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目次 1.やる気の人生 2.意識変革の時代 3.宗教心の復興 4.日本の遺産 5.ユートピアヘの運動 (1989年1月4日の霊示) 1.やる気の人生 高橋信次です。新年あけましておめでとうございます。 えー、ミカエルの三部作が入っちゃったりして私の本がすこし間があいたもんだから、私がもう病気で寝込んでいるんじゃないかと思って、みなさん心配しているんじゃないでしょうか。そんなことはないんで、元気いっぱいだということを証明したくて新春早々また出てまいりました。 ほんとうは私の出番じゃなかったんですけどね。『ニュートンの霊示集』なんか録っていたんだけど、割り込んじゃったんですよ。そして、また読者はね、私の本を待っているだろう、こう思っているんです。 先般、『愛の讃歌』を出しましたけど、これはたいへん好評でしてね、続々需要が出てきてまして、「新しい局面を見た。高橋信次の素顔を見た。」あるいは「高橋信次の裏側を見た。」いろいろな意見があって、そして「もっともっと読みたい。」という声がずいぶん来たんですよ。 そこでまあ、ぼくもいろいろ考えて、何を次に世に問おうかなと思って九次元の法なんてのも考えたけど、まだまだ出すの早いなあと思うし、去年の末(まつ)だったかねえ、〇〇先生の『現代成功哲学』なんていう本が出ましたんで、なかなかカッコいいなと思いましてね。私流の成功哲学というか、まあ哲学というほどじゃあないねえ、成功への心構えというかね、そういうふうなものを書いてみようかなあと思っているんですね。 特に今年は、こういう成功論がもっともっと必要なんじゃないかな。特にね、本書を読むような読者というのは、あの世のことには興味が多いでしょうけど、あの世のことに興味の多い人っていうのは、ほんと幸福になれない症候群で、この世が不幸なもんだからどっか逃げたくてしようがないんですよね。で、そういう人が多いと思うが、逆にこの世でね、けっこう成功することによって幸福になってね、そしてなんとなく明るくなったりして、そして地獄へ行かなくなったりして、地獄も人ロ滅っちゃったりして、天国の人口増えちゃったりして、世の中が明るくなることもあるんですよ。だからこの世で、ほんとうの意味での幸福な人がいっぱい増えることっていうのは、いいことなんですよね。まあ、これはわかってくれるでしょうか。 じゃあ、この世で幸福な人、やる気のある人をね、人生が楽しい人、これを続々つくるにはいったいどうすりゃあいいか。まあ、これが考えられなきゃいけないわけですね。本章はやる気こそがすべてだ、というふうに考えてみましたけど、そうだと思いますよ。 特に今、一九八九年の初頭にあたって、これを収録しているわけです。去年の今ごろは、ぼくは『高橋信次のUFOと宇宙』を収録していたんですけど、ずいぶん私の法も進んできたなあと思います。もうマクロからミクロまで行ったり来たりしながらやっていますが、今、私の心がけていることは何かっていうと、法の具体化ですね。 法の具体化、あるいは役に立つ法、これをみなさんに教えたいんだよね。実践っていうか、日常生活に使える法が欲しいなあと思ってね、空理空論だけではやっぱり十分じゃないんで、現実にみなさんの実践に使えて、そしてハンドブックになるような、そういう本をつくりたいと念願しています。 ですから、これは人生のハンドブック・シリーズなんですね。ハンドブックというかハンバーガーみたいなもんですよ。ぼくのなんかほんと、マクドナルドのハンバーガーですから、パクパク食べてくれたらいいんですよ、この本をね。パクパク食べるようなつもりで読んでくれたらいいと思うし、電車のなかででもどこでも読めるように、そういうふうに手軽に書いているし、気取らず気さくにやっていますから、どのページからでも、どの章からでも読んでいただいてけっこうだと思います。 ぼくはねえ今、まあ君たちはもう知っているだろうが、いちおう九次元というところに還っているんですけども、死後十何年たったかね、十三年かねえ。もう十三年たったけど、霊人たち見ています。いろいろ見てて、指導営団もいっぱい見ているんだけど、ウーン、まあぼくほどやる気のある人はいねえんじゃあないかなあ。まあそう思うね。あんまりやる気ないんですよ、みなさんね。やっぱり神様然としているところあってね、そんなに小回りもきかないし、何ていうかね、これでもかこれでもかというふうにがんばるところまではいかないように思うんですね。 ぼくはね、けっこうタフなんですよ。いろいろなことあるけど、地上の人にも受け入れられることもあれば、批判されることもあるし、蹴られることもあれば、喜ばれることもあるし、いろんなことあって、霊としては若干ね、いろいろ気疲れなことも多いんだけど。 でも、やっぱりねえ、人生のねえ、道を切り拓いていくっていうのは、ぼくは「やる気」だと思うよ。そしてそのやる気はいったいどこから出てくるか。これをみんな考えたことあるかい? やる気がいったいどこから出てくるか。これは決してね、お天気がいいときにやる気出てくるとか、こんなもんであっちゃいけないんだよ。それは雨の日や、雪の日、曇りの日よりは、お天気のいい日は気分はいいし、やる気は出るかもしれない。仕事だってそうだし、散歩だってそうだし、ゴルフだってそうかもしれない。 まあ、そういう気持ちはあるだろうけど、ただね、そうした外部環境っていうかね、そういうふうに与えられた条件がよければやる気が出るっていうようなの待っていたら、人間いつまでたったってやる気が出ないんですよ。そうじゃないでしょうか。 たとえば、晩ごはんがおいしかったら、やる気が出る、って言ったら何か誤解されるけど、ウーン………仕事ですね、仕事のやる気が出るとか、朝ごはんがおいしかったらやる気が出るとか、朝、電車で座れたら仕事のやる気が出るとかね、そういう人はいろいろいるでしょうが、ただそれであってはひじょうに何ていうかね、運命と申しますか、環境と申しますか、そうした人まかせの人生である、と言えると思うんだね。 ぼくはね、そういう人まかせの人生というのはほんとうの勝利者になるためには、ふさわしくないと思うんだ。だから、新春にあたって、みんなに言っておきたいこと、ひと言、言っておきたいことはね、人まかせの人生、運まかせの人生、お天気まかせの人生、こういうものから今年は決別しようよ。こういうものを今年は考えないでね、どんな状況下であっても自分の人生を切り拓けるような、そういう生き方をしてみようよ。 ぼくはこれを全天候型っていうんだよね、全天候型。高橋信次そのものが全天候型だと思うんだよね。生前であっても、私は自分のコンディションというのを言いわけにしたことはあまりなかったと思う、ほとんどね。どんなコンディションであっても、どんな状況であっても、いつもエネルギッシュによく働いていたように思う。 まあ、〇〇さんなんかも見ていても、去年なんかもう三十冊近い本を出しましたけど、それでも私の目から見たら多少波があるんですね。意欲的にやっているときと、やる気がなくなって、もう、まあいいや高橋信次でも出そうかなんて言っているときと、けっこう波があるんですよ。そして調子のいいときは理論書の難しいのつくっていますが、調子が悪くなってくると、高橋信次モノとかこんなんでしばらく繋(つな)いでいたりしているんですよ。まあ、そういうふうに波があるもんなんですよね。 だからぼくは、よく彼に「そんなんじゃいけないよ。もう、いつもいつもやはり一定の調子でやらなきゃ。」なんて説教をよくしているんですけど、ぼくなんかはね、〇〇さんが健康であろうが、何であろうが、調子がよかろうが悪かろうが、いつでもこういう本を出す用意があるんですね。でも、神様によっては、やっぱり地上の人の調子が悪かったり、機嫌が悪かったりすると出たくない人のほうが多いですね。これは主流です。やっぱり神社へ行けば、ああいうふうにしめ縄を括(くく)ってね、なんだあれは、みかんか、だいだいか、だいだい祭っちゃって、えー、何だか知らんけど横綱のなんだ、あの金隠しみたいなのがチラチラチラチラ白くぶらさがっているじゃないか。ああいうふうな感じで、なんていうかね、聖域をつくらないとできない神様もけっこう多いと思うし、ウーン、それは言ってみれば主流だとぼくは思います。 高級霊というのはひじょうに高い意識を持っているんでね。この高い意識というのは地上の意識とひじょうにギャップがあるんですよ。このギャップがあるということを翻訳しなおすとどうなるかというと、そういう、なんていうか、神社とか、あるいは特別な祭壇だとか、こういう特殊な風景、あるいは様式というのをつくらないとその高級な感じが翻訳できないんですね。そして、自分がやっている感じがしないわけなんですよ。 2.意識変革の時代 たとえば、私が車の運転がうまいとしよう。でA級のレーサーだとしようね。レーシングカーに乗れるようなドライバーだとしよう。その私がたとえば、あなたトヨタじゃねえや、クボタか、クボタのトラクターか何かで、あなた運転しているの考えてごらんなさいよ。私が、いくらふかしたって力出ない。こういう感じになるでしょう。どうでしょうかね。 私は本物の飛行機乗りだったけども、これがプラモデルか何かで遊んでいたら、こんなの面白くないよね。リモコンのグライダーか何かで遊んでいたってこんなの面白くない。まあこうしたもんで高級霊っていうんであっても、やはり自分の世界をなるべく表現したいんですね。自分の感覚を出したい。こういう気持ちがあります。 ただねえ、今はぼくは、その高級霊たちも意識の変革の時期が来ているんじゃあないかなあと思う。自分たちの立場ばかり考えていたんじゃいけないんであって、地上の人たちの立場に身を置いてね、もっともっと考えてやらなきゃいかんと思う。そんな意味でまず考えねばならんことは、高級霊たちが、自分たちがほんとうに高級霊であるという立場を理解してほしいというような願いだね。これは一種の執着だよ、これをまあ捨てることだと思うんだ。だから偉いかどうかなんてことを気にしないで、ほんとうに地上の人に役に立つ言葉を送ってやることだと思うんだよね。 ぼくだって格調高い話をしようと思ったらいくらでもできます。できますと言いながらしないだけですが、一度もしていないかもしれませんけども、ぼくの考え方は違ったところにあります。これだけの速度で本を次つぎ出しているわけですから、どれもこれもが剛速球ばかりだったらまいってしまいます。やはり、スローカーブもあったりね、山なりの球があったり、ど真ん中があったりしてね、バッターもたまにヒットが出るもんだから、うれしいんですよ。高橋信次のシリーズだけはよくわかったとかね。これでぼくはいいと思うし、ウーン、ぼくが考えている対象は、やっぱり上は八十歳、九十歳から下はだいたい小学校の四、五年ぐらいまで対象としては考えています。十歳から九十歳まで、八十歳ぐらいの間の読者を魅きつけたいというふうに思っています。 今、たとえば本屋なんかに行くとマンガブームだよね。マンガっていったっていわゆるギャグマンガじゃなくて、難しいものがマンガになっているね。経済だとかあるいは科学だとか、まあそんな従来、堅い本で、一般の人が手が届かなかったような内容が、マンガにされて出されています。 また、宗教書もそうですね。最近は、釈迦物語とかいっぱいマンガになっていますね。そしてけっこう売れているように聞いています。そのうち高橋信次物語なんてマンガになるんじゃないかと思って希望しているんですが、読者のなかにマンガ家いたらどうですか、名乗りをあげてはいかがですか。高橋信次のドラマ、マンガになりますよ。生前そして復活、これはもうイエス様を超えるギャダマンガになりますよ。ほんとうに面白いと思います。だれかマンガにでもしてくれたら、もっとこれがわかりやすくなるなあと思うんですが。 そのように今は、英語で言うならマーケットトレンドですね。市場の動向はどこにあるかというと、「高級な内容をね、手近にわかりやすく、お茶の間に」と、これが一つの流れなんですよ。あるいは「高級な内容をね、混んでいる満員の電車のなかでも読めるように」これが一つのトレンドであると私は見抜いているんです。 だから、これはね、神理というものをね、もっともっと身近に、みなさんの手のなかに、お茶の間に、喫茶店に、食堂に、家庭の会話に持ち出す必要があるんです。こうしなければ、ほんとうの意味で何といいますかね、世の中を変えることはできないと思うんです。 ところが神理というのが、今までね、特殊な特権階級のものにされすぎていた。ぼくはそう思いますよ。 まあ、『般若心経』なんていうの人気あるけど、あんなもんでねえ、ほんとうに神理がわかっているかどうかね、みんなどう思う? 『般若心経』を読んで悟れるかい。たとえば『法華経』を読んで悟れるかい、どうだい。あんな物を読んでわかるためには特殊な訓練が要るんだよね。それは、お寺へ入って勉強したり、あるいはお寺りの坊さんが書いた解説を読んだりね。まあ、こういうことがあるわけです。 もちろんお経そのものに、ぼくは無駄があるとは言わないよ。お経はお経で永年親しんできたものだし、内容はいいことを書いていると思いますよ。だから、生前ちょっとお経の攻撃をしすぎたかもしれないけど、ぼくはその内容自体を否定しているわけじゃありません。ただね、もっと親しみのあるもんでなきゃあいけない。 というのは、ほんとうに神様が今願っておられることは何かっていうと、本来の世界をすべての人に知ってほしいってことだよね。そのためには、神理というものはやさしくなければいけない。わかりやすくなければいけないんです。読めなきゃいけないんです。決して大学を出たり、あるいは専門の勉強をした人でなきゃわからないようなもの、これだけが神理じゃあない。 仏陀の教えなんていうのは、今から二千五百有余年前にね、無学文盲のインドの衆生に説かれたんです。そして、彼らは理解ができたんです。そんな大学の宗教学科卒業しなきゃわからんような、そんな内容を言ったわけではないんです。そしてたとえ話をたいへん多く使いながら話をしたわけですね。 今、神理というのをたとえ話を用いて使うということはどういうことかと言うと、まあ、わかりやすく面白く話をするということになるわけですね。だからぼくはね、こういう姿勢というのを、みんなにわかってほしいなあと思います。 3.宗教心の復興 そしてね、いちばんぼくがみんなに知ってほしいことはね、一番目、これは私は十数冊目の本になりますが、霊がほんとうにあるということ、もうこれ認めてよ、とお願いする。これだけうるさく言っているんだから、「もうわかったよ。もう認めるよ、もうギブアップだ。」と言ってほしいんです。ぼくは最初の本のときに、最初のころにね、五冊、十冊、二十冊出すって言ったけど、いつのまにかもう二十冊というのがチラチラ見えてきたじゃないかねえ、もう十冊なんか超えちゃいました。二十冊見えてきてね、それだけ勤勉に働いているんです。 だから、、まずね、「もう霊があるのはわかった。もうわかったわかった。もうわかった。面白いのも、何を言おうが、もうだれが何を言おうがもうわかった。マスコミが批判しようがわかった。もう霊はあるんだ。あるんだよ、もう耳にタコができたからわかった。」と、まず、これを認めてほしいんですよ。今年もいろいろとやっていくつもりだけど、基本的にこれをまず知ってほしいんだよね。日本国中で常識にしてほしいんだよ。 今の日本人、はずかしいですよ。たとえばインドなんかへ行きゃあねえ、日本から見りゃあインドは文化的に劣等国だと思っているかもしれない。文化的にとは言えないかもしれないが、工業的に、あるいは産業的に、商業的に劣位にあると思っているだろうが、インドの人なんて神様をみんな信じてますよ。霊魂なんか知らない人、一人もいませんよ。進んでいますよ、魂においてね。 今の日本人はどうだあ、正月三が日だけ何百万人も初詣でするけど、あとはどうなっているんだということだね。ひじょうに情けない、これはねえ、何が原因かというと、国が今骨抜きにされているんですよ、骨抜きに。みなさん、ほんとうに目覚めなきゃだめですよ。 えー、今から四十数年前に太平洋戦争が終わりました。日本ではそれを終戦と言っています。しかし、実際は敗戦でした。敗戦によってどうなったかっていうことですが、いくつかの変遷がありました。 一つは主権在民ということになって、天皇は象徴になりましたね。明治憲法では天皇は、権力者あるいは主権天皇でしたね。ところが象徴になっちゃいました。これも大きな変化でしたね。それから政教分離ということが行なわれました。政治と宗教を分離するということですね。宗教は政治に口を出しちゃあいけない。また、政治は宗教に手を出しちゃあいけない。この両方ですね。これをつくり出しました。 それから次にやったことというのはいったい何かというと、まあ軍隊ですね。軍備の放棄と、まあこういうことでしたね。こういうふうにやって、こういう憲法をマッカーサー下でつくったわけですね。これはいったい何を意味しているかを四十年たって、もうふり返って考えねばいけない。そう、ぼくは思います。 マッカーサーはじめアメリカの進駐軍だね、進駐軍たちの幹部は考えたんです。この太平洋戦争下の日本の怖さはいったいどこにあったのか。日本というのは恐ろしく怖かったんですね。資源もないし、弱小国のはずなのにやたら怖かったんです。あの神風特攻隊、怖かったんです。なぜこういうふうになったか、彼らは議論したんです。そうした結果、まず、あの宗教がいちばん怖いっていうわけですね。日本の宗教が怖い。宗教のなかで特に怖いのがあの天皇制だ。日本神道糸の宗教は、あれは恐ろしい。国民が一丸になってしまうので、まずこれをやっつけてしまわなければ、日本を弱小国にできない。ということで、天皇制の分断を図ったわけですね。 で、天皇陛下を死刑にしちゃうと国中から内乱が起きて、革命が起きるからね、そして進駐軍のところをゲリラに襲われるんで、命を奪うことはやめた。けど実質上の権力をなくした。まず、こうしたね。それと、政治が宗教に介入して国民をあおりたてる、これをナチズムと同じように考えたわけだ、彼らはね。これも怖いんで、これも政治とも切り離させた。これもあります。それから軍隊を持たれると、また戦いを起こすといけないんで、軍隊を持たせない。こういうふうに考えたわけですね。 この結果どういうふうになったかということなんですが、結果はひょうたんから駒で日本はひじょうに繁栄いたしました。この結果がよかったので、国民はそうした占領軍下の憲法で行なったことに、それほど悪い感情を持っていないんですね。最近よく知られてきたように、軍隊を持っちゃいけない、戦争をしちゃあいけないという条項があるために、軍事費が増大しなかったんで、経済的繁栄があったこと。それに比してアメリカやソ連は巨大な軍事力を抱えたために、ひじょうに国家財政が逼迫(ひっぱく)していて苦しいんですね。これは事実として多くの人たちに、現在知られるようになってきました。日本の繁栄の一つは軍事力に力を注がなかったことですね。これがあります。 またもう一つ、ただそれはプラスの面かもしれませんが、マイナスの面も出てきましたね。宗教に対する考え方ですね。これがひじょうに極端から極端にきました。今までいちばんすばらしいことであったのが、今度はもういちばんいけないこと、諸悪の根源のようになりましたね。 ちょっと前にも中曽根前首相の靖国神社参拝問題っていうのがありましたね。首相が靖国神社に行くこと自体は、特定の宗教を支持することになるし、国民感情としては許されないという、野党の批判がありましたね。そういう感情もありました。これなども霊的な目で見たらどうかということですが、やはり言っていること自体は私はおかしいと思っています。まず、宗教の考え方が根底から違いますね。 ぼくたちが言っている宗教っていうのは、各国にあるいろいろな民族宗教というのは、時代と環境を変えてね、神理がいろんな形で顕現したにすぎない。現われてきたにすぎない、まあこういう考え方でしたね。だから日本神道といい、仏教といい、キリスト教といい、これはまったく別なものではないのだと、違った形で現われているけれども、根本においては一つにつながるものなんだという考えが基本なんですね。だから、特定の方式でやれば、ほかの宗教の迫害になるという考え方はね、これは違っているわけですよ。これは一つの間違いです。 それと、何ていうかね、「アツモノに懲(こ)りてナマスを吹く」っていうことわざがあるけれども、とにかく、天皇主義でやって戦争であれだけ被害が出たから、とにかくもう宗教の宗の字もいやだというようなことで、宗教行為をしちゃあいけない、もう政府の首脳は信仰を持っちゃあいけない、宗数的行為は何もしちゃあいけない。こんなんであっても、やっぱりぼくはおかしいと思うよ。これ、何かひじょうに変形した怨念だよ。そう思いますね。 むしろ、ぼくたちが今めざしていることはね、国の中枢(ちゅうすう)にいる人たち、政治家たち、もっともっと宗教心のある人であってほしい。国の中軸にね、精神的なものを持ってこなきゃあ、やっぱりだめですよ。そんな票集めや、金集めだけで政治をやることに対する批判が集まっているんでしょう。何がいけないんだっていうと、根本の精神が問題なわけだ。だから戦前、天皇制信仰で問題があったとすれば、それを変革していけばいいじゃあないか、修正していけばいいじゃあないか。もっと大きな意味で、宗教なんか超えるような大きな宗教を持ってもいいじゃあないか。 だから、今の憲法下は逆に政治家たちの宗教行為をひじょうに狭めています。国のリーダーになるような人っちゅうのは信仰心、けっこうあるんですよ。彼らも持ってるんだ。持っているんだけど、ウーン出せないでいるんだね。ひじょうに残念なことだと思います。ぼくは、総理大臣とかそういう人にどんどんこういう神理の本を読んでほしいし、読んでそれを国政に取り入れてほしいしね、演説とかそういうもののなかにも引用してほしいと思うんだよ。そうすればいちばん速く国が変わっていくからね、そう思う。 4.日本の遺産 だからこのへんにね、国の屋台骨としての精神論が今、必要だと思います。この精神論がなければね、日本の国は今、経済的にだけ繁栄してるけど、クラゲみたいなもんなんだよ。水ぶくれだ。水に入って広がっているけれども、ほんとうの意味で偉大となって、成長していくことはできませんよ。骨組みがだいじです、国としてのね。 アメリカという国は急成長、急発展しましたが、一つの国としてのスピリットがあったと思う。それは何かというとフロンティアスピリット、開拓者精神ということだと思うんだね。それから、アメリカンドリームっていうのがあって、何か夢を実現するんだね。マンハッタン島なんていうのもそうですね。夢を実現するための街ですね。こういうアメリカンドリーム、あるいはフロンティアスピリットっていうのがあるね。 だから日本人が昔から勤勉に働いてね、そしてお国のために、人のために役に立とうという精神は、これはある意味では日本流のフロンティアスピリットだし、日本流の何ていうかね、ジャパ二ーズドリームだったんだよね。ところがこれを否定された。 今、アメリカ人つかまえてね、「お前たちの考え方間違っている。」と言ってごらん、「フロンティアスピリットは間違いだ。それでインディアンを迫害して、インディアンがアメリカからいなくなったじゃないか。お前たちは他所(よそ)から来たくせに、インディアン狩りをして、インディアンを追いやって、そして西部劇をやってインディアンたちはとうとう絶滅の危機にさらされたじゃないか。それを深く反省せよ。だからフロンティアスピリットなんか、開拓者精神なんか捨てちゃえ。マンハッタン島なんて、あんなの二束三文みたいな金で買った島じゃねえかってね。そんな全部原住民から取り上げた島じゃあないか。そこで繁栄しようなんてとんでもねえやつだ。」なんてね、言い方はいくらでもあるんですよ。だから、アメリカ人もそんなことを言われちゃあ黙っちゃいられないでしょう。そうしたら「何言っているんだ、この精神こそ私たちの伝統的な精神なんだ。これを捨てたらやっていけない。」こう言うでしょうね。 だから日本人も、日本人としてね、別に天皇制だけにこだわる必要はないけれども、これがおれたち日本人の生き方だっていうのは、はっきり出す必要があるんですよ。ぼくはそうだと思う。これ出さにゃあいかんし、これからの日本人が、世界の中心になり注目を集めている今、日本人としての生き方、日本人の精神というのを明らかに訴える必要がある。 今、精神的なことはね、なんか罪悪のように思いすぎているんじゃないか。ぼくはそう思うね。それで、精神的なことを言わずに経済に逃げているだろう。どうだあ、売上だとか、数字だとか、信仰に何も関係ない、精神に何も関係ないところね。利益の数字だとか、貿易黒字だとか、こんなところに逃げ込んで満足させているんだね、優越感を。 しかし、そうした経済の数字の上での優越感を満足させる時期はもう終わった。ぼくはそう思います。そんなんじゃだめだ。これからはね、精神的優越、精神主義ですよ。日本人の考え方というのを世界に教えていく必要がある。先進国として発展途上国たちを教えていく時期がきていると思う。この先輩を見習っているんだ。東南アジアの国でも、ルック・イーストといって、日本に見習えといってやっているでしょう。それは、経済的なことだけを見習わしちゃあいけないよ。そうじゃあなくて、日本人のもっと立派な精神態度、考え方、これを学ばさなきゃいけない。 だから、今はクラゲのように肥大化しているけども、もう骨をつくりなさい、骨をね。骨をつくらなければいけない。日本人ていうのはいったいどういう骨を持って生きている動物か、生き物か、これをはっきりさせなきゃいけないとぼくは思います。それがなきゃあいけない。 そのために、第一に言ったように霊的世界だね、霊があるというのをはっきり知ってもらうことがまず第一だし、第二番目はね、人間というのは、永遠の転生輪廻をしながら各国を移り歩いている存在なんだよ。そしていろいろなところで国造りをし、文化の高みをつくっているんだよ。そういう歴史の流れのなかから見たら、今の日本というのはひじょうに繁栄してきているんですよ。 近代でいえばね、二十世紀前半から発展したアメリカ、それからその前へいくと十九世紀の後半から二十世紀のはじめのイギリスの繁栄がありましたね。そのイギリスの前はどこでしたか。イギリスの前はドイツですね。ドイツの十七、八世紀、それからフランスですね。ドイツ、フランスというのは十六、七、八世紀、ひじょうに繁栄しましたね。それからイギリスに来ました。その前はどこでしたか。ドイツ、フランスの前、栄えていたのはどこでしたか。それはイタリアでしょう、ちがいますか。ルネッサンスのとき十三、十四、十五世紀、このころにイタリアが栄えましたね。光の天使がいっぱい出ました。そうでしょう。そして、その前はどこですか、十三世紀ごろからのイタリアの前に繁栄していたのは、いったいどこでしょうか。これを考えてみると、たとえば東洋だと中国ですね。中国では唐の都というのがあって、世界の最大の繁栄を誇っていましたね、ちがいますか。七、八、九、十世紀、このころでしょう。唐というところは世界一でした。そして西洋圏ではどこかというとイスラム圏でしたね。イスラム圈、マホメットのころです。七世紀、八世紀、このころがひじょうに文化的に高かったんではないでしょうか。 まあ、そういうように文化というのはどんどん移ってきているんです。その前はどこかというと、ギリシャなんかもそうですね。あるいはエジプトですね。エジプト、紀元前前後は、エジプトやあるいはイスラエル、このへんがひじょうに繁栄していましたね。その前がギリシャですね。こうぃうふうに文化というのは北上したり、東進したり、西進したりしながらいろいろ移ってきて、それぞれの国の高みがありました。そうではないですか。 ですから、ギリシャからローマそれからイスラム、イスラエルですね。こういうところから流行ってきてフランス、ドイツ、イギリスと北上してきて、それからそれがアメリカヘと来ましたね。そして、アメリカをまわって日本にやって来た。もう一つの流れはどこかっていうと、インドに発祥して、それから中国、中国から韓国、朝鮮ですね、それから日本へ来た。この東洋の文明、西と東の両方から回ってきたのが、今二十世紀に日本という国に集中してきているんですね。これは大きな神理国家がここでできるということなんです。 だから、今の時代に日本に生まれたということは、たいへんな使命を持っているんであって、同時代人のリーダーであると同時に、後世の人びとに対する模範なんですね。後世の人びとに日本という国の繁栄を見せなければいけない。のちのちの人たちが模範として見るなら、今のような経済的な数字だけでね、車を何台売り込んで、どれだけ儲けたかというような数字、こんなのだけでほんとうにみなさん満足ですか。のこしたいですか、車なんてやがてすたれていきますよ。やがて、空を飛ぶ乗り物ばっかりになりますよ。もう地面なんか、あんなの這(は)っているような乗り物なんか、なくなりますよ。もうすぐですよ、こんなの。みんな空飛びますよ、空を飛ぶし、その自家用機はね、もっと安定的で事故なんかぜったい起きないやつです。 今、リニヤモーターカーといって宙に何十センチか浮いて走る電車の開発が考えられていますが、ああいうような形でね、空飛ぶ円盤じゃあないけど、自家用飛行機がいっぱい飛びますよ。そうしてそれは決して墜落しないです。引力のバランスをとりながら飛ぶやつですから、引力に反発する、そういう反重力の制御装置を持った乗り物ですから、フワフワフワフワ浮いていて、絶対落ちないです。そして事故も起きません。他の飛行機とぶつかりそうになると、お互いにフワッと避けるようになっているんです。ちょうど磁石の同じ極どうしがくっつかないようにね。衝突しそうになるとフワッと逃げるようにできているんですね。そうぃう乗り物がもうすぐできます。 そしたら自動車で儲けた利益なんて、こんなの過去のものになります。牛車とか馬車ぐらいのレベルにやがてなっていくんです。あんな危険な乗り物によく乗ったなあ、一年間に一万人も人が死ぬという、そんなバカな乗り物によく乗ったなあ、そんな物を売ってよく大儲けした自動車会社があったなあ、なんてみんな感心してしまいますよ。後世の人は驚きますよ。 あのころ日本は繁栄したといって、一年間に一万人以上の人が死んでいたんだって、ケガした人はもっと、もう何万、十万ぐらいいたらしい。これは毎年毎年戦争を続けているのとまったくおんなじだった。同じぐらいの死者が出ていた。こういうことだね。これは恥ずかしいです。それで儲かったなんて喜んでいて。これはやがてそういうことはゼロになります。これは、私は保証しますね。 5.ユートピアヘの運動 そうするとね、後世の人にのこしたいのはやはり現代の日本精神ですよ。日本人の精神主義ですね。これを訴えなきゃいけない。だからやはり、ユートピア創りということをね、三番目にこれを全面に出さなきゃだめですよ。 だから、やる気こそすべてだというのはね、ぼくはそういう歴史の流れを見たなかで、今かれらは何をなすべきか、これは真剣に考えなきゃあいけない。それは、最高の国を今つくることですよ。国自体をユートピアに変えることですよ。それによって同時代の宇宙船地球号のこの同時代の乗組員たちですね、ほかの人たちを導くこと、これが一つ。 また後世の人たちに影響を与えること、これが一つです。かつてのローマやギリシャあるいはフランスやドイツ、イギリスこういう国が人類の進化のために役に立って、そして遺産をのこしてきたように、私たち日本人も遺産をのこさねばいけないんですよ。この遺産の最たるものは何かというと、今私たちが問うているこの神理です。これこそが遺産の最大のものなんですよ。だから、こうした神理を積み重ねて、これを広げることです。 そして、日本だけではなくて、世界各国に輸出していくことです。車の輸出はもう十分です。そうではなくて神理の輸出をしてください。この日本を拠点として現われてきた神理ですね。これを輸出したいんですよ、ぼくたちは。日本がね、最高度に進化することによって、この日本で現われた新たな精神主義がね、この精神世界が、世界各国に輸出され、また輸入されるということを願っているんですよ。どうせ一生を生きるなら、数十年の人生を生きるなら、この新たな運動のためにみんな身を投じようじゃありませんか。 特に私はね、必要だと思うのは、このやる気の革命で必要なのは三種類の人間だと思います。 まず、老人たちがんばりなさい。六十過ぎて定年退職迎えて、もうあと死を待つばかりなんてのんびりやっている人たちね、あなた方だって一流会社で社長やったり部長やったりしてたんでしょう。そういう人は力が余っているんだよねえ。その神理の運動のために生きなさい。特に年金などをもらっている人は楽ですよね。もう食うために働かなくたっていいんだから、もうやりなさいよ無料奉仕で。年寄たちは、まず人生のリーダーとしてがんばらなきゃいけない。 もう一つがんばらなきゃいかんのは主婦だ。お父ちゃん帰ってこないで、もうブラブラして、ゴロゴロ昼寝ばっかりしているんだったら、昼間は奉仕団として働きなさい。神理を広げるためにがんばりなさい。あなた方は今、有閑階級ですよ。有閑階級というのは昔の貴族ですよ。エジプトの有閑階級っていったら、あなたはもう神官ですよ。神主さんたちですよ。こういう貴族階級だということを主婦は知りなさい。自分は貴族だということを。働かないでテレビ見てゴロゴロできるんですから貴族です。貴族こそが今、文化の継承者です。伝道をする人たちです。 三番目は若者です。若者はすることがない。戦争でもあったら軍隊で機関銃で人を打ち殺したりして遊べるんだけど、戦争もないし、もうエネルギーが余って余ってもう、暴走族になってみたり、もういろんな悪いことばっかりして遊んでいる。このエネルギーですね。この若者のエネルギー、これも吸収したい。 だから、この救世のエネルギーがほんとうに成就していくためにはね、老人パワーと主婦パワーと若者パワー、この三つはどうしても必要です。そののち、のんびりと中堅パワー、中年パワーやっていきなさい。忙しいんでしようから、稼ぎ手ですから、経済日本をつくっているんでしょうから、後からでもいいけど、とにかくこの三つのパワー、期待しているよ。これが新年早々ぼくの言いたいことだ。大いにがんばろうじゃないか。
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教導神理(OCG) 装備魔法 このカード名の(2)の効果は1ターンに1度しか使用できない。 (1):装備モンスターが「ドラグマ」モンスターの場合、 装備モンスターの攻撃力は自身のレベル×100アップする。 「ドラグマ」モンスター以外の場合、 装備モンスターの攻撃力は自分フィールドの「ドラグマ」モンスターの数×200ダウンする。 (2):装備モンスターが破壊された事でこのカードが墓地へ送られた場合に発動できる。 EXデッキからモンスター1体を墓地へ送る。 デッキ圧縮 ドラグマ補助 能力弱化 能力強化 装備 魔法
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依頼主 フローラ 出現条件 フローラ解放 クリア条件 12/12 00:00までに以下のモンスターを討伐する子鬼:討伐数20 成功報酬 お神酒 依頼時 日本の魔物を倒してくれたら、いいものあげちゃおっかな☆前に日本神社お散歩してたら脅かされたの~!ここはガツン!といってこなきゃ☆ クリア時 ありがと~!はい、これ♪アタシの頼み、これからも聞いてね♪
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どっかの配信のコメかなんかをTLに流す奴にろくな奴ぁいねぇ ポケモンって1対1で殴りあうゲームじゃねぇと思うぞ。そんな単純なもんじゃない 所詮ネットでの絡みだろって考え方はあまり好きじゃないし思いたくない。リアルで人と絡むのが苦手だからここに居るから ただ「絶対にありえない」なんて絶対にありえないと思うだけ 後悔しない人間は劇的に成長しないからそのまま妥協した人生を歩んで腐って死ぬ 強いと思うなら使えばいい。周りの使用率なんか気にしても良いパフォーマンスなんか出来ない 一度でも自分のPTを「弱い」と思ってしまうとそのPTは弱くなってしまう。それまでは普通に使えてたのに。不思議なもんね. 流行り物と人の真似しか出来ない人ってやっぱ底が浅いと思うの。 選出も完璧で立ち回りも完璧だったし、流れも自分の思いどうりになってたのに負けた。 実に薄っぺらいと思うけど、キミはそれで良いんじゃね? アイツを不幸にさせてからじゃないと、次に行けない、かな… 現状の環境に頑張って順応してる人間が当たり前の生活送れるんだろ。自分自身の未来すら予想出来ない人間なんて死んでくだけだ 下半身から腐って死ね 10手先が読めない人はポケモン向いてない みんな元気だな 何が彼らを彷彿させるのか(´`) 超・疲れティッシモ オレは傍観者。 コーフィ(発音よく) はぁ…、、友達なんてのは、いざって時には何の役にもたたん(_´Д`)ノ~~ あの頃はたのしかったなぁ。。。なのに変わってないのはおれだけだったなんて. なんか,さみしいじゃんか。。。 オリジナリティーと独創性が足りないって。 正直個性が垣間見え無いPTには興味ない。参考にして構築で潰しにかかるだけ 役立ってこその人の付き合いだろうに 台風ウンダッシュ(走り出す様) なんで自分で使ってない構成を人の間違った認識を確認するために改めて学ばなければいけないのか 期待と希望まで僅かに入ってて、それを最低な言動と行動で裏切られた。。 プライドも投げて、信頼とか愛情とか友情とか全部費やしたのにな。。 ぴかぴか(新しい) 考えがあるにしろもうちょっと独自に煮詰めてから発言しようぜ。頭悪くみえるぞ 電磁波羽安め以外のサンダーは尖らせてナンボやで 思ったことを口にしなきゃコミュニケーションってどうとるんだろうね 爆アドだけじゃなく、細かいところで積極的にアドを取りに行く姿勢は必ず勝ちに繋がるよ。 (ワシらの)町が福山雅治に襲われた雷 おれは下の方から見上げて生活出来れば十分 ポケ勢身内化計画・始動 正直正解がわからず よく知りもしないネタで返したことを悲しく思っているたらーっ(汗) ポケモン勢にはディベートするって概念は無いらしいので、ひたすら真っ直ぐ自分の意見だけを主張するようにします。 普通を見失わなければそれで良い
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【元ネタ】日本神話 【クラス】セイバー 【マスター】 【真名】日本武尊 【性別】男性 【身長・体重】160cm・50kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力A 耐久B 敏捷A 魔力B 幸運A 宝具A++ 【クラス別スキル】 対魔力:A A以下の魔術は全てキャンセル。 事実上、現代の魔術師ではセイバーに傷をつけられない。 騎乗:C 騎乗の才能。大抵の動物、乗り物なら人並み程度に乗りこなせる。 ただし、野獣クラスは乗りこなせない。 【固有スキル】 神性:B 神霊適性を持つかどうか。高いほどより物質的な神霊との混血とされる。 天照大御神の直系にあたる。 合気:A 森羅万象との気の合一により、周囲を察知して行う危機回避。 また、自らの存在を自然に溶け込ませる技法。 火除けの加護:A 宝具『神宮燧石(じんぐうすいせき)』による守護。 偽装:B 騙しの技術。偽装工作における認識操作の手腕。 陽動、欺罔、変装などカムフラージュ全般に有利な補正を得る。 【宝具】 『斎宮衣裳(いつきのみやのきぬも)』 ランク:C 種別:対人宝具 レンジ:0 最大捕捉:1人 倭姫命の衣。熊襲を討った女形の装束。 着用者は天照大御神の加護により情報の秘匿が施される。 これによりステータスや性別等の隠蔽を可能とし、 自らが攻撃態勢に移るまで対象にサーヴァントとして認識させない。 『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』 ランク:A++ 種別:対城宝具 レンジ:1~99 最大捕捉:1000人 天叢雲剣による神風の斬撃。 神剣の纏う龍の水気を、宝具『神宮燧石』により気化させ、 暴河神・八岐大蛇の神威の悉くを神風に変換して放つ蹂躙の剣。 石の内包する太陽の格によってオロチの神性を使役する。 皇統の武威を神剣により顕現させる神霊レベルの魔術行使である。 『八尋白智鳥(やひろしろちどり)』 ランク:EX 種別:対人宝具 レンジ:- 最大捕捉:1人 日本武尊の遺骸の転じた、白鳥への化身。 自己の存在を高次元に昇華させ、上位の次元を介することで 物質界的な三次元上での干渉を無視し、異界への渡航すら容易に行う。 白鳥の姿とは即ち、高位存在化した日本武尊の影である。 その身の位階を上げるごとに現世から逸脱する為、 完全形態では“何の干渉も受けず何にも干渉できない”状態となる。 【Weapon】 『天叢雲剣』 三種の神器における武の象徴。天孫に託された神剣。 通常、溢れ出る水の魔力は刀身に集約され剣を不可視にしている。 『神宮燧石』 伊勢神宮の火打石。小型太陽「天照機関」を内蔵する。 火属性に対して高い効力を持つ“迎え火の結界”を張ることが可能。 倭姫命の「伊勢神風理論」を基に行使する、神剣の破壊形態『草薙剣』の機動核。 【解説】 日本神話の大英雄。景行天皇皇子。小碓命。倭男具那。倭健天皇。 息子が即位したために、一部風土記では「天皇」の称をつけて呼ばれる。 16歳で女装による暗殺で熊襲を討ち、道中の悪神を降しながら大和へ帰還。 東征を命じられるとともに伊勢神宮にて「天叢雲剣」を授かるが、 その神剣は草を凪いで火計を凌いだことから「草薙剣」へと名を変えた。 走水の海を弟橘媛の犠牲によって渡ると東国を平定して尾張に至る。 草薙剣を持たずに戦いに挑み、伊吹山の神に大氷雨を降らされて敗走。 病に没した尊は白鳥となって昇天した。享年30歳という。 以上は日本書紀に依る。古事記では父帝の妾を奪って引き籠った兄を殺し、 出雲健を太刀替えで討ち、また倭姫命に泣きつくなど悲観的な言動が目立つ。 そして「やまとはくにのまほろば~」という思国歌を日本武尊が歌っている。 地方伝承においては九頭竜退治や鬼退治、讃留王等の悪魚退治の逸話も見え、 合気の開祖とされたり、盗賊退治の逸話など、武勇の逸話は各地に残る。 萱津神社に曰く、漬物が好きらしい。
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目次 1.正法、神理流布の具体化について 1.正法、神理流布の具体化について 善川 ただいま、日本神道糸の主宰神としてのお立場にある天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)をはじめとし、天津神、国津神の御降臨を得て種々幽遠なお話を伺い、また空海大師からは雄大なる神のご経綸(けいりん)なり、新時代における日本を中軸とする世界の新文明諭についてご高説を拝聴したのですが、その感想を卒直に申し上げますなら、空海さんにつきましては、これは大変な方でありまして、われわれの近づき難いようなお方でありました。お聴き及びのとおり、ご法を伺う折の随所で、厳しいご叱声を受けたような次第でありまして、それはまあごもっともと思うのですよ。あの方は、大変なお仕事をお忙しくしておられるようだし、私どもの充分理解の届かないお説まで承った次第ですが、それはそれといたしまして、私たちのこれからの仕事としては、聖観音とか、清少納言とか、紫式部さんなど、こういう女性の方々の日常生活、天国観などのお話も伺い、こういう方々のお立場、ご自身の生活環境の有り様なども参考とさせていただき、広く霊界、天上界のご様子を現象界の方々にお伝えして、新しい時代の精神世界の心の支桂と申しましょうか、よりどころ、或いは希望とか夢というものにつないでいきたいと思うのですが、まずはここらを第一段階として、今までに皆様方からお教え願った、正法、神理の一端を、世の心ある方々に訴えたいと思うのですがいかがなものでしょうか。 日蓮 その考えは間違っておりません。 善川 そこで具体的な方策としては、皆様方のうちで、特に中心的なお立場で、私たちをご指導くださっているあなた様のお訓えを、振り返り、取りまとめ、浄記して書物に著わしたいと思うのですが、これを、この方面の理解があり、また多くのこの種の出版物を取り扱っておられる出版社にお願いしたらと思っておりますが、その考えでよろしいでしょうか。 ただ、その出版社ですが、そちらの方で、ご予定の特定の出版社があればお教え願いたいと思いますが。 日蓮 そこまでは私たちは言えませんが、あなたが欲するところでやってみて、もし駄目であっても、また他の道が開けるであろうし、そのようなことはあまり心配せずに、そのようなものの中味が出来れば、それなりの流布というものは、もう当然計画の中に入っておりますので、誰かの手を通じて必ず、出されるようになるでありましょう。 善川 そこで、いま一つ懸念されることは、これを著わすことになると、どうしても日蓮さんのお言葉なり、親鸞さんなり、或いは空海さんなりのお言葉が出るということになりますが、これはいかがなものでしょうか。 日蓮 名前を出すということですか、それは出さないわけにはいかないでしょう。 善川 でないと、これが一体誰のお教えやら分からないことになりますので、またその聖人方のお言葉なり、お教えによって、私たちが悟り、成長していく過程を訴えねば、一般の方々から理解が得られないと思いますので。 日蓮 いいでしょう、やむを得ないでしょう。このことは以前にも申しましたが、あくまで方便なのです、あなた方にとっては、当座の方便なのです。やがてあなた方は、私たちの言葉を借りずとも、自らの言葉で自らの力で「法」を説いていかねばなりません、これはあくまで当座の方便なのです。 ただ、これも一度きりで種切れするようなことであっては困るので、先のことまで、十分考えてお作りになるということ、更に何冊分か、五冊、十冊と予定しておいた方がよいと思います。 と、いうのはね、そういう本を出すと、やはり反響があるし、いろんな人が寄ってきますので、そういうことに堪え得るだけの環境ができているかということです。 善川 そこで心配されることの一つに、既成宗教というものがありますね。ご承知のように、あなたに関しましては、あなたの過去のお教えを固く守って信じておられる方々がありますね。そしてこういう方々は強大な勢力を持っておられますが、こういう方々からの物すごい反撥とか、攻撃とかいうものが懸念されるのですが……。 日蓮 来るでしょう。迎え受けなければ仕方ありません。必ずそういうものは出てくるのです。仕方ありません。世の人々に判断してもらうよりほか仕方ないではないですか、後世の人に判断してもらうしかないじゃないですか。 善川 かつて、また現に、あなたのお教えを―、われわれは何々山系だ、いや、われわれは何々山系の正宗だと言って論争を持ちかけてくる方がありましょうか、これもまたやむを得ないことなのでしょうか。 日蓮 イエスにして然り、釈迦にして然りです。それぞれの時に、それぞれの教えを説いた人がたくさんいたのです。釈迦も随分いろんなところから悪口も言われ攻められもしてきたんです。イエスは遂に十字架にかけられて殺されたことはご存知のとおりです。ですから、例えば「日蓮」の言葉として書いた場合に、日蓮宗系の方々から詰め寄ってくることはあるでしょう。―さあ、その日蓮をここに出してみよ、と問い詰めてくる。―さあ、日蓮ならいつ生まれたか、―さあ、その時に生まれてどうしたか、どこそこに行って何を学んだか、―いや何とか経の内容について聴きたい。返事やいかに、という挑戦状が来るかも知れない。ただあなた方が心得ることは、あなた方は、後世に残る事業を興そうとしているのですから、そのような主義、主張や、何といいますか小さな教義の争いに巻き込まれないような、悠然たる自分自身を保つということです。たとえ何をどう言われようと、悠々と生きるということです。批判は絶対に出てきます。ただ、そうであっても、戦う必要はないのです。その是非は後世の人びとが定めるところですので、決して争いの心を起こしてはなりません。 善川 しかし、われわれは皆、それぞれの環境で社会生活を営んでおりますが、われわれがこの仕事に、全力投入しなければならないようになるのではないでしょうか。 日蓮 まあ、はじめのうちは仕方ないけれど、本も五冊、十冊と出すと、人びとの関心も高まってくるでしょう、そして人びとが集まってくるようになれば、それはもう仕方ないことではないですか。そういう時期を充分見計っていなければいけないのです。本を出す以上は、もうそこまで覚悟をしていかねばなりません。 一つのグループが出来て、集団が出来はじめると仕方ないではないですか、集まる時はアッという間です。一年も経たないうちに、相当の人が集まってきます。だから、そこまでの覚悟は、決めていなければいけないということです。 善川 そういうことになると、お互いが社会生活をしているし、あるものは勤務、あるものは業務と、並行的にというわけにはいかないようになりますが。 日蓮 ただ、二十年、三十年間、何も書かず、何も喋らずにいるわけにはいかないでしょう。しかし暫くは過渡的な時期がありましょう。私はあなた方に、直ちにどうせよとは申しません。ただこういう本が数(かず)出て、人びとが話を聴きたい、相談に乗ってくれ、講演会をしてくれ、ということになって忙しくなってくると、現状をとおすということはできなくなってくるでしょう。或いは会社に勤めていながら、休日とか、夜とかにそういう会合に出るということで、活勤していくということもありますが、これについては、私どもには私どもの考えを持っております、が、まあ修正も可能なことですし、過渡的な時代も必要でありましょうし、これについては、いまは明言しません。ただ、あなた方以外からも協力者が出てきて、事は推進されるようになりましょう。 善川 それでは、どうしても最初の歯車は、われわれの手で動かさねばならないということになってきましょうか。 日蓮 動かすのではなくて、もう動かされているのです。動かすのではなく、動かされているんです。現にあなたはこうして大阪まで来ているでしょう。他に来る必要はないのです。にもかかわらず来ているでしょう。なぜ来ているのか、われわれの意見を聴きたいから来ているのでしょう。これはさせられているのです。 善川 私も、今までのお導きで、これからわれわれが進むべき方向というものは、覚悟しているのですが、しかし事を興すまでには、まだまだいろんな勉強もしなければならないことがたくさんあるし、私自身も、もっともっと実生活の中で鍛えていかなければならないと考えております。 日蓮 本を出し、人びとが寄ってくれば、何かを話し、また何かを書かざるを得なくなるでしょう。自然と書かされるようになるのです。 善川 話は別なことになりますが、最近私たちは、ここにもありますこの本『生長の家』というのに、どういう訳か、大きな影響を受け出してきたのでありますが、これは、何かそちらの方にご計画があってのことでしょうか。 日蓮 計画通りであります。あなた方は、最初、高橋信次先生の「正法」、これを受け売りといいますか、考えとしてはもうこれを受け入れたはずです。これから抜けなければいけないのですが、どうやって抜けていけばよいか分からないのです。他にもこういう教えがあり、これもこれなりの力を持っている。こういう教え二つ、三つと地盤が出来てくると、新たなものが出てくる。これも計画済みです。 なぜなら、高橋信次先生の方は方で一つの問題を持っております。善、悪の二元で捕らえ、悪を反省し、善に戻そうとする過程において、自ら「悪」の中にもがき苦しんでいる人たちは、その中から脱出できないで困っている。愚痴を言う人は、愚痴を止めなさい、と言っても愚痴を止められないから愚痴を言っている。そうです、人の悪口は止めなさい、分かっております。悪口は止めたいんだけれど、言わざるを得ない気持だから悪口が出る。この心をどうするか、このような問題があります。これには、一つは、日本神道糸教団の教えというものも学ぶ必要があります。今後更に新しい教えもあるでしょう。もっとこういうものも吸収していかなければなりません。 善川 まあ、ひじょうに個性の強い宗団でありますが、神道糸教団は今日大を成しているわけでありますが、内容につきましては、われわれが、もって範とするところが多々あるのですが、軍備を唱えるところあたり、一面においては納得しがたいというところもあります。これらの点については、われわれが独自の方向を見出してやっていけばよいというわけですね。 日蓮 あなたは、かつて聴いたはずです。他人の田があり、自分の田があり、他人の畑があり、自分の畑がある。他人の畑は、他人の畑で敬っておればいいではないか、それに文句をつけることはないのです。自らの田、自らの畑をそれ以上に立派なものにすれば、そうすれば、他のものはみんなそれを見習うはずです。 善川 先程、空海さんからは、ひじょうに含蓄深い、広義なお話を承ったのですが、まだまだ私どもの頭では消化しきれないような内容であったように思いましたが、今後いろいろと、段々と、お教えを賜って自分自身のものにしていきたいと、このように思っております。 日蓮 あなた方の仕事に、山場というのはないのです。発展段階しかないのです。いい方向しかないのです。山場はないのです。あなた方の現状を山場とみるのは、それは時間という概念にとらわれているからです。現在、ただいま、未来に解決することを解決しようとすると、それが山場であり、危機であり、問題であるように思うのです。時間の観念だけであります。ともすれば、霊的な能力を持ち、こういうことができるようになると、未来が知りたい、将来が知りたい、先が知りたいと、そういうことになりますが、それを知ったところで何も解決はできないのです、山場でもなんでもありません。普通の人が順調に、そうなるが如くになろうとしているのです。困難は何もないのです。 善川 私は、とかく自分で判断したことを暫く心に溜めておいてから、熟慮してからやがておもむろに行動に移るという性(たち)ではなく、短兵急といった性格でありますので、自分で行っていることに、不安を抱くことが、しばしばあります。私の進んでいる方向が間違っているようなことはないであろうか、度を外していはしまいかと、絶えず思うのですが。 日蓮 そのような心配は無用です。あなたは、馬ではないのです。御者によって鞭を打たれねば、真っ直ぐに走れない馬ではないのです。踏み外してもまた元へ戻れば、いいではないですか。そのような窮屈な人生として、自分の進む方向を見ないことです。 神ではないのです、あなた方は。神ではないのです。正しい道を一直線に走るわけではないのです。よいではないですか、たまに道を外しても、また元に戻ればいいではないですか。迷い込んでも戻ればいいではないですか。そのための守護指導霊ではないですか。あなた方が迷うことがあるから、道を間違うことがあるからこそ、守護指導するのではないですか。あなた方が真っ直ぐ走れるなら守護指導霊もいらないのです。真っ直ぐに走れないから、神は守護指導霊というものをつけて、人間を指導させているのではないですか。 善川 ありがとうございました。 日蓮 本の出版等についても、時期がくれば、私の方から言います。もう出しなさい―と、私の方から言いますから、これは必ず言いますから、今は準備期間だと思ってください。ここ二、三年は準備期間だと思ってください。あなた方の蓄え、まだ十分蓄えがないのです。「正法」といって独自のものを、十年、二十年、三十年と、説いていくだけの蓄えがないのです。 善川 それはそうでありますけれども、この二十年、三十年説くだけのものの貯蓄が出来てから説くというのでは――、 日蓮 出来てからではありませんが、やっと三年、やっと安定してきたところではありませんか。まだあなた方は、この霊的な現象を、自分たちの生活的な悩みとか、小さな悩みを解決するために使おうと思っています。このようなものから脱却しなければいけません。もっと人類のため、他の人びとの悩みを解決するための霊的な現象であり、能力でなくてはなりません。 しかし、そこに至る前には、このような段階があるということであります。 善川 こういうどこにでもある、ありふれた会話や質問の中にも、それはそれなりの意義があるのではないかと思われるのですが、高度な神学や哲学、または宗教諭の中にのみ法があって、生身人間の生活苦や精神的悩み、そうした日常的な話題の中にも、それはそれなりの処生の術と申しますか、法というものがあるのではないか、人ぴとは、そういう段階での凡者に対する覚者の応対指導というものの中に、身近な、それはそれなりの訓えがうかがわれるのでないかと思うのであります。大変次元の低い話になって恐縮ですが、その辺のところもご斟酌(しんしゃく)くださってご指導願いたいと存じます。 日蓮 分かりました。 善川 ときに、かねてよりわたくしどもの行動を看視し、ことある毎に妨害、いやがらせ、惑わし等々を繰り返してきた、かつての根来(ねごろ)の密教僧、xx法師とまで称せられた、xx氏は、ここのところあまり姿を見せませんが、彼は改心でもしたというのでしょうか。 日蓮 彼は、神道糸の神々に、大分手痛い目に逢い撃退されたようです。 善川 ああそうですか、すると神道系の神々は、かなりの力を持っているのですね。 日蓮 そうです。彼、××も、これ以上あなた方に憑(つ)きまとって深入りすると、身が危いと思いはじめております。遠ざかっております。彼は、仏教糸の人間であります。仏教に対しては、ある程度、心の準備ができておりますが、神道糸や、他の神々が出てくると、どうしても弱くなってくるのです。多勢に無勢と考えはじめているはずです。 善川 あなた方は、××など、いわゆるサタンどもを撃退するだけの力はおありでしょうけれども……、 日蓮 そうではなくて、私たちが、あなた方が真実の心の法則に気付くのを待っているのです。心の法則なのです。やはり彼らを呼び寄せるのは、呼び寄せるだけの心があるのです。それは自分の経験を通さずしては、分からないのです。 善川 なお、私たちに対し、他に何かアドバイスがありましたらいただきたいと思いますが……。 日蓮 今後とも、私たちが語った言葉を本にする作業を続けてほしいということと、いま一つは、これを体系化していく作業、一体骨格となるようなものは、何であるかというようなこと、これを体系化していく作業を、段々に考えていかなければならないと思います。でも、もう去年の夏ではなかったですか、私どもが、これを記録し残しておきなさい、原稿に書き起こしなさいと言ったのは、そうでしょう。そうして半年余りの間に、もう既に原稿としてなりつつあり、そうして何年かすると、本になって出てきているのです。そうなるのです。 もうこの世界に入った以上、逃げたくとも逃げられません。私たちはもう逃がしません。私たちが天使であろうが、サタンであろうが、もう連れていかれるだけです。もう本人も腹を決めていただかなければ仕方ありません。もし私たちが、悪魔であるなら一緒に地獄に来ていただかなければ仕方ありません。私どもは、そうではないつもりであります。 善川 昨日、お出ましになられた、天之御中主の神が仰せられた、われわれの「神法」勉学の態度は、二十五点と評されましたが。 日蓮 若干きついと思いますが、私どもでも四十点ぐらいしか差し上げられません。まだまだあなた方は、自己というものにとらわれすぎている。自分というものが捨て切れない。神を、全幅的に信じ切れていないということです。わが身が可愛いという気があります。 善川 これが人間の弱点だといえば、いえるのではないかと思います。この弱さを払拭したのが、イエス・キリストでありましょう。イエス様は、十字架にかけられるに及び「我れ世に勝てり」と申されましたが、まああれ程の気力は持ち合わせがないと思いますが、また、あなたがご在世中に受けられました数々の法難、特に龍のロにおいて刃を向けられた時の不退転の気持、あの神々しいお姿の中に漲(みなぎ)っていた信念というものは、今の私たちには、及びも寄らぬ世界の精神状態であるように思われます。 日蓮 まだそれは、自覚と修行が足りないのです。あなた方が本を出し、それに快く思わない人たちに、詰められようか、どうなろうかと、案じているようなことでは駄目です。私のように斬られ損なったり、島流しに遭うよりは、よほどましです。あなた方の生きている時代は、民主主義の時代で憲法が宗教の自由を認めているような時代です。発言の自由は認められているのです。ただ、人の批判なり陰口なりに、耐えられるかどうかという、自分の内面の心の持ち方だけの問題です。それを発表するからといって、殺されるわけでもなんでもないのです。ただ、人のロ、それが恐いだけではないですか。それはなぜ恐いかというと、まだ自分たちに対する自信がないということです。私たちに対する全幅の信頼がないということです。 私のことを言うなら、日本の歴史の中で、宗教家の中で、私ほど、悪口を言われた人間も居ないのです。大法螺(おおぼら)吹き、大山師、もうありとあらゆる批判、非難が私の頭上に積まれたのです。最後には私も引退しました。私の言った予言、私の言ったことが評価されて、鎌倉幕府から招聘(しょうへい)されても、私はそれを辞退し、最後は淋しく身を退いていったのです。私も傷ついたのです。人生において、ひじょうに傷ついたのです。私は神理を語っていた。しかし世の方々は、私を斬ろうとしたり、襲ったり、島流しに何度もしたり、そのようなことをしてきました。私は相当傷ついたのです。神理の伝道というものは、これだけ苦難なものなのか。しかしながら、考えてみれば、私たちのレベルの魂は、これだけの、これだけの試練を受けないと魂の進化にはならないのかと―これも仕方がないのです。なぜならば、平平凡凡と、凡人としての生涯を生きる生涯ではないからです。恐らくは、あなたの本を読んでも、本当にこれが日蓮か、日蓮なら出してみよ、法論をしたり挑んできたり、法戦を挑んできたりする人が出るでありましょう。それで、いや、そういうことにしたくない、と言えば、「―それ見ろ、やはりインチキではないか、お前が勝手に書いたに違いない―」と、そう彼らは言うのです。しかし、私は、その場に出て彼らの気が済むまで話をする気持は毛頭ないのです。彼らに納得して貰っても、別に何の意味もないからです。私は、私の信ずるところ、私の言いたいことを語るだけです。信ずる人は信じなさい。ついてくる人は、ついてきなさい。あなた方も、その方針でいきなさい。 その本を書いて、これしかないと、これしか信じないとして、他宗を排撃したりすることは止めなさい。 ―われ神理を述べる―と、信ずる人は信じてください、ついてくる人は、ついてきてください―と、その方針でいきなさい。 善川 ひじょうに気強い、そして心温まるお言葉、ありがとうございました。今後も折を見て、なにかといろいろな問題に突き当ったり、判断に苦しんだり、迷い込んだりしようかとも思いますが、その場合においては、その都度、その都度のアドバイスをお願いしたいと思います。 日蓮 時機が来れば、私の方からも、言うべきことは言います。例えば、こうした現象を記録に取れといったことや、また本を出すようになった時には、出せと、何か大きな節目節日には、アドバイスをするはずです。 何事も一時には、事は成らないものです。少しずつ、少しずつ積み重ねていくということが肝心です。 善川 私は、「正法」を真実、四六時中実践していくということは大変難しいことだと思います。第一に、何が「正」であり何が「邪」であるか、その正邪が定かであるものと認められるものはよいとして、同じように正と認められても、これを実行するに当っては、経過、時間、タイミングというものがあり、それを外すと、これが結果は邪となって現われるという、その刹那(せつな)の判断のタイミングということに苦慮することがありますが―。 日蓮 自らやろうとしてやる段階のことは大したことではないのです。どうしてもやらねばならないという状況、つまり胸のうちの大きなうずきに追い込まれてやる時に、人間ははじめて大きな勇気が出てくるのです。そのことは、真の「神」の意志でもあるからです。
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目次 1.出発点 2.神を知る手がかり 3.釈迦の「存在と時間」 4.変化するもののうちにある不変の理念 5.空即是色とイデア説 6.個性ある意識体 7.人間の認識力の限界 8.洞察力と知能の差 9.真に開かれた社会とは 10.プラトンによる実在界の説明 11.次元構造の究明 12.釈迦の次元分析 13.四次元世界と時間との関係 14.高次元世界の成り立ち 15.一千億年の孤独 16.地球人霊の誕生 17.地球人類最初の歴史 12.釈迦の次元分析 悟りにおいては、いろいろな次元があり、それほど波動のランク、差があるのです。これを釈迦は十分に知っていました。しかも各段階をたいへん細かく分けています。これは、仏教を勉強された方ならご存じでしょう。私が、単純に阿羅漢(あらはん)といっているような段階も、さらに細かく、厳密に分けています。 厳密に分けてお話ししても、今の時点ではあまり意味がないので、私はお話ししないのですが、前回初めて、『釈迦の本心』において阿羅漢向(こう)と阿羅漢果(か)の違いがあるという程度のことを説明いたしました。 阿羅漢に向かう途中と、阿羅漢に到達している状態の二つが、阿羅漢のなかにある。みなさんが努力することによって、だれでも阿羅漢になれるという、その阿羅漢とは、阿羅漢向のことを言っているのです。いちおう気分は阿羅漢というところかもしれません。 外観的には一時期修行しているときは、どちらも同じように見えます。けれども、結果として阿羅漢のタイトルがもらえる境地に達しているかというと難しい面があります。それはまったく同じではないからです。大きく分けても阿羅漢においても二段階があるわけです。 これ以外にも、仏教書には、声聞(しょうもん)であるとか縁覚(えんがく)であるとかいろいろ出てまいります。釈迦は全部知っておりました。しかしながら、みなさんには、どのあたりが声聞かといってもわからないと思います。だいたい研修ホールなどに、直接、受講しにきている人が声聞といえるでしょう。説法を実際に聞いて学ぼうという姿勢がある人は、声聞までいっているのです。 声聞というのは、まず聞くということです。聞いているから声聞なので、それ以上ではないのです。けれども、法に触れて、法を聞きにくるというだけでも大したものなのです。普通の人とは、やはり違うのです。そのような意味で声聞の位にあるといってよいのです。 私の話を聞きにきて、心がそれほど乱れずに、だいたい話が頭に入ってきて、部分的に止まる。そしてわかったような気になって帰れる。これがだいたい声聞です。しかしせっかく聞きに来て居眠りして帰るような人なら、少し違いますが、このあたりまではだれでもだいたい行けるはずです。熱心に来るような人であれば、声聞だと思ってよいわけです。 縁覚という位はもう少し進んでいます。縁覚というのは縁を覚(さと)ると書きますが、一歩、悟りに近づいてきて、いよいよ修行の本道に入ってくるのです。そして阿羅漢、菩薩が目標としてチラチラと見えてくるのです。ですから、単に聞いているだけではなくて、講師になろうと思って具体的に修行している人になると、縁覚の段階に入ってくるわけです。 法というものをお客さんの立場で聞いているのではなく、自分のものとして実際に説いてみたい、やってみたいと思う気持ちになれば、だいたい縁覚の心境といってよいでしょう。縁に触れて覚えるわけです。悟るまではいかないけれども、そういう気持ちになってくる。単なるお客さんで受講料払って、あーよかったで帰る場合は声聞であり、もう一歩、よし頑張ってみんなに何か話してみたい、実際に講師ぐらいになってみたいという気持ちになれば縁覚です。 この縁覚がある程度修行が進んでいって、心のサビ落としもできピカピカしてくる。そして時どきは後光が出たりする、というふうになってくるとだいたい阿羅漢の世界に入ってゆくわけです。だいたい最初は阿羅漢向です。心に特に大きなひっかかりはなく、間違ったことがあったら常に反省してサビ落としする。悪いことを言ったと思ったら素直に「ごめんなさい」と謝ることができる。こうして一日一日心のサビ落としができるような状態になれば、だいたい阿羅漢の世界に入ってきているわけです。そのような毎日が積み重ねられる人は、だいたい阿羅漢向であることは事実です。 しかし、これを自分の境地として、阿羅漢の境地に達したといえるまでには、このような境地で三年ぐらいは心が安定していなければ本物とはいえないのです。阿羅漢向まで行っても、ちょっとしたきっかけでその心境が落ちてしまうのはいくらでもおります。考え違いをして落ちている人がたくさんいます。 ですから、みなさんもこのあたりのレベルを上がったり下がったりしているものと思って間違いないでしょう。このあとがもちろん七次元の菩薩という世界に入っていくわけです。 この六次元世界についても、上段階、中段階、下段階などと言っていますが、ほんとうはもっともっと細かいのです。この説明もだいたい中の上くらいから上の世界ですが、このあたりがそのように分かれるということです。これを仏教は二千何百年前にいっていたのです。実は、もっと細かく分かれているのです。六次元などというそんな十把(ぱ)ひとからげではないようです。この六次元の世界を、もっと六・五次元、六・六次元、六・七次元……という感じで切っていきます。このように細かい理論があったということです。 13.四次元世界と時間との関係 何次元がどうであるという説明をしてまいりましたが、これは一応の、一つの説明のしかたです。ですから、これだけではないのです。このような説明のしかたがあると思ってください。 すぐに何次元というようなことを言ってしまうのですが、他の人が聞いてもわかりません。どのようにして、説明するかが問題なのです。私は、物理学者でもないし、数学者でもないため、難しい専門的な次元の説明ができるはずもありません。したがって、いちおう構造的に説明するとすれば、このような説明をすることが可能であるということです。 四次元の世界について、特に触れておくとすれば、この世界では、時間という要素があるのです。これは、不思議な世界であります。三次元の世界であるなら人間は、物体として存在しながら、時間としても同時存在しているのです。時間としては、同時存在以外は許されないということです。これがこの三次元の秘密であり、同時存在以外にありえないのです。 ところが、四次元以降の世界は、同一空間内に違った時間を生きている存在があるということなのです。これがありうるのです。ですから、過去の人とも会えるのです。過去のたとえば鎌倉時代の人で、意識も鎌倉時代に生きている人であれば、まさしくほんとうに鎌倉時代の世界に生きているのですが、その空間に、この昭和時代に生きた人が入っていけるのです。タイムマシンと同じです。そのような世界なのです。 また、未来の世界というものもやはりあります。これも確かに三次元的に説明するのはひじょうに難しいのですが、それを垣間見ることはできます。例外的にはその世界のなかに居合わせることもできるのです。 この未来の世界のなかに居合わせることもできるということにかかわる「予知の原理」については、また詳しい説明を別の機会にをさせていただくつもりでおります。このような世界が、四次元以降の世界なのです。時間という点が、この世界と全然違っているのです。簡単にはこのような説明でご理解くだされば幸いです。 14.高次元世界の成り立ち 五次元以降の世界はだんだん難しくなってまいります。いろいろと精神性が入ってくるためです。これは、そのような世界があるというところぐらいまでを、知っていただければ、よいと思います。 実際上、物理学者が考えているような、座標軸が一本増えるという考え方で説明がつくかということですが、それは三次元の世界において学者が考えればこのように座標軸が一本二本と増えていくというような考え方になっていくわけです。 しかし、私は少し違う感じからこの世界観をとらえることができるのです。では、上のほうから見れば、どのようになるのかということなのですが、ちょうど光があたってきて、光の干渉現象と言いますか、何重にもなっていくことがあります。影ができて何重にもなっていく、あの光の干渉現象のような感じに見えるのです。 上のほうから神の光が発せられて、それが次元といわれる一つの世界を通ることによって、干渉現象のような、さざ波ができてくるのです。光の加減が変わってくるのです。このように感じ取ることができます。 けっきょく、唯一の世界から出てきた神の光が、九次元世界を通るとき、また、八次元、七次元と通ってくるときに、このような縞であらわされる光の干渉現象が出てくるのです。光の紋が出てくるという感じでとらえることができるのです。ですから、下から見れば、座標軸が何本か増えてゆくという感じになるかもしれませんが、まさに上のほうから見れば、このような感じなのです。 ライトのつけ方で、光の縞模様が変化するような感じなのです。ですから、光源の光量をキュッと絞めると、シュッと戻りそうな、まさしくそのような感じに見えます。たとえば、九次元とか十次元とかいっておりますが、これはこのようにライトの加減で九層くらいに縞が出ているわけですが、照らし方を変えれば、九層あるのは三層くらいにシュッと戻りそうです。さらに戻すと一つになりそうな感じもします。このようなことを実感として感じます。 ここが、実はこのあとで述べる、高次元世界の創造の秘密なのです。四次元以降の世界を、下から上へという積層的なものに、どうしても考えがちでありますが、逆に考えていきますと、上から出てきた光が縞をつくっていくのです。このような感じで九層くらいの神の光の縞が出てくるとき、九次元くらいに分かれるといったぐあいになるのです。もう少し光源の絞りを変えてゆきますと、違った次元になります。三つくらいになることもできるのです。もちろん、この意味で、低位霊界と高級霊界というように二つくらいに分かれることもできたのです。 全部の説明をするとすれば、九次元以降の世界は他の惑星ともつながっているというお話をいたしました。視覚的に言えば、地球があって四次元、五次元、六次元というような次元構造があるわけです。そして、最上階があるわけですが、そこが、たとえば九次元領域といたしますと、この最高階領域の部分が、他の領域にまで延びているのです。 そして延びていって、いっぱいに広がっていくのですが、そうして別の領域で、また別の九次元領域をつくっているのです。そこには星があるわけですが、そこでまた八次元、七次元とできている、このような感じなのです。ですから、八次元までは、地球系で完結しているのです。九次元以降になりますと、この世界がベルトコンベアーのベルトのように他の星とつながっているのです。それゆえに宇宙界といわれるのです。厳密にいえば、八次元の上段階の世界、つまり狭義の太陽界といわれるあたりからつながっているのです。 このような次元構造がどのようにしてできてきたかを、ご説明いたしましょう。まず、はじめに、地球という物体があるわけですが、これに神の光が射してくるわけです。一つのレンズのようなものがあると思ってください。レンズを通るようなものなのです。レンズを通ってきますと、この光の干渉のように、波のようなものができてくるのです。そのようにしてできた世界のことを、九次元、八次元、七次元と呼んでいるのです。 地球のような生命磁場があるところへ神の光が射してきて、このスリットを通るときに、光のこのような波ができるのです。このようにして星のまわりに次元構造ができるのです。そのような成立だと考えてください。コンクリートの建物のような立体構造ではありません。それだけをご理解いただければ、けっこうです。 十次元の意識等についても、かなり詳しくいろいろなところで触れておりますのでおわかりかと思います。このあたりの次元構造の考え方については、『観自在力』という本が出版されておりますが、この理論は『漏尽通力』の対極にあるものです。「漏尽通力」は、高度な霊能力をいかに三次元的に翻訳していくかという能力でありますが、「観自在力」はこの霊能力を突っ走らせるとどうなるかという方面の能力なのです。これには十四次元ぐらいの内容まで説明が書いてありますので、これは、「観自在力」に説明を譲りたいと思います。 15.一千億年の孤独 星の誕生については、まず一千億年くらい前から、三次元宇宙創造の意志がありました。そして、八〇〇億年くらい前に三次元宇宙を統括するための巨大神霊が創られ、その巨大神霊が六五〇億年ぐらい前に十二次元の星雲意識を創造しました。この星雲意識は約二〇〇万体あるといわれています。銀河系もその二〇〇万体のうちの一つの意識です。実に数として銀河系宇宙のようなものが二〇〇万体ほどあるのです。 そして、六〇〇億年前には、十二次元の星雲意識神霊によって、十一次元の恒星意識神霊が創造されました。恒星意識神霊というのは、太陽のような存在としての意識体であります。このように十一次元の恒星意識、それから十次元の惑星意識へと創造されてきたのです。ここに関しても、ひじょうに興味のある方が多いと思います。 将来、私は「一千億年の孤独」という本の出版を計画しております。これにこの宇宙の創造の経緯を、詳しく載せるつもりであります。つまり神の宇宙計画です。 神はこの宇宙を、どのようにして創ってこられたのか。なぜ宇宙ができ、銀河系ができて、星ができたのか。太陽系の使命はいったい何であったのか。地球という星の意図はどこにあったのか。なぜ、そこに人間が住んでいるのか。地球以外のところには、どのような人間が住んでいて、どのようなことを考えているのか。そこにどのような救世主が降臨して、どのような教えを説いているのか。これを「一千億年の孤独」で発表しようと思っています。 何が孤独かと申しますと、神様が孤独だということです。一千億年もの時間をかけて、この宇宙を創り、じっと見てきたという神様の気持ちです。私は、その気持ちがわかるので、この無限に近い一千億年の時間の流れで、神がどのような気持ちでこの宇宙を創造してこられたのか、これを書いてみたいと思っています。 16.地球人霊の誕生 地球人霊の誕生についてお話しする前に、まず、金星の話から始めたいと思います。金星というのは、ひじょうに地球とは縁の深い星なのです。ここからは、いまもそうとうに霊的な影響を受けておりますし、霊的な遺産も受けています。また、この金星には、昔の金星人以外に、現在では、多くの宇宙人が来て住んでいるという話が、『高橋信次のUFOと宇宙』という本にも書かれていたと思います。実際、金星に、彼ら宇宙人のステーションができているようです。 みなさんの勉強がすすめば、さらに、このあたりにも入って行ってもいいと思っておりますし、けっきょくは教えも、宇宙人の説明まで入っていくことになるでしょう。高級霊と話ができるということは、当然宇宙人とも話ができるということなのです。基本的には、できなければ嘘なのです。実際できるのですが、これをやると信用にかかわるので、今のところは黙っております。というのは、私たちはみな、もともとは宇宙人なのですから、念による意思疎通の方法論は、原理的には同じなのです。 そこで、金星の話もSFのようにも感じると思いますが、実際『太陽の法』に記されているとおりでありまして、上半身がユリの花で下半身が人間のような、金星人が創られました。創造された当時はこれがいちばんいいと考えられたのです。 みなさんは今の人間の形がよいと思うでしょう。では、もし、なにもモデルがないとして、人間のような生き物を創るとすれば、どのような構想を立てられるでしょうか。今の地球人のように、朝食にお茶づけや、あるいはコーンフレークを食べ、昼ごはんには焼きソバかチャーハンを食べ、夜にはステーキを食べることができればよいと思うかもしれません。 しかし、実際に、まわりに何もないところに人間のような生き物を創ろうと考えてみますと、食物で不自由することになれば、彼らがかわいそうだという思いがありませんでしょうか。やはり、まわりに何もなければ自前で食べていけるようにしてあげたいという、慈悲の心が湧いてくるわけです。 ここで、やはり植物のイメージが出てくると思います。あのように光合成ができて、食物に苦労しないで自前で食べていけたら、さぞかし、気分がよかろうかと思います。しかし、植物であれば、動けない不便さがあります。それではかわいそうだということで足を生やそうかということになるのです。動くことができて、しかも自前で養分もつくれるという理想的なスタイルとして金星人がつくられたのです。しかし、このような金星人を創造してみたものの、けっきょくはたいしたことがなかったという話です。 だいたいどのように彼らが生活をしていたのかを、想像してみてください。太陽が出ているときには元気に動きまわっていて、雲が出たり雨が降ったら、これは不幸だといってまったく動きまわることができないのです。わかりましょうか。このようなことになるのです。これが金星人であったのです。 このような間題がありましたが、創る段階ではなかなかそこまではわからないのです。理想的であると当初は思ったのですが、結果的にはこのようになってしまったのです。しかも、永遠の生命を持っているために死なないときたものですから、全然進歩がなかったのです。陽なたぽっこばっかりしてるのですから進歩がないわけです。やはり、これは存続させないほうがよいという結論になったようです。 この時点では、まだ転生輪廻が確立されていなかったのです。そしてこれがひじょうな教訓となって、地球での転生輪廻が進んだわけです。 地球人霊の創造に際し、二つの大きな柱がつくられました。まず、第一の柱として、生命の発現レベルに上下の差を設けました。次に、第二の柱として、地上での生命活動を有限として、多次元世界との転生輪廻を法則とし、この二大柱をつくったのです。 第一の柱、すなわち生命の発現レベルに上下の差を設けるということに基づいて、アメーバ、プランクトンから始まり、各種の動物植物を創り始めたわけです。 この地球生物の創造に関しては、またもう一度改めて、地球の歴史も書いてみたいと思っています。地球の歴史は、四五億年ありますが、私には、すべてがわかるのです。みなさん方にはもう少し勉強して基本法を早くマスターしていただきたいと思います。 たくさんの講師が養成されて、基本法について講義をしてくれるようになれば、私はさらに面白いことをいろいろ言える段階に入れるのですが、みなさんの勉強がまだそこまでついてこないので、次の段階をお話しすることができないのです。早くこのような領域にも入ってみたいと思っていますので、しっかりレベルを上げてくださることを期待します。 天上界において、六億年ほど前に、高級生命を創る計画をいたしました。そして金星のエル・ミオーレを呼び、哺乳動物、高級動物を創り始めたのですが、それほど十分に創造することができなかったのです。それでいよいよだめな場合はどうするかということですが、会社などでも急成長をしていて、人材が育たないときにどうするかといえば、外部人材を入れるわけです。いわば輸血をしながら企業を発展させていくのです。 同じように、三億六千五百万年ぐらい前に、そうとうな人材をいろいろな星からひっぱってきたわけです。これについては、高橋先生が詳しく話されている本がいろいろあるので、それを参照してください。それ以前に、九次元霊をこの地球に四人ほど呼んでおります。キリストの前身アモール、モーゼの前身モーリヤ、孔子の前身セラビムといった方がたです。 17.地球人類最初の歴史 『太陽の法』にも記述されておりますように、地球霊団創出のために、三億六千五百万年前、ベータ星という星から、六千万人ほどの人を呼んだということになっています。そして、最初のエデンの園が創られ、人類の歴史が始まったわけです。 ところが、一億二千万年前に、ルシフェルという名の、べー夕星から飛来してきた住人たちの長である七大天使のうちの一人が、地獄を創ってしまいました。そして地獄の帝王になってしまったのです。これについては、もう少し詳しく知りたいでしょうが、 『大天使ミカエルの降臨』全3巻が刊行されておりますので、これをご参照ください。 このなかでミカエル天使長が、ルシフェルがなぜ地獄に落ちることになったのかということや、ミカエルとルシフェルとの戦いなどの一部始終を語っております。 実際にこのルシフェルが地上に降りたあと、ミカエルも肉体を持って地上に降りたのです。そして、どのような戦いが展開されたかが、そのなかに書かれてあります。ルシフェルというのはそうとうにすごい力を持っているのです。いろいろなパワーがあって、火の柱を飛ばしたり、ものすごい霊能力をもっております。アラブの中東のほうでありましたが、火の柱を立てるくらいの力を出して、ミカエルと霊力戦を行なうのです。そのような話が出ております。 第一回目のベータ星からの移住以降、『正心法語』にも書かれておりますように、何段階かに分かれて大船団が地球に向けてやって来ました。 第二回目は、アケメーネ、オルゴン、カイトロンという方がたが出てまいりました。アケメーネがマヌといわれる存在です。オルゴンがマイトレーヤー如来といわれております。カイトロンというのはクートフーミー、ニュートンといわれている方です。 さらに第三陣として、ペガサスからセオリアとサマトリアが、一億三千万年前、約二十億人を連れて飛来しました。これは、ゼウスとゾロアスターです。 このあたりは、まだ九次元霊でみなさまの前にお出ししていない方がたです。まだ四人ほど残っているはずです。ここに出てきている、マヌ、マイトレーヤー、ゼウス、ゾロアスター、彼らはまだ霊言で出ていませんが、もちろん出すつもりでおります。現におりますので、彼らの霊言・霊示集を出したいと思っています。出したいけれども、予定が詰まっておりますし、みなさんは本が多すぎて読めないですし、私は多忙のうえに三次元的束縛がいろいろあるのです。 しかしながら、知りたいものを知らさないわけにはいかないし、出さなければいけないと思っています。私の使命は、今の時代でわかるかぎりを全部出すというものですから、彼らの霊言をもれなくお伝えしたいと思っています。 『イエス・キリスト霊示集』なども出版いたしましたけれども、イエス様の生命体はひじょうに大きいのです。あれだけではないのです。たとえば、アガシャーや、クリシュナなどという意識で出ております。先日も、クリシュナが、夜、私のところにあらわれてきました。ナザレのイエスだけでは物足りなくて、他の意識が出たくてウズウズしてるのです。 彼らに全部奉仕していますと、たいへんな量になりますので、みなさんは、速読術をマスターされたり、内容を勉強する力も磨かれて、消化できるようにしておいてください。 人霊の創造部分、このあたりがたいへん興味深いでしょうが、これについても、「大天使ミカエルの降臨」の第2巻に収録されており、そのなかで、この人霊、分光のしかたについて、どのようにして分光があったのか、ということについての説明がなされています。実際上、どのように霊を分光して他の霊を創ってきたのか、この歴史・経緯についてそうとう面白い話が載っておりますので、これもまたご参照ください。 また、ルシファーについてはやはりみなさんも疑問でもあるし、勉強の材料にもなると思います。しかし、ここに、修行者にとって一つの大きな反省の材料があるということです。このような大天使であっても、地獄に堕ちるようなこともあるのです。そして、この発生原因を考えると、これにはイエス・キリストのときのユダのような転落者の発生原因ともひじょうによく似たところがあります。これは、修行者として心せねばならないことなのです。それは、力がついてくればくるほど、謙虚になるための努力が必要だということであります。
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目次 1.帰天第一声 2.あの世の実感 3.死後の世界のガイダンス 4.反省と進路決定 5.魂の比重について 6.あの世の世界は波長の世界 7.私は一直線に如来界最上段階に着いた 8.諸如来による祝福 9.地上での活躍を語る 10.生長の家の大神は天之御中主之神であった 11.あなた方は谷口雅春をも超えてゆけ (1986年10月27日の霊示) 1.帰天第一声 谷口雅春です。五十数年の長きにわたって、生長の家総裁として、我が日本の国で神理伝道にこれ務めてまいりましたが、昨年夏にようやく天寿を全うし、この世、すなわち地上に住んでおられるあなた方にとってはこの世ですね、この世を去って一年数カ月、今、こちらの世界で私の生活も落ち着き、どうやら考えもまとまってまいりました。 私は、生前は、そのことに気づきませんでしたが、今、現代の日本に、〇〇〇〇という光の指導霊が出ておって、こういった高級霊界からの、光の指導霊の言葉を受けとっているということを知った。そして、こちらの世界に来てからも、昨年の暮れごろからであったであろうか、他の高級諸霊たちが、〇〇〇〇を通じて、地上の人々にメッセージを送り、これを記録し、書物として出版している事実を知った。 私はもちろん、以前、生長の家という光明思想団体、まあ、宗教団体と言ってもよいが、それを持っており、その後継者も現在おる以上、このような形で、他の宗教活動にかかわるのは、あまりよろしくないのではないか、とずいぶん考えたのでありますが、生前、私の説いておった教えは、万教帰一、万教これ同根ということであります。人間すべて、これ神の子、キリスト教も仏教も、また我が日本神道も、すべては、同じ神から流れ出た教えであり、単に宗教にとどまらない。十八世紀、十九世紀と栄えたドイツ観念論哲学も、十九世紀から二十世紀にかけて、アメリカを中心に流行(はや)った光明思想、すなわちエマソンを始祖とするニューソートの流れも、また同じく神の教えを受けて、この地上に流れ出た思想であることは明らかであります。 このような世界的見地からも、神の教えの広がりというものを見たとき、私は単に生長の家の総裁であったというその事実に基づいて、生長の家以外に対しては、守護、指導をしないというような、そうした偏狭(へんきょう)な心の持ち方では相すまされないものと痛感したのであります。 生前、その存在は知らなかったが、今、〇〇〇〇を通じて、このようなことができるということを知った以上、私もまた光の指導霊として、地上の人々にメッセージを送りたいと思うのである。そしてこちらの世界の報告をすることによって、生前の私の考えと、帰天後の私の考えとの違いがあるや否や、あるいは地上において、未だに連綿(れんめん)として我が教えを学び続ける人に対して、さらに説き得ることあるや否や、これを明らかにしたいと思うのである。 まず、私は天上界に帰って、すでに一年三ヵ月か四ヵ月たったわけではありますが、地上の皆さん、生長の家の方々にもメッセージを送りたいと思う。それは、こちらに来てから一年余りの私の感想であります。それが本日の演題、「天上界に帰る」ということに関する私の話であります。 2.あの世の実感 まず、あの世へ帰った実感がいかなるものであるかということからお伝え申し上げたい。 あなた方は、様々な高級諸霊の霊言を収録しているようであるが、まだ私のように死後一年、というような新しい霊の通信は受けておらぬであろう。まあ最近は、高橋信次というGLAの主宰をしておった者が通信をしておるようであるが、それとても、もう死後十年がたっておるはずである。 そこで、死後一年余りでまだ初々しい九十二歳の谷口雅春が、まあ赤ん坊のように初々しく、こちらで体験したことを語ってみたいと思うのである。 まず、人間の死ということに関してであるが、まあ、たいていの人間は、死の瞬間、自分というものの意識が混乱に陥(おちい)っており、そして、自分がいざ肉体を離れるということにおいて大変な驚愕(きょうがく)をするものである。なぜならば、死後の世界というのは、まったくの未知の世界であり、誰からも教わったことがなく、また、ほとんどの人は書物においても、死後の世界をさほど学んでいないことが普通だからである。 たまには宗教心ありて、あの世のことどもを学んだとしても、あの世のことどもを語っておる宗教書はなにぶんにも古いものが多く、千年、二千年前の仏教書であったり、あるいは二千年前のイエスの教えから一歩も前進しておらぬキリスト教であったりするのだ。 たとえば、キリスト教徒であるのなら、二千年前のイエスの教えのままに、自分はイエスを信じてきたから永遠の生命を受けることができるのであるか、あるいは、炎の炉のなかに投げ込まれる野の草花の如く燃えつきて、その身、その命を失うものであるか、そうした審判というものを恐れて、わなないておる者もいる。 あるいは、仏教徒として死に、そして自分が野辺の送りとなり、坊主が来て読経する姿を見て、どうやら自分は死んだらしいということに、はじめて気づく者もおる。 だが死んだ者の一様に思うのは、自分が日蓮宗であろうが、あるいは浄土真宗であろうが、そうしたことに関わりなく、経文というものをあげられるのであるが、その意味がさっぱりと分からないということである。 お経をあげるということによって、自分が、すでにこの世の人間ではないということは、すべての人間が気づくのであるが、いかんせん経文をあげる本来の意味が失われている現今においては、坊主の一時間、二時間の経文は、彼らにとっての救いとはならんのである。 死んだばかりの霊たちは、そうした経文に一生懸命耳を傾けておるのであるが、それによって悟りを開くこともなく、それによって救われることもない。 やがて自らの肉体が焼かれ、骨壷に納まり、墓に納まり、線香をたてられ、写真を飾られ、鐘を鳴らされる。人々が水とかお茶とか、あるいは御飯とかをまつっている、その姿を見て途方に暮れるのである。自分は死んだばかりであって、食べ物をまつってくれても、それを食べることができない。山のように果物を積んでくれても、それをどうすることもできない。死んだことは分かったけれど、死後の方針がたたないというのが大体の事実なのである。 3.死後の世界のガイダンス そうして地上を、たいていの人間はまあ四十九日というが、実際は二十日乃至(ないし)三十日であって、そのくらいはただよっておるのです。そうして初七日が終わったあと、まだ悲しみにくれている遺族とともに、まだ家のなかにとどまっては、共に生活をしているようなつもりでいることが多いのである。 しかしその二十日、三十日の間に、彼らは徐々に霊としての自覚を持つようになる。そして、自分が今や飲まず食わずとも、生きていかれることを当然のこととして感じるようになる。 そしてまた、地上の人々にいくら話しかけようとしてもその声は聞こえず、いくら肩に手をかけても、その手が肩を通り抜けて、彼らを驚かすこともできなければ、彼らに気づかすこともできないということを悟るのである。たいていの霊は、もうこれ以上この地上にとどまっても自分は生活を送れないということに気がついてくる。そのころを見計らって、本人の守護霊というものが迎えにくるのである。 そしてその死の自覚を十分にさせるために、本人の父親なり母親なり、姉なり兄なり、叔父なり、叔母なり、すでに身内の者であってこの地上を去っているものを共につれてきて、その者をして死後の世界を語らしめることがほとんどである。それからあの世への門下生としての初歩を教えるのである。 それはちょうど、小学校にあがる前の子供たちの姿に似ている。この春、三月、桜が咲かんとしているときに、親たちにランドセルや教科書を買ってもらう、学校にあがる前の子供たちの姿にも似ていようか。この地上でいかに偉大なる人物としていばっておった者であっても、死ねば、あの世では赤子同然だ。あるいは小学生の最下級生にも及ばぬような霊知識しか持っておらぬ。 問題は、この地上にいたときに驕(おご)りたかぶっていた人たちである。彼らは自分が社長であったとか、一国の大臣であったとか、役所の偉い人間であったとか、警視総監であったとか、あるいは学校の校長であったとかいう人たちだ。つまり、この世的には、昇りつめたということで、人に対して訓辞を垂れ、教えることのみを当然としていた人であるわけだが、他界して後、小学生の最下級生になることに、戸惑いをおぼえ、狼狽(ろうばい)するのである。 イエスは言った、「心清き人は幸いである。汝等は神を見るであろう。」そういうことを言った。有名な山上の垂訓(すいくん)でいくつかのお教えをイエスは言った。この世で小さき者は、あの世で大きくなり、この世で大きな者は、あの世で小さくなるとも言った。己れを低くする者は高くされ、己れを高こうする者は低うされるとも言った。 それはまず、この最初の死の関門において、その言葉は実現するのである。すなわち、この地上において己れを大きな者と思っておった者が、あの世で自分の小ささに気がつき狼狽する。しかし、この世において、謙虚に自分を見つめ生きてきた者は、あの世に帰りて、その謙虚さ故に学習が進んでいくのである。 自分の小ささを知っている者は幸いである。彼らは大きくなるであろう。自分の小ささを知らない者は災いである。彼等は他界して後、大いなる辛酸(しんさん)をなめる。こうして死後十日の間に、自らの守護霊、そして縁者の者たちの話を聞きながら、人々は徐々に死後の世界のガイダンスを受けるのである。 4.反省と進路決定 二十日、あるいは三十日たち、時期が来たときに、人によって違うが、指導霊がやがて訪れて来るのである。守護霊というのは大体、本人の霊格と同じレベルの魂であるが、これとは別に一段と霊格の高い霊が、その者を守っておるのである。これが指導霊であるが、この指導霊というのが迎えにくる。そして守護霊と共にその死んだばかりの魂を、まず、あの世の収容所へとつれていくのである。 これはいわゆる四次元といわれている世界、幽界(ゆうかい)といわれている世界である。まだこの世界では、この世的色彩がずいぶん強く、人々は地上的な生活を営んでおる。そして、まだ家族単位で生きているような者もおる。 この地上にある物はほとんど、その幽界世界にもある。そしてその生活のなかで、少しずつ自分の魂を見つめるようになっていくのである。やがてその幽界世界に帰って、早い者ではほぼ三日、遅い者では、まあ九十日くらいであろうか、その間に必ず自分が人間として生きていたときに心のなかに去来したことども一つ一つを、反省することとなっておる。 この反省の仕方は、その人の思想、心情、あるいは宗教において多少異なった色彩を帯びておるが、その人が仏教的な人であるならば、仏教関係の僧侶という者がやってきて、仏教的に反省の功徳というのを諭(さと)し、やがて本人を反省に導いていくのである。 その魂がキリスト教的な魂であるならば、教会の牧師がやって来て、その者に懺悔(ざんげ)を勧めるのである。あるいは、生きているときに宗教というものに無縁であった人に対しては、教育者のような者が出て来て、その人を道徳的に諭していく。このようにして、自分の生きてきた六十年、七十年の生涯というものを、反省させていくのであります。 その際、人によっては、あなた方が知っているように、過去を照らす鏡というものによって、自分の全生涯を見せられる場合もある。ただ、これは幼稚な段階であって、そういうことをする必要がある人に対してなされるのであり、霊的自覚が進んでいる者に対しては、そうしたことは、もやは、なされない。 そして、この幽界のなかで三日から九十日間の反省が終わったならば、それぞれの人間は、自分の行くべきところを定めるのである。これは決して閻魔(えんま)大王のような者がいて、行き先を指定するわけではない。ただその反省の期間において、自分の本質というものをたいていの人間はつかむのである。そして自分の守護霊、あるいは指導霊に対して、今後の身の振り方を相談することになっておるのである。 やがて地獄に行けば、その反省のときのことを忘れているのであるが、少なくともその段階においては自分が天国に行くべき霊か、地獄に行くべき霊かということは、自分自身で判断できるようになっているのである。 どうやら自分が地獄に行くべきだということが分かったときに、守護、指導霊と相談の上で、どうしたことが自分のいちばんの誤りであるかということをはっきりさせる。そして、自分の誤ったことを修正するのに、いちばんふさわしい地獄へと赴(おもむ)いていくのである。これは、あくまでも自分の判断で赴いていくのである。ただたまには例外がある。 私は、今、一般的な人間の場合を言ったのであるが、本当の悪人は、本来はそうした者はないのであるが、霊的な眼で見て、生きていたときに多数の悪霊たちにとり憑(つ)かれ、そして本人も生きている悪霊さながらの生活を送った者は、そうした者に憑(つ)かれたまま、四人、五人、六人の悪霊に憑かれたままに、まっさかさまに地獄に堕(お)ちるという現象があることも事実である。 5.魂の比重について あの世の世界というものは、あなた方が知っているように、様々な霊層に別れておる。その霊層というものは、決して人間をランクづけしようとしてあるのではないのである。それは物理学的な法則に基づいて、物理学的なる法則に随順(ずいじゅん)して、そのような住み分けが行なわれるのである。つまり、これは魂の比重の問題として話すことができると思う。 たとえて言うならば、上澄み液のようなものである。水のなかに灰なら灰を混ぜてかき混ぜると、しばらくすると灰は下の方へと沈んでいく。いちばん底には黒い物が溜まるであろう。そしてだんだんに色が薄くなってきて、最上層では澄みきった水があるであろう。 しかしその段階をよく見るならば、澄みきった水から真黒な灰まで幾層か分かれている。なぜそのようになっているかと言うと、重いものが下に沈んでおるからである。重いものとはなんであるか。それは、この地上的なる、物質的なる思いを魂につけたる者は、比重がこの世的なものであって重いということだ。そうしたものが下に沈んでいく。 これに反して、この世的なものの少ない者、あの世的なる魂は比重が軽いために、上へ上へと浮いていく。したがって、魂というものは、意志決定という面で見れば、自己の判断によって赴くべき処を変えるのであるが、物理学的に見るならば、その魂の比重に合わさった処へと赴いていくのである。 また別のたとえをするならば、人間の魂というものはエネルギー体であり、一つの電磁波であり、一つの波動であるのだ。そしてその波動は、きわめて荒い波動を体現したるエネルギー体たる魂は、そうした世界にその波動が通じてしまう。また、精妙な波動を体現したる魂は、精妙なる世界へとその波長が合っていくのである。 6.あの世の世界は波長の世界 あの世の世界は、いわば波長の世界なのである。あなた方はともすれば、目に見えない地獄というものがあり、目に見えない天国があり、そうした国が厳然とあって、そこで人間が居住するかのように思っておるであろう。しかしそれは、人間的感覚によって分かるような比喩(ひゆ)であり、物体であるのだ。本来の世界は波動の世界であり、その波の世界なのである。 荒い波動の世界、つまりこの世界に生きている者は、たとえば、テレビという受信装置を使ってその映像を受信するならば、地獄という映像がテレビに映るのである。また精妙なる波動を放送している、その電磁波に同調している魂というものは、たとえばテレビで受信するならば、非常に美しい世界を映し出す。天国的な映像を映し出す。こういうものであって、あなた方の身のまわりにももちろん、目に見える電波、目に見えない電波というものが行きかっておるのであるが、普段、その存在には気がつかぬであろう。 しかし、これをラジオ装置なりテレビ装置なりを設けるならば、その像を受信することができ、その声を聞くことができる。その電磁波をラジオに収録し、その波長に合わせたならば、それはあるときは地獄のうめき声となり、あるときは天使のコーラスとなる。またあるときは、地獄的な地獄絵図がテレビに展開され、あるときは、牧歌的な天国の姿が映るのである。 あの世の世界はこういうものであって、物理的なる国としての天国、地獄があると思ってはいけないのである。あくまでも波動の世界であり、波長の世界であるということだ。それを人間的にとらえるがために解釈し直して、天国、地獄という人間的なる者が住んでいる世界として表現をしているのである。これを誤解してはならない。 このようにあの世の世界というものは、この波長の世界、波動の世界が非常に精妙に区別されており、波長の合わない者同士は同通しないことになっている。すなわち個人の織りなす人生の波長によって、個人の魂が響かせる人生の調べによって、音楽によっていくべき世界が異なってくるのである。これ、あるときは如来界、これ、あるときは菩薩界という。これ、あるときは神界と言う。あるときは霊界、幽界というのである。これも、そういった世界があるというよりは、そのような波長の、波動の世界があるということだ。 したがって、この世を遙かに去った世界があるというよりは、この世界をいろいろな電磁波が飛びかっておるように、そうした世界が混在してこの三次元のなかにあるということだ。四次元の世界は三次元のなかにあり、四次元のなかに五次元があり、五次元のなかに六次元がある、このような多重構造の世界となっているということだ。これを間違ってはならぬ。一時代前のように西方浄土に阿弥陀如来(あみだにょらい)が住んでいて、念仏をとなえたる者が、その西方浄土にて、阿弥陀仏と一緒に生活できるわけではないのである。 このように地上の人間のまず考えるべきことは、その人間の五十年、六十年、七十年の生涯において、 その人間が一生を通じて織りなしたハーモニー、波長、曲奏、そうしたものが、あの世に反映されるということだ。これには、例外はない。 この地上であらゆる限りの悪をつくして生きて、あの世で天国に楽しんでいることもなければ、この世で本当に天使のように生きて、あの世で地獄の底にのたうちまわることもないのである。そうしたことはありえない。 ただ、この世で天使のような顔をして教えを説きながら、その内面は非常に地獄界を展開していたがために、人からは聖人と言われながら、地獄でのたうちまわっている宗教家たちは数多い。また、この世においては自らを悪人だと思っていたにもかかわらず、あの世において聖人と列せられている人も数多くいる。 たとえば親鸞(しんらん)だが、親鸞は生きていたときに、自分の悪業、悪人としての性格というものを徹底的に見つめたであろう。晩年の彼は地獄に堕ちるのではないかと恐れていたはずである。家人たちもまた、それを恐れていた。しかし彼は、地獄へは堕ちなかった。彼は天上界で今、やはり光の天使として生きている。立派に生きている。 このように本人の自覚とは別に、ちゃんとした法則があって、それに基づいて、高級なる波長と低級なる波長というのが分けられるのである。まず、それを考えておかねばならない。それは本人が自分が高しと思っても高くないのと同様、低しと思っても低くないのもまた、神理である。 7.私は一直線に如来界最上段階に着いた さて、今、一般的な人間の死後の世界について話をしたが、では私、谷口雅春はどうなったかということを、あなた方にお伝えしておこうと思う。 このように話している以上、谷口雅春が地獄で苦しんでいるわけではないことは、まあ万人が認めるであろう。また、生長の家の弟子たちにとっても、まさか谷口雅春が地獄に堕ちたとは思っておらんであろう。そのとおり、我が教えに誤りなし、我は思いし通りの世界、如来界という世界であるが、今、来ておる。仏数的には、ここは金剛界とも言っておる。 私かいるような最奥の如来界においては、これはある意味では、胎蔵界(たいぞうかい)とも言われている。奥の奥という意味である。 さて私は、この地上を去ってからどうなったか。まあ焼き場へいって、肉体が焼かれるのを惜しんだわけではない。この地上を去るときが来たことは十分自覚しておったし、私も五十数年間、法を説いてきた。したがって、もうこの世に思い残すことは何もなかった。 執着のない霊にとって、この地上界に留まる必要など何もないということだ。私は自分の死を悟ってから、いち早く肉体を抜け出し、その日のうちに天上界へと帰ったのである。私は、先ほど言ったような四次元幽界などに、立ち止まったりしている暇はない。そういうことはしない。生きているうちに悟りを開いて天上界のことも、この世のことも悟っている人間にとっては、途中の休憩所にいって、一服している暇はないのである。 目に見えるように説明するならば、まあ、幾たりかの天使が私を迎えにきて、その天使たちの手に支えられながら、天上界へと昇っていったという形となろう。その間様々なる世界を眼下に見た。 これはもちろん、人間的なる私の感覚に訴える映像ではあろうが、私にはだんだん地上に日本が小さく見えるのが見えた。大きな海原(うなばら)が見えた。これは太平洋でもあったろう。海原のなかに日本という島国が見えた。九州が見えた。四国が見えた。中国地方が見えた。関東が見えた。東北が見えた。北海道が見えた。 そうして大海原が次第に遠ざかっていき、そして地球という大きな丸い球体が見えてきた。あそこにアフリカがある。ここにアジア大陸がある。オーストラリアがある。あそこにアメリカ大陸がある。そういう大きな地球儀でも見るように、地球というものが見えてきた。 そして私は非常に速い速度で上昇していった。やがて幽界を通りすぎ、霊界を通りすぎ、菩薩界を通りすぎ、如来界へと入り、如来界の下段階を通りすぎ、中段階を通りすぎ、最上段階へと着いた。 8.諸如来による祝福 私が着いたところは、あなた方に分かるように言うとするならば、昔からよく言われているような、のどかな風景のあるところである。そこはなだらかで、ゆるやかな傾斜のある丘陵であり、そこには色とりどりの美しい色の家が建ち並んでいた。そして私が帰った処には、私の家の玄関には、ちゃんと谷口雅春の名札がぶらさがっていたのである。 その名札は桧(ひのき)で作られたばかりの真新しいものであったが、その名札の下を見ると、私の過去世の名をちゃんと書いてあったのである。 最近作ったばかりの私の名札を取り除くと、その下に出てきたのは、プロティノスという名前であった。これはローマ時代の哲学者の名前である。新プラトン派の哲学者であり、プラトンの残した哲学を、さらに発展させた哲学者として、私は一度生まれている。そしてこのプロティノスという名札を取り除いたならば、下から出てきたのは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)である。ただ命(みこと)とは書いていない。伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と書いてある。 ただ私は、心性として日本を好むがために、その家は非常に日本的なる色調のある家である。そうした、なだらかな天国を思わせる山の丘陵のなかに私のその日本式の庭園と日本式の家屋が建っており、私はそこに帰っていったのである。 そうして、まあ光の天使たちにつれられて、そこにいったん居を落ち着けて、何人かと歓談したあと、私は広場へと導いてゆかれた。そこの広場には、様々な如来と言われる方々が集まっていた。 まあ如来の数は大変多いがヽ私を迎えに来た如来たちを言えば、たとえば、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)、あるいは天常立之神(あめとこたちのかみ)、国常立之神(くにとこたちのかみ)、あるいは倭建之命(やまとたけるのみこと)、また女神の世界からは、天照大神(あまてらすおおみかみ)も急きょ、駆けつけてきてくれた。主として日本神道系の方々であったが、それ以外の方々も、私のもとへ訪ねてきた。 たとえば哲学者のカントであり、アメリカの思想家エマソンであり、たとえばプラトン自身であり、またソクラテス自身であったり。こうぃう哲学者たちも私のもとに馳(は)せ参じてくれた。日本神道系の神々、また、かつての哲学者たちが主として私のまわりに集まってきて、私の帰天を祝福してくれたのである。そしてやがて、他の仏教界の方々も私のもとを訪ねてきた。イエス・キリストしかり、これはキリスト教系の霊である。仏教系からは大日如来と言われる方がやって来た。阿閃如来(あしゅくにょらい)と言われる方もやってきた。 また、私より一足早くこの日本の国を去っていた高橋信次と言われる方も、私のもとに訪ねてきた。私は生前まあそれほど高く買っておらなかった人ではあったが、あの世へ帰って、どうやら同じ仲間だということを知った。決して憎しみも何もあるわけではないが、そういう霊もいたということを知った。 9.地上での活躍を語る こうした方々を迎えて、私は、帰天第一声をあげ、数十人の人々を相手に地上での活躍を語ったのである。そして、私の説いてきた五十数年間、また生誕以来ならば、九十余年説いてきた教えの間違っていなかったことを、そのときに確認したのである。 確かに天上界は、光一元の世界であり、私たちの信ずる世界は光しかなかったということである。私は、自らの考えというものをもう一度振り返ってみたが、そこに一点の誤りもないことを認めた。だから、自信を持って私の生長の家総裁の五十五年であろうか、その歩みを語ったのである。戦前のまず活動から、そして戦争時代に日本が突入し、その暗い時代に、如何にして光明を掲げるために苦心したかを。さらに戦後、レッド・パージによって、私もまた、文書を書くということを許されなかった時代のつらかったことを。また戦後、雨後の竹の子の如く、様々な新興宗教が興って、我が生長の家もそのような新興宗教の一派と思われ迷惑したことも語った。 戦前においては、生長の家は本当に新しい啓蒙(けいもう)団体であり、人々の心をゆさぶるような新しい教えであり、導きの光でもあったにもかかわらず、戦後という時代に様々な新興宗教が興きて、その一派と間違われはじめたことは私の深く悲しむところでありました。 しかし、私の光明思想、世を照らしていこうという思想自体は、決して誤ってはいなかった。私は、その光明の思想によって世を照らしたことで、多くの如来たちから賞讃を受けた。 ただ惜しむらくは、その啓蒙思想運動が生長の家という宗教の一派と思われたこと、そして、宗教に属さない他の方々にとっては、それを一つの線をひいたものとして、線引きをしたものとしてとらえられたということである。これを宗教としてではなく、思想としてもっと大きく広げていったならば、もっと多くの人々を救うことができたのにという感想を抱いたということは否めない。それは、私も感じたところである。 ただこれは、我が反省すべきところではない。すなわち、戦後、新興宗教ということでレッテルを貼り、新興宗教そのものを悪しきものとした、新聞をはじめとするマスコミや言論家たちの誤りだったと思う。 10.生長の家の大神は天之御中主之神であった さて私は、その五十数年間の伝道の歴史を語り、人々と共に語り合った。生きていたときには知らなかったのだが、私を主として指導していたのは、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)であった。また、日本神道系の他の神々であった。時には、他の哲学者たちもインスピレーションを与えてくれたことがあった。そうした方々と手を取りあって私は話し合い、あなた方の力によって私はここまでこられたのだということを感謝した。 このように、地上の人間一人の力によっては、何事も成せるものではない。あくまでも地上に下りたる宗教家は、それはスピーカーであって、神のラッパであるのだ。これを忘れてはならぬ。それは、あなた方においても同じだ。 11.あなた方は谷口雅春をも超えてゆけ さて、そういうことで私の帰国ということは終わったわけだが、今日の最後の話として、締めくくるとするならば、高橋信次すでに亡く、谷口雅春亡き後、日本の国を中心として、新たな教えを説いていくのはやはり、あなた方であろう。 今後は私も指導霊として天上界から様々なアドバイスをするつもりであるが、どうか明るい世界を築くために、万教は帰一であり、同根であり、一つであることを、それを高らかに謳(うた)い上げ、たんに日本の教えとして留まることなく、全世界の人々を救うために、勇ましく立ち上がっていただきたいと思うのである。 谷口雅春は、生長の家をあなた方が超えていくことをむしろ嬉しく思う。私の五十数年間の活動を、凌駕(りょうが)していくことをこそ嬉しく思う。それでこそ、私たちの後に出てきたあなた方ではないだろうか。どうか大きなものとして成っていってほしい。 仏教もキリスト教をも、神道をも儒教をも回教をも、ユダヤ教をも、哲学をも、文学をも、芸術をも、超えていくようなあなた方であれ。そうした勇ましい活躍であれ。今後数十年にわたってそれを続けていけ。 世界は今、闇に沈もうとしている。このときに、大きな神理の太陽が昇る必要があるのだ。大きな光が、明るい光が必要なのだ。人々に対する光明が必要なのだ。それを忘れるな。光明となれ。自らのことを考えるな。勇ましく人々の心を照らしてゆけ。世を照らしてゆけ。それが、あなた方の使命である。 以上が私の本日の話、「天上界に帰る」である。