約 117,514 件
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/64.html
ある人工言語で色に象徴を持たせようとしました。 ほら、日本語にもあるじゃないですか。青は「未熟」を表すとか。ああいう感じです。 で、高貴な色に紫を当てました。 でも、どうやって紫が高貴な色であると演繹したのでしょう。 日本語の冠位十二階制を盗用するだけだと、ちょっと捻りが足りないですねぇ。 じゃあ、何を根拠に紫を高貴にしましょう。 ちなみに、前提としてその人工言語独特の基本色に紫が含まれ、 Berlin and Kay(1969)の焦点色理論を正しいとしましょう。 また、高貴という概念の範囲は不定にせよ、その言語に存在すると仮定しましょう。 (↑何のことだか分からなくても支障ないので、安心してください) もし科学的に波の長短が人間に高貴さを感じさせるのならそれが答えで良いと思います。 つまり、人間の目はなぜか紫の波長に高貴さを感じるというような理屈です。でもまぁ、それはなさそうですね。 もし科学的に高貴だと言い切れないとしたら、ゼロから作る人工文化としては何を参考に紫を高貴とすべきでしょうか。 紫の染料はどうやって得ていたのでしょう。日本ではムラサキという植物の根から作りました。特に乾燥させて水と灰汁を混ぜた媒染剤を紫根色といいます。 が、これは非常に高価だったんです。つまり貴重。したがって、ダイヤや金と同じく高貴な人ばかり手に入れてました。 それで日本では紫が高貴になりました。昔の人はよっぽど紫がほしかったのか、藍と蘇芳で染めて偽紫を作っていたそうです。 これは西洋でも似たようなものでした。 purpleという語を辿っていくと、シリアツブリボラ貝という染料に行き着きます。この貝から採れる染料はほんのちょっとなんです。 したがって日本と同じく貴重で、そこから高貴に落ち着きました。 実は科学的な根拠ではなく、単に染料としての高価さが原因だったんです。 だからある人工風土で紫の染料がこういう草や貝しかないところだとしたら、そこの人工文化でも紫は高価になり、そこから高貴に転じやすいと言えます。 最終的にはそれが人工言語にも現われ、「紫は高貴な色」という表現として具現化されるわけです。 さて、基本的にはこのように分析し、ひとつずつ文化なり言語なりを作っていっています。 紫の件ですが、一元的にひとつの理由からひとつの結果を即座に導いてはいません。 文化は関数ではないので、ひとつの原因を入れればひとつの答えが返ってくるわけではありません。 もっと細かく多元的に見ていっています。だから時間がかかります。 たとえば紫にしても、紫の染料が容易く手に入る風土を仮定すれば、紫は高貴にならなかったでしょう。 紫は別に人類共通の高貴色ではありません。 たとえばカーストの初期ではヴァルナというバラモンなど4種の身分がありました。 高位のバラモンは白で、4番のシュードラが黒ですが、これだと白が高貴になります。 理由はというと、諸説ありますが、 アーリア人のほうが先住民より肌が白かったことによる人種差別というのが一説です。 当然、人工文化がこういった事情だったらカーストと同じく白が高貴になったでしょうね。 人工文化はパラレルワールドみたいなもので、いくつもの可能性を持っています。 作る人によって独特のものになるため、誰の文化が一番とか、そういうことはないです。 ついでにいうと、歴史も考えないといけません。紫が高貴だとしても、その世界で変わるかもしれませんから。 たとえば中国ではいまは皇帝の色といえば黄色です。現代では卑猥な色でもありますが。 でも昔、皇帝の色は紫でした。皇帝の家は「紫禁城」ですよね。あれは天帝が極北の紫微垣という星に近いところにいると考えたからです。 このように、文化は規定しても歴史によって変わりうるということです。 もうひとつ例を。 西洋では青が後に高貴な色に変わる時期がありますが、あれは単に紫を取るための貝を採り尽くしたのでその代理という説があります。 こちらは絶滅という理由で歴史的に変わった例です。 また、紫の染色が安価になると、徐々に紫のランクが落ちるとも考えられます。 このままいくと日本もどうなるか分かりませんね。 というように、一度作っても文化は通時的に変わるものなので、その点にもご注意ください。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/47.html
ところで、表音文字と表意文字では概して表意文字のほうが人工言語に与える背景が広範で深淵なようである。言い換えれば人工文字に与える影響が大きい。ハングルの血の歴史や神代文字の民族意識を見ても頷けることだが、なぜ表意文字のほうが人工文字に大きな影響を与えると示唆されるのであろうか。こう書くと西洋の血の歴史を気が滅入るほどご指摘いただきそうだが、それは無論踏まえての上である。 背景が後半で深淵という仮説の原因は民族性の違いでもないし、東西文化の違いでもない。表意文字は表音文字に比べて文字の象徴性が強い。また、文字数が多く字形が複雑で習得が難しい。これらが大きく関わっている。 ハングルが起こった理由を思い出してほしい。そもそも漢字が難しくなかったらハングルの必要性は無かった。中国が20程度からなる表音文字を用いていて、朝鮮語と似たような音韻体系を持っていたら、ハングルは決して生まれなかった。表意文字の持つ難しさがハングルを生んだ。 一方、神代文字については民族意識の問題があった。表意文字である漢字は表音文字のアルファベットよりも象徴性が強いため、「自分達は固有の文字を持たない」という劣等感を日本人に強く植え付けた。その劣等感への反動が神代文字を生んだ要素のひとつであることは否めない。このように、表意文字はその習得の困難さと象徴性の強さにより、表音文字に比べて、人工言語の文字に大きな影響を与えると考えられる。 表意文字は絵文字の性質を持っているので、ピクトグラムと重複する点がある。ピクトグラムという点で見ればアルファベット圏の西洋も、ピクトグラムの持つ象徴性の強さに翻弄されてきた。そもそもアルファベットにも象徴性は認められている。たとえばXは相手が入れないようにドアに打ち付けた木の板を象形している。そこから意味が未知に転じた。 いまでも数学で変数をXとしたり未知の要素をXとするのはこれが原因のひとつであろう。 また紋章などをはじめとした象徴的なピクトグラムが西洋には多数ある。中でも最も象徴的なのは十字である。十字は人工文字ではないものの、極めて象徴的な意味を持つ。具体的にいえば、十字は包括的にキリスト教を象徴する。十字の象徴は、キリストと彼が磔を被った十字架との間におけるメトニミー(より厳密にいえばトポニミー)から作られた。そのため、漢字でいえば象形ではなくむしろ指示といったほうが正しい。 この十字という象徴文字は西洋に多大な影響を与えてきた。西洋人の精神の中に十字はあまりに象徴的に刷り込まれており、十字軍やナチスドイツの鍵十字(ハーケンクロイツ)などを例に出すまでもなく、十字を背景とした出来事は多い。 このように、表音文字圏である西洋でも一部のピクトグラムがその象徴性によって東洋と同じように広範な背景を持つことは認められる。そしてこのことは表意文字の象徴性が広範な背景を文字自身に与えることの傍証でもある。 表音文字圏にある西洋人にとって表意文字やピクトグラムは日常的に自分達の言語を表すためのものではなかった。それゆえ西洋人が表意文字やピクトグラムを見るときは、その象徴性が取りざたされた。神話や聖書の解釈を見るとしばしば西洋の象徴性への執着が見られる。この執着は16, 7世紀の真正文字より前に遡ることができる長きに渡るものである。日常言語が表音文字を使うため、西洋人の表意性への渇望がこの執着を生んだとも考えられる。表意文字の持つ象徴性に神秘主義を重ねた一部の真正文字の探求者は将にこの好例である。 漢字の影響を強く受けた東洋にとって表意文字は日常的で生活臭のするものである。何かを象徴するという神秘的な意味合いは薄れ、単に市場に置いてある桃といった即物的な日常品などを表すものという側面が大きい。生活に密着している分、表意文字を過度に象徴的に捉えないのが特徴的である。表音圏にいる西洋のほうが慣れがないため、過度な期待や意味を表意文字に持たせやすく、神秘主義に陥りやすい。 16世紀、表意文字ブームがにわかに起こったとき、 ――たとえそのブームが普遍文字を求めたものであったとしても――しばしば表意文字の象徴性が取りざたされたのはその裏付けである。 人工言語の黎明は暗号と文字の歴史である。これがこの項の結論である。 まとめよう。原初の人工言語は暗号であった。暗号には文字が使われた。人工言語に使われる文字は自然言語の文字に影響を受けてきた。東洋では表意文字である漢字の影響を受け、ハングルのような先験文字が生まれた。西洋では表音文字であるアルファベットの影響を受け、キリル文字のような後験文字が生まれた。どちらも自然文字の背景を背負うことに変わりはなく、人工言語における文字は自然言語の文字から影響を受けてきた。 尚、文字は人工文字と自然文字に分かれる。人工文字は先験性・後験性の観点から、先験文字(ハングルなど)と後験文字(キリル文字など)に類別することができる。自然文字を人工的に作り変えていない仮名文字は自然文字を改良した自然文字であり、人工文字ではない。 表意文字の難解さと象徴性の強さにより、表意文字を参照した人工文字のほうが広範かつ深淵な背景を与えられる。表意文字が大きな背景を抱えるというのは人工文字だけでなく自然文字やピクトグラムにもいえることである。西洋でも十字などは非常に大きな象徴性を持ち、歴史的事件を何度も背景にしてきた。但し、表音文字は背景を持たないというのは全くの誤解で、トルコアルファベットのように社会情勢や民族意識を背景としたものもあった。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/108.html
アリカ=オクレント氏の"In the Land of Invented Languages"を推薦します。 こちらでは、人工言語の有名どころを抑えながら、人工言語の歴史を通覧できます。 エスペラントなどの超有名どころはもちろんのこと、日本ではあまり情報の得ることのない言語についても詳しく書かれています。 著者ご自身はクリンゴン語に精通しているとのことです。 著書内にもクリンゴン語に関するページがあります。 巻末には付録があり、人工言語のリストが時系列順に並べてあります。 この付録はかなり豊富で、500にも及びます。 ビンゲンのヒルデガルドの"Lingua Ignota"に始まり、2000年以降のものまで含みます。 ただし欧米人の作った言語が主体となっています。 洋書ですので、amazonで購入されることをお勧めします。 赤いペーパーバッグのほうがお求めやすいと思われます。 公式サイト:http //inthelandofinventedlanguages.com/ amazon:http //www.amazon.com/gp/product/B001NLL2Q6/ref=pd_lpo_k2_dp_sr_3?pf_rd_p=1278548962 pf_rd_s=lpo-top-stripe-1 pf_rd_t=201 pf_rd_i=0385527888 pf_rd_m=ATVPDKIKX0DER pf_rd_r=1B7CR3ZH75AXM5F74ZPH
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/105.html
演出型のあゆみ 17世紀ごろはヨーロッパが世界の中心で、飛行機もネットもできない時代だったため、演出型といえば遠く離れた国の人の言語をイメージしたものでした。 物書きは行商人などから話を聞き、ときには誇張を交えて異邦人の言葉を書きました。元は架空の言語ではなく、ジャーナルとして出版されていたわけです。 それが徐々に物語性を帯びるようになり、架空の言語として独立することになります。また、舞台も月になるなど、地球を越えることもありました。 17世紀ごろは未発見のオーストラリアが舞台となることもありましたが、地球の隅々まで到達できるようになれば、もはや地球は物語の舞台としてふさわしくなくなります。 交通網や通信技術の発展に伴って世界が狭くなるにつれ、演出型の舞台は宇宙や異世界へと広がっていきました。 19世紀にできた『不思議の国のアリス』は異世界が舞台になっています。人工言語は登場しませんが。 人工言語が登場する異世界物で有名なのは、トールキンの『指輪物語』です。映画『ロードオブザリング』でおなじみですね。 指輪物語にはエルフ語が登場します。これは古ケルト語を元にしたアポステリオリ言語です。 演出型はもともと遠く離れた国のジャーナルを変形していったところに始まり、異邦人の言葉として作られました。やがて未発見の土地がなくなると、今度は舞台が宇宙や異世界になっていきました。 あくまで娯楽性の高い言語ですから共通語を作ろうというような崇高な目的もなく、それゆえ17世紀の人工言語ブームのときも軽く扱われました。この傾向は20世紀まで続きます。 普及型はフランス語や英語が共通語になるたび下火になり、共通語がなくなるたびブームになるというサイクルを持ちます。 一方、演出型は現実社会の趨勢から影響をあまり受けないという特徴があります。 娯楽なので平和な時代に作られがちなイメージがありますが、上記の指輪物語は第二次世界大戦中に書かれています。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/55.html
歴史的には西洋語を反映していたが、最近は言語学のデータに影響を受けやすくなっている。たとえば普遍言語時代及びそれ以前は屈折が多く、明らかにラテン語を反映している。ただラテン語の屈折の複雑さは西洋人自身が辟易していたこともあって土着語程度の屈折を持った言語や屈折を失ったラテン語などが作られた。百科分類にしたがった哲学的言語は簡素な文法を持ちやすい。 言語差別主義が台頭していたころは膠着語は最も遅れていると考えられていた。中国語の孤立語は原始的な体系と言われていたが、普遍文字にとっての希望であったことから先駆的とも思われており、西洋人はこのアンバランスの理解に苦しんだ。勿論現代ではアンバランスでも何でもなく単なる言語の類型のひとつに過ぎないと分かっているのだが、当時はそう考えられていた。そのせいで膠着は心理的に避けられることがあった。しかし作成における言語差別が減った現代では圧倒的に膠着語が増えてきている。エスペラントを始めとして多くの言語が膠着語である。これについては既に別所で述べたので繰り返しはしない。 語順については歴史的には西洋語を反映してSVOが多かった。古典ラテン語のように基本語順の定まらないものもあったが、これは格が複雑であることを含意するので人工言語はこの手法を取らない傾向にある。西洋偏重が終わって世界の言語の類型ではむしろSOVのほうが多いことを知った作者たちは SOV型を作った。しかし言語の総数としてはSOVが多かろうと人口としては結局SVOのほうが多い。そこでSVOも捨て去れないという環境に囲まれた。 そこで最近の人工言語では語順がSVOでもSOVでも良いというものが現われてきている。伝統と人口で見ればSVOであり、言語の総数の割合で見ればSOVであり、その間を取ればハイブリッドで両用という形に落ち着くようである。 また、SVOを持つ言語はふつう前置詞を持つが、自然言語はそう単純ではない。語順そのものが過去に入れ替わってしまった言語もある。また語順は昔から変わらないけれども周辺の言語に影響を受けて修飾が前置になったり後置になったりする言語もある。前置詞と同時に後置詞を持つフィンランド語のようなものもある。こういった不均衡・不規則性は全て異言語とのかかわりか、その言語の歴史的変化によるものである。不規則を一般的に嫌う人工言語ではこういった入り組んだ体系にしないのがふつうである。歴史的に見れば入り組んでいる自然言語の体系をそのまま後験的に受け入れたものがあった。しかし現代はある語順だと何詞を持ちやすいなどといった言語学のデータを流用して合理的に作ることが多い。勿論、未だに自然言語の模倣という形も行われている。 品詞は普遍言語時代は極端に減る傾向にあったが、国際語時代以降は自然言語と同じか若干少ないくらいの言語が一般化した。その人工言語が独自の文法体系を持っている場合、自然言語の品詞と誤解されないように独自の品詞名を付けることがある。だがこれは注意すべきことで、よく調べれば同じものが他の自然言語に既に存在する可能性がある。既に存在している術語があるならそれに従うほうが民意を得られるだろうから、普及型は特に注意すべきである。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/101.html
言語と文化 言語は文化から影響を受けます。 例えば、日本語は日本の文化や風土から影響を受けています。 日本人は米を主食にするので、「稲」と「米」という単語を区別します。 また、年功序列の厳しい社会なので、年齢によって兄と弟を区別します。 文化や風土はこのように言語に影響を与えます。 「狼」と"wolf"は生物学的には同じものを指しますが、「狼」は一匹狼のイメージから「孤高」な印象があります。 対して、西洋ではたいていwolfは残酷な動物という印象があり、童話などでは悪者として登場します。 こういう違いも人々の価値観や物の見方が言語に反映された結果です。 人工言語も言語ですから、文化と風土から影響を受けます。 たいては作った人の文化を継承します。 小説を書いている方で異世界の言葉を作りたい場合は、文化と風土も作っておくとより異世界の言語らしくなります。 「文法や単語は異世界のものだけど、ところどころ日本の文化や風土から影響を受けている」というのを回避することができます。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/44.html
フンボルトらの分類によると言語は類型によって膠着語・屈折語・孤立語・抱合語に分けることができる。ただし、言語はふつう綺麗に分類されることはない。英語は屈折語といわれるが、"Mary loves John."における格表示は孤立語的手段で表される。「完全な~語」というものはおよそ稀で、ある部分では膠着語だがある部分では屈折語といったように組み合わせられるのが通常である。それでもこの分類は有用で、ある言語が最も強く持つ性質が屈折語であれば、少し膠着語要素が混じっていても屈折語と分類してよい。人工言語についても同様で、これらの類型的分類が存在する。また自然言語と同じく複数の性質を同時に持つ。 エスペラント以降の人工言語は自然言語に比べ、膠着語を好み、抱合語や屈折語を選ばない傾向にある。エスペラントは西洋語からできているが、英語やフランス語やラテン語に比べると膠着の度合いが極めて高い。代名詞をみると英語がI, my, me, mineと屈折するのに対し、エスペラントは名格と対格の2種しかなく、対格は名格に接尾辞-nを付けることによって膠着的に表現される。 また、イド語は主格・属格・対格がある。このうち主格が無標で、他の2つは主格に接辞を付けて表す。1人称の主格はmeであり、その属格はmeaであり、対格はmenである。 -a,-nの接辞は他の人称にも規則的に膠着し、2人称では順にvu, vua, vunである。 普及型は学習が容易になるように設計される。その普及型が膠着を選ぶということは、膠着が言語のシステムを作り学ぶ上で最も単純なシステムであることを示唆している。では実際にそういえるだろうか。屈折の場合、Iがmeになり、heがhimになる。この場合、都合4つの単語を無規則に覚えることになる。ところが膠着を利用したエスペラントではmiはminになり、liはlinになる。接尾辞-nを付ける規則があるため、覚える語数が減少する。膠着手段は規則を作るため、覚えなければならない事項を減らし、類推によって未知の単語を知ることができる。そのため学習に便利であるといえる。 孤立手段は接辞さえ必要としないため、より学習が容易なように思われる。しかしそうではない。孤立手段とは言い換えれば統語手段のことである。語順を操作して得られるヴァリアントな構文の数は、接辞として使える音節数より圧倒的に少ない。また、語順をあれこれ操作することによって構文が際限なく増えてしまうのも問題である。更に、語順を変えると文意を認識しづらくなってしまう。たとえば文の最後の単語まで聞き終わらないと最初の単語の文法的意味が決定できなくなるといったことが起こりうる。最後の単語を聞くまで文を頭から全て覚えていないといけないというのであれば、その言語は非常に学びづらく使いづらい。そのため、孤立語手段は限定的に利用されることが多い。 最後に抱合だが、これは屈折の極みである。屈折が膠着より学びづらいならば抱合は更に学びづらい。また、抱合は単語の区切りが分からないため、辞書形を定めるのが困難である。仮に辞書形を定めても学習者に辞書形を覚える労力を要求し、辞書を引くにも手間をかけさせる。 このような理由で一般に普及型では膠着語が好まれる。逆に普及型でない言語は膠着を選ばず敢えて屈折や抱合を選ぶということがある。ただそういった研究型であっても、複雑な屈折を持つものはあっても、複雑な語順規則を持った孤立語という選択肢が選ばれることは少ないようである。実際にそのような言語を考えることは可能である。 たとえば語順だけでその名詞が劣等最上級になるような言語――つまり語順にleastの意味を背負わせる言語――は人工言語なら可能だろう。同じく、語順だけで父が祖父になったり娘になる言語も人工言語ならありえる。 普及型が膠着手段を採用しやすいのは事実であるが、あくまで頻度の問題であって、必ずしもそうではない。たとえばインテルリングアは普及型ではあるもののエスペラントと違い自然派に属する。インテルリングアはアングロ・ロマンス語を主として流入する。たとえばインテルリングアにおける人称代名詞(pronomines personal)は参照言語から流入されたものだが、これはエスペラントと違って屈折する。一人称の単数形の主格はioであるが、対格はmeになる。対して、複数になると主格はnosで、対格もnosのまま変わらない。 屈折する上に規則的でないという点で学習しにくいが、西洋人のドゥリンチェコなどから見ればインテルリングアの代名詞は文字通り「自然」であり、自然派の名にふさわしい。だが非西洋人の目から見ればその「自然」というのは「違和感のない」という意味ではなく、単に「自然言語の」という意味で捉えられるものである。西洋に偏重しない中立な人工言語学においてもインテルリングアの自然性は「自然言語の性質を持った」という意味で捉えられるものである。 エスペラントとインテルリングアのどちらが優れているかということを思い浮かべる者もいるだろう。優秀さの評価は自然言語の研究にはご法度だが、人工言語学ではある分野において寛容される。自然言語と異なり、どこまで内容が作りこまれているかといった習熟度の違いがある。 また、人工言語は何がしかの作られた目的を持つが、その目的をどれだけ達成しているかでも優劣を評価できる。 エスペラントとインテルリングアはどちらも普及型であるから簡便な構造を持っているが、学習のしやすさというのは学び手によって異なる。東洋人には図式派のエスペラントのほうが学びやすいが、西洋人には規則的すぎるエスペラントより自分の母語に近い性質を持ったインテルリングアのほうが学びやすいと考える者もいるだろう。普及の対象を西洋或いは西洋に感化された地域に限定するのなら両者に学習上の大きな違いはないが、裾野をアジアやアフリカなど世界にまで広めるなら話は別である。日本人にとってはインテルリングアの自然さは英仏の代名詞の混沌さに見えるため、学習はエスペラントのほうが容易である。この代名詞の話を例に取ると、覚えねばならない形態素の数はインテルリングアのほうが上である。但し、この話は代名詞の曲用を例に取っているだけであるから、インテルリングアのほうが全てにおいて学びにくいというわけではないことを付け加える。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/72.html
(注)後述の新生人工言語とは文化を定めた言語程度の意味です。 千前後の基本語や、もう少し多い日常生活語を作り終えると、次は高級語に入ります。これは数が多くて大変です。 ここでは高級語の命名法について述べますが、機械類より広域性の高い自然物に特化して説明しています。 ここで述べたいのは形態論ではありません。形態論に関しては先にさらっと述べます。 形態論的にみれば高級語は合成語が便利でしょう。辞書が引きやすいし、1語で1つの概念を表わせるからです。 フランス語の場合、連語で高級語を表わすことが多いので辞書が引きづらいです。しかも何語で1つの概念か分かりづらいので、見づらいです。 フランス語には高級語だけでなく、基本語にもこの性質が生きています。 たとえば蹴るという概念について。蹴るに当たる語がないわけではないのですが、donner un coup de pied(足の一撃を与える)ということがあります。 kickやpunchというレベルで言い分けるのではなく、coup(一撃)という上位概念を使うことによる言い分けです。この性質がフランス語では高級語にも及びます。 ドイツ語のように長大な語にはなりませんが、スペーシングと前置詞が入った分、結果的に更に長くなります。 基本語の例をもうひとつ挙げると、蛾はドイツ語ではNachtfalterですが、フランス語ではpapillon de nuitです。結果としてフランス語のほうが長くなっているのが見て取れます。 フランス語批判をしたいのではありません。人工言語で高級語を作るときは合成語を推奨すると言っています。 合成語にも欠点はあります。合成語の要素間の関係が掴みにくいことです。 たとえば「前掛け」の先行要素「前」は前半身という場所を指しますが、「涎掛け」の「涎」は場所でなく防ぐ対象を指します。 しかしこの程度なら常識で判断できますから、一々混乱しません。 合成語は要素間の関係が掴みにくいのが欠点ですが、関係を掴みやすくするために前置詞に相当するものを接辞化すると、今度は語形が長くなります。 あっちを立てればこっちが立たずですが、要素間の関係は慣例として学習者に覚えさせることにしたほうが語形が短く、実用時に便利です。さて、形態論はこのくらいにしましょう。 人工文化がどの程度の科学力を持っているかによって、高級語の内容は変わります。 科学が発達した文化なら当然、それを表わす語が必要になります。 人工文化の場合、その文化の科学史から作らねば適切な命名ができません。しかし個人や小団体で科学的な命名法を多岐に渡って作るのは不可能です。 作ろうとしても完成する前に寿命が尽きますし、科学の成長に追いつけません。 2005年から科学の語を全て作ったとしましょう。たとえば2100年に作業が完成するかもしれませんが、完成したのは2005年までの内容で、作業中の95年分の進歩に付いていっていません。 こちらが作るより遥かに多くの人数が造語を繰り返しているので、追いつくことさえ無理でしょう。 また、ゼロから自分たちで現在の地球の科学力を越えた文化を創るのも事実上不可能です。 SFチックないい加減な設定なら可能でしょうが、細かい専門用語を専門知識に則って作る人員と時間はありません。 そこで結論としては、ある程度現在の地球の科学力に頼って、限られた範囲を命名するしかありません。 まぁ、実際問題、そのような高級語は作ったところでまず使うことがありませんから実用に支障はないでしょう。 語を作るのはその分野が必要になったときでいいでしょう。必要になったら作るというのは言語の基本的性質にも合致します。 極端な話、科学の乏しい文化を作り上げれば科学の語彙は要らないのですが、それだと現代の先進国では表わせない物が多くなってしまい、困ります。 日常で科学が介在しているものは多いです。家電やPCや薬など、枚挙に暇がありません。 一方、仮に科学の語彙を狭めたとしても、依然として変わらないのは自然物の語彙です。 動植物など、その風土に存在するものは科学力に関係なく命名せねばなりません。ところがこれがかなり多いです。 ここからは普及型も考慮して人工言語全般で自然物の命名法について考えていきましょう。 自然物を命名する際、人工言語一般の立場に立つと、できるだけ広範囲の動植物を公平に命名したいです。 牛を重宝する文化に焦点を合わせてしまうと、牛ばかり細かく分類されて不公平です。そこで、なるべく人工言語としては公平に行きたいものです。 となると思い当たるのは自然科学です。国際的な自然科学の分類にしたがって命名できれば、少なくともどこかの言語の分類に合わせるよりは広範囲で公平といえます。 かといって自然科学はある対象が日常的か否かなど気に掛けてくれませんので、リンゴのような卑近なものにも長大な名を付けます。 そこで、基本語については自言語のやり方で動植物の名を決めましょう。 後験語なら参考言語から語を拝借し、新生人工言語なら文化に沿って動植物を分類し、命名しましょう。 それが終わって初めて滅多に出てこない自然物、つまり高級語を命名し、その際に自然科学を利用しましょう。 自然科学は分類が民間分類より遥かに細かいので、緻密な命名が可能です。ただし学名をそのまま訳すと語形が長くなるので、邦名を付けるが如くできるだけ簡素なものにしましょう。 また、学名を単に簡素に訳すのでも構いませんが、調査の上で自文化に基づいた命名をするのも良いでしょう。 たとえばダチョウは最大の鳥なので「大きい鳥」を語源にするのもいいでしょう。(もちろん、他の命名でも一向に構いません) こうしていけば当面必要になるレベルの自然物を命名することができます。 これで自然物の高級語は大丈夫? いえ、実は自然科学による分類は万能ではありません。 以前私はリンゴなど卑近な単語以外について科学的な命名をしましたが、以下の3つの点で戸惑いました。 1つは科学を参考にすると、科学の変化によって一度決めたものが変わってしまうということ。 ある学説を境に、ある動植物の分類や信じられていた性質が変わってしまうということがありますが、地球の科学に合わせていると一度作った語を変えねばなりません。 変えないと間違いがそのまま残ります。最近の例だと「冥王星」とかね……。 2つは、科学の歴史のせいで変な分類になった動植物の命名です。 ホタルイカはホタルイカモドキ科です。ホタルイカの方が下位なのに、歴史的にホタルイカが早くから馴染まれていたからだそうです。 我々から見れば奇妙なこの科学的命名に対し、人工言語が一々付き合うのは不自然な気がします。 もう科学的な答えを知っている私たちが上位であるホタルイカモドキにモドキと命名するのは不自然です。 しかし、これらは世界と調和する普及型にとっては瑣末な問題でしょう。 問題は3つ目です。自然科学的による命名は、日本語の動植物命名などより遥かに細やかな定義を可能にします。非常に便利です。 しかしながら、科学分類よりもむしろ民間分類の方が細かく、しかも定着しているものがあるのです。 たとえば鷲と鷹は科学的には同じタカ科で、大きさでぼんやり区別しています。そのせいで専門家でもまとめてワシタカ科などと呼んでいた経緯もあるそうです。科学的には鷹匠は鷲匠でもいいのですね。ちょっと不思議な気がします。 しかし、日本語は鷲と鷹の区別を持っています。日本語だけならいいのですが、どうも日本語に特殊な区分ではないようです。 英:eagle hawk 独:der Adler der Falke(含ハヤブサ) 仏:l'aigle le faucon(むしろハヤブサ) エス:aglo falko 芬:kotka haukka 中:jiu4 ying1 つまり、自然科学では却って分類できないか、控えめに言っても分類しづらい概念があるということです。 そうなると自然科学を絶対視して自言語に鷲と鷹の区別を設けないか、そうでなくば、いくつかの自然言語を調査して、多くの言語で区別されている概念は特別に自言語でも区別するかのどちらかを選ぶことになります。 多くの自然言語に存在している鷲と鷹の区別を科学の名の下に切り捨てて良いのでしょうか? 別に私たちは科学分類表を作っているのではありません。あくまで言葉を作っているのです。 その意味では科学に逆らって鷲と鷹を別の語として立てたほうが自然でしょう。 鷲と鷹は卑近な語なのでいいのですが、もっと込み入った語になると更に困惑するでしょう。 自然科学を利用した命名は確かに強力ですが、万能ではないということを覚えておいてください。 人工文化を持つタイプの新生人工言語は自文化に沿って命名するので鷲と鷹の区別が科学にあろうとなかろうとどうでもいいのですが、普及型の場合、鷲と鷹は国際的な科学で解決できない問題なので、戸惑うことでしょう。 そのような場合、メジャーな自然言語を調査し、多数決で決めるのが実践的です。つまり、科学で掬いきれなかった零れを自然言語で補完しようということです。
https://w.atwiki.jp/lideldmiir/pages/78.html
エスペラントとアルカの両方をやってみることを勧めます。とりわけ言語の作成者に強く勧めます。エスペラントとアルカは人工言語学的に対極にあるからです。 両極端を学ぶことで、あらゆる種類の人工言語に対して順応しやすくなると考えています。作成者はもちろん、学習者にとっても有益です。 エスペラントとアルカをちょっと比べてみましょう。 エスペラント アルカ 文字 アルファベット(字上符あり)28字 幻字(独自のもの)25字 音韻 母音5・子音23 母音5・子音20 曲用or活用 有 無 数 有 無 その他―― 音節構造:ともに開閉両方有・子音連続有 語順:ともにSVO。但し修飾はエスペラントは前置、アルカは後置 1字が1音韻に対応している点では同じ。 チャ行などの音が1文字になっている点がエスペラントでは特徴的。 共通点もあれば差異もありといったところですかね。 エスペラントは西洋語に似ています。実際西洋語を基にしているので。 アルカとどちらが学びやすいかですが、エスペラントのほうが学びやすいでしょう。先験語であるアルカより後験語であるエスペラントのほうが単語を覚えるのが簡単です。 文法も英語とほぼ同じなので、エスペラントのほうが学びやすいです。文字に関してはアルファベットを採用しているので確実にエスペラントのほうが学びやすいです。 後験語だけあってさすがにエスペラントは学びやすいですね。 もちろん、学びやすさが価値を決定するわけではありません。 ではアルカが代わりに持っているものは何でしょう。それは人工文化・風土です。その影響がモロに言語に現われています。 そのおかげで言語から架空世界の空気や匂いを感じることができます。普及型のエスペラントはこれを政策上行わないので、エスペラントでは味わえないものが味わえます。 自然言語の焼き増しではなく、ほぼゼロから創生された言語。それがアルカの特徴です。 確かにエスペラントより学ぶのは難しいです。日本人にとって慣れないものですし。 しかし独自の文化による言語観を持っていて、その上で機能しています。 エスペラントは対照的です。既存の言語を材料に作ったものなので機能するだろうことは約束されています。 でもアルカにはそんな保障はないので、実用するまでは不安だらけでした。 その後、実際使えるということが分かり、機能するんだなということが分かりました。 エスペラントはアルカにとってcounterpart、対の片方です。両者を学ぶことは作成者にとって利益になります。全く異なった経験を提供してくれるので。 そして何よりエスペラントは現在も生き続ける最大の古典ですからね。人工言語の登竜門として学んでおくべきなのでしょう。
https://w.atwiki.jp/jpconlang/
人工言語紹介wikiへようこそ このwikiはネット上の様々な人工言語を紹介するwikiです。 リンク集 有用そうなリンク集です https //sites.google.com/site/moyacilang/conlanglist https //frathwiki.com/Main_Page https //web.archive.org/web/20080117113000/http //www.langmaker.com/db/Langmaker Conlangs https //linguifex.com/wiki/Main_Page https //ial.fandom.com/wiki/Main_Page