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目次 1.私の本体はミケランジェロ、過去世は鑑真 2.霊的世界を描き出す神理芸術が台頭しよう 3.芸術家でも一流となれば、世界を揺り動かせる 4.これからは個性の時代、優れた個性が世をリードしていく 5.霊文明を切り開くまで「神理」の書を徹底的に書き続けよ 6.断固妥協するな、徹底的なる個性の追究発現を果たせ 7.神理を銃弾の如く撃ち出せ、評価、枠組は後世人の仕事 8.強靭なる精神で書き、吼え続けよ 9.圧倒的な霊言量で、世の常識をぶち破れ (1988年1月6日の霊示) 1.私の本体はミケランジェロ、過去世は鑑真 ピカソ ピカソです。 ―― 只今、先生の二年前のお説を再拝聴しておりましたのですけども、非常に感銘を新たに致しましたのですが、一応その他の方がたのお説も承ったところで、最終的な総括をお願いして、そして、今までのピカソ先生のお言葉を表題として出したいと、このように思います。そこで、全体を見渡して、さらに先生のお教えを一層学ばせていただくとして、なお、この上のご指教を賜ったなら幸いと思いますので、よろしくお願い致します。 ピカソ ま、私の二年程前の話を聞きながら、いろんなことをあなた方は考えておられたようです。 ご推定の通り、私は非常に宗教的な魂です。ギリシャにも出たことがあるという話もしましたが、もちろん、それ以後も何度かは地上に出たことがあります。ま、この辺がご関心のあるところのようですから、話しを致しますと、ピカソとして出た以前に、私は、実はミケランジェロという名で出た者です。本当はそうなのです。 ミケランジェロというのは、どちらかと言えば、私の本体部分に当たる者です。ピカソという魂と同一ではありません。本体部分に近い部分が、ミケランジェロと言われている者です。霊的にも、その格においても、もちろんミケランジェロの方が遙(はる)かに私よりは上でありますが、そういう魂を本体部分に持っております。 それ以外に出たことがあるかと言われば、出たことはあります。ミケランジェロとして、中世のヨーロッパにも出たことがありますが、それ以前には、実は――日本にも一度出ているのです。日本にも一度出ていて、まあ、こういう話が可能かどうか、いろいろと考えるものでありますけれども――。 ―― やはり鎌倉時代、その辺でありますか。 ピカソ いや、もっと前です。 ―― では、平安。 ピカソ ま、近いですが、実はピカソとしてのイメージが変わってしまう恐れはあるのです。それを言うとね。 ―― やはり、美術関係、建築関係、宗教方面ですか。 ピカソ ま、そういうこともないとは言えませんが、実はもう少し違った仕事を私はやったことがあるのです。 ―― 宗教関係――。 ピカソ そうです。 ―― やはり、そうしますと仏教関係――。 ピカソ そうです。 ―― ああ、そうですか。仏教関係でしたら、やはり何でしょうか、天台系統の――。 ピカソ もう少し前になりましょうか、どうでしょうか、微妙なところではございますが。ま、正直に中せば、日本人というよりも、日本に渡来した僧であります。 ―― ああ、では、鑑真――。 ピカソ そう鑑真です。鑑真和尚というのは、あなた方も御存知と思うのですが、中国から日本に何度も渡航して、失明しながら、日本に仏法を伝えた僧です。ま、信念、意志の人ですが、この鑑真も、実は私の過去世の姿の一つであります。鑑真、ミケランジェロ、ピカソと転生してきているのです。ま、それ以前にも、もちろんローマの時代にも出たことはあります。ローマの時代にも出ました。ある有名な人間として、出たことがあります。 その以前には、ギリシャにも出たことがあります。まあ、こういうことです。こうしたことは、にわかには信じ難(がた)いでしょうが、私自身のなかに、宗教的な部分と、絵画、芸術的な部分と、両方をもちろん持っているわけであって、前回にも言いましたように、ギリシャでかつてパルテノン神殿という偉大な神殿ができた時にも、その建築家をやったのはこの私です。 さらに過去を辿(たど)れば、エジプトの地に出て、さまざまな芸術を創ったり、ま、そういうふうにいろんな所を転生している魂でありますし、その行動様式においては、あなた方の魂の転生と同じような計画の下(もと)に、いろんなかたちで地上に降りて、法を学び、法を説いてきた、そういう魂の仲間です。霊系団的には、そう変わらない仲間どうしであります。そういう仲間、グループの一人です。 今世においては、ピカソという名で、芸術、特に絵画、彫刻、陶器、ま、そういうことを中心にやりましたが、私自身の本当の世界観というのは、もっと霊的なものです。それがたまたま近代における、あるいは現代における新芸術を創るという使命を持って出ただけであって、また違った時代には違ったかたちで出るのです。 ―― 私が鎌倉時代、あるいは、それ以前にも、天上界でピカソ先生のお教えを受けたということを、前回ちょっとお話を承ったのですが――。 ピカソ ま、そうしたこともあったでありましょう。光の天使の主流系団というものは、いつも共に学び合い、いろいろと啓発し合い、また計画をして、いろんなかたちで地上に出てきているのです。ですから、過去を紐解(ひもと)けば同時代に出たこともあるし、また片方が出て片方が指導霊をやったこともあります。そうしたことは、いろいろとあったわけです。 そういう意味で、長い転生輪廻のなかでは、法友は数多くいるわけです。日蓮聖人なども、結構よく交流のある魂の一人です。転生において、縁の深い魂の一人です。 ま、こうしたことをピカソが言っていたのでは、なかなか世の納得が得られないかも知れません。そこで、最後ということでもあるので、また違った話もしておこうと思います。 ―― できましたら、一つお願い致します。 2.霊的世界を描き出す神理芸術が台頭しよう ピカソ それでは、最後に締め括(くく)りという意味で、新時代の芸術観の展望について、いくらかの話をしておきたい、このように思います。 今、二十世紀ももう終わりが近づいております。二十一世紀以降、どういう新世界が展開するのか、こうしたことを考えてみると、これから神理の時代が来ることは確かであります。 ただ、神理の時代といっても、恐らくこれは単に抹香(まっこう)臭い宗教のみの時代ではない、総合的な霊文化の時代になってくるであろうし、その一端を担(にな)うものとしての芸術、この重要性というのは否めないであろうと思います。これは、単に絵画のみならず、文学や詩やそうしたものにも重要性があるということ、これは、他の諸霊もすでにお話をしたであろうと思います。 そこで、これからの新時代に当たっての芸術観、芸術観の新展開ということについての話を、しばらくやってみたい。こういうふうに思います。 これからは、もう単なる写実の時代でもなく、単なる色彩の時代でもない。単なるハーモニーの時代でもないであろう。ま、これが間違いのないことであろうと私は思います。 新時代というものは、これはもう人間の心にプラスする、この方向性がなければ、もはや芸術としての存立基盤があり得ない、という時代でもありましょう。恐らくそういうふうになります。絵画を描くということは、絵画そのもののなかに、やはり、何らかの神理のよすが、悟りのよすががなければ、絵画として意味のない、値打ちのないものとされる時代となってくるでありましょう。 絵画というものは、本来、神の世界を教え、人に生き方を教え、美とは何かを教える、そうした教育的なる役割をも数多く持っているもので、こういう意味において、時代のリード役としての画家、こうしたものが活躍してくる時代が近づいているように思います。 私の「ゲルニカ」という絵にも、時代の精神が含まれたということは言われますし、起爆剤である、爆薬であるというようなことも言われました。そうしたナチ、彼らの暴虐(ぼうぎゃく)に対する反抗の現れと、まあ、こういうふうなことで世界の注目を集めたわけでありますが、絵画を通して、世界の世論に訴えかけるという試みを、私は初めてなしたわけです。 それは、神理であるとか、思想であるとかそうした領域でなくとも、単なる絵描きであっても、世界的なる名声を得ていれば、それだけの仕事ができる。可能である。まあこういう証拠、証左であろうと私は感じます。 たとえば、トルストイの思想が世界を揺り動かしたように、画家は絵筆でもって世界を揺り動かすこともできるのです。 ですから、これからは音楽でもって世界を揺り動かすような、そういった音楽家も出なくてはならない。ただ、音楽の自由性、素晴らしさということは、あり得るでしょうが、説得力と客観性という意味においては、絵画の方が私は優れているように思うのです。音楽では、その作品の主題というものは、聴く人びとの耳といいますか、心といいますか、感性にまかされているけれども、絵画にはある程度の客観性があることはある。 ま、そういう意味において、より多くの思想性を盛り込むことができるのではないか、そういうふうに私は思うわけです。私のその「ゲルニカ」の考え方を、今後新展開していくとするならば、新しい時代の到来を告げる絵画の続出――これが予想されるわけです。新世界の続出、あるいは、新たな神理の像についての絵画。こうしたものが要請されるのではないのか。このように私は思います。 これからは、もっと新しい局面を絵に描いていくという、そうした作業が必要であろうと思います。そして、できるならば、この地上を去った世界、四次元世界、五次元世界、六次元世界、さまざまな世界が展開しておりますが、こうした世界の様相をも絵画にしていく画家が欲しい。できれば欲しい。こうした霊の世界を、人びとに視覚によって訴えかける画家が欲しい。天才的な画家であって、そうした霊的世界を人びとに教える画家が欲しい。書物として、霊言集として出すこともあるであろう。しかし、それは一冊の書物であり、読む人の範囲が限定され、読むという時間において、労力は非常にかかります。しかし、絵は一瞬です。一瞬にしてその思想がわかる。こうした新たな神理芸術、これの気運が高まってこなければいけない。 そのためには、まず、霊界の様相についての絵が欲しい。あるいは、天使の活躍についての絵が欲しい。また、地上にある人びと、生きざま、あるいは風景における天国的なる情景の絵が欲しい。また、間違った思想や間違った行動、間違った考え方に対する批判の絵が欲しい。それらを風刺するものも欲しい。こういうふうに、芸術というものを通して、時代を良き方向にリードしていくための力として欲しい。私はそう思います。 3.芸術家でも一流となれば、世界を揺り動かせる ピカソ それは、確かに、宗教家であるとか、思想家であるとかで、非常に力を持った方にはそれなりの仕事というのがあり得ると思いますが、ただ、そうではなくて、芸術というものでも、世界的に名声を得れば、それだけのことができるということを知って欲しい。私はそのように感じるものです。 私自身も、九十何歳という長寿を全(まっと)う致しましたし、生きている間に名声も富も社会的地位も得ました。お城のなかで、お城をアトリエにして絵を描いていた。ま、そういうことはご存知であろうと思います。そして、世界の重要人物ともずいぶん会いましたし、私を核としていろんな人びとの集まりもありました。サルトルであるとか、ボーボワールであるとか、そうした人たちとの交流があったことも、あなた方はご存知でありましょう。 こうして、私を中心に文化的サロンができていった、ということも事実です。そして振り返ってみるならば、青年時代から営々と築き上げてきた努力によって、自らの地歩を固め、地位を固め、名声を固めたことによって、その後の自由奔放(ほんぽう)な活動ができたということは、これは皆さん方がご承知の通りであろうと思います。 こうした自分の過去を振り返ってみると、あなた方にもやはり比較的早い時期に、私はさまざまな名声や地位、実績、こうしたものを築いていただいて、そして、その後自由自在な活動を展開していただきたい。こういうふうに思います。 かつて、あなた方のところにソクラテスという方が霊言を送っておりました。その方は、自分が日本に生まれるとするなら、日本一の学者となって、その後、その後ろ姿でもって人びとを導くと、こういうことを言っておられたように私は聞いておりました。 ところで、それは学者でなくとも私はよいと思うのです。芸術であっても、日本一の芸術家となって、世界一の芸術家となって、その力でもって世の中を揺り動かしていける人が必要ではないのか。芸術のみと言わずとも、科学の世界でもよい、科学者として世界の一流となって、その考えでもって世の中を変えていくことも可能です。 4.これからは個性の時代、優れた個性が世をリードしていく ピカソ 私はこれからはね、大衆の時代ではないと思う。皆さんは民主主義ということで、大衆大衆と言って多数決ということを考えるけれども、私は多数決の時代はもう終わったと思います。多数決の時代は終わって、やはり優れたる個の時代です。優れたる個性の時代です。優れたる個性が恐らく時代をリードしていくであろう。私はそう感じますし、それに間違いがないと思います。優れたる個性の時代です。 そうであるならば、時代をリードしていく人というのは、優れたる個性を持たねばいけません。優れたる個性というものは、他の者と同じであってはいけない。自分の突出した性格、性質、能力、これを思う存分に発揮する。そして、社会的にある程度認められる。評価を得て、そしてそれ以外の世界をどんどんと出していく。こういうことが、私は大事であろうと思います。 日本においても、今必要なのは、傑出した画家であり、傑出した音楽家であり、傑出した教育者であり、傑出した政治家であり、傑出した経済学者であり、傑出した詩人。こういう人が必要だと思うのです。こういう人がいれば、世の中は変わってくる。 平凡な人がいっぱい集まるということも大事だけれども、やはり、これからの新時代を揺り動かすのは、個の時代、個性の時代であろうと思います。そういうことで、一万人の平均的実力を上げるよりは、優れた十人、二十人、五十人を出すことの方に時代の要請は傾いてきている。私はそのように思います。 ですから、絵なら絵で、傑出した人物を創るための努力、音楽なら音楽で傑出した人物を、科学なら科学で傑出した人物を生み出す。そのためには、そうした教育、及び社会環境の整備、これが非常に大事であろうと思います。自由奔放に生きていける人間、その個性の発現、これが必要であろう。こういうふうに思います。 あるいは、芸術のみならず、宗教の世界でもそうかも知れない。過去の教えに捕らわれることなく、キリスト教だ、仏教だ、という過去の教えに捕らわれることなく、これからはそうした新しい思想家群、宗教家群が出てきてよい。 その個性のままに、自由奔放に生きていく宗教家、新たな思考方法と、新たな行動様式を持った個の出現、これが大事です。どうか、そうした思想的な側面からのアプローチをするにしても、自らの個性を最大限に伸ばして、その優れた個性でもって、世界の名声を築くという作業を忘れないでいただきたいと思います。 あなた方に対する具体的なアドバイスとして考えるならば、たとえば今、霊界通信というか、霊示というか、霊言というか、私たちの言葉を伝えるという仕事をしています。これに対して抵抗をし、アレルギーを起こす方々もいるでしょう。そうした人たちの気を紛(まぎ)らわすために、中間領域といいますか、あまり霊的ではない、宗教的ではない領域をも広げねばならんと、こういうふうに考えるかも知れない。ま、これはこれで確かに当たってはいるわけですが、それがあなた方の個性を殺す方向に動いていってはいけない。特色を殺す方向に動いていってはいけない。やはり、自分の最大限の能力と、特色の面でもって、時代の新局面を切り聞いていく必要がある。 霊界通信なら霊界通信でよい。そのかわり、かつてない、空前絶後、前代未聞、未曽有(みぞうう)の霊言を出していく。こういうことが必要だと思う。 5.霊文明を切り開くまで「神理」の書を徹底的に書き続けよ ピカソ こうした勇気と、努力、行動力によって新時代の局面が開けていく。新時代の局面を開くのは常識ではない。常識の枠のなかで、重きにつき、主流についている人びとでもっては新世界は築けない。今の時代において異端視され、例外視されるなかにこそ、本当は新時代の局面があるのです。 そうであるならば、自分たちの個性を発揮する場を見出したなら、徹底的にそれを追究していきなさい。それを切り裂き、切り裂き、切り進んでいくうちに一流となっていくでしょう。その時に、その返(かえ)す刀で世の中をいろいろと切り刻(きざ)んでいきなさい。いろんな局面を切り開いていきなさい。それ以前において、総花的な人生を送ったり、世に迎合するような生き方をしてはならない。徹底的にやりなさい。新局面、時代の新局面が切り開けるまでは、自分たちの特色を生かして徹底的にそれを追究していきなさい。 これでもか、これでもか、というかたちです。画家にしてもそうです。私たちは絵を描かねば、うまくはならないし、描かねば有名にもならん。私が一枚の絵を描いただけでは有名にならない。毎日毎日、毎月毎月、毎年毎年、いろんな絵を描いていて、そのなかで初めて光るものが出てくるのです。それは、ダイヤモンドの鉱山を発掘しているのと一緒です。ダイヤモンドの山で、いろいろと泥や砂利と一緒に掘っているうちに、ダイヤモンドがコロコロと出てくるのです。そうしたものです。ダイヤモンドだけを掘り出そうとしても、そうはいかないのです。そうしたものです。 ですから、数を作っていくということも大事なことです。今は、私はあなた方に、私たちの世界からアドバイスをするとするならば、絵を描いていると思いなさい。絵をね。ピカソの絵が百枚あろうが、千枚あろうがそれでもって値打ちが下がることもない。一枚一枚描いていくことによって、一つの画境が開け、一つの世界観ができてくる。絵が多い方がいいでしょう。私の絵が何百点あったか、何千点あったか私自身も知りません。ただ、それが多ければ多い程、世の中のためになったであろうと私は思います。それが、いくらいい絵であっても、五点や十点しかないのでは、世の中を変え、世界に影響を与えることはできなかったでありましょう。私はそう思うのです。 そうであるならば、あなた方はとにかく右顧左眄(うこさべん)することなく、自分たちのこの神理を神理だと思うならば、どしどしと、もう怯(ひる)まずに絵を描いていくつもりで、一作一作、世に問うていくことです。これが、いちばん間違いのない方法であろうと思います。 そして、この時代に対して迎合しないという新しい方法論のなかに、新時代の局面、新局面を切り開くものが何か出てくるはずです。それを徹底的に追究してみて下さい。そして、比較的短期間のうちに、自らの地歩を築いてみて下さい。そうすれば、それ以外のところに浸透し、参入していくことはそれほど難しくはない。 今、あなた方がこうした神理の探究ということをおろそかにして、やはり芸術論であるとか、そうしたことをやっていても、それほど大きな仕事は多分できないであろうと私は思います。ですから、神理なら神理で結構、新局面をとにかく開くまでは、がむしゃらに進む。時代の新局面を開くまではとにかく前へ進んでゆく。 画家が絵を描く時は、もうそれはキャンバスとの取っ組み合いです。寝食を忘れて、とにかく出来上るまでは何もできないのです。そうしたものです。一作一作絵を描いていると思えば、十作描こうが二十作描こうが満足しないものはしない。いくらでも描かざるを得ない、次から次へと。そうしたものだと思いなさい。 絵には限界がありません。私も同じ絵をいくつも描いたわけではない。一つ一つの絵が違う。同じように、神理の書も一冊一冊が違う。この一冊でもって、自分の絵が完成したということはないであろう。そうしたものです。ですから、徹底的に絵を描くつもりで一作一作新たなものを書いていく。そのうち名作が出てくる。こういう考え方をとっていきなさい。これが間違いがないと思う。 その意味においては、あなた方は何百冊もの書物を出していくであろうけれども、私の対話者をしているあなたにしても、まだまだそうしたことで満足してはならんと思う。あなた自身の仕事を見ても、まだまだ私は三合目程度ではないか、そういう感じを受けます。まだ、五合目、七合目、八合目、九合目、十合目と残りがあると思う。 ま、時代が非常に恵まれている時代であるのだから、この時代を最大限に生かさねばいけない。私はかつて鑑真として出た時に、何度も何度も日本に渡航しようとしては、嵐にあって流し戻された。そして、失明までして日本に法を伝えたことがあるわけです。こうしたことを考えてみると、その方法論で費した時間と手段、方法の部分で費した時間の多さその苦役の多さ疲労の多さ、というものを考えた時に、やはり内容そのものに費せる時間があるということが、一体どれだけ大事であるか、それを感じるわけです。 今、そうした恵まれた時代にある、法の本論に入っていける時代にあるということは、これは怠けてはいけない。心をもっともっと引き締め、心を鬼にして、芸術家だと思って、一枚一枚の絵を描いていかねばならん。 画家は絵を描かねば、それでは飢え死にです。それでは画家は画家でなくなるんです。画家は絵を永遠に描き続けているということにおいて、画家であることが許される。芸術家であることを許される。一作一作が、秀作であるか駄作であるかは、それはわからない。それは、自分で思うこともあるし、世間の人が認めることもあるし、あるいは、時代が過ぎ去って人が認めてくれることもある。しかし、描いている最中、製作の途中においては、一心不乱です。人が認めようが認めまいが、とにかくやっていく。こういうことであろうと思います。 この意味においては、あなたも一つ一つ絵を描いているのだから、絵というものは十作や二十作で満足できるものではないということを知らねばならない。数多く作れば作るほど、いろんなものに対して好感を持つ人の層が増えてくる。そう私は思えるのです。ですから、自分で一作一作が駄作であるか、あるいは素晴らしい作であるか、傑作であるか、こうしたことは考え過ぎないで、絵を描いていると思って一作一作仕上げていくことです。これが大事です。 6.断固妥協するな、徹底的なる個性の追究発現を果たせ ピカソ それと、先ほど言ったように決して逃げてはいけない。時代の新局面を切り開くまでは、決して逃げてはいけない。断固として、自分らが正しいと思うものを追究せよ。そこで価値を認められるまで、止めてはいけない。徹底的にやりなさい。妥協的性格では新時代は築けない。妥協的性格では天才とはなれない。断固として、徹底的にやりなさい。 あなた方は、天才となるべく生まれている人たちなのです。今、死して天才と言われるかどうか、よく自問自答しなさい。そして、まだその境地に達していないと思うならば、それはまだまだ手ぬるいのです。仕事において手ぬるい。もっと徹底的にやらねばならんのです。徹底的にやらねばならん。あくまでも、他人が何と言おうとも、信念のなかで、徹底的に生き抜くことが大事です。芸術だと思って、手を抜いてはならん。芸術に妥協はない。徹底的に個性の発現を、個の発現をしていかねばならん。人から良い人間であるとか、良い人柄であるとか、褒めてもらおうと思ってはならん。 芸術家がそれを描こうとしている時には、もう徹底して集中するしかないのです。没頭あるのみです。人の言葉や惑わし、こんなものを受けてはならん。一喜一憂してはならん。人の評価で一喜一憂したり、人のものの言い方で内容を変えたり、そんなことをしてはならない。徹底的にやりなさい。まだまだ足りない。徹底的にいきなさい。徹底的にやりなさい。それを貪欲(どんよく)にやりなさい。自分一人でできないと思えば、どんどん助手でも何でも入れて、徹底的に、時代の新局面を開くまでは、止(と)めない、止(や)めない、そういうつもりでやっていきなさい。 小さくまとまってはいけない。決して小さくまとまってはいけない。人が何を言おうがそんなことは気にしてはいけない。キュービズムの世界などは、これは人の評価を受け入れるものではない。しかし、徹底的にやった時に、そこに新時代の芽が出てくる。平面的な美を超越したもの、それは次のステップです。自分自身のものが完成されたものでなくとも、新時代のキュービズムが次なるステップを生んでいくのです。あなた方も、そうしたものでありなさい。 こうした高級霊の言葉や、神近き人たちの言葉を伝えられるということは、かつての時代になかったし、今後もなかなか出ないことでしょう。後世の人から見ても、これだけの証拠があるなら動かし難い、と言われるだけの仕事を徹底的にすることです。徹底的にやりなさい。 あれだけ絵を描いたからこそ、ピカソという人がいたということは、これは動かし難いものとなるのです。一枚や五枚、十枚の絵を描いたところで、どんな人間がいたかいないかわからない。徹底的に自分としての個性を訴え続ける。そのためには、やはりそれだけの実績を積むことが大事です。 私の立体の絵を観ても、そのままでいいとは思わんであろう。ただ、その前に、私はちゃんとした軌跡を通っているから、それなりの評価がある。いきなりあの絵を描いたのでは、そうは思われんであろう。したがって、それだけの積み重ねがあったということが、評価を生むこととなったのです。 したがって、あなた方も一冊一冊を積み重ねていって、世を唸(うな)らせるだけの実績をつくったならば、初めて聞く人から見れば、絵空ごと、夢物語のように聞こえることでも、真実味を帯びて聞こえてくるようになるのです。 ですから、最後に当たるかも知れませんが、断じて妥協してはならん。徹底的個性の展開。時代の新局面を切り開くまでは、絶対に止めない。こういう気持を、私は大事にして欲しい。良い人である必要はないのです。変わった人でも悪人でも何でもよい。少なくとも、時代を切り開くまでは、止めない。愛人がいようが、恋人がいようが、結婚を何度しようが関係はない。そんなものではない。断固として新時代を築く。そういう気持が大事です。 ま、これについて何か質問があればお答えしましょう。 7.神理を銃弾の如く撃ち出せ、評価、枠組は後世人の仕事 ―― まあ、先ほどダンテ先生からいろいろご教示を賜ったのですが、あの方がもう少し幅の広いところでその霊界の状況の説明とかいうようなことを強調されたのですが、それについても私は一理あると思いました。ただ、今の先生のお話では、我々の核となるものはやはり、この断固とした個性の追究なり、展開であるというふうにお聴きしたわけですが、やはり、これを核として、ダンテ先生のそういう考えも許されるということでよろしいでしょうか。 ピカソ まあ、ですから私にしてみればね、画家でなければいけないのか、彫刻家でなければいけないのか、一体何でなければいけないのかといった、こうでなければいけないというものに、私ははまりたくないのです。私はやりたいようにやり、描きたいように描き、彫刻を作りたければ彫刻を作る、絵を描きたければ絵を描くのです。しかし、結局のところ追究しているのは何かというと、それは徹底して美の精神を追究し続けたということであろうと思います。それが、いろんなかたちで出てくるだけです。 したがって、あなた方は何を追究しているのか。追究しているものが、いろんなかたちで出てくるだけのことです。 だから、自分たちが宗教をやっているのだとか、芸術をやっているのだとか、文学をやっているのだとか、哲学をやっているのだとか、こうした枠に入れてはならんということです。本質的なものを求めていて、その展開として、いろんなものが出てくるのでよいのです。 したがって、自分たちは宗教家だからこうあるべきだとか、自分たちは思想家だからこうあるべきだとか、こういう考えは持たないことだと思う。私はたとえば画家なんだ、という定義でいけば、絵を描く以外何もできないことになる。そういうことです。私は自分のことを美の精神の探究者だと思っているから、何にでも手を出すことができるのです。 したがって、あなた方は神の探究者であるべきです。神の探究者であるのならば、神を説明し、神を知らしめるためのあらゆる活動を行うということです。自分たちで定義をしてはならない。これを、私は言っておきたいと思います。 それで、ダンテの如く現実妥協論もあるでしょうし、それはそれなりの根拠も恐らくあるであろうと私は思いますが、そこにはやはり、今ひとつ自分の個性を貫いていないというところにおいて、少し残念さがあるのではないのか。もっと徹底的に自分というものを主張すればよかったのではないのか。あるいは、信奉者というのが少なかったのではないのか。まあそういう感じを受けるわけです。孤独に自分ひとりで闘った人は、そうなることもあるでしょう。 だから、その過程において数多くの信奉者を得ておくという順序ですね、これを間違わないことです。孤独な闘いだけをするのではないという意味でです。もちろん神理において、芸術において孤独さということはあるでしょうが、その客観性ということを常に忘れず、人々の評価、名声も博することを辞さない、こういう考え方が大事であろと思います。 比較的初期において、そうした名声をつくっておくことです。これが恐らくあなた方を守ります。あなた方は今、神理の書物を出しているけども、まず最初の数年のうちに、その値打ち、評価を固めてしまうことです。この評価が、あなた方を守ります。今後何をしようとも。それが宗教であろうがなかろうが、関係なくあなた方を守るようになる。まず、そうした世間的な評価を得ること。これから二、三年以内に確立してしまうぐらいのつもりで、やればよい。 また、偉大な芸術家は、たいていの場合、多作であるということを知らねばならない。それをね、言っておきます。 だから、まず評価が固まってくれば、その評価があなた方を守ってくれるでしょう。宗教だから間違いであるとか、何々だからどうかということではなくて、中身の評価があなた方の活動を守ってくれるでしょう。私のキュービズムにしても、ピカソが描くのだから、何かそこに美があるのではないか、意味があるのではないかという見方をされたわけです。「ピカソが」というところがなければ、誤解を生むことになる。ま、ピカソという名に、それだけの価値ができていたということであります。 そうであるならば、あなた方はあなた方の名前に、それだけの価値をつくっておくことです。これに最初の二、三年はできるだけ私は力を注ぐことを勧めます。 そうであれば、一年に書物も二十冊であろうが、三十冊であろうが、四十冊であろうが断固として出し続けなくてはいけない。これは絵を描いているのと同じだと思いなさい。画家は一年に何作描くということが決まっていますか。一年に一作ですか。十作ですか。五十作ですか。百作ですか。いくら描いてもよいのです。そのなかで、いいものがあればよいのです。一つあればよい。いいものが一つでも出ればいい。ま、そうしたつもりでね、神理というものを銃弾の如く撃ち出していく。この姿勢に間違いがないと、私は思います。 神の探究者なんだから、神の探究者として、今後あらゆる活動をしていくということです。その枠が先にあって、そのなかで動くのではない、中身があってそのあとに枠が用意されていくのだ。こういうふうに考えなさい。 そして、あなた方にどのようなレッテルを貼るかは、これは他の人びとの仕事です。あるいは後世の人の仕事です。私はそう思います。レッテルは他人に貼らせなさい。自分たちは、中身をつくることに生きることです。 8.強靭(きょうじん)なる精神で書き、吼(ほ)え続けよ ピカソ ま、私からあなたに言わしていただければ、まだまだ仕事量としては遙かに不足をしているように思います。一生の目標として上げるならば、私はあなたには、講演は五百回以上はやっていただきたい。五百回以上の講演。百冊以上の著書。これをやっていただきたい。これは、私からのお願いです。同僚としての、かつての同僚としての、また、今あなた方の指導霊団の一人としての私の願いは、あなた個人にとっても五百回以上の講演と、百冊以上の著書の刊行、ここまではがんばっていただきたい。これは可能であると思います。おそらく、可能である。それは意志と努力です。これさえあれば可能です。 ―― 先生は万という単位の作品を生み出されたということでございますが。 ピカソ その通りです。それが、百枚であろうが、五千枚であろうが、誰に遠慮することもないのです。神理というものであっても、一冊でも多くの書物、一回でも多くの記事、一言でも多くの演説をすることです。これが記録となり、人びとの肥(こ)やしとなるのです。数多く講演しているうちに、いいものも出てくるのです。それでよいのです。一回一回がダイヤモンドの如くである必要はない。数多くをやっているうちに、いいものができるのです。それでよいのです。 画家だとしても、画家の絵はすべてが褒(ほ)められることはない。駄作と言われるものはいくらでもある。しかし、そんなことで意気消沈していては、真の芸術家にはなれない。そうではないだろうか。そういう意味で、あなた方はもっと図太くなければいけない。もっと強い強い精神、強靭(きょうじん)な精神を持たねばいけない。はね返していくだけの精神。駄作を一つつくれば、もっといい作、素晴らしい作を十作つくればよい。こういう気持でやっていけばよい。 どうかどうか、目標を大きくおいて、もっと荒々しく逞(たくま)しく生きていかねばいけないと思う。書き続けることです。吼(ほ)え続けることです。これが大事だと、私は思います。 あなたに、もう一度目標を言っておきます。五百回以上の講演と、百冊以上の著書の刊行。これが終わるまでは還って来るな。これを私は言っておきたい。今、そのうちの何パーセント、達成しているでしょうか。よくよく考えていただきたい。精神力があればそこまでもっていけるはずです。 画家であれば絵を描く。画家でないならば、あなた方は講演をし、書物を書く以外にないではないか。それを徹底的にやることです。それが生命のエネルギーであり、個性の発現ということです。それをやらずして、いくら言い訳をしても、人の言葉にいくら耳を傾けても、そんなものは何の役にも立たないということです。 ピカソが人の批判を受けて、そして「ゲルニカ」以降、たとえば制作を中止にしたところで、それが何になりますか。何にもならない。止めないから値打ちがあるわけです。徹底的にやることです。 信念が強い場合、世間がそれに合わせてくるのです。認めざるを得なくなるのです。そこまでやるなら本当だろうと、思う時が来るのです。神の世界、霊の世界ということについては、人びとはまだ藪(やぶ)のうちであり、山の向こうです。そう思っている。しかし、ここまでやるなら本当であろうと、思う時が来ます。それまでやり抜くことです。止めないことです。徹底的にやることです。一枚一枚、絵を描いていると思って書いていきなさい。 五百回以上の講演。百冊以上の著書。何度も言っておきます。この程度書かねば、ピカソの業績とは少なくとも匹敵(ひってき)しない。あなたは、あの世では私とだいたい同じ位の境涯に還ってくることになっているのだから、それに匹敵させるためには、神理という面において少なくともその程度の仕事をして還らなければ、匹敵しない。そういうことを言っておきたいと思います。 ま、そういうことです。この辺で話を打ち切ろうとは思いますが、最後に何か一言聞きたいことがありますか。
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日本紹介(日本語版) English version Taiwanese version hanocha3471.png このクリック戦争中、あなた方の多くが当惑し、「日本人って何でこんな必死なの?」「日本人って何なの?」と疑問に思ったかもしれません。 これらの疑問のに答えるために、我が国日本を簡潔に紹介します。 関連リンク YOKOSO! JAPAN (ようこそ!日本) 日本各地の紹介 日本政府によるビデオクリップ 日本の風土 欧州では日本の位置をあまり知られておらず、しばしば中国と混同されます。日本は南北に連なった島々から成り、太平洋の北西に位置しています。 日本は温帯に位置していますが、北部と南部とでは緯度の差が大きい為に、北部と南部で気候の差が大きいです。北部は大雪が降り、一方南部では亜熱帯というように大きな気候変化があります。6月には本州では梅雨と呼ばれる雨期になり、ほぼ毎日雨が降ります。基本的に、日本は水の豊かな国です。 日本列島は火山活動があり、この事によって地震が頻発し、また多くの活火山が知られ、多くの温泉があります。 厳密にはアイヌ人や琉球民族(異説あり)など少数民族も存在しますが、基本的に単一民族であり、ほとんどの人が日本語を話します。しかし各方言の違いはヨーロッパの異なる2つの言語の差よりもおそらく大きいです。日本人の人種はモンゴロイドで、黒い髪と黒い瞳です。 生活スタイル 現在では近代的なビルが多く建ち並び、鉄骨で出来た家も一般的ですが、日本の伝統的な家は木や草で建てられ、ヨーロッパの建造物のように石は使われません。 近代的な家屋でも、日本家屋のほとんどは靴を脱ぐための「玄関」スペースがあります。我々のほとんどは家の中では靴をはかず、時として屋内専用のスリッパを使用します。 湿気の多い気候の為に、昔から入浴の習慣があり、現代以前でもすくなくとも1~2日に一度は風呂にはいっていました。 現在はベッドで寝る人も多いですが、現在でも多くの人はいぐさで作られた伝統的な床「 畳 」の上に布団を敷いて寝ます。 Food culture / 食文化 伝統的に,ほとんどの地域で、4足動物を食べることはタブーだと思われていました。それで、主な伝統的日本食は植物/野菜、鶏、アヒル、海産物で作られます。 米が主食です。 日本人はダシ(昆布や魚などの抽出液)の味に敏感です.おそらく,背景として,日本食で欠如しがちなアミノ酸の吸収をダシの成分が助けているという事実からこのようなことがおこります。 「ダシ」の味は ウマミ と名づけられています。ウマミの概念は日本人の学者によって学術的に提唱され,現在では基本5味の一つとして広く知られています。 日本は周りを海に囲まれており、そのために人々は沢山の種類の海産物を食べます。(魚のみではなく、イカ、タコ、ウニ、カニ、エビ、貝、鯨、そして多くの海草類です。) 英語に比べて日本語ではより多くの魚の名前が存在します。 私たちは食事に箸を使います。 文化 関連リンク 竹取物語(The tale of the bamboo cutter) 竹取物語は10世紀のもっとも親しまれている民話の一つです。 花火 夏の夜には、人々は花火観賞を楽しみます。花火職人が彼らの技を競います。 折り紙 折り紙は紙を折る日本の伝統的な遊びです。 この動画の中で、偉大な折り紙職人が古代竜、スズメバチ、東洋の龍を1枚の紙から作ります。 三味線 三味線は16世紀からある三弦楽器です。 ピタゴラスイッチ 「ピタゴラスイッチ」は子供のための教育番組です。 我々はこのような役に立たないけれど絶妙な仕事が好きです。 流鏑馬 流鏑馬は馬上射弓です。 馬に乗った射手が道のそばのいくつかの的に向かって次々と矢を放ちます。 これはかつては侍の鍛錬でしたが、今では神に捧げる儀式です。 産業 かつて日本の主産業は農業や漁業でしたが、1950年代から自動車や電気製品などの製造業がそれに代わりました。 日本は天然資源に乏しいものの、その高い加工技術で高品質の製品を世界に輸出しています。 日本はロボット技術の分野で世界一です。 宗教事情 関連リンク 日本神話からのエピソード イザナギが黄泉の国で死んだイザナミに会いに行こうとする) 日本神話では男神イザナギ(イザナキ)と女神イザナミが海で日本列島を生んだといわれます。この2人の神はその後たくさんの神を作り、最後にアマテラスという太陽神を産みました。 特筆すべき事として、太陽神、天空神である主神アマテラスは女性です。多くの他の神話ではこういった立場の神は男神であることが多いですが。 日本人はあまねく所に多くの神の存在を感じます。たとえば、「お米の神様」「かまどの神様」「水の神様」「雷の神様」「貧乏神」。日本神話は一種のアニミズム(精霊信仰)ですので、八百万の神がいると言われます。 それゆえ、日本の人々は他宗教の神々をその1人とみなす傾向があり、他の宗教に寛容です。そのような自然信仰(神道)と仏教が日本では互いに影響しあいました。他の言葉で言うと、それらは「混合」されました。これまで、この「混合」信仰は社会に確立されました。 典型的な現代の日本人は教会で結婚式をあげ、子供が生まれれば神社に行き、仏教式のお葬式をします。 豆知識 日本人の平均寿命は世界で一番長いです。 歴史 古代 10万年前から日本列島には人が住んでいました。 多くの研究が、現在の日本の天皇家が少なくとも1,500年以上前に始まった事を認めている。 それは現存するものの中では世界で最も古い王朝です。 中国から、あるいは中国を通じて漢字や仏教など多くのものが伝えられました。 7世紀の女帝「推古天皇」の摂政となった「聖徳太子」は、中国の皇帝に対し「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す」と言う手紙を送り、日本は中国と対等の立場を主張しました。(当時、中国周辺諸国の王たちはは中国皇帝に対し敬服しなければなりませんでした。)太陽の来る所、を意味する日本という国号はこの頃から用いられるようになりました。また、世界最古の木造建築「法隆寺」は聖徳太子によって作られました。 古都奈良には多くの仏教寺院や、有名な奈良の大仏が建造されました。 中世 8世紀に首都が京都になりました。 この頃権力の中枢が天皇から貴族たちに移りました。 アジア大陸との交流は疎になり、日本独自の文化が大きく発展しました。有名な民族衣装「着物」や「源氏物語」などの文学が現れました。 12世紀には、侍の時代になりました。多くの侍の英雄たちが活躍し、内戦を制した侍の一族に支配されたいくつかの幕府が中央政権となりました。しかし、15世紀後半になると当時の中央政府が傾き、各地の大名(侍たちの中でもより強く、特定の地域を支配する)が力を持ち、互いに争うようになりました。 Early modern age / 近世 16世紀に織田信長が再び日本列島の統一を始め、彼の死後その部下豊臣秀吉が統一を成し遂げました。しかし、彼が死ぬと権力の空白から大規模な内戦が起こりました。17世紀には勝者徳川一族が政治権力を握りました。政府は江戸(現在の東京)に設立され、平和な時代が250年間続きました。 江戸は世界一の人口を誇る大都市となり、浮世絵や歌舞伎などの市民文化が発達しました。 Modern age / 近代 19世紀には、1000年の間「君臨すれども統治せず」だった天皇家が王党派の侍によって復権し、新政権は日本社会システムの西欧化を進めました。 国内的には、民主主義が導入され議会政治が始まりました。 国際的には、日露戦争、第一次世界大戦の勝利を経て国際連盟の常任理事国になりました。 日本は第二次世界大戦に敗れたが、焼け野原から復興し経済的に成功しました。 後記 国の70%以上は耕地も使用できず、常に火山や台風地震その他多くの自然の脅威と直面している森林や高山です。しかし私たちは島にすみ、完全に海に囲まれています。このために私たちはここから逃げることができません! 私たちは精一杯自然の脅威と戦おうとしましたが、結局諦めて自然と共存する道を選びました。 島国の利点は自然の脅威からではなく、外国の脅威から逃れやすいという事です。日本人は他国から多くの侵略を受けることなく生きてこられました。私たちの文化は独自の発達を遂げることができ、その結果とてもユニークなものになりました。もちろん、長い間超大国だった中国から受けた影響は無視できません。例えば、言語。日本語は完全に独立し中国語との類似性は持っていませんが、私たちの文字の約半分は漢字から成ります。こういった事はベトナム語や韓国語にも見られますが、漢字を国の本来の文字(ひらがなの事)と共に混在して使用するのは日本語だけです。おそらくこの事から、あなたがたの多くは日本(日本語)と中国(中国語)を混同するかもしれません… しかし、少なくともジャッキーチェンは日本人ではなく中国人であることだけは覚えておいてください。 日本の人々は異なる自然の多くを積極的に受け入れてきました。この事がこのように好奇心の強い国の形成をもたらしました。近世(16世紀-)には、社会情勢も開発が進み平和だったので、市民たちは平和な時間を過ごすことができました。空いた時間を使って、彼らは多くのことに非常に真剣に取り組み始めました(恐らく彼らはそれを娯楽としていたようです)。ここに例を紹介しましょう。このサイトを見てください。 関連リンク 朝顔三十六花撰 このサイトは朝顔の品種改良についての玄人趣味人の仕事の断片を示しています。このような情熱と、出来る限り真剣に物事に取り組もうとする執念深さを分かってもらえたものと信じます。例えそれらが大抵の場合愚かなことだとされようとも。これらの要素が今日の技術立国日本を、そしてこのクリック戦争に対する情熱を形作りました。私たち日本人がこのクリック戦争を通じてあなた方と交流できることは本当に大きな喜びです。 さらなるリンク もしあなたがもっと日本に興味があるなら、どうかこのページをご覧ください。 これらは日本クリッカー達が選んだ様々なリンクです。 日本についてのさらなるリンク
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目次 1 基本神聖魔法について 1.1 基本神聖魔法Lv1 1.2 基本神聖魔法Lv2 1.3 基本神聖魔法Lv3 1.4 基本神聖魔法Lv4 1.5 基本神聖魔法Lv5 1.6 基本神聖魔法Lv6 1.7 基本神聖魔法Lv7 1.8 基本神聖魔法Lv8 1.9 基本神聖魔法Lv9 1.10 基本神聖魔法Lv10 1.11 基本神聖魔法Lv11 1.12 基本神聖魔法Lv12 1.13 基本神聖魔法Lv13 2 WT適用済み神聖魔法 2.1 神聖魔法Lv1 2.2 神聖魔法Lv2 2.3 神聖魔法Lv3 2.4 神聖魔法Lv4 2.5 神聖魔法Lv5 2.6 神聖魔法Lv6 2.7 神聖魔法Lv7 2.8 神聖魔法Lv8 2.9 神聖魔法Lv9 2.10 神聖魔法Lv10 2.11 神聖魔法Lv11 2.12 神聖魔法Lv12 2.13 神聖魔法Lv13 2.14 神聖魔法Lv14 2.15 神聖魔法Lv15 基本神聖魔法について 基本神聖魔法Lv1 ●サニティ 消費 MP3 対象 1体 射程 接触 形状 - 時間 一瞬 抵抗 消滅 属性 なし 属性が「精神効果」の魔法、特殊能力などの影響をすべて解除する。及ぼしている魔法や特殊能力などが達成値を持つ場合、比べあいとなる。 ●バニッシュ 消費 MP3 対象 半径3m/5 射程 30m 形状 起点指定 時間 一瞬 抵抗 消滅 属性 なし この魔法は、蛮族の神官は使用することができない。 種族が「蛮族」「アンデット」のキャラクターは抵抗に失敗した場合、2dを振ってバニッシュの効果を受ける。 2~4:バーサーク化。30秒(3R)の間、命中判定+2、回避判定-2。知性を持つものでも理性的な行動は取れなくなり、すべての魔法も使用不可となる。 6~9:恐怖で行動が妨げられる。3分(18R)の間、命中力、回避力、行使判定に-1のペナルティ。 10~12:対象は逃げ去る。それが不可能な場合、10秒間(1R)の間一切の行動ができなくなる。 ●フィールド・プロテクション 消費 MP2 対象 半径3m/5 射程 術者 形状 - 時間 一瞬 抵抗 消滅 属性 なし 魔法、物理ダメージ-1点。加護の効果は3分(18R)。毒、病気、呪いのダメージは軽減不可能。 ●◆フィアー 消費 MP3 対象 半径3m/5 射程 30m 形状 起点指定 時間 一瞬 抵抗 消滅 属性 なし この魔法は、蛮族の神官のみが使用することができる。 種族が「人族」「アンデット」のキャラクターは抵抗に失敗した場合、2dを振ってフィアーの効果を受ける。 2~4:バーサーク化。30秒(3R)の間、命中判定+2、回避判定-2。知性を持つものでも理性的な行動は取れなくなり、すべての魔法も使用不可となる。 5~9:恐怖で行動が妨げられる。3分(18R)の間、命中力、回避力、行使判定に-1のペナルティ。 10~12:対象は恐怖に凍りつき、10秒間(1R)の間一切の行動ができなくなる。 基本神聖魔法Lv2 ●アウェイクン 消費 MP5 対象 1体 射程 10m 形状 起点指定 時間 一瞬 抵抗 なし 属性 なし 睡眠、気絶しているキャラクターを覚醒させる。対象のHPが0以下だった場合、1にする。 覚醒したキャラクターは、即座に行動できる。(倒れていたキャラクターは、そのままの体勢で覚醒する。 ●キュア・ウーンズ 消費 MP3 対象 1体 射程 10m 形状 起点指定 時間 一瞬 抵抗 消滅 属性 なし 「威力10+魔力」点回復。 魔法生物には効果が表れず、アンデットには同等のダメージを与える。 この魔法はクリティカルしない。 ●ディティクト・フェイス 消費 MP4 対象 1体 射程 10m 形状 起点指定 時間 一瞬 抵抗 消滅 属性 なし 対象が持っているプリーストの技能レベルと、信仰している神の名前が分かる。知らない神でも、司るものや象徴、特殊神聖魔法の名前、効果は分かる。 対象は、この魔法が使われたことを分かる。 基本神聖魔法Lv3 ●キュア・ブラインドネス 消費 MP2 対象 1体 射程 接触 形状 - 時間 一瞬 抵抗 なし 属性 なし 対象が視覚にペナルティを受けた場合、この魔法で解除して通常の状態に戻す。 ●キュア・ポイズン 消費 MP3 対象 1体 射程 接触 形状 - 時間 一瞬 抵抗 なし 属性 なし 魔法や魔物の特殊能力で受けた毒を解除する。達成値を持つ毒の場合、比べあいになる。 ●フィールド・レジスト 消費 MP5 対象 半径5m/15 射程 術者 形状 - 時間 一瞬/3分(18R) 抵抗 なし 属性 なし 術者が指定した属性ひとつの物理・魔法ダメージを-3点する。属性は「風」「炎」「水・氷」「雷」「純エネルギー」のどれか。加護の効果は3分(18R)持続。 ●フォース 消費 MP4 対象 1体 射程 10m 形状 射撃 時間 一瞬 抵抗 半減 属性 衝撃 「威力10+魔力」点ダメージ。 基本神聖魔法Lv4 ●セイクリッド・ウェポン 消費 MP3 対象 1体 射程 30m 形状 起点指定 時間 3分(18R) 抵抗 なし 属性 なし この魔法は、蛮族の神官は使用することができない。 対象が近接攻撃、射撃攻撃を「蛮族」「アンデット」のキャラクターに対して行う場合、そのすべてを魔法の武器として扱い、命中力判定+1、物理ダメージ+2点。 ●セイクリッド・シールド 消費 MP4 対象 1体 射程 10m 形状 起点指定 時間 3分(18R) 抵抗 消滅 属性 なし この魔法は、蛮族の神官は使用することができない。 対象が「蛮族」「アンデット」のキャラクターから攻撃を受けた時、物理ダメージを‐3点。 ●フェイス・インジケイト 消費 MP5 対象 半径5m/15 射程 術者 形状 - 時間 3分(18R) 抵抗 消滅 属性 なし 抵抗に失敗したキャラクターは特殊神聖魔法が使えなくなる。術者と同じ神の特殊神聖魔法は行使可能。 ●◆ヴァイス・ウェポン 消費 MP3 対象 1体 射程 30m 形状 起点指定 時間 3分(18R) 抵抗 なし 属性 なし この魔法は、蛮族の神官のみが使用することができる。 対象が近接攻撃、射撃攻撃を「人族」「アンデット」のキャラクターに対して行う場合、そのすべてを魔法の武器として扱い、命中力判定+1、物理ダメージ+2点。 ●◆ヴァイス・シールド 消費 MP4 対象 1体 射程 10m 形状 起点指定 時間 3分(18R) 抵抗 消滅 属性 なし この魔法は、蛮族の神官のみが使用することができる。 対象が「人族」「アンデット」のキャラクターから攻撃を受けた時、物理ダメージを‐3点。 基本神聖魔法Lv5 ●キュア・ディジーズ 消費 MP4 対象 1体 射程 接触 形状 - 時間 一瞬 抵抗 なし 属性 なし 毒、病気属性の効果をすべて消滅。毒、病気属性の効果が達成値を持つ場合、比べあい。 ●キュア・ハート 消費 MP5 対象 1体 射程 30m 形状 起点指定 時間 一瞬 抵抗 消滅 属性 なし 「威力30+魔力」点回復。 魔法生物には効果が表れず、アンデットには同等のダメージを与える。 この魔法はクリティカルしない。 ●トランスファー・マナポイント 消費 MP1+任意 対象 1体 射程 10m 形状 起点指定 時間 一瞬 抵抗 消滅 属性 なし 術者が任意で消費したMP分、対象のMPを回復させる。 譲渡できる最大MPは20点。この魔法は《MP軽減》の戦闘特技で軽減できない。 ●ホーリー・ライト 消費 MP6 対象 半径5m/15 射程 術者 形状 - 時間 一瞬 抵抗 半減 属性 なし 「アンデット」に対して「威力20+魔力」点ダメージ 基本神聖魔法Lv6 ●コアーシブ 消費 MP5 対象 1体 射程 30m 形状 起点指定 時間 3分(18R) 抵抗 消滅 属性 なし 対象は術者に対して直接的な敵対行動を取れなくなる。 攻撃やダメージを与える魔法、特殊能力は使えない。範囲魔法も範囲に含めなくなる。術者が乱戦エリアにいた場合の範囲魔法の行使には、《魔法制御》が必要となる。 ●ブレス 消費 MP5 対象 1体 射程 30m 形状 起点指定 時間 3分(18R) 抵抗 消滅 属性 なし 対象の器用度、敏捷度、筋力、生命力のどれかを+6する。上昇した能力により、基準値や最大HPも変化する。 他の能力に対してなら重複可能。数を拡大する場合は、同じ能力値のものにしかできない。 ●ホーリー・クレイドル 消費 MP4 対象 半径3m/5 射程 術者 形状 - 時間 3時間 抵抗 なし 属性 なし 対象を眠らせる。魔法の効果が失われるか、HP、MPが減少するまで目が覚めない。3時間眠り続けると、HPとMPが6時間分回復する。この効果は1日に2回まで得られる。 ●リムーブ・カース 消費 MP5 対象 1体 射程 接触 形状 - 時間 一瞬 抵抗 消滅 属性 なし 呪い属性の、悪影響を与えている効果をすべて解除する。アイテムから呪い属性の効果を受けているなら、もう一度アイテムの効果が発揮するまで(装備品などなら再び装備しなおすまで)対象はそのアイテムの効果を受けない。 基本神聖魔法Lv7 ●キュア・ストーン 消費 MP4 対象 1体 射程 接触 形状 - 時間 一瞬 抵抗 なし 属性 なし 石化した対象を回復。どのような効果で石化したとしても、解除可能。自然の石や、化石には効果がない。 ●クエスト 消費 MP6 対象 1体 射程 接触 形状 - 時間 特殊 抵抗 なし 属性 呪い 対象に使命をひとつ課す。使命の内容は術者が自由に決められるが、使命を達成する条件は明確にしておく必要がある。 使命を意識的に遅延させたり、放棄しようとし続ければ、1R毎に1点の呪い属性の魔法ダメージを受ける。使命を達成すれば、この魔法の効果は解除される。 ●バトルソング 消費 MP6 対象 半径6m/20 射程 術者 形状 - 時間 特殊 抵抗 なし 属性 なし 戦いの歌を歌い、術者が望んだキャラクターに加護を与える。対象は範囲内から術者が自由に選択できる。 術者が選択肢た対象は全ての命中力に+2のボーナス修正を与え、追加ダメージを+2点する。この魔法は、術者が歌い続けることで効果を持続できる。歌うのは、主動作になる。 この魔法は呪歌の効果を阻害しない。 基本神聖魔法Lv8 ●イクソシズム 消費 MP10 対象 1体 射程 10m 形状 起点指定 時間 一瞬 抵抗 消滅 属性 なし 魔物Lvが8以下の、分類が「アンデッド」の対象のみに効果がある。対象のHPとMPを0にする。対象はその場で崩れ去る。 ●ゴッド・フィスト 消費 MP8~12 対象 1体 射程 10m 形状 射撃 時間 一瞬 抵抗 半減 属性 衝撃 対象に魔法ダメージを与える。 この魔法は進行している神の神格によって消費するMPとダメージ、クリティカル値が異なる。 エンシェント・ゴッド MP12 「威力40+魔力」点ダメージ、C値11 メジャー・ゴッド MP10 「威力30+魔力」点ダメージ、C値10 マイナー・ゴッド MP8 「威力20+魔力」点ダメージ、C値9 ●フィールドプロテクションⅡ 消費 MP7 対象 半径3m/5 射程 30m 形状 起点指定 時間 一瞬 抵抗 なし 属性 なし 受ける物理・魔法ダメージを-2点。加護の効果は3分(18R)持続する。 毒、病気、呪い属性ダメージは軽減できない。 基本神聖魔法Lv9 ●フォース・エクスプロージョン 消費 MP12 対象 半径6m/20 射程 術者 形状 - 時間 一瞬 抵抗 半減 属性 衝撃 「威力30+魔力」点ダメージ。 ●プリザーベイション 消費 MP6 対象 物体ひとつ 射程 接触 形状 - 時間 永続 抵抗 なし 属性 なし 行使された物体は腐敗しない。 死体に使用すれば、蘇生時の修正は、魔法を行使した日から日数が経過してないものとして扱う。 ●ホーリー・ブレッシング 消費 MP8 対象 1体 射程 10m 形状 起点指定 時間 3分(18R) 抵抗 消滅 属性 なし 30点分の追加HPを得る。追加HPは回復できず、追加HPを減少させる時は防護点0、ダメージ減少効果も全て適用されない物として扱う。 追加HPが0以下になるようなダメージを受けたとき、残りのダメージは対象のHPに与えられる。この時、防護点や減少効果は通常通り適用される。 この魔法は、同じ対象には1日1回しか使えない。 基本神聖魔法Lv10 ●キュア・イリンジャー 消費 MP8 対象 1体 射程 30m 形状 起点指定 時間 一瞬 抵抗 消滅 属性 なし 「威力50+魔力」点HPを回復する。「魔法生物」のキャラクターには効果がない。 「アンデッド」のキャラクターに対して行使すると、「威力50+魔力」点のダメージを与える。 この魔法はクリティカルしない。 ●リフレッシュ 消費 MP6 対象 1体 射程 接触 形状 - 時間 一瞬 抵抗 なし 属性 なし 対象の受けているあらゆる毒、病気、精神効果属性の効果を達成値の比べ合いを必要とせず、消し去る。 ●レベレイション 消費 MP10 対象 1体 射程 接触 形状 - 時間 一瞬 抵抗 なし 属性 なし 人族の対象に、術者の進行する神の聖印を複製し与える。対象が望むならば、経験点1000を支払い、プリースト技能Lv1を取得してもよい。信仰する神は、術者と同じになる。 この魔法は行使に1時間かかる。また、プリースト技能Lvを2異常にすることはできず、タビット・ルーンフォークのキャラクターには効果がない。 基本神聖魔法Lv11 ●◆レジネーション 消費 MP13 対象 1体 射程 接触 形状 - 時間 1分(6R) 抵抗 消滅 属性 精神効果 この魔法は、蛮族の神官のみが使用することができる。 人族を降伏させ、戦う気力を失わさせる。抵抗に失敗した対象は、蛮族に対して攻撃、魔法の行使を行なう際、命中力または行使判定に-4のペナルティ修正。 対象のHPが最大値の1/10でなければ、この魔法は効果がない。 基本神聖魔法Lv12 ●◆ヴァイス・フィールド 消費 MP20 対象 半径100m 射程 術者 形状 - 時間 一瞬 抵抗 なし 属性 なし この魔法は、蛮族の神官のみが使用することができる。 1日の間、「人族」「アンデッド」が立ち入れない結界を作り出す。範囲内にはそれらのキャラクターは入れず、魔法や特殊能力などの効果も全く及ぼさない。この魔法そのものの解除を試みることは可能。 行使しようとした範囲内に、既に「人族」や「あんでっど」がいる場合、効果は現れない。また、セイクリッドフィールドの範囲と重なった場合、双方の効果は即座に失われる。 基本神聖魔法Lv13 ●◆インスタント・ブランデッド 消費 MP20 対象 1体 射程 30m 形状 起点指定 時間 1分(6R) 抵抗 短縮 属性 なし この魔法は、蛮族の神官のみが使用することができる。 対象に一時的な穢れの格印を与える。 対象が人族のキャラクターの場合は、手番に1dを振り、出目が3以下ならば、全ての移動と主動作を行えない。 対象が蛮族のキャラクターの場合は、手番に1dを振り、出目が4以上ならば、追加で1回主動作を行える。 WT適用済み神聖魔法 神聖魔法Lv1 サニティ 消費:MP3 対象:1体# 射程:接触 形状:non 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:non 属性が「精神効果」の魔法、特殊能力などの影響をすべて解除する。及ぼしている魔法や特殊能力などが達成値を持つ場合、比べあいとなる。 †バニッシュ 消費:MP3 対象:半径3m/5 射程:30m 形状:起点指定 時間:一瞬/さまざま 抵抗時:消滅 属性:non 対象が「蛮族」か「アンデッド」のキャラクターに対し行使できる。精神抵抗力判定に失敗した場合、2d6を振り、下記の表から悪影響を及ぼす。対象が蛮族に限り、「精神効果属性」として扱われる。 2~4:バーサーク化。30秒(3R)の間、命中判定+2、回避判定-2。知能が「人間並み」「高い」であっても、「低い」として処理され、魔法を一切行使できない。 5~9:恐怖で行動が妨げられる。3分(18R)の間、命中力、回避力、行使判定に-1のペナルティ。 10~12:対象は逃げ去る。それが不可能な場合、10秒間(1R)の間一切の行動判定が自動的に失敗する。 ‡フィアー 消費:MP3 対象:半径3m/5 射程:30m 形状:起点指定 時間:一瞬/さまざま 抵抗時:消滅 属性:non 対象が「人族」か「アンデッド」のキャラクターに対し行使できる。精神抵抗力判定に失敗した場合、2d6を振り、下記の表から悪影響を及ぼす。対象が人族に限り、「精神効果属性」として扱われる。 2~4:バーサーク化。30秒(3R)の間、命中判定+2、回避判定-2。知能が「人間並み」「高い」であっても、「低い」として処理され、魔法を一切行使できない。 5~9:恐怖で行動が妨げられる。3分(18R)の間、命中力、回避力、行使判定に-1のペナルティ。 10~12:対象は逃げ去る。それが不可能な場合、10秒間(1R)の間一切の行動判定が自動的に失敗する。 フィールド・プロテクション 消費:MP2 対象:半径3m/5 射程:術者 形状:non 時間:一瞬/3分(18R) 抵抗時:必中 属性:non 魔法、物理ダメージ-1点。加護の効果は3分(18R)。毒、病気、呪いのダメージは軽減不可能。 神聖魔法Lv2 アウェイクン 消費:MP5 対象:1体 射程:10m 形状:起点指定 時間:一瞬 抵抗時:なし 属性:non 睡眠、気絶しているキャラクターを覚醒させる。対象のHPが0以下だった場合、1にする。 覚醒したキャラクターは、即座に行動できる。(倒れていたキャラクターは、そのままの体勢で覚醒する。 キュア・ウーンズ 消費:MP3 対象:1体 射程:10m 形状:起点指定 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:non 「威力10+魔力」点回復。 魔法生物には効果が表れず、アンデットには同等のダメージを与える。 この魔法はクリティカルしない。 ディティクト・フェイス 消費:MP4 対象:1体○ 射程:10m 形状:起点指定 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:non 対象が持っているプリーストの技能レベルと、信仰している神の名前が分かる。知らない神でも、司るものや象徴、特殊神聖魔法の名前、効果は分かる。 対象がプリースト技能を習得していない場合には、その事実のみが判明し、信仰している神がいたとしてもそのことは分からない。 対象は、この呪文がかけられた事を直感的に感知し、直後に対象が周囲を見渡した視界内に術者が顔や姿を晒していれば、対象ははっきりと術者を魔法の行使者だと認識する。 神聖魔法Lv3 キュア・ブラインドネス 消費:MP2 対象:1体 射程:接触 形状:non 時間:一瞬 抵抗時:なし 属性:non 対象が視覚にペナルティを受けた場合、この魔法で解除して通常の状態に戻す。 キュア・ポイズン 消費:MP3 対象:1体 射程:接触 形状:non 時間:一瞬 抵抗時:なし 属性:non 魔法や魔物の特殊能力で受けた毒を解除する。達成値を持つ毒の場合、比べあいになる。 フィールド・レジスト 消費:MP5 対象:半径5m/15 射程:術者 形状:non 時間:一瞬/3分(18R) 抵抗時:なし 属性:non 術者が指定した属性ひとつの物理・魔法ダメージを-3点する。属性は「風」「炎」「水・氷」「雷」「純エネルギー」のどれか。加護の効果は3分(18R)持続。 フォース 消費:MP4 対象:1体 射程:10m 形状:射撃 時間:一瞬 抵抗時:半減 属性:衝撃 「威力10+魔力」点ダメージ。 神聖魔法Lv4 †セイクリッド・ウェポン 消費:MP3 対象:1体 射程:30m 形状:起点指定 時間:3分(18R) 抵抗時:なし 属性:non この魔法は、蛮族の神官は使用することができない。 対象が近接攻撃、射撃攻撃を「蛮族」「アンデット」のキャラクターに対して行う場合、そのすべてを魔法の武器として扱い、命中力判定+1、物理ダメージ+2点。 ‡ヴァイス・ウェポン 消費:MP3 対象:1体 射程:30m 形状:起点指定 時間:3分(18R) 抵抗時:なし 属性:non この魔法は、蛮族の神官のみが使用することができる。 対象が近接攻撃、射撃攻撃を「人族」「アンデット」のキャラクターに対して行う場合、そのすべてを魔法の武器として扱い、命中力判定+1、物理ダメージ+2点。 †セイクリッド・シールド 消費:MP4 対象:1体 射程:10m 形状:起点指定 時間:3分(18R) 抵抗時:消滅 属性:non この魔法は、蛮族の神官は使用することができない。 対象が「蛮族」「アンデット」のキャラクターから攻撃を受けた時、物理ダメージを‐3点。 ‡ヴァイス・シールド 消費:MP4 対象:1体 射程:10m 形状:起点指定 時間:3分(18R) 抵抗時:消滅 属性:non この魔法は、蛮族の神官のみが使用することができる。 対象が「人族」「アンデット」のキャラクターから攻撃を受けた時、物理ダメージを‐3点。 フェイス・インジケイト 消費:MP5 対象:半径5m/15 射程:術者 形状:non 時間:3分(18R) 抵抗時:消滅 属性:non 抵抗に失敗したキャラクターは特殊神聖魔法が使えなくなる。術者と同じ神の特殊神聖魔法は行使可能。 神聖魔法Lv5 キュア・ディジーズ 消費:MP4 対象:1体 射程:接触 形状:non 時間:一瞬 抵抗時:なし 属性:non 毒、病気属性の効果をすべて消滅。毒、病気属性の効果が達成値を持つ場合、比べあい。 キュア・ハート 消費:MP5 対象:1体 射程:30m 形状:起点指定 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:non 「威力30+魔力」点回復。 魔法生物には効果が表れず、アンデットには同等のダメージを与える。 この魔法はクリティカルしない。 トランスファー・マナポイント 消費:MP1+任意 対象:1体 射程:10m 形状:起点指定 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:non 術者が任意で消費したMP分、対象のMPを回復させる。 魔法拡大/数 で対象の数を拡大する時は、その全てに同じMPが費やされる。 譲渡できる最大MPは20点。この魔法の消費MPは《MP軽減》の戦闘特技等で軽減できない。 ホーリー・ライト 消費:MP6 対象:半径5m/15 射程:術者 形状:non 時間:一瞬 抵抗時:半減 属性:non 「アンデット」に対して「威力20+魔力」点ダメージ 神聖魔法Lv6 コアーシブ 消費:MP5 対象:1体# 射程:30m 形状:起点指定 時間:3分(18R) 抵抗時:消滅 属性:non 対象は術者に対して直接的な敵対行動を取れなくなる。 攻撃やダメージを与える魔法、特殊能力は使えない。範囲魔法も範囲に含めなくなる。術者が乱戦エリアにいた場合の範囲魔法の行使には、術者への被弾を避ける意味で 魔法制御 が必要となる。 敵対的な行動や魔法の行使、特殊能力の使用であっても、直接にダメージを発生させるものでなければ、術者に対して実行可能。 ブレス 消費:MP5 対象:1体 射程:30m 形状:起点指定 時間:3分(18R) 抵抗時:消滅 属性:non 対象の器用度、敏捷度、筋力、生命力のどれかを+6する。上昇した能力により、基準値や最大HPも変化する。 重複可能。数を拡大する場合は、同じ能力値のものにしかできない。 固定値のキャラクターに使用した場合、器用度→命中+1、敏捷度→回避+1、移動+6、筋力→打撃点+1、生命力→生命抵抗+1、HP+6とする。 特殊能力に影響があるかどうかはその都度GMが判断する。 ホーリー・クレイドル 消費:MP4 対象:半径3m/5 射程:術者 形状:non 時間:3時間 抵抗時:なし 属性:non 対象を眠らせる。魔法の効果が失われるか、HP、MPが減少するまで目が覚めない。3時間眠り続けると、HPとMPが6時間分回復する。この効果は1日に2回まで得られる。 リムーブ・カース 消費:MP5 対象:1体 射程:接触 形状:non 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:non 呪い属性の何らかの効果を解除する。複数の呪い効果でも、1回の行使で全て解除できるが、一つ一つに対し達成値の比べ合いが必要。 装備品から呪いの効果がもたらされていた場合、この魔法が行使された直後1分(6R)以内に、対象は自らの意思でそれを外す事が可能になる。それを行わなかったり、外した後、再び装備してしまった場合、再度呪いの効果が現れる。 神聖魔法Lv7 キュア・ストーン 消費:MP4 対象:1体 射程:接触 形状:- 時間:一瞬 抵抗時:なし 属性:non 石化した対象を回復。どのような効果で石化したとしても、解除可能。自然の石や、化石には効果がない。 クエスト 消費:MP6 対象:1体○ 射程:接触 形状:- 時間:特殊 抵抗時:なし 属性:呪い 対象に使命をひとつ課す。使命の内容は術者が自由に決められるが、使命を達成する条件は明確にしておく必要がある。 使命を意識的に遅延させたり、放棄しようとし続ければ、1R毎に1点の呪い属性の魔法ダメージを受ける。使命を達成すれば、この魔法の効果は解除される。 バトルソング 消費:MP6 対象:半径6mの空間 射程:術者 形状:- 時間:特殊 抵抗時:なし 属性:non 戦いの歌を歌い、術者が望んだキャラクターに加護を与える。対象は範囲内から術者が自由に選択できる。 術者が選択肢た対象は全ての命中力に+2のボーナス修正を与え、追加ダメージを+2点する。この魔法は、術者が歌い続けることで効果を持続できる。歌うのは、主動作になる。 この魔法は呪歌の効果を阻害しない。また、範囲内であれば、術者の歌声が対象に聞こえる必要はない。 神聖魔法Lv8 イクソシズム 消費:MP10 対象:1体# 射程:10m 形状:起点指定 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:non 魔物Lvが8以下の、分類が「アンデッド」の対象のみに効果がある。対象のHPとMPを0にする。対象はその場で崩れ去る。 ゴッド・フィスト 消費:MP8~12 対象:1体 射程:10m 形状:射撃 時間:一瞬 抵抗時:半減 属性:衝撃 対象に魔法ダメージを与える。 この魔法は進行している神の神格によって消費するMPとダメージ、クリティカル値が異なる。 エンシェント・ゴッド MP12 「威力40+魔力」点ダメージ、C値11 メジャー・ゴッド MP10 「威力30+魔力」点ダメージ、C値10 マイナー・ゴッド MP8 「威力20+魔力」点ダメージ、C値9 フィールドプロテクションⅡ 消費:MP7 対象:半径3m/5 射程:30m 形状:起点指定 時間:一瞬/3分(18R) 抵抗時:必中 属性:non 受ける物理・魔法ダメージを-2点。加護の効果は3分(18R)持続する。 毒、病気、呪い属性ダメージは軽減できない。 神聖魔法Lv9 フォース・エクスプロージョン 消費:MP12 対象:半径6m/20 射程:術者 形状:- 時間:一瞬 抵抗時:半減 属性:衝撃 「威力30+魔力」点の魔法ダメージ。(衝撃属性だが魔法ダメージ) プリザーベイション 消費:MP6 対象:物体ひとつ 射程:接触 形状:- 時間:永続 抵抗時:なし 属性:non 行使された物体は腐敗しない。 死体に使用すれば、蘇生時の修正は、魔法を行使した日から日数が経過してないものとして扱う。 ホーリー・ブレッシング 消費:MP8 対象:1体 射程:10m 形状:起点指定 時間:3分(18R) 抵抗時:消滅 属性:non 30点分の追加HPを得る。追加HPは回復できず、追加HPを減少させる時は防護点0、ダメージ減少効果も全て適用されない物として扱う。 追加HPが0以下になるようなダメージを受けたとき、残りのダメージは対象のHPに与えられる。この時、防護点や減少効果は通常通り適用される。 この魔法は、同じ対象には1日1回しか使えない。 神聖魔法Lv10 キュア・イリンジャー 消費:MP8 対象:1体 射程:30m 形状:起点指定 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:non 「威力50+魔力」点HPを回復する。「魔法生物」のキャラクターには効果がない。 「アンデッド」のキャラクターに対して行使すると、「威力50+魔力」点のダメージを与える。 この魔法はクリティカルしない。 リフレッシュ 消費:MP6 対象:1体 射程:接触 形状:- 時間:一瞬 抵抗時:なし 属性:non 対象の受けているあらゆる毒、病気、精神効果属性の効果を達成値の比べ合いを必要とせず、消し去る。 レベレイション 消費:MP10 対象:1体○ 射程:接触 形状:- 時間:一瞬 抵抗時:なし 属性:non 人族の対象に、術者の進行する神の聖印を複製し与える。対象が望むならば、経験点1000を支払い、プリースト技能Lv1を取得してもよい。信仰する神は、術者と同じになる。 この魔法は行使に1時間かかる。また、プリースト技能Lvを2異常にすることはできず、タビット・ルーンフォークのキャラクターには効果がない。 神聖魔法Lv11 †サレンダー 消費:MP13 対象:1体○ 射程:接触 形状:- 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:精神効果 この魔法は、分類が「蛮族」であり、かつHPが最大値の10分の1(端数切捨て)であるキャラクターにのみ効果を及ぼす。複数部位のキャラクターの場合、すべてのコア部位のHPがこの条件を満たす必要がある。 対象はその場ですべての抵抗を諦め、術者に従う。 ‡レジネーション 消費:MP13 対象:1体 射程:接触 形状:- 時間:1分(6R) 抵抗時:消滅 属性:精神効果 この魔法は、分類が「人族」であり、かつHPが最大値の10分の1(端数切捨て)であるキャラクターにのみ効果を及ぼす。複数部位のキャラクターの場合、すべてのコア部位のHPがこの条件を満たす必要がある。 対象は、分類が「蛮族」であるキャラクターに対し攻撃や魔法の行使を行う場合、判定に-4のペナルティ。 ブレスⅡ 消費:MP12 対象:1体 射程:30m 形状:起点指定 時間:3分(18R) 抵抗時:消滅 属性:- 対象の能力値全てを+6(ボーナス+1)する。それによるHP等付随する数値も変化する。 固定値のキャラクターに対して行使された場合は、命中、回避、移動速度、打撃点、生命・精神抵抗力、HP、MPに影響し、さらに特殊能力に影響があるかどうかはGMが判断する。 ホーリー・ライトⅡ 消費:MP9 対象:半径6m/20 射程:術者 形状:- 時間:一瞬/3分(18R) 抵抗時:半減 属性:- 「アンデッド」のキャラクターに対し、「威力50+魔力」点の魔法ダメージを与える。さらに、抵抗に失敗した対象には続く3分(18R)の間、精神抵抗力判定に-2のペナルティ。 神聖魔法Lv12 †セイクリッド・フィールド 消費:MP20 対象:半径100mの空間 射程:術者 形状:- 時間:一瞬/1日 抵抗時:なし 属性:- 1日の間、分類が「蛮族」「アンデッド」であるキャラクターが立ち入れない結界を創りだす。範囲内にはそれらのキャラクターは立ち入ることはできず、また範囲外からそれらが内部へ魔法や特殊能力の効果を及ぼすことができない。 範囲内にすでに「蛮族」「アンデッド」のキャラクターが存在する場合には、この魔法の効果は現れない。また、「ヴァイス・フィールド」と効果範囲が一部でも重なった場合、双方の魔法が即座に消滅する。 ‡ヴァイス・フィールド 消費:MP20 対象:半径100mの空間 射程:術者 形状:- 時間:一瞬/1日 抵抗時:なし 属性:- 1日の間、分類が「人族」「アンデッド」であるキャラクターが立ち入れない結界を創りだす。範囲内にはそれらのキャラクターは立ち入ることはできず、また範囲外からそれらが内部へ魔法や特殊能力の効果を及ぼすことができない。 範囲内にすでに「人族」「アンデッド」のキャラクターが存在する場合には、この魔法の効果は現れない。また、「セイクリッド・フィールド」と効果範囲が一部でも重なった場合、双方の魔法が即座に消滅する。 エスケープ 消費:MP3 対象:1体# 射程:30m 形状:起点指定 時間:一瞬 抵抗時:なし 属性:- 対象は、瞬時に術者の進行する神のもっとも近い神殿か、ほこらへ移動する。遮蔽や障害物、距離などは関係ない。 レスキュー 消費:MP17 対象:1体○ 射程:接触 形状:- 時間:1日 抵抗時:なし 属性:- 効果時間中、術者は、距離などに関わらず、対象のHPの状態を常に知ることができる。わかるのはHPの状態のみで、対象がその他に効果を受けても、それを知る事はできない。また、対象の同意があれば、補助動作で術者の元へ瞬時に呼び寄せる事ができる。呼び寄せられる時には、障害物や遮蔽、距離など無関係に呼び寄せられるが、対象が存在出来るだけの空間がなければならない。 呼び寄せる効果を一度使えば、この魔法は消滅する。また、他の対象に新たにこの魔法を行使した場合も、それまでの対象から魔法の効果は消滅する。 神聖魔法Lv13 †イレイス・ブランデッド 消費:MP50 対象:1体○ 射程:接触 形状:- 時間:一瞬 抵抗時:なし 属性:- 対象の 穢れ を1点、消去する。この効果では、ナイトメアが生来持っている 穢れ を消去することはできない。この魔法を1回でも受けたことのあるキャラクターは、二回目以降の行使に対して、自動的に抵抗してしまう。 この魔法は行使に1日が必要。 ‡インスタント・ブランデッド 消費:MP20 対象:1体 射程:30m 形状:起点指定 時間:1分(6R) 抵抗時:短縮 属性:non 対象に一時的な穢れの格印を与える。 対象が人族のキャラクターの場合は、手番に1dを振り、出目が3以下ならば、全ての移動と主動作を行えない。 対象が蛮族のキャラクターの場合は、手番に1dを振り、出目が4以上ならば、追加で1回主動作を行える。 オラクル 消費:MP14 対象:半径10km/すべて 射程:術者 形状:- 時間:3分(18R) 抵抗時:必中 属性:- 術者と同じ神のプリースト技能を1Lv以上習得している対象に限り、術者の声を聞かせる事ができる。(声は耳元で語りかけられたかのように聞こえる。) 術者が、対象からの声を聞く事はできない。 キュア・モータリー 消費:MP10 対象:1体 射程:50m 形状:起点指定 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:- 対象のHPを「威力70+魔力」点回復する。この魔法は、分類が「魔法生物」であるキャラクターには効果を及ぼさない。 また、「アンデッド」であるキャラクターには、「威力70+魔力」点の魔法ダメージを与える。 この魔法はクリティカルしない。 神聖魔法Lv14 ジハド 消費:MP40 対象:半径500m/すべて 射程:術者 形状:- 時間:6時間 抵抗時:なし 属性:- 範囲内で術者と同じ神を信仰しているキャラクター全てが対象。他の神のプリースト技能を持っているキャラクターや、タビット、ルーンフォークなどプリースト技能を習得できないキャラクターは、必ず対象外となる。また、知能が「なし」「動物並み」「命令を聞く」となっているキャラクターも対象外。 対象は自らの意思でこの魔法の呼応かを受けるかどうか決定する。(プリースト技能を持たずとも、明白に信仰上の理由で加護を拒否するキャラクターも存在する。) 対象は、任意の戦士系技能を選択し、その技能が一時的に+3レベルされる。0レベルのものを選択し、3レベルとして扱う事も可能。ただし、これにより冒険者Lvが上昇したり、新たな戦闘特技を得る事はできない。 固定値のキャラクターが対象になった場合、命中力判定と回避力判定に+3のボーナスを得て、近接・射撃等で発生する物理ダメージが+3点。 リーンカーネーション 消費:MP30 対象:死体1つ 射程:接触 形状:- 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:- この魔法の対象とできるのは、死亡後24時間以内の死体に限られる。対象は7日以内に、別の場所に同じ種族の赤ん坊として生まれる。生まれ変わった赤ん坊は、(成長後の)能力値が全て、転生する前と同じになる。そして、ある年齢に達したときに、転生前の記憶を全て取り戻す。同時に、転生前に習得していた技能、戦闘特技などをすべて使用することができるようになる。 記憶を取り戻す年齢は、行使時の達成値によって変わり、以下の値の通りとなる。種族による数値の変動はない。 この魔法は行使に1時間を必要とする。 達成値: ~25:自然には記憶を取り戻さない 26~27:30歳 28~29:20歳 30~31:10歳 32~:5歳 ピュリファイ・ソウル 消費:MP20 対象:1体○ 射程:接触 形状:- 時間:一瞬 抵抗時:消滅 属性:- 「アンデッド」のキャラクターにのみ効果がある。 対象はHPとMPが0になり、魂を救済されて、術者の進行する神の御本へと旅立つ。 対象の魔物Lvが14以上の場合、この魔法の抵抗は「なし」となり、抵抗の意思を持つ場合は必ず効果を及ぼさない。 神聖魔法Lv15 コール・ゴッド 消費:MP50~200 対象:任意の地点 射程:30m 形状:起点指定 時間:1分(6R) 抵抗時:なし 属性:- 神を呼び出し、願いを聞いてもらう。この魔法は、魔法行使の前に、その場所とキャラクター自身で、一定の手順(儀式)を準備として行わなければならない。準備の完了直後から行使が可能になる。準備完了後、行使をしないまま、準備にかかった時間と同じだけの時間が過ぎると、準備した効果は失われる。 進行している神の神格により、消費MPや準備、行使に必要な時間、術者の代償、そして神が行える奇跡の程度が異なる。 その神の神格に見合う範囲に存在する、その神のプリースト技能を習得しているキャラクターは、この魔法が行使された事に気が付く。(魔法行使がどこで行われたかには関わらない。) ●古代神(エンシェント・ゴッド) 準備1年 行使7日 MP200 大陸に大きな穴を開けたり、島を生み出したりなど、世界地図を変える程の奇跡を実行可能。また、冒険者Lvや魔物Lvが35以下のキャラクターを、抵抗の余地なく一掃できる。 古代神を呼び出した術者は、神に魂を捧げる事になり、死亡して二度と蘇生できない。 ●大神(メジャー・ゴッド) 準備1ヶ月 行使1日 MP100 山をひとつ吹き飛ばしたり、視界一帯を森に変えるなどの奇跡を実行可能。また、冒険者Lvや魔物Lvが25以下のキャラクターを、抵抗の余地なく一掃できる。 大神を呼び出した術者は、必ず死亡する。 ●小神(マイナー・ゴッド) 準備6ラウンド 行使1ラウンド MP50 巨大な岩を動かせたり、丘1つを花畑に変えたりなどの奇跡を実行可能。また、冒険者Lvや魔物Lvが15以下のキャラクターを、抵抗の余地なく一掃できる。 小神を呼び出した術者は、HPが0になり、7日の間、MPの最大値が50点減少する。 レストレーション 消費:MP18 対象:1体 射程:50m 形状:起点指定 時間:一瞬 抵抗時:なし 属性:- 対象が望まずに受けている魔法や賦術、魔物の特殊能力などによる効果を全て消し去り、同時にHPを最大値まで回復させる。消し去る効果は、対象が自由に選択できる。達成値の比べ合いは必要ない。 この魔法は「アンデッド」「魔法生物」のキャラクターには効果がない。
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目次 1.神のお心への正進 2.悟りの維持の難しさ 3.知識を実践で示せ 1.神のお心への正進 この「正進」は「正道に精進する」という内容です。仏教のなかではこの正しく道に精進するということをひじょうに重視しています。前章の「正思」においても、自助努力の姿勢ということを述べておきました。重なるところもあるかと思いますが、「正思」のほうでの自助努力は一般的な面ですが、この正進のほうはもう少し具体的、個別的になっていきます。真に悟りを求めている者たちにとって、必須の心がけとは何かということが要求されてくるわけです。 この正進は、あくまでも道への精進と考えていただきたいと思います。単に商売での精進というようなことではありません。神の方向に向かっての正進ということになります。仕事の面で生かすとすれば、その方向性がユートピア建設へ、神のお心の実現へ向いているということです。これが正進の前提条件となりましょう。 さて、この正しく道に精進するという場合にも、いくつかの判断基準があるであろうと思います。みなさんは正しく道に精進しているかどうかをいったいどのように判定しておられるのでしょうか。どのように判断しておられるのでしょうか。 ここで、私は修行そのものの意味というものを、もう一度考え直していただきたいと思うのです。『釈迦の本心』゛という本の最終章に「人間完成の哲学」というものをあげておきました。このなかでは、いかに悟りへの道というのが難しいものであるかということを書いたつもりです。可能性としては、すべての人に開けている、そして、瞬間的にはある程度のところまで達することも可能とされている、しかし、維持することが難しいもの、これが悟りです。 悟りの要諦は、実はこの維持のところにあると看破しなければならないのです。もちろん悟りに入っていく過程、これも難しいですが、これを維持していくことこそほんとうはいちばん難しいことなのだということを知らねばなりません。それは、一時期、一瞬、あるいは一日や二日だけ悟った人がいくら出たところで世の中がよくならないのと同じです。十年、二十年と続いていって、はじめて自分の血となり肉となっていくものなのです。 したがって、悟りにおいて安易なものは許されないという考えを持っていただきたいのです。上級試験に合格して賞状を手にされた方々にも言っておきたいのですが、上級試験に合格された方はある程度の神理の理解ができ、ある程度の心境にきていることは認定されたわけです。しかし、これは悟りの入り口に立ったということであって、悟ったということではありません。これを勘違いすれば簡単に、一瞬で、あるいは一日で転落していきます。それを間違えないでいただきたいのです。賞状を手にするということは、みなさんが天国で光の天使として生まれ変われることの証明ではないのです。保証ではないのです。それは、悟りの入り口に立ったということなのです。それ以上のものではありません。この意味において、神理の学習とその結果は悟りへの入場券であって、乗車券ではないということであります。悟ったということは、そう簡単にはないということです。悟ったといわれる以上、十年、二十年、あるいは一生を通じてぐらつかない心で、それだけのレベルの心で、どんな環境下も生きていけるだけの自覚ができ、そして実績ができたときにはじめて悟ったと言えるのであって、悟りの入り口に立ったということとは、違うのです。 一年や二年でできあがるということはけっしてないのです。試験で何点取っても同じです。それは入り口に立ったということです。入場券ではあるけれども、乗車券としてそれを使うためには、それだけの努力を連綿と続けていくことが必要なのです。 一定の心境に達したとしても、環境が変わったときにグラリと崩れていくようなものであれば、その程度のものです。今は何不自由ない、悩みもないから、この心境での学びはできているといっても、それを維持してゆく過程においてまったく違った環境が出てきます。そのときに、それを乗り切ることができなければ、その悟りが簡単に壊れていく、そういうことがあるわけです。 2.悟りの維持の難しさ 特に、若い方にとっては、悟りの維持ということはだいじなことだと思います。悟りにおいて年齢は関係がありません。それは、たとえば二十代に亡くなった方、三十代に亡くなった方、四十代、五十代、六十代に亡くなった方というように、亡くなった後に行くところという意味で見れば、その人の心の状態は年齢とは関係がないからです。若くして高いところへ行っている方はいますし、むしろ中年以降で心にくもりをつくって霊格が下がっていくケースのほうが多いといえましょう。この意味において、悟りには年齢は関係ないといえましょう。 ただ、悟りの維持には年齢は関係があると思わねばなりません。若い人はくもりをつくっていない分だけ、早く悟りの入りロに立ちやすいのは事実です。心にくもりが少ない分、またいろいろな試練を受けていない分だけ、悟りの入りロに立ちやすいのです。しかし、人生の荒波にもまれていないという甘い環境に育っている以上、そうした事件に出くわしたときに崩れやすいのも早いということです。悟りの維持においてもろいのです。こうした難点があるということを、重々理解していただきたいと思います。 その意味において、二十代でたとえば百の悟りを得た者がいたとしても、この二十代の百の悟りは、三十、四十、五十となっていくうちに、目減りしていくという可能性は高いのです。いろいろな事件に当たるたびに、五個落ち、十個落ち、十五個落ちという可能性はひじょうに強いといえましょう。 ところが、四十、五十で得た八十の悟り、八十個の悟りというのは、そうとうの人生の荒波を経てきているために、少々の事件が起きて二個や三個落ちることがあっても、そう簡単には落ちないのです。そのかわり、純粋でない分だけ百個まで積み上げるのはなかなか難しいです。一個、二個を積み上げるのが難しいのです。しかしながら、そう簡単に崩れないところがあります。こういう長所と短所はあるわけです。悟りといってもこのようにレベルの差がありますが、あなたなりの悟りがほんとうのものとなっていくためには、経験という名の試練を通っていかねばならない、火のなかを通され、水のなかを通された鋼鉄のようになっていかねばならないということです。 この経験をとおし、そしてその試練を乗り切って人生の最終点まで走っていったときにはじめて悟りを手に入れたといってよいのだと思います。ですから、ある程度の心境に自分がなったとして、では経済的な破綻が来たらあなたはどうなるか。肉親のうちの一人が亡くなったらどうなるか。また、エリートのポストについていた人が左遷されたらどうなるか。離婚という状況になったらどうなるか。いろいろな場面があるでしょうが、そのときこそ試されていると思ってください。そうしたときに、不動の心を持って精進していける者、これは本物です。簡単にもろく崩れていく者は、やはり蜃気楼(しんきろう)であったと思わざるをえません。 したがって、私はこの正しき精進ということに関しては、時間の経過、経験の流れのなかで光を増していくということの重要性を特に説いておきたいと思います。毎年、毎年の心境があるでしょう。毎年、毎年の神理の学びがあるでしょうが、それを実生活において実践してみて、そしてその悟りの堅固さを試してみる、こういう姿勢をどうしても持っていただきたいと思うのです。 学生であれば、今悟ったと思っても、社会人となったらどうなるかわかりません。社会人となり、若手の社員から、責任の重い中堅となったらどうなるか、管理職となったらその悟りがもつかどうか。 女性であれば、若い女性が結婚したらどうなるかです。維持できるか、あるいはまったく変わってくるか。結婚している女性であれば、ご主人の立場・職業・収入、こういうものが変わったときにどうなるかです。 3.知識を実践で示せ ただ、どうしても私が言っておきたいことは、いくら神理を学んだとしても、実生活において奇人変人のように見られる態度だけは私は許さないということです。私たちがめざしているものは、どこでも通用する人材の育成です。神理の空間だけで通用して、それ以外で通用しないというような人材、こういう人をいくらつくっても世の中は変わらないのです。神理を学んで、心が変わって、そして世の中にもその光を環元できるようなみなさんであって、はじめて修行が生きているといえるのです。 女性であれば、神理を学んで悟ったことによって、ますます優しくなり、ますます多くの人に愛されるような女性となって当然であって、学んだことによって自分が偏った生き方をするならば問題外であります。若い男性でもそうです。今まで素直に生きていたのが、学んだことによって天狗になって堕落していくなら、何のために神理を学んだのかわからないのです。年輩の人でもそうです。それで出来上がってしまって、急にいばり始めるようであればそんなものは何でもない。実力がつけばつくほど謙虚になり、物腰が柔らかくなり、他の人に愛されるような、そしてもちろんそれ以上に愛を与えるような人間となっていかねば、人格となっていかねば、この修行ということの意味はないのです。 私たちのこの正精進とは、けっして千日回峰のように、山のなかを歩いたり、滝に打たれたりするようなことでもなければ、神理の知識をたくさん詰め込んで、それを競うようなものでもありません。これらはあくまでも材料であって、神理を学ぶことによって実生活にその光が出なければまったく意味がないのです。そういう意味での正進であります。 ですから、――学んだ神理を、学んだ知識を実生活で示せ。その悟りが本物であるならば実践せよ。実践されているかどうかは、まわりを見ればわかるはずだ。他の人の自分への接し方を見ればわかるはずだ。そして、それが退化することなく、あるいはいっそうすばらしいものとなっているかどうか自己確認する姿勢を持ちなさい。――そういうことを言っておきたいのです。 「正進」は決して神理浸けの特殊な人間をつくるためにあるのではないのです。むしろ、神理に触れることによって、心がくらりと一転し、心を開き、自己改革に取り組み、自分の欠点を修正し、そしていっそうすばらしい、今までになかったような、完成度の高い人間になっていただきたいのです。そして、その途中において、悟りの維持ということはどれほど困難かということをけっして忘れないでいただきたいのです。 入りロに立っているだけで、悟ったつもりになってはなりません。悟りはこれからが本番だということをけっして忘れないでいただきたいと思います。
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目次 1.神概念のたてなおし 2.霊的世界観改革の使命 3.現代的布教方法への要請 4.神理伝道への三つのアドバイス 1.神概念のたてなおし スウェーデンボルグです。引き続いて、キリスト教の考えと私の考えについて、話をしてゆきたいと思います。 この新しいキリスト教説については、生前の著書のなかでもかなりの分量にわたって書いてきました。そして私の死後、新エルサレム教会というようなものができて、スウェーデンボルグ派とでもいうべきキリスト教が始まりました。 この派の名は十分に知られてはいないかもしれませんが、その流れを汲む人のなかで読者のみなさまが知っているであろうと思う一人に、ヘレン・ケラーという方がいます。このヘレン・ケラーという方は、私の創始したキリスト教を深く学んだ方でありますし、ヘレン・ケラー女史の生前には、私も霊界からかなり指導したつもりでおります。 さて、もちろん私の現在の考え方が、いまから二百数十年前の生前のキリスト教説とまったく同じであるかといえば、同じであるはずもありません。こちらに還ってから考え方は相当に変おってきております。 まず、考えの変わった点として、イエス・キリストその人に対する私の考え方が相当変わってまいりました。かつて、地上にありしときには、イエス・キリストとは創造者たる神が肉をもつという意味において、その霊体の一部を出したもの、そのように考えておりましたが、こちらに還って接してきた範囲内では、私の神概念というのは、まだまだ未熟であったと痛感いたしております。もっともっと高次元の神という存在について、思いを巡らしてみるべきであった、そう感じられるのです。 イエスという方は、人類の歴史のなかでも、おそらくもっとも優れた人格を持った方の一人であると思いますし、その人となりや、人類を啓発した実績はたいへんなものがあると思うのです。 けれども、私が見た神、生前見ていた神はキリストを通しての神であったという面が強かったことは否めなかった。今、こちらに還ってきて、他の諸教、諸宗派のあり方、考え方というものを学んだときに、私の生前の宗教観がいきさか偏狭であった点は否(いな)めないと思います。 仏教をはじめとする他の国際的な宗教に対しても、かならずしも寛容な立場を私はとりませんでした。キリスト教にだけ神理はあるという方向に、考えを持ってきていたこともあるし、キリスト教のなかにおいても、ルターらの新教の考えに対して、威しい批判を加えたこともありました。そうした点、まだまだ私自身足らざるところが多かったと思います。 ただ、キリスト教の流れのなかで、私も改革者の一人として立ったといいうるとするならば、それは実在界のありかたをつぶさに勉強しえたということであったのではないかと思います。五十五歳の霊的目覚めのときより、実在界に出入し、さまざまな経験を経てきました。 こうした霊的経験の数々は、おそらく他のキリスト教神学者たちの経験を凌駕していたことだと私は思います。この意味において、私はかなりの確信にみちて、キリスト教理論を新展開したのではないか、このように自分では考えております。 さて、今、生前肉体を離れて実在界を探検していた私という立場から、実在界にしかいない私の立場に戻って考えてみるのに、さて、どうしたものかいろいろなことを言いますが、まず、明らかにいっておきたいことは、キリスト数的な神というものは、創造者としての神ではないということだと思います。 創造者としての神はもっと高次元の方であり、人格を待った神というのは、第二義的な神である。これだけは明らかにしておかねばならないと思います。したがって創造者ともいうべき神が、肉体を持って出て来るということはなく、肉体を持って地上に出たことがある神、あるいは神の子というべきものは、創造者たる神に限りなく近いところにはいるが、やや人霊の色彩を現在も有している、そういう霊であるということをいっておきたいと思います。 イエスについても、そのイエスの魂そのものはかなり巨大な魂のようです。そして、ナザレのイエスとして出た部分は、イエスの全魂から見れば、ごく一部であったということが明らかになっています。イエスの魂のかかには、もっともっといろいろな面がありえた、あるいは現にあった、そういえるようであります。 ただ、地上に住む人間から見るとするならば、イエスのような魂は、もはや神そのものである、神の化身そのものである、神の子その人である、このように感じてまちがいではあるまい、そう信じております。 さて、このイエスと、霊界・天界において、私がどのようなつながりをもっているか、みなさんはご存じでしょうか。私自身の魂は、実はキリスト教とはひじょうに濃厚な関係が過去においてあった魂です。 かつて、私自身はバプテスマのヨハネとして、イエスの時代に肉体をもったこともありますし、その後において私の魂の一部は、私自身地上にいたときには想像もしておりませんでしたが、日本の地に生まれて恵心僧都源信という名で呼ばれたことがあります。それが私の過去世の姿であったのです。 さて、このように私自身の魂は、仏教とキリスト教の双方をまたにかけた魂なのです。そして、さらにつけ加えるとするならば、私自身の魂のなかには、いつの時代にもこうした実在の世界を世の人びとに教えるという使命があったように思います。 はるかなる昔の時代においても、霊界と地上界の掛け橋をつとめて、さまざまな事業を興してまいりました。そうした私であります。この意味において、イエスにひじょうに近いところがあった、こう考えてよいでしょう。 イエスという魂は、つねに側面から私の協力を受けていた。また、私はイエスの側近くにあって、いつもイエスの教えを人びとに伝えていた、こういいうるのではないかと考えます。 2.霊的世界観改革の使命 さて、次に私が明らかにしておきたい事実があります。その事実とはいったい何であるかというと、それは、私自身が実は、ひじょうに大きな使命を持っている、そういう自分自身の使命の発見です。 近世、あるいは近代のなかに入りますでしょうか、この近代の心霊思想の祖ともなるべく、私は北欧の地に肉体を持った、このようにいわれているわけです。その生前の事業がはたしてその言葉に価するようなものであったかどうか、私はそれを定かには自己評価ができないでおります。 しかしながら、どうやら今回において宗教界のソクラテスのような役割を担っていたらしいということだけが、明らかになってまいりました。ひとつの思想、あるいは最初の教えを説く人、先駆者としての私があったということです。 同時代にドイツで活躍していた、エマニュエル・カントという哲学者は、私の心霊思想を紹介しながらも、哲学的観点からはいくつかの批判を出したようです。ただ、いくつかの批判を出しながらも、私の心霊的現象の事実は疑いがたいものとして認めていた面がありました。 こうしたカントというような方は、哲学系統で出た偉大な如来でありましたが、同時期に、神学・神秘思想の系統における如来として私が肉体をもったといえるのです。この意味において、カントを近代哲学の父ということができるならば、私自身は近代心霊思想の父ともいわれる、そのような役割を果たしたのである、そう感じます。 そこで、私はなぜ主として幽体離脱ということをし、霊界に出入しながら、キリスト教を深めたいと思ったか、この点について、明らかにしておきたいと思うのです。 キリストの教えは、教えとしてひじょうに格調の高いものでありますし、その格調の高い教えのなかに、さまざまな教訓が散りばめられており、そしていずれも人を鼓舞し、人の心を揺さぶるものであったと思います。 そのようなすばらしい説法は、私自身もとうていできるものではありませんでした。ただ、残念なこと、惜しむべきことととしては、このキリストの思想がひとつの法体系とまで昇華しえなかった点だと思います。 断片的に神埋は語られたが、それが大きな法としてかたまることがなかった、わずかに使徒たちが、福音書というかたちで、そのキリストの教えをまとめたにすぎなかった、そういえると思います。 こうしてみると、私はこのキリスト教をもういちど、千教百年たった立場で、二千年近い歴史を経た立場でたてなおすとするならば、改革するとするならば、それは、むしろルターのような現実改革の路線を歩むよりも、霊的世界観による改革が必要だと考えたわけです。 生前ルターらに対して、そうよい感触を私自身はもっておりませんでしたが、ここの根本的見解がちがっていると考えていただければ、けっこうであります。ルターは現実世界のなかにおいて、宗教改革をしようとした。私は心霊思想、神秘思想のなかにおいて、いや、もっと言い換えるとするならば、霊界の実相を地上に紹介することを通して、キリスト教を改革しようとしたのだといってもよいでしょう。 このどちらも、たしかにたいせつなことではあったのでしょうが、霊的意味というものを地上に開放する意味では、私の仕事は大きな役割を果たしたものだと思っています。なぜ、そうしたことを私がしたのか、賢明な読者であればすでにお気づきの方もいらっしゃることでしょう。 仏教の世界においては、あの世の世界が相当くわしく説き明かされています。かなり詳細な研究もなされ、その解説がなされています。にもかかわらず、キリスト教においては死後の世界についての説明が、明らかに不足しているのです。死後の世界というものに対して、漠然たる雰囲気があるだけであって、それが明瞭になっていないという点、法の欠けている部分があるのです。この部分はだれかが補わなければならない部分であったのです。 そこで私がこういう役割を買ってでたのです。すなわち、キリストの説きえなかった実在界の神秘について、霊界の真実について、この私自身が説き明かすことを計画し、そして、キリスト教思想に新たな新風をまき起こそうとしたのであります。 イエスという人から見れば、それは、後代の学者がなした仕事のようにも見えるでしょうが、私自身もキリスト教にたいへん縁もあり、責任もある魂として、この仕事だけは敢行(かんこう)、完遂(かんすい)せざるをえない、こう感じておりました。 したがって、そうした大量の書物を遺すことによって、霊的世界存在の実感を深めた、存在の証明をしたといってよいでしょう。 3.現代的布教方法への要請 もうひとつ、これはどうしても言っておかねばならないことですが、世に霊媒といわれる、天上界からの通信を受け取る者は数多くおりますが、私のまさしく真骨頂たるべきところは、こちらから霊界にのりこんでいって、探検したという点てあるのです。 そして、この前提として、私自身鉱山技師をやっていたり、生物学、医学、天文学、いろんな領域において、自然科学的な成果を相当にあげていたということがいえると思います。それだけ自然科学的リサーチの世界において実績をあげていた。こういう私であるからこそ、霊界というものを、ごく自然科学的発想でありのままに調べることができた。なんらの主観的意図なく、現にありのままに、それを研究対象として見ることができた、という事実があげられるでしょう。 しかも、私はその前半生において、単にスウェーデンボルグ狂せり、と評されるには多すぎるほどの実績をあげていました。当代において第一級の実績を、成果をあげておりました。この成果が私のその後の評判を決定したのではないかと思います。私と同じように、霊界の体験をした方もいるでしょうし、あるいは同じように幽体離脱をして、あの世の世界をかいま見た方も数多くいると思います。 しかし、私にはそうした方にない信用というものがついていました。多くの人から信用されました。その信用はまさしく、霊界とは関係ない領野において、私がかち得ていた信用であります。それ以外の世界、実用の学の範囲のなかにおいて、現に私が多くの人たちの役に立ったという実績です。これがあったればこそ、私も霊界の証明者に徹することができたのではないかと思うのです。 この方法も、おそらく現代の布教方法に取り入れられている方法であると思うのです。これは、仏数的には漏尽通力ともいわれている領域でありましょうが、その霊的世界の探究者が、それ以外の領域において、あるいは現実社会において、どれだけの評価をかち得ているか、どれだけの信用があるかということがだいじなのです。 日本にも数多くの新宗数が興ってきたでありましょうが、その多くの場合、教祖の経歴というものは不明瞭であります。いつ、いかなる理由でその道に入ったのか、どういうかたちで神の声が聞こえたのか、まったくわからない不明瞭なかたちが多いのであります。 私の場合も、もし五十五年で生涯を終えたとしても、スウェーデンボルグとしての私の名は、のちの世に残ったと思います。そういう私があえて霊界探究に踏み込み、八十数歳までその活動に邁進した。晩年の三十年近い期間、それ一本に費やしたということが、人類史上大きな客観的資料となっている、人を信用させる業績となっている、私はそのように思うのです。 人間というものは、なかなか他の人を正確に評価することができません。あえてするとすれば、その人の霊的側面を取り去った残りの部分で、いったいどれだけの業績があるか、実績があるか、どれだけの信頼感があるか、どれだけの信用力があるか、こうしたことになると思うのです。 この意味において、私はまた、大きな成功を納めることができたと思います。こうした私自身の生前の仕事は、その後の伝道のパターンにおいて、たいへん参考にされたことはいうまでもありません。 ただ、残念なことは、この世的評判を確立するまでの期間が比較的長かったこと、そのために費やした時間がひじょうに多かったこと、こういうことがいえるのではないかと思います。 ただ、今、私も指導霊団の一人として、今後の未来に起きてくること、起きてくる出来事を予測いたしますと、この世的に相当信用のある方々、この世的に立場のある方々が、数多く、この霊界存在の証明のために活動されることと思います。 いや、それは思うというよりも、むしろ予定されていることでもあるのです。この世的にも十分成功した方々が、霊界証明の役割を担うようになる、そう思えるのです。ここまで語ったときに、読者はおそらくハタと膝を打たれるにちがいないと思います。 それは、キリストの生涯そのものでした。キリストの生涯はいったいどうであったかというと、貧しく、悲しく、若くして死に、そして一般的にみれば、身を投げ出して多くの人のための捨て石になった人生であったと思います。 それはそれで美しい人生であったし、多くの人に愛の形見を遺しえたということでは大成功であったと私は思いますが、それとは逆に、キリスト教のなかに流れるひとつの悲しい面、苦しい面、寂しい面があるのではないかと思います。 これゆえに、キリスト教はこの世の世界と相容れないという感じが強いのではないのか。霊的世界を探究するということが、この世から離れていくことになり、霊的世界の王者はこの世的には否定され、抹殺されることになるのではないか、こういう予感を秘めていると思います。 これはキリスト教だけではなく、他の宗教においても、やはりそうしたところがありました。ただ歴史的に見て、あえていうならば、仏教のなかには、かなりこの世的権力とも結びつくようなところまで、活動をしえた部分があったように思います。 そこで、私自身が計画した人生を考えてみるならば、イエスとはかなりちがった人生であったと思います。大工の子として生まれ、そして突如神理を語ったイエスとはちがって、学者として一応の成功をおさめ、ヨーロッパ諸国にも知られていた私が、神理の伝道の役割を担ったわけです。 ここに、近・現代の要請があるということを、あなたがたは見破らねばならないと思います。キリストの生きざまそのものはよしとしても、その教えとその生きざまと、ある程度分離してゆく必要があるのではないかということなのです。あのような生き方をしなければ神理が説けず、神理の世界に参入できないとするならば、今後神理の普及にはかなり多くの困難があることは予想されるのです。 現にキリスト以降の弟子たちのなかで、火あぶりになった者も相当おりました。こういうものを見るにつけても、天上界においてこれではいけない、他の方法論が模索されねばならないという議論が、日増しに高まったのです。 4.神理伝道への三つのアドバイス これが、私自身の生涯と、それを参考とした現在の神理伝道のあり方です。この自分自身をふり返る立場から、今に生きるあなたがたに二、三のアドバイスを残しておきたいと思います。 第一のアドバイスは、神理を説かんとする者は、つまり、霊的世界の実像を説かんとする者は、まず、この世的にも信用のある人間となれということです。 二番目にアドバイスとして言っておかねばならないことは、霊界というものが単に信仰の対象としてではなく、自然科学的研究の対象となる時代が来ているということです。それは、まったく未知の信仰のみによって得られる世界ではなくて、探究の可能な世界となった、そう言い切ることができるのではないかと思います。 三番目にアドバイスとしていっておきたいことは、霊界というものを地上界と対比させた、まったく異質なものとするのではなく、それを手近なものとしてゆく必要があるということです。手近なものとしてゆくためには、真実の情報を多くの人に共有してもらえるような、そのような工夫が必要だということになります。 もちろん、多くの人をひきずりこんでまで伝道するということは、ひとつの誤りを含んでいるものではありますが、神理は神理たる立場において、神理は神理の名において、神理は神理として要請するところにおいて、多くの人に知られたいという気持ちがあります。 私もこの本をつくっている理由は、より多くの人に私の現在の心境を知ってほしいという気持ちがあるからです。この部分はおそらく今後ともなくなることはないであろうと推定されるのです。 そういう事情をふまえて、今、私が地上のみなさまにいっておきたいことは、高級霊界の霊人がこぞって霊示を送っている理由は、やはりこうした霊界の真相を一人でも多くの人に、客観的資料として提供したいのだということだと思います。ちょうど個性のちがった霊人が、さまざまに霊界を語ることによって、みなさんにとって定点なき、足場なき探究が、一つの足場を発見するにいたると思うのです。 それは、ちょう三角測量にも似ていましょうか。大自然のなかで地球の円周を測ってみたり、あるいは小さいところでは川の幅を測ったり、あるいは遠くでは星の距離を測ったりすることのために、三角測量というものが行なわれていますが、個性のちがった霊人からの意見を聴くということによって、ある意味での三角測量が可能なのではないのか、その立場のちがいに応じてあらわれてくる霊的世界をかいま見るにつけて、霊界の真実の姿がそこに明らかにされてゆくのではないか、そのようにも私たちは考えているのです。 個性のちがいによって考え方、また見る世界がちがうでしょうが、どうか私の考え方もひとつの資料として、参考として、他の諸霊の考えと読み合わせて、霊界の真相を知っていただきたいと思います。 そのことにおいて、私は遠慮するつもりはありません。多くの方に知っていただきたいと念ずるものです。
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目次 1.キリスト教と仏教 2.日本と神理 3.自力と他力 4.内在する神 5.キリストの使命 6.地獄最期の日 7.天使の役割 8.大黒天の役割 1.キリスト教と仏教(1986年5月14日の霊訓) さて、何日もお休みいたしました。今日は、先日予告しておきましたように、「キリスト教と仏教」という題でお話ししたいと思います。 あなたもご心配のとおり、はたして小桜にこんな難しい話ができますやら心配ですが、少なくともこの書物は〈神霊世界入門〉的な書物ですので、内容的にやさしいものはやさしいものなりに、読者に訴えかけるものもあると思います。 さて、あたな方は、キリスト教や仏教が同根であることも、当然のこととして信じておられます。けれども一般の方々の考えは、必ずしもそうではありません。一般の人びとは、キリスト教は神様を拝むもの、仏教は仏様を拝むもの、といった具合に違っているふうに考えています。ですからまず、キリスト教と仏教という代表的な二つの世界的宗教を引き合いに出して話す必要があると思います。 まず、神様と仏様が違うものかどうかから話したいと思います。キリスト教では、イエス様は神様のことを、「天の父」とか「わが父」といっておられるようです。これはニつのことを意味していると思います。 その一つは、霊天上界には、イエス様が尊敬するような、一段と高い霊がおられることです。そして、いま一つは、そのイエス様よりも一段と霊格の高い霊でさえも、人格霊としての性質を持っておられるということです。 おそらくは、宇宙の根源の生命を神とするならば、その神が人間的な知覚理解能力を有しているにせよ、大宇宙の創造の神が、イエス・キリストのような、一個の人間の肉体に宿るわけではないことは、ある意味ではあたりまえだと思うのです。ですから宇宙の本源の神というような、人間の認識を超越したような、大エネルギー体はさておき、普通の人間でさえ、すぐれた人とそうでない人との差があるのですから、まして霊の世界では、心の世界が純粋に反映されますから、偉大な霊とそうでない霊との区別、境涯の差は歴然としたものであると思われるのです。ですから、一般霊からするなら、イエス・キリストのごとき人は、まさに神が肉身をまとって出現したもののようでもあろうし、イエスみずからが父と仰ぐような霊人は、ほとんど神そのものといってよいほどの高級霊であります。 同じようなことは仏教でもいえると思うのです。仏教というのが何を指すのか釈然とはしませんが、そもそもの意味は、ブッタ、悟った方という意味であったと思うのです。ですから、悟った方という意味での仏様は、お釈迦様その人といってもよいし、他の方をいってもよいですが、少なくとも、大宇宙の根源の神様にはほど遠いといわざるをえません。 やはり仏様というのも、人並みはずれた高級霊ということです。 ですからキリスト教は神様を信仰する、仏教は仏様を信仰するといっても、もともと異ったものを信仰しているわけではなく、究極的には、大宇宙本源の神を信仰しているにしても、直接の信仰の対象となっているのは、神に近き高級霊、高度な発達を遂げた人格霊ということです。 これでいちばん根本的な話は、し終えたと思います。第二点目として、キリスト教と仏教の思想的違いを話しておこうと思います。 キリスト教の中心思想は、いうまでもなく愛の思想であり、「心を尽くして汝の主なる神を愛せよ」、「汝自身を愛するがごとく、汝の隣人を愛せよ」に代表される愛の思想、また、許しの思想があったのだと思います。 他方釈迦の仏教は、八正道を中心とした自己完成の道を説き、また、慈悲というものの大切さを説きました。 この違いというものを考えてみると、結局教えを受ける側の人間の事情がかなり影響しているように思います。 イエスの愛の思想は、すでに形式に堕(だ)していたモーゼの律法の根本的な立て直しのために、万人にわかる本質的な愛ということを力強く訴えかける必要があったのだと思います。つまり、イエスは形式に対する実質の大切さを人びとに教えたのではないでしょうか。また、人びとも、それほど身分の高くない方が中心であったため、理性や知性に訴えかけるよりも、主として悟性と感性に訴えかけたものだと思うのです。 これに反して、釈迦の弟子たち、釈迦教団の人びとは、当時のインテリ層に近かったといえます。釈迦の当時はいろいろな宗教が百花繚乱(ひゃっかりょうらん)で、人びとは我を先にと争って解脱(げだつ)しよう、悟ろうとしていたのです。ちょうど、第三次宗教ブームともいわれている現代の日本の状態にも似ています。ですから当時の修行者たちを対象としていたため、釈迦の教えはどうしても、個人の努力を重視し、理性的・知性的な面に重きをおいたのです。 ですから、キリスト教、仏教の思想的な違いも、ひとつには、教団を構成する人びとの違いが問題とされましょう。もちろん、決して釈迦が、人を愛することの重要さを無視したわけではないのですが、当時の仏弟子たちは宗数的な知性が高かったため、単に隣人を愛しなさいということぐらいでは通用しなかったのです。 ここまで話を進めてくれば、現代はどのような宗教が説かれるべきなのか、おわかりになってきたことと思います。やはり、現代は、知性と理性に訴えかけて神の道というものが人びとに説かれねばならないということなのです。 では今日はこのへんで。 2.日本と神理(1986年5月20日の霊訓) さて、今日私は、目先を変えて、「日本と神理」という題でお話させていただきたいと思います。かなり小桜の限界を越えた内容でございますので、もし、疑問に思われることがあれば、何なりとご質問くださいませ。 ところで、すでにお気づきになっておられるように、今回の正法神理の伝道ということに関しては、この日本の地が、第一番の柱として選ばれました。正法神理の流布は、時代を変え、所を変えて種がまかれて来たわけですが、とうとう、私たちの愛するこの日本が世界の宗教の中心となるべきときが来たのです。 日本の人びとは、やがて誇りに思うようになってきます。この国に、救世の偉業をなす人が生まれたということを。ああ、やっとこの日本の空に、待ちに待った救世の星が煌(きら)めき始めたのです。この日が来るのを、日本の歴史を造ってこられた高級霊、神々はいかほど久しく待ち望んできたことでしょう。ああ、やっと日本がその聖なる地として選ばれたのです。 思えば古事記、日本書紀が編まれてより、あなた方の霊言集が世に出されるまで千数百年、この日々が、いかに久しかったことでしょう。 単に宗教的な面での神理の流布だけではありません。日本の歴史の、時代時代を創るために血を流した幾多の英雄たちの努力も、今後日本が世界の盟主となってゆくことによって報いられるのです。 世界の盟主日本――この言葉に、あなたはいったい何を思い浮かべられることでしょう。 これから約百年の間、日本には、かつて地上にはなかったような、黄金の時代が訪れます。 科学文明はもちろん世界一の発展をみ、日本から宇宙へと旅立つ人びともたくさん出てきます。が、一方、国際政治、経済でも、日本はまさしく世界のよきリーダーとなります。各国の政界、経済界の重鎮(じゅうちん)が、毎日のように日本を訪れ、東京は「外交の都」と呼ばれるようになります。 他方、宗教のほうも、日本を核とした新たな明晰かつ合理的な教えが、ヨーロッパに、北米に、そして東南アジア、中国にと広がってゆきます。産業界でもトップの国が、宗教でもトップの国へと変貌してゆきます。こうして二十一世紀には、日本は「神と太陽の国」と呼ばれるようになりますでしょう。そしてあなたが説かれた教えが、「太陽の法」として、諸外国に知られてゆきます。それはまさしく、日本の国の象徴が太陽であるとともに、あなたの説かれる法が、太陽のごとく人びとに注ぎかけるときでもあるからです。 ときにこれからの十年間は、第一次の変革の波が訪れるときであり、これは、主として、一大宗教改革の様相を呈(てい)することとなりましょう。第二次の変革の波は、今後十年を経たころ、ひじょうに明確な形で現われてくるでしょう。そしてそれは、日本の政財界をも立て直す一大変革となりましょう。第三次の波は、今後二十年を過ぎたころに明瞭になってきましょう。日本が盟主として世界に号令をかけるべき時が来るということです。 よいですか。どのような大きな波も、最初は小さな波紋でしかないのです。今あなたのやっている仕事は、広大な太平洋に、一粒の雫(しずく)をたらすように見えるかもしれませんが、やがては逆巻く怒濤(どとう)として世界各国の湾岸に押し寄せるのです。どうかその日のことを忘れずにご精進ください。 3.自力と他力(1986年7月12日の霊訓) しばらくぶりでまた、この霊界通信を再開させていただけることを幸せに思います。 さて今日は、「自力と他力」ということについてお話させていただきます。 あなた方が、こうして多次元世界の霊たちと語るにあたって、いちばん困惑するのは、いわゆる、「自力と他力」の問題であろうと思います。自力論者はあくまでも、みずからの苦境を自力で切り拓いてゆきなさいといわれるし、他方、他力論者は、すべてを神の御心に委(ゆだ)ねなさいといわれます。単純な人間なら、いったいどちらを信じたらよいのかがわからなくなってしまいます。また、あなたにしても自力と他力の間(はざま)で随分と心揺れていることと思います。あなたの思想としていったいどうのように考えるかということです。 同じことは「予言」についてもいえます。 あなた方が高級霊の方々と話す過程において、さまざまな予言がなされることでしょう。しかしこの予言をすでに決定したもの、不変のものと考えてゆくならば、自力論者はまったく立つ瀬がなくなってしまいます。 そこでこれは小桜の試案ではありますが、次のように考えてみてはいかがでしょうか。 まず第一に、自力と他力の問題を悟りの問題と、行動の問題に分けて考えてみる必要があります。 悟りということに関しては、八割が自力、残り二割が他力です。まずたいていの人間はみずから努力して悟ろうとする心、菩提心(ぼだいしん)を起こさなければ、高級霊たちの協力を受けることはまずありません。この例外はほんのわずかで、たとえば、イエス様のお弟子を迫害していたのに、ある日突然に、イエス様の天上からの声を聞いて翻然(ほんぜん)、悟りを開いたパウロなどがその例外ですが、たいていの人間は、みずから努力して修行しようとする心、すなわち、菩提心を起こさねば、悟りへの道はまず開けてこないのです。まず悟ろうとする心、次に心の修行の実践があります。ある人は禅をやり、ある人は神想観をやり、ある人は内観をやり、ある人は瞑想をやりということで、その方法なり、名称なりは異なりますが、心を高級神霊と同通させようとする実践行為が必要です。この意味でここの段階でも自力が必要です。 他力がかかわってくるのは、この次の段階です。すなわち、本人の内観が深まり、また反省が進んで、やがて壁にぶつかることになるのです。この悟りの前に立ちはだかる壁を打ち破ることが、高級神霊に課せられた役割です。言葉を換えていうならば、神界下段階、中段階ぐらいまでの悟りなら、ある程度自力による観法(かんぽう)で悟りうるということです。しかし、神界上段階、いわゆる光の天使の候補生になってきますと、守護・指導霊たちの特別の指導を受けないと、諸天善神の境地には到達しえないのです。 この意味で私は、「悟り」の問題に限っていうならば、菩提心―観法―高級霊の啓示の段階になっており、やはり八割が自力、二割が他力だと思います。 では次に「行動」の問題について考えてみましょう。 人間が自力と他力の間(はざま)で揺れる場合には、ある行動をとるかどうか、言葉を換えれば、一つの判断なり決断なりを求められている場合だと思います。それがある場合には個人の人生設計であるし、ある場合には企業の経営であろうし、ある場合には伝道の方法でもありましょう。このときに考えるに、あくまでも自力でやっていくなら、あまり信仰の領域の問題にはならないと思います。 ではなぜ、自力でやるにしても「高度な判断」ができるのでしょうか。結局のところ、決断なり判断なりというのは、インスピレーションの問題だと思うのです。インスピレーションという言葉がわかりにくければ、「ふと心に思いつくこと」といってもよろしい。なぜ、ふと重要な結論を考えつくのでしょうか。それはやはり、八割方はその人が現在までに培(つちか)ってきた教養・人格・人生観・交友関係によって決定されるのです。いかに高級霊がインスピレーションを与えようとしても、その人の培(つちか)ってきた人生観が低次元のものであるならば、そのインスピレーションを受け入れることは不可能なのです。 ですからやはり人間は、悟りを得るときばかりではなく、一つの重大決断として行動をするときにも、やはり八割の自力が重視されるのです。そうして初めて、残り二割の他力が生きてくるのです。力となるのです。 これは決して他人事ではなく、あなたにとっても同じことです。あなたに八割自力の気概(きがい)があってこそ、高級霊たちの、残り二割の指導が生きてくるのです。あくまでも悟りを求め続け、みずからの人格を高め続けてください。 4.内在する神(1986年7月13日の霊訓) 本日は、「内在する神」ということでお話ししたいと思います。 あなたがたの書物の読者でも、神棚の祭り方がどうだとか、仏壇への配慮のしかたが重要なのではないかとか、神や仏の礼拝のしかたに迷っている人の数は尽きないことだと思います。 しかし、こうした行為の裏には、何かしらの偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)の匂いがつきまとっています。要するに、神仏はどこか遠くかなたにいらっしゃるもので、それを何らかの形を通して崇拝するという気持ちです。 しかし、考えてもみてください。人間は、神様が「是(よ)し」と思われて創られた神の分御霊(わけみたま)なのです。つまり二人ひとりの人間の心の奥、魂の聖なる秘部には、神の生命が鼓動しているのです。そうであるならば、ほんとうの信仰とは、どこか遠くかなたにいる神仏を尊ぶことではなく、みずから自身のなかにある神なる心、神聖な自我、神仏の心そのものである大我を見つけ出し、これを尊ぶことではないでしょうか。 「内観(ないかん)」という修行方法があります。これは内なる自我を見つめ、真我と偽我とを峻別してゆく方法です。そして偽我を否定し去り、ほんとうの自己の真我を見出したときに、悟るという考え方です。 また、「止観瞑想(しかんめいそう)」という修法があります。止観とは、決して心を止(と)めることではありません。心を静めるという意味です。つまり止観瞑想とは、心を静めることによって、みずからの内に潜む、澄み切った神理の湖を思い出す方法といってもよろしい。あるいは、真我を見出すために、探し出すために、幾重もの偽我の堆積層(たいせきそう)を据り下げていって、ついに、本物の鉱脈を探りあてるという方法でもあります。 結局のところ、「内観」にしても、「止観瞑想」にしても、みずからの心のなかにある、真我、神なる我を探りあて、それと一体になろうとする方法論にほかなりません。 ここで、あなたは、昨日お話しした自力と他力の問題を想起されることと思います。 他力とは、どこかはるかかなたに居ます神なる実体に祈りの橋をかけて、一体となろうとする姿であり、自力とは、みずからの内なる神を発見して、それと一体となろうとする試みにほかなりません。結局、自力といい他力といい、その思考の志向性が若干異なるものの、「ほんとうの神」を探究し、これと一体となろうとする試みなのです。 ただ私は、ここにまったく異なった人間観が派生する恐れを感じます。つまり、他力を主とする信仰は、どうしても、人間を煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫とみて、あるいは、極悪罪重(ごくあくざいじゅう)の悪人とみて、外なる光によって救われようとしているのではないでしょうか。 これに対して、自力を中心とする信仰は、やはり自分の中に偽りの我を発見して、これを取り除き、真我を見出すのですから、結局、根本的に人間を「是(よ)し」と観ている、あるいは、「人間神の子」を前提としているといえます。 やはり私としては、外なるいろいろな神を信仰することも大切ではあるが、みずからの内なる神を見出すことこそが、だれにも課された、悟りの方法ではないかと思います。 あなたにおかれましても、今後、さまざまな悟りの方法論を展開されるのでしょうが、どうかこの「内なる神」という考え方、これを忘れないでほしいのです。人間が一人ひとり内なる神を秘めた存在ならば、決してほんとうの悪人とか、ほんとうの罪人とかはありえないのです。そして、「内なる神」に目覚めることが、究極において、ほんとうの意味において、人間を生かすことになるのではないでしょうか。 5.キリストの使命(1986年7月14日の霊訓) まもなくこの霊界通信を始めて一年になります。ほんとうに私たちの勉強も遅々として進まず、いったいいつになったらこの本が出版されるのやら、小桜も本当に不安になってきました。何とかこの七月いっぱいで、一冊の書物になるぐらいの通信文を送りたいと思いますので、あなたもどうか精一杯努力してください。 さて今日は、多少目先を変えて、「キリストの使命」ということに関してお話いたします。 あなたから見たら、神道系の人間と思われる、八百万(やおよろず)の神々(かみがみ)の一人でもある私から「キリストの使命」というテーマを出されたことは、不思議な思いがされることと思います。 けれどもそれは決して不思議でも何でもありません。今あなた方がやろうとしている事業を思い返してみればよいと思います。あなたがたの仕事は、過去のすべての宗教を一堂に会(かい)して、さらにそれを乗り越えてゆくという内容を持つものです。また、それだからこそ、イエス・キリストという人が、指導霊を務めているのではないのでしょうか。 さて、それでは、過日、イエス様のご講演が神界(六次元)上段階で行なわれたときの内容をかいつまんでご報告いたします。 私たち六次元の人間に対しては、ふつう七次元菩薩界の人が出てきて常時指導してくださっているのですが、月に一回ぐらいは、八次元如来界の方が来てご講演くださり、さらに年に一回ぐらいは九次元太陽界の方々のうちのお一人がご降臨され、私ども光の天使の一年生に対してご訓示をくださるのです。 そう、あなた方の時間でいうと、ちょうど七月七日にあたります日、イエス・キリスト様がご降臨になり、約一時間ほどお話をされるというので、小桜たちは、そのご講演の演壇を造ったり、世話役の方を決めたり、聴衆を集めたりでたいへんでした。その日のイエス様のご講演を一声でも聞こうと集まった光の天使の数は、およそ一万人にも達したでしょうか。如来界からも、おつきそい役としてエリヤ様、ミカエル様、ラファエル様、ガブリエル様などキリスト教系の大天使が、続々私たちの世界に舞い降りてこられる姿は、さながら夢物語のようでございました。みなさま、天使の象徴であるまっ白の羽根をピンと伸ばされ、それはそれは神のご光栄をまさしく体現(たいげん)しておられる方々でした。 七月七日の午後七時に始まったイエス様のお話は次のような内容でありました。 「いよいよ戦いの日は来た。みなの者、三次元に神の国を今回こそ打ち建てようではないか。この機をのがしては、二度とこのようなチャンスは巡ってこない。しかも、今地上界では、歴史上かつてなかった未曾有(みぞう)の大危機が迫っている。 しかしこの大危機を決してサタンの襲来と考えてはならない。新しき神の国が地上に打ち建てられることを讃(たた)えるファンファーレなのだ。決して悪の勢力に怯(おび)えてはならない。怯えは彼らが恰好の餌食(えじき)とするところなのだ。地上に降りた光の天使たちの力を分散させることなく、一致団結させ、天と地に黄金の架橋をつくるためにも、私たちは祈ろう。光の天使たちの総力をあげて。 イエスのキリスト(救世主)としての使命は、ナザレで十字架にかけられたときに終わったのではない。むしろ、そのときよりこのかた、キリストとしての使命は始まったのである。今、地上に降りた光の軍団をキリスト(救世主)の力の再来とするためにも、私たちは、悪の力を徹底的に粉砕し、光の輪を地上に投げ続けよう。かつて光の大指導霊が地上に降りたときにも、形の上では光の軍勢が闇の軍勢に破れたかに見えたときもある。 しかし、今回は決して、形の上でも光の軍勢は闇の軍勢に負けてはならない。私イエスみずからが陣頭指導をとって、地上の者どもを指導しているのだ。幾千幾万の光の天使たちよ、あなた方も力の限りを尽くしなさい。今回は悪の勢力をこの地上から一掃するための、徹底的な総力戦なのだ。」 だいたい、イエス様のお話は以上のようなものでしたが、そのお言葉は、まさに神の生命力に溢(あふ)れ、私たち、幾千幾万の天使たちも、感激のあまり涙を流しておりました。 どうか地上のみなさま方も、決して孤立無援の想いにとらわれることなく、天上界でもこれだけ力の結集がなされていることをお忘れなく。小桜の力は微々たるものですが、天上界の人びとの想(おも)いの一端なりともお伝えすることができれば、これにすぎる喜びはございません。 ではまた。 6.地獄最期の日(1986年7月16日の霊訓) さて、本日は、「地獄最期の日」という演題で、少々お話ししようと思います。 ご存じのように、あらゆる世界中の宗教には、一致する共通項があります。その共通項のなかで、生きている人が地獄に堕ちないようにする、あるいは、地獄に堕ちた人びとがいかにしたら救われるのか、といった方法論があると思います。そこで小桜は、第一の問題として、生きている人はどうすれば地獄に堕ちなくてすむのか。第二の問題として、どうすれば現在地獄にいる人びとを救い出せるのか、を考えてみたいと思います。 まず、第一の問題から取りかかりましょう。生きている人間はどうしたら地獄に堕ちずにすむか。簡単にいえば、もちろん神の心を心として生きれば、絶対に地獄など行きません。しかし、生身の人間にとって、神様のような心を持って生きるのは難しいですから、少し条件を緩めて、高級霊の生き方を手本として生きるべきだと申しておきましょう。つまり手近な例が、偉人の生涯を手本として生きているということです。 偉人の生涯の特徴を、私はできるだけあげてみたいと思います。 まず一番目は、自分に厳しいということです。この自分に厳しいということは、一つの面として、努力、精進、ということであるし、他の面をとれば、謙虚さということであろうと思います。 二番目は、他人への思いやり、優しさであろうと思います。これが他の人への愛であり、慈悲であり、親切であり、配慮であります。この他人への思いやりの欠けた人は、どれだけ大きな事業を成し遂げたとしても、所詮、自分だけがかわいい、自己保存欲の強い人間であり、偉人の範疇(はんちゅう)には入りません。ですからこの二番目の要点を別の言葉でいうと、無私ということだと思います。 第三番目を申し上げます。それは清らかさです。その人の言葉に触れると、あるいはその人の行動に接すると、何かしらハッとさせられるような清らかさです。言葉を換えれば人びとの心の琴線に触れるような何か、人の心のなかに潜んだ聖なるものを共鳴させる何かです。物質に対する無欲さといってもいいし、執着心が少なく、行雲流水(こううんりゅうすい)のごとき生き方をしているといってもよいでしょう。聖なる内流を持っている人、ということです。 第四番目は、心の広さです。偉人に共通しているのは心の広さです。あらゆるものを包容するがごとき、青空のごとき、広さ、大きさです。どんなに精進、努力をしたとしても、その結果、他人を寄せつけないような心の狭さを身につけたような人は、決して偉人とはいえません。 第五番目は、内省(ないせい)ということです。偉人は常づねみずからの心を内省し、さらなる発展を心に期しています。この内省のなかには、いわゆる反省や瞑想も含みますし、広義の内省には、神と心を一体にするという意味での、祈りも含まれています。しかし、この場合の祈りは、多勢で集団で祈るのではなく、人知れず、静かに祈るということです。つまり、偉人の条件の五番目は、人知れず神と相対座する時間を意図的に持っている人という意味です。 私は以上で、偉人の条件として(1)自分に厳しいこと (2)他人への優しさ (3)清らかさ (4)心の広さ (5)内省する習慣、の五つをあげました。これがすべてではありませんが、神に近き人の共通した性質だと思います。少なくとも地上に生きている人間は、この五つの徳目を身につけるべく努力して生きれば、決して地獄などへ堕(お)ちることはありません。 さて、第二の問題として、現在地獄に堕ちている人びとをどうしたら救えるかという問題に入ります。 一口でいうならば、この地上界が神の国ユートピアになれば、地獄は自然に消滅してしまいます。その理由は、ひとつには、この地上からあの世へと旅立つ人びとが地獄に行くことがなくなるため、地獄の人口は決して供給されないということ、つまり、減りはしても増えないということです。いまひとつの理由は、地獄の住人たちのエネルギー源は、この地上界の悪想念であるため、この地上界をユートピアにすることによって、悪のエネルギーの供給をやめてしまえば、彼らは活動を停止してしまうからです。 つまり、この地上を神の光に満ちた楽園とすることによって、地獄はなくなってゆくのです。ですから、仏壇や神棚を祭って拝むことよりも、この地上で生きている残された家族が、楽しく豊かで調和された生活を送っておれば、自然と地獄霊たちも心が調和され、天上界へと旅立ってゆくのです。この方法がいちばん確実で間違いのない方法です。 第二の方法は、祈りの方法です。天上界の高級霊たちも、日々、地獄霊救済のために努力しておりますが、地上からの祈りの力を送ってやることによって、彼らも勇気づけられ、パワーが増してゆくのです。生きている人が神理を悟れば悟るほど、この祈りの力も強くなり、悪霊たちに神理を知らしめる力となるのです。 以上で、第一の問題と第二の問題について語りましたが、こういうことが、あなた方の努力によって良い方向へと進めば、地獄最後の日はもうそこまできています。 7.天使の役割(1986年7月18日の霊訓) さて、前回は地獄をなくす方法論について語りました。そこで今日は、「天使の役割」ということについてお話ししましょう。あなた方の霊言集のなかで、天台智覬(ちぎ)さんが、地獄を病院に譬(たと)え、地獄霊は患者、天使を医者や看護婦に見立てていました。 だいたいこの比喩は的を射ています。ただ惜しむらくは、天使たちの積極的役割に触れていない点です。 確かに天使達は、地獄霊救済のための医師や看護婦であるかもしれませんが、それは病人が出てきた場合の受身的役割だと思うのです。けれども実際はそのような受身的役割をしている天使の数は少数で、むしろ大多数の天使たちは、積極的に、神の国実現のために努力しているといって間違いないと思います。 その努力の現われの一つが、地上に次々と降誕している光の天使たちの存在であり、他の一つが、各次元において光の天使が駐留して、多くの霊たちを導いている光景でありましょう。 先日のイエス様の言葉にあったとおり、キリストの使命は肉体イエスが十字架にかかったときに終わったのではなく、さらにそのときから、より一層強力なキリストの使命が発揮され始めたのだということです。 いかなる光の大指導霊がこの地上に降誕しようとも、やはり肉体を持てば盲目に近くなり、その人の本来の使命の一〇パーセントも発揮できないまま終わってしまうことがままあるのです。それゆえ、あの世に還って、自由自在の身になって、地上にあったときの失敗を埋めるべく、大車輪の活躍をされる人も多いのです。 昔からよく話されることで、時代が人を創るのか、人が時代を創るのか、といった問題があるはずです。結論から先に言うと、やはり人が時代を創っているようです。というのも、時代の節目、節目には、天上界の計画によって、さまざまな光の天使が地上に生まれているからです。そうした人たちが束(たば)になって出て、新しい時代というものができるのです。それは古代ギリシャに哲学が栄えた時もそうですし、古代中国に孔子、孟子などが生まれて、百家争鳴(ひゃっかそうめい)といわれた時もそう、また釈迦の時代も、イエスの時代もそうです。 時代時代の転換期には、偉大な光の天使たちが群れをなして出現して、時代の気運を創り出しているのです。そうしてそういった新しい時代の到来は、千年二千年に一回ですから、その間に正法の灯を絶やさず守り伝えるために、中継ぎの光の天使たちが、何百年かおきに出現しているのです。 現代という時代も、イエス出現以来のここ二千年間で最大の時代の転換期であり、後世において「霊的奇蹟と科学の時代」と称(よ)ばれるようになりましょう。現にあなた方の時代にも諸如来、諸菩薩が相競って地上に生まれているのですから、それがいったい、肉を持った身でだれであるかは、あなた方にはわかりかねるかもしれませんが、私たちから見ると、あの「南総里見八犬伝」の八犬士のように、天上から散らばって地上に降りた天使たちは、やがてあなた方のもとへと、間違いなく集(つど)ってくるのです。ここ数年のうちに、あなた方の集まりのなかに、間違いなく散りばめられた光の玉、天使たちが引き寄せられてくるでしょう。 あなた方も、今後一つの宗派を創るのではなく、相集って、一つの時代を創造していくのだという気持でもって神理伝道に励んでください。 では今日はこのへんで。 8.大黒天の役割(1986年7月19日の霊訓) 今日は、「大黒天の役割」ということでお話をしようと思います。 みなさま方はよく、正月などに、七福神の乗った宝船の絵をご覧になったことがおありでしょう。あれを単なる伝承とか昔話、作り話として一笑に付すのは簡単ですが、真実はそうではありません。福の神というのは現実にいるのです。あなた方地上世界を見渡しても、あちこちに繁栄している会社があり、衰退していく会社があり、また、どんどん豊かになってゆく人があり、どんどん貧乏になってゆく人もおります。それも、多少の貧富の差ぐらいなら偶然で片づけられるでしょうが、あまりにも目ざましい発展や成功を遂げる企業や人を見ると、そこに目に見えない力が働いているのではないかと想像されることと思います。 実際、実在界には、神から供給される無限の富をコントロールする役割をしている光の天使たちがいるのです。その人たちのことを福の神といいます。古くは、日本では大国主之命(おおくにぬしのみこと)という方がいらっしゃいました。 では、なぜ福の神の存在があるのでしょうか。それは、神の世界計画のなかで、「繁栄」ということも、一つの重要な鍵となっているからです。各時代の文化興隆の諸都市を考えてみると、いつの時代にも、経済的に目まぐるしい繁栄があったはずなのです。それは神理伝道のための、舞台装置、音響効果として、無限の富の供給がなされているからなのです。これが一般的な場合です。 もうひとつ特殊な場合があります。それは、光の大指導霊が地上に降誕した場合です。イエス様は、富と神とに共に仕えることはできないと言われたそうですが、それは、現実にイエス様の教えを聞かれた方々が貧しかったので、時の圧政者たちへの批判をこめて言われたことであって、実際に貧乏でなければ神に仕えることができないわけではありません。けれども、光の大指導霊たちは、神理伝道に熱心なあまり、どうしても世俗的な、現実的な経済生活への配慮がおろそかになってゆくのです。 このため、神は特別な役割を待った福の神を創りました。これがいわゆる「大黒天(だいこくてん)」といわれる人びとです。「大黒様」といわれる人は、特定の人ではなく、そうした使命を持った一群の人びとがいるということなのです。 日蓮様にしてもそうです。政治的、経済的に日蓮様を庇護した武士がおります。釈迦の時代にも、竹林精舎(ちくりんしょうじゃ)を寄進した人がおります。 いつの時代にも神理伝道の際には、光の指導霊たちが経済的なことにのみ腐心(ふしん)しなくてもよいように、大黒天が助けてくれるのです。 おそらくあなた方の時代にも、今後続々と神理伝道のための経済的協力者が出てくるでありましょう。ともすれば、法の研究、実践のみが尊いことのように思われがちですが、こうした方々の縁の下の力持ちとしての使命の重大さをも、あなたは十分に認めてあげる必要があると思うのです。 近くは日本に、光の指導霊として高橋信次という偉大な方が出られましたが、この方は、あまりにも自主独立の気性のはっきりした方で、ご自分の経済的自立は自分でまかなわねばならないという信条の方でありました。そのために、ご自分の経済的基盤を固めるのに時間がかかりすぎ、肝心の法を伝える時間がひじょうに少なくなってしまい、天上界からもたいへん惜(お)しまれています。みずからが悟るための環境として貧しい生活環境を選んでお生まれになったのですが、その反作用として、経済的自立に力を注ぎすぎたといえるかもしれません。 あなたにおかれましても、他人の協力に身を任せることを潔しとしていないあまり、ご自身が経済基盤確立に奔走されると、法の中身が薄くなり、後世に悔いを残すこととなってしまいます。 やはり第一番の目標は、この時代に、できる限り多くの人びとに神理を伝えることですから、その他のことは、大黒天たちの力を信頼して任せることです。できるだけ効率のよい人生を生きることをお祈り申し上げます。
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日本 日本の竜 中国大陸で生じた霊獣である竜(中国の龍参照)は、中華文明の広がりとともに東アジア全域に伝わり、弥生時代には、銅鏡の意匠として我が国にも知られる様になり、4世紀には土器にその姿が刻まれるまでになっていた。 有名な高松塚古墳やキトラ古墳の壁画にも、四神の一つとして竜が登場する。 姿は四足・五色で角があり(『倭名類聚抄』)、足には羽があるともいう(『塵袋』)。 日本産の竜は通常三本指であるが、中国ではこれは最下級の竜の特徴であり、格が上がれば四本指となり、竜王なら五本指となる。文禄の役の後、明の神宗万暦帝から豊臣秀吉に贈られた衣装に刺繍されていた竜は、諸侯相応の四本指であった。四本指以上の竜は飾りに使われる例もあまり無かったので、日本には主に庶民的な三本指の竜が伝わったのであろう。 訓読みでは「たつ」。昇天して「立ち上る」事に由来するともいい、雷や竜巻は竜の仕業とされた。文献では、日本神話の中で玉依姫が「竜」の姿で出産したという一説が記されているものや、斉明天皇の元年(655)5月朔に、 「空中にして竜に乗れる者有り。貌、唐人に似たり。青き油の笠を着て、葛城嶺より、馳せて胆駒山に隠れぬ。午の時に及至りて、住吉の松嶺の上より、西に向ひて馳せ去ぬ。」 という奇怪な事件があったというのが古い例である(『日本書紀』)。 竜は、自然の脅威を操る強大な存在として畏怖の対象となった。弘仁10年(819)には、京中に白竜が出現して暴風雨を起したといい(『日本紀略』)、「竜は鳴神の類」であって(『竹取物語』)、足を見ただけで気絶するとか(『今昔物語集』)、瞬きが雷光になる等と囁かれた(『雑談集』)。 文治6年(1190)には竜が降って来たので地震が起きたと言われ(『吾妻鏡』)、応永23年(1416)にも大雨が降った日に竜が下りて来たという噂が広まっていた(『看聞御記』)。 勿論、悪い事ばかりでは無い。竜が降らしてくれる雨は恵みの雨でもあり、清廉な人の為に雨を降らしてくれた龍神や(『日本霊異記』)、自分の命と引き換えに雨を降らせてくれた竜も存在した(『法華験記』)。 京都の神泉苑や奈良の猿沢池には竜が住むという伝説があり(『日本三代実録』・『富家語』・『古今著聞集』・『宇治拾遺物語』)、旱が続けば雨乞いが行われた。 人々は、海が荒れれば「一の宝」を海中に放り投げて鎮まる事を祈り(『打聞集』)、旱が続けば馬の骨を滝壺に放り込んで降雨を祈った(『政基公旅引付』)。 始皇帝の望んだ鼎を引き上げさせなかったという中国の故事に由来する説であろうが、戦国時代の日本には、「竜が好きなので、鐘を船に積んではならない」という俗信があり、宣教師ルイス・フロイスを不思議がらせている(『日欧文化比較』)。 ヨーロッパのドラゴンは悪魔の象徴であったが、我が国では仏典に竜(実はインドのナーガ=那伽)が登場する事から崇拝の対象とされる事が多く、天狗を倒して僧侶を救出してくれる存在とされる事もあった(『今昔物語集』)。
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目次 1.第一の柱――神理と文学 2.第二の柱――霊界探訪記の必要性 3.第三の柱――映画、テレビ等視覚に訴える神理の伝道 4.第四の柱――社会的評価を得るためには多角的な実績確立が必要 5.霊界探訪記の対象は、幽界、霊界が妥当 6.神理の視覚伝道には事業形態をとる方法がある 7.神理の伝道は、普遍性と普及性を考えて (1988年1月6日の霊示) 1.第一の柱――神理と文学 ―― ダンテ先生ですか。突然お招きいたしましたけれども、先生は非常に、偉大な詩人であられまして、それと同時に、やはり宗教的なご造脂(ぞうけい)が深い方でもあり、お作におきましては有名な『神曲』などいろいろ発表されておられるのですが、現在私どもといたしましては、天上界の高級霊の方々から頂いたお教えを霊言集として発行させていただいております。そのなかで、特に今回は「芸術編」として文学者、詩人、あるいは画家、音楽家のご意見を承って、これを一冊の本としてとりまとめて世に問いたいという考えでございますが、先生から何か、詩の方面からでも宗教の方面からでも、ご指教いただければ有り難いと思います。 ダンテ わかりました。本日は、四本ほど柱を立てて出てまいりました。特に私自身の昔書いたものが、どうのこうのということではございませんが、私として話をしたいことを、四つほど考えてまいりました。 第一は、これはあなた方自身へのアドバイスになると思いますけれども、「神理と文学」というテーマです。 まあ、私も『神曲』という一種の、何と言いますか、物語、戯曲と言いますか、そうしたもののなかに、地獄の様相、煉獄(れんごく)の様相、天国の様相と、こういうことをいろいろと表してまいりました。まあスウェーデンボルグやその他の人たちも、そういうことをやったことがありますが、時折、そうした私たちのようなものが出て来て、そうした霊界の様相というようなものを説き明かす使命というものが与えられることがあります。ただ、そうした場合にも、どうしても地上の人たちは、そうした霊の世界というものをストレートには受け入れることができないがために、そういう文学的なカムフラージュと申しますか、そうしたものをして表されることが多いわけです。 ですから私も実際上、霊能者でありましたし、毎夜肉体を抜け出して霊界に出入(しゅつにゅう)しておりましたし、そしてさまざまな経験もしておりました。そうした体験もありましたが、それ自身を、自体を「我かく聞けり、見れり」ということで話をしたのでは、世の人たちも、なかなか納得がいかないことも多いので、ある程度、文学的な形として残したわけです。この文学的な形で残すということは、直接性というものがやや薄れる点はなきにしもあらずでありますけれども、ただその文学的なる余韻でもって、美しさでもって、後世にまで伝わるという面があるわけです。こういう意味において、非常に有力なひとつの手段ではないか。まあ、このように思います。 ですから今、あなた方もさまざまに霊言集や霊示集を出しているようでありますが、これも、こうした対話、あるいは思想書としてのみ出すのではなくて、時には文学的な装いをもって現れることも肝要ではないか。そのように思われます。優れた文学としても残しておく必要がある。それが、後世まで語り継がれる秘密となるわけです。そういうふうに、神理の普遍性、普及性というものを考えた時に、その文学の纏(まと)いというものを、やはり使っていく必要がある。そして、芸術的に美しいものであればあるほど、人びとの心に迫り、人びとの心を揺さぶるものとなってゆきます。 この意味において、やはり芸術性の高さというもの、これは言葉の美しさでもあるし、言葉運びの美しさでもあるし、全体の構成の美しさでもあるし、胸を打つものでもあるし、こうしたものでありますが、この芸術性の高さという面は、もう少し考えておく必要がある。文学的切り口から入っていくということも大事である。このように思うわけであります。 これが「神理と文学」というテーマについてでありますけれども、今後、今言ったように、思想書のみならず、そうした詩、あるいは音楽、あるいは小説、あるいは戯曲、こうした形で、さまざまに神理を書き残していく必要があると思います。そうしたバラエティに富んだ入り口をつくることが、より一層大きな普遍性というものを、生み出すようになってくるであろう。まあこういうふうに思いますので、この可能性というものをぜひ残しておいていただきたいし、探求してもいただきたい。このように私は考えるものであります。これは、一般論としての第一の柱であります。 2.第二の柱――霊界探訪記の必要性 ダンテ 第二の柱として、私が本日話をしたいと思ったことは、まあこれは私の仕事もそうでもありましたけれども、霊界の様相について、もっともっと情報というものが必要であろうと思います。地上の人たちは、この情報が足りないし、断片的に入ってくる情報が怪奇趣味のようなものが多いために、非常に混乱と猜疑心をあおっている。ま、こういうふうに思われるわけであります。したがって、正確な情報、より正確な見取り図、これが必要です。 本当にこの世の世界の他の国、アメリカや、ヨーロッパに行ってきたような形で、見聞記というものを書いていく必要がある。実際の霊界の仕組はどうなっているのか。住んでいる人は、どうなっていて、どういう生活をしているのか。実際どのように人生が進んでいくのか。これをいくら詳しく書いても書いても、それで話は尽きることはないと思うし、需要を完全に満たすこともできないと思う。この意味において、まだまだ十分ではない。あなた方の仕事をみていると、思想性にやはりウェイトがある。考え方ですね、理論や思想にウェイトがかかり過ぎている。ま、そういうことも大事ではあるけれども、これだけでは抽象的だし、ただ頭のなかだけで考えたようにみえないこともない。 霊界の様相そのものをもっと克明に残していく必要があるし、実際一人ひとりの人間の立場に立って、その人があの世に旅立った時に、その後どうなるのか、どういう生活が待っているのか、これをね、やはり克明に辿(たど)っていく必要がある。こういう霊界物語、探訪記、そういうものをですね、これをやはりどんどんどんどん、続々と出していく必要がある。そのように私は思います。こういうルポルタージュと申しますか、そういうルポですね、探訪記、これが必要です。これは、みんなにとって本当に必要なことです。手引き書ですね。 あなたにしてもそうであって、実際いずれ地上から去るけれどもあの世の世界の実在を知識では知っていても、実際どのように、どうなっているのか――このことについて、そうは詳しい描写ができるわけではない。だから霊界物語、こうしたものを残すことによって、宗教家、あるいは僧籍にある者、こうした者たちにとっても、非常な福音、手引き書となるであろう。基本としては地上に生きている者たちの生活の仕方、生き方、これでよいかも知れないけれども、ただその裏付けとして、人間の本当の姿、行く末、行く手、こうしたものをもっともっと明らかにする必要がある。 この意味では、地獄の構造も含めて、天国の構造、及び生活、これをもっと克明に表していく必要がある。一体何をしているのか。彼らが何を考え、何をしているのか。こういうふうに考えていけば、有名人であっても、必ずしも最上段階に還っているわけではなかろうから、そうした人たちの生活ぶり、こういう者たちの話、こういうものを綴(つづ)り合わすことも大事である。 今は、どちらかというと光の天使を中心に集めているけれども、やはりこれ以外の人たちのものも編集していくと、一般の人たちは、そちらの方がむしろ面白いかもしれない。四次元、五次元の人の話の方が親近感がある。有名な人はいくらでもおります。こういう人たちが死後、どうなったのか、こうしたものを追跡してみる。こういうことも大事であろうと思います。 だからあまり高踏的な、高邁な理想だけを追い求めてはいけない。もっと体験的に、もっと身近に神理を学べる機会、これをつくってゆく必要がある。例としては、近年亡くなった方のその後を追跡してみる。まあこういうこともあり得るだろうし、そういう必要もそろそろ出てきているかも知れません。むしろ、この方が読者層としては広いかも知れない。ま、そういう意味で、地獄編、幽界編、霊界編、このあたりも必要かも知れません。 このように、霊界の仕組、実際どうなっているのか。どういうふうに考えられているのか。どういう基準でもって、人びとは住み分けているのか。何を一体しているのか。特にこの何をしているのかがいちばん肝腎要(かんじんかなめ)のところであり、わからないところなのです。何を一体しているのか。地上の人間の感覚で訴えると、どういう感じなのか。これですね、これをやはりみんなは知りたがっている。これに関する間違いのない手引き書、これが必要ではないか。まあこのように思います。 それには、どうも内容が、思想、理論、こちらにウェイトがかかり過ぎている。はっきり言えば田舎の主婦、こういう人たちにもわかるようなものがいる。物語的なものでよいけれども、霊界の様子がわかるもの、こういうものもいると思います。もっともっとこれが必要です。まあこれをね、そうしたことも心掛けていただきたい。このように思います。決して難しい内容、高度な内容だけがよいものではなくて、親しめるようなものもいるということです。これもなければいけません。これが二本目の柱です。 一本目は「神理と文学」ということで話しましたが、二本目はこの「霊界ストーリーの必要性、ルポの必要性、霊界の実証」です。これがもっともっといるのではないか。まあこういうことです。 3.第三の柱――映画、テレビ等視覚に訴える神理の伝道 ダンテ 三本目の柱として、本日私が考えてきたことは、これもあなた方の活動とも関係があると思いますが、おそらくこれからの神理伝道ということは、書物、あるいは講演、これだけでは足りない、たぶん足りないと思うのです。ではどういうものが必要かと言うと、やはり、「視覚に訴えるもの」がなければいけない。視覚に訴えるものが必要であろう。こういうことを感じます。 その意味において、やがては映画の製作、あるいはテレビ番組の製作、あるいはアニメのようなものが出てきてもいいかも知れない。こうした視覚に訴える伝道方法というもの、これを考えていく必要があると思います。視覚に訴える伝道です。これが必要であると思います。これがなければ、やはり今後、大きな広がりが見えない。このように思います。ですから、この視覚性、これを大事にしていただきたい。言葉だけというのでなくて、感性に訴えるように。また視覚という眼に見えるものだけでなく、音として聴こえることも大事です。つまり音楽性ですね。このように、人間の興味がある内容、対象、こういうものをトータルに捉(とら)えていく。できるだけ大きな範囲で捉えていく。ま、こういう必要があるであろう。こう思っています。 ですから、たとえば勧誘して講演会に連れてくる、話を聴かせるというのもいいけれども、そうではなくて、映画とか、あるいはテレビ放映、こうした形でもって人びとに見せるということも、これからは大事ではないか。そういう感じを受けます。言わばショーです。催し物ですね。こういうものも多少考えてゆかねばならなくなるのではないだろうか。まあこういう感じを、強く持つわけであります。 特に女性向け、あるいは子供向け、老人向けには、こうしたテレビ、映画の類、これは非常にわかりやすいであろう。ま、こういうふうに感じます。やがては、そうしたことも検討にのせていただきたい。まあこういうふうに思います。これが三番目の柱であります。 4.第四の柱――社会的評価を得るためには多角的な実績確立が必要 ダンテ 四番目の柱として、私が考えておりますことは、これはどうしても、こうした神理というものを普及する時には、他の批判とか、非難、攻撃、あるいは、このたぐいのものを受けやすいということです、非常にね。これは、私自身もそういうものは経験しましたし、私が政治家をやっていたこともあって、政敵というものもありましたし、その政敵たちに、私がこういう霊能力を持ったり、神理を語っているということが悪用されると言いますか、攻撃の材料として非常に使われた。こういうことがあると思います。 そういう意味において、まあ今後、批判もあるでしょうから、この批判をかわしていくための方法論を、かなり考えておく必要があると思います。そのためには、どうすればよいかと言うと、神理以外の領域においても、それ相応の実績を積んでおくということが大事ではないか。この霊というものを取り去っても、社会的批判に耐えうるようなもの、これをつくっておく必要があるのではないのか。ま、こういうふうに思うわけであります。この社会的批判に耐えるような実績、特に霊界物ではない部分で実績をつくるということ。これは非常に大事な考えではないかと思います。 ですから、それ以外の領域でも、何らかの成功を収めておく必要がある。まあ私は、そのように感じます。あなた方も、ともすれば信仰の道だとか、宗教の道だとか、いろんなことを言うであろうと思いますが、それ以外にでも生きていけるメドと言いますか、道をつくっておく必要がある。それ以外でも、目覚ましい活躍ができるようなあなた方である必要がある。ま、そう私は思います。 今後、いろいろとどうしていくのか詳しくは知りませんが、あまり宗教そのものにはしない方が、私はいいような感じを受けているわけです。これは他の指導霊団の意見もありましょうから、一概には言えませんが、ま、そういう面もあってもいいけれども、それ以外の面というものを持っている必要があるし、それ以外の面で、ある程度社会的に評価を受けることが大事ではないのか。まあこういうふうに感じるわけであります。 それは、多角的展開と言ってもいい、何頭立ての馬車と言ってもいいけれども、今後の行く末というものを私なりに見てみると、宗教そのものを前面に出す時代は終わったかも知れない。こうした霊的なものを取り入れながら、ひとつの文化ですね、霊文化、あるいは、こういう精神性の復活ですね、これをひとつの新たな文化として練り直していくことの方が急務ではないのか。精神文明、文化ということを強調していく必要があって、宗教ということで全面的に出していく必要はないのではないか。私は、そういう感じを受けるのです。その方がむしろよいのではないのか。ま、こういう感じを受けます。 これについては、異論があると思います。他の方の意見もあると思うので一概には言えませんが、形はどうあれ、趣旨だけはくみ取っていただきたい。あまり神、仏ということを中心にやるのではなくて、やはり、ひとつの霊革命、精神革命、新たな文化の素地としてのこうした霊指導として、捉えていく必要がある。そういう意味で、あまり型に捕らわれ、方向に捕らわれる必要はないのではないか。いろんな多角的展開をしていけばいいではないのか。宗教というものは、やはり私の感想としては、あまり全面に出せば、普遍的な形として、すべてのものを包含していくことが難しくなるのではないか。一部のものは非常に結束するが、他のものを排斥するようになるのではないのか。こういう感じを受けるわけであります。 考えてみれば、古来から本当の世界的な宗教を興した人というのは、文明や文化の起点ともなった人たちであって、現時点で言う宗教家という枠には必ずしも入っていない、ということが言えると思います。そういう観点ですから、自ら好んで貝殻の殻のなかに入っていく必要はないのではないか。私は、これを言っておきたいのです。貝殻の殻のなかに、自ら好んで入っていくと、その殻が邪魔になって行動ができなくなることがあるように、一定のイメージというものが出来てくる。このイメージを、やはり破るような必要があると思います。 特に動きそのものが、おそらく政治家などとも関連がかなり出て来るであろうし、経済への波及も相当あるであろうし、いろんなところに波及していくと思うので、殻があまり付かないようにしていく必要があるように思います。あくまでも、それはひとつの原動力であり、霊的な源泉であることは事実だけれどもね。霊言というのをずいぶん出しているけれども、今年あたりを境に、次第にだんだんとジャンルを増やしていって、霊言そのものの比重はやはり半分以内に収めて、それ以外のものをだんだん増やしていく必要があると思う。そうして、大きく根を張っていく必要があるように私は感じます。 そうしないと、本当に小さな枠のなかに、かえって閉じ込められてしまうことになる。この辺は、特に注意をする必要があります。この四点目ですね、特に四点目、新たな文化の担(にな)い手であるという自覚、これを忘れないようにしていただきたい。これを忘れて新宗教を興すつもりでいると、その枠の殼のなかに入っていく。 私は、そういうふうに感じますし、霊とか神とかが要するに出てくると言えば宗教にしなければいけないのかと言ったら、必ずしもそうではない。新たな器をつくってゆきなさい。私はその方がよいと思います。 まあ、敢(あ)えて古い人間であり、外人である私がどうこうと言うことはありませんが、敢えて言わしていただければ、むしろ私は「株式会社」でもよいと思う。むしろ、これでもよい。株式会社として、あらゆる事業を展開するという観点からやってもよい。神理というものを、いわゆる事業ベースに乗せていくという観点も、ないとは言えない。敢えてね。まあこれは神仏(かみほとけ)を商売の道具に使ったと言われるかも知れぬが、現代の宗教団体そのものが神仏を商売道具に使っているんだし、敢えて言えば、そういうことも有り得る。むしろこれからは、そちらの方が流行(はや)ってくるかも知れない。私はそういう感じも受けます。 ま、これはひとつの考えですので、必ずしも、これに従われる必要はありませんが、今後あなた方が多様な活動をしていくためには、それなりの考え方も作っておく必要はあるかも知れません。 5.霊界探訪記の対象は、幽界、霊界が妥当 ―― お教えを一応、お伺(うかが)いした上で、今度は少しお尋ねしたいこともありますので。 ダンテ まあだいたい四ヵ条終わりましたので、あなたのご質問で結構です。 ―― そうですか。では少しお尋ねしたいのですけれども、一番目のことにつきましては、これは先生のご専門のお話を伺って、なるほどこれからの神理伝道ということについては、やはり文学的な表現、こういうふうなもの、あるいは絵画、その他芸術の方向に考えを及ぼしていくということが、指導書だけでなくその方が、効果的であろうというお話をまず最初に伺ったわけです。それはもっともなお話なのですが、次に、その内容としてのお話で、二番目には、この霊界の様相について、もう少し詳しく、正確な見取り図を明らかにしていく必要がある。ついては、やはり、高級霊のおられる世界のことばかりではなく、人類の過半数がわかるような幽界、霊界あたりの探訪記、あるいはルポルタージュ等の話を、今後、多くとり入れていくべきであるということでございました。 それで、私がここでも考えますことは、そういう霊域におられる方のご意見を聞くということは非常に重要なことであるし、現在の生活の状況などをお尋ねするのは大事なことであると思います。ただ、今までに私がお尋ねした範囲では、六次元「神界」の方の範囲で、かなり客観性のある報告、お話を願えたわけですが、霊界、幽界の方々が果たして客観性のあるお話をなされるかどうかということになってくると、やはりその霊域におられる方々の視野といいますか、世間が狭いために、ある程度、自分中心の狭い範囲のお話になって、そういう方々に何人出ていただいてもバラバラの意見や感想になって、とりとめのないようなものになりはしないか、という心配があるわけであります。この場合、こういう世界のお話を伺うについては然(しか)るべきアドバイザーと申しますか、守護していただける方にご先導願って、そしてある程度、合理性のあるお話を伺えるというようなことが、好ましいのではないかと思うわけですけれども、その手立てというものについて何かお考えはありますか。 ダンテ まあ逆にね、私たちであるから、あなたの質問が生きてこないで、私たちがほとんど一方的にしゃべらなければ話が進まないようになっているけれども、普通の人であれば、かえってインタビューはしやすい。いろんな質問をしてもよいところがあるわけで、「死後どうなりましたか。その後どうして、どういう生活しておられますか」まあこういうことについては、話をしやすいという点もあるであろうと思います。 ―― まあ一応社会的に、この地上界において有名であったような人にお尋ねするということが、よろしいのでしょうかね。 ダンテ まあそういうことになりましょうか。 6.神理の視覚伝道には事業形態をとる方法がある ―― つぎに、第三番目ですけれども、視覚に訴える神理の伝道というお話、つまり映画、テレビ、アニメ等の視覚に訴えるものというようなお話でございましたが、映画、テレビの領域となってくると、関係者と申しますか、この範囲が非常に広いわけです。こうした人たちの了解理解といいますか、あるいは金銭的な援助というか、そのように企業的に協力してくれる者がいなければ、なかなかこういうことはできにくいと思いますが。 ダンテ だから私は言っているのです。事業形態としてやっていけばよいと――。 ―― しかし、視覚ということになってくると、霊現象というか、そういうものが、やはりどうしても要(かな)めにもなるように思うのですけれども、この辺いかがでしょうか。単なる創作だけでそういうことはむずかしいのでは――。 ダンテ まあそれは、あなたには関係のない内容かもしれませんね。あなた以外の人が考えることでしょう。 7.神理の伝道は、普遍性と普及性を考えて ―― では四番目のこの批難に打ち勝ってゆくための方法論、これについては、ひとつのやはり学校というものか、そういうふうな研修所とか、研究会とか、そういうものが必要になってくるのかと思うのですけれども、そういった間口を広げた環境というもの、環境づくりが必要なのかと思うのですけれども、今後、私たちもそういう方面の研究をしなければならないのではないかと、このように思っております。 まあそのほか、株式会社の問題ですが、非常にこれは重要な問題なのですけれど、もしそういう方向をとっていくのであれば、かなりそれを意識していかねばならんのではないかと、このように思っているわけです。その場合には、こういう方面をご指導していただけるような方も、将来的には出てくるかと思いますけれども…。 ダンテ まあ我々も今後協力せねばならんことでしょう。 ま、あなたには、それ以上話すこともないようですから、まあ後(あと)、最後の締めくくりで一言だけ言っておきましょう。大事なことは、とにかく、どういう方向であれ神理を広めていくということです。ですから、あくまでも、その手段、方法ということです。手段、方法にいろいろと縛られることなく、どういう形で神理を広めていけばよいのか、この普遍性、普及性、これを第一にしてやっていけばよろしい。 宗教ならこうあるべきだとか、あるいは、こういうものはこうすべきだとかいう「すべき論」で、物事は考えないでよい。ある程度、実用的に物事を考えていかれたらよい。このように私は思います。私個人の見解でありますが、そのように思います。ま、そういうことで、今日の話は終わりといたしましょう。 ―― ああ、そうですか、ありがとうございました。また非常に新しい視野が、我々の前に広がったような感じがいたします。今後も研究を、我々は大いにやらなければならんと思います。まあ先生にはどうも突然、お招きさせていただいて、ありがとうございました。 また今後、こういう機会が出てくるかと思いますけれども、その節は、ご指導をいろいろお願いいたしたいと思います。どうも本日はありがとうございました。 ダンテ では還ります。
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目次 1.理想的ユートピア論とは何か 2.ユートピア世界におけるリーダー像 3.ユートピア世界におけるピラミッド型人的構造論 4.神理に奉仕するユートピアの生活 1.理想的ユートピア論とは何か さて、本書を締めくくるにあたり、理想的ユートピア論とは何であるのかを、もう一度まとめ直してみたいと思います。 ユートピアというものを、現在、私たちを縛っているもの、私たちを苦しめているものからの脱出というふうに考える向きが多いのは事実でしょう。しかしながら、私は、そういうふうにはかならずしも考えません。ある日、忽然と理想郷が誕生して、そこに住んでいる人がみな喜びに満ち溢れて、そして楽しくてしようがない、そういうユートピアができあがって、それで終わってしまうというふうには思わないのです。 私は、ユートピアとは一つのエートス、すなわち持続する精神状態のことをいうのではないかと思うのです。したがって、その精神的状態がユートピア状態にあるのであって、ユートピアといわれるものの客観的状況は時代とともに、年とともに、人びととともに変わってくる可能性がある、そういうふうに思えます。 すなわち、ユートピアというものは、その精神的なる部分は永遠不滅であっても、現実的な状態論、生活論においては時代とともに変遷することを認めざるをえないというふうに考えます。いやむしろ、私は変転する姿のなかにあって、変転しない精神を内包している姿こそユートピアではないかと思うのです。 ですから、今、私が説くところのユートピア論にしても、時代的制約があるのは、間違いないと思います。ただ、このなかに盛られた理想的精神は、死ぬことなく、絶えることなく、たしかに伝わり続けてゆくものであろう、そのように考えます。したがって、いつの時代にもユートピアを説く場合には、この理想的精神論と現実の実践論の両者を含むわけですが、現実の実践論は変化を常に内包するものでなければいけない、ということです。 元来、はるかなる天上界にあるところのユートピアは、少人数のきわめて優れた人びと、心を一つにした人びとの集まりでありました。それを、この地上に降ろしてくるというのですから、きわめて困難なことは事実です。それは私が、数多くの本で述べてきましたように、地上を去った世界においては次元別にいくつかの人びとの生活の場があり、そして、その次元が高度になればなるほど、理想的な人びとの生活の営みというものが展開してきます。それはそれはすばらしい人たちの集まりがあり、語らいがあります。 しかし、この地上世界というものは、地上を去った、そうした多次元世界の営みそのものを、そのまま反映するものではありません。そうではなくて、この地上世界においては、さまざまな人種、さまざまな魂の進化の度合、老若男女、こうした者たちが集まっています。したがって価値的に見れば混沌とした状況であります。価値ある者も、価値なき者も、玉石混交の姿でいっしょくたになっているのが、この三次元世界の真相であると思います。 それゆえユートピア創りにおいては、こうした混沌、カオスともいわれる混沌を何とか、一つの価値ある秩序において、整然とした世界を築いていくという努力が必要なのです。多次元世界にある価値秩序は、この三次元の世界においては必ずしもそのままは、妥当しないことでありましょう。しかしながら、私たちは今、私たちが現実に住んでいるところのこの三次元世界において、できるだけ高次元の神の理想に近い生活を展開するために努力すべきであろうと思うのです。そのためには、どうすればよいのか。 この私たちが生きている世界が、肉体と物質という桎梏(しっこく)に条件づけられているということは、止むを得ないことでありますが、この条件づけをある程度、不可避なものと考えても、それでもできるだけ実在界の価値秩序をこの世界に持ち来たらす、ということかだいじであると思います。 2.ユートピア世界におけるリーダー像 そうすると、理想的ユートピア世界には、それを構成する人の面での絞りというのが、どうしても必要となってまいります。この人の面とは何であるか。まず、神理を語る人、ユートピア建設のラッパを吹き鳴らす人が中心にならなければならないということです。あるいは、頂点に立たねばならないということだと思います。これを中心に置かないと、混沌は混沌のままに、無秩序は無秩序のままに、収まってゆくことになります。 地上的価値秩序でこれに近いものとして、たとえば頭の良し悪しという基準があります。勉強のよくできる人が、人の上に立つという制度です。これは、ある程度まで妥当する基準であります。ただ、この基準が妥当するのは、私は六次元神界と呼んでいるところの、この人を生かす世界のリーダーたちが、リーダーシップをとる世界にとどまるといえましょう。 これ以上の愛の世界、慈悲の世界、法の世界というものは、この頭の良し悪しだけでは計れるものではありませんし、この頭の良し悪しだけで計れるところのリーダーは自分を超えた、こうしたリーダーの存在を正当に評価できないという欠点があります。そういうきらいがあるのです。すなわち才能を超えた徳、徳業というものに対する評価が十分にできないということなのです。 したがって、私はこうした知的な能力を基準とした秩序階級ができている現代を必ずしも悪いとは言いませんが、それは七十パーセントぐらい妥当する世界である、と言っておきたいと思います。こうした才能を中心とした人の上に、徳のある人が指導者として立たなければならないと思います。そして、徳のある人は才能を愛するという、そういう傾向を持っていただきたいものだと思います。徳のある人よりも、才に秀でた方は数多くいるわけで、この徳と才とが相争っては、世の中の秩序はできあがらない。そのように私は思います。徳ある人は、その徳をもって人びとを照らし、そしてそのまわりに才能のある人、才ある人を集めて、そして実際の実践の面において、世の中をよくしてゆくという工夫が必要です。そして、徳は才を愛し、才は徳を尊敬するという関係をつくってゆかねばならない、そう思うのです。 ですから、この徳と才、このバランスと秩序を形成することかだいじなことではないでしょうか。もちろん、才と徳とを兼ね備えたリーダーが出現することは、限りなく大切なことであると思いますが、あえてその両者を兼ね備える人がいない場合には、徳を上とし、才を下とすることです。徳の人を上におき、才の人をその次におき、そして次なる段階にさまざまな善良なる人びとを集め、そして善良なる人びとの下に、次の発展途上の人びと、まだ人格形成中の人びと、未熟なる人びとを置くべきです。こうした社会階層ができなければなりません。 3.ユートピア世界におけるピラミッド型人的構造論 したがって、私が考えるこのユートピア世界における社会階層は次のようなピラミッドで形成されることになりましょう。 第一に、ピラミッドの頂点には徳ある人のピラミッドがあります。その下には、才能のある人がつきます。これが第二階層です。第三階層には善良なる人びとです、これがつきます。そして第四階層として、精神的にまだまだ修行の余地の多い人びとの階層がこれに続きます。こういう四段階の社会階層にしてゆきたいと思います。 したがって、教育的観点からこれをみつめてみると、まず第一には人間の性格のなかの悪しきものを取り去るという努力が必要です。精神的に未熟な部分に対する反省というものを、まず教育の第一段階に打ち出してゆく必要があります。すなわち、悪しき心の傾向性、また行動の傾向性というものに対する警告を教育の中心に据え、人の性質を善良なるものに変えてゆく必要があります。これが教育の第一段階です。 すなわち、現在学校教育においては、さまざまな知識教育をしておりますが、これは第一段階であってはいいわけではなくて、まず人間に善き精神状態とは何か、悪しき精神状態とは何かということを教えなければなりません。昔の道徳教育に代わるものを、何らかやらなければなりません。そして、人間性のベースを善にもってくる必要があります。まず、教育を施して、こういうことはしてはいけないこと、こういうことはしてよいこと、あるいはこういうことをした場合には反省をしなければならないということ、そういうことを教えるべきです。 具体的には、他人をいじめる思い、嫉妬する思い、非難する思い、苦しめる思い、やっかみ、そしり、いかり、愚痴、こういうものはよくないものだということを教え、この代わりに人に対するやさしさ、愛、慈(いつく)しみ、また、勇気、希望、こういうすばらしい徳目を教えて、そして人間の性質を善に戻す教育を第一段階に置くべきだと思います。 そして第二段階の教育においては、才能を伸ばすということに力を入れるべきです。すなわち、人間性のベースをまず善において、善なるものとして性格の形成をした上で、これに才能の接ぎ木をしていくわけです。才能の接ぎ木には、いろいろな学問の補強があります。現在、構築されているところの学問・研究があるでしょうし、それ以外にも、実社会における経済的な、あるいは経営的な手腕を発揮するという方向もあるでしょう。また、それぞれの専門家として、力を伸ばしてゆくという方向があるでしょう。これを次なる段階といたします。 そして、第三段階としては、この才能ある人のなかから、徳ある人をつくり出していく訓練が必要となってきましょう。すなわち、一般の人よりも才能的に優れている人を集めて、こうした人たちがどうすれば世の人びとをよくし、世の人びとを幸せにしていけるかという方向に教育をしていく必要があります。すなわち、個人の見地を離れて、社会全体をよくしてゆくために働こう、あるいは尽くそうという気持ちを植え付けてゆく必要があります。すなわち、才能ある人を集めて、そのなかから徳ある人をつくり出してゆく訓練が必要となります。 それは、まず第一には、発想の訓練が必要でしょう。発想の訓練として、愛を与え続けるという気持ちを持つということ。世の中に光を与え続けるという気持ちを持つこと。そしてすばらしい世界を創っていくんだということを、リーダーの使命として自覚させること。これらは単に個人の領域や、小さな自分の会社の発展だけを追いかけるのではなくて、社会全体への大いなる情熱として、これを強めていくことです。 そして最後には、こうした徳を宗数的見地にまで高めることがだいじである。そのように思います。宗数的見地という言葉は、ひと言で説明するのは難しいと思いますが、あえてそれをひと言で話すとするならば、自分の上に神がいるということを認める境地だと思います。常に神がおられて、自分を見ていてくださる、ということを信じている指導者の境地を宗数的見地といってよいだろうと思います。 人間のリーダーシップには限界があります。人間の力には限界があります。その奥にある力を信じない限り、この世的には、人間はどうしても自己顕示欲の固まりとなり、そうして小さな成功者になっていき、暴政をしいたり、また自分の権力のままにいろいろなことをしたくなっていきます。そんなことであってはいけないのです。やはり、自分の上に絶対者がいるという気持ち、超越存在がいるという気持ち、この気持ちを持つということが、人間を傲慢から防ぎ、そしてすばらしいものへと常に導いてゆくための鍵となると思うのです。 以上で、人間によってつくられる社会のピラミッドモデルをつくりました。この考えからいくと、たとえば大学教育など高等教育を受ける前提としては、まず情操教育が必要だと思います。善なるものを、その魂の基礎に持てるように、まず教育をし、そうした人の才能をさらに伸ばし、才能が伸びた上に、より多くの人びとの幸福を考える、そうした徳育を施していく。そして、最上のリーダーをつくっていく、そういう社会システムが必要だということだと思います。 これが人的構造論です。 4.神理に奉仕するユートピアの生活 第二に、理想的ユートピア論としてぜひとも言っておかねばならないこと、それは、神理の価値、神理を学ぶという価値をどうしても中心に置いておく必要があるということです。この世的に値打ちのあるものというものは、いろいろと規定されていると思いますが、最高に値打ちがあるものは神理であり、神理に奉仕する生活こそがユートピアの生活なのだという自覚を持つことだと思います。 神理を中心に生活がまわっているということがだいじです。その神理とはもちろん神から流れ出たものであり、そうした神から流れ出た教えが、法としてまとまったものです。この法というものを常に学びの中心に置いて、その上にさまざまな実用的な知識を伸ばしていけばよいと思います。人間性には、どうしても基盤が必要です。この基盤づくりを忘れたときに、人の心は唯物論に流され、そして欲望のままに生きてゆくことになっていきます。 組織論としては、先ほど述べましたように、より魂的に進化した人が中心になるような組織を展開すべきでありますが、日々の生活論・実践論としては、常に神理を片時も忘れてはならない。神理とともに日々生きる、そういう気持ちが大事です。それは人間の魂というものは、永遠に学び続ける、そういう必要があるのだということが、その根本になっています。永遠に学ぶことを忘れたときに、魂はすぐに転落を始めます。また魂はその値打ちを低下し、その能力を低下し、その素質を後退させていきます。ですから、永遠に進化していくためには、どうしても神理中心の生活ということが必要になります。 以上でユートピアのための二つの方法論を述べました。 最後に述べておきたいこと、それは、どうしてもどうしても言っておかねばならないことです。それが、何であるかというならば、とにかくユートピアというのは、結論において「私は幸福です。」と言い切れる人を数多くつくっていくことです。日本において、世界において、「私は幸福に生きています。」と言い切れる人を数多くつくることなのです。この努力に限界はありませんが、しかし目標においては可能な目標であります。その目標をめざし、その目標の達成に向けて、私も日々努力してまいりたいと考えます。