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目次 1.神理に接した最初の感激を忘れると坂道をころげ落ちる 2.なまはんかな気持ちで「神理」という名の山に登るな 3.自分自身と立ち向かう厳しさを知れ 4.小さな悟りに甘んじるな 5.不退転の原理①――自分に厳しく他人に寛容に 6.不退転の原理②――神にたいして永遠に近づいていく自分であれ 7.不退転の原理③――傷つくまで人を愛せ 8.不退転の原理④――永遠の生命の実相をつかめ 9.不退転の原理⑤――信仰の力の大きさを知れ (1987年3月13日の霊示) 1.神理に接した最初の感激を忘れると坂道をころげ落ちる 高橋信次です。きょうの演題は、「不退転の心」という題を選んでみました。 この不退転の心っていうのはほんとうにだいじなんです。とくに正法行者にとって、これほどだいじなことはありません。 まず最初ね、いろんな神理の書物に触れて、心がわくわくして、そしてこれで自分はわかった。神理がわかったということはね、みんなよく思うんです。 けれどもね、最初の感激はいつかしら、後ろのほうへ押し流されていって、まただるいだるい毎日の日常生活をくり返していくうちに、人間はそのなかで、くもりをつくっていきます。 そして初めて神理に触れたときの、あの新鮮な気持ちというのを忘れ去って、そしてどうしたらいいかわがらんような、そういう生活を送るようになってくるんですね。 けっきょくね、正法行者の行路、あるいは旅といってもいい、道行きといってもいい、それはなにかというとね、坂道なんです。 通常の人間というのは平坦な道を歩いとるのですね。平坦な道を歩いとるのだから、ころんだところで、また立ち上がればそれでおわりなわけです。 ところが正法行者というのは坂道を歩いてます。あるいは山登りをしているのですね。 山の上には悟りという名の花が一輪咲いておるので、その悟りという花を一輪、取ってくるために頂上に向かって、みんな坂道を歩いておるのです。山道を歩いておるのです。そういう状況にあるわけですね。 したがって正法行者というのは、坂道を歩いておるから、いったんころぶとね、ころげ落ちるのが早いわけです。坂には角度があるからです。 ところがふつうの人というのは平坦な道を歩いておるから、ころんでも、お尻の汚れをパンパンとはたいたら、それで終わっちゃうんですね。 ところが、正法行者は一歩足を踏みはずすと千尋(せんじん)の谷に落ちてしまったり、岩山をころげ落ちたりするわけです。 そうすると悪くすればね、絶命しますし、よくてもね、全治三ヵ月ぐらいの重傷になることが多いわけですね。これほど厳しいわけです。 2.なまはんかな気持ちで「神理」という名の山に登るな で、とくに正法行者のなかでも宗教的な指導者たちというのはね、たんなる山道を歩いているというよりも、山の尾根、尾根道を歩いているもんなのですよ。 山の尾根道はひじょうに見晴らしがよくて、目立つんだけれど、いかんせん足の歩くところの幅が狭いんですね。 そして右側にも左側にも急傾斜がある。登っておって、あっというまにころげ落ちちゃうのですね。それだけ厳しいんです。平坦な道じゃないんです。 たんなる坂道じゃなくて、もう足の歩く幅がひじょうに狭いんです。もうほんの三十センチ、五十センチです。 鼻歌歌って歩いているのはいいけれど、もうちょっと踏みはずすと、コロンです。木の根っこにつまずいたらコロンといっちゃうのですね。これだけ厳しいんですよ。 ですから私は一般の人に言いたいんですね。登山というのは、それだけ厳しいから、なまはんかな気持ちじゃやめなさい。 神理というのはどんなにすばらしいものだと思っても、なまはんかな気持ちで始めるぐらいなら、いっそ来んほうがいいですよ。 山登りしても途中で迷ったら、もうどうしようもないんです。ふもとまで下りられんし、下りるに下りられんし、登るに登られん、どうにもなんないんです。 そして呼べども呼べどもなかなか救いは来んのです。みんな山のなかで格闘しているから、それぞれが、なまはんかな気持ちで登山する人は、人の足手まといになっちゃうんです。 そういうことで、なまはんかな気持ちで山登りするぐらいなら、いっそ広場でね、草野球でもしとったほうがいいんです。 3.自分自身と立ち向かう厳しさを知れ ですからいったん正法神理の道にはいった以上はね、人間はそれだけの覚悟をせねばいかん。それだけの覚悟をしないと、やはり道は開けんということです。明日がないということなんです。 この心のことを、不退転の心といいます。 いったん山登り始めた以上はね、もう頂上まで行って悟りという名の花をもぎ取ってくるまでは、もう帰らんということなんです。 つまずいても、ころんでも、ころげ落ちても、すりむいてもね、膝を。あるいは鼻血を出しても、たんこぶを作ってもね、それでもなにくそと思って、山道を上がっていかねばならぬのです。 途中で弱音を吐くぐらいなら、最初からくるなっていうことです。道は険しいんです。だんだんだんだん険しいんです。 昔から釈迦の時代から、まあ女、子供が成仏できん、悟れないということを、よく言われます。 べつに女性を差別しとるわけではありませんが、女、子供が成仏できんといわれている理由は、山道を歩いておるのといっしょだからです。山登りなわけです。登山なわけなんですね。 登山をするときに、女性とか子供がいるとたいへんむずかしいんですね。女性が途中で足が痛いといってへばってしまうと、もう動かなくなるんです。子供もいっしょです。もう僕はいやだと言い始めたら動かなくなる。 したがってなかなか最初からね、登山というものは認められない。 「もうくるのはおよしなさい。あなたの足ではとても上がれない。あと足手まといになるからくるな」と言われる。それでも来たという女性もおれば子供もおる。お年寄もいるんです。 彼女らも、それだけの覚悟をしてこなければいけないということですね。 そして山登りの醍醐味がある反面、厳しさがある。それは、自分自身と立ち向かう厳しさなんです。 山登りはね、だれもね厳しい傾斜を他人を背負ってまでは登ってこれんのです。どんな登山家だって人背負ってまで頂上まで行けんのです。それだけの力はありません、どんな人だってね。 だから厳しさは自分自身と、対決する厳しさなんです。この厳しさを正法行者というのは、しっかり考えねばいかん。 だから神理に触れて、これで悟ったと思ってそのあとさまざまな日常生活で、また混乱に陥っていく。 こういう人たちっていうのは、その厳しさというものをね、なまはんかに考えておるのです。そしていつしか自分にたいする甘さ、甘えにとつながっていっておるのです。 4.小さな悟りに甘んじるな 私のときにもそうです。私の反省的瞑想という教えに基づいて、百数十名の人が心の窓を開きました。 そしてみずからの過去世のことを知り、そして未来世を知り、異言を語り、そして霊視ができたり、霊聴ができたりするようになりました。 しかしそうしたかたがたは、私が去って十一年、もうどうなったことでしょうか。その能力をそのまま持ち続けている人がいるでしょうか。 山道を案内する案内人がいなくなったら、彼らはとたんに山道を登るということを忘れてしまっておるわけであります。 この道にはいるということは、それだけみなさんね、厳しい試練ということにたいする、立ち向かう気概というものを養っていかねばならぬのです。 もう山のてっぺんで、悟りという名の花を折り取ってくるまでは、どんなことがあっても、弱音を吐かないという気持ち、これがだいじです。 そして、その道行く途中において、心がけなければならぬことは、人にやさしく、自分に厳しく、「己れには厳しく、他人には寛容に」ということばです。 私は生前、なんどもこのことばを言いました。自分に厳しく他人に寛容にと。 しかし私が去って十年あまり、いつのまにか人に厳しく、自分にばかり甘い弟子たちが、竹の子のごとく、ボコボコと、あっちにも、こっちにも、出てきております。自分が偉いというようなことばかりを吹聴している弟子たちです。 こういう人たちは、自分自身にたいして甘く、人にたいしては厳しく、批判ばかりをしています。まったく師の教えにそむいておるわけです。 こういうふうに、正法というものをいったん、不退転の気持ちを起こして登り始めたのにもかかわらず、自分という者に甘んじ、小さな悟りに小成してしまって、そしてさらなる向上を目指さない人たちが出るということを、私はひじょうに悲しく思うものであります。 悟りには果てがないのです。その頂上にたどり着いたと思っても、そこがまだ頂上ではないかもしれない。 あるいは今世における、あなたがたひとりひとりの征服すべき山の頂上かもしれないけれども、山はそこで途切れておらんのです。 その山を征服したと思ったら、その山の頂上と思いしところから、さらにつぎなる山へと、つながっておるのです。そしてつぎなる山はさらに高い山なのです。 これが人生の真実なのですね。頂上と思っておったものがじつはまだ途中の経過、中継点にしかすぎんということを、やがて知っていくのです。 ところがその中継点において、峠の茶屋でお茶を飲んで満足している人がいっぱいいるわけです。 そして自分はエベレスト山をきわめたと思ってそこで弁当を広げて下界を見て、天上界はすばらしい。下界はなかなか醜い。自分は悟りすましたつもりでいる人がいっぱいいます。 こういう人たちは、みずから厳しい試練を乗り切っていこうとした当初の気持ちを忘れ去って、もうあとをふり返ろうとしないんです。 背後に高い山がそびえていることを見ようともしないで、もう自分の過去ばかりをふり返って、そして満足にひたっておるわけです。 こういう人たちは、自分自身にたいして甘くないかどうかを、もう一度ふり返ってみる必要があるわけです。 5.不退転の原理①――自分に厳しく他人に寛容に ですから本日の演題である「不退転の心」というものを追究してみると、第一点は、いまも言いましたように、「自分に厳しく、他人に寛容に」という気持ちです。この気持ちを持ち続けて人生修行ができておるかどうか。 「自分に厳しい」ということを、いろいろ話をしてきたけれども「他人に寛容」ということの意味がね、なかなか人間はわからんのです。他人には注文ばかりが出てくるのです。欲求ばかりが出てきます。不平不満ばかりが出てくるんです。 人がああしてくれたらよかったのに、こうしてくれたらよかったのにという他人にたいする不平、不満、愚痴、恨み、足ることを知らぬ欲望、こうしたものがつぎからつぎへとボウフラのごとく、心に湧いてくるのです。 しかしながら私たちは神ではない以上、他人の非を責める前に、他人の欠点を責める前に、自分自身がいったいどれだけ努力しているかということを悟らねばならぬのです。 他人から見たら自分もまた不平不満の対象となるような、自分でないかどうかということを、もう一回ふり返ってみなければいかんのです。他人から見たら、自分もまた不満に思われるような存在かもしれんのです。 そういうことを棚上げにして、他人の欠点や他人の弱点、他人の足らざるところばかりを指摘して、そしていい気になっておってはいかんのです。 人間はみずからが高くなればなるほど、他人の欠点がよく見えるようになるけれども、他人の欠点が見えるようになったときに、またそこがひとつの大きな魔境だということです。 他人の欠点が見えたときに、そればっかりを見つめて拡大鏡で見るように見とったのでは、さらなる自己の完成はないのです。発展はないのです。 他人の欠点が大きく虫メガネで見るように見えたときに、もう一度、その虫メガネでもって、自分自身を見てみることです。自分にはもっと大きな欠点があるかもしれない。 人間というものはとくに、他人の目についたね、ちょっとしたゴミぐらいはすぐ見つかるんだけれども、自分の目のなかにある大きなゴミといいますかね、大きな汚れについては気がつかんもんなのです。 人のものはよく気がつく。自分のことは気がつかん。そういうことがあるわけですね。 ですからあくまでも「己れに厳しく、人に寛容に」というモットーはつねづね、自分をふり返るモットーとして、考えていかねばなりません。 6.不退転の原理②――神にたいして永遠に近づいていく自分であれ 不退転の心の第二は、これはね、神について、日々探究するということです。神の本質というものを、日々求める自分であるということなんです。 神というものにたいして永遠に近づいていこうとしていく自分であるならば、退くことはできんのです。退転することはできんのです。進歩するしかないんです。みずからの内なる神というものを、ほんとうにきわめて、そしてそれを取りだしてみるまでは、人間は自分の人生は、満足だと言ってはならんのです。内なる神の探究、これを忘れてはならん。 不退転という心であっても、なにに関する不退転かということを人間はすぐ忘れてしまうんです。 不退転という心の意味は、強情だということを、言っとるのではないのです。頑固者だと言っとるわけじゃないのです。不退転ということばでもって人の意見に耳を傾けないということを言っとるのではないのです。 不退転ということは、神の心に接するまでは、神の本質に触れるまでは、けっして向上をやめないという決意のことを言うのです。 みなさまの理想はみなさまの希望は神なる本質をつかむことであり、それをつかむまではけっして満足してはならんのです。これもまた不退転の心です。 不退転をもって強情っぱりとか、人の意見を聞かんとか、怒りにまかせて言いたい放題いうとか、こういうことであってはならぬ。断じてこういうことであってはならんのです。 不退転というものは、永遠の理想を追究する人間の生きかたなんです。不退転ということばでもって内なる神の探究という姿勢を断じて忘れてはならぬ。私はそう思います。 7.不退転の原理③――傷つくまで人を愛せ 不退転の心の三番目は、これはひとつには愛の完成です。 愛の完成といって、わかるでしょうか。人間はともすれば、人から愛を与えられたい存在です。与えられることばかりを望んでいます。 しかしほんとうの修行者の心というものは、他人にたいして惜しみなく愛を与え、与え、与えて、与え続けることではないでしょうかね。 ひとつ与えたら、ひとつもらいたいというような心になっておらんかどうか、これをもうすこし探究してみる必要があります。 人間というものは、すぐ与えられたい気持ちになってくる。しかしほんとうの愛は、菩薩界にある。菩薩の愛は惜しみなくひとびとに与える愛です。 またこれが、キリスト教でいう自己犠牲と同義であるということがよくわからないならば、あのインドで活躍しておるマザー・テレサという御婦人のことを、現代の聖女のことを思えばいい。 彼女は言っておるはずです。「傷つくまで愛しなさい。」と。 たんに愛するだけで止まってはならん。「傷つくまで愛しなさい。傷つくまで人を愛しなさい。みずからの心から血が流れるまでに人を愛しなさい。それがイエスの愛だったからです。」彼女はそう言っている。 イエスは茨の冠をかぶり、十字架にかかり、その両手、両足に五寸釘を打ち込まれて、わき腹に槍を突きさされて、血を流して死んでいきました。人類にたいする救済の思いだけに生きて、そして血を流して死んでいったのです。 つまりイエスは傷つくまでに人類を愛したのです。心の底から、血がにじみ出すほどに人を愛したことかあるかどうか。これをひとびとは考えねばならん。 自分の心のなかから、血がにじみそうになったら、これはたいへんとばかり、ひき下って、あわてて自分を愛してもらおうと、介抱してもらおう、看病してもらおうと思うのが通常の人間ではないでしょうか。 不退転の心をもって修行しているものは、みずからが、傷つくまでに人を愛したことがあるかどうか、これをもう一度考えてごらんなさい。 自分が余裕のあるときは人を愛して、余裕がなくなったら愛するようなことをやめるような、そういう愛ではないか。そういうなまはんかな愛ではないかどうかを、もう一度じっくりと、考えてみる必要がある。 イエスのように最期まで愛するということです。イエスもまた不退転の心を持っておったわけです。 イエスは人を愛しておったけれども、イエスの心が中途半端な心であったならば、彼は十字架にかかるところまでは、人を愛さなかったはずです。わが身の安全を考えて、ほどほどの教えを説いて天寿をまっとうできるように彼は努力したかもしれない。 彼自身、自分自身にたいして言い聞かすことばはいくらでもあったであろう。 「イエスよ、おまえはこんなことで早死するよりも、七十、八十、まで生きて多くの人を救ったほうがよっぽど利口であろう。」そういうささやきも内から、届いておったであろう。 しかしイエスは、そういうささやきにたいして、耳を貸さなかったわけであります。 彼は愛するということにおいて、妥協をせんかったわけです。傷つくのみならず、死するまでに人を愛したということですね。 この精神が、クリスチャンのなかには流れとるわけです。 殉教したさまざまな聖人たちがいます。彼らもまた傷つくまでに愛したわけです。神の子、一人子であるといわれるイエス・キリストを信じて、愛したからこそ、彼らは十字架にかかっても耐えてきました。 火あぶりにあっても耐えてきました。偉大な光の指導霊たちは、この世に降りて、火あぶりになって死んでいったのです。 天上界にいて、私たちはひじょうに悲しく思いましたけれども、それまでに傷つくまでに、みずからが傷つくまでに、人類を救いたいと願っている彼らの愛に対し、私たちは敬意を払う以外になにもすることができなかったわけであります。 ですから不退転の心のなかに、傷つくまでに愛する。愛し尽くす。最後まで愛する。この気持ちを忘れてはなりません。 8.不退転の原理④――永遠の生命の実相をつかめ 不退転の心の第四は、これは人間、あくなき転生輪廻の過程で、永遠の進歩をめざす存在だということを、はっきりと自覚することです。 安易な障害や、挫折によって人間がくじけてしまう理由は、この永遠の生命ということを、ほんとうの意味で信じておらんからです。 ほんとうの意味で永遠の神理ということを永遠の生命ということをしっかりとつかみ取ったならば、人間は退転することはできんのです。 たいてい途中でひき返してくる人たちは、人生はこの世限りだというまちがった思想に心を奪われておるのです。仏道修行をやろうとは思うけれども、心のなかのどっかに、人生はこの世限りなんだという声が聞こえてきて、そして安易な道へと入っていくのです。 この世的によりよい生きかたをしようとする。お金がもうかる方向へ、妻が喜ぶ方向へ、子供が喜ぶ方向へ、親戚から喜ばれる方向へと、人間はおもむいていくのです。 それは神理というものに目覚めておりながら、どこかで人生はこの世限りだという声が聞こえておるのです。そういう悪魔のささやきが聞こえておるのです。 ほんとうに人間は永遠の転生輪廻をくり返している旅人だということを一心につかみきらねば、不退転の気持ちというものは湧いてこんのです。 すなわち、永遠の生命、その実相をつかむことです。 人間に永遠の生命があって、死後の世界があって何度も、何十度も、何百度も地上に生まれ変わって修行しておることをはっきりつかんだならば、この世で自分はどのように生きるべきかという指針は、はっきりとわかるのです。 この世限りだと思うから、甘い方向へとみずからを導いていきます。 しかし来世も、来々世も、そのまた来世もあるということを知ったときに、この世において、今世において少しでもすばらしい自分を創らないで、あの世に還ってくるわけにはいかんのです。 この永遠の生命を知るということ、つかむということが不退転の原理のまたたいせつなひとつなのです。 9.不退転の原理⑤――信仰の力の大きさを知れ そして不退転の原理の第五は、なにかというと信仰という力です。 生きていくうちには、さまざまな困難苦難があります。それはとても人間心、理性でもっては割り切っていけないように思うことがある。人間知恵では、計っていけない、解決していけないように思うことがある。 しかし人間には最後の力が残されておるのです。それは信ずるという力です。信仰の力です。神を信ずるという力です。 不退転の最後はこの信ずるという力によって補強されるのです。支持されるのです。信ずる力の大きさというものを、人間は知らねばならぬのです。 ほんとうに神を信じきることができなければ、不退転の気持ちというものは起きんのです。なまはんかに神を信じておるようでは、退転してしまうのです。 地上の人たちはまだまだ信ずる力が弱い。信ずる力というのはどこまでも大きくなっていくんです。大きく、大きく、この世の中を救うというところまで、大きく実現していくのです。 きょういろんなことを言いました。五つの不退転の原理、不退転の心のありかたを述べました。この最後の信仰、まちがいのないしっかりとしたよき信仰ということの力、これを忘れないで生きていっていただきたい。まあそう思います。以上です。
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目次 ・黎明の時代 ・もっと積極的想念を持て ・祈りはかならず聞かれている ・私に霊示を与えた諸神霊 ・祈りの対象と対応 ・祈りに不可欠な三条件 ・聖経「甘露の法雨」の指導霊 ・日本神道における奇跡 ・キリスト教における奇跡 黎明の時代 私は、あなた方に強く強く言っておきたい。あなた方はまず光を信ぜよ。光を信じて生きてゆけ。光を胸に抱き、光を手の中に掴み、光の内を歩め。それが大事であるのだ。 決して恐怖してはならない。けっして恐れおののいてはならない。決して心配してはならない。決して取り越し苦労をしてはならない。 私は実相としての光を、今、全身に浴びている。実相としての光を全身に浴びると共に、また、私が実相としての光そのものであるということを強く感じるのです。それが真実であるのです。真実であるということは、それこそが許されるべき生命の実相の姿であるのです。 生命の実相とは、本来ゆがみなく、くもりなく、伸び伸びと豊かに神の光をたたえ、神の光そのものであるのです。そして私達霊人の実相も、光そのものであるのです。私達は、こうした実相を片時なりとも疑ってはならんと思うのです。 私は長年に亘り、さまざまなことを学び、研究してまいりました。そしてそれは、今回日本に降りて谷口雅春として悟ったこと、学び実践したことのみがすべてではないのです。むしろ今、霊天上界にあって、私はみずからの過去世の姿を知り、過去世の考えを知り、一層大きな思想を身にまとい復活せんとしているのだ。 私はローマ時代の流出説という新プラトン派の哲学を創始したプロティノスという名で生まれたことがあります。 さらに今から二千数百年前、伊邪那岐命として、日本の九州に肉体を持ったことがあります。 その時にも私が説き、教え、述べ伝えた内容は同じ、人間の本質は光であり、その実相はまばゆく輝くばかりの神の姿そのものである、ということであったのです。 もっと積極的想念を持て 心の切り替えにおいて大事なこととしてあげておきたいのは、暗い想念感情の処理の問題だ。この暗い想念感情の処理は、教わったことがない方がひじょうに多いと思うし、またそうした人を見つけて慰める人、声をかけてやる人も、その暗き想念感情をどう処理したらいいか、さっぱりわからないでいるのではないかと思う。 暗い想念感情に心が支配された時、まずもって思ってほしいことがある。それは、あなたにとっていちばん心を浮き浮きとさせるものが一体何であるか、ということだ。過去ふり返ってみて、みずからの心がいちばん浮き浮きとしたのはどういう時期であったのか、それを考えてみて欲しい。そして、なぜその時に、そのような浮き浮きとした気分を味わうことができたのか、考えてほしいのだ。 闇を消すには、闇を捕まえて消そうとしても闇は消えない。闇を消す方法は光を取り入れることだ。光を灯すところに闇は消えていくという、その真実をみなさんは知らねばならない。光の言葉を胸に入れていくこと、これが人生に希望をもたらす秘訣なのだ。 みなさんは、人間の顔が変わっていくのを見たことはないであろうか。暗くうち沈み、悲観的で、そして自己卑下的な人が、希望に顔を輝かせ、喜びに顔を満たし、そして血の気が上がり紅潮している姿を見たことがないだろうか。そしてその両者を比べた時に、どちらが天国的であるか、考えたことがはたしてあるだろうか。 結論は一つです。天国的である顔とはすなわち、赤みが射し希望に輝いている顔なのです。ゆえにまず、心の切り替えをして欲しい。 そうした希望に満ちた姿をしていると、希望に満ちた人がまわりに集まってくるのです。そしてそういう人たちが協力をすれば会社は繁栄し、商売は繁盛し、また自由業をやっても、創作をやってもどんどんどんどん新しき道が開けてくるのです。 悪いことに心を止めることなく、善いことのみに心を集中していけば、やがて前途は希望に満ちたものとなってくるのです。 祈りはかならず聞かれている 祈りというものは一体なにゆえにあるのか。これを諸君は考えてみたことがあるであろうか。まことに祈りの行為をやっている人であっても、これを何かごくごく形式的なことだと思ってやっている者も数多いようだ。 しかし私はあなた方に言っておくが、祈りということは、これは具体的方法であり、祈りにはかならず効果というものが現れてくるのだ。これはまちがいのない事実であると思う。 祈りとは、その行為があるということ自体、すでに、ある結果が生ずることを予定しているとも言えるのだ。 すなわち、このように言ってもよいであろう。祈りの行為はかならずどこかで聞かれている、そう考えて間違いない。 人間が住んでいる世界は三次元世界といわれるように、縦、横、高さのある物質の世界であるが、人間は三次元的存在であると同時に、また、高次元的存在でもあるのだ。そして人間をして、三次元的存在であると同時に、高次元的存在たらしめているのは、一体何であるかというと、思いの力なのだ。これを心思の力と言ってもよい。この心と思いの力は、実は人間をして四次元以上の高次元的存在とならしめるだけの力があるのだ。 あの世の世界に四次元的世界、五次元的世界、六次元的世界、七次元的世界というような世界があるが、人間の心と思いとはこの各世界に通じてゆくものなのだ。その思いは、その思いの波長に合わせた世界に通じていると言ってもまちがいがないであろう。それゆえに人間は三次元的存在であると同時に、多次元的存在でもあるのだ。 私に霊示を与えた諸神霊 高級霊たちの本質の一つとして方便を使うということはよくある。実際の名前を名乗るのではなくて、自分の役職名を名乗ったり、あるいは、他の特別な名を名乗ったりすることもある。生長の家の大神にしてもそうだ。生長の家の大神と名乗りつつ、その実体は一体何者であるのか私も生前つかみかねていたが、実はこちらに還ってきて感じたことは、その中心霊をなしていたのが天之御中主大神であったということが、もう明らかにわかっている。 もちろん生長の家の大神を名乗っていた者の中に、これ以外の数名の日本神道系の神々もいたことも事実であるし、私の哲学的思考の、あるいは思想の構築のためには、哲学者たちも相当なインスピレーションを与えてくれていたことがわかった。たとえば、「生命の実相」という私の全四十巻の書物は、これはおそらくは日本始まって以来の唯神実相哲学体系とでも言うか、むしろ世界の歴史の中でもたいへん珍しい体系書である、と自負しているものだが、この体系書などを作る時の哲学的側面では、やはり私は予想も多少はしていたが、カント、あるいはヘーゲル、こうした者たちも私自身にインスピレーションを与えてくれていたことがわかった。 ただ、私はそうしたことには気がつかなかった。それはすべて生長の家の大神という形で片づけられていたに違いないと思う。それでよかった面もあると思う。何といっても谷口雅春がデカルトの霊示を受けているとかあるいは、ソクラテスだ、カントだ、こうした著名人の霊示を受けていると言っておれば、またそれを攻撃する者が沢山出てくるので、あえて高級霊たちは真実の名を語らずに、そういう形で霊指導をすることが多いのだ。これは言ってみれば、中身で勝負しようとする傾向だと言ってもよいであろう。 教義の中心的なもの、本来肉体なし、本来病なし、本来迷いなし、本来光一元である、こういう考え方はこれは如来の法であって、天之御中主大神から降ろされたものであるが、他の教えはいろいろなその分野において、得意な方がたから与えられていたということを私は知るに至った。 また生長の家においては病を治すということがずいぶん多く起きてきたがこれなども私は知らなかったが、私をずいぶん指導していた人の一人に白隠禅師という方がいらしたことが判明した。これは禅宗のほうでは有名な方であり、南蘇の法を使ってみずからの病を治した方だ。大悟を何回もし、小悟は数知れずと言われた方であって、禅と医学との関わりを示した方だと言えるだろう。 さて「神想観」という教えがある。これは精神統一をして招神歌を唱えるという、そうした方法であるが、この神想観を私にくださった方は、じつは天照大神という名で呼ばれている女性神霊であった。これも明らかになった。もちろんその内容自体は他の人たちたとも共有されているものであろうが、天照大神からの啓示で、その神想観というものがどうやらできたという過程を私は知った。 これ以外にもずいぶんと私を指導してくれた方はいて、たとえば、私は教育法の中で霊性に基づいた神の子の教育法ということをずいぶん説いてきたつもりであったが、その指導者は、私を霊的に指導しているのが一体誰であるかというと、実はシュタイナー教育ということで有名なシュタイナー博士などが、私に死後インスビレーションを与えてくれていたことがわかって、たいへん感銘をしている。 本当の霊的世界の地上浄化運動、救済運動というものは、このように時代を超え、地域を超えて行われるものなのだ。 また、多少言いにくいことではあるが、私の軍事問題についての考え方これを指導していた者もかなり明らかになってきた。日本の神々の中には、国を守るということを強く主張しておられる方もいるのです。 軍事に関して私を指導していたのが、まあ大方の方はごぞんじであろうと思うが、須佐之男命という方であった。この方の考え方が相当私の軍事的考え方の中にはいっていた、そのように言ってよいであろう。 祈りの対象と対応 人間に魂修行があるということは、それは魂の個性に付随する修行であるということを否むことは不可能であろうと思う。 すなわち地上で魂修行をして、そして地上を去った人は、霊となればもちろん生前とは違った存在形態をとるわけであるけれども、しかし、やはりそれなりの個性は持続するということが言えるのだ。 こうした個性があるということが、すなわち実相ではないということを意味するのではない。実相ということを羊羹か何かを切ったように、全部同じだというふうに考える向きもあるかも知れないが、そういうわけではない。 たとえば花が咲いている姿を見ても、花びらが五枚ある花もあれば、八枚ある花もある。あるいは花びらが二十枚、三十枚あるような花もあるであろう。それぞれの花びらは小さく分断され、個性化されたものだけれども、統一して一つの花という外観を作っているのだ。 こう考えて見たときに、一枚一枚の個性ある花びらが、一つの花という実相を作り上げていると言っても過言ではないと思う。ちょうど個性と霊的実相との関わりはかくのごときものなのだ。霊的実相の世界ということは、均一、一様で何らの変化もなく、何らの偏りもないと思う方もいるかもしれないが、そうではなくて、実相世界というものは咲き乱れる花のようなものだと考えていただければよいと思う。 その花の理念を作っておられるのは神のお心だが、花には花びらがあり、おしべもめしべも葉っぱも茎もあるということだ。これを忘れてはならない。そうした全体で実相の花が出来上がっているという事実があるのです。 地上を去った人間の魂が、実相の世界という名の大海の中に流れ込んで無個性になってしまって、一様の魂の海のようになってしまうと考えるならば、それは明らかにまちがいであるというふうに言ってよいと思う。たんに魂の海のように流れ込む水溜まりであるならば、何のために地上で個性化され、努力し続けてきたか、そのへんの意味がなくなってしまうからである。 私が言いたいのはこういうことなのだ。地上を去ってのちも、地上に生きていた人はそうした同じような個性と心を、やはり維持しているということなのだ。したがって祈りにおいて対象を選べば、その人の反応があるということなのだ。したがって、谷口雅春の名を呼べば感応してくるのは谷口雅春であるということなのだ。こうした事実が厳然としてあるということを知っていただきたいと思う。 祈りに不可欠な三条件 心がおごりに満ち、そしてうぬぼれに満ちている時に祈りということはできない。世の中には自力天狗という人間がいて、自分の力で何もかもできると思っているが、霊的世界の実相を知れば知るほど、自力でできるということがどれほど狭い範囲のことであるか、それに気付いていくようになっていく。 この実相世界の広大無辺さと、この力に満ち満ちた様相を知った時に、地上の人間の自力など本当にたわいもないものであることがわかる。それはせいぜいお昼ごはんのおかずを選び分けてたべる程度の自力しかないということなのだ。 こうして多くの高級霊たちの姿、存在を認識するということは、まず謙虚になり、彼らが上位者であるということを認識せねばならん。それはまさしく上位者なのだ。肉体に宿る人間は、その中に高級霊がたとえ宿っているとしても、肉体を持っているということ自体がかなりのハンディであるのだ。すなわち何分の一かの力しか持っていないと思わねばなるまい。ましてや英知において高級霊に到達するほどの英知を、生きながら持てる人というのはまずないと言ってよいであろう。 第二は、この祈りの対象、思いが純粋であるということなのだ。ここに濁りがあってはいけない。祈りの内容に濁りがある場合には、それは、悪しき霊波をひきつけることにもなりかねない。そうした霊波を食い物にして生きている者もいるようであるから、こうした悪しき霊波を引き受けないようにつねづね気をつけねばならん。 神想観などをしていても、ときおり気が変になったり、精神異常になったりするような者もあるが、これらは祈りの純粋性が足りないからそういうことになるのだ。自分の我欲のままに、欲得のままに祈っているとそのようなことが起こりがちであるのだ。したがって祈りに入る前に、まず謙虚であると同時に純粋な気持ちで祈らねばならん。 この純粋な気持ちということの中には、全託という気持ちがあると思う。すべてをお任せするという気持ちだ。最後は神、仏にお任せするという気持ちがなければ、祈ってもそれは本当の祈りとは言えない。それは交渉しているということになる。高級霊たちに祈って自分の都合のいい結果は引き出したいが、都合の悪いことは引き出したくない。こういうことであれば、これは交渉しているということになる。しかし相手は交渉の相手ではないのだ。 やはり、お任せするという気持ちが大事だ。お任せしないのであるならば、祈りはむしろすべきではない。それはまちがいにつながっていくと思われるのだ。 このように祈りにおいては純粋性、濁っていないということが大事であると思う。 三番目にとくに挙げるとするならば、やはり祈った時には、すでにもはやそれは実現されたと考えればよいと思う。霊界において決定されたことが地上に降りてくるには時間がかかる。それは即座には降りないことが多い。私達が地上にそれを与えようと思っても、私達の気持ちにおいてはほんの一時間か二時間以内に与えたつもりであっても、地上に降りてくる時には一ヶ月二ヶ月かかっていることはままある。 これはちょうど次のような喩えで説明できるであろうか。ビルの二十階の屋上に立っているのが私谷口雅春として、ビルの下 にちょうど私の愛読者が通りかかったとする。そして上に向かって「谷口雅春先生、どうぞ私の願いをお聞き届けください」こうして祈るわけだ。そうするとビルの二十階に住んでいる谷口雅春は、何らかの答えをしたいと思うのだ。その人が真剣に祈っており、また、信仰心においてあやまりがないならば、何らかのアドバイスをしてやりたいと思う。 ところが私は、その祈りに対しての答えを、ノートブックの用紙を一枚破り取って鉛筆で書いて、それを上から落とすわけだが、上から降りる時にひらひらと降りていって、なかなかストレートに降りていかないわけだ。二十階から投げられて下まで落ちるまでに多少の時間がかかっているのだ。 それゆえに祈りから祈りの答えまでには、多少の時間的差があることはある。そして、その落下地点においても、風の関係だとか空気の抵抗だとか、いろいろなことが高次元世界と地上世界との間にはあるために、多少の時間的ずれということはあるかも知れない。 霊の答えはすべて念として答えられるので、あるいは理念として答えられるので、この理念が地上に降りた時にどのような形で翻訳されて出てくるかは、まだ定かではないことがあるのだ。それゆえに祈りにおいて、地上人が特に大事にせねばいけないことは、その祈り実現の手段方法については執着を持ってはいけないということだ。時期についても執着をしてはいけない。手段、方法、時期について特定して執着を作り、あせったり、ねばならないという心にひっかかってはならないということだ。 純粋に祈って、そしてそれが神の心にかなうならば、すべて適当な時に適当な方法でお与え下さい、ということで祈ったことすら忘れて日々を生きているのがよいのだ。 これが私なりの祈りについての考えだが、これがいちばん危険性のない祈りであり、また神仏の心にかなう祈りでもあると思う。どうか最後の部分がいちばん肝要な点であるから、このことを忘れないでいただきたい。 聖経「甘露の法雨」の指導霊 甘露の法雨の指導霊について、いったい誰であったかを言わなかったと思うので述べておくと、私の「甘露の法雨」を指導したのは、これは龍樹菩薩、ナーガールジュナと言われている仏教では有名な中興の祖の一人だ。これが私のひじょうに親しい友人であるのだ。親しい友人であって天上界におって私を指導してくれたのだ。これだけを補足しておきたいと思う。 このように実に多くの友人たちが実在界に住んでいて、地上の人たちが神仏の心にかなった生活をする際には、かならず援助の手を差し伸べている。こういうふうに言ってまちがいがないと思う。 要はこうした援助を、どのように具体化するかということだと思うのだ。この具体化さえ成功すれば、この世で不可能なことはほぼ何もない。そのように言い得るであろう。そう考える。 日本神道における奇跡 生長の家では有名な招神歌というのがあって、この招神歌を読むとかならず高級霊界からの反応がある。そして力が入ってくる。こういう経験を数多くの人がしたわけです。 私たちは地上に特別な関心があるわけではありませんが、地上から一定の作法にしたがった祈りを捧げられると、やはりそれなりの反応をしたくなるということは事実です。 実際一定の修法を踏むことによって、実在界との交流ということが可能となってくるわけなのです。 キリスト教における奇跡 その信仰と奇跡についてくわしい話をしておきたいと思うのですが、どういう時に奇跡というものが実際起きているのかということなのですね。これが非常に大事だと思います。 こうしてみると、奇跡の起きる人というのは一定のパターンがあるのです。それはまず、心が非常に澄んでいること、純粋であること、そして神を信ずる気持ちが強いということですね、これがあげられます。あるいは奇跡が起きた時点においては、まだそれほどでない方もいることはいるのですが、それが奇跡となって現れた時に、以後情熱の人となって伝道する人もいます。こういう素質のある人には奇跡が起きやすいと言ってもよいでしょうか。 ほんとうにやろうと思えば、ひじょうに大きなところまで奇跡は起こせるようです。たとえば、イエスの時にも死せるラザロが墓穴の中に三日も四日も入っていて、もう腐敗臭でも放っているかと思われるラザロに対してイエスは「死するにあらず、眠れるなり。」と言って、「ラザロよ、起きよ。ラザロよ、出でよ。」と言えば、ラザロは包帯を巻いて出てきたわけですね。こうしたこともありました。 これなどはイエスがほんとうに奇跡の起きるルールというものを、十分に知っていたことを物語っていると思います。ほんとうに神の心にかなうことであれば、この世では不可能なことは何もないということなのです。
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目次 ・国造り ・神の世界の秩序を秩序とした世界の建設 ・人々を指導すべき人たちは、指導される人たちよりも秀れた人たちでなければならない ・徳の優れた方が選ばれていくというような時流を作っていかなければならない ・政治経済の混乱の原因 ・選挙制度の改革 ・逆転した価値基準 ・徳による価値基準 ・秩序を維持していくための指標としての礼節 ・家庭に信仰をとり戻して欲しい ・神と共に生きることが天国に住むための最低条件 ・宗教とは神と共に生活すること 国造り 国土ができたのは、何万、何十万年も昔のことでございます。当時の方々は、私どものように霊的な力を持っており、また古い時代の記憶を人間として生きながら持っていた人も居たのです。そういうことが、過去の記憶として、われわれの力、神の力を使って天にあったように伝えられているのですが、やはり天上界の事実としては、日本の国土を創る時に、あそこの場所に島を造ろう、ここに高い大きな山を造ろう、このように私たちは話していたのです。 私たちが計画したことが、やがてこの地上に影響がでてきて、想ったことが形の中に顕われて、やがて島となり、山となり、海となり、湾となり、出来てきたのです。 地球の上でも地殻変動があったり、いろんなことがあって、ある土地が浮き上がったり、沈んだりしていますが、偶然ではないのです。私たちは、まず国土の建設ということを天上界で計画するのです。そうしてやがてその通りの国土が出来てきます。その後に私たちはその”器(いれもの)”に、神の意志を積み込むために、次々と肉体を持って生まれていったのです。 そして最初の国造りが始まってきたのです。いま、この日本の国も、一つの国として栄えておりますが、それは遡ること数万年前に、まず島国を創るということに端を発し、そして三千年程前に、私たちが集団で肉体を持って現われ、今の日本の国の基礎、基(もとい)、が造られたのです。その後三千年経ってこのような立派な国になってきました。これは私どもが何千年も昔に計画したことなのです。 わたくしたちが国造りをするときには、さまざまな神様が、さまざまな役割をしたのです。わたくしの役割は、この地上を明るく照らすということ。明るく照らすということは、人々の心を明るく照らすということ。御中主の仕事は、この国の土台を創ること、基礎をつくること、柱をつくることにあります。 わたくしは、このようなことを申しました。皆様方は今はこの地上で生きているけれども、皆様方一人ひとりは、あの空に輝ける太陽のように、日の光のような明るい、まぶしい光の子供たちですよ、と人々に説いておりました。 神の世界の秩序を秩序とした世界の建設 日本神道の神々の中にも、決して祭祀だけを執り行っているのではなくて、人々を正しく導き、この日本という国を創るために、具体的な導きを行っている方がたが数多く居られるということ、あなた方が肯定しようが否定しようが、そのようなことにかかわらず、この日本の国は、われらの影響下にあるということを、ゆめゆめ忘れて頂いては困るのであります。 たとえ、日本の国において、クリスチャンとして生きておられようと、仏教徒として生きていようと、或は他の新興宗教に生きていようと、彼らもまたわれらが庇護のもとに活動しているということなのです。 そういうことを、ゆめゆめ忘れれないで頂きたいのです。 既にあなた方もお聴き及びのとおり、日本神道におきましたは、神を敬うという気持ちを非常に大切にしております。 いまあなた方の世の中を見渡したならば、世は乱れ、混乱の極致にあるかにみえます。物質は溢れ、文明は栄えているかにみえますが、この文明社会において混乱を持ち来たらしているものは一体何でありましょうか。それはこの地上に生きている方々が、この地上こそが、彼らにとって楽園だという考えがあるからです。 僅か数十年の人生を、どのように花開かすかということ、他の者にどのようにみえるかということ、自分がどのように満足できるかということ、こういった視点から人生観が成り立っているのではないでしょうか。 しかしです。この地上の混乱を救うものは、この地上的な生き方、この地上的なでき事、この地上的な事業の中にはないのです。そうではなくて、この地上の混乱を救うものは、地上には無い。本来の世界、本源の世界とは何であるか、本来の「秩序」の世界とは何であるか。こういったことを明らかにさせる必要があるのです。 われわれが主として説き来たたったことは、「秩序」であります。キリスト教は「愛」を説いたでありましょう。その前にモーゼといわれる方は「義」を説いたでありましょう。釈迦はインドにおいて「法」、これは生きていく人間のとるべき選択肢、選択の基準、という意味での行動基準、「法」を説きました。 然して、私たち日本神道系が主として教えているのは「秩序」であります。 この”秩序”とは、われらが世界、神の世界における秩序でありますが、この秩序を、ある形においてこの地上にも反映させたいと思うのであります。 いまあなた方の世界においても、たとえば年齢ですね、年上のものを敬うということ、或は立場が上の者、上役を敬うということ、地位の高い人を敬うというようなこと、このようなことは行われておりますが、これは、本来の意味においての秩序ではないのですけれども、その秩序の考えの残骸と申しますか、残滓と申しますか、そのようなものであります。 決して肉体人間が、年齢をとることによって、偉くなることもないのでありますし、いまあなた方の社会において、会社において、例えば、課長になり、部長になり、或は役員になり、社長になるというようなこと、このようなことが立派なことだと思われているようですが、このようなものは必ずしも神の秩序には服していないのです。けれどもただ秩序、というものがあるということを、そのような形を通して、人間は感じることができるようになっています。 けれども、私たちが希っていることは、そのようなこの世の文化、文明が生み出したところの地位とか上下ではないのです。 私たちが、今あなた方の世界、この地上界において、実現してほしいと希っている世界には、神の世界の秩序を秩序とした世界の建設なのであります。やがてそのような世界が来ると希っています。 その世界においては、「神」により近き人間が、人びとの尊敬を受け、人びとを指導すべき立場に立っていなければいけません。古代のように、決して神主が人びとの上に立たなければいけないと、私は言っているのではないのです。 たとえば役所においてでもよろしいのです。貿易業者でもよろしいのです。或は工業、或は商業の中でもかまわないのです。どのような世界かは問いません。その中において、神の子としての自分を発揮している人、神の側近き人が、人々の尊敬を受け、人々を指導できるような世の中、なんとかしてそのような世の中を作っていきたいと思うのです。 年齢が上だから人の上に立つのではないのです。これからの世界は、年齢の上下ではなく、生まれついての金銭の多寡でもなく、勤めている会社の格の上下でもなく、そのようなものではなくて、その中に生きている人の人生観と申しますか、信仰と申しますか、或は哲学と申せましょうか、その人の考えが、その人の思想が神に近い、神により近い人間が人の上に立つような世界、そういった世界が作られるべきです。私たちはそういった世界を作るために少しなりとも力を貸したいと思っているのです。 人々を指導すべき人たちは、指導される人たちよりも秀れた人たちでなければならない 孔子、孟子の思想が近いと申されますが、確かに彼らもちょうど、われらがこの日本のやまとの国において国造りをしている同じ頃に、中国に降りて、大和の国よりも一歩進んだ中国の国において、文化を開くために出て行った霊たちでありますから、その意味においても、時代的にも、われらの考えと相似通ったものがあったということは否めません。 それは、「神の法」神の世界構造、神の光の中の一つの分光なのです。われら日本神道系、そうして中国に降りたいわゆる儒学、「儒教」、こういった方がたも光の色としては同じ色なのです。たとえて言うなれば、七色の虹で表すなら、われわれは”紫”色の光なのです。紫というのは尊さを表わす色なのです。こういった”紫”の色としてわれらは日本の国を照らし、われらの一部が中国を照らしたということなのです。 秩序ある世界は素晴らしい世界であります。人を敬える。優れたものを秀れたものとして敬える世界というものは素晴らしいものであります。たまたまこの地上に降りて来て、人よりも口がうまかったとか、人よりも腕力が強かったとか、人よりも金儲けがうまかったとか、たかだかそのようなことのために、地位において人より高いところにたった人間が、他の人間を教え導くということは、間違っているのです。 人々を指導すべき人たちは、指導される人たちよりも秀れた人たちでなければならないのです。日本の政治を見てみなさい。国を治める人たちをみてみなさい。何百人かの国会議員という方がいらっしゃるでしょう。彼らの中には確かに秀れた方もいらっしゃることを私は認めます。けれども彼らのうちの大半の方がたはどうでしょうか。人の上に立ちたいという権力欲のために、自らの地位を勝ちとって来た方がたではないでしょうか。或は票集めがうまいということ、或は金集めがうまいということ、或は人を動かし、人を扇動し組織するのがうまいということ、或は今の時代においては、テレビに出て顔を売るということのうまいことで、国の政治をする人たちが選ばれているのではないでしょうか。このようなことが通用するというようなことは、全く間違ってしまっております。そのような方がたは、この国の民を救うことも導くこともできないはずであります。 徳の優れた方が選ばれていくというような時流を作っていかなければならない 人を指導する人は、人を指導できるだけの才覚と”徳”がなければならないのです。そのような方がたが人の上に立てるような、そういった時代を作っていかなければなりません。 企業においても然りです。企業において人の上に立つ人は、ただ単に、仕事が早いとか金を儲けるのがうまいとか、たまたま事業で成功したとか、上の者の引きがあったとか、そのようなもので人の上に立つ者が決まっていってはならないのです。これからの企業において、多くの人たちを導いていく人は、ただ単に仕事ができるというだけではならないのです。 企業というものの中では、何千人か、何万人かの人々が、人生のすくなくとも半分以上を過ごすのです。この人生の半分以上を過ごす場において、単に熟練工として、単に熟練した事務員として、人間は生きているのではないのです。これだけの時間、これだけの場において、神の子としての本元を発揮することができないのであるならば、人生修行の大半は無駄になってしまうのです。 ですから、これから二十一世紀の日本社会においても、企業の中においても、徳の優れた人が指導者として選ばれていくべきであるということが模索されていくべきであります。仕事ができるということも一つではありますが、徳の優れた方が選ばれていくというような時世を、時流を作っていかなければならないのです。 ましてや国の政治においては、然りであります。国の政治においては、本当の意味において人々の尊敬を集め得るような人が上に立たねばなりません。今のような選挙制度は考え直さねばなりません。 選挙制度は、これはあなた方にとっては、最高の価値であるような民主主義の一つの典型として、選挙によって政治家を選ぶという方法がとられているのでありますが、これは人類の歴史からみれば、決して最上の方法ではないのです。選挙によって政治家を選ぶということは、独裁者を防ぐ、独裁者の出現を防ぐといおう意味においては、そのような消極的な意味においては大きな役割を果たしておるのでありますが、選挙によって選ばれるということは、必ずしもその人が優れている人であるということを意味していないのです。これからの政治、日本の政治というものを変革していくうえにおいて、如何にして本当に人を選び出していくかということを、あなた方は考えていかねばなりません。 現行の選挙制度においては、それはほぼ不可能であります。たとえて言うならば、非常に徳の優れた方があります。その方は宗教家かも知れません。或は宗教家ではなくて、先生かも知れません。或は地域社会の世話役をしている方かも知れません。けれども、たとえば、今の世界において、国の政治機関において上位を占めることができるでしょうか、或は学問を修め、学徳のある方が必ずしも人を指導すべき立場に立てるでしょうか、そういうことなのです。やはり、人々を治める人は、その秩序の上にあるものは、秩序の上にあるだけの内容を備えた人でなければならないということであります。 政治経済の混乱の原因 日本の選挙による政治家選び、現在の曲がった意味でのいわゆるデモクラシーというものを、いま一つ考えて行きなさい。デモクラシーというものは、必ずしも最善のものではないのです。それは最悪を防ぐための制度であって、最良の政治を実現するための手段ではないのです。 なぜ、わたくしがこのようなことを言い切れるかと申しますと、それは本来の神の国の相(すがた)、真の実相の世界を見えればそのことが分るのです。あなた方いま現世にある人もやがては死にます。そして地上の肉体を去った人たちは、次に幽界の世界に入り、霊界の世界に入り、神界へ、そして菩薩界へ、如来界へと入っていくのでありますが、このようにわれらが世界は、毅然としたと申しますか、整然としたと申しますか、このような神の秩序が明らかに出来上がっているのであって、何人もこれを変えることはできないのです。これが神の実相世界であるにもかかわらず、この三次元の現象世界だけが、いろんなことが起きているわけであります。本来菩薩界、如来界にあるような方が、この三次元に降りたならば、それなりの立場に立てないでいるのです。そして幽界とか、霊界あたり、或は地獄界に堕ちていく人たちがこの三次元において、高い地位を占め、高い立場を占めて行動しているのです。こういったことが混乱を招いているのです。 ですから、われらが理想はこの三次元世界においても、神の眼において指導者たるべき人が、指導者となるような世界を作らねばならないということなのです。そのような秩序が実現されるためには、一体どのような工夫が凝らされねばならないということでしょうか。それをあなた方は考えて頂きたいのです。昔のように神主が人の上に立つということはむずかしいでありましょう。古代エジプトにもそのようなことがあったと、わたくしは聴いております。 日本の国においても古代はそうでありました。神のコトバを伝える者が、非常に偉いということになっておりました。今の世の中においては、それは非常にむずかしいことであります。であるならば、一体どのようなことをすれば理想の世界が作られるのかということを選んでいくべきです。 それは、たとえば先程申しました、企業においても昇進なら昇進ということの制度を考え直していかなければいけないということなのです。たとえて言うならば、仕事ができるということが、その人にとっての昇進するための少なくとも五割以内の評価でなければならないのです。それ以外の評価は、その人に”徳”があるかどうか、その人が正しい人生観を持っているかどうか、こういったことが残りの五割の判定基準として選ばれなければいけないのです。 道徳心もなく、信仰心もなく、哲学もなく、人に教えるべき言葉も持たない人たちが、年齢を経れば、自動的に人の上に立てる世界は間違っているのです。そのような社会は間違っているのです。これからは、昇進していくにしても、そのような人の上に立つべき素質を持っているかどうか、ということが吟味されなければならないはずです。 これは、政治の世界においてもそうです。政治家たるべき者は、もちろん世界の経済を知り、国の財政を知り、さまざまなこと、知識技能をもっているということはもちろん必要条件でありますが、残りの十分条件は、彼らに徳があるかどうか、人を感化すべき力があるかどうか、人から尊敬されるだけの信条なり、信念をもっているかどうかということなのです。 そういったものをもっていない人は、どれだけ金集めがうまくとも、どれだけ票集めがうまくとも、どれだけ組織することがうまくとも、落選するような制度にしていかねばならないのです。これは努力すれば、やがて、そうなっていくでしょう。そういった制度はできるはずです。今の選挙制度というものは、単に数量的に一人一票の数を集めればそれで当選するというようになっているのが間違っているのです。 選挙制度の改革 例えばこれは一つの方法でありますが、立候補する人は、識者といわれる人びと、世に良識あるといわれる人々、宗教家であり、学者であり、文化人であり、他の者でもよろしい。識者であるといわれる人々の一定数の支持を受け、推薦を受けて、はじめて国民投票を受ける。こういった制度になっていくべきであります。 良識ある方々のまず推薦を受ける、推薦を受けた上で一般国民の投票によって決めればよいのです。こうしたチェック機能と申しますか、そうした選別というものがなされなければ、いまのようなままでは、どのような人であってもただ票集めが上手な人達ばかりが当選してしまいます。このようなことであってよいはずはありません。まず世の中の識者といわれる方々、こういった方々が選ばれるべきであります。 古代ギリシアの時代においては、ある意味においての賢人会議、賢い人達の集まりがあったと、わたくしは聴いております。そういった方がたの支持を受けられないような人々は、すくなくとも、指導者になるべきではありません。こうした政治体制というものを、いまひとつ考え直して欲しいと思うのです。これがあなた方現象界に密着した方の改革方向の卑近な例でありますが、わたくしの一つの希いであります。 逆転した価値基準 これは他人事ではないのです。あなた方の活動の中にもこれはあるのです。すくなくともあなた方は、日本の政治や、経済を牛耳るということは、それはむずかしいことでありましょう。けれども、やがてそういった世界が出てくる時のための「価値基準」を打ち出して置かねばならないということなのです。 今の日本の世の中では、一体何が偉くて、何が偉くないのか、どういう人間が偉くて、どういう人間が偉くないのか、何が価値があって、何が価値がないことなのか、これが判らなくなっているのです。文部省でさえも、神とか霊とかいうことに対してはなるべく触れないようにして置こうという有り様で、これは特殊な宗教学とか、そういった世界にだけ通用することであって一般の人々の教育には触れたくないという、そういったことは教えたくないというような時勢であります。 しかし、それが間違っているとことは、あなた方には既に明らかであります。霊が存在するか、しないかというようなこと、こういったことは当然の前提問題であって、存在することに基づいてその後の世界が、さまざまな世界が開け、そしてさまざまな勉強の材料があるのでありますが、その以前の、霊があるかないかというようなことで迷っている人びとが大半だというような世の中、これは間違った世の中です。そうした世の中にもかかわらず、神代の世界を間違って理解して、彼らは文化が未発達であったため、科学が進歩していなかったため、神や仏があると思ったり、霊があると思っていた時代があったなどという、大変な誤解をしているわけです。時代が進んでも霊的な意味においては進歩しているかどうか分らないのです。退化しているのかも知れないのです。むしろ退化していると言い切ってよいでしょう。 わたくしどもが地上に降りた時には、すくなくとも、神と一体である人間を敬うだけの心を人びとは持っていたのです。神と一体、神と話ができる非飛び地は尊敬の対象であったのです。ところが、今の時代に、たとえばあなた方は、わたくしたち上位神霊界の人々と話ができますが、たとえば個別にいろんな人に言いたいですか。言いたくないでしょう。なぜ言いたくないか。それは、そういったことを知っているというと、或は怪しい人ではないか、或は何かちょと変なのではないか、と思われるのが普通の世の中になってしまったのです。価値が逆転してしまったのです。三角形が逆さまになっているのです。底辺が広く、頂点へ行く程狭くなるにもかかわらず、今の世の中は逆になっているのです。逆三角形になっているのです。頂点に立つべき人が、ほんの一部分が底辺を支えて、底辺に本来あるべき人が上に居るのです。逆三角形の世界となっているのです。今のこの世の中は、逆三角形の世界なのです。底辺に居るべき人々が上を占め、上に居るべき人々が、ごく一部の人が底辺を支えているという逆三角形の世界が出来上がっているのです。明らかにこれは間違っております。 徳による価値基準 あなた方は、本来の価値とは何か、ということを教えていかねばなりません。たとえば、いまこの日本の中においては、どのようなことが偉いこと、素晴らしいことと思われているでしょうか。一つは教育というものを通してさまざまな試験、テストというものがあります。こういったものを経て、勝ち抜いたものが、たとえば選ばれたものとして、人々から尊敬を受けるようなことがあります。これは少なくとも腕力が強いとか、家柄が良いとかいうことによって人を選別するよりは、優れた基準でありましょう。 知力による基準というものは、家柄や腕力や、或は財力によって人を選ぶよりも優れた基準であるとわたしも認めたいと思います。しかしながら、知力というものは一つの才、才能の才であります。才能を超えた”徳”というものがあるのです。徳、或は雅量、或は器(うつわ)というものがあります。こういったものがもっと大切なのです。いくら知力を測ってもその人の愛の深さは測れません。いくら試験でいい点をとっても、その人がどれだけ人々に尽くそうとしているかどうかは量れません。しかし本来人の上に立つ人は愛深き人であり、慈悲深き人であり、人を救わんとする、人を助けんとする心の広い人であります。そういった人を如何に選び出していくか、そういった人が如何に選び出していくか、そういった人が如何に自己実現をしていくのを助けられるような世の中にしていくかということであります。 そのためには、少なくともあなた方はまず確固とした価値の基準というものを、人々に提供する必要があるのです。そういった人々が、徳ある人々が、優れた人々として認められるための価値基準を、あなた方は世に提供していかねばならないのです。 本来ならば、光の指導霊といわれる方々が、如来、菩薩といわれる方がたが、不幸なことに、あるときは「拝屋(おがみや)」の一人のように思われ、ある時には精選分裂のように思われ、ある時には奇人変人のように思われる世の中は、間違っております。これは三角形がひっくり返った世界であります。逆三角形の世界であります。三角形が逆転しているということをあなた方は教えていかねばならないのです。本来尊敬されるべき人が、一番軽視されているような世の中では困るのです。 昔、「哲学は、神学の婢(はしため)」という言葉があったとわたくしは聴いております。それは、哲学者達よりも神学者、神の道を説く人たちが上だという意味であります。これは昔の諺として残っているのでありますが、その真実の意味をわかっている人は少ないのです。それはこういうことなのです。神の世界においては、まず神のお考えを、神のお心を自分の言葉でお伝えすることができる人が、一番神に近いところに居るのであります。これが如来や、菩薩といわれる方がたであります。 ところが、哲学者といわれる方がたは、これは知恵の力、心裡の力、或は知識の力をもってこの世の中を解明していこうといわれる方がたですが、哲学者といわれる方がた、或は他の科学者でも結構ですが、こういった方がたの中でも善なる方がたは、いわば神界(六次元)の人々なのです。神の世界においては、神の言葉を伝える人の方が、知識を総動員して世界を解明する人よりも上にあるのです。これは確かなことです。けれどもこの世の中においては必ずしもそうではありません。これも何が素晴らしいかということが、必ずしも人々に分っていないことなのです。知識偏重という言葉がありますけれども、知識の上に”愛”があり、”慈悲”があるということが分っていないのです。 知力ということは素晴らしいことです。人が世に立って何かをなすためには、知識、知力というものが必要です。今の時代においては知識と知力というものがなかったら、ひとかどの人間として世を渡っていくことはできません。けれどもこれは最高のものではないのです。試験で一番よかった人が一番偉いのではないのです。本当はそうではないのです。知力というものは人間が世の中の役に立つために有用性を図るための一つの物差しであって、そのような有用性、或は実用性と申しましょうか、実用性でもって人間は量られてはいけないのです。役に立つ人間が一番偉い人間であってはいけないのです。役に立つ人間のもっと上に優れた人間が居るのです。役に立つ人間の上に、人々を導く人が居るのです。愛に溢れた、慈悲に溢れた人がいるのです。神の心を伝える人々が居るのです。神の心を体現した人々がいるのです。”愛”は知に勝り、”慈悲”は知に勝り、神の光はすべてに”優先(まさる)”ということが人々に分られなければならないのです。 秩序を維持していくための指標としての礼節 秩序ということと、秩序の中においては、礼節ということもいま一つ考えていかなければいけないと思うのです。秩序は秩序としてありますが、これがすぐ乱れ、すぐに入れ変わるということであっては、本来の秩序ではないのです。 ですから価値基準としての秩序をわたくしは申しあげましたが、いま一つ、行動基準、秩序を維持していくための指標としての礼節ということが大切であるということを、説いて置きたいと思います。 今、「礼節」という言葉を用いると、それこそ中国の儒学、儒教という彼らの世界の話になってしまって、今の世の中では、時代遅れと言われると思うのです。けれども、秩序を維持していく原動力は礼節ということなのです。この礼節ということをいま少し掘り下げて考えてみて頂きたいと思うのです。これは仏教の中においても、キリスト教の中においても、十分には説いていない言葉です。礼節ということ、それは本来の神の秩序を守るための行動基準なのです。礼節ということをもっと深めて考えてみて下さい。 今の世の中を見てみると、どうでしょうか。例えば、”非行”の問題があると思います。或は”いじめ”の問題とか、或は世の中でのさまざまな暴力の問題、いろいろな乱れた職業も数多くあるということを私は知っております。そのようなさまざまな現象の基礎にあるものは何かと言えば、礼節の喪(うしな)われた世界だということです。 大人たちは昔のように、子供たちに礼儀を訓えなくなりました。礼儀を訓えず、守るべき節度というものは訓えなくなりました。このようなことを言えば、古い封建時代の遺物か何かのようにとられ、そういったことを教えるのは時代錯誤のように思われているのです。けれども、本当は幼少時から成人するまでの間に、礼儀、節度というものを教わった人間と、そうでない人間とは非常に開きがあります。甚しい違いがあるのです。人間には礼節が大事なのです。そして礼節を学ぶのは幼い頃からなのです。躾(しつけ)という言葉で表されてもいいかも知れません。礼節ということを知らないで育った人たちが、混乱した世の中を作っているのです。 自らの頭脳において、自らの心において、本来の神の世界を感じとるまでには、人間は時間がかかるのです。大人になり年をとってからある意味で悟ることもあるでありましょうけれども、子供の時代には悟ることは無理であります。悟ることができない子供達に対しては、大人達が礼節ということを、もっともっと教えてやるべきです。これは強調されねばならぬことです。古いことでもなんでもないのです。神の教えは、神の光は、神の導きは、いつの時代においても同じなのです。この世界において、古い新しいということはないのです。ですから、秩序と、秩序を守るための方法としての礼節というものをもっと考えて頂きたいのです。 家庭に信仰をとり戻して欲しい 日本神道系の教えの中心となっているのが”秩序”であり、”礼節”であるということです。ですからわれわれは、どちらかというと、形というものを重視して来たのです。形というものが守られるということによって、人々の中に宗教心が芽生えるということを重視して来たのです。 神道においては、教会、寺院に当たるものがそれぞれの家庭にあったのです。それぞれの家庭に神棚というものがあった筈です。今は廃れたはずですが、それぞれ家庭、親子の中において神社があったのです。これが神道なのです。それぞれの家庭において信仰というものを教えるのが中心であったのです。これがわたくしたちのやり方であったのです。 しかし、神棚も、家庭から消えている現在、何かをなさねばならなぬとわれわれも考えているのです。ですから、教会とか寺院において信仰がなされるのは、それは専門家による指導でありますが、本来の宗教、本来の信仰というものは、個人或は家庭といった、ささやかな集まりの中で信仰されるのが本来なのです。そういう特別な世界ではなくて、個人々々の日常生活の中で宗教心を持つのが大切なのであって、日曜日に教会に行って神様の話を聴くことが、それだけが本当の信仰ではないのです。 一人ひとりの個人が、神に祈り感謝しながら生きていくということは、これは非常に感謝すべきことではなかったでしょうか。ですから、あなた方はすぐ”正法”とか”神の法”とかいうと、何か大きなことを、教えを説いて、人々を教化し善導するというようなことを考えがちでありますけれども、必ずしもそういったものでもないのです。信仰は一人ひとりの心の中にあり、ささやかな家庭の中に、本来は属すべきものなのです。 ですから、われわれが今、あなた方を通して言って欲しいことも同じでことでありまして、家庭に信仰をとり戻して欲しいということであります。特殊な仏教の宗派に属したり、特殊なキリスト教系に属したり、特殊な新興宗教に属したら宗教活動ができると思っているのが風潮でありますが、信仰は本来個人なり家庭に属するものなのです。そえぞれの家庭において神を念じ、神を思い、神に感謝するような、そして毎日毎日の生活が送っていけるような、そういった生活こそが本当の素晴らしい生活なのです。 神と共に生きることが天国に住むための最低条件 先程、わたくしの申しましたことの真意は、誤解されないように、もう一言だけ重ねておきますと、いま教育というもの、学校教育というようなものが重視されているけれども、宗教的なものは学校教育にはもう頼れないようになっているということです。むしろ家庭における宗教教育というものが大切だという視点を、あなた方は忘れないで欲しいとわたくしは申しあげているのです。 あなた方の今の行動基準、指針の中には、家庭において宗教が大切だという視点は欠けていると思うのです。むずかしい教養とか、むずかしい体系、本を通じてのむずかしい体系を作って、それに関心のある方がたは信じてくるでありましょうが、必ずしもそういったものだけではないのです。一つひとつの家庭において宗教心をもって生きていくということは大切なことであり、そういったことが、この地上を去ってわれらの世界に来た時に大いに役立つのです。 日常生活を神と共に生きた人間であるならば、迷わず天上界に帰ってくるのでありますが、日常生活において神を考えたこともなくて生きている人間の多くが、過って地獄へ堕ちているのです。ですから生活の中に、神があるということが大切なことなのです。 こういった視点をどうか忘れずにいて頂きたいと思うのです。霊界(五次元)とか、そういった普通の人が行く天界においても、神への信仰ということが毎日々々行われているのです。それがすくなくとも彼らが霊界に居ることの最低必要条件なのです。日々の生活の中に、神を念うということが天国であるといわれる霊界に住むための最低条件なのです。神と共に生きることができない人間は、天国に居ることはできないのです。ですから生活の中に神仏があるといった、そういう視点をどうか忘れないで頂きたいのです。 宗教とは神と共に生活すること 法というものは、管理された、例えば「六法」とか、そういった法律のような”法”ではないのです。法とは、人間の数だけの法があるのです。千変万化、百人寄れば百人の方があり、千人寄れば千人の法があるのです。一億人寄れば一億人のための法があるのです。そしてあなたがたが解明しようとしている法も、世界の仕組みを明らかにし、時間の流れの中でどのように神の教えが説かれて来たかということを明らかにし、その中でどのように人びとが生きていくかということを明らかにしようとしているのです。エリートのための宗教ではないのです。それは後世に残すための知的産物、知的遺産としてのものは残さなければならないのですが、それだけではないのです。 わたくしの言っていることが分りませんか。あなた方も天上界の世界の仕組みについてもかなり理解された筈ですが、如来や菩薩の法だけが天上界の法ではないのです。霊界に住んでいる人達や、幽界に住んでいる人達、或は地獄界に居る人達への法も法なのです。 いま、わたくしは家庭内における信仰が必要だということを申しました。これは主として霊界に住んでいる方にとって大切なこと、そして人数においては非常に多い方になるのです。あなた方の現象世界においても、そういった方がたが数においては多いのです。ですから、むずかしいことを説くことも大切です。後世に残さねばなりません。これもあなた方の仕事です。けれども、あなた方の教えの中には、一人ひとりの家庭生活の中において信仰心を持っていくことも大切だといったような、非常に初歩的な教えもまたなければならないということなのです。いろいろな方が居るのです。少なくとも生活において、神を信じて生きている人達は地獄に堕ちることはないのです。そういった基本的なことが、まずできていないために世の中の混乱が起きるのです。 その上の段階として、菩薩の法があり、如来の法があるのです。或は予言、さまざまな予言もあるでしょう。これはその上の次元です。こういったことも知らさねばならぬ人々は居るのです。知るべき人達が居るのです。その人達には残さねばなりません。けれどももっと原始にかえって、もっと原点にかえって、宗教というものは何かということを考えてみたなら、宗教とは神と共に生活することなのです。ただそれだけなのです。 今の世の中に生きている大部分の人達には、神がないのです。毎日の生活において神がないのです。自分しかないのです。自分が満足するかしないか、自分が嬉しいか、嬉しくないかということしかないのです。神と共にないのです。ですから宗教そのものは、神と共に日々歩むということです。この視点は決して忘れてはなりません。 高次元の法を説くことも大事だけれども、それだけでは人は救えないのです。神と共に生きるということがあってはじめて、その次に知的な努力として、天上界の仕組みを知るという更に一層進んだ学習があるのです。 ですから、一万人の人に対しては、たとえば八次元、九次元といった構造論をといていいかも知れません。けれども百万人に対して説くのであるなれば、日々を神と共に歩みなさい――。宗教心、信仰心をもって日々生活しなさい――、ということも大切だということです。 法にはさまざまな、プリズムのような光があるのです。さまざまな教え方があるのです。無限大に広いものです。神の教えは、神の世界から、この三次元、二次元、一次元をも包摂するものなのです。
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目次 1.この百年を振り返る 2.私たちの霊界通信は、全世界に広がってゆく 3.二十一世紀の霊文明をつくるため、今後、花壇のごとく宗教の花が咲こう 4.あなた方は、向日葵のような大輪の花を咲かせなさい 5.第一の警鐘 ― 霊的世紀の出現 6.第二の警鐘 ― 今後二十年間の世界的戦乱 7.第三の警鐘 ― 結婚制度の危機 8.新しき時代に、新たな結婚観の確立が必要である 9.イエスが、もし結婚していたならば、ペテロの立場に立ったかもしれない 10.第四の警鐘 ― 日本一の秀才が心の教えを説く時代の到来 11.第五の警鐘 ― 政党制度の崩壊と宗教政治家の出現 12.今後、宗教政治家たちが時代の主流を成していくようになる (一九八六年十二月十七日の霊示) 1.この百年を振り返る 今日は第5章ということで、「新しき時代への警鐘」というテーマで、お話をしたいと思います。今、まさに時代は、二十世紀がまもなく終わらんとしています。私が霊言をしている今日は、一九八六年十二月の十七日ですが、まもなく一九八七年になり、そして、すぐに一九九〇年、二〇〇〇年となっていきます。私の書物を読む読者の多くは、おそらく二〇〇〇年という二十一世紀への扉を開ける音を聞くことになるであろうと思います。 多くの人たちは、二〇〇〇年以降、二十一世紀にどのような世界が開けていくかということに対して、ひとつの不安と、ひとつの希望を抱いていることでしょう。だれもが、まだ経験したことのない世界ですから、そういう気持ちを持つのはあたりまえだと言えます。 二十世紀という時代は、目まぐるしく移り変わってきました。たとえば、今世紀のはじめには、飛行機といっても、まだ、プロペラをつけたグライダーのようなものが飛んでいたにすぎません。そんな時代であって、まあ、ある意味では平和な時代であったと思います。それがいつしか、超音速のジェット旅客機が飛び、月へ、また、他の星へと人類が旅行する時代となった。一方では、コンピューターが花盛りの世界です。あるいはまた、戦争ということを例にとっても、かつてなかったような潜水艦のなかにミサイルが埋め込まれて、全世界を航行しています。地球の周りは人工衛星が飛び交っている。その数がいくつかも知れないという。こういう時代なのです。 この百年間には、こうした時代的風景、背景があります。ですから、この百年間の移り変わりの激しさを見れば、今後の百年に一体どのような世界が開けてくるか。まさに、人びとの想像を絶するものがあろうと思います。しかし、私の書物の読者となる皆さんの子供たち、孫たちは、必ず、そうした時代に突入していくのです。 さて、一八八六年という百年前を振り返って見るならば、どういう時代であったでしょうか。日本では、明治 ― 明治も半ばになっていたでしょうか。大日本帝国憲法が発布されて、内閣制度が発足した頃であっただろうと思います。明治天皇の名のもとに、日本国民が古い封建制を脱して、新たな時代を築いていこうとする、そういう時代でありました。一方、アメリカでは、その二十年前には、南北戦争が終わり、平和な合衆国づくりということで、人びとが力をあわせていった頃でありましょう。 また、ちょうど百年前頃というのは、近代のスピリチャリズム、心霊主義というものが、かなり出てきた頃でもあります。すなわち、さまざまな形での霊界通信のようなものが、アメリカ、あるいは、イギリスなどで行なわれはじめ、そうしたことが、ジワジワと人びとの間に知られはじめました。そこで、近代科学の台頭と時期を同じくして、スピリチャリズム、心霊主義が芽を出してきたという、その奇妙な一致というものに、人びとは目を向けねばならぬと思います。 2.私たちの霊界通信は、全世界に広がってゆく かつて、外国でもたくさんの諸霊たちが通信を送って、それが、現代の日本にも翻訳によって伝えられてきてはおります。現在、日本で、さまざまな形で伝えられている霊界通信の仕事というものは、やがて全世界に広がっていくでありましょう。それはすなわち、二十世紀の後半の日本というものが、世界の霊的磁場の核となっていくからだと言えます。中核だからです。こういう中核のところに、中核の時代に、まさしく私たちが、たたみかけるような形で通信を送っているわけです。 現代の人びとは、まだこの通信の意味をほんとうには理解していないでしょう。単にあの世という世界があって、そういう世界から、こういう世界があるんだよということを、生きている人たちに伝えているだけのように感じるかもしれません。しかし、この時代に私たちが送り続けているメッセージは、そうした現代というような時代を通り越して、五百年後、千年後、二千年後の人びとに対するメッセージでもあるわけです。 私たちの仕事は、やはり現代という時代を無視しては進むことはできないのです。現代及び、ここ十年、二十年という近い未来の人びとをまず救えなくて、千年後、二千年後の人びとだけを救うということは、あり得ません。現代において埋もれてしまう仕事が、後の世の人びとに残ることはないのです。 イエス・キリストのように、マイクもなく、テープレコーダーもなく、テレビもなく、印刷技術もない時代に神理を説いた人間の言葉が、二千年後も残っております。まして、あなた方は、このような印刷時代に生まれ、マイクも、テープもあり、さまざまな形で後の世に残せるような現代に生きているのです。ですから、私たちの教えというものも、いろいろな形になって、かつてなかったような正確な形でもって、後世の人びとに残されていくはずだと、私は信じております。 さて、そうした視点に立って、今、霊天上界にある内村鑑三が、地上の皆様にお伝えせねばならぬこととは、一体何でありましょうか。私は今日、この新しい時代への警鐘ということに関して、五つの柱を立てて、お話をしたいと思います。これから順番に、その五つについて述べていこうと思います。 3.二十一世紀の霊文明をつくるため、今後、花壇のごとく宗教の花が咲こう まず、新しき時代への警鐘の第一番目の柱となるものについて、お話しましょう。先ほど、私が簡単に述べたこととも関係しますけれども、これからの二十一世紀は、まさしく霊文明の時代となるということです。ちょうど昭和六十一年の現代日本を見ると、マスコミのなかで、さまざまな霊的なことがらが取沙汰されていることもあり、静かに霊界ブームが起きつつあると言えます。 いろいろな出版社から、「霊」に関してたくさんの出版物が出されています。ところが、人びとは、まだそのほんとうの意味を知りません。あなた方、神理伝道の旗手である皆さんでさえ、さまざまな人たちが、いろいろな霊現象、霊的なことを書き、それが確かなブームを起こしているということを、まるでよそごとか何かのように見ているようです。しかし、これは、決してよそごとではないのです。 ある人が以前にたとえ話をしたようですけれども、ひとつの時代というものは、たとえて言えば、大きなひとつの「花壇」のようなものだと言えます。ひとつの時代をつくるためには、花一輪ではつくりえないのです。 花壇をつくるためには、いくら素晴らしい花があったとしても、それ一輪だけでは花壇になりません。花壇は、いろいろな種類の花がたくさん寄せ集まってはじめて、できるのです。コスモスの花もあれば、芍薬(しゃくやく)の花もある。鳳仙花(ほうせんか)があれば、蒲公英(たんぽぽ)もある。向日葵(ひまわり)もあり、董(すみれ)もあり、たくさんの花が集まってはじめて、花壇になるのです。花壇として、ひとつのまとまりというものができていくのです。 時代をつくるということも、花壇と同じです。現代という時代、これからの未来、すなわち、ニ十一世紀をつくっていくにあたり、その時代環境をつくりあげるために、さまざまな花が必要となります。そのなかには、花でない雑草も咲きましょう。このように霊文明がだんだん発展してきている時代であるならば、花ではない雑草や毒草も混じるのはあたりまえです。すでに、そうした雑草や毒草が咲きはじめているとも言えます。 しかし、あなた方は、そうした毒草を、善悪の「悪」として、決めつける必要はありません。むしろ、そうした雑草たちは、あなた方の花がほんとうに素晴らしいものであることを証明するために出ている反面教師だと思うべきなのです。 すべての人が霊的なことを語って、それがすべて正しいことで百人百様であったならば、人びとは、何がほんとうで、何がちがうのかがわかりません。何がいちばん高くて、何が高くないのかもわかりません。すなわち、そのために、雑草や毒草があるのです。非常に偉大な芸術として、時代をつくる芸術として、さまざまな工夫が凝(こ)らされているのです。 ですから、雑草も生(は)えましょう。毒草も生えましょう。しかし、そうしたものは、ひと夏過ぎれば、やがては、枯れていくのです。神様というものは、花壇に雑草が咲いたからといって、それをすぐ取り除こうとはされません。それでもやはり、雑草は、やがて枯れていくでしょう。それを、神様は、見ておられるようです。あなた方の花が、たとえば、向日葵のようにニメートル、三メートルにもなるような偉大な花であるならば、雑草のことを気にしなくても、きっとあなた方は立派にやっていけるはずです。 4.あなた方は、向日葵のような大輪の花を咲かせなさい ですから、今の時代環境というものを眺めた場合に、雑草とか、毒草にとらわれずに、大切なのは、向日葵(ひまわり)のような大輪の花を咲かせることです。あなた方には、そのために、注力してほしいと思うのです。丈が三メートルもある向日葵。その直径が三十センチもあるような大きな向日葵の花を咲かせてごらんなさい。どこから見たって、見えます。人びとが、その向日葵を見たときに、その下に生えている小さな雑草のことなどを気にするでしょうか。気にしないはずです。まさしく、そういうことでいいと思います。 現代のこうした時代のなかには、まちがった宗教が百花繚乱のごとく蔓(はびこ)っているようです。あなた方からすれば、なぜ、そうしたまちがった宗教が、何十万人もの会員を集めたり、場合によっては、何百万人もの会員を集めるのか、不思議でしかたがないと思います。しかし、それとて、ある意味では、あなた方を目立たせるために仕組まれたことでもあるのです。すなわち、雑草の生い茂っているなかに、しきりに大きな向日葵が咲くからこそ、人びとは、時代を突出したあなた方の教えの大きさというものがわかってくるのです。そういうことなのです。ですから、悪しき宗教が蔓(はびこ)ってはいても、彼らは彼らなりに、反面教師として、時代をつくっているのだということを忘れてはいけません。 雑草が生い茂るというのは、だいたいが夏なんです。夏を示している。冬には、雑草は生えません。もちろん、いい花も咲きません。夏には、素晴らしい花が咲きますけれども、同時に雑草も蔓るのです。そこで雑草、雑草ということにとらわれずに、ひとつの夏という情景をかもし出すために雑草もまた、生えているのだと考えてごらんなさい。コオロギが鳴きはじめる頃になれば、やがて陰を潜めていくはずです。 5.第一の警鐘 ― 霊的世紀の出現 これからの日本を見るに、今後百年間、宗教ブームの心霊の時代、霊的な時代というものが開けてきます。かつてなかった規模で、かつてなかった質で、霊的時代が幕を開けてくるはずです。新しい時代への第一の警鐘ということで、そのことを預言しておきます。そうしたなかで、人びとは、一時期、混乱をするでしょう。真実の教えと、そうでない教え。そのどちらにつくかということで、混乱するはずです。すなわち、あなた方が説いていく教えと、ほかの新興宗教が説いている教えのなかにちがいがあるため、どちらが正しく、どちらに付くべきかがわからなくなることもあるでしょう。 しかし、恐れることはないのです。向日葵のように、どんどん背を高くしていきなさい。そうすれば、どこから見てもわかるような、あなた方の教えとなっていくはずです。雑草と同じくらいの背丈であればこそ彼らがいると困るのです。ですから、そうではなくて、雑草にとらわれずに、もっともっと大きく伸びていくことです。それが大事です。 6.第二の警鐘 ― 今後二十年間の世界的戦乱 第二番目の警鐘です。今の霊的な時代ということとは裏腹に、とくにこれからの二十年間ぐらいの世界というものは、全世界的に戦乱の渦のなかに巻き込まれていくでありましょう。この戦乱の背後にあるのは、もちろん、米ソという二大強大帝国、こういった二大の勢力が背後にあります。しかし、主としてこの大きな勢力ということ以外に、思想、信仰、宗教、イデオロギー、こうしたもののちがいというものが、徹底的に争われる時代が、これからやって来るでありましょう。そして、宗教というものを中心として、ひとつの坩堝(るつぼ)のような現象、時代現象というものが起きると思います。 これから、二十年間、全世界にさまざまな戦乱が起きていくわけですが、その背後には、必す宗教があります。はっきりとした争乱が起きるのは、まず中近東です。ここには、現在マホメットの教えがありますが、すでに、さまざまにその教えが、形骸化しておかしくなってきています。この中近東あたりで争乱が起き、また、キリスト教国と共産王義国、唯物論の国との間に争乱が起きていくでしょう。このように、宗教というものをひとつの基点として、大きな混乱が起きていくはずです。 しかし、私は、世の人びとに知ってほしい。そうした争乱を見て、人びとは、宗教とは何と恐ろしいものだろうと深く胸に刻むことになりましょう。しかし、これは、宗教の怖さを知らしめるために、そうした戦争が起きていくのではないのです。 すなわち、そうした時代の坩堝のなかに、宗教というものを投げ込むことによって、やがて精錬した素晴らしい金属というものを取り出すために、純金を取り出すために、坩堝のなかにいろいろな宗教が投げ込まれるのです。そのことを、あなた方に知っておいてもらいたいのです。 今、私たちの世界から霊的な目でもって、この地上を見ると、大きな、大きな神の坩堝というのが見えます。直径が何百キロも、何千キロもあるような大きな坩堝。霊的な坩堝が見えます。その下に、たくさんの薪がくべられています。神の使いがそこへ行って、ふいごで、一生懸命息を吹きかけて、火を燃やしています。そして、この坩堝のなかに、やがてさまざまな宗教が投げ込まれていきます。回教、つまり、マホメット教もある。かつての仏教も投げ込まれています。ユダヤ教も、儒教も、すべて投げ込まれていきます。それから、ここ百年ぐらいに起きた、いろいろな新興宗教も、すべてこの坩堝のなかに投げ込まれていくんです。 なぜ、そんなことをするのか。もろもろの金属は融けて流れてしまっても、純金だけは残るからです。すなわち、純金を残すために、今、こうした宗教の坩堝のなかに神様が投げ込もうとしているのです。 ですから、今後二十年近く、宗教を基点として、世の中にさまざまな争乱というものが起きていきます。けれども、この争乱ということを、あまり重視してはいけません。これは今、坩堝のなかで、グツグツと煮られて、真なるもののみが残るように、今、焚きしめられている、煮込められているのだと、こう考えねばなりません。これが、私の二番目の警鐘であります。 7.第三の警鐘 ― 結婚制度の危機 三番目の警鐘です。これからの時代というものは、男女のモラルというものを、もう一度取り戻す時代がやってきます。 今、日本でもそうでありますが、とくにアメリカのような、自由の国でもそうです。男女のモラルというものが、非常に失われて、性道徳の乱れがあります。それだけではなく、健全な家族生活を送っていくということでさえ、むずかしくなってきています。結婚したカップルの二組に一組は離婚するとも言われています。 いろんな人が離婚し、そしてまた、再婚する。くっつき、離れ、さまざまなことをしています。これは自由主義の国アメリカだけにかぎらず、日本はもちろんのこと、広く世界各国に見られてきた現象です。無神論者の国ソヴィエト連邦においても、やはり離婚の率は急増しています。 また、日本においても、私が、最近聞いたところによると、五組に一組ぐらいが、カップルを解消すると言います。いずれアメリカのようになっていくとすれば、西暦二千年頃には、二組に一組ぐらいが、家庭生活が崩壊していくような形になっていくのではないかと思います。 こうした背景を考えるに、結婚ということの持つ聖なる意味、そういうものが失われてきたからだと言えましょう。どこの民族でも、結婚に際しては、神仏、あるいは、神の前で、誓いあうという儀式が残っております。ところが、信仰心が根こそぎに揺すぶられているわけですから、こうした神の前で誓うということが意味をなさなくなってきているわけです。 ところで、新約聖書のなかで、イエス様は、一体どう言っているのかを、人びとは知っているのでしょうか。「神があわしたものは、何人(なんぴと)も、これをひき裂いてはならぬ」と、こういうことを、イエス様は言っておられます。つまり、結婚というものは、生まれてくる以前から決められているものであって、共に魂の半身なのだ、片割れなのだという考えですね。こういう考えがあったわけです。 ところが、人間は、そうした神聖なものの考えというのを忘れてしまった。この世で受けた教育とか、いろんな食生活とか、家庭環境に流されてしまったために、自分の本来の魂の片割れというものと一緒に生活することが、だんだんにできなくなってきた。相手を単なる物質的のものと見るようになって、自分の欲望の対象としてしか見なくなってきている。つまり、人間は、獣的なるものへと堕落しているということですね。こうした現象を見ている神様が、神の似姿としてつくられた人間が、獣のようになっていることを喜ばれるはずはないのです。 ですから、今のままでいくと、二十一世紀には、結婚制度そのものの存続というものが危ぶまれるでしょう。これは、どういうことかと言うと、すなわち、健全なる子孫の繁栄ということが危ぶまれるということです。 すなわち、子供というものは、健全な両親による家庭環境があってはじめて、満足に育っていくものなのです。それなくして、子供の未来、将来というものはないのです。私たちは子孫が繁栄していくことを祈って、この地上に文明、文化を営んでおるのです。ところが、子孫が先細りになっていくのなら、何のために鋭意努力しているのか、これがわからなくなってくるのです。 8.新しき時代に、新たな結婚観の確立が必要である これからの新しき時代においては、結婚というものが、もう一度、神聖なる意味を持つようになってくるでしょう。結婚の持つ神聖な意味での、その意味づけをするのは、まさしく新しい時代の精神主義運動であり、ひとつの宗教革新であろうと思います。すなわち、それは、新たな結婚観の確立であり、提唱であろうと思うのです。 結婚し、夫婦となり、子供を持ち、家庭をつくっていく。これは、どういうことかというと、ひとつの小さなユートピアをつくっていくという考えであると思います。夫婦相和し、子供と一緒に素晴らしい家庭をつくるということは、万人が持っているユートピア建設への義務なのです。 地上の人たちは、概して、結婚というのを権利だと考えがちです。しかし、結婚し、家庭を持って、そのなかで素晴らしい繁栄をつくっていく。これは、権利ではなくて、義務なのです。人間としての義務なのです。家庭が調和されなければ、社会というものは調和されていきません。その意味からも、結婚ということは、ユートピアづくりのための大事な礎石であり、基礎石なのです。土台づくりなのです。こうした観点から、説いていかなければならないと思います。 もうひとつ、今のことに関連して述べるとするならば、今後の時代においては、夫婦の離婚もずいぶん多くなるでしょうが、それ以外にも、独身者の増加というものが予想されます。 元来、独身者というものは、二つに分類できたと言えます。ひとつは、まあ、はっきり言って、相手の異性から結婚の対象として見られないような、そうした男女の存在が一部にはあった。たとえば、生まれもっての不具であるとか、どこかに肉体的な欠陥があるとか、そういうこともあったでしょうが、こうした流れがひとつです。もうひとつの結婚しない流れとは、神理に一身を投げ出す人たちの流れだと思うのですね。こうした流れがあったと思います。 9.イエスが、もし結婚していたならば、ペテロの立場に立ったかもしれない たとえぱ、イエス・キリストは、独身で一生を送りました。そして、三十三歳で亡くなっかこと、十字架で亡くなったことは、皆さんご存知のとおりです。しかし、今、私が言ったように結婚というのは、ユートピアづくりの一歩なのだとすると、イエスはなぜ結婚しないのか、結婚すればよかったではないか、と。まあ、こうした疑問を持つ方がいるでしょう。日本で言えば、ほとんどの人は、二十七、八歳で結婚します。では、あの当時、イエスが、二十八歳で結婚していたとしましょう。しかし、彼は、三十三歳で亡くなった。この五年間、イエスが家庭生活を送ったことによって、人類は、一体どれだけの利益を、どれだけの恩恵を受けたであろうか。この点をよく考えていただきたいのです。 イエスが五年間、二十八から三十三歳までのわずか五年間、世間の常識に従って結婚していたら、どうなったかを、仮定して考えていただきたい。五年間生活をしていれば子供の二人も生まれたでしょう。イエスは、父親となるわけです。父親となれば、どうなるかということです。子供たちを養わねばならない。また、妻を食べさせていかねばならない。そのためには、当然、経済的な自立が必要です。もちろん、家も持たねばならない。家族と共に生活もしなければならない。はたして、これで人類は幸せであったかどうかです。 イエスが家庭を持っていたとすれば、彼は、十字架にかかるわけにはいかないから、この世と妥協したかもしれない。だから、「あなたは、ユダヤ人の王であるか、あなたは預言されているキリストであるか」と言われたとき、イエスは、「いや、そうした者ではありません。私はそうではなくて、単に人びとに、自分の思ったことを教えているだけです。単なるひとりの一教師です」と言っていたかもしれません。そして、もしイエスが、そういう生き方をしていたとしたら、これはどうでしょうかね。いわゆるペテロの立場に、イエス・キリストが立つことになるかもしれない。 ペテロという人が、師が最後に十字架にかかる前に、捕まりました。そのときに、十二弟子は、蜘蛛の子を散らすように逃げました。しかし、いったん逃げたペテロは、やはり心が痛んで、キリストが捕われているピラトの官廷へと忍び込んでいきます。ペテロが、篝火(かがりび)を浴(あ)びて様子を見ているときに、ペテロを見たことがある人は、「お前は、あの人と一緒にいた。イエスと一緒にいた人だ」と詰めよった。しかし、ペテロは、「イエスなど知らない」と言った。三度まで、「知らない」と言ったのです。 実は、イエスは、そのことを事前に、預言していたのです。「ペテロよ、お前は、鶏(にわとり)が二度、ときを告げる前に、三度、私のことを知らぬと言うであろう」と。イエスは、そう預言していた。しかし、ペテロは、「先生、たとえだれか他の人が、あなたを裏切ることがあっても、私には、絶対、そうしたことはあり得ません。一命を投げ捨てても、そんなことはあり得ません」と言い切っていたのです。ところが、ペテロは、やはり鶏が、ときの声を告げる前に、三度、イエスを知らぬと言った。 ペテロは、後になって、そのことで、後悔の涙を流した。実在界に還って来てからも、ペテ口は、主を知らぬと言った自分の不信仰を、ずいぶん長い間、悔いておりました。何で、あんな馬鹿のことをして、歴史に汚名を残したのか、と。ペテロよ汝、呪われん。主を知らぬと言って、自分の生命が、わずか助かるぐらいであるならば、あのとき、ひと思いに捕まって、イエスと共に十字架にかかって死ねばよかった。さずれば、我が名は、永遠に汚れることはなかったのに」と、ペテロは、私たちの世界に還ってから、ずいぶん後悔しました。 「主よ、だれがあなたを裏切ろうとも、私は絶対あなたについて行きます。あなたを裏切りません。あなたの盾となって、あなたを守ります」と言い張ったペテロが、たかだか人びとに、「お前は、あの人と一緒にいた」と言われて、舌の根も乾かぬうちに、「そんな人は知らん」と否定してしまった。そうした人間、肉を持った人間としての弱さを、ペテロは持っていたのです。 しかし、イエスといえども、もし家庭を持ったならば、そのペテロと同じことを、あるいはやったのではないか。そういうことも、考えられるわけです。ところが、イエスは、妻と子供、三人を救う代わりに、全人類を救ったわけです。すなわち、神仏の道に仕える者というのは、独身者であるということが、またひとつの、これは十字架であるのです。独身者であったがために、一身を投げ捨てることになる場合もある。そういう意味で、いつの時代にも、こうしたものはなくならなかった。仏教においても、独身の僧侶がいたし、クリスチャンにおいても、牧師は、そういう人が多かった。あるいはシスターあり、あるいは、尼さんありということであったと思います。いつの時代にも、一定の、こういう人たちがいたことも、また、事実です。 そして、そういう人たちがいることによって、この時代というものが、どこかでバランスがとれているのですね。この世的な人ばかりいる以外に、そうした人里離れたところで、瞑想と祈りの生活をしている人たちがいるということによって、時代が支えられているのです。 ただ、今後予定されている独身者の群れというものは、おそらく性的な楽しみということを結婚を通さずしても得ることができるがために、結婚しないという人たちが増えていくのだと思います。しかし、こうした人たちに対して、結婚の素晴らしさということを説く必要というものが出てくるだろうと思います。これが三つ目の私の預言です。 10.第四の警鐘 ― 日本一の秀才が心の教えを説く時代の到来 四番目の警鐘としてあげたいのは、社会的な制度の変革です。これからの時代において、宗教家のみとは言いませんが、人を導く人たちの地位が、だんだんに向上していくでしょう。今の世の中では、高級官僚、政治家、医者、裁判官といった職業を持つ人びとが、社会的地位があると言われています。実際、そうした人たちは、尊敬を集めています。 しかし、これからの時代には、人びとを導く、心の教えをする人たちが、最高に尊敬される時代となってくるはずです。現在は、まだ、宗教家というと、何か変な目で見られる。新興宗教の教祖というと、変な目で見られる。 こういう時代ですけれども、これからやってくる時代は、そうではない。人びとに、あの世のことを教え、生きる道を教える人たちがほんとうに世の人びとの尊敬を受ける。そういう時代がやってまいります。 ここ数年、たとえば、日本というところを見れば、医者になりたいというひとつのブームがありました。医者になりたい、医者になりたいということで、医者のブームがあって、それで医師の数を増やさねばならなかった。そのために、医者がだんだん過剰になってきて、今や、医師の数を滅らさねばならぬというようなことが検討されているほどです。 そこで、今度は、宗教家になりたい人が増え、それがブームになってくるでしょう。それも、ここ数十年の間に、そういうブームが起きるはずです。 宗教家になりたがる。これは、ある意味では、昔でいうところの出家者ですね。家を捨てて、出家するという形はとらないにしても、宗教で道を歩んでいこう、生計を立てていこうとする人が、今後、つぎつぎに増えてきます。ある意味では、それはありがたいことでありますが、ある意味では、危険なことだとも言えます。 しかし、職業としての宗教家というものが、非常に尊ばれる、貴(たっと)ばれる時代がやってきます。かつて、医者のブームがあったように、我も、我もと宗教家になりがる人が出て来る。現在のあやしげな宗教がいろいろとあるだけではなくて、職業としての宗教家を目指す人が出て来る、数多く出て来る。こういう時代になるでしょう。こういうことが予想されます。 こうしたことも、正しい方向に導くことさえ忘れなければ、大変にありがたいことです。互いに競いあって、そのなかから優れた宗教指導者が出ることは、ありがたいことだし、この世の中に生まれて来た人のなかでも、能力があり、優秀な方がたが神の道を求めるということは、立派なことです。 今までの時代を振り返って見るに、優秀な人が憎侶になったり、優秀な人が牧師になったりということは、数少なかったと言えます。しかし、これからの時代においては、優秀な牧師、優秀な憎侶がつぎつぎに出て来るはずです。これは、ひとつの夜明けであり、ひとつの素晴らしいことではあろうと思います。 今は、たとえば、日本一の秀才は、要するに、官僚になるか、政治家になるか、あるいは、医者になるか、そういうことを競っているようです。しかし、日本一の秀才が、ほんとうに人びとを導く心の教えを説くような、そういう時代が必ずくると思います。そして、あなた方が、まずその先駆けとなっていくでしょう。 ですから、あなた方の動きが、まずその先鞭をつけていくべきだと思います。これが四番目の警鐘です。 11.第五の警鐘 ― 政党制度の崩壊と宗教政治家の出現 新しき時代への警鐘の五番目とは何か。これが最後になりますけれども、何かと言うと、政党制度です。 現在の政治制度のなかには、政党制度というのがあります。日本にも、いろいろな政党がありますけれども、政党制度というのがそうです。こうした政党制度が、ここ二十年ぐらいで崩れていくだろうと思います。こういうアメリカ的な競争主義というのが、ついには、崩れていくはずです。 そして、どちらかというと、先ほど述べた宗数的な人たちがたくさん出て来て、むしろ宗教政治家が台頭してくるでしょう。その宗教政治家の台頭は、グループを組んでやるというよりも、そういう優れた人たちが輩出していって、これからの日本の時代というものをリードしていくようになるはずです。 とにかく、これからの出て来る人材、つまり、日本に出て来る逸材、優秀な人たちは、宗教政治家です。政治的能力を持ち、かつ宗数的神理を知っている人たちが、数多く出て来ます。 ですから、日本のこれからの時代においては、一種の哲人政治となっていくでしょう。すなわち、哲学者、哲人ですね。そういった人たちによる哲人政治というものが成されていくと思います。これは、かつてギリシャの時代に、今から二千数百年前になりますが、プラトンという哲学者によって構想されたことでもあります。プラトンは、哲人王による政治支配と、もっとも聡明な人による政治支配ということ、これが一番まちがいないと言いました。 当時においても、もちろん、民主制度はありました。しかし、プラトンは、そうしたものは、ある意味では、愚民政治であると言った。愚かな人たちが集まって話をするよりは、やはり賢明な人がひとり、指揮命令してやったほうがいいということを言ったわけですが、まさしく、そうした哲人王の政治、それが、今後、はじまっていきます。 長い時代の流れを見れば、哲人王の政治というものは何回もあったのですけれども、どれも長続きしなかったという欠点がありました。その結果として、民主主義制度というようなことが起きたのでしょう。 しかし、これからは、宗教政治家のなかに優れた人が出て来て、かなりの時代、それが続いていきます。そして、そうした彼らが、ほんとうに素晴らしい政治をしていくでしょう。また、実際、それが、ほんとうの意味でのもっとも効率のいい神理の伝道でもあるわけです。 現在、一国の政治の指導者、総理大臣になるには、要するに人気投票であって、得票を集めさえすればなれるといっても言いすぎではないでしょう。すなわち、組織力のある人が、そういうものになっていく。しかし、そうではなくて、ほんとうに神理を知っている人が一国の宰相となっていくべきなのです。そうすれば、世の中、日本全体は、必ず変わっていきます。このように、数多くの宗教政治家たちを輩出していく時代、それが二十世紀後半から二十一世紀にかけての日本を中心とした動きとなっていくと、私は思います。 12.今後、宗教政治家たちが時代の主流を成していくようになる こうしたスタイルが、やがては、諸外国にも及んでいくはずです。すなわち、諸外国にも、宗教政治家たちが、だんだんに出て来るでしょう。そして、これからの百年、二百年の間、それがひとつの時代の主流をなしていくようになるだろうと思います。賢人による政治ですね、これも大事なことなのです。 イエスの時代においても、地上の権力、「カイザルのものはカイザルに。神のものは神に」というように二分して考えたのです。ほんとうは、イエス・キリストのような人が、神の福音を述べながら、この地上を治めれば、それに優ることはないのです。ですから、そういう意味でも、宗教的な素質を持った人が、やがて政治家として立っていくようになるはずです。 あなた方も、やがて、そうした人たちが、マイクを手に、神理の演説をしながら、国政していく姿を見ていくでしょう。それか国単位の指導者でないとしても、地方自治体、県知事であるとか、そうした人たちのなかに、神理を悟った人が出ることによって、世の中は、必ず変わっていきます。世の中全体が変わっていきます。私は、そうしたことを新しい時代の警鐘とします。 新しい時代の警鐘として、五つあげたわけですが、これが、これからの時代であろうし、また、こういう時代がくるということに関して、私が鳴らし得る現時点での警鐘でもあります。
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GOD WARS ~時をこえて~ GOD WARS 日本神話大戦 機種:PS4,PSV,NS(日本神話大戦のみ) 作曲者:新田高史 開発元:角川ゲームス 発売元:角川ゲームス、ドラガミゲームス(2022年7月1日以降) 発売年:2017年6月22日、2018年6月14日(日本神話大戦) 概要 角川ゲームス開発の古代日本を舞台としたシミュレーションRPG。 2018年にいくつかの新要素を加えた『GOD WARS 日本神話大戦』が発売。 音楽は過去に角川ゲームスの『√Letter ルートレター』を担当した新田高史氏が全曲作曲。 オーケストラをベースに日本古来の楽器を織り交ぜた格調高いBGMが用意されている。 通常のサントラが発売されているほか、『日本神話大戦』の限定版にもサントラが付属されている。 主題歌の「時をこえて」は限定版のサントラのみ収録。通常のサントラはインストVer.のみ。 収録曲(サウンドトラック順) 曲名 作・編曲者 補足 順位 神々の源流 新田高史 竹笛 メインテーマ タイトル画面 ワールドマップ ワールドマップ(日蝕) よろずや屋 やしろ カグヤのテーマ サクヤのテーマ ツクヨミのテーマ オオクニヌシのテーマ モモタロウのテーマ ウラシマのテーマ 佐賀の踊り巫女 混迷 緊迫 葛藤 鳴動 戦闘 勝利 戦闘結果 祟り神 ヤマタノオロチ 祟り神ツクヨミ 黄泉比良坂 決戦モモタロウ 黄泉の女王 最後の戦い 母と別れ 限定版サントラのみ収録 富士の乙女たち ヒミコ誕生 時をこえて エンディングテーマ 歌:坂本冬美限定版サントラのみ収録 GOD WARS 日本神話大戦追加曲 黄泉の迷宮 新田高史 迷宮の戦い 最奥にて 時をこえて(オリヒメ ver.) 「黄泉の迷宮」エンディングテーマ 歌:芹澤優限定版サントラのみ収録 サウンドトラック GOD WARS 日本神話大戦 器楽音楽集 GOD WARS 日本神話大戦 数量限定版「豪華玉手箱」 サントラが付属 PV(サントラ)
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日本神話 アマテラスオオミカミ(Amaterasu Omikami) 日本神話に出てくる太陽の女神。 父イザナギの尊が黄泉の国から帰って来て川で禊をしていたところ生まれた三貴子の一人。 大ヒルメムチとも呼ばれる。 参考文献 西亀正夫『神代と上古』 ヨウネン社『神代の日本』 菅野正照『皇道教話』 北垣恭次郎『国史美談.上巻』 中山栄作『国史の光.上』 武田祐吉『古事記』 鈴木三重吉『古事記物語』 次田潤『上代文学選集』 藤田淳『少年少女日本建国物語』 巌谷小波/福田琴月『少年日本歴史.第一編 古代の卷』 補助教育研究会『少年歴史物語. 1』 中西芳朗『神話美談』 高木敏雄『日本建国神話』 菊池寛『日本建国物語』 水谷まさる『日本国史 童話』 渋川玄耳『日本神典古事記噺』 大木雄二『日本神話』 藤沢衛彦『日本神話と伝説』 高木敏雄『日本神話物語』 渋川玄耳『日本の神様 古事記絵ばなし』 上田万年『日本歴史画譚』 雄浦小史『日本歴史百話』 南陽山人『歴史のはなし.神代の巻』 中村徳五郎『我等の祖先』
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すでにあちこちで出ている話題とは思うが、 日本列島の形状と地球上の主な大陸はなぜこんなにも似ているんだろうか。 ユーラシアは本州 ヨーロッパは中国地方 オーストラリアは四国 アフリカは九州 朝鮮半島は房総半島 アラビア半島は紀伊半島 スカンジナビア半島は能登半島(方向は逆だが) ノバヤゼムリャは佐渡島 北アメリカは北海道(これはちょっと苦しいか) 大陸移動説をしんじるなら(信じているが)、 たまたま現在という一時期にそういう偶然が起こったということなんだろうが。 それにしても、四国とオーストラリアは似すぎ。 2ちゃんねる国際情勢板のスレッド「日本地図と世界地図は似ていないか。」のまとめwikiです。 現行本スレ 【国際情勢】 日本地図と世界地図は似ていないか。part2 http //society6.2ch.net/test/read.cgi/kokusai/1211958466/ その他現行スレ 【地理・人類学】 日本地図と世界地図の類似性 http //academy6.2ch.net/test/read.cgi/geo/1179578301/ 現行関連スレ 【民族・神話学】 【先祖は】日本とユダヤの共通点【ユダヤ】 http //academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1154159177/ 日本神話と聖書の類似 http //academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1182341478/ 日本神話とギリシャ神話の共通性について語るスレ http //academy6.2ch.net/test/read.cgi/min/1015782896/ 過去スレはこちら -
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目次 1.人類救済の仕事には、その終りがない 2.「生長の家」の諸君よ、寛容の精神を忘れるな 3.「自らに厳しく」は宗教家特有の義務 4.万教帰一理論の真髄 5.人類幸福化運動として、現代に現われたる仏教の精神 6.自己犠牲の精神と自己処罰の観念 7.神の子の実相を知ることが小乗であり、万教帰一の思想が大乗である 8.宗教家たちよ、お互いに手を取り合ってユートピアを築け (1987年6月29日の霊示) 1.人類救済の仕事には、その終りがない 谷口雅春です。先般、私の霊言集の第一集として、「如来界から生命の実相を語る」(土屋書店)とサブタイトルを施(ほどこ)し、この世に霊言を送ったことは、すでに多くの皆さんがご記憶のとおりです。 この第一集を世に問うて以来、各方面から、さまざまな反響や、問い合わせが殺到しているとのことであります。また、「生長の家」の信徒からも、谷口雅春に重ねて聞きたいという声が多数寄せられている事実を知って、日本全国の読者の反響にお応えするためにも、再び私の言葉を世に問いたいと思うのであります。 帰天二年余りの谷口雅春が、今なお地上の人びとに言葉を伝えたいと思っているということを不審に思われるかもしれませんが、私自身の基本的な考えは、人類救済という偉大な使命に関しては、決してその仕事に終りがないということであります。たとえ肉体を持って地上におろうとも、肉体を去ってあの世、すなわち、実在の世界に還ったとしても、我らが使命は、一向に変わらぬものであります。 すなわち、生あるかぎり、永遠の生命があるかぎり、我らは人びとの幸福のために、また、我らと言わず谷口雅春は、世の人びとの幸福のために、休むことなく日々精進し、活動をしておるということであります。そこで、まず、この事実を知っていただきたい。 古来、宗教家たちは、数多く地上に舞い降りて、新しき宗教を立てたり、新しき宗派を起こしたり、新しき哲学を樹立したり、新たな思想を流布したりしてきたのでありますが、彼らも地上を去ってよりこのかた、死人にロなしではないけれども、まるで活動を停止したかのごとき感があることは、歴史的な事実であります。 しかしながら、これら高級霊たちは、地上を去った後も、天上界にありて、さまざまなる活動をし、人類への福音を述べ伝えておるのであります。その事実を知っていただきたいがために、こうして私もあえてまた、私が地上を去って後の考えを世に問いたいと思っておるのであります。 2.「生長の家」の諸君よ、寛容の精神を忘れるな さて、第一集が世に出て以来、「生長の家」の信徒三百数十万からは、間違いなく我が声を信じて、熱狂的なる手紙が数多く寄せられているとの事実を、私は知りました。 そこで、信徒の多くが、「まだ知りたい」「もっと話を聞きたい」と思ったことに関して、本書でもって答えていきたいと思うのであります。もちろん、本書だけでは、谷口雅春が思想は、すべて言いつくすことはできませんが、それはいずれまた、折りを改めるとして、本書に盛る思想として、可能なかぎりのことを述べていきたいと思うのであります。 ただ、私が惜しむらくは、本書を世に問うにあたって、私の後継団体である「生長の家」に対する憂慮、心配というものをせねばならぬという事実であります。 すなわち、私は、万教は帰一、万教これ同根、すべて唯一の神より流れ出したる教えであるということに立脚し、五十五年余りの伝道活動をしてきたわけでありますが、いかんせん「生長の家」という団体も、初代が去ってよりこの二年、さまざまな内部事情を抱え、問題点が出てきておるようであります。 また、私が悲しく思うことに、内部のなかにも、初代谷口雅春が他の団体から霊言を世に問うということに関して、非常に困ったものだと言っておる者もあると聞いております。 しかし、こうした者たちに対して、私は一言言っておきたい。あなた方は本当の意味の「万教帰一」、この言葉の意味を知っておるのか。また、地上で自らの団体を運営し、維持していくことだけに目的を見い出してよいのかどうか、と。こうしたことについて、もう一度肝に銘じて考えねばならんのではないか。私は、そう思うわけであります。 地上に出ておる光の指導霊というのは、何も「生長の家」にだけ出ておるのではないのです。他の団体にあっても、他の人びとのなかにも、光の天使が降りておる。このことについては、私はすでに、『生命の実相』のなかで語ったことであります。 すなわち、キリスト教にも、仏教にも、日本神道にも、あるいは、近代の流れのなかにおける天理教、金光教、黒住教、大本教などの他の教団のなかにも、光の指導霊、光の天使と言われる方がたが数多く出ていたのであります。であるならば、それは過去だけのことではなくて、現在ただ今も出ておるのだということを知らねばならぬのです。 私は、「生長の家」という団体が、その寛容の精神を失い、狭隘(きょうあい)な狭い心の団体になることを非常におそれておるのであります。この世で会員を何人集めたところで、死んであの世に還れば、それは何の意味もないのであります。実際、この地上で他団体だと思って、排斥したり、攻撃していた団体の中心人物が、あの世に還ってみると、同じく天使仲間であることを知って、後悔することが多い。それもまた、事実であります。 まあ、そうした事実を知ったならば、地上に降りた肉の眼でもって自分と他人、自と他を分けて、自分のためにのみ、自分の利益のためのみに行動を取るということは、非常に間違いであります。 正しき方向とは、いかに数多くの人類を救うかであって、人類を救うという目的のためには、数多くの同士がいてよいのです。「生長の家」のみが人類を救えて、「生長の家」以外は人類を救えないというような、そうした狭い考えを持っては、断じてならん。私は、このことをきつく申しておきたい。 3.「自らに厳しく」は宗教家特有の義務 これは歴史的に見てもそうであって、私の生命の実相哲学のなかにある、人類光明化の原理は、実はエマソンを幽祖とするアメリカのニューソートの流れと軌(き)を一(いつ)にするものであることは、私が繰り返し繰り返し、皆さんに説き来たり、説き去ったところの真実であります。アメリカでさえ、「生長の家」と同じ考えが出ておるのに、この日本に、ましてやその同じ流れが出ぬわけはないのであります。 宗教団体というのは、会社の経営とは違うのです。すなわち、正しき心の団体であるのだからして、どうか会社経営のようなつもりではやらないでほしいと深く深く希望するものであります。 幸いにして、二代目総裁として、谷口清超という非常に良き後継者を私は得ておるので、まあ、私が霊言集をこのように世に問うたところで、「生長の家」がどうこうなるものでないということに対して、万全の信頼を寄せておるものであります。 見渡して見ると、まあ、数多くの宗教団体があるけれども、たいてい二代目、三代目になるとダメになるのが例外のないことのようであります。しかし、我が「生長の家」にあっては、二代目総裁として、希有な後継者を得ることができたがために、私は、非常に満足をしております。 ましてや、「生長の家」以外の団体の者が、谷口雅春が教えは、真理に合致した正しい教えであったということを、このような形で証明しておるのだから、これに対して、大いに敬意と感謝の念を払わねばならぬ。私は、そのように思うのであります。 とくに三代目にあっては、まだ年も若いこともあって、さまざまなことに関し、判断がつきかねることが数多くあるようであるけれども、まだまだあなたは人生の修行の途次であって、完成された人間でないことをよくよく肝に銘じ、さらに十年、十五年は、人生修行の過程にあると思い、いたずらに人を指導しようと思わずに、まず、自らを磨いていくことに力を注ぎなさい。 人間は、自らが悟っておらんのに、人を悟らせることはできんのです。人の上に立つものであればあるほど、自らに厳しく、自らの悟りを求めてゆかねばならん。これは、宗教家特有の義務であります。そういう大きな義務を負って、この世に出ておるということです。ですから、このことを忘れてはならん。 谷口雅春の霊言集第一集が出て、全国の信徒からは、その九九パーセントは喜びの声というものが寄せられておるけれども、「生長の家」本部の内部において、自分たちの保身がために、この書を攻撃する人が一部にいたことを知って、私は、大変悲しく思ったものであります。 ましてや、幹部諸君を集めて、朝礼の場で、「神は霊媒にはかからぬから」と言って、谷口雅春霊言集をニセモノ呼ばわりするなどということは、あの世に還って、どのような反省をせねばいかんようになるか。そうしたことを、よくよく考えていただきたい。 ニセモノというのは、すぐにばれるものです。しかし、本物というものは、時間が経つにつれて、ますますはっきりとしてくるものです。本人が本人であると言っている、これは、やがて誰もが疑えなくなるものであります。 ですから、自己保存、あるいは、自団体保存のために、どうかつまらぬ中傷をしたり、批判をせぬように。本書の始めにあたって、このことだけを、強く願っておくものであります。寛容の精神が「生長の家」という団体になければ、今後、私もまた、地上を去ったあの世において、人類救済のために心おきなく活動することができんのです。 4.万教帰一理論の真髄 私は地上を去って、はるか如来界最上階段に現在おりますが、ここにおって我が考えるところは、「生長の家」の信徒は救うが、それ以外は教わんというような、そういう考えは持ってはおらんということです。仏教者であろうが、キリスト教者であろうが、天理教であろうが、何教であろうが、関係ない。私は、機会あるごとに、天上界においても、さまざまなところへ行って、講演しております。 それは、ひとり日本の霊人のみに対してなされておることではないのです。こちらの世界でも、私は、アメリカの霊域に行き、そこにて、英語で人類幸福化の原理を語ることもある。また、他の地域へと赴いて、語っておることもある。谷口雅春は、決して日本人のためだけに、日本人を救うためだけに、死後、活躍しておるのではありません。他の国の人びとをも、他の宗教の人びとをも救おうと思っておるし、また、こちらの世界に来て、新たに知り得た友人諸君とも共同して、活動をしておるのであります。地上におったとき、私は、万教は帰一だということを口をすっぱくして説いてまいりましたが、こちら、実相の世界に還って、ますますその感を強くしておるわけであります。 すなわち、万教は帰一と言いつつも、まだ、私の考えのなかには、万教は、「生長の家」に帰一するというような、そうしたひとりよがりが一部にあったことは否めないと反省しておるのであります。 万教が帰一ということは、万教は神に帰一するということであって、「生長の家」という団体に帰一することではないのです。そういうことを、こちらで、身をもって実感しているわけであります。こちらには、天使の数が大変に多く、私もまた、そのなかにおって、日々修行し、ともに語らい、どうやって世を明るくし、幸福にしていくかということを検討しているのであります。 5.人類幸福化運動として、現代に現われたる仏教の精神 さて、第1章では、「人類幸福化の原理」という題を選んでみたので、これについて、さらに詳しく話をしていきたいと、このように考えているわけであります。 今、「〇〇〇〇〇」という精神革命運動が起きておって、〇〇〇〇らが、人類幸福化運動というのを始めております。これはまあ、私が説いてきたところの人類光明化運動と軌(き)を一(いつ)にするものであろうと思います。 「生長の家」の教えというものが、どちらかと言えば、日本神道的な考えを基礎においていたのに対して、〇〇〇〇らがこの人類幸福化運動は、その根本において、仏教の精神を基盤としていることは否めないであろうと思うのです。 では、現代に現われたる仏教の精神とは、一体いかなるものでありましょうか。一体何をもって、現代的仏教の精神と言うのでしょうか。このことを、さらに検討してゆかねばならぬと思うものであります。 仏教とは、言うまでもなく、今から二千五百年以上昔に、釈尊(釈迦)という傑出した人物の登場をもって始まったわけであります。その釈尊が、八十年の人生において、説き来たり、説き去ったところの仏教の本質とは、一体何であるか。これを検討してみる必要があると思うのです。 仏教の教えというのは、結局において、まず第一に、自分づくりということでありました。この自分づくりということが、悟りを求めるということになってきたわけであります。では、なぜ仏教徒が悟りを求めてきたかと言えば、結局、この自分づくりという大きな目標があったからであります。 その第二は、大乗仏教の本質であるところの大衆布教であり、神理の広布でありました。これはすなわち、他人を救うということです。「自分から他人へ」というこの動きこそが、他ならぬ仏教の本質であったわけであります。 では、なぜ釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)は、自分を救ってから他人を救うというこのような教えを説いたか。このことに関して、さらに検討をしてみたいと思うのであります。そうしてみると、ここに、現代の新興宗教の多くが反省すべき原点が見つかるわけであります。 反省すべき原点とは、一体何か。結局のところ、自らが悟っておらぬ者が、他人の頭に止まろうとしているハエを追い廻しておる、それが、現在の新興宗教の間違いの大部分であるということです。つまり、自分の頭に止まったハエを追わずして、他人の頭に止まろうとしているハエを追い廻しておる。そして、あるときはキリスト教の新興宗教といい、あるときは仏教系統の新興宗教といい、また、あるときは他の新興宗教といい、人を集めることに汲々(きゅうきゅう)として、それでもって、是(よ)しとしている。 しかし、自分の頭のハエを追わずして、他人の頭のハエばかりを追っておったのでは、いつまでたっても、ハエはいなくならん。他人の頭のハエを気にするのもいいけれども、まず、各人が、自分の頭の上のハエを追い払うことを考える。そうすれば、他人の頭の上のハエをそれほど追う必要もなくなる。こういうことです。 自分がそういう状況にありながら、他人を救おうとしていることが、私たちの霊的なる眼でみたらどれほど滑稽(こっけい)な姿であるか、これを知っていただきたいと思います。 6.自己犠牲の精神と自己処罰の観念 他人を幸福にしようという気持ちは尊いけれども、自己犠牲の精神でもって、つまり、自分を犠牲にして他人を教うという人ばかりが出てきておったのでは、結局、人類というのは、残らないわけであります。人類一般のために、自分を投げ出すという気持ちは尊いけれども、その結果どうなったかと言うと、まあ、神風特攻隊のようになってしまってはならんということです。 たとえ日本人全員が、神風特攻隊になって、敵艦に突っ込み、生命を捨てて、国を守ったとしても、国民がひとりもいなくなれば、それは何の意味もないこととなってしまいます。そういうことであって、やはり、ひとりひとりが幸せになってこそ、初めて、国全体が幸せになってくるのです。 このことは、ひとり仏教のみならず、中国の二千数百年の昔においても、孔子という偉大な人が説き来たった真理でもあります。修身という教えですね。身を修めて、次に家庭が円満となって、その後、治国、平天下、つまり、国が治まり、天下が平らかになる。こういうことを、孔子は言ったのだけれども、これも精神においては、仏教とまったく同じであります。すなわち、ひとりひとりが幸せになって、社会を、国を、幸せにしていこうとしているわけであります。 もちろん私は、キリスト教に言う自己犠牲というものを決して軽視するわけではありません。しかし、それが、ただ悲しみを追うためだけの自己犠牲になってしまってはならぬのです。自己犠牲のなかにも、いかにも悲しみを誘う自己犠牲というのがある。つまり、そうした人は、自己犠牲ということにおいて満足感を得ておるのかもしれないけれども、その人の自己犠牲において、あることが推進されたということは、周りの人びとにとっては、「何もしていないお前たちは罪人だ」とレッテルを貼られていることにもなりかねないわけであります。 と言っても、これは、あまり厳しく言うのは無理があるかと思います。なぜならば、キリストの人生そのものが十字架にかかるような悲劇的な人生であったがために、クリスチャンのなかには、そのような自己処罰観念が、いまだ連綿として続いておるからであります。そして、実は、この自己処罰観念が、長年、人類を苦しめてきたものであります。人間は罪の子であって、とうていそのままでは救われぬ。したがって、罪深き自分であるならば、罪人であるならば、その一身(いっしん)を投げ出して、やっと元に戻るのだ。こういう考え方があると思うのです。 しかしながら、私は、人間を罪人とするこうした考えに対しては、いささか不満を持っております。私は、本来、人類には罪はないと思うのです。本来には罪がない存在、それが、人類の本当の姿であろうと思うのです。そうでなければ、人間が神の子であるということが、決して真理にならないはずです。人間が罪の子であるならば、なぜその罪の子を神が創ったのか。そうした問いに対して、誰が答えることができるでしょうか。 アダムとエバが犯した原罪によって、人類が永遠に処罰されているというような観念、こうした観念を、本当に正気の人間は、信じることができるでありましょうか。 7.神の子の実相を知ることが小乗であり、万教帰一の思想が大乗である それは、結局、こういうことなのです。交通事故というのがあって、年々、日本でも一万人に近い人が亡くなっているそうであるけれども、この一万人近い死者が出る交通事故を見て、人間とは、交通事故を起こすような存在であるとの定義をするのが、人間罪の子の思想であります。しかし、それは現実の現象を説明しているのみであって、決して人間の本質を説明しているとは言えないと思うのです。 では、人間は車に乗れば、必ず事故を起こさねばならぬのか。オートバイに乗れば、電柱に衝突せねばならぬのか。道を歩いておれば、車に跳ねられねばならぬのか。と言えば、そんなことが人間の本質であってたまるかとなるでありましょう。 すなわち、諸君は、人間は交通事故を起こす存在であるというような、こういう人間観をただちに否定し去らねば、永遠に幸福になるということはできないのであります。 人間の本質は、正しい交通ルールを守って、非常に調和した生活を送ること。それが、やはり、その本分であるのです。本質であるのです。このことを知らねばならぬと思います。決して罪を犯すようにできているわけでもなければ、罪は実在でもない。このことを知らねばなりません。こうした考え方を出発点としなければ、本章の標題である、「人類幸福化」ということは、決して達成できんのであります。 罪の子人間が罪を滅らすことのみに汲々としておるようなことは、人類の幸福化ではないのです。本来、罪なく、汚(けが)れなき純粋無垢(じゅんすいむく)な神の子としての人間が、その本来の性質を取り戻して、そして、さらに素晴らしき大調和の世界を、ユートピアを建設することが、本当の人類を幸福にするための生き方なのではないでしょうか。 まず、自分というものをつくるという仏教の精神の話をしましたが、すなわちこれは、自分が神の子であるという実相をつかむということです。まず、神の子としての実相をつかむ。これが、出発点であります。 神の子としての実相をつかむがために、皆さんは、この私の書物のような真理の書を勉強しておるのではないですか。こうした真理の教えを勉強して初めて、それから後に、その実践ということがあるのではないですか。日々の実践ということがあるのではないでしょうか。知って、かつ、これを実践するということです。これが、人間神の子ということをはっきりと自覚するということになってくるわけです。 知行合一(ちぎょうごういつ)という、中国の王陽明という思想家の考えがありますけれども、これは、決して中国だけの思想ではなくて、現代の皆さんにとっても、非常に大切な考え方であります。まず、真理を知る。その真理とは何か。つまり、人間神の子であるという事実を知る。本質を知る。実相を知る。これが出発点であって、次に行、すなわち、行ないがくる。 行とは、神の子として行動するということです。したがって、もし自分に悩みや苦しみがさまざまに降りかかってくるのであるならば、神の子にこんな悩みがあるか、神の子にこんな苦しみがあるか、神の子がこんな罪を犯すか、神の子がこんな病気になるか、こういうことを常々心に問うて、勇気を持って、力強く行動していかねばならぬのです。 神の子ということをまず知るということ、これが、仏教で言えば、自分づくり、すなわち、小乗の教えに相当するものであります。 さてでは、仏教の大乗にあたる部分は、一体どうなるのであるか。こういうことが、問題でありましょう。これは、すなわち、人間神の子であるという思想をできるだけ多く広げるということではないでしょうか。 そのための手段のひとつとして、万教帰一の思想があるのではないでしょうか。一宗一派に登録すれば救われるとか、そこの会員になれば、それで天国に行けるとか。こういう狭いものの考えをしておったのでは、決して人類幸福化運動というのは実現しないわけであります。志を同じくする者が、日本国内、あるいは、海外を問わず、一致団結して、地上天国を打ち立てるために行動してこその本物であります。 したがって、もし他団体のなかに悪が見え、悪しきものが見えたとしても、それを邪宗として一蹴するのではなくて、彼らもまた、神の子であるのだから、しっかりと両足で立ち直って、神の子として神の国建設運動のために、彼らもまた、活躍してくれるであろうということを祈ることです。これが、大事です。 8.宗教家たちよ、お互いに手を取り合ってユートピアを築け ですから、現時点において、人類幸福化のために目的をひとつにしておる者同士は、手を取り合って、携(たずさ)え合う。自分が偉い、彼が偉いといったそういう議論はどうでもよいのです。そんなことではなくて、目的をひとつにしておる者は、手を取り合って、行動していくということです。 目的については、まだ漠然としておっても、一応人類幸福化ということを考えており、ただ、教義のなかに誤りがあって、そのため、迷っておる人たちに対しては、根強く、辛抱(しんぼう)強く、彼らを励まし、彼らが正しい方向に向くことを祈りながら、彼らをよい方向へと導いていくべきではないでしょうか。そして、やがては、すべての人が、ひとつの大きな使命のもとに生きていくべきではないでしょうか。現在、最もこの改革が求められているのが、宗教的な世界であります。 一宗一派に偏して、それぞれ、我こそは神の子、他は悪魔の子、こうしたことをやっておるのが、日本の宗教団体であります。こんなことをやっておるから、人びとはその不信感から、決して宗教というものに深入りしようとせんのであります。そうではなくて、本当に地上天国をつくろうとしておるのならば、ユートピアを本当にこの地上につくらんとしておるのであるならば、それを目指しておる宗教家同士が、まず、大調和、ユートピア世界というものを見せなさい。それが、あなたたちの使命なのです。 お前は仏教徒ではないか。お前はキリスト教徒ではないか、と。こんなことを言っておるから、おかしいのだ。キリスト教のなかでも、お前は何とか派だ、いや、何とか派だということで、互いに争っておる。また、仏教のなかでも、お前は自力門だ、他力門だと、こんなことを言って、争っておる。 要するに、人間というものは、狭い心にとらわれて、全体的統一ということを忘れてしまうからです。ですから、この大乗仏教の本質というものを現代に問うとするならば、まず、地上に出ておる宗教家たちは、どうやったらお互いに手を取り合って生きていけるか、と。このことをしっかりと学ばねばならぬのです。そして、努力せねばならぬ。 人間は、どうしても自分に対しては甘くなって、自分が偉ければ人は偉くない、人が偉ければ自分が偉くない、このように二者択一的なものに考えがちだけれども、本来、人間が神の子であるならば、どっちが偉い偉くないというのはないのです。みんな、偉いのです。そうした考えを基礎にして、皆んなで手を取り合って、どうか大きなユートピアの輪を広げていっていただきたい。私は、こう思います。 自分が幸せになり、そして、社会が幸せになっていくという考えこそが、現代に要請されている人類幸福化のための原理ではないでしょうか。私は、そう信ずるものであります。
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この世界、ミ帝どころかゴム帝ですら全容をつかめていないのではないかとすら思える。展開次第では2次のネタが増えるぞコレ - 名無しさん (2022-05-05 21 47 58) 熱田神宮にある本物とされてる天叢雲剣を無視する辺り、召喚日本では熱田神宮のはニセモノという扱いみたい - 名無しさん (2022-05-06 19 49 50) ま、剣まで日本にあったら弱いまま話が一方的になるし多少はね? - 名無しさん (2022-05-06 21 10 34) 恐らくヤマタノオロチの逸話を聞いた日本人が作ったレプリカなんだろう、異世界にヤマタノオロチの一部を飛ばす時に取扱注意な逸話を伝える人間が付いてきたものと思われる - 名無しさん (2022-05-07 09 47 10) 須佐神社に祭られてるのはヤマタノオロチの骨だぞ。天叢雲剣とごっちゃになってないか? - 名無しさん (2024-01-30 20 01 57) プラナリアの端をちょん切ると小さなプラナリアが生まれるわけで日本神話に出てくるほうがその切れっぱしかもよ - 名無しさん (2022-05-08 00 09 21) こいつと亜神龍のせいでイルクスの存在感が薄れていく…成体になってもオロチ超えれるか怪しくなってきたぞこれ - 名無しさん (2022-05-08 21 38 19) 成体に育つのに一万年ぐらいかかるんじゃねw? ハイエルフでも1000年かかるんだ ハイエルフ千年神龍万年 - 名無しさん (2022-08-19 18 01 06) 極みさんに出てきてもらえばいいじゃない つかインフィドラグーン時代に絡みなかったんかいこれ? - 名無しさん (2022-08-17 04 26 53) こいつが暴れたのは魔帝時代以後?デイジーカッターとサーモバリック爆弾で何とかなるかなぁ - 名無しさん (2023-02-23 14 46 36)
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目次 1.神理の光は「対話形式」と「言葉の美しさ」を通して輝く 2.すべての光の天使に与えられた「詩」という武器、方法論 3.「死」という悲劇の奥に霊的世界の存在を教えた 4.人生の悲劇は 運命の嵐 のなかに漂っている一枚の木の葉 5.悲劇は人生の真実を見つめさせ、魂を光らせる 6.「相対的運命観」と「絶対的運命観」との綾糸 7.光一元の思想だけでは、片眼だけでは人生の奥行きはわからない 8.文学を通して幾転生に当る無数の人生を知れ (1988年1月2日の霊示) 1.神理の光は「対話形式」と「言葉の美しさ」を通して輝く シェークスピア シェークスピアです。 ―― シェークスピア先生でございますか。すでにご承知かと思いますけれども、私共は今回いろんな霊言集を作成しておりますけれども、芸術の関係に携(たずさ)わっておられた高級諸霊の方のご霊言を賜って、そして芸術編というものを編集したいと、このように思っていますのですけれども、先生からも特に何かご指導賜えることがあったら、お願いいたしたいと思います。 シェークスピア わかりました。それでは芸術全般のあり方、文学のあり方、こうした芸術論、文学論、こうしたもののなかに神理というものを見てゆきたいと、こういうふうに思います。ただこれは私独自の観点でありますし、決して普遍的な考え方でもないと思います。ただこのなかにも、神理の種はあると思います。 まあ『マクベス』であるとか、『リア王』であるとか、そうしたさまざまな戯曲を私は書きました。戯曲という形で、いろんな物語を書いたわけですが、まずこの辺から入っていきたいと思います。 戯曲という形式、なぜこの形式を通して私は訴えんとしたか、ということですが、古来より、意外に人類の根源的思想というものは、戯曲の形式で残されていることが多いのです。あるいは対話篇と言ってもよいし、ソクラテスと弟子たちの対話、あるいは孔子と弟子たちの対話、この辺がたとえば、プラトンの編集するソクラテスの一連のシリーズになったり、あるいは孔子の『論語』であるとか、そうした教えになっていった。こういうことが言えると思います。また仏教においても、釈迦と、その弟子との対話篇が仏典になっていった。ま、こういうことが言えると思います。 したがって、対話篇というのは意外に普遍的な姿なのです。みなさんは、ともすれば理論的な、まとまったものが良いというふうに考えがちでありますが、そうではないのであって、普遍的なるものというのは、やはりひとつには、わかりやすくなくてはいけない。わかりやすいというのは、こうした対話篇で話をするということ、これは人類の胸の奥底に、心の奥底に残るような、そうした普遍性があるのです。易しさがあるのです。 ですから、あなた方も、これから神理をさまざまに語っていかれるのでしょうが、その中において、容易さ、易しさ、そうしたものが流れていなければいけない。わかるようなものでなければいけない。少なくとも対話篇で語られるもので、難解なるものというのは創りにくいのです。聞いてもわからない、読んでもわからないというものは、対話篇では不可能に近いのです。その意味において、対話篇という形式は非常に重要な一形式であるし、古来より用いられたものである。ま、これが言えると思います。 もうひとつ言えることは、結局、美しさですね、文学の形式の中における美しさ、対話篇の中にも言葉の美しさ、こうしたものがあると思いますが、この芸術性ですね。これがあるからこそ長く残り、多くの人びとの心を揺り動かすことができるのです。そうした美しさ、言葉選びの美しさ、言葉の格調の高さ。人の心を揺さぶるような感動的な言葉、こうしたものが心に残っていくわけです。仏典の中でもそうであって、仏陀の人の心を揺さぶるような、そうした対話篇が珠玉の名篇として残っているのではないでしょうか。その時々の人びとの心に合わした言葉というものが、歴史上残ってきて、さまざまな人に影響を与えてきたのではないでしょうか。 したがって、完全な理論的なものというだけではなくて、その都度その都度に人びとの心を揺さぶるような教え、これがあっていいのです。そうしたものであっていいのです。臨機応変の対話のなかに、本当は人生の真実と神理の光というものが、宿っているのです。 文学という形式においてもそうです。さまざまな登場人物を登場させ、そして話を進めていきますが、この登場人物というのが、ひとつの生命を得て、ひとつの個性を得て、だんだんに動いていきます。やがて作者の手を離れていくのです。登場人物というのは、作者の手を離れて動いていきます。その個性でもって、さまざまなことを言い、さまざまな行動をしていくようになっていくのです。その中に、本当に素晴らしいものが残っていくことが多いわけであります。 以上で、いわゆる対話形式、戯曲形式という形式が、ひとつの普遍性を帯びたものであるということ。またその言葉の美しさ、感動をそそるような言葉の選び方というものが、またこれが人類に多く奉仕するようなものであるということ。こういう話をしました。 2.すべての光の天使に与えられた「詩」という武器、方法論 シェークスピア また、これとは違った観点から、私は詩というものを捉(とら)えてみたいと思います。これは今の美しい言葉、感動させる言葉とも関係しているのではないかと思います。 古来より聖人とか、偉人とか言われた人たち、宗教家もそうですし、大宗教家もそうですが、残らず詩人です。大宗教家で詩人でなかった方はいません。すべて詩人です。こうしてみると、詩というもののなかには、ひとつのなんらかの力、これがあるということが言えると思います。 詩とは、何でしょうか。それは、言葉に宿りたる感動の響き、調べ、こうしたものをもって、人びとを揺り動かすという力です。 日本で言えば、日蓮というような僧侶であっても、これは偉大な詩人であったと思います。空海も詩人であったでありましょう。釈尊そのものが詩人でもありました。キリストも詩人です。非常な詩人であります。孔子も詩人であります。ソクラテスも詩人です。そういうふうに、詩というものが、やはり人の心を捉えて離さないのです。 詩とは一体、では何でしょうか。何が一体詩と言えるものでしょうか。短かい言葉のなかで、人の心を揺り動かすようなもの、その人の心を揺り動かす言葉というもの、それは何かというと、それは言葉のなかで、人類の使ってきた言葉のなかで、一番美しい言葉を、一番美しい形で配列してみせるということです。どんな思想であっても、言葉を使わずに思想を表すことはできません。しかし、その言葉に力があります。その言葉に響きがあります。その言葉に光があるのです。そうではないでしょうか。 こういうふうに、詩という形式、これを重視することが大事です。特に根源的なる法、根源的なる神理、こうしたものを説こうとしている人は、この詩という観点を忘れてはならない。それは、非常に人びとの口にのぼりやすく、また、人びとの記憶に残りやすい。そしてまた、人びとを揺り動かすものだからです。 有名な演説もそうです。すべて詩です。有名な演説、有名な講演の中には、素晴らしい講演のなかには、人びとの心を揺り動かすような、詩句、調べがちりばめられているはずです。 これはひとつの方法論なのです。神は、地上に遣わした光の天使たちに、「詩」という方法論をお与えになったのです。光の天使たちが、自らが光の天使であることの証明のために、美しい言葉を、この世ならざる言葉を彼らに数多く語らせるようになっているのです。その「詩」という武器でもって、地上の人びとを済度(さいど)し、救わんとさせているということです。 ですから、本物の宗教家は詩人であり、もちろん芸術家も詩人であります。戯曲家も文学者も詩人であります。そういう詩という形式、これに対する評価、これが大事であろうと私は思います。ま、文学の形式について簡単に話をしてみましたが、これ以外に、あなたの方から聞きたいことがあったらお聞きしましょう。 ―― 言葉というものは、各国、民族によって違いますけれども、やはり元になるものは、ひとつであるわけですね。意味するものは、どのような言葉を使おうとも。 シェークスピア 元々あるものは霊界にある念(おも)いしかありませんから、その念いを三次元的にどのように表すかという、その表し方に、さまざまな差がある。ま、こういうことにしか過ぎません。本来はひとつのものです。もちろんその通りです。 ですから、いろんな言葉が翻訳されるということは、人間の念いというもの、その念いの可能性ということにおいて、まったく予想外のことは、あまりないということです。それぞれの民族に出会っても、念いという可能性は、だいたい同じだということです。 それでは、あなたの方から特にご質問がないようですから、私の方からさらに話を続けていくとしましょう。 3.「死」という悲劇の奥に霊的世界の存在を教えた シェークスピア いわゆる、「悲劇論」ということについての話をしたいと思います。私は、文学の手法として、「悲劇」というものを、かなり重視いたしました。そして、こうした悲劇を数多く創ることによって、人びとに感動というものを起こさせるということをいたしました。この悲劇の在り方というものについて、考えてみたいと思うのです。 この世的なる悲劇とは一体何でしょうか。その最大の悲劇というものは、いわゆる「死」であります。愛するものの死、肉親の死、まあこうした、殺したり、殺されたりというようなこともあるでしょう。こうした死ということが、人生最大の悲劇でもあろうかと思います。私が悲劇として追究したテーマは、ほとんどこの「死」ということであったと思います。また、戯曲の中には「幽霊」というようなものを数多く私は登場させました。この辺に、死というものを縁とした人間の真実、人生の真実というものを描いてみたいと思ったわけです。 この死というものと対面せずしては、文学は成り立ちません。芸術も成り立ちません。哲学も成り立ちません。宗教も成り立ちません。医学も成り立ちません。この死、死とは一体何なのか。人生における死の意味、死のもたらすもの、その悲劇性、悲劇の奥にあるもの、これは一体何なんだろうか。これを、私は問い続けたわけであります。 また、人間の念(おも)い、念、想念というものが、どれほど悲劇をつくり出していくかという、その法則性についても私は数多く語ってまいりました。悲劇の根源にあるのは、人間の欲望であること。それを私は数限りなく戯曲の中で語ってきました。欲望があり、「自分が、自分が」という念いが悲劇をつくり出しているということを、私は語ってきました。そしてその死というものも、やはり乗り超えていけるものであるということも、語りたかったのです。 ですから死というものを、この世的に見れば非常に悲劇的なるものとして捉(とら)えられるわけですが、これは、しかしながら多くの人の心を打つものでもあります。死に際しては誰もが悲しい。死を見て喜ぶ人は数少ない。この難しいテーマです。 しかし、この世的には悲劇的であり、難しいテーマであるものが、あの世的に見たらそうでもないという、この逆説、パラドックス、ここに大いなる人生の秘密、これがあるわけであります。 ―― 芸術という立場からすれば、やはり先生も仰せられたように、光があるところには、やはり光が光として光るには、それを認識できるには、人間としてのやはり苦しみとか、悲しみ、そういうものがあって初めて、その光をより強く感じられるのであるというようなお話でございまして、死を縁として宗教も哲学も、実は人生も、芸術もあるのである。それを抜きにしては存在しないのである。というふうなお説を承っておりました。そういうことで、この悲劇もそのひとつの表現形式として捉えられているのであるという、お話を承っている最中でございましたのですが、その辺のところを、もう少しお願いいたします。 シェークスピア わかりました。ま、もうひとつはね、私が言いたかったのは、私のテーマの中で「死」ということ、人間が死ぬということ、人間は不死ではない、その寿命、生命に限りがある、ということでした。しかし、限りがあるけれども、その限りを超えた世界もまたある。この辺のことを、私は文学の中でいろんな形で問うてきました。 結局ね、文学という形式を通して人間の本来の姿、人間が魂であり、霊であるということを教えるということが、私の使命でもあったということであります。絵画を通して、天上界の世界を教える方々もいるでしょう。音楽を通して、天上界の世界、霊の世界を教える方もいるでしょう。私のように文学を通して、その霊的世界の存在を教える人もいるということです。 4.人生の悲劇は"運命の嵐"のなかに漂っている一枚の木の葉 シェークスピア ですから、まず私は、その人間の生死、これを超えた魂の存在ということ、これを文学のなかにずいぶん折り込みましたし、私のその悲劇論とも関連したテーマのひとつとして、非常に重要であったものが、実は、「運命」、「運命論」であります。人間の運命とは一体どのようなものなのか。これが描きたかったのです。人間の運命、それぞれの人間には運命がある。その運命は、どのようにして形づくられていくのだろうか。また、運命に抵抗しようとして、それから逃れられないでいる人間の悲劇、これを描きたかったのです。 広い意味では、そうした運命というものに翻弄されつつ生きる人間の姿を描きながら、この三次元世界の意味、現象世界の意味というものを説き明かしたかった。これが私の考えであります。私の文学に、戯曲に貫かれているものは、この「運命論」であります。 そして人間は、なぜそういう運命があるかということを知らないままに、運命の糸に操られて生きている。それは、私もそう、あなたもそう、あなた以外の方々もそうであります。運命の糸に操られて生きている。 この運命をつくっているものは一体何なのか。これは、仏教的に言えば過去世の「業(ごう)」ということ、カルマということでもあろう。それを西洋では必ずしも認めてはいないけれども、何かしらそうしたものがあるということ。そうした「業」というものに似たものとして、その魂の傾向があるということ。不幸を呼び寄せるような人間の心があるということ。こうしたことを私は描きたかった。 それともうひとつはね、その恨みの心、妬みの心、呪いの心、こうしたものが、いかに悲劇を創り出していくか、この観点であります。人生を悪くしているものの根源は何なのか。悲劇の根源は一体何なのか。何がそうした悲劇性を創り出しているのか。私は、これを描(えが)ききったつもりであります。 それは結局のところ、人間の嫉妬心であり、猜疑(さいぎ)心であり、恨みの心であり、妬みの心である。呪いの心でもある。こうしたことですね。こうしたものが結局、人生の悲劇を生み出しているのではないか。こういう人間性の在(あ)り方、心の在(あ)り方、心の醜(みにく)さ、こうしたものを赤裸々(せきらら)に描くことによって、人々に、自分の存在、これをもう一度見直していただきたい。こういう気持ちが、私にはあったわけであります。 人生を不幸にしているものは、結局その人の心の持ち様(よう)であり、その心の奥底から出てくるものです。私は嫉妬とか、あるいは憎しみとか、あるいは嫌悪感、こうしたものも結構魂の根深いところにあるものだと思っています。魂の根深いところから、こういうものが吹き出してきて、それが人の人生をさまざまに変えていきます。 私は、あまり喜劇物であるとか、ハッピーエンドの物を書きませんでしたが、それは、深く魂というものを見つめるという機会を失ってしまうからです。悲劇の底に真実があるということは、つまり悲劇の底には人間の心を揺さぶる何かがあるということです。人間性の本源が何かある。この部分を知らねばならん。 結局のところ、人間というものは、自分というものから究極において離れ得(う)る存在ではないということであります。その恨みの根源、嫉妬の根源、猜疑心の根源、これは一体何かと言えば、結局、自分だけは別である、まったく別の存在である、こうしたことであります。これによって、こうした悲劇の誕生があるわけであります。 しかし、私は運命に翻弄される人間の姿を描くことによって、人間の人生というのは結局、嵐の中の一枚の木の葉にしか過ぎない、ということを描きたかったのです。「自分が自分が」という思い、「自分こそがよければよい、自分だけがよければよい」という念(おも)い、その念(おも)いに生きているという自分という存在も、結局、運命という嵐のなかの、嵐のなかに漂っているところの一枚の木の葉にしか過ぎないということ、これを知っていただきたい。こういう気持があったわけであります。 5.悲劇は人生の真実を見つめさせ、魂を光らせる シェークスピア 人びとは、ともすれば安易な日々の中に埋もれていきます。けれども、安易な日々の中において、深く魂というものを、深く人生の真実というものを見つめる機会が、悲劇ということによって初めて与えられるのです。これは、戯曲のなかだけではありません。あなた方、一人ひとりにとってもそうです。本当に自分というものを見つめる機会とはいかなる時でありましょうか。それは得意の時ではなくて、失意の時であります。失業をしたり、大病をしたり、あるいは離婚をしたり、失恋をしたり、経済的困窮(こんきゅう)のなかにあって、魂は、深く深く、自らを省みるのではないでしょうか。結局、悲劇と言われているもののなかには、神が人間をして自分自身の魂の本質を知らせんとするための慈悲がある、ということです。 この世を極楽浄土そのものであるという方もいるでしょう。まったくの光明一元だと言う人もいるでしょう。しかし、平均的な人間から見れば、この世というものは、さまざまな罪悪であるとか、間違いであるとか、悲しみに満ちているかのように見えます。そして、それらのものを、単に悪しきものと一蹴(しゅう)する立場もあるでしょう。単に悪しきものであり、何の意味もないというふうに見る人もいるでしょう。ただ私は、必ずしもそうは思わない。病気は神がつくられたものではないという方もいるでしょう。確かにそうかもしれない。しかし、現に病気があるということ、病気があるという現実を、神がそのままにしておかれるという事実があるわけです。それは、そこに何かの意味があると、やはり見て取った方がいいのです。神は健全なる人間をつくったでしょう。しかしその健全なる人間が、人生の途上において病に伏せることがある。倒れることがある。 ではなぜ、そうした病をそのままにしておかれるのか。これは単に人間だけの不明の至りなのか。それとも、人間がつくり出した間違い心の結果なのか。確かにそういうことも言えるかもしれない。しかし、その間違いを間違いとして容認し、眼をつぶっておられる神の存在があるということであります。知らぬ存ぜぬでは済まぬはずであります。なぜあるか、なぜ病があるか。結局のところ、深く深く自らを省みる機会として、それは存在の意義があるからである。魂を光らせる意義があるからである。私は、そのように思います。 実在界において病はない。その通りであります。してみれば、病を得るという機会は三次元のみの機会であります。その機会において、肉体の苦しみと霊の悦びというものを徹底的に知るという機会、これがあるのではないでしょうか。魂は、やはり苦難、困難を経て光ってくるものではないでしょうか。常楽の世界、そういう世界のなかにおいて、本当に魂が光るでしょうか。 さまざまなものごとを、二元的に捉える人もいるけれども、結局、本当は二元ではないのである。これは結局のところ、楽であるとか、喜びであるとか、楽しみであるとかいうようなことは、これは優しい毛皮のようなものなのです。手に触れても優しい、暖かい、柔らかいものです。毛皮ですね。しかしこれとは違ったものがある。それは砥石(といし)の部分です。あるいはサンドペーパーと言ってもよい。やすりであると言ってもよい。人生にはやすりも必要、仕上げのためのスポンジも必要、どちらもいるのです。優しい面と厳しい面、この両方がいるのです。この両方が一体となって、人生を磨くための材料となっているのです。 善悪という二元があるのではなくて、悪は善を伸ばすための素材として、存在が許されているのだと知ることが大切であろうと思うのです。単に悪がない善だけの世界であるよりも、善悪があり、悪が善を光らせるための、伸ばすための素材として許されているという世界のなかに、また、無限の進化の可能性があると思われるのです。 したがって、悪そのものは、神の属性ではもちろんないでありましょうが、そして人間自身がつくってきたものであることも事実でありましょうが、その悪という存在を、また巧妙に使っておられる神があるということも私は事実であろうと思います。 6.「相対的運命観」と「絶対的運命観」との綾糸(あやいと) シェークスピア こういう観点からみれば、この人生における悲劇も、喜劇も、これはすべて大いなる計画のもとにあると言わねばなりません。運命論をとってもそうで、「運命と自力」という問題は、古来より宗教家たちの得意とした問題でありました。自力論のなかに生きる人間にとっては、すべて自分の努力によって勝ち得ていけ、自分の選択によって道を選べる、こういう考え方がある。これとは逆に、運命論でもって、すべてはもう神の心で決まっているのだという立場もある。これらの人たちは全託して生きていくであろう。こうした時に、我らはどう考えるか。 やはり、運命には二つの見方があると思うのです。その二つの見方の第一は、ある程度の運命は決まっているが、残りの部分は自分の力によって、考えによって切り開いていけるという「相対的運命観」が一つであります。ある程度の流れがあるけれども、その中でどのように漕(こ)ぎ、泳いでいくかということは、自由とされているという考え。こうした「相対的運命観」があると思うのです。そしてこれが事実、主流であることは本当であろうと思います。 これに対して「絶対的運命観」というものが存在いたします。絶対的運命観とは何かと言うと、すべてのことは神がご存知である。神のご計画のままにあるということです。これについて、私たちは深く神の心そのものを知ることはできません。神がどのようなお考えで、地上にさまざまな素晴らしい出来事を起こされたり、災害を起こされたりしておられるのかそのお心はわかりませんが、究極の神から見て、この地上に起こることでわからぬことは何もないはずである。こういう見方もあるはずであります。 しかしこれは、神のお心を忖度(そんたく)するのみであって、実際に私たちにとってはわかる世界ではありません。しかし、また、「絶対的運命観」もどこかにあり得るはずです。この世に偶然なるものはない、という考えもあるわけであります。自由意志と自由意志がぶつかりあって、その結果このようになっていくであろうということをわかる人も、どこかにいらっしゃるはずであります。そうした眼から見れば、運命はすべて決定済みであります。コンピューターの如き正確なる計算ができる人がどこかにいるはずであります。 しかしそれは、地上にいるあなた方にはわからない。この見地からいくならば、あなた方は相対的運命観の中で生きていかれたらよい。ただ、そうしたあなた方の善も悪もすべてを包み込みながら、眺めておられる大いなる存在があるであろうということ、それだけの認識、これは必要であろうと思います。運命の枠から外(はず)れたと思っていても、それもまた神の手のなかにある運命であったと、こういうこともあるということを、知らねばならぬ。 しかし、さまざまな文学作品を書いてまいりましたが、この運命というものの研究、探究は、結局神のお心を知るという意味では、非常に大きな材料になります。今では自然科学、これを突き詰めていって、神の姿を知ろうという動きもあるかもしれない。あるいは霊文明、霊的な科学、精神科学を通じて神を知らんとする動きもあるかもしれない。しかし、こうした文学というテーマ、人間の運命というものを探究することによって、神ご自身のお考えと、神ご自身の性質、こうしたものを学び取り、見抜くことができるという観点もあり得るであろうと思う。 神は一見、非常なお人好しのようにも思います。地上で人びとが、どのように自由に振る舞い、自由自在に生きていても、お人好しの如く、何千年、何万年、何百万年と待たれておられるお人好しな神、慈悲だけの神という存在に見えることもありますが、その反面、非常に賢(かしこ)い神、すべてを知っているのではないのか。すべてを知り尽くしているのではないのか。知り尽くしていて敢えてやらしている神というのがあるのではないのか。私は、人間の人生の真実を探究すればするほど、そうした感情に突き動かされたわけであります。 さすれば我ら人間は、この大いなる巧妙なる世界において、神の狡猾(こうかつ)な計算というものを見破っていかねばならぬ。そのなかで、糸を手繰(たぐ)られている自分ということを、認識せねばならない。その糸がついている自分というものを知った時に、初めて自分はまた主体的なる生き方ができるのではないのか。自分が主体的に生きていると思いつつ、実は自分の背後にピアノ線のようなものがつながっているとするならば、これは自由自在な人生ではない。まずそうした糸がついているということを認識することによって、かえって自由さというものが広がっていくのではないのか。出てくるものではないのか。私はそのように感じたわけであります。 したがって、私は思うのですが、人間は本当に自分が自由意志でもって考えていることなのか、盲目的衝動でもって突き動かされているものであるのか、この辺を常々見つめてゆかねばならん。これを知らないということは、愚かであります。 私は悲劇論を書きましたが、それを研究すればするほど、こういうことになれば、こういう原因をつくれば、こういう結果が起きる、こういう不幸な念いを持ったら、こういう不幸な結果が生ずるということ、この原因、結果の法則というものを、さまざまな形で解き明かしたわけであります。これを知っているか、いないかということも大きな違いがあります。不幸の原因と結果、これを知っているということは、自分自身そのなかでどう生きていけばいいか、ということへの判断ができるはずです。 ところが、それを知らぬということは、過去の人が何千人、何万人、何十万人と繰り返した不幸を、もう一度、繰り返すことにもなりかねません。いろんな人の生き方を知り、その手本を知るということによって、新たな生き方をしていくことができます。自分が同じレールに乗っているのか、いないのかということを知ることです。これが賢い人生への出発点でもある。私は、そのように感じるわけであります。 まあ以上が私の悲劇論、あるいは運命論ということでありますが、これ以外にあなたの方から特に聞きたいということがあれば、お答えいたしましょう。 7.光一元の思想だけでは、片眼だけでは人生の奥行きはわからない ―― 私は、まだ勉強が浅いものでございますけれども、最近日本神道系から出られた、谷口先生という方が、光明思想をもって人びとに「光一元」の思想をお教えされておられるのですけれども、ここでは、そう思うことは、それは神を忘れている姿であるということで、あくまでも神は光一元の方であるということで、その方向へ、光に向かって心の照準を合わせていくんだということを、強くお説きになっておられ、闇、病、苦しみというものは心の迷いであると言って、そのウェートをずっと下げておられるのです。この辺のところの理解のしかたについて、お教え願いたいと思います。 シェークスピア ま、これはね、いかに深く人生を見るかということであると思うのです。その教えの中には、人生のある部分はよく見えるけれども、ある部分は見ない、眼をふさぐという面があるように私は思う。片眼でもって観た世界をよしとするか、両眼でもって観た世界をよしとするかということです。片眼でも世界は見えるであろう。しかし片眼では遠近感がない。遠い近いがわからない。そういうことではないでしょうか。 したがって、良きもののみを観る観点は確かによいかもしれぬが、ただものごとの遠近感がわからない。ものごとの深さがわからない。人生の奥行きがわからない。私はそのように思います。悲劇があっても、悲劇がないとだけ言い切ることに、その悲劇への探究はない。すなわち、片眼で観ているのと同じです。遠近感がないのです。両眼で観ているから遠い近いがわかる。こういうことです。 まあどちらを好まれるかは自由でありましょう。ただその生き方も、片目で観るというのがもっと行き過ぎれば、馬車馬の如く、眼隠しをして進むという方向にもなりかねません。あなた方は真直ぐ前に進むためだけの馬車馬ではないのです。本来自由自在ではないのか。馬が恐れてはならんということで周りの景色を見えないようにして、ただ走るということだけをもってよしとされるか。まあ私は、そういう観点からものごとを見ています。馬が驚いて、右に曲がったり、左に曲がったりしてはいかんから、眼隠しをするということがあります。ただ、そういうあなた方であって、本当に満足でしょうか。私は、人生の深さという観点をとるわけであります。 8.文学を通して幾転生に当る無数の人生を知れ シェークスピア それでは時間も近づいてきたようですから、最後に、締めくくりの言葉を残しておきたいと思います。人びとは文学離れということをして、もう時久しいかもしれません。文学を読まなくなった。また、文学者のレベルが低いということもありましょう。現代の日本においてもそうです。文学というのは特殊なジャンルになってきて、非常に軽薄な観を呈しているように思う。 しかし、文学の本当に大事なところは、人生の真実を知り、人生というものを見つめ直す機会を与えるということです。その意味において、ひとりの人間が数十年の人生で生きられる範囲というもの、得られる経験というものは少ないけれども、優れた文学作品を読むことによってその経験が広がり、人生を考える素材が与えられるということがあります。 よって、これから二つの道がある。すなわち、優れた文学者が数多く出て、人生の真実をできる限り教える、良いことも悪いことも両方教えていくという、そういう努力、これは何ものにも換え難い。もっともっと人生を教えてやらねばならん。それも現代にある人生のみならず、過去にあった人生、未来に来るであろうさまざまな人生、その生き方、これを教えることによって、人びとの心を富ますということはできるのである。 こういう意味において、文学者は、もっともっと努力せねばならん。もっともっと頑張らねばならん。奇抜な軽薄なことばかりを書くのでなくて、もっともっと人生の達人となって、人びとに心の糧を与えねばならん。そういうことで、この私の書を読む者たちに対して、文学者に対して、文学に携わっている人たちに対して、もっと人生を知れ、もっと人生を学べ、そしてそれを教えよ、こういうことを言っておきたいと思います。ま、これは書く方の側であります。 やはり、読む方の側も大事であります。文学というものを無駄なものと思わず、その中に自分の経験を広げるための素材があるということを知れ。人間一人の一生をサラリーマンで終えた時に、その経験の範囲は狭いものです。その狭い範囲を乗り超えて、どれだけ大きな世界観を獲得できるか。それは、多くの文学を読むということであろうと思う。ま、優れた文学だけを読むのが本当は一番よいけれども、必ずしもそうはできないのであるならば、できるだけいろんなものに接していって、その中から優れたものを選(よ)りすぐっていくということです。 古典と言われるもの、名作と言われるものの中には、人類が永年愛してきたものがあります。その中には、それなりの光があります。その光を愛してほしい。宗教家だけが光ではない。文学者の中にも光はある。その光を愛してほしい。大いなる文学の中にさまざまなる人生の糧を得る、文学を読むことによって幾転生するだけの、それだけの経験を得ることができることもあるということです。これを知って、文学の意味をもう一度見直してほしい。このように私は思います。 どうか、人生を知るという修行において、果てはないということを知っていただきたい。無数の人間が生きている以上、無数の人生があり、その無数の人生を知るということが、実は神に近づいていく階梯(かいてい)であるということを知らねばならない。神は、その無数の人生をすべて知っておられるのです。すべての人の人生を知っておられるのです。 であるならば、私たちの修行の目的は究極の神に近づいていくことであるならば、その無数の人生を知るという努力を怠ってはならぬ。学問だけが学びの糧ではない。無数の人生を学ぶということ、知るということがまたひとつの生き方であります。これが修行であります。無数の人生を知る。無限の数の人の生き方を知る。こういう勉強もあるということを、魂の修行もあるということをどうか忘れないでいただきたい。そういう言葉を締めくくりとして、私の今回の霊示は終わりたいと思います。 ―― ありがとうございました。非常に高邁(まい)なお説を承りまして、心を新たにさせられる思いでございます。おそらく、この先生のお言葉が書となりました頃には、世の多くの人びとが深い感銘に打たれることであろうと、自らの人生をもう一回見つめ直すことであろうと、このように思います。ありがとうございました。 シェークスピア では還(かえ)ります。 ―― どうもありがとうございました。