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世界に知られていた南京大虐殺 三 アメリカ国民の反応 いままでお話したことからも明らかなように、アメリカ国民は南京事件が発生した当時から、その事実を知っていました。その一番早い報道は、『シカゴ・デイリー・ニューズ』のスティール記者の 131 スクープで、同紙の一九三七年一二月一五日付に一面トップの大見出しで、"NANKING MASSACRE STORY" と報じられました(記事原文ならびに訳文は、拙稿「教材紹介・最初の南京大虐殺報道」『歴史地理教育』第四〇九号、に掲載)。それ以後、『ニューヨーク・タイムズ』のダーディン記者が、一九三八年一月九日付で「中国軍司令部の逃走した陥落後の南京で日本軍の大虐殺」と題する詳細な全面記事で報道したのをはじめ、この両紙は系統的に南京事件関係の記事を報道します。さらにその他の多くの新聞・雑誌がまた南京事件を報じます(これら多彩な報道の実態は、前掲『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』を参照されたい)。 さらに、数カ月たちますと、ジョージ・フィッチが、さきのフィルムを携えて渡米し、半年間にわたって全米を講演して回ったわけです。 ところで、当時、南京事件以上にアメリカ国民の反感を買い、大きな怒りを呼び起こしたのは、パナイ号撃沈のニュースでした。すでに述べたように、パナイ号には南京アメリカ大使館の分室が置かれており、表2(本書五二頁)にありますようにジョージ・アチソン以下四人の大使館員が乗船していました。いわばアメリカの政府機関の一部が置かれていたアメリカの砲艦と随行していたアメリカの商船を日本の海軍機が爆撃して撃沈させ、四名の死者(死亡者=C.H.エンスミンガー一等水兵、E.C.ハルスバス舵手、C.H.カールソン、タンカー美安号船長、サンドロ・サンドリ記者)まで出したのです。日本軍機がアメリカの船と知っていて攻撃したこと、つまり「日本軍がアメリカに敵対した」ことが、アメリカ国民の反日感情を激発させたわけです。 表2を見れば分かりますように、パナイ号にはユニバーサル映画とフォックス映画のニュース.カ 132 メラマンをはじめ、八人の新聞・雑誌記者およびカメラマンが乗船していました。カメラマンたちは、日本軍機がパナイ号をめがけて攻撃してくる決定的な場面を撮影したわけです。まさにジャーナリストとして特ダネの現場に居合わせたことになります。ユニバーサル映画のノーマン.アレーは、帰国後、自分が撮影したニュース・フィルムを携えて各地で映写会を開いて回っています。これらの記者・カメラマンによるパナイ号撃沈報道は、全米で一大センセーシヨンを巻き起こしました。 その頃、アメリカにいて、日本の中国侵喀を批判し、反戦活動をやっていた石垣綾子さんは、一九三七年の一二月にニューヨークで、南京事件を知ったそうです。「一九三七年の南京虐殺事件はアメリカ中に衝撃を与え、日本人に対する非難がごうごうと巻きおこりました。『日本人とはなんと残酷な民族なのか』という追及なのです。」と石垣さんは、日本人の反戦活動家の自伝としてアメリカでベスト・セラーになった石垣綾子(マツイ・ハル)著・佐藤共子訳『憩いなき波―私の二つの世界―』(未来社、一九九〇年)の「まえがき」に書いています。 石垣綾子さんは、今年〔一九九一年〕は八八歳になりますが、まだ現役の短期大学学長として、また評論家として活躍しておられますが、私自身、数年前に自宅に伺って聞き取りをやったことがあります。その時、彼女は、南京事件について、ニュース映画でも見たし、南京残留の特派員の一人がもって来た現地の写真も見たと話してくれました。そして、南京で暴虐をはたらいた兵士たちと、自分は同じ血をわけあい、同じ祖先をもつ日本人であることが辛く、自分の手を思わずじっと見つめ、汚れた血がそこに流れているような気さえしたと、その時を回想するように仕種をまじえて語ってくれました。 133 パナイ号事件と南京事件の報道は、アメリカ国民に反日世論を盛り上げるうえで相乗効果をもたらしたのですが、石垣さんはそれをこう説明してくれました。南京事件では、日本軍あるいは日本人の野蛮性、残虐性、非人道性がイメージされ、パナイ号事件では、日本がアメリカの中国利権をおかし、アメリカに公然と敵対を示したと受け取られたというのです。 南京事件やパナイ号事件の報遣を契機に、アメリカでは日本の中国侵略に抗議する運動が活発になっていきます。まず学生の間から始まり、ついで女学生や婦人が絹のストッキングを脱いで公衆の前で焼却するという抗議行動が広まります。当時、絹製品は日本の対米輸出品の中で主要なものでしたから、「シルク・ストッキングを買うな!」を叫んで、日本商品ボイコット運動の象徴にしたわけです。さらに、中国に多くの伝道団を派遣し、また多くのミッション学校を運営して中国と密接な関係をもっているキリスト教団体組織が、活発な運動を展開します。ジョージ・フィッチが活躍したYMCAもその一つですが、人類の尊厳にもとる日本軍の蛮行から中国民衆を守り、救済することが、神の正義であるという信念が彼らにあったわけです。 運動は労働組合にも広がり、やがて対日経済制裁運動へと発展していきます。その頃の日本は石油や鉄類の輸入をアメリカに依存していたわけですが、それに対して、日本軍国主義の軍事力に役立つような、中国民衆の虐殺に役立つような軍需品原料を日本に輸出するのを阻止しようという運動が始 められたのです。 いっぽう、この運動と対をなして、中国民衆救済、抗日中国援助の運動が広まっていきます。野蛮な日本の侵賂から中国を護ることは、正義・人道を主義とするアメリカ人の義務であるとまで考えら 134 れたわけです。そして、中国援助は、アメリカの社交婦人界の慈善事業の一つとして流行にまでなりました。石垣綾子さんは、当時のアメリカ社会の雰囲気を「日中戦争は、アメリカに中国ブームをもたらし、国中が沸き返った感じでした」と言っています。 太平洋戦争期の日米両国民相互の人種偏見を比較検討した傑作に、ジヨン・W.ダワー著.斉藤元訳『人種偏見―太平洋戦争に見る日米摩擦の底流―』(TBSブリタニカ、一九八七年)があります。ダワー氏は同書で、「日中戦争が本格化したあと始まった日本の爆撃による中国人犠牲者の写真、ニュース映画が、欧米人の人々の感情面に与えた影響はまことに大きく…日本人は女子供も見境のない無差別殺人鬼であるというイメージ」を植えつけたと述べ(四八頁)、さらに、南京事件を始めとする日本軍による中国民衆の大量殺戮の報道が、アメリカ国民の対日感情を悪化させ、「非人道的野蛮行為」を平然とおこなう日本兵(日本人)に対する、嫌悪、憎悪の感情を醸成させ、それが太平洋戦争時には「敵国日本」のイメージにまでなったと指摘しています。 同書からも、南京大虐殺は、日本軍の残虐行為の典型例としてマスコミで大きく報道され、真珠湾攻撃、バターン死の行進とともにアメリカ国民によく知られていたことが分かります。 目次へ | 次へ
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元朝鮮人女子勤労挺身隊員に対する損害賠償等請求控訴事件・控訴人準備書面(1) ソース:http //www.geocities.jp/teisintainagoya/kouso/kousokeika/zyunbi1.pdf 【小目次】 第1 本件は何を問うものか?1 本件の法的争点と判断の前提として不可欠な事実(1)本件は、戦前、日本が、三菱重工と一体となって、 (2)この簡単な要約からもわかるように、 (3)この法的な責任の有無の判断の前提として、 2 被控訴人らの責任について(1)もとより、本件で問われているのは、 (2)後者の被害者に対する賠償は、 (3)同様に植民地支配によって被害があった場合に、 第1 本件は何を問うものか? 1 本件の法的争点と判断の前提として不可欠な事実 (1)本件は、戦前、日本が、三菱重工と一体となって、 本件は、戦前、日本が、三菱重工と一体となって、植民地とした朝鮮から少女らを欺岡して日本に連れてきて、軍需工場で劣悪な環境と差別の下、自由を奪われた強制的な労働に従事させ、それにより身体や心に深い傷を負わせたにもかかわらず、当初の約束に反して貸金の支払いも受けられない状態で着の身着のままで朝鮮に帰し、戦後は、事実に関する調査、公表もしないまま、少女らを軍慰安婦との同一視被害に苦しむことを余儀なくさせた、その被害につき、苦しめられてきた被害者らが日本国政府と三菱重工を相手に損害賠償を請求している事件である。 (2)この簡単な要約からもわかるように、 この簡単な要約からもわかるように、本件の加害事実は、戦前における当時の大日本帝国と三菱重工が行なった朝鮮人の戦時労働動員と戦後の同一視被害の 放置という二つの行為により、被害者が人生を奪われるような重大な被害を受けたということであり、この加害行為について日本政府および三菱重工に法的責任が問えるかということが本件訴訟の中心争点である。 (3)この法的な責任の有無の判断の前提として、 この法的な責任の有無の判断の前提として、上記二つの加害行為について、故意・過失と違法性の有無が問題となる。そして、不法行為における違法性が加害行為の態様と被侵害利益の相関関係で決せられるという相関関係税(通説)からすれば、少なくとも違法性判断の前提として、戦前の行為については、被控訴人である当時の大日本帝国政府がいかなる計画の下に朝鮮人戦時労働動員をどのように計画し実行したのか、そのことに三菱重工を始めとする労働動員を受け入れた企業がどのような関与をしたのかが、被控訴人らのそれぞれの故意・過失および違法性要件の判断にとって必要不可欠である。控訴人らが求めている植民地支配の実態と朝鮮人戦時労働動員に関する証拠調べが本件の審理に欠かせない理由である。 2 被控訴人らの責任について (1)もとより、本件で問われているのは、 もとより、本件で問われているのは、一つは、戦時労働動員であり、そこに被害があった場合(本件では肉体的な被害、精神的な被害の両面が存在する)、当該加害行為を行った者に対する少なくとも民事上の責任追及と被害に対する 賠償が必要となる。不法行為における公平性の回復の要請によるものである。前者は加害行為の責任追及であり、戦争に対する責任(いわゆる戦争を引き起こしたという人道に対する罪ではなく、戦争中の違法行為に対する責任である)の問題である。 (2)後者の被害者に対する賠償は、 後者の被害者に対する賠償は、国家としてあるいは企業としての法的義務の負担の問題である。この問題についての義務を負うべき主体に限って言えば、現在の日本国は、国家として同一性を保ったまま、かつての大日本帝国の正負の全ての遺産を承継することになる。したがって、戦前の行為についても大日本帝国が負うべき責任について現在の日本国がその責任を負うこととなる。また、三菱との関係でも、戦前の三菱が実態として現在の三菱と同一性があると評価できれば被控訴人三菱が戦前の行為についても責任を負うことになる。組織や団体としての被控訴人らが法的な責任を承継するのは当然のことである。 (3)同様に植民地支配によって被害があった場合に、 同様に植民地支配によって被害があった場合に、その植民地被害の加害責任を当時の大日本帝国が負うべきであれば、日本政府がその責任を承継することとなる。本件における戦前の控訴人らの被害事実は、形式的には韓国併合によって植民地とされた結果、「皇国臣民」とされ、その植民地における支配機構を通じて、その権力を背景にして、島民化教育の成果として朝鮮女子挺身隊への参加を決意させられ、その撤回を不可能にさせられたことである。さらに経済的にも参加を促す状況が存在した。その意味で、本件の朝鮮女子勤労挺身隊動員を 可能ならしめたのは、日本による当時の朝鮮植民地支配の実態と強く関連しているのである。以下、植民地化の過程、植民地支配と本件動員との関係および他の戦時労働力動 員と朝鮮女子勤労挺身隊動員との異同について論述する。 indexへ
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http //okinawasen.web5.jp/html/kousai/2008_06_saiban_igi.html 大江・岩波沖縄戦裁判勝利の意義 大阪歴史教育者協議会委員長 大江健三郎・岩波書店沖縄戦裁判支援連絡会事務局長 小 牧 薫 大江・岩波沖縄戦裁判勝利の意義1.「沖縄戦裁判」第一審勝利判決 2.沖縄戦強制集団死(「集団自決」)はなぜおこったのか 3.「沖縄戦」教科書検定の背景とねらい 4.政府・文科省の対応 5.沖縄戦をどうとらえるか 6.最後に 1.「沖縄戦裁判」第一審勝利判決 2008年3月28日、大阪地裁民事第9部の深見裁判長は、家永三郎『太平洋戦争』、大江健三郎『沖縄ノート』の記述は真実相当性があるとして、原告の訴えをすべて退けた。それだけでなく、「日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を踏まえると,集団自決については日本軍が深く関わったものと認められ,それぞれの島では原告梅澤及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったことからすると,それぞれの島における集団自決に原告梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できる」とまで判示した。 《資料(1) 判決要旨》 沖縄ノートは,座間味島及び渡嘉敷島の守備隊長をそれぞれ原告梅澤及び赤松大尉であると明示していないが,引用された文献,新聞報道等でその同定は可能であり,本件各書籍の各記載は,原告梅澤及び赤松大尉が残忍な集団自決を命じた者であるとしているから,原告梅澤及び赤松大尉の社会的評価を低下させる。 「太平洋戦争」は,太平洋戦争を評価,研究する歴史研究書であり,沖縄ノートは,日本人とは何かを見つめ,戦後民主主義を問い直した書籍であって,原告梅澤及び赤松大尉に関する本件各記述を掲載した本件各書籍は公共の利害に関する事実に係わり,もっぱら公益を図る目的で出版されたものと認められる。 原告らは,梅澤命令及び赤松命令説は集団自決について援護法の適用を受けるためのねつ造であると主張するが,複数の誤記があると認められるものの,戦時下の住民の動き,非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として資料価値を有する「鉄の暴風」,米軍の「慶良間列島作戦報告書」が援護法の適用が意識される以前から存在しており,ねつ造に関する主張には疑問があり,原告らの主張に沿う照屋昇雄の発言はその経歴等に照らし,また宮村幸延の「証言」と題する書面も同人が戦時中在村していなかったことや作成経緯に照らして採用できず,「母の遺したもの」によってもねつ造を認めることはできない。 座間味島及び渡嘉敷島ではいずれも集団自決に手榴弾が利用されたが,多くの体験者が日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった際の自決用に手榴弾が交付されたと語っていること,沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いており,渡嘉敷島では防衛隊員が身重の妻等の安否を気遣い数回部隊を離れたために敵に通謀するおそれがあるとして処刑されたほか,米軍に庇護された二少年,投降勧告に来た伊江島の男女6名が同様に処刑されたこと,米軍の「慶良間列島作戦報告書」の記載も日本軍が住民が捕虜になり日本軍の情報が漏れることを懸念したことを窺わせること,第一,三戦隊の装備からして手榴弾は極めて貴重な武器であり,慶良間列島が沖縄本島などと連絡が遮断され,食糧や武器の補給が困難であったこと,沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯しており,日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を踏まえると,集団自決については日本軍が深く関わったものと認められ,それぞれの島では原告梅澤及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織であったことからすると,それぞれの島における集団自決に原告梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できるけれども,自決命令の伝達経路等が判然としないため,本件各書籍に記載されたとおりの自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない。原告梅澤及び赤松大尉が集団自決に関与したものと推認できることに加え,平成17年度までの教科書検定の対応,集団自決に関する学説の状況,判示した諸文献の存在とそれらに対する信用性についての認定及び判断,家永三郎及び被告大江の取材状況等を踏まえると,原告梅澤及び赤松大尉が本件各書籍記載の内容の自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できないとしても,その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できるから,本件各書籍の各発行時において,家永三郎及び被告らが本件各記述が真実であると信じるについても相当の理由があったものと認めるのが相当であり,それは本訴口頭弁論終結時においても径庭はない。したがって,被告らによる原告梅澤及び赤松大尉に対する名誉毀損は成立せず,それを前提とする損害賠償はもとより本件各書籍の差し止め請求も理由がない。 沖縄ノートには赤松大尉に対するかなり強い表現が用いられているが,沖縄ノートの主題等に照らして,被告大江が赤松大尉に対する個人攻撃をしたなど意見ないし論評の域を逸脱したものとは認められない。 2.沖縄戦強制集団死(「集団自決」)はなぜおこったのか 皇民化政策と愛国心教育 「戦陣訓」(生きて虜囚の辱めを受けず)の徹底 日本軍の駐留-「軍官民共生共死体制」、「合囲地境」の状況 手榴弾の配布、米軍の攻撃、艦砲射撃、上陸後の戦闘 日本軍の命令・強制・誘導・指示による強制集団死(資料(2)産業組合の壕〈宮平春子さんの証言〉 (3)金城重明さんの証言) 強制集団死(「集団自決」)のおこらなかった島々 → 宮城島の例 資料(2) 体験者の証言 産業組合の壕(5) (沖縄タイムス9月1日朝刊から編集) 「国の命令であの世に」壕内に大人たちの号泣 響く 兵事主任の宮里盛秀の家族は25日の夜、軍命を受け、マチャンの浜から集落奥の内川山の壕へと戻った。父親、盛永が専務だった農業会の壕(通称・産業組合の壕)近くに、連絡がとりやすいように作った壕に、親族約30人で入った。 夜10時ごろだったか。どこかへ行っていた盛秀が戻り、壕奥にいた父・盛永と話すのを、盛秀の妹、宮平春子(80)が聞いた。盛秀は思い詰めた様子だった。「明日か、あさってに上陸は間違いない。軍から自決しなさいと言われている。国の命令に従って、あの世に一緒に行きましょう」壕内部でも照明弾で空が明るくなり、島中の山が燃えている様子が分かる。米軍上陸が目前なのは明らかだった。 盛秀の言葉に対して盛永は黙りこんでいた。「軍からだったらしょうがない」。しばらくし、納得し難いように答えた。 当時33歳の盛秀には長男英樹=当時(7)、長女郁子(6)、二女美枝子(3)、11カ月の三女ヒロ子、四人の子がおりかわいがっていた。子どもたちをそばに引き寄せた。「今までずっと育ててきたのにね、この手にかけて玉砕するのか。生まれてこなければよかったね。許してね。手をかけることは、とても苦しいことではあるが、お父さんもついているから、一緒だから、怖がらないでね」。盛秀はついに、ぼろぼろと泣きだした。「こんなに大きくなったのに。育ててきたのに。自分の手で子どもを亡くすということは…」。震えながら、きつく子どもたちを抱きしめた。年長の英樹は意味も分からず、大きな瞳でまばたきするばかりだった。 厳格な長兄の盛秀が、なりふり構わず家族の面前で泣き崩れている。軍の指示を住民に伝える兵事主任という役割と、子どもたちへの愛情の間で、板挟みになって慟哭する兄。兄のつらさが春子には痛いほど分かった。壕内には、盛秀の号泣と春子やほかの大人たちの泣き声が響き続けた。 時は迫り、壕では死への準備が始まった。子どもたちに晴れ着が着せられた。田んぼの水で米を炊き、おにぎりを最期の食事にした。作りたての温かく真っ白なおにぎり。子どもたちは小さな手でおいしそうに平らげた。死のための食事は、大人は食べることができなかった。「食べられるだけ、食べさせなさい」。何も知らない子どもたちだけが、無心にほお張った。 (編集委員・謝花直美) 資料(3) 体験者・金城重明さんの証言(2007年6月8日付「沖縄タイムス」) (1)北山(にしやま)への集結命令について 昭和20年3月27日に、日本軍から、住民は北山に集結せよ、との命令が伝えられた。日本軍の陣地近くに集結せよという命令であり、いよいよ最期の時が来たのかと感じた。 27日の夜、大雨の中、阿波連から北山まで夜通し歩いた。28日の夜明け前ころ北山に到着した。そこには何百人もの住民が集まっていた。 (2)軍の自決命令について 北山に移動させられた住民は、村長の近くに集められ、軍から自決命令が出たようだという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝達した。 母親たちは、嗚咽(おえつ)しながら、死について子どもに語り聞かせており、死を目前にしながら、髪を整え、死の身支度をしていた婦人たちの様子が忘れられない。 「天皇陛下万歳」とは玉砕するときの掛け声で、村長が独断で自決命令を出すことはあり得ず、それは軍から自決命令が出たということだ。 この裁判に提出された、吉川勇助氏の陳述書を読んだ。村長が「天皇陛下万歳」を唱える前に、軍の陣地から伝令の防衛隊員が来て、村長の耳元で何かを伝えたとのことたが、軍の命令が伝えられて、村長が号令をかけたことが分かった。 (3)手榴弾(しゅりゅうだん)の事前配布について 米軍上陸1週間くらい前に兵器軍曹が役場に青年団や職員を集め、手榴弾を1人2個ずつ渡し「1個は敵に投げ、もう1個で死になさい」と訓示していた。このことは、兵事主任であった富山真順氏から、家永裁判で証言する時に、直接聞いている。「集団自決」の当日にも、「集団自決」の場所で、防衛隊長が手榴弾を住民に配っている。 (4)「集団自決」の状況について 村長が「天皇陛下万歳」を唱えた後、住民は手榴弾を爆発させて「集団自決」が行われた。手榴弾は不発の物が多く手榴弾による死傷者は多くなく、これが悲惨な殺し合いの原因となった。肉親同士、愛する者たち、家族親せき同士が、こん棒や石で頭をたたいたり、ひもで首を絞め、かまや剃刀(かみそり)で頸(けい)動脈や手首を切るなど、あらゆる方法で命を絶った。手榴弾によるよりも、より残酷で確実な方法で、夫が妻を、親が愛する子どもを、兄弟が姉妹を手にかけ、自分で死ぬことができない幼い者、老人から命を絶っていった。 (5)「集団自決」後の状況について 兄と私が、どちらが先に死ぬかという話をしていたところへ、15、16歳の青年が駆け込んできて、日本軍と斬り込みに行くというので、たとえ殺されても斬り込もうと、悲壮に満ちた決意をした。斬り込みに行く途中で、日本軍の兵隊に出会った。住民は軍と運命を共にし、玉砕したと思っていたので、なぜ住民だけがひどい目に遭わなければならないのか、軍に裏切られたと感じた。その後、生き残った住民と一緒に避難生活を送った。渡嘉敷島では、「集団自決」で生き残り、米軍の治療を受けた少年2人が、捕虜になることを許さない日本軍に殺された。 (6)「集団自決」が起こった理由について 米軍上陸の1週間くらい前に、軍から住民に重要な武器である手榴弾が配られた。これは、軍があらかじめ、いざとなったら住民を自決させるという重要な決定をし、自決を命じていたということであり、住民全体に対する自決命令の第1段階だった。3月27日に、住民を北山の軍陣地の近くに集結するように命令したのも、軍であり、住民は、逃げ場のない島で、日本軍の命令で軍の近くに強制的に集められた。住民は、軍の圧力、強制により、玉砕しなけれはならないよう追い込まれ、軍の自決命令を侍っていた。そして、軍の自決命令が出たという話が伝わり、村長は「天皇陛下万歳」を唱え、軍の自決命令を住民に伝えた。住民は、軍の命令によって自決したのであり、その責任者は赤松隊長である。赤松隊長が指揮する軍の命令なしに「集団自決」は起こり得なかった。 これまで、慶良間諸島の「集団自決」を体験した多くの証言者が、この残酷な歴史的事件に軍命や軍の強制があったことを証言してきているにもかかわらず、2008年度から使用される高校の歴史教科書において、「集団自決」に軍の強制があったとする記述を削除するようにとの検定意見が付されたが、これは文科省の教科書行政に対する暴挙と言うほかなく、歴史教育の本質をゆがめることであり、戦後、戦争の歴史の暗い、あるいは残酷な部分を隠ぺいしたり、ぼかしてきた文部省・文科省の教育的、政治的責任は大きいと言わざるをえない。 3.「沖縄戦」教科書検定の背景とねらい 文科省は、2006年度の高校日本史教科書の検定において、沖縄戦「集団自決」に関わる日本軍の命令、強制を認めず、書き直させた。その行政処分に対する沖縄県民の対応が、冒頭の昨年9月29日に開かれた11万人集会、「教科書検定意見撤回、記述回復を求める沖縄県民大会」である(資料(4) 教科書検定による記述の書き換え、(5)県民大会での高校生の発言)。 ※ 文科省による検定のねらいは? 自由主義史観研究会・「つくる会」の三点セット(南京・慰安婦・沖縄)の削除 「つくる会」・右翼・右翼政治家・文科省の一部による合作 政治的圧力による教科書書きかえ → すでに、中学・高校でもっとも多く使われている教科書では、「集団自決」も「住民殺害」も記述がない → 彼らのねらいは、すべての教科書から日本軍による「住民殺害」を削除すること 「軍隊は住民を守らない」の教訓を抹消し、軍隊にすすんで協力する国民づくりのために 資料(4) 東京書籍『日本史A 現代からの歴史』 申請図書の記述 (06年4月) 沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、日本軍がスパイ容疑で虐殺した一般住民や集団で「自決」を強いられたものもあった。 (1)沖縄戦による住民の死者は、当時の沖縄の人口の4分の1におよんだ。 〈カコミ資料〉沖縄渡嘉敷島「集団自決」 (『戦争の真実を授業に』より) およそ一千名の住民は一か所に集結させられました。死を目前にしながら、母親たちは、子どもたちに迫っている悲劇的な死について、泣きながらさとすように語り聞かせるのでした。もちろん幼い子どもたちには、ともに死を遂げることの意味がわかるはずもありません。わたしたち兄弟も、男性として家族に対する責任意識があったと思います。自分たちを産んでくれた母親に最初に手をかけたとき、私は悲痛のあまり号泣しました。ひもや石を使ったと思います。愛するがゆえに妹と弟の命も絶っていきました。 見本本の記述 (07年3月) 沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、「集団自決」に追いやられたり、日本軍によってスパイ容疑で虐殺された一般住民もあった。(脚注・囲み資料はそのまま) 訂正申請で認められた記述 (07年12月) 沖縄県民の犠牲者は、戦争終結前後の餓死やマラリアなどによる死者を加えると、15万人をこえた(1)。そのなかには、日本軍によって「集団自決」(2)においこまれたり(3)、スパイ容疑で虐殺された一般住民もあった。 【側注】(1) 沖縄戦による住民の死者は、当時の沖縄の人口の4分の1におよんだ。 (2) これを「強制集団死」とよぶことがある。 (3) 敵の捕虜になるよりも死を選ぶことを説く日本軍の方針が、一般の住民に対しても教育・指導されていた。 〈カコミ資料〉沖縄渡嘉敷島「集団自決」 (『戦争の真実を授業に』より) ・・・・・日本軍はすでに三月二十日ごろには、三十名ほどの村の青年団員と役場の職員に手榴弾を二こずつ手渡し、「敵の捕虜になる危険性が生じたときには、一こは敵に投げ込みあと一こで自決しなさい」と申し渡したのです。・・・・・よいよ二十八日の運命の日がやってきました。 およそ一千名の住民は一か所に集結させられました。死を目前にしながら、母親たちは、子どもたちに迫っている悲劇的な死について、泣きながらさとすように語り聞かせるのでした。もちろん幼い子どもたちには、ともに死を遂げることの意味がわかるはずもありません。 私たち兄弟も、男性として家族に対する責任意識があったと思います。自分たちを産んでくれた母親に最初に手をかけたとき、私は悲痛のあまり号泣しました。ひもや石を使ったと思います。愛するがゆえに妹と弟の命も絶っていきました. 【追加】 また、国内でも、2007年の教科書検定の結果、沖縄戦の「集団自決」に日本軍の強制があった記述が消えたことが問題になった(4)。 【側注】 (4)沖縄県では、県議会・全市町村議会で検定意見の撤回を求める意見書が決議され、どう年9月には大規模な県民大会が開催された。 ↑本文・側注で、丸つき数字は(数字)に置き換えました(JIS外のため) 資料(5) 9.29沖縄県民大会での高校生の発言 津嘉山拡大(こうだい)くん 「沖縄戦での集団自決に日本軍の強制があったという記述は、沖縄戦の実態について誤解する恐れがある表現である」 ある日の朝、私の目に飛び込んできたこの新聞記事。 私は“誤解”という検定意見書の言葉に目を奪われました。この記述を無くそうとしている人たちは、沖縄戦を体験したおじいやおばあ達が嘘をついていると言いたいのでしょうか。それとも思い違いだったと言いたいのでしょうか。 私たちは戦争を知りません。ですが、一緒に住むおじいおばあ達の話を聞いたり、戦跡を巡ったりして沖縄戦について学んできました。おじいおばあ達は重い口を開き、苦しい過去を教えてくれました。死体の山を越え、誰が敵で誰が味方はわからなくなる恐ろしさ、大事な人を目の前で失う悲しさ、そして悲惨な集団自決があったことを。 なぜ沖縄戦で自ら命を絶ったり、肉親同士が命を奪い合うという残酷なことが起こったのでしょうか。住民は事前に「敵に捕まるくらいなら死を選べ」「米軍の捕虜になれば男は戦車でひき殺され、女は乱暴され殺される」という教育や指示を受けていたと言います。さらに手榴弾が配布されました。極限状態に置かれた住民達はどう感じたでしょうか。 手榴弾を配った日本軍は明らかに自決を強制していると思います。 私たちが住んでいる読谷村には、集団自決が起こった「チビチリガマ」があります。ガマの中は、窒息死のために火をつけた布団の煙が充満し、死を求める住民が毒の入った注射器の前に列をなしました。母がわが子に手をかけたり、互いを刃物で刺しあい80人以上もの尊い命が奪われました。その中には年寄りから5歳にもならない子どもまでもがいました。」 照屋奈津実さん 集団自決や教科書検定のことは私たち高校生の話題にも上がります。「教科書から集団自決の真相が消されるなんて考えられない」「たくさんの犠牲者が実際に出てるのにどうしてそんなことをするんだろう」私たちは集団自決に軍の関与があったということは、明らかな事実だと考えています。なぜ、戦後60年以上をすぎた今になって、記述内容を変える必要があるのでしょうか。実際にガマの中にいた人たちや、肉親を失った人たちの証言を、否定できるのでしょうか。 私は将来高校で日本史を教える教師になりたいと思い勉強しています。このまま検定意見が通れば、私が歴史を教える立場になったとき、教科書の記述通り事実ではないことを教えなければ行けません。分厚い教科書のたった一文、たった一言かもしれませんが、その中には失われた多くの尊い命があります。二度と戦争は繰り返してはいけないという沖縄県民の強いも思いがあるのです。教科書から集団自決の本当の記述がなくなれば、次は日本軍による住民虐殺の記述まで消されてしまう心配があります。 嘘を真実と言わないでください。私たちは真実を学びたい。そして、次の世代の子ども達に真実を伝えたいのです。」 津嘉山くん 「教科書から軍の関与を消さないでください。あの醜い戦争を美化しないでください。」 二人 「たとえ醜くても真実を知りたい、学びたい、そして伝えたい。」 4.政府・文科省の対応 政府・文科省は、教科書検定には、政治介入できないとして検定意見撤回を拒否(もともとが「政治介入」なのに) → 検定の最終権限は文科大臣にある 首相・文科相が「沖縄県民の気持ちは重く受けとめる」(教科書会社による訂正申請には応じる)としたが、訂正申請で責任を出版社・執筆者に押しつけ 訂正申請でも、密室検定で、調査官による強要があり、「命令」「強制」は復活せず 5.沖縄戦をどうとらえるか (誤)1945年4月1日にはじまった。日本での唯一の地上戦。本土決戦の捨て石作戦。集団自決は殉国死。沖縄戦終結は6月23日。日本兵のなかには住民を守ろうとした者もいた。 (正) 1945年3月26日の座間味島上陸ではじまった。全住民をまきこんだ日本での最大の地上戦。「国体護持」のための捨て石。強制集団死であり住民殺害。沖縄戦終結は9月7日。軍隊は住民(国民)を守らなかった。 6.最後に 裁判で明らかになった新証拠、資料をもとに教科書検定意見を撤回させ、記述を回復させる 大阪高等裁判所に、直ちに控訴棄却を言い渡し、第一審判決を維持するよう要請する 沖縄戦の真実を明らかにし、沖縄の心をすべての人のものに 詳しくは、支援連絡会のHPをご覧ください http //okinawasen.web5.jp/ 沖縄集団自決訴訟第2審
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昨日 - 今日 - 目次 戻る 通2-005 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第2 事案の概要等 2 原審の判断及び不服申立て (判決本文p5~) 2 原審の判断及び不服申立て(1) (原審の判断)* (2) (不服申立て)* (3) (請求の拡張及び減縮)* (1) (原審の判断)* 原審は, 次のように判断して, 控訴人らの各請求を棄却した。 ア 「沖縄ノート」は, 座間味島及び渡嘉敷島の守備隊長をそれぞれ控訴人梅澤及び赤松大尉であると明示していないが, 引用された文献, 新聞報道等でその同定は可能であり, 本件各書籍の各記載は, 控訴人梅澤及び赤松大尉が残忍な集団自決を命じた者であるとしているから, 控訴人梅澤及び赤松大尉の社会的評価を低下させる。 イ 「太平洋戦争」は, 太平洋戦争を評価, 研究する歴史研究書であり, 「沖縄ノート」は, 日本人とは何かを見つめ, 戦後民主主義を問い直した書籍であって, 控訴人梅澤及び赤松大尉に関する上記各記述を掲載した本件各書籍は, 公共の利害に関する事実に係り, もっぱら公益を図る目的で出版されたものと認められる。 ウ 控訴人らは, 梅澤命令説及び赤松命令説は集団自決について戦傷病者戦没者遺族等援護法(「援護法」)の適用を受けるための捏造であると主張する。 しかしながら, 複数の誤記があるとは認められるものの, 戦時下の住民の動き, 非戦闘員の動きに重点を置いた戦記として資料的価値を有する沖縄タイムス社編「鉄の暴風」, 米軍の「慶良間列島作戦報告書」などが援護法の適用が意識される以前から存在しており, 捏造に関する主張には疑問がある。控訴人らの主張に沿う照屋昇雄の発言や宮村幸延の「証言」と題する書面は採用できない。 工 [1]座間味島及び渡嘉敷島ではいずれも集団自決に手榴弾が利用されたが, 多くの体験者が日本軍の兵士から米軍に捕まりそうになった際の自決用に手榴弾が交付されたと語っていること, [2]沖縄に配備された第三二軍が防諜に意を用いており, 捕虜になることを禁じ, 渡嘉敷島では防衛隊員が身重の妻等の安否を気遺い数回部隊を離れたために敵に通謀するおそれがあるとして処刑されたほか, 米軍に庇護された少年2名, 投降勧告に来た伊江島の男女6名が同様に処刑されたこと, 米軍の「慶良間列島作戦報告書」の記載も日本軍が住民が捕虜になり日本軍の情報が漏れることを懸念したことを窺わせること, [3]慶良間列島が沖縄本島などと連絡が遮断され, 食糧や武器の補給が困難な状況のもとで, 第一, 第三戦隊の装備からして手榴弾は極めて貴重な武器であったところ, 自決にはこれが使用されていること, [4]沖縄で集団自決が発生したすべての場所に日本軍が駐屯しており, 日本軍が駐屯しなかった渡嘉敷村の前島では集団自決が発生しなかったことなどの事実を踏まえると, 集団自決については日本軍が深く関わったものと認められる。そして, それぞれの島では控訴人梅澤及び赤松大尉を頂点とする上意下達の組織があったことからすると, それぞれの島における集団自決に控訴人梅澤及び赤松大尉が関与したことは十分に推認できる。しかしながら, 自決命令の伝達経路等が判然としないため, 本件各書籍にあるような各自決命令それ自体まで認定することには躊躇を禁じ得ない。 オ 控訴人梅澤及び赤松大尉が集団自決に関与したものと推認できることに加え, 平成17年度までの教科書検定の対応, 集団自決に関する学説の状況, 判示した諸文献の存在とそれらに対する信用性についての認定及び判断, 家永三郎及び被控訴人大江の取材状況等を踏まえると, 控訴人梅澤及び赤松大尉が本件各書籍記載の内容の自決命令を発したことを直ちに真実であると断定できないとしても, その事実については合理的資料若しくは根拠があると評価できる。したがって, 本件各書籍の各発行時において, 家永三郎及び被控訴人らが本件各記述が真実であると信ずるについて相当の理由があろたものと認めるのが相当である。そのことは原審口頭弁論終結時(平成19年12月21日)においても径庭はない。 カ 「沖縄ノート」には赤松大尉に対するかなり強い表現が用いられているが, 沖縄ノートの主題等に照らして, 被控訴人大江が赤松大尉に対する個人攻撃をしたなど意見ないし論評の域を逸脱したものとは認められない。 キ したがって, 被控訴人らによる控訴人梅澤及び赤松大尉に対する名誉毀損は成立せず, それを前提とする損害賠償はもとより本件各書籍の出版等の差止請求も理由がない。 (2) (不服申立て)* そこで, 控訴人らは, 上記判断を不服として, 事実認定及び法律判断の誤りを主張して控訴した。 (3) (請求の拡張及び減縮)* なお, 控訴人らは, 原審では, 被控訴人岩波書店に対して, 慰謝料として各1000万円(控訴人梅澤は「太平洋戦争」の出版等によるものとして500万円, 「沖縄ノート」の出版等によるものとして500万円, 控訴人赤松は, 「沖縄問題二十年」の出版等によるものとして500万円, 「沖縄ノート」の出版等によるものとして500万円)及びこれに対する平成17年9月11日から支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払を, 被控訴人大江に対して, 慰謝料として各500万円(「沖縄ノート」の出版等によるもの)及びこれに対する前同様の遅延損害金の支払を求めていた。 しかし, 控訴人らは, 当審において, 平成19年12月に, 軍命令が確認できないとする文部科学省の平成18年度の教科書検定意見が維持され, かつ, 梅澤命令説及び赤松命令説に真実性が認められないとした原判決が言い渡された後も, 被控訴人らが本件各書籍の出版, 販売を継続し, 特に「沖縄ノート」については増刷を重ねている(平成20年4月24日に第58刷, 同年5月7日には第59刷)として, 請求を拡張し, 新たに, 上記出版, 販売継続に係る慰謝料として, 控訴人梅澤は, 被控訴人岩波書店に対し, 1000万円(「太平洋戦争」と「沖縄ノート」の各出版, 販売継続によるもの)及びこれに対する平成20年6月25日(当審第1回口頭弁論期期日)から支払済みまで年5分の割合による損害賠償金の支払請求を, 控訴人らは, 被控訴人大江に対し, 各500万円(「沖縄ノート」の出版, 販売継続によるもの)及びこれに対する前同日から支払済みまでの遅延損害金の支払請求を付加した。 他方で, 控訴人赤松は, 原審で請求していた被控訴人岩波書店に対する「沖縄問題二十年」の出版, 販売に係る慰謝料の500万円及びこれに対する遅延損害金の請求を取り下げるとして, 同金額について被控訴人岩波書店に対する請求を減縮した。 目次 戻る 通2-005 次へ 通巻
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史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー 琉球新報 週刊新潮1968年4月6日号記事を読んだ沖縄の新聞、琉球新報は、急遽大阪支局員を赤松氏宅に向かわせ、4月8日にフォローアップ記事を特集した。 それは、『渡嘉敷島の集団自決 "悪夢の惨事"二つの真相?』と題するもので、23年ぶりの「戦闘報告」を語った元戦隊長赤松氏と、「戦記」を書いた元村長古波倉氏、二人のインタビューを対峙させるものだった。 史料発掘:40年前の赤松大尉の復権デビュー 琉球新報 "悪夢の惨事"二つの真相?盆地を血にそめ329人自決恩讐の23年、戦記は偽りか 開き直る赤松元大尉"命令しなかった”「正しい歴史」を作りたい "弁明”に怒る生存者大尉の"報告"はうそ "反省の色なく許せない" ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用開始) 赤松氏デビュー1968.4.8琉球新報 "悪夢の惨事"二つの真相? 【関西支局】沖縄戦の最中、戦闘に巻き込まれていった住民の悲劇のうち、渡嘉敷島の集団自決、住民の斬殺は旧日本軍の手で行われたといわれているだけに、23年たったいまも恩讐を込めて語りつがれている。その「無知と暴虐をともなった悪夢のような悲劇」を命じたといわれる赤松嘉次氏(48)=当時渡嘉敷島駐屯海上てい身隊第3戦隊隊長=が兵庫県加古川市に住んでいた。「私はどう中傷されようとかまわないが死んだ戦友がかわいそうだ」という赤松氏は。このほど本誌記者とのインタビューに応じて「集団自決は命じたものではない。気の毒だと思うが私の取ったその他の処置はあの時点ではやむをえなかった」と語った。一方、この弁明に対し当時同島にいて暴虐ぶりを目の当たりに見た同島生き残りたちは「事実を曲げるのもはなはだしい。罪の意識にかられていると思ったら、なんということをいい出すのか」とカンカン。生存者の語る"二つの真相"は沖縄の戦記にどう書き加えられて行くのだろうか。 盆地を血にそめ329人自決 恩讐の23年、戦記は偽りか 「渡嘉敷島における戦争の様相」という記録がある。終戦当時渡嘉敷島の村長だった古波倉惟好さん、村役所経理員で防衛隊長をしていた屋比久孟祥さんの二人が渡嘉敷島での戦闘と住民の模様を書きつづったもので、その中で赤松大尉はひきょう者となり、住民を圧迫した張本人となっているが、当時二十五歳の赤松大尉は防衛隊、男女青年団員、婦人会員など二百四十余の協力で爆雷を積んだ舟艇百隻を海辺に並べ出撃を待った。ところが「赤松大尉は出撃の命を下さずごうの奥に退避し、戦闘意欲を全く失っていた」ばかりか「気が狂ったのか全舟艇の破壊を命じた」という。二十年三月二十六日未明のことである。 さらに「あしゅらのごとき阿鼻叫喚の地獄」がくり広げられる。同二十八日午前米軍の上陸に危機を感じた住民が西山の軍陣地北方の盆地に集結した。「記録」によると集団自決のもようは次のようなむごたらしいものだ。 「防衛隊員の持つ手榴弾(二個ずつ)二、三十人が集まり、瞬時にして老若男女の肉は四散し死にそこなったものは棍棒で頭を打ち合い、カミソリで自らのけい部を切り、すきで親しいものの頭をたたき割るなど世にも恐ろしい情景がくり広げられた」このとき三百二十九人が死んだ。手榴弾が不発で死を免れた住民が軍陣地へ押し寄せると、赤松隊長はごうの入り口に立ちはだかり「軍のごうに入ってはいけない。すみやかに軍陣地を去れ」と厳しくかまえ、住民をにらみつけた―という。記録には赤松隊長が"自決命令"を出したとは書いてないが、自決はしいられたもの―というふうにとれ、生存者の中にははっきり「命令だった」と断定するものもいる。 また赤松大尉の部下は住民にスパイの容疑をかけ切り殺し「山をさまよい歩く古波倉樽を敵に通じるおそれありとして軍刀にかけ」あるいは米軍の要求で投降を勧告に来た伊江島の男女6人を斬殺した。少年二人も米軍に通じたとして首をつらせ、渡嘉敷小学校訓導の大城徳安氏は「防衛隊員のくせに家族の元に帰ってばかりいた」ので斬首された。そして血のにじむような記録は「沖縄本島の降伏に遅れること1ヶ月。二十年八月二十三日、渡嘉敷島の戦闘はその幕を閉じた」と結んでいる。 これまでこの記録や生存者の証言をもとに赤松大尉のことが数多く書かれてきた。そのたびに旧部下で生存者の人たちが抗議したが取り上げられず、赤松氏もあまり語らなかった。だが戦死者までひきょう者呼ばわりされるのは可愛想―と最新号の「週刊新潮」で意見をのべ、近くかつての同僚が手記などを持ち寄って「正しい戦史」を作る計画もある。 加古川市にある肥料問屋、赤松嘉次商店の応接室で記者のインタビューに答えて語る「渡嘉敷島集団自決の真相」は次のようなものだった ~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用おわり) 週刊新潮で紹介された戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」の復習のあとは、加古川市にある肥料問屋、赤松嘉次商店の応接室での赤松元隊長インタビュー。「正しい歴史をつくりたい」とは、沖縄で書かれた戦記は間違っている、という断定なだけに挑戦的だ。沖縄地元紙の見出しには怒りが込められている。 ~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用はじめ) 開き直る赤松元大尉 "命令しなかった”「正しい歴史」を作りたい ―広く沖縄戦史などによる「あれほど自分の口で玉砕をさけび、自らはゴウの中に避難して暴虐の限りを尽くしながら、倣岸な態度で捕虜になり…」などと書かれているが―。 住民は軍の任務を知らないのだから、そう思えたのだろう。舟艇の出撃は軍司令官が出すものだ。私の判断で出撃を準備していたら……「敵状判断不明、戦隊は状況有利ならざる時は本島、糸満付近に転進せよ」と電報がきた。 しかし、そのころ渡嘉敷島に来た大町大佐(沖縄全陸軍船舶隊隊長)に出撃体制に入っているのをとがめられ、敵の偵察機に発見されたので破壊して沈めよ―と命令されたのだ。そして体当たりは私も考えていたが、命令できなかったというのが事実で、防衛庁の記録にも私の処理が正しかったことが書かれている。ゴウにいたのは中隊への非常用食糧、弾薬の確保を指示していたためだ。 ―集団自決は命令したのか。 絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬよう―という気持ちだったと思う。村長が機関銃を貸してくれ、自分が全部殺すというのを押しとどめたほどだ。 軍のゴウといってもお粗末なもの、住民が入れるようなところではなかった。同じようなケースの自決は、沖縄にはいくらでもあったはずだが、なぜ渡嘉敷島だけ問題にするのか、私にはよくわからない。日本が勝っておれば自決した人たちも靖国神社にまつられたはずだ。 ―スパイ容疑で殺された人たちのことを聞きたいのだが。 私が命じて処刑したのは大城訓導だけだ。三回も陣地を抜けて家族の元へ帰った。そのたびに注意したが、また離脱したので処刑した。私の知らないものもあるが、伊江島の6人、2人の少年はいずれも死を選ばせた。気の毒だが、当時の状況からやむをえなかった。 ―なぜ赤松隊長は悪評をかっているのか。 部隊の華々しい戦闘を期待したのだろうが、われわれは特攻を主任務にしており、地上戦をまるで考えていなかった。それが大町大佐の命令ですべて徒労に終わったからだろう。それに小さな共同体のこと、わたしを悪人に仕立てた方が都合がよかったのではないか。住民には決してうしろめたいことはない。 ―戦記の発行を計画しているとか。 わたくし自身は、そっとしてほしいのだが、いろいろ中傷されると戦死者の名誉のためにも黙っておれなくなる。1月に初めて第3戦隊の同窓会をした。60人ほど集まったが、そのとき新しい戦史を作ろうと話し合った。いずれ沖縄、とくに渡嘉敷島にも行ってみたい。70年までには―と計画している。 ―現在の計画は わたくしの取った措置は、万全のものではないだろうが、あの時点では正しかったと思う。なにしろ戦闘なのだから。現在の感覚と尺度でははかりようがない。週刊誌に若気のいたりとか、不徳のいたすところなどとわたくしが言ったとあるが、あれはいわば社交辞令だ。しかし、命令でやり、任務であったことがすべて個人の責任となるような社会には戻りたくない。 ~~~~~~~~~~~~~(記事引用おわり) 対立する当事者が言ってることは、それぞれ単独で聞けばどちらも正しい。芥川龍之介の羅生門の世界だ。 したがって現場を知らないわたしたちとしては、他の記録との照合や何よりも同一人の証言の変遷を辿って、その信頼性を検証するしかない。慌てず騒がず試みたいと思います。 琉球新報の特集は、戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」を書いた、集団自決体験者のインタビューへとつづく 週刊新潮の記事と、赤松元隊長の矛先になった戦記「渡嘉敷島における戦争の様相」の筆者の一人が反論し、これまで書かなかったという秘話も語る。赤松氏に行状についての新証言にもまして興味深いのは、戦後永きに渡って渡嘉敷村村長をつとめ、この報道の時もそうであり、2年後の慰霊祭に赤松氏を招いた玉井氏が、集団自決の時には島にいなかったという事実である。 ~~~~~~~~~~~~~(記事引用はじめ) "弁明”に怒る生存者 大尉の"報告"はうそ "反省の色なく許せない" 戦後23年になって、急に「わたしは島民に集団自決をしいて、自ら戦わずして生き延びようとした卑きょう者ではない」と開き直った赤松大尉の戦闘報告に、当時渡嘉敷島で辛酸をなめた同島の生き残りたちは「これはどうしたことか」とその心境をはかりかねて当惑している。やっと悲惨な傷跡がいやされ、にくしみも角がとれて、平和な島として再出発しているときだけに、同氏の意外な発言は眠りかけた胸のうずきをゆすぶられたというか、にくしみがむらむらとわいてきたようである。 戦争当時、渡嘉敷村長の職にあって軍隊と住民の板ばさみになって苦悩した米田(旧姓古波倉)惟好さん(57)(那覇市 略)琉球通運搬船共済会副会長は、週刊新潮の記事を読んで「でたらめもはなはだしい」と怒りをぶちまけた。 「赤松氏の戦闘報告はすっかり事実を曲げてなされている。戦後20余年をひっそりとして音さたもないので、謹慎して反省しているのだろうと思い、いまさら彼一人を責めることはよそう、と思っていたのに、このソラを切った態度は常識では考えられない。これでは自決をしいられてなくなった人たちの霊も浮かぶまい」と声をふるわせた。 米田さんの話によると、赤松氏が戦闘報告で行った弁明は、住民を一ヶ所に集めたとき「西山の陣地に集合せよ、といったのではなく西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ、といった」ということ以外は全部まっ赤なウソで、集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だという。 「彼は島民を斬ったことのは軍紀だ、とうそぶいているようだが、20余年も過ぎているので忘れている、とでも思ったのだろうか。住民が陣地に押しかけては攻撃のまとになるとして、わずかに離れた盆地に追いやって集団自決の命令を出したのは赤松大尉でなくてだれだったのか」と声を荒立てる。 あの混乱の中の地獄絵が、まざまざと脳裏によみがえってきたらしく、悲痛な表情で語りつづける。「それにわたし個人としてどうしても許せないのは、"村長がきて機関銃を貸してくれ足手まといの島民を打ち殺したいと申し入れてきた"といっていることです。どうしてわたしに村民が殺せるのですか。ことの真相はこうです。盆地に追いやられたわたしたち住民は、敵軍と友軍の間に置かれ敵軍からの砲撃も激しいので、このままでは皆殺しにされると思い、わたしが友軍のもとへ行って、"軍民で総攻撃したいからわれわれにも機関銃を貸してほしい"といったのです。 結局、銃は借りられず逆に足手まといになるとして自決を強いられたわけだが、同氏の報告では敵に銃を向けるということが住民に向けるとすりかえられている」と事実を明らかにした。 その他、赤松氏が弁明している「私刑」についても、ことごとく事実に反すると反論する。 「少年二人が自分で首をつって死んだとか、いろいろつくろっているが、これらも確かに赤松大尉の命令で処刑されたのです。 いまさら戦争の傷跡をほじくるまい、と思っていましたが、相手に反省の色がなく、史実を曲げるような言動をしている以上、すべてをはっきりさせざるを得ません。これは戦記にも書かなかったのですが、実をいうと赤松大尉は捕虜になるまで一歩もごうから出ず食糧も独り占めして他の将兵たちは住民から食物をもらって自給生活をしていた。兵隊は住民に先がけて戦うものであるにもかかわらず、戦闘意欲は全くなく、わたしに面と向かって"オレは生き延びて大本営に戦況を報告する義務をおわされている"とはっきりいっていました。 平和な世の中になったいまになって考えると軍人であろうと命を粗末にするべきではありませんが、しかし当時の状況の中で住民を殺し自らは隠れて生還するというのは総指揮官がとるべき態度だったでしょうか」と語る。この米田さんも、赤松大尉の命で手りゅう弾の引きがねを引いて自決しようとしたが不発になって捕虜になった一人である。 当時の村長として、この残酷史が赤松氏の弁明によってぬり変えられることを警戒した米田さんは、近く週刊新潮に対しことの真相を投書、赤松氏の弁明を改めて告発するという。 一方、現渡嘉敷村長の玉井喜八氏は「赤松氏はそんなことをいってるのですか」と語り、わたしは戦争当時島にいなかったが、戦記にある通りまさに地獄絵だったといいます。戦後23年もたった現在では島の人々の赤松隊に対する反感も薄れて、すべては戦争が悪かったという気持ちになっており、いまごろになってどうのこうのいってくる赤松氏の態度は逆効果でしょう。いまさら責任をなすり合っても自決した同胞が生き返るわけではないし、二度とむごい戦争を起こさないように努力しあうことが重大です」と多くを語りたがらなかった。 このように当時の体験者たちが「全てを許そう、そして平和な島を築こう」と誓い合っているとき、こんどの赤松氏の出現で心を乱されたかたちだ。島民たちの立場にたてば、沈みかけた怒り、悲しみをゆり起こした事体が赤松氏の"第二の罪"になりはしないか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用おわり) これは資料だから、あまり感想は述べたくないが、ひとつだけ言わせていただけば、米田氏の意見は『ある神話の背景』では、これに較べてやけにトーンダウンしているように思えるがどうだろうか? 曽野綾子氏の批判の的になっているからだろうか? いったい、どちらの米田氏が本当の姿なのか? やはり、資料は結論を急がずに読み比べなければいけない。 1.20追記 米田(旧姓古波蔵)元村長の意見が『ある神話の背景』ではトーンダウンしているように思われる理由がわかりました。 曽野綾子氏は、『ある神話の背景』の雑誌『諸君』連載時には、古波蔵氏からの聞き取りを素のまま記載して「判断は読者に委ねる」という姿勢をしめしていましたが、単行本を上梓するにあたって、古波蔵氏からの聞き取りの一節一節に、元赤松隊隊員の「そんなことはなかったはずです・・・」といった反論を挟み込みました。 古波蔵氏の証言を読むシーンが、古波蔵氏への反論を聞くシーンへと、変更されているのです。 追って詳しくレポートいたします。 沖縄戦資料index
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判決全文 と 準備書面一式 とから調べ 引用は自己責任にてお願いします m(- -)m 書証一覧 サイト内検索 書証一覧本件書籍(結審時) 調書 原告側提出甲A 甲B1~20 甲B21~40 甲B41~60 甲B61~80 甲B81~100 甲B101~120 甲B121~140 甲B141~160 甲C1~ 被告側提出乙1~20 乙21~40 乙41~60 乙61~80 乙81~100 乙101~120 乙121~140 本件書籍(結審時) 番号 証拠名 by whom 成立 本件書籍(1) 「太平洋戦争」岩波現代文庫版 家永三郎・岩波書店 2002年平成14年7月16日 本件書籍(2) 「沖縄ノート」 大江健三郎・岩波書店 1970年昭和45年9月21日 調書 略称 氏名 法廷 備考 知念調書 知念朝睦 皆本調書 皆本義博 宮城調書 宮城晴美 金城調書 金城重明 梅澤調書 梅澤裕 赤松調書 赤松秀一 大江調書 大江健三郎 原告側提出 甲A 番号 証拠名 by whom 成立 甲A1 「太平洋戦争」岩波現代文庫版 家永三郎・岩波書店 2002年平成14年7月16日 甲A2 「沖縄問題20年」 中野好夫, 新崎盛暉・岩波書店 1965年昭和40年6月 甲A3 「沖縄ノート」 大江健三郎・岩波書店 1970年昭和45年9月21日 甲A4 甲A5 甲A6 甲A7 甲A8 甲A9 甲B1~20 番号 証拠名 by whom 成立 甲B1 陳述書 原告梅澤裕 2005平成17年12月26日付 甲B2 『潮』「私は自決を命令していない」 赤松嘉次 1971昭和46年11月号 甲B3 司法制度改革審議会での発言 曽野綾子 2000平成12年 甲B4 『沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄』 曽野綾子・正論 2003平成15年9月号 甲B5 「母の遺したもの」 宮城晴美 2000平成12年12月 甲B6 「鉄の暴風」初版 沖縄タイムス 1950昭和25年8月 甲B7 「太平洋戦争」第1版第1刷 家永三郎 1968昭和43年2月14日 甲B8 「証言」 宮村幸延が書いた? 書かせられた? 1987昭和62年3月28日 甲B9 神戸新聞 1985昭和60年7月30日 甲B10 神戸新聞 1986昭和61年6月6日付 甲B11 神戸新聞 1987昭和62年4月18日付 甲B12 東京新聞 1987昭和62年4月23日付 甲B13 「座間味島の『集団自決』を考えるつどい」宮城晴美発言 琉球新報 2005平成17年8月28日付 甲B14 「沖縄史料編集所紀要 第11号」 沖縄史料編集所 1986昭和61年3月 甲B15-1 回答 沖縄タイムス社 1986昭和61年2月12日付 甲B15-2 回答 沖縄タイムス社 1986昭和61年2月12日付 甲B16 「沖縄県警察史」採話 安里喜順 1988昭和63年2月8日 甲B17 『潮』 「集団自決を追って」 星雅彦 1971昭和46年11月号 甲B18 「ある神話の背景」単行本 曽野綾子 1973年昭和48年5月 甲B19 「第三戦隊陣中日誌」 谷本小次郎 1970昭和45年8月 甲B20 「集団自決の島-沖縄・慶良間」 週刊朝日 中西昭雄 1970年昭和45年8月21日号 甲B21~40 番号 証拠名 by whom 成立 甲B21 『潮』「生き残った沖縄県民100人の証言」 富山真順,金城重明 1971昭和46年11月号 甲B22 「リンドバーグ第二次大戦日記(下)」 甲B23 「渡嘉敷島における戦争の様相」 渡嘉敷村 甲B24 「沖縄戦を考える」 大城将保(嶋津与志) 1983昭和58年 甲B25-1 梅澤宛信書 大城将保 1985昭和60年10月16日 甲B26 『小説新潮』「第一戦隊長の証言」 本田靖春 1988昭和63年1月号 甲B27 謝罪等要求書 梅澤裕 1985昭和60年12月10日 甲B28 謝罪文案口述 梅澤裕 1988昭和63年11月1日 甲B29 謝罪要求をしない」とする内容の文案 沖縄タイムス 1988昭和63年12月22日 甲B30 「『謝罪』要求について(回答)」 沖縄タイムス 「1988昭和63年12月20日」 甲B31 再会翌月の梅澤への手紙 宮城初枝 1982昭和57年7月 甲B32 梅澤に送った手記の写し 宮城初枝 昭和 ? 甲B33 陳述書 原告梅澤裕 2006平成18年8月26日付 甲B34 原告代理人への回答 神戸新聞中井和久記者 甲B35 照屋昇雄の供述 産経新聞 2006平成18年8月27日付 甲B36 「花綵の海辺から」 大江志乃夫 2000平成2年 甲B37 「沖縄戦と民衆」 林博史 2001平成13年12月 甲B38 『正論』「妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった」照屋昇雄と金城武徳の供述 水島総ら 2006平成18年11月号 甲B39 小峰園枝の供述「渡嘉敷村史資料編」 1987昭和62年 甲B40-1 「沖縄戦に“神話”はない」 沖縄タイムス 1985昭和60年4月 甲B41~60 番号 証拠名 by whom 成立 甲B41 甲B42 「沖縄戦を心に刻んで」 金城重明 1995年平成7年 甲B43 「光の泉」 安里喜順,世界聖典普及協会(生長の家) 1996平成8年 甲B44 「沖縄戦ショウダウン」 とコラム 上原正稔 ・琉球新報 1996平成8年6月1日から13回 甲B45 「沖縄の証言(下)」 甲B46 「週刊新潮」コラム 櫻井よしこ 平成18年 甲B47-1 「『集団自決』早期認定」 沖縄タイムス 平成19年1月15日 甲B48 社会科資料集「わたしたちの渡嘉敷島」 甲B49 『Voice』「」 曽野綾子 平成19年 甲B50 甲B51 甲B52-1 『DVD』金城武徳の証言 中村粲撮影 平成10年4月 甲B52-2 『映像反訳書』金城武徳の証言 中村粲 平成10年4月 甲B53 「秘録 沖縄戦史」復刻 山川一郎 平成18年10月 甲B54 甲B55 「沈船検死」 曽野綾子 平成18年 甲B56 甲B57 甲B58 甲B59 『潮だまりの魚たち』 宮城恒彦 2004年平成16年6月 甲B60 安里喜順 赤松大尉の直筆の手紙紹介 沖縄タイムス 甲B61~80 番号 証拠名 by whom 成立 甲B61 特嵩力に宛てた手紙 安里喜順 1983昭和58年6月8日付け 甲B62 安里喜順への返事 特嵩力 甲B63 照屋昇雄への辞令 甲B64 照屋昇雄への辞令 甲B65 照屋昇雄への辞令 甲B66 皆本陳述書 皆本義博 甲B67 知念陳述書 甲B68 甲B69 小林よしのり 甲B70 甲B71 甲B72 甲B73 赤松インタビュー 週刊新潮 昭和43年 甲B74 対談 宮城晴美,目取真俊 甲B75 甲B76-4 甲B77 金城重明寄稿 毎日新聞 平成19年6月22日付 甲B78 金城証言「赤松嘉次守備隊長から」 沖縄タイムス 平成19年6月8日付 甲B79 陳述書 赤松秀一 甲B80 陳述書 佐藤加代子(赤松長女) 甲B81~100 番号 証拠名 by whom 成立 甲B81 甲B82-1 上洲幸子の証言 沖縄タイムス 平成19年7月7日付 甲B82-2 上洲幸子の証言(訂正) 沖縄タイムス 平成19年7月21日及び24日 甲B83 宮平修の投稿 琉球新報 平成19年9月9日 甲B84 産経新聞 曽野綾子 平成19年10月23日付 甲B85 宮村幸延に渡した「証言」下書き 梅澤 裕 甲B86 「中隊長の見た現場」 皆本証人・WILL 平成17年12月号 甲B87 小林よしのり 甲B88 甲B89 甲B90 イェルサレムのアイヒマン ハンナ・アーレント(大久保和郎訳) 甲B91 『慶良間列島の惨劇』 嶋津与志 甲B92-1 沖縄タイムス記事「母の遺言」上 宮城晴美 平成7年6月 甲B92-2 沖縄タイムス記事「母の遺言」中 宮城晴美 平成7年6月 甲B92-3 沖縄タイムス記事「母の遺言」下 宮城晴美 平成7年6月 甲B93-1 「母の遺したもの」受賞報道 沖縄タイムス 平成13年 甲B93-2 「母の遺したもの」出版報道 沖縄タイムス 平成13年 甲B94 「WILL」 曽野綾子 平成20年1月号 甲B95 甲B96 「サピオ」 井沢元彦 平成19年12月12日号 甲B97 「鉄の暴風」?版「まえがき」 沖縄タイムス 甲B98 「沖縄の戦記」 仲程昌徳 1982年 甲B99 (県民大会のこと) 甲B100 甲B101~120 番号 証拠名 by whom 成立 甲B101 甲B102 (宮村幸延らが異議申立してない) 甲B103 (抗議はなされなかった) 甲B104 甲B105 甲B106 甲B107 甲B108 甲B109 甲B110 集団自決「解散命令」の深層 藤岡信勝 正論 2008年4月号 甲B111 「住民よ, 自決するな」と隊長は厳命した 鴨野守 諸君! 2008年4月号 甲B112 「新証言」に関する記事 産経新聞 2008年2月23日付 甲B113 宮平秀幸 甲B114 甲B115 甲B116 甲B117 甲B118 甲B119 甲B120 甲B121~140 甲B121 甲B122 甲B123 甲B124 甲B125 甲B126 甲B127 甲B128 甲B129 甲B130 甲B131 甲B132 藤岡意見書(1)平成20年3月10日付「宮平秀幸証言」添付 藤岡信勝 平成20年7月28日付 甲B133 甲B134 甲B135 甲B136 甲B137 甲B138 甲B139 甲B140 甲B141~160 甲B141 甲B142 宮平秀幸陳述書(1) 平成20年8月7同付 甲B143 甲B144 甲B145 藤岡意見書(2) 藤岡信勝 2008年8月28日付 甲B146 甲B147 甲B148 沖縄タイムズの「不都合な真実」 藤岡信勝・鴨野守 WILL 2008年8月号 甲B149 秀幸新証言 撮影のDVD映像 平成20年1月26日 甲B150 秀幸新証言 上 前半部分反訳 甲B151 秀幸新証言 上 後半部分反訳 甲B152 甲B153 甲B154 甲B155 甲B156 甲B157 甲B158 宮平秀幸陳述書 (2) 平成20年9月1日付 甲B159 甲B160 甲C1~ 番号 証拠名 by whom 成立 甲C1-2 赤松 甲C2-1 『石に泳ぐ魚』訴訟事件判決 甲C3 甲C4 甲C5 甲C6 最高裁平成9年9月9日判決 甲C7 甲C8 甲C9 甲C10 被告側提出 乙1~20 番号 証拠名 by whom 成立 乙1 百人斬り訴訟1審判決 東京地裁 平成17年8月23日 乙2 「鉄の暴風」 沖縄タイムス 昭和25年 乙3 「渡嘉敷島における戦争の様相」「座間味戦記」 座間味村 乙4 「秘録 沖縄戦史」 山川泰邦 昭和33年 乙5 「沖縄戦史」 上地一史 乙6 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」「血ぬられた座間味島」 下谷修久 乙7 「秘録 沖縄戦記」 山川泰邦 乙8 「沖縄県史 第8巻」 琉球政府及び沖縄県教育委員会 昭和46年 乙9 「沖縄県史 第10巻」 沖縄県教育委員会 昭和49年 乙10 「戦闘概要」,「ドキュメント沖縄闘争」所収 新崎盛睴編 昭和28年3月28日 乙11 「裁かれた沖縄戦」 安仁屋政昭 乙12 朝日新聞記事 昭和63年6月16日タ刊 乙13 「渡嘉敷村史 通史編」 渡嘉敷村 平成2年3月31日 乙14 判決 東京地裁 平成15年9月14日 乙15 判決 前橋地裁高崎支部 平成10年3月26日 乙16 30周年記念誌「還らぬ人とともに」 沖縄県遺族連合会 乙17 宮村幸延のメモ 乙18 「仕組まれた『詫び状』」 宮城晴美 『歴史と実践』第26号 2005年7月 乙19 「血ぬられた座間味島」『家の光』 宮城初枝 昭和38年4月号 乙20 「貴村における『集団自決』問題について(照会)」 沖縄タイムス社 昭和63年11月3日付 乙21~40 番号 証拠名 by whom 成立 乙21-1 座間味村村長公文書 座間味村 昭和63年11月18日付 乙21-2 沖縄県援護課あて回答文 座間味村 乙22 訂正・謝罪要求はしないことの明言 原告梅澤 乙23 「『鉄の暴風』周辺」 太田良博 乙24 「裁かれた沖縄戦」曽野綾子証言 乙25 「『ある神話の背景』における『様相』と「概要』の成立順序について」 伊敷清太郎 乙26 赤松インタビュー 琉球新報 昭和43年4月8日付 乙27 百人斬り訴訟控訴審判決 東京高裁 平成18年5月24日 乙28 「自叙伝」 宮村盛永 昭和31年 乙29 「地方自治七周年記念誌」 沖縄市町村長會 昭和30年 乙30 沖縄県史第8巻 琉球政府 昭和46年 乙31 石原昌家 乙32 乙33 「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」 第32軍 1944年昭和19年11月18日 乙34 乙35-1 慶良間列島作戦報告書米国立公文書館で発見 沖縄タイムス 平成18年10月3日付 乙35-2 慶良間列島作戦報告書「座間味島」に関する記載 米軍歩兵第77師団砲兵隊・沖縄タイムス 平成18年10月11日付 乙36 「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」「住民処理の状況」 馬淵新治 昭和32年 乙37 「沖縄戦講話録」 自衛隊幹部学校 昭和36年1月 乙38 「援護のあゆみ」 琉球政府社会局作成 乙39-5 「戦斗参加者概況表」 琉球政府 昭和32年5月 乙40-2 宮村幸延の「功績調書」 乙41~60 番号 証拠名 by whom 成立 乙41 宮村文子陳述書 乙42 乙43-1 録音反訳書 乙43-2 神戸新聞中井和久記者の供述 乙44 沖縄戦の真実と歪曲 大城将保 乙45 大城将保 乙46 乙47-1 「『集団自決』早期認定」 沖縄タイムス 平成19年1月15日付 乙48 與儀九英回答書 與儀九英 乙49 「座間味村史」上巻 乙50 「座間味村史」下巻,宮里美恵子,宮里育江,宮城初枝 乙51 宮平春子陳述書 乙52 上洲幸子陳述書 乙53 宮里育江,上洲幸子 朝日新聞 2007年5月14日朝刊 乙54 金城重明 琉球新報 平成19年4月4日付 乙55 「沖縄方面陸軍作戦」 防衛庁防衛研修所戦史室 乙56 琉球政府の人事記録 乙57 琉球政府の人事記録 乙58 琉球政府の人事記録 乙59 琉球政府の人事記録 乙60 行政文書開示請求書 被告代理人 乙61~80 番号 証拠名 by whom 成立 乙61 行政文書不開示決定通知書 厚生労働省 乙62 宮里育江陳述書 乙63 陳述書 宮城晴美 乙64 「座間味島の集団自決」『沖縄戦―県民の証言』 日本青年出版社,宮城晴美 1972年 乙65 宮城証人調書 乙66 梅澤の宮城晴美への手紙 梅澤裕 1980年(昭和55年)12月 乙67 吉川勇助陳述書 吉川勇助 平成19年7月12日 乙68 安仁屋陳述書 安仁屋政昭 乙69 乙70-1 吉川勇助の証言 沖縄タイムス 平成19年6月14日付 乙70-2 吉川勇助の証言 沖縄タイムス 乙70-3 吉川勇助の証言 沖縄タイムス 乙71 宮平春子, 宮村トキ子 沖縄タイムス 乙72 石原昌家 乙73 乙74 乙75 乙76 乙77 乙78 乙79 「秘録沖縄戦記」 山川泰邦 昭和44年 乙80 乙81~100 番号 証拠名 by whom 成立 乙81 乙82 與儀九英 乙83 乙84 乙85 乙86 乙87 乙88 乙89 乙90 大江 乙91 乙92 乙93 乙94 乙95 乙96 乙97 陳述書 大江健三郎 乙98 宮川スミ子 沖縄タイムス 乙99 (県民大会の報道) 乙100 乙101~120 番号 証拠名 by whom 成立 乙101 乙102 乙103 乙104 乙105 垣花武一陳述書 垣花武一 乙106 乙107 乙108-1 ピデオドキュメント「戦争を教えてください・沖縄編」 記録社 平成4年制作 乙108-2 ピデオドキュメント「戦争を教えてください・沖縄編」 記録社 平成4年制作 乙109 ノンフィクション「座間味島一九四五」 本田靖春 小説新潮昭和62年12月号 乙110 宮城晴美陳述書 宮城晴美 乙111 乙112 乙113 乙114-1 慶良間列島作戦報告書(英語原本) 米軍 乙114-2 慶良間列島作戦報告書(英語原本) 米軍 乙115 乙116 乙117 乙118 撮影状況に関する電話回答 記録社 乙119 田中登元村長は平成2年12月11日に県立那覇病院で死亡 乙120 乙121~140 番号 証拠名 by whom 成立 乙121 乙122 乙123 乙124 乙125 乙126 乙127 乙128 乙129 乙130 乙131 乙132 乙133 乙134 乙135 乙136 乙137 乙138 乙139 乙140 読める判決「集団自決」
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http //book.jiji.com/kyouin/cgi-bin/edu.cgi?20100324-5 教育ニュース 2010年03月24日11時10分 韓国、日本の右傾化懸念=歴史共同研究 日本と韓国の有識者による日韓歴史共同研究委員会は23日、歴史教科書をめぐる摩擦などについて考察した第2期研究の報告書を公表した。この中で韓国側は、日本の教科書で第2次大戦時の従軍慰安婦に関する記述が減ったことや、「新しい歴史教科書をつくる会」が編さんを主導した教科書の検定合格を挙げ、日本の「右傾化」に強い懸念を表明。一方、日本側は、韓国の教科書が記載していない平和憲法を取り上げるよう主張。教科書をめぐる日韓の溝が浮き彫りになった。 日韓歴史共同研究は、2001年に就任した小泉純一郎首相(当時)の靖国神社参拝や「つくる会」の教科書の検定初合格を受け、小泉氏と金大中大統領(同)が同年10月に合意してスタート。第2期研究委(共同委員長=鳥海靖東大名誉教授、趙※〔※=おうへんに光〕、高麗大教授)は07年6月に始まり、古代から現代までの通史研究に加え、教科書問題の専門部会を設け、約2500ページの報告書にまとめた。 韓国側は、1910年の日本による韓国併合から45年の日本敗戦までの植民地支配の時期について、日本の教科書が創氏改名や労働者の強制連行に触れているものの「簡潔でドライ」だと論評。文部科学省による検定には「侵略と支配の事実ができるだけ表面化しないようにする」傾向があると批判した。 特に韓国側は、96年に日本の7種の中学校教科書が従軍慰安婦について明記していたのに、05年には明記が2種に減り、強制性を示す表現も相次いで削除されたことを指摘、「政治、社会的状況の保守化が根本的要因」と断じた。「つくる会」の教科書に対しては、「最も右翼色が強い」「叙述が極端」と警戒心をあらわにした。 これに対し日本側は、従軍慰安婦が「女子挺身(ていしん)隊」の一環として強制的に動員されたと韓国の教科書が位置付けていることについて、「挺身隊は軍需工場などの勤労動員に限定される」と異なる見解を表明。また、「年端のいかぬ青少年に『戦場と性』という難題を果たして教えるべきかという教育現場のためらいもある」と指摘した。 また、戦争放棄をうたった日本の平和憲法について「戦後の日本を理解するには絶対に必要な要素」として、韓国の教科書への明記を要求。昭和天皇以降の戦争への反省のお言葉や、おわびを表した95年の村山富市首相談話も十分に説明するよう求めた。 「つくる会」の教科書について、日本側は「多くの国民の支持を得ていない」「学校現場は冷淡」として、韓国側が過大評価しているとの認識を示した。(了) 日韓歴史共同研究
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通048 | 戻る | 次へ 沖縄集団自決裁判大阪地裁判決 事実及び理由 第4 当裁判所の判断 第4・1 名誉毀損の成否の規準等について 第4・1 名誉毀損の成否の規準等について(1) (訴訟の概略と訴えの成立)* (2) (名誉毀損を理由とする損害賠償請求の要件)* (3) (事実を基礎とする意見や論評による名誉毀損の要件) (4) (名誉毀損を理由とする出版等差止めの要件)* (5) (敬愛追慕の情侵害の場合の要件≧名誉毀損の場合の要件)* (6〕(司法的救済を求めることの遅滞)* (7)(結び)* (1) (訴訟の概略と訴えの成立)* 本件は,冒頭で指摘したとおり,本件各書籍により原告梅澤及び赤松大尉が太平洋戦争後期に座間味島,渡嘉敷島の住民に集団自決を命じ,住民を多数死なせながら自らは生き延びたという虚偽の事実を摘示され,原告梅澤及ぴ赤松大尉の社会的評価を著しく低下させられ,その名誉を毀損され,その人格権や敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたとして,損害賠償及ぴ本件各書籍の出版の差し止め等を求める訴訟である。 人の品性,徳行,名声,信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価である名誉を違法に侵害された者は,損害賠償又は名誉回復のための処分を求めることができるほか,人格権としての名誉権に基づき,加害者に対し,現に行われている侵害行為を排除し,又は将来生ずぺき侵害を予防するため,侵害行為の差止めを求めることができるものと解するのが相当である(最高裁昭和61年6月11同大法廷判決・民集40巻4号872頁参照)。 (2) (名誉毀損を理由とする損害賠償請求の要件)* そこで,まず名誉毀損を理由とする損害賠償請求について検討するに,事実を摘示しての名誉毀損にあっては,その行為が公共の利害に関する事実に係り,かつ,その目的がもっぱら公益を図るものである場合に,摘示された事実がその重要な部分において真実であることの証明があったときには,その行為には違法性がなく,仮にその事実が真実であることの証明がなくても,行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば,その故意又は過失が否定され,不法行為は成立し拒いものと解するのが相当である(最高裁昭和41年6月23日第1小法廷判決・民集20巻5号1118頁参照)。もっとも,書籍の執筆,出版を含む表現行為一般について公益を図ることが唯一の動機であることが必要であるとすることは,実際上困難であるから,ここにいう「その目的がもっぱら公益を図るものである場合」というのは,書籍の執筆,出版について,他の目的を有することを完全に排除することを意味するのではなく,その主要な動機が公益を図る目的であれぱ足りると解するのが相当である。 また,ある書籍中の記述が他人の社会的評価を低下させるものであるかどうかは,当該記述についての一般の読者の普通の注意と読み方とを基準として判断すぺきである(最高裁昭和31年7月20日第二小法廷判決・民集10巻8号1059頁参照)。 (3) (事実を基礎とする意見や論評による名誉毀損の要件) 第2・2(3)イのとおり,沖縄ノートの各記述中には,事実を基礎とした意見ないし論評にわたる部分が存在している。 ところで,公然と事実を摘示した場合に限定する刑法230条1項の名誉毀損罪と異なり,民事上の名誉毀損は,人の品性,徳行,名声,信用等の人格的価値について社会から受ける客観的評価を違法に低下させることによって成立するものであり,侵害の手段は格別限定されないから,意見ないし論評によっても,民事上の名誉毀損は,成立し得る。 そして,ある事実を基礎としての意見ないし論評の表明による名誉毀損にあっては,その行為が公共の利害に関する事実に係り,かつ,その目的がもっぱら公益を図ることにあった場合に,その意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であることの証明があったときには,人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものでない限り,その行為は違法性を欠くものというぺきである(最高裁昭和62年4月24日第2小法廷判決・民集41巻3号490頁参照)。そして,仮にその意見ないし論評の前提としている事実が真実であることの証明がないときにも,行為者においてその事実を真実と信ずるについて相当の理由があれば,その故意又は過失が否定され,不法行為は成立しないものと解するのが相当である(最高裁平成9年9月9日第3小法廷判決・民集51巻8号3804頁参照)。 したがって,沖縄ノートの各記述中の事実を基礎とした意見ないし論評にわたる部分については,まず,その部分が公共の利害に関する事実に係り,かつ,その目的がもっぱら公益を図ることにあったこと及ぴその意見ないし論評の前提としている事実が重要な部分について真実であること若しくは真実相当性の証明があったかどうかを判断することになるが,この点は,名誉毀損を理由とする損害賠償請求の要件と重なる面がある。そして,これが認められた場合には,さらに人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評としての域を逸脱したものであるか否かを検討することとなる。 (4) (名誉毀損を理由とする出版等差止めの要件)* 次に名誉毀損を理由とする侵害行為の差止めとしての本件各書籍の出版等差止めの要件について検討する。 人格権としての名誉権に墓づく出版物の印刷,製本,販売,頒布等の事前差止めは,その出版物が公務員又は公職選挙の侯補者に対する評価,批判等に関するものである場合には,原則として許されず,その表現内容が真実でないか又はもっぱら公益を図る目的のものでないことが明白であって。かつ,被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときに限り,例外的に許される(最高裁昭和61年6月11日大法廷判決・民集40巻4号872頁参照)。 本件では,既に出版され,公表されている書籍の出版等差止めを求めるものであるから,表現行為の事前差止めに関する以上の要件のうち,損害発生に係る要件は,「被害者が重大にして著しく回復困難な損害を被るおそれがあるときに」限定する必要はなく,被害者が重大な損害を被っていると評価されれば足りるものと解される。 そして,本件で問題になっているのは,第2・2(1)アのとおり,太平洋戦争後期に座間味島で第一戦隊長として行動した原告梅澤及び渡嘉敷島で第三戦隊長として行動した赤松大尉が,太平洋戦争後期に座間味島,渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたか否かであって,原告梅澤及ぴ赤松大尉は日本国憲法下における公務員に相当する地位にあったから,本件各書籍の出版の差止め等は,その表現内容が真実でないか又はもっぱら公益を図る目的のものでないことが明白であって,かつ,被害者が重大な損害を被っているときに認められると解するのが相当である。 ※↑原告梅澤及ぴ赤松大尉は、私人ではなく公務員であったことの指摘 この要件を名誉毀損を理由とする損害賠償請求のそれと比較した場合,真実性が認められないことが求められたり主張,立証責任の観点からも,原告らに責任が加重されていると考えられるのであって,名誉毀損を理由とする損害賠償請求が認められない場合に,名誉毀損を理由とする侵害行為の差止めとしての本件各書籍の出版差止めが認められる余地は存しない。 したがって,以下の争点についての判断に際しては,まず名誉毀損を理由とする損害賠償請求の成否についての判断を示し,それが認められる場合に,名誉毀損を理由とする侵害行為の差止めとしての本件各書籍の出版差止めの要件について検討を進めることとする。 (5) (敬愛追慕の情侵害の場合の要件≧名誉毀損の場合の要件)* ※名誉毀損による損害賠償の要件が認められなければ、敬愛追慕の情侵害による損害賠償は当然認められなくなる。よって、まず、名誉毀損による損害賠償の要件について判断する=争点7は場合によっては審理に及ばない。 原告赤松は,第2・2(1)アのとおり,赤松大尉の弟であり,本件請求は,赤松大尉の名誉が本件各書籍により侵害され,これにより原告赤松の赤松大尉に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする。 ところで,死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求について,その要件が名誉毀損を理由とする損害賠償請求より加重されるか否かについては,原,被告らが第3・7で裁判例を引用するなどして主張するとおり,見解の対立があり,「比較的広く知られ,かつ,何が真実かを巡って論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現行為について,当該行為(故人の生前の行為に関する事実摘示又は論評)が故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害する不法行為に該当するものというためには,その前提として,少なくとも,故人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要するものと解するのが相当であり,その上で,当該行為の属性及ぴこれがされた状況(時,場所,方法等)などを総合的に考慮し,当該行為が故人の遺族の敬愛追慕の借を受忍しがたい程度に害するものといい得る場合に,当該行為についての不法行為の成立を認めるのが相当である。」と判示した東京高裁車成18年5月24日判決(乙27)のように,これを加重する見解も存している。 しかしながら,死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求について,その要件が名誉毀損を理由とする損害賠償請求より軽減されるとする見解は存しないし,これを軽減すぺき法的根拠は見出し難いから,それが軽減されるとは解されない。したがって,以下においては,まず赤松大尉に関する記述についても,通常の名誉毀損を理由とする損害賠償請求に関する要件を検討し,それが認められる揚合に,さらに死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求の要件について検討を進めることとする。もとより,赤松大尉に関する記述について,通常の名誉毀損を理由とする損害賠償請求に関する要件を充足しない場合には,死者に対する敬愛追慕の情を内容とする人格権を侵害されたことを理由とする損害賠償請求の要件について検討を進める必要がないことは,以上の判示から明らかである。 (6〕(司法的救済を求めることの遅滞)* 本件で間題となづているのは,太平洋戦争後期に発生した座間味島,渡嘉敷島における住民の集団自決であり,それは,第2・2(2)のとおり,昭和20年3月25日から同月28日にかけて発生したものであって,後記第4・5(6)のとおり,歴史の教科書に採り上げられるような歴史的事実に関わるものであって,既に発生から60年を超える年月が経過していることから,当裁判所に顕著な平均余命を考えると,赤松大尉を含め,関係者の多くが既に死亡しているものと認められる。 一方,第2・2(3)のとおり,家永三郎著の「太平洋戦争」は,昭和42年2月14日に発行され,その改訂版である「太平洋戦争 第二版」は昭和61年11月7日に発行され,本件書籍(1)は,平成14年7月16日に文庫化されたものである。また,沖縄ノートについても,第2・2(3)のとおり,昭和45年9月21日には既に発行されているのであって,原告ら及び赤松大尉が本件各書籍若しくはその前身である書籍に関して司法的救済を求めることは,昭和45年には可能であったと認められる。 本件で問題となっている太平洋戦争後期に発生した座間味島,渡嘉敷島における住民の集団自決に,原告梅澤及ぴ赤松大尉が関わったか否かについての実態の調査には,以上のとおり,既に時聞の壁が存するといわざるを得ないし,当裁判所には,当事者双方が提出し,若しくは申請した書証,証人の取調べに判断の資料が限定されるという司法的な限界も存するのであって,当裁判所の行う事実の存否の解明には,こうした限界があることを指摘せざるを得ない。 もとより当裁判所としては,前記事実の存否の解明それ自体が目的ではなく,これまで判示した損害賠償請求等の要件へのあてはめを立証責任を踏まえて判断することになる。その際,真実相当性の有無の判断に際しては,集団自決を体験したとする座間味島,渡嘉敷島の住民の供述やそうした記載を掲載している諸文献が重要な意味を有することは明らかである。 しかしながら,先に判示したとおり,集団自決が発生して相当時日が経過し,関係者の多くが既に死亡していると考えられることから,集団自決を体験したと供述し,諸文献に記載されている座間味島,渡嘉敷島の住民やそうした記載を掲載している諸文献の作者に対して反対尋問権を行使し得ず,その弾劾ができない場合に遭遇せざるを得ない。このことは,そうした諸文献の重要性に鑑みると,原告らに不利益な側面を有しているといわざるを得ないが,それは原告ら及ぴ赤松大尉が本件各書籍に関して司法的救済を求めることが遅滞したことに起因するものといわざるを得ない。 (7)(結び)* 以上,種々指摘した点を踏まえて,各争点について検討を加えることとする。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」
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http //www.iza.ne.jp/news/newsarticle/column/93251/ 【正論】曽野綾子 集団自決と検定 それでも「命令」の実証なし 10/23 05 28 ■戦争責任と曖昧な現実に耐えること ≪大江氏の『沖縄ノート』≫ 1945年、アメリカ軍の激しい艦砲射撃を浴びた沖縄県慶良間列島の幾つかの島で、敵の上陸を予感した島民たちが集団自決するという悲劇が起きた。渡嘉敷島では、300人を超える島民たちが、アメリカの捕虜になるよりは、という思いで、中には息子が親に手をかけるという形で自決した。そうした事件は、当時島にいた海上挺進第3戦隊隊長・赤松嘉次大尉(当時)から、住民に対して自決命令が出された結果だということに、長い間なっていたのである。 1970年、終戦から25年経った時、赤松隊の生き残りや遺族が、島の人たちの招きで慰霊のために島を訪れようとして、赤松元隊長だけは抗議団によって追い返されたのだが、その時、私は初めてこの事件に無責任な興味を持った。赤松元隊長は、人には死を要求して、自分の身の安全を計った、という記述もあった。作家の大江健三郎氏は、その年の9月に出版した『沖縄ノート』の中で、赤松元隊長の行為を「罪の巨塊」と書いていることもますます私の関心を引きつけた。 作家になるくらいだから、私は女々しい性格で、人を怨みもし憎みもした。しかし「罪の巨塊」だと思えた人物には会ったことがなかった。人を罪と断定できるのはすべて隠れたことを知っている神だけが可能な認識だからである。それでも私は、それほど悪い人がいるなら、この世で会っておきたいと思ったのである。たとえは悪いが戦前のサーカスには「さぁ、珍しい人魚だよ。生きている人魚だよ!」という呼び込み屋がいた。半分嘘(うそ)と知りつつも子供は好奇心にかられて見たかったのである。それと同じ気持ちだった。 ≪ないことを証明する困難さ≫ これも慎みのない言い方だが、私はその赤松元隊長なる人と一切の知己関係になかった。ましてや親戚(しんせき)でも肉親でもなく、恋人でもない。その人物が善人であっても悪人であっても、どちらでもよかったのである。 私はそれから、一人で取材を始めた。連載は文藝春秋から発行されていた『諸君!』が引き受けてくれたが、私はノン・フィクションを手掛ける場合の私なりの原則に従ってやった。それは次のようなものである。 愚直なまでに現場に当たって関係者から直接談話を聴き、その通りに書くこと。その場合、矛盾した供述があっても、話の辻褄(つじつま)を合わせない。 取材者を怯(おび)えさせないため、また発言と思考の自由を確保するため、できるだけ一人ずつ会う機会をつくること。 報告書の真実を確保するため、取材の費用はすべて自費。 今日はその結果だけを述べる。 私は、当時実際に、赤松元隊長と接触のあった村長、駐在巡査、島民、沖縄県人の副官、赤松隊員たちから、赤松元隊長が出したと世間が言う自決命令なるものを、書き付けの形であれ、口頭であれ、見た、読んだ、聞いた、伝えた、という人に一人も会わなかったのである。 そもそも人生では、「こうであった」という証明を出すことは比較的簡単である。しかしそのことがなかったと証明することは非常にむずかしい。しかしこの場合は、隊長から自決命令を聞いたと言った人は一人もいなかった稀(まれ)な例である。 ≪もし手榴弾を渡されたら≫ この私の調査は『集団自決の真相』(WAC社刊)として現在も出されているが(初版の題名は『或る神話の背景』)、出版後の或る時、私は連載中も散々苛(いじ)められた沖縄に行った。私は沖縄のどのマスコミにも会うつもりはなかったが、たまたま私を探して来た地元の記者は、「赤松が自決命令を出したという神話は、これで否定されたことになりましたが」と言った。私は「そんなことはないでしょう。今にも新しい資料が出てくるかもしれませんよ。しかし今日まで赤松が自決命令を出したという証拠がなかったということなんです。私たちは現世で、曖昧(あいまい)さに冷静に耐えなきゃならないんです」と答えた。この答えは今も全く変わっていない。 戦争中の日本の空気を私はよく覚えている。私は13歳で軍需工場の女子工員として働いた。軍国主義的空気に責任があるのは、軍部や文部省だけではない。当時のマスコミは大本営のお先棒を担いだ張本人であった。幼い私も、本土決戦になれば、国土防衛を担う国民の一人として、2発の手榴弾(しゅりゅうだん)を配られれば、1発をまず敵に向かって投げ、残りの1発で自決するというシナリオを納得していた。 政治家も教科書会社も、戦争責任を感じるなら、現実を冷静に受け止める最低の義務がある。(その あやこ=作家)
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