約 1,660 件
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/142.html
日野小学校古写真 昭和46年、現在の鉄筋4階建て校舎が完成した時の航空写真です。 西側には、木造建ての旧校舎も残っています。 東側には、日野川に架かる御所ケ谷橋が見えます。 北側には日野ケ丘住宅地が造成中です。 西側には、緑豊かに里山が学校の傍まで、迫っています。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/20.html
日野小学校古写真 日野小学校に残されている写真です。 昭和4年現在地の御所ケ谷地域に木造2階建て校舎が建設される迄の間の草葺屋根木造平屋建て校舎です。 この写真は南側から、春日神社を望んだ写真です。 日野小学校00011もご覧下さい。 日野小学校の写真の中に明治39年の仮校舎の校地の配置図がありました。00011に掲載いたします。 -- ちのしんいち (2009-05-30 00 32 28) 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/16.html
永谷天神と菅秀才 (上永谷) bgsound(http //www19.atwiki.jp/konanrekishi?cmd=upload act=open pageid=16 file=kanshusai.wma) 永谷天満宮は、永谷の天神さまとして親しまれ、菅原道真が、自分の姿を鏡に映して自分で刻んだ、三つしかない木像のうちの一体をもつ神社として、知られています。 菅原道真は、平安時代の人ですが、醍醐天皇の信頼が厚く、時の支配者である藤原氏と対立し、延喜元年(901)九州の大宰府に流され、延喜三年その地で亡くなりました。 文学や文章を書くことに、すぐれていましたので、学問の神様といわれています。 菅原道真には、十三人の子どもがおりましたが、その第五子敦茂は、父の才能を受けつぎ菅秀才と呼ばれるほどで、父の道真も大いに期待し、三体の道真像のうちの一体を、そっと渡していたのでしょう。父の道真と共に、子どもたちも都から各地に追放されました。 伝説によると、敦茂は永谷の郷に移されたということです。 菅秀才敦茂が、相模に住んだという記録はありませんが、いまの上永谷の天神山のふもと、つまり、現在の貞昌院あたりに住んでいたと伝えられています。 敦茂は、天神山の頂上に立ち、はるか遠くの九州太宰府の父、道真公をしたいながら、朝夕のご挨拶をされたということです。 山の上には、敦茂が愛用した筆や、髪の毛を埋めたとも伝えられる、菅秀塚の碑があります。 むかし、その塚の上にあった杉の老木を切ったところ、村の人びとがケガをしたり、病気になったりしたと伝えられています。 菅原敦茂がいつ生まれ、いつ死んだのか、くわしいことはわかっていません。文章博士や、そのほか重要な役目につぎつぎとつくなど、親子二代の学者として有名でした。 道真像は敦茂から多くの人を経て、上杉乗国に伝えられ、夢のおつげによって、明応二年(1493)ここに社を造り、ご神体としておまつりしました。これが現在の永谷天満宮です。 外の二体の道真像は、道真のお墓のある福岡県の安楽寺と、生まれたところの大阪府の道明寺にあります。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/252.html
年代 ? 打越交差点から日下小学校方向を望んだ様子です。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/110.html
浄念寺の咳止め玄入坊 (野庭) bgsound むかしなあ、上野庭の島田という所に、一人の旅の僧が訪れたそうな。 その僧の名前はな、玄人坊というたそうな。 玄人坊がこの村を歩いていると、病人が多いことに気がついたんだと。昔の山深い里ではな、くらしは貧しくてな、天候が悪くて農作物がとれないとな、たちまち飢えに苦しんだんだとさ。 病気になっても、お医者にかかれない貧乏な暮らしに、若者は近くの戸塚あたりに働きに出て、村には年寄りと子どもばかりになってしまったんだと。 「コン、コン」 と、ひっきりなしに咳をしながら苦しむ農民を見て、玄人坊は何にもできない自分の力の無さをなげき悲しんだと。 玄人坊は、人間はどんなに苦しくても、明日への希望と元気な体があれば、生きぬくことができるんだと。だけどもな、この村には、その元になる希望と健康が失われているのじゃよ。玄人坊自身も、僧として旅の終わりを予感したのかも知れないな。そこで村人たちを呼び集めてな、自分の決意を述べて、大きな穴を掘ってもらったとさ。 そしてな、その中に、自ら生き埋めになろうと入って行ったんだと。そして村人にな、次のように頼んだんだと。 「私が穴の中に入ったら、土の中からお経を読む声のある間は、この竹の筒を通して一日三回、水だけを流しこんでもらいたいと。そして、その経を読む声が絶えた時、私の願いは聞き届けられ、あなたたちの村から、咳をする人たちの苦しみがなくなるだろう」 と言い残して、土の中に消えて行ったんだと。 村人は、最初は、見ず知らずの旅の僧のことばを、信じなかったんじゃが、命をかけてまでの不思議なふるまいと、玄人坊の言ったとおりの奇跡にびっくりしたんだと。 そしてな、玄人坊にたいしてな、感謝と悲しみをこめて、塚を築いてな、その上に榊の木と、石の祠を建てて、後の世まで玄人坊の徳をたたえて、おまつりしたそうな。そして、今でも咳に苦しむ人たちの、おまいりが続いているそうな。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/72.html
乳出の井戸 (下永谷) むかしの生活を考えたことがありますか。 いまのように、電気やガスが普及していませんから、農作業や家事は、手間ひまかかる重労働でした。 また、粉ミルクや牛乳がなかったので、母親のお乳が出ないということは、とてもたいへんなことでした。 そんな時代のお話です。 下永谷に、お乳が出なくて困っている嫁がいました。 食べるものも貧しく、一人でも多くの働き手が欲しい農家の中で、休養もとれません。 出ない乳をしゃぶっては、ひもじそうに泣く我が子を見るにつけ、なんとかお乳が出ないものかと、途方にくれていました。 そんな嫁の様子に気がついた、村の老女がいました。 その老女も、かつて乳が出なくて苦労したひとりでした。なんとか自分の乳で育てたい母親の心、嫁として子育ても満足にでさないと責められるつらさ。自分の思い出とも重なり、老女には、その嫁の気持ちがよくわかるのでした。 老女は、嫁にささやきました。 「般若寺へ行ってごらん。そこの井戸の水で、お粥を炊いて食べるんだよ。じき、お乳がたっぷり出るようになるさ。しつかり、おやり」 嫁は、言われたとおりにしました。 すると、ふしぎなことに、乳が丸々と張ってきたのです。 「おぎゃあ、おぎゃあ」 「よしよし、いま、お乳をやるよ」 「うっくん、うっくん」 「そうかあ、うまいか。たっぷり飲みな」 自分の乳を飲んで、満足そうに眠る我が子を見て、嫁は感謝の気持ちでいっばいでした。 子どもを立派に育てあげたその嫁は、お乳が出なくて困っている母親を見かけると、そっと教えてやりました。 「般若寺へ行ってごらん」 こうして、下永谷の般若寺の井戸は“乳出の井戸”として、口伝えに広まり、ずいぶんと遠くからも、水をもらいに来ていたということです。 今では、そのおもかげもないのが残念です。----
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/255.html
年代 ? 関の祭りの様子です。 街の人達が、金沢道を歩いています。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/3.html
更新履歴 取得中です。 ここを編集
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/118.html
御園王の黄金伝説 (最戸) bgsound 南区との境に、最戸という町がありますが、そこには笠原さんという、昔から住む人の古い屋敷があります。このふしぎなお話は、その屋敷の大きなケヤキの大木の下に、今も残るりっぱな五輪塔にまつわる話です。 石の五輪塔は、ふつう、お墓としてたてられるものですが、その五輪塔の下には、御園王という、身分の高い人のなきがらがおさめられていると伝えられています。 しかし、御園王は、笠原家の先祖とされているだけで、どこから来て、どのような人であったのかはまったくわかっていません。以前は、その御園王と笠原家の関係をしめす系図もあったそうですが、残念ながらゆくえ不明になっています。 その五輪塔には、ふしざな歌のようなものが伝えられていました。 朝日さす 夕日輝くところ 黄金千杯 朱千杯 埋まるところ その謎のような歌にひかれて、ある若者が、ひそかに掘ってみようと思ったのです。 若者が、どんどん土を掘っていくと、くわの先に、カチッと何かが当たったそうです。 掘り出してみると、それは古びた壷でした。しかし、その壷のふたを開けてみて、若者は腰をぬかしたそうです。壷に入っていたのは、黄金どころか、枯れはてた人の骨が入っていたからです。 ようやくして、若者は気を静め、あたりを見回し、人のいないことを確認してから、そうーっと元のように壷を埋めなおしたということです。 それから、気になって、気になってしかたがないので、何度もなんども、石の五輪塔の下に眠る人の霊にあやまり、ねんごろに供養をしたそうです。 それから後、もう墓を掘ったりする人もなく、いまも五輪塔は大きなケヤキの木の下に、謎をひめたまま、静まりかえっています。 そして、今ではもう、御園王のことも、黄金のこともわからなくなってしまいました。 鎌倉時代のものと思われる、この美しい五輪塔だけが残されているのです。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/100.html
笑うゴロスケの話 (日野)」 bgsound 「フフッ、フフッ、フフッ、フフッ」 どこからか笑い声が聞こえてきます。 「フフッ、フフッ、フフッ、フフッ」 ほら、またおかしな笑い声が聞こえてくるのです。とくに風の強い夜は遠くのほうで鳴いたり、近くで笑ったりしているみたいに、聞こえてくるのです。 学校から帰ると、ぼくはその笑い声の正体をさぐることにしました。どうやら、日野公園墓地のほうから聞こえてくるみたいです。 どんどん墓地へ入って行くと、あたりが急に暗くなりました。大きなしいの木の葉が重なりあって、空を見えなくしています。 すると、そのしいの木の枝からバサバサッと音をたてて、黒いものがとなりの枝へ動きました。息をひそめてじつと見ていますと、また黒いものが枝を動かしたのです。 ぼくは何だかこわくなって、一目散に逃げだしました。「あの黒いものが追いかけてきて、ぼくにおそいかかったらどうしよう」そう思うと、足がもつれそうです。ハアハアしながら、やっとのことで家に帰りつきました。 その夜は、ふとんに入ってもなかなか眠れません。ねがえりを打ちながら、いつのまにか“あの黒いもの”のことを考えています。すると、バサバサという音まで聞こえてきたような気がして、思わずふとんをかぶってしまいました。 「よーし、あすもう一度探険に行って“あの黒いもの”の正体をつきとめてやるぞ」 僕は、そう決心しました。 次の日、おっかなびっくり墓地へ行ってみると、昔からこの近くに住んでいる人が立ち話をしています。そこで、ぼくは「フフッ、フフッ、フフッ、フフッ」の笑い声は、だれの声ですかと聞いてみました。 「あれはゴロスケが笑っているんだよ、フクロウの鳴き声だよ」 と教えてくれました。 ぼくは、やっと安心をしました。一度、ゴロスケにあってみたいと思いました。 学校の帰り道に、友だちと墓地の近くを歩いて通ると「フフッ、フフッ」と笑い声が聞こえてきました。 ぼくはとくいになって「あれはゴロスケが笑っているんだよ」とみんなに教えてあげました。