約 1,660 件
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/269.html
☆区民企画講座「こうなんの歴史:永谷天満宮の昔ばなし」 #ref error :ご指定のファイルが見つかりません。ファイル名を確認して、再度指定してください。 (IMG_2852s.jpg) 永谷天満宮公式HP 丑年大天神祭 夏越の大祓い URL http //www19.atwiki.jp/konanrekishi
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/277.html
・地神塔 所在地:丸山台自治会館前 春に山から田畑へ降り、秋に山へ戻る大地の神に豊作を祈って地神講 が建てたもの。ほとんどが文字塔で、「堅牢地神」と刻まれています。 区内では永谷・野庭地区に集中して建てられています。 側面には「左横濱道」と刻まれ、開港で賑わう当時の横浜への道標にも なっています。明治4(1871)年造立
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/112.html
経塚山の太子堂と東福寺 (笹下) 笹下の東福寺は、このあたりでもっとも古いお寺です。その昔、京都の比叡山から一人のお坊さまが、背中にお薬師さんという仏像をせおい、はるばるこの地にやってきて、小さなお堂をひらいたことが、この寺のはじまりです。 でもある時、寺にかみなりが落ちて、ぜんぶ焼けてしまいました。とても貧しい村だったので、なかなか再建されず、永い間そのままになっておりました。ある時、またまたこの地に、密厳というお坊さんが訪れ、荒れはてたお堂を見ておどろき、さっそくお堂を建てて、お薬師さんをおまつりしました。 鎌倉時代には、親鸞上人というえらいお坊さんが、この地を訪れたとき、東福寺に三ケ月も滞在して、村の中をあちこちと、まわって歩きました。そして、いつのまにか、この寺のことを、三月院と言うようになったそうです。 ある時、親鸞上人の夢の中に、聖徳太子が現われて、近くにある経塚山に、自分で作ったという太子像があることを告げたそうです。 上人はさっそく山に行って、夢にみた場所を掘りおこしてみますと、何と夢の中に現われたものとそっくりの太子像が、土の中から姿を現わしたのです。上人は、大変よろこんで、その太子像を寺におさめたそうです。 その後、この太子像は、村の人たちの手でお堂が建てられ、そこにおさめられました。そして、経塚山の太子堂とよばれ、大切にされました。 また、この地をおさめていた間宮豊前守信元という殿様が、この太子像のことを知り、大変尊んで、村を守ってくださるようにとお願いしたそうです。しかし、経塚山の太子堂は、江戸時代に火事で焼けてしまいましたので、太子像は寺にうつされていましたが、今はもとの経塚山に帰っております。 太子像が一時移されていた東福寺の庭のかたすみには、見ざる、言わざる、聞かざる、の三猿が、ひっそりとこちらを見つめています。江戸時代に作られたもので、このへんでは一番古いものです。 また、山門を入るとめずらしい花塚もあります。このあたりは、明治から大正時代には、横浜の花どころといわれ、花かごをせおって商いする風景をよく見かけたものです。 この花塚は、村の人が花の精に感謝する気持で、作られたものです。 ----
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/146.html
年代 昭和5年 京浜急行(湘南電鉄)開業当時の上大岡駅の写真です。 京急の歴史は下記の「京急の歴史」のペ-ジをご覧下さい。 京急の歴史 更に「百年史」をクリックするとPhoto Album のペ-ジがあります。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/74.html
御園王の黄金伝説 (最戸) 南区との境に、最戸という町がありますが、そこには笠原さんという、昔から住む人の古い屋敷があります。このふしぎなお話は、その屋敷の大きなケヤキの大木の下に、今も残るりっぱな五輪塔にまつわる話です。 石の五輪塔は、ふつう、お墓としてたてられるものですが、その五輪塔の下には、御園王という、身分の高い人のなきがらがおさめられていると伝えられています。 しかし、御園王は、笠原家の先祖とされているだけで、どこから来て、どのような人であったのかはまったくわかっていません。以前は、その御園王と笠原家の関係をしめす系図もあったそうですが、残念ながらゆくえ不明になっています。 その五輪塔には、ふしざな歌のようなものが伝えられていました。 朝日さす 夕日輝くところ 黄金千杯 朱千杯 埋まるところ その謎のような歌にひかれて、ある若者が、ひそかに掘ってみようと思ったのです。 若者が、どんどん土を掘っていくと、くわの先に、カチッと何かが当たったそうです。 掘り出してみると、それは古びた壷でした。しかし、その壷のふたを開けてみて、若者は腰をぬかしたそうです。壷に入っていたのは、黄金どころか、枯れはてた人の骨が入っていたからです。 ようやくして、若者は気を静め、あたりを見回し、人のいないことを確認してから、そうーっと元のように壷を埋めなおしたということです。 それから、気になって、気になってしかたがないので、何度もなんども、石の五輪塔の下に眠る人の霊にあやまり、ねんごろに供養をしたそうです。 それから後、もう墓を掘ったりする人もなく、いまも五輪塔は大きなケヤキの木の下に、謎をひめたまま、静まりかえっています。 そして、今ではもう、御園王のことも、黄金のこともわからなくなってしまいました。 鎌倉時代のものと思われる、この美しい五輪塔だけが残されているのです。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/237.html
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/107.html
東樹院の文福茶釜 (笹下) 和尚さんが戸を開けてみると、それはそれは若くて、美しい女の人が一人立っていました。そして、寒さにふるえながら、小さな声で言いました。 「道に迷ってしまいました。すみませんが、一晩泊めていただけませんでしょうか」 年をとった和尚さんは、かわいそうに思って、女の人を寺にあげ、温かいおかゆをたいてもてなし、泊めてあげました。 次の日の朝、その女の人は、何度も頭を下げてお礼を言い、どこかへ立ち去りました。 それから二、三日して、再びその女の人が寺に現れたのです。そして、「先日、お世話になったお礼です」 と言って茶釜を差し出して、立ち去ろうとしました。その時、和尚さんは声をかけました。この女の人は、旅の途中で道に迷い、行く先や泊まる宿がないにちがいないと思い、しばらく寺にとどまるようにすすめたのです。 寺にとどまるようになった女の人は、「ご親切にむくいたくても、これ以上お礼をすることができませんから」 と言って、和尚さんから筆と紙を借りて、すらすらと、絵を描きました。あんまり見事だったので、和尚さんは、すっかり見とれてしまったそうです。 この女の人の話は、たちまち村中にひろがり、ひょうばんとなりました。寺を訪れる人の数も増えて、すっかり親しまれるようになりました。 ところが、ある晩のこと、村の近くで、犬にかみ殺された一匹のタヌキの死骸が見つけられました。そして、そのタヌキは何と、寺の女の人と同じ着物を着ていたのです。その日から、その女の人の姿を寺でみることはありませんでした。 和尚さんは、そのタヌキをねんごろに葬りました。そして、その女の人の残した「茶釜と絵」を、寺の宝としてたいせつにすることに決めました。 残念ながらその絵は、明治十七年の大火事で焼けてしまいましたが、茶釜だけは、いまも寺に残され「文福茶釜」とよばれています。 また、東樹院の庭には、この話を伝えるタヌキと女の人の陶製の像があります。 ----
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/71.html
春日神社のおこり (日野) 日野の中心にある春日神社には、こんなお話が伝わっています。 むかし、京都に住む貴族で、藤原成実という人が、仁和寺に、お参りに出かけました。 そこへ、見ず知らずの老人が、寄ってきて、わざと手にした草履を落とすのです。成実は、気味悪く思いましたが、拾って、ていねいに渡すと、老人は、かすかな笑みを浮かべ、 「あなたの深い信仰心と、素直な心に感動しています。この神像を贈りますから、祈り続けるように。きつと、十年後には、大国の長官になれるでしょう。忘れずに」 と言ったかと思うと、姿が消えたのです。 手中の神像は、紫の冠に、剣をさした小さな木製の像でした。 成実は、最初、信じがたい思いでしたが、ふと、これは、藤原氏の祖先の霊である春日大明神の変身であると感じとり、大切に持ち帰り、祈りつづけました。 予言どおり、十年後、成実は武蔵国の国守になり、国中を調べ歩くとちゅう、日野の里で、こんなうわさ話を耳にしました。 不思議な僧が、杖でこの地を掘ったら、水が湧いてきました。この水を飲むと病が治るというのです。 成実は、この僧こそ、自分の信仰する地蔵像の化身であり、この霊水の地は、春日大明神をまつるのに、ふさわしい場所と直感しました。 さっそく、神社を造り、神像を納めさせたのです。ここを最初は、穂井神社といっていましたが、後に、納めてある神像の名前から、春日神社と呼ぶようになりました。 平安時代に造られた古いやしろは、何度か、戦火に会い、いまの建物は、江戸時代に造り替えられていますが、この社殿の彫刻は、それは見ごとなものです。日野の里を今も見守っていてくれますし、建物の社殿の外壁の右側の中ほどには、虎と牡丹の花の彫刻、奥側には虎と老人、女性の像、社殿の左側には虎と牡丹、奥側には、老人と母子、また頭上の天井見上げると、竜の頭の彫刻が彫られています。 権現造りの社殿を、山の上から見ると、拝殿と本殿の屋根の棟が二重に重なり、神社の森と調和し、日野の里にきわだっています。 ----
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/35.html
「風土記」をタグに含むページは1つもありません。 <タグに 風土記 と入れた新規ページを作成するとここにリストアップされます>
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/243.html
年代 昭和30年頃 運動会での未就学児童のかけっこ。 木造平屋建て校舎の前です。 マオ -- らら (2023-09-15 11 06 27) 名前 コメント