約 21,955 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/415.html
目次 1.一遍上人の前世はイエスの弟子ヤコブ 2.踊り念仏は浄土を地上で表現したもの 3.近い将来、一時期地上が暗くなるので、心の対処が必要 4.余暇を有効に使う生涯学習としての宗教活動 5.心の広場、愛の広場をつくろう 6.明るい出合いの場をつくるのは宗教の任務 7.一遍上人の「時宗」は一瞬、一刻の信仰の教え 8.新しい宗教は「空間」と「時間」を制する哲学であるべきだ 9.この世で偉くなりたいと思ってはいけない 10.九次元の人は秀才、しかし、七次元、六次元にはもっと専門家がいる 11.権威主義はやめるべきである (1986年8月7日の霊示) 1.一遍上人の前世はイエスの弟子ヤコブ 一遍 一遍でございます。 ―― お初におめにかかります。一遍様のご高名は、かねがねうかがっております。 一遍 いや、あなたは、私をあまり知っていないのではないですかなあ、あまりごぞんじではないようですな。 ―― いやそれは、一遍様のお教えの本義については深くぞんじておりませんが、ただ、お名前だけは、宗教人としてご高名であられたので、よくぞんじております。 一遍 私もね、まあ、最初からこんな話をしてはなんですが、前世においては、キリスト教系で、あなたとも縁があったものです。 ―― ああ、それはそれは……、やはりイエス様とのご関係で……。 一遍 そうですね、まあ、それほど有名ではございませんが、数ある人のなかの一人であったということです。 ―― 親鸞聖人、蓮如上人とともに、イエス様のお弟子であられたということですね。 一遍 ですからね、仏教世界において、キリスト教的考え方を布教するためにわれらが一団となってでてきたということです。ヤコブという名前があるでしょう。聖書のなかにね、ヤコブというのがでてきておりますでしょう。これが私なのです。 まあ、一遍がでて、ヤコブの話をしておったのでは、皆さんの期待にはずれると思うから……、さあ、何からお話いたしましょう。 ―― 上人様は、伊予の愛媛のお生まれで、浄土宗に学び、自ら「時宗(じしゅう)」という一派を興されて、"踊(おど)り念仏"を行ない、お教えを広められたそうですが……。さて、これからのお話について、読者のなかには、「はたしてこれが一遍なりや」との疑いを持たれる方もあろうかと思いますので、これはどなたにもお願いしていることですが、始めに、何か当時のお考えなどをお話し願えませんでしょうか。 2.踊り念仏は浄土を地上で表現したもの 一遍 まあ、当時は、イエス・キリストのような偉大な教師がいなかったので、私たち小粒の指導霊たちが時代をつくるために、数多くでておったわけであります。親鸞のような教えもありましたが、私の教えは、その他力の教えをもっと徹底して説いたものなのです。それと、私の教えの一番の勘所(かんどころ)は何かというと、はっきり言って大衆布教なのです。 つまり、どれだけわかりやすく教えを説いて、どれだけ多くの人を動員するか、これが眼目だったわけです。お念仏で救われるという言い方もありますが、まあ、それだけじゃなくてね、もう少し動員力を増してやりたいということでした。踊り念仏というように言われておりますが、当時の人は心が暗く、荒(すさ)んでおったわけです。ですから、いかに極楽浄土が明るく楽しいものであるかということを説いた。そして、その極楽浄土の雰囲気を、皆さん、現世において味わってみませんか、と。それは、こういう楽しい気持ちなんですよと、お念仏を唱えながら踊る。 そうすると、いろんな死の恐怖や、とりこし苦労、心配をしておったとしても、一時期ではありますが、ずいぶん気が楽になる。明るくなるのです。宗教というのは、人びとのですなあ、知性、まあ知識ですな、こうしたものが高まって、理解力が増しているときにはむずかしいことを言ってもいいのですが、人びとがですな、考える力が十分でない時代には、まずは、人びとの心を明るくする。これが肝心なわけです。 ところが、今、あなた方は、"心の教え"ということで、さまざまな聖賢の話をうかがって、「教えの書」を刊行しているようですが、その教えの書もですね、まあ、私があの世から垣間見るかぎりは、若干知性と言いますかね、知的なものに流されておるようであります。 3.近い将来、一時期地上が暗くなるので、心の対処が必要 一遍 それも一つの生き方ではありますが、これから、近々十年、二十年の間に、世の中がね、一時期暗くなっていきます。まあ、天照大御神様がお隠れになったようなもので、つまり、天の岩戸にお隠れになったような感じでね、地上が暗くなることがあります。これは、陽が翳(かげ)るという意味ではなくてね、世の中が暗い世の中、暗たんたる世の中になる時期が、今後、来るということです。 そうしたときにはですなあ、人びとは動乱、狂乱のなかにあるわけです。だから、むずかしい「霊言集」を読んで、これを知的に理解すれば救われる――ということだけではですね、なかなか人間は救われない。平和時においては、高い教養を持って生きている人びとを教導する意味においては、それで十分なのでありますが、混乱期、暗たんたる時期においては、それでは不十分なのであります。ですから、そういうときにはね、あなた方ももう少し単純で、もう少し明快で、もう少し人びとの心を明るくするような運動というものを考えていただきたいのです。 私は、まあ、これは当時の私の発明でもあろうし、狂った男だなどと言われたこともありますけれども、世が暗いときにはね、せめて一般の人の心だけでも明るくしたいと考えた。楽しくしたい、と。楽しいということが、失われた時代でもあったわけであります。 今はね、楽しいことが多いようですが、苦しいことのみが眼につく時代がもうすぐやってまいります。そのときにね、あなた方に、法の楽しみ、道の楽しみですか、それを伝えて貰いたいのです。道を求めることの楽しみも大事ですが、その道をですな、求めている人が、やはり心明るくなるような、心がうきうきするような、そうした考え方ね、それも、私は大事だと思うのです。 今、世の新興宗教を見ていると、どうもやたら修行ばかりをやっているようですな。道場をつくってね、坐禅をやったり、瞑想をやったり、観法をやったり。いろいろやっておるようですが、ま、今一つ楽しそうではありませんな。ですからね、まあ、「創価学会」などというものがありますわな。見ていると、評判がよくないようですが、まあ、私もね、あれの教え自体がどうかはわかりませんが、いや、いいところもあると思うのですよ。ああいう"学会"という完結した団体のなかでね、相互扶助が行なわれていた。実際に、あの創価学会のようなものが広がったときにはね、まあ学会員になった者は、やはり世の中の貧しい方がたであったでありましょう。そういう人たちが一団となって救っていく、互いに互助していく、そういう内容を持っとったと思うのですな。 同じ時期に、"共産主義"などがあった。共産主義社会とかね、まあ、そういうものがあった。そうした唯物主義にもとづく団結という考え方と、もう一つは信仰を通した団結というものね、こうしたものが近代の日本にはあったわけであります。どちらが優れているかといえば、信仰のもとに団結し、まあ、ある意味でのユートピア社会の縮図なわけですな。 ですからね、あなた方も、本を読んで知的に悟るということも大事ではありますが、やはりね、あなた方が、今後、教えを説いていくなかにおいて、その教えを信じる者同士、その教えをお互いに理解し合う者同士が、"幸せ"に生きていけるように、やはり配慮していく必要があります。 今は、そうした心が孤独な人が多いんですね。そういう心の世界、神仏の世界を信じていてもなお、孤独な人が多いのです。自分一人だけの信仰になっているのが多くて、話し友だちもない。そして、話し友だちを持とうとしても、まあ、既成のね、いろんな怪しげな団体、宗教団体に入らないと仲間ができないということもある。まあ、こういうときですから、あなた方には、できるだけ明快で、明瞭でね、暗さが何もないような、そういう教えを説いていただきたい。そして、そういうものを共有しあうことができるような人びとの交流の場を提供していけるようになりたいものだと思います。 で、宗教のかつての悪いところをなるべく拭(ぬぐ)い去って、あなた方の教えによって、明朗な人びととの出合いの場をつくっていくという考えが大事です。教えを通じた出合い、信仰を通じた出合いですね。こういう出合いの場をつくっていく。そして、人と人との心のふれあいを大切にしていく。こういうことをね、考えていっていただきたいと思います。 あなた方がね、生き神様のようになって、崇奉(あがめたてまつ)られることが、信仰の本義であるわけでは決してないはずなのです。まあ、あなた方のね、教えをともに勉強しあうということを一つのきっかけとして、いろんな人びとが、愛のサークルをつくっていけるような、そういう場を提供していく。これが大事だと思うのです。だから、あなた方の教えを勉強するという機会を利用して、お互いの人たちが、いろんな人たちが、未知の人たちが出合って、話し合って、お互いに交流できるような、そういう明るいものをつくっていきましょう。 あなた方のお教えを信じている者が、他宗を排撃したり、"折伏(しゃくぶく)"したりして、一致団結する必要はないのです。そうではなくてね、あなた方の教えは、だれもが学べるような、開放的なものにして、そして、そのなかで、教えを学ぶなかで、いろんな人が出合って、さまざまな"愛"が生まれ、出合いが生まれて、素晴らしい人生が、いくつも誕生するような、そういうやり方にしていただきたいと思います。 4.余暇を有効に使う生涯学習としての宗教活動 一遍 あなた方には、これから支部ができたり、また、組織ができていくでありましょう。でも締めつけのようなことではなくて、異端邪説を排するとか、そういうことではなくてね、一つの出合いの場であってほしい。あなた方の教えをそのまま信ぜよ、鵜呑みにせよ、というのではありません。自分たちは出合いの場を提供するから、これでみんなが心の交流をしてください、と。そして、本当の教えというのは、書かれたものだけが教えではなくて、一人一人が話し合うなかにきっかけがあり、目覚めがあるんですよ、と。こういうことですね。 ここを私はね、まあ、他の人が今一つどうも言っておられないようなので、言っておきたいと思うのです。レクリエーションという言葉があなた方の時代にあるようですが、まあ、宗教というのがね、今後、余暇の増大する時代においては、人びとの一つの出合いの場、心のゆとりの場になってくると思います。だんだん時間的にもゆとりがでてきます。働きすぎの時代は、やがて終わっていって、一つのゆとりが生まれてきます。文化的な、時代としてのゆとりがでてきます。 そうしたときに、出合いの場をつくる。それが、あなた方の教えであっていただきたい。すなわち、ある意味での"生涯学習"です。今の時代でいえばね、生涯学習ということがすいぶん言われていますね。若いときに、労働ばかりして勉強ができなかった方が、中高年になって、大学にもう一回入り直してみるとかね。卒業してしばらくたって、勉強し直したい人がいて、そういう人のためにやるところとか、あるいは、カルチャー・センターとかありますね。そういうところで、主婦とかが学んでおるようですが、まあ、こういうものも生涯教育の一環でありましょうが、そうではなくて、もっと大切な生涯学習があるはずです。 それが、宗教の世界、心の世界です。ですから、いろんな方がお互いに、一生を学習していけるような、そういう場をつくってあげたいと思うのです。まあ、十分な時間を持っている主婦の皆さんには、昼間に活動していただく。会社勤めがある男性は、夜とかね、休日に活動していただく。そして、お互いに人生経験の幅を広げていただきたいのです。 5.心の広場、愛の広場をつくろう 一遍 それと今、世の中を見ていて問題点と思うのは、こういうことです。つまり交際の幅が狭い。たいていの方がですな、企業に勤めているわけですが、一日八時間、あるいは十時間というものを拘束されている。その職場仲間と、仕事で話をする。そして、夜は飲みに行く。また、土日のゴルフをしたりして遊んでおる。ということで、非常に交際の幅が狭いものになっていると、私は思うのですな。 これは、人間の人生においては、非常にもったいないことです。非常に少ない範囲の人とばかりつきあっていたのでは、新たな人生経験は得られない。大変にもったいないことです。ですから、こうした方がたがね、心の教えを通じて、いろんな世代の人と、いろんな経験を得た人と話ができるような、ま、そんな場をつくることができたらと思うわけです。広場ですな。あなた方は、そうした広場をつくるのですよ。これからね、心の広場、愛の広場、それをつくっていただきたい。団体をつくろうと思わずに、広場を提供する。そのなかでね、だれもが楽しく憩(いこ)っていきなさい、と。私は、これでいいと思うのですよ。 そしたらね、今の世代の隔絶とか、個人主義の時代ですな、こうした時代に対して、一石を投ずることになるだろうと思うのですがね。そうではないと、人と人の交流がね、非常にかぎられたものになって、孤独な人がずいぶんでてくる。"文明病"でね、孤独ですよ。悩みがあっても、だれにもうちあけられない。会社の同僚と交際(つきあ)っていても、悩みを打ちあけたりしたのでは、足を引っ張られるそうだ。いつ、だれそれの耳に入るかわからない。父母とは一緒にいない。だから、悩み一つ言えない。そういうことでね、心の孤独というのは、どんどん増していくのです。 ですから、あなた方には、孤独な人びとを何とか、救っていただきたいのです。"弧独からの解放"すなわち、あの世のことを知らせるのも大事ですが、まあ、現代人の孤独からですね、救ってあげることも大事なことですよ。そうじゃありませんか。狂信、盲信の類は困るけれどもね、そうではなくて、だれが学んでもおかしくないような、立派な教えであるなら一緒に勉強会しましょうと、そのぐらいの気楽な気持ちでね、あなた方の広場に、たくさんの人びとが集まってくるような、そういうものにしてほしいのです。広場ですよ。広場はみんなのものですから、みんなで使っていただければいいのです。そういう心の広場、愛の広場です。 それと、宗教の世界というのは、平等の世界です。「阿弥陀如来」の下(もと)の平等と言ってもいいですからね。まあ、神仏の下の平等ですね。そういうおおいなる力の前には、人間というのは、平等なんです。この世的には、地位の差がありましょう。年齢の差がありましょう。収入の差がありましょう。男女の差がありましょう。けれども、そういう宗教の世界では、おおいなるものの前に平等なのです。 ですから、すべての肩書を取りはずして、世間的な上下を取りはずして、そして、お互いに交流、心の交流ができるような、そういう場をつくってほしいと思います。そういう集まりであれば、相手の人が会社で重役やっているのかどうかもわからないし、気にもならない、学生の意見だからといって無視する気持ちもない。そういうことで、一つの教えに関していろんな人が議論ができるような、そういう活発な場をつくってあげたい。 それだってね、ある意味でのユートピアです。別に会社の建設だけではありません。人びとの出合いの場、憩いの場、広場をつくってあげることが、一つのユートピアなのです。孤独な人たちにとっては、救いになります。今、都会では自殺を考えているような人がいっぱいおります。なぜ自殺を考えているか。つまりは、相談するところがないのです。しかし、そういう「愛の広場」があったならば、そこで、いろんな人の相談を受けられる。普通であれば、自分の父母、きょうだい、友だち以外には相談するところがない。でも、そういう愛の広場に駆け込めばね、いろんな人の相談を受けられる。また、人生経験のある人の話を聴けるんです。 そういう人たちは、みんな、悩んでいる人たちを救いたいと思っていますから、困った人に対して、心から相談にのってくれるでありましょう。自殺したいと思っている人がいたら、まず、そうした広場へ駆け込んでこい、と。そして、いろんな人と話し、「いやあ、若いうちには辛いことも多いよ。私もそんなときがあったけれども、こうやって乗り越えたんだよ」と、そういうことが言えるような場がほしいですね。まあ、あなた方の教えとして、むずかしい教えを遺(のこ)す、後世に遺すことも大事でしょう。しかし、今、あなた方の教えに触れてる人たちが、そういう楽しい場を持てるような、そういうものにしてほしいのです。 地域社会での互助会、町内会のようなものもあります。しかし、そういうものは、非常に形骸化(けいがいか)しています。結局、それぞれの立場が違って、思想が違うから、あまり話をすることもない。顔見せだけに終わっている。それでは、意味がない。ですから、そういうことではなくてね、一つの信仰ということを通して集まっている人たちが、互いに学べるような、そういうものをつくってほしいと思うのです。 私の「踊り念仏」というのはね、時代の流れのなかからみれば、非常に奇異なものだろうし、今のあなた方から見れば、とても信じがたいものでありましょう。しかし、ある意味においては、そういうね、一つの解放感というのを共通項にしてね、人びとの出合いの場、触れ合いの場をつくりたいということだったのです。つまり、"阿弥陀如来"の称号のもとに、いろんな人が集まって、楽しくやっていける。一時期であっても、この世的な辛さを忘れられる。まあ、そういうものを、私は考えたのです。こういう大衆布教の方法があるのです。 ですから、上から下に教えるのではないのです。あなた方が生き神様になるのではない。あなた方は、単に広場を提供しているだけなのです。この教えをきっかけにして、いろんな人生問題を話し合って、心の交流をしていただきたい。そして、あなた方がつくったその"愛の広場" "出合いの広場"で、若いカップルなどが生まれたり、そういうことになっていくのがむしろ望ましいですね。同じ信仰を持って、夫婦生活をできるとは、素晴らしいことですよ。 ところが、今の見合いとか、ああいう結婚センターでは、同じ思想を持った者同士が出合うことがむずかしい。単に容色とか、学歴とかね、親の地位とか、職業とかね、こんなことで相手を探しておる。しかし、本当に男女の出合いにとって大切なことは、そういうことではなくて、お互いに共通する精神的な基盤があるかどうかなのです。ですから、私はそういう出合いの場をつくってね、青年部でも何でもいいが、若い人たちがどんどんカップルになって、素晴らしい家庭をつくっていく、こういう場もつくりたいですな。そういうのはいいですよ、素晴らしいですよ。共通項があれば、素晴らしいものになります。 6.明るい出合いの場をつくるのは宗教の任務 一遍 たとえば、今でいえば、「天理教」なども、教えとしては、ずいぶん不十分な教えだと、私は思います。あのような"お筆先(ふでさき)"の訓えぐらいでは、現代人の悩みが解消するとは思いません。ただね、いいところもあります。つまり、明るく生きていこうという気持ちがあって、それでお互いに、天理教のなかに入っている人同士が、親睦(しんぼく)を深めて仲よく生きている姿。あれは微笑(ほほえ)ましいものです。あれは立派だと、私は思います。ですから、あなた方のなかにも、そういう微笑ましいものをどうか入れていただきたい。むずかしい教えを説くと、現代のエリートばかりが集まってきたり、知識人ばかりが集まってくるけれども、そういう人ばかり広げるようでは、現代の鎌倉仏教の「禅」みたいになってしまいます。現代の禅になってしまう。それではいけない。幅広いつきあい方を考えなければいけません。 知識欲の旺盛な人には、その知識欲を満足させるようなものを提供することも、もちろん大事です。しかし、一方では、あなた方が何もかも教えなければいけないというような、そういう前提をはずさなければいけないのです。それを機縁として、つまり、その教えを機縁として、人生の出合いがあって、心の交流があるような、そういうものが大切なのです。ですから、だれが師であり、だれが弟子というのをはっきり決めるのではなくて、その場その場で師になったり、弟子になったりするような、そうぃう人間関係。私はそういうのこそ、非常に素晴らしいと思います。「君、そのことに関しては、僕が経験があるから教えてあげるよ」とね、こういう関係が大事なのです。 男性にとっても、そういう男女交際ということを抜きにした異性、女性とのね、精神的な語らいがあるということが必要です。女性にとっても、そういう精神的な語らいがあるということは、大事なことなのです。今、女性で、心の教えを求めている人が多いのですが、そういう人たちも、結局は、はけ口がなくて困っているということです。男性と交際したくても、そういうことを満たしてくれる男性が世の中にはあまりいない。職場にもいない。もし、いたとしても、わからない。外面にださないですからね。ですから、女性もね、いろんな男性と会って、心の教えを交流できるような、そういう場をつくってほしいと思います。 神仏への信仰という一つの基盤がありますから、そういう出合いがあったところで、それほど不倫な恋にはならないはずです。いわゆる社交クラブではないのですから、神仏の前の出合いですから、そういう不純な感情なしに、異性の考え、男性の考えなり、女性の考えというものを十分に理解吸収するチャンスがあると思うのです。私は、これも大事なことだと思います。健全な宗教ですから、別に主婦の方がご主人以外の男性の話を聴いたからといって、それに心奪われて、家庭が乱れるというようなこともないはずです。そういうことは大事なことなのです。つまり、ご主人以外の男性の話を聴いたこともない、というようでは、主婦のほうも、人生経験が非常に狭くなる。そうでしょう。 そういうことで、明るい出合いの場を、あなた方につくっていただきたい。これもね、現代宗教が、今、やるべきことだと私は思います。それ以外には、どう考えてもない。政治に期待するのも無理です。経済に、あるいは、地域社会の活動のなかに期待するにしても、ちょっと無理なところがあります。すなわち、話がないからです。そのなかで、やはり共通項がいるのです。基盤がね。そういうことで、政党などでは無理です。何とかの政治をやっているからといって、党員同士が集まるのとは、ちょっと違うのです。それは、ちょっと違う。そういうのは、単なる政治活動が目的の集団です。ですから、まあ踊り念仏を、現代風にいうなら、そういう出合いの広場ですな。そうした愛の広場をつくるということです。これが一つです。よろしいですか。 ―― 一遍様は、今、「踊り念仏」ということの踊りをとりあげられたのですが、現代では、何か歌、合唱とかね、そういう音楽をとりあげてもいいのではないかと思うのですが……。 一遍 いいですよ。要は、そういう幅広いものにすればいいのです。優れているものだけがいいのではなくてね、みんなでやっていけるものがいいのです。つまりは、ある意味での平等な社会をつくっていただきたいということです。 世の中を見ていると、どうも縦の社会、垂直的な社会、すなわち、上下社会になってきました。で、横割というのは、年齢だけ、同じ年齢者同士平等なんだと、こういう社会になってきた。これではどうもいけません。そこで、もう少し、本当の意味での平等な社会がほしい。いろんな方がたが、趣味でも何でもいいし、そうしたものを通じて交流できるような、そういう場をつくってほしいということです。 私は、そう思います。これはよいでしょう、この考えは。 ―― そうですね。非常に斬新(ざんしん)な素晴らしいお話であると思います。 一遍 この視点も、私は、大事だと思うのです。つまり、あまり知的に道を求める人ばかりが集まっても困る。ですから、何度も申したように、明るい"出合いの広場"をつくっていただきたいということです。 7.一遍上人の「時宗(じしゅう)」は一瞬、一刻の信仰の教え 一遍 一遍としての考えを述べねばいけないということでしたね。踊り念仏については、すでに話しましたが、もう一つ言っておきますと、私は当時、「時宗」というものを称えておったわけです。正確には、時宗を称えておったわけではなくてね、人がそう呼んだわけでありますが……。 その要点は何かと申しますと、結局、『南無阿弥陀仏』を何百万回唱えたから救われるのではない、そういう功徳で救われるのではありません、と。人間というのは、いつ死ぬものかわからない。大波が後からおしよせてきて、いつ足を掬(すく)われるような人生になるかわかりません。不確かな人生でありますからこそ、一瞬、一刻を本当に神仏への信仰のもとに生きねばならぬ、と。そういうことで、南無阿弥陀仏を唱えるにあたりましても、その回数が大事なのではない。息を吐くとき、息を吸うとき、その一瞬、一刻が信仰生活でなければいかん、と。こういうことを、私は言ったわけです。 まあ、これも当時、ずいぶん斬新な考えでございました。息を吸うか、息を吐くか。人間というのは、いつもどっちかをやっているのです。そのどこでね、息が止まるかわかりませんよ、と。今、息を吸っているから安心しているけれども、今度吐くときには、あなたはないかもしれませんよ、と。そういうことでありますから、息を吸うとき、息を吐くとき、それぞれの瞬間において、まあ、現代流にいうなら最高の人生ですな、そういう人生を生きているあなた方であれ、と。 しかし、あの頃の時代ではそうは言えないから、まあ、南無阿弥陀仏と言っていましたがね。そして、息を吸うときと吐くときは、もう臨終のつもりでね、それこそ"時"が終わりなのだということで、真剣に、一息ごとに南無阿弥陀仏と唱えなさい、と。こうしておけば、いつ死があなた方を見舞っても怖れることはないよ、と。こう教えていたのですが、まあ、これも昔の教えなのでね、時間とか"時"のことを言っているから「時宗」と言われたようです。 これも、現代風に言い直すならね、時々刻々にベストをつくせということですね。つまり一瞬、一秒を惜しんでベストをつくす。こういう面が一つあります。もう一つの面はね、信仰生活というのは、別にまとめて、信仰というものはできるものではないということです。現代においても、同じなのです。 ところが、現代では教会などがあって、日曜日だけ、教会へ行く。そして、そのときだけクリスチャンになっている人がおります。日曜日を離れるとまた忘れてしまって、現代人は好き勝手なことしている。そしてまた、日曜になると、クリスチャンになって、「聖書」を読んでいる。しかし、これではいけないのですよ。まあ、日曜だって大事ですが、やっぱり信仰というのは、毎日毎日であるし、毎時間毎時間であるし、毎分毎秒なんです。 ですから、一瞬たりとも信仰心が失われるようではいけない。そういうことです。そういう緊張感も大事なのです。さきほど私は、解放感について言いましたが、逆に今度は緊張感ですね。それも大事なのです。あなた方は日常生活をするなり、仕事をするなかでね、人間と人間の間でさまざまな衝突もあるし、さまざまな軋轢(あつれき)もあるし、さまざまな利害関係があるでありましょう。そういうときに、これはビジネスだと割り切ってやることもけっこうですが、その割り切る背後に、深い宗教的な判断、深い神仏への信仰というのがなければいけません。 仕事の上では、どうしても相手を蹴落さねばいけないこともあるでしょう。商売の相手を、ライバルを、断り倒さねばならぬこともあります。また、同僚をだし抜かねばいかんこともあるでしょう。ま、やむを得ずそうせざるを得ないときもあるでしょう。ただそのときに、神仏の眼から見た自分の行為というものを冷静に、客観的に見えるようなあなた方でなければいけないということなのです。 8.新しい宗教は「空間」と「時間」を制する哲学であるべきだ 一遍 私の教えの要点の第一番は、まず開放的な"出会いの場"をつくるということです。二番目には、一瞬、一秒に信仰を深めていく、信仰を持って日々に生きていくと、そういうことですね。最初は"場"を言いましたが、二番目は"時"です。ですから、哲学的にむずかしくいうなら、「空間と時間」ですな。まあ、哲学者みたいになってきて、大変むずかしくなって恐縮ですが、現代においても、私の時代もそうだけれども、現代においても、布教の要点は、「空間」と「時間」なのです。 まず新しき教えは、一定の空間を確保しなければなりません。そして、その空間のなかに、人びとの出合いの場があり、愛の広場がなければならない。これが一点です。第二点は、新しき教えには時間という概念がなければいけない。信仰というものは、特別の日に、特別の時間に集中して、まとめて信仰できるものではない。信仰というものは一時間、一分、一秒これをも離れてはならないものである。吐く息、吸う息、その時々刻々に自分を生かしめている親なる神の生命の息吹を感じなければいけない、と。これが二番目です。 息ができることは、当然ではないのです。あなた方が寝ているときにだって、呼吸はしているのです。呼吸を止めれば、心臓が止まってしまって、あなた方は死んでしまいます。しかし、無意識のうちにも呼吸をしているのです。それは、そうした仕組をつくってくださった神さま、仏さまのおかげなのです。ですから、ありがたいという気持ちで、毎日毎日を生きていかねばならないのです。そこで、そういう時間ですな、この概念が必要です。つまり、新しい宗教は、「空間」と「時間」を制するような哲学でなければならんということなので、あなた方の教えのなかに、"空間"と"時間"という概念を明瞭に打ち込むべきです。 といっても、特別な宗教的時間をとるわけではないのです。毎日毎日のなかに実践化していく、信仰を持っている。自分の発する一つ一つの言葉が、神仏の心に適(かな)っているかどうかへの反省を込めていく――。あるいは、生きている毎日の一つ一つのできごとのなかに、神仏への報恩、すなわち、恩がえしということですね。両親への恩がえし、恩になった方へのお返し、こうしたものを日々心に留めて生きていく。こういう時間概念ですね。まあ、哲学的に言えば私はいくらでも言えるのですが、一遍上人としての世間の判断と離れてくるといけないので、それはそこまでにしておきましょう。どうですか、この時間の考えは。 ―― これは人の生きざまについての基本のことでございまして、そのとおりだと思います。結局この「時間」というものは、一つの念(おも)いの持続であろうと思うのですが、念いの持続ということの強度、振幅によって、そこにそれに比例した「空間」というものが開けてくるということですから、まず念を起こせば時間が生じる。念が一定の時間持続、振動すれば、そこにはそれに比例した空間が現出して、躍動し始めるということになりますね……。 一遍 そうです。あなたもなかなかの哲学者ですな。 ―― いやいや、恐縮でございます。それにしましても、何と申しましても、この本義をまず時間のなかで把握していく、さすれば、そこに創造的ないろんな空間が自ずから展(ひろ)がっていくとこういうふうに思います。 一遍 まあそれはね、今、哲学的にむずかしく感じるかもしれないけども、あの世へ行けば当然のことなのですよ。あの世ではね、一瞬一秒、神仏のことを忘れては生きていないのですよ。だれもが、そういう信仰心を持って生きているのです。もちろん地獄にいるような人たちはそのような気持ちはありませんが、天界、あるいは、高級霊界におられる方がたは、一瞬一秒たりと、神仏に生かされているという感謝の気持ち、信仰の気持ち、これを忘れてはいけないのです。 この生かされているという気持ちのもとに、皆様は、一瞬一秒を努力しておられるのですよ。だから、まあ、この地上的にいうからむずかしいのであって、あの世では当然なのですよ。私は今、「菩薩界」というところにおりますが、菩薩界というところにいて、一日のうちのある部分だけを「神仏」への信仰に打ち込んで、他の時間はね、他のことにかまけておいて菩薩界におられるかというと、おられないのですよ。そういうことをしていると、雲の上から転落して、真っ逆さまに下へ堕ちていくわけです。 だからこそ、信仰というものはしっかりと持っていないといけない。自分のところにある十字架だとか、あるいは曼陀羅(まんだら)、何でもいいけれども、それに向かってお祈りしているときだけ、心が清ければよいかといえば、そうではないのですよ。仲間と出合ってね、それでさんざん悪口を言って罵倒(ばとう)する。あとで、「ああ、しまった」と、それをまとめて精算し、あとでまとめて心の精算をしようと思っているうちに、真っ逆さまに堕ちてしまうのです。 ところが、生きている人間は、けっこうあるわけですな。つまり、反省すればいいと教えれば、一週間まとめて反省すればいいんだから、日頃どんな放恣(ほうし)な、いい加減な生き方をしていても、まあいいだろうと思って、日曜日だけ教会へ行って懺悔(ざんげ)をしている。まあ、それもしないよりはましですよ。ただ、この地上だからね、地上にいるから、まだ地獄へ行かなくてすむだけです。私たちのうちで、世界で、六日間悪いことして、七日目に反省したところで、もうそのときは地獄のどまんなかにおります。そういうことですからね、生きているうちに日々、一日を信仰的な感情を持って生きていく。こういうことが大事なのです。 ―― 非常に斬新なお考えでございますね。 一遍 一遍は、古くて新しい男なんでございますよ。 ―― そうですね、こんなお話はめったに聴けないことですが、大変有意義なお話をうかがって参考になりました。上人様のお説が書籍となって著われたときには、おそらく世の人びとは瞠目(どうもく)するであろうと、このように思います。新しい大衆布教の場とその一つの方向が提起されたように思います。 一遍 まあ、一遍はね、本当絵巻物ぐらいしか残っていないので、私の思想はわかっていないのです。ただ当時はね、ずいぶん粋狂(すいきょう)な人がいたと思われていたのですが、まあ、その粋狂な人一遍の真意はどこにあるかですな。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/416.html
目次 1.一遍上人の前世はイエスの弟子ヤコブ 2.踊り念仏は浄土を地上で表現したもの 3.近い将来、一時期地上が暗くなるので、心の対処が必要 4.余暇を有効に使う生涯学習としての宗教活動 5.心の広場、愛の広場をつくろう 6.明るい出合いの場をつくるのは宗教の任務 7.一遍上人の「時宗」は一瞬、一刻の信仰の教え 8.新しい宗教は「空間」と「時間」を制する哲学であるべきだ 9.この世で偉くなりたいと思ってはいけない 10.九次元の人は秀才、しかし、七次元、六次元にはもっと専門家がいる 11.権威主義はやめるべきである 9.この世で偉くなりたいと思ってはいけない 一遍 もう一つだけつけ加えておくと、さっきもちょっと言いましたが、宗教家があまり偉くなっちゃうことに、私は疑問があるのですよ。偉い偉くないは、あの世へ行けば神様、仏様が決めてくださることなのですよ。だからこの世で、地上で、自分が偉くなってしまうことはないのですよ。聖人君子になってはいけないのです。 ところがね、地上では、自分が偉くなっちゃう人がいるんですな。まあ、某大宗教家でね、登りつめた方で、ときの政府からも信任されて、その仏教界の頂点にいた方が、今、ある苦しいところで喘(あえ)いでいるという事実があります。その事実の背景にあるものは、結局、その方があまり偉くなりすぎたのですな。キリスト教で言うようにね、「自ら高くするものは低くせられ、低くするものは高くせらる」と言いますが、これは真理なのですよ。この世で、己れを高しと思う者はみな、下へ行くのですよ。逆に、己れを低うするものは高うせられるのです。神仏の前には、その人の高い低いはわからないのです。むしろ逆になることが多い。 そういうことで、今度は専門家の方ですな、今後「神理」を説いていこうといわれる専門の方がた、あなた方を始めとして、やがて支部などが、できればいろいろ幹部の方とか、支部長とか、まあそんな名誉職がいっぱいできるのでしょうが、自分を偉いと思ってはいけない。偉いと思っちゃいけませんよ。偉いかどうかは、あの世で神様、仏様が決めることなのです。自分が決めることではないのです。人を導くということを、偉いことだと思ってはいけません。 そういうことで、やはりそういう宗教家というのは、本格的に自分の道というものを求める途中においては、捨てなければいけないのですよ。"執着"、これを捨てなければいけない。この捨てるということが大事なのです。仏道修行に励んでいる人はね、みな偉くなりたいと思っている。そういう方が、けっこう多いのですよ。俗事から離れて一筋に生きれば偉くなれるんじゃないか、と。ところが、偉くなれないんですね。つまり、偉くなりたいという気持ち、その執着の気持ちを捨てられないからです。こういう人は低くされます。 たとえば、普通の人間などには真似できない荒行をやっている人がおります。今だにね、那智の滝だとか、何とかの滝だとかで滝行をやっている人もおります。普通の人にはできないことでしょう。なぜそんなことをやっているのか。つまりは、偉い人になりたいからですな。普通の人にできないようなことをして、偉くなりたいからです。また、"千日回峯(せんにちかいほう)"とかいうものをやっている人もいる。何でやっているのか、これもまた、偉くなりたいからですな。しかし、捨てていませんよ、何も。何も捨てちゃいません。生きながら名僧、高僧といわれたくてやっておるんです。そんなことをやらなくてもね、山歩きがしたけりゃ、黙ってやればいいんですよ。 "千日回峯"などと銘打って、人びとの注目をひいてやることはないのです。そんなのは名誉欲でしかありません。 それとかね、現代では、"ヨガ"なども流行(はや)っているようですがね。ヨガなんかでね、私が見ていると馬鹿なことをね、空中浮揚とか、馬鹿なことが流行っておるようです。修行して空中に体が浮くようになると、それで、われこそはとみんな修行をやったりしている。こういうものもすべて、偉くなりたいと思っておるのですな。こうした人びとにできないことをすると偉くなれると思っている。 しかし、こういう偉くなりたいという気持ちを捨てなければだめです。これを捨てなければ、本当には偉くなれないのです。宗教をやる人びとで、最後の関門は、実はここなんです。欲を絶つことはできるんですよ。食欲を絶って、断食をしたり、菜食主義にすること、これも慣れたらできます。女性を断つ。異性を断つのも、まあ、できないことはないですね。修行だと思えば、女性がいないところへ行けばいいのですからね。これは、断てないこともありません。睡眠をけずる。二時間、三時間と、体をいためるかもしれないけれども、これもできないことはないです。このように、昔からある修行は、できないことではありません。 ただ、一番むずかしいのはね、今の世の中にあって一番むずかしいのは、人から偉く思われたい気持ち、人の上に立ちたい気持ち、そういう気持ちを捨てることです。人を教えるということのなかには、どうしても尊敬されたいという気持ちがあります。現代においても、新興宗教が乱立しておるようだが、結局は、「われこそは本物だ」と言って争っている。何で争うか。偉くなりたいのです。人を蹴落としてでも、偉くなりたい、と。他宗の批判をどんどんしてでも偉くなりたい。そういうことで、「これこそは本当の宗教」だと、そういうことを言いたいわけです。 まあ、あなた方、心の世界を知った人たちは、過去世の姿とかを知っていますね。そこで、過去世の自分というものを知ってみると、ああ、自分が偉いもんだということがよくわかることがありますな。最近できたある宗教でも、そういうのが多かったですが、過去世で偉い人であったから、自分は偉いんだ、と。こういうのは、まあ、「神理」の実証のためにやっとるのはけっこうですが、過去世が偉いからその人がどうだこうだというわけではないんですな。過去世は過去世、今世は今世で、光の天使だって地獄へ堕ちるかもしれません。それはわからない。 しかし、たとえば修行してね、反省をして、霊道を開いてですな、そして、過去世を知った、と。それで、過去世は偉かった、"万才"と、自分は過去世では、キリスト教系の偉い人だった、仏教系の偉い人だったと、こういう人がいっぱいおるわけです。釈迦の教え、キリストの教えを直々に聴いたとかね、あるいは、自分はキリストそのものだなどと言っている人が、なかにはおるかもしれません。しかし、こういうふうに、偉い人になったと思ってはいけない。とくに新興宗教のなかには、そういう考えが多いですから、気をつけていただきたい。 そして、信ずる人も信ずる人でね、その人が過去世で偉い人だから、その人を信ずると、こんなことではいけないのですよ。過去世では本当に偉い人かもしれないけれども、それは過去世の話なのです。ですから、今世の人となり、教えの内容を見て判断しなければいけない。とくに現代の新興宗教を見ると、どうも生き神様がでてくる傾向がある。死んでからはともかくとしても、生きているうちから生神様になって崇(まつ)られている。この方が言っているんだから絶対だと、間違ってても何でもいいからそのまま信じちゃって、それに対する批判でもでようものなら、一蹴(いっしゅう)するか押え込んでしまう。あるいは、悪魔、悪霊が憑(つ)いているなどと言って、名指しで批判する。こういうことをよくされているようです。こういうのはすべて、偉いということを誤解しておるんです。真理はいつも同じなんです。偉いと思っている人は低くせられ、低いと思っている人は偉くされるんです。 10.九次元の人は秀才、しかし、七次元、六次元にはもっと専門家がいる 一遍 だから、あなた方もね、七次元だの八次元だの、九次元だのと、ずいぶん言っているようだが、これも害悪を撒(ま)くことが多いですよ。九次元の人がこう言っているのだから、八次元、七次元の人は黙っていろ、こういう人の意見などは、採ることはない、と。後世において、こういう人がでてきますよ。あなた方の「霊言集」のなかでも、九次元の人の言うことだけ聴いておればいいんだ、と。あるいはまた、八次元、七次元の人の言うことは聴かなくてもいいんだ、と。こんなことを言う人がいるでしょう。しかし、「神理」というものは、そんな簡単なものではないのです。 まあ、九次元におるような人というのは、オール・マイティの秀才なんですよ。国語も、英語も、理科も社会も、何もかもできるような人が、九次元へ行っております。ただね、英語なら英語という特別な科目をとれば、七次元、六次元の人で、もっとできるという人はいます。また、国語だけとっても、同じことが言えます。絵だけ描かせれば、もっとうまい人がいる。詩だけ書かせれば、うまい人もいる。 これは、一つの譬喩(ひゆ)でありますがね。たとえば、よくあるでしょう。学校の先生がね、小学校、中学校の先生がね、まあ、大した学校をでていない、と。ところが、子供のお父さんのほうは、まあ、一流大学をでている。そこで、そういう一流大学をでているお父さんとかお母さんとかがね、PTAに行き、三流大学をでている先生の話だと不安になってくる。いけません、と。塾へでも通わさないとね、心配だ、などと言っているんですね。しかし、専門家というのはいるんです。たとえ、三流大学をでていてもね、小学校で教えるということで専門教育を受けているんですから、一流大学をでているからといって、何も父兄が口をだすことはないんですよ。専門家がいるんですから、同じことです。 親がどれだけ立派な学校を卒業しているか知らんけれども、子供が小学校、中学校へ行っている以上は、小学校の先生の言うことを、中学校の先生の言うことを、よく聴けばいいのです。立場が違うんです。彼らは専門家なんです。同じですよ。六次元の人だからといって、レベルが低いとか、七次元だから意見を聴いてやらないとか、こういう考え方は、間違っています。ですから、あなた方の次元概念も、下手をすると、読者とか信者にそういう間違いを招く惧(おそ)れがあります。 11.権威主義はやめるべきである 一遍 あなた方の前に興ったある新興宗教でも、そうしたことで間違いを起こしている人をずいぶんつくっておるようです。すなわち、この人は上だ、と。人間には、上下段がある。この世にも、上下があるけれども、あの世の上下まで持ってきて、あの世の物差をこの世で通用させる。しかし、それではいけないのです。 いいですか、あなた方の教えを説く講師とかがでてきて、そういう人の教えを聴く場合に、「あの人は、先生が"菩薩"だと言ったから、あの人は偉い。だから教わるんだ」とかね、「あの人は先生に、"如来"の人だと言われたから、あの人の教えを聴くんだ」とかね、こんな馬鹿なことを言う人がでてくるんですね。しかし、そうじゃない。その人の箔(はく)ではないのです。その人の本当に持っている神性、教えの内容をよく見て、それでもって判断せねばならんということですね。そういうことなんですよ。 だから、私は最初に、「空間」の話、それから、「時間」の話をしました。三番目にした話は、「価値尺度」について。この話を私はしたんですね。「空間」「時間」「価値尺度」とこの三つ、すなわち、これはある意味での哲学であります。これをまあ、わかりやすく言ってみたんですが、偉い、偉くないをこの世で計ろうとするなということです。そういうことなんです。あなた方も、それに気をつけなさいよ。過去世においてどんな偉い方であったとしても、また、どんな偉い大聖者の下で修行をしたからといって、今の自分たちが偉いんだなどとは考えてはいけないよ。 ですから、あなた方が今後、布教していくときにおいてね、「私たちは偉いんじゃありません。私たちが偉いから、私たちの教えを聴けと言っているのではありません。私たちの教えの内容を見て、あなた方に汲(く)み取るところがあったら、それを汲み取ってください」と、こういう立場ですね、これをとっていただきたいのです。教えの内容を見て、参考になるところがあったら、吸収していただく。決して、自分たちが偉いから教えを説いているのではありませんよ、と。こういうことです。 ―― まあ、私もつくづく考えていることですが、あの世での価値基準でこの世を計ろう、それで自分が渡ろうとしてはいけないということを考えております。 一遍 まあ、あの世にね、神様がつくった価値の序列、上下があるのは確かです。ただそれはね、いろんな理由があって、そうなっているのですから、それをそのまま持ってきてはいけないのです。それぞれの立場で役割があるのですからね。それをそのまま持ってきちゃいけない。この世に引きずり下ろさないようにしてください。 ―― このことは、私どもの今後の「法」布教にあたっての"頂門の一針"とさせていただきたいと思います。ありがとうございました。 一遍 まあ謙虚な気持ちでということですな。これは大事です。宗教家にとってはね、この謙虚さということが、一番大事なんです。自分を偉くし、「偉し」とする気持ちは危ないです。もちろん、へり下る必要はないんですよ。それはないけれども、「偉し」と思ってはいけない。 ―― それは、私も、近頃ふと考えることですが、こうしていろいろな聖賢の方がたのお話をうけたまわっていても、人によっては、この人はずいぶん偉い人なんだなと感じる方がおられます。 一遍 いや、それもまた、裁いてはいけないのです。本当に偉いかもしれないですよ。本当に偉い人に対してはね、偉いと認めてあげること、これもまた礼儀ですからね。ただ、肉体を持っているあなた方はそう思わないほうがいいでしょうと、私は言っているのです。まあ、あの世へ行けば、偉い人はおりますよ。偉い人は偉いんですから、それはそれでいいじゃないですか、認めてあげてください。へり下るからって、偉いわけではありません。 イエス・キリストはイエス・キリストの、釈迦は釈迦としての立場があるし、毅然(きぜん)とした態度をとらねばいけません。それをへり下ってね、あなた方と同じように戯言(ざれごと)を言っているわけにはいかないのです。それは仕方ありません。立場があるのですから。まあ、偉い偉くないではなくてね、あなた方も、お役に立ちたいという気持ちでやっていきなさい。それがいいことですよ。 私はね、権威主義というのが一番嫌いだったのです。だからあなた方も、"権威主義"にならないようにしてください。私はそれがすごく嫌いでね、ごらんのとおりの生涯の生活でした。やっぱり、私は俗人と混って生きたかったんですよ。これは、あくまでも私の個人的な考えですが、権威主義はやめていただきたいと思います。ま、それは、あなたとも意見が一致するでしょう。昔は、よく話したものです。こういうことをね。つまり、権威主義って嫌いだね、と。お互いに恵まれないことが多かったものですからね。この世的には恵まれないことが多かったもんでね、権威主義は嫌いなんですよ。 お互いにね。神の道を説く者が、この世では、なかなか偉しとはしてくれないこともあってね、でも、いいじゃないか、と。平々凡々とね、そのなかに生きて、そして、光っていればいいのです。 まあ、そういうことで、時間もだいたいきたようでございますから、今日の私の話は終えましょう。唯円様のぶんをとってはいけないので、ここらで私は引きあげたいと思っておりますが、どうですか……。 ―― あなた様には非常に斬新な、そして、含蓄(がんちく)のある教えを賜って、心を広くせられる思いがしました。 一遍 まあ、あなたは一遍など忘れているでしょうが、私もまた、あなたの友だちの一人ですよ。あなたの友だちはいっぱいいるんですよ。私たちは、おせっかいではないから、自分たちからはでません。けれどね、あなたは、蓮如様とも友だちだし、私とも友だちです。親鸞様だって友だちです。実は、みんな友だちだったんです。 ―― 本当に、そういうことでございましたか。如何(いか)んせん肉を持つということは哀しいことで、かつての恩義のある方や、友人方に対し、不義理なことばかりを重ねてしまって……。でも、そちらへ還ったら十分にお詫びをし、お礼も申し上げたいと思っておりますので、今後とも、ご指導をよろしくお願いいたします。 一遍 じゃあ、そういうことです。では、今日は還らしてもらいます。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/2.html
メニュー トップページ メニュー 書籍別メニュー 天之御中主之命 +... 天之御中主之命の霊訓 新・運命の開拓第一章 光の賛歌 第二章 神の栄光 第三章 生命の本質 Part1 第三章 生命の本質 Part2 第四章 神々は集う 第五章 運命の開拓 Part1 第五章 運命の開拓 Part2 第六章 向上の原理 Part1 第六章 向上の原理 Part2 第七章 積極的人生の方法 幸福瞑想法第9章 幸せの瞑想 谷口雅春 +... 谷口雅春霊言集第1章 天上界に帰る 第2章 生命の実相を語る 第3章 光明思想の本義 第4章 神の子人間の本質 第5章 光一元の神秘力 第6章 本来病なし 第7章 言葉の創化力 第8章 真理は汝を自由にする 谷口雅春霊示集第1章 人類幸福化の原理 第2章 唯神実相哲学 第3章 人類無罪宣言 第4章 真説・神想観 第5章 本来肉体なし 第6章 光の行軍 第7章 日本神道の秘密 谷口雅春の大復活第1章 生死を超越せよ 第2章 霊格の向上とは何か 第3章 女性の本質 第4章 発展の構図 第5章 霊界見聞録 第6章 久遠の今を生きる 第7章 愛と性を超えて 第8章 内在する叡知の発見 谷口雅治 光はここに第1章 実相としての光 第2章 輝ける日々 第3章 祈りとは何か 第4章 経済問題解決の法 第5章 神の子の健康法 第6章 信仰と奇跡 幸福瞑想法第10章 希望の瞑想 悪霊撃退法第7章 谷口雅春の章 天照大神 +... 天照大神の霊訓 天照大神の降臨第一章 美しき国 第二章 わが教えの根本 第三章 秩序の原理 第四章 神の愛する人間像 第五章 日本を憂う 第六章 信仰の優位 幸福瞑想法第8章 光の瞑想 出口王仁三郎 +... 出口王仁三郎霊示集第1章 神のまたの名 第2章 月の時代と星の時代 第3章 天女の舞い 第4章 神通力 Part1 第4章 神通力 Part2 第5章 七曲がりの丘 第6章 天狗と仙人 Part1 第6章 天狗と仙人 Part2 第7章 大仏への道 第8章 お立て直し Part1 第8章 お立て直し Part2 出口王仁三郎 悪霊撃退法 卑弥呼(日向) +... 卑弥呼の霊言卑弥呼の霊訓 卑弥呼の霊訓2 弟橘媛 +... 卑弥呼の霊言弟橘媛の霊訓 紫式部 +... 卑弥呼の霊言紫式部の霊訓 小桜姫 +... 新・神霊界入門第1章 神霊界入門 Part1 第1章 神霊界入門 Part2 第2章 地獄界と竜宮界 第3章 天上界の秘密 Part1 第3章 天上界の秘密 Part2 第4章 天使の役割 第5章 女性論・人生論 Part1 第5章 女性論・人生論 Part2 第6章 六次元神界の実相 Part1 第6章 六次元神界の実相 Part2 第7章 小桜姫の新霊言 高橋信次 +... 高橋信次の霊言集第1章 人生の目的と使命 Part1 第1章 人生の目的と使命 Part2 第2章 反省、瞑想、祈りについて 第2章 質疑応答 第3章 悟りについて Part1 第3章 悟りについて Part2 第4章 真の幸せ、真の安らぎ 第5章 足ることを知る Part1 第5章 足ることを知る Part2 第6章 心と肉体の関係 第7章 自力と他力 第8章 心の仕組み 高橋信次の新復活第一章 新復活 第二章 人類救済の原理 第三章 愛と慈悲の世界 第四章 正義の時代 第五章 大宇宙と神理 第六章 心と科学 第七章 地獄界から高級霊界への旅 第八章 神理問答集 高橋信次復活の原点 永遠編第1章 新創世記 第2章 甦る仏教 第3章 永遠の生命 第4章 心の法則 第5章 運命を超えて 高橋信次復活の原点 天使編第1章 天使の再来 第2章 ポスト・ノストラダムスの時代 第3章 神は光なり 第4章 幸福への道標 高橋信次復活の原点 希望編第1章 悟りへの段階 第2章 人類の夜明け 第3章 神々は招く 第4章 希望の光 第5章 不退転の心 高橋信次復活の原点 太陽編第1章 生死を超えて 第2章 未来への遺産 第3章 目覚めへの道 第4章 啓示と宗教 第5章 太陽の心 高橋信次復活の原点 新生編第1章 生命と進化 第2章 中道とはなにか 第3章 心と行い 第4章 新経済学 第5章 神理文明論 高橋信次の天国と地獄第1章 愛とは何か Part1 第1章 愛とは何か Part2 第2章 悪霊と憑依 Part1 第2章 悪霊と憑依 Part2 第3章 守護・指導霊の役割 Part1 第3章 守護・指導霊の役割 Part2 高橋信次のUFOと宇宙第1章 UFOは実在する 第2章 宇宙空間の神秘 第3章 宇宙人と人類の歴史 第4章 人類の起源 第5章 科学の本質 第6章 地球の使命 第7章 大宇宙の構造 第8章 宇宙人の考察 高橋信次の新幸福論第1章 幸福の本質 Part1 第1章 幸福の本質 Part2 第2章 快楽の分析 Part1 第2章 快楽の分析 Part2 第3章 心と安らぎ Part1 第3章 心と安らぎ Part2 第4章 結婚と家庭 Part1 第4章 結婚と家庭 Part2 第5章 幸福への自己実現 高橋信次の新ユートピア論第1章 ユートピア原論 第2章 ユートピアの基礎 第3章 愛とユートピア 第4章 ユートピア思想の源流 第5章 ユートピアの建設 第6章 ムー文明の解明 第7章 アトランティス文明の解明 高橋信次の大預言第1章 救世の予言 第2章 新世紀創造 第3章 運命と自由 第4章 人格向上の原理 第5章 人類の未来図 Part1 第5章 人類の未来図 Part2 第6章 真説大予言 高橋信次の心の革命第1章 心の革命 第2章 悪霊となるな 第3章 反省しかないのだ 第4章 光の物理学 第5章 八正道の新展開 第6章 闇との戦い 第7章 天使よ、強くあれ 第8章 革命の時代 高橋信次の愛の賛歌第1章 夫婦調和の法 Part1 第1章 夫婦調和の法 Part2 第2章 三角関係解消の法 第3章 セックス・トラブルの巻 Part1 第3章 セックス・トラブルの巻 Part2 第4章 親子の葛藤 第5章 離婚・再婚を乗り切る法 第6章 愛の賛歌 高橋信次のやる気の革命第1章 やる気こそすべてだ 第2章 意識改革の方法 第3章 自己変革の原理 第4章 徹底的自己管理 第5章 積極型人生論 Part1 第5章 積極型人生論 Part2 第6章 理想の人間像 幸福瞑想法第4章 満月瞑想 第6章 足ることを知る瞑想 悪霊撃退法第6章 高橋信次の章 モーゼ +... キリストの霊言第3章 モーゼの霊訓 Part1 第3章 モーゼの霊訓 Part2 新・モーゼ霊訓集第1章 暁の章 第2章 科学の章 Part1 第2章 科学の章 Part2 第3章 太陽の章 Part1 第3章 太陽の章 Part2 第4章 星の章 第5章 大自然の章 Part1 第5章 大自然の章 Part2 第6章 希望の章 第7章 ダイヤモンドの章 悪霊撃退法第5章 モーゼの章 大天使ミカエル +... 大天使ミカエルの降臨1第1章 ミカエル見参 第2章 正法とは何か 第3章 ミカエルの使命 第4章 魔軍との戦い 第5章 人類に明日はあるか 第6章 光の奔流 第7章 危機の時代 第8章 勝利はわが手に 大天使ミカエルの降臨2第1章 イエス・キリストの願い 第2章 ミカエルの知恵 第3章 ミカエルの誓い 第4章 真実の愛 第5章 神の目から見た宗教像 第6章 霊界の建設 第7章 聖母マリアの願い 第8章 愛と知を超えて 大天使ミカエルの降臨3第1章 暗黒の時代 第2章 知恵と勇気 第3章 正しき職業観 第4章 地獄の将来 第5章 太陽界の秘密 第6章 キリスト教の大改革 第7章 光の大軍 第8章 永遠の神理 悪霊撃退法第1章 ミカエルの章 イエス・キリスト +... キリストの霊言第1章 イエス・キリストの霊訓(Ⅰ) 第2章 イエス・キリストの霊訓(Ⅱ) 第2章 イエス・キリストの霊訓 質疑応答&余聞 イエス・キリスト霊示集第1章 愛の復活 第2章 神の愛 Part1 第2章 神の愛 Part2 第3章 祈りと生活 Part1 第3章 祈りと生活 Part2 第4章 キリストの使命 Part1 第4章 キリストの使命 Part2 第5章 新時代の精神 幸福瞑想法第11章 自己実現瞑想 スウェーデンボルグ +... スウェーデンボルグ霊示集第一章 我が人生観 第2章 霊界と結婚 第3章 キリスト教と私 第4章 私の見た地獄界 第5章 転生輪廻のしくみ 内村鑑三 +... 内村鑑三霊示集第1章 キリスト教と日本 第2章 無教会派について 第3章 日本を憂う 第4章 イエスの働き 第5章 新しき時代への警鐘 第6章 七大天使の働き 第7章 新エルサレム 第8章 未来への福音 エドガー・ケイシー +... エドガー・ケイシー霊示集第1章 リーディングとは何か 第2章 治病の原理 Part1 第2章 治病の原理 Part2 第3章 現代人の健康法 第4章 宗教の諸問題 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part1 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part2 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part3 第5章 ケイシー霊による個人相談 Part4 悪霊撃退法第2章 エドガー・ケイシーの章 ナイチンゲール +... 卑弥呼の霊言第6章 ナイチンゲールの霊訓 Part1 第6章 ナイチンゲールの霊訓 Part2 ヘレン・ケラー +... 卑弥呼の霊言第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part1 第7章 ヘレン・ケラーの霊訓 Part2 アモン +... キリストの霊言第4章 アモンの霊訓 リエント・アール・クラウド +... キリストの霊言第5章 リエント・アール・クラウドの霊訓 ゼウス +... ゼウス霊示集第1章 ゼウス登場 第2章 神々の饗宴 第3章 新しき神となるために 第4章 ゼウスの悟り 第5章 ギリシャ的精神の起源 第6章 大いなる光の最期 第7章 ゼウスの復活とアポロンの使命 ソクラテス +... ソクラテスの霊言第1章 ソクラテスの霊訓(一) 第2章 ソクラテスの霊訓(二) カント +... ソクラテスの霊言第3章 カントの霊訓(一) 第4章 カントの霊訓(二)Part1 第4章 カントの霊訓(二)Part2 幸福瞑想法第12章 頭の良くなる瞑想 ニュートン +... ニュートン霊示集第1章 科学の本質 第2章 光とは何か 第3章 エネルギーの源泉 第4章 私の見た世界 第5章 人間を科学する 第6章 宇宙の秘密 第7章 未来科学の姿 エジソン +... ソクラテスの霊言第5章 エジソンの霊訓 Part1 第5章 エジソンの霊訓 Part2 ピカソ +... ピカソ霊示集第1章 ピカソの霊示1 Part1 第1章 ピカソの霊示1 Part2 第1章 ピカソの霊示1 Part3 第2章 ピカソの霊示2 Part1 第2章 ピカソの霊示2 Part2 ゴッホ +... ピカソ霊示集第3章 ゴッホの霊示 ベートーベン +... ピカソ霊示集第4章 ベートーベンの霊示 シェークスピア +... ピカソ霊示集第5章 シェークスピアの霊示 ダンテ +... ピカソ霊示集第6章 ダンテの霊示 松雄芭蕉 +... ピカソ霊示集第7章 松雄芭蕉の霊示 仏陀 +... 幸福瞑想法第1章 幸福瞑想法とは 第13章 宇宙即我の瞑想 空海 +... 空海の霊言第1章 空海・弘法大師の霊訓 Part1 第1章 空海・弘法大師の霊訓 Part2 天台智顗 +... 空海の霊言第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part1 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part2 第2章 フワン・シン・フワイ・シンフォーの霊訓 Part3 第3章 天台智顗大師の霊訓 Part1 第3章 天台智顗大師の霊訓 Part2 幸福瞑想法第5章 止観瞑想 恵果阿闍梨 +... 空海の霊言第4章 恵果阿闍梨の霊訓(一) 第5章 恵果阿闍梨の霊訓(二) Part1 第5章 恵果阿闍梨の霊訓(二) Part2 無門禅師 +... 道元禅師霊示集第2章 無門禅師の霊訓 日蓮 +... 日蓮聖人霊示集第1章 職業の悩み Part1 第1章 職業の悩み Part2 第2章 病気の悩み Part1 第2章 病気の悩み Part2 第3章 恋愛・結婚の悩み Part1 第3章 恋愛・結婚の悩み Part2 第4章 夫婦問題の悩み 第5章 人生の諸問題の悩み Part1 第5章 人生の諸問題の悩み Part2 第6章 神理伝道の悩み 幸福瞑想法第7章 対人関係調和の瞑想 道元 +... 幸福瞑想法第2章 禅の瞑想 道元禅師霊示集第1章 道元禅師の霊訓 Part1 第1章 道元禅師の霊訓 Part2 第1章 道元禅師の霊訓 Part3 第1章 道元禅師の霊訓 Part4 白隠 +... 道元禅師霊示集第4章 白隠禅師の霊訓 Part1 第4章 白隠禅師の霊訓 Part2 栄西 +... 道元禅師霊示集第3章 栄西禅師の霊訓 良寛和尚 +... 道元禅師霊示集第5章 良寛和尚の霊訓 Part1 第5章 良寛和尚の霊訓 Part2 孔子 +... 孔子の霊言第1章 孔子の霊訓 Part1 第1章 孔子の霊訓 Part2 孟子 +... 孔子の霊言第2章 孟子の霊訓 Part1 第2章 孟子の霊訓 Part2 老子 +... 孔子の霊言第3章 老子の霊訓 Part1 第3章 老子の霊訓 Part2 幸福瞑想法第3章 無為自然の瞑想 荘子 +... 孔子の霊言第4章 荘子の霊訓 Part1 第4章 荘子の霊訓 Part2 リンカーン +... ソクラテスの霊言第6章 リンカーンの霊訓 ガンジー +... ソクラテスの霊言第7章 ガンジーの霊訓 聖徳太子 +... 天照大神の霊言第7章 聖徳太子の霊訓 坂本竜馬 +... 坂本竜馬の霊言第1章 坂本竜馬の霊訓 Part1 第1章 坂本竜馬の霊訓 Part2 第2章 坂本竜馬の霊訓 Part1 第2章 坂本竜馬の霊訓 Part2 悪霊撃退法第3章 坂本龍馬の章 吉田松陰 +... 坂本竜馬の霊言第3章 吉田松陰の霊訓 勝海舟 +... 坂本竜馬の霊言第4章 勝海舟の霊訓 Part1 第4章 勝海舟の霊訓 Part2 西郷隆盛 +... 坂本竜馬の霊言第5章 西郷隆盛の霊訓 福沢諭吉 +... 坂本竜馬の霊言第6章 福沢諭吉の霊訓 Part1 第6章 福沢諭吉の霊訓 Part2 木戸孝允 +... 坂本竜馬の霊言第7章 木戸孝允の霊訓 Part1 第7章 木戸孝允の霊訓 Part2 真説・八正道 +... 第2章 正見 第3章 正語 第4章 正業 第5章 正命 第6章 正思 第7章 正進 第8章 正念 第9章 正定 第10章 総論 ユートピア価値革命 +... 第1章 新時代の展望 第2章 ユートピアとは何か Part1 第2章 ユートピアとは何か Part2 第3章 ユートピア価値について 第4章 未来型人間とは 第5章 ユートピア価値革命 第6章 ユートピアと経済 第7章 理想的ユートピア論 太陽のメッセージ +... 第1章 いま神理の太陽が昇る Part1 第1章 いま神理の太陽が昇る Part2 第2章 魂の世界とその真実 Part1 第2章 魂の世界とその真実 Part2 第3章 愛の力・愛の神秘 Part1 第3章 愛の力・愛の神秘 Part2 第3章 愛の力・愛の神秘 Part3 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part1 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part2 第4章 悟りとは何か・その極致とは Part3 第5章 神理文明の流転と黄金の時代 Part1 第5章 神理文明の流転と黄金の時代 Part2 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part1 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part2 第6章 新しき世紀へ獅子のごとく Part3 更新履歴 @wiki @wiki @wikiご利用ガイド ここを編集
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/238.html
目次 1.松陰は天才、西郷は゛楠゛のような大人物 2.今の教育は定食料理、バラエティのあるメニューが必要 3.神聖な日本国憲法が生まれてくるだろう 4.人間皆この世では学芸会をやっているようなもんだ 5.照る日曇る日、雌伏すること久しければ飛もまた高しだ 6.総理大臣級は神様のうけが悪い 7.天国と地獄行は法則性で自分が自分を裁く 8.死後肉親との情感について 9.現代青年へのアドバイス 10.現代政治及び政治家に対するアドバイス 11.わたしの女性観について 12.総括雑感 11.わたしの女性観について 善川 ついでにと言っては申し訳ないんですが、現代の女性に対し何かご意見ございますか。 勝 まあ女性もずい分強くなったよね、まあ開けてきたしさ、男駄目になるんじゃないかこのままじゃ、やられちゃうよ。世の中大分女性にとって代わられるし、職場進出も多いし、まあ母ちゃんに離婚されとったりさ、これアメリカの影響らしいけどこれはよくないぜ。気をつけないとね、日本の男性これ駄目だな、女性ってのはね、まあ女性の方々には叱られるかも知れないけれども、まあやはりね、元々造りが違うんだよ、女性はね、やっぱり受け身に造られて、男は能動的に造られているんだよ、女性が社会に出るとかね、職場進出とか、こういうことはもう女性でなくなって来ているんだよな。はっきり言って、魂が転換したくなって来ているんだよ、活動的な魂になろうとしているんだよ。これ本来の女性じゃないよね、俺そう思うんだ。逆にいえば男が男の働き場がないのかも知れないけれどね、まあ今の女性に対しては俺はあんまりいい感じ持っていないな。 善川 やはり女性として生まれて今度再生する場合にも女性として出てくるのが原則ですか……。 勝 原則としてそのようだ。そうだね、よくないね今の女性として生まれているのは、ちょっとやはりいかれているのが多いんじゃないかな。というのもね、時代が時代で進んで来たし、そういった武力がものいう時代じゃないだろう。こういった時代だからね、女性の魂の中でもいま生まれたいというのは一杯居るんだけれども、その中にも自己顕示欲の強いのが中心になって生まれて来ているんだよ。今の時代にね、自己顕示欲の強いのがね。女性というのはもともと自己顕示欲、まあ美しくなりたいという自己顕示欲があるけど、それが社会的にも認められたいというように週刊誌の表紙絵や中でもいろんな肢体をとって写しているんだ、だから今女性の地獄へ堕ちるの増えているよ。わしはそう思うよ。まあ自己顕示欲の強いのが多いな。 12.総括雑感 善川 科学者について何かご感想を。 勝 まあこれは俺の立場では何も言えんな。まあ確っかりやってくれと言うしかないな。 善川 いや科学者というのは殆どが唯物論者とみられていますが。 勝 そうでもないんだよ、まあ俺達の世界でも、まあ同じ場所には住んで居ないんだけどね、本物の科学者っていうのは唯物論者ではないね、やはり神様の存在信じているよ。 善川 宗教者が最近多く出ているのですが、この傾向について。 勝 宗教てのが、今もうレッテルみたいになって、マイナスなんだよな。宗教やっているなんていうと怪しいなんて言われているし、実際まあ新興宗教の中には怪しいのが多いからな、困ったもんだな、これもどうしようもないな。もうこれこそ自然淘汰が必要だな。どうしようもないね、もう、でもいろんなものがあって、その中から真実のものが出るってこともあるんだけれども、魂狂わせるようなのが多いねえ、どうにかならんのかね――。 やはりこの地上に住んでいる人の心が曇っているんだなあ。もう少しね、俺達と直接に話が出来るような人が多いとね、世の中変るんだけど、それがむっかしくなったんだな。しようがねえな……。 善川 以上の総括のことばと、最後に私たちに対するアドバイスをお願いします。 勝 まあ全般的なこととしちゃあ日本の国にもっと頑張って欲しいね。これからの世界のリーダー役としての使命を果たして貰いたいということだな――。 それとあなた方に対しては、まあ立派な方々が指導しているから俺がどうこう言うことはないや。まあしっかりやりなさいや、それと余り悩まんことだな。それと俺がさっき言ったことだけど、まあ人生には周期があるから、日が当らない時にでもじっと我慢して日が当たるのを待つということだね。それが大事だと思うよ。 善川 松陰先生の先程のお訓えはかなり厳しいものがあったのですが、この精神力の行住座臥持続するということになるとかなり強固な根性を持たねばならんと思いますが。 勝 けどまあ俺に見習うよりは松陰先生に見習う方が間違いないね、俺みたいな生き方というものは、一歩間違やさ、そこらの八っあん、熊さんみたいになってしまうわけだ。まあ中味が多少あるかないかの違いだな。言わして貰えばだな、多少自慢になるけど、中味が無きゃ、八っあん、熊さんになっちゃうよ。だからまあ俺から言うのもあれだけど、手本とするならやはり松陰先生の方だよな、正論だよあれが、やはりああいうふうに生きるべきだと思うし、目標にすべきだね。ああいった生き方というのはなんというかな生長していくのに限界がないんだ。無限に生長して行けるんだ。ああいう生き方というのは。ところが俺のような生き方というのは必ずしも無限に生長じゃあないわけだ。ある意味ではもう八方破れね、ええこれでいいじゃないかという個性そのものと、いったもんだけどね。 やっぱり人間というのは、自分を高めていくというところに真実の楽しさというか、幸福感というのがあるんじゃないかな、そういう意味じゃあ松陰先生の意見の方がね、私はいいんじゃないかと思うよ。 善川 それと今一つお伺いしますが、皆様方はご自身がお亡くなりになった年齢と同じような年齢感覚で現在もおいでになるのでしょうか。 勝 いやそれはね。それは自由自在さ、俺なんかそうだね、三十七、八という感じだな、そういう感じでやっているよ。 善川 松陰先生はどういう感じで居られるのでしょう―。 勝 いや必ずしも若者という感じではないよ。やっぱりそれなりの風格のある感じでいらっしゃるよ。年齢はよく分らないけれども。 善川 亡くなられたのが二十九だったのですがそんな感じでないんですね。 勝 いやもちっといった感じだね。やっぱり先生らしい雰囲気で四十前後の感じでやっぱりいらっしゃるよ。 善川 坂本龍馬先生は、 勝 ありゃ若いよ。やっぱり女の子とひゃあひゃあと言えるような感じの自分で居たいんじゃあないか、自分で。 善川 すべての人が自分で居たいような年齢の自分で居られるというわけですね。 勝 そういうことだ。 善川 ありがとうございました。非常にまあ磊落なお話の中にも真実のこもったお訓えを頂き、私どもが萎縮しない程度に諸説をお説き下さってありがとうございました。厳しい教訓を賜わった直後でございましたのでいささか、緊張しておりましたですけれども、大変人肌の温みというものを感じさせて頂いて、われわれもそういう中にこそはじめてまた松陰先生のような厳しさの教えというものに導かれて行くような気がいたします。本日は突然にお招きし大変失礼申しました。 勝 じゃあまた、頑張って下さい。 善川 ではまことに有難うございました。 勝 はい。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/328.html
目次 1.情熱と愛の力 2.やる気の源泉 3.人生を楽しむ気概 4.人間の器量 5.発展と自己確認 (1989年2月13日の霊示) 1.情熱と愛の力 高橋信次です。徹底的自己管理のあと、引き続いて「積極型人生論」について話をしていきたいと思います。 まあ、これはね、ばくの人生そのものが積極型人生だった、こういうふうに言ってしまえばそれまででね、だから、やっぱりそういう生き方をみなさんにお勤めしたいなと思うんですね。 人間を分ける方法はいろいろあると思うんですが、大きく分ければけっきょく、積極型の人か消縦型の人かどっちかと、まあそういうふうに出るでしょうね。それで、その二種類の人間をよくよく観察してみると、ずいぶん違いはあるんですね。なんでこんなに違うのかなと思うほど違いがあります。ただ私なりの解釈で見ると、積極型の人のほうが人生を有意義にしかも十二分に活用しながら生きているような、そういう感じはしますね。どうしてもそういうふうに思います。消極型の人というのはどうしても先延ばしという癖があるんですね。みなさんのなかにも、おそらくそうとういるでしょうけど、何でもかんでも先に送る、難しいこと、ややこしいことはもう先送りして、とにかく逃げにまわると、まあこういう方もいるでしょう。だから大きく言ってこの二つがあるんですね。 それで積極型の人はもちろん、勇ましく、凛々(りり)しく人生を開拓していくけど、まあ短所をあえてあげるとすれば、短気であるとか、軽率であるとか、よく失敗もすると、こういうところがあるでしょう。 消極型の方は、まあ長所をあげれば、まあ熟慮型っていうこともあるし、人の気持ちを大切にする、というようなところもあるでしょうね。短所をあげれば何も物事が進まないとかね。いろいろあるでしょう。 こういうように両方とも考えられるわけなんですが、あえて私は積極型の人生論のほうを推薦したいな、というふうに思うんですね。なぜか、この理由には二点ほどあるんですね。 まず第一点なんですけど、これは、まあ本書で縷々(るる)述べてまいりましたが、やる気というのは人生のいちばん大きなエネルギー源の一つなんですね。このやる気というのをどう活かすかによっては、その人の事業というのはずいぶん違ったものになりますし、一生というものもずいぶん違ったものになりますね。やる気がない人だとほんとうに現状維持型になってしまって、発展がありませんね。 これはある意味での、昔の村社会、農耕型社会というふうに言ってもいいかもしれませんね。お天道(てんとう)さまの動き、自然の動き、天候、こういうものによってお米がとれたり、とれなかったりするけど、あとは毎年毎年同じような仕事を続けていくという、こういう村社会の考え方には向いていたかもしれませんけども、現代のこの文明社会、都市型社会というものは、やっぱりこのやる気が源泉にあるんだろうと思いますね。やはり、絶えず技術革新をし、向上していこうとする気持ちが新たな文化を拓いてきた原動力だと思いますし、そこにあるものは何かというと、まあ人間の情熱だね、情熱。もちろんこれは宗教的にとられると欲望という言葉で言う場合もあるんだけどね、ただそれを、単に欲望として否定しきれない面もある。そう思いますね。 というのは、実際に神理の伝道をしてみたらよくわかるけど、新幹線があるとないでは大違いですね。飛行機があるとないではやっぱり大違いで、現状維持型だと『東海道膝栗毛』で、五十三次歩きながら、宿々で十人か二十人集めてやるんでしょうけど、おかげさまで飛行機でひとっ飛びして、千人集めてマイクでしゃべったりできるんですね。まあ、こういうことはありがたいことで、これは人間にやる気があったということが、そういう結果をもたらしているんだろうと思うんですね。だから、やる気をもって生きるということは、産業革命以来の、技術革新の流れのなかできわめてだいじな精神的な要素であった、そういうように言うことができると思うんですね。 そして、やる気をなくす社会というのは停滞社会である、ということで停滞社会っていうのは何かっていうと、まあ調和に人間の心が動くということはあるでしょうけど、進歩という限りない発展の喜びは味わえないのではないかということですね。 次に積極型人生がなぜ必要かについての二番目の理由なんですけどね、やっぱりぼくはこの積極型人生っていうのは、一つの愛だと思うんですね。そうじゃないでしょうか。消極型の人生っていうのは、何かっていうと深い意味で考えてみると、ある意味での自己保存かもしれませんね。「やどかり型」人生といってもいいでしょう。消極型の人生というのは、やどかりのようにね、ああいう貝殼のなかに入っちゃって出てこないんですね。自分の身を守ることを一生懸命考えている、それが消極型の生き方じゃないでしょうかね。臆病で引っ込み思案ということでしょう。いろんなことにこだわる性格、それから自分が傷つきたくない、そういうことでだんだんやどかりみたいに引っ込んでいるんですね、あるいは亀でもいいですね。亀のように首を引っ込め、足を引っ込め、ジッとしていて、まわりの様子をうかがって物音がしなくなったら、またノッソノッソ歩いていく。ちょっとでも音がしたらスッと引っ込むっていうこれは消極型だろうね。動物にも明らかにそういうのがいるんだから、人間の類型のなかにもいるんでしょう。そう言っていいでしょう。 だから、やっぱりね、積極型というのは、一つの愛の現われというか、愛がやっぱり現われているんじゃないかな、ぼくはそういうふうに思いますね。やっぱり愛なき人生っていうのは不毛ですよね。多くの人のために生きる、多くの人のためにつくすという気持ちが起きてくる源泉は、ほとばしるようなエネルギーだとぼくは思うんですね。それが出なきゃだめですね。 だから、どういうときに人のために生きるっていう気が起きてこないか、まずお腹が空いているときですね。お腹が空いてもうお昼前とか、晩ごはん前のヘトヘトのときなんかもう人のこと構ってられないですね、空腹時。それから、病気のときね、病気して元気がないときね、これが一つあるし、もう一つは自分にものすごく悩みがあって、もうたいへんなとき。まあ、こんなときかね。お金がないときもそうかもしれませんけど、こういうときですね。けっきょく自己中心的になっているときには、やっぱり人のこと構ってられなくなりますね。 そうすると、こうした他人のために愛を持って生きるための前提条件が次に必要になってきますね。それで、これから積極型人生論のための基礎ですね、積極型人生の基礎について話をしたいと思うんです。 2.やる気の源泉 積極型人生の基礎に不可欠だと思われること、その第一に私はあげておきたいのですが、それは、ぼくはやっぱり、気力の源泉のところだと思うんですね。気力の源泉、何ゆえにやる気が出てくるか、ここの源泉のところ、源泉というか井戸の部分があるかどうかを聞いているんですね。この井戸には二種類あります。一種類はひじょうに何というか、恵まれている場合ですね。才能に恵まれている、あるいは家庭環境に恵まれている、友人にも恵まれる、金銭的にも恵まれるということで、条件が整備されてそして豊富なんですね。ひじょうに豊富でもう鮮烈な水をたたえて、満々と水がたたえられているという感じで、どんどん人に水をあげられるっていうかね、いくらでも供給できるタイプの人、実際まあこれもいます。あまりにも秀才すぎて、大先生になっちゃって、どんどん人を教えるというね、こういうタイプの方ももちろんいます。恵まれた方ですし、数は少ないかもしれませんがそうぃう方もいますね。ただ、これは数的にはそう多くはないかもしれませんね。比率的には少ないかもしれない。 逆に私はね、このやる気の源泉としてよくあるのが劣等感の裏返し、あるいは挫折、逆境からの何というか、立ち直りが多いんじゃないかなと思うんですね。世の中の成功者を見てても、順調に成功したっていう人はやはり少ない感じはするんですね。若いときにどこか挫折したり、あるいは家が貧しかったりね、学校へ行けなかったり、失恋したり、病気になったり、いろいろな挫折があって、それで、そのまま居ついちゃう人は、これは凡人っていうんですね。挫折があって、そのままなんとなく、ああそうだろう、こんなもんだろう俺の人生、そんな人様に威張れるような人生じゃあないわ、と思えばそれで平凡人として生きていくんですが、挫折があってね、やっぱり゛くやしーっ゛という気持ちでね、゛くやしーっ゛という気持ちがあって、そして゛なにくそっ゛と思ったら、やることはありますね。これはだいじです。やっぱりそうだね、大物になった人のなかには、こう、いろんな体験して大物になった方は多いように思いますし、やっぱり゛なにくそっ゛っていう気持ちは、きわめてだいじだろうと思いますね。 それはその゛なにくそっ゛の気持ちっていうのは決してほめられた情況ではないし、人から見られてそんなカッコよくはないんですね。なにくそ、なにくそでやっているというのは、あんまりそんなカツコよくもないんだけども、ただ当事者としては、ひじょうにやる気の源泉になりやすいことではあるんですね。だから意外なところでね、意外な効果があるんですね。人にバカにされた、なんてことでも発奮する人もいますね。それから、「お前なんか絶対結婚できないぞ」なんて言われて、なにくそって思って、結婚したくもなかったのにやっと結婚したとかね。こんなのもあるし、「お前みたいな貧乏人が」って言われて、なにくそっと思ってお金ためたとかね、「お前は頭が悪い」と言われて、なにくそっと思って勉強したとかね、こういうことはあって、意外に人間、何が薬になるかわからないところもあります。何気ない言葉なんですがね。何気ない人の言葉が発奮剤になるようなこともあります。 それと、ここでいい意味でのライバル意識っていうかね、こういうものもあるかもね。やっぱりよきライバルを得ている人、こういう人は伸びていく可能性が強いですね。そのライバルと思うのも、そうだね才能的に自分より恵まれているか、あるいは年齢的に自分より上か、これぐらいの人だといいですね。ちょっと上ぐらいの人がいると、それについていくということができてね。ライバルがいるとか、競争関係の人がいるって、みんなイヤがって、自分一人の独占市場を築きたいと思いがちなんだけれども、必ずしも独占市場っていうのはいいことではないんですね。どこでもだめですね、国営企業がだめになる理由といっしょでね、だめなんですよ。やっぱりね、刺激がないと人間は向上しないんですね。その刺激のためには、自分よりちょっといつも一歩リードしているような人がね、身近にいるということはだいじなことですね。だからライバルがいたり、あるいは自分の少し上をいっている人がいるということはいいことでね、感謝しなきゃいけません。こういう人がいるとほんと、やる気が出てきますね。 このようにね、やる気の根源というものを探ってみると、意外に自分のマイナスイメージの克服っていうところがあるんですね。人間になぜプライドがあるか、これはぼくはひじょうに不思議で不思議でしょうがないんですが、もちろんぼく自身にプライドはあるんですけど、これは傷ついたときに人間はどうするかですね。反応は二通りしかないんですね。プライドが傷ついたときにグシャッとなって、ガッカリして憔悴(しょうすい)して、自分はダメなんだと思うタイプと、逆に゛なにくそっ゛と思ってその部分をカバーしようとするタイプですね。世の人びとを見ていて、成功者はどっちにいるかといったら明らかに後者ですね。逆境を克服しようとする人のなかにこそ、成功者は多いんですね。 こうしてみると、神様というのはやはり芸術的に人間を指導しているなと思われるところがあるんですね。順調にいく人がサーサーサーサー出世していくのもあれば、逆境に置かれて、それがバネになって触媒となって、一大転機が訪れる、こういう人もあるんですね。まあ、こういうことです。私なんかも負けん気は強かったし、人一倍いろんな自分の置かれたマイナスっていうかね、不利な状況に対する反発心もあって、何とか克服したいっていう気持ちもずいぶんありました。 そういうことで、まあこれはね、ある意味では小手先のことかもしれませんけどね、人間に本来備わっているそういう自尊心っていうか、自尊心をいい方向で使っていくということだね。ちょっと違いがあると、何というかエゴイストに完全になってしまうんだけれども、自分を大切に思う気持ち、自分を伸ばしていきたい気持ち、自分を偉くしたいという気持ちは、やっぱり人間備わっているものであって、それ自体は実は努力の前提条件としてあるんですね。だからこれをいい方向に使うことで、現状停滞している人はね、やっぱり叱ってもらえるような人のところへ行くというのはだいじなことですよ。叱ってもらえる先輩、同僚がいるところ、こういうところに行くなりね、刺激を受ける。最初から争いを避けてね、逃げて、逃げて、だれにも何も言われないような世界に逃げ込もうって人もいるけど、こんなのは絶対だめです。大成しません。やっぱり叱ってくれる上司や先輩がいるところですね、そういうところで思い切って使ってもらうこと、そういうことかだいじだと思います。 だから親もね、子供の力の引き出し方、だいじなことがあるんですね。ただぬるま湯みたいな環境だけでもだめなんですね。子供っていうのはだめで、それを剌激しなきゃいけないんです。あの手、この手でね、剌激しなきゃいけないので、やる気を起こさせるっていうことは、きわめてだいじですよ。これ、ほめてやる場合もあるし、逆に意図的に発奮させるということもあるんですね。「お前は、ほんとうにそんなんで偉くなれないねー」なんて言って、「父さんが若かったころは…」なんてやると裏目に出ることもありまずけどね、いいほうに出る場合もあります。両方です。 まあそういうふうにね、やる気の源泉あるいは積極型人生の基礎理論の第一としてね、本来の意味で、天性に備わっている自尊心というものをいい方向に使っていこうということですね。これが真っすぐに伸びているならば、ますます伸びていく方向に、これがゆがんだりあるいは傷つけられたりしたならば、これを克服するという方向で努力しようと。この自尊心のところを利用しましょう。だから自分が現状維持で停滞しているなら、この自尊心がね、多少刺激されるような、そういう対象を選んでみることもだいじですよ。あえてライバルをつくってみる。あえて自分が負けそうな大きな相手に挑戦してみる、こういうこともぼくは大切だろうと思います。 これは人間の場合ですが、これが人間じゃないものに向かうと大きな目標ということになるかもしれませんね。自分自身の達成できないような大きな目標、これを掲げる。これがだいじかもしれませんね。そうぃうことです。そして、常にその自尊心を守り、伸ばしていくためには努力せざるを得ない環境に自分を追い込んでゆく。これがだいじですね。 3.人生を楽しむ気概 積極型人生の基礎をつくるための、第二の条件を考察しておきたいと思います。 第二の条件は何だろうかということですね。ええ、まあこれはいろいろあるんだが、私自身の体験からいったらね、これはね、一つは人生を楽しむという気概じゃないかなと思うんだよね。みんなどういうふうに思って生きているのかしれないけれども、可能性という観点から見た場合にね、自分のまわり、あるいは前途っていうのをもう一度考えてほしいんだね、可能性ということでね。もちろん人生の終着駅に来ている人もいるでしょうが、その前の人たち、数多くいるはずですね。十代、二十代の人たち、自分の可能性に賭けたときどう思うかだね。 ぼくなんかも、信州のほうに生まれました。小さいころからいろいろ劣等感はあったけど、可能性というのはいつも心のなかにありましたね。可能性というものを求めていく、そして自主独立の気運でね、なんとか道を拓いていこう、やればできるんだということを自己確認してきた。自分で道を切り拓いてきた、まあそういう実績がありますし、それゆえに私が生前説いた法なんかも自力というのをひじょうに強調していたと思いますけど、それは自分自身が、別に親に頼るでなく、兄弟にでもなく、友人にでもなくね、自主独立の気運で道を拓いてきたという気概だね、これが大きかったんだろうと思います。 よく、天才・偉人はね、身分が卑しいところやあるいは辺ぴなところに生まれるっていうんですね。これは歴史上見ていても、そういうことは言えるかもしれませんね。かえって好都合すぎる環境は避けるんですね。そして、リスクの多いところを選んでくるんですね。どうなるかわからんようなところを選んで出てくることは多いですね。まあ、なかにはそうでなくて本家・本流でくる人もいますよ。科学者になるために、オヤジが科学者であるところを選ぶとかね、医者になるために親が医者のところを選ぶ、音楽家になるためには親が音楽家のところを選ぶ、まあこういう人もいます。 それが活きてくることもありますが、本格的な何というか独創型天才の場合にはまったく違った環境を選んで出てくることっていうのは多いんですね。宗教家でもそうでしょうね。私なんかでも宗教やったことはないし、専門は理科系統だったし、会社の事業経営やってましたし、〇〇さんだって、まあ言ってみりゃあそうですね。宗教なんか関係ない畑ですね。法律や政治の勉強してみたり、商社マンで世界を股にかけてみたり、かといったらいつの間にか、天照大神だ、なんだという感じになってきましたしね。まったく不思議な人生だと思いますが、ほんとうに真の独創型の天才っていうのはまったく違った畑から出てくることが多いんですね。そして、そのほうが立派なことがあるんですね。 それはね、あんまり正統な畑から出てくると、自由な発想というのができなくなるんですね。教え込まれてしまって、しつけられてくるんですね。私は私で理科系統だったし、自分で会社の経営をしてたから、「あー、あんな宗教なんてヘッタクレ」っていうような感じがあったんですね。そんなもの自分の言いたいように言ってみよう、切ってみようという考えがあってやりました。それでまあ、それで食っていく必要もなかろうということでね。宗教でメシなんか食うもんかっていうことでやってまして、十分食っていける、それぐらいに自由なことが言えたと思います。しきたりなんか守らなくてよかったし、これがお寺さんに生まれてね、あとを継がなきゃいかんというんじゃあ、「親鸞様はたしかこうおっしゃった」とか「日蓮様はこうおっしゃった」というのから逃げられないですね。枠を越えられないところがあったし、牧師さんの家に生まれてもいっしょでしょうね。やはり「聖書にはこう書いてある、ああ書いてある」ということで、それ以外のことは言えるはすがない。 まあ、そういうことがあって、意外に全然違う畑の人のほうが自由なことが言えるわけですね。イエス様が恋愛をしたとかしないとか、こんなことを言えるのは、聖職者でないから言えるんであって、そういうところに生まれたら言えなくなりますね。そういうことです。 で、何が言いたいかということなんですが、けっきょくね、二番目として積極型人生を考えるにさいしては、可能性というのをどういうふうに見るかという考え方ですね。その可能性を見るという意味では、ある意味で貧乏な家に生まれたり、田舎に生まれたり、いろんな環境を選んで生まれて、自分で道を切り拓いてくるという体験はだいじなんじゃないかなということなんですね。 だから、ぼくは積極型人生を生きている人というのは、意外にいいところのボンボンは少ないんじゃないかなと思うんですね。決してボンボンが消極的人生を生きているというふうに言うつもりもないんだけど、まあ、当然ありそうな人生生きているんじゃないかなと思えるんですね。だから、たくましさがないね、そういう人生というのは。意外に鳥海山の麓だとかね、剣山の麓だとか、阿蘇山の麓あたりから生まれて、都会に攻め上ってくると、こういう人のなかにたくましい天才がいて、そして世の中を変えていくんですね。 だからみなさんね、いろいろ劣等感はあるだろうと思うんだ。田舎で生まれたとかね、家が貧乏だったとかね、体が小さいとか太っている、まあいろいろあるでしょうけど、こういう条件が悪いということはむしろね、これは新たな可能性への挑戦なんですよ。ぼくはそう思うね。もし、自分がアントニオ猪木や、ジャイアント馬場みたいな体してたら、どうするかと思うと、やっぱり格闘技の世界か何か考えちゃうもんね。ところが貧弱な体しているとね、そんな道は生きられないんで、ほかの道で生きなきゃいけないということで、とりたてて長所がないということは、かえって長所の場合があるんですね。 あまり音楽の才能がありすぎたり、あまり絵の才能がありすぎると、どうしてもその方面に行きたくなって、それ以外では生きられないけれど、意外に平凡であって、取り立ったことがないっていうのはいいんですよ。無限の可能性があるし、特に育った環境、生まれた環境が悪ければ悪いほど、やっぱりチャンスはあるし、羨(うらや)ましいですね。 やはり東京の山の手で育った坊ちゃん、嬢ちゃんっていうのは夢が少ないと思うんだよね。住んでいる家がもうすでに五億円だとか十億円の家に住んでいて、自分がサラリーマンやったってこんな家建つはすもない。ただ親のあとを継ぐから住めるというだけでね、何の夢もないっていうことはあるけど、地方から攻め上ってくる人なんていうのは、けっこう持っているんだよね。えー山形からあるいは青森から来てね、一発当ててみようって、やっぱり来て、そして当てた場合にはやっぱりそうとうなもんだよね。 その魂の達成感っていうのは大きいよね。だからあえて、そういう意味での充実感、魂の達成感を味わうために、不利な条件から出てくる人は、数多くいます。ですから、かえって私は環境の不利、あるいは自分の才能の不利をあえて無視する、あえてそれを言いわけにしないという精神がだいじだと思うんですね。どんな不利な環境でも、精神下でもやると、いやそういう環境下にあるからこそ理想を求めて限りない向上を求めてやるという気概がだいじである。それはちょうど雪の下に埋もれている春の草と同じだし、柳の芽といっしょだね。雪がかかってもがんばるあの柳の芽といっしょで、雪の中でも芽を伸ばしていく。寒梅だってそうだね。雪の中で花をつけるね、寒いだろうと思うけど、そのなかで蕾(つぼみ)を伸ばし、花を咲かせていくんだね。こういう努力がある。 だから、第二番目には、そういう環境の不利や性格の不利、自分自身の才能の不利というものをね、これを決して言いわけに使わないで、前にある可能性だけを見つめていくという気持ちですね。これはきわめてだいじであるということ。可能性を見るということ、そしてその可能性を切り拓いて、独立独歩で行こうとすること。こういう気持ちがだいじだということですね。そして、そこにあるものは何かというと、一種のぼくはあこがれだと思うんだよね。自分にないもの、自分が育った世界にないものに対する限りなきあこがれだね。これがあると思うんでね、このあこがれをだいじにしなきゃいけないね。このあこがれをあこがれとわからない人たちは、やっぱり空しいね。 だから先祖代々東京のいいところに住んでいて、十億円の邸宅に住んでいた人は、そういうところに住むということにあこがれを感じないね。もう、もともとそうだったから。けど、田舎でね、地価一坪三万円とかね、五万円ぐらいの田舎から出てきた人は五億、十億の家を持つなんてことは、半生かけての大仕事でね、「働いて儲けて建ったー」というときの気分はいいでしょう。そりゃー成金趣味というのも簡単だけども、やっぱり魂の喜びであることは事実だね。貧しいということ、あるいは贅沢をしなかったということは、かえっていろんな物質の喜びを味わうということにもなるわね。そういうことってあるんですよ。だからいつの時代にも貧富の差はなくならないけども、いいところもあるんだ、貧富の差があるということは。可能性の芽をつくっていくんだね、可能性というのを育(はぐく)んでいく。 これは天上界でもいっしょでね、みなさんは平等主義者も多いと思いますが、なぜ四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元ってあるのかな、みんな九次元にしちゃえばいいのにと、そしたら神様が近くなってよろしいだろうにと思うのに、何で差があるのかなあと思うけど、これが実にいい味わいがあるんですよ。これはね、まだ十分に悟ってない人と、悟りきった人とかがいて、その間に無限の階梯(かいてい)があるからこそね、いろんな可能性があるんですよ。 だから、四次元の人が努力して六次元まであがっていく喜びっていうのは違うかもよ。それはたいへんな喜びでね、初めて人間のすばらしさ、神の子としてのすばらしさに気づいていく喜びっていうのは、これはかけがえのない喜びかもしれないね。こういう喜びはあるんですね。だから、こういう階層があるっていうこと、上下があるっていうことを一概に否定してはいけない、それをあらゆるチャンスの芽と考えていく。こういう必要があるんですね。 4.人間の器量 積極型人生の基礎としての三番目にかかりたいと思います。 三番目の考え方というのは、ぼくは世の中の成功者、事業家としての成功者などを見ていたけども、やっぱり客観的に言えば運がいいと思われるような生き方をしているんだよね。ひじょうに運がいい、松下幸之助にしたって、あるいはソニーの創案者、井深だの盛田だのという連中にしたってね、ひじょうに運がいいように見えるね、あれは何だろうかと思う。京都セラミックの稲盛だとかね、いろいろいますけど、急成長会社いろいろありますがね、何だろうか、運がいいように見える、けど前半生として運がよかったかというと、前半けっこう苦労しているんですね。若いころはいろんな苦労をしたり失敗したりしているんです。 何だろうかというと、神様に愛されているっていう感じをひじょうに受けるんだよね。愛されているんじゃないかな。急速にそういう成功していく人って、神様に愛されているんじゃないかなと思うんだよね。そして、神様に愛されているから、やっぱり道がついていくようなところがあるんだね。そうしてみると、神様に愛されている人の特徴って何だろうかって思うと、けっきょく人が寄ってくるんだよね。これが一つの特徴なんだよ。 不思議なことにね、まわりの人がだんだん寄ってくる人と離れていく人といるんですね。それはその人の器、容量にもよるでしょうが、魅力を感じて寄ってくる、その人間的魅力っていうのは計り難いものなんだよね。これは学歴とも違うしね、お金とも違うし不思議なものなんですが、人間的魅力というのがあるんです。そして、それがあると、人が寄ってくるんですね。そして、人間的に魅力がある人というのはやっぱり神様から愛されているような感じがきわめてするんですね。それは物差しで測れるものでもないし、どこがどうだからというわけでもないんだけど、魅力があるんですね。人を魅きつけてくる。 それはいったい何だろうか、その魅力の根源は何だろうかと思うとね、やっぱり発想においてね、発想においてまわりの人たちに対する無限の愛みたいなのがどこかあるんだよね。そういう供給者として生きようという気持ちだね、こういうものがあって、この雰囲気がね、人を寄せつけるんだね。いくらいろんなところに献金して歩いたり、財団つくってね、この資金はアフリカに使われてます、どこそこに使われてます、貧しい人たちにやられていますって、自己宣伝したって、何かね、いやだなとか、何か魅力感じないとか、何だかいっしょに仕事をしたくないなと思う人っているねえ。みえみえの派手なことをいっぱいしているんだけど、慈善事業いっぱいしているけど、なにかその人といっしょにやりたいという気持ちはしない。そういう人っているんだよね。どこかちょっと違うんだね、何かが違う、これは何だろうかというところなんだね。 そうしてみるとね、この人間的魅力のところというのは、表立った部分で人を生かすために努力しているっていうことももちろんあるだろうけど、陰徳というか隠れた徳の部分もかなりあるんじゃないかなと思うんだね。たとえば、人を愛するといっても、ほんとうにその人にあなた好きだよー、かわいいよー、愛しているよー、よくなってほしいと思っているよって、口に出して言うこともあるが、これはやはり現実世界では稀なケースであって、そんなにストレートには言わないね。ほんと腹のなかで思っているだけで、それが時々折りに触れて出てくるぐらいになるね。 そうすると、こういう人間的魅力のある人、神様から愛されていると思われる人っていうのは、この隠れた徳の部分がそうとうあると思えるんだね。人目につかないところで徳を積んでいる、人目につかないところで多くの人の幸福を願っていたり、多くの人のために生きてみようという気持ちがある。それを決して目立たそうとしない、一割、二割が外に出ることはあっても、残りの八割、九割の部分が深く静かに潜行しながら徳を積んでいるんですね。いろんな人のためになることをやって、そしてそれを自分がやったという気持ちじゃなくて、忘れているんですね。当然のことというふうに考える、あるいは当然のこととも思わないで、してあげたけどケロッとそんなことはもうすっかり忘れている、こういうものですね。 ところが「情けは人のためならず」で、人のためにやったことって必す生きてくるし、どっかから回ってくるんですね。おかげを欲しなくてもおかげはやってくるんですね。必ずやってくるので、こういう人に徳はくるんです。たとえば助けてやったら必ずおかえしをよこせというような人のところに徳はこないんでね、別に嬉しいからしてる、したかったから助けてあげたというだけの人ですね。こういう人のおかげっていうのは、ストレートにくるんだけど、五年後とか十年後、二十年後に回ってくることがあるんですね。こうしたもんなんです。 だからね、自分はこんなに有能なのに人は全然こないと思っている人は、恐らくぼくは、奪う愛でいっぱいなんじゃないかなあと思うんだね。優秀なんだ優秀なんだっていったって、けっきょく人に認めてもらいたいだけ。人がね、自分が優秀なのを認めてくれたら、もうそれで自己愛に浸れ、満足する。こういう人のところにはあまり人は寄ってこないし、警戒しますね。ただ、陰で多くの人を助けたいという気持ちで生きていて、それを決して人に悟られたくもないし、恩着せがましくするわけでもないし、平気でやって忘れているような人、こういう人のところに何かを感じて人びとは集まってくるんですね。ここに自己顕示欲みたいのがいっぱい出てくると、やっぱり人は嫌気を感じるんですね。まあ、こうしたもんです。 だからこれは、一般的な徳という問題で話をしたが、秀才なんかもそうですね。いかに自分が秀才かっていうのを、いつももうギラギラ見せていたら人は寄ってこないけど、秀才であってもそれがね、柔らかいいぶし銀のような秀才で、和光同塵(わこうどうじん)、光を隠してそして、ほんとうは内部は光り輝いている、こういう人であると学徳というのがついて来ますね。学徳がついてきて、先生独特の碩学(せきがく)っていうか、大碩学、大哲人、大教養の人っていう風格というのが出てくるんですね。これは見せびらかしによってではなくて、内に蓄えられたものが外に光ってくるんですね。こうして人をして、あの人はいいと言わせるようになってくるんですね。 だから、やっぱりね、昔からよくいうけど、この内に秘めたるという言葉をよく使うんですが、きわめてだいじなことのようなんですね。これは、実は神様自身がそうなんですね。神様自身がほんとうは人間のためにずいぶんいろいろなことをやっているんですよ。みなさん気がついていないだけで、いろーんなことをほんとうはやっているんです。 太陽が東から西にまわっていくのだって当然だと思っているけど、当然かどうかわからないし、春夏秋冬がちゃんとあるし、冬になったら雪が降り、夏になったら雨が降り、春になったら花が咲く、当然のことは当然のごとく起こっている、これに対して人間の感謝というのはあまりないけれども、しかしこれも神様は陰徳を積んでいるんだね。けっきょくね、感謝されようが、されまいがやるべきことをやっているんでね、雨を降らすときに降らさないと、穀物は実らないし、そして人間も食べられない、動植物も生きていけない。こういうふうになるわけですね。 みなさんは知らないだろうけど、神様はどんな気持ちで魚たちを育んでいるか、漁師が獲っても獲ってもなくならないように、魚たちも幸福であり、いろいろ考えているんだよ。それで魚だけでかわいそうだから海老(えび)つくってみたり、蟹(かに)つくってみたり、いろいろやっているんだよ。そして蟹なんか、水圧のあるところで生きているからギューッと甲羅が押されて肉がしまっておいしいんだ。なんであんな深海にいる蟹なんかがおいしくなきゃいけないんだ、苦(にが)くてもまずくてもいいじゃないか。ところがおいしいんだよね。食べられることを予定している海の底にいるもの、いつか必ず食べれると思ってそういうふうにしてくれているんだよ。ありがたいことじゃないか。まあ、そんなもんだ。 お米だってまずくてもいいんだけどね、おいしいんだよね。栄養になるものはまずいっていうのもいいんだよ。薬といっしょで栄養のあるものはとにかく、まずい、苦いっていってもいいんだけど、実際はそうじゃないね。 また、果物の味もきめています。おいしくなってますね。それぞれの木に柿がなったり、あるいは桃がなったり、栗がなったりいろいろしますけど、なんでそんなことしなきゃいけないのかよく考えたらいい。ねえ、あれらは決して自分の種族保存だけで考えているとは思えないね、栗だってもちろんそうですし、桃だって種族保存というだけであんなようにならなくたって、きっともっとやり方はあると思うんだな、ぼくは。決して食べられないようにしてもいいと思うんだけど、あんなにみずみずしくおいしい。 りんごなんていうのはほんとうは青森りんごから始まって、ずいぶん農家を食べさせてくれているけど、あれだってあんなにりんごというおいしさをつくる必要はないと思うんだよね。それなりのものがあるよね。鳴門に鯛が泳いでいるだけであの辺の四国の人たちの生活が潤っているしね、わかめができるだけで、それで食っていけるしね。ありがたいことですね。 だからいろんなところで、神様は陰徳を積んでいるのに感謝してないわけだね、人は。神様っていうのはやっているんですよ。こんぶ、鳴門のこんぶは引き締まって身が厚くておいしいなんて、こんなの漁師たちはこんぶに感謝するかもしれないけど、神様に感謝しないですね。でもあの立派な渦潮つくってくれて、こんぶが引き締まるんだね。そういうものなんですよ。まあ、そういうふうに、いろんなところで陰徳を積んでいるのが神様、それに全然感謝しないのが人間、そういう意識です。 そうすると地上にいても神様に近い人間っていうのは何かというと、やっぱり絶えずいろんな多くの人たちのために行動している人、考えている人ですね。そういうことなんです。人の心のうちはわかりませんが、しかし偉人といわれるような人はやっぱり後世の人たちからも偲(しの)ばれるんですね、その徳を偲ばれる。そこにやっぱり隠されたものがあるんですね。これがない人っていうのは魅力感じないね。だから隠された部分に魅力を感じるんですよ、けっきょくはね。 もちろん逆もありますよ。タントンタントンと出世街道まっしぐらっていうような人にあこがれを感じる場合もありますね。わーすごいな、すごいなっていうことを、その後、そういうあこがれが世代を経てのこる場合もあるし、のこらない場合もある。のこる場合には、まあそれなりのタレントがあって、その人にやっぱり強い何が影響力がある場合でしょうが、消えていくものもありますね。 みなさんなんか、今から十年前に大臣やっていた人とか、二十年前に大臣やっていた人なんて記憶にもないでしょう。二十年前に一流会社の社長していた人なんて記憶にもないね。もう消えちゃう、そんなもんだ。しかし、二十年前にやっていても、記憶にのこっているような人があるとするならば、その人はやはり何らかの違ったところがあった人だろうと思うんだね。きっとそうだと思うよ。おそらくそんなもんなんだ。だから、やっぱりこの陰徳、隠れた徳という部分をね、もうちょっとぼくらは考えようよ。それは、決して後で回収するためだけじゃなくてね、それは神様の心にもかなっているんだ。そしてそれが人間としての色艶になってきているんだ、光沢になってきて、人を魅きつけているんだ、こういう考えだね。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/151.html
目次 1. 水子霊 の本質とその対応 2.安易な堕胎容認制度は誤り 3.国は子供の養育、教育費を負担すべきである 4.女性の本分はよき母親となること 5.唯物、経済至上主義の価値転換が必要 6.女性の真の美しさは何処にあるか 7.男女の愛情について 8.若い女性はあまり男を知り過ぎてはいけない 9.愛とは与え合うだけでなく相互に築き上げていくもの 10.私の所属は医療霊団 8.若い女性はあまり男を知り過ぎてはいけない 善川 いま一つ、これは世俗によくあることですが、ここに男女の二組があるとしましても、一人は例えば男性の場合は妻帯者で家庭を持っている、これをまあ上司とする。その下に女性、OLが居る、ところが最近の女性は、マスコミの発達や、高学歴者も多いために、社会をみる眼、特に男を観る眼というものも肥えて来ております。従って同年代の適齢期の男性をみる場合と、既に三十、四十歳に達している人をみる場合とでは、結婚対象年齢の男性では物足りなさを感じるということが世間では色々あると思うのです。それよりもそれだけの社会経験を積んだ年配の男性に魅力を感じることから、結婚に踏み切れず、脱線して、不倫の問題を起こしたり、そこまで行かなくとも、その魅力ある年配の男性が忘れられないために、ついつい結婚適今期を逸していくといったケースが多いようですが、こうした問題については如何なものでしょうか。 ナイチンゲール これは、一つの社会的な問題であろうと思います。これは女性である私の口から言うのも少し問題があろうかと思いますけれども、若い女性は、余り男を知り過ぎてはいけないんです。これを私は警告して置きたいと思います。余り男を知り過ぎてはいけないのです。やはり男の中に未知なるもの、解らないものがあるというのでいいと思うのです。だからこそ新鮮な気持で、結婚という船出ができるわけです。 特にうら若い女性達は、会社で働くということも増えて来ているでしょうけれども、それでいろんな男を見過ぎてはいけないんです。知り過ぎてはいけないんです。これはむしろ人間の知恵です。社会の知恵です。女性が自分の眼で男を選ぶということは、いい面はありますけれども、いま一つ良くない面、危険な面も多いということです。こういう自由恋愛の結果、いろいろと挫折するものが出ているということです。ですから私は若い女性は、世の中の男性をあまり見過ぎない方が良いと思います。そして父親なり、或いは先生なり、知り合いの方でも結構です。年配の方々から然るべき助言を頂いて、賛成されたような方と結婚するのが望ましいと思います。 ですから今あなたが言われた問題というのは、女性が結婚前にいろんな男性を知り過ぎているというところからきています。孔子様といわれる方は、「男女七歳にして席を同じゅうせず」と仰しゃったそうですが、これは、単なる差別教育とみられてしまえばそれまでですが、男女の中にはお互いに分らない面があって、だからこそ新たに一緒に船出して行こうとする勉強の場があるのです。ですから結婚を前にして、あまり、男心を知り過ぎるということはよくない面もあるのです。それと、結婚前の適齢の女性を、女性を知った上司、男の眼にあまり長く曝(さら)すのはよくないと思います。これは父親、母親達がもっと考えるべきことです。 9.愛とは与え合うだけでなく相互に築き上げていくもの 善川 結婚問題の話の途中でまた、愛情の問題に返っていくようですけれど、結局愛というものは、単に互に与えあうだけのものでもなく、一つには二人で育(はぐく)みあい、築き上げていくものでもあると思うのですが、互に未知でまだ分らないけれども、その中に二人で力を合せて一つの世界を築き上げていくというプロセスの中に、純粋な愛が開花していくのではないかと思うのですが……。 ナイチンゲール そうです。愛というものは、これから作っていくものです。最初から用意されているものではないのです。世の若い男女に対して、カップルに対して私は忠告したい。お互に品物でも買うようなつもりで見定めているのではないですか、女性は女性で男性を品物を購うように値段をつけているのではないですか。男性もまた同じじゃないですか、値段がついている品物であれば購った時が最高であって、後は値段は下っていくのです。値打は下っていくものではないでしょうか、そうではないんです。これから新たに一緒に船出をして新たなものを、あなたが仰る通り築いていこうとする時に、適任の方は居ないかということで探すべきであります。創りあげていくもんです。仰る通りです。 善川 ありがとうございました。女性一般に関しての質問もいろいろありますが、その意味で今回は東西の優れた女性霊の方々に、ご自分のかつてのご経験なり、また神理に則った高邁(こうまい)なる識見なりを承わっているのですが、あなた様には非常に貴重なお教えを伺いまして、世の女性の方々の処世の指針とさせて頂きましたことを厚くお礼申し上げます。 10.私の所属は医療霊団 ナイチンゲール それと私は今一般的なことを申し上げましたけれども、これは今日申し上げる必要もないと思いますけれども、私が所属している霊団というのは医療関係の霊団です。あなた方の処へはあまり出ていないようですが、医学、病を治すという系統もあるということです。今回のあなた方のご使命は、そうした病気を治したりすることではおそらくないようですけれども、そうした霊団もあるということを、知っておいて頂きたいと思います。 善川 それは巻を変えて、医の問題についてのご指教を、特に霊治癒の問題についてお教え願いたいと考えておりますのでその節はまたよろしくお願い致します。 ナイチンゲール そういう機会にはまたお世話いたしたいと思います。それでは今回はこれで失礼いたします――。 善川 ありがとうございました。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/398.html
目次 1.「他力門」の認識不足について 2.宇宙即 我 を生きる「聖道門」 3.「自力」とは、 絶対的自分 に生きること 4.個性向上に努める「自力門」、没個性、脱価値の平等観に堕す「他力門」 5.地獄界に新たにできた 念仏地獄 6.他力の教えは、死の苦痛を和らげる一時的な麻酔薬 7.自力の誤りと「自他力、混一」の悟りへ 8.光一元、善一元の「絶対力論」は、そのまま現世では通用しない 9.道元禅の「時間論」について 10.「悟り」とは何か。大きく分けて二段階 11.だれでも、一躍跳入、如来地には入れない。段階を最高度に発揮し、生きよ 12.未経験の他次元世界の悟りは説けるか 13. 道元禅 の起こりとその基礎 14. 道元禅 の限界について 15.私は今、菩薩界で「愛」について勉強している 16.坐禅だけでは悟れない。学んだ知識を生かし、利他行に励め (1986年8月9日の霊示) 1.「他力門」の認識不足について 道元 ――道元です。 ―― 過般お出まし願った節は、私のいたらぬ思いから、禅師のご本意に添(そ)わぬことなどをおうかがいし、大変失礼をいたしました。 本日はそのことを反省し、禅師には、「禅の本義」についてお教えを願い、これを現代及び、後代の人びとにお伝えいたしたいと存じておりますので、よろしくお願いいたします。 道元 わかりました。どうやらここ数日、「他力門」の霊人たちの話ばかりをお聴きになっていたようですが、あなた方の考え方が間違った方向へいってしまうといけませんので、私たち「自力聖道門(しょうどうもん)」の正しい教えを、この際、しっかりと理解し、身につけていただく必要があると思います。 まあ、いくつかの考える柱というものを今日は立てて参りましたが、他力門の後にやるということですから、「他力」と「自力」ということについて、まず最初にお話しないわけにはまいりません。 そこで、現在、私が考えているところで、他力、自力についての話をいたしたいと思います。「他力門」の方がたの説の根拠というのは、どこにあるか。要するに、人間というものは非常に小さなものである。非常にとるに足りない小さなものである。神仏の偉大なる大きさ、その巨大な慈悲、愛、そうした力に比べて、人間というのは、実に小さなものである。この全宇宙のなかにおいて、非常にとるに足りない存在である、と。こういう考えが基礎にあるわけですね。 そういう小さな自分であるからこそ、そうした小さい自分で悟ろうとか、小さい自分で自分を向上させようとか、そういうことを思う前に、その比較(くらべ)ようもない偉大な神仏の力の前に平伏(ひれふ)して、ただその光を全身に浴びて、そして、救われようとする。まあ、こういう考えであろうと思います。 確かに、事実認識としてはそのとおりでありまして、神仏の偉大なる力、偉大なる光、偉大なる光明、偉大なる愛と慈悲、こうしたものの前に、私ども人間の存在というものは、実にちっぽけなものであります。大宇宙に比べたら、ほんとうに小さな一匹の蟻(あり)であり、大海原にたらした一滴の雫(しずく)のような、そうした存在でありましょう。 この認識は、ひとつの認識として正しいのでありますが、ただ私は、これをそのまま受け入れるつもりはありません。なぜなら、宇宙というものは、開けば無限となり、握れば一点となるものであります。握一点、開無限。開無限、握一点。これが宇宙の神秘であります。 あなた方は、宇宙というものを空間的に広がった莫大な大きさ、巨大な大きさだと思っていますが、そうではなくて、ほんの小さなもののなかにも、宇宙というものは隠されているものであります。たとえば、一匹の蟻。そのなかにも、大宇宙があるのです。そして、あなた方の体のなかにも、大宇宙はあるのです。これは心の世界だけでなくて、あなた方の体というものを見ても、大宇宙というものはあるのです。それは極微(きょくび)と極大(きょくだい)の問題であります。あなた方が人間という尺度、つまり、身長一メートル六十センチの尺度で比べたら、大宇宙というのは、無限に大きい遠大な空間であります。 ところが、この尺度自体が、はたして客観的なものであるかは、どうして分かり得ましょうか。あなた方の体というものを、小さな蟻、あるいは蚤(のみ)、虱(しらみ)、あるいは、もっと小さなバクテリヤ、こうしたものを基準として見たならば、あなた方も、たとえようもなく広い大宇宙でありましょう。ですから、あなた方の心臓のなかを駆け巡っている血液、こうしたものとて、太平洋にも比せらるような大変な巨大な海でありましょう。 このように、この宇宙においては、客観的な尺度となるべき存在はないのであります。どんな小さなもののなかにも大宇宙は存在し、どんなに大きいと思うものも、それよりさらに大きな存在から見たならば、ほんの一点にしかすぎないのです。 神仏というものが、どのあたりの位置にあるものかは客観的に話すことはできませんが、おそらく、その神仏の位置から見たならば、この三次元宇宙というものも、非常に小さなごみのような、塵(ちり)のような、芥(あくた)のような、ただ一点にしかすぎない存在であろうと思われるのです。そのような不確かな、相対的に不確かな世界であるならば、相対的に不確かでありながら、絶対的に見れば、極微のものが極大となり、極大のものが極微となる。このような世界でありますから、私たちは、そうしたものの大小というものを考えないのであります。 今、私は、物理的に、物体として極微と極大の話をいたしましたが、これが心の話になると、もっと神秘的なこととなるのです。先程、私は、こういうことを説きました。すなわち、他力門の方がたは、要するに、神仏の慈悲というのは、非常に巨大なものであって、人間というのは非常にちっぽけなものである。そのちっぽけな人間が、心の修行をして悟るなどというのは不遜(ふそん)である。神仏の前に謙虚になりなさい。そして、神仏の前には皆平等である、と。こういうことを説きました。 他力門のよいところは、この平等の思想にあります。これは、実にいいと思います。私は、非常にいいものだと考えています。巨大な神仏というものを考えた場合に、すべての人間は平等であって、巨大なものの前の蟻としての、蟻のような小さなものという意味での平等であるということ。これは、大事な考えとも言えるし、鎌倉期のようなああいう時代には、非常に必要な主張だったと思います。しかし、それはそれとして評価するにしても、人間は小さなものだとして見るのが、私にはいささか不満であります。 人間の心のなかを見たときには、この心の宇宙というのは、また広いものであります。人間の心の広さを知らない人というのは、結局、悟った経験のない人間であります。人間は悟りということによって、どれだけ大きな存在になれるか。これを知らない人は、他力門に行って、そういう教えを受けるのであります。 2.宇宙即"我"を生きる「聖道門(しょうどうもん)」 道元 ところが、いったん、悟りというものを経験してしまうと、人間というのは、とてつもなく巨大な存在だということがわかるのです。心というのは、無限に広がっていくんです。あなた方を包んでいるこの大気も、そして、この大気に覆(おお)われて回転している地球も、月も、太陽も、星も、あるいは、宇宙空間すらも、あなた方の心によってとらえられることができるような存在なのであります。あなた方の心は、このように巨大になることもできるし、小さな一点にとらわれることもできます。 また、悟りというものを通すと、仏教のほうでは、"宇宙即我"という考え方がありますけれども、偉大なる悟りを体験すると、心というのは無限に広がって宇宙大になって、仝宇宙をすっぽりと包み込むような、そうした経験、神秘的な経験というものがあります。 これを宇宙即我の経験、悟りと言いますけれども、こうした経験を経たことのない人間は、非常につまらないものだと思います。しかし、いったん、こうした境地を経験した者にとっては、この人間の心、これは非常に愛すべきものであって、捨てがたいものであります。こんな便利なものはありません。折りたたみ自由であります。伸縮自在、まあ、たとえて言うならば、孫悟空の如意棒のように無限に伸びていくような、そうした力強いものが人間の心であります。この神秘力を知っているのと、知っていないのとでは大違いです。人間の心というのは、そのなかに、実は、そのなかに全宇宙を含んでいるのです。 あなた方は、三次元的な肉体があって、この肉体という殼のなかに、ちっちゃな心というものが収まっていると考えがちでありますが、実は、そうではないのです。それは、視点が違うのであります。あなた方の心そのものは、逆に、肉体をくるんでいるのであります。肉体が心をくるんでいるのではなくて、心が肉体をくるんでいるのであります。 そして、心というのがどういうふうな構造になっているかというと、心というのは、非常に多次元構造になっております。心というのは、何重もの構造になっているのであります。つまり、心のなかには、四次元世界、五次元世界、六次元世界、七次元、八次元、九次元、さらに十次元以降の世界と、このように多重の構造になっておるのです。 すなわち、いわゆるタマネギ型の構造ですね。こういう構造になっていまして、いいですか、まあ、今の図式で言うと、心の一番外側の表面ですが、この表皮の部分が、あなた方の肉体と言われているものなのです。そして、この三次元に現われた肉体というものは、これは何か。心から遊離したものかと言うと、そうじゃないんです。これは、心の表面粘膜(ねんまく)なんです。心というものがすべてであって、この周囲(まわり)に出ている表面的な粘膜的な存在、つまり、あなた方の心を包んでいるもの、これが単なる肉体なんです。ですから、肉体と心というのは別々のものではないんです。 あの世の世界を知り、霊魂の世界を知った人間であっても、ともすれば、肉体と心、肉体と霊というのは違うものだと考えがちでありますが、これは違うものではないのです。不即不離(ふそくふり)であって、四次元以降の世界の三次元的投影が肉体なのです。 ですから、あなた方の肉体というのは、あなた方の心の反映であり、その物質化にすぎないんです。それぞれの肉体、とくに顔がですね、その人の"人となり"を表わすと言いますが、まさしくそのとおりでありまして、心の世界の反映が、三次元的反映が、あなた方の肉体であります。これを、逆に考えてはいけないし、肉体と心というのを対立的に考えてもいけない。それも間違っています。そのようなものなのです。 そうしてみると、あなた方の心というのは、三次元から十次元まで通じているものであります。ですから、それを物体的に小さなタマネギと考えれば簡単ではありますが、そのタマネギの皮のなかの四次元的部分、五次元的部分、六次元的部分、あるいは、九次元的部分というのは、単にタマネギの内部に収まらないのです。この九次元的部分は、すべての九次元的部分に通じており、四次元的部分は、すべての四次元的部分に通じているものなのです。すなわち、あなた方のなかには、無限の宇宙空間が、多次元空間が入っているということなのです。そういうふうなものなのです。肉体に収まっているものじゃなくて、ほんとうは無限に大きく、心のなかのひとつの投影として肉体があるのです。 たとえば、あなた方は、スポット・ライトというものを知っているでしょう。地上に出ている肉体というのは、ちょうどこのスポット・ライトが当たって、舞台に丸い光の輪が映る、この形なんです。これが地上であって、ほんとうは、このスポット・ライトの出ている光源の部分があるのです。これが実は、あなた方の心の世界なのです。スポット・ライトというのは、舞台に映った丸い照明そのものです。これが肉体部分です。ですから、光源がある。その光源というのは、心の世界である、と。こういうことであります。 ですから、神仏や高級霊たちと、地上に来ている人間たちの大小を問うものがあれば、それはある意味で間違っているということです。心のなかは、無限であります。そして、心の構造そのものを見ると、八次元、九次元も心の構造のなかに入っていると言いましたが、これはすべての人間にとって、そうなのです。すべての人間の心のなかには、心性のなかには、必ず如来や菩薩の境地があるのです。 神は、人間を平等につくっておられるのです。あなた方は、ともすれば、この人は六次元の人、この人は七次元菩薩界の人、この人は八次元如来界の人と、こういうふうにいいがちでありますが、そうではなくて、実際には、その人の心のなかには、すべての次元が入っているのです。たとえば、あなたを例にとれば、あなたの心のなかには、如来界の心も入っているんです。もちろん入っています。また、もちろん霊界や幽界の心もあるんです。心の構造のなかで、要するに、どの部分が一番活発に動いている部分かということなんですね。 ですから、九次元意識が一番動いている人は、九次元というところに存在しているわけですが、では、九次元にいる人には三次元的な意識は何もないのでしょうか。たとえば、衣食住ということにも無頓着(むとんちゃく)なのか、あるいは、四次元的な思いというのはないのかと言えば、あるのです。それはあります。一部分にあるんです。しかし、たとえばそれは、引き出しのなかに収まっているようなものなのです。要は、どの部分が一番活発になっているか。ですから、七次元菩薩界にいるという人は、八次元如来界から比べて、低い地位の人だというわけではないのです。 心のなかには、そうした多次元構造がすべて入っていて、菩薩行、つまり愛行ですね、愛行の世界に生きている人たちが菩薩界にいるのでありますが、それは、七次元的心が一番活性化している、そういう人たちの集まりだということなんですね。ですから、そういう上下の考え方をするのは間違っているのです。 すべての人間が、そういう構造としては非常に多重構造にできておって、まあ、たとえば、ランプが点(つ)いているようなものなのですね。ランプが一、二、三、四、五、六、七、八、九、十と点いていて、今どこに点いているか、そういうことなのです。あるいは、昔の人が、あなた方のところへ出られて、エレベーターの話をされたようでありますけれども、十階建の建物にエレベーターがあって、エレベーターは上ったり下ったりしている。たまたま、今何階におるかというだけであって、すべての人が、十階から下まで上り下りできるんです。こういうふうな心の構造になっておるわけであります。ただ、そのとき、そのときに、立場があって、何階に住んでいるかと、活動しているかと、そういうことが決まっているだけなんです。 ま、そういうふうに心の仕組みというものをくわしく見てみると、これは無限に広いものなんです。そうすると、心、自分の心を探究するということは、実は、宇宙を知ることであり、そしてまた、多次元世界、高級霊を知ることであり、さらにまた、それを通して神仏を知るということなのです。ですから、外(そと)にないんです。 神理は外になく、救いも外にないのです。神理も救いも、自分の内(うち)にあるんです。自分の内なる心、「真我」なる心を徹底的に探究していったならば、そこには、すべての秘密が隠されているんです。ですから、よく"極楽浄土"を求めると言いますが、極楽浄土というのは、西方にあるんじゃないんです。極楽浄土は、その人の心のなかにあるんです。西の方へ行けば偉い人がいて、救って下さるんじゃないんです。雲がたなびいて、天の軍勢が迎えに来てくれるんじゃないんです。 あなた方の心のなかに極楽浄土はあるんです。それを見い出すんですね。天国地獄もあの世の世界ではなく、この世の世界だと言った人がおります。あなた方の心のなかの部分です。あなた方の多重構造のなかの、心のどこの部分が、主としてあなたたらしめているか、あなたとしての特色を持っているか。これが四次元地獄界の人間であったり、八次元如来界の人間だったりする理由であります。 では、天使たちは、地獄を思ったことがないかというと、思ったことがないわけではありません。思うことはできるのです。ただ、そういうことに執(とら)われていないだけですね。自分たちの主として考えていることを、おもに持っているということですね。不自由なもんじゃないんです。 3.「自力」とは、"絶対的自分"に生きること 道元 こういうふうに、人間の心というのは非常に神秘的であり、奥深いものでありますから、「他力」というものは、自他を分離する考えがあるわけです。自と他を分離するのが他力の教えでありますが、「自力」というのは、要するに、他を無視して自力に頼るということじゃないんです。本来、「自他一体」なりというのが、自力の教えなんです。自分のなかにすべてがある、これが自力の教えであって、自分と他人を切り離さないんです。 "阿弥陀如来(あみだにょらい)"というのははるか遠いところにおるのではなくて、阿弥陀如来というのは、自分の心の奥底にひそんでいるものなんです。そういうことを見つめるのが、"自力"であります。自他を切り離さないんですね。自分のなかにすべてを見出していく、「絶対的自分」であります。相対的自分じゃないんです。 相対的自分というのもあります。肉体を持っているあなたと、あなた以外の人とは、相対的自分という面から見れば別なものであります。しかし、絶対的自分、絶対的人間という面から見れば、それは別のものではないのであります。すべての根っ子がつながっているのです。心の世界では、つながっている存在なんです。ですから、認識の基礎がね、「他力」と「自力」とでは違うということです。 まあ、他力も自力もともに、もちろん神仏というものに向かっていく教えなんでしょうが、他力というのは、どうしても自分というものを切り離して、小さなものに押し込めている。そういう傾向があります。これに対して、自力というのは、自分自身のなかに、絶対的自己というものを探究していく教えであります。この自力について、何かご質問があればお答えいたします。 ―― 私が考えますところでは、「自力」「他力」と申しましても、大きな観点から見ますならば、これは神仏の御心(みこころ)、神理に近づいていく上での人それぞれの立場、立場に関わる悟りへのきっかけ、その与えられている方便であろうと思います。 あなたも申されておられるとおり、本来神仏の教えには、「自力」「他力」という別なるものがあるのではなく、自他が一如となった「絶対的自力」そのものが、人の生きるほんとうの道であるということで、これはまったく同感であります。そのとおりだと思います。 ただ、ここに、「自力門」「他力門」という教えの道があるということ、認識の領野が現に二つあった、と。あえてあったと申しましょう。あったということは、それはそれだけの時代背景の影響下に置かれた人びとの知的、あるいは、経済的、環境格差というものが、公平に言って、大きな要因をなしていたというべきだと思います。従って、ある時代の武士、貴族階級には、「自力聖道門」の教えが受け入れられ、また、同時代にあっても、農漁民や工人、下層商人たちにとっては、「他力浄土門」の教えが素直に理解され、人びとの魂の救いとなったものと思われます。別の言葉で言いますならば、いずれの人に対しても、御仏(みほとけ)の対機説法がなされたということで、これも方便、それも方便ではなかったかと思います。 4.個性向上に努める「自力門」、没個性、脱価値の平等観に堕す「他力門」 道元 ただですね、そういう考えも、もちろん、確かにありますが、では、なぜね―、神仏は人間に個性をお与えになったのかということを考える必要があるんです。個性をお与えになったということは、相互に努力し、自分自身を伸ばしていくなかで、全体の宇宙の構成員すべてが向上する、そういう教えを考えたはずなんです。 つまり、なぜ個性があるか、これを考えていく必要があります。やはり個性があるということは、それぞれのなかにすべてを見出していく、それぞれの各人が、すべてをその自分自身のなかに見つめていく、その努力をする必要があるんじゃないか、と。 たとえば、この『道元禅師霊示集』という本が世に出されたとしても、これを読むのは、ひとりひとりの人間であります。そのひとりひとりの人間が、この『道元禅師霊示集』を読んで、どう感じるか。それをどう実際生活に応用していくか。どう心の世界に応用していくか。こういう問題だと思うんですね。 つまり、ひとりひとりの進歩が、実はすべての進歩につながっていく、こういう考えです。ですからまあ、自他がないということであってもね、自他がないということは、個性がないという意味ではありません。個性というものは、個性としてちゃんとして与えられているもんです。なぜこの地上に、個性ある存在として皆さんが許されているか。それはすなわち、それぞれの門は、それぞれの角度から探究していきなさい、と。こういう意味だと思うのです。ですから確かにね、"阿弥陀如来"に救われるという考えであるなら、もう無個性かもしれない。没個性でしょう。ある意味で、そうじゃないでしょうか。だれだから救う救わないということはないということでしょう。すべての人が救われるという考えです。 そういう意味では、平等ではありますが、平等という思想の背景には、没個性という裏の脱価値、価値剥脱(はくだつ)という概念があるわけです。平等ではあるが、脱個性であります。 ですから、私がいっている個性の追求のなかには、平等とは違った自由という価値がおそらくあるでしょう。昔からある自由と平等という問題が、実は、他力と自力の問題のなかに現われてきているんです。まあ、もちろん、自力の難点としては、ある意味では、そういう差別知を育(はぐく)むおそれがあるということですね。心のなかにはすべての世界があると言いながら、ある人は、七次元的悟りまでいける。こういう差は、厳然としてあるではないか。そうすると、それはひとつの差別知ではないか、と。こういう見方、問題があるわけです。 ところが、"阿弥陀如来"を信仰するような他力信仰には、すべてのものが平等であって、そういう差別知がない。ある人が努力したからといって、とくに救われるわけでもなければ、努力しなかったから救われないというわけでもない。こういう教えでありますし、平等知であります。 ただ、言わしていただくならば、そういう他力信仰は、いつの時代でも同じになってしまいます。そうじゃありませんか。百万年前だって、同じです。そんなことを言っておるのであるならば、人間が時代と環境を変えて、魂修行をしている意味がないではないですか。いつの時代だって、それで教われるなら、他力でね、つまり、"阿弥陀如来"と言っておればいいのであれば、これは時代による差はないではないですか、まったく――。ところが、時代と環境を変えて人間が生まれて来る理由は、それぞれの環境のなかで、独自の個性的な悟りを得ていきなさいという意味ではないですか。 そういう意味では、やはり人間が転生輪廻(てんしょうりんね)をしていく理由を考えてみると、私は、自力というのがどうしても主眼になると思うのです。自分で選びとった環境、選びとった時代のなかにおいて、やはり自分たちは、それなりの最高の悟りを得ていけということなのではないでしょうかね――。これについて、何か質問がありますか。 ―― そうですね、まあ、これは昔から言われているように、親鸞(しんらん)さんも、また唯円(ゆいえん)さんも申されておりますが、自力、これは大変けっこうである、と。「聖道門」はけっこうなことである。これは素晴らしい教えである。この教えが分かって生きていける人は恵まれた方であり、幸せな人である。しかしながら、この教えが分からず、その教えによって教われない人はどうなるか。その自力の教えが分からない者は、どうなるのか、と。 たとえば、戦国乱世という洪水の大河のなかで、浮きつ沈みつして救いを求めて流れている凡夫を見て、「お前は、学を身につけたら、自力で救われるんだ」と言って、泳ぎの達人は傍観しているかというと、そうではないのです。とりあえず、襟(えり)をつかんで岸へ引き上げねばならない。水を吐かすなり、何なりの処置は、その後で、十分なせばよい。とりあえずは、一命を取り留(と)めるのが先決ではないのか。このとりあえずの仏の救いを説くのが他力門であり、その上の研究、研讃(けんさん)を積み、高い悟りを得ようとするのが聖道門である、と。そう語っておられましたが――。 したがって、まあ時代背景というものもありまして、鎌倉期、戦国期におきましては庶民の知的水準も低く、そのために、そうした他力本願の教えが、当時の人びとの共感を多く呼んだものと思います。しかしながら、今日のごとき文明文化、教育の進んだ時代におきましては、それだけではもの足りないのではないかと思います。 道元 もちろん、私が言うのは、他力の教えで皆んなが救われているのであれば、それはそれでけっこうですよ、と。そして、大衆を救いたいというのが彼らの本願でありましょうから、「禅」でやった人は自分ひとりしか救えないけれども、他力は多くの大衆が救えたと言うかもしれない。ただ、ほんとうに彼らがね、数十万、数百万の人を救ったかどうかです。その後、どうなったかであります。その人たちが、その後どうなったかであります。 ほんとうに、彼らが救われていると思いますか。救われていると思いますか!"南無阿弥陀仏"と念仏をあげて、彼らの教えによればですよ、"南無阿弥陀仏"とあげなさい。いや、あげようと思っただけで救われているのだ、と。天国行きは決まっているのだ、と。弥陀はね、そういう念仏をいくら唱えたら、百万回唱えたから救ってくれるんじゃない。あげたからいいんじゃない。あげようと発心(ほっしん)しただけで、すでに極楽往生間違いなしなのだ、と。親鸞の思想は、そうであります。あなた、これを正しいと思いますか――。 ―― まあ、これも対機説法でありまして、相手によって、そう説くのだろうと思いますが……。 道元 しかし、実際ね、生きている人たち、庶民たちは、"南無阿弥陀仏"という気持ちを起こしました。その後、何もしなくてですね、皆んな、天国へ行っていると思いますか。あなた、どう思いますか。常識人としてですよ。理性的な人間として、どう思いますか。あなたがですよ、どんな悪いことをしてきてもですよ、「いや、俺は心を改めようと、"南無阿弥陀仏"という気持ちを持った」と、阿弥陀さんを真に信仰したという気持ちを起こしたら、もうそれで、あなたの天国行きは決まっている、と。ほんとうですか。ほんとうだと思いますか、あなた、これ。 ―― それはね、それで地獄に堕ちる人もあるかもしれないけれども、それで救われる人があるということです。 道元 それで救われるような人は、何もしなくても救われるんです。"南無阿弥陀仏"と思う気持ちを起こして救われるような人は、何もしなくて、あの世へ行っても、きっと、救われているんです。心清い人ですから、きっとね。 ―― まあしかし、末期(まつご)にあたりましてね、無知の人が、何をすればいいのか分からないような人でも、たったひとこと、"南無阿弥陀仏"と唱えれば、お浄土へ連れて行かれるんだということを信じている人は、それしか方法がないわけですわね。そして、"南無阿弥陀仏"と言って掌を合わして成仏する姿、これも、そこに方便が生かされておるのではないかという気もするのですがね――。 道元 ま、もちろんね、それでそのまま、やすらかに成仏していく人もあります。そして、それこそ、霞(かすみ)たなびく黄金の雲に乗ってですね、諸如来、諸菩薩が迎えに来て、その人をあの世に連れて行く、浄土に連れて行くということもなかったとは言いません。ただね、"南無阿弥陀仏"と死の間際(まぎわ)になって一生懸命に言っていて、そして、死にました、と。ストーンと真っ暗な地獄に堕ちて行ったときに、この人たちは、その後、何をしたらいいのですか。相変わらずぶ"南無阿弥陀仏"を言うんでしょうか。いや、それさえ言わなくていい、と。発心を起こせば、もう救って下さるのが決まっているというのに、じゃあ、どうしたらいいのでしょうか。 ―― それは、その人は、やはり発心(ほっしん)したということによって、ときはかかれども、やがては、弥陀の救いにあずかると言っておられますが――。 5.地獄界に新たにできた"念仏地獄" 道元 しかしながら、私がですね、その他力信仰の信者たちのその後というものをあの世で見ていると、どうかと言うと、地獄界には、ひとつの新しい地獄界ができたのです。それを"念仏地獄"と言います。こういう他力門が出る前は、こういう地獄はなかったのです。 ところが、地獄のなかの一部分にそういう念仏地獄というのができました。まあ、それはもちろん、親鸞とか、蓮如の考えがすべて間違っているわけじゃありませんから、それを正しく理解して天上界へ行った方もいらっしゃるでしょうが、やはりね、ああいう教えは、つまり、大衆救済という教えは、一歩間違うと大衆に迎合(げいごう)してしまうんです。 なぜ、あんなにあの教えが流行(はや)ったか。ある意味で、迎合しているという側面があることは見逃せないのです。要するに、どんなことをしてでもね、何でも"南無阿弥陀仏"の気持ちを起こせば、救って下さるんです。これはありがたいですよ。彼らはそうは言わないかもしれないけど。これは私から言えば、ひとつの「免罪符」です。ね、ぶら下げるの簡単です。チャリンとお金を投げてですね、南無阿弥陀仏をあずければ、胸に掛けたら、あなた、救われるんです。そうは思いませんか。 もちろん、多くの素朴な人たちに信仰心を植えつけたという意味では、功績(こうせき)があると私は思う。ただ、ほんとうにその救いを得たかというと、必ずしもそうじゃない。そして、それ以降ですね、つまり、ああいう念仏宗が出て以後、地獄に堕ちてですね、堕ちて、そして、念仏行者ばかりが集まってですね、念仏地獄をつくっている。あの世でですね、「ナミアムダブ、ナミアムダブ」ばっかり言っているんです。そういう人ばっかりが集まっとるんです。確かに救ってくれるはずだ、と。ね、ナミアムダブ、ずっと唱えているんです。救われないです――。 なぜ救われないか。救いたいと思っているのですよ。もちろんあの世の霊たち、高級霊たちは、救いたいと思っているんですよ。ただ、彼らは、なぜ自分が地獄に堕ちたかわかっていないから、救えないんです。 あなた方にわかる言葉で言えば、いわゆる想念(そうねん)が黒いわけですね。あるいは、比重が重いから地獄の底に沈んでいるんです。想念が黒いんです。この想念の黒さに気がついてくれなければ、救えないんです。真っ黒けのままでは、あなた、ダイヤモンドのような世界へ引き上げて来るわけにはいかないんです。 そしてまた、その真っ黒けというのは、あの世の法則では、自分で払わなければいけないことになっているんです。そうしないと、どんな真っ黒けで堕ちても、あの世からですね、百万燭光の光でピカッと照らせばすべてなくなるんだったら、塵も垢もなくなるんだったら、こんな簡単なことはありません。それを慈悲や愛だと そうじゃありませんか。自分がつくった心のひずみをどうして人が拭(ぬぐ)ってくれるのですか。自分がつくった曇(くも)りは自分で拭(ぬぐ)わなければ仕方ないじゃありませんか。まあそれがね、別にね、自力論者の考えじゃなくて、神様が考えておられる考えなんです。そうじゃないとね、もちろん南無阿弥陀仏唱えなくても、ほんとうにたとえばですよ、あなた方のなかで考え違いをする人かおるかもしれない。 どんな罪を犯したってね、神や仏は慈悲や、愛のかたまりだから、絶対救って下さるのだと、今言ったように言うのだったら、何したって救って下さるのに決まっているじゃないか、と。もし地獄に堕ちたとしても、「頼みますよ」と言えばですね、一瞬のうちに罪や穢(けがれ)は赦(ゆる)してくれるに違いない、と。そして、天国へ行けるよ、と。 こういう心得違いをしているものがおるのです。――地獄へ行きます。いくら人を呼んでもね、救われません。あの世の霊たちは、救おうとしています。でも、救われません。真っ黒けだからです。墨みたいに真っ黒になっているんです。上げようがないです。同じ世界でないと住めないのです。これはあくまでもね、その人が一生に犯してきた罪業というものは、自分自身で反省していただかないと、どうにもならないのです。 私たちは、たびたび地獄へ行って見て来ております。地獄へ行ってね、私も、地獄へ堕ちた他力門の人たちを救うために、自力門の私たちが、ずいぶん地獄へ行って、救いに行きました。念仏地獄へ行きました。そして私は、たとえば、ひとりひとりを呼んでね、「あなた方、自分自身の心の曇りを晴らさないで、だれが一体晴らしてくれるんですか、と。あなた方ひとりひとりがね、自分が過去行なった行為、念いのひとつひとつの悪いところを取り出して反省しなさい。禅定(ぜんじょう)してね、ひとつひとつの悪いところを反省して想い出していきなさい。そして、心清くなれば、救って下さるんですよ」とね、私は教えに行っています。そう説法しています。ただ、彼らは頑(がん)として受けつけないんです。 つまり、「そんなの間違っている」とね。そして、こう言い返す。「ただね、阿弥陀様にお願いすれば救って下さると、私たちは教わった。あなたは悪魔に違いない。光っているように見えるけど、きっと悪魔だ。そういう間違った教えを教えてね、私たちを地獄のもっと奥深いところへ引っ張って行こうとしているに違いない。自分で悟れるなんて。そんなのは、絶対間違いです。人間はそんな存在じゃない、そんなんじゃありません。自分で救われるような、そんな善人はおりません」と。そういうふうに、言い返すんですね。 しかし、私は、「そうじゃありません。反省しなさい」と。しかし、彼らは反省のモノサシというものを持っていないから、反省のしようがないですね。すべて帳消しにしてくれると思っていましたから。だから、そういう信仰というものをいったん持ってしまうと、信仰心というのは、なかなか強固なものなんですね。だから、私たち自力論者がいくら行って説明しても、わかってくれないのですね。それを解かってくれるまでには、五十年、百年かかるのです。この手間のかかり方は、大変です。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/386.html
目次 1.美を司る神々の働き 2.すべての作品は霊的バイブレーションとそのレベルを持つ 3.色にはその 色 の生命がある 4.私は霊的な眼で絵画を追究した 5.キュービズムとは一念三千の世界 6.創造の源泉はすでに霊天上界に在る 7.絵画は感性を通して思想を伝えてきた 8.絵は神の御心、真・善・美を描き残すもの 9.新たな宗教絵画の時代は二十一世紀に訪れる 10.絵画のキュービズムは、神理における多次元概念の表現 11.伝道には大胆な色彩とタッチが必要 12.魂の懐古 13.私は指導霊からインスピレーションを受けていた 14.光沢ある芸術的人生こそ神の慈悲 15.ゆとりのある多彩な人生を 16.今後の「芸術編」編集について (1986年5月3日の霊示) 1.美を司る神々の働き ―― ピカソ先生ですか。 ピカソ ピカソです。 ―― ご高名はもうかねがね伺(うかが)っているんですけれども、実は、私どもの仕事につきまして、多少ご理解していただけるようなところがございましょうか。ご説明申し上げましょうか。 ピカソ やっておられることは、わかっています。 ―― はい、それではそういうことで、私どもは新しい、要するに、二十一世紀に向けての日本を初めとして、新しい精神文化を築いていこうという気持で今、いろんな聖賢方のお話を受け賜って、そして、新時代の、新文明建設の序曲というものを、奏(かな)でる仕事にとりかかっているわけでございます。 そういう意味で、実は、今回は近年におきます偉大な芸術家であり、画家でもあられるピカソ先生に、特にこの芸術、美術の問題につきまして、今後の指針といいますか、あなたが探究せられた道を通して、美術、それに芸術というものが今後、どういう方向へ進んでいくべきであるか、ということについて、お説を受け賜ることができましたら、今日(こんにち)および将来の人類の上に大きな示唆(しさ)となるのではなかろうかと、このように考えるのでありますが、お話いただけましょうか。 ピカソ 私は、まだ、こちらの世界に来て、月日が浅いために、まだまだ十分には理解していないことも多いので、あなたのご質問に答えられるかはどうかはわかりませんが、ただ、私(わたくし)は、あなた方も私の仲間だと聞いております。あなた方のやっていることは、私とは違うかも知れないけれども、神の一つの光の現れだと存じております。 私にあなたは、美術、芸術について語れと申されましたが、なかなかそのような壮大な主題の下には語れるものではありません。 ―― それでは、私の浅い知識でございますけども、先生を理解するためのことを、拙(つたな)い尋ねではございますけれども、お教え願いましょうか。 ピカソ わかっております。 ―― それでは、先生は、まあこれも万人が認めているところでございますけれども、天才であられて、とにかく、お亡くなりになったのが確か九十歳位であられたと思います。そして、その間、非常なご活躍をされて、世界の美術家はもとより、文化人なり、芸術家が右往左往する程、先生は、素晴らしい軌跡を残していかれたということであります、そこでお尋ね致したいことがあるのです。 先生の当初のお作はすべて、写実から入られたわけですが、それから一転二転三転とされまして、《青の時代》という時代を通られまして、それから《キュービズム》の世界に入られたわけです。そのキュービズムというのは、そのそもそもの出発点というのが、「アビィニョンの娘たち」というこういう主題で描かれた有名な絵でございますが、ここに現れたこの五人の女性の像、群像、ここにおいて、大いなる転換がなされたというふうなお話でございましたが、これは主としてどういうモチーフで、先生はお描(か)きになられたのでしょうか。 ピカソ あなた方は、たとえばこのようなかたちで、霊言を受けるものだけが霊能者だと思っておられるかも知れませんが、芸術家や美術家は、あるいは天才と言われる方々は、ほとんどが霊能者なのです。彼らが自覚しているかどうかは知りません。 このようなかたちで降霊するわけではありませんが、ほとんどの方々、美術家、芸術家たちの優れた方たちは、程度の差こそあれ、やはり霊能力者たちなのです。 霊能力者というのは、天上界に在(あ)るアイディアをインスピレーションとして、受けることができるということ。また、もちろんインスピレーションというのは、天上界から、頭、あるいはハートに直接にキャッチするものですけれども、それ以外にも、この眼がありますが、あなた方が観ているものと私たちが観ているものとは、同じものかどうかはわからない。むしろ、私たち芸術家の眼は、「美」という一つの概念のもとにおける霊眼(れいがん)、霊的な眼であるということです。あなた方が何気なく観過ごしてしまうもののなかに、「躍動する美」を見ることができるということなのです。 あなた方は、たとえば旅行をする時、あるいは散歩をする時、そうした時に、ハッと息をのむような風景というものに、気づかれることが多いと思うのです。そこに、何とも言えない美というものを感じます。 けれども、美とは何かと言われても、それを説明することは非常に困難です。なぜそれを美しく感じるのか。木立(こだち)がある。緑がある。小川がある。単に小川があり、木立があり、緑があるだけであるならば、美を感ずる場合とそうでない場合がある。けれども、ある瞬間、ある場面において、そのかたちと生命の躍動と、息づかいとを感じて、「これは美しい」と息をのむ光景というのに出会います。あなた方には、それは単なる物体の上手な配合、配置にしか過ぎないと映るかも知れない。けれども、霊的な眼で見た場合は、そうではないということなのです。 この世において、地上において、素晴らしい景観なり、景色なり、あるいは美を醸(かも)し出しているものには、何らかの精神的なるものが、背後に存在していない場合というのはないと言ってよいのです。偶然ということはあり得ないのです。偶然のものの集まりのなかに美が見出(みいだ)されるという確率は、何万分、何十万分、あるいは何億分の一でしかないのです。たまたま、こういう石があり、岩があり、山があり、木があって、それが美しく見えるという偶然の確率というものは、そのようなものなのです。何百万分の一なのです。 ところが、この地上には至る所に美しいと思われる情景があるのです。それは、もっと有(あ)り体(てい)に言うとするならば、美を醸し出している何かがあるということなのです。それをあなた方は、何と捉(とら)えるでしょうか。 それをたとえば、昔話でいうような妖精たちの力と言ってもいいかも知れません。昔、伝説や民話のなかでは、川には川の妖精たち、ニンフとか言いますね、妖精がいる。そういう西洋の絵を観たことがあるでしょう。あるいはこの日本の地においては、日本の妖精、妖精でなくてもいいです、精霊でもいい、他のものでもいい、さまざまな霊たちがいて、木には木の精があり、水には水の精があり、川には川の、池には池の精がある。あるいは大きな岩山には、岩山に祀(まつ)られている神が住んでおられる。こういうふうに、さまざまな精というものがあるということ、これが言われてきております。まさしくその通りなのです。景観というもの、情景というものは、そこに集まっているさまざまな精霊たちの力によって、生み出されているものなのです。 なぜ五月の、なぜ三月の、そこの景色が美しく感じられるか。それは、そこにいる精霊たちが、ひとつのハーモニーを奏(かな)でているからなのです。美を創り出そうと努力している方々が、いるのです。それは、あなた方の眼に見えないだけです。あなた方は、結果として感じるのです。 けれども、田園風景なら田園風景のそこを見て、なぜ美しく感じるかは、説明がつかないのです。ただ、それを美しく感じるのは、あなただけではないのです。他の方々も美しいと感じる。理由なき美しさを感じる。 その美なら美ということに対して、先天的に、つまり、ア・プリオリに、人間は美というものを知っているのか。あるいは後天的に、生まれ落ちて後(のち)に、美とは何かということを教わって、それを美、美しいものと感じるのか、ということを追究した哲学者たちもいます。カントもその一人です。認識論のなかにおいて、そうしたことを追究いたしました。 たとえば、子供は親たちから、「花が美しい」「花は美しいのですよ」と教わったから、美しく感じるのか。あるいはそうしたことを教わる以前に、美しいということ、美とは何かということを知っているから、美しいと感じるのか。教わったということは、単なる契機に過ぎないのかどうかということです。 幼稚園では、先生たちは幼稚園児に、チューリップの花は美しいと教えています。きれいな花だと教えています。赤いチューリップも、黄色いチューリップも、美しいと教えています。子供たちには美しいという言葉はわからないかも知れません。けれども、言わんとしている趣旨は、間違いなく伝わっています。 はっきりと私から結論を申し上げるなら、美しさを感じるということは、これは知的な理解ではないのです。知的な理解ではないということは、後天的なものではないということです。後天的に美を感じるのではないのです。人間は、先天的に、生まれ落ちる前より、美とは何かということを知っているのです。 では、その「美とは何か」という問いに答えるとするならば、それは、神の光のなかにやはり美を司る一つの流れがあるということなのです。つまり、その美というものを司る方々がいらっしゃるのです。美のための精霊たちがいらっしゃる。美のための神がいらっしゃるのです。 そうしたものは、あらゆる人間の心のなかに流れているのです。あなた方は、人間は神の子だと教わりました。神は全知全能です。神は万物のすべてを支配されている、万能の神であります。そうであるならば、神のお心のなかには、すべてのものがある。すべての性質、一切合切が入っています。その子供である人間であるならば、人間の心のなかにも神の姿のすべてが入っているのです。その心のなかに、美というものを感ずる魂の面があるのです。魂の切り口があるのです。その魂の切り口が、美を司る神霊たち、精霊たちの呼吸を感じとるのです。これが、美しいと感じることの、本当の意味なのです。 ですから本当は、物の配置を見て、色合いを見て美しいと感じているのではないのです。美を醸(かも)し出そうとしている方々の、その心の動きを、人間は感じとっているのです。だから、誰が見ても美しいと思うのです。それは、知的に理解できるものではないのです。 2.すべての作品は霊的バイブレーションとそのレベルを持つ ピカソ これは今、風景ということで私は話をしましたが、絵画においても同じなのです。なぜ、ある絵が名画と言われるのでしょうか。それは、偶然の色の配合でしょうか。それとも、単なるデザインでしょうか。単なる着想でしょうか。 絵というものは、真似をして、いくらでも描けるものです。似たような絵を、描くことはできる。しかし、名画と、そうでないものには、一線を画するものがあるのです。それは何かというと、霊的なバイブレーションなのです。 一つの絵を、この地上に実現せんとするためには、やはり、人間の力だけではなくて、さまざまな霊たちの力を借りているのです。美の創造者たちがいるのです。彼らの力が加わっているのです。 ですから、彼らの霊的な力が一つのキャンバスの上に一つのかたち、絵というかたちをとって、現れているのです。これは、ある場合には天上界の景色かも知れません。ある場合は天上界の思想のひらめきかも知れません。そうしたものが描かれているのです。 ですから、観る人は、何となく名画というものを感じてしまう。なぜか知らないけれども、時代を経るうちに、これはとてつもない傑作だということになるのです。単に美しいというだけで観れば、美しい絵はいくらでもある。ただ、人の心を揺り動かすものはそう多くはないのです。それは、その絵を創るために、どれだけの霊的な作用が働いているかという側面があるからです。客観的には、物の上に描かれた絵の具でしかありません。けれどもそのなかに、霊的なバイブレーションというものが、やはり存在しているのです。 あなた方は今、神霊の言葉を書物に編集しています。それを活字に起こしています。活字となって、人びとに読まれています。しかし、それは、活字であって、単なる活字ではないのです。 日本の国にも、昔から言霊(ことだま)ということが言われていたように、言葉には力があります。たとえば、あなた方が作った高級霊の書物の活字を読む時と、そうでない、悪霊の感わしを受けている方々の活字を書物で読む場合と、活字としては同じように見えても、その活字の間にあるバイブレーションが違うのです。まったく違うのです。ですから、あなた方もある迷わしを受けている方々の書物を読むと、吐き気がするようなことがあると思います。 しかし、実際上は、活字というものは、鉛か何か私は知りませんが、そうしたもので造られたものであり、それにインクがついたものであり、それが紙の上に印刷されたものであり、本来何もないもののはずです。有害でも無害でもありません。何でもありません。無色そのものです。 ところがそれが、ある配合をとって、一つの思想を創り上げると、それがある時には人間に吐き気を起こさせ、ある時には素晴らしい陶酔感を起こさせる、心を揺り動かす場合があるのです。ですから、活字の組み合わせによっても、そこに移された文字によっても、そのような違いが出てくるのです。 およそ、人間の精神力が感応して創り出した、この世的なもののなかに、霊的なバイブレーションを持たないものというのはないのです。ラジオにしても、テレビにしても、あるいは襖(ふすま)にしても、机にしても、建物にしても、ありとあらゆるものには、それをこの世に生み出さんとした方々の霊的なバイブレーション、それが加わっているのです。 人間の眼には、同じく見えるでしょう。同じ机を作っているように見えても、その作った人の人生観なり哲学なりの霊的波動は、一つ一つの机のなかにこもっているのです。神の目から見ると違うのです。 これがたとえば、芸術家の創った彫刻なり、そうしたものでも同じなのです。あるいは、芸術家のデザインした建物などでも同じです。何かはわからない霊的なものが、そこにあるということです。そして、その水準、高きから低きに流れるというその水準は、確乎(かっこ)としてあるのです。 ですから、まずあなた方に、あるいはあなたに、美とは何か、芸術とは何か、なぜ私がそのようなものを創ったか、ということを説明する前提として、そこにはやはり霊的な世界の顕現があるという事実を私は述べておきたかったのです。よろしいですか。ですから、芸術作品というのはある意味において、精霊たちの合作なのです。 3.色にはその"色"の生命がある ピカソ あなたは、まず私が、《青の時代》というのを経験したとおっしゃいました。その通りです。それは、まだあなた方の知識にはないけれども美の天使たちのなかにも、いくつかの役割の分担があるのです。 たとえば色があるでしょう。十二色というのがあります。あるいは二十四色と言ってもいいかも知れない。赤、青、黄、緑、さまざまな色がありますね。実は、こういった色を司る天使たちがいるのです。これは、あなた方が言っている天上界の、霊界の光線という意味ではなくて、たとえば、色彩、あるいは美ということを司る天使群のなかで、それぞれの色を司る方々がいらっしゃるということなのです。黄色い色を司ったり、白い色、青い色、だいだい色、緑色、若葉緑色、そうしたいろんな色をですよ、司る天使がいるのです。芸術的な意味においてです。「色の天使」がいるのです。 あるいは、「音の天使」というのがいるのです。私は、音楽については詳しくは知りませんが、さまざまな和音があったり、ハーモニーがあったり、いろんな音階があったりするわけです。あるいは、陽性の音楽があったり、陰性の音楽があったり、テンポの速い音楽があったり、テンポの遅い音楽があったりします。こうした音楽というものも、やはり音楽に関する天使というのがいて、役割分担をしているのです。他のものでも同じです。ですから、色には色の役割分担をしている天使たちが、確かにいるのです。 あなたは、《青の時代》ということを言われましたが、青の時代というものは、その色の天使のなかの青という名の色の天使が、私に非常に強く働きかけた時期なのです。青色というものを、世の中に放射しようとしているのです。 たとえば、あなた方の世界には、ファッションの流行ということがあると思います。女性の服装でも、今年は黄色が流行るとか、今年はだいだい色が流行るとか、今年はピンクが流行り、今年は紫が流行り、黒が流行り、こうしたことがありますね。なぜそういうものが流行るかは、あなた方にはわからない。なぜ白が流行ったり、黒が流行ったりするのかはわからないと思います。 けれども、その背後には、私たちの世界での動きがあるのです。さまざまな色彩の天使たちがいて、「今年は私の年です」ということで、働きかけているのです。そうすると、その色が流行っていくのです。 色彩の天使だけではありません。やはり、模様とかですね、そうしたものを担当している天使もいるのです。こうした模様を、今年は流行らせる。そういう役割分担があるのです。そして、いろんなことを考えて、この世にさまざまな色彩感覚、あるいは美の感覚というものを、投影しているのです。それが、私たちの世界です。ですから、青の時代には、青の天使の光を受けて、私はやっていたということなのです。 4.私は霊的な眼で絵画を追究した ピカソ その後に、《キュービズム》ということを、あなたはおっしゃいました。まあ立体主義と言いますか、そういったことですね。それがあなたには、非常に不思議に見えるということです。一般の方々にも不思議に見えます。ちょっと見た目には子供の絵のようです。それに、ちょっと見た目には美しさは感じません。けれども、人びとはなぜか、そこから心魅かれるものを感じるのです。 それはなぜか、ということです。当然のことですが、あなた方には眼が二つしかありません。この二つの眼では、一方向からしか物体が見えません。たとえば、ここに瓶(ビン)なら瓶というものがあると、これをあなた方は、一方向からしか観ることができません。しかし、私たちの本当の霊的な眼で観ると、これは一方向だけではなくて、さまざまな角度から観ることができるのです。ですから、私のなかにおいて、物を観る眼がもし分裂していれば、それがキュービズムになってくるのです。 いいですか、すなわち私は、肉体的な眼と、霊的な眼という両方の眼を持っていたということなのです。 ですから、肉体としての私は、この瓶をこちらから観ていたとしても、霊的な私としては、こちらから観ることも、そちらから観ることもできるのです。 芸術家も極端にまで走れば、己(おの)れの魂を飛ばすところまでいってしまうのです。霊的な眼というものは、物体の裏側まで観てしまうのです。斜めからでも、上からでも、下からでも観てしまうのです。見えるのです。こういう眼、いわゆる複眼ですね、複眼のような眼になってしまうのです。 ある意味においては、天眼通(てんがんつう)といいますか、そういうものでもありましょうし、ある意味においては、何と申しますか、テレポーテーションのようなものでもあります。別な世界から、観ることができるのです。 ですから、今はたとえば、観る角度が違うということで、私は申し上げましたが、もう一つ別な眼から観ると、この表面の姿、たとえば善川三朗としてのあなたのシルエットがあるわけですけれども、この表面の姿のあなたと、あなたの内面を観る、内面ですね、心の内側を観る眼、別な眼があるのです。これで観ると、あなたというのは、ダブって見えるのです。通常の人が観て、見えるあなたの姿と、あなたの霊的な姿とが、ダブって見えるのです。さらに霊眼(れいがん)の進んだ人であるならば、あなたの過去世の姿までが、ダブって見えてくるのです。 ですから、たとえば今、柱というものを取り上げてみますと、その柱なら柱といっても、単に柱だけではなくて、柱を在(あ)らしめている他の力もあり得るということなのです。 人間の顔は、一つではないのです。人間の顔は、幾通りものものが現れてきているのです。 一つには、物理的に、物質的に顔を作っているものがあります。けれども、この顔をこのような顔として現しめる力というものが、その顔のなかには入っているのです。心の豊かな人はいやはり豊かな顔になっていきます。慈愛に満ちた人は、そのような顔になっていきます。陰険な人は、やはり陰険な顔つきになっていきます。そういうふうに、魂の輝きがあり、それに対して、外面というのがあります。それ以外に、過去世を親る眼があります。ですから、霊的な眼で観ると、そのなかにいろんなことが入っているのがわかるわけです。 私の絵の中では、さまざまな人物が描かれています。その人物が、真っ二つに割れているようなところもあるはずです。その真っ二つに割れているところは、片方は表から見た人物です。残り片方は、霊的にその人を観たら、こうなるということでもあるのです。魂の断面を、私は描いているのです。大方の人は、そこまでは気がつきません。 ただ、私が言いたかったことは、《キュービズム》を通して言いたかったことは、この世のものは、この世的に見えるだけのものではないということです。物の観方(みかた)というものは、さまざまな観方ができるということです。ここに在(あ)りて在り得ないものまでもが、見えてくるということです。 また、形体の美だけが美ではないということです。外面に美しく見えるものだけが、美ではないということです。それを在らしめているものは何かということも、追究する必要があるということです。 5.キュービズムとは一念三千の世界 ピカソ あなた方は、私も知っておりますけれども、宗教家たちから教えを受けておられるでしょう。「一念三千(いちねんさんぜん)」ということも教わったと、聞いております。それは、相手の心の世界に応じて相手が変わるように、あなた方の心の世界において、あなた方が観る世界も、また変わるということです。あなた方の心が輝いていれば、世界は素晴らしいものに見えるでしょう。あなた方の心が曇っていれば、世界も曇ったものに見えるでしょう。あなた方が今日、釣りをしたいと思っているならば、雨が降ったら悪い天気でありましょう。ところが、自然を愛し、山を愛し、草木(そうもく)を愛する人であるならば、この雨は慈雨(じう)だなと、慈(いつく)しみの雨だなと、感じる方もいらっしゃいます。 この世の中の景色、この世の中の情景はすべて、その人の心の展開でもあります。これを「一念三千」という言葉で、言われた方がいます。同じです。 絵画というものも同じです。写実主義といって、写真と同じように事物を写すということに、美を感ずる人もいるでしょう。けれども、そうではないのです。向こうの、相手の内面もさることながら、それは自分自身の心を投影している世界でもあるのです。 ですから、私の「キュービズムの世界」は、別な意味でいうと、「一念三千の世界」なんです。私の心の眼で観た世界を描いているんです。私が地獄の心で観れば、地獄の絵が出てくるでしょう。私が天国の心で観れば、天国の絵が出てくるでしょう。そのような、さまざまな一念三千の心を、絵というものを通して表せばどうなるかというのが、私の試みであったわけです。 ですから、私が描いているのは、写実ではないのです。あれは、心の世界を描いているのです。観る人によって、どのようにでも見える絵なのです。まったくつまらない絵に見えることもあります。素晴らしい絵に見えることもあります。「あなたはどう見えますか」と、私は問うているのです。その絵の中に、心の秘密をときほぐしてあるのです。観る人の心に応じて、見えるようになっているのです。私の絵が、まったく取るに足らないように見える人もいるでしょう。素晴らしく見える人もいるでしょう。感動する人もあれば、駄作だと思う人もいるでしょう。 あなた方、絵を観る人びとの心を試しているのです。私だけの心境になれば、私と同じところまでこの美がわかる。しかし、それが同じ心境に達していない人にはわからない。さて、これをどう見るか、あなた方を試験しましょう。これが、私の絵です。 写実的な絵というのは、誰が観ても美しいものは美しい。美しくないものは美しくないのです。しかし、それだけでは、おもしろくないでしょう。絵というもののなかに、立体的な広がりが欲しい。絵というものは、二次元です。いいですか。絵というものは、この世的なものをすべて二次元に表す。これだけでは、もの足りない。 霊的な世界というのは、四次元以降の世界をこの三次元に投影しているのですね。そしてこの三次元を投影するのに、二次元を使っているわけです。いいですか、一つの次元を変化、変転させて、一次元下げて、表現しているのです。 三次元は、三次元のままでもいいのではないか。三次元の絵を描(か)いてみようではないか。こうした心構えがあっても、おかしくはないと思うのです。つまり、二次元を脱皮しようという試みですね。 ある意味においては、私の絵は、(注1 ピカソが観て指している絵は「泣く女」1937年作「ゲルニカ」の完成後一連のシリーズとして描かれたもののひとつ)よく観てごらんなさい、三次元の絵でもなくなっています。もう、これは四次元、五次元の絵を描いているはずです。よく観てごらんなさい。三次元ではない世界です。それが出てきているはずです。それは、四次元、五次元の世界なのです。四次元、五次元霊体としての私の眼が観て、描いている世界なのです。その世界でもそうです。その、あなたが観ている絵でもそうです。(注2 「画家とモデル」1963年作、六〇年代にもっとも多く描かれたテーマで、もはや外部に、描く対象や関心を失ったピカソが、描く自分自身を直接テーマにしはじめ、しかも、モデルはかつての肉塊ともぃうべきどぎつさを失って抽象的なパターンとなり、画家だけが色濃くあらわれてぃる作品)それは、三次元の絵では決してありません。霊的な世界なのです。そこにあるのは――。 いいですか、この三次元に、たとえば今、善川三朗という人間がいます。で、人間としての眼で観ると、あなたという人がそこに座っており、この部屋というのがありますが、これを多次元を観る人の眼から観れば、この同じ三次元にですよ、同時にさまざまなものが同居しているのです。 それを表せば、どうなるかです。霊界と現象界との同居です。人間が普通に住んでいると思うところが、とんでもない世界であることがあるのです。鏡のなかの部屋のようであったり、異次元への迷路であったり、そういうことがあるのです。 ですから、私は絵を通じて、三次元から四次元、五次元、そういった世界をも表そうとしているのです。 6.創造の源泉はすでに霊天上界に在る ピカソ それと、もう一つは、あなたが今絵を観ていますけれども、色の持つ意味というものは何か、ということについて、考えてみたいのです。 これはね、やはり学問と同じなんです。一つの学問、数学なら数学で、それを勉強した方には、やさしい算数というのは取るに足らないものになります。けれども、算数をやり始めたばかりの人にとっては、算数はやはり難しいでしょう。 絵も同じなのです。色彩というものを、とことん一生かかって突き詰めた人にとっては、赤という色、たとえば、黄色という色は、我が子のようにかわいいのです。もう自由自在ですし、その色の特徴、個性を、もうつかまえているんです。 黄色という色は、こういうところに使えば、こういうふうに働いてくれるけど、こういうところに使ったら、失敗してしまう――適材適所と一緒なのです。もう人格を持っているのです。黄色という色、あるいは、赤という色、青という色が、人格を持っているのです。私から見るならば、子供みたいなものです。「ここに黄色を使ってやりたいな」と思うのです。まるで、子供をかわいがっているのと一緒です。色彩というものも、最後にはそこまでいくのです。 なぜ、あなたはその「泣く女」の顔を観ていて、顔の左半分が黄色いのか、わかりかねると思います。ただ、黄色という色の個性を知りつくすと、どうしても使ってやりたくなるのです。むしろ、私が使っているのではないのです。黄色の方が使って欲しいと、私に語りかけてくるのです。 絵というものは、そうした図面を描(か)いて、人間はここに何色を塗ろう、赤を塗ろう、黄色を塗ろう、緑を塗ろうと思うのではないのです。本当に突き詰めていくと、黄色の色が動き出して、絵の具が動き出すのです。そして、ここに黄色を塗りたくなるのです。ここに青を塗りたくなるのです。赤を塗りたくなるのです。 それは、色というものは、単にあなた方が科学的に見れば、何ミクロンかの波長の光の反射かも知れないけれども、その光の反射を司(つかさど)っている色を持つ、個性ある天使がいるのです。 ですから、この絵筆を持っている時にですよ、黄色の天使が、黄色を司る天使が働きかけてくるのです。絵の具がまるで動き出すように、私には見えます。顔の色を黄色に塗りたいと言うのです。そういうふうに、働いてくるのです。 昔、ある彫刻家が言ったことがあります。これは、日本の彫刻家です。「木の中に、仏像の姿が見える」という、そういうことを言った方がいらっしゃいます。偉大な彫刻家です。運慶(うんけい)とか、快慶(かいけい)とか、さまざまな像を彫った方です。この方は、柱のなかに仁王様が見えたり、木のなかに仁王さまの顔が見えるのですね。ですから、鑿(のみ)を使っていても、その姿を、単に木のなかにあるのをですね、掬(すく)い出しているだけなんだと。木の中に眠っている仁王様を出しているだけなんだと。自分が彫り出しているのではないのだと。その木のなかに仁王様が眠っている、それを出してあげているだけだと、そういうものの観方をしました。 同じなのです。生きているのです。素材は生きているのです。黄色い色が動いていくのです。瞼(まぶた)をつぶれば、赤い色が動いていくのです。そうして、絵というのは出来ていくのです。 というのは、一つの画面に映った絵ですけれども、本当はこの絵の理念といいますか、インスピレーションといいますか、構想というものが、また、別の世界にあるということなんです。それが、この地上に出たいというふうに強く希(ねが)っているのです。出たくて出たくてしょうがないのです。それが、私たちというような、いわゆる通路ですね、パイプを通じて生まれてくるのです。ちょうど、あなた方という通路を通じて、霊界の思想が伝わっているように、私たち芸術家を通じて、霊界にある色彩なり、模様なり、構想なり、そうしたものがこの地上に生まれてくるのです。 すべてそうなんです。詩だって、そうです。詩を書く人はたくさんいます。この詩も、結局は霊界にある詩なのです。それを、詩人という通路を通じて、この世に送り出しているのです。ただ、その通路といいますか、パイプの出来具合によって、本当にいい着想の詩が、駄作に終わってしまうこともあります。その出方はいろいろです。けれどもやはり、天上界に在るのです。 小説などでも同じです。その素晴らしい小説の構想というのは、霊界において、本当にあった事件であることが多いのです。そうしたものは、作者の守護・指導霊たちを通じて、小説家の頭に閃(ひらめ)いていくのです。 小説家は、よく言います。あたかも何者かが書いているように、ペンが運ぶ、動いていくと。何も考えていなかったのに、どんどん出来ていくと。そういうことがあります。「筆が乗ってくる」ということです。これは、彼らが書いているのではないのです。霊界に在る物語が、その作者を縁として動き出しているのです。物語の方が、もう出て来ているのです。あるのです。さまざまな悲劇や喜劇、さまざまな人生模様についての物語が、もう過去何千年、何万年の人類の歴史のなかにあるのです。さまざまな物語のかたちがあるのです。それがこの地上に出たがっているのです。 ですから、そういうパイプ役としての優れた人を通すと、たとえば夏目漱石のような人を通すと、次々と物語が出てくるのです。それは、あの人が考えて創っていることではないのです。 7.絵画は感性を通して思想を伝えてきた ―― それから、いま一つお尋ねしたいのは、先生が描かれたあの「ゲルニカ」という作品がございますが、あのお作は、非常に何と言いますか、現代を風刺したものが表現されているように思います。ちょうどあの時は、ナチの最も激しい、その過酷な時代であったように聞いておりますが、あれをやはり、人道的に表現したいというような意識がございましたんでしょうか。 ピカソ 私は先ほど、四次元以降の世界をも、キャンバスの上に表すということを言いました。突き詰めていくならば、絵のなかに思想があってもいいのです。よいですか、たいていの画家というものは、とにかく、器用に写すことばかりを考えています。けれども、本当にですよ、行きつくところまで行ったなら、小説家が原稿用紙のなかに、思想を織り込もうとするのと同じように、キャンバスのなかに、思想を織り込もうとするものです。 もちろん、私の全人格的な思想も入ってきています。小説は、読めば読む人によって、わかってしまうものでしょう。しかし、絵は必ずしもその思想性がわかるとは限りません。どちらかというと、絵は感性に訴えかけることが多いからです。けれども、わかる人にはわかります。思想的な絵も、もちろんあります。 ―― それから、あの、平和を象徴された鳩がございますね。あれなどもやはり、そういう先生のお考えが、出られたものでしょうか。 ピカソ 私の絵というものは、宗教画とは違っていますけれども、かつての宗教画を描いた方々にお話を例えば、もっとはっきりしています。 なぜ彼らが宗教画を描いたか。ダ・ビンチにしてもそうですし、ミケランジェロにしてもそうです。ラファエルロにしてもそうです。彼らは宗教画を描いています。 その時は、あなた方のように、言葉でもって神の世界を説いても、わからない人たちが多かったということなのです。書物をつくってそれを広めるには、少し時代がまだ無理だったということです。そういう時代にはね、絵を観て感じとる方が早いのです。絵はいろんな方が観ることができます。観ても減らないのです、絵はね。印刷するとなると大変なことになりますが、絵は観ても減らないのです。大きな広場に掛けたら、いろんな人が観ることができます。 ですから、あなた方にしてもですよ、時代が違えば、もしかしたら絵描きさんになっていたかも知れないのです。宗教画などによって、キリストの奇跡を表したり、マリヤの優しさを表したり、神の栄光を表したり、そういうことができるわけです。やはり、絵のなかには、本当は、思想も何もかもあるのです。 8.絵は神の御心、真・善・美を描き残すもの ―― 先生は、ご生前の頃には、もちろん絵をたくさん描(えが)かれたのですが、一時(いっとき)、平和運動とか、そういう方面にも関係されたように聞きましたのですが。 ピカソ ま、人間、九十年以上生きるとね、いろんなことをやってみるものです。それは、あなただってそうでしょう。退屈してしまって、一つのことばかりやっているわけにはいかないはずです。 ただね、私は思いますに、ピカソとして絵に関しては一代を画(かく)したけれども、ただ私のね、人格、人間として到達し得たものを、必ずしもすべての人に残すことができたわけではないと思うのです。ただ絵はね、普遍的な構築物、永遠への道の一つであることは確かなのです。 生きた人間がですよ、いろんなことを語ったとしても、たいていは残らないのです。けれども、絵はね、名画と呼ばれるものであるならば、少なくとも数百年は残っていきます。そういう意味において、あなた方の神理も何千年も残すということですけれども、絵というかたちで残すということも、あり得るのです。 神にはいろんな光がありますけれども、それを一つの言葉で言って、「真・善・美」と言った方もいらっしゃいます。あなた方は「真・善・美」のうちの、どちらかというなら、「真」について、今、語ろうとしているのでありましょう。また、「美」というものも、あるということです。それもまた、永遠に残していかねばならないものです。 しかし、「真」のなかには、もちろん「真」だけではなくて、「善」もあれば「美」もあるのです。「善」のなかには、「真」も「美」もあるのです。同じように、「美」の中にもね、「真」も「善」もあるのです。 ですから、社会風刺は、「美」の中にある「善」の部分であろうし、また、宗教家たちはね、宗教家たちが描いた、宗教画家たちが描いた宗教的な絵というのは、「美」のなかにある「真」でありましょう。神の姿、神の御(み)心、神の配慮というものを描いたのです。 また、古代の、預言者たちの絵を描いた方々も多かったですけれども、彼らのうちの少なからぬ人たちは、古代の事件を霊視して描いている人たちもいるのです、霊的にね。そのインスピレーションというものを、本人は知ってか知らずか、構図を作って、その人物像を描いていますが、その時の本当のその人の姿にそっくりなのです。それは、ある意味での霊的能力です。 あるいは、過去世に自分が宗教家として出た時に、イエス様の顔を観ていた方が、またイエス様の絵を描いている場合もあるのです。過去世の経験というものを使っている場合もあるのです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/92.html
目次 1.如来界の建設 2.菩薩界・神界の建設 3.指導者の霊的能力 4.地獄界出現の原因 5.動物・植物の魂 1.如来界の建設 2.菩薩界・神界の建設 3.指導者の霊的能力 4.地獄界出現の原因 5.動物・植物の魂
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/377.html
目次 1.地獄界の様相と救済 2.無頼漢地獄 3.土中地獄 4.擂鉢地獄 5.畜生地獄 6.焦熱地獄 7.悪魔界 8.竜宮界の様相 9.悟りとは段階的使命感 1.地獄界の様相と救済(1986年4月6日の霊訓) さて今度は、「霊界における地獄霊の救済」というテーマでご報告をいたしたいと思います。難しいことを書くことを苦手とする小桜にとっての唯一の強みは、こちらの世界に来てからの体験だと思います。これだけは他のだれにもお譲りすることができない、私だけの宝物です。でもこの宝物をみなさまにお見せしたからといって、少しも値打ちが減るものではありません。ですから今回も、小桜の体験を中心に語ろうと思います。体験だけでは間延びした文章になりかねませんので、時折、小桜らしい教訓を付け加える非礼をお許しください。 ここでみなさまにお話しすることは、ここ百年ぐらいの間に、小桜が何度か指導霊に連れられて地獄の世界に行ったときの話です。地獄の世界がどんなものなのかは、地上におられるみなさまも、昔話には聞いておられましょうが、ほんとうのところはどんなものかと、ずいぶん興味をお待ちでしょう。あるいは、もう人生の大半を生きてきて、年齢的にも信仰深くなってきている人は、もしかして、自分は地獄に堕(お)ちるんじゃないかしらんとソワソワとしはじめたころかもしれません。ここで述べるのは、あくまで小桜の見聞した地獄であって、地獄も広大無辺のようですから、何千年かかってもわかってしまうことはできないようです。 ではお待ちかね、第一の地獄にご案内いたします。 2.無頼漢(ぶらいかん)地獄 ここは、地獄でもまだ浅い地獄です。空はうす墨色で、日没後か、夜明け前のような感じです。周りの景色はうすらぼんやりはしていますが、かなりはっきりしています。近くには川が流れています。ちょっと悪臭のある川で、あまりいい気侍ちはしません。それもそのはず、浅瀬には人間の死体が何体も沈んでおり、なかには片手だけ虚空に伸ばしている死体もあります。 しかし近づいてみると、この死体だと思っていたものが、実はまだ水の中でうごめいていることがわかりました。彼らはまだ生きているのです。 そうこうしているうちに、川の上流のほうからワーッという声が上がりました。見ると二十人ぐらいの人びとが、二人の男女を追いかけてこちらに来ます。どうやら橋のたもとのところで、二人とも捕まったようです。荒縄で橋のたもとに縛りつけられてしまったようです。男も女も、二人とも、すり切れて泥まみれになった着物を一枚着たきりです。男の額の傷からは血がしたたり落ちています。 と、そのとき、雷音のような声がとどろきました。追手のなかでいちばん大きな男です。身長はゆうに三メートルはあります。またその腕の太いこと、小桜の太ももを二本合わせたぐらいあります。かがり火に照らし出された男のその顔は、話に聞く赤鬼そっくりです。ないのは角(つの)ぐらいで、口からは確かにキバとおぼしきものが生えております。 この大男の号令で、川岸で五人の男どもが刀を研ぎはじめました。大きな青竜刀のような刀です。川でジャブジャブ刀を洗いながら、砥石(といし)で刀を研ぐのです。シャリン、シャリンというとてもいやな金属音が、冷え冷えとした空気を通して伝わってきます。 そのかわいそうな男女は、赤鬼の奴隷のようにしてこき使われていたのですが、とうとう二人で逃げ出してしまい、追っかけてきた彼らにつかまってしまったのです。 それから二人が青竜刀で切り刻まれて、川の中に、死体のごとく投げ込まれたシーンはご想像に任せるとしましょう。 小桜の指導霊のお爺様が言うには、かわいそうなカップルは、江戸時代のころ、村の掟にそむいて駆け落ちし、結局は情死してしまった男女だそうです。彼ら自身は実際は村人に追われて殺されたわけではありませんが、追いかけられて村人に殺されるのではないかという恐怖心でいっぱいだったのです。その恐怖心が死後の世界でも続いており、こうしてまた、人殺しの好きな連中につかまっているのです。 どうやらこの世界は、肉体的な恐怖心の支配している無頼漢地獄のようです。この地獄では、いつ自分の生命が奪われるかということがわからない恐怖の世界なのです。今様に言うなら、サドとマゾの世界とでも言いましょうか。ここで小桜が、指導霊から教えられたことは、人間を不幸にする最大の敵は恐怖心だということでした。恐怖心の大部分は、ほんとうはありもしない恐怖におびえているのです。自分は死ぬんじゃないか、迫害されるんじゃないかという恐怖心ほどバカバカしいものはありません。なぜなら人間は生き通しの生命であり、ほんとうの実相の世界は、互いに愛しあう大調和の世界だからです。 ここで殺された若い男女は、自分たちの生命が永遠に不滅だということを悟るまで、何回でも鬼たちに殺されることになります。その意味で鬼たちは、彼らの教師なのです。また一方、鬼たちは、怒りに燃えて人を殺すことの空しさを気づくまで、何回でも、同じ人を殺すことになります。この意味で、殺される男女の側も、鬼どもにとっては教師役なわけです。 この無頼漢地獄で、小桜はつくづく思いました。人間は恐怖心を取り除かないと幸福になれないのではないかと。そして恐怖心を抱いてその人が不幸になるのは、決して他人のせいではないということを。恐怖心というものも、ある意味では他人はみんな自分を害そうと思っているとする利己主義者の心なのです。 人間は互いに愛しあい、信じあってこそ神の子なのです。他人が自分をいつも害していると思っているような人は、たいてい、自分も他人を害しているものです。他人から傷つけられたと思っている人も、それ以上に他人を傷つけているかもしれません。 この地獄でも、人間は神の子で生き通しの生命だと気づくまで、彼等は二、三百年は殺しあいを続けます。その後は殺しあいにあきて、ある者は悟って天上界に、あるものはさらに残忍さを帯びて、いっそう深い地獄へと堕ちてゆきます。この無頼漢地獄では、四百年も五百年も暮らす人はまれで、たいていはこのように、二、三百年で他の境涯へと移ってゆくのです。 ですからこの世界にいる地獄霊を救うには、この二、三百年目ぐらいに来る節目をのがさないようにしなければなりません。彼らが殺戮(さつりく)にあきあきし、疑問を感じ始めたときに、光の天使たちが彼らを説得に駆けつけるのです。この世界でも神様は、自力救済というものをある程度重視しておられるようで、本人の心が神に向きはじめたときに初めて、天使たちが彼らを救うというような仕組みにしているようです。 3.土中(どちゅう)地獄(1986年4月7日の霊訓) では、前日に引き続き、第二番目の地獄に今夜はご案内いたしましょう。この地獄はまだあまり、文献その他には出ていませんが、「土中地獄」と呼ばれます。その名のとおり、土の中の真暗闇の中に閉じこめられたまま、息もたえだえで窒息しかかった人が、大勢苦しんでいます。よく見ると彼らは、モグラと同じで、一人一人が自分の穴をもっており、目の前のわずか一メートルぐらいの空間のなかで、息をしたり手で土を掘ったりしていますが、穴が狭いため、向きを変えることもできず、足も膝をついたままです。 小桜が驚いたことは、この土中地獄には、現代のサラリーマンが多いことです。ネクタイ姿で、白いワイシャツを着て、穴ぐらのなかで這いつくばい、何やらもだえ苦しんでいるのです。どうやらこの地獄は、現代の息づまるような管理社会が生み出した地獄のようです。ここにいる人の特徴は、要するに対人恐怖、いやな上役や部下からのがれたいという気持ちでいっぱいの人が多いということです。 一人っきりで、真っ暗の中でうずくまっている姿はまさに現代サラリーマンの姿そのものでした。彼ら一人一人は、お互いの姿を見ることはできないのですが、小桜の眼には、彼らが土中の穴で住んでいる姿は、どこかの都市のワン・ルーム・マンションをそのまま地下に埋め込んだかに見えます。 この地獄は、ここ数十年のうちに出来た新しい地獄なので、まだ、どうやってこの地獄にいる人びとを救い出したらよいのか、その方法論が光の天使たちの間でもさかんに議論されております。彼らのうちの大部分は、だれとも口をききたくないといった態度なので、まったく困ってしまいます。 ここにいるサラリーマンは、職場では面従腹背のイエスマン、家庭は残業や度重なる出張、単身赴任などで、まるで氷のようで、妻や子ともロもきかない状態、そういった長年の生活に疲れはて、モグラのようにだれもいない真暗のところで、じっとしていたいと望んでいるのです。読者のなかには、この描写を読まれて、自分ももしかしたら同じ地獄に堕ちるのではと思っている方もいらっしゃるでしょう。 私たちが心から望むのは、人間として生きていたときに、なぜ、心を打ち明ける友人を持つように努力しなかったのか。その身体は管理社会に束縛されているとしても、なぜ心は自由に空を飛ぶヒバリのように、精神世界を飛び回ることができなかったのかということです。 彼らは、自分の心が本来自由自在であり、光に満ちた神の子であることに気づくまで、この土中地獄から出ることはないでしょう。彼らが、独りで悩んでいることのバカバカしさに気づくまで、私たちは手の下しようがないのです。だって彼らは、一人っきりにしてほしいと心から願っているのですから。どうかこれ以上、孤独な人が増えないことを祈るばかりです。 4.擂鉢(すりばち)地獄 第三番目の地獄にご案内いたします。この地獄も恐怖満点といいますか、意地悪な言い方をすればスリル満点です。 見ると阿蘇山の火口のような、大きなすりばち状の穴があります。直径はかなり大きく、ゆうに百メートルはあります。すりばちの底は、熱湯が煮えたぎっており、ときおり硫黄(いおう)臭い煙が、中央から立ち昇ってきます。見方によっては溶岩がフツフツと湧いているようにも見えます。何千人もの人が、まるで蟻のように群れをなして、この巨大なすりばちから逃げ出そうとして崖(がけ)をよじ登っているのですが、我れ先にと思っている人ばかりで、自分の上をよじ登っている人の足首を握っては、引き摺(ず)り下ろしています。永遠にそれを繰り返していますから、いつまでたっても、一人もこの擂鉢地獄から抜け出すことができないのです。岩肌を石とともに、ゴロゴロと次々と転落してゆきます。 このあわれな人たちは、どうやら生きていたときに慈悲も愛もなく、他人を蹴(け)落としてきたエゴイストの集まりのようです。けれども蟻のように、必死になって油汗をかいてよじ登っている人、一人ひとりを見るならば、大会社の重役風の人や、学者風のインテリ顔をした人がけっこういるのに驚きます。 受験戦争や、出世競争で他人を情け容赦なく蹴落としてきた人たちが、そのツケをここで払っているのです。崖の傾斜そのものは、それほど急でもなく、みなで助け合えば次々とこのすりばちからは逃れることができるのに、その「助け合う」ということが、何十年、何百年たっても、わからない人たちが多いのです。小桜から見れば、たったそれだけのこと、どうしてわからないのかと思うのですが、彼らは自分が助かることで頭がいっぱいなので、小桜の言葉になど耳を傾けてくれません。「この忙しいときに、そんなくだらないたわごとを言わないでくれ。」といって撥(は)ねつけられてしまうのです。 他の地獄霊の方々も同じですが、結局本人の自覚が進むまで、どうしようもないのです。小桜たちも呆然(ぼうぜん)として、この亡者たちの群れを眺めるだけでした。人間として生きていたときに、どのような人生観を持つかということがいかに大切か、しみじみと思われたことでした。 5.畜生地獄 さて次は、第四番目の地獄です。これは昔からおなじみの地獄で、畜生道とか動物界といわれています。ここにいる人たちは、顔だけは人間で、身体は馬であったり、牛であったり、鳥であったり、ヘビであったり、豚であったりとさまざまです。それぞれ自分の心性に合った獣の姿をしています。なかには空を飛ぶ蝙蝠(こうもり)のようになって、洞穴に逆さにぶら下がっている人もいます。人間として生まれて、死んで、これではまったくかわいそうです。 小桜はこの地獄に来て、恐ろしいよりむしろ、気の毒で涙なしでは見ていられませんでした。ああ、人間として生きて来て、六十年か七十年生きて来て、そのとどのつまり死んでから、獣のような姿をとって生き続けるくらいなら、いっそひとおもいに、生命など消失してしまえばよいのにと思いました。 人間に永遠の生命があるというのは、立派な人生を生きている人にとっては、ほんとうにかけがえのないすばらしいことであるし、他方、地獄でのたうちまわっている人にとっては、まさしく永遠の責め苦でしかありません。人間はほんとうの意味での利己主義者にならねばならないと、小桜はつくづくと思いました。ほんとうの意味での利己主義者とは、永遠の生命を幸せに生きようとする人間です。 昔の中国の諺(ことわざ)に、「朝三暮四」というのがあったと小桜は聞いたことがあるように思います。これは昔、中国の偉い人が、栃(とち)の実を猿に与えるのに、朝に三つ日暮れに四つ与えようとしたら大いに怒ったので、朝に四つ暮れに三つ与えると言ったら、猿が大喜びをしたという故事から出た言葉だそうですが、人間も猿も同じですね。目先の、数十年の肉体人生だけが快楽だったら、あとの生命のことなんか考えていないんですから。 さて、この畜生地獄に来ている人は、人間としての尊厳を忘れて生きてきた人たちです。肉体即我という自覚のままに生き、本能と欲望の赴くままに生きてきた人たちの行く末です。猜疑心(さいぎしん)の強い人はヘビのような、欲望を抑え切れない人間は犬のような、人を騙(だま)し続けてきた人は、キツネのような姿になって畜生地獄をつくっているのです。 そしてもっとも注目すべきところは、彼らの大部分は、何百年もこの地獄にいるうちに自分をその動物そのものだと思いこんでしまう点です。 これが実は、動物霊の憑依といわれている事実の真相なのです。自分をヘビだと思い込んでいる地獄霊、自分をキツネだと思い込んでいる地獄霊が、生きている人間に憑依しては人間を苦しめているのです。ですから霊能者が現象を行なうと、ヘビのように身をくねらせたり、キツネのまねをする霊が、人間の言葉でしゃべったりするのは、ほとんど畜生地獄に堕ちた人間霊だからです。ほんとうの動物霊も確かに存在はしますが、人間の言葉をしゃべるのはよほど古い霊に限られ、霊障といっても軽度なものが多いようです。彼らはこうして憑依をすることによって、ますます人間の道を大きくはずれてゆき、明るい天上界に還ってくることが難しくなってくるのです。 6.焦熱地獄(1986年4月10日の霊訓) さて、では今夜は、第五番目の地獄、焦熱地獄にご案内いたしましょう。読んで字のごとく、この地獄ではたいへんな高熱で人びとの肉体(と思われているもの)が焼けただれています。水を求めて、ゆらゆらと陽炎の立ち昇る砂漠を、腰に布一枚を巻いただけで、やせて骨だらけになった男女が彷徨(さまよ)っています。 この地獄を特色づけているものは、「渇望(かつぼう)」という言葉です。人びとに布施することを忘れて貪欲にむさぼり、求めることばかり考えて人生を送ってきた人びとの末路なのです。物欲が強く、つねに不足と不満ばかりを心に思って生きてきた人びとです。そうした人びとの心が、熱風の吹きつける灼熱の砂漠という心的風景をつくり出しているのです。 実在界という世界は、己の心に嘘のつけない世界です。すなわち、その人の容貌も、その人を取り巻く環境も、その人の心の真実の姿を正確に反映してしまうのです。心のなかで邪悪なことを考えつつ、正直者の群れにいることはできないのです。地上の世界では、羊の群れのなかに狼が忍び込むことはよくあることですが、実在界においては、心清き人びとの集団に、心悪しき人びとは入ることができないのです。それというのも、こちらの世界では、お互いの心のなかはまるでガラス張りで、嘘いつわりがいっさい効かないからなのです。 ですから、よく宗教家たちは、反省の大切さを説きますが、反省が大切なのは、そのことによって、自分の心のくもりを発見し、取り除くことができるからなのです。あなた方、たとえどんな大悪党であっても、その悪党が心から神に詫(わ)び、深く反省している姿を見たならば、思わずかけ寄って、肩に手をかけてやりたくはないですか。反省の姿はつねに美しいのです。真実の反省の姿はどのような大天使に見られたとしても、決して恥ずかしいことはないのです。 神は、盲目の人間、神理に対して盲目である衆生に対して、一度なりとも罪を犯すなとは決して言っていないのです。罪を犯したとしても、反省という行為によってその罪は消えるように、神はそのような完全なものとして人間をお創りになったのです。それはそうです。バケツの水をこぼしたなら、雑巾でちゃんとふきなさいということなのです。これが、「反省」という宗数的行為のもつ意味なのです。 この焦熱地獄にいる人びとは、二つのことさえ実行したなら救われるのです。その一つは布施ということ、つまり、他人に対して愛の行為をするということです。いま一つは、欲望にふりまわされない、足ることを知った心でもって日々生きるということなのです。足ることを知り、みずからの使命を自覚して日々着実に生きる人には、地獄というものは無縁のものなのです。あれが欲しい、これが手に入れたいと山のような欲望にふりまわされて、自分で自分を苦しめているのが、愚かな人間の姿なのです。 ですからこの焦熱地獄というものは、決して神が罪を与えたまうためにお創りになったものではないのです。まさにその環境こそが、その世界にいる人びとにとっては、悟りへの近道となっているのです。迷っている霊たちは、なぜ自分が焦熱地獄にいるのかを考えることによって、悟ることができるようになっているのです。 7.悪魔界 今まで述べてきましたのは一般的な地獄でありますが、今日は、もう一段地獄らしい地獄をご紹介しようと思います。 ここは一般に、悪魔界と呼ばれています。通常の悪霊よりも、いっそう凶悪な霊たちが集まっているところです。 彼らの活動内容は、大別すると二つに分れます。その一つは、地獄界のなかで、手下どもをたくさんつくって、各所で縄張りというか、権力者の地位につこうとしています。 いま一つは、この地上界に逃れ出て、他の悪霊どもも使いながら、悪事を働くということです。 まず最初の場合を考えてみますと、小桜は、無頼漢地獄、土中地獄、擂鉢地獄、畜生地獄、焦熱地獄をあげましたが、そのほかにも、色情地獄だとか、無間地獄などの有名な地獄がありますが、こういった各地獄において、やはり魔王といいますか、やくざの親分のような存在がいるのです。こういった役目を業(なりわい)としているのが、悪魔界の人びとなのです。彼らは彼らなりに、自分たちの暗黒世界を支配しているつもりで、あわよくば、神の光の天使たちにも一矢(いっし)報いてやりたいと思っているのです。 彼らを特徴づけているものは何かというと、〈力〉への信仰といいますか、あくなき権力欲、物も人も欲しいままにしたいとする気持ちです。一度権力欲という美酒に酔ってしまうと、人間はなかなかその味を忘れることができないものです。人間の神性が麻痺してしまうのです。神の子の人間にとって大切なものは、謙虚さと、慎ましやかさです。悪魔界の人びとにはこれがまったくないのです。 第二の場合についても申し上げると、彼らは積極的に地上界を混乱と破壊に導こうともしています。地上の団体のなかにも、抗争ばかりを繰り返している狂気の集団には必ず彼らがかかわっています。闘争心を激しく燃やしている極端な右翼や左翼の人びとや、悪質な組合運動家たちの背後には、必ず彼らが暗躍しています。 彼らはこの地上を混乱させるのにもっとも効率のよい方法を心得ています。すなわち、彼らは狂った宗教指導者たちをつくり出して、世の中を迷わせているのです。光の天使たちが神法を説きにこの地上界に舞い降りるとき、魔が競い立つというのもこういったことなのです。 この後者の悪魔界の人たち、地上界を霊的に混乱に陥れ、何が本物で、何が偽物であるかをわからなくしようとしている彼らと、いかにして闘い、いかにして彼らをも天上界へ導くかということが、地上に降りた光の指導霊たちの仕事です。これはおそらく小桜の任を超えているものと思われますので、このことに関しては、もっと上級の神霊の方々にお聴きになればよいと思います。 以上で、「霊界における地獄の救済」というテーマはとりあえず終わりにします。 次回は、「霊にとって悟りとは何か」という主題でお話ししてゆくつもりですので、楽しみにしていてください。悟りにも段階があるということを具体的にお教えするつもりです。 8.竜宮界の様相(1986年4月13日の霊訓) この前までは、主として地獄のことについて話してまいりました。そこで地獄からの脱出もからんで、「霊にとっての悟りとは何か」ということを中心にお話ししてみたいと思います。 あなた方人間界の人びとは、ともすれば、毎日が苦しすぎることの連続か、楽しすぎることの連続かで、じっくり落ち着いて神様のことを、また、自分がなぜ生きているのかをよく考えようとしません。 人間の本当の生命の九〇パーセントが、こちらの霊界で過ごされるのであって、地上界の生活は人間にとって、夢のような日々にしかすぎないのです。 琵琶湖の風景がいくら美しく、いくら太陽の光がキラキラと波間に輝いていても、いくら白砂青松が目に沁みても、私たちの世界にある竜宮界の美しさにはかないません。 竜宮界にある湖の美しさは、たとえようもありません。金色の波が打ち寄せる浜辺は、まさしく奇跡に近い美しさです。浜辺の砂も一個一個がさまざまな色に輝く宝石なのです。 その浜辺に、これもまた美しくも気高い天人たちが、腰をかけて話をしたり、手に手をとって散歩したりしています。 湖には魚もおりますが、彼らの一匹一匹が人間の言葉を解します。彼らは口をあけて、言葉を発するわけではありませんが、いわゆるテレパシーによって、人間にも語りかけます。彼らは時折、波打ちぎわまで泳ぎ寄って、天人たちに水の中のすばらしさを賛美するのです。 天人たちも天人たちで、もし湖の中を探検したくば、それこそ浦島太郎そのもので、亀なり、大きな魚なりにまたがって、水の中を楽しむこともできるのです。もちろん霊ですから、溺れて死ぬこともありません。 あの浦島太郎伝説というのも、この竜宮界での話です。今から、二千年近くも前のこと、日本に生まれたある霊能者が、幽体離脱のかたちでこの竜宮界に来て、さまざまなことを経験したのです。彼は人間界に舞い戻って、そのときの様子をこと細かに人びとに話したのですが、人びとには、それが霊界の話であると理解することができず、さりとて、あまりにも話の内容が細々(こまごま)として、辻棲(つじつま)が合っているので、一概に否定するわけにもいかず、結局あのような人間界と竜宮界がいっしょになったような話となってしまったのです。 ここで、竜宮界について簡単に説明しておきましょう。 日本の神々の世界にも、陰の世界と陽の世界があります。言葉を換えれば、静の世界と動の世界といってもよいと思います。 人間は、死んで地獄に堕ちないものは、いわゆる幽界とか精霊界と呼ばれる四次元世界に入ってゆきます。そこでさらに心の修行を積んだ者が、一段高い五次元霊界という、善良な人びとの世界に入ってゆきます。人間霊として満足できる人びとはここまでしか来ませんが、宗教的な魂というか、神様の方向へ向けて、努力・精進を続ける魂は、六次元神界に入ってゆきます。 この六次元世界に、陰と陽、静と動の世界があります。陽あるいは動の世界の住人は、いわば、六次元の表側に住み、各界層の霊人たちの向上と、地上界の発展のために尽くしています。陰あるいは静の世界は、どちらかというと、自分たちの住んでいる完結した世界に満足した神霊が集まってきています。 そこで、「静」を代表するのが、いわゆる「山」と「海」ですので、ここでは山岳に関係ある方々や、川や海などの水に関係する霊たちが多いのが特徴といえます。 山岳に関係する霊たちが、「仙人界」や「天狗界」と呼ばれている世界です。一方、水に関係している霊たちが、「竜宮界」をつくっています。 しかし、これら静的世界のなかにも元気者たちがいて、「仙人界」や「竜宮界」の両方で仕事をしながら、地上界へ影響を与えている者がおります。これが「竜神」といわれる神霊です。「竜神」と呼ばれる神霊は、知識的に神様の世界を説いたりするのは苦手ですが、その霊的なパワーがひじょうに強いので、地上および霊界の修行者たちを守ったり、地上界の天候を司(つかさど)ったり、さまざまな奇跡を起こしたりしています。 なかにはずいぶんいたずら者もいて、自分の霊力を試すために、地上に風水害を起こしてみたり、季節はずれのドカ雪を降らせて力自慢して、生きている人びとに迷惑をかけている者もおりますが、たいていの場合は彼らは善良で、上級神霊たちが計画した地球の歴史のなかで必要な、気候の変化などを司っています。 9.悟りとは段階的使命感 ここまでの話を読まれて、小桜も、この静的世界に入っている霊の一人だとお思いになったかもしれません。なるほど確かに、竜宮界には知り合いも多いし、私の指導をしてくださる竜神のおじいさんもいらっしゃるので、こちらの世界に心魅かれることも多いのですが、小桜としては、現世の人びとを救う、いわば動的な世界にも興味があり、どっちつかずといったところです。 一つには、以前に浅野和三郎さんらのお力で、「小桜姫物語」を出していただいたご縁で、浅野さんらとも、こちらの世界で親交がありまして、浅野さんらがしきりに人助けの大切さ、霊的知識の普及の大切さを小桜に教えてくださるので、小桜も非力ながら何とか頑張らねばと思うことも多いのです。また、浅野さんの奥様、この方は多慶子夫人といって生前縁あって小桜が守護霊をさせていただいておりましたが、この方もいま、小桜の近くにおられて、「小桜姫、いっしょに頑張りましょうね。」と言われるので、小桜も浅知恵ながら、どうにかしなくてはと思っているのです。 でも小桜の心の一方には、竜宮界の甘美な美しさに心魅かれる面があって、ああ、この世界に入って、神様の仲間入りさえすれば、小桜には永遠の平和と、幸福が約束されるのだと思ったりするのです。あなた方、地上界の方々から見れば滑稽(こっけい)なことかもしれませんが、私たちの世界にもこういった、いわば進路選択の迷いみたいなものは多いのです。でも、こちらの世界に来て永くなると、だんだんに、地上界の人びとに霊界通信をしようとか、地上界を改良しようかという人びとは少なくなって、よっぽどのおせっかいか、よほど使命感の強い人びとに限られております。 小桜姫も、人扶(だす)けをいくらかやらさせていただいた功績で、光の天使の末席を穢(けが)させていただいておりますが、それにしても、こちらの霊の世界に来て、地上界の人びとに通信を送るような仕事は、友だちの霊たちに聴いても、百人が九十九人止(や)めておいたほうがよいといいます。 というのも、彼らにとっては、地上界はもう遠い昔のことでもあるし、地上界には地上界の考えなり、生き方があるのだから、それをあえて私たちがちょっかいを出さなくてもよいのではないか。また、ちょっかいを出しても報われることは皆無に近く、その間の時間、私たちの魂の進歩には少しも貢献しないというのが彼らの意見なのです。 確かに地上界には私たちの意見に耳を傾ける者は少なく、通信を送っても、送られた者自身が困惑したり、あるいは、世間から気狂い扱いされ、私たちにとってもたいへん悲しい結果になることが多いのです。 直接に通信を送れ、しかも、私たちのことをあれこれ詮索されず、私たちの意見に率直に耳を傾けてくださる方がいるということは、とても、私たちにとっては幸運だったと思います。 それでも、小桜の通信の内容が不十分なために、今後ご迷惑をおかけするのではないかと思うと、小桜は、そちらの世界の言葉を使わせていただくとするなら、「夜も眠れない」ような状況です。 まして日蓮様、空海様のような高僧を初めとし、天照大神様、天之御中主之神様などがすでにご降臨しておられ、いまさら、小桜ごときがという自嘲的な面もあって小桜の小さな胸はつぶれそうです。 天之御中主之神様とお話できた地上人などいまだかっていなかったのですから、そういった方々に、小桜姫が通信を送るなど、これは幸福なのやら不幸なのやらわかりません。おそらく後世に恥を残すことになるやもしれませんので、小桜は不幸に思います。 けれども浅野さん方が、私どもとご神縁のあった方であるのだから、私の通信も出してくださるから頑張れとおっしゃるので、小桜も、ありったけの力をふり絞っております。どうかご迷惑をかけないような内容をお伝えしなくては。 ああ、ついついおしゃべりが長くなってしまいました。小桜が話そうとしていたことは、『霊にとっての悟りとは何か』ということでしたね。自分以上の悟りを開いておられる方に、こういった話をするのはとてもつらいことですが、あと少し、話したいと思います。 さて、簡単に続きを述べて今夜は終わりにしたいと思います。 私はさきほど来、「悟り」という言葉を使っていますが、この言葉は別の言葉でいえば、「段階的使命感」ということもできると思います。つまり「悟り」というものは、結局霊としての人間が、本来の自分、本来あるべき姿の自分に気づき、それを立脚点として自分のなすべきことを決意することだからです。 つまり、如来様は如来様としてのご自分の神性を開顕され、その神性に基づいた使命の遂行を決意されることが「悟り」でありましょうし、あるいは地獄霊でありましたなら、悪を捨て善を選ぼうと決意することが「悟り」でもあるし、「霊界人」であるなら、神のご計画の一端を担おうと決意したところに、「神界」入りするための悟りがあるといえましょう。このように「悟り」も通りいっぺんのものではなく、その人その人の進歩に応じた悟りがあるわけです。 ですから、小桜姫には小桜姫の悟りがあります。つまり、地上におられる方々に、神霊界の様相を伝えようと決意したときに、小桜は小桜なりに一つの悟りを得たわけです。 これからも悟りについては、神霊世界の説明の折々に語るつもりですが、とりあえず今夜は、「悟りとは個性に応じた段階的使命感である」と述べるにとどめます。 では次回の予告をしておきます。次回は、「念の力」についてさまざまなことをお話しします。ある意味ではこの「念」というのが、霊界最大の秘密かもしれません。ではまた。