約 1,660 件
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/243.html
年代 昭和30年頃 運動会での未就学児童のかけっこ。 木造平屋建て校舎の前です。 マオ -- らら (2023-09-15 11 06 27) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/45.html
でいだらぼっち(野庭) 現在は、団地や家が建ちならび、昔のおもかげはありませんが、天谷大橋のふきんは、四、五十年前までは、田んぼや畑でした。 ふつう田んぼは、川を中心にして、一面に続くのですが、野庭の田んぼは、ところどころに、ポツンポツンとあったので、めずらしい「飛び田」と呼ばれていました。どうして、こんな飛び田ができたのかというと。 むかし、むかし、まだ、でいだらぼっちという人のいたころのこと。 ある時、このでいだらぼっちが野庭へ遊びに来たんだと。 でいだらぼっちは、力持ちの大きな男なんだが、とても気持ちのやさしい男でのー。村の家々をふまないようにと、つま先で立って歩いていたんだと。 馬洗川の近くまで来た時のことだ。川で水を飲んでいた馬が、でいだらぼっちに驚いてとつぜんあばれだしたものだから、静かに静かに歩いていたでいだらぼっちも驚いた。 思わずつま先立ちの指に力がはいって、土の中に指がめり込んだんだと。そのくぼんだ所に、水がたまつてできたのが「飛び田」なんだと。 まだまだ話のつづきがあるんだ。でいだらぼっちに驚いた馬というのは、北条政子という信心深い人が、鎌倉から、弘明寺観音へ、馬に乗っておまいりに通われたそうだが、その時の馬でのー。ちょうど天谷あたりの川原で馬に水を飲ませるために、一休みなさっていたんだと。 この人はエライ人でのー、「尼将軍」と呼ばれた人だけれどね。 でいだらぼっちは驚いて飛び田を作ってしまったけど、たまげた馬は、かわいそうに、川におっこって、ついでに顔を洗ったのでこの川は、「馬洗川」と呼ばれるようになってね、「馬洗橋」の前の山を“糞山”というんだ。 それで、後の人たちが、いつとはなく、田んぼに出て仕事をしながら、こんな唄をうたうようになったんだと。 野庭はよいとこ 雨あがり 美人はいないか ぬき足 さし足 尼さんの馬に追われて でいだらぼっちが “ふん”をした
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/70.html
お坊さんとふしぎな水 (日野) むかしもむかし、今から九百年も前のこと、京都の尋清というお坊さんが、仏像を背中にしょって、各地のお寺をたずねて、旅をしていました。 ある日、そのお坊さんが日野の郷に来たときのことです。 急に水がのみたくなり、森の草深い茂みの裏にわき水を見つけました。そのわき水は、今までのんだこともないくらいおいしく、旅の疲れもすっかり消えてしまいました。おどろいたお坊さんが、村人にそのわけをたずねてみますと、 「この泉は、とてもふしぎな泉なのですよ。いつも夜になると、泉から光がさし出し、森の中が明るくなり、泉のまわりには、鳥たちが集まってくるのです」 と答えました。 お坊さんは、ますますふしぎに思い、泉のわけを見つけようと、泉の近くに座って、静かにお祈りをささげました。 すると、三日目の夜のこと、泉の水が急にもりあがったかと思うと、突然まばゆい光といっしょに、紫の煙がたちこめました。 その光の中には、顔が金色に輝き、ひたいから目もくらむような光を放っている、お地蔵さまの姿が見えました。 おどろいたことに、そのお地蔵さまは、お坊さんが今まで背おって歩いていた仏像と、同じ姿だったのです。 朝になり、村人に昨夜のできごとを話すと 「いつの頃かはわかりませんが、ふしぎな僧がこの村を訪れて、のみ水に困っていることを知ると、持っていた錫杖(お坊さんなどがもつ杖)をとり、掘ったところ、どんな病気もなおしてしまう霊水がわき出したという言い伝えがあります。それから、この泉を錫杖水とよんで大切にしているのですよ」 と、村人は教えてくれました。 お坊さんは、このふしぎな僧とは、僧の姿をかりたお地蔵さまではなかったかと思い、ここを、自分の旅のおわりの場所と決めました。村には、お坊さんがいませんでしたので、村人も大変に喜び、小さなお寺を建てました。お坊さんは、それからずっと日野の郷に住み、仏と村人のために、祈りをささげる日々を送りました。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/190.html
久保池の写真です。 ザリガニを釣ってます、昭和35年ぐらいです。 -- 井上信夫 (2016-03-15 05 14 20) 昭和35年ごろこの近くに千恵子さんあ住んでいた -- イノウエノブオ (2021-01-21 05 07 51) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/54.html
元屋敷の「みどり姫」 (大久保) bgsound 太平洋戦争が激しかった昭和十九年ごろ、敷地の広い家では、食糧不足のため、庭を畑にして、耕したり、避難するための防空壕も掘ったりしたのでした。 大久保の元屋敷でも、穴を掘っていました。ところが、くわの先にカツンと石のあたる音がしたので、その石を掘り出してみると、お経の書いてある、こぶし大の石が次々とたくさん出てきたのでした。 そして、掘り出された石の下から骨つぼが出てきたのです。その近くから、たいせつに埋められたらしい石の板碑も出てきたのでした。 たたりがあっては・・・と、鎌倉から霊を鎮めることがでさるお坊さまが呼ばれました。 そして、現在まつってある土地に板碑を立て、ていねい葬ったのでした。 その時、立ちあった九十余歳のおばあさまの話によると・・・。 今から六百年ほどのむかし、南北朝時代といって、京都に政治の中心があったころのこと、勢力のあった一族のお姫さまで、「みどり姫」という人が、ひとりの若者に恋をしたんだって。 けれど、若者に自分の気持ちを告げられないうちに、若者は東国の任地へ出発してしまったんだそうな。 みどり姫は、その若者が忘れられず、とうとう若者を追って、旅に出たんだって。 むかしむかしのこと、武蔵の国といえば、北の果てのように思われていた時代だもの。 お姫さまが、よくぞこの大久保まで、たどり着いたものだと思うよ。 しかし、若者の住む国に近い、この里にたどり着いたころは、もう病気が重く、一歩も歩けなかったそうな。 村の人たちは、お姫さまの話を聞き、手厚く看病したそうだが、とうとうなくなってしまったそうな。 迷わず成仏できるように、と板碑をきざみ、墓の上にお経を書いた石を積んで、ねんごろに葬ったということだそうな。 だが、板碑が掘り出された時は、南朝年号の延元元年であったものを、お坊さまが北朝の廷文四年と彫り直されたのもおもしろいことよ。あの時代に北朝びいきのお坊さまだったのかな。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/82.html
和田義盛の関所跡 (最戸) 最戸と別所の境にある,餅井坂を登りきったあたりの両側に,小高い丘があります。 土地の人々は,この付近一帯を「和田山」と呼んでいます。 それは,この急な坂道を利用して,鎌倉幕府の要職にあった和田義盛が,関所を設けた 所との言い伝えがあるからです。 この「和田山」付近には,「和田義盛の仇討」という伝説もあるそうですが,詳しいことはわかっていません。 また,和田山には大きな塚があって,甘酒台にも,首塚と呼ばれるものがあったといわれています。 和田義盛は,頼朝に信頼されていたため,武士をまとめる役所である侍所の最高責任者の別当に任ぜられ,各地に鎌倉を守るための砦などをつくったといわれています。 起伏の激しいこの和田山をふくむ丘陵地帯は,関所として利用するには都合のよい地形であったのでしょう。 そして,ここを通る「鎌倉下の道」は,武蔵の国を通って,北関東やいまの東北地方にあたる奥州につながっている,重要な道でしたから,この道にそって,和田義盛が多くの関所や砦を設けたという,言い伝えが多く残っています。 その主な場所としては,いまの野庭団地のあたりに,「関城」と呼ばれる和田義盛が築いた大きなお城があったといわれています。 関城の北側から西側には,馬洗川の上流をへだてて,「鎌倉下の道」が通っているため,このあたりは鎌倉を守るための関所としても,たいせつなところであったわけです。 そして,今も和田義盛の館跡などの伝説は,「鎌倉上の道」である,境川周辺にもあり,また,金沢区や栄区の古い道筋にもあります。 とくに,和田氏の子の朝比奈三郎が,一晩で朝比奈の切り通しを造ったとの伝説は有名です。 鎌倉時代につくられた『吾妻鏡』には,和田義盛のことを,あまりよく書いていませんが,この遺跡分布の伝説を見ていきますと,ほんとうはとても頭の良い戦略家であったことがわかります。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/63.html
東樹院の文福茶釜 (笹下) 和尚さんが戸を開けてみると、それはそれは若くて、美しい女の人が一人立っていました。そして、寒さにふるえながら、小さな声で言いました。 「道に迷ってしまいました。すみませんが、一晩泊めていただけませんでしょうか」 年をとった和尚さんは、かわいそうに思って、女の人を寺にあげ、温かいおかゆをたいてもてなし、泊めてあげました。 次の日の朝、その女の人は、何度も頭を下げてお礼を言い、どこかへ立ち去りました。 それから二、三日して、再びその女の人が寺に現れたのです。そして、「先日、お世話になったお礼です」 と言って茶釜を差し出して、立ち去ろうとしました。その時、和尚さんは声をかけました。この女の人は、旅の途中で道に迷い、行く先や泊まる宿がないにちがいないと思い、しばらく寺にとどまるようにすすめたのです。 寺にとどまるようになった女の人は、「ご親切にむくいたくても、これ以上お礼をすることができませんから」 と言って、和尚さんから筆と紙を借りて、すらすらと、絵を描きました。あんまり見事だったので、和尚さんは、すっかり見とれてしまったそうです。 この女の人の話は、たちまち村中にひろがり、ひょうばんとなりました。寺を訪れる人の数も増えて、すっかり親しまれるようになりました。 ところが、ある晩のこと、村の近くで、犬にかみ殺された一匹のタヌキの死骸が見つけられました。そして、そのタヌキは何と、寺の女の人と同じ着物を着ていたのです。その日から、その女の人の姿を寺でみることはありませんでした。 和尚さんは、そのタヌキをねんごろに葬りました。そして、その女の人の残した「茶釜と絵」を、寺の宝としてたいせつにすることに決めました。 残念ながらその絵は、明治十七年の大火事で焼けてしまいましたが、茶釜だけは、いまも寺に残され「文福茶釜」とよばれています。 また、東樹院の庭には、この話を伝えるタヌキと女の人の陶製の像があります。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/50.html
狐の話(下永谷・日野・笹下) bgsound 山深かったこのあたりには、狐にまつわる話がたくさんありますが、なぜか、狐の化けた恐ろしい姿を見た、という者はいないのです。 むかし、下永谷は寂しい村で、時には狐火が見えることもあったそうです。 ある晩、一人のお百姓さんが神明社からの帰り、真っ暗な村の道を歩いていました。ふと見ると、杉の木のてっぺんの、さらにもっと上の方で、ぼうっと青い火が燃えているのです。 しばらくして、火の玉が音もなくスーッと流れたのです。するとこんどは、近くのやぶの中で、カサッカサッと何物かがつけてくる音がします。お百姓さんが夢中で家に走り込んだ時、田んぼの方でドポーンと大きな音がしました。翌日、山に登ると、狐の巣らしい横穴がいくつも見つかったそうです。 日野にも、こんな話があります。 ある時、村のたき木取りの男が、日暮れの帰り道を急いでいました。 ところが、その日に限って、いつまでたっても村にたどりつけないのです。山の中はどんどん暗くなり、男は途方に暮れて、木の古株に腰をおろし、懐からタバコとマッチを取り出して、シュツと火をつけました。 すると、一瞬、パアッと光がきらめいたかと思うと、あっけにとられている男の前に、見慣れたいつもの道がはっきりと浮かび上がってきたそうです。 笹下の女の人の話です。 ある時、連れと一緒に、野庭の山へたき木取りに出かけました。一生懸命たき木の束を作っていたのですが、そのうち、連れの姿が見えなくなりました。木の枝をパチンパチンと折る音や、なたでポーンと割る音は響いてくるのに、どこにいるのかわからないのです。 「こりや、きつねのやつに化かされた」 とつさに女の人はしゃがみこんで、じっとしていました。男の人がそんなとき、おしっこをしたり、タバコを一服したりしてやりすごすことを思いだしたからです。いっときもすると、無事、連れの姿が見えてきたそうです。 そんなことで、村の女の人が山に入るときには、狐に化かされないようにと、必ずだんなさんと一緒に行くようになったそうです。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/205.html
年代 昭和26年頃の写真です。 京急上大岡駅の線路です。 高架にはなっていません。地平線です。(周辺道路と同じ高さです。) 上大岡桜岡小学校頑張って! -- hide (2010-10-02 02 00 14) 13歳です横浜方面です、真ん中の左からただ乗りしました。 -- 井上信夫 (2016-03-15 05 23 40) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/208.html
昭和45年頃の汐見台より上大岡分譲地を望んだ写真です。 名前 コメント