票するように電話するが、選挙が近くなると学会員も実際に行う。 創価の怖さがひしひしと伝わってくる仏MAD。 最終鬼畜シリーズ 【原曲】COOL CREATE「東方ストライク」『最終鬼畜妹フランドール・S』 最終鬼畜姉久本・M T.H.実は芸人なのか?最終鬼畜反創価トリハダ.M 鳥肌実の貴重なMAD。 ウサテイシリーズ 【原曲】IOSYS「東方萃翠酒酔」『ウサテイ』 パンテイ パンティーじゃない。初期版と動画付版が存在。ドイツ出身のGさんがゲスト出演する。 フジテレビジョンに権利者削除される。 グサテイ ウサテイシリーズ2作目。約1年ぶりの更新。入信祭に投稿した旨が動画内に記載されている。 フサテイ 手描き非音系MAD。 イシテイ 稀に見る神作品。死ぬまでには1度は見よう たすけてえーりん!シリーズ 【原曲】COOL CREATE「東方ストライク」『Help me, ERINNNNNN!!』 久本雅美が大作先生に助けを求めているようです。(Help me, DAISAKUUUUUU!!) 「えーりん!えーりん!」の掛け声の部分が「先生!先生!」となっており、動画は学会に所属しているという噂(真偽問わず)の芸能人のスライドショーとなっている。 o彡゜(゚∀。)ひさ もと! ひさ もと! ナレーションがエア本さんに変わって( ゚∀。)o彡゜えーりん!えーりん!している。 弾・幕・決・壊シリーズ 【原曲】COOL CREATE「STG×STG」『弾・幕・決・壊』 創・価・学・壊 冒頭に「削除動画【お煎餅ver.】」、締めにグルメレースのラスト(もうほんとに~波平)が組み込まれている。 創・価・学・会 【改】 上記動画よりネーミングを借りた作品。フル尺。第三回音MAD晒しイベント参加作品。 マイロードや24時間テレビ、ポー本さんなどの危ない削除対象リア本素材を網羅した上に波平で〆たエア本史上屈指のカオス度を誇る傑作。 サムネはガチムチ兄貴と池田大作が「平和への対談」をしているというコラだが本編には兄貴は登場しない。 一日で削除されたが、久々の「完成」を喜ぶファンによって動画跡地は削除のお祝いコメントで埋め尽くされた。 素材の削除対象動画が多すぎたためどの権利者によって消されたかは不明。 創・價・學・會【壊】 鳥肌実メイン。上のMADの構造と似ている。 エア本被害届 【原曲】IOSYS「東方真華神祭」『恋色被害届』 行列のできるマイレボリュー所 【原曲】IOSYS「東方真華神祭」『行列のできるえーりん診療所』 『久本雅美をお嫁にしなさいっ!』の右下に定評のある作者、 にれぞぞ氏の二作目。初期版、改訂版、最終版の三種が存在。 サムネと冒頭をガチムチにした再うp版『ガチムチ☆革命』が『週刊SOCALOIDランキング特大号』で17位を獲得。 後にガチムチ、クラッシャー等の派生作品が生まれ、「7月革命」「革命シリーズ」と呼ばれるブームを作り出した。 現在もなお、さまざまな派生作品が製作されている。 ちなみに、創価ネタを使った派生として「カチムチ☆革命」「人間☆革命」の二つが存在する。 「カチムチ☆革命」は頭がパーンしないグルメレースを踏襲した“二番”となっており、 「人間☆革命」は釣りと見せかけてまったく釣らない完全直球勝負の危険な犬作MADである。 ヒサモ⑩ Revolution 【原曲】Silver Forest「東方蒼天歌」『ケロ⑨destiny』 3分超の大作。ガチムチ☆革命に続く兄貴釣りであるが、釣りサムネにとどまらず途中から兄貴もちゃんと登場し、 踊る諏訪本さんの後ろで優雅なケツドラムを披露する。定番のパーン動画から池田大作のスピーチ、 神崎氏の公明党宣伝CM・引っ越しおばさん(MIYOCO)の映像まで使いネタ盛りだくさんの構成。 男子部の石川さんの恐怖を世に知らしめた作品。新キャラクター「だいさ⑨」が生まれた作品でもある。 No Life Souka 【原曲】SOUND HOLIC「SOUND HOLIC MEETS TOHO ~東方的幽々舞踏劇~」『No Life Queen』 わずか9秒の動画である。 【杉名ミク】NO LIFE 地QU担当EEN(feat.抹殺御三家) まさかのデビルふさ子。Dead Kill The Night! 東方真華神祭「Border of extacy」PV.flv______________________.exe 【原曲】IOSYS「東方真華神祭」『Border of extacy』 主に兄貴動画を扱う Feuilles mortes氏によって作られた作品。 原曲のPVに似せて作られている。 女子部の会合できゅうり味のビールを飲めばいいのかー 【原曲】IOSYS「東方河想狗蒼池」『きゅうり味のビールを飲めばいいよ!』 『ATMGPしなさいっ!(久本雅美をお嫁にしなさいっ!)』『行列のできるマイレボリュー所』で有名な にれぞぞ氏の東方頭破七分③作目。 後に有志により歌詞が作られた。 +歌詞 純教徒☆純教徒☆純教徒☆純教徒☆純教徒☆純教徒☆純教徒☆純教徒 「走らせていただいてます」 (そーかなのかー) そうか そうか バリバリのそうか そうか そうか すえながくそうか 「カルト教団!」 ふやせ ふやせ 信濃町でふやせ ふやせ ふやせ 折伏してふやせ おしかけ おどし しゃくぶく そのまま入信 たまらない 「に~ん~げ~ん革命♪」 せいきょう しんぶん なげこみ ノルマの達成 とまらない 「ご本尊はいかがですか~ 創価学会のご本尊はいかがですか~」 そうか そうか おぷてぃかる そうか そうか そうか みつからず会合 そうか そうか どこまでもそうか 大作 大作 みつけたら号泣 わずかな じかん みつけて じょしぶの かいごう さんかする 「げげっ、大作が一人あまったよー?」 がっかい なぜか はもんされ にっけん しゅうを ひなんする 「御書に匹敵する小説、人間革命~」 『週刊東方ランキング 7月第2週』で26位(1438Pt)を獲得。 ひれ伏せ愚民どもっ!を実写化してみた 【原曲】PROJECT tM@S「幻想メガ☆ラバ」『ひれ伏せ愚民どもっ!』 聖教新聞を見せられた柴田さん 【原曲】どぶウサギ「弾奏結界 紅魔狂詩曲」『Devil s Go Through the Night』 柴田をMAD素材として使った作品。 ナイト・オブ・ナイツ 【原曲】Unionest.NET「花詠束」『ナイト・オブ・ナイツ』 パーン・オブ・エアモト 速本さん。エア本入信祭の日にマイリストランキング(毎時)で初めに1位を獲得したMADである。 後にドナルドお兄さんがこれを歌っている。 シゴト・オブ・ナイツ 仕事・オブ・無イツ クンツ・ォブ・ふさ子 【MADで分かる】ガッカイ・オブ・ソウカ【創価芸能人】 創価を二人で抜け出す程度の能力 【原曲】IOSYS「東方乙女囃子」『月夜を二人で抜け出す程度の能力』 PV風非音系MAD シナノのパーンフェクトさんすう教室 【原曲】IOSYS「東方氷雪歌集」『チルノのパーフェクトさんすう教室』 そのタイトル、歌詞、映像のパーンホイホイっぷりから元動画が投稿されてまもなく試作品がつくられた。参加者が少ないが一応マハローウィンの第1回エア本MAD統一イベントである。 いぬさ⑨のパーンフェクトさんすう教室 はせな氏作。名誉会長メイン。さんすう教室MAD一番乗りでもある。 ひさも⑩のパーンフェクトざだん会 ^-^氏作。エア本メイン。 エア平のパーフェクト削除教室 にれぞぞ氏作。波平メイン。削除必至のMAD。 【東方頭破七分】無限増殖曲 ~ Earmoto Nocturne 【原曲】どぶウサギ 「弾奏結界 夢幻夜想曲」『無限夜想曲 ~ Eternal Nocturne』 投稿祭の力作。後半のグルメレースとの同時再生は、音程も原曲に依存した高度なものになっている。 フジテレビに削除されたため増殖した。 Bad Atama!! feat. airmoto 【原曲】Alstroemeria Records「Exserens」『Bad Apple!!』 衝撃のフル再生。新素材、沢たまきの毒舌が光る。グロ☆シーン多用につき視聴注意。 後にモザイクフィルターが追加され、下の非表示ボタンでモザイクが外れるようになった。 +歌詞 消されてく 頭の中でも グロ本が ほらグルグル回って WAHAHAから 離れる頭も見えないわ 創価創価 赤字から 消えることなく タイムアウトの狭間に 流され続けて なにそれぇ? 周りのことなど 良いことは良い それだけ 仕事無い? 働いてない? 理解不能な クンツォの言葉 涙出るなんて 疲れるだけよ 信教の喜びが 広がればいいの 戸惑う言葉(クンツォ) 与えられても 自分の頭 ただメルトダウン もし私から 入れるのなら もし入れるのなら 二度と来んじゃねぇ! ↑こんな自分に 出番はあるの↑ こんな動画に 私は要るの? 今上げられたの? 昔作られたの? 自分の設定も 分からないまま 作ることさえ 疲れるだけよ たまきの事など 知りもしないわ こんな私も 入れるのなら もし入れるのなら 鳥になる 上がってく 人気の中でも 赤字職人が ほらグルグル徘徊(まわ)って 私から 離れる赤字も (数)知れないわ そう 最 凶 新 聞 運営が 動くことなく 時の狭間に 忘れ去られて 知らないわ 運営のことなど 私はわずか そう 受話器もって 入ってる? 信じている? 語るも無駄な グロ本ダンス 爆発なんて 疲れるだけよ 工作もせず 過ごせばいいの 戸惑う赤字 流れてきても 自分の頭 ヤマヴォルケイノ もし運営が 動くのならば 全て消すのなら 中止する 無駄な頭に 未来はあるの こんなところに 貴方は要るの? 私のことを 新陳したいならば 言葉で言うなら「エア本さん」 こんなところに マハーローは要るの? エアリスジェイド 私は要るの? こんな私も グロれるのなら もしグロれるのなら 破裂する 今走ってる? 何も食べてない? 食べるも無駄な チェックポイント ホイールなんて 疲れるだけよ ウィング選んで 進めばいいの 戸惑うトマト 与えられても 自分の頭 チェックポイント もし取るのなら 取れるのならば すべてTASならば 走るだけ (視聴)出来ぬのならば 出来ぬのならば すぐに戻るわ すぐに戻るわ 新陳するならば 新陳するならば 私の頭 不夜城レッド 頭のことも たまきのことも グルメレースも まだ知らないの 固い頭を 破裂するなら すべて上げるなら 「 頭 破 七 分 」 【東方頭破七分】ヴォオオヤージュ1992【エア本爆発祭】 【原曲】どぶウサギ 「弾奏結界 夢幻夜想曲」『Voyage 1969』 1992年はエア本さんの頭がパーン┗(^o^)┛した年号。 【東方頭破七分】信濃の町の眠れない夜 【原曲】どぶウサギ 「文弾奏結界 文花風師曲」『東の国の眠れない夜』 豆頁を爆発させる程度の能力? 【原曲】IOSYS 「東方月燈籠」『月夜を隠さない程度の能力?』 原曲の月夜→腋にちなんで、豆頁→頭となる。 グルメレース風遠野幻想物語に久本さんが乱入に動画をつけてみた 【原曲】東方妖々夢『遠野幻想物語』 グルメレースと融合したMAD。 あくまでグルメレース風であり、原曲をそのまま使っていない。 あたまっぱん 【原曲】Silver Forest 東方萃奏楽『つるぺったん』 ナレーション、女子部のシンクロ具合に注目。 東方原曲 久本雅美がリーインカーネイションに合わせて輪廻するようです 【原曲】東方夢時空『Reincarnation』 まさかの旧作出演。 おてんパーン恋娘 おてんパーン恋娘の頭が破チルノ【東方頭破七分】 【原曲】東方紅魔郷『おてんば恋娘』 後者のMADで途中に出てくる霊本さんはオノヅカセブンで使われたものである。 エア本 VS 犬作 in 東方+亡き犬作の為の法蓮華経 【原曲】東方紅魔郷『亡き王女の為のセプテット』 紅魔郷を改造して東方頭破七分のプレイ映像になっている。 スペカ、セリフ、弾、スコアなど細部に至るまで作りこまれている。 +動画内で使ったスペルカード 仏罰「遠いバージンロード」 赤符「千本動画増殖」 与党「公明党幻想」 三色符「トリカラーマイスタ」 「三色の犬作教」 開口一番「面白かったね」 だいさ⑨との激闘の末、久本雅美は創価に入信することになる。 騒価楽団 ~ Airmoto Ensemble 【原曲】東方妖々夢『幽霊楽団 ~ Phantom Ensemble』 女子部の手拍子の真骨頂が垣間見える良作。 幽雅に割れろ、墨染の頭 〜 Airmoto of Life 【原曲】東方妖々夢『幽雅に咲かせ、墨染の桜 ~ Border of Life』『ボーダーオブライフ』 ループする。 Ata - ma - Parntasia 【原曲】東方妖々夢『ネクロファンタジア』 女子部を執るアタマ妖怪。業界{ギョウカイ)を操る程度の能力を持つ。 最後まで再生すると0 06までループする。 +スペルカード一覧 開始「スキマから現れるエア本」 湯ッ栗「藍と橙のイ"エエ(゚∀。)┛」 漫才「動と静のFOO」 会合「僅かと時間の呪」 罔両「信濃町に棲むカルト」 罔両「ヒサモートとパーンの夢郷」 罔両「信濃町での神隠し」 「人間と妖怪の境界」 境符「現実と宗教の境界」 殺界「魅力的な頭部破裂」 廃人「ぶらり信濃町駅下車の旅」 幻巣「御本尊ネスト」 空餌「狂躁高速破裂物体」 空餌「中毒性のある信心」 外力「無限の超高速 頭破七分」 信心奥義「頭破決壊」 もう愛唱歌しか聞こえない 【原曲】東方永夜抄『もう歌しか聞こえない』 はせな氏(病気P)による誕生祭記念動画。原曲を入れ忘れたらしい。 プレインエアモト 【原曲】東方永夜抄『プレインエイジア』 けーねの能力にちなんでパーン動画の歴史が走馬灯のように流れていく。 動画内でだいさ⑨がスペカを使っている。 変色マスタースパーン 【原曲】東方永夜抄『恋色マスタースパーク』 削除されました。 いわゆる「ゆっくり饅頭」や「┗(^o^ )┓三」に似た ┗ノリ、゚ヮ ゚§┓三 が走っている。 狂気のエア本さん ~ Invisible Full Airmoto~ 【原曲】東方永夜抄『狂気の瞳 ~ Invisible Full Moon』 同じく消すと増える動画「狂気のイケメン ~ Visual Eiko Kano」の作者による誕生祭動画。東方頭破七分最高傑作との呼び声が高い。 神秘的な女子部のコーラスは観る者を圧倒する。受話器持ってイェ゙エエエするエア本さんの瞳はまさに狂気。 エア本さんがパーンした衝撃で津波が発生したようです 【原曲】東方永夜抄『竹取飛翔 ~ Lunatic Princess』 宇宙戦士バルディオスMAD。後半がバルディオスの映像に合わせた竹取飛翔MADとなっている。 信濃町まで届け、不死の久本 【原曲】東方永夜抄『月まで届け、不死の煙 ~ Brilliant Silkroad』 どうやらまだ未完成のようだ。 ご本尊様に叱られるから 【原曲】東方風神録『稲田姫様に叱られるから』 柴田姫様を励ませるから 運命の創価サイド 【原曲】東方風神録『運命のダークサイド』 ネイティブ久本 ヒサモトフェイス エアティブフェイス 【原曲】東方風神録『ネイティブフェイス』 最近ではエアティブフェイスが有名。 旧地獄街道を行くエア本さん 【原曲】東方地霊殿『旧地獄街道を行く』 吉幾三MADに次ぐ早さで投稿された。 創価のエア本信仰 ~ Parning Head 【原曲】東方地霊殿『霊知の太陽信仰 ~ Nuclear Fusion』 ☢HONZON!!☢ !!信心融解注意!! ☢HONZON!!☢ +スペルカード一覧 革命「頭破七分制御不能」 驚星「ビックリシター」 革熱「ニュークリアレボリューション」 創火「ヒサメテオ」 爆符「マチャフレア」 扉打「メテオノック・ドアー」 雅星「プラネタリーマイレボリューション」 会合「ニューシンシャ・フュージョン」 「ヘルズイヌサク」 「倉地極楽カルトダウン」 「信濃の信仰太陽」 「ヒサモトマサミサン」 エアヒサモート 【原曲】東方地霊殿『ラストリモート』 速本さんその2。マイレボリュー所に引き続き、ナレーションもラップを披露。 +スペルカード一覧 秘法「久字刺し」 奇声「ミラクルジョシーブ」 神徳「創価学会カルトシャワー」 女子部の洗脳合唱 【原曲】東方地霊殿『ハルトマンの妖怪少女』 ハルトマンMAD完成作としては一番乗り。洗練されたタイトル[カルトウーマンの妖怪老女]がタグで提案される。 +スペルカード一覧 表象「玄関に学会員総立ち」 表象「柴田パラノイア」 無意識「女子部のロールシャッハ」 反応「久本パーングラフ」 反応「学会ポリリズム」 深層「無意識の久本氏」 復燃「石川の勧誘」 本能「イドの革命」 抑制「スーパーアゴ」 「嫌われ者の創価学会」 「ヒサモトニアンロール」
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モンゴル近現代文化の参考文献リスト(音楽以外) (#印付きはモンゴル語の資料、それ以外は原則日本語) 多分野に亘るので、私一人ではどうにもならないページの一つです。修正や追加があればどんどん編集お願いいたします。 文化史 モンゴル国立文化芸術大学文化芸術研究所編纂(1999年)《Mongoliin soyoliin tu ukh(モンゴル文化史)》(全3巻)、ウランバートル# Sh.Natsagdorj編纂(1981/1986年)『モンゴル人民共和国文化史(BNMAU-iin soyoliin tu ukh)』(全2巻、モンゴル国立出版所、Ulaanbaatar)# 秋津紀穂(1972年)「モンゴルの文化革命」朝日アジアレビュ- 3(2),152~155,1972/06/00(ISSN 03872785) (朝日新聞社) 田中克彦(1992年)『モンゴル 民族と自由』(「同時代ライブラリー 113」岩波書店) Т.ナムジム著、村井宗行訳(1998年)『モンゴルの過去と現在』上・下(日本・モンゴル民族博物館) W.ハイシッヒ著/田中克彦訳(2000年)『モンゴルの歴史と文化』(岩波書店) D.マイダル/加藤九祚(1988年)「文化と知性」(『草原の国モンゴル』第4章、新潮社) 文学、口承文芸 Akim,Gotovyn 著; 岡田和行 訳(1989年)「砕けることなき宝石--ビャムビ-ン・リンチェン〔含 肖像〕」日本モンゴル学会紀要 p68~86,1989(ISSN 09162356) (日本モンゴル学会 編/日本モンゴル学会) 岡田和行(2009)「ツェンディーン・ダムディンスレンと「知識人の迷妄」をめぐって」(『東京外国語大学論集 79号』、東京外国語大学、pp.107-120) 岡田和行(2006)「ナツァグドルジの1932年の投獄と獄中詩について」(『東京外国語大学論集 72号』、東京外国語大学、pp.61-82) 岡田和行(1998年)「モンゴルの小説に描かれた日本人抑留者 R・ガンバトの小説「生きてゆかなければ」のヤマダについて( 特集 東アジアの文化と文学)」総合文化研究 2,40-51,19980000(東京外国語大学) 岡田和行(1996年)「短篇 「お坊さまの涙」 の人間像 ロドイダムバ=ガーダムバ論争をめぐって」東京外国語大学論集 52,[291]-310,19960000(ISSN 04934342) (東京外国語大学) 岡田和行(1994年)「方便と般若 モンゴル現代文学史の再検討」東京外国語大学論集 48,[287]-298,19940000(ISSN 04934342) (東京外国語大学) 岡田和行(1993年)「モンゴル作家同盟の分裂」東京外国語大学論集 46,[173]-187,19930000(ISSN 04934342) (東京外国語大学) 岡田和行(1991年)「反逆の詩人レンチニー・チョイノム」東京外国語大学論集 42,[201]-223,19910000(ISSN 04934342) (東京外国語大学) 岡田和行(1988年)「故ダムディンスレン教授の業績」東京外国語大学論集 38,[275]-288,19880000(ISSN 04934342) (東京外国語大学) 岡田和行(1986年)「モンゴル革命作家グループについて」東京外国語大学論集 36,[83]-96,19860000(ISSN 04934342) (東京外国語大学) 岡田和行(1985年)「短篇「白い月と黒い涙」再読」モンゴル研究 p20~30,1985(ISSN 02872188) (日本モンゴル学会 〔編〕/日本モンゴル学会) 岡田和行(1983年)「ダシドルジーン・ナツァグドルジと 「わが故郷」」東京外国語大学論集 33,[167]-190,19830000(ISSN 04934342) (東京外国語大学) 上村明(1995)「アルタイ・オリアンハイの宴の歌」(『日本モンゴル学会紀要No.26』、日本モンゴル学会、pp.1-15) 上村明(2000年)「喉歌フーミーとモンゴル(人民共和)国の芸能政策」(国立民族学博物館) 上村明(2000年)「国民芸能としての英雄叙事詩」『日本モンゴル学会紀要』No.30、pp.1-26,日本モンゴル学会. 英題 Performing Heroic Epics and Nationalism in Mongolia 上村明(2001年)「モンゴル西部の英雄叙事詩の語りと芸能政策」『口承文芸研究』24pp.102-117, 日本口承文芸学会 上村明(2007)「文学という修練、歌うナショナリズム―J・バドラーについての覚書―」(『日本モンゴル学会紀要No.37』、日本モンゴル学会、pp.3-15) 芝山豊、岡田和行編(2003年)『モンゴル文学への誘い』(明石書店) 芝山豊(1987年)『近代化と文学 モンゴル近代文学史を考える』(アルド書店) 芝山豊(2009)「司馬遼太郎のモンゴルとモンゴルの司馬遼太郎」(『清泉女学院大学人間学部研究紀要 (6)』、pp.3-14) 芝山豊(2009)「《蒼き狼》とオリエンタリズム」(『清泉女学院大学人間学部研究紀要 (5)』、pp.29〜41) 芝山豊(2007)「D・ナツァグドルジの手稿「黒い岩」のデジタル解析」(『モンゴル研究 (24)』,13~24,2005(ISSN 03852210) (モンゴル研究会 編/モンゴル研究会) 芝山豊(2005年)「D.ナツァグドルジ「黒い岩」をめぐって」モンゴル研究 (22),13~24,2005(ISSN 03852210) (モンゴル研究会 編/モンゴル研究会) 芝山豊(2002年)「多文化共生への比較文学研究の視点--モンゴル人の非モンゴル語による作品の評価をめぐって」清泉女学院短期大学研究紀要 (21),89~104,2002(ISSN 02896761) (清泉女学院短期大学) 芝山豊(2001年)「「文学」のグローバリズム--日本からみたモンゴル文学」清泉女学院短期大学研究紀要 (20),29~48,2001(ISSN 02896761) (清泉女学院短期大学) 芝山豊(1995年)「(インタビュ-)ナツァックドルジン・ア-ナンダシュリ-と会って」モンゴル研究 38~45,1995(ISSN 03852210) (モンゴル研究会 編/モンゴル研究会) 田中克彦(1976年)「モンゴル--英雄叙事詩のイデオロギ-」朝日アジアレビュ- 7(2),p128~133,1976/06(ISSN 03872785) (朝日新聞社) 谷博之(1990年)「D.ナツァグドルジ「白い月と黒い涙」手稿テキスト」日本モンゴル学会紀要 p109~119,1990(ISSN 09162356) (日本モンゴル学会 編/日本モンゴル学会) 荻原眞子(2005)「藤井麻湖著, 『モンゴル英雄叙事詩の構造研究』, 東京, 風響社, 2003年, 309頁, 6,000円(+税)」(『文化人類学 70(3)』,pp.429-433,日本文化人類学会 編/日本文化人類学会/日本文化人類学会) Baldan,Luvsangonchigiin; 岡田和行 訳(2001年)「翻訳 20世紀における最高の詩「わが故郷」」日本モンゴル学会紀要 (31),151~160,2001(ISSN 09162356) (日本モンゴル学会 編/日本モンゴル学会) 藤井麻湖(1989)「ジャンガル叙事詩「ハン・シ-ル・ボドンの章」の一構造分析」(『日本モンゴル学会紀要 (通号 20)』,pp.41-54,日本モンゴル学会 編/日本モンゴル学会) 藤井麻湖(2001)「アルタイ讃歌説話の研究--説話における2重の意味構造とその意図」(『日本モンゴル学会紀要 (31)』,pp.1-15,日本モンゴル学会 編/日本モンゴル学会) 藤井麻湖(2001)「中国青海省におけるゲセル伝説の地を訪ねて--土地に刻まれた伝説の現在」(『言語文化学会論集 (17)』,pp.231-259,2言語文化学会 〔編〕/言語文化学会) 藤井麻湖(2002)「アルタイ讃歌研究--モンゴル英雄叙事詩の語り手からの聞き取りを中心に」(『言語文化学会論集 (18)』,pp.281-312,言語文化学会 〔編〕/言語文化学会) 藤井麻湖(2003)「英雄叙事詩『ジャンガル』における"12勇者" モンゴル英雄叙事詩の数詞解釈」(『国立民族学博物館研究報告 27(3)』,pp.483-607,国立民族学博物館/国立民族学博物館) 藤井麻湖(2006)「謎々における馬--モンゴル英雄叙事詩の隠喩研究の補完として」(『言語文化学会論集 (27)』,pp.133-143,言語文化学会 〔編〕/言語文化学会) 藤井麻湖(2001)『伝承の喪失と構造分析の行方 モンゴル英雄叙事詩の隠された主人公』、日本エディタースクール出版部 藤井麻湖(2003)『モンゴル英雄叙事詩の構造研究』、風響社 楊海英(2005年)『モンゴル草原の文人たち』(平凡社) Wang,Manduγ-a; 岡,洋樹 訳(2003年)「新発見のS.ボヤンネメフ作戯曲「モンゴルを囲む侵略国家間の状況を簡略に示した歴史」について」東北アジア研究 (8),25~44,2003(ISSN 13439332) (東北大学東北アジア研究センタ- 編/東北大学東北アジア研究センタ-) 言語、文字 荒井幸康(2002)「1920年代のカルムィクのことば」(『日本モンゴル学会紀要 (32)』,pp.13-27,日本モンゴル学会 編/日本モンゴル学会) 荒井幸康(2004)「ソヴィエトにおける言語の「土着化」政策に関して--カルムイク,ブリヤートにおける事例を中心に」(『一橋研究 29(1) (通号 143)』,pp.79-90,一橋研究編集委員会 編/一橋研究編集委員会) 荒井幸康(2004)「ことばというパスポート(41)カルムイク語」(『言語 33(5) (通号 394)』,pp.90-93,大修館書店) 荒井幸康(2005)「1930年代のブリヤートの言語政策--文字改革、新文章語をめぐる議論を中心に」(『スラヴ研究 (52)』,pp.145-176,北海道大学スラブ研究センター) 荒井幸康(2005)「1930年代のカルムイクにおける言語政策」(『日本モンゴル学会紀要 (35)』,pp.41-56,日本モンゴル学会 編/日本モンゴル学会) 荒井幸康(2006年)『「言語」の統合と分離 1920-1940年代のモンゴル・ブリヤート・カルムイクの言語政策の相関関係を中心に』(三元社) 上村明(1998年)「海外事情--アジアからモンゴル編--モンゴル語処理の現状」Bit 30(6),70~71,1998/06(ISSN 03856984) (共立出版) 上村明(1997年)「モンゴル」言語 26(11),82~85,1997/10(ISSN 02871696) (大修館書店) 田中克彦(2003年)「民族語の思想―その創造と闘い」(『言語の思想―国家と民族の言葉』、岩波書店、p143-214) Vladimirtsov,B. 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ジュルンガ, 竹中良二共訳(1991年)『モンゴル医学史』(農山漁村文化協会) 長沢孝司, 尾崎孝宏編著(2008)『モンゴル遊牧社会と馬文化』日本経済評論社 藤井麻湖(2000)「生殖・出産・育児のモノグラフ--異文化の中での赤ちゃんの誕生(10)モンゴルの出産・育児をめぐる身体とメンタリティー」(『ペリネイタル・ケア 19(11) (通号 242)』,pp.1168-1173,メディカ出版) その他 田中克彦(1970年)「革命50周年のモンゴル」朝日アジアレビュ- 1(2),80~82,1970/06/00(ISSN 03872785) (朝日新聞社) 井上邦子(2003年)「モンゴル国・ナーダム祭における「伝統の創造」と基層文化に関する研究」(日本体育大学・博士論文手稿、国立国会図書館所蔵) 井上邦子(1998年)「儀礼における「歴史の始点」--モンゴル国ナ-ダム祭の変容と現在」椙山女学園大学研究論集 社会科学篇 227~234,1998(ISSN 13404059) (椙山女学園大学研究論集編集委員会 編/椙山女学園大学) 尾崎孝(2002年)「ナーダムの社会的機能について--スフバートル県の2事例より」人文学科論集 (55),95~111,2002(ISSN 03886905) (鹿児島大学法文学部 編/鹿児島大学法文学部) Battuluga Sukhee(2008)「モンゴルのマイノリティにおける伝統復活とエスニシティ変動--西部地域のカザフとモンゴル系エスニック集団をめぐって」(『共生の文化研究 (1)』、pp.112-125) べっ、べつにアンタのために教えるんじゃないからね!d(´∀`*)グッ★ http //ylm.me/ -- 名無し (2011-11-21 20 50 05) 名前 コメント
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ふじもとりょう 2010年4月から学生ではなくなりますが、今後ともよろしくお願いします。 2004年 入学 2008年 学部卒業(佐藤時啓研究室) 2010年 修士課程修了(伊藤俊治研究室) 作品紹介など ◎http //www.ryofujimoto.net/ ◎http //mp1.jp/ !おしらせ! 以下の展覧会に出品します。昨年の横浜の新・港村のものとは別の新作を出品する予定です。MP1の書籍も出ます。ぜひチェックしてみて下さい。 MP1 Expanded Retina | 拡張される網膜 会場:G/P Gallery http //gptokyo.jp/ 東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 2F 会期:2012年1月21日(土)〜2月5日(日)(月休) 開館時間:12 00〜20 00 ◎1月21日(土)18 00 – MP1によるアーティストトーク モデレーター:佐々木新 氏(HITSPAPER) 定員30名様 要予約(03-5422-9331) イベント後オープニングレセプションを開催いたします。 MP1 アーティストブック『Expanded Retina | 拡張される網膜』 発売日:2012 年1 月21 日(土) 内容: MP1 作家による作品掲載 対談 「最高速度と最高密度」エグチマサル × 飯沢耕太郎(写真評論家) 「集合的記憶としての写真」藤本涼 × 後藤繁雄(編集者、クリエイティブ・ディレクター) 「ノイズとしての感覚イメージ」横田大輔 × 粟田大輔(美術批評) 「不可視的な領域への接近」吉田和生 × 天野太郎(横浜美術館主席学芸員) 星野太(表象文化論)による「媒介の擁護」 トークショー@ヨコハマトリエンナーレ新・港村 MP1 × 伊藤俊治(美術史家、美術評論家) エディトリアルディレクション:星野太 エディター:番場文章(BAMBA BOOKS) 翻訳:下谷悦子 高久聡明 針生雅子 青木シモーヌ 星野太 デザイン:宇平剛史 発行:BAMBA BOOKS http //bamba-books.com/ 価格・版型:1,575 円(税込) A4/64 ページ ISBN:978-4-9906259-0-0 限定500 部 協力:G/P gallery 村山圭 近作より torso 2009 インクジェットプリント live on air(bones) 2008 ダイレクトプリント live on air(blackgirl) 2008 タイプCプリント landfall(hill) 2007 タイプCプリント landfall(tree) 2007 タイプCプリント woods.jpg 2005 ラムダプリント 終了した展覧会(2010年) ■G/P FRONT LINE SHOW #4 藤本涼『eating haze and visualize/かすみをたべて幻視する』 会場:スパイラルガーデン/1F 東京都港区南青山5-6-23 会期:2011年7月5日(火)〜7月11日(月) 開館時間:11 00-20 00 お問い合わせ先:G/P gallery(03-5422-9331) 今年1月のshiseido art eggからの新作はありませんが、そして会期は一週間と短いですが、お時間ありましたら、また、お近くに来られた際にはお立寄り頂ければと思います。 ■第5回shiseido art egg 藤本涼展 会場:資生堂ギャラリー 東京都中央区銀座8-8-3 東京銀座資生堂ビル地下1階 会期:2011年1月7日(金)〜1月30日(日) 平日 11 00 - 19 00 日・祝 11 00 - 18 00 毎週月曜休 1月10日は祝日ですが休館です 入場無料 web http //www.shiseido.co.jp/gallery/ tel 03 3572 3901 fax 03 3572 3951 協力:株式会社カシマ 写真弘社 ※初日にオープニングレセプションを予定しています。 shiseido art eggに入選しました。 新作を含めたlive on airシリーズ、live on airシリーズから少し発展させた、新しく発表する作品も出品する予定です。ぜひご高覧ください。 ■G/P FRONT LINE SHOW Ⅱ:藤本涼『live on air』 会場:スパイラルガーデン/1F 東京都港区南青山5-6-23 会期:2010年8月24日(火)〜8月30日(月) 開館時間:11 00-20 00 お問い合わせ先:G/P gallery(03-5422-9331) 今年4月のG/P galleryでの個展からの新作はありませんが(修了制作で出して個展に出さなかったものも展示する予定です)、そして会期は一週間と短いですが、お時間ありましたら、また、お近くに来られた際にはお立寄り頂ければと思います。 ■藤本涼 個展 live on air 会場:G/P Gallery 東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 2F 会期:2010年3月26日(金)〜4月25日(日)月曜休廊 開館時間:12 00-20 00 ギャラリートーク 日時:2010年4月25日(日)18 00〜20 00 (トーク終了後は、ささやかなクロージングパーティーを行います) 会場:G/P gallery (NADiff A/P/A/R/T 2F) ※入場無料・要予約(観覧をご希望の方は、電話かEmailにてG/P galleryまでお問い合わせ下さい。 スピーカー:藤本涼、藪前知子(東京都現代美術館学芸員) モデレイター:後藤繁雄 主催:G/P gallery ※ご予約・お問い合わせはG/P galleryまで。 Tel. 03-5422-9331 Email. info@gptokyo.jp ■full course フルコース 食と現代美術 part6 会期:2010年3月19日(金)-3月31日(水) 時間:11時30分-14時 17時-20時30分 Opening Party:3月19日19 30-(要予約) 会場:BankART Studio NYKからスタートして他6施設を巡る ルート:BankART Pub→BankART Front →本町実験ギャラリー→ぴおシティ(飲食はなし)→野毛地区飲食街(鯨横丁)→BankARTかもめ荘→初黄・日ノ出地区(一般住宅)→BankART桜荘 フルコースチケット:1500円(お一人様) 原則2名から 予約制 50名限定/日 食と現代美術を往来する展覧会の第6弾。今回のテーマは、街を巡る「フルコース」です。通常のレストランのように、ボーイさんが食事をサーブしてくれるのではなく、観客が作家のつくったレストラン(空間)の各メニュー(7種類程度)を飲食しながら、街を巡っていきます。コースはBankART Studio NYKからBankART桜荘までの約1時間30分。近隣の鯨横丁(野毛飲食街)と連動したり、一般の住宅で食事をいただくプログラム等も展開します。 皆様のご来店をお待ちしております。 参加作家 祐源紘史、小林真依、白井美穂、松田直樹、開発好明、木村崇人、池田光宏、いかれ帽子屋と三月うさぎ、三宅航太郎、上野大介、藤本 涼 ご予約・お問い合わせ:BankART1929 〒231-0002 横浜市中区海岸通3-9 TEL 045-663-2812 FAX 045-663-2813 foodart@bankart1929.com ご予約はお一人様より承りますが、原則2名様以上での出発になります。 メールにてご来場日・氏名・ご連絡先を明記の上お申し込みください。(お電話でのご予約も受け付けています) 終了した展覧会(2009年) ■NEW DIRECTION展 #1 exp. 会場:トーキョーワンダーサイト本郷 東京都文京区本郷2-4-16 Tel 03-5689-5331 会期:2009年9月5日(土)〜月27日(日)月曜休館 開館時間:11 00-19 00(入館は閉館30分前まで) 休館日:9/7(月)、14(月)、24(木) 出品作家:三井美幸/村田宗一郎/宮永亮/小宮太郎/藤本涼/しょうじまさる/山下耕平 オープニング・レセプション:9月5日(土)17:00〜 シンポジウム プログラムA 9月5日17 30- 粟田大輔+池田剛介+千葉雅也+後藤繁雄+木幡和枝+アーティスト プログラムB 9月20日16 00- 浅田彰(京都造形芸術大学・大学院長)+名和晃平(京都造形芸術大学大学院・准教授)+後藤繁雄+木幡和枝 wip展に出した写真3点、新作写真3点、映像1点を出品する予定です。よろしくお願いします。 ■noname ノーネーム 【横浜展】 会場:横浜創造界隈 ZAIM 別館4階 神奈川県横浜市中区日本大通34 Tel 045-222-7030 会期:2009年3月12日(水)-3月16日(月)会期中無休 開館時間:10 00-19 00(最終日は18 00まで) 出品作家:厚地 朋子/伊東 宣明/小田原 のどか/加藤 翼/菊川 亜騎/友清 ちさと/野沢 裕/藤本 涼/芳木 麻里絵(五十音順) 【京都展】 会場:旧立誠小学校 全館 京都市中京区蛸薬師通河原町東入備前島町310-2 Tel 075-212-6391 会期:2009年4月26日(日)-5月5日(火)会期中無休 開館時間:12 00-19 00(最終日は18 00まで) 出品作家:厚地 朋子/伊東 宣明/小田原 のどか/加藤 翼/菊川 亜騎/友清 ちさと/野沢 裕/藤本 涼/八嶋 有司/芳木 麻里絵(五十音順) 終了した展覧会(2008年) ■「夢と覚醒」展 会場:本町実験ギャラリー(場所) 横浜市中区本町5-49丸忠センタービルB1F 日時:2008年8月30日(土)~9月7日(日) 11:30 -19:00 *会期中無休、最終日のみ17:00まで ※8月30日(土)17:00~ オープニングパーティ 出品作家:藤井信子・藤本涼 ■THE EXPOSED #03 会場:G/P gallery 東京都渋谷区恵比寿1-18-4 NADiff A/P/A/R/T 2F 会期:2008年8月8日(金)~9月3日(水) 開館時間:12 00-20 00(8/13〜17 夏期休業) 出品作家:鵜飼悠+永戸鉄也+殿村任香+藤本涼+辺口芳典&小山泰介+うつゆみこ+塩田正幸 ■CAAF2008/24+6 会場:クレアーレ青山 アートフォーラム 港区南青山2-27-18 Aoyama M s Tower「パサージュ青山」2F 会期:2008年7月15日(火)~8月3日(日) 開館時間:11 00-20 00(会期中無休) ■Correspondence/Landscape 08 会場:ギャラリー工房親 会期:2008年6月4日(水)~21日(土)(日・月は休廊) 開館時間:12 00-19 00(最終日18:00まで) ■THE EXPOSED of the art vol.3 PHOTOGRAPHS [PhotoDazE] 会場:海岸通ギャラリー・CASO 大阪市港区海岸通2-7-23 会期:2008年5月13日(火)〜5月25日(日) 開館時間:11 00-19 00 (会期中無休 最終日は17:00) 詳細 ■ART AWARD TOKYO 会場:行幸地下ギャラリー 東京都千代田区丸の内2-4-1(行幸通り地下) 会期:2008年4月4日(金)~5月6日(火・祝) 開館時間:11 00-20 00 | 入場無料 URL:ART AWARD TOKYO NeXeyo(現在活動していません) ◎http //www.nexeyo.net ◎http //www.myspace.com/nexeyo
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1 夢の懐疑 2 現象主義と可能世界論 3 マクタガートに見る「変化」の難問 4 変化のパラドックス――四次元主義の破綻 5 独今論 6 無世界論 7 真実の行方 8 私の死と世界の死 9 夢と現実と真実の狭間で 1 夢の懐疑 幼い頃に恐ろしい体験をした。或る真夏の夜、私は両親と二人の兄弟と共に、家族五人で一つの部屋で寝ていた。家の一階北側の部屋で、中庭に面した窓を網戸にして涼を取っていた。エアコンがまだ高価だった昭和の時代のことである。 深夜、どさっと何かが落ちるような音がして目が覚めた。見ると畳の上でどす黒い異形のものが蠢いていた。蛇だった。一匹の大きな蛇が長い総身を奇怪に絡めて波打っているのだった。誰かが悲鳴を上げた。父が大急ぎで網戸を外して手に持ち、その網戸で蛇をつついたり掬ったりして、なんとか掃き出し窓から庭へ払い出した。そしてガラス戸を厳重に閉めた。どこから蛇が侵入したのかわからない。皆で室内を入念に点検した。天井から落ちてきたように思えたが、天井に穴など開いているわけではなかった。訝りながらも、しばらくして皆はまた眠りに付いた。しかし私は恐怖と興奮のためになかなか眠れなかった。 実家は関西の地方都市郊外にあり、周囲は水田が多く近くには里山もあった。そのため夏になると家の庭でも蛇を見かけることが度々あった。特に青大将は「人家に住む」と言われるほど人の生活と関わりが深い。鼠を追って天井を徘徊していた青大将が寝室に落ちてきたとしても不思議ではなかった。 中学生になってから、家族団らんの時にふと幼い頃の蛇の体験を思い出した。「そういえば昔でかい蛇が寝室に落ちてきて大変だったな」と私は話しだした。すると意外な反応が返ってきた。両親と兄弟の四人は、ぽかーんと呆気も露わな顔で私を見るのだった。「何の話?」と誰かが言った。つまり私以外の誰も蛇が寝室に落ちてきた体験を憶えていないのである。「それ夢見たのと違う?」また誰かが言った。そんなわけはない。畳の上で奇怪にうねる大きな蛇の姿を鮮烈に記憶している。あれが夢であるわけがない。現実に間違いない。しかし私がいくらあの出来事の詳細を話しても、誰も思い出さなかった。一体どういうことなのか。やがて誰かが言った次の言葉に私は納得せざるを得なかった。 「そんな大変なことがあったら皆憶えているはずだ」 寝室に蛇が落ちてきた出来事を憶えているのは家族のうち私だけであり、他の四人は憶えていない。多数決で私の蛇の体験は夢だということになった。確かにそんな大事があったのに他の四人が憶えていないのは不自然であり、あの蛇は夢だと考えるしかないように思えた。 しかし本当にそうだろうか、と今でも考えることがある。「そんな大変なことがあったら皆憶えているはずだ」という言葉には説得力がある。しかしその言葉は「多数決は正しい」という意味でしかないようにも思える。真実は多数決で決まるものなのか。やはり蛇の体験は現実の出来事であり、他の四人が忘れているのだという可能性は否定できない。夢だったのか現実だったのか――いや、もし蛇の体験が夢だったというなら、その他の幼い頃の様々な体験もまた夢だという可能性があるのではないか。一体何が現実だったのか。いや、そもそも現実とは何か。夢だったのかと懐疑しているこの現実も夢なのではないか? 何が本当の現実なのか――ひとたびこのような懐疑を抱いたならば、それは直ちに燎原の火の勢いで常識を焼き尽くし、その焼け跡に哲学の精神が立ち上がってくる。 ほんとうに「ある」といえるものは、一体何なのか? デカルトが方法的懐疑として始めた夢の懐疑は底が深い、というより底が無い。底が無いとはどういうことか。現実と夢、実在と非実在といった峻別を形而上学的に行うことが不可能だということである。ヒラリー・パトナムはデカルトの方法的懐疑の現代版と言える「水槽の脳」という思考実験を行っている。この私は水槽の中に入れられた脳かもしれない。科学者がその脳に電極を差し込み、電極の配線をコンピューターに繋ぎ、私に仮想現実を見せている。私の肉体も多数の他者も毎日行く会社も、全て映画『マトリックス』のような仮想現実かもしれない、というのが水槽の脳の懐疑である。ただしこの思考実験は懐疑主義を批判するためのものである。私が仮想現実の世界にいることが事実だったとしても、それを確かめる手段が存在していない。仮に私が水槽の中で目覚めて、自分が水槽の中の脳だと確かめたとする。しかしその姿もまた仮想現実かもしれないからだ。そのような懐疑に満ちた世界においては、結局何が真実で何が絶対確実な知識なのかを知る手段が人間にはない。したがって懐疑によって諸々の知識の確実性を否定する懐疑主義は無意味だ、というのが建設的な結論となる。 しかしパトナムの水槽の脳は、単に懐疑主義を批判するためだけのものではなく、形而上学的実在論を否定するためのものでもある。パトナムは当初形而上学的実在論の擁護者であったが、後にその立場を放棄している。水槽の脳の思考実験で明らかなように、人間は神の視点で世界を見渡すことができないために、決して認識できない形而上学的な「実在」を云々することは無意味だというのである。このパトナムの転向は哲学者として誠実なものであろう。 しかし人間は形而上学的な意味での実在や真理を決して知りえないというならば、私が幼い頃に見た寝室の蛇は何なのか。あの恐怖の経験は何だったのか。蛇の存在論的な身分が問題となる。 ・錯覚論法と幻滅論法 水を満たしたコップの中に箸を入れると、光の屈折で箸が曲がって見える。私は箸が本当は真っ直ぐであることを知っている。なら眼に見えている曲がった箸は何なのか。それは実在しないといわれても、今確かに見えている曲がった箸の心的イメージが存在することは事実である。これは錯覚論法と呼ばれる。幻であれ錯覚であれ、知覚経験は確かに存在し、その経験が錯覚か事実かは「後に」判断されるというものである。 科学的には次のようにも考えられる。網膜が光を捉え、視神経を経て脳のC線維が発火したら「赤」のクオリアが生じると仮定する。しかし眼を閉じていても夢を見ていた場合などにC線維が発火することはあり得る。その場合、現実に赤いものが存在するか否かに関わらず、C線維の発火と赤のクオリアの存在は事実として認められるということである。 大森荘蔵はこの錯覚論法を発展させて「幻滅論法」というユニークな論考を行っている(*1)。大森は夢、幻、現実等々全ての経験を「立ち現れ」として対等に扱い、或る立ち現われを真実と分類し、別の立ち現われを虚偽と分類するのは、事実に基づくものではなく分類の仕方の違いに過ぎないと主張する。大森にとっては夢も幻も現実も、全ての立ち現われは等しく存在する、というより「存在する」という点において同じ資格を持っているとみなすのである。 大森はデカルトの方法的懐疑からこの論理を導出している。デカルトは『方法叙説』4部で次のように述べていた。 私は夢見ており、私の見たり想像したりするものは全て偽であると私は想定したのだけれども、しかしそれらのものの観念が私の中に真実にある、ということは否定できなかった。 ここでデカルトがいう「観念」は大森のいう「立ち現れ」の一分類といえる。大森は論文「ことだま論」において件のデカルトの文を引用した後、次のように述べている。 すなわち、デカルトにとって、夢の事物であれキマイラであれ、また眼前に見えるランプであれ、「それ自身において見られ、他のものと関係せられないならば」、それらの立ち現れは最も強い意味で「真」なのである。立ち現れたから立ち現れたのである。したがって、それらの立ち現れは最も原初的な意味で「存在」したのである。夢の立ち現れ、キマイラの立ち現れも「存在」したのである。(*2) 大森からすれば、諸々の立ち現われは生活実践上、実用的に分類され、後になって実在や幻と呼ばれるカテゴリーに入れられるのである。実在や幻という概念はあくまで立ち現れ内のカテゴリーであって、立ち現れの本性は幻も現実も「存在する」ということで貴賎が無い。ここにおいて幻は滅せられ、いずれの経験も立ち現れという根源的な存在者として認められる――これが幻滅論法である。 このような大森の論理は、物質世界が客観的に実在するという「実在論」の否定を含意しており、現象主義や主観的観念論とも呼ばれる。現代ではあまり評判はかんばしくない立場であるが、しかしここでは実在論論争はさて置く。問題なのは私が幼い頃に見た蛇である。あの蛇は錯覚論法や幻滅論法によって確かに存在したことが確認された。しかし夢と現実を峻別することができないということは、巨大な問題が派生するのではないか。 2 現象主義と可能世界論 私は空を飛ぶことができるという信念を持っており、自分の恋人はマリリン・モンローであるという信念を持っている。そして事実として私は空を飛ぶ経験をしたし、モンローとデートの経験もしている。ただしそれら経験の事実は「夢」というカテゴリーに分類されるものである。 夢とは、現実とは異なる一つの完結した世界である。私が「現実」というカテゴリーに分類した世界では、私は日本という国に住んでいるという信念を持ち、空を飛びたいが飛べない人間であるという信念を持っている。端的に言うならば、夢の世界と現実の世界は信念の体系が異なるというだけである。いや、現実世界は夢から覚めても続いていくだろう、と反論する者がいるかもしれないが、それは間違っている。その現実世界なるものが夢より多く持っているものは、せいぜい「長く続いている」という信念ぐらいのものであり、それもまた今まで見終わった夢にもあったかも知れないものだ。夢も現実も大森の幻滅論法を援用して言うならば、最も原初的な意味で「存在」した世界なのである。夢と現実の区別を形而上学的に行うことは決して出来ない。これがデカルトの夢の懐疑と、それの現代版と言えるパトナムの水槽の脳の懐疑によって明らかにされたことである。 夢が現実と同じ地位を獲得したということはどういうことか。それは、世界には「この世界」だけでなく「別の世界」があると認めるということである。異なる信念の体系の世界である。 分析哲学では「可能世界」の存在論について議論されている。ソール・クリプキを代表とする「現実主義」の立場では、可能世界は思考の検証装置に過ぎず、存在するのは現実世界だけだと考える。対してデヴィッド・ルイスを代表とする「可能主義」の立場では、可能世界は現実世界と同じように存在すると考える。可能主義は「多元宇宙論」の一種であり、論理的にありうる世界(様相)は全て存在すると考えるため、様相実在論とも呼ばれる。ロバート・ノージックが提案した「豊饒性の原理」も様相実在論とほぼ同様の考えである。ノージックの薫陶を受けた物理学者のブライアン・グリーンも豊饒性の原理に基づいた多元宇宙論を提案している。また物理学者のマックス・テグマークも、論理的にありうる全ての数学的構造の世界が実在しているとする「究極集合」を主張する。 私がマリリン・モンローと結婚する可能世界というのは随分馬鹿げて思える。私は無名の日本人でありモンローは有名なアメリカ人の女優である、とか言う以前にモンローは私が生まれる前に死んでいる。しかし現象主義的な可能世界論では、私がモンローと結婚する夢を見たなら、その世界は「この現実」と同じ身分で存在したと言えることになる。 いや、夢は終わるものだがこの現実世界は持続するものだと実在論者は反論するだろう。しかし現象主義の世界観では、自分の死と共に世界も消滅するのである。現象主義者は「この現実世界」の消滅を自分の「死」と推定する。ならば夢の世界も現実世界もその根本――「世界」が消滅するということにおいて変わりがないということになる。 心理学者の渡辺恒夫は自身のブログで次のように述べている。 「夢は覚める」という言い方は、自然的態度に基づいた言い方だ。現象学的には「夢はいつか終わる」としか言えない。そして、いつか終わる点にかけては、この覚めた世界、現実世界も同じことだ。 〔……〕 夢から覚めることが「現実」という別の夢の始まりだとすると、現実という夢から覚めることは、さらに別の夢の始まりを意味することになる。(*3) 渡辺は現象主義者ではないが、夢と現実は峻別できないという着眼は大森と同じである。 現象主義の立場からすると、私が空を飛ぶ夢を見たなら、私が空を飛ぶ可能世界は存在したということになる。そして私がモンローと結婚する夢を見たなら、私がモンローと結婚する可能世界は存在したということになる。なお留意すべき点であるが、夢と空想は全く異なる。私が空を飛んでいるところを想像すれば、その想像図は確かに存在するのだが、そこには「想像している現実の私」が想像図に浸透しているのである。 現象主義と可能世界論の関係で確かなことがある。現象主義では夢の世界を「この現実」とは異なる世界として実現したと認めざるを得ないのだから、他の論理的にありうる可能世界も全て存在可能だと認めるしかない、ということである。 ただし論理的にありえても、件の現象主義的な可能世界論では一つだけ実現不可能な可能世界がある。デイヴィッド・チャーマーズが想定した「哲学的ゾンビ」の世界である。ゾンビ世界は現象的意識が一切欠如した世界のことだから、現象主義的には想像不可能ということである。 形而上学的に夢と現実を峻別することはできない。にも関わらず、いや現実とは特別な世界なのだ、とどうしても思いたくなる。今の私は夢を見ているのかもしれないが、やがて目覚めて現実世界に戻るのではないか、と。パトナムの思考実験は極端な例であり、「この現実」には「現実性」という特権があるように思えるからだ。 ・現実性 「現実性」について論考してみたい。あくまで「この現実世界」の特権性に拘る者はいるだろうし、それは当然である。私は今頬をつねれば痛い。これこそ現実性であり、この現実性があることが現実世界の特権なのだと思いたくなる。しかしその「現実」とは何か。この問題が難解なのは夢の懐疑や水槽の脳の懐疑があるからだけではない。「この現実」もやがて過去となって現実性を失うからである。いや、今の私はリアルタイムで現実性を体感しているのだと思っても、思うと同時にそれは過去という非現実になっている。時間の哲学では「今」という時点の捉え難さが問題となっている。現実性はその「今」と相関しているから捉え難いのである。 現実である「今」は常に把握困難な速さで飛びすさって過去という非現実になっていく。「今」が捉え難いならば確実に存在したと言えるのは、「経験済み」の判が押された過去だけとなる。その過去は現実性を失っているのだから、現実だと思っている私の経験は全て幼い頃に見た蛇の夢に等く、逆に夢は現実に等しいということになる。つまり私が蛇を見た経験はほんとうに存在したのかわからない、というのでなく「経験」というものに対して「ほんとう」を問題にすることが無意味なのである。夢の懐疑や水槽の脳の懐疑は経験の真偽を問うことの無意味さを告げている。思い出の写真などを引っ張り出して、やはり過去はほんとうにあったのだと思っても無駄である。それは現在の経験であるし、その現在経験も夢に等しい過去となるのだ。 覚めない夢はもはや夢ではなく現実であり、消えていった現実はもはや現実ではなく夢である。これが現象主義の世界である。 大森荘蔵は論文「色即是空の実在論」で次のように述べている。 過去の実在性を経験できる場所は想起の経験をおいて他にはないだろう。 〔……〕 想起と独立に、想起以前にある過去というものを捉えようとしても煙のように消えていまう。結局想起から離れて自前で実在する過去などというものを把握した人間はいない。そのような実在過去の意味を人間は制作できなかったと思うほかはない。ではすると、私が何かを想起するとき、しかも上に述べた実在の確信をもって想起するとき、それは何らの実在にも対応しない妄想の類なのか。その通りであって、その実例をわれわれが夢と呼ぶ想起で経験しているのである。つまり、実在する過去というものの意味をわれわれが手にしていない以上は、すべての想起は夢なのである。人生夢の如しなどという感傷的比喩ではなくて、われわれの過去は夢以外のものではない。それに対応する現実は実在しないのだから。(*4) ただし大森の場合は現在の特権性を否定しているわけではなく、逆に現在の特権性に拘っている。大森にとって過去とは「過去形の現在経験」ということになる。大森の哲学は直接経験に拘るため「現前主義」や「現前の形而上学」とも言われる。私の立場も基本的に大森と同じ現前主義である。現実の特権性を否定し、夢も現実も同じようなものだとしても、それらは「経験された存在」として、「経験されない存在」とは峻別するからであり、過去経験も想起される限りでその存在が認められるからである。これが現前主義であり、現象主義である。 入不二基義は直接大森に言及しているわけではないものの、このような現前主義を拒否して、独自の「現実性」についての哲学を展開している。入不二は次のように述べる。 どんな内容・質を持つ「感覚」であっても、それだけで現実性が与えられるわけではない。たしかに、現に感覚していること(現実の感覚)ならば、現実性を与えることができるが、それは、あらかじめ現実性を「感覚」に付与しているからにすぎない。同じことは、「現前」や「直接経験」についてもいえる。たとえば、何かが現前することや何かを直接経験することが、現実性を与えると誤解してはならない。話は逆である。「現前」や「直接経験」は、「現に」や「今まさに」という副詞性があらかじめ刷り込まれているのでない限り、それだけでは(すなわち「現前する何か」「直接経験の内容」によっては)、現実性を与えることはできない。逆に、たとえ「現前」していなくとも、たとえば「潜在」という仕方であっても、「現に潜在している」かぎりは、それもまた「現実」であることに変わりはない。その意味で、「現実性」は、「現前」「直接経験」とは別のことである。(*5) 入不二の形而上学は、現実性を様相の一つとしたカントに反し、現実性こそが様相の開闢点である。これは永井均が〈私〉を様相の開闢点としたことと似ているが、入不二にとっては永井の〈私〉でさえも、「現実の〈私〉」や「現実でない〈私〉」というように、相対化されて様相内部に位置づけられる。 入不二の現実性についての論考は、着眼すべき点が微妙にずれているという印象を私は受けている。まず「現実」が捉え難いものであることは既に述べた。いくら自分の頬をつねって痛みを感じ、この痛みこそが現実性だと思っても、その思いは既に過去という非現実の一種である。いや、頬をつねり続けて持続的に痛みを感じることはできるし、痛みながら「これが現実だ」と言うこともできるだろう。しかしその確実に思える現実もまた過去のことである。 「今」に痛みがあるというのは素朴心理学的な態度であり、哲学的にその「今」を定義するのは難しい。時間軸上で過去と未来に挟まれた「今」は無限小であるしかないが、無限小とは一切幅の無い理論上の時間である。それは自然科学の道具であり、現実的に存在できない虚構である。人は虚構の時間の中に痛みを感じることはできない。ただし「今」とは無限小のものではなく一定の幅を持っているのだという意見もある。しかし時間が実在すると仮定するなら、それは無限分割可能な連続体であるしかない(ここではプランク時間という物理学の仮説はさて置く)。それは過去と未来に分割可能である。人は過去の痛みを感じることはできないし未来の痛みも感じることはできない。また幅の無い境界としての「今」の中にも痛みはない。ならば「今」の中に現実や感覚があるのではなく、むしろ感覚の中に「今」や現実があるというのが合理的結論になる。入不二は現実性を感覚や直接経験、つまりクオリアより根源的なものと考えたが、それは順序が異なっており、クオリアがなければ現実性もないというのが私の考えである。 しかし入不二の立場からは次のような反論があり得るだろう。現実性の本質は「無内包」であり、内包であるクオリアには依存しないのだ、と。入不二は次のような論法で「無内包の現実」を抽出している。 「この今」「現実的な現在」だけに特有の「内包」を探そうとしても無駄である。たとえば「直接経験」のようなものを、その「内実・中身」にすることはできない。なぜならば、過去にもその時点での「直接経験」はあったのだから、「直接経験」という点だけでは、過去と現在(この今)を区別することはできないからである。 〔……〕 「この今の」「現に起こっている」は、「直接経験」ではない無内包のものであらざるを得ないのである。(*6) また入不二は『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』で、次のように述べている。 現実は、それが全てでそれしかなく、様相を持たず、特定の中身・様態に依存しない。この全一的で・無様相で・空っぽのあり方こそ、ことばの正確な意味において、「絶対現実」(対を絶する現実)と呼ぶのが相応しい。「絶対現実」とは、「現に」という現実のことであり、その全一性・無様相性・無内包性を集約した表現である。(*7) 上の文に続いて入不二は、全一的で無内包の「絶対現実」が、特定の内容・様相を持った「相対現実」へと転落してしまうことを論じている。ちなみにこの「絶対現実」と「相対現実」の区別、そして前者から後者へ転落するプロセスの説明は、永井均の「独在性」の問題――世界の中で自分だけが特別な〈私〉であることの主張が、他者からも同様に〈私〉であると主張され続けられてしまう構造(独在性の累進構造)と、同型である。ちなみに永井は入不二の「無内包」の概念を自身の独在論に取り入れて、〈私〉は無内包の現実性であると主張するようになっており、入不二の「現実性」と永井の〈私〉は、近似的な概念となっている。 しかし私の立場からすると、無内包の「現実」や〈私〉というものは理解し難い概念である。 ここでデカルトの方法的懐疑が想起されるべきだろう。デカルトは『方法序説』において、疑うことが可能なものは全て疑った後、決して疑い得ないことを発見した。それがかの有名な「我思う、ゆえに我あり」であるが、しかしデカルトはその後も慎重に分析を続け、『省察』で次のように論じている。 私は在る。私は存在する。これは確かである。ではどれだけの間か? すなわち私が考える間である。というのも、もし私がすべての思考をやめるなら、その瞬間に私が在ることをまったく停止する、ということがおそらくありえるからである。(第二省察) 「私」が思うゆえに存在するのなら、思うことをやめれば「私」は存在しない可能性がある。双方は対の論理になっているのに、後者は見落とされがちである。疑い得ない「私」を発見したことのみにあぐらをかかず、その「私」が存在しなくなる可能性とその条件を真摯に見定めた点にこそ、デカルト哲学の真髄がある。この最も哲学的純度の高いデカルトの洞察を敷衍して考察を進めるなら、「現実性」や〈私〉があるから「痛い」や「甘い」や「美しい」があるのではない。事態はその逆であって、「痛い」や「甘い」や「美しい」があるということが即ち「現実性」や〈私〉があるということになるはずである。 デカルトの根本原理に従うならば、思うゆえに「私」が存在するのだから、思うことをやめれば「私」は存在しない。ところが「無内包」を認めると、思うことをやめても「私」が存在することになる。これはデカルトの根本原理を前提すると矛盾である疑いが強い。したがってデカルトの哲学的純度を維持しようとするなら「無内包の現実」は認められない。 ところで〈私〉の哲学と違って「現実性」の哲学では、世界に何もなく考える者もない場合、「何もない現実」というものが想定できるかもしれない。しかしその想定には暗に「何もない現実」を思考している何者かが前提されている。したがって現実性とはあくまで誰かの視点依存的な概念なのである。誰の視点にも依存しない現実とは「真実」や「実在」に他ならない。――このように説明すれば上で私が述べた「クオリアがなければ現実性もない」という言葉の意味も理解できるだろう。 なお、私の立場からすると入不二が「無内包」の概念を抽出する過程には矛盾があるように思える。「この現実」は全一的なものであり、対抗馬がいない。他人にも現実に心があるかもしれないというのは事実だし、他の時点も(永久主義を前提するならば)現実に存在するかもしれない。しかしそれらは必ず「かもしれない」という但し書き付きで表現されなければならないものである。他の「現実かもしれない」ものたちを、「この現実」と同格のものとして論点先取的に前提した上で現実性の無内包を主張するのは、人の認識能力を超えた飛躍を行っており、既に「現実性」の意味と矛盾しているのである。認識論的事実を述べるならば、他人の心も他の時点も、あくまで「現実かもしれない」ものに過ぎないのである。端的な「この現実」のみが真に「ある」と言えるものであり、他の「現実かもしれないもの」たちは「ない」に等しいと言って差し支えないほど絶対的な認識論的懸隔がある。 「現実性」とは単に様相の一概念であるのみではなく、人の認識能力を制限するものでもある。全ての時点と地点を平等に見渡せる神においては、全ての時点と地点が現実化しているだろう。しかし人にとって現実化している時点と地点は「今・ここ・私」だけである。人はその現実から他の全てを推測しているのが事実なのである。 たとえば「私は昨夜カレーを食べた」と言う場合、その意味は他人にもわかるだろうが、事実はわからない。「私は歯が痛い」と言う場合も同じことで、クオリアの私秘性というのは事実へのアクセス不可能性ということである。いや、「カレーを食べた」の場合は昨夜の私の行動を調査すれば事実が判明するのではないか、と思うかもしれない。しかしいくら調査しても発見できるのは事実の痕跡であって、事実自体ではない。「事実」とは広範な概念であって、これを哲学的に厳格化すると「真実」となる。真実にアクセスできないという問題は、他人のクオリアも過去も実在も同じで、その問題ゆえに認識依存的な「現実」と、認識を超えた「真実」の峻別が要請される。認識(クオリア)だけが与えられていて、真実を経験できないというのが人の現実である。人には「真実」が与えられていない。 「今・ここ・私」だけが「現実」なのである。その現実はデカルトの「私」と一致する。 しかし私の全身が「痛み」に支配されていたとしても、その痛みのみが「私」というわけではない。痛みを「私」と定義してしまえば、次に現れるクオリアとの同一性を考えることができなくなる。したがって「私」とは、次々に生起する一連のクオリアの総体のことであるだろう。――ここで困難な問題が生じることになる。それぞれが全一的で排他的なクオリアたちが、一体どのようにして「つながる」ことができるかということである。この問題こそが入不二や永井が提起した問題と重なっていながら、重心が異なる「現実性」の真の問題だと私は考える。 前章にて私が出した解答は一種の永久主義・四次元主義である。永久主義と言っても多様な立場があるが、現代では一般的に相対性理論から導出された四次元多様体(ブロック宇宙)を実体とみなし、存在者は空間を占めるだけでなく時間的幅を持つと考えるので四次元主義と呼ばれる。この立場では実在世界の変化を認めず、過去・現在・未来の事物が全て四次元多様体内部に実在していると考える。人は過去・未来に痛みを感じることができず、幅の無い「今」にも痛みは無いというなら、痛みの場所として四次元時空を考えるしかない。つまり永久主義を選択するしかないと私は考えたのである。 しかしここで新たな問題が生じるのだった。クオリアとは常に変化しているように思える。そして変化があるなら時間もあるはずである。永久と変化は相克する概念である。永久主義の立場を選択した場合、現に変化している(と思われる)知覚現象と、変化の実在を否定する理論とのギャップが大きな問題となる。この問題こそが前章で私が行き詰ったものである。 次節にて、改めて「変化」について論考してみたい。 3 マクタガートに見る「変化」の難問 変化とは「なる」ことである。或る状態から別の状態に「なる」ことが変化である。「時間が流れる」や「時間が推移する」という言い方で変化を表す場合もあるが、それらも或る状態から別の状態に「なる」ことを表しているのだから、変化の本性を最も縮約した言葉は、やはり「なる」ということになる。 時間の非実在を主張したマクタガートは、変化の問題について注目すべき洞察を行っている。それは時間特有の変化に晒されるものを、「人」や「物」ではなく「出来事」と考えたことである。一般的に人は「彼は変わった」という言い方をするが「彼の死は変わった」という言い方はしない。つまり出来事は元から変化しないものであり、それ自身すでに変化・発生・消滅といった概念を含んでいる。出来事に到来する変化とは、過去・現在・未来という、時制変化のみということになる。 マクタガートの主張を敷衍して「なる」について考えてみよう。「物」については、「青いつぼみが赤い花になる」という場合の「なる」は客観的に登場しない。或る時点では「青いつぼみ」の物があり、別の時点では「赤い花」の物があるだけであり、人が双方に「同一性」を見出さなければ前者が後者に「なる」と言うことはできない。しかし「出来事」については、或る時点では「現在」であったはずの「タイタニック号の沈没」は、別の時点では「過去」に「なる」。一見、ここでは「なる」が客観的に表現されるように思える。「物」は変化せず、また過去・現在・未来という時制変化からも逸れるが、「出来事」はそれ自体変化しないものの、過去・現在・未来という時制変化に晒される。――これがマクタガートが時間特有の変化は物でなく出来事にあると考えた理由である。 マクタガートは一見「なる」を客観的に捉えたように思える。しかし、そもそも「出来事」とは何かということをよく吟味してみれば、マクタガートの論理に綻びが見えてくるはずだ。例として「タイタニック号の沈没」という出来事を解体してみよう。それは結局以下のような複数の「物」の「結びつき」であろう。 物1: 洋上にあるタイタニック号 物2: 氷山に接触しているタイタニック号 物3: 船体の半分が海中にあるタイタニック号 物4: 船体の全てが海中にあるタイタニック号 それら複数の物の「結びつき」は、もちろん客観世界に存在しているのではなく、人の主観によって見出されたものに過ぎない。「出来事」とは人の心の中にしかないのではないか? なお入不二はマクタガートによる「物」と「出来事」の区別を批判して次のように述べる。 〔……〕「出来事についての時間変化」からもまた、同一不変の「(高階の)こと」を切り出すことができるはずである。たとえば、「出来事Eが現在のことから過去のことになる」から「出来事Eがある時点 t1で現在であることを」を切り出すというように。(*8) ※ちなみに伊佐敷隆弘によれば、マクタガート自身もこの困難に気づいていたという。(*9) この論理からすると、出来事Eが或る時点で「現在」であり、別の時点で「過去」であることは永久に変わらないということになる。マクタガートと入不二の主張の違いをわかりやすくすれば次のようになる。 マクタガートの主張: 「タイタニック号の沈没」という出来事はそれ自体変化しない。しかしその出来事は過去・現在・未来という時制変化に晒される。 入不二の主張 : 「タイタニック号の沈没」という出来事は、一八九九年では未来であるということ(高階の出来事)、二〇〇一年では過去であるということ(高階の出来事)は永久的であり、過去・現在・未来という時制変化に晒されない。 確かに、入不二の言うように「高階のこと」は永久に変わらない。とすると出来事が時制変化に晒されるとしたマクタガートに反して、「高階の出来事」を想定することによって、出来事もまた変化せず、「なる」が客観的に存在しないと考えることができてしまう。つまり「出来事は現在であるものが過去になる」と言う場合の「なる」は、結局「物」と同様に人の主観によって見出されたものということであり、変化の本質である「なる」がここでも消去される。 ただし入不二は変化を否定するわけでなく、続けて次のように述べている。 〔……〕そして、同一不変の「こと」(「Xがある時点 t1でPであること」)が、現在のことから過去のことになるのと同じように、同一不変の「(高階の)こと」(「出来事Eがある時点 t1で現在であること」)自体もまた、まさに現在のことからやがて過去のことになる。 〔……〕 すなわち、時間特有の変化は、「こと」の高階化に伴って、さらに高階の変化として取り出される。時間特有の変化は、変化の中から切り出される固定的なものに対しての、さらなる高階の変化として、原理的にはどこまでも高階化しうるのでなければならない。通常、困難や欠点として指摘されることの多い、この無限後退(の可能性)は、むしろ時間変化の「高階性」を示唆していると見なすべきである。 時間特有の変化の特異性は、ものと出来事という区別に基づくのではなく、その「高階性」にある。 〔……〕 時間変化が「高階の変化」であるということは、変化の中からどんなに固定的なものを切り出したとしても、その固定的なものへも波及せざるを得ない変化だということであるということは、時間変化の「高階性」は、時間変化の「汎浸透性」でもある。時間変化に晒されることから、逸れる固定的なものなどない。(*10) 時間特有の変化を「高階性」としたのは優れた洞察であると思う。しかしこの入不二の論法は、見方を変えれば変化の実在性を否定する論法と読み変えることができる。つまり、「出来事Eは或る時点で現在であったこと」という高階の出来事もまた、より高階の出来事を想定すれば永久的であるしかない。そのより高階の出来事もまた更に高階の出来事を想定すれば永久的である。「無限後退の可能性」を認めるのならば、アキレスが亀に追いつけないように、結局どの階層の出来事も、過去から現在に「なる」ことはなく、現在から未来に「なる」こともない。時制変化はどの出来事にも訪れないということになる。 あえて言うなら、より高階の出来事を想定し、後退を続ける主観的視点のみが時間の本性としてある、ということになる。客観的な「なる」がどこにも見出せないなら客観的な変化はない。変化の本質である「なる」は、入不二の論理でもやはり主観によって見出されたものだということになる。 しかし仮に時間が客観的なものでないのは事実だとしても、意識内容――クオリアは現に変化しているのだから、時間は主観的には存在するのではないか、と言うこともできる。入不二は時間が実在しないというマクタガートの「実在観」を批判して次のように述べている。 「実在」には、「全体」「完全なるもの」という意味も含まれている。〔……〕 主観的なものと客観的なもの両方を合わせてこそ、「完全なるもの」のはずだからである。つまり、「実在的(real)である」ことと「客観的である」こととは、イコールではない。あるいは、「主観的である」ということは、必ずしも「実在的(real)ではない」ことを意味しない。(*11) この入不二のマクタガート批判は説得的である。マクタガートは主観によって捉えられる現象(クオリア)の変化は認めていた。現象の変化を認めながら時間の非実在を主張したのは、マクタガートの時間論の最大の瑕疵であるだろう。もっともマクタガートは明らかにカント哲学の影響を受けており、カントにおける物自体と現象との二分法が、マクタガートにおいて永久的な実在と変化する現象という形で引き継がれたことは間違いない。入不二が指摘したマクタガートの瑕疵はカント哲学にもあったものであり、またさらに遡るならば、永久的な実体と変化する(錯覚としての)現象を分けたエレア派にもあったと言えるものである。つまりこの問題は哲学において歴史的な課題の一つということになる。 カントがエレア派の哲学から多かれ少なかれ影響を受けていることは事実であろう。アンチノミーの議論は明らかにゼノンのパラドックスが原型である。しかしカントとパルメニデスには一つ大きな違いがある。カントが明確に物自体と現象世界を分け、「超越論的観念論」かつ「経験的実在論」という二元論の立場を取ったのに対し、パルメニデスはクセノファネスから継承したとみられる全一的な存在者を措定し、一元論を徹底していたことである。 エレア派は変化は不可能であり、感覚が捉える現象の変化は錯覚のようなものであるという。しかし「錯覚」とは何か。前述したように錯覚論法によれば変化する現象の「経験」は確かに存在することになる。エレア派についての一次資料は僅かなのでここからは推測になるのだが、パルメニデスやゼノンもそんなことは承知の上で、現象の変化は錯覚だと主張していたのだと私は考える。 虚心坦懐に内省してみれば、実は現象は変化していないと考えることもできるのではないか。自分の経験をよく内省してみると、実はクオリアの「変化」を観測しているわけではないと気付くはずである。例えば交差点の信号が「青」→「黄」→「赤」と変化するのを見た場合、そこには「青」があってそれが消え、「黄」が生じてそれが消え、次に「赤」が生じたように思われるのだが、それは人が元の経験を反省して理性で分割・再合成したものである。ちなみにその「元の経験」をウィリアム・ジェイムズは「純粋経験」と呼んだ。 実際に人が経験しているのは、 「青のクオリア」→「黄のクオリア」→「赤のクオリア」 ではなく、 「青→黄→赤」のクオリア である。「青→黄→赤」は一つのクオリアでなければならない。 クオリアは「生じない」し「消えない」と考えるしかない。クオリアが生まれたり消えたりするのは論理に反している。しかし連続的に生成し、消滅するクオリアたち全てを一個の存在者と見て、それが不生不滅だとするならば、論理に反しないのである。事実として、私は変化を感じているように思っているのだが、実際に経験しているのは「変化」そのものではなく、「変化しているような感じ」が「ある」のである。「AはAである」「BはBである」とAとBの存在を固定してしまえば、AがBに「なる」という変化は不可能である。しかしAとBが個別に存在することを否定して、「AがBになる」というものが「ある」すると考えるなら、同一律にも矛盾律にも反しないのである。 ――以上が前章にて、変化の矛盾に対して私が出した解決案だった。しかしこの案は単純な理由で失敗したのだった。「青→黄→赤」は一つのクオリアだと考えようとしても、「赤」が登場した時点で「青」は完全に「ない」になっているからである。 この問題を解決するためのヒントを、私は先の入不二の議論から得た。入不二は次のように述べていた。 時間特有の変化は、変化の中から切り出される固定的なものに対しての、さらなる高階の変化として、原理的にはどこまでも高階化しうるのでなければならない。 つまりクオリアをB系列上に整然と並べるのは間違いだということである。これはベルクソンによる「時間の空間化」批判と通底する洞察であると思われる。 たとえば交差点の「青」が消えて「黄」が生じ、「黄」が消えて「赤」が生じるのを見た場合、以下のようにクオリアを時間軸上に定位させて理解するのが一般的である。 〔……〕[青]→[黄]→[赤]→〔……〕 _____________________________________→ 客観時間 → 上の「→」は消滅と生成を表している。〔……〕は、クオリアの数が可能的に無限であることを表している。私の発想は「→」を消去し、複数のクオリアが断続的に生起しているのでなく、実はひとつのクオリアだけが存在し、多様に見える複数のクオリアはその内部の性質として重層的にあるとみなすことである。つまりほんとうに存在しているのは、ひとつらなりのクオリアとしての、 〔……〕{([青]黄)赤}〔……〕 _____________________________________→ クオリアの性質 → だろうということだ。上の[ ]内で最初の「青」を表現し、それを次の( )に含めて「黄」の内部性質として表現し、その黄も{ }に含めて「赤」の内部性質として表現している。この知覚モデルはベルクソンの用語で言う「イマージュ」に近い(ベルクソンはエレア派に対し変化を肯定するための存在論を構想したのだが)。 入不二が見た「時間の高階性」は、私にとっては「クオリアの高階性」なのである。クオリアは(時間という形式を内包して)どこまでも高階性を持つ。そして、その高階性によってどこまでも「変化」の本質である「なる」は否定される。入不二の言葉をもじって表現するならば「通常、困難や欠点として指摘されることの多い、この無限後退(の可能性)は、むしろクオリアの「高階性」を示唆していると見なすべきである。私と入不二は同じものを見ているにも関わらず、正反対の解釈をしているということである。 かくして時間と変化は客観的世界だけではなく、主観的世界からも実在性が排除されることになる。そして変化の実在を否定しながらも、クオリアの「変化している感じ」は説明可能である――。 いや、やはり問題は解消されていないように思える。「クオリアの高階性」という着眼は現象学的に意識経験の真理の一端を捉えた感はあるのだが、前章で行き詰った「変化」についての根本的な問題が放置されている。 私の論証は変化の説明として基本的に失敗している。次節にてその失敗を検証し、「変化」の概念が孕む問題を徹底的に純化して、問題の根幹部分を析出したい。 4 変化のパラドックス――四次元主義の破綻 変化とは「ある」ものが「ない」ものに「なる」ことであり、「ない」ものが「ある」ものに「なる」ことである。これは存在者が無から生成することであり、また存在者が無へ転化することである。それは論理的に不可能である。なぜならば「なる」とは「存在者が存在する」ということと、「存在者が非‐存在する」ということが同一だという矛盾だからである。――これが前章第1節における私の論証であった。 今一度、変化のパラドックスを確認しておこう。異なる時点に異なるものたちが並んでいるだけなら変化とは言わない。逆に異なる時点に同じものたちが並んでいるだけでも変化とは言わない。したがって変化とは同一でありつつ相違すること、相違しつつも同一であり続けるという矛盾したものである。 物の変化を実体と属性の関係として理解する素朴な方法はある。実体・主体を主語で、属性を述語で表現するのが変化についての素朴な人の理解方法である。これは必ずしも実在論を前提しなくても、観念論でも可能な方法である。つまり「自我」や「魂」を主体として、意識内容をその属性として説明するのである。しかし哲学的には、このような方法は私が考え得る限り最も拙いものである。主体や属性というのは世界の事実ではなく、人の認識の都合で便宜的に定められた規約的なものにすぎないからだ。仮に何らかの主体があって「痛み」は属性だったとしよう。では属性としての痛みはどこに消えて行くのか? 属性や述語などと口先だけで上手く言っても、ものごとが消えることの摩訶不思議は何も解消しない。 消えるものは「部分」であって、「全体」は消えないのだという考え方もあるだろう。しかしこれは表象主義的な前提を置いている。つまり部分を認識する「私」という主体があって、それが別の部分に視点を移動しているのだとする素朴な知覚理論を前提しているわけである。部分を認識している「私」を想定しても、その「私」が別の部分を認識するならば、以前の部分は私の意識内部から消える。その「消える」ということをやはり説明できない。 以上の問題を解決するため、私はエレア派と同様に変化の実在を否定した。経験されるクオリアたちは多様である。私はそれらが「ひとつらなりの存在」だとして変化の非実在という前提と整合的に説明したつもりである。しかしここで問題となるのは、その「ひとつらなりの存在」の全体像をイメージすることができないということである。 幼い頃、私は寝室に落ちてきた蛇を見た。その蛇は夢か現実かに関わらず確かに「ある」と言えるものだった。そして変化の実在を否定し、蛇はクオリアの性質として「ある」というのなら、そのひとつらなりのクオリア全体は永久であるしかない。ここに理論と直感との調停し難い相克が生じる。直感に基づいて言うなら、私は幼い頃からずっとあの蛇を見続けてきたというわけではない。蛇は消えていたはずである。また変化を否定するならば、バークリーのように「知覚=存在」として、あの蛇を想起した時だけ蛇が存在するとも考えることができない。 交差点の信号が「青」→「黄」→「赤」と変化するのを見た場合、そこには「青」があってそれが消え、「黄」が生じてそれが消え、次に「赤」が生じたように、「なる」が連続するように思われる。しかし実際に「なる」という出来事があって、「青」が消滅し「黄」や「赤」が生成するなら、それは「存在者が存在する」ということと、「存在者が非‐存在する」ということが同一だという矛盾である。 ここで実在世界の変化を否定する「永久主義」を前提として、人の感じている変化の感覚を説明する立場を紹介し、検証してみたい。 物理学者のブライアン・グリーンは相対性理論の解釈によって時間の実在を否定し、全ての物事が四次元時空に永久的に存在しているとする立場から、人が経験している時間の流れの感覚を鮮やかに説明している。 壊れたDVDプレイヤーで『風と共に去りぬ』を見ているものと想像しよう。そのDVDプレイヤーは、前後にランダムにジャンプする。ある画像が一瞬スクリーンに現れたと思ったら、すぐまた別のシーンの画像が現れるのだ。コマが前後にジャンプするのを見て、ストーリーを理解するのは難しい。しかしスカーレットとレットにとっては何の問題もない。どのコマでも、二人はそのコマでいつもすることをするだけだ。〔……〕二人はそれぞれのコマで、前にそのコマで考えたのと同じことを考え、同じ記憶をもつのである。とくに重要なのは、二人がそうして考える内容と記憶とが、時間は常に未来に向かって均一に流れるという感覚を二人に与えていることだ。 時空の中のどの時刻も(つまり、どの時刻でスライスした時空の断面も)、一本のフィルムのなかの一コマのようなものである。光線に照らし出されようが、照らし出されまいが、そのコマが存在していることに変わりはない。スカーレットとレットと同じく、ある瞬間に存在しているあなたにとっては、その瞬間こそ「今」であり、「今」であり続ける。しかも、個々の断面のなかにいるあなたの思考と記憶は、時間はその瞬間に向かってよどみなく流れてきたと感じさせるのに十分なぐらい豊富かつ鮮明だ。「時間は流れる」というこの感覚をもつためには、それまでの各時間のコマが次々と照らし出されていく必要はないのである。(*12) このグリーンの考え方は、哲学における四次元主義に該当する。四次元主義については第1章第5節で紹介したので、ここでは要約だけしておく。四次元主義は永久主義を前提とした理論であり、物体は時間的に「延続」しており、三次元空間に現れるのは「一時的内在的性質」に過ぎず、四次元時空の中にこそ完全に存在すると考える。 四次元主義は「ワーム説」と「段階説」に分けられる。四次元主義によれば物体や人は時間的に延続した時空ワームである。ワーム説ではその時空ワームが基礎的な存在者であると考える。段階説の「段階」とは「ワーム」から切り取られた諸々の段階を指しており、その個別の段階たちが基礎的な存在者であり、物体や人は諸段階の集合体と考える。 四次元主義は人格の同一性を次のように説明する。ワーム説によれば昨日の「私」と今日の「私」は同一ワーム内にあるゆえに数的に同一の存在者であり、それぞれの時間で異なった性質を持つ。一方の段階説によれば昨日の「私」と今日の「私」は異なる段階であり、数的にも異なる存在者である。 グリーンは段階説の立場から一見、変化を上手く説明しているように思える。人が時間変化の本質だと思っている時間の流れの感覚も、永久的な存在者として整合的に説明されている。実際グリーンと同じように時間を説明をする物理学者は少なくない(*13)。 しかしグリーンの説明では、やはり変化の矛盾は解消できない。それは次のような理由による。 変化とは、或る物事が別の物事に「なる」ことである。これは当然である。第3章第7節でも論じたことであるが、全ての物事が永久的に存在しているとする宇宙モデル(ブロック宇宙)では、その内部の物事が別の物事に「なる」ことはあり得ない。 以下にブロック宇宙の概念を簡潔に表してみよう。[1] や [2] はグリーンが解説したDVDのコマに相当する [1] ― [2] ― [3] ― [4] ― [5] ― …… ブロック宇宙内部にいる者は変化を経験することができない。仮に[1]が交差点の信号の「青」であり、 [2] が「黄」ならば、青が黄に「なる」ということを人は感じることができない。もちろん人がブロック宇宙の外部にいて「青」から「赤」へと視点を移動するのならば「なる」を感じることはできるだろう。しかし人はブロック宇宙の内部にいるのだから鳥瞰的に観察することはできない。 もちろん「青が黄になる」というのも一つのクオリアとして存在しているのだと仮定することによって、「なる」の説明を試みる方法はある。しかしその方法は上手く行かない。なぜなら「青」の状態から「青が黄になる」という状態に「なる」ことを感じることができないからである。また「青が黄になる」という状態から「赤」に「なる」ことを感じることもできない。持続的かつ多様にクオリアが変化しているよう思えることを説明できないのである。 いや、「青」は今の「赤」とは、それぞれ永久的でありながら数的に異なる存在者だとするのが段階説の説明であった。数的に異なる存在者ならば、そもそも「青」を感じている「私」と、「青が黄になる」を感じている「私」とは別の存在者だとして変化の問題を解消できると考えることができるかもしれない。しかしこれは「ここ今主義」や「独今論」と呼ばれる立場と根本的に差異がない。仮に今の「青」が「私」であり、それが段階説の説明するように孤立して時空の一点に存在しているのなら、「私」は永久的に「青」であり続けるしかない。それが消えるという変化がなければ「黄」にも「赤」にも「なる」ことはできない。ならば、なぜ私は「なる」を感じているのだろう? この私が時空の一点に位置する存在者ならば、他の時空点は決して認識できない。四次元時空を鳥瞰する存在者でなければ、四次元時空全体を記述できない。段階説においては、他の諸々の段階とは「今・ここ・私」には経験不可能なものである。経験不可能であることがわかっている存在について語るのは事実上、別の宇宙について語っているのと同じことである。他の別の段階たちは、あくまで「今・ここ・私」から推測された仮説的な存在にすぎないということである。四次元主義は永久主義を前提しているために、世界における変化と因果の実在を否定するものである。したがって「今」の段階が因果的に引き起こされたと考えることができず、「今」の外部があると主張できる根拠がないのである。「ここ・今・私」である段階が孤立して存在することが論理的に可能なのであるから、別の宇宙に等しい別の段階たちを措定しなくても、「今・ここ・私」である段階は完結して存在可能なのである。 このようにして段階説を詳しく吟味していくと、限りなくここ今主義・独今論へと接近することになる。 段階説の困難を回避するために私が案出した戦略は、「青→黄→赤」を一つのクオリアだとみなし、それが永久的に存在するとするとみなすものである。「青」にせよ「熱い」にせよ「郷愁」にせよ、クオリアは全一的な性質がある。クオリアたちは他の何かに還元して説明することができない。これが全一性である。「青」のどこを探しても「郷愁」はなく、「郷愁」のどこを探しても「熱い」はない。「痛み」にせよ何にせよ、クオリアは「ない」ものと繋がることはできない。映画のフィルムの或る一コマと別の一コマがつながっているようなイメージで、或るクオリアと別のクオリアがつながっていると考える段階説は間違いである。人の経験するクオリアはフィルムのコマのような明確な境界を持たず、みなグラデーションのようになだらかにつながっている。そのなだらかにつながった一連のクオリア全体を、一つのクオリアとみなそうというわけである。これは四次元主義の一種であるワーム説に近い考え方である。この方法ならば「青が黄になる」、「黄が赤になる」という人が経験する変化の感じ、変化の本質である「なる」を、一つのクオリアの性質として説明できると考えたのである。 ところが、これも上手く行かないのだった。なぜならば「青が黄になる」に続けて、「黄が赤になる」というクオリアがあるとした場合、「赤」が「ある」になった状態では最初の「青」が完全に「ない」になっているからである。これは変化のパラドックス――無からの生成と無への転化を認めるものであり、すなわち「存在者が存在する」と「存在者が非‐存在する」が同一だとする完全な矛盾である。 つまり変化の理論としての四次元主義的な戦略の根底にある困難とは、異なる性質を同一の存在者の時間内性質だと考えようとしても、「なる」によってつないで「一つのもの」とみなせるのは、二つの性質のみだということである。「青が黄になる」というクオリアがあるなら矛盾ではない。「黄が赤になる」というクオリアがあるのも矛盾ではない。しかし「青が黄になり、そして黄が赤になる」というクオリアは矛盾であるゆえに存在できないのである。なぜなら「赤」が「ある」ものであるならば「青」は完全に「ない」からである。すると「青→黄→赤」を一つのクオリアと考えようとしても、「青=黄」かつ「黄=赤」、しかし「青≠赤」と推移関係において矛盾が生じるということである。 四次元主義が変化の説明に失敗していることは明らかである。 ところで変化を説明する理論としては、四次元主義と対立する立場として三次元主義がある。三次元主義では一つのものは時間的幅を持たず、相反する複数の性質を持つことはないと考える。たとえば「丸く、かつ四角いものはない」というように。そして三次元空間に存在するものが時間を通じて「存続」すると考える。三次元主義は一般的に時間の形而上学として、現在のものだけが存在するとする現在主義を前提としている(*14)。 しかし私の立場からすると、現在主義は無からの生成と、無への転化を認める理論であり、検討の余地が全くない矛盾した理論である。仮に私が「痛み」を感じたとする。次にその痛みが消えたとする。現在主義では、痛みは無から生じ、無へと消えたことになる。いやもちろん物理主義的な立場から物質的実体を措定し、物質は時間を通じて位置を変化しながら存続するのだと考えることはできるが、それでも痛みのクオリアにはついて何の説明もできない。せいぜい物質的な脳がクオリアを生じさせると主張するぐらいなものであり、これはチャーマーズが提起した意識のハード・プロブレムに解答できない。ちなみにチャーマーズはサールとの議論で、脳が意識を引き起こすというサールの主張を「万能の呪文」と呼んでいる(*15)。つまり現在主義は魔法を認めているようなものである。これが四次元主義ならば、変化の説明には失敗しているものの、永久主義を前提としているためにクオリアの生成と消滅という困難は回避できるのである。 現在主義は素朴実在論や素朴心理学と親和的であるかもしれない。また存在者の数を少なくするという「節約の原理」に適合するという考え方もあるだろう。しかし形而上学は人の素朴な直観と整合させる必要は全くなく、また節約の原理が適用できるのは、適用することによって矛盾が生じない場合に限られる。無からの生成と無への転化を認める現在主義は、完全に阻却されるしかないものである。 以上の検証によって「変化」の概念が孕む問題は純化され、その根底にある問題が明確化されたはずである。 まず現在主義は明白に矛盾しており論外である。一方、永久主義を前提した四次元主義では、存在者は時間的幅を持つとして変化を説明可能であるように思えたものの、異なる存在者・一時的内在的性質を同一のものだと考えようとしても、「なる」によってつなぐことができるのは二つの性質のみである。「青が黄になる」というクオリアがあるなら問題ではないし、「黄が赤になる」というクオリアがあるのも問題ではない。しかし「青が黄になり、黄が赤になる」というクオリアは存在できない。したがって「青=黄」かつ「黄=赤」、しかし「青≠赤」と矛盾が生じるのである。 変化は論理的に不可能である。ならば一体、人はなぜ変化を感じることができるのだろう? もう一つの問題がある。マクタガートは時間をA系列とB系列に分け、B系列は時間にとって本質的ではなく、A系列こそが本質的だと考えた。しかしA系列は矛盾を含むゆえに時間は実在しないと主張し、主観的な変化の認識――C系列のみを認めた。つまりマクタガートによれば「変化」は実在するが「時間」は実在しないということである。しかし第3章第7説でも論じたことであるが、マクタガートの理論には深刻な不整合があるように思える。 仮に今現前しているクオリアをQ1としよう。次に現れるクオリアをQ2とする。その次に現れるクオリアをQ3とする……。このように意識の変化を認めるならば、それがB系列のように「順序」、あるいは「時間の矢」がなくても、今のクオリアは「現在」であり、その前のクオリアは「過去」であり、次に現れるクオリアは「未来」ということになってしまう。これはA系列と変わりがないように思える。 確かにC系列は通常の意味での「時間」ではないかも知れないが、それは或る種の時間であり、要するに「変化」が存在することは「時間」が存在することの十分条件であるように思えるのだ。 そして時間が実在するならば、カントのアンチノミーを回避することはできない。「現在」がC系列上の或るポジションから別のポジションにランダムにジャンプするとしよう。「現在」の「移動回数」は観察者がカウントするに関わらず決定していなければならない。ここから形而上学的無限という矛盾が帰結することになる。 第3章で論じたように、時間が実在するとした場合、以下のように二つの矛盾が生じるのだった。 変化に基づく矛盾: 変化とは「ある」と「ない」という相互排他的なものが同一であるとする矛盾である 無限に基づく矛盾: 時間が実在するなら、時間は無限に分割・延長可能であるが、無限の実在とは矛盾である 私は確かに変化を感じているように思える。しかし変化は矛盾であるので、私は第3章で無時間論を構想したが、それは上手く行かなかった。この章におけるこれまでの論考によっても、未だ私はこの二つの矛盾を解消できないでいる。 矛盾したものは存在することができない。時間が実在するのならば二つの矛盾がある。私は次のように確信せざるを得なくなった。変化の矛盾を解消するには、大きな犠牲を払う必要がある。それは常識を完全に放棄することである。 現に私が感じている変化の感覚を説明する方法が二つあり得ると考える。次節よりそれらを検討してみよう。まずは独今論である。 5 独今論 変化の感覚を説明する方法の一つは、「この現在」の時点だけが実在し、他の時点は実在しないとするものである。これは分析形而上学で「ここ今主義(here-now-ism)」と呼ばれる(*16)。また永井均の用語である「独今論」は、ここ今主義と類似の意味である。独我論が「私」の実在性のみを認め、他者はその「私」に現れるものだとみなすように、独今論は「現在」のみの実在性を認め、「過去」と「未来」は「現在」への現れだとみなす。独今論は時間における独我論である(*17)。 ※ところで永井の場合は独今論を独在論とパラレルな問題とみなしているので意味が輻湊しているのだが、ここでは野矢茂樹(2002)に倣って単に時間における独我論という意味で用いることにする。 独今論が論理的に成り立ち得ることは、ラッセルの「世界五分前創造説」によって示唆されている。太古の化石も、十六世紀にダヴィンチによって描かれた『モナ・リザ』も、十年前の私の写真も、そのような姿形で、全て神によって五分前に創造されたと仮定しても、論理的な不整合があるわけではない。ならば五分前に創造されていようと三秒前に創造されていようと論理的には同じことである。 なお、五分前創造説が独我論につながるか否かという問題がある。過去において「時間の長さ」を感じた人物の実在を認められないと考えるならば、現在の人物だけが実在的であるとする一種の独我論である。しかし時間の長さも無時間的なクオリアに還元できるという考え方もありうる。たとえば神が五分前に時間の長さをクオリアとして感じたソクラテスを誕生させ、そして消滅させたとすれば論理的に不整合がない。物理的・客観的な時間とは単なるパラメーターに過ぎず、人がそこに「長さ」を感じなければ「時間の長さ」ということに意味がないと考えることができるからだ。時間の長さのクオリアについてはアインシュタインの次の言葉が理解の補助となるだろう。「美女と一時間一緒にいると一分しか経っていないように思えるが、熱いストーブの上に一分座らせられたらどんな時間よりも長いはずだ。相対性とはそれである」――この言葉は主観的な時間の長さの感覚が、客観的な時間の長さ(わかりやすく表現すれば時計の針の回転数)と正比例していないことを巧みに表している。 そもそも客観的な時間の長さというものは存在していないのである。客観的にあるのはアリストテレスが時間の本性として分析したように「運動の数」のみなのである。ならば論理的には何億分の一秒の内に熱いストーブの上に十年間座ったような感覚を得ることが可能だということになり、五分前に創造された世界の内に一生分の時間の長さを感じたソクラテスの生と死が含まれていても何ら不思議はないということになる。 ところで、五分前創造説はそれだけでは独今論にはならない。なぜなら時間は未来に向かって流れて行くように感じられるからだ。したがって仮に世界が五分前に創造されていたとしても、今から十分後の世界は創造から十五分が経過したということになる。それに対し独今論は「この現在」のみが存在するという存在論であるからだ。したがって「未来」の到来を否定した上で、「未来のないこの現在」が永久的に存在し得ることを論証することが、独今論が可能的な時間論であることの論証になる。 果たして未来が到来しないなどということが思考可能だろうか? 素朴に「現に未来に向かって時間が進んでいる」と思いたくなる。しかしその思いもまた「現在」の経験に過ぎず、未来が到来したことの証明ではない。そしてその現在は五分前、あるいは三秒前に創造されていたとしても不整合はないのだった。いや、三秒前に創造されていたことを認めたとしても、「認めた時点からさらに時間は進んでいる」と思いたくなる。しかしそういう思いがあってもやはり同じことである。「認めた時点からさらに時間は進んでいる」という思いを含めて世界が三秒前に創造されていて、未来は到来していないと考えても不整合はない。また「私は二時間前のことを憶えているので現在だけが存在するなんてあり得ない」と思っても無駄である。その思いもまた「現在」の経験なのだから。結局、人は「時間が流れている」という印象を伴った「この現在」しか経験していないのが現実である。 したがって未来は存在論的に消去することが可能であり、「この現在」のみが永久的に存在するとする独今論は論理的に成り立つことを認めざるを得ない。 ここで次のような批判があるかもしれない。――この現在のみが存在するということは不自然である。ラッセルの五分前創造説は「神」の存在に依拠して成り立っているが、現実には神の存在など信じる根拠がない。ならば歴史は実在しなければならない。仮に映画を見ているのが「現在」ならば、その映画は過去に作られていなければならない。もちろん映画の撮影機材も作られていなければならないし、映画に最新のコンピューターグラフィックスが使用されているならば、コンピューターが発明される歴史的経緯も実在していなければならない、等々。 しかしそのような批判は「因果関係」の実在性に依拠にしたものである。因果関係とはカントが論じたように人の認識能力の一種に過ぎないのである。この問題は第三章の第7節で詳述した。「変化」は「無からの生成」を認めるものであり実在性を認めることができない。仮に変化の矛盾を棚上げしても、「時間」には「無限」という固有の矛盾があって実在性を認めることができない。また仮に時間の矛盾を棚上げしても「因果」には無限後退、循環論法、究極の問いという固有の問題があって、やはり実在性を認めることができない。因果は三重の論理で否定されるということである。 因果が実在しないならば、この現在のみが実在すると仮定しても論理的に何ら問題はない。独今論はやはり可能的な時間論である。 独今論の問題は大森荘蔵の「立ち現れ」一元論と関係してくる。大森によれば、過去は「想起」という形で立ち現れる。確実に存在していると言えるのは「今・ここ・私」の経験である「立ち現れ」のみである。 大森の過去論のポイントは、想起という経験は過去の経験の再生ではないということであり、「過去形の現在経験」として初めての経験であるということである。たとえば昨日転んで足に痛みを感じたことを想起する場合、「昨日は足が痛かった」という過去形の「立ち現れ」を初めて経験するということである。大雑把に言うと過去そのものが立ち現れるわけである。 ただし大森自身は「立ち現れ」以外は何も存在しないと主張していたわけではない。大森によれば人は原理的に「立ち現れ」以外のものを経験することはできないのだから、想起の原因としての過去があったと仮定しても、それはカントの「物自体」同様に不可知のものであり、「過去自体」として峻別されるべきものなのである。 つまり人は原理的に「知覚で知覚を知覚する」ことはできないということである。先ほどあった意識内容を反省してみても、反省という意識は反省の対象となる意識内容とは論理的に異なるのである。いくら過去の知覚を顧みても元の知覚には決して到達できないわけであり、これが「過去自体」が不可知であることの理由である。 これは大森にとって深刻な問題であった。私にとっても深刻な問題である。実在論者なら過去自体を懐疑する必要性が少ないだろう。実在論者は物質的実在を措定して、人が経験する物質的なものは過去の「痕跡」を残しているとみなすことができるからだ。たとえば五十歳の人が自分の人生を集積したアルバムを見るならば、アルバムには自分の五十年分の記録があるとみなせるわけである。しかし大森のように実在論を峻拒した現象主義的な立場では、アルバムを見てもそのアルバムに対応した実在を認められない。アルバムは「存在=知覚」としたバークリーの言う意味での存在として突如立ち現れてくるのである。その知覚的な存在を立ち現す「原因」を求めたくても、「知覚で知覚を知覚する」ことの不可能性があるのだから、現象主義の立場では「過去自体」は全くアクセス不可能なのである。 大森と違ってバークリーもヒュームも「観念についての観念」という存在を措定することの困難にあまり頓着した形跡が見られない。表象主義を前提していたロックと異なり、現象主義では或る観念と別の観念は論理的に異なるのだから、「昨日足が痛かった」という観念があっても、それは昨日の「足の痛み」という観念を表象しているとみなせず、昨日の足の痛みの存在を全く保証しない。それどころか「昨日足が痛かった」という観念から昨日の「足の痛み」の観念を推測すること自体が存在論的には不純なのである。実在論を峻拒するならば、過去自体は語ること自体が無意味なのである。 このような現象主義の困難を理由に、大半の哲学者は表象主義を前提とした実在論の立場を選択している。しかし実在論を選択すると必然的に「物と心」の二元論に陥ることになる。ひとたび物と心を異なる存在と認めたなら双方の軋轢は調停しがたいことを大森は直観しており、したがって「立ち現れ」一元論を徹底することになる。なお、私が大森同様に現象主義を選択するのは二元論を拒否するためだけではない。第2章でも論じたように物質的実在というものがあるとしたら、それは無限の部分を持つという矛盾した存在だからである。そして第3章でも論じたように、物質的実在を措定してもクオリアが変化するという摩訶不思議を解消するのに何の役にも立たないこと、また因果関係は実在しないゆえに、物質的実在を措定しても知覚の因果的説明にならないことなども根拠としてある。 反実在論が直観に反することは確かである。しかし直観は公理ではない。形而上学において何よりも重要なのは論理と整合させることである。形而上学においては、直観はそれ自体が問われべきる対象なのである。 因果の実在が論理的に否定されるならば、過去を含め「立ち現れ」外部の存在を一切否定すること、つまり独今論は可能となる。憶測であるが、大森は終生立ち現れ外部など実は全く存在していないのではないか、という悪魔の囁きに似た懐疑を抱き続けていたように思う。立ち現れ以外のものを全て否定してしまえば、そこで完全に論理的に整合的な時間論が完成することを大森は承知していたはずだからである。もちろんこれは非常識の極限であり、大森は誘惑に抗い続けて終ぞ悪魔の時間論を選択することはなかった。 悪魔の時間論は常識から甚だしく逸脱する。しかし形而上学において重要なのは論理と整合させることであった。悪魔の囁く時間論に可能性が認められるならば、真摯に耳を傾けて熟考しなければならないだろう。 そして私は悪魔の囁く時間論を吟味した結果、次のように結論する。 独今論は論理的に可能な時間論として認められるべきである。この世界は「この現在」のみしか存在していない可能性は有力である。「有力」としたのは、単に独今論が成り立つかもしれないという理由のみではない。既述したように時間が実在するとしたら、変化に基づく矛盾と、無限に基づく矛盾という、二つの矛盾がある。しかし独今論ならその二つの矛盾を回避できるのである。独今論の世界では「この現在」しか存在しないのだから、変化がなく時間もそれ以上流れない。したがって独今論は矛盾がない完全な時間論なのである。なおかつ「この現在のクオリア」だけが「実体」として存在すると仮定するなら、現在と過去、物と心の二元論の難問がないことになり、理想的な存在論でもある。 それでも独今論など認めたくはない。その理由など説明する必要はないだろう。 改めて独今論の内実を仔細に吟味してみよう。この現在だけが存在し、他の過去や未来は現在への現れとみなすならば、当然「この現在」の「幅」というものが問題になる。これはアウグスティヌスの現在中心主義からも読み取れる問題である。過去と未来は現在に張り付いた皮一枚のような存在だとして、その皮一枚にどれだけの要素が圧縮されているかということである。ラッセルの五分前世界創造説を参考にし、かつ「時間の長さ」の感覚をクオリアの性質に還元できると仮定すれば、皮一枚の過去を持つこの現在には可能的に無限の要素が圧縮できるはずである。 過去の経験とは、時間の経過によって徐々に「遠く」なっていくわけではない。ふとしたことをきっかけに遠い昔のことを昨日のことにように思い出す――そんな経験をしたことは誰でもあるはずだ。過去の経験とはB系列上に行列のように並んでいるわけではない。過去の経験は「過去」という一つのものの内部に圧縮されて存在している。ならばこの現在の経験には自分の人生経験全体が圧縮されているのかもしれない。――この考えはベルクソンが、過去というものが「記憶」という形で保持されつつ現在に浸透していると考えたことと同型だろう。 しかしそう考えてクオリアの多様性を認めようとしても、存在論的には問題がある。「時間の長さ」の感覚を物理的時間と切り離して、純粋にクオリアの性質に還元しても、「三つ以上の性質」があるならば件の変化の矛盾が顕在化してしまう。交差点の信号が「青」から「黄」になり、次に「赤」になるとしよう。この場合「青が黄になる」というクオリアがあるなら問題ではないし、「黄が赤になる」というクオリアがあるのも問題ではない。しかし「青が黄になり、黄が赤になる」というクオリアは存在できないのだった。赤が「ある」と言えるものならば青は完全に「ない」ものでなければならないからである。「なる」によってつなぐことができるのは「二つの性質」のみであり、したがって「青=黄」かつ「黄=赤」、しかし「青≠赤」と矛盾が生じるのである。これが四次元主義による変化の説明の躓きであった。 つまり「この現在」に三秒であれ五分であれ、どれだけの時間的幅を認めたとしても、「この現在」が有することができる性質とは、「或るクオリアが別のクオリアになる」という、二つの性質だけだということである。これが独今論を前提とした場合に帰結する人の意識経験の真理であるはずだ。 ただし独今論の世界では「二つの性質」だけが存在し得るとしても、その性質は「青」と「黄」のような明晰性があるものではないだろう。私が交差点で「青が黄になる」を見た場合、実際に経験しているのは単純な「青」と「黄」という二つの性質ではなく、「(青を含む)数十年分の人生経験の印象」と「黄」かもしれない。つまり私はこれまでの人生で多くの経験をしてきたように思うのだが、「知覚で知覚を知覚する」ことはできないのだから、実際には「多くの経験をしてきた」という不明瞭な印象だけがあるのかもしれない。つまり交差点で「青が黄になる」を見た場合、「(青を含む)不明瞭なクオリア」が、現前する明晰なクオリアである「黄」と「なる」でつながると考えるわけである。 以上のように考えてみると、独今論も実は単純な時間論ではないということになる。「二つの性質」だけが存在するとしても、現前するクオリアにつながる「過去自体」としてのクオリアの捉えがたさは変わらない。 いずれにせよ独今論の重要な前提は、現在経験されている「このクオリア」の明晰性を肯定する、というものである。この点が次に検証する無世界論と決定的に異なることになる。 6 無世界論 変化の感覚を説明するもう一つの方法は、変化の感覚自体を錯覚として否定するものである。これはエレア派のパルメニデスによって主張され、後に「無世界論」とも呼ばれるようになった。 ところでスピノザのような汎神論もまた無世界論と呼ばれることがあるが、これは「神の他にはいかなる実体も存在しない」という意味で、世界が実体であることを否定するものである。対してパルメニデスの場合は「感覚によって認識される世界は存在しない」という意味である。両者共に世界には唯一の実体しか存在しないと考えた点では同じであるが、無世界論といっても内容は大きく異なっている。 以下に引用するパルメニデスの断片7は、人の認識をロゴス(論理)と感覚に分け、ロゴスの優位を説くものであると一般的に解釈されている。 なぜならあらぬものがあるというこのことが馴らされることはけっしてないだろうから。 むしろあなたは、探求のこの道からあなたの考えを遠ざけなさい。 また、多くの経験から生まれた習慣が、あなたを強制してこの道を行かせ、 目当てをもたない目と雑音に満ちた耳と舌とを働かせることがあってはならない。 そうでなく、ロゴスによって判定しなさい、 わたしから語られた、多くの異論を引き起こす吟味批判を。(*18) パルメニデスによれば、真理はロゴスに基づいて思考することによって到達できる。そしてロゴスに基づいて思考するならば「ある」と「ない」は絶対的に相互排他的なものであり、「ある」が「ない」に、あるいは「ない」が「ある」に「なる」ことはありえない。「なる」という変化は世界の事実ではありえない。世界が変化していると思うのは感覚に基づいて思考したための臆見である。――パルメニデスが「合理主義」の祖と呼ばれるゆえんである。 アリストテレスは『生成消滅論』第一巻八章においてパルメニデスの哲学を以下のように評している。 理論的には、これらの見解は論理の当然の帰結であるとは考えられるけれども、しかし事実の上で見るなら、このような考え方をするのは、狂気の沙汰に近いものだと思われる。 山川偉也は上のアリストテレスの文について次のように述べている。 アリストテレスのこうした感想は、おそらく、彼以外のひとびとのものでもあったろう。エレア派の厳密論理は万人を承服させずにはおかなかった。しかし、その論理は、かならずしも、ひとびとを「無世界論」者にしたわけではない。論理によって事実を裁断するか、それとも事実のほうに論理を従わせるかの選択を迫られたとき、ひとびとは迷わず後者の道を選んだのである。ものが多に分かれて存在すること、少なくとも感覚的には、ものの生成消滅、運動変化はまぎれもない事実であることを、人々はエレア派の論理の圧力に抗して、擁護しなければならなかったのである(*19)。 しかし私は、感覚よりも論理を重んじる。上のアリストテレスの「事実」という表現は意味的に曖昧で、感覚による判断は疑わしいとするエレア派の哲学に対して、感覚による判断は正しいとする論点先取の可能性がある。要するに感覚上の事実は、必ずしも「真理」の根拠にはならないということである。 次の二つの事実を比較してみよう。 事実1: 2たす3は5である 事実2: 私の足には痛みがある 事実2がこの私の経験であるならば、どちらの事実も私にとって真理であるように思える。しかし両者の明証性は同じレベルではない。事実1は疑うことが不可能な真理であるのに対し、事実2はたとえ自分の経験であっても疑うことが可能である。デカルトの欺く神を想起するまでもない。「知覚で知覚を知覚する」ことはできないのだから、「私の足には痛みがある」と信じていても、その信念が正しいか否か心的内容を反省した場合、その「反省経験」は元の心的内容とは別の心的内容だということになり、「過去自体」には決して到達できないからである。足の痛みが一時的なものでなく、持続的なものであっても同じことである。反省の対象となる経験そのものは「痛み自体」と呼んでも良い。 「知覚で知覚を知覚する」ことはできないという事実からは二つの問題が生じる。一つは前節で大森荘蔵の過去論について論じたように、現在の知覚と過去の知覚は論理的に異なるのだから、過去自体は全く不可能だということ。もう一つは現在の知覚も知覚できないということである。知覚(クオリア)とは端的に与えられたものであり、それ以上遡行不可能なものである。それ自体が存在であり、かつ認識でもある。 哲学の伝統的な問題に「人は存在を正確に認識しているか」というものがあるが、「認識」自体も存在の一種(一部)なのだから、「人は認識という存在を正確に認識しているか」という問題もあり得るはずなのである。もちろん単なる反省を超えた「認識のメタ認識」など人にはできない。つまり形而上学には権利上「メタ認識論」というべきものがなければならないのだが、人は原理的にメタ認識論にコミットできないのである。 要するに「存在すること」と「認識すること」は論理的に別のことである。「認識が存在すること」は懐疑不可能だとしても、「〈認識という存在〉を認識していること」は無謬性を主張できる根拠がなく、懐疑の対象にすることが可能なのである。これが「2たす3は5である」という事実1との決定的な相違である。 次のように語ることもできる。私に痛みのクオリアがあった場合、私は「痛み」だと思っている「これ」を完全に理解していない可能性を認めるのである。あるいは、今私の前にパソコンのモニターがあるが、私がパソコンのモニターだと思っている「これ」を、私は完全に理解していないかもしれないのである。 私はジェイムズのように言語化以前の「純粋経験」を想定しようとしているのではない。たとえば痛みがあった場合、「痛み」という言葉で表現されたものは、元の純粋経験を完全には表していないかもしれない。しかし「痛み」と呼ぶに値する何らかの「悪しき経験」が生じていることはジェイムズも否定してはいない。私は彼ら「純粋経験」までも懐疑の俎上に載せようというのである。 それにしても、痛みを感じている最中に「私はほんとうに痛みを感じているのか?」と懐疑することは無意味どころか馬鹿馬鹿しいように思える。しかし「これは痛みでなく実は甘さなのだ」と考えてはいけない理由とは何だろう? 自分で自分の感覚を「確かめる」ことは原理的にできない。しかし確かめることができないということを根拠に、痛みを感じている場合に「私が痛みを感じていることは真理である」と言うことは一つの飛躍がある。それは「真理」でなく「現実」と言うべきものであるからだ。 ※第2節で言及した入不二の「現実性」の哲学についての補足になるが、ここに視点依存的な「現実」概念と、視点に依存しない「真実」概念との差異がある。 人は痛みが現れた後で痛みの存在を認知するのではない。痛みは「痛い」という判断と共に現れる。人はその判断が真であるか否かを検証する術がないのだが、「検証できないから真である」とは限らない。これこそ感覚に基づく判断が論理に基づく判断より信頼性で劣る理由である。 論理法則は疑うことは不可能である。そして論理的に矛盾したものは存在できない。感覚で捉えられる世界が矛盾しており、かつ感覚が疑い得るものならば、エレア派が主張した通り感覚による判断が間違っている可能性――感覚により判断された(時間空間という形式を持つ)世界が実在しない可能性を認めるべきなのである。 地獄の門をくぐる者が一切の希望を捨てなければならないように、形而上学の門をくぐる者は一切の常識を捨てなければならない。それがどれほど大切なものであっても、形而上学の領野において認められるものはただ理に適うもののみなのである。素朴実在論的世界像とは社会的存在としての自分に刷り込まれた「物語」であり、私はいわば物語の主人公として存在しているのだが、世界の真実を探求するためにはその物語の世界から抜け出さなければならない。 エレア派の哲学は、感覚世界を論理的に分析すれば至る必然的な結論であるよう私には思われる。しかし「狂気の沙汰」と言ったアリストテレスの心情は理解できる。問題の所在は感覚上の事実と論理上の事実が整合しないことで、この世界のあり方自体が狂気であるように思われる。ただ次のように考えて世界の「狂気」を和らげることができるかもしれない。――時間論において永久主義の立場をとる哲学者や物理学者が失念しがちなのは「空間」の問題である。相対性理論は時間と空間が不可分に結びついていることを証明した。つまり時間と空間は単独では実在でない。ブロック宇宙とは「動的な時間」でも「静的な空間」でもない。ヒュー・プライスはブロック宇宙が普通の意味での存在物ではないことを強調している。にも関わらず第4節で紹介したグリーンは人の感覚を「空間」という固定的なイメージを用い、映画のフィルムのように横一列で並べて表現していた。これはミンコフスキー時空によって「事象」を説明する相対性理論の解説方法に倣ったものだろうが、クオリアを説明する方法としては根本において間違っているのである。したがって「青」「黄」「赤」のクオリアを見た場合、実はそれらのクオリアは、私に記憶された通りの明晰なあり方で存在していない可能性が認められるべきなのである。 前章で私は変化の実在を否定するため、ひとつらなりの全一的クオリアを考案した。「青」出現し、それが消えて「黄」が現れ、それが消えて「赤」が現れるのならば論理に反しているのだが、「青→黄→赤」を一つのクオリアだとみなし、それが永久的に存在するとみなすならば、論理に反していないと考えた。しかしこのような四次元主義的方法では上手く行かないのだった。したがって、個別のクオリアの明晰性を否定するエレア派の方法論を真面目に検討するべきだろう。ブロック宇宙が「動的な時間」でも「静的な空間」でもないものならば、「青」「赤」といった個別のクオリアは人の信念の通りに明晰に存在していない可能性があるということである。 私が幼い頃に寝室で見た蛇は確かに「ある」し、永久に「あり続ける」と言えるのだが、そのあり方は、記憶された通りの素朴なイメージでのあり方をしていないのだと考えることが可能なのである。蛇が「消えた」というのは或る種の事実であるとしても、それは限定的な意味での事実であり、素朴なイメージでの「消え方」をしていないのだと考えることが可能なのである。仮にあの蛇が「消えた」というのなら、蛇が消えた次に何かが「生じた」と考えるしかない。しかしそれでは「順序」が生じてしまい、それは或る種の時間の実在を認めることになる。時間の実在は「変化」と「無限」という二つの矛盾を帰結させるのだった。したがって、蛇が消えたことを認めてはならない。いかなるクオリアも消えること、また生まれることを認めない。これが無世界論である。 交差点の信号が「赤」になっても、「青」は消えていないと考えるのである。論理に従うならば、「青」は消えていないと考えるしかない。――しかしこれだけでは無世界論にはならない。現前するクオリアまでも否定しなければならない。もし「私は青を見ている」という信念の通りに「青」が存在するなら、「赤」は存在することができないからだ。 無世界論の重要な前提は、現在経験されている「このクオリア」の明晰性を否定する、というものである。この点が前節にて検証した独今論と決定的に異なることになる。 しかし、以上の考えは我ながら正気の沙汰とは思えない。エレア派の論理の正しさを認めながらもそれを退けたアリストテレスの心境には共感せざるを得ない。独今論が悪魔の囁く時間論ならば、無世界論は妖精の囁く時間論とでも言うべきだろう。妖精(Fairy)は次のように言う。「あなたは今痛みを感じていると信じていても、実はあなたが信じているような痛みはないのよ」――そんな馬鹿なことがあるはずはないと思いたくなる。私が転んで痛みを感じ、「痛い!」と叫んだときに存在しているものは何なのだ? それが痛みでないなんて、猫が消えて猫の笑顔だけが残ったと言うに等しい、全くナンセンスなお伽の国(Fairy land)のお伽噺(Fairy tale)である。 しかし「知覚で知覚を知覚する」ことは不可能なのだった。ならば「それが痛みでないはずはない」と言ったとしても「物自体」や「過去自体」と同様に、「痛み自体」と言うべきものを捉えていない可能性を認めるしかないように思える。ナンセンスであることは必ずしも論理的不可能性につながらない。 また、無世界論にはベルクソンの「持続」の哲学を援用できるかもしれない。ベルクソンの言う「記憶」とは通常の意味と異なっており、過去の経験の全てを蓄積したものである。その記憶が知覚に浸透し、人の経験を成立させ続ける運動が「純粋持続」である。 メロディーは単なる個別の音の集合ではない。それぞれの音が相互に浸透し合って有機的な一つの全体――数的に同一な存在者を形成する。メロディーを構成する一つの音は、それのみでは単純な音の知覚に過ぎない。しかし前後に連続する他の音と相互浸透し合うことによって、聴く者に固有の質感や印象を感じさせる。ベルクソンにとって純粋な持続としての意識と時間は、空間的なものと異なり分割できないもの、性質の要素を個別の部分に還元できないものとして、その内に差異を含みながらも通時的に同一のものなのである。 たとえばラストシーンが同じでも、ラストに至るまでのストーリーが全く異なる映画を作ることができる。それら映画を見たならば、同じラストシーンを見てもまるで異なる印象を得ることになる。つまり現在私が空間的に明晰に認識しているつもりのものにも「他の何か」が浸透しているのである。私がバラを見ている場合、バラ以外のものはないように思える。しかし「他の何か」が浸透していると考えることが可能なのである。 つまり一切の知覚には、「それ」のみではなく、「他の何か」が浸透していると考えることが可能なのである。そして現前するクオリア以外のものが浸透している可能性さえ証明できれば、ベルクソン的には十分なのである。このベルクソンの哲学から「時間」を抜いてしまえば、無世界論の妥当性が示されるかもしれない。時間こそが存在の本性だと考えたベルクソンにとっては大迷惑な牽強付会であるだろうが。 しかし私は時間を全否定するのではない。エレア派の言う通り「一」なる実体は時間の内には存在しないだろう。しかし時間は実体の性質として存在していると考えることができる。個別的なクオリアは或る意味で時間的な存在なのだ。 「明晰とは何か?」と井上忠に問われた大森荘蔵は「空間として見ること」と答えたという(*20)。それは事実だと思う。逆に考えると、存在の本質が空間でなく時間ならば、世界に明晰なものは何もないということになるだろう。つまり明晰化とは知性による意識内容の分断・空間化・固定化なのだが、存在の本質は時間的で固定化できるものは何もないとしたらどうだろう。たとえば「Aが真であるのは、Bであるとき、かつそのときに限る」というような真理条件の記述は、空間化された「とき」を使用しているので間違いであるかもしれない。 空間的なものとは固定的で明晰なものであり、時間的なものとは動的で明晰ではないものである。人の意識・クオリアが時間を本性とするならば、それは動的で捉えがたいものであり、明晰なものではないということである。 人は完全に静止しているものを見ることはできない。或るものが静止しているように見えても、それは動的な意識の内容物として動的に存在している。 念のため今一度付言するが、私は自分が転んで「痛い!」と叫んだときに、実は「痛み」がないのだと言っているのではない。「痛み」のクオリアというものが時間軸上に定位できず、空間的な明晰性を有して存在しているのではないと言っているのである。時間変化から無理に切り取って固定した「痛み」の記憶は、「痛み」の本質的なあり方を保存していない可能性を示唆しているのである。 ここで再び入不二の文を引用する。 時間変化に晒されることから、逸れる固定的なものなどない。(*21) 〔……〕 時間的変化とは、固定的で不変のものとして取り出される一者に対してこそ(対してさえ)、さらに生じるはずの変化であり、その変化を逸れるものなどなかった。すなわち、時間的変化の特異性とは、その「高階性」や「汎浸透性」にあった。 では「固定的で不変の一者」とは何だったのか。詰まるところ、一者とは、特定の「もの」や「出来事」ではなくて、端的な現在(絶対的な現在)のことであった。すなわち同一不変の「もの」や「出来事」に定位しておいて、「それ(と指示できる何か)」が過ぎ去るのではなく、端的な現在の現実性(これ)こそが、過ぎ去るのでなければならない。(*22) これが入不二の最も優れた洞察であり、重大な問題提起だと私は受け取っている。「時間の高階性」と言う場合の「時間」とは、通常の物理的・線形的な「時間」の概念とは全く異なっている。入不二が言う時間の高階性とは「A=A」というような素朴な意味での同一律さえ脅かすものである。なぜなら「時間変化の中に定位できる固定的なものなど何もない」からである。たとえば「2014年 5月 1日に痛みを感じたのは事実である」と言っても、それは経験の真実を表していない。その本性が時間で固定できないはずの「痛み」というものを、無理に切り取って空間的に固定したものだからである(ベルクソンの時間の空間化批判が想起される)。時間内部において定位できる固定的なものが何もないなら、同一律が成り立たない。同一律は「A=A」という形式であるように、変化の中で何かを固定できることを前提としているからだ。 「端的な現在の現実性」さえもが常に過ぎ去るものであり、現在が本質的に「動的」なものならば、「A=A」というように「現在=現在」と、現在を「静的」に捉え理解することは間違いだということである。入不二の洞察は、入不二本人の意図に逆らって、「端的な現在の現実性」さえも否定しまうものだと読み替えることができる。「端的な現在の現実性(これ)」と言っても、言った瞬間に過去という非現実になっている。現在を静的・空間的に捉えることができないなら「現在の痛み」も、その痛みの「現実性」も捉えることができないということである。人は自分の現在の経験さえも「理解」しているとは言えないだろうと私は懐疑する。頬をつねり続けて持続的に痛みを感じ、「痛みはあるし持続しているのだ」と言うことはできるだろう。しかしその確実に思える痛みの現実も必ず過ぎ去って夢や幻に等しい過去となる。時間・クオリアの高階性によって。 ※ただし私の言う「現実性」が特定の内包を持つものであるのに対し、入不二の「現実性」は無内包であったことが想起されるべきである。 誤解のないよう付言するが、私は同一律や矛盾律のような論理学の基本法則を否定するのではない。同一律や矛盾律は疑うことができないア・プリオリな真理である。ただそのア・プリオリな真理も、知性によって把握し、「言語」というア・ポステリオリな形式で表現する場合には、ア・ポステリオリな真理に堕落してしまうということである。「高階性」を本性とする「時間」は知性で把握できない。把握したものは「時間」ではなく「時間の痕跡」なのである。それはア・ポステリオリな真理である。ちなみにこのア・ポステリオリな真理を巡って、かつて差異だとか差延だとかいうポストモダン思想が流行していたことは記憶に新しい。それらは真理を探究するものでなく、真理の影を探究するような学であり、私の関心の対象ではない。 人は「知覚で知覚を知覚する」ことはできない。ならば「私は今痛みを感じている」という信念があったとしても、その信念を正当化する術はない。人は経験自体を決して把握できないのかもしれない。 エレア派の主張したように、感覚で捉えられるこの世界は実在していない可能性を認めるしかない。仮に感覚で捉えられた通りに実在しているとすれば、「変化」と「無限」という二つの矛盾があるからである。無世界論では、エレア派の主張したように、論理によって把握されるもののみを認めるのである。それは不変の世界である。そして実体は「一」である。仮に実体が「多」であるとするならば、ゼノンが指摘した通り、多の間には無限の「中間」があるしかないからである。 その「一」として不変の実体が、「痛み自体」や「赤自体」など原初的なものたちの融合体であり、「実体」である。その不可知な、一なる実体にはベルクソンが言うような質的多様性があるだろう。――人に知ることができるのはそこまでかもしれない。 これが無世界論である。 7 真実の行方 私は変化の矛盾を解消するために、独今論と無世界論という二つの存在論を検討してきた。どちらの世界も論理的に可能であるように思えるが、どちらが正しいかを確かめることは不可能かもしれない。人は世界の外部に立って世界のあり方を確かめることはできないからだ。 実体(宇宙)は自分の全体を映す鏡を持つことができない。実体が自らを描こうとするのは、鏡を持たない人が自画像を描こうとする行為に似ている。実体は自らを理解することができないのかもしれない。 しかし独今論と無世界論は、いずれも素朴な世界観から甚だしく逸脱した世界観である。素朴実在論と直観は放棄しがたい。独今論は悪魔の囁く時間論であり、無世界論は妖精の囁く時間論である。良識ある人ならどちらも受け入れないだろう。 改めて時間の実在論を再検討すべきでだろうか。これは天使の囁く時間論と言える。天使は次のように言う。――時間は実在しているのです。この世界はビッグバンという「神の一撃」によって始まったとしたら、ビッグバン以前には時間がない。だから時間の無限後退を考える必要はありません。あるいは永劫回帰のような循環型の世界を想定してもよいでしょう。循環型の世界では、世界内部にいる人は世界の「循環回数」を問うことに意味がありません。循環回数などは神のみぞ知るのです。したがって過去は存在したし、未来は存在するだろうし、現在もあなたのイメージする通り明晰に存在しているのです。時間の実在論は正しいのです。 天使の囁く時間論は人の直観を救済するものであるゆえに、多くの論者が受容している。ブロック宇宙を措定して世界における変化の実在を否定する永久主義者でさえ、人が経験する変化の感覚は肯定していたのだから、天使の囁く時間論を選択していると言えるだろう。これまで時間の非実在を主張してきた私とて、魅惑的な天使の囁きを拒絶し切るのは難しい。 ここで私が考え得る三つの時間論を並べてみよう。 天使の時間論: 時間は素朴なイメージで実在する(時間の実在論) 悪魔の時間論: この現在だけが実在する(独今論) 妖精の時間論: 私の経験は私が信じるような明晰なものではない(無世界論) もちろん時間論は存在論と表裏の関係にあるので、上の三つはそれぞれ、天使の存在論、悪魔の存在論、妖精の存在論と言い換えてもよいだろう。 三つの時間論を論理的に考えるならば、明白な矛盾があるのが天使の時間論である。時間が実在するなら第2章と第3章で論じたように、形而上学的無限の帰結を回避できない。時間の実在論を前提とするならば、人の時間認識に関わらず時間は実在するのだから、ビッグバン以前に時間はなかったと考えても、ビッグバンが始まった時点で、「ビッグバン以前」が登場してしまう。そして循環宇宙の循環回数を人が「数える」に関わらず宇宙は循環しているのだから、循環回数は「決定」していなければならない。いずれも時間の長さの無限を認めることになる。そして「無限の実在」とは矛盾概念である。 ※なお私は現象主義を前提に論じているのだが、仮に実在論を前提とするならば、ゼノンによる無限分割のパラドックスも生じることになる。これは第2章で論じたが、実在論では解決困難な難問である。 もちろん、ブロック宇宙こそが実体だとみなす永久主義を前提とするならば、時間の長さの無限を回避できるだろう。しかしこの立場でも意識経験における時間変化の感覚を認めるならば、意識の時間について同様の矛盾が生じることになる。 そしてもう一つ、天使の時間論では「変化」の矛盾が解消できない。変化とは無からの生成を認めることであり、それは「存在者が存在する」ことと「存在者が非‐存在する」ことが同一であるとする矛盾である。永久主義を前提として変化を説明する四次元主義の失敗は第4節で見た通りである。つまり現在主義を前提するにせよ、永久主義を前提するにせよ、天使の時間論は変化のパラドックスを棚上げしたままなのである。 天使の時間論は「変化」と「無限」という二つの矛盾を孕んでいる。人は矛盾した言葉を話したり矛盾した文を書いたりすることがあるが、世界に矛盾したものごとは存在できない。形而上学で重要なのは直観と整合させることでなく、論理と整合させることである。矛盾を孕む天使の時間論は却下するしかない。 全能の神でさえできないことが二つある。一つは矛盾したことである。もう一つは神自らが「しない」と決めたことである。その二つは同じことかもしれないが。 ここで昔読んだ印象深い漫画を紹介したい。残念ながら作品名は失念してしまったのだが、うろ憶えの内容は次のようなものである。――ある場所に幽霊が出るという噂があって、興味を抱いた登場人物たちが冒険に行く。その内一人は幽霊なんぞ絶対信じないという科学信仰の合理主義者である。そして夜、まさに幽霊が登場人物たちの前に出てくる。登場人物たちはパニックに陥る。しかしただ一人、合理主義者だけは幽霊を目にしても平然としている。「なぜ平気なのか?」と問われた合理主義者は答える「俺は自分の目より科学を信じる」。このセリフで他の人物たちはずっこける。――確かにこのシーンはギャグになっているのだが、しかし私は、合理主義者の態度の方が正しいのではないかと思った。全ての現象には合理的な理由がある、そう考えるならば、幽霊のようなものを目撃しても、それは錯覚かトリックであると考えるべきである。仮にそれが現在の科学では説明できない現象であり、本物の幽霊と認めるしかない状況に陥ったとしても、その幽霊の存在をも合理的に説明できる未知の科学法則がある、と考えるのが合理主義的態度なのだと思う。 百聞は一見にしかずという。しかし私の信念は逆であり、百見は一理にしかずである。件の漫画の作者は、合理主義を徹底するとギャグになるというメッセージを込めていたのかもしれない。実際に合理主義を徹底して変化の実在を否定したエレア派に対して、アリストテレスは上に引用したようにその合理性を認めながらも「狂気の沙汰」と言ったのだった。 しかし人類は、科学の発展によって幾度もそれまでの常識を転覆されてきたのではなかったか。太陽は地球を中心に回ると思っていたが実は地球が太陽を中心に回っていたのであった。空間は不動だと思っていたが実は伸びたり縮んだりするものであった。一つのものが離れた二箇所に同時にあることはできないと思っていたが素粒子にはそれができた。人の常識は当てにならない。ならば宇宙の真理が人の常識などという矮小な枠組みに入ると思うべきではない。 時間の実在を否定することは、とてつもなく非常識な主張である。私があえて非常識な主張をするのは相応にして十分な理由がある。時間には「変化」と「無限」という二つの矛盾があるからである。二つの矛盾を認めることは、非常識というより人知には不可能なのである。 天使の時間論を却下した結果、悪魔の時間論と妖精の時間論が残った。どちらかが正しいということになるかもしれないし、他に人知の及ばない時間論があり得るのかもしれない。しかし人知の及ばない時間論について人間が語ることには意味がないだろう。ここでは独今論と無世界論のどちらが存在論として無謬性が高いかを検討してみたい。 結論から言うと私には無世界論の方が正しいように思える。私が無世界論を選択する理由には一つの論理的な理由と、一つの直観的理由がある。 ・無限論再び 論理的な理由とは「無限」の問題である。独今論は「時間」の問題だけを見るならば論理的に整合的な存在論である。しかし「空間」の問題はどうだろう。独今論の重要な前提は、現在経験されているクオリアの明晰性を肯定するということであった。これが全てのクオリアの明晰性を否定する無世界論との決定的な相違である。するとテーブルや道路のように空間という形式を持つクオリアが現前している場合、深刻な問題が現れるように思える。 ゼノンの「二分割」や「アキレスと亀」の私の解消法は、現象主義の立場から時間・空間の実在を否定し、現象(観念・クオリア)の実在のみを認めるならば、人に経験される現象は有限個なので無限分割を回避できる、というものだった。ところが空間的なものが現象だとしても、経験される通りに明晰に存在するとしたら、それは無限の部分を持つように思われるのである。 一メートルの幅があるテーブルの視覚像があるとしよう。その視覚像が私の信じる通りに明晰なものであるとするならば、私が計測する、しないに関わらず、テーブルの半分の五十センチの地点があると考えるしかない。そして一旦半分の地点を認めてしまえば、更にその半分、またその半分の地点の存在を認めるしかない。地点の数は無限であるしかない。つまりゼノンのパラドックスを完全に解消できないということである。 もちろん独今論の世界では「現在」だけが存在するのだから、「数える」ということに意味がないとも考えることはできる。しかし一メートルのテーブルの知覚像が「実在」するのならば、私が数える行為に関わらず知覚像の五十センチの地点もまた「実在」すると考えるしかないのではないか。つまりバークリーのように「存在=知覚」として、実在の場所を意識外部から意識内部へ移し変えたとしても、またカントのように空間が直観の形式だと考えても、ゼノンのパラドックスは悪霊のように取り憑いて振り払うことができないように思えるのである。もちろんこの問題は、俊足のアキレスが鈍足の亀に追いつけない、というような甚だしく反直観的な問題とは異なるかもしれない。しかし「無限の部分を持つもの」というのは明らかに矛盾した存在である。 次のような解消法を考えることができるかもしれない。――「一メートルのテーブル」というのは既に「大きさ」が表現されている。大きさとは知性で判断されるものではないか。たとえば象は蟻より遥かに大きいが、象の視覚像と蟻の視覚像は同じ大きさ――というより視覚像の「大きさ」ということには意味がない。視覚像は意識への単なる現れであり、視覚対象の大きさは知性による比較や計測によって判断されるものだ。つまり視覚像そのものは計測されなければ大きさがない全一的な「印象」である。大きさがないものの部分や地点は、「時間」を使用して知性によって分割しない限り存在しない。独今論ならばその分割を避けられるから、部分や地点は存在しない。 しかし、やはり次のようにも考えることができる。――四つの足があるテーブルの視覚像が明晰に存在するのならば、テーブルは「足」という部分を四つ持たなければならない。そしてひとたび部分の存在を認めてしまえば、その「部分の部分」を認めることになり、結局は無限分割を認めることになる。空間的なものが明晰に存在するということは、人が知性によってそれを個別の部分に分割する、しないに関わらず、部分となるものが存在していなければならないからである。 やはり独今論の世界では、空間の無限分割が回避できない可能性が強いように思われる。 ただし、独今論の立場からは次のような反論が考えられる。現在の明晰なクオリアが「音」や「痛み」のように非空間的なものなら無限分割は問題にならない、と。確かに現前するクオリアが非空間的なものであり、空間的なクオリアは「皮一枚の過去」の内に存在していて、それは不明瞭なクオリアだから無限分割を回避できるという考え方はできる。 しかし、この私は今現にパソコンのモニターという明晰な空間的クオリアを経験している。空間の無限分割を回避しようとするならば、現在に空間的なクオリアが現れていても、その明晰性を否定しなければならない。しかし、それでは無世界論と変わりがない。 あるいは、現在経験される空間的クオリアも「やがて消える」とし、次に非空間的クオリア、たとえば「痛み」が現れるとするなら、存在論的には「パソコンのモニターが消え、痛みが現れる」という二つの性質のみを持つクオリアが永久的にあるとみなせるので矛盾はない、と考えることができるかもしれない。しかしその考えは既に「今だけが存在する」という前提と矛盾しているように思われる。――この辺りに独今論のパラドキシカルな構造があると同時に、哲学的に興味深い問題が派生する。実際に、いくらパソコンのモニターを両手でしっかり掴んで「これは存在するのだ」と思っても、やがては消えていくだろう。また私が自分の人生を振り返り、あれやこれやの経験をしたのだから「過去」は実在したのだと確信しても、その確信ごと消えていく。 そもそも「消える」とは、一体どういうことだろう? ・ものごとが消えるとはどういうことか? 私が無世界論を選択する直観的な理由とは、「ものごとが消える」ということである。 私は「変化」とは何かについて考え続けてきたのだが、ここで変化について別の視点から考察してみたい。 哲学の歴史において、ものごとが消えるという事態を真剣に考究した哲学者は衝撃的なほどに少ない。一体、ものごとが消えるとはどういうことだろう? これはこれまで論じてきたように「無からは何も生じない」という論理によって、変化の実在を否定しようとする目的で問題提起しているのではない。ものごとが消えることは、現象学的な事実であることを一旦認めた上で、その事実が意味することは何かを問題にしているのである。 今、窓外には煌びやかな街の夜景が見えている。目を閉じればその夜景は消える。夜景の視覚像が「消える」ということはまるで魔法のようである。実在論を前提にしても夜景の視覚像が消えることの説明はできない。これは第三章で論じた。しかし仮に実在論が正しくても、夜景はいつかは消えるのである。世界に消えないものはない。「始まりがあるものには終わりがある」という格言通り、全ての物事は「時間」によってやがて消されていく。 現象主義を前提しようと、実在論を前提しようと、ものごとが消えるということは実は摩訶不思議なことではないか? 夢には不思議な点が二つある。一つは奇想天外な体験をすることである。もう一つは奇想天外な体験をしているにも関わらず、夢の私が不思議だと思わないことである。実はこの現実世界でも数々の奇想天外な体験をしているにも関わらず、私は不思議だと思えないのかも知れない。「全てのものごとは消えていく」――これは当然のことだと一般人は空気を吸うように受け入れているが、実は魔法のように奇想天外なことではないか。 「時間とは何か?」アウグスティヌスがこう問うて以来、数多の哲学者が数多の解答を試みてきた。その内いずれが正しいかはさて置き、「時間とは全てを消し去る究極の魔法である」と解答するのも、あながち的外れではないように思える。 消えるものは実体ではない。実体は消えないものである。――そんな素朴な思いがある。この思いはどこから来るのだろう。 「実体」という概念には「実体でないものが存在する」という含意がある。しかし実体でないのに「存在する」というのは語義矛盾であろう。錯覚論法で証明されたように、錯覚経験があったとしても、錯覚という意識経験は存在する。つまり実体の概念には素朴な心と物の二元論が前提としてあって、物が消えるのは不思議だが、心の内容が消えるのは不思議ではないとする億見が含まれている。これは実在論を前提とした知覚因果説が正しいとする論点先取にすぎない。バークリーの以下の批判を想起すべきである。これは哲学者ならば一日一回読んで熟考するに値する、哲学史上最大級の問題提起である。 反対論者は、私の説が事物を瞬間ごとに消滅させては創造する不合理に陥ると攻撃する。しかしこの不合理をもって私は既存の哲学原理を深く攻撃できる。私が瞼を閉じれば周囲のあらゆる事物が無に帰着することは不合理と考えられる。しかしこれは哲学者が次のような場合に共通に承認するところではないか。 光と色彩は知覚される以上に少しでも長く存在しない感覚にほかならない〔……〕(*23) もちろんバークリーの標的は実在論者である。しかしバークリーの観念論もまた、ものごとが消えるという摩訶不思議を何も解消していない。バークリーは心の外部にある物質的実在を想定しても、ものごとが消えることの不思議さは解消されないので、物質的実在を措定することの無意味さを主張したに留まっている。しかし実在の場所を心の外部から心の内部へと移し変えても、ものごとが消えることの摩訶不思議は何も変わらない。だから私は変化は矛盾だとしてその実在性を否定してきたのだが、ここでは変化のパラドックスを棚上げし、ものごとが消えることを現象学的な事実として、その意味するものを考えなければならない。 やはり現象主義の立場を取っても、消えるものは実体ではないだろう。実体が不滅でなければならないことは、これまで論じてきたように変化を否定する論理法則を適用できる。どのような種類のものであれ、「存在する存在者」は「非‐存在する存在者」に「なる」ことはできない。 確かに人の意識内においては、「ある」ものは「ない」ものになり、「ない」ものが「ある」ものになることによって、認識は成立する。しかし意識における「ない」とは、「ある」ものの一種ということになる。ベルクソンが「無」とは事物を否定する機能を持った一個の観念として「存在」しているとみなした所以である。――これらは認識論上の問題である。 存在論的には、矛盾したものは存在できない。「痛みがあったが、それが消えた」と言う場合、その言葉は矛盾していないが、その言葉の指示対象である「痛み」がほんとうに「存在する」ものであるなら、「非‐存在する」に「なる」ことはできない。「痛み」は実体ではない――しかしそう結論して終わるものではない。実体ではない先ほどの痛みとは何であるかが問題である。実体と属性、基体と性質、全体と部分、主語と述語という構図では変化を説明できないことは第三章で論じた通りである。では痛みが現れ、それが消えるとはどういうことだろう? 私は次のように結論せざるを得ない。消えるものは元から存在しないものである。消えたものは元から存在しなかったのである。 そんなわけはない。痛みを感じている最中に「この痛みは実はないのだ」と考えることはナンセンスだ、と思いたくなる。しかし、痛みは「ある」と思った次には「ない」になっている。時間論では「今」の捉えがたさが問題にされる。「今」は「ある」と言った瞬間「ない」になっている。痛みが五時間持続していようと同じことである。「痛みが五時間持続した」という信念ごと消えていく。「今」は無限小の瞬間であることはできない。一定の幅がなければならない。そしてどんな時間的幅があろうと、それが「時間的」である限りは消えるのである。一秒で消えるものも一億年で消えるものも本質的に変わりがない。 時間とは全てを消し去るものだ。魔法のようなものである。 実在論的には、「存在する」とは空間を占めるものである。人の五感はその空間を占めるものの表象であるとみなす。たとえば車の視覚像があるならば、その視覚的クオリアは空間を占める車の表象とみなし、車のエンジン音が聞こえたなら、その聴覚的クオリアは空間を占める車のエンジンから発せられた音波を表象したものとみなすのである。 しかし時間は、その空間を否定するものであり、したがって通常の意味での「存在」を否定するものなのだ。 しかし消えるものは元から存在しないものであると言っても、確かに痛みに該当する「何か」が消えていることは事実であるように思える。では先ほどの「痛み」とは何だったのだろう? 「知覚で知覚を知覚する」ことは原理的にできないのだった。これが人知の限界である。行き詰まりに呆然する私に、妖精がこう囁く。「痛みなんてなかったのよ」 私は妖精の囁きに強く誘惑されている。ただ「痛み」が全くなかったとは思わない。私がが痛みを感じているとき、実際は私が信じているような痛みは存在していない可能性を認めるべきなのである。「痛み」にせよ「赤」にせよ「愛」にせよ、人は自分の「ほんとうの経験」を捉えられていない可能性が強い。転んで足を捻挫して「痛い!」と叫んだとき、その「痛い!」の指示対象となるものは確かにあるのだけれど、それは自分が信じているようなあり方で存在しているのではないということである。無世界論の重要な前提は、現在経験されている「このクオリア」の明晰性を否定する、というものである。何であるにせよ現前するクオリアの明晰性を肯定してしまえば、それが消えて別のクオリアに「なる」ことは不可能であり、また他のクオリアと「相互浸透」していると考えることも不可能だからである。そして「痛み」にせよ「赤」にせよ、それらクオリアが人の「信念」の通りにあること――明晰性を否定するならば、それらは「変化」という矛盾と「時間(無限)」という矛盾を回避できるのである。そしてそれらは、消滅を蒙りながらも、何らかの意味において、その実在性を維持できる可能性が示されるのである。 ただその場合は「消滅」という表現は正しくないだろう。交差点の信号が「青」から「黄」へ、そして「赤」になるのを見た場合、「赤」が登場した時点において「青が消滅した」と考えるべきではなく、「〈青が消滅した〉という信念がある」と考えるしかないのである。そしてその「信念」もまた私が思っているような明晰なイメージで存在しているのではないということである。ほんとうに「ある」ものの内部の要素として、消滅したように見える青も痛みも、それらに対する信念も、ベルクソンの言う相互浸透のような形で、「ある」と考えるのである。これが無世界論によるクオリアの変化の説明となる。 痛みとは、私が思っているような明晰な存在者ではないことを認めるしかない。既述したが、空間的なものとは固定的で明晰なものであり、時間的なものとは動的で明晰ではないものである。人の意識内容が時間を本性とするならば、それは動的で捉えがたいものであり、明晰なものではないということになる。消えるものは明晰ではない。そして意識経験は「時間的」であるゆえに全て消えることが約束されている。ならば意識経験で明晰なものは何もないということになる。 今私が「痛み」を感じているとしても、「私は痛みを感じている」という「信念」を抜き取れば、残るものは「物自体」と類比的な「痛み自体」でしかないものだろう。もっとも、「痛み」や「経験」という言葉の意味とは元よりその信念のことなのだから、「私は痛みを感じている」という言葉と信念に間違いはないだろう。私は形而上学的に無世界論を選択したのだが、素朴実在論まで否定するわけではないのである。つまり「痛み」は私が信じているような明晰な存在者ではないものの、「痛みのような何か」が存在することは事実なのである。因果関係の実在性が否定されても「因果関係に見えるもの」が実在するように。私に痛みがあるとき、「私は痛みを感じている」という言葉と信念に間違いはないのである。 しかし形而上学的には、その言葉も信念もまた流れ消え去るものだ。言語もまた静的・空間的なイメージで存在するのではないと考えるしかない。つまり私が「痛い」と言っても「青」と言っても、その言葉もまた私が思っているような明晰な存在ではないということである。「今日痛みをほんとうに経験した」と日記帳に書いて金庫に保管しても無駄である。それらもまた消え去るものだ。私は実在論を否定して続けてきた。日記帳や金庫に対応した物質的実在というものが存在すれば、それは無限の部分を持つゆえに矛盾した存在である。したがって日記帳も金庫もバークリーの言う意味での知覚的存在(クオリア)である。――ところがそのクオリアは全て消え去ることが約束されている。 私は長らくクオリアこそが人の最も原初的な経験だと信じてきたのだが、ここにおいてその信念を放棄せざるを得なくなった。「青」にせよ「蛇」にせよ「痛み」にせよ、それらクオリアには「信念」や「判断」が含意されているのである。ジェイムズのように知性による判断以前の純粋経験を想定しようとしても同じことである。「意識は常に何ものかについての意識である」のだから、意識経験はみな何らかの判断を含んでいるのである。無世界論はその意識経験を根幹から懐疑する。 私は大森荘蔵の現象主義的な哲学を自らの哲学の出発点とした。その大森荘蔵はバークリーから強い影響を受けており、事実上のバークリー学徒であった。私は大森やバークリーと近い立場にあったのだが、ここで立場を変えざるを得なくなった。「存在するとは知覚されることである」――長らく信じてきたこのバークリーの標語を、私は放棄して次のように主張するしかない。 知覚は実在ではない それぞれの知覚(クオリア)は私が信じている通りに明晰に存在しているならば、繰り返し論じた通り「変化」と「時間」の矛盾が帰結する。したがって感覚による判断は疑わしいとするエレア派の説を受け入れて、知覚の実在性を否定するしかない。 私は錯覚論法を根拠にして、夢も幻も現実の経験も「存在する」ということで貴賎が無いと考えた。今やその考えを修正するしかない。夢も幻も現実の経験も、私がイメージしているようには存在しない。全ての経験は夢幻に等しく、夢幻もまた夢幻の儚いイメージそのままに夢幻なのである。 現象主義や観念論とは心の外部にある世界の実在性を否定するもので、反実在論の最も極端な形態であると考えられている。しかし私はその現象主義や観念論に対しても、無世界論の立場から心の内部にある個別のクオリアたちの実在性を否定するのである。これは反実在論の極限であるだろう。 反実在論の方法を徹底的に遂行するならば無世界論に至るしかない。これが私の結論である。 こんな夢を見たことがある。雑誌をパラパラとめくっていると、ふと美しい風景写真が目に留まった。もう一度見ようと探したのだが、いくら雑誌をめくっても見つからない。本当に風景写真を見たのかわからなくなった。全てが消えてゆく世界では証拠もまた消えていって事実を確かめる術がない。シャボン玉のように儚くはじけるものも、太陽のように天文学的時間をかけて燃え尽きるものも、消えゆくものであるということは同じなのだ。この世界もまた消えていく。 消えるものは存在しないものである。消えたものは存在しなかったものである。私が過去に経験した様々なものごとは、私が信じているような明晰なあり方をしていなかったと考える他はない。 しかし以上の結論は、論理的整合性を保つために無理やり経験の現実を歪曲してしまったという感がある。そもそも個別的なクオリアの明晰性を否定するならば、それらクオリアが実は全く存在しなかったと考えることと変わりがなく、独今論と紙一重ではないだろうか? そんな強引な時間論を妄想するぐらいならば、いっそ独今論を選択してしまえ、という悪魔の囁きも聞こえる。 無世界論ではこの時空点も他の時空点も私がイメージしているような明晰なあり方では存在しない。しかしそれら時空点の存在を何らかの意味において認める。では具体的にどういう意味において時空点たちは存在しているのだろう? それこそが問題であり、明確な解が見出せなくても、何らかの示唆を見出せなければ、無世界論は独今論と本質的な差異がなく、独今論が主張する「現在のクオリアの明晰性」を否定しているだけだということになる。 この問題について私は、時間と空間が直観の形式だと考えたカント哲学に僅かな示唆を見出すことができるように感じている。 ここで第二章で用いた図4を再掲する。 図4では、アキレスの運動を赤い線で、亀の運動を青い線で表している。両者の運動は時間と空間という「形式」で表現できるということが重要である。アキレスがどの時点で、かつどの地点で亀に追いつくかは、両者の形式によって計算できる。 二つの線のどちらでもよいから、任意の点を線上の一つに置いて、自分がその点にいるものと考えよう。二つの線は時間と空間という形式を持つのだから、五分前に亀がどの地点にいたか、五分後にアキレスがどの地点にいるかは、両者の形式によってわかる。 無世界論では「アキレスが亀に追いつく」という「出来事」が何らかの意味において存在することは認める。もちろん、アキレスも亀も競争を始める前から生きていたのであり、競争が終わってからも生き続けるとみなす。つまり「アキレスの生涯」や「亀の生涯」も一つの出来事として時間と空間という形式を持ちながら、何らかの意味において存在しているとみなすことができる。それならば「全体」である世界そのものも一つの出来事として存在しているとみなすことができる。無世界論の世界像は妖精の世界のように不明瞭であるが、その世界は時間と空間という形式を性質として持っているのである。図4の二つの線上に任意の点を一つ置けば、そこからアキレスが亀に追いつく時点が存在論的に示唆されるように、他の時空点が、なんらかの意味において存在することが、時間と空間という形式の存在によって示唆されるのである。 もちろん時間も空間も私がイメージしているような明晰なイメージで存在しているのではない。物自体(実体)は時間と空間の内部にはなく、時間と空間は現象の形式だとするのがカント哲学であった。カント哲学は構成主義的で二元論的である。それを一元論的に解釈し直せば、現象そのものも物自体に含まれることになり、時間と空間は物自体の内部性質となる。したがって人の認識能力では物自体は全く不可知であり、人の言語では物自体を語ることができないことになる。ここで重要なのは、物自体は「語り得ない」のではなく、「語る」という行為自体が物自体から逸脱することなのである。 しかし、以上の論法には重大な欠点があるように思える。人が現実に認識しているのは「今・ここ」だけである。それが独今論が論理的に成り立つ理由でもある。しかし上の論法では全ての時空点を一挙に見渡す特権的な観察者が想定され、その観察者によって全ての時空点の存在が確認されたことを前提に語っているように思われるのである。したがって独今論の立場から上の論法に反論するのは容易いだろう。――人が経験しているのは「今・ここ」だけである。確かに時間と空間という「形式」は他の時空点の存在を示唆している。だがその示唆は必ずしも他の時空点の存在を保証しない。その示唆自体が「現在のクオリア」の性質として存在し、他には何もないと考えても何ら論理的不整合はない、と。 第5節でも論じた通り、現象主義の立場では「過去自体」は全くアクセス不可能なのであった。「昨日足が痛かった」という観念があっても、それは昨日の「足の痛み」という観念を表象しているとみなせず、昨日の足の痛みの存在を全く保証しない。バークリーもヒュームも「観念についての観念」という存在を措定することに無頓着だった。逆に観念連合というアイデアが孕む困難に敏感だったのが大森荘蔵で、大森は元の観念の不可知性を「過去自体」と言い表して、「立ち現れ」外部のものについては終ぞ語ることをしなかった。 しかし私は語らなければならない。 確かに、独今論の主張は説得的である。しかしその主張もまた「消える」ものだ。消えるものは消えることによって明晰性を失う。もちろん独今論は「消える」というクオリアのみが永久的に存在するのだと主張する。私が次々と新たな経験をしているつもりであっても、ラッセルの五分前世界創造説が示唆したように、私の過去の経験全ては二秒か三秒に圧縮されて不明瞭な形になり、その不明瞭なクオリアが現在の明晰なクオリアに「なる」というものこそが、永久的に「ある」ものだと考えれば不都合がない。 しかし私は次々と経験されるクオリアたちが「消える」ように思える。「この今」だけが存在するという時間論など信じられない。これは信仰の問題だけではない。独今論は空間の明晰性を認めるために、空間の部分が無限に実在することを認める可能性が濃厚なのであった。やはり論理的整合性は無世界論の方が高いだろう。 私の経験する現象たちは時間と空間という形式を持って存在する。その形式の延長線上に存在することが想定されるものたちは、独今論と異なり無世界論では、何らかの意味において存在しているとみなすことができる。そして「全体」である世界そのものも一つの出来事として存在しているとみなすことができる。 もちろん「消える」というならば「順序」があるのではないか、という素朴な批判は想定される。順序があるなら時間の実在を認めなければならないが、それは矛盾である。しか無世界論では個別の現象の明晰性を否定する。つまりB系列の線上に個別の現象が順序正しく並んでいるような図式は物自体を正確に描写したものではない。事態はむしろ逆であって、順序やB系列そのものが物自体の一つの性質として存在していると考えた方が妥当である。 なお次のような指摘も想定される。「消える」ことでクオリアたちの明晰性も順序も否定されるのなら、そのことによって「変化」と「時間」の矛盾は解消され、それらの実在を認められるのではないか、と。しかし変化と時間の実在は認められない。上に述べたようにB系列は或る意味で実在するのである。たとえるならB系列は実在の影である。影ならば矛盾してもよいと考えることはできない。たとえ影であっても矛盾した影など思考不可能であり、認められない。B系列上に並んだ出来事・クオリアは無限にあることはできない。有限でなければならない。私は第二章で「無限」を論考し次のように結論した。「無限に思える有限なものが永久にある」――この世界観は変わっていない。 更に次のような批判も想定されるだろう。「消える」ということが現象の認識の明晰性を否定するならば、人は一体何を認識しているのか、と。つまり私は今確かに何かを経験しているはずなのだが、「これ(経験?)」って何なのだ? という問題である。無世界論では何かを認識していることは肯定するが、その認識の明晰性を否定し、そして「知覚で知覚を知覚する」こと、認識のメタ認識ができないことを根拠にこの問題に人知の限界があると主張する。――このような説明は論理的整合性を保つための辻褄合わせをしているだけだ、と感じるのは当然であろう。現に、私は今パソコンのモニターを見ているように思われる。モニターは確かに「ある」ように思われる。無世界論は、モニターは私が思っているようには存在しないと言う。ならば、「これ」って何なのだろう? この問いを封じるのは不可能であるように思える。 しかし「一」なる実体を想定する無世界論の立場からすると、「これ」は「語りえない」というよりはむしろ、「語ってはならない」問題なのである。言語とは存在を分断・空間化して明晰化するものだからである。語ることは存在に対する裏切りであると言ってもよい。――とは言っても「これ」に対する疑問が消えるわけはないのだが。 ここで人が一体何を認識しているのかについて、随分先走るという感はあるが、解答を模索してみたい。私はかつてメルロ=ポンティの次の語り方に示唆を受けたことがある。 私が一定の時間と空間の中にいるのか、それとも私はどこにもいないのか、のいずれかだと述べる代わりに、むしろ私がこの瞬間この場所にいながらも、絶えず私は至るところにいるのだ、とどうして述べてはいけないのだろうか」(*24) 上のメルロ=ポンティの言葉の意味はともかく、語り方には惹かれるものがあった。「○○と考えてはいけない理由がない」――この論法は論理的可能性を示すものであると同時に、論理的不可能性を回避するものである。実在は、このような消極的語り方でしか示唆できないものなのかもしれない。 人は「全て」を一挙に認識していると考えてはいけない理由があるだろうか? 「今このクオリアしか認識していない」という反論があっても、今このクオリアはその明晰性とともに消えていくのだった。つまり個別のクオリアの明晰性が「消える」ということで否定され、他のクオリアとの境界も否定されるならば、「全てを一挙に認識するとはこういうことだ」と考えてはいけない理由がないように思えるのである。 たとえば一枚の絵を見たときの「印象」は静的でも動的でもない。「全体」を一挙に見るということも同じだと考えたいのである。認識されているように思われる個別の物事の明晰さを否定するのならば、真に認識しているものとは「全体」であると考えたいのである。「この痛み」は存在すると思っても消えていく。全体を認識するとは個別の物事が「消える」ということなのだ、と。 無世界論においては、性質が変化するのではない。変化が性質なのである。たとえば扇風機の羽根がゆっくり回転しているのを見れば、人はそれに変化を感じるだろう。羽根が位置を変えているのを見るのだから。しかし高速に回転しているのを見た場合、羽根の位置変化を見ることはできない。羽根の回転そのものが「一つの印象」として感じられるはずだ。これが「変化が性質である」ということの意味である。世界全体も「一つの印象」であるとみなすのが無世界論である。そしてその「一つの印象」を認識するとは、「こういうこと」、「これ」だと考えてはいけない理由がないように思えるのである。 前掲した図4の二つの線上に任意の点を一つ置けば、そこからアキレスが亀に追いつく時点が存在論的に示唆され、他の時空点もまた存在することが、時間と空間という形式によって示唆される。しかしその論法は全ての時空点を一挙に見渡す特権的な観察者が想定され、その観察者によって全ての時空点の存在が確認されたことを前提に語っているように思われる。人が現実に認識しているのは「今・ここ」だけなのである。――しかし「今・ここ」の明晰性が「消える」ということで否定されるならば、人が全ての時空点を一挙に見渡す特権的な観察者であると考えてはいけない理由がないように思えるのである(無主体論的に表現すれば「全ての時空点を一挙に見渡すような〈印象〉のみが存在する」ということになる)。 ベルクソンによるメロディーの比喩を想起しよう。メロディーとは単なる個別の音の集合ではなく、それぞれの音が相互に浸透し合って有機的な一つの全体を形成するのだった。そのような部分に還元できない性質のものは無時間的な印象とでも言うしかないものだ。「痛み」や「赤」や「美しい」も同様に無時間的な印象としてあるように思える。無時間的なものだけが他の要素と「一つ」としてつながることができるのである。 ベルクソンによる「時間の空間化」批判はB系列だけでなくA系列にも当てはまる。トランプのカードを重ねて置く。上に「2」のカードがあれば他のカードは見えない。しかし「2」は「現在」と類比的でない。時間にはカードのような空間的明晰さがないからだ。B系列もA系列も物質の明確な「境界」も実在の性質なのであり、実在の方が明確な「境界」に区切られて、B系列やA系列として並べられるあり方をしているわけではないのだ。――このような論法で世界全体も「一つの印象」であり、その「一つの印象」を認識するとは、「こういうこと」だと考えてはいけない理由がないように思えるのである。 それにしても以上の論述は、途方もない形而上学的妄想であり、我ながら辻褄合わせの上に、更に強引な辻褄合わせを重ねているという印象がある。しかし矛盾したものは存在できないのだから、説明内容に明らかな矛盾がない限り、反直観的だという理由のみで退けるべきではないだろう。 上の説明で無世界論はかろうじて独今論との差別化に成功したように思える。他の存在論とも比較して、無世界論は甚だしく反直観的であるものの、無矛盾な存在論であることは認められて然るべきだろう。 私はアリストテレスが「狂気の沙汰」と言ったエレア派の哲学――無世界論を支持する。 私は狂っているのかもしれない。しかし形而上学では狂っていることなど大した問題ではない。形而上学には善も悪もなく、流行も廃りもなく、正気も狂気もない。単に正しいか間違ってるか不明かのいずれかでしかない。 かの名探偵シャーロック・ホームズはこう語っている。 完全にありえないことを除外したならば、残ったことは、いかにありそうにないことだとしても、それが事実に間違いないということだ(*25) 私には直観に基づいたアリストテレスの言葉より、論理に基づいたホームズの言葉の方が正しいように思える。 「矛盾」の語源である「どんな盾も突き通す矛で、どんな矛も防ぐ盾を突いたらどうなるのか?」という中国の故事を、遠い昔学校で習ったとき、生徒の一人が「宇宙が消滅する」と言ったことを私は憶えている。矛盾したものは論理的に存在できないのだから、もし世界に矛盾しているように見えるものが存在するのなら、その世界は実は存在していない(人の認識する世界像が間違っている)。つまり「宇宙が消滅する」と言った生徒は或る意味正しかったのである。 この世界には時間・空間・変化があるように思われるが、それらは矛盾している。だからこの世界は、実は存在していない。私が信じ、認識している通りの明晰なあり方では。――これが合理的な結論である。 ならば、改めて考えざるを得ない。何もかもが曖昧で明晰なものがない無世界論の世界で、ほんとうに、確実に「ある」と言えるものは何だろう? ・ほんとうに「ある」ものは何だろう? 無世界論という世界観では、私が過去に経験してきた多くのものごとや、現在経験しているものごとが、私が信じている通りに存在すること――明晰性が否定される。しかしそれら経験が全く「ない」とするわけではない。この妖精の囁く不明瞭な世界で、ほんとうに「ある」と言える、存在の確実性が保障されるものは何だろう? 論理法則や数学的真理はあるはずだ。同一律、矛盾律、排中律など論理学の基本法則は消えることがない。そもそも「論理法則が消える」と言うことは意味を成さない。これは無時間的な真理であるからだ。 では論理法則によって、ほんとうに「ある」と言えるものがどこまで探求できるのだろう。論理法則は適用できる対象がなければ意味をなさない。 一つ確実な存在があった。デカルトの「私」である。転んで足に「痛み」を感じたとしよう。その「痛み」も妖精の囁くように、私が信じているようなイメージでは存在しないかもしれない。しかしデカルトが方法的懐疑で論じたように、「懐疑する何か」の存在は懐疑することができない。これは無時間的な真理である。その懐疑する何かを「私」と定義するならば、「私」は存在する。 私の経験は全て消えていく。消えていくものは実体ではない。この世界もまた消えていく。全てが消えていく世界で残ったものは、「私」と論理法則のみである。この二種のものは悪魔や妖精が何と弄言しようと否定できない確実なものである。 では「私」と論理法則ほど確実ではないけれど、蓋然的に「ある」と言えるものは何だろう? クオリアは人が信じているような明晰な存在者ではないにしても、何らかの意味において「ある」ことは確かである。そもそもデカルトの「私」も論理法則もクオリアから抽象されたものである。では、クオリアはどのような意味において「ある」のだろう? 私は転んで足を捻挫し、数日間に渡って激しい痛みに苦しみながら足を引きずっていたことがある。あのときの痛みが全く「ない」もので、痛みの「信念」のみがあったと考えることは難しい。やはりクオリアは何らかの意味において、そして人が具体的にイメージできない何らかの形において「ある」ものに違いない。そして信号機の「青」が消えて「黄」になる場合、「青が消えて黄になる」という「変化」や「順序」を含んだクオリアも何らかの意味においてあるはずだ。このようにして全ての変化の感覚を説明するしかないだろう。 もう一つ蓋然的に「ある」と言えるものは「意味」である。言葉の意味は普遍的に存在しているに違いない。これは円周率のような数学の概念も含んでいる。でなければ数学も論理学も哲学も文学も「学」として成り立たないからだ。「2たす3は5である」と言う場合、「2」や「たす」という意味が普遍的・無時間的に存在していなければ、数学は成立しない。プラトンがイデア論を主張した理由は、「意味」それ自体が実在するとしたら、それは時間変化のパラドックスを回避できると考えたからかもしれない。「言葉」は時間の中にあっても「意味」は無時間的なものである。ヘラクレイトスの言うように、万物は確かに流転しているように感じられる。しかし万物が時間変化によって消滅するのなら、人の知識、特に普遍性の認識がなぜ成立するのかわからない。従ってプラトンは時間変化の外部にあって、人の認識を成立させる実体としてのイデアを想定したと解釈するのが妥当であるように思う。 無時間的なものだけが、時間変化による消滅を免れることができるということである。後の世に普遍論争を巻き起こしたイデア論の是非はともかく、プラトンの発想には何らかの真理があったように思われる。 ところで「クオリア」と「意味」は同じものとして扱うべきか、という問題があり得る。音楽を聴いたときの固有の印象、トロピカルな紺碧の海を見たときの固有の印象などは、意味という概念から大きくかけ離れているように思える。もっとも「意味」という概念自体が漠然としており、言語哲学では意味とは何であるかを巡って多くの議論があることは知られている。 ここでは意味とは何かという問題について詳述することはできないが、第一章でも紹介したジョン・サールの言葉に重要な示唆がある思うので再掲しておく。 もしあなたが二足す二は四に等しいと考える場合、そこに質的な感覚がないと考えるなら、それをフランス語やドイツ語で考えてみよう。たとえ、 2 + 2 = 4 という志向内容が英語の場合とドイツ語の場合とで同じだったとしても、「zwei und zwei sind vier」と考えることは英語で考えるのとはまったくちがう感じがする。(*26) サールによれば、ドイツ語で「zwei und zwei sind vier」と考えることは、英語で考えるのとは全く異なる質感を持ち、かつ意味を持つということである。つまり意味はイデアのように超越的なものでなく、またクオリアと峻別できるものではなく、クオリアの内部性質として存在しているとみなすことができる。意味はクオリアのカテゴリーの一つとして還元可能だということになる。 とりあえずの結論として、ここでは確実に「ある」と言えるものを、コギトと論理法則、蓋然的に「ある」と言えるものを意味を含むクオリアとしておく。 そして全てのクオリアは論理法則の要請によって、人には理解不可能な形で融合し、「一」として存在しているに違いない。これが物自体というべきものになるだろう。 もちろん、その「一」としての物自体とは別の物自体もあるかもしれない。わかりやすく言うならば「私」と対置させられる「他我」である。「私」をミクロコスモスとするならば、マクロコスモスが想定できるということである。しかし仮に他我というものが実在するとしても、それは決してアクセスすることができない別の宇宙であるのだから、深く考究することに意味はないと私は考えている。 クオリアは蓋然的に「ある」と言えるものである。しかし他我の存在は蓋然的にさえ「ある」とは推定できない。せいぜい「あるかもしれない」と言える程度である。 私が「一」と言ったら風が吹いて窓がカタンと一回鳴る。それだけなら偶然だと思うだろう。しかし次に私が「二」と言ったらまた風が吹いて窓が二回鳴る。次に「四」と言ったらまた風が吹いて窓が四回鳴る。そんな「偶然」が千回続いたならば、私は「誰か」が風を起こしていると確信するだろう。ここで重要なのは「偶然」と「必然」の境界などないということである。他人に心があるとする根拠はつまる所、偶然とは思えない現象の秩序であって、それ以上のものはない。 私は他人と話をしたことはあるけれど、他人の心と話をしたことはない。 上のような独我論はカント哲学でも示唆されていたことである。世界が「私の表象」であるならば、その表象に他人の心があるなどと、どうして考えられるだろう。「全ての表象に『我思う』が伴い得る」のは確かだが、「他人という表象に『他人が思う』が伴っている」と考えるのは困難である。 ただし私はカントの言う経験的実在論は尊重しており、他人たちを心ない者として扱ったことはない。私はこれまでに多くの他人たちと接してきた。その他人たちに私の経験ではない別のクオリアが相関していても論理的な不整合があるというわけではない。実際に私は他人たちと会話するときは、常にその別のクオリアが相関している(他我が存在する)可能性を考慮している。「他我」という語の意味の実質とは、その「相関可能性」である他はない。 他人に心があるかも知れないならば、あるものとして他人たちと接するしかない。たとえば風の強い日に道路上を大きな袋が転がっているとしよう。袋は風に吹かれて転がっているのだろうけれど、ひょっとしたら中に子供が入っていて転がしているのかもしれない。だからほとんどの運転手は袋を轢かないように心がけて走るのである。 哲学史上の一難問である「他我問題」を、私は件のように自分のものではない別のクオリアの「相関可能性」として落着させたい。 8 私の死と世界の死 私は無世界論を選択し、前節で次のように結論した。全てが消えていく世界で確実に「ある」と言えるものは、デカルトが見出した「私」と論理法則のみである。そして蓋然的に「ある」と言えるものはクオリアである。そして、それらの融合体として「一」なる物自体を想定した。その「一」なる物自体は永久的に「ある」ということになる。物自体が「ある」ものならば、これまで論じてきたようにそれは「ない」ものに「なる」ことはないからだ。 ところがその結論と直観が相克する。素朴実在論的にはこの私(筆者)の死によって、この私は消滅するように思えるからである。もちろん無世界論的には、この私が消滅しても、前節で論じた通り「私」を含む物自体は消滅しない。しかしこの私の消滅とは、「この世界」が消滅することである。ここで深刻な問題が生じることになる。 この世界が消滅するならば、次にはどんな世界があるのだろう? もちろん無世界論においては、この世界も私がイメージしているような明晰なあり方はしていないし、次の世界と言っても時間は実在しないのだから、存在論的に正確な意味で「次の」というわけではないだろう。しかし何らかの意味においてこの世界は消滅し、何らかの意味において次の世界があることは、物自体内部の性質としてあるはずであり、変化の実在を否定した場合に帰結する論理的な真理であるはずだ。 時速百キロメートルで走る電車が六分後にどの地点にいるか数学的に推測可能なように、私の死も(大雑把であるが)自然科学によって推測可能である。しかし「次の世界」は衝撃的なほどに全く推測できない。推測する材料がないのである。この問題には自然科学は全く役に立たない。ここに自然主義の限界が露呈する。この私の死とともにこの世界が消滅し、この世界の諸現象を統べる科学も死ぬからである。これは反実在論を徹底した場合に必然的に到達する結論である。 そして、ここにおいて第2節で論じた可能世界論が再登場することになる。現象主義の立場からすると、私が空を飛ぶ夢を見たなら、私が空を飛ぶ可能世界は存在したということになる。そして私がモンローと結婚する夢を見たなら、私がモンローと結婚する可能世界は存在したということになる。現象主義では夢の世界を「この現実」とは異なる世界として実現したと認めざるを得ないのだから、他の論理的にありうる可能世界も全て存在可能だと認めるしかない。 この私が消滅した後の次の世界は、論理的に可能な世界ならば、どんなものでもあり得る。なお、死後に「人生」があるなどと安易に想像することはできない。それは人生どころか「生」とすらみなすことができないものかもしれない。つまり私は、自分が死んだら別の人間に「生まれ変わる」などと俗なことを妄想しているのではないし、ウサギに生まれる変わるかもしれないなどと「輪廻」を説いているのでもない。私は幽霊や神や魂の存在は信じない。人が経験する諸々の現象は完全に物理法則に支配されている。物理法則の支配に収まらないのは、物理法則そのものを成立させる世界の原理なのである。 ウィトゲンシュタイン独我論のエッセンスは、「主体=ウィトゲンシュタイン」ではなく、「主体=世界」ということであった(*27)。これは「無主体論」と呼ばれる立場である。ただウィトゲンシュタインは実在論者であったので、暗に表象主義を前提しており、正確には「主体=表象世界」ということになる。しかし現象主義的な無主体論・独我論では表象主義を否定するので、真の意味で「主体=世界」である。したがって世界からこの私という人物が消えても主体としての世界は存在するということになる。 たとえば私が我を忘れて映画に没頭していたとする。この場合「世界」と「主体」は映画と一致する。そして映画の世界に私が登場しなくても映画を見ることができるように、この世界にこの私が登場していなくても、主体は世界を見ることが(論理的に)可能である。ただしその場合は「世界を見る」という表現は正確ではなく、単に視覚的クオリアや聴覚的クオリアがあるのみなのだから、「世界がある」という表現の方が適切だろう。これが現象主義的な独我論である。参考までに大森荘蔵は論文「無脳論の可能性」において、脳がなくても意識経験が論理的に可能であることを示唆している。これは現象一元論者であった大森からすると必然的な結論である。 もちろん実在論者ならば、自分の身体や脳、視神経がないのに物が見えるなどというのはナンセンスだと一蹴するだろう。しかし実在論が破綻していることはこれまでに論じてきた通りである。したがって私の目がなくても主体は物を見ることが論理的には可能であったはずだ。しかし「この世界(主体)」は、世界内に存在する特定の人物を開闢点として存在している。これは全く偶然なのである。あえて言うと「究極の問い」に回収されるべき問題である。世界には何もないのではなく何かがある。そして世界は「このように」ではなく、「別のように」存在することができたはずである。なのに世界は、端的にこのように特定の人物を開闢点として存在している。 永井均は、「〈私〉は永井均でなく他の誰かでもありえた」という言い方で自らの独我論的問題意識(独在論)を表明することがある(*28)。つまり世界の開闢点は永井均という人物なのであるが、別の人物から世界が開闢されていても不思議はないということである。しかし偶然にも「〈私〉=世界」は永井均という人物から開闢されている。その偶然性が永井の問題意識の底にあって、この独在論はウィトゲンシュタインの独我論と根を共有している。 この世界は開闢点としてこの私という人物が存在しているのだが、実はこの私が登場しなくても世界は存在することが論理的に可能である。ならば「次の世界」は固有の開闢点がなくても不思議ではないということである。そのような世界では「私は今何かを感じている」というような内省によって得られた自己意識は存在しないだろう。逆に次の世界は固有の開闢点となる人物がいて、その開闢点としての人物が地獄で百億年間拷問され続けるとしても何ら不思議はないことになる。次の世界は衝撃的なほどにわからない。上に述べたように「科学」さえ死んでしまう。このわからなさこそが、私にとっては死の恐怖の本質である。 「幸せ」のクオリアのみが永久的にある世界は形而上学的に可能であるはずだ。その世界はシンプルで節約の原理に適い、人にとっても理想的であるように思える。しかしこの世界はそうなっていない。この現実が示すのは、節約の原理や人の理想といったものが、所詮は人間固有の価値観に過ぎないということである。世界=物自体はそんな人の価値観など全くおかまいなく、ただあるようにあるだけである。 私の消滅によって、この世界が消滅することは確実である。しかし次の世界がこの世界と同じであることは論理的に可能である。つまり地球や太陽があり、日本やアメリカという国があり、そしてこの文章を書いている私とは異なる別の人物が世界の開闢点であっても不思議ではない。これは或る意味で輪廻転生の可能性を肯定するものである。念のため付言するが、これは実在世界と「魂」を前提した上で、魂が時を越えて同一世界の別の人物に宿るというイメージの輪廻転生とは全く異なるものである。むしろ世界が消滅し、新たな世界が誕生するのだが、その世界は以前の世界と極似している、といったイメージである。「主体=世界」が、開闢点・様相を変えながら存在し続ける「可能性」を肯定しているのである。 次の世界がこの世界と同じである――そんな可能性がどれだけあるかは全くわからない。しかし可能性は否定できない。ここではそれだけを確認できればよい。 ところでその可能性にこそ、この私の実存がある。 私は自らの哲学活動を公にしている。それは「私」のためである。この場合の「私」とは「この私」でなく、「主体=世界」としての「私」である。この私には、自らの哲学を公開することによって他の誰かが救済されるかもしれない、などという思いは露ほどにもない。既に述べた通り「他我」の存在は信じることが難しいものであり、せいぜい「あるかもしれない」というレベルのものである。 私の死によってこの世界は消滅する。しかし次の世界がこの世界と同じである可能性は否定できない。そしてその世界は固有の開闢点としての人物を有しているかもしれない。その開闢点の人物が、「次の私」ということになる。この私は次の私のために、こうして哲学を書き残している。 次の世界がこの世界と同じであり、次の私がこの私が書いた哲学を読む――そんな都合のいいことが果たしてあるのだろうか? 正直、私はそんなことが実現するとは自分でもほとんど信じていない。可能的な世界は真の意味で無限にあるからだ。しかしそのような可能性が論理的に否定できず、可能性が僅かでもあるのならば、私はこうして哲学を続けて、哲学を記録し公開を続けなければならないのである。「私」のために。 ・カラシニコフの哲学 死の受容と克服は哲学と宗教にまたがる人類史上最大級の課題である。私はここで自らの哲学原理に基づいて一つの解決案を提出する。 ロシアの銃器設計者ミハイル・カラシニコフは、AK47(1947年式カラシニコフ突撃銃)を開発した。カラシニコフの銃器設計思想とは、構造が単純で壊れにくく、未熟な兵士でも扱い易く、どんな過酷な環境でも作動する、というものであった。AK47は1948年にソ連の制式自動小銃に採用された。その後ソ連の友好国でもライセンス生産され、第二次中東戦争、第三次中東戦争、ベトナム戦争等で大活躍することとなった。 AK47、AKM、AK74とカラシニコフが設計した AKシリーズの自動小銃は、驚異的な耐久力と信頼性によって戦場の兵士たちに愛用され、自動小銃の世界市場では競合する他の小銃を劇的に圧倒し、現在世界には約一億丁普及していると推定されている。AKは核兵器なみに世界の歴史を変えた。かつてはベトナム戦争や中南米やアフリカで用いられて植民地解放に貢献し、近年では中東やアフリカの民兵が用いて治安悪化の元凶となっている。AKは「小さな大量破壊兵器」とも呼ばれている。 AKにまつわるエピソードで、私の心を捉えた興味深いものがあった。ベトナム戦争やイラク戦争で、一部のアメリカ軍兵士が自国の小銃を捨てて、鹵獲した敵の AKを使っているという話である(*29)。私はそんなアメリカ軍兵士の気持ちがわかるような気がした。ベトナムやイラクの環境は苛酷であり、アメリカ軍の制式小銃である M16は弾詰まりが頻発したという。いざというとき弾が発射されないのは戦場では致命的である。しかし前述のカラシニコフの設計思想によって開発された AKは、M16と比較すると命中精度は劣るものの、泥に漬かっても砂にまみれても確実に作動し続けて、その信頼性は戦場の伝説になっていた。 戦場は命のやり取りをする場である。自分の命を預ける道具はいざというとき確実に作動するものでなければならない。自国製に拘らずに敵国の武器を選んだアメリカ兵の心境は共感できるものであった。 実は哲学でもカラシニコフの設計思想は通用するのではないか。構造が単純で壊れにくく、未熟な兵士でも扱い易く、どんな過酷な環境でも作動する――。 単純な構造の哲学は壊れない。デカルトのコギト命題がそうであった。いくら疑っても、疑う「何か」の存在は否定できない。これは構造が単純すぎて壊しようがない。このような単純な論理は誰にでも理解できて、そしてどんな環境(可能世界)でも通用する。 前述したように私の死と同時にこの世界は消える。そして次の世界は衝撃的なほどにわからない。科学でさえ死んでしまうのである。このわからなさこそが私にとっては死の恐怖の本質である。死とは、底が知れない頻闇の深淵に丸裸で飛び込むようなものである。身を護るものを何も持ち行くことができない。持ち行くことができるのは「知」一つである。 その知とは、カラシニコフが開発した AKのようにどんな環境でも確実に作動する単純堅牢なものでなくてはならない。 もしどんな魑魅魍魎が出没するかわからない未知の世界に、ただ一つの武器を持ち行くことが許されるとしたら、アメリカ軍の兵士でさえ AKを選ぶに違いない。 絶対確実な知識から全ての知識を基礎づけようとする「基礎づけ主義」は今や誰も信じていない。しかし絶対確実な知識から特定の問題についての真理を解明できるというタイプの基礎づけ主義はあり得るだろう。私は前節で疑うことが不可能な絶対確実な存在として、「私」と論理法則を挙げた。その二つは悪魔や妖精が何と弄言しようと否定できない確実なものである。 パルメニデスは「ある」と「ない」を峻別し、「ない」を否定することによって、「無からの生成」と「存在の無への転化」を否定した。それらはデカルトが方法的懐疑の末に到達した「いくら疑っても、疑っている何かが存在する」という真理と並べて、人知を支える三本柱とすべき真理であると私は考えている。 柱1: 無からは何も生じない 柱2: 存在は無になることがない 柱3: 「私」は存在する 「私」が「ある」ものなら、それは論理法則によって「ない」ものに「なる」ことはできない。人知を支える三つの真理だけは、衝撃的なほどにわからない「次の世界」でも通用するものである。この「知」だけが、底が知れない頻闇の深淵に持ち行くことができるものであり、確実に作動するものである。 時間は、経験的実在性を持つ。人の経験するものは全て時間という究極の魔法によって消し去られる。ただ「私」と論理法則のみが確実に生き残る。 宗教とは信じるものであり、信じることをやめれば神も仏も消えてしまう。しかし論理法則は信じるものではなく、疑うことが不可能なものである。論理法則は消えることがない。したがって論理法則を基に構築された哲学のみが信じるに値する。 私は論理学に詳しいわけではない。同一律、矛盾律、排中律といった基本的な論理法則のみを用いて自らの哲学を構築してきた。基本的な論理法則は AKのように構造が単純で壊れることがない。逆にハイテク兵器のような複雑な論理や理論を用いた哲学は、ベトナム戦争で米軍のハイテク兵器が故障を多発させてベトコンに敗れたことに暗示されるように、信頼できないと感じている。したがって私は複雑高等な非古典論理は学ぶつもりもない。AKのように単純堅牢な構造の哲学のみが、命を預けるに値する。カラシニコフの哲学には、哲学者も学ぶべきところがあるはずだ。 中島義道は大森荘蔵の独我論を解説する過程で以下のようなことを述べている。 以上の独我論にまつわる議論は「俗人」の耳には、グロテスクきわまりない机上の空論に響くかもしれませんが、それは「俗人」が日常言語的世界観にどっぷり漬かっていて、それに対して胡散臭さを感じないからです。言いかえれば、――これこそ「大森哲学」の底に流れる通奏低音なのですが――この世界に生み出されてあっという間に死んでいく、という人生の溜息の出るほどの不条理を感じないから、都合よく鈍感だからです。とはいえ、すべての人が哲学などしなくていいのですから、「俗人」は、その俗人的言語をまとったまま安らかに死んでいけばいいのです。(*30) 中島の言う「俗人」とは、ローティやクワインのような「基礎づけ」を批判しているプラグマティストも含まれているように私は思う。プラグマティズムやホーリズムといった哲学的方法がどれだけ社会の役に立っているか私は知らない。しかし社会の役に立つことだけが哲学の目的ではない。自らを救うための哲学も必要なのである。 実存は本質に先立つが、死に臨んで人の実存と本質は一致する。「人生の溜息の出るほどの不条理」に打ちのめされた経験のある者は、たとえ無謀とわかっていても、恥も外聞も忘れて宇宙の真理に挑まざるを得ない。哲学とは人生の不条理との闘いでもある。「俗人」は死に臨んでローティやクワインの本を棺桶に詰め込んで飾っておけばいいだろう。しかし私が死に臨んで持ち行くのは、自国製の小銃を捨てて AKを選んだアメリカ兵と動機を同じくして、単純堅牢な論理に基礎づけられた絶対に壊れない哲学である。 やがて死んでしまう人間にとって、救いとは何だろう? それは希望である。人間にとって最も不幸なのは希望を完全に喪失することである。死の先に「ある」を見出すことができるなら、死は決して絶望の極限ではない。逆に死が絶対的な「ない」への変化と考えるならば、それは希望の完全な消失となる。しかし「ある」が「ない」に「なる」などというのは、素朴な人の臆見である。変化は実在の性質であって、実在そのものが変化するのではない。実在は端的に「ある」ものであり、ゆえに「ない」に「なる」ことはできない。もちろん「次の世界」はわからないし、地獄のような世界であっても不思議はない。しかし不安に暗澹とすることはない。その次の世界もまた「消える」のである。 死の恐怖は「ある」ことによって、実存の苦しみは「消える」ことによって、救いの可能性が認められるのである。 単純堅牢な論理に基づいた哲学のみが、死によってさえ潰えることのない希望を与えることができる。 蛇足になるかもしれないが、命の尊さと死の恐怖は表裏の関係にある点に配慮しておくべきかもしれない。自分の命を尊いと思うのは、その尊いものを失いたくないという思いと同じである。すると死の恐怖を克服するということは、命の尊さを克服するというパラドキシカルな構造を孕まざるを得ない。死の恐怖は完全に克服すべきものではないのだろう。宗教が死後の幸福を約束することによって、死を恐れぬ理想の戦士を作り上げてきた歴史的事実もある。道徳的には、多かれ少なかれ死の恐怖に慄くのがよい。 人は死に恐怖を感じているとき、同時に命の尊さを感じているのだ。 9 夢と現実と真実の狭間で 私は第一章より反実在論を選択し、それを現象主義の立場から徹底して、最終的にエレア派の哲学と同型の無世界論という哲学的極地に到達した。 しかし、正直に今の心境を述懐せざるを得ないのだが、私は自分が構築した形而上学を信じ切ることができない。無世界論はあまりにも反直観的である。いくら哲学で重要なのは直観でなく論理と整合させることだとわかっていても、人間性そのものである直観を焼却することなど不可能なことである。 形而上学的実在論と、時間の実在論は簡単に放棄できるものではない。 形而上学的実在論とそれを前提にした物理主義に強く誘惑されるのは、特に病院に行ったときである。血液検査を受け、コレステロール、血糖、白血球、それに肝機能の指標となる AST、ALT、ALPなどの値を調べてもらうことがある。胃カメラを飲んで、自分の消化器官を自分で見たことがある。MRI(核磁気共鳴画像法)で脳をスキャンしてもらい、その写真を見たこともある。 現代医学は血液中の成分の僅かな変化や、消化器官の形状や色の変化、脳の血管の状態などを見て、病気や病気の因子をピンポイントで突き止めることができる。人体は複雑極まる。その人体の構造を全て理路整然と説明する圧倒的な医学・科学の成果には、反実在論や無世界論などという邪悪かつ荒唐無稽な哲学を折伏させてしまう天使の背光を感じざるを得ないのである。 時間の実在論に誘惑されるのは、数々の想い出があるからである。幼い頃見た大蛇の記憶。今も机上にある七歳のときもらった親友のキーホルダー。友人たちと遊び回った学生時代の狂騒。恋した女性を懸命に誘ってデートに成功したときの胸のときめき。青春時代を彩った懐かしの流行歌たち。今は亡き親族たちと過ごしたかけがえのない団欒のとき。――それらは整然と時間秩序を織り成すことによって私の人生を物語のように「一つのもの」として形づくっている。無世界論の主張は時間を破壊し、経験の明晰性を否定することによって私の人生そのものを霧消させてしまう。だからこそ時間の実在論はそう簡単に放棄できるものはない。時間の実在論に従えば私の想い出たちも、世界にあるものごとも全て上手く説明できるのである。天使の囁く時間論はあまりにも魅力的である。 形而上学的実在論と時間の実在論は対になって人の素朴な世界理解を成り立たせている。 ところで形而上学的実在論を前提に心身問題を考究すると、必然的に物理主義に至ることは留意しておくべきである。実在論とは表象世界と実在世界を分ける一種の二元論であるからだ。実在論を前提にその二元性を解消するならば物的一元論を選択するしかないのである。これは第三章で解説した。物質的実在を認めながら、それに還元できない存在論的な「何か」があると認めるのは、極めて困難なことを明らかにしたのが現代心の哲学の最大の成果である。 物的一元論が正しいと仮定すれば、人の経験は全て合理的に説明できる。人に可能な経験は唯物論に統制されているように思える。カントの「経験的実在論」は「経験的唯物論」と言い換えても差し支えないように思える。時間、空間、量、因果などの形式がなければ人の認識は成立しない。それらは物理学の形式でもある。 カントがア・プリオリな総合判断の探求に腐心したのは、彼が観念論者だったからである。世界は観念に過ぎないのになぜ現象はこんなに秩序正しく生起するのか、という驚きがあったからだろう。その驚きはカントと立場を同じくしないとわからない。しかしカントの方法は成功していない。所詮数学は分析判断に過ぎず、物理学はア・ポステリオリな総合判断に過ぎないのである。カントはヒュームの懐疑を克服してはいない。論理的な問題として物理法則が突如変わる可能性が否定されているわけではないからだ。 電車が秒速 100メートルで走っているなら、2秒後には 200メートル先の地点にいる。これは時間と空間という「形式」によって必然であると思われるのだが、論理的には 3秒後に 500メートル先にいることが可能なのである。論理的可能性と物理的可能性は異なることだからだ。第二章でカントがニュートン力学を観念論の立場から説明し得たと考えたのは、我ながら拙速であった。可能世界論とカントの「ア・プリオリ」は問題性が重なっている。もしカントが現代の可能世界論や規則のパラドックスを知っていたならば、『純粋理性批判』の内容は大きく異なっていたかもしれない。 反実在論――観念論の世界では、物理法則が突然変わることは可能である。また局所的に物理学では説明できない物事が存在していても何ら不思議はない。 にも関わらずこの世界には物理学で説明できないことはただの一つも起きていないように思われる。これは一体どういうことだろう。これまでの章で論じてきたように、論理的に考えると物理主義は完全に間違っているはずなのに、経験的に考えると物理主義は完全に正しいように思われる。世界の事象は全て例外なく物理的に説明可能である。論理的に「例外」が禁じられているわけではないのに、なぜ一つも例外がないのだろう? 滑稽なことであるが、私は時々超能力で空を飛ぼうと試みることがある。身体がふわりと浮くように念じるのだが、現実世界では決して飛ぶことはできない。ただの一回でも飛ぶことができたなら、その時点で物理主義を完全に退けることができるのだが、この世界はそうはなっていないようだ。物質的実在を否定するならば、物理法則とはプログラムのようなものだと考えるしかない。しかしプログラムには必ずバグがあるはずなのだけれど、この世界にはバグらしきものが見当たらない。私は毎日どこかにバグはないかと探している。電車で隣にいる人の頭が、バグで突如カラスになることはあり得るはずなのに、この世界はそうはなっていないようだ。論理的に物理主義は間違っているのだから、いつ「例外」が生じても構わないはずなのに、私は飛ぶことができず、世界にバグはない。なぜ物理主義は経験的に正しいのだろう? もちろん、反実在論では例外が生じることが「可能」であるということは、例外が生じることは「必然」であるということではないのだから、私の有限の経験に例外がなかったからといって、それは反実在論が偽であることの証明にはならない。しかし例外がない限り私は物理主義の強度を克服することが難しい。 例外がないということ――この問題はおそらく、部分と全体の存在論(メレオロジー)の領域に解答があると思われる。興味深いことに、メレオロジーの問題もゼノンのパラドックスから生まれたという(*31)。エレア派のように「一」が根源的な存在であって、他の全てはそれを分割した概念として存在していると考えれば、世界において物理的に説明できない「例外」がないことは当然であるはずだ。――と言っても、このように大雑把な一元論的世界の説明では、物理主義の強度を弱めることは難しい。さらに、物理的に説明できないものがないということは、前節で論じた死後の「可能世界」にも関係してくるようにも思える。死後にどのような世界があるかはわからないとしても、やはりその世界はこの世界と同じ物理法則に統制されているのではないかと思えるのである。もちろん論理的には思考可能なものならば、どのような世界もあり得るはずなのに――。物理主義の強度はこんな問題にも及んでくる。死は論理によって得られた信念と、経験によって得られた信念が衝突する機会となる。 経験世界は物理学に統制されており、世界にある何百何千億の事象のうちただの一つも例外がない。これは奇跡なのか必然なのか、それともウィトゲンシュタインが言うように「完全にどうでもいい(*32)」ことなのか。例外がないのは不思議なことだ、というのは所詮人間的価値観であり、世界はそんな人間固有の価値観など全くおかまいなしに、あるようにあるだけなのだろうか。 困惑を解消するために次のような想像をすることができる。――この世界は夢だった。目が覚めたら私は鳥人間だった。そして人間になっていた悪夢を思い出す。人間の私は空が飛べず、寿命は僅か百年弱で鳥人間の千億分の一程度。現実の世界では一億年に一回物理法則が変わっているのに、夢の世界では僅か数十年間同一の物理法則が持続しただけで、人間の私は物理主義に誘惑されてしまった。人間とは何て視野の狭い卑小な生き物なのだろう――。 「規則正しさ」なんて所詮は人間固有の価値観なのだ。 いずれにせよこの世界が「どのように」あるかについて例外がないということは、世界が「なぜ」あるかの解答ではないし、存在者たちが「なぜ」あるかの解答でもない。そして因果関係が実在するならば、それは矛盾であることは解消されない。物自体は時間、空間、量、因果によって成り立っているのではないのである。 物理主義は現象世界が「どのように」あるかについて完璧に説明できる。この世界は神秘的なほどに規則正しいあり方をしている。――しかし仮に「神秘的なほどに美しいもの」があったとしたなら、それは「神秘的なほどに規則正しいものがある」ということと神秘のレベルは同じなのだ。規則正しさのみを重んじて物理主義が真なる形而上学であることを認めることはできない。それはほんとうの神秘ではない。 真の神秘とは世界が「ある」ということなのだ。規則や様相の概念は人の意識にしか存在しない。世界はただ「ある」だけであり、人はただあるだけのものについて偶然だとか必然だとか、規則正しいとか不規則だとか言っている。 「リンゴの視覚像」のクオリアが一個だけある世界W1は思考可能である。私はそんな世界を大して不思議に思わない。しかし「リンゴの視覚像」に続けて、「目を閉じる→リンゴの視覚像が消える→目を開ける→リンゴの視覚像が現れる」というクオリアがある世界W2も思考可能であるが、私はつい視覚像の規則の原因となるものがあるはずだとW2の世界に「実在」というものを想定しまう。双方の世界は何ら本質的な差異がないのに。 「ジャ」という音のクオリアが一個だけある世界W3は思考可能である。私はそんな世界を大して不思議に思わない。しかしその音に多くの音がつらなってベートーベンの交響曲第五番となり、その曲だけが存在する世界W4も思考可能であるが、私はつい音楽とは誰かが作ったものだとW4の世界に「因果」というものを想定してしまう。双方の世界には何ら本質的な差異がないのに。 流れがあれば淀みがある。多くの人が活発に速く流れているところがあれば少しの人が鬱然と濃く淀んでいるところがある。世界はただそんなあり方をしている。 混沌があれば秩序がある。ものごとが時空上に雑然と転がっているところがあれば、ものごとが整然と幾何学的な秩序をかたちづくって並んでいるところもある。世界はただそんなあり方をしている。 世界はただあるだけなのに、私はこれまでの人生で実在や因果といった余剰物を世界の原因と措定して世界を理解した気になっていたが、それは大きな錯誤であった。複雑なものには単純なものより多くの説明が必要なのかもしれない。しかしその説明は世界が「ある」ことを説明していない。 ――以上のように様々な思索をめぐらしても、まだ私は物理主義の強度を完全に克服することはできていない。 哲学では自分を説得するのは難しい。アウグスティヌスが『告白』で、「神は世界を創造する前に何をしていたのか」という問いに繰り返し反論しているのは、本人も不合理だと感じていたからに違いない。 今一度、反実在論と無世界論の立場から私は自分の説得を試みてみよう。 医学など自然科学の成果を反実在論の立場から整合的に説明することはできる。因果関係は実在しないが、「因果関係に見えるもの」は何らかの意味において存在しているのである。その「因果関係に見えるもの」こそが様相の開闢点としての端的な現実であり、それ以上原因を遡及することが不可能なものである。それは「究極の問い」の対象となるしかないものである。 そして私の想い出たちがどんなに明晰なものであるように思えても、それらは全て「消滅」する。消滅するということは、消滅した対象の明晰性を否定することであった。私のテーブルに歴然として存在するキーホルダーもやがては消滅してその明晰さを失う。たとえキーホルダーを銀行の貸金庫に保管しようとも、反実在論を前提とするならば、私の死によって世界も消滅するのだから、消滅を逸れるものは何もないのである。消滅するものは、元から(私がイメージする通りには)存在しなかったのである。これが無世界論である。 無世界論が示唆する世界は、わけがわからないあり方で存在している。 しかしウィトゲンシュタインが看破したように、世界がどのようにあるかということは、実は全くどうでもいいことなのである。神秘なのは世界が「ある」というそのことなのである。 こんな可能世界をイメージしてみよう。 W_Rome: 映画『ローマの休日』のDVDが一つだけある世界 W_Romeは形而上学的に可能な世界である。「W_Romeの世界があるということ」は端的な神秘としか表現しようがない。 しかしこの世界にいる常識的な人々は、W_Romeの世界などありえないように思うだろう。『ローマの休日』を作るには監督のウィリアム・ワイラー、出演者のオードリー・ヘプバーンやグレゴリー・ペックたちがいなければならない。また映画の撮影機材、そしてDVD再生機、そもそもローマ市や地球や太陽もあるはずだ、と常識的に考えたくなるだろう。 その常識と妥協して、W_Romeの世界にワイラー、ヘプバーン、ペックという人物たち、そして撮影機材やDVD再生機、ローマ市や地球や太陽を付け加えてみよう。ではそれらを付け加えたことで、「W_Romeの世界があるということ」という神秘は解消されただろうか? 解消されるわけはない。 ならばこうしてみよう。ヘプバーンの親、そのまた親、そして人類が進化していく歴史を付け加え、そしてビッグバン以来の宇宙の歴史までも付け加えてみよう。ではそのように夥しい要素を付け加えたことによって、「W_Romeの世界があるということ」という神秘は解消されただろうか? 解消されるわけはない。 逆に夥しい要素が加わったことで神秘の数が増えたと考えることもできる。最初はDVDだけが存在していたのに、ヘプバーンなどの人物たちや撮影機材なども加わったからだ。存在者が増えれば存在者の数だけ神秘も増えるのではないか。――これは因果系列が無限に実在することを認めたとしても同じことである。それでも「なぜ『ローマの休日』のDVDが作られるに至る無限の因果系列が存在するのか」と問うことができるからだ。したがって「究極の問い」は、無限後退やカントのアンチノミーとは本質的に異なる問題である。 W_Romeに因果関係として新たな要素を付け加えるということは、W_Romeの世界が「どのように存在するか」という「あり方」の変更をしただけであって、W_Romeという世界が「なぜ存在するか」という神秘を解消したことにはならない。科学はこの宇宙が存在する「根拠」を解明したわけではない。この宇宙の「存在の様態」「あり方」を解明したにすぎない。宇宙が「存在すること」に根拠はそもそもないのだから、解明することはできない。――ハイデガーの「存在論的差異」がいかに巨大な知的インパクトであったかと、今更ながら痺れるほどの感慨を得ざるを得ない。 W_Romeの世界もこの世界も、「存在すること」の神秘は同じレベルなのである。この世界には映画『ローマの休日』のDVDがある。そのDVDという存在者はヘプバーンなどの人物や映画の撮影機材を「様態」あるいは「属性」として有しているのであって、「原因」として有しているのではない。 したがってこの私の死によってこの世界と科学が死んで、次の「私」は別の科学が統べる別の世界にいると考えても、反実在論の立場からすると何ら不思議ではないのである。 ここに物理主義は葬り去られた。――はずであるにも関わらず、医学・科学の成果の恩恵を受けるたび、そして数々の想い出の時へと魂が惹かれるたび、私は物理主義へと強く誘惑されることになる。 「人間には理解できない未知の原理によって変化は実在します」という天使の囁きが、私には常に聞こえている。それを打ち消すように「未知の原理で1たす2が7になるなんて言うのはナンセンスよ」という妖精の囁きが聞こえる。「独今論を選択してしまえば余計なことを考えずにすむのだ」という悪魔の囁きも消えることがない。 現実性とは単に様相の一概念であるのみではなく、人の認識能力の限界を示すものでもある。人は神のように全ての時点と地点を平等に見渡すことはできない。人にとって現実化している時点と地点は「今ここ」だけである。人はその現実から他の全てを推測するしかないのであった。その現実とは、現前しているクオリアであった。しかし時間の内にあるそのクオリアは必ずしも明晰なものではなかった。「痛み」を感じながら、どんなに「この痛みの明証性は疑い得ない」と信じていても、その信念ごと消滅するのであった。消えていった現実はもはや現実ではなく夢であり、消えない夢はもはや夢ではなく現実である。 しかしその現実は矛盾している。論理的には現実を超えた真実が要請される。論理的な真実は現実を否定するものである。認識能力を制限するものとしての現実性に限界付けられながら、夢と現実と真実の狭間で、天使と悪魔と妖精に囁かれながら私は迷い続けなければならない。それが人の現実である。 にもかかわらず、再び同じ問題を提起し、解答を模索せざるをえない。人の思考の形式では到達できず、語ることは存在に対する裏切りだとわかっていても。無世界論に対する問いと解答は循環せざるを得ない。 私の人生が自分のイメージしている通りににはないのだとしたら、私の経験してきたものごとたち、そして「この経験」「これ」とは、一体何なのだろう。「これ」において一体何が起こっているのだろう。「これ」が私が信じてる通りには「ない」というなら、ほんとうに「ある」ものは、一体何なのだろう。明快な解答があってはいけないのだろうか? 「無限に思える有限なものが永久にある」という第二章で出した結論は変わらない。全ての要素は「一」なる全体の性質としてあるはずだ。しかし、その性質なるものが人には明晰には理解できないのである。ここが夢の世界であり、やがて覚めるとしても、そこもまた別の夢の世界かもしれない。その別の夢から覚めたとしても、やはりそこも夢の世界かもしれない――もしそんな(輪廻転生のような)ことが際限なく続いていくとしたら、「ほんとうの世界」や「ほんとうの自分」など、どこの世界のいつの自分にも定位できないということになる。それら夢体験の「全体」を想定して、その全体こそが「ほんとうにあるもの」なのだと言うことができるようにも思えるが、しかし少なくとも、神の視点から見たような仮想の「全体」なるものを、人の言葉で明快に語れるわけがない。またその全体が「ほんとうの自分」であるわけはない。自分が経験できないものが「ほんとうの自分」であるわけがないからだ。 私はかつてこんな漠然とした思いにかられていたことがある。哲学の探求をひたすら続けて、ついに宇宙の真理を発見したら、その瞬間華麗なるファンファーレとともに天空がぱっかり割れて、神と呼ぶに値する者がひょっこり顔を出し、「ゴールインおめでとう!」と言いながら世界の化けの皮を剥いでいき、真実の世界が明らかにされる――。今やそんな妄想は全く消えている。 人の経験はどれもこれも、子供がストローで吹くシャボン玉のようなものである。ひと息で銀河のように生まれる彩かな泡沫たちの世界。泡沫が映す虹は儚いけれど真実に見放された人には「これ」が全てなのだ。 夢が終わるとき夢の世界が消えるように、私の人生が終わるときこの世界も消えていく。 そう結論した私に、再び妖精が次のように囁く。――「これ」というのは存在しない。「これ」と言った瞬間に消えているでしょう。にもかかわらず、全ては「これ」にあるのよ。 ウィトゲンシュタインが主体は世界の限界だと言った境界線に沿って妖精は魔法の杖でくるりと世界を囲むように輪を描いて、その内にある何百億の銀河の群れや私の見たもの触れたもの聞いたもの得たもの築いたものすべて、さらに医者も科学者も技術者も彼らの理路整然とした説明も何もかもを、時間という究極の魔法で消し去ってしまう。ところが全てを消し去ったはずなのに、その輪の内にはいまだ何かがあり続ける。あるものはないものになることができないからだ。「これ」はある。 妖精は言う。「事態は残酷なほどに単純明快。変化は二つの矛盾があるのだから実在しない。無世界論は次のような論法で〈これ〉について説明できるのよ」 前提1: 変化は不可能であるゆえに、全経験は信念通りの明晰なあり方で存在してはいない 前提2: 「多」は不可能であるゆえに、全経験は融合した「一」の状態で存在している 結論 : 「これ」は実在の全体である 「ここにおいて夢と現実と真実と、現象と物自体は一つのものとして融合する。真理への道はここでお終い」 そう囁いた妖精もまた消えていく。 それでも「これ」はあるので、摩訶不思議に包まれた私は不可能を可能にしようと、可能世界に自らを映す鏡を思い描いて「これ」を語ろうと試みるだろう。世界は原因を持たずただあるだけなのだけれど、そのように自らを探求し尽くそうとするあり方で存在しているのだ。だからこそ哲学の道は真の意味で無限なのである。 参考文献 伊佐敷隆弘『時間様相の形而上学』勁草書房 2010年 入不二基義『時間は実在するか』講談社現代新書 2002年 入不二基義『時間と絶対と相対と』勁草書房 2007年 入不二基義「無についての問い方・語り方」Heidegger-Forum Vol.6 2012年 入不二基義『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』 植村恒一郎『時間の本性』勁草書房 2002年 大森荘蔵『大森荘蔵著作集 第二巻 前期論文集II』岩波書店 1998年 大森荘蔵『物と心』東京大学出版会 1976年 大森荘蔵『流れとよどみ―哲学断章』産業図書 1981年 大森荘蔵『時間と自我』青土社 1992年 大森荘蔵『時間と存在』青土社 1994年 大森荘蔵『時は流れず』青土社 1996年 神山和好「水槽の中の脳型懐疑論を論駁する」科学基礎論研究 Vol.32 No.1 2004年 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http //fantastiquelabo.cocolog-nifty.com/blog/ 無からは何も生じない http //ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%AF%E4%BD%95%E3%82%82%E7%94%9F%E3%81%98%E3%81%AA%E3%81%84
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FFO Replay Version 2.1 冥加//諦観//古明地 さとり-古明地 さとり-古明地 さとり-古明地 こいし- CJ//「お姉ちゃんの足手まとい・・・」(お姉ちゃん一緒にがんばろう!)//古明地 こいし-古明地 こいし-古明地 さとり-古明地 さとり- 賽が投げられて、CJの先攻になりました。 CJの呪力は今1 (+1)です。 #配置:《想起「テリブルスーヴニール」》 オートドローがスキップされました。 Turn 2 - 冥加//体力20( 20) 呪力1( 1) 手札6( 5) 山34( 34) スペル0( 1) タイマー00 00(00 11) シーン なし 手札:六眼//パターン避け//想起//想起「テリブルスーヴニール」//想起「百万鬼夜行」//想起「飛行虫ネスト」// 冥加はカードを 1 枚引きました。 #配置:《想起「テリブルスーヴニール」》 Turn 3 - CJ//体力20( 20) 呪力3( 1) 手札6( 6) 山33( 33) スペル1( 1) タイマー00 12(01 02) シーン なし #配置:《復燃「恋の埋火」》 オートドローがスキップされました。 Turn 4 - 冥加//体力20( 20) 呪力3( 3) 手札6( 5) 山33( 33) スペル1( 2) タイマー00 59(00 22) シーン なし 手札:六眼//パターン避け//想起//想起「百万鬼夜行」//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼// 冥加はカードを 1 枚引きました。 #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 Turn 5 - CJ//体力20( 20) 呪力6( 3) 手札6( 6) 山32( 32) スペル2( 2) タイマー00 22(01 11) シーン なし #配置:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 オートドローがスキップされました。 Turn 6 - 冥加//体力20( 20) 呪力6( 6) 手札6( 5) 山32( 32) スペル2( 3) タイマー01 06(01 19) シーン なし 手札:六眼//パターン避け//想起//想起「百万鬼夜行」//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼// 冥加はカードを 1 枚引きました。 イベント(冥加):《想起》 冥加はカードを 1 枚引きました。 - 想起 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 ☆戦闘:冥加 - 《復燃「恋の埋火」》(相手スルー) ★戦闘結果:冥加 - === 4 dmg - CJ 冥加は《復燃「恋の埋火」》をCJの場に準備状態で置きました。 #配置:《想起「百万鬼夜行」》 Turn 7 - CJ//体力16( 20) 呪力10( 2) 手札6( 6) 山31( 30) スペル3( 3) タイマー01 24(01 55) シーン なし ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 #配置:《表象「夢枕にご先祖総立ち」》 オートドローがスキップされました。 Turn 8 - 冥加//体力20( 16) 呪力6( 6) 手札6( 5) 山30( 31) スペル3( 4) タイマー01 44(01 40) シーン なし 手札:六眼//パターン避け//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼//想起「テリブルスーヴニール」//想起// 冥加はカードを 1 枚引きました。 #配置:《想起「テリブルスーヴニール」》 ↑起動:《想起「テリブルスーヴニール」》 Turn 9 - CJ//体力16( 20) 呪力10( 5) 手札6( 6) 山30( 29) スペル4( 4) タイマー01 36(02 43) シーン なし ☆戦闘:CJ - 《復燃「恋の埋火」》 vs 《想起「テリブルスーヴニール」》 - 冥加 ★戦闘結果:CJ - 【回避】 4 dmg - 冥加 #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 CJは《無我》をCJの《復燃「恋の埋火」》に配置しました。 オートドローがスキップされました。 Turn 10 - 冥加//体力16( 16) 呪力10( 5) 手札6( 4) 山29( 30) スペル4( 5) タイマー02 31(02 21) シーン なし 手札:六眼//パターン避け//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼//想起//パターン避け// 冥加はカードを 1 枚引きました。 イベント(冥加):《想起》 冥加はカードを 1 枚引きました。 - 想起 ↑起動:《想起「飛行虫ネスト」》 ☆戦闘:冥加 - 《想起「飛行虫ネスト」》(相手スルー) ★戦闘結果:冥加 - === 4 dmg - CJ 冥加は《想起「飛行虫ネスト」》をCJの場に準備状態で置きました。 #配置:《心花「カメラシャイローズ」》 ↑起動:《心花「カメラシャイローズ」》 Turn 11 - CJ//体力12( 16) 呪力10( 4) 手札5( 6) 山29( 27) スペル5( 5) タイマー02 17(03 30) シーン なし ☆戦闘:CJ - 《復燃「恋の埋火」》 vs 《心花「カメラシャイローズ」》 - 冥加 イベント(CJ):《パターン避け》 イベント(冥加):《パターン避け》 CJ ああいや イベント(CJ):《スーパーエゴ》 ★戦闘結果:CJ - 【回避】 5 dmg - 冥加 #配置:《想起「鳥居つむじ風」》 オートドローがスキップされました。 Turn 12 - 冥加//体力11( 12) 呪力7( 5) 手札5( 2) 山27( 29) スペル5( 6) タイマー03 28(03 00) シーン なし 手札:六眼//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼//パターン避け//地霊殿// 冥加はカードを 1 枚引きました。 ↑起動:《心花「カメラシャイローズ」》 #配置:《想起「百万鬼夜行」》 Turn 13 - CJ//体力12( 11) 呪力11( 5) 手札3( 5) 山28( 26) スペル6( 6) タイマー02 44(04 58) シーン なし ☆戦闘:CJ - 《復燃「恋の埋火」》 vs 《心花「カメラシャイローズ」》 - 冥加 ★戦闘結果:CJ - dmg 2 4 dmg - 冥加 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 ↑起動:《想起「テリブルスーヴニール」》 #配置:《無意識「弾幕のロールシャッハ」》 オートドローがスキップされました。 Turn 14 - 冥加//体力7( 10) 呪力12( 6) 手札5( 2) 山26( 28) スペル6( 7) タイマー04 27(04 21) シーン なし 手札:六眼//想起「飛行虫ネスト」//第三の眼//パターン避け//地霊殿// 冥加はカードを 1 枚引きました。 #配置:《想起「うろおぼえの金閣寺」》 冥加は《第三の眼》を手札から冥加のリーダーに配置しました。 ↑起動:《心花「カメラシャイローズ」》 Turn 15 - CJ//体力10( 7) 呪力12( 7) 手札3( 4) 山27( 25) スペル7( 7) タイマー04 01(05 19) シーン なし ↑起動:《想起「鳥居つむじ風」》 オートドローがスキップされました。 Turn 16 - 冥加//体力7( 10) 呪力14( 8) 手札4( 3) 山25( 27) スペル7( 7) タイマー04 42(04 57) シーン なし 手札:六眼//想起「飛行虫ネスト」//パターン避け//地霊殿// 冥加はカードを 1 枚引きました。 ↑起動:《想起「百万鬼夜行」》 冥加は《想起「百万鬼夜行」》を準備状態にしました。 冥加の呪力は今14 (+5)です。 #配置:《想起「鳥居つむじ風」》 ↑起動:《想起「鳥居つむじ風」》 砂井裏鍵が観戦を始めました。 Turn 17 - CJ//体力10( 7) 呪力13( 10) 手札4( 4) 山26( 24) スペル7( 8) タイマー04 36(06 46) シーン なし ☆戦闘:CJ - 《想起「鳥居つむじ風」》 vs 《想起「鳥居つむじ風」》 - 冥加 冥加は《第三の眼》の2番目の特殊能力を使いました。 冥加は第三の眼の『自分命中UP』を選択しました。 冥加は《六眼》を手札から捨て札に置きました。 イベント(CJ):《パターン避け》 ★戦闘結果:CJ - 【回避】 【回避】 - 冥加 手札からカードを 1 枚捨てて下さい。 - 想起「鳥居つむじ風」 冥加の呪力は今6 (+3)です。 冥加は《想起「うろおぼえの金閣寺」》をCJの場に準備状態で置きました。 - 地獄のラブリービジター CJは《地獄のラブリービジター》を冥加の《想起「うろおぼえの金閣寺」》に配置しました。 冥加 tito 冥加 待ってくれw CJ ? 冥加 二回押したかも知れないのに・・・ 冥加 多分これで大丈夫だな・・・ 冥加は《想起「飛行虫ネスト」》を手札から捨て札に置きました。 冥加 続きどうぞ CJは《想起「飛行虫ネスト」》を場から捨て札に置きました。 #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 オートドローがスキップされました。 Turn 18 - 冥加//体力7( 10) 呪力12( 3) 手札2( 1) 山24( 26) スペル7( 8) タイマー06 26(07 18) シーン なし 手札:パターン避け//地霊殿// 冥加はカードを 1 枚引きました。 ↑起動:《想起「百万鬼夜行」》 Turn 19 - CJ//体力10( 7) 呪力9( 7) 手札2( 3) 山25( 23) スペル8( 7) タイマー06 58(08 47) シーン なし ↑起動:《想起「うろおぼえの金閣寺」》 オートドローがスキップされました。 Turn 20 - 冥加//体力7( 10) 呪力12( 4) 手札3( 2) 山23( 25) スペル7( 8) タイマー07 58(07 46) シーン なし 手札:パターン避け//地霊殿//霊撃// 冥加はカードを 1 枚引きました。 ☆戦闘:冥加 - 《想起「百万鬼夜行」》 vs 《復燃「恋の埋火」》 - CJ ★戦闘結果:冥加 - dmg 0 4 dmg - CJ ↑起動:《想起「百万鬼夜行」》 Turn 21 - CJ//体力6( 7) 呪力10( 7) 手札3( 4) 山24( 22) スペル8( 7) タイマー07 41(09 16) シーン なし ☆戦闘:CJ - 《想起「うろおぼえの金閣寺」》 vs 《心花「カメラシャイローズ」》 - 冥加 ★戦闘結果:CJ - dmg 1 3 dmg - 冥加 ↑起動:《想起「うろおぼえの金閣寺」》 #配置:《想起「飛行虫ネスト」》 ↑起動:《復燃「恋の埋火」》 オートドローがスキップされました。 Turn 22 - 冥加//体力4( 5) 呪力13( 1) 手札4( 2) 山22( 24) スペル7( 9) タイマー08 50(09 00) シーン なし 手札:パターン避け//地霊殿//霊撃//パターン避け// 冥加はカードを 1 枚引きました。 ☆戦闘:冥加 - 《想起「百万鬼夜行」》 vs 《想起「テリブルスーヴニール」》 - CJ イベント(冥加):《霊撃》 ★戦闘結果:冥加 - dmg 0 5 dmg - CJ 冥加の体力が-1 (3) - 想起「テリブルスーヴニール」 冥加 ありでした。 CJ ありでした CJ チームプレイ引かないー CJ ノシ 冥加 六眼も来なかったな・・・ 冥加 ノシ 切断されました。