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目次 1.出発点 2.神を知る手がかり 3.釈迦の「存在と時間」 4.変化するもののうちにある不変の理念 5.空即是色とイデア説 6.個性ある意識体 7.人間の認識力の限界 8.洞察力と知能の差 9.真に開かれた社会とは 10.プラトンによる実在界の説明 11.次元構造の究明 12.釈迦の次元分析 13.四次元世界と時間との関係 14.高次元世界の成り立ち 15.一千億年の孤独 16.地球人霊の誕生 17.地球人類最初の歴史 12.釈迦の次元分析 悟りにおいては、いろいろな次元があり、それほど波動のランク、差があるのです。これを釈迦は十分に知っていました。しかも各段階をたいへん細かく分けています。これは、仏教を勉強された方ならご存じでしょう。私が、単純に阿羅漢(あらはん)といっているような段階も、さらに細かく、厳密に分けています。 厳密に分けてお話ししても、今の時点ではあまり意味がないので、私はお話ししないのですが、前回初めて、『釈迦の本心』において阿羅漢向(こう)と阿羅漢果(か)の違いがあるという程度のことを説明いたしました。 阿羅漢に向かう途中と、阿羅漢に到達している状態の二つが、阿羅漢のなかにある。みなさんが努力することによって、だれでも阿羅漢になれるという、その阿羅漢とは、阿羅漢向のことを言っているのです。いちおう気分は阿羅漢というところかもしれません。 外観的には一時期修行しているときは、どちらも同じように見えます。けれども、結果として阿羅漢のタイトルがもらえる境地に達しているかというと難しい面があります。それはまったく同じではないからです。大きく分けても阿羅漢においても二段階があるわけです。 これ以外にも、仏教書には、声聞(しょうもん)であるとか縁覚(えんがく)であるとかいろいろ出てまいります。釈迦は全部知っておりました。しかしながら、みなさんには、どのあたりが声聞かといってもわからないと思います。だいたい研修ホールなどに、直接、受講しにきている人が声聞といえるでしょう。説法を実際に聞いて学ぼうという姿勢がある人は、声聞までいっているのです。 声聞というのは、まず聞くということです。聞いているから声聞なので、それ以上ではないのです。けれども、法に触れて、法を聞きにくるというだけでも大したものなのです。普通の人とは、やはり違うのです。そのような意味で声聞の位にあるといってよいのです。 私の話を聞きにきて、心がそれほど乱れずに、だいたい話が頭に入ってきて、部分的に止まる。そしてわかったような気になって帰れる。これがだいたい声聞です。しかしせっかく聞きに来て居眠りして帰るような人なら、少し違いますが、このあたりまではだれでもだいたい行けるはずです。熱心に来るような人であれば、声聞だと思ってよいわけです。 縁覚という位はもう少し進んでいます。縁覚というのは縁を覚(さと)ると書きますが、一歩、悟りに近づいてきて、いよいよ修行の本道に入ってくるのです。そして阿羅漢、菩薩が目標としてチラチラと見えてくるのです。ですから、単に聞いているだけではなくて、講師になろうと思って具体的に修行している人になると、縁覚の段階に入ってくるわけです。 法というものをお客さんの立場で聞いているのではなく、自分のものとして実際に説いてみたい、やってみたいと思う気持ちになれば、だいたい縁覚の心境といってよいでしょう。縁に触れて覚えるわけです。悟るまではいかないけれども、そういう気持ちになってくる。単なるお客さんで受講料払って、あーよかったで帰る場合は声聞であり、もう一歩、よし頑張ってみんなに何か話してみたい、実際に講師ぐらいになってみたいという気持ちになれば縁覚です。 この縁覚がある程度修行が進んでいって、心のサビ落としもできピカピカしてくる。そして時どきは後光が出たりする、というふうになってくるとだいたい阿羅漢の世界に入ってゆくわけです。だいたい最初は阿羅漢向です。心に特に大きなひっかかりはなく、間違ったことがあったら常に反省してサビ落としする。悪いことを言ったと思ったら素直に「ごめんなさい」と謝ることができる。こうして一日一日心のサビ落としができるような状態になれば、だいたい阿羅漢の世界に入ってきているわけです。そのような毎日が積み重ねられる人は、だいたい阿羅漢向であることは事実です。 しかし、これを自分の境地として、阿羅漢の境地に達したといえるまでには、このような境地で三年ぐらいは心が安定していなければ本物とはいえないのです。阿羅漢向まで行っても、ちょっとしたきっかけでその心境が落ちてしまうのはいくらでもおります。考え違いをして落ちている人がたくさんいます。 ですから、みなさんもこのあたりのレベルを上がったり下がったりしているものと思って間違いないでしょう。このあとがもちろん七次元の菩薩という世界に入っていくわけです。 この六次元世界についても、上段階、中段階、下段階などと言っていますが、ほんとうはもっともっと細かいのです。この説明もだいたい中の上くらいから上の世界ですが、このあたりがそのように分かれるということです。これを仏教は二千何百年前にいっていたのです。実は、もっと細かく分かれているのです。六次元などというそんな十把(ぱ)ひとからげではないようです。この六次元の世界を、もっと六・五次元、六・六次元、六・七次元……という感じで切っていきます。このように細かい理論があったということです。 13.四次元世界と時間との関係 何次元がどうであるという説明をしてまいりましたが、これは一応の、一つの説明のしかたです。ですから、これだけではないのです。このような説明のしかたがあると思ってください。 すぐに何次元というようなことを言ってしまうのですが、他の人が聞いてもわかりません。どのようにして、説明するかが問題なのです。私は、物理学者でもないし、数学者でもないため、難しい専門的な次元の説明ができるはずもありません。したがって、いちおう構造的に説明するとすれば、このような説明をすることが可能であるということです。 四次元の世界について、特に触れておくとすれば、この世界では、時間という要素があるのです。これは、不思議な世界であります。三次元の世界であるなら人間は、物体として存在しながら、時間としても同時存在しているのです。時間としては、同時存在以外は許されないということです。これがこの三次元の秘密であり、同時存在以外にありえないのです。 ところが、四次元以降の世界は、同一空間内に違った時間を生きている存在があるということなのです。これがありうるのです。ですから、過去の人とも会えるのです。過去のたとえば鎌倉時代の人で、意識も鎌倉時代に生きている人であれば、まさしくほんとうに鎌倉時代の世界に生きているのですが、その空間に、この昭和時代に生きた人が入っていけるのです。タイムマシンと同じです。そのような世界なのです。 また、未来の世界というものもやはりあります。これも確かに三次元的に説明するのはひじょうに難しいのですが、それを垣間見ることはできます。例外的にはその世界のなかに居合わせることもできるのです。 この未来の世界のなかに居合わせることもできるということにかかわる「予知の原理」については、また詳しい説明を別の機会にをさせていただくつもりでおります。このような世界が、四次元以降の世界なのです。時間という点が、この世界と全然違っているのです。簡単にはこのような説明でご理解くだされば幸いです。 14.高次元世界の成り立ち 五次元以降の世界はだんだん難しくなってまいります。いろいろと精神性が入ってくるためです。これは、そのような世界があるというところぐらいまでを、知っていただければ、よいと思います。 実際上、物理学者が考えているような、座標軸が一本増えるという考え方で説明がつくかということですが、それは三次元の世界において学者が考えればこのように座標軸が一本二本と増えていくというような考え方になっていくわけです。 しかし、私は少し違う感じからこの世界観をとらえることができるのです。では、上のほうから見れば、どのようになるのかということなのですが、ちょうど光があたってきて、光の干渉現象と言いますか、何重にもなっていくことがあります。影ができて何重にもなっていく、あの光の干渉現象のような感じに見えるのです。 上のほうから神の光が発せられて、それが次元といわれる一つの世界を通ることによって、干渉現象のような、さざ波ができてくるのです。光の加減が変わってくるのです。このように感じ取ることができます。 けっきょく、唯一の世界から出てきた神の光が、九次元世界を通るとき、また、八次元、七次元と通ってくるときに、このような縞であらわされる光の干渉現象が出てくるのです。光の紋が出てくるという感じでとらえることができるのです。ですから、下から見れば、座標軸が何本か増えてゆくという感じになるかもしれませんが、まさに上のほうから見れば、このような感じなのです。 ライトのつけ方で、光の縞模様が変化するような感じなのです。ですから、光源の光量をキュッと絞めると、シュッと戻りそうな、まさしくそのような感じに見えます。たとえば、九次元とか十次元とかいっておりますが、これはこのようにライトの加減で九層くらいに縞が出ているわけですが、照らし方を変えれば、九層あるのは三層くらいにシュッと戻りそうです。さらに戻すと一つになりそうな感じもします。このようなことを実感として感じます。 ここが、実はこのあとで述べる、高次元世界の創造の秘密なのです。四次元以降の世界を、下から上へという積層的なものに、どうしても考えがちでありますが、逆に考えていきますと、上から出てきた光が縞をつくっていくのです。このような感じで九層くらいの神の光の縞が出てくるとき、九次元くらいに分かれるといったぐあいになるのです。もう少し光源の絞りを変えてゆきますと、違った次元になります。三つくらいになることもできるのです。もちろん、この意味で、低位霊界と高級霊界というように二つくらいに分かれることもできたのです。 全部の説明をするとすれば、九次元以降の世界は他の惑星ともつながっているというお話をいたしました。視覚的に言えば、地球があって四次元、五次元、六次元というような次元構造があるわけです。そして、最上階があるわけですが、そこが、たとえば九次元領域といたしますと、この最高階領域の部分が、他の領域にまで延びているのです。 そして延びていって、いっぱいに広がっていくのですが、そうして別の領域で、また別の九次元領域をつくっているのです。そこには星があるわけですが、そこでまた八次元、七次元とできている、このような感じなのです。ですから、八次元までは、地球系で完結しているのです。九次元以降になりますと、この世界がベルトコンベアーのベルトのように他の星とつながっているのです。それゆえに宇宙界といわれるのです。厳密にいえば、八次元の上段階の世界、つまり狭義の太陽界といわれるあたりからつながっているのです。 このような次元構造がどのようにしてできてきたかを、ご説明いたしましょう。まず、はじめに、地球という物体があるわけですが、これに神の光が射してくるわけです。一つのレンズのようなものがあると思ってください。レンズを通るようなものなのです。レンズを通ってきますと、この光の干渉のように、波のようなものができてくるのです。そのようにしてできた世界のことを、九次元、八次元、七次元と呼んでいるのです。 地球のような生命磁場があるところへ神の光が射してきて、このスリットを通るときに、光のこのような波ができるのです。このようにして星のまわりに次元構造ができるのです。そのような成立だと考えてください。コンクリートの建物のような立体構造ではありません。それだけをご理解いただければ、けっこうです。 十次元の意識等についても、かなり詳しくいろいろなところで触れておりますのでおわかりかと思います。このあたりの次元構造の考え方については、『観自在力』という本が出版されておりますが、この理論は『漏尽通力』の対極にあるものです。「漏尽通力」は、高度な霊能力をいかに三次元的に翻訳していくかという能力でありますが、「観自在力」はこの霊能力を突っ走らせるとどうなるかという方面の能力なのです。これには十四次元ぐらいの内容まで説明が書いてありますので、これは、「観自在力」に説明を譲りたいと思います。 15.一千億年の孤独 星の誕生については、まず一千億年くらい前から、三次元宇宙創造の意志がありました。そして、八〇〇億年くらい前に三次元宇宙を統括するための巨大神霊が創られ、その巨大神霊が六五〇億年ぐらい前に十二次元の星雲意識を創造しました。この星雲意識は約二〇〇万体あるといわれています。銀河系もその二〇〇万体のうちの一つの意識です。実に数として銀河系宇宙のようなものが二〇〇万体ほどあるのです。 そして、六〇〇億年前には、十二次元の星雲意識神霊によって、十一次元の恒星意識神霊が創造されました。恒星意識神霊というのは、太陽のような存在としての意識体であります。このように十一次元の恒星意識、それから十次元の惑星意識へと創造されてきたのです。ここに関しても、ひじょうに興味のある方が多いと思います。 将来、私は「一千億年の孤独」という本の出版を計画しております。これにこの宇宙の創造の経緯を、詳しく載せるつもりであります。つまり神の宇宙計画です。 神はこの宇宙を、どのようにして創ってこられたのか。なぜ宇宙ができ、銀河系ができて、星ができたのか。太陽系の使命はいったい何であったのか。地球という星の意図はどこにあったのか。なぜ、そこに人間が住んでいるのか。地球以外のところには、どのような人間が住んでいて、どのようなことを考えているのか。そこにどのような救世主が降臨して、どのような教えを説いているのか。これを「一千億年の孤独」で発表しようと思っています。 何が孤独かと申しますと、神様が孤独だということです。一千億年もの時間をかけて、この宇宙を創り、じっと見てきたという神様の気持ちです。私は、その気持ちがわかるので、この無限に近い一千億年の時間の流れで、神がどのような気持ちでこの宇宙を創造してこられたのか、これを書いてみたいと思っています。 16.地球人霊の誕生 地球人霊の誕生についてお話しする前に、まず、金星の話から始めたいと思います。金星というのは、ひじょうに地球とは縁の深い星なのです。ここからは、いまもそうとうに霊的な影響を受けておりますし、霊的な遺産も受けています。また、この金星には、昔の金星人以外に、現在では、多くの宇宙人が来て住んでいるという話が、『高橋信次のUFOと宇宙』という本にも書かれていたと思います。実際、金星に、彼ら宇宙人のステーションができているようです。 みなさんの勉強がすすめば、さらに、このあたりにも入って行ってもいいと思っておりますし、けっきょくは教えも、宇宙人の説明まで入っていくことになるでしょう。高級霊と話ができるということは、当然宇宙人とも話ができるということなのです。基本的には、できなければ嘘なのです。実際できるのですが、これをやると信用にかかわるので、今のところは黙っております。というのは、私たちはみな、もともとは宇宙人なのですから、念による意思疎通の方法論は、原理的には同じなのです。 そこで、金星の話もSFのようにも感じると思いますが、実際『太陽の法』に記されているとおりでありまして、上半身がユリの花で下半身が人間のような、金星人が創られました。創造された当時はこれがいちばんいいと考えられたのです。 みなさんは今の人間の形がよいと思うでしょう。では、もし、なにもモデルがないとして、人間のような生き物を創るとすれば、どのような構想を立てられるでしょうか。今の地球人のように、朝食にお茶づけや、あるいはコーンフレークを食べ、昼ごはんには焼きソバかチャーハンを食べ、夜にはステーキを食べることができればよいと思うかもしれません。 しかし、実際に、まわりに何もないところに人間のような生き物を創ろうと考えてみますと、食物で不自由することになれば、彼らがかわいそうだという思いがありませんでしょうか。やはり、まわりに何もなければ自前で食べていけるようにしてあげたいという、慈悲の心が湧いてくるわけです。 ここで、やはり植物のイメージが出てくると思います。あのように光合成ができて、食物に苦労しないで自前で食べていけたら、さぞかし、気分がよかろうかと思います。しかし、植物であれば、動けない不便さがあります。それではかわいそうだということで足を生やそうかということになるのです。動くことができて、しかも自前で養分もつくれるという理想的なスタイルとして金星人がつくられたのです。しかし、このような金星人を創造してみたものの、けっきょくはたいしたことがなかったという話です。 だいたいどのように彼らが生活をしていたのかを、想像してみてください。太陽が出ているときには元気に動きまわっていて、雲が出たり雨が降ったら、これは不幸だといってまったく動きまわることができないのです。わかりましょうか。このようなことになるのです。これが金星人であったのです。 このような間題がありましたが、創る段階ではなかなかそこまではわからないのです。理想的であると当初は思ったのですが、結果的にはこのようになってしまったのです。しかも、永遠の生命を持っているために死なないときたものですから、全然進歩がなかったのです。陽なたぽっこばっかりしてるのですから進歩がないわけです。やはり、これは存続させないほうがよいという結論になったようです。 この時点では、まだ転生輪廻が確立されていなかったのです。そしてこれがひじょうな教訓となって、地球での転生輪廻が進んだわけです。 地球人霊の創造に際し、二つの大きな柱がつくられました。まず、第一の柱として、生命の発現レベルに上下の差を設けました。次に、第二の柱として、地上での生命活動を有限として、多次元世界との転生輪廻を法則とし、この二大柱をつくったのです。 第一の柱、すなわち生命の発現レベルに上下の差を設けるということに基づいて、アメーバ、プランクトンから始まり、各種の動物植物を創り始めたわけです。 この地球生物の創造に関しては、またもう一度改めて、地球の歴史も書いてみたいと思っています。地球の歴史は、四五億年ありますが、私には、すべてがわかるのです。みなさん方にはもう少し勉強して基本法を早くマスターしていただきたいと思います。 たくさんの講師が養成されて、基本法について講義をしてくれるようになれば、私はさらに面白いことをいろいろ言える段階に入れるのですが、みなさんの勉強がまだそこまでついてこないので、次の段階をお話しすることができないのです。早くこのような領域にも入ってみたいと思っていますので、しっかりレベルを上げてくださることを期待します。 天上界において、六億年ほど前に、高級生命を創る計画をいたしました。そして金星のエル・ミオーレを呼び、哺乳動物、高級動物を創り始めたのですが、それほど十分に創造することができなかったのです。それでいよいよだめな場合はどうするかということですが、会社などでも急成長をしていて、人材が育たないときにどうするかといえば、外部人材を入れるわけです。いわば輸血をしながら企業を発展させていくのです。 同じように、三億六千五百万年ぐらい前に、そうとうな人材をいろいろな星からひっぱってきたわけです。これについては、高橋先生が詳しく話されている本がいろいろあるので、それを参照してください。それ以前に、九次元霊をこの地球に四人ほど呼んでおります。キリストの前身アモール、モーゼの前身モーリヤ、孔子の前身セラビムといった方がたです。 17.地球人類最初の歴史 『太陽の法』にも記述されておりますように、地球霊団創出のために、三億六千五百万年前、ベータ星という星から、六千万人ほどの人を呼んだということになっています。そして、最初のエデンの園が創られ、人類の歴史が始まったわけです。 ところが、一億二千万年前に、ルシフェルという名の、べー夕星から飛来してきた住人たちの長である七大天使のうちの一人が、地獄を創ってしまいました。そして地獄の帝王になってしまったのです。これについては、もう少し詳しく知りたいでしょうが、 『大天使ミカエルの降臨』全3巻が刊行されておりますので、これをご参照ください。 このなかでミカエル天使長が、ルシフェルがなぜ地獄に落ちることになったのかということや、ミカエルとルシフェルとの戦いなどの一部始終を語っております。 実際にこのルシフェルが地上に降りたあと、ミカエルも肉体を持って地上に降りたのです。そして、どのような戦いが展開されたかが、そのなかに書かれてあります。ルシフェルというのはそうとうにすごい力を持っているのです。いろいろなパワーがあって、火の柱を飛ばしたり、ものすごい霊能力をもっております。アラブの中東のほうでありましたが、火の柱を立てるくらいの力を出して、ミカエルと霊力戦を行なうのです。そのような話が出ております。 第一回目のベータ星からの移住以降、『正心法語』にも書かれておりますように、何段階かに分かれて大船団が地球に向けてやって来ました。 第二回目は、アケメーネ、オルゴン、カイトロンという方がたが出てまいりました。アケメーネがマヌといわれる存在です。オルゴンがマイトレーヤー如来といわれております。カイトロンというのはクートフーミー、ニュートンといわれている方です。 さらに第三陣として、ペガサスからセオリアとサマトリアが、一億三千万年前、約二十億人を連れて飛来しました。これは、ゼウスとゾロアスターです。 このあたりは、まだ九次元霊でみなさまの前にお出ししていない方がたです。まだ四人ほど残っているはずです。ここに出てきている、マヌ、マイトレーヤー、ゼウス、ゾロアスター、彼らはまだ霊言で出ていませんが、もちろん出すつもりでおります。現におりますので、彼らの霊言・霊示集を出したいと思っています。出したいけれども、予定が詰まっておりますし、みなさんは本が多すぎて読めないですし、私は多忙のうえに三次元的束縛がいろいろあるのです。 しかしながら、知りたいものを知らさないわけにはいかないし、出さなければいけないと思っています。私の使命は、今の時代でわかるかぎりを全部出すというものですから、彼らの霊言をもれなくお伝えしたいと思っています。 『イエス・キリスト霊示集』なども出版いたしましたけれども、イエス様の生命体はひじょうに大きいのです。あれだけではないのです。たとえば、アガシャーや、クリシュナなどという意識で出ております。先日も、クリシュナが、夜、私のところにあらわれてきました。ナザレのイエスだけでは物足りなくて、他の意識が出たくてウズウズしてるのです。 彼らに全部奉仕していますと、たいへんな量になりますので、みなさんは、速読術をマスターされたり、内容を勉強する力も磨かれて、消化できるようにしておいてください。 人霊の創造部分、このあたりがたいへん興味深いでしょうが、これについても、「大天使ミカエルの降臨」の第2巻に収録されており、そのなかで、この人霊、分光のしかたについて、どのようにして分光があったのか、ということについての説明がなされています。実際上、どのように霊を分光して他の霊を創ってきたのか、この歴史・経緯についてそうとう面白い話が載っておりますので、これもまたご参照ください。 また、ルシファーについてはやはりみなさんも疑問でもあるし、勉強の材料にもなると思います。しかし、ここに、修行者にとって一つの大きな反省の材料があるということです。このような大天使であっても、地獄に堕ちるようなこともあるのです。そして、この発生原因を考えると、これにはイエス・キリストのときのユダのような転落者の発生原因ともひじょうによく似たところがあります。これは、修行者として心せねばならないことなのです。それは、力がついてくればくるほど、謙虚になるための努力が必要だということであります。
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『僕と召喚獣の精神理念』 作者:ヒノフヘ ステータス:連載中 タグ:長編、ファンタジー、動物、青春、戦闘、ロボット リンク:(別窓) コメント: ロボットとか 動物とか 青春とか 時間とか 交じり合った物語。 予定では、たぶん三部構成になると思ったり。 タイトルほど難しい話じゃないです。軽い気持ちで、トレンディーに(?)読んでいただければと思います。 基本的に毎週月曜日投稿中。気分でちょこちょこ番外編とか出すかもしれないです。 意見・感想どんどんください! (シリーズ全体に修正を入れている途中です。修正が間に合わず、読みにくい箇所もあるかもしれません) 4/11 第一部(全二十一話+番外編二話)投稿完了 下記より第二部の投稿状況をお知らせします 第二部:(別窓) 5/02~1/16 第一話~第三十話投稿完了 1/23 第三十一話投稿 1/30 第三十二話投稿 2/13 第三十三話投稿 2/20 第三十四話投稿 2/27 第三十五話投稿 3/05 第三十六話投稿 3/12 第三十七話投稿 3/26 第三十八話投稿 ----
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種きた ~イ・ナムギョの日本語源流散歩10(機械翻訳) 紀元前4世紀頃,カヤ族によって米作が日本に伝来したという。狩猟でさまよってその日その日を生きていった土着民らにあって農作業で安定した住居生活ができるようになったことは人生の大変革だった。狩猟民族で農耕民族で,原始民族で文化民族での変わるこの時期を日本は弥生時代という。 米作で最も重要なのは 種 であるが,母国のカヤで種が到着した時 種きた という(のは)話の意味があまり大きくて,この言葉が 幸福 という意味の シアワセ (幸福)になった。 米 で 幸福 という単語を引き出したことだけ見ても,種もみを持って到来したカヤ族らを原住民らがどれくらい尊敬して尊敬したのか察してあまりあるに値する。 だから彼らを神(靴)と敬って神社(紳士)に迎えたことはもしかしたらあまりにも当然の処置ではないだろうか? 日本神社(紳士)の神々が皆到来韓国人であることはこういう歴史的な理由からだ。 私たちは日本の臣事すれば日帝強制支配期時の 神社参拝強要 という痛みのために拒否反応を起こすが,実はその神々が全部韓国人ということを分かれば少しは愉快でないだろうか? そのように見れば 懐かしがる,思慕する という意の 市(詩)ダウ (慕う)も 種甘いですよ という話で由来したというのに,これも簡単に理解できる。 そして 米 は古代韓国語で 肉 であるが,韓国語の 太る も 米 で由来したことで,日本語の 贅沢 (幸)すなわち, 幸福 という(のは)話もこの 米 から出た言葉だ。 種きた が持ってきた シアワセ (幸福), 種甘いですよ が作り出した 市(詩)ダウ (慕う)は現代を生きる欲張りな私たちに人生の幸福はそれほど高くないところにあるということを語っていることだけ同じだ。 とても忙しく東奔西走して自身を忘れて生きるあなただ! 簡素な衣食住だけ解決されることができるならばもう少し心の余裕を持って人生の幸福が何か一回ぐらい見て回って生きるということはどのようか? ヤマドリ音と渓谷の水声を聞いて流れる雲をとめどなく眺めるひまな余裕時間を設けるのも,時にはすばらしいことではないか? 愚かな者は遠いところで幸福を求めて幸せな人は足の下で幸福を育てる で誰か話したのではないか? [2009/03/11] ソース:韓国毎日新聞(韓国語) [イ・ナムギョの日本語源流散歩-10] 種きた http //www.imaeil.com/sub_news/sub_news_view.php?news_id=11000 yy=2009 ※この記事はexciteの機械翻訳で生成した記事です。内容が不正確な場合がありますので、ご了承ください。
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目次 1.人類は死滅するか 2.ノストラダムスの予言は当たるか 3.核戦争を考える 4.正義と正法 5.日本の繁栄 6.超人類の出現 6.超人類の出現 さて、この日本の繁栄のなかで、福音となるべきことを言っておきたいと思います。 それはもちろん、今正法神理が説かれているということもひとつだけれども、やっぱりこれから言えることは、相当の数のいわゆる超人類が出現するということです。超人類っていうのは言葉として悪ければ、いわゆる、何て言うかね、昔物語としてみなさんが知っているような奇跡、奇跡物語っていうのは聖書の世界とか、そういう世界だけにあると思っているだろうけれども、そうした奇跡の人びとが数多く出てくる時代にあるということなんです。 それは、ある意味で現代のイスラエルの民であるということとも一致するんですが、イスラエルになぜあれほど預言者が出たか、まあ言ってみれば神の声を聞く人がなぜあれほど出たかということだね。それだけの超能力を持った人がいっぱい出たんだね。その時他の国は何していたのかと言ったら、寝ていたのかどうか知りませんが、それほどたいしたことはなかったね。このように、日本という国は今宗数的な高みができつつあるけれども、これから超人類がいっぱい出ます。超人類というのは、いわゆる現代における現代科学の水準で、常識といわれているものを超えていく人たち、これがいっぱい出ます。超人類がいろんな形で出ます。 たとえば、この霊言集だって続々と出てますね、霊示集かなんか知らんが続々出ている。年に二十冊も三十冊も本が出ている。これなんかも奇跡かもしれないけれども、こうしたことがいろんな分野で起きてくる。あるいはファッションの面で、ものすごいデザインがどんどん、どんどん出てきたり、あるいは新たな芸術家が出てきたり、素晴らしい大作家が出てきたりね。 とにかくインスピレーション型の天才が、数多く出てくると思います。レオナルド・ダ・ヴィンチじゃないけど、ああした天才たちがね、これから日本、日本だけじゃないけれども、日本に相当出ますよ。これは福音ですよ。宗教家だけじゃない。いろんなそうした、ものすごい天才がいっぱい出てくる。みなさんそれを目の当たりに見ることができる。喜べ、喜べっていうことですね。こんな楽しい時代はないです。 こういう超人類が出てくるということはね、これは神が現代という時代をどれほど憂いているか、心配しているか、また現代人たちを救おうとしているか。こうしたことに関係していると思います。だからそうした超人類、天才たちの活躍があっちにもこっちにも目立ち始めたら、「いよいよ時期が来たな。神様がいよいよ計画を始めたな。俺たちを本当に導いてくれるつもりなんだな。山の頂きまで連れていってくれるんだな。」こういうふうに思ってください。 この時に大事な考え方は、やはり寛容の精神だと私は思います。いろんな分野で、才能がキラキラする人がいっぱい出てくるけれども、それを嫉妬するような小さな国民感情であってほしくない。そうした才能を異端視するような、そうした国民であってほしくない。やはり素晴らしいものは素晴らしいものとして、いろいろと百花繚乱(ひゃっかりょうらん)となってくるようなそうした時代背景をつくりたいね。 寛容の精神こそ、今望まれている。そうした超人類が出るための土壌は、寛容の精神です。寛容の精神がなければ育ちません。そういうことで、大いに寛容の精神というのを日本の国に培(つちか)っていただきたい。そう思います。 読者の方もね、神理の書もいっぱいこれからいろんな形で、いろんな人が出すでしょうが、それを善か悪か、真か偽かというのではなくて、どの程度の神埋が出て来ているかという、神理の現れ方が違うという観点から判断してください。正しいのがひとつというようなものでもないのです。そういうふうに判断して、寛容な精神でもっと天才の活躍を肋けるような、そうした精神風土をつくっていきましょう。本章は以上です。
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目次 1.資本主義経済と共産主義経済 2.経済と神理の兼ね合いの再検討 3.神理も専門家集団を創らないと、法に深みと広がりが出てこない 4.神理を価値として合む経済学の必要性 5.神理探究者への経済的優遇措置の再考 6.新経済学①――法価値を認めた経済原理 7.新経済学②――神理の付加価値を認める経済体制の確立 8.心の価値が認められる新経済学の時代 (1987年8月14、15日の霊示) 1.資本主義経済と共産主義経済 高橋信次です。さあ四章、「新経済学」えーこういう題で話をいたします。まあみなさんね、読者のみなさん、私がなにを言うと思うでしょうか。どうやったらお金が儲かるか。そういう話だと思うでしょうか。 それともお金はぜんぶ捨てなさい、ドブに捨てなさいなんてね。一円も、儲けちゃいけません、こういう話になるかどうか。まあどうでしょうかねえ。きょうはでもちょっとね、ま、せっかくですからあなた、ちょっと景気のいい話もしとかないとね。 「お金なんて持ってあの世に還れません。」なんて言ったら、なんかがっかりしちゃうだろうから、ね。ちょっとだけ、ちょっとだけいい話をしますね。 で、まあ私が本章で意図してることはね。経済理論のまあ再構築と言いますか、建て直しであります。まあいま、資本主義経済とか、あるいは共産主義経済とか言ってね、いろんな経済学あります。 まあ資本主義の経済の原動力っていうのは、けっきょくある意味で人間の欲望というのを解放しとるんですねえ。人間というのは、ようするに富というものを蓄積して、それを使いたがる。そういう性格を持っておると。だからまあお金を儲けて使いたがるんだと、ね。 より大きな家。より大きな車。より大きななんといいますかねえ、えー財産。より美しいかあちゃん。より賢い子供。まあこういうふうに、人間というのは欲望の連鎖でもってね、生きていくと。こういうふうに思っておるのが、資本主義経済なわけですね。 一方、マルクス主義経済っていうのはそうじゃないんですね。つまり経済っていうものの奴隷になっちゃいかんと、人間はね。そういうことで、ユートピア実現のために貨幣、資本のね、公平分配、これが必要である。 そして一部資本家による独占、あるいは支配というようなもの、こうしたものを認めてはあいならんと。こういうことですね。独占支配を認めちゃならん。公平に分配してみんなで共有しよう、ね。 まあほんともっと典型的に言っちゃたらね、ほんと昔、プラトンちゅう人がやったそうですねえ。言ってたそうですねえ。婦人の共有まで考えなさいなんてね。 ま、そら男性から見たら、「うん、それも悪くねえなあ。」なんてね。 「そりゃそうだよなあ。なんでうちのかあちゃん、同じかあちゃんとあなた、三十年も四十年もいっしょに顔合わせにゃいかんねん。若いうちはいいぜー二十代はね。ま、三十代前半ぐらいまではいいけど、あとはもういらねえよなー。」なんてね。 「あとはもうどんどん若いのがいいんじゃないかなー。」なんてね。「共有しようぜー。」なんてね。 若い人だったら「イヤだよ。年寄りのかあちゃんなんか共有できないよー。」なんてね、なるかもしれない。 あるいは子供まで共有しちゃおうなんてね。子供は国家財産とするなんて言っちゃったら、ほんとうややこしいですね。 まあそういうふうに、欲望のなんというかね、欲望によるその増大、欲望の増大っていうか、欲求の増大っていうものは認めないかわりに、公平とか分配というようなこと考えたけども、まあ共産主義にはそこにまたひとつの行き詰まりがあるね。 ただ共産主義のほうから見ると、資本主義ってのはあれは欲望の奴隷だとね。欲望をつのらしとる、と。 あんなんじゃいけない。あれがほんとうの生きかたじゃない。まあこう言う。 2.経済と神理の兼ね合いの再検討 ま、両面ね、ま、たしかにまああってるとこはあるんですねえ。あってるんです。ただね、えーひとつ考えにゃいかんことは、単に資本主義経済はね、資本家を肥やしてね、太らして、そして欲望をつのらしてね、そして独占で支配が始まると、いうようにだけ考えればいいかというと、そうじゃないんだなあ。それだけとは言えない。 えーじゃあどうかって言うと、ま、ひとつのね、それはやはり自己確認の手段でもあるということですね。貨幣というものも、悪くなれば執着の奴隷になっちゃいますが、いいとこはあるんだな。 仕事というのが、まあ一定の評価を与えられて自己満足、それと自己確認ができて、そしてそれがさらにつぎの生産を生んでいくというところね。いいとこありますねえ。 たとえば、こういう私は霊訓集ちゅうのを作ってますが、これ作ることによって私には一円もお金ははいりませんねえ。まあ、だから霊は足ることを知って一円もはいらないんですが、じゃあ現実の人たちね。 じゃあそんな神霊の本を出しておるんだから、出版社は一円も儲けちゃいかんか、ね。印刷屋は儲けちゃいかんのか。あるいは著者も儲けちゃいかんのか。まあーしかしそれはねえ、やっぱり考えものですねえ。 やはりこういうもんで儲けちゃいけないから、一生懸命庭で大根作って、大根売ってねえ、そして、その利益で生活しながら無料で霊言を出すというまあ考えもあるかもしれませんが、しかしねえ、やっぱりそういうもんでもない。 もうお金の価値というものにたいする考えかたですけどもね。えー逆の考えもあるっていうことですね。 いわゆるほんとうに神理に則したものにたいしては、値打ちを認めていくっていう考えもあるんですね。そして神理に反するものの値打ちは低く見ていく。 ま、そういう考えかた、そういう新しい経済学の考えもあるんですねえ。 だからこの世の中をユートピアにしようとしたら、まあ昔イエス様が言ったように、カイザルのものはカイザルに、神のものは神にというふうに、地上の権力と、あの世の権力というものを分けて、そしてお金はこの世のもの、そして心はあの世のものっていう考えもあるけれども、この世のもの的なお金のなかにね、やはりできるだけいい使われかたをするような、そういう経済学っていうのがあってもいいんですね。 だから、まあ先般もある本のなかで言ってましたけども、たとえばあれでもいいんですよねー、えー正法にのっとった生活をしとる人は税金が安くなって、ねえ。えーようするに心はもう垢がいっぱいの人はもう税金が高くなる、ねえ。それでもいいんですよー。そういうことでもね、悪くない。 それから、神理にのっとった人にはね、経済的な優遇が与えられる。こういうこともあってもいいんだな。 これは共産主義でも資本主義でもこういうことはないね、いまは。そうだろう。資本主義では、お金儲けのうまい人はお金がたまる、ね。共産主義のほうでは、もうようするに、まあ共産党の本部はちょっとまあ金儲かるんだけど、それ以外の人ってのは貧しさの公平分配やってるわな。 それじゃどうすりゃ心の聖者、聖者はもうようするにそうめん食っとれっちゅうんかってね。あのーそうめん食ってりゃええんかってね。そういうことですなあ。 おにぎり昼(ひる)食って、もう夜そうめん食っとりゃええんかってね。目刺しでもたまに食っときゃええんか。足ること知っとりゃええんか。まあそういうこともあれば、まあここも考えの分かれるとこね。 まあ聖者が金庫(かねぐら)建っちゃったら、こりゃ欲望にもうチャリンコ、チャリンコね、お金数えてばかりいたら聖者が聖者でなくなると………えー読者のみなさん、せっかくいいとこまで来たんですけど、ちょっとここで注釈をしなきゃいけない。 えーいままでの部分は、八月十四日四国の山荘で収録しておったとこなんですね。ところが収録の途中で雷が落ちまして、で停電になりまして、私の新経済学が途中で切れちゃったんですね。 だから今日は日をあらためまして、八月の十五日になりまして、えーきょうはカラッと晴れあがっておりますね。途中まで新経済学言って、あと続きが出なくなっちゃったんですが、おーなにを言っておったかというとですね、えーまあお金がチャリンコ、チャリンコやっておっては、聖者はまあ聖者でなくなるかと、まあこういうことを言っておったわけですね。 しかしね、まあそういうわけでもないんですね。やはりね、金銭的な余裕っていうのがね、精神的な余裕を生む部分もなきにしもあらずなんですね。 たとえば、えーまあ私のこの収録もね、なんとみなさん八月の半ばに、お盆に、みんなもう東京で暑い暑い言ってね。もうパタパタパタパタあなた、あのー扇子(せんす)じゃない団扇(うちわ)でパタパタしながら脂汗流してはいまわってるときに、私はなんとあなた四国の山荘でこの新経済学を収録しとるんですよ。みなさんね。 で、四国の山荘で新経済学を収録するためには、やはりそれなりの経済がいるんですねえ。えーやっぱり飛行機に乗って、やはりここに来なきゃだめなんですね。来ないと収録はできない、ね。 そして収録して、あーこらもうそれから高原でね、気温は二十三、四度、あー涼しい。クーラーもいらない。こんなとこで収録してこんないいことないってね。 もう勢いこんで元気いっぱいやり始めるとですね、ガラガラガラガラゴロゴロゴロゴロって雷が鳴り始めてねえ、夕立になって、停電になって、私の収録がおじゃんになると。まあこういう厳しい場合もありますねえ。 まあそういう自然の猛威というのには勝てないわけでありますが、まあそれはべつとして、えーまあ多少、経済的に余裕があれば、聖者もそれなりの仕事ができるんですね。まあこれがあるんです。 えーたとえばそれは原稿の執筆でも同じなんですね。 原稿の執筆をたとえばあのうあなた続き長屋でねえ。もう隣の部屋からね、明りがもれてくる。えーベニヤ板かなんかで仕切ってあってね。明りがもれてくるなんてとこで、あなたこんなとこでね、自動書記で霊言の執筆なんかできませんよ。 隣で「オギャーオギャーオギャー。」とかね。あなたね、「こら、かあちゃんまたさんま一匹足りねえぜー。」なんてね。「チェツ、だれだよ、こんな炭(すみ)みたいに焼いたのはー。」とかね。 そらあすき焼き食べてたらね。「だれだ、おれの肉隠して食ったのはー。」なんてね。「おまえだろうー、ネギに隠して肉食ったのはー。」なんて。 「おにいちゃん、僕じゃないよー、あいつだよ。」なんてね。そういうことやってるとこではなかなかできない。 まあそういう意味でね、聖者といえども、現在洞窟のなかであなたやれませんからね。そういう意味で、多少のね、その環境作りのための資金というのはいると思うんですね。それをかならずしも否定できるもんじゃない。まあそういうことは言ってもいいと思うんですね。 3.神理も専門家集団を創らないと、法に深みと広がりが出てこない ま、これに関しては私自身もひじょうに考えるところがありましたね。えーまあGLA時代、私も高電工業という会社を営んでおったために、事業家であったわけですねえ。 そして自分で講演のなかでね。「今世は光の天使はみんなね、宗教家なんかに生まれません。」てね。 「みんな事業家として出てね、自分で自分のめしの種を稼いで、そして初めて法を説く。」と。まあこういうふうになっとんだと、ね。 「銭や金のためにね、そんなやっちゃあいけません。」ていうふうに言いました、ね。で、じっさい自分もそれ守りました。そして苦しみました、苦しかったです、ね。はっきり言ってね。 えーだからまあそれ一代限りはいいけど、まあ、あとは続かないっていう面があるんですなあ、これやるとね。とくに私みたいに自営業でやった人はまだええけども、会社勤めしてる人はダメですねえ。いわゆるサラリーマン。 じゃああなた講師やりながらパンパン実名でやれるかっちゅうたら、ほらやっぱり苦しいとこあるねえ。知られたくない、ね。会社って。 会社ってのは変わったことする人はもうほとんどダメなんですねえ。変わったことする人ってのは、あいつはおかしい。ちょっとここへきてるなんて頭さしたりね、指さしたりされます。まあそういうことがあって、なかなか落ち着かないんですね。 それでねえ、私もいろいろ考えたんですが、まあ私はいまのお寺のようなね、観光仏教ね、あれ大きらいだし、戒名の値段でね、百万円、二百万円戒名代取ったりするのね、あんなの大きらいなんですけどね。 まあそういうものはべつにしても、まあ神理が説かれるときにね、それなりの基礎ってのはやっぱりいるなーっていう感じはしてます。 とくにまあサラリーマンは二足のわらじでね、やっておったんでは、なかなかそんなに満足したね、法の探究、伝道っていうことはできないんじゃないかと。ま、そういうふうに感じられるわけですねえ。 これは仏陀も同じ考えであって、釈迦仏教の時代もね、やっぱりサンガーというのを創りました。サンガーっていうのはまあ僧団ですね。えー集団と言ってもいい。教団ですね。やっぱり専門家集団創ったんですねえ。 なぜ専門家集団が必要かっていうとね、けっきょく、そういう専門家集団を創らないと、法に深みと広がりが出てこない。こういうことが言えるんですね。 つまり仕事をしながらね、一日八時間、縛りつけられながらやはり法の探究しておると、やはりその法に深みが出てこない。どうしてもね。 講演等でもそうですね。えーまあなんの準備もしないで話するのもいいけど、やっぱり多少準備して話したほうが中味が濃くなりますわな。ほら、あの作業服着て抜けだしてきて、いきなり講演したってね、いいけども、まあそれじゃ、ちょっと中味が薄くなる。ま、そういうことありますね。 だから私も生前八年間ぐらい法を説いたでしょうかね。七、八年間説きましたが、そのときに亡くなるときにね、私は言いましたね。亡くなる前にはみんなに言ったことあるんです。もう八年、七、八年かかって私はもう説き尽くしたと。 仏陀が昔、四十五年間かかって説いたことを私はもう七年か八年で終わったと。説き終わったと。もうなにも説くことはない。 説き終わったと言ってあの世へ昇天してね、十年以上たったら、しまった!あっちにもこっちにももう説くこといっぱいあってね、もうたいへんだった。忘れてたんですね。 つまり時間がないとなかなかね、余裕が出ないんですね。法に深みと広がり、これが出ないんですね。ま、こういうことが言えると思います。 4.神理を価値として合む経済学の必要性 だからまあ、けっきょくなんていうかね、私自身でもやはり法にね、狭さがあった。こういう点は否めない。こう思いますね。 だから講演テープなんかね、私の講演テープなんかでもまあ、「いつも同じ話しとるなあ。」なんて聞いとる人もおるんでしょう。 「なーんか『心の原点』ちゅう題ばーっかりでいつも話してるんだ。なにかたまにちがうこと言え。」なんてね。 ねえ、「現象だってまあほらまあ狐やって、つぎ、蛇やってね。蛇やったつぎにはあなた犬やって、犬やったつぎにはあなた、あのうなにかやる。」ってね、「まあ種類変えてね、やったら楽しみもあるのに同じ現象ばかりやって、いつもお狐さんとお蛇さんばっかりやっとったら退屈するぞ。」ってね。 「もっとちがうことやんなさい。」なんてね、言うような人もいたでありましょう。まあそうしたもんでね。やはり、えー時間というものもだいじにしなきゃいけないんでね。 で、時間を作るための基礎はやっぱり経済力ですね。経済的余裕がないと時間ができない。そういう意味合いもありますね。 ところがね、不思議なんですね。そういう法を説く人が経済的に余裕がなくて、法なんか説かないのにかぎって経済的に余裕があってね。別荘持ってあなた、従業員いっぱい雇って遊んじゃってヨット持ってね、遊んでるんですね。世の中まちがってますね。 だから唯物論者なんかもう時間なくてヒーヒー働いとりゃいいんですよ、ね。 昔からあのーほら仏陀のサンガーだけじゃなくて、エジプトなんかでもそうですねえ、エジプトの王宮、宮殿のなかにもやはりそういう祭司階級ていうのがおりましたし、どこでもそのお寺、あるいは神社、あるいは教会みたいなところで、えーお金に苦労しないで、ようするに法の探究、実践ができるような人の集団ていうのがいつもいたんですね、一定の割にね。 全員これになっちゃ困るけども、やはりあるていどのね、そういう時間がいるんですよ。その生活に苦労しないていどで時間が得られるっていうことね。だいじですねえ。 だから私も考えてみれば、まあもうちょっと時間があればよかったかなーなんてね、思ってますね。ま、そういうふうに感じます。 ですから、これからの法の探究者、実践者はね、自分の人生っていうのはそう長くありませんからね。それをできるだけ効率的に生きていくための方法論は考えにゃいけませんよ、ね。私はそれはそう思いますね。 だからお布施もらってね。その布施を集めてお布施が二百万になったら自費出版で本出して、ただで配るなんてね。こんなことする必要ないんでね。ほんとうにいい本作れば、それは読むほうも利益だし、作るほうも利益と、まあこういうのでいいんじゃないでしょうかねえ。 たとえば『高橋悟次霊訓集』なんか一冊これがまあ千円か千二百円か千三百円か私知りませんが、千円ぐらいで買えるんでしょう、ねえ。ほらあなたね、紙代とね、インク代だと思うからね、千円越えたら高いなんて思うんであってね。 この内容の思想はどうだ、ねえ。こらあなた言葉は美しくはないかもしれませんよ。しかしながら、九次元のね、大如来がいま、しゃべっておるんですよ。絶対に聞けないんだ、こんなの。あなたね、どんなに逆立ちしたってね、もうあの世へ行ったって聞けないんです、私の言葉なんて。それが聞ける、一冊の本で。こんなの値打ちつきませんよ。 まあ、はっきりいやあ、もう正倉院のなかか、あるいはどっかの国宝ですよ、ねえ。もう法隆寺かなんかの国宝ですよ、こんなの。そんなに値打ちある。 それがあなたね、廉価版(けんかばん)でね、みんなコーヒーにサンドウィッチぐらいの値段で買えるんですね。こんなありがたいことない。 だから世の中の経済システム、どこかになんかまちがいがあるように思うんですね。だからこれからはね、えー僕は思うんですが、神理というものを価値として含んでいる経済学ね、これがだいじじゃないかな。こういうふうに思うんですね。 だからようするに神理により近い経済行動をとっておる人にとっては利益が大きくなるような、そういうシステムが開発されていい。まあそう思うんですね。 5.神理探究者への経済的優遇措置の再考 だからまあなんと言いますかねえ、えーそれはまあひとつの柱として考えれば、税金システムでもいいと思うんだな。 いま、税金のシステムっていうのはべつにもう関係なく頭割り、収入の額でガンガン来ますね。ぜんぜん関係なく収入の額でおまえいくら、おまえいくらと来ますね。これもまあ問題あると思うんですね、僕はね。もうちょっと税金なんかも考えてもいいんじゃないかね。 まあたとえばね、うーん、この前なんかもなにか言ってたね。松下幸之助さんみたいな人が八割も九割も累進課税で税金もっていかれるんでしょ。で、「くやしい。」とね。「こんな十億も金、税金払ったって、役所はそれなにに使ってんか。」ってね。 「どうせ夏場にはクーラー入れて鰻丼(うなどん)かなにか食っとんだろう。」ってね。 「あーもったいない。あーもったいない。そんなことする金があったらおれがよっぽどいいことのために使いたい。」まあそういう気持ちはありますね。僕はそう思いますね。 だから、たとえばね。えーこれからの日本の国で神理の流布や、あるいは公布、交流、こういうものをね、やろうと思ったら、ひとつにはまあお寺の坊さんと言ったら僕はちょっと疑問があるんですが、こういう神理探究者、ね、仏法を伝え探究する人にとって、たとえば無税にする、いいですよ、ね。 いまだって東南アジアでもタイみたいな国では、お坊さんていうものにたいしてものすごく尊敬払ってるね。そしてあのー彼らが生活の糧(かて)稼がなくても生きていけるように、みんなで布施したりいろいろして、お坊さんものすごく尊敬してるね。 こういう神理の探究者を尊敬するという風潮っていうのはいまの日本にない。これは教育制度も悪いけどもね。これはいかん。だから、あのー優遇措置をまず作る必要がある。神理を探究する者にたいしてね。 たとえばまず税金、こういうものを取らない。こうしたらもう税金逃れたくてもう坊さんなる人はいっぱい出るかもわかんないけどね。 まあいいじゃないか、それもそれでね。それはそれでいいじゃないか。そういう人口も増えていい、多少ね。そういうあんまりね、この世的に縛られない人の階層作ってやる必要がある。 それと国会議員であなた、電車のフリーパスだのなんだの言っていっぱいやっとるんだろう。あんなものもったいないですなあ。あんなことする必要ない。それよりはやはり神理の探究する者にとってね、経済的にほんとうにあのーメリットのある方式をね、使う必要がある。 たとえば神理の団体、研究者、こういう人たちがね、旅行するとき、あるいはホテルなんかね、泊まるときね。あるいはホールとか会場とか借りるときに、格安の料金で借りられるような、こういうのをつくってやるといいね。 だから、旅行とか宿泊なんかでも目的によって分けるわけですね。で、なんでもいいが、「研修会やります。」ってね。「なんとかホテルで、えー大洗海岸で二泊三日の研修会をやります。」ってね。 こういうときにはみんな率先してね、「うちは定価の三割にさせていただきます。うちは二割にさせていただきます。」っていうこういうふうな優遇が出るようなね、こういう社会環境にしてほしいね。 日本の国っていうのもひじょうにいま、豊かになってきとるんだね。その豊かな部分を精神的なるものの奉仕のためにね、やはり便わにゃいかん。僕はそういう時期が来てると思うんですね。 だからみなさん、経済的に余裕が出てね、豊かになってきたら、その豊かな部分をね、昔は教会の十分の一税っていって納めてたんですよ。 そういうことする必要はないから、そうした神理を探究し、伝道する人たちが、十分に利便を、なんて言いますかねえ、えー使えるような、そういうところにねえ、奉仕すればいいんですよ、ね。 だからホテル業界、ね、旅館業界、話し合ってね、こういう神理のためにね、合宿や研修やるときにはね、みんななるべくもう原価に近いところでね、やれるようなそういう態勢作りましょ。 僕ら儲け過ぎとるけど、そういうとこへ奉仕がやっぱりあっていいんじゃないかと、献金といっしょなんだからそれは。そういうふうにしませんかってね。ま、そういう方針もあっていいんじゃないでしょうかね。 それから、神理の団体だったらとくに、もう何百人もはいる会場探すこと、あるいは千人、二千人がはいる会場探すことはたいへんむずかしいですね。これを探すことはね。こういうことがけっこう苦しみになってきます。 だからそういう土地、建物持ってる人たちがね、そういうサービスを提供できるようにね、まあこういうところでもっともっとね、経済学働かなきゃいけない。 6.新経済学①――法価値を認めた経済原理 だから神理経済学、新経済学のね、第一点はやはり法の価値ね、法価値というのを認めなさい。そして法価値を認めて、それを認めるならば、それが高まるような方向での経済原理が働いていい。 人間ひとりひとりをなんと言いますかね、欲望の、欲望型の人間、ね。みんなもう自分の欲を持って経済活動する人間ていうふうに定義するんじゃなくてね、もうちょっと別の観点からやる必要がある。 だから神理を説いたり運動する人たちが、そんなにね、脱税して一生懸命努力しなきゃいかんようなことさせるな、ということだね、まず。 そういうことをさせずに、心置きなくね、これに邁進できるように、経済政策をまず変えていきなさい。これだいじですよ。 とくにだいじなのがほんとう、交通、あるいは宿泊料、場所代、こうしたもんでね。 えー現代でも布施の心ってのはだいじですよ。そういう布施の心、経済原理の改変によってね、まず考えていく必要があるんじゃないか。こういうことがひとつですね。 7.新経済学②――神理の付加価値を認める経済体制の確立 それからもうひとつはね、えーま、交換経済って言っていまいろんな交換がありますけどね、物の交換みたいなのがありますが、そうした交換経済にもう少し神理価値を乗じていく必要があるんじゃないでしょうかねえ。 外国なんかではタクシー乗ってもチップとかあるんでしょ。一割ぐらいチップあって、運転マナーがいいと上がって、ねえ、運転マナーが悪いとチップはなくなるってこんなのあるんでしょう。ホテルでもタクシーでもね。だからそらそうですよ。物の代金だけじゃないと思いますよ。ガソリン代じゃないと思いますよ、タクシー料金っていうのは。 同じようにね、そのサービス料、チップ料じゃないけれども、そういう神理料みたいな神理価値によった値段の幅があってもいいと思うんですね。そうじゃないでしょうかね。えー私はそう思いますよ。だからいまさっきは安くなる話をしましたが、逆に高くなる話なんですね。これはね。 あのー単なる物の売買、あるいは流通というふうに考えずに、神理という価値がこもっておるものに、ようするに付加価値、サービス料金、これが付くような経済体制の確立ですねえ。これを考えにゃいかん。 いま考えとるとあなた、トマトだとかレタスだとかなんかしらんが、東京近郊で作ったやつと軽井沢で作ったトマトとか言ってね。あるいは無農薬トマトだとか、えーなんとか栽培トマトとか、水栽培とか、なんかかんか言っとんでしょ。そして変わった栽培したらそれが値打ちあったりするんでしょう。そんなの値打ちないよね。 もっともっとね、心が、心の価値を認めにゃいかん。心がどれだけこもっておるかね、これによってね、決めていく必要があると思うんですねえ。 だからそのひとつの典型的な例って言うのは、会社のあれでもそうですね、活動なんかでもそうですね。だから神理にたいしてね、神理を推し進める活動ね、形での企業活動をしておるものには、利潤が豊富になるように。 そして神理に関してそれはどちらかというと、まあ後退させるような企業活動に関しては利潤が少なくなるように。こういう経済システムをね、あるていど考えていく必要があるんじゃないでしょうかね。 ま、この経済システムをたとえば、なんでもいいですが、出版業界に持ち込めばね、たとえば神理に関する書物ならもちろん、あのー利幅が高くてもいいですなあ。 ところがつまらんもうエロ小説ね、なんかもう見るに堪えないような写真雑誌ね、いっぱいありますが、こんなのはもう二束三文で買えるようにね、もうこういうふうにしていく、ね。 だからこの辺まちがわないで、なんかちょっとおかしいですよ、世の中ね。裏ビデオみたいなものがすごく高くなんか出まわったりして、変ですよー。そりゃおかしいですよ。 高橋信次のこんなあのー霊言集、霊訓集なんちゅうのが、まあ千二百でもいいけど、定価千二百円とすりゃあ、これは「こんなの安すぎる。これ一万部限りらしい。たいへんだ。一億人がみな欲しいって言うとる。しょうがないな。一万分の一しか本がない。しょうがない。」って言うんでこれが一万円の値打ち生んでまわったりね。 そのていどでもほんとうはおかしくないんですよ、ね。だから神理価値を認めていく、ね。こういう方向っていうのは僕はひじょうにだいじだと思いますよ。 だからタクシーの運ちゃんでもそうですね。運転手でも、えー運転手、まあなんとかタクシーって書いてあるけれども、バンと運転手の免許証なんてはってありますが、あそこに運転手の履歴みたいなの書いてね。 精神修養ね、こんなんだって、「私は毎週日曜日に内観して反省しております。そして心の調和がひじょうにできております。」 ってこうバーンとはってあったら「おっ、このタクシー運ちゃんできる。よし。チップー割五分。」ね。「チップ一割五分。」 ところが客が乗り込んだって黙ってね、ブスッとしてね、なにも言わない、バンと閉めて「おいどこそこの駅まで。」って言ったら、黙ってブーツと行ってね、ブーッとして、着いたら黙ってブッとそれ出してね。 こういうのはチップなし、ね。こういうもうちょっとね、心がようするに調和できればね、経済的に豊かになるようなシステムをね、もう少し考えにゃいかんな。 えーだから公害だすような企業は、税金どんどん重くなっていくね。公害企業は税金重くなっていく。 ところが社会福祉を進めたりね。あるいはなんと言うか、まあそういういまのひとびとの心をゆたかにするような経済活動をしているところには税金が安くなっていく。こうすりゃいいね。税金もそうだし、あるいはものが高く売れるような値打ちが認められる、ね。 だから本屋だっていろんな本出しとるけど、本屋によってはやはりどういう精神的な本を出しとるかによってその価値が、格がついていく、ね。ま、そういうもんだな。 だからソーセージだってそうですよ。ねえ、あのーなんか精神修養よーくやってる人が作ったソーセージとねえ、「この野郎。」なんてブタ追いかけてポーンと蹴っ飛ばして、頭叩いてあなた作ったソーセージとじゃあ、値打ちがちがう、ねえ。 まあそういうようになんかね、そうした値打ちをね、認めていかなきゃいけない。こうした経済学の構築。 8.心の価値が認められる新経済学の時代 だから第一番目にまあ税金面でのね、優遇措置と、それから神理に関する利用にたいする優遇措置ね。これが第一番。 第二番目は心の価値というものを経済原則のなかに織り込んでいく。で、心が高まった人のものとか、企業活動に関しては、どんどん利益が出るように。そうでないものにたいしては利益が少なくなっていくように。 そういうふうにしてね、人間というものをよい方向に導いていくためのね、方便、これがひじょうにだいじですよ。私はこれだいじだと思います、ね。 けっしてあのー説法だけが方便じゃありませんよ。やっぱりアメとムチじゃありませんが、この世の人間には、やはり欲もあるし目先のこともあるんだから。そういうことをね、国の政治指導者たちはよーく考えてね、指導していかなきゃいけない、ね。 いい方向へ人間を導いていかなきゃいけない。税金いっぱい取って大蔵省がいっぱい予算あるんだってね。それであの予算配って喜べるようなそんなシステムつくってもだめですよ、ね。よーくその辺考えなさいよ。 それから会社のなかでも神理を知った人が出世していけるようなね、どんどん幹部になっていけるような、そういうシステムね、昇進制度、これをいっぱい作っていかねばいけませんよ。 まあね、えーまあ、『新ビジネス革命』なんてのがあって、こういうことが書いてありますけどね。まあ私もまったく同じ意見ですね。だからそういう考えかたね、だいじにしてください。 心の価値が認められる時代、そういう新経済学の時代であってほしい、そう思います。
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【元ネタ】日本書紀+古事記 【クラス】セイバー 【マスター】 【真名】日本武尊 【性別】男性 【身長・体重】164cm・53kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力B 耐久B 敏捷B 魔力B 幸運A 宝具A++ 【クラス別スキル】 対魔力:B 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。 大魔術、儀礼呪法等を以ってしても、傷つけるのは難しい。 騎乗:C 騎乗の才能。大抵の動物、乗り物なら人並み程度に乗りこなせる。 【固有スキル】 神性:B 天照大神の直系にあたり、本人も相応の信仰を集めている。 合気:A 森羅万象の活動と自身の気を和合することによって、周囲の状況を感覚的に把握する。 これにより、命中と回避に有利な補正を得ることができる。 神殺:B 神や神獣との豊富な戦闘経験。 神性を持つ相手に対してダメージが向上する。 【宝具】 『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』 ランク:A 種別:対人宝具 レンジ:1~3 最大捕捉:1人 日本国三種の神器の一つ。ヤマタノオロチの怨念を鎮めるため、その骨を削りだし神剣として祀り上げたもの。 スサノオの神剣『天羽々斬(あめのはばきり)』の刃を欠けさせたほどの硬度を持つ。 内部から漏れ出す水の魔力を抑えるため、柄の部分に火打石がはめ込まれている。 そのため、常に魔力が霧となって刀身全体を覆っており、刀身の秘匿、気配遮断、魔力効果の打消しを可能とする。 常備型の利器としての宝具である。 『天叢雲(あめのむらくも)』 ランク:A++ 種別:対城宝具 レンジ:10~99 最大捕捉:1000 草薙の真名を開放し、草薙の内部に秘められたオロチの魔力を解き放った状態。 川・雲を象徴する神、オロチの化身である八筋の濁流を空中に生み出し、それを操ることで対城規模の蹂躙を行う。 【解説】 2世紀頃に存在したとされる日本神話の英雄。景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる。 その名は【この国で最も強いもの】を意味し、神々から草薙の剣を授けられた。 たいへんな美貌の持ち主で、女装しての色仕掛けで敵をだまし討ちにしたことがある。 その力を父に疎まれ、多くの戦場を渡り歩かされた。戦いに果てた時、その魂魄は白鳥となって空に上ったという。 【イメージイラスト】 日本武尊、ヘクトル、パリス、ラーマ 右:宮本武蔵 左:日本武尊 【出演SS】 ヤマタケVSポイヤン(+1) 日本武尊とポイヤウンペのトラぶる道中記 坂上田村麻呂&鈴鹿御前のトラぶる道中記 マスターV教授(+フラット君)のサーヴァント講座 三時限目 すっごくラーマなカマセチック
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【元ネタ】日本書紀+古事記 【クラス】セイバー 【マスター】 【真名】日本武尊 【性別】男性 【身長・体重】164cm・53kg 【属性】秩序・中庸 【ステータス】筋力B 耐久B 敏捷B 魔力B 幸運A 宝具A++ 【クラス別スキル】 対魔力:B 魔術発動における詠唱が三節以下のものを無効化する。 大魔術、儀礼呪法等を以ってしても、傷つけるのは難しい。 騎乗:C 騎乗の才能。大抵の動物、乗り物なら人並み程度に乗りこなせる。 【固有スキル】 神性:B 天照大神の直系にあたり、本人も相応の信仰を集めている。 合気:A 森羅万象の活動と自身の気を和合することによって、周囲の状況を感覚的に把握する。 これにより、命中と回避に有利な補正を得ることができる。 神殺:B 神や神獣との豊富な戦闘経験。 神性を持つ相手に対してダメージが向上する。 【宝具】 『草薙剣(くさなぎのつるぎ)』 ランク:A 種別:対人宝具 レンジ:1~3 最大捕捉:1人 日本国三種の神器の一つ。ヤマタノオロチの怨念を鎮めるため、その骨を削りだし神剣として祀り上げたもの。 スサノオの神剣『天羽々斬(あめのはばきり)』の刃を欠けさせたほどの硬度を持つ。 内部から漏れ出す水の魔力を抑えるため、柄の部分に火打石がはめ込まれている。 そのため、常に魔力が霧となって刀身全体を覆っており、刀身の秘匿、気配遮断、魔力効果の打消しを可能とする。 常備型の利器としての宝具である。 『天叢雲(あめのむらくも)』 ランク:A++ 種別:対城宝具 レンジ:10~99 最大捕捉:1000 草薙の真名を開放し、草薙の内部に秘められたオロチの魔力を解き放った状態。 川・雲を象徴する神、オロチの化身である八筋の濁流を空中に生み出し、それを操ることで対城規模の蹂躙を行う。 【解説】 2世紀頃に存在したとされる日本神話の英雄。景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父とされる。 その名は【この国で最も強いもの】を意味し、神々から草薙の剣を授けられた。 たいへんな美貌の持ち主で、女装しての色仕掛けで敵をだまし討ちにしたことがある。 その力を父に疎まれ、多くの戦場を渡り歩かされた。戦いに果てた時、その魂魄は白鳥となって空に上ったという。 【イメージイラスト】 日本武尊、ヘクトル、パリス、ラーマ 右:宮本武蔵 左:日本武尊 【出演SS】 ヤマタケVSポイヤン(+1) 日本武尊とポイヤウンペのトラぶる道中記 坂上田村麻呂&鈴鹿御前のトラぶる道中記 マスターV教授(+フラット君)のサーヴァント講座 三時限目 すっごくラーマなカマセチック
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目次 1.反省修行の場としての四次元世界 2.あの世へ還ると「過去を映す鏡」に自分の一生が映し出される 3.自分の一生をスクリーンで観て、自分が何処へ行くかが分かる 4.地獄の特訓コースの実態 5.五次元霊界の人びとは職業を持っており、一般的な人が多い 6.六次元神界には、学者や専門家が多くいる 7.菩薩界の方があの世へ還った時は、神界で反省することが多い 8.如来界の方は、ほとんど元いた世界ヘ一直線に還ってくる 9.六次元の上段階からいる光の天使 10.菩薩の役割は、如来が出る時に、如来を助けて法を広めること 11.日本神道系には、諸如来、諸菩薩の方がたが多く出ている 12.仏教系の諸如来、諸菩薩の方がた 13.古代中国の諸如来、諸菩薩の方がた 1.反省修行の場としての四次元世界 世界を去ったあとの四次元世界、この四次元というのが、幽界(ゆうかい)と言われています。 この世界は死んですぐ間もない方がたが来ているところです。まだ、ここでは人間は、肉体ではないらしいということが、朧(おぼろ)げに分かっているくらいの人が行くところです。これは幽界なんです。だから幽界というのは、他次元世界に渡ってくる人の準備するところ、まあ収容所です。そういう地上的な垢(あか)、塵(ちり)を落とすための修行所として、あるいは控えの間として、用意されているのが四次元なんです。 地上で偉かった人でも、いったんはここ四次元界に入ることが多いんです。四次元、幽界世界のことについて語ると、ここがいろいろ分かれまして、有名な閻魔(えんま)大王さんというのがいて、お前はあっちへ行け、こっちへ行け、お前は地獄へ行け、と言っている、と言ったら嘘であります。そういうことはありません。そういうことは無いんですが、いったん幽界というところへ来て、またよほどの悪人なら、真逆(まっさか)さまに地獄へ堕ちちゃうんですけど、それほどの悪人でもない普通の人というのは、まだまだどういう人生を、自分が送ったか分からないから、肉体をぬぎ捨てて、霊体として、まず四次元へ来ます。その時に、その本人の守護、指導霊たちが、まず肉体からの離脱、そして四次世界への誘導というのをします。この場合、必ず導きの人が来ます。 そして四次元世界へ来まして、自分の親しかった人で、あの世に先に来ている人が、その人の死ということを知って、まず迎えに来るんです。なつかしいお父さん、お母さんなんかが出迎えに来ちゃったり、あるいは、親戚の人、友だちとか、こういう人がいっぱい寄って来るんです。 そして、そういう人を見たら、「あれ、この友だちは交通事故で確か死んだはずだし、父ちゃんは二十年前に亡くなったし、母ちゃんも十五年前に亡くなったはずだ。それが出て来るということは、どうやら俺も死んだらしい」こういうことが分かるように、そういうことのために、知っている人で親しい人が普通は来るんです。 そして、そういう人に交わって、いろいろ話をして、それからまた守護霊たちが来て、何かと説得しまして、「あなたは地上にいた時には、こういう生活をしていたんですよ。だから、自分自身の一生というものを、もう一回振り返ってみなさい」こういうことをいろいろ言われるんです。そしてまた、お父さんやお母さん、あるいは、兄弟たち、亡くなった人たちも、霊界の先輩として、さまざまなアドバイスをするんです。「この世界は、こういう世界だから、よく守護霊の言うことを聴いて、道を選ぶんですよ」とか、「よく還ってきたね」とか、いろんなことを、みんな言ってくれます。それぞれ霊界では、一年生ですからなんにも知りません。だから人から聴くことだけがすべてです。 地上に生きていた時に、高橋信次の本を読んで、あの世のことを勉強している人はいいですけれどそれ以外の人は、なんにも分からないから一年生です。私の本を読んで勉強している人は、まあこれは、教科書ガイドかなんか読んで勉強したような人ですから、他人より良く分かっているんです。予習していますからね。こういう人は、分かっているけれど、それ以外の人は分からないから、まず人の意見を聴いて勉強するということになります。 そして守護霊は、その人が仏教徒なら、仏数的な教え方で、「あの世というのがあるんですよ。天国や地獄があるんですよ」ということを教えていきます。そして、人間としての正しいあり方、というのを教えていきます。また、その人がクリスチャンなら、キリスト教系の霊たちが来て、イエス様がおっしやったことに照らして、「こういう生き方が本当なんですよ。天国、地獄はこうなんですよ」と、こんなことを教えてくれます。 2.あの世へ還ると「過去を映す鏡」に自分の一生が映し出される そしてあなた方、チベットの『死者の書』とか、あんなので「瑠璃玻(るりは)の鏡」とか、こういうのを読んだことあると思うんです。まあ、人間死んであの世へ還ると、その人の一生を映し出すスクリーンみたいのが出てきて、あなたの七十年、八十年の人生をスクリーンでバーッと映してしまうんです。あっという間に。これはこの世と違って、七十年、八十年かからないんです。ほんの短時間の間に、あなたの一生のドラマというのは、そのスクリーンに映されるんです。隠しだては、絶対何もできないんです。 「だれも知らない、俺だけが知っている」なんて思っても、たとえば、「あそこで本を一冊万引きしたけれども、そのことはだれも知らないし、だれにも見つからなくて、うまいこといったなあ」なんて思った、忘れていることまで出てきます。あるいは、パチンコ屋へ入って、パチンコ玉一つ拾って、たまたまそれを打ち込んだらチューリップが開いちゃって、入って儲(もう)かったなんていう、こんなのが全部出てきます。本人が忘れているような、えーあんなことがというようなことまでね。 あるいは、コーヒーの自動販売機に百円玉入れて、一杯六十円だからお釣リが四十円のはすが、手に取ってみたら十円玉が五個出てきた。「あ、十円儲かった」と。前の人のだと思いながらそっと財布に入れた。こんなのもみんな分かっちゃいます。それでその人の一生は、総ざらいです。 また、ある人がヨガの先生をやろうなんて、ハチマキしちゃって、一生懸命ヨガのポーズをして、逆立特訓器を使い始めたりする。そんなのも分かっちゃうし、あるいは、ある人が、私は幼い時に健康体ではなかったから、どうやら食べ物で治そうなんて考えて、もう肉は食べまい、もう肉食は止めて菜食ばかりにしよう、なんて野菜ばかり買物している姿とか、こんなのがみんな出てくるんです。 その瑠璃玻(るりは)の鏡は、過去を映す鏡とも言います。スクリーンでず。まあ鏡というのは、昔の人は鏡というたとえでしか分からなかったんですが、現代風に言えばスクリーンです。立体映画みたいなもんです。もうその人の人生がすべて、出てくるんです。そういうふうにして、いろいろな人が、守護、指導霊も見ているし、友だちや親戚、先生、親兄弟みんな寄って来て、見るんです。そしてその人の生涯が、映し出されます。 その時に、「あいつ二枚目だと思って、女の子を次つぎ騙(だま)しているな。また今度入って行くぞ。ああまた、これは渋谷だな。渋谷のラブホテルだ。ああまた入って行く。ああ植え込みの中に入って行った。安い方に入ったな。隣りのホテルは高いから、あいつ安くしようとして、安い方の三千円の方に入ったな」なんて、こんなことがみんな分かっちゃうんです。そういうことがすべて分かります。 あるいは、行った行為だけでなくて、心に思っていることまで分かるんです。あなた方四コマ漫画で、主人公が"あのやろう゛なんてつぶやいているのがセリフで出てきますね。これまで出てくるんです。たとえば子供の時だったら、先生がいて教えています。そして、手を「ハイ、ハイ、ハイ」と子供が上げます。ところが、自分を当ててほしかったのに、違う子が当てられた、そして、「何とかちゃん、よくできましたね。その通りです」なんて言われて、「あの野郎、俺だって知っていたのに、本当は俺の方が手をあげるの早かったのに、先生が気がつかなかっただけなんだから」なんて腹の中で思っているのが、これがその姿を見ると、風船みたいに口からプーップーッと出てきて、その中に言葉が書いてあるんです。四コマ漫画みたいな感じです。思っていることが全部分かっちゃうんです。 そこで皆さん、バイブル、聖書を一回くらい読んだことあるでしょう。イエス様が言われているでしょう。「心にて姦淫(かんいん)した者は、実際に姦淫したのと同じである」とか、あるいは、「心の中で泥棒したものは、泥棒と同じだ」とこんな厳しいことをキリストは言っています。「クリスチャンて大変だな、ここまではできない」なんて言ってるけど、こんなの人ごとじゃないんであって、心に思ったことが全部出てくるんです。 3.自分の一生をスクリーンで観て、自分が何処(どこ)へ行くかが分かる だから、やがてみんなその映画が終る頃には、自分が何処(どこ)へ行くか、大体分かってくるんです。「これは天国行けそうにないな」と分かります。 まあ、高橋信次なんて、そんなに偉くないと思ったけれど、彼の人生自体はいろいろな人がみんな知っていると。みんな知っているけれど、地獄で消滅させるほどは悪くないな。だから、天上界へ行かしてもいいんじゃないか。と、一応皆さん評価してくれるわけです。 ところが、普通の人で、やりたい放題やって生きてきたら、他の人と比較されると、大体分かってくるわけです。映画を観ると、みんなの拍手の数を見れば大体分かるわけです。客がパラパラとしか手を叩(たた)かない。「こりゃどうもダメだな」と分かってくるわけです。そして、そのあとですね、守護、指導霊と問答が始まるわけです。「お前どうだ、自分の人生を観たか」「観ました」「どうだ、恥すかしいか。恥すかしくないか」まあたいていの人は、恥すかしくて、顔を真っ赤にして、「こんなことは、もっと早く教えてくれりゃよかったのに。もっと早く教えてくれたら、私だって真当(まっとう)な人生歩んでましたよ」と言うんですが、手遅れなんです。 そうはいかない。それは本人の不勉強ですよ。生きていた時だって、材料はいくらでもあったんだから。たとえば、私の本を少しでも読めば、あなた、真当な生き方が書いてあるんだから。その通り生きればいいのに、そんなものは迷信だ、なんて勝手に決めつけて。決めつけたのはだれですか、本人ですよ。本人の責任です。本人が勝手に決めつけて、「霊界なんかあるものか、人生この世限りだ。人より偉くなれば、この世的に偉くなればそれでいいんだ。人より金が儲かればそれでいいんだ」と、これだけで人生渡ってきたんです。そのツケは、だれが払うんですか。自分が払わないでだれが払いますか。だれも払ってくれる人はいませんよ。そして、あの世の霊界人たちに、そうぃう唯物的な生き方をしたのを、全部見られます。 そして、こういう心を調和した霊たちと、自分は一緒に暮らせるかな、とよくよく考えてみます。ダメですね。一緒に暮らせません。それで、守護霊と相談して、「どうも守護霊さん、私は皆さんがいられるようなところへは、行けないようです」「よく気づいたね。そうならあんたどうする。他にこういう特訓コースかあるよ」特訓の一覧表がバッと出ます。 4.地獄の特訓コースの実態 はい、これが地獄の特訓です」地獄の特訓十三日コースじゃなくて、地獄の特訓二百年コースか、百年コースか、五十年コースがあるわけです。「さあ、どのコース君歩むかね」「まあ私は、二百年くらいかかりそうですな」「そうでしょうね。あんたなら二百年分くらい悪いことしていますね。じゃこのいちばん厳しいコースを一発いってみるか」「まあ一つ頑張ってみますわ」「何処(どこ)から入るかね」「そうですね、悪いことをいっぱいやったけど、私は強盗やったわけじゃないから、そんなところへ行きたくないし。それほど暴力は好きじゃなかったね。ただ、女の子が好きで、どうもちょっと遊び過ぎたかもしれない。大分泣かしちゃった。子供の二、三人産ましちゃったかも分からない。よく知らないところだけど、ちょっとこの辺に行こうかな」「じゃああなた、血の池地獄へでも行ってきなさい」ということで、まずここから入リます。 血の池地獄で、どぼどぼ、どぼどぼと血の中で喘(あえ)げばいいんですよ。やがて悟ってくるわけです。そして血の池地獄を卒業すると、ホッとして、「まあ、これでいいかな」と思うと、まーだまーだ、あなたそれくらいじゃ「地獄いいとこ一度はおいで。一度来たなら出さないよ」と。血の池終っただけでは、すまないんですよ。「ちょっと隣りの地獄もあるんじゃない」って言われて、血の池から上がって五十年くらいしてやれやれと思って出てきたら、「ちょっと隣りの地獄へ行っておいで」なんて言われて、隣りに行くと、今度は畜生道だったりします。 動物地獄、動物界ですね。ここへ行くとまあ、野獣みたいなのがいっぱいいるわ、いるわ。そして何をしているかと思ったら、なんかオットセイみたいな格好になっちゃって、顔を見たら人間ですよ。「あら、何とか君じゃないの。君何してるの」「いや、オットセイみたいになっちゃって大変なんだよ」「何が大変なんだよ、あんたオットセイみたいになって」「いや何だか知らないけど、雌(めす)見たら無性(むしょう)に追いかけたくなっちゃって」とか言って、オットセイみたいな体になっちゃって、でぶでぶと。そして、モウモウモウ言いながら、腰かなんかこう体を動かしちゃって、雌を一生懸命追いかけているわけですよ。 こんな動物界っていうか畜生道へ行って、ハッと気がつくと、なんか自分も変ってきたなんて思うと、今度は犬みたいな格好になっちゃって、自分が。「あらまあ、自分が犬みたいになっちゃったわい」と思うと、犬みたいな格好をしています。すると急に、ヒュッと目の前に雌犬が出てきて、それがまあ可愛い顔しちゃって、どこかの美容室の先生みたいに可愛い顔しちゃったりして、急になんか追いかけたくなったりして、キャン、キャン、キャン、と追いかけて行ったりして。こんなこと五十年くらいやるんです。 ああ終りました。「やれやれ、どうやら俺もこれで天国かな」と思うと、まだまだ地獄はあります。「こっちへいらっしゃい」なんて言われて、今度は、そっちへ行ったら無頼漢(ぶらいかん)地獄なんていって、無頼漢、まあ、やくざ者が多いところへ行きます。「俺、こんなところに用ないはずだけど、おかしいな」なんて思うと、そんなことないですね。六十年、七十年生きてくると、けっこう人を非難したり、やっつけたり、陥(おとしい)れたり、貶(おとし)めたりしているんです。「ああしまった、そんなこともやったっけ」それで、そういうところでまた特訓を受けるわけです。人を傷つけることが、どれほど罪深いことか、自分自身が納得するまで取り組みます。 こうして、ここを終るとやっと、また元の幽界へ還ってきて、「ああ大変でした。守護霊さん二百年たちました。やっと私は、出てきましたよ」「おお御苦労だったな。やっとお前も、まともな人間みたいな顔になってきて。お前の過去を償(つぐな)うには、これで十分だろう」と。「そろそろ普通の人間の生活するか」ということで、四次元の中でもちょっといいところもあるんです。幽界の中でも、精霊界(せいれいかい)っていいまして、人間が霊だということを、やや悟った人たちが行くところがあるんです。今度はこういうところに入って行きます。 ここを限りに生まれ変ってくる人もいるし、またこれから五次元、六次元と進化してくる人もいます。こういったところは、また他の人もいろいろ教えているだろうから、まあ詳しくは説きませんけど、人間が、死後、しばらくたどる過程は、こんなものです。ところが、こういうふうな人は、地獄へ行く人ですけれど、こうじゃない人もいるんです。 5.五次元霊界の人びとは職業を持っており、一般的な人が多い たとえば、あの世へ行って、まず四次元へ入って幽界の中で、自分の生きてきた人生を反省します。「自分は、学者として立派に勉強しました。いいことしました。大学の教授として、いろんな人の尊敬を集めました」「ああ良くやったね。ところであなた魂って知っていた」「いや魂は、よく知りませんでした」「じゃあ、魂の勉強をしてみるかい」ということで、守護霊の特訓を受けて、魂って何か、ということがだんだん分かってくる。「ははん、人間は霊的存在だったんだ」と。そういう人は、五次元の霊界へ入って行きます。そして五次元の方がたと、霊的な生活をします。日常生活をします。 ところがその人は、学者さんですから、どうもまわりの人と話をいろいろしていると、ちょっと違う。まわりの人は、あの世でもまだ五次元くらいだといろんな職業を持っているんですね。大工さんしてみたり、農業やってみたり。まあ魚屋さんというのは成り立たないけど、いろんな職業やっているんです。住んでみて、まわりの人を見ると、「どうも一般的な人が多いな、普通人が多いな。どうも俺と話が合わないな。どうやら俺が行くところは違うみたいだな」と思っていると、また守護霊とか指導霊が出てきて、「それはその通り、あなたはいろいろ勉強して学者だから、学者がいるところ、学者村へ連れて行ってあげましょう」それで六次元へ連れて行ってくれます。 6.六次元神界には、学者や専門家が多くいる そこは、六次元神界です。ここへ行くと、いろいろな専門家がいっぱいいます。とくに神界の下段階、中段階では、元大学教授だとか、いろいろな元何とかの専門家とか、こんな人がいっぱいいるんです。こういう専門家ばっかりいるところです、六次元というところは。ここへ行って、自分の話が合うような人のところへ連れて行かれるんです。その人と大体同じレベルのところへ行くんです。ここは神学者なんかもけっこう多いんです。 ただ六次元でも、上段階になってくると、もうこれは、光の天使の予備軍です。ですから、もうちょっと心の世界、あるいは、魂の世界を悟らないといけないんです。しかし、生きていた時に、私の本を読んで勉強していた人は、悟りも旱いだろうけど、あの世へ行ってはじめて、魂があるということを知ったような人じゃ、なかなかいけません。大体六次元の下段階、中段階を限度として、もう一回生まれ変ってきます。そして、魂ということを勉強していきます。まあ、こういうのは、普通よりちょっと優れた人といえましょう。 7.菩薩界の方があの世へ還った時は、神界で反省することが多い もっと優れた人は、たとえばその人が、この世で最初から高級霊としての使命を持って生まれてきた人です。ある人は、たとえば宗教家として生まれてきました。こういう人は、生きていた時に、生命の限りを尽くして仏教の真理、あるいはキリスト教の真理、そういうものを説いて、人びとを教えて、そして還って来ます。こういう人は、途中の四次元幽界にはとどまってなくて、たいてい元いた世界へ還ってくるんです。 しかし、それも教えに誤りがなくて、ちゃんと説いた人なら、菩薩界なら菩薩界ヘ一直線に還ってくるけれど、たいていの人は、ちょっと下位のところで、もう一回勉強するんです。菩薩界くらいの人だったら、地上に出て修行すると次は、神界くらいに還ってくるんです。神界くらいに還ってきて、いったん光の天使としての自分の在り方というのを振り返って、心の垢(あか)を落として、菩薩界に上がっていくんです。あるいは、本当に間違わずに地上でやった人は、まっすぐ元いた世界へ還ることもあります。 8.如来界の方は、ほとんど元いた世界ヘ一直線に還ってくる 如来界の人なんて、たいてい如来界に還ってきます。これは、やはり大分違いますね、先生の役割ですから。如来というのは、地上というか、全霊界で四、五百人しかいませんから。それほど優れた方がたですから、こういう方がたは、そんなに迷うことは滅多にありません。たいていは一直線に還ってくるし、如来界の方が地上に出る時は、通常、あの世の守護、指導霊が直接指導していますから、そんなに狂いはないんです。 そういうことで、まあ如来界に一直線に還ってきて、あの世で、いろんな如来たちと話をして、自分の教え方に間違いなかったかどうか、そういうことを反省します。あるいは、他の人といろいろ議論して、今後こうした方がいいとか、いろんなことを勉強します。こういうふうに、段階が変っています。 9.六次元の上段階からいる光の天使 七次元の菩薩界には、二万人近い諸菩薩かおりますが、そのすぐ下の六次元神界の上段階には、光の天使として数えられるような人というのが、一億人から二億人ぐらいいます。あるいは、上段階というよりも上々段階あたりから光の天使がいるといってもよいでしょう。 (注 六次元神界全体では数十億入の人口がいるが、上々段階にいる光の天使は一、二億人である) このあたりは、神様とよばれる人がすいぶん多いんです。生きていた時に、まあちょっとすごいなという人が神界の上段階です。これはと目を引くような人、これはと思うような人、ほとんどが指導者です。あるいは、学者であったり、いろいろなその道で超一流を窮(きわ)めた人というのは、大体、神界上段階の方なんです。 彼らは、人類の進化を早める、というような特別の使命を持った方がたです。このように神界の方というのは、人類の進化速度を速めるという使命を持っているんです。ですから、もちろんそのために、ダニ退治の殺虫剤を開発した人もいたかもしれないですけれど、薬なら薬、工学なら工学、それから今なら飛行機とかロケットとか、こんなものを研究している人の中にも、もちろん神界上段階の方もいらっしゃるし、光の天使に近い方もいらっしゃると思います。こういう宇宙時代ですから、宇宙開発のために、そういう方もきっと今降りているはすです。宇宙飛行士なんかも中にはいるかもしれません。 あるいは、そういうのではなくて、古色蒼然(こしょくそうぜん)とした宗教家をやっているかもしれないし、いろいろですけれど。大体この神界の住人である条件は、別に仏教、あるいは神道とか、そういう宗教じゃなくてもいいんですが、この世的に優れた指導者となるということです。これが神界です。 そして、神界の上段階で、アラハンという境地かありまして、菩薩に入るための準備段階の境地のことを言います。菩薩行、まあ菩薩行というのは愛ですね。自分というものをなくしていって、人に対する奉仕、愛、尽力、こうしたもののために生きる、仏教を知って。そういうものが菩薩ですけれど、こういう菩薩になる前の境地で、神界の上段階にアラハンの境地があります。 10.菩薩の役割は、如来が出る時に、如来を助けて法を広めること そして、菩薩になるとご存知のようにいろいろな、仏教なら仏教の歴史の中に出てきた諸菩薩がいます。あるいは、キリスト教系では、キリスト教の立て直しをずいぶんやった方がた、あるいはそれ以外にも有徳な菩薩の方がたがいっぱいいます。菩薩の中には歴史に名前が残っていない方もいっぱいいます。 現在、日本にも諸菩薩がずいぶん出ています。明治時代にも数十人出ましたけれど、現在、一九八〇年代後半の日本に、今日本に生きている諸菩薩が数十名おります。けっこう多いんです、菩薩の数は。そうですね、私の霊眼に映ずる限り、見てみますと四、五十人出ています。今の日本にもけっこう出ています。アメリカという国にもけっこう出ていて、百人くらいいます。やっぱりこういう時代ですからね。あそこも大変な先端の国ですから。 菩薩の役割っていうのは、だいたい想像がつくでしょうけれど、如来が出る時に如来を助けて法を広める、とこういう仕事をしています。あるいは、如来が出られないような時にも、時どき地上に出てこられては、法の種を残していきます。 鎌倉時代で言えば、栄西、親鸞、こういう人もそうです。あるいは、道元さんという方も、菩薩界の方だったのですが、私の生前の本の中で神界の人だと言っている箇所があるので、道元ファンに悪いから、今、訂正しておきます。 もう一人、日蓮聖人についても訂正をしておきましょう。私は生前、S学会の教えと、日蓮聖人の教えとを同一視して批判したことがありますが、日蓮聖人ご自身は、もともと八次元如来の霊格を持っておられる方であり、現在はお役目上、七次元と八次元の境にある梵天界(ぼんてんかい)で最高責任者として、諸菩薩の教育、指導に当たっておられるご様子です。これ以外にも鎌倉時代では、一遍上人(いっぺんしょうにん)という人がおり、この方は菩薩界上段階に今はおられます。 あるいはもっと前、平安時代になると、空海、こういう人がいます。空海さんという方も偉くて、この人はどっちかというと如来ですね。ほとんど如来と言ってもいいでしょう。もう、梵天ではなくなってきています。まあ如来界に足を入れています。 まあ平安時代にも、偉い人はいっぱいいました。 11.日本神道系には、諸如来、諸菩薩の方がたが多く出ている もうちょっと前になると、卑弥呼(ひみこ)の時代です。卑弥呼を中心として、いろんな諸如来、諸菩薩が出ています。もちろん、神話の中にも現在では分からないけど、日本神道系にも如来の方がいっぱい出ています。日本神道もけっこう偉いんですよ。如来界の方だっていっぱいいらっしやいますから。他の宗教では、そんなにでていません。だから日本神道は、けっこう格が高いんです。 天之御中主之神、この方は偉い方です。まあ八次元なんですけれど、八次元では最上段階、もう九次元とどっちが、どっちかというくらいのところにおられます。ですから、天之御中主之神様というのは、キリスト教で言うと、大体ミカエルと同じくらいの立場にある方です。キリスト教系では、大天使としてミカエルがいます。この天使長ミカエルは、日本神道系で言うと、天之御中主之神と大体同じ格です。このくらいなんです偉さが。 それから、天照大御神様、こういう方もいらっしゃいます。この方も女性の方としては、もちろんトップです。女性霊団、この大霊団の中で女性が何十億人、何百億人いるからちょっと分からないけど、天照大御神様というのは、女性霊団の中では最高峰です。もちろんいちばん偉いんです。 女性で天照様と同じくらいの格の方というのは、あと、二人か三人くらいしかいません。しかも、日本ではなく外国の女性霊です。まあ、そういう方、日本神道系にも偉い諸如来、諸菩薩の方がたが何十人、何百人います。だからけっこう立派な団体なんです。こういうふうに高級霊団というのがあります。 12.仏教系の諸如来、諸菩薩の方がた 仏教系の方ではもちろん、二千六百年前にゴーダマ・ブッダ、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)が生命を持って以来、大如来ですね。九次元界のゴーダマ・ブッダが肉体を持って以来、いろいろな方が出ました。如来界の方もインド時代に出ています。ゴーダマ・ブッダの時代にも、何人か如来というのが出ています。たとえば、阿閃(あしゅく)如来とか、あるいは、仏教系の方は誤解される恐れがありますけど、大日如来という方もいらっしゃいました。これは、まだ別の機会で話しますが、古くからの大日信仰、大日意識というのは、また別にあるんですけど、これとは違って、まあ大日如来と言われた方が、やはりインド時代にいたんです。 それ以外にも、維摩居士(ゆまこじ)というか、維摩っていう方がいましたが(注 維摩経の維摩詰(ゆいまきつ)のこと)この方もかなり偉い方で、如来ではないけれども、梵天でした。こういう方もいます。 あるいは、時代を下ってくると、竜樹(りゅうじゅ)菩薩がいます(注 二~二世紀頃のインドの人。大乗仏教の宣揚に貢献)竜樹菩薩も、大ボサターです。こういう方がいるし、天台智覬(てんだいちぎ)、天台大師も梵天界にいます。七次元、八次元の間の梵天界に天台智覬という方はいらっしゃいます。 13.古代中国の諸如来、諸菩薩の方がた 古代中国では、孔子様がいます。孔子様も、私の本の中では誤りがありましたので訂正しておきますが、孔子様っていう方は、九次元界、太陽界の方です。孔子様という方が出られて、それから老子。老子という方も偉い方で、この方は八次元の方ですけど、八次元のかなり高いところに今、おります。 あるいは、孔孟(こうもう)って言いますから孟子様。孟子という方がいらっしゃいます。孟子様は如来じゃないんですが、菩薩界の上段階におられます。あと荘子。孔老孟荘の荘子、この方も菩薩界上段階の方です。 それから墨子(ぼくし)さんという方がいます。まあ、儒墨(じゅぼく)と言われて、儒教と墨教(ぼくきょう)ということで、けっこう孔子の時代は、墨教というのは流行(はや)ったんですけれど、それはキリスト教系の愛を説いているんです。この方は知られてないですけれど、墨子さんというのは、イエス様の分身なんです。私も、これは著書の中で触れていませんでしたけど、如来界の方で、墨子さんという方がいらして、イエス様の分身です。こういう人が出ています。今から二千何百年前に。まあこの人の教えを読めば、イエス様の教えそのものです。まったく同じです。こういう方が出ています。 こういうふうに、高級霊団というのは、いろいろな時代に、如来、あるいは、宇宙界の大如来というのを中心にしていろいろな菩薩が出て、世の中を救っています。こういう転生輪廻をやっています。こういう地球計画のもとにやっているわけです。
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目次 1.仏教、キリスト教、神道は、だんだん形式主義となり、暗いものになってきた 2.仏教が現在のように堕落してきた原因について 3.キリスト教においても、中味がだんだん失われてきて形式に堕(だ)してきた 4.真理を知るということは、目の鱗(うろこ)をはがすということである 5.知らないということから偏狭(へんきょう)な心が生まれ、不調和が生まれる 6.暴力によってユートピアが来るというマルクスの思想は間違っている 7.宗教間の争いの原因は、真理を知らないことにある 8.本来、幸せのための宗教が、人間を暗くしている原因について 9.過去、罪深いことをしてきた人間が救われる道は、今世で良いことをする以外にない 10.因縁を断ち切るためには、日時計主義の生き方をすることである 11.人間は、本当の真理を知ったとき、自由自在になり、明るい人生を生きることができる (1986年11月3日の霊示) 1.仏教、キリスト教、神道は、だんだん形式主義となり、暗いものになってきた 谷口雅春です。今日は私の話も第八回目、最終回となったが、「真理は、汝(なんじ)を自由にする」という演題で話をしたいと思う。今日の演題は、おそらく締めくくりにふさわしい演題であろう。 私たちは一体何のために、真理の学習に励んでおるのか。まずここから出発せねばならぬ。一九〇〇年代の終わりが近づいた、この現今の宗教好きの人たちを見ていると、どうも悩みが多い、私にはそう思える。仏教徒というのはどうも暗い。見ていると、カビ臭い。よく聴いておれば、どこかの木魚の音か何かが聞こえてきそうな気がする。あるいはナンマイダか、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)とか、そういう声が薄暗い御堂のなかから聞こえてきそうな、そういう気がする。 また、クリスチャンにしてもそうだ。教会の建物自体は、洋風であり、日本人から見れば、一つの素晴しい建築でもあると思う。しかし、教会でも、現在は歌を唄うとか、聖書を読むと、相も変らず二〇〇〇年も同じ聖書を読んでおるわけである。二〇〇〇年前に三十歳で法を説き始めて、三十三歳で磔(はりつけ)にあった人間が語ったとされる言行録、弟子が編んだ言行録を今だに一字一句読んで、みんな唱えておるわけだ。どれもこれも、なかなか明朗な明るい発展という道がないように思う。 日本神道系にしてもそうだ。現在においては、もはや、カビ臭いというか、陳腐(ちんぷ)なものとなってしまったように思う。今、神社に行って悟れる人はいないと思う。 神社に行って見るものは何か。まあ狛犬(こまいぬ)が二匹座っておるぐらいで、あとは御みくじだの御賽銭(おさいせん)だのを入れる箱があって、鈴かなんかが上からぶら下っておって、ジャリンジャリンと鳴らすと、まあ、この辺が終りだな。あと神道で他のものと違うとすれば、まあ柏手(かしわで)を二回ぐらい打つと、こういうことだろうな。こういう違いしかないと思う。 そして神主は何をしておるかというと、一応神道系の装束(しょうぞく)を着て、烏帽子(えぼし)か何かをかぶって、眼鏡を掛けてやっておるわけだ。普通のサラリーマンをやりながら、片手間にやっておる者もおれば、いろいろだと思う。 ところで、そういった神社とか、仏閣、あるいは、キリスト教でもいいけれども、まあそういうところを職業として働いている人たちを見ると、神社の神主さんの家に代々不幸が多い。息子が交通事故で死んだり、あるいは、不具の子供が生まれたりする。仏様の方でも、お寺の方でも同じで、なぜか縁遠くなったり、事故が起きたり、病気がちの家庭になったり、いろんなことになっておるようだ。 こういうのは、本来聖域であるべきところが霊的な場所であるというだけで、住んでいる人たちの心が調和されていないがために、いろんな悪霊が巣喰っておるのだ。そして、そこに住んでいる人たちをも不調和にしていく。こういうところがあるようだ。 そして、神社も仏閣も、あるいは、キリスト教の方も、何だかんだと観光仏教とか、観光神道とか、そういうふうになってしまって、お金儲けだな、観光客相手の、そういうことになってしまったようだと思う。 神道、日本神道の方では、なかなかその教えというものが、はっきりと今の形では残っていないがために、確かに多くを要求するのは難しいという面もある。たかだか祝詞(のりと)をあげるくらいのことしか伝わっていない。また禊払(みそぎはら)いというようなことがあるというぐらいしか分かっていないようだ。 神道系でヽ少し本格的な動きとして近代で出たのは、例えば、黒住(くろずみ)教、あるいは金光教、あるいは天理教、こうしたものであったろうか。そして、近、現代だけれども、出ロナオ、出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)、こういう人々の大本教。そしてまた、戦後もいろいろなものがあるようだ。PL教団とか、何だかんだと出ておる。 谷口雅春が生命の実相哲学を奉ずる生長の家は、一体如何なる宗団かと言われると、これも万教帰一でやっているがために、一律にこれだと決めつけるわけにはいかないけれども、流れとしては、日本神道系統であろうと思う。なぜなら、指導神、親神様というのが、日本神道の神様であるからだ。そういうことにおいて、神道系とみてもいいかもしれない。 ただ、かつて日本神道系というのは、古事記、日本書紀ぐらいしか、その理論的著書というのがなかったのであるが、我が生長の家においては、一大啓蒙運動となり、文筆によって様々な思想というものを人々に流布(るふ)することに成功したのである。 さて私は今、そういう仏教、キリスト教、神道、こうしたものがだんだん形式主義となり、暗いものになってきたという話をしてきた。そしてなぜ、そういうふうな形式主義、暗いものになったかという原因を考えてみたいと思うのであります。 2.仏教が現在のように堕落してきた原因について まず、仏教を検討してみようか。仏教がなぜ、現在のように堕落してきたのかということを考えたいと思う。 仏教というのは、釈迦の時代においては、人間が本当に悟るための道であったと思う。ところが、釈迦没後二千五百年ぐらいたった今日では、悟りという言葉は、言葉としてはもちろん伝わっておるけれども、人々は悟りということの本当の意味が分からなくなっている。そしてとくに悟り、悟りと今だに言っておるのは主に禅宗であろうかと思う。 禅宗において本当に悟っておるのかというと、これも、けっこう難かしい問題がある。禅のなかには確かに深いものがある。禅のなかで無門和尚(むもんおしょう)というのがいて、「無門関(むもんかん)」というものを著わしている。そこで、無門という人の悟り得たレベルというものを、よくよく見てみるならば、けっこう高いものを持っていたと思う。禅で公案の集大成をした人であるという。ただ、その流れ自体を見てみると、栄西を始め、公案禅の流れというものは、どうも形式に堕してきたようだ。 禅というものは、まったく奇抜な問答をすることによって、人間的な知識というものを切り取り去って、新境地を開拓するというものが、その本義である。しかし、平凡な坊主が禅を教えているがために、どうもその森厳(しんげん)の理というものが、なかなか極められないようである。本当に悟った人が教えたならば、只管打坐(しかんだざ)だろうが何だろうが、それは素晴しい教えと、おそらくなるであろう。 ところが、悟っておらん人間が指導しているがためにそうしたものは、なかなか人間を本当の方向に導かないでいるのだ。しかし、坐禅でも組みたいというような気持ちを持つという、つまり、人間がそういうような気持ちを持つということ自体は、決して悪いものではないと、私は思う。 さて今、仏教の暗い面の話を続けておるんだけれども、結局、釈迦が説き来たり、説き去った教えというものは、何百、何千の法門がある。そのなかに法華経あり、そのなかに維摩経(ゆいまきょう)あり、そのなかに涅槃経(ねはんきょう)あり、そのなかにまた禅の源流となるような教えもあった。いろんな教えがあったのである。 そうした複合した教えが、釈迦という、一人の悟った人間のなかにおいて、渾然(こんぜん)一体となって融合されておったのだと思う。ところが、後の世の弟子たちは、師匠ほど、優れた人材ではなかったがために、その全貌を理解することができず、その一端をそれぞれ行じたのにすぎないのである。 であるからして、たとえば、お経というものの本来は、釈迦と弟子との問答集であったのにもかかわらず、それが漢訳され、そして日本に持ち来たられると、本来の意味を失ってしまう。つまり、漢語だな、いわば漢語の勉強としてだけ意味を持つようになった。あるいは、音読する。とにかく歌の練習でもしておればよいのだろうが、歌の練習のかわりにお経を読んでおると、喉(のど)は強くなるかもしれないけれども、意味も分からずに、経文をあげておる。 それでも功徳(くどく)があるのだ。あるいは、写経をする。それだけでも功徳はあるのだと、こういうことを言われておる。しかし、そういうことは、一般的に言えば、なんの功徳もないと考えてよい。 もちろん、写経をすることによって、規則正しい生活をするなり、向上心を持つなり、精進するという姿勢を持つことができるがゆえに、それは悪い影響はないであろう。しかし、経文そのものに、それはどの価値があるかといえば、そうあるものではないと思う。 ただ漢訳されたお経のなかにも、やはり漢訳した人の力によって、つまり、漢訳をした僧侶たちが霊能力を持っていた場合もあったために、なかには言魂によって漢訳されている言葉もなきにしもあらずである。 たとえば、般若心経(はんにゃしんぎょう)などというのは、よく読まれており、また現代でも人気があるようだけれども、これなども、これを訳した人が、霊的な能力を持っておったようで、訳語自体のなかに一つの言魂があるのだ。 あなた方も今、様々な神理の言葉というのか、そういう経文のようなものをつくって読んだりもしておるようだけれども、やはり言魂というのがあって、それは綴(つづ)られた文章のなかに出てくるのである。であるから、一般にお経というものは、それほど深い意味があるのではないけれども、なかには、そういうものもないとは言えない。とにかく、「仏つくって魂入れず」の諺(ことわざ)があるけれども、外見だけを真似て、中味を知らないのが人間であったと思うのだ。 3.キリスト教においても、中味がだんだん失われてきて形式に堕(だ)してきた キリスト教においてもそうだ。現在、キリストの本当の精神というものは、忘れ去られていると思う。そして、形式によって行われている。ただもちろん、聖書というものを熟読して、毎週毎週日曜日に、教会か何かに行って教えを受けておる。そのなかに、聖書自体も一つの波動があることは確かで、それに馴染(なじ)んでいることによって、多少の悟りのよすがとなることは事実であろう。 ただ、聖書を読んでいても分からぬことがある。つまり、イエス様が現代に出ておったなら、どういうことを言ったであろうということが、なかなか分からんということだ。今から二〇〇〇年前に、ナザレの地で漁師たちを相手に法を説いておったわけだから、それ自体は立派な教えであったとしても、なかなか現代の文明人たちを納得させ、説得するには少々不足するようである。ただイエスという人は、大変詩人でもあり、言葉が美しい方であったために、今だに彼の言葉によって、心酔し、影響を受けている人も多いかと思う。 こういうことで、仏教においても、キリスト教においても、その中味というものがだんだんと失なわれてきて、形式に堕してきた。すなわち、たとえば、日曜日に集まって、聖書を読めばいいとか、あるいは、お寺に篭(こも)って坐禅を一週間やればいいとか、そういう形式的なものになってきた。あるいは念仏をあげればいいとか、あるいは写経すればいいとか。そういうふうになってきた。 そして本来、自由自在であった神理というものが、いつの間にか人間の形式的な行動のなかに閉じ込められてしまったと言えると思う。禅をやっている者は、坐らなければ、とにかく悟れないとか、念仏をやっておる者は、念仏をあげなければ救われないとか。こうした行為というのは、そうした教えというものは、本来の釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)の教えからいえば、ほんの一万分の一にも満たない教えであろうと、私は思うのだ。 4.真理を知るということは、目の鱗(うろこ)をはがすということである であるから、私は今、あなた方にも、様々な真理というものを学んでほしいと思うのであります。真理を知るとは、どういうことかというと、目の鱗(うろこ)をはがすということなのだ。人間の目には様々な鱗が入っている。自分自身は、いろんなことを知っていると思っても、その知っておるという知識自体が自分を歪める一つのフィルターとなっておるのだ。 キリスト教のみが真実であると思っている人間は、その鱗の入った目で仏教を見、神道を見るから、本当の姿が分からない。だから、イエス様によってしか救われないなどと言っておる。 しかし、じゃあ、イエス様以前の人たちは、永遠に救われなかったのか。じゃあ、イエス様は、なぜイスラエルにだけ出て、日本だとか、中国だとか、印度(いんど)には出なかったのか。それらの人々を救う意図がなかったのか。そんなことは、おそらくないであろう。イエス・キリストは、ユダヤの民族神ではないはずである。彼が説いた愛の教え自体は、普遍的な教えであり、人類共通の財産であると思う。 そうではないだろうか。そういうことで、イエスの教えというものも、ずいぶん、誤解されている。イエスを熱心に信仰すればするほど、イエスの教えの枝葉末節ばかりにかかわって、そして本当のキリスト教の真理というものが、人々には分からなくなってきておる。 仏教においてもそうで、仏教者であれば、キリスト教では救われないとか、神道では救われないとか言っている。こういう宗教による宗派の違いというものは、もちろん、根拠のないものではない。 というのは、やはり日本なら日本を中心に活躍した神々があり、キリスト系統ならキリスト教系統で、ヨーロッパ世界を中心として活躍した神々がある。また仏教系なら、印度、中国、日本と渡ってきた神々があるということにおいて、魂の系統というのがないわけではない。しかし、だからといって、他宗が全然間違っているというわけではないと思うのだ。 5.知らないということから偏狭(へんきょう)な心が生まれ、不調和が生まれる とくにキリスト教においては、他宗排撃というものが頑固に、頑強に現在でもあると思う。他の目から、今、実在界にいる私の目から公平に見て、どの教えがいちばん真理を伝えているかというと、どれも、どっちもどっちというところだな。仏教は、本当に葬式仏教になって、一部の修行者だけのものになってきたようだ。神道は、本当に金集めばかりをやっているようだ。キリスト教においては、人間の生きていくべき道ということがまだ学ばれておるようにも思うけれども、ただ真理という面において、他のものを学ぼうとしない、そういう傾向がおそらくあると思う。 私は生長の家において、神道、仏教、キリスト教、こういうものを統合し、これを超える教えというものを説いたつもりである。なぜこういうことをしたのか。その理由を一言で言うならば、「真理は汝を自由にする」ということなのだ。真理を知るということは、手足を伸び伸びと動かすことができるということなのであります。 たとえば、哲学というものがある。現代でも哲学というものがあって、大学の授業でやっておる。そして大学の教授なんていうのは、自分が哲学をやっておると思えば、宗教というものを軽蔑して、ああいうものは、インチキだと、淫祠邪教(いんしじゃきょう)であって、人を惑わすものだと、哲学こそ本当の人間の理性を追究していくものであって、真理探究の近道だと、こういう考えをしておる。 ところがその元を辿(たど)れば、哲学においても、出ている偉大な指導霊たちは、皆んな光の天使であり、教えを説いた、その側面がただ仏教やキリスト教と違っているだけである。したがって、自らが哲学を学んでいるからといって、宗教を排撃している人たちは、結局のところ、真理を知らないんである。 また、仏教をやっているからといって、西洋哲学などを否定している人たちは、まだ真理を知らない。結局、知らないということから、そうした偏狭な心が生まれ、そうした偏狭な心から、争いがある。そして、不調和が生まれておるのだと、私は思う。 結局、本当に力を発揮するのは何かというと、真理を悟るということであり、真理の全体像をつかむということだ。真理は一つだということを本当につかんだならば、そういった宗教間の争いはなくなるのである。これがなくなることによって、どれだけ世界が平和になるかということを、あなた方は考えたことがあるだろうか。 宗教によって、救われた人も数多いかもしれないけれど、宗教によって命を失った人が数多いことも事実である。そうではないだろうか。とくに中近東の方では、イスラム教関係の国家同士の争いが非常に激しい。それも他宗教との争いではなく、イスラム教同士のスンニ派だとか、シーア派だとか、私はよく知らぬけれども、そうした派閥同士で血を流す争いをしている。爆撃をしてまでも、争っている。またアメリカとソ連との争いを見ても、キリスト教国が唯物主義の国というのを、要するに、叩(たた)き潰(つぶ)そうとしておるのだ。 6.暴力によってユートピアが来るというマルクスの思想は間違っている 唯物論というのは、結論から言えば、間違っている。この世は物だけではない。その裏には、生命の実相という偉大なる実相の世界がある。共産主義においても、ユートピアを実現せんとする、そういう希望が実際にあり、共産主義も一つの希望の原理であったこと自体は、否めないと思う。共産主義は、まったく間違った教えかというと、そのなかにある希望の原理自体は間違っておらぬのだ。人々を解放し、そして豊かな平等な社会をつくろうとする気持ちそのものは、間違っておるものではない。 ただ、唯物思考という考え方、あるいは暴力礼讃という考え方、こういうものは、明らかに間違っておる。 マルクスは、暴力というのは、革命の産婆であると言っておる。つまり、革命という落し子というか、赤ん坊をとりあげるためには、暴力という産婆が必要なのだと、マルクスは言っておるようだ。 しかし、こういう考えが間違いであることは明らかであって、人々が本当に平和な社会を築いていくためには、やはり暴力のない世界を目指すべきである。暴力によって、暴力のない世界を目指すということは、それ自体が一つの矛盾であることに気がつかねばならんと、私は思うのである。暴力によっては、平和な社会は生まれないのだ。それは革命という美名によっては、浄化され得ないことである。 たとえば、ソヴィエト連邦においてロシア革命が起きたときに、人々は、これが自由の勝利だと思ったであろう。これからユートピア世界が来るのだと思ったであろう。ところが、どうだ。この後の流れは、レーニン以後、スターリン、こういう悪鬼の如き者が出てきて、大量の粛清(しゅくせい)とかいうのを始めて、いろんな人を殺していったのである。 また、中国においてもそうだ。共産主義をやって、そのときには、平和な民主主義革命かのように装っておったけれども、対立抗争する者たちを、次々と粛清していった姿を見れば、それが一つの地獄の現われであるということを否(いな)めないであろう。 それは、やはりマルクス自身にも責任があったと、私は思う。つまり、暴力によって平和な世界がある。平等な社会がある。ユートピアが来るという思想自体が、間違っておるからだ。暴力によっては、ユートピア社会は来ない。 本当のユートピア社会をつくるためには、昨日も言ったけれども、良き言葉の創化力を使いながら、人々がお互いに光輝いていく方向で生きていくべきなのだ。そうでなければ、本当の意味のユートピアはできるはずがない。 7.宗教間の争いの原因は、真理を知らないことにある たとえば、こうした唯物主義、あるいはキリスト教国を語っておるアメリカ帝国主義、あるいはイラン、イラクなどイスラム社会の抗争、あるいはまた、キリスト教、仏教、神道という、こういう教義の争い、こういうのを見ておると、結局のところ真理とは何かということが分かっていない。これだけだと思う。 それぞれ自分の信ずるものだけが正しいという頑固な思い込み、これによって争いが起きているのではないか。釈迦が思っていたような広大無辺な思想というものは、普通の人は抱けない。またイエスが思っておった大きな教えというものを理解することができない。そのために自分に都合のよい教えだけを取って、そして、それでもって他宗を排撃する。これが人間の愚かなところだけれども、心が狭いというよりは、そういうことを、つまり、真理を理解するだけの容量がないと見るべきなのだ。 また今後、大きな教えが説かれていくのだろうけれども、この教えもまた大きすぎて、後の世の人々をすべて吸収することはできないだろう。そこで、またいくつかの派に分かれていく。これはある意味では、やむを得ない流れだろうと、私は思う。 さて私は、真理を知らないということ、これが争いの原因だということを言ってきた。 実際、人間はずいぶん、言葉づらに執われているのである。神様の呼び名を、お父様、お母様というふうに考えれば、キリスト教系では、それをパパ、ママと呼んでおる。仏教系では、それをお父様、お母様と呼んでいるかもしれない。ところが、神道系では、父上、母上と呼んでいるかもしれない。じゃあ、父上とパパは違うのか。お父様が違うのかと言えば、同じ人なのである。これを、呼び名が違うから違うと思っている。 かたやアラーの神というアラーがあったり、エホバがあったりしている。かたやまた日本では、天照大御神(あまてらすおおみかみ)とか天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)とか、こういう方がいたり、中国では孔子の教えでは、天帝、天の御帝というのがおるかとか、いろんなことを言われている。 これをみんな、別のものだとおもっているようだが、決して別のものではなくて、実際は神そのものでなくて、神近き高級霊のことを指しておるのである。そして天上界では彼らはみんな友達であり、知り合いである以上、それぞれのお弟子さんの信仰は違うものであっても、お弟子さん同士の争いの原因が、無知に起因することを理解し、他宗教の高級神霊をも礼讃する気持ちが、彼らにあってもいいはずである。まず人間はこのことを知らねばならぬ。 今、様々な宗教の高級霊の霊言というものを世に送っているようだけれども、これもまた、万教は一つであり、同根であり、一つの神から分かれてきた教えであるということを理論的に実証しようとする動きなのである。 そういうことで、あなた方が、今後とも何十巻も霊言集を出していかれるということは、大変意味のあることであろうと思う。そうすることによって人々は、やがて、それを否定できなくなってくると思うのである。そうしたことが事実であるということを、やがて否定できなくなってくるであろうと、私は思っている。こういうことが、「真理は汝を自由にする」ということであって、真理を知ることによって、宗教を学んでいる者たちを自由にするのである。 ただ、この真理は汝を自由にするということを間違ったふうにとらえてはならぬと思う。真理は汝を自由にするからといって、間違った教えを堂々と説いていいかといえば、そういうことではない。それは明らかに違っていると思う。 私は他宗排撃ということは、基本的にはやらなかった。あなた方に対しても、基本的には同じ態度をとられるのが賢いと思うけれども、しかし時には、例外の場合もあると思う。あなた方のところで教えを請うてきている者が、明らかに間違った教えに所属している。こういうこともある。こういう人に対しては、それはちょっと違っていると、教えてあげるということは、好意であろう。 真理は一つであり、万教は一つなのであるけれども、ただ、これも正しい教えも間違った教えも一つであるという意味ではないということだ。これを間違ってはいけない。 教えのなかには両立しない矛盾というものがあると思う。その矛盾している点は、やはりどこか間違っているところと正しいところがあるのだと、この矛盾点そのものは見逃してはならぬ。清濁(せいだく)合わせ飲むという器量は、大変大事であるけれども、清濁合わせ飲むだけで、濁りをいつまでたっても濁りとして認めているようでは駄目であって、やはり清の方が浄化していかねばならぬ。濁りをも浄化していく、そういう必要があるのではないだろうか。 8.本来、幸せのための宗教が、人間を暗くしている原因について こういうことで、あなた方は宗教をやっているけれども、宗教をやれば、仏教をやれば抹香臭くなり、キリスト教をやればアーメンばかり言って、懺悔の思想とか何とかいって、暗くなってくる傾向が多い。 人間を暗くするような宗教というものは、私は、どこかがおかしいと思う。宗教というものは本来人間を幸せにするはずだ。本来人間を幸せにする宗教が、それを学ぶことによって、人間を暗くする。これは何かの誤りがあるのではないか。私は、そう思う。 先般も話をしたから深く話をすることをやめるけれども、キリスト教においても罪の思想、こういうのがあるし、仏教においてもカルマの思想、こういうものがある。こうしたものが人間を暗くしておるのだ。キリスト教では、何で自分がこんなに不幸なのかと思えば、結局はアダムとエバが犯した原罪によって不幸なのだ、と。仏教系で、今世に何でこんなに不幸なのかと思えば、きっとこれは三世の縁であって、過去世の業(ごう)に違いないという、こういう思想を持っている。 業というものがないかといえば、ないわけではない。作用、反作用という法則は厳然としてあるし、また過去世の生き方が今世の生活環境に影響していることも、これもまた事実である。ただ業はあるけれども、業に振り回されてはならんということも、また事実なのである。 たとえ過去世において人殺しを犯しておろうとも、今世でまた人殺しを犯さなければならないという理由はない。ショーペンハウアーという哲学者がおって、「盲目的意志」とか言っておる。人間は盲目的意志によって動かされている、と。したがって、これは仏教の業の思想だろうと思うけれども、盲目的意志によって生きておるのだ、と。どうしようもないところがあるのだと、こういうことを彼は言っておる。しかし、人間は闘牛の牛ではないから、赤いものを見たら飛びつくというようなものであってはならぬと思う。過去世の業があっても、それを乗り越えていくような人間でなければならぬ。 9.過去、罪深いことをしてきた人間が救われる道は、今世で良いことをする以外にない 今ある仏教の一派では、釈迦の原始仏教の、はっきり言ってしまえば、阿含経(あごんきょう)というのを根本教典にして、A宗などというのを立ててやっておるのが、どこかにおるようである。京都かどこかに。こういうものに対して私は一言、言っておきたい。 何というか、まだこういう考え方というのは、学問的な考え方に偏(かたよ)っておる。釈迦がいろいろと説いたお経のなかでは阿含経が最初に説かれた教えということになっておるけれども、最初に説いた教えだから正しいとか、後のものは弟子がつくったから間違いだとか、こういうことを言うておるようだけれども、そういうものではないということである。人間というものを、何というか、そういうふうに一つの教えに縛(しば)りつけてしまう。こういうのは、私は非常に間違いだと思うのであります。 この教団においては、あえて名前は言わぬけれども、人々は、さっき言った業を背負っておるとしておる。業というのを、ここでは因縁(いんねん)と言っておるようだけれども、因縁というものを持っておれば、この因縁を断たねばならぬ。父母の因縁を断つだとか、あるいは、兄弟の因縁を断つだとか、あるいは、失恋の因縁を断つだとか何だかんだと言って、銭儲けをしておるわけだ。 因縁を断つ行法というのを教えて、これで三年間やれば、両親の因縁を断てるとか、こういうことを言っておるようだ。たとえば、両親が非常に貧乏であったとか、このままでいくと自分も貧乏になるんじゃないかと、そういうことで、両親の貧乏の因縁を断たねばならぬ、と。こういうことで、何とかというお経を唱えて、三年間か何か数珠(じゅず)を揉(も)んでおれば、因縁が断てるなんて言っている。こんなのは、はっきり言って、何も分かっておらんと思う。 因縁というものは、ないとは言えないけれども、それは先程言った作用、反作用の連鎖であり、ある意味ではカルマであろう。ただこれを断つには、逆のことをやっていかねばならんということだ。つまり、過去、不幸な人生を生きていたのならば、どこかで幸福な人生を歩むように切り換えていかねばならんのだ。それはそうした経文を読んだり、数珠をさげたり、坐ったりすることによって、断てるものではない。百日坐ったから、千日坐ったからなんて、そんなもので切れるものでない。 そうではなくて、過去、罪深いことをしてきた人間であるならば、その因縁を切り、その業を断つためには、今世でいいことをするしかないのである。お経を読んだり、数珠を持って、数珠をちゃらちゃらさせながら千日坐ったからといって、切れるわけは絶対にない。こういうのは邪教というのだ。間違っている。 人間は過去、誤った宗教において迷ったのであるならば、今世において正しい宗教を修める以外にはないのである。これ以外にないのだ。 10.因縁を断ち切るためには、日時計主義の生き方をすることである 因縁を切るという方法は、この因縁を断つ方法は一体何かというと、これは一つの光明思想であると思う。 人間というのは、たとえばキリスト教でいうように、原罪を負った存在、罪深い存在だということで連綿として生きてきた。こういう形で、いつまでたっても、子供の代になっても、孫の代になっても原罪を背負って生きていくのが人間であるならば、人間は、その業を、カルマを断ちようがないではないか。どうやって断つというのだ。それを、これを断つには人間、罪の子の思想を改めて、くらりと思考を一転し、光明の方に向くしかないのだ。 過去が不幸だからといって、なぜ現在も不幸でなければならんのか。それをよくよくあなた方は考えてほしい。昨日の不幸をなぜ今日に持ち込むのか。なぜ、明日には悪いことばかりが起こると思うのか。あさっては、もっと悪くなると思うのか。病気をすればますます悪くなる一方だとか思うのか。こういう思いというものは、一つの慣性であろう。そういう惰性であろう。私は、これを一つの因縁とするならば、これを断ち切るためには、心を光明の方向へ向けるしかないと思うのだ。 要するに、日時計主義の生き方です。日時計というのがあるけれども、札幌か何かにも、花時計とかがあるけれども、日時計というのは、太陽が出ているときだけしか時を刻まないのだ。日時計というのは、闇の時間を刻まない。太陽が出ているときしか、時を刻まない。つまり、人間というのも、この日時計主義でやっていかねばならんのだ。 我、太陽の時刻のみをしるす。そういうことで、明るいことのみを心に刻んでいくということが、大事なのではないのが。罪の子であるとか、業に翻弄(ほんろう)されているとか、両親だとか、先祖の因縁によって自分が縛られているだとか、こうぃう悪しき宗教信仰によって、自分自身を縛ってはならんのだ。 そういうものは本当に拭い去って、捨て去る。そして、ただ今から、自分は、明るく生きていくということを、まず一大決意することだ。これが因縁を切る、カルマを断つ一つの方法なのである。そして今日ただ今、それを決意したのならば、今日ただ今から、自分は心のなかに悪を刻まないと、刻むまいと、はっきり心に誓うことだ。 11.人間は、本当の真理を知ったとき、自由自在になり、明るい人生を生きることができる 結局、この世で生きているうちは、いろんなことが起こる。良いことも、悪いこともあるだろう。地獄に行っている人とは、どういう者たちか。結局人が自分にしてくれなかったこと、人の悪かったことばかりを心に刻んだ人たちが、今、地獄に行って、今、呻吟(しんぎん)しておるのだ。地獄では、心にいいことばかりを刻んだ人などいない。 そういうことで、一日のうちでもいろんなことが起こるであろうけれども、悪いことは小さく、そして洗い流していくことだ。そして、良いことが起こるのは、きっと神様が自分を愛していて下さっているからだと思うことです。良いことが身に降ってきたのなら、それに対しての感謝行をしていく。そうすれば、さらに良いことがくるであろう。また、していく。それが、さらに良いことになっていくであろう。こうして、人間は発展しかない生き方をしていくのだ。 ところが今日、悪いことがあったとする。それを今日、一生懸命、一晩考えてしまうと、夜寝られない。翌日も寝られない、と。こうして悪いことばかりをひき継いでいけば、永遠に明るい人生を生きることはできないのである。 悪いことは小さく受け止め、それを流し去れ。そして良いことのみを心に刻んでいけ。そういう日時計のような生き方のみが、人間を本当に幸福にする道であります。そして、そういう生き方こそが、人間を幸福にするのだということを悟ることが、「真理は、汝を自由にせん」ということなのだ。 古き宗教の因習に執(とら)われ、教えに執われ、自ら不幸にすることなかれ。人間は本当の真理を知ったとき、日時計のように、太陽の輝く日のみを、時間のみを我は刻す。そういう人生を生きることができるのだ。ここに至って、初めて人間は自由自在となり、明るい人生を生きることができるのだ。そして、その生活は、また天国にある生活であり、あなた方が、あの世に帰ったときに、そのように生きていくための準備でもあるということなのだ。このことを、忘れてはならない。 どうも長い間、私の話を聞いていただいてありがとう。八日間連続した講義も、これで終わりとする。 今回をもって一応、私の霊言集は完結するつもりであるけれども、もし読者から、もう一度、さらに再、再度、谷口雅春の教えを聞きたいという声が高まってくれば、また時期をみて出さないでもない。そういうときには、協力を惜しまない。以上であります。
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トップページ>日本>日本学研究 『日本学研究』41, 2014.1 清登典子「芭蕉俳諧と仏教:仏道修行者への憧れと詩的達成」(日) 尹采根「『金鰲新話』:業と慈悲としての物語」 유양근「デジタル時代日本映画の変貌:Jホラーを中心に」 이예안「近代日本の小国主義・小日本主義:アジア主義との拮抗と交錯」 유지아「戦後対日講和条約と米日安保条約過程に現れたアメリカ軍の日本駐屯と日本再軍備の議論」 洪聖牧「日本神話におけるオホクニヌシ物語とその周辺」(日) 김영호「林義端の作品に現れた創作意図考察:浅井了意小説との比較を中心に」 최범순「「世界文学」の想像と翻訳:内田魯庵の翻訳と近代日本のナショナリズム」 박상현「春園李光洙の「明治天皇御製謹訳」研究」 尹幸舜「韓国と日本の漢文読法の発達過程についての考察」 李京哲、崔智淳「韓国漢字音遇摂韻の母胎別位相について:日本漢字音との比較を中心に」 崔延朱「接続助詞「から・ので」の習得に関する研究:L2学習者の習得過程に着目して」(日) 김세련「『高等学校日本語Ⅰ』教科書の文化的内容分析:2007年改訂教育課程を中心に」 1-20 21-30 31-40 41-50