約 117,510 件
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/45.html
人工言語は言語の一種であるから音韻・文法・語彙・文字・非言語を持っている。ただ自然言語に文字を欠くものがあるように、これらの要素が全て揃っているとは限らない。これらの要素を全て持っていれば申し分ないが、実際には一部を欠くことがある。 現在使われている自然言語のうち「音韻はないが文法はある」などといったものは考えられないが、人工言語の場合どの要素が欠けてもよい。たとえば話すことを一切考慮せず、文字と語彙と文法しか決めない言語も考えられる。このような言語は決して絵空事ではない。文字と語彙と文法だけを決め、単語に音価を当てない。音価がなければ音韻を定める必要もない。では読むときはどう読めばいいのか。読み手のそれぞれの母語で読めばよい。この手の人工言語は4世紀も前から存在していた。そしてそれは必ず表意文字か語意を表す数字を持っていた。音韻がない以上、表音文字にはできないからである。 自然言語と異なり、人工言語は一見無作為に要素を欠いているように見える。だが実際そうとは限らない。人工言語がどの要素を欠くかを観察していけば、なぜ欠けるのかという理由が見えてくる。更にそれを逆用すると人工言語はどのように発展して現在の形に落ち着いたのかを見ることができる。上の5要素を全て持っている申し分ない人工言語に至るまでにどのような欠損を持った人工言語の雛が存在していたか。また原初的な人工言語とはどのようなものであったか。 まず最も原初的な人工言語とは何であろうか。それは意外にも現存するような欠損のない人工言語に極めて近い後験的なものである。最初の人工言語は暗号である。本論ではまとめて暗号型と呼んでいるが、他所では暗号言語や秘密言語などとも呼ばれている。 暗号としての人工言語は古代エジプトやローマにも見つけることができる。最古の暗号は古代エジプトの石碑に刻まれたヒエログリフとされており、これは紀元前1900年ほど前のことである。この暗号を人工言語に含めると、人工言語の起源は少なくとも約4000年ほど前まで遡ることができる。一方、人類最初の文字はメソポタミア地方チグリス=ユーフラテス下流のもので、これは5000年ほど前に遡る。意外にも暗号としての人工文字は早くから存在していたことになる。 人工言語はその産声を上げたときから長い間もっぱら暗号として機能していた。およそこの頃は「人工言語=暗号」であったといっても差し支えない。暗号としての人工言語は資料が残されているわけだから少なくとも文字を持っていた。同時にその文字自体が語彙を形成するので語彙も持っていた。古代人がそれを口で読んでいたかどうかは分からないが、もし読んでいたなら音韻も備えていたことになる。 ヒエログリフにおいて最も意識されることはそれが文字であるという事実である。原初の人工言語が暗号と同義であるならば、文字が人工言語の黎明に大きく関与していることになる。そして実際他の例を見ていくと、人工言語において文字がいかに重要な役割を持っていたのかを知ることができる。自然言語において文字を持たない言語が多く存在するため、文字は言語にとって必要条件ではないという低い地位に押しやられている。しかし人工言語では文字が大きな役割を持ち、時には国家まで揺れ動かしてきた。 たとえば15世紀に李氏朝鮮第四代国王世宗(セジョン)が作った朝鮮文字ハングルは人工文字であり、現在朝鮮半島で実用されている。だがこの人工文字が実用されるまでには相当な歴史的背景があった。 文字を話題にするのなら更に時代を遡ることができる。紀元前221年には秦の始皇帝が中国を統一し、度量衡とともに漢字を矢継ぎ早に統一した。統一から外れた文字は排斥された。ただしハングルと違ってこれは既存の文字をまとめたという性質が色濃いため、人工文字ひいては人工言語の範疇に入れるのは難しい。しかし国家の手によって人為的に文字が操作された歴史としては取り上げるべきことである。 ハングルにせよ始皇帝の漢字統一業にせよ、古代エジプトやローマの例とは異なり、暗号でないことが注目に値する。朝鮮では百姓が、中国では人民が使うために作られたものであるという点で暗号とは一線を引く。 古い人工言語における文字の役割は大きく、特には政治的背景と相まって形成されてきた。尚、このことは音韻や文法を制定するよりも文字を制定するほうが簡単だということにも繋がる。ハングルは確かに人工文字だが、それは朝鮮語を表すためのものでしかない。世宗は朝鮮語の音韻や文法まで作ろうとはしなかった。朝鮮語そのものを変えることは彼の目的には適わなかったし、何よりやろうとしても当時は技術が足りなかった。音韻、更には音声を百姓の間に制定しようとするのは政治的以前に印刷技術や録音技術の乏しい時代では極めて難しいからである。文法を制定するのは音に比べれば容易であるが、それよりも文字のほうが人の手を加えるのに適した素材だった。 できるできないの話を別としても、音韻や文法に比べて文字のほうが手を加える必要性があった。暗号として使われる文字は字形を変えたほうが見破られにくいので手を加える必要性が大きい。また暗号を欲しがらなかった朝鮮にも文字に手を加える必要性があった。ハングルが作られたのはたとえば漢字の読めない民衆が不当な扱いを受けた際に裁判を申し立てられないなどといった窮状を鑑みた結果である。その他にも作られた理由はいくつもあるが、いずれにせよ朝鮮が欲したのは暗号ではなく理解しやすい実用的な文字であった。そしてそれを得るためには漢字というシステムから脱却する必要があった。尚、このような大きな政治的な動きがスムーズに運ぶことは稀で、実際当時はこの改革に対する反論があった。 1442年、世宗配下の漢学者崔萬理がこのような反意を上奏した。 「民百姓が犯罪の容疑をうけたとき、かれらが自分の無罪を主張できないという理由で誣告をうけるという王のおことばは、納得できません。」金(1984) ハングルの歴史はこの後、更なる憂き目を見ていくこととなる。いずれにせよこのように古い人工言語にとって人工文字或いは人為的に選ばれた文字が持つ役割は大きく、しばしばそこには政治的・経済的・社会的な背景が関与していた。趣味で作る演出型などと違い、のっぴきならない理由がそこにはあった。 東洋は歴史的に見れば概ね中国が中心に位置していた。文明は中国(或いはインド)から主に伝播されるものであった。この結果、中国の国字である漢字と東洋(特に東アジア)の人工文字は大きな関わりを持った。 漢字とは似ても似つかない字形のハングルであるが、これでも水面下では漢字との大きな関与があった。そもそもハングルができたのは国字を持つという朝鮮民族のアイデンティティの問題や上述のような民衆の社会的問題に対処するためである。そしてそれに対する反論も主に当時の宗主国である中国の怒りを恐れたことに起因する。したがって中国及びその国字である漢字と独立してハングルを語ることはできない。つまり人工言語において文字は強い社会的背景を持ち、その背景と切り離せない関係にあるということである。但しエスペラント以降の文字はこのかぎりではない。 文字の持つ背景は社会的なものだけではない。宗教などの文化或いは民族意識を背景とすることもある。そのような論争はかつて日本にもあった。日本はハングルのような国字を新たに作るようなことはなく仮名文字で和語を表していたが、その日本にも文字論争があった。神代文字である。 神代文字は日本古来の漢字に依存しない固有の文字とされ、室町時代には少なくとも神道の間で広まっていた。この是非について国学者の本居宣長らが反論をした。神代文字を巡っての議論は平行線を辿った。結果、この議論は時代を下って持ち越された。明治になると神道が主唱する神代文字は偽造であると国語学者の山田孝雄(よしお)は述べた。 神代文字は現代では一般に言語学の対象よりもむしろ哲学思想の対象としてみなされがちである。この論争の重要な点は、日本は古来から漢字ではない固有の文字を持っていたという主張にある。神代文字自体が重要なのではない。固有の文字を持つことが中国の精神的支配からの脱却であり、日本民族のアイデンティティの確保でもあり、何より神道の思想に沿った。そのことが重要である。この神代文字のように宗教や思想を背景とした文字が確認できる。 また神代文字にはハングルも似たものがある。阿比留(あひる)文字という。ハングルを真似て作ったのではないかと言われているが、逆にハングルがこれを真似て作られたと主張する者もいる。神代文字は近代現代においてもはや神道よりも日韓の国家関係や民族意識を反映している。 神代文字が人工文字だとしたら、人工言語における文字は文化・宗教・哲学思想のみならず、民族意識や果ては国家関係までを背景とするといえる。以上から、人工言語において文字がいかに重要な役割を持っていたかが分かった。人工言語における文字は決して暗号を伝えるためだけの機能物質ではなく、その後ろにある様々な背景を暗示するものである。 金両基(1984)『ハングルの世界』中公新書111pp.
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/52.html
しかし19世紀になっても哲学的言語は死滅したわけではない。往年の力は失っているものの、夢想者は後を絶たない。ジャック=ド=ヴィスムは19世紀初頭に音楽的要素を帯びた言語を作る。アルファベットを21字使って21の音を表す。そしてこれは五線譜の上に書かれる。 21音でどうやって21概念以上を作るのかというと、和音を用いる。 Cのような3和音(ドミソ)からなるコードでも21の3乗分の組み合わせがある(重複は除く)ため、相当数表現できることになる。確かに自然言語で賄っている単語の数くらいは用意に賄えるだろう。 こういった音楽言語は他にもあり、むしろフランソワ=スードルのソレソ或いはソルレソルのほうが有名だろう。これは1827年に考案され、1855年のパリ万博で1万フランの賞金を得ている。 ソトス=オチャンド『普遍言語の計画案』(1855)も17世紀の亡霊で、経験主義な分類によって概念を分け、規則的にアルファベットを配列して造語する。最小対語の問題は無論残ったままである。17世紀と異なるのは科学が発達しているので、当時の最新の科学観を反映している点である。結局分類に頼った方法は作者の経験かそうでなくば当時の科学に依存するしかないという限界がある。この限界ゆえ、分類法に基づく言語を見ていれば――そして科学史に精通していれば――いつごろ作られた言語であるかが推測できる。これは現代の我々が人工言語を分析する上で便利なタグとして機能するが、この機能は普遍言語を目指した当人からすれば極めて不名誉であったに違いない。 さて、19, 20世紀に入るとライプニッツらから分岐してきた理系人工言語が更にウィルキンズらの人文人工言語と分離していく。ジョージ=ブール、フレーゲ、ヴィトゲンシュタイン、カルナップ、そして果ては宇宙人との交信用に作られた信号が如きハンス=フルーデンタールのリンコス――これらはいずれも理数系人工言語で多かれ少なかれライプニッツの影響を受け、今日のコンピュータ言語へと繋がっていくものである。 一方、人文系人工言語の一派は20世紀に入ると普遍言語ではなく国際補助語へと姿を変えていく。普遍言語は1866年を境にほぼ死滅させられ、それに代わって台頭してきたのが国際語、或いは国際補助語である。下火ではあったもののまだ残存していた普遍言語は19世紀初頭に比較文法学によって一時脚光を浴びる。哲学的言語においてもアダムの言語を見つけようとする神学的言語においてもやや盛況になった時期だが、特に前者のアダムの言語への夢がこのころは強かった。というのも人工言語ではなく、言語の起源が何であるかを巡って論争が行われていた時期でもあったからである。単一起源論者はいうまでもなくアダムの言語に固執し、それを証明しようとした。比較言語学などが進歩していく中で、徐々に単一起源論者は劣勢に追い込まれていくものの諦めはしなかった。しかしこの劣勢が徐々に疲弊に変わると事態は学会まで巻き込んで変わっていった。このような背景の下、1866年にパリ言語学会が創立すると、学術的な厳密性を持った議論をすべきであるという主旨がやにわに起こった。そして学会は言語の起源と普遍言語にかかわる論文を受理しない方針を明らかにした。 この事実だけを知っているとこれが言語学が人工言語を対象としない理由に見えてしまう。しかしいま述べたような時代背景を知っていればそうでないと分かる。学会は根拠が薄く無秩序に繰り返される議論を拒絶した。その議論とは言語の起源に関するものである。普遍言語は単一起源論者にとって証明の道具として使われた。もはや普遍言語は17世紀の普遍言語論争とは異なった目的を見込まれていた。普遍言語は連座の形で学会から拒絶されたわけである。確かに普遍言語も人工言語の一部である。したがって正確にいえば言語の起源を論じるための傍証としての普遍言語が言語学会の対象から外されたことになる。他のあまねく人工言語は拒絶されていないため、 1866年の件は人工言語が言語学の対象にならない理由にはならない。しかし、いずれにせよこの言語学会の表明は影響力があった。このことが原因のひとつとなって既に下火だった普遍言語が死滅し、それにとって代わる形で人工言語の潮流が国際語と国際補助語に変わったことは間違いない。 さてこのころは科学技術の発展に伴い、コミュニケーションも交通も高速で行われるようになり、地球が狭くなった時代である。当然、異文化とのコミュニケーションが重要になり、西洋での共通語のフランス語が世界規模では共通語でなくなってきた。つまりは科学の発展が世界を狭くし、ひいてはバベルの混乱を復活させたわけである。これに伴い共通語の需要が再び高まった。ところが特定の言語たとえばフランス語を国際語にするのは現実的に難しいユートピア思想に過ぎず、イデオロギーとしてもある特定の民族の言語を押し付けるという点で難点がある。更に学術世界の共通語であるラテン語を再燃させるのも困難を伴う。事実上死語なので中立の立場は取れるものの、ラテン語そのものの曖昧さや複雑さが国際語としては不適格であると考えられた。そこで学習者にとって中立でしかも学習が容易な言語を考案し、これを国際補助語として使おうという考えが出てきた。 この理念により、人工言語の類型は急激に先験語から後験語に流れていく。尤もこれは万人の考えではなく、フランス語を国際語として採択しようという現実的な案のほうが遥かに実践的であったことを加えておく。 このような国際補助語の観点でクチュラとレオーは『新しい国際語』(1907)で、数々の案出された言語案を検討している。両者は1901年に「国際的補助言語を採択するための委員会」を発足している。こうした委員会ができたということは当時の社会において必要性があったことが推測される。委員会ができた時点で既に委員会を作るだけの理由があったのだろうということである。たとえばシュライヤーが1879年に考案したヴォラピュクが好例である。ヴォラピュクはドイツ・フランスで広まり、1889年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアにまで手を伸ばすようになった。 ヴォラピュクは28字のアルファベットを使用し、1字1音体系である。アクセントは最後の音節にある拘束体系である。普及を狙った結果、当時大きな存在であった中国語がrを発音できないと考えたシュライヤーはr音を除いた。中国しか視野に入れていない点でまだ世界観が全世界にまで広がってはいない。参照言語は既に力を付けていた英語である。しかし語彙についてはドイツ語を使っていることが多い。また、単語は参照言語の単語をかなり切り詰めているため、かなりの推量を使用者に要求する。短いのは良いのだが、その代わり覚えにくいという欠点を持つ。何を参考にしたのか分かりにくい点で後験性は若干弱まっている。形態論は屈折を持つが、膠着が豊富である。規則性が強いため、たとえば形容詞は例外なく-ikを持つ。 gudを見れば「良い」に関係することだろうなということは推測できるが、実はこれは-ikが付いていないので「善」という名詞である。「良い」にするにはgudikとせねばならない。エスペラントのmal-のような劣等を指すlu-はvat(水)と組み合わさると汚水ではなく尿になる。この辺りの作者による恣意性はダルガーノやウィルキンズ(特にダルガーノ)の造語を髣髴させる。国際補助語の概念は普及型にはちょうど良かったようで、普遍言語論争時代よりも遥かに利用者を獲得していた。ヴォラピュクは当時、驚異的な成功を収めたといえる。 一方、ザメンホフが1887年にエスペラントについての手引書をロシア語で出版した。ヴォラピュクに少し遅れて作られたこの言語は国際補助語として最も普及した人工言語である。エスペラントは5母音、23子音の音素体系を持つ。アクセントは最後から2番目の音節に来る。文字はラテンアルファベットに字上符を付けたもので、28字である。すなわち1字1音体系である。固有名詞を除いてq,w, x, yを欠く。語彙はロマンス語からの流入が最も多く、次いでかなり引き離してゲルマン語から流入させている。基本語順はSVOである。類型的には膠着語である。規則性が高い図式派の代表である。文法上の性は持たないが数を持つ点でやはり西洋語である。英語と異なり名詞が複数形だと形容詞も複数形になる。これはややこしいということで批判を浴びている。実際エスペラントはかなりの批判要素がある。発表後はとにかく叩き台になり、批判を受けると同時に他の言語を生む土壌にもなっていった。 19, 20世紀は国際補助語の時代であった。エスペラントを筆頭に人工言語が利用者を獲得していった。それ以上にエスペラントは派生言語を生んだ。言い換えれば利用者の獲得もさることながら、エスペラントを参照言語とした人工言語も数多く作られた。このことはエスペラントが普及型の人工言語の中で異例な度合いで普及したことを反映している。ただ、上述のように歴史的に見て人工言語と普及の関係は言語自体の合理性などといったシステムにはなく、むしろ社会的な要素にある。なるほどエスペラントより合理的で論理的な言語はいくつもあろう。そして実際枚挙に暇がないほど考案された。 だがそのどれもがエスペラントの普及を上回らなかったことが、人工言語の普及が言語的なものではなく社会的な要素にかかっているということを示している。 比較的普及した人工言語を挙げろといわれればまずエスペラントが来るが、それに次いでヴォラピュク、インテルリングア、イドなどを挙げることができる。インテルリングアは別所で既に触れてあるが、これはベアノの考案した言語で、自然派に位置するものである。 ヴォラピュクからはバルタ、エスペラントなどが派生している。インテルリングアからはラティヌルス、パンリングアなどが派生している。ヴォラピュクから派生したエスペラントからは更に数え切れないほど派生しており、改良エスペラント(1894)、ペリオ、モンドリングォ、イド、ネオ、エスペランテュイショ(1955)などがある。世紀を跨いで長きに渡って作られている。エスペラントから派生したイドは更にドゥータリング(1908)、ラティン=イド、ムンディアル、インタル、コスモリングォ(1956)などがあり、こちらも少なくとも半世紀ほど続いて派生している。 つまり19世紀終わりごろから20世紀は将にヴォラピュクやエスペラントなどを祖とした国際補助語の系譜の歴史に他ならない。またここで観察されたことは普遍言語論争と同じく、人工言語の普及は言語のシステムより社会的・経済的要因によるものだということである。普遍言語にせよ国際語にせよ、本来は言語の壁を取り除くことが共通の目的であった。そのアプローチとして哲学的手段や自然言語を参考にする手段などがあった。またそこには言語の壁を取り除くよりも人類の祖語たるアダムの言語への回帰を目的とするものもあった。しかしこれもひとつの共通語を得るという結果においてはやはり同じである。つまり普遍言語や国際語はいずれのアプローチであろうと共通の言語を目指してきた。 しかし実際には普及は小規模でしか実現せず、最も普及したエスペラントも国際語或いは国際補助語の地位を築けないでいる。更にウィルキンズやライプニッツやザメンホフに対する改良案がたびたび出されてきた。普及せぬまま言語の数ばかり増えるのというのが実情である。自然言語が減少する一方で人工言語はむしろ増えているのは興味深い。バベルの再建を目指す行為がむしろ新たなバベルの崩壊を招くというのは矛盾的な行動である。 バベルの塔を崩壊させたのは神であった。人工言語の作者はその言語の命名における創造主としての神であるが、バベルの塔を再び崩壊させるという点においてもまた神である。現在のように社会の受け皿がない時代は人工言語は影響力を持たないが、 17世紀のように時代に歓迎されていたころの作者は人工言語と同時に人工カオスを作っていたことになるというのは歴史の皮肉である。そしてそれを21世紀に再現するというのなら、それは20世紀のエスペラントの焼き増しよりも強烈な歴史の皮肉になるだろう。 現在の地球は17, 20世紀とは事情が異なる。社会は普遍言語に熱を入れておらず、土着語がほぼ対等な力で乱立しているわけでもない。 18世紀のヨーロッパにおけるフランス語が普遍言語の熱を醒ましたのと同様、 21世紀の地球における英語が普及型の熱を醒ましている。したがって普遍言語や国際語を目指した場合、いまの地球では人工言語でなく自然言語の英語に共通性を求めるのが妥当であろう。社会もそれを反映して普及型に目を向けないため、人工言語の意義やあり方は確実に全盛期とは変わってきている。注意したいのは20世紀の国際語時代による大きな影響によって人工言語をエスペラントに代表される国際語と等価と考えてしまうことである。これまで見てきたように人工言語には色々な類型があり歴史もある。前世紀の国際語時代の挫折を人工言語の挫折と等価に見るのは早計かつ無邪気すぎる。通時的に見れば人工言語は別の時代に突入したと考えるのが妥当である。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/49.html
フランシス=ロドウィック。17世紀に人工言語を作成。主な資料は『共通の文字』A Common Writing(1647)など。 ロドウィックで最も取り上げるべきことは語根が名詞からではなく行為から作られるという点である。 to drinkを表す語根記号が根底にあり、その字に付加記号を付けることによって名詞や形容詞などを派生させる。簡単にいえば多くの言語が名詞ありきであるのに対し、ロドウィックは動詞ありきである。たとえば「飲む」をδで表すとし、動作主を¬のような記号で表す。したがってδ=「飲む」であり、δ¬=「飲む人(drinker)」となる。¬以外の記号も存在し、それをδに付けることによって今度は「酔っ払い」や「居酒屋」などを派生することができる。酔っ払いは「δ+性質記号」、居酒屋は「δ+場所記号」で示される。 文字は先験要素も持った後験文字である。飲むという記号がδのような形をしていたり、loveの語根がLのような形をしていることからも明らかである。また付加記号もヘブライ語などを参考にしているようである。 ロドウィックは行為ありきの言語であるが、行為化できないものはどうすればよいのだろうか。たとえば副詞、前置詞、接続詞、感動詞などである。これらについては語根に付加記号を付けて表すという方法で整合性を持たせている。但し固有名詞は自然言語で書くことになっている。 「飲む」はいいとしても他の名詞はどうか。神のような語は行為から作れそうにない。これについてはto exist(to be)から派生しているようである。このおかげで覚えなければならない語根数は非常に圧縮されている。 欠点は少し文字を間違えただけで一瞬にして意味が変わってしまう点。基本的に五線譜の上に文字を書いていくのでかなり書くのに気を使う。ならびに背景となる五線譜が文字を横切って走っていくため、美観を損ね、同時に認識を悪くしている。また、語根が少なかろうと結局漢字を覚えるのと似たような苦労を強いられる点。動詞から名詞を作る際の意味が恣意的で、ロドウィック式の思考を一々覚えねばならない点など。 文法は英語のものである。辞書については英語と普遍文字の対訳辞書を作ろうとしたが、結局実現されなかった。ロドウィックの人工言語は英語を参照言語にした後験語であるといえる。尚、文字はLがloveに近いようなことからアルファベットを基にした字であることは分かる。だが変形が激しく参照元が分かりづらいため、先験性を多少帯びている。 さて、ロドウィックの人工言語を見てまず気付くことは何か。徹底した語彙圧縮を行っている点である。覚えなければならない事項を減らすという姿勢は既にこのころの普及型に見られるものである。ロドウィックがこうしたのは覚えづらいという批判に対してというのも確かにある。だが実際はそれだけではなく彼が言語を考案した背景に記憶術があったことが関与している。普遍文字はその汎用性だけでなく、記憶術の応用としての作例でもあった。 言語を作る場合に、普及型だと特に覚える事項数が気になる。多ければ多いほど学習者の負担が増え、広まりにくいと考えられるからである。そこで作成者はどうにか事項数を減らそうとする。ところがその方法は非常に限られている。たとえば何種類もある花の名を覚える際、それらが系統だった名前をしていれば覚えやすい。だがパンジーやアジサイやバラなどといった何ら規則を見出せないものは覚えにくい。そこで作者は花なら花で分類していく。たとえば花は植物の下位概念で、パンジーの上位概念である。このように分類を用いることによって単語が整理されるため覚えやすくなる。その結果、極端な話をすればアジサイはパンジャーでバラはパンジョーといった風になる。覚える事項は減るかもしれないが、かえって混同して覚えにくく、使い勝手は更に悪い。だがこの時代の作者は基本的にこういった分類に頼っていた。 元々この分類というのはアリストテレスの範疇論に由来している。先験語の走りとなった哲学的言語の思想の源流となるアリストテレスの範疇は普遍言語を作るには頼りないものであった。アリストテレスは実体・量・時間・場所・位置・性質・状態・関係・能動・受動という10のカテゴリーを挙げた。これは認識ではなく存在から見たカテゴリーである。また能動や受動というのは何かの分類とは考えにくく、むしろ文法上の概念であろう。このカテゴリーの非成熟度は哲学ではカントのような批判者を生んだが、人工言語学ではウィルキンズのような批判者を生んだ。ウィルキンズはアリストテレスのカテゴリーと比べると遥かに細かいカテゴリーを唱え、また実際にそのカテゴリーを作成した。 ウィルキンズは自然物や空間を細かに分類し、それらに普遍文字を付与した。 万物を分類し、その概念に音と文字を充てることによって人工言語を作る。この哲学的言語の手法は多くの人工言語作成者に影響を与えた。 17世紀に確立した人工言語作成の手法であるが、その後現代にも引き継がれている。趣味で言語を作るものも普及を目指して作るものも、先験語を作ろうと思い立ったときはまずは万物を分類するという手法に行き着く。 ところが万物の分類を前提とする哲学的言語には欠点があった。ここでは2点挙げよう。1点は万物を分類するのは極めて難しく、またそれを覚えて実用するのも難しいということである。抽象的概念を分類するのは難しいし、まだ科学的に分類がなされていない植物を何類に分類すればいいかわからないという問題がある。更に科学が発達した現在で万物を分類するのはおよそ不可能である。科学の概念や産物は分類が追いつかない速度で作られるし、新発見が新たな分類項を生むことも考えられる。それゆえ、万物を分類すること自体が極めて難しいと考えられる。よしんばできてもその分類は恐ろしいほど細かいだろうから規則を覚えきれない。 よく口上に挙げられる「理性によって一意的に単語を生成できる」のは誤りである。最初はそのように意図して作っても恣意的に作らざるをえなくなる局面に遭遇し、結局学習者はその恣意性をひとつずつ覚えねばならない。また規則付ければ規則を覚える労力が掛かる。実際自然言語を覚えるのと手法が異なるだけで労力は大差ない。実用するには常に重い辞書を持って歩かなければならないことになるし、実際ウィルキンズに当てられた批判も将にこれであった。因みにウィルキンズの分類はアリストテレスのものよりは細かかったものの、万物を表すに十分なだけ細かかったわけではないことを付け加えておく。 もう1点の欠点は簡単にいえば万物の概念の分類の仕方は人類に共通ではないという点である。概念Aは誰にとっても同じ質を持った概念Aではない。概念Aの外延は人によって或いは集団、民族によって異なる。言い換えれば、概念はそれぞれ内包が個別に定義されるものではない。この考えが直接言語に関わる形で現われたのは19世紀、ソシュールの時代である。 以上は哲学的或いは科学的な欠点であるが、人工言語としての実用面ではどうか。同じ分類に組み込まれた同属概念は互いに似た文字になりがちで誤解を受けやすい。また、分類が系統だっているため、それを表した普遍文字もまた系統だちすぎていて、少しでも字形が狂えば意味が取れなくなってしまう危険性を孕んでいる。以下に見ていく人工言語の多くも同様の欠陥を持つ。 ジョージ=ダルガーノ。『記号術』Ars signorum(1661)など。 スコットランド出身だが大半をオックスフォードで過ごす。ウィルキンズとの関連があり、創作物も基本的に類似している。ダルガーノがウィルキンズに剽窃の疑いをかけたことで関係が悪化。多くの識者はウィルキンズ寄りだがライプニッツなどはダルガーノ寄りの考えである。 ダルガーノは話し言葉としても用いられるよう言語を設計しようとした。そこで音声学的な分析を用いて人間の発声に最も適した音を探した。その考えに基づいた結果、発音をしやすくするための母音を挿入している。この母音に分類上の意味はない。したがって分類記号としては認識しづらくなっている。 彼もまた分類に頼って言語を構築した。分類は階層式になっており、そのうち17のカテゴリーを基本的な類と呼んでいる。たとえば「存在物」「実体」「人工物」などが挙がっている。基本的な17個の類は横並びになっていない。存在物が出発点で、その下位に「具体的で合成され完全な」ものと「抽象的で単純で不完全な」ものがくる。このうち前者は基本的な類である。したがって基本的な類同士が階層構造を持っている。これはウィルキンズの類も同様である。 尚、基本的な類には17種の大文字が付いており、たとえば頂点の「存在物」はAである。使われる大文字は A, I, E, H, U, B, D, P, S, K, G, T, Y, O, N, F, M である。 17類の下には更に中間的な類がある。 この類は小文字で表す。たとえばP(感覚のある)の下位にはo(主要な感情)がある。更にその下には種がある。たとえばoの下位には喜びや怒りなどがある。ではこれらの種はどう名付けるのかというと、基本的な類のPと中間的な類のoにそれぞれの種差を表す子音を付けて表す。たとえば喜びはpobで怒りはpodである。この問題点は種差を表す子音が何であるか予測できず、一々覚えねばならないということである。希望というのも同じ種に存在しているのだが、これが「po~」であることは分かっても次の1字が予想できない。因みに希望はpofである。また言語の運用時に同属概念が最小対語になるため、聞き間違いの恐れが常につきまとう。ただこの問題を解決する方法もあり、 pobなどの哲学的記号をラテン語に訳して読めるようにラテン語の対訳を著書に付している。 ダルガーノも記憶術の流れを汲んでいるため、語彙の圧縮を行っている。たとえばRはエスペラントの接頭辞mal-と同じく対義語を作る。このRのような語彙の圧縮に使う字がいくつか用意されてはいるものの、ダルガーノの分類は運用するには覚束ないものであり、覚えるにも恣意的要素が多すぎて覚えづらい。また彼の分類はこのようにCVCで終わるものばかりではない。 CVCから成る音節数はかなりのものだが、分類に基づいているので可能な音節の全てを使うことはできない。分類によって命名をすると下位概念に行くほど分類が細かくなり、命名が長大になりがちである。 abhorrere(<L abhorreo 尻込む、嫌悪する、ぞっとする。英語ではabhorに残る)を見てみるとダルガーノはこのラテン語をprebesu sumpren, trofと訳している。なるほどpから始まるので感覚であることが分かる。eが来るので内感であることも分かる。確かにこれは主要な感情ではないのでoではなかろう。そしてrがeの前に来ているので反意を表すということも分かる。少なくとも始めの3字以内で「感覚に関し、内的なもので、反意」という情報が分かる。しかしその後更に情報が付加されてprebesuとなるため、都合かなりの情報が付加されることになる。単語を発しながらその感覚そのものについて辞書的に説明しているようなものである。これを覚えて同属の単語と区別して使うのは面倒かつ難解である。そもそも効率的に覚えるには彼と同じ命名観を持たねばならない。理性で判断して皆が皆同じ命名に至れば問題ないが、そのようなことは現実にはありえない。 尚、彼の辞書は事実上未完という形で閉じている。彼が命名しなかった概念については使用者側が新たに作らねばならない。しかも音素に法則性はない。 eはPの下では内感を意味するが、N(物理的な)の下にあるk(陸生の)の下では「ひづめの裂けた」という意味になる。同じ音素が何を表すかは相対的に決まり、法則はない。したがって未定の単語を命名すると、人ごとに一致をみない。ダルガーノの分類が覚えにくいことは間違いないが、彼の分類はライプニッツらと比べると人間的で文化を彷彿させる。その点で人工言語としては興味深い。このような命名法だと馬や騾馬は何と命名すればいいのか分からない。あまり細かく種差を分けていくと馬ひとつ表すのに物凄く膨大な記号数になってしまう。そこで恣意的というよりは彼のセンスに基づいた命名がなされている。たとえば馬も騾馬もひづめの完全な動物に属するが、これらの違いは馬が「勇敢」、駱駝が「欠如した性」の違いで表される。馬について「勇敢」という哲学的分類には沿わない主観的な命名をしている。ここに彼の、ひいてはスコットランド或いはイングランドの文化や価値観が見え隠れしている。 ダルガーノの分類は哲学的に未熟であったがゆえにかえって命名に関しては後験性の強いものになっており、今日の人工言語に繋がるところがある。彼のこうした命名方法は長所にも働いている。彼は同じものであっても観点が違えば命名も異なってよいとしているため、馬を「勇敢」以外の種差で表しても良いことになる。このことを応用すればたとえば文化によって異なる「神」の存在も文化に応じて表現しわけることができる。たとえば一神教の神であるとか多神教の神であるといった具合に。尤も当時のキリスト教圏に生きたダルガーノ本人が神についてそのような多解釈を認めたかどうかは疑問であるが。それでもこの異なる解釈で同じものを表現できるというシステムは今日の人ピクトグラム系の人工言語に通じるものがある。 ダルガーノの統語論は語順が重要な孤立語的言語であり、当時の哲学言語の拠り所であったラテン文法の屈折を捨象している。因みにその語順はSVOである。また品詞性についてはロドウィックと丸逆で、ほぼ完全に名詞しか持たない(代名詞が認められる程度)。他の品詞は名詞から派生させ、前置詞も名詞として分類枠の中に収めている。 ジョン=ウィルキンズ。『真正の文字と哲学的言語に向けての試論』 An Essay towards a Real Character, and a Philosophical Language(1668)など。 ロイヤルソサイエティ初代書記長。元々はダルガーノに呼応し、分類表を作ることについて助力を申し出たが、ダルガーノは自分のほうがより簡単なものを作れると言って拒絶している。結局これを契機にウィルキンズは自己の言語を可能にする分類表に着手した。その方法は要するに百科事典的であり、言語を作るというよりは百科事典の項目やシソーラスを作るようなものであった。このような計画においては人手が必要なため、ロイヤルソサイエティでの権限を利用し、同僚や友人に協力を依頼した。たとえば植物の分類表はジョン=レイに任せ、動物の分類表についてはフランシス=ウィラビーに任せるといった様子である。その他、航海術などの分類も委託した。まるで現代において百科項目を分野ごとに作らせるような手法である。 ウィルキンズの人工言語において特筆すべきは彼に味方する学会由来の大きなコミュニティが存在したということである。他の研究者が主に個人で作業をしている間に彼は助力を得て作業をしていた。ロイヤルソサイエティでの地位がそれを実現した。人工言語の普及や研究に関して言語そのものの出来よりも社会や経済の状況のほうが重要だという好例である。 ダルガーノが剽窃を疑ったことからも分かるとおり、基本的に2人の考察は類似している(実際剽窃ではなかろうが)。彼もまた概念を分類した表を作っている。その表はやはり未完のまま閉じている。そして長大で覚えにくく、恣意的であることを逃れられない。また、たとえ科学的な分類を行ったとはいえ当時の科学力なので現代から見れば疑問を感じる分類も存在する。更に当時の文化や社会を反映した分類になっている。たとえば「教会の」という概念は公的な関係に分類されている。キリスト教を反映してか、創造主というカテゴリーが堂々と存在している。ならびに「ヨーロッパの」に対するカテゴリーは「異邦の」であることからも、社会・文化・風土が背景になっていることが分かる。 また金属や石が「植物性」の下位概念の「不完全」に属するのも興味深い。ただ、これを以って金属を植物として見なしているとはいえない。「植物の」は「感覚のある」の対の類になっている。だからむしろ「感覚がないもの」――現代でいう無生物や無機物――のように見なすのが自然であろう。「植物性の」はvegetativeで、「感覚のある」はsensitiveである。 vegetativeは現代医学では「植物人間」などでも使われる単語で、これはalive but showing no sign of brain activity(OALD 7th Edition)の意味も持っている。時代は錯誤するものの、vegetativeには元来日本語の植物と異なる語義イメージがあり、植物のように静的で無生物的なものというニュアンスがある。ウィルキンズのvegetativeも恐らく「活気のない」とか「感覚のない」などといった含意を含んだ上での「植物性の」であろう。したがって石や金属がこの類に属すことはおかしいことではないと考えられる。 「ヨーロッパの」や「創造主」などのカテゴリーを見ても分かることだが、ウィルキンズの分類は非キリスト文化を始めから考慮していない。ウィルキンズは各民族が母語で普遍文字を読めるようにするというスローガンを掲げていたが、分類表を見る限り文化の差異についてまでは考慮していなかったようである。たとえば感情はどの類に属するだろうか。emotionalという類がないため、spiritualの下位であろうと推測される。「精神的な」の類は「神」と「理解・意思・嗜好や興味に関した精神」に分かれる。そして「嗜好や興味」は「愛着や感情と称された行為のことであり、単純と複雑に更に分けられるもの」と定義されている。愛や悲しみなどの感情はこの中の「単純」に含まれている。名詞が基本なのでsadではなくsadnessなどの形で含まれている。結論として感情はspiritualの中に取り込まれている。そして興味深いことに精神活動は感情だけでなく神の所業も含めている。ウィルキンズによれば創造も絶滅もここに加わる。しかも神の所業という超越的な行為は生き物に収束するとある。人間の感情と神の所業を同じ精神活動に振り分けている点と、更に創造や絶滅や生き物が神の所業であるという2点から強くキリスト教思想が伺える。その反面、異教や異文化の神話などは考慮されていない。このようにキリスト教の世界の切り方をしているため、ウィルキンズは異文化の世界の切り方には対応していない。 ウィルキンズはダルガーノと違って大きな助力を得ていたため、分類が非常に細かい。基本的な類だけで40個あり、ここで既にダルガーノの類より多い。シソーラスとしては優れているかもしれないが、言語として実用するにはかなり分厚い辞書を持ち歩いて高速で引く技術を要するので実践的とはいえない。ダルガーノとの基本的な違いはその種類の多さにある。 40個の類から251個の種を作り、更にその種差から2030個の種を作る。 ウィルキンズはダルガーノと違い、完全に先験的な文字を作った。横棒や縦棒に飾りを付けて細かな意味を表していくものである。一見するとアラビア文字のように見えるが、後験性はない。分類の基本的な構造は3段階で、類・種差・種である。類は子音+母音で示される。種差は子音で表される。最下位の種は母音で表される。子音はBDGPTCZSNの9種で、母音は7種に二重母音2種を加えたものである。たとえば「行為」という分類の下にある「肉体的」という分類はウィルキンズの扱いでは「類」として扱われ、 Caの音価が与えられる。またこれを表す文字は水平線の下に小文字のcを付けたようなものである。「肉体的」が類であり、その下の分類には「感覚の」「理性の」などがある。更にその下の分類には飢えや乾きなどがある。ところで「感覚の」はsensuousではなくsensitiveになっている。 sensitiveはふつう「敏感な」の意味である。 1392年にはこの意味で英語に流入しているので一見おかしいが、 15世紀以前にスコラ哲学でanima sensitivaのような例で使われ、「感覚に関係する」という意味で使われていたようである。よって17世紀のウィルキンズは哲学的分類としてあえてsensitiveを使ったと考えられる。 尚、類はCVから成り、種差には子音が付され、種には母音が付される。したがって類・種差・種を通るとCVCVのような音節ができあがる。分類表の同じ階層が必ずしも類になるとは限らないので注意。分類表では「関係」の下位概念は2つに分岐し「私的」と「公的」に分かれている。そして私的は財産などに細分化され、公的は司法的などに細分化される。「関係」「私的」「財産」の間には3段階の区分があるが、これを以って安易に類・種差・種と認定することはできない。「関係」は「私的」「公的」に分岐しているにもかかわらず、この区別は事実上無視され、「財産」も「司法」も同じ区分で扱われる。しかもウィルキンズの分類によればこの段階で初めて類になっている。たとえば「財産」はCyという類であり、「司法」はSeという類であるとされる。 品詞についてであるが、ダルガーノ同様ウィルキンズも分類表を利用したため、どうしても発想がモノに行きがちである。即ち名詞が基本となる。上述のsadnessなどが好例である。そしてダルガーノと同じく関係や行為まで名詞と捉えて分類表に含めてしまう。文法的には繋辞+形容詞で動詞を表す。点・丸・線などの小さな記号で法や時制などを示すとともに代名詞、冠詞、感動詞、前置詞、接続詞を表す。数、格、性、比較級はそういった記号ではなく種差として表す。文法的にいえばダルガーノのものより英語の要素を明白に引きずっているといえる。冠詞、数、格、性、比較級などを見るに、西洋語の性質をそのまま残している。統語についても英語が参照言語である。よって文法的には後験性が強い。 語彙については分類を用いている上、その音価が機械的に付けられているため、先験語である。だがやはり彼にもダルガーノと同じく命名に文化や風土や物の見方が見え隠れしている。たとえば声+狼で「遠吠え」や「叫び」を表す。狼がいない地域のことは考えていない。実際ウィルキンズが挙げている動物は西洋でよく見られるものである。ダチョウなどはありえない。一方、息子をオスの子供、娘をメスの子供というように捉える点では先験的である。これは語彙圧縮や文字の規則化の一例であるが、ウィルキンズ自身は哲学的観点を強調している。 ウィルキンズで最も特筆すべきはその分類の細かさと、それを可能にしたコミュニティ、及びそれを表記する先験文字であろう。記号の組み合わせとはいえ、その文字の種類は莫大な数に及び、我々が漢字を覚えるのと大差ない学習を利用者に強いるものである。普及させるには注文の多い言語であるが、その分類の細かさと文字種の多さは目を見張るべきものである。 ライプニッツ。1678年に一般言語(Lingua Generalis)を作成。 ウィルキンズやダルガーノはデカルトやライプニッツと一線を画す。分類(或いは分析や分解)という手法を用いる点では両陣営とも共通している。しかしウィルキンズらが既に現存しているものを観察して考察して分類しているというトップダウン方式を用いるのに対し、ライプニッツは最終的には演繹的な算出をするというボトムアップ方式を取っている。俗にウィルキンズが分類魔だとするならば、ライプニッツは計算魔であった。算出することの利点は現在は存在しないが将来的には現われるかもしれないものを演繹のシステムに基づいて算出できることである。その意味でライプニッツのシステムはむしろ未来に向いて開いているといえる。一方、ウィルキンズらの分類を開いているという向きがあるがそうではない。ウィルキンズらの分類は未完のまま閉じてしまっているのである。或いはせいぜい学習者が自ら残りの単語を命名しなければならないという意味でしか開いていない。続きはファンが書いてくださいという小説に似ている。これを開いていると但し書きなしで認めることは不自然である。 ライプニッツは自然言語のヴァリエーションを肯定的に捉えており、アダムの言語に対して否定的であったし、ウィルキンズらの普遍言語についても同様であった。ただ彼が後世数学で有名になったことからも推測されるとおり、彼には数学的な性向があった。命題が真であるための条件を割り算で表現したりしていたことからも伺える。また、彼は自らの普遍言語について計算の重要性を確信していった。彼によると計算で算出するのは命題であって数の意味ではない。記号論理学への兆しがこのあたりからも顕著に見え隠れしている。そして彼は記号計算を最終的なアダムの言語と捉えるようになる。 これらの点でライプニッツはウィルキンズらとは相当異なっている。それは未来の歴史を見ても分かることである。ライプニッツの記号論理学や普遍言語はその数学的性質からコンピュータ技術などに応用された。特に『二進法算術の解説』で考案した二進法の表記法はコンピュータに使われる0と1のブール数にほぼ相当する。プログラム言語は広義の人工言語であるが、これが人工言語といわれてエスペラントなどと区別されないのは、実はプログラム言語が歴史を遡っていけばこうしたライプニッツのような思想に辿りつくからである。一方、ウィルキンズらの分類はそのシソーラスとしての価値を認められ、その精神は今日の百科事典に応用されている。大別すればライプニッツが理数系の人工言語への分かれ道を作っていったのに対し、ウィルキンズらは人文系の人工言語を進んでいったともいえる。 さてそのライプニッツの数学的な哲学言語であるが、まずいわゆる分類を行い、項目に数字を当てる。そして数字を子音に置き換えるという方法である。まず概念を数字で表した後に音素を当てるという方法である。ここで使われる数字は10進数で、百の位、万の位などといった位の概念は母音で表す。1から9まで順にb, c, d, f, g, h, l, m, nが当てられる。位については一、十、百、千、万の順でa, e, i, o, uを当てる。したがって12,345はbacedifoguを書き換えられる。位は母音が表しているのでこれをgufodicebaと置換しても構わない。 元々ライプニッツはウィルキンズのように話せて実用できる言葉を目指しており、普遍的な百科事典にも興味を示していた。実際ラテン語を簡単にしたような言語案も練っていた。ところが計算によって自由に命題を算出できる演繹システムを試みてからはもっぱら数学的な言語に没頭していった。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/32.html
☆以下は少し専門用語が混じるので、読み飛ばして構いません。 人工言語作成の過程は言語学の潮流に似ている。 古めかしい分け方だが、生成と認知を2大派閥とすると、言語学は生成から認知に流れてきた。 一昔前は生成一色に近かったが、最近は認知がトレンドになってきている。生成は主に文法を扱う。 パラメータ理論のころが最も言語類型論や言語普遍性と距離が近く、人工言語作成に有益だった。 人工言語の作者はまず文法から作るものだ。語彙や語法から拡充させることはないだろう。 したがって生成を学んで――特に言語普遍性と言語類型論を学んで――文法作りに役立てると良い。 参考文献 B・コムリー(1992)『言語普遍性と言語類型論』ひつじ書房 C・アジェージュ(1990)『言語構造と普遍性』白水社 これらは文法を作る際に非常に役立つ。一通り読んでおけば様々なタイプの言語を構築することができるだろう。 コムリーの特に語順に関しては異論がある。このサイトでは彼の理論に反した内容を書いている。 本が全て正しいわけではない。しかし読者は基本的に本を信用すべきだ。何せ出版社が目を通しているのだから。 言語学関連の文献に人工言語が登場することはまずない。 当然、言語の作者にとって言語学の大半の本は役に立たない。 本に書いてあるデータを流用して役立たせる以外、我々にとって言語学書に価値はない。 ところが中には人工言語について触れている本もある。実はこのコムリーがそうだ。 コムリーは何度か人工言語という言葉を用いている。ただし、エスペラントなどを挙げはしない。研究型として挙げているだけだ。 概して人工言語を口にする本は作者にとって有益だ。というのも言語作りに直結した情報をくれるからだ。 基本的に人工言語に近い分野の本を読むと、効率良くデータを得られる。 人というのは繋がっているもので、人工言語とその近辺の分野の著者・訳者を見ると面白いことが分かる。 アジェージュの訳者は東郷雄二だが、氏は人工言語についてコラムを「言語」に載せている。 人工言語と言語の構造・普遍性が近縁だという証拠だ。 更にアジェージュは『言語の夢想者』を書いたMヤグェーロと関連がある。 こういう人間同士の繋がりを知っておくと、本を選ぶ際に役立つ。 言語学書は大抵高い。1冊5000円とかザラだ。 そのくせ言語の作者にとって有益となるデータは端々にしか現われない。 したがってたくさんの言語学の分野の本を買うハメになる。 読者は大学生前後が多いだろうから、経済的な障害が付きまとう。 そこで、効率の良いデータ探しが重要視される。 さて、そうして生成を学んで文法を作ったら言語の骨子はできあがる。 だが語彙や語法がなければ言語とは呼べない。生成はこの時点で限界だ。 語法や語義を決めるには人間が概念をどう捉えているかとか、比喩能力をどう言語の経済性に結び付けているかなどを知る必要がある。 そうなると生成は用済みで、認知に周ることになる。 こうしてみると将に言語学が歩んできた潮流を模倣しているかのようで面白い。 言語学の潮流が言語作成の手順に合致するのは偶然だろうか。 いや、私は言語学者も自然言語を分析する際、言語の作者と同じようにまずは言語の骨子が目に入ったのではないかと思う。 そうして先に文法が研究され、言語の骨子が分かるにつれて他の分野の問題が目に入ってきたのだろう。 大きな言語学の潮流を見ていると、そう思わざるをえない。群小な分野では逆の流れもあったけど。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/85.html
言語学は人工言語を対象としないので、言語学の用語はしばしば人工言語を作る際に使いづらいことがあります。 例えば時制について考えたとき、過去、現在、未来のほかに、「時制がない」とか「過去から未来までを包括的に指す時制」というのが考えられます。 えてして人工言語は体系的に作られるので、言語によってはこういった時制を示すことがあります。 しかし自然言語ではこのような時制を持つものが稀なので、これといって決まった術語がありません。 アルカはたまたまこの「過去から未来までを包括的に指す時制」を持つので、自分で「通時」と名付けました。 自然言語ではギリシャ語に「格言的アオリスト」というものがあり、これが意味的に「過去から未来までを包括的に指す時制」に近いことから、格言時制と呼んだ例を聞いたことがあります。 過去の私も含め、できるだけ言語学に合わせようとすることがあります。実際私も、昔は言語学大辞典を購入して、できるだけ権威ある術語に近づけようとしていました。 しかし作業をしていくうち、人工言語にとってやりやすい術語を作るほうが効率がよいことに気付いたのです。 上の例ですと、まずギリシャ語を知らない人はこのネーミングでしっくりきません。 また、一般的に人工言語を作る際はたくさんの言語を調べることになるので、ギリシャ語の背景がないと説明できない用語は汎用化に適しません。 このような場合は、新しく自分で造語するのが良いです。というのも、人工言語学は私たちで作る分野ですから。 造語の際は、無理に言語学に合わせるよりも、字面から分かりやすいものを選ぶと良いです。 なお、通時がいいかどうかは分かりません。共時態との混同もありますしね。常時というような造語でもいいような気がします。 ただ、無理に言語学の用語に似せるのはお勧めできません。特定の希少な現象を元にネーミングすると分かりにくくなるので、このような手法は避けるのがよいでしょう。 また、言語学に同じ意味の術語があっても、そのネーミングでは誤解を招くような場合も、新しく造語したほうがいいことがあります。 例えば、私の言語アルカでは英語の進行形にあたるものを経過相と呼んでいます。 言語学的にはprogressiveですが、英語と異なり「燃えている」というような燃焼現象の進行について、アルカはこの相を使いません。進行しているのに進行形が使えないのは誤解を招きます。 さらに「開始から完了までの間の経過部分を指す」というニュアンスを持たせたかったことも重なり、経過相と名付けました。
https://w.atwiki.jp/2shiki-l/pages/51.html
人工言語作成の参考に。 チェックリスト 初級 中級 上級 項目 まずはこれだけ できればここまで 上級者向け(別ページへ) 音と文字 ①母音の数は?②子音の数は?③(オリジナル文字を使うとして、パソコン作業用の)アルファベット表記、転写の方法は? ・二重母音や長母音、母音連続は?・子音連続は?・音節構造は?・音節末に現れうる子音は?・アクセントは? ・母音について・子音について・超分節音素について・異音、音声と音素と表記・文字について 語の形 ④品詞分類は?⑤名詞の変化は?⑥動詞の変化は? ・形容詞は?・孤立、膠着、屈折・派生のシステム・名詞の数・名詞の性や類別・名詞の格・名詞の定不定その他の範疇・動詞のTAM・動詞の法・動詞のきれつづき・重複法 ・品詞論・名詞形態論・動詞形態論・形態の類型と派生 文の形 ⑦主語、目的語、述語の語順は?⑧形容詞、名詞の語順は? ・基本語順と自由語順・一致の範疇(主語と動詞)・一致の範疇(形容詞と名詞)・受動構文・使役構文・助動詞など迂言的な述語表現・否定・疑問・助詞などによるモダリティ表現・引用句・関係節、連体節・等位節、従属節、接続詞・項の意味役割・抱合と複統合 ・語順について・一致について・態に係る構文・モダリティに係る構文・否定について・疑問について・複文について・項の意味役割について・その他文のタイプ 語彙 ⑨基礎語彙は十分にある?⑩外来語、借用語の仕組みは? ・造語法は?・複合語はどのように作る?・派生法は?・語彙形態素、語根、派生形態素・数詞は? ・語彙について 言語の背景 ☆ ・文化的背景・史的背景 ・言語の背景について その他 ☆ ・暦・位置や方向を表わす語・身体部位・親族名称
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/60.html
新語の補充と普及について。 結論を先に言いますと、これに関しては人工言語は面白いくらい自然言語と同じです。 私も人工言語を作った当初はこの点でかなり気張りました。なにせ人工言語は計画言語ですから、作った後の行方まできちんと計画しなければと……。 ですが案ずるより産むが易しといいますか、できてみるとこれが意外と自然言語のように振舞うものなのです。 まず、新語の補充ですが、これは造語法をきちんと作っておけば問題ないです。作者だけしか理解できないシステムでなく、話者なら自然と造語できるようなシステムです。 具体例をいうと、エスペラントなどはこのシステムを持っています。 また、そのシステムの具体的な内容ですが、語根を中心とした派生語か複合語を利用するのが一番理解しやすいです。 要するに日本語や中国語やドイツ語の類であって、英語のように高級語はラテン語やギリシャ語から取るというのは理解されづらいです。 次に普及について。 まず、人工言語と自然言語の違いは特定の作者が意図的に作るか、ある民族によって慣習的に作られるかの違いです。 ならば作者が普及させると考えるのが妥当です。しかし実際は作者以外も人工言語を使用します。最低限普及には作者とその相手を含んだ2人が必要ですから。 2人のうちはまだいいですが、話者数がどんどん増えると様々な考えを持った人間が出てきます。 さて、そこで今日新しい機械が開発されたとしましょう。当然これに名前が必要です。この場合、恐らく機械の開発者が名付け、周りはそれにならうでしょう。 ところがその利用者は利用者の立場で考え、別の名前で呼ぶかもしれません。そうなったら競合が起こり、しばらく混乱を経た結果、より速やかに定着した語が暗黙のうちに採用されます。 実際、新語の一部はこのように競合を起こします。 たとえば日本語でも「メールアドレス」の略語はメアドなのかメルアドなのかいまだ競合中です。 また、競合終了していても地域によって競合結果が異なることもあります。 たとえばマクドナルドは関東ではマックですが、関西ではマクドで、関東と関西の間の県の局所では両者の競合が行われました。 が、局所ごとに異なる競合結果を産みました。ある地域ではマックに落ち着き、別のところではマクドに落ち着くといったように。 このように、造語は常に競合の可能性を孕みますが、このことは人工言語でも全く同じです。 話者数が少ないうちはいいのですが、エスペラントなどはかなりこうした競合が起きています。 エスペランティストの中でも、学術用語のような高級語を造語するときはラテン語起源にすると難しくなるので、ドイツ語のごとく合成語を多用し、エスペラントの基本語を組み合わせようという動きがあります。 ところが基本語を組み合わせると自ずと語形が長くなり、使用の際に煩雑になるという欠点があるため、反対者が存在します。そしてここに競合の可能性が生まれます。 と、このように、人工言語も自然言語も大きくなればなるほど競合が増え、新語の普及が難しくなります。 そこで必要となるのが言語を管理するシステムです。人工言語の場合は作者が管理するのが多いでしょうね。 私も自言語を管理しています。ですが勝手な用法を作られたりして困るときがあります。 勝手に作れるというのは裏を返せば強力な造語法があるということですが、その武器は諸刃の剣で、強力な造語法であるがゆえに収集がつかず、普及が困難になることがあります。 人工言語は作っている間は自分の裁量ですべてが決まります。 でも運用の段階になれば自然言語と変わりありません。一語一語のほころびがやがては人工言語内に方言を生みます。 以上から、新語の普及に関しては、少人数の管理できる範囲内でなら可能と考えられます。 ただ、言語は生き物と良く言われるように、恐らく必要以上の管理はしないほうが良いと思います。 その言語の根幹を覆すようなことでなければ――たとえばエスペラントでいうならaで終わる名詞を作るようなことをしなければ――それは許される範囲だと思います。 なお、逆に管理された言語を好む方もいるでしょう。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/92.html
人工言語類型のひとつ。普及を目的とする。 20世紀までの人工言語において最も一般的な類型。エスペラントはこれに含まれる。 普及の段階は以下のとおり。 1 地球上の人間にあまねく広める 2 英語のような国際語にする 3 英語などが通じない相手に、補助として使う。すなわち国際補助語にする 4 広域集団に広める 5 小集団に広める このうち1は非現実的で、通常は2か3を目標とする。 言語の普及は政治力・経済力・戦力・人口に依存するため、実際は5しか実現しない。 5以外を目標とする普及型は失敗する。 なお、体制や宗教が人工言語を普及させた場合、かなり広域に広めることができ、4が実現する。 ヘブライ語、ハングル(文字のみ)などがこの例である。
https://w.atwiki.jp/unknown_1206/pages/68.html
人工言語「カリネ語」の紹介 この言語は人工世界カリネリアにて使用される言語である。 架空世界カリネリアの詳細 見方 カリネ語 読み 意味 A apo/アポ/1・一 asipho/アシフォ/オレンジ・蜜柑 B bosa/ボサ/0・零 C caalt/カルト/書籍・本・著書 cay/ケイ/箱 cis/シス/酒場 cmeo/クメオ/青 cmidl/クミダル/黒 cmottuph/クモタフ/祝福・恩恵・加護 coipt/コイプト/豆 coitv/コイトブ/獣 coos/クース/ビール・エール・アルコールが含まれる飲み物 csaxp/サックスプ/茶色 cudzdmo/カッズドモ/自転車 cuh/キュー/大きい cusf/クースフ/鳥 D dafo/ダフォ/符号・記号・暗号 dano/ダノ/来る danqipz/ダンキップス/会社・商会 daqqos/ダクコス/銅 daup/ドープ/硬貨 deq/デック/カップ dis/ディス/自動車・車 dito/ディト/ケース ditvmo/ディトヴモ/城 djesdj/ドジェスドジ/教会・聖堂 djius/ジジ/椅子 E epfos/エプフォス/下 eq/エック/上 F faas/ファース/ドア・扉 fisl/フィスル/闇・暗い fonap/フォナプ/魔物・モンスター・魔獣 fotl/フォタル/机 fsott/フソット/ドレス G gaes/ゲーズ/4・四 gasotv/ガソトヴ/森 gimm/ギム/秋 gmaas/ガス/床・階 gmaxos/グマキソス/花 gmaxos cof/グマキソス・コフ/花壇 gmino/グミノ/炎 guhos/グホス/指 guhos suph/グホス スフ/指輪 guso/グソ/火 gutj/グッジ/魚 guwo/グウ/5・五 H haaf/ハフ/良い haaf igvospaap/ハフ・イグヴォスパーブ/こんにちは haaf jiswotv/ハフ・ジスヴォトブ/豊穣・豊作 haaf naspuph/ハフ・ナスプフ/おはよう haaf owopuph/ハフ・オヴォプフ/こんばんは haf/ハフ/神 hamf/ハムフ/金 hmitt/ハミット/グラス hoeen/ホーエン/神の国 hsitt/シット/草 hsoop/フスープ/緑 I iddottasz/イドッタシュ/アクセサリー・付属品 iefuopdo/イフオプド/謁見・会見 iqqmo/イククモー/りんご J jaeto/ジャエト/家・住宅 jano/ジャノ/国 jenip/ジェニップ/人・人間 jepfsof/ジェプソフ/100・百 jiswotv/ジスヴォトブ/収穫 jius/ジウス/髪 joiwop/ジョイウォップ/天国 jomm/ジョム/地獄 K L loz/ロズ/鍵 luph/ルフ/王 M madanavuwo/マダナブウォ/機関車 mawo/マヲ/愛 menq/メンク/塊 mogv/モグブ/左 moig/モイグ/葉 movvos/モーヴォス/手紙 mucsisz/ムクシス/図書館・書庫 muhjv/ムフブ/光 muhjvpuph/マジブパフ/雷 mupo/ムポ/線 N napvj/ナップブジ/月 maspuph/ナスプフ/朝 nawo/ナヲ/動く nidjupo/ニジュポ/機械 nihud/ニユード/魔法・魔術・魔導 nip/ニップ/男・男性 niptuap/ニプトゥアプ/邸宅・屋敷 no/ノー/私・俺 novim/ノビム/金属 nussas/ヌサス/鏡 O ohh/オー/卵 oitv/オイトブ/東 ouhjv/アウジブ/8・八 owopuph/オヴォプフ/夜 oyqmatuap/オイクマツアプ/爆発・爆破 P pa/パー/いいえ pasvj/パスブジ/北 poyv/ポイ/次・次へ pupo/プポ/9・九 Q qesqmo/ケスクモ/紫 qiupvuph/キアプバフ/絵画 qjava/クジャバー/写真 qmido/クミード/場所 qmivo/クイミーボ/皿 R reoop/レオップ/王妃 rhana/ラーナ/あの世・冥界 S saan/サーン/部屋 sadl/サドル/岩 saif/サイフ/道・道路・街道 sep/セップ/走る sidl/サイドル/棚 sof/ソフ/赤 suhjv/サッジブ/右 suph/スフ/輪 suwos/スウォス/川 T taevj/タエブジ/南 tamis/タミス/太陽 tdemqveso/トデムクベソー/彫刻・彫像 tennos/テノーズ/夏 tiffmo/ティフモ/鞍 tjuomf/トジャオムフ/盾 tnimm/ティニム/小さい toy/トイ/海 towop/トウトップ/7・七 tqoil/トクトイル/話す tqsuph/トクサフ/春 tumwos/タンボス/銀 tuy/チュイ/6・六 tvapo/タバポ/石 tvaq/トゥバク/止まる tvaso/タバソ/店 tviust/トビウスト/階段 tyasf/ティアスフ/剣 U udo/ウド/氷 up/アップ/中 uptodv/アップトドブ/虫・昆虫 V vjaetipf/ブジャエティプフ/1000・千 vjsoo/ブジソー/3・三 voi/ボイ/お茶・紅茶 vonqmo/フォンクモ/寺院・神殿 vop/バップ/10・十 vsiptmivuap/ヴィプトミブアップ/翻訳・訳文 vsiup/ヴシウプ/列車・汽車 vsoo/ブスー/木 vuno/ビューノ/時間・刻・時期 vxa/ブクサー/2・二 W X xaafop cay/クサフォップ・ケイ/木箱 xanip/キサニップ/女・女性 xasf/キサスフ/言葉・単語 xihap/キシハップ/馬車 ximl/キシムル/歩く xisojaeto/キシソジャエト/倉庫 xivos/キシボス/水 xjoiv/クスジョイブ/小麦 xjuvo/クスジューボー/白 xotv/キソトブ/西 xupvos/キサプボズ/冬 Y Z zae/ザエ/あなた・貴方・お前 zomm/ゾンム/咆哮・叫ぶ zot/ゾット/はい Unknown Wiki トップページへ戻る
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/66.html
辞書を作るとき、いわゆる英和か英英のどちらを先に作るかという問題があります。 ですが、始めは異言語で定義したほうが良いと思います。まだ出来上がっていない人工言語をその人工言語で定義するのは極めて困難ですから。 辞書は大抵言語を作りながら作ります。でないとまず作者も覚えきれません。なので、定義言語をその人工言語にするのは後回しにするほうが良いと思います。 ただ、定義言語を自然言語にすると、人工言語との間で意味のずれが起こります。それについてどう対処すべきでしょうか。 例えば私たちの場合、日本語か英語で辞書を書くでしょう。 そうすると、どうやって日本語や英語の影響に侵されないようにするか考える必要が出てくるわけです。 日本語なら日本人の身になって、日本語と人工言語の違いを書くのがいいと思います。 手がlasという語だとすると、日本語の「手」はときに「腕」にもなるので、語法欄を設けて「腕」は含まないなどと書く必要があります。 定義言語が英語だとhandとarmは範囲が分かれているのでこの記述は必要ありませんが。 もちろん、これだけの問題ではありません。 「手」には「助け」という意味が日本語にありますが、その意味もその言語にあるのかどうかとか、枚挙にいとまがないくらいたくさん載せる事項があります。 でも、最初からそんな完成した辞書を作ろうとしないでください。まずは単語帳のような未完成なものでいいです。 とりあえず作者が何という語を何という音や字に当てたか覚えておくためのメモ的なもので十分です。 ただ、この時点で人にばらまくと語法などについて混乱させるので止めたほうが無難です。とりあえずリマインダー程度の単語帳に留めておいてください。 それができたら徐々に語法なり名詞の指す範囲なりを補強していきます。 デッサンして下絵をして、それから色を塗って、最後に仕上げるように、1つの辞書を何度も上塗りしていきます。 なお、語源と成立年と造語者(一人で作る場合は不要)は忘れないうちに書いておくといいです。 これは後からの補強が効きづらいので。てゆうか要するに、忘れてしまうので(笑)