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こうなんだい 東日本旅客鉄道 神奈川県横浜市港南区港南台三丁目 JR根岸線 洋光台←→本郷台
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武器屋変化後 種類 値段は安いが、質が悪いらしい 品質も値段も普通らしい 質は良いが、値段が高いらしい 名称 価格 名称 価格 名称 価格 剣 小柄丸 11,200 小烏丸 14,000 烏天狗丸 16,800 クリスモドキ 14,800 クリス 18,500 クリスナーガ 22,200 ギター B級スターケース 10,800 スーパースターケース 13,500 殿堂入りケース 16,200 拳 バフバフ 10,300 バグナウ 12,900 ビチャハウバグナウ 15,400 銃 S&Mヒグマ 10,400 S&Wシグマ 13,000 S&Wシグマ2000 15,600 IZUビーグル 15,200 UZIイーグル 19,000 UZIドラゴン 22,800 投具 折紙流手裏剣 10,400 柳生流手裏剣 13,100 常闇流手裏剣 15,700 種類 品揃えは豊富だが、下取り価格が安いらしい 品揃えは少ないが、下取り価格が高いらしい 名称 価格 名称 価格 剣 小烏丸 14,000 小烏丸 14,000 クリス 18,500 ギター スーパースターケース 13,500 スーパースターケース 13,500 拳 バグナウ 12,900 バグナウ 12,900 銃 S&Wシグマ 13,000 S&Wシグマ 13,000 UZIイーグル 19,000 投具 柳生流手裏剣 13,100 柳生流手裏剣 13,100 アクセサリー 必勝鉢巻き 7,700 - - リヴィールグラス 8,000 リストバンド 7,900 カラコル後 種類 値段は安いが、質が悪いらしい 品質も値段も普通らしい 質は良いが、値段が高いらしい 名称 価格 名称 価格 名称 価格 剣 腐乱ソード 83,600 フランベルク 104,500 フランベルジェ 125,400 備前の短刀 136,000 備前長船 170,000 大般若長光 204,000 ギター シートクレッケース 87,200 シークレットケース 109,000 トップシークレット 130,800 クラリトンケース 144,000 グラヴィトンケース 180,000 パワーグラヴィトン 216,000 拳 メガホングラブ 82,000 メガトングラブ 102,500 メガテングラブ 123,000 圏 144,000 乾坤鳥亀圏 181,000 日月乾坤圏 217,000 銃 ハードボール 84,800 ハードボーラー 106,000 ハードボーラーロング 127,200 オートバグSeven 142,400 オートマグFour 178,000 オートマグFive 213,600 花 カタコリ造花 82,000 カラクリ造花 103,000 続・カラクリ造花 123,000 お気楽丈花 140,000 極楽浄花 175,000 西方極楽浄花 210,000 種類 品揃えは豊富だが、下取り価格が安いらしい 品揃えは少ないが、下取り価格が高いらしい 名称 価格 名称 価格 剣 フランベルク 104,500 備前長船 170,000 備前長船 170,000 ギター シークレットケース 109,000 グラヴィトンケース 180,000 グラヴィトンケース 180,000 拳 メガトングラブ 102,500 乾坤鳥亀圏 181,000 乾坤鳥亀圏 181,000 銃 ハードボーラー 106,000 オートマグFour 178,000 オートマグFour 178,000 花 カラクリ造花 103,000 極楽浄花 175,000 極楽浄花 175,000 アクセサリー 烈斬の鞘 98,000 - - ハイパワーオプション 95,000 メタルサポーター 98,000 ハイビジョンスコープ 100,000 パワーストール 94,500
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創立 53年 甲子園出場 0回 夏最高 県大会準優勝 秋最高 近畿大会決勝 監督 青島 裕也 顧問 池上 貞義 キャプテン 栗山匠 副キャプテン 風谷簾 副キャプテン 捕部 副キャプテン 那加峰 野球部 部員(☆はスカウト評価。14段階。最高は☆×7) 2年生 那加峰 ☆☆☆★ 白夜 ☆★ 捕部 ☆ 速魅 ☆ 神原 大島 ディスク 松井 ☆ 皇都 西強 九十九 風谷 ☆ 栗山 ☆☆ 荒瀬 ☆ 2年生 大田 投手 右投げ右打ち 144km CB スラ4 シンカー3 カーブ1 小島 投手 左投げ左打ち 133km DB カーブ4 スクリュー3 三田 投手 右投げ右打ち 140km FA カーブ3 稲本 捕手 右投げ左打ち 3 CBEBDD 田中 捕手 右投げ右打ち 3 FAEDCD 幸田 一塁手 右投げ右打ち 4 CBEECC 吉井 一塁手 右投げ右打ち 2 EDCDBC 村田 二塁手 右投げ右打ち 2 DEEEBC 岡島 二塁手 右投げ左打ち 2 DEDDBD 西村 三塁手 右投げ右打ち 3 DBEBDD 北島 三塁手・捕手 右投げ右打ち 2 AEEEAC 山石 遊撃手 右投げ右打ち 2 EEBEEE 倉井 遊撃手 右投げ右打ち 3 DBCBBB 沖田 バッテリー以外すべて 右投げ左打ち 3 AABAAA ☆☆☆ 脇谷 左翼手 右投げ両打ち 2 AEBDEG 飯田 左翼手 右投げ右打ち 1 FFFFFF 大山 中堅手 右投げ右打ち 2 DEAECD 中島 右翼手 右投げ右打ち 3 GCGEE 大山田 右翼手 右投げ右打ち 4 EADCCD ☆★ 1年生 山口 投手 右投げ右打ち 155km CA フォーク5 シンカー3 ☆☆☆ 中村 投手 右投げ右打ち 128km ED スラ2 カーブ2 吉岡 投手 左投げ左うち 130km CC カーブ4 高浜 捕手 右投げ右打ち 3 CBEBCC 小野田 一塁手 左投げ左うち 2 EFBCEB 三振 左2 チャンス2 桃田 一塁手 右投げ右打ち 4 DBGEDD 坂上田村麻呂 二塁手 右投げ右打ち 2 EDCCEE 岡田 遊撃手 右投げ右打ち 3 CCEECCC 平 左翼手 右投げ両うち 1 GGEGGE 源 中堅手 右投げ左うち 1 FFDFFD 足利 右翼手 右投げ右打ち 3 ECEDDD 中村 右翼手 右投げ右打ち 1 EEEEEE
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〒234-8501 横浜市港南区港南台3丁目1番3号 ☆電話番号:(045) 833-2211 ★営業時間:10 00~19 30 ☆最寄駅:根岸線 港南台駅 ★行き方:改札を出て左側。バスターミナル左手に店舗有り。 ※徒歩1分弱
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港南台住宅地開発時に 遺構のほとんどが開発とともに消滅してしまいました。 遺跡跡の分布は下記添付ファイルの通りで、次のような遺跡群がありました。 上瀬遺跡(港南台8 丁目辺り)、 榎戸遺跡(港南台6 丁目辺り)、 小坪遺跡、中谷(なかやと)遺跡(現在のちどり・かもめ団地辺り)、 松ヶ崎遺跡、 安養院やぐら、 大神やぐら 発掘された遺物の一部が磯子区の三殿台考古館に保存展示されています。 港南台地区の遺跡地と遺物.pdf ↑これをクリックするとPDFリポートを見る事が出来ます。 第19回 港南台の今昔・港南台5~8丁目 散策の記録です。 第19回 (港南台の今昔・港南台5~8丁目).pdf 第65回港南台の今昔・港南台1~3丁目 散策の記録です。 第65回港南台の今昔・港南台1~3丁目.pdf 港南台4・9丁目、日野南1丁目 散策の記録です。 第68回(港南台4・9丁目、日野南1).pdf
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港南台郵便局 郵便番号:〒234 集配地域:神奈川県横浜(よこはま)市港南(こうなん)区の旧・久良岐(くらき)郡日下(ひのした)村域、旧・鎌倉(かまくら)郡永野(ながの)村域のうち旧々・鎌倉郡上野庭(かみのば)村域、旧々・鎌倉郡下野庭(しものば)村域域の普通のポストの管理配達およびコンビニポストの取集。 港南台郵便局局舎 2.jpg 港南台郵便局取集時刻掲示 達成状況[2009年7月**日現在] 普通のポスト ●マッピング済1本。撤去**本。 コンビニポスト ●マッピング済7本。撤去**本。 ポスト考察 ●編集中 ポスト番号考察 ●編集中 取集時刻考察 ●編集中 取集ルート考察 ●普通のポストは港南郵便局が基本的に取集しており、港南台郵便局が収集するのは自局前のみ。 ●コンビニポストは不明。 時刻などの掲示 ●編集中
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〒234-0054 神奈川県横浜市港南区港南台3-1-2 ☆TEL 045-832-1361 ☆営業時間 10 00-22 00 ☆最寄り駅 JR根岸線 港南台駅 ☆行き方:駅前。徒歩1分。 Upd2008/8/16(土)
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アワノスさま (笹下) bgsound 海の上に稲妻が走り、大地を震わすほどすさまじい雷鳴がとどろきました。なにごとかと、里の人たちが息をこらして見守っていると、東の空から紫色の雲が、不思議な歌声とともに近づいてきました。 そのとき、どこからともなく、このあたりでは見かけないお坊さんが現われました。 「あの紫の雲が消え、歌声がやんだら、その場所に社を造りなさい。たった今、安房の国(現在の千葉県の南部)から州崎明神が飛来したのだ」 そう告げると、お坊さんはまたどこへともなく姿を消しました。 やがて、紫の雲は、山の上まで来ると小さくなり、薄くなって消え、歌声もやみました。 ようやく我に返った里の人たちは、お坊さんが言ったとおり、山の上に社を造って、「安房洲明神」としておまつりしました。 それから長い年月がたち、社が古びて崩れかけたころ、この地に城を築こうとした殿様の夢に神霊が現れて、波の音が聞こえなくなるまで海から遠ざかったところに、社を造り直すようにと告げました。そこで、殿様は、松本村の宮田に、安房洲神社を造り直しました。 この神社の宝物として、蛇の頭骨が伝えられていましたが、この蛇は、戦のときに殿様の身代わりになって、死んだのだと言われています。 その後も、アワノスさまとして、松本村の人たちがずっとたいせつに守ってきた安房洲神社は、明治四十一年(1908)に、現在の港南五丁目の天照大神にいっしょにまつられることになり、姿を消しました。それを惜しむ村人たちは、毎年九月に影まつりを続けていたということですが、それも昭和のはじめまででした。 いま、どれだけの人が安房洲神社のことを覚えているでしょう。紫の雲に乗って海を渡ってきて、殿様の夢に現れたほどの安房洲明神ですから、時代とともに忘れられかけたころにはきらんとまつるようにというお告げが、またそのうちにあるかもしれませんね。 とは言っても、この天照大神には笹下や松本や雑色の村の七社の神社がまつられ、毎年九月五日盛大にお祭りが行われています。 祝詞が上げられ、盆踊りが踊られたり、夜店が出たりする、夏の終わりの夜を、大人も子どもも楽しみながら、アワノスさまや他の六つの神社のことも考えてみたいですね。 また、この地をおさめていた間宮豊前守信元という殿様が、この太子像のことを知り、大変尊んで、村を守ってくださるようにとお願いしたそうです。しかし、経塚山の太子堂は、江戸時代に火事で焼けてしまいましたので、太子像は寺にうつされていましたが、今はもとの経塚山に帰っております。 太子像が一時移されていた東福寺の庭のかたすみには、見ざる、言わざる、聞かざる、の三猿が、ひっそりとこちらを見つめています。江戸時代に作られたもので、このへんでは一番古いものです。 また、山門を入るとめずらしい花塚もあります。このあたりは、明治から大正時代には、横浜の花どころといわれ、花かごをせおって商いする風景をよく見かけたものです。 この花塚は、村の人が花の精に感謝する気持で、作られたものです。
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上永谷地域 永野地域に関する歴史は永野郷土誌に詳しく記載されております。 永野郷土誌 歴史書に見る永野 空から見た上永谷の歴史 永谷天満宮 永谷天満宮 菅原道真公自刻の御神体が永谷天満宮へ 笹山城 武相国境越えの変遷 永野村鎌倉郡から横浜市へ 鎌倉郡から横浜市へ 上永谷に残る屋号 永谷に伝わる高札の 永谷川の氾濫 永野十景いまむかし 「かまくら下の道」については、下記のHPに詳しく記載されておりますので、ご覧下さい。 鎌倉古道かまくら下の道 尾根道のかまくら下の道を立体画像で示す 鎌倉古道かまくら下の道 武士たちが駆けぬけた道かまくら下の道 勝海舟と永谷地域との関わりについて、記載されています。 勝海舟の「眠雲」扁額について 平野玉城先生の永谷(永野)小学校への関わりについて、記載されています。 永野の教育を支えた平野玉城 高浜虚子一行の永谷村探勝 戦時中の永谷地域の様子について、下記のペ-ジをご覧下さい。 松根油と戦時中の永谷 太平洋戦争空襲~終戦の日 上永谷・野庭・丸山台・日限山地区の歴史散策の会の記録です 第72回歴史散策リポート 第72回歴散リポート.pdf 第28回歴史散策(上野庭めぐり)リポ-ト 第28回(上野庭めぐり).pdf こうなん 道ばた風土記より 馬洗川周辺 永谷天満宮 伊予殿根 永谷天満宮「天神囃子」については下記をご覧下さい 天神囃子 こうなんの昔ばなし より 馬を洗った尼将軍 (上永谷) 貞昌院 港南区の生い立ち 永野小学校0100(昭和60年頃の環状2号線) 永野小学校0090(昭和51年、永野小学校の全景・航空写真) 永野小学校0080(昭和44年、永野小学校下の県道を横断する子供達) 永野小学校0070(昭和41年、水田付近の県道を横断する子供達) 永野小学校0051(昭和38年頃2階建て鉄筋校舎増築) 永野小学校0050(昭和36年頃2階建て木造校舎増築) 永野小学校0044(昭和36年頃の県道の景観) 永野小学校0043(昭和30年頃マラソンを駆ける子供達) 永野小学校0042(昭和30年頃の永野小学校全景・航空写真) 永野小学校0041(昭和30年頃の運動会、未就学児童のかけっこ) 永野小学校0040(昭和30年頃の永野小学校の全景写真) 永野小学校0031(昭和25年の富士登山の記念写真) 永野小学校0024(昭和12年修学旅行の際の記念写真) 永野小学校0023(昭和11年の運動会の際の写真) 永野小学校0022(昭和11年入学式の記念写真) 永野小学校0020(昭和7年健康優良児童表彰式の際の記念写真) 永野小学校0012(大正12年尋常高等小学校の卒業式の記念写真) 永野小学校0011(大正14年皇室へ献上する繭を前にして) 永野小学校0010(大正12年鎌倉郡永野尋常小学校の写真) 永野小学校00011(明治44年日露戦争勝利を祝う会の写真) 永野小学校0001(明治44年卒業式の写真) 永野小学校0000-2(永谷学校のスケッチ) 永野小学校0000(明治25年頃の永野村役場の写真) 永谷天神と菅秀才 (上永谷) 永谷に住んだ宅間の殿様(上永谷) 桜岡小学校0130(桜台・月見ケ丘の歴史) 区内武相国境の詳細位置 勝海舟の書 ―永谷学校―(上永谷) 上永谷、丸山台、野庭、上永谷町、日限山地区 <タグに 上永谷 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。
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幻の笹下城 (笹下) みなさん,笹下にお城があったという話を信じますか。 幻の笹下城といわれている城は,いまの成就院のあたりの高台を中心として,築かれた戦国時代のお城です。 しかし,調査が充分行われないうちに,洋光台の開発の波にのみこまれたために,その内容が詳しくはわからないので,幻の城ともいわれているのです。 このお城を築いたのは,小田原北条氏に仕えた間宮豊前守信元であったとされています。 古くは,篠笥城とも佐々木城とも呼ばれていました。この近くには,空堀,水堀,犬走りの跡らしいものが見受けられます。 杉本(笹下四丁目)あたりから見渡しますと,山あり,谷ありで,その間にはいく筋もの川が流れていました。 このような自然の地形を利用するのを,「谷津構え」の山城ともいうのです。 さらに,その外がわには,北に日野川,東に笹下川,南に笹下川支流がめぐり,西側にはけわしい山があるのです。いざという時には,ここから大船にあった玉縄方面へも連絡することができたのです。 織田信長が安土城を造ってから後の,安土桃山時代や江戸時代には,平地に天守閣がそびえる,きれいなお城が造られるようになりましたが,それ以前はこうした自然の地形を利用した,砦のような要塞を造るのが普通でした。 その時代には,戦いがない時には,城をまもるべき武将の生活は,陣屋と呼ばれるところで行われていました。 間宮氏の陣屋は,現在の「洋光台入口」の信号から西の,山を背負った平地にあったと考えられています。 「間宮一族って,どんな武士団なの?」 よく,そんな質問を受けます。 この横浜を代表する,戦国の武将については,非常に話題も多いので,かいつまんでいくつかをとりあげてみたいと思います。 戦国時代のはじめ,北条早雲が,そのころ関東地方を支配していた山内上杉氏と扇ケ谷上杉氏に対して,戦いをしかけたことがあります。 そして,いまの横浜駅の近くにあった,権現山という砦に兵をかまえました。両上杉氏は二万の大軍をもって,権現山を攻撃しました。 この時,砦のなかから,間宮と名乗る武者が,たいへん派手なよろいを着て,兜のさきには笠印という小さな旗のようなものを付けて,敵陣へと打って出たのです。 その笠印には,佐々木源氏の紋章である「四つ目結び」が浮き出ていて,それが浜風になびくさまはたいへん勇壮であったそうです。 城を守る武士たちは 「間宮をうたすな,間宮をうたすな」 と応援にかけつけ,激しい戦いになったとのことです。 この戦いがあってから,間宮氏は小田原北条氏に認められたらしく,「相模衆十四家」の筆頭として,北条早雲の相模進出の最前線をまかされることになりました。 そして,両上杉氏にそなえるために,間宮信盛が,いまの京浜急行川崎駅に近い,堀之内という場所に館を築きました。 しかし,上杉氏がだんだん勢力を失い,北関東へと退いて行きましたので,信盛の子,信元が笹下へと移ったのです。 なぜかと言いますと,その頃,房総(いまの千葉県)にいた,里見氏の勢力がだんだん強くなり,特に,その水軍がしばしば金沢や磯子などの,久良岐郡沿岸に上陸してくるようになったからです。 里見氏撃退は,小田原北条氏にとつて重要なことでした。 笹下に移った間宮氏は,本城以外にも,杉田陣屋,森陣屋,氷取沢陣屋,さらには港南区の中登台に松本城などを設け,兵力を張り巡らせていました。 そのため,さしもの里見水軍も攻めてくることがなくなりました。 時代がくだって,豊臣秀吉の天下統一により,小田原北条氏は滅ぼされます。 しかし,この時,間宮一族の箱根の山中城を守った戦いぶりが,あまりにみごとであったため,攻撃軍の徳川家康は,笹下に残っていた間宮氏のなかから,多くのものを家臣として取り立てました。 のちの世に,その一族からは,間宮海峡を発見した間宮林蔵や,オランダ医学をはじめて我が国に移入した,杉田玄白のようなりっぱな人たちも多く世にでたのです。