約 192,858 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2091.html
日清・日露戦争 第4章 台湾征服戦争 1 過酷な征服 1 過酷な征服北守南進策の台湾 台湾の自生的発展 台湾民主国と占領戦争 台湾平定宣言 その後の抵抗運動と弾圧 腐敗と堕落 北守南進策の台湾 狭義の日清戦争は終わったが、戦争そのものは続いていた。清国が譲渡した台湾での中国人による抵抗が続いていたのである。 台湾に注目し、その占領と清国からの割譲を要求するのは、政府と軍部の了解事項であった。松方正義は北守南進論の構想を持ち、一八九四(明治二七)年冬、一つの意見書を、同じ薩摩閥の川上操六(そうろく)参謀次長に送った(『公爵松方正義伝』)。松方は、天津から北京を占領するより台湾占領の急務を提案し、これを占領せずに終戦となるのは「百年の遺憾千秋の失敬このことと存侯」とまで重要だと位置づける。「我邦の前途は、北に守りて南に攻るの方針」を取らねばならない、台湾は、マレー半島や南洋群島にまで進出する根拠地だと位置づけていた。日清戦後の情勢予想からすると、日本の南進論の拠点として確保しなければ、列強が奪取する可能性に危機感を抱いていた。こうした見方は、松方一人のものではなかった。松方はこの意見書を「天下有識者の公論」と言い、伊藤博文も「同感同情」であると伝えている。 また陸奥宗光外相も、同じ意見を持っていた。意見書「台湾島鎮撫策に関して」(作成年月不明。陸奥は一八九七年八月二四日没)は、台湾領有の目的を、(1)中国大陸や南洋群島に将来版図を 96 展開する際の根拠地とする、(2)資源を開発して工業を育成し、通商利権を握る、の二つを挙げている。そのため陸奥は、鎮撫統治の要は「第一、島民を威圧するを要す/第二、支那民俗を台島より攘逐減少するを要す/第三、我国民の遷住を奨励す」の三カ条とした。このような見方は国家機密でも何でもなく、一八九七年に出版された『台湾事情』(春陽堂)で地理学者松島剛・佐藤宏が、 新領地もし治績(ちせき)緒につき、拓殖の功挙がるに及ばば、この地〔台湾〕我鵬翼(ほうよく)を延ばすの根拠となるは自然の勢なり。南を望まば比列賓(フィリピン)は已(すで)に咫尺(しせき)の間〔近距離〕に在り。南洋諸島は飛石の如くに相連り、香港、安南、新嘉披(シンガポール)もまた遠きにあらず。みな邦人の雄飛を試むべき地なり。然れどもこれらの事はただ将来の出来事をして、自らこれを証せしめんのみ。 と解説したように、帝国として膨張しつつある日本、という認識が広がっていた。台湾統治を南進の拠点とする考えは、のちに児玉源太郎台湾総督や後藤新平民政長官の支持も得る。 台湾の自生的発展 一八九五年六月二日、台北の北、海上で李経方と台湾の割譲手続きを済ませた樺山資紀(すけのり)台湾総督は、占領した台北で台湾総督府始政式を執行した。樺山総督に同行した水野遵(じゅん)民政局長は「極めて平和的、極めて文明的の形式をもってその受理が終 97 ると考え」(『大路水野遵先生』)ていたように、台湾平定は順調に進むと思われた。上海居留地で発行されていたイギリス系新聞『ノースチャイナ・ヘラルド』の記事「台湾の日本軍」(一八九五年九月六日)は、台湾占領について作戦のまずさを指摘するだけでなく、「日本の犯した大きな過ちは、島に住む客家(ハッカ)その他の中国系農民の気性と力を過小評価したことだ」と、抵抗運動のエネルギーを見据えていた。 その記事の言うように、台湾は一九世紀に入って茶業と糖業を中心に開発が進められ、欧米との貿易も増加したため、本土からの移住も増えていた。一九世紀前半には「一府二鹿三[舟孟][舟甲]」と呼ばれるほど、台南府・鹿港(台中の南、彰化(しょうか)の港町)・[舟孟][舟甲](台北の西部)の三大港を中心とした繁栄が見られ、林本源一族や陳中和一族などが土着した商人資本の代表だった。一八八五年には台湾省を置き、三府一直隷州六庁一一県の設置となった。アヘン戦争などを機に貿易港として指定された基隆(キールン)、打狗(タアカウ)(日本領有後に高雄と改称)港を中心として、城壁都市台北府(一八七五年設置)や台南府が設けられ、都市化が進められた。 清国の開化派である洋務派の劉銘伝(りゅうめいでん)が巡撫(じゅんぶ)となると、地租改正を意味する清賦事業に着手し、省都・台北府の近代都市化も大きく図られた。電気と電灯、電信、鉄道などの近代的社会基盤を整備し、本土から商人資本を呼び寄せ、興市公司を設立するなど積極的な政策を進めた。劉巡撫は、一八八七年に基―彰化間の鉄道を建議して認められ、一八九一年には基隆―台北間 98 が竣工、台北より新竹間が一八九三年に竣工した。全線七五マイル(一ニ○・七キロ)は乗客中心で貨物輸送力は微弱だったが、中国で最初の鉄道の一つという画期的なものだった。 こうした自生的発展にストップをかけたのが、一八九五年の台湾割譲だった。本土から移住の漢人商人(台湾士紳)を中心に台湾民主国が作られたのも、南洋大臣張之洞(ちょうしどう)らの割譲阻止策略という背景もあったが、一九世紀末に至るまでの台湾の自生的発展からの結論でもあった。 台湾民主国と占領戦争 五月二三日、「わが台民敵に仕うるよりは死することを決す」という台湾民主国宣言が発表され、二五日に総統就任式を行い、劉銘伝の後任巡撫である唐景崧(とうけいすう)を総統、挙人(科挙の郷試(地方試験)合格者)の丘逢甲を副総統兼全台義軍統領として台湾民主国は樹立された。年号を永清、国旗は「藍質虎章(らんしつこしょう)」と定めた。だが九〇〇〇人と推定された巡撫の清軍は、近衛師団が上陸すると一戦も交えず崩壊し、唐総統は台湾を脱出した。 最も強く抵抗したのは先住民である高山(こうざん)族で、彼らを率いた台湾幇辮軍務の劉永福(りゅうえいふく)は「民主国大将軍」を名乗り、台南府を拠点に頑強に戦った。劉将軍は、清仏戦争で黒旗軍を率いて、フランス軍を敗北に追い込んだ英雄として知られており、台湾でも自然の「嶮(けん)に拠り、塁を築き濠を掘」(台湾総督府法務部編纂『台湾匪乱小史』一九二〇年)って戦いを続けた。強い抵抗に遭遇した樺山総督は、「実際の状況は外征におけるに異ることなし」と六月一九日、政府に報告し(『秘書類纂』台湾資料)、軍隊増派を請求した。これを受けて、大本営は、遼東半島にいた第二 99 師団から混成第四旅団を抽出し、台湾に向かわせる。七月中旬、樺山総督は、さらに一個師団半の増派を請求した。 大本営は増派決定のうえ、八月六日に台湾総督府条例を定めた。この条例は、鎮定難航のため軍政施行を意味するとともに、「軍部機関を拡充して略々(ほぼ)軍司令部と同一の編制」(参謀本部編『日清戦史』)とし、二個師団を上回る兵力は、第一軍以上の軍事力となり、それだけ台湾平定が困難になっていたことを物語る。 枢密顧問官・高島靹之助(とものすけ)陸軍中将を現役に復し、台湾副総督に任命して、南部平定軍の指揮を執らせ、大島久直陸軍少将を総督府参謀長に任じた。伊藤内閤も、七月一六日、台湾情勢は「百事至難の境遇に在る」と認識を改め、「速(すみやか)に鎮定の奏功を望」むので「鎮定までの間は法規等に拘泥せず万事敏捷に相運侯筈に申合せ」た八カ条を内閣閣令として通達した。 台湾平定の困難さは武装抵抗だけではなかった。風土病のマラリア、炎天下の水不足から生水を呑んでの赤痢などによる「吐潟(としゃ)病」、栄養不足からの脚気病などが広がり、「八月中旬後[土龍]壊に抵(いた)るの頃は各隊の病者概(おおむね)健康者の半数以上に達した」(「明治二十七八年役陸軍衛生事績」『明治 100 軍事史』)と罹病者が続出したことにより、戦闘力が不足した。八月二九日に中部の彰化を占領した近衛師団は、南方への前進を止め、一〇月三日まで給養することになったが、「諸隊の人員殆ど半に減ず」(『官報』八月三一日)という有り様だった。 台湾平定宣言 ようやく南下を再開した近衛師団は、一〇月九日には嘉義(かぎ)を占領した。台南の南北海岸に上陸した増援部隊を含め三方から台南府を攻略にかかると、一九日、劉将軍も台南府から脱出し、厦門(アモイ)に向かい、台湾民主国は崩壊した。台南を無血占領したのを受け、樺山総督の台湾平定宣言は、一八九五年一一月一八日東京の大本営に報告された。 攻略作戦の途上、近衛師団長北白川宮能久(よしひさ)親王と川村第一旅団長、阪井第二旅団長がマラリアに罹り、能久親王は亡くなる。日本は、約七万六〇〇〇人の兵力(軍人四万九八三五人、日本人軍夫二万六二一六人)を投入、日本軍の死傷者五三二〇名(戦死者一六四名、戦病死者四六四二名、負傷者五一四名)、中国人兵士・住民一万四〇〇〇人を殺害して、台湾を獲得する。 先に引用した『ノースチャイナ・ヘラルド』紙は、「全く無用の戦い」で「〔日本軍と住民の〕両者ともども行った残虐行為の記憶は長く心にとどめられ、平和で静穏な状態を確立する上で障害となるだろう」と、九月六日の時点で断言していた。無用の残虐な征服戦争に踏み切った日本は、外交的軍事的敗北を宣言されていたことになる。 その後の抵抗運動と弾圧 予想の通り、同年一二月には台湾北部の宜蘭(ぎらん)が包囲され、翌年元旦には台北城が襲われるなど、各地で高山族が蜂起し、日本統治への抵抗は一九〇二年まで続く。台湾総督府法務部編纂『台湾匪乱小史』は、一節を「土匪(どひ)蜂起と討伐」とし、一八九五年五月末から一九〇二年五月末に至る七年間の蜂起と鎮圧経過を記している。 一八九五年から一九〇二年は台湾統治上「第一期」と呼ばれている。この時期に「土匪の台北を襲うこと二回、台中を襲うこと二回、その他各所の守備隊弁務署支庁憲兵屯所を襲うこと五十数回、巡査派出所襲撃などは枚挙に遑(いとま)あらず(矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』)と総督府の弾圧が残虐であるだけ、抵抗もいっそう厳しくなっていた。『公爵桂太郎伝』も、「匪賊」と住民の区別を付けることができず、「玉石倶(とも)に焚(た)くという殺戮を敢てしたり」と認めている。 後藤新平が一九一四年五月、東京で行った講演の記録『日本植民政策一斑』は、一八九六年から一九〇二年までの「匪徒殺戮(林少猫討伐まで)」について、「捕縛もしくは護送の際抵抗せしため」五六七三人、「判決による死刑」二九九九人、「討伐隊の手に依るもの」三二七九人、合計一万一九五一人を「殺戮」したが、そのうち裁判で死刑となったのは三〇〇〇人しかいなかった。その他の九〇〇〇人の「殺戮」の例を、後藤はこう語った。 102 帰順証交付のため警察署弁務署支署等へ呼び出し、訓令を加え、これに抵抗したるものはこれを殺戮することに予定し、同日同刻に呼んで一斉射撃で殺したのであります。(中略)土匪帰順法は(中略)天皇の大権に亘る生殺与奪の権で(中略)帰順させた者の中には良民たるべきものと不良民にして到底ものにならぬ奴がある、まず仮帰順証を与えて若干月日監視し選び抜いてその悪い者を同日同時に殺したのであります。 赤裸々に「土匪」の「殺戮」を語る後藤だが、第一期支配の特色として挙げたのが「保甲制度」だった。宋代の中国にあった民衆監視制度で、中国史に詳しかった当時の日本人ならすぐに思いつく政策で、陸奥宗光も提案している(『現代史資料』台湾1)。後藤は「総ての罪悪に連座の制です」と語って、治安維持に大いに効果があったと誇っている。 腐敗と堕落 このようなあからさまな「殺戮」と民衆の相互監視制度という強圧的政治のもたらしたものは、台湾総督府自身の腐敗と堕落だった。一八九七年中に台湾総督府の事務官(台北県知事、土木課長、技師など)が摘発された疑獄事件は四件もあった(『台湾総督府警察沿革誌』)。台湾総督府高等法院長高野孟矩(たけのり)は、乃木希典(のぎまれすけ)の非職上奏(休職にするよう天皇に上奏)に基づき同年一〇月解任され、高野に殉じた台湾総督府法院判官は一二月中旬までに「依願免本官」八名、「免本官」二名、「非職」四名と計一四名の多数となり、大事件となった。法院判官浜崎芳雄は、病と称して上京し、同年八月「台湾総督を弾劾するの書」を送付 103 するなどの抗議行動を起こして、一一月免官になる。その抗議書は、「希典疑獄事件の漸次蔓延するは、自家の職責に係(かか)るをもって頗(すこぶ)るこれを厭忌(えんき)し、なるべく事局の瑣少(さしょう)ならんことを欲するも、司法官は彼の意の如くならず。故にまず重なる司法官を非免(ママ)し、他を畏懼せしめ、もって自家の体面を装わんとする一片の卑劣心に出で」と乃木希典総督を強く弾劾するものだった。高野院長は、総督府疑獄の摘発に熱心だっただけでなく、総督府の先住民弾圧にも批判的だった。 2「外地」の誕生 軍政から民政へ 台湾の領有によって日本は、時間の基準を二つ持つことになる。一八九五年一二月二七日新たに台湾島の西を通る子午線東経一二〇度を「西部標準時」とし、台湾・澎湖諸島・八重山諸島・宮古諸島の標準時と定め、時差一時間の東経一三五度を「中央標準時」とすることが公布され、翌九六年一月一日から実施された(一九三七年廃止)。二つの時間を持ったことは象徴的で、法の支配力も二つに分かれていた。 台湾平定を受け、軍政を施行していた台湾総督府条例は廃止され、一八九六年三月三一日、新しく台湾総督府条例(勅令第八八号)、台湾総督府評議会章程(同第八九号)などが制定公布され、 104 民政へ移行する。台湾総督は、陸海軍の大将か中将とされて、以後軍部が独占した。総督の発する律令を検討する評議会は、総督以下の職員で構成され、地域住民の声を吸収する機関ではなかった。台湾統治の基本方針が定まったこの日、大本営はようやく解散となった。 六三問題 軍政から民政に移管する統治制度の協議のため、伊藤内閣は近衛師団の台北占領と同じ六月、伊藤首相を総裁、川上操六参謀次長を副総裁とする台湾事務局を内閣内に設置する。さらに御雇外国人顧問を動員して、統治制度の検討を行った。帝国大学御雇仏国人ルボンは、本国の延長と見なしてフランス式の同化主義を、司法省御雇英国人カークードは、ただ天皇の行政権・立法権のみに属して憲法の制約を受けないことを、外務省御雇米国人デニソンは、台湾島民の国籍と権利について憲法は施行されない、と意見具申した。 伊藤らが重視したのは、議会の介入を制度的に防ぎつつ、台湾統治を進めることだった。その点では、カークード意見書に基づく、憲法不適用、総督と総督府の権限強化、という内容がもっとも望ましかった。しかし一方で、天皇に直隷する武官総督が内閣から独立し専断化することも防ぎたかった。伊藤は、武官総督制に同意して陸軍に妥協したが、専断化の危険性については台湾関係予算の成立という課題を抱えていたため決断できず、暖味な内容の「台湾に施行すべき法令に関する法律」案を、第九議会に提出した(一八九六年三月一四日)。同法案は全五条からなり、台湾総督は「法律の効力を有する命令を発することを得」(第一条)、前例の命令 105 日清・日露戦争
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/644.html
被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その2 ソース:http //www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/syomen3.html 被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その1 被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その2 第2 同書面第2(渡嘉敷島における集団自決の神話と実相)について1 同1(渡嘉敷島の集団自決の神話)について 2 同2(渡嘉敷島における集団自決の経過の概要)について(1)渡嘉敷島における集団自決の経緯ア 原告らは、安里喜順元巡査の手記(甲B16)や イ 前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、 (2)原告ら主張の「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」についてア 原告らが、「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」と主張するところのものは、 イ また、原告らが星氏の「集団自決を追って」とともに挙げている安里喜順元巡査の手記(甲B16)は信用性がない。 3 同3(「鉄の暴風」と赤松命令説)について(1)同(1)(赤松命令説の発端)について (2)同(2)(「鉄の暴風」に登場した赤松命令説)についてア 同a)の「鉄の暴風」の記載は認める。 イ 同b)は認める。なお「牧浜篤三」ではなく「牧港篤三」である。 ウ 同c)のうち太田良博が渡嘉敷島には自ら行かなかったこと、 (3)同(3)(軍命令による集団自決の証言者)についてア 原告らは、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)51頁を引用して イ また原告らは、「鉄の暴風」について、 (4)同(4)(「鉄の暴風」の本質的誤り)について (5)「ある神話の背景」の信用性についてア まず、「ある神話の背景」によれば、 イ また、曽野綾子氏は、同書執筆のための取材過程において、 ウ なお、「ある神話の背景」は、 エ 以上のとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によるもので、事実の記述について信用性があるとはいえない。 4 同4(自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在)について 5 同5(赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』)について 6 同6(自決命令の言い換え)について(1)同(1)(古波蔵惟好の場合)について (2)同(2)(富山真順元兵事主任の場合)について 7 同7(「陣中日誌」)について 8 同8(衛生兵の派遣と恩賜の時計)について(1)同(1)について (2)同(2)について 9 同9(赤松命令説をつくったもの)について 10 同10(当時の沖縄県民の意識について)について 11 同11(「神話の背景」以後)について(1)同(1)について (2)同(2)について (3)同(3)について 第3 敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件(補充) 第2 同書面第2(渡嘉敷島における集団自決の神話と実相)について 1 同1(渡嘉敷島の集団自決の神話)について 本件書籍三「沖縄問題20年」(甲A2)に、原告引用のとおりの記述があることは認める。 2 同2(渡嘉敷島における集団自決の経過の概要)について (1)渡嘉敷島における集団自決の経緯 ア 原告らは、安里喜順元巡査の手記(甲B16)や 星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)を根拠に、赤松隊長による自決命令はなかったと主張している。しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は以下のとおりであり、赤松隊長による自決命令があったことは明らかである。 イ 前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、 日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言していた。 そして、渡嘉敷島においては、当時兵事主任であった富山(新城)真順氏が証言しているとおり(乙12、乙13-197頁)、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、 「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」 と訓示したのである。 渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松隊長の意思と関係なく、手榴弾を配布し自決命令を発するなどということはありえない。すなわち、この時点であらかじめ軍(すなわち赤松隊長)による自決命令があったものである。 そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し、 「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」 という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられた(乙12、乙13-197頁)。さらに集団自決で生き残った金城重明氏の証言(乙11-279頁~287頁)、古波蔵(米田)惟好氏の証言(乙9-768頁~769頁)にあるとおり、同27日夜、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり、翌3月28日米軍の艦砲や迫撃砲が打ち込まれる状況の中で、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、防衛隊員(陸軍防衛召集規則(昭和17年9月26日陸軍省令第53号)に基づいて召集された軍の正規兵)が手榴弾を持ち込み、住民に配り、そこで集団自決がおこなわれたのである。 以上の事実経過は、「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10)にあるとおり、「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」ものに他ならない。 (2)原告ら主張の「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」について ア 原告らが、「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」と主張するところのものは、 ほとんど星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)に依っている。 しかし、まず「集団自決を追って」は、作家である星氏が取材し執筆したものであるが、いかなる対象に対していかなる取材を行ったか明らかではない。そして同記事は、星氏自身が、 「本稿は私が当時の村長や駐在巡査や若干の村民から取材した集団自決の内容を、私なりにまとめ、悲劇の再現を試みたものである。いな、悲劇の再現とは、口はばったい言種である。ただひたすら、二十六年前の悪夢を想像してみたまでである」(傍点被告訴訟代理人) とするとおり、渡嘉敷島の集団自決の事実を記述したものとはいえない。 筆者自らが認めるとおり、「集団自決を追って」は想像に基づいて再現したものにすぎず、同資料に基づいて赤松大尉による集団自決命令がなかったとは言えない。 しかも、「集団自決を追って」は、 「防衛隊の過半数は、何週間も前に日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった」 とし(甲B17、210頁上段)、その防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられた(同210頁下段)としているのであって、同資料は前記(1)記載の集団自決の経緯を否定するものではない。 イ また、原告らが星氏の「集団自決を追って」とともに挙げている安里喜順元巡査の手記(甲B16)は信用性がない。 すなわち、「集団自決を追って」においては、赤松大尉自らが住民に軍陣地の北側の西山盆地への移動を指示したことになっているが(甲B17-208頁中段。なお赤松大尉自身 「部隊は西山のほうに移るから住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と言ったとしている(甲B2-217頁))、「安里元巡査の手記」では、赤松大尉から場所の指定はなく、軍陣地付近へ避難することは住民たちが決定したことになっている。また「集団自決を追って」では、3月28日に、手榴弾が足りないことから、防衛隊が手榴弾を取りに出掛け、さらに防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられ、その後集団自決がはじまったという経過になっているが、「安里元巡査の手記」では、安里は玉砕に反対し、部隊長(赤松)の確認をとるために伝令を出したところ、その伝令が帰ってこないうちに集団自決がはじまったことになっている。 このように安里元巡査の手記は、星氏の記事との比較においても、赤松大尉や自己の責任を回避しようと意図していることが明らかである。安里元巡査は、集団自決の現場へ住民を集結させ、集団自決の現場から少し離れたところから 「私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決はできません」 と言って見ていたとされる人物であり(乙9-768頁)、その責任を逃れるため、集団自決は軍や赤松隊長の命令によるものではなかったとしなければならない立場にあるもので、その手記は信用性があるとはいえない。 3 同3(「鉄の暴風」と赤松命令説)について (1)同(1)(赤松命令説の発端)について 渡嘉敷島の自決命令について最初に記載された資料は「鉄の暴風」であること、「慶良間列島戦況報告書の渡嘉敷島戦争の様相」には自決命令の記載がないことは認め、その余は否認する。 (2)同(2)(「鉄の暴風」に登場した赤松命令説)について ア 同a)の「鉄の暴風」の記載は認める。 イ 同b)は認める。なお「牧浜篤三」ではなく「牧港篤三」である。 ウ 同c)のうち太田良博が渡嘉敷島には自ら行かなかったこと、 山城安次郎、宮平栄治の取材をしたことは認め、その余は否認する。 (3)同(3)(軍命令による集団自決の証言者)について ア 原告らは、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)51頁を引用して 「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は渡嘉敷島へは行かず、那覇において山城安次郎と宮平栄治の二人のみから取材したとし、山城は渡嘉敷ではなく座間味村の出身で集団自決当時は座間味村におり、宮下は戦後南方から復員したのであるから、渡嘉敷島の集団自決を目撃しておらず、この二人が証言したとしても間接的なものでしかない、と主張している。 しかし、太田良博は山城と宮平からのみ取材したのではなく、直接体験者から取材をしており、太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」の記述は誤りである。 すなわち、太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文章化したもので、渡嘉敷島に関する記録も、沖縄タイムス社が直接体験者を集めて記録したものである(223頁)。証言者を集めたのは沖縄タイムス社の専務だった座安盛徳氏であり、証言者を集めた場所は「那覇市内のある旅館の一室」で、旅館に集まった証言者の中に渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏もいた(224頁)。また、太田良博は、渡嘉敷島が戦場となった当時、国民学校の校長であった宇久真成氏からも渡嘉敷島での体験を聞き、「鉄の暴風」にある記録を書いたものである(226頁~227頁)。 以上のとおり、「鉄の暴風」は、伝聞証拠に基づくものではなく、まさに集団自決の現場において集団自決を直接体験した人々から取材し、執筆したものである。 太田良博自身、 「戦後二十年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後間もなく戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる」 としている(225頁)。 イ また原告らは、「鉄の暴風」について、 沖縄在住の知念元副官や安里元巡査にインタビューしていないこと等から「沖縄タイムスの政治的で偏った編集方針により作成された疑いが強いものといえる」などとも主張しているが、集団自決の直接体験者からの取材等に基づいて編集することは(知念元副官や安里元巡査のインタビューをしていないとしても)、原告ら主張のような編集方針を疑わせるような事情には全くならない。 (4)同(4)(「鉄の暴風」の本質的誤り)について 原告らは、「鉄の暴風」が米軍の渡嘉敷島上陸の日時を3月26日午前6時ころとしている点について、これは3月27日の誤りであり、「鉄の暴風」の事実調査がずさんで信用できないとする。 しかし、わずか1日の誤差でしかなく、同書の記載が同一の米軍上陸の事実を指していることは明らかであり、この一事から、「鉄の暴風」の事実調査がずさんであることにはならない。 (5)「ある神話の背景」の信用性について また、原告らの主張は、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)の記述にほぼ全面的に依拠しているものであるが、同書の記述内容は、以下に述べるとおり、一方的な見方によるもので信用性がない。 ア まず、「ある神話の背景」によれば、 「鉄の暴風」は直接集団自決を体験した者からの取材に基づいて執筆されたものではないとしている(同書51頁)が、前記のとおり、執筆者である太田良博が、当時の渡嘉敷村の古波蔵村長、宇久真成国民学校校長、その他の集団自決体験者から直接取材したことは明らかである。 イ また、曽野綾子氏は、同書執筆のための取材過程において、 渡嘉敷村の兵事主任であった富山(新城)真順氏に会ったことはないと証言している(乙24「裁かれた沖縄戦」(曽野綾子証言)219頁、90項)。 しかし、曽野氏の取材経緯を調査した安仁屋政昭沖縄国際大学教授が指摘しているように、 「曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという。」(乙11-14頁) のであり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てているといわざるを得ない。 安仁屋教授も 「兵事主任に会うこともなく、その決定的な証言も聞かなかったということであれば、曽野綾子氏の現地取材というのは、常識に照らしても納得のいかない話である。また、兵事主任の証言を聞いていながら『神話』の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば、『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる」(乙11-14頁~15頁) としている。 ウ なお、「ある神話の背景」は、 渡嘉敷島の集団自決命令について記述した「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10、以下「戦闘概要」という)と「渡嘉敷島戦争の様相」(乙3、以下「戦争の様相」という)は、「戦闘概要」「戦争の様相」の順で引き写したと推測し、「戦闘概要」には「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」と書かれているのに対し「戦争の様相」にはその部分がないことから、「戦争の様相」作成に関与した「当時の古波蔵村長、尾比久孟祥防衛隊長は赤松命令を確認しなかったことになる」と結論づけている。(同書48頁)。 しかし、「戦闘概要」と「戦争の様相」の順序については、伊敷清太郎氏が詳細に分析しているとおり、「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用字、用語、表現など)を直したであろう跡が随所に見受けられること、当時の村長の姓が「戦争の様相」では旧姓の古波蔵とされているが、「戦闘概要」では改姓後の米田とされていることなどから、「戦争の様相」が先で、これを補充したものが「戦闘概要」であると考えられる(乙25 伊敷清太郎著「『ある神話の背景』における『様相』と『概要』の成立順序について」、なお乙24-210~212頁 曽野証言68~71項)。このように「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたもので、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみることができる。 エ 以上のとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によるもので、事実の記述について信用性があるとはいえない。 4 同4(自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在)について 原告らは、赤松大尉が自決命令を出したことを否定しており、自決命令が誰を通じて住民側に伝えられたかも全く不明であるとし、「命令者も受領者も伝達者もわからない命令はあり得ない」ので、「自決命令で集団自決したとする結論を導くことは到底不可能である」と主張する。 しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は、前記2(1)記載のとおりであり、軍(すなわち赤松隊長)が自決命令を出したものであって、3月28日の段階での命令の伝達経緯が明確に特定されていないからといって(但し防衛隊員を通して伝達されたものであることは明らかである)、赤松大尉による自決命令が存在しなかったことにはならない。 5 同5(赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』)について 原告らは、「戦闘概要」には赤松大尉による集団自決命令の記述があるが、「戦争の様相」にその記述がないことについて、「遺族会編の『戦闘概要』には自決命令が記載されたのは、遺族会編の私的文書であれば、確認されていない、あるいは事実に反する自決命令が記載されても構わないと考えたものと推測される」とするが、これは根拠のない憶測にすぎない。 前記3(5)ウ記載のとおり、「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたのであり、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみるべきである。 6 同6(自決命令の言い換え)について (1)同(1)(古波蔵惟好の場合)について 原告らは、自決命令の村民側の最終受領者である古波蔵村長が命令の受領を明確にできない以上、同人の証言から赤松元隊長の自決命令を認定することは不可能である、と主張する。しかし古波蔵村長が、赤松元隊長から自決命令があったとしていることは明らかである。 まず、古波蔵村長は、週刊朝日の記事で「自決命令はしなかった、と赤松はいっているが、住民を部隊の陣地へ集合させておきながら、出ていけというのは、住民に死ねというのと同じではありませんか」(甲B20)と言ったとされているが、「沖縄県史10巻」(乙9-768頁~769頁)において、より具体的に、赤松隊長の命令によって陣地の裏側の盆地に集合させられたこと、陣地から飛び出してきた防衛隊員と合流したこと、米軍の艦砲や迫撃砲が執拗に打ち込まれている状況であったこと、防衛隊員の持ってきた手榴弾によって集団自決が行われたこと、古波蔵村長自身手榴弾を防衛隊員から渡されたこと等を証言しており、古波蔵村長が、赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された、としていることは明らかである。 古波蔵村長は、昭和43年4月8日付琉球新報(乙26)においても、赤松大尉が「集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だ」としている。 原告は、防衛隊員から手榴弾を交付されたことを自決命令に結びつけることは、争点をずらすもので、論理の飛躍である、と主張するが、渡嘉敷島における集団自決の経緯というのは前記2(1)記載のとおりであり、古波蔵村長の証言もまさにこれを裏づけるものであって、争点をずらすものでも、論理の飛躍でもない。 (2)同(2)(富山真順元兵事主任の場合)について 原告は、富山元兵事主任が証言している、兵器軍曹が手榴弾を一発は敵と戦うために、一発は捕虜になる時には自決せよと言って渡したという事実そのものが疑わしい、などと主張するが、富山元兵事主任が虚偽の事実を述べる理由は全くない。 また原告は、富山氏が「潮」1971年11月号(甲B21)において、赤松隊長からの自決命令にふれていないことを問題としているが、「潮」の記事は簡単なものであって(同記事には「自決のときのことは話したくないンですがね・・・・・・」とある)、「俄かに、手榴弾を配布したことが自決命令であるといい出した」などということでは全くない。朝日新聞記事(乙12)でも「43年後の今になってなぜ初めてこの証言を?」という問に、富山氏は 「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」 と証言し、軍(赤松隊長)により自決命令が出されたことを明確にしている。 7 同7(「陣中日誌」)について 原告は、「陣中日誌」(甲B19)には、自決命令が出た形跡がないとする。 しかし、同「陣中日誌」は、昭和45年3月に赤松元大尉が渡嘉敷島を訪れた際の抗議行動が報道された後の昭和45年8月に発行されたものであり(したがって本来の陣中日誌ではない)、赤松元大尉が自決命令を出したことを否定している以上、赤松隊が戦後20年経過した後に発行した「陣中日誌」に自決命令の記載がないのはむしろ当然のことである。同「陣中日誌」に自決命令の記載がないからといって、自決命令がなかったことの根拠にはならない。 なお、同「陣中日誌」の原告引用部分には、昭和20年3月29日の集団自決後の約200名の死者の光景が記述されているが、「神話の背景」では、赤松隊の中では、集団自決後の多数の死者をみた者はいないことになっている(甲B18-131頁)。 8 同8(衛生兵の派遣と恩賜の時計)について (1)同(1)について 原告は、赤松部隊からは、渡嘉敷村の村民が自決に失敗した後、衛生兵を派遣していることから、赤松元隊長が自決命令を出したとすれば、衛生兵の派遣は全く説明がつかない、と主張する。しかし、古波蔵村長が証言しているのは、衛生兵が住民を治療したという事実だけであり、戦場の混乱した状況の中で、現実に負傷している住民を衛生兵が治療したということと、赤松隊長が自決命令を出したこととが矛盾するわけではない。 (2)同(2)について 不知。 なお渡嘉敷村資料館に赤松隊長の時計が飾ってあるとしても、赤松隊長が自決命令を出さなかったことの根拠になるわけではないことはいうまでもないことである。 9 同9(赤松命令説をつくったもの)について 原告は、「神話の背景」をもとに(前記のとおり、「神話の背景」は一方的な見方によっているものであり、信用性のないものである)、自決命令がなかったことを前提に、赤松命令説をつくったものとしてその推理を縷々述べているが、仮定に基づく憶測にすぎない。 10 同10(当時の沖縄県民の意識について)について 原告は、「神話の背景」にある富野稔元少尉の言葉を引用して、住民が軍の命令や強制なしに集団自決をしたと主張するようである。 しかし前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言し、住民に対し米軍の捕虜となることを禁じ、米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされるなどと脅し、いざというときは自決するよう言渡していたものである。そして、夥しい数の米軍の艦船等によって島を包囲され、逃げ場を失った住民は、集団自決のために集められ、自決用の手榴弾を渡されるなどして、自決に追い込まれたのである。軍の強制や関与なしに自発的に自決したものでは決してない。 11 同11(「神話の背景」以後)について (1)同(1)について 「神話の背景」が一方的な見方によっていることは前記のとおりであり、同書により渡嘉敷島の集団自決命令がなかったと評価され、今日それが定着している、などということはない。 (2)同(2)について 「沖縄問題20年」が、昭和49年に出庫終了となったのは「神話の背景」により自決命令が虚偽であることが露見したからではない。 「沖縄問題20年」の著者である新崎盛暉氏と中野好夫氏は、昭和40年6月に同書を出版後、昭和45年8月に「沖縄・70年前後」を出版した。その後、両氏は昭和47年5月の沖縄の本土復帰を機に、「沖縄問題20年」と「沖縄・70年前後」の両著作をあわせ、昭和47年5月の復帰までの歴史をまとめて、昭和51年10月に「沖縄戦後史」を出版した。以上の経緯から、「沖縄問題20年」は昭和49年に出庫終了となったものである。 (3)同(3)について 「太平洋戦争」の第2版は、渡嘉敷島の記載を完全に削除したのではなく 「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺身隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。」 と記載しており、軍による自決命令がなかったとしているわけではない。 第3 敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件(補充) 被告ら準備書面(1)3頁以下に記載した死者に対する遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為責任の成立要件について、同準備書面で引用した東京地方裁判所判決(乙1)の控訴審判決(東京高等裁判所平成18年5月24日判決・乙27)は、「比較的広く知られ、かつ、何が真実かを巡って論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現行為について、当該行為(故人の生前の行為に関する事実摘示又は論評)が故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害する不法行為に該当するものというためには、その前提として、少なくとも、故人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要するものと解するのが相当であり、その上で、当該行為の属性及びこれがされた状況(時、場所、方法等)などを総合的に考慮し、当該行為が故人の遺族の敬愛追慕の情を受忍しがたい程度に害するものといい得る場合に、当該行為について不法行為の成立を認めるのが相当である。」と判示した。 このように、本件のような歴史的事実については、当該歴史的事実に関する表現行為において摘示された事実がその重要な部分において「一見明白に虚偽」(地裁判決)ないし「全く虚偽」(高裁判決)であることを要するものである。 以 上 戻る | index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/104.html
「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(4) 多数の島民が証言 つい先日、ベトナム戦争の時、一人の市民をピストルで射殺した軍人の記録フィルムをテレビで見た。その軍人の名前ははっかり分かっていて、彼は今アメリカでレストランを経営しているという。 それを撮影したアメリカ人のカメラマンの発言は、しかし実にみごとなものであった。彼は自分がそのような決定的瞬間を撮ることで、その殺した側のベトナム軍人の生涯に、一生重荷を負わせてしまったことに責任を感じていた。カメラマンは、自分もあの場にいたら多分同じ事をしたろうと思うから、という意味のことを言ったのである。 これこそが、本当に人間的な言葉であろう。そしてこの赤松隊の事件を調査した時も、同じようなすばらしい言葉を、私は渡嘉敷島の人々から聞いたのだ。つまり村の青年の中にも、 「総(すべ)て戦争がやったものであえるから、そういうことはなすり合いをしたくないというのは、私の考えです。そういう教育を受けたんだし」 と私に言った人がいたのである。 太田氏は、しきりに自分は伝聞証拠ではなく、体験者からの証言で書いたと言うが、私が現実に、島の人たちから聞いた赤松氏に対する見方を、太田氏は今回も全く無視している。島の人の中には、もちろん私などには会いたくない、という人もいたはずである。しかしその半面、私の『ある神話の背景』を読んで頂ければ分かることだが、決して一人は二人ではない多数の人々が、生死を共にした赤松隊の人々に会うことや、彼らとの戦争中の体験を私に語ることを、少しも拒まなかった。 著述業者なら盗作 彼らは集団自決のことに関しても、実に正確に、理性的に、あるがままを私に語った。はっきりしないことははっきりしないこととして、その間を見てきたような話でつなげたりはしなかった。しかしそのような人々の発言を、太田氏は全く無視する。それはあまりに失礼な態度ではないのだろうか。 太田氏は私が、渡嘉敷島の事件を証言する渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』と渡嘉敷村が出版した『渡嘉敷島における戦争の様相』の二つの資料のある部分が、太田氏の筆になる沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』からの引き写しとしか思えないことについて「この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである」と書いているが、この三つの資料に、独自の調査によって書かれたとは思えない程度の文章の類似性が見られることはどうしようもない。 もしこれが、私たち著述業者のしたことで、原作者(一番発行日が古いもの)から著作権の侵害として訴えられた場合、当然、盗作と認められる程度のものである。しかしもちろんこれを書いた人たちは、私たちのような専門家ではないし、悪意や自分の利益のためにしたことではないことも明らかなのだから、私も少しも批難するつもりはない。 上陸は3月27日 しかし私は再び太田氏に問いたい。米軍が島に上陸した日、といえばそれはおそらく島民にとって、忘れようとしても忘れられない日であったろうが、その日を三つの資料が三つとも三月二十六日とまちがって記載するということも自然なのだろうか。初め私はこの事実に気がついた時、上陸が二十六日の夜中で、もう二十七日になっていても分からないような時刻ではないか、と思った。しかし調べてみると、上陸は三月二十七日の、午前九時〇八分から四十三分の間、つまりまぎれもない朝なのである。そのような大事な日時というものは、独自の調査をして行けば(かりに一つが、思い違いや書き間違いをしたとしても)三つがそろって誤記するということはほとんどあり得ないものなのである。 私はもはや一々太田氏の内容に反論する気になれない。初めに言ったように、私はだれに限らず、だれかが正しくて、そうでない人は、徹底して悪いのだ、という論理をただの一度もとったことがないのである。赤松氏に作戦上の問題がない、ということもない。住民も動転していた。それは私たち日本人皆が持っていた当時の判断の形式であった。 ただ、ある人間だけをよしとし、反対の立場に立つ人は悪人だとする判断は--もちろんそういう判断を好む人がいても、私はそれに対して何も言うつもりはないが--それは、そのひとはとうてい大人の判断をもって人間を見ることのできない性格なのだ、とひそかに思うだけである。なぜなら、自分がもしその立場に置かれたら、ひょっとして自分も同じことをするのではないか、と思える人と思えない人とは、善悪を超えて異人種だということを、私も長い年月の間に分かるようになったからである。 目次へ | 次へ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/843.html
証人尋問:赤松秀一さん http //www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/news.htmlより 11月9日の本人尋問詳報 本文は、複数の傍聴メモを元に再現したものです。 他の新聞の尋問要旨等を読み深めるためにご活用いただきたいと作成いたしました。 そのため、尋問の細かな表現まですべて再現しているとは言えませんが、できるだけ問答については省かずに掲載しました。 《午後1時半に審理を再開。当事者席に大江健三郎が座ると、傍聴席の画家らがいっせいに法廷スケッチの似顔絵を書き始めた。まず、渡嘉敷島の守備隊長だった故赤松嘉次の弟の秀一さん(74)への本人尋問が行われた》 原告側代理人(以下「原」)「あなたは赤松隊長の弟さんですね」 赤松「そうです。兄とは年が13歳も離れているので、常時、顔を合わせるようになったのは戦後になってから。尊敬の対象だった。父が年をとっていたので、家業に精を出してくれた」 原「1950年に発行された沖縄タイムス社の『鉄の暴風』は読んだか」 赤松「読んだ。大学の近くの書店で偶然見つけて手に入れた」 原「戦争の話には興味があったのか」 赤松「戦争は中学1年のときに終わったが、陸軍に進むものと思っていたくらいだから、戦争のことを知りたかったからよく読んだ」 原「『鉄の暴風』にはお兄さんが自決命令を出したと書かれているが」 赤松「信じられないことだった。兄がするはずもないし、したとは思いたくもない。しかし、329人が集団自決したと細かく数字も書いてある。なにか誤解されるようなことをしたのではないかと悩み続けた。家族で話題にしたことはなかった。タブーのような状態だった」 原「お兄さんに確認したことは」 赤松「親代わりのような存在なので、するはずもない。私が新居を買った祝いに来てくれたとき、1960年ごろ本棚で見つけて持って帰った」 原「ほかにも戦争に関する本はあったのか」 赤松「『沖縄戦記』も。ほかにも2、3冊はあったと思う」 原「『鉄の暴風』を読んでどうだったか」 赤松「そりゃショックだ。329人を殺した人殺しと書かれているんですから。」 原「それで、どうしたか」 赤松「親兄弟に話さず一人で悩んでいた。ショックで友だちの下宿に転がり込んでいった」 原「最近まで忘れていたのはどうしてか」 赤松「曽野綾子さんの『ある神話の背景』が無実を十分に証明してくれたので、安心できた」 原「『ある神話の背景』は、どういう経緯で読んだのか」 赤松「友達が教えてくれた。うれしかった。無実がはっきり証明され、信頼感を取り戻せた」 原「集団自決を命じたと書いた本はどうなると思ったか」 赤松「これだけ書かれたら、間違った事実を書いているものは廃刊になるだろうと思った」 原「大江氏の『沖縄ノート』の引用を見て、どう思ったか」 赤松「大江健三郎先生は直接取材したこともなく、島にも行かず、兄の心の中にまで書かれている。人の心に立ち入って、まるではらわたを火の棒でかき回すかのようだと憤りを感じた」 原「誹謗(ひぼう)中傷の度合いが強いか」 赤松さん「はい」 原「『ある神話の背景』は」 赤松「友だちにも送りました。読んでくれと。宝物みたいなもんですわ」 原「訴訟を起こしたきっかけは」 赤松「3年前に兄の(陸士の)同期の山本明さんから話があり、とっくの昔に解決したと思っていたのに『鉄の暴風』も『沖縄ノート』も店頭に並んでいると聞かされたから」 原「実際に『沖縄ノート』を読んでどう思ったか」 赤松「むずかしい本ですね。兄の部分だけをパラパラと読んだ。いやとばして読んだ。」 原「悔しい思いをしたか」 赤松「はい。45年渡嘉敷島に行ったことまで終章に書かれている。兄も46年『潮』に「私は自決を命令していない」を残しているが、極悪人と面罵(めんば)され、娘に誤解されるのは辛いからと。兄は無実をはらしたいと思っていた。私も兄の無念の思いを晴らしたい。」 原告代理人が『潮』の文を読む、 《裁判長から、「時間を守りなさい」との注意があり、原告側代理人の尋問が終了》 被告側代理人(以下「被」)「集団自決命令について、お兄さんから直接聞いたことはありますか」 赤松「ない」 被「お兄さんは裁判をしたいと話していたか。また岩波書店と大江さんに、裁判前に修正を求 めたことがあったか」 赤松「なかったでしょうね」 被「山本明さんからすすめられたので、裁判を起こしたのか」 赤松「そういうことになります」 被「お兄さんの手記は読んだか」 赤松「『潮』は読んだ」 被「『島の方に心から哀悼の意を捧げる。意識したにせよ、しなかったにせよ、軍の存在が大きかったことを認めるにやぶさかではない』と書いているが」 赤松「知っている」 原告側代理人が再尋問 原「裁判は人に起こせと言われておこしたのか」 赤松「山本さんからもどうだと言われましたが、歴史の事実として定着するのはいかんと思った。そういう気持ちで裁判を起こした」 《赤松さんへの質問は30分足らずで終了した 13時53分》 11月9日の本人尋問詳報
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1853.html
昨日 - 今日 - 「戸井田報告」=「南京の実相」批判のページ(2) 日本の前途と歴史教育を考える議員の会 平成十九年六月十九日 南京問題小委員会の調査検証の総括 「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」が2007年6月に記者会見を開き、南京問題小委員会(委員長:戸井田とおる)報告書を発表しました。2008年8月11/01 には、その日本語、英語の両方を収録して「南京の実相」という本にしたそうです。しかし、若干の資料を除いて本文は「報告書」のままだと聞いています。 「戸井田報告書」はWEBでPDF公開されていますのでここに転載します。 http //www.toidatoru.com/pdf/nankin.pdf(戸井田徹サイト) みんなで論点、批判点を出し合いましょう。コメント欄に書き込んでいただいたものは、逐次、本文に書き込んでいき、批判のページを完成させたいと思います。 私がこの「戸井田報告」に注目したのは、産経新聞の誤報に関連してのことです。この誤報には、「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」の活動が連動しています。 (引用者注)まずは、戸井田さんもしくは小委員会の皆さんに、南京事件 初歩の初歩をお読みになるようにお勧めします 目次(場所を分かりやすくするために、章の見出しに番号をつけました) 「戸井田報告」=「南京の実相」批判のページ(1) 「戸井田報告」=「南京の実相」批判のページ(2) 南京問題小委員会の調査検証の総括4 《東京裁判で復活した「南京虐殺事件」》…16 5 《『偕行南京戦史』とは何か》…23 6 《「南京大虐殺」の政治宣伝とは何か》…25 7 《「南京大虐殺」の捏造写真について》…26 8 《「南京大虐殺」の政治宣伝にたいして》…27 9 《報道機関への要望》…29 10 《中国への要望》…29 11 資料一覧 4 《東京裁判で復活した「南京虐殺事件」》…16 一九四六年、東京裁判(偽証罪がない)が開廷しても、政治宣伝としての南京での「虐殺数」は「二万人」だった事は前述した通りである。 (引用者注)前述した通り顧維鈞の国際連盟演説は、海外に報道された新聞記事を引用したにすぎません。 ここでは、事後法で裁いた東京裁判の管轄権など国際法上の問題点については触れないが、どのような状況で開廷したのか。それは、GHQ占領下の洗脳政策の責任者民間情報教育局(CIE)局長K・R・ダイク代将(大佐)が、一九四六年三月二十日に第四回極東委員会で報告した日本人に対する指令の趣旨が参考になる。 「指令を発する敏速さは、いわば戦争中の戦略にも譬えられようかと思います。現在なお、いくさなのです。日本では、一種の戦闘状態にあると私は言いたいのです。平時の作戦ではないのです。と申しますのは、戦闘中は相手のバランスを崩そうとします。右のジャブをうまく出し、相手が立ち直る前に左のジャブを出すということです。日本人の教育のため、一つの指令を日本人が十分理解してからさらに他の指令を出すという意志は私どもにはありません。」 (『資料・占領下の放送立法』東京大学出版会、「第四回極東委員会会議議事録」抜粋六十ページ) 占領下の混乱期に何がどうなっているか分からない状況で、矢継ぎ早に一方的情報を出して、日本人が立ち直れないように強力な洗脳政策を実行すると断言していた。東京裁判も一種の戦闘状態で裁かれていたという事になる。 引用部分に洗脳政策などとは一言も書いていない。(scopedog) また、ダイク代将は、占領下を平時でなく、戦時と規定している事で、正確な意味での終戦は、主権を回復した一九五二年四月二十八日という事になる。 法的に(サンフランシスコ講和条約締結国との間で)戦争が終わったのはたしかにその時をもってしてである、ということができる。そうすれば、東京裁判を平時の刑事裁判と比較するのはあまり意味がなく、むしろ日本軍が戦時中に行なった軍律裁判や軍法会議さらには裁判抜きでの「処刑」と比較すべきである。果たしてどちらが「より酷い」裁判であったか? (Apeman) 極東委員会とは、GHQを管理していた上部機関である。その極東委員会の中国代表は、一九三八年二月二日国際連盟理事会で公式に「虐殺の犠牲者二万人」との「南京虐殺宣伝」をした顧維鈞であった。 (引用者注)極東委員会およびその対日理事会はGHQの『上部機関』ではなくて『諮問機関』である。軍事駐留であるマッカーサーの司令部GHQに対する統制力はなかった。有していたのは国際世論に対する影響力にすぎない。 一九四八年十一月の東京裁判の判決は、「南京虐殺」の犠牲者数に関して二通りの判決が出ている。それは、南京攻略戦の総司令官松井石根大将個人の「十万人」と南京攻略戦の「二十万人」以上の異なった判決が出ていたのである。いずれにしても、南京での「虐殺数」は唐突に一桁増えたのである。 裁判のための調査や立証活動によって情報が収集された。その一つが「戸井田報告」でも言及している埋葬記録である。38年1月2月の顧維鈞演説と違うからという理由で東京裁判を否定するのはまったくのナンセンス。(Apeman) それは、「南京事件」後四ヶ月間に十一万二千二百六十六人の遺体を処理したという崇善堂の埋葬記録を検察側が加算した結果の犠牲者数である。 いうまでもないが崇善堂の埋葬記録だけでは、2万と20万の差は埋まらない。 (Apeman) 「南京事件」後四ヶ月間、崇善堂が活動していなかった事は、昭和六十年八月十日付産経新聞が報道した阿羅健一氏のスクープ記事で証明されている。(資料11) 南京事件FAQ「崇善堂が埋葬活動をしていたことは事実」参照。「1938年2月6日付けで南京市自治委員会に宛てた手紙で「査するに弊堂が埋葬隊長を成立させてから今まで一ヶ月近くたち」とあるので1月から作業をはじめていることがわかる。」(Apeman) この事実だけで、松井大将個人の判決から崇善堂の「約十一万二千人」を引くと犠牲者数は、約マイナス一万二千人になってしまう。 なぜ「20万人」から引かない?(Apeman) また、活動記録のあった紅卍字会の埋葬記録の中にも不自然な記述がある。それは、東京裁判に提出された埋葬記録一覧表によると、一ヶ所だけ「埋葬箇所と備考」が空白の日があり、ほとんどが三桁にもかかわらず、最大の埋葬数六四六六名となっている事だ。(資料12)その月日は、十二月二十八日となっているが、その日、南京は「曇り午後小雪を交へた雨夜雪になる」だったのです。 (引用者注)これと同じデータだろうか? 南京事件資料集「世界紅卍字会南京分会救済隊埋葬班死体埋葬数統計表 」 (引用者注)なお、この疑義は古く田中正明氏によるものだが、これに対して洞富雄氏は20年以上前に既に次のように回答している。南京事件資料集「紅卍字会12月28日埋葬に関する洞富雄の見解」 南京攻略戦に上海派遣軍参謀として従軍して、その後一九三八年二月から中支那派遣軍南京特務機関長になって一年間南京に居た大西一大尉が、一番詳細に南京の事を知る立場にあった。 またしても無根拠な「一番」。岡村寧次が調査させた「宮崎周一参謀、中支派遣軍特務部長原田少将、抗州特務機関長萩原中佐等」よりも、大西一大尉が「一番」よく知りえたとする根拠は? (Apeman) その大西氏は、強姦を一度見たと証言しているが、日本軍による暴行、略奪は「見た事がない。私は特務機関長として、その後一年間南京にいた。この間、南京はもちろん、蕪湖、太平、江寧、句容、鎮江、金壇、丹陽、揚州、除県を二回ずつ廻ったが虐殺を見た事も聞いたこともない」と証言している。また、四万三〇七一人を埋葬したという紅卍字会について「中国兵の死体は中国人が埋葬しました。埋葬するのに日本軍に連絡するように頼んだ事がある」とか「紅卍字会が中心にやっていた」と述べている。しかし、約十一万人を埋葬したという〝崇善堂"については「当時、全然名前を聞いた事はなかったし、知らなかった。それが戦後、東京裁判で、すごい活動をしたと言っている。当時は全然知らない。」と証言している。(『「南京事件」日本人48人の証言』)大西大尉の証言は、前述した阿羅健一氏のスクープ記事を裏付けている。 (引用者注)大西大尉は上海派遣軍2課の情報参謀で、やっちまえという虐殺命令を出したとして知られる長勇参謀の下にいた。 (引用者注)南京事件FAQ「崇善堂が埋葬活動をしていたことは事実」 朝日新聞などは、『「南京事件」日本人48人の証言』で証言した自社の記者を含め前著証言者の誰にも取材しないで、自らかかわった日本人洗脳番組「真相箱」の南京の内容を正当化できる中国人の証言を中心に報道している。 「真相箱」では「実に婦女子二万名が惨殺された」とされていたと、この「総括」自身が述べていたのではないか? 朝日新聞は「犠牲者2万人」説を正当化しようとしている、とでもいうのか? およそ犯罪報道において被害者側の主張に耳を傾けることは当然である。(Apeman) 中華民国軍政部長何應欽の軍事報告書(『何上将抗戦期間軍事報告』上冊文星書店(台湾)中華民国五一年六月)の南京攻略戦(上海から南京)での戦死者数(陣亡)は、三三〇〇〇名となっている。(資料13) (引用者注)これも、田中正明氏による30年も前の疑義だが・・・。南京事件FAQ 「何応欽の軍事報告は「虐殺」の報告を目的としていない」 参照。 この軍事報告書には、南京攻略戦においての南京陥落前後から、それ以降のことを詳細に記載してあるが、南京に関した日本軍の「戦時国際法違反」としての「虐殺」は、一行も報告されていない。それは、大西一特務機関長の証言を裏付けている。また、一年目の死傷者数三十六万人は中国全土のものである。つまり北京や天津も含んでいた。 そして、南京陥落前の一九三七年十二月七日まで南京にいた蒋介石は、国民党の軍紀の乱れを 「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(中略)敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ」 と蒋介石の日記(十一月三十日の月間総括欄)に記載されていた事を二〇〇七年五月二十五日産経新聞が報道した。この国民党軍が南京城内に雪崩込んでいたのである。 (引用者注)松井石根司令官も、日本軍の軍紀の乱れを嘆き、陣中日記に記していたはずである。そういうことは、覆い隠そうというのか?昭和十三年二月六日 松井大将の日記から「 支那人民の我軍に対する恐怖心去らす寒気と家なき為め帰来の遅るる事固とより其主因となるも我軍に対する反抗と云ふよりも恐怖不安の念の去らるる事其重要なる原因なるへしと察せらる 即各地守備隊に付其心持を聞くに到底予の精神は軍隊に徹底しあらさるは勿論本事件に付根本の理解と覚悟なきに因るもの多く一面軍紀風紀の弛緩か完全に恢復せす各幹部亦兎角に情実に流れ又は姑息に陥り軍自らをして地方宣撫に当らしむることの寧ろ有害無益なるを感し浩歎の至なり」こういう重要部分を改竄・脱落させて平然としているのは、戸井田氏や中山氏が師と仰ぐ故田中正明氏のプロパガンダ方法論でもある。 世界紅卍字会南京分会長陳漢森は、比良艦長、土井中佐へ礼状を出している。そこには「…閣下は民衆が飢えている状況を察され、小麦粉と食用油を賜り、大勢の民衆の命をお助けになりました。且つ自らご指導に当たられました。(略)近隣である日中両国の親善を祈願したいと存じております。(以下略)」と述べている。(資料14) (引用者注)比良艦長土井中佐は、南京城外揚子江岸下関区の東端にあった「宝塔橋難民区」に正月のプレゼントをしたようです。統治者である日本軍が食料物資を供給するのは当然の施政です。しかし被占領民としてはそれを当然のこととして礼を失することはできません。必ず「感謝状」をさし上げ、プレゼントのチャンスを増やそうと努力したでしょう。なお、その「宝塔橋難民区」でも日本軍の暴行から免れることはできなかったことも知っておく必要があります。 ところが、紅卍字会の陳会長が感謝状で述べた事と、まったく逆の証言を紅卍字会の許伝音副会長は、東京裁判で陳述している。 (引用者注)被占領民としての立場と、それを脱して法廷に立つ立場とが変わるのは当然でしょう。 南京攻略戦以前から敗戦まで陸軍将兵は、ポケットサイズの「陸軍刑法、陸軍懲罰令」を常時携行し、その第八十六條には「…婦女子ヲ強姦シタルトキハ無期又ハ七年以上ノ懲役ニ處ス」、また、第八十八條には「…死ニ致シタルトキハ死刑又ハ無期懲役ニ處ス」と第九章掠奪ノ罪で戦争犯罪に対して厳命されていた。(資料15) また、松井大将は、南京攻略を前にして、国際法学者齋藤良衛博士を招いて助言を受け、「南京攻略要項(引用者注)ママ:正しくは南京城攻略要領」を指令していた。その内容は、七項目からなり、「不法行為等絶対ニ無カラシムルヲ要ス」とか「中立地帯(安全区)ニハ必要ノ外立入ヲ禁シ所要ノ地点ニ歩哨ヲ配置ス」「外国権益ノ位置等ヲ徹底セシメ絶対ニ過誤ナキヲ期シ」「略奪行為ヲナシ又不注意ト雖モ火ヲ失スルモノハ厳罰ニ処ス」などと不法行為の厳禁を松井大将自らも厳命していた。 (引用者注)「南京城攻略要領」http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/364.html (引用者注)厳命したけど守られなかったことは、「戦史研究所:杭州占領に伴う秩序維持と配宿等に関する丁集団(第十軍)の命令」http //homepage1.nifty.com/SENSHI/data/145.htmには「一、掠奪婦女暴行、放火事ノ巌禁ニ關シテハ縷次訓示セラレタル所ナルモ本次南京攻略ノ實績ニ徴スルニ婦女暴行ノミニテモ百餘件ニ上ル忌ムヘキ亊態ヲ發生セルラ以テ重複ヲモ顧ミズ注意スル所アラントス」とある さらに松井大将は、南京城攻撃を前にして、上海派遣軍と第十軍の末端兵士に対しても訓戒を次のように述べている。 「南京ハ中国ノ首都テアル之カ攻略ハ世界的事件テアル故ニ慎重ニ研究シテ日本ノ名誉ヲ一層発揮シ中国民衆ノ信頼ヲ増ス様ニセヨ特ニ敵軍ト雖モ抗戦意志ヲ失ヒタル者及一般官民ニ対シテハ寛容慈悲ノ態度ヲ取リ之ヲ宣撫愛護セヨ」と発令していた。 訓戒したことと、それが守られたかどうか、さらに守られなかった場合にどう対処したかは、それぞれ別の話である。飯沼上海派遣軍参謀長の日記から、朝香宮上海派遣軍司令官が、松井大将の統制入城などの指令を愉快に思っていなかったことがわかる。(Apeman) この松井大将が現在、中国側の主張によるとホロコーストに比肩する「南京大虐殺」の責任者としてA級(注・A・B・Cは罪の大小でなく訴因の項目)戦犯で処刑された事になっている。しかし、東京裁判の松井大将に対する訴因を詳細に分析すると、「南京大虐殺」がなかった事を東京裁判が証明している。それは、A項(A級)戦犯として処刑された七名の中で、松井大将以外の六名は、事後法の「平和に対する罪」(A項)の訴因三十六項目の中で、二.六が有罪になっている。ところが、松井大将は「平和に対する罪」の訴因三十六項目すべて無罪であった。 「平和に対する罪」は戦争の計画や謀議に参画したことに関するものだから、南京事件のような戦争犯罪には関係がない。軍政畑で要職についていたわけではない松井が「平和に対する罪」で有罪にならなかったのは不自然ではない。(Apeman) そして、松井大将は、「通例の戦争犯罪」の訴因五十五項(俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反)の一つだけが有罪で処刑されたのである。(資料16) 仮に中国側が主張するホロコーストに匹敵する「南京大虐殺」が国家による組織的「ホロコースト」であれば、人道上看過できない犯罪として松井大将は「平和に対する罪」と「人道に対する罪」がすべて無罪にはなりえない。 (引用者注)この一説は「仮に」で始まることで分かるように、中国側の主張を確認して述べているのではなくて、筆者の適当な想像の上にたって述べているに過ぎない。中国側が、ホロコーストという言葉と「南京大虐殺」とをどう結びつけているかは、明らかではない。おそらくこれは、 アイリス・チャン著『ザ・レイプ・オブ・南京』のサブ・タイトルが『The forgotten Holocaust of World War II(第2次世界大戦の忘れられたホロコースト)』とあることからの連想なのだろう。 日独それぞれの国家犯罪・戦争犯罪の「象徴」として南京大虐殺がホロコーストに「匹敵」するということと、犯罪の性格として両者が類似しているかどうかは自ずから別問題である。ホロコーストは自国民(ユダヤ系ドイツ人、身体障害者など)に対する犯罪を含んでいるという点で南京事件とは性格が異なり、南京事件を裁くには「人道に対する罪」は不可欠ではなかった。(Apeman) (引用者注)戦時国際法違反で有罪になったことが、戦時国際法違反の市民および捕虜「虐殺」の無罪証明になる? この事実は、東京裁判において、「南京大虐殺」が虚構であった事を証明している事になる。 ならない。単に極東軍事法廷が松井石根を「人道に対する罪」「平和に対する罪」では有罪にしなかった、ということを示すだけである。(Apeman) 直前に「訴因五十五項(俘虜及び一般人に対する条約遵守の責任無視による戦争法規違反)の一つだけが有罪で処刑されたのである」と書いてある以上、「南京大虐殺」が虚構どころか事実であった証明にしかならないはずだが・・・捕虜や一般人に対する条約遵守の責任を果たしていないわけだし。(scopedog) 5 《『偕行南京戦史』とは何か》…23 南京戦史は一九八〇年代の朝日新聞などの「南京大虐殺」大キャンペーンに対して、南京攻略戦に従軍した将兵が中心になって編集したと一般的に認知されているが、その実体は違う。その編集委員の中に戦場を知らない者が入っていた。 これは板倉由明サンのことか(笑) (Apeman) (引用者注)証言による南京事件参照 その実態は『ゼンボウ』平成三年九月号で同編集委員、鵜飼敏定氏が「南京事件を旧陸軍の罪業の一つと位置づけて旧軍の罪業を暴き、虐殺の数字を検証して日本軍は南京で何万あるいは何千人を虐殺したかを明らかにする事と南京戦史を書く目的とする委員と戦史を書く事によって戦争の本質と戦場の実相を明らかにして南京事件とは何かを問おうとする委員とに分かれたため、総括者が両者の極端を捨てて、ほど良いところをとる所謂折中方針によって編集を指導した。参戦した委員と戦争を知らない委員との史観は相反した。」と述べている。 (引用者注)偕行社の『証言による南京戦史』は、そもそもが虐殺シロ説を確固たるものにしたいという趣旨で、南京戦に参加した会員からの証言を集め、戦史を確立しようとしたものであった。編者は畝本正己氏で機関紙「偕行」編集部も執筆中の討議に加わった。しかし会員からの証言の中には虐殺クロの証言が少なからずあり、それを否定することは出来なかった。その結果編者および編集部は、日本軍の不法行為を認め、その犠牲者数(畝本3~6千、板倉8千~1.3万)をあげて中国人民に謝罪した。 上記鵜飼氏の議論はそれが気に入らないという言いがかりであろう。偕行編集部「会員諸賢に」、および「証言による南京戦史―その総括的総括」参照。番外編には、鵜飼氏の編集部宛て批判文も掲載されており、偕行編集部がそれらに答えている。<会員投稿に答える>偕行編集部参照。 このような、戦後のイデオロギーが混入した状況で編集された『偕行南京戦史』は、正式な戦史でない事が明らかで、参考資料の一つ以上のものではない。 戦後の民間団体である偕行社が編纂する戦史は、もともと「正式な戦史」であるはずがない。当然のことだが、「正式な戦史」でないからといって内容が不正確であるともいえない。「正式な特別職」である国会議員が書いたものだからといって内容が正確であるともいえない、ということと同じです。 二〇〇七年三月の「南京問題小委員会」に講師として参加された青山学院大学名誉教授で国際法が専門の佐藤和男博士は、『偕行南京戦史』に記載されている捕虜の処断を検証した。 (1) 第九師団歩兵連隊による安全区掃討作戦において摘出した便衣兵六六七〇名の処断。 (2) 第十六師団歩兵第三三連隊の太平門、下関、獅子山付近で捉えた捕虜三〇九六人の処断。 (3) 第十六師団歩兵第三〇旅団が南京西部地区警備中に捕らえた敗残兵数千人の処断。 (4) 第百十四師団歩兵第六六連隊第一大隊が雨花門外で捕らえた捕虜一六五七人の処断。 (5) 山田支隊が幕府山付近で捕らえた捕虜数千人の処断。 以上、右列記した事例について佐藤博士は、いずれも戦時国際法違反でないと断定し、現在、南京問題研究者が素人判断で捕虜の処断を「虐殺」とする研究に対して苦言を呈していた.(資料17) 佐藤博士が問題ないと断定した右(1).(5)の事例は、中国側も当時、戦時国際法違反があったと国際連盟に提訴していない。 捕虜の処刑が問題ないという法的論拠がまるでない。 あと、ここでいう「当時」とはいつなのか?戦争中であれば、(1)~(5)の事例のいずれも中国側が正確に知りえるはずもなく、提訴以前の問題。「当時」が戦後を指すのなら、ちゃんと容疑事実として挙がっているので事実に反する。(scopedog) 「根拠不明」というscopedogさんの指摘への補足として。裁判と歴史記述とでは評価基準が違っているのは当然である。歴史記述が取り上げるものは、法的に立件されたもの、といった狭い範囲に限られない。(Apeman) 6 《「南京大虐殺」の政治宣伝とは何か》…25 一九三八年二月の国際連盟での顧維釣中国代表の演説「二万人の虐殺と数千人の暴行」が政治宣伝の最初であれば、文書による中国国民党政府の政治宣伝は、マンチェスター・ガーディアン記者ティンパーリーによる『戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐』が原点になる。 郭沫若『抗日戦回顧録』によると、国民政府政治部は陳誠を部長に、周恩来を副部長とし、その下に四つの庁を置いて抗日宣伝、情報収集等を行っていた。『戦争とは何か』は、一九三八年七月、中国語に訳され、郭沫若が序文を書き抗日宣伝の教材として頒布された。 ティンパーリーが中国国民党中央宣伝部の顧問だったことは、鈴木明氏が突き止めた。そして、前掲書が国民党の宣伝本だった事は、北村稔立命館大学教授が中国国民党中央宣伝部国際宣伝処長曾虚白の『自伝』に「我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いて貰い、印刷して発行する事に決定した・・・・二つの書物は、売れ行きの良い書物となり、宣伝の目的を達した」と記載されている事を明らかにしている。 井上久士教授の反論「つまり国際宣伝処が金を渡して本を書かせたのではなく、ティンパリーが「正義感に燃え」て編集した原稿を国際宣伝処は買い取ったのである。」(※)を完全に無視している。反論を無視する主張に学術的な価値はない。 (Apeman) (引用者注)(※)『現代歴史学と南京事件』(柏書房)所収の井上久士「南京大虐殺と中国国民党国際宣伝処」のこと。ゆうさんの「小さな資料集『南京事件 初歩の初歩』の後尾に収録されている。 日本での「南京大虐殺」の政治宣伝は、東京裁判を原点とするが、活字による「政治宣伝」は、一九七一年の朝日新聞の連載「中国の旅」からであろう。それは、写真集としての中国の旅『中国の日本軍』(本多勝一著・一九七二年)の巻頭に郭沫若(中日友好協会名誉会長)の推薦文が掲載されている事が物語っている。(資料18) また、『中国の日本軍』の解説は、中国帰還者連絡会会長の藤田茂氏が寄稿している。藤田茂氏は、一九六五年周恩来首相に招待されて、中帰連会員とともに人民大会堂を訪れている。 ここの文は意図が不明(というよりあまりにも下劣な印象操作で醜悪極まる)。中国を訪れた人間が解説を寄稿したら、その本は信用できなくなるのか? 周恩来に招待されたら一体なんだというのか? 藤田茂は元第59師団長で中国側に戦犯として捕らえられ釈放された中では高位の将官であるので、中国との行き来があってもおかしくない。 もし、このような関係を以て藤田氏が中国側のスパイであるかのように印象付けたいのであるなら人として最低である上に、安倍晋三の祖父・岸信介がアメリカのスパイであることも疑うべきだろう。 (scopedog) 7 《「南京大虐殺」の捏造写真について》…26 本来、報道写真は「誰が」「いつ」「どこで」撮影したものか明らかに出来ない写真などは無価値である。ところが、「誰が」「いつ」「どこで」撮ったものかわからない写真が「南京大虐殺」の証拠写真として一人歩きしているのが現状である。また、そのような写真を一つ一つ検証する事は、中国側の策略に踊らされている事になる。 (引用者注)大虐殺は写真によって証明されているのではなく、日本軍兵士の証言や日本軍の陣中日誌などによって実証される。写真は「一つ一つ検証」いくなかで、その写真が撮影された時の状況がわかってくる。「誰が」「いつ」「どこで」撮影したものか、その要件がそろわない無名の兵士が撮影したものでも、状況検証によって立派な史実資料になりうる。 日本側の立場としては、そのような写真をまとめて報道写真として無価値であると声を大にして訴えれば済むことである。 8 《「南京大虐殺」の政治宣伝にたいして》…27 「南京大虐殺」の政治宣伝は、一九三八年の国際連盟理事会において、顧維釣中国代表が「二万人の虐殺と数千の女性に対する暴行」があったとする政治宣伝が原点であると判断した。南京問題小委員会は、顧中国代表が国際連盟の「行動を要求」したにもかかわらず国際連盟は、決議案に「日本非難決議」として採択しなかった事を最重要と判断する。 すでに述べたように、中国代表の演説は決議案が作成された後に行なわれている。(Apeman) また、東京裁判において、南京攻略戦総司令官松井石根大将の判決で、「平和に対する罪」「人道に対する罪」の訴因すべてが無罪だった事を重視するものである。 以上、人道に反する「南京大虐殺」は、国際連盟、東京裁判においても否定されていたものと判断する。 尚、南京攻略戦での犠牲者数に関しては、当時、世界最大の取材班を送り込んでいた朝日新聞約八十名、毎日新聞約七十名の両社とも、二〇〇七年二月「南京大虐殺」の犠牲者数は「特定しておりません」と公式見解を出している(資料19)。 南京攻略戦を一番詳細に取材していた両新聞社ですら、特定できない犠牲者数を国会議員が特定する事など不可能である。 (引用者注)両新聞社は、昭和12年の上海―南京の戦争の時には、軍のお先棒を担いで翼戦報道に邁進していた。両新聞社が、戦争の被害者に目を向けるようになったのは戦後になってからのことである。昭和12年のころから戦争被害に目を向けていたら、軍の意向に逆らってでも犠牲者数の調査をしていたかもしれないという意見もあるが、昭和12年には既にジャーナリズムの灯は殆ど消えていた。 国家間で平和条約を締結後の歴史認識問題は、歴史の専門家の研究に委ねられる事と判断する。 ならば黙っていてはどうか? そして「歴史の専門家」の研究成果を尊重してはどうか? Apeman) 同小委員会は、一次資料を中心にした検証の結果、南京攻略戦が通常の戦場以上でも以下でもないとの判断をするに至った。 小委員会は、偕行社が明らかにした捕虜殺害を「いずれも戦時国際法違反でない」としているが、捕虜殺害そのものは否定していない。合法・違法は敢えて問わないとして、短期間にこれほど(六六七〇+三〇九六+数千+一六五七+数千)の数の捕虜を殺害した事例が、第二次世界大戦の全戦線を通じてどれだけあるというのか?(Apeman) 9 《報道機関への要望》…29 南京攻略戦を取材した世界のメディアは、自社が報道した当時の記事と他社が報道した記事の真偽を再度検証して真相を明らかにして頂きたい。 10 《中国への要望》…29 一.中国の温家宝首相が二〇〇七年四月に来日して国会で演説したように、「日中友好」は重要な事である。そこで、日中友好親善を推進する為にも、中国側歴史研究者も間違いを認めた「南京屠殺記念館」に表示してある犠牲者数三十万人を直ちに外して頂きたい。 一.各戦争記念館及び「南京屠殺記念館」に展示してある写真のほとんどが「誰が」「いつ」「どこで」撮影した写真かを明らかにしていない。このような写真は、国際的に報道写真として無価値である。また、戦時中、日本人が撮影した写真の解説を変えて展示している写真もある。 以上、報道写真の原理原則を満たしていない、日本に関係した写真は、中国が速やかに撤去することで、二十一世紀の真の日中友好親善が推進できるものと判断した。 個別の検証を行なわずして撤去を要求することが「友好親善」に役立つとは、ずいぶんと虫のいいはなしである。(Apeman) 平成十九年六月十九日 「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」 会長中山成彬 事務局長西川京子 南京問題小委員会 委員長戸井田とおる 結局この戸井田報告は、昭和62年発行の田中正明著「南京事件の総括 虐殺否定15の論拠」の焼き直しであり、すでに公開されていた外務省史料を、『新発見!』『新発見!』と騒ぎ立てて新たな味付けに使った、モノのようです。 田中正明氏の論点はここにありますが、無用なmusicにはご注意ください。 11 資料一覧 (資料1)笠原十九司氏、一九九八年十二月二十三日号の「SAPIO」 (引用者注)笠原十九司氏の1998年12月23日号「SAPIO」論文は、「ホドロフスキの記録帳」さん書き起こしていますhttp //d.hatena.ne.jp/Jodorowsky/20080216#1203164119。それを読めば、この報告書の引用が典型的な『トリミング末法』であることが分かります(笑)。 (資料2)第百会期国際連盟理事会(一九三八年一月二十六日~二月二日)の議事録 (引用者注)議事録の翻訳文は2通りあるようです。http //1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Liar_Koo.html 英文の一部は こちらに。 (資料3)二〇〇七年二月二十一日衆議院内閣委員会で取り上げられ、戸井田とおる衆議院議員の質問 (引用者注)衆議院内閣委員会議事録http //www.shugiin.go.jp/itdb_kaigiroku.nsf/html/kaigiroku/000216620070221002.htm (資料4)昭和十三年二月十八日付 外務省機密文書「第百会期国際連盟理事会の議事録に於ける日支問題討議の経緯」 (引用者注)「機密文書」を「発見」したと勿体ぶっているが、これは既にアジア歴史資料センターで公開済みの資料だ。レファレンスコード B04013944900 (資料5)一九三七年十二月十七日付朝日新聞での南京戦従軍記者九名による紙上座談会 (資料6)朝日新聞上海支局次長 橋本登美三郎の証言「『南京事件』日本人48人の証言」(阿羅健一著) (資料7)ニューヨーク・タイムズ、ロンドン・タイムズなどの一九三七年十二月~一九三八年一月まで二ヶ月間の報道 (資料8具体不明)NHKが「真相箱」を翻訳して放送した? (資料9具体不明)アリソン事件関連? (資料10)『ドイツ外交官の見た南京事件』一四三頁 (資料11)昭和六十年八月十日付産経新聞、阿羅健一氏の崇善堂に関する記事 (引用者注)南京事件FAQ「崇善堂が埋葬活動をしていたことは事実」参照。「1938年2月6日付けで南京市自治委員会に宛てた手紙で「査するに弊堂が埋葬隊長を成立させてから今まで一ヶ月近くたち」とあるので1月から作業をはじめていることがわかる。」 (資料12)紅卍字会の埋葬記録? (引用者注)これと同じデータだろうか? 南京事件資料集「世界紅卍字会南京分会救済隊埋葬班死体埋葬数統計表」 (資料13)中華民国軍政部長 何應欽の軍事報告書(『何上将抗戦期間軍事報告』上冊 文星書店(台湾)中華民国五一年六月) (引用者注)南京事件FAQ 「何応欽の軍事報告は「虐殺」の報告を目的としていない」 (資料14)世界紅卍字会南京分会長 陳漢森の、比良艦長、土井中佐への礼状。 (引用者注)http //t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/3/hcfqrf/aebqrf.html#aebqrf (資料15)「陸軍刑法、陸軍懲罰令」 (資料16具体不明)松井石根に対する東京裁判判決? (資料17具体不明)佐藤和男博士の『偕行南京戦史』への苦言 (資料18)『中国の日本軍』(本多勝一著・一九七二年)の巻頭に郭沫若(中日友好協会名誉会長)の推薦文 (資料19)朝日新聞、毎日新聞の、二〇〇七年二月「南京大虐殺」の犠牲者数は「特定しておりません」との公式見解? 「戸井田報告」=「南京の実相」批判のページ(1)へ戻る 南京事件庫 コメント欄(戸井田2) アラシが入りましたので、コメントフォームは閉鎖しました。 ご意見は「掲示板」でお願いします。 http //tree.atbbs.jp/pipopipo/index.php?mode=expn
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2485.html
日中歴史共同研究 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 <近現代史> 第一部 近代日中関係の発端と変遷 第一章 第1章 近代日中関係のはじまり 近代日中関係の発端 北岡 伸一<その1> 北岡 伸一:東京大学大学院法学政治学研究科・法学部教授 【座長】 http //www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/pdfs/rekishi_kk_j-2.pdf 目次 近代日中関係の発端 北岡 伸一<その1>はじめに 第一節 西洋の衝撃と開国:日本と中国1.近代西洋国際秩序と東アジア国際秩序 2.中国の開国 3.日本の開国 第二節 明治維新と脱亜入欧1.幕府の崩壊と新政府の成立 2.新政府の開国 近代日中関係の発端 北岡伸一<その2>第三節 日清修好条規の成立 第四節 台湾出兵と琉球問題1.琉球帰属問題 第五節 朝鮮問題の発端 33 おわりに はじめに 19 世紀半ばに至るまで、東アジアには、当時の西洋における国際秩序とは異なる国際秩序が存在していた。西洋列強は、この国際秩序を不便として、優越した軍事力を背景として、その変更を要求した。このような西洋の挑戦によって、東アジア国際秩序は根本的な変容を迫られた。東アジアの変容を、もっぱら西洋の衝撃に対する対応と見ることは一面的に過ぎるが、西洋の衝撃なしには、東アジアの変容はありえなかった。この西洋の衝撃に対する日本と中国の対応は、著しく異なっていた。その対応の違いが、その後の日中関係に大きな影響を及ぼすことになった。日本と中国が、それぞれの歴史と伝統を背景に、どのように西洋の衝撃に対応していったか、そしてその中から、前近代においては比較的限られていた日中間の接触が、いかに形成され深まっていったかを、本章では明らかにしていきたい。それゆえこの章は、近現代史分科会論文集の大部分の章と異なり、両国関係の叙述や分析そのものではなく、比較史を通じた関係史の成立と発展という形をとることとなる。その際の重点は、執筆者の専門からして、当然、日本に置かれることとなる。 第一節 西洋の衝撃と開国:日本と中国 1.近代西洋国際秩序と東アジア国際秩序 19 世紀の前半まで、東アジアには中国を中心とする国際秩序が成立していた。周辺国の多くは中国から冊封を受け、中国に対して朝貢していた。それによって、中国の文化的政治的優位を承認し、他方で中国からそれぞれの国における支配者たることの承認と庇護を受け、あわせて朝貢による貿易上の利益を享受していた。1 その中でほぼ日本だけが、中国との対等を主張していた。古代において、あるいは中世の足利義満などが、それぞれの国内的政治的経済的利害から、王として中国に対する臣下の礼を取ったことがあったが、これはごく例外的であった。2 その結果、中国にとって日本は比較的遠い存在であった。当時の清国も、朝貢国につい 1 このような体制の名称については諸説あるが、冊封と朝貢ないし進貢を中心とし、文化的優劣関係を中核とする点で、大きな違いはない。その特色の詳細な検討として、西里喜行『清末中琉日関係の研究』(京都大学学術出版会、2005 年)、13-18 頁、が参考になる。 2 坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973 年)、第三章。なお、『万暦会典』(1587 年)には、日本は朝貢国とされているが、『嘉慶会典』(1818 年)には、互市諸国の中にあげられている。同上、84-87 頁。 2 ては比較的詳しい情報を持っていたいが、日本についての情報は乏しかった。3 他方で、日本は清国のことはもちろん良く知っていた。江戸時代にも貿易は行われていたし、その最大の輸入品のひとつは書物であった。こうした清国との限定的な接触の中で、日本は清国から強い影響を受けつつ、同時にこれに反発して、独自の文化を形成し、独自のアイデンティティを形成していった。 ところで、西洋における世界秩序は、世界史の中でユニークなものである。そこでは、世界は主権国家と植民地とからなり、主権国家はすべて形式的には対等であり、国家はその国内および植民地内の事柄すべてについて責任を負う。逆に言えば、完全な責任を負うことのできない土地に対して主権を主張することは出来ない。また、以上のコロラリーとして、すべての土地はどこか一つの国だけに所属することとなる。同時に二つ以上の国に は所属する土地はないし、またどこにも所属しない無主の土地も、原則的にはない。 このような国際関係は、世界史的に珍しい。多くの文明圏において、国家は対等ではなく、中心的な国家が存在して、他はこれとの関係で階等的に位置づけられることが多い。また、国家と領土の関係も絶対的ではなかったから、二つ以上の国家に属する土地もあれば、どこの国家にも属さない土地もあった。 伝統的な東アジア国際秩序においても、すでに述べたとおり、国家は対等ではなかった。宗属関係における属国は、西洋における主権国家ほど独立的ではなかったが、西洋における植民地ほど従属的ではなかった。琉球のように日本と清国に対し両属という国もあった。日本でも、北海道については、ロシアが進出するまでは領土の観念は希薄であった。 こうした国際関係の中に位置していた日中両国にとって、西洋との出会いは困難なものであった。しかし、とくに中国は西洋が持ち込もうとした近代国家システムにうまく適応することができず、多くを失った。これに対して日本は、相対的にこの課題を大きな失敗なしに乗り切っていった。4 2.中国の開国 清国は1661 年に遷界令を出して一種の大陸封鎖を行っていたが、1684 年、これを解除して「海禁」を解き、マカオ、寧波など4 港を開き、海関を設けて貿易を行った。しかし1757 年には、外国船との貿易はカントン(広州)だけに制限することとなった。カントン 3 たとえば『瀛環志略』(1866 年)は、古い書籍をそのまま引用し、日本の三大島は、北の対馬島、中の長崎、南の薩●〔山ヘンに司〕馬(さつま)であると述べる有様であった。佐々木揚『清末中国における日本観と西洋観』(東京大学出版会、2000 年)、ⅲ-ⅳ頁。 4 ただし、ここでいう「成功」「失敗」というのは、あくまで当時の西洋との接触と独立の維持という観点における成功と失敗である。一般的に言って、ある課題における成功の条件は、次の課題における失敗を引き起こすことが少なくない。それは東アジアの歴史を考えるときにも忘れてはならないポイントであろう。 3 貿易は18 世紀の末から19 世紀にかけて大いに繁栄し、年間150 隻の外国船が入るようになっていた。そこで最も活発だったのは、イギリスだった。しかしイギリスは一種の朝貢国として位置づけられ、限られた中国人商人(広東13 行)を媒介として、さまざまな厳重な制限の下において、貿易を許されていたのである(カントン・システム)。 ところが、18 世紀末から、中国からの茶の輸入が盛んとなり、イギリスから大量の銀が流出するようになると、イギリスはこれを阻止するため、アヘンの輸出を開始した。アヘンはたちまち中国に広がり、中毒者が激増するに至った。財政再建と国民のアヘン中毒追放のため、1839 年、林則徐がアヘンの没収、厳禁に踏み切り、アヘン戦争が始まった。イギリスにおいても、これは不正義の戦争であるとして強い反対があったが、戦費支出の件を含め、1840 年5 月、上下両院の支持を得るに至った。 戦争が始まると、清国はイギリスの敵ではなかった。その結果、1842 年、南京条約が締結され、広州に加え、廈門(アモイ)、福州、寧波(ニンポー)、上海の開港と香港島の割譲が取り決められた。翌1843 年、アメリカから同様の要求があると、一視同仁の論理によって、清国は英国以外の諸国に対しても、最恵国待遇を付与することとした。 しかしそれでも条約港での貿易は、清国からみて、朝貢関係の一環であるカントン・システムを拡大したものであった。港の数は限定されており、南方に偏っており、いずれも田舎の漁村にすぎなかった。こうした僻地に土地を与えたことによって、西洋人を懐柔しようとしたのであった。 しかし西洋列強は、条約港において清国から土地を借り上げ、都市基盤を整備し、行政制度を整備し、伝統的な中国とは異なった空間を作り出していった。これが租界である。とくに上海には西洋建築が次々に建築され、その景観は一変するに至った。そこには、キリスト教も流入していった。租界は、中国を大きく変えることとなったのである。 以上のような清国の弱体化の中で、キリスト教の影響のもと、太平天国の乱が起こり、中国を大混乱に陥れた。乱は1850 年から64 年まで続き、2000 万人以上が犠牲となったといわれる。この鎮圧の主力となったのは、清国の正規軍ではなく、曽国藩の湘勇や李鴻章の淮有など郷勇であった。また、ゴードンの常勝軍などの外国人傭兵だった。太平天国はそれ自体清国に大きな打撃を与えただけでなく、伝統的な満州族中心の体制の無力を示した点においても、重要だった。 この間、偶然もあって起こったのがアロー戦争だった。1856 年10 月、イギリス船籍を名乗る中国船アロー号に清国官憲が臨検を行い、清国船員12 名を海賊容疑で逮捕し、その際、イギリス国旗を摺り下ろしたとされる事件が起こった。実際には、この船の船籍登録は期限切れとなっており、清国側の行動は不法ではなかったが、イギリスは南京条約で獲得できなかった諸権利を獲得しようと、他の列強を誘って共同出兵を持ちかけた。仏、露、米のうち、誘いに応じたのはナポレオン三世のもとで積極的な対外政策に乗り出していたフランスで、57 年末に広州を占領した英仏連合軍は天津に向かい、太平天国で疲弊していた清国政府は譲歩して、1858 年6 月、天津条約を結んだ。 4 しかし、英仏軍が去ったあと、北京では条約に対する反対が高まり、翌年批准のためにやってきた英仏との間に衝突が起こったため、戦闘は再開され、英仏軍は1860 年10 月、北京に入り、円明園と頤和園を破壊し、多大の略奪を行った。 そして1860 年、清は英仏と北京条約を結び、天津条約の内容を確認するとともに、さらなる負担を負うこととなった。その内容は、 (1)天津、漢口、南京など11 の港を条約港とし、条約港居住外国人に旅行する権利を与える。 (2)キリスト教布教権の承認、アヘン貿易の合法化、 (3)外国使節の北京常駐、西洋人に対して「夷」の字を使うことを禁止する。 (4)イギリスに九龍半島を割譲する、 などであった。この際、調停にあたったロシアに対しても、それまで混住であった沿海州を割譲することとなった。 以上を要するに、イギリスを始めとする西洋諸国は、清国に対する野心があり、軍事的実力を背景に、さまざまな口実を設けて、これを実現していった。清国は、西洋諸国の軍事力と野心を十分警戒することなく、不用意に口実を与えていったのである。もう少し警戒すれば、被害は少なく済んだであろうという局面は少なくなかった。 3.日本の開国 これに対し、日本の開国は、比較的大きな混乱なしに行われた。 1853 年7 月、ペリーが日本に来航し、国交を求めた。ペリーは同月、いったん日本を去ったが、1854 年2 月、再び来航し、日本はペリーと日米和親条約を締結した。その結果、神奈川、函館、長崎、新潟、下田の5 港を開くこととなった。しかし、これは、まだ鎖国の例外措置という面もあり、本格的な開国ではなかった。イギリス、ロシア、フランスなどが、これにならった。しかし、1856 年にアメリカから下田領事としてハリスが来日し、通商航海条約の締結を求めると、日本はいよいよ決断を迫られるようになった。通商条約の締結は明らかに鎖国政策の放棄であり、和親条約よりはるかに重大事件であった。 当時の幕府には、緩やかな開国論と伝統的な鎖国論が対立していた。一方は、開国は不可避と考え、西洋軍事技術を導入し、外交機関を整え、大名などの意見を徴し、世論の支持を得て開国しようとしており、次の将軍には一橋慶喜(1837~1913)を擁立しようとしていた。他方、保守派は、西洋との衝突には危惧を持ちながらも、軍事外交制度の変革にも大名その他の意見を徴することにも消極的であり、次期将軍には、幼少ながら血統において将軍によりふさわしいと考えられた紀州の徳川慶福(1846~66)を推していた。 ペリー来航以来、幕府をリードしていたのは老中阿部正弘であった。阿部が1857 年に没すると、そのあとを継いだのは堀田正睦であった。彼らはいずれも西洋文明に理解をもち、開国は不可避と考えていた。問題はその方法であった。彼らは幕府の専断ではなく、多くの大名の意見を徴し、さらに朝廷の許可を得て、条約に調印することを考えた。ところが、意外にも条約勅許問題は将軍継嗣問題とからみあって複雑化し、幕府は朝廷の勅許を得る事に失敗した。ここで堀田は失脚し、南紀派の井伊直弼が大老に就任し、条約に調印し、 5 徳川慶福の将軍継嗣を決定した。そして多くの反対派が処刑された(安政の大獄)。しかるに、これに対する反動が今度は起こり、井伊直弼が暗殺される(桜田門外の変、1860 年3月)という事態となったのである。 安政の大獄そして桜田門外の変のころより、日本では攘夷運動が激しくなった。しかし西洋との軍事的衝突は、個別的な外国人襲撃を別とすれば、1863 年6 月の長州藩による外国船砲撃、1863 年8 月の薩英戦争、それに1864 年9 月の四国連合艦隊による下関攻撃程度であった。中国に比べて、相対的に混乱は少なかった。 それにはいくつかの理由があった。 第一に、西洋列強の主たる関心が中国だったことである。巨大な中国に比べれば、日本はその傍らの小さな国であった。またアヘン戦争からアロー号戦争に至るプロセスで、列強は日本に本格的に関与する余裕はなかった。それが、英仏でなくアメリカが、日本開国の先頭に立った理由の一つである。なお、後述するように、朝鮮に対する列強の圧力も、中国に対する圧力に比べれば小さかったが、それも同様の事情による。 第二に、それゆえに、日本は清国の敗北を知って、列強に対する準備をする時間的余裕があった。とくに、アヘン戦争のような不正義の戦争において、清国が敗れたことは大きな衝撃であり、西洋列強の邪悪な意図と恐るべき実力を知ることができた。日本近海や琉球には、繰り返し西洋の船が訪れており、オランダからは開国の勧告が来ていた。日本も自ら開国する決断は出来なかったが、より準備が出来ていたことは確かである。 第三に重要なのは、日本のエリートは武士であり、がんらい軍事を重視する存在だったことである。武士は、日本が西洋に勝てないことを、すぐに理解したのである。ロシアのプーチャーチンとの応接など、対外関係の処理に活躍した川路聖謨は、万里の波濤を越えてやってきたプーチャーチンは「真の豪傑」であると高く評価し、彼自身を含め、太平の世になれた武士の遠く及ぶところではないと嘆いた 5。 これに比べ、清国における価値の中心は文であり、武ではなかった。林則徐のような立派な官僚もいたが、その判断は十分北京に伝わらなかったし、尊重されなかった。 朝鮮においても、価値の中心は文であった。とくに李氏朝鮮においては、明のあと、儒教の正統を継ぐのは朝鮮であるという観念が広まっていた。アヘン戦争についての情報は、日本以上に入っていたが、強い反応はなく、1845 年の時点で、清の状況は「無事矣」と考えられていた。このとき、魏源の『海国図志』がもたらされたが、日本と違って、それも海防思想の勃興をもたらさなかった。太平天国についても、重大事件とはみなしていなかった。江南の事件には関心が低かったのである。警戒感が高まったのは、ようやくアロー戦争が華北に波及してからであるといわれる。6 5 佐藤誠三郎「川路聖謨」、佐藤『<死の跳躍>を超えて』(1992 年、都市出版社)所収、 133 頁。 6 以上、原田環「19 世紀の朝鮮における対外的危機意識」、『朝鮮史研究会論文集』21 巻(1984 年3 月)。 6 なお、日本においても、文の中心である京都の朝廷では、事態の深刻さを理解できる者は少数であり、列強に勝てるかどうかを真剣に検討する人は稀であった。 第四に指摘すべきは、日本社会が経済的に高度に統合されていた事実である。江戸時代、日本にはすでに全国単一市場が成立しており、各藩は沿岸航路を通じて大阪に物資を往来していた。したがって、黒船数隻の登場は、地域的な危機ではなく、ただちに全国的な危機になりえたのである。 これに比べれば、中国では南方の危機は全国の危機になりにくかった。朝鮮半島においても、高度な経済発展・経済統合は見られず、沿岸航路はとくに重要なものではなかったので、危機感が弱かったのであろう。 第五に、教育の普及と、民族的一体感は、日本がもっとも強かったといってよいであろう。17 世紀はじめからの長い平和の中で、識字率が向上し、日本文化への見直しが盛んとなり、原初的なナショナリズムが芽生えていた。そこでは、天皇への注目が高まり、日本は外国に敗れたことがないという不敗の伝統が強調されていた。 第六に、大前提として、日本は長年中国との交流を通じて、日本より優れた文明がありうることをよく知っていた。日本人の世界観は、自国中心主義ではなかった。一見自国中心主義と見える思想も、実は背伸びした、中国の優位に反発しての自国中心主義であった。したがって、西洋が日本よりも、少なくともいくつかの分野において優れていることを認めるのに、さほどの困難はなかった。 江戸時代における蘭学の普及も、これと関係している。福沢諭吉は、1862 年、ヨーロッパ旅行において、中国人留学生、唐学捐(土へん)と知り合いになり、清国で横文字を解するものの数を尋ねたところ、11 人という答えを得て、驚愕している。7 この数は、必ずしも信頼できる数ではないかも知れないし、福沢もそのまま信じたわけではないだろうが、それにしても、日本には500 人程度の蘭学者ないし洋学者がいるのに、西洋と長い交際のある大国清において、それほど少ないのかと驚いたのである。 おそらく、大多数の中国人は、伝統的に、自国より優れたものの存在を知らなかった。 中国の自国中心主義は、それと人に言われても分からないほど深く浸透していたのである。 第二節 明治維新と脱亜入欧 1.幕府の崩壊と新政府の成立 開国に踏み切った日本で、次の課題は、新しい政治体制の模索であった。 ペリー来航のとき、外国との応接の中心が徳川幕府であるべきことを疑うものはなかった。幕府の石高は800 万石といわれ(天領400 万石余と御家人ら300 万石余)、第二位の加賀前田家(102 万石)、薩摩島津家(77 万石)以下を圧していた。 7 石河幹明『福澤諭吉伝』第一巻(岩波書店、1932 年)、330-333 頁。 7 それに多くの藩は経済的に疲弊して、余力はなかった。また彼らは、のちに述べる薩摩や長州などを除いて、長年の徳川氏支配の中で、その家臣としての意識を持つようになり、みずからの領土を自分で支配するという観念が希薄になっていた。 しかし幕府にも弱点はあった。石高は農業収入を基礎としたもので、江戸期を通じて発展してきた商業に対する安定した課税システムを持っていなかった。農業は江戸時代後半伸び悩み、幕府財政も、各藩同様、逼迫していた。 幕府の軍事力も、長年の平和の中で陳腐なものとなっており、新しい軍事技術が導入されればたちまちゼロからの競争になる運命にあった。しかも幕府の家臣には、平和になれて特権に安住する旗本・御家人が多く、新しい技術を獲得するための厳しい訓練を受ける意欲や柔軟性に乏しかった。 また幕府の正統性は脆弱であった。幕府が全国支配者であるのは、征夷大将軍に任じられるからであって、究極は朝廷による任命に依存していた。朝廷の家臣であることにおいて、将軍も他の大名も同輩であった。すでに述べた開国をめぐる混乱も、幕府が朝廷の勅許を得ようとして失敗したことから発していた。しかも征夷大将軍である幕府が、征夷ができないとき、その正統性は大きく揺らぐこととなった。 これに対し、薩摩と長州は、17世紀初頭の徳川氏の全国制覇において敗者となり、封土を削減され、多くの家臣団を抱え、困窮を耐え抜いて、尚武の気風を維持していた。 ところで、幕府首脳は譜代大名であり、小藩の藩主であった。外様の雄藩や親藩を排除して、幕府政治はなりたっていた。しかし、こうした有力な藩をも加えた挙国一致で対外危機に臨むべきだという有力な意見が存在していた。一橋派と南紀派の対立は、この点を焦点としていた。 伝統的な幕府中心の体制を維持しようとする井伊直弼が桜田門外の変で倒れたあと、さまざまな形で挙国一致体制が模索された。それは、幕府と朝廷の協力のもとに雄藩が参加する公武合体論として展開された。1862 年には、天皇の妹の将軍との結婚(和宮降嫁)、島津久光の建議による一橋慶喜の将軍後見職就任と松平慶永(越前)の政事総裁職就任が実現され、1864 年2 月には京都に一橋慶喜、松平慶永、伊達宗城(宇和島)、松平容保(会津、京都守護職)、山内豊信(土佐)、島津久光(薩摩)8 による参預会議が置かれるに至った。雄藩の中でここから排除されたのは、当時攘夷を鮮明にしていた長州だけだった。 しかし参預会議は内部対立から十分機能しなかった。権力の独占を維持したい幕府と、これに割り込みたい雄藩の政治的対立があり、貿易の利益を独占した幕府と、これに参入したい雄藩とくに薩摩との対立があった。 そのころ、新任のフランス公使ロッシュ(64 年4 月着任)は、ナポレオン三世の積極的な対外進出の一環として、幕府に接近し、これに対し、幕府の中には親仏派官僚が形成されていった。その結果、幕府は再び独自権力強化の路線に戻っていった。なおそのころ、 8 島津久光は、藩主ではなく藩主の父であり、陪臣であった(それゆえ、任命は他より二週間ほど遅い)。それは、この会議が真に実力を持つ者の会合であったことを示す事実である。 8 イギリスは薩摩と接近していた。それは薩摩がより貿易の開放に積極的であり、また意思決定システムにおいて柔軟で果断だという判断からであった。9 幕府の親仏路線に対し、これを脅威と感じた薩摩は、幕府の二度目の長州征伐を前に、長州と接近して薩長同盟を結んだ(66 年3 月)。そして7 月から始まった戦争において、薩摩に支援された長州は幕府を撃退した。薩摩は上海から武器弾薬を密輸し、これを長州に提供した。中国がすでに開国していて、中国経由で西洋との貿易が可能であったという事実は、日本の明治維新のあり方に決定的な影響を及ぼしたのである。10 幕府の絶対主義強化路線と薩長の倒幕路線の中間に、もう一度浮上したのが、公武政体論や幕府雄藩連合体制論の流れを引く大政奉還論であった。その主唱者は土佐であって、幕府を廃止し、徳川氏は一大名となり、諸侯会議において国事を議するものとし、土佐も一定の発言権を持つことになるわけであった。 これが実現すれば、徳川家が中心となる体制が出来たであろう。徳川氏は、徳川慶喜という有能なリーダーを持ち、外国との交際の経験を持ち、実務能力を持つ官僚を持ち、フランスの援助を得ていた。67 年10 月9 日、徳川慶喜が大政奉還して、一大名となろうとしたのは、そうなっても国政をリードできる自信があったからである。また、土佐はその中で有利な地位を確保できるはずであった。 それは、薩長にとっては認められないことであった。徳川氏の存続を許すにしても、一度は軍事的に打撃を与えてからでなくてはならなかった。薩長は徳川に対する処罰を主張して、ついに王政復古に持ち込んだ。天皇の指導のもとに国政を行うという決定であった。1868 年1 月3 日のことだった。 これを不満とする徳川と薩長の間で1 月27 日、戦争が起こった。緒戦は朝廷側が有利であったが、まだ戦争の行方は知れない段階で、徳川慶喜は兵を引き、江戸に戻り、以後、抗戦を放棄した。戊辰戦争と呼ばれる戦争は、この鳥羽伏見の戦いで始まり、1869 年6 月、函館の五稜郭の陥落で終わるが、徳川を中心として組織的な戦争は起こらなかった。つまり、事実上、一日で大勢が決してしまったのである。 徳川方に軍事的勝利の展望がなかったわけではない。しかし、長年の平和になれた日本人は、戦争の継続を好まなかった。徹底抗戦すれば、日本を二分する戦いとなり、日本が植民地化される恐れがあるという危惧が、徳川方にあり、徹底抗戦をためらわせた。また、すでに降伏しているものに対し、寛大な措置をとるのが日本の文化的伝統であり、それは薩長の側にも理解されていた。 イギリスが仲介したのも大きい。イギリスの目指すのは貿易上の利益であって、安定し 9 1863 年8 月の薩英戦争において、薩摩はイギリスを相手によく戦ったのみならず、講和の交渉のさなかに、イギリスからの武器の購入とイギリスへの留学の相談を持ちかけた。この柔軟性に、イギリスは強い印象を受けた。 10 すでに1862 年、幕府は千歳丸を上海に派遣して貿易を求めている(佐藤三郎『近代日中交渉史の研究』、吉川弘文館、1984 年)。また1863 年には函館奉行所が健順丸を上海に派遣している。 9 た秩序こそ望ましいものであった。江戸城無血開城は、勝海舟と西郷隆盛の決断で決まったが、圧力をかけたのはパークス英国公使であった。 それにしても、それにしても、260 年の統治の実績を持つ徳川幕府の崩壊は驚くべきことであった。もっとも大きな違いは、薩長では伝統にとらわれない下級士族が藩政の中枢を掌握したが、幕府ではそうならなかったということであろう。その意味は、新政府のもとですぐに明らかになる。 2.新政府の開国 薩長が指導する新しい政府は、当然、攘夷路線をとると思われた。福沢諭吉などは絶望的な気分でこれを迎えた。しかし意外なことに、新政府は攘夷路線をとらず、明確な開国路線をとった。 1868 年2 月10 日、新政府は外国との和親を布告した。戊辰戦争のさなか、各地で外国人との衝突が起こっていた。薩長の首脳は攘夷を不可能と知っており、これを戒めた。しかし、多くの人は、薩長は攘夷路線をとるものと信じており、この布告を意外とした 11。さらに天皇は4 月6 日、五箇条の誓文を発したが、その第四には、「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クヘシ」とある。その意味は広いが、中核的な意味は鎖国の否定、陋習の否定、そして開国であった。 新政府は、さらに各藩が地方に割拠する制度を改め、中央集権化をめざした。函館の五稜郭が陥落して戊辰戦争が終わってから一ヶ月もたたないうちに、1869 年6 月、版籍奉還を行って、藩主に行政権を返還させた。ただ、原則として藩主をあらためて知藩事に任命したので、大きな違いはないように見えた。しかし1871 年8 月には廃藩置県を断行し、藩を廃止して県を置き、その行政官としては中央から知事を任命し、これまでの藩主は東京に住むことを命じた。多くの西洋人は、これを革命だと感じた。奇跡だと考えた。 それが可能となったのは、多くの藩がすでに経済的に疲弊していたからであった。また、長年の幕府の支配のもとで、多くの藩において、自らの領地とのつながりが薄くなっていた。そして中央集権でなければ外国と対抗できないことが広く理解されていた。それにしても、これは意外な展開であった。福沢諭吉は、洋学を志した仲間とともに、「この盛事を見たるうえは、死すとも悔いず」と、叫んだと回顧している 12。もちろん、これに反感を持ったものも多かった。薩摩の事実上の藩主であった島津久光は、廃藩置県を憤り、西郷や大久保を許さなかった。 1871 年11 月には、さらに、岩倉使節団が派遣された。岩倉具視、大久保利通、木戸孝 11 岡義武「維新直後における尊攘運動の余炎」、『岡義武著作集』第6 巻(岩波書店、1993年)所収。 12 福沢諭吉「福翁百余話」、慶応義塾編『福沢諭吉全集』第六巻(岩波書店、1959 年)所収、419 頁。 10 允ら、政府首脳の半ばを含む大集団が、一年半にわたって欧米旅行を断行した。革命直後の新政権が、長期に国を空けるなど、およそ常識では考えられない行動であった。それだけ彼らは欧米を見たいと考えたのであった。 そこから、彼らは西洋文明との巨大な格差を実感し、これに追いつくために全力を挙げなければならないと決意した。そして強兵よりも富国が重要であることに気づいたのである。 国内体制の整備において、注目すべきは徴兵令の制定である。政府は1872 年12 月、徴兵の告諭を発し、また73 年1 月、徴兵令を定めて、一般国民を基礎とする軍事力の整備を決定した。 新政府の指導者は武士であったにもかかわらず、またそれほど多くの兵力が必要だったわけではなかったにもかかわらず、この決定を行った。この方針を定めたのは、長州の大村益次郎であった。大村が1869 年末に暗殺されたが、その路線は長州の山県有朋によって引き継がれた。大村はがんらい村医者であり、また山県は下級の武士であって、奇兵隊に加わって戦った経験を持っていた。そして長州では、戦争のさなか、意外に武士が役に立たず、むしろ意識の高い一般庶民がよく戦うことを知っていた。 その後、政府は武士身分の廃止にまで進んだ。武士のための俸禄は、新政府の重い負担となっていた。まず、1873 年、秩禄(家禄と賞典禄)の奉還を奨励し、奉還する武士には一部を現金、一部を公債で支給した。さらに1876 年8 月、ついに金禄公債を発行して、家禄制度を廃止した。この間、廃刀令を発して帯刀を禁止した(1876 年3 月)。 これは重大な決定であった。武士層の身分的特権と経済的特権をともに廃止したのである。明治の前半、多くの反乱が起こったが、こうした急進的措置を考えれば、無理もないことであった。よく新政府の基礎が揺るがなかったと感じるほどである。 このように、江戸時代において、封建領主が割拠し、その頂点に幕府があった制度は根本的に変革された。まず薩長が幕府を打倒し、薩長の下級士族からなる官僚が、薩長を含む藩を廃止し、さらに自ら武士を廃止してしまったのである。この変革は、いずれも天皇の名において行われた。薩長官僚は、藩の威光ではなく、天皇シンボルをフルに利用して、この変革を行ったのである。13 このように、当初、尊王攘夷を掲げて出発した運動は、新政府において大きな変化を遂げた。政府は天皇の意思を尊重したりしなかったし、攘夷は開国となった。しかし、尊王というシンボルは、天皇を尊敬とするということではなく、中央集権ということであり、攘夷というのは外国人を排撃するのではなく、外国と並び立ちうる国家を作るということ 13 なお、天皇は日本の伝統においては、文の象徴であったが、ここでは軍事リーダーへとその役割を転換されることとなった。それがのちに、大元帥として、統帥権の中心に置かれたわけである。天皇シンボルの利用は、この段階では明らかな成功であったが、のちに、思慮深い元老や政治家が天皇の周囲にいなくなったとき、軍部の悪用するところとなり、大きな問題を引き起こすことになるのである。 11 だったと読み替えることができる14。そしてその二つは、近代国家の内的特徴と外的特徴である。その意味で、明治維新は何よりもナショナリズムの革命であったのである15。 ところで、清国でも1860 年に北京条約を締結したのち、変革が始まった。1861 年3 月には、総理各国事務衙門を設置され、これまでの「夷務」も「洋務」とされた。ようやく外交を統括する機構が作られたわけである。 そして1861 年11 月、同治帝が即位し、西太后や恭親王が実権を握った。その中で、改革運動が始まる。同治中興であり、洋務運動である16。 同治中興は、「中体西用」といわれるように、西洋からの近代的な技術、とくに軍事技術を導入するとともに、経世儒学的な思想を強調した。太平天国の乱が鎮圧に向かったころから、曽国藩・李鴻章ら、この乱の鎮圧に成果を上げた官僚たちによって、ヨーロッパの技術の受容が開始された。とくに機械化された軍備を自前でまかなうために、上海の江南製造局に代表される武器製造廠や造船廠を各地に設置し、その他にも、電報局・製紙廠・製鉄廠・輪船局や、陸海軍学校・西洋書籍翻訳局などが、新設された。 そのスローガンは、「中体西用」であった。伝統中国の文化や制度を本体として、西洋の機械文明を枝葉として利用するのだということが表明されている。中国の国力は日本をはるかにしのいでいたので、これらの改革は規模も大きく、時期も明治維新より早かった。たとえば日清戦争以前、中国の北洋艦隊(北洋水師)は規模や質において日本海軍を上回りアジア最大の艦隊であった。 にもかかわらず、洋務運動は十分な成果を挙げなかった。 一つは担い手の問題であろう。洋務運動の中心は北京の政府ではなく、太平天国鎮圧の中心だった地方長官、李鴻章、左宗棠らであった。全国が一体として運動ではなかった。当初、これらの企業は半官半民の官督商辨で、官が最小限度の監督をし、資金を出した商人が実権を握るというものだったが、これを支えるべき安定した銀行などがなく、恐慌が起こると官の力が強まり、徐々にこれを私物化するようになった。その結果、民間資金は集まらなくなった。 もう一つは「中体」というところにあった。中国最初の外交官としてイギリスに派遣された劉錫鴻は、西洋文明の充実に驚嘆した。しかし、帰国後、鉄道の建設に反対している。墓地の風水を破壊する、などが理由であった17。要するに中国の場合、儒教が大きな障害になったというべきだろう。 これは福沢諭吉と大きな対象をなしている。福沢は、少なくとも明治の初めまでは、儒 14 北岡伸一『日本政治史:外交と権力』(1989 年、放送大学出版協会)、32 頁。 15 この点を最初に指摘したのは、岡義武「明治維新と世界情勢」(1946 年)(『岡義武著作集』第一巻所収)であるといわれている。 16 洋務運動については、日本側でもっとも詳細な研究として、鈴木智夫『洋務運動の研究』(汲古書院、1992 年)がある。 17 菊池秀明『ラスト・エンペラーと近代中国<中国の歴史 第10 巻>』(講談社、2005 年)、68-69 頁。 12 教倫理を徹底して排撃した。それが西洋文明受容の大きな障害であることを知っていて、その排撃に努めたのである18。 18 ただし、福沢が根本的に反儒教であったとは、必ずしもいえない。『文明論之概略』あたりから、儒者に対する配慮を忘れなかったし、明治10 年ころからは、少なくとも、武士のエトスを強調するようになるが、それは儒教とも親和的であり、功利主義一辺倒ではなかった。丸山真男「福沢諭吉の儒教批判」(1942 年)、丸山『福沢諭吉の哲学』(岩波書店、2001 年)所収。また、北岡伸一『独立自尊:福沢諭吉の挑戦』(2002 年、講談社)。 近代日中関係の発端 北岡伸一<その2> 第1期「日中歴史共同研究」報告書 目次 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/882.html
沖縄県内の慰安所 太田昌秀『死者たちはいまだ眠れず』(新泉社2006年08月)p116―118 より また、一九四三(昭和一八)年から勤労挺身隊として軍需産業に二〇万人の朝鮮人少女が動員されたとのことです。それとは別に、日本軍の管理下で戦場に動員され、従軍慰安婦として日本軍兵士を相手に強制的に売春をさせられた女性がたくさんいました。 鈴木祐子教授の『従軍慰安婦・内鮮結婚性の侵略・戦後責任を考える』(未來杜、一九九二年)によると、政策的に朝鮮女性たちが大規模な徴発を受けたのは、一九三八(昭和一三)年の初めからでした。 すなわち当時は、関東軍の満州駐屯が長期化し、中国本土に多くの日本軍が投入されるにしたがい、長期的で大規模な戦争遂行のためには、軍人たちに対する統制と士気の振作が要求されました。しかし、日本本土の女性たちを強制的に引っ張ってくることはできなかったので、代わりに朝鮮の女性たちの徴発が始まったというわけです。信じがたいことですが、慰安婦の徴発のために、日本軍首脳と朝鮮総督府、日本の売春業者たちの間で秘密協定が結ばれて、女子挺身隊の徴発は本格化したとのことです。 その後、一九四四(昭和一九)年八月二三日付けで、勅令によって「女子挺身勤労令」が公布され、それにもとづいて女子挺身隊の徴発は、名実共に合法的政策として遂行されるようになりました。 沖縄の場合、首里域の地下司令部には、「朝鮮ピー」と蔑称され差別視される女性たちが二、三〇人ほどいました。わたしたち学生は、激闘の戦場にそぐわないその存在を奇異に感じいろいろと噂し合ったものでした。 沖縄県平和祈念資料館には、一九四四年末に守備軍配下部隊・第二四師団第三四七五部隊の「軍人倶楽部ニ関スル規定」という内部文書が収蔵されています。つまり、それは従軍慰安婦と軍の関係を示す証拠文書であります。いまでは、戦時中、沖縄各地に多数の慰安所が設置されていた事実も明らかになっています。 朝鮮人の戦死者を祀る慰霊の塔には、「韓国人慰霊塔」「青丘之塔」「アリラン慰霊のモニュメント」「アジア太平洋戦争・沖縄戦被徴発朝鮮半島出身者恨(はん)之碑」「痛恨之碑」などがあります。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/964.html
http //www.okinawatimes.co.jp/edi/20071228.html 沖縄タイムス 社説[教科書検定審報告(下)] 幾つもの問いが残った 県民大会が示したもの 教科書検定をめぐる九月二十九日の県民大会で、心に残る印象深い場面があった。読谷高校の津嘉山拡大君と照屋奈津美さんが高校生を代表して演壇に立ち、検定意見に疑問を投げ掛けた時のことである。 「沖縄戦を体験したおじぃおばぁたちが嘘をついていると言いたいのでしょうか」 「私たちは真実を学びたい。そして、次の世代の子どもたちに真実を伝えたいのです」 タオルを握り締め何度もうなずきながら話を聞いているおばぁ。小さい体を丸めて目頭を押さえるおばぁ。そういう姿を壇上から見て、胸が熱くなった、と津嘉山君は語っている。 会場には親子連れや家族連れが目立った。小さな子どもが大会の意味を分かるわけではないが、大会に参加した記憶は残る。大きくなって、その大会がどういう大会であったかを自ら学び、自分なりに解釈する。これが追体験だ。そういう仕方でおじぃおばぁの戦争の記憶が子や孫の世代に継承されてきたのだと思う。 家庭の中で沖縄戦の話になった途端、おじぃおばぁの表情が曇り、口を閉ざすことがある。実はその沈黙に触れることが沖縄戦の継承になっているのではないか。沈黙はどのような言葉よりも雄弁に、抱えている問題の真実を照らし出す。 沖縄社会は、そのようにして戦争体験を戦後世代に語り継いできた。 六十年を超える戦後の時間の堆積の中で継承されてきたものは、変化することはあっても簡単には崩れない。それを示したのが今回の沖縄側の取り組みだった。県民大会になぜ、あれほど多くの人たちが集まったのか。この問いをないがしろにせず、深く考え抜くことが大切だ。 「集団自決(強制集団死)」に関する教科書の記述が一部復活したからといって、これで終わり、というわけにはいかない。検定意見が撤回されていない以上、同じ問題が再び繰り返される恐れがあるし、何よりも沖縄にとって大きな課題は、これから先、沖縄戦をどのように継承していくかという問題である。 土地の記憶・国民の記憶 かつて沖縄に中屋幸吉という詩人がいた。米軍統治下に生きた中屋は、文学と社会運動に身を投じ、復帰前に若くして自ら死を選んだ。彼の残した言葉にこんな表現がある。 「キミハ ソッチカラ オレヲナガメ オレハ コッチガワカラ キミタチヲ ミテイル」 この表現の真意は分からない。本土の視線を見返す沖縄の視線のようにも感じられる。確かなことは、「キミ」と「オレ」の間に深い溝があることが自覚されていることだ。 今回の教科書検定であらわになったのも、日本軍による強制を認めようとしない「キミ」と、史実がねじ曲げられることを憂慮する「オレ」の対立の構図だった。沖縄の戦後史は、今に至るまで、このような図式の繰り返しだった、ともいえる。 沖縄戦における「集団自決」や「日本軍による住民殺害」の体験は、沖縄の人たちにとっては琴線に触れる「土地の記憶」であるが、「国民の記憶」と呼べるものにはなっていない。 広島、長崎の被爆体験は「土地の記憶」であると同時に、「国民の記憶」にもなっている。だが、沖縄の地上戦体験は「土地の記憶」にはなっているが、「国民の記憶」になっているとは言い切れない。 体験の継承と普遍化を 教科書検定のために提出した清水書院の申請図書は「なかには日本軍に集団自決を強制された人もいた」という表現だった。検定で「日本軍」「強制」という言葉にクレームがつき、「なかには集団自決に追い込まれた人々もいた」と書き改められた。 訂正申請で「強制」という文言の復活を試みたが拒否され、結局、次のような長い文章に変わった。 「…米軍の捕虜になって悲惨な目にあうよりは自決せよ、と教育や宣伝を受けてきた住民のなかには、日本軍の関与のもと、配布された手榴弾などを用いた集団自決に追い込まれた人々もいた」 次代を担う学生に希望したいのは、今回の検定事例を丹念に、さまざまな角度から検証する機会をつくってほしいということである。大きな問いを引き受けることが戦争体験の継承と普遍化につながっていく。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/507.html
注 吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995年、19頁。 同上、16-17頁。吉見義明・林博史編『共同研究日本軍慰安婦』大月書店、1995年、16頁。典拠は、稲葉正夫編『岡村寧次大将資料』上巻(戦場回想篇)、原書房、I970年、302貫。『岡部直三郎大将の日記』芙蓉書房、1982年、23頁。 陸軍省軍務局長「大東亜戦争間軍法会議処刑掠奪強姦等犯罪事例ニ関スル件」、別冊「日本軍ノ軍紀粛正ニ就テ」、昭和20年10月3日、永井均篇『戦争犯罪調査資料』東出版株式会社、1995年、210-212頁。 政府発表では南支23軍となっているが、吉見氏の考証で南支21軍とされている。吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、214頁。 吉見『従軍慰安婦』165-166頁。 同上、65-66頁。吉見・林編、前掲書、22頁。 この資料については、本論集の浅野豊美論文をみてほしい。 文玉珠『ビルマ戦線楯師団の「慰安婦」だった私』梨の木舎、1996年、45-57頁。なお朝鮮人慰安婦の送り出しについての業者の活動については、尹明淑「日中戦争期における朝鮮人軍隊慰安婦の形成」、『朝鮮史研究会論文集』32号、1994年10月、104-109頁をみてほしい。 吉見編『従軍慰安婦資料集』154-157頁。 吉見、前掲書、82頁。吉見・林編、前掲書、5頁。吉見氏の論じ方は最近も変わらない。同「『従軍慰安婦』問題一研究の到達点と課題」、『歴史評論』1998年4月号、6頁。 同じような試みをした先行研究は、カン・ジョンスク「日本軍慰安所の地域的分布とその特徴一日本軍官文書の分析を中心に」(ハングル)、韓国挺身隊問題対策協議会真相調査研究委員会編『日本軍「慰安婦」問題の真相』歴史批評社、1997年、141-223頁がある。 楊昭全等編『関内地区朝鮮人反日独立運動資料▼編』(▼=匚の中に惟)遼寧民族出版杜、1987年、15,20頁。 同上、71頁。 吉見編『従軍慰安婦資料集』191頁。 設置に関係した者の回想にもとづく秦郁彦の研究、『昭和史の謎を追う』下、文芸春秋、1993年、327頁。 楊昭全等編、前掲書、65-66頁。 楊昭全等編、前掲書、67頁には、朝鮮人慰安婦は89人とある。 カン・ジョンスク、前掲論文、169頁にはミスがある。 楊昭全等編、前掲書、69頁には、朝鮮人慰安婦は165人とある。 同上、50頁。 同上、70頁。 本論集の波多野澄雄論文による。 同上。 同上。 本論集の浅野豊美論文による。 吉見・林編、前掲書、120頁。 平成4年7月6日の政府調査結果の発表のさい、バタビア臨時軍法会議の審理の内容を述べた法務省提出報告が含められた。『資料集成』には、この報告は含まれていない。 本論集の波多野澄雄論文による。 )同上。 沖縄の人々の研究によると、130ヶ所という集計が出ている。吉見・林編、前掲書、129頁。 吉見編『従軍慰安婦資料集』460頁。 方善柱「米国資料に現れた韓人〈従軍慰安婦〉の考察」(ハングル)、『国史舘論叢』37号、1992年10月、224頁。 浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」平成10年1月23日、12頁。 NHK・ETV特集「アジアの従軍慰安婦・51年目の声」1996年12月28日放映。 方善柱、前掲論文、221-222頁。 同上、222-223頁。 『朝日新聞』1991年4月1日。 方善柱、前掲論文、223頁。 『朝日新聞』1991年8月10日。文書はSCAP文書のBox1967にある。国立国会図書館マイクロフィッシュ版では、LS40637~40638である。 方善柱、前掲論文、223-224頁。 浅野豊美「米国ナショナルアーカイヴ慰安婦関係資料調査報告書」12頁。 吉見・林編、前掲書、129頁。 この資料は毎日放送が入手した。『毎日新聞』1991年11月29日。引用は吉見編『従軍慰安婦資料集』582頁より。 秦郁彦氏は全体としてみれば「九五%以上が生還した」と主張している(秦郁彦「『慰安婦伝説』を見直す」、『「慰安婦」問題とアジア女性基金』東信堂、1998年、198頁)。本稿でみた極限的な事例だけでなく、広く検討していくべきであろう。 和田論文index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/443.html
南京大虐殺の研究 晩聲社1992 もくじ 上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章 江口圭 一、日中戦争の開始 二、上海戦と南京戦 三、南京進撃 四、大虐殺の序章 五、『南京戦史』批判 脚注 上海戦と南京進撃戦-南京大虐殺の序章 江口圭 二、上海戦と南京戦 参謀本部の戦争指導課が「やる以上は南京をとる考でやらなくちゃならぬ」という意見であった のにたいして、拡大派の参謀本部作戦課長武藤章大佐は中国を「敲きはするけれども南京を取らう 南京大虐殺の序章 上海戦と南京進撃戦 17 (u) といふことは考へて居ないLと主張した。それが南京の占領にたちいたったのは、華北に限定でき ると思い込んでいた戦争が華中に飛び火し、第二次上海事変になったことの結果である。 盧溝橋事件の処理にあたった支那駐屯軍参謀長橋本群(当時少将)は、のちに、戦争が「上海の 方に迄飛火するとは誰も考へて居なかったので、全面戦争と言っても只北支に日本軍が相当な兵力 (12) を持って行って軍事的に一時之を占領するといふ位に考へて居ったのです」と回想している。 上海は、陸軍の構想した限定戦争の範囲外であったが、華中・華南を作戦領域とする海軍の縄張 りのうちであり、海軍はこの方面の戦闘について積極的であった。一九三七年八月九日の大山事件 を機に日中間の緊張は一挙にたかまり、一三日上海で日中両軍の交戦が開始された。同日の近衛内 閣の閣議は内地二個師団の上海派兵を決定した。石原莞爾は、「大体漢口の居留民引揚は有史以来 無いことであり若し揚子江沿岸が無事に終ったならば海軍の面子がないことになります。即ち今次 (!3) の上海出兵は海軍が陸軍を引摺って行ったものと云って差支へないと思ふ」と回想している。 上海戦は、直接には、日本陸海軍間のセクショナリズムと功名争いの産物であり、海軍の主導に よって発生した。しかし西村敏雄が回想するように、陸軍としても「当時尚支那を甘く見過ぎて (ママ〕 居ったと言はざる得ないのでありまして、独立国家の態容を支那統一によって殆んど完全に近く備 えてきつつあった当時の支那の実態を我々は尚はっきり掴み得ずして、北支だげで戦闘を局限し得 (14) ると想像した事は誤であった」のであり、陸軍の華北派兵自体のうちに上海戦の根元があった。 八月一五日、第三・第一一師団からなる上海派遣軍が編成され、松井石根大将が軍司令官に任命 された。松井は日本陸軍切っての「支那通」の一人といわれていたが、一九三五年末中国視察の結 18 論として、「支那を今ただちに南京政府の国民党政権によって完全に統一して、いはゆる中央集権 の実をあげるといふことは非常に困難にして、恐らくはにはかにこれを夢想すべからざるものであ らうと思はれる。よろしく支那はその統一の過渡的経緯として北、中、南、西といふ如き外廓的四 種の地方に区分せられて、いはゆる聯省自治、中央統制の形式をとることが自然であらうと思はれ る」と述べ、「北支那と満州国及至は蒙古・--の関係は今の隔絶されている情勢より解除せられ、相 (15〕 互共通連絡の途を復帰すること」を主張した。 松井は自らも主宰者の一人である大亜細亜協会(一九三三年設立)の機関誌『大亜細亜主義』に 発表した論文「日支関係の根本義と吾等の信念」(一九三六年一月号)でも、「支那再建の方途が連省 自治の方向に在りとする吾人年来の確信」を表明し、「友邦民国に告ぐ」(一九三七年八月号)では、 「現在の北支間題に至りては吾等日本の真意を誤認し、国民政府の統一政策及至は共産軍の所謂人 民戦線運動に利用せられたる一部人士の挑発的悪戯に因するものなること明白である」などと述べ ていた。松井は国共再合作と中国統一化の大勢を察知することができず、中国の分割支配を正当化 するという時代錯誤的な中国観の持ち主であった。 松井にあたえられた命令は、「上海派遣軍司令官ハ海軍ト協カシテ上海付近ノ敵ヲ掃減シ上海並 (16) 其北方地区ノ要線ヲ占領シ帝国臣民ヲ保護スヘシ一であった。ところが松井はこの命令に不満で あった。上海派遣軍参謀長飯沼守少将の陣中日誌によると、八月一七日松井は「北支二如何二兵力 (17) ヲ川フルモ根本的全面的二解決シ得ズ。結局南京攻撃ヲ有利トスベシ」という意見を表明した。ま た一八u三長官招宴の席上の挨拶で松井が「軍ノ任務二不満ナル意味」を述べたとして、参謀本部 上海戦と南京進撃戦一一・南京大虐殺の序章 19 総務部長中島鉄蔵少将は飯沼参謀長にたいして「作戦命令モ勅語同様ノモノニテ之ヲ批判スル如キ (18) ハ不謹慎ナレバ克ク言ツテ置テクレ」と注意した。 松井は同日の参謀本部首脳との会合でも、「断乎トシテ必要ノ兵カヲ用ヒ伝統的精神タル速戦即 決、北支二主カヲ用フルヨリモ南京二主カヲ用フルヲ必要トス。之二就テハ結末ヲ何処ニスベキヤ ノ議論アルモ大体南京ヲ目標トシ此際断乎トシテ敢行スベシ。其方法ハ大体五、六師団トシ宣戦布 告シ堂々トヤルヲ可トス。……次二武カノミニテヤルハ不可、径済的二圧迫ス。英米ノ援助ヲ遮断 (19) スル為封鎖ス。斯ク短時日二南京ヲ攻略ス。… 首相外相モ敢テ反対セザリキ」と主張した。 これにたいして石原第一部長が「今ノ作戦目的ヲ達セラレタル後南京ヲ幾何ノ兵カヲ以テ幾何月 ニテ攻略シ得ルカヲ研究サレタシ。……個人トシテハ永ピケバ全体ノ形勢ガ危イモノト考ヘアリ」 という意見を述べると、松井は「意見ノ相違ナルモ尚研究セソ」と答え、さらに参謀次長多田駿少 (20) 将とのやりとりのあと、石原から「書類ハ墨守サルル必要ハ絶対ニナシ」といク言を引き出した。 さらに松井は八月一九日東京駅を出発するとき、見送りに来た杉山元陸相に「どうしても南京ま で進撃せねばならぬ」と力説し、このやりとりをみた近衛首相がその場で杉山に「陸軍は南京まで (21) 行くつもりか」と問いただすと、杉山は「精々蕪湖位で止まるであらう」と答えたという。 松井は東京出発のときから南京攻略を意図しており、かつそれを表明していた。これは明らかに 命令違反である。ところが陸軍首脳は松井を断固として抑止しようとせず、命令を墨守させようと (22) しなかった。そして飯沼の日誌と松井の発言が正しいとすれば、近衛首相・広田弘毅外相も南京攻 (23) 略に「敢テ反対」しなかった。以上の意味で、南京戦は松井の意図の産物であり、また命令.任務 20 の厳守を松井に確約させなかった日本の戦争指導老の無責任な対応の結果であった。 上海での日本軍は予想外に強力な中国軍の低抗に直面し、弾薬の不足、コレラなど伝染病の発生 も加わって、苦戦を余儀なくされた。参謀本部作戦班員であった井本熊男(当時大尉)は、第三・ 第一一の「両師団の歩兵は当初出征したものは殆ど全部死傷し、補充員によって置き換えられた程 (24) であった。これは日露戦争後、経験のない大損耗であった」と記している。軍中央は逐次兵力を投 入したが、戦局は好転昔ず、九月一一日第九・第一三・第一〇一師団その他の兵力を増強する破目 となった。 増援をえた上海派遣軍は九月二九日、従来の上海北側での西向きの主攻撃を南向きに左旋回させ、 大場鎮を攻略する新作戦に移った。しかし中国軍の低抗はいっそう激烈で、日本軍は容易に前進で きず、損害が統出し、戦死傷者は九月三〇日現在の一万〇四二一名から一〇月一八日現在二万二〇 (25) 八二名へ激増した。その悪戦苦闘の実相、日本軍の軍紀の弛緩と戦意の低下、中国側の軍民一体 (26) となっての抗戦については吉田裕『天皇の軍隊と南京事件もうひとつの日中戦争史』に的確に 述べられているので、ここでは飯沼日誌の一、二の記事を紹介するにとどめたい。 第一〇一師団の歩兵第一〇一連隊長加納治雄大佐は一〇月一一日戦死Lたが、その約一時問前の 師団参謀あて報告で、 兵中(一部ノ幹部ニモアリ)ニハ既二戦意ヲ失ヒ自ラ間違ヒタル振リヲ為シ、 リークL北岸二後退セソトスルモノアルハ只申訳ケナク、今ヤ一一一人ノ大隊長、 或ハ故意二「ク 中小隊長ノ大部 南京大虐殺の序章 上海戦と南京進撃戦 21 ヲ喪ヒ、綾カニ幹侯出ノ伍長位が中、小隊ヲ指揮スルコトトテ、夜問戦闘ノ如キハ掌握殆ソド 出来ズ。兵ハ敵ノ射撃ヲ受ケ或ハ傷者デモ出来レバ良イコトトシテ介抱ヲ名トシテ暗夜後退ス ル老少カラズ。涙ヲ呑ソデロ惜シク存ゼラレ侯モ相当幹部中ニモコノ思想ナキニアラズ。深憂 二堪ヘズ。 22 (27) と述べている。第一〇一師団は第二二師団とともに急邊動員された特設師団で、ほとんど予・後備 役からなり、井本熊男が東京での「動員完結の日、私は歩兵第一連隊の営庭で行われた第一〇一連 隊の軍装備検査を視察した。なるほど、これは年よりの集りだというのが第一の印象であった。皆 一家の主人で、家庭を支えている大黒柱の年配である。訓練は長年ほとんどしていない。指揮官に も現役はほとんどいない。これでは当分戦力は出まいと思った」と記しているように、その戦意が 当初から懸念されていながら、「対ソ関係を考えて検討すると、そう精鋭師団ぼかり出すわけには (28) 行かない」として動員され、予想通りの結果を来たしたのである。 一方、上海派遣軍参謀大西一大尉から羅店鎮の戦闘で中国兵が「戦闘間女学生ト『ダソス』等ヲ 為スノヲ屡々見タ」という話を聞いた飯沼参謀長は、九月二七日の日誌に、「陣地ノ堅固ト日本軍ノ 戦カヲ軽侮セルモノ、但他ノ戦線二於テモ女学生ノ戦死体ヲ屡々見ルトコロヨリ察シ青年女子ノ国 (29) 家意識、抗日ハ相当ナルモノト感ゼシメラル」と記している。 三個師団の増兵にともなって石原第一部長は更迭され、九月二八日下村定少将が後任となった。 参謀本部第一部は新部長のもとで一〇月初めから「今後ノ作戦二関スル件」を検討し、一一日の決 (30) 定で、上海方面についてつぎのような処置をとるものとした。 1上海派遣軍ハ現任務ヲ続行ス。 2第一〇軍ヲ以テ杭州湾北岸二上陸セシメ上海派遣軍ノ任務達成ヲ容易ナラシム。 3上海周辺ノ敵ヲ掃滅シ南京ト上海トヲ遮断シタル後ノ作戦ハ一二当時ノ情勢二依ル。 この間の一〇月八日、飯沼日記によると、武藤作戦課長から上海派遣軍参謀部第一課課長西原一 策大佐にたいし、「上海付近ノ終局ヲ一日モ早カラシムル必要生ジタルニ困リ之ガ為一兵団(師 団?)ヲ上陸セシムル場合ノ意見ヲ徴シ来ル。之二対シ上海付近浦東地区ノ敵ヲ掃討スル老ナラバ 虹江礪頭対岸付近二一師団ヲ上陸セシムルヲ可トシ、若シ又蘇州河渡河南市封鎖二協カセシムル為 ナラバ杭州湾北岸ヲ可トスベキモ慎察ノ結果二待タザルベカラス。又之二要スル兵カハ三師団ナラ (31) バ十分ナルベシトノ返電ヲ出ス」。 しかし上海派遣軍にはこの返電と異なる見解があった。「拾部之内第壱号昭和一二年一〇月九 拾萄ユ肉亭ま坑 昭一如十生年十月丸回 金山街耐近上稜蕪、償埴判所 上お掠立・早参ま部串串訳 1圭ノシ上盆ア与十己λ腕牟λ若 放サ…与山可λ〃 ル令亭ゑシ ー・有求巧主嫁お破改工州呈 宍…;≡祐童町カj,二与一ス十司寧 臼溌ナ軍近為,ル合、ユ以1 ■1,圭よ灸。隻,炎さ十,.茅南ラ 上近}カ淋・トλ釆く成エ上, 珪碕 ・♀瓜、ノま企十岩此 りソ上・皇・渋洋山五耐考 上ル古お作ケ,瓦内々攻途面 毒藺克市我肺、 叫肘苧 1め 遮仮ヨ,飯下近矢淀上 去ヲエ皇イ立,按1ナ上十津産 兵以肖あ1灰瑚ル,泣西・ヨと 辻サ西与兵円]一{上宍蹄千^ 上全曲1レカ^f砺岩臼・六あ `↓考仰量ル~責北邑向ダ父 担向正戎・、虹吉苛田一氾 5荷 サ押拐叱一尤雷十直 祭 妥シ主上兵三戎チ田誌.{ “ 先凌妥山仏 {シ ,次w4え冶夏抄免}ノ トフー上“災部`ラ 更 列角為・勾埼隊ソ“几` 所京1^差ノ,ル 同 屯攻去^;欣ふ共^オ 苧o壱・尖戎現,次カ抵画 ㌦萱蒋㌣二1; 刷 `、凪,心南 ハ炊担巻口・■尋京 ル ,r打於ル十 ,量4金帖ケユ『向 ト洛皇山セル其トフ 極■}約1j琢錫班作 ノ逃柘古;;釆{.我 ソ断o勧似祖ニヲ 地セ}{ 卵」貢1 ト海派遣軍参謀部第2課の文書 表紙と3,4ぺ一ジ) 南京大虐殺の序章 上海戦と南京進撃戦 23 日金山衛付近上陸点ノ価値判断上海派遣軍参謀部第二課L (32) れていないので、その主要部分を紹介する。 という文書があるが、今日まで知ら 24 第一、兵要地理的観察 判決 同時二兵力約一箇師団ヲ以テ杭州湾方面二企図シ得ベキ唯一ノ上陸点ナリ。 理由 (中略) 第二、現情勢二基ク価値判断 判決 戦略上ノ目的ヲ達成セソガ為兵力少クモニ箇師団ヲ使用スルヲ要ス。 理由 一、敵情 (中略) 二、金山衛付近上陸軍ノ作戦価値ト兵力量 上海派遣軍主カノ上海付近二於ケル作戦ヲシテ有効ナラシメソガ為メ上海西南方地区ノ敵ノ退 路ヲ遮断スル目的ヲ以テ金山衛付近二一兵団ヲ上陸シ、上海-嘉興道上二進出セシメ、更二同 方面ヨリ南京二向フ作戦ヲ実施セシムルコト極メテ必要ナリト難モ、二師団二充タザル兵カヲ センショウ 以テスルモ其効果極メテ紗少ニシテ今次上海戦二於ケル羅店鎮ノ我山室部隊ノ轍ヲ踏ムベキ ヤ必セリ。 第三、結論 兵要地理的並二現情勢二基キ金山衛方面二上陸セシムベキ我兵カハ砂クモニケ師団トシ、先ヅ 上海嘉興道上二敵ノ退路ヲ遮断セシメ、次テ南京攻略二使用スルコト極メテ必要ナリト判断 セラル。 上海派遣軍参謀第二課課長は蛮勇をもって知られる長勇少佐であるが、大場鎮攻略も遅々として すすまず損害激増中の一〇月上旬という時期に、第二課では、金山衛付近上陸軍を単に上海付近の 中国軍の退路遮断のためのみではなく、「南京二向フ作戦」「南京攻略」に使用することを「極メテ 必要ナリ」と判断していたのである。 さらに松井軍司令官も、予想外の苦戦にもかかわらず、東京出発時に表明した南京攻略の意図を まったく捨てようとせず、かえってつのらせていた。松井は一〇日八日の日記に、「朝一〇時幕僚ヲ 伴ヒ楊行鎮二至リ各師団長ヲ集メ大場鎮付近攻撃二関スル軍命令ヲ与へ又同時一般二対シ軍司令官 ノ訓示ヲ与へ之ヲ督励ス」と記しているが、この一般にたいする訓示は活版印刷されたつぎのもの (33) である(原文のまま)。 訓示 南京大虐殺の序章 上海戦と南京進撃戦 25 軍ハ八月下洗至難ナル上陸作戦二赫々タル業績ヲ敏メテ環球ノ耳目ヲ江南ノ天地二聚メタリ 是大元帥陛下ノ御稜威ト神明ノ加護二負フ所勿論ナリト難モ軍縛兵ノ裁力協心各々克ク萬難 ヲ排シテ勇戦セシ忠烈ノ結果ニシテ本職ハ衷心ヨリ其ノ劣ヲ多トスルト共二思ヲ戦死傷病絡兵 ノ上二致セハ愁情宴二禁スル能ハサルモノアリ今ヤ軍旅大二整ヒ戦力正二充實ス価チ全カヲ撃 ケテ暴虜ヲ掃減シ軍本来ノ重任ヲ果スヘキノ秋ハ来レリ 惟フニ戦捷ノ秘鍵ハ有形無形ノ戦カヲ決定的二重賭二集結使用スルニ在リ而シテ之カ實行二任 スル各兵團ハ常二本職ノ意志二遵ヒ各々其ノ責任ヲ遂行スルニ積極果敢而モ確乎不抜ノ鐵石心 ヲ以テスルコト極メテ肝要ナリ斯ノ如クニシテ甫メテ全軍協同ノ實ヲ撃ケ以テ戦捷ノ途ヲ打 開スル所以ナルコトヲ銘肝スルヲ要ス 軍主カノ決戦場ハ○○二在リ撃軍振張物心一如勇奮進ソテ護國ノ鬼トナリ以テ上聖明附託ノ 重キニ封工下皇民ノ期待二副ハンコトヲ期スヘシ 諸子ヨ諸子ハ近キ烙来二於テ○○城頭脇翻トシテ旭旗ノ蘇ル時軍二信侍スル上海居留民拉二 祖國ノ感激ヲ想起スヘシ 昭和十二年十月八日 軍司令官松井石根 26 (34〕 また松井は一〇月九日付でっぎのガリ版の訓示をだしている(原文のまま)。この訓示は、文面か らいって、前日の各師団長にたいする軍命令にもとづき「諸官」[各兵団の指揮官にあたえられた ものと判断することができる。 訓示 十幽二軍容ヲ整ヘテ大場鎭附近ノ敵二封シ決戦ヲ行フニ方リ諸官ノ壮容二接スルハ本職ノ欣快ト スル所ナリ 惟フニ今次ノ軍ノ攻撃ハ上陸以来二閲月二一且ル征戦ノ結果ヲ清算シ一翠上海附近ノ敵軍ヲ掃滅 スヘキ千載一遇ノ好機ナルヲ以テ各兵團ハ其全カヲ壷シテ断乎徹底的決勝ヲ求ムヘク嚢二師團 長二封シ訓示スル所アリシモ更二婆心ヲ加へ細部二關シ参謀長ヲシテ指示セシム 昭和十二年十月九日 上海派遣軍司令官松井石根 この後者の訓示から前者の一般向け訓示の二つの○○のうち、最初の「軍主カノ決戦場ハ○○二 在リ」は大場鎮であることが判明する。では「近キ将来二於テ○○城頭蘭翻トシテ旭旗ノ翻ル時」 の○○城とは何か。 上海の共同租界の南側の南市には、「域内」とよぼれる区域があり、上海県政府がおかれ、相当数 の中国軍がたてこもっていて、その掃蕩が問題になってはいたが、作戦の終局となるような目標と はされていなかった。なによりも、上海城の城壁は一九一四年に取りこわされて、その跡はバス道 路となっており、「城頭蘭翻トシテ旭旗ノ翻ル」といった光景を現出しようがないのである。日の丸 南京大虐殺の序章 止海戦と南京進撃戦 27 がひるがえるのを見て、上海居留民と祖国が「感激一するような○○域とは、首都南京城以外にあ りえない。なお、松井は一二月一八日南京での忠霊祭の際に詩二篇を作ったが、その一つには「奉 (35) 祝南京攻略燦実旭旗紫塗城」とあり、訓示とおなじ「旭旗」の語が用いられている。 南京こそが松井の一貫した攻略目標であった。一般に配布した活版の訓示では、軍の機密に属す る当面の決戦場名と作戦の終局目標は伏せられたのである。 松井軍司令官以下上海派遣軍首脳のこのような意図こそ、上海戦をそれのみで終わらせず、南京 戦へ拡大させたきわめて大きな要因であった。