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目次 1.現在のアメリカの繁栄の基礎にあるのは光明思想であった 2.一燈園の西田天香の思想はどこにあったか 3.神理伝道には時代の要請を見誤るな 4.正しき者は繁栄するということを実証する時代 5.現代の釈迦は出家を説くまい 6.今求められている法は、発展の法、繁栄の法である 7.光明思想とは、人間が神近き存在になっていくための方法である 8.光明思想とは、神に戻るための旅であり、神そのものの性質でもある (1986年10月29日の霊示) 1.現在のアメリカの繁栄の基礎にあるのは光明思想であった 谷口雅春です。今日は三日目、第三章「光明思想の本義」ということで、講演したいと思います。 第一日目に天上界に帰ったときの話をし、第二日目、昨日は「生命の実相」についての話をしましたが、いよいよ私の霊言集の核心にと迫っていくのであります。谷口雅春が一代の事業とは、一言で言い表すとするならば、やはり光明思想、この四文字に集約されると思う。 光明思想と言うのは、先般も話を致しましたが、単に宗教として私が日本で編(あ)み出したものではない。つまり、アメリカ合衆国においてエマソンを始めとして、様々な光明思想家たちが出たのであります。そして今日に至るまで、アメリカ合衆国においても、光明思想の種はつきないし、また光明思想こそが新たな時代の啓蒙運動の核となっておる。 しかしながら、現今のアメリカの現状を見るならば、宗教というものは、概(がい)して活気がないと思う。なぜ宗教に活気がないか。それは彼(か)の国においては、キリスト教というものが、もはや形式的なる宗教に堕してしまい、その本来の機能を果たしておらぬからであります。 キリスト教というのも、清教徒たちが本国であるイギリスからメイフラワー号に乗って一六二〇年頃ですが、アメリカに渡ったときには、非常に清新な気持ち、真新しい気持ちで新天地開拓という気持ちで一大事業を展開したのであります。そのころの人々のキリスト教に基づく新天地、すなわち新たなる地上天国を創らんとする願いは非常に新鮮なものであり、かつ、人々の気持ちを大変奮い起こさせるものであった。だから、その清教徒たちは清新な気持ちに溢(あふ)れ、期待に溢れて新しい国造りということに励んだのであります。その頃にはキリスト教というものも、まだ生命を持っており、新しい人々の活力源として機能していたのであります。 ところが、キリスト教も徐々にアメリカ本土に教会制度が出来、その教会の信者獲得という方向で、動いていったときに、残念ながらそれは形式、本当の形式になっていったのであります。 プロテスタントの本当の意義は何かと言うと、改革であり、イエスの時代に帰るという意味であった。しかし残念ながら、イエスの時代に帰るという新鮮な気持ちで始まったルター、カルビン以来のこの新教の流れも、やはり教会制度をつくったという問題のために、やがてはその本来の神性というもの、本来の機能というものを人々に伝え得なくなってきた。そしてアメリカという国でも、そういう新教という流れがあっても、それがだんだん力を失っていったのである。 しかし、これではならしということで、一八○○年代半ば頃から一つの改革運動が起きたのだ。これが一つには、たとえば、政治家においては、リンカーンなどを中心とする政治改革であり、民主主義の流れである。しかしながら、もう一つの本筋の方での流れというものがあった。これがエマソンなどを中心とする一つの動きであります。 光明思想というものは、一体誰を始祖とするかということが非常に分かりにくい思想でありますが、この一八○○年代のアメリカには、エマソンを始め様々な光明思想家たちが出たのであります。 そうして一九〇〇年代に入ると、その光明思想を経済的繁栄ということに応用する人々が出てきた。それが、たとえばロックフェラーであり、ヘンリー・フォード一世であり、たとえばアンドリュー・カーネギーであります。こういう大会社の創立者たち、彼らがその光明思想を自ら実践して見せたのであります。現在アメリカという国は大変繁栄しておりますが、その繁栄の基礎にあるのは、実に、この光明思想であったわけだ。 この光明思想というのは、このように単なる天国世界にあるのではなくて、この地上で、一つの繁栄ということを表わそうとする概念であったのであります。神というものは、イエスの時代にイエスが語った如く、富んだ者、富者を天国に入れないとつっぱねたものではないのであります。神というものは、もう少し心の広い人間であります。 人間という言葉が悪いとするなら、神、あるいは、神に近い高級神霊たちというのは、そうした大きな心を持っている人たちであります。その高級神霊たちの心のなかに、このような近代、あるいは、現代のような文明社会において本当の宗教が、経済的なる繁栄をまったく無視するようなものとして考えるわけはないのであります。 釈尊(しゃくそん)の時代は、乞食(こじき)坊主で終わってよかったかもしれません。しかし現代、この高度産業社会において、宗教家たちがお布施だけを求める乞食坊主として生きていくのは、あまりにも時代環境が違いすぎるのであります。今、真に悟りを開いた人が、布施を求めて一軒一軒をまわっていくということが、本当に人々に法を説ける状況にあるかというと、必ずしもそうではないのであって、それはむしろ、蔑(さげす)まれる生き方であろうと思う。 2.一燈園の西田天香の思想はどこにあったか ここで私は、アメリカの例から日本の例に移りたいと思う。大正期には、大正デモクラシーといって様々な啓蒙(けいもう)文化というものが栄えたのだが、その間に一人の宗教家が出てきた。大正期の生んだ宗教家、この人の名を西田天香(にしだてんこう)と言う。現在でも一燈園(いっとうえん)というのがあって、この一燈園という活動が細々ながら続いてきているようであるが、この一燈園の運動というものも、大正期においては大変斬新な動きであった。 この一燈園の始祖である西田天香の思想は一体どこにあったか。それを今、少し分析してみたいと思う。 西田天香はあるとき、まあ私も若いころは同じような状況であったが、罪の意識でずいぶん悩んでおったのであります。そうして宗教家として生きる以上は、何の搾取(さくしゅ)もしない、そういう生き方をしたいと願ったのであります。 当時はドイツのマルクスとか、ああいう思想も入ってきておりましたから、搾取(さくしゅ)というような言葉も、階級闘争というような言葉も次第に日本に入ってきておりましたが、宗教家として考えたときに、他人から搾取するというものの考え方を大変嫌ったわけであります。 しかし、彼がどう考えても、どう考えても、他人の搾取をしないで、人間というものは生きてゆくことはできない。昨日、一昨日と私が語ったように、人間が生きていくというのは必ず誰かの力を奪っていることにもなり、誰かの恵みを奪っていることにもなり、必ず他の人々の犠牲のもとに生きてゆかなければならぬ人生なのであります。 西田天香は若き日にそうしたことでずいぶんと悩まれ、また、生活にも困られた。人から物をもらおうと思っても、それを自分がもらうということは他人の物がそれだけ減るのである。そのことに関して、精神的な苦しみを味わったのである。 しかしあるとき、西田天香氏は神社であったかお寺であったか、私ももう記憶は定かではないけれども、そのなかで、もう何日も食べていないで、うつらうつらとしておったのである。そのときに彼は、赤ん坊が母親に抱かれて泣いておるのを見た。 赤ん坊は、なぜ泣いているのか。母の乳がほしいと泣いておるのである。赤ん坊はただひたすらに、無心に、自分がほしいというものを求めて泣いておるのである。その赤ん坊の乳が飲みたいという思いは、これは果たして搾取の思いであろうか。奪い取ろうという思いであろうか。西田天香はこれを考えたのであります。 しかしどう考えても、これは自然なる感情の発露であり、自然の思いであるということが明らかなのであります。赤ん坊が乳を求めて泣くということは、これは本然、自然そのものであって、何らの意図があるわけではなく、何らの搾取の意図があるわけではなく、何らの欲望の表われとはいえないのではないか。それは自然そのものではないのか、西田天香は、こう考えたのであります。 そして無心の赤ん坊が母親の、自らの母親の胸にしゃぶりついてその乳をすするということ、それ自身はごく自然な行為であり、母もまた、それを喜ぶということを知ったのである。 女性にはなぜ乳房があるのか、それは赤ん坊に乳をふくますためである。赤ん坊に乳をふくまさなければ、女性の乳房はどんどん膨(ふく)れていって女性は苦しがる。だから赤ん坊に飲ますこと自体は、決して搾取でもなければ奪われることでもない。それはごく自然である。欲する者と与えたいと思う者が、ごく自然に一体となって、互いに生かしあっている。この情景を見たときに、西田天香は一つの悟りを得たのであります。 そのとき、その境内(けいだい)で彼は、一合ほどの米が境内の土の上にこぼれ落ちているのを見たのである。彼はそれをそっと両手ですくい上げた。無一物の自分であるが、境内に落ちている米を偶然見つけた。そして、この米を自分が食したところで一体誰に迷惑をかけることがあろうか、彼は、こう考えたのであります。 そこで、彼はそのお米を、ある知り合いのお宅の勝手口まで行って、「申し訳ありませんが、このお米を炊(た)かしていただけませんか、私は三日ほど食べておらんのです」とお願いをしたのであります。そして、一合の米をお粥(かゆ)にして食べたわけであります。 そのときに、そこの女主人が大変感心して、そういう物を大事にするそうぃう心掛けのいい方であるならば、どうか私のところで働いてくれませんか、と所望されたのである。 こういうことがきっかけで西田天香は、だんだん悟っていったのである。そしてあるとき奉仕ということを考えた。彼は自分には何にもない、ただ自分は奉仕ということができる。 まず、神社やお寺の境内などを箒(ほうき)を借りて掃(は)き清めることから彼は始めていったのである。何を求めるでもなく掃き清めていった。そうすると店屋の主人が出てきて、「あなたお腹がすいただろうから、このうどんでも食べませんか」というふうに彼に話した。彼は何も持っていないのに、そしてまた、お金を持っていないにもかかわらず、餓死(うえじ)にすることがなかったのであります。 そのようにして彼は、さらに悟りを進めていった。すなわち人間は奉仕に生きておれば、何を労することなく他人を搾取することなく与えられるのだということに、彼は気がついたのである。これが彼の発見であり、彼は、「無一物中無尽蔵(むいつぶつちゅうむじんぞう)」、こういう言葉に思い至ったのである。 人間は、自分が餓死にするのではないかと思って食糧を買い込んだり、飲み物を買い込んだり、あるいはお金を銀行に預けて一生懸命守ろうとする。ともすれば自分がある日突然無職になり、無収入になり、途方にくれるのではないかという危惧(きぐ)の念からそうしたことを始めるのである。 ところが西田天香の発見は、人間というのは、どうやらそういうふうにあれこれと取り越し苦労をしないでも、天の親様が養ってくれるものらしいと、そういうことに彼は気がついたわけである。 天の親様というのはお天道様であって、彼はお光と呼んでいたけれども、お光のお陰で人間は生きていくことができるんだと、そういうことで彼はその「無一物中無尽蔵」の生き方というのを一生実践したのである。 そうして一燈園の弟子たちはみんな、奉仕の生活ということを中心にして、一日のうちの奉仕の時間がくると、京都の市内とか、そういう処へ出かけて行って、家へ入っていっては、「一燈園の者です。便所掃除をさせて下さい。」あるいは「庭掃除をさせて下さい。」こういうことで、彼らは下座(げざ)の生活というふうに呼んでいましたけれども、人がいちばん嫌がることを奉仕する、そのなかに生きていく糧を、お布施を受けると、こういう生活を発明していったのです。 一燈園の奉仕業というのはずいぶん有名であります。そして西田天香の考えによれば、こういうふうにして下座の生活を実践しているうちは、人間は本当にその日のことを心配しなくとも、天の親様が養ってくれると、こういうことを考えたわけであります。 3.神理伝道には時代の要請を見誤るな しかしながら、一燈園が現在繁栄しているかといえば、繁栄していないのであります。 なぜ繁栄しないのか。それは、少し時代的なものの考え方が欠けているからであります。釈尊の時代はそれでよかったでありましょう。托鉢(たくはつ)をして、あるいは病気を直してあげたり、拝(おが)んであげたりすることによって、お布施を受けるということでよかったかもしれない。しかし、現代においては、そういう生活は特殊な、つまり世捨て人とかそうした社会生活を持っておらぬ人間ならば実行可能であるにしても、実際に職業を持って生きている人間にとっては、なかなかできるようなことではないのであります。 会社勤めをしている人が、下座(げざ)の生活だといって、他人の家に入っていって、トイレ掃除ばかりをするわけにはいかんのです。ましてや文明は進み、トイレは今や水洗便所であり、お風呂もまたそうしたものである。汚いものがだんだんになくなってきている。こういう状況の下で下座の生活というものが苦しくなってきた。 また庭掃除、庭の雑草を抜こうとしても住宅環境が悪くて庭を持っていないような人ばかりとなってきたのである。まあこういうことで、次第にそういう生活は成り立たなくなってきつつある。 私はここに、時代の要請というものを見誤らないようにしなければいけないと思うのである。人間というものは、何時(いつ)の時代でも、心は同じであっても、そのあらわれ方は違っているのだ。だからこそ、その時代の要請というものを考えねばならない。 釈迦の時代は戦乱の世であり、そういう身分制社会ということの矛盾というものが、吹き出した時代であった。ところが現代という時代は、まあ四民平等と言われているけれども、どんな家に生まれようとも、その人本来の才能と努力によって自分の運命を切り開いていけるような、結構な時代となってきているのである。 こうした時代に生まれて、何も托鉢坊主をする必要はないのである。何も便所掃除をして歩いたり、頼まれもしないのに、寺の境内の掃除をして歩く必要はないのである。人間にとって、もっと大切なやり方があるのではないかということだ。 4.正しき者は繁栄するということを実証する時代 その大切なやり方とは一体何であるのか。それはこの時代において、神仏の心に適(かな)うことは一体何かということだ。 人々の心のなかには、悪人世にはびこるということで悪いことをする者が繁栄して、正直者は損をしている。また、クリスチャンでも、イエス様の信仰を通して生きている人は、要するに貧乏がいいと、この前も言ったように受難ですね、受難礼賛というようなものの考え方があって、神よもっと私に苦難、困難を与え給えと、こういうことをいつまでもやっておったら、現代においては落ちこぼれていくのであります。 仏教においてもそのとおりであって、仏教の昔の托鉢坊主が、今は寺の住職となってスクーターに乗って、家から家へと廻り、一回に何十万円ものお布施を取り、あるいは戒名とか称して、ちょっと筆を舐(な)めたくらいで何百万もの値段を取っておる。こういうことをして事業を営んでおるのである。 また、お寺の制度も現在みて見れば、株式会社制度になっており、中心の寺があればその末寺ということで、名前を貸してやるということで毎年その末寺から何十万かの奉納金を取るという、こういうふうな制度になってきておると思う。非常に堕落した姿である。このなかには、自らのみの利益は考えておろうが、世の人々をどうするかという考え方がまったくなくなってきている。そしてまったくの葬式仏教となってしまっている。 宗教の本来の意義というものが、要するに、化石化して分からなくなっておるのである。別に葬式だけを担当するのが仏教の役割ではないはずだ。正月に、明治神宮に詣でてもらうだけが、日本神道の生き方ではないはずだ。正月にだけ伊勢神宮に行ってもらうことが、天照大神のお心ではないはずである。そういう形式に堕した宗教、あるいは、原始時代の宗教に帰ろうとするような運動は、一つの矛盾を内包しておるのである。 では今、私たち宗教を考えている人間にとって、大切な考え方は何だろうか。それは正しき者は繁栄する、これを実証していくことではないのか。神の心のままに生きている人間は、この世的にもやはり幸せになっていくということの実証こそが大事なのではないか。 この世を刑務所のように考えている人間にとっては、別に宗数的な信仰を持っているということが、この世の不幸を意味してもよいかもしれない。しかしながら私は、この世すなわち三次元地上世界を、刑務所のようなもの、拘置所(こうちじょ)のようなものとは決して思っていないのである。 5.現代の釈迦は出家を説くまい この世を拘置所、刑務所だと考え、人間はカルマの刈り取りのためにこの世の中にぶち込まれて、無理やり修行をさせられているのだと、そういうふうに思っている人がいる。しかし、こういう考えを持っている人は、なかなか繁栄ということがあり得ないと思う。 確かに、仏教で言う、カルマの刈り取りという法則はある。前世のカルマ、前世でつくった因果、これに対応する結果というものが、今世にも出てきて、それに応じた環境を選んでいるということは事実である。ただ、今世の使命というのは、決してカルマの刈り取りだけではないということだ。新たな環境のなかで自分自身を磨(みが)いてさらに発展させていくということが、今世の使命なのである。 そうであるならば、今世で人々がしなければならないことは何であるのか。かつて二五〇〇年前に釈迦が出て、釈迦弟子であった者が、また今世釈迦弟子として出ておられるとしても、同じように托鉢をするわけではないはずである。今世出てきたら、何を考えるであろうか。 今世に釈迦が出たとしたら、一体彼は何を考えるであろうかということを、私は考えてみたいと思うのである。単に出家して、同じように洞窟のなかで坐禅を組み、肋骨(ろっこつ)が出るような、痩(や)せるような修行をして、その後、村娘のミルクを飲んで悟るようなことはおそらくないであろう。と、そう思うのであります。 今世で釈迦が悟るとするならば、現代のこの時代の環境のなかにおいて、人々を、一人でも多くの人を幸せにするためには、一体どういう法を説けばよいのかということを中心に考えるはずである。会社に勤めている人をすべて辞めさせて、箒(ほうき)で掃(は)き掃除をさせることはないはずである。 では、今世に釈迦が出てきて言うことがあるとすれば、一体何であるか。それはやはり、生きている人間の持ち場というものを大切にしながら、そのなかで最高度に自分の魂というものを磨き、さらに魂を磨くのみではなくて、この世の中を理想郷としていくように、仏国土、天国としていくように努力するはずである。 6.今求められている法は、発展の法、繁栄の法である それでは、この世を仏国土としていくためには、如何(いか)なることになればよいのか。これを考えねばなるまい。この世を仏国土としていくためには、心正しき人たちが、社会の中で、然るべき役割について、発展、繁栄していくことが大切なのではなかろうか。 現在、サラリーマン社会というものが非常に進んでいるというか、流行(はや)っている。昔のお城がなくなり、現在では、その昔のお城が、それぞれの企業体となっておろう。そして、たいていの男女は今、その企業体のなかに入ったならばそのなかで三十年、四十年の人生を送っている。つまり、人生経験の大半を、そのなかで生きることとなるのである。 この企業体のなかにおいて、一体如何に人間は生きていけばよいのか、ということだ。そこで考えられる理想的方法というのは、心を磨き、人格高くなればなるほど昇進をし、人の上に立ち、より多くの人々に影響を与えうる人間の出現ではなかろうか。私はそう思うのであります。 一時代前の宗教家という者は、ともかく欲を持たないということをよしとしていた。だから会社勤めをしても、そうしたことに意味を認めない。休みの日に禅寺にでも行って坐禅をするとか、どこかのヨガ道場へ行ってヨガでもするとか、そういうことをするのが本当の修行であって、会社勤めをしている間は、要するに金銭をもらえばいいと、古い宗教家タイプの人間が考えるのはこういうことである。 しかし、その結果は何だ。その結果招来されることは、企業のなかでは、要するに唯物(ゆいぶつ)的な人間、権勢欲の強い人間だけが偉くなっていって、神理を学ぼうとするような意欲のある人たちは、企業からどんどん弾き出されていくということではないだろうか。いわゆるドロップアウトということだ。私は、これではいけないと思う。 今必要なのは、在家の法なのだ。通常の人間として生きながらそのなかに、神の繁栄を見、神の発展を見ていけるような、そういう生き方こそが、今求められている生き方なのではないであろうか。私は切に、そう思うのであります。 では、そうした普通の人々の修行、魂修行というものは、この現代社会のなかで行なわれているということをやむを得ないこと、そういう前提として見たときに、彼らを出家させるのが目的ではないということを当然と見たときに必要な法は何か。それはやはり、発展の法であり、繁栄の法ではないか。私はこう思うのであります。 これは決して、私が生長の家の総裁であったから、人間には生長が大事だと言っておるのではない。生長の家であろうがなかろうが、やはり人間は生長していく存在であり、無限の生長をすべきものであると、私は思うのだ。 無限の生長をするために人間が生きており、永遠の魂修行をしておるのでなければ、何のために何回も何回も生まれ変わってくるのか。その度に生まれ変わってきては、様々なカルマをつくり出し、心を真黒にして生きていくことが一体どれだけの意味があるというのか。人間は決して苦労だけをするために今世に出てくるのではないのだ。自らの霊性、自らの人格を高めるために生まれてきているのである。 そして、この三次元に生まれている以上は、この三次元というものをまったく無視してはいけないということを私は思うのである。人間の幸福は、決して西方浄土にはない。南無阿弥陀仏と願って、西方浄土に生まれ変わることが、人間の幸福ではないのである。この世の中の発展、そしてそれは神の子としての自己実現、そういうものでなければいけないと思う。 7.光明思想とは、人間が神近き存在になっていくための方法である ここで洋の東西を問わず、発見される一つの大神理がある。この大きな神理、大神理こそ光明思想なのだ。光明とはその字の如く光という宇と明るいという字で書いてある。 そもそも神の光というものは、明るいものなのだ。そういう暗い、じめじめとしたものではないのだ。お寺の境内とか、お寺の裏にある苔(こけ)むしたそういう古びた建物のなかに篭(こも)るようなことが、光とは関係ないということだ。 宗教家たちは、ともすれば、カビ臭いじめじめしたところに篭ろうとする。しかし、洞窟のなかに篭ることに現代的神理はない。光そのものは明るいのである。光は明るいのだということを認め得ずして、どうして光であるということがあり得ようか。 光とは何か。光とは神の性質ではないか。神というものは人格神のようにも言われておるけれども、一般に現代に伝わっている様々な宗教で言われている人格神というのは、結局のところ、神に近い高級霊たちであり、この地上に肉体を持ったことがある霊だということだ。 本当の神という者を誰も見たことがない。私でさえ見たことがない。天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)と言われても、天照大神と言われても、伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と言われても、しかし私たちは神ではない。神と言う意味は上下(かみしも)の上(かみ)、すなわち、上位にある者という意味での神でしかないと言うことだ。ゴッドと言う意味、宇宙の創造者としてのゴッドではあり得ない。 天之御中主にしても、今から三千年近く前に肉体を持たれた方であり、天照大神(あまてらすおおみかみ)にしてもそうである。私にしてもやはり、二千数百年前に、肉体を持った人間であった。そういう意味において人の上(うえ)に立つ、人の上(かみ)に立つという意味での神であったということだ。 しかし、根源の神は何か、根源の神というものを、私たちは目に見、それを聞き、それをつかむことはできない。ただ、高次元の存在となればなるほど、神の存在をますます隣接したものとして感じていくのであり、神の存在というものを臨在(りんざい)として感じるものである。 私は今、八次元、あるいは九次元、こうした言葉で今、あなた方は呼んでおるのであろうか、こういう世界の境目というか、あなた方が太陽界といっているかもしれないこういう世界の住人である。こういう世界に居て今思うに、こちらの高級霊界の存在というものは、上の方の存在となればなるほどやはり光が増してくるということだ。これが一つの推論の根拠なのだ、神が光であるということの。 四次元よりも五次元が、さらに六次元、七次元、八次元と高次元に行くほど、神に近い存在となっており、高級霊たちの存在となっており、そのなかには、神の光が溢(あふ)れておるのである。光がだんだん強くなっていくのである。そして高次元の存在になっていくと、人体というものがもはやなくなってきて、光そのものとなっていくのだ。 私たちは自分の肉体、あるいは霊体は、現在はもう光の束であるということを知っている。光そのものなのだ。もはや人間的な属性はあまり残っていない。人間的な属性の目でもって、感覚でもって、日々の行動というものを振り返ることはあるけれども、残念ながら、私たちはもう飲み食いをするわけではない。また、手足があるように感ずることはできても、本当にそういうものがあるというふうには思ってはいない。 谷口雅春というのはもう光であり、光の化身であり、光の存在であるのだ。こういうふうに高級霊になればなるほど、神は光であるということをはっきりとつかむのである。 そして、光とは何かと言えば、光の属性は、要するに明るいということなのだ。これが光明思想の意味であり、光明思想というのは本来、神近き存在に人間がなっていくための方法であるということなのである。 では、地上の人間は、一体何のために魂修行をしているのか。魂修行の目的は、結局、高級神霊へと進化していくためではないか、永遠の転生輪廻を続けている理由もやはり魂修行にあるのではないのか。その魂修行の目的は神に近づいていくことではないのか。神近き高級神霊に近づいていくことではないのか。そして、神近き高級神霊に近づいていけばいくほど光が強くなってくるものであるならば、この地上の人間の修行の目的も、また、光に向かっていく旅でなければならないということだ。 光に向かっていく旅と言うのは、その人の人生がますます明るくなっていかなくてはならないということだ。 8.光明思想とは、神に戻るための旅であり、神そのものの性質でもある では、どのようにして生きたら、地上の人間は、そうした光明というものを自らの身に体現することができるのであろうか。 まず第一に、自らが神の子であるということをはっきりと認識するということである。人間というものは自分の思ったとおりの存在になるのである。自らは神の子と思わなければ、人間はどうなるか分からない。唯物史観(ゆいぶつしかん)のように、人間は土くれの集まりのように、まるで粘土からできたように思っているような、そういう人生観を持っていると、魂の尊厳というものも、おそらく無くなっていくであろう。人間はまず、第一に神の子なのだ。そこからすべてが出発するのである。 そして第二に、神の子であるならば、日々光に向かって、明るさに向かって生きようということだ。それはどういうことかというと、心が神の姿を表わしているものとすれば、心を日々光明思想で満たしていくということだ。これが第二番目だ。 そして第三番目に大事なことは、要するに、そのような光明思想を持って生きていることの証拠として、自分および自分のまわりが、だんだん明るくなっていかねばならんということだ。幸せになっていかねばならんということだ。これが証明である。これが証拠である。これが証拠となるのである。 このように、まず第一に、人間が神の子であるということを信じ、第二に、光明の思想を心に常々把持(はじ)し、第三に、その結果としての光明生活、幸福の生活を自分のみならず、まわりの人と同時に、同じく共有していくということだ。こういう生活が光明の生活なのである。 今日は「光明思想の本義」ということで話したけれども、やはり光明思想というのは一つの思想の方便ではなくて、本来の神に戻るための旅であり、神そのものの性質でもあるということだ。これは一つの思想ではなくて、そのもの、神そのもの、神の本義だということだ。これが光明思想ということなのであります。今日の私の話は、これをもって終わりたいと思う。
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目次 1.仏教とユートピア 2.儒教とユートピア 3.ギリシャ哲学とユートピア 4.キリスト教とユートピア 5.ユートピア思想 (1988年4月18日の霊示) 1.仏教とユートピア さて、みなさん、お早う。今日は、ユートピア思想そのものについても、勉強していきたいと考えます。 まずね、いろんな教え、正法神理がありますが、それらの正法神理とユートピアとの関係って言いますかね、兼ね合い、思想のなかのどういうところに、ユートピアの考えが出ているか。こうしたことをザッと見てみたい。こういうふうに思います。 まず最初に、私にとって最も興味もあるし、得意でもあった仏教ですね、仏教の考え方とユートピアの関連について考えてみたい。このように思います。 仏教はみなさんご存じの通り、今から二千五、六百年前に、インドでお釈迦様が生まれて、そして説いた教えですね。四十五年間、いろんな教えを説きました。この間の事情は、私の書いた『人間釈迦』四部作、こういうものにもいろいろと出ていると思いますし、それ以外にも仏教ということでは、随分いろんな文献が出ていますので、みなさんもなるほど仏教というものはこんなもんだなと、こういうふうに思ってるでしょう。 あるいは旅なんかしてホテルなんかに泊まってみると、ホテルのなかでね、いつも机の上に二冊本が置いてありますね。ひとつは聖書ですね。もうひとつは仏典ですね。仏典の対照訳って言いますかね、口語訳って言いますか、そういうのをのせていますね、置いてあります。旅先で仏典を読んで寝れるようにと、まあこういう工夫が、いろんなホテルでなされているように思います。 まあこうして仏教というのは、私たち日本人にとって非常に関(かか)わりの深い教えであります。切っても切れない縁があると思います。決して、奈良とか京都に行けば仏教に会うというのではなくて、私たちの日常生活のなかにも非常に深い関わりがあります。ただその仏教も、いかんせん二千教百年の流れのなかで、その歴史的な意味合いを薄くし、そして現在では亡骸(なきがら)に近い格好になっていると思うのです。 で、まあそうした仏教だけれども、もともとお葬式のためにだけやっていたのかというと、そんなことないんですね。お釈迦様はお葬式の作法なんて、そんなの興味もなかったんです。もともと肉体に興味のなかった方ですから、お葬式の作法なんてどうでもいいんだね。また、お釈迦様は観光収入なんか全然気にしてませんでしたから、そうした仏教ではなかったと思います。 やはり仏教と言いつつも、ひとつの真実の学問であった。まあこういうことが言えます。神理の体系、また神の教えを、大学でも教えてくれないような、そうした神の教え、神への学問、神の学問を教えていた。そしてお弟子さんたちは、それを一生懸命勉強していた。そして自らの悟りを得ようとした。そして、それを広げようとしていったと、まあこういう歴史であったと思うのですね。 さて、じゃあ仏教思想のなかに、どういうふうにユートピアとの関連が見出(みいだ)されるか、こが問題となるわけであります。こうしてみるとね、結局仏教のなかでも小乗仏教、大乗仏教、いろいろあるけれども、小乗っていうのは結局ね、個人のユートピアだな、個のユートピアの探究ではないかなと思うんです。私も、もうすでに語ってきましたけれども、人間の心が結局は幸福への鍵(かぎ)である。そしてユートピアづくりの鍵である。まあこういうことを何度も言いましたが、まさしくその通りですね。そして、心の問題について徹底的に探究したのが、仏教でもあったんじゃないか。まあそういうふうに言えると思います。 心が調和されて安らぐ、そして幸福感に満ちている。これはまさしく、個人の内部でのユートピアの建設そのものになるわけですね。したがって仏教は、そういう意味で、非常に個のユートピアということを重視した。そう言えるんじゃないかと思います。 そして、大乗の段階に至って、いろいろ人びとを救っていく。大乗っていうのは、まあ大きな乗り舟だねえ。大きな船、乗り物、そういうことですから、まあ渡し舟でも千石船(せんごくぶね)みたいな大きな船でね、それで多く人も乗せられる。まあこういうことだね。こういうユートピア建設、すなわち、個人一人が楽しんでいればいいというのではなくて、やっぱり集団で、その幸せな感覚を共有し合う、そして維持する。こういうことができるようになっていく。これが大乗的ユートピアの世界ですね。 だから仏教は、やはりその根本に、ユートピア思想を持っていると考えていいでしょう。どうしたら人間が本当の意味で幸せになるか、これを探究したのではないか。こう言えるんではないかと思います。これが、「仏教とユートピア」というお話です。 2.儒教とユートピア まあ仏教は、そういうことで話をしましたが、儒教はどうか。儒教っていうのも、やはり今から二千五百年、あるいは二千四百年かね、よく知リませんが、その昔に、中国に孔子様という偉い方が出られて、そして説かれた教えというふうになっていますね。 まあ『論語』とかいろいろありますねえ、孔子様の教えというのが、弟子との対話篇で『論語』というのがあります。そしてこれも二千何百年にわたって、中国大陸でも読み継がれてきましたし、日本でも随分、勉強されてきた本ですね。そして、人びとの生きる糧(かて)となった。則(のり)となった。まあこういうことがあると思います。 さて、『論語』において孔子様がいかなる思想を開陳(かいちん)しているか。まあこれは私に聞くより孔子様に聞いた方が、もちろん早いでしょうね。そう思いますが、ただね、彼はあまり霊的なものは重視しなかった、という事実はありますが、やはり人間づくりということに、非常なウェイトを置いたんですね。学問の徳と言いますかね、学問をする、学ぶということを通して、どのように徳性を磨いていくか、こうしたことに孔子様はウェイトを置きました。 なぜそういうことをしたかと言うと、結局、霊的世界のみにどっぶりと浸(つ)かってしまうと、人間はやはり勝機(しょうき)を逸してしまうことが多いと。そういうことだね。霊的世界について、孔子様は本当に知らなかったかといったら、そんなことないんです。知ってたんですね。知ってたし、いろんなインスピレーションと言いますか、指導霊の指導を受けていたことは、事実そういう状況にはあったわけです。 ただ、彼は非常に頭のいい方であった。頭のいい方だったんですね。まあ政治家でもあって、官僚でもあったわけだけれども、また説法家でもありましたが、頭のいい方であった。そして、多くの人を長い時間、何百年、何千年にわたって導いていくためには、どのようにしたらよいかということを考えたけれども、やはりそれには普遍的な方法論が必要である。霊的体験というのは個人に属するものであって、普遍的なるものとはどうしても言えない。こういうことで「学問的知性」というものを、かなり重視したのではないかと思います。 そしてソクラテスなんかもそうでしょうが、「学徳」というものね、これの探究をしたんではないか。そして、いろんな徳目をあげて、それを磨くように努力せよ、こういうことを人びとに教えたわけですね。そうしてこの思想そのものが、後の中国の官僚制度と言いますかね、人材登用に用いられていった。これはみなさん今は当然のことだと思っているかも知れないけれども、非常に画期的なことでもあったんです。 今、日本では司法試験とか言って法律の試験があったり、あるいは公務員試験とか言ってね、教養試験だ、専門試験だなんてやってますが、そうしたものじゃなくて、この孔子の『論語』であるとか、あるいは『大学』であるとか『中庸』であるとか、いろんな本があの時代に出ていますが、こうしたものがテキストになって、その後、何百年の間、中国の約千年以上でしょうか、官吏登用の試験題目になったんだね。そして、それを学んでよくできた人が登用された。これを「科挙(かきょ)」と言いますね。科挙の制度がありました。 こうしてみると、光の天使の言行録や思想を勉強した者が、国家の有為(ゆうい)な人材として認められていく。こういうシステムが、厳としてあったわけです。これをみると、現代、いろんなことをやっていますが、ここに孔子の儒教、あるいは釈迦の仏教、これらを兼ね合わしたような構想が、裏にあるということが窺(うかが)われるわけです。本当に勉強して身につくと言いますか、損をしないものというのは、実は、光の天使たちの言葉の勉強、あるいは神理の勉強なんですね。 これは、この世とあの世を貫いていく勉強であって、この世で勉強したことが、あの世でそのまま役に立つんですね。まあ天国への予備校にもなるわけです。そうした天国への予備校ともなる、天国への入学試験ともなるような試験を、地上の官吏登用にやった。こういうことが、中国における面白い特色として挙げられると思うんです。 こうしてみると、孔子の考えとユートピアというのは、どの辺に構想があったかというと、この神理の言葉を、できるだけ常識的な形でまとめて、そして、優秀な人たちにそれを学ばさせる。こういう方法をとったわけです。つまり人材輩出の方法、人材選出の方法、人材を磨いていくための方法として、神理というものを使った。まあこういうところがあると思うのです。 これは非常に面白いですね。まあ個人としての徳目、いくつかの徳をつけるために勉強していくわけですが、これが結局、国家社会的な人材にもなり得るということで、全体的なユートピアの戦士となれる。こういう方法があったわけです。 これはまた、私は現代にも生きる考え方だと思います。神理をより多く学んだ者が、政治や経済や、あるいはその他のいろんな領域で活躍できる。こういう時代が来なければ嘘(うそ)だし、本当の意味でのユートピアはできないですね。この意味において、神理をひとつの勉強対象として、人びとが我を争って勉強する。こういう体制をつくっていくことが、非常に素晴らしいことではないか。この勉強はまったく無駄がない。本当にそうだと思いますね。 そういう意味で、儒教のなかにも、ユートピアの対象として考えるべき思想が流れている。まあこういうふうに、私は思います。 3.ギリシャ哲学とユートピア さて、仏教、儒教というお話をしてきましたけれども、ギリシャの哲学はどうか考えてみたいと思います。まあ高橋信次がギリシャ哲学を勉強したのかと言うと、全然私は勉強していないんですがね。勉強してはいませんが、まあものの話としていろいろ聞いています。ソクラテスやプラトンやね、アリストテレスが偉大であることぐらい、みんな知っていますよ。当然知っています。私だって知っているぐらいですから、小学生でも知ってるかもしれませんね。 それほどギリシャ哲学というものも、大きな影響を持ちました。このソクラテス、プラトン、それからアリストテレスという三人の如来(にょらい)ですね、偉大な如来たちが同時代にバトンタッチして出て来たということ、この三人が山の尾根みたいになって、ギリシャ哲学を押し上げてるんですね。そして、彼らの思想というものが、西欧の歴史を創ってきた。まあこう言っても過言ではないと思います。 根本的な思想っていうのは、いつもそうなんですね。異常に高い思想があるんです。あるいは深い思想、一本の大木のような思想があるんです。そして、その周りにいろんな枝がついていき、葉が繁っていき、段々見事なものになっていくんですね。こういうふうに、ギリシャ哲学というものも非常に難しいですし、観念論的でもありますし、難解ですが、この難解さを超えたところに、やはり根本となるべき法の高みがあったのではないかと思います。 ソクラテスやプラトンなども転生輪廻(てんしょうりんね)ということを信じていましたし、プラトンなんかは、熱心な、実在世界の唱道者であったわけです。イデアの世界という話を随分していますが、地上を去った世界には、実在界には、本当のエデンの園というのがあって、そのエデンの園の影を私たちが見ているに過ぎない。こういうことを、プラトンは言っているようであります。 現実に、ソクラテスやプラトンも幽体離脱という行為を通して、肉体から抜け出して天上界に還(かえ)り、そしてさまざまなことを学んでいた。そして、ソクラテスなども守護霊がいて、いつもその守護霊の声に従って行動していた。まあそういうことが言われています。 これは、現代の哲学者たちがいくら考えてもわからないんですね。抽象的なことではないか、何かたとえ話じゃないかと思ってるのですが、守護霊と話をするってことが、現代の哲学者には全然わからないから、ソクラテスの行為というのは非常に難しい。わからなくなってます。だから霊的な側面を捨て、思想としてのみ取り上げようとする人もいるし、まあいろいろあります。ただ、結局、そのギリシャ哲学の高みはどこにあったかというと、実在世界の存在というものを、知的描写、知的方法によって、この地上に解き放った。こういう面があると思いますね。これを言うことができる。 また、ギリシャで大事なことは、いわゆる共同体社会っていうのが出来たことですね。ソクラテスの頃にね、ポリス社会って言うんでしょ、ポリスと言う都市国家ですね、小さな都市国家がいっぱい出来て、そのなかで自治が行われて、政治に参画するっていうことは非常に名誉なこと、名誉な政治参画ということになっていた。そして共同体建設のために、みんな頑張ってやったわけですね。こういうポリス社会というのがありました。都市国家というのがあったね。こうして、その市民であるということが非常に名誉であった。まあこういう時代であったと思います。 ここにやはり、個としてのユートピア、つまり個人としての悟りを求めて人間としての徳性を磨くという方向と、同時に、社会への波及、共同体のなかでのそうした理想の実現という現象、この両面があったと言えると思うんです。すなわち、やはり本当の正法神理と言いますか、まあ神理というのは、常に個人としてのレベルアップの側面と、共同体としての理想化の側面、この両方を持っているんですよ。この両方がなければ、本当のものとは言えない。ギリシャ哲学のなかにも、ちゃんとそうした流れはあるっていうことです。これを私たちは認めなきゃいけないと思います。 凡庸な哲学者であったのではなくて、彼らは非常に現実に対してね、厳しい目を注いでいた。ソクラテスにしても、現実に対して非常に厳しい目を注いでいて、このアテネの何と言いますか、詭弁家(きべんか)と言いますか、ソフィストですか、相手に知的議論を次々にふっかけて論破していったわけですが、結局現実の腐敗と言いますかね、これに対する非常に厳しい姿勢を持っていたと思うのです。 そのアテネのソフィストと言うか、詭弁家たちっていうのは、現代で言えばいろんな新興宗教でしょう。彼らは新興宗教家たちの間違いを、正していったということですね。こういう面があった。現実に随分配慮していたし、プラトンなんかも、随分、現実社会をどうやって光明化していくかということに心を配った。そういう形跡が窺(うかが)えるわけです。 4.キリスト教とユートピア さて、仏教、儒教、ギリシャ哲学と来ましたが、キリスト教についても触れておきたいと思うんですね。 キリスト教とユートピア思想との関連、ということですが、やはりこれもあります。ただ、イエス様はユートピア思想として、神の国ということを、もうはっきり打ち出しています。神の国という思想、英語でなんて言うんですか、ザ・キングダム・オブ・ゴッドと言うんですか、神の王国ですね、これを持ち来たらさんとする、地上にね、持って来た、私は持って来た、ということを言ってますね。 そして、聖書のなかでも非常に面白い思想として、悔い改めの大事さを言っていますね。仏数的に言えば反省ですが、「汝ら悔い改めよ。悔い改めた時に神の国はそこに近づく」「天国はそこに現出するんだ」。こういうことを随分言っています。「心改めなければいけない。考えを改めなければいけない。そこでグラッと神様の方に心が向いた時に、天国が出て来るんだよ。神の王国っていうのは、そこにあり、かしこにありというような、そんな王国じゃないんだ。そうではなくて、それは心の王国なんだ」。こういうことをイエス様は言っているのですね。「だから、人びとが間違った念(おも)いや行いというものを悔い改めた時に、そこにたちまちにして神の王国が現れるんだ」。こういうことを言っているわけです。 まことにこれは、革命的な言葉であったわけです。当時、王国というのは、やはり建造物といいますか、お城があって、兵隊がいっぱいいて、そして国を守って、王国ができる。こういう考えがあったわけですが、イエス様の言う王国というのは、そうじゃない。一人ひとりの心のなかにつくる王国であったわけです。心のなかの王国、これがイエス様の言った王国なんです。 そして、イエス様はその心のなかの王国というのを、単に人間の本当の胸のなかに入っている、小さな王国だけを意味したとは思えないふしがあるわけです。「こうした胸のなかに小さな王国をつくっていくわけだが、その王国は実は神の天国とつながっているのだ。心のなかに王国をつくるということは、すなわち天国の住人になるということを意味しているのだ。神の王国にいるということと同じなんだ」、まあ、こういうふうに言ってますね。 ただ、イエス様もこのユートピア思想を説くにあたって随分、苦難、困難があったことは、みなさんもうご存じの通りです。大変ですね。だから神理をいろいろ説いたけれども、招かれる者は多いが選ばれる者は少ないと、そういうふうな言葉で言うように、なかなかイエス様の真実の言葉、神理がわかった人は少なかった。このように言えると思います。 でもみなさん、どうですか、聖書だと思わずに、キリスト教の思想だと思わずに、考えてごらん。胸に手を当てて考えてごらん。「悔い改めよ。天国は近づけり」、まあこういうふうに言ってますね。これは「反省をせよ。反省した時に、心が光に満ちたユートピアとなっていくのだ」、こういう教えですよ。簡単なことなんです。基本はいつも簡単です。 ですから、日々に自らの心を反省して、間違った念いや行いに関しては、徹底的に反省することです。そして、神様に詫(わ)びることです。「神よ、どうか許してください」。神に詫びるのが悔しかったら、高橋信次に詫びればいいですね。「高橋信次先生どうもごめんなさい。先生の本を読んで、これは漫才のネタ本だと思ってたら、実はいいこと書いてありました。私の罪を許して下さい。あなたを馬鹿にしたことの罪を許して下さい。本当はあなたは素晴らしい教えを説いていた。それをダジャレのタネ本だと思っていた私は、大変恥ずかしかった。先生どうぞ許して下さい」。こういうやり方ですね。 そういうふうに悔い改めた時に、神様や、あるいは高橋信次は、「よしよしええ子じゃ、ええ子じゃ」とね、「わかってくれたらいいんだよ。僕の気持がわかったらいいんだよ。ね、だから僕のことなんか別に気にしなくていいから、僕の本読んだらね、それで変わらなきゃいけないよ」ってね。全然変わらないんだったら、何のために読んだかわからない。本を読んだっていうのはね、ただ活字に目を通しただけじゃ意味ないんですよ。読んだら変わらなきゃいかん。心が変わらなきゃ嘘(うそ)です。心が変わったら、それを実行することです。そうでしょう。 そして私たちの本を読んで、霊的世界が本当にあるということがわかって、神への感謝の念が湧いてきたら「報恩」ということですね。感謝に対しては報恩、恩を報いていくということが大事ですよ。だから私の本を読んでね、神理を悟ったら、そのご恩返しは高橋信次にしなくてもいい。高橋信次の肖像画置いて、そこにお宴銭を上げたりね、灯明上げたりする必要は全然ありません。ないから、ただその有り難いという気持があったら、それを世の中に還元していきなさい。自分の周りの人に、自分が接する人に、その感謝の気持を還元していきなさい。 じゃあ感謝の気持を還元するというのは、いったいどういうことかね、どういうことだと思うかい。それはね、結局こういうことですよ。自分が知った神理、それをね、日々に実践していくこと。神様はそうした偉大な計画でもって、ユートピアづくりに励んでこられたんだ。そして、いつの時代も休むことなく働いておられるんだ。そういうことを知った時に、自分もユートピアの一員として、ちょっとは何かお返しをしたい、働いてみたいなあと、こう思うのが人間として当然のことですよ。これは当然の筋なんです。筋道なんですね。 だから、そういうふうに思ったら、やはり実践してみることです。イエス様の教え、キリスト教、クリスチャンでなければ救われんとか、教会に行かなければ救われんとかね、特定の教会に登録しなければ救われんとか、こんな思想はおかしいです。そうじゃありません。 結局ね、イエス様の思想というのはね、まあいろいろあるけれども、要約したらこの二点だと僕は思うんですよ。「悔い改めよ」「悔い改めた時に、神の国は近づけり」。まあこういう思想と、もうひとつは「愛」ですね、「愛せよ」ということです。「とにかく愛せよ。徹底的に愛せよ」ということです。「いろんなもの、人、神を、すべてを愛しなさい」。この二つです。これが、イエスの思想の核であろうと、私は思います。そしてね、ユートピアの原理もここにある。こういうふうに思えるのですね。やはり「反省と愛」、これがユートピアの原理なんです。 5.ユートピア思想 まあ以上、いろいろとユートピアについて、過去の思想に照らした話をしてきたわけですが、ユートピア思想というのもありましたねえ。「中世のユートピア思想」、まあこれは、私が言うよりも、『黄金の法』という本のなかに、中世ユートピアの思想のこともいろいろ書いてありますから、そうしたものも勉強されたらいいと思います。 結局、光の天使っていうのは、お坊さんだけではないっていうことだな。思想家としても出て来ているということです。そして、いろんなユートピアの思想というのが説かれた。これを学んでね、近代の国ができてきたんだ。社会ができてきたんだ。そうしたことを知ってほしいと思うんです。 そしてね、いつの時代にもね、根本にある核は、これなんですよ。いろんな思想家っていうのが出ますね。思想家が輩出するし、哲学者だとか、学者だとか出るけれども、それで時代というものに、その流れに乗って一時期脚光を浴びるけれども、やがて消えていく人と、脚光を浴びるか浴びないか知らないけれども、何百年、何千年経っても思想が残っていく人との違いはどこにあるかというと、根本にやはりユートピアがあるかないかなんです。 ユートピア思想が根本にある人の思想は、やがて残っていくんですよ。それは、ユートピアという考え方自体が、ひとつの大きな愛の流れだからです。これは愛なんです。愛の流れなんです。これがある人は残っていくんです。 それと、霊的世界について悟っている人、知っている人、この霊的世界というものを実感し、それをまあ、そのままストレートに語るか、あるいは脚色するか、やり方はいろいろありますが、この霊的世界、この実感をつかんでいる人の思想というのは深いですね。深いものがある。そして人の心を揺り動かすものがある。こうして、やがて多くの人たちを救っていき、多くの人たちに影響を与えていく。こういう面があるということです。 ここに、ユートピア思想の本当の姿があるわけなんです。だから、まあ宗教のなかにもご利益(りやく)信仰というような形で現れるものもあるけれども、こうしたユートピア思想というような、一層純粋化した姿で現れるものもあるということです。 中世にもいろんなユートピア思想家がいました。トマス・モアであるとかは『ユートピア』っていうような書物を出したそうですね。それ以外にもまあいくつかの思想家がいると思いますが、これからもまた、新たなユートピア思想が説かれていく時代が来ている。私はそう思います。 いろんなユートピアの原理を考えていく時代が来る。そして、人間としての理想のありかた、それから職場での理想のありかた、共同体としての理想のありかた、こうしたものが、段だん探究されていく必要があると思います。またそういう時代が来ているんですよ。みなさんは、そういう時代に生きているんです。 現代のユートピアとして、あなたは何を考える。どういう世界が展開したら、それをユートピア世界だと認定するか。まあこれを考えて下さい。私もこれから考えていくけれども、みなさん方一人ひとりも現代的ユートピアとはいったい何なのか、これを考えていただきたいと思います。まあそういう試験問題も出してみたいね。「君は現代のユートピアとはいったい何だと思うか。そのユートピア建設のために、どのような努力が必要だと思うか。それについて述べてみよ」なんてね、そんな試験問題も出してみたいなあっていう気持がします。まあそういうことですから、みなさんもこれをひとつのテーマとして、考えていただきたいと思います。
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目次 1.「正命」の現代的意味 2.単位時間の神理価値を高めよ 3.未来へ投資するライフ・スタイル 1.「正命」の現代的意味 「正しく生活をする」ということに関して述べてみたいと思います。 正業と正命の違い、これは職業と生活との違いというふうに考えればそれまででありますが、正命のなかにはもっと違った意味合いがあります。現代的に言い換えるとするならば、この正命というのは時間の生かし方と考えてよいと思います。 時間の生かし方に関する本は、数多く出ています。目を通された方も多いと思います。 またこの正命は、別の言葉で言うならば、ライフ・スタイルという言葉に置き換えてもよいかもしれません。「あなたはどのようなライフ・スタイルをよしとされるのか。」こういう問いかけです。あなたはどういう時間の使い方をよしとされるか。そして、どういうライフ・スタイルをよしとされるか、これは現代にも生きています。 現代社会のなかにおいて、あなた方の理想と考えるライフ・スタイルはどうであるか。こういう問いかけをされたら、サラリーマンのみなさんは正業と正命の違いがわかるでしよう。アフター・ファイブというふうに考えてもよいかもしれません。アフター・ファイブの生き方はどうなっていますかということです。この無限の時間をみなさんはどのように使ってこられたでしょうか。そしてその結果、現在自分がどうあるのでしょうか。そして今後、どうなってゆくのでしょうか。これを考えていただきたいのです。 時間を金貨にたとえた方もいらっしゃいました。――毎朝起きるたびに二十四枚の金貨がポケットのなかに入っている。ところが、見ていると、ポケットのなかから金貨を取り出してドブに捨てて歩いている人がいっぱいいる。それでもいっこうにおかしいと思っていない。時間はほんとうは金貨以上の値打ちをもっているものなのだ。それにもかかわらず、金貨を捨てたらおかしいと思っても、時間を捨てることをおかしいと思わない人があっちにもこっちにもいる。まことに嘆かわしい。――こういうふうに説かれた方もいました。 また『黄金の法』のなかにも書いておきましたが、二十四時間という時間のもとにおける平等性を考えてみることが大切です。何のもとに各人が平等であるか、時間のもとの平等ほどはっきりしたものはないのです。どんな人であっても、一日二十四時間しか与えられていません。この二十四時間を使って偉人になる人もあれば、まったく世の中を害しただけで終わってしまう人もいます。 天国・地獄は来世で分かれるといわれていますが、それらはすべて、こうした時間の使い方で分かれてきた世界なのです。自分の時間をどういうものに使ってきたかということです。 2.単位時間の神理価値を高めよ 時間管理ということは、現代的正法においてはどうしても必要です。これを無視しては進めないものがあります。それも単なる相対的時間、時計で計れる時間だけではなく、この絶対的時間という意味で考えていく必要があります。 自分の一時間の時間効率を高めることです。この時間効率は単なる作業能率とは違います。物を運ぶという意味での作業能率を高めるというものではなく、一時間に含まれているユートピア価値を高める、神理価値を高めるということであります。その人の一日二十四時間になしたユートピアヘの貢献度、神理への貢献度というものを、時間単位で割り出した時に平均打率が出てきます。この平均打率をどうしても高める必要があるのです。これが人生を黄金に変えるための秘訣でもあります。 この観点は、反省においてひじょうにだいじです。一日をどう生きたか、生活したかという反省は漠然としていてわかりにくいことが多いのですが、時間の観点から反省していけばかなりのところまでわかります。自分がどういうふうに時間を使ったかという観点から反省をしていくのです。朝起きてから夜寝るまでの間の時間の使い方を反省していくのです。そして、そのなかでどれだけ時間効率を上げてきたか、この時間効率は単なる作業能率のことをいうのではない。神理的立場から見て、ユートピア的立場から見ての時間効率をどれだけ上げたか、まったくそれに関係のない時間が多すぎはしなかったかどうかです。 デスク・ワークにおいても、確かにしっかりした仕事をしているということは、それ自休神理価値があることは事実です。それは小さい社会ではあるが、少なくともそのなかで役に立ったことは事実です。ですから、とくに神理にかかわる運動をしたことだけを言っているわけではなくて、ふつうの職場でデスク・ワークをしていても、そのなかにおいてきっちりとした仕事、よい仕事をしたということであるならば、それはそれでプラスと考えてよいでしょう。 その間に仕事でミスをおかしたり、あるいは他の人に迷惑をかけたり、取引先に迷惑をかけたり、マイナスのことをいっぱい起こしたならば、これは神理価値的にはマイナスになっていきます。ですから、その単位時間当たりの自分の仕事の内容を見ていくこと、これがだいじです。これが正命的判断からの反省です。 正業と正命とは似たところもありますが、正命をこのように、一日の時間の使い方という観点から照射していくことも可能です。正業はこれに対して、もっと大きな意味での仕事のしかた、自分の生き方といった点から考えればよいでしょう。 3.未来へ投資するライフ・スタイル また、もう一つは生き方のスタイルそのものです。これ自体について検討する必要があると思います。 あなたが今理想とされるライフ・スタイルはどういうライフ・スタイルでしょうか。これを考えていただきたいのです。何をもって理想とされるか、どういう生き方ができていけば自分としては本望なのか。この一日二十四時間という考え方を、もう少し中・長期的な観点から眺めてみるということです。 五年、十年、あるいはもっと大きな範囲のなかにおいて、自分の生き方を決めていくこと。これも正命のなかに入っていると思います。そうしてこのライフ・スタイルのなかで最も重要なのは、自分の自由になる部分です。自由になる部分の時間の使い方を特に考えていくことです。 二十四時間のうちで、生活必要時間があります。また仕事上、どうしても必要な時間もあります。これを取り除いた残りの自分にとって自由になる時間、これを使って未来を設計していく気持ちです。ひとつのプロジェクトです。自分の人生の計画設定、そしてその実践です。少なくとも、このライフ・スタイルにおいて、何らかの理想を持つべきである、というふうに私は考えます。それをただ漫然と過ごしてはならない、そう思います。 自分のライフ・スタイル、生活のパターンを築き、その生活のパターンのなかに将来の自分への投資にあたる部分を、必ず盛り込んでいくことです。将来的に自分にとってプラスになることを盛り込んでいくこと、これがだいじであると思います。いつ、どういう環境が現われても、どういう人間関係が現われても、自分が有為な人間として、また、優れた人間として、役に立てる人間として、また、人に喜ばれるような人間として生きていけるための、その資産を生活設計のなかで創っていくことです。これは大切なことであります。 このなかにはもちろん、たとえば読書をするというようなこともあるでしょうし、音楽を聴くということもあるでしょう。あるいは身体を鍛えるということもあると思いますし、カルチャー・センターのようなところに通う方もいらっしゃるでしょう。いろいろ考え方はあるでしょうが、未来への投資という観点から考えてみる必要があります。 たとえば私自身、どうしているかと考えてみると、最近読んでいる書物は、現在はまったく役に立ちません。しかし、あと三年ぐらいたったら生きてくるはずです。今、数年後のためのストックをつくっているわけです。このように、いつでもかなり先の蓄積を順番にしています。 今は、本書のように反省の方法などを説いていますが、頭のなかに入っているものは、まったく別なのです。他にもいろいろやっています。将来、三年後に役に立つもの、五年後に役に立つもの、十年後、二十年後、三十年後のことを考えてやっています。いろいろなことをして、そうとう根を張っているのです。根を張っているから逆に波風に強いという考え方もあるでしょう。これは『不動心』のなかでも説いておきました。 この正命のなかでは、やはり根を張るという考え方がだいじです。正業、職業的な考え方だと、とにかく今、与えられているところで最善を尽くすという考え方でしょうが、正命のなかには、人生の幹を太くし、また根を張るという作業が入っていると思います。これがおそらく、人生に余裕をあたえ、そして幅広い目でいろいろな人の考えを知る、理解するということの材料になっていくと思います。 ですから、正命のなかには現在の自分という立場を離れても、人間としての底力が出てくるように、余裕という観点も、できたら入れておいてほしいと思います。また、教養を身につけ、また体力をつけ、そしていろいろな形で人びとの役に立っていけるような、そういう投資戦略をぜひともやっていただきたいのです。これが現代的な生き方だと思います。 この点において配慮を怠った人は、やがてアリとキリギリスの話のようになっていくでしょう。アリはせっせと夏の間働いて、そしてエサを貯えていたが、キリギリスは夏は食料が豊富だったので、歌を歌って過ごしていた。ところが冬になったらエサがなくなって、そしてアリに「エサを分けてくれ。」と言っても、「あなた夏の間、何してたんですか。」と言われる話がありますが、そういうふうになってゆくということです。 しっかりと根を張り、幹を太くするという生き方を見出してください。この正命というのは、そのための積極的反省にあたります。こうした積極的反省をぜひやっていただきたいと思います。
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ヒルコ プロフィール 真名 ヒルコ クラス アルターエゴ 出典 日本神話 属性 不明 概要 天照の代わりに太陽神をしている。しかし天照程の力はない。 「先代ほどの力がないのを歯がゆく思っている」 ステータス マスター 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具 [[]] 保有スキル クラススキル 宝具 * 宝具名 ランク 種別 レンジ 最大補足 概要 関連人物
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沼河比売 プロフィール 真名 沼河比売 クラス キャスター 出典 日本神話 属性 不明 概要 大国主の奥様。 大国主と協力して島根を守る結界を構築している。 「現状に心を痛めている」 ステータス マスター 筋力 耐久 敏捷 魔力 幸運 宝具 [[]] 保有スキル クラススキル 宝具 * 宝具名 ランク 種別 レンジ 最大補足 概要 関連人物
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たいようしん 物語の世界におけるパンテオンの主神である女神。 神格名は『シャマシュ』で、日本神話の最高神『天照大御神』を同一の存在。 アスタルテの眷属であるエルフらの嘆願を聞き届け、自身の眷属である人間種を別次元から御使いとして遣わした。 また、明示されてはいないが、近いうちに復活するラヴァーナル帝国に対抗するため、御使いを国ごと召喚した。 関連項目 用語|神|緑の神 ※既存のコメントに返信する場合、返信したいコメントの左側にチェックを入れて下さい。 そういえばこのお方アスタルテ神以外に名前で呼ばれてないですよね?何か意味あるのでしょうか - 名無しさん (2020-08-04 13 09 22) 名前 過去のコメント ここを編集 〔最終更新日:2020年08月01日〕
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目次 1.福音の本当の意味は、「良き知らせ」ということである 2.良き知らせの第一 ― 神の国の訪れを告げる鐘の音 3.良き知らせの第二 ― 神理の言葉 4.サタンたちの「悪しき知らせ」に気をつけなさい 5.神のつくられた世界は山だと思いなさい 6.明治の時代の私は、羊飼として、声を大にして羊たちに行くべき方向を叫んだ 7.私をもっとも迫害した羊は、クリスチャンだった 8.明治期にキリストに対する信仰を確立するのが私の使命 9.戦争によって一流の人材を失った日本の損失 10.私の戦争反対論を、今、嘲笑する人がいようか 11.良き知らせの第三 ― 希望 12.希望の原理の第一 ― 今、偉大な人たちが生まれている 13.希望の原理の第二 ― これからまた、愛の時代がはじまる 14.希望の原理の第三 ― 霊性復権の時代がはじまる 15.地上の人びとよ、新しい時代の到来を信じて進んでいきなさい (一九八六年十二月二十一日の霊示) 1.福音の本当の意味は、「良き知らせ」ということである 内村鑑三です。今日は第八回、いよいよ最終回となりました。未来への福音ということについてお話したいと思います。地上の皆さんは、福音という言葉を聞くと、聖書、あるいは、キリスト教というイメージを持っているのではないでしょうか。 しかし、福音という言葉の本当の意味は何でしょう。福音とは、幸福の調べという意味です。英語ではゴスペルとも言いますが、よりわかりやすく言えば、グッド・ニュースということです。つまり、福音とは、良き知らせという意味なのです。 では、良い知らせとは、一体何でしょう。何をもって良い知らせというのでしょうか。地上に生きているあなたたちにとっては、たとえばお金が入ってくることが良い知らせかもしれません。出世することが良い知らせである人もいるでしょう。子供を生むことが良い知らせであるとか、あるいは、いい学校の入学試験に受かることが良い知らせだとかね。それぞれの人が、いろんな良い知らせを持っていることと思います。 しかし、本当によい知らせとは何かと言うと、それは、神の国からの通信なのです。地上にいるあなた方のほとんどは、霊の存在も不確かであり、また、霊というものを認めるにしても、聖霊とか、天使とかいうものが本当にいるのだろうかと不思議な気持ちだと思います。本当に天使からの言葉があるのだろうかという疑いの気持ちがあってもおかしくないでしょう。 しかし、そういう不確かな気持ちを振り払ってもらうためにも、私たちは、こういう形で、天上界から霊界通信を送っているのです。皆さん、これが、福音なのです。私たちは、正真正銘の天使なのです。そして、その天使が、あなた方に、今、書物という形を通して述べ伝えているのです。生きているときに私たちの言葉を聞けるということ。これが最大の良き知らせでなくて、一体何でありましょうか。 2.良き知らせの第一 ― 神の国の訪れを告げる鐘の音 良き知らせのなかには、三つの内容が含まれております。第一にそれは、神の国の訪れを告げる鐘の音です。イエスは、こう言いました。 「汝ら悔い改めよ。神の国は近づけり。神の国は汝らの手近かにあり。今ここに出現せり。神の国は心のなかにあり。汝らが心を入れ替えたときに、神の国は現われる。我は、神の国の出現を諸君に伝えんがために、現われたる聖者なり」 良き知らせ、すなわち、福音とは、まず第一に、神の国の到来を告げる調べなのです。鐘の音なのです。言葉なのです。 3.良き知らせの第二 ― 神理の言葉 第二に、良き知らせとは、神理の言葉です。人間は、地上で数十年の人生を生きていく途上において、本当に真実の生き方が何であるかということに関して盲目だと言えます。盲目のままに生きているのです。何が価値あることで、何が価値のないことかということがわからないままに、六十年、七十年の人生を過ごしてゆくのです。 ですから、この世を去って、私たちの住むあの世に来てはじめて後悔をする人の数は、数えきれません。そして、彼らのなかの多くの人は思うのです。「なぜもっと早くこの神理に気がつかなかったのだろうか。このことを知っていれば、私はこんなに迷わずにすんだのに」と。 また、宗教にしても同じことが言えます。死んであの世に還ってはじめて、気がつくのです。 「ああ、地上にこんなに真実の教えがあるのならば、なぜ神様はもっと早く、それを教えてくれなかったのか。私が接した宗教は、みんなまちがった教え、邪宗ばかりだった。それにこりて、宗教は、もう金輪際(こんりんざい)ごめんだ、二度と近づきたくないと思ってしまった。こんなまちがった教えが神の教えであるのならば、神などいないほうがましだと思っていた」 神は存在しないのではないかと、多くの人たちは思っていたのです。ところが、あの世に還って、真実の教えが地上にもあったことに気づく。だから、それを学はなかったことに関して、非常に後悔をするのです。ですから、死ぬ前に、生きているうちに、肉体を持った身のままに、神理の言葉に接するということが良き知らせであると言えるのです。 神理の言葉に接する。人生において、これほど意義のあることはないと思います。これほど素晴らしいことはありません。しかし、この良き知らせを受け取ることができる人とできない人との間には、非常に大きな差があり、谷間があるのです。 4.サタンたちの「悪しき知らせ」に気をつけなさい 人生の途上において、神理の言葉ではなく、まちがって、偽りの言葉を真に受ける人もおります。すなわち、これは良き知らせに対する悪しき知らせです。まちがったサタンたちの教えを奉じている宗教に属し、盲信、狂信のままにそれらを鵜呑(うの)みにして、まちがったままに人生を送った人たち、こういうあわれな人たちもいます。 こういう人たちは、良い知らせに接しなかったというそれだけの人よりも、もっともっと苦しい人生があの世で待ちかまえているのです。つまり、彼らは、マイナスからの出発だからです。神のほうへ向かう道を登り道だとするならば、彼らは、まちがって道を下っているのです。谷間まで下りてしまっている。ですから、ここからまた頂上まで登らなくてはならないということは、大変な苦労がいります。 しかし、たいていの人は、山道をしっかりと登っているのです。正しき教えに接した人は、一歩一歩着実に山道を登りながら、その頂上をめざしている。ただ、その途中で、近道があると思ってまちがった道に迷い込んでしまって、麓(ふもと)まで下りて来た人もいるのです。谷間のなかに下りて行き、沢のなかで迷ってしまう。彼らは、近道だと思って入った道が、大変な迷い道だったことに、あの世で気がつきます。しかし、その迷い道から抜け出して、また頂上をめざすのはなかなか至難の業です。 あなた方は、地獄という存在について、さまざまな疑問を持っているのではないでしょうか。神がなぜ地獄をつくったのか。なぜ地獄霊がいるのか。こういうことについて、疑問を持つと思います。 それは、すなわち、こういうことなのです。説明しましょう。神というのは、山の頂(いただき)なのです。神は、山の頂にいらっしゃるのです。そして、山を登って来ようとする登山者たちに対して、「頂上をめざせ。頂上こそ、あなたたちの来るところである。我が懐(ふところ)へ至れ」と、こう言っているのです。だから、何万、何十万、あるいは、何千万、何億、何十億の人たちが、頂上をめざして山を登っているのです。 ところが、なかには、けわしい山道を歩くのに疲れ果てて、もっといい道があるのではないか、もっと近道があるのではないかと、かってに地図を出していろんなことを調べはじめる人が出て来る。この道を行けば、きっと近道にちがいないと、脇道に入って行く人たちが出て来る。その結果、彼らは、山のなかに迷い込んで、頂上に登る道がわからなくなってしまうのです。 いったんは、道が下りはじめたことに気づいても、いや、これはひとまず下っているだけで、どこかできっと平坦な道に出て、頂上に通ずるにちがいない、と。そう思いながらも、いつのまにか下り道を下りはじめて行くわけですが、そうするうちに、もと来た道もわからなくなってしまう。帰るに帰れなくなり、孤立して、孤独になり、迷っていく。これが地獄なのです。 5.神のつくられた世界は山だと思いなさい ですから、神のつくられた世界は、山だと思えばいいのです。すなわち、神理の道とは、その山を登るための山道なのです。 それでも、途中で脇道に入って、獣道(けものみち)とかね、そういうところに入ってしまって、迷う人が出て来る。そういうところに迷うというのは、迷わすのがおかしいのではないかという人がいるかもしれません。しかし、道を踏みはすしたのはだれですか。それは、その人たち自身ではないですか。頂上をめざすのに、どの方向を選ぶ。それは、登山者の自由です。正規のルートをはずれて、かってにちがう道に入って行ったのは、自分自身に他なりません。そして、山に迷ってしまっているのです。 また、神様というのは、山をすべて禿山(はげやま)にして、山道を頂上まで登れるように舗装して、きっちりしておくべきだという人もいるかもしれません。ただ、山登りの醍醐味(だいごみ)というのは、大自然のなかを歩んでいくからこそ素晴らしいのです。頂上までのまちがいない道ということで、アスファルトで舗装してしまったからといって、それでいいわけ てはないのです。 また、今の時代にはケーブルカーというものがあって、それに乗れば、もちろん、頂上まで早く着けるでしょう。しかし、ケーブルカーに乗ってしまったのでは、山登りの本当の素晴らしさがわかるでしょうか。大自然の本当の素晴らしさはわからないはずです。第一、そういうことでは、あなた方の足腰は強くなりません。 山道を歩く。歩きながら足腰を鍛える。汗を流して、峠、峠でひと息つく。弁当を広げ、お茶を飲む。そして、皆んなと語りあいながら、また登って行く。こうであってこそ、素晴らしい人生だと言えるのです。それを、ケーブルカーに乗って、横着(おうちゃく)にも山を登って行こうなどとすると、頂上まで登ったと思っても、そこで扉が開かないでしょう。なぜならば、まだ、何の修行もしていないからです。 「あなたは、もう一回麓まで行って、他の人たちと一緒に登って来なさい。他の人は一生懸命山登りをしようとしているのに、そなたひとりが楽をして、ケーブルカーに乗って来ようとは何ごとであるか。もう一回、麓まで降りて、そこから登って来なさい」と神に言われてしまうでしょう。 そういうことであって、悟りには、決して近道はないのです。これが、良き知らせの第二番目の意味です。良き知らせの一番目の意味は、先ほども言いましたように、神の国の到来を告げる鐘の音です。そして、第二番目として、神理の言葉、真実の言葉、これが良き知らせです。では、良き知らせの三番目とは何でしょう。三番目の意味は、希望です。 6.明治の時代の私は、羊飼として、声を大にして羊たちに行くべき方向を叫んだ 人間の数十年の人生において、苦しみのない人生というのはありません。どんな人間にも苦しみがあり、悩みがあるのです。あなた方は、内村鑑三には、苦しみ、悩みがなかったと思いますか。 私の過去世のエレミヤには、悩み、苦しみがなかったでしょうか。エレミヤは、神理が廃(すた)れると国が滅びる、バビロンの勢力が攻めて来て、国が滅びるとの警告をつねづね発していた神の預言者です。エレミヤは、何度も捕まって、迫害を受け、瀕死の重傷をおったこともあります。命からがらでした。その命をかけて、神理の伝道をしたのです。その苦しみ、悲しみたるや、余人の理解できるところではありませんでした。 では、内村鑑三の人生はどうだったのでしょうか。私が、刻苦勉励(こっくべんれい)、努力の人生を生きたことは、もちろん、確かです。一九〇〇年代後半のあなた方の目から見れば、内村鑑三は、歴史に名前が残っていないじゃないかと思うかもしれません。あるいは、教科書にも名前が載っているとはうらやましいとも思うかもしれない。しかし、内村鑑三の人生は、それほどなまやさしいものではなかったのです。 神理を守らんとするほど、世の風あたりは強くなります。あなた方は、世の中が平和で、人びとはやさしく、常に理解があると思っているかもしれませんが、平和なときには草を食んでいたような羊たちが、困難なときが来ると狼にならないとはかぎらないのです。いや、実際、過去にいくたびも、羊が狼に変わってきた。皆んな、自分が満ち足りて生きているときには、それぞれを尊重して生きているように見えても、いったん、危機のときになると、彼らはまちがった方向へと進んでいくのです。 あるいは、羊たちがまちがって谷底へ落ちて行くような方向へと群れをなして行こうとする。そこで、羊飼があわてて、「そちらへ行ってはいけない。こちらへ来なさい」と大声をあげる。ところが、羊飼が一生懸命叫んでも、羊たちは、羊飼を狼だと誤解して、メェーメェーと罵倒しながら、彼に足で砂を掛けてね、ドドッと谷底へと転がり落ちていく。そういう時代なのです。 私のときも同じでした。羊たちが谷底へ向かって進んで行くから、私はその方向へ行ってはダメだと言うのですが、彼らはみすみす谷底へと突き進んで行くのもいる。私は、声を大にして叫びました。「そちらへ行けば狼がいる。狼のほうへ行ってはならぬ。あなた方は、命を失うであろう」と。しかし、羊たちは私の言葉に耳をかさない。「狼はやさしいお兄さんです。きっと私たちを食べものの多いところへ導いてくれるにちがいありません。私たちを敵から守ってくれるはずです。なぜならば、狼は強いからです」とこういうことを言う。こうして、私の言葉を信じずに、狼のいる方向へと逃げていった羊たちがたくさんおりました。愚かといえば愚かです。 しかし、この羊飼と羊たちのたとえ話をよくあてはめてほしいのです。羊の数は多い。どの時代においても、羊たちはたくさんおります。現代にも、羊はたくさんいる。ただし、羊飼は多くはないのです。羊飼はひとりで何百頭もの羊を飼っているからです。ですから、羊が散り散りばらばらに別れたり、羊がかってな方向に向かって行くと、羊飼は大変な努力、労力を要することになってしまう。こういうことなのです。 7.私をもっとも迫害した羊は、クリスチャンだった 私が声を大にして叫んだのも、私の羊が散らされるのを恐れたからなのです。しかし、羊たちは、私の声を理解しようとはしませんでした。その羊たちのなかには、もちろん、無神論者の羊もいたし、戦争論者の羊もいた。あるいは、キリスト教会という仮面をかぶった羊もおり、クリスチャンという名の羊もたくさんおりました。 そのなかで、私をもっとも迫害したのはだれだったのでしょうか。それは他ならぬクリスチャンたちでした。「内村の言うことはおかしい。あれは国賊だ」と。しかし、彼らは真実のキリストの教えに触れていたのでしょうか。真実のイエスの言葉に接していたのでしょうか。 かつて、私が不敬事件を起こし、教育勅語に礼をしなかったということでもって、国中が私を国賊扱いをしたことがありました。そのときに、こともあろうに、クリスチャンまでもが、私を同じように扱ったのです。 彼らの主は、イエス・キリストだけのはずです。彼らの主は、生きている人間天皇ではないはずです。それにもかかわらず、キリスト教会の多くの者が、クリスチャンたちの多くが、内村鑑三をなじったのです。「彼は国賊なり」「我ら教会は関知せぬなり」「彼は国賊でかってなことをやって、不埒(ふらち)千万な奴である。輩である」と。こういうことを言ったのです。 「じゃあ、あなたたちの主は、一体だれか。明治天皇なのか、それともイエス・キリストなのか、答えられるか」 「いや、明治天皇は明治天皇で、いわば、カイザルであろう。カイザルのものはカイザルに返せ、神のものは神に。だから、私たちの信仰は、イエス・キリストにあるけれども、現世的には明治天皇が現人神(あらひとがみ)みたいになっているのだから、それはそれで尊重せねばならぬ」 一見、合理的に見えます。イエスも税金は収めなさいと言っています。ですから、同じように聞えるわけです。しかし、実際には、ちがうのです。 天皇制って何ですか。天皇制というのは、一種の神です。伝統的な宗教であり、神なのです。しかし、私たちは、唯一の主イエス・キリストを主として仰(あお)いだ以上、二主に見(まみ)えることはできないのです。下僕の主人はひとりです。先生はひとりでいいのです。先生が何人もいたら困ります。 もちろん、だからといって、他の先生がまちがっているわけではありません。他の先生には、その先生のよさがあり、他の先生にはその弟子たちがいるでしょう。しかし、我が主はひとりです。イエスが我が師であるのならば、主を二人持つことはできません。また、妻にしても同じです。二夫に見(まみ)えずと言います。夫はひとりでいいのです。何人もの夫に仕える必要はないのです。 同じことです。ですから、あなた方の師はひとりでいいのです。ひとりの師に一生懸命、真剣にその身そのままを投げ入れていったならば、なかなか他のことなどにまで気が廻らないはずです。 8.明治期にキリストに対する信仰を確立するのが私の使命 明治期において、本当にキリスト教というものを布教し、人びとの間に広めようとするならば、安易にあちらの神様、こちらの神様もと奉っていいことではなかったわけです。これは、あなた方が行なおうとしている万教帰一の教え、あるいは、すべては神の教えから来ているということを、もちろん否定するものではありません。あなた方のやろうとしていることは、そういう時期が来ているから、だからこそ、そういうことは大事なのです。 ただ、私が言っているのは、その前の段階としてのことです。すなわち、正しいキリスト教を日本に根づかす段階においては、まず主キリストに対する信仰というものを確立することが、何にもまして大切なことだったということです。それなくして、現人神みたいな生けるキリストみたいのを崇めてしまうのは、これはまちがっていた。その人そのものを尊敬するのはけっこうだったのですが、その人そのものではなく、その人が書いたと称される教育勅語のようなものに頭を下げなければ国賊扱いにされるような世の中だったわけです。そういうのは、いくら何でも、どこかおかしかった。それも、そのはずです。私たちが頭を垂れるのは、イエスの教えだけなのです。聖書だけなのです。私はそう思います。 9.戦争によって一流の人材を失った日本の損失 私は、日清、日露の戦争にもずいぶん反対してきました。しかし、国中がそれに酔いしれていたのです。というのは、日露戦争、それから第一次大戦、こうしたものに参加して、国中が戦勝ムードに酔っていた。その結果、どうだったのでしょうか。日本の傲(おご)りが第二次大戦に突入する契機となり、その結果、かつて戦勝で殺した人よりはるかに多くの人たちが、日本の国のために虐殺されたはずです。 第二次大戦のなかでどれだけ優秀な方が亡くなったと思いますか。あのときに亡くならなかった人材がいたならば、日本の繁栄はもっと素晴らしかったかもしれない。優秀な方から順番に死んでいってしまったのです。当時二十代、三十代という青年が亡くなっている。戦争中に二十代だった人は、現在四十年たって、ちょうど六十代。社会のなかで、今や最高部を占めている方々です。ですから、彼らが生きていれば、日本の現在の経営者、政治家、官僚たちのなかに、そうした超一流の人材がいたはずなのです。ところが、彼らのほとんどは、戦争で死んでしまった。この惜しむべき損失というのは、何ものにも変えがたいものです。 現在、会社の社長だとか、政治家だとか言っていばっているけれども、一流の人材が皆死に果てたあとでいばっているのです。本来ならば二流の人材に甘んずべきところが、一流の人材が皆死んでしまったために、現在日本を牛耳(ぎゅうじ)っているのです。その結果、日本は衆愚政治となり、日本の経営のなかに素晴らしい精神が失われてしまったのではないでしょうか。事業経営者にしても、産業界の人びとにしても、金儲けばかりに走っている。世の中の精神的支柱になれる人は、一体どれだけいるのだろうか。その点をよく考える必要があります。 いつの時代にも、精神的な支柱となれるような人というのは、一定の数はいるのです。しかしそういう人たちのほとんどが、第二次大戦で亡くなってしまった。だから、現在六十代、七十代で、日本のいろいろな産業界、あるいは、政界、学界で牛耳っている人たちは、一流の人材が死んだ後の人たちなのです。大きな顔をしているけれども、現在の日本が停滞している原因は、あなた方のなかに、国の精神的支柱になるための心思(しんし)の力、すなわち、心と思いの力がないからです。その点をよくよく反省しなくてはなりません。 そして、日露戦争、第一次大戦で戦勝国のムードを味わったという思いあがりがどれだけ大きな代償を生んだかということを、よく考えてごらんなさい。その損失は、非常に変えがたいものだと言えます。 10.私の戦争反対論を、今、嘲笑する人がいようか では、私か警告した戦争反対論というのは、単なる理想論であったのでしょうか。当時、私は言いました。戦争してはならん。イエスの教えのもとに愛さねばならん。敵を愛せよとイエスは言った。右の頬を打たれれば左の頬を出せと言った。このイエスの教えから見て、こんなことは許されない。戦争などということはあり得ない。敵と戦うなどということは許されんことだ、と。こういうことを私は言いました。 しかし、世間は、私を理想論者だと嘲笑(あざわら)いました。そして、外国に攻めて行って朝鮮を奪い取ったり、台湾を奪い取ったり、あるいは、満洲を奪い取ったりして、勢力拡大したと、皆んなが喜んでいたのです。 ところが一方では、ソ連に千島列島を奪い取られたと言って、北方領土返還を一生懸命やっている。何の産物を生まないような島でさえ、取られて悔しいのです。それなのに、彼らの苦しみが、わかっているのだろうか。台湾を取られ、韓国を取られ、満洲の大きなところを取られた彼らの悔しさが、わかっているのだろうか。それは、正(まさ)しく侵略軍が来て、住んでいるようなものなのです。沖縄の返還もあったけれども、彼らの気持ちからすれば、九州を占領されたり、北海道を占領されたり、四国を占領されたのと同じ気持ちだと言えます。韓国人や中国人の彼らの気持ちに立てば同じことです。 たとえば、現在、あなた方は、ソ連に四国を占領され、アメリカに九州を占領されていい気持ちがしますか。アメリカの人たちが、九州を占領して、そのお陰で日本の国産の食べものが安く手に入ると喜んでいるのを見て、それでよしと思いますか。その点をよく考えてごらんなさい。つまりは、人の立場に立ってわからない人間ばかりがいたということです。そして、それが世論でもあり、論調でもあったということです。植民地を増やすということは、国の栄光であり、繁栄であると思っていたのです。 相手の立場に立つことをわからない人間、愚かな人間は、やがて狼に食べられるようになるのです。そして、第二次大戦という徹底的な敗北が来ました。このように、世論というものは、必ずしも正しいものではないということです。 従って、あなた方が生きていくなかにおいても、世論とあわないことがけっこうあるでしょう。しかし、それに迎合してはいけないのです。真実というものは、いつも孤立するように見えることがあるけれども、時代を越えて、やがて必ず認められるのです。そのことがあるということです。ですから、そういう苦しい面もあるけれども、それをしっかりと乗り越えていかなくてはならないということです。 11.良き知らせの第三 ― 希望 今日は、「未来への福音」という題での話ですから、福音の話をしてきたわけですが、未来の福音ということで残りの時間、お話をしていきたいと思います。まあ、八日間しゃべってきて、地上の皆さんには、ずいぶん厳しいことも申し上げました。しかし、未来に関してのやはり素晴らしい福音、良き知らせや、希望の原理がなかったとしたら、そのなかで、やはり元気を出して生きていくことができないでしょう。福音とは、希望の原理でもありますから、それを聞いて人びとが奮い立ち、希望を持つようでなければ意味がありません。 そういうことで、三番目の希望の原理ということを中心にして、今後、これから未来への福音という話に入っていきたいと思います。先日も話をしましたけれども、ノストラダムスか何かの例を出して、これからエホバが大地を打つときが来るという話をしました。そして、災難のなかで、人びとが逃げ惑うときが来るということを私は警告しました。しかし、それだけであってはいけないでしょう。ですから、ここで、私は、希望の原理を述べ伝えましょう。 皆さん、これからこの世的には、どのような不幸なできごとが起きたとしても、それを非常に冷静に受け止めてほしいのです。たとえば、火山の爆発があろうとも、大地震があろうとも、津波が襲ってこようとも、あるいは、日照りや旱魃(かんばつ)が続こうとも、また、ある地域で核戦争が起きようとも、ただそれでもって、この世の終わりだと言って、極楽往生だけを願うようなあなた方であってはなりません。 あなた方は、この地上に生きているなかにおいて、やはり希望の光というものを見い出していかなくてはならないと思うのです。さて、その希望の光、希望の原理、未来への福音は、一体どこにあるのでしょうか。私は、この未来への福音のよりどころを、未来への希望の原理のよりどころを、また三点に求めたいと思います。 12.希望の原理の第一 ― 今、偉大な人たちが生まれている 未来への福音の根拠、よりどころの第一点は、今、歴史上かつてなかったような、偉大な人たちが地上に生まれているということをまず知りなさい、信じなさいということです。たとえば、インドには、何回、何十回と転生した方がおります。しかし、インドに釈迦が生まれたときに弟子として生きられた人たちは、本当に恵まれた、運のいい人たちだったはずです。そういう時代に生まれあわせようとしても、なかなかそういうことができるものではありません。 また、ユダヤの地に歴史上生まれた方はいくらでもいるでしょう。しかし、そのなかにおいて、イエスの声を聞くときに生きられた人びとの数は少ないのです。私がエレミヤとして生きていたときもそうでしたが、預言者の肉声を聞くという機会に接した人も数少ないはずです。その前には、ゼウスやアポロンの時代もあったでしょう。そうした時代に生きられた人も、数少なかった。 しかし、あなたたちは、今、神の栄光のある時代に、地上に生きているのです。ですから、自分たちが生きているということを知らなければなりません。そうしたおおいなるときに、偉大なるときに、自分たちが生まれあわせているということを信じなければいけないのです。これが、まず第一の希望の原理です。 過去に、どれだけ転生を繰り返してきたとしても、こうした機会に恵まれることは、めったにありません。しかし、今、モーゼのときよりも、ゼウスのときよりも、ブッダのときよりも、また、イエスのときよりも、大きな奇蹟が、おおいなる法が、説かれる時代が来ているのです。ですから、この時代に生まれあわせたこと自体が、ひとつの福音ではないでしょうか。そしてまた、ひとつの希望の原理ではないでしょうか。私はそう思います。 今、おおいなる人びとがたくさん出ています。数多くの光の天使たちが、今、地上に出ているのです。とくに日本にはそうです。数多くの如来や菩薩が肉体を持って、今、出ています。ですから、こういう素晴らしい時代に、現在、生きているということを、あなた方は、嬉しいと思わなければいけません。まず、これが希望の原理の第一です。 13.希望の原理の第二 ― これからまた、愛の時代がはじまる 希望の原理の第二は、これからまた、愛の時代がはじまるということです。つまり、互いに愛し、愛される、愛の時代がはじまっていきます。愛というものが何よりも価値のある時代が、これからはじまるということなのです。 今の時代は、試験だとか、コネだとか、財産だとか、名誉だとか、あるいは、地位とか、うわべだけのいろいろなものに人びとが惑わされております。しかし、これからの時代は、愛の時代であり、愛の多さが人びとの偉さを測る時代となっていくのです。愛多き人が、愛深き人が尊敬され、人びとの上に立ち、人びとを導く時代となって来ます。これからは愛の時代です。そして、愛の時代に生まれあわせたということが、またひとつの希望の原理ではないでしょうか。 では、愛とはどういうものでしょう。愛とは、すなわち、相手のなかに自分を見い出し、自分のなかに相手を見い出していく道なのです。共に兄弟であるということを発見する道なのです。あなた方は、とくに親しい人だけが、お友だちであり、兄弟であるかのようにつきあっているのでしょうが、すべての人が手を携えて生きていける時代がもうすぐそこまで来ております。はじめて会った人とも、百年の知己(ちき)のように楽しく、安心して語りあえる時代が、もうすぐ来るということです。愛の時代です。共に神の子として、喜びあう時代が、もうすぐそこまで来ているということです。共に神理を学んでいるものとして、喜びあう時代が、もうすぐそこに来ているということです。そういう時代が確実に来ることが、すでに予定されているのです。 こうした時代が来るということ。愛の時代に生き、お互いに高めあう時代に生きられるということを、あなた方は喜ぶべきです。それは、ひとつの希望の原理です。ひとつの希望の光であり、地上の光なのです。そして、こうした愛の時代がこれから来るということを、私は、今、繰り返し述べ伝えているのです。 あなた方は、未来の方向で、一体何を努力すればいいのか。つまりは、より多くの人を愛する方向で努力してゆきなさいということです。より多くの人びとのなかに自分の分身を見い出し、自分のなかにより多くの人びとの心を見い出していく。心と心が共感しあい、共振しあう。共に悲しみ、共に苦しむ。共に喜びあい、共に励ましあうような、そして、共に労(いた)わりあい、共に親切にしあい、また、共に慰めあうような、そうした時代がもうすぐやって来ます。この愛の時代の到来ということを信じなさい。そのなかに、あなた方にとっての真の救いがあります。 14.希望の原理の第三 ― 霊性復権の時代がはじまる 希望の原理の第三は、これからは、新たな霊文明が訪れるということです。ここ百年の歩みを見ると、どうも唯物的に時代が流れ、霊を否定するような動きがありました。しかし、これからの時代は、霊を知ることこそが知識人の仕事であり、それが最先端になる仕事になってゆきます。 霊を知り、あの世の世界を知り、実在界を科学することこそが、学問の最先端であり、科学の最先端であり、また、人びとの心の勉強の最先端である時代がやって来ます。これから、霊性の時代が来ます。おおいなる霊性の時代が来るのです。かつて、イエスの時代や釈迦の時代にあったような、霊的に大きく目覚めた人びとが、真に霊的に目覚めた人びとの出る時代が来ます。 科学は、もちろん、ますます発達していくでしょう。しかし、それ以上に、霊的知識と、その霊的知識の伝幡ということが、日本を、世界を覆っていくでしょう。そして、霊性の復権、霊性の発展、霊的生き方の素晴らしさというものが、人びとの間にだんだん浸透していくでしょう。これからは、霊性の時代へ入っていきます。これを喜びなさい。これもまたひとつの福音なのです。 15.地上の人びとよ、新しい時代の到来を信じて進んでいきなさい 未来への福音として、私は三つのことをあげました。偉大な人物が、今、出ているということ、偉大な光の指導霊たちが出ているということをまず知リなさい。これが第一でした。第二番目の福音は、愛の時代がこれから到来するということです。そして、三番目は、これからは霊性に目覚めた人びとが出て来る霊的時代、精神的時代へと入って行く、すなわち、心の時代へと入って行くということです。これが、より多くの人たちにとって、おおいなる福音となるでしょう。偉大な光の子が生まれ、愛の時代が到来し、霊性の時代に入って行く。精神の世界に入って行く、精神世界へと人びとが踏み分けて行くということです。そういう時代が来るということです。 その到来を告げることができた私は、かつてのエレミヤのように、あなた方に預言者として、あの世にありながら、この言葉を伝えることを本当に嬉しく思っております。地上の皆さん、どうか努力して下さい。そうした時代、新しい時代の到来を信じて、一歩一歩を進んでいきなさい。そのなかに、希望の光が見えてきます。そして、そこにあなた方の本当の幸福があるはすです。
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目次 1.永遠の時 2.神理の流転 3.現文明の特色 4.正しさの変容 5.神理の金字塔 6.太陽は昇る 1.永遠の時 今、私たちは、はるかなる高次元にあって、地上の人びとに対して、本当の世界観を教えんとしております。ほんとうの世界観がどれほど広く、どれほど長く、どれほど高いものであるかということを教えんとしているものです。 永遠の時、われらが神は人類を指導してきた。千年を一日(いちじつ)のごとく、神は人間の歴史を見、繁栄を見、衰退を見てきたのです。この永遠の時の流れにあって、我もまた、大いなる心でもって人びとの人生を、いくたびかの文明の興亡(こうぼう)を眺(なが)めてきたものです。 地上にある者たちは、一日をニ十四時間として、地球の自転を一日として生きておりますが、しかし、こうした地上の時間というものは、地上をはるかに隔(へだ)てた高次元世界から見るとするならば、それはまたたく間の時間であります。 われはかつて、今から三千二百年の昔、エジプトに生まれ、人びとに解放への道を説き、人びとを奴隷から解放し、紅海を渡ってシナイの山のほとりへと旅立ったものでありますが、そうした。三千年以上昔のことであっても、私の立場にたってみるならば、つい昨日、一昨日(おととい)のようでもあります。ちょうど、絵巻物か何かを目の前に広げていて、それを一望に見るがごとくであります。 たしかに今見ているところには、二十世紀という絵物語が広げられているけれども、その左を見れば過去があり、その右を見れば未来がある。このように、永遠の時のなかにわれらがあるということを知らなくてはならない。神の眼から見れば、千年も一日のごとしである。三千年前、五千年前というのは、つい三日や五日前のことにしかすぎないのである。さすれば、五百年後の人類、千年後の人類といっても、明日明後日(あすあさって)にしかすぎないということだ。 人びとは、これだけの永遠の時の流れのなかに生きていることの、この無常感を知れ。永遠の時の流れのなかに生きている人間のはかなさを知れ。はかない存在ではあるが、そのなかにおいて死することのない生命を維持していることの尊厳を知れ。偉大性を知れ。 汝(なんじ)らの生命は、点滅する螢(ほたる)の光のごとき生命ではないのである。それはそれは、はるかなる彼方(かなた)より光を発し、はるかなる彼方へと、光を点(とも)しつつ通り過ぎてゆく列車のごときものだ。永遠の彼方から、永遠の彼方へと通り過ぎていく列車の光のようなものである。 人間よ、知れ。あなたがたの生命が不生不滅(ふしょうふめつ)であり、始めなく終わりなきものであることが、これが、あなたがたが神の子であるということの証拠であるのだ。神の子であるからこそ、不生不滅である。不増不滅(ふぞうふげん)であるのだ。汝らが持っている生命のエネルギーは、決して滅ることはない。滅びることもない。つねに、天上界とこの地上界を転生輪廻しつつ、決してなくなることのない生命エネルギーであるのだ。これこそが、すなわち、汝らが神の子であるということの偉大なる事実、偉大なる証拠であるのだ。このことを知りなさい。 神は永遠の時のなかに世界を創っておられ、永遠の時のなかに空間を持っておられ、永遠の時のなかに自己の意思の展開をなされ、新たな世界を築かんとしておられるのです。そのような永遠の時のなかにあって、みずからもまた永遠の生命を生きているということを、このことを誇りとしなさい。これが出発点である。 地上にある生命を有限だと思うからこそ、そこに物質への執着が生まれ、この世的なる生き方へのとらわれがでてくる。されども、人間ははるかなる昔から、はるかなる彼方へと生き続ける存在だと知る時に、われらが地上での生命も、あるべき姿ということがわかるのである。地上での生命のあるべき姿は、限りない進歩と、限りない調和の実現にほかならないということだ。限りない進歩、限りない調和、それで地上を楽園とし、そしてすばらしい実績を持って還ってくるということだ。 何度も何度もこの世に生まれるものならば、この世に生を持つものであるならば、やはり一回一回の生を、すばらしいものとしてゆく必要があるのではないのか。一回一回の学びをすばらしいものとしてゆく必要があるのではないのか。私はまず、このことのたいせつさ、すばらしさということをあげたいと思う。 2.神理の流転 さて、そうした永遠の時のなかにあって、いかに神の心、神の教え、神の理(ことわり)が流転(るてん)してきたかということについて話をしてゆきたい。題して「神理の流転」という。 神理は流れ流れ、流れきたって転じていったものである。その現われ方にはさまざまな現われ方があるけれども、その現われ方のなかにおいて、やはり一筋の黄金の流れがあったということである。 われらは、かつて偉大なる文明のなかに生きていたことがあるのだ。その偉大なる文明のひとつとして、あなたがたが「ムー大陸」と呼んでいる文明があった。ムーという大陸は、今から一万数千年前に太平洋から姿を隠した大陸であるが、この大陸において、大いなる文明がかつて栄えていたのだ。 この文明の特徴はいったい何であるかというと、霊と科学、これが合一(ごういつ)していたということ。神への信仰と太陽信仰が合一していたということ。こうした特徴をあげることができるであろうと思う。 ムーの文明を支配していたものは、光への信仰であり、偉大なるものへの帰依(きえ)であったといえようか。彼らはほとんど、神というものを信じていた。神というものを信じ、その神に対する感謝ということを生活の中心においていた。朝に感謝、昼に感謝、夕べに感謝ということを怠(おこた)らなかった。そして、そうした神に対する祭り事というのが、政治の中心でもあった。そして、偉大なる政治家は偉大なる宗教家でもあった。毎日神殿のなかにいて心を調和し、心の扉を開いて、みずからの守護霊や指導霊たちと毎日語りあっていた。そして、そうしたもので得た知識でもって、国政を牛耳(ぎゅうじ)っていたのである。すなわち、神の心を心として生きてゆかんとしていたということだ。 もともと、人類の無限に近い歴史を見るときに、政治の中心は、こうしたこの世とあの世を結ぶパイプであったということだ。政治の中心はいつの時代にも、この世の中に神の光をどのように実現していくか、神の教えをどのように実現していくかということであったのだ。 こうしたことのために、ラ・ムーという偉人な生命体は地上に肉体を持ったのである。そうして、偉大な神理と同時に、こうした神の教えを生きる則(のり)として、規範として、日々に精進することを人びとに教えたのである。 そしてこのラ・ムーの生命体が、過去幾転生してきたという話は、すでに多くの書物において、諸君らが学んでいるとおりでもあろう。 やがて、ムーという大陸は滅(ほろ)びていったが、アトランティスという大陸のなかに、また新しい文明が開けてきた。アトランティスというのは、今の大西洋に浮かんでいた大きな大陸である。この最盛期は、今から一万一千年から一万三千年の昔であっただろうか。このころに、トスという偉大な指導者が出てきた。これがラ・ムーの転生の姿であった。このトスのやったことは根本においてはラ・ムーの教えと同じであったけれども、そのなかで特徴的なことは、アトランティスの時代においては、科学的なることをかなり内容の柱としていたということだ。 アトランティスはひじょうに科学が発達していた。そしてアトランティスの科学のなかには、現代文明をも、ある意味で凌駕(りょうが)しているものがあったということができる。そうした偉大な文明の先駆けがあったのだ。 しかし、このアトランティスにも末期が訪れた。それは人びとの心が、やがて唯物的な思考に流れ、神の心を忘れ、霊の実在を忘れた、そうした人たちが多数出てきたことだ。この乱世の世、末法の世、末世を救うがために、今から一万一千年近い昔、アガシャーという光の大指導霊が肉体を持った。これがイエス・キリストの転生の姿である。 けれども、のちにイエスが十字架に架かったがごとく、このアガシャーという大王も、ひじょうに国民からは尊敬はされていたけれども、やはり、そうした唯物思考の塊(かたまり)のような人間たちから迫害され、霊を信じない人たちの迫害を受けて、やがて悲劇的なる最期を迎えるようになった。 こうした不調和が起きたために、やがてアトランティスという大陸は、その不調和な想念のくもりが太陽の光をさえぎり、心のなかに射している霊太陽の光さえ射さなくなり、そして暗黒のままに、悪魔の心を心として生きている人が跳梁(ちょうりょう)し、やがてそうした暗い想念のくもりから反作用が起き、大陸全体が陥没するという事態となったのである。 キリストは聖書のなかにおいて、「聖霊を侮辱する罪は許されぬ」と言ったことがある。聖霊を迫害する罪、侮辱する罪、殺(あや)める罪、こうした罪というのは、なかなか拭(ぬぐ)い難(がた)いものがある。光の指導霊たちを、それだけの窮地に陥れたという人間たちに対しては、それなりの反作用が起きたということだ。 それは、現文明においてもそうであろう。キリストという救世主を十字架にかけた、それによって人類の罪があがなわれたと言っているような神学者もいる。しかし、キリストが十字架にかけられたということによって、その後二千年の長きにわたって、ユダヤの民族は迫害され続けてきたではないか。それだけの反作用を受けたではないか。 アトランティスの時代においては、これがもっと短期間に、もっと集中的な形で起きたのである。こういうことであって、偉大な文明が滅びていくときに、その原因はほとんど人びとが心を失ったということにあった。唯物思考や、あるいは悪霊のとりことなった行動、こうしたものが蔓延(まんえん)したときに、暗い想念のくもりが大地を覆(おお)い、やがて大地自体が巨大な反作用を起こして陥没していったということがあったのである。 そうした神理の流れがあって、また現代文明が始まっているということを知らなくてはならない。 3.現文明の特色 さて、それでは現文明の特色とはいったい何であるか。この点について考えてみたいと思う。 現文明の特色というのは、いくつかの面を持っているが、大きくとらえるとするならば、やはり知性の文明であるということが言えるであろうと思う。それは九次元の光の指導雲のなかで、私(わたくし)モーゼ、あるいはイエス・キリスト、ゴーダマ・ブッダ釈尊、あるいは孔子、こうした者たちが出てきて、それぞれの特色を地上に広めたけれども、結局のところ、大いなる主流をなしていたのは知性の文明としての特色であったといえようか。 この意味においては、今文明においては、ゴーダマ・ブッダ釈尊の力が、いちばん地上に影響を与えていたということができるかもしれない。今文明の特色を創り出しているのが、釈迦の力であったといえるかもしれない。 このように、九次元の高級霊であっても、時代時代に力を持っている者がいて、それらがちょうど、星占いでいうような、何とか宮(きゅう)から何とか宮に移っていくというようなことをいうけれども、そうした時代の境目と軌(き)を一(いつ)にしている。そうしたことがいえるであろう。 ひと時代前には、私が中心になったこともあった。また、イエスが中心の時代というものもあった。しかし、現時代の文明は、釈迦の知性の時代であったといえるであろう。 これに対して、ひと時代前、アトランティスの時代というのは何であったかといえば、これは主として理性の時代であった。このようにいえるであろう。 また、ムーの時代は何であったか。これはどちらかといえば、感性の時代であったといえるかもしれない。 こうしてみると、これから来る時代はいったい何の時代が来るのであるか。それは、やはり悟性の時代というものが来るということがいえるであろうと思う。悟性ということが、おそらくは文明の中心となってくるであろう。すなわち、知性の時代のもう一歩奥である、この世的なる知を乗り越えた真実の知、実相の世界に対する知、これを文明の根本に据(す)える時代がやってくるということだ。この実相知、すなわち悟りということが、今後さまざまな形から探究され、考究されてゆくであろう。そしてこれこそが、現文明から次の文明への橋渡しであり、遺産となっていくのだ。 われらは、現文明が知性の文明であったことを悟ったならば、この知性の文明の総決算を、今しなくてはならない立場に立っている。この数千年の間に知性の文明が創りあげてきたものを集大成していく必要があるのだ。これを集大成し、これから抜け出してゆかねばならん。これが、現代文明の最後を飾る行為であり、また次の文明への始まりとなる。古い文明が終わり、新しい文明がこれから始まってゆくのだ。 古い文明というものは、西暦二千年を中心として急速に滅びてゆくこととなろう。そして西暦二千年を中心として、新しい文明が栄えてゆくようになっていくであろう。そうした時代がもうすぐそこまで来ているのである。 我われは、そうした時代を創っていくために、いまこうして、あなたがたを指導しているのだ。こうした時代であるからこそ、悟性というものを中心とするからこそ、実相知を教えんがために、実相の世界のありかたを、真実の世界のありかたを教えんがために、いまこうしてあなたがたに、霊訓を送っているのである。私たちが霊訓を送っている理由は、本当の世界のありかた、真実の世界の様相というものを一日でも早く、一人でも多くの人間に伝えたいと思っているからなのです。そうしたことを知っていただく必要があると思う。 われらは今、大いなる指導霊団を創り、この大事業を遂行すべく計画し、その実践に着手しているのだ。この指導霊団はたいへん大きい。数百名、それだけの大霊団が今、あなたがたを指導しているということを知りなさい。かつてなかった規模の大霊団である。これだけの大霊団がついているということは、すなわち、今文明の総決算をせんとしているということ、そういうことだと思いなさい。 これからあなたがたが中心となって創ってゆく真実の教えは、かつての釈迦の教え、キリストの教え、モーゼの教え、孔子の教え、ソクラテスの教え、こうした教えを、多様性を多様性と認めながら、これを統合してゆく大いなるうねりとなってくるであろう。そうした大いなるうねりのなかで、真実のものが、一筋のものが、やがて出てくるであろう。人びとは、この新文明を創るための息吹(いぶき)の大きさを知るであろう。かつてなかった規模の教え、かつてなかった規模の運動が、起きていくということを知るであろう。 4.正しさの変容 さて。こうした文明の特色のなかにあって、私の使命はいったい何であったかということを語りたいと思う。 私は天上界にあっては、「正義」というものを中心として活躍してきた。正義とは、まず「正しさ」ということがひとつである。次には「義」、これは理(り)に適(かな)っているということだ。どちらも意味は同じ意味である。正しさというもの、そして理に適っている義、どちらも同じ意味であろう。 正しい者は強くなければならない。これは私の考えの根本であります。真実なる者は強くなくてはならない。神の教えは強くなくてはならない。真実を説く者は強くなくてはならない。真実に生きる者は強くなくてはならない。真実を真実と述べることにおいて強くなくてはならない。神理を神理として述べることにおいて強くなくてはならない。勇気をもって生きてゆかねばならない。決して挫(くじ)けてはならない。決して妨害に戦慄(おのの)いてはならない。決して恐れてはならない。決して怯(ひる)んではならない。決してわなないてはならない。決して臆病になってはならない。 本来神とは強きものである。強きものが後押しをしておるならば、強きものがあなたがたの傍(かたわ)らにおるならば、強きものがあなたがたを応援せんとしておるならば、何を恐れることがあるであろうか。 私は何度も何度も、くり返して言っておきたいと思う。正しき者は強くなくてはならんのです。真実なるものは世に認められなければならんのです。 まちがった教えや、まちがった行動に対して迎合(げいごう)してはならん。地上の人間には、さまざまな感情はあるであろう。ただ、そうした感情に迎合してはならん。また、古き教えを信奉する人たちもいるであろう。そうした古き教えを信奉する人たちにも、また、迎合してはならん。 新しき法が説かれる時、さまざまなる問題は起きるであろう。さまざまなる軋轢(あつれき)は起きるであろう。さまざまなる困難はあるであろう。しかし、挫(くじ)けてはならん。 神とは強きものである。このモーゼに対しても、神がどれだけの奇跡を起こしえたかということを思いなさい。あなたがたはまだ、あれほどの奇跡を体験してはいないであろう。神は最後には、私たちを救うために、紅海を真っぷたつに割ってでも助けてくれようとした。またわれらが飢(う)え苦しんだ時には、天からマナという食べ物を降らしてくれた。またわれらが教えを欲している時に、天からの光でもって十戒というものを授けてくれた こうした数かずの奇跡を起こされた神である。 そうであるならば、あなたがたが正しいことを正しいとして、真実なるものを真実なるものとして訴え行動せんが時に、怯(おび)えてはならない。それだけ大いなる奇跡を起こされる神がついておるのだから、その神の偉大なる力を信じなさい。信ずるということにおいて、その力はますます強くなってくるのだ。神の力は信する量に応じて現われてくる。信ずる量が増えれば増えるほど、信ずる力が強くなればなるほど、そこに神の栄光が現われてくる。神の奇跡が現われてくる。 地上における人間が神の心を測(はか)ることは、これは愚(おろ)かなことです。地上の人間としての知性と理性だけでもって神のお心を測り、神のお力を量(はか)らんとすることは、愚かなことであります。神にとっては千年も一日のごとしであります。神にとっては、われらが山ほどあると思われるような、そうした軍勢も、ただの蟻(あり)の行軍にしかすぎない。神にとっては聳(そび)え立つエベレストの山も、単なる服の皺(しわ)にしかすぎない。神にとってはこの偉大なる大宇宙も、箱庭の一部にしかすぎない。 そうした偉大な神が、われらを見守っておられるのです。そうした偉大な神が、われらを励ましておるのです。それを信ずるかどうかです。 あなたがたは箱庭のなかに住んでいる一匹(いっぴき)の蟻にしかすぎない。蟻にとって認識できる世界というものは、ひじょうに狭いものであるであろう。その狭い世界のなかにおいて、一匹の蟻が自力によってどちらに進んだらよいかを迷っているのです。 しかし、蟻から見れば巨大な山としてそそり立っている砂山も、神のごとき人間が立ち現われて、その手でもって一気に山をとり崩したならば、眼前には視界が開け、にわかに道ができるのです。そうしたものであろう。 蟻に対する人間以上の偉大な存在である神から見るならば、この世のことでできないことは何ひとつない。この世のことで不可能なことは何ひとつない。それのみならず、すべてのものを創り、すべてのものを消滅させることができるのが神の力であるのです。神は創造と破壊の両面を持っておられるのです。すべてのものを創り、すべてのものを消滅させるだけの力を持っているのが神の本質であるならば、この地上で、なしえないことなど何がありましょうか。すべてのことは可能であります。 信ずる者に道が開かれていきます。その信ずる量に応じて開かれていきます。奇跡が起きないのは信ずるカが弱いのです。信ずる力が強いということは、すでにその奇跡を受けるだけの器(うつわ)があるということです。 まず信ずるということによって、心の扉(とびら)が開かれるのです。そして心の扉の開かれた開き方に応じた神のエネルギーが注ぎ込んでくるのです。本来、神のエネルギーは無限です。無限のエネルギーの奔流(ほんりゅう)であります。そのエネルギーの奔流は、扉を閉じていては入り込んでこないのです。扉を開けるにしたがって流れ入ってきます。 さすれば、まず信ずることです。信ずるということが強さを生み、信ずるということが正しさを守ることになっていきます。 この世の中においては、正しさということがさまざまに変容してきたように言われています。あなたがたもさまざまな教えを学んでいくうちに、「正しさの多様性」というものを発見するでしょう。 しかし、正しさが多様であるということは、正しさが変わっていってもよいということではないのです。それは正しさの幾つかの面は出ているけれども、究極において正しさとはただ一点につながってゆくものであります。それは、この世界を神は善(よ)しと観(み)ておられるということです。善きものとして観ておられるということです。正しさの多様性は、神が世界を善きものと観ているという、この一点に集中し、集約されてゆくのです。これが正しさの究極の姿であります。 ただこの究極の姿としての正しさが、ある時には仏教的に現われたり、ある時はキリスト教的に現われたり、ある時には哲学的に現われたり、芸術的に現われたり、さまざまな現われ方をしているのです。したがって、私たちは変容していく正しさのなかで、変容せざるものの真なる姿というものを観なくてはならない。すなわち神は、すべてのものを善きものと観ておられ、善きものが善きものとして存在し、善きものが善きものとして世界を運営していくために必要なことをなされんとしているのです。そうした事実を知りなさい。 5.神理の金字塔 正しさの変容という話をしてきました。変容する正しさのなかで、さすればあなたがたがすべきことはいったい何であるのか。何を目標とし、何を行動の原理として生きてゆけばよいのでしょうか。何を信じ、何をどう説明していけばよいのでしょうか。また、何のためにあなたがたが地上にあるのでしょうか。こうしたことを知らねばならない。 さすれば、あなたがたはこの地上に、「神理の金字塔」を打ち立ててゆかねばならないということです。神理の金字塔、それは燦然(さんぜん)と輝き、はるかなる距離からも、はるかなる時間の彼方からも見える金字塔でなくてはならない。金色に光る塔です。そうしたものを創らねばならない。金色に光る黄金の塔です。これがだいじです。そのための努力とはいったい何でありましょうか。どうした努力が本物なのでしょうか。 私は、神理の金字塔を打ち立てるための原理として、三つのことをあげたいと思います。神理の金字塔を打ち立てるためには、三つの方法論があるのです。これが新時代の行動原理でもありましょう。 新時代の行動原理の第一は、「発展する愛」という概念であります。これはすでにあなたがたが『太陽の法』というが物のなかで学ばれたところのものであります。「発展する愛」という考え方、より高次の愛に向かう発展の形式であります。これの追究、探究ということが、大きな仕事となってきます。 今まで愛というものを、平等知だけでとらえていた向きが多かったでありましょう。共に愛し合い、共に慈(いつく)しみ合う。共に励まし合い、共に慰(なぐさ)め合う。こうした平等の関係のなかにおける愛というものが、考え方の主流としてあったと思われます。 しかし今、愛に発展の形式があるということが教えられました。すなわち愛の道は、単に平等に慰め合うということのみならず、神に向かって進む道でもあるということです。神に向かって無限に進んでゆく道。神に向かって無限に発展してゆく道。これが愛の道であるということを明らかにされたわけであります。 そして、その愛の段階にも、自分に縁のある人びと、自分が人生の途上で接すべくして接した人びとを愛する愛というのがあり、さらに指導者として他人を生かす愛があり、また宗数的見地からして、他人を許す愛があり、時代の精神として生きるという存在の愛があるということを教わったはずであります。これらの愛の発展原理と発展の様式は、すなわちこれが新時代のひとつの生き方であるということです。新時代においては、こうした平等知と差別知とを統合的に観(み)てゆくという方向において、神理の価値というものが発見され評価されてゆかねばならないのです。この「愛の発展形式」ということが、これがだいじな行動原理のひとつとなるでありましょう。だいじな指導原理のひとつとなるでありましょう。 新時代の行動原理の第二は何であるか。それは、「神理の学習」という面であろうと思います。 今時代が知性的なる時代であったとするならば、今時代から次の時代へと移ってゆく時に大切なことは、知的な面からの探究でもありましょう。この知的な面からの探究ということが、この世的なる学問のレベルだけではなくて、あの世的なる学問のレベルまで進んでゆかねばならない。すなわち、実在界において多くの霊たちが共有している霊的知識、神理の知識を地上において学べるような環境の出現ということが大切となってくるであろう。こうしたことがいえるわけであります。 この「神理知識の学習」ということが、新しき行動原理となってゆくでありましょう。この世的なる学問の学習だけではない。神の創られた知識、実相世界にある知識をいかに学ぶかということが、新時代の行動原理のひとつとなるのです。それは、神理の知識を学ぶということが、すなわち悟りへの道となっていくからであります。「神理の学習」ということが、今後の偉大な行動の形式となってゆくでありましょう。 第三の行動の原理は、いったい何であるか。これは、「科学という考え方の変化」ということでありましょう。 今まで科学的であるということは、実験によって検証が可能であるということを意味していました。すなわち、何人(なんぴと)が同じ条件で同じ実験をくり返しても同じことが起きるということでもって、それが科学的であるとされてきたのであります。 けれども、この科学というもののあり方、存在形式に変容が訪れてくるのです。誰が同じことをしても同じ結果が現われる、ということだけをもって科学といわなくなってきます。こうした科学は、やがて「存在の科学」といわれるでしょう。「かく在(あ)りの科学」であります。「現にかく在りの科学」です。こうした「存在の科学」ともいうべき古い科学の形態はやがて流されていくでありましょう。過ぎ去っていく形となりましょう。 これからの科学は「存在の科学」ではなくて、「当為(とうい)の科学」、すなわち、為すべし、かくあるべしの科学であります。「かくあるべしの科学」というのが、今後発展していくでありましょう。 すなわちそれは、帰納(きのう)的に、現実にあるもののなかから抽出されるものではなくて、理念として現にあるもの、理想として現にあるものから演繹(えんえき)していって、現象世界はこのように説明されるはずである、この説明の探究ということであります。 かつてわれは、ニュートンという人が地上に肉体を持った時に、彼に対しても科学的なる指導をしたことがあります。彼の科学のあり方は本来こうした「かくあるべしの科学」「当為の科学」であったのです。すなわち、彼は霊的エネルギーの注入を受け、霊的な啓示を受けて、宇宙の構造はこのようになっているのだ、こうした宇宙の原則が働いているのだ、たとえば万有引力という法則が働いているのだということを、霊的直観として、ひらめきとして教えられた。そしてそのひらめきでもって、現実のあり方というものを探究していって、その理論を創っていったのである。 こうした「当為の科学」は長続きせず、その後の科学の流れは「存在の科学」となってきた。「かく在りの科学」だ。現実に顕微鏡で見、現実に試験管を振って確認できるものをもって科学とした。実験の結果得られるものを科学とした。ここに微妙なすり替えがあるであろう。 今後、こうした科学が出てくるであろう。すなわち、かくあるべきであるという理念からこの現象世界を解明していこうとする科学の立場である。こうしたことがいえると思う。 すなわち、私は以上に述べたように、神理の金字塔を打ち立てるための新時代の行動原理として、第一に「愛の発展形式」が認められ、それに基づく行動が起きてゆくであろうということ。第二に「神理の学習」ということが重大な仕事となってゆくであろうということ。第三に、「存在の科学」から「かくあるべしの科学」へ、ただ「かく在り」の科学から「かくあるべし」という科学に変わってゆくであろうということ。それが研究者の姿勢ともなるであろうということ。こうした時代の出現というものを予言しておきます。 6.太陽は昇る さて、文明というものをさまざまな角度から、さまざまにとらえてまいりました。そしてこうした説明が意味をなすためには、いったい何か必要であるかというと、今、新時代の太陽が昇っているのだということへの事実認識であります。そうしたことへの事実認識というのがだいじであろうと思います。神理の太陽が現に昇りつつあるということへの事実認識であります。 やはり信じなければならないということがあるのです。私たちの書物も、単なる読み物として読まれている方もいるでありましょう。あるいは創作として読んでいる方もいるかもしれない。 しかしながら、モーゼが三千数百年の眠りを破って地上の人びとにメッセージを伝えんとしている真の意味が、いったいどこにあるのかということを知らねばならない。われはかつて、このような形にて地上の人を指導したることはなし。さまざまな方にインスピレーションを与えたことは数多くある。ただ、こうした書物を創ってまで地上の人びとを指導せんとしたことは、かつてない。私の考えをそのままに地上の人びとに伝えたということは、かつてなかったことであります。それが現に行なわれているということの意味を知らねばならない。 ここに大いなる奇跡がある。ここに最大の奇跡がある。ここに新時代の奇跡がある。ここに最終の奇跡がある。このことを知らねばならない。 病気を治す奇跡があったり、いろんな物質を地上に出す奇跡があったり、予言をしたりする奇跡があったかもしれないけれども、奇跡の現われ方として、そうしたものは決して高次なものではなかったのである。 奇跡の現われ方として、最高の次元のものはいったい何であるかと言えば、神のお心をそのまま地上に伝えるということです。これが最大の奇跡であるのです。神の心を直接に地上に伝える。これはなるほど困難なことであるかもしれぬ。しかし、神近きわれら九次元の大指導霊たちが直接に話をすることができるということが、ほぼ神の心を地上に伝えるということに等しいのではないか。そのように言うことが可能であると思います。 この奇跡に対して、大いなる眼を開かねばならぬ。大いなる驚きを感じなければならん。これを当然のことと思ってはならん。何ゆえにモーゼが三千年の眠りを破って、地上にメッセージを伝えねばならんのか。その意味を考えねばならん。 われは今、現象界という名の紅海(こうかい)を真っぷたつに裂(さ)かんとしているのだということを知りなさい。霊的世界から隔絶(かくぜつ)されたこの現象界という箱庭を、真っぷたつに今裂かんとしているのだということを知りなさい。そうした奇跡が起きているのだということを知りなさい。現代に、同時代に、同時代人のなかに、そうした奇跡が起きているということを知りなさい。この意味の重大性を知りなさい。この時間における貴重性を知りなさい。これが同時代に起きることの貴重性を知りなさい。 現代に生きる人びとよ。同時代にこうした奇跡が起きているということが、あなたがたにとってどれだけの福音であり、どれだけの驚くべきことであるかということを知りなさい。これが真実であるならば、あなたがたはおちおちはしてはいられないのです。大変なことが起きているのです。飛行機に乗り、船に乗り、電車に乗ってでも、この奇跡に眼前で接しなければならないという強烈な熱意が湧(わ)いてこなければ、これはうそであります。ほんとうに道を求めているとはいえません。 数千年に一度の奇跡が、今起きているということです。こうした大きな神理の太陽が今昇らんとしているということです。この太陽に気づかねばならない。この太陽の大きさに気づかねばならない。この太陽の光の量に気づかねばならない。その大いなる力に気づかねばならない。 こうした太陽が今昇っているということを、強く強く警告し、同時代人への戒(いましめ)として、私の本章の話は終えたいと思う。
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がはらしんこく フェン王国の隣に位置するまが玉の形をした島国。首都はタカマガハラ。元首は神王ミナカヌシ 飛竜の上位種である風竜が生息し、国民と共存している。それゆえに列強国からも一目置かれる。ミナカヌシが創造神である天之御中主神の分け御霊を通常の人間よりも多く、その為か神の神示を受けとることが可能。その恩恵なのか神に対して他国よりも遥かに精通しており魔法と異なる力である「神通力」を使うことができる。 この「神通力」によって風竜を使役している。 何やらパーパルディア皇国初代皇帝が「世話になった」らしく(*1)、ルディアスや他の皇国民からも一目置かれている様子。そのためパーパルディアから侵略されなかった。 日本国との関係は、政府同士は不明だが、民間レベルではかなり活発に交流がなされているようである。 少なくとも、フェン王国との国交以前には情報が入る程度の交流があった模様(*2)。実は日本のことも転移した際に神示で存在を把握していた模様。 長らくこの国に関する直接描写がほぼ存在しない為極めて謎の深い国家となっていた。 序盤以降長らく追加情報が無かったが、書籍六巻にてこの国にも魔帝復活ビーコンが残されている事が判明した。 そして突如日本にクルセイリース大聖王国の調査団への会談を申し立てる形で登場。ヤマタノオロチの復活が迫ってることと上記の神示に関することを話した。その際に過去にヤマタノオロチを撃退してクルセイリース大聖王国の土地に封印していた事が判明。文字通り過去に世界を滅亡の危機から救っていたのが明らかになった。 国名の由来は、日本神話に登場する高天ヶ原であると思われる。 関連項目 国家|フェン王国|風竜 ※既存のコメントに返信する場合、返信したいコメントの左側にチェックを入れて下さい。 過去のコメント 昔世話になったとは、同盟組んでいて危ないところを助けてくれたのでしょうか? -- 名無しさん (2017-12-21 22 44 17) この国が日本に一番近いの?(対馬からだけど) -- AGM-88 (2017-12-22 00 43 44)地図を見ると日本本土から一番近いです。転移後の哨戒活動で当然北西方向にもP-3Cを飛ばしていたはずなので、クワ・トイネよりも先に発見していた可能性があります。(風竜のレーダー波に驚いて引き返したのかも) - 名無しさん (2018-04-08 16 53 26) かなり近いため、対馬の自衛隊レーダー基地の能力なら、風竜が発したレーダー波を検知できたかもしれない。 - 名無しさん (2018-05-03 19 57 50) ルディアスが「あの国はまだ謎が多すぎる」と言ってるので、パ皇国も警戒するようなすごい秘密がありそう。 -- 名無しさん (2018-01-10 16 14 36) 存在自体把握されてない大陸だってまだまだ沢山有るしそのへんはねぇ……そもそも星が球状と理解されてるのかどうかも。 -- 名無しさん (2018-01-10 17 37 21)Web版で、ムーのマイラスが語ったところによれば、知らない国の方が多いみたいですね。 -- 名無しさん (2018-01-10 19 13 39)失礼。世界が球体だということを、です。 -- 名無しさん (2018-01-10 19 24 34) 何気に、フェンより先に日本と国交を結んでいるんだよね。やはり近いからかな。 - 名無しさん (2018-04-14 01 33 50) そういう記述どこにありました? - 名無しさん (2018-04-14 08 03 38) ルディアスが忘恩の徒の汚名を着せるなと言っているから。初代皇帝はこの国に助けられたことが有るのが正しそう。周辺国の侵略お構いなしのパーパルディアにここまで言わせる程だから当時の国難を助けてくれた国なのかもね - 名無しさん (2018-04-23 19 28 10) ルディアスがそう言っているのは、物語の中のどこなのでしょうか? - 名無しさん (2018-04-23 22 08 07) 書籍第二巻205頁参照。なお、パ皇がガハラに侵攻しない理由としては他に、二正面作戦を避けたいこと(パ皇の伝統らしい)、ガハラには謎が多いこと(風竜以上の秘密兵器がある?)が挙げられている。 - 名無しさん (2018-04-24 11 33 24) この国は神通力とかいう力で風竜を操ってるらしいし、そのノウハウを応用して初代パ皇帝に地竜を使役する技術を伝授したとかありそう。 - 名無しさん (2018-05-03 15 59 42) 風竜とは念話を介して契約を結んでいるのでは。地竜は知性がないので戦闘用家畜として使役しているだけ。 初代皇帝は建国時に一時亡命していたのかもしれない。 - 名無しさん (2018-05-03 20 00 48) 関係者の名前が日本神話の神の名前、地名も日本神話に由来するものですね。後々重要な存在になるのでしょうか? - 名無しさん (2018-05-05 21 56 36) 単にフェン王国諸共、文化的に日本に近い国って設定なのでは?日本に一番近い隣国が、現実世界のような有様だと流石に嫌だし… - 名無しさん (2018-06-11 12 50 34) 地形的に人為的に創られたのは確実。勾玉の形は魔法陣的なものかもしれない。首都のタカマガハラには何かしら神がいるだろう。日本神話に似ている国だから宮内庁は内々に調査始めているんじゃないか? - 名無しさん (2018-10-21 22 24 19) 宮内庁は本気出せば確かに凄い調査力ありそう。 - 名無しさん (2019-03-02 22 30 08) まだ明かされてない設定がありそう。 - 名無しさん (2019-03-08 18 56 07) 実は小国ゆえ気にされなかったけど、ムーと一緒に転移してきた国。……なんて設定があっても驚かないぞw - 名無しさん (2019-10-10 19 58 25) ガハラ「長らく影が薄かったが遂に活躍の機会が!」 - 名無しさん (2020-03-02 22 37 11) ガハマ神国…げふ - 名無しさん (2020-06-11 09 28 28) つまんねえ。 - 名無しさん (2020-06-11 14 49 39) コミック版では、王制で国王は「ガハラ神王」と呼ばれている - 名無しさん (2020-10-15 00 04 15) パ皇VSガハラが読みたい。風竜による無双。グ帝未満の文明が風竜を墜とすのは不可能。ミ帝は例外かもしれないが。 - 禁止文字列 (2021-01-19 15 14 09) この国とフェン王国って和風文化の持ち主だが、同じく和風のヒノマワリ王国とつながりがあるのかな?和風といってもこっちは男系、ヒノマワリは女系という違いがあるが。 - 名無しさん (2022-04-03 16 20 13) ヒノマワリは女系ではないだろ。第三王女フレイアがグ帝排除要請出したのは国王と王子が幽閉されて姉二人が殺されたので非常時国家保護法によってフレイアに権限が集中しただけで、フレイアが即位したわけでも無いし、後述するがそれだけで女系にはならない。そもそも女王が国家元首とは書かれて無いし、そうでなくとも父王(書籍6巻用語集によれば名前はタケチノキミ。みのろうが女性と明言しなければ通常は男性名。)が婿養子とは書いてないし。 もしフレイアが即位した後に婿取りしてその子供が性別関係無く王位継承したら女系にはなるけど、王子が生きていればそうはならない。蛇足だけれど女系になるのが確実なのはアルタラス王国(王族は皆殺しにされ生き残ったルミエスが即位して女王になったので、婿取りして生まれた子供が王位継承者になれば女系になる)。、 - 名無しさん (2022-05-03 02 30 46) 魔帝ビーコンとヤマタノオロチは無関係ではないだろうなあ - 名無しさん (2022-05-03 01 46 43) グ帝も(死に体同然だけど)片付いてないのに新たな脅威が2つも。カオスになりそうだけど、グ帝編で第一・第二文明圏が中心になってて影が薄くなってた第三文明圏にまたスポットが当たりそうだ。大事なら大東洋会議もやるだろうし - 名無しさん (2022-05-03 07 58 04) 名前 ここを編集 〔最終更新日:2022年05月03日〕