約 192,858 件
https://w.atwiki.jp/battletech/pages/100.html
2766年、当時辺境最大の国家であったリムワールド共和国の領主ステファン・アマリスは、数年がかりの血なまぐさいクーデターで若きリチャード・キャメロン第一君主とその一族を殺害した;突如として勃発した辺境全体の反乱を鎮圧するため、SLDFはテラから誘い出されたが、リムワールド軍はその隙をついてテラン・ヘゲモニーを迅速に掌握、粉砕し、最終的にスターリーグの司令官アレクサンドル・ケレンスキーに長く血なまぐさい解放戦争を強いることになったのである。7年後、ケレンスキーは最終的に勝利を収めたが、彼が守るため戦ってきたスターリーグは、キャメロン家が失った王位の継承権を主張する大貴族たちによって引き裂かれた。 ケレンスキーは来る争いを避けるため、スターリーグ防衛軍の大部分を率いて未知の宇宙に向かった。そのことが原因で、インナースフィアはおよそ300年にわたる絶え間ない戦乱に見舞われることになった。 継承権戦争と呼ばれるようになったこの戦争は、事実上アレス条約を無効にした。各継承王家はあらゆる武器でお互いを切り裂いた。世界全体が化学兵器、核兵器、生物兵器によって一掃され、敵のインフラを破壊するためにジャンプシップやあらゆる種類の工場が標的にされた。 恒星間帝国の存続に不可欠な、特殊な工場や部品が生み出すテクノロジーは急速に失われ、ほとんど忘れ去られようとしていたアレス条約が支持するような低強度戦争への回帰を余儀なくされた。 この変化によりインナースフィアは事実上の膠着状態に陥った;3028年にシュタイナー家とダヴィオン家が同盟を結び、カペラ大連邦国をほぼ二分する壊滅的な第四次継承権戦争を開始するまでは。3030年までに、シュタイナーとダヴィオンの支配者の結婚によって導かれた単一の強大な帝国はインナースフィアのほぼ半分をその旗の下にまとめた。 第四次継承権戦争 ローニン戦争 3039年にドラコ連合を征服しようとして敗北を喫したものの、最終的にはシュタイナーとダヴィオンによるインナースフィア全体の征服はほぼ確実と思われた。 3039年戦争 しかし、3040年代の終わりに新たな敵が現れた…。
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/804.html
安里喜順氏の証言 安里喜順渡嘉敷村巡査(当時)の証言としては、もっと早い時期のものとして、星雅彦氏に語ったもの(「集団自決を追って」1971『潮』11月号)や、週刊朝日中西記者に語ったものなどがある。 沖縄県警察史 平成5年3月28日 (1993.3.28)発行 第2巻第3章 警察職員の沖縄戦体験記より抜粋 P768 比嘉 喜順(旧姓・安里、当時 那覇署渡嘉敷駐在所) 昭和63年(1988年)2月8日採話 安里喜順氏の証言當間駐在所 渡嘉敷駐在所 御真影奉還 鈴木部隊 赤松部隊 塩屋警察署へ赴任できず 赤松隊長に面会 住民の避難誘導の相談 渡嘉敷島の玉砕 避難生活 當間駐在所 昭和16年4月に沖縄県巡査を拝命して、第77期生として巡査教習所に入った。同期生には豊崎孟善、田場進、上地永好、現県会議員の砂川武雄等がおり、昭和16年8月30日に卒業して那覇署に配置になった。 那覇署で最初に勤務したのが東町交番であった。次は今のバスターミナルの近くにあった旭町交番、そして昭和17年に小禄村の當間巡査駐在所に配置になった。當間巡査駐在所には昭和20年1月15日まで勤務した。 昭和19年の10・10空襲のときは當間巡査駐在所勤務で、その日の朝は本署に出勤していた。その時、「飛行機の練習にしてはどうも変だな」と思っていたら、やはり空襲だったので、自転車で急いで駐在所に戻った。 10・10空襲で那覇は全部焼かれた。駐在所の近くには飛行場があって空襲されることは間違いないと思ったので家内と子供たちは中城に疎開させていた。 那覇飛行場を建設するため山根部隊や建設隊などが来ていたが、私が駐在所に赴任した頃には飛行場建設は終わり防空壕堀などをしていた。 その頃の駐在所勤務は戸口調査とか本署からの下命事項の調査報告や思想調査、警防団の訓練、そして定期招集で本署へ行くこと等であった。10・10空襲があってからは、一般住民の方達が夜警に出ていた。 渡嘉敷駐在所 昭和20年1月15日付けで渡嘉敷巡査駐在所へ配置換えの辞令が出た。 その時配置換えの辞令を受け取ったか、それとも電話で命令を受けたのかよく覚えていない。 慶良間列島には、座間味村と渡嘉敷村があり、私が赴任した所は渡嘉敷村の字渡嘉敷であった。渡嘉敷には阿波連、それから前島の小さい離島もあり国民学校もあった。渡嘉敷村には駐在所は一カ所だけであった。 15日に配置換えの命令を受けたが、渡嘉敷に赴任したのは21日頃であった。その頃は戦闘状態であり、それに渡嘉敷島は秘密地帯になっており、歩兵部隊か、特攻部隊が駐屯しており渡嘉敷島に行くことはできるが島からは簡単に出られない状況であった。島へはポンポン船で行くが、これも毎日は出ない。それに準備等もあったので、赴任するまで少し時間がかかった。 駐在所は警察の建物ではなくて民家を借りていたので、単身赴任した。 その頃は本島間の電話は架設されてないので、本島と渡嘉敷島の間を往来していたポンポン船で、書類を送ったり本署からの書類を受け取ったりしていた。戦争状態になってからはポンポン船も運行できなくなったので、本署との通信連絡はほとんど途絶えた。その後は自分一人で色々考えて判断して、警察業務を遂行した。 渡嘉敷島は小さい離島なので、戦争になったらまず心配されるのは食料であった。そこで食糧増産をすることになり、私も田植えの手伝いをした。 御真影奉還 渡嘉敷島に赴任して間もない2月頃と思うが、国民学校の御真影を本島に奉還して行ったことがあった。 これは県庁から命令が出たと思うが、「御真影を本島の一カ所に奉還しなさい」と言う事があったので、渡嘉敷国民学校の校長と、高等科の先生2人と私の4人で御真影をお守りしてポンポン船で本島に渡った。 本島ではこの頃はバスなどは運行していなかったので、歩いたり拾い車をしたりして国頭の羽地村源河にあった国民学校にお届けした。 帰りに中城に立ち寄って、家族にあった。その時次男坊が私にまとわり付いて「一緒に付いて行く」と言って泣いていたが、戦争が終わって帰ってみると、その子だけが戦争で亡くなっていた。今考えると何かこの世の別れを知っていたのかと思ったりする。その後、那覇署で任務終了したことを上司に報告した。 渡嘉敷島へ渡るため那覇港からポンポン船に乗って出航したところを、米軍の飛行機の爆撃を受けた。これで一巻の終わりかと思ったが、爆撃をかわし、渡嘉敷港に無事たどり着くことができた。 鈴木部隊 渡嘉敷島に赴任したとき島には、鈴木部隊と言って歩兵の戦闘部隊が配置されていた。その頃はいろいろ軍を相手にしなければならない仕事も多かった。 私は、前任地の當間駐在で飛行場の兵隊とはよく会っていたので、赴任してすぐ鈴木少佐のところに赴任あいさつに行った。 鈴木少佐は私の前任地のこともすでに知っておられて、物資の少ない時であったが魚の缶詰などを出して歓迎してくれた。鈴木部隊の隊長は民家を借り、兵隊は国民学校にいた。陣地などは良く分からなかったが、歩哨に立つ所があったぐらいのもので、大砲などは持っていなかったと思う。 鈴木部隊とはよくお付き合いしていたが、本島の兵力が足りないとのことで、鈴木部隊は二月頃、本島へ転進していった。島尻あたりの警備に就いたと思う。 赤松部隊 渡嘉敷島には鈴木部隊の外に、赤松大尉の部隊が配置されていた。その部隊は秘密部隊と言う事であったので、赴任した当初は赤松大尉には会っていない。 私が赴任した時には、鈴木隊長の部隊と赤松隊長の部隊の2つの部隊があった。鈴木部隊が転進してからは赤松部隊だけになった。 赤松部隊は水上突撃隊で、人力で押し出すことができる小型船に爆弾を積んで、敵艦に体当たりする秘密部隊であったので陣地などは見ていないが、海岸の岸壁を掘ってそこに舟を隠していたようだ。 同部隊には、首里出身の知念少尉がおられた。私と一緒に下宿していた宇久先生も首里出身で知念少尉とは知り合いであったので、知念少尉は時々下宿に訪ねてきていた。米軍が渡嘉敷島に上陸してからは、私は赤松部隊とは頻繁に行き来していたが、それ以前は赤松隊長との面識はなかった。 塩屋警察署へ赴任できず 昭和20年、大宜味村に塩屋警察署が新しくできて、私はそこに転勤することになっていたが、とうとう赴任することができなかった。 2月12日の日付で辞令は出ていたが、私が渡嘉敷島で受け取ったのは40日も経過した3月22日であった。 空襲などいろいろな事情があって相当期間が過ぎてから私に届いた。それを受け取って初めて自分が転勤になっていたことを知った。 辞令を受け取ったので翌日にでも本島に渡ろうと思っていたが、その翌日の23日から渡嘉敷島は艦砲と空襲が激しくなり、沖縄本島に渡ることができず、そのまま渡嘉敷島にのこり戦争に巻き込まれ、島と運命を共にした。 艦砲が始まったので私は、島の高い所に登って島尻の方を見た。渡嘉敷島はそれまで相当な被害にあっていたが、いくらアメリカと連合軍に物量があると言ってもただ言葉だけの天文学的数字を言っているものとばかり思っていた。ポンポン艦砲弾が撃ち込まれる中を自分は警察官だから隠れるわけにはいかないので身を伏せながら方々の状況を見てびっくりした。 沖縄本島は島尻から北谷あたりまで見渡す限り敵艦船が取り囲んでいたので、これはちょっとやそっとの物量ではないと思った。 赤松隊長に面会 艦砲が激しくなって渡嘉敷の山は焼けてシイジャー(しいの木)だけが残っていた。 阿嘉島にも水上特攻隊が駐屯していた。 その頃渡嘉敷島には招集された防衛隊員がいたが、小さい島なので招集されても家族のことが心配になり、自宅に帰って家族の面倒を見ながらやっていた。 防衛隊員は軍と一緒に仕事していたので情報はよく知っていた。その防衛隊員の人たちが敵は阿波連に上陸して次は渡嘉敷島に上陸して来ると言うので、私は慌ててしまった。 赴任してまだ間がなく現地の情勢も良く分からない頃だったので、米軍が上陸して来たら自分一人で村民をどのようにしてどこに避難誘導をしようかと考えたが、一人ではどうする事もできないので軍と相談しようと思い赤松隊長に会いに行った。 赤松部隊の隊長は民家を借りていたが、昼は海岸の方に行っていた。その海岸は秘密地帯になっていたらしく、私は行ったことはなかった。 赤松部隊は特攻を出す準備をしていたが艦砲が激しくなって出せなくなり、船を壊して山に登ったと言うことであったので、私は赤松隊長に会って相談しようと思いその部隊を探すため初めて山に登った。 その時は大雨でしかも道も分からず一晩中かかってやっと赤松隊に着いた。その時、赤松部隊は銃剣で土を掘ったりして陣地を作っていた。私はそこで初めて赤松隊長に会った。 住民の避難誘導の相談 このような状況の中で私は赤松隊長に会った。 「これから戦争が始まるが、私達にとっては初めてのことである。それで部落の住民はどうしたら良いかと右往左往している。このままでは捕虜になってしまうので、どうしたらいいのか」と相談した。すると赤松隊長は、「私達も今から陣地構築を始めるところだから、住民はできるだけ部隊の邪魔にならないように、どこか靜かで安全な場所に避難し、しばらく情勢を見ていてはどうか」と助言してくれた。私はそれだけの相談ができたので、すぐ部落に引き返した。 赤松部隊から帰って村長や村の主だった人たちを集めて相談し、「なるべく今晩中に安全な場所を探してそこに避難しよう」と言った。その頃までは友軍の方が強いと思っていたので、心理的にいつも友軍の近くが良いと思っていた。全員が軍の側がいいと言うことに決まり避難する事になった。部落から避難して行くときは大雨であった。 私が本島にいた時もそうであったが、その頃は艦砲や空襲に備えてそれぞれ防空壕や避難小屋を作っていた。私が渡嘉敷に赴任する前から渡嘉敷島の人たちは、恩納河原に立派な避難小屋を作ってあった。 私は恩納河原にこんな立派な避難小屋があることを知らなかった。避難して行ったところは恩納河原の避難小屋の所ではなく、そこよりはずっと上の方で、赤松部隊の陣地の東側であった。部落を出発したのは夜で、しかも大雨であった。真っ暗闇の中を歩いてそこに着いたときには夜が明けていた。その時部落の人たちのほとんどが着いて来ていたと思う。避難して来た人たちの中には防衛隊員も一緒にいた。 渡嘉敷島の玉砕 私は住民の命を守るために赤松大尉とも相談して、住民を避難誘導させたが、住民は平常心を失っていた。 空襲や艦砲が激しくなってから避難しているので、部落を出発する時からもう平常心ではない。 集まった防衛隊員達が、「もうこの戦争はだめだから、このまま敵の手にかかって死ぬより潔よく自分達の手で家族一緒に死んだ方がいい」と言い出して、村の主だった人たちが集まって玉砕を決行しようという事になった。 私は住民を玉砕させる為にそこまで連れて来たのではないし、戦争は今始まったばかりだから玉砕することを当局としては認めるわけにはいかないと言った。しかし、当時の教育は、「生きて虜囚の辱めを受けず」だったので、言っても聞かなかった。 そこで「じゃあそれを決行するのはまだ早いから、一応部隊長の所に連絡をとってからその返事を待って、それからでも遅くないのではないか」と言って部隊長の所へ伝令を出した。 だがその伝令が帰って来ないうちに住民が避難している近くに迫撃砲か何かが落ちて、急に撃ち合いが激しくなった。 そしたら住民は友軍の総攻撃が始まったものと勘違いして、方々で「天皇陛下万歳、天皇陛下万歳」と始まった。その時、防衛隊員は全員が敵に遭遇した時の武器として、手榴弾を持っていたと思う。 その手榴弾を使って玉砕したが、幸か不幸かこの手榴弾は不発が多く玉砕する事ができない人たちがいた。 玉砕できなかった人たちが集まって、友軍の陣地に行って機関銃を借りて自決しようと言うことになって、自分たちで歩けるものは一緒に友軍の陣地に行ったが、友軍はそれを貸すはずがない。そこでガヤガヤしているうちにまた迫撃砲か何かが撃ち込まれ、多くの人たちがやられた。 その時友軍に、「危険だから向こうに行け」と言われて、元の場所に帰ってきた。 その頃は全員の頭がボーとして何も考える事ができず、死のうが生きようがどうでもいいと言う気持ちで近くの広場で寝ていた。 その時自決するチャンスを失ってしまってそのままになった住民も多かった。 避難生活 あの広場で玉砕してから2、3日は飲まず食わずでいたと思う。それから段々と集まってきた場所が、あの避難小屋を作ってあった恩納河原であった。 それからは避難小屋での生活が始まった。山の畑を耕したり、芋を作ったり、ソテツで澱粉を作ったりして食いつないでいたが、小さい離島なので、持っていた食料も底を尽き、山のソテツも取り尽くしてしまい、食料を探すのに必死だった。その頃船が沈められて、海岸にはよくメリケン粉や缶詰などが流れ着いていたので、それを拾って食べたこともあった。 渡嘉敷港の近くに友軍の食糧を積んであったので、私が赤松隊長に相談して防衛隊員などから力のある人を集め、その食糧を取ってきて友軍と民間で分けたこともあった。 赤松隊長は、「私たちは兵隊で戦って死ねばいいが、皆さんは生きられるだけ生きて下さい」と言って、自分たちの味噌や米を住民に分けてあげたりしていたこともあった。 米軍が上陸してからは、本島との連絡は全くできないので、私は赤松隊に行って情報を取りそれを住民に伝えていた。 七、八月頃になったら米軍からビラがばら撒かれた。それには「もう戦争は終わったから山から降りてきなさい」と書いてあった。 渡嘉敷島の住民の中にも、伊江島の住民の捕虜から情報を聞いて早く投降した人たちもいた。 そのとき私も軍と一緒に投降した。 (昭和63年2月8日採話)
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2892.html
櫻井よしこの尖閣紛争論 櫻井よしこ「序論対中国『大戦略』構築のために」 櫻井よしこ・北村稔・国家基本問題研究所編『中国はなぜ「軍拡」「膨張」「恫喝」をやめないのか』文藝春秋刊、19頁 櫻井よしこブログ http //yoshiko-sakurai.jp/ 「尖閣」でサイト内検索 http //www.google.com/search?hl=ja lr=lang_ja ie=UTF-8 oe=UTF-8 q=%E5%B0%96%E9%96%A3+site%3Ahttp%3A%2F%2Fyoshiko-sakurai.jp num=50 【参考資料】右派諸氏の尖閣紛争・戦争論
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2545.html
http //sankei.jp.msn.com/politics/policy/100201/plc1002010011003-n1.htm 【日中歴史研究】妥協求めた政治的研究 2010.2.1 00 11 2006(平成18)年、日中両国が歴史共同研究で合意した後、中国のインターネット上には「日本の誤った歴史認識を正す機会」との声が相次いだ。中国の「正しい歴史観」で日本側を「再教育」せよ、との圧力を痛感したと中国側関係者は話す。31日公表された報告書を読むと、中国側が共産党の歴史認識を基本にし、日本側と対立する面と同時に、双方が歩み寄った面も目につく。それはなぜか。 日中歴史共同研究を最初に提起したのは05年4月に訪中した町村信孝外相(当時)だった。折しも、靖国神社参拝を継続した小泉純一郎首相(同)への中国側の不満が各地で反日デモに発展しており、提案はほとんど相手にされなかった。 06年10月、小泉氏の後を継いだ安倍晋三首相(同)が訪中、胡錦濤国家主席との会談で未来志向の戦略的互恵関係構築で一致、安倍氏が提案した歴史共同研究で基本合意した。日中関係のトゲになってきた歴史問題を学術界に委ね、共通の認識を持つ狙いだった。 こうした経緯から共同研究は政治とは切り離せない関係にあった。共同研究そのものが、戦略的互恵関係促進の一環という性格を帯び、報告書をまとめることに努めた。その結果、論議の多かった「近現代史」分野でも、両論併記の形ながら双方が意見を調整、妥協した形跡がうかがえる。 中国の対日歴史認識は、19世紀後半以来、一貫して対中進出を企図し、日清戦争(1894-95年)以後は軍国主義の道を歩み、中国を侵略し続けたというのが基本だ。この基本認識は共同研究でも貫いているが、教科書の記述や戦争記念館の表示にもなっている事項を避けた部分もある。 その代表的な例は、田中義一首相(当時)が天皇に対中侵略を具申したとされる「田中上奏文」を脚注で真偽不明とし、「南京事件」時の日本軍人2人による「百人斬り競争」をカットしたことだ。いずれも日本では疑問視されている。 このほか、清末の「義和団事件」も、中国の教科書にある「帝国主義列強に対する愛国運動」との評価をせず、事実関係の記述にとどめ、日中戦争の発端となった盧溝橋事件についても、日本軍の謀略との断定を避けている。 一方、日本側の報告では、座長の北岡伸一東大教授は昨年12月、「日本が中国を侵略し、中国人を殺害したのは事実」と述べたが、諸説ある満州事変(31年)や盧溝橋事件について、中国側の事実認識と大差はない。「南京事件」に関しても捕虜らの虐殺はあったと認定し、被害者数に諸説あると述べている。 日中の政治的和解に発した共同研究に対しては、日中双方から異議が出るのは確実とみられる。とりわけ中国国内では、反日傾向の強いネット世代の反発が予想され、中国側が報告をどう報じ、内容をどこまで公開するかが注目される。 今回の報告書は、第二次大戦終結までで終わり、戦後の報告は今後に持ち越された。北岡座長は共同研究を継続すべしとしているものの、戦後の歴史研究には中国側に厚い政治の壁がある。89年の天安門事件は、中国国内ではタブーだし、文化大革命はじめ日中関係にも影響を及ぼした多くの出来事についても共同研究の限界がある。 しかし、こうした有識者間の交流は、「南京事件」の内部資料をもつ台湾の参加など、より範囲を広げて続けていく必要があろう。共同研究の成果が直ちに中国側の政治優先の歴史観に影響を与えることがなくとも、少なくとも理不尽な政治宣伝に歴史が使われるのを抑制できるに違いない。(北京 伊藤正) 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2503.html
http //www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2010020102000082.html 南京虐殺『2~20万人』『30万以上』 歴史認識日中隔たり 2010年2月1日 朝刊 日中両国の有識者による初の歴史共同研究の成果をまとめた報告書が三十一日、公表された。焦点の南京事件(一九三七年)については、日本側も「日本軍による虐殺事件」と認定したが、犠牲者数をめぐっては、日本側が「二十万人を上限に四万人、二万人などの推計がある」と指摘したのに対し、中国側は「三十万人以上」と主張。近現代史を中心に両国の歴史認識の違いがあらためて浮き彫りになった。 報告書は「古代・中近世史」と「近現代史」の二部構成で計約五百五十ページ。両国の担当者がそれぞれの立場から共通の時代、テーマについて執筆した論文を併記した。近現代史のうち、天安門事件(八九年)などが含まれる「戦後史」については、国内世論への影響を懸念する中国側の要請で報告書に盛り込まれなかった。 報告書では、特に近現代史で対立点が目立った。日中戦争全体での中国人死傷者数に関しては、日本側は全体像を示さなかったが、中国側は「不完全な統計」としながらも「約三千五百万人」と言及した。 従軍慰安婦問題と、細菌研究の特殊部隊「七三一部隊」については、日本側が詳しい説明を避ける一方、中国側は「日本軍は慰安所を設け、強制的に多くの女性を性奴隷とした」「人体実験、生体解剖を実施」などと踏み込んだ。 日中戦争の解釈については、日本側が「戦場となった中国に深い傷跡を残した。原因の大半は日本側がつくり出した」と加害責任を明確にした。一方、中国側は「日本軍国主義による全面的な侵略戦争」と断定した。 ◆発表自体が成果 歴史共同研究委員会の日本側座長・北岡伸一東大教授の話 日中に歴史認識で大きな差があるのは周知の事実だが、両国の研究者が一緒の場に集まって議論し、それぞれの見解を互いに示し合い、発表にこぎつけることができたのは成果だ。 落ち着いた議論ができたが、中国側の議論に納得できないことも多かった。中国側の強い要請により、近現代史のうち戦後史が発表できなかったのは残念だ。メディアは極端な意見しか取り上げず、大多数の歴史家の考えは紹介されにくい。今回は極端でない意見を示すことができた。そういうことを国民に知ってもらえればいい。今後も専門家の間で淡々と議論を積み重ね、共同研究を続けていくことが望ましい。 ◆相互理解の環境整備を <解説>日中両国の歴史認識の溝は埋まらなかった。三十一日に公表された歴史共同研究の報告書は、南京大虐殺の犠牲者数などの争点で従来の見解をぶつけ合うだけに終わった。 共同研究は二〇〇六年、小泉純一郎首相の靖国参拝で悪化した日中関係の打開を図る安倍政権の提案でスタート。「冷静な研究を通じて学術的に歴史の事実を明らかにし、歴史問題をめぐる対立感情を和らげる」(報告書の序文)ことが目的だった。だが、研究者同士とはいえ、共産党の一党独裁体制を維持する中国と、学問の自由が保障されている日本が、同じ土俵で議論するのは無理な話だった。 中国側は一時、戦後史以外の論文公表も拒んだ。最終会合を二度にわたって延期させたのも、北京五輪などを前に、歴史問題で国民を刺激するのを恐れたためとみられている。 両国の見解が一つの報告書にまとめられたのは「画期的」(外務省幹部)かもしれない。ただ、中国側の要請で討議記録が明らかにされなかったため、研究の成果がどのように各論文に反映されたのか分からず、言いっ放しの感は否めない。 両国は共同研究を継続する方針を確認している。政治体制の違いに翻弄(ほんろう)される愚を繰り返さないためには、もっと純粋な研究環境を整える必要がある。 (政治部・佐藤圭) 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1332.html
集団自決訴訟、2審始まる 大阪高裁 http //www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/trial/155996 太平洋戦争末期の沖縄戦で「集団自決」に軍の命令があったとする大江健三郎さんの「沖縄ノート」などの記述をめぐり、沖縄・慶良間列島の当時の守備隊長、梅沢裕さん(91)らが、岩波書店と大江さんに出版差し止めなどを求めた訴訟の控訴審第1回口頭弁論が25日、大阪高裁(小田耕治裁判長)で開かれた。1審大阪地裁は3月、請求を棄却し、隊長側が控訴した。 産経、このやる気なさ「集団自決」訴訟 2008.6.25第1回口頭弁論の報道
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/644.html
被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その2 ソース:http //www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/syomen3.html 被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その1 被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その2 第2 同書面第2(渡嘉敷島における集団自決の神話と実相)について1 同1(渡嘉敷島の集団自決の神話)について 2 同2(渡嘉敷島における集団自決の経過の概要)について(1)渡嘉敷島における集団自決の経緯ア 原告らは、安里喜順元巡査の手記(甲B16)や イ 前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、 (2)原告ら主張の「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」についてア 原告らが、「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」と主張するところのものは、 イ また、原告らが星氏の「集団自決を追って」とともに挙げている安里喜順元巡査の手記(甲B16)は信用性がない。 3 同3(「鉄の暴風」と赤松命令説)について(1)同(1)(赤松命令説の発端)について (2)同(2)(「鉄の暴風」に登場した赤松命令説)についてア 同a)の「鉄の暴風」の記載は認める。 イ 同b)は認める。なお「牧浜篤三」ではなく「牧港篤三」である。 ウ 同c)のうち太田良博が渡嘉敷島には自ら行かなかったこと、 (3)同(3)(軍命令による集団自決の証言者)についてア 原告らは、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)51頁を引用して イ また原告らは、「鉄の暴風」について、 (4)同(4)(「鉄の暴風」の本質的誤り)について (5)「ある神話の背景」の信用性についてア まず、「ある神話の背景」によれば、 イ また、曽野綾子氏は、同書執筆のための取材過程において、 ウ なお、「ある神話の背景」は、 エ 以上のとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によるもので、事実の記述について信用性があるとはいえない。 4 同4(自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在)について 5 同5(赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』)について 6 同6(自決命令の言い換え)について(1)同(1)(古波蔵惟好の場合)について (2)同(2)(富山真順元兵事主任の場合)について 7 同7(「陣中日誌」)について 8 同8(衛生兵の派遣と恩賜の時計)について(1)同(1)について (2)同(2)について 9 同9(赤松命令説をつくったもの)について 10 同10(当時の沖縄県民の意識について)について 11 同11(「神話の背景」以後)について(1)同(1)について (2)同(2)について (3)同(3)について 第3 敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件(補充) 第2 同書面第2(渡嘉敷島における集団自決の神話と実相)について 1 同1(渡嘉敷島の集団自決の神話)について 本件書籍三「沖縄問題20年」(甲A2)に、原告引用のとおりの記述があることは認める。 2 同2(渡嘉敷島における集団自決の経過の概要)について (1)渡嘉敷島における集団自決の経緯 ア 原告らは、安里喜順元巡査の手記(甲B16)や 星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)を根拠に、赤松隊長による自決命令はなかったと主張している。しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は以下のとおりであり、赤松隊長による自決命令があったことは明らかである。 イ 前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、 日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言していた。 そして、渡嘉敷島においては、当時兵事主任であった富山(新城)真順氏が証言しているとおり(乙12、乙13-197頁)、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、 「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」 と訓示したのである。 渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松隊長の意思と関係なく、手榴弾を配布し自決命令を発するなどということはありえない。すなわち、この時点であらかじめ軍(すなわち赤松隊長)による自決命令があったものである。 そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し、 「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」 という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられた(乙12、乙13-197頁)。さらに集団自決で生き残った金城重明氏の証言(乙11-279頁~287頁)、古波蔵(米田)惟好氏の証言(乙9-768頁~769頁)にあるとおり、同27日夜、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり、翌3月28日米軍の艦砲や迫撃砲が打ち込まれる状況の中で、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、防衛隊員(陸軍防衛召集規則(昭和17年9月26日陸軍省令第53号)に基づいて召集された軍の正規兵)が手榴弾を持ち込み、住民に配り、そこで集団自決がおこなわれたのである。 以上の事実経過は、「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10)にあるとおり、「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」ものに他ならない。 (2)原告ら主張の「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」について ア 原告らが、「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」と主張するところのものは、 ほとんど星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)に依っている。 しかし、まず「集団自決を追って」は、作家である星氏が取材し執筆したものであるが、いかなる対象に対していかなる取材を行ったか明らかではない。そして同記事は、星氏自身が、 「本稿は私が当時の村長や駐在巡査や若干の村民から取材した集団自決の内容を、私なりにまとめ、悲劇の再現を試みたものである。いな、悲劇の再現とは、口はばったい言種である。ただひたすら、二十六年前の悪夢を想像してみたまでである」(傍点被告訴訟代理人) とするとおり、渡嘉敷島の集団自決の事実を記述したものとはいえない。 筆者自らが認めるとおり、「集団自決を追って」は想像に基づいて再現したものにすぎず、同資料に基づいて赤松大尉による集団自決命令がなかったとは言えない。 しかも、「集団自決を追って」は、 「防衛隊の過半数は、何週間も前に日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった」 とし(甲B17、210頁上段)、その防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられた(同210頁下段)としているのであって、同資料は前記(1)記載の集団自決の経緯を否定するものではない。 イ また、原告らが星氏の「集団自決を追って」とともに挙げている安里喜順元巡査の手記(甲B16)は信用性がない。 すなわち、「集団自決を追って」においては、赤松大尉自らが住民に軍陣地の北側の西山盆地への移動を指示したことになっているが(甲B17-208頁中段。なお赤松大尉自身 「部隊は西山のほうに移るから住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と言ったとしている(甲B2-217頁))、「安里元巡査の手記」では、赤松大尉から場所の指定はなく、軍陣地付近へ避難することは住民たちが決定したことになっている。また「集団自決を追って」では、3月28日に、手榴弾が足りないことから、防衛隊が手榴弾を取りに出掛け、さらに防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられ、その後集団自決がはじまったという経過になっているが、「安里元巡査の手記」では、安里は玉砕に反対し、部隊長(赤松)の確認をとるために伝令を出したところ、その伝令が帰ってこないうちに集団自決がはじまったことになっている。 このように安里元巡査の手記は、星氏の記事との比較においても、赤松大尉や自己の責任を回避しようと意図していることが明らかである。安里元巡査は、集団自決の現場へ住民を集結させ、集団自決の現場から少し離れたところから 「私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決はできません」 と言って見ていたとされる人物であり(乙9-768頁)、その責任を逃れるため、集団自決は軍や赤松隊長の命令によるものではなかったとしなければならない立場にあるもので、その手記は信用性があるとはいえない。 3 同3(「鉄の暴風」と赤松命令説)について (1)同(1)(赤松命令説の発端)について 渡嘉敷島の自決命令について最初に記載された資料は「鉄の暴風」であること、「慶良間列島戦況報告書の渡嘉敷島戦争の様相」には自決命令の記載がないことは認め、その余は否認する。 (2)同(2)(「鉄の暴風」に登場した赤松命令説)について ア 同a)の「鉄の暴風」の記載は認める。 イ 同b)は認める。なお「牧浜篤三」ではなく「牧港篤三」である。 ウ 同c)のうち太田良博が渡嘉敷島には自ら行かなかったこと、 山城安次郎、宮平栄治の取材をしたことは認め、その余は否認する。 (3)同(3)(軍命令による集団自決の証言者)について ア 原告らは、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)51頁を引用して 「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は渡嘉敷島へは行かず、那覇において山城安次郎と宮平栄治の二人のみから取材したとし、山城は渡嘉敷ではなく座間味村の出身で集団自決当時は座間味村におり、宮下は戦後南方から復員したのであるから、渡嘉敷島の集団自決を目撃しておらず、この二人が証言したとしても間接的なものでしかない、と主張している。 しかし、太田良博は山城と宮平からのみ取材したのではなく、直接体験者から取材をしており、太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」の記述は誤りである。 すなわち、太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文章化したもので、渡嘉敷島に関する記録も、沖縄タイムス社が直接体験者を集めて記録したものである(223頁)。証言者を集めたのは沖縄タイムス社の専務だった座安盛徳氏であり、証言者を集めた場所は「那覇市内のある旅館の一室」で、旅館に集まった証言者の中に渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏もいた(224頁)。また、太田良博は、渡嘉敷島が戦場となった当時、国民学校の校長であった宇久真成氏からも渡嘉敷島での体験を聞き、「鉄の暴風」にある記録を書いたものである(226頁~227頁)。 以上のとおり、「鉄の暴風」は、伝聞証拠に基づくものではなく、まさに集団自決の現場において集団自決を直接体験した人々から取材し、執筆したものである。 太田良博自身、 「戦後二十年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後間もなく戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる」 としている(225頁)。 イ また原告らは、「鉄の暴風」について、 沖縄在住の知念元副官や安里元巡査にインタビューしていないこと等から「沖縄タイムスの政治的で偏った編集方針により作成された疑いが強いものといえる」などとも主張しているが、集団自決の直接体験者からの取材等に基づいて編集することは(知念元副官や安里元巡査のインタビューをしていないとしても)、原告ら主張のような編集方針を疑わせるような事情には全くならない。 (4)同(4)(「鉄の暴風」の本質的誤り)について 原告らは、「鉄の暴風」が米軍の渡嘉敷島上陸の日時を3月26日午前6時ころとしている点について、これは3月27日の誤りであり、「鉄の暴風」の事実調査がずさんで信用できないとする。 しかし、わずか1日の誤差でしかなく、同書の記載が同一の米軍上陸の事実を指していることは明らかであり、この一事から、「鉄の暴風」の事実調査がずさんであることにはならない。 (5)「ある神話の背景」の信用性について また、原告らの主張は、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)の記述にほぼ全面的に依拠しているものであるが、同書の記述内容は、以下に述べるとおり、一方的な見方によるもので信用性がない。 ア まず、「ある神話の背景」によれば、 「鉄の暴風」は直接集団自決を体験した者からの取材に基づいて執筆されたものではないとしている(同書51頁)が、前記のとおり、執筆者である太田良博が、当時の渡嘉敷村の古波蔵村長、宇久真成国民学校校長、その他の集団自決体験者から直接取材したことは明らかである。 イ また、曽野綾子氏は、同書執筆のための取材過程において、 渡嘉敷村の兵事主任であった富山(新城)真順氏に会ったことはないと証言している(乙24「裁かれた沖縄戦」(曽野綾子証言)219頁、90項)。 しかし、曽野氏の取材経緯を調査した安仁屋政昭沖縄国際大学教授が指摘しているように、 「曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという。」(乙11-14頁) のであり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てているといわざるを得ない。 安仁屋教授も 「兵事主任に会うこともなく、その決定的な証言も聞かなかったということであれば、曽野綾子氏の現地取材というのは、常識に照らしても納得のいかない話である。また、兵事主任の証言を聞いていながら『神話』の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば、『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる」(乙11-14頁~15頁) としている。 ウ なお、「ある神話の背景」は、 渡嘉敷島の集団自決命令について記述した「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10、以下「戦闘概要」という)と「渡嘉敷島戦争の様相」(乙3、以下「戦争の様相」という)は、「戦闘概要」「戦争の様相」の順で引き写したと推測し、「戦闘概要」には「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」と書かれているのに対し「戦争の様相」にはその部分がないことから、「戦争の様相」作成に関与した「当時の古波蔵村長、尾比久孟祥防衛隊長は赤松命令を確認しなかったことになる」と結論づけている。(同書48頁)。 しかし、「戦闘概要」と「戦争の様相」の順序については、伊敷清太郎氏が詳細に分析しているとおり、「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用字、用語、表現など)を直したであろう跡が随所に見受けられること、当時の村長の姓が「戦争の様相」では旧姓の古波蔵とされているが、「戦闘概要」では改姓後の米田とされていることなどから、「戦争の様相」が先で、これを補充したものが「戦闘概要」であると考えられる(乙25 伊敷清太郎著「『ある神話の背景』における『様相』と『概要』の成立順序について」、なお乙24-210~212頁 曽野証言68~71項)。このように「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたもので、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみることができる。 エ 以上のとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によるもので、事実の記述について信用性があるとはいえない。 4 同4(自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在)について 原告らは、赤松大尉が自決命令を出したことを否定しており、自決命令が誰を通じて住民側に伝えられたかも全く不明であるとし、「命令者も受領者も伝達者もわからない命令はあり得ない」ので、「自決命令で集団自決したとする結論を導くことは到底不可能である」と主張する。 しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は、前記2(1)記載のとおりであり、軍(すなわち赤松隊長)が自決命令を出したものであって、3月28日の段階での命令の伝達経緯が明確に特定されていないからといって(但し防衛隊員を通して伝達されたものであることは明らかである)、赤松大尉による自決命令が存在しなかったことにはならない。 5 同5(赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』)について 原告らは、「戦闘概要」には赤松大尉による集団自決命令の記述があるが、「戦争の様相」にその記述がないことについて、「遺族会編の『戦闘概要』には自決命令が記載されたのは、遺族会編の私的文書であれば、確認されていない、あるいは事実に反する自決命令が記載されても構わないと考えたものと推測される」とするが、これは根拠のない憶測にすぎない。 前記3(5)ウ記載のとおり、「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたのであり、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみるべきである。 6 同6(自決命令の言い換え)について (1)同(1)(古波蔵惟好の場合)について 原告らは、自決命令の村民側の最終受領者である古波蔵村長が命令の受領を明確にできない以上、同人の証言から赤松元隊長の自決命令を認定することは不可能である、と主張する。しかし古波蔵村長が、赤松元隊長から自決命令があったとしていることは明らかである。 まず、古波蔵村長は、週刊朝日の記事で「自決命令はしなかった、と赤松はいっているが、住民を部隊の陣地へ集合させておきながら、出ていけというのは、住民に死ねというのと同じではありませんか」(甲B20)と言ったとされているが、「沖縄県史10巻」(乙9-768頁~769頁)において、より具体的に、赤松隊長の命令によって陣地の裏側の盆地に集合させられたこと、陣地から飛び出してきた防衛隊員と合流したこと、米軍の艦砲や迫撃砲が執拗に打ち込まれている状況であったこと、防衛隊員の持ってきた手榴弾によって集団自決が行われたこと、古波蔵村長自身手榴弾を防衛隊員から渡されたこと等を証言しており、古波蔵村長が、赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された、としていることは明らかである。 古波蔵村長は、昭和43年4月8日付琉球新報(乙26)においても、赤松大尉が「集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だ」としている。 原告は、防衛隊員から手榴弾を交付されたことを自決命令に結びつけることは、争点をずらすもので、論理の飛躍である、と主張するが、渡嘉敷島における集団自決の経緯というのは前記2(1)記載のとおりであり、古波蔵村長の証言もまさにこれを裏づけるものであって、争点をずらすものでも、論理の飛躍でもない。 (2)同(2)(富山真順元兵事主任の場合)について 原告は、富山元兵事主任が証言している、兵器軍曹が手榴弾を一発は敵と戦うために、一発は捕虜になる時には自決せよと言って渡したという事実そのものが疑わしい、などと主張するが、富山元兵事主任が虚偽の事実を述べる理由は全くない。 また原告は、富山氏が「潮」1971年11月号(甲B21)において、赤松隊長からの自決命令にふれていないことを問題としているが、「潮」の記事は簡単なものであって(同記事には「自決のときのことは話したくないンですがね・・・・・・」とある)、「俄かに、手榴弾を配布したことが自決命令であるといい出した」などということでは全くない。朝日新聞記事(乙12)でも「43年後の今になってなぜ初めてこの証言を?」という問に、富山氏は 「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」 と証言し、軍(赤松隊長)により自決命令が出されたことを明確にしている。 7 同7(「陣中日誌」)について 原告は、「陣中日誌」(甲B19)には、自決命令が出た形跡がないとする。 しかし、同「陣中日誌」は、昭和45年3月に赤松元大尉が渡嘉敷島を訪れた際の抗議行動が報道された後の昭和45年8月に発行されたものであり(したがって本来の陣中日誌ではない)、赤松元大尉が自決命令を出したことを否定している以上、赤松隊が戦後20年経過した後に発行した「陣中日誌」に自決命令の記載がないのはむしろ当然のことである。同「陣中日誌」に自決命令の記載がないからといって、自決命令がなかったことの根拠にはならない。 なお、同「陣中日誌」の原告引用部分には、昭和20年3月29日の集団自決後の約200名の死者の光景が記述されているが、「神話の背景」では、赤松隊の中では、集団自決後の多数の死者をみた者はいないことになっている(甲B18-131頁)。 8 同8(衛生兵の派遣と恩賜の時計)について (1)同(1)について 原告は、赤松部隊からは、渡嘉敷村の村民が自決に失敗した後、衛生兵を派遣していることから、赤松元隊長が自決命令を出したとすれば、衛生兵の派遣は全く説明がつかない、と主張する。しかし、古波蔵村長が証言しているのは、衛生兵が住民を治療したという事実だけであり、戦場の混乱した状況の中で、現実に負傷している住民を衛生兵が治療したということと、赤松隊長が自決命令を出したこととが矛盾するわけではない。 (2)同(2)について 不知。 なお渡嘉敷村資料館に赤松隊長の時計が飾ってあるとしても、赤松隊長が自決命令を出さなかったことの根拠になるわけではないことはいうまでもないことである。 9 同9(赤松命令説をつくったもの)について 原告は、「神話の背景」をもとに(前記のとおり、「神話の背景」は一方的な見方によっているものであり、信用性のないものである)、自決命令がなかったことを前提に、赤松命令説をつくったものとしてその推理を縷々述べているが、仮定に基づく憶測にすぎない。 10 同10(当時の沖縄県民の意識について)について 原告は、「神話の背景」にある富野稔元少尉の言葉を引用して、住民が軍の命令や強制なしに集団自決をしたと主張するようである。 しかし前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言し、住民に対し米軍の捕虜となることを禁じ、米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされるなどと脅し、いざというときは自決するよう言渡していたものである。そして、夥しい数の米軍の艦船等によって島を包囲され、逃げ場を失った住民は、集団自決のために集められ、自決用の手榴弾を渡されるなどして、自決に追い込まれたのである。軍の強制や関与なしに自発的に自決したものでは決してない。 11 同11(「神話の背景」以後)について (1)同(1)について 「神話の背景」が一方的な見方によっていることは前記のとおりであり、同書により渡嘉敷島の集団自決命令がなかったと評価され、今日それが定着している、などということはない。 (2)同(2)について 「沖縄問題20年」が、昭和49年に出庫終了となったのは「神話の背景」により自決命令が虚偽であることが露見したからではない。 「沖縄問題20年」の著者である新崎盛暉氏と中野好夫氏は、昭和40年6月に同書を出版後、昭和45年8月に「沖縄・70年前後」を出版した。その後、両氏は昭和47年5月の沖縄の本土復帰を機に、「沖縄問題20年」と「沖縄・70年前後」の両著作をあわせ、昭和47年5月の復帰までの歴史をまとめて、昭和51年10月に「沖縄戦後史」を出版した。以上の経緯から、「沖縄問題20年」は昭和49年に出庫終了となったものである。 (3)同(3)について 「太平洋戦争」の第2版は、渡嘉敷島の記載を完全に削除したのではなく 「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺身隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。」 と記載しており、軍による自決命令がなかったとしているわけではない。 第3 敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件(補充) 被告ら準備書面(1)3頁以下に記載した死者に対する遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為責任の成立要件について、同準備書面で引用した東京地方裁判所判決(乙1)の控訴審判決(東京高等裁判所平成18年5月24日判決・乙27)は、「比較的広く知られ、かつ、何が真実かを巡って論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現行為について、当該行為(故人の生前の行為に関する事実摘示又は論評)が故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害する不法行為に該当するものというためには、その前提として、少なくとも、故人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要するものと解するのが相当であり、その上で、当該行為の属性及びこれがされた状況(時、場所、方法等)などを総合的に考慮し、当該行為が故人の遺族の敬愛追慕の情を受忍しがたい程度に害するものといい得る場合に、当該行為について不法行為の成立を認めるのが相当である。」と判示した。 このように、本件のような歴史的事実については、当該歴史的事実に関する表現行為において摘示された事実がその重要な部分において「一見明白に虚偽」(地裁判決)ないし「全く虚偽」(高裁判決)であることを要するものである。 以 上 戻る | index
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2879.html
http //www.han.org/a/half-moon/hm140.html#No.990 尖閣(釣魚)諸島と竹島一件 2010/10/16 [CML 006005] 半月城です。 皆さんの尖閣(釣魚)諸島の領有権をめぐる論議を興味深く拝見しています。その論議 を読んで、私はふと元禄時代の「竹島一件」を思い出しました。ただし、竹島といっても これは欝陵島のことです。現在の竹島=独島は江戸時代に松島と呼ばれていました。 当時、竹島(欝陵島)は朝鮮の官撰地誌に載ってはいるものの、同島は倭寇の被害を防 ぐため無人島にされ、しかも百年以上も捨て置かれました。その間に鳥取藩の商人が入り 込み、70年間も継続して何の障害もなくアワビなどを採取しました。 その商人、大谷・村川両家は幕府から竹島渡海免許というお墨付きを受けてアワビ採り をしていました。さらに、ある時は悪天候で朝鮮へ漂流しましたが、朝鮮政府は取り調 べをおこなっても彼らの竹島における漁を問題視しませんでした。こんな場合、 皆さんは竹島(欝陵島)の領有権は日本、朝鮮のどちらにあるとお考えでしょうか? この状況は、時代はずれるものの尖閣(釣魚)諸島に似ています。尖閣(釣魚)諸島も 中国の古文書にそれなりの記載はあるものの、長年捨て置かれたのも同然でした。その間 に日本人が同島で経済活動をし、それを口実に日本政府は日清戦争中に中国に何の連絡も なく日本領に編入してしまったのでした。 竹島(欝陵島)では70年後に海禁を犯して密漁をおこなった朝鮮人漁民がいました。彼 らは季節風の関係で日本人より早く島に到着してアワビなどを先取りしました。そのため、 日本人漁民はほとんど漁にならず、大きな「被害」を受けました。翌1693年も同じ状況だ ったので、たまりかねた大谷家は竹島(欝陵島)にいた朝鮮人 安龍福らを証人として連行 し、藩へ引き渡して善処を要望しました。 これを機に、日朝間で竹島(欝陵島)の領有権論争「竹島一件」が始まりました。交渉 を担当した対馬藩は朝鮮へ安龍福らを送還すると同時に朝鮮人の入島禁止を要求しました。 これに対し、豊臣秀吉の侵略の記憶がまだ覚めやらぬ朝鮮政府は百年以上も捨て置いた島 のことで日本と事を構えるのを控え、対馬の要求を受け入れて竹島への渡航禁止を書簡で 約束しました。 これで終われば、欝陵島は日本領になっていたのですが、朝鮮政府はその書簡で海禁政 策を説明し、「弊境の蔚(欝)陵島といえども、漁民が外洋に出るのを禁止している」と付 け加えました。朝鮮政府は竹島が蔚陵島であることを承知しながら、日朝友好のために一 島二名という苦肉の策をとったのでした。 しかし、対馬藩はその妥協案に満足せず、「弊境の蔚陵島」の文言を除くよう執拗に要求 したため、交渉はもつれにもつれました。進退両難に陥った対馬藩は、藩主の後見人であ る宗義真(元藩主)が江戸へ赴き、幕府の指示を仰ぐことになりました。 幕府は、かつて竹島渡海免許を発行した史実などが継承されずに実状が把握できなかっ たのか、鳥取藩などへ竹島渡海の経緯を尋ねました。鳥取藩は渡海事業の詳細や、竹島・ 松島は同藩の所属でないと回答しましたが、この回答が幕府にとって決め手になりました。 幕府は、竹島(欝陵島)へは町人がアワビを採りに行ったまでであり、無益な島である ところに、この件がこじれて朝鮮と年来の通交が絶えてもどんなものだろうか、武威をも って談判におよぶのも筋違いであると決断し、1696年に竹島(欝陵島)を朝鮮領であると 認め、日本人の渡航を禁止しました。 余談ですが、この時まで幕府は松島(竹島=独島)の存在を知らなかったことは特筆に 値します。そのため、幕府は鳥取藩の回答に登場した松島に関心をもち、さらなる質問を 鳥取藩へおこなったくらいでした。 このように竹島一件では、朝鮮は古文書に竹島(欝陵島)が記載されているということ を根拠にして百年以上も捨て置いた島の領有権を主張し、紆余曲折の末にそれがとおりま した。朝鮮の古文書が日本の70年来の実効支配に勝ったのでした。 近世ではそれほど古文書の存在は重いものでした。といっても、私は尖閣(釣魚)諸島 問題においては中国が有利であるとか不利であるとか評価するつもりはありません。判断 は基本的に日中両国民が冷静におこなうべきです。 現代の領土問題は、時には国際法により判断されることになりますが、一口に国際法と いっても戦前と戦後ではその性格が大きく異なります。それを区別するために私は戦前の 国際法を明治時代の用語のままに万国公法と呼んでいます。 万国公法について明治の元勲である木戸孝允は「万国公法は小国を奪う一道具」と喝破 しました。万国公法は、弱肉強食の時代に覇権を追い求めた大国が、貪欲に領土拡張をお こなった際にお互いの利害調整をはかって積みあげた強者間の、いわば「狼どもの国際法」 でした。そのため、侵略戦争すら合法であることは周知の通りです。 したがって、もしアヘン戦争を万国公法で裁いたら、イギリスの蛮行はもちろん合法と 判断されるでしょう。そうした万国公法、ならびにそれらを土台にした国際司法裁判所で 尖閣(釣魚)諸島問題など戦争に関連した領土問題を判断するのが適切なのかどうか、疑 問が残ります。 (半月城通信) http //www.han.org/a/half-moon/ その他の尖閣問題論考
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2091.html
日清・日露戦争 第4章 台湾征服戦争 1 過酷な征服 1 過酷な征服北守南進策の台湾 台湾の自生的発展 台湾民主国と占領戦争 台湾平定宣言 その後の抵抗運動と弾圧 腐敗と堕落 北守南進策の台湾 狭義の日清戦争は終わったが、戦争そのものは続いていた。清国が譲渡した台湾での中国人による抵抗が続いていたのである。 台湾に注目し、その占領と清国からの割譲を要求するのは、政府と軍部の了解事項であった。松方正義は北守南進論の構想を持ち、一八九四(明治二七)年冬、一つの意見書を、同じ薩摩閥の川上操六(そうろく)参謀次長に送った(『公爵松方正義伝』)。松方は、天津から北京を占領するより台湾占領の急務を提案し、これを占領せずに終戦となるのは「百年の遺憾千秋の失敬このことと存侯」とまで重要だと位置づける。「我邦の前途は、北に守りて南に攻るの方針」を取らねばならない、台湾は、マレー半島や南洋群島にまで進出する根拠地だと位置づけていた。日清戦後の情勢予想からすると、日本の南進論の拠点として確保しなければ、列強が奪取する可能性に危機感を抱いていた。こうした見方は、松方一人のものではなかった。松方はこの意見書を「天下有識者の公論」と言い、伊藤博文も「同感同情」であると伝えている。 また陸奥宗光外相も、同じ意見を持っていた。意見書「台湾島鎮撫策に関して」(作成年月不明。陸奥は一八九七年八月二四日没)は、台湾領有の目的を、(1)中国大陸や南洋群島に将来版図を 96 展開する際の根拠地とする、(2)資源を開発して工業を育成し、通商利権を握る、の二つを挙げている。そのため陸奥は、鎮撫統治の要は「第一、島民を威圧するを要す/第二、支那民俗を台島より攘逐減少するを要す/第三、我国民の遷住を奨励す」の三カ条とした。このような見方は国家機密でも何でもなく、一八九七年に出版された『台湾事情』(春陽堂)で地理学者松島剛・佐藤宏が、 新領地もし治績(ちせき)緒につき、拓殖の功挙がるに及ばば、この地〔台湾〕我鵬翼(ほうよく)を延ばすの根拠となるは自然の勢なり。南を望まば比列賓(フィリピン)は已(すで)に咫尺(しせき)の間〔近距離〕に在り。南洋諸島は飛石の如くに相連り、香港、安南、新嘉披(シンガポール)もまた遠きにあらず。みな邦人の雄飛を試むべき地なり。然れどもこれらの事はただ将来の出来事をして、自らこれを証せしめんのみ。 と解説したように、帝国として膨張しつつある日本、という認識が広がっていた。台湾統治を南進の拠点とする考えは、のちに児玉源太郎台湾総督や後藤新平民政長官の支持も得る。 台湾の自生的発展 一八九五年六月二日、台北の北、海上で李経方と台湾の割譲手続きを済ませた樺山資紀(すけのり)台湾総督は、占領した台北で台湾総督府始政式を執行した。樺山総督に同行した水野遵(じゅん)民政局長は「極めて平和的、極めて文明的の形式をもってその受理が終 97 ると考え」(『大路水野遵先生』)ていたように、台湾平定は順調に進むと思われた。上海居留地で発行されていたイギリス系新聞『ノースチャイナ・ヘラルド』の記事「台湾の日本軍」(一八九五年九月六日)は、台湾占領について作戦のまずさを指摘するだけでなく、「日本の犯した大きな過ちは、島に住む客家(ハッカ)その他の中国系農民の気性と力を過小評価したことだ」と、抵抗運動のエネルギーを見据えていた。 その記事の言うように、台湾は一九世紀に入って茶業と糖業を中心に開発が進められ、欧米との貿易も増加したため、本土からの移住も増えていた。一九世紀前半には「一府二鹿三[舟孟][舟甲]」と呼ばれるほど、台南府・鹿港(台中の南、彰化(しょうか)の港町)・[舟孟][舟甲](台北の西部)の三大港を中心とした繁栄が見られ、林本源一族や陳中和一族などが土着した商人資本の代表だった。一八八五年には台湾省を置き、三府一直隷州六庁一一県の設置となった。アヘン戦争などを機に貿易港として指定された基隆(キールン)、打狗(タアカウ)(日本領有後に高雄と改称)港を中心として、城壁都市台北府(一八七五年設置)や台南府が設けられ、都市化が進められた。 清国の開化派である洋務派の劉銘伝(りゅうめいでん)が巡撫(じゅんぶ)となると、地租改正を意味する清賦事業に着手し、省都・台北府の近代都市化も大きく図られた。電気と電灯、電信、鉄道などの近代的社会基盤を整備し、本土から商人資本を呼び寄せ、興市公司を設立するなど積極的な政策を進めた。劉巡撫は、一八八七年に基―彰化間の鉄道を建議して認められ、一八九一年には基隆―台北間 98 が竣工、台北より新竹間が一八九三年に竣工した。全線七五マイル(一ニ○・七キロ)は乗客中心で貨物輸送力は微弱だったが、中国で最初の鉄道の一つという画期的なものだった。 こうした自生的発展にストップをかけたのが、一八九五年の台湾割譲だった。本土から移住の漢人商人(台湾士紳)を中心に台湾民主国が作られたのも、南洋大臣張之洞(ちょうしどう)らの割譲阻止策略という背景もあったが、一九世紀末に至るまでの台湾の自生的発展からの結論でもあった。 台湾民主国と占領戦争 五月二三日、「わが台民敵に仕うるよりは死することを決す」という台湾民主国宣言が発表され、二五日に総統就任式を行い、劉銘伝の後任巡撫である唐景崧(とうけいすう)を総統、挙人(科挙の郷試(地方試験)合格者)の丘逢甲を副総統兼全台義軍統領として台湾民主国は樹立された。年号を永清、国旗は「藍質虎章(らんしつこしょう)」と定めた。だが九〇〇〇人と推定された巡撫の清軍は、近衛師団が上陸すると一戦も交えず崩壊し、唐総統は台湾を脱出した。 最も強く抵抗したのは先住民である高山(こうざん)族で、彼らを率いた台湾幇辮軍務の劉永福(りゅうえいふく)は「民主国大将軍」を名乗り、台南府を拠点に頑強に戦った。劉将軍は、清仏戦争で黒旗軍を率いて、フランス軍を敗北に追い込んだ英雄として知られており、台湾でも自然の「嶮(けん)に拠り、塁を築き濠を掘」(台湾総督府法務部編纂『台湾匪乱小史』一九二〇年)って戦いを続けた。強い抵抗に遭遇した樺山総督は、「実際の状況は外征におけるに異ることなし」と六月一九日、政府に報告し(『秘書類纂』台湾資料)、軍隊増派を請求した。これを受けて、大本営は、遼東半島にいた第二 99 師団から混成第四旅団を抽出し、台湾に向かわせる。七月中旬、樺山総督は、さらに一個師団半の増派を請求した。 大本営は増派決定のうえ、八月六日に台湾総督府条例を定めた。この条例は、鎮定難航のため軍政施行を意味するとともに、「軍部機関を拡充して略々(ほぼ)軍司令部と同一の編制」(参謀本部編『日清戦史』)とし、二個師団を上回る兵力は、第一軍以上の軍事力となり、それだけ台湾平定が困難になっていたことを物語る。 枢密顧問官・高島靹之助(とものすけ)陸軍中将を現役に復し、台湾副総督に任命して、南部平定軍の指揮を執らせ、大島久直陸軍少将を総督府参謀長に任じた。伊藤内閤も、七月一六日、台湾情勢は「百事至難の境遇に在る」と認識を改め、「速(すみやか)に鎮定の奏功を望」むので「鎮定までの間は法規等に拘泥せず万事敏捷に相運侯筈に申合せ」た八カ条を内閣閣令として通達した。 台湾平定の困難さは武装抵抗だけではなかった。風土病のマラリア、炎天下の水不足から生水を呑んでの赤痢などによる「吐潟(としゃ)病」、栄養不足からの脚気病などが広がり、「八月中旬後[土龍]壊に抵(いた)るの頃は各隊の病者概(おおむね)健康者の半数以上に達した」(「明治二十七八年役陸軍衛生事績」『明治 100 軍事史』)と罹病者が続出したことにより、戦闘力が不足した。八月二九日に中部の彰化を占領した近衛師団は、南方への前進を止め、一〇月三日まで給養することになったが、「諸隊の人員殆ど半に減ず」(『官報』八月三一日)という有り様だった。 台湾平定宣言 ようやく南下を再開した近衛師団は、一〇月九日には嘉義(かぎ)を占領した。台南の南北海岸に上陸した増援部隊を含め三方から台南府を攻略にかかると、一九日、劉将軍も台南府から脱出し、厦門(アモイ)に向かい、台湾民主国は崩壊した。台南を無血占領したのを受け、樺山総督の台湾平定宣言は、一八九五年一一月一八日東京の大本営に報告された。 攻略作戦の途上、近衛師団長北白川宮能久(よしひさ)親王と川村第一旅団長、阪井第二旅団長がマラリアに罹り、能久親王は亡くなる。日本は、約七万六〇〇〇人の兵力(軍人四万九八三五人、日本人軍夫二万六二一六人)を投入、日本軍の死傷者五三二〇名(戦死者一六四名、戦病死者四六四二名、負傷者五一四名)、中国人兵士・住民一万四〇〇〇人を殺害して、台湾を獲得する。 先に引用した『ノースチャイナ・ヘラルド』紙は、「全く無用の戦い」で「〔日本軍と住民の〕両者ともども行った残虐行為の記憶は長く心にとどめられ、平和で静穏な状態を確立する上で障害となるだろう」と、九月六日の時点で断言していた。無用の残虐な征服戦争に踏み切った日本は、外交的軍事的敗北を宣言されていたことになる。 その後の抵抗運動と弾圧 予想の通り、同年一二月には台湾北部の宜蘭(ぎらん)が包囲され、翌年元旦には台北城が襲われるなど、各地で高山族が蜂起し、日本統治への抵抗は一九〇二年まで続く。台湾総督府法務部編纂『台湾匪乱小史』は、一節を「土匪(どひ)蜂起と討伐」とし、一八九五年五月末から一九〇二年五月末に至る七年間の蜂起と鎮圧経過を記している。 一八九五年から一九〇二年は台湾統治上「第一期」と呼ばれている。この時期に「土匪の台北を襲うこと二回、台中を襲うこと二回、その他各所の守備隊弁務署支庁憲兵屯所を襲うこと五十数回、巡査派出所襲撃などは枚挙に遑(いとま)あらず(矢内原忠雄『帝国主義下の台湾』)と総督府の弾圧が残虐であるだけ、抵抗もいっそう厳しくなっていた。『公爵桂太郎伝』も、「匪賊」と住民の区別を付けることができず、「玉石倶(とも)に焚(た)くという殺戮を敢てしたり」と認めている。 後藤新平が一九一四年五月、東京で行った講演の記録『日本植民政策一斑』は、一八九六年から一九〇二年までの「匪徒殺戮(林少猫討伐まで)」について、「捕縛もしくは護送の際抵抗せしため」五六七三人、「判決による死刑」二九九九人、「討伐隊の手に依るもの」三二七九人、合計一万一九五一人を「殺戮」したが、そのうち裁判で死刑となったのは三〇〇〇人しかいなかった。その他の九〇〇〇人の「殺戮」の例を、後藤はこう語った。 102 帰順証交付のため警察署弁務署支署等へ呼び出し、訓令を加え、これに抵抗したるものはこれを殺戮することに予定し、同日同刻に呼んで一斉射撃で殺したのであります。(中略)土匪帰順法は(中略)天皇の大権に亘る生殺与奪の権で(中略)帰順させた者の中には良民たるべきものと不良民にして到底ものにならぬ奴がある、まず仮帰順証を与えて若干月日監視し選び抜いてその悪い者を同日同時に殺したのであります。 赤裸々に「土匪」の「殺戮」を語る後藤だが、第一期支配の特色として挙げたのが「保甲制度」だった。宋代の中国にあった民衆監視制度で、中国史に詳しかった当時の日本人ならすぐに思いつく政策で、陸奥宗光も提案している(『現代史資料』台湾1)。後藤は「総ての罪悪に連座の制です」と語って、治安維持に大いに効果があったと誇っている。 腐敗と堕落 このようなあからさまな「殺戮」と民衆の相互監視制度という強圧的政治のもたらしたものは、台湾総督府自身の腐敗と堕落だった。一八九七年中に台湾総督府の事務官(台北県知事、土木課長、技師など)が摘発された疑獄事件は四件もあった(『台湾総督府警察沿革誌』)。台湾総督府高等法院長高野孟矩(たけのり)は、乃木希典(のぎまれすけ)の非職上奏(休職にするよう天皇に上奏)に基づき同年一〇月解任され、高野に殉じた台湾総督府法院判官は一二月中旬までに「依願免本官」八名、「免本官」二名、「非職」四名と計一四名の多数となり、大事件となった。法院判官浜崎芳雄は、病と称して上京し、同年八月「台湾総督を弾劾するの書」を送付 103 するなどの抗議行動を起こして、一一月免官になる。その抗議書は、「希典疑獄事件の漸次蔓延するは、自家の職責に係(かか)るをもって頗(すこぶ)るこれを厭忌(えんき)し、なるべく事局の瑣少(さしょう)ならんことを欲するも、司法官は彼の意の如くならず。故にまず重なる司法官を非免(ママ)し、他を畏懼せしめ、もって自家の体面を装わんとする一片の卑劣心に出で」と乃木希典総督を強く弾劾するものだった。高野院長は、総督府疑獄の摘発に熱心だっただけでなく、総督府の先住民弾圧にも批判的だった。 2「外地」の誕生 軍政から民政へ 台湾の領有によって日本は、時間の基準を二つ持つことになる。一八九五年一二月二七日新たに台湾島の西を通る子午線東経一二〇度を「西部標準時」とし、台湾・澎湖諸島・八重山諸島・宮古諸島の標準時と定め、時差一時間の東経一三五度を「中央標準時」とすることが公布され、翌九六年一月一日から実施された(一九三七年廃止)。二つの時間を持ったことは象徴的で、法の支配力も二つに分かれていた。 台湾平定を受け、軍政を施行していた台湾総督府条例は廃止され、一八九六年三月三一日、新しく台湾総督府条例(勅令第八八号)、台湾総督府評議会章程(同第八九号)などが制定公布され、 104 民政へ移行する。台湾総督は、陸海軍の大将か中将とされて、以後軍部が独占した。総督の発する律令を検討する評議会は、総督以下の職員で構成され、地域住民の声を吸収する機関ではなかった。台湾統治の基本方針が定まったこの日、大本営はようやく解散となった。 六三問題 軍政から民政に移管する統治制度の協議のため、伊藤内閣は近衛師団の台北占領と同じ六月、伊藤首相を総裁、川上操六参謀次長を副総裁とする台湾事務局を内閣内に設置する。さらに御雇外国人顧問を動員して、統治制度の検討を行った。帝国大学御雇仏国人ルボンは、本国の延長と見なしてフランス式の同化主義を、司法省御雇英国人カークードは、ただ天皇の行政権・立法権のみに属して憲法の制約を受けないことを、外務省御雇米国人デニソンは、台湾島民の国籍と権利について憲法は施行されない、と意見具申した。 伊藤らが重視したのは、議会の介入を制度的に防ぎつつ、台湾統治を進めることだった。その点では、カークード意見書に基づく、憲法不適用、総督と総督府の権限強化、という内容がもっとも望ましかった。しかし一方で、天皇に直隷する武官総督が内閣から独立し専断化することも防ぎたかった。伊藤は、武官総督制に同意して陸軍に妥協したが、専断化の危険性については台湾関係予算の成立という課題を抱えていたため決断できず、暖味な内容の「台湾に施行すべき法令に関する法律」案を、第九議会に提出した(一八九六年三月一四日)。同法案は全五条からなり、台湾総督は「法律の効力を有する命令を発することを得」(第一条)、前例の命令 105 日清・日露戦争
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/104.html
「「沖縄戦」から未来へ向って」(曽野綾子・沖縄タイムス)(4) 多数の島民が証言 つい先日、ベトナム戦争の時、一人の市民をピストルで射殺した軍人の記録フィルムをテレビで見た。その軍人の名前ははっかり分かっていて、彼は今アメリカでレストランを経営しているという。 それを撮影したアメリカ人のカメラマンの発言は、しかし実にみごとなものであった。彼は自分がそのような決定的瞬間を撮ることで、その殺した側のベトナム軍人の生涯に、一生重荷を負わせてしまったことに責任を感じていた。カメラマンは、自分もあの場にいたら多分同じ事をしたろうと思うから、という意味のことを言ったのである。 これこそが、本当に人間的な言葉であろう。そしてこの赤松隊の事件を調査した時も、同じようなすばらしい言葉を、私は渡嘉敷島の人々から聞いたのだ。つまり村の青年の中にも、 「総(すべ)て戦争がやったものであえるから、そういうことはなすり合いをしたくないというのは、私の考えです。そういう教育を受けたんだし」 と私に言った人がいたのである。 太田氏は、しきりに自分は伝聞証拠ではなく、体験者からの証言で書いたと言うが、私が現実に、島の人たちから聞いた赤松氏に対する見方を、太田氏は今回も全く無視している。島の人の中には、もちろん私などには会いたくない、という人もいたはずである。しかしその半面、私の『ある神話の背景』を読んで頂ければ分かることだが、決して一人は二人ではない多数の人々が、生死を共にした赤松隊の人々に会うことや、彼らとの戦争中の体験を私に語ることを、少しも拒まなかった。 著述業者なら盗作 彼らは集団自決のことに関しても、実に正確に、理性的に、あるがままを私に語った。はっきりしないことははっきりしないこととして、その間を見てきたような話でつなげたりはしなかった。しかしそのような人々の発言を、太田氏は全く無視する。それはあまりに失礼な態度ではないのだろうか。 太田氏は私が、渡嘉敷島の事件を証言する渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』と渡嘉敷村が出版した『渡嘉敷島における戦争の様相』の二つの資料のある部分が、太田氏の筆になる沖縄タイムス社刊『鉄の暴風』からの引き写しとしか思えないことについて「この三つの資料は、文章の類似点があるとはいえ、事実内容については、大筋において矛盾するところはないのである。それは当然のことで、『鉄の暴風』が伝聞証拠によって書かれたものでないことはもちろん、むしろ、上述の他の戦記資料によって『鉄の暴風』の事実内容の信ぴょう性が立証されたといえるのである」と書いているが、この三つの資料に、独自の調査によって書かれたとは思えない程度の文章の類似性が見られることはどうしようもない。 もしこれが、私たち著述業者のしたことで、原作者(一番発行日が古いもの)から著作権の侵害として訴えられた場合、当然、盗作と認められる程度のものである。しかしもちろんこれを書いた人たちは、私たちのような専門家ではないし、悪意や自分の利益のためにしたことではないことも明らかなのだから、私も少しも批難するつもりはない。 上陸は3月27日 しかし私は再び太田氏に問いたい。米軍が島に上陸した日、といえばそれはおそらく島民にとって、忘れようとしても忘れられない日であったろうが、その日を三つの資料が三つとも三月二十六日とまちがって記載するということも自然なのだろうか。初め私はこの事実に気がついた時、上陸が二十六日の夜中で、もう二十七日になっていても分からないような時刻ではないか、と思った。しかし調べてみると、上陸は三月二十七日の、午前九時〇八分から四十三分の間、つまりまぎれもない朝なのである。そのような大事な日時というものは、独自の調査をして行けば(かりに一つが、思い違いや書き間違いをしたとしても)三つがそろって誤記するということはほとんどあり得ないものなのである。 私はもはや一々太田氏の内容に反論する気になれない。初めに言ったように、私はだれに限らず、だれかが正しくて、そうでない人は、徹底して悪いのだ、という論理をただの一度もとったことがないのである。赤松氏に作戦上の問題がない、ということもない。住民も動転していた。それは私たち日本人皆が持っていた当時の判断の形式であった。 ただ、ある人間だけをよしとし、反対の立場に立つ人は悪人だとする判断は--もちろんそういう判断を好む人がいても、私はそれに対して何も言うつもりはないが--それは、そのひとはとうてい大人の判断をもって人間を見ることのできない性格なのだ、とひそかに思うだけである。なぜなら、自分がもしその立場に置かれたら、ひょっとして自分も同じことをするのではないか、と思える人と思えない人とは、善悪を超えて異人種だということを、私も長い年月の間に分かるようになったからである。 目次へ | 次へ