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山岡鉄舟の書(日野) bgsound 山岡鉄舟は,江戸時代の終わりから明治のはじめに活躍した人です。 鉄舟は,もともとは幕府につかえる武士でしたが,勝海舟などとともに,世界の動きをよく知り,日本が,京都の天皇がたと幕府がたとに分かれて争っていることを,早くから心配していました。 そうした国の分裂を外国の勢力が,ひそかに期待していることを知っていたからです。 そこで,将軍を説得し,将軍は戦いをする意志がなく,天皇にしたがうので,戦いはやめたいという意志を官軍に伝えたり,攻めよせた官軍が江戸の町を焼かないように,話し合ったりする役目をしました。 そうした彼の人柄は,一般の人たちからも大きな尊敬を受けることになったのです。 明治になってからも,新政府に協力し,日本の国が本当にひとつになることに力をつくしたのです。そういうことから,明治天皇の信頼もあつく,天皇のそばで,侍従という役目を与えられて,重くもちいられました。 しかし,そうした地位についていることを鉄舟は,「武士としてはずかしい」と思っていたそうです。なぜなら,かつては将軍につかえる身であったわけですから,時代が変わって,新しく天皇につかえることが心ぐるしかったのだと思います。 昔から,立派な武士は,別の主人につかえることははずかしいことだとされていたからです。 そういうことがあったので,彼のもとに,昔の友人や幕府の役人だった人が訪ねてくると,たいへんに喜んで,自分の手で書いた書を与え,生活のたしにするようにと言ってわたしたということです。 剣の達人でもあった彼の書く文字は,その性格をよく表わして,力強く,はっきりとしていて,すぐれた書としてたたえられていました。 そういうわけで,鉄舟の書は,この港南区だけではなく,全国いたるところに残されています。そして,その数は,全国的には数千から万をこえる数になるだろうといわれています。 鉄舟の書を大切に保存している人は,鉄舟がこの地をそっと訪ねて来て,この書を置いていったのだと固く信じているのです。
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旅にだされた厄除け地蔵 (日野) bgsound そのむかし、この港南の山あいに住む人々が、魚を口にできるのは、鎌倉から魚売りがやって来る時だけでした。 魚売りは、新鮮な魚といっしょに、町での出来事や、他の村であった事など楽しい話を、たくさんもってきました。ですから村人はいつも、この魚売りが来るのを、心待ちにしていました。 ある日のことです。小坪道にさしかかった魚売りは、追いはぎにあい殺されてしまいました。家族を残して、離れた土地で命を絶たれるのは、とてもくやしかったことでしょう。 村人たちは、この魚売りの死をたいへん悲しみ、自分たちも生活が苦しいのに、わずかずつのお金を集めて、お地蔵さまを建て、魚売りの霊を慰めようとしました。 折りしも、そのころは日照りが続き、お米が実らない年が続きました。村人たちは、このお地蔵さまを、「厄除地蔵」と呼び、しだいに心のささえとするようになりました。 ところが、新しい時代の流れが・・・。小坪の周辺にも家が建ち、道路ができ、すっかり古いものは姿を消すようになりました。 ずっと人々を見守り続けてきた厄除地蔵も生い茂った草の中で、ポツンと忘れ去られていました。 それどころか、すっかりじゃまにされた厄除地蔵は、両脇の小さな二体のお地蔵さまといっしょに、追い出されることになりました。 この日から、引き取り手のない厄除地蔵の悲しい旅がはじまりました。その居場所は古いお寺のあとや、公園脇、さらには空地などと六回も変わらなければなりませんでした。 旅に出されていた厄除地蔵は、いまだにもとの所にもどっていません。いつになったら、ふるさと小坪に帰れるのでしょうね。 さて、日野の鎌倉街道ぞいの、もと浄岸寺のあった場所に、八体のお地蔵さまが、仲良く並んでいます。地蔵は、六体で一組というのが普通ですから、ふしぎな数といえます。 実はそのうちの二体は、前には厄除地蔵の両脇にあった小さなお地蔵さまがここにうつされたものです。 この脇地蔵にとっては、きっと往来の激しい街道を見守るのに、ここがいちばん落ち着ける場所だったのでしょうね。
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日限地蔵 (下永谷) bgsound むかしむかし、永谷村に飯島勘次郎という、お百姓さんがいました。 いつも、いつも、持病の「癪」という病気に苦しんでいました。癪は、いまの胃けいれんのことで、胃が何かでねじ込まれるような痛みを起こすものなのです。 ある日、いつものような激痛に、ころげ回っている時に、たまたま、通りかかった一人の旅の僧から「伊豆国の三島にある、蓮馨寺という寺にある日限地蔵を信仰すれば、癪の痛みは、たちまち治る」 と教えられました。 さっそく勘次郎は、旅仕度をして、遠い伊豆の寺を訪ねました。 一生懸命、祈願していると、いつの間にか癪の痛みがなくなっていました。そこで勘次郎は蓮馨寺にお願いして、分身を頂き、大事に永谷村に持ち帰りました。 慶応二年(1866)七月、現在の港南区の西の境、戸塚区の舞岡町と接する所に、お堂を建てました。 そこは武相国境の山波が連なり、人里はなれた、霊地としてのおもむきがありました。 昭和三年(1928)に、勘次郎の子孫がお堂を修理増築をして、高野山真言宗、八木山、福徳院としました。 この地蔵尊は、長野と山梨にまつられている分身と共に「日本三体地蔵」の一つといわれ、高さ約八十センチメートルの石仏です。 毎月「四」のつく日が縁日で、この日に願いごとをすると、必ずかなうといわれています。 「四」の付く日には、交通の便もわるかったこの山奥へ、伊勢佐木町かいわいのはなやかな街の人たちや、遠くは横須賀方面からも、「願かけ」に大ぜい訪れ、市もたち、とてもにぎわいました。 この人たちの、あでやかな姿を、一日見ようと、村の人たちは木の間や、やぶのかげから見るのを、楽しみにしていました。 現在でも、県内各地から参拝者が訪れ、店も立ち並び、むかしと同じような、にぎわいを見せています。
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港南台住宅地開発時に 遺構のほとんどが開発とともに消滅してしまいました。 遺跡跡の分布は下記添付ファイルの通りで、次のような遺跡群がありました。 上瀬遺跡(港南台8 丁目辺り)、 榎戸遺跡(港南台6 丁目辺り)、 小坪遺跡、中谷(なかやと)遺跡(現在のちどり・かもめ団地辺り)、 松ヶ崎遺跡、 安養院やぐら、 大神やぐら 発掘された遺物の一部が磯子区の三殿台考古館に保存展示されています。 港南台地区の遺跡地と遺物.pdf ↑これをクリックするとPDFリポートを見る事が出来ます。 第19回 港南台の今昔・港南台5~8丁目 散策の記録です。 第19回 (港南台の今昔・港南台5~8丁目).pdf 第65回港南台の今昔・港南台1~3丁目 散策の記録です。 第65回港南台の今昔・港南台1~3丁目.pdf 港南台4・9丁目、日野南1丁目 散策の記録です。 第68回(港南台4・9丁目、日野南1).pdf
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新田義貞の刀剣塚 (日野・下永谷) bgsound むかし,港南区には,鎌倉に向かうおもな道が,いくつかあって,鎌倉幕府が滅んだ時のお話が,たくさん伝えられています。 「陣ケ台」のお話。 桜道を登って日野公園墓地に入ると,正面の方にこんもりとした古墳のようにも見える土盛りがあります。このあたりを陣ケ台と言います。江戸時代の書物にも,むかしここに,戦のために陣をしいたことがあると書かれています。 きっと,敵の矢をふせぐための,小高い土盛りのようなものを築いたと思われます。 そこで,鎌倉に向かおうとする新田の軍と鎌倉を守る側とがぶつかり,激しい戦いがあったと伝えられています。 そのあとで,鎌倉方は,新田の軍に敗れました。その時にキズを負った鎌倉方のさむらいが,たくさん逃げて来たそうです。 そして,陣ケ台にいた新田のさむらい達に,はとんど殺されてしまったそうです。死体は,このあたりに散乱することになりましたので,このままではいけないと,村人は考えて,敵味方の区別なく埋めて供養したそうです。 日野公園墓地の入口には,そうした鎌倉時代のさむらいが今でもねむっているのかも知れませんね。 あわれな最後を遂げた人たちの魂が,無念のあまりに,うらみの心がつのって,村にたたりをもたらすのではないかと考えたからでしょう。 むかしの人たちは,悲しい死を遂げた人の魂は,成仏せずに村の中をさまようと考えていましたので,血に染まった刀や鎧も,に葬り皆で供養しました。 もう一つ「刀剣塚」のお話。 下永谷に,地蔵院という寺の跡があります。新田義貞が鎌倉を攻めた時に,戦死した人たちや刀などを埋め,供養したという塚です。 戦にまきこまれて,多くの人たちがなくなりました。亡きがらと共に刀なども葬られ,供養したという塚があって,刀剣塚と呼ばれていました。 りっぱな刀剣塚がいくつか建てられていたのですが,いつしか失われて,言い伝えだけが残っています。
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源為朝の隠れ里 (上大岡・日野) bgsound 上大岡のにぎやかな街を見おろすことのできる東の丘に、雑木林があって、その一帯を「八郎ケ谷」とよびます。 為朝は、源為義の八番目の子で、鎮西八郎とよばれていましたが、保元の乱で父ととも崇徳上皇に味方して戦い、やぶれたために落人となり、ここに隠れ住んだといわれています。 この丘の切り立った崖の上に「為朝の祠」があり、今でも四月二十五日に近隣の人々が供養しています。 また、この丘のふもとには、為朝の妻の墓といわれている笠石がまつられています。 そして、明治二年にはこの丘の崖がくずれて、その横穴から古い鏡の入った壷が見つかった時には、ここが為朝の隠れ穴ではなかったかと、大さわぎになったといわれています。 為朝は日ごろ、金のお地蔵様を信仰していたといわれていて、八郎ケ谷にある富士見坂近くの子育地蔵は、為朝とつながりがあるともいわれています。 為朝伝説とは直接関係ありませんが、この上大岡東のところどころには板碑があり、鎌倉武士の子孫との言い伝えをもっている、旧家もあります。 全国各地には、平家の隠れ里はたくさんありますが、この港南区内では、もうひとつ珍しい源氏の隠れ里があります。 それは、春日神社に近い、「兎ケ谷」というところです。 鎌倉幕府を創設した源頼朝は、幼少のとき伊豆の蛭ケ小島に流されました。弟の義経は、京都の鞍馬寺にあずけられました。 頼朝の叔父の新宮十郎行家は、山伏の姿の修行者になって、武士たちをたずねて源氏の再興をうながして歩きました。 平家をたおし、源氏の世の中をつくる糸口をつけた、行家の功績を忘れてはいけないと思います。 しかし、頼朝は、この行家も弟の義経をも討たせてしまいました。行家の家来の中に、紀伊の国(和歌山県)の田井庄からでた武士がいました。 この人たちは、頼朝と行家の仲がわるくなってから、この日野川支流の奥の兎ケ谷に、ひそかに隠れ住んだと伝えられています。
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アワノスさま (笹下) 海の上に稲妻が走り、大地を震わすほどすさまじい雷鳴がとどろきました。なにごとかと、里の人たちが息をこらして見守っていると、東の空から紫色の雲が、不思議な歌声とともに近づいてきました。 そのとき、どこからともなく、このあたりでは見かけないお坊さんが現われました。 「あの紫の雲が消え、歌声がやんだら、その場所に社を造りなさい。たった今、安房の国(現在の千葉県の南部)から州崎明神が飛来したのだ」 そう告げると、お坊さんはまたどこへともなく姿を消しました。 やがて、紫の雲は、山の上まで来ると小さくなり、薄くなって消え、歌声もやみました。 ようやく我に返った里の人たちは、お坊さんが言ったとおり、山の上に社を造って、「安房洲明神」としておまつりしました。 それから長い年月がたち、社が古びて崩れかけたころ、この地に城を築こうとした殿様の夢に神霊が現れて、波の音が聞こえなくなるまで海から遠ざかったところに、社を造り直すようにと告げました。そこで、殿様は、松本村の宮田に、安房洲神社を造り直しました。 この神社の宝物として、蛇の頭骨が伝えられていましたが、この蛇は、戦のときに殿様の身代わりになって、死んだのだと言われています。 その後も、アワノスさまとして、松本村の人たちがずっとたいせつに守ってきた安房洲神社は、明治四十一年(1908)に、現在の港南五丁目の天照大神にいっしょにまつられることになり、姿を消しました。それを惜しむ村人たちは、毎年九月に影まつりを続けていたということですが、それも昭和のはじめまででした。 いま、どれだけの人が安房洲神社のことを覚えているでしょう。紫の雲に乗って海を渡ってきて、殿様の夢に現れたほどの安房洲明神ですから、時代とともに忘れられかけたころにはきらんとまつるようにというお告げが、またそのうちにあるかもしれませんね。 とは言っても、この天照大神には笹下や松本や雑色の村の七社の神社がまつられ、毎年九月五日盛大にお祭りが行われています。 祝詞が上げられ、盆踊りが踊られたり、夜店が出たりする、夏の終わりの夜を、大人も子どもも楽しみながら、アワノスさまや他の六つの神社のことも考えてみたいですね。
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「歴史に学ぶ港南台の会」は平成15年(2003)の夏の終わりに「産声」をあげた会です。 もう一度、歴史を学び、暮らしや文化の歩みをたどり、社会の進歩と平和、そして自分の生き方を考え、語り合いたい、そんな動機からでした。 ★学びあう ★歴史を訪ね 毎月、第3土曜日の午後、港南台地区センタ-の和室に集まります。 お茶代300円程度で、やっています。興味、関心ある方は、ご一緒に参加しませんか? ◇ 港南台地区センタ-祭りに参加し、展示を致しました。 日 時:平成23年2月26・27日(土・日) 会 場:港南台地区センタ- 榎戸古墳出土の土器の展示、の他、松ヶ崎古墳の写真展示等を行いました。 「歴史に学ぶ港南台の会」では平成21・22年度と2年間に渡って、横浜市地域文化財登録に旧港南台高校の敷地内にある「松ケ崎古墳」を推薦いたしました。しかし、いずれも、地域文化財へ認定されませんでした。 横浜市地域文化財登録候補推薦書.pdf 「歴史に学ぶ港南台の会」では6月20日(土)午前中に伊藤 武さんのご案内で鎌倉街道 原乃橋から円海山へかけて「武相国境」の跡を散策いたしました。その際、旧港南台高校敷地内にある「松ケ崎古墳」も見学いたしました。 松ケ崎古墳です 松ケ崎古墳への入口です
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所在地神奈川県横浜市港南区港南台三丁目 開業日1973/4/9 接続路線根岸線 隣接駅洋光台(根岸線:横浜方面) 本郷台(根岸線:大船方面) 訪問日2002/1/3 戻る
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さわげ婆(日野) bgsound 鎌倉街道沿いにある春日神社や徳恩寺のある日野中央あたりは、昔、宮下村といわれていました。神社の前の道は「峰の道」と呼ばれ、笹下の方からの道と交差するところに観音堂がひっそりと立っていたのでした。 そこから峰の阿弥陀寺へと続く道を「灸点道」といいます。この観音堂の堂守りが江戸時代に強盗に殺されたという悲しい出来事がありました。観音堂に悪さをすると“たたり”があるといわれていましたので、大人も子どもも、あまり近寄りませんでした。 このあたりは、住む人も少なく、湿地や小さな沼があり、人の背たけほどの葦などがうっそうと繁っていたのでした。そのうえ、「さわげ婆」という亡霊が時おり現れては、村人をあの世へ連れていってしまうというのでした。さわげ婆を見た者は必ず死ぬといわれ、宮下村のじいさまが三日三晩うなされて亡くなったのは、さわげ婆を見たからだと、誰もが信じて、恐れていたからでした。 -さわげ婆-その姿といったら・・・たぶん、白い着物に乱れた白い髪、顔だちは、恐ろしいというよりは、なつかしい誰かに似ていたのかもしれません。たまらなくなつかしいのに、誰だったのかどうしても思いだせない。気になって心がさわぎだすのだが・・・。 もう少しで思い出せそうなのだが、その人ならもう生きてはいないはず。ということは、あの世からのお迎えなのか・・・。あの世からのお迎えを、心さわがす「さわげ婆」と言い残したのか、もしかしたら、この道は、この世とは別の世界ともつながっていたのかも知れません。 あるいは、徳恩寺は、新四国東国八十八ケ所霊場の六十九番目の札所で、そこから峰の阿弥陀寺に向か、白装束の巡礼が、草深い山道を「さんげ、さんげ」と唱えながら、通っていったそうです。巡礼のあとをついて、遠くまでいかないように親からきつく言われた「ざんげ婆についていくでない!」が、いつのまにか「さわげ婆を見たら死ぬよ」となったのかもしれません。 「ざんげ、ざんげ」が「さわげ」になって、いまの港南区と磯子区の間にある坂道を「さわげ坂」、そのせまい谷を「さわげ谷」といい「さわがや」(沢ケ谷)になったといいます。