約 1,661 件
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/279.html
・こうなんの石造物の数 ・「港南の歴史」:460基、内 石仏:285基 ・「ふるさと港南の石仏たち」:278基、内 石仏:205基(60%が武蔵国)
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/15.html
港南歴史協議会規約より抜粋 第1条(名称) この会は 港南歴史協議会(以下「会」)という。 第2条(目的) この会は港南区を中心とする周辺を含む地域の歴史・文化を調べ、互いの情報を交換し、地域の人達へ広く伝え、これら歴史・文化財の記録・保存活動を推進し、地域文化の発展に協力することを目的とする。 第3条(活動) この会は前条の目的を達成するために、下記の活動を行なう。 第1項 地域の歴史・文化に関する「情報交換の場」を設定する。 第2項 地域の歴史・文化を伝える(伝承)ことを支援する活動。 第3項 地域の歴史・文化を記録し、保存する活動の推進。 第4項 地域の歴史・文化を理解するための体験指導を支援する活動。 第5項 地域に埋蔵されている歴史・文化を見つけ出す(発掘)活動。 第4条(構成) この会は主として 地域歴史・文化財に関心を持つ地域の有志ボランティア、及び 地域歴史愛好団体の代表等により、構成する。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/180.html
港南区内地域には、昔「武蔵の国」「相模の国」があり、区内を武相国境が縦断して2分化しています。 この地には太古の昔から、人々が生活していた記録が残されています。 「武蔵の国」「相模の国」夫々に色々と生活文化の中に 異なる特徴が見られます。 広報よこはま港南区版.pdf 貞昌院 <タグに 武相国境 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/38.html
日下・打越・笹下地域 日下・笹下地域の「楽遊クラブ」の方々が作られた「日下・笹下地域の歴史年表」です。 日下・笹下の歴史年表.pdf 久良岐郡と関村について楽遊クラブの方々が作られた説明です。 久良岐郡と関村.pdf 楽遊クラブの方々が作られた「雑色・杉本遺跡」の説明です。 雑色杉本遺跡.pdf 楽遊クラブの方々が作られた「打越周辺」の紹介です。 打越周辺 .pdf 楽遊クラブの方々が作られた「関 周辺」の紹介です。 関周辺 .pdf 楽遊クラブが作られた「笹下城」の歴史説明です。 笹下城.pdf 成就院(楽遊クラブ)の説明です。 成就院p.pdf 東樹院(楽遊クラブ)の説明です。 東樹院.pdf 東福寺(楽遊クラブ)の説明です。 東福寺.pdf 天照大神宮(楽遊クラブ)の説明です。 天照大神宮.pdf 鰻の井戸(楽遊クラブ)の説明です。 鰻の井戸.pdf 大岡川分水路(楽遊クラブ)の説明です。 大岡川分水路.pdf 笹下、日下地域の歴史(含む笹下城)は下記の文献に詳しく記載されています。 武州久良岐郡地名考:武内廣吉、平山和彦/1995.5.13. 金沢道:金沢道(かなざわみち)は、東海道五十三次程ヶ谷宿(現保土ヶ谷駅)の金沢横町から金沢の六浦陣屋(現金沢八景駅)へ到る道の名称。 金沢からは朝比奈切通しを経て鎌倉へ通じる為、金沢鎌倉道とも呼ばれる。 経路:保土ケ谷 - いわな坂 - 岩井 - 清水ヶ丘公園 - 蒔田 - 弘明寺 -上大岡 - 打越 - 栗木 - 能見台 - 金沢文庫・称名寺 - 町屋 - 瀬戸神社 - 金沢八景 (→鎌倉道・浦賀道) 笹下城については、下記のHPに詳しく記載されています。 笹下城 現在の天照大神がある中登台には、かって松本城があったと記されています。 松本城 石川屋絵図 笹下・日下地域の歴史散策の会の記録です 第36回 関の下~笹下川沿いを歩く 散策の記録です。 第36回散歩(関の下~笹下川沿いを歩く).pdf ↑これをクリックするとPDFリポートを見る事が出来ます。 第37回 中登台・雑色杉本遺跡 散策の記録です。 第37回散策(中登台・雑色杉本遺跡).pdf 第39回 笹下城周辺 散策の記録です。 第39回散策(笹下城周辺散策).pdf こうなん 道ばたの風土記より 久良岐郡役場跡と東樹院 岡本橋と記念碑 中登台と松本城 笹下城址と成就院 笹下の杉本雑色遺跡 港南の桜 東福寺 うなぎの井戸 こうなんの昔ばなし より 鎮魂の句碑 (笹下) 経塚山の太子堂と東福寺 (笹下) 狐の話 (下永谷・日野・笹下) 港南、笹下地区 散策の記録 歌をうたうミケネコ (笹下) 桜岡小学校0100(桜道の歴史) 東樹院の文福茶釜 (笹下) 幻の笹下城 (笹下) 幕府隠密の村、松本 (港南) 岡本橋ができたわけ (港南) 北条実時とうなぎの井戸 (笹下) アワノスさま (笹下) 港南区の生い立ち 港南、笹下地区 散策の記録 日下小学校009(薫花園の様子) 日下小学校008(関の祭りの様子) 日下小学校007(金沢道(笹下・釜利谷街道)の様子) 日下小学校006-3(環2が出来る前の打越交差点) 日下小学校006-2(環2が出来る前の打越交差点) 日下小学校006-1(環2が出来る前の打越交差点) 日下小学校005-2(金沢道(笹下・釜利谷街道)の様子) 日下小学校005-1(金沢道(笹下・釜利谷街道)の様子) <タグに 笹下 または 日下 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/144.html
年代 昭和17年の 平屋建て桜岡国民学校の写真です。 桜岡国民学校は昭和17年10月24日に現在地の大久保町へ新築移転し、 南青年学校となりました。 昭和22年5月1日六三制実施により、青年学校は廃止となり、港南中学校となりました。 昭和25年9月1日港南中学校が現在地へ新築移転により、大岡小学校分校となりました。 昭和30年9月1日大岡小学校分校より、横浜市立南小学校になりました。 名前 コメント
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/265.html
上大岡・大久保地域の「街歩き・歴史散策」の際は下記のペ-ジは参考になると思います。このペ-ジは「港南歴史散策の会」の過去の記録(PDF)です。 「こうなん昔ばなし」も併せてご覧になる事をお勧めいたします。 第1&29回散策-大久保、最戸-商住地区- 第1&29回港南区の歴史散歩.pdf 第6&30回散策-上大岡・日野川左岸の道- 第6&30回散策(上大岡・日野川左岸の道).pdf 第31回散策-上大岡東・久良岐の丘- 第31回散策-上大岡東・久良岐の丘-.pdf 第34回散策-上大岡・西福寺~久良岐公園- 第34回散策(上大岡・西福寺~久良岐公園).pdf 第35回散策-上大岡鹿島神社~笹下武者ヶ谷- 第35回散策-上大岡鹿島神社~笹下武者ヶ谷-.pdf
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/36.html
港南歴史協議会規約 第1条(名称) この会は 港南歴史協議会(以下「会」)という。 第2条(目的) この会は港南区を中心とする周辺を含む地域の歴史・文化を調べ、 互いの情報を交換し、地域の人達へ広く伝え、これら歴史・文化財の記録・保存活動を推進し、地域文化の発展に協力することを目的とする。 第3条(活動) この会は前条の目的を達成するために、下記の活動を行なう。 第1項 地域の歴史・文化に関する「情報交換の場」を設定する。 第2項 地域の歴史・文化を伝える(伝承)ことを支援する活動。 第3項 地域の歴史・文化を記録し、保存する活動の推進。 第4項 地域の歴史・文化を理解するための体験指導を支援する活動。 第5項 地域に埋蔵されている歴史・文化を見つけ出す(発掘)活動。 第4条(構成) この会は主として 地域歴史・文化財に関心を持つ地域の有志ボラ ンティア、及び 地域歴史愛好団体の代表等により、構成する。 第5条(役員と役割) 会には次の役員を置き、その役割は次の通りとする。 ○会長 1名 会長は会を代表し会務を統括する。 ○副会長 2名 副会長は会長を補佐し、会長に事故ある時は、その役割を代行する。 ○事務局 1名 事務局は会運営を円滑に進める為の 記録、会計、広報、渉外を務める。 第6条(任期) 役員の任期は1年とする、但し再任は之を妨げないものとする。 第7条(会議) 会議は会長が召集し、議長を務める。 毎月、定例会を開催し、第2条の目的に沿った お互いの活動について話し合いを行う。 第8条(経費) 本会の経費は会費、助成金、その他をもって之に当てる。 第9条(事務局) 本会の連絡窓口として、事務局を事務局長宅におく。 ―附則― この規約は平成20年4月1日より施行する。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/91.html
米倉丹後守の通った道 (上大岡) bgsound(http //www19.atwiki.jp/konanrekishi/pub/yonekura.wma) 「下にー,下にー」という声とともに,おごそかに通って行く,ものものしい大名行列。野良仕事をしていたお百姓さんも,先を急ぐ旅人も,何はともあれ「ははあー」と地面にひれ伏す・・・。江戸時代,大名は参勤交代のために,領地と江戸を往復しなければならなかったので,東海道などの大きな街道筋では,こんを光景がよく見られました。 港南区は,そういう街道筋ではなかったのですが,それでも,上大岡の,いまのグリーン通り商店街には大名行列が通ったという話が残っています。一体だれが,どこへ向かったのでしょうか。 実は,グリーン通りは,そのむかし,「かねさわみち」といって,いまの金沢区から通じる道でした。また上大岡の先,保土ケ谷に向かっては,「ほどがや道」と呼ばれる道につながっていました。 保土ケ谷といえば東海道,そうです。この「かねさわ道」「ほどがや道」を通って保土ケ谷から東海道に入り,江戸へ向かった大名がいたようなのです。 さて,その大名は?「かねさわ道」をずっとたどつていくと,金沢区町屋にあった幕府の陣屋に行き着きます。その近く,いまの金沢八景駅の西側の谷戸に,大名屋敷があったのです。六浦藩・米倉丹後守。一万二千石と小さいながらも,れっきとした大名です。ちなみに,横浜のあたりは,ほとんどが,天領といって幕府が直接治めていました。大名がいたのはこの六浦藩だけですから,グリーン通りを通ったといわれているのは,この大名だったと思われます。 上大岡もその頃は,家などほとんどない一面のたんぼ。その中の一本道を堂々と行く行列を,港南の人々は,どんな思いで迎えたのでしょうか。 さて,江戸時代の終わりのころになると,三浦半島の先端や金沢の沖に,外国の船がときどき姿を現わすようになりました。そこで,この近辺も急にあわただしくなりました。 幕府は,浦賀に奉行所をおいてその警備にあたり,「かねさわ道」や「ほどがや道」を多くのさむらいが通ったことと思われます。当時の港南区の人々も,何事かと心配したことでしょう。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/156.html
下永谷・芹が谷地域 下永谷・芹が谷地域の歴史については永野郷土誌にも詳しく掲載されています。 永野郷土誌 下永谷・芹が谷地区について、歴史散策の会の記録です。 第17回歴史散策リポート 「第17回 港南区の歴史散歩改B5版.pdf 第72回歴史散策リポート 第72回歴散リポート.pdf 芹が谷については、下記のペ-ジをご覧願います。 芹が谷 こうなん 道ばたの風土記より 殿屋敷の遺跡 下永谷市民の森 神明社と般若寺 芹が谷の武相国境道標 北条氏直館跡と物見塚 こうなんの昔ばなし より 首塚の亡霊 (下永谷) 狐の話 (下永谷・日野・笹下) 永野小学校0000-2(永谷学校のスケッチ) 村に電気がきた日 下永谷 日限地蔵 (下永谷) 新田義貞の刀剣塚(日野・下永谷) 乳出の井戸 (下永谷) 上永谷、丸山台、野庭、上永谷町、日限山地区 港南区の生い立ち <タグに 下永谷 または 芹が谷 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。
https://w.atwiki.jp/konanrekishi/pages/27.html
近代の港南区エリア 横浜が開港されると、武蔵野国・久良岐郡は横浜経済圏の恩恵を受け、シルク捺染等輸出産業に貢献をし、人々の生活は変わりました。 一方、相模の国・鎌倉郡も「鎌倉街道」を通して、文明開化の横浜経済圏へ次第にとりこまれました。 勝海舟の「眠雲」扁額について 永野の教育を支えた平野玉城 黒船が見えた丘 港南区の歴史 永野小学校0012(大正12年尋常高等小学校の卒業式の記念写真) 永野小学校0011(大正14年皇室へ献上する繭を前にして) 永野小学校0010(大正12年鎌倉郡永野尋常小学校の写真) 永野小学校00011(明治44年日露戦争勝利を祝う会の写真) 永野小学校0001(明治44年卒業式の写真) 永野小学校0000-2(永谷学校のスケッチ) 永野小学校0000-1(明治10年野庭学校のスケッチ) 永野小学校0000(明治25年頃の永野村役場の写真) 村に電気がきた日 下永谷 日野小学校00021(大正時代の写真) 日野小学校0002(大正時代の写真) 日野小学校00011(明治・大正時代の校舎の位置) 日野小学校0001(明治・大正時代の藁葺き屋根・平屋建て校舎) 日下小学校003(大正11年堰場の落成) 勝海舟の書 ―永谷学校―(上永谷) <タグに 近代 >を入力したページを新規に作成すると、ここに自動的にリストアップされます。