約 117,514 件
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/24.html
人工言語の作り方を紹介しています。 はじめに 音について 文字 文法 語彙 作り方の流れ 自分に合った人工言語は? 言語作成ツール まとめ .
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/31.html
作り方の流れ この流れに沿っていけば、迷わずに言語を作ることができます。 なお、ここで紹介している以外のフローでも、問題はありません。 1 作りたい言語の型を決める みんなに広めたいなら普及型、小説に使うなら演出型、秘密の日記を書きたいなら暗号型など、目的に合った言語作りをしましょう。 そのためにはまず、自分の作りたい言語の型が何かを決めましょう。 「どのタイプがやりたいか自分でもわからないよ」という方のために判定チャートを作りましたので、遊び感覚でお気軽にどうぞ→自分に合った人工言語は? なお、言語を作るときは頭の中で考えるにせよ紙に書くにせよ日本語を使うと思いますが、それで構いません。 英語だと後々広めるときに便利ですが、母語で作成した方がやりやすいです。 また、資料はパソコンで作成しましょう。修正も配布も容易です。 2 音、文字、文法など、言語の骨組みを作る まず最初に音と文字を作り、文法と語彙はその後にすることを強くお勧めします。 なお、音と文字は並行して作業をすることを強くお勧めします。 音も文字もたいてい一回では決まらず、その後何度も変更することになります。 音を完全に決めてから文字を作っても、修正の嵐に巻き込まれて結局音も修正するはめになります。 完成したものを直すより、作業途中のものを直すほうが労力は少なくすみます。ですので、並行して作業を行うようお願いします。 文法と語彙も同様です。まずは文法を説明するのに必要な単語があれば十分です。 文法が固まってきたら、徐々に単語を増やしていきましょう。二度手間三度手間を防げます。 3 最低限の語彙を作る 人称代名詞や基本的な動詞や親族名詞程度は作っておきましょう。 また、文法説明に必要な機能語(前置詞とか接続詞とか)も作っておきましょう。 文字が独自の場合、手書きでメモに書いておきましょう。 そのうち時間ができたらTTEDITなどのソフトを作ってフォントを作りましょう。 フォントができるまでは、アルファベットなどを使って転写しておきましょう。パソコンで作業をすることになると思うので、現実的な手段です。 4 例文を作って単語も増やす それからしばらくは身の回りのことをその言語で喋れる程度にするために、単語を増やします。 始めのうちは、それこそ目に入った日常的な物の名と、基本的な動詞や形容詞だけでいいです。 そうするうちに文法の不備が見つかり、改定する必要が出てくるはずです。 逆に文法を直したとき、必要となる単語が出てきて、それによってまた単語が増えるということもあります。 5 辞書を作ろう 日常的なことが言えるようになってきたらそれなりの語数を持つことになりますので、辞書を作成します。 それまではワードやメモ帳やエクセルなどに単語を登録していたと思います。 単語が増えてきたらワードだと厳しいので、ここからは辞書ソフトを使ったほうがいいでしょう。 なお、紙の辞書は編集が不便なので薦めません。 自然言語の場合は語義がころころ変わることはありませんが、人工言語の場合、作成過程でころころ変わります。 それに、新語の登録も多いです。紙の辞書とか、正直言ってムリです。筆者も高校時代に大変な目に遭いました。 6 単語の語法を決める 例えば手をlasという単語にしたとしましょう。 これで一つ単語を作ったことになりますが、これだけでは不十分なのです。 lasっていう単語は手首を含むのか。腕まで含むのか。 また、「手伝い」のような意味はあるのか。 そういった名詞の語法を決めなければなりません。 語法は名詞の示す範囲だけではありません。 傘をさすの「さす」は何と言えばいいかといったコロケーションも作らねばなりません。 どんな動詞と一緒に使うか、どんな形容詞と一緒に使うか。そういう情報も語法です。 実はこの語法という点は、文化と同じくらい人工言語がサボってきた分野でもあるのです。 だいたいの人工言語の辞書は単語帳っぽくなっていて、語法が乏しく、その語の正確な使い方が分からないのです。 それってどれくらい問題なんでしょう?ちょっと例を挙げてみます。 仮にわれわれが英語を全く知らないとしましょう。 傘を和英で引けば、umbrellaアンブレラと出てきます。じゃあ「傘をさす」って何ていうんだろうと思うが、コロケーションは載っていない。 もちろん本物の和英辞典には載っています。だけど、人工言語の辞典には載っていないのです。 しょうがないから今度は「さす」を引くと、stickと出てきました。 じゃあ、この人工言語では「傘をさす」を stick an umbrellaって言うんだなと予想するわけです。 同じ理屈で、「辞書を引く」はpull a dictionaryですね(笑) えぇ、私たちは英語を知っているので、これが間違いだって知ってるわけです。 でも、これが人工言語だったら、恐らく自分の間違いに気付きませんよね。 語が書いてあっても語法やコロケーションが載っていないかぎり、こんな間違いを平気でしてしまいます。 語法やコロケーションを母語に合わせて良いなんて人工言語の作者がいったら、日本人は本当にstick an umbrellaって言いかねません。 ですが、これ、間違いなくアメリカ人には通じません。だから語法やコロケーションはしっかり作らねばなりません。 7 用例を充実させる また、辞書にできるだけ多くの用例を登録しておきましょう。 用例があると、コロケーションと語法を同時に知ることができます。 8 翻訳しよう ここまで終わったら、今度は翻訳に入ります。 何語のどのジャンルを訳してもいいですが、日記や日常を描いた小説などがとっつきやすいでしょう。 あまり突拍子もないSFは滅多に使わない単語を作る羽目になるので相応しくないです。ワープとかね。 また、学術論文は術語を作らなければならなくなるので、ひとまず避けてください。 翻訳をやっているうちに自然と足りない語に出くわします。そこで、そのつど新語を作って辞書に加えていきます。 翻訳は色んなジャンルを色んな作者でやったほうがいいです。同じ作者だと表現が似ているので、語が増えづらいからです。 9 一次創作をしよう 翻訳もできるようになったら、今度は自分で自言語を使って執筆します。 それと同時に仲間がいれば会話の練習もします。 小説で会話表現は随分習熟したはずなので、これは実際の運用練習になります。 会話ができるようになり、自分で文章を書けるようになれば、完全に軌道に乗っています。 後は専門分野を訳したり書いたりして、語彙を日々拡充していきます。 このとき、単語のみならず、成句も増やしていくと良いでしょう。 10 非言語を作ろう ここまでくると非言語(ジェスチャーとかのこと)についても細かく決める必要があります。 個々のジェスチャーが独自ですから、それも決めなくてはなりません。 そうして非言語も完成させて、そこで初めて人工言語はひとまず完成します。 ☆できれば言語に並行して文化と風土も設定を細かくしていこう 人工言語を作る前に人工風土と人工文化をある程度設定しておいたほうがいいです。 かといって初手から全て細かく作る必要はありません。 ある程度作ったら、人工文化と人工風土は人工言語と平行して補完していきます。 ただ、風土については始めからなるべく細かく決めておいたほうが無難です。 後から修正が効きづらく、そのくせ修正すると文化や言語まで修正するはめになり、作業が大変だからです。 ちなみに、人工文化を作らないタイプの人工言語では、この作業はカットです。 .
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/58.html
(注)後述の新生人工言語とは文化を定めた言語程度の意味です。 通時論で見たように歴史的にはそれぞれの文化を反映する人工言語というものは無かった。細かく見ればダルガーノのように同じ対象を別の名で命名しわけることもできる言語もあったが、元々異文化を広く表せるように設計されたというわけではない。その原因は西洋人の世界観にある。普遍言語時代にせよ国際語時代にせよ西洋で起こった運動である。確かにこのころ既に西洋人の世界観は地球規模まで広がっていた。西洋とアラブとアフリカしか知らなかったような時代ではない。しかしそれでも文明の中心は西洋にあった上、人工言語の運動が西洋で起こったともなれば、人工言語が西洋中心に作られることは当然であろう。 ところで前述したとおり言語と文化と風土は不可分である。不可分であるといってもイギリスで発生した言語をオーストラリアで使えないという意味ではない。言語は実に柔軟な代物である。ただ変化のたびにその言語が使われている環境から影響を受ける。オーストラリアで使えば当然そこにいる動物の名前を表す単語ができるだろう。これは日本語でも同じである。仮に日本人が全員イヌイットの地で暮らしたら、やがて「秋の日はつるべ落とし」といった慣用句は絶滅するだろうし、「五月雨」「梅雨」といった語も文献の中に残るのみになるだろう。その代わり元々日本に無かったような様々なバリエーションの雪や氷の地形などの略語が生まれるだろう。 言語はこのように環境に適応する非常に柔軟なものではあるが、必ずその柔軟さの影に文化や風土などの環境が控えている。 歴史的に見ていままでは西洋中心の人工言語界であったため、人工言語は西洋的なものが多かった。エスペラントやヴォラピュクを祖とする国際語の系譜が好例である。ウィルキンズらの百科分類を用いても通時論で見たとおり西洋の観点で分類がなされていた。西洋を前提とするのは言語面だけでなく文化面や風土面にまで及んでいた。たとえば兄弟の長幼を言語面で気にしない英仏語などの文化がそのままエスペラントにも現われている。また、actor, actressのように男女を一々気にする西洋語の文化を反映して、エスペラントも女性接辞の-in-を持つ。更に言えば男性無標というのも西洋の価値観である(勿論西洋以外でも男性無標は存在するが)。至るところに西洋の文化風土が根ざしているため、そういった言語は非西洋圏には扱いづらい。その不平等は西洋が世界の中心であるうちはまだ我慢されていたが、アジアなどが台頭してきた前世紀末および今世紀においてはその不平等さが顕著に意識されるようになった。そこで特に普及型を中心にどうにかして文化の違いを乗り越えられないかという議論が勃発し、作者は打開案を捻出した。文化の違いを乗り越える計画は新しいものではないが、それを地球規模で実際に取り組んだのは特に20世紀後半以降の話である。 そういう流れで歴史的必然として生じてきたのが、たとえば西洋だけでなくアジアの言葉を混ぜた人工言語である。これは参照言語を増加させた後験語と定義される。参照言語を増やす言語の性質とは何か。まず利点は、特定の狭い地域を参照にすることがないため広範に受け入れられやすい点である。この利点は言語面より精神面、つまり学習者がその言語を受け入れようとする精神に関わるところが大きい。欠点は広範に言語を参照して文法を折衷すると整合性のない文法ができる点、語彙の流入元が増えるので学習者にとって知らない言語から単語が作られやすい点である。 特に後者が問題で、たくさんの言語や知られていない自然言語から流入すると事実上の後験性が薄くなる。水という単語をフィールドワークも殆ど入っていないような言語から後験的に取り入れても学習者にとっては先験的にしか見えない。ラテン語のアクアは仏教を通じて日本語のアカになったが、よほどこれを根拠に水をアカとしたほうが理解されるだろう。尤もこれは分かりやすくするための極端な例で、実際そうする人はいない。だが広範に参照言語を選ぶということは学習者にとって馴染みのない単語から流入する確率を増やし、後験語である意味を薄めてしまう。これが欠点である。 他方、作者が捻出したものは他にもある。上記は後験語による打開策である。先験語による打開策はたとえばピクトグラム系では同じ普遍文字をそれぞれの母語で読ませるという方法である。自然言語のほうが分かりやすいので漢字を例に取ると、たとえば「国」という文字は日本語では「コク」で中国語では「クォ」で韓国語では「グク」である。音読みだけとっても既に音がそれぞれ違う。カンコクのことをハングクと言われたら我々は何のことだか分からない。しかし「韓国」と書かれれば分かる。また、ミズのことをムルと言われたら何のことか分からないが、「水」と書かれれば大雑把には意思疎通ができる。このように読みはそれぞれ違っても字が共通していればそれぞれの母語の読みを保ちつつ意思疎通が図れる。こういうのはピクトグラムが得意な分野であり、着想としては普遍文字時代に遡るものである。尚、大抵この手の言語は現在では母語読みだけでなくその人工言語オリジナルの読みも持つ。喋るときはこの読み方を使えば音声面でも意思疎通が図れるというわけである。 しかしこの方法にも短所がある。ピクトグラムの読みを覚えないと会話には使えないという点。読みが規則的に決められている言語はウィルキンズのものと同じく類音の聞き違い問題に苦しむ。逆に読みに規則がないと単なる先験語だから漢字を覚えるのと同じくらい手間がかかる。つまり使いにくいか学びにくいかの選択肢を迫られる。折衷案を取ろうとして聞き違いを減らすほど、母音の追加が行われたり規則性が減ったりして学びにくくなる。ただ最も実践的なのはこの折衷案であろう。何より聞き違いの問題が酷くて使いづらい言語は普及の理念に合わないからである。がんじがらめでない緩い規則、聞き取りと発音のしやすさ。折衷によるこれらの実現が最も実践的であろう。 一方、表音文字の先験語はどうか。ピクトグラム系の打開策は使えない。どうすれば地球上の多用な文化に耐えられるか。ひとつは文化をできるだけ漂白して平等を装う手段である。これは地球上の文化を全て折衷するというちゃんぽん文化を作る方法ではない。文化に関係なく概念を決める方法である。農耕文化と牧畜文化では作物や家畜の細分化の程度が異なる。そこで、あえてこれを徹底的に細分化しないという方法が考えられる。たとえば米はriceだけ、oxやcowは牛だけといった大雑把な区切りである。水とお湯の区別もなくwaterに一本化。兄弟もsiblingしか作らない。寒いところでも雪はsnowしかなく、局所にしか見られないオーロラなどの現象は方言として造語するか基本語の合成で作る。 こういった手法は要するに「世界の最大公約数」を得る手段である。細部の差異が漏れ、地球人としての共通部分だけが残る。そのレベルで命名すれば文化も風土も関係ない。なるほどこれは確かに実現可能である。ウィルキンズのように細分化に細分化を努めた百科分類の時代とはまるで逆で、むしろ粗い最大公約数を得るという方法で文化と風土の影響を殺そうとするものである。 ただ、この欠点はすぐ考えられる。言うまでもなく全ての地球人にとって平等に使いづらい。なにせ自分の文化や風土が反映されないのだから。そうなったら明日から妹と呼ぶのに一々「女で若いほうのsibling」と言わねばならない。これは面倒だし、かといってsiblingだけにして妹も兄も区別しないというのは日本人の感性に合わない。この使いにくさが最大の欠点である。 ではこの欠点を更に補強できないだろうか。実はある。そもそも異なる環境にある言語を全て一緒くたにしようという考えは不自然そのもので、社会的観点以前に不便さの点で世界中が同じ言葉を喋るというのは実現しない。英語が世界中に広まっても方言化するのと同じで、普及型の人工言語にも方言や位相を認めるのが実用的である。そこで各文化風土ごとに概念の細分化を設定する。日本語や中国語圏のために兄や妹を規則的に作る接辞を与えるか、そもそもそれらの概念を表す単語を作る。人工言語Lにおいて兄弟を表す基本レベルの語を仮にetuだとする。この大雑把さに違和感を覚えるのであればLの位相L’では接辞を用いて妹をetunなどとすればよい。或いはそもそも別の語根を取って妹をmeiなどとすればよい。そしてこの単語を長幼・性別を区別する文化圏全てに適応する。すなわち中国・韓国・日本は世界語としてのetuを持つと同時に、地域語として全て同一のetunないしmeiという語を持つようになる。3ヶ国語の「妹」という単語がまとまるだけでもそれぞれの言語の単語を個別に覚えるよりは楽である。 このようにして方言を設定していく。要するに同じ文化の型を持つ言語には同じ区分で単語の設定をするわけである。ピクトグラムを持たない表音文字先験語にとって、これは文化ごとの差異を表す方法であろう。 尚これら3国の中にもetuという基本レベルはきちんと語根として残っているため、地球規模で使うとなれば意思疎通は可能である。日本人が日本語では姉と妹を区別しても英語を喋るときにはまとめてsisterというのと同じ感覚で、国内ではmeiといい、国際的にはetuといえば良い。恐らく基本レベルであるetuがL’のネイティブにとっては外来語のように映るようになるが、日常的に使わないのであればその認識でよい。 こうしていくと基本レベルと違う方言がたくさん出るのではないかと考えられる。だが恐らくそれは大きな数には昇らない。まず、品詞としては殆ど名詞に限られる。文化による差というのは最も名詞に表れやすい。動詞については殆ど文化差はない(語法差は当然あるが、それは自然言語であろうと人工言語であろうと同じ。) 「行く」などの概念が文化によって決定されるとは到底思えない。行くとgoの違いは語法差にあるが、この語法差は文化によってできたものとは考えづらい。対象言語学では「来る」とcomeを対照し、視点が起点に置かれるか終点に置かれるかの違いを論ずることがある。それを以って日英の視点の違いを述べることがある。だがこうした見方の違いの原因を文化に帰することはできないし、できても極めてこじつけに近いと判断されるだろう。 comeの見方自体が英語の物の見方になって新たにひとつの文化を形成するということについては否めないが、comeそのものの語法がイギリス文化を背景にしているとは言えない。 動詞について文化が出るとすれば調理動詞などであろう。穀物は煮て繊維を柔らかくしないと食べられないものが多いので、穀物ばかりで生きている風土にあれば煮る系の動詞が細かい可能性がある。肉を一切食べないところでは焼く系の動詞が細分化されにくい可能性がある。だがこのような動詞の例は珍しい。 形容詞についても同様で、熱いや寒いなどはどの言葉にもある感覚であろう。ある概念を形容詞に当てるかどうか言語によって異なるが、いずれにせよ「熱い」などの形容概念を持たない言語はないだろうから、これも文化が関わるものではない。文化が関わるとすればたとえばワビサビなどの特殊な感情に限られる。したがって一般的な感覚や感情を定めておけば形容については概ね問題ない。 機能語については更に普遍性が高いため、大きな問題は生まないだろう。そうして見ていくと名詞に主に気を付けていれば良いことになる。また、この名詞というのもあくまで基本語の範囲内であることが多い。米、牛、妹など、どれも基本語である。パソコンはどこでもパソコンのままで困らないだろうから位相差を付ける必要性を感じられない。スピーカーやウィルスや肺塵病についても同様である。そう考えると基本名詞に位相差を付けていけば概ね問題ないということになる。 したがって世界の最大公約数を得た上で、基本名詞に位相差をつければ良い。方言化されるのはそういった一部の語だけになるので、文化差を付与しながらmeiと言いつつ国際語のetuを覚えるという作業はそう大変なことではない。それに国内および同じ文化の型の中で使う分には自分の文化の型の語だけを使えばいい。たとえば日本でいえば中国、韓国といった比較的広範囲でmeiだけ知っていればいいことになる。各国語の違いを覚える必要はない。 確かにこの欠点は自分の文化の型と異なる単語を覚えなければならない点である。しかもその単語は基本語名詞を中心とするため頻度が高い。だがそれでも恐らく長所のほうが大きい。 Lの持つ単語数がnだとしてもL’の単語数n’個分の新しい語を覚える必要はない。基本名詞を中心に追加で覚えるだけである。高級語や機能語や用言類に関しては同じなので難しい話をすればするほど国際的に通じやすくなる。国際的に話をする必要があるのは概ねビジネス等においてであろうから、この性質は有利に働く。 さて、ではこういった言語Lを具体的にどう作れば良いだろうか。まずは世界の最大公約数を取って機能語、名詞、動詞、形容詞などを決める。最大公約数なのでその数はそう多くないから作りやすいだろう。この分類は作者によって異なる。ウィルキンズとダルガーノが同じオックスフォードにいながら異なる分類の細かさを持ったのと同様である。尚、単語は先験的に作っても後験的に作っても良い。その後はベネディクトの文化の型の実践ともいえよう。各文化の型ごとに基本語名詞を命名し、文化の型ごとに振り分けていく。たとえば「イモウト」や「メイメイ」を meiと定めるように。meiのような語を選ぶときも先験でも後験でも構わない。実際このmeiというのは中国語から取った後験語である。 さてここでetuのような語を国際単語或いは共通単語と呼び、meiのような語を位相単語と呼ぶことにする。辞書を作る際、両者は別々の項に載せ、しかも位相単語のほうに共通単語の見出し語を付けてリンクを貼っておくと良い。それによって位相単語の有標化が実現され、共通単語との違いが明瞭になる。普段は共通単語と位相単語の混成で喋り、国際的な場では共通単語を使えば良い。妹という語もmeiではなくetuの合成語を使って論理的に示す。 こういった言語作りをすれば文化の差を出しつつ普及にも耐えうる言語ができる。だがこれはあくまで「こうすれば文化差別感が無く、それでいてそれなりに使いやすい」言語案にすぎず、これで普及が実現できるわけではない。相変わらず七面倒なことに変わりないし、恐らくこんなものを学習するのであればエスペラントのような自然言語の模倣を選ぶのが人情だろう。 そう、実際人工言語で使われやすいものは取っ付きやすいものなので、普及を考えるなら言語のシステムなど見ないほうがいい。英語など既に広まっている言語を独自に簡略化した「人工ピジン」のほうがよっぽど広まりやすい。今で言えば英語の贅肉をそぎ落としつつもオグデンのベーシックイングリッシュほど痩せこけていない程度の改良英語を作って広めるのが最も成功の可能性が高い。そのせいで「英語帝国主義」や「英語の猿真似」と呼ばれるのは必至であるし、そもそもどう頑張ろうと本物の英語のほうが先に広まってしまうのだが、それでも七面倒な「文化的平等言語」を持ち出すよりは普及しやすい。 人間というのは実に勝手なもので、「帝国主義」「文化統一主義」などと批判しておきながら、実際学習する段階になると自己の経済的利益を考え、より自然言語に近い人工言語を選ぶ。いや、それ以前に英語そのものを学ぶだろう。ここで述べた「文化的平等言語」は17世紀の普遍言語の哲学性に20世紀の国際語の利便性を混ぜて作った思想的な産物であり、普及には向かない。繰り返すが、普及は社会的な要素で決定するので、文化的平等を掲げて文句の出ないようにしたところで、一部の人間の精神には歓迎されようとも、広く普及されはしない。人間はたとえ七面倒でも金持ち力持ちの言語を習得するものである。 しかし普及型で見なければ話は別である。こういった言語は哲学的な作品としては17世紀と20世紀の異なる歴史を昇華させたものであり、文化的平等・グローバリズムで見ても興味深い作品である。ウィルキンズ・ザメンホフ・ベネディクト・ソシュール、更には現代言語学のフィールドワークの成果、インターネットなどによるグローバル社会――こういった要素が揃って初めて成しえる言語であるから、過去にはこれと同じクオリティは実現不可能であった。確かに広まることはないが、普遍言語の性質も国際語の性質も備えている。恐らく今後はこういった歴史を踏襲して昇華した言語が創造されるであろう。尚、このタイプの言語は基本的に世界の最大公約数を求める作業で分類的になりがちであり、それゆえ先験語になりやすい。しかし語彙や文法を自然言語から取れば後験語に属することを加えておく。このように地球の文化を型ごとに分け、文化を反映した上で人工言語を作ることができる。位相単語は当該の自然文化を反映しているので、この人工言語は特定の文化を参照している。したがって新生人工言語である。 一方、自然文化でなく人工文化から人工言語を作る方法もある。先の方法はまず世界中に最大公約数的な共通単語を割り当てた後に方言として位相単語を割り振る方法であった。最初に粗く全体を決め、その後細かい部分を決めるという上から下へ向けての作成手順であった。今度はそうではなく、ゼロから文化を創造するという方法である。恐らくこれは最も難しい。もはや言語の範疇を越えているからである。文化とともに風土も作らなければならない。無論このようなものは実際には地球に存在しないわけだから架空である。小説の世界を作り込むように架空の世界を細かく作りこんでいく。それには膨大な知識と時間が必要である。そのため最も実行の難しい言語である。しかしオリジナリティにおいては最高のクオリティを有する。普及型としては役に立たないが、演出型や符牒型としては最高の品質を有する。 このタイプは人工文化という特定の文化を持つため、非常にエゴが強い。前述の文化平等主義は「最大公約数を求めた上で個々の文化差を表す」という意味で平等であった。しかし人工文化の場合は「どの自然文化にも依存しない」という意味で逆に平等である。つまりどの民族の文化にも肩入れしないという点において平等である。前者が融和的な平等ならば、後者は独立独歩による平等である。アプローチは異なるが文化的に平等という点では変わりない。ただ、後者はエゴが強い。それゆえ逆に演出型・符牒型としての強い機能を有する。前者はエゴが弱いのでこれらの機能は薄い。 以上、文化平等主義の観点から新生人工言語を2点見比べた。新生人工言語は特定の文化風土を参照とする言語なので、平等主義でなかろうと一向に構わない。日本を参照にすると明言した上で言語を作れば新生人工言語にはなる。文化を規定しているので学習者はその文化についての既存の参考資料を使うことができる。新生人工言語は文化平等主義の方法を使わない限り特定の文化に依存してしまう。しかしそれは普及型の理念に反する。では普及型が取りうる新生人工言語は無いのだろうか。その返答としてあげたのがたとえば文化平等主義による新生人工言語である。 21世紀になってますますグローバル社会が実現していくにつれ、文化差が意識されるようになった。言語の普及は力関係でなされるので、いかなる人工言語も英語の代わりを務めることはできない。だが普及以外の観点、特に哲学的思想や芸術的嗜好の面で見れば人工言語は機能を有する。ネットなどの情報網や飛行機などの交通網によって狭くなった現代は、かつては存在しなかった諸学門の新たなデータまでも利用できる環境にある。 こうした中で、現代は新たな種類の人工言語が生まれることが推測される。また公開手段も従来の自費出版からネット公開などに変わり、旧態は劇的に変わるものと考えられる。グローバル化したせいでかえって意識してしまった文化の違いを哲学・芸術上の問題としてどう解決するか。これが現代における人工言語学の展望であろう。 はっきり述べる。 21世紀の人工言語は17世紀・20世紀の焼き増しには留まらない。当時無かったものが現代には在り過ぎる。これだけ異なる環境でただの焼き増しに留まるというのであればそれは早計である。時代は動く。歴史は繰り返す。 だが学問は常に進歩している。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/70.html
人名は固有名詞で、これも扱いにくい分野です。 地名以上にアイデンティティを示すので、扱いも慎重にならざるをえません。 特に普及型だと名前については困るでしょう。 ある人の名前がその人工言語では偶々悪い意味の言葉だったりしたら困ります。 「健太」という名前の人がいて、ある人工言語でkentaは「バカ」という意味だとしたら、凄く嫌な感じじゃないですか。 だから普及語では特にその点に気を付けたいんですが、実際それを言い始めると、いつまでたっても始まりません。 少なくとも悪い意味の語は作れなくなってしまいます。 人名に関しては本人の名前をそのまま尊重するのがいいでしょう。 ただ、相手の母語の音韻体系と同一ではないので、自言語の音韻体系に置き換える必要があります。 置き換えた結果、人工言語で悪い意味を表わす名前になってしまった場合、その人工言語での新たな名前を選ばせるのがいいでしょう。 最初は戸惑うと思いますけれど、要は芸名のようなものではないでしょうか。まずい意味を表す名前でなければ、引き続き日本名を使えばいいと思います。 問題は過去の人間の名前でしょうか。信長くらいならいいのですが、文献が古すぎて読めない人名や、国によって発音が違う名前です。 ツタンカーメンは何語読みするのがいいんでしょうか。当時の読み?それはちょっと難しいですね。 先験語にせよ後験語にせよ、外国人の名は外来語として音韻体系に当てはめて取り入れるわけですから、最近の人に対してはその人の母語で。また、昔の人に対しては何語でもいいでしょう。 ただ、神の名とか忌み名には気をつけたほうがいいです。勝手に読みを変えると、いらぬ反感を買いかねません。 基本的にツタンカーメンは英語でも日本語でも、好きに呼べばいいです。ただ、それだと外来語が膨大になるため、参照言語は1つに絞ったほうが無難です。 日本人が作るのなら、日本にはかなりの文献があるので、日本語読みでもいいと思います。 英語が堪能で文献をすぐ入手できるなら英語でもいいですが、しばしば英語は読みが分からない言語なのが難点です。 それにしても、ある人の母語の卑語と人工言語の語が重なることに比べれば、人名は容易です。 エスペラントの dankon は日本人には恥ずかしくて言いづらい語ですが、かといって日本版エスペラントを勝手に作って「ありがとう」を別の語にするわけにはいきません。 それに比べると人名は気が楽です。 もし Dankon という名前の外人なら、日本に来たとき日本名を使えば良いのですから。 回避の手段がある分、人名は気楽です。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/51.html
ところで16, 7世紀の普遍言語論争時代には様々な普及型言語が作られたが、実際それは役を果たしたのだろうか。比較的成功したのはウィルキンズであろう。彼は存命中からそれなりの大きさのコミュニティを形成していたし、ダルガーノらに比べてより精巧な分類表を作るに至っている。更に自身の死後もその仕事が継承されている。分類や分析を素地とした哲学的言語として隆盛を極めたのはウィルキンズであろう。 しかしそのウィルキンズの文字でさえ書きにくい、読みづらい、覚えづらい、間違えやすいなどの批判が相次いぎ、共通語として日の目を見ることはなかった。 こういう大きな目論見が敗れた結果、悲観的になった社会の関心は薄れていった。更に17世紀の終わりごろはフランス語が西洋に普及したため、個々の土着語による混乱をなくすという目標が減じてしまった。それゆえ共通語に対する意識自体が薄まっていた。ウィルキンズのような大業にもかかわらず普遍言語が実用されなかったこと、そしてフランス語の共通語化の波に押され、徐々に普遍言語としての人工言語は熱が冷めつつあった。そのため18世紀は前世紀と比べると普遍言語は下火で、事実上普遍言語論争はほぼ幕を閉じていた。あとは散発的な炎が灯っては消えただけである。 18世紀中葉のデュードネ=ティエボーは普遍言語がいかに有益かを説き、 300ほどの根―語を選ぶことで己の言語の語彙の分類表が作れると述べた。しかしこれは単なる17世紀の焼き増しに過ぎない。 17世紀の焼き増しはこのころ非常に多く行われた。ドロルメルは分類に基づく哲学的言語を作ったがこれはウィルキンズのような分類方式にライプニッツのような計算方式を組み合わせたに過ぎない。だがこのようなかけあわせを用いたところは面白い。また、ウィルキンズの難しい普遍文字の代わりにアルファベットを使った点も興味深い。単にアルファベットを採用しているのではなく、発音に使わない文字は捨象した。こういったことはヒルデガルトのころから行われていたことであるが。掛け合わせや改良アルファベットという点を見れば、単なる焼き増しというよりは過去の言語の改良版といえるだろう。 18世紀も終わりに近付くと哲学的言語への挫折を社会は認知していたため、作者の断念も相次ぐ。コンドルセはライプニッツの手法を参照していたが、未完のまま挫折した。こういった中でド=メミィユの成功は異例の事態であった。 18世紀の終わりに『パシグラフィー』と名を変えた要するに普遍文字計画が出版されると、これは一躍時代の寵児になった。それはやはりウィルキンズのような複雑な文字であった。基本的に12文字しかないのだが、その組み合わせのせいで複雑になる。また、西洋で既に定着していた句読法はそのまま採用された。普及しているものをそのまま使うのは学習者の負担を減らすので合理的といえよう。また、語彙のレベルを3段階に分けたのも実践的である。科学的な分類ではなく実用における頻度や難しさのレベル分けである。すなわち機能語のような頻繁に使われるレベル1、日常語のレベル2、学術用語などのレベル3である。尚、これはそもそも書き文字として作られたが、読むためのパシラリーというのも後になって作られている。 パシグラフィーはフランスで特に流行り、ナポレオンに献呈され、芸術学校で実践され、一部で教育も行われた。その点ではこれまでの普遍言語の中では際立った存在といえる。尤も、パシグラフィーはウィルキンズを髣髴させるだけあって批判点も類似している。結局パシグラフィーの隆盛は一時的なものでしかなかった。皮肉なことにメミィユのパシグラフィーにおける分類はウィルキンズのものより粗い。それがひと時の成功を得たのは言語政策の俗化によるところが大きい。宣伝を多くしたことも理由のひとつである。また、それまでの普遍言語が主の祈りなどを翻訳していたのに対し、俗化した文を訳したことも受け皿を広げたことに繋がる。つまり哲学的な完全性や純粋性が失われ、逆に世俗性が高まり、その政策の巧さからパシグラフィーは広まったといえる。これは人工言語の普及が完全性や合理性では説明付かないことを物語っている。人にとって受け入れられやすいかということが普及に関わっている。この点を意識した人工言語総体は徐々に哲学的な性質を脱ぎ去り、社会学的な性質を負うように変化していく。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/91.html
科学技術が進歩するにつれて、測りがたい主観から、定量的で計測しやすい客観が重視されるようになる。 現代のような発達した時代は客観の時代といえる。 この時代の人工言語はしばしば名詞の時代でもあり、専門用語の拡充に多くの時間を取られることになる。 客観の時代に突入したのは20世紀であり、この時代に相等する文化を持った人工言語は、語彙おもに名詞登録との戦いを強いられる。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/26.html
はじめに ここではレトルト人工言語より詳しく、言語を作る方法を紹介しています。 レトルトに比べて人工言語らしさもアップしています。 ただし、本格的に言語を作るなら、もっと深く広い考察が必要です。 まずは簡単な人工言語の作り方について見ていきましょう。 簡単といっても、ここで挙げる手法は今後の人工言語作りに関与することなので重要です。 一番始めに、どのような言語を作るのか的を絞りましょう。 言語は実用するためのものと、研究や遊戯として作るものがあります。 後者の場合はどのようなシステムにしても良いので、作り方の説明は要りません。 好きな文法を当てはめ、現実にない文法を作り、複雑怪奇な文字を作り、人間がまず使用しないような音素を選んで言語を作る。 それもまた一興でしょう。作り方は自由で良いと思います。 また、実用を考えない研究用言語の作成は選択肢が多すぎてとりとめがありません。 一方、小説にせよ世界語にせよ、実用するなら以下の作り方が参考になると思います。 そこで、ここでは実用を前提とした言語の作り方を見ていきます。 過論理と過合理 実用するための言語を作る場合、過論理(過剰に論理的)と過合理(過剰に合理的)に気を付けてください。 言語作成は始めは机上の空論です。それゆえ言語のシステムばかりに固執してしまいます。 その結果、論理に縛られたものや、過剰に合理的なものが生まれてしまいがちです。 たとえばエスペラントでは英語のisに当たる語をestasといいます。 これは体系的で論理的ですが、実用的ではありません。頻度のわりに語形が長すぎるからです。 過度に細かく文法を設定するのも避けたほうがいいです。確かに体系的で、論理的ですが、実用しづらい面も持っています。 複雑な文法はそれだけ情報量が多いため、必然的に文が長くなります。文が冗長になってしまっては不便です。 このように、過論理や過合理は避けるべきです。いざ実用する際に色々不具合が起こるからです。 辞書の引きやすい言語にしよう 次の注意点は辞書です。予め、辞書を引きやすい言語というのを目指しましょう。 言語の最大のツールは辞書ですが、世の中の言語には辞書が引きにくいものとそうでないものがあります。 字が読めないと引けない日本語や中国語。音が分かってもスペルと一致しない英語。どちらも厳しいです。 音を聞いてすぐ引ける辞書。これが簡単です。なので、そういう言語を作りましょう。これだけで作業効率が劇的に変化します。 .
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/11.html
セレン=アルバザード 新生人工言語論の著者、ならびに人工言語アルカの作者。 日本とフランスの混血児(ほぼ日本人)。国籍も日本。 セレン=アルバザードはアルカでの名前。 略歴 1991年に現在の古アルカに当たるものと出会い、人工言語に携わるようになる。 2001年に現在の制アルカに当たるものを制作しはじめる。 2008年に新生アルカを制作しはじめる。 現在は新生アルカを鋭意制作中。 好きなもの ねこ:家に二匹。最近、犬も飼いたいような……。 絵:世界堂で半日潰せる人。新古典主義が特に。ルーブルで見たアングルの「アンジェリカを救うルッジェーロ」が何とも言えず。 本:ジュンク堂で一日潰せる人。以前は言語学をよく読んでいたが、最近は文字の少ない写真や絵の本をよく買う。 自転車:クロスバイクで埼玉から京都まで行ってみたことがある。意外とお金がかかる(-_-; 対照言語:同じ内容の文や映像を異なる言語で比べて違いを楽しむ。 アルカ:口に乗せて美しく手に書いて流麗と、自分では満足している。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/54.html
人工言語学で音声学を立てる必要性はない。調音・音響・聴覚音声学ともに自然言語学のそれと共通するからである。というのも結局のところ人工言語も人間が話すものだからである。尤も架空言語などの演出型において異星人の言語を考察する場合は現在の調音音声学は役に立たない。彼らの口腔や鼻腔や舌といった調音器官が人間とは異なるためである。たとえば唇がなければ両唇音は出せないし、口蓋が物凄く長ければ硬口蓋・軟口蓋といった程度の大雑把な分け方では不十分であろう。舌が2枚あればそり舌音を出しながら歯茎閉鎖音を作ることも可能である。しかし異星人の調音器官のパターンなどいくらでも考えられるためひとつずつ考察していてはきりがない。その上、結局異星人の調音器官を持たない我々がその言語を使うことはできないのだから極めて実践的ではない。 余談だが、テレビなどのバラエティで火星語なり金星語なりを喋る男(なぜか男。霊媒的な異言現象には女が多いのに)が稀にいる。しかし我々がこのままの姿で火星に行けば死ぬ。この肉体は火星に適応していないからである。したがって火星人は少なくとも我々とは違う姿をしている。ゆえに調音器官も異なる。サルとヒトの調音器官は極めて似ているが、それでもほんの少しの違いのせいで彼らは言語を喋れない。いわんや火星に適応した肉体で調音される言語音を我々人類は調音することはできない。したがってテレビで火星語を喋ることなど調音音声学的に不可能であるし、仮に火星人とやらが聞いたとしてもあまりに下手な発音に苦笑を禁じえないだろう。 さて音韻論は言語ごとに異なった様相を呈している。人工言語の音韻は自然言語のものと違って大抵単純で規則的である。特に文字が表音文字である場合、1文字1音素の原則が守られるのが基本である。 そもそも音素というのは音声を切り取ったものである。ある音声というのは言語によって変わることのない物理的なものである。だが同じ音声でもA語とB語の音韻では食い違うかもしれない。A語に/p/と/b/の区別があれば[b]は/b/だと認知されるが、B語に有声・無声の対立がなく/p/しかなければ[b]は/p/と認知されうる。音韻は音声を切り取ったものであり、その切り取り方は言語によって異なる。無論、ある音韻が表す典型的な音声というのは言語ごとに決まっている。同じpの音でもどことなく英語と日本語の発音が異なるのはそこに理由がある。たとえばpは英語では破裂が激しく、日本語では破裂が弱い。 paperというとき始めのpを特に強く言わないと英語話者には妙に聞こえる。 典型的な音声があるということは、非典型的な音声もあるということである。たとえば極めて強い破裂のpも日本語ではpと認知される。更にいえば[r]は弾音でないにも関わらず日本語ではラ行に取られる。人間は母語にない音声は母語にある音韻に無理に当てはめようとするからである。もし該当するものがないほど奇妙な音であれば、かなり戸惑った上で何とか仮名文字を捻出するか、何とも聞こえないと投げ出してしまうだろう。 そのような奇妙な音を探してIPAなどを見てみるとあることに気が付く。とりあえず表の文字を見て恐らくあの音だろうと察せるものがある反面、何を参考にしたのかさえ分からないような記号がある。 IPAでラテンアルファベットを与えられているものは一般的に西洋語で使われやすい音声である。ところが印欧語と系統の異なる日本語の子音を見てみても、概ねラテンアルファベットに入ってしまう。ラ行やファ行などいくつかが特殊な記号になっているものの、後は概ねラテンアルファベットで表現できる。 これはどういうことかというと、つまり音声の中にはより人間に使われやすい頻度の高いものがあるということである。 たとえばp,k,mなどの音は頻度が高く、大抵の言語に存在する。ニューギニア近くのブーゲンビル島にあるロトカス語は音素が11しかないことで有名である。同じく10音素のピラハー語、13音素(声門閉鎖含む)のハワイ語なども存在する。学びやすさを追求した人工言語を作ろうとした者にとっては聞き覚えのある言語ではあるまいか。こういった音素の少ない言語の子音を見てみると、たとえばハワイ語の子音は声門閉鎖を除いてp,k,m,n,w,l,hである。やはりpやmは入っている。このように音素には頻度の高いもの、簡単にいえば人気の高いものがある。また音素数が少ない言語は人気の高い音素を持つ傾向にある。ハワイ語を見てもそうである。この7音がマイナーな接近音やそり舌音ばかりで構成されるような言語はない。 したがって人工言語でも研究型のような実用を考慮しないものを除いて、このような普遍性を利用して人気の高い音素を選ぶ傾向にある。尚、このような言語学のデータが得られる以前の人工言語はもっぱら西洋語の音素を参考にした。普遍言語時代には特に西洋の音素が当たり前のように用いられてきた。彼らは母語或いは周辺の西洋語の観点からみて発音しづらい音素の組み合わせを排除することには専念したけれども、音素の選択において西洋以外の音素体系を考慮することはあまりなかった。シュライヤーは中国語を意識してrを削除した。だがこのようなことは珍しく、それも普遍言語時代が終わった19世紀末のことである。国際語時代に入ってエスペラントが台頭しても音素はしばしば西洋語中心の選択であった。現在の人工言語はやはり西洋を前提としたものが残っているが、作者の母語や学習言語の音素を参考にしたものが多い。日本人の場合、日本語と英語の折衷といった言語が多い。また現代は言語学のデータを利用できるため、よく使われる音素を選択するといった方法も取られている。 今までは子音について述べたが、母音はどうか。母音は何を選ぶというより数の問題である。3母音体系ならi,a,uになるのは最も想像されることであり、5母音体系ならi,e,a,o,uが最も典型的である。このように母音には色彩語と同じようなヒエラルキーがあるので、どんなではなくいくつの母音を持つかが重要である。普遍言語時代はやはり西洋語中心で、7,9などといった比較的多めの体系が取られやすかった。現在では言語学のデータから5母音体系が最も多いということが分かっているので、殆ど考えもせず5母音体系を持つ言語が多い。西洋語であるエスペラントでさえ5母音体系である。このように類型論から普遍性が明確に分かっているものについては人工言語はそのまま自己のシステムに取り入れることが多い。奇を衒ったものでもないかぎり今後も5母音体系の人工言語が増えていくだろう。 人工言語の類型から見れば音韻体系は先験語のほうが自由に作れる。後験語の場合、参照言語の音韻体系に合わせなければ語を流入するのが不可能ではないが面倒になるからである。有声音と無声音の対立がなければpitとbitを英語から流入させた場合、同音異義語になって区別が付かなくなる。したがって後験語は参照言語の音韻体系にある程度拘束される。拘束されずに自由な体系を作った場合、学習者は基の語源が何か分からなくなり、後験性そのものが弱まってしまうので両立はできない。 尚このことについては音節構造も同じである。音節構造も後験語は拘束されやすい。もし英語を参照しているのに日本語のようなCV音節ばかりだと語を流入する際に困難になる。更に使い勝手も悪くなる。strengthは日本人には信じがたいが1音節であり、その点ではaと変わらない。構造はCCCVCCCである。これを日本語に流入するとストレンクスであるが、6音節にまで跳ね上がっている。しかも音韻は/sutorenkusu/である。母音が至るところに挿入され、長くなっている。こういう不具合を回避するため、後験語は参照言語の音韻体系に拘束されやすい。先験語は自由に作れるので何とでもできる。 全体的に西洋語の影響が多いため、子音連続を認める人工言語が多い。 CVのような単純な音節を持つ言語は少ない。「単純な音節構造を持つ言語」や「CVCが発音できない学習者のためにCVCVのような母音挿入を許す言語」はまず間違いなく普及型で、発音の難しさを払拭する態度を表している。しかし著者が見たところでは人工言語の典型的な音節構造はCVとCVCのような開閉両方の音節である。こうしておけば外来語の流入が容易になるという利点があるからであろう。 やや複雑な音節を認めると今度は発音しにくい子音連続の問題が出てくる。発音しにくいというのは母語によって決まる。日本語のように単純な音節を持っていると殆どの言語は複雑な連続を持っているように感じられる。したがってこの複雑さは相対的なものである。ただ、恐らくmvsbatvnrのような音節は発音しづらいであろうから、こういったものは排除される。こういう語形をそもそも作るはずがないのだが、唯一できてしまう言語が存在する。百科分類に基づいて機械的に語形を定める言語である。勿論上記ほど酷く発音しにくい語形ではないが。こういう言語は分類を音が表しているので、音がそのまま分類上の意味を持っている。したがって組み合わせ次第では到底発音できないか発音しづらい組み合わせができてしまう。これはしばしば普遍言語時代にも批判されたことである。 しかし発音しづらさを避けるために音節構造を単純にすると語形が長くなりがちであり、発音しやすいように母音等を適宜挿入すると分類と語の結びつきが曖昧になってしまう。百科分類を用いる場合は適度な短さと発音の容易さと覚えやすさを満たすことが要求されるが、これは言うほど簡単ではない。後験語の場合、音韻体系は参照言語のものに合わせることが多いので、滅法言いづらい語はそうそうできないと思われる。よほど人間に困難であれば自然言語として成立しないからである。先験語の場合、百科分類を用いないのであれば自然言語を調査した上であまりに不自然な子音連続を避けることが要求される。 アクセントに関しては拘束が多い。自然言語には自由アクセント体系がたくさん存在するが、それだと語ごとにアクセント位置を覚えるか、最低でもアクセント位置を特定するための規則を覚えねばならない。それは煩雑なのでアクセントは大抵拘束である。後験語は参照言語のアクセント形式を引き継いだりする。だがこの傾向は必ずしもそうでなく、必ず最後の音節だとか必ず最初の音節だと決めることもある。エスペラントのように最後から2番目という規則は西洋語を脱却した目で見ると扱いづらい。慣れるまでは最後から2個目を遡って数えなければならないし、機転の利かない学習者のために「1音節で終わる単語は1音節目にアクセントがある」といった但し書きも加える必要がある。尚、アクセントが自由でないと異言語の固有名詞を述べるときに相手に違和感を与える。たとえば尾高型や平板アクセントの固有名詞をフィンランド語のような第1音節にアクセントがある拘束アクセント体系に押し込めると奇妙な感じがする。特に人名だと顕著である。 声調言語は実は自然言語には多く存在しているのだが、メジャー言語の中では中国語しかないためか、人工言語では声調を持たないものが多い。架空言語でかつて音調言語などの参考にされたころと違い、声調を持たないのがさも当然のようである。尤も普遍言語時代にも殆ど声調言語というのは見られなかったが。声調言語は音素数が少なく音節が単純であることが多い。元々起こりとしては音節末子音の消失に伴い声調が発生したと考えられるため、 CVの音節を持つことが多い。CVになるということは上述のとおり外来語の流入が難しい。更に音素数が少ないのでいわんやである。中国語でアレクサンダー大王が何と言われているかを知ればこのことは頷けるであろう。中国に留学して一番苦労するのは世界史と聞いた。声調を持つのは中国語など声調言語を参照言語にした後験語か、そうでなくば先験語である。西洋語を参照言語にしておきながら中国語のような音韻体系と声調体系を持たせるのは整合性が無く非合理的である。 尚、人工言語に珍しい声調言語だが、人工言語の声調を見てみると大概が単語の意味の識別に声調を利用しているようである。たとえばmaは1声だと「母」だが3声だと「馬」といったように。アフリカの声調言語には声調を文法的な識別要素として使うものがある(ザンビアのベンバ語等)のだが、人工言語の声調言語は中国語のように意味の識別をするものが多い。これは恐らくメジャー言語で唯一声調を持つ中国語が念頭にあるからであろう。人工言語としては声調を文法的に使い、たとえば主要な名詞の格を声調で表すことによって、語順の自由な言語を作ることもできるだろう。また動詞については声調で時制などを表すことも可能であろう。こういったアイディアは突飛かもしれないが合理的であり、声調を明瞭に発音すれば実用に際しても問題ない。なのでよく自然言語を調査すればこういった人工言語の着想に至ることは十分に考えられることである。(注 自然言語を学習するよりも、短い時間でたくさん上辺だけ調査するほうが面白いアイディアを練るには役立つ)
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/71.html
普及型の人工言語の場合、広域に広めなければなりませんから、対象地区の言語が持つ卑語が自言語の語と重なるのは良くないことです。 人工言語を作ろうとすると必ず一度はここで悩むはずです。 自言語を対象となる自然言語の音韻体系に当てはめたとき、卑語にぶつかるのは問題です。 なお、以下は卑語を広義的に捉え、卑猥な語や罵倒語やちょっと言うのが気恥ずかしい語も含めます。 たとえば、エスペラントのdankonは日本語の音韻体系に当てはめると卑語になります。かといって他の諸言語では必ずしも卑語になりません。 また、エスペラントのindiは「値する」という意味ですが、中国語ではyin1di4(陰核)に音が似ており、同じくmimi(身振りで示す)はmi1mi(おっぱい)を多少想起させます。 アクセント等は勿論異なりますが。ですがmimiはせいぜい日本語では「耳」であって、別に卑語ではありません。 ある語が自然言語の卑語と重なるかを一々見ていては、人工言語は作れません。 すべての言語で卑語でない音など探しきれないからです。 そこで、メジャー言語の卑語だけを調べるという実用案が出ます。 しかし、たとえば日本語1つだけ取ったとしても、一体いくつの卑語があるでしょう。 最近は卑語を集めた辞典も売っているので確認していただいてもいいですが、日本語1つ取っても卑語がかなりあります。 メジャー言語の数をそもそもいくつに設定するかは作成者の納得次第なので数を設定できませんが、私感を申し上げると、英語を筆頭にし、最低でも10ヶ国語は取らねばならないでしょうか。 仮に10だとすると、これはもう莫大な数の卑語があります。 しかも卑語の恐ろしいことは、辞書に載りづらいので調べきれないということです。 ある言語のある語が卑語だとしても、それが辞書に載っていないスラングだとこちらは調べようがありません。たとえ言語を限定しても情報量不足で調べられないのです。 加えて恐ろしいのは、卑語の語形が大概短いということです。日本語でもアホ、バカ、カス、クソなどの卑語を例に取ると、やま、かわ、つきと同じように和語的な2モーラが多いです。 他に勿論マヌケ、トンマのような3モーラ語もありますが、これも短いです。 英語でもfuck,shit,cuntのような4-letter-wordsが数多くあり、これらはどれも語形が短いです。 bloddyとかmother-fuckerは多少長いですが、総じて卑語はcrap,damn,brat,bitchのように短い語が多いです。 まぁ、悪口は言いやすくないと吐き捨てづらいから、嫌でも短くなるんでしょうね。 これら卑語の語形をすべて避けていたら、自言語は短い語形をことごとく失ってしまいます。 卑語を避けようとすると、人工言語が作れなくなるので、気にしないほうがいいというのが結論です。 人工言語も言語の1つです。日本人が英語を学ぶときに I が愛みたいで気恥ずかしいという初学者もいます。 でも慣れてしまえば I は I でしかなくなります。英語脳に切り替わっている間は日本語の卑語や恥ずかしい言葉と重なっても、あまり気にならなくなります。あれと同じことが人工言語にもいえます。 一方、極端な話をいえば、完全に諸言語の卑語を回避する方法もあります。 あらゆる可能性を考慮して語るので、このような極論も紹介します。 大抵の卑語は語形が短いというのと、語形が長くなれば確率論的に異言語の卑語と重複しなくなりやすいという性質を活かし、すべての語を長大にするのです。 たとえば「目」をtadermasefteringajampontのようにすれば、いずれの言語の卑語とも重複しません。ただ、全く実用的でないのは火を見るより明らかですね。 私が言いたいのは、卑語を完全に避けるのはこれと同じことをしない限り無理だということです。それだけ大変なので、卑語を避けるのは断念すべきだということです。 しかしながら、折衷案というのも考えられます。 実用レベルで卑語を排他したいなら、これを参考にするといいかもしれません。 全ての言語の全ての卑語を調べるのは無理だとしても、メジャー言語を10程度を選び、その辞典に載っている卑語だけをピックアップするという方法です。 たとえば日本語からはバカ、シネ、クソなどを選び、英語からはfuck,shitなどを選びます。 1つの言語につき100語抑えれば、10ヶ国語あっても最大1000個語形が欠番するだけで済みます。 日常的な卑語など100もあればせいぜいな量ですし、もうちょっと細かく見ても千など行かないでしょう。 日常的に千もの卑語を使う人というのは考えづらいです(テニスの国際審判は卑語に詳しいらしいが)。 これで滅多に使わない認知度の低い卑語以外は切り捨てることができます。 仮に自言語の音素が母音5で子音20程度だとして、音節構造がCVCの場合、音節数はこれだけで2000獲得できます。 CVだけでも音節数は100あります。 これを組み合わせて「やま」のようにCVCVにすれば10000に増えます。「橋」と「箸」のように自由アクセントで区別すれば、音節数は倍の20000になります。 ましてCVCCという音節構造を持つ人工言語の場合、これだけで40000の音節数が得られます。(もちろん、実際に使えない音素の組み合わせもありますので、これは単純計算での見積もりです) CVCCはfuckのような4-letter-wordsと同じ短い語形です。これだけたくさんあるうちの1000が欠番しても実質的な損害はありません。 したがって、メジャーな卑語になる語形だけを欠番にするという方法は実用的といえるでしょう。 しかし、人工言語によっては声調がなく、しかもCVのような単純な開音節しか持たないものもあるでしょう。そういった言語は音節数が少ないので、1000も欠番すると勿体無いです。 そこで、その1000は欠番にせずに、卑語用に使えばどうでしょうか。これだと省エネできます。 恐らくこういった手法が普及型にとっては最も実用的でしょう。ただ、これは折衷案なので、完全に卑語を避けているわけではありません。 当然、公開すれば重箱の隅をつつかれます。それならいっそ異言語の卑語は気にしないという上記の方針もありえます。 色々方法を紹介しましたが、気にしないか折衷案を取るのが一番実用的でしょう。