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~第十二章~ ぎゃおぅっ! 身の毛もよだつ絶叫が、部屋の空気を震わせる。 氷鹿蹟の角による直撃を受けた猫又は、戸板をブチ破って、外まで飛ばされた。 金糸雀は素早く廃莢して弾を込め、氷鹿蹟と共に猫又を追う。 鉛の弾が通用しなくても、音で威嚇するくらいは出来るだろう。 戸口で、一旦停止。左右、上下の確認をする。 待ち伏せの無いことを確かめ、外に出た時にはもう、猫又の姿は無かった。 周囲に血痕を探したが、それも無い。どうやら、泡を食って逃げたようだ。 斃せるかどうかも判らなかったから、正直、戦わずに済んでホッとしていた。 そうしている内に、丘の上からベジータが血相を変えて走ってきた。 「おい! 何があった!?」 「あら、ベジータ。今は、お勤め中じゃなかったかしら?」 「そうだがよ、いきなり銃声が連発したから、心配になって来てみたのさ」 「ありがとう、ベジータ。でも、平気かしら」 「……そっか。まあ、なんだ。無事だったなら良いさ」 また早合点をしたと思ったのか、ベジータは鼻の頭を掻いて、語尾を濁した。 腰に手を当てつつ、踵を返して引き返そうとするベジータを、金糸雀が呼び止めた。 「ちょっと待つかしら。折角だし、力を貸して欲しいんだけど」 「なんだよ? 話の内容によっちゃあ、協力は出来ないぜ」 「それは大丈夫。至って簡単な、単純労働かしら」 「……早い話が雑用か。ああ、解ったよ。何だって手伝ってやるさ」 どうせ、ここまで来たついでだ。ベジータは肩を竦めて了承した。 小屋の中に入るなり、「ひでぇな」と、ベジータは呟いた。様々な物が散乱している。 診察台の下には、昨日、川上から流されてきた娘が倒れていた。 その口には何故か、今朝もってきた豊藷が詰め込まれている。 何が有ったのかとベジータが訊くより先に、金糸雀は指示を出した。 「まず、あの娘を診察台に寝かせてくれないかしら」 「お安いご用だ。その後は、部屋の片付けをすれば良いのか?」 「ううん。それは、カナがするわ。ベジータには扉を修理して欲しいの」 「なるほど。戸板が粉々だ。どうすれば、こんな風に壊れるんだよ?」 ベジータの疑問には答えず、金糸雀は娘の口からイモを取り除き、診察を始める。 そしてベジータも、彼女の邪魔をしないように、黙って小屋を出た。 親密すぎず、と言って疎遠すぎず……二人の間に開いている、微妙な距離。 その距離を保てているからこそ、一緒に居られるのかも知れなかった。 「暴れた割には、傷も開いてないし……容態も安定したかしら」 心配なのは、また眠り続けられることだ。 取り憑いていた化け猫を追い出しても、昏睡状態になっては元の木阿弥。 今こそ、気付け薬を使う時だった。 「えぇ……っと。気付けは――」 金糸雀は薬棚から、瀬戸焼きの小さな小瓶を持ってきて、蓋を開けた。 親指と人差し指で小瓶を摘み、自分の鼻先に近付け、ちょっとだけ臭いを嗅ぐ。 ――大丈夫。久しく使っていなかったが、効能は薄れていない。 鼻の頭に皺を寄せながら、金糸雀は娘の鼻先に、小瓶を差し出した。 二秒と経たずに、反応が現れる。効果覿面。 娘は急に咳き込み、跳ね起きると、ひいひい言って鼻に手を当てた。 「気がついたかしら?」 声を掛けた途端、娘は涙を浮かべた緋翠の瞳で、金糸雀を睨み付けた。 「お前が、変なモノを嗅がせやがったですかっ!」 「命の恩人を『お前』呼ばわりは失礼かしら」 「ふぇ? あ……れ。そう言えば、ここ……どこ……ですぅ?」 「カナの診療所かしら。あなたは瀕死の重傷で、ここに運び込まれたの」 「重傷……私が、ですか?」 金糸雀が微笑みながら頷いてみせると、娘は僅かに表情を和らげた。 少しだけ、緊張が解けたらしい。 「あなたの名前を教えてくれないかしら。【悌】の犬士さん?」 「え? ああ……あの、私は――」 言いかけて、娘は眉間に皺を寄せた。 「あれ? 私…………名前……分から……ねぇですぅ」 「ちょっと! それ、悪い冗談じゃないわよね? 真面目に答えるかしら」 「分かんねぇです! どうして、自分の名前が思い出せねぇですかっ!」 両手で髪を掻き乱しながら、娘は激しく頭を振った。 そんな彼女を、金糸雀は愕然と見詰めることしか出来なかった。 人生万事塞翁が馬……と言うが、なぜ、この娘には悪いことばかり重なるのだろう。 不憫に思いつつも、金糸雀は医者の本分を果たすことにした。 頭部を強打すると、一時的な記憶障害に陥ることがあるのは知っていた。 渓流を流れ落ちてきた彼女なら、岩に頭を打ち付けていても不思議はない。 だが、どれほど念入りに調べても、娘の頭部に打撲の痕跡を見出すことは出来なかった。 もしかしたら、内因性の問題かも知れない。 この娘は穢れの者に憑かれていた。 その課程で、記憶を探られる様な事態に陥り、自己の防衛本能が働いたのではなかろうか。 ――記憶の遮断。 それは、誰もが持っている本能。だが、普段の生活において機能する場面は、まず無い。 なぜならば、自分の存在をも否定し得る、諸刃の刃なのだから。 記憶を閉ざせば、耐え難い苦悩から逃れることも出来よう。 けれども、それは同時に、過去の自分を引き出しの奥に閉じ込める事でもあった。 ある意味、精神面の自殺に等しいだろう。 こればかりは、金糸雀にも――歴史上で名医と謳われたどの人物だって、治せないだろう。 彼女の記憶を取り戻せるのは、彼女にしか出来ない事なのだから。 (でも、きっかけを作る事なら、カナにも出来るかしら) この娘の足跡を辿れば、きっと手懸かりが掴める。 たとえ、それが過酷な……思い出すべきではない凄惨な記憶だったとしても、 現実を直視させるのだ。このまま生ける屍に成り果てるくらいなら、 いっそ激情を喚び醒まして、自己解決を促すべきと思えた。 金糸雀は、診察台の上で蹲っている娘の頭を、そっ……と抱き寄せた。 「あなたの体力が回復したら、カナと一緒に、旅に出るかしら」 徐に告げた金糸雀の腕に抱かれながら、娘は身を捩らせた。 拒絶の意志表示か? それとも、金糸雀の思惑を鋭く察知して怯えたのか? 金糸雀は腕を解き、娘に話しかけた。 「イヤ……かしら?」 「そんな事は、ねぇです。でも、どこへ……」 「当ては無いけれど、とりあえず、川を遡ってみるかしら」 今のところ、それが最も妥当な線だ。 谷川を遡上しつつ、山道に入って峠を越えれば、すぐに桜田藩の領内である。 ちょっと大きな町も有るので、そこで何らかの情報を得られるだろう。 「何はさておき、傷の治癒と体力回復が先ね。これを飲んでおくかしら」 「なんです、この肌色のモノは?」 「薬流湯。良薬が必ずしも苦いとは限らないって典型かしら。 飲んだら、大人しく寝てることね」 差し出された乳鉢を両手で受け取り、娘は一息に飲み干した。 金糸雀の言葉どおり、苦くない。寧ろ、甘みと酸味が効いていて、美味しかった。 飲み終えると、娘は言われたとおりに、あちこち痛む身体を横たえた。 そして、緋翠の瞳で金糸雀の顔を見上げ、呟く。 「なんで、一緒に旅をしてくれるですか?」 「医者としての義務……かしら」 「命なら、もう助けてもらったですぅ」 金糸雀は口元を綻ばせて、小さく頭を振った。 「医者ってね、怪我を治して、命を救うだけじゃ駄目だと、カナは思うの。 傷つくのは身体だけじゃないもの。心も癒してあげなければ、片手落ちかしら」 医者は、半分趣味でやってるんだけどね……と戯けた金糸雀につられて、娘は苦笑した。 それで良いのだろうか。正直、よく解らない。 けれども、金糸雀を信じてみようという気持ちは、娘の中で確かに芽生えていた。 「傷、痛むかしら? なんだったら鎮痛剤も服用しておく?」 「……平気です。もう、眠るですぅ」 「そう。じゃあ、寝冷えしないように、これでも掛けておくかしら」 金糸雀は衝立に引っかけてあった丹前を、娘の身体に掛けた。 娘は「ありがとですぅ」と応じて、丹前の中でもぞもぞと身じろぎした。 (さて……次は、部屋の片付けをするかしら~) あまり騒がしくならないように、散乱した材料や機材を拾い集める。 ――と、外から大工仕事の音が聞こえだした。 ベジータが炭焼き小屋から道具を持ってきて、扉の修繕を始めたのだろう。 (ベジータにも、旅に出ることを伝えておかないとね) ひと通りの片付けを終えると、金糸雀は二つの湯飲みに焙じ茶を煎れた。 小振りな盆に載せ、外に向かう。 「お疲れさま、ベジータ。少し、休憩するかしら」 「おっ、悪いな」 「はい、どうぞ。お茶請けは無いけどね」 「構わねぇよ、別に。あんまり腹も減ってないからな」 ベジータは仕事の手を止め、湯飲みを受け取った。 ひと口ふた口と啜ったところで、思い出したように、懐から麻の袋を取り出す。 なにそれ? と言わんばかりの金糸雀に、彼は袋を手渡しながら言った。 「河原に落ちてたんだ。あの娘の持ち物じゃないかと思ってな」 「クナイに、短刀……こっちのは、発動型特殊攻撃精霊ね。 今は精霊が宿っていないけれど」 「あの娘って、実は、抜け忍とかじゃないか?」 「それは無いかしら」 金糸雀は即答した。確かに、彼女の筋肉は敏捷性に優れた部分が発達していた。 しかし、本格的な修行を積んだにしては、未発達な部分もあったし、 修行の過程で出来るだろう傷跡も少なかった。 「心配しなくても平気よ。どのみち、明後日くらいには、ここを出立するから。 この集落に、迷惑が及ぶ事は無いかしら」 「あの娘が、出ていくって言ったのか?」 「ううん。カナと一緒に、旅に出るの」 「なんだよ、そりゃ。あの娘の素性を調べるつもりか?」 「それも有るけど……それだけじゃないわ。 まあ、拒否することが許されない使命かしら」 任務と聞いて、ベジータは以前、金糸雀が話してくれた事を思い出した。 ――七人の同志と共に、この世を覆い尽くそうとする穢れを討ち果たす役目を担っている。 金糸雀は、そう言っていた。勿論、最初は壮大な作り話だと思って、笑い飛ばした。 彼女の左手に刻まれた痣を見せられても、刺青だろう……くらいにしか思っていなかった。 今だって、本当は信じていない。信じたくない。 けれど、ベジータを見つめ返す金糸雀の瞳は、真剣そのものだった。 平然とウソを吐けるような眼差しではない。 「……唐突だな。どうして、今なんだ?」 「あの娘が、カナの同志だからよ」 同行するのは医者の義務―― あの娘にはそう言ったが、本当は彼女を媒介として、他の同志に会える事を期待していた。 【智】の御魂を持つ者として、早く同志たちに、自分が集めた知識を教えたかったから。 穢れの者どもは日増しに力を強めているのだ。急がなければならなかった。 「使命、か。主の定めたもうた運命……ってヤツだな」 「珍しく、伴天連の宣教師っぽい言葉を耳にしたかしら」 「まあ、たまには……な」 ベジータは鼻で笑った。 そして、金糸雀も、つられて微笑む。 付かず離れずの二人。 それが、出会ってから、ずっと繰り返されてきた関係だった。 「ねえ、ベジータ。ちょっと、頼みを聞いてくれないかしら」 「いいのかよ。俺に依頼すると、高くつくぜ?」 「宣教師なんだから、無償の奉仕活動は当然かしら」 ベジータの冗談をすげなく受け流して、金糸雀は自分が暮らしてきた小屋を振り仰いだ。 ここは、義父と暮らした思い出が、いっぱい詰まった場所。 孤児だった自分を育てて、教育も施してくれた義父は、一昨年の大飢饉で逝去した。 数々の難病に打ち勝ってきた名医も、飢えには勝てなかったのだ。 以来ずっと、この小屋は金糸雀が護ってきた。 この集落に暮らす人々の手助けを受けながら、ずっと―― 「あのね、ベジータ。カナが留守の間、この家を護ってくれないかしら?」 ベジータは湯飲みに残る、冷めた焙じ茶を一口で飲み干し、徐に話し始めた。 「その程度なら、頼まれるまでもねえさ。任せておけよ」 「本当に良いの?」 「頼んだクセして、なに躊躇ってんだよ。おかしな奴だな」 「だって……幾ら何でも、図々しいかと気後れしたかしら」 「今更だな。さんざん、俺をコキ使っておきながら、よく言うぜ」 「それについては、感謝してるかしら。ええ、そりゃ勿論!」 誤魔化し笑いを浮かべる金糸雀に、ベジータは苦笑ではなく、真顔で応じた。 「とにかくだ。絶対、無事に帰って来いよ。でなきゃ承知しねえぞ」 金糸雀は「そんなの当然かしら!」と断言して、ビシッ! と小屋を指差した。 「カナの家は、此処にしか無いんだから!」 ――二日後。 金糸雀は、幾らか傷の癒えた娘と連れ立って、住み慣れた小屋を後にした。 火薬や医薬品、弾丸や空薬莢を詰め込んだ行李を背負っているので、歩く速度は遅い。 けれど、娘の傷が塞がり切っていない以上、応急処置の用意は必要不可欠だ。 賊に襲われる心配もあるから、武器の類も携行せねばならなかった。 「ベジータの奴、見送りにも来ねえなんて、冷たい奴ですぅ」 「構わないかしら。彼だって遙々、外国から遊びに来ている訳じゃないし」 さも不服そうに呟く娘に、金糸雀は、そう切り返した。 理解ある大人なら、きっと、こう対応する筈だ……と。 けれど、本心は違う。気心が知れた仲だけに、来てくれないのは寂しかった。 ――でも、却って良かったのかも知れない。 見送りになんて来られたら、決意が揺らいでしまっただろう。 ベジータは多分、そこまで気を遣ってくれたのだ。 金糸雀には、何となく、それが解った。 「これから、どういう経路を辿るです?」 「川を遡って、山道を抜け、桜田藩に入るかしら」 「そこで、私の記憶を取り戻すきっかけが、見つかるかも知れねぇですか」 「そう言うこと。大きな町だし、期待は出来るかしら」 言って、金糸雀はなんとなく――本当に何気なく、後ろを振り返った。 そこからは、集落が一望できる。 無意識の内に、丘の上の炭焼き小屋に目を走らせていた。 小屋の前には、こちらを見送るベジータの姿。 なんだかんだ言っても、結局は心配してくれるのね……あなたは。 金糸雀は胸の中で再会を誓い、踵を返して、二度と振り返らなかった。 =第十三章につづく=
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『ひょひょいの憑依っ!』Act.13 ――こんなに、広かったんだな。 リビングの真ん中で胡座をかいて、掌の中でアメジストの欠片を転がしながら、 ぐるり見回したジュンは、思いました。 間取りが変わるハズはない。それは解っているのに…… なぜか、この狭い部屋が、茫洋たる空虚な世界に感じられたのです。 一時は、本気で追い祓おうと思った、地縛霊の彼女。 だのに……居なくなった途端、こんなにも大きな喪失感に、翻弄されている。 彼のココロに訪れた変化――それは、ひとつの事実を肯定していました。 はぁ……。 もう何度目か分からない溜息を吐いたジュンの右肩に、とん、と軽い衝撃。 それは、あの人慣れしたカナリアでした。 左肩に止まらなかったのは、彼のケガを気遣ってのこと? それとも、ただ単に、医薬品の臭いを忌避しただけなのか。 後者に違いない。すぐに、その結論に至りました。 意志の疎通もままならない小鳥が、人間のケガを気遣うハズなどありません。 そうは思うのですが、ひょっとしたら……なんて。 ジュンは、深く考えることもせず、カナリアの前に手を差し伸べたのです。 「お前……本当に、金糸雀なのか? もしそうなら、僕の手に乗って見せろよ」 言ってから、思う。我ながら、馬鹿げた真似をしている――と。 目に見えるモノ、手に触れるモノ、それら全てに彼女の面影を求めて、 金糸雀が消えてしまった現実から、目を背けているだけ。 なぜ、あるがままを認めようとしないのか? あまりにも間抜けな自問に、あまりにもアッサリ自答する。 (実は――――ちょっとばかり、気に入ってたんだよな。あいつのこと) ドジな地縛霊のくせに、やたらと明るく賑やかで、ちょっぴり泣き虫な女の子。 おまけに、思いの外、料理上手ときています。 もし、就職を機に、真紅と離ればなれになっていたら…… 今頃は、ココロが大きく傾いていたかも知れません。 果たして、彼の言葉を理解したものか……カナリアは、彼の手に飛び移りました。 そして、ん? という風に小首を傾げながら、声を掛けてきます。 失意に沈むジュンを奮い立たせるように、それはもう元気よく。 そんな顔してたらダメ。元気を出すかしら! カナリアの声はココロに滲みて、金糸雀の声となって胸に響きます。 ただの妄想に他ならない。およそ、現実では有り得ないこと。 彼自身、自分の気が狂ったのかと、疑わずにはいられませんでした。 そして――どうせ狂ったのなら、ついでに……と。 「そっか……やっぱり、お前だったのか」 言って、小さな溜息を、ひとつ吐いたのです。 二度目の死を迎えた、金糸雀。 でも、それは終わりによって、新しい始まりを―― 束縛を絶ち、自由に空を翔る翼を得るためには、必要不可欠な儀式でした。 ジュンの吐息は、儀式が成就されたことを悟った、安堵そのものだったのです。 その一方で、金糸雀が消えたことに動揺し、もっと話をすればよかったと悔やみ、 こんなにも別れを惜しんでいる自分が―― ――今更ながら、とても浅はかで、愚かしく思えました。 「お前、自由を謳歌できるカナリアに生まれ変われたんだな。 ホントなら真っ先に、良かったな……って、喜んでやらなきゃいけないんだよな」 寂しいからと、彼女の死を悼み、 賑やかさを求めて、彼女に戻ってきて欲しいと願う。 それは再び、金糸雀をカゴの鳥に貶めるに等しいことです。 ジュンは自嘲して、やれやれと頭を振りました。 「なあ、金糸雀。ほんの数日の、春宵の夢みたいに、短い付き合いだったけど―― お前に逢えて…………良かった。ホントに、そう思ってる」 カナリアは、ジュンの指に止まりながら頻りに羽ばたき、囀ります。 喜んでいるようにも、照れ隠しに暴れているようにも見える、その仕種。 あまりにタイミングの良い反応に、ジュンは失笑を禁じ得ませんでした。 「偶然の出逢いで――いや、事故物件と承知で借りたんだから、必然になるのか? まあ、どっちでもいいけど――こんな気持ちにさせられるなんてさ。 ホント、夢にも思わなかったよ」 落ち着きを取り戻したカナリアの頭から背中にかけてを、 そっ……と指の背で慈しみながら、ジュンは優しく語りかけます。 「こんなコトを言ったって、もう仕方がないんだけど。 もしも――――もう少しだけ早く、金糸雀と出逢っていたなら…… ……なんてな。やめとこう。言えば、お互い、未練になっちゃうもんな」 徐に立ち上がったジュンは、左手の甲にカナリアを乗せたまま、ベランダに出ました。 今日は、快晴。清々しい新春の風が、頬を撫でてゆきます。 ベランダの手すりに肘をついて、ジュンは空を見上げました。 「出逢いは別れの初め……って言うけど、実際、どっちが先なんだろう。 生まれ出た瞬間、母親と一体じゃなくなるんだから、やっぱり別れが先かな? ……って、なに言ってるんだよ、僕は」 そうじゃないだろ、と独りごちて、ジュンは静かに、左腕を宙に翳しました。 カナリアは手の上で、じっ……と、小さな黒い瞳で、彼を見つめています。 その様子は、次に語られるジュンの言葉を、待っているようでした。 「別れって、さ…………きっと、出逢いを得るために、必要な仕事なんだよな。 それをすることで、新たな縁が、対価として支払われるんだ」 だから――と。 ジュンは、伸ばした左手に止まるカナリアを、真っ直ぐに見つめました。 「僕も、お前も……これから少しだけ、仕事をしなきゃいけない。 この世界のどこかに転がっている新しい出逢いへと、辿り着くために」 カナリアは、一声、二声と……三度、途切れ途切れに啼きました。 そうね。そろそろ、行かなきゃいけないかしら。 ジュン……今まで、たくさん迷惑かけて……ごめんなさい。 でも、楽しかったかしら。ありがとう―― 本当に、そういう意味で啼いたのかどうかは、判りません。 けれども、ジュンのココロには、そう響いていたのです。 徐に、カナリアは羽ばたいて、春の空に舞い上がりました。 少しだけ強い風に煽られ、危なっかしくヨロめきましたが、 それでも、力強く、蒼い空へと翔け昇っていきます。 「旅立ちには、いい日だよな……こんな晴れの日は」 どんどん遠ざかるカナリアを見つめながら、そう呟くジュンの瞼に、 堰を切ったように、しょっぱい水が溢れてきました。 ……が、それは彼の頬を濡らすことなく、部屋着の袖で拭い去られます。 来客を告げるインターホンが、彼の背中を叩いたからです。 「さて……っと。僕も、クヨクヨなんてしてられないな」 日常は、立ち止まった者を待っていてくれるほど、優しい流れではありません。 絶え間なく移ろい続けて、容赦なく過去へと置き去りにするのです。 そのことは、引きこもりだった頃に経験ずみでした。イヤと言うほど。 ――それに、もうジュンは決心していたのです。 昨日の続きの明日ではなく、今日を素晴らしく生きて、新しい明日に繋げようと。 ずっと隣を歩いてくれていた、真紅と共に―― ところが、玄関に向かう道すがら、思いっ切りアメジストの欠片を踏んで、 思わず「イテテ」と跳ねあげたスネが、ちゃぶ台を直撃。 なにやら前途多難な気がしてきて、またぞろ涙が溢れてきます。 もう拭うのも面倒で、ジュンは堪えていた悲しい涙も一緒に、流してしまいました。 「は、はい。どちらさ――」 急かすように二度目のインターホンが鳴らされたのと、ほぼ同時。 ドアを開いた彼は、そこに立っていた人物を見て、呆気にとられました。 「し……真紅?」 玄関先には、不機嫌そうな面持ちながら、頬を赤らめた彼女が立っていたのです。 しかも、傍らに、大きなスーツケースを携えて。 ぷるんと瑞々しい唇から、今にも「ドアを開けるのが遅い!」と叱責が飛ぶ…… かと思いきや。 真紅は、やおら眉を曇らせ、ぐんと身を乗り出しました。 「どうしたの? 貴方……泣いて――」 「っ?! いや、違うんだ。ちょっと尖った物を踏んじゃっただけで」 「……そう。ところで、あがらせてもらっても、いいかしら?」 「え? あ、ああ。散らかってるけど、いいよ」 スーツケースを引きずりながら、ジュンの後についてリビングに踏み込むなり、 真紅は無意識のうちに、重い息を吐いていました。 それも、ムリなからぬコトでしょう。床には粉々のアメジストが散らばり、 あまつさえ、どーん! と、水晶柱がそそり立っていたのですから。 「確かに……これはヒドい散らかり様ね。片付けも、ひと苦労だわ」 「だよなぁ。ま、ちょっとずつ地道にやるさ」 「ダメよ! なに言ってるの。すぐに始めるわよ」 「はあ? お前こそ、なに言ってんだよ」 ジュンが素っ頓狂な声で訊ねた先から、気合い充分に腕まくりした真紅が、 さも当然と言わんばかりに切り返してきます。 「こんなに散らかっていたら、私が暮らせないでしょう?」 「えっ? なっ? ちょ……お前、自分の部屋――」 「引き払ったわ。家具は、後で届けさせる手筈になっているから」 そんなバカなと言いかけたところで、思い出される昨夜の惨状。 真紅の部屋は、黒い羽やら火の玉による焦げ痕やら、目も当てられない状況でした。 しかも、深夜にあれだけドタバタ騒ぎ立てたのですから、隣近所はモチロン、 上下階の住人からも、管理会社に猛烈な苦情が寄せられたことでしょう。 ひょっとしたら、立ち退き勧告されたのかも知れません。 その原因を突き詰めれば、否応なくジュンに行き当たるワケで……。 (だからって、当前って顔して、カバンひとつで押し掛け女房かよ。 こないだ見た『とーぜんメイデン』っていうアニメみたいだな) やれやれ、と言わんばかりに、こめかみを押さえるジュン。 ……が、先行きが思いやられる一方で、どこか心躍っているのも確かでした。 そう遠くない日に訪れるかも知れない、人生の大イベントに向けて―― 予行練習をしておくのも、一興というものです。 ジュンは「仕方ないな」と、渋々を装って、部屋着のパーカーの袖を捲りました。 それから、アッー! という間の数時間が過ぎて…… ジュンと真紅は、連れ立って商店街を見て回っていました。 片付けが一段落したので、日用品を買い揃えるついでに、食材を求めていたのです。 部屋を片付けながら、ジュンは金糸雀が成仏したことを、真紅に話しておきました。 その時、よほど悲しそうな顔をしていたからでしょう。 真紅は彼を元気づけるために、料理をすると申し出たのでした。 その……道すがら。 ある店舗を見て、ジュンは奇異な声をあげました。 「あれ? ここって――」 「その店が、どうかしたの?」 「おっかしいなぁ……一昨日の夜には、人形を売ってたのに。 お前にブローチあげただろ。アレってさ、この店で買ったんだ」 「……貴方の記憶違いじゃないの? この店って、どう見ても――」 二人が目にしているのは、人形焼きの店でした。 店先では、ホストと紹介されても違和感のない金髪の青年が、 タンクトップにハチマキ姿で、『とーぜんメイデン』の人形焼きを焼いています。 「あの……すみません」 どうにも釈然としないので、ジュンは青年に声を掛けました。 青年は、チラっとジュンと真紅に視線を走らせて―― 「合格…………見ていっていいよ」 なにが合格なのかは疑問ですが、ジュンは躊躇いがちに、疑問をぶつけました。 返されたのは、意外な言葉。 「間違いじゃないのかい? うちは、人形焼き一筋30年だよ」 「そん……な。じゃあ、僕は一体……」 「ジュン、そろそろ行きましょう。商いの邪魔になってしまうわ」 ジュンは依然として要領を得ないままでしたが、真紅が執拗に袖を引っ張るので、 せめて迷惑料がわりにと八種類の人形焼きを買って、その場を離れました。 敢えて八種類を揃えるところが、つくづく八方美人だなぁ……と、苦笑いながら。 ひと通りの品物を買い揃えて、談笑しながらアパートに向かっていた彼らは、 不意に背後から呼び止められて、ハッと振り返りました。 そこに居たのは、ここ数日で見知った二人連れの乙女。めぐと水銀燈でした。 今日も今日とて、ほろ酔い加減の彼女たち―― 水銀燈はまだしも、めぐは遠くない将来、肝硬変でも患ってしまいそうです。 「やっほー、お二人さん。なんだか、一晩でグッと親密になった感じねぇ」 「ほぉんと。すっかり若夫婦ってカンジぃ」 「そ、そんなんじゃ……からかわないでくれよっ!」 「わわ、私たちは、そそ、そんな……」 めぐ達にしてみれば、挨拶代わりの他愛ない冗談を言ったつもりでしたが、 二人の狼狽えぶり――ことに真紅――を見て、これは満更でもないらしいと察しました。 忽ち、面白いオモチャを見つけたみたいに、ニンマリとほくそ笑んだのです。 「ねえ……水銀燈。これは、盛大にお祝いしてあげるべきじゃない?」 「そぉよねぇ。あの娘に押し付けられた置き土産もあるしぃ」 「よし、決ーまり! 二人とも、私のウチにいらっしゃいよ」 「え? でも、僕たちはこれから帰って昼飯――」 「大丈夫よ、桜田くん。時間はとらせないから。真紅ちゃんも、ね?」 「……いいわ。折角のお誘いだもの。行きましょう、ジュン」 どういうワケか、最終決定権はもう、真紅が掌握しておりました。 ジュンは、いきなり尻に敷かれている自分を情けなく思いつつ、 文句も言わず、一番後ろをスゴスゴと歩いてゆくのでした。 ――案内されたのは、今風の瀟洒な高層マンション。 それにしても、盛大なお祝いとは、一体……? まさか、これから彼女の部屋で、宴会でも始めようと言うのでしょうか。 水銀燈が言っていた『置き土産』なるモノも、そこはかとなく怪しい感じです。 イヤな予感を募らせながらも、招き入れられるままリビングに進んだジュンは、 そこで水銀燈に、お茶ならぬトランクケースを差し出されました。 しかも、よく見ればソレは、眼帯娘に引っ張り込まれたドールショップのもの。 ジュンの部屋にも同じモノがありますから、見間違いではありません。 「なっ……なんで、このケースを持ってるんだ?!」 「あらぁ、コレを知ってるのね? じゃあ、話は早いわぁ」 言って、水銀燈が目配せすると、めぐが続きを継ぎました。 「実は、今日の未明のことなんだけど――ネットで調べものをしてた時に、 来客があったのよ。左目に眼帯をした、不思議な女の子でね」 「なんだって? まさか、髪が長くて、変に途切れ途切れな話し方するヤツか」 「あーそうそう。多分、桜田くんの想像と、同じ人物よ。ね、水銀燈?」 「ええ。別れ際に『またね』って言ってたから、いつか再来するとは思ってたけどぉ。 まさか、半日と経たず現れるなんて、想定外だったわ」 今日の未明と言えば、ジュンはまだ、真紅の部屋にいました。 その頃にはもう、金糸雀はあの部屋に引き戻されていたハズです。 とすると……あの眼帯娘が、金糸雀に何かした可能性も、充分あり得ます。 もしかしたら、金糸雀はまだ、成仏していないのかも―― 「この私でも開けられないのよ。どうやら、霊的なカギが必要らしいわぁ。 やるだけムダかも知れないけど、貴方たちには開けられなぁい?」 ジュンは「貸してくれ」と、トランクケースをひったくって、開封を試みました。 すると、意外や意外。ケースは呆気ないほどアッサリと、開いてしまったのです。 ――果たして、カバンの中には、人形サイズの女の子が、眠っておりました。 幽霊にしては血色のいい頬に、涙の痕を残して。 「金糸雀っ!? お前、なんで!」 咄嗟に呼びかけた言葉は、夜明けを告げるナイチンゲールの声。 金糸雀の泣き腫らした瞼が、うっすらと開いてゆきます。 そして、次の瞬間―― それこそ目一杯に双眸を見開いた金糸雀は…… 飛び起きるが早いか、泣き顔のまま、ジュンに抱きついたのです。 トランクケースから出た途端、彼女の身体が元のサイズに戻ったので、 ジュンは支えきれずに、隣にいた水銀燈を巻き添えにして、倒れてしまいました。 二人の下敷きになった水銀燈が、苦しげに罵声を浴びせますが、馬耳東風。 歓喜にはしゃぐ金糸雀には、ジュンしか見えていないようでした。 「あはははっ♪ また逢えた! ジュンに、また巡り会えたかしら! 寝ても覚めても、ずっと、ずっと……カナは、貴方に逢うことだけを願ってたの! 夢じゃない…………これ、夢なんかじゃないのよね?」 「お、お前――」 「夢なんかじゃないわ。成仏してなかったようね、貴女」 首を締め付けられて、目を白黒させているジュンに代わって、真紅が答えます。 しかも、声ばかりか拳まで飛ばしたものだから、さあ大変。 金糸雀は躱す間もなく、真紅のクリティカルヒットを頬に食らって、 ジュンから引き剥がされました。 「ぃったぁ~い。なんてコトするかしら、この暴力女っ!」 「黙りなさい! 今のは、私のブローチを壊したコトへの懲罰なのだわ」 「それに……」と、真紅は立ち上がったジュンの胸に身体を預けて、 彼の背に腕を回したのです。「この場所は、私のものよ」 きぃ――! 金糸雀は悔しげに歯噛みしましたが、それも刹那のこと。 やおら不敵な笑みを浮かべて、真紅をビシリと指差しました。 「ふふーん。そーやって勝ち誇っていられるのも、いまの内かしら! カナは、地縛霊から浮遊霊にクラスチェンジしたんだから。 これからは、神出鬼没に猛アタックすることだって可能かしら~。 更に! 今度こそ貴女から彼を奪うため、ここに住み込みで修業してやるわ。 ……と言うワケで、カナを弟子にして欲しいかしら、水銀燈お姉さまぁ~♪」 「はぁ? やぁよ……メンドくさい。付き合ってらんなぁい」 「そんなぁ……お願いかしらっ。カナをビシビシ鍛えて下さいかしらー!」 「だからっ! 私を、貴女たちのおままごとに巻き込まないでよぉ」 「あぁん♪ 水銀燈お姉さま、いけずぅ~……かしらー」 「ちょ……すり寄らないでってば。ひっぱたくわよ、おバカさんっ!」 と、言ったそばから、金糸雀のおでこをベチッと叩く水銀燈。 それを口火に、ぎゃあぎゃあと啀み合いが始まります。 真紅はジュンから離れて、彼女たちの元に近づくと、涼しい顔で言いました。 「貴女、カナ……ブン、だったかしら?」 「なぁっ?! 失礼ねっ、ワザと間違えたでしょ! 金糸雀よ、か・な・り・あ! なによ、余裕ぶっちゃって。カナなんか、ライバルじゃないって言うかしら?」 「――まさか。私はそこまで、傲慢じゃないつもりよ。 ジュンを好きになった女の子は、誰であろうと恋敵なのだわ。 だから、貴女は気の済むまで、好きにしなさい。 私は、私なりのやり方で、この恋愛ゲームを制するだけよ」 ただ一心に、愛し得る限りジュンを愛してゆくだけ。 ひたと金糸雀を見つめる真紅の瞳は、その決意を訴えかけていました。 金糸雀も、真紅の宣戦布告を真っ向から受け止め、「上等かしら」と―― 口角を歪めて、凄みのある笑顔で応えたのです。 また、とんでもない日常が始まろうとしている。 そこに一抹の不安を覚えてしまうのは、成り行き上、致し方ないことです。 けれど……ジュンは不安の陰で、ひっそりと喜んでいました。 この面々で、昨日の続きではない、新しい明日を切り開いてゆけることを。 真紅と金糸雀の睨み合いから避難したジュンと水銀燈が、テーブルにつく。 めぐは頬杖をついて、火花を散らす娘たちを眺めつつ、彼に話しかけました。 「あちゃー。これは前途多難っぽいわよー、桜田くん?」 「いいんじゃなぁい。若いうちの苦労は、買ってでもしろ……ってねぇ」 「確かに、前以上に喧しくなりそうな感じだけどさ―― 前よりは、楽しく暮らせるんじゃないかなって。今は、そう思えるよ。 って……そうだ。人形焼き食べます?」 「あら。ありがと、桜田くん。いただきまーす」 「手土産なんて、ボウヤにしては気が利くじゃなぁい♪ これで酎ハイもついてたら、カンペキだったわねぇ」 「……昼間っから、酒なんか出しっこないだろ、ふつう。 おーい。お前らも、いつまでも睨み合ってないで、こっち来いって」 ジュンは、相も変わらず睨み合っている真紅と金糸雀に声を掛けて、 ひょいと人形焼きを口に放り込みました。 いつになく、のんびりと時間が過ぎて行く昼下がり。 どこからか夜想曲の静かな旋律が聞こえてきそうな、長閑な春の午後でした。
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1日が10日になり、1ヶ月が経ち、いつの間にか4年という歳月が過ぎて―― 翠星石の居ない日々が、当たり前の日常となりつつあった。 祖父母や、巴や水銀燈や、かつての級友たち…… 双子の妹として、誰よりも長い時間を一緒に過ごしてきた蒼星石ですらも、 彼女の存在を、だんだんと遠く感じ始めていた。 ――薄情だろうか。 そう。とても、酷薄なことかも知れない。 ただ会えないというだけで、どんどん記憶の片隅に追いやってしまうのだから。 でも……それは、ある意味、仕方のないこと。 生きている者たちをマラソン選手に喩えるならば、 翠星石はもう、道端で旗を振って声援を送る観客の一人に過ぎない。 それぞれのゴールを目指して走り続けなければならない選手たちは、 いつまでも、たった一人の観客を憶えてなどいられないのだ。 それほどまでに、現代社会は目まぐるしく、忙しない。 高校卒業。大学入試、入学。成人式。その他、諸々……。 それは、人生というフルマラソンのコース上に設けられた、給水ポイントのようなもの。 誰もが皆、走り続ける限り、そこに至る。流した汗の分だけ、潤いを求める。 ひとつひとつ、新たに吸収した思い出が、翠星石の影を希釈してゆくのだ。 自分の半身を失ったに等しい蒼星石にとって、それは傷付いたココロの慰めになる一方で、 大好きだった姉の存在が忘れられていく現実に、胸を痛める矛盾をも生み出していた。 「どうしたの、蒼星石。ぼぅっとして」 間近で話しかけられて、蒼星石は白いままのルーズリーフから、ハッと顔を上げた。 そこには同じ大学に通う、高校からの親友が、微笑みながら小首を傾げていた。 「もう、講義はとっくに終わってるわよ」 最終話 『Good-bye My Loneliness』 90分の講義中、殆どノートも取らず、物思いに耽っていたらしい。 しばしば、蒼星石は意図せず、こんな風に真っ白な時間を持つことがあった。 アタマの中と言わず、身体中が、まるで溶けかけた温泉タマゴみたいに、 とろりとした甘ったるい余韻を残している。 惚けていた自分が恥ずかしくなって、蒼星石は、ぽりぽりとアタマを掻いた。 彼女の手の動きに合わせ、さらさらで艶やかな栗毛が、肩の上で波打つ。 高校時代から、セミロングにしたままの髪。 翠星石のことを忘れたくなくて、みんなにも憶えていて欲しくて―― 気付けば『あの頃のまま』を引きずっている自分が、ここに居る。 蒼星石は気分を切り替えるように、陽気な笑みを作った。 「まいったなぁ。なんだか、気抜けしてたよ」 「らしいわね」 そう呟いた彼女――巴の瞳が、真っ新なルーズリーフに注がれるのを察して、 蒼星石は頬を赤らめ、そそくさと机の上に広げていた物を片付けた。 単位を稼ぐためだけに履修した科目だと、どうしても集中力が続かない。 しかも今の五限目は、今日最後にして、今週最後の講義でもあったから、尚のこと。 腕時計の表示は、午後6時を回っている。 1月ともなると、この時間、さすがに窓の外は真っ暗だ。 学棟脇の街路樹の枝に、一枚だけしがみついている葉が、木枯らしに揺れていた。 「だいぶ、年末年始の疲れが溜まってるんじゃない、蒼星石?」 「そうかも。冬休み中は、お正月以外、バイト三昧だったから」 祖父母に負担をかけたくなくて、蒼星石は勤労学生な生活を送っている。 本当は、大学への進学も考えていなかったのだが、それは祖父に反対された。 女の子でも、社会に出るとき、学士くらいの学歴は身につけておいた方が良い……と。 たとえ、それが単なる肩書きに過ぎなくても。 欠伸を噛み殺す蒼星石の肩を、巴はモミモミとマッサージした。 「あんまり無理しないで。期末試験の前に、身体こわしたら元も子もないでしょ」 「うん……そうだよね。ありがと、巴」 気持ちよさげに目を細めて呟く蒼星石の耳を、巴の穏やかな微笑みが撫でる。 蒼星石も、くふんと鼻を鳴らした。 4年という歳月は、二人の距離も変えていた。 高校時代には、互いに敬称をつけて、親しい仲にも余所余所しさを残していたが、 それが今や、名前で気安く呼び合う間柄だ。時間が合えば、よく一緒に遊んでいる。 「ねえ、蒼星石。今日は、これから予定とか……ある?」 「バイトもないし、もう帰るつもりだけど。それが、どうかしたの?」 「たまには、お食事でも、どうかなって思って」 「ダメ?」と問いかける巴の瞳には、なにか別の思惑が見え隠れしていた。 4年も友達をやっていれば、そのくらいは簡単に察せられる。 けれど、蒼星石は敢えて気付かぬフリで頷き、携帯電話を手にした。 「もちろん、いいよ。ちょっと待ってね、ウチに電話するから。 ――あ、もしもし。お祖母さん? あのさ、ボク今日、夕御飯いらないよ。 え? あはは……大丈夫だよ、巴も一緒だし。うん……早く帰るから。 それじゃあね」 手短に用件を伝え、携帯電話をバッグに滑り込ませる蒼星石。 「お待たせ。どこのお店に行くの? 巴に任せるよ」 「そう? じゃあ――」 駅から少し離れ、雑踏が疎らになる辺りまで来て、案内する巴の足が止まる。 そこは、うっかり見落としてしまいかねない、民家を改装した小料理屋だった。 らしいと言えば、まあ、巴らしい。そんな渋さと趣を感じさせる店だ。 些か、うら若い女の子には似つかわしくない野暮ったさがあるけれど、 実のところ蒼星石も、飲み放題を売りにする駅前の騒々しい居酒屋よりは、 こういう落ち着いた雰囲気の食事処が好みだった。 「へぇ……よく、こんなイイ感じの店を知ってたね」 「お父さんの、お気に入りの店でね。わたしも、よくお供してるの。 珍しい地酒とか、なかなか幅広く取りそろえてるのよ」 「そうなんだ? ボクも今度、お祖父さんたちを連れてきてあげようかな」 「ふふっ。蒼星石って、ホントにお祖父ちゃんっ子なのね」 「べ、別に……そう言うワケじゃないけど」 蒼星石は言い返そうとするのだが、事実なだけに、どうにも歯切れが悪い。 ごにょごにょ口ごもる蒼星石の背中を、巴はグイと押して、店の暖簾を潜った。 そこそこお腹が満たされ、少しばかり聞こし召したこともあって、 蒼星石と巴は上機嫌で、酔い醒ましがてら、週末の夜道を歩いていた。 夜空を見上げれば、冷たく澄んだ空気の向こうに、たくさんの星が煌めいている。 オリオン座の三連星と、ひときわ白く輝くシリウスは、すぐに見つけられた。 「ねえ、蒼星石――」 話しかけた言葉は、真冬の空気の中で白く凍り、やおら夜の闇に融けてゆく。 巴は、彼女の素直さを象徴するような真っ直ぐの眼差しで、蒼星石を見つめていた。 「なに? どうしたの、巴」 「あのね、もし良ければ……今度の春休みに、二人で旅行しない? 来年の今頃だと、卒論とか、就職活動とかで忙しいかも知れないでしょ。 だから、早めの卒業旅行も兼ねて、どうかなぁって」 「……いきなりだね。ホントに、どうしたのさ?」 ほろ酔い加減の、戯れ言だろうか。 それとも、この話を切り出すキッカケに、お気に入りの店へと連れてきてくれたのか。 じいっと……それこそ、穴が開くくらいに蒼星石が見つめ返すと、 巴は恥ずかしそうに目を伏せるどころか、更に瞳を合わせてくる。 蒼星石の方が、先に照れて、顔を逸らせてしまった。 「――さっき」 蒼星石の上気した頬に、巴の落ち着いた声が、投げかけられた。 「講義の間、ずっと翠星石さんのこと、考えてたんでしょ」 ドキリ。蒼星石は、無防備な背中を、もぞもぞ撫で回されるような感触を覚えた。 確かに、巴の指摘どおりだった。 姉のことを思い出して、90分もの間、記憶の中に遊んでいたのだ。 顔を上げた蒼星石の前で、巴はまだ、蒼星石を見つめたままだった。 「なんで解るの?」 「4年も貴女を見つめてきたんだもの。解るわよ」 酒気に染まった肌とは対照的に、そう告げた巴の唇は、やけに白かった。 霜でも降りてしまったのではないかと、心配するくらいに。 「蒼星石は気付いてなかったでしょうけど……貴女って、時々だけど、 とっても淋しそうな顔をするの。まるで、抜け殻みたいになって。 笑っているのに、どこか作り物の気配を漂わせていたり」 クセというものは、無意識の行動であるため、なかなか本人は気付かない。 誰かに教えられて初めて、そうだったのかと自覚するのだ。 ちょうど、今の蒼星石みたいに。 「わ、恥ずかしい。ずっと観察されてたなんて、気付かなかったなぁ」 自嘲して、蒼星石は続けた。 「――キミの言うとおりだよ。ボクは、姉さんのことを忘れたくない。 姉さんと過ごした日々の記憶を、風化させたくないから、 押入の布団を引っぱり出して虫干しするみたいに、思い出してしまうんだ」 この4年間、蒼星石はずっと『あの頃のまま』を夢想してきた。 翠星石と歩んできた日々の思い出が、色褪せないように。 そして、そんな彼女を、巴は見つめてきた。傍らで、ずっと―― 「わたしも、故人を偲ぶことは大切だと思うわ。 翠星石さんが、蒼星石の中で生き続けるためにも」 言って、巴は「でもね」と諭す。 「彼女を忘れたくないのは、蒼星石だけじゃないのよ。 わたしも、水銀燈も。翠星石さんを知っている人は、みんな。 いつまでだって、彼女のことを憶えていたいの。 だから、わたし達は蒼星石の側に居るんだと思う」 「ボクが双子の妹で、姉さんの面影を重ねやすいから?」 「貴女は、翠星石さんの影じゃないわ」 巴の眼差しが、かつてないほど真剣みを帯びていた。 ウソや冗談を言う者の目ではなかった。 「この世に一人しか居ない、蒼星石という女の子よ。 だからこそ、わたし達は蒼星石に、いつも輝いてて欲しいと思ってる。 過去に執着しないで、前向きに生きて欲しいと願ってる」 「……?」 「解らない? 貴女の微笑みだけが、翠星石さんの魅力を引き立たせられるの。 わたし達のココロにいる翠星石さんに、可憐な花を添えてくれるのよ。 それなのに、蒼星石が沈んでいたら―― わたし達が思い浮かべる彼女の笑顔も、悲しい色に染まってしまうわ」 だから――巴は食事に誘ってくれて、旅行しようとまで言ってくれたのだろう。 このところ、疲労のあまり気落ちしがちだった蒼星石を、元気づけるために。 自ら輝けなくなった翠星石を、蒼星石の笑顔で明るく照らして欲しいから。 『情けは人の為ならず』と言うけれど、それでも…… 巴の真心は、蒼星石の気持ちをスッと軽くしてくれた。 友情とは二つの肉体に宿る一個の魂だ、と言ったのは、アリストテレスだったか。 唐突にその言葉を思い出した蒼星石は、たった今、その意味が解った気がした。 巴と出会えて良かった。友達になれて、良かった。 そう思うだけで、さっきは無理に作った笑顔が、今は自然と溢れてくる。 だから、蒼星石は一点の曇りもない微笑みを、大切な親友にプレゼントした。 「……いいね、旅行。ボクも、巴と行きたい。一度と言わず、何度でも。 具体的に、どこに行くか決めてあるの?」 「ううん。まだ企画だけよ。蒼星石の希望も訊きたかったし」 笑みを湛える巴の瞳が、問いかけてくる。どこか行きたいところ、ある? 蒼星石は「そうだなぁ」と、夜空を仰いだ。 「最初は、鄙びた温泉とか、どう? ボクは、のんびり出来る所が嬉しいな♪」 お年寄りと一緒に暮らしていると、どうしても老人趣味になってしまうのか。 落ち着いていると言えば聞こえは良いが、蒼星石は若いに合わず、渋ごのみだった。 そして、巴もまた、幼い頃から続けてきた剣道を通じて精神修養を積み、 古式ゆかしい大和撫子といった風情がある。 そんな二人だからこそ、性格的に意気投合できるのだろう。 現に、巴は温泉という言葉に、興味と賛意を示した。 気の合う者同士、こうなると話が早い。とんとん拍子に大まかな予定が纏まった。 「楽しみね。わたし、ワクワクしてきちゃった」 「ボクもだよ。さ~て、行くと決まれば、バイトも試験も頑張らなくっちゃ」 「補習とか、必修科目を落として留年だなんて、目も当てられないものね」 「うん。あ、そうだ……さっきの授業のノートさ、コピーさせてくれない?」 「学食のA定で手を打つ?」 「いいよ。なんなら、月曜日と言わず、明日にでもお昼を奢ってあげる。 それとも、ボクの手料理とか……食べたい?」 「あ、それグッドアイディア! じゃあ明日は、蒼星石の家に集合ね♪」 ポンと手を打ち鳴らした巴の表情は、喜色に輝いている。 そんな彼女に、蒼星石は「いやしんぼだなぁ」と、意地の悪い笑みを向けた。 他愛なく交わされる軽口も、友情という料理を味わい深くする調味料。 口にした言葉とは別に、蒼星石は胸の内で、ひっそりと話しかけていた。 ありがと、巴。これからは前だけを向いて、走り続けてみるよ。 辛いことも、泣きたくなることも、脚を動かすチカラに変えてね。 そして、いつかステキな恋人と巡り会い、愛を実らせる時が来ても…… 翠星石と過ごした日々を、巴や水銀燈との友情を、 この胸で、大事に大事に温めながら、生きてゆくから。 和やかに過ごした睦月の夜は、しんしんと更けゆく。 温まったココロを冷やかすように、吹き過ぎる寒風は肌を刺すけれど。 酔い醒ましと―― まもない春の訪れを夢みるキッカケとしては、ちょうど良かった。 ~ある乙女の愛の雫~ grand finale
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彼女を見かけたのは、夏の暑さも真っ盛り、八月初旬の昼下がりだった。 焼けたアスファルトから、もやもやと立ちのぼる陽炎を抜けて、歩いてくる乙女。 つばの広い麦わら帽子で強い日射しを避けつつ、鮮やかなブロンドを揺らめかせていた。 右肩から吊したハンドバッグの白が、やたらと眩しい。 僕は、彼女を目にしたとき、一瞬だけれど、幻かナニかだと思ってしまった。 ――何故って? そのくらい、彼女は人間ばなれした美貌を、兼ね備えていたからさ。 陳腐だけど、もしかしたら本当に美の女神なんじゃないかと、思えるほどにね。 さて……男だったら誰しも、こんな美人とお近づきになりたいと思うはずだ。 かく言う僕のココロも、その意味では健全な男子として、素直に反応してしまう。 日常会話でもいい。ほんの挨拶だって構わない。 とにかく、なんでもいいから、彼女と言葉を交わす方便を探した。 目を皿にして、およそ今までの記憶にないほど真剣に、ね。 その時だった。彼女の影が不意に揺らいで、後ろへと傾いでいったのは。 危ない! 咄嗟に胸の中で叫んだ僕は、気付けば、もう駆け出していた。 下心はあったさ、確かに。けれど、信じて欲しい。その場は本当に、無心だったんだ。 倒れる寸前で、僕は彼女を抱き留めていた。驚くほど華奢で、軽い身体を。 はた……と麦わら帽子が落ちて、彼女の髪から、甘い薔薇の香りが靡いた。 手に伝わる、汗に濡れた肌の艶めかしい感触と相俟って、僕の頭はショート寸前だった。 プロローグ 『愛のカケラ』 みっともなくドギマギするも、腕の中で発せられた弱々しい呻きで、我に返った。 こんな状態で、惚けている場合じゃない。どうしたのか、訊いてみないと。 しかし、彼女の顔を間近に見た僕は、情けないけれど言葉を失ってしまった。 見れば見るほど、綺麗な人だ。張りのある白い肌に、クラクラさせられる。 多分……僕が学校で接している女の子たちと、そう大差ない歳だろう。 「だ、大丈夫かい? 足を挫いたのかな?」 気を取り直したものの、彼女にかけた声は、恥ずかしながら上擦っていた。 ――どうして、足を挫いたかと思ったかって? この女の子は、ヒールの高い靴を履いていたからさ。 それが原因で、体勢を崩したのかと思っていたけれど……どうも違うらしい。 彼女の背を支えている僕の腕には、異様に高い体温が伝わってきていた。 「君……もしかして、熱中症なのか?」 露わになった首筋や二の腕には、強い日射しに焼かれた赤い腫れも窺える。 この炎天下を、どれだけ歩いていたんだろう? 「とにかく、涼しい場所で休ませないとなぁ」 幸い、すぐ近くに公園がある。木陰が多いし、噴水もあるから涼は取れるだろう。 夏休みと言うこともあって、子供たちと蝉時雨がうるさかったけれど、仕方ない。 なるべく静かな木陰のベンチを選んで、彼女を仰向けに寝かせた。 ヤブ蚊はいないようだ。僕はスーツの上着を畳んで、枕の代わりに敷いてあげた。 手にしたままだった麦わら帽子を、彼女の胸元にそっと置いて、考える。 差し当たって……次は、何をすべきだろう? とにかく、体温を下げることだ。それも、可及的速やかに。 辺りを見回すと、都合のいいことにジュースの自販機がある。 「よし! ちょっとガマンしてるんだぞっ。すぐに戻るからね」 返事を期待できる状況じゃなかったけれど、それだけ伝えて、自販機に走った。 何でも良いから、よく冷えた缶ジュースを4本買って、女の子の元へと戻る。 そして、二本を彼女の細い首筋に当てて、もう二本は、彼女の脇の下に挟ませた。 動脈を冷やすことで、早く体温を下げられると、聞いた憶えがあったからだ。 「頑張るんだよ。すぐに、楽になるから」 僕はベンチの傍らに立つと、麦わら帽子を手にして、彼女を扇ぎ続けた。 ~ ~ ~ 小一時間くらい、そうしていただろうか。扇ぐ腕が、かなり怠い。 この見ず知らずの女の子は、漸くにして、うっすらと瞼を開いてくれた。 そして、呆然とすること数秒。急にハッと表情を固くして、僕を鋭く睨んできた。 「わ、私に……なにをしたの?」 「いや……誤解しないで欲しいんだが、僕は何も――」 「…………」 「本当だよ。いきなり、君が倒れたものだから、日陰に運んで休ませてたんだ。 誓って、変なイタズラなんかしてないよ」 「……そう……だったの。ごめんなさい、疑ったりして」 素直に謝るところを見ると、倒れた自覚みたいなものが、少しはあるのだろう。 彼女が身体を起こし、ベンチに座り直すのを待って、僕は口を開いた。 「どのくらい日なたに居たのか知らないけど、暑気中たりしたんだと思うよ。 ちゃんと水分補給してなかったんじゃないのかい?」 「それは…………ええ、まあ」 「ここ数年、日本の夏は、だんだん暑くなってるみたいだからね。 君は、どこの国から? あ、いや……差し支えなければ、だけど」 僕の問いに、彼女は暫し思案して、徐に「昨日、フランスから」と言った。 フランスなら緯度的に見て、およそ日本の北海道と、同じくらいの気候だろうか。 長旅の疲れと時差ボケが重なれば、この暑さに目を回してしまうのも頷ける。 「あの――私……人を探しに来たんです」 「そうなんだ? この近所に住んでる人なのかい?」 「分からないんです。なにしろ、古い手懸かりしかないものですから」 「古いって……どのくらい? 10年前くらいかな?」 訊ねると、彼女はハンドバッグから、茶色く変色した封筒を抜き出した。 「亡くなった私のお祖母様が、大切に保管していた手紙です。75年昔の――」 75年前とは、また大変な昔だ。逆算すれば1932年のことになる。 太平洋戦争もあったから、この娘のたずね人が今も存命中かは、甚だ疑わしい。 僕は「いいかな?」と断って、彼女の隣りに座り、封筒を受け取った。 「宛名は……【Yuibishi】か。この人を探しているんだね? もう少し、詳しく話を聞かせて欲しいな。まあ、ジュースでも飲みながら」 言って、彼女の体温を下げるために使った缶ジュースを差し出す。 すっかり温くなってしまったソレは、よくよく見ればコカコーラだった。 黙って缶を受け取った彼女は、それでは……と、静かに語り始めた。 この手紙にまつわる、あるエピソードを―― プロローグ 終 【3行予告?!】 出会いはいつでも、偶然の風の中―― 僕と彼女が巡り会ったように、彼女たちもまた、邂逅を果たしたんだ。 ホイップクリームみたいな、真っ白な夜霧の中で。 次回、第一話 『Face the change』
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~第一章~ 一口に探すと言っても、何処に向かえば良いのか、皆目見当が付かない。 旅支度を済ませたはいいが、さて、どうしようと悩んでいたところへ、 昨夜の声が語りかけてきた。 目を覚ましていたにも拘わらず……だ。 自らの内より発せられる声に導かれるまま、真紅は、とある村へ向かっていた。 この辺りは未だ、去年の大飢饉の無惨な痕を残している。 一見すると穏やかな田園風景だが、空気に、悲嘆や哀愁の情が満ち溢れていた。 「もしかして……この気配は」 朝から歩き詰めだったため、木陰で旅の疲れを癒していた真紅は、 不意に我が身を襲った悪寒に、腕を掻き抱いた。 空を見上げると、俄に暗い雲が広がり始めていた。 ついさっきまで晴れていたのに、この急変は異常すぎる。 胸の奥底から、不安な影が頭を擡げ、沸き上がってきた。 退魔師の能力が、禍々しい気配を感知している。 得体の知れないモノに包み込まれる様な、不愉快な感覚。 「どうにも慣れないものね……気色が悪いわ」 左手の甲にある痣が、籠手の下で焼けるように熱くなっている。 それは、真紅の不安を肯定する反応だった。 「間違いないのだわ。この反応は……穢れの者!」 真紅は、巫女装束の袖をバサリと風に靡かせ、神剣『菖蒲』を引き抜いた。 穢れの者どもが連れてくる腐臭が、真紅の鼻腔を刺激する。 近い。もう……そこまで来ている。 がさっ! 頭上の枝が揺れたかと思った瞬間、穢れの者どもが奇声を発しながら飛び降りてきた。 足軽の格好をしているが、中身は骸骨である。数は……三匹。得物は、いずれも刀。 真紅は襲撃者の第一撃を躱しざま、端の一匹に斬りつけた。 真紅の斬撃を浴びて胴丸ごと両断され、骸骨は瞬く間に塵となって消えた。 息も吐かせぬ早業で、真紅は残る二匹も斬り伏せる。 「他愛のない。所詮は、死に腐れた穢れどもね」 と、余裕めかして軽口を叩いたものの、真紅は状況が好転していないことを悟っていた。 まだ、第一派を撃退しただけ。痣の熱と疼きは、まだ収まっていない。 それどころか、更に熱くなっている。 真紅は木陰から飛び出して、路上に陣取った。 道の左側は、先程まで休んでいた森の際。右側には水田が迫っている。 足場の悪い水田を背にすることで、回り込まれる危険性を弱める狙いだった。 それに、枝が迫り出していない此処なら、先程のように、頭上から不意を衝かれる心配も無い。 空が泣き出し、大粒の雨が真紅の服を叩き始めた。 直後、森の中から、戦場を彷彿とさせる怒号が響いてきた。 「来たわね。団体さんの、お出ましなのだわ」 漆黒の闇と化した森の奥から、長槍を構えた骸骨の群が押し寄せて来る。 総数は、計数不能。多勢に無勢である。 真紅は小さく舌打ちして、袖の中から呪符を抜き出した。 呪符と言っても紙ではない。心血を注いで打ち込んだ玉鋼に、 精霊と契約を交わす言霊を刻み込んだものだ。 あれだけの数を相手にするには、こちらも防御力を強化しなければならない。 「法理衣!」 術を発動させるや、真紅の身体は赤い陽炎に包まれた。 これで、暫くは直接攻撃に耐えられる。 効果が持続している間に、穢れの者どもの包囲を突破、脱出せねばならない。 素早く周囲を見回し、手薄な部分を捜した。 (後ろは水田……正面の敵中突破は有り得ない。となると、右か……左か) 田圃の細い畦道を行く手もある。 足場の悪さを利用すれば、追い付かれるまで、かなりの時間を稼げるだろう。 だが、一歩しくじれば、自分が足を取られてしまう危険があった。 それに、身を隠す場所のない所で、雨の如く矢を射られたら、躱しきるのは困難だ。 びゅっ! と、鋭く空を切る音。 目前に迫った足軽どもが、一斉に槍を突きだしてきたのだ。悠長に考えている暇など無い。 真紅は右へ飛んで、そのまま街道に沿って走り出した。 左脇の茂みから、刀を振り翳した骸骨が四つばかり、飛び出してくる。 「邪魔よ。この死に損ないどもが」 赤い陽炎に包まれた神剣を一閃させた途端、四つの穢れは忽ち両断され、飛び散った。 散発的な攻撃なら、どうとでも対処できる。厄介なのは、数に物を言わせ、圧してきた時だ。 真紅ひとりでは、いずれ疲れて動けなくなってしまう。 走りながら、茂みの中を一瞥する。 そこには、矢を番えて弦を引き絞る穢れの者どもの姿が有った。 狙われているのは、自分。 (っ! まずいのだわ) 雨足が強まる中で、無数の矢が真紅を目がけて放たれた。 瞳に飛び込んでくる雨粒に邪魔されながらも、真紅は薄目を開けて剣を振り、矢を叩き落とした。 何本か直撃を食らったが、法理衣のお陰で貫通はしていない。 しかし、身体に伝わる衝撃だけは中和しきれず、真紅の身体に打ち身と疲労を残していた。 矢継ぎ早に……の表現そのままに矢が放たれ、その度に、真紅は矢の直撃を浴びた。 赤い陽炎は、今や淡い桃色に変わっている。 法理衣の効果は、あと僅か。体力の消耗も激しい。 (このままだと……長くは保たない) 一瞬の気力の乱れが、真紅から注意力を奪った。 空を裂いて飛んできた矢に左脇腹を直撃されて、真紅は息を詰まらせ、もんどり打った。 路上の泥濘に顔から突っ込んでしまい、泥水が口の中に流れ込んできた。 泥水を吐き出しながら、仰向けになって起きあがろうとする真紅。 その青い瞳には、刀を振り上げた骸骨が、今まさに自分を斬りつけんとする姿が映っていた。 無意気の内に息を呑んで、身を強張らせていた。 神剣を振り上げ、敵の刃を受け止めようなんて考えは、全く思い付かなかった。 (ダメ……間に合わないっ!) 真紅は反射的に、ぎゅっ……と瞼を閉じた。 刀で固い物を叩き斬る音が真紅の耳に届いたのは、その直後だった。 斬られたのは、私? 怖々と目を開くと、真紅の前には、一人の剣士が背を向けて立っていた。 栗色の髪を短く刈り揃えた、凛々しい青年だった。 「あ、あの……貴方は――」 真紅が素性を訊ねるより早く、剣士は穢れの群に切り込んでいった。 その闘いぶりは、正に獅子奮迅。 忽ちの内に、二、三十の穢れの者を斬り伏せていた。 なんて壮絶な殿方だろう。 思わず見惚れていた真紅の視界に、矢を番えた骸骨が飛び込んできた。 彼の背中に狙いを付けているのは、一目瞭然。 「――っ! 危ないっ! 後ろよっ!」 真紅が叫んだ直後―― 弓を引き絞っていた骸骨は、どこからか飛んできたクナイに刺し貫かれて消滅した。 クナイが飛んだ方角から見当を付けて凝視すると、木々の間を縫って走る影を捉えた。 あれは、忍びの者? 俊敏な影は、森の中を縦横無尽に走り回って、弓足軽を掃討していく。 何者かは知る由もないが、かなりの手練れである。 が、感心ばかりしてもいられない。まずは、この状況を打開するのが先だ。 真紅は気を取り直すと、立ち上がって、穢れの者たちを斬り捨てていった。 それから幾らも経たずに、穢れの群は、綺麗サッパリ消滅していた。 と言っても、壊滅させた訳ではない。 忍びの者が足軽大将を始末したから、穢れの群は統率を欠いて、遁走したのだ。 暗雲が途切れて、空には再び陽光が戻ってきた。 皐月の日射しに照らされ、雨に濡れて冷えた肌が温もりを取り戻していく。 (漸く、終わった――) へたへたと座り込んだ真紅の前に、麗人の剣士と、長髪の忍びが近付いてきた。 鳶色の長い髪を風に遊ばせ、歩み寄って来た忍びは、真紅と幾つも歳が違わないだろう若い娘だ。 それに、よく見れば、男性と思っていた剣士の方も―― 「怪我は無い? 危ないところだったね」 「は? え、ええ」 「お前は巫女のくせして、なかなか腕が立ちやがるですぅ」 「はあ……どうも」 なんだか、やたらと友好的な二人。初対面なのに、馴れ馴れし過ぎはしないか? とは言え……助けてもらった事に変わりはない。 泥だらけで見窄らしい格好を恥じらいながらも、真紅は座ったまま、二人に頭を下げた。 「助太刀してくれて、本当にありがとう。助かったのだわ」 神妙な面持ちの真紅に対して、麗人の剣士と忍びの娘は、顔を見合わせて笑った。 「気にすることねぇです。あいつらは、私たちにとっても敵ですから」 「そうそう。だから、お礼なんて言わなくても良いよ」 剣士の娘は人懐っこい笑みを浮かべて、真紅に手を差し伸べた。 「立てる?」 「……別に、腰が抜けた訳じゃないのだわ」 言った後で、そんな必要などなかったと、真紅は気付いて赤面した。 これでは、腰を抜かしてますと白状してる様なものだ。 「ふふふ……強がりなんだね。姉さんと、気が合うかも」 「姉さん?」 問い返した真紅に、剣士の娘は隣に佇む忍びの娘を指差した。 なるほど、よく見れば、面差しが瓜二つである。左右逆だが、緋翠の瞳も共通した特徴だ。 「ボクは蒼星石。彼女は双子の姉、翠星石。キミの名前は?」 「私は…………真紅」 「真紅、かぁ。なんだか情熱的で、良い名前ですぅ」 なんだろう、この和やかな雰囲気は。 さっきまで穢れの者どもと、命を賭けて闘っていたというのに。 「……おかしな人たちね」 真紅はぎこちなく微笑みながら、腕を伸ばし、差し伸べられた蒼星石の左手を握った。 その瞬間、真紅の腕に電流が走った。静電気なんて生易しいものではない。 それは蒼星石も同じだったらしく、小さな悲鳴を上げて、二人は繋いだ手を離した。 今の衝撃は、一体なんだったのだろう? 蒼星石の悪戯で無いことは、彼女の驚愕ぶりからも分かった。 しかし、そうなると原因は全く判らない。 (なにか、体質的な相性があるとでも?) そんな話は、今まで聞いたことも、体験した事も無かった。 茫然と立ち尽くす蒼星石の手を、じいっ……と見詰める真紅。 眺めること暫し、真紅は、あることに気が付いた。 (蒼星石と翠星石も、私と同様、左手の甲を隠しているのだわ) 真紅は、夢で聞いた言葉を思い出していた。 ――運命を共有する七人の同志を探しなさい。すぐに解る筈です―― もしかしたら、この二人こそ、私の同志なのではないか? 試しに、翠星石とも左手を繋いでみたら、やはり電気が流れる様な衝撃が走った。 いくら双子の姉妹とはいえ、偶然にしては出来過ぎている。 一応、確かめてみた方が良いだろう。 「貴女たち、もしかしたら……こんな痣があるんじゃない?」 真紅は籠手を外すと、二人の眼前に、左手の甲を突き出した。 内出血したかの様な青黒い痣は、神秘的な真円を描いている。 真紅の痣を見詰める蒼星石と翠星石の瞳には、明らかな動揺が見て取れた。 驚いた……と、二人は殆ど同時に呟いていた。 双子だからって、そんなところまで息を合わせなくてもいいのに。 真紅は微笑みながら、もう一度、二人に問い掛けた。 「それとも、こんな醜い痣なんか、見たこと無かったかしら?」 「見たことが無いどころか――」 「産まれた時から、毎日、目にしてるですぅ」 二人は籠手を外して、露わになった左手の甲を、真紅に見せた。 形といい、大きさといい、真紅の青黒い痣と同じものだ。 三人の拳を近付けると、痣が熱を帯びて、何やら文字が浮かび上がってきた。 それは真紅にとって、初めて体験する現象だった。 「これはっ!? まさか…………こんな事が?!」 「驚いたですか? 無理もねぇです。私も最初はビックリして、死ぬかと思ったです」 「そうだったねぇ。姉さんってば、もう泣いて喚いて大騒……痛っ!」 「余計な事は言わねぇで良いのですぅ」 二人で掛け合い漫才をしている最中、真紅は三者三様の文字を見詰めていた。 「私の【義】とは……」 「ああ……それは、五常のひとつ。正しき道を示す者の証ですね。 私の【悌】は、厚情……おもいやりの心を意味するですぅ」 「そして、ボクの【信】は、誠実と真実を表しているんだ」 なるほど、確かに、あなた達はそんな関係なのかも知れない。 真紅は微笑ましい姉妹を眺めながら、文字の意味を噛み締めていた。 「ところで、真紅。キミはこれから、何処に向かうつもりなの?」 「え? ええ、と……」 不意に話題を振られて、真紅は返答に窮し、歯切れ悪く応じた。 同志とは言え、今日、初めて出会ったのだ。どこまで正直に話して良いものやら。 真紅が思案に暮れていると、間怠っこしそうに口を開いた。 「あぁもう、鬱陶しい奴ですぅ! 行く所が決まってねぇなら、取り敢えず、近くの町まで行きゃあ良いですっ」 「うん、まあ……その方が良いかもね。キミ、泥だらけだし」 言われるまで、真紅はすっかり忘れていた。 巫女装束は元より、髪や足袋なども、泥だらけだ。 ふんだんに雨を吸った袴は、重い上に、脚に張り付いてきて気持ちが悪い。 「そうしましょう。貴女たち、この辺りに土地勘は有るのかしら?」 「少なくとも、お前よりは詳しいですぅ」 「ちょっと距離があるけれど、今から向かえば、夕刻までには着けるよ」 「ならば、直ぐに出発するわよ。いつまた、敵が襲撃してくるか分からないのだわ」 蒼星石は「そうだね」と呟くと、翠星石と目を合わせて、軽く肩を竦めた。 姉の方も、戦い疲れが出たのか、憂鬱そうに溜息を吐いた。 「私たちも、つい最近になって、奴等に襲われだしたです。理由は解んねぇですけど」 「ああ。それで、さっき『私たちにとっても敵』だと言っていたのね」 「そう言うコト。その辺の事情は、歩きながら話すとしようよ」 蒼星石の提案に、真紅は頷き、神剣を両腕に抱えて歩き出した。 =第二章につづく=
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『寝かせた恋は 甘い恋』 西の空が、うら寂しげに暮れなずむ、金曜日。 彼は、駅の自動改札を出るとキオスクの隣に寄って、待合い人を探した。 左腕の時計に目を落とす。約束した時間には、少しばかり間がある。 「早く……来すぎたか」 独りごちて、彼は鼻で、ふぅ……と吐息した。 遅刻せずに済んだ安堵と、彼女に会えない落胆が、綯い交ぜになった溜息。 駅構内に流れる、列車の到着を告げるアナウンス。 程なく、改札から人の群が押し出されてきた。 満面に疲労を貼り付かせて行き交う人々の流れは、どこか緩慢で、気怠い。 ずっと観察していたら、なんとはなしに気が滅入ってしまった。 (……居ないな。次の電車に、乗ってるのかもな) そんな希望的観測をして、強引に気分転換を図った。 湿気た顔で出迎えたら、彼女に要らない心配をかけさせてしまう。 折角のムードが、白けてしまうではないか。 これから、二人だけの夜が始まるというのに……まったく、無粋というものだ。 小さく頭を振って、彼――桜田ジュンは、肩を落とした。「まだまだガキだよな、僕は」 駅構内の喧噪に紛れて、再び、アナウンスが流れる。 腕時計を確かめると、ほぼ約束どおりの時間を表示していた。 今度こそ、彼女は来る。この電車に乗っている筈だ。 ジュンは目を凝らして、改札に彼女の姿を探した。 きっと笑顔で出迎えようと、心に決めて……。 ――だが、今度も彼女は来なかった。 彼女は社会人。時間にはそこそこ厳格だし、遅刻することが分かっているなら、 電話のひとつも入れる分別をもっている。 いつもなら、待ち合わせ時間前に、連絡が入っていた。 なにか急な用事ができて、電話を掛ける余裕すら無いのだろうか? 「こっちから、かけてみるか」 彼女の携帯電話にダイヤルしてみたが、どうやら圏外に居るらしくて、電波が繋がらない。 一体、彼女は今、どこに居るのだろう? こっちに向かっている最中ならば良いが、もしも―― (事故か何かに巻き込まれたりしてたら、どうしたら良いんだ?) 不吉な可能性を危惧した途端、駅のアナウンスが、人身事故発生を報じ始めた。 ぎくりと、ジュンは身を強張らせた。あまりにもタイミングが良すぎる。 携帯電話でリダイヤルしてみたが、結果は相も変わらず。 まさか……いや、そんな筈は……でも、やっぱり……。 悪い予感が、縁起でもない妄想を生み、更なる焦燥を煽る。 心臓はバクバクと脈打ち、過呼吸気味になって、ジュンの視界がグラリと揺れた。 ひどく気分が悪い。胃が握り潰されているかの様に、キリキリ痛む。 口を手できつく押さえて、吐きそうになるのを懸命に堪えた。 (落ち着けよ……まだ、事故に巻き込まれたと決まったワケじゃないだろ) いくらか気分が静まったところで、ジュンは駅員を捕まえて、説明を求めた。 事故の原因や、復旧見込みを訊ねたのだが、見通しは立っていないの一点張り。 ジュンは諦めて、一旦、外の空気を吸いに、駅舎を出た。 既に日は落ち、すっかり夜の帳が降りている。 時間を確かめると、彼が到着してから四十分以上が経っていた。 そろそろ、もう一度、電話してみてもいいだろう。 携帯を取り出したジュンの耳に、 彼と同じく、友人と待ち合わせらしい女の子二人の会話が飛び込んできた。 「眼鏡を掛けた女の人が、ホームから落ちたんだって。 あの子、轢かれる瞬間を見ちゃったみたい。電話の向こうで、メッチャ落ち込んでた」 「うわ……やだぁ。じゃあ、今日は止めとく? 電車も動きそうにないし」 轢かれた? 誰が? 女の人……が? それに……眼鏡を掛けてたって? 眼鏡を掛けた女の人が、電車に轢かれただって?!?! それって、まさか―― 眼鏡を掛けた女性など、老若を問わず、どこにでも居る。 彼女である可能性はあれども、確率的に、極めて低い数字だろう。 だが、ジュンは慌ただしくリダイヤルの操作をして、携帯電話を耳に押し当てた。 「ごめーん!」と、彼女の陽気な返事を期待、切望していたけれど、 返ってくるのは不通のアナウンスだけ。『電源が切れているか、電波の――』 (あーもうっ! 間怠っこしいなっ) ならばと、マンションの電話にダイヤルしてみるが、留守電に切り替わってしまう。 再生される彼女の音声が、虚しく頭の中を通り抜けていく。 膝がカクカクと震えて、今にも頽れてしまいそうだった。 受話器の中で、ピーッと、甲高いビープ音が鳴り響いた。 我に返ったジュンは、掠れて、消え入りそうな声で、彼女へのメッセージを吹き込んだ。 「もしもし…………あの…………僕…………」 どうにも、留守電は苦手だった。 急にメッセージを吹き込めと言われても、何から伝えればいいのか分からなくなるから。 すぐにでも、なにか喋らなければいけないのに―― 早く! 早く! 時間がなくなってしまう。 「ずっと…………待ってるから」 無限にも思える数秒の後、それだけを口にして、ジュンは通話を切った。 彼女は、このメッセージを聞いてくれるだろうか。 それとも……。 不吉な妄想が、頭の中で、際限なく膨らんでいく。 もしかしたら、彼女が永久に、目の前から消えてしまうかも知れない。 それは彼にとって、とても恐ろしく、とても哀しいことだった。 産まれて初めて、心の底から一緒に居たいと思えた女性(ヒト)なのに―― 彼女が居なくなってしまったら、もう二度と、恋など出来ないだろう。 ガードレールに腰を預け、手の中でクヨクヨと携帯電話を玩びながら、待ち続ける。 冷えてきた夜風に身震いすると、ジュンはパーカーのフードを立てて、背を丸めた。 視線は、タバコの吸い殻が散らばるアスファルトの上を、当て所なく彷徨う。 早く会いたい。彼女の肉声が聞きたい。心に浮かぶ思いは、ただ、それだけ。 もの凄い力で背中をド衝かれたのは、彼が湿っぽい溜息を吐いた直後だった。 「ごめぇん! すっかり遅くなっちゃったぁ!」 威勢のいい声は、渇望していた声。 振り返ると、息を弾ませ、額にうっすらと汗を滲ませたスーツ姿の彼女が居た。 「今日、家に携帯電話を忘れてきちゃったのよぉ。 そのうえ、ギリギリ間に合うかと思ってたら、事故で電車が止まっちゃうし。 仕方なくタクシー拾おうとしたんだけど、こっちもまた事故の煽りで混――!?」 ジュンはガードレールから腰を上げて、なんやかやと早口で弁解し続ける彼女を、 力強く抱き締めた。彼女が息を呑む音が、ハッキリと聞こえた。 「ちょ……ちょっとちょっとぉ。こんな所で、いきなり……」 「よかった」 「えっ?」 「来てくれて……本当に、よかった」 「…………ジュンジュン」 「ごめんなさい」赤面した彼女――草笛みつの細い腕が、ジュンの肩を包み込んだ。 彼女の方が、まだ背が高い。囁く声は、頭上から降ってきた。「心配させちゃったね」 「いいよ。女性を待つのは、男の甲斐性だから」 「へえぇ……言うわねぇ。カッコいいぞ、ジュンジュン♪」 「からかわないでくれよ」 「あははっ。ごめんごめーん。さぁ、冷えてきたし、早く行きましょ」 手を繋ぎながら、彼女のマンションに続く街路を歩く二人。 足の下で、ケヤキの落ち葉が、サクサクと小気味よい音を立てる。 夜風に身を震わせて、みつはひとつ、くしゃみをした。 「寒いのか」 「うん……ちょっとね。さっき掻いた汗が、冷えたみたい」 こんな時、大人の男だったら、何も言わずに着ているコートを掛けてあげるのだろう。 けれど、ジュンが着ているのは、フード付きのパーカー。 どうしてもっと、気の利いた上着を着てこなかったのだろうか。 ジュンは、自分の子供っぽさと不甲斐なさが許せなくて、奥歯を噛み締めた。 黙りこくって目を伏せ、顔を背ける少年の態度から、みつは彼の心境を察したらしい。 小さく笑うと、控えめに身を寄せ、ジュンの肩に両腕を巻きつかせた。 顔を近付けたことで、彼女の前髪が、さわさわとジュンの耳をくすぐる。 ふうわり……と漂う大人の女性の匂いと相俟って、彼は眩暈を覚えていた。 「今日は、ホントにごめんね。外で、お食事する予定だったのに」 「別に……事故だったんだから仕方ないし、それに――」 「それに?」 「外食って、落ち着かないから、あんまり好きじゃないんだ」 言って、ジュンは胸元にあった彼女の手に自らの手を重ね、優しく握り締める。 少し放していただけなのに、みつの手は、もう冷え切っていた。 「僕は、みっちゃんの料理が好きなんだ。この世で一番、うまいと思ってる」 ジュンが照れくさそうに伝えると、みつは「それは褒めすぎよ」と苦笑した。 けれど、夜目にも判るほど頬を上気させている辺り、満更でもないのだろう。 みつはジュンの肩を抱いたまま、そっと呟いた。 「でも……ジュンジュンにそう言ってもらえると嬉しいなあ。 気持ちが舞い上がって、一週間の疲れが吹き飛んじゃう」 「大袈裟だなぁ」 「疲れてる時にテンション上げようと思ったら、大袈裟すぎるくらいで丁度いいのよ」 そんなもんかな、とジュンは失笑した。 彼女の部屋で過ごす時間は、いつでも、ゆったりと流れていった。 それはきっと、心から安らぎを感じているからなのだろう。 テーブルを挟んで食事をしたり、共通の趣味の話でヒートアップしたり、 ソファで肩寄せ合って座り、未成年だけど――ちょっとだけお酒を嗜んでみたり。 ジュンにとって、この素敵で幸福な時間は、かけがえのない宝物だった。 彼女と重ね合わせる時間に比べたら、100億円の札束ですら、紙きれの山でしかない。 そう思えるくらいに、彼女の存在は大きくなっていた。 「あら?」話の合間に、みつが電話機に目を留め、声を上げた。「留守電が入ってる」 さっき、ジュンが吹き込んだものだろう。 みつはソファを立って、電話機のメッセージを再生した。 『もしもし…………あの…………僕………… ずっと…………待ってるから』 少年からの、重く沈んだ伝言を聞いて、彼女は噴きだした。 「これって、ジュンジュンよね? 随分と思い詰めてる喋り方じゃない?」 「ああ……それって、さっきの人身事故のときのだ。 何度も携帯にかけたけど、連絡が付かなかったから」 「あ、な~るほど。それで……かぁ」 笑いながら、みつは再び、ジュンの隣に腰を下ろした。 そして、意味深長な眼差しで、彼の横顔を覗き込む。 「私がなかなか来ないから、寂しさが募っちゃったのかなぁ?」 「それも確かにあったけど……それだけじゃなかった」 「ふぅん?」 「馬鹿げた発想だって、笑われるだろうけど――」 前置いて、ジュンはあの時の心境を、彼女に話して聞かせた。 待てど暮らせど連絡が無くて、やきもきしたこと。 もしかしたら、事故の被害者が、彼女かも知れないと思ったこと。 「もう二度と会えなくなったら―― そう考えた途端、胸が息苦しくなって、張り裂けそうになったんだ」 何も映していない、真っ暗なテレビ画面を眺めながら、ジュンは独りごちた。 みつは何も言わず、たおやかにワイングラスを傾ける。 その仕種は、話の続きを促しているようにも感じられた。 「僕の周りには、幼なじみや親友の女の子が何人か居る。 それって凄く恵まれてると思うし、実際、幸運なんだろうな。 だけど、どの娘も本気で好きにはなれなかった。友達以上、恋人未満……そんな感じ。 他人との触れ合いに不慣れだった僕は、適度に距離を置いた惰性の付き合いを望んでた。 そして、愛しいと思える女性に出会えないまま、僕の中で、恋心は眠り続けていたんだ」 「――――そっかぁ」 黙って彼の話に聞き入っていた彼女が、張り詰めていた緊張の糸を緩めるように、 静かな溜息を漏らした。「その点では、私たちって似た者同士なのね」 「みっちゃんは大人だし、僕なんかよりずっと、恋愛の経験を積んでるんだろ」 「長く生きてるからって、出会いの回数が多いとは限らないわよ。 私はね……下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるって打算的な恋なら、したくないの。 焦って、苦労を背負い込んで……結局、数年で別れるなんて人生のムダだと思わない?」 そう言うと、みつは程良く酔いが回って、妖しく潤んだ瞳をジュンに向けた。 「私はねぇ、もっと燃え上がるような恋がしたいの。 炎の上で綱渡りをするみたいに、スリリングで情熱的な恋がしたい。 だから、私も胸の奥底に、恋心を眠らせていたわ。いつか訪れる、素敵な出会いを夢見て――」 それは多分、老若男女の区別なく、恋愛に対して抱く理想だろう。 素敵な出会い。燃え盛る恋。めくるめく愛の日々。 多くの者は、理想を現実にしようと努力し、その手に掴もうとする。 行動なくして結果は得られないのだから。 本来ならば、ジュンも、みつも、努力の足りない負け犬になり果てる運命だ。 けれど、彼らの間には何か――他人には働かなかった不思議な力が作用していた。 陳腐な表現を用いるなら、正に『運命の出会い』『赤い糸で結ばれた仲』だった。 「私たちが眠らせ続けていた気持ちって、ワインみたいに熟成されているのかなぁ」 みつがゆっくりとグラスを回すと、ワンテンポ遅れて、深紅の液体が波打った。 ジュンも彼女に倣って、ゆらゆらとワインを攪拌する。 フルーティな香りが幽かに立ちのぼったそれを、ひと口だけ呷って、言葉を返した。 「ワインのことは、よく解らないよ。 お茶の葉に例えたら、発酵が進んで、紅茶になってるところか」 「私たちの関係は、ブレンド茶ってコトね。どんな味が出せるのかしら?」 彼女の問いにジュンは、そうだなあ……と、言葉尻を濁した。 本当のところ、返答はもう用意できている。気恥ずかしくて躊躇しただけだ。 でも、酒の力を借りている今ならば、言えるかも知れない。 グラスに残っていたワインを一気に飲み干し、ひとつ咳払いして、 ジュンは徐に口を開いた。 「ほろ苦くて渋みが強いけど、仄かに甘味があってスッキリした味わい、かな?」 「なるほどね。私、そういう味って好きよ。大人びてて、イイ感じ。 にしても、ジュンジュンってば……今夜は珍しく多弁ね。酔ってるぅ?」 「……当然だろ。酒、呑んでるんだから」 悪戯っぽく唇で三日月を描き、顔を寄せてくる彼女。 気恥ずかしくて、ジュンは赤面しながら、逃れるように顔を背けた。 ――が、すぐに向き直ると、ちょっとだけ吃りながら、 「あのさ――」 酔った勢いに任せて、一大決心を解き放った。 シラフでは絶対に口ごもってしまうだろう、大胆発言を。 「少し、酔いすぎたみたいだ。 汗も掻いたし……その…………一緒にシャワー、浴びないか?」 「うわ……大胆ねぇ、ジュンジュン」 みつは一瞬だけ目を丸くして、艶麗な笑みを浮かべた。 「……もしかして、甘えちゃってる?」 こくりと無言で頷いた直後、ジュンの頭は彼女の胸へと抱き寄せられていた。 そこは温かく、柔らかくて……ほんのりと、酒臭い汗の匂いに満ちあふれていた。 けれど、決して不快ではない。寧ろ、安らぎを感じさせてくれる。 「もしかして、みっちゃんのせい? みっちゃんが生きてるせい?」 「うん……きっと、そうだよ。 みっちゃんが生きててくれるから、僕は明日を夢みることができる。 一緒に居たいと想う気持ちが、僕に生きる希望を与えてくれるんだ」 ジュンは、みつの胸に頭を預けたまま、彼女の引き締まったウエストに腕を回した。 触れ合った箇所が、あっと言う間に汗ばんでいく。 暑いのは、酒気を帯びているせいだけではないだろう。 「こんなにも誰かを好きになる日が来るなんて、思ってもみなかったな」 「……そうね。私も――」 みつの掌がジュンの頭を撫で、指が髪を梳いてゆく。 たったそれだけでも、ジュンは背筋に痺れるような快感を覚え、惚けたように吐息した。 「ねえ、ジュンジュン」 「…………ん」 「シャワー…………浴びにいこっか」 「…………うん」 二人は抱き合ったままソファを立って、千鳥足を支え合いながら、浴室に消えていった。 熟成した恋の、苦くて甘い喉ごしを楽しむために―― そして、また……二人の創造的な夜は、更けゆく。 おしまい
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―睦月の頃 その4― 【1月17日 冬の土用入り】 冬休みも呆気なく過ぎ去り、大学の講義が始まって暫く経った、ある日の夕方。 翠星石は、雛苺を待つ傍ら、キャンパス内の図書館で課題レポートを書いていた。 館内には一人掛けのテーブルが、幾つも据え付けられていて、自由に使えるのだ。 あれこれと参考文献を漁りながら、レポートを書くには、もってこいである。 肩の凝りを覚えて、翠星石が頭を上げると、首がコキコキ鳴った。 なんだか気怠い。でも、今日は火曜日。今週も、まだ長い―― 「あー。流石に、くったびれたですぅ」 夕焼けに染まる窓辺の机で、翠星石は周囲を憚りつつ、大欠伸した。 椅子の背もたれにのし掛かって、縮こまっていた背筋を伸ばす。 すると、身体の節々から、小さな悲鳴が上がった。 まだ半分も纏まっていない内から、こんな事では先が思いやられる。 気分転換も兼ねて、翠星石は前後の机と、右手に並ぶ書架に目を遣った。 机に突っ伏して寝ている者が居る。こっそりマンガ雑誌を読んでいる者も。 が、多くは講義の合間にレポートや宿題を片付けてしまおうと、 躍起になっている者たちだ。 ……と、その時。 彼女の眼が、図書館の入口を潜り抜ける雛苺を捉えた。 雛苺は、すぐさま翠星石を見付けて、小走りに駆け寄ってくる。 「ごめ~ん、翠ちゃん。お待たせなのー」 「大きな声を出すなです。それより、レポートは通ったですか?」 「うんっ! ツッコミ所満載だったけど、質疑応答で巧くやり過ごしたのよ」 「……羨ましいですぅ」 翠星石の呟きは、偽らざる本音だった。 大学の講義は選択式で、大きく分けると、二つある。 当該学年次に必ず履修しなければならない『必修科目』と、 希望しなければ受講しなくても良い『選択科目』である。 厄介なのが必修科目で、この科目の単位を落とせば即、留年が待っている。 いま、翠星石が纏めているレポートも、必修科目のひとつだった。 「このままじゃ留年しちまうですよ」 珍しく弱音を吐く翠星石を見て、雛苺は気の毒そうに表情を曇らせた。 が、すぐに、いつもどおりの明るい笑顔で話しかける。 「大丈夫なの。質問される内容を皆に聞いておけば、一発で通るのよー」 「まあ……そうかも知れねぇですけどぉ」 「気落ちしてても始まらないのよ。今日は、もう帰ろ? 今朝の約束どおり、ヒナが御馳走してあげるから、元気出すのっ」 確かに、雛苺の言うとおりである。 落ち込んでいる暇があったら、その間にレポートを完成させるべきだった。 しかし、頭で解っていても、なかなか実践できないのが人間の悲しい性。 果たして、今のペースで提出期限に間に合うのか、どうか……。 「んもう、なにボ~ッとしてるのー? ささっと片付けて、早く帰るのよ。ほらほらほらっ!」 「あぁん、解ったですから、そう急かすなですぅ」 蒼星石と離れ離れになって寂しさを募らせる自分を元気づけようとして、 雛苺は色々と気を配り、陽気に話しかけてくれる。 そんな彼女の心遣いに胸の中で感謝しながら、翠星石は帰り支度を始めた。 最寄りの駅に向かって、並んで歩く下校途中の商店街。 夕暮れ時ということもあって、街路には、買い物客が増え始めていた。 小売店ばかりでなく、軽く食事ができる店も、あちらこちらに点在している。 『ヒナが御馳走してあげる――』 翠星石が雛苺を待っていた理由は、それだった。 今朝いきなり、雛苺の方から誘ってきたのだ。 大した用事もなかった為、たまには良いかと思って承諾したのだが……。 「さぁてさてぇ。なにを奢ってくれるですぅ?」 「ヒナも、いろいろ考えたんだけどぉ――」 雛苺は、商店街の中にある、一軒の鰻屋を指差した。 営業中の札が掛かる店内からは、蒲焼きの美味しそうな匂いが漂ってくる。 おなかが空いてきた頃でもあったので、この匂いは刺激的すぎた。 モーレツな誘惑に耐えきれず、翠星石の胃が、グゥと鳴いた。 それを聞きつけた雛苺が「あ~?」と、いやらしい流し目を向けてきたので、 翠星石は顔を真っ赤にしながら、わたわたと両腕を振り回した。 「なっ……こっち見んなですっ! 大体、なんでウナギですかっ!?」 「翠ちゃん、知らないの? 今日は冬の土用入りなのよー?」 雛苺の返事を聞いて、翠星石は、ははぁん……と察しが付いた。 カレンダーの暦か何かで、今日が『冬の土用入り』と知ったのだろう。 それで、土用=丑の日と考えて鰻を連想したのだ、と。 だが、とんだ勘違いをしている。 土用とは、そもそも立春・立夏・立秋・立冬を迎える前の18日間のことで、 一般に言う土用の丑の日は、立夏の時だけである。 鰻を食べる習慣には諸説あるが、江戸時代、平賀源内が、 知人の店の宣伝として考えたのが起源という説が広く知られていた。 老夫婦と暮らしているせいか、翠星石は同年代の娘たちより、年中行事に詳しい。 そこで、雛苺に本当の事を教えてあげようとしたのだが…… 例によって、悪い癖が出てしまった。 「ふっふ~ん。雛苺の方こそ、なぁんにも知らねぇですね。 冬の土用は、子(ね)の日に『くずきりぜんざい』を食べるのが、 古来からの習わしですぅ。食べなかった悪い娘はぁ――」 「た……食べな……かったら?」 「プギャ――――っ!!」 「ひゃあぁっ!」 「……と、疫病神にドツボという秘孔を突かれて、 災難だらけの一年を過ごすことになるです。ああ、怖ぁい……ガクブルですぅ」 「すすす、翠ちゃんっ! 急いで甘味処へゴー! なのよー」 「はいですぅ♪」 お汁粉くらいなら、鰻より安いし、奢られても悪い気にならない。 久しく甘味処にもご無沙汰していたこともあって、翠星石は素直に従った。 ――明けて、翌日。 雛苺は登校しなかった。 彼女の親友で、翠星石の友人でもある巴の話では、体調不良により休みとのこと。 (まさか……昨日のコトが?) 思い出して、翠星石の頭から、サッと血の気が引いた。 甘味処へ駆け込んだ雛苺は、初めこそ「アンマァ~♪」と悦んでいたのだが、 なにを血迷ったのか『くずきりぜんざい』を三十杯も平らげた挙げ句、 すっかり気持ち悪くなってしまったのだった。 (ま、まあ、おなか壊したくらいなら、ほっときゃ治るですぅ) もっともらしい言い訳で、後ろめたさを誤魔化そうとしていた翠星石の耳に、 真紅と巴の会話が流れ込んでくる。 「雛苺のご両親は共働きで、昼間は一人きりになってしまうの。大丈夫かな」 「平気じゃないかしら。あの子は、巴が思っているより、ずっと強い子よ」 「それは……そうだけど」 巴が心配するの気持ちは、解る。 真紅の言うことも、やっぱり解る。 雛苺も――普段の言動はともかく――もう子供ではない。 でも……しかし……。 「…………今日は、もう帰るですぅ」 呟くなり、荷物を纏め始めた翠星石に、真紅と巴が声を掛けた。 「いきなり、なぁに? どうかしたの、翠星石?」 「具合が悪いなら、医務室に行く? わたし、付き添ってあげる」 「別に、なにも……。今日は、なんだか気が乗らないだけです。 気持ちだけ、ありがたく受け取っておくですよ」 「――そう。気を付けて帰りなさい」 二人の気遣いに、素っ気なく礼を告げて、翠星石は鞄を手に講堂を後にした。 登校しておきながら、一限すら受けずに帰宅するなんて、初めての体験だ。 意味もなく緊張して、翠星石は人目を気にしながら、コソコソと帰途に就いた。 そして、一時間後―― 翠星石は、雛苺の家の前で立ち尽くし、煩悶していた。 自分のウソが原因で、彼女を辛い目に遭わせてしまったコトを考えると、 いちご大福をお詫びに持ってきたものの、なんとなく顔を合わせ辛い。 門柱の呼び鈴に指が伸びるも、ボタンを押すことなく、手を引っ込めてしまう。 そんな事を、もう何度も繰り返していた。 「も、もう……なに気後れしてるですか、私はっ! ただ、おバカ苺が大往生してないか、見に来てやっただけですぅ」 自らに悪態を吐いて一念発起。翠星石は意を決して、呼び鈴を鳴らす。 暫く待つと、二階の窓から、パジャマ姿の雛苺が顔を覗かせた。 割と、元気そうだ。顔色も悪くない。 翠星石が頬を引き攣らせながらも、笑みを作って手を振ると、 雛苺は「待ってて」と部屋を出て玄関を開けてくれた。 そして、ひどい目に遭わせた元凶が前にいるのに、無邪気な笑顔で迎えてくれた。 「翠ちゃん、学校は?」 「今日は、その……急に、休講になったですよ。それで、様子を見にきたです。 甘い物は、見るのもイヤかと思ったですけどぉ――」 「うょ――っ!! うにゅーなのー」 昨日のことなど全くお構いなしに、雛苺は、いちご大福にかぶりついた。 性懲りもないというか、単純思考というか……。 「ちょっと、お茶を煎れてくるです。台所、借りるですよ」 「ヒナも一緒に行くの。湯飲みとか、どこに有るか判らないでしょ?」 確かに、そうだ。翠星石は、雛苺と連れ立って、台所へと向かった。 ポットとお茶の道具を盆に載せて、雛苺の部屋に戻る。 それから暫くの間、談笑を楽しんだ。 「でも、翠ちゃんが来てくれて良かったのよ。ヒナね、とっても退屈してたの」 「……巴に聞いたです。雛苺の家は共働きで、昼間は雛苺だけだって」 「うんっ。子供の頃から、ずっとよ。家に居れば、ずっと独りぼっち」 「そんな話、ちっとも知らなかったですよ」 「だって、言わなかったもの。誰かに話したって、仕方がないもの」 本当は、寂しかったに決まっている。誰だって、独りぼっちは心細いから。 それなのに、雛苺は子供の頃から、明るい笑顔を周囲に振りまいてきた。 どうして? 笑っていれば、自分の孤独を誤魔化せるから? 多分、違う。翠星石は、そう思った。 雛苺は、誰よりも孤独の寂しさ、怖さを知っていたからこそ、 周囲の人々が笑顔で暮らせるように、陽気な道化役を演じていたのだろう。 たとえ、自分はロウソクみたいに、消耗していくだけであっても―― (そして、私たちは雛苺に癒されていたです。 独りぼっちじゃないと、勇気づけられていたのですね) ならば……たまには、こっちが癒してあげなければ。 翠星石は、バッグからレポート用紙を抜き出しながら、雛苺に微笑みかけた。 「しゃーねぇから、今日は一緒に居てやるです」 「ホント?! ホントに良いの?」 「その代わり、私のレポートを手伝いやがれですぅ」 「嬉しいっ! やっぱり、翠ちゃんは優しいのよー」 優しくなんてない。 内心で目一杯、雛苺の言葉を否定しながら、翠星石はレポートに取り掛かった。 寂しがり屋同士の馴れ合い。 こんなコトは、単なる傷の舐め合いかも知れない。 でも……それでも良い。 支え合って、慰め合って、それで心が強くなれるなら。 離れていく蒼星石を、泣きながら見送っているだけではダメ。 もっと強くなって、追い掛けないと。 もっともっと強くなって、あの娘に追い付かないと。 そして――絶対に捕まえないと。 そんな事を考えた、冬の一日だった。
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「おかえりなさい」 夜更けの非常識な来客を、凪いだ海のように穏やかな声が出迎えてくれた。 僕の前に佇む君に、あどけない少女の面影は、もうない。 けれど、満面に浮かぶのは、あの頃と何ひとつ変わらぬ夏日のように眩しい笑顔で。 「疲れたでしょう? さあ、入って身体を休めるかしら」 そんなにも屈託なく笑えるのは、なぜ? 君が見せる優しさは、少なからず、僕を困惑させた。 ――どうして? 僕のわななく唇は、そんな短語さえも、きちんと紡がない。 でも、君は分かってくれた。 そして、躊躇う僕の手を握って、呆気ないほど簡単に答えをくれた。 「あなたを想い続けることが、カナにとっての夢だから」 なんで詰らないんだ? 罵倒してくれないんだ? 僕は君に、それだけのことをした。殴られようが刺されようが、文句も言えない仕打ちを。 ここに生き恥を曝しに戻ったのだって、たった一言、君に謝りたかったからだ。 君の手で、僕を罰して欲しかったからなのに―― 「……僕を……恨んでないのか?」 君との愛よりも、身勝手な夢を選び、飛び出していった愚かな男。 その夢も破れ、なにもかも失い――ボロ布みたいになって、おめおめと戻った僕を。 「本当に……まだ、想ってくれてたのか?」 君は、笑顔を崩さなかった。無垢な少女のような笑みを。 けれども、君の大きな眼からは、もう大粒の涙が零れだしていた。 「ずっと、待ってた」 「……すまない」 もう、なにも言わせたくなかった。 君の唇から、「嘘よ」という単語が紡がれるのが、今の僕には怖ろしかった。 だから、僕は君を抱きすくめて、強引に唇を重ねた。 「あなただけを――」 ほんの息継ぎの合間に、君が言いかけた想い。 それが、再び触れ合った唇の中に広がってくるのを感じた。 ▼ ▲ 「お腹、減ってるでしょ?」 玄関で、どれほど長く抱き合っていたのか―― 時間を忘れて続けられた抱擁は、恥じらい混じりの問いかけで終わりを迎えた。 僕としても、歩きづめで疲れ切った脚を休めたかったから、いい頃合いだ。 それに、実のところ、彼女の言うとおりでもあった。 「うん……腹ぺこで倒れる寸前なんだ」 情けない話だが、今日は朝から、なにも食べていない。 ここ数日は一日一食にありつければマシで、明日の食い扶持にも困る有り様だった。 野草や木の根の味は憶えた。遠からず、昆虫の味すら憶えることにもなっただろう。 都会に出て大金持ちになって、故郷に凱旋する…… そんな野心を抱いて故郷を飛び出したのは、もう何年前になるのか。 あの頃の僕は怖い物知らずな子供で、頑張れば、どんな夢も叶うと思っていた。 いや、違うな。子供なりに現実は知ってた。叶わない夢もあるってことは。 ただ、その現実が自分の身に降りかかるとは思ってなかっただけだ。 「待っててね、ジュン。残り物しかないけど、すぐに温めなおすかしら」 もう一度、やりなおせたら……。 彼女――金糸雀の朗らかな表情を見ていると、虫のいい考えが脳裏に浮かぶ。 そんなこと望めた義理でもないのに、君の好意に甘えてしまいたくなる。 「ん? どうかした?」 むっつりと黙り込んだ僕を見て、金糸雀の顔に不安の色が広がる。 僕は繕い笑って、ゆるゆると頭を振った。 「いや、別に。それより、君の料理は久しぶりだからな。すごく楽しみだよ」 「またまたぁ~。お世辞がうまいんだから~」 「本当だって」 僕が真顔で返すと、金糸雀は頬を上気させて、はにかんだ。 目まぐるしく変わる彼女の表情の中でも、特に好きな顔だった。 「ホントに……ホント?」 「ん……実はウソ」 「もぅ、からかって! どーせ、そんなコトだろうと思ったかしら」 「――と言うのもウソだよ。本当に、楽しみにしてるって」 「もう怒った。お料理に毒盛ってやるかしら!」 可愛らしくむくれて、金糸雀は厨房に駆け込んだ。 その後ろ姿が可愛らしかったから、抱きすくめたくて追いかけたけれど…… 「ジュンは、あっちで待ってるかしらっ!」 うーん。追い返されてしまった……。 ▼ ▲ 温めなおすと言う割に、金糸雀は二品ほど新たに調理してくれた。 久しぶりに食べる彼女の手料理は、数年前とは比べ物にならないほど美味しかった。 でも、頬が溶け落ちるくらいに甘いタマゴ焼きは、相も変わらず。 懐かしい味に心が震えて、途中から、微妙に塩味が加わった。 「うまいよ、すごく」 「泣くほど嬉しいかしら? ま、当然ね。なんてったって愛情という妙薬入りだもの」 「ドーピング料理でも構わないよ。毒食らわば皿までだ。死んでも悔いはないさ」 「ふふ……たぁ~んと召し上がれ」 食事をしながらの他愛ない会話も、僕を心地よく癒してくれた。 時間を忘れて語り合ううちに、時計の針は、いつしか午前二時を指していた。 「あ……もう、こんな時間かしら」 「うん。もっと話してたいけど……ちょっと眠いかな」 僕は疲れ切っていた。そこに満腹とくれば、辿り着く先は明らかだ。 食卓に頬づえを突いて頭を支えるが、ウトウトと船を漕ぎだすのを堪えきれない。 ここで気を緩めれば、五分と要さず眠れる自信があった。 「待ってて。今、お布団を敷くかしら。一組しかないから、ジュンが使って」 「でも……それじゃ、君が……」 「いいから、いいから」 歌うように応じると、金糸雀は軽い足どりで布団を敷きに行った。 そして、気がつけば僕は彼女の肩に担がれ、寝室に運ばれていた。 「……ねえ」 布団に僕を横たえながら、金糸雀が囁く。「あっちで、恋人はできたかしら?」 寝物語としては、適切じゃないように思えるが、隠し立てすることでもない。 街での生活を思い出すと胸が苦しいけれど、その痛みもまた罪滅ぼしだろう。 苦い想いに溺れかけながら、彼女の質問に、僕は答えた。 「いいや。そんな余裕なかったよ」 「でも、気になるヒトは居たんじゃないかしら?」 「……それは、まあ……片想いくらいならね」 「ホントに片想い?」 「本当だよ。挨拶を交わすことさえなかった。あっちは深窓のご令嬢だったし」 「世が世なら、王侯貴族のお姫様だった……ってトコ?」 「だな。流れるような長い金髪が綺麗でさ、深紅のドレスがとても似合ってて…… 絶世の美女って表現がピッタリの乙女だったよ」 あまりに僕が絶賛したからだろう。夜の暗がりにもハッキリと、金糸雀の表情の翳りが見て取れた。 つまらなそうに。哀しそうに。そして、口惜しそうに。 「もし――」 「ん?」 「そのヒトと仲良くなれていたら、ジュンは戻ってきてくれなかったかもね」 「可能性は否定しない。でも、所詮は希望的観測だよ。仮定は、どうあっても仮定でしかない」 言って、僕は布団から手を出し、金糸雀の手を握った。 心の底から沸き上がる感情が、僕を衝き動かしていた。 「こんなの柄じゃないって自覚してるけど、これだけは言わせて欲しい。 僕は一日たりとも、君を忘れなかった。他の誰に対しても、強い感情は生まれなかったよ」 本当だろうか? 胸裡で反芻するほどに、白々しさが増幅される。 けれど結局、僕は強い力で、それら白けた気配を残さず押し潰した。 そう。あの美しい令嬢への想いは、突き詰めれば羨望の一形態でしかない。 しかしながら、金糸雀への気持ちは……。 ずっと意識していた。もっと有り体に言えば、好きだった。 気の合う仲間としても、異性としても。 それ故に、夢を選んで金糸雀を置き去りにした僕の胸には、深い傷が残った。 喪失感なんて陳腐な言葉に変えられないほどの、深く大きな傷が。 でも、あの頃とは違う。夢は潰え、二択ではなくなった。 だからって、今更やりなおせるハズもないけれど、それでも…… 僕は、伝えようと思っていた。そう。どんなに遅かろうとも、伝えなきゃならない。 ところが―― 「はぁ~。今日はもう疲れたから、カナも一緒に寝ちゃうかしら~」 おいおい、そりゃないだろう。せめて、僕の話を聞いてからにしてくれよ。 そう告げようとしたけれど、僕の唇は金糸雀の指に封をされてしまった。 「ジュンも、もう休んで。あなたは充分に闘ったかしら。だから、もういいの。 大切なお話なら、また明日……ゆっくりと聞かせてちょうだいね」 金糸雀の囁きは、まるで睡魔の歌のようで、僕を朦朧とさせる。 もう限界だ。意識を手放して、意識が閉じかけた一瞬、金糸雀の声を聞いた。 「おやすみなさい、ジュン。ずっと愛してる。ずっとずっと――」 夜闇の中、眠りに落ちる寸前の、低く澱んだ囁き。 それは、なぜか、地の底から響いてくるようだった。 「ずぅっと、ずぅっと」 ▼ ▲ 眩しい日射しが、僕の顔に照りつけていた。 もう朝か。それとも昼ちかくだろうか。ずいぶん眠った気がする。 その証拠に、身体の疲れは、すっかり抜けていた。 「そうだ……金糸雀は!」 我に返って身を起こした僕は、そこで自分の目を疑った。 僕の目の前に、一面の草むらが生い茂っていたからだ。 布団も、部屋も、家そのものが消失していた。 なんだ、これ? 呆然と立ち上がって、また呆然とした。 そこで改めて、自分の居る場所を知った。 僕は、腰ほどまである夏草の藪の、ど真ん中に居た。 「どうなってるんだ? 金糸雀! おい、金糸雀っ! どこに居るんだよ」 叫びながら、辺り構わず藪を掻き分ける。 草の端で指が切れて、血塗れになろうとも、腕は止めない。 そして――僕は、見つけてしまった。すべてを理解してしまった。 草に埋もれた石碑。 金糸雀と刻まれた、小さな小さな墓標。 金糸雀……君は……ずっと、僕を待っててくれたんだな。 姿が変わっても、僕だけを想い続けてくれてたんだ。 「ごめんよ。こんなにも待たせて、ごめん」 僕は、墓標にすがりついて、泣き濡れた頬をすり寄せた。 そして、心の中で誓った。もう、どこへも行かない。 彼女が僕を待ってくれていたように、僕もまた、ここで彼女を待ち続けるのだ。 たとえ運命の気まぐれに過ぎなくても、夢幻で再会を果たせるまで、ずっと―― それが、僕の見つけた『夢』と言う名の新しい希望だから。 『そして、蛇足という名のエピソード』 いきなり肩を叩かれて、僕は我に返った。 半ばまで出た欠伸が引っ込むように、意識が身体に飛び込んでくるのを感じた。 僕は今、人も疎らな博物館の館内に立っている。 高校の夏休みも、残すところ僅かとなった日の午後一時。 だらだら先延ばしにしてきた自由研究を、ここらで片づけてやろうと一念発起したのだ。 ちなみに、僕らは郷土史についてのレポートを書く予定だった。 それにしても、誰なんだ。人が妄想に耽っているところを驚かせやがって。 苛立ちも隠さず振り返ると、人好きのする陽気な笑顔にぶつかった。 「……おまえかよ」 彼女――幼なじみにして腐れ縁の金糸雀は、僕に仏頂面を向けられるや、ぷぅっと頬を膨らませた。 「まっ! 曲がりなりにも共同研究者に対して、ヒドイ言い種かしら。 なんか難しい顔してるから、心配してあげたのに」 「はいはい、そりゃどうも」 こいつは下手に突っつくと、口喧しく反撥してくる。根が負けず嫌いなのだろう。 いい加減、こっちも長い付き合いなので、その辺のあしらい方は心得ているつもりだ。 暖簾に腕押し。のらりくらりと躱すに限る。 案の定、金糸雀は吊り上げた眉毛を、すぐに弓張り月へと戻した。 この気の変わりようの早さはどうだ。いつもながら感心してしまう。 そのくせ、譲れないことは頑として譲らない、一本気な性格ときている。 敢えて一言で表すなら、『健気』が最適だろうか。 「ところで、ジュンは何を見てたかしら? かなり真剣な表情だったけど」 そんな顔してたかな? 思わず頬に手を遣った直後、「ええ、とっても」 金糸雀に心を読まれていた。いつもながら、察しのいいやつだ。 それとも僕は、自分で思っている以上に、感情が仕種に現れる質なのか。 「今にも頸を吊りそうな雰囲気だったかしら。なんか心配になっちゃって」 「なんか嫌だな、その形容。……まあ、いいけど」 僕は、ショーケースの中にある展示物を指差した。「これなんだけどさ」 江戸時代――元禄の頃の書だというソレは、達筆すぎて簡単には判読できない。 母国語を読めないなんて変な話だけど、良くも悪くも、僕らは活字に慣れすぎているのだ。 たぶん、意外に才女な金糸雀でも、原文は読めないだろう。 僕の見立てはドンピシャで、金糸雀は、くりくりした瞳を注釈へと向けた。 そして、「ああ……夫婦岩のお話ね」と、哀れみを含んだ相槌を打った。 「知ってるんだ?」 「この近所に伝わる民話としては、割と有名な哀話かしら」 「へぇ、そうなのか。恥ずかしながら、僕は、これが初見だよ。 口語訳を読んでたんだけど、なんか感情移入しちゃってさ」 見かけに拠らずロマンチストだねと、冷たい笑みを浴びせられるかと思いきや―― 「解るなぁ、それ」 金糸雀は愁いを込めた眼差しを、茫乎として彷徨わせた。 「特に、ラストで男の人が岩と変じて、彼女の墓石と寄り添うところが一途よね」 「だな。ある意味、ハッピーエンドなのかも」 僕としては、あまり好きになれないラストシーンだけど。 だって、そうだろう。人間、いつかは死に別れる。避けようのない現実だ。 そこで後追い自殺なんかするのは、後味悪い想いの転嫁に過ぎないじゃないか。 「ちょっと座らないか」 「……そうね」 いい加減、歩き詰めの立ちっぱなしでくたびれた。気分転換もしたかったし。 僕らはロビーに置かれたベンチに陣取って、肩を寄せ合った。 すると、五秒と経たないうちに、金糸雀が話しかけてきた。 「ジュンは……」 「うん?」 「愛と夢と、どっちかしか選べないとしたら、どうするかしら?」 『夫婦岩』の逸話は、彼女の心理に少なからぬ影響を及ぼしているようだ。 僕は腕組みして、一寸、考えてみた。 「正直、分からないな。そういう状況になってみないと」 「想像もできない?」 「と言うより、する気がない」 どちらを優先するかなんて、その時々の状況で変わるだろう。 だから、僕には、どちらとも言えない。言う気もない。 今ここで真剣に悩むことに、何ら意義を見出せなかった。 金糸雀は、そんな僕をしげしげと眺めて、「ふぅん」と。 ちょっとばかり興を削がれたような面持ちになった。 けれど、すぐに持ち前の性質を発揮して、表情を輝かせた。 「愛か夢か……カナは、好きな男の子には夢を選んで欲しいかしら」 「どうしてさ。『夫婦岩』の話に感化されたか」 「んー、そんなつもりはないけど。強いて言えば、女の子としての望み、かな」 「女の子だったら、普通は愛を優先してもらいたいんじゃないの?」 「そんな女々しいヒトは、願い下げかしら。闘うべき時に、闘ってくれなければ、 百年の恋も冷めるというものよ。頼りないし、応援のしがいもないかしら」 「……なるほどな。歯がゆい気分にはなるかも」 我が意を得たとばかりに、金糸雀は「でしょ」と破顔一笑する。 不思議なもので、いつの間にやら、僕の口元にも微笑が移っていた。 「女の子ってね、本気で好きになったら、全力で支えてあげたくなっちゃうものなの。 本能的なものかも知れない。考えてみたら、損な役回りかしら」 「かもな。結局、『夫婦岩』の女性だって気苦労が祟って、早世しちゃった訳だし」 「でも、彼女は幸せだったと思うかしら」 「そうであってくれたら、こっちも救われるけどね」 帰らない人を待ち続けるなんて、よほど強い想いがなければ、できやしない。 生前だろうと、死後だろうと、健気な想いが遂げられて欲しいと願うのは人情だ。 おそらくは『夫婦岩』の逸話も、第三者の願望と自己満足が生みだした幻想なのだろう。 「ねえ、ジュン」 「なんだよ」 「男の子は、どうなのかしら」 「なにが?」 「だから、愛か夢か。好きな女の子には、どっちを選んで欲しい? 男の子としては」 「ん、そうだな……」 男としては、愛を選んで欲しい……気がする。 無条件で、好きでいてもらいたいと――独占欲が上回ってしまうんじゃないだろうか。 そう答えると、金糸雀は小鳥のように、ちょこんと頸を傾げた。 「そうなのかしら? 女性の夢を応援したいって男性も、大勢いると思うけど」 「上辺の意見じゃないのかな、それって。世間体とか、理解あるフリをしてるとか」 「擦れた見方をするのね、ジュンって」 「ひねくれた性格なんでな。でも、反対のための反対をしてるつもりはないよ」 「……と、言うと?」 「つまりさ、男は根が甘えん坊だから、自分に注がれていた愛を奪われるのが怖いんだよ。 夢だなんて漠然としたモノでさえ、男にとっては恋敵なんだ」 だから、男女の仲は見解の相違から破綻するのだろう。 ――なんて、したり顔で言う僕はまだ、そこまで深い恋愛をしたことがないけれど。 もしも恋人ができたとして、そのヒトが僕よりも趣味の世界に傾倒していったならば、 やはり穏やかでは居られないと思う。 ともすれば、顧みて欲しいばかりに、彼女の趣味を憎悪するかも知れない。 「そっか……そういうものなのね」 金糸雀は、思い出したように呟いて、頻りに頷いた。 「とっても面白い意見だったかしら。また、聞かせてね」 「僕の意見なんか、あんまり参考にならないぞ」 「い~のい~の。お喋りできることに意義があるんだから」 「少しばかり、背伸びしすぎな話題だったけどな」 愛か夢か、だなんて―― 僕らはまだ、それほど多くの選択肢を見出せるほど人生経験を積んじゃいない。 今は、その練習期間の真っ最中なのだ。 けれど、僕も金糸雀も、いつかは想い悩む時がくる。 降りることが許されない勝負で、選択を迫られる時が。 僕はその時、不退転の覚悟を示せるだろうか。 『夫婦岩』の男みたいに、夢に挫け、儚い愛に縋ってしまわないだろうか。 ――まあ、先々のことを不安がっても詮ないことだ。 それより今は、目と鼻の先に横たわる、もっと深刻な問題を片づけなければ。 「さて、と。すっかり話し込んじゃったな。ぼちぼち再開するか」 勢いつけて立ち上がった僕を追って、金糸雀も腰を浮かせた。 そして、僕の肩に手を乗せ、耳元に囁きかけてきた。 「もし……もしもね、ジュンが愛か夢かで悩んだ時は…… カナよりも、夢を選んでね」 「はあ? なにトチ狂ったこと言ってんだ、おまえ」 いきなりな台詞だったので、僕も意地悪く、ぶっきらぼうに応じた。 「おまえが僕の彼女になるだなんて、想像もできないっての」 「んもう、ジュンったらイケズぅ~」 「それにな、幼なじみは大概、親友どまりなんだよ。はい残念でした!」 「えぇ~、そんなぁ」 金糸雀は瞳を潤ませて、さも残念そうに肩を落とした。 さすがに、ちょっと冗談が過ぎて虐めになったかも知れない。 僕は、「けどな」と切り出すなり、金糸雀の頭をぽんぽんと叩いた。 「もし……もしもだぞ、僕とおまえが付き合うようになったとして、だ。 そんな選択を迫られた時には、約束するよ。お前の願いどおりにするって」 「ホントかしら?」 「ああ。ただし、僕はこれで意外に欲張りなんでな」 「……だから、なに?」 僕の言わんとすることが本気で理解できないらしく、真顔で訊ねてくる。 普段、必要もない場面では察しがいいくせに、なんでこう肝心なところで鈍いかな、こいつは。 それとも、分かっていながら、トボケているとか。 案外、ありそうなだけに、うまうまと踊らされるのは癪に障るが―― まあ、いい。ここで意地を張り合っても仕方がない。 金糸雀の深く澄んだ瞳を、まっすぐに見つめて、僕は言った。 「僕が夢を追う時には、おまえも連れて行く。引き摺ってでもな」 「カナが、嫌だって言っても?」 「応援してくれるんだろ?」 「それは、まあ……かしら」 「じゃあ問題ないじゃん。ま、もしもの話だよ。あんまりムキになるなって」 「……そうよね。もしもの話だったかしら」 金糸雀はコツンと自分のおでこを叩いて、ちらと舌を出して見せた。 こいつの、こんな陽気な仕種が、僕はとても気に入ってたりする。 口に出したことは、一度としてないけれど。 「さっ! そろそろレポート書き始めなきゃね」 「ああ。できれば今日中に終わらせたいな」 「それはちょっと無理っぽいかしら」 「ズバッとテンション下がること言うなよ。気の持ちようが大事だぞ」 「あははっ。ごめ~ん」 ――なんて。 僕らは軽口を叩きながら、また、展示されている民俗学の資料を見て回った。 その途中、金精さまを見た金糸雀が茹でダコみたいに真っ赤になったりもしたけど、 基本的には、普段どおりの一日だった。 帰り道でも、いつもと同じポジション。歩調を合わせ、ふたり、並んで歩く。 世界が焼け色に染まっていく中で、僕は徐に切り出した。 「あ、そう言えばさ」 「なぁに?」 「さっき説明書きを読んで知ったんだけど、『夫婦岩』って割と近所にあるのな」 「そうね。カナたちの町からだと、自転車で三十分くらいの距離かしら」 「明日、どうかな」 「えっ?」 「だから、見に行ってみようかと思ってさ。明日、暇か?」 いきなりの誘いで呆然とするかと思いきや。 金糸雀は、瞬時にして満面の笑みを湛え、僕の腕に抱きついた。「もちろんっ!」 「カナは、いつだって付き合ってあげるかしら」 「……微妙に言葉のニュアンスが違ってるような気が、しないでもない」 「気のせい気のせい。うふふ……明日、晴れるといいなぁ」 「ああ、そうだな」 過ぎゆく夏の夕暮れ。街にはまだ、昼間の熱気が居座っている。 そんな時に抱きつかれたら、正直、暑苦しくてかなわない。 実際、触れ合っている箇所は、もう汗ばんでいた。 でも、どうしてだろう。 今日に限って、汗をかいた素肌がぺたぺた吸い付く感触が、不思議と心地よかった。 こういうのも悪くないかな……と、素直に思えた。 ▼ ▲ あの頃の僕らは、想像さえしていなかったよな。 数年後に、『もしも』と茶化していた話が、こうして現実となっているだなんて。 ひょっとしたら……そう、これは僕の勝手な思い込みに過ぎないのだけれど。 僕らは、超自然的なナニかで結びつけられた、空前絶後の腐れ縁だったのかも知れない。 抱き合って、ひとつの岩に変じてしまうほどに強力なナニかで―― 「ジュン。そろそろ時間かしら」 僕は回想を中断して、傍らに佇む金糸雀へと、顔を向けた。 当時を知る友人たちに言わせると、こいつは見違えて美人になったそうだけど……本当かねぇ? 毎日のように顔を合わせてる僕には、よく分からない。 高校を卒業してからも、僕らは自然と近くにいて、いつの間にか交際していた。 愛の告白とかラブレターを書いたとか、そんなのは一切なかった……と思う。 それなのに、なんでだろう? これもまた、今もって分からない。 ただ、あの時、博物館で語ったとおり、金糸雀は僕を支え続けてくれている。 夢を掴むべく邁進するあまり、たまに辛く当たったりもしたのに。 それでも、ここまで付いてきてくれた。 「本当に、ありがとな。マジでさ、感謝してる」 今日、僕らは夢に向かって、さらなる大きな世界へと羽ばたく。 そのスタートラインに立って、僕は素直な気持ちを伝えた。 金糸雀は、意表をつかれたように、ぱちくりと瞬きをした。 「どうしたの、急に。ちょっとセンチメンタルになったかしら?」 「ん、いや……今まで、ちゃんと言ったことなかったから、それで」 「へぇ~。一応、気にしてくれてたんだ?」 「当然だろ。そこまで人非人じゃないって」 「うん……知ってる。ずっと前から、ね」 こんな風に、僕らは語り合ってきたし、これからも語り合っていくのだろう。 七十億に達しようかという人類の中で巡り会った、奇跡のふたり。 この縁を愛おしく思えないのなら、それは究竟の不幸と言わざるを得ない。 「愛か夢か、じゃないよな」 「愛も夢も、でしょ?」 「ああ! これからも、よろしくな」 「こちらこそ、よろしくお願いするかしら。ずぅっと、ずぅっと、ね」 ずぅっと、ずぅっと―― なぜだろう。遥かな昔にも、誰かに囁かれた憶えがある。 あれは、いつのこと? まあ、それは機内で思い出せばいいか。先は長いのだから。 僕らは荷物を手にして、国際便の搭乗口へと向かう。 いつものように、ふたり、肩を寄せ合いながら―― 〆