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カード:マルウェンの指輪(要地底探索)、黒粒片(要高高度飛行)、黒色の眼帯(要飛行)、守護の紅鎧(要光結界)、修復ツール・小、金の足枷(要高速飛行) Rカード:複製粒子、リエンノル SRカード:高級フィギュアB
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港南台・日野南地域 {港南台住宅地(団地)開発については、下記の記録文献をご参照願います。 港南台の誕生:福島清一/1988.6.30. 港南台:港南台遺跡群調査団/1976 港南台開発の歴史は下記のペ-ジをご覧下さい。 大規模宅地開発による地形の変化の様子をご覧になれます。 歴史に学ぶ港南台の勉強会 *「松ヶ崎古墳」については、下記のペ-ジをご覧下さい。 松ヶ崎横穴古墳群の現状 現在の港南台住宅地には、縄文・弥生時代既に人々は生活をしていました。 その生活の跡が昭和40年代の大規模宅地開発の際、全て里山が削られて、無くなってしまいました。その開発の際の記録は「港南台遺跡群調査団」による「港南台」記録として、残っているのみです。 港南台地域の埋蔵文化財なついての詳しい記録は、下記のペ-ジをご覧下さい。 緊縮財政に呑まれる埋蔵文化財 根岸線と港南台駅開発の経緯については下記のHPブログをご覧下さい。 根岸線の歴史と港南台駅誕生の物語 港南台・日野南地域の歴史散策の会の記録です。 港南台住宅地開発時に 遺構のほとんどが開発とともに消滅してしまいました。 遺跡跡の分布は下記添付ファイルの通りで、次のような遺跡群がありました。 上瀬遺跡(港南台8 丁目辺り)、 榎戸遺跡(港南台6 丁目辺り)、 小坪遺跡、中谷(なかやと)遺跡(現在のちどり・かもめ団地辺り)、 松ヶ崎遺跡、 安養院やぐら、 大神やぐら 発掘された遺物の一部が磯子区の三殿台考古館に保存展示されています。 港南台地区の遺跡地と遺物.pdf ↑これをクリックするとPDFリポートを見る事が出来ます。 第19回 港南台の今昔・港南台5~8丁目 散策の記録です。 第19回 (港南台の今昔・港南台5~8丁目).pdf 第65回港南台の今昔・港南台1~3丁目 散策の記録です。 第65回港南台の今昔・港南台1~3丁目.pdf 港南台4・9丁目、日野南1丁目 散策の記録です。 第68回(港南台4・9丁目、日野南1).pdf こうなん 道ばたの風土記より 円海山から武相国境分かれ道へ 安養寺と下馬橋跡 塚の古址 こうなんの昔ばなし より 港南台、日野南地区 散策の記録 榎戸の水”問答” (港南台) 天狗が守ってくれる大山道(港南台) 八日僧 (港南台・野庭) いわれのある橋と日野八景(日野・港南台) 港南台、日野南地区 散策の記録 塚の古址 (野庭) <タグに 港南台 または 日野南 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。
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初期 種類 名称 価格 胴防具 オーダースーツ 150,000 防具屋変化後 種類 値段は安いが、質が悪いらしい 品質も値段も普通らしい 質は良いが、値段が高いらしい 名称 価格 名称 価格 名称 価格 頭防具 スンゲパンヘルム 2,800 スパンゲンヘルム 3,500 スパンゲングレイト 4,200 クリクリ帽子 3,700 カラクリ帽子 4,700 新・カラクリ帽子 5,600 胴防具 フリテンダイン 5,600 ブリガンダイン 7,000 ブリガンドマキシマム 8,400 フラッグクロウズ 7,800 ブラッククロウズ 9,800 ジェットブラック 11,700 足防具 メドレーブーツ 2,900 パレードブーツ 3,700 アッパレードブーツ 4,400 パチミッックス 99 3,900 マジミックス 99 4,900 マジミックス 95 5,800 種類 品揃えは豊富だが、下取り価格が安いらしい 品揃えは少ないが、下取り価格が高いらしい 名称 価格 名称 価格 頭防具 スパンゲンヘルム 3,500 カラクリ帽子 4,700 カラクリ帽子 4,700 バルビューダ 8,000 胴防具 ブリガンダイン 7,000 ブラッククロウズ 9,800 ブラッククロウズ 9,800 メタルセーラー 16,000 足防具 パレードブーツ 3,700 マジミックス 99 4,900 マジミックス 99 4,900 チルトレッグ 8,200 カラコル後 種類 値段は安いが、質が悪いらしい 品質も値段も普通らしい 質は良いが、値段が高いらしい 名称 価格 名称 価格 名称 価格 頭防具 プリンセットクリーム 20,800 プリンセスクラウン 26,000 ロイヤルプリンセス 31,200 新宿の兜 39,200 辰宿の兜 49,000 満天の兜 58,800 胴防具 トップレスドレス 50,400 エンプレスドレス 63,000 エンドレスエンプレス 75,600 ケンの衣 72,000 賢聖の衣 90,000 七賢七聖の衣 108,000 足防具 コッテコテレッグ 20,400 ゴッデスレッグ 25,500 ゴールデンゴデス 30,600 ツルリンシューズ 37,600 ツインクルシューズ 47,000 スパークルシューズ 56,400 種類 品揃えは豊富だが、下取り価格が安いらしい 品揃えは少ないが、下取り価格が高いらしい 名称 価格 名称 価格 頭防具 プリンセスクラウン 26,000 辰宿の兜 49,000 辰宿の兜 49,000 源氏の兜 59,000 胴防具 エンプレスドレス 63,000 賢聖の衣 90,000 賢聖の衣 90,000 源氏の鎧 100,000 足防具 ゴッデスレッグ 25,500 ツインクルシューズ 47,000 ツインクルシューズ 47,000 源氏の具足 55,000
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勘九郎地蔵(大久保) bgsound 港南区大久保の自性院というお寺に、勘九郎地蔵というお地蔵さんががあります。万治三年(1660)とかかれた古いお地蔵さんです。 以前は、南区六ツ川の武蔵の国と相模の国の国ざかいにあったものをここに移したそうです。今でも勘九郎地蔵のあったもとの場所には、かわりの石のお地蔵さんと、そのいわれを書いた碑が建てられています。 むかし、その国ざかいを勘九郎という名の歌舞伎役者が先を急いでいました。 このあたりは、昼間は多くの旅人や村人が行き来しますが、夜ともなれば、それはそれはさびしいところでした。 次の朝、村人が見たのは、その勘九郎の変わりはてたすがたでした。おいはぎにでもおそわれたのか、身ぐるみはがされて、息たえていました。村の人々はあわれんで、手あつく葬むり、石のお地蔵さんをつくりました。 それから間もなく、近くの村では悪い病気がはやり、多くの人々が死んでいきました。 むかしは、こうした病気をなおすことができませんでした。ただいっしょうけんめい神や仏にいのるしかありませんでした。またこうした悪い病気の原因は、殺された人々の悪霊のたたりだとも考えられていました。 それで村人たちは、勘九郎地蔵にいろいろな物を供え、たたりをしずめるように いのりました。 するとどうでしょう。ふしぎなことに、悪い病気はぴたりとおさまり、村人たちは、勘九郎地蔵のおかげだと大変よろこびました。 しかもそのうわさはすぐにひろまり、近くの村々はもちろんのこと、行商する人たちや旅人たちを守るお地蔵さんとしても、お参りされるようになりました。 勘九郎の死んだとされる28日には、多くの人々が集まり、店を出したり、しばいまでやっていたと伝えられています。今でもお参りする人が多く、お供えの花がなくなることがありません。
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上永谷 永野地域に関する歴史は永野郷土誌に詳しく記載されております。 永野郷土誌 空から見た上永谷の歴史 永谷天満宮 「かまくら下の道」については、下記のHPに詳しく記載されておりますので、ご覧下さい。 鎌倉古道かまくら下の道 尾根道のかまくら下の道を立体画像で示す 鎌倉古道かまくら下の道 武士たちが駆けぬけた道かまくら下の道 こうなんの昔ばなし より 馬を洗った尼将軍 (上永谷) 貞昌院 港南区の生い立ち 永野小学校0100(昭和60年頃の環状2号線) 永野小学校0090(昭和51年、永野小学校の全景・航空写真) 永野小学校0080(昭和44年、永野小学校下の県道を横断する子供達) 永野小学校0070(昭和41年、水田付近の県道を横断する子供達) 永野小学校0051(昭和38年頃2階建て鉄筋校舎増築) 永野小学校0050(昭和36年頃2階建て木造校舎増築) 永野小学校0044(昭和36年頃の県道の景観) 永野小学校0043(昭和30年頃マラソンを駆ける子供達) 永野小学校0042(昭和30年頃の永野小学校全景・航空写真) 永野小学校0041(昭和30年頃の運動会、未就学児童のかけっこ) 永野小学校0040(昭和30年頃の永野小学校の全景写真) 永野小学校0031(昭和25年の富士登山の記念写真) 永野小学校0024(昭和12年修学旅行の際の記念写真) 永野小学校0023(昭和11年の運動会の際の写真) 永野小学校0022(昭和11年入学式の記念写真) 永野小学校0020(昭和7年健康優良児童表彰式の際の記念写真) 永野小学校0012(大正12年尋常高等小学校の卒業式の記念写真) <タグに 上永谷 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。
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日限地蔵 (下永谷) むかしむかし、永谷村に飯島勘次郎という、お百姓さんがいました。 いつも、いつも、持病の「癪」という病気に苦しんでいました。癪は、いまの胃けいれんのことで、胃が何かでねじ込まれるような痛みを起こすものなのです。 ある日、いつものような激痛に、ころげ回っている時に、たまたま、通りかかった一人の旅の僧から「伊豆国の三島にある、蓮馨寺という寺にある日限地蔵を信仰すれば、癪の痛みは、たちまち治る」 と教えられました。 さっそく勘次郎は、旅仕度をして、遠い伊豆の寺を訪ねました。 一生懸命、祈願していると、いつの間にか癪の痛みがなくなっていました。そこで勘次郎は蓮馨寺にお願いして、分身を頂き、大事に永谷村に持ち帰りました。 慶応二年(1866)七月、現在の港南区の西の境、戸塚区の舞岡町と接する所に、お堂を建てました。 そこは武相国境の山波が連なり、人里はなれた、霊地としてのおもむきがありました。 昭和三年(1928)に、勘次郎の子孫がお堂を修理増築をして、高野山真言宗、八木山、福徳院としました。 この地蔵尊は、長野と山梨にまつられている分身と共に「日本三体地蔵」の一つといわれ、高さ約八十センチメートルの石仏です。 毎月「四」のつく日が縁日で、この日に願いごとをすると、必ずかなうといわれています。 「四」の付く日には、交通の便もわるかったこの山奥へ、伊勢佐木町かいわいのはなやかな街の人たちや、遠くは横須賀方面からも、「願かけ」に大ぜい訪れ、市もたち、とてもにぎわいました。 この人たちの、あでやかな姿を、一日見ようと、村の人たちは木の間や、やぶのかげから見るのを、楽しみにしていました。 現在でも、県内各地から参拝者が訪れ、店も立ち並び、むかしと同じような、にぎわいを見せています。
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山岡鉄舟の書(日野) bgsound 山岡鉄舟は,江戸時代の終わりから明治のはじめに活躍した人です。 鉄舟は,もともとは幕府につかえる武士でしたが,勝海舟などとともに,世界の動きをよく知り,日本が,京都の天皇がたと幕府がたとに分かれて争っていることを,早くから心配していました。 そうした国の分裂を外国の勢力が,ひそかに期待していることを知っていたからです。 そこで,将軍を説得し,将軍は戦いをする意志がなく,天皇にしたがうので,戦いはやめたいという意志を官軍に伝えたり,攻めよせた官軍が江戸の町を焼かないように,話し合ったりする役目をしました。 そうした彼の人柄は,一般の人たちからも大きな尊敬を受けることになったのです。 明治になってからも,新政府に協力し,日本の国が本当にひとつになることに力をつくしたのです。そういうことから,明治天皇の信頼もあつく,天皇のそばで,侍従という役目を与えられて,重くもちいられました。 しかし,そうした地位についていることを鉄舟は,「武士としてはずかしい」と思っていたそうです。なぜなら,かつては将軍につかえる身であったわけですから,時代が変わって,新しく天皇につかえることが心ぐるしかったのだと思います。 昔から,立派な武士は,別の主人につかえることははずかしいことだとされていたからです。 そういうことがあったので,彼のもとに,昔の友人や幕府の役人だった人が訪ねてくると,たいへんに喜んで,自分の手で書いた書を与え,生活のたしにするようにと言ってわたしたということです。 剣の達人でもあった彼の書く文字は,その性格をよく表わして,力強く,はっきりとしていて,すぐれた書としてたたえられていました。 そういうわけで,鉄舟の書は,この港南区だけではなく,全国いたるところに残されています。そして,その数は,全国的には数千から万をこえる数になるだろうといわれています。 鉄舟の書を大切に保存している人は,鉄舟がこの地をそっと訪ねて来て,この書を置いていったのだと固く信じているのです。
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旅にだされた厄除け地蔵 (日野) bgsound そのむかし、この港南の山あいに住む人々が、魚を口にできるのは、鎌倉から魚売りがやって来る時だけでした。 魚売りは、新鮮な魚といっしょに、町での出来事や、他の村であった事など楽しい話を、たくさんもってきました。ですから村人はいつも、この魚売りが来るのを、心待ちにしていました。 ある日のことです。小坪道にさしかかった魚売りは、追いはぎにあい殺されてしまいました。家族を残して、離れた土地で命を絶たれるのは、とてもくやしかったことでしょう。 村人たちは、この魚売りの死をたいへん悲しみ、自分たちも生活が苦しいのに、わずかずつのお金を集めて、お地蔵さまを建て、魚売りの霊を慰めようとしました。 折りしも、そのころは日照りが続き、お米が実らない年が続きました。村人たちは、このお地蔵さまを、「厄除地蔵」と呼び、しだいに心のささえとするようになりました。 ところが、新しい時代の流れが・・・。小坪の周辺にも家が建ち、道路ができ、すっかり古いものは姿を消すようになりました。 ずっと人々を見守り続けてきた厄除地蔵も生い茂った草の中で、ポツンと忘れ去られていました。 それどころか、すっかりじゃまにされた厄除地蔵は、両脇の小さな二体のお地蔵さまといっしょに、追い出されることになりました。 この日から、引き取り手のない厄除地蔵の悲しい旅がはじまりました。その居場所は古いお寺のあとや、公園脇、さらには空地などと六回も変わらなければなりませんでした。 旅に出されていた厄除地蔵は、いまだにもとの所にもどっていません。いつになったら、ふるさと小坪に帰れるのでしょうね。 さて、日野の鎌倉街道ぞいの、もと浄岸寺のあった場所に、八体のお地蔵さまが、仲良く並んでいます。地蔵は、六体で一組というのが普通ですから、ふしぎな数といえます。 実はそのうちの二体は、前には厄除地蔵の両脇にあった小さなお地蔵さまがここにうつされたものです。 この脇地蔵にとっては、きっと往来の激しい街道を見守るのに、ここがいちばん落ち着ける場所だったのでしょうね。
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もちはなくとも餅井坂(最戸) ずっと、ずっとむかしのお話です。 いまの港南区の最戸と南区の別所の境のところに、「餅井坂」という坂があります。 一里塚といって、道しるべのために、大きな松も植えられていました。「餅井坂」は、鎌倉時代につくられた道で、鎌倉下の道のなかでもとくに道がけわしく、草木におおわれて昼でも薄暗く、坂がとても急なことで有名でした。旅をする人たちは、覚悟を決めて、登っていったのでした。 ある日のこと、京都から旅を続けていました道輿准后という、えらいお坊さまがこの道にさしかかりました。村人から、「急な坂での、きいつけんさいね・・・」 ということばを聞き終わらないうちに登りはじめたのでした。きょうじゆうに、小菅ヶ谷あたりまで行きたいと思っていたからでした。 餅井坂というからには、坂の上の茶店では餅を売っているにちがいないと、すっかり思いこんでしまいました。 久しぶりに好物のお餅が食べられる、それまでのしんぼう、しんぼう、と自分に言い聞かせて、きつい坂道を、あえぎ、あえぎ登っていくと、やっとのことで坂の上までたどりつきました。 一軒の茶店が目に入りました。 「あ、、やれやれ、つかれたなあ」 と言いながらも、お餅がチラツキはじめ、足どりも軽く、茶店の主人に声をかけました。 しかし、お坊さまがあれほど楽しみにしていたお餅はなかったのでした。 本当にがっかりしたのでしょう、この旅のようすをまとめた『廻国雑記』という日記にこんな俳譜を書き残していたのでした。 坂の上からの眺望 行きつきて 見れどもみえず もちひ坂 ただわらぐつに あしを喰はせて これは、こういう意味になります。 やっとの思いで餅井坂にたどりついて、お餅を食べられるかと期待して、あたりを見わたしたが、餅屋はなくて、ただはいているわらじが足にくいこんでいるだけだ 今でも餅井坂の登りきったあたりを「甘酒台」といいますが、このお話のずっとあとになってから、なんげんかの茶店では甘酒を売っていたそうです。でも、お餅を売っていたかどうかは、よくわからないんですって。 大きな地図で見る
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旅に出された厄除地蔵 (日野) そのむかし、この港南の山あいに住む人々が、魚を口にできるのは、鎌倉から魚売りがやって来る時だけでした。 魚売りは、新鮮な魚といっしょに、町での出来事や、他の村であった事など楽しい話を、たくさんもってきました。ですから村人はいつも、この魚売りが来るのを、心待ちにしていました。 ある日のことです。小坪道にさしかかった魚売りは、追いはぎにあい殺されてしまいました。家族を残して、離れた土地で命を絶たれるのは、とてもくやしかったことでしょう。 村人たちは、この魚売りの死をたいへん悲しみ、自分たちも生活が苦しいのに、わずかずつのお金を集めて、お地蔵さまを建て、魚売りの霊を慰めようとしました。 折りしも、そのころは日照りが続き、お米が実らない年が続きました。村人たちは、このお地蔵さまを、「厄除地蔵」と呼び、しだいに心のささえとするようになりました。 ところが、新しい時代の流れが・・・。小坪の周辺にも家が建ち、道路ができ、すっかり古いものは姿を消すようになりました。 ずっと人々を見守り続けてきた厄除地蔵も生い茂った草の中で、ポツンと忘れ去られていました。 それどころか、すっかりじゃまにされた厄除地蔵は、両脇の小さな二体のお地蔵さまといっしょに、追い出されることになりました。 この日から、引き取り手のない厄除地蔵の悲しい旅がはじまりました。その居場所は古いお寺のあとや、公園脇、さらには空地などと六回も変わらなければなりませんでした。 旅に出されていた厄除地蔵は、いまだにもとの所にもどっていません。いつになったら、ふるさと小坪に帰れるのでしょうね。 さて、日野の鎌倉街道ぞいの、もと浄岸寺のあった場所に、八体のお地蔵さまが、仲良く並んでいます。地蔵は、六体で一組というのが普通ですから、ふしぎな数といえます。 実はそのうちの二体は、前には厄除地蔵の両脇にあった小さなお地蔵さまがここにうつされたものです。 この脇地蔵にとっては、きっと往来の激しい街道を見守るのに、ここがいちばん落ち着ける場所だったのでしょうね。