約 117,511 件
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/19.html
人工と自然 日本語のように、元々ある言語を自然言語といいます。 日本文化のように、元々ある文化を自然文化と呼びます。 日本風土のように、元々ある文化を自然風土と呼びます。 エスペラントのように、西洋語を参照して人工的に作った言語を、アポステリオリ人工言語といいます。 エスペラントのように、西洋文化を参照する文化を、アポステリオリ人工文化と呼びます。 エスペラントのように、西洋文化を参照する風土を、アポステリオリ人工風土と呼びます。 アルカのように、オリジナルで人工的に作った言語を、アプリオリ人工言語といいます。 アルカのように、オリジナルで人工的に作った文化を、アプリオリ人工文化と呼びます。 アルカのように、オリジナルで人工的に作った風土を、アプリオリ人工風土と呼びます。 ややこしいので、以下に表で示しました。 言語 文化 風土 日本語 自然 自然 自然 エスペラント 後験人工 後験人工 後験人工 アルカ 先験人工 先験人工 先験人工 一番少ないのはアルカタイプの言語です。理由は2つあります。 1 今までは「人工言語といえば普及型」という常識があったため。世界語にするには、文化と風土の違いが民族間の壁になってしまう。 2 文化と風土まで作ると、大変な作業量になる。制作が現実的ではない。 なお、言語はアプリオリだけど、文化と風土は考慮していないというような言語があります。 ライプニッツのような有名な人が、そういったものを作っていました。 「言語は作れるけど、文化と風土まではちょっとなぁ」という場合、そのようなパターンになります。 また、上の表で「自然」に「先験・後験」の区別がないのは、単にアプリオリの自然言語というのがありえないためです。 .
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/23.html
人工文化と人工風土 前項を読んだ方は、こう思っているんじゃないでしょうか。 「言語には文化と風土が必要なのだから、人工言語には人工文化と人工風土が必要といいたいのか?」 それは違います。別に文化を作らなくてもOKです。 前項のエスペラントの問題は、たんにあれが普及型だから起こるものです。 演出型などであれば、特定の文化を参照したって批判は受けませんよね。 小説で使う言語であって世界語にするつもりがないのですから、別に西洋文化を参照しても問題はありません。 (もしそれでも批判を受けるとしたら、「小説の舞台が異世界なのに、なんでヨーロッパを真似るんだ」という類のものだと思います) もし言語作者が文化と風土を設定しなかった場合、自動的に作者の住んでいる場所や知っている場所の文化や風土が設定されます。 まぁ、そりゃそうですよね。僕らが何も知らずにいきなり人工言語を作らされたら、日本語と英語の影響を受けまくるに決まってます。 ですので、別に人工言語だからといって文化と風土まで作る必要はありません。 ただ、作ることも当然できます。 人工的に作る場合、言語と同じくアプリオリとアポステリオリに分かれます。 例えばトールキンの指輪物語は人工文化ですが、西洋を思い切り参照しているので、アポステリオリです。 一方、アルカの場合、アルカ専用のオリジナル人工文化アンティスと、人工風土アトラスというのを作っているため、アプリオリです。 <まとめ> 1 文化と風土には自然と人工がある。 2 人工にはさらにアプリオリとアポステリオリがある。 <具体例> 自然文化→エスペラント アポステリオリ人工文化→指輪物語のエルフ語 アプリオリ人工文化→アルカ <注意> 上記3種のうち、どれが凄いとか、どれが偉いとか、そういう話はありません。 ただ、労力の差は明確です。下に行くほど大変です。よく言えば、やりがいはあります。 .
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/102.html
言語の普及 人工言語を作ったら、ぜひともそれを皆に使ってほしいものです。 人工言語の中には、エスペラントのように共通語になることを目指したものもあります。 確かに、地球上のどこでも同じ言葉が通じれば、とても便利ですよね。 ぜひそうなってほしいものですが、実際に世の中で使用者が多いのは英語と中国語です。 どうしてでしょう?英語や中国語は何か言語的に優れているのでしょうか。そうではありません。 英語が広まったのはかつて大英帝国が強かったこと、20世紀にアメリカが大国だったことによります。 要するに、喧嘩が強くてお金持ちな国の言葉が広がったということです。 人類共通の言葉と聞くと平和をイメージしますが、むしろ暴力が言語の統一を作っているとは皮肉なものです。 中国語が広まったのは経済力というよりはマンパワーです。 このように、言語の普及は経済力・武力・人口によって決まります。 人工言語はこのどれにも該当しないため、英語のような地位を獲得するのは事実上不可能です。 (それでもエスペラントは万単位の人に広まってるので凄いと思います) 人間はものぐさなので、できれば外国語の勉強などしたくないし、母語だけで暮らしたいのです。 しかし就職や進学や商売といったのっぴきならない事情があるから、嫌々お金になる言語をやります。 その結果、英語が広まったわけです。 確かに人工言語を普及させるのは難しいですが、同じ趣味の人たちに広めたり、好奇心の強い人たちに知ってもらうことは可能です。 それは共通語とは到底呼べない規模かもしれませんが、同じ趣味を持つ人と言語を共有できれば十分幸せではないでしょうか。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/80.html
故千野栄一は言語に優劣は無いと強く主張していました。 彼は学問的というよりも主観的・感情的に主張していた節があります。 一般的な言語学者と同じく、私は言語に優劣はないと考えます。優劣の基準が決められないからです。 たとえば合理的か非合理的かということに話を限定したとしましょう。それなら確かに合理的なほうが優れているように見えます。 「見る」という動詞が異様に長い語形だったら大変だし、逆に短すぎても聞き取れないでしょう。バランスの取れた簡潔さが良いわけです。 そういう意味ではバランスの取れた合理的な言語というのは存在するのでしょう。 名詞に性別があることでフランス語はその煩雑さに見合うだけの特別な情報を伝えているとは思えません。 名詞の性別は労力に対して情報量が見合っていないのです。その点で非合理的といえ、劣っているといえるでしょう。 実際人工言語を作る人は名詞に性別を与えないのが通常です。エスペラントでも捨象されています。 ちなみに自然言語でも同様で、人工性の高いピジンになるほど性は失われます。 ではそれだけで日本語のほうがフランス語より優れているのかというとそんなことはありません。 そもそも漢字というネイティブでも使いこなせない文字を大量に使うことや、用言の複雑な活用、終助詞による複雑なニュアンスの違い。そういったものが日本語にはあります。 たった26字で全てを表現できる英語のほうが合理的です。用言が活用しない中国語のほうが合理的です。 つまり、仮に優劣を合理性に求めたところで、言語にはそれぞれこだわるポイントというのがあるので、どうしても総合的な優劣は出ないのです。 部分的には優劣を測れたとしても、果たして用言の活用と名詞の性別ではどちらのほうが比重が大きいのか。それは誰にも分かりません。 なので結局総合的な優劣は測れないのです。それゆえ、私は言語の優劣に否定的です。 ただし、それは自然言語の話です。千野栄一も人工言語は視野に入れなかったのでしょう。 さて、人工言語ではどうでしょう。 人工言語はこだわりがないように作ることができます。各言語で非合理的だなと思う要素を全てなくすことができます。合理的な言語を創れます。 そういう意味では人工言語は自然言語よりも合理的で優れているように見えます。 ただ、問題は合理性以外です。自然言語では問題にならなかったようなことが問題になります。 自然言語の場合、その社会が必要とするだけの語彙がきちんとあります。でも、人工言語の場合はそうではありません。大抵の人工言語は語彙が足りません。 また、自然言語のネイティブは基本語の語法をよく知っています。 私たちが日本語の語法を極めて良く身に着けているのと同じです。 自然言語にはとても細かい語法があります。 くたびれると疲れるはほぼ同じ意味です。ではなぜ「スーツがくたびれてる」といえるのに「スーツが疲れてる」とは言えないのか。 「言えない」ということだけ私たちは分かっています。なぜかは言語学者しか分かりません。不思議ですね。 学者が根詰めて考えないと分からないような語法が言語にはたくさんあり、しかもそれを知らない一般人が正しく利用できるのです。これが言語の不思議なところです。 さて、人工言語にも語法が必要で、なければ使用者ごとに混乱してしまいます。 でも語法は今述べたように込み入っています。言語学的な分析を要するものもたくさんあるでしょう。 ここで人工言語ごとに優劣の差が出てきます。言い換えれば作り込みの差です。 語法が決まっていない――すなわち単語という道具の説明書がない――言語は果たして使い物になるでしょうか。 ここでYESと答える人はいないと思います。 語法や語彙。こういったところで人工言語には優劣が存在します。簡単にいえばどれだけ作成者と使用者が研鑽を重ねたかにかかっています。 まとめると、私は自然言語の優劣には否定的です。総合的な優劣が決められないからです。 対して人工言語は語彙の大きさ、語法の綿密さ、文法の磐石さ、こういった点から優劣が定められます。 更に文化や風土を考慮しているか(作れという意味ではなく、考慮する)という点も細やかさの点においては評価事項になるでしょう。
https://w.atwiki.jp/k-project/pages/208.html
人工言語 ランシア語 会話集 リア語 会話集 ヴヮル語 会話集 ミ・デア語 会話集
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/43.html
英語は印欧語族ゲルマン語派に属する。同じ語派にはドイツ語、オランダ語のほか、ゴート語などが含まれる。これらは互いに同系或いは姉妹語と呼ばれる。姉妹語であるかどうかの判断は比較言語学の分析に基づき、主たる資料は文献に残された文字である。利用可能な文献の量と質によって比較言語学の分析の性能が左右される。印欧語は文献量が豊富であるために系統が比較的明瞭であるが、日本語や韓国語(朝鮮語)のように系統が不明なものは数多い。日本語は奈良時代以前の文献が古く、その前は中国の文献で間接的に知るより他はない。 人工言語学で比較言語学の分析を行う場合、流用の程度を尺度として使って推し量る。ある人工言語Lの持つ統語論・音韻論・文字・形態論・語彙を主な分析対象とする。自然言語NとLを比較した結果、類似していればしているほど、流用の程度は高い。流用の程度が高い場合、NはLの参照言語であるといえる。 比較言語学は文献を見て恐らく姉妹語であろうという通時的な推量を行う。それに対し、人工言語学では言語の内的な構造がどれだけ類似しているかという観点で恐らく参照言語であろうという共時的な推量を行う。 流用度が高くとも、NはLの姉妹語ではない。人工言語は自然言語の分派ではない。たとえ後験語であっても無から作られたことに変わりはない。したがって血縁関係は認められず、姉妹語とはいわない。代わりに参照言語という。では人工言語学における姉妹語とは何か。 エスペラントのように世紀をまたいで使用される言語では母語話者が存在する。エスペラントを唯一の母語として使っているわけではないので、実際はマルチリンガルである。その子供のエスペラントは母語の干渉を大いに受けるため、他の国のエスペランチストと異なった位相を作り上げている。このような子供が各国に増えていけばやがてエスペラント内で方言位相ができる可能性がある。そしてその位相が方言の域を超えれば、それらは互いに同じエスペラントを祖語とする姉妹語になる。これが人工言語における姉妹語である。 人工言語の場合、作者によって参照言語が指名されることがある。たとえば英語を基に作成したと作者が公言する場合である。しかしこの場合であっても鵜呑みにしてはならず、客観的に語彙や文法などを比較して参照言語といえるかどうかを定める。 エスペラントは西洋語の模倣でしかないという批判がある。模倣でしかないという批判を恐れた作者が西洋語から流用したにもかかわらず批判を避けるために虚偽の公言をする可能性がある。ゆえに作者の公言を額面どおりに受け取る方法は取らず、公言は参考程度にし、あくまで分析を行った上で判断する。 参照言語は必ずしもひとつではない。英語やドイツ語など、複数持つこともある。その場合、程度に応じて参照言語を更に分類できる。英語をメインに参照していれば、英語がLの主参照言語で、それ以外は副参照言語であるといえる。 分析対象のうち最も重要なのは語彙である。統語はあまり重要ではない。 LがSVOの語順を持った場合、前置詞や後置修飾を持つのは統語論・類型論から見て自然である。したがって統計的にいっても確率が高い。 SVOという基本語順が決まることにより芋蔓式にある程度他の統語要素も決定する。もし統語だけで姉妹語を認定したらLの参照言語は無節操に増えてしまう。形態論も同様にあまり意味を成さない。 それらに比べると音韻論と文字は意味を成す。 Lが漢字を使っていれば中国語が参照言語である見込みが強くなる。注意したいのはアルファベットである。これは言語学者によって未開言語の表記に使われてきた。アルファベットを使っているからといって必ずしも西洋語が参照言語であるとは限らない。 音韻は更に有効な分析対象である。参照言語からは語彙の流入が行われる可能性が高い。つまりLは参照言語Nから単語を流用しやすい。もしNの音韻体系とLの音韻体系があまりに異なっていたら、LはNから単語を流用しづらくなる。したがってLは合理性を考慮してNの音韻体系に合わせやすい。普及型はこの傾向が強い。 エスペラントは西洋語Nの語彙を流用した。Nは非声調言語であり、子音連続も多い。また音節は開閉両用である。そのためエスペラントの音韻体系も非声調言語で子音連続を持ち、開閉両方の音節を持つ。 但し音韻は参照言語であることを決定できるほど強い条件ではない。 Nから流用した単語の子音を切り取り、声調を付けて、全て開音節にするといったヴァリアントなエスペラント(中国語風エスペラント)も作りうるからである。しかしNとかけ離れた言語は後験性が減少するため、習得が困難になる。したがってこのようなヴァリアントは普及型には生まれにくい。 語彙は最も参照言語であると定義するのに重要な分析対象である。最初の段階ではLの語彙はφである。後験語の場合、Nから語彙を流入せねばならない。 Lが全ての単語をギリシャ語から流入させた場合、Lはギリシャ語の参照言語であると容易に定義できる。 流入したあとの処理は言語によって異なる。Nを変形させ、より音声に忠実な綴字法を作ることもある。また、Nから取り入れた語の語形を短縮することもある。だが流入元がNである以上、語を変えてもNはLの参照言語である。 では、Nが原型であるということが分からないほどに変形させてしまった場合はどうなるか。 NからLに至るまでの変形の過程が資料として確認できれば参照言語と定義できる。すなわちこのような場合は通時的な分析に頼ることになる。資料が紛失等で得られない場合は系統不明ではなく参照元不明と定義する。系統不明はあくまで自然言語における比較言語学でいえることである。人工言語の場合は参照元不明としか呼べない。 日本語は和語のほか、韓国語や中国語を流入してきた。自然言語の場合、語彙の流入は姉妹語の認定にかかわらないどころか、むしろ姉妹語でないものを姉妹語であるかのように見せるまやかしとして働く。一見して韓国語と日本語が同系であるかのように見られるのは文法の類似だけでなく単語の類似も関与している。しかしこのような語彙の交流は比較言語学にとってまやかしでしかない。しかし人工言語学の場合は語彙の流入が参照言語の強い根拠になるので違いに注意が要る。 NはN'から語彙の流入を行うが、N'が何語であるかは地理的条件によって決まる。現代では交通技術の躍進とインターネットの普及により従来は考えられなかった地理的条件のN'から語彙を流入することがある。かつて日本語は近隣諸国の韓国語や中国語から語彙を流入させていたが黒船以降は西洋語を流入させ、現代では主に英語から語彙を流入させている。 一方、人工言語はより柔軟に語彙を流入することができる。フランス語から語彙を流入させながらタイ語の語彙を流入させることもできる。それでいてスペイン語から一切流入させないこともできる。地理的条件を考慮せずに語彙を流入できるという特徴がある。また、ひとつのNからのみ流入させる場合もあれば、100近くのNから流入させることもできる。人工言語はこのように地理的条件を無視し、任意の数のNを参照することができる。 しかし一貫性のない流入をすれば学習は困難になるため、普及型は一貫性を持った流入をする傾向にある。たとえばエスペラントは西洋語を基盤としている。現代はグローバル社会である。インターネットを通じて、書籍が発行されていない言語についても情報を得ることができる。いままで光を当てられなかったアジアの言語が言語学上で広く分析されている。したがってヨーロッパだけでなくアジアも加えたより広範な語彙の流入を行う言語が作成できるようになった。 広範なNを参照にした場合、これらは全てLの参照言語になる。 Lが日英語を参照言語にしたとする。このとき注意したいのは、Lに対して日英が参照言語であって、日英同士が姉妹語ではないということである。自然言語の場合、N1がN2・N3の姉妹語であれば、それはN2とN3が姉妹語であることも含意する。しかし人工言語の場合はそうではない。 先ほどエスペラントが分派すれば姉妹語ができると述べた。その場合、エスペラントは分派に対する親言語になる。ではエスペラントを改良したイドは何と呼ぶべきか。エスペラントを参照して作ったため、エスペラントはイドから見て参照言語ではあるが姉妹語ではない。分派したわけではないからである。このようにL1がL2の参照言語になることもある。すなわち参照言語は自然言語とは限らない。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/20.html
文化と風土が言語を支える ここで改めて、なぜ人工言語には文化と風土が必要といえるのかを見てみましょう。 たとえば日本語で米と稲は別物ですが、英語ではどちらも rice といいます。 同様に姉と妹は区別しますが、英語ではふつうどちらも sister といいます。 rice の例は、日本が米を常食とする文化・風土にあり、英語を育てたイギリスが半農半牧の文化・風土にあったことで説明できます。 sister の例は、日本が長幼を重視する厳しい年功序列の文化であるのに対し、イギリスがそうでないことで説明できます。 海に囲まれ、夏に温度が上がり、大量の雨が降る。そういう風土だからこそ日本の米文化があり、rice は細分化されました。 逆に、牧畜を営んでいたからこそイギリスで牛は cow, ox などと細分化されます。 こういった言語例は文化と風土が関わっています。もし文化と風土が無ければ、こういった言語例は説明できません。 文化と風土がなければコメという作物をどこまで細分化すれば良いのか決定できません。そうした理由があって、言語には文化と風土が必要なのです。 人工言語を作る際、米や妹や牛といった単語は当然作りますよね。 でも、その言語が使われる文化や風土がなければ、単語の意味を確定できません。 文化がないと妹は妹のままでいいのか、あるいは姉妹とまとめるべきなのかといった判断ができません。 この意味で人工言語は文化と風土を必要とします。 自然言語には自然文化と自然風土が自動的に備え付けられますが、人工言語はそうではありません。 元々存在しないところに言語を作ったのですから、備え付けの文化・風土があるわけではありません。 そこで、人工言語は文化・風土を調達することになります。 .
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/17.html
言語は文化と風土から切り離せない 英語では牛の雄雌に別々の単語を当てますが、これはイギリス人が牧畜をしていた結果です。 言語は文化と切り離せません。また、牧畜という文化はイギリスの風土が作ったものなので、風土とも切り離せません。 つまり、言語は文化と風土から切り離せません。 ところが、多くの人工言語は普及型です。世界の至る所で自分の言語が通じなければなりません。 従って、文化や風土の違いといったものを、なるべく捨象してきました。 ですが、実際に言語は文化や風土の影響を受けるため、文化や風土は捨象できるものではありません。 今までの人工言語は文化と風土を考慮してきませんでした。 新生人工言語論はその点を指摘し、「文化と風土を反映した人工言語も考えようよ」と主張しています。 これは大切なことなので、文化と風土が言語を支えるでもう一度ご説明します。 .
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/42.html
言語は文化と風土から影響を受ける。もしこの2つがなかったら、語義や語法を作れない単語が出てしまう。たとえば日本語が米と稲を分けるのは稲作文化を前提としている。同時に稲作文化を支える日本の風土も前提としている。このように、言語は文化と風土がないと定まらないことがある。 これは下位概念の人工言語にもいえることである。人工言語は固有の文化・風土を持たねば、自動的に非固有の文化・風土を持つ。文化・風土なしにはいられないので、自動的に非固有のものを持つことになる。非固有とは作成者の文化や話者の文化を意味する。人工言語の使い手によって使われる文化がまちまちでは、文化の影響を受ける言語で表された意味もまちまちになり、誤解が耐えない。 固有の文化・風土を持つ言語を新生人工言語と称し、そうでない言語を旧人工言語と称する。新旧は優劣或いは良悪の問題ではないことに注意しなければならない。従来の人工言語に固有の文化・風土という概念が付与されなかったため、この命名を取っているに過ぎない。 新生人工言語は更に2つに分かれる。固有の文化・風土が自然か人工かによって分かれる。固有の人工文化・人工風土を持つものを人工新生人工言語(人工が連続してややこしいので完全新生人工言語や完全型とも)と称する。固有の自然文化・自然風土を持つものを自然新生人工言語(完全に対応して非完全新生人工言語や自然型や非完全型とも)と称する。 人工と自然の間はデジタルでなくアナログで、中間物が存在する。完全に地球の自然文化・風土の影響を受けずに先験的な人工文化・人工風土を作るのは事実上不可能である。 完全新生人工言語は旧人工言語へのアンチテーゼとして置かれた観念上の所産である。この概念は難しいのでまとめを挙げる。 旧人工言語も文化・風土は持つが、非固有のものであり、話者や作者ごとに異なる。 新生人工言語は固有の文化・風土を持つ。 固有の文化・風土が人工か自然かで新生人工言語は2つに分かれる。 完全新生人工言語は観念上の存在で、旧人工言語へのアンチテーゼとして置かれた。 普及型は民族の壁を越えなければならないため、特定の文化・風土をデフォルトとして定義することはできない。その行為自体が言語の存在意義に矛盾する。したがって、普及型は旧人工言語であることが多い。従来の人工言語は普及型が最も多かった。この手の言語を旧人工言語と呼ぶのはそういったところに由来している。 新生人工言語に変えるのは言語の方針さえ違えば容易である。日本人が日本文化と日本風土を参照にしたとする。この場合、日本の文化と風土に固定しているので、自然新生人工言語である。たとえ言語そのものの構造が欧風でも和風でも構わない。新生人工言語の分類観点はあくまで文化・風土にあるからである。普及型は日本に文化・風土を固定することが方針上できないが、その他の型なら簡単にこうして新生人工言語を作ることができる。但し、それはあくまで自然新生人工言語であって、人工の域に向かうと作業量が増える。
https://w.atwiki.jp/arbazard/
人工言語アルカ サイトを移転しました。 人工言語学研究会 人工言語アルカ