約 192,857 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1797.html
http //www.jcp.or.jp/akahata/aik07/2008-11-30/2008113001_02_0.html 2008年11月30日(日)「しんぶん赤旗」 08年政治考 田母神問題 “靖国派”が引き金 懸念する自民幹部も 「小泉首相が靖国神社への連続参拝を強行し、続く安倍内閣は『戦後レジーム』からの脱却を掲げた。自民党内でも歴史認識問題を中心に“民族派”が台頭した。直接の引き金とはいえないが、こういう事情が背景にあることは間違いない」 自民党幹部の一人は、田母神俊雄・前航空幕僚長の侵略戦争美化「論文」についてこう述べました。「民族派」とは、日本の侵略戦争を正当化し、首相の靖国神社参拝を声高にとなえてきた日本会議国会議員懇談会のメンバーらをさしています。 (写真)「日本を語るワインの会」で安倍元首相と元谷アパグループ代表(雑誌『アップルタウン』から) 田母神氏が空幕長に任命されたのは二〇〇七年三月。任命したのは「戦後レジームからの脱却」を掲げ、任期中の改憲を目標とした安倍晋三内閣でした。田母神氏と安倍元首相は懸賞論文を主催したアパグループの元谷外志雄代表を介してつながっています。元谷氏は安倍元首相の支援組織「安晋会」の副会長でした。 「日本は神の国」発言をした森喜朗元首相も元谷氏と同郷で親密な間柄。後に断ったものの、懸賞論文受賞パーティー(十二月八日に開催予定)の発起人代表をいったんは引き受けていました。 閣僚経験のあるベテラン議員は、事態の深刻さについてこう述べます。 「『自虐史観』などということをいう政治家が増えたし、国民の間にもそういう空気が広がっている。その中で、空自の長が公然と政治介入し、政治を批判した。一歩間違えればクーデターだ。海外活動を本来任務とする実力組織のトップがあのような歴史認識を示すのは、アジア諸国との関係から見ても重大だ。私自身も『左』のイデオロギーには厳しかったが、『右』には甘かった。これは反省している」 前出の自民党幹部は言います。「その後の自民党内での議論で、『シビリアンコントロールの観点からは問題だが、(論文の)中身はもっともだ』という意見が多いのも事実。同じような問題が再び起こるかもしれない」 田母神「論文」の波紋 政界から同調の危険 田母神氏とともにアパグループの懸賞論文に応募した自衛官は約百人。田母神氏は統合幕僚学校長だった時代に、「歴史観・国家観」の講義を新設し、「現憲法及び教育基本法の問題点」「大東亜戦争史観」などを“教育”。「新しい歴史教科書をつくる会」のメンバーらを講師に招いていました。 さらに自衛隊の幹部養成機関である防衛大学校の教科書『防衛学入門』では、明治以降の日本の侵略戦争をすべて「自衛が基本」という立場で記述していることも本紙の報道で明らかになっています。 教育体制が問題 元政府高官の一人は指摘します。 「ああいう人が制服組の主流となって育っていく教育体制、ここは重要なポイントだ。近代史の基礎知識について、少なくとも政府見解とまったく異なるものが教育されている事実があるとすれば、政府の一組織として大問題だ」 田母神氏は右派月刊誌『WiLL』二〇〇九年一月号に発表した最新の「手記」で、防衛大学校時代「どちらかというとノンポリの学生だった」としつつ「だが自衛隊の教育が私を変えてくれた」とふりかえっています。 日米同盟を優先 麻生内閣が田母神氏を即日更迭せざるを得なかったのは、「靖国」派の主張を追いつめてきた戦後政治の到達点です。 さすがに自民党国防族の中でも公然と擁護する声はほとんどありません。 「核武装論とか集団的自衛権の行使とかいうのは、政府・自民党の見解とも食い違う。集団的自衛権行使は、安倍(元首相)が進めようとして福田(前首相)が止めた。この経緯もよく踏まえる必要がある。アメリカに頼った自衛は無責任だという議論が昔からあることは承知しているが、『自分の国を自分で守る体制を整える』という主張は、日米同盟の考え方とは異なる」(国防部会のメンバー) 自民党が絶対視する日米同盟堅持の立場から、田母神氏の“自主国防”論的な主張に困惑を隠せないでいるのです。 日本会議国会議員懇談会のメンバーでさえ、こう疑問を表明します。 「海上自衛隊のインド洋派遣延長の論議が衆院から参院に移行する時期に混乱を生じさせることは適切か―。日本にとって一番危険な問題がある。私は『右』で、歴史問題で言いたいことはある。しかし、今の日本の現実政治と国家の安全保障を考えたら、日米安保、アメリカを大事にしなければならない。矛盾があればアメリカが優先する」 同氏は、「最近、右翼の中に極右、反米の右翼も出てきて困る」と述べ、田母神氏の「日米開戦はアメリカの陰謀だ」「自立した防衛を」という主張に懸念を表明しました。 ただ、元防衛庁長官の一人は、不気味な“予言”をします。 「米国の金融危機と経済混乱から、米国が世界の警察官としての役割を果たせなくなり、そのヘゲモニー(支配的影響力)が後退して、太平洋にも力の空白が生じてくる可能性がある。田母神氏の発言は更迭に値するが、それとは別にこの問題は考えておかねばならない」 安保問題を担当する民主党の衆院議員も、「アメリカ一極支配秩序の崩壊」の現実を直視せよとして「いつまでも『アメリカ頼み』では、我が国の国民の生命も財産も守れない」と述べています。 軍事力による覇権の維持に固執する限り、政界の中からも田母神氏の主張に同調する流れが出る危険があることを示しています。 (中祖寅一) 「偉そうな軍人さんは嘘をつく」庫
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1663.html
昨日 - 今日 - 目次 戻る 通2-048 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第3 当裁判所の判断 1 判断の大要 (判決本文p114~) 当裁判所も, 原審同様, 控訴人らの各請求は, 当審で拡張された分を含めていずれも理由がないものと判断する。 その理由の骨子は, 次のとおりであり, 詳細は, 後記2以下のとおりである。 「太平洋戦争」の記述は控訴人梅澤の, 「沖縄ノート」の各記述は控訴人梅澤及び赤松大尉の, 各社会的評価を低下させる内容のものであったと評価できること, しかし, これらは高度な公共の利害に関する事実に係わり, かつ, もっぱら公益を図る目的のためになされたものと認められること, 以上の点は, おおむね原判決が説示するとおりである。 座間味島及び渡嘉敷島の集団自決については, 「軍官民共生共死の一体化」の大方針の下で日本軍がこれに深く関わっていることは否定できず, これを総体としての日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る。しかし, 控訴人梅澤及び赤松大尉自身が直接住民に対してこれを命令したという事実(最も狭い意味での直接的な隊長命令―控訴人らのいう「無慈悲隊長直接命令説」)に限れば, その有無を本件証拠上断定することはできず, 本件各記述に真実性の証明があるとはいえない。 集団自決が控訴人梅澤及び赤松大尉の命令によるということは, 戦後間もないころから両島で言われてきたもので, 本件各書籍出版のころは, 梅澤命令説及び赤松命令説は学会の通説ともいえる状況にあった。したがって, 本件各記述については, 少なくともこれを真実と信ずるについて相当な理由があったと認められる。また, 「沖縄ノート」の記述が意見ないし公正なる論評の域を逸脱したとは認められない。したがって, 本件各書籍の出版はいずれも不法行為に当たらない。 本件各書籍(「太平洋戦争」はその初版)は, 昭和40年代から継続的に出版されてきたものであるところ, その後公刊された資料等により, 控訴人梅澤及び赤松大尉の前記のような意味での直接的な自決命令については, その真実性が揺らいだといえるが, 本件各記述やその前提とする事実が真実でないことが明白になったとまではいえない。他方, 本件各記述によって控訴人らが重大な不利益を受け続けているとは認められない。そして, 本件各記述は, 歴史的事実に属し日本軍の行動として高度な公共の利害に関する事実に係わり, かつ, もっぱら公益を目的とするものと認められることなどを考えると, 出版当時に真実性ないし真実相当性が認められ長く読み継がれている本件各書籍の出版の継続が, 不法行為に当たるとはいえない。 したがって, 控訴人らの本件請求(当審での拡張請求を含む)はいずれも理由がない。 目次 戻る 通2-048 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/637.html
原告準備書面(1)要旨2006年1月27日 http //blog.zaq.ne.jp/osjes/article/14/ http //s04.megalodon.jp/2007-1121-1119-07/blog.zaq.ne.jp/osjes/article/14/ 原告準備書面(1)要旨2006年1月27日1 本件訴訟の争点は、 2 さて、曽野綾子氏は、先程の司法改革審議会において、 3 さて、被告らは、死者の名誉毀損に関し、 4 この裁判で責任を追及している岩波現代文庫の「太平洋戦争」は 5 《梅澤少佐命令説》の怪しさは、 6 最後に「沖縄問題二十年」に関する被告らの 7 原告らは、次回以降、「ある神話の背景」等に基づいて 平成17年(ワ)第7696号 出版停止等請求事件 原 告 梅澤 裕 外1名 被 告 大江健三郎 外1名 原告準備書面(1)要旨 弁護士 徳永信一 1 本件訴訟の争点は、 …被告代理人による先程の陳述からもうかがえるように、家永三郎著「太平洋戦争」の記述における歴史的事実の評価・論評、大江健三郎著「沖縄ノート」の記述における匿名性の有無、「沖縄問題二十年」の除斥期間、そして死者の名誉毀損等の判断基準など多岐にわたりますが、なんといっても主たる中心的な争点が、「真実はなんだったのか」というところにあることは明らかであります。本件訴訟が対象としているこれら書籍が依拠してきた今から約60年前、太平洋戦争末期の沖縄戦中に発生した住民集団自決という悲劇が、座間味島の元守備隊長だった原告梅澤少佐と、渡嘉敷島の元守備隊長であった原告赤松さんの兄・赤松大尉が、出した自決命令によるものであったという風説、それが、果たして事実に基づくものであるかどうかというところにあります。 この点、私たちは、2人の作家、歴史研究家が著述した重要な著作の存在を指摘しておきたい。ひとつは、1973年に発行された曽野綾子氏の「ある神話の背景」、もうひとつは2000年に発行された宮城晴美氏の「母が遺してくれたもの」です。 渡嘉敷島の集団自決が赤松大尉の命令によるものだったとする〈赤松命令説〉の根拠を徹底的に調査検討して「ある神話の背景」を出版した曽野綾子氏は、平成12年の第34回司法制度改革審議会において次のように語っています。 これほど激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決命令を出した、という証言は、ついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。 「母が遺してくれたもの」は、座間味島の集団自決が原告梅澤少佐の命令によるものだという神話の根拠とされてきた宮城初枝氏の証言が、援護法の適用を受けるために事実を改変したものであったことを、その宮城初枝氏本人が娘である著者に告白したことを公表した書籍です。その一節を紹介すると、 「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。 母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった。 この二人の著作によって、慶良間列島での集団自決が、梅澤少佐と赤松大尉の命令によって強制されたという巨悪の神話は、完全に覆ったといってよいでしょう。 2 さて、曽野綾子氏は、先程の司法改革審議会において、 …続けて次のように述べておられます。 当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまだ沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。この調査の連載が終わった時、私は沖縄に行きましたが、その時、地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかったと言っていません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていないというだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた文書が出てくるかれ知れないではないですか」と答えたのを覚えております。しかし、こういう風評をもとに「罪の巨魁」という神の視点に立って断罪した人もいたのです。それはまさに人間の立場を超えたリンチでありました。 ここで赤松大尉を「神の視点に立って断罪」したとされているのが、「沖縄ノート」を書いた被告の大江健三郎氏であることは、少しでも沖縄戦の歴史に関心を持つものにとっては明らかなことでしょう。 ところが、驚いたことに、大江健三郎氏は、この裁判では、「沖縄ノート」の表現は匿名であって、赤松大尉の実名を出さずに「渡嘉敷島の元守備隊長」としているのだから、名誉毀損は成立しないという論法をとりました。 しかし、被告らが援用する昭和31年の最高裁判決がいう「一般の読者の普通の注意と読み方」という基準は、ある表現が名誉を毀損するかどうかということに関する判断基準であり、ここで問題とされている「匿名性」の有無、すなわち、著述された登場人物が誰なのかという「同定可能性」の問題、あるいは、特定情報の共有者の広がりにかかる「公然性」といった次元の異なる事柄を敢えて混同するものであり、そのことは、作家・柳美里氏の小説「石に泳ぐ魚」にかかる名誉毀損が争われた事件の判決が、本件被告らと全く同じ主張をしていた作家と新潮社の主張を退け、最高裁で維持されていることからも明らかです。 表現の「同定可能性」の判断は、共同通信北朝鮮スパイ報道事件判決が示した基準、すなわち、原則として「その表現自体から表現対象が明らかであることを要する」としても、「当該報表現以外の実名報道等が多数に上り、国民の多くが当該事件にかかわる人物の実名を認識した後は、・・・多くの実名報道と同じものだと容易に判明する態様での匿名表現は、匿名性を実質的に失う」という基準においてなされるべきなのです。被告らが要旨を朗読した準備書面(1)においても、赤松大尉が集団自決を命じたことを記載した多数の書籍が発行されていたことがあげられています。さらに、「沖縄ノート」にも取り上げられている赤松大尉が渡嘉敷島での慰霊際出席を阻止された事件を、多数の新聞、週刊誌、グラフ誌が実名報道していることからすれば、「沖縄ノート」の匿名性はもとから失われており、そこで大江健三郎氏がその内面の領域にまで立ち入って描いた若干25歳の「元守備隊長」が赤松大尉であったことを、多くの読者と国民が了解していることは、被告らがなんと言おうと否定しようのない事実なのです。 3 さて、被告らは、死者の名誉毀損に関し、 …「一見明白で虚偽であるにもかかわらずあえて適示したこと」を要するという主張をしています。死者の名誉毀損や歴史的事実の論評に対して適用されるべき違法性判断の基準のありようについては、追って徹底的に反論する予定ですが、ここでは、重大な視点をひとつ指摘しておきたいと思います。 それは、「沖縄ノート」も「沖縄問題二十年」も、赤松大尉の生前に著述され、曽野綾子氏の「ある神話の背景」の出版によって、その虚偽性が濃厚ないし決定的になった状況のなかでも、出版・販売が続けられ、もって生前の赤松大尉の名誉を毀損し、その生活を破壊し、筆舌に尽くし難い苦痛を押しつけてきたということです。 「沖縄ノート」は、単に死者の事跡や歴史を論じたものではありません。生身の人間として生活していた赤松大尉の人格評価をその内面にまで立ち入って徹底攻撃する、まさに「人間の立場を超えたリンチ」でした。 それがどのようなものであれ、死者に対する名誉毀損ないし歴史的事実にかかわる表現に係る違法性判断の「緩和された」基準を適用することが許されないことは、人間の条理に照らし明らかです。 4 この裁判で責任を追及している岩波現代文庫の「太平洋戦争」は …教科書裁判で有名な家永三郎氏の著作です。 この「太平洋戦争」は、初版にあった渡嘉敷島での赤松大尉による集団自決命令の記述を第二版から削除し、沖縄戦の集団自決については、梅澤少佐が命令したとする座間味島でのものだけを掲載しています。 被告らの今回の準備書面では、なんと第二版が出版された1986年当時、梅澤少佐の命令で座間味島での集団自決が生じたという《梅澤命令説》が歴史的事実として承認されていたという驚くべき主張がなされています。そうであれば、教科書裁判の過程において根拠を失ったために、第二版から削除された《赤松大尉命令説》は、それが歴史的事実ではないことが承認されたことになりましょう。 また、既に述べたように、座間味島の集団自決における《梅澤命令説》が虚偽であったことは、現在、歴史的事実として確定しています。 そして「太平洋戦争 第二版」が出版された1986年においても、既に複数の関係者の否定証言から梅澤命令説は疑問視されており、沖縄県でも通史の見直しがなされていることが報道されています。岩波現代文庫の「太平洋戦争」が出版された2002年には、宮城晴美著「母の遺したもの」(2000年12月発行)の出版により、「梅澤命令説」の虚偽性は決定的になっていました。この時期に、敢えてこれを出版した岩波書店の行為は、まさしく「歴史の捏造・歪曲」にほかならず、真実を重んじるべき出版社の社会的使命にもとるものといわなければなりません。 5 《梅澤少佐命令説》の怪しさは、 …被告らが真実性の有力な根拠として挙げている沖縄タイムス社出版にかかる『鉄の暴風』の記述からも明らかです。 その初版本には、次のような一節がありました。「日本軍は、米兵が上陸した頃、二、三ヶ所で歩哨戦を演じたことはあつたが、最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。」不明死を遂げたとされた原告梅澤は生きており、本件訴訟を提起しています。この事実は、曽野綾子氏が批判したように、「鉄の暴風」が、住民に対する直接の取材もなしに、根拠のない風聞に基づいてなされ、その後一人歩きして「神話」をつくっていったことを如実に示しています。 6 最後に「沖縄問題二十年」に関する被告らの …仮定的主張、すなわち、それが1974年に出庫停止になっており、すでに20年の除斥期間が経過したという主張に対する反論を申し上げます。 まず、2002年に「太平洋戦争」を文庫化したことにみられる岩波書店の「歴史の捏造・歪曲」に向けられた出版姿勢に照らすと、今後の「沖縄問題二十年」復刊のおそれは否定できないのであり、出版停止命令等の必要性は優に認められるというべきです。 そして、「沖縄問題二十年」の出版・販売による加害行為は、出庫停止後も古本市場での流通、図書館等での閲覧という形で現在も継続されており、岩波書店は、その回収等によりこれを停止するという条理に基づく義務を有しているにもかかわらず、これを放置しています。この不作為による加害行為という視点を没却した岩波書店の除斥期間に係る主張は全く失当であります。 7 原告らは、次回以降、「ある神話の背景」等に基づいて …渡嘉敷島、座間味島での集団自決が赤松大尉、梅澤少佐の命令によるものだとする「神話」が全く根拠のないものであったことを、さらに補充して論証する予定ですが、それに先立ち、被告らの加害行為とそれによる人権侵害の甚だしさを明確にするべく、岩波書店に対し、本件各書籍の各版、各刷毎の発行年月日、発行部数等について明らかするよう求めます。 以上 戻る
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1059.html
http //ryukyushimpo.jp/news/storyid-130599-storytopic-101.html 「集団自決」軍が関与 岩波・大江訴訟 2008年3月28日 【大阪】沖縄戦中、座間味・渡嘉敷両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、両島に駐留していた日本軍の戦隊長が住民に自決を命じたとの本の記述は誤りだとして、座間味島の元戦隊長梅澤裕氏(91)らが「沖縄ノート」著者の作家大江健三郎氏と版元の岩波書店に出版差し止めなどを求めた訴訟の判決が28日午前、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。深見裁判長は元戦隊長ら原告側の主張を全面的に棄却した。判決は両島での「集団自決」について「梅澤、赤松大尉が関与したことは十分に推認できる」と指摘。「元守備隊長らが命令を出したとは断定できない」としながらも、大江氏らが両隊長の自決命令を真実と信じるには相当の理由があったとして「沖縄ノート」と家永三郎著「太平洋戦争」は名誉棄損には当たらないとし、元戦隊長ら原告側の主張を退けた。原告側は週明けに控訴する。 判決は、体験者の多くが日本兵から自決用に手榴弾(しゅりゅうだん)を渡されたと証言していることや、沖縄で「集団自決」が発生したすべての場所に日本軍が駐留していた事実などを踏まえ「集団自決には日本軍が深くかかわった」と認定した。元戦隊長ら原告の「隊長命令説は戦後、島民が援護法の適用で補償を得るためにねつ造された」との主張には「戦時下の住民の動きに重点を置いた戦記として資料的価値を持つ『鉄の暴風』などは援護法適用以前から存在していた」などとし「ねつ造を認めることはできない」と退けた。 その上で、両書は歴史書や戦後民主主義を問い直すものとして公益を図る目的で刊行され、大江氏らが書籍の刊行時、記述を真実と信じる相当の理由があったとして名誉棄損の不法行為責任に関する一般法理から、両書の原告への名誉棄損は成立しないと結論づけ、岩波側の主張を認めた。 係争中の昨年3月、文部科学省の教科書検定で高校歴史教科書から日本軍の「集団自決」強制の記述が修正・削除された。同省は当時、梅澤氏が訴訟に提出していた自決命令を否定する陳述書を検定意見の根拠の一つに挙げていたが、28日の判決で検定意見は根拠の一つを失った。 原告は梅澤氏と、渡嘉敷島の戦隊長だった故赤松嘉次氏の弟、秀一氏(75)。2005年8月に提訴し、両書が梅澤氏の名誉や、赤松氏の兄を慕う心情を侵害していると訴えていた。 【用語】「太平洋戦争」と「沖縄ノート」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/990.html
赤松氏デビュー1968/4/6号週刊新潮 渡嘉敷島の第3挺進隊長であった赤松嘉次氏が、戦後再び国民の前に姿をあらわしたのは、今から40年も前の1968年の週刊新潮紙面であった。おそらく、大スクープであったに違いない。40年も前というと、1945年の沖縄戦のときから見れば、1905年の日露戦争ということになる。 これは、明らかに「歴史史料」である。 この週刊新潮記事から、赤松氏の名誉回復運動ははじまった。この記事中の「私は何も悪いことはしていない」、「近く渡嘉敷を訪問するこころづもりだ」という言葉が挑戦的と受け取られ、2年後、有名な「渡嘉敷島渡航阻止」の抗議行動を呼び込んだ。 その抗議行動のニュースと赤松氏の言動に触発されて、大江健三郎氏は「沖縄のノート」最終回を記述した。 また、その抗議行動のニュースを読んで、曽野綾子氏は赤松氏にひきつけられ「切りとられた時間」と「ある神話の背景」という、2編の渡嘉敷島集団自決をテーマとした作品を書いた。 そうしていま、大阪地裁で赤松嘉次氏の弟と、座間味島挺進隊長梅澤裕氏とを原告とし、大江健三郎氏を被告とする名誉毀損裁判が進行している。 いまから復刻しようとする週刊新潮記事は、こうした争いごとの端緒であり、論争事始、いわば日中戦争を起こした盧溝橋事件の謎の「発砲音」である。そしてこれは、「大東亜戦争」にまけた日本国民が日露戦争を回顧するが如き歴史的文献でもある。40年の経過といえば、そのとき赤ちゃんとして誕生したとしても、早い女性なら「おばあちゃん」と呼ばれてしまう年月である。 紹介されている島の住民によって書かれた戦記、『渡嘉敷島における戦争の実相』は、曽野綾子氏の「ある神話の背景」にも一部引用されているが、そこでは他の文献との文章の類似性を例示するだけで、書かれている事実を先ずは端正に読み取ろうという謙虚な姿勢はない。この週刊新潮記事は、大学に眠る『渡嘉敷島における戦争の様相』(※)の記述内容を知る上でも、貴重な史料といえよう。 ※(引用者注)この週刊新潮記事では『渡嘉敷島における戦争の実相』と誤記されています。詳しくは、大阪に住んでいた高校教師がまとめた論文:『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同参照のこと (たとえば、特攻艇『マルレ』を海に泛べる作業に防衛隊員など住民も参加していた、という事実は「ある神話の背景」にもない。玉砕した住民を見てないという赤松大尉の目には、何処にいても住民の姿は映らなかったようだ。曽野氏もそうした赤松氏の視野を踏襲している) 私にこのような歴史史料探索へと導いたのは、ほかならぬ大江・沖縄裁判の原告の人たちである。感謝申し上げます。 戦記に告発された赤松大尉沖縄「渡嘉敷島処刑」二十三年目の真相島民三二九集団自決の地獄図 「荒れ狂った赤松隊の私刑」 赤松元大尉大いに弁ず 「島民を斬ったのは軍紀」 ~~~~~~~~~~~~~~(記事引用開始ここから) 戦記に告発された赤松大尉 沖縄「渡嘉敷島処刑」二十三年目の真相 (記事リード) 昭和20年、米軍に上陸された沖縄の渡嘉敷島の戦記は、軍・民、恩讐の記録だという。琉球大学の図書館に眠りつづけているというガリ版刷の"資料"は、ごく一部の人の知るところであっても、一般にはほとんど知られていない。主役を演ずる赤松大尉の名。島民に集団自決を強い、女子少年を惨殺し、自らは生還していったという。ある書評氏は、彼が、いま自衛隊幕僚のイスにあることをホノめかす。 以下は、ベールを脱ぐ赤松大尉事件の実相と、今日の素顔である。従来の沖縄戦記を変えることになるかもしれない。 沖縄戦史上、まだ完全に解明されていない、その"軍・民、恩讐の記録"は、正しくは、『渡嘉敷島における戦争の実相』(正しくは『渡嘉敷島における戦争の様相』)と表題される。島民の記憶を集めて、昭和25年にまとめられた(※)、島民自身の戦史である。 ※(引用者注)記事上の記述からは「昭和25年にまとめられた」とする根拠は不明。ガリ版刷の文書には、成立の日付はないという:『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同参照。 渡嘉敷島は、那覇市西方約18マイルの洋上に浮かぶ慶良間列島の主島。「山紫水明の自然」に恵まれて、沖縄の「美しき離島」といわれるところ。 昭和20年3月、この「美しき離島」に、赤松嘉次大尉(当時25歳)を隊長とする陸軍の海上挺進隊(注=合板で作った小さな舟に爆雷を載せ、敵艦に突入する、陸軍の水上特攻隊)の第3戦隊が駐屯した。隊員130名。そのほとんどは特別幹部候補生だった。そして、爆雷を積んだ舟艇が百隻、すべて、海岸近くに隠されていた。そのほか整備隊、通信隊員若干名と、朝鮮人軍夫320名が赤松指揮下である。 3月25日未明、慶良間海峡に、潜水艦を伴う米軍の艦隊が侵入した。彼らは「いかにも日本軍を見くびったのごとく、悠々と投錨」し、渡嘉敷島に砲撃を開始した。 午後11時、赤松隊長は、隊員に"出撃準備"の命令を発した。その時の模様を"記録"は次のように書く。 「夜空に敵艦砲の落下もものかはと防衛隊(注=軍に臨時に召集された島民隊)70余名、男女青年団員100名、壮年団員30名、婦人会40名が軍に協力、舟艇百隻は退避壕より引き出され、26日午前4時、渡嘉志久、阿波連(注=いずれも渡嘉敷島の地名)の海辺に勇姿を揃えた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は、勇躍乗船し、エンジンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせて、出撃の命令を今か今かと待っていた」 しかし、「赤松隊長は出撃命令を下さず、壕の奥に待避し、戦闘意欲を全く失っていた」というのである。 "記録"は続く、 「百隻の舟艇は、出撃の勇姿を揃えたまま夜明けとなり敵グラマン機の偵察に会った。隊長赤松大尉は何を考えてか、或いは気が狂ったのか、全艇破壊を命令した。特幹隊員は呆然としていたが、上官の命令に抗することも出来ず、既に出撃の機は失したるため、隊員は涙を呑んで、舟艇の破壊を実施した。舟艇を失った特幹隊員は、本来の任務を全く捨て、かねて調査済みの西山(注=島内の山)の奥深く待避し、赤松隊の生き伸び作戦が始まった。陸士出の大尉赤松は完全に卑怯者の汚名を着せられた」 島民三二九集団自決の地獄図 3月26日、渡嘉敷島民約千四百人が最も恐れていた米軍の上陸が開始された。 が、赤松隊に応戦の意思はなく、武器弾薬を放棄し、隊長以下全将兵の"生き延び作戦"がはじまった。その結果、米軍は島を完全に"無血占領"したのである。 27日夕刻、駐在巡査を通じて、赤松隊長の「住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ」という命令が伝達された。その夜はものすごい豪雨。それでも島民たちは「頼みとする赤松隊」の陣地を目ざして、「ハブの棲む真暗な山道」を、統制なく、歩いて行ったのだ。その雨の山道は「親子、兄弟を見失った人々の叫び声がこだまし、全く生地獄の感」であったという。 そうして、やっとの思いでたどりついた島民たちを待ち受けていたのは、意外にも、赤松隊長の「住民は軍陣地外へ撤退せよ」という冷たい命令であった。もっとも、その命令が意外かどうかは、"記録"そのものにも矛盾があるのだが。なぜならば、赤松隊長が駐在巡査を通じて伝えた命令は、「住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ」というもので、「西山の軍陣地に集合せよ」ではなかったのだから。 それはともかく、撤退命令を受けた島民たちは、3月28日午前、西山の軍陣地北方の盆地に結集した。そして、問題の"集団自決"がはじまるのである。""記録"によると――、 「その頃、島を占領下米軍は、友軍(注=赤松隊のこと)陣地北方百米の高地に陣地を構え、完全に包囲体型を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り、遂に住民の待避する盆地も砲撃を受けるに至った。危機は刻々に迫った。事ここに至っては、如何ともし難く、全住民は、皇国の万歳と日本の必勝を祈り、笑って死のうと悲壮な決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々2個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり、一発の手榴弾に2、30人が集まった。手榴弾がそこここで発火したかと思うと、轟然たる不気味な音は、谷間を埋め、瞬時に老若男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。死にそこなったものは、棍棒で頭を打ち合い、剃刀で自分の頚部を切り、鋤で親しいものの頭をたたき割る等、世にもおそろしい情景が繰り拡げられ、谷川の清水は血の流れと化した。一瞬にして329名の生命を奪った。その憎しみの盆地を村民は、今なお玉砕場と呼んでいる。手榴弾不発で死をまぬかれた者は、軍陣地へと押しよせた。赤松隊長は壕の入り口に立ちはだかり、軍の壕に入ってはいけない、速やかに軍陣地を去れと厳しく構え住民を睨みつけた」 「赤松隊長が、島民に"自決命令"を出したということは、"記録"には書かれていない。けれども、防衛隊員に手榴弾を持たせたこと、死に切れずに軍陣地に押しよせた島民たちを隊長が「軍の壕にはいってはいけない」とにらみつけたという表現などで、"集団自決"は強いられたものであるといっているのである。ちなみに、この"記録"を読んで、渡嘉敷島を訪問し、その"生存者"たちに直接問いただした人々は、確かに赤松隊長から"自決命令"が出されたという島民の証言をレポートしている。たとえば、ルポ作家の石田郁夫氏は『沖縄の断層』(雑誌『展望』67年11月号)で、「赤松から、防衛隊員を通じて、自決命令が出された」と明確にしるしている。 「荒れ狂った赤松隊の私刑」 3月31日夜半、米軍は「赤松隊の兵力をみくびったか」、渡嘉敷島を撤退した。その直後、赤松隊長から島民に対して、「家畜屠殺禁止、違反者は銃殺」という命令が出され、さらに、「我々軍隊は、島に残っているあらゆる食糧を確保し、持久態勢を整え、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態は、この島に住む全ての人間に死を要求している」という"主張"が付け加えられ、ただちに軍による島民監視の前哨線が設けられた。 4月下旬、米軍は再び渡嘉敷島に上陸してきた。彼らは、すでに占領した伊江島(注=那覇市の北西にある島)から、生き残った伊江島民を連れて来て、焼け残った渡嘉敷島民の家に収容した。むろん、渡嘉敷の島民たちはその間、山をさまよっていたのだ。その"さまよう島民たち"に赤松隊は残酷な"私刑"加えてきた・・・・。 例えば、多里少尉は「住民の座間味盛知にスパイの嫌疑をかけ」て切り殺した。また高橋伍長は、「山をさまよい歩く古波蔵太郎(※)を、敵に通ずる恐れあり」として、その軍刀にかけた。"私刑"は日ましにふえ、しかも"隊長命令"で堂々と行われるようになっていったのである。"記録"は告発する。 「米軍の要求により伊江島住民から選ばれた若き男女6名が、赤松隊に派遣された。それは戦争が既に日本の不利であり、降伏することが最も賢明な策であることを伝えるためであったが、赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の者を惨殺した。 また、集団自決に重傷を負い、米軍に収容された十六歳の少年小嶺武則、金城幸次郎の両名は米軍の治療を受け、ようやく恢復したので、米軍の支持に従い、渡嘉敷住民へ連絡のため避難地へ向けられた。目的は住民へ早く下山する様伝えるためであったが、途中赤松隊の将士は二人を捕え、米軍に通じた(という)理由のもとに処刑した。 渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏は敵に通ずるおそれありと斬首された」 8月15日、島民たちは古波蔵惟好村長と相談し、ついに米軍へ集団投降した。 赤松隊が投降したのは、8月22日のことであった。 ※古波蔵太郎→古波蔵樽という人名が多くの書では引用されている。 赤松元大尉大いに弁ず 今、その「悪名高き」赤松嘉次元大尉は「自衛隊の幕僚」ではない。すでに48歳、関西のある小都市で、父親譲りのかなり大きな肥料問屋を経営している。むろん、戦後、彼自身の口は「渡嘉敷戦」について多くを語っていない。やはり苦痛だったのであろうか?その彼が、今年1月14日、戦後、23年目にはじめて開かれた「渡嘉敷島海上挺身(ママ)隊第三戦隊」の"同窓会"で、これまたはじめて「戦闘報告」をおこなったのである。なぜ、そういう"心境"になったのか。一つには、防衛庁が出した戦史『沖縄方面陸軍作戦』が「彼の名誉を回復した」からといわれ、また最近、渡嘉敷島住民の間で、「赤松名将説」が現れたことに「ご本人、すっかり気をよくし」たからともいわれている。 それはともかく、ご本人に直接、島民の"告発"に見合った「戦闘報告」を聞こう。なるほど、表情はスッカリ明るいのである。まず、「戦わずして生き延びようとした卑怯者」という非難に対して――。 「 いや、二十年三月二十日、われわれは、特攻用の舟艇の準備を完了していた。そして二十三日、二十四日と空襲を受け、周辺に敵の艦船が多く姿を見せたので、直ちに出動できるような体制を組んだわけです。ただ、あの艇は新兵器なので、上級司令部からの命令なしに、独断で出動できなかったのです。そこに、私の直接の上司である第十一船舶団長の大町大佐が阿嘉島(注=渡嘉敷島の隣島)から視察に回ってこられた。ちょうど、舟艇を海岸におろしているところだったので、大町大佐にひどくシカられたことを覚えている。大町大佐の考えは敵に舟艇があることを絶対に知られてはいかんということで、全舟艇の引き上げを命じられました。そしてさらに、大町大佐を沖縄本島に護送せよという命令が大佐からでたわけです。これもいろいろと議論があって、結局25日、大町大佐を護送しながら全艇の沖縄本島転進が命ぜられた。そこで、全舟艇を浮べる作業を私が隊員に命じたんです。ところが敵艦の接近で、思うように作業ができない。そしたら、大佐が、全舟艇を引き上げよという命令をまた出されたんです。出動できる舟艇も多くあったんですが。 しかし、艦砲射撃の中で、作業がうまくいかず、大町大佐は、引き揚げ不可能なら、全舟艇を沈めよと命令。結局、沈めました。それを島民の人たちは"卑怯者"というふうに思っておられるんでしょうが、私一人なら出撃しましたよ。しかし、上官の命令です。それに司令官として当然のことを考えられたんです。舟艇を敵に見つからないようにと・・・・。大町大佐は、26日、"地上での持久戦"を命令されて、わずかに残った舟艇で沖縄本島に帰られたんですが、途中、戦死されました。そういう事情は島民の人にはわからんですからねぇ・・・・」 「島民を斬ったのは軍紀」 そして、島民に命令したといわれる「集団自決」についてはどうか。 「 そんな話は、まったく身に覚えのないことですよ。3月26日、米軍が上陸したとき、島民からわれわれの陣地に来たいという申し入れがありました。それで、私は、私たちのいる陣地の隣の谷にはいってくれといった。われわれの陣地だって陣地らしい陣地じゃない。ゴボウ剣と鉄カブトで、やっと自分の入れる壕をそれぞれ掘った程度のものですからねえ。ところが、28日の午後、敵の迫撃砲がドンドン飛んできた時、われわれがそのための配備をしているところに、島民がなだれこんで来た。そして、村長が来て、"機関銃を貸してくれ、足手まといの島民を打ち殺したい"というんです。もちろん断りました。村長もひどく興奮してたんでしょう。あの人は、シナ事変のと時、伍長だったと聞いてたけど・・・・。 ところが、そのうちに島民たちが実に大きな声で泣き叫びはじめた。これは、ものすごかったわけです。なにしろ、八百メートル離れたところに敵がいるんですからね、その泣き声が敵に聞こえて、今度は集中砲火も浴びるわけです。それで、防衛隊に命じて、泣き声を静めさせようとしました。それでもなお静まらないので、ある防衛隊員が"黙らんと、手榴弾を投げるぞ"と叫んで、胸のポケットにはいっている手榴弾に手をかけたら、どういうわけか安全弁がはずれ、ポケットのフタにひっかかって、胸のところでシューシューいって、とうとう爆発して死んでしまった。とばっちりで将校も一人負傷したが、おかげで、泣き叫んでいた島民も静まりました。集団自決があったのはそれからのことでしょう。私はまったく知らなかった。おそらく、気の弱い防衛隊員が絶望して家族を道連れに自殺しはじめたんだと思う。 」 次に、「私刑」について、赤松大尉はなんと答えるか。 「 これは知っています。いや、これはたしかにやりました。"記録"の中には私のしらないのもあるが・・・・。伊江島の女三名、男三名を米軍が投降勧告に派遣してきました。それがわれわれのほうの歩哨線に引っかかったんです。そこで私は、村長、女子青年団長とどう処置するか相談したら、"捕虜になったものは死ぬべきだ"という意見でした。たしかにあの当時はそういうことだったんです。それで六人に会うと、かれらは"われわれを米軍のほうに帰してくれ"という。しかし、こっちの陣地にはいってしまったものは、帰すわけにはいかんというと、"それじゃあ、あなた方といっしょに米軍と戦う!"というんです。だけど、米軍のほうに家族を残して来てるんだから、それはできる話ではない、むしろ死んでほしいといったわけです。そしたら、女はハッキリしとるんです。"死にます"という。男は往生際が悪かったが、ある将校が刀で補助して死なせました。彼らは東のほうを向いて"海ゆかば・・・"を歌いながら死にました。 あとでやはり投降勧告に来た二人の渡嘉敷の少年のうち、一人は、私、よく知っていました。彼等が歩哨線で捕まった時、私が出かけると、彼らは渡嘉敷の人といっしょにいたいという。そこで "あんたらは米軍の捕虜になってしまったんだ。日本人なんだから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい"といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです。 渡嘉敷小学校の先生、大城徳安は、私がハッキリ処刑を命じました。防衛隊員のくせに無断で家族のもとに帰るんです。たびたびやるから、今後やったら処刑するといっておいたのにまたやった。その時は本人も悪いと思ったのか、爆雷を持って突っ込ませてくれといった。しかし、私が処刑を命じて副官が切りました。戦線離脱、脱走です。」 赤松元大尉、実にスッキリと認めるのである。いまもって、この"処刑"に、"軍人としての自信"があるらしいのだ。 紹介したように島民たちの"記録"にもいささか冷静さを欠いた箇所がうかがわれ、赤松大尉の弁明にも、「今さら」と思わせる強硬な部分がある。赤松氏が1月の"同窓会"の戦闘報告の冒頭、「私のやったことはすべて若気の至りで」と頭を下げたと聞く。そして近く、23年ぶりで渡嘉敷を訪問する心づもりだという。島民諸氏がどんな受け入れ方をするか。死者の墓の前に、お互いがこだわりを捨て去れれば、この小島の"戦争"はひとまず過去のものとなろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用は以上) 赤松氏の話は、のちの曽野綾子『ある神話の背景』およびその改題WAC版における話と微妙に違う。変わらないのは、大城訓導処刑以外のことは、重要な局面では「戦隊長である自分の決断だ」とは述べず、必ず「他人の誰か」を楯にして弁明を行っている点である。 なお赤松氏は、一般マスコミ登場はこれが初めてだが、すでに『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』の編集過程で、その執筆者の力を借りて軍関係文献とのすり合わせを行っている。従ってこの記事は、自分の体験だけで初めて語った "バージンスピーチ" だとはいえないだろう。 第3戦隊同窓会が重ねられ、その会合に曽野綾子氏が加わるようになって、より緻密なすり合わせが行われ、『陣中日誌』を完成させたものと思われる。 近いうちに、赤松証言の変遷も解析してみたい。 この週刊新潮記事を読んだ沖縄の新聞、琉球新報は、急遽赤松氏に会いフォローアップした。 それは怒りの特集となった。 →史料発掘:赤松氏デビュー1968.4.8琉球新報
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1877.html
情報元は「森茂樹のマーケティング・コラム 」さん http //www3.ocn.ne.jp/~fmg-net/moricolumn/morico160.html 2008.11.13朝日新聞「私の視点」 東京大学教授・北岡伸一(日本政治外交史) 「トップの条件欠如を露呈」 「論文の必要条件は、たしかな事実と堅固な論理である。 田母神氏の論文には、事実の把握において、著しい偏りがある。例えば、日本は中国や朝鮮に対し、相手の了解を得ないで一方的に軍を進めたことはないと書いている。しかし、満州事変が、石原莞爾ら関東軍の幕僚による陰謀であったことは、誰でも知っている事実である。張作霖爆殺事件についても、コミンテルンの仕業という説が有力になっていると書く。ごく一部にそういう説はあるが、まったく支持されていない。関東軍参謀の河本大作によるものだという説は、揺らいでいない。 歴史で重要なのはバランス感覚と総合的な判断である。いろいろな説や情報の中から、最も信頼できる事実を選び取る作業が重要なのだ。都合のよい説をつまみ食いしたのでは、歴史を理解したことにはならない。 論理においては、さらに矛盾や飛躍が多い。 田母神氏は、もし日本が侵略国家であったというなら、当時の列強はみな侵略国家であったと述べている。したがって、列強も日本も侵略したと言っているのかと思うと、別のところでは、日本は侵略していないという。矛盾していないだろうか。 論理が通っているかどうかということは、彼我を変えても妥当するか、考えればよい。 田母神氏は、日本の朝鮮統治や満州統治は西洋列強の植民地支配とは違い、住民を差別せず同化を目指し、経済的に大きな成果をもたらしたと述べる。 そういう面もあった。しかし善政をしけば植民地支配は正当化された人々は納得するのか。仮に朝鮮または清朝が日本を植民地にして主権を奪い、他方で善政をしき日本を経済発展させれば、日本人は満足したか。断じてノーである。成果は乏しくとも、自分のことは自分で決めたい。それがナショナリズムである。現に田母神氏は、アメリカが戦後日本に繁栄をもたらしたことを評価していないではないか。 日米開戦直前にアメリカが示した交渉案のハル・ノートを受け入れたら、アメリカは次々と要求を突きつけ、日本は白人の植民地になってしまったことは明らかだという。どうしてそういう結論になるのだろう。ハル・ノートをたたき台に、したたかな外交を進めることは可能だった。その結果が、無条件降伏よりわるいものになると考える理由はまったくわからない。 田母神氏の国際政治に対する見方は妙に自虐的、感情的である。氏は、ルーズベルトが日本に最初の一発を撃たせようとしていたとし、日本は彼と蒋介石によって戦争に引きずり込まれたという。そういう面もなかったわけではない。しかし、国際政治とは、しばしばだましあいである。自衛隊のリーダーたるものが、我々はだまされたというのは、まことに恥ずかしい。 田母神氏は現在の日本にはなはだ不満らしい。日本人はマインドコントロールから開放されていないという。もしそうならその責任は誰よりも、負ける戦争を始めた当時の指導者にあるのではないか。しかし、氏は、妙に彼らには甘いのである。今の日本を憤るなら、なぜ戦争をしてしまった指導者をかばうのか。 外国でも日本でも、軍のトップには教養があり、紳士的でバランス感覚に富んだ人が少なくない。それがトップの条件だろう。そういう意味で歴史は、トップリーダーが身につけておくべき学問である。田母神氏は、以上の点でトップにふさわしくない。そういう人がトップにいたことは驚きである。自衛隊への信頼は大きく損なわれた。まことに残念なことである。」(2008年11月13日 朝日新聞掲載「私の視点」より引用紹介している) 「偉そうな軍人さんは嘘をつく」庫
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1499.html
http //www.nikkei.co.jp/news/shakai/20081101AT5C3101V31102008.html 【日経】沖縄集団自決訴訟、元隊長側が二審も敗訴 大阪高裁判決 太平洋戦争末期の沖縄で起きた集団自決を命じたなどとする記述で名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の当時の隊長らが岩波書店と作家の大江健三郎さん(73)に「沖縄ノート」の出版差し止めや損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決が31日、大阪高裁であった。 小田耕治裁判長は、請求を退けた一審・大阪地裁判決を支持、元隊長側の控訴を棄却した。 判決理由で小田裁判長は、集団自決について「日本軍が深くかかわったことは否定できず、総体としての軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」と指摘した。(07 00) 沖縄戦ニュース
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/89.html
論争史ガイド 石川為丸氏 http //www.h3.dion.ne.jp/~kuikui/hihyou.htm 【「集団自決」論争】 『ある神話の背景』の背景 〈神話〉を作る身振りと〈事実〉へ向かう姿勢 石川為丸 曽野綾子の『ある神話の背景』は、いささか挑発的な、右よりの論調を特徴とする雑誌『諸君』に1971年10月から1972年8月まで11ヶ月にわたって連載された後、1973年に、単行本として文芸春秋社から刊行された。この『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図はあまりにも明白であると言ってよい。 「神話」とは、言うまでもなく、古くから人々の間に語り継がれている神を中心にした物語のことである。が、普通は、「客観的根拠なしに人々によって広く信じられていることがら」といった意味で使われている。曽野はかつての沖縄戦における日本軍のなした悪業の事実を、客観的根拠のない「神話」という水準のものにしたかったのだ。沖縄戦にまつわる島々の重たい歴史を、軽い「神話」にしてしまおうとする意図。慶良間列島の島々の名前を覚えにくいという人のために、曽野はこんなザレ歌をわざわざつくったりしているのだ。 「慶良間(けらま)ケラケラ、阿嘉(あか)んべ、座間味(ざまみ)やがれ、ま渡嘉敷(かしとき)」。 最後の「渡嘉敷」に無理があるへたくそなザレ歌ではあるにせよ、曾野のこういう軽いノリが、暗黙のうちにそのことを物語ってもいるのだろう。 だが、この書『ある神話の背景』はそれなりの説得力を持ってはいたようである。琉大の仲程昌徳先生でさえ、こんなことを書いて、曽野の「神話」説に寄り添ったほどなのだから。仲程先生は、「公平な視点というストイックなありようが、曽野の沖縄戦をあつかった三作目『ある神話の背景 沖縄・渡嘉敷島の集団自決』にもつらぬかれるのはごく当然であったといえる。」(「本土の作家の沖縄戦記」)などと曽野を持ち上げていたのだ。だが、もし、曽野の語り口に惑わされずに、冷静に『ある神話の背景』を読んでいさえすれば、それが、戦後になってまとめられた赤松隊の「私製陣中日誌」や、赤松や赤松隊の兵士らの証言等をもとに構成された加害者の側に立ったものでしかなかったということがわかるだろう。いったいそんなもののどこに、「公平な視点というストイックなありよう」などが貫かれていようか。だが、仲程先生はさらに、〈ルポルタージュ構成をとっている本書で曽野が書きたかったことは、いうまでもなく、赤松隊長によって、命令されたという集団自決神話をつきくずしていくことであった。そしてそれは、たしかに曽野の調査が進んでいくにしたがって疑わしくなっていくばかりでなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。すなわち、『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられたのである。〉とまで述べて、曽野の「神話」説を全面肯定したのだ。 こうした論調の存在を踏まえて、1985年になって、『鉄の暴風』で渡嘉敷島の集団自決の項を執筆した太田良博氏から「沖縄戦に“神話”はない」と題された曽野綾子の「神話」説への丁寧な反論が「沖縄タイムス」紙上(1985年4月8日~4月18日)でなされた。これに対する曽野綾子からの「お答え」があり、更にそれに対して太田氏からの反論があった。この太田―曽野論争を受けて、タイムス紙上で、石原昌家氏、大城将保氏、いれいたかし氏、仲程昌徳氏、宮城晴美氏らが発言した。その後、『ある神話の背景』をめぐる論争等に関連して、シンポジウム「沖縄戦はいかに語り継がるべきか」が、沖大で催された。その際の、新崎盛暉氏、岡本恵徳氏、大城将保氏、牧港篤三氏らの発言が「琉球新報」紙に掲載された。さらに、タイムス紙上に伊敷清太郎氏の「『ある神話の背景』への疑念」が掲載された。さらに、新聞の投書欄やコラムを通して活発な発言がなされた。 「太田氏は、伝聞証拠で信用できないと(曽野らに)決めつけられた『鉄の暴風』の記述を戦後四十年にしてさらに補完したことでジャーナリストとしての責任を果たしたことになり、そのことに敬意を表したい。」といれい氏が述べている通り、この論争では太田良博氏は一貫して事実に向かおうとする真摯な姿勢を貫いた。それに比べて、曽野綾子の不真面目さが際立っていた。曽野は、「つい一週間ほど前に、エチオピアから帰ってきたばかりである」ことをまず述べて、太田氏の主張も、それに反駁することも、自分の著作も、「現在の地球的な状況の中では共にとるに足りない小さなことになりかけていると感じる」などと言って、まともに対応しなかったのだ。また、「第二次世界大戦が終わってから四十年が経った」ので「いつまでも戦争を語り継ぐだけでもあるまい、と言えば沖縄の方々は怒られると思うが、終戦の年に生まれた子供たちがもう四十歳にもなったのである。もし大量の尊い人間の死を何かの役に立たせようとするならば、それは決して回顧だけに終わっていいものだとは私は思わない」などと説教までたれていたのだ。こういう無責任なずらしに対しては、石原氏がピシリといいことを言っている。「歴史始まって以来の大きなできごとである沖縄戦の全事実の一部たりとも、闇に葬り去らずに記録し、そこから再び惨劇を繰り返さない歴史の教訓を学ぶことが、体験者と同時代に生きるものの責務であり、体験を語ることが戦没者の死を無駄にしない生存者の使命となっている」と。『ある神話の背景』を書き上げた曽野の意図は、住民虐殺を始めとする、沖縄における日本軍のなした悪業の数々を免罪しようということであった。もともとそんなことは無理なことなので、曽野はまともに論争することができなかったのだと言えよう。客観的な事実に正面からぶつかったら、当然にもボロが出てしまうような質のものだった。だから曽野は、『鉄の暴風』の中の太田氏の記述を、「こういう書き方は歴史ではない。神話でないというなら、講談である。」とけなしてみたり、「太田氏という人は分裂症なのだろうか。」などと病む者への配慮を欠いた、けなし文句で対応することしかできなかったのだ。挙句の果ては、沖縄は「閉鎖社会」だとか、学校教育の場では「日の丸」を掲揚し、「君が代」をきちんと歌わせろ、などと述べる始末であった。太田氏の反論に対して、曽野は、結局何一つまともに対応できなかったのだ。 曽野の発言に見られるような支配的な潮流は、沖縄戦における日本軍の犯罪を免罪し、「もうあの戦争のことは忘れよう」ということであった。そういう文脈の中で、仲程昌徳氏が、「軍部にのみ責任をなすりつけて、国民自身における外的自己と内的自己の分裂の状態への反省を欠くならば、ふたたび同じ失敗を犯す危険があろう」という岸田秀の一節を引用して、民衆レベルでの戦争責任を持ち出そうとしたのは、それ自体は大切な問題であったにもかかわらず、住民の側が凄まじい被害を受けた場であるということを考慮にいれていないために、大きく論点を逸らす役割しか果たさなかったと言えよう。それは、「生き残ったものすべての罪である」などといった、沖縄戦における真の加害責任を免罪しようとする曽野の論調に荷担するものでしかなかったのだ。だが、そのような仲程氏の発言を除けば、県史料編集所専門員(当時)の大城将保氏の、「住民虐殺」も「集団自決」も根本的な要因は軍の住民に対する防諜対策、スパイ取締であったという、客観的な資料に基づく説をはじめとして、総じて沖縄戦を再認識させる真摯なものであった。ただ、残念であったことは、論争が、沖縄という地域限定のものから全国的なものに展開する前に、曽野が逃亡を決め込んでしまったことである。 こうした十四年前に行なわれた論争に、私たちは、今何を付け加えようか。それがあまりにも常識的なことであるためなのか、天皇制への言及がなかったことが、ただ一つ私などの気になっている点ではある。渡嘉敷や座間味にまで慰安婦を連れて蠕動していた日本軍は、そこでいったい何を目的にしていたのかということを、ひとまず再確認しておこう。渡嘉敷では住民を虐殺し、「集団自決」を強制させていたわけであるが、それは、皇軍の使命が沖縄を守るためなどではなく、「国体(天皇制)護持」のためであったからということだ。ポツダム宣言の受諾が遅れたのは、時の権力が国体護持すなわち天皇制の存続に執着したためであることは、今や常識となっている。天皇の命を救い、天皇制を延命させるための策謀のために、沖縄の住民九万四千人が犠牲にされたのだということは、何度でも確認しておく必要があるだろう。天皇(制)による戦争の凄まじい犠牲にあいながらも、それから半世紀以上経てもなお、天皇制は温存され、沖縄が日米両軍の戦争遂行のための中心基地にされているという事態に、私たちはもっと驚くべきなのだ。これは、戦争責任の問題が、「戦後責任」として現在にも持ち越されているということにほかならない。十四年前の「集団自決」論争は、今に温存されてしまった「戦前・戦中」と絡めて、繰り返し想起していくべきはずのものである。 〈「EDGE」 NO8 1999 より〉 愛・蔵太氏 http //d.hatena.ne.jp/lovelovedog/20060908/oota01 雑誌『正論』(※)に1971~72年にかけて連載されたテキストをまとめた『ある神話の背景』が1973年に出版され、それに対する反論が1985年に「沖縄タイムス」で、太田良博さんという、沖縄タイムスが刊行して、曽野綾子さんの批判対象テキストになっている『鉄の暴風』を書いた人によって掲載されたわけです。 なんで本が出てから10年以上もたってこんなことになったかは不明なんですが(あまりくわしく調べてないんだけど、家永三郎教科書裁判と関係ある様子)、太田良博さんの批判テキストは1985年4月8日から10回にわたって掲載され、それに対する曽野綾子さんの反論が、1985年5月1日から5回、さらに太田良博さんの再反論が1985年5月15日から6回にわたって掲載されました。 ぼくのブログで、その全テキストを掲載・紹介してみたいと思います。 渡嘉敷島の集団自決が軍命令であったのかなかったのか、について考察するための、ちょっとした資料になるような気がします。 (※)正しくは『諸君』 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2631.html
http //sankei.jp.msn.com/politics/policy/100220/plc1002200244003-n1.htm 【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 中国への歩み寄りは無意味 2010.2.20 02 44 ≪歴史観の違い明確に≫ 日中両国の有識者による歴史共同研究の報告書が先月末、公表された。この共同研究は、平成18年10月の安倍晋三首相(当時)と胡錦濤国家主席の合意に基づき、戦略的互恵関係構築の一環として行われたものだ。 双方が歩み寄ったことを評価する声が一部にある。だが、近現代史部分の中国側記述を読むと、表現が少し穏やかになったものの、内容は従来の中国共産党史観とほとんど変わらない。中国がそれほど歩み寄ったとは思えない。 南京事件(昭和12~13年)について、中国側はこう書いている。「日本軍は南京で多数の捕虜や住民を集団虐殺し、略奪を繰り広げた。東京裁判は占領後1カ月間に南京市内で2万人近い強姦(ごうかん)事件が起きたと認定。南京軍事法廷は犠牲者数を計30万人以上とした」 「30万人虐殺」説も「2万人強姦」説も、中国当局が公式に主張している数字だ。当時の南京の人口(20万人)を上回る「30万人虐殺」が荒唐無稽(むけい)な数字であることは言うまでもないが、「2万人強姦」もあり得ない話である。 南京事件に詳しい東中野修道・亜細亜大教授は以前、本紙でこんな指摘をしていた。 第二次大戦にドイツが敗れた直後の2カ月間で、約10万人の女性がロシア兵に強姦された。1万人強が妊娠し、その90%は医師が中絶したが、1000人強は出産したという。だが、南京でそのような“不幸な赤ちゃん”が生まれたという記録はどこにもない。 ≪「虐殺なかった」も有力≫ 南京事件では、日本側が「日本軍による集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪が頻発した。犠牲者数は20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がある」と虐殺を認め、中国の主張に歩み寄った。 しかし、「南京虐殺」や「南京大虐殺」は当時の中国国民党の反日宣伝だったことが、最近の研究で分かってきた。 「大虐殺」の証拠とされる「戦争とは何か-中国における日本軍の暴虐」の著者、英マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員は実は第三者ではなく、「田伯烈」という中国名の国民党中央宣伝部顧問だった。 日本側が報告書に記した「集団的な虐殺」の有無もはっきりしなくなってきた。日本側の記述にある「20万人虐殺」説を唱える日本人学者はいるにはいるが、信頼性を失っている。かつて「4万人虐殺」説を主張した近現代史家の秦郁彦氏も、近著で「実数はそれをかなり下まわるであろう」と下方修正している。 「虐殺」とされたケースのほとんどが通常の戦闘行為の延長で、ナチス・ドイツやスターリン時代の旧ソ連が他民族に対して行ったような集団的な虐殺はなかったという見方が有力になっている。 こうした最近の実証的な研究成果が、今回の日本側の報告には触れられていない。 ≪水増しは常套手段≫ 今回の報告書で、中国側は日中戦争における中国側の被害について、「不完全な統計」と断っているものの、「約3500万人が死傷した」と書いた。これも中国側の誇大宣伝数字の一つだ。 秦氏によれば、終戦直後の1946年、国民政府の何応欽軍政部長は中国軍人の死傷者を「321万人(うち死者189万人)」と東京裁判に報告した。何応欽は1978年に行った演説でも、中国軍の死傷者数をほとんど変えず、民間人を合わせた軍民の死傷者数を「579万人」としていた。 ところが、1980年代、中国の軍事博物館や教科書に、中国軍民の死傷者「2168万人」という数字が登場し、4倍にふくれ上がった。さらに、1995年、江沢民前国家主席はモスクワで行った演説で、中国軍民の死傷者を「3500万人」に増やし、軍事博物館や教科書もこの数字に差し替えられた。日本軍による犠牲者数を根拠のないまま水増ししていくのは、中国の常套(じょうとう)手段である。 中国側が歩み寄ったのは、日中戦争の発端となった盧溝橋事件(昭和12年7月)で、「正確な史料は見つかっておらず、事件が偶発的に起きた可能性がある」と偶発説に言及したことくらいだ。 東京裁判で、国民政府は「日本軍挑発」説を唱え、中国の教科書もこれに依拠している。 だが、最近の日本の研究では、「中国共産党謀略」説も有力になっている。今回の報告書で、日本側は「偶発」説を書くにとどめたが、少し踏み込みが足りない。 共同研究は今後も、人を代えて続けられる。独裁国家の中国と学問の自由がある日本との間に、歴史認識の共有などあり得ない。日本が中国に歩み寄ったところで、学問的には何の意味もないのである。(いしかわ みずほ) 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1095.html
通018 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第3 争点及びこれに対する当事者の主張 第3・4 争点4(真実性の有無)について 第3・4(1) 被告らの主張 第3・4(1)イ 座間味島について 第3・4(1)イ(ア) 自決命令を示す文献等 第3・4(1)イ(ア) 自決命令を示す文献等a 「鉄の暴風」(乙2)(a) (成立と内容)* (b) (神戸新聞記事に関して)* b 「座間味戦記」(乙3・「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」所収) c 「秘録 沖縄戦史」(乙4) d 「沖縄戦史」(乙5) e 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6) f 「秘録 沖縄戦記」(乙7) g 「沖縄県史 第8巻」(乙8) h 「沖縄県史 第10巻」(乙9) i 米軍の慶良間列島作戦報告書 j (住民証言の記録)* k (小括)* a 「鉄の暴風」(乙2) (a) (成立と内容)* 「鉄の暴風」は,戦後5年しか経過していない昭和25年に出版された沖縄最初の戦記であり,沖縄タイムス社が多くの住民を集めた座談会を相当回数開催するなどして住民から直接取材し,得られた証言をもとに執筆された。 「鉄の暴風」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 (b) (神戸新聞記事に関して)* 原告らは,執筆者の牧志伸宏が,神戸新聞において,原告梅澤の自決命令にっいて調査不足を認める旨のコメントをしていると主張するが,神戸新聞の記事のとおり牧志伸宏が述ぺたか疑わしいし,沖縄タイムス社は,現在もなお,原告梅澤が自決命令を出したという見解を維持している。 b 「座間味戦記」(乙3・「沖縄戦記(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)」所収) 「座間味戦記」は,座間味村が援護法の適用を当時の厚生省に申請した際に提出した資料である。 「座間味戦記」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座聞味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 c 「秘録 沖縄戦史」(乙4) 「秘録 沖縄戦史」は,戦争当時は警察官として軍部と協力すぺき地位にあり,戦後は戦没警察官の調査を行い,その後は琉球政府社会局長として戦争犠牲者の救援事業に関わり,戦争当時の状況について調査を行った山川泰邦が,自己の戦争当時の体験と警察や琉球政府社会局の調査資料をもとに執筆したものである。 「秘録 沖縄戦史」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 d 「沖縄戦史」(乙5) 「沖縄戦史」は,沖縄タイムス紙の編集局長であった上地一史が,時事通信社沖縄特派員や琉球政府社会局職員らと共同で執筆したものである。 「沖縄戦史」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 e 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(乙6) 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」は,座間味島における戦闘で死亡した下谷勝治兵長の兄である下谷修久が,戦後,座間味島に赴き,住民の供述をまとめたものである。 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 f 「秘録 沖縄戦記」(乙7) 「秘録 沖縄戦記」は,「秘録 沖縄戦史」(乙4)を執筆した山川泰邦が,内容を再検討し,琉球政府の援護課や警察局の資料,米陸軍省戦史局の戦史等を参考にして全面的に改訂したものである。 「秘録 沖縄戦記」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 g 「沖縄県史 第8巻」(乙8) 「沖縄県史 第8巻」は,昭和40年から昭和52年にかけて,沖縄の公式な歴史書として,琉球政府及び沖縄県教育委員会が編集,発行した全23巻中の1巻であり,昭和46年4月28日に琉球政府の編集により発行された。 「沖縄県史 第8巻」には,第2・2(5)ア記載のとおり,原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 h 「沖縄県史 第10巻」(乙9) 「沖縄県史 第10巻」は,「沖縄県史 第8巻」と同様の沖縄の公式な歴史書であり,昭和49年3月31日に沖縄県教育委員会の編集により発行された。 「沖縄県史 第10巻」には,第2・2(5)ア記載のとおり・原告梅澤が座間味島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 i 米軍の慶良間列島作戦報告書 平成18年夏,米軍の慶良間列島作戦報告書が,関東学院大学の林博史教授(以下「林教授」という。)によって発見された(乙35)。 上記報告書には, 「尋問された民間人たちは,3月21日に,日本兵が,慶留間の島民に対して,山中に隠れ,米軍が上陸してきたときは自決せよと命じたとくり返し語っている」 との記述があり,座間味村の状況について, 「明らかに,民間人たちは捕らわれないために自決するように指導されていた」 との記述がある。 この報告書の記載を原告らの主張のとおりに、 「民間人達は,3月21日に,日本の兵隊達は,慶良間島の島民に対して,米軍が上陸したときは,山に隠れなさい,そして自決しなさい,と繰り返し言っていた。」 と英訳したとしても,日本軍が慶留聞島の住民に自決を指示していたことに変わりはない。 j (住民証言の記録)* 「沖縄県史 第10巻」(乙9)等には,宮里とめ(乙9・738ないし739頁),宮平初子(乙9・746頁),宮里美恵子,(乙9・741頁,乙50・34頁),宮平カメ及び高良律子(乙9・753頁),初枝(甲B5・39,40,46頁,乙6・45頁,乙9・756頁)など,座間味島の集団自決が軍の命令で行われたことを示す手記等が記載さんているほか,宮里育江(乙53及ぴ62),宮川スミ子(乙98),上洲幸子(乙53),宮平春子(乙51,乙71の1及び2),宮村トキ子(乙71の2)らも,近時,新聞の取材に応じて,同趣旨を語るなどしている。 k (小括)* 以上の資料から明らかなように,座聞味島では昭和20年3月25日の夜に,米軍の上陸を目前にして,米軍の艦砲射撃のなか,兵事主任兼防衛隊長である盛秀助役の指示により,防衛隊員が伝令として,軍の玉砕命令がでたので玉砕(自決)のため忠魂碑前に集合するよう軍(隊長)の命令を住民に伝達して回り,その結果集団自決に至つた。 そもそも,軍の絶対的支配下にあった座間味島において,原告梅澤の指揮下の防衛隊長であり,兵事主任であり,軍の命令を住民に伝達する立場にあった盛秀助役が,軍,すなわち原告梅澤の命令なしに,勝手に住民に自決命令を出すなどということはありえず,軍の命令がなけれぼ,幼い我が子を殺すことはなかったはずである。 原告梅澤は,米軍が上陸してくることを認識しながら,住民を他に避難させたり投降させたりするなどの住民の生命を保護する措置をまったく講じていなかったが,このことは原告梅澤が住民を玉砕させることにしていたからにほかならない。原告梅澤は,昭和20年3月25日の夜,助役らに面接した際に住民が自決しようとしていることを認識しながら,これをやめるように指示,命令しなかったのも,あらかじめ住民に玉砕を指示,命令していたからにほかならない。 以上のとおり,座間味島の住民の集団自決は,軍すなわち原告梅澤の自決命令によるものであることが明らかである。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」