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+三重県 [部分編集] 三重県 中勢・南勢地方 実際の地域 県中東部、伊勢湾南部に面した地域。県の中央に位置する中勢地方と、志摩半島とその付け根部分を領域とする南勢地方に大別される。古くから伊勢神宮の参拝ルートとして発展した地域で、現在でも伊勢神宮をはじめとする観光地を多く擁する。名物として、ブランド牛肉の松坂牛や英虞湾で養殖される真珠が知られている。 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 津 津゙ 津市 三重県の中心都市。国道163号線付近が街の中心となっている。街は主に高密度住宅地区で構成されるが、国道23号線や国道165号線の沿線には高密度商業地区が、国道23号線の東側の海沿いには低密度商業地区が存在する。街の北には津゙駅がある。なお、低密度商業地区には「あずま寿し」が2軒並んで存在している。たまげたなあ。 松阪 松阪市、明和町、多気町、大台町 県中南部の街。市街地である国道23号線沿いには、住宅地区をメインに商業地区も一部存在する。また、松阪市飯南地区や明和町などの郊外地区にも住宅が点在する。なお、街中には松阪牛の産地であることにちなみ牛が放し飼いにされている。 伊勢 伊勢市、鳥羽市、玉城町、度会町 伊勢湾南岸の街。伊勢神宮の鳥居前町であることから、伊勢神宮に関連した施設が作られた。伊勢神宮は内宮のみを再現し、付近には宇治橋と五十鈴川も再現されている。また、付近には和風の土産物屋などで構成されたおかげ横丁も存在する。また、ランドマークとして二見興玉神社及び境内の名所である工事中の夫婦岩が置かれており、その向かいに僅かながら住宅街が存在する。 志摩 志摩市、南伊勢町 志摩半島の先端に位置する街。街の西には志摩駅が存在し、周囲に住宅が点在する。ランドマークとして志摩スペイン村になりたかった村がある。 その他 北勢地方 実際の地域 県の北部を領域とする地域。名古屋、大阪といった大都市への交通網を背景に、日本でも有数の工業集積地域となった。特に四日市市は化学産業、鈴鹿市や亀山市は機械産業が発達する。 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 亀山 亀山市 津゙の北西に位置する街。わずかに商業地区が存在する他は住宅が立ち並ぶ。シャープの亀山工場が存在することから、工場のアセットが設置された。 鈴鹿 鈴鹿市 津゙と四億日市の間に位置する街。F1や鈴鹿8耐で知られる国際的サーキット・鈴鹿サーキットをイメージした交通公園と、サーキット併設の遊園地・モートピアのものを再現した観覧車が存在する。サーキットの付近に住宅、商業地区が存在する。 四日市 四億日市 四日市市、いなべ市、川越町、朝日町、菰野町 伊勢湾北西岸に位置する街。津゙に並ぶ三重県の代表的な街で、国道1号線の西側には高密度住宅地区が設定されている。東側は四日市コンビナートを再現した産業地区となっており、資源と地区の設定により石油工場が建設されるようになった。また、いなべ市周辺には川越火力発電所をイメージした石炭発電所が所在する。 ナガシマスパーランド ナカシマスハーラント 桑名市、木曽岬町 宮古屋の南西にある遊園地を再現したパークエリア。ここにあったフェリーターミナルを移設し、さらに伊勢湾を埋め立てることでスペースを確保した。代表的なアトラクションであるジェットコースターが再現され、さらにエリア外にプールが増設された。 その他 伊賀地方 実際の地域 県の西部、上野盆地周辺に位置する地域。近鉄大阪線などで直接結ばれる大阪府との結びつきが強く、ベッドタウンとしても開発されている。歴史的には「伊賀忍者」が有名であり、地域を象徴する存在となっている。 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 伊賀 伊賀市 県西部の街。上野盆地を中心に住宅、商業の地区が広がっている。ランドマークとしては白川郷伊賀流忍者博物館や伊賀上野城が存在する。 名張 名張市 奈良県境に接する街。伊賀と連続する形で住宅街が広がる。 その他 東紀州地方 実際の地域 和歌山県にほど近い、県南部の地域。季節風の影響を強く受けるため雨が多く、降雨量の多さは日本でも一、二を争う。また、隣接の和歌山県、奈良県とともに世界遺産の熊野古道を抱える地域でもある。 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 尾鷲 尾鷲市、紀北町 県南部の街。紀勢道の終点付近に存在する商業地区の周囲が住宅地区で取り囲まれている。街の東には熊野古道を象徴する景観である馬越峠が再現されている。 熊野 熊野市 県最南端の街。主に国道42号線沿いに住宅地区が、国道311号線沿いに商業地区が広がっている。海岸に景勝である鬼ヶ城があり、険しい岩肌が再現されている。 その他 交通 高速道路 東名阪道は愛知県との県境付近から南へ延び、津市付近で伊勢道となり多気町付近で終点となる。実際の東名阪道は愛知県名古屋市が起点だが、ゆる日本ではスペースの関係から三重県内で完結している。また、伊勢道は当初伊勢市付近まで伸びていたものの、伊勢の開発時に取り壊され短縮された。 東名阪道からは3本の高速道路が分岐する。四日市市付近では新名神高速が分岐し、滋賀県方面へ伸びる。亀山市付近では東名阪道と新名神高速を接続する新名神高速亀山連絡路が分岐している。また、多気町付近からは紀勢道(三重県区間)が分岐し、南西に走り尾鷲市周辺に至る。 鉄道 三重県内ではJRではなく近鉄電車の3路線が再現されている。3路線は津゙で合流し、愛知県方面に近鉄名古屋線が、奈良県方面に近鉄大阪線が、県内の志摩には近鉄志摩・鳥羽・山田線が運行される。なお、3路線の分岐点自体は現実の伊勢中川駅が所在する松阪市付近に存在する。 +滋賀県 [部分編集] 滋賀県 湖南地方 実際の地域 県の南西部を占める地域。古くから京都府や大阪府との関係が深く、近年ではベッドタウンとして人口の増加が進んでいる。また、化学、家電など工場が多く立地する工業地帯でもある。 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 大津 大津草 大津市 滋賀県の中心都市。大津草の西部を構成する。京都府と琵琶湖に挟まれた狭い領域に高密度住宅地区が並ぶ。また、琵琶湖の西岸にはランドマークとして普通の寺延暦寺、赤い棟門が特徴の近江神宮、琵琶湖に突き出した仏堂である満月寺浮御堂の3つの寺社が再現されている。 草津 大津草 草津市、栗東市、湖南市 大津草の東部を構成する街。国道1号線と国道8号線が分岐するなど交通網が発達し、高密度の住宅街が並んでいる。湖南市周辺には低密度の住宅街も存在する。 守山 守山市、野洲市 大津草の北に位置する街。大津草との間には国道477号線の「琵琶湖小橋」が架かっている。琵琶湖小橋の東詰には商業地区、国道8号線の西には住宅地区が設けられている。なお、ショッピングモールのピエン守山は隣接の近江八幡に存在する。 甲賀 甲賀市 県最南端の街。国道1号線と国道307号線の交点付近には住宅地区や商業地区が置かれているほか、信楽焼の産地であることを反映して工場のアセットが設置されている。ただし、信楽焼の生産地である信楽地区の現実における位置は甲賀の南西、国道307号線と国道422号線の交点付近であり、ゆる日本で街が置かれている水口地区から離れている。 その他 湖東地方 実際の地域 県中央部に位置する地域。歴史的には「近江商人」で知られ、大企業の創業者を多く輩出した。現在は京阪神企業による工場の進出が盛んで、特に電気機械産業が発達している。 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 近江八幡 近江八幡市、竜王町 琵琶湖の南東岸に位置する街。国道1号線の東に住宅地区が設定されている。近江八幡市の琵琶湖沿岸にあたる地域は、大型ショッピングモールのピエリ守山を模した「ピエン守山」が存在する。 彦根 彦根市、豊郷町、愛荘町 琵琶湖の東岸に位置する街。彦根市街地にあたる地域には彦根城があり、それより北東に商業地区、南東に住宅地区が設定されている。 東近江 東近江市、日野町 県東部の街。国道421号線沿線を中心に住宅区画が設置されている。 多賀 多賀町、甲良町、大垣市上石津地区(岐阜県岐阜・西濃地方) 県東部、鈴鹿山脈北麓の町。本来の米原市付近でスペースを確保できなかったため、「心で血の涙を流しながら」岐阜県との県境付近に米原駅が置かれた。駅の南西には多賀大社があり、周辺に商業地区が設定されている。 その他 ピエン守山の北にある琵琶湖湖上には沖島を半島状にした地形の沖岬が置かれていたが、尾上漁港設置時に削られている。 また、近江米の産地であることをイメージして、彦根の南西には田んぼが再現されている。 湖北・湖西地方 実際の地域 県の北部に位置する地域。長浜市、米原市で構成される湖北地方、高島市のみが所属する湖西地方に分かれる。関西屈指の豪雪地帯であり、地域内にある伊吹山は世界最深となる1182cmの積雪を記録した。北陸、東海と関西を結ぶ交通の要衝で、特に米原市は主要な道路や鉄道の分岐点として知られている。 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 長浜 長浜市、米原市 琵琶湖北岸に位置する街。琵琶湖と国道8号線に挟まれた区画には住宅が並ぶ。琵琶湖沿岸には漁港として尾上港が存在する。 高島 高島市 琵琶湖西岸の街。今津地区、新旭地区、及び安曇川地区は街の中央にあたり、住宅地域となっている。北部のマキノ地区には、メタセコイア並木をイメージして待望のセコイア並木が設置された。また、南部の高島地区には湖西線の高島駅があり、駅前には白鬚神社が存在する。 その他 長浜の西、琵琶湖湖上には竹生島が存在しており、島には都久夫須麻神社が再現されている。 交通 高速道路 名神高速は、岐阜県方面から入り琵琶湖の南を通過して京都府方面に至る。また、福井県方面から伸びる北陸道が米原市付近で、三重県方面から伸びる新名神高速が草津市付近でそれぞれ名神高速に合流する。 鉄道 東海道新幹線は岐阜県方面から米原に止まり、京都府方面へとアクセスする。 また、北陸本線は福井県方面から南へ伸び、米原で終点となる。 湖西線は北陸本線から長浜市付近で分岐し、高島に止まり京都府方面へと走るが、路線設定上では福井県を起点とする路線となっている。 +奈良県 [部分編集] 奈良県 北和・西和地方 実際の地域 県の北西部を領域とする地域。奈良市を中心とする北和地方、大阪府に接する西和地方の2地域に分かれる。奈良時代には平城京が所在した地域で、古代の面影を残す寺社仏閣が多く観光地となっている。一方、大阪のベッドタウンとしての性質も持ち合わせており、特に戦後は急速に住宅の開発が進んだ。 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 奈良 奈間良 奈良市、大和郡山市 奈良県の中心都市。都市計画法の制限によって建物の高さが規制されている実際の街を反映し、低密度の住宅地区が建てられている。ランドマークとしては東大寺と寺からはみ出た奈良の大仏が再現されている。その南にはヘラジカのプロップなどを用いて再現された奈良公園が存在する。 天理 天理市、河合町、川西町(中和・東和地方) 奈間良の南に位置する街。国道25号線に沿って東西に街が広がり、住宅区画が設定されている。なお、大和八木駅の出口は天理側に存在する。 生駒 生駒市 県北西部の街。奈良県内で唯一となる高密度区画である高密度商業地区が設置されている。大阪府との境界付近には暗峠が所在し、現実以上に山の高さをかさ上げされている。 斑鳩 斑鳩町、安堵町、平群町、三郷町、王寺町 県西部の町。五重塔がそびえ立つ法隆寺が再現されており、その周囲に住宅地区が設定されている。 その他 中和・東和地方 実際の地域 県の中北部を領域とする地域。大和盆地の南部を占める中和地方と、山地が広がる東和地方に大別される。古代日本の中心地の一つであり、神武天皇を祀った橿原神宮など日本神話にまつわる観光地も少なくない。北和・西和地方と同じく宅地化が進んでいるものの、東和地方を中心に自然の風景も残る。 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 橿原 橿原市、大和高田市、広陵町、田原本町、高取町、明日香村 大和盆地の南部に位置する街。街の北には大和八木駅が存在し、その南の崖になっている部分に商業地区が広がっている。 御所 御所市、葛城市 大和盆地の南西に位置する街。国道165号線と国道168号線の交点付近に住宅区画が設定されている。 桜井 桜井市 大和盆地の南東に位置する街。橿原に隣接する形で住宅地区が存在し、国道165号線を挟んだ向かいには大神神社が再現されている。 その他 橿原の南にある明日香村付近には、山の上に岩を積み上げて作られた石舞台古墳レベル99が存在する。 南和地方 実際の地域 県の南半分を占める地域。領域のほとんどが吉野山地であり、人が居住できる平地は少ない。吉野山地で採れる吉野杉がブランドとなっており、林業が重要な産業となっている。 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 十津川 十津川村 県南部の町。地面を掘り下げて建設された谷瀬の吊り橋が存在し、その周囲にある町には住宅、商業地区が設定されている。なお、十津川には「トツカワゾウ」が生息しているという。 五條 五條市 県中西部の街。国道24号線の沿線に住宅、商業の区画が広がる。 下市、黒滝、天川、上北山、下北山 下市町、黒滝村、天川村、上北山村、下北山村 国道309号線、国道169号線の沿線には住宅が点在している。下市町を起点にほぼ等間隔で住宅が並んでおり、電力の供給をしやすくなっている。 その他 吉野町の周辺には吉野山の桜が再現されている。花の色が違う2種類の桜や緑色の葉を持った木を組み合わせることで、高い再現度を出すことに成功した。 交通 高速道路 天理市付近を起点に大阪府方面に伸びる西名阪道のみが再現されている。京奈和道は分断が多いためか再現されていない。 鉄道 近鉄大阪線が県内を東西に横断し、三重県方面から大阪府方面へと伸びる。県内にある駅は大和八木1つのみ。 +大阪府 [部分編集] 大阪府 摂津地方 実際の地域 府の北西部に位置する、大阪市を中心とする地域。江戸時代から商業の中心地として栄えた大阪市は、現在でも西日本最大の都市として影響力を持つ。 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 その他 泉州地方 実際の地域 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 その他 河内地方 実際の地域 都市 都市 ゆる日本名(地区設定時のみ) 含まれる市町村(推測) 説明 その他 交通 高速道路 鉄道
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みなかぬし ガハラ神国の君主。神王とも呼ばれている。人間が必ず持っている天之御中主神の分け御霊を少し多く持っている人間。 名前の由来は日本神話に登場する天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)であると思われる。新世界の創造神イルはこの神と同一の存在と思われる。 名前としてはWeb版『第2章1話 神話に住まう人々』から既に出ているのだが、ガハラ神国自体がまともに物語で語られずじまいのため、未だにどのような人物かは不明だった。 しかし、クルセイリース大聖王国編にて、お告げを告げられ、そのことを伝えるべく使者を派遣すべく動きを見せる。 関連項目 人物|ガハラ神国|フェン王国 ※既存のコメントに返信する場合、返信したいコメントの左側にチェックを入れて下さい。 過去のコメント 名前 ここを編集 〔最終更新日:2022年05月04日〕
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基本神聖魔法 1Lv 【 /バニッシュ 】蛮族・アンデッドを退ける(範囲) 【 /サニティ .....】精神効果を解除する 【 /フィールドプロテクション 】被ダメージを減少させる(範囲)
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スサノオ プロフィール 真名 スサノオ クラス エンシェントゴッド/セイバー 出典 不明 属性 日本神話 概要 人々を守りつつ、権能を利用して土壌改良に勤めている。 「ありえない世界だし、もう無辜の民が犠牲になるところはみたくないのでこの世界は滅ぶべき」 ステータス マスター 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具 [[]] 保有スキル クラススキル 宝具 * 宝具名 ランク 種別 レンジ 最大補足 概要 関連人物 スサノオ →斎オシラ「口うるさいと思いつつも彼女の存在自体は認めている」 →藤原秀郷「対禍津神戦や魑魅魍魎との戦争での一番頼りになる戦友」
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ALL他 高速文明堂CMで日本の時代覚え歌 逆再翻訳クイズ~歴史中の条約・出来事編~ フィクション 古代 その時歴史がウゴイタ? 第一回 貝塚完成 その時歴史がウゴイタ? 第二回 卑弥呼の亀甲占い その時歴史がウゴイタ? 第三回 前方後円墳の出現 その時歴史がウゴイタ? 第四回 遣隋使妹子 その時歴史がウゴイタ? 第五回 国分寺の建立 その時歴史がウゴイタ? 第八回 源平争乱 一之谷の戰い 源平ユカイ~カラオケver. 組曲「平安時代」 第四版 組曲「日本建国」 (日本神話) 中世 その時歴史がウゴイタ? 第九回 蒙古、襲来 その時歴史がウゴイタ? 第十回 南北朝の動乱 ハレ晴れ義満 戦国 ドキュメンタリー・ザ・カブキ ぼくらの甲州騎馬軍団 その時歴史がウゴイタ? 第十二回 関が原の戦い 大名として軸がぶれている 小田原城が落とせない(歌有り) ハレ晴レユカイ~Ver伊達政宗~ 近世 その時歴史がウゴイタ? 第十三回 参勤交代制度の制定 その時歴史がウゴイタ? 第十四回 忠臣蔵 組曲「江戸幕府」 近代 歴代日本の首相の覚え方 (写真付き) 日本の歴代内閣総理大臣 【不敬罪】教育勅語を若本規夫風に読んでみた【大日本帝國】 東京見物 戦前の映像詰め合わせ 明治~大正 明治天皇宇宙の旅 日本とトルコ ~エルトゥールル号 - 日露戦争 - イラン・イラク戦争~・日本とトルコ よくわかる日本史B「日本の開国」 明治の総理大臣 昭和 Zipang 旧日本海軍 君が見た空の色 映画トラトラトラ ダイジェスト版 兵どもが夢の跡 真実はどこに ~特攻隊~ 惜別の歌 一式陸攻 栄光の大日本帝国海軍 所感 ~或る特攻隊員の手記~ 回天特別攻撃隊 【祖先の勇姿を】 あゝ 栄光の大日本帝国軍 【見届けよ】 中国とかアメリカが倒せない【改】 戦艦大和 KAMIKAZE 神風 長門型画像集 敗戦~1945~ 神風特別攻撃隊・戦争系動画 『散り往く定めと知って』 兵に告ぐ 戦争系動画 『過ぎた日々は忘れない』 戦争系動画 『ずっと遥か離れていても』 名称不明のWW2旧日本軍フラッシュ。戦争物注意!。・硫黄島フラッシュ「春よ来い」 軍歌「ハワイ海戦」PV 【遺言】国へ、友へ、家族へ MAD「夕凪の街」 日本がアジアに残した功績 戦争の世紀 ミッドウェー作戦 ~帝國海軍 機動部隊の運命の一日~ 【軍歌】 父よあなたは強かった 現代 日本のパトカー(sm213945) 愛國戦隊大日本 OP UCCの拳 【追悼】記憶にとどめたい もう会えない人/出来事【2000年】 【追悼】記憶にとどめたい もう会えない人/出来事【2001年】 【MAD】しねしね団 【ニュー速】りぼんちゃんPV 【追悼】記憶にとどめたい もう会えない人/出来事【2002年】 みのもんた壊れる!? NHKライブ報道自重しろwwww犯罪者に情報提供 【追悼】記憶にとどめたい もう会えない人/出来事【2003年】 2001年8月25日 - 2ちゃんねる閉鎖の危機 航空写真で見る日本各地の今昔 【追悼】記憶にとどめたい もう会えない人/出来事【2004年】 2ちゃんねる3周年記念FLASH 裏 日朝首脳会談~署名編~ 安倍総理辞任 裏 日朝首脳会談~死闘編~ 裏 日朝首脳会談~正男君編~ ニコニコ動画 sm1~sm100 まとめ 再生数合計TOP20~古き良きニコニコを振り返る~ ノアだけはガチ!! 『 ニコニコ動画 』 最後の日 運営様がとうとうブチキレました。 歴史シリーズ 世界最強の国技 SUMOU(ニコニコテロップver) 夏コミのスタッフを300人のスパルタ人に任せてみた。 ビックリマン グッズ THEコスモス 『俺の登坂淳一フォルダ』を開放してみた 【追悼】記憶にとどめたい もう会えない人/出来事【2005年】 2005年4月25日(JR福知山線列車脱線事故) コミケに初めていった俺が見たもの Windowsマイコンピュータのアイコンの歴史 震災の記憶、そして復興 るろうニート剣心 明治無職浪漫譚 第一幕 就職活動編 るろうニート剣心 明治無職浪漫譚 第二幕 更正編 シリーズ その時歴史がウゴイタ? 鉄道歴史シリーズ アニメンタリー決断 外部リンク 東アジア問題動画集 特定アジア FLASH 総合サイト
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目次 1.人類は死滅するか 2.ノストラダムスの予言は当たるか 3.核戦争を考える 4.正義と正法 5.日本の繁栄 6.超人類の出現 (1988年6月18日の霊示) 1.人類は死滅するか 高橋信次です。みなさんこんにちは。久しぶりですね。前回収録してからもう九日たっちゃいました。 何でこんなに間があいたのかというと、〇〇先生が夏バテなんですね。〇〇〇〇先生夏バテで、なかなかやってくれないんです。なんで夏バテかと言うと、まあ講演会ね、「ユートピアの原理」なんていう講演会を大阪でやっちゃって、元気いっぱいやったものでくたびれて、その後はなんだか知らないけれども、日本神道系の、何ですかねえ「運命の開拓セミナー」なんかを六月に入ってやりまして、私たちは日本神道なんかもういいと思うんですが、そんなセミナー三時間もやったもんで、くたびれちゃって夏休みでね。私は九日も待たされました。 本来私の大予言は、今年の五月中に収録が終わる予定だったんですね。だから最初から私の予言が外(はず)れているんです。予言がもう早くも一か月ズレました。みなさん、こういうふうに予言というのは非常に当たりにくいものなんです。 それは、地上に生きている人間が、私たち高級霊が思う通り働かないということが原因なんです。こういうふうに働けと言うのだけど働かない。それが非常に悔しいのだけども、私たちが言うように働けばそうなるのだけども、やらないんです。それほど地上の人間というのは、性格がまあザッとしているんです。ザッとしている。神の心を心として生きていれば、ちゃんと予言は成就するんですが、神の心を心として生きないために、成就しないんですね。まあそういうことがあります。 さて、そうした怠け者の夏休み人類をどうやって成敗(せいばい)するか、あっ失礼しました、救うか、これが私のこれからの仕事になるわけです。 そこで本書はね、『高橋信次の大予言』と銘打ちましたので、多少予言のことも言っておかないと羊頭狗肉(ようとうくにく)って言うか、「千円損したあ」と言われると困るんで、予言の話をしたいと思います。ただ予言の話はしたいけれども、あんまりくわしい年号とかを予言してもらうと、高橋信次の予言はたぶん外れるんじゃないか、外れると後のちの信用にさしつかえるのじゃないか、そういうふうな声も一部から聞こえるんですね。したがって、こまかい具体的な予言はやめてくれ、大まかに、多少ズレてもわかんないような予言だけやってくれ。こういうリクエストが一部からあるものですから、やむなく、そうした線で話をしていきたいと思います。 なんせ〇〇先生が、夏バテでまいってますから、私の言葉に力がなくてもみなさん勘弁(かんべん)してくださいね。そういう時期もありますから。先が長いですからね。五十集、百集ねらっている人としては、時どき気を抜きながらやらないといけないですね。本書は特に第1章で力を入れ過ぎたため、あと竜頭蛇尾(りゅうとうだび)の傾向が出てますので、第6章だけは締めたいと思っているのですが、5章は気楽に読んでいただきたい。こういうふうに私は思うんです。 ―前置きがたいへん長くなりました。人類は死滅するか、こういう一節のテーマを取り上げたわけなんですが、ま、死滅するかって言うと、そらまあ、寿命が来たらそれぞれ死んでいくわね。そういう意味では死滅するのですが、死滅はしても、あと子孫が出来る場合は死滅とは言わないね。だから、その辺の違いはあるわけです。人類は死滅するかって言うのは、いかにも人の気を引くような標題ではあるわけですが、要するに何が言いたいかと言うと、天変地異があるかどうかですね。そういうことでしょう。 みなさんも怖いのが大好きだからね。怖い事件が起きるのが好きなんです。だからこれなんかも『高橋信次の大予言』改め『高橋信次の恐怖の大予言』にすると、ものすごく売れると思うのですが、いかんせん私は平和を愛する神様なので、あまり恐怖のことは言いたくない。 ただね、十九世紀の末でも世紀末ということで、世紀末思想がいっぱいあったようだけれども、二十世紀も末になって、やっぱり世紀末思想がずいぶん出てきたね。特にノストラダムスちゃんというのが非常に頑張ったために、人々には恐怖心があるし、また核戦争の脅威等々ありますね。これらについても話をしておきましょう。 まあ結論から言やあねえ、人類は死滅はしない。なぜしないか。するなら私が霊示集出す意味がない。出しても読者がいなくなる。読者がいないと、あと困りますね。そういうことですから、あの世の読者だけになるんなら、あの世で話をすればいいんであって、この世で霊示集を私が出しているということは、私の読者が連綿と続いていくであろう、ま、そういうことを予想しているわけですね。死滅するなら出す必要はないわけです。死滅するなら救世運動ということも必要ない。 だから、非常にテクニック的な発想かも知れないけれども、先のことがわかる霊たちが予言書を出したり、霊言を出していること自体、人類が死滅しないというそうぃう証明になっている。死滅するなら、そんなの出すのは馬鹿馬鹿しいですね。出版社が燃えちゃうし、あなた、印刷屋は機械が潰(つぶ)れるしね。読者がみんな墓場に入ってしまうんなら、予言書は必要ありませんね。そういうことですから、あくまでも存続することを前提にやっている。ま、こういうふうに思っていただいて結構かと思います。 そこで存続はするけど、じゃあ、だいぶ致命的なそういうことが起きるのかどうか。こういうことですね。土屋書店さんから出した『内村鑑三霊示集』ですか、そういうのを読むと、なんかエホバの手が激しく大地を打つであろう、そしてなんか南極の氷が流れ出したり、北極にイルカが泳いだりするのかどうか知らないけども、熱帯と寒帯が入れ替わったり、大地が割れたり、噴火したり、そういった激しいことがあり、その原因はエホバが大地を打つからだということになっとる。 最近一説では、エホバが高橋信次ではないかという説が有力説として唱えられている。すると、高橋信次が天変地異を起こすんではないか。人類を殺すつもりなんじゃないか。まあ、こういう発想が、一部にあると思うんですね。また、一部の醒(さ)めた人から見れば。「そんな力があるわけねえじゃねえか。」と、「そんな力があるんなら、ウルセイ弟子たちをはっきりもう死滅させているはずだけど、全然元気でやっとるんだからそんなはずはねえだろう。」と、こういうふうに言う人もいるとは思いますね。 さてどうか。まあ、私は無実だと自分は信じてます。おそらくは私ではなくて、地球意識という十次元意識がボリボリとおなかのあたりをかいたら、天変地異が起きるんであろう。そういうふうに考えています。 ただ、人類にそういうダメージが起きるかどうかだけれども、今のところね、八割ぐらいの確率で、かなりのことが起きるのではないかと言われています。想像されています。これについて、くわしく話をしていきたい。こういうふうに思います。 2.ノストラダムスの予言は当たるか これまた大変な題をつけてみました。ノストラダムスの予言が当たらないとまた困りますし、当たっても困るし、いろいろなのですが、私のちょっと前に『ノストラダムスの新予言』というのが出たんですね。その後で、『高橋信次の大予言』というのが出るんです。 さあ、これで内容をどうするかね。ノストラダムスと一緒にするか。まったく逆のことを言ってみるか。ノストラダムスの予言は当たらないと言ってみるか。まあ、後から言った方がもちろん勝ちですけどね。先に言ったら後のことは修正できませんから、後から言った方がもちろん有利なんですね。 まあ、当たるか当たらないかですが、うーん、五分五分だったら当たらないうちに入ると思うのですが、まあそうだね、五分五分よりはもちろん当たるとは思うんですがね。その程度じゃないかと思うんです。特にノストラダムスのは、何て言いますかね、激しいからね。人口が三分の一になるとかいう、結構激しいことを言うから、それだけをまあ、そのまま信じられないんだけれどもね。あるいは核戦争などね、これは次の節かな、そこで話をしますが、まあ、ノストラダムスの予言が当たるかどうかですが、それはね、おそらく『高橋信次の霊示集』の売り上げと関係するんじゃないかと思ってるんです。 すなわち、私のこの霊示集がものすごく爆発的に売れて日本国中に広がり、あるいは世界中に翻訳されて広がるような段階になると、ノストラダムスの予言は多分当たらないと私は思うのです。 ところが私の予言書が、あるいは私の霊示集がだいたい二万部止まりで終わりのようなことがあるならば、おそらくノストラダムスの予言は当たる。そして、全人類は非常に厳しいお仕置きを受けるであろう。まあ、こういうふうに思うんです。パシパシッとね、お仕置きを多分受けるだろう。こういうふうに私は感じます。 なぜか、なぜそうなるかというと、結局、こういうことなんです。みなさんは、いろんな本を読んでいるから過去の人類の歴史、そういうものも勉強が済んでいると思いますが、天変地異が起きて文明が滅びたりする時には、いつも一定の条件があるんですね。 その一定の条件とは何かっていうと、末法の時代になって正法がものすごく弾圧されたり、圧迫されたりして、唯物思想が非常に広がっていること。そして光の天使たちが迫害されたり、処刑されたり、そういう時代だね、魔が非常に跳梁(ちょうりょう)しているような時代。こうした時代に天変地異が起きているっていうのは、これはもう過去の歴史を見たらその通りなんですね。アトランティスが滅びた原因も、ムーが滅びた原因も結局は一緒ですね。そこに住んでいる人たちの想念が、非常に曇りました。 そして、想念が曇るとどうなるかっていうと、人間の想念というのは、非常に強いひとつの力を持っており、それがやっぱりさまざまなものに影響を与えていくんです。 たとえば地上、日本でもいいけれども、一億人の人間が住んでいて、その人たちが唯物思想という、まあ、これは心の病気だね、そうした心の病気にとり憑(つ)かれて、あるいは信仰をしても間違った信仰ばっかり、現代流バール信仰ばっかりやっていて、そういう間違った想念を蒔(ま)き散らしていると、どうなるかっていうと、日本という国の上に想念の雲がかかってくるんですね。そういう人間の出している想念の雲がかかってくる。 こうなると、どうなるかっていうと、想念の曇りが結局、霊太陽の光を遮(さえぎ)るんです。そうするとどうなるかっていうと、影ができます。影ができるとどうなるかっていうと、いわゆる地獄の領域が増えてくるんです。地獄の領域が増えてくる。日本というところを中心に地獄の領域が増えてきて、実在界、あの世の世界でも要するに地獄の領域が増えてくるんです。 そしてますます光が射さなくなって、地獄霊たちの跳梁(ちょうりょう)が激しくなる。そして地獄霊たちがいっぱい増えてくると、それが地上に出てきて、地上の人間に次つぎに取り憑いちゃう。まあ、ソンビの世界ですね。ゾンビの世界みたいに取り憑(つ)いちゃって、いろいろ入って飛んだり跳ねだりする。暴れるね。宗教を説いてる人なんかに入っちゃう。あるいは正法の団体のなかにも入り込んで、弟子たちをおかしくして狂わしたりする。こんなことをし始めます。 こういうふうにして、段々乱れていく。こうなってくるとどうなるかというと、地球意識という霊意識から見ると、日本の上にかさぶたっていうかね、そういうものができたのと一緒で、かゆくてかゆくてしょうがないんです。 今六月ですから、水虫、たむしの季節ですが、かゆくてしょうがありません。ボリボリボリボリかいちゃいます。かいちゃうとどうなるかっていうと、フケとかがやっぱり取れますね。あるいはかさぶたっていうのかね、あれもポロッと取れますね。そういうふうになります。そういうふうに、地球意識がガリガリッとやると陸地が沈んじゃうと、まあ、こういうことが起きるわけなんですね。 したがって、そうしないためにはどうするかっていうと、いんきんたむしをつくらないことが大事です。いんきんたむしをつくらないためには、そういうばい菌を繁殖させないことが大事です。ばい菌を繁殖させないためにはどうしたらいいかというと、常に清潔にしておくこと。風通しをよくしておくこと。夏は短パンをはいて、アロハを着ていること。そして涼しいところにいることですね。扇風機もないようなところで汗流していたら、いんきんたむしになってきます。そういうことです。だからそういうふうに、清潔にして涼しくしておくことが大事です。 これを心の世界というか、人間の世界に当てはめると、一体どうなるかっていうと、結局そこで生きている人たちの大部分の意識を、浄化するっていうことが大事です。浄化するっていうのは、どういうことかっていうと、まあ、神様の心に近い生き方をするっていうことですね。それが大事。そうすると、いんきんたむしにならないのですね。風通しがよくなって、清潔になって、そのようにはならないわけです。 ところが金がないからと言って、三日に一回しか風呂に入らないとね、「銭湯(せんとう)高くなったあ。最近二百七十円だあ。」なんて言って、三日に一回しか入らないと病気になるわけです。皮膚病になったりします。そういうことがあるわけです。 やっぱりお金ができたらね、ちゃんとお風呂に入ったり、温泉入ったりしなきゃだめです。薬湯とかいろいろあるんです。温泉にもいろいろありますね。なんかブクブク泡が出る泡沫(ほうまつ)湯とかねえ、あなた、寝たまま入る寝湯とかねえ、打たせ湯とか、かぶり湯、ねえ、薬湯から始まって、ラジウム温泉ね、いろいろあるんですよ。そういうふうに温泉もいろいろあって、体によく効くんですね。そういうとこでよくつかるといいんです。 だから、結局、ノストラダムスの予言が当たるかどうかは、高橋信次の霊言が広がるかどうかだよ。ま、これはひとつの極論でありますが、意味としては一緒ですね。すなわち、今一丸八八年ですが、これから世紀末までの間にどれほどその救世運動というかね、まあ、救世運動というような言葉は大きいかも知れないけれども、本当の教えが広まるか、あるいは人類の心を浄化するということができるかによって、予言が当たらない可能性が非常に強くなるっていうことです。これは、風通しをよくし、清潔にしたからね。。クレゾールで洗ったからきれいになるっていうことです。 だからまあ、私は言っときます。日本がノストラダムスの恐怖の予言の対象外になるためには、高橋信次のこの霊示集一冊が少なくとも百万部以上売れないと絶対無理です。そうしない限りは、どこが沈没するか知りませんよ。売れ行きの悪い都市は、だいたい陥没するでしょう。そこの書店は全焼するでしょう。まあ、そういうふうになるかもしれません。 だからね、まあ、これは半分冗談で言ってるけども、大事なことです。本当の意味でこの神理が広がるか広がらんか、これにかかっています。みなさんね、かかっていますよ。これを言っときましょう。 3.核戦争を考える いよいよ核戦争に入ってきたわけです。『ノストラダムスの新予言』だと、核戦争が相当起きて「ジュネーブが打たれる」だとか、「西側がやられる」とか、「ソ連にも核ミサイルの雨が降る」だとか、いろんなことを言ってるようですね。まあ、言うのは勝手ですよね。あと責任とれないでしょうが、言うのは勝手でしょう。 ただ世界の雰囲気、今はちょっとデタントだとか、いろいろ軍縮やってますが、軍縮なんかやり始めるとかえって危いんだよね。揺り返しがまた来ることは事実ですね。 それと、注目すべきは今ソヴィエト連邦というところで、ペレストロイカっていう改革やってますね。これの行方(ゆくえ)がやっぱりひとつの鍵になるんですよ。みなさんね、今ゴルバチョフさんという新しい指導者、若い指導者が出て、ソ連の自由化やってますね。民主化やってる。これが成功するかしないか、これは大きいですよ。これで結果がかなりズレるんです。ゴルバチョフさんが、もしソ連の民主的改革に成功すれば、かなり今とは局面が変わります。今、彼を指導している霊たちもいます。何とかしてソ連をもうちょっと陰湿じゃなくて、何というかね、解放された民主主義的な国にしようという運動がある。 これが失敗した場合には、一転します。反権力、反革命運動が起きてきますから、この逆の揺り返しが来ます。もしゴルバチョフ勢力なんかが粛清されたり、あるいは除かれるようなことがあったら、これは核戦争が近いと思って間違いないと思います。だからその意味では、現在進行形であるけども、彼のペレストロイカ、ソ連の改革が成功することを、みんな祈った方がいいですよ。私も祈ります。 ただ、危険な面も相当あるということです。やはり人間には保守性があって、そうそう簡単に体制は変えられないんです。だから、ソ連の国の教祖様は結局マルクス、レーニンですから、マルクス、レーニンという御本尊様の意向に背いた場合に、さあどうなるかということがあるわけです。 どこかの宗教団体でも、初代と違うことを二代目が言い始めて混乱したようなところがありますが、そういうふうに、御本尊、御数組様と違ったことを言い出した場合、成功する可能性は少ないことが多いです。それを納得させるだけの力がなければ、成功しないことがある。 そして、この改革が成功せずに、揺り返しが起きた時には、人類は大変な危機を迎えると思っていいです。その意味で、彼が成功することを私は祈っています。 ただ最近、なにかブーニンっていう音楽家が亡命したんだそうですね。なにかソ違に出た光の天使、音楽の天才が逃げちゃって、もう駄目ですね。彼は、ショパンが指導してるんだけど、入って弾(ひ)いたりしてるんだけれど、逃げちゃったね。アメリカに行きたいとか、日本に行きたいとかいろいろ言っているけれども、駄目ですね。日本に来て、演奏でもしてくれるかもしれませんが、まあ、逃げちゃいましたね。残念だね。ソ連のひとつの新しい雰囲気っていうか、新時代をつくるための役割を果たしてほしかったなあと思うんだけれど、なかなかペレストロイカでも満足できなかったということだろうね。 で、ブーニンらがいられるような社会にしようとして、ペレストロイカをものすごく前進させると、今度は反動勢力がすごくなるんだよね。そして中途半端にすると、逆に今度はそういう自由を求める人たちがいられない。こういうことがあるから、結構あれも苦しいだろうね。苦しい闘いだろうと思います。 だから、核戦争の有無はソ連にかかっていると考えていいです。あの改革が失敗したら戦争になると思っていいです。間違いありません。指導者が替わった時には危ないですね。だから、何とか成功するようにさせてやりたいなと思っております。 それともうひとつは、先ほど言った救世運動の広がりですね。これがどこまで行くか。これによって救えると思う。すなわちその民族、国の上空にあるその想念ですね、想念の雲を晴らすことが大事なんですね。雲を晴らしてしまえば、太陽の光が燦々(さんさん)と注ぎます。そういうふうなものなんです。そうすると、天変地異が起きにくくなってくるんです。 ソ連という国も、相当上空を想念の曇りが覆っているんですね。この唯物思想、あるいは神を冒涜(ぼうとく)する一部の思想、あるいは民衆を弾圧し亡命が相次ぐ、あるいは革命などと言っても粛清ばっかりやってきた革命、こうしたことによって、相当国全体が暗い想念に包まれています。まあ、こうしたことがありますし、あと東欧、東ヨーロッパとの兼ね合いですね。この辺も非常に暗いけれども、どうなるのかということですね。 あともうひとつは寂(さび)しい予言として、アメリカの、何て言いますかね、没落ということがいろいろ予言書のなかで出てきているようです。あれだけ世界の警察犬で頑張っているアメリカですね。あっち行って吠え、こっち行って吠え、第七艦隊派遣して吠えまくっているアメリカが、没落するという可哀相な話をしています。わずか数百年、二、三百年の歴史しかないあの現代のローマですね、ローマ帝国が、あっという間に消えていくというようなことが予言されている。 なぜそれほど停滞せねばいかんのか。没落しなければいかんのか。あれだけ光の天使が数多く出た国が、どうしてそうならなければいかんのか。そうした考え方が、ひとつにはあると思います。 ただこれもね、ひとつの計画があるという話を知ったでしょう。大西洋にひとつの大陸が浮かび上がってきて、新大陸ができてくるという、これはある意味では新しい福音だよね。単に没落する、あるいは沈没するだけならさみしいけど、新しい大陸が浮上して住みかが増えるっていうんだから、それはそれなりにいいよね。まあ、そういうこともあると考えてください。 そういうことでね、とりあえず今のところの予定としては、あの米ソの勢力がかなり後退していくということです。今世紀末を境にして、何らかの形で後退していくでしょう。だからソ連は革命の行方(ゆくえ)、改革の行方が問題です。アメリカは経済的な衰退、これが問題です。今もかなり弱ってきています。円高、ドル安とか、いろいろ言ってますが、アメリカ経済は非常な国家的赤字をかかえ込んで、頓死の状態に近いです。だけども威信をかけてやっているもんだから、ますます苦しくなってきてますね。赤字国家です。もう世界の債務国になっちゃってます。転落しています。 さあ、これからこの改革がどうなるか。レーガンさんについての評価はいろいろあると思いますが、彼は強いアメリカを演出するためのレーガン政策をやってきたわけだけど、結果的に見ると、アメリカ没落への伏線となったんだ、彼はね。これがわからないだろうか。みんなまだわからないかもしれないね。アメリカンドリームを背負ってね、俳優、ハリウッドの二流役者が大統領になっちゃって、そして強いアメリカを演出しようとして、ガンガンガンガン軍事費を増やして、減税やったんですね。 あなたわかりますか。個人の経済で考えたらいいよ。家に自動車いっぱい買って、そしてあの減税ってことは収入が減るんでしょう。たとえば商売していて、商売で安売りして、利益減らして、そして家に自動車いっぱい買ったらどうなるかっていうと、赤字になるんですね。そういうことをやったんです、彼はね。軍事費はどんどん増やして、そして赤字借金になっちゃったんです。減税もしたしね。そういうことをして赤字財政つくっちゃったんですね。マネタリズムかなんか知りませんが、その通貨供給学派かなんかね、そういうの聞いてやったら失敗しちゃったんです。あれは失敗なんですね。 だからハリウッドの夢はいいけど、おそらく二千年以降の人びとから歴史的に見れば、実はアメリカが没落したひとつの曲がり角は、レーガン政権であったということが明らかになると思います。彼の経済政策が間違っていたのですね。これがひとつアメリカ停滞のきっかけになりました。 それ故(ゆえ)に、おそらくアメリカの一九九〇年代の没落は、経済的没落から始まっていきます。おそらくそうなるでしょう。経済的に力が非常に低下してきます。西側のリーダーから、ひとつの有力国に落ちていくと思います。ソ連の場合は内乱、革命、こうした問題である程度弱っていくでしょう。 そして、やっぱり強くなっていくのはおそらく中国ですね。中国が結構強くなっていきます。中国、韓国、日本、この辺が強くなってくる。まあ、中国も革命が予言されていますが、力としては強国にまたのし上がっていきます。こういうことが言えますね。中国、韓国、日本、このあたりが強国になっていきます。したがって、光は東方よりじゃないけれども、アジアに強国が出てくるっていうことです。続々とね。アジアの強国が出てくるということが言えると思います。 まあ、そういうことで核戦争などは、ソヴィエトのペレストロイカの行方(ゆくえ)とアメリカの経済的な問題との兼ね合いで、やっぱりいろいろ事情が変わってくることがあります。核戦争を回避する前提として、やっぱり世界の浄化が第一である。こういうことを言っておきましょう。 4.正義と正法 さて、私は、正法を説いているということになっているわけだけれども、「正義と正法」という話もしておきたいと思うんです。 たとえば、正法でいうと、モーゼの律法もそうだけども、「汝、殺すなかれ」「汝、奪うなかれ」「汝、隣人の妻を貪(むさぼ)るなかれ」、あるいは「羊を取るなかれ」「偽りの証(あかし)を立てるなかれ」と、まあ結構ありますね。こうした法律の根源としての正法というものもあるんですが、これから社会を改革していくために、ひとつはやっぱり今の法制度ですね、これがどうも神の法、神法と少しズレてきている面があると思うのです。 したがって法制度の改革ですね、これをもう一度やらねばいかんと思います。社会を規律する法、あるいは裁判制度、いろいろありますが、こうした正義とは何かという部分に、もう一度正法の裏打ちが要るようになってきたなと思っています。法律(LAW)っていうのは、ある程度正義の実現のためにできていると思いますし、市民社会を悪から守るためにあると思うんですね。ただそれらが残念なことに、学問的な部分、人間の知と意で多少曲げられた部分が多いと思うので、やはり正義と正法の考え方をもう少し入れていく必要があると思います。これをしないと、本当の意味で人類の浄化ができないと思いますね。 それは単に、日本という国の国内法だけをとり出して言っているのではないのです。やっぱり国際法って言いますか、国際的なルールのなかでの正法に裏打ちされた正義の確立が大事だと思う。まあ、国運だなんだって言っていろいろやってますね。国際紛争解決だとかいろいろやってますが、ああしたところにやはり何て言うかね、私たちが今目指している正法神理、これの国際的な正法神理を確立して、それを導入していくということが大事であろうと思います。 結局ね、政治紛争の根源にあるのは宗教です。どこもかしこも宗教がやはり根源にあるように思います。米ソの対立も結局、キリスト救国と唯物主義国との戦いでしょう。イラン・イラク戦争だって宗教でしょう。まあ、そういうふうに、結局政治紛争の裏には宗教がある。したがって政治問題を考える時は、宗教という問題を抜きにしてやれないんですね。これを抜きにしては考えられません。 だから、政治と宗教は非常に似たところがあります。それは、現象としても似たようなところがあります。宗教も、何が正しいのか、何が間違っているのかわからなくて数で勝負している、勢力で勝負しているようなところがあるわけだけれども、政治もそうだね。自民党と、社会党と、共産党と、公明党で一体どれが正しいかって言ったら、それはわからんね。よくわかんないでしょうみなさん。それぞれ支持者がいるっていうことは、どれもやっぱりある程度の正義を体現してるんでしょう。で、わからなくて多数決でやってるんでしょう。自民党でも派閥争いしているね。結局、多数決であれもやってるんでしょう。 こういうふうに、宗教の世界と政治の世界だけは、結論がなかなか見えないところがあるんですね。何がいいのか、わからないところがある。 それはなぜかっていうと結局ね、私はこれを今明らかにしておきたいと思うんだけれども、ま、多様な価値観とも関係があるのだけれども、利益の比較考量(ひかくこうりょう)という問題があるんだね。Aという考え方とBという考え方、それぞれに利益は生むことがあるんだね。利益は生むことがあるけれども、どっちがより利益を生むかというところで考え方が分かれるんだね。 たとえば科学法則なんかは、法則が合っているか合っていないか、これにかかっているよね。たとえばニュートンの古典力学の世界では、時間と空間というのがある程度、確立しているという前提のもとで説明が進んでたね。ところがアインシュタインが出てから、時間と空間が相対世界の中に置かれたわけだね。で、光の速度こそが一定で、絶対だけれど、時間と空間は歪むということになっちゃったわけだね。宇宙に流れている時間あるいは空間は、これは一定ではない。コンニャクみたいな世界になっちゃったんだね。 で、住んでいる人は非常に不安になってきました。自分たちはちゃんとしたところに住んでいると思っていたのに、コンニャクみたいなところに本当は住んでいるらしい。伸びたり縮んだりするらしい。これは大変なことだ。コンニャクを貫く、何て言いますかね、貫くものですか、針でも、はしでもいいや、おはし、おはしがコンニャクをブスッと貫く。あるいは豆腐でもいいや、豆腐を割ばしでプシューッと突き刺すと、その割ばしが突き刺す速さだけが絶対的神理、正しく一定してて、豆腐そのものはグニャグニャである。コンニャクそのものはグニャグニャである。こういう世界観をアインシュタインは出しましたね。 まあ、これにしても現実はどうあれ、物理的理論というのはイエス・オア・ノーになるわけです。イエスかノーかですね。こういうふうになります。だから結論はひとつしかないんですね。 ところがこの宗教と政治の世界は、結論がひとつでないところが問題なんだね。Aという利益、Bという利益、Cという利益がそれぞれ出てくるのですね。利益ということがわからなければ良さと言ってもいい。それが出ることがある。これで比較考量って言いまして、左右比べてどっちがいいか、ABCでどれがいいかの判定があるけど、これが難しいんだよね。難しい。 それも計る時に一定の規準だけなら簡単なんだよ。人間で喜ぶ人の数が多い方だけやっとればいいなら、そりゃたとえば新幹線なんかつくる時ね、喜ぶ人の数の方が多ければいいのなら、それはまあ問題はないね。どこを通したっていいことになる。それを利用する人の方が多いからね。圧倒的に土地所有者より利用する人の方が多いから、そりゃあ国民投票すれば、それは賛成するに決まってる。たいていの場合ね。それを利用する人がいる。 だけど現場に住んでる人から言えば、自分が長年老舗(しにせ)やってるところを新幹線通されちゃったら大変なことになるよね。もっと広いところあっちにあるならあっちに通しゃいいじゃないかと、こうなるね。この辺の判定、政治の問題だけど難しい。多数決だけでいいなら国民全部にやらしたら賛成が多いけど、住民だけを選んで多数決やったら、これは反対が多くなるよ、きっとね。そこの町だけでやったら反対が多くなる。日本国中でやったら賛成が多くなる。これをどう解決つけるのか。これは政治の問題だよね。 これは単に数だけじゃないだろう。やはり質の問題があるね。その住民が負担しなければいけないその負担感というのが、どれほど大きいかだな。他の人の満足感と比べてどれほど負担感が大きいか。この辺の探究が始まるんだね。 宗教だって一緒だ。それぞれやっぱりいいとこはみんな持ってるんだな。いいとこ持ってるけど、悪いところもあるしね。あるいはAの宗教とBの宗教とどっちがいいか。天理教と金光教とどっちがいいかって言っても、難しいとこあるよね。まあ、いいところは両方あるだろう。だけど特色があって甲乙つけがたい。それぞれこっちがいいって言う人がいるんでね。言い難い。こういうふうな難しさがありますね。 ただ、私は思うのに、今後国際紛争の問題が相当出てくるが、その背景にはやっぱり宗教があるんで、この宗教関係の理念の統一、これをどうしてもやらねばいかん。世界的宗教が、今出現するべき時である。世界を救う宗教というのがどっかの温泉地帯にもありますが、そういう看板倒れになるんじゃなくてね、本当の意味での世界を教う宗教が私は大事だと思う。そのためには、世界の宗教の諸派をまとめるだけの理想なり、理論がなければいけない。世界の宗教をまとめる理論が必要です。そういう一段高い価値観と理念、理論によって、世界の宗教をまとめていく必要があります。 本当はこういう神からの分かれ方であったんだという、その系統樹をはっきり示して、それによって神様が今後新しい時代をどう思っておられるかはっきりさせる。その裏打ちをもって、国際社会の倫理基準を打ち出していく必要があるんです。宗教紛争に対する倫理基準を出していく必要がある。それによって初めて、それを基準に国際連合とかが動けるような、国際会議が動くようなそうしたものをつくる必要がある。 だから非常に大きな使命なのです。信徒の拡大だけじゃありません。そういう国際的なルールづくりのための宗教が必要です。宗教理念が必要です。それは単に信じる信じないという信仰の世界を抜けて、ひとつの理論として、あるいは理念として高められなければいけない。世界各国の人が受け入れられるような理念が必要です。そこまであなた方の使命があると思う。 そうした理念を形成するためには、やっぱり高橋信次の本が百巻以上出なければ無理です。その多様な価値観をまとめるために、それだけ出なければいけない。したがって、著者がいくら夏バテしようとも、読者がいくらかき餅ボリボリ食べながら読んで、もう飽きたなんて言おうとも、出版社がもういいだろうと言っても、新聞広告でいつも高橋信次が出てくるのでみんながいやがっても、それでもやはり私は出し続けねばならない。 なぜならば、中東で今戦争が多いですが、中東の宗教をつくった根源は私だからです。そのカルマの刈り取りを私がやらざるを得ないのです。そのためには、世界的に新しい教えを広める必要があるんです。そうしなければ、イラン・イラクの中東戦争もなくならないんです。根源の神様がやはり言う必要があるんですね。ま、そうした考えがあるということを、知っていただきたいと思います。 5.日本の繁栄 さて、話が非常に大きくなってきたところで、日本の繁栄ということを話しておきたいと思いますね。 日本が繁栄するということは、いろいろ予言されています。これは、間違いないことだと思うのですね。非常に巨大な力を持つと思います。だから、現代に生きているみなさんはものすごくラッキーです。そう思ってください。非常にラッキーな時代に生きていて、まあソクラテスのギリシャ、あるいは孔子様の中国、あるいは繁栄の時代のローマ、こうした時代に生きているのと一緒なんですね。そうした時代に生きているっていうことを、喜ばなければいけない。 そして、そうした時代環境の土地に生まれているということは、これは君たちがひとつの優秀な方、エリートである、選民であるということなんだな。で、私たちが霊言を送っていることも、君たちが昔の預言者たちの歴史を持つユダヤ人、彼らと同じであるということを今、意味しているんだよ。日本人に今生まれている人は、かつてのユダヤ、イスラエルの民族から相当出てきています。イスラエルで今宗教戦争やってるもんだから、みんなあそこに生まれるのはいやで日本に結構出てきてますね。 だから、ユダヤ人と日本人はよく似ているとか優秀だとか言うけど、両方に転生している魂は非常に多いです。日本に今出てきている魂の多くは、かつてユダヤの地でモーゼの教えを受けたり、いろんな預言者の教えを受けた方が相当出てます。そうした宗数的な魂が多いです。光の天使だけではありませんが、頭のはげている光の天使もいるでしょうが、光が出かかっている天使、天使候補生、あるいはそれを目指している人、その目指している人をさらに目指している人、いろいろいるのですけども、こうしたかつてそのユダヤの国で洗礼を受けたり、教えを受けた方が数多く出ています。そういうことが言えると思います。 だから今ね、新たな選民思想と言ったらおかしいかもしれないけども、選ばれたる民という気持を持つ必要があると思います。みなさんは、幾転生して今、選ばれたる地、約束の地に出てきているんです。こうした約束の地、救世の法が説かれる地に出てきている。このことを喜ばなければいけないよ。 高橋信次が日本に生まれてくることを予言した人がいるかって、そういう質問が出る場合もあるけども、私が日本の地に出るという予言はなかったんですね、結局私がなぜ出てきたかというと、まあこれは、はっきり言えばモーゼの代わりに出たんだよ。そう思っている人も多いだろう。 モーゼは三千二百年前に出て何しているのだ。今ね、天上界でゴロゴロしているのじゃないか。何しとるんだ、あいつはってね。本当だったらモーゼが日本に出なければいかん時期だったんですね。モーゼが日本に出て奇跡を起こし、改革を起こして、そのあと仏陀の意識が法を広める、法を構築するというのが、これがひとつの構想であったんだけども、「どけっ。」と言ってどけて出てきたのが私なんです、実はね。 だから予言されてないって言うけど、それは彼が出る予定だったのを私がどけたからだよ。私がどけて、それが計画されたのがだいたい今から百五十年ぐらい前ですけれどもね。百五十年ぐらい前になりましょうか、だいたい千八百年代後半ぐらいから始まったんです。その辺でもう出ることに決めたんです、自分でね。今まで出なかったのが、よしもう出ようと、俺が出なきゃどうなる、と。出てきたら意外に大したことなかったなんて言われてるんだけども、まあ大したことあるかないか、これから証明するつもりでいるけどね。モーゼの代わりに私が出たわけです。 そういう意味で、私が出るっていうことはあんまり予言されてなくって残念なんだけれども、誰か送り込んで予言させとけばよかったと思ったんだが、それはやむを得ないでしょう。 そういうふうに、日本というのは、非常に選ばれた民が住んでいるところです。現代の聖地であるという観点は絶対に忘れないでほしい。そういうふうに思いますね。
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目次 1.残る人生の完全燃焼を 2.光が悪霊を追い払う 3.自分の罪は自分の反省でのみ拭える 4.神理を知って道を開く 5.人生には明るい希望がたいせつ 6.物心両面からの治療 7.医者は宗教家以上に心の世界を知れ 8.執着を反省によって取り除く 9.心身を春の状態にする 10.愛念によって悪霊との和解を 11.神理と笑顔と奉仕業で怨念を熔(と)かす 10.愛念によって悪霊との和解を (問)クロムシ病を心霊治療したい 会社員(女性)三十歳 私は現在、クロムシ病で六月末からある病院に入院しています。ここでは食事療法を基礎とし、科学療法、漢方薬、カイロプラクチックの治療をしております。四か月あまりの入院で、大きなお腹のしこりもすいぶん柔らかくなったのですが、便秘と下痢、特に最近は下痢が続き、体重が滅少ぎみになっています。便も検査では鮮血反応が出ています。こちらの先生は、できるだけのことはやったし、あとはいつまでここにいても変わらないので、転院したほうがいいとも言われます。両親も早く大阪へ帰ってくるように勧めています。 大阪の病院では、鼻からチューブ栄養という治療になります。その治療では体重がふえ、血液検査の結果もよくなるのですが、退院して普通の食事するとまた体重が減っていきます。私としては、もう少しここのカイロプラクチックと合わせて、自分の力で消化吸収する力をつけたいと思います。せめて今年いっぱい、こちらで今の治療を続けたいと思うのですが、どうせ帰るなら、今帰ったほうがよいのでしょうか。 ある方から心霊治療をすすめられており、受けてみたい気がするのですが、どうでしょうか。私の病気はがんばって努力すれば治るのでしょうか。どうかよろしくお願いいたします。 (答)病気の正体は三体の憑依霊 エドガー・ケイシーです。お答えします。 少々厳しいことも言うかもしれませんが、それは私が霊界の医者としての立場で言うことですから、そういうふうに聞いてください。普通の人間が言うことではなくて、あの世の人間があの世の目でみて、この人に感じることを感じるままに言うだけですから、それを率直にとらえてみてください。そうして考える材料にしていただきたいと思います。 まず、現在この方の病気について、私なりに感じることをお話ししたいと思います。このクロムシ病というものの正体です。これがいったい何であるかということについて述べたいと思います。 この方を今、霊視してみると、………この人の腹部、お腹ですね、お腹のところに三体ほどの霊体がみえます。この病気は完全に憑依霊によって起こされている病気であります。これを解決しない限り、残念ながら科学的治療によっては治らないのです。この三体の憑依霊についてもう少し見てみますと、まず一体目、一体目の憑依霊はどうやら産後の肥立ちが悪くて亡くなった三十五、六歳の女性です。小肥りして、顔にそばかすのある、そうですね、身長は百五十センチぐらいの女性です。そういう女性の姿がみえます。産後の肥立ちが悪くて亡くなった方です。 二体目の憑依霊をみてみると、……これはどうやら子供の霊ですね。子供の霊といっても、どうやら生まれてきた霊ではなさそうです。人工流産で堕ろされた子供の霊のようです。男性です。男性の、いわゆる水子といわれる霊ですね。五か月、いや五か月までいってないでしょうか、四か月から五か月ぐらい、お腹に宿って四か月ないし五か月ぐらいの男の子です。これが人工流産によって堕ろされた、このことに関してこの霊体が非常に苦しがっていますね。事情がのみこめないでいる。こういう霊が一体お腹のところにいます。 三体目は、………三体目は、これは人間ではありません。これは、何か爬虫類ですね。爬虫類ですが、ヘビではありません。大きなトカゲのようなものがみえます。そういう霊体がみえます。これは動物霊でしょうが、このトカゲのような霊体がいったい何をしておるのか、これはすぐにはわかりませんが、どうもこの霊体が入っていることによって、非常に普通じゃないような病気になっているようです。基本的にこの人の小腸潰瘍ですか、お腹の具合が悪いのは、こういったお腹に関係のある女性ですね、産後の肥立ちが悪くて亡くなった三十五、六歳の女性、水子霊として死んでいる男の子、これが両方お腹に関係していますね。それと、こういうトカゲのようなものが憑依霊に憑くということは、ちょっと普通はありえないことだと思うのですが、なぜこういうものが憑いているのか………。 うーん、どうもこのトカゲのように見えるもの、その実態は、どうも動物ではないようですね。トカゲの姿をとっているけれども、そのトカゲの姿をとっているものの実態は、やはり人間霊ですね。やはり人間霊で、あの世の畜生道というところに堕ちて、現在、トカゲのような姿になっている人間霊です。これがトカゲのような形でこの人のお腹に今、入っています。 このトカゲの形をしているものの正体は…………うーん、どうもこれはこの方の家系に何か恨みを持っている霊のようです。この家庭に対して恨みを持っている者の霊ですね。これがこういうふうに変化しているようです。トカゲというものは、要するに残忍さというものを象徴しているのです。そういう残忍な恨みと、攻撃的な心、これの象徴がトカゲですから、そういう形をして出てきておりますが、実は人間霊で、どうも恨みを持っているようですね。攻撃したいという気持ちを持っているようです。 それはこのまだ若い女性のところに来ておりますけれども、この恨んでいる者の正体は、本当に恨んでいるのは、実はこの人ではないはずです。この人のどうやら、………この人のどうやら母親に関係があるようにみえます。この人の母親で、だれかこの人の母親を恨んで死んでいる人がいるのではないかと私は思います。おそらくそうだと思います。母方ですね、母方で、おそらくこの人の母親だろうと思うんですが、この人の母親ないし、母方のご親戚のなかで、だれかを強烈に恨んで死んだ人がいないかどうか、どうかちょっとこれを調べていただきたいのです。この人のお母さんに関係があるはずです。お母さん自身か、お母さんに関係のある、非常に近い方です。このお母さんを非常に恨みながら、憎しみを持って亡くなった方がいるはずです。この方が今、あの世に堕ちて、地獄に堕ちて、こうした憎しみの波動で、トカゲのような姿をもって、要するにこの人の腹部に噛みついてきているわけです。この恨みの念波を断たねば、身体はよくなりません。 そういうことで、どうもお腹に関係のあるのが三体あって、最後の恨みが特に強烈です。これがこの人の体を弱らそうとしております。ですからこの人の母方で、特に恨みを持って死んだ人、お母さんか、母方のお母さんに関係のある方に恨みを持って死んだ人がいるかどうか、ちょっと調べていただきたい。その人がいれば、おそらくこの恨みの念を解かないとよくならないはずです。 それと先ほど言った、産後の肥立ちが悪くて亡くなった方と、水子で亡くなった方、これに思い当たりがあるかどうか、これも調べていただきたいと思います。この人か、この人につながりのある人に関係あるはずです、これも。この三体とも関係があるはずです。この人か、この人のご家庭に関係があるはずなんです。その人自身に関係があってくる霊体もありますが、そうではなくて、その人に縁のある人と関係のある霊体が、いちばん弱いところを狙って出てくる場合もあるのです。だから必ずしもこの人に関係があるかどうかはわかりません。まあしかし、この人に近い人には関係があるはすです。これは完全にこういう三体の霊障です。だから残念ながら、食事療法、科学療法では根本的な治療は無理なのです。これはどこへ行っても同じです。 まず霊たちと和解する 病気が治るかどうかですけれども、要するにこういうあの世の念波によって、相当病気が出来ていますから、結局のところ、これに打ち勝てるかどうかということになります。打ち勝てるかどうか。ですから、この人のご家族が、私が言っていることを信じてくださるかどうかわかりませんが、主として迷っている霊、恨んでいる霊の霊障ですから、この霊障を要するに解かなければ意味がありません。 今言った三体の中で、もし心当たりのある人がいれば、ご家族の中に心当たりの人がいれば、まずその霊と和解する必要があります。すなわち、恨んで死んだ人がいれば、その者に対する、要するに話し合いですね。これが私はまず必要だと思います。ですから、ご家族の中に心当たりのある人がいたら、どうか心の中で語ればわかりますから、その恨みが出てきているわけですから、その亡くなった方と和解をしていただきたい。お詫びの気持ちを持ってほしいと思います。もし、その人のお墓なりなんなりかあるならば、お墓参りをするなりなんなりして、もちろんしなくてもいいのですが、たとえば 『正心法語』なり、『析願文』なり、そういうものを供養の経文としてあげて構いませんが、相手の名前を呼んで、そういう供養をしてあげることです。まずこれが、相手がわかれば、そういうことをやってみてください。 私にはっきりとみえるのは三十五、六歳の女性と、亡くなった子供の水子霊と、それと恨みを、強烈な恨みを持って死んでいった男性です。この三体がみえますから、心当たりがあるかどうか、聞いてみてください。 (問)トカゲの人は男性ですか。 (答)男性です。男性霊です。強烈な恨みを持っています。恨んで死んだ人がいるはずです。この三体は母方に関係があるはずです。だから原因をもし聞いてみて、だれかわかれば、その者に対する供養ですね。供養というのは、別にお寺のお坊さんにお経を読んであげてもらっても、全然そんなものは供養にはなりませんから、相手に死後の世界というものを教えてあげる必要があります。そして神理を語ってあげる必要があります。 そういうことで、この方自身、心の教えをもっと学んでいく必要もありますが、できればこの方のご両親にもたいへん関係があるようなので、みんな関係があるようですから、この方のご両親も、できれば神理を学んでいただきたいと思います。この方だけではなくて、ご両親もだいぶ関係があるようですね。 そういうことで、努力をすれば治るか治らないかということですけれども、霊障ということはもうはっきりしています。これ以外の原因ではありません。これでなっています。はっきりしています。だからこれに打ち勝つかどうかです。打ち勝てるかどうか。そして悪霊に打ち勝てるかどうかということは、まさしく、これは神理を知るかどうか、神理の力です。ですから、神理を学んでよくなっていくかどうかということだと思います。 打ち勝てるかどうかは、この人の努力、この人のご家族の努力です。決して拝み屋とか、霊能者回りをしろというわけではありません。そういうもので取ったところでこれは取り除けないのです。それは、原因はこの方と、この方のご家族のなかに原因があるからです。こういうものに憑依されるだけの原因があるのです。心のなかに不調和があるから、こうしたものに憑依されているのです。 非常に難病だし、難しいけれども、心の勉強をもう少しやりながら、こうしたものと戦わなければなりません。勝てるかどうかこれは本人の自覚、努力次第でありますが、この教えというものを学んで、ひとつ努力してみてもらいたいと思います。 こういう悪霊というものは、結局は光が強くなれば、だんだん憑いていられなくなるのです。ですから、光を強くしていくことです。そしてこの人だけではなくて、ご家族も光を強くしていくことかだいじです。神理を学ぶことかだいじだと思います。そしていたずらにすぐ治そうとするのではなくて、根気よく、根気よく光を入れていく、そういう作業をしていただきたいと思います。 悪霊の成仏を祈る 病院を変わったところで治るものではありません。そういうことです。心霊治療という考え方もあるでしょうが、そういうものでも確かにショック療法で悪霊を取れないわけではありません。試すなら試されてもいいですけれども、基本的には今言った通り、原囚はもうはっきりしていますので、これをどうするかです。 恨みの念を解くためには、やはり愛の念しかないのです。愛念でもって恨みを解くしかありません。まず原因を究明して、そういう特に心当たりがあるならば、しっかり和解しておくことです。そういう霊とね。そしてこの世のことを忘れて、あの世で成仏してくれるように祈ってあげること。それと自分たちを守るためには、光を入れていくこと。みずからが光っていくことです。こういう神理の勉強をもっとやっていただきたいと思います。 治るか治らないかということですが、これはこの人自身が、要するに神理に目覚めて、光を受け入れて、この悪霊を撃退できるかどうかということにかかっています。撃退できなければ負けてしまうでしょう。撃退できれば助かるでしょう。このままでこうしたものに憑かれて、もし死ぬようなことがあれば、やはりこうした三体の霊に憑かれて、そのまま地獄に引きずりこまれてしまいます。こういうことではいけないのであって、生きているときにしっかりがんばって光を入れていく。そういう努力精進をしていくなかに、この人自身の守護・指導霊の援護というものがきっとあるはずです。本人が目覚めて立ち直ろうとするときに、守護・指導霊が必ず助けてくれるものです。そういうことですから、まず目覚めることです。病院を変えることによって治るわけではありません。 今、病院にいるならば、そこでの療法によって治るかどうかということではなくて、それをきっかけとして神理とのつながりを持つという方法はあると思います。 ご両親とも今の内容について話し合いをする必要もありますが、特に大阪へ帰ったから治るというわけではありません。それはよく考えてみてください。 (問)先日ご相談させていただきましたこの方の件なんですけれど、お電話がございまして、ちょっとどうしてもわからないのでお聞きしたいということで、もう一度お願いいたします。 トカゲが憑いているということで、その男性の霊というのはだいたいいくつぐらいの人で、どういう方かという質問と、それが母の関係なのか、母方というと親戚とかだれの関係なのかをもし教えていただけたら、教えてほしいということなんですけど。 (答)この人の病気の原因をつくっているこの男性霊というのは、年齢的には、四十代の後半で亡くなった方です。そして関係とは、この方のお母さんの若いころに関係のあった方です。はっきり言ってしまえば、何らかの男女関係でトラブルのあった男性であろうと思われます。この人のお母さんの若かったころに何らかの関係があって、恨みを持たれた男性で、四十代の後半で亡くなっている方です。 (問)このままお伝えして、お母さんをとがめてしまうというような心配は、ないでしょうか。 (答)根本の原因はお母さんにあるようですから、もし根本的解決がしたいと思えば、このお母さんが個人相談をすることを望みます。ですからこの親子の両方にかかってきているんです、この恨みの念波が。 (一九八七年十一月七日の霊示) 11.神理と笑顔と奉仕業で怨念を熔(と)かす (問)髪の毛が全部抜けてしまった女性 学校事務(女性)二十五歳 十七歳の頃より髪の毛が抜け始め、大学生時代は全部抜けてしまい、大学卒業後、徐々に生えてきて、ふたたび去年からまた抜け出し、最近また全部抜けてしまいました。現在行なっている治療法は、針と病院から漢方薬をいただき飲んでいます。この髪の抜ける原囚と、治し方のご指導をいただけましたらお願いいたします。 (答)過去世の業として受ける怨念が原因 エドガー・ケイシーです。この方の頭髪が抜けるということに関してリーディングをいたします。 私の目には、この方の頭に、大きなおわんのようなものがかぶさっているのがみえます。このおわんのようにかぶさっているものの正体は、やはり霊的なる実体であります。そのおわんのようなかたちをとっているもののその実体は、人間霊であります。・・・・・・この人の頭部に憑依しているこの霊は、よくよく透視をしてみると、・・・・・・・・・うーん、これは女性の霊です。女性の霊、数は多くありません。一人です。一人の女性霊が強烈な執念でもって、この人の頭にとリ憑いています。この女性霊をもう少し霊視してみます・・・・・・。 うーん、まあこれはもうはっきりしていますね。どうもこの方の前世と関係があります。はっきりしています。この方は、今からおよそ四百年近くも前でしょうか、時代は徳川時代の前、戦国時代の末期であったろうと思われます。この頃に、加賀の国という所ですね、これは今のおそらくは石川県あたりになるのでしょうか。この加賀の国のあたりで巨大な一揆、これは一向一揆のようです。うーん、浄土真宗系統の方々、まあ百姓の勢力が中心ですが、真宗系統の方々による大規模な一揆が起きました。その数は数十万です。そして領主と領主側、つまり武士の側と百姓の側が血で血を洗うような大変な戦乱をくり広げています。 この方は、この一向一揆の最中に生きた方であります。………うーん、このころに生きて、………この方は、その一揆の百姓の側ではなくて、どうやら加賀藩側の人であったようです。この人が仕事をしていたのは、城中の、城のなかの賄(まかな)い関係の女中、こういうものがこの人の職業でした。台所を手伝っていく役割です。これを加賀藩のなかでやっておりました。 そしてそのころ、城内の牢のなかにはこの一揆を起こして捕まった人たち、戦場で殺された方もいましたが、生きたまま捕まって、城内の土牢に、土牢のなかに閉じ込められている人がどうもたくさんいたようですが、この人はこうした捕虜たちに対する食事も作っていたのでありますけれども、あるとき、上役といいますか、上役の台所役人の命を受けて、そうした一向一揆の捕虜たちを毒殺するように、そうぃう命を受けたようです。そしてある晩のこと、食べ物の中に毒物を入れて食べさして、かなりの人数の人たちを殺しているようです。 この人が悪いというよりは、そういう立場にあったし、この命令を拒めば、この人自身ももちろん命が無いような状況であったでありましょうから、この人自身を責めることはできないのでありますけれども、しかし、この人が混入させた毒によって、多くの人が亡くなったことは事実です。そして彼らのうちの多くは、成仏した方もいらっしゃるけれども、四百年以上経った現在も、まだ地獄でうめいている人もいます。苦しんでいるわけですね。殺されたということに関して苦しんでいます。 このなかで、殺されたなかに、まあ真宗系統の熱狂的な信者であって、女性信徒の代表のような方が一人いらっしゃいました。非常に信仰心の強い方でありましたけれども、この人がそういうふうに信仰心が強いために、まあ念の力もものすごく強い方ですけどね、この人が要するに神理の伝道をしているにもかかわらす、毒殺されたということに関して、非常な怒りと恨みを持っておるわけです。まあもちろんそういう恨みを持っている以上、天国には行っておりません。ただ、自分は正しい仏の法を説いておったという自覚があるために、その念が、信仰の念が強烈な想念エネルギーとなっています。このときに殺された女性霊の一人、強力な浄土真宗系統の熱狂的な信者の一人の霊、これがこの人の今の頭に強烈にとり憑いていますね。復讐をしているわけです。早い話が、この当時の四百数十年前の復讐を今しておるわけです。 そして女性が女性を苦しめるとしたら、いちばん苦しめるものは何であるか。頭の髪の毛ですね。頭です。黒髪は女の命と言われます。女の命を攻撃しているわけです。頭に憑依をして、この毛を全部抜くことによって、この人の幸福を奪おうとしておるわけです。女性にとって頭髪が若くしてなくなるということは、たいへんな苦しみであろうと思います。そして人生の大部分の幸せを奪われるような悲しみであろうと思います。この憑依霊の狙っていることは、要するにこの人を一生苦しめたいということです。その頭髪をまず抜いて、それで若いころに苦しみをつくり、あと、このままでいくと、発狂させて殺そうと狙っているようです。恨みの念です。ものすごいです。ただこの女性だけではなくて、その背後にはもちろん殺された他の人の念波があることも事実です。相当強烈な怨念ですね。怨念のエネルギーがあります。 ですから、今のままこういう者に捕まっておったら、おそらくは四十歳を過ぎないうちに狂い死にしてしまう可能性があります。何とかしてこういう者に打ち勝たねばなりません。もちろん、過去世の業ということはあって、この人自身がそういうことをしたということは事実です。この事実自体はもちろん変えることはできません。そして、言いわけもずいぶんあります。そういうことを自分がしなくても他の人がしたであろうという言いわけがあると思います。他の人がおそらくしたはずです。これを拒めばこの人も殺されたはずです。自分も殺されるような立場にあった。そういう不可避の状況にあったわけですけれども、その毒物を混ぜたという事実自体は残っているわけです。これ自体は罪であるかないかと言えば、やはり罪の部類に入るでありましょう。そういう過去世があったということをまず認識してください。そしてこの人を前世から恨んでいる人たちがいるということをまず認識してください。 心の波長を変えて怨みの念波を取り除く こうした方々に対する供養の気持ちということ、これもだいじですけれども、ただ、相手が対象のない人であるし、今さら供養のしかたがないということもあろうと思います。とりあえず、憑依しているものは、こういう恨みの念波です。ただこの人の不幸せだけを実現すればそれで満足するというような、強烈な念波ですから、こういうものに対しては、供養するというよりも、とりあえずどうにかしてこれを取り除く必要があります。 そしてこの人も、まだちょっと神理の勉強が足りないようですから、もう少し霊言集などもしっかり読まれることをお勧めいたしますけれども、やはり心の世界には、波長というのがあります。恨みの念波を受けるという人は、やはりそれを受けるような心の波長というものを持っているわけです。この人自身の常日頃の心の波動というもの自体が、やはり恨み心つらみ心、こうぃうものをずいぶん持っているはずです。もちろん、若くしてこういう不幸に見舞われたということでもって、自分の人生を暗くしているということもあるのでしょうけれども、この人自身も暗い、見るからにだれが見ても暗い心の持ち主であり、またそうした風貌の持ち主でありましょう。そして会う人、会う人一人ひとりが、この人と会うとやはり陰気なジメジメした薄暗い感じを受けているであろうと思います。 ですから、憑依霊の原因がもちろんあるけれども、やはりこの人自身にも問題があるということです。この人は仕事をしているかも知れないけれども、まわりにいる人たちは、やはり不愉快になっているだろうと思います、おそらく。この人がいるとまわりがだんだん暗い感じに、おそらくなっているであろうと思うんです。それは憑依霊の恨みの念波もあるけれど、この人自身の暗い心の調べというのがまわりに伝わって、この人のいるまわりに特殊な磁場というのができてしまうのです。数メートルの間に渡って特殊な磁場ができて、暗い雰囲気が漂っています。まわりにいる方々もおそらく暗い雰囲気で、だいぶ困っているだろうと思います。 この人に対する処方箋は、もちろん神理の勉強をするということが第一でありますけれども、心の波長を変えていくということ、これがたいへんだいじです。心の波長を明るい方向、光明の方向に変えていくということがたいへんだいしです。まずここから始めるべきです。心の波長が、要するに明るい方向、幸せの方向へと変わってきたならば、この悪霊の想念波と合わなくなってくるのです、だんだんにね。合わなくなるとどうなるかと言うと、金属の上に付いていた蝋(ろう)のように、金属を熱してくると蝋が熔けて落ちていくんです。今、この人は、要するに冷たい金属のような心を持っているから、この金属の上に蝋のようなものが、蝋がいっぱいこびりついているわけです。頭の上におわんのような蝋がこびりついているのです。これは金属を熱していくと、この蝋は熔けて下へ流れていきます。同じであります。この人の心を暖かくしていく、そういうことが必要なわけですね。 私は今、この方に対して三つアドバイスしておきます。 第一は、霊言集を中心として神理の勉強をすること。これが一番目です。 第二番目は、とにかく陽気になる方法。笑うこと、笑顔を見せること、人に対して明るくふるまうこと。人にいい感じを与えるようにすること。こういう陽気になるという方法を徹底的に試みるべきです。どうしたら人に対していい感じを与えられるか。陽気になれるか。人に対してさわやかな気持ちを与えられるか。こういうことを徹底的に努力すること。これが二番目です。 三番目は、毎週一回で結構ですけれど、必ず奉仕をすること。まあ要するに人に恨まれているわけですから、そういう念波を打ち消すためには逆のこと、つまり、愛の気持ちを出す必要があります。愛というものは実践でもって示さねば意味かありません。したがって、何らかのかたち、この人が考えて、世のため人のために役立つような、そういう奉仕行、過去世のカルマを刈り取ると思って、そういう奉仕行を何かやってみることです。私はこの三つを処方箋として出しておきます。 こういうことを続けていけば、やがてその恨みの念波が熔けるとともに、春、雪融(ど)けの春に、春に木々の目や草花が芽吹いてくるように、この人の髪の毛は生えてくるはずです。ですから、この人の髪の毛が生えてくるときは、恨みの念波が、さきほど言った蝋燭の蝋のように熔けていく時期だということであり、春のように雪が融けていく時期であるということだと思います。 おわんのような憑依霊が憑いているということは、ちょうど自分の心の修行がどうなっているかという試金石です。試し、テストになります。そういうことです。ですから、今の三つのことを中心に努力していってみてください。この戦いは自分の戦いです。だれも助けてくれる人はないのです。今のままこれに負けてしまえば、やがて悲惨な運命が待っています。今、これに気づいた以上、敢然と立ち向かうことです。これ以外に方法はありません。 (一九八七年十一月七日の霊示)
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詳細 元号 靉驪 御誕生 2002年10月2日 元服 2018年(16歳)、2022年(20歳) 諱 朝陽 称号 慶宮(ひとひとのみや) 印 凰 父親 不明 母親 不明 皇嗣 不明 皇后 独身 子女 存在しない 皇居 ルーマニア ブカレスト鷹律御所 始祖 櫛御気野命(須佐之男命)、櫛名田比売(八坂嫁柚之比売) 概要 靉驪天皇(あいれいてんのう)または姶良天皇(あいれいてんのう)とは梶谷 朝陽のルーマニアでの別称である。御称号は慶宮(ひとひとのみや)。お印は凰。ちなみに学歴は日本の天皇と違って特別支援学校卒業資格なので伏せている。大学にも行っておらず、日本神話や日本史についての研究を行っている。ルーマニアの天皇になるために手段を問わない傾向がある。ちなみにルーマニア王女マルガレータ2世とは違う存在である。敬宮愛子様とは年齢が1歳違うが優しそうな敬宮愛子様と違い、彼は厳格で堅物な性格である。ちなみにルーマニアの天皇になるためにルーマニア政府を一度改革する必要性があると存じ上げ、ルーマニア神聖日本が誕生する大きな理由ともなる。 御誕生 尾道市立市民病院で誕生した。福山市で誕生した。と記載もあまり詳細に書かれていない。確実なのは備後地方で誕生し、安芸地方で育ったと言える。父も母も不明だが自分の御先祖様が櫛御気野命、櫛名田比売とわずか6歳で知ると彼は日本でしばらくすごした。 日本の恐ろしさ 彼は日本人であるが故に日本の内情を詳しく悟ったとされている。反乱で内戦がいつ起きてもおかしくないと思った彼は日本を裏切る選択をする。(朝陽事件)、これをきっかけに彼は一門(家族や親族)から外される。寝返った先はルーマニアという国家である。 ルーマニア神聖日本建国 形だけルーマニア神聖日本桐国を建国した。梶谷の故郷である広島県は日本一の犯罪都市であり、事件・事故が1日だけで最高40件あり、梶谷はこう述べている。鯉は出世欲が強くどんな手段を使っても登り詰めるだろう。梶谷は俗世に囚われず、国家の名前に神聖を入れた。ちなみに彼らは和暦でなく神聖暦で元号を用いる。
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目次 1.祈りはかならず聞かれている 2.観世音菩薩とは 3.私に霊示を与えた諸神霊 4.日本歴史のなかの光の天使 5.祈りの対象と反応 6.祈りに不可欠な三条件 (1988年11月30日の霊示) 1.祈りはかならず聞かれている 谷口雅春です。さて、引き続き本日は「祈りとは何か」ということに関して縷々(るる)話をしてまいりたいと思う。 この祈りということは宗教によっては、やっているところもあり、やっていないところもある。また、とくにキリスト教圏の他力中心の考えでは祈りが強く、仏教圈では比較的弱いと考えられているかも知れない。 さて、この祈りというものは一体なにゆえにあるのか。これを諸君は考えてみたことがあるであろうか。まことに祈りの行為をやっている人であっても、これを何かごくごく形式的なことだと思ってやっている者も数多いようだ。 しかし私はあなた方に言っておくが、祈りということは、これは具体的方法であり、祈りにはかならず効果というものが現われてくるのだ。これはまちがいのない事実であると思う。 あなた方は霊道とか言って心の窓が開いて、霊と交信ができるようにならねば祈りはできないと思っているかも知れない。確かに心の窓が開いた場合には祈りやすいという事実はあるであろう。けれども他方において祈りとは、その行為があるということ自体、すでに、ある結果が生ずることを予定しているとも言えるのだ。 すなわちこのように言ってもよいであろう。祈りの行為はかならずどこかで聞かれている、そう考えてまちがいがない。たとえば地上においても、ある人が他の人に声をかける時にその人の名を呼んで声をかければ、その人がふり返るであろう。同じことだ。地上の人間に対して話しかけているのに天上界の請霊が答えるということはないが、天上界の諸霊に対して話しかける時に何らかの答えがあるのは当然であろう。 人間が住んでいる世界は三次元世界と言われるように、縦・横・高さのある物質の世界であるが、人間は三次元的存在であると同時に、また高次元的存在でもあるのだ。そして人間をして、三次元的存在であると同時に、高次元的存在たらしめているものは一体何であるかというと、思いの力なのだ。これを心思(しんし)の力と言ってもよい。心と思いの力だ。この心と思いの力は、実は人間をして四次元以上の高次元的存在とならしめるだけの力があるのだ。 生前の私も、あの世の世界に四次元的世界、五次元的世界、六次元的世界、七次元的世界というような世界がどうやらあるらしい、ということは語ったことがあるが、実際こちらに来てみてますますその感を深くしている。そして人間の心の思いとはこの各世界に通じてゆくものなのだ。その思いはその思いの波長に合わせた世界に通じていると言ってまちがいがないであろう。それゆえに人間は三次元的存在であると同時に、多次元的存在でもあるのだ。 2.観世音菩薩とは 生前私は、神想観というものを教えたり、あるいは聖経「甘露の法雨」について教えたりした。こうしたものはもちろん生長の家の大神、あるいは観世音菩薩と言われている者から受け取ったと私は伝えていたものですが、こうした観法、坐法、精神統一法、祈願法というものは、その性質上、人間が創るものではなくて、霊、特に高級霊から与えられるものをその本質としている。 甘露の法雨も、今こちらに還ってわかる事実としては、やはり私に伝えていた人がいたようだ。それはこういうことを言うと、教義の解説のようで、修正をしているようにとられて不本意なところもあるし、生長の家の諸君も「谷口雅春が自分の説を曲げるなどということは聞いたことがない」と思って、「そういうこともあるまい」と思うかも知れぬが、こちらに来てわかったことによれば、私が甘露の法雨を受け取ったのを観世音菩薩からというふうに言っていたが、観世音菩薩というのは、こちらの世界で発見したことによると、特定の人間ではなくて役職名であるということがはっきりしてきた。 この観世音菩薩というのは主として女性の菩薩のことで、女性の菩薩であって手を差し伸べる役割、具体的救済の役割をやっている女性菩薩のことを、どうやら言っているらしい。そして仏数的には観世音菩薩と言われても、また出る世界によってはさまざまな形で現われているようだ。 たとえばこの観世音菩薩という役職名にあてはめるとするならば、もちろんヘレン・ケラーとかナイチン・ゲールとかいうような、人びとを救うために降りた女性高級霊たちも観世音菩薩の中には入ることになるし、中国にもそうした役割を担った女性もいたし、日本の神道系の中にも観世音菩薩にあたるような、そうした役割をした方もいる。たとえば光明皇后というような偉いお方が昔おられたが、あのように、らい病患者を救(たす)けるための施設を造り、病に伏せった人たちを救ったその行為は、観世音菩薩の行為そのものでもあろう。 こうした方がたが、役職としては観世音菩薩という範疇(はんちゅう)に入ってくるのだ。そうした似たような仕事をした人たちは、観世音菩薩という形で呼ばれることが多い。そうして必要に応じて観世音菩薩を名乗ったり、あるいは実名を名乗ったり他の名を名乗ったりすることが多い。 3.私に霊示を与えた諸神霊 高級霊たちの本質の一つとして方便を使うということはよくある。実際の名前を名乗るのではなくて、自分の役職名を名乗ったり、あるいは他の特別な名を名乗ったりすることもある。生長の家の大神にしてもそうだ。生長の家の大神と名乗りつつ、その実態は一体何者であるのか私も生前つかみかねていたが、実はこちらに還ってきて感じたことは、その中心霊をなしていたのが天之御中主之大神であったということが、もう明らかにわかっている。 もちろん生長の家の大神を名乗っていた者の中に、これ以外の数名の日本神道系の神々もいたことも事実であるし、私の哲学的思考の、あるいは思想の構築のためには、哲学者たちも相当のインスピレーションを与えてくれていたことがわかった。たとえば『生命の実相』という私の全四十巻の書物は、これはおそらくは日本始まって以来の唯神実相哲学体系とでも言うか、むしろ世界の歴史の中でもたいへん珍しい体系書である、と自負しているものだが、この体系書などを作る時の哲学的側面では、やはり私は予想も多少はしていたが、カントあるいはヘーゲル、こうした者たちも私自身にインスピレーションを与えてくれていたことがわかった。 こうした観念論哲学者たちも生前私を指導していてくれたのだ。ただ、私はそうしたことには気がつかなかった。それはすべて生長の家の大神という形で片づけられていたに違いないと思う。それでよかった面もあると思う。何といっても谷口雅春がデカルトの霊示を受けているとか、あるいはヘーゲルの霊示を受けておるとか、あるいはソクラテスだ、あるいはカントだ、こうした著名人の霊示を受けていると言っておれば、またそれを攻撃する者がたくさん出てくるので、あえて高級霊たちは真実の名を語らずに、そういう形で霊指導をすることが多いのだ。これは言ってみれば、中身で勝負しようとする傾向だと言ってもよいだろう。 このように実際、我が数十年の伝道生活をふり返ってみると、その間私に霊示を与えていた者はおそらく数十名にのぼると推察されるのです。教義の中心的なもの、本来肉体なし、本来迷いなし、本来悪なし、本来光一元である、こういう考え方はこれは如来の法であって、天之御中主之大神から降ろされていたものであるが、他の教えはいろいろなその分野において、得意な方がたから与えられていたということを私は知るに至った。 また生長の家においては病を治すということがずいぶん多く起きてきたが、これなども私は知らなかったが、私をずいぶん指導していた人の一人に白隠(はくいん)禅師という方がいらしたことが判明した。これは禅宗のほうでは有名な方であり、南蘇(なんそ)の法を使ってみずからの病を治した方だ。大悟を何回もし、小悟は数知れずと言われた方であって、日本の中で禅と医学との関わりを示した方だと言えるだろう。 この白隠禅師という方は、もちろん系統的には薬師如来の系統をひいている方であるが、同時に禅もやっているということであって、ちょうど谷口雅春と似たような役割を持っていた面もあったであろうと思う。我が思想の中にもそうした哲学的部分もあったが、これ以外に具体的救済としてのそうした治療、あるいは病気治しという面もあったと思う。これなどは白隠禅師がずいぶん指導してくれていたようである。 これなどは私は生前は知らなかったが、こちらに還ってたいへん感謝している次第である。やはり禅で病を治したほどの方であったから、『生命の実相』を読めば病が治るというふうな教え方をするのは、もちろんその思想に近かったと言ってもよいだろう。こうした方の協力を挙げれば数限りないことになろう。 さて「神想観」という教えがある。これは精神統一をして招神歌(かみよびうた)を唱えるという、そうした方法であるが、この神想観を私にくださった方は、じつは天照大神(あまてらすおおみかみ)という名で呼ばれている女性神霊であった。これも明らかになった。もちろんその内容自体は他の人たちとも共有されているものであろうが、天照大神からの啓示で、その神想観というものがどうやらできたという過程を私は知った。 これ以外にもずいぶんと私を指導していてくれた方はいて、たとえば私は教育法の中で、霊性に基づいた神の子の教育法ということをずいぶん説いてきたつもりであったが、その指導者は、私を霊的に指導しているのが一体だれであるかということは、まったく気づかないままで来た。しかしこれなども、実はドイツでシュタイナー教育ということで有名なシュタイナー博士などが、私に死後インスピレーションを与えてくれていたことがわかって、たいへん感銘をしている。 こうした方が地域を越えて、私の人類光明化運動に協力していてくれたということを知って、もうこれは感激以外の何物でもない。 諸君よ、本当の霊的世界の地上浄化運動、救済運動というものは、このように時代を越え、地域を越えて行なわれるものなのだ。地上にいる指導者たちは、あるいは宗教家たちは、自分がそうした多くの者たちの霊指導を受けているということを知らないままに一生を終わることが多いが、実際は数多くの人の徳をいただいてそうした活動ができるのである。 なぜ宗教家だけが、それだけ多くの霊指導を受けることができるかということだが、宗教家の活動は実は、その目的および範囲において限定がない。すべての人類の幸福化を願っている運動であるから、もとより一個人の利益を目的とするわけでもなく、また一利益会社の利益を追求することを目的としているわけではない。現在および後代の多くの人びとに心の糧(かて)を与え、彼らを救うことを目的としているわけであるから、まったく指導ということにおいて限界が無くなってくるのだ。 この意味において、通常人にはとうてい指導されるはずもない多くの指導霊団が、宗教家にはついていると言ってもまちがいないであろうと思う。 また、これも多少言いにくいことではあるが、私の軍事問題についての考え方、これを指導していた者もかなり明らかとなってきた。日本神道系の中には軍神と言われる方も数多くいて、そうした方の中には、国を守るということを強く主張しておられる方もいるのです。そうした方の一人が私をどうやら指導していた、ということを知りました。 軍事に関して私を指導していたのが、まあ大方の方はごぞんしであろうとは思うが、須佐之男命(すさのおのみこと)という方であった。この人の考え方が相当私の軍事的考え方の中に入っていた、そのように言ってよいであろう。 4.日本歴史のなかの光の天使 また天皇を中心に考えていくというこの政治思想の流れ自体は、もちろん天之御中主之大神、天照大神を初めとする歴代皇室系統の御柱、神々が私を指導していたということも明らかとなった。歴代の天皇家の中には、今、光の指導霊と称されるような方が数多くおられたのです。日本神道系はかなり霊格の高い人びとによって形成されてきた、一つの霊的山脈でもあった。そういうことがわかっているわけです。かなりの高級霊たちが出ていたわけです。 たとえば、日本神道系において偉かった方はずいぶん昔からおられたわけではあるけれども、やはり日本の国威があがったころと言えば聖徳太子のころ、聖武天皇のころ、まあこうした時代です。このようなころにも、かなり霊格の高い方も出ていたし、また平安時代の全盛を作った藤原氏、この藤原氏の中心人物の中にも相当の高級霊はいた、ということが明らかになった。藤原の関白、こうした方の中にもそれ相応の高級霊が出ていたことが明らかになった。 こうした豪族や天皇家に出たような方は、また神代(かみよ)の時代に神々の一人として出たような方でもあったということだ。天皇家だけではない。幕府の中にもそこそこ偉大な神霊という者はいたように思う。 戦争ということを通せば勝ちだ負けだということはあるので、何が正義で何がまちがいであるかということは、一概には言いにくい面はあるが、たとえば鎌倉時代を創った、これも歴史家はさまざまに批判はしようが、源頼朝という方もやはり霊的にはかなり高い方であったことが明らかになった。ずいぶん陰湿な、家系での争いもあったから、どうかと思う方もいるが、やはり時代を創るだけあって霊的にはそこそこ高い方でもあった。 こういうことが明らかになったし、あるいはこれ以外でも、もう少し時代は下るが、戦国時代の武将たちの中にもそれ相応の神格を備えた方も出ておったことを知った。たとえば、今有名であろうが、武田信玄であるとか、上杉謙信であるとか、こうぃう方は英雄でもあり武将でもあるが、同時に魂の質においてひじょうに高いものを持っていた。宗数的なるものを持っていたと言ってもよいであろう。 こうした英雄の魂の中にも神格を持った者がいたということです。こういうことが明らかになってきたわけです。 また敗れはしたが、楠木正成公(くすのきまさしげこう)のように後世から尊敬されるような方も、軍神の一人として高天原に還っておられる。そういうことも明らかとなったわけです。 こうしたことを知ってくると、じつは政治、軍事的な面でも相当多くの霊たちが私を指導していてくれたことがわかったし、その霊指導の系統もかならずしもひと通りではなかったと言えよう。政治、軍事的なことは日本特有の国津神(くにつかみ)とでも言われるような方がたが、私を指導していたが、哲学的次元になればカント、ヘーゲルというような世界をまたにかけるような巨人が私を指導していたこともあった。こうしたことがわかったわけです。 こうした事実を述べることによって、私が一体何を言いたいのか、諸君はおわかりであろうか。そう、私が生前説き来たり、説き去ったところの万教帰一の思想、「本来一なる神から流れてきた教えである。すべてのものは本来一つのもので、すべての教えはまた一つにまとまっていくもの、また一つから流れ出したもの」、こういう考え方。「仏教もキリスト教も神道も、あるいはその他のものもずいぶんあるが、これらも本来の神から流れ出したものであって、相(あい)対立するようなものではない」という考え方。これが真実であるということを私はこちらの世界に還って実感しているのだ。 もちろん生長の家という団体の考え方の中にも、「万教帰一」とは言いつつも、多少日本的に色彩として偏(かたよ)っている面も否めないかも知れない。ただ、それはそうとして、基本的な姿勢において万教帰一ということは本当であるのだということを、私は実感した。 生前、これだけ多くの者たちに指導されておりながら、十分感謝の念を捧げることもなく生きていたことを、まことに残念に思ったことであった。 5.祈りの対象と反応 これからもさまざまな宗教家や預言者が出てくるであろうが、この宗教家や預言者を私もそのうち次つぎと指導をするようになると思うが、陰で指導するという形で、谷口雅春の名を名乗らないでやらざるを得ないことも数多くあるであろう。現に谷口雅春の名を使って、明かして、こういうふうに霊示を送っているが、喜んでくれる大部分の者もあれば、名前があるがゆえに疑ってかかる者もある。そのように難しいものだと感じるのだ。 ただ、私は明らかにしておかねばならないことはあると思う。人間に魂修行があるということは、それは魂の個性に付随する修行であるということを否むことは不可能であろうと思う。 すなわち地上で魂修行をして、そして地上を去った人は、霊となればもちろん生前とは違った存在形態をとるわけであるけれども、しかし、やはりそれなりの個性は持続するということが言えるのだ。個性の持続ということがあり得るということなのだ。 個性の持続があるということはどういうことであるかと言うと、やはり実相の世界に還ったとしても、谷口雅春は谷口雅春的な考えをすることが可能であるのだ。また他の霊人たちもそれぞれ固有の考え方をすることができるのだ。 こうした個性があるということが、すなわち実相ではないということを意味するのではない。実相ということを羊羹(ようかん)か何かを切ったように、全部同じだというふうに考える向きもあるかも知れないが、そういうわけではない。 たとえば花が咲いている姿を見ても、花びらが五枚ある花もあれば、八枚ある花もある。あるいは花びらが二十枚、三十枚あるような花もあるであろう。それぞれの花びらは小さく分断され、個性化されたものだけれども、統一して一つの花という外観を作っているのだ。もしそれが造花か何かのようにプラスティックで一枚の花びらが作られているのであったならば、どれほどその花の美は損なわれることであろうか。 こう考えてみた時に、一枚一枚の個性ある花びらが、一つの花という実相を作り上げていると言っても過言ではないと思う。ちょうど個性と霊的実相との関わりはかくのごときものなのだ。霊的実相の世界ということは、均一、一様で何らの変化もなく、何らの偏(かたよ)りもないと思う方もいるかも知れないが、そうではなくて、実相世界というものは咲き乱れる花のようなものだと考えていただければよいと思う。 その花の理念を作っておられるのは神のお心だが、花には花びらがあり、おしべもめしべも葉っぱも茎もあるということだ。これを忘れてならない。そうした全体で実相の花ができあがっているという事実があるのです。そうした事実について十分に認識しておいて欲しいと思う。 地上を去った人間の魂が、実相の世界という名の大海の中に流れ込んで無個性になってしまって、一様の魂の海のようになってしまうと考えるならば、それは明らかなまちがいであるというふうに言ってよいと思う。たんに魂の海のようなところに流れ込む水留まりであるならば、何のために地上で個性化され、努力し続けてきたか、そのへんの意味がなくなってしまうからである。 このようにさまざまに私の住んでいる世界の様子、霊的指導のあり方というものを説明してきたが、私が言いたいのはこういうことなのだ。地上を去ってのちも、地上に生きていた人はそうした同じような個性と心を、やはり維持しているということなのだ。したがって祈りにおいて対象を選べば、その人の反応があるということなのだ。 生長の家の諸君、あるいはそれ以外の諸君もよくよく考えていただきたいが、谷口雅春の名を呼べば感応してくるのは谷口雅春である、ということなのだ。こうした事実が厳然としてあるということを知っていただきたいと思う。 6.祈りに不可欠な三条件 さて、私は実在界と地上界との交信の方法についてさまざまに語っているわけだが、本章の表題である祈りということを、さらに深めて考えてみたいと思う。 〔1〕謙虚なる姿勢 そうしてみると、祈りに不可欠な条件がいくつかあると思われる。その第一は、祈りはもちろん高級霊、あるいは神格を持つ霊たちに対するメッセージを発するということになるわけであるから、まず心を空(むな)しゅうしなければならない、ということが言えよう。心空しく、謙虚でなければならない。これが祈りに入る前の前提だ。 心がおごりに満ち、そしてうぬぼれに満ちている時に祈りということはできない。世の中には自力天狗という人間がいて、自分の力で何もかもできると思っているが、霊的世界の実相を知れば知るほど、自力でできるということがどれほど狭い範囲のことであるか、それに気づいていくようになっていく。 この実相世界の広大無辺さと、この力に満ち満ちた様相を知った時に、地上の人間の自力など本当にたわいもないものであることがわかる。それはせいぜいお昼ごはんのおかずを選び分けて食べる程度の自力しかないということなのだ。 こうして多くの高級霊たちの姿、存在を認識するということは、まず謙虚になり、彼らが上位者であるということを認識せねばならん。それはまさしく上位者なのだ。肉体に宿る人間は、その中に高級霊がたとえ宿っているとしても、肉を持っているということ自体がかなりのハンディであるのだ。すなわち何分の一かの力しか持っていないと思わねばなるまい。ましてや英知において高級霊に到達するほどの英知を、生きながら持てる人というのはまずいないと言ってよいであろう。 この意味において師と弟子の関係が成り立つのである。弟子は師から教えを乞う以上、心を低くし、頭を下げて、乞い願わねばならんのである。この姿勢がまず第一だ。 〔2〕純粋なる思い 第二は、この祈りの対象、思いが純粋であるということなのだ。ここに濁(にご)りがあってはいけない。祈りの内容に濁りがある場合には、それは悪しき霊波をひきつけることにもなりかねない。そうした霊波を食い物にして生きている者もいるようであるから、こうした悪しき霊波を引き受けないようにつねづね気をつけねばならん。 神想観などをしていても、ときおり気が変になったり、精神異常になったりするような者もあるが、これらは祈りの純粋性が足りないからそういうことになるのだ。自分の我欲のままに、欲得のままに祈っているとそのようなことが起こりがちであるのだ。したがって祈りに入る前に、まず謙虚であると同時に純粋な気持ちで祈らねばならん。 この純粋な気持ちということの中には、全託という気持ちがあると思う。すべてをお任せするという気持ちだ。最後は神、仏にお任せするという気持ちがなければ、祈ってもそれは本当の祈りとは言えない。それは交渉しているということになる。高級霊たちに祈って自分の都合のいい結果は引き出したいが、都合の悪いことは引き出したくない。こういうことであれば、これは交渉しているということになる。しかし相手は交渉の相手ではないのだ。 やはり、お任せするという気持ちが大事だ。お任せしないのであるならば、祈りはむしろすべきではない。お任せしないで自分の都合のいい情報だけを取り、都合のいい結果だけを求めるのであれば、むしろ祈りはしないほうがよいと思う。それはまちがいにつながっていくと思われるのだ。このように祈りにおいては純粋性、濁っていないということが大事であると思う。 〔3〕無執着の確信 三番目にとくに挙げるとするならば、やはり祈った時には、すでにもはやそれは実現されたと考えればよいと思う。霊界において決定されたことが地上界に降りてくるには時間がかかる。それは即座には降りないことが多い。私たちが地上にそれを与えようと思っても、私たちの気持ちにおいてはほんの一時間か二時間以内に与えたつもりであっても、地上に降りてくる時には一か月二か月かかっていることはままある。 これはちょうど次のような例えで説明できるであろうか。ビルの二十階の屋上に立っているのが私谷口雅春として、ビルの下にちょうど私の愛読者が通りかかったとする。そして上に向かって「谷口雅春先生、どうぞ私の願いをお聞き届けください。」こうして祈るわけだ。「お答えをください。」という気持ちで切に祈る。そうするとビルの二十階に住んでいる谷口雅春は、何らかの答えをしたいと思うのだ。その人が真剣に祈っており、また信仰心においてあやまりがないならば、何らかのアドバイスをしてやりたいと思う。 ところが私は、その祈りに対して答えを、ノートブックの用紙を一枚破りとって鉛筆で書いて、それを上から落とすわけだが、上から降りる時にひらひらひらひらと降りていって、なかなかストレートに降りていかないわけだ。二十階から投げられて下まで落ちるまでに多少の時間がかかっているのだ。 それはそうであって、鉄の板か何かに答えを書いて落とせば、下にいる人は頭に当たって死んでしまう。それであってはいけないということで、紙に書いて落とすわけだ。あるいは風呂敷を投げるようなものだと言ってもよいかも知れない。まあ、こうしたものであるのだ。 それゆえに祈りから祈りの答えまでには、多少の時間的差があることはある。そしてその落下地点においても、風の関係だとか空気の抵抗だとか、いろいろなことが高次元世界と地上世界との間にはあるために、多少の時間的ずれ、多少の空間的ずれということはあるかも知れない。 たとえば地上の人が大きな家に住みたいと祈ったとする。そしてその人たちの信仰が碓かであって、高級霊が見ても碓かに大きな家を与えてやればよいと思ったとする。そうすると二十階から大きな家という答えを降ろすわけだが、その答が降りていく途中で多少風に流されたり、位置を変えたりして、少し場所が違うところに現われてきたりするようなことがある。まあ、こうしたものなのだ。 霊の答えはすべてこのように念として答えられるので、あるいは理念として答えられるので、この理念が地上に降りた時にどのような形で翻訳されて出てくるかは、まだ定かではないことがあるのだ。それゆえに祈りにおいて、地上人が特に大事にせねばいけないことは、その祈り実現の手段方法については執着を持ってはいけないということだ。時期についても執着をしてはいけない。手段、方法、時期について特定して執着を作り、あせったり、ねばならないという心にひっかかってはならないということだ。 祈って、純粋に祈って、そしてそれが神の心にかなうならば、すべて適当な時に適当な方法でお与えください、ということで、祈ったことすら忘れて日々を生きているのがよいのだ。 これが私なりの祈りについての考えだが、これがいちばん危険性のない祈りであり、また神仏の心にかなう祈りでもあると思う。どうか最後の部分がいちばん肝要な点であるから、このことを忘れないでいただきたい。
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目次 1.神理に接した最初の感激を忘れると坂道をころげ落ちる 2.なまはんかな気持ちで「神理」という名の山に登るな 3.自分自身と立ち向かう厳しさを知れ 4.小さな悟りに甘んじるな 5.不退転の原理①――自分に厳しく他人に寛容に 6.不退転の原理②――神にたいして永遠に近づいていく自分であれ 7.不退転の原理③――傷つくまで人を愛せ 8.不退転の原理④――永遠の生命の実相をつかめ 9.不退転の原理⑤――信仰の力の大きさを知れ (1987年3月13日の霊示) 1.神理に接した最初の感激を忘れると坂道をころげ落ちる 高橋信次です。きょうの演題は、「不退転の心」という題を選んでみました。 この不退転の心っていうのはほんとうにだいじなんです。とくに正法行者にとって、これほどだいじなことはありません。 まず最初ね、いろんな神理の書物に触れて、心がわくわくして、そしてこれで自分はわかった。神理がわかったということはね、みんなよく思うんです。 けれどもね、最初の感激はいつかしら、後ろのほうへ押し流されていって、まただるいだるい毎日の日常生活をくり返していくうちに、人間はそのなかで、くもりをつくっていきます。 そして初めて神理に触れたときの、あの新鮮な気持ちというのを忘れ去って、そしてどうしたらいいかわがらんような、そういう生活を送るようになってくるんですね。 けっきょくね、正法行者の行路、あるいは旅といってもいい、道行きといってもいい、それはなにかというとね、坂道なんです。 通常の人間というのは平坦な道を歩いとるのですね。平坦な道を歩いとるのだから、ころんだところで、また立ち上がればそれでおわりなわけです。 ところが正法行者というのは坂道を歩いてます。あるいは山登りをしているのですね。 山の上には悟りという名の花が一輪咲いておるので、その悟りという花を一輪、取ってくるために頂上に向かって、みんな坂道を歩いておるのです。山道を歩いておるのです。そういう状況にあるわけですね。 したがって正法行者というのは、坂道を歩いておるから、いったんころぶとね、ころげ落ちるのが早いわけです。坂には角度があるからです。 ところがふつうの人というのは平坦な道を歩いておるから、ころんでも、お尻の汚れをパンパンとはたいたら、それで終わっちゃうんですね。 ところが、正法行者は一歩足を踏みはずすと千尋(せんじん)の谷に落ちてしまったり、岩山をころげ落ちたりするわけです。 そうすると悪くすればね、絶命しますし、よくてもね、全治三ヵ月ぐらいの重傷になることが多いわけですね。これほど厳しいわけです。 2.なまはんかな気持ちで「神理」という名の山に登るな で、とくに正法行者のなかでも宗教的な指導者たちというのはね、たんなる山道を歩いているというよりも、山の尾根、尾根道を歩いているもんなのですよ。 山の尾根道はひじょうに見晴らしがよくて、目立つんだけれど、いかんせん足の歩くところの幅が狭いんですね。 そして右側にも左側にも急傾斜がある。登っておって、あっというまにころげ落ちちゃうのですね。それだけ厳しいんです。平坦な道じゃないんです。 たんなる坂道じゃなくて、もう足の歩く幅がひじょうに狭いんです。もうほんの三十センチ、五十センチです。 鼻歌歌って歩いているのはいいけれど、もうちょっと踏みはずすと、コロンです。木の根っこにつまずいたらコロンといっちゃうのですね。これだけ厳しいんですよ。 ですから私は一般の人に言いたいんですね。登山というのは、それだけ厳しいから、なまはんかな気持ちじゃやめなさい。 神理というのはどんなにすばらしいものだと思っても、なまはんかな気持ちで始めるぐらいなら、いっそ来んほうがいいですよ。 山登りしても途中で迷ったら、もうどうしようもないんです。ふもとまで下りられんし、下りるに下りられんし、登るに登られん、どうにもなんないんです。 そして呼べども呼べどもなかなか救いは来んのです。みんな山のなかで格闘しているから、それぞれが、なまはんかな気持ちで登山する人は、人の足手まといになっちゃうんです。 そういうことで、なまはんかな気持ちで山登りするぐらいなら、いっそ広場でね、草野球でもしとったほうがいいんです。 3.自分自身と立ち向かう厳しさを知れ ですからいったん正法神理の道にはいった以上はね、人間はそれだけの覚悟をせねばいかん。それだけの覚悟をしないと、やはり道は開けんということです。明日がないということなんです。 この心のことを、不退転の心といいます。 いったん山登り始めた以上はね、もう頂上まで行って悟りという名の花をもぎ取ってくるまでは、もう帰らんということなんです。 つまずいても、ころんでも、ころげ落ちても、すりむいてもね、膝を。あるいは鼻血を出しても、たんこぶを作ってもね、それでもなにくそと思って、山道を上がっていかねばならぬのです。 途中で弱音を吐くぐらいなら、最初からくるなっていうことです。道は険しいんです。だんだんだんだん険しいんです。 昔から釈迦の時代から、まあ女、子供が成仏できん、悟れないということを、よく言われます。 べつに女性を差別しとるわけではありませんが、女、子供が成仏できんといわれている理由は、山道を歩いておるのといっしょだからです。山登りなわけです。登山なわけなんですね。 登山をするときに、女性とか子供がいるとたいへんむずかしいんですね。女性が途中で足が痛いといってへばってしまうと、もう動かなくなるんです。子供もいっしょです。もう僕はいやだと言い始めたら動かなくなる。 したがってなかなか最初からね、登山というものは認められない。 「もうくるのはおよしなさい。あなたの足ではとても上がれない。あと足手まといになるからくるな」と言われる。それでも来たという女性もおれば子供もおる。お年寄もいるんです。 彼女らも、それだけの覚悟をしてこなければいけないということですね。 そして山登りの醍醐味がある反面、厳しさがある。それは、自分自身と立ち向かう厳しさなんです。 山登りはね、だれもね厳しい傾斜を他人を背負ってまでは登ってこれんのです。どんな登山家だって人背負ってまで頂上まで行けんのです。それだけの力はありません、どんな人だってね。 だから厳しさは自分自身と、対決する厳しさなんです。この厳しさを正法行者というのは、しっかり考えねばいかん。 だから神理に触れて、これで悟ったと思ってそのあとさまざまな日常生活で、また混乱に陥っていく。 こういう人たちっていうのは、その厳しさというものをね、なまはんかに考えておるのです。そしていつしか自分にたいする甘さ、甘えにとつながっていっておるのです。 4.小さな悟りに甘んじるな 私のときにもそうです。私の反省的瞑想という教えに基づいて、百数十名の人が心の窓を開きました。 そしてみずからの過去世のことを知り、そして未来世を知り、異言を語り、そして霊視ができたり、霊聴ができたりするようになりました。 しかしそうしたかたがたは、私が去って十一年、もうどうなったことでしょうか。その能力をそのまま持ち続けている人がいるでしょうか。 山道を案内する案内人がいなくなったら、彼らはとたんに山道を登るということを忘れてしまっておるわけであります。 この道にはいるということは、それだけみなさんね、厳しい試練ということにたいする、立ち向かう気概というものを養っていかねばならぬのです。 もう山のてっぺんで、悟りという名の花を折り取ってくるまでは、どんなことがあっても、弱音を吐かないという気持ち、これがだいじです。 そして、その道行く途中において、心がけなければならぬことは、人にやさしく、自分に厳しく、「己れには厳しく、他人には寛容に」ということばです。 私は生前、なんどもこのことばを言いました。自分に厳しく他人に寛容にと。 しかし私が去って十年あまり、いつのまにか人に厳しく、自分にばかり甘い弟子たちが、竹の子のごとく、ボコボコと、あっちにも、こっちにも、出てきております。自分が偉いというようなことばかりを吹聴している弟子たちです。 こういう人たちは、自分自身にたいして甘く、人にたいしては厳しく、批判ばかりをしています。まったく師の教えにそむいておるわけです。 こういうふうに、正法というものをいったん、不退転の気持ちを起こして登り始めたのにもかかわらず、自分という者に甘んじ、小さな悟りに小成してしまって、そしてさらなる向上を目指さない人たちが出るということを、私はひじょうに悲しく思うものであります。 悟りには果てがないのです。その頂上にたどり着いたと思っても、そこがまだ頂上ではないかもしれない。 あるいは今世における、あなたがたひとりひとりの征服すべき山の頂上かもしれないけれども、山はそこで途切れておらんのです。 その山を征服したと思ったら、その山の頂上と思いしところから、さらにつぎなる山へと、つながっておるのです。そしてつぎなる山はさらに高い山なのです。 これが人生の真実なのですね。頂上と思っておったものがじつはまだ途中の経過、中継点にしかすぎんということを、やがて知っていくのです。 ところがその中継点において、峠の茶屋でお茶を飲んで満足している人がいっぱいいるわけです。 そして自分はエベレスト山をきわめたと思ってそこで弁当を広げて下界を見て、天上界はすばらしい。下界はなかなか醜い。自分は悟りすましたつもりでいる人がいっぱいいます。 こういう人たちは、みずから厳しい試練を乗り切っていこうとした当初の気持ちを忘れ去って、もうあとをふり返ろうとしないんです。 背後に高い山がそびえていることを見ようともしないで、もう自分の過去ばかりをふり返って、そして満足にひたっておるわけです。 こういう人たちは、自分自身にたいして甘くないかどうかを、もう一度ふり返ってみる必要があるわけです。 5.不退転の原理①――自分に厳しく他人に寛容に ですから本日の演題である「不退転の心」というものを追究してみると、第一点は、いまも言いましたように、「自分に厳しく、他人に寛容に」という気持ちです。この気持ちを持ち続けて人生修行ができておるかどうか。 「自分に厳しい」ということを、いろいろ話をしてきたけれども「他人に寛容」ということの意味がね、なかなか人間はわからんのです。他人には注文ばかりが出てくるのです。欲求ばかりが出てきます。不平不満ばかりが出てくるんです。 人がああしてくれたらよかったのに、こうしてくれたらよかったのにという他人にたいする不平、不満、愚痴、恨み、足ることを知らぬ欲望、こうしたものがつぎからつぎへとボウフラのごとく、心に湧いてくるのです。 しかしながら私たちは神ではない以上、他人の非を責める前に、他人の欠点を責める前に、自分自身がいったいどれだけ努力しているかということを悟らねばならぬのです。 他人から見たら自分もまた不平不満の対象となるような、自分でないかどうかということを、もう一回ふり返ってみなければいかんのです。他人から見たら、自分もまた不満に思われるような存在かもしれんのです。 そういうことを棚上げにして、他人の欠点や他人の弱点、他人の足らざるところばかりを指摘して、そしていい気になっておってはいかんのです。 人間はみずからが高くなればなるほど、他人の欠点がよく見えるようになるけれども、他人の欠点が見えるようになったときに、またそこがひとつの大きな魔境だということです。 他人の欠点が見えたときに、そればっかりを見つめて拡大鏡で見るように見とったのでは、さらなる自己の完成はないのです。発展はないのです。 他人の欠点が大きく虫メガネで見るように見えたときに、もう一度、その虫メガネでもって、自分自身を見てみることです。自分にはもっと大きな欠点があるかもしれない。 人間というものはとくに、他人の目についたね、ちょっとしたゴミぐらいはすぐ見つかるんだけれども、自分の目のなかにある大きなゴミといいますかね、大きな汚れについては気がつかんもんなのです。 人のものはよく気がつく。自分のことは気がつかん。そういうことがあるわけですね。 ですからあくまでも「己れに厳しく、人に寛容に」というモットーはつねづね、自分をふり返るモットーとして、考えていかねばなりません。 6.不退転の原理②――神にたいして永遠に近づいていく自分であれ 不退転の心の第二は、これはね、神について、日々探究するということです。神の本質というものを、日々求める自分であるということなんです。 神というものにたいして永遠に近づいていこうとしていく自分であるならば、退くことはできんのです。退転することはできんのです。進歩するしかないんです。みずからの内なる神というものを、ほんとうにきわめて、そしてそれを取りだしてみるまでは、人間は自分の人生は、満足だと言ってはならんのです。内なる神の探究、これを忘れてはならん。 不退転という心であっても、なにに関する不退転かということを人間はすぐ忘れてしまうんです。 不退転という心の意味は、強情だということを、言っとるのではないのです。頑固者だと言っとるわけじゃないのです。不退転ということばでもって人の意見に耳を傾けないということを言っとるのではないのです。 不退転ということは、神の心に接するまでは、神の本質に触れるまでは、けっして向上をやめないという決意のことを言うのです。 みなさまの理想はみなさまの希望は神なる本質をつかむことであり、それをつかむまではけっして満足してはならんのです。これもまた不退転の心です。 不退転をもって強情っぱりとか、人の意見を聞かんとか、怒りにまかせて言いたい放題いうとか、こういうことであってはならぬ。断じてこういうことであってはならんのです。 不退転というものは、永遠の理想を追究する人間の生きかたなんです。不退転ということばでもって内なる神の探究という姿勢を断じて忘れてはならぬ。私はそう思います。 7.不退転の原理③――傷つくまで人を愛せ 不退転の心の三番目は、これはひとつには愛の完成です。 愛の完成といって、わかるでしょうか。人間はともすれば、人から愛を与えられたい存在です。与えられることばかりを望んでいます。 しかしほんとうの修行者の心というものは、他人にたいして惜しみなく愛を与え、与え、与えて、与え続けることではないでしょうかね。 ひとつ与えたら、ひとつもらいたいというような心になっておらんかどうか、これをもうすこし探究してみる必要があります。 人間というものは、すぐ与えられたい気持ちになってくる。しかしほんとうの愛は、菩薩界にある。菩薩の愛は惜しみなくひとびとに与える愛です。 またこれが、キリスト教でいう自己犠牲と同義であるということがよくわからないならば、あのインドで活躍しておるマザー・テレサという御婦人のことを、現代の聖女のことを思えばいい。 彼女は言っておるはずです。「傷つくまで愛しなさい。」と。 たんに愛するだけで止まってはならん。「傷つくまで愛しなさい。傷つくまで人を愛しなさい。みずからの心から血が流れるまでに人を愛しなさい。それがイエスの愛だったからです。」彼女はそう言っている。 イエスは茨の冠をかぶり、十字架にかかり、その両手、両足に五寸釘を打ち込まれて、わき腹に槍を突きさされて、血を流して死んでいきました。人類にたいする救済の思いだけに生きて、そして血を流して死んでいったのです。 つまりイエスは傷つくまでに人類を愛したのです。心の底から、血がにじみ出すほどに人を愛したことかあるかどうか。これをひとびとは考えねばならん。 自分の心のなかから、血がにじみそうになったら、これはたいへんとばかり、ひき下って、あわてて自分を愛してもらおうと、介抱してもらおう、看病してもらおうと思うのが通常の人間ではないでしょうか。 不退転の心をもって修行しているものは、みずからが、傷つくまでに人を愛したことがあるかどうか、これをもう一度考えてごらんなさい。 自分が余裕のあるときは人を愛して、余裕がなくなったら愛するようなことをやめるような、そういう愛ではないか。そういうなまはんかな愛ではないかどうかを、もう一度じっくりと、考えてみる必要がある。 イエスのように最期まで愛するということです。イエスもまた不退転の心を持っておったわけです。 イエスは人を愛しておったけれども、イエスの心が中途半端な心であったならば、彼は十字架にかかるところまでは、人を愛さなかったはずです。わが身の安全を考えて、ほどほどの教えを説いて天寿をまっとうできるように彼は努力したかもしれない。 彼自身、自分自身にたいして言い聞かすことばはいくらでもあったであろう。 「イエスよ、おまえはこんなことで早死するよりも、七十、八十、まで生きて多くの人を救ったほうがよっぽど利口であろう。」そういうささやきも内から、届いておったであろう。 しかしイエスは、そういうささやきにたいして、耳を貸さなかったわけであります。 彼は愛するということにおいて、妥協をせんかったわけです。傷つくのみならず、死するまでに人を愛したということですね。 この精神が、クリスチャンのなかには流れとるわけです。 殉教したさまざまな聖人たちがいます。彼らもまた傷つくまでに愛したわけです。神の子、一人子であるといわれるイエス・キリストを信じて、愛したからこそ、彼らは十字架にかかっても耐えてきました。 火あぶりにあっても耐えてきました。偉大な光の指導霊たちは、この世に降りて、火あぶりになって死んでいったのです。 天上界にいて、私たちはひじょうに悲しく思いましたけれども、それまでに傷つくまでに、みずからが傷つくまでに、人類を救いたいと願っている彼らの愛に対し、私たちは敬意を払う以外になにもすることができなかったわけであります。 ですから不退転の心のなかに、傷つくまでに愛する。愛し尽くす。最後まで愛する。この気持ちを忘れてはなりません。 8.不退転の原理④――永遠の生命の実相をつかめ 不退転の心の第四は、これは人間、あくなき転生輪廻の過程で、永遠の進歩をめざす存在だということを、はっきりと自覚することです。 安易な障害や、挫折によって人間がくじけてしまう理由は、この永遠の生命ということを、ほんとうの意味で信じておらんからです。 ほんとうの意味で永遠の神理ということを永遠の生命ということをしっかりとつかみ取ったならば、人間は退転することはできんのです。 たいてい途中でひき返してくる人たちは、人生はこの世限りだというまちがった思想に心を奪われておるのです。仏道修行をやろうとは思うけれども、心のなかのどっかに、人生はこの世限りなんだという声が聞こえてきて、そして安易な道へと入っていくのです。 この世的によりよい生きかたをしようとする。お金がもうかる方向へ、妻が喜ぶ方向へ、子供が喜ぶ方向へ、親戚から喜ばれる方向へと、人間はおもむいていくのです。 それは神理というものに目覚めておりながら、どこかで人生はこの世限りだという声が聞こえておるのです。そういう悪魔のささやきが聞こえておるのです。 ほんとうに人間は永遠の転生輪廻をくり返している旅人だということを一心につかみきらねば、不退転の気持ちというものは湧いてこんのです。 すなわち、永遠の生命、その実相をつかむことです。 人間に永遠の生命があって、死後の世界があって何度も、何十度も、何百度も地上に生まれ変わって修行しておることをはっきりつかんだならば、この世で自分はどのように生きるべきかという指針は、はっきりとわかるのです。 この世限りだと思うから、甘い方向へとみずからを導いていきます。 しかし来世も、来々世も、そのまた来世もあるということを知ったときに、この世において、今世において少しでもすばらしい自分を創らないで、あの世に還ってくるわけにはいかんのです。 この永遠の生命を知るということ、つかむということが不退転の原理のまたたいせつなひとつなのです。 9.不退転の原理⑤――信仰の力の大きさを知れ そして不退転の原理の第五は、なにかというと信仰という力です。 生きていくうちには、さまざまな困難苦難があります。それはとても人間心、理性でもっては割り切っていけないように思うことがある。人間知恵では、計っていけない、解決していけないように思うことがある。 しかし人間には最後の力が残されておるのです。それは信ずるという力です。信仰の力です。神を信ずるという力です。 不退転の最後はこの信ずるという力によって補強されるのです。支持されるのです。信ずる力の大きさというものを、人間は知らねばならぬのです。 ほんとうに神を信じきることができなければ、不退転の気持ちというものは起きんのです。なまはんかに神を信じておるようでは、退転してしまうのです。 地上の人たちはまだまだ信ずる力が弱い。信ずる力というのはどこまでも大きくなっていくんです。大きく、大きく、この世の中を救うというところまで、大きく実現していくのです。 きょういろんなことを言いました。五つの不退転の原理、不退転の心のありかたを述べました。この最後の信仰、まちがいのないしっかりとしたよき信仰ということの力、これを忘れないで生きていっていただきたい。まあそう思います。以上です。