約 798,112 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/245.html
目次 1.不成仏霊(ふじょうぶつれい)を正しく導く 2.怨恨(えんこん)を持つ霊にはまず反省を 3.崇(たた)りに対しては守護・指導霊への祈りを 4.一般的憑依(ひょうい)に対しては、まず健全な生活を取り戻すこと 5.身近な人が悪霊を持っている場合の対処法 6.動物霊への対処法 7.サタン(魔)に対しては、みなの一致協力・中道(ちゅうどう)・不退転(ふたいてん)が鍵(かぎ) (1989年8月27日の霊示) 1.不成仏霊(ふじょうぶつれい)を正しく導く モーゼです。さて、私の出番となりました。『悪霊(あくれい)撃退法』という題で、お話をしていくことといたしましょう。 悪霊にも種類が、いろいろとあります。それゆえに、悪霊相応の対策を考えてゆかねばならないと思います。 まず、悪霊の種類のなかでは、いわゆる不成仏霊(ふじょうぶつれい)と言われている者があります。この不成仏霊と言われる者は、まだ自分が死んだということを十分に悟っていないか、あるいは死んでもまだ生命に執着があって、死にたいと思っていないか、このどちらかの場合が、そうした不成仏霊となりましょう。すなわち、自分の死を認めたくない、自分が死んだということを認めたくないという霊のことです。 このたぐいの霊に対しては、死んだという事実を、とにかく納得させる以外に方法はないのです。それゆえに、このたぐいの人たちに対しては、まず人間は生と死があり、魂というものは生と死を貫いて、そして永遠の生命を生きているものだということを教える必要があるのです。これが、各種の宗教でよく行なわれているところの先祖供養であるというふうに思われます。あるいは、先祖供養か、その他の成仏(じょうぶつ)の修法である、というふうに私は考えます。 これは、先祖供養そのものを善しとするか、悪(あ)しとするかは別として、古典的な宗教の作法であることは事実で、それは否(いな)めません。洋の東西を問わず、亡くなった自分の身内(みうち)、とくに両親等を弔(とむら)うということは、習慣としてあります。なぜあるか、それはこのような不成仏霊を成仏させたいという気持ちから出てきたものなのです。このさいに、その成仏の願いが通るかどうかは、供養する側の気持ち、あるいは考え方、悟りと大きくかかわっていると言えましょう。 すなわち、ほんとうに生命の永遠を信じているのか。ほんとうに生があり死があるということを知っているのか。ほんとうに死後の世界というものを信じているのか。そうして、なにゆえにある者は天国へ還(かえ)り、なにゆえにある者は地獄に堕(お)ちるのかということを明確に知っているのか。そうして、生きていたときに、接していたその親族、身内の者を神理の目で見て、どう判定しうるのかということを知っているのか。これが大事な鍵(かぎ)になります。 これらのことを知ることなく、単に墓の前や、仏壇の前で手を合わすだけであっては、なんらの意味もないことは事実です。ただ、あの世にある者から見たならば、そうした姿を見ることによって、なんらかのなぐさめになっていること自体は事実であると、私は思う。 さて、それゆえに供養(くよう)せんとする生きている人間は、神理の書籍を十分に熟読する必要がある。そうした神理については、我らが高級諸霊相集いて、数多くの霊示集を地上に送ったはずである。もし、可能であるならば、そうした神理の書を、日々彼らのために読んであげることが、大事であると思う。もちろん墓場にて読み続けることは困難であろうと思われるから、あなたがたの習慣にしたがってやってよい。仏壇の前で読むもよし、あるいは寝る前に読むもよし。 すなわち、供養したいと思っている人の名前を呼び、父なら父、母なら母に対して呼びかけをする。「これから、神理の書を供養いたしますから、よくお聞きください」そのように申し上げてのちに、毎日十ページでも、二十ページでも読んであげることだ。毎日十ページ読んであげるならば、一冊の書物は二十日もあれば読み上がるだろう。このように、一冊の書物を二十日かけて読んであげ、また次なる書物を読んであげる。 このように地上を去った縁者の者に対する供養は、毎日毎日形をとって行なわれたら、必ずや通じるものとなる。先祖たちやあるいは自分の肉親たちは、そうした供養をしてくれていることがわかる。しかし、彼らは何ゆえに自分が地上を去って、今苦しんでいるかの理由がわからない。また、地上の生への思いを断ちがたい。これゆえに、彼らをくわしく、一つひとつ手ほどきするように教えていくためには、もちろんあなたがたが一人ひとり悟っておることが前提であるが、まだそれだけの悟りを得ていない者であるならば、悟りの書を読み上げてあげるということが大事であると思う。 我らが、これだけ力を尽くして地上に霊示集を送っているのだから、これをまず死んだ方がたに供養してほしい。地上を去ったのちに本を読むことさえできなくなっているのだから、肉親であるあなたがたが読んであげることによって、彼らも必ずや、そのみずからの過ちを悟り、なにゆえに現在このような立場に置かれているのか、どうして地上に、あるいは地上生命に執着することが悪なのか、そうしたことがわかるようになるであろう。 そうして、こうした書物の朗読を通して、彼らを説得することに、次第しだいに成功していくならば、やがて書物の朗読を通すことなく、あなたがた自身の言葉で、やさしく神理を伝えることが可能となってくるだろう。そうしてこそ、はじめてこうした不成仏な者たちを救うことができるようになるのだ、と言えると思える。 もちろん、これ以外にも、いろいろと神理の経文はあるだろう。それらを読み上げるということも可能だと思える。これがまず、いわゆる一般的に不成仏霊と言われている者たちへの対処法としてあげられる。 2.怨恨(えんこん)を持つ霊にはまず反省を 次に、こうした不成仏霊とは違った、明確な意図を持ってあなたがたを不幸にしようとしている者に対する対応を取りたいと思う。もちろん、サタンと言われるほど強力なものではない、一般の人霊であって、まずあなたがたに対して害、悪意を持ってきている者、これをどうするか考えてみたい。 そうした者たちは、おそらくあなたがたが、彼らが生きているときにどこかで縁をつけていた人であろう。仕事の取引上であったか、あるいはかつて友人であった者とか、あるいはさまざまなつきあいのなかで、あなたがたが恨みをかうようなことがあったであろう。場合によっては、もっと積極的にみずからも悪を働いて彼らを不幸のどん底に陥れたこともあったやもしれぬ。 人間は、自分では気がついてはいないが、いろいろなかたちで他の人を不幸に陥れたことというのは、よくあるものだ。他の人を不幸にした者は、自分自身は、その事実を忘れていることはよくあることだが、現に不幸に陥れられた者のほうは、その事実をけっして忘れることはできない。そうして、地上を去ったのちに、自分の不遇をつらつら考えてみるにつけても、あのときあの人のああした行動が自分を破滅に追い込んだ、というふうに恨みがちである。 このたぐいの悪霊(あくれい)は、その原因を断たないかぎり、けっして身辺から去ることはない、そう考えて間違いはない。なぜならば、その原因行為自体を生きている人間がつくっているからだ。六十年、七十年の人生を生きてきたならば、だれでも最低一人や二人の人間からは恨まれていると言ってよい。まして、荒々しい人生を生きてきた方であるならば、十人、二十人、あるいはそれ以上の人びとから恨みをかい、あるいは害意を持たれていると思っても間違いではないと言えよう。 そうしたときに、霊的な自覚があれば、相手がだれであるかがわかるであろうが、そうでなくとも心を澄ましてふり返ってみれば、次第しだいにわかるものだ。人間は、多少なりともだれもが霊的能力は持っており、直感というかたちで相手が何者であるかがわかる。悪霊に憑依(ひょうい)されている場合には、たいてい体調がまず悪い。つねに体がだるく、重く、頭が痛かったり、胸が締めつけられたり、あるいは足が冷えたり、腰が痛かったり、そうしたいろいろな兆候(ちょうこう)を示す。 そして、その状態は、ちょうど何かが覆いかぶさっているかのごとくであり、何かが自分の幸福を邪魔しようとしているかのごとくである。お椀(わん)をかぶったがごとく、頭が重い場合あり、首が締め上がる場合あり、いろいろな事実はあるが、それが単なる肉体的な疲れではないと、明確に思える場合がある。精神の疲労だけとも思えない。何か他の者が、自分をして苦しめよう、自分を苦しめようとしている、と明確にわかる場合がよくあると思う。 そのさいに、心静かにふり返ってみて、けっして自分の先祖とか、そうした者ではないと思える場合に、心のなかを反省しながら、いったい何ゆえにそうした事態に、自分が現在置かれているか、考えてみるがよい。そうしてみると、過去、どこかの時点で、恨みをかっているということがよくある。そうした部分が、あるいは場合がもしあれば、それを思い出すことだ。その場面を現在ただ今のように思い出すことだ。 そうして、その人とのいさかい、あるいはその人に対して自分のなした行ない、言葉、仕打ち等を思い出して、もしこれが神の目から見て、誤っていると思えるならば、深くわびることだ。その姿を思い浮かべながら、あのときああいうふうにしたことは、まことに申しわけなかったとわびることだ。また、そのようなことをして、あなたをこのように苦しめたのは、私の責任だ。どうか、私を許してほしい、と深くわびることだ。 人間は、どのような悪人であっても、相手に謝られて悪い気はしないし、ましてや、振り上げた鉄拳(てっけん)を振り降ろすことはできない。そうしたものだ。ゆえに、もし、万一相手が、ほんとうに悪をなした人間であったとしても、その人が、それだけの悪をなすに至る原因行為を自分自身もつくっているとするならば、その一部の誤りでもあるとするならば、自分を悪しとして、そして心からわびる態度が正しい行為である。そのように思う。 このように、自分のなした過ちを反省し、そして相手にわびるという行為が大事で、そうした反省とおわびという行為が終わったのちに、さきほどのべたように神理の書物の朗読等の供養をしてやるとよい。そうすると、次第しだいに彼らの怒りが治まり、苦しみが治まり、やがて次第しだいに彼らなりの悟りを開いていくようになる。原因行為をつくったのが自分であるならば、その原因を自分自身で取り除かないかぎり、けっして苦しみが去るということはない。これはよくよく覚えておきなさい。 とくに、今、この種類において多いのが、他の人を積極的に害して、職業上その地位を奪ったり、また計画的に詐欺をしたり、あるいは倒産に追い込んだり、また三角関係あるいはそれ以上の関係でもって、他の女性ないし男性等を苦しめぬいたり、そういうことをした場合に、このような悪霊によって苦しめられるという現象が、数多く出ている。 ゆえに、自分が心当たりある範囲で、そういう霊になっている可能性がある者があったら、よくよく反省をしてみることだ。それ以外に手はないと思わねばならない。いくら、神仏に頼もうとも、自分がまいた種は、自分で刈り取らねばならんという真実を思い起こしてみるべきだ。自分が原因結果をつくっておるのだ。それを忘れてはならない。 3.崇(たた)りに対しては守護・指導霊への祈りを また、こうした恨ふの霊のなかに、また違った種類のものもある。それは、彼らが生きているときに、こちらが何らかの原因をつくって恨まれている場合だけではない。死んでからのちに、恨みを持っている者もいることはいる。それは、故人を粗末にした場合などに、そういうことがないとは言えない。死んで地上を去ったのちも、彼らは地上のことがひじょうに気にかかっている。ゆえに、こうしたときに亡くなった方の遺志に、ひじょうに反するようなことをやったりすると、彼らがなんらかの騒動を起こすことがある。 たとえば、亡くなった方は、このように遺産を分けたいというふうに思っていたにもかかわらず、それを死んだ人間には口はない、死人に口なしということで、知らぬ顔をして違ったことをする。夫婦で争ったり、兄弟で争ったり、そういうことをし始めると、地上を去った人間、もしそれが悪い人間でなくとも、彼らがまだ十分成仏(じょうぶつ)しきっていないときに、そういう地上の争いが起きると、彼らはだんだん苦しくなってくる。そして、子孫たちに対して腹が立ってきたりすることがある。 こういうときに、なんらかの事件が起きたりすることがよくある。病気であるとか、交通事故であるとか、こういうことがひじょうに起きやすい。これは、地上の人間が誤っていることを、警告するためにあえて霊がやっている場合もある。 もちろん、こうしたことは、けっして正しいことではないが、彼らとしてはそうしたことでもしないかぎり、自分の意思表示ができない。そういう思いにとらわれて、やることがある。これなども、ひじょうに危険なことで、あくまでも地上を去ったからといって人間には意思が残っており、考え方は残っておるのだから、地上を去った人間の考えをできるだけ尊重しようという心を持たねばならない。そして、遺された者が調和した生活を送るように努力をせねばならない。 これなどは、知り合い、あるいは身内(みうち)の場合であるが、それ以外の者も、もちろんある。 たとえば、いろいろな霊域と言われるところに訪ねていった場合に、そういうことがよくある。祠(ほこら)であるとか、社(やしろ)、寺院、お墓、こうしたところにはさまざまな霊たちが棲息(せいそく)している。 もちろん、高級霊たちがいることは少なく、低級霊、悪霊(あくれい)のたぐいが多いことは言うまでもない。こうしたところで、波らの機嫌を損ねるようなことをして、憑依(ひょうい)されるということがよくある。 たとえば、お墓に行って、「霊なんかあるものか」というようなことを公言したり、あるいは失礼な行為をする。また祠などでそういうことをする。こういうことをして、そうして、まあそうした霊たちの怒りをかうということはある。神が怒るということはめったにないが、そうした自称神であるところの霊たち、あるいは動物霊たちが、なんらかの悪さをしようとし、あるいはその怒りに任せて、地上の人間にお仕置きをしようとして、悪さをしてくることがある。 こうした場合も、原因は自分自身がつくっているということを忘れてはならない。自分自身が、そのような行為をして、彼らの怒りをかっているのである。したがって、原因不明の発熱があったり、突如体調が変化したり、突如事業がうまくいかなくなったり、突如事故が頻発(ひんぱつ)したり、そうしたこと、があった場合に、よくここ一年ほどの自分の行動をふり返ってみるがよい。なんらかの霊域に踏み入って、そして霊たちを侮辱(ぶじょく)するようなことを、何かしたのではないか。そうした寝ていた者を起こしているのではないか、ということをよくよくふり返る必要がある。 そうした寝ていた者を起こしているのではないか、ということをよくよくふり返る必要がある。 しかし、これはなかなかその発見が難しい。それゆえに、こうした事態になったときには、やはり心を静めて、自分の守護霊あるいは指導霊に祈るがよい。守護霊や指導霊に祈って、そしてこうした霊の障(さわ)りを取り去るのがいちばん妥当である、というふうに思われる。 あくまでも、自分自身の守護霊や指導霊を通じて、そうした崇りを去るように努力をすればよいと思われる。 4.一般的憑依(ひょうい)に対しては、まず健全な生活を取り戻すこと また、これ以外にあるのが一般的な憑依であろう。 これは、場所、特定の場所で憑依される場合、あるいは特定の人間と出会って憑依される場合、このようにとくに縁がなかったのであるが、偶然に縁ができて、たまたまその人が霊体質であったり、相手の霊人の好みであったりして、そしてとり憑かれる場合がある。こうした場合も、たいてい体調の変化、あるいは気分がすぐれない、頭痛がする、こういうことでだんだんにこれは憑依霊ではないか、ということがわかるようになる。 こうした場合の憑依霊の取り方であるが、一番は、まず健康生活を取り返すことが大事だと思われる。健康な生活をするということ、これが大事で、次には肉体的にも力を十分に持つということ。睡眠をとり、またスタミナをつけるということ、適度な食事をとるということ。このように健康管理をして、自分自身の生活をひきしめていくことが、まず大事です。地獄霊たちが憑(つ)いてくると、生活が不規則になり、ふしだらになり、そして、だんだんに夜更(よふ)かし型になってきます。こうした事態を避けることが望ましいと思われます。できるだけ健全生活にまず戻してください。 また、こうした悪霊たちに憑依されはじめると、だんだんに夜が眠れなくなってきます。夜が眠れないとどうなるかというと、朝起きるときも辛(つら)く、睡眠不足の状態で仕事をし、また疲れ、夜眠れないという悪循環になります。悪霊に憑かれたことの、いちばんよい証明は、まず夜が眠れなくなること、これが一つ。それから、ひじょうに怒りっぽくなること、これが一つ。他の人に対して、怒り散らすようになります。それから、もう一つは愚痴(ぐち)っぽくなること。さらには、被害妄想(ひがいもうそう)になり、悲観的になること。情緒がひじょうに不安定になること。こういうことが挙げられましょう。 このような特徴が現われてきたときには、自分もこうした悪霊に憑依(ひょうい)されている可能性がきわめて強いというふうに思わねばならないわけです。努力して、まず健康生活をつくることが大事です。夜を眠れるようにするためには、朝は努力して起きること、まずこれが第一ですし、寝る前に体をフレッシュに、体をリラックスできるように努力しなければなりません。簡単な運動等を取り入れて、そしてぐっすりと眠れるような訓練をしていく必要があります。それと、人間関係で、軋轢(あつれき)、悩み等をつくらないことです。夜眠れない原因も悩み事があることが多いです。 したがって、夜眠る前に悩み事を解決しておくように、努力することです。すなわち、布団の上、ベッドの上でよいから、今日一日あるいは今日まで引きずってきた過去のいろいろな問題について、自分なりに清算をつけることです。自分の考え方を変えることによって、決着がつく問題は、考え方を変え、また明日、具体的な行動をとることによって決着のつくものは、そういう行動をとることとし、そしてまたそれ以外にどうしようもない、どうにもならない問題については、それは神に全託する、そして祈るという方法もあるであろう。自分のできる範囲で片付けるものは、片付け、そして片付かないものについては、大いなるものに任せるという気持ちで、心の執着を去り、心安らかに床につくことが大事です。さすれば、よく眠れるようになってきます。 5.身近な人が悪霊を持っている場合の対処法 また、さらに考えられることは、身近にいつも悪霊を持っている人と接触しているということがありえましょう。職場で悪霊をつねに持っている人と、そういう上司あるいは同僚といつも接触する、あるいは家庭において悪霊をひじょうに持っている人がいる、こういう方とつねに接触している場合、悪霊の悩みが絶えないことになってきます。 そのさいに、とる方法は二つしかないといえましょう。相手を変えるか、自分を変えるか、このどちらかです。相手を変える場合には、きっかけをとらえて、彼らに神理を教えてあげることです。そういうこと以外、ありません。きっかけをとらえて、神理を伝えてあげることです。自分を変える場合には、この方法はいくつかありましょう。 一つは、自分の悟りをきわめて高いものにしていくことによって、悪霊たちの影響を受けないような状態にまでするということ、これが一つ。もう一つは、積極的にこの悪霊たちをなんとかして追い払うべく努力しようとすること。こういうこともありえましょう。 第三の道は、時が過ぎるのをただ忍耐強く待ち、心に曇りをつくることなく、心に波をつくることなく耐えていくという方法もあります。意外に、この第三の方法が大事であることも、多いのです。身近に悪霊がたくさんついている人がいる場合に、なかなか心の平静を保つことは難しいというふうに言うこともできるでしょう。 しかし、そうした時期は、そう長くはありません。あなたの光によって、彼の、あるいは彼女の悪霊がとれるか、あるいは向こうが、あるいは向こうに憑(つ)いている者が、あなたをいやがって、そして彼を引き離そうとするか、どちらかに必ずなるからです。いずれにしても、ここに光と闇(やみ)との闘いというものが始まることになります。 ゆえに、そうしたなかで、心を乱すことなく、淡々と神理を学んでいくことが大事です。神理を学んでいくことにより、その光で悪雲を追い払うこともできれば、もし万一そういうことができないとしても、そうした数多くの悪霊をつけている人は、日々謙虚に精進(しょうじん)しているあなたの近くには居たくないという気持ちがきわめて強くなってきます。それゆえに、なんらかの口実をつけて、彼あるいは彼女をあなたから引き離そうとし始めます。この場合に、その人自体は救えないことになるかもしれませんが、少なくとも悪霊たちに対しては、一喝を与えたことになり、彼らも容易ならざることを経験します。 そうした人があなた一人であるからこそ問題なのであり、あなたのまわりにも、それ以外にもあなたのように光に満ちる人が出てきた場合に、ついに悪霊はその住み家を失い、彼あるいは波女から離れていかざるをえなくなっていくのです。ゆえに、みずから光が強く出ていると思ったら、この光の軍団を増やしていくことです。他にも同志をつくっていくことです。そうすることによって、その人が救われていくという現状も出てまいります。 6.動物霊への対処法 さて、以上一般的な悪霊について話をいたしました。とくに、人霊については、話をしたとおりですが、動物霊のたぐいについても話をしておく必要があるでしょう。日本でとくに多い動物霊は孤の霊と蛇の霊というふうに言われています。これ以外にも、家畜になるような動物の場合には、憑依霊(ひょういれい)になる可能性はあります。これ以外にも、たとえば虫の霊とか、そうしたものが集団的に憑依することもあります。 しかし、代表的には、孤と蛇であります。というのは、この二つは、長く民間信仰を受けてきて、龍神を祀(まつ)ったところに蛇の悪霊が集い、また稲荷(いなり)神社に狐が集うという現象が多く、日本にはこの二つの悪霊が多いというふうに言われていますし、現実にそのとおりです。 さて、こうした動物霊に対しては、どうするかということですが、彼らが憑依をしてきた場合に、明らかにわかることは、感情のムラが激しくなってくる。そういうことが言えましょう。ひじょうに感情にムラが激しくなって、日替わりの天気のような、そういう感情の動きになってきます。そして短気でカッとしやすいということは、共通項として言えるでしょう。また、こうした動物霊が憑(つ)いてくると、情欲がひじょうに強くなってきて、そうして淫(みだ)らな心を起こしやすくなってきます。また、食べ物の趣味・嗜好(しこう)が変わることもあります。まわりの人が見ていて、まったく驚くような量を急に食べはじめたり、今までまったく□にしなかったようなものを急に欲しがったり、このように食べ物の趣味が変わってくることがあります。 そうした肉体にかかわる異常事態がシグナルとして出てまいります。自分自身では、なかなかそれとはわからないことが多いのですが、他の者から見ているとひじょうによくわかります。ですから、つね日ごろ他の人の意見をよく聞くことが大事です。もし、こうした動物霊に明らかに憑依(ひょうい)されているという傾向が出てきた場合に、いったいどうしたらよいか。 それは、その人の心のなかに動物に通じるような心があるということが、まず原因です。人間としての尊厳を失っている。肉体の本能のままに生きる心が強い。煩悩(ぼんのう)に振り回されている。そういう気持ちが強いということが言えましょう。それゆえに動物雲に憑依されがちな人は、まず節制をし、そして精神の鍛練をすることが大事だと思います。 このさいに大事なことは、ストイックな生き方に努めることだと思います。通常よくないと言われている酒、たばこはもちろんのこと、それ以外のマージャンであるとか、また女性にかかわる遊び、ゴルフ、競馬、競輪、パチンコ、その他、こうした射倖心(しゃこうしん)をあおるようなことを、できるだけ慎み、またその逆に刻苦勉励型の生活をしていくことです。規則正しい生活をして、自らの精神の向上をもたらすような努力をすることです。それは、書物を読むことでもよいでしょうし、あるいは書画を習うというようなことでもよいでしょうし、あるいは語学を習うというようなことでもよいし、それ以外のことでもよいですが、なんらか、人間精神の向上を伴うような努力、勉強、そういうものを開始することです。 節制に努め、そうした努力をしていると、動物霊たちは必ず剥(は)がれていきます。彼らは、そのような向上心があり、また菩提心(ぼだいしん)のある人間が大嫌いなのです。人間としての、精神性の高みでもって、こうした憑依霊、悪霊のたぐいを振り払うということがひじょうに大事である。そういう方向が、本筋であると私は思います。人間として、最も尊いものを出すことです。それによって彼らをうち払うことが可能であると思います。 また、肉体に関する欲望をできるだけ少なくし、生活にけじめをつけることです。ふしだらな生活はゆめゆめしないで、けじめをつけるということ、これができなければ彼らに負けているということなので、自分自身の支配者は自分である、自分の魂であると強く思い描くならば、断々乎(だんだんこ)として生活の改善に取り組むべきです。もし、意志弱くして、それが難しいならば、家族の者あるいは友人等にたのんで、どうか彼らに自分を見守ってもらって、そして正しい道に入れるように努力をすることだと思います。 7.サタン(魔)に対しては、みなの一致協力・中道(ちゅうどう)・不退転(ふたいてん)が鍵(かぎ) さらに、これ以外に悪霊としていちばん強烈なものに、魔とかサタンとか言われるものがあります。これは通常の者よりも、はるかに力が強く、その惑(まど)わしの力も強いと言ってよいでしょう。こうしたサタンのたぐいに狙(ねら)われる者は、正法流布(しょうほうるふ)に関係している者であることが多いと言えましょう。あるいは、神理、宗教に関係している者が多いというふうに言えましょう。 それに関係していない者としては、人びとを惑わし狂わすことのできるような重要な立場についている者に限られるというふうに言ってもよいかもしれません。すなわち、こうした魔が入るのは、人びとを狂わせるような立場に立つ人、思想家、学者、政治家、経済人、財界人、なによりそうした強い立場、高い立場をもって、人びとに影響力を与えることができるような立場に立っている人に入りやすいというふうに言ってよいでしょう。とくに、いちばん多いのが宗教家です。宗教家は、もしその出自(しゅつじ)が光の天使であったとしても、つねにこうしたサタンに祖われているというふうに言ってよいでしょう。 また、宗教家と宗教家を取りまく弟子たちも同じです。彼らも市井(しせい)の普通の生活を送っておれば、そのような魔に狙われることはなくとも、神理流布(るふ)などの使命をになって協力者として立ち上がったときに、そうした魔に狙われることがよくあります。これは、ある意味ではいたしかたがないということでもあるかもしれません。坤理流布(るふ)というふうな仕事においては、日々これ魔との闘い、サタンとの闘いであります。すなわち、日々戦場にいると思わねばなりません。日々戦場にいるわけですから、味方の弾ばかりが敵に当たり、敵の弾は自分らにまったく当たらないということは考えがたいのです。 それゆえに、自分の仲間たち、心深く親しんでいた者たちも、敵弾に当たって倒れていくこともよくあると言わねばなりません。あなたの側にいる人が、後ろにいる人が、前にいる人が、パタッと倒れていくことがあります。こうした魔に狙われてです。これらは、ひじょうに強い力を持っており、通常の悪霊とは同一視することが、できません。彼らは原則、成仏(じょうぶつ)させることは難しいです。それは、少なくとも千年以上の長きにわたって、地獄に住み、多くの人びとを迷わせてきたという実績があり、それだけの悪想念を持っているがゆえに、そのマイナスを打ち消すには、相当の力が必要だからです。彼ら自身は、もはや反省ができない領域まで踏み込んでおり、それだけの悪を重ねてきております。 彼らは、そのように、そう簡単には諭(さと)すことはできないものですから、原則は彼らの力を弱めていくためには、まわりから攻めていくというのが本筋です。すなわち、彼らの食糧源であり、彼らの活動源であるところは、一般の人びとの迷いの想念、苦しみの想念、悩みの想念ですから、まず一般の人たちを救うほうから始めていくのが筋でしょう。そして、やがて日ざしを強くして、彼らを孤立させ、浮き彫りにさせていくというのが本筋です。そうして、明らかにすることによって、魔の力は弱ってきます。 この魔との闘いは、きわめて厳しいものがありますが、まず魔が今現われているのだということを、見抜かねばなりません。見抜くことが第一歩です。自分に入ったか、自分の身近な者に入ったか、あるいは入ろうとしているのか、これをまず見抜くことです。見抜くことが、いちばんです。見抜いてしまえば、なんとか彼らに操縦されないように努力することが可能だと思います。 見抜けるためには、大事なことは、つねに謙虚な心を忘れないことです。つねに、おごることなく謙虚な心を忘れないこと。努力精進(しょじん)する心を忘れないことです。魔が入ってくるところは、いつもブライドです。あるいは妬(ねた)み、また欲得(よくとく)、そうしたところに必ず入ってきます。彼らは甘い罠(わな)をしかけてきます。そして、その甘い香りで、鼻の先をくすぐります。そして、その人の持っている利己心に働きかけてきます。魔が働きかけてくるのは、いつも利己心である。そう思ってよいでしょう。 その利己心とは、けっして自分を高くするという意味での利己心だけではありません。逆の利己心もあります。自分を粗末に扱う、自分を卑下(ひげ)する、自分を小さなものとして取るに足らないものとしてあざ笑うような、そういう傾向を持った人のところにも入ります。どちらにも入ってきます。 よしくよ人間は神の子であり、神の子として謙虚に精進していかねばならんのだということを知ることです。どちらの極端にもブレてはなりません。悪魔に対しては、積極的に一撃を加えることよ、かなり難しいことではありますが、最善の防御方法はやはり中道に入るということだと思レます。とくに、人生の転換期、心が揺れるときに大きな隙間(すきま)ができます。そうしたところにつけ込んでこられます。 ゆえに、こうした時期は、そう長くないと思って中道に入ることを心がけることです。すべての物事の判断が極端に揺れないように。どう判断していいかわからない場合は、常識に沿って判断していくということが妥当であると言えましょう。また、そうした魔が立ち現われていることがわかったならば、その狙(ねら)われている人、あるいはそのまわりの人は、よくよく注意してみんな一致協力してその魔を追い出そうと努力していくことです。それが大事です。みんなの者の合意、協力ということがひじょうに大事になっていきます。 さて、この魔との闘いはけっして終わることはないでしょう。私も日夜続けています。それゆえに、あなたがたに対して、あまりにも酷なことは注文はできないかと思います。しかし、つねに考えてほしいことは、みすがらも神の子であり、神の使命をになって生きているということです。そして、けっして孤独な存在ではなく、霊天上界には、必ず私たちがあなたがたを守ろうとして努力している、そういうことを忘れないことです。 地上的な出来事に一喜一憂(いっきいちゆう)することなく、つねに大いなる者に守られているという感覚を持つことです。そして、道は必ず拓けるんだという確信だけは、けっして忘れないことだと思います。さすれば、必ずや道は拓けてきます。 いずれにしても、本人の自助努力に比例した他力の助けもあるということだけは忘れないでいだだきたい。あなたがたが悟るに従って、私たちもまた助けやすくなる。そのことだけを忘れないでください。 魔との闘いは、最後は忍辱(にんにく)です。そして中道(ちゅうどう)です。中道に入り、忍辱の心を忘れず、そして足ることを知って生きていくことです。そうすることによって、やがて彼らを回避することはできます。 そして、さらに大事なことは、意志の力です。魔に打ち克(か)つのは、最後は意志です。強い意志です。不退転(ふたいてん)の意志です。神の子としての自覚です。これが最後に勝利する鍵(かぎ)となるでしょう。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/52.html
目次 1.正義の教えは両刃の剣 2.かつて裁きの神エホバとして名を残した高橋信次 3.イエスの時代は「愛の時代」であった 4.モーゼの時代は「正義の時代」だった 5.釈迦の「慈悲の時代」と孔子の「秩序の時代」 6.神理は七十二面体カットのダイヤモンドのように光を放つ 7.正義の時代のエホバは「偶像崇拝」を排斥した 8.あの世から見れば邪宗はすぐ分かる 9.神仏は崇るか 10.天変地異は地球の生命体の自浄作用 11.アトランティス大陸沈没の真相 12.本当の裁きの神とは個々人の内部神性 13.人を裁くよりも彼らの良心を信じよ 1.正義の教えは両刃の剣 今日はいよいよ第4章ですね。四日目になりまして、正義の時代ということについてお話をしたいと思うのです。現在はね、宗教を見てみると、とくに日本の宗教を見てみると、正義ということが忘れられているような感じがするのですね。まあ正義って何かというと、正しく筋が通っていることということですね。あるいは正しい者は要するに、屈してはならない。筋を通さねばならぬと、この世的にも勝利をせねばならぬということね。これが正義です。これが、今ちょっと薄れているかもしれません。 まあ正義というのが今、残っているとすれば日蓮宗系ですね。これはやっているかもしれない。日蓮さんの教え、過去説いたという教えに関しては結局、何と言いますかね、正しいのは、これしかないんだということで、他を折伏(しゃくぶく)する。説得して、それに改宗させると、こういうことを今だにやっていますね。連綿(れんめん)と七百年やっとるわけです。まあこれは、一つの正義の顕(あらわ)れかもしれません。 ただ正義ということはね、非常に難しいところがあるんです。この世的にいいものというのは、どれも諸刃(もろは)の剣、両刃の剣であって、いい面もあるけれど、悪い面もあるというところがあります。正義の持つ二面がまさしくそうですね。 いい面としては、本当に神理が正しいものを正しいとして、太陽のもとで認められると、太陽のもとに正しいものはこれしかないと、こういうことが明らかになるという意味でいいですね。 悪い面は、これが正しくて、これは間違いだというのは、非常にくっきりと、はっきりとなるために争いを呼びやすいと、こういうところがあるのです。これがあやうい面です。まあそういうふうにいろいろ見てくると、正義の悪い面も、いい面も両方ありますね。 2.かつて裁きの神エホバとして名を残した高橋信次 歴史的には、たとえばモーゼの時代、まさしく、これは正義の時代でした。正義の時代の神っていうのは、何かというと裁(さば)きの神でしたね。裁きの神ということで、ヤーヴェの神というのが出て来て、短気で怒リっぽくて、不寛容で、要するに言うことを聞かないと怒っちゃうと。まあ、こういう神様がおりましたね。 谷口雅春さんの霊言集というのが先般出たようですけど、谷口雅春という方は、大ベストセラーの『生命の実相』を書かれたり、いろいろな本を書かれているけれども、彼は昔、大昔から「エホバの神って、ありゃ邪神(じゃしん)だ」と言っておられたそうです。なぜ邪神か。「妬(ねた)みの神、怒りの神、こんなのおかしい。なんで神様が妬むことがあろうか。怒ることがあろうか」そりゃそうですね。宗教人の常識から言えば、そうです。ですから谷口さん、そう思ったんでしょう。 ところがあの世に来てみると、その妬みの神、怒りの神が、こっちにいましてね。「いやあ谷口さん久しぶりですね」と言って待っているのですね。「もしかして」なんていうとね。「あなたが邪神といわれた方は、この私なんですよ」「ああやっぱりそうですか。GLA起こした高橋信次。やっぱり邪神だと思ったら、ああそうですか。私も高橋信次って名前は知っていたが、これは邪神だと思っていましたよ」なんてね。こういうことを言われることがあります。 それはね、神理の一面だけ見ているから、そういうふうになるんであってね、別に谷口さんがどうこうっていうことじゃないんです。まあ、時代時代があるんですね。法というものも時代に合わせていろんな説き方をされるんです。そして神理のいろんな面が出てくるんですね。 3.イエスの時代は「愛の時代」であった イエス様の時代には、つまり二千年前のイスラエルの時には、愛という点を全面に押してきましたね。愛という面ですね。イエス様は愛以外説けないかというと、そんなことはないです。もちろん何でも知っています。万能とまでは言えませんけれども。イエス様はそれは大工(だいく)仕事は知ってても、スペース・シャトルの組み立て方は知らないかもしれません。けれども、まあ彼の時代は愛ということを中心に説いた時代でした。 4.モーゼの時代は「正義の時代」だった あるいはイエス様の千百年か千二百年前のモーゼの時代っていうのは、これは、正義の時代だったのです。正しい者が強くなければならぬという、正義の時代だったんです。あるいは「義」、「義の時代」だったわけです。 5.釈迦の「慈悲の時代」と孔子の「秩序の時代」 釈迦の時代って何か。二千六百年ぐらい前ね。釈迦の時代っていうのは、「慈悲の時代」、あるいは「法の時代」、こういうことなわけです。 あるいは中国の孔子様って何ですか。儒学(じゅがく)ですね。あるいは儒教。儒教って何だろう。立身出世なんてあるけれども、人間としての完成の道ですね。それを中心に説かれた。主に道徳的に、あるいは人間の知性と理性に訴える形での「秩序」、そういうものを説かれましたね。 同じく秩序を説かれたのは、日本だと古代の天之御中主之神、天照大御神様、こういう方がたが秩序と礼節ということをしきりに説かれました。 6.神理は七十二面体カットのダイヤモンドのように光を放つ こういうふうに、神理は本当はいろいろな面があるんですよ。ところが、それをいっぺんに全部出しても分からないし、特色がないから、何か一つの特色を出すんです。その時代に。 出版社なんかでもそうですよ。今、日本に出版社何千あるか知らないけれども、みんな同じような本を出していたら、意味がないのです。それぞれの出版社に特徴があるから、それでいいんですね。 たとえば、こういう霊言ものでもそうです。ある出版社は本当に内容がいいような、諄々(じゅんじゅん)と説得するような内容のものしか出さないという出版社もあります。 あるいは悪霊専門でね。悪霊でもなんでもいいと。とにかく売れればいいと。悪霊篇でよく出している出版社もあります。 あるいは予言がやたら好きで、予言ばっかり出している出版社もあります。 こういうふうにいろいろあるのですね。霊的なものが好きといっても、こういうもんであって本当にいいのです。特色があってね、それぞれがやる意味があるんです。 だから私たちの法というのもそうで、いろいろな時代にいろいろな面が出てくるんです。ですからそれを、あるものは正しくて、あるものは間違っているなんて言ったら、これは違うんですね。そうじゃありません。 やはり、ダイヤモンドみたいなものでね。ダイヤモンドでもいろいろなカットの仕方がありますね。十二面体、二十四面体、三十六面体、七十二面体。私は持ったことがなくて知らないから、人づてに聞いたことでしゃべっているんだけれども。三十六面体カットとか、七十二面体カットとかいろんなのがあるんでしょ。持ったことがないのでよく分からないんですが、一度ぐらい手にしたいと思うんですけれども。そういうカットの仕方がある、と聞いています。 そういうふうに神理っていうのは同じようなものなんですよ。多面体なんです。そしてそれぞれの面が、いろいろな時代に、地域に合わせて、チラチラ出てくるんですよ。そして、その面を通してね、ダイヤモンドを感じ取りなさい。そういうことなんですよ。 そういう意味で、神理が七十二面体だとするとね、七十二面体の一つが、たとえば「愛」であり、「礼節」であり、あるいは「慈悲」であり、あるいは「義」であると。こういう一つ一つの面なのです。 あるいは里見ハ犬伝みたいなのを出してくりゃあ、「忠」だとか「孝」だとかいっぱいあります。昔からあるものは、「仁」だとか「信」だとかあります。こういうのが面なんです。こういう面がチラチラ出てくるんですね。 7.正義の時代のエホバは「偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)」を排斥した じゃあモーゼの時代、つまり、正義の時代のエホバ神というのは本当の邪神であったか。これの検討に入らねばならぬと思います。そうじゃないんです。皆さんは、今の時代だからそう思うだけでね。当時はそうじゃなくて、非常に人殺しのはやった時代なのです。それと今もありますけれども、いわゆる邪教、本当に間違った信仰というのが多かったのです。 とくに人びとは偶像崇拝というのをやっていまして、要するに金儲けの神様です。今流に言えば、銭儲けの神様を一生懸命信仰しておったのです。まあバール信仰なんていうのもそうですけれども、分かるように言えば「招き猫」ですね。招き猫の信仰というのをやっておったのです。 皆さん今、招き猫の大きいのを、五メートルぐらいのを作ってね、これを本部にすえて、招き猫の前でみんなで右手なんか曲げちゃって、「はい、これが招き猫のポーズですよ」「これが正しい精神統一の方法です」と。 ご本尊の招き猫の前で、こうみな手を立てちゃって、「はい、これで商売繁盛です。儲かります、儲かります。招き猫です、招き猫です」と、これをやっとるわけです。とんでもないです。 こういうのを見ると天上界からエホバの神は、「そういう間違った信仰はやめなさい。招き猫なんか、いくら拝んだってあなた方、本当に正しい生き方できないんですよ。本当に神理っていうのが分かんないんですよ」と、そういうことを言ったわけです。「そういう招き猫なんかやめて、人間としてちゃんと働きなさい。汗水たらして朝から晩まで働きなさい。そして人とうまく調和しながら生きていく中に、人間としての繁栄があるのです。本当の発展があるんですよ」と。 だから招き猫は打ちこわして、捨てちゃって、猫の一匹や二匹飼ってもかまわんけれども、そうぃう猫におこぼれあげるくらいの収入を得るように、ちゃんと働きなさいよ。そういう招き猫を拝んで利益を得るよりは、あなた方日常生活の中で、日々コツコツと努力し商売し、他人との関係を調和しながら、立派になっていきなさい。それが最高ですよと。まあこういうことを教えたわけです。 その時にたとえば、こういうようにエホバ神はね、「我以外には神なし」と。「招き猫と我とは違うぞ」と。「諸君よ、招き猫の神は偽物(にせもの)である」と。「招き猫の神は捨てなさい。我以外に神としてはならぬ。拝んではならぬ。奉(たてまつ)ってはならぬ」と言ったわけです。じゃあこれは妬(ねた)みの神だから邪宗かっていうとそんなことはないですよ。 別に、招き猫と私は競争しているわけじゃなかったんですけど、そういうのはおかしいですと。招き猫のお化けなんか飾っちゃいけないのです。そういうことを言ったわけで、まあ、これを称して「妬(ねた)むもの」というのは勝手です。「妬むもの」というのは言い過ぎであってね、「我は排斥する者」と。要するに「我は悪しき者を排斥する」するという意味ですね。 ですから、寛容ということも宗教には大事です。けれども、かたや左側には高橋信次の肖像画をかかげて、右側に招き猫の、五メートルかね、実物大以上かね、招き猫のお立ち台か何かつくっちゃって、両方に手を合わせちゃったりして、こっちも正しい、あっちも正しいよ高橋信次っていうのは高電工業で金儲けうまかったけれども、他人に金儲けはあまり教えなかったと。そういったところで法に欠陥があると。そういうことで、招き猫の神というのは、その欠陥を埋めるに余りあるご利益(りやく)がある方たっていうんで、高橋信次の肖像に向いて、経典の「心行(しんぎょう)」なんか読んじやって、「大宇宙、大神霊、仏よ」なんてやっているんです。 そしてそれが終ったと思ったら、じやあ、ちょっと次は銭儲けの方をやらなきやって、チーンと叩きながら、「ハイ招き猫ね。今日は、これが目刺しの頭の残りですよ。これでご利益下さいよ」とやったら、やっぱり高橋信次の肖像画が、ガタガタガタガタゆれ始めてね、「こら、何やってるんだ、そんなことをしちやダメだぞ」と。「俺だってあなた、目刺しの頭ぐらい食べたいぞ。こっちへ持ってこい」なんて、やっぱり言うわけですよ。そして、「その招き猫やめなさい」なんて、言うわけです。まあ、これを妬みの神と言うか、目刺しの頭食べたいといって妬んだか、まあ言い方はあるでしょうけれども。 8.あの世から見れば邪宗(じゃしゅう)はすぐ分かる まあ、こういうのは方便でありまして、やはり正しい信仰に帰依(きえ)しなさいということだったわけです。 私たちから見ると、つまりあの世から今の地上を見ると、邪宗、邪教というのはよく分かるんです、間違っているのは。とくに「光の天使」たちが指導している宗教というのは、これは、すぐ分かるけれども、光っていない「曇りの天使」たちね、頭が真っ黒になった霊たちが指導している宗教団体というのも、すぐ分かっちゃうんです。 だから本当は、正直な人間であれば、「それはちょっと違ってますよ」と本当は教えたいんですね。本当は教えてあげたいんです。「その教えは違っていますよ。そんな方に行ったら、あなた、もうトントントンと地獄のいちばん奥の方まで行っちゃいますよ。それでいいんですか」なんて、ほんとうは言いたくなるんです。 だからたとえば、私は天上界でも、新聞は非常に興味を持って読んでいるんですけれども、今日の読売新聞を天上界から眺めてみると、ある密教食をつくった宗教家が、薬事法違反で摘発されていました。そういうのを私は見てました。「オー、やったな。とうとう見つかったねえ」なんてね。 一時期十年ほど前から密教食ブームなんてあってね、これを食べれば念力がついてくるなんて言って、健康になって念力がついてきて、念力で護摩(ごま)の火がたけると。念力で大学に合格したり、彼女を射止めたり、念力で給料が増えたりいろいろすると。こういうことで、密教食を食べながら数珠(じゅず)をもんでたら、だんだん力がついてくると。まあ、こういうのを言っているところがあります。 こういうのをあの世から見てみたらいろいろ分かるわけです。「その密教食、薬事法違反にそのうちなりますよ」とね。まあそういう余計なことを言わなくてもいいんだけれども、「あんまり、そちらの方向へいって念力つけたって、下の方のチャクラばかり開いちゃって、本当の精神統一できませんよ」と。たとえば、あの世からエホバ神ならぬ高橋信次がお節介にも言うことができるんです。 ただそういった結果、どうなるかというとね、「あー、高橋信次は多分、密教食を食べたくてしょうがないのに、あの世で手に入らないので、それでひがんでいるに違いない」と。「高橋信次の墓の前に密敷食を持っていって、それをパックにして置いてやったら、多分喜ぶに違いない。時どき、一日一回、水をかえてやったら喜ぶだろう」と、たまには花の一つもかえてやろうか」と。「多分ひがんどるんだから、妬みの神だから」と。まあ、こういうふうにとる人がいるでしょう。そういうわけじゃないということです。 ですから、あの世から見てると、この地上の中で、おかしいのがよーく分かるんです。それを正直に言い過ぎると、妬みの神になっちゃうわけです。あるいは怒りの神になっちゃいます。 9.神仏は崇(たた)るか あと、よくありますね、神仏が人を罰するか。天変地異っていうのは、神仏の怒りであるかどうか。これについても私は、答えとかねばいかんと思います。まあよく新興宗教でも多いですね。「うちの宗教を脱会すると、脱宗すると神の怒りにふれて、お前に祟(たた)りがあるぞ」と。いわゆる「崇り」ですね。 崇リの問題について、崇りは本当にあるかということをちょっとのべておきましょう。神仏、あるいは高級霊たちが崇りを起こすかというと、絶対、これはあり得ないです。私はこれをはっきり言っておきます。崇りはありません。 だから、たとえ、高橋信次のご遺影にね、お小水をかけたとしても、私は面白くないのは当然ですけれども、それで崇ってね、夢枕に出てきて、その人をこらしめて、あと腰か何かに取り憑(つ)いちゃって、腰がたたないようにするかというとそんなことはしないです。いくら何でも、私もそんな暇じでありません。 ところが、そういうことをする霊もあります。それは地獄霊たちです。とくに動物霊たちがそうですね。動物霊たちは、よく分かんないから、無礼をされたからとか、「あの野郎失礼を働いた」なんて、こういうことで怒ることもあります。よく社(やしろ)なんかありますね。お孤さんなんか祭ってあります。それで稲荷大明神を祭ってあるところに本当に稲荷大明神がいるかっていったらいやしないのです。そこにいるのはたいてい狐の霊です。 動物霊たち、それもたいてい餓鬼地獄(がきじごく)に堕(お)ちた狐の霊たちで、お腹空(なかす)かしているのですね。お腹空かして、ひもじいひもしい思いでいます。そして人が何とかしてね、油揚げでも何でもいいから奉(まつ)ってくれないかと思っているんです。彼らはもちろん食べることはできないけれども、油揚げを供養(くよう)するというような気持ちだけでね、それで満腹感が少しはあるから、それが欲しくてそういう大明神の社にいるんです。 で、そこに来ていろいろな人が手を合わせたり、ご飯持ってきたりすると喜んでいるわけです。 ところが不埓(ふらち)な者が来て、「何だこんな稲荷犬明神、こんなものあんた、信しんぞ、俺は」と言ってね、放言してぺーっと唾(つば)をはいて帰ります。すると稲荷大明神ならぬお狐様は怒っちゃいますね。「この野郎、俺に対して失礼なことをしたな。これは許せん」ちゆうんで、頭に取り憑(つ)いてきます。そうするとその人は、一晩寝ると、翌日あたりから頭が痛くて痛くてしょうがない。そして肩が凝(こ)って凝ってしょうがない。腰が痛い。こういうことになってきます。 ですから地上の皆さん、信仰している人も、していない人も、急に頭痛がしたり、頭痛持ちで、頭が割れるように痛い、あるいは肩がいつも重い、肩が凝る、こういう人というのはよく狐霊に憑かれています。よーく反省してみなさい。 そして腰が重い。あるいはリューマチね、足が冷える。こういうのは蛇の霊が多いです。とくに冷え性というのは蛇の霊が多いですね。冷え性の方はとくに蛇と縁がないかをよーく考えなさいよ。どこかの水神(すいじん)さんか何かに行って拝んだりしてないかどうか。こういうことがあります。 ですから崇(たた)るというのは要するに悪霊です。それも、そういう社(やしろ)とか、祠(ほこら)とかに巣くっている悪霊がほとんどです。だから気をつけなさい。高級霊はそういうことはありません。 10.天変地異は地球の生命体の自浄(じじょう)作用 あと、神仏が人類に罰を与えるかどうかだね。まあ結果としてね、罰に近いような現象があることはあります。それはあるんです。たとえば、ソドムとゴモラという都市がありましたね、悪徳の街、人びとが欲望にふけり、金儲けと淫欲(いんよく)、性欲にふけっていた街。神は、これを怒り、怒りの火で焼かれたと。死の灰を落とされたという記録が旧約聖書にありますけれども。過去を見ると不調和の都市というのがやはり沈没したり、火山の噴火で埋まったりすることはあったようです。ただ、これが神仏の怒りだというのは間違っているんです。そうじゃないんです。 皆さんにこういうことを言って分かるかどうかしりませんが、地球自体が一つの生命体なんですね。そして生きておるんです。生きておって、やっぱりいろんなものを感じ取る能力を持っておるんです。地球の生命体が。そうして、たとえばそこの中で、ある土地に行くとする。犯罪都市などのような、人びとが不調和な想念を持って生きている土地っていうのは、地球の生命体も非常にそこが病んでくるんです。非常に病んできて、何とかそこを浄化したいという気持ちが起きるんです。そうするとそういう浄化したいという気持ちが、一つの反作用となってあらわれるんですね。反作用となってね。それで地殻(ちかく)変動とか天変地異なんかになりやすいんです。 そのもともとは何かと言いますと、そこに住んでいる人のそういう不調和な想念、これがやはり原囚を作っているのです。人びとの黒い想念の曇りが神の光をさえぎり、その反作用として、たとえば大陸が沈没したり、そういうことがあるんですね。 11.アトランティス大陸沈没の真相 アトランティスという大陸が今から一万年ぐらい前にありました。ところが、そのアトランティス大陸が一夜にして沈んだということになっています。これは、歴史上の事実であります。どうして沈んだかっていうと、結局その末期のアトランティスにおいては人びとの心がすさんで、光の天使たちを次つぎと殺戮(さつりく)するような不調和な行為を起こし、その結果、地球の生命体、意識体が反作用を起こしたのです。そうしてその意識体が陥没(かんぼつ)を起こすようなことになったわけです。 こういうふうに地球自体が、自浄作用というものを持っておるんです。言ってみれば、徽(かび)かばい菌なんです、そういう人たちというのは。徽やばい菌が、いっぱい自分の表面についていると、地球だって時どきお掃除するのですね。そういうことがあります。 けれども、それは罰というよりは、やはり作用・反作用の法則なのです。大宇宙の法則なんです。ですから神仏は罰を与えません。しかし、そういう法則はあります。 12.本当の裁(さば)きの神とは個々人の内部神性 ですから、同じことが言えるのであって、正義の時代、正義の法というのも一緒です。裁きの神というのがあるのかというと、裁きの神ならそれができると言われているように、善悪を私たちは区別できます。善悪を分かつという意味での裁きの神というのはあるかもしれません。ただ本当の裁きというのは、人間個人個人が、自分自身を裁くんです。 これが分かるでしょうかね。皆さんは地上に生きている時にやりたい放題、したい放題の生き方をしていますけれども、死んであの世に還った時にみんな、裁きというのを受けるのです。その裁きは閻魔(えんま)大王が裁くのではないのです。閻魔大王が裁くなんて今だに思っている人がいるだろうけど、そういうのはたわごとです。閻魔さんは忙しいんです。地球には五十億も人間がいます。それを一つ一つ裁いておったら、もうとても書類がたまってしまい、今の日本の裁判みたいに十年ぐらいかかります。だからできないのです。 そうじゃなくて、やはり一人一人の心の中に、神仏の子としての神性、光の子としての自覚があるのです。これがあの世に還った時に、目覚めてくるんです。その光の子としての自覚が、自分自身の六十年、七十年の人生航路を裁くんです。その結果、不調和な行動が大きければ、その垢(あか)を落とすために、厳しい地獄界での修行にはげんでくるのです。 また光明に満たされた生活をしてきたのならば、その神性が自分自身の神の子の本質に適(かな)うということで、天国で素晴らしい生活をします。 13.人を裁くよりも彼らの良心を信じよ こういうふうにあくまでも、一人一人の自分自身の中にある、善我(ぜんが)なる神性が自分自身を裁いていくのです。そういう意味で私たちは、あの世から善悪を裁くことはできるけれども、それは、あくまでも一人一人にまかせてあるのです。 だから地上の人たちも、これが正法で、これが悪法だといって、裁きたい気持ちっていうのがいっぱいあると思います。でもまあ神様は、どんな悪人に対しても、その人の寿命が来るまで待ってあげているでしょう。なんで放置してあるんですかね。悪人は人一人殺したらすぐ寿命を奪ったらいいじゃないか。それを奪いもしないで放置してあるでしょう。悪人が六十、七十、九十、まで生きます。何で放っとくんだろうと思う。やはり神様でもね、それだけ待たれておるのです。チャンスを与えてくれておるのです。そういうふうに、死んであの世に還るまでは、その人を裁こうとされていないのです。 であるならば 、地上に生きているあなた方もね、生きている間にあまり人を裁こうとするなということです。その人たちの良心を信じて、その人たちが良くなっていくことを祈ってあげなさい。そういうことで、正邪を分かつことも大事だけれども、悪法がいっぱいあっても、あんまり裁いちゃいけません。 そうじゃなくて彼らの良心を信じながら、自分たちの正しい行いを積んでいくことです。それが大事です。ですから刈り入れの時が来るまでは、神様は刈り入れされないのです。刈り入れの時までに毒麦が、麦の中に入っているかもしれないけれどもね、毒麦であっても、刈り入れの時まで神様は、刈ろうとしないのです。 だからそれをよく思い出して、あなた方も今、正義、正義といって正しいことは間違いないんだから、他のは全部罵倒(ばとう)するかというとそうじゃなくてね。刈り入れの時まで神様が待っておられるんだから、あなた方もそれを待って、ただ自分自身がたわわに稔っていくように努力していきなさい。 自分の畑、自分の田圃(たんぼ)を立派なものにしていくように努力していきなさい。それが、いちばん肝腎なことですよ。まあそういうことですよ。今日はいいかな。
https://w.atwiki.jp/oiko2009/pages/498.html
【書きかけ】竹田恒泰「日本人はなぜ日本のことを知らないのか」(2011) 日本人はなぜ日本のことを知らないのか (PHP新書) 評価 ひとこと 分類 日本歴史 新書 目次 第Ⅰ部 日本はいつできたのか 日本の教科書は世界の非常識 憲法の根拠は「日本書紀」にあり 神武天皇の否定は初歩的な誤り 戦争なく成立した奇跡の統一国家 中国から守り抜いた独立と自尊 国を知ること、国を愛すること 第Ⅱ部 子供に読ませたい建国の教科書 先土器時代以前 新石器時代と日本の縄文時代 戦乱の弥生時代 古代王朝の誕生と古墳時代の幕開け 独立国への苦難の道 律令国家の成立 気になる表現 メモ 参考文献 安藤雅雄「旧石器時代の日本列島史」 井上秀雄「古代朝鮮」 今谷明「室町の王権 足利義満の王権算奪計画」 岩崎卓也・常木晃「国家形成の考古学」 植村清二「神武天皇 日本の建国」 沖森卓也「日本語史概説」 笠原英彦「歴代天皇総覧」 金関恕「古墳のはじまりを考える」 上垣外憲一「古代日本 謎の四世紀」 唐古・鍵考古学ミュージアム「ヤマト王権はいかにして始まったか」 倉野憲司校注「古事記」 国史大辞典編集委員会「国史大辞典」 坂本太郎ほか校注「日本書紀」 佐藤洋一郎「DNAが語る稲作文明」 佐原真「戦争の考古学」 佐原真「日本の考古学」 産経新聞生命ビッグバン取材班「ここまでわかってきた 日本人の起源」 志村有弘「天皇皇族歴史伝説大事典」 白石太一「古墳とヤマト政権」 白石太一「考古学と古代史の間」 高城修三「神々と天皇の宮都をたどる」 竹内睦泰「超速!日本史の流れ」 武光誠「大和朝廷と天皇家」 田中卓「教養日本史」 玉田芳英「史跡で読む 日本の歴史1」 堤隆「ビジュアル版 旧石器時代ガイドブック」 寺沢薫「王権誕生」 遠山美都男「白村江」 遠山美都男「天皇と日本の起源」 戸沢充則「縄文人の時代」 中西輝政「帝国としての中国」 奈良の古代文化研究会「纏向遺跡と桜井茶臼山古墳」 西宮一民校注「古事記」 林房雄「神武天皇実在論」 藤尾慎一郎「縄文論争」 藤本強「考古学でつづる日本史」 文化庁「発掘された日本列島2010」 北條芳隆、溝口孝司、村上恭通「古墳時代像を見なおす」 松木武彦「日本列島の戦争と初期国家形成」 水戸部正男「図説 歴代天皇紀」 宮崎嘉夫「日本人と日本語のルーツを掘り起こす」 森公章「『白村江』以後」 森浩一「日本神話の考古学」 森浩一「記紀の考古学」 安本美典「神武東征伝承の再検証」 山岸良二「日本考古学の現在」 山口仲美「日本語の歴史」 山口佳紀「新編 日本古典文学全集」 八幡和郎「歴代天皇歴伝」 吉田孝「日本の誕生」
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/433.html
目次 1.行動の価値基準としてのユートピア価値 2.ユートピアを阻(はば)むもの 3.ユートピア出現のための公式 1.行動の価値基準としてのユートピア価値 さて、以上で、現代日本のあり方を踏まえたユートピア像をお話しいたしましたが、これからほんとうにどういう世界が展開してくるのか、どういう世の中になってゆくのか。また、どうしたものに、値打ちがあるとされていくのか。このユートピア価値についての話をしてみたいと思います。 まず、最初にいっておかなければならないこととして、私たちは、神理価値という言葉をよく使っています。神理価値とユートピア価値は同じなのか、違うのか、このあたりについて、誤解・混乱もあることでしょう。さすれば、ここで説明をしておきたいと思うのですが、もちろん両者は重なる部分もあります。また、同じように使っていることもあります。しかし、違うところがあるのです。 神理価値とは、時代を超え、地域を超え、あらゆる場所において、環境において揺れることのない価値、すなわち神の正法神理そのものの値打ちのことをいいます。これは、いかなる時代が来ようとも変わることはありません。これを法価値と言い換えてもよいでしょう。正法神理、久遠の法は、その値打ちを滅ずることはありません。いつの時代も同じものが人類の歴史を貫いて流れています。 ユートピア価値も、たしかにこの流れのなかに現われてくるものですが、しかしながらユートピア価値のユートピア価値たる所以(ゆえん)は、その時代性と、地域性、また集まっている人のその集団としての性格に大きく影響されることがあるということなのです。これはどういうことかというと、神理価値というものが、本来は存在の価値、それ自体存在することが値打ちのあることであるという価値であるのに対して、ユートピア価値とは、存在価値ではなく、行為価値、行為をするその実践のなかに生ずる価値であるのだ、ということなのです。ここに違いがあるのです。 神理価値を存在価値というふうにもいいましたが、別な言い方をするならば、精神的価値というふうにいってもいいでしょう。精神の問題です。メンタリティーの問題です。これが神理価値です。もちろん、思いと行動とはつながっているものですから、両方とも共通したところはあります。基底にはありますが、ユートピア価値とは、実践に転じるところにおいて生じる行為の価値なのだということなのです。ここが、大きな違いです。 したがって、行為に転ずる、実践に転ずるというこの観点があるがために、時代性、地域性、あるいは集まった人たちのその群れの性格というものが影響することになります。そのような時代と地域と人という要素を抜きにした実践ということはないからです。かならず、真実の神理価値は同じであっても、その場所・時代・人、この三つの要素とその組み合わせによって現われ方は変わらなければならないのです。すなわち、本来の神のお心をいかなる姿で地上に現わすか、具現するか。その具現のしかたの過程において、生じる価値のことをユートピア価値といっているのです。このユートピア価値は、やはり、大きく考えるならば、そのなかにも、精神的なるものと、結果的なるものとがあると思います。 すなわち、ユートピア価値は、ふたつの要素から成り立っているのです。一つは、動機です。いま一つは結果です。動機としていかなる動機があったか、結果としていかなる結果が出たか。この両者を満たしたならば、ユートピア価値はあったといえるのです。動機のみ値打ちがあって、結果が生じなかった場合は、未完成品です。動機が違っていたが結果だけOKたった、まあこういうこともないとはいえません。 竹薮から二億円が出てきたが、それが実際、社会福祉のために、ほんとうに使われたというのなら、まあこういうこともいえるでしょう。そういうことも絶対にないとはいえないでしょうが、そのようなことを期待するだけでユートピアができるはずもありません。 このように、動機の部分と結果の部分、両方の完成をもってユートピア価値は成り立ちます。もちろん、さらに三分法で考える人であるならば、動機、過程、結果の三つでとらえることも可能でしょう。しかし、話を簡単にするために、動機と結果の二つに分けて話を進めてみたいと思います。 すなわち、これから提唱しようと思っている考え方は、みなさんの行動の価値基準の問題なのです。今までみなさんは、どのように行動してこられましたか。あるいは、生きてこられましたか。今日、一日というものをとりあげたときに、今日一日どのような意思決定をされましたか。そしてどう行動されましたか。どういう経路で、ここにたどりつかれましたか。 今日一日の思いと行動の連鎖はどうでしたでしょうか。あるいは、今日に至るための過去数十年の人生は、どうでしたでしょうか。そのときに、みなさん方の行動を支配していた考え、規律していた考え、それは何ですか。みなさんは、何に基づいて判断をし、そして行為を選び取りましたか。その結果、いかなる反応、あるいは成果が現われましたか。何をもって、みずからの行動のための、生きていくための実践基準とされましたか、私はこれを問うているのです。 みなさんが、たとえばある講演会に行かれたとします。そのとき、そこへ行くことを決めた動機は何ですか。そうして、その動機に基づいて、そこに来たという結果が出るわけですが、来てそれはどうなったのでしょうか。この二つが問われるわけです。まず、会場に来ようと思いたった動機のなかに、いったい何があったか。その動機のなかに、何かあったかを考えていただきたいのです。そのときに、「金曜の夜はひまだなあ。世の中の人びとは花金とかいって、どこかへ行くらしいが自分には誘いもない。お金もない。ここなら、まあお金もたいしてかからないし、飲み食いするわけでもないし、まあ何とかなるだろう。」などと時間潰(つぶ)しのために来た人もいるでしょうが、動機が不純です。だめです。動機のところでやはり問題があります。「行くところが無いので来た。」とか、「雨やどりに来た。」とか、このような理由もだめです。動機においてだめです。「何かいいことでもあるのではないかと思って来た。」このあたりもちょっと不透明です。まだ、ちょっと曇っています。そのようなところもあります。「会員になったから、一回ぐらい出ないと損をするから。」というのもちょっと動機不純です。だめです。その動機を考えていただきたいのです。「同じように会費を取られているのに、東京の会員のところにはたくさん行く機会はあるが、地方の会員のところにはめったにないので損をしている。だから取り返さねばならない。」このへんはやはり、あまり天国的な考え方ではないと思われるわけです。そのように、動機の部分を点検していただきたいのです。いろいろあると思います。 そのときに、やはりこのチャンスを生かして、自分を変えていこうとし、その変えた結果、向くべき方向として、何らか世の中に還元できるような、世の中に対してよき影響を与えるような自分になりたいなと思って来るのであれば、まあまあ合格圏内に入っているわけです。「講演者の顔つきを一回だけ見てから帰ろう。」など、これではだめです。こういうのは失格なのです。「連続セミナーの講義というので、珍しいから来てみよう。」とか、まあこのようなのもちょっとあぶない感じです。このあたりをよく考えていただきたいのです。 また逆に、気持ち、動機の面においては、たしかによい動機で来られた。「ヨシ、これで何かを勉強してつかんで、そして、職場に帰ってあるいは家庭でこれを実践に転化してがんばろう。」と思ったが、思ったに止まった。帰ってみると何を聞いたか忘れてしまった。まあこれはやはりだめです。結果のところでだめなのです。動機はよかったが結果までいっていない未完成品です。思いとしては、たしかに残ります。残りますが、これは点のようなもので、テンテンテンと点が続いているものです。あるいは、表現はよくないのですが、にわとりのフンみたいなもので、ポンポンポンポンと落ちているだけで、何の役にも立たないのです。通った跡だけはわかりますけれども、なんの役にも立たないのです。道路のように舗装をきっちりとするならいいけれども、にわとりのフンでは何の役にも立ちません。 このように、大きく考えるならば、動機と結果の二つに分かれるのです。 2.ユートピアを阻(はば)むもの ①結局自分に返ってこないと満足しない心 ユートピア価値を成り立たせるものは、動機と結果の二つに分かれるが、このユートピア価値そのものがめざしているものは何なのか。ユートピア価値と反ユートピア価値というべきものがおそらくあるでしょう。ここを見分けるのはいったい何であるか。これについて話をしておきたいと思うのです。 これはユートピアを阻害するものといった考えにもなるかもしれません。ユートピアを阻むもの。こういう考えにも、おそらくなるでしょう。ユートピアを阻むものとはいったい何であるか。これを見抜いて、その反価値に対して、抵抗しなければならないわけです。 ユートピアの実現を阻むもの、それは、大きくいって二つあると思います。一つは、自分自身の問題です。自分自身の問題として、ともすれば、すべてが自分に返ってくることを願う気持ちがあります。何だかんだいい、「思いだ、行いだ」といっているが、けっきょくは自分に返ってこないと満足しないという思いがあります。抽象的にいうならば、そういうことです。自分に返ってこなければ、やった値打ちがないと思う心です。これが、やはり一つあると思うのです。 それは、たとえば、ほんのちょっとした違いだと思うのです。紙一重の違いだと思います。たとえば、私が何かの講演をするといたしましょう。これはスケジュールを組んであるからするといえばそれまでです。そして、講演会場に来ました。二時間の時間を頂戴したとしましょう。そこで、私が考えることは、私も毎週、毎週行事をやっているわけです。先週も地方へ行きました。今週も行きました。今月末もまた行きます。ちょっと出前のそばのようなものなのです。少し値打ちが落ちているのです。あまり行くものだから、出前そばのようなもので少し値打ちが落ちているのですけれども、そうするとどう考えるか。「まあ何回も講演するのだから、一回や二回手を抜いてもいいのじゃないか。」とまあ、気持ちはうずくこともあります。 しかしながら、せっかく時間を二時間いただくのだから、そういう自己保身に生きるより、手は抜くことは抜くが、抜き方にも問題があるだろう。やはり上手に抜きながら、やはりためになる話をするのが芸術的なやり方ではないのか。そのような妥協点を出すという考え方もあるわけです。 ですから、同じく二時間の講演をするのに、とにかくやればいいのだ、行事を消しこめば、消化すればいいのだという考えもあるでしょうが、せっかく来たのだから、集まられた大勢の方に何かつかんで欲しいなと思う気持ちがあるかどうか、これは神様が判断しているので、その評価は私にはわかりませんけれども、同じようにしてもそういう判断がやはりかならずあるわけなのです。そして、それが動機の部分なのです。 そして、結果においてはやはり二つに分かれるはずです。結果においては、講演会場に訪れたみなさんは「ああ、よかったな。」と思いつつ、帰る道にもう忘れてしまったという人が多いか、それとも何か種火のようなものを心のなかに残して帰れたか。やはり、結果は二通りあります。私の仕事においても、やはりそれは働いてくるわけです。自分だけに返ってくる心、すなわち講演に来て、みんなに「ああ、いい講演だった。」といわれたいというそのことのためだけに来ているかどうか。そういう気持ちで来ているか、受講料がいくらか知りませんが、「高かった。」といわれないためだけに来ているか、とかいろいろあるでしょうけれども、このへんは、やはりかならず何らかのリトマス試験紙にかかっているのです。かならす、はかられています。 一つひとつの行動に関する思いですが、全部これは毎日毎日、一日のなかでも一時間、一時間のすべてにほんとうはフィルターがあるのです。神様のリトマス試験紙が試験管のなかに、私のなかに入っているのです。赤くなったり青くなったりいろいろ変化しているのです。変色しているのです。かならずこれは、調べられていることなのです。みなさんも同じなのです。 ですから、まず、反ユートピア価値としては、自分自身にすべての結果を期する心がないかどうか。これが一つの点検です。 ②他人の不幸を喜ぶ心 もう一つは何であるか。これは、ひじょうに悲しい話ですが、自分以外の他人に対する思いとして、他人を現在より低く評価する、あるいは他人が失敗をする、何か他人のグレードが下がることによって喜びを覚えるような気持ち、これが出てくるかどうかということです。これが明らかに反ユートピア価値なのです。 すなわち、ユートピア価値のなかには、抽象的にいうならば、心の価値、心のなかのユートピアと、あるいは実際、具体的な実社会における活動、あるいはその結果としての共同体としてのユートピア、こういう内と外、私と公の両方があるわけですが、これを精神価値として話をするならば、自分に成果を帰する心、これがあるかどうかと、他人をおとしめる心があるかどうかの点検です。大きくいえば、この二つです。他人をおとしめる心は、これもまあけっきょく自分だけが残ることになりますが、このようなものは少なくとも社会において有用なるものを生み出すという力には絶対にならないということです。 他の人が下がっていく、不幸になっていく、こういうものを見て喜ぶ気持ちがもしあったなら、これは明らかにユートピアの価値として、よき理念によって、思いによって、理想によってよきものを、よき建造物をつくり出すという、この考え方に反しているのです。 ですから、きわめて消極的な判定かもしれませんが、まず自分自身に成果を帰する心がないかどうか、また、他人を害するか、他人の不幸を喜ぶ気持ちがなかったかどうか、これはぜひとも点検していただきたい項目なのです。これがあるうちは、ユートピア価値の名のもとに行動しているとはいえないのです。 この二番目のことについてさらにいうならば、逆にいって、他人が上がることによって、おもしろくないという気持ちがあります。破壊的になる気持ち、極端にいえば暴れてみたくなる気持ちとか、いろいろありますけれどもこういうところをいえば、これもやはりユートピア価値ではないのです。他の人が、すばらしい服をプレゼントされて、うれしそうに着ている姿を見て、「何だ、あんな服。」といわなければならない心は、明らかにユートピア建設の逆を行っているということです。それはすばらしいとやはり認めなければならない祝福の心が要りますよといっているわけです。 他の人が出世をしたのを見て、「きっとゴマを擂(す)ったに違いない。」といいふらさなければ気がすまない心は、これはすでにもうユートピアをつくる力はないということです。他の人が出世したのなら、喜んであげることです。そして、なぜ出世したのかをよく考えて、自分に足りないところがあれば学べばよいのです。自分もそのようになろうとする心がだいじです。祝福の心が大切です。これは何度もいっているとおりです。これもユートピアを創っていくための力なのです。 この二点を、ますチェックしてほしいのです。これがユートピアに反する価値なのです。この二点です。 3.ユートピア出現のための公式 そして、さらに積極的なユートピア価値として、私たちが目標とすべきものはいったい何であるのか、これをユートピア価値として掲げるべきであると考えるものは、何であるのか。それは私たちは、まず他人の喜びを自らの喜びとすることができる、そういう心境を確立するということかだいじであると思います。個人の目標としては、他人の喜びを自分の喜びとすることができる、この心境をぜひとも確立する必要があります。これは、積極的なユートピア価値です。他人の喜びを自らの喜びとする。そう公言してけっして恥ずかしくない気持ちになったとすれば、これは大きな力です。これはユートピア推進のための原動力なのです。他人の喜びを自分の喜びとする。こういう人で世の中が満ちなければ、ユートピアは絶対にできないのです。 一人が幸福になれば、他の人が不幸になるというような関係であれば、世の中はほんとうに幸福に満ちることはないのです。そういう、パイの取り合い、ゼロ・サムのゲームではけっしてないのです。他人の喜びを自分の喜びとして喜べる人が溢れてこそ、ユートピア世界はできるのです。そのときに理想世界はかならずできるのです。まず、これは第一点として、肝に銘じていただきたい。他人の喜びを我が喜びとする、その心境をぜひともつくる。この考えがだいじです。 第二点は、自分の一生をかけてのこのユートピアに向ける仕事量です。これを最大限にするということです。一生をかけての仕事量とは、自分の人生の長さがあります。人生の長さ、五十年の人も八十年の人もあります。この人生の長さに掛けるところのユートピアに対する能力係数というものがあります。ユートピア係数です。これはある意味でいえば霊格です。六次元から来た方、七次元から来た方、八次元から来た方、こういう霊格があります。 ですから、ユートピアのために使った絶対時間、五十年であれば五十年掛けるところの、ユートピア係数、たとえば八次元から来たならば、〇・八、七次元ならば〇・七、六次元なら〇・六、五次元であるなら〇・五、四次元はちょっと難しい、〇・四ないしはマイナスのどちらかですが、マイナスがつけばその他の項はプラスなので、残りの項のすべての積としてはマイナスになります。どちらかです。 すなわちユートピアのために使った絶対時間、この時間掛けるユートピアヘの能力係数なのです。そして、さらには掛けるところの情熱です、これが入るのです。情熱の量、この総量がこれにかかってきます。これが公式です。 ユートピア出現のための公式は、このユートピア建設のための仕事量、この総量を、各人における総量をもちろん増やすとともに、全体における総量である、このユートピア建設のための仕事量の総合量をどうしても増やす必要があります。 そうしてみますと、今の考え方、まず年数、これはもちろん寿命と考えれば各人決まっていますが、ユートピアの建設にめざめてから活動した時間と考えれば、それは伸び縮みはします。長くすることもできます。短くすることもできますが、いろいろあります。十年、二十年、三十年、それは人によって違います。ですから晩年になっている人、これはもう短いです。五年か十年しかない。若い人の場合はこれが長いという有利さが絶対にあります。若い人の場合、五十年ある。晩年なら五年か二年か一年しかないかもしれない。ここはひとつ公式の上にいれてください。この年数が入ります。 そして次にくるものは自分の心境です。まあ共鳴し学ばれている方であれば、いろいろ試験も受けられたり、人と話をされたりしてだいたい推定がつくかと思いますが、学んでおられるみなさんというのは、最低限六次元ぐらいの心境でありたいとは思っていますから、五次元であると自分を思っている人はあまりいないのです。みんな六次元、最低六次元の下段階ぐらいには入っているとたいてい思っているのです。そう思わなければ、学びには来ないのですから、たいていは思っているのです。一応そのぐらいに考えているでしょうから、そう思える場合は〇・六ぐらい掛けてけっこうです。六次元のなかほどにいると思えば、〇・六五でもけっこうですし、ほとんど七次元と思えば○・六九でもけっこうですけれど、まあそのぐらいだと思ってください。そして、あとは情熱の量です。 そうしますと、実際に出てくる仕事量という結果は霊格とかならずしも比例しないのです。どうですか。みなさん、霊格はいろいろあるのに仕事量が違うのが不思議に思うでしょう。それは、この公式によるのです。すなわち、かなり最後になってめざめた場合には仕事量としては減ります。年遅くしてめざめた場合には仕事量が滅ります。あるいは、霊格が高くとも年数が少ないか、あるいは情熱が少なければ仕事の総量は減ります。霊格的に能力係数は低くとも、年数が長く情熱が大きければ仕事量としては大きな仕事ができるのです。 ですから、この掛け算において最高の結果を出すようにがんばってほしい。さすれば、五次元の住人であろうが、六次元の住人であろうが如来、菩薩に匹敵するような仕事もできないわけではないのです。総量としては、それだけの貢献ができないわけではないわけです。この総量を増やすことこそが、実際はユートピア世界を建設するための大きな力になるのです。
https://w.atwiki.jp/fredy2010/pages/23.html
公用語 日本語が公用語または事実上の公用語となっている国家 日本国 満州国 インドネシア マレーシア ブルネイ 蒙古国 極東共和国 英語が公用語であるが主要な言語ではない国家 中華民国 越南王国 チベット国 ラオス王国 カンボジア王国 ビルマ国 タイ王国 インド共和国 スリランカ共和国 パキスタン共和国 フィリピン共和国 ウイグルスタン キルギス タジキスタン アフガニスタン ニュージーランド オーストラリア シベリア共和国 ブータン ネパール
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/395.html
目次 1.神理の光は「対話形式」と「言葉の美しさ」を通して輝く 2.すべての光の天使に与えられた「詩」という武器、方法論 3.「死」という悲劇の奥に霊的世界の存在を教えた 4.人生の悲劇は 運命の嵐 のなかに漂っている一枚の木の葉 5.悲劇は人生の真実を見つめさせ、魂を光らせる 6.「相対的運命観」と「絶対的運命観」との綾糸 7.光一元の思想だけでは、片眼だけでは人生の奥行きはわからない 8.文学を通して幾転生に当る無数の人生を知れ (1988年1月2日の霊示) 1.神理の光は「対話形式」と「言葉の美しさ」を通して輝く シェークスピア シェークスピアです。 ―― シェークスピア先生でございますか。すでにご承知かと思いますけれども、私共は今回いろんな霊言集を作成しておりますけれども、芸術の関係に携(たずさ)わっておられた高級諸霊の方のご霊言を賜って、そして芸術編というものを編集したいと、このように思っていますのですけれども、先生からも特に何かご指導賜えることがあったら、お願いいたしたいと思います。 シェークスピア わかりました。それでは芸術全般のあり方、文学のあり方、こうした芸術論、文学論、こうしたもののなかに神理というものを見てゆきたいと、こういうふうに思います。ただこれは私独自の観点でありますし、決して普遍的な考え方でもないと思います。ただこのなかにも、神理の種はあると思います。 まあ『マクベス』であるとか、『リア王』であるとか、そうしたさまざまな戯曲を私は書きました。戯曲という形で、いろんな物語を書いたわけですが、まずこの辺から入っていきたいと思います。 戯曲という形式、なぜこの形式を通して私は訴えんとしたか、ということですが、古来より、意外に人類の根源的思想というものは、戯曲の形式で残されていることが多いのです。あるいは対話篇と言ってもよいし、ソクラテスと弟子たちの対話、あるいは孔子と弟子たちの対話、この辺がたとえば、プラトンの編集するソクラテスの一連のシリーズになったり、あるいは孔子の『論語』であるとか、そうした教えになっていった。こういうことが言えると思います。また仏教においても、釈迦と、その弟子との対話篇が仏典になっていった。ま、こういうことが言えると思います。 したがって、対話篇というのは意外に普遍的な姿なのです。みなさんは、ともすれば理論的な、まとまったものが良いというふうに考えがちでありますが、そうではないのであって、普遍的なるものというのは、やはりひとつには、わかりやすくなくてはいけない。わかりやすいというのは、こうした対話篇で話をするということ、これは人類の胸の奥底に、心の奥底に残るような、そうした普遍性があるのです。易しさがあるのです。 ですから、あなた方も、これから神理をさまざまに語っていかれるのでしょうが、その中において、容易さ、易しさ、そうしたものが流れていなければいけない。わかるようなものでなければいけない。少なくとも対話篇で語られるもので、難解なるものというのは創りにくいのです。聞いてもわからない、読んでもわからないというものは、対話篇では不可能に近いのです。その意味において、対話篇という形式は非常に重要な一形式であるし、古来より用いられたものである。ま、これが言えると思います。 もうひとつ言えることは、結局、美しさですね、文学の形式の中における美しさ、対話篇の中にも言葉の美しさ、こうしたものがあると思いますが、この芸術性ですね。これがあるからこそ長く残り、多くの人びとの心を揺り動かすことができるのです。そうした美しさ、言葉選びの美しさ、言葉の格調の高さ。人の心を揺さぶるような感動的な言葉、こうしたものが心に残っていくわけです。仏典の中でもそうであって、仏陀の人の心を揺さぶるような、そうした対話篇が珠玉の名篇として残っているのではないでしょうか。その時々の人びとの心に合わした言葉というものが、歴史上残ってきて、さまざまな人に影響を与えてきたのではないでしょうか。 したがって、完全な理論的なものというだけではなくて、その都度その都度に人びとの心を揺さぶるような教え、これがあっていいのです。そうしたものであっていいのです。臨機応変の対話のなかに、本当は人生の真実と神理の光というものが、宿っているのです。 文学という形式においてもそうです。さまざまな登場人物を登場させ、そして話を進めていきますが、この登場人物というのが、ひとつの生命を得て、ひとつの個性を得て、だんだんに動いていきます。やがて作者の手を離れていくのです。登場人物というのは、作者の手を離れて動いていきます。その個性でもって、さまざまなことを言い、さまざまな行動をしていくようになっていくのです。その中に、本当に素晴らしいものが残っていくことが多いわけであります。 以上で、いわゆる対話形式、戯曲形式という形式が、ひとつの普遍性を帯びたものであるということ。またその言葉の美しさ、感動をそそるような言葉の選び方というものが、またこれが人類に多く奉仕するようなものであるということ。こういう話をしました。 2.すべての光の天使に与えられた「詩」という武器、方法論 シェークスピア また、これとは違った観点から、私は詩というものを捉(とら)えてみたいと思います。これは今の美しい言葉、感動させる言葉とも関係しているのではないかと思います。 古来より聖人とか、偉人とか言われた人たち、宗教家もそうですし、大宗教家もそうですが、残らず詩人です。大宗教家で詩人でなかった方はいません。すべて詩人です。こうしてみると、詩というもののなかには、ひとつのなんらかの力、これがあるということが言えると思います。 詩とは、何でしょうか。それは、言葉に宿りたる感動の響き、調べ、こうしたものをもって、人びとを揺り動かすという力です。 日本で言えば、日蓮というような僧侶であっても、これは偉大な詩人であったと思います。空海も詩人であったでありましょう。釈尊そのものが詩人でもありました。キリストも詩人です。非常な詩人であります。孔子も詩人であります。ソクラテスも詩人です。そういうふうに、詩というものが、やはり人の心を捉えて離さないのです。 詩とは一体、では何でしょうか。何が一体詩と言えるものでしょうか。短かい言葉のなかで、人の心を揺り動かすようなもの、その人の心を揺り動かす言葉というもの、それは何かというと、それは言葉のなかで、人類の使ってきた言葉のなかで、一番美しい言葉を、一番美しい形で配列してみせるということです。どんな思想であっても、言葉を使わずに思想を表すことはできません。しかし、その言葉に力があります。その言葉に響きがあります。その言葉に光があるのです。そうではないでしょうか。 こういうふうに、詩という形式、これを重視することが大事です。特に根源的なる法、根源的なる神理、こうしたものを説こうとしている人は、この詩という観点を忘れてはならない。それは、非常に人びとの口にのぼりやすく、また、人びとの記憶に残りやすい。そしてまた、人びとを揺り動かすものだからです。 有名な演説もそうです。すべて詩です。有名な演説、有名な講演の中には、素晴らしい講演のなかには、人びとの心を揺り動かすような、詩句、調べがちりばめられているはずです。 これはひとつの方法論なのです。神は、地上に遣わした光の天使たちに、「詩」という方法論をお与えになったのです。光の天使たちが、自らが光の天使であることの証明のために、美しい言葉を、この世ならざる言葉を彼らに数多く語らせるようになっているのです。その「詩」という武器でもって、地上の人びとを済度(さいど)し、救わんとさせているということです。 ですから、本物の宗教家は詩人であり、もちろん芸術家も詩人であります。戯曲家も文学者も詩人であります。そういう詩という形式、これに対する評価、これが大事であろうと私は思います。ま、文学の形式について簡単に話をしてみましたが、これ以外に、あなたの方から聞きたいことがあったらお聞きしましょう。 ―― 言葉というものは、各国、民族によって違いますけれども、やはり元になるものは、ひとつであるわけですね。意味するものは、どのような言葉を使おうとも。 シェークスピア 元々あるものは霊界にある念(おも)いしかありませんから、その念いを三次元的にどのように表すかという、その表し方に、さまざまな差がある。ま、こういうことにしか過ぎません。本来はひとつのものです。もちろんその通りです。 ですから、いろんな言葉が翻訳されるということは、人間の念いというもの、その念いの可能性ということにおいて、まったく予想外のことは、あまりないということです。それぞれの民族に出会っても、念いという可能性は、だいたい同じだということです。 それでは、あなたの方から特にご質問がないようですから、私の方からさらに話を続けていくとしましょう。 3.「死」という悲劇の奥に霊的世界の存在を教えた シェークスピア いわゆる、「悲劇論」ということについての話をしたいと思います。私は、文学の手法として、「悲劇」というものを、かなり重視いたしました。そして、こうした悲劇を数多く創ることによって、人びとに感動というものを起こさせるということをいたしました。この悲劇の在り方というものについて、考えてみたいと思うのです。 この世的なる悲劇とは一体何でしょうか。その最大の悲劇というものは、いわゆる「死」であります。愛するものの死、肉親の死、まあこうした、殺したり、殺されたりというようなこともあるでしょう。こうした死ということが、人生最大の悲劇でもあろうかと思います。私が悲劇として追究したテーマは、ほとんどこの「死」ということであったと思います。また、戯曲の中には「幽霊」というようなものを数多く私は登場させました。この辺に、死というものを縁とした人間の真実、人生の真実というものを描いてみたいと思ったわけです。 この死というものと対面せずしては、文学は成り立ちません。芸術も成り立ちません。哲学も成り立ちません。宗教も成り立ちません。医学も成り立ちません。この死、死とは一体何なのか。人生における死の意味、死のもたらすもの、その悲劇性、悲劇の奥にあるもの、これは一体何なんだろうか。これを、私は問い続けたわけであります。 また、人間の念(おも)い、念、想念というものが、どれほど悲劇をつくり出していくかという、その法則性についても私は数多く語ってまいりました。悲劇の根源にあるのは、人間の欲望であること。それを私は数限りなく戯曲の中で語ってきました。欲望があり、「自分が、自分が」という念いが悲劇をつくり出しているということを、私は語ってきました。そしてその死というものも、やはり乗り超えていけるものであるということも、語りたかったのです。 ですから死というものを、この世的に見れば非常に悲劇的なるものとして捉(とら)えられるわけですが、これは、しかしながら多くの人の心を打つものでもあります。死に際しては誰もが悲しい。死を見て喜ぶ人は数少ない。この難しいテーマです。 しかし、この世的には悲劇的であり、難しいテーマであるものが、あの世的に見たらそうでもないという、この逆説、パラドックス、ここに大いなる人生の秘密、これがあるわけであります。 ―― 芸術という立場からすれば、やはり先生も仰せられたように、光があるところには、やはり光が光として光るには、それを認識できるには、人間としてのやはり苦しみとか、悲しみ、そういうものがあって初めて、その光をより強く感じられるのであるというようなお話でございまして、死を縁として宗教も哲学も、実は人生も、芸術もあるのである。それを抜きにしては存在しないのである。というふうなお説を承っておりました。そういうことで、この悲劇もそのひとつの表現形式として捉えられているのであるという、お話を承っている最中でございましたのですが、その辺のところを、もう少しお願いいたします。 シェークスピア わかりました。ま、もうひとつはね、私が言いたかったのは、私のテーマの中で「死」ということ、人間が死ぬということ、人間は不死ではない、その寿命、生命に限りがある、ということでした。しかし、限りがあるけれども、その限りを超えた世界もまたある。この辺のことを、私は文学の中でいろんな形で問うてきました。 結局ね、文学という形式を通して人間の本来の姿、人間が魂であり、霊であるということを教えるということが、私の使命でもあったということであります。絵画を通して、天上界の世界を教える方々もいるでしょう。音楽を通して、天上界の世界、霊の世界を教える方もいるでしょう。私のように文学を通して、その霊的世界の存在を教える人もいるということです。 4.人生の悲劇は"運命の嵐"のなかに漂っている一枚の木の葉 シェークスピア ですから、まず私は、その人間の生死、これを超えた魂の存在ということ、これを文学のなかにずいぶん折り込みましたし、私のその悲劇論とも関連したテーマのひとつとして、非常に重要であったものが、実は、「運命」、「運命論」であります。人間の運命とは一体どのようなものなのか。これが描きたかったのです。人間の運命、それぞれの人間には運命がある。その運命は、どのようにして形づくられていくのだろうか。また、運命に抵抗しようとして、それから逃れられないでいる人間の悲劇、これを描きたかったのです。 広い意味では、そうした運命というものに翻弄されつつ生きる人間の姿を描きながら、この三次元世界の意味、現象世界の意味というものを説き明かしたかった。これが私の考えであります。私の文学に、戯曲に貫かれているものは、この「運命論」であります。 そして人間は、なぜそういう運命があるかということを知らないままに、運命の糸に操られて生きている。それは、私もそう、あなたもそう、あなた以外の方々もそうであります。運命の糸に操られて生きている。 この運命をつくっているものは一体何なのか。これは、仏教的に言えば過去世の「業(ごう)」ということ、カルマということでもあろう。それを西洋では必ずしも認めてはいないけれども、何かしらそうしたものがあるということ。そうした「業」というものに似たものとして、その魂の傾向があるということ。不幸を呼び寄せるような人間の心があるということ。こうしたことを私は描きたかった。 それともうひとつはね、その恨みの心、妬みの心、呪いの心、こうしたものが、いかに悲劇を創り出していくか、この観点であります。人生を悪くしているものの根源は何なのか。悲劇の根源は一体何なのか。何がそうした悲劇性を創り出しているのか。私は、これを描(えが)ききったつもりであります。 それは結局のところ、人間の嫉妬心であり、猜疑(さいぎ)心であり、恨みの心であり、妬みの心である。呪いの心でもある。こうしたことですね。こうしたものが結局、人生の悲劇を生み出しているのではないか。こういう人間性の在(あ)り方、心の在(あ)り方、心の醜(みにく)さ、こうしたものを赤裸々(せきらら)に描くことによって、人々に、自分の存在、これをもう一度見直していただきたい。こういう気持ちが、私にはあったわけであります。 人生を不幸にしているものは、結局その人の心の持ち様(よう)であり、その心の奥底から出てくるものです。私は嫉妬とか、あるいは憎しみとか、あるいは嫌悪感、こうしたものも結構魂の根深いところにあるものだと思っています。魂の根深いところから、こういうものが吹き出してきて、それが人の人生をさまざまに変えていきます。 私は、あまり喜劇物であるとか、ハッピーエンドの物を書きませんでしたが、それは、深く魂というものを見つめるという機会を失ってしまうからです。悲劇の底に真実があるということは、つまり悲劇の底には人間の心を揺さぶる何かがあるということです。人間性の本源が何かある。この部分を知らねばならん。 結局のところ、人間というものは、自分というものから究極において離れ得(う)る存在ではないということであります。その恨みの根源、嫉妬の根源、猜疑心の根源、これは一体何かと言えば、結局、自分だけは別である、まったく別の存在である、こうしたことであります。これによって、こうした悲劇の誕生があるわけであります。 しかし、私は運命に翻弄される人間の姿を描くことによって、人間の人生というのは結局、嵐の中の一枚の木の葉にしか過ぎない、ということを描きたかったのです。「自分が自分が」という思い、「自分こそがよければよい、自分だけがよければよい」という念(おも)い、その念(おも)いに生きているという自分という存在も、結局、運命という嵐のなかの、嵐のなかに漂っているところの一枚の木の葉にしか過ぎないということ、これを知っていただきたい。こういう気持があったわけであります。 5.悲劇は人生の真実を見つめさせ、魂を光らせる シェークスピア 人びとは、ともすれば安易な日々の中に埋もれていきます。けれども、安易な日々の中において、深く魂というものを、深く人生の真実というものを見つめる機会が、悲劇ということによって初めて与えられるのです。これは、戯曲のなかだけではありません。あなた方、一人ひとりにとってもそうです。本当に自分というものを見つめる機会とはいかなる時でありましょうか。それは得意の時ではなくて、失意の時であります。失業をしたり、大病をしたり、あるいは離婚をしたり、失恋をしたり、経済的困窮(こんきゅう)のなかにあって、魂は、深く深く、自らを省みるのではないでしょうか。結局、悲劇と言われているもののなかには、神が人間をして自分自身の魂の本質を知らせんとするための慈悲がある、ということです。 この世を極楽浄土そのものであるという方もいるでしょう。まったくの光明一元だと言う人もいるでしょう。しかし、平均的な人間から見れば、この世というものは、さまざまな罪悪であるとか、間違いであるとか、悲しみに満ちているかのように見えます。そして、それらのものを、単に悪しきものと一蹴(しゅう)する立場もあるでしょう。単に悪しきものであり、何の意味もないというふうに見る人もいるでしょう。ただ私は、必ずしもそうは思わない。病気は神がつくられたものではないという方もいるでしょう。確かにそうかもしれない。しかし、現に病気があるということ、病気があるという現実を、神がそのままにしておかれるという事実があるわけです。それは、そこに何かの意味があると、やはり見て取った方がいいのです。神は健全なる人間をつくったでしょう。しかしその健全なる人間が、人生の途上において病に伏せることがある。倒れることがある。 ではなぜ、そうした病をそのままにしておかれるのか。これは単に人間だけの不明の至りなのか。それとも、人間がつくり出した間違い心の結果なのか。確かにそういうことも言えるかもしれない。しかし、その間違いを間違いとして容認し、眼をつぶっておられる神の存在があるということであります。知らぬ存ぜぬでは済まぬはずであります。なぜあるか、なぜ病があるか。結局のところ、深く深く自らを省みる機会として、それは存在の意義があるからである。魂を光らせる意義があるからである。私は、そのように思います。 実在界において病はない。その通りであります。してみれば、病を得るという機会は三次元のみの機会であります。その機会において、肉体の苦しみと霊の悦びというものを徹底的に知るという機会、これがあるのではないでしょうか。魂は、やはり苦難、困難を経て光ってくるものではないでしょうか。常楽の世界、そういう世界のなかにおいて、本当に魂が光るでしょうか。 さまざまなものごとを、二元的に捉える人もいるけれども、結局、本当は二元ではないのである。これは結局のところ、楽であるとか、喜びであるとか、楽しみであるとかいうようなことは、これは優しい毛皮のようなものなのです。手に触れても優しい、暖かい、柔らかいものです。毛皮ですね。しかしこれとは違ったものがある。それは砥石(といし)の部分です。あるいはサンドペーパーと言ってもよい。やすりであると言ってもよい。人生にはやすりも必要、仕上げのためのスポンジも必要、どちらもいるのです。優しい面と厳しい面、この両方がいるのです。この両方が一体となって、人生を磨くための材料となっているのです。 善悪という二元があるのではなくて、悪は善を伸ばすための素材として、存在が許されているのだと知ることが大切であろうと思うのです。単に悪がない善だけの世界であるよりも、善悪があり、悪が善を光らせるための、伸ばすための素材として許されているという世界のなかに、また、無限の進化の可能性があると思われるのです。 したがって、悪そのものは、神の属性ではもちろんないでありましょうが、そして人間自身がつくってきたものであることも事実でありましょうが、その悪という存在を、また巧妙に使っておられる神があるということも私は事実であろうと思います。 6.「相対的運命観」と「絶対的運命観」との綾糸(あやいと) シェークスピア こういう観点からみれば、この人生における悲劇も、喜劇も、これはすべて大いなる計画のもとにあると言わねばなりません。運命論をとってもそうで、「運命と自力」という問題は、古来より宗教家たちの得意とした問題でありました。自力論のなかに生きる人間にとっては、すべて自分の努力によって勝ち得ていけ、自分の選択によって道を選べる、こういう考え方がある。これとは逆に、運命論でもって、すべてはもう神の心で決まっているのだという立場もある。これらの人たちは全託して生きていくであろう。こうした時に、我らはどう考えるか。 やはり、運命には二つの見方があると思うのです。その二つの見方の第一は、ある程度の運命は決まっているが、残りの部分は自分の力によって、考えによって切り開いていけるという「相対的運命観」が一つであります。ある程度の流れがあるけれども、その中でどのように漕(こ)ぎ、泳いでいくかということは、自由とされているという考え。こうした「相対的運命観」があると思うのです。そしてこれが事実、主流であることは本当であろうと思います。 これに対して「絶対的運命観」というものが存在いたします。絶対的運命観とは何かと言うと、すべてのことは神がご存知である。神のご計画のままにあるということです。これについて、私たちは深く神の心そのものを知ることはできません。神がどのようなお考えで、地上にさまざまな素晴らしい出来事を起こされたり、災害を起こされたりしておられるのかそのお心はわかりませんが、究極の神から見て、この地上に起こることでわからぬことは何もないはずである。こういう見方もあるはずであります。 しかしこれは、神のお心を忖度(そんたく)するのみであって、実際に私たちにとってはわかる世界ではありません。しかし、また、「絶対的運命観」もどこかにあり得るはずです。この世に偶然なるものはない、という考えもあるわけであります。自由意志と自由意志がぶつかりあって、その結果このようになっていくであろうということをわかる人も、どこかにいらっしゃるはずであります。そうした眼から見れば、運命はすべて決定済みであります。コンピューターの如き正確なる計算ができる人がどこかにいるはずであります。 しかしそれは、地上にいるあなた方にはわからない。この見地からいくならば、あなた方は相対的運命観の中で生きていかれたらよい。ただ、そうしたあなた方の善も悪もすべてを包み込みながら、眺めておられる大いなる存在があるであろうということ、それだけの認識、これは必要であろうと思います。運命の枠から外(はず)れたと思っていても、それもまた神の手のなかにある運命であったと、こういうこともあるということを、知らねばならぬ。 しかし、さまざまな文学作品を書いてまいりましたが、この運命というものの研究、探究は、結局神のお心を知るという意味では、非常に大きな材料になります。今では自然科学、これを突き詰めていって、神の姿を知ろうという動きもあるかもしれない。あるいは霊文明、霊的な科学、精神科学を通じて神を知らんとする動きもあるかもしれない。しかし、こうした文学というテーマ、人間の運命というものを探究することによって、神ご自身のお考えと、神ご自身の性質、こうしたものを学び取り、見抜くことができるという観点もあり得るであろうと思う。 神は一見、非常なお人好しのようにも思います。地上で人びとが、どのように自由に振る舞い、自由自在に生きていても、お人好しの如く、何千年、何万年、何百万年と待たれておられるお人好しな神、慈悲だけの神という存在に見えることもありますが、その反面、非常に賢(かしこ)い神、すべてを知っているのではないのか。すべてを知り尽くしているのではないのか。知り尽くしていて敢えてやらしている神というのがあるのではないのか。私は、人間の人生の真実を探究すればするほど、そうした感情に突き動かされたわけであります。 さすれば我ら人間は、この大いなる巧妙なる世界において、神の狡猾(こうかつ)な計算というものを見破っていかねばならぬ。そのなかで、糸を手繰(たぐ)られている自分ということを、認識せねばならない。その糸がついている自分というものを知った時に、初めて自分はまた主体的なる生き方ができるのではないのか。自分が主体的に生きていると思いつつ、実は自分の背後にピアノ線のようなものがつながっているとするならば、これは自由自在な人生ではない。まずそうした糸がついているということを認識することによって、かえって自由さというものが広がっていくのではないのか。出てくるものではないのか。私はそのように感じたわけであります。 したがって、私は思うのですが、人間は本当に自分が自由意志でもって考えていることなのか、盲目的衝動でもって突き動かされているものであるのか、この辺を常々見つめてゆかねばならん。これを知らないということは、愚かであります。 私は悲劇論を書きましたが、それを研究すればするほど、こういうことになれば、こういう原因をつくれば、こういう結果が起きる、こういう不幸な念いを持ったら、こういう不幸な結果が生ずるということ、この原因、結果の法則というものを、さまざまな形で解き明かしたわけであります。これを知っているか、いないかということも大きな違いがあります。不幸の原因と結果、これを知っているということは、自分自身そのなかでどう生きていけばいいか、ということへの判断ができるはずです。 ところが、それを知らぬということは、過去の人が何千人、何万人、何十万人と繰り返した不幸を、もう一度、繰り返すことにもなりかねません。いろんな人の生き方を知り、その手本を知るということによって、新たな生き方をしていくことができます。自分が同じレールに乗っているのか、いないのかということを知ることです。これが賢い人生への出発点でもある。私は、そのように感じるわけであります。 まあ以上が私の悲劇論、あるいは運命論ということでありますが、これ以外にあなたの方から特に聞きたいということがあれば、お答えいたしましょう。 7.光一元の思想だけでは、片眼だけでは人生の奥行きはわからない ―― 私は、まだ勉強が浅いものでございますけれども、最近日本神道系から出られた、谷口先生という方が、光明思想をもって人びとに「光一元」の思想をお教えされておられるのですけれども、ここでは、そう思うことは、それは神を忘れている姿であるということで、あくまでも神は光一元の方であるということで、その方向へ、光に向かって心の照準を合わせていくんだということを、強くお説きになっておられ、闇、病、苦しみというものは心の迷いであると言って、そのウェートをずっと下げておられるのです。この辺のところの理解のしかたについて、お教え願いたいと思います。 シェークスピア ま、これはね、いかに深く人生を見るかということであると思うのです。その教えの中には、人生のある部分はよく見えるけれども、ある部分は見ない、眼をふさぐという面があるように私は思う。片眼でもって観た世界をよしとするか、両眼でもって観た世界をよしとするかということです。片眼でも世界は見えるであろう。しかし片眼では遠近感がない。遠い近いがわからない。そういうことではないでしょうか。 したがって、良きもののみを観る観点は確かによいかもしれぬが、ただものごとの遠近感がわからない。ものごとの深さがわからない。人生の奥行きがわからない。私はそのように思います。悲劇があっても、悲劇がないとだけ言い切ることに、その悲劇への探究はない。すなわち、片眼で観ているのと同じです。遠近感がないのです。両眼で観ているから遠い近いがわかる。こういうことです。 まあどちらを好まれるかは自由でありましょう。ただその生き方も、片目で観るというのがもっと行き過ぎれば、馬車馬の如く、眼隠しをして進むという方向にもなりかねません。あなた方は真直ぐ前に進むためだけの馬車馬ではないのです。本来自由自在ではないのか。馬が恐れてはならんということで周りの景色を見えないようにして、ただ走るということだけをもってよしとされるか。まあ私は、そういう観点からものごとを見ています。馬が驚いて、右に曲がったり、左に曲がったりしてはいかんから、眼隠しをするということがあります。ただ、そういうあなた方であって、本当に満足でしょうか。私は、人生の深さという観点をとるわけであります。 8.文学を通して幾転生に当る無数の人生を知れ シェークスピア それでは時間も近づいてきたようですから、最後に、締めくくりの言葉を残しておきたいと思います。人びとは文学離れということをして、もう時久しいかもしれません。文学を読まなくなった。また、文学者のレベルが低いということもありましょう。現代の日本においてもそうです。文学というのは特殊なジャンルになってきて、非常に軽薄な観を呈しているように思う。 しかし、文学の本当に大事なところは、人生の真実を知り、人生というものを見つめ直す機会を与えるということです。その意味において、ひとりの人間が数十年の人生で生きられる範囲というもの、得られる経験というものは少ないけれども、優れた文学作品を読むことによってその経験が広がり、人生を考える素材が与えられるということがあります。 よって、これから二つの道がある。すなわち、優れた文学者が数多く出て、人生の真実をできる限り教える、良いことも悪いことも両方教えていくという、そういう努力、これは何ものにも換え難い。もっともっと人生を教えてやらねばならん。それも現代にある人生のみならず、過去にあった人生、未来に来るであろうさまざまな人生、その生き方、これを教えることによって、人びとの心を富ますということはできるのである。 こういう意味において、文学者は、もっともっと努力せねばならん。もっともっと頑張らねばならん。奇抜な軽薄なことばかりを書くのでなくて、もっともっと人生の達人となって、人びとに心の糧を与えねばならん。そういうことで、この私の書を読む者たちに対して、文学者に対して、文学に携わっている人たちに対して、もっと人生を知れ、もっと人生を学べ、そしてそれを教えよ、こういうことを言っておきたいと思います。ま、これは書く方の側であります。 やはり、読む方の側も大事であります。文学というものを無駄なものと思わず、その中に自分の経験を広げるための素材があるということを知れ。人間一人の一生をサラリーマンで終えた時に、その経験の範囲は狭いものです。その狭い範囲を乗り超えて、どれだけ大きな世界観を獲得できるか。それは、多くの文学を読むということであろうと思う。ま、優れた文学だけを読むのが本当は一番よいけれども、必ずしもそうはできないのであるならば、できるだけいろんなものに接していって、その中から優れたものを選(よ)りすぐっていくということです。 古典と言われるもの、名作と言われるものの中には、人類が永年愛してきたものがあります。その中には、それなりの光があります。その光を愛してほしい。宗教家だけが光ではない。文学者の中にも光はある。その光を愛してほしい。大いなる文学の中にさまざまなる人生の糧を得る、文学を読むことによって幾転生するだけの、それだけの経験を得ることができることもあるということです。これを知って、文学の意味をもう一度見直してほしい。このように私は思います。 どうか、人生を知るという修行において、果てはないということを知っていただきたい。無数の人間が生きている以上、無数の人生があり、その無数の人生を知るということが、実は神に近づいていく階梯(かいてい)であるということを知らねばならない。神は、その無数の人生をすべて知っておられるのです。すべての人の人生を知っておられるのです。 であるならば、私たちの修行の目的は究極の神に近づいていくことであるならば、その無数の人生を知るという努力を怠ってはならぬ。学問だけが学びの糧ではない。無数の人生を学ぶということ、知るということがまたひとつの生き方であります。これが修行であります。無数の人生を知る。無限の数の人の生き方を知る。こういう勉強もあるということを、魂の修行もあるということをどうか忘れないでいただきたい。そういう言葉を締めくくりとして、私の今回の霊示は終わりたいと思います。 ―― ありがとうございました。非常に高邁(まい)なお説を承りまして、心を新たにさせられる思いでございます。おそらく、この先生のお言葉が書となりました頃には、世の多くの人びとが深い感銘に打たれることであろうと、自らの人生をもう一回見つめ直すことであろうと、このように思います。ありがとうございました。 シェークスピア では還(かえ)ります。 ―― どうもありがとうございました。
https://w.atwiki.jp/imas/pages/2880.html
アレP 教養講座色が強いノベマス「ニコマス日本神話」のP。 「ニコマス日本神話」は、手書き絵も交えつつ、日本神話の大筋やアイマスの設定はできるだけ踏襲しながら、ノベマス風に読ませる作品に仕上げられている佳作。 P名は「古事記」の(謎の)編纂者の一人「稗田阿礼(ひえだのあれ)」に因んだもの。 最新作 代表作 ニコ動一覧 タグ-アレP マイリスト-ニコマス日本神話 タグ一覧: ノベマスP 教養講座P P名 P名_あ デビュー2009.5中旬
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/333.html
目次 1.出エジプト 2.エホバ神とは、地球霊団の最高責任者の名 3.人類は神の分身、しかし修行は環境に応じて繰り返される 4.悪魔、サタンの実体 5.罪の起源、無明縁起について 6.地獄の魔王ルシファーの存在理由について 7.天上界側のサタン達の取り扱いについて 8.神の義を主張しあう宗教戦争について 9.マルクスは光の天使、唯物論は真理ではない 10.ニューメディアの世界に入っても人の心が主役 11.神の義「正法神理」の広布が今は強く求められている 12.天上界の構成と霊格の認識、その任務役割の分担について 13.アドバイス 8.神の義を主張しあう宗教戦争について 善川 サタンに対する天上界のお考えが分ったような気がいたします。 次にお尋ねしたいことは、ご承知のような現代の人類でございます。その神の教えを説く側に立つ人びとの間で争いを起こしている。あなたがお出になられたイスラエルと、アラブ諸国との間に、またイラン、イラクのように、共にイスラム教同士の間においてさえ行われている宗教的な争いについて、どのようなお考えを持っておられますか。 モーゼ あなたは以前に、ある霊から話をお聴きになっておられるはずです。教え子が百点を採れないからといって、教えた先生が間違っていたといえるか。教えた側は出来る限りのことを教えておるが、三〇点の答案しか書けない人もおれば、七〇点の答案を書ける人もいる。彼らはあなた方の言葉でいうなら落第しているのです。先生の教えを理解していないのです。そういう時期、そういう地域、そういう人たちになっておるのです。決して教えそのものから現在の混乱を導き出されるものではないのです。むしろ教えの不在であります。 善川 そういう時期に当たって彼の地に、いわゆる光の天使が顕われていないのでしょうか。 モーゼ やがて現われて来ます。 善川 彼の地にですね。 モーゼ 平和の前には混乱があるのです。統合の前には分裂があるのです。 善川 そういう意味におきましては、今日もう少しスケールの大きい超大国、アメリカと、ソ連との間における相剋という形が現われてきておりますけれども、これもどうしても避け難い戦いとなってくるのでしょうか――。 モーゼ 私は何も語りません。 善川 こうした地球規模の破局というものが現在の国際情勢の中からは予見されるのですが、こうした中で我らの使命というものはどういうものでありましょうか――。 モーゼ 私は語ったはずです。心であります。われらの教えは心であります。心の中に王国を築けず、どうして地上に王国が築けようか。この地上の争いは、心の中の争いの延長にしか過ぎないのです。 まず人の心の中にユートピアを築かん、とすることが先決なのです。争いは、心に根を発しているのです。争いを力によって制しようとしても、これはできないのです。根本を押さえることです。これが違っているのです。心の教えが不在なのです。 9.マルクスは光の天使、唯物論は真理ではない 善川 私がいま一つ分らないことは、神の支配し給う神一元の世界であるにかかわらず、唯物論という世界観が台頭し、これに基づく国家が地球上の各所に形成されてきて、現在では、その勢力においては世界を二分する程に膨脹してきましたが、これも天上界における何らかのご計画によるものなのでしょうか――。 モーゼ 迷いです。 善川 たとえば近世において、彼の地にマルクス、あるいはレーニンというような、非常に強力な思想家または指導者が出現し、世界の思想史を彩ってきましたが、これもやはり単なる迷いなのでしょうか……。 モーゼ そうではないのです。彼らは彼らの使命を十分に果たさなかったし、また彼らが不充分に行ったことに対して、他の人は更に誤解していたということです。 善川 こういう人達は、今そちらの世界においては地獄に陥ちているのでしょうか。 モーゼ 地獄にはおりません。マルクスもまた光の天使――。 善川 するといま、自分達が述べてきた唯物論というものに対する自己反省というものはしていないのでしょうか。 モーゼ 彼らの本質は唯物論にあったのではないのです。彼はユートピア建設のために出て来た光の天使なのです。 唯物論というものも、仏の説法に便法があるように、一つの便法なのです。一つの譬なのです。ただそれが先走ってしまったところに謬(あやま)りがあるのです。彼の計画はユートピアの建設なのです。 ところが時代が時代で、科学が進み、物質万能の時代であります。このような時代に霊のことを言ったところで、ユートピア建設はむずかしいのであります。むしろ物質万能、物質科学優先の時代なら、それはそれでいい、物質は物質と認めた中において、またユートピア建設の道があるのではないかという方向で行ったのが彼の考えであります。便法なのです。唯物論というのはマルクス自身、物だけしかないなどとは思っていないのです。神を信ぜずして、なぜユートピアなど考えることがありましょうか。 善川 それに続いてのレーニンにいたしましても、かつてあなたがエジプトで、後のイスラエルの民を救った心境と同じような心境ではなかったかと、私は考えるのでありますが、この当時の帝政ロシアの残酷な人民圧迫政策から、彼ら労働者、農民を救出するためには、どうしても政治を改めねばならないという考えから、発したものであろうと思うのでありますが、その限りにおいては、彼の考えは正しかったと思うのですが、その後の経過がよくなかったということになるのでしょうか――。 モーゼ ですから、想い、志は良いのです。ただ、便法を真理だと信じたところは誤りなのです。比喩をそのまま真理だと考えたところに誤りがあったのです。 それが教条となり、教条主義となっていったのでしょう。マルクスの時代には貧富の差も激しく、人の上に立つものと下に立つもの、差別するものと差別されるもの、搾取するものと搾取されるもの、このような階級分化が激しかったのです。 心の平和を説く以前に、環境自体の浄化を考えなければ、人びとは神の世界に入っていけるような状態ではなかったのです。そのために彼は、物質の世界においても人間はある程度まで救われなければいけないということ、それを理論として説いたのであります。それは過渡期の思想なのです。それが永遠の思想、真理だと思えばそこが誤りであります。 10.ニューメディアの世界に入っても人の心が主役 善川 いずれにいたしましても、以来物質文明というものは、急速に進歩してまいりまして、現代においては既にニューメディア、ハイ・テクノロジーなどの実用段階に入り、これに関連するすべての機械文明の進歩発展は、日進月歩ですさまじい進展を見せておりますが、ここで人間が、この機械文明を精神面でいかにコントロールし、リードしていくかということが、明日の人類の幸せにとって大きな課題と思いますが如何でしょうか。 モーゼ そういうふうになろうということであって、本質的には、どうということではないのです。環境がどのように変わるかということは、一つの素材の変換にしか過ぎないのです。どのような変換があってもよいのです。たとえこの時代にあなたの身の周りを恐竜が徘徊しておったとしても、あなたはまた神の心を、神の教えを説かねばならないのです。同じなのです。あなたがたとえロボッ卜に囲まれようとも、同じであります。 11.神の義「正法神理」の広布が今は強く求められている 善川 あなた様は神の教えの中でも特に「理(ことわり)」神の「義」というものを強く主張されたお方だと聖書の中でも伝えられておりますが、時代を下って、イエス様の時代には、神の愛という面を強く説かれたように思われますが、神の義と、神の愛とは車の両輪のようなものだと考えますが――。 モーゼ 神の義があり、神の愛があり、神の慈悲があるわけであります。慈悲を説いたのは釈迦であります。愛を説いたのはキリストであります。義を説いたのは私であります。 善川 いまわれわれの現世においては、この神の御意(みこころ)のうち、いずれの面を強くわれわれが主張しなければならないものなのでしょうか。 モーゼ やはり愛も必要、義も必要、慈悲も必要ではないでしょうか。かつてわれわれは、われわれが信じた一神、エホバであり、ヤハウェを争いの神、妬みの神、嫉妬の神、というふうに言われたことがあり、それが神学上の問題になっております。それは゛義゛ということと絡(から)むのであります。正しきものは実現されなければいけないのです。 「義」とは、神の「神理」であります。神理は実現されなければいけない。神理が実現されるためには、神理でないもの、非神理は影をひそめなければならない。これを強さを持って実践するのが義であります。義とは、神の国実現のための力であります。 「愛」とは、神の国を造り上げていくための鎹(かすがい)です。粘土であります。セメントであります。「義」とは、神の国を造るための土地ならし、土台造りです。「愛」は、神の家を造るための材料と材料、木と木、石と石をくっつけるための釘であり鎹であり、粘土であり、セメントであります。これが愛です。 今日は、義が失われた時代であります。そういう意味において、今の宗教の中には、義というものがあまりありません。これも一つ考え直す点ではないでしょうか。これが行き過ぎると宗教戦争になるかも知れません。他宗の排撃になるかも知れません。しかし本来神の「理(ことわり)」は強くなければならないのです。そういう意味においては旧勢力が強い時代には、義ということが強調されなけれぱならないこともあるのです。 善川 しかし今、旧宗教は既に凋落の時期に入っていると思うのですが、ここで真の神の義、「正法神理」を明らかにし、万教は一つであるという「証(あかし)」を打ち立てなければならぬと思いますが、これは別に、かつてのような宗教上の大きな争いになるような性質のものではないと思うのですが――。 モーゼ そうです――、新しい「十戒」、新たな神の指針、それに沿った新たな人間の行動原理というものが必要な時代となってきました。「十戒」は、私が「十戒」を表わしてより千年の間、人びとの行動指針となったのです。 また今後、このような価値の乱れた時代においては、人びとの行動指針となるようなものが必要となってくるでありましょう。それは単に霊を信ずるとか、お互いに仲良くするというようなものだけではなくて、今後の神の意図に沿った、人間の行動指針というものを打ち出していき、それが今後の人類の、文明の、文化の、発達して行く基礎となり、方向づけというものになっていかねばならないでしょう。 善川 そのような壮大な「正法神理」の体系というものは、今後あなた様方天上界の方々のご指導、ご啓示が寄せられるのか、それとも、非力ながらわれわれ自身でこの体系を組まねばならないのでしょうか――。 モーゼ いま一時にすべて私は語りませんが、やがてあなた方に、啓示という形で教えていくこともあろうし、あなた方ご自身で気づいていくこともあろうし、いずれにしても、あなた方がやるべきことは、今後の人類、後に来る人びとに対する贈り物を出していかねばならぬということです。 二千年、三千年先のことまで考えなさい。今、現時点どうであるということではなくて、二千年、三千年先の人に対するメッセージを残さねばならぬということであります。その折りに、モーゼという名がまだあるかどうかは定かではありません。イエス・キリストも伝説の神話の人になっているかも知れません。現在はまだ実在の人と信じていますが、千年、三千年先には、モーゼも神話、イエスもまた神話の人となっているかも知れません。 その時においてあなた方が、実在の人間として残した教えというものが、残らねばならぬということです。 結局のところ人間は、なぜ輪廻転生をするのかというこの法則の説明と、そのような法則が明らかになったならば、如何にして生きねばならないのかというようなことを説く、このようなことに尽きるのであります。それ以上のものではないのであります。この世界は神が創られたものであり、神のご計画は、人間を現象界から天国へと、輪廻転生させるということ、そしてその中で、どのように生きていかなければならないのか、ということを悟らせること、これに尽きておるのであります。 これ以上のものではないのであります。非常に簡単なものであります。これを後の世の人びとに、明瞭な形で、彼らの行動指針となるような形で、残して行きなさい――。 善川 この輪廻転生があるということの事実が、神の大いなる慈悲であるということを、はっきりと説き示さねばならぬということですね――。 モーゼ そうです。そのとおりです――。 善川 ありがとうございました。 12.天上界の構成と霊格の認識、その任務役割の分担について 善川 モーゼ様は、現在天上界での最高霊域においでの方だと存じますが、その天上界の仕組みについて少しおたずねしたいと思いますが、よろしいでしょうか。 モーゼ どういうことでしょう。 善川 天上界の構成と申しましょうか、その実像を、われわれが認識するに当たって、これを上、下という段階的な差別知と申しましょうか、そういう縦列感覚で捉えればよいのか、それとも、深い、浅い、狭い、広いという水平感覚とでも申しましょうか、そういう概念で把握すればよいのでしょうか。もちろん、実相はそういうものではなかろうと思いますが、これはあくまで、われわれ三次元に住んでいる人間が、五官知で認識し得る図式で捉えるとすれば、どういうことになるか、どう認識すればよろしいでしょうか。 モーゼ どういうことですか、もう少しはっきり言って――。 善川 例えば、われわれ地上人が理解できる天上界というものは、地上何千メートル、または、何万メートルの上までに各霊域が段階ごとにあるということと、そういう感じではなく、われわれと同一地域にあっても、その深みということの段階において、それぞれ次元を異にした霊域空間というものがある。つまり図形で描けば、渦巻状に重なっているというふうに――。 モーゼ 地球は丸いのですから、上といっても横といっても、所詮同じことなのですが、比喩としては、やはり高い所からいわば下を見ているという形になります。 善川 そうですか、それでは現在あなたがおいでの処は、天上界のこの地球霊団としては最高の地域から下を見ておられるということになるわけですね。 モーゼ 喩えて話すならそういうことになります。 善川 天上界は、六次元、七次元、八次元とあり、それぞれの方がおられますが、あなた様はいま何次元の霊域におられますでしょうか。 モーゼ 九次元です。 善川 それでは、六次元、七次元という処においでの方では、そちらの九次元の世界へは参上できないわけですね。 モーゼ 出来ません。 善川 上部の方は下部へ降りて来ることは可能ですね。 モーゼ 可能です。 善川 立ち入ったことをお尋ねしますが、宇宙界といわれる九次元の霊域には何名ぐらいのお方がおいでなのでしょうか。 モーゼ 数名です。 善川 それから七大天使といわれる方々、<ミカ・エル><ガブリ・エル><ウリ・エル><サリ・エル><ラグ・エル><パヌ・エル><ラファ・エル>、こういう方々は――。 モーゼ 私たちの近くにおります。 善川 それから、それぞれのお役目を持たれた如来の方は――。 モーゼ 四、五百名おります。 善川 ここが八次元の霊域ですね。次が七次元の菩薩界ということになりますね。 モーゼ そして、菩薩界と如来界との間に、仏教でいう<梵天>というか、梵天の境地があります。七次元と、八次元の境であります。「天台智覬」といわれる方も、この梵天の位にあります。八次元といえば八次元、七次元といえば七次元、この中間の域に達している霊であります。 善川 あなた様方から見れば、どの次元霊域に誰がいて、どういう研究をしているかということは、一目瞭然なのでしょうか。 モーゼ ただ私たちが心配していることは、差別知でもって霊的世界を理解してもらっては困るために、あまり言いたくはないのです。人間にそのような階級があり、段階があるという発想は、一歩誤れば非常に危険なものとなるのです。人間の魂は平等だという考えも大切であります。 たとえば、いま段階という形でとらえました、ある人よりもある人が偉いとか、下であるとかいう考え方も一つありますが、こういう考え方もできるのです。 人間の魂というものは、各人神の子であって一箇の球体であって、この球体には大きな違いはないのです。各人同じ球体なのです。同じ球なのです。その意味において各人の魂は平等なのです。しかしながら永年の転生輪廻の過程における修行の度合によって、同じ大きさの球であるにもかかわらず、ある球体は非常な輝きを持っており、ある球体は鈍い輝きを持っており、ある球体は全く光を発していない――このように平等であるけれども、光の度合が違うということがある。その光の度合を譬えていうならば、如来界、菩薩界、というようなことで言っているのであって、それは魂として違うのだというようなことではないのです。 魂が違うのだ、段階が違うのだ、という考えは、一歩間違えば大変な間違った思想になってしまうのです。各人の魂は、神から岐れたものであり、本来、神と同一なものであります。一個の同じ大きさの球であるということ、しかし転生輪廻の過程によって輝きが違うのだし、輝きの違いによって、如来だ、菩薩だ、あるいは霊界だというような区別をしているだけであって、しっかりと磨けば、如来の光が、菩薩の光が出てくるのだと、このように差別心と、平等心とを融合した立場をとっていただきたい。これを間違うと、あなた方も大変な増長慢となってしまうのです。 善川 そこで一つ考えられることは、各人は皆神の子ではあるけれども、その仕事、役割においては各人分担が違うということではないでしょうか。僧侶は僧侶、医者は医者、芸術家は芸術家、エンジニアはエンジニアというふうに――。 モーゼ そういうふうに考えるのも一つであります。 善川 各段階に応じてその人に与えられた天分天職についているというように――。 モーゼ 別の比喩で言うなら、球としては同じであるが、ある部分が発達している球と、違う部分が発達している球とがあって、たまたま私達は、神の使命を担う部分で球が発達しているだけであって、他の部分が発達していない。ところが、その部分が発達しているものもある。そういう意味で人間は平等なのであります。仕事が違うという考え方も一つ、光の違いがあるという比喩も一つ、そのようにお考えになって下さい。 善川 本質的に人間の職業に貴賤がないということと同じような意味ということですね。 モーゼ 貴賤もないし、七次元より、八次元が偉いというようなことでもないのです。そのような思想は一歩誤れば大変な間違いとなるので、私はあえてこう言っておくのです。 たとえて言うならば、高さの違いはあるのだけれども、それは球体の面として考えると、たとえば神を北極とするならば、北極の近くにある面と、そうではないところが発達している面とがあるわけであって、仕事の違いというふうにもとれるし、光の度合が違う、ともとれるはずです。 光の度合が違うのであるならば、いま、光輝燦然と輝いているものも、やがて曇ってしまうこともあり得るし、いま、曇っているものもまた光ることができるのです。こういうことなのであります――。 善川 ただ、私が案じますには、あなた方のような最高級の指導霊のお話というものは、非常に次元の高いお話で、一般庶民の方がたでは自己の生活環境に即して理解し、日常生活の中にその高度な法をとり入れるということは、困難だと思うのです。 その意味において、通常人の精神生活に適応した、霊界、またはその上の神界程度の一般的な善悪差別の教えが、より広い範囲の人びとに理解されるという意味で、意義が広まるのではなかろうかと思われるのですが――。 モーゼ ただ、私は言っておきますが、あなた方の使命というものは、今の時期に本当の「神理」を残すということであります。分る人は分るし、分らない人は分らないでしょうが、しかし、千年、二千年と伝えていく必要があるということです。 われわれは、いつの時代でもこうして出てくるわけではないのです。われわれが出てくる時代は、決まって激動期、ある人類の転換期であります。そういう意味において、われわれがこのような人の形を借りて語るということは、めったにないことですので、その時点において最高度の教えを残しておく必要はあるのです。 私がいま語っていることを素直に信じることができる人が、いま生きている人間の中で、いったい幾人いるでしょうか。私自身もそれは定かに知り得ません。しかしながら、どうしても残さねばならないということです――。 13.アドバイス 善川 最後に、現時点における私たちの、「正法流布」に対する取り組み姿勢についてのアドバイスをお願いいたします。 モーゼ もっと強くありなさい。あなたの先人達の苦労辛酸を想い起こして、もっと強く生きなさい。怠惰になっていないかどうかということをよく考えなさい。環境が楽であれば楽であるほど、一層励まなければならないということであります。環境との戦いということに、先人たちがどれだけ苦労したということを想い起こしてごらんなさい。あなた方は、まだまだ楽な環境にあります。楽な環境にあるからこそ、先人達が登れなかったところまで、登ってみせなければならないのです。 強くあって欲しい。正しい人は、神を信ずる正しい人は、強くあって欲しい。自分の弱いところを見つけたならば反省し、もっと、もっと強くあっていて欲しい。私が言えることは、そんな抽象的なことに過ぎません。 私は、あなた方に、具体的に何をどうせよとは申しません。強くあって欲しい、不動の心を持って欲しい。人にこう言われるんじゃないかというような、そのような小さなことに負けてしまうあなた方であって欲しくない。強くあって欲しい。 あえて身の周りに争いを起こす必要はないけれども、しかし強くあって欲しい。強さです。今のあなたの中に強さがありますか。正法を流布するには、「熱意と強さが共に必要なのです。 私は力強い生涯を送ったと思っております。それは、正しいものは強く生きねばならない、正しいとは、神の義であります。゛義゛、神の義にかなった者は強くあらねばならない――、そういう考えであります。あなた方が、正しいと信ずるなら、その信念の強さは、あなた方の生き方の勇まさになってこなければいけません――。 善川 どうも長時間、いろいろとご高説をたまわりまして、まことにありがとうございました。われわれはまだまだ、これからの試練と、これからの働きの時間が与えられておりますけれど、もしまた御意を得ますなら、一つの転機、転機に私たちが立ちましたならば、またご降臨願ってご指導をお願いしたいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。 本日は、真にありがとうございました。 モーゼ わかりました――。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/145.html
目次 1.クリスマスヘの魂の郷愁 2.雪の降る聖夜に、イエスは誕生した 3.聖霊たちは、神の子イエスの誕生を祝福した 4.日本にも救世の星が輝くことは預言されており、今、そのときが来ている 5.現代の聖地エルサレムとは、現在の東京である 6.おおいなる救世のときに、同時に生を受けられた人びとよ、誇りに思いなさい 7.今後、ヨハネの黙示録で語られたことが実現する 8.悪魔に唆(そそのか)された予言者に気をつけよ 9.今後、東京は、全世界に福音を伝える聖都となろう 10.日本は、やがて文明の中心となり、その文化が全世界へと流れてゆく 11.今、東京を中心に大きな光が輝きはじめ、人類の曙が近づいている 12.あなた方に敵が現われたときに、聖霊たちの力が守ってくれることを忘れるな 13.あなた方は、真実を述べ伝える預言者となりなさい 14.危機は、現代の物質文明にまちがいがあるために生じるのである 15.第三次大戦後、エホバの手が激しく地を打つ 16.新たな福音を信じるとき、人類の道は開ける 17.私は、神理に至る道を開くための水先案内人である (一九八六年十二月二十日の霊示) 1.クリスマスヘの魂の郷愁 内村鑑三です。私の話もすでに七日目になります。そこで、今日は、「新エルサレム」という演題でお話をしたいと思います。地上の時間では、今日は一九八六年の十二月二十日土曜日です。この季節になるとクリスチャンたちは、だんだんに胸が騒ぎはじめます。クリスマス・イヴまであと四日、クリスマスの当日まであと五日、言うまでもなく、十二月二十五日とは、イエス・キリストの生まれた日です。 私も地上を去って何十年にもなりますけれども、クリスマスの頃になると、なつかしい思いに駆られます。そして、クリスマスが近づいてくると、やはり地上の人たちの生活ぶりを雲の上から見たくなってくるのです。町にクリスマス・キャロルが流れ、サンタクロースの像が並び、長靴のようなもののなかにいろいろなお菓子を入れて飾ってあったりします。また、デコレーションケーキが街角に並びはじめたり、会社の帰りの父親がそのケーキをさげて帰っているのを見たりすると、何とも言えず、なつかしいほのぼのとしたものを感じます。 とにかく、キリスト教について勉強したことがある人というのは、このクリスマスというのを、毎年一年の区切りのように思い出すものです。新年とかお盆とかいうことではなくて、クリスマスなんです。クリスマスに魂の郷愁というものを感じるのです。 なぜそのように、郷愁を感ずるかというと、結局、どこかでイエス・キリストの教えを受けたか、教えの禄に触れたことがあるからだと思います。過去世においてナザレの地で教えを受けていなかったにしても、天上界のどこかで、そのお話を受けて聞いたり、あるいは、輪廻転生の過程のなかで、イエスの弟子たちの教えを聞いたり、あるいはまた、過生世のイエスに教えを受けたこともあったのかもしれません。 ともあれ、私は、クリスマス・キャロルの曲を聞くと、非常になつかしいし、「聖しこの夜」のメロディーが流れてくると、何とも言えない神秘的な感慨深い思い出にふけるのです。 2.雪の降る聖夜に、イエスは誕生した 今から二千年ほど昔、ベツレヘムの小さな町で、イエス・キリストは生まれました。十二月ニ十四日の夜、イエスの母のマリアが、用事があって知りあいのところへ行こうとしていたときに、急に産気づいて、旅の途中で子供を生まなくてはならなくなった。といっても、産婆がいるわけではないし、近くの農家の納屋を借りて、そこでお産をしたわけです。 貧しい農家の納屋の飼葉桶(かいばおけ)のなかに寝かされていた。それが、後に救世主と呼ばれるようになったイエス・キリストだったのです。このときの情景を、私も、天上界から見ておりました。イエス・キリスト生誕の前から、私たちキリスト教系の聖霊たちは、その誕生の瞬間というのをじっと見守っていたのです。 マリアがイエスを身篭(みごも)ったときには、大天使ガブリエルが、マリアの夢枕に立って、「マリアよ、我はガブリエルなり。汝が生む子は神の子なり。汝が子は世を救うために生まれるなり」という受胎告知をしております。そして、イエスが生まれたときには、さまざまな聖霊たちがマリアのもとに、神の御子の誕生の祝いに駆けつけました。 今、霊的な目で二千年前の風景を振り返ってみると、そのベツレヘムの小さな農家の馬小屋のなかに、聖霊の光が燦爛と輝いているのが見えます。何と清らかな、何と聖なる夜でありましたでしょうか、十二月二十四日の夜は。外には、雪が降っておりました。午前中から雪が降りはじめて、かなり大きなボタン雪となりました。そして、夕方の五時半頃まで降ったでしょうか。大きな雪だったので、地面に十センチぐらいも績りました。そうした夜にイエスは生まれたのです。寒い寒い夜でした。まさに、聖夜そのものでした。そして、天上界からは、祝福のメロディーがいろいろに奏でられたのです。私は、その情景を今でも目にありありと思い浮かべることができます。 3.聖霊たちは、神の子イエスの誕生を祝福した 私たちは、その運命の主人公、すなわち、神の子の一生を、心から祝福しました。わずか三十三歳で十宇架に掛かってこの地上から去る人。しかし、その死が全人類の罪を背負う死であり、全人類を悔悟させ、懺悔(さんげ)させ、そして、悔い改めさせ、神の国への導きとなる死であるということ。そうした運命の子イエスの安らかな寝顔を見て、私たちの胸にはさまざまな思いが去来しました。私たちは、かつて、旧約の預言者として地上に出ましたけれども、やがてイエスが出て来ることは、何人もの人たちが預言していたのです。ですから、その瞬聞がきたということです。十二月二十四日の夜、その聖なる夜は、過去二千年前から予定されていた運命の夜だったのです。 4.日本にも救世の星が輝くことは預言されており、今、そのときが来ている こうしたことは、現代にも言えるのです。つまり、現代の日本にもイエス誕生と同じことが起きるわけです。現代の日本にもこうした救世の星が輝くことは、もう二千数百年前から預言されていたのです。すなわち、インドの地において釈尊は、次回、東の国において、おおいなる救世の法が説かれるということを預言しておりましたが、今、そのときがきているのです。 その手伝いを、また私たちがすることができ、イエス誕生のときにガブリエルがその受胎告知をしたように、今、私たちが天上界から、日本の地に新たな救世の法が説かれるということを、霊言という形で、世の人びとに伝えられることを、私は嬉しく思っております。 地上の皆様は、私の言葉を聞き、私の書を読んで、これは単なるひとりの人間の考えであり、単なる物語のように感じるかもしれません。しかし、このようなことはもう二度とないことであり、このような瞬間は二度とはこないのです。一九八六年十二月二十日土曜日、五時五十分です。夕方の五時五十分です。このときに、内村鑑三が地上の皆様にこうした福音を述べ伝えることができるということ、こういう機会は、もう二度とこないでしょう。 私は、かつての預言者たちが人類救世の人が出ることを預言してきたように、今、天上界からこのような声を地上の人たちに伝えることによって、これから新たな教えが、人類への福音がはじまるということをお教えしているのです。私たちの言葉は、後の世にとっては、クリスマスソングのようなひとつの調べにしかすぎないかもしれません。しかし、たとえ調べの一部分であったとしても、それを私が、今、こうして奏でることができるということを、私は、非常に光栄なことだと思っております。 5.現代の聖地エルサレムとは、現在の東京である さて、本日の演題は、「新エルサレム」についてです。エルサレムというのは、言うまでもなく、現代でも宗数的な聖地であり、歴代イスラエルの首都だったところです。エルサレムというのは繁栄の都であり、イエス・キリストがその法を説いた場所であり、その命を断たれたところであり、また、復活した都であります。そういう聖なる地なのです。ですから、かつて、キリスト教の教えを受けた者にとっては、エルサレムという響きは、何とも言えぬ神秘的な響きがあります。エルサレムとは、聖地という意味です。マホメットにおいてメッカという地が聖地であったように、イエスにおいてはエルサレムが聖地であり、聖なる都なのです。 さて、現在、一九〇〇年代後半の日本において、このエルサレムにあたるのが東京です。日本の人びとよ、私の言葉をよく聞いていただきたい。あなた方は、現代のエルサレムに生きているのです。そして、あなた方は、エルサレムに生まれ、生き、そしてまた、奇蹟の時代に生きているのです。このことを忘れてはなりません。 今、あなた方の目の前に、さまざまな聖霊たちの霊言が繰り広げられていることと思います。こうした霊言は、これからの教千年の間、人類の心を肥やすための福音となっていくのです。魂の糧となり、また新たな新約聖書となっていくものなのです。そして、その新約聖書が、現在、同時進行形で、あなた方の都において語られているのです。そこで、こうした大きな事実ということを、どうかあなた方は忘れないでいただきたいと思います。 6.おおいなる救世のときに、同時に生を受けられた人びとよ、誇りに思いなさい 人間は、何度も転生輪廻を繰り返していきます。しかし、そのなかにあっても、こういったおおいなる救世のとき、偉大なる聖者が生まれるときに、同時に生を受け、その顔を見、その声を聞くことができるということは、めったにあり得ることではありません。よほどの縁があるか、よほどの修行を積んできたか、あるいは、よほどの計画のもとに出なければあり得ないのです。かつてのイスラエルの民たちが、選ばれたる民と呼ばれたように、選ばれた神の民イスラエルと言われたように、現代の日本も、現代の日本人も、また、選ばれたる民であることを誇りに思わねばなりません。 あなた方は、過去何千年、何万年の間、幾転生を繰り返してきたのです。その幾転生のなかで、あなた方はさまざまな時代に生まれて来た。あるときはアフリカに、あるときはギリシャに、あるときはエジプトに、あるときはアラブに、あるときはフランスに、イギリスに、アメリカに生まれて来たのです。そして今、この東の国、日本において、世紀末に生まれて来ております。 この世紀末の時代は、大変な時代です。人類の価値観が大逆転を起こすような時代であり、危機の時代だと言えます。しかし、同時に光明の時代でもある。そうした緊張感に溢れた時代なのです。 7.今後、ヨハネの黙示録で語られたことが実現する 皆さんは、聖書のなかの黙示録というのをお読みになったことがあるでしょうか。黙示録には、ヨハネが幽体離脱をして、天上界で見せられた人類の未来史が描かれています。これを聖書で読まれた方もいるでしょうし、聖書で読まなくとも、さまざまな形で知った方もいるでしょう。ともあれ、この黙示録で語られた未来史が、今、実現すべきときがくるのです。 黙示録のなかで、ヨハネは、さまざなな災いが人類に起きる、その最後のときを霊視しました。その災いのときとは、まさしく二十世紀の後半にあたるのです。これから数十年の間に、人類は、さまざまな苦難、艱難(かんなん)を味わうでしょう。いくつかの大地は沈み、いくつかの都市は津波に襲われ、また、いくつかの熱帯は寒帯に変わり、寒帯が熱帯と変わるはずです。そうした時代が訪れます。あなた方が生きているうちに、そうした現象に出会うはずです。 嵐が起こり、地響きが起こる。雷は天から落ちる。そうした末世的な時代となっていくのです。また、北極や南極の氷が熱帯や亜熱帯と言われた地域にまで流れ出した姿を見るでしょう。あるいは、文明を誇っている最先端の都市が、一夜にして崩れ去っていく姿をまのあたりにするかもしれません。この世的に見れば、悲劇と思われるかぎりの悲劇が、ここ数十年のうちに起きてくるでしょう。 黙示録のなかで、ヨハネは、人類のほとんどが絶滅するようなことを言っておりますが、全滅はしません。ただし、かなりの数の人びとが、この地上から姿を消していくことは事実です。そうした時代に、あなた方は生まれているのです。 そのような激動の時代のなかにあって、ある人は天を呪い、運命を呪うかもしれません。なぜ、このような暗き時代が到来したのかと世をうらむ人もいるかもしれません。しかし、こうした災いのときが、近い将来、必ずやってくるのです。 8.悪魔に唆(そそのか)された予言者に気をつけよ これからの時代には、さまざまな予言者が並び立ち、競い立ってくるはずです。そして、不幸を予言する人たちが、たくさん出て来る。そのなかには、聖なる預言者もいれば、悪魔に唆されて人びとを煽動する予言者もおります。まちがった予言者たちは、人びとを恐怖と混乱のなかに陥れ、この地上にますます地獄絵をもたらすでしょう。そうして、「世はもう少しで終わるのだから、人びとよ、一日一生を生きるのではなくして、一日何かを必ず楽しめ」と、そうした悪魔の囁(ささや)き、すなわち、享楽欲というものをそそるようなことをしはじめるようなことも出てくるはずです。 しかし、人びとよ、そうしたサタンの声に耳を傾けてはなりません。確かに世は混乱をし、世の中は乱れ、末法の世がきた、末世がきたように見えるかもしれません。実際、最期の審判のときがきたと騒ぎたてるクリスチャンもいるでしょう。しかし、この世はまだ滅びてはゆきません。 なぜ滅びゆかないか。すなわち、新たな救世の光が降りてきているからです。救世の光が地上に降りているということは、もちろん、この地上の人びとを救うために降りてきているのです。ですから、人びとよ、暗闇のなかにも、大きな光が降りてきているのだということを疑ってはなりません。 また、私たちは、天上界から、かつて、フランスにノストラダムスという予言者を送って、さまざまな予言をさせました。今世紀終わりまでの予言を、ノストラダムスにさせたのです。ノストラダムスは、西暦二〇〇〇年以降の予言は何もしておりません。なぜならば、今世紀末までの予言をすることが、彼の使命だったからです。 しかし、今後は、ノストラダムス以後の予言がなされていくはずです。そして、そのなかには、人類の希望の原理が、福音が、おそらく述べていかれるでしょう。 9.今後、東京は、全世界に福音を伝える聖都となろう 地上の皆さん、これからさまざまな不幸が起きるでしょうが、それをこの世の終わりだとは思わないで下さい。そのなかに、希望の光が、必ず見えてくるということです。かつて、ベツレヘムで光ったと同じ大きな光が、今、日本にも光っております。 日本の東京は、かつてのエルサレムなのです。そして日本の東京に生きている人たち、このなかで神理を学び生きている人たちのなかには、二千年の昔に、エルサレムの都において、イエスの姿を見たことがある人たちもたくさんいるのです。すなわち、あなた方は、時代というものをつくり出すために、この地上に降りて来た人たちなのです。いつの時代にも、そうした恵まれた時代に、恵まれた地域に出ることを神に感謝せねばなりません。 東京は現代のエルサレムとなり、今後、全世界に福音を述べ示えるための聖なる都となっていくのです。ですから、あなた方は、今、この聖なる都に住んで、生きているということを神に感謝しなくてはなりません。 そして、あなた方は時代の中心にあり、地球の中心にいるという自覚を強く持つべきです。なぜならば、世界を救うのは、新エルサレムにいるあなた方だからです。すなわち、あなた方のなかに起きる文明が、あなた方のなかに起きる文化が、また、あなた方のなかから発する福音が、これからの世の中を救っていくのです。日本の民はもちろんのこと、全世界の民を救っていくのです。これは新たな福音であり、あなた方は選ばれたる民なのです。 あなた方の多くは、かつて、ユダヤに生まれ、選ばれたる民イスラエルとして砂漠の地帯を彷徨(さまよ)ったことがあります。さまざまな預言者たちを送り出して来た民なのです。その優秀な民が、今、日本の国に数多く生まれて、この地でさまざまな魂修行をしているのです。あなた方は、かつて、このような瞬間に何度も立ち会ったことがあります。そして、偉大な都エルサレムは、これからあなた方が築いていくのです。 世界は、これから約百年間、日本を中心に輝いていくはすです。何度も繰り返しますが、日本の中心・東京は、新しきエルサレムとなります。ですから、このエルサレムに住んでいる人たちは、自信を持って、誇りを持って、勇気を持って、生きてゆかねばなりません。そして、あなた方は、選ばれたる民として、あなた方が受け取った福音を、あなた方だけのものとするのではなくて、世の人びとに伝えてゆかねばなりません。それが、あなた方の使命です。 10.日本は、やがて文明の中心となり、その文化が全世界へと流れてゆく 日本という国は、これからだんだんに時代の中心となり、文明の中心となっていきます。今後、日本からアメリカ、中国、ソヴィエト、アフリカ、中近東、東南アジア、あるいは、オーストラリアヘと、さまざまな文化が流れ出してゆくはずです。歴史を振り返ってみても、いつも文化は高いところから低いところへと流れております。それと同じように、あなた方の文化の高みが、やがて全世界へと流れていくようになっていくでしょう。 そのときに、あなた方に誇りあれ、あなた方に誉れあれ、あなた方に栄誉あれ、あなた方に名誉あれ、あなた方に神の光あれ、あなた方に神の栄光あれ。あなた方は、神の栄光を受けるべき民なのです。ですから、どうか勇気を持っていただきたい。そう思っております。 いつの時代にも、新しい文明が栄えるときには、一部の人の核というのがありました。まず核があって、そのまわりにさまざまなものが広まってゆく。ユダヤの地にはイエス・キリストという核があって、十二弟子がいた。そして、その核から広がった教えが、エルサレムに、そこからまた、ローマの地に、ギリシャの地に、さらには、中東の地へと伝わっていったのです。 仏教においても、同じことが言えます。つまり、二千数百年前にゴーダマ・ブッダがインドに生まれて、インドで法を説いた。その法が、やがて中近東に伝わり、山を越えて、ヒマラヤの山脈を越えて、中国へと移っていったのです。そして、またセイロンに移り、セイロンから東南アジアヘと伝わっていった。このように、いつの場合においても、ある中心があって、そこから教えが広がっていくのです。 11.今、東京を中心に大きな光が輝きはじめ、人類の曙が近づいている 今、私たちの住んでいる世界から地球というものを見てみると、地球にはかなり暗い想念の雲というものが掛かっています。いろいろなところに暗い雲が掛かっている。しかも、想念の雲は、主として大都市を中心に掛かっているのです。 しかし、一方では、今、日本の東京を中心に、大きな光が輝きはじめています。曙です。人類の曙が、今、近づいてきていると言えます。今後、この日本の東京を中心とした教え、文化、文明が、やがて、インドのときの釈尊の教えのように、ナザレの地におけるイエス・キリストの教えのように、あるいは、カナンに向かったモーゼの教えのように、全世界へと席捲(せっけん)していくのです。 同時代の人には、なかなかその高さがわからないこともあるでしょう。しかし、今、あなた方は、全地球的な時代に生きているのです。わずか十数時間あれば、地球の裏側まで行ける時代です。日本列島ならば、どこからどこまででも、その日のうちに動くことができる。こういう便利な時代なのです。 イエスの時代には、イエスがいくら健脚だったとしても、全世界を伝道して廻ることはできませんでした。パウロが、ローマヘ伝道するのでさえ、当時は大変な難事業だったと言われています。しかし、現代では、ユダヤの地とローマは、ほんの目と鼻の先の距離にすぎません。ですから、もし、パウロが現代に生まれたとするならば、おそらく現代のパウロは、日本からアメリカヘ、中国へ、ソ連へ、イギリスヘ、オーストラリアヘと布教の足を広げていったことでしょう。 このように、あなた方の教えも、あなた方が生きているうちに、あなた方の弟子たちによって、日本からアメリカヘ、ソヴィエトヘ、中国へ、東南アジアヘ、アフリカヘと必ず伝道されていくはずです。そして、こうした地球的な時代であるだけに、あなた方の目の前で、そうした大きな教えというものの広がりを見ることになるでしょう。こうしたことは、かつては、同時代には経験できなかったことです。 12.あなた方に敵が現われたときに、聖霊たちの力が守ってくれることを忘れるな あなた方の教えが、全地球的に広がっていく過程には、もちろん、さまざまな争いや軋轢(あつれき)もあるでしょう。また、まちがった新興宗教家たちが、あなた方の前に立ちはだかることがあるかもしれません。 しかし、そのときに、あなた方は思い出してほしいのです。かつて、エジプトの地において、モーゼたちが、パロ、国王たちの軍勢によって攻められようとしたときに、エホバの神が、モーゼたちを救った。そのことを思い出してほしいのです。 あなた方は、過越(すぎこし)の祭としてキリスト教国にだけ広がっている祭りのことを憶えているでしょうか。今から三千百数十年前、モーゼたちがエジプトを脱出しようと計画していたときに、王の軍勢、軍隊たちは、イスラエルの民たちのなかで、その子供たちを殺そうと計画しておりました。そのとき、エホバの神がひとつの正義の神となって、強く悪を叩く、つまり正邪を分かつ力となって、地を覆ったことがあります。 現在、儀式として、伝説として残っているのは、イスラエルの民たちの門口には仔羊の血を塗っておき、エジプトの王の家来たちの家々には、そうした印(しるし)がないということです。ですから、あの当時、エホバの神は、イスラエルの民たちの戸口を過越して、彼らを襲わなかった。王の家来たちだけを襲ったのです。そして、それらの子供たちの命を奪った。こういう話が伝説として残っております。 これが事実どおりのことであるかどうかは一考の余地があるとしても、あなた方に敵が現われたときに、かつて、エホバの神がモーゼたちを救ったように、大きな聖霊たちの力が、必ずあなた方を救ってくれる、守ってくれるということです。そのことを忘れてはなりません。 この世の人間は、自力、自力ということで、要するに、自分たちだけの力で教え広めよう広めようという気持ちがあります。しかし、教えというものは、自分たちの力だけで広まるものではありません。教えを広めていくためには、教えに共感する人たちの出現が予定されていなくてはならないのです。また、もうひとつは、教えを攻撃する者たちに対する守り、砦(とりで)というものが必要だということです。 13.あなた方は、真実を述べ伝える預言者となりなさい 今後、あなたたちに対して、さまざまな批難や攻撃をする人びとが出て来るでしょう。私が、過去世のエレミヤだったときに、偽の預言者ハナニヤという者がおりました。ハナニヤは、世の中に、まちがった教えを、預言を説いていたのです。私は、エホバの預言を伝え、つまりヤーヴェの預言を伝え、「バビロンが攻めてくる、そして、まちがった教えに帰依している人たちは連れ去られる」ということを何度も警告しました。 しかし、偽預言者であり、現実妥協主義者のハナニヤは、「そんな極端なことを言うと、民たちから攻撃を受けるから、お前はそんなことを言うもんじゃない」と私に告げた。そして、エホバの神はそんなつらいことを決して人びとにもたらすわけがない、神様は私たちを守って下さるにちがいないというようなことを言って、民の歓心(かんしん)を買いました。 しかし、あなた方は、民の歓心を買うようなそういう預言者であってはいけません。ばかの歓心を買うのではなくて、やはり真実だけを述べ伝えるべきです。ですから、危機が来ているときには、危機が来ていると言わざるを得ないと思います。危機は来ない、危機は来ないと言って、民の人気を博しておきながら、ある日、ある瞬間に舞台の上から登場人物が姿を消すようなことであってはいけないのです。 14.危機は、現代の物質文明にまちがいがあるために生じるのである 危機は来ます。では、なぜ危機が来るのか。なぜ人類の危機が来るのか。つまり、それは、現代の物質文明にゆきづまりがあるからです。人類の考えのなかに、まちがいがあるからです。人類の考えのなかにまちがいがあるから、危機が来るのです。 現在、二十世紀後半の人類の心のなかに巣くっている考えとは、一体何でしょうか。それは、ものが万能、つまり、物質が万能の世の中であり、科学がすべてを制覇したような迷妄であり、霊的なものを一笑に付すような風潮だと言えるのではないでしょうか。 日本の教育にしても、まさにそうです。正規の教育のなかに、神とか霊とかいうものを教えてはならぬような風潮があるのではないでしょうか。宗教を求める人は特殊の世界のなかの人であり、そのなかで、とくにもの好きな人たちだけが霊的なものを求める、と。そういう形になっているのではないでしょうか。 私は、そういった風潮をとても悲しんでおります。知的に優れた人たちが無神論者であり、また、唯物論者であることを自慢するような世の中を、非常に悲しいことだと思います。そして、本来の世界観、ほんとうの世の中の仕組みを知らない人たちが、日本のなかにおいて、世界のなかにおいて、高位高官、そういう位(くらい)を占めて幅をきかしている。こういう世の中を大変悲しいと思っております。 こうしたものは、こうした世界は、もう一度遣(や)り直しをしなくてはならないのです。地上の人たちをひとりひとり教えて教化するだけでは、間にあわない。ですから、やはり、もう一度洗濯をする必要があるのです。地上の生きている人たちをクリーニングし直さなくてはならないのです。 あなた方は、かつて、ノアの洪水というのがあったということを記憶しているでしょう。ノアの洪水は、何度も何度も人類を襲いました。そのたびに、古い文明が消えていったのです。そして、その代わりに、新たな文明が誕生して来ました。つまり、新たな文明が起きて来るためには、古い文明はやはり消してゆかなくてはならないということです。現代の文明は非常にまちがった方向へと来ています。ですから、まちがったものに対しては、いったん、徹底的な衝撃を与えなくてはなりません。まちがったものを強く叩いて、そして、新たなものをつくりあげていく必要があるのです。 15.第三次大戦後、エホバの手が激しく地を打つ 現在は、そうした時代の端境(はざかい)期であり、変わり目となっているのだと言えます。エホバの手は、大きく伸ばされて、激しく地を打つでしょう。そのときに、逃げまどう人がたくさん出るでしょう。しかし、それを見て恐れることはないのです。それは、新しき文明の、新しき時代の先触れなのです。そのことを忘れないでいただきたいと思います。 かつての過越しのときのように、人びとよ、自らの戸口に仔羊の血を塗りなさい。仔羊の血とは、もちろん、生ける羊の血ではありません。この仔羊の血とは、あなた方の心のなかの血なのです。すなわち、真実の教えであり、真実を信じる信仰心であり、正しき心です。つまり、ひとりひとりが住んでいる戸口に、正しき心を掲示しなさいということなのです。 そうすれば、地を打たんとするエホバの手は、それらの家々を過越していくはずです。ですから、あなた方の戸口に、正しき心を探究しているあなた方であるという表札を掲げなさい。そういう表札があれば、エホバの手は、あなた方を打つことは決してありません。 ただし、エホバの手は、地表をかなり激しく打つことになるでしょう。ですから、ノアの洪水のときのような大きな動乱が起こることになります。しかも、その動乱が起きる前に、人類は、自らの手において、大きな戦争を起こしていくでしょう。私は、はっきりと預言しておきますが、やがて、第三次世界大戦がはじまるはずです。近々、まずその前哨戦があって、そして、世界的な戦争にエスカレートしていきます。 人類がこうしたおろかな殺戮(さつりく)を繰り返したあと、エホバの手が激しく地を打つのです。人びとは、そうした天変地異を見て、おそらく、神の怒りのように感じるかもしれません。しかし、それは新たな文明が訪れるための足音でもあるのです。それを忘れてはなりません。 エホバの手は、強く地を打つでしょう。それは人間がまちがった方向へ進んで、自らの魂の兄弟たちを、核戦争などによって滅ぼそうとするような暴挙に出るからこそ、神は地を打たんとするのです。それを単なる天罰だとまちがえてはいけません。それは新たな時代が起きる前の大掃除であり、また、時代の洗礼だということです。 16.新たな福音を信じるとき、人類の道は開ける しかし、そうしたことがすべて起きても、この時代は過ぎゆきはしません。この時代に、新たな福音もまた説かれていくのです。この福音を信じなさい。この福音を信じるなかに、あなた方は永遠の生命を得る道があるのです。その福音を信じるとき、あなた方の道は開かれ、あなた方は神理の門を叩くことができるのだと言えます。神理の門を通っていくことができるのです。ですから、この神理に至る道をまっすぐに付いて行きなさい。 17.私は、神理に至る道を開くための水先案内人である 私たちは、そのための、すなわち、神理に至る道を開くための道しるべなのです。誘(いざな)いなのです。また、水先案内人なのです。私は、内村鑑三として明治、大正、昭和の日本に生きました。私は、水先案内人として、この地上に降りたのです。ですから、私は、水先案内人としての使命を、今後ともはたしていくつもりです。地上を去って、肉体を去った私ですが、天上界から、またこうした形で霊言を世に伝えることによって、ひとつの水先案内人であり続けることができると思っております。 私は水先案内人です。ですから、私の照らすカンテラに付いて来なさい。皆さんの乗っている船は、私の指す舳先(へさき)のほうへ向かって進んでいきなさい。私はまた、浜辺に、岬に立つ、灯台の光です。ですから、霧の夜には、私のこの光をごらんなさい。そして、どこにあなた方が進んでいけばいいのか、あなた方の港がどこにあるのかということを確かめなさい。これからますます霧が濃くなっていくでしょう。霧も深くなっていくでしょう。そうしたなかにあって、私の光を、私の灯台の光をどうか見失わないでいただきたいと思います。なぜならば、これは真実の光であり、愛の光であり、あなた方の導きの光だからです。 イエスの言った、「我は真理なり、道なり」ということは、今も不変です。私もまた、イエスの僕(しもべ)です。そして、イエスの僕として、真理であり、正しい道であるその方向を、あなた方に指し示そうとしているのです。 迷える仔羊たちよ、私の説く方向へと付いて来なさい。そして、新たなエルサレム、新エルサレムを築いていこうではないですか。神の都、聖なる都を築いていこうではないですか。この日本に、この東京に。私は、それを祈っています。
https://w.atwiki.jp/jp-summons/pages/580.html
にほんご 日本国の実質的な公用語。東京方言をベースとした標準語と、地域差の大きい無数の方言が存在する。 日本国が異世界に転移したとき、日本人たちは自らの言語が現地人に通じないのではと危惧していた。しかしクワ・トイネ公国とのコンタクトで日本語が新世界の大陸共通言語に自動翻訳されることが明らかとなり、コミュニケーションに障害は生じなかった。 ただし文字はお互いに読むことができないようで、日本国と公国の言語学者の共同作業を通じてハイピッチで翻訳作業が行われた。 日本語の文字体系は特にユニークで難解な部類に入ると旧世界で言われていた。 しかし、日本国に捕虜として囚われたパーパルディア皇国の竜騎士レクマイアは、収容所生活の間(*1)に日本語の新聞を読み漁り、日本語の文字をある程度会得することに成功している。 関連項目 用語|日本国|大陸共通言語|自動翻訳現象 ※既存のコメントに返信する場合、返信したいコメントの左側にチェックを入れて下さい。 過去のコメント これ、一緒に転移してきた外国人で日本語話せない人はどういう状態になってるのですかね。普通に会話できてしまっているのだろうか。日本国内でも。 - 名無しさん (2018-06-04 16 18 24) マイラスは英語まで読めるようになりつつある。 - 名無しさん (2018-06-05 00 49 17) これからは日本語が新世界の共通語になっていくんだろうな - 名無しさん (2020-05-06 16 05 51) 関連に自動翻訳現象追加希望 - 名無しさん (2021-04-22 15 33 34) 在日外国人にも自動翻訳現象適用されて新世界人の大陸共通言語はもちろん日本語会話も自国語に翻訳されていたらいいなとは思う。そのへんの設定を高松がいるときに聞いておけば良かった。 - 名無しさん (2022-05-18 21 57 38) 名前 ここを編集 〔最終更新日:2022年07月26日〕