約 1,243 件
https://w.atwiki.jp/hana11re/pages/15.html
1怖いもの知らずのバリエーションルート 1989年 ガイド一行とともに 2憧れのバリエーションルート 1993年 単独 1 怖いもの知らずのバリエーションルート 1989年 9/21(木)23時丁度そぼ降る小雨の中、新宿センタービル前から夜行バスで出発 9/22(金)信濃大町もやはり雨だった。7時50分発の七倉行きバスに乗るまで、大町駅構内で仮眠を取る。七倉を出たのが9時。私一人だけである。高瀬ダムの岩の壁を直登して右のトンネルを抜けたら、烏帽子岳へ向かう橋のたもとに出てしまった。往復で20分はロスしたようだ。地図を持ってこなかったのは大変なミスだ。 長い車道歩きが続く。雨は次第に強くなる。湯俣の30分ほど手前にきれいな避難小屋があった。ここで軽く昼食を取る。三畳ぐらいしかないが、これなら快適に泊まれるだろう。 晴嵐荘に着いたのが、13時半。大町駅で一緒だった三人パーティが食堂で酒を飲んでいた。実はプロガイドの率いるパーティなのを後で知った。 晴嵐荘の建つ広い河原には、露天風呂があり、三つ四つあるのだが、実際はそのうちの一つだけが良く利用されているようだ。ただし少しぬるい。一番手前のはひょうたん型になっており、小さな頭の部分は内湯の源泉になっていて、温度が高く、手を入れると熱い。大きい部分は、雨が降って冷水が入ったと見えて適温になっていた。物好きにも傘を差して入ってみた。足下がぬるぬるして、歩き回るたびに黒い湯あかが浮かんできた。 野天風呂あり 湯俣温泉 晴嵐荘 夕食がカレーライスだけというのにはガッカリした。北アルプスのドまん中とはいえ、温泉付きの山小屋である。ある程度のメニューは期待していたのに・・・・。 たまたま東京電力の施設管理作業で、関係会社の社員が多勢宿泊していた。山荘内はにぎやかである。夜行のつかれはそれほどなかったが、明日の行動を考えて早めに就寝する。 9/23(土)出発は七時丁度。夜中時々目をさまし、外を見ると星が美しく輝き、月も顔を出しているかと思うと、次には、曇って何も見えなかったりと、はっきりしなかったが、今朝は雨も完全に上っていた。例の3人パーティを先にやり、十分後あとを追うかっこうになった。すでに後ろ姿はない。今回地図の用意をしてこなかった。ルートファインディングはうまくいくだろうか? 水俣川を渡って、その左岸を行く。ルートは、はっきりしている。10分程行くと、慰霊碑が建つているところで道は二つに分れた。愚かにも、行きつ戻りつをくり返して、ここでも30分ぐらい損をしてしまった。急な道を登っていく道は冬につかう稜線上の道だったのだ。 気を取り直して、あせらずに更に進んで行くと、川岸のヘツリに出たところで、先行の3人パーティに追いついた。ザイルを渡して岸壁をトラバースするところだった。流水が岸壁を伝って落ち、通行を難しくしている。二人が渡り終えた後、私にもザイルを使わせてくれた。水面上五メートル位いの所で、下を見ると少し怖い。慎重に足場を取り横にはっていくと、結構うまく渡れた。ホールドは手足ともすべることなく、ザイルには一応手をあてているだけで、重心を預けないですんだ。 ガイドにお礼をいうと共に、このあと皆さんの後をついていく了解を求めたら、あっさりと許してくれた。けつきょくは、この時点から今回の山行は単独行ではなくなっていた。先行者の後をただつけていくだけで、ルートファインドの必要もなくなったし、様々の危険に対する緊張感からも解放されたわけだ。しかしながら、明日予定している独標はおろか、本日の幕営予定地、北鎌沢出会いまでですら、ルートファインディングがかなり難しかったことを考えると、まさに救世主に会った思いである。水俣川左岸ぞいのヘツリや笹やぶの道も、ところどころはっきりしない部分があった。一人だったらどう歩いたか、自問自答の連続である。やがて壊れかけた橋を一人ずつ慎重に渡ると、千天出会である。ここは広い河原だと予想していたが、実際は暗い感じの狭いキャンプエリアだった。うっかり千丈沢を確認することなく、いつのまにか天上沢右岸を歩いていた。 まもなく、徒渉点に着いた。両岸にワイヤが渡されているだけで、橋のおもかげは全くない。案じていたとおり、きのうの雨で沢は激流となり、徒渉できる状態ではない。ケルンが積まれて徒渉点であることはわかるが、この激しい水流をどうやって渡ることが出来よう。 ガイドさんはあちこち調べて、結局さらに上流へかすかな踏跡をたどることになった。暫くすると踏跡もなくなるが、なおも強引に右岸をいくと、大きな倒木が両岸をつないでいる所にやってきた。ためしに体重の軽い私が腹ばいになって倒木上を渡り切ると、次々と水にぬれることなく全員渡り終えた。ずぶぬれの徒渉を覚悟していたが、幸運だった。やはり、ガイドさんの判断に助けられたことになる。 天上沢の左岸を2時間も行くと、広い河原に出、北鎌沢出会はすぐである。途中後からきて、追い抜いていった4人の若者のパーティが、出会いから少し行ったところで休憩していた。今日はどこまで行くつもりか? 時刻は13時半。まだ早いが、水場を考えるとやはり、この場所にテントを張った方がよい。ガイドさん一行も、先行パーティがこの先の北鎌沢のコルを占領することを考えて、今日はここ迄と決断したようだ。従って明日も、私はこのパーティのやっかいになれるわけだ。 河原で流木を集めて、焚き火が始まった。すぐに酒が入る。皆陽気な人達だ。なかでも、私と同年配とわかった佐藤さんは、にぎやかな人で話題も豊富。どこかで見たような顔だとおもったら、案の定、ヤマケイの表紙に写真が載ったこともあるという。作家だったかしらん?沢歩きを良くするという。もう一人の公務員風の若い人は、といっても44才だそうだが、おちついた感じの人で体もがっちりしている。京都北西部の宮津という所から来たという。 そのうち青年2人が到着してテントを張り、焚き火にあたりにきた。社会人なりたてだそうで、なんとかという山岳会にはいっているとのこと。さもありなん、若い二2人でここまで来れたわけだ。 ガイドさんの用意してきたテントは、小さなツェルトで、3人寝るのに少々狭い。私のテントに佐藤氏を泊めることにした。我がテントに2人はいったのは初めてのことだ。残暑厳しいとはいえ九月も下旬である。朝方はかなり冷え込んだ。夏用のシュラーフだったが、羽毛ズボンと羽毛ベストを持参したので寒い思いをしないですんだ。佐藤さんは薄いビバーク用シュラーフしか用意してこなかったので、ずいぶん寒かったらしい。 北鎌沢出会いでキャンプ 幅1mのテントに2人 北鎌沢を登る 9/24(日)快晴。夜中冷えこんだわけだ。満天の星だったからだ。今日は大陸の高気圧が日本の上空にひろがり、最高の天気。出発は六時。北鎌沢右俣をいく。やはり2~3日前からの降水でかなり上のほうまで水が出ている。2時間足らずのがんばりで、北鎌沢コルに到着。丁度五~六人用テントひと張り分の平らなスペースがあった。幕営したあとはない。天上沢側に大天井岳、千丈沢側に鷲羽岳、黒岳。三俣蓮華山荘が小さく見える。絶好の登山日和り。 ここからは稜線上を上下して低木帯を抜け、岩稜帯にくると、独標がついに姿を現す。周囲の景観は素晴らしい。これより更に2時間くらい岩稜のピークを上下して、独標の基部に到着した。独標のトラバースは道がはっきりついており、案ずることもなかった。しかし、かなり険しい難路がこの先続く。慎重に一歩一歩進んでいく。そしていつのまにか、独標をまわりこんだ先のピークにたつた。独標の頂上はパスしてしまったようだ。少し残念な気がしたが、今やパーティの一員である。わがままは許されない。 独標 槍がその全容を現した。まだまだ遠く、きびしい上下が待ち受けている。30分ぐらいで行けそうな近さにみえるが、2時間はたっぷりかかる。途中一ケ所でザイルを使った。 北鎌平を通過し槍の基部につくと、もう終りは近い。緊張感からも解放されて、皆満足感がただよう。しかし、槍を少し攻めたところで、ガイドさんは念の為かザイルを出した。ガイドとしては当然だが、ちょっと物足りない気がした。フリーで山頂に立ちたかった。実際ホールドは沢山あるので、高度感さえ克服すれば、ザイル無しでも容易に山頂に立ち得たと思う。 北鎌平からの槍 槍の頂上にて 山頂には一般ルートから来た登山者が数人いた。なんとも面映ゆい気分である。山頂からの展望は雲海を下に見て、なかなかのもの。つい先月ここに登ったばかりなのに、また違った感慨で見渡すことができる。 予定ではテントを張るつもりだったのだが、槍ケ岳山荘に泊まることになった。有り難いことに、佐藤さんが一万円貸してくれた。山荘には3~40人の人が泊まったようだ。夏のシーズンを過ぎても、山が好きな人は沢山いるのだ。酒盛りが始まった。北鎌尾根を踏破した喜びが又こみ上げてきた。 9/25(月)今日も好天に恵まれた。槍沢を下り、上高地からタクシーで松本へ。京都の山田さんは12時半の夜行寝台列車で帰る。時間をつぶすのが大変だ。ガイドさんは聖蹟桜ケ丘、佐藤さんは国立にお住まい。一緒に“あずさ“で帰る。 ページトップへもどる 2あこがれのバリエーションルート 1993年8月 朝7時の「あずさ」で信濃大町駅まで。バス待ちの間、駅2階の食堂で昼食。バスは市街を抜けると他に乗客はいなくなった。七倉が終点。陽射し暑い。 あいにくタクシーは出払っていた。無線で呼んでもらおうとタクシー会社に電話したら、高瀬ダムまでは無線は届かないと言う。三〇分あまり待ってようやく下山客を乗せて降りてきた。客は中年夫婦で、竹村新道から湯股に下ってきたとのこと。急な道だったという。ところで七倉から高瀬ダムまでタクシーが入るようになって、長いトンネルや車道歩きをせずにすむようになった。解禁になったのは去年のことで、以来、入山者がかなり増えたそうだ。前回は夜行電車で来て大町を朝一番のバスで発ち、七倉から歩いたのだった。 高瀬ダムから二時間半で湯股に到着。内、トンネルや車道歩きが一時間、山道が一時間半。湯股の晴嵐荘は管理人のお爺さんが歓迎してくれた。北鎌へはガイドと中年婦人の二人連れが今朝向かったそうだ。相部屋の客は東京電力の下請けの業者が一人。一年中殆ど山に入っている由。彼が採取した茸のみそしるが旨かった。めずらしく九時の消灯時間まで食堂で話し込んでしまった。 翌朝は六時に出発。曇り空でもわずかに青空が見える。順調に水股川左岸の踏跡をたどって最初の難関、岩壁のへつりの場所に来た。前回はここでガイド一行に追いついて、はからずもロープを使わせてもらったのだった。岩壁に滝のような水が落ちていたが、今回はそれがない。前回はかなり上部にフットホールドを求めてトラバースは容易だったと記憶している。一番上のテラス状の草つきの岩上をたどって向こう側にクライムダウンする手もある。もうひとつ、水面直上をへつって行くルートも考えられる。しばらく、それぞれを目で追った後、水面直上をへつることにした。小さな岩を靴底のフリクションでよじのぼり、オーバーハングした岩に体をぶつけないようにして、じりじりとへつって行く。中ほどまで来て適当なホールドが見つからず、息もつけなくなり一瞬焦る。もう後戻りは出来ない。目の上の岩を力一杯押さえ付けるようにして体を支え、かろうじて足を運んでホーッ、一息つく。あとはタイミングをはかって滑らないように岩を蹴って砂上に飛び下りた。肩で大きく息をしたものだ。 その後はまずまずの踏跡を追って水俣川左岸を行き、壊れて傾いた橋を慎重に渡って間もなく千天出合。テント場を下に見ながら右岸を進んで、とうとう徒渉地点に到着した。第二の難関である。ざっと見渡しても、やはり飛び石づたいに渡れそうにない。前回は倒木がうまい具合に沢を横切って向う岸に届いていたので、四つん這いになってでも何とか水につかる事なく渡ることが出来た。ところが今回は水量が多く倒木の先端は、もはやこちらから届かない所に有る。比較的易しそうな場所を探して行きつ戻りつ、結局残置ロープを伝って15メートル程を徒渉することに決めた。意を決して沢に入ると水流は以外に強く、一瞬バランスをくずして息を飲んだが、ロープのおかげで事無きを得た。ただ、靴は履いたままでも靴下は脱いでおくべきだった。終わってからの後の祭り。靴下を絞る手間だけ余計であった。しかし、ともあれ無事徒渉し終えてホッとした。これで九割がた今回の山行は成功したようなものだ。いや、九割五分かも…。 北鎌沢出合には十一時に着いた。この広い河原にテントをはった四年前を思い出しながら、ゆっくりと昼食。ここに到着した時には既にガイド一行の一員となっていた。皆で流木を集めて焚き火をし、心行くまで山の秋を味わった。今思い出す一こま一こまが懐かしい。四人で一緒に北鎌尾根から槍の頂上に立ったのだ。なのに単独制覇にこだわって又一人でやってきた。メンバーの一人は私を指して、過激なる中高年とよんだ。さもありなん、業が深いというか、意地っ張りというか…。 日が差すと丁度良い温度。ただ曇りがちの今日は寒いくらいだ。そのお陰でここまでそうたいして汗をかかずにすんだ。さあ、あと北鎌沢右股の登りを二時間半がんばらねばならぬ。あの時、この沢がクリアできれば丹沢の沢は登れると言われた。しかし、そんなに難しかった記憶はない。今また急な岩ゴロの登りを難無くこなし、確かに体力的にはきつい登りだと感じながら、それでも二時間ばかりで本日の幕営予定地、北鎌沢のコルに着いた。水場は結構上の方にまであり、途中前回と同じような遥か下の地点で給水した為、かなり損な重量を担いだ事になる。考えてみれば前回より一ケ月も早く来たのだ。水量は全体的に多いはずであった。何はともあれ、明日の給水が楽なことは何よりである。五分も下ればOKだ。コルからは西に水晶岳、赤牛岳などが見えた。コルは狭く、まだこれから上がってくるかも知れない人たちのために、出来るだけ端っこにテントを設営。あと二張りの余裕をつくっておいた。 北鎌沢のコルから水晶岳 北鎌沢のコルにテントを張った *1 左岸 水が流れて行く方向に向かって左側が左岸。 *2 出合 沢と沢が合流する場所。この場合は千丈沢と天上沢の合流点。 *3 徒渉 沢に入って歩いて渡ること。水量が多く流れが早い所ではよほど注意しないと押し流される、危険。 二十七日の早朝は夜来の雨がまだテントをたたいていた。様子を見ていたら六時ごろに止んで、変わって今度は風が出てきた。十一号台風の影響である。長野県は直撃されることはないにしても、厳重な注意が必要だとラジオは報じていた。大型の台風で、しかも予想より進み方が遅く、銚子沖に上陸したのが昼近くになってしまった。ラジオの予想を聞きながら出発か、停滞か案じている間に時間は経ち身動き出来ないまま今日一日が終った。 次の日もガスが垂れ籠めて、どうもはっきりしない。しかし、風は無いので決行である。独標基部まで一時間半。特に問題になるような所は無かった。天気も段々良くなってきた。独標の登りは一旦トラバースしてから始まる。完全に反対側に回り込むとルンゼの深い切れ込みがあって往生してしまう。良く見ると足元の岩上に支点が出来ており、ロープがあれば懸垂下降できるようになっている。ただ、下に降りてからザラザラの上り返しが大変である。前回はここを避けたのを思い出し、トラバース・ルートを少し戻って見た。すると、直登ぎみのかすかな踏み跡が続いているのが見つかり、浮き石に注意して登って行くと、まもなくトラバースする踏跡が明瞭に続いていた。恐らく前回はこれに従ったがために独標を巻く結果になったと思われて、暫く逡巡した後、これを見送って上部へ進んでいった。 独標の先の鞍部にたどり着き、更に左に戻るように回り込んで登ると遂に頂上に到着した。いつの日か独標頂上にとの夢が実現して感無量である。選ばれた人のみが立つ事が出来る頂上、そんな思いがどこかにあった。千丈沢側の岩の間に天幕一張り可能な余地がある。天上沢側にでると草つきの平地が広がって、ここにも幕営は出来そうである。ただし、こちら側は少し風が強くなる。一番上の岩の上には登山靴が片方置き残されて、年月日と何やらが書かれていた。槍の穂先を見やると、数人の人影が針のよう。先月登った針の木岳から野口五郎、鷲羽岳にかけての稜線、槍の左手には前穂のギザギザが見えた。 名だたる独標を征服して満足ではあるが、どうもまだ払っきれないものがある。このひっかかりは停滞した昨日になってもたげてきたもので落ち着かない原因となっていた。今回の山行の難関は先ず第一に沢のへつり一か所、次に独標の登り、第三に槍の穂先の直登。この内、第一第二の難関は克服出来た。残るは第三の難関である。果たして登れるだろうか? 殆ど垂直に近い岩をクライミングしなければならないのだ。槍の穂先への最後の最後の土壇場なのである。途中の難関ならば早いとこクリアして、あとはのんびりと歩きたいところなのに、この北鎌尾根の最後に難関が控えているのでは不安はずっと引きずることになる。しかし、不安はそれだけではない。今朝は湯をわかしていたらストーブの火が突然消えてしまった。ガスを使い切ってしまったのである。半分しか残っていないカートリッジ一つしか持ってこなかった準備の甘さから、肝腎な時に手痛いことになった。腹拵えも十分出来ず、今日一日のスタミナが心配となった。 さて、独標に続く岩稜はこの先まだ気を許せない。ルートは殆どが千丈沢側についている。槍がだんだん近づいてきた。一カ所嫌なトラバースがあったが無事切り抜けて、やがて北鎌平に到着。さすがにかなり疲れてきた。ここでビールでも飲んで暖かいカレーライスなど食べたら、元気になって不安など吹っとんでしまうだろうに…。槍はもう目の前である。もうやるっきゃない! 北鎌平から大きな岩ゴロを一旦右側から巻くようにして登って行き、槍の基部に到着。なるべく稜線上から、これを攻撃して行く。小さな鉄板標の脇を尚も真っ直ぐに上がって行くと、左へ回り込むようペンキ矢印しがあった。前回ガイドさんがロープを出した所だ。これを回り込むと槍の頂上に憩う人達がすぐ目の上に現れた。そして階段状の岩を攀登って、あっけなく頂上に飛び出した。 槍の頂上に飛び出した 槍の穂先直下の登りは前回の時より易しくなったように思える。ルート整備でもしたのだろうか?四年も経つとその間に相当の人が登降したものと思われ、自然にしっかりした道となってきたのかも知れない。全体的に確かに歩きやすくなっている。北鎌尾根の終了点に立ってみると、それまでの不安が消えると同時にその分逆に物足りない気分がおそってくるとは悲しい性分である。 それはとにかく、こうして槍の頂上に立って来し方を振り返ってみると、独りでやり通した感激が沸いてくる。一日停滞して台風をやり過ごし、本日は良い天気に恵まれた。ルートファインディングが適確にできたのも、この晴天のお陰である。ガスがかかってルートの見通しがきかなかったら、こうは順調に進めなかったことだろう。山頂では十数人の登山者が、それぞれに山頂の憩いを楽しんでいた。私が北鎌尾根から登ってきた事など全然、意に介してない様子だった。バリエーションルートの存在自体を知らないのかも知れない。 山頂の祠 槍ヶ岳山荘 穂高への縦走路 常念岳と西鎌尾根 槍の頂上から 時刻は十一時。槍ヶ岳山荘で望み通り、缶ビールにカレーライスを注文。やっと御飯にありついた。シーズンは終りに近いのに相変わらず登山者は多い。山荘の前でゆっくり槍を見上げていると、穂先を登る人は時間を追って増えてゆく。陽射しはまだ真夏のそれで、風は冷たいがヤッケ(レインスーツ上衣)を着てちょうど気持ち良い。 十二時になって下山開始。槍沢ロッジ、横尾山荘、徳沢園、明神山荘と各山荘で休憩して上高地には五時半に到着。さすがに疲れた。小梨平にテントを張ってから、カッパ橋前の五千尺ホテル二階のレストランで生ビールを傾け今回の山行を打ち上げた。 *4 ルンゼ 岩と岩の谷間のガラ沢。 *5 ルートファインディング 一般路でもガスがかかったり悪天だったりすると道を失いやすい。人が余り入らない所では地図と磁石で道形を確認しながら進む。 (1993年8月歩く) この文章は、当時に書いたものですか、それとも当時のメモから書きおこしたものですか。 私も、昔の取材して絵を描いた土地の紀行文を、書いてみたい気になりました。 -- 岬石 (2017-02-11 19 22 46) この文章はそっくり当時のものです。東芝のルポを使って記録しておきました。 その後、富士通のPC、タウンズFMで記録し、Windows3.1が発売されてからは独自のHPを開設してアップしてきました。ブログを始めたのは15年くらい前からでしょうか。 ただ、デジタルで直接書き下ろすようになってからは、長い間にはバックアップメディアが壊れたりして失った記録もあり、やはり手書きの信頼性にはかなわないとも思っています。 さて、岬石さんも絵の取材で紀行文を数多残してらっしゃるようですね。本の形で残しておくことは後々の人にとっても大事なことと思います。期待しております。 -- inada (2022-04-14 14 09 29) 名前 コメント ページトップへもどる
https://w.atwiki.jp/bellko2009/pages/17.html
目次 目次スーツの歴史 各地のスーツの特徴イギリス アメリカ イタリア フランス 日本 スーツの歴史 19世紀頃のイギリスで正装として着られていたモーニングコートの裾を除いたものが起源。というのは本家wikiwikipedia背広にも書かれている事。スーツはイギリス発祥だが、フォーマルなスタイルとして世界的に広まった。その過程で、各地域の気候や民族性に合わせて独自の進化を見せている。 ここ日本では、戦後になって「社会人の制服」としてスーツが劇的に広まった。ただし、これは日本だけの現象であり、他国ではある程度の地位にあるホワイトカラー層以外は常時着用している訳ではない。一般庶民は結婚式等のフォーマルな行事以外で着る事は少ない。他国では今でも、スーツを着るという事はそれだけで結構クラス感が漂っている訳である。 各地のスーツの特徴 イギリス スーツ発祥の地イギリスは、現在でもサヴィルロウを筆頭とした仕立て服が有名。しっかりと芯地を入れ、堂々としたシルエットが特徴。特に肩に厚めの芯地を入れてウェストを絞ることで、胸にボリューム感を出すところはイギリスのスーツ全体に当てはまる。100年以上にわたる老舗とともに、最近は新興のブランドも生まれている。イギリスは今でも羊毛の一大生産地であり、イギリス製の紳士服の大半は、イギリス製の服地で作られている。 なお、この国では未だに階級制度がはっきりしており、庶民が普段スーツを着るという事は、今でもあまりない。 アメリカ もともと、ビジネスの場でスーツを着始めたのはアメリカ人と言われており、案外スーツとは縁の深いお国柄である。元来イギリスの伝統を受け継いだスタイルが主流であるが、時代を経て胴を絞らないボックススタイルのジャケットが生産され、現在ではそれが一つの個性となっている。ボックススタイルが生まれた理由としては、既製品を生産する際に便利だった事や、様々な人種の人間が着られるものを作った事に由来するとされる。また、3つボタン段返りやフックベントなどが特徴的なディティールとして上げられる。 もっとも、アメリカンブリティッシュと呼ばれるような、昔ながらのイギリス風との折衷的なスタイルをとる店も存在しており、ボックススタイル一辺倒という訳ではない。 イタリア イギリス人が観光の為にイタリアを訪れた際に、地元の職人が作り始めたのが起源とされる。イタリアは地域差の激しい国であり、北部のミラノ、南部のナポリとそれぞれにスーツの特徴や仕立て方も異なる。 ミラノはイギリスのスーツに比較的近く、冷涼な気候も手伝って全体に構築的な要素が強いが、典型的なイギリス製のものよりもやや丸みを帯びフェミニンな印象を与えるのが特徴。 ナポリは温暖な気候であるため、それに適応したスタイルが開発された。芯地を薄くするか場合によっては一切入れず、大抵は服地も薄手のものを用いる。ディティールも3つボタン段返りなど、装飾的な要素が多く見られる。一般にイタリアのスーツというと、ナポリ風のイメージが強いかもしれない。 その他、ローマやフィレンツェにも世界的な名声を博するテーラーが存在している。 イタリアの中南部は比較的工業化が遅れたため、結果として手作業を旨とする職人が残ったとされている。 フランス イギリス程シャープなシルエットでもなく、ナポリほどカジュアルでもない、中性的なシルエットが特徴。肩の稜線がやや丸みを帯びており、ラペルのデザインは女性服に見られるような優雅さが持ち味。 フランスは、モードと呼ばれるアーティスティックな服装についてはよく知られるところだが、クラシックの領域においては日本ではそれほど有名ではない。ただし、パリの高級紳士服店は世界のお金持ちの御用達である。 日本 特徴のないところが特徴、と呼ばれる事が多いが、ともかく多様であるという事が一つの特徴かもしれない。仕立て服については元来のイギリスの影響が強く、既製品についてはその製造方法も含めて、アメリカ及びイタリアの影響が強い。色々な国の技術やディティールを吸収するのは日本のお家芸であり、それがスーツの分野でも遺憾なく発揮されている。 それでも共通の特徴らしきものもある。一つには服が体についていくような造りよりも、着崩れのしにくさを重視する点である。これはイギリスやドイツの「構築的」と呼ばれるものに近いが、本質的にはやや異なっているのではないか。どこか直線的なのだ。これは仕立服の品評会に出てくるような服によく見られるが、既製服のラインでも同じような傾向はある。どことなく、着物の雰囲気が残っているといわれる所以だろう。 私見だが、上記の特徴は古くささを感じさせる元凶でもあるが、技術的には相当に高度であり、あとはデザインの問題だろう。
https://w.atwiki.jp/easytarget/pages/25.html
ティア6拠点戦 ティア8拠点戦 ティア6拠点戦 主力車両~この車両を持っていると活躍できる。参加したい人は優先的に開発すると吉。 ☆Cromwell 足が速い・HPが750と高い・DPMも2076と高い。ラッシュに良く用いられる。ただし、走り撃ちが当たらないため最強という程ではない。ちなみに最高速は微妙にBの方が速く、旋回性能は無印の方が良い。 ☆T37 足が速い・HPが680と高め・DPMも2091と高い。ラッシュに良く用いられる。クロムとの違いは、スタビが積める為走り撃ちが当たること。また腐ってもLTなので移動時の隠蔽がクロムより良い。ちなみに静止時の隠蔽はクロムの方が良い。 準主力~主力ほどではないがまずまず使える。 ○AMX12t 足が速い・高火力1mg810dmg・HPは600と低い。6発ローダーは強いことは強いが精度に難あり。外せば外すほど味方が不利になる。扱いが難しい。隠蔽がかなり良い。 ○T-34-85 足はそこそこ・HPが720・DPMが1800。クロムに追いつけない為ラッシュに使うには微妙。クロム・T37などに対して、ハルダウンして撃ち合うと強い。122mm榴弾砲が使え、その場合のDPMは1946(HEAT)。乱戦だとHEでも貫通が狙える。 ○Type64 T37の下位互換だと考えていい。隠蔽はT37より良い。 ○59-16 足が速い・そこそこの火力1mg575・HPは590と低い。連射が速く装填も速い。ほっとくとかなり厄介。隠蔽が良い。 ○VK28.01 足が速い・高火力・HPは610と低い。十榴HEATのDPMが2625と破格。単発も高いのでかなり強い。ただし距離が離れると当たらない。この車両を使う場合は、死にかけを撃つよりなるべくフルダメージを出したい。今はO-Iを入れた重戦車編成が流行っている為微妙。 ○M4A3E8 そこそこの足と十榴HEATで高火力。VK28.01で良い。 なくはない戦力~使えないわけではないけど、活躍できるかはマップや敵の編成にもよる。それほど枚数は要らない △MT-25 足がかなり速い・DPMは2125とちょっと高め・HPは570と低い。精度が良い。機関砲はAPだとクロムに弾かれる。貫通する相手には強い。基本的には57mm。 △A-43 足はそれなりに速い・DPMは2217と高め・HPは730。クロムに比べて精度がいいが走り撃ちが当たるわけでもなく、あまり使う意味はない。地味に隠蔽が最低クラス。 △Hellcat 前は強かった。入れるとラッシュがしにくい。単発が高いので待ちは強い。 △KV-85 HTを入れてしまうとどうしても敵に先手を取られてしまうのであまり使えない。撃ち合いは普通に強い。122mmはDPMが低すぎる+俯角が無さすぎるので100mm砲推奨。 △ARL44 車体は硬い。精度が悪い。金弾でDPM上がるタイプ。 △T-150 硬い。遅い。意外と俯角が-7°ある。 △KV-2 ネタの割に強い。相手は基本的にLT,MTなのでAPが貫通する。HEは貫通したりしなかったり。待たれると面倒くさい。 △O-I 主要な車両は大体こいつを"通常弾"で抜けない。さらに大火力で敵を圧倒する。遅い+隠蔽悪い為、芋によく使われる。害悪 △M4A3E2 砲塔がめちゃくちゃ硬い十榴HEAT。足遅いし車体正面はクロムに抜かれる。 ティア8拠点戦 HT~拠点戦において主力となる戦車。6~7両欲しい。 ☆IS-3 単発火力が高く足も速い。かつ装甲もそれなりにある。一番使う戦車。 ○T32 頭が硬く俯角が取れるため、稜線を使った防衛などで使える。1両ワンポイントで入れると便利。 ○IS-6 IS-3の代わり。頭がIS-3に比べて柔らかい為、IS-3の下位互換。ちなみに金弾。 ○110 IS-3の代わり。頭と正面はIS-3より硬い。単発ダメ低し。 △T34 T32の代わり。頭が柔らかく、単発が大きい。足が遅い。 △FCM 50t お金稼ぎ専用車。足が速い。 △AMX 50 100 マップによって使えるかどうかが大きく変わるので使いにくい。 LT~拠点戦において偵察役となる戦車。3,4両欲しい。 ☆T-54ltwt. 他のLTに対して強く、金弾が235APCRでIS-3を安定して抜ける。 ○RU 251 隠蔽・機動性・DPMがT-54ltwtより優れる。金弾が250HEATでIS-3を安定して抜けない。 ○T49 RU251に対してすごく強い。マップによっては使える。 △AMX 13 90 精度が悪すぎる。 MT~主力にはなれないが何両かいても良い。
https://w.atwiki.jp/chaina_battle/pages/67.html
南京安全区国際委員会(なんきんあんぜんくこくさいいいんかい、The International Committee for Nanking Safety Zone)とは、日中戦争初期の南京攻略戦に際し、市外に避難できなかった中国市民を、南京城内の一部を安全区として保護するために設けられた委員会。第二次上海事変に際して南市に設立された安全区を手本に、南京に残留した欧米人が中心となって結成された。 略歴 1937年11月17日 ベイツ、スマイス、ミルズの3人は、アメリカ大使館員ウイリヤ・R・ペックに、南京に安全区を設置する計画を説明し、中華民国・日本両政府に認知させるための仲介役を依頼する。同日、ミニー・ボートリンからも、同趣旨の手紙を受け取る。このことを受け、ペックは、国民政府立法院委員長・孫科、抗戦最高統帥部第二部長・張群、南京市長・馬超俊らに非公式に伝えた。 11月22日 南京安全区国際委員会が結成される。委員長は、ジーメンス南京支社の総責任者であるジョン・H・D・ラーベが就く。 12月8日 『告南京市民書』を配布し、安全区への市民の避難を呼びかける。 12月13日 南京陥落 安全区 南京における安全区は南京城内の北西部に設置された。面積は3.8平方キロメートルで、城内全域と比べたなら8%程度の広さにあたる。安全区は何本かの通りに囲まれており、およそ六角形をしていた。その境界は各地に設置された標識によって明示された。丘陵地帯が接している南西側は山の稜線が境界とされた。 この地域は高級住宅街であり、本来の住民の一部はすでに市外への避難を済ませていた。また公共の建物が多かったことも難民の収容に向いていた。何より国際委員会のメンバーの居宅があるなど、彼らのホームグラウンドであった。中国軍の施設や陣地からも離れていたが、予定していた地域内の南西の山に陣地が設けられたため、陣地と隣接することになった。 この安全区内には難民のキャンプが多数成立し人口密集地となった。日本軍による市内占領の後も、外部と比較すれば治安が良い状況にあったと思われたため、民間人が大量に流入してきた。安全区の人口は最大で25万人程度とされる。また、民間人から購入したり盗んだりした民服(便衣)に着替えた敗残兵までが安全区に逃げ込み、民間人と入り混じる結果となった。 メンバー マイナー・シール・ベイツ(Miner Searle Bates) 金陵大学歴史学教授。 ジョージ・アシュモア・フィッチ(George Ashmore Fitch) 委員名簿に名前は載っていないが、安全区の管理責任者として活動した。 アーネスト・H・フォースター(Ernest H. Forster) アメリカ聖公会伝道団宣教師。 ジェームズ・H・マッカラム(James H. McCallum) 連合キリスト教伝道団宣教師。 ジョン・マギー(John Magee) アメリカ聖公会伝道団宣教師。16ミリフィルムによる「日本軍の暴行の跡とされる負傷者や虐殺死体」などの映像を残した。 ジョン・H・D・ラーベ(John H. D. Rabe) 委員長。ジーメンス社南京支社の総責任者。ナチス党員。1938年2月28日に南京を去りドイツに帰国するが、日本軍の暴虐を止めるよう訴えたことが当時の党の政策に反し、党の監視下に置かれる。 ルイス・S・C・スマイス(Lewis S. C. Smythe) 書記。金陵大学社会学教授。南京戦およびその後の暴行による被害状況を調査し、『南京地区における戦争被害』としてまとめた。 エドワルト・スペルリング(Eduard Sperling) ドイツ資本による上海保険公司の支店長。「日本兵の暴行を体を張って阻止した」と伝えられる。 ミニー・ヴォートリン(Minnie Vautrin) 金陵女子文理学院教授。宣教師。学院に婦女子のためのキャンプを開設し、その責任者として強姦や拉致から大勢の女性を保護した。 ロバート・O・ウィルソン(Robert O. Wilson) 金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師。続々と病院に運び込まれる負傷者の治療にあたった。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年2月24日 (日) 03 35。
https://w.atwiki.jp/suzukisign/pages/101.html
詩 豆腐 豆腐 大地、大豆を生み、大豆、豆乳を生み、豆乳はきめ細やかな穀物として、その子、湯葉と豆腐を生む。そして僕らは豆腐の気の遠くなるような清らかな白みを思い知るだろう。うんざりとする白さ。ため息の出る白さ。しっとりと瑞々しく水を湛える莫大な白みが箸の鋭い先端に触れると、果たして豆腐はぷっつりと裂け、その裂け目もまた豆腐のように豆腐。 ああうんざりして現前する豆腐の星。とろけるように清い豆腐の大地。永遠に尖ってゆく柔らかな白みの直方体が金ダライに張られ、重みに耐えかねるその稜線が、弧状にしなり、滑らかな窪地。清純の溜りが伸びている。湖は豆腐。つややかな豆腐が僕らの視界にそそり立ち、豆腐の豆腐たらしめる真の豆腐から涼しく流れ出る豆腐の露が喉を潤し、そして僕らはどこまでも豆腐であり、真っ白の地平には豆腐の花が咲いている。その美しさ。いかにも食べ物と言いえる淡白な蛋白質が、豆腐という白さにつなぎ止められ、やがて永久にとどまる。ぷるんとした弾力を残して。 豆腐が豆腐としてあるならばそれは巨大な存在として彼方より飛来する豆腐である。一面に豆腐の豆腐の街。豆腐の廃屋には淡い光かそうでなければ死とでもいったように、純粋な豆腐の扉がついていたが、豆腐の取っ手を取り持って引っ張れば、それはあっけなく崩れ、ぼろぼろとこぼれるもろさと、はじける白い水に豆腐の心は胎児に帰り、豆腐のように耐え切れず手のひらの豆腐にむしゃぶりつけば、それは清らかな白みを残して心の中で再帰する豆腐。そしてどこまでも、心の中でばらばらになる豆腐。ここで一度立ち止まり、豆腐の心を箸で十字に割り開いては手皿を添えて頂くも、ほんのりと甘く清廉に辛い透明さの上で、豆腐でない豆腐を見つけることはできない。 そして心の中にある、まっさらな対角線と知り合ったとき、そこに豆腐はある。豆腐の雪が降る。いっそう白い豆腐がわれ先に指を突き上げる。僕らの心はふるふると揺れ動き、そこでとうとう崩れ去るだろう。崩れた白みにふつふつと丸い豆腐があり、豆腐の幾何学が世界を分節化し、豆腐の海図は豆腐の海へ僕らを駆り立てる。客観的に、叙情的に、行間的に、科学的に、随筆的に、健康的に、それは豆腐であることを止めはしない。そこで豆腐は宗教となり、豆腐の角で頭をぶつけて倒れる豆腐。ことごとく砕けて豆腐。まるい豆腐。四角い豆腐。絹ごしのつややかな豆腐。木綿で絞られ、小刻みに揺れる豆腐。陶椀に乗る豆腐。きりりと冷えた豆腐。それは豆腐の甥である醤油や、豆腐の親類である塩をかけて食ってもよいだろう。また味噌をつけて食ってもよいだろう。豆腐の地平を示威する豆腐にはやはり冷えた豆腐であるけれども、味噌汁にももちろんあう。焼いても豆腐は新しい。煮物に存在する豆腐も、それはまた格別にうまい。豆腐はあらゆるものを内包する。忘れてはいけないの豆腐とは、どこまでもやがて豆腐。あらゆるものは、豆腐。 豆腐の記念立方に堂々と記されている「豆腐」という豆腐を前に、僕はあきらめて途方も無い豆腐の心を知ることをやめ、ややいたずらな気持ちで、豆腐の裏に回る。どこまでも滴る豆腐の形相。あくまでも豆腐。どこまでも豆腐。細く白い豆腐の路地を抜け、仰ぎ見れば、豆腐の脇には豆腐の顔があり、ふっくらとした白い頬があり、瑞々しい唇があり、透き通ったまなざしがある。初恋のように美しく白いその豆腐、豆腐を見ながら僕らは豆腐を考える。豆腐にもいろいろあるだろう。賢治の豆腐。中也の豆腐。しかし、泰然と振動を続ける豆腐こそが真の豆腐である。三全世界の豆腐といい、豆腐といい、そして豆腐が、裏も表もなく存在するように見えて、忍び足で揺らぎへ分け入り、目をやれば、ため息のように白々しく豆腐にも裏がある。そこにこっそりと目立たずにしかし丁寧にすえられている白い梯子を駆け上がり直方体の宇宙へと飛び出せば、それでもやっぱり豆腐なのだ! ああ豆腐! 絶望的に豆腐! おいしく清い豆腐! ヘルシーダイエット、豆腐! 豆腐の宇宙に、どうしようもなく白い宇宙に、僕らはとうとう立ちくらみ、平たく白い豆腐に身を投げて、沈み込んでゆく豆腐の冷たさに、僕らはただひたすらに豆腐であり続け、力の限りに「豆腐!」とでも、叫ばずにはいられないのだ!
https://w.atwiki.jp/sdkfz/pages/47.html
総アクセス - /今日 - /昨日 - regulus2nd regulus_2501 NA Server SEA Server 読み方:レグルス2501(アカウント名の由来は、regulus+2501) imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 プレイ環境 +... +... 最近お気に入り曲とか http //www.nicovideo.jp/watch/sm19521851 http //www.nicovideo.jp/watch/sm18729030 +... http //www.youtube.com/watch?v=dI4G3oWNXh4 ミカエラかわいいよミカエラ http //www.nicovideo.jp/watch/sm3101468 元のリミックスもいい曲です。 http //www.nicovideo.jp/watch/nm3926098 え?これがカップリングの曲? http //www.nicovideo.jp/watch/sm7655509 TDU2で知った曲1 Last Days Of April - Hanging High http //www.nicovideo.jp/watch/sm10750158 TDU2で知った曲2 Phonat - Ghetto Burnin http //www.nicovideo.jp/watch/sm15272130 I Love Motorsport http //www.nicovideo.jp/watch/sm13523912 おまけ http //www.nicovideo.jp/watch/sm4780755 FOB - Thnks Fr Th Mmrs http //www.nicovideo.jp/watch/sm7195066 Cocco - 星に願いを http //www.nicovideo.jp/watch/sm4910489 Trine Rein - Just missed the train http //www.nicovideo.jp/watch/sm3218 お前に足りないものは――情熱思想理念頭脳気品優雅さ勤勉さ!そして何よりも!速 さ が 足 り な い ! ! http //www.nicovideo.jp/watch/sm17969073 波音リツキレ音源 - -ERROR http //www.nicovideo.jp/watch/sm16546414 ONE OK ROCK - Re make 戦術ドクトリン LT・・・適当にウロチョロ、そこ等辺の茂みに隠れる。 MT・・・前線で稜線や障害物を使いながら、敵の側面を突けばいいよ! パンターだから狙撃する?聞こえんな! HT・・・前線でオッスオッスして蹴散らせばいいよ! TD・・・敵弾を弾けるTDは味方と一緒にオッスオッスすればいいよ!装甲が無いなら狙撃だ! SPG・・・適当に砲撃 リストトップのTierが2つ上でも、前線に出て行く何処からどう見ても残念な突撃坊です・・・←自己紹介w 駆け出しnoob指揮官でもあります。 クラン関連 +... クラン加入日 2012/05/10 階級 Soldier (兵員) 派閥 ヌー部(会計・財務委員長) OMEGAキティクの会 クラン移籍歴 regulus2501(NA) → regulus_2501(SEA) NA鯖野良 → JPN → NABO2 → KGZBV → SDKFZ → BBQPB → SDKFZ → SEAに移行 → Sd.RAHAB regulus2nd 実動後すぐにSDKFZ その他 +... 戦跡 regulus_2501 公式 dossier (随時更新) wot-news regulus2nd 公式 dossier (随時更新) wot-news 課金について プレアカ、ゴールドが無くなった時に$100コース WoTにおける、2012年の抱負 総合勝率61%、総合ER1500台 SDKFZ最強の中戦車乗りになりたいな・・・ 所在 SouthCoast E7 TC +... 考え 1、ターゲットを集中させる。 迅速に敵の数を減らす、キルスチール推薦。 2、HPの減った敵からさっさと始末する。 戦争は数の勝負です。 3、突撃するときは一気に行きましょう。 びびると負けます。 車輌関連 +... 開発予定車輌 SU-101 (Tier8 TD) SU-122-54 (Tier9 TD) T-62A (Tier10 MT) E-50M (Tier10 MT) M103 (Tier9 HT) T110E5 (Tier10 HT) Object704 (Tier9 TD) AMX AC Mle.1948 (Tier8 TD) Lorraine155 50 (Tier6 SPG) Lorraine155 51 (Tier7 SPG) Bat Chatillon 155 (Tier8 SPG) 保有車輌 [ソ連] +... MkVII Tetrarch (Tier2 LT) T127 (Tier3 LT) T-50 (Tier4 LT) ※(∪^ω^)わんわんお! T-50-2 (Tier5 LT) T-34-85 (Tier6 MT) T-44 (Tier8 MT) T-54 (Tier9 MT) KV-1S (Tier6 HT) KV-2 (Tier6 HT) T-150 (Tier6 HT) IS (Tier7 HT) IS-3 (Tier8 HT) KV-5 (Tier8 HT) IS-4 (Tier10 HT) IS-7 (Tier10 HT) SU-85 (Tier5 TD) SU-100 (Tier6 TD) SU-152 (Tier7 TD) ※デザインが好き SU-26 (Tier3 SPG) S-51 (Tier6 SPG) [ドイツ] +... Leichttraktor (Tier1 LT) PzKpfw 38H735(f) (Tier2 LT) Luchs (Tier3 LT) 4号戦車 (Tier5 MT) ※4号はやっぱりシュルツン付だな! VK3001(H) (Tier6 MT) VK3601(H) (Tier6 MT) Panther2 (Tier8 MT) E-50 (Tier9 MT) PzKpfw B2 740(f) (Tier4 HT) Tiger2 (Tier8 HT) E-75 (Tier9 HT) Marder2 (Tier3 TD) ※初めてTopgunを取った思い出の車両。いまだにこの時の記録を超えられない Hetzer (Tier4 TD) ※Hetzer Powrrrrrrrrr!!!!!!1111!1 StuG3 (Tier5 TD) Dicker Max (Tier6 TD) JagdPanther (Tier7 TD) Ferdinand (Tier8 TD) ※ねがちぶ! JagdPanther2 (Tier8 TD) Grille (Tier4 SPG) Hummel (Tier5 TD) ※曲射も出来るTDって珍しいよね。 GW Panther (Tier6 SPG) [アメリカ] +... M24 Chaffee (Tier5 LT) ※LTになったE8 M4 Sherman (Tier5 MT) ※105mmHEAT強すぎワロタ M4A3E2 (Tier6 MT) M4A3E8 Sherman (Tier6 MT) ※MTになったチャーフィー T20 (Tier7 MT) ※野良ソロ専門車両にする予定。 M26 Pershing (Tier8 MT) ※最良のTier8MT T26E4 SuperPershing (Tier8 MT) M46 Patton (Tier9 MT) ※最良のTier9MT M48A1 (Tier10 MT) T29 (Tier7 HT) T32 (Tier8 HT) T40 (Tier4 TD) ※高視界・高機動・高火力(105mm) M18 Hellcat (Tier6 TD) ※TDっぽいなにかよくわからないもの [フランス] +... ELC AMX (Tier5 LT) AMX 13 90 (Tier8 LT) Lorraine 40 t (Tier9 MT) Bat Chatillon 25 t (Tier10 MT) AMX 105AM (Tier4 SPG) [中国] Type62 (Tier6 LT) Type 59 (Tier8 MT) ※どう見てもMBTです。本当に有難う御座いました。 更新履歴 +... 2012/06/05 いろいろ入力 2012/06/10 戦術ドリクトン更新 2012/06/17 E-50 (Tier9 MT) 開発 2012/06/24 T20 (Tier7 MT) 購入 2012/06/25 レイアウト変更 2012/06/26 最近のお気に入り曲追加 2012/06/29 M4 Sherman (Tier5 MT) 購入(米HTルート開発開始) 2012/07/01 所有車両を一部粛清&ソ連TDルート開発開始 2012/07/03 TC関連追加 2012/07/12 最近のお気に入り曲とかを更新 2012/07/18 SU-100、SU-152開発 ソ連TDルート開発終了 2012/07/22 KV-5購入 2012/07/28 VK3001(H)購入 2012/07/30 T-34-85購入 2012/08/14 所有車両と開発予定車両更新 2012/08/15 IS-7購入 2012/08/27 T-150購入&TC関連更新 2012/08/31 T32購入 2012/09/03 7000戦達成 2012/09/04 M4A3E2購入 2012/09/08 JagdPanther2購入 中戦車の乗り方について、思う事をコメントで書いていこうと思います。 質問や意見を書き込みして頂いても構いません。 私でよければ、戦い方のレクチャーもします。 拡張パーツの選び方についての考え。 基本的に「見る、撃つ、リロード」を重視して選んでいます。つまり、被膜済光学・スタビ(ガンレイドライブ)・ラマーです。 -- regulis2501 (2012-07-12 12 46 50) ただし、エンジンの耐久度が高い車両はガバナーを使ってます。 -- regulis2501 (2012-07-15 15 33 18) MTは数が勝負だよ!兄貴!!! -- regulis2501 (2012-07-18 16 00 11) MTが2両いれば、同格HTに勝てる瞬間があります。3両だとフルボッコに出来ます。 -- regulis2501 (2012-07-30 00 16 57) (#^ω^)<ヌー部に所属してるからってなんでも好き勝手できると思ったら大間違いですよ!? -- Noob詐欺撲滅委員会書記長 (2012-07-30 23 31 53) 稜線はお友達 -- regulis2501 (2012-08-14 08 46 36) サムライブレード! -- cubo (2012-08-15 09 22 44) DPMと貫通力は正義! -- regulis2501 (2012-08-17 08 57 02) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/yukiusagi-ml/pages/29.html
スキーツアーってどんなもの? スキーとは本来、ただ滑るためにある訳ではありませんでした。歩いて行くのが難しい、雪の積もった野山を自由に歩き、登り、そして滑り降りるために生まれたのです。雪の降る森の静かな散歩。動物の足跡を見つけては喜び、美しい樹氷に出会っては息をのむ。リフトやゴンドラが整備されて便利になった反面、ゲレンデは都会と変わらないほど人が多くなり、いつしか自然を感じる事すら難しくなってしまいました。静かなフィールドで、冬の自然そのものを楽しもうではありませんか! 稜線に出れば夏とは比べものにならない程澄んだ青空に、遙か彼方の山々が望まれ、疲れも忘れる・・・ 並んだ末に狭い席で食べる高いランチより、大パノラマを眺めながら、輪になって食べるラーメンやお酒の美味しいこと。そして最後に、他に誰もいない斜面を独占して自由気ままに滑り降りる贅沢。フカフカの新雪の上で転ぶのも楽しみのうちですし、景色を楽しみながらそれぞれのペースで下れば良いので上手下手は関係ありません。要は楽しければよいのです。もうひとつおまけに、疲れた体を癒すのはやはり温泉!大抵は帰り道の温泉に浸かって暖まります。 企画への参加は自己責任で! MLを通じて知り合った仲間と一緒に行くとは言え、企画者や一人のリーダーが責任を負って他の参加者を連れて行くのではなく、自分の責任は自分で負う「個人山行者」同士が合流したものと考えてください。事故の際はもちろん完全に自己責任となります。参加者の中で知識や経験の豊富な方や企画者がリーダーシップを取ったり山行計画書を作成してリーダーとして記載される事はありますが、各自が自己責任の自覚を持って装備や判断に最善を尽くし、企画者やリーダーに全ての責任を押し付ける事は避けねばなりません。企画に乗った時点でその方も企画者、リーダーの一翼を担うと考えて下さい。 詳しくはメニューの「ゆきうさぎとは」をご覧下さい。 初心者でも大丈夫? 冬の野山には憧れるけれども、どんな装備が必要なのかも分からない。身近に詳しい人もいない・・・そんな、興味はあるけれども始めるきっかけが得られずに困っている方は多いのではないでしょうか。始めは誰でも知識も経験も無いものです。仲間と行動する事によって知識と経験を積み、徐々に楽しめるフィールドを広げてゆきましょう。さぁ、あなたも白銀の世界へ飛び出してみませんか? メンバーの年齢構成や男女比は? クロスカントリースキーやテレマークスキーを始めたけれども、一緒にスキーツアーに行く仲間や技術を指導してくれる先輩が見つからずに困っているという方も少なくないと思います。“ゆきうさぎML”のメンバーは、年齢も性別も様々。 30代を中心に20代~60代,男女比はほぼ7:3です。きっと、気の合う仲間に巡り会えることと思います。 費用はどのくらいかかるの? お弁当+ビール ¥1000 ガソリン代(200km分割り勘) ¥600 入浴料 ¥500 計 ¥2100 ゲレンデでスキーをするよりも遙かに安いものです。一回のツアーでかかるお金と言えば、昼食代と交通費,そして帰りに入る温泉代ぐらいのものです。クラブや宿泊施設等のツアーと違い、「ゆきうさぎML」で知り合った仲間同士の活動ですから、 会費も参加費も不要です。 どんな装備が必要ですか? どのようなフィールドで楽しみたいのか、ツーリングがしたいのか、それとも滑降主体なのかによって最適な道具は変わってきます。詳しくは、下のリンクを参考にしたり、“ゆきうさぎML”で相談してみて下さい。絶対的に優れた物や万能な物はありません。 あなたのスタイルに合った装備を選択することが肝要なのです。メンバーにはその道に精通したツワモノが沢山居ますので。 下手なショップで尋ねるより遥かに有益な情報を提供してくれる事でしょう 目的地にはどうやって行くの? 参加者同士で決めた集合場所からは、 数台の車に分乗して(ガソリン代は割り勘)目的地へ向かいます。 車が無い方も、事前に車で来る参加者と相談して駅などで拾ってもらうと良いでしょう。 スキーツアー以外の活動は無いの? せっかく知り合えた仲間ですから、堅苦しいことは言いません。他に迷惑のかからない範囲で何でも提案できます。これまでにも、ハイキングや夏山登山はもちろん、カヤック,お花見,バーベキュー,秘湯巡り,岩登り等の企画がありました。自分に無い趣味を持つ方の企画に参加することによって、新しい世界が開けるのも素晴らしいことだと思います。知識や経験,アイディアを互いにオープンにして、より広い視野で自然のすばらしさを満喫し、人生を謳歌できれば最高だと思いませんか?
https://w.atwiki.jp/ova-v/pages/339.html
俺とて完璧ではない。ただの人間である限りは、その力の及ばないところが必ずある。 だが、どうして今そうなってしまったのだと、ムーシェは苛立たしげに眉を顰めながら、バラクラバの下で舌打ちした。 ―――初弾を発砲してからすでに一時間ほど経過し、身体もなにもかもが乾き切っている。 いや、それは耐えなければならない障害だ。ニアミスの理由にはならない。 ―――忍耐力で集中力と視力を保ち、キルゾーンに躍り出た敵はすべて射殺するつもりだった。 この意気込みの所為だろうか。私情がいつのまにか激情になり、俺を狂わせちまっていたのか。 どちらにせよ一人殺し損ねた、とムーシェはスコープから目を離さずに弾をライフルに込めながら思い、あってはならない失態に畜生と毒づき、その他汚らしい言葉を一頻り呟いた。 激情に駆られてリラックスできず、放置されているACに意識を取られていたからか。問題はそれだけではないだろうが、とにかく自走式対空砲に取りつこうとした馬鹿野郎を一人、見逃してしまったという事実に変わりはない。 「…………」 しかし、敵が強大な兵器に取りついたというのに、ムーシェは恐怖を感じなかった。 自分への失望も感じなければ、弾丸が命中しなかった驚きもなかった。ただ、こう考えるのみ。 問題はなにか? 対処する。そして、解決するということだけだ。 「…………」 不意に遠くから雷鳴が聞こえてきた。エクシーレの観測班が言ったとおり荒天になるのかと、ムーシェは再びライフルを己が骨格と地面によって支えながら考える。 ここは一時撤退して、荒天になるのを利用してゲリラ戦法に切り替えると言うのも手ではないか。幸いにして拳銃とサプレッサーは持ってきているし、愛用のナイフだって腰にぶら下げている。 恐らく奴らは相当なストレスと恐怖を植え付けられ、その上に戦闘時の昂揚とこの俺を〝出し抜いた〟という奢りがあるはずだ。不安定な精神状態でゲリラ戦をやってやれば、一人や二人は死ぬよりも怖い思いをして泣き喚くに違いない。 「……ああ、そいつはいい」 ちょうど、ただ単に殺すだけでは足りないと思っていたのだ。こうして論理的に自分がやりたいことをやれるというのは、まさに天の計らいとだとしか思えない。 彼女が後ろ髪を引かれるような事象があるというなら、俺はこうしてすべてを弾丸と刃によって解決してやれるだろう。もちろん、解決を彼女が望むのならばと言う条件付きではあるが。 さて、自走式対空砲に取りついた馬鹿野郎を手っ取り早く射殺して、ハンヴィーに戻って少し休憩でもしようじゃないか。天気が荒れるまで、数時間程は普通に息を吸ったり吐いたりできる。 呼吸を緩めて止めて緩めて、吸って止めて吐いて思い切り吸って吐いて止めて、とランダムに制御していたからか、ムーシェは無意識かつ自然に呼吸をすることに酷く安らかなものを感じ始めていた。 ストックを肩に引き寄せてスコープをじぃっと見つめ、筋肉繊維が痙攣を起こそうと、心臓発作で血流が交通事故を起こしても、決して見つめる先だけは見失わないよう、人体でもっとも強固な骨と、母なる大地でたった一丁のライフルを支える。 そんな陳腐にして非道な行いである、狙撃と言う工程の一つ一つをムーシェは愛していた。愛しているからこそ、殺し損ねた目標は必ず仕留めてやろうと思い、自走式対空砲をスコープ越しに見つめ、影に隠れた男をなにがなんでも狙い撃ち、殺そうと思った。 呼吸を薄くし、自走式対空砲からひょっこり頭が見えた瞬間、ムーシェの視界は砂埃と火炎に覆われ、聴覚と視覚が衝撃を受けて消失し、身体は炎で焼かれ、小さな破片がいくつも皮膚に食い込む激痛が体中を駆け巡った。 思わず呻き声をあげようとしたムーシェは、熱い塊を左腕に受けて稜線上から吹き飛ばされる。 あれほど大事にしていたライフルの感覚は失われ、しばしの浮遊感の後、背骨が折れたような感覚と共に肺の空気が強制的に叩き出された。 平衡感覚も痛覚さえもが消えて、ムーシェは暗闇の中を転げ落ちる。 左腕どころか、全身がどうなっているかさえも分からない。無感覚状態ではない。感覚器官と脳を繋ぐ神経がどこかでぶっつりと断線してしまったかのようだ。どちらも正常だと言うのに、配線が断たれているから、情報がやってこない。 なにがおこった? とムーシェは思い、瞼を開けようとした。しかし、瞼を開けることは出来なかった。 暗闇の向こうから激痛と熱の濁流がやってくると、ムーシェは抗う事などできず、意識を刈り取られた。 NEXT 投稿者:狛犬エルス 登録タグ: 狛犬エルス
https://w.atwiki.jp/fadv/pages/2355.html
日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年 題名:日々翻訳ざんげ エンタメ翻訳この四十年 著者:田口俊樹 発行:本の雑誌社 2021.2.20 初版 価格:¥1,600 田口俊樹翻訳作品で自分の読んだ本を数えてみたら54作であった。特に翻訳者で本を選んでいるわけではないのだけれど、ぼくの好きな傾向の作家を、たまたま多く和訳して頂いているのが田口俊樹さんということであったのだと思う。特に、完読しているローレンス・ブロック作品は、ほぼ全作田口さん訳なので、ぼくのように読書歴にブロックのあの時代があったミステリー・ファンは、少なからず田口俊樹訳で読んでいることになるのです。 他に田口訳作品でお世話になったところでは、フィリップ・マーゴリン、トム・ロブ・スミス、最近の(パーカーBOOK版になってからの)ドン・ウィンズロウ。いずれも大変な作家揃い。 最近では、ポーランドのジグムント・ミウォシェフスキ、スウェーデンのガード・スウェン『最後の巡礼者』など、東欧や北欧の原語→英語→日本語、といった英語経由翻訳作品でも、田口さんの名は見られるようになった。いずれにせよ、気づいてみれば、ものすごく日頃からお世話になっていた翻訳者である。 ぼくはブロックの、特に殺し屋ケラー・シリーズの訳がとても好きで、疑問符の「?」で終わるブロック独特の軽妙な文章などは、毎度笑いを噛み殺して安心しているような気がする。 また、現在自分が読書会でお世話になっている翻訳ミステリーネットワークを立ち上げたのも、田口さんであったのですね? 本書あとがきを読むまでこれを知らず、当の田口さんご本人を迎えて今月開催される本書の読書会には図々しくも参加申し込みをしているという次第。失礼致しました。 さて本書。翻訳の舞台裏や、翻訳という仕事の特性など、楽しく読んでいるうちにわかるという内容なのであるが、翻訳スクールの学生向けの文章ということもあり、専門的な部分もあるが、殊更翻訳に関わらない人でも本が好きであれば十分に楽しめる。 特に驚いたのは出版社を通じて翻訳者が作家に文章の意味を問い合わせることがあるという点である。親切な作家(特にマイケル・Z・リューイン)は、自分の作品のみならず、わかることについては英語の微妙なニュアンスまで教えてくれるらしい。とても優しい方らしいから、改めてもっと読まねばならないかも。 さて翻訳という作業に関わるエピソードは、実はぼくにもある。獨協大学外国語学部フランス語学科で留年を繰り返しながら山に登っていた頃、黎明山の会の先輩である間座女史が岳(ヌプリ)書房という山岳専門出版社を立ち上げた。ぼくはアルバイトで始終神保町の事務所に通っていたのだが、その頃ヨーロッパアルプスの写真集に、山岳小説家ロジェ・フリゾン=ロッシュが文叢を書いているので翻訳してみないか? と言われたのである。量的には問題があまりないが、非常に高価そうな写真集の翻訳を指示されたのだ。学生だし、フランス語の成績が良いわけでもないけれど、その頃は山が何よりも好きだったから、一応身を乗り出して原書と格闘しました。そのまま出版に漕ぎ着けず、出版社とも諸事情により、疎遠になってしまった。ぼくの下宿には電話すらなかったから、岳書房から急な仕事の連絡は電報で来ていたという時代。せっかく手掛けた和訳原稿は、もったいないので大学で立ち上げた山岳同人・稜線の光の会報にガリ版刷りで掲載しました。40年前の話。人生唯一の超マイナーな翻訳機会。 こんなアマチュアの想い出話をしたところで、多くの名作を手掛けてきた敬愛する翻訳家・田口さんの本エッセイ集のレビューとは全く関係ないよね? ただ、自分が出版に漕ぎ着けるかもしれない翻訳をしたことがあったというあの経験については、今の今まで忘れていたので(間座社長、ごめんなさい)、それを思い出させて頂いた本書には実はとても感謝をしたい気分だったのです。 翻訳という作業の機微、面白さ、難しさ、言葉そのものの面白さ、何よりも外国の本が出版され読者の手に渡るまでの、神秘的な作業の魅力とその多様な訳文(具体例が示されたりしています)など、興味深いことでいっぱいの本書。とりわけ翻訳小説の好きな方はメイキング本として是非手に取って頂きたい、面白興味惹かれまくりの一冊であります。翻訳って素晴らしい。 (2021.3.8)
https://w.atwiki.jp/hana11re/pages/25.html
白山・焼岳・・・さすが百花繚乱の白山 1990年7月 爺ケ岳東稜・・・苦しかったラッセル 1991年5月 白山・焼岳1990年 7/29(SUN)~30(MON) 夜行列車。上野22:44発、特急北陸。二十数年ぶりの寝台列車にとまどう。興奮して眠れないが、横になっていられるだけでも充分な休養になる。 金沢駅からバスに乗って白山登山口へ直行。乗客は他に二人だけ。終点の別当出会いは多くのハイカーでにぎわっていた。ガスがかかっていて少し肌寒いところが何とも言えず、やっと山に来たんだなぁとうれしくなる。 金沢駅 別当出合 売店でカレーライスを詰めこみ、水筒をつめたい水でみたすと出発。さすがに夏山、そして名山である。中学生の団体やら、一般の団体客で登山道はもう数珠つながり。霧がかかって暑い日差しをうけないだけ登りには好都合。たがいに追い越し追い越されて、甚の助ヒュッテの先十五分程のところで、左に室堂への道を別けて南竜ケ馬場へ向かう。急に静かになった。この辺に来てようやく花の白山の面目躍如。とくにニッコウキスゲが美しい。ハクサンフーロ、トウチソウ、シモツケソウ、ハクサンボウフウ・・・。 南竜ケ馬場センターロッジで申し込みをしてキャンプ場へ。沢をわたった丘の上の好適地だ。クロユリを見つけた。ハクサンコザクラ、ミヤマキンポーゲ、ミヤマダイモンジソウ、モミジカラマツetc。 テントを張り終わってから、別山への縦走路をたどってみた。ときどき霧が張れて別山の尾根がみえてくると、このつぎは是非、白山を南北に縦走してみたいと思ったりした。やや乾燥した湿地帯に出るとニッコウキスゲやイワイチョウが咲き競って、岩の上ではおじさんが一人気持ちよさそうに昼寝をしていた。 テントにもどると酒だビールだ。 7/31(TUE)昨夜は星空でちょっと寒いくらいだった。さすがに2000メーターを越した高地である。まわりのテントからも軽いセキが聞こえていた。しかし気持ち良い朝の冷気の中を山頂めざして歩き始める。室堂へはお花ばたけコース、縦走コース、展望コースと三本あるが、展望コースを行くことにした。しばらくはニッコウキスゲの群落を見ながら小さな沢を渡ったりして楽しい。すこし高度が上がって別山尾根が雄大に展開されだすと、急登が連続し苦しい登りとなる。展望台で一休み。ご来光を見てきた帰りと思える人たちがカメラを構えていそがしかった。もうひと踏ん張りでハイマツの平地に出ると、斜面に残雪をまとった御前ケ峰がその全貌をあらわした。雪渓からながれてくる冷たい沢水に手をひたして、そのまま左手へ道をたどると室堂センターに到着。 室堂はすでに大勢の人でいっぱいだった。早速、神社にお参りして山頂へ向かう。キャンプ場を四時半に出て、時刻は七時。すでに陽はたかく暑い。階段状の登山道の脇には、ハクサンフーロやイワギキョウが、紫やブルーのきれいな色で迎えてくれる。三十分たらずで御前ケ峰山頂にたった。りっぱな奥宮がたっていた。室堂のにぎわいがウソのように静かな山頂であった。さまざまな池を火口にして、そのまわりに御前ケ峰、剣が峰、大汝峰と続く景観は迫力がある。火口池のまわりにはまだ残雪があった。そのためか風は冷たく、ずっと立つていると寒い。ヤッケをだして着る。東の空のかなたには北アルプスが浮かんでいた。槍の穂先がはっきり見える。右に乗鞍岳、そして御嶽山。シャッターを何度もおした。 目の前の剣が峰へはルートができていないようだ。ガレた急斜面はよほど気をつけないと転落する危険がある。登りたかったがムリはやめて、一般ルートの池めぐりを行くことにした。ただ、大汝峰だけは予定どうり登った。ほとんど岩の山である。翠ケ池を前景にした剣が峰と御前ケ峰は写真になる。七倉山と四塚山が青っぽく印象的に北への縦走路上に座っていた。 室堂にもどって食堂でラーメンを食う。充分やすんでから下山することにした。大倉尾根を平瀬へ抜けるつもりである。きょうは途中の白水湖畔のキャンプ場まで。 急だが杭で手入れされた階段をおりて行くと、南の斜面にお花畑があらわれた。タカネナデシコがたつた一本だけ登山道脇に咲いていた。タカネマツムシソウはこの時期すこし早いのではないか? 紫のこいアザミ、髪の毛を編んだようなイワオウギ…。大倉避難小屋で休んでから更に高度を落すと、ミヤマアキノキリンソウ、オタカラコウ、マルバダケブキ等々。 十四時前には大白川避難小屋に着いた。苦しい下りだった。売店で缶ビールを買い一人で乾杯。ひとまず1・5キロ離れたキャンプ場までもうひとがんばりし、テントを張ると引き返して売店脇の露天風呂にどぶん。売店でまたまたビールをあけると、カレーライスそしてソーメンを注文。いやいや大変な餓鬼ぶりである。 テント場は静かだった。管理人の、頭をまるめたオバさんの話しでは土曜、日曜は100人を越すキャンパーでにぎわうとのこと。キャンプサイトは、それぞれが樹林に囲まれて点在し、ゆったりした気分でアウトドアライフを過ごせる。それに何よりも手入れがゆきとどいていて気持ちがよい。 8/1(WED)朝一番のマイクロバスは09:55発。今朝下りてきたばかりの二人が同乗した。そして、この三人で白川郷を見物することになる。明善寺の合掌造りの庫裏がハイライトだった。その後、名古屋にでるという二人と別れて牧戸でバスを降りる。バスステーションのオバサンのすすめで、荘川の里をみてまわることにした。じりじりと照りつける太陽の下、車道を十五分ほど歩いて到着。小一時間じっくり見てまわった。驚くほど豊かな生活をしていたというのが実感。 高山駅に到着して、すぐに平湯経由の新穂高温泉行きバスをさがすと、今まさにドアを閉めて出発するところだった。したがって、ここで食事や買い物ができなかったためキャンプするのが時間的に難しくなってきた。バスの運転手さんに聞いて、結局中尾温泉の旅館を探すことにした。時刻は六時、さいわい山本旅館に投宿することができた。 焼岳 8/2(THU)06:15分出発。帰りがけに焼岳をやろうというわけである。ところが焼岳そのものは素晴らしい山だった。ついでに登る山なんかでは決してなかった。いくどか足がふるえたではないか!!!中尾峠から見上げた焼岳は人をよせつけない厳しい姿をしていた。岩とガレをいかにして登ろうか一抹の不安があった。しかし実際には古いペンキマークがよく案内してくれて、すべらないよう足下に気をつけさえすれば良かった。最上部の大きな岩塊の基部を右にまわりこんで、なおも急な斜面を注意していくと頂上に出た。焼岳山頂と書いた標識がたっていた。展望はもちろん360度。奥穂、前穂の吊り尾根、左にちょこんと槍の穂先。上高地を谷間に霞沢岳、六百山・・・。あとから若い人が上がってきた。互いにシャッターを押しあう。火口を見下ろすと、エメラルドグリーンの小さな池があった。その手前にガスが吹き上げていたが、浅間山の噴煙と比べると規模は小さかった。火口壁をぐるっと回りこんだ向かい側の高まりは、こちらより幾分高そうである。しかしルートはなく足場も相当わるそう。ここはおとなしくあきらめて当然。 快晴の夏空のもと無事に登頂できたことを神に感謝せねばならない。この山はいまだ活動つづける活火山である。登山禁止となっている。何かあったら関係者に迷惑をかける事になる。十五分も楽しんだろうか、とにかく下山することにした。より慎重に十分に注意して下る。 峠の小屋で一休みしたあと、上高地へ下る。朝の、中尾温泉からの登りはすずしかったが、この下りは暑さにまいった。車道に出てバス停へ向かうと、今回の山行も終りである。 トップへ 爺ケ岳東稜1991年 連休ということもあって新宿にはいつもより少し早く六時に着いたのですが、なんと整理券を求める人達が既に長蛇の列をつくっているではありませんか!! 列の最後尾について暫く並んていますと、私の後ろが瞬く間に長い列となつていきます。まもなくあずさ一号の自由席は満席になった旨アナウンスがありました。この分では何時の特急に乗れるかわかりません。とっさに六時二十分発の甲府行きの普通列車で行くことにしました。こちらの方は座席もなんとか確保できて、やれやれです。ところが車掌さんに聞きますと、あずさ一号の方が先に甲府に着くというので八王子で降りるはめになりました。うまくは行かないものですね。ぎゅうぎゅうづめの特急電車にとにもかくにも乗り込んで、信濃大町に予定時刻に到着したのでした。 駅の二階食堂で定食を食べてからタクシーで鹿島まで行きます。若いお兄さんが大谷原まで行くのに便乗しました。車内で話しを聞きますと、鹿島槍東尾根の方は人気コースで面白くないので天狗尾根をやると言います。単独でザイルもなしで登攀するというのですからかなりのエキスパートなのでしょう。 爺ケ岳東尾根登山口は民宿の裏手にありました。あいにくのお天気で雪が結構たくさん降っています。スパッツを付けて出発です。雪の登山道には真新しい靴跡が続いていました。きっと今朝早く登っていったのでしょう。途中どこかで追いつけるかも知れません。それはともかく、いきなり急な道をよじ登るような感じで進んでいきます。この辺は根雪は解けて降ったばかりの新雪です。従って非常にすべりやすいのです。木につかまりピッケルでバランスをとりながら、ゆっくりと高度をかせいでゆきます。 三〇分あまりも頑張りますと、枝尾根に出ました。急な斜面の登行を続けてきたので、既に車道がはるか下の方に見えます。そろそろ傾斜も緩やかになり歩きやすくなってきました。樹林の中をひとり静かに進んで行きます。ひとしきり激しく降った雪もいつかやんで視界が広がって来ました。いまや東尾根本稜に出ています。予定では一九七八メートル峰まで頑張るはずでしたが少々疲れてきました。足がつりかげんです。三時半を回ったところで先行パーテイにおいつきました。テント設営中でした。そして更に暫く進んだ所で先頭のパーテイが、これもテント設営中です。私もトレースがなくなる手前でギブアップ。一七六七メートル峰を越した少し先の辺りです。湿った雪のため、気に入ったテントサイトができるまでそれほど時間はかかりませんでした。 入山した日が悪いと翌日以後好天が期待できますが、まさに今回がそれです。素晴らしい天気です。日焼け留めを顔に塗りたくって、有明の月の残れる中、いざ出発です。四人パーティは一足先に発ちました。すぐ上の雪壁を登りきると、突然雄大な銀世界が飛び込んで来ました。中でも鹿島槍ケ岳がその白い肌を美しく見せています。三月に五竜岳から眺めて感激したばかりですが、この山は爺ケ岳側から見た方が山容が一段と整っていて私は好きです。左手に赤沢岳、スバリ岳、針ノ木岳らしい峰々が連なっています。しかし、ちょっと手強そうです。果してあの針ノ木峠まで行けるのかどうか心配になってきました。 一九七八メートル峰の手前で若いお兄さんに会いました。一時間に二十メートルしか進まない苦しいラッセルで、とうとう引き返してきたそうです。深い雪の亀裂も見られたといいます。先行の四人パーティはそんな事にお構いなく、どんどん急坂を登って行きます。私もなんら躊躇することなく後に従います。そのうちお兄さんもやってきました。二本のストックでどんどん行きます。よく見ますと四人パーテイもお兄さんもアイゼンをつけていません。実に見事です。私はといいますと急登が始まる手前でしっかり付けました。そろそろ森林限界にきているというのも装着した理由です。 雪稜に乗っこす所で、とうとう雪との本格的な闘いが始まったようです。なかなか先に進みません。そのうち先頭のリーダーらしき人が降りてきて、いったん右に回りこんで凍結した急雪壁をよじ登った方が得策と判断し、アイゼンをつけるように指示しました。私もそれに従いひとあし先に雪稜に出ることに成功しました。ホッとする間もなく更に上をうかがいます。狭い雪稜を時には雪深いハイマツに足を取られたりしてずいぶんと難儀なことです。一九七八メートル峰に上がると景観は一層素晴らしく、ここで休憩、昼食とします。流した汗の代償です、とっておきの缶ビールが何とうまいこと。 二四〇〇メートルの森林限界に達するまでかなりの時間が必要でした。既に四時間かかっています。爺ケ岳の山頂は目の前で、夏道でしたら三〇分もあれば十分と思われるのですが、まだまだラッセルが続きます。ストックをにぎったお兄さんの話しでは、今年の正月に来た時も山頂まで深い雪に悩まされたそうです。厳冬期でさえこんな状態だとすると風があまり当たらないめずらしい稜線です。私も何度か先頭に立ってラッセルに一役買いました。そして、ついに山頂です。山頂への最後の一歩は四人パーティとストックのお兄さんに譲ろうと暫く待ってみましたが、十二時になってもお兄さん一人しか上がって来ません。しかたなく皆さんに感謝しながら山頂に立ちました。もう、この頃にはガスがかかって午前中の快晴の空がうそのようです。種池小屋も冷池小屋も見えません。いまや迷うことなく冷池小屋をめざします。針ノ木峠は又の機会に譲ることにしました。 爺ケ岳の稜線に出ますと急に人影が多くなりました。さすがにゴールデンウィークです。冷池小屋の前はキャンパーでおおにぎわい。私もテントを張る予定でしたが、やはり疲れました。雪を解かして水をつくるのもおっくうです。暖かい小屋に泊っておいしい御飯を食べたくなりました。 鹿島槍東尾根で事故があったもようです。雪崩に巻きこまれたようです。他の尾根では滑落事故もあったといいます。お昼近くヘリコプターの音が聞こえましたが、荷揚げのためでは無く遭難救助の為だったのですね。無事を祈りたいと思います。 この小屋は向かって左側に入り口(受付け)があり、一畳ほどの土間でヤッケや靴をぬぎ、それをポリ袋に入れて各人の寝室まで持っていくことになっています。戸を開けて中へ入りますと一二畳ほどの談話室があり、更に右のドアから奥には寝室が続いています。寝室は中二階となっており、ハシゴで三階へ上がれます。下の一階へも降りることができ、左側にトイレ右に自炊部屋があります。ぐるっとまわった奥の部屋が広い食堂になっています。自炊部屋の脇も出入り口となっており、受付けを通らずに外へ出ることができます。談話室を除いて全体的に暗い感じがするのは山小屋では仕方のないことかも知れません。 翌日はゆっくりとスタートです。鹿島槍往復はすでに諦めて爺ケ岳の南尾根を下ろうというわけです。小屋の外に出ますと殆どの人が鹿島槍をめざしています。今朝も良い天気でこのまま下るのはもったいないくらいですが、ただ爺ケ岳南峰まで稜線歩きが楽しめます。剱岳とずっと友達でいられるのです。 南峰に到着しました。種池小屋がすぐ下です。当然ながら、この時期はまだ夏道のトラバース道はトレースされておりませんでした。雪崩の危険が大きいからです。しばらく展望のパノラマから名残を惜しむと、いよいよ今回の北アルプス後立山山行も終りを迎えます。急な南尾根をゆっくりと下ってゆきます。ショウジョウバカマが一輪、雪の上に頭を出していました。 バス停におりたったらタクシーが待機しているではありませんか。ラッキーです。信濃大町まで四〇〇〇円也。松本からの特急はやはり大変な混み様で、時間待ちしてでも信濃大町から乗るべきでした。 トップへ 今日は、「北アルプス3」を訪問しました。明日は「北アルプス4」を訪れます。 -- 岬石 (2017-02-17 19 56 42) 了解しました。 -- inada (2022-04-14 20 04 12) 名前 コメント