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毎日新聞社「決定版昭和史 別巻1 日本植民地史」1985 p226 日本にとって植民地とは何であったか 初瀬龍平 日本にとって植民地とは何であったか植民地の獲得 植民地の経営 脱亜入欧の反省へ 植民地の獲得 戦前日本の領土には、「内地」と「外地」とがあった。内地とは、本土、沖縄、小笠原、千島のことであり、外地とは、台湾、朝鮮、南樺太、関東州、南洋諸島のことである。日本の植民地としては、日本領土であった上記の外地に加えて、領土ではなかったが、日本のカイライ国家であった満州国が挙げられる。 現在の私たちは、かつて日本の植民地がどこにあり、どのような統治をしていたか、を次第に忘れつつある。テレビで、中国残留孤児という四〇歳台の男女が肉親を探して来日するのをみて、涙する目本人は多い。しかし、そこから、かつての植民地政策を間い直そうというひとは少ない。 明治日本には、みずからが欧米の植民地になる危険があった。しかし、日本は西欧型の近代国家を打ち樹てることによって、その危険を回避しただけでなく、近隣地域をみずからの植民地とした。 台湾は、一八九五(明二十八)年日清戦争の勝利の結果、清国から獲得した 領土である。下関条約によって、台湾、澎湖(ほうこ)列島が日本の領土となった。その面積は、九州の八五パーセント程度の大きさである。住民は、原住の高山系台湾人(いわゆる高砂族)と、大陸からの移住者・漢族系台湾人とであった。人口は、一九三五(昭十)年に、高山族系が一五万人、漢族系が四八四万人であり、日本からの移住者は二七万人であった。なお、下関条約によって、遼東(りょうとう)半島も日本の領土となることになったが、ロシア、フランス、ドイツの三国干渉にあって、遼東半島は放棄還付(かんぶ)せねばならなかった。この遼東半島の重要な一部分が、十年後に関東州として領土となる。 朝鮮は、一九一〇(明四十三)年韓国併合条約によって、形式上も実質上も日本の領土となった。しかしすでに一九〇五年日露戦争の後に、第二次日韓協約によって、朝鮮は外交権を失い、統監府を置かれ、日本の保護国にされた。さらに一九〇七年の第三次日韓協約によって、朝鮮は、軍隊、警察を含む一切の内政権を日本に譲り渡した。この時点で、朝鮮は実質上完全に日本の植民地となっていた。併合条約は、形式上の総仕上げであった。朝鮮の面積は、日本の本州とほぼ同じ大きさである。人口は、一九一〇年で朝鮮人一三一三万人、日本人一七万人、一九四〇(昭十五)年で朝鮮人二三五五万人、日本人七一万人であった。朝鮮の場合、日本への移住者が多かった。在日朝鮮人は、一九二〇年三万人、一九三〇年三〇万人、一九四〇年一一九万人、一九四五年日本敗戦時に二一〇万人であった。なお、一九三九年以降百万人以上が、強制連行されていた。 南樺太は、一九〇五年日露戦争の勝利の結果、ロシアから獲得した領土である。ポーツマス条約によって、北緯五〇度以南の樺太が日本の領土となった。面積は、九州の八六パーセント程度の大きさである。人口は、一九四一(昭十六)年に日本人(アイヌを含む)三九万人、朝鮮人二万人で、オロッコなど少数原住者は総計五〇〇人以下であった。 関東州は、目露戦争の勝利の結果、ロシアから移譲された清国領の租借(そしゃく)地である。ポーツマス条約によって、旅順口、大連を含む遼東半島の尖端部分(関東州)の租借権と、東清鉄道南部線(族順口・長春間、一九○六年から南満州鉄道、いわゆる満鉄)と、同付属地行政権が、ロシアから日本に移譲され、その後の日清満州条約によって清国から承認されている。関東州は奈良県程度の大きさであるが、満州への出入口として重要であった。満鉄は、鉄道であるだけでなく、企業経営(炭鉱、製鉄など)、付属地行政、沿線駐兵権(満州独立守備隊)、領事裁判権によって、バツクアツプされていて、独立国的であった。 この意味で、満鉄付属地を植民地とみることもできよう。関東州の住民は、一九四〇年で、中国人一一八万人、日本人二〇万人であった。 南洋諸島は、第一次世界大戦に際して、日本が一九一四(大三)年に対独参戦をして、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領し、一九一九年のパリ講和会議で国際連盟下の日本の委任統治領として承認されたものである。南洋諸島は、グアム島(米国領)を除くマリアナ、マーシャル、カロリンの三群島を総称したものである。そこには、マリアナ群島のサイパン、テニアン、マーシャル群島のヤルート、ビキニ、カロリン群島のパラオ、ヤツプ、トラツク、ポナペなどの島々が含まれていた。南洋諸島の総面積は、琉球諸島全域よりやや少なく、一番大きい島でも、淡路島の三分の二程度しかないが、その千四百余の島々は、アメリカ本土大の海域分散している。人口は一九二二(大十一)年で総数五万人で、原住者のカナカ人、チャモロ人が四万八○○○人、日本人三〇〇〇人であったのが、一九三五年には、日本移住者の方が、原住者の数をこえ、一九四三年には日本人(朝鮮人を含む)九万七〇〇〇人、原住者五万三〇〇〇人となっていた。 近年ベラウ(パラオ)共和国の非核憲法が有名となり、日本のテレビの現地取材も行われている。このときパラオの人々が、上手な日本語で、テレビのインタビューに応答しているのをみて、「あれ!? どうしてこの人たちは日本語を語すのか?」と首をかしげた日本の視聴者も多かったようである。 べルサイユ条約では、日本がドイツの旧山東権益(膠州(こうしゅう)湾租借地と山東鉄道)を引き継ぐことが、承認されたが、中国の民衆はこれに強硬に反対した。結局一九二二年のワシントン会議で、日本はこれを放棄した。もしも中国の強硬な反対がなかったならば、山東半島は遼東半島と同じく、日本の植民地となっていたであろう。 最後に満州であるが、関東軍(本来は関東州租借地及び満鉄沿線の警備軍)が一九三一(昭六)年九月、いわゆる満州事変(満州侵略の謀略)を引き起こして満州を占領すると、清朝の廃帝(宣統帝)・溥儀(プーイー)を引き出し、これを執政として一九三二年三月カイライ国家.満州国を樹立したものである(二年後に帝政)。満州国は名目上は独立国であるが、国防、治安維持は日本軍に委任するなど、実質上は日本人官吏によって完全に支配されていた。その最高権力者は、一九三三年以降、駐満大使及び関東州長官を兼務する関東軍司令官であった。満州の面積は日本本土の三倍以上であった。 人口はそもそも四〇〇〇万人台であったが、そこに多いときには、一〇〇万人以上の日本人が満鉄職員、満州国官吏、軍隊などで移り住んでいた。農業移民一〇〇万戸移住計画があったが、結局農業移民は三三万人程度に終わった。その半数程度が、敗戦の混乱のなかで死んでいる。なお満州には、日本人以上に多くの朝鮮人が移り住んでいた。 日本の植民地の総面積は、外地約三○万平方キロメートル、満州国約二二〇万平方キロメートルであり、これに対し本土の面積は約三八万平方キロメートルであった。日本は、広大な植民帝国であった。 以上に挙げた以外に、一九三一年以後十五年戦争(日中戦争から太平洋戦争へ)の時期に、日本は中国本部の一部や、東南アジア(インドシナ、タイ、マレー、ビルマ、インドネシア、フィリピン)を占領したが、これらの地域の支配は軍政の段階で終わっていた。 植民地の経営 明治日本は、植民地を保有することを夢みていたが、台湾を領有したとき、植民地経営策をもちあわせていなかった。植民地を保有したのは、いわば国際政治上のステータス・シンボルとしてであり、領土の拡大自体が何よりも好ましいと考えていたからである。しかしいったん植民地を領有すれば、これを経営していかねばならない。そのときのモデルは、明治国家に求める他はなかった。財政上の余力をもたない日本は、植民地税収の安定を必要とし、農業地域では、これを地租の増加に求めねばならなかった。そのために、土地調査と、米作など農業振興を強烈に進めねばならなかった。台湾では、これに加えて砂糖業を育成した。植民地の人びとの抵抗、反乱を押え込んで治安を維持するために、本国にならって、警察網を村落の駐在所という型で拡大していった。巡査は、警察業務以外に、土地調査、戸口調査、農業振興、公衆衛生、徴税、社会基盤整備など一般行政業務を受け持ち、それを通じても土地の人びとを監視した。台湾では、保甲(ほこう)制度という隣人監視制度が利用されたが、これにも巡査が関与していた。農業振興と警察国家の台湾モデルは、朝鮮をはじめ他の植民地にも応用されていった。 植民地官制をみると、朝鮮総督府、台湾総督府、関東都督(ととく)府(一九一九年関東庁と関東軍司令部とに分離)、南洋庁、樺太庁(一九四三年内地編入)となっていた。一番権限の強いのが朝鮮総督府、一番弱いのが樺太庁であった。朝鮮総督は、天皇に直隷(ちょくれい)し、陸海軍大将がこれに任命された。一九一九(大八)年の改正で、文官総督が可能となったが、最後まで武官総督が任命された。朝鮮総督には、法律的効力の制令を発する権限があった。朝鮮総督の権限が、日本政府から独立していたのは、日本が朝鮮支配を最も重要であるとみたからである。最後まで武官総督であったのは、治安が確立しなかったからである。台湾総督は、はじめ陸海軍大将、中将であったが、一九一九年に文官総督となり、再び一九三六(昭十一)年以降海軍武官が任命された。台湾総督が文官に替わることができたのは、治安が一応確立したからである。再び武官総督に戻ったとき、海軍武官であったのは、南進基地台湾という情勢の変化があったからである。台湾総督にも、法律相当の律令を発する権限があった。関東都督は、陸軍大、中将であった。都督府は、一九一九年に関東軍司令部と、民政の関東庁に分かれた。 さらに一九三四(昭九)年に、関東州は存続していたが、関東庁は廃止され、在満大使館に関東局が設置された。関東軍司令官が、在満大使と、関東州の業務監督を兼務した。関東州の官制には、つねに満州の軍事支配の基地としての性格が濃厚である。樺太庁は、初期の軍政を除いて、軍事的でなかった。南洋庁の場合は、太平洋戦争期に軍事色となり、戦闘場面となってしまったが、その統治は、むしろ日本人の多い移住植民地として安定していた。 日本は、関東州を除いて、同化政策をすすめた。しかし、植民地の人びとは、「日本臣民」どして、ひとしく明治憲法(大日本帝国憲法)の遭用を受けてはいなかった。まず関東州は租借地、南洋諸島は委任統治地域であるからとして、憲法の適用は間題外とされた。 朝鮮、台湾では、皇民化運動、一視同仁(いっしどうじん)、創氏改名(そうしかいめい)、日本語強要などによって、同化政策をすすめながらも、他方では、憲法を全面適用することで、参政権、地方自治権などを朝鮮人、台湾人に与えて、両地の独立運動を助長することを、日本の官民ともにおそれていた。憲法も、参政権も、地方選挙権もとりあげられている植民地の人びとは、「日本臣民」ではなかつた。 裁判所も、樺太を除いては、朝鮮総督府裁判所、台湾総督府裁判所、関東法院、南洋庁法院として別建てであった。一九〇九年十月、当時日本の「保護国」であった朝鮮人の安重根(アンジュングン)が、前韓国統監伊藤博文(いとうひろぷみ)を北満州のハルビン駅構内で狙撃(そげき)、殺害したが、この場合、その身柄は清国における日本の領事裁判権によって、日本の領事館に移され、旅順の関東・地方法院で「帝国刑法」によって死刑判決となった。被告は高等法院に控訴せず、死刑が執行されている。この例にもみられるように、植民地の裁判所は、独立運動、抵抗運動の弾圧機関でもあった。 農業振興に戻ると、台湾では、米作と砂糖業が順調に成長した。朝鮮でも、台湾ほどではないが、米作が一定の伸びを示した。これらの米や砂糖は、日本本土に輸出された。一九三〇年代後半には、本土の砂糖輸入の九割以上が台湾からであり、米の輸入のほとんど全部が朝鮮と台湾からであった。しかし朝鮮人と台湾人の食糧事情は、悪化していった。一人当たり産米消費量(年平均)は、朝鮮人の場合、一九一一~一二年に一〇〇キログラム、一九三七~三八年に七五キログラム詣と減り、台湾の場合でも同じ時期に、一三〇キログラムから一〇〇キログラムに減少している。不足分は、台湾ではいも類、朝鮮では粟・麦などで補った。台湾でも、台湾人用の外米を輸入したし、朝鮮は外米と粟などの雑穀を輸入した。農業振興によって、米の生産が増えたが、現地の人びとの食べる米は減っていた。食糧生産は増えたが、しかし食物は減った。土地所有でも、次第に日本人地主が増えていた。 日中戦争から太平洋戦争にかけて、戦時経済化していくと、植民地収奪、労働力徴用(強制連行、志願兵、徴兵を含む)の仕方が変わるが、これを論じる紙幅の余裕はない。 脱亜入欧の反省へ 日本の植民地は、もともと経済的関心から出発したのでなく、国家的威信とか、軍事戦略上の配慮とかから、獲得されたものである。しかし植民地を領有、経営しはじめると、植民地は必然的に日本の近代化のための後背地として位置づけられ、経済的に露骨な収奪が行われた。それと同時に、日本の植民地領有には、つねに戦略的配慮が隠されており、その点でいっそうの安全を求めて、植民地を限りなく拡大していくモメントが働いていた。 ふりかえってみると、明治日本が西欧の大国をモデルとする近代化の思想を採用したとき、その思想には植民地の思想が含まれていた。「脱亜論(だつあろん)」の代表者・福沢諭吉(ふくざわゆさち)は、植民地論者であった。新一万円札の福沢諭吉は、明治時代の啓蒙(けいもう)思想家として知られ、「天は人の上に人を造(つく)らず、人の下に人を造らず」という言葉は、有名である。しかし、福沢は、この言葉を対外関係に適用しようとはしなかった。 福沢は、一八八五(明十八)年に「脱亜論」と題する小論を書き、そのなかで「今日の謀(はかりごと)を為(な)すに、我国は隣国の開明を待(まち)て共に亜細亜を興すの猶予ある可からず、寧(むし)ろ其伍(そのご)を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其支那朝鮮に接するの法も、隣国なるが故にとて特別の会釈(えしゃく)に及ばず、正に西洋人が之に接するの風(ふう)に従て処分す可きのみ」と主張した。それは、近来ヨーロッパ諸国がアジアの諸地域に侵略し、これを植民地としてきているのと同様に、日本も中国、朝鮮を支配するようになれ、という主張である。 福沢は、幕末に都合三回も欧米に洋行しているが、二度めの一八六二(文久二)年にヨーロッパを訪れたときに、その往復路でヨーロッパ諸国のアジア侵略の状況を目撃した。彼は、イギリス人がインド、香港の人びとを傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に苦しめているのをみて、次のように決心した。「印度支那の人民が斯(か)く英人に窘(くるし)めらるヽは苦しきことならんが、英人が威権を擅(ほしいまま)にするは又甚(はなは)だ愉快なることならんとて、一方を憐(あわれ)むの傍(かたわ)らに又一方を羨(うらや)み、吾(わ)れも日本人なり、何(いず)れの時か一度は日本の国威を耀(かがや)かして、印度支那の土人等を御すること英人に倣(なら)ふのみならず、其英人をも窘(くるし)めて、東洋の権柄(けんぺい)を我一手に握らん」。この決心は、植民地論者への決心である。 植民地の目標は、意外にも早く実現した。一八九五(明二十八)年、日清戦争の勝利によって、台湾は日本の領土となった。このとき、福沢は、台湾統治の方針について「島民の如きは眼中に置かず」に、「無知蒙味(むちもうまい)の蛮民をば悉(ことごと)く境外に逐(お)ひ払ふて殖産(しよくさん)上一切の権力を日本人の手に握り、其全土を挙げて断然日本化せしむる方針」を主張した。このように、脱亜論者は植民地論者であった。 朝鮮、中国において、福沢の評判は必ずしも芳(かんば)しいものではない。それ以上に評判が悪いのは、旧一千円札の伊藤博文である。一九〇五(明三十八)年、日本が朝鮮を保護国としたとき、伊藤は初代統監として京城に乗り込み、一九一〇年の完全併合に向けてお膳立てをした人物である。朝鮮では、この伊藤を一九〇九年にハルビン駅で殺害した安重根の方が、「義士」なのである。 旧一千円札の伊藤、新一万円札の福沢に代表されるように、近代日本を創った政治家、思相家は、ほとんどのひとが脱亜入欧論者であり、植民地論者であった。植民地にされた方の人びとからみれば、伊藤や福沢を今回も紙幣の肖像画に使っている日本人の良識を疑い、日本人は相も変わらず脱亜論者であり、植民地論者であるとみえるのではなかろうか。講の肖像画が紙幣に選ばれるかについては、暗黙ではあるが、日本国民の合意があるからである。 戦後、日本は、旧植民地との関係を正しく解決していない。朝鮮は、大韓民国とのみ接触し、朝鮮民主主義人民共和国を敵視、無視してきた。中国も、長い間台湾の国民党政府を支持し、中華人民共和国を敵視していた。旧南洋諸島の関係でも、賠償はすっきりとしていないし、日本の核廃棄物を南太平洋に放棄する計画を現地の人びとの反対にもかかわらず、放棄できないでいる。旧植民地の被爆者にも、旧日本軍人・軍属にも補償しようとしない。在日韓国・朝鮮人(七〇万人)を国籍、在留資格、就職、生活保障、人権などの問題で優遇するどころか、むしろ差別をしている。外国人登録の指紋押捺(おうなつ)に在日外国人から強い抗議の声が起こっている。ごく最近にも、長野県が一九八五年度教諭に在日韓国人を採用内定したのに、これに文部省が圧力をかけて内定を取り消させている。 世界的には、植民地時代は終わっている。香港も中国に返ろうとしている。私たちも、注意深く植民地主義の残りかすを消していかねばならない。一九四五(昭二十)年八月六日、南洋諸島のテニアン島から、原爆搭載の米B29爆撃機が、広島に向けて発進した。八月九日、ソ連軍が満州に侵攻したが、このとき関東軍は壊滅した。内地でも外地でも植民地のつけが、日本人の大衆に回ってきたのである。 (神戸大学教授) 台湾の歴史・日台関係史
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Template 朝鮮の事物? 朝鮮銀行(ちょうせんぎんこう、朝鮮語:Template lang?)は、日本の特殊銀行の一つである。略称は鮮銀(せんぎん)。 前身 近代金融制度の基盤がないまま欧米や日本の資本主義の影響を受けた李氏朝鮮では、1884年以後日本の第一銀行韓国総支店(1878年設立)に関税収入の管理を委託し、やがてそれを担保にして同銀行からの融資を受けるようになった。1902年以降大韓帝国(李氏朝鮮が改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行化した。 第一次日韓協約により目賀田種太郎が韓国の財務顧問につくと、民間銀行に過ぎない第一銀行が外国の中央銀行業務を行っている事を問題視して韓国統監伊藤博文との相談した結果、日韓併合直前の1909年に大韓帝国政府、日本皇室、韓国皇室および個人から資本金により設立された韓国銀行条例(韓国法)に基づく中央銀行・韓国銀行が設立されて、第一銀行から中央銀行業務を取り上げた。その韓国銀行は併合後の1911年には朝鮮銀行法(日本法)に基づく特殊銀行として朝鮮銀行と改称された。 なお、日韓併合時に、日本銀行券を朝鮮にも流通させようという意見が有力であったが、元老で財政通として知られていた松方正義が、「朝鮮経済の不安定さがそのまま内地に影響するのはまずい」との見解を示したことから朝鮮銀行券を発行することになったという。 業務 朝鮮銀行は日本政府から保護を受けて、朝鮮銀行券を発行して金貨・銀貨・日本銀行券との兌換が保障されていた。民間の普通銀行と同じような融資・手形割引などの業務も行ない、朝鮮総督府に対する資金の貸付も行った。だが、密かに日本国内企業への貸付も行って、朝鮮における産業育成という設立当初の目的から逸脱した行動をするようになり、第一次世界大戦終結後に長く続いた不況で融資の焦げ付きが明るみに出た。これに激怒した日本政府は1924年に監督権を朝鮮総督から大蔵大臣に移して、日本銀行からの緊急融資を受けて事態を乗り切った。 一方、日本軍とともに占領地へ進出したため朝鮮以外に内地及び満州、中国北部及びシベリアに支店等を持った。後に満州に関しては満州国と折半で満州興業銀行を設置して業務を譲渡している。1938年には華北を中心に中国聯合準備銀行が創設され相互に架空の預金を持ち合ったことにして大量に軍事用の通貨を発行し満州の軍閥の発行した通貨の整理を図った。だが、戦局の拡大とともに戦火を直接受けなかった朝鮮半島では、景気が上向いて朝鮮銀行の経営状態も改善されて1943年には不良債権の一掃を果たした。 戦後 right|250px|thumb|現在は韓国銀行貨幣金融博物館となっている[[ソウル特別市|ソウルの旧朝鮮銀行本館]] 第二次世界大戦後閉鎖機関に指定され解散した。朝鮮にあった資産は米ソ両軍政府が接収し、のちにその一部は大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国の中央銀行である韓国銀行・朝鮮中央銀行に払い下げされた。また日本国内の残余資産により設立された銀行が日本不動産銀行(後の日本債券信用銀行(日債銀)、現:あおぞら銀行)である。 朝鮮の資産は、未だ閉鎖機関朝鮮銀行の資産であり、接収解除後に、財務大臣が清算人を選任し、朝鮮銀行法により清算を行う。 なお、戦後に在日朝鮮人によって設立された朝銀信用組合・在日韓国人によって設立された商銀信用組合(いずれも信用組合)との関係性は無い。 発行紙幣 第一銀行期 1902年(明治35年)制定(同年5月31日、大蔵省に提出)の「株式会社第一銀行券規則」に基づいて発行。 旧10円券(1902年12月20日発行)、旧5円券(1902年8月20日発行)、旧1円券(1902年5月20日発行) ※ 日本語で「券面の金額は在韓国各支店に於て日本通貨と引替可申候也」の記載あり。 ※ 図案はいずれも渋沢栄一。 1903年(明治36年)改正(同年6月8日、大蔵省に提出)の「株式会社第一銀行券規則」に基づいて発行。 新10円券(1904年9月1日発行)、新5円券(1904年9月1日発行)、新1円券(1904年9月1日発行)、50銭券(1904年6月発行)、20銭券(1904年6月発行)、10銭券(1904年6月発行) ※ 日本語で「券面の金額は在韓国各支店に於て日本通貨と引替可申候也」の記載あり。 ※ 図案は10円券・5円券・1円券が渋沢栄一、50銭券・20銭券・10銭券が鳳凰と竜。 ※ 50銭券・20銭券・10銭券は、1912年3月31日限りで通用禁止。 ※ 100円券・50円券の発行も計画されたが、実現しなかった。 1905年(明治38年、光武9年)勅令第73号「株式会社第一銀行ノ韓国ニ於ケル業務ニ関スル件」に基づいて発行。 改造10円券(1909年1月4日発行)、改造5円券(1909年7月1日発行)、改造1円券(1908年8月1日発行) ※ 「大韓国金庫 株式会社第一銀行」との記載があり、急速に普及した。 ※ 「光武九年一月大韓国政府の公認に依りて公私去来に無制限で通用す」(各券共通、朝鮮語)、「明治三十八年勅令第七十三号に依り発行するもの也」(1円券、日本語)、「券面の金額は在韓国各支店に於て日本通貨と引替可申候也」(各券共通、日・朝両語)の記載あり。 ※ 図案は10円券が昌徳宮宙合楼、5円券が景福宮光化門、1円券が水原華城華虹門。 韓国銀行期 1909年(明治42年、隆熙3年)韓国法律第22号「韓国銀行条例」に基づいて発行。 10円券(1911年8月1日発行)、5円券(1911年8月1日発行)、1円券(1910年12月21日発行) ※ 朝鮮語で「隆熙三年七月法律第二十二号韓国銀行条例を遵奉して発行す」、「此券と相換で金貨或は日本銀行兌換券にて金○円を出給す」の記載あり。 ※ 図案は第一銀行の改造券の各券種と同じ。 朝鮮銀行期 1911年(明治44年)法律第48号「朝鮮銀行法」(同年8月15日施行)に基づいて発行。 100円券(1914年9月1日発行、図案は大黒天)、10円券(1915年11月1日発行、寿老人)、5円券(1915年11月1日発行、寿老人)、1円券(1915年1月4日発行、寿老人) ※ 日本語で「明治四十四年三月法律第四十八号朝鮮銀行法ヲ遵法シテ発行スルモノ也」、「此券引換に金貨又は日本銀行兌換券○円相渡可申候也」の記載あり。 ※ 寿老人の肖像は朝鮮の政治家・思想家である金允植をモデルとしたものといわれている。 改造100円券(1938年12月1日発行)、改造10円券(1932年6月1日発行)、改造5円(1935年6月1日発行)、改造1円(1932年1月4日発行) ※ 図案はすべて寿老人。 1942年(昭和17年)法律第67号「日本銀行法」に基づく内地での不換紙幣発行に関連して発行(記号・番号あり)。 甲100円券(1944年11月1日発行)、甲10円券(1944年2月1日発行)、甲5円券(1944年2月1日発行) ※ 日本語で「此券引換に日本銀行券○円相渡可申候也」の記載あり。 ※ 図案はすべて寿老人。 記号のみで番号が省略された紙幣の発行(1944年以降)。 甲10円券(1944年5月10日、11月15日(漉かし変更)発行)、甲5円券(1945年2月15日発行)、改造1円券(1944年10月15日発行) ※ 図案はすべて寿老人。 太平洋戦争終戦(1945年8月15日)直後の発行(番号なし)。 乙100円券(1945年9月1日発行)、乙10円券(1945年12月10日発行)、乙1円券(1945年10月10日発行) ※ 図案はすべて寿老人。 ※ 1000円券の発行も予定された(1945年9月1日、図案は寿老人)が、中止された。また、台湾銀行と同様に、日本銀行券の甲1000円券(図案は日本武尊)に「朝鮮銀行券」と加刷した1000円券の発行も予定された(発行予定日は不明)が、中止された。 参考文献 多田井喜生『朝鮮銀行 ある円通貨圏の興亡』(PHP新書、2002年) ISBN 4569620256 関連事項 台湾銀行 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月23日 (日) 16 55。
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【信濃毎日新聞】 「このところ韓国から投資資金を引き揚げる傾向がみられる。危機に備えて日韓が連携を強めていく必要がある」 1 名前: 有明省吾 ◆BAKA1DJoEI @有明省吾ρ ★ 投稿日: 2011/10/20(木) 11 12 40.49 ID ???0 ?PLT(12066) 野田佳彦首相が韓国を訪れ、李明博大統領と会談した。9月のニューヨークに続いて2度目になる。 今回は野田首相がソウルを訪問し、大統領に早期訪日を招請した。野田外交が日韓関係を重視していることをアピールした格好だ。 歴史問題に加え領土問題が常に横たわる日韓関係である。互いの立場を尊重しながら良好な関係を築いていくためには、首脳同士の信頼関係が欠かせない。 会談のテーマの一つは、直面する経済問題だった。 とくに、欧州発の金融不安では、通貨を融通し合う枠を現行の130億ドルから700億ドルとすることで合意した。 このところ韓国から投資資金を引き揚げる傾向がみられる。危機に備えて両国が連携を強めていく必要がある。 懸案の日韓の経済連携協定(EPA)締結交渉については、早期再開を目指して実務協議を加速させるとした。 2003年末に始まった交渉だが、農業分野の対立などから中断した経緯がある。これからも紆余(うよ)曲折が予想されるが、 経済を軸にした日韓の協力態勢がアジアの安定にもつながる。双方に利益となる方向を目指し、粘り強く合意点を探る足掛かりとしたい。 もう一つは歴史問題だ。 野田首相は「朝鮮王室儀軌」など朝鮮半島に由来する図書5冊を李大統領に引き渡した。 植民地時代に朝鮮総督府を経由して日本に渡り、そのまま政府が保管している図書である。 昨年の日韓併合100年に際して菅直人前首相が引き渡しを表明し、1205冊の返還を明記した日韓図書協定が発効している。 首相が返したのは、その一部である。残りは大統領の早期訪日を実現し、返還する意向とみられる。( 2-3へ続く) 信濃毎日新聞 10月20日(木) http //www.shinmai.co.jp/news/20111020/KT111019ETI090007000.html 関連スレッド 【政治】 野田首相「いいアドバイスいっぱいもらった」 ~菅氏、野田首相にエール"大変いい形でここまで進んでいるな" http //raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1319042890/ 2 名前: 有明省吾ρ ★ 投稿日: 2011/10/20(木) 11 12 52.00 ID ???0 ?PLT(12066) 1(の続き) 菅前政権にはさまざまな批判があるが、歴史認識の面で政権交代の意義を示した点は評価できる。 野田首相にとって、国連総会を別にすれば、韓国が初の訪問先である。前政権からの流れを受けた選択と受け止めたい。 韓国内には慰安婦問題などがいまもくすぶる。一つ一つの問題に丁寧に対処していかないと、たちまち関係が悪化するもろさを抱えている。 李大統領は「互いが頻繁に行き来すれば、どんな課題も乗り越えられる」と述べた。 今回の会談を機に、両首脳が「シャトル外交」を活発にし、信頼関係を築いていくことが大事になる。一日も早い大統領の訪日を望む。(引用終了) 信濃毎日新聞 10月20日(木) http //www.shinmai.co.jp/news/20111020/KT111019ETI090007000.html
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な行他ページ な に ぬ ね の ノーシル・ノーヘッダ【のーしるのーへっだ】 のぞみ【のぞみ】 能登かわいいよ能登【のとかわいいよのと】 野間【のま】 乗りデーパス【のりでーぱす】 乗り鉄【のりてつ】 ノリホ【のりほ】 ノローツク【のろーつく】 ノーシル・ノーヘッダ【のーしるのーへっだ】 車体製造技術の進歩により、ウインドシル・ウインドヘッダが廃止された構造のこと。 またその構造を持つ車輌のこと。 日本では、昭和10年代に、モハ52やオハ35などで試験的に採用が始まったが、その後の戦争長期化による工数の簡素化・材料不足などが影響し、いったんは姿を消した。 その後、外板の溶接だけではなく、軽量化と併せた新技術のもとふたたび採用が始まり、以後一般的となった。 私鉄では昭和28年の営団丸ノ内線電車、近鉄2250系、29年の阪神3011系など、国鉄でも昭和30年のナハ10系客車、31年の72系電車920番台、32年の80系・70系の300番台などから本格的に採用されている。 のぞみ【のぞみ】 amazonで購入 戦前の朝鮮総督府鉄道局(鮮鉄)の急行列車。(釜山~新京間) 東海道・山陽新幹線の愛称。JR東海の象徴にして、火災人民共和国の悪の中枢扱いされている。 能登かわいいよ能登【のとかわいいよのと】 一般には2ch内で、声優の能登麻美子を形容する言葉として発生、定着した表現。 鉄板では同名の急行「能登」になぞらえ、同列車を形容する表現として使われるほか、 特に話題の関連をもたない単発レスとして、感嘆詞・独立詞のように使われる。 また、「能登」を別の名称・単語に置き換えた表現が派生語として多数存在する。 野間【のま】 愛知県に所在する名古屋鉄道(名鉄)知多新線にある駅のこと。 O-ZONE「DRAGOSTEA DIN TEI(菩提樹の下の恋)(恋のマイヤヒ)」の以下の空耳Flashによって一躍有名になった。 このFlashには他に名鉄3100系もしくは3700系、上野間、摂津富田、沼津の駅名板が登場する。 http //www.mooncat.ne.jp/blog/archives/funny/maiahi.swf 乗りデーパス【のりでーぱす】 ホリデーパス(JR東日本を中心に発行している乗り放題の切符)のこと、乗り放題+ホリデーパスで乗りデーパス。 乗り放題を強調している名誉的な名称である。 乗り鉄【のりてつ】 amazonで購入 鉄道(列車)に乗って旅行すること及びこれを趣味とする人のこと。 2ちゃんねる以外でも広く使われる鉄道用語であり、類義語に「旅鉄」「鉄道紀行」「汽車旅」などがある。 乗り鉄と言ってもその熱意の度合いによって様々であり、青春18きっぷなどの割安な切符を利用する目的や、駅弁を購入する目的で、他の交通機関より鉄道を多めに利用する旅のスタイルを実行する者もいれば、全線完乗を目指し乗り鉄する者や、全国の全ての駅の乗降を目指し乗り鉄するツワモノもいる。 →青春18きっぷ →完乗 →宮脇俊三 →種村直樹 ノリホ【のりほ】 正式名称は旅客列車乗車人員報告書。車掌がその乗務列車の乗車人数を調査した結果を記入する報告書のこと。 語源は「乗り」「報」から。この記載した報告書をホームに設置されたノリホ入れに入れ、駅に報告する。 ノローツク【のろーつく】 →オソーツク
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美川秀信:「いだてん~オリムピック噺~」 史実での「美川秀信」 美川秀信の史料・文献金栗四三 伝記『走れ二十五万キロ』 熊本県南関町在住の「美川秀信さんの親族」 インターネット上に散在する「美川秀信の足跡」■1910年:明治43年 ■1911年:明治44年 ■1912年:明治45年 ■1915年:大正4年 ■1916年:大正5年及び1917年:大正6年 ■1918年:大正7年 ■1919年:大正8年から1921年:大正10年 ■1922年:大正11年 ■1923年:大正12年 ■1924年:大正13年 関連人物 関連項目 登録タグ 美川秀信:「いだてん~オリムピック噺~」 演:勝地涼 主人公・金栗四三の同郷の友人。 彼の誘いで四三は「東京高等師範学校」へ入学する事になる。 ところが当の美川は、東京高師で落第生の烙印を押され、遊女「小梅」に入れあげた挙げ句、東京高師からいつの間にやらいなくなり、 寄席やら駆け落ちやらカフェーやら満州やらと、ありとあらゆる状況と場所で四三や美濃部孝蔵その他諸々の人たちの前に出没し、 出るたびに何かをやらかしては登場人物と「いだてん」クラスタをお騒がせし、 逆に出ないとあっては「なんで出ない??」「どこ行った美川??」「美川を探せ!!」と大騒ぎとなり、 「いだてん」随一のネタキャラとして愛された。 あ、愛され………?!? うん、愛され。 美川秀信 (みかわひでのぶ)とは【ピクシブ百科事典】 史実での「美川秀信」 そしてこの美川秀信。 実在した「金栗四三の幼馴染みの友人」が基になって出来た登場人物である。 金栗四三が伝記制作の折りに「美川秀信の思い出話」を語った事から史料に残り、 日本で、いや世界で最も過酷な駅伝と言われる「富士登山駅伝」の誕生に関わった人物であるにも関わらず、 富士登山駅伝 - Wikipedia 長らく「謎の人物」とされてきていた、のだが。 美川秀信の史料・文献 金栗四三 伝記『走れ二十五万キロ』 美川秀信の事が金栗四三から語られたのは、伝記である『走れ二十五万キロ』においてである。 走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝 復刻版(第2版) - 熊日出版 走れ二十五万キロ マラソンの父 金栗四三伝 復刻版(第2版) 熊本日日新聞社:Amazon 概略するとこんな感じ。 二人は玉名中学校の同級生だった。 共に東京高師に入学し、上京。 夏休みの帰郷の際、富士登山に挑戦したが途中で断念した。 美川は「俺は教師になんかなりたくない」と言いだし始め、徐々に授業にも出なくなった。 そして金栗四三が本科一学年(二年生)に進級した頃には、美川は東京高師から姿を消していた。 その後、金栗四三は美川秀信の消息を訪ねる事は無かったので、その後、美川がどうなったのか、金栗四三が知ることは無かった。 そして金栗四三は、 美川がいなくなって寂しくなった。 なんとしても東京高師に留まらせておけばよかった。 と回想していた。 ところが。 熊本県南関町在住の「美川秀信さんの親族」 「いだてん」制作の取材過程で、ドキュメンタリー番組「ファミリーヒストリー」スタッフから「遺族や親族の探し方のノウハウ」を聞いて、それを実行した結果、 『いだてん』取材担当・渡辺直樹インタビュー 前人未到の大河ドラマ『いだてん』はいかにして作られたのか 取材担当者が明かす、完成までの過程|Real Sound| ファミリーヒストリー - Wikipedia 熊本にいた、美川秀信の親族が見つかった。 そして美川秀信役の勝地涼が親族の方たちと面会したり、 「いだてん」勝地涼が語る“ストレイシープ”な美川の気持ち「コミカルだからこそ切ない」<前編> | ザテレビジョン 「中村勘九郎さんとは絶対に一緒にやりたかった。幼なじみ役で出演できてうれしいです」勝地涼(美川秀信)【「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」インタビュー】 | エンタメOVO 勝地涼、『いだてん』で“全髪クネ男”好演!「金栗氏~」の一言で印象付け | マイナビニュース 熊本県南関市のローカル誌に「実際の美川秀信に関する特集記事」が掲載された。 しっとんね vol.27 | kumamoto ebooks | 「勝地涼さん演じる『美川秀信』は南関の人」(1) 「勝地涼さん演じる『美川秀信』は南関の人」(2) インターネット上に散在する「美川秀信の足跡」 そして現在、日本や韓国(!!)のあちらこちらのインターネットデータベースで「美川秀信の足跡」を確認し、辿る事が出来る。 ネット時代、すげえ。 以下、判明した「美川秀信の足跡」を年代順に記述していく。 ■1910年:明治43年 金栗四三と共に「東京高等師範学校」に入学。 東京高等師範学校一覧. 明治43年4月-44年3月 - 国立国会図書館デジタルコレクション 東京高等師範学校一覧. 明治43年4月-44年3月 - 国立国会図書館デジタルコレクション 美川秀信さん、実際には「数物化学部」で理系だったんですね。 (「いだてん」では「国語漢文科」設定です) ■1911年:明治44年 美川秀信、東京高師からいなくなる。 東京高等師範学校一覧. 明治44年4月-45年3月 - 国立国会図書館デジタルコレクション ところが。 ■1912年:明治45年 美川秀信、農商務省管轄の「水産講習所 製造科」に入学する。 官報. 1912年07月16日:彙報 / 入學許可 水産講習所(農商務省) - 国立国会図書館デジタルコレクション ちなみにこの「水産講習所」とは、後の「東洋海洋大学」に連なる学校となる。 水産講習所 - Wikipedia 沿革:東京海洋大学 ■1915年:大正4年 美川秀信、「水産講習所」を卒業する。 官報. 1915年10月22日:彙報 / 卒業證書授與 水産講習所(農商務省) - 国立国会図書館デジタルコレクション そして美川秀信の「水産講習所」への入学許可が、官報にて公示された1912年7月16日の前日は、 金栗四三がストックホルムオリンピックのマラソンに出場し熱射病で昏倒、目覚めた翌日の1912年(明治45年)7月15日に当たる。 金栗四三 - Wikipedia なにこの偶然。いったいどういうことなんです?? ■1916年:大正5年及び1917年:大正6年 「水産講習所 助手」を務める。 水産講習所一覧. 自大正4年至5年 - 国立国会図書館デジタルコレクション 水産講習所一覧. 自大正5年至6年 - 国立国会図書館デジタルコレクション ■1918年:大正7年 「日本醸造株式会社」在籍。 水産講習所一覧. 自大正6年至7年 - 国立国会図書館デジタルコレクション ■1919年:大正8年から1921年:大正10年 「中村水産研究所」在籍。 水産講習所一覧. 自大正7年至8年 - 国立国会図書館デジタルコレクション 水産講習所一覧. 大正9年 - 国立国会図書館デジタルコレクション しかもこの史料には「在 青島」の文字が。 水産講習所一覧. 大正10年 - 国立国会図書館デジタルコレクション 青島?!って、もしかしなくても中国の?!?www 美川秀信さん、満州どころか中国に行ってたの?!? ■1922年:大正11年 「中華●業株式会社」技師(青島) 水産講習所一覧. 大正11年 - 国立国会図書館デジタルコレクション 美川秀信さん、まだ中国・青島にいらっしゃる模様。 なお「●」は「塩」の旧字の「鹽」だそうです。 お答えのTwitterツイート ということは「中華鹽(塩)業株式会社」ということになります。 ■1923年:大正12年 大正12年の『水産講習所一覧』が国会図書館デジタルに掲載されていない為、不明。 ■1924年:大正13年 「星製薬株式会社」所属。 水産講習所一覧. 自大正12年至13年 - 国立国会図書館デジタルコレクション 「星製薬株式会社」って、ここのことかな? SF作家の星新一のお父さんですか。 星製薬について 星製薬のあゆみ|星製薬株式会社 (とんでもなく長いので、少しずつ追記していきますー。) 関連人物 金栗四三 関連項目 東京高等師範学校 朝鮮総督府 登録タグ 東京高等師範学校 美川秀信 金栗四三 ↓↓イイネ!!はこちら ↓↓↓↓↓ 1940年:昭和15年1月11日。 美川秀信さんが日本統治下朝鮮総督府京畿道仁川府にて亡くなりました。 享年49でした。 National Library Media Integrated Viewer Service
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元朝鮮人女子勤労挺身隊員に対する損害賠償等請求控訴事件・控訴人準備書面(1) ソース:http //www.geocities.jp/teisintainagoya/kouso/kousokeika/zyunbi1.pdf 【小目次】 第8 朝鮮女子勤労挺身隊動員の特殊性1 朝鮮女子勤労挺身隊動員と他の朝鮮人戦時労働力動員とは 2 動員過程での欺罔や、動員後の劣悪な労働条件・・・ 3 戦後の被害の原因 第8 朝鮮女子勤労挺身隊動員の特殊性 1 朝鮮女子勤労挺身隊動員と他の朝鮮人戦時労働力動員とは 本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員と他の朝鮮人戦時労働力動員とはどのような共通点があり、どこに違いがあるのだろうか。 最大の違いは、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員が幼い少女であり、学校における皇民化教育の結果、自らを日本国家と一体化させることによって積極的に志願したことにある。 1910年の韓国併合以降、朝鮮は日本の植民地とされた。しかし、実際には朝鮮と日本は歴史、書籍、文化、社会構成などが違い、皇民化政策によっても一般の朝鮮人は朝鮮語を使い、朝鮮文化を保持していた。朝鮮人として戦時労働動員された大部分の人々も同様に朝鮮語で暮らし、食事、住宅、衣服も朝鮮式の伝統を守っていた。朝鮮人戦時労働動員者を集めて郡長などが動員について訓示、説明をするときも朝鮮語で行うか通訳をつけなければならない状況であった(山田・古庄・樋口『朝鮮人戦時労働動員』273頁)。 このような戦時労働動員された朝鮮人にとって、日本への戦時労働動員は 「自主的」「自発的」なものではなく、朝鮮の農村の経済的窮迫状況と戦時労働動員に向けての行政的圧力、皇民化政策による心理的圧力などにより、中には暴力的な強制によって、行われてきたものである。前述の戦時労働力動員に対する抵抗闘争の広がりが、一般民衆がどのように戦時労働力動員を受け止めていたかを表している。 これと比較して、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員は、学校を通じた「募集」に応じたもので、自ら積極的に志願したものもいる。しかし、そのことは、本件朝鮮女子勤労挺身隊の動員が自主的、自発的なものであったことを意味しない。控訴人らが語っているように、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員たちは、朝鮮における皇民化教育を受け、人格の形成期において日本に尽くすことこそ何より重要だと教えられ、それを文字通り信じていたものである。しかも、彼女達の親が日本へ行くことを知った際には、いずれも死に行くことだと言って 強く止めているのである。しかし、一旦、応募した控訴人らに撤回は認められず、親を刑務所に入れると脅され、日本に来たのである。ここには、皇民化教育によってマインド・コントロールされた姿と植民地支配の下での強権的支配が作用している。 2 動員過程での欺罔や、動員後の劣悪な労働条件・・・ しかも、動員過程での欺罔や、動員後の劣悪な労働条件、動員先での監禁状態、労働後の貸金未払いなどは他の朝鮮人戦時労働力動員と共通性を持っているのである。 つまり、表面上現れる本件の自発的応募は、皇民化教育によって洗脳された結果によるものであり、その年齢を考え併せれば、到底、真の意味での「自発的」でも「自主的」でもなかった。むしろ、人格自体に強く働きかけを受け、他民族である日本や日本人を強く信じ込まされ、自らの民族や国家を侵略され植民地とした日本政府の行為を正当な正義にかなったものと確信させられ、それに疑いをもたず協力させられたという点で、権力的な強制や暴力よりも一層深刻な働きかけであったということができ、そのことが今日まで続く、控訴人ら朝鮮女子勤労挺身隊員の精神的な苦痛につながっているのである。 結局、他の朝鮮人戦時労働動員と本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員は同様、日本政府と企業によって植民地権力を背景にして、民族差別を利用した労働動員であったのである。 3 戦後の被害の原因 以上のとおり、本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員は民族差別に基づいた動員である点で他の朝鮮人戦時労働動員と共通性を持つ。しかし、それにとどまらず控訴人らが日本に行けば学校に行ける、高い賃金ももらえるという点に強い憧れを抱いたように、当時の朝鮮において女性が置かれていた地位や賃金の劣悪さなど、民族差別のみでは語り尽くすことのできない性差別も一方にあった。しかも、軍慰安婦動員が軍と朝鮮総督府の関与の下大量に実施されたために生じた民衆の中の恐怖が、広範に使用された「挺身隊」という用語や「処女供 出」という言葉がもたらすイメージも相侯って、戦後には裏返しのように、控訴人ら日本から返ってきた女性に対する冷たい眼として作用したのである。 本件で戦後の朝鮮女子勤労挺身隊員たちが辿った悲惨な人生の被害を同一視被害と呼んでいるが、「誤認されたこと」や「混同されたこと」が被害だと主張しているのではない。むしろ、その結果、強いられた家族との関係の破壊や過去の体験を語れず、人目を忍ぶように生きなければならなかった戦後の悲惨な人生が、その悲惨さにおいて軍慰安婦とされた被害者と共通する被害であると主張しているのである。 indexへ
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2005年10月の強制捜査に関するニュース 【国際】朝鮮総連関連財団の全国11ヶ所を家宅捜索 薬事法違反、財団幹部ら逮捕へ http //news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1129262942/ 【国際】朝鮮総連関連財団の全国11ヶ所を家宅捜索 薬事法違反、財団幹部ら逮捕へ★2 http //news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1129269253/ 【社会】「いろいろな事実が明らかになるかも」 "朝鮮総連系病院"関連の幹部、薬事法違反で逮捕 http //news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1129288583/ 【社会】「いろいろな事実が明らかになるかも」 "朝鮮総連系病院"関連の幹部、薬事法違反で逮捕★2 http //news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1129297974/ 【社会】"日本人拉致、技術漏洩も?" 朝鮮総連関連の幹部、薬事法違反で逮捕…スタッフ抵抗し騒然★3 http //news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1129303133/ 【社会】"日本人拉致、技術漏洩も関与?" 朝鮮総連系の幹部、薬事法違反で逮捕…スタッフ抵抗し騒然★4 http //news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1129338064/ 2006年11月の強制捜査に関するニュース 【社会】朝鮮総連東京都本部を捜索、「万景峰号で点眼薬大量持ち出し」の薬事法違反容疑で[11/27] http //news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1164588826/ 【社会】 「日本当局、不当な弾圧だ!」 朝鮮総連を強制捜索で騒然…生物兵器に転用可能な点滴薬不正入手★2 http //news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1164597094/ 【社会】 陸自の最新型ミサイルデータ、総連団体に流出…薬事法違反に絡む"科協"捜索で資料発見 http //news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1138042267/ 2012年2月の強制捜査に関するニュース 【社会】 「警察、今すぐ出て行け!」「人権侵害だ!」 朝鮮出版会館前、家宅捜索で騒然。北朝鮮へのパソコン不正輸出事件…東京 http //uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1330400466/ 【東京】「警視庁は今すぐ出て行け」朝鮮出版会館前、総連傘下団体の家宅捜索で騒然 北朝鮮へのパソコン不正輸出事件[02/28] http //awabi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1330411576/ 【国際】日本製中古パソコン、北朝鮮ヤミ市場で2万円台 http //uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1330098537/ 【PC不正輸出】朝鮮総連「強制捜査は政治的弾圧、嫌がらせだ!」 警視庁を批判 http //uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1330709345/
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大韓帝國日本総督府 ∩___∩ | ノ ヽ / ● ● | クマ──!! | ( _●_) ミ 彡、 |∪| 、`\ / __ ヽノ /´ ) (___) / (_/ | / | /\ \ | / ) ) ∪ ( \ \_) \ ∩─ー、 ==== \/ ● 、_ `ヽ ====== / \( ● ● |つ | X_入__ノ ミ そんな餌で俺様が釣られクマ―― 、 (_/ ノ /⌒l /\___ノ゙_/ / ===== 〈 __ノ ==== \ \_ \ \___) \ ====== (´⌒ \ ___ \__ (´⌒;;(´⌒;; \___)___)(´;;⌒ (´⌒;; ズザザザ 韓国統監府の旗 税関旗
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トップページ>韓国>韓国近現代史研究 『韓国近現代史研究』71、2014.12 一般論文 梁尚鉉、朴素妍、劉永美「グリフィス・コレクションに所蔵されている韓国近代写真資料の学術的価値についての考察」 朴淳燮「1920-1930年代金燦の社会主義運動と民族協同戦線」 孫洛亀「1934年朝鮮総督府税務官署の設置経過と制度的特徴:大韓帝国・日本・解放後税務機構との比較を中心に」 韓詩俊「カイロ宣言と大韓民国臨時政府」 呉大禄「解放後『独立新聞』の続刊と性格」 朴潤栽「解放後韓薬の変容と韓医学」 金載雄「「女性」「子供」「セックス」を通じて見た解放後北韓の家族文化」 その他 「歴史学界の韓国史教科書国定化反対声明書:教育部は韓国史教科書国定化の試みを中断しろ」 「韓国史教科書国定化に反対する歴史研究・教育者宣言:政府は韓国史教科書国定化の試みを中断しろ!」 『韓国近現代史研究』70、2014.9 研究論文 姜貞遠「韓末日帝の山林調査と山林法の性格」 沈哲基「1905年元容八義兵の倡義と運動方略」 李承允「後期義兵期日本軍の寺刹弾圧」 徐東一「星州思道谷邑の創氏実態と儒林金昌淑の反対論理」 趙徳天「カイロ会談の交渉と進行に関する研究」 金成恩「解放後任永信の国際情勢認識と大韓民国建国外交活動」 『韓国近現代史研究』69、2014.6 尹善子「韓国独立運動と権基玉の飛翔」 朴鍾隣「1920年代社会主義思想の受容とマルクス主義原典翻訳:『ユートピアから科学への社会主義の発展』を中心に」 金明燮「1920年代前半期北京地域韓人のアナーキズム受容過程と活動」 蔡貫植「満州事変前後国内民族主義系列の在満朝鮮人国籍問題提起と民族認識の論理」 文ミラ「『延辺民報』を通じてみた解放直後延辺人民民主大同盟の成立と活動」 王燕「豊徳邑のセマウル運動の推進主体と組織基盤」 崔僖庭「韓国近代化と自助精神:南韓のセマウル精神と北韓自力更生論の淵源」 『韓国近現代史研究』68、2014.3 研究論文 徐泰貞「大韓帝国期日帝の動物園設立とその性格」 朴慶穆「日帝強占期西大門刑務所女收監者現況と特徴」 金度亨「安昌浩の委任統治請願関連資料の検討」 孫科志「国民代表会の主要遺跡地の位置考証」 金鍾文「金弘壹の生涯と独立運動」 白政潤「「周保中日記」を通じてみた東北抗日聯軍第2路軍朝鮮人隊員の活動(1936-1941)」 張泳敏「「ボイス・オブ・アメリカ(Voice of America)韓国語放送」の変化とその原因(1953-1973)」 『韓国近現代史研究』67、2013.12 企画論文:解放以後大学内韓国人文・社会学の分科学問化 姜明淑「大学の制度的基盤形成と学術与件(1945-1955)」 鄭駿永「解放直後大学社会形成と学問の制度化:学科制導入の歴史社会学的意味」 李俊植「解放後国語学界の分裂と対立:言語民族主義と「科学的」言語学を中心に」 辛珠柏「史学科の編制と人、そして教材(1945.8~1950年代)」 朴鍾隣「解放後~1950年代哲学科の設置・運営と教養哲学の講義」 研究論文:韓国の近代国家形成と女性 朴銀淑「分院磁器場の存在様相と開港後の変化」 金恒基「甲午改革期(1894-1896)民事訴訟制度の施行と「私権」伸張」 金素伶「大韓帝国期「国民」形成と女性論」 金成恩「新女性尹貞媛の現実認識と社会活動」 研究論文:日帝の植民政策と統治 金度勲「1920年代前半期ハワイ故国訪問団の推進と性格:日帝の海外韓人懐柔政策を中心に」 盧鏞弼「1920年代韓国農村の肥料実況と日帝の肥料取締令施行」 文智炫「戦時体制期朝鮮総督府の新宗教に対する政策と新宗教団体」 金相奎「戦時体制期(1937-1945)朝鮮駐屯日本軍の陸軍兵事部設置と役割」 曺健「日帝強占末期朝鮮駐屯日本軍の朝鮮人捕虜監視員動員と連合軍捕虜収容所運営」 朴賛勝「田保橋潔の近代韓日関係史研究についての検討」 研究論文:独立運動と独立運動家 朴敏泳「勉菴崔益鉉の上疏抗日闘争とその歴史的意義」 韓詩俊「新興武官学校と尹琦燮」 金建實「龍淵金鼎奎の著述と歴史認識」 潘炳律「洪範図将軍の抗日武装闘争と高麗人社会」 尹相元「ロシア革命期極東解放戦争と韓人部隊の活躍」 金祥起「尹奉吉の修学課程と抗日独立論」 崔起榮「姜永韶の在米民族運動と経済活動」 梁志善「張伯苓の天津地域韓国独立運動支援活動」 研究論文:解放後韓国社会変動と延辺朝鮮族社会 崔惠軫「解放空間の民族主義と伝統文化:民族音楽議論を中心に」 朴性淳「還国以後梵亭張炯の社会教育活動」 趙成勲「6・25戦争停戦協定時漢江河口共同水域設定の意味に対する再照明」 任松子「1961年5・16以後国土建設事業と国土建設団運営の実態」 廉仁鎬「朝鮮族弁士海元の活動分析を通じてみた1960年代上半期延辺朝鮮族社会と韓半島との関係」 資料紹介 張泳敏「韓国戦争勃発直後の李承晩大統領のラジオ特別放送関連資料」 学会創立20周年を迎えて 金喜坤、金容達「韓国近現代史学会の昨日と今日、そして明日」 『韓国近現代史研究』66、2013.9 研究論文 許洙「教祖伸冤運動期東学教団と政府間の談論闘争:儒教的側面を中心に」 張錫興「満州独立軍の形成と洪範図の大韓独立軍」 朴慶穆「1930年代西大門刑務所の日常」 曺銘根「朝鮮銀行重役人事の実態と重役陣構成の特徴」 趙銀景「解放後中国広東省広州地域韓人社会と帰還」 金載雄「解放後北韓の親日派と日帝遺産剔抉」 尹詳絢「1950年代エリート知識人達の国家主義的民族主義談論」 許宗「1969年大邱地域三選改憲反対運動の様相と性格」 『韓国近現代史研究』65、2013.6 研究論文 韓哲昊「日本海軍水路部の隠岐測量と独島認識」 申真姫「義城地域郷村支配層の東学農民軍鎮圧」 南金子「大韓帝国期閔泳徽の忠州一帯土地所有と経営事例」 李良煕「日本軍の3・1運動弾圧と朝鮮統治方案:『朝鮮騒擾事件関係書類』を中心に」 金光載「李溟玉・李孝相父子の独立運動と家族史」 鄭秉峻「解放直後駐韓米軍共産主義者グループとアリス・ヒョン(Alice Hyun)」 趙奭衍「麻薬法制定以後韓国の麻薬問題と国家統制(1957-1976)」 『韓国近現代史研究』64、2013.3 研究論文 李相燦「乙巳条約反対上疏と五大臣の反駁上疏に現れた乙巳条約の問題点」 尹善子「1925年の韓国天主教殉教者諡福と奎章閣資料」 趙栄得「1930年代慶州地域の赤色農民組合運動」 金喜坤「独立運動と民族統一」 李姸淑「解放直後新国家建設と国旗制定」 黄善翌「連合軍総司令部(GHQ/SCAP)の在日韓人帰還政策」 書評 韓圭茂「105人事件の臣民会、再び論争の舞台に引き出される:尹慶老『(改訂増補版)105인사건과 신민회 연구』漢城大学校出版部、2012年」 『韓国近現代史研究』63、2012.12 研究論文 姜英心「金淳愛(1889-1976)の生涯と独立運動」 金光載「上海時期玉観彬密偵説に対する批判的検討」 河智姸「小田省吾の韓国近代史研究と植民史学」 企画 呉鎮錫「1910-1920年代電力産業政策と電力業界の動向」 研究論文 崔僖庭「1930年代「自力更生」論の淵源と植民地支配イデオロギー化」 尹鍾文「米軍政初期韓国学生のアメリカ派遣政策とその性格」 任賛赫「解放後中国延辺地域における民族区域自治が実現する制度的過程についての考察」 金正仁「1960年代近代化政策と大学」 金栄美「ある農民の生活世界と維新体制」 書評 金栄洙「駐日韓国公使を通じて見た韓日関係の照明:韓哲昊『한국근대 주일한국공사의 파견과 활동』푸른역사、2010年」 『韓国近現代史研究』62、2012.9 企画:韓国戦争期南北韓の占領政策とその遺産 奇光舒「韓国戦争時期北韓の南韓地域土地政策」 鄭秉峻「韓国戦争期北韓の占領と地方社会の変化:京畿道始興郡の事例」 梁寧祚「南韓とUNの北韓地域占領政策構想と統治:妥協と現実の乖離」 韓モニカ「韓国戦争前後「修復地区」における農地改革法適用過程とその意味」 金甫穎「UN軍の海上封鎖・島嶼占領とNLL」 李龍哲「衡平社の性格変化と衰退」 研究論文 許宗「米軍政期大田地域の政治動向と国家建設運動」 『韓国近現代史研究』61、2012.6 研究論文 張暎淑「『集玉斎書目』分析を通じて見た高宗の開化書籍収集実相と活用」 申栄祐「北接農民軍の報恩到着と北実戦闘」 朴杰淳「安浦の現実認識と自靖殉国」 金나아「1930-1931年大田期成会の忠清道庁誘致運動」 研究動向 韓哲昊「日本学界の安重根研究争点と課題」 金喜坤「李陸史の独立運動に対する研究成果と課題」 資料紹介 金宙鉉「申采浩が北京で発刊した雑誌『天鼓』3号」 1-20 21-40 41-60 61-80
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東方会議(とうほうかいぎ)は、1921年5月16日から26日まで東京市で開催された会議。資料によっては時局会議(じきょくかいぎ)とも呼ばれているが、外務・陸軍・海軍省における公式名称は東方会議である。 背景 1917年11月にロシア十月革命が発生すると寺内内閣は警戒感を強め、翌年1月に居留民の保護のためにウラジオストクに兵を送った(シベリア出兵)。翌年8月、アメリカ・イギリス・フランスなどと協調して本格的なシベリア派兵に踏み切って、ロシア革命への本格的な干渉に乗り出した。9月に成立した原内閣も出兵継続を決めたが、あくまでも各国との合意の範疇に留める考えであり、当時の陸軍大臣田中義一もその方針であった。 ところが、ロシア革命では革命政府(ボリシェヴィキ、後のソ連共産党)が次第と優勢となり、また朝鮮半島における三・一独立運動、中華民国における五四運動など、日本に大陸進出に対する反対運動が高揚した。更にアメリカとの合意によって1920年4月に日米両軍はシベリアからの撤退をする事を合意したものの、参謀総長上原勇作は政府が軍の派遣・撤退を定めた国際条約・協定を結ぶこと自体が統帥権干犯であるとして強く反発し、日本と現地政府の間で撤退協定が結ばれる前夜の4月4日夜に総攻撃をかけてウラジオストクやシベリア鉄道沿線部などを制圧してしまった。その結果、日本だけがシベリアに駐留することとなったために国際的非難を浴びた上に尼港事件などの事件が発生した。 6月1日に閣議はチタ・ハバロフスクからの撤退を決定したが、上原はこれにも激しく抵抗した。一方、「統帥権独立」の生みの親とも言える元老山縣有朋は、基本的には参謀本部を支持したものの、軍令を担当する参謀本部が軍政を担当する陸軍省本省(この場合は田中義一陸相)、更に政府による政策決定を拘束したり、これに反した行動を採るのは統帥権独立の論外であると考えており、閣議決定には従うべきだと考えていたがその調整に苦慮していた。だが、その後も10月に行われた間島出兵や中国での反日運動の一因となっていた山東還付問題(第一次世界大戦の勝利によって日本がドイツから獲得した山東省における利権の中国への返還)など、政府と参謀本部の対立を惹き起こす問題が相次いだ。1921年に入ると、田中は一連の問題を解決するために、東京に閣僚・外務省首脳陣、中国公使、軍部首脳陣などをかき集めて、対ロシア・中国政策についての方針を決めるための「東方会議」を開く事を首相原敬に提案した。原もこれに同意して4月8日の閣議で開催を決定したのである。 東方会議開催 5月16日に東方会議が開催された。この会議は原内閣の閣僚及び斎藤実(朝鮮総督)・水野錬太郎(同政務総監)・大庭二郎(朝鮮軍司令官)・山縣伊三郎(関東長官・有朋養子)・河合操(関東軍司令官)・立花小一郎(西伯利亜司令官)・由比光衛(青島軍司令官)・小幡酉吉(中国公使)・赤塚正助(奉天総領事)が出席した。会議は5日間(5月16日 - 18日及び20日・25日)にわたって開催され、主に以下の決定がなされた。 シベリア出兵を中止してウラジオストクから撤退して極東共和国との外交交渉を開始する(ただし、北樺太占領は継続する)。 間島の警備は当面警察力により、朝鮮独立派の活動が活発化した場合に備えて派兵の準備を行う。また、満洲においても独立派の取締を強化する。 奉天軍閥の張作霖を支援するが満洲経営の必要の範囲内に留め、張の中央政権進出(安直戦争・奉直戦争)には加担しない。 満洲における日本利権の確保と方針統一のため、関東庁・関東軍・朝鮮総督府・現地領事館・南満洲鉄道などが協議を持つこと。 ロシア革命後に経営が悪化していた東支鉄道に対する経営支援を行うとともに南満洲鉄道との直通運転を強化する。また、スキャンダルが噂されていた南満洲鉄道首脳部を交替させて経営透明化を図る。 山東鉄道沿線からの撤兵を図り、将来的には青島のみの駐在に留める。山東鉄道の中国側(北京政府)との共同経営を提案する。 北京政府に対する借款は西原借款のような日本単独の借款は避け、今後はアメリカ・イギリス・フランスとの4ヶ国共同の「4ヶ国借款」に切替、対華21ヶ条要求のうち、4ヶ国借款の障害になるものは事実上放棄する。 この会議には参謀本部は参加しなかったが、5月30日の原・山縣会談によって参謀本部も同会議の決定に従う事が合意された。だが、この年に原が暗殺され、また参謀本部のサポタージュもあってシベリアからの撤退計画は遅延した。シベリアからの日本軍撤退が完了するのは翌1922年の事であった。また、同年にはワシントン会議を受けて山東還付が実現されている。 参考文献 雨宮昭一『近代日本の戦争指導』吉川弘文館、1997年 ISBN 4642036660 関連項目 ロシア革命 間島事件 膠州湾租借地 ヴェルサイユ条約 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2009年1月10日 (土) 06 06。