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目次 1.不成仏霊(ふじょうぶつれい)を正しく導く 2.怨恨(えんこん)を持つ霊にはまず反省を 3.崇(たた)りに対しては守護・指導霊への祈りを 4.一般的憑依(ひょうい)に対しては、まず健全な生活を取り戻すこと 5.身近な人が悪霊を持っている場合の対処法 6.動物霊への対処法 7.サタン(魔)に対しては、みなの一致協力・中道(ちゅうどう)・不退転(ふたいてん)が鍵(かぎ) (1989年8月27日の霊示) 1.不成仏霊(ふじょうぶつれい)を正しく導く モーゼです。さて、私の出番となりました。『悪霊(あくれい)撃退法』という題で、お話をしていくことといたしましょう。 悪霊にも種類が、いろいろとあります。それゆえに、悪霊相応の対策を考えてゆかねばならないと思います。 まず、悪霊の種類のなかでは、いわゆる不成仏霊(ふじょうぶつれい)と言われている者があります。この不成仏霊と言われる者は、まだ自分が死んだということを十分に悟っていないか、あるいは死んでもまだ生命に執着があって、死にたいと思っていないか、このどちらかの場合が、そうした不成仏霊となりましょう。すなわち、自分の死を認めたくない、自分が死んだということを認めたくないという霊のことです。 このたぐいの霊に対しては、死んだという事実を、とにかく納得させる以外に方法はないのです。それゆえに、このたぐいの人たちに対しては、まず人間は生と死があり、魂というものは生と死を貫いて、そして永遠の生命を生きているものだということを教える必要があるのです。これが、各種の宗教でよく行なわれているところの先祖供養であるというふうに思われます。あるいは、先祖供養か、その他の成仏(じょうぶつ)の修法である、というふうに私は考えます。 これは、先祖供養そのものを善しとするか、悪(あ)しとするかは別として、古典的な宗教の作法であることは事実で、それは否(いな)めません。洋の東西を問わず、亡くなった自分の身内(みうち)、とくに両親等を弔(とむら)うということは、習慣としてあります。なぜあるか、それはこのような不成仏霊を成仏させたいという気持ちから出てきたものなのです。このさいに、その成仏の願いが通るかどうかは、供養する側の気持ち、あるいは考え方、悟りと大きくかかわっていると言えましょう。 すなわち、ほんとうに生命の永遠を信じているのか。ほんとうに生があり死があるということを知っているのか。ほんとうに死後の世界というものを信じているのか。そうして、なにゆえにある者は天国へ還(かえ)り、なにゆえにある者は地獄に堕(お)ちるのかということを明確に知っているのか。そうして、生きていたときに、接していたその親族、身内の者を神理の目で見て、どう判定しうるのかということを知っているのか。これが大事な鍵(かぎ)になります。 これらのことを知ることなく、単に墓の前や、仏壇の前で手を合わすだけであっては、なんらの意味もないことは事実です。ただ、あの世にある者から見たならば、そうした姿を見ることによって、なんらかのなぐさめになっていること自体は事実であると、私は思う。 さて、それゆえに供養(くよう)せんとする生きている人間は、神理の書籍を十分に熟読する必要がある。そうした神理については、我らが高級諸霊相集いて、数多くの霊示集を地上に送ったはずである。もし、可能であるならば、そうした神理の書を、日々彼らのために読んであげることが、大事であると思う。もちろん墓場にて読み続けることは困難であろうと思われるから、あなたがたの習慣にしたがってやってよい。仏壇の前で読むもよし、あるいは寝る前に読むもよし。 すなわち、供養したいと思っている人の名前を呼び、父なら父、母なら母に対して呼びかけをする。「これから、神理の書を供養いたしますから、よくお聞きください」そのように申し上げてのちに、毎日十ページでも、二十ページでも読んであげることだ。毎日十ページ読んであげるならば、一冊の書物は二十日もあれば読み上がるだろう。このように、一冊の書物を二十日かけて読んであげ、また次なる書物を読んであげる。 このように地上を去った縁者の者に対する供養は、毎日毎日形をとって行なわれたら、必ずや通じるものとなる。先祖たちやあるいは自分の肉親たちは、そうした供養をしてくれていることがわかる。しかし、彼らは何ゆえに自分が地上を去って、今苦しんでいるかの理由がわからない。また、地上の生への思いを断ちがたい。これゆえに、彼らをくわしく、一つひとつ手ほどきするように教えていくためには、もちろんあなたがたが一人ひとり悟っておることが前提であるが、まだそれだけの悟りを得ていない者であるならば、悟りの書を読み上げてあげるということが大事であると思う。 我らが、これだけ力を尽くして地上に霊示集を送っているのだから、これをまず死んだ方がたに供養してほしい。地上を去ったのちに本を読むことさえできなくなっているのだから、肉親であるあなたがたが読んであげることによって、彼らも必ずや、そのみずからの過ちを悟り、なにゆえに現在このような立場に置かれているのか、どうして地上に、あるいは地上生命に執着することが悪なのか、そうしたことがわかるようになるであろう。 そうして、こうした書物の朗読を通して、彼らを説得することに、次第しだいに成功していくならば、やがて書物の朗読を通すことなく、あなたがた自身の言葉で、やさしく神理を伝えることが可能となってくるだろう。そうしてこそ、はじめてこうした不成仏な者たちを救うことができるようになるのだ、と言えると思える。 もちろん、これ以外にも、いろいろと神理の経文はあるだろう。それらを読み上げるということも可能だと思える。これがまず、いわゆる一般的に不成仏霊と言われている者たちへの対処法としてあげられる。 2.怨恨(えんこん)を持つ霊にはまず反省を 次に、こうした不成仏霊とは違った、明確な意図を持ってあなたがたを不幸にしようとしている者に対する対応を取りたいと思う。もちろん、サタンと言われるほど強力なものではない、一般の人霊であって、まずあなたがたに対して害、悪意を持ってきている者、これをどうするか考えてみたい。 そうした者たちは、おそらくあなたがたが、彼らが生きているときにどこかで縁をつけていた人であろう。仕事の取引上であったか、あるいはかつて友人であった者とか、あるいはさまざまなつきあいのなかで、あなたがたが恨みをかうようなことがあったであろう。場合によっては、もっと積極的にみずからも悪を働いて彼らを不幸のどん底に陥れたこともあったやもしれぬ。 人間は、自分では気がついてはいないが、いろいろなかたちで他の人を不幸に陥れたことというのは、よくあるものだ。他の人を不幸にした者は、自分自身は、その事実を忘れていることはよくあることだが、現に不幸に陥れられた者のほうは、その事実をけっして忘れることはできない。そうして、地上を去ったのちに、自分の不遇をつらつら考えてみるにつけても、あのときあの人のああした行動が自分を破滅に追い込んだ、というふうに恨みがちである。 このたぐいの悪霊(あくれい)は、その原因を断たないかぎり、けっして身辺から去ることはない、そう考えて間違いはない。なぜならば、その原因行為自体を生きている人間がつくっているからだ。六十年、七十年の人生を生きてきたならば、だれでも最低一人や二人の人間からは恨まれていると言ってよい。まして、荒々しい人生を生きてきた方であるならば、十人、二十人、あるいはそれ以上の人びとから恨みをかい、あるいは害意を持たれていると思っても間違いではないと言えよう。 そうしたときに、霊的な自覚があれば、相手がだれであるかがわかるであろうが、そうでなくとも心を澄ましてふり返ってみれば、次第しだいにわかるものだ。人間は、多少なりともだれもが霊的能力は持っており、直感というかたちで相手が何者であるかがわかる。悪霊に憑依(ひょうい)されている場合には、たいてい体調がまず悪い。つねに体がだるく、重く、頭が痛かったり、胸が締めつけられたり、あるいは足が冷えたり、腰が痛かったり、そうしたいろいろな兆候(ちょうこう)を示す。 そして、その状態は、ちょうど何かが覆いかぶさっているかのごとくであり、何かが自分の幸福を邪魔しようとしているかのごとくである。お椀(わん)をかぶったがごとく、頭が重い場合あり、首が締め上がる場合あり、いろいろな事実はあるが、それが単なる肉体的な疲れではないと、明確に思える場合がある。精神の疲労だけとも思えない。何か他の者が、自分をして苦しめよう、自分を苦しめようとしている、と明確にわかる場合がよくあると思う。 そのさいに、心静かにふり返ってみて、けっして自分の先祖とか、そうした者ではないと思える場合に、心のなかを反省しながら、いったい何ゆえにそうした事態に、自分が現在置かれているか、考えてみるがよい。そうしてみると、過去、どこかの時点で、恨みをかっているということがよくある。そうした部分が、あるいは場合がもしあれば、それを思い出すことだ。その場面を現在ただ今のように思い出すことだ。 そうして、その人とのいさかい、あるいはその人に対して自分のなした行ない、言葉、仕打ち等を思い出して、もしこれが神の目から見て、誤っていると思えるならば、深くわびることだ。その姿を思い浮かべながら、あのときああいうふうにしたことは、まことに申しわけなかったとわびることだ。また、そのようなことをして、あなたをこのように苦しめたのは、私の責任だ。どうか、私を許してほしい、と深くわびることだ。 人間は、どのような悪人であっても、相手に謝られて悪い気はしないし、ましてや、振り上げた鉄拳(てっけん)を振り降ろすことはできない。そうしたものだ。ゆえに、もし、万一相手が、ほんとうに悪をなした人間であったとしても、その人が、それだけの悪をなすに至る原因行為を自分自身もつくっているとするならば、その一部の誤りでもあるとするならば、自分を悪しとして、そして心からわびる態度が正しい行為である。そのように思う。 このように、自分のなした過ちを反省し、そして相手にわびるという行為が大事で、そうした反省とおわびという行為が終わったのちに、さきほどのべたように神理の書物の朗読等の供養をしてやるとよい。そうすると、次第しだいに彼らの怒りが治まり、苦しみが治まり、やがて次第しだいに彼らなりの悟りを開いていくようになる。原因行為をつくったのが自分であるならば、その原因を自分自身で取り除かないかぎり、けっして苦しみが去るということはない。これはよくよく覚えておきなさい。 とくに、今、この種類において多いのが、他の人を積極的に害して、職業上その地位を奪ったり、また計画的に詐欺をしたり、あるいは倒産に追い込んだり、また三角関係あるいはそれ以上の関係でもって、他の女性ないし男性等を苦しめぬいたり、そういうことをした場合に、このような悪霊によって苦しめられるという現象が、数多く出ている。 ゆえに、自分が心当たりある範囲で、そういう霊になっている可能性がある者があったら、よくよく反省をしてみることだ。それ以外に手はないと思わねばならない。いくら、神仏に頼もうとも、自分がまいた種は、自分で刈り取らねばならんという真実を思い起こしてみるべきだ。自分が原因結果をつくっておるのだ。それを忘れてはならない。 3.崇(たた)りに対しては守護・指導霊への祈りを また、こうした恨ふの霊のなかに、また違った種類のものもある。それは、彼らが生きているときに、こちらが何らかの原因をつくって恨まれている場合だけではない。死んでからのちに、恨みを持っている者もいることはいる。それは、故人を粗末にした場合などに、そういうことがないとは言えない。死んで地上を去ったのちも、彼らは地上のことがひじょうに気にかかっている。ゆえに、こうしたときに亡くなった方の遺志に、ひじょうに反するようなことをやったりすると、彼らがなんらかの騒動を起こすことがある。 たとえば、亡くなった方は、このように遺産を分けたいというふうに思っていたにもかかわらず、それを死んだ人間には口はない、死人に口なしということで、知らぬ顔をして違ったことをする。夫婦で争ったり、兄弟で争ったり、そういうことをし始めると、地上を去った人間、もしそれが悪い人間でなくとも、彼らがまだ十分成仏(じょうぶつ)しきっていないときに、そういう地上の争いが起きると、彼らはだんだん苦しくなってくる。そして、子孫たちに対して腹が立ってきたりすることがある。 こういうときに、なんらかの事件が起きたりすることがよくある。病気であるとか、交通事故であるとか、こういうことがひじょうに起きやすい。これは、地上の人間が誤っていることを、警告するためにあえて霊がやっている場合もある。 もちろん、こうしたことは、けっして正しいことではないが、彼らとしてはそうしたことでもしないかぎり、自分の意思表示ができない。そういう思いにとらわれて、やることがある。これなども、ひじょうに危険なことで、あくまでも地上を去ったからといって人間には意思が残っており、考え方は残っておるのだから、地上を去った人間の考えをできるだけ尊重しようという心を持たねばならない。そして、遺された者が調和した生活を送るように努力をせねばならない。 これなどは、知り合い、あるいは身内(みうち)の場合であるが、それ以外の者も、もちろんある。 たとえば、いろいろな霊域と言われるところに訪ねていった場合に、そういうことがよくある。祠(ほこら)であるとか、社(やしろ)、寺院、お墓、こうしたところにはさまざまな霊たちが棲息(せいそく)している。 もちろん、高級霊たちがいることは少なく、低級霊、悪霊(あくれい)のたぐいが多いことは言うまでもない。こうしたところで、波らの機嫌を損ねるようなことをして、憑依(ひょうい)されるということがよくある。 たとえば、お墓に行って、「霊なんかあるものか」というようなことを公言したり、あるいは失礼な行為をする。また祠などでそういうことをする。こういうことをして、そうして、まあそうした霊たちの怒りをかうということはある。神が怒るということはめったにないが、そうした自称神であるところの霊たち、あるいは動物霊たちが、なんらかの悪さをしようとし、あるいはその怒りに任せて、地上の人間にお仕置きをしようとして、悪さをしてくることがある。 こうした場合も、原因は自分自身がつくっているということを忘れてはならない。自分自身が、そのような行為をして、彼らの怒りをかっているのである。したがって、原因不明の発熱があったり、突如体調が変化したり、突如事業がうまくいかなくなったり、突如事故が頻発(ひんぱつ)したり、そうしたこと、があった場合に、よくここ一年ほどの自分の行動をふり返ってみるがよい。なんらかの霊域に踏み入って、そして霊たちを侮辱(ぶじょく)するようなことを、何かしたのではないか。そうした寝ていた者を起こしているのではないか、ということをよくよくふり返る必要がある。 そうした寝ていた者を起こしているのではないか、ということをよくよくふり返る必要がある。 しかし、これはなかなかその発見が難しい。それゆえに、こうした事態になったときには、やはり心を静めて、自分の守護霊あるいは指導霊に祈るがよい。守護霊や指導霊に祈って、そしてこうした霊の障(さわ)りを取り去るのがいちばん妥当である、というふうに思われる。 あくまでも、自分自身の守護霊や指導霊を通じて、そうした崇りを去るように努力をすればよいと思われる。 4.一般的憑依(ひょうい)に対しては、まず健全な生活を取り戻すこと また、これ以外にあるのが一般的な憑依であろう。 これは、場所、特定の場所で憑依される場合、あるいは特定の人間と出会って憑依される場合、このようにとくに縁がなかったのであるが、偶然に縁ができて、たまたまその人が霊体質であったり、相手の霊人の好みであったりして、そしてとり憑かれる場合がある。こうした場合も、たいてい体調の変化、あるいは気分がすぐれない、頭痛がする、こういうことでだんだんにこれは憑依霊ではないか、ということがわかるようになる。 こうした場合の憑依霊の取り方であるが、一番は、まず健康生活を取り返すことが大事だと思われる。健康な生活をするということ、これが大事で、次には肉体的にも力を十分に持つということ。睡眠をとり、またスタミナをつけるということ、適度な食事をとるということ。このように健康管理をして、自分自身の生活をひきしめていくことが、まず大事です。地獄霊たちが憑(つ)いてくると、生活が不規則になり、ふしだらになり、そして、だんだんに夜更(よふ)かし型になってきます。こうした事態を避けることが望ましいと思われます。できるだけ健全生活にまず戻してください。 また、こうした悪霊たちに憑依されはじめると、だんだんに夜が眠れなくなってきます。夜が眠れないとどうなるかというと、朝起きるときも辛(つら)く、睡眠不足の状態で仕事をし、また疲れ、夜眠れないという悪循環になります。悪霊に憑かれたことの、いちばんよい証明は、まず夜が眠れなくなること、これが一つ。それから、ひじょうに怒りっぽくなること、これが一つ。他の人に対して、怒り散らすようになります。それから、もう一つは愚痴(ぐち)っぽくなること。さらには、被害妄想(ひがいもうそう)になり、悲観的になること。情緒がひじょうに不安定になること。こういうことが挙げられましょう。 このような特徴が現われてきたときには、自分もこうした悪霊に憑依(ひょうい)されている可能性がきわめて強いというふうに思わねばならないわけです。努力して、まず健康生活をつくることが大事です。夜を眠れるようにするためには、朝は努力して起きること、まずこれが第一ですし、寝る前に体をフレッシュに、体をリラックスできるように努力しなければなりません。簡単な運動等を取り入れて、そしてぐっすりと眠れるような訓練をしていく必要があります。それと、人間関係で、軋轢(あつれき)、悩み等をつくらないことです。夜眠れない原因も悩み事があることが多いです。 したがって、夜眠る前に悩み事を解決しておくように、努力することです。すなわち、布団の上、ベッドの上でよいから、今日一日あるいは今日まで引きずってきた過去のいろいろな問題について、自分なりに清算をつけることです。自分の考え方を変えることによって、決着がつく問題は、考え方を変え、また明日、具体的な行動をとることによって決着のつくものは、そういう行動をとることとし、そしてまたそれ以外にどうしようもない、どうにもならない問題については、それは神に全託する、そして祈るという方法もあるであろう。自分のできる範囲で片付けるものは、片付け、そして片付かないものについては、大いなるものに任せるという気持ちで、心の執着を去り、心安らかに床につくことが大事です。さすれば、よく眠れるようになってきます。 5.身近な人が悪霊を持っている場合の対処法 また、さらに考えられることは、身近にいつも悪霊を持っている人と接触しているということがありえましょう。職場で悪霊をつねに持っている人と、そういう上司あるいは同僚といつも接触する、あるいは家庭において悪霊をひじょうに持っている人がいる、こういう方とつねに接触している場合、悪霊の悩みが絶えないことになってきます。 そのさいに、とる方法は二つしかないといえましょう。相手を変えるか、自分を変えるか、このどちらかです。相手を変える場合には、きっかけをとらえて、彼らに神理を教えてあげることです。そういうこと以外、ありません。きっかけをとらえて、神理を伝えてあげることです。自分を変える場合には、この方法はいくつかありましょう。 一つは、自分の悟りをきわめて高いものにしていくことによって、悪霊たちの影響を受けないような状態にまでするということ、これが一つ。もう一つは、積極的にこの悪霊たちをなんとかして追い払うべく努力しようとすること。こういうこともありえましょう。 第三の道は、時が過ぎるのをただ忍耐強く待ち、心に曇りをつくることなく、心に波をつくることなく耐えていくという方法もあります。意外に、この第三の方法が大事であることも、多いのです。身近に悪霊がたくさんついている人がいる場合に、なかなか心の平静を保つことは難しいというふうに言うこともできるでしょう。 しかし、そうした時期は、そう長くはありません。あなたの光によって、彼の、あるいは彼女の悪霊がとれるか、あるいは向こうが、あるいは向こうに憑(つ)いている者が、あなたをいやがって、そして彼を引き離そうとするか、どちらかに必ずなるからです。いずれにしても、ここに光と闇(やみ)との闘いというものが始まることになります。 ゆえに、そうしたなかで、心を乱すことなく、淡々と神理を学んでいくことが大事です。神理を学んでいくことにより、その光で悪雲を追い払うこともできれば、もし万一そういうことができないとしても、そうした数多くの悪霊をつけている人は、日々謙虚に精進(しょうじん)しているあなたの近くには居たくないという気持ちがきわめて強くなってきます。それゆえに、なんらかの口実をつけて、彼あるいは彼女をあなたから引き離そうとし始めます。この場合に、その人自体は救えないことになるかもしれませんが、少なくとも悪霊たちに対しては、一喝を与えたことになり、彼らも容易ならざることを経験します。 そうした人があなた一人であるからこそ問題なのであり、あなたのまわりにも、それ以外にもあなたのように光に満ちる人が出てきた場合に、ついに悪霊はその住み家を失い、彼あるいは波女から離れていかざるをえなくなっていくのです。ゆえに、みずから光が強く出ていると思ったら、この光の軍団を増やしていくことです。他にも同志をつくっていくことです。そうすることによって、その人が救われていくという現状も出てまいります。 6.動物霊への対処法 さて、以上一般的な悪霊について話をいたしました。とくに、人霊については、話をしたとおりですが、動物霊のたぐいについても話をしておく必要があるでしょう。日本でとくに多い動物霊は孤の霊と蛇の霊というふうに言われています。これ以外にも、家畜になるような動物の場合には、憑依霊(ひょういれい)になる可能性はあります。これ以外にも、たとえば虫の霊とか、そうしたものが集団的に憑依することもあります。 しかし、代表的には、孤と蛇であります。というのは、この二つは、長く民間信仰を受けてきて、龍神を祀(まつ)ったところに蛇の悪霊が集い、また稲荷(いなり)神社に狐が集うという現象が多く、日本にはこの二つの悪霊が多いというふうに言われていますし、現実にそのとおりです。 さて、こうした動物霊に対しては、どうするかということですが、彼らが憑依をしてきた場合に、明らかにわかることは、感情のムラが激しくなってくる。そういうことが言えましょう。ひじょうに感情にムラが激しくなって、日替わりの天気のような、そういう感情の動きになってきます。そして短気でカッとしやすいということは、共通項として言えるでしょう。また、こうした動物霊が憑(つ)いてくると、情欲がひじょうに強くなってきて、そうして淫(みだ)らな心を起こしやすくなってきます。また、食べ物の趣味・嗜好(しこう)が変わることもあります。まわりの人が見ていて、まったく驚くような量を急に食べはじめたり、今までまったく□にしなかったようなものを急に欲しがったり、このように食べ物の趣味が変わってくることがあります。 そうした肉体にかかわる異常事態がシグナルとして出てまいります。自分自身では、なかなかそれとはわからないことが多いのですが、他の者から見ているとひじょうによくわかります。ですから、つね日ごろ他の人の意見をよく聞くことが大事です。もし、こうした動物霊に明らかに憑依(ひょうい)されているという傾向が出てきた場合に、いったいどうしたらよいか。 それは、その人の心のなかに動物に通じるような心があるということが、まず原因です。人間としての尊厳を失っている。肉体の本能のままに生きる心が強い。煩悩(ぼんのう)に振り回されている。そういう気持ちが強いということが言えましょう。それゆえに動物雲に憑依されがちな人は、まず節制をし、そして精神の鍛練をすることが大事だと思います。 このさいに大事なことは、ストイックな生き方に努めることだと思います。通常よくないと言われている酒、たばこはもちろんのこと、それ以外のマージャンであるとか、また女性にかかわる遊び、ゴルフ、競馬、競輪、パチンコ、その他、こうした射倖心(しゃこうしん)をあおるようなことを、できるだけ慎み、またその逆に刻苦勉励型の生活をしていくことです。規則正しい生活をして、自らの精神の向上をもたらすような努力をすることです。それは、書物を読むことでもよいでしょうし、あるいは書画を習うというようなことでもよいでしょうし、あるいは語学を習うというようなことでもよいし、それ以外のことでもよいですが、なんらか、人間精神の向上を伴うような努力、勉強、そういうものを開始することです。 節制に努め、そうした努力をしていると、動物霊たちは必ず剥(は)がれていきます。彼らは、そのような向上心があり、また菩提心(ぼだいしん)のある人間が大嫌いなのです。人間としての、精神性の高みでもって、こうした憑依霊、悪霊のたぐいを振り払うということがひじょうに大事である。そういう方向が、本筋であると私は思います。人間として、最も尊いものを出すことです。それによって彼らをうち払うことが可能であると思います。 また、肉体に関する欲望をできるだけ少なくし、生活にけじめをつけることです。ふしだらな生活はゆめゆめしないで、けじめをつけるということ、これができなければ彼らに負けているということなので、自分自身の支配者は自分である、自分の魂であると強く思い描くならば、断々乎(だんだんこ)として生活の改善に取り組むべきです。もし、意志弱くして、それが難しいならば、家族の者あるいは友人等にたのんで、どうか彼らに自分を見守ってもらって、そして正しい道に入れるように努力をすることだと思います。 7.サタン(魔)に対しては、みなの一致協力・中道(ちゅうどう)・不退転(ふたいてん)が鍵(かぎ) さらに、これ以外に悪霊としていちばん強烈なものに、魔とかサタンとか言われるものがあります。これは通常の者よりも、はるかに力が強く、その惑(まど)わしの力も強いと言ってよいでしょう。こうしたサタンのたぐいに狙(ねら)われる者は、正法流布(しょうほうるふ)に関係している者であることが多いと言えましょう。あるいは、神理、宗教に関係している者が多いというふうに言えましょう。 それに関係していない者としては、人びとを惑わし狂わすことのできるような重要な立場についている者に限られるというふうに言ってもよいかもしれません。すなわち、こうした魔が入るのは、人びとを狂わせるような立場に立つ人、思想家、学者、政治家、経済人、財界人、なによりそうした強い立場、高い立場をもって、人びとに影響力を与えることができるような立場に立っている人に入りやすいというふうに言ってよいでしょう。とくに、いちばん多いのが宗教家です。宗教家は、もしその出自(しゅつじ)が光の天使であったとしても、つねにこうしたサタンに祖われているというふうに言ってよいでしょう。 また、宗教家と宗教家を取りまく弟子たちも同じです。彼らも市井(しせい)の普通の生活を送っておれば、そのような魔に狙われることはなくとも、神理流布(るふ)などの使命をになって協力者として立ち上がったときに、そうした魔に狙われることがよくあります。これは、ある意味ではいたしかたがないということでもあるかもしれません。坤理流布(るふ)というふうな仕事においては、日々これ魔との闘い、サタンとの闘いであります。すなわち、日々戦場にいると思わねばなりません。日々戦場にいるわけですから、味方の弾ばかりが敵に当たり、敵の弾は自分らにまったく当たらないということは考えがたいのです。 それゆえに、自分の仲間たち、心深く親しんでいた者たちも、敵弾に当たって倒れていくこともよくあると言わねばなりません。あなたの側にいる人が、後ろにいる人が、前にいる人が、パタッと倒れていくことがあります。こうした魔に狙われてです。これらは、ひじょうに強い力を持っており、通常の悪霊とは同一視することが、できません。彼らは原則、成仏(じょうぶつ)させることは難しいです。それは、少なくとも千年以上の長きにわたって、地獄に住み、多くの人びとを迷わせてきたという実績があり、それだけの悪想念を持っているがゆえに、そのマイナスを打ち消すには、相当の力が必要だからです。彼ら自身は、もはや反省ができない領域まで踏み込んでおり、それだけの悪を重ねてきております。 彼らは、そのように、そう簡単には諭(さと)すことはできないものですから、原則は彼らの力を弱めていくためには、まわりから攻めていくというのが本筋です。すなわち、彼らの食糧源であり、彼らの活動源であるところは、一般の人びとの迷いの想念、苦しみの想念、悩みの想念ですから、まず一般の人たちを救うほうから始めていくのが筋でしょう。そして、やがて日ざしを強くして、彼らを孤立させ、浮き彫りにさせていくというのが本筋です。そうして、明らかにすることによって、魔の力は弱ってきます。 この魔との闘いは、きわめて厳しいものがありますが、まず魔が今現われているのだということを、見抜かねばなりません。見抜くことが第一歩です。自分に入ったか、自分の身近な者に入ったか、あるいは入ろうとしているのか、これをまず見抜くことです。見抜くことが、いちばんです。見抜いてしまえば、なんとか彼らに操縦されないように努力することが可能だと思います。 見抜けるためには、大事なことは、つねに謙虚な心を忘れないことです。つねに、おごることなく謙虚な心を忘れないこと。努力精進(しょじん)する心を忘れないことです。魔が入ってくるところは、いつもブライドです。あるいは妬(ねた)み、また欲得(よくとく)、そうしたところに必ず入ってきます。彼らは甘い罠(わな)をしかけてきます。そして、その甘い香りで、鼻の先をくすぐります。そして、その人の持っている利己心に働きかけてきます。魔が働きかけてくるのは、いつも利己心である。そう思ってよいでしょう。 その利己心とは、けっして自分を高くするという意味での利己心だけではありません。逆の利己心もあります。自分を粗末に扱う、自分を卑下(ひげ)する、自分を小さなものとして取るに足らないものとしてあざ笑うような、そういう傾向を持った人のところにも入ります。どちらにも入ってきます。 よしくよ人間は神の子であり、神の子として謙虚に精進していかねばならんのだということを知ることです。どちらの極端にもブレてはなりません。悪魔に対しては、積極的に一撃を加えることよ、かなり難しいことではありますが、最善の防御方法はやはり中道に入るということだと思レます。とくに、人生の転換期、心が揺れるときに大きな隙間(すきま)ができます。そうしたところにつけ込んでこられます。 ゆえに、こうした時期は、そう長くないと思って中道に入ることを心がけることです。すべての物事の判断が極端に揺れないように。どう判断していいかわからない場合は、常識に沿って判断していくということが妥当であると言えましょう。また、そうした魔が立ち現われていることがわかったならば、その狙(ねら)われている人、あるいはそのまわりの人は、よくよく注意してみんな一致協力してその魔を追い出そうと努力していくことです。それが大事です。みんなの者の合意、協力ということがひじょうに大事になっていきます。 さて、この魔との闘いはけっして終わることはないでしょう。私も日夜続けています。それゆえに、あなたがたに対して、あまりにも酷なことは注文はできないかと思います。しかし、つねに考えてほしいことは、みすがらも神の子であり、神の使命をになって生きているということです。そして、けっして孤独な存在ではなく、霊天上界には、必ず私たちがあなたがたを守ろうとして努力している、そういうことを忘れないことです。 地上的な出来事に一喜一憂(いっきいちゆう)することなく、つねに大いなる者に守られているという感覚を持つことです。そして、道は必ず拓けるんだという確信だけは、けっして忘れないことだと思います。さすれば、必ずや道は拓けてきます。 いずれにしても、本人の自助努力に比例した他力の助けもあるということだけは忘れないでいだだきたい。あなたがたが悟るに従って、私たちもまた助けやすくなる。そのことだけを忘れないでください。 魔との闘いは、最後は忍辱(にんにく)です。そして中道(ちゅうどう)です。中道に入り、忍辱の心を忘れず、そして足ることを知って生きていくことです。そうすることによって、やがて彼らを回避することはできます。 そして、さらに大事なことは、意志の力です。魔に打ち克(か)つのは、最後は意志です。強い意志です。不退転(ふたいてん)の意志です。神の子としての自覚です。これが最後に勝利する鍵(かぎ)となるでしょう。
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目次 1.正義の教えは両刃の剣 2.かつて裁きの神エホバとして名を残した高橋信次 3.イエスの時代は「愛の時代」であった 4.モーゼの時代は「正義の時代」だった 5.釈迦の「慈悲の時代」と孔子の「秩序の時代」 6.神理は七十二面体カットのダイヤモンドのように光を放つ 7.正義の時代のエホバは「偶像崇拝」を排斥した 8.あの世から見れば邪宗はすぐ分かる 9.神仏は崇るか 10.天変地異は地球の生命体の自浄作用 11.アトランティス大陸沈没の真相 12.本当の裁きの神とは個々人の内部神性 13.人を裁くよりも彼らの良心を信じよ 1.正義の教えは両刃の剣 今日はいよいよ第4章ですね。四日目になりまして、正義の時代ということについてお話をしたいと思うのです。現在はね、宗教を見てみると、とくに日本の宗教を見てみると、正義ということが忘れられているような感じがするのですね。まあ正義って何かというと、正しく筋が通っていることということですね。あるいは正しい者は要するに、屈してはならない。筋を通さねばならぬと、この世的にも勝利をせねばならぬということね。これが正義です。これが、今ちょっと薄れているかもしれません。 まあ正義というのが今、残っているとすれば日蓮宗系ですね。これはやっているかもしれない。日蓮さんの教え、過去説いたという教えに関しては結局、何と言いますかね、正しいのは、これしかないんだということで、他を折伏(しゃくぶく)する。説得して、それに改宗させると、こういうことを今だにやっていますね。連綿(れんめん)と七百年やっとるわけです。まあこれは、一つの正義の顕(あらわ)れかもしれません。 ただ正義ということはね、非常に難しいところがあるんです。この世的にいいものというのは、どれも諸刃(もろは)の剣、両刃の剣であって、いい面もあるけれど、悪い面もあるというところがあります。正義の持つ二面がまさしくそうですね。 いい面としては、本当に神理が正しいものを正しいとして、太陽のもとで認められると、太陽のもとに正しいものはこれしかないと、こういうことが明らかになるという意味でいいですね。 悪い面は、これが正しくて、これは間違いだというのは、非常にくっきりと、はっきりとなるために争いを呼びやすいと、こういうところがあるのです。これがあやうい面です。まあそういうふうにいろいろ見てくると、正義の悪い面も、いい面も両方ありますね。 2.かつて裁きの神エホバとして名を残した高橋信次 歴史的には、たとえばモーゼの時代、まさしく、これは正義の時代でした。正義の時代の神っていうのは、何かというと裁(さば)きの神でしたね。裁きの神ということで、ヤーヴェの神というのが出て来て、短気で怒リっぽくて、不寛容で、要するに言うことを聞かないと怒っちゃうと。まあ、こういう神様がおりましたね。 谷口雅春さんの霊言集というのが先般出たようですけど、谷口雅春という方は、大ベストセラーの『生命の実相』を書かれたり、いろいろな本を書かれているけれども、彼は昔、大昔から「エホバの神って、ありゃ邪神(じゃしん)だ」と言っておられたそうです。なぜ邪神か。「妬(ねた)みの神、怒りの神、こんなのおかしい。なんで神様が妬むことがあろうか。怒ることがあろうか」そりゃそうですね。宗教人の常識から言えば、そうです。ですから谷口さん、そう思ったんでしょう。 ところがあの世に来てみると、その妬みの神、怒りの神が、こっちにいましてね。「いやあ谷口さん久しぶりですね」と言って待っているのですね。「もしかして」なんていうとね。「あなたが邪神といわれた方は、この私なんですよ」「ああやっぱりそうですか。GLA起こした高橋信次。やっぱり邪神だと思ったら、ああそうですか。私も高橋信次って名前は知っていたが、これは邪神だと思っていましたよ」なんてね。こういうことを言われることがあります。 それはね、神理の一面だけ見ているから、そういうふうになるんであってね、別に谷口さんがどうこうっていうことじゃないんです。まあ、時代時代があるんですね。法というものも時代に合わせていろんな説き方をされるんです。そして神理のいろんな面が出てくるんですね。 3.イエスの時代は「愛の時代」であった イエス様の時代には、つまり二千年前のイスラエルの時には、愛という点を全面に押してきましたね。愛という面ですね。イエス様は愛以外説けないかというと、そんなことはないです。もちろん何でも知っています。万能とまでは言えませんけれども。イエス様はそれは大工(だいく)仕事は知ってても、スペース・シャトルの組み立て方は知らないかもしれません。けれども、まあ彼の時代は愛ということを中心に説いた時代でした。 4.モーゼの時代は「正義の時代」だった あるいはイエス様の千百年か千二百年前のモーゼの時代っていうのは、これは、正義の時代だったのです。正しい者が強くなければならぬという、正義の時代だったんです。あるいは「義」、「義の時代」だったわけです。 5.釈迦の「慈悲の時代」と孔子の「秩序の時代」 釈迦の時代って何か。二千六百年ぐらい前ね。釈迦の時代っていうのは、「慈悲の時代」、あるいは「法の時代」、こういうことなわけです。 あるいは中国の孔子様って何ですか。儒学(じゅがく)ですね。あるいは儒教。儒教って何だろう。立身出世なんてあるけれども、人間としての完成の道ですね。それを中心に説かれた。主に道徳的に、あるいは人間の知性と理性に訴える形での「秩序」、そういうものを説かれましたね。 同じく秩序を説かれたのは、日本だと古代の天之御中主之神、天照大御神様、こういう方がたが秩序と礼節ということをしきりに説かれました。 6.神理は七十二面体カットのダイヤモンドのように光を放つ こういうふうに、神理は本当はいろいろな面があるんですよ。ところが、それをいっぺんに全部出しても分からないし、特色がないから、何か一つの特色を出すんです。その時代に。 出版社なんかでもそうですよ。今、日本に出版社何千あるか知らないけれども、みんな同じような本を出していたら、意味がないのです。それぞれの出版社に特徴があるから、それでいいんですね。 たとえば、こういう霊言ものでもそうです。ある出版社は本当に内容がいいような、諄々(じゅんじゅん)と説得するような内容のものしか出さないという出版社もあります。 あるいは悪霊専門でね。悪霊でもなんでもいいと。とにかく売れればいいと。悪霊篇でよく出している出版社もあります。 あるいは予言がやたら好きで、予言ばっかり出している出版社もあります。 こういうふうにいろいろあるのですね。霊的なものが好きといっても、こういうもんであって本当にいいのです。特色があってね、それぞれがやる意味があるんです。 だから私たちの法というのもそうで、いろいろな時代にいろいろな面が出てくるんです。ですからそれを、あるものは正しくて、あるものは間違っているなんて言ったら、これは違うんですね。そうじゃありません。 やはり、ダイヤモンドみたいなものでね。ダイヤモンドでもいろいろなカットの仕方がありますね。十二面体、二十四面体、三十六面体、七十二面体。私は持ったことがなくて知らないから、人づてに聞いたことでしゃべっているんだけれども。三十六面体カットとか、七十二面体カットとかいろんなのがあるんでしょ。持ったことがないのでよく分からないんですが、一度ぐらい手にしたいと思うんですけれども。そういうカットの仕方がある、と聞いています。 そういうふうに神理っていうのは同じようなものなんですよ。多面体なんです。そしてそれぞれの面が、いろいろな時代に、地域に合わせて、チラチラ出てくるんですよ。そして、その面を通してね、ダイヤモンドを感じ取りなさい。そういうことなんですよ。 そういう意味で、神理が七十二面体だとするとね、七十二面体の一つが、たとえば「愛」であり、「礼節」であり、あるいは「慈悲」であり、あるいは「義」であると。こういう一つ一つの面なのです。 あるいは里見ハ犬伝みたいなのを出してくりゃあ、「忠」だとか「孝」だとかいっぱいあります。昔からあるものは、「仁」だとか「信」だとかあります。こういうのが面なんです。こういう面がチラチラ出てくるんですね。 7.正義の時代のエホバは「偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)」を排斥した じゃあモーゼの時代、つまり、正義の時代のエホバ神というのは本当の邪神であったか。これの検討に入らねばならぬと思います。そうじゃないんです。皆さんは、今の時代だからそう思うだけでね。当時はそうじゃなくて、非常に人殺しのはやった時代なのです。それと今もありますけれども、いわゆる邪教、本当に間違った信仰というのが多かったのです。 とくに人びとは偶像崇拝というのをやっていまして、要するに金儲けの神様です。今流に言えば、銭儲けの神様を一生懸命信仰しておったのです。まあバール信仰なんていうのもそうですけれども、分かるように言えば「招き猫」ですね。招き猫の信仰というのをやっておったのです。 皆さん今、招き猫の大きいのを、五メートルぐらいのを作ってね、これを本部にすえて、招き猫の前でみんなで右手なんか曲げちゃって、「はい、これが招き猫のポーズですよ」「これが正しい精神統一の方法です」と。 ご本尊の招き猫の前で、こうみな手を立てちゃって、「はい、これで商売繁盛です。儲かります、儲かります。招き猫です、招き猫です」と、これをやっとるわけです。とんでもないです。 こういうのを見ると天上界からエホバの神は、「そういう間違った信仰はやめなさい。招き猫なんか、いくら拝んだってあなた方、本当に正しい生き方できないんですよ。本当に神理っていうのが分かんないんですよ」と、そういうことを言ったわけです。「そういう招き猫なんかやめて、人間としてちゃんと働きなさい。汗水たらして朝から晩まで働きなさい。そして人とうまく調和しながら生きていく中に、人間としての繁栄があるのです。本当の発展があるんですよ」と。 だから招き猫は打ちこわして、捨てちゃって、猫の一匹や二匹飼ってもかまわんけれども、そうぃう猫におこぼれあげるくらいの収入を得るように、ちゃんと働きなさいよ。そういう招き猫を拝んで利益を得るよりは、あなた方日常生活の中で、日々コツコツと努力し商売し、他人との関係を調和しながら、立派になっていきなさい。それが最高ですよと。まあこういうことを教えたわけです。 その時にたとえば、こういうようにエホバ神はね、「我以外には神なし」と。「招き猫と我とは違うぞ」と。「諸君よ、招き猫の神は偽物(にせもの)である」と。「招き猫の神は捨てなさい。我以外に神としてはならぬ。拝んではならぬ。奉(たてまつ)ってはならぬ」と言ったわけです。じゃあこれは妬(ねた)みの神だから邪宗かっていうとそんなことはないですよ。 別に、招き猫と私は競争しているわけじゃなかったんですけど、そういうのはおかしいですと。招き猫のお化けなんか飾っちゃいけないのです。そういうことを言ったわけで、まあ、これを称して「妬(ねた)むもの」というのは勝手です。「妬むもの」というのは言い過ぎであってね、「我は排斥する者」と。要するに「我は悪しき者を排斥する」するという意味ですね。 ですから、寛容ということも宗教には大事です。けれども、かたや左側には高橋信次の肖像画をかかげて、右側に招き猫の、五メートルかね、実物大以上かね、招き猫のお立ち台か何かつくっちゃって、両方に手を合わせちゃったりして、こっちも正しい、あっちも正しいよ高橋信次っていうのは高電工業で金儲けうまかったけれども、他人に金儲けはあまり教えなかったと。そういったところで法に欠陥があると。そういうことで、招き猫の神というのは、その欠陥を埋めるに余りあるご利益(りやく)がある方たっていうんで、高橋信次の肖像に向いて、経典の「心行(しんぎょう)」なんか読んじやって、「大宇宙、大神霊、仏よ」なんてやっているんです。 そしてそれが終ったと思ったら、じやあ、ちょっと次は銭儲けの方をやらなきやって、チーンと叩きながら、「ハイ招き猫ね。今日は、これが目刺しの頭の残りですよ。これでご利益下さいよ」とやったら、やっぱり高橋信次の肖像画が、ガタガタガタガタゆれ始めてね、「こら、何やってるんだ、そんなことをしちやダメだぞ」と。「俺だってあなた、目刺しの頭ぐらい食べたいぞ。こっちへ持ってこい」なんて、やっぱり言うわけですよ。そして、「その招き猫やめなさい」なんて、言うわけです。まあ、これを妬みの神と言うか、目刺しの頭食べたいといって妬んだか、まあ言い方はあるでしょうけれども。 8.あの世から見れば邪宗(じゃしゅう)はすぐ分かる まあ、こういうのは方便でありまして、やはり正しい信仰に帰依(きえ)しなさいということだったわけです。 私たちから見ると、つまりあの世から今の地上を見ると、邪宗、邪教というのはよく分かるんです、間違っているのは。とくに「光の天使」たちが指導している宗教というのは、これは、すぐ分かるけれども、光っていない「曇りの天使」たちね、頭が真っ黒になった霊たちが指導している宗教団体というのも、すぐ分かっちゃうんです。 だから本当は、正直な人間であれば、「それはちょっと違ってますよ」と本当は教えたいんですね。本当は教えてあげたいんです。「その教えは違っていますよ。そんな方に行ったら、あなた、もうトントントンと地獄のいちばん奥の方まで行っちゃいますよ。それでいいんですか」なんて、ほんとうは言いたくなるんです。 だからたとえば、私は天上界でも、新聞は非常に興味を持って読んでいるんですけれども、今日の読売新聞を天上界から眺めてみると、ある密教食をつくった宗教家が、薬事法違反で摘発されていました。そういうのを私は見てました。「オー、やったな。とうとう見つかったねえ」なんてね。 一時期十年ほど前から密教食ブームなんてあってね、これを食べれば念力がついてくるなんて言って、健康になって念力がついてきて、念力で護摩(ごま)の火がたけると。念力で大学に合格したり、彼女を射止めたり、念力で給料が増えたりいろいろすると。こういうことで、密教食を食べながら数珠(じゅず)をもんでたら、だんだん力がついてくると。まあ、こういうのを言っているところがあります。 こういうのをあの世から見てみたらいろいろ分かるわけです。「その密教食、薬事法違反にそのうちなりますよ」とね。まあそういう余計なことを言わなくてもいいんだけれども、「あんまり、そちらの方向へいって念力つけたって、下の方のチャクラばかり開いちゃって、本当の精神統一できませんよ」と。たとえば、あの世からエホバ神ならぬ高橋信次がお節介にも言うことができるんです。 ただそういった結果、どうなるかというとね、「あー、高橋信次は多分、密教食を食べたくてしょうがないのに、あの世で手に入らないので、それでひがんでいるに違いない」と。「高橋信次の墓の前に密敷食を持っていって、それをパックにして置いてやったら、多分喜ぶに違いない。時どき、一日一回、水をかえてやったら喜ぶだろう」と、たまには花の一つもかえてやろうか」と。「多分ひがんどるんだから、妬みの神だから」と。まあ、こういうふうにとる人がいるでしょう。そういうわけじゃないということです。 ですから、あの世から見てると、この地上の中で、おかしいのがよーく分かるんです。それを正直に言い過ぎると、妬みの神になっちゃうわけです。あるいは怒りの神になっちゃいます。 9.神仏は崇(たた)るか あと、よくありますね、神仏が人を罰するか。天変地異っていうのは、神仏の怒りであるかどうか。これについても私は、答えとかねばいかんと思います。まあよく新興宗教でも多いですね。「うちの宗教を脱会すると、脱宗すると神の怒りにふれて、お前に祟(たた)りがあるぞ」と。いわゆる「崇り」ですね。 崇リの問題について、崇りは本当にあるかということをちょっとのべておきましょう。神仏、あるいは高級霊たちが崇りを起こすかというと、絶対、これはあり得ないです。私はこれをはっきり言っておきます。崇りはありません。 だから、たとえ、高橋信次のご遺影にね、お小水をかけたとしても、私は面白くないのは当然ですけれども、それで崇ってね、夢枕に出てきて、その人をこらしめて、あと腰か何かに取り憑(つ)いちゃって、腰がたたないようにするかというとそんなことはしないです。いくら何でも、私もそんな暇じでありません。 ところが、そういうことをする霊もあります。それは地獄霊たちです。とくに動物霊たちがそうですね。動物霊たちは、よく分かんないから、無礼をされたからとか、「あの野郎失礼を働いた」なんて、こういうことで怒ることもあります。よく社(やしろ)なんかありますね。お孤さんなんか祭ってあります。それで稲荷大明神を祭ってあるところに本当に稲荷大明神がいるかっていったらいやしないのです。そこにいるのはたいてい狐の霊です。 動物霊たち、それもたいてい餓鬼地獄(がきじごく)に堕(お)ちた狐の霊たちで、お腹空(なかす)かしているのですね。お腹空かして、ひもじいひもしい思いでいます。そして人が何とかしてね、油揚げでも何でもいいから奉(まつ)ってくれないかと思っているんです。彼らはもちろん食べることはできないけれども、油揚げを供養(くよう)するというような気持ちだけでね、それで満腹感が少しはあるから、それが欲しくてそういう大明神の社にいるんです。 で、そこに来ていろいろな人が手を合わせたり、ご飯持ってきたりすると喜んでいるわけです。 ところが不埓(ふらち)な者が来て、「何だこんな稲荷犬明神、こんなものあんた、信しんぞ、俺は」と言ってね、放言してぺーっと唾(つば)をはいて帰ります。すると稲荷大明神ならぬお狐様は怒っちゃいますね。「この野郎、俺に対して失礼なことをしたな。これは許せん」ちゆうんで、頭に取り憑(つ)いてきます。そうするとその人は、一晩寝ると、翌日あたりから頭が痛くて痛くてしょうがない。そして肩が凝(こ)って凝ってしょうがない。腰が痛い。こういうことになってきます。 ですから地上の皆さん、信仰している人も、していない人も、急に頭痛がしたり、頭痛持ちで、頭が割れるように痛い、あるいは肩がいつも重い、肩が凝る、こういう人というのはよく狐霊に憑かれています。よーく反省してみなさい。 そして腰が重い。あるいはリューマチね、足が冷える。こういうのは蛇の霊が多いです。とくに冷え性というのは蛇の霊が多いですね。冷え性の方はとくに蛇と縁がないかをよーく考えなさいよ。どこかの水神(すいじん)さんか何かに行って拝んだりしてないかどうか。こういうことがあります。 ですから崇(たた)るというのは要するに悪霊です。それも、そういう社(やしろ)とか、祠(ほこら)とかに巣くっている悪霊がほとんどです。だから気をつけなさい。高級霊はそういうことはありません。 10.天変地異は地球の生命体の自浄(じじょう)作用 あと、神仏が人類に罰を与えるかどうかだね。まあ結果としてね、罰に近いような現象があることはあります。それはあるんです。たとえば、ソドムとゴモラという都市がありましたね、悪徳の街、人びとが欲望にふけり、金儲けと淫欲(いんよく)、性欲にふけっていた街。神は、これを怒り、怒りの火で焼かれたと。死の灰を落とされたという記録が旧約聖書にありますけれども。過去を見ると不調和の都市というのがやはり沈没したり、火山の噴火で埋まったりすることはあったようです。ただ、これが神仏の怒りだというのは間違っているんです。そうじゃないんです。 皆さんにこういうことを言って分かるかどうかしりませんが、地球自体が一つの生命体なんですね。そして生きておるんです。生きておって、やっぱりいろんなものを感じ取る能力を持っておるんです。地球の生命体が。そうして、たとえばそこの中で、ある土地に行くとする。犯罪都市などのような、人びとが不調和な想念を持って生きている土地っていうのは、地球の生命体も非常にそこが病んでくるんです。非常に病んできて、何とかそこを浄化したいという気持ちが起きるんです。そうするとそういう浄化したいという気持ちが、一つの反作用となってあらわれるんですね。反作用となってね。それで地殻(ちかく)変動とか天変地異なんかになりやすいんです。 そのもともとは何かと言いますと、そこに住んでいる人のそういう不調和な想念、これがやはり原囚を作っているのです。人びとの黒い想念の曇りが神の光をさえぎり、その反作用として、たとえば大陸が沈没したり、そういうことがあるんですね。 11.アトランティス大陸沈没の真相 アトランティスという大陸が今から一万年ぐらい前にありました。ところが、そのアトランティス大陸が一夜にして沈んだということになっています。これは、歴史上の事実であります。どうして沈んだかっていうと、結局その末期のアトランティスにおいては人びとの心がすさんで、光の天使たちを次つぎと殺戮(さつりく)するような不調和な行為を起こし、その結果、地球の生命体、意識体が反作用を起こしたのです。そうしてその意識体が陥没(かんぼつ)を起こすようなことになったわけです。 こういうふうに地球自体が、自浄作用というものを持っておるんです。言ってみれば、徽(かび)かばい菌なんです、そういう人たちというのは。徽やばい菌が、いっぱい自分の表面についていると、地球だって時どきお掃除するのですね。そういうことがあります。 けれども、それは罰というよりは、やはり作用・反作用の法則なのです。大宇宙の法則なんです。ですから神仏は罰を与えません。しかし、そういう法則はあります。 12.本当の裁(さば)きの神とは個々人の内部神性 ですから、同じことが言えるのであって、正義の時代、正義の法というのも一緒です。裁きの神というのがあるのかというと、裁きの神ならそれができると言われているように、善悪を私たちは区別できます。善悪を分かつという意味での裁きの神というのはあるかもしれません。ただ本当の裁きというのは、人間個人個人が、自分自身を裁くんです。 これが分かるでしょうかね。皆さんは地上に生きている時にやりたい放題、したい放題の生き方をしていますけれども、死んであの世に還った時にみんな、裁きというのを受けるのです。その裁きは閻魔(えんま)大王が裁くのではないのです。閻魔大王が裁くなんて今だに思っている人がいるだろうけど、そういうのはたわごとです。閻魔さんは忙しいんです。地球には五十億も人間がいます。それを一つ一つ裁いておったら、もうとても書類がたまってしまい、今の日本の裁判みたいに十年ぐらいかかります。だからできないのです。 そうじゃなくて、やはり一人一人の心の中に、神仏の子としての神性、光の子としての自覚があるのです。これがあの世に還った時に、目覚めてくるんです。その光の子としての自覚が、自分自身の六十年、七十年の人生航路を裁くんです。その結果、不調和な行動が大きければ、その垢(あか)を落とすために、厳しい地獄界での修行にはげんでくるのです。 また光明に満たされた生活をしてきたのならば、その神性が自分自身の神の子の本質に適(かな)うということで、天国で素晴らしい生活をします。 13.人を裁くよりも彼らの良心を信じよ こういうふうにあくまでも、一人一人の自分自身の中にある、善我(ぜんが)なる神性が自分自身を裁いていくのです。そういう意味で私たちは、あの世から善悪を裁くことはできるけれども、それは、あくまでも一人一人にまかせてあるのです。 だから地上の人たちも、これが正法で、これが悪法だといって、裁きたい気持ちっていうのがいっぱいあると思います。でもまあ神様は、どんな悪人に対しても、その人の寿命が来るまで待ってあげているでしょう。なんで放置してあるんですかね。悪人は人一人殺したらすぐ寿命を奪ったらいいじゃないか。それを奪いもしないで放置してあるでしょう。悪人が六十、七十、九十、まで生きます。何で放っとくんだろうと思う。やはり神様でもね、それだけ待たれておるのです。チャンスを与えてくれておるのです。そういうふうに、死んであの世に還るまでは、その人を裁こうとされていないのです。 であるならば 、地上に生きているあなた方もね、生きている間にあまり人を裁こうとするなということです。その人たちの良心を信じて、その人たちが良くなっていくことを祈ってあげなさい。そういうことで、正邪を分かつことも大事だけれども、悪法がいっぱいあっても、あんまり裁いちゃいけません。 そうじゃなくて彼らの良心を信じながら、自分たちの正しい行いを積んでいくことです。それが大事です。ですから刈り入れの時が来るまでは、神様は刈り入れされないのです。刈り入れの時までに毒麦が、麦の中に入っているかもしれないけれどもね、毒麦であっても、刈り入れの時まで神様は、刈ろうとしないのです。 だからそれをよく思い出して、あなた方も今、正義、正義といって正しいことは間違いないんだから、他のは全部罵倒(ばとう)するかというとそうじゃなくてね。刈り入れの時まで神様が待っておられるんだから、あなた方もそれを待って、ただ自分自身がたわわに稔っていくように努力していきなさい。 自分の畑、自分の田圃(たんぼ)を立派なものにしていくように努力していきなさい。それが、いちばん肝腎なことですよ。まあそういうことですよ。今日はいいかな。
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目次 1.行動の価値基準としてのユートピア価値 2.ユートピアを阻(はば)むもの 3.ユートピア出現のための公式 1.行動の価値基準としてのユートピア価値 さて、以上で、現代日本のあり方を踏まえたユートピア像をお話しいたしましたが、これからほんとうにどういう世界が展開してくるのか、どういう世の中になってゆくのか。また、どうしたものに、値打ちがあるとされていくのか。このユートピア価値についての話をしてみたいと思います。 まず、最初にいっておかなければならないこととして、私たちは、神理価値という言葉をよく使っています。神理価値とユートピア価値は同じなのか、違うのか、このあたりについて、誤解・混乱もあることでしょう。さすれば、ここで説明をしておきたいと思うのですが、もちろん両者は重なる部分もあります。また、同じように使っていることもあります。しかし、違うところがあるのです。 神理価値とは、時代を超え、地域を超え、あらゆる場所において、環境において揺れることのない価値、すなわち神の正法神理そのものの値打ちのことをいいます。これは、いかなる時代が来ようとも変わることはありません。これを法価値と言い換えてもよいでしょう。正法神理、久遠の法は、その値打ちを滅ずることはありません。いつの時代も同じものが人類の歴史を貫いて流れています。 ユートピア価値も、たしかにこの流れのなかに現われてくるものですが、しかしながらユートピア価値のユートピア価値たる所以(ゆえん)は、その時代性と、地域性、また集まっている人のその集団としての性格に大きく影響されることがあるということなのです。これはどういうことかというと、神理価値というものが、本来は存在の価値、それ自体存在することが値打ちのあることであるという価値であるのに対して、ユートピア価値とは、存在価値ではなく、行為価値、行為をするその実践のなかに生ずる価値であるのだ、ということなのです。ここに違いがあるのです。 神理価値を存在価値というふうにもいいましたが、別な言い方をするならば、精神的価値というふうにいってもいいでしょう。精神の問題です。メンタリティーの問題です。これが神理価値です。もちろん、思いと行動とはつながっているものですから、両方とも共通したところはあります。基底にはありますが、ユートピア価値とは、実践に転じるところにおいて生じる行為の価値なのだということなのです。ここが、大きな違いです。 したがって、行為に転ずる、実践に転ずるというこの観点があるがために、時代性、地域性、あるいは集まった人たちのその群れの性格というものが影響することになります。そのような時代と地域と人という要素を抜きにした実践ということはないからです。かならず、真実の神理価値は同じであっても、その場所・時代・人、この三つの要素とその組み合わせによって現われ方は変わらなければならないのです。すなわち、本来の神のお心をいかなる姿で地上に現わすか、具現するか。その具現のしかたの過程において、生じる価値のことをユートピア価値といっているのです。このユートピア価値は、やはり、大きく考えるならば、そのなかにも、精神的なるものと、結果的なるものとがあると思います。 すなわち、ユートピア価値は、ふたつの要素から成り立っているのです。一つは、動機です。いま一つは結果です。動機としていかなる動機があったか、結果としていかなる結果が出たか。この両者を満たしたならば、ユートピア価値はあったといえるのです。動機のみ値打ちがあって、結果が生じなかった場合は、未完成品です。動機が違っていたが結果だけOKたった、まあこういうこともないとはいえません。 竹薮から二億円が出てきたが、それが実際、社会福祉のために、ほんとうに使われたというのなら、まあこういうこともいえるでしょう。そういうことも絶対にないとはいえないでしょうが、そのようなことを期待するだけでユートピアができるはずもありません。 このように、動機の部分と結果の部分、両方の完成をもってユートピア価値は成り立ちます。もちろん、さらに三分法で考える人であるならば、動機、過程、結果の三つでとらえることも可能でしょう。しかし、話を簡単にするために、動機と結果の二つに分けて話を進めてみたいと思います。 すなわち、これから提唱しようと思っている考え方は、みなさんの行動の価値基準の問題なのです。今までみなさんは、どのように行動してこられましたか。あるいは、生きてこられましたか。今日、一日というものをとりあげたときに、今日一日どのような意思決定をされましたか。そしてどう行動されましたか。どういう経路で、ここにたどりつかれましたか。 今日一日の思いと行動の連鎖はどうでしたでしょうか。あるいは、今日に至るための過去数十年の人生は、どうでしたでしょうか。そのときに、みなさん方の行動を支配していた考え、規律していた考え、それは何ですか。みなさんは、何に基づいて判断をし、そして行為を選び取りましたか。その結果、いかなる反応、あるいは成果が現われましたか。何をもって、みずからの行動のための、生きていくための実践基準とされましたか、私はこれを問うているのです。 みなさんが、たとえばある講演会に行かれたとします。そのとき、そこへ行くことを決めた動機は何ですか。そうして、その動機に基づいて、そこに来たという結果が出るわけですが、来てそれはどうなったのでしょうか。この二つが問われるわけです。まず、会場に来ようと思いたった動機のなかに、いったい何があったか。その動機のなかに、何かあったかを考えていただきたいのです。そのときに、「金曜の夜はひまだなあ。世の中の人びとは花金とかいって、どこかへ行くらしいが自分には誘いもない。お金もない。ここなら、まあお金もたいしてかからないし、飲み食いするわけでもないし、まあ何とかなるだろう。」などと時間潰(つぶ)しのために来た人もいるでしょうが、動機が不純です。だめです。動機のところでやはり問題があります。「行くところが無いので来た。」とか、「雨やどりに来た。」とか、このような理由もだめです。動機においてだめです。「何かいいことでもあるのではないかと思って来た。」このあたりもちょっと不透明です。まだ、ちょっと曇っています。そのようなところもあります。「会員になったから、一回ぐらい出ないと損をするから。」というのもちょっと動機不純です。だめです。その動機を考えていただきたいのです。「同じように会費を取られているのに、東京の会員のところにはたくさん行く機会はあるが、地方の会員のところにはめったにないので損をしている。だから取り返さねばならない。」このへんはやはり、あまり天国的な考え方ではないと思われるわけです。そのように、動機の部分を点検していただきたいのです。いろいろあると思います。 そのときに、やはりこのチャンスを生かして、自分を変えていこうとし、その変えた結果、向くべき方向として、何らか世の中に還元できるような、世の中に対してよき影響を与えるような自分になりたいなと思って来るのであれば、まあまあ合格圏内に入っているわけです。「講演者の顔つきを一回だけ見てから帰ろう。」など、これではだめです。こういうのは失格なのです。「連続セミナーの講義というので、珍しいから来てみよう。」とか、まあこのようなのもちょっとあぶない感じです。このあたりをよく考えていただきたいのです。 また逆に、気持ち、動機の面においては、たしかによい動機で来られた。「ヨシ、これで何かを勉強してつかんで、そして、職場に帰ってあるいは家庭でこれを実践に転化してがんばろう。」と思ったが、思ったに止まった。帰ってみると何を聞いたか忘れてしまった。まあこれはやはりだめです。結果のところでだめなのです。動機はよかったが結果までいっていない未完成品です。思いとしては、たしかに残ります。残りますが、これは点のようなもので、テンテンテンと点が続いているものです。あるいは、表現はよくないのですが、にわとりのフンみたいなもので、ポンポンポンポンと落ちているだけで、何の役にも立たないのです。通った跡だけはわかりますけれども、なんの役にも立たないのです。道路のように舗装をきっちりとするならいいけれども、にわとりのフンでは何の役にも立ちません。 このように、大きく考えるならば、動機と結果の二つに分かれるのです。 2.ユートピアを阻(はば)むもの ①結局自分に返ってこないと満足しない心 ユートピア価値を成り立たせるものは、動機と結果の二つに分かれるが、このユートピア価値そのものがめざしているものは何なのか。ユートピア価値と反ユートピア価値というべきものがおそらくあるでしょう。ここを見分けるのはいったい何であるか。これについて話をしておきたいと思うのです。 これはユートピアを阻害するものといった考えにもなるかもしれません。ユートピアを阻むもの。こういう考えにも、おそらくなるでしょう。ユートピアを阻むものとはいったい何であるか。これを見抜いて、その反価値に対して、抵抗しなければならないわけです。 ユートピアの実現を阻むもの、それは、大きくいって二つあると思います。一つは、自分自身の問題です。自分自身の問題として、ともすれば、すべてが自分に返ってくることを願う気持ちがあります。何だかんだいい、「思いだ、行いだ」といっているが、けっきょくは自分に返ってこないと満足しないという思いがあります。抽象的にいうならば、そういうことです。自分に返ってこなければ、やった値打ちがないと思う心です。これが、やはり一つあると思うのです。 それは、たとえば、ほんのちょっとした違いだと思うのです。紙一重の違いだと思います。たとえば、私が何かの講演をするといたしましょう。これはスケジュールを組んであるからするといえばそれまでです。そして、講演会場に来ました。二時間の時間を頂戴したとしましょう。そこで、私が考えることは、私も毎週、毎週行事をやっているわけです。先週も地方へ行きました。今週も行きました。今月末もまた行きます。ちょっと出前のそばのようなものなのです。少し値打ちが落ちているのです。あまり行くものだから、出前そばのようなもので少し値打ちが落ちているのですけれども、そうするとどう考えるか。「まあ何回も講演するのだから、一回や二回手を抜いてもいいのじゃないか。」とまあ、気持ちはうずくこともあります。 しかしながら、せっかく時間を二時間いただくのだから、そういう自己保身に生きるより、手は抜くことは抜くが、抜き方にも問題があるだろう。やはり上手に抜きながら、やはりためになる話をするのが芸術的なやり方ではないのか。そのような妥協点を出すという考え方もあるわけです。 ですから、同じく二時間の講演をするのに、とにかくやればいいのだ、行事を消しこめば、消化すればいいのだという考えもあるでしょうが、せっかく来たのだから、集まられた大勢の方に何かつかんで欲しいなと思う気持ちがあるかどうか、これは神様が判断しているので、その評価は私にはわかりませんけれども、同じようにしてもそういう判断がやはりかならずあるわけなのです。そして、それが動機の部分なのです。 そして、結果においてはやはり二つに分かれるはずです。結果においては、講演会場に訪れたみなさんは「ああ、よかったな。」と思いつつ、帰る道にもう忘れてしまったという人が多いか、それとも何か種火のようなものを心のなかに残して帰れたか。やはり、結果は二通りあります。私の仕事においても、やはりそれは働いてくるわけです。自分だけに返ってくる心、すなわち講演に来て、みんなに「ああ、いい講演だった。」といわれたいというそのことのためだけに来ているかどうか。そういう気持ちで来ているか、受講料がいくらか知りませんが、「高かった。」といわれないためだけに来ているか、とかいろいろあるでしょうけれども、このへんは、やはりかならず何らかのリトマス試験紙にかかっているのです。かならす、はかられています。 一つひとつの行動に関する思いですが、全部これは毎日毎日、一日のなかでも一時間、一時間のすべてにほんとうはフィルターがあるのです。神様のリトマス試験紙が試験管のなかに、私のなかに入っているのです。赤くなったり青くなったりいろいろ変化しているのです。変色しているのです。かならずこれは、調べられていることなのです。みなさんも同じなのです。 ですから、まず、反ユートピア価値としては、自分自身にすべての結果を期する心がないかどうか。これが一つの点検です。 ②他人の不幸を喜ぶ心 もう一つは何であるか。これは、ひじょうに悲しい話ですが、自分以外の他人に対する思いとして、他人を現在より低く評価する、あるいは他人が失敗をする、何か他人のグレードが下がることによって喜びを覚えるような気持ち、これが出てくるかどうかということです。これが明らかに反ユートピア価値なのです。 すなわち、ユートピア価値のなかには、抽象的にいうならば、心の価値、心のなかのユートピアと、あるいは実際、具体的な実社会における活動、あるいはその結果としての共同体としてのユートピア、こういう内と外、私と公の両方があるわけですが、これを精神価値として話をするならば、自分に成果を帰する心、これがあるかどうかと、他人をおとしめる心があるかどうかの点検です。大きくいえば、この二つです。他人をおとしめる心は、これもまあけっきょく自分だけが残ることになりますが、このようなものは少なくとも社会において有用なるものを生み出すという力には絶対にならないということです。 他の人が下がっていく、不幸になっていく、こういうものを見て喜ぶ気持ちがもしあったなら、これは明らかにユートピアの価値として、よき理念によって、思いによって、理想によってよきものを、よき建造物をつくり出すという、この考え方に反しているのです。 ですから、きわめて消極的な判定かもしれませんが、まず自分自身に成果を帰する心がないかどうか、また、他人を害するか、他人の不幸を喜ぶ気持ちがなかったかどうか、これはぜひとも点検していただきたい項目なのです。これがあるうちは、ユートピア価値の名のもとに行動しているとはいえないのです。 この二番目のことについてさらにいうならば、逆にいって、他人が上がることによって、おもしろくないという気持ちがあります。破壊的になる気持ち、極端にいえば暴れてみたくなる気持ちとか、いろいろありますけれどもこういうところをいえば、これもやはりユートピア価値ではないのです。他の人が、すばらしい服をプレゼントされて、うれしそうに着ている姿を見て、「何だ、あんな服。」といわなければならない心は、明らかにユートピア建設の逆を行っているということです。それはすばらしいとやはり認めなければならない祝福の心が要りますよといっているわけです。 他の人が出世をしたのを見て、「きっとゴマを擂(す)ったに違いない。」といいふらさなければ気がすまない心は、これはすでにもうユートピアをつくる力はないということです。他の人が出世したのなら、喜んであげることです。そして、なぜ出世したのかをよく考えて、自分に足りないところがあれば学べばよいのです。自分もそのようになろうとする心がだいじです。祝福の心が大切です。これは何度もいっているとおりです。これもユートピアを創っていくための力なのです。 この二点を、ますチェックしてほしいのです。これがユートピアに反する価値なのです。この二点です。 3.ユートピア出現のための公式 そして、さらに積極的なユートピア価値として、私たちが目標とすべきものはいったい何であるのか、これをユートピア価値として掲げるべきであると考えるものは、何であるのか。それは私たちは、まず他人の喜びを自らの喜びとすることができる、そういう心境を確立するということかだいじであると思います。個人の目標としては、他人の喜びを自分の喜びとすることができる、この心境をぜひとも確立する必要があります。これは、積極的なユートピア価値です。他人の喜びを自らの喜びとする。そう公言してけっして恥ずかしくない気持ちになったとすれば、これは大きな力です。これはユートピア推進のための原動力なのです。他人の喜びを自分の喜びとする。こういう人で世の中が満ちなければ、ユートピアは絶対にできないのです。 一人が幸福になれば、他の人が不幸になるというような関係であれば、世の中はほんとうに幸福に満ちることはないのです。そういう、パイの取り合い、ゼロ・サムのゲームではけっしてないのです。他人の喜びを自分の喜びとして喜べる人が溢れてこそ、ユートピア世界はできるのです。そのときに理想世界はかならずできるのです。まず、これは第一点として、肝に銘じていただきたい。他人の喜びを我が喜びとする、その心境をぜひともつくる。この考えがだいじです。 第二点は、自分の一生をかけてのこのユートピアに向ける仕事量です。これを最大限にするということです。一生をかけての仕事量とは、自分の人生の長さがあります。人生の長さ、五十年の人も八十年の人もあります。この人生の長さに掛けるところのユートピアに対する能力係数というものがあります。ユートピア係数です。これはある意味でいえば霊格です。六次元から来た方、七次元から来た方、八次元から来た方、こういう霊格があります。 ですから、ユートピアのために使った絶対時間、五十年であれば五十年掛けるところの、ユートピア係数、たとえば八次元から来たならば、〇・八、七次元ならば〇・七、六次元なら〇・六、五次元であるなら〇・五、四次元はちょっと難しい、〇・四ないしはマイナスのどちらかですが、マイナスがつけばその他の項はプラスなので、残りの項のすべての積としてはマイナスになります。どちらかです。 すなわちユートピアのために使った絶対時間、この時間掛けるユートピアヘの能力係数なのです。そして、さらには掛けるところの情熱です、これが入るのです。情熱の量、この総量がこれにかかってきます。これが公式です。 ユートピア出現のための公式は、このユートピア建設のための仕事量、この総量を、各人における総量をもちろん増やすとともに、全体における総量である、このユートピア建設のための仕事量の総合量をどうしても増やす必要があります。 そうしてみますと、今の考え方、まず年数、これはもちろん寿命と考えれば各人決まっていますが、ユートピアの建設にめざめてから活動した時間と考えれば、それは伸び縮みはします。長くすることもできます。短くすることもできますが、いろいろあります。十年、二十年、三十年、それは人によって違います。ですから晩年になっている人、これはもう短いです。五年か十年しかない。若い人の場合はこれが長いという有利さが絶対にあります。若い人の場合、五十年ある。晩年なら五年か二年か一年しかないかもしれない。ここはひとつ公式の上にいれてください。この年数が入ります。 そして次にくるものは自分の心境です。まあ共鳴し学ばれている方であれば、いろいろ試験も受けられたり、人と話をされたりしてだいたい推定がつくかと思いますが、学んでおられるみなさんというのは、最低限六次元ぐらいの心境でありたいとは思っていますから、五次元であると自分を思っている人はあまりいないのです。みんな六次元、最低六次元の下段階ぐらいには入っているとたいてい思っているのです。そう思わなければ、学びには来ないのですから、たいていは思っているのです。一応そのぐらいに考えているでしょうから、そう思える場合は〇・六ぐらい掛けてけっこうです。六次元のなかほどにいると思えば、〇・六五でもけっこうですし、ほとんど七次元と思えば○・六九でもけっこうですけれど、まあそのぐらいだと思ってください。そして、あとは情熱の量です。 そうしますと、実際に出てくる仕事量という結果は霊格とかならずしも比例しないのです。どうですか。みなさん、霊格はいろいろあるのに仕事量が違うのが不思議に思うでしょう。それは、この公式によるのです。すなわち、かなり最後になってめざめた場合には仕事量としては減ります。年遅くしてめざめた場合には仕事量が滅ります。あるいは、霊格が高くとも年数が少ないか、あるいは情熱が少なければ仕事の総量は減ります。霊格的に能力係数は低くとも、年数が長く情熱が大きければ仕事量としては大きな仕事ができるのです。 ですから、この掛け算において最高の結果を出すようにがんばってほしい。さすれば、五次元の住人であろうが、六次元の住人であろうが如来、菩薩に匹敵するような仕事もできないわけではないのです。総量としては、それだけの貢献ができないわけではないわけです。この総量を増やすことこそが、実際はユートピア世界を建設するための大きな力になるのです。
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【書きかけ】竹田恒泰「日本人はなぜ日本のことを知らないのか」(2011) 日本人はなぜ日本のことを知らないのか (PHP新書) 評価 ひとこと 分類 日本歴史 新書 目次 第Ⅰ部 日本はいつできたのか 日本の教科書は世界の非常識 憲法の根拠は「日本書紀」にあり 神武天皇の否定は初歩的な誤り 戦争なく成立した奇跡の統一国家 中国から守り抜いた独立と自尊 国を知ること、国を愛すること 第Ⅱ部 子供に読ませたい建国の教科書 先土器時代以前 新石器時代と日本の縄文時代 戦乱の弥生時代 古代王朝の誕生と古墳時代の幕開け 独立国への苦難の道 律令国家の成立 気になる表現 メモ 参考文献 安藤雅雄「旧石器時代の日本列島史」 井上秀雄「古代朝鮮」 今谷明「室町の王権 足利義満の王権算奪計画」 岩崎卓也・常木晃「国家形成の考古学」 植村清二「神武天皇 日本の建国」 沖森卓也「日本語史概説」 笠原英彦「歴代天皇総覧」 金関恕「古墳のはじまりを考える」 上垣外憲一「古代日本 謎の四世紀」 唐古・鍵考古学ミュージアム「ヤマト王権はいかにして始まったか」 倉野憲司校注「古事記」 国史大辞典編集委員会「国史大辞典」 坂本太郎ほか校注「日本書紀」 佐藤洋一郎「DNAが語る稲作文明」 佐原真「戦争の考古学」 佐原真「日本の考古学」 産経新聞生命ビッグバン取材班「ここまでわかってきた 日本人の起源」 志村有弘「天皇皇族歴史伝説大事典」 白石太一「古墳とヤマト政権」 白石太一「考古学と古代史の間」 高城修三「神々と天皇の宮都をたどる」 竹内睦泰「超速!日本史の流れ」 武光誠「大和朝廷と天皇家」 田中卓「教養日本史」 玉田芳英「史跡で読む 日本の歴史1」 堤隆「ビジュアル版 旧石器時代ガイドブック」 寺沢薫「王権誕生」 遠山美都男「白村江」 遠山美都男「天皇と日本の起源」 戸沢充則「縄文人の時代」 中西輝政「帝国としての中国」 奈良の古代文化研究会「纏向遺跡と桜井茶臼山古墳」 西宮一民校注「古事記」 林房雄「神武天皇実在論」 藤尾慎一郎「縄文論争」 藤本強「考古学でつづる日本史」 文化庁「発掘された日本列島2010」 北條芳隆、溝口孝司、村上恭通「古墳時代像を見なおす」 松木武彦「日本列島の戦争と初期国家形成」 水戸部正男「図説 歴代天皇紀」 宮崎嘉夫「日本人と日本語のルーツを掘り起こす」 森公章「『白村江』以後」 森浩一「日本神話の考古学」 森浩一「記紀の考古学」 安本美典「神武東征伝承の再検証」 山岸良二「日本考古学の現在」 山口仲美「日本語の歴史」 山口佳紀「新編 日本古典文学全集」 八幡和郎「歴代天皇歴伝」 吉田孝「日本の誕生」
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目次 1.出エジプト 2.エホバ神とは、地球霊団の最高責任者の名 3.人類は神の分身、しかし修行は環境に応じて繰り返される 4.悪魔、サタンの実体 5.罪の起源、無明縁起について 6.地獄の魔王ルシファーの存在理由について 7.天上界側のサタン達の取り扱いについて 8.神の義を主張しあう宗教戦争について 9.マルクスは光の天使、唯物論は真理ではない 10.ニューメディアの世界に入っても人の心が主役 11.神の義「正法神理」の広布が今は強く求められている 12.天上界の構成と霊格の認識、その任務役割の分担について 13.アドバイス 8.神の義を主張しあう宗教戦争について 善川 サタンに対する天上界のお考えが分ったような気がいたします。 次にお尋ねしたいことは、ご承知のような現代の人類でございます。その神の教えを説く側に立つ人びとの間で争いを起こしている。あなたがお出になられたイスラエルと、アラブ諸国との間に、またイラン、イラクのように、共にイスラム教同士の間においてさえ行われている宗教的な争いについて、どのようなお考えを持っておられますか。 モーゼ あなたは以前に、ある霊から話をお聴きになっておられるはずです。教え子が百点を採れないからといって、教えた先生が間違っていたといえるか。教えた側は出来る限りのことを教えておるが、三〇点の答案しか書けない人もおれば、七〇点の答案を書ける人もいる。彼らはあなた方の言葉でいうなら落第しているのです。先生の教えを理解していないのです。そういう時期、そういう地域、そういう人たちになっておるのです。決して教えそのものから現在の混乱を導き出されるものではないのです。むしろ教えの不在であります。 善川 そういう時期に当たって彼の地に、いわゆる光の天使が顕われていないのでしょうか。 モーゼ やがて現われて来ます。 善川 彼の地にですね。 モーゼ 平和の前には混乱があるのです。統合の前には分裂があるのです。 善川 そういう意味におきましては、今日もう少しスケールの大きい超大国、アメリカと、ソ連との間における相剋という形が現われてきておりますけれども、これもどうしても避け難い戦いとなってくるのでしょうか――。 モーゼ 私は何も語りません。 善川 こうした地球規模の破局というものが現在の国際情勢の中からは予見されるのですが、こうした中で我らの使命というものはどういうものでありましょうか――。 モーゼ 私は語ったはずです。心であります。われらの教えは心であります。心の中に王国を築けず、どうして地上に王国が築けようか。この地上の争いは、心の中の争いの延長にしか過ぎないのです。 まず人の心の中にユートピアを築かん、とすることが先決なのです。争いは、心に根を発しているのです。争いを力によって制しようとしても、これはできないのです。根本を押さえることです。これが違っているのです。心の教えが不在なのです。 9.マルクスは光の天使、唯物論は真理ではない 善川 私がいま一つ分らないことは、神の支配し給う神一元の世界であるにかかわらず、唯物論という世界観が台頭し、これに基づく国家が地球上の各所に形成されてきて、現在では、その勢力においては世界を二分する程に膨脹してきましたが、これも天上界における何らかのご計画によるものなのでしょうか――。 モーゼ 迷いです。 善川 たとえば近世において、彼の地にマルクス、あるいはレーニンというような、非常に強力な思想家または指導者が出現し、世界の思想史を彩ってきましたが、これもやはり単なる迷いなのでしょうか……。 モーゼ そうではないのです。彼らは彼らの使命を十分に果たさなかったし、また彼らが不充分に行ったことに対して、他の人は更に誤解していたということです。 善川 こういう人達は、今そちらの世界においては地獄に陥ちているのでしょうか。 モーゼ 地獄にはおりません。マルクスもまた光の天使――。 善川 するといま、自分達が述べてきた唯物論というものに対する自己反省というものはしていないのでしょうか。 モーゼ 彼らの本質は唯物論にあったのではないのです。彼はユートピア建設のために出て来た光の天使なのです。 唯物論というものも、仏の説法に便法があるように、一つの便法なのです。一つの譬なのです。ただそれが先走ってしまったところに謬(あやま)りがあるのです。彼の計画はユートピアの建設なのです。 ところが時代が時代で、科学が進み、物質万能の時代であります。このような時代に霊のことを言ったところで、ユートピア建設はむずかしいのであります。むしろ物質万能、物質科学優先の時代なら、それはそれでいい、物質は物質と認めた中において、またユートピア建設の道があるのではないかという方向で行ったのが彼の考えであります。便法なのです。唯物論というのはマルクス自身、物だけしかないなどとは思っていないのです。神を信ぜずして、なぜユートピアなど考えることがありましょうか。 善川 それに続いてのレーニンにいたしましても、かつてあなたがエジプトで、後のイスラエルの民を救った心境と同じような心境ではなかったかと、私は考えるのでありますが、この当時の帝政ロシアの残酷な人民圧迫政策から、彼ら労働者、農民を救出するためには、どうしても政治を改めねばならないという考えから、発したものであろうと思うのでありますが、その限りにおいては、彼の考えは正しかったと思うのですが、その後の経過がよくなかったということになるのでしょうか――。 モーゼ ですから、想い、志は良いのです。ただ、便法を真理だと信じたところは誤りなのです。比喩をそのまま真理だと考えたところに誤りがあったのです。 それが教条となり、教条主義となっていったのでしょう。マルクスの時代には貧富の差も激しく、人の上に立つものと下に立つもの、差別するものと差別されるもの、搾取するものと搾取されるもの、このような階級分化が激しかったのです。 心の平和を説く以前に、環境自体の浄化を考えなければ、人びとは神の世界に入っていけるような状態ではなかったのです。そのために彼は、物質の世界においても人間はある程度まで救われなければいけないということ、それを理論として説いたのであります。それは過渡期の思想なのです。それが永遠の思想、真理だと思えばそこが誤りであります。 10.ニューメディアの世界に入っても人の心が主役 善川 いずれにいたしましても、以来物質文明というものは、急速に進歩してまいりまして、現代においては既にニューメディア、ハイ・テクノロジーなどの実用段階に入り、これに関連するすべての機械文明の進歩発展は、日進月歩ですさまじい進展を見せておりますが、ここで人間が、この機械文明を精神面でいかにコントロールし、リードしていくかということが、明日の人類の幸せにとって大きな課題と思いますが如何でしょうか。 モーゼ そういうふうになろうということであって、本質的には、どうということではないのです。環境がどのように変わるかということは、一つの素材の変換にしか過ぎないのです。どのような変換があってもよいのです。たとえこの時代にあなたの身の周りを恐竜が徘徊しておったとしても、あなたはまた神の心を、神の教えを説かねばならないのです。同じなのです。あなたがたとえロボッ卜に囲まれようとも、同じであります。 11.神の義「正法神理」の広布が今は強く求められている 善川 あなた様は神の教えの中でも特に「理(ことわり)」神の「義」というものを強く主張されたお方だと聖書の中でも伝えられておりますが、時代を下って、イエス様の時代には、神の愛という面を強く説かれたように思われますが、神の義と、神の愛とは車の両輪のようなものだと考えますが――。 モーゼ 神の義があり、神の愛があり、神の慈悲があるわけであります。慈悲を説いたのは釈迦であります。愛を説いたのはキリストであります。義を説いたのは私であります。 善川 いまわれわれの現世においては、この神の御意(みこころ)のうち、いずれの面を強くわれわれが主張しなければならないものなのでしょうか。 モーゼ やはり愛も必要、義も必要、慈悲も必要ではないでしょうか。かつてわれわれは、われわれが信じた一神、エホバであり、ヤハウェを争いの神、妬みの神、嫉妬の神、というふうに言われたことがあり、それが神学上の問題になっております。それは゛義゛ということと絡(から)むのであります。正しきものは実現されなければいけないのです。 「義」とは、神の「神理」であります。神理は実現されなければいけない。神理が実現されるためには、神理でないもの、非神理は影をひそめなければならない。これを強さを持って実践するのが義であります。義とは、神の国実現のための力であります。 「愛」とは、神の国を造り上げていくための鎹(かすがい)です。粘土であります。セメントであります。「義」とは、神の国を造るための土地ならし、土台造りです。「愛」は、神の家を造るための材料と材料、木と木、石と石をくっつけるための釘であり鎹であり、粘土であり、セメントであります。これが愛です。 今日は、義が失われた時代であります。そういう意味において、今の宗教の中には、義というものがあまりありません。これも一つ考え直す点ではないでしょうか。これが行き過ぎると宗教戦争になるかも知れません。他宗の排撃になるかも知れません。しかし本来神の「理(ことわり)」は強くなければならないのです。そういう意味においては旧勢力が強い時代には、義ということが強調されなけれぱならないこともあるのです。 善川 しかし今、旧宗教は既に凋落の時期に入っていると思うのですが、ここで真の神の義、「正法神理」を明らかにし、万教は一つであるという「証(あかし)」を打ち立てなければならぬと思いますが、これは別に、かつてのような宗教上の大きな争いになるような性質のものではないと思うのですが――。 モーゼ そうです――、新しい「十戒」、新たな神の指針、それに沿った新たな人間の行動原理というものが必要な時代となってきました。「十戒」は、私が「十戒」を表わしてより千年の間、人びとの行動指針となったのです。 また今後、このような価値の乱れた時代においては、人びとの行動指針となるようなものが必要となってくるでありましょう。それは単に霊を信ずるとか、お互いに仲良くするというようなものだけではなくて、今後の神の意図に沿った、人間の行動指針というものを打ち出していき、それが今後の人類の、文明の、文化の、発達して行く基礎となり、方向づけというものになっていかねばならないでしょう。 善川 そのような壮大な「正法神理」の体系というものは、今後あなた様方天上界の方々のご指導、ご啓示が寄せられるのか、それとも、非力ながらわれわれ自身でこの体系を組まねばならないのでしょうか――。 モーゼ いま一時にすべて私は語りませんが、やがてあなた方に、啓示という形で教えていくこともあろうし、あなた方ご自身で気づいていくこともあろうし、いずれにしても、あなた方がやるべきことは、今後の人類、後に来る人びとに対する贈り物を出していかねばならぬということです。 二千年、三千年先のことまで考えなさい。今、現時点どうであるということではなくて、二千年、三千年先の人に対するメッセージを残さねばならぬということであります。その折りに、モーゼという名がまだあるかどうかは定かではありません。イエス・キリストも伝説の神話の人になっているかも知れません。現在はまだ実在の人と信じていますが、千年、三千年先には、モーゼも神話、イエスもまた神話の人となっているかも知れません。 その時においてあなた方が、実在の人間として残した教えというものが、残らねばならぬということです。 結局のところ人間は、なぜ輪廻転生をするのかというこの法則の説明と、そのような法則が明らかになったならば、如何にして生きねばならないのかというようなことを説く、このようなことに尽きるのであります。それ以上のものではないのであります。この世界は神が創られたものであり、神のご計画は、人間を現象界から天国へと、輪廻転生させるということ、そしてその中で、どのように生きていかなければならないのか、ということを悟らせること、これに尽きておるのであります。 これ以上のものではないのであります。非常に簡単なものであります。これを後の世の人びとに、明瞭な形で、彼らの行動指針となるような形で、残して行きなさい――。 善川 この輪廻転生があるということの事実が、神の大いなる慈悲であるということを、はっきりと説き示さねばならぬということですね――。 モーゼ そうです。そのとおりです――。 善川 ありがとうございました。 12.天上界の構成と霊格の認識、その任務役割の分担について 善川 モーゼ様は、現在天上界での最高霊域においでの方だと存じますが、その天上界の仕組みについて少しおたずねしたいと思いますが、よろしいでしょうか。 モーゼ どういうことでしょう。 善川 天上界の構成と申しましょうか、その実像を、われわれが認識するに当たって、これを上、下という段階的な差別知と申しましょうか、そういう縦列感覚で捉えればよいのか、それとも、深い、浅い、狭い、広いという水平感覚とでも申しましょうか、そういう概念で把握すればよいのでしょうか。もちろん、実相はそういうものではなかろうと思いますが、これはあくまで、われわれ三次元に住んでいる人間が、五官知で認識し得る図式で捉えるとすれば、どういうことになるか、どう認識すればよろしいでしょうか。 モーゼ どういうことですか、もう少しはっきり言って――。 善川 例えば、われわれ地上人が理解できる天上界というものは、地上何千メートル、または、何万メートルの上までに各霊域が段階ごとにあるということと、そういう感じではなく、われわれと同一地域にあっても、その深みということの段階において、それぞれ次元を異にした霊域空間というものがある。つまり図形で描けば、渦巻状に重なっているというふうに――。 モーゼ 地球は丸いのですから、上といっても横といっても、所詮同じことなのですが、比喩としては、やはり高い所からいわば下を見ているという形になります。 善川 そうですか、それでは現在あなたがおいでの処は、天上界のこの地球霊団としては最高の地域から下を見ておられるということになるわけですね。 モーゼ 喩えて話すならそういうことになります。 善川 天上界は、六次元、七次元、八次元とあり、それぞれの方がおられますが、あなた様はいま何次元の霊域におられますでしょうか。 モーゼ 九次元です。 善川 それでは、六次元、七次元という処においでの方では、そちらの九次元の世界へは参上できないわけですね。 モーゼ 出来ません。 善川 上部の方は下部へ降りて来ることは可能ですね。 モーゼ 可能です。 善川 立ち入ったことをお尋ねしますが、宇宙界といわれる九次元の霊域には何名ぐらいのお方がおいでなのでしょうか。 モーゼ 数名です。 善川 それから七大天使といわれる方々、<ミカ・エル><ガブリ・エル><ウリ・エル><サリ・エル><ラグ・エル><パヌ・エル><ラファ・エル>、こういう方々は――。 モーゼ 私たちの近くにおります。 善川 それから、それぞれのお役目を持たれた如来の方は――。 モーゼ 四、五百名おります。 善川 ここが八次元の霊域ですね。次が七次元の菩薩界ということになりますね。 モーゼ そして、菩薩界と如来界との間に、仏教でいう<梵天>というか、梵天の境地があります。七次元と、八次元の境であります。「天台智覬」といわれる方も、この梵天の位にあります。八次元といえば八次元、七次元といえば七次元、この中間の域に達している霊であります。 善川 あなた様方から見れば、どの次元霊域に誰がいて、どういう研究をしているかということは、一目瞭然なのでしょうか。 モーゼ ただ私たちが心配していることは、差別知でもって霊的世界を理解してもらっては困るために、あまり言いたくはないのです。人間にそのような階級があり、段階があるという発想は、一歩誤れば非常に危険なものとなるのです。人間の魂は平等だという考えも大切であります。 たとえば、いま段階という形でとらえました、ある人よりもある人が偉いとか、下であるとかいう考え方も一つありますが、こういう考え方もできるのです。 人間の魂というものは、各人神の子であって一箇の球体であって、この球体には大きな違いはないのです。各人同じ球体なのです。同じ球なのです。その意味において各人の魂は平等なのです。しかしながら永年の転生輪廻の過程における修行の度合によって、同じ大きさの球であるにもかかわらず、ある球体は非常な輝きを持っており、ある球体は鈍い輝きを持っており、ある球体は全く光を発していない――このように平等であるけれども、光の度合が違うということがある。その光の度合を譬えていうならば、如来界、菩薩界、というようなことで言っているのであって、それは魂として違うのだというようなことではないのです。 魂が違うのだ、段階が違うのだ、という考えは、一歩間違えば大変な間違った思想になってしまうのです。各人の魂は、神から岐れたものであり、本来、神と同一なものであります。一個の同じ大きさの球であるということ、しかし転生輪廻の過程によって輝きが違うのだし、輝きの違いによって、如来だ、菩薩だ、あるいは霊界だというような区別をしているだけであって、しっかりと磨けば、如来の光が、菩薩の光が出てくるのだと、このように差別心と、平等心とを融合した立場をとっていただきたい。これを間違うと、あなた方も大変な増長慢となってしまうのです。 善川 そこで一つ考えられることは、各人は皆神の子ではあるけれども、その仕事、役割においては各人分担が違うということではないでしょうか。僧侶は僧侶、医者は医者、芸術家は芸術家、エンジニアはエンジニアというふうに――。 モーゼ そういうふうに考えるのも一つであります。 善川 各段階に応じてその人に与えられた天分天職についているというように――。 モーゼ 別の比喩で言うなら、球としては同じであるが、ある部分が発達している球と、違う部分が発達している球とがあって、たまたま私達は、神の使命を担う部分で球が発達しているだけであって、他の部分が発達していない。ところが、その部分が発達しているものもある。そういう意味で人間は平等なのであります。仕事が違うという考え方も一つ、光の違いがあるという比喩も一つ、そのようにお考えになって下さい。 善川 本質的に人間の職業に貴賤がないということと同じような意味ということですね。 モーゼ 貴賤もないし、七次元より、八次元が偉いというようなことでもないのです。そのような思想は一歩誤れば大変な間違いとなるので、私はあえてこう言っておくのです。 たとえて言うならば、高さの違いはあるのだけれども、それは球体の面として考えると、たとえば神を北極とするならば、北極の近くにある面と、そうではないところが発達している面とがあるわけであって、仕事の違いというふうにもとれるし、光の度合が違う、ともとれるはずです。 光の度合が違うのであるならば、いま、光輝燦然と輝いているものも、やがて曇ってしまうこともあり得るし、いま、曇っているものもまた光ることができるのです。こういうことなのであります――。 善川 ただ、私が案じますには、あなた方のような最高級の指導霊のお話というものは、非常に次元の高いお話で、一般庶民の方がたでは自己の生活環境に即して理解し、日常生活の中にその高度な法をとり入れるということは、困難だと思うのです。 その意味において、通常人の精神生活に適応した、霊界、またはその上の神界程度の一般的な善悪差別の教えが、より広い範囲の人びとに理解されるという意味で、意義が広まるのではなかろうかと思われるのですが――。 モーゼ ただ、私は言っておきますが、あなた方の使命というものは、今の時期に本当の「神理」を残すということであります。分る人は分るし、分らない人は分らないでしょうが、しかし、千年、二千年と伝えていく必要があるということです。 われわれは、いつの時代でもこうして出てくるわけではないのです。われわれが出てくる時代は、決まって激動期、ある人類の転換期であります。そういう意味において、われわれがこのような人の形を借りて語るということは、めったにないことですので、その時点において最高度の教えを残しておく必要はあるのです。 私がいま語っていることを素直に信じることができる人が、いま生きている人間の中で、いったい幾人いるでしょうか。私自身もそれは定かに知り得ません。しかしながら、どうしても残さねばならないということです――。 13.アドバイス 善川 最後に、現時点における私たちの、「正法流布」に対する取り組み姿勢についてのアドバイスをお願いいたします。 モーゼ もっと強くありなさい。あなたの先人達の苦労辛酸を想い起こして、もっと強く生きなさい。怠惰になっていないかどうかということをよく考えなさい。環境が楽であれば楽であるほど、一層励まなければならないということであります。環境との戦いということに、先人たちがどれだけ苦労したということを想い起こしてごらんなさい。あなた方は、まだまだ楽な環境にあります。楽な環境にあるからこそ、先人達が登れなかったところまで、登ってみせなければならないのです。 強くあって欲しい。正しい人は、神を信ずる正しい人は、強くあって欲しい。自分の弱いところを見つけたならば反省し、もっと、もっと強くあっていて欲しい。私が言えることは、そんな抽象的なことに過ぎません。 私は、あなた方に、具体的に何をどうせよとは申しません。強くあって欲しい、不動の心を持って欲しい。人にこう言われるんじゃないかというような、そのような小さなことに負けてしまうあなた方であって欲しくない。強くあって欲しい。 あえて身の周りに争いを起こす必要はないけれども、しかし強くあって欲しい。強さです。今のあなたの中に強さがありますか。正法を流布するには、「熱意と強さが共に必要なのです。 私は力強い生涯を送ったと思っております。それは、正しいものは強く生きねばならない、正しいとは、神の義であります。゛義゛、神の義にかなった者は強くあらねばならない――、そういう考えであります。あなた方が、正しいと信ずるなら、その信念の強さは、あなた方の生き方の勇まさになってこなければいけません――。 善川 どうも長時間、いろいろとご高説をたまわりまして、まことにありがとうございました。われわれはまだまだ、これからの試練と、これからの働きの時間が与えられておりますけれど、もしまた御意を得ますなら、一つの転機、転機に私たちが立ちましたならば、またご降臨願ってご指導をお願いしたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。 本日は、真にありがとうございました。 モーゼ わかりました――。
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公用語 日本語が公用語または事実上の公用語となっている国家 日本国 満州国 インドネシア マレーシア ブルネイ 蒙古国 極東共和国 英語が公用語であるが主要な言語ではない国家 中華民国 越南王国 チベット国 ラオス王国 カンボジア王国 ビルマ国 タイ王国 インド共和国 スリランカ共和国 パキスタン共和国 フィリピン共和国 ウイグルスタン キルギス タジキスタン アフガニスタン ニュージーランド オーストラリア シベリア共和国 ブータン ネパール
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アレP 教養講座色が強いノベマス「ニコマス日本神話」のP。 「ニコマス日本神話」は、手書き絵も交えつつ、日本神話の大筋やアイマスの設定はできるだけ踏襲しながら、ノベマス風に読ませる作品に仕上げられている佳作。 P名は「古事記」の(謎の)編纂者の一人「稗田阿礼(ひえだのあれ)」に因んだもの。 最新作 代表作 ニコ動一覧 タグ-アレP マイリスト-ニコマス日本神話 タグ一覧: ノベマスP 教養講座P P名 P名_あ デビュー2009.5中旬
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編成名:??? 更新日時:2015-04-21 23 17 リーダー候補 サブ候補 フレンド候補 解説。 編集 +... 編成名:??? 更新日時:2015-04-21 23 17 リーダー候補 サブ候補 フレンド候補 解説。 編集 編成名:??? 更新日時:2015-04-21 23 17 リーダー候補 サブ候補 フレンド候補 解説。 編集
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にほんご 日本国の実質的な公用語。東京方言をベースとした標準語と、地域差の大きい無数の方言が存在する。 日本国が異世界に転移したとき、日本人たちは自らの言語が現地人に通じないのではと危惧していた。しかしクワ・トイネ公国とのコンタクトで日本語が新世界の大陸共通言語に自動翻訳されることが明らかとなり、コミュニケーションに障害は生じなかった。 ただし文字はお互いに読むことができないようで、日本国と公国の言語学者の共同作業を通じてハイピッチで翻訳作業が行われた。 日本語の文字体系は特にユニークで難解な部類に入ると旧世界で言われていた。 しかし、日本国に捕虜として囚われたパーパルディア皇国の竜騎士レクマイアは、収容所生活の間(*1)に日本語の新聞を読み漁り、日本語の文字をある程度会得することに成功している。 関連項目 用語|日本国|大陸共通言語|自動翻訳現象 ※既存のコメントに返信する場合、返信したいコメントの左側にチェックを入れて下さい。 過去のコメント これ、一緒に転移してきた外国人で日本語話せない人はどういう状態になってるのですかね。普通に会話できてしまっているのだろうか。日本国内でも。 - 名無しさん (2018-06-04 16 18 24) マイラスは英語まで読めるようになりつつある。 - 名無しさん (2018-06-05 00 49 17) これからは日本語が新世界の共通語になっていくんだろうな - 名無しさん (2020-05-06 16 05 51) 関連に自動翻訳現象追加希望 - 名無しさん (2021-04-22 15 33 34) 在日外国人にも自動翻訳現象適用されて新世界人の大陸共通言語はもちろん日本語会話も自国語に翻訳されていたらいいなとは思う。そのへんの設定を高松がいるときに聞いておけば良かった。 - 名無しさん (2022-05-18 21 57 38) 名前 ここを編集 〔最終更新日:2022年07月26日〕
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日本の復興積極アピール マレーシア旅行見本市が盛況 第三次日本語ブーム? 「日本語の勝利」第47回 マハティール首相 マハティールさんもお怒りです Singapore Malaysia マハティール・ビン・モハマド氏 記念講演(1) マハティール・ビン・モハマド 日本文化への憧れと関心 マレーシアにセコムがあったら... 日本人の時間の正確さに感銘受けた、ナジブ首相が訪日の感想 政治は豪腕、パンはサックリ“元首相のパン屋”人気 南国の盆踊り マレーシア クアラルンプールで人気ある洋服は?-----ユニクロオープンで熱狂するヤングたち 三洋、ゴパンを海外で初出展 マレーシア見本市で人気 日本神話よ、再び マレーシア訪問記①「パキモン」 【闇の大人たち】第28回:マレーシアの裏日本租界? 国の肥満対策に「SASUKE」マレーシア政府