約 21,954 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/397.html
目次 1.俳句とは、大和ことばの音楽的旋律 2.五七五の定型の中に宇宙を封じ込めてみるから味がある 3.俳句の奥行きは正しい余韻 4.「季」は神仏の流転のお姿 5.俳句の条件は、時、所、人の姿の明確さにあり 6.自分に嘘がつけぬが詩の心 7.芸術の極致は宗教的なる悟り (1988年1月3日の霊示) 1.俳句とは、大和ことばの音楽的旋律 芭蕉 松尾芭蕉と申します。 ―― あ、芭蕉先生ですか。 芭蕉 はい。 ―― お初にお目にかかりますが、今回私共は、日本も外国をも含みました、特に芸術関係に携(たずさ)わっておられた方々のご意見を収録いたしまして書籍として出版し、現在の芸術方面に関心のある方々に、これからの芸術はどうあるべきか、ということについてのご霊示を賜りたいと、このような気持でおります。 私はこのように、まあ過去数十年間、俳句という道には身を入れて勉強してきた者でありますので、もとより芭蕉先生のご高名は十分承知致しております。一般の世の人びとも、これまた芭蕉先生がいかに優れた詩人であられたかということは存じ上げております。ほとんどの人たちは、芭蕉という人の生涯を通して、先生の残された原稿なりあるいは作品なりを通して、先生をご敬慕申し上げているということでございます。当時からはすでに四百年近くの年月が経っておりますが、現代の文学の世界におきまして、特に俳諧の世界、俳句の世界において、どのような方向を持って我々が進んでいけばいいかということについて、ご高見を拝せるならばと思います。何かその辺につきまして、お説を承れれば幸いでございますが、お話願えましょうか。 芭蕉 まあ、俳句というものは、一(ひと)時代が過ぎたかも知れないとは思いますが、詩の心というものは、いつの時代も過ぎていくことはありません。俳句という詩の形式が果たして普遍的なるものであるか否か、このことに関しては私は多くを知りません。ただ、そうした短い詩の形のなかにも、ひとつの芸術性があることは事実であります。また、そうした新しい形の芸術を創るために、私が地上に降りたことも事実であります。 結局ね、俳句というものは、感動を伝えるための芸術形式なわけです。写真もなく、何もない時に、その一瞬を、芸術的環境、感動、これを永遠の時のなかに封じ込めようとしたもの――これを俳句というのです。俳句は、五、七、五の短い文のなかに世界観を詠(よ)み込み、人生観を詠み込み、芸術観を詠み込み、また、神仏の世界を詠み込まんとするものであります。 さすれば、俳句という世界のなかに、すべてがある。すべてが俳句の中にある。まあこれは、流れを換えれば「禅」というものとも同じかも知れない。禅に禅問答あり。自らの思いを短い言葉で表さねばならぬ。俳句もまたそうかも知れん。大自然からの問いかけに、自らがいかに答え得るかということを、追究したものかも知れない。俳句という形、この形は、果たして永遠の形かどうかは定かではないが、古くより、五、七、五という韻律(いんりつ)のなかには、人の心を揺り動かす何かがあるのです。 それは、ひとつの音楽の始まりと言ってもよいかも知れない。音楽というものも、旋律(せんりつ)であり、言葉の調子であり、調べでもあろう。五、七、五というのは、言葉という、日本語という言葉の旋律でもあろうか。こうしたふうに、言霊(ことだま)によって、ひとつの旋律が出来ているのです。大和言葉においては、五、七、五というのが一番完成された形でもあるわけです。ですから、この定型の中に、さまざまなる人生を織り込んでゆくことが、宇宙を一枚の写真に写すが如き形となってゆくのです。 2.五七五の定型の中に宇宙を封じ込めてみるから味がある ―― まあ、現代俳句におきましては、なんと申しますか、花鳥諷詠(かちょうふうえい)と申しますか、写実を中心とした描き方と、あるいは心の在り方というものを、それを主眼とした詠(うた)い方と、こういうふうに両方のものがあるようでありますけれども、先生のお作を拝するかぎりでは、その両者が混然とひとつになったような形で表現されているというように拝しているわけでございます。最近の句風というものは、ややもすると、このどちらかに偏しているような感じがしてまいりましたが、表現のための表現という形式を重んじるために、なんと申しますか、表現上にかなり無理な言葉文字を使って、あとは詠(よ)む者が勝手に想像せよ、というふうな形で、名詞止めを数多く使う作品が出てきているようであります。 これについてはまあ、私は、石楠(しゃくなげ)系の臼田亜浪(うすだあろう)先生の後をひく松村巨湫(きょしゅう)先生のお教えを受けた者でありまして、巨湫先生はこのことを非常に嫌われて、必ず大和(やまと)言葉の述べ言葉で、きちっと措辞(そじ)でおさめるようにというお教えでありまして、私もそのことに多く学んでまいったのですけれども、まあ巨湫先生は、韻律を重んじ型に捕らわれず定型を超えた詩の世界を表現しようとして、晩年にはご努力されまして、「格はいく」という世界を打ち出されたのですが、先生のご寿命が長くなく、その完成を見ることもなくして、弟子の後を継ぐこともなく世を去られたような方でありますけれども、この精神を私は非常に尊いものだと、このように思いまして、心の底では巨湫先生をお慕いする気持が今だに残っておるわけなのです。 詩というものは、必ずしも型の中にあるのではない。人間が型の中にあるのではなく、型は人間が定める。その意味において人間が主であるというお説でございましたのですけれども、そういうお説を承る限り、大本(おおもと)である芭蕉先生の精神に立ち還っておられるような気もいたしました。 この辺の形、定型と自由、自由律と言いますか、明治時代の自由律俳句ではなく、人間が自然と人生のなかでこの世ならざる美しきもの、真なるものに邂逅(かいこう)したときに湧き出してくる感激を純粋な詩精神として受けとめ、文格あるやまとことばにのぼらせ、時に、短律、中律、長律と変調し詩にする。これを単行詩、または「はいく」、と称(よ)んで私たちは学んで来たのですけれども、この「定型」という考え方と、必ずしも「定型に拘(こだ)わらない」という考え方、この辺について、どのような認識を持って当たればよいのか。その辺のところを何かお教え願えたらと思うのですが、いかがでしょうか。 芭蕉 確かに、定型に捕らわれるなかれという考えにも一理はあるとは思うのですが、ただね、それをするならば、普通の文、まあ地の文と変わらなくなってくるという点があると思うのです。そして、そこに努力の痕跡(こんせき)がなくなって来るように私は思うのです。確かに有りのままかも知れない。思いついたままかも知れない。しかし、思いついたことを有りのままに述べただけでは、それでは努力も工夫もないのではないでしょうか。 猿だとて果物を洗って食するというではないですか。まして人間が、自分の思いをひとつの芸術作品にせんとするならば、それなりの器に入れてしかるべきです。器に入れて、盛って、飾って、食べて、美しい。 あなた方でもそうでしょう。刺身を食べておいしいのは、それが陶器の器に乗り、お皿に乗って、醤油とわさびをつけて食べるからおいしい。また、卓椀の上で食べるからおいしいのであって、この刺身というものを魚からそのまま取り出して、突ついて食べるなら、そうおいしくは思えぬかも知れない。まあそうしたものです。 牛肉であってもそうであろう。今、ステーキとかいって牛の肉を食べておるのだろう。これにしても、すぐ目の横で牛を引き裂いて、その肉を持って来て焼いて食べるというならば、これはこれ以上残酷なことはあるまい。ステーキというものでも百五十グラムとか、二百グラム、二百五十グラムというように、切って食べているのではないかな。それは、その方が口あたりがよいからではないのかな。肉は牛によって違うから、好き勝手に切ってよいという考えもあるだろう。 しかし、料理にはそれなりの味付けというものがある。どの程度の肉に、どの程度の香辛料、調味料を加えて、どの程度の火かげんで焼き上げるかということがあるであろう。刺身も一切れ一切れが箸にかかるようであって、初めて、口にもおいしいのではないかな。寿司も一個一個が手に取って食べられる程度であるから、おいしいのではないかな。両手で持たねばならぬような寿司なら、おいしく感じないであろう。ま、そうしたものだ。 ものごとはそのように、味わいの仕方に、非常に口あたりのよい味わいの仕方がある。したがって、心に思ったことを思いのままに断定し述ぶるというやり方は、その人にとっては気持がよいかも知れぬが、他の人にとっては気持がよいとは言えぬかも知れん。まあそうしたところがあるのではないかな。 料理が料理として認められるためには、それだけの客観性、他の人に受け入れられるような形が必要ではないのかな。私はそちらの方が大事ではないかと思う。料理の独創性ということも大事であろう。独創性ということも大事だけれども、一メートルもあるステーキを食べる人はいないであろう。 ―― まあしかし、先ほどのお話もございましたけれども、まず俳句は、短い言葉の中にすべてを打ち込んだものであると、禅における禅語と等しいものであるというようなお話でございましたが、そういう意味におきましては、やはりこの五七五定型というものは、外(はず)せない形でしょうか。 芭蕉 私は、やはり外すべきものではないと考える。それを外すなら、それはまた新たな形式であろうと思う。これは俳句と似て非なるもの、別な詩の形体であろうと思う。それはそれでもよいであろう。そういうものを創っていくのは、それはそれでよい。しかし俳句は俳句。その五七五の中に、宇宙を封じ込めるからこそ値打ちがある。五七五ならずとも宇宙を表すことは簡単。これを詩と言ってもよい。 3.俳句の奥行きは正しい余韻 芭蕉 また、名詞止めのことも話があるようであるけれども、俳句のね、奥行きというものは、結局、語られた言葉の背後を詠(よ)ませるというところにある。余韻(よいん)にある。作者がすべてを語ってしまっては、余韻はないのです。語られた言葉を手がかりとして、その奥を味わわせるというのが俳句の姿です。これは、日本料理は目で楽しむということと、よく似ているところがあるかも知れない。その背景を詠ませる。そういうことです。 名詞止めの背景は何かと言うと、名詞の後に来るもの、この述語を読む人に言わせるということです。思わせるということ。AはBなりと言いきってしまった時に、それ以外の解釈はなくなるということです。この点、一考を要するのではないか。 ―― 私が教わった先生のお言葉によると、「名詞止めもいいが、それは無責任であってはいけない」ということを言われたのですが、ただ安易に、名詞で止めて、あとは勝手にお前たちが考えよというようなことではいけない。やはり大和言葉は、述べ言葉で結拝辞(けつじょじ)すべきだというお説でありましたのですけれども、この辺の使い方に問題があるということなのでしょうか。 芭蕉 たとえば日本の芸術の典型として、「竜安寺(りょうあんじ)の石庭」というのがあるであろう。あの石庭は見方によっては、山にも見え、見方によっては海にも見える。また、獅子が潜んでいるようにも見えたり、島が点在しているようにも見える。いろんな形に見える。観る人の心、心によってその心に映る姿が違う。また、一日のうちでも、その時刻によって姿を変える。 芸術というものは、このように、無限の味わいの可能性があって初めてよいのであって、竜安寺の石庭は、こういう意図でつくられたのであるという説明があって、これ以外の感じ方をしてはならぬというのであるならば、もはやこれは芸術ではなく、これは押し着せである。作者が雄弁すぎるのである。饒舌(じょうぜつ)すぎるのである。語らない部分に値打ちがある。饒舌は芸術の敵であるということを知れ。 ―― なるほど――。 4.「季」は神仏の流転のお姿 ―― この「季」ということにつきましては、私もこれは、いずれの場合にしても、人間の世情にまったく一致したものであって、「季」の移りによって、移り変わりによって、人の心のその芸術的な考えなり、色彩なり輝きを表現するものであるというふうに考えられるのですが、特に先生、この「季」の問題について、何かお教え願いたいと思いますが。 芭蕉 季節の「季」ですか。 ―― はい、そうです。 芭蕉 これが、やはり日本特有のものではないかと思います。古来より、日本というものには、非常に芸術的なる雰囲気が漂っていたと思いますが、日本をそのように芸術的なる存在とならしめているものは、この「季」、季節感、四季というものであろうと思います。 これほど見事に、神仏の芸術が地上に現れている例というのは、真(まこと)に珍しい。「季」はすべて、これ神の流転する姿であろう。芸術の究極には、やはり神があり、仏がある。神や仏の変化する姿を映し出さないで、一体いかなる芸術があろうか。「季」は、すなわち、これ神の流転する姿、仏の現れの姿、この移り変わりであろう。この一年の中の春夏秋冬のなかに、すべての人生があり、すべての歴史があり、神仏の心の変転の姿がある。 ―― この「季」の捉(とら)え方というものは、従来、人間は「季」の移り変わりというものを、人間の目で観て感じていたというのが実情であっただろうと思いますけれども、今、先生のお説から深く考えられることは、神のお姿の流転である、神の流転のお姿であるというような、そういう観点から、人間は「季」というものを感じ取るという形で、受け止める方が正しい受け止め方である、ということでよろしいのでしょうか。 芭蕉 それでよい。 ―― ただ、とかく、その季語がなければいけないということからして、何か草花とか、あるいは気候とか、そういうものだけを句のなかに入れておけば、それで俳句としては一応かたちがとれている、というような安易な考え方ではやはりいけない。「これでなければならない」というものが、入らねばならないという説を、唱えている方々もおられましたのですが――。 5.俳句の条件は、時、所、人の姿の明確さにあり 芭蕉 まあ俳句というのはね、短い文ですが、この中に、やはり人と時と場所、この、人、時、場所、この三つがやはり必要です。その句を詠んでいる人の姿、その季節、時刻、また場所、この三つがなければ嘘になります。それは嘘になります。単なる空想や絵空事であってはいけない。その詩を表現せんとするなら、誰が言わんとしているのか。人は誰なのか。また、時はいつか。時の大いなるものは季節。小なるものは一日のうちの時刻。時はいつか。場所はどこか。そして何が言いたいのか。こういうことになる。人と時と場所があって、主張が初めて生きてくる。主張が空回りせずに生きていく。この三つがなければ、それは単なる作りものになる。 ―― この場所のことにつきましてですが、遠く我々が聞き及んだところによれば、その固有名詞というものを入れるということは、それは作者の考えがぞんざいな思考から出ているのである。なるほど本人にとっては、その場所、あるいはところというものは、そこから出て来たものであろうけれども、これを世に出す場合、世の人がそのような固有名詞を持った場所というものの想定がつかないのではないか。これは不親切な語りかけであり、それは客観性に乏しいから、これは用いないという意向が強いような意見がありますのですけれども、この辺については、いかがでしょうか。 芭蕉 私の句に、 閑(しず)けさや 岩にしみ入る 蝉(せみ)の声 まあこうした句があったと思いますが、これは奥州(おうしゅう)で詠んだ句であったし、奥州のあるお寺の庭園で詠んだ句であったと思いますが、ただ、そうしたことわり書きがあって、この句の中身の解釈ができる人もあれば、そうした場所の固有名詞がなくとも、岩と蝉の声、これからさまざまな地域、自分の過去観た風景のなかで、懐かしい気持をそそられることもあるでしょう。奥州が四国であっても、やはりこの句は生きます。生きるところがある。まあこうしたところです。 俳句の難しいところは、そうしたことわり書きがないと、シチュエーション(状況)が必ずしもすべてはわからぬというところにあるかと思います。 6.自分に嘘がつけぬが詩の心 芭蕉 蕪村の句に、 五月雨(さみだれ)や 大河(たいが)を前に 家二軒 まあこうした句があったかに記憶しておりますが、確かに写実として、そういうこともあるであろうとは思うが、私は、こうした五月雨が降って川の水量が増して、その前に雨のなかに家が二軒立っているという姿は、確かに風景にはなっているとは思うが、二軒の家そのものは、これは生き物ではない。感激がない。感動がない。そのように思うわけです。私が句を詠(よ)めば、二軒の家にかかわる人の生命、生活、念(おも)い、あるいは五月雨が流るるなかの生命の在り方ということになりましょうか。 まあこの辺が難しいところですが、蕪村などは、やはり平面的なる、絵画的なる風景をよく詠んだようですが、私はそうではない。やはり、立体的にものごとを考えていたと思うし、立体的な考え方のなかに、人間としての懐(ふところ)の深さがあるように思います。 菜の花や 月は東に 日は西に まあこうした句もあるであろう。これも蕪村であったと思う。菜の花畑が広がっていて、月が東で、日が西にあるという風景であろう。それは確かに絵になっているが、しかし絵になっていて、そうしてどうなのだ。これがどうなのだ。それがどうなのだというところに嘘がある。嘘があるというのは、絵にせんがための句であるのではないかという部分だと思う。絵にせんがために、菜の花があって、月は東に、日は西にと配置をせねばならん。しかし、私は真実、自分の心を動かしたものを詠み込んで、いきたい。このように思うし、句のなかに、やはり自分の魂の影というものが、どこかになければやはり句は空(むな)しい。 旅に病(や)んで 夢は枯野を かけめぐる 蕪村の菜の花の句に比ぶるならば、これはずいぶん寂しい風景であろうし、荒涼とした風景でもあろう。しかし、木枯しの野に出て駆け巡っている夢というものは、すなわちこれ、我が魂魄(こんばく)のものの姿であろう。ここに嘘はない。私は俳句とは、自分の魂にとって嘘がない句、というものでなければならんと思う。 「閑(しずけ)さや――」の句にしても、「岩にしみ入る蝉の声」これは嘘ではない。現実に私がそのように感じていた。岩にしみ入るが如き輝の声というものは、わかるであろうか、その灼熱の太陽の陽(ひ)。その蝉が鳴き止まぬ生命力、この生命力が、まさしく沈黙の岩のなかにしみ透っていくようにみえてゆく。沈黙している岩というものが、この夏の日の暑さを象徴している。岩もまた、水を欲しているのではないのか。水が無いがために、そうした清涼感がある蝉の声がしみ透っているのではないのか。岩もそのように感じているのではないのか。蝉しぐれと言うが、時雨(しぐれ)の雨が岩にしみ透っていっているようなのではないのか。こうしたものを、本当に私が感じたのです。 さみだれを 集めてはやし 最上川(もがみがわ) 「さみだれを 集めてはやし 最上川」これも蕪村の「大河を前に家二軒」と対比してもよいけれども、嘘がない。そのままである。ただ私は、川――川というものが生命力を吸い込んで生きている、その生命の息吹、流れというものをつくづくと感じた。川というものは、悠久の昔から流れている。これに五月雨(さみだれ)が加わって、そして、その川の生き物としての生命力が、増していくかのようだ。まるで栄養分を扱い取ってゆく植物のように、川は五月雨を吸収して、そして、流れてゆく。生きているというものは、これは生物だけではないのではないのか。万物が生きているのではないのか。最上川が生きているのではないのか。私たちが呼吸をし、私たちが食べ物を摂取するように、最上川は水を摂取して流れてゆくのではないのか。五月雨が降る時こそ、最も生命力に富んでいるのではないのか。川のなかに、我(われ)は生命力を見た。生きてゆく力を見た。枯渇せずに、膨らんでいくものの力を見た。 7.芸術の極致は宗教的なる悟り ―― 先生のお作でありますけれども、これはまた、代表作と言われるような大作でございますが、 荒海(あらうみ)や 佐渡に横たふ 天の川 という大変スケールの大きな、感動的なお作を拝しまして、感激を覚えたわけでございますが、この辺のご心境もあわせて、お話願えればと思うのですけれども。 芭蕉 これは、宗教的なる悟りでもあろうかと思うのです。今、あなた方も瞑想をやったり、いろんなことをやっていると思いますが、結局、人間はね、自然を見つめるなかに、どれだけこの五尺の体から抜け出すことができたかということが、その人の大きさにもなると思うのです。大自然の心を詠(よ)み、佐渡の心を詠む。また、天の川の心を詠む。その奥に神仏の心がある。 過去幾百年にわたって、流人(るにん)を受け入れてきた、この佐渡という島。そこに宗教的なる魂のふるさとを感じ、また、わが魂魄(こんばく)のとどまるところなく漂泊していく想いを感じた。漂泊せる魂は、佐渡の地にしばしとどまって、やがて佐渡の地から離れ、無限の彼方(かなた)へと立ち昇ってゆくのであろう。佐渡に漂った魂が、無限の彼方へ、無限の空へと立ち昇ってゆき、やがてあの天の川のなかに消えてゆくであろう。悠久の天の川にあっては、この日本という国の小さな島にあった人間の生業(なりわい)、人間の栄枯盛衰、成功と失敗、繁栄と悲惨、こうした人間の人生、人生の歴史、そうした悲しみがまた、大いなる星の世界のなかにおいて、結晶せる涙の如く、キラキラと輝いてゆく。佐渡が島が象徴しているものは、人間の営みの悲しさです。天の川が象徴しているものは、悠久の世界、無限の世界です。無限のなかにあって、有限なるものの切なさ、哀れさ、これを私は言いたかった。 佐渡の海は荒れています。荒れている海は、これは人生そのものです。有限と無限。悠久と朽ちていくものの対比――。このなかに神の世界がある。仏の心がある。こうした宗教的なる真理を、私は句のなかに詠み込んだのです。 「佐渡に横たふ」というのは、まさしく擬人的表現でもあろうかと思いますが、夜、黒々と見える島の姿が、それが人間の死を思わせるかのようです。流されて、病に伏せって横だわっている人間も思わせます。佐渡に横だわって大空を見上げれば、遙かな昔から輝く星々が光っているのです。こうした永遠を感じる時に、人間は人生のはかなさを知るのです。ここに芸術の発端があると言ってもよいでしょう。芸術の究極があると言ってもよいでしょう。 芸術の究極は結局のところ、有限なる世界に生きているものが、そのなかにおいて、無限なるものを発見するということです。限りある生命(いのち)のなかに、悠久の生命(せいめい)を発見するということです。それが、芸術の本質に他ならないのです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/290.html
目次 1.太陽系の位置づけ 2.ミクロとマクロ 3.銀河系の考察 4.太陽系霊系団の特色 5.太陽系と大宇宙の構造 (1988年1月14日の霊示) 1.太陽系の位置づけ 高橋信次です。みなさんこんにちはー。元気ですかー。一月も半ばになりました、ねえ。ぽかぽかとあったかい日が続いています。その後お元気でしょうか。お変わりございませんでしょうかね。私の七冊目の書物もだいたい終わりが近づいてきまして、今日ほぼ収録終了という予定になってきました。 非常に幸福です。私はね、新年を迎えまして、みなさんに新年のあいさつ遅れてますけども、新年明けましておめでとうと言いますとともにですね、大変幸福に思います。今日(こんにち)まで、この七冊目の書物までこぎ着けられましたことは、ひとえに読者のみなさま方のひとかたならぬ、ご尽力、ご厚情の賜物でございまして、みなさまあっての高橋信次でございます、ね。そういうように思ってますので、今後とも引き続きご愛読を願いたい。できれば五十冊、百冊、あるいは〇〇さんの寿命が長ければ、百二十冊、百五十冊と頑張りたいと思いますので、どうかみなさんからもしっかりプッシュしていただきたい。どんどん本屋に注文していただきたい。えーこうぃうように思います。 ま、それを前置きに致しまして、本章の話をしていきたいと思います。まず、「太陽系の位置づけ」という題を選んでみたわけですね。みなさんはたとえば地球というところに住んでおって、日本というところに住んでおると、やっぱりどうしても自分の国、ここを中心に物事を考えざるを得んのですねえ。外国っていう言葉があるけれども、海の向こうっていう感じですね。完全にね、海の向こうっていう感じがします。ですからその外国からみればね、この日本というのもまた、島国なんだけど、日本から見たら外国っていうのは異国ですね。本当の遠い国というかたちになると思います。 では大宇宙の中で、太陽系というのは一体どういうような感じなんだろうかと。どういう感じだろうか。たとえば世界の地球儀ですね、地球儀から見て、太陽系というのは、全宇宙の進化速度から見たら、たとえばどの程度の国になるんだろうか。 国で言うとね、現在の二十世紀後半の国でいくと、どの程度、大きさも勢力も、力もどの程度かなーっていう素朴な疑問はあるだろう。ま、こういうように思いますね。これで私が、みなさんにわかるように言うとするとね、太陽系の位置づけは、ちょうどそうだねー、現代で言うと、まあ香港(ほんこん)ぐらいの感じかねー。うん、地球儀で言うとねえ。あるいは世界地図で言うと香港程度かな。この程度の位置づけじゃないかなーと思うんですね。 なぜ香港程度かーって言うと、まず非常に伝統的なものがある。伝統的なものはあるけれども、そういう伝統的なものの中で新しい波がありますね。香港ていうのは、中国的な伝統を持ちながらその中にイギリスだな、イギリスの影響なんかが入ってきて、外国の文物(ぶんぶつ)が入って非常に栄えておるね。そういう中国であって中国じゃない。そういうとこだね。中国であってイギリスのような、外国のようなね、そういう非常に繁栄しておるけども、伝統的なものを持っておる。こういう感じがあると思うんです。ま、こういう香港のような感じが、ちょうど太陽系の位置づけにあたるかなーっていうのが私の感じですね。 ですから太陽系というのは、まあ由緒正しい感じはあるんですね。ちょっとしたそういう民族的に伝統的な、ちょっと深さと長さがある感じはします。けれどもやっておること自体は非常に新しいし、繁栄している感じはあるんですね。キラキラしている。だから地球儀で見れば、ちょうど香港のような存在、これが太陽系にあたるんじゃないかなあ、と思いますね。 それ以外にシベリアにあたるような地方、インドネシアにあたるような地方、アメリ力あるいはヨーロッパ、まあこういうところにあたるのもあるんですよ。アメリカみたいな強大な力を持ってるように見える、そういう星系団もあります。 ただ、太陽系というのは、まあ地球的に言えば香港という感じですね。ただ最先端の国とまでは言えない。まだそこまでは言えない。しかし後進国とまでは言えない、ね。伝統的な要素を持ちながら、そこそこに進出してキラキラしておるところですね。こういう感じですね。 じゃあ香港と言って、なんでシンガポールと言わないのか。シンガポールに旅行したい人もいるぞって、ね。まあこういう考えもあると思いますが、うーん、シンガポールも確かに繁栄しておるけども、もうちょっと何と言いますかねえ、うーん、少し違う、という感じですね。やっぱりこう、伝統の重みみたいなのはちょっと中国本土の方にね、近い方にあるんじゃないか。まあそういう感じですね。何千年もの歴史を持つ国でありながら、それにちょっと違ったものが入って非常に発達しておるっていう感じね、この感じなんですね。 だから太陽系という非常に由緒正しい伝統的な霊系団でありながら、そこにベーエルダ星かなんか知らんがエル・ランテイというのが飛んで来て、大星団率いて来て非常に新たな文化創って発展したっていう、急速に発展したっていう感じがあるんですね。そういう意味で香港的かなーっていう感じです。 まあシンガポールなんかはずっと伝統があって繁栄し、急に発展したというとまた、ちょっと違うとこあるね。ちょっと違う感じがする。しかし、まあ完全にヨーロッパの国々みたいに、フランスだとかイギリスだとかいうような、本当に伝統的なオーソドックスな国というとこまではいかない。急速に良くなったという感じはあります、ね。そういう感じです。 じゃあ、日本みたいかっていったら、まあ日本みたいでもないね。日本というような国、孤立した国からみれば、もうちょっと太陽系っていうのは、どっしりした重みと、広がりはありますね。その程度の位置づけですね。ま、そういうふうに感じます。 2.ミクロとマクロ さて今、地球の中の香港にあたるようなのが大宇宙の中の太陽系の位置づけだと、まあこういう話をしましたが、えー物事の観点でね、経済でもよく言うように、ミクロとマクロという両方の観点があるんですね。ミクロっていうのは、顕微鏡で見るような非常に小さな世界ですね。こういうのはミクロの世界。マクロっていうのは巨大的な、巨視的なね、大きな目で見る世界観ですね。こういう目があります。 たとえば、映画なんかでも細菌部隊とかね、細菌の映画とか、あるいは人間をものすごく小さくしていってね、そして小人のように、ばい菌のようにしていって、体中に入れてしまって、そして体中を探検するというような、こんなSFかなんかもあったと思いますけども、えー、こういう感じですねえ。こういうこともあり得る。そしたらそういうばい菌のような大きさに人間がなると、人間の体というのは巨大ですねー。これは迷路そのものです。 ばい菌、バクテリア、なんでもいい、細菌でもいいですよ、体の中の細菌でもいいけども、それがこの人間の体の中に入ったらこれ大宇宙そのものですね。果ては絶対わかりません。血管の中にいたとしても、あるいは内臓の中に何か住んでおったとしても、そういう小さな微生物住んでいたとしても、この人間の肉体という宇宙空間は、これは全体像が絶対にわかりませんね。こういう感じがあります。これはミクロですね。 で、マクロから見るとどうなるかっていうと、まあちょっと大きな目で見れば、何て言いますかねえ、銀河系っていうのは神の心臓みたいに見えることがありますねえ。心臓部分のように見える。そして銀河系以外の星団も、心臓以外の内臓の諸器官ですね、腸だとか、胃だとかね、手足だとか、こういうふうに見えるかもしれませんね。こういうこともあるでしょう。 そうしてみると、何て言いますかね、もっと大きな、もっともっと大きな目で見ると、地球っていうのは一点になってきますね。点になってきます。点になってきて、もう細胞のひとコマ、ひとつぶ、こういうようになることもありますね。 こういうように尺度を変えれば全然変わってしまいますが、一体どの尺度が一番基準なのかって言われるとこれがわからないですね、何が標準なのか。人間は一メートルの縮尺で計ったりしますが、これは自分の身長なんかとまあ合ったような物差しですね。ところが地球が一点になってしまうような物差しで見たら、わかんないですね、何がなんだか。こういうとこがあります。だから私たちが地上に住んでおるというのは、もうばい菌以下の小さな存在かもしれない。そういう見方もあるということですね。 ですから大宇宙そのものが、三次元の大宇宙そのものが、さらに大きな宇宙の一部分になっていないという保証はないんですね。そういうことはあるということです。この三次元宇宙空間、広大無辺に見える三次元宇宙空間というのは、実はさらに大きな宇宙空間の中のほんとの細胞かなんかかもしれない。小さな水溜(た)まりかもしれない。もうほんと、とてつもないですね、そうすると。そしたら宇宙の構造って一体何でしょうか。全体像って一体何でしょうか。ほんとそれがわかんないですね。こういう広大無辺な世界観、これがあるわけです。 ですから私たちはね、ともすればもう自分中心、自分の大きさがすべて、ま、こういうふうに見るけども、そうではない、そういう大きさがあるということね、これを知らなきゃいけない。えーそういう意味では、霊的発達の可能性も無限ですね。「高橋信次だー」なんて言って地上で威張ってるかもしれないけど、もっと他の星行ったらどうかわかんない。もっと大きな宇宙に出たら、ねえ、私なんか単なる一人間霊にしかすぎないかもしれない。もっともっと偉大な霊はいくらでもおるかもわかんない。このへんがわかんないですね。 ま、そうしたもんなんですよ。だから常にこのミクロね、それほど捨てたもんじゃないっていう見方と、マクロね、いやほんと、謙虚であらざるを得ないという視点ね、この両方が私は必要だと思いますね。この両方の視点を失った時に人間はね、やっぱり大きな間違いをおかします。 このマクロの視点を特に忘れると、自己保存、自我我欲が出てきますね、自分が自分がという思いが出てくる。ミクロの思いがあまり強いと、また無関心になってきますね。世の中について無関心になる。世の中の動きについて無関心になってきます。まったく自分だけの世界になってくる、ね。ま、こういうふうで、両方大事です。 で、本当の基準ていうのはわからないです。どのへんが本当のミドルって言いますかね、中心的な物の考え方か、大きさか、これはわからないです。 3.銀河系の考察 さて、銀河系について話をしておきたいと思います。さあ銀河系って一体何だろうか。いま、神の心臓にして、ということ言いましたね。私もGLAってとこで教えておって、『心行(しんぎょう)』という経文作ったんですけども、「銀河は神の心臓」というね、そうぃうことを言ったことがあったように思いますね。そうですね、心臓なんですね。大宇宙、宇宙即我というような探検していくと、銀河系っていうのはほんとの神の心臓というのがわかります。宇宙即我で、肉体が宇宙大に拡がった時に、銀河系っていうのは神の心臓部分のように感じるんですね。そういうところがあります。 じゃあ、太陽系は香港だと言ったけども、銀河系トータルで見た時に、全宇宙の中での銀河系の位置づけ、役割、存在感、これはどの程度かと言うことですね。だが銀河系は神の心臓って言うぐらいですから、そう捨てたもんじゃない、ねえ。心臓の方がそらいいですよね、他の内臓より。 みなさん方、自分が内臓になるとして何選びましょうかねえ。どこ選びますかねえ。何がいいと思いますか。「肺がいい」なんて言う人もいるかもしれませんねえ。「肺がいい」「小腸がいい」とか「大腸がいい」なんてね、「大腸大好き」なんて言う人もいるかもしれないし、あるいはねえ、もうちょっと下がってきてねえ、「膀胱(ぼうこう)大好き」なんて言う人もいるかもしれない。何が好きか知りませんが、みなさん好き好きがあるでしょうけどまあ、何て言うか、一番格調が高いというか、プライド高いのは心臓でしょうね。肉体諸器官の中に意識があるとして話し合ったら、議長するのは心臓でしょう。 「私がおるから、要するに全身血が巡(めぐ)って人間は生きとるんだ。だから心臓が一番発言権がある。心臓が内臓諸器官の中で多分エル・ランテイの役割をしておるのではないのか」まあ、こういう感じはするでしょうねえ。「そしたらエル・ランティが心臓とすると、あとは何だ」と言うね。イエス様が「いや、おれこそ心臓」なんて言うかもわかんないね。「愛の血液を送り出してるのに私が心臓だー」なんて言うかもしれないね。 「エル・ランティが心臓で、ゴータマ・ブッダが動脈だ」なんて言ったら怒(おこ)るかもしれないねえ。「そんなはずはない!」なんて、「そんなバカなことあるか」なんて言うかもしれないね。誰がどこをとるかね。「モーゼなんていうのはこれは腎臓じゃないか」なんてね。そういうふうに思うかもしれない。あるいは毒消しするとこで、なんか肝臓みたいなことをする人もおるかもしれない。 まあこういうふうにいろいろいるかもしれませんが、内臓の中でプライド高いのはおそらく心臓でありましょう。だからみなさんの中で内臓のどれ選ぶかって言ったら、プライド高い、重要感の欲しい人は心臓を言うでしょう、おそらくね。そういうことであります。 だから銀河そのものの全宇宙的な考察をしてみると、心臓と言うけれども、まあそれに近いかもしれない。太陽系そのものはそう偉いわけではないけれども、全銀河系のレベルそのものはね、かなり高いです。かなり高い方に当たると思いますね。だから太陽系は香港かもしれないけども、全銀河系そのものはね、「EC共同体」ぐらいの感じですね。「ヨーロッパ共同体」、この程度の高さを持っている、こういうふうに思いますね。 その意味では、宇宙系団の中では銀河系っていうのは、エリート集団ではあります。エリート集団で、みなさん方が知らないような何十億年、何百億年の歴史の中でね、非常にキラキラと光った実績を持っておる、そういう魂の故郷です。非常にレベルの高い魂の故郷である。まあこのように言えるのではないか。これが銀河系のあり方ですね。 で、銀河系創る時に、神さまどう思ったかと、どういうふうに思って創ったのかと、星をいっぱい散りばめてるけども、星創る時に何か考えがあったのかどうかということですが、ま、それはある程度あったということですね。星というものを細胞体いっぱい創ったけども、神さん自身はやっぱり、このへんが中心だなっていう考えはあったと言っていいと思うんですね。だから銀河は銀河で、このへんが心臓だなっていう感じですね。これはあったと思います。そういう思いはあってやっぱりこういう星座、あるいは星系団、こういうものもできる。 銀河の中には非常に優れた人たちがいます。非常にね、優れた人たちがいて、地球系霊団の格は、銀河の中の最高指導霊団から見ればね、まあ、まだ小学校の二、三年程度かもしれない。このレベルかもしれない。もっともっとはるかに賢い人たち、指導力に優れた人たち、ま、こういう人たちは現におるわけであります。現にそういう人たちがいて、そして活躍をしておるわけであります。だからそうした偉大な魂たちがおるということね、これを知らなきゃいけないよ。 そらいくらね、小学生が頭が良くったってね、大学の教授にはかなわないねえ。話して、議論で論破したなんてことは、まあ、あり得ません。ね、そういうことです。だから、みなさん方より教十倍、数百倍に知能の優れた生物存在もいないとは限らんということね。こういうものもおる、ということですね、銀河系の中には。だからそういうとこが、あなた方のまた目標とすべきところだっていうことですね。そんなふうに考えていいんではないでしょうか。 だからこうしたこと考えるとね、銀河系団の中でのその指導霊団の頭の良し悪しなんて考えてると、みなさんね、ほんと地上におってね、「私は大学卒だー」ねえ、「彼女は高卒だー」「彼は高卒だー」なんて、こんな意識なんてね、もうばかばかしくてしようがないね。こんなのね、蟻(あり)の頭の良さを競(きそ)ってるようなもんですよ、まあ言ってみりゃあ、ねえ。 あなた方見ててね、地上歩いてる蟻がいる。蟻の中でもやっぱり能力の差はおそらくあるはずだぜ。わかんないけど、多分あるんだよ。こっちの蟻の方がこっちの蟻より賢いっていうのは多分あるんだな、おそらくは。それはなんでかって言ったら、砂糖の粒ひろってまっすぐねぐらに帰って来れる蟻と、ちょっとぶつかって試行錯誤して帰って来る蟻がおるんだよ。それはちょっと頭が鈍いんだよな。だけど賢い蟻はだいたい行った時にね、出かける時に穴から出て行く時に、だいたい道を憶えておってね、周りの景色見ておって、それで砂糖粒つかんだらね、そこの道を憶えとってまっすぐ帰って来るんだな、すっと。ところがちょっととろい蟻はね、穴蔵(あなぐら)から出て来たら、あっちフラフラ、こっちフラフラして、探すことに夢中で自分の道忘れとるんだな。それでたまたま見つかったら「やった」とばかりに、また、あっちヘフラフラ、こっちヘフラフラしながら穴に帰って来るんだね。ま、こういうところがあるね。こういうふうに蟻でも知能の差は多分あるはずだ、ね。だけど、人間の知能の差なんていうのはおそらくこのぐらいに見えるよ。 だから東大一番で卒業したっていう頭とね、定時制の夜間の小学校や中学校、小学校の定時制ないかもわかんないけども、まあ中学校でもなんでもいいけども卒業したっていうのと、比べてどうかっていったらね、そんなのわかんないですね。蟻の知能の開き程度かもしれないねえ、そんなもんですよ。だからそんなんでね、比べてあっちが頭いい、こっちが頭悪いなんてね、言うのは私はおかしいなあと思いますね。 大きな大宇宙の知能から見りゃあね、まあ全知全能の高橋信次から見りゃあみんな、カビがわいてるようなもんですからね。ま、こういう言い方すると削除されちゃうかな。そのへんはちょっと遠慮しますが、まあ、全知全能の神から見りゃあね、人間の頭の差なんて関係ないんだ。あと背が高いとか低いとかさあ、バストが八十八あるとか、七十八しかないとかさあ、もうこんなのはどうでもいいことさ。そういうことをね、人間はそういう目も持たねばいけない、ね。こういうふうに感じるわけであります。 4.太陽系霊系団の特色 そういうことで、銀河系にはいろんな霊系団があることはだいたいみなさん推定がつくと思いますが、わが太陽系の霊系団に何か特色があるのか、ないのか、ということですね。これも言っとかなきゃいけない。あなた方は霊言集読んで、高級霊の中にもいろんな魂の煌(きら)めきがある。個性の方向性があるということは知っておるはずです。そして、霊系団の個性の差があるけど、その起源をたどってみると、もともと来た星が違うこともありうるということ知ってるね。来た星が違うことがあり得る、こういうこともあり得ると、まあ言ってますね。 ただ来た星が違うけども、じゃあお釈迦様の教えとね、たとえば孔子様の教えと、根本的に違うかっていったら違ってないな。そうだろ。よく似てるとこあるね。お釈迦様も孔子様も人間完成の道説きました。お釈迦様は中道が大事だと言いました。孔子様は中庸(ちゅうよう)が大事だと言いました。ま、基本的には一緒ですな。両方とも人間完成で、人間がだんだん高くなっていくことが大事である。まあ、こういうことを言っています、ね。一緒ですね。 いろんな徳目を孔子様はあげました。仁・義・徳・礼・信かなんかね。そういうのあげまして、それを目指せと言ったけども、お釈迦様は八正道というようなことをあげましたね。ま、こんなのまあ一緒だな。人間が向上していくための教えだね。 お釈迦様はもともと地球の一番古い魂であって、その前は金星にも関係しておった、こういうこと言われてますが、孔子様はまた全然違うなんとか星座、オリオンか何か忘れたけども、なんとかから来たんですよ、ねえ、確か、白鳥座だ。白鳥座から来たんだ孔子様はね。そういうとこから来たんですよ。けど、星団違うけど教えがそう違うかっていったらそう違わないね。まあ個性がちょっと違う。まあこういうことがあります。けれども地球で彼らもやっているうちに、だいぶ似通ったとこが出て来たんだな。こういうことだ。 ま、そういうふうな違いはあるけども、太陽系団ではちょっと特色がある。太陽系の中で、霊が肉体持って魂修行してる具体的なとこはもちろん地球だし、あと金星にも多少魂はおりますけどもね。あるいは宇宙人などの基地なんかもありますが、そういうことがあるのは、まあ度外視して、具体的に肉体持って魂修行してるというと地球が中心になりますけども、この地球系霊団と言いますかね、この特徴、霊系団の特色は何かっていうと、やはりね、私が見ておって感じるのは、やはり愛っていうものが、中心になってると思いますね。 愛―他人を愛するっていう気持ね、これが中心のような気がします。愛というのがね、一番強い。他の星に比べてみるとそれほど強くないとこもあるんだな。愛じゃなくて秩序がほんとに中心のところもあるし、力が中心のとこもあるんですよ。力っていうのは別に悪魔だけじゃないんですよ。力の強さが問題になってるような星もあるんです。ほんとにね。ま、いろいろあるんです。それと知能だけが中心になっとるとこもあります。そういうところもあります。 まあだから愛がね、やっぱり強いように思いますね。その意味で地球系霊団のことをアガシャー霊団て言うことありますね。アガシャー系って言うこと多いです。アガシャー系っていうのは、イエス様の魂系団のことですけども、やっぱりイエス様が愛を説いてるからね。ま、その影響が非常に強いということですね。そういうふうに考えます。 みなさん方はお互いに愛し合わなきゃいけない、優しくし合わなきゃいけないって言うけど、こんなことは決して当然のことではないんですよね。当然愛し合わなきゃいかんなんてことの理由はどこにもない、そんなの。別に敵であっていいんだ。みんな生まれてから、生まれ立った以上ね、もう敵ですよ。そういう考えあるんだよ。そら男から見りゃあね、そんな他の男ちゅうのはいつ女を奪われるかわがらん敵ですよ、こんなのね。そうでしょう。女から見りゃあね、他の女なんちゅうのはいつ私の好きな彼、取るかもわかんない敵ですよ、ねえ。そういうようにも思えるね。みんな敵っていう見方もある。 ところが愛という教えがあるとどうかというと、「いや、そうではないんだ。人間にはそれぞれあてはまる先がある、ね。自分はああいう男性がいいと思うし、ああいう男性はこういう女性がいいと思うってお互い取り合いしとったら血みどろになってくる。だからそこそこの社会的規則のもとに調和ある組み合わせで満足して、お互いに理想的環境を創っていこう」ま、こうぃうのを取り決めていきますねえ。これ根源が愛ですね。 この愛がなければね、血みどろです。槍(やり)でもって殺すとこまでいきますね。それで本能のまま行きゃおかしくないと思いますよ。自分はこの人にふさわしいと思ったら、その人を取る女性が出て来たら、その女性にガソリンかけて火をつけたりしても別におかしくないかもしれない。それは非常に正直で、勇気ある行為だなんてほめられるかもわかんない、ある星ではほめられるかもしれないけども、まあ、そういうことが許されないのは、愛という行為がこの地球では評価されてるから。ま、こういうことがあるわけなんですね。 ですからアガシャー系と言われるだけの理由がある。まあそういうふうに私は言えると思います。つまり太陽系霊系団の特色は、愛が強いということです。他の星系団から比べるとね、愛が強い。そう言えますね。 5.太陽系と大宇宙の構造 まあ、あと太陽系と大宇宙の構造ということを話して、本章を閉じたいと思います。えー、さっき銀河系が心臓だっていうような話しましたね。で、太陽系っていうのは、香港ぐらいに当たるようなとこだっていう話もしました。 大宇宙の中でどうなっとるかということですが、大宇宙の構造、特に大宇宙をどこまで定義するかですが、まあ学んだ方はね、四次元宇宙、五次元宇宙、六次元宇宙、七次元、八次元、九次元、十次元と、まあいっぱい宇宙観があります。で、私たちが肉眼で見、あるいは望遠鏡で見る宇宙観というのは、これは三次元宇宙観ですね。三次元の宇宙っていうのはどういう感じかっていうと、結局霊的世界でスッポリ覆われとるんですね。そういう感じなんですね。 まあ言ってみれば、水槽の中で熱帯魚を飼うために、泡ブクブク出してますね。この泡ですね、泡ひとつ、これが三次元宇宙みたいなもんなんですね。だからこの内側にみんな入っとるんですね、泡の中、空気の中に閉じ込められている。ま、こういう感じで、私たちの世界から見るとちょうど巨大な泡つぶか、あるいは気体、あるいはまりかなんかがね、ポカッとね、入っているような、そんな感じが致します。そうしたもんなんですね。この中の太陽系であり、他の宇宙であるということですね。こんなもんです。 だから地上に視点を置いてみれば、もう無限に広がる大宇宙かもしれないけども、私たちの目から見れば泡つぶのような、こんなちっちゃなね、水槽の中の泡ですね。こういうプクプクとしたもの、こんなものにしか過ぎないんですね。そういうふうに言えるかと思いますね。 だからその泡つぶと言うか、空気つぶって言いますかね、空気の玉って言いますか、それが大宇宙の中で、視覚的に言ってどの程度の大きさなのか、という考えもあると思いますね。どの程度か比喩を言ってみれば、たとえば私が住んでおる九次元宇宙という空間がありますね。これを何でもいいが、後楽園球場でもいいなあ、最近エアードームがついた後楽園球揚がありますけど、後楽園球場という五万人ぐらい入る球場を九次元宇宙とすると、三次元宇宙空間の広さはどの程度だとみなさん思われるでしょうか。三次元宇宙空間の広さは、この後楽園球場の中に置いたバスケットボールの玉程度です。この程度の宇宙観の違いがあるんですね。私たちが見るとほんと、後楽園球場の中にバスケットボール一個放り込んだぐらいの感じです。 この中でね、白鳥座だの、射手座(いてざ)だの、ねえ、牡牛座(おうしざ)だの、牝牛座(めうしざ)だの、牝牛座ってなかったかな、ない? あーそう、じゃあ何でもいいが、蟹座(かにざ)だの、天秤座(てんびんざ)だの、双子座、魚座、ねえ。魚座の女となんとかは合うとか合わないとかあるわな。こういうのをやるんですね。乙女座、ね。乙女の祈り、乙女座、私も乙女座なんか好きなんですが、乙女座、ま、こういうのありますね。 こういうふうにいろいろありますが、こういうのがなんとバスケットボールの中に入っちゃっとるんですね。こんなもんなんですよ。だからこの世の人はこの世がすべてだと思って、あの世へ行くとなんだこの世程度と思うけども、もっとずっと高いあの世へ行くと、この世のすべての宇宙空間というのは、そんなちっちゃく見えちゃうんだよ。 そうするとどうかって言うと、後楽園球場の中にバスケットボールぐらいの広さがあればね、どうかっていうと、そんなのチョコチョコ歩いていってね、ちょっかい出そうとしたらいくらでもできるわな、そんなの。うん、ほんと簡単だ。バスケットボールの表から裏まで移動するのは大したことないな、そんなの。「なんだ、こっからここへ、近いじゃないか」ってなもんだな。こんなもんなんですよ。 だからみなさんね、自分の思ってる構造がすべて、宇宙がすべてなんて思っちゃいけないよ。玉ねぎの中なんだよ、単なるね。そんなもんなんですよ。何層にもなってて、その中の一部分にしか過ぎない。まあこれが大宇宙の構造と太陽系の感じですね。そういうふうに思っておっていいです。 まあ大宇宙そのもの、三次元大宇宙も他次元の大宇宙から見れば、そんなちっちゃな存在であるぞーっとね。まあこういうことで、そしてもっと大きく言えばね、私らの九次元世界から見りゃあ、そのバスケットボールのような三次元宇宙っていうのは、一個だけじゃなくて複数あるんです、ほんとはね。えー複数あるんですよ、ね。男子の一番大事なものだって複数あるでしょ。二個あるでしょ。同じように大宇宙の中でもね、大宇宙、三次元宇宙もそれぞれそういう真丸(まんまる)いのがね、バスケットボールみたいなのが一個だけじゃないんだよ。ほんとは何個もあるんだよ。あっちもこっちもあってね。ポコポコあるんだよ。それを高いとこで私らが見てるのさ。そういう感じがあるってことを知って下さい。ま、これが大宇宙の構造ということです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/217.html
目次 1.人生とは砂中の宝塔を掘り起こす作業 2.無為自然の道 3.知者は知に医者は技に溺れ、本質の外を空回りしている 4.神的な自己の掘り起こし方について 5.天国、地獄は神性の自己が現世での我を裁く 6.純白のスーツの譬(たと)え 7.歓楽(かんらく)・煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい) 8.権力も心の自由は縛れない 9.イエスは愛、釈迦は慈悲、私は素朴な清い心を説く 10.立ち止まり心の大自然の湖を見渡せ 11.心の大自然をとり戻す運動これも正法の一つ 12.私の職位は若草色の黄緑 (一九八六年一月三十一日の霊示) 1.人生とは砂中の宝塔を掘り起こす作業 ―― 老子の招霊を行う ―― 老子 ――ニイハォ、。バンチン、オウフウテイ、ユウハァイツウ、シンワイツイワイ……(中国語で自己紹介が行われる) ―― 老子先生ですか、このような場所にお招きし恐縮でございますが、ここに中国のかつての諸聖賢方からご意見を伺って、これを霊言集としてとりまとめまして、現代および後代の人びとにお伝えしたいと存じております。またこのことによって私ども自身の勉強の資といたしたいと思いますが、何かご高説を承ることができましょうか。 老子 ハオ、ハオランツウ、アイ、ウイシアツウ……(中国語が続く) ―― お話中で恐縮ですが、残念ながら今の私は中国語を解しませんのですが、あなた様は中国にお生まれになったのが、今からおよそ二千数百年前のお方で……。 老子 ワイ、―― ―― その後この現世にはお生まれにはなっておられないのでしょうか。できましたならあなた様がお説きになられた思想の一端なりとお話願って現代及び後代人の生きる上での指針とさせて頂きたいと思いますがお願いできましょうか。 老子 ――(中国語で延々と述べる。)―― (訳) 私は今ここに、このようにお招き頂きましたけれども、私と、あなた方とは決して無縁の存在ではなくて、永年の転生輪廻の過程で共に「法」を説いて来た仲間であります。また日本というような、このような素晴しい風光明媚で、また人の知識も高まっている時代に、あなた方が生まれてこられたということ、これは非常に神の恵みの下に生まれ代わって来られたのであり、神に感謝すべきだと思います。またこのような形で、あなた方が生きておられる間に、私が通信を送れるということも、これもまた神の恵みであります。このような神の恵みに対し、私たち、共に感謝いたしましょう。 ―― あなた様は、当時の孔子様のご思想とは若干違ったご思想を唱えられたということですが――何か自然の道ということを説かれたということですか……。 老子 そうです。諸聖賢がこのあなた方の前に降りられて、様々な話をされたと思うのですが、彼らの話の大部分を考えてみると、やはり努力の教えであります。人間は何か努力をしてそして自分を高めていかねばならない。悪しき自分から善き自分へと、脱皮しなければいけない。そういった教えがやはり七割~八割の人の教えであろうと思います。 私の説いていた「無為自然(むいしぜん)の道」というのは、それとも違うのです。人間は努力はいらないのです。努力しよう、しようと思う焦りの心が、人間をして牢獄に閉じ込めてしまうのです。人間はもとより、原始より悟った神の子なのです。悟った仏の子であります。そうである人間ならば、人間は己が心を天真爛漫(てんしんらんまん)に、そして自由自在に解放することによって、はじめて本来の自己にもどれるのです。立ち戻れることができるのです。これは努力によって獲得することではないのです。今、私はあなたに古代中国語、過去世において学んだ中国語を語って貰おうとしましましたがそれが少し難行しました。なぜかといいますと、あなたの頭の中には、教えとか、あるいは特殊な能力というものは、努力して獲得しなければならないものだという考えが根強くこびりついているのです。そうではないのです。努力して獲得するものではなくて、本来あるものなのです。要は砂の中に埋もれたこの宝塔(ほうとう)、宝の塔ですね、これを掘り出す作業なのです。本来宝の塔のような存在、知恵でギッシリ詰まったそういった宝塔を、人間は自分自身の中に埋めているのです。これが永い間波風や、砂や、様々なものに当たって埋まってしまっているのです。要はこれを掘り起こすということ、自然のままの相(すがた)にとり戻すということなのです。でありますから、新たなものを決して積み上げていくのではなくて、本来あるのを塵(ちり)や垢(あか)を除いて顕(あら)わに出すということです。ですから努力努力といって東奔西走(とうほんせいそう)している人たちに対して私は言いたいのです。 人間は本来神の子であり、自分自身の中に総てが入っているのである。あなた方の意識の中には今菩薩界であるとか、如来界であるとか、宇宙界であるとか、そういった次元の意識、高い低いの意識があるかも知れないけれども、そうした差別知でもって物事を考えるのは非常に危険なことです。 喩えて言うならば宝塔なのです。すべての人間がそういった宝塔を持っているのです。それが埋もれているだけなんですね。ですから皆さん、それを積み重ねることばかりを考えるのですが、そうではなくて、たとえて言えば砂浜にそのような宝の塔が埋もれて出ているのです。この砂をですね、一階、二階、三階と取り除けていく作業をやっているわけです。そしてすべて出せばこれが如来界になり宇宙界になるだけのことなのです。よろしいですか。埋もれている部分が多いというだけなのです。ともすれば人間はこの地上に、たとえば宝の塔を築き上げるような意識を持ってしまいます。一階建、二階建、三階建、五重の塔とか、七重の塔とかそういったものを造ろうと思ってしまうのです。そうではなくて、本来なるものはみんな埋まっているのです。筍(たけのこ)のようにそれを据り起こすだけの作業が必要なのです。 その作業というのは努力ではなくして、喩えていうならば、ブルブルっと身振いをするようなものなのです。よいですか、今あなたは、たとえば中国語で話そうとして努力してそうはなりませんでした。それは何か特殊な技法があって、それを獲得しなければ出来ないと思いました。そういう考えがあるのです。私はあなたに言いました。要するに心を解放しなさいと、風穴を開けなさいと、そういったものなのです。ただそれだけのことがほとんどの人間はできないのです。心を空(から)、にすることができないのです。そういった砂を取り除くということができないのです。上へ積み上げることばかりを考えているから、自分が埋れた存在であるということに気がつかないのです。箒(ほうき)や叩(はたき)で払い除けるのと同じことなんです。本来備わっているのです。ただそれを出すだけのことなのです。これは、比喩として理解されるかも知れないけれども、本当の意味において、私の言っていることを十分理解している方は、この地上には居ないのです。あなた方仏法者、或いはキリスト教者、他の宗教者にとってもやはり修行の階梯、階段を登り詰めてはじめてキリストだとか、釈迦だとかそういったものに到達するのだという考えを持っているのです。 2.無為自然の道 老子 そうではないのです。すべての人間がそういった心性を身につけているのです。それを掘り起こすこと、その掘り起こすということもむずかしいことではないのです。埋もれた砂を払い除けるというだけのことです。こういったことが非常に大切なことなのです。これを私は古代中国において、たとえば今言われているように「無為自然の道」というようなことで説いたのです。これを人は誤解して、何もしないでいいのだと、ブラブラしろと、悠々自適というふうにとる方も居ります。それは方法論としてある程度当たっているのです。 人間は、たとえばあなた方は毎日、毎日働いておられます。あくせくと働いております。そしてたまには坐禅など組んで魂を洗おうとしているわけですよね。こういうふうにあくせくする心があるからこそ迷いが出てくるんです。そういう意味においてはあなた方、たとえば坐禅というようなものはあまり深い意味を持っていないと思っているし、どちらかというと高い評価はしていないようですけれども、心を空っぽにするというそういった修行においてはまた意味のあるものなのです。埋もれたものを発掘する。あくせくした心を払い除ける。そういう意味ですね。ですからただ、ふうふうと、のんべんだらりとするわけではありません。意識的に心を解放するということ、こういった教えも必要なのではないでしょうか。 ―― ただ一つその場合に、心を空洞(うつろ)というか、空っぽにするということは、一つはこの霊世界の法則として、悪しき霊が同時につけ入ってくるという危険性もあるのではないでしょうか。 老子 ですから空っぽにするというから、そうしたふうな誤解も受けるのですけれども、心の中のぐしゃ、ぐしゃと詰め込まれたものをですね、これを払い出すということなのです。煤(すす)や埃(ほこり)です。焦りです。いらいらです。不安です。焦燥(しょうそう)です。こういったもの、あなたも相当持って居られるはずです。こういったものを振り払うということですね。それは魔がつけ入る隙は全然ありません。逆です。むしろ魔はこうした芥(ごみ)のようなもの砂のようなものについてくるのが魔なのです。こういったものを篩(ふる)い除けるということですね。そうすれば人間は、その身そのままで、神仏の道を極めたことになるという、これが私の教えであります。 ―― そこでいま一つ考えられることは、神仏の教えというものは、既に人間神の子ということで、本来神の知恵、神の愛、神の光というものを、自身に体して生まれてきたものであると、いうことについては、それはそうでありますが、それを輝かすためには磨きをかけなければならないという教えがあるわけで、その磨きとは何かということになると、あなたのお教えによれば、払い落とすという作業を指しておられるように思いますけれども、一方の考えによりますならば、それが修行であり、努力であり、研究であり、その経験をすることによって、己れの本来の神性、光を輝かすことができるのだという考え方があるわけですが、現代人が理性の上に立って考えられることは、経験により自身の知徳を磨いていくというのが合理的な方法であるように、一般に受けとられているようでありますが……。 老子 これについて申し上げます。現代人というのは、とかく物事を順に詰め過ぎているのです。本当に必要な知識というものは、そんなに要るものではないのです。この頭中心の生活こそが、人びとをして苦しめ迷わしているのではないでしょうか。私の生活は頭から心に、心から肚(はら)に、こういった思考そのものを上から下へと下ろしていくということなのです。ですから頭で今まであれこれ考えていたことを、まず胸の問題として下ろしてくる。そして肚(はら)に下ろしてくれる。そして大きな大きな自分の中に何もかも入れてしまって、ポンポンとすべてを、包容してしまう。そして消化して出してしまう。こういった思想なのです。 3.知者は知に医者は技に溺れ、本質の外を空回りしている 老子 ですから現代人は、とかくあなたも仰った様に詰め込み過ぎる。知り過ぎる。知り過ぎて馬鹿になっていく。今の医者とか、科学者とかいうものは、言葉としては悪いかも知れませんけれども、いわば利巧馬鹿、お利巧さんの馬鹿者というものです。医者というものは自分の医学に自惚(うぬぼ)れて酔ってしまって、たとえば死というものをいろいろ研究しています。死というものは心臓が止まった時に死であるとか、脳波が止まった時に死であるとか、こういった死のことをいろいろ考えて解ったような気になっているわけです。死というのは、肉体から魂が離脱することであります。それが死であります。当然のことです。 それを肉体の器管の動きばかり研究して、分かった分からないとやっているわけです。私たちから見れば、非常におかしくて腹を抱えて笑っているような状況です。それで自分が賢いと思っているのです。本当に自分が賢いと思っているのです。これがおかしくてたまらないのです。私たちからみるならば、こういった利巧馬鹿というのが、一杯居るのです。つまり本当の死を知らなくてなぜ死んだか、何処で死んだか、生きているのかを決めるのか、そんなことに一所懸命あくせくしているんです。こういったのが医者の先端にいる方々であります。また遺伝子工学とかいって、いろんな遺伝子の組換えだとか、或いは精子と卵子の問題、こういった人工でいろんな生き物を作る試み、こういったことをやって生命の神秘が解けたなどといって喜んでいる人達がいるんです。そういったことを何十回何百回やったところで生命の秘密は解けないのです。魂の問題は解けないのです。魂の問題は魂の問題なのであります。それを知らずしていくら生物学的に分析したところで限界です。お釈迦様の掌の中で、゛孫悟空゛が宇宙の果てまで行ったと思ったのと同じことになってしまうのです。 こういった利巧馬鹿が非常に多いのです。それはそれでいいのです。知識として、技術としてそういったことを解明することは悪いことではありません。ただこれで得意気に、したり顔をするのが間違っているといっているのです。彼らは非常に可哀相であります。可哀相な方々であります。彼らは死んでこちらの世界に来ます。そして自分らの脳があることを見て、脳があるということは私は未だ生きているということであろう。心臓が動いているような気がするから未だ生きているのだろう。手を当ててみると心臓の音が聴こえるわけです。死んでこちらへ未てもですね、ということは心臓が動いているということは、医学的に見て俺は生きているわけだから生きているのである。――なんて言って親族とか、或いは子孫たちにですね、出て来ては災いを起こしている。こういった馬鹿な霊たちが沢山居るのです。これは知識で自分の思考を狂わしてしまっているわけです。心臓が動いていると思っている。霊としても暫くはですね、肉体と同じものはあるのです。同じような対応するものがあるのです。死んでその後でも自分の胸に手を当てると心臓も聴こえているのです。それで自分が生きていると思っているのです。だからいろんなところへ出て悪さをするんです。こういった馬鹿なことになるんです。要するに知識を獲得するのはいいんだけれど、本来雲的な理解のもとに知識を増やすのは、その人の器を大きくすることでいいのだけれど、利巧馬鹿が多くて困る。むしろこういう世の中であるならばもうそんな知識なんかいらないのです。自然のままに素朴な信仰に生きた方が、むしろ人間は神に近い存在となるのです。 ―― まあしかし、近年年を追うごとに、人間はその理性というものを強く求めるようになり、理性で納得できるものを真として認めるようになり、かつてのイエス様の時代、またあなた方の時代の、或いはそれ以前の時代のように人びとが素朴でなくなったということも、時代の移り変わりでやむを得ないことではなかろうかと思うのでありますが。昔であれば大黄河が流れているとか、或いはそこに大砂漠があるとか、或いは大森林があるとかいう中で人間が生きていたということによって自ずからそういうふうな、大自然と神と人間とが対峙した状態で物事を考えていたのですが、現代ではその間に汽車が走り、自動車が走り、人が塵き、ビルが建ち並ぶというふうな時代になって来ますと、そういうことになってくるのではないでしょうか。 老子 必ずしもそうとも言えないのです。まあ世の中が悪いといえば悪いのです。要するに科学者、或いは経済人、経済学者達、そうした方は勉強をした。勉強をしてその行末がこうなっているわけです。あなた方の世の中というのは、要するに勉強すればそれだけで報われる。賢いことはいいことだ、こういった世の中なわけです。ですからそうした賢い人の行末が科学者になったり、医学者になっているわけです。で彼らが言うことだからそうなんだろうと、こういうことですね、そして今の時代に賢い人がたとえば宗教家とかになるかというと残念ながら大半はそうではないわけです。そういう人たちはもっと現世的な方向へ行っているわけです。そうですね、そこに問題があるんです。ですからむしろ私はそういった賢い方々に、今まで不毛であった。最近まで不毛であった、こういった霊的世界の方に踏み込んで貰いたいと思うのです。そういった方々が全力を尽くして勉強されたならば、そして霊的世界を解明されたならば、世の中はもっと、もっと幸福になるはずです。そうした賢い人達が科学者や医学者や、工学者とかそんなものになって分かったような顔をしているから、世の人もそういった偉い人が言っているのだからそうであろうと、こう思ってしまうのです。ですからそれはそれで結構ですが、もっと霊的な世界においていわゆる現代的に言っても賢い人たちがどんどん進出してくることを私は希望するものです。 4.神的な自己の掘り起こし方について ―― 老子先生がさきほど申されました、知識を積むのではなく、埋もれた宝塔を、その宝塔の被っている砂を払って宝の塔を生み出してくるのだ、というお説でありますが、そのこと自体は一つの比喩であろうと思いますが、その埋もれた砂を払うということは、具体的に言えばどういう心的作業がありましょうか。 老子 一つはあなた方、これもまた比喩になってしまいますけれども、冬の日にですね、非常に暖かい一日というのがあります。これを小春日和といいます。こういった日に丘の上において膝を組んで大きな空を眺めてみると白い雲がポッカリ浮かんでまるで春のような気持ちの日射しです。また犬や猫たちも非常にのどかな風景を楽しんで居ります。また様々な花が咲き乱れているかのような幻想にうたれることがあります。このようなすがたは、実は天上界そのものなのです。あなたは私達の世界が一体どのような世界かご存知でしょうか。私たちの世界というのは、鉄筋コンクリートのビルディングが建ち並び、電車が忙しそうに走り、車が走っている世界ではないのです。私達の世界は素朴な世界なのです。如来界、菩薩界といわれるような世界は、はっきりいって現代世界において田舎といわれる社会と同じなのです。むしろ下の霊層の方々の方が、そういった都会社会を持ち込んでいます。今は地獄にも鉄筋何階建のビルが建っております。地獄にもエレペーターがあります。地獄にも病院があります。様々なものがあります。工場があります。地獄でも鉄板工場なんかがあって、腕を切断されるようなことがあるのです。今の世の中には、ヘルメット被って工事しているうちに、上から鉄柱が落ちてくる。こういった地獄もあるのです。非常に現代的な地獄になっています。それはそこへ行った人達の意識、働いていた世界がそうだったからです。 けれども時代がどのように変わろうとも、私達本来の天上界、神の世界においては、相変わらず、千年前も一億年前も人びとは牧歌生活を送っているのです。そこには和やかな風景があります。草花が咲き乱れ、高い丘、なだらかな丘があり、そして美しい湖があり人びとは愛を語り合ったり、親切を語り合ったり、神の子と讃えたりしています。 こういった生活に還ってくるにはそれなりの心が要るのです。私たちの世界になじむためにはそういった近代的なことを知る必要はないのです。ですから私がいっているのは荒唐無稽なことではないのです。今のような時代ではあなたの言っているようなわけにはいかないとあなたは言います。けれども私達の現に在るこの天上界においておいて上に進む程、高い世界ほどそういった素朴な社会なのです。それは事実なのです。 ―― まあそういうお説でございますが、たとえば、死と同時に大体自分が進むべき世界というのが定まるようでありますけれども、その場合に過去六十年なり七十年の、人生の間における持続してきた心の状態の決算によってそういう状態になるのか、或いは死の状態によってその行き先が決まってしまうのかということの疑問が多少あるのですが。 老子 もちろん死ぬ時の状態ではなくて、総決算、本決算でありますけれども、少なくともこの現代社会においても牧歌的な、のどかな風景の中で過ごすことができるような心の中に、そういった平安、静けさを持ったことのある人でなければ私たちの世界に来ることはできないということです。たしかに現代という時代は非常に忙しい時代です。人々は秒刻みの生活をしているのです。分刻みの生活をしているのです。こういった中において独楽鼠(こまねずみ)のように人びとは動いているのです。本来の人間から今は二十日鼠に移ろうとしているのです。二十日鼠のように集団で動き回っていることを進歩したことだと思っているのです。そうではないのです。そんなことで進歩、進化にはならないのです。ですから立ち止まってものを考える習慣のない人間は天国に縁のない人間であります。 5.天国、地獄は神性の自己が現世での我を裁く ―― まあ卑近な例で恐縮するのですが、たとえば生前の大半がそういうふうな大自然との或いは人びととの調和という形で和やかなと申しますか温い愛の気持ちで生きて来た人であって、末期におきまして外的事情により極限的な状況下で死んでいった人、そういう人はその苦しみから意外にも奈落の底へ堕ちていくということは、これはどういう事情によるものでしょうか。 老子 そのようなことは決してありません。末期において極限的な状況下におかれたというのは、イエス・キリストでもそうですし、最近あなた方のところへは、日本の明治維新の志士が出られたはずですけれども、彼らは末期においては非常な死に方をしておりますが。一時期暗い世界に留まることがある人もありますが、たちまち彼らは元居た世界へと還って来ております。そういったことではないのです。神は総合でものごとを捉えているのです。本決算です。人間は死に態とか、そういうことで行き先が決まるのではないのです。死に際が良かったとか良くなかったとかそういったことでないのです。死に際にね、微笑を浮かべて、孫達に手を握られて大往生したから天国へ行くかというとそうでもないのです。 ―― これは自らの心の比重でこういうことになるのでしょうか、それとも第三者が秤に掛けるのでしょうか。 老子 秤には掛けません、そういったことではありません。正確なことを言うと、その人自身の本来の意識、地上に出ている意識は総ての意識ではありません。その人の深層意識でもいいし、潜在意識でもいいし、霊界にある意識といってもいいです。そうしたものが自分が現象界に出て来て、身につけて来た考え方や物事を裁くのです。結局自分自身が自分を裁くのです。裁くという言葉はよくないかも知れません。相応しい処へと行って塵垢を落としに行くのです。 ―― 現在、地獄という場所がありますけれども、ここで普通単純な、単純なといってはなんですが、分からずに、知らずに堕ちて行っている人々と、一方その地獄の中でもすべてを知りつくしながら、自分の置かれた環境を反省することもなく、むしろ自分をこのようなところへ追い込んだ第三者があるとし、それを光の指導霊達の仕業とみなし、彼らに対する反抗心をつのらせ、この地獄霊の同類達が相い集まり、意識的に徒党を組んで、天上界に反抗するだけでなく、地上界にその悪想念を伝播し、地上人の心を撹乱させ、彼らの味方に引き入れ自分達の勢力を強めようとしている悪魔の連中、その頭(かしら)達、それと先程の無意識に堕ちた地獄霊との違いがあると思うのですが、こういう後者の場合の連中は゛異人類゛の連中の仕業でしょうか。 老子 そういう考えもありますが、必ずしも正しい結論に導くことはできないだろうし、また゛異人類゛という考え方を孔子様は仰ったかも知れないけれども、この現世において、或いは霊界において自分達と考え方が違う連中をつかまえて゛異人類゛゛異人種゛といった考え方は一見説明がついたようであっても、実際は何の説明にもなっていないのです。 6.純白のスーツの譬(たと)え 老子 ゛異人種゛というのではなくて実はこういうことなのです。あなた方は衣服を着ています。衣服を着て生きているうちに様々な汚れがつきますね、醤油を落としたり、或いはいろいろなシミがついたりしますね、こういったことも直ぐさま、洗剤で洗うと落ちますね。ところがこれを永いこと置いておくとシミはシミとしてもうとれなくなりますね。洗濯をしても、クリーニングをしても取れません。地獄の悪魔達というのは実はこういう方々なんです。シミができて永い間取らずにおいておくためにもう落ちなくなっているのです。そういうことなんです。ですからそれを落とそうとすると大変なことになるんです。むずかしいんです。ですからシミができる前に洗って置かなければいけないのです。早く、早い時期によく洗っておかないとそうなってしまうということです。 ―― こういう人達は自分たちでもう一回やり直そうと、立ち直ろうと思っても不可能なのでしょうか。 老子 というか、或る意味では自分達が現代の立場を選んでいるのです。天使の世界というのは、たとえていうならば、白い上っ張りです。白い衣装、純粋無垢な純白の衣服を着て人々が集まっていると思って下さい。そうしたところです。彼らもそういった純白のドレスを着ていたのです。純白の衣服を着ていたのです。それをあるいは食事中にソースを落としたり、醤油がかかったりしてそれで大きなシミをつくってしまったのです。大きなしみをつくって、それをすぐさま洗い落としにいってもみ洗いしてクリーニングに出してそれで落とした人は直ぐパーティに帰って来れたり、或いは二、三日したら、また出て来れるのですね。ところがそういったしみができたにもかかわらず、まあいいや、これくらいのシミは、と思っているうちに、また平気になって他のしみをまたつくってしまった。まあこれもいいわと思っているうちに、だんだんそういったシミが増えてきて、やがて服もズボンも真黒になってしまった。茶色くなってしまった。こういった情況ですね。そうするとその人はまあいいや、まあいいやといっているけど、周囲の人が黙ってはいないです。『どうしたのですかあなたその姿は、ここはパーティ会場ですよ、皆素晴しい白ドレスで着飾っています。あなたは何ですか、そのシミだらけの衣服は――。』そう言われるわけですね。すると本人は『いいじゃないかと、何が悪いのだ――。』と、まあこういっているわけです。何が悪いのだと最初は言っているけれどもだんだんに不調和な雰囲気ができてくるわけです。周囲の人達は折角素晴しい音楽をかけて純白のドレスを着て踊りを楽しんだり会話を楽しんだりしているのに、シミだらけの男が一人居るわけです。これは困るわけです。皆様暴力は振わなけいけれども眉をしかめているわけです。そのうちにその男もだんだん不調和な雰囲気を起こして居られなくなり、そしてそのパーティ会場から出ていってしまったというわけです。ところがそれは早いうちにシミを落としとけばいいんだけれども、もう落ちなくなっている。ですからその男は、どうするかというと、もうパーティ会場には帰って来なくなるわけです。そういったことなんです、実際は。ですから人間はそういうシミをつくる前に、よく洗い落とすか、そういった処置をとらなければいけないんです。 或いはね、こういうことです。その男は十分なお金が無い。お金が無いもんだから新しい衣服、白のツーピースを今汚してしまったんですが、彼のお父様は非常なお金持ちなのです。ですからお父様にお願いして新しいツーピースを新調して下さいと、心からお願いしたら買ってくれるんです。お父さまは非常な金持ちです。お金持ちですから買ってくれるんですけれども、そういったひねくれた男ですから、自分はもうシミがついたままでもいい、このままでいいと、開き直っているわけですね。そういった状態なのですね。これが地獄に居るということなのです。ですからお父様は非常なお金持ちです。お金持ちですから、心からお詫びして『お父様から買って頂いたこの礼服を私は今汚してしまいました。どうも済みませんでした。失礼いたしました。どうか、私は二度とこんな汚し方はいたしませんから、今度汚した場合には直ぐ洗ってシミを落とします。そして迷惑かけないようにします。パーティの皆様に迷惑をかけたのは申し訳なかった、もうこれからはこういうことはしませんから、どうか新しい礼服を私に買って下さい。』こうして心からお願いしたなら、お金持ちのお父様ですから、勿論ニコニコして『――おう、いいとも買って上げよう、新しい礼服をお前に買って上げよう。これは今までにない素晴しい礼服だよ、こんな素晴しい純白の真新しい服は誰も着ていないよ。――』こういって必ず与えて下さるのです。だから道はちゃんとあるのです。そういったお願いをしなければいけないのです。 ―― まあしかし、それができるものと、できないものとがいるわけです。出来る人はそこに反省期というものを、自分自身で十分時間をかけて、そして本来の元居た自分の世界へと還ってくるのでしょうが、そうでないものは、その反省もせず、現実の自分達の世界に居坐って、類は類をもって集まるの法則に従い、彼らは徒党を組み、さらに親分子分の関係をつくり、そのボスの言う通りボスに従って行動しているというのが現状ですが、そういう彼らに神は自由を与えられているということが問題ではなかろうかと思うのですが……。 老子 しかし、少なくともパーテイ会場には入って来れないのです。その姿では入っては来れないのです。しかしそのシミだらけの服でね、いろんな街を放浪しているんです。しかし人にすぐ見つかってしまうのです。――あすこに汚い男が来るよと言われる。それで、かまわないじゃないか、と最初は息巻いているのですが、いろんな人に指差されるとだんだん居られなくなってまた次の町へ逃がれて行きますが、そこでもまた同じようなことが繰り返されて次の町へと逃げていく。こういうように彼らは安住するところのない可哀相な人達なのです。それでもお父様にお願いしたくないと、反発しているのです。反抗心をもっているのです。帰って来て、故郷に帰ってお父様にお願いすれば買って頂けるのです。それをあくまでも自分の節を曲げないと、――俺はシミをつくった、しかしこれは悪かったとは思わない――そういう我意、我執です。自分の節に固執しているこうした姿なのです。だからあなたは自由を許すというけれども、彼ら自身そんなに楽しければいいですよ、楽しければあなたの言うとおり自由ですよ、けれども彼らは楽しくはありません。彼らの大部分は苦しいといっています。辛いといっています。それでも時折乱暴しているわけです。暴れているんです。けれどもいま言った喩と一緒で、一つの村から村へ、町から町へ動く時に、やはり人々からいろいろ指を差されてですね、厭な感じを受けてまた居られなくなるとよそへ行く、こういうことなのです。ただね、仲間が居るのです。似たようなのが居るわけです。穢い男がね、乞食や浮浪者のようなのが居る。こういった者とは話ができる。浮浪者がね、もの凄い身なりをして居るわけです。ある町にはね。それを見ると男は胸を張って言うわけです。――『俺は見ろ! 今はこれ汚れているけれども俺のスーツは純白だったんだ』こういって浮浪者相手に威張っているわけです。ですから浮浪者の方は浮浪者の方で『ああこの人は今汚れているけれども、元着ていた服は、いい服みたいだ、キットいいとこの若旦那に違いない。或いはいいとこの坊っちゃんに違いない――。』と、こういったことで敬まったりするわけですね。これが地獄の親分子分の関係の姿です。しかし誰もそういうふうになりたいとは思わないでしょう。何がよくて、何がよくないかということは、人々がそういうふうに憧れるかどうかということで決まると思うのです。 ―― まあその程度で済めばいいのですけれども、彼らはさらに味方を増やそうとしてこの三次元に生活している者に憑依したり、彼らを誘惑したりして味方に引ずり込もうとそういう態度で餌物を狙っていますが。 老子 まあそれはね、こういうことなんですよ。彼らはパーティ会場に入ってくることはできないのです。しかし、小窓が開いているんですね、パーティ会場には、そうすると、立食パーティをやっているわけです。食べているうちにまた、なかの誰かが純白のスーツ、純白のドレスを汚すことがあるんですね。――あ、汚しちゃったなと、その人は思います。洗いに走ろうかなと思っているのですね、その時に窓から顔を出してですね、『おいおいお姉さん。僕も、それ汚したけど気にしなくてもいいよ』『そのままでいいじゃないか、またどうせ汚れるんだからいいじゃないか』と、こうやって誘惑の声かけているんですね。言われてみるとそうかなと思ってね、またそのシミのままで、またその立食パーティを続けている。そのうちまたシミが付いちゃうと、また来るわけですね、『いいじゃないか、いいじゃないか』と――すると、だんだんそのシミが拡がって、先ほど言ったのと同じことになるわけですね、だから彼らは誰かに小窓から、誘惑の囁きの声を送っています。けれどもそれを聴くかどうかはね、その人自身の自由なのです。彼らも強制的にどうこうすることはできないんです。もし地獄雲達が強制的にこの世の人間を狂わすことができるなら、この世の人間はほとんど狂っています。もう既に狂っております。けれどもそうではありません。それは心に開いた小窓だけを通して彼らが話しかけることができるからです。その窓が大きくなっていると、勿論力ずくで浚(さら)うこともできるわけです。 で、その小窓とは一体何であるか、それがあなた方がよく知っている、同類相通ずるの法則なのです。彼らと通じている部分がどれだけあるかですね、最初は少さな小窓なんです。声が聴こえるだけです。それがだんだん開いてくるわけです。やがて自由に出入りできるような大きなドアになってくるわけです。ここまでくると、さあどちらが悪いとも言えない面があるわけです。どちらもどちらという意見もあります。そういうことなんです。 7.歓楽(かんらく)・煩悩(ぼんのう)即(そく)菩提(ぼだい) ―― 現在、世相をみますと、その誘惑の世界というものは非常に大きくなりまして、ギャンブルは巷に満ち溢れているし、或いはいろんな歓楽の世界というのも充ち溢れていて、そのような享楽の風潮が世の中を風靡(ふうび)しているという現状でありますが、これは一体どっちの側がそのような世界にしているのでしょうか。 老子 ま、どちらとも言いかねるところがありますが、今私の譬えを使うならば、神の国の立食パーティですね、立食パーティ自体は素晴しいものなのです。ところが食物を食べたり、飲物を飲んだりするうちに、もちろんお酒をかけることもあるし、食べ物で衣服が汚れることがあるのです。これはパーティであるという性格上、やむをえないのですね。ただそれがいま言った歓楽にあると思うんですね。ですからそういった汚す危険性というのは誰にもあるんです。それはやむを得ないことです。ただ、要はそういったものから身を守れるかどうか、お酒がかかったら、それをすぐ洗えるかどうか、そういったことなのです。だんだん染まってしまうかどうかという、そこの一点にあるわけですね。ですから誘惑のある歓楽、あなたは歓楽といわれた。それは歓楽というものがこの地上にあるということは、或る意味においてパーティにおいて飲食をするという行為自体に服を汚すことがあるという可能性を含んでいるということ、これと同じことだと思うのです。ですから歓楽そのものを無くしてしまえばいいというのは、パーティで飲み物も、食べ物も無くしてしまえば服を汚すこともしないであろうといっていることと同じことですね、やはりないと困るのです。あった方がはなやかですし、楽しいのです。 ―― しかし現在の文化の中には、非常に危険な要素が沢山現れてきているように思いますけれど、新しい機械の発明なども人の心を物質偏重、物依存、ひいてはその性行を怠情な方向へ持っていったり、便利性が生む余剰時間というものを精神の糧の培養に使わず、かえって煩悩を益々強めるような悪材料を供給しているように思えるのですが、これなどは一体いずれの側がそういうことに仕向けているのかと判断に迷わされるふしもあるのですが……。 老子 どちらの側というあなたの考えは、非常に間違っております。仏教の言葉にも「煩悩即菩提」という言葉があるはずです。煩悩というものは、悪魔の属性であって、天使の属性ではないかといったらそうではないのです。そのようなものを、たとえば服ですね、服なら服を着てパーティに出るという話をしましたが、服など着なければ汚れないわけですね、ところが煩悩というのは、さっき言った、白い服のようなものなのです。それ自体は素晴しいものなのです。けれどもその煩悩という服はですね、非常に汚れ易いのです。白なんです。これは黒であったり、濃い色であったら汚れにくいのですが如何んせん白い服でできているために、非常に染まり易いんです。それは服が悪いのではないのです。そういったものとして作られているんです。これは別に悪魔の仕業でもなんでもないのです。汚れやすい白い服、それこそが煩悩そのものなのです。白い服そのものが悪いのではありません。それは素晴しく映えるものです。パーティにおいては映えるものなのです。ところが汚れ易いという欠陥を持っているのです。これが煩悩です。煩悩という言葉は響きが悪いかも知れないけれども、人間が生きていくための意欲であります。 ―― いかにも、しかしその白服も、いつも、着っぱなしというのはいけないのであって、程ほどに着るということが大事なんですね…。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/49.html
目次 1.イエスの復活の姿は、霊能者以外でも見ることができた 2.現代に私が肉体を持って復活したらどうなるか 3.私の復活は、霊言を世に送ることである 4.どんな偉大な人でも、地上において悟れる範囲は限られている 5.高級諸霊たち一致団結による救世運動 6.神理はどんなにやさしい言葉でも語ることができる 7.経典の本当の内容は、釈迦とその弟子との対話篇であった 8.本当の救済者が現れた時には、必ず高級諸霊たちの言葉が臨む 9.私は十歳の頃からさまざまな神秘体験をした 10.事業を拡張しようとしていた矢先、モーゼから天命を知らされた 11.私には時間がなく、焦ったため、初期に霊的な混乱があった 12.私の第一段階の使命――釈迦仏教の再現 13.私の第二段階の使命――天上界からの地上の人びとの指導 1.イエスの復活の姿は、霊能者以外でも見ることができた さて本日は、今回の霊言の第1章にあたる部分で、「新復活」という題を私はつけました。新復活というと、まるで自分をイエス様になぞらえているみたいじゃないかと、まあ、おっしゃる方もいらっしゃると思います。クリスチャンでなくても、復活と言えば、そうした印象を持つ人も多いでしょう。 しかし実際の話として、イエス・キリストの時代においては、墓の中に葬(ほうむ)られたイエスが肉体のごとき姿をとって、弟子たちの前に現れたと言われています。そういう現象が見られました。それも一人、二人の前ではなく、さまざまな弟子たち、あるいは漁師たち、あるいは町の学者たち、数百人、数千人の前に姿を現したというふうに聖書では語られています。 ただこういう復活というのは、それほどイエス特有のものではなくて、イエスがやったような復活というのは、あっちこっちであるのです。イエス様のような高級霊を例にとって、幽霊が出たなどということを言っちゃいけませんけれども、イエスの復活というのは、実は肉体として甦(よみがえ)ったわけではないのです。十字架にかかって生命を奪われたイエスが肉体として出てきたわけじゃないんです。 その証拠に、イエスは数百人、数千人の人たちの前に、現れた後、昇天していっています。天上界に昇っていっています。肉体が天上界に昇っていくことはないのです。 そういうことで、聖書の中では、イエスが葬られて何日か後に墓穴を開けてみると、中にいなかったという記述になっていますけれども、これは実は、イエスを信じる人たちの一部が、イエスの遺体を運び出したというのが真相なのです。そして、そうした何と言いますか、ローマ兵たちが警備をしているような、墓穴にほうり込んでおくのではなくて、ちゃんとした埋葬をしたかったということが、その真意なのです。 ところがイエスは、復活して出てきたわけです。それは霊として復活したわけですね。しかし通常の人間は、霊の姿というものを見ることはできません。霊の姿を見ることができる者は霊能者です。霊視ができる者に限られています。 けれどもイエスの復活は、そうではなかったわけですね。霊能者だけが見えた復活ではなくて、いろいろな人たち、旅行く人たちにも見ることができた復活だったのです。 2.現代に私が肉体を持って復活したらどうなるか それでは高橋信次だって、生前の顔と体でね、じやあ、もう一回肉体を持って出てこいと言われれば、幽霊として出て来ることができるのです。 ただ高橋信次が幽霊になって出て来ると、あまりいい結果は出ないのですね。たいていは、みんな逃げ惑うのです。恐ろしくなってね。私がネクタイを締めて、服を着て弟子の前に出てきたら、弟子のたいていは腰を抜かすか、みんな逃げていきます。私が痩(や)せる前の肥った体で背広を着て、のこのこっと大森の実家に出て来ると、女房は絶対逃げ出します。あるいは失神します。 佳子という娘がおって、この娘が青山かどこかのマンションにいるんだけれども、そのマンションに私が赤いネクタイを締めて、縞(しま)がらの洋服か何かを着て、「いや、こんにちは。復活したよ」と、出て来ると、まあ多分風呂の中か何かでひっくり返るのは、間違いないんです。 そういうことで、現代では、そういうふうな原始的な復活をやると、化けて出たと言われるのは必定(ひつじょう)なのですね。間違いないのです。 ですから、私もちょっとは賢くなっていますから、そういうことはしないのです。そういうものを見て平気なのは、目が見えない方たちだけなのです。普通の人はとても堪(たま)らないのです。 私が肉体を持って、物質化して出て来ていろいろな弟子の前に現れて、握手したり話したりすると、まあ、その人の頭がおかしくなるか、その人の話を聞いた人がみんなおかしくなっていきます。ですからイエスの時代は、あれでよかったかもしれないけれども、現代の復活というのは、そういうふうなわけにはいかないのです。 3.私の復活は、霊言を世に送ることである そういうことで、私はもっと巧妙な方法をとることにしました。それは私の霊言を世に出す前に、『日蓮聖人の霊言』とか、『空海の霊言』とか、『キリストの霊言』とか、さまざまを世に問うてくれました。そして世の中の評判もそこそこ、いいようです。こういうふうに下準備をした上で、はじめて私は出てくることにしたのです。 いきなり私が霊言を送って『高橋信次の霊言』なんてやりますと、たいていの人は気持ちわるがりますから、それではいけないということで、まず下準備として、高級霊たちの霊言を世に送ったわけです。そうして、世の人たちが、確かに、これは素晴らしいと認めて、はじめて、では、じやあ、生(なま)なましいのを一発やってみましょうということで、できたてほやほやの幽霊、『高橋信次の霊言集』を世に送ったわけです。これが第一集目だったわけですね。こうして私は、現代における復活、新復活を果たしたわけです。 皆さんは私の言葉を聞いたら、生きている高橋信次が話していることと、そっくり同じだということを感じることでありましょう。また前回の霊言集が出て以降、さまざまな手紙が、寄せられたようです。私も霊の体でチョコチョコ行っては、手紙を読んだのでありますが、かつての我が弟子たちは、間違いなく、かつての師、高橋信次の声というのを感じとったようです。 なかには高橋信次霊言集を読めば、目の前に、光が散乱する姿が見えたとか、あるいは感激しました、という人もあれば、なつかしい、嬉しいというような言葉を漏らしてくれた人も数多くあります。私は、これらの声に接して非常に嬉しいです。あの世でじーっとこの機会を待っていたんですね。そして第一集を出して、私の真意が分かってくれる人たちが数多く出て来てくれたことを私は非常に嬉しく思います。 しかし高橋信次の復活というのは、そう簡単に終らないんです。皆さん、私はそんなに簡単に諦(あきら)めないんですよ。しつこく、しつこく神理というものを地上の皆さんに、これでもか、これでもかと、畳(たた)み掛(か)けていきたいと思います。 4.どんな偉大な人でも、地上において悟れる範囲は限られている どんなに偉大な人であっても、地上において悟れる範囲というのは非常に限られたものなのです。たとえば、どれだけその人が頭がいい人であっても、一生の間で読める本の数は限られています。 学者さんで、せいぜい本を読んで一万冊、こんなもんしか読めません。それ以上読むと目が悪くなって眼鏡屋へ入って眼鏡を新調しなければなりません。そうすると経済的負担に耐えられなくなって困るから、学者さんでも一万冊読めばいい方です。 この一万冊の本の内容というものを見れば、たいてい地上の人間が書いたものですね。地上の人間で本を書くような人のレベルというのは、普通のレペルよりも高いけれども、やはり中身は玉石混交(ぎょくせきこんこう)なのです。 とくに神理の本なんていうのはね、玉石混交で、玉よりも石の方が非常に多いというのが現状であろうと思います。こういうものを何百冊、何千冊読んだところで、本当に悟れるかというと、悟れるはずがないのです。 ですからどんな偉大な人であっても、地上に出て、自分の得ることができる経験というのは非常に限られたものですし、また読書によって得られた知力、知識というものも、また範囲が限られるのであります。 ところがいったん、あの世の世界、すなわち私たちが住んでいる実在世界に還ってくると、もう自由自在です。私たちには無数の家庭教師たちがついているからです。つまりどんなことでもね、知ろうとすれば、すぐ知ることができるんです。なぜなら、こちらの世界では、肉体的に束縛がないために、一瞬にして他の人間が考えていることを読みとることができるし、一瞬にして、過去の歴史、現在、それから未来、こうしたもののすべてを読みとることができるからです。 それは生きている人間の気持ちであっても同様で、その人の過去世の姿、未来世の姿、全部分かります。あるいはそれだけではなくて、人類の過去、現在、未来、こういうものが、いっペんに分かってしまうのです。私たちは、そういう世界に住んでいるのです。 こういう世界に来て、今、高橋信次があなた方に話をすることができるのですから、これはどんなに地上に優れた人がたとえいたとしても、その人が知ることができないような内容を語ることができるのです。 5.高級諸霊たち一致団結による救世運動 けれども、こうしたあの世からの通信ということは、そう簡単にできることではないのです。たいていの霊界通信というのは、不明確なものです。不明確で、不明瞭(ふめいりょう)で、なかなか、知性と理性のある人たちが受け入れることができない内容です。ところが、今、私たちが送っている内容というのは、現代人の知性と理性に照らして、また感性に照らして、おかしくない内容、そうしたものを送り続けているのです。擬(まが)い物が多い現代において、真実のものを数多く出していこうというのが、私たちの真意なのです。 今、天上界では、宗派を超えて、宗教を超えて、高級諸霊たちが集まって、日本を中心に一大宗教改革、一大救世運動を起こすべく、全員が一致団結、力を合わせて、地上の皆様方にメッセージを送っているのです。高橋信次が出たからといってGLAの続きだけを言ってるわけではないのです。それ以外にもキリスト教系の諸霊たちも、仏教系の諸霊たちも、儒教、道教の諸霊たちも、そういうものがみんな出てきています。 昔の古い霊たちの言葉というものは、いかに内容がいいものであっても、本当に本人が言っているかどうかということが、分からないのです。そういうことで読む方も、語る方もともに不安感が残ります。 ところが、現代の日本に生きた人の霊言というのはこれは隠しようがない。高橋信次の個性というのは隠せないのです。どんなに私がいい格好をしても、どんなに私が二枚目俳優を気取っても、そうじゃないことが一発で分かってしまうんですね。 それは通常の人間は一冊の書物分だけ話をすれば、その人の中身というのは全部分かってしまうからです。私においても同じです。私がどういう霊格を持った、どういう霊人であるかということが、私の霊言を読めば、地上の人たちはみんな分かるはずなのです。またかつて我が教えを、肉声を聞いた者たちはすべて分かるはずです。そのために、私は敢(あ)えて言っておるのです。 皆さんは私以外にも、たとえば生長の家の総裁であった谷口雅春さんの『谷ロ雅春霊言集』を読まれたことがあるはすです。帰天後、わずか一年数カ月の方の霊言です。本物か偽物(にせもの)か、はっきり分かるはすです。 私もその霊言を収録する時に立ち合っておりましたけれども、こちらに来て一年早々の谷口雅春先生が、原稿用紙に書いてね、あの世の原稿用紙というのは、ちゃんとあるのです。あの世の原稿用紙にね、三百枚ぐらいを書いて、一生懸命しゃべっておったのを私はじっと見ておりました。そして霊言集の手本を見せていただきました。ああいうふうに体系だって語れば、地上にいる人たちも否定できないような、内容ができるのですね。 6.神理はどんなにやさしい言葉でも語ることができる ところが前回の私の霊言集は、思いつきでしやべりましたので、あっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりしましたので、今回はもう少し内容を引き締めていきたいと思います。 なかには読者から手紙が来て、『高橋信次霊言集』というのが出たけれども、高橋さんて何考えているのか分からないと。一体何を考えているのですかと。あんな幼稚なことをしゃべって、女、子供を相手に説法しているようじゃだめですと。高橋さんの本を一生懸命読んでみて、あれだけご尊敬申し上げておったのに、こんな内容じゃ、がっかりした、なんて手紙をよこした人もおりました。 そこで、私は、前回の『高橋信次霊言集』の意図について簡単に言っておきたいと思います。私の意図は、こういうところにあるのです。つまり、神理っていうのは、どんなやさしい言葉ででも、語ることができるものだということです。神理というのは、そんな学者みたいに勉強しなけりゃ学べないことじゃないんです。そういうふうに勉強に勉強して、学者みたいに学んだ結果、はじめて悟れるというようなものの考え方が、仏教の堕落(だらく)を招き、キリスト教の堕落を招いてきたのです。 キリスト教においてもそうですね。聖書のどの部分に何か書いてあるのかというものを訓語学(くんこがく)のようにつっついて、つっついて、やっている。そして、牧師さんていう商売が成り立っているのです。 あるいは仏教においてもそうです。今、お経を読んで一般で分かる人はいないです。絶対分からないでしょう。その上、専門の学者たちはサンスクリット語をやったり、あるいは漢文を勉強したりして、解釈して一日を過ごしておるわけです。しかし、そんなところに本当に仏教の真意があったかどうかということをよーく考えねばいけない。 7.経典の本当の内容は、釈迦とその弟子との対話篇であった 仏教というのは、今から二千六百年近く前、お釈迦様がインドの地において、まわりの衆生(しゅじょう)たちに説法した記録なのです。そして当時は、現代のように、テープレコーダーがなかったために、そういう話を記憶しておって、後で結集してまとめた話なのです。いわゆる話し言葉であって、書き言葉ではなかったのです。仏法というのはね。 ですから、お経の本当の内容というのは、対話篇だったわけです。お経というのはそういうもので、本当は対話篇なのです。釈迦と、その弟子との対話篇だったわけです。 そして釈迦の言葉というのは何かというと、生きていた人間釈迦、人間としての釈迦の頭脳で考えた言葉だけが、すべてではないのです。お経の中の釈迦の言葉というのは、そうじゃないんです。現代、私たちがこういうふうに語っておるように、今から二千数百年前の、釈尊(しゃくそん)の言葉の中には、高級諸霊たちの言葉がいっぱい混じっておるのです。 釈迦の言葉の中には、まあ、口幅(くちはば)ったいですけれども、生まれる前の高橋信次の言葉だってお説経の中には入っております。法華経だの、何とか経だのいっぱいありますけれども、その中の釈尊の言葉の中には、あの世から指導していた私の言葉もあります。あるいは、イエスの過去世の方の言葉も入っています。モーゼの言葉も入っています。そういうふうに、いろいろな方がたの聖霊の言葉が釈尊に臨(のぞ)んで、語っておったのです。 8.本当の救済者が現れた時には、必ず高級諸霊たちの言葉が臨む 地上の人たちには、これがなかなか理解できないでしょう。ただ、こうしたことはいわゆる霊媒現象(れいばいげんしょう)とは違うのです。そうではないんです。本当の救済者が現れた時に、天上界の諸霊たちはこぞって、そのメッセージを地上に伝えていくんです。 ま、イエス様でもそうです。イエスは、そのお弟子たちを教育して、各地に伝道のために派遣しました。その時に弟子たちは、「イエス様、私たちは、地方に行って、人びとに何を語ったらいいか、その言葉が分かりません。どういうように言って説法すればいいのですか」、そういう質問をしました。その時イエスが言った言葉は、「汝ら、何を語るかということを悩むなかれ」と。「行く先ざきにて汝らの語るべき言葉が、汝らのロよリ出ずるであろう」。そういうことをイエスは言いました。 それはどういうことかというと、まさしく説法しようという時には、そのイエスの弟子たちに高級諸霊の言葉が臨んで、彼らが語ってくれるということなんです。ですから本当の救済者たちが出た時には、必ず高級諸霊たちの言葉というものが、その中に入っておるということです。 9.私は十歳の頃からさまざまな神秘体験をした さて本日の講演の目的は「新復活」ということでありますから、それについて、今しばらく話をしたいと思います。私は自分のことを自己紹介も兼ねて、少々話をさせていただくとすれば、昭和のはじめに長野県に生まれて、それから戦前、戦中、戦後という時代を経てきました。戦後の混乱期を経験し、独力で、電気関係の事業というものを起こしました。まあ、コンピューター機器関係ですけれども。そうしたものを起こしてコンピューター技師としても、仕事をしておりました。また事業家、実業家として、何十年かの人生を生きてきました。 そうした中において、十歳の頃からさまざまな霊的な現象というものに見舞われました。十歳の頃から、何度も死ということに見舞われました。私の両親は、毎晩私が死んでしまうというような現象に見舞われて、大変心配していました。毎晩八時頃になると私の呼吸が止まってしまって、意識が急速に薄れていく。そしてもう一人の自分というのか、自分の肉体から抜け出して、この地上を見渡しているという経験を何度もしました。 もう一人の自分が、寝ている高橋信次から抜け出すと、私の父や母が大変心配して、お前、どうしたんだと言って揺り動かしている姿、あるいは医者を呼びにやっている姿、ほっぺたをつねっている姿とか、いろいろなものが見えました。そういうふうに肉体と魂の分離ということを、私は十歳の頃から経験しました。そうして、さまざまな神秘体験を経ていきました。しかし、まだ私は悟れませんでした。 二十代の頃にはよく予言が的中しました。いろいろな予言をしました。そういうこともありましたし、さまざまな霊的現象も身のまわりに起きてきました。しかし、まだ私は悟れませんでした。そして事業家としてだんだん事業欲を出して、いろいろなことをやってきました。 10.事業を拡張しようとしていた矢先、モーゼから天命を知らされた やがて浅草に八起(やおき)ビルを建てて、これからいろいろな事業をやろうと思っていた矢先に。高級霊からの厳しいメッセージを受けました。とくにワン・ツー・スリーと名乗るモーゼの霊に、非常に厳しく叱りつけられて、「高橋信次よ、お前の使命は、そんなところにあるんじゃない。お前は、電気屋や風呂屋になるために生まれたんじゃないぞ。お前の使命っていうのは一大革命、一大宗教改革であり、救世のための露払いの役がお前の役割であるぞ。お前は、それを果たさずして電気屋で還って来たんでは、お前は打ち首だ。イエス様は生きていた時に地上で打ち首になったけれども、打ち首じゃなくて十字架にかかったけれども、高橋信次はあの世に来てから十字架にかけてやる。覚悟しろ」と、こういう言葉が私に臨みました。私はびっくりしました。これは大変だと。 今までは会社さえ大きくすればいいと思っていたのが、それではすまないと言われました。「お前は、人間の心を究明して、世の人びとを救いなさい」と。こういうことを言われました。そして四十一、二歳からだったでしょうかね、四十八歳で亡くなるまでの七年間、足掛け八年ぐらいになりましょうか。その間、私の伝道というのが始まったわけです。そしてさまざまな著書を出し、講演をし、個人相談をし、神理の種というのを播いていったわけです。 11.私には時間がなく、焦(あせ)ったため、初期に霊的な混乱があった ただ私には時間がなかったということと、焦ったということのために、十分な法というものを説けなかったという点が残念に思われます。完全なものではないのです。やはり、こうした霊的なものというのは、周到な準備をし、準備期間を置いてから伝道を開始すべきであって、霊の囁(ささや)くことをそのまま受け取っているのでは、まだ十分ではないのです。 三年、四年の準備期間を置いてはじめて、霊的なものということの自覚ができるのですね。それをせずして、私は伝道を開始したために初期の混乱がたくさんありました。 たとえば私自身はゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)ではありませんでしたけれども、私は初期において、ゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏であるかのように自分で思っていた時があります。 なぜそう思ったかというと、自分自身、不思議でありましたけれども、過去世の釈迦の姿というのが目に見えたわけですね。二千数百年前のお釈迦様がインドにおいて修行されて、悟られて、伝道されたようすがありありと見えたわけです。つまり、霊視し、見ることができたわけです。そうして当時の模様とか、当時の弟子たちと話した言葉というのが手に取るように分かったわけです。 こういうことがあったために自分自身、釈迦だと思っていた時期がありました。しかし、そうではなかったのですね。これは天上界の指導霊たちの力によって、釈迦の過去世というのを見せられとったわけです。つまり私は、『人間・釈迦』という本を書きましたけれども、そういう本を書くために釈迦の過去世を見せられておったわけです。 12.私の第一段階の使命――釈迦仏教の再現 つまり、私の今世の使命、地上での使命というのは、本来の釈迦仏教を広めることだったのです。原始の釈迦仏教の本当の姿を現代の日本で再現するのが、とりあえず私の第一段階の使命だったわけです。こうして露払いの役割をするということであったわけです。 そうして第二段階の使命が、地上を去った後、天上界に還ってから、高橋信次として、こういうふうに霊言を続けていくということだったわけです。 かくいう私は、かつてモーゼを天上界から指導したことがあります。モーゼという人が三千二百年も前に出て、「出エジプト」をなして、カナンの地を目指して旅をしていた時に、モーゼに十戒(じっかい)を与えたのは私です。またそれ以外にも、マホメットがイスラムの地に生まれた時に、アラビアの地の洞窟の中において、マホメットに啓示を与えたのも私です。あの『コーラン』のもとになった啓示を与えたのは私です。そういう十戒とか、コーランを与えた私が、今また、高橋信次の霊言を伝えようとしておるのです。 かつてのものは古いものです。しかし、現代のものは内容も新しい。新しい教えというものを説いていくつもりです。そのために私は、現代の日本に肉体を持ったのです。肉体を持った私として語ったことは、私の考えのすべてではないのです。私は高橋信次という生命体があるということを、地上の皆さんに知らせる必要があったのです。私は実在界においては、アール・エルランティと呼ばれておりますけれども、エルランティという魂があるということを教えるために、知らせるために、私は現代の日本に肉体を持ったのです。 13.私の第二段階の使命――天上界からの地上の人びとの指導 そして次なる私の仕事は、天上界にいて地上の皆さんを指導すること。この第二段階目の仕事が、私の本来の仕事なのです。このために私は地上に肉体を持ち、このために私は四十八歳という働き盛りに短い人生を終えたわけです。 そして第二段階として、私の後に偉大な指導霊を出したわけです。彼自身でも十分、法を説いていく力があるけれども、それにもまして、その前の段階から出た私が、天上界から直接のメッセージを送ることによって、その力を二倍、三倍にしようというのが、今回の計画だからです。そして私は、その本来予定されていた事業に今とりかかりつつあります。これが私の本来の目的だったからです。 私の死後GLAにおいていろいろ混乱があったと、その後、取り沙汰(ざた)されています。けれども、皆さん、それは混乱のための混乱ではないのです。私が新しく復活するための、新復活の前の混乱であったということなのです。 イエスが十字架にかかったのち、混乱した弟子たちの前に現れたように、高橋信次がまた甦(よみがえ)ったのです。新復活をなしたのです。これから私の復活の言葉は続いていきます。 地上の皆さんは、私のこの真実の声を、どうか真剣に受け止めていただきたいと思います。本当の意味で、あの世の世界があるということ。そしてあの世の指導霊たちがあるということ。高級霊たちがあり、神近き霊たちがあって、地上の人たちを見守っているということを私は実地に、それを皆さんに示すつもりです。 霊言集も一冊、二冊ならその真実性を否定する人もいるでしょう。しかし、五冊、十冊続いたならばこれを否定できますか。これが創り物だといえますか。どうか地上の皆さん、これが本物かどうか、よーく読んで、とくと考えてみて下さい。 私の霊言は今後も続いていきます。以上がとりあえず、今日の第一日目の「新復活」についての講演です。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/123.html
目次 1.地上のひとびとに、一言でも多く、一行でも多くの神理を伝えたい 2.高橋信次の霊言を世に問う機会はいま以外にない 3.かつてモーゼに旧約聖書の『創世記』を書かせた私が、いま、「新創世記」を語る 4.アトランティス大陸の沈没を信じない現代人 5.ギリシャの哲学者プラトンがアトランティスの存在を知っていた理由 6.プラトンは幽体離脱によって如来界、菩薩界を見て「イデア説」を唱えた 7.アトランティスには生体エネルギーを使った飛行船があった 8.アトランティスの自動車はヒラメ型 9.職能制民主主義があった 10.まちがった新興宗教家のクーデターに倒れたアガシャー大王 11.アトランティスの沈没とアモンのエジプトヘの脱出 12.日本人の源流ムー文明とインド洋のレムリア文明 13.現代人よ、現代文明を最高だと思うな 1.地上のひとびとに、一言でも多く、一行でも多くの神理を伝えたい 高橋信次です。また私の霊訓集を世に問う機会を与えられたことをうれしく思います。 まあ地上にいるみなさんは、私がたて続けに世の中に霊訓集を送っていくから、高橋信次というのはなんと忙しい男だろうと思っておると思いますけれど、じっさい、私はほんとうに忙しいんです。なぜ忙しいかって言うと、地上にいる人たちを一日も早く、目覚めさせたいという気持ちが強いんですね。 また私の教えを継いでいる者たち、そしてさまざまに混乱している弟子たち、あるいは私の教えを受けなくとも、ほんとうの神理というものを求めて日夜学んでいる人たち、こういう人たちのことを考えると、私は一日もこちらでゆっくりとできないんです。ひとつでも多くの神理を世に伝えたいというのが私の気持ちなんです。 いま、日本には一億二千万人以上の人間がおりますけれども、このなかでもやはり心ある人たちっていうのは、いるんですね。それは一定の数であってそう多くはありませんけれども、心ある人たちっていうのはいます。そして彼らは、つまり心ある人たちは、神理を求めている。 けれどもほんものの神理の書というのが、生きている間なかなかこの地上では見当たらんのですよ。宣伝だけでよく売れている小説の本だとか、まあ金儲けの本だとか、こういうのは、いっぱい出ておりますけれども、神理の本のなかで、ほんとうの真実を伝えるのは少ないんですね。 霊界ブームで、最近は霊界のことを伝える本もずいぶん多くありますけれども、そのなかの大部分、私たちの目から見て九割五分以上は、おかしなものです。少なくとも霊的現象として見たら、まともじゃないのがほとんどです。 そして地獄の霊たちのそそのかしを受けながら、それを神様、仏様、あるいは高級霊だと思って、一生懸命言っている人がいっぱいいるんですね。 どっちもこっちもそういうおかしいのばかりで、こういう混乱を見るにつけても、私たちは一日も早く、一冊でも多く、真実の書というものをひとびとに伝えねばならんと思います。 まあそれは地上にいる大川隆法さんたちの活動にも、もちろん限界があるだろうし、出版社のみなさんにも、そうそう無理ばかりはお願いできないし、そういう限界はあるでしょうけれども、やはり私は一日でも早く、一冊でも多くの神理の書を世に問うて、世のひとびとを目覚めさすことこそが、私たちのほんとうの仕事だと思うし、また最近地上に肉体を持った高橋信次としてのやりうる最高の仕事だと思うのですね。 私はいま、こちらに還ってきて、もう地位とか名誉とかそんなものは、なにもこだわるものはないのです。また金儲けするわけじゃないんです。 高橋信次の霊訓集が出たところで、それでいくら売れてもね、私のふところのなかには一円もはいらないのです。そんな印税なんか一円もはいってこないし、地上で評判がいいからってこちらの世界でも、ランクが上がるわけでもないんです。そんなことぜんぜんありません。 そういうことはまったく関係ありません。地位も名誉も、金もなにもないんです。地獄の三途(さんず)の河を渡るときには、六文銭がいります。けれども、私たちのように安らぎのある世界に還ってきている人たちには、もうお金は必要ないんですね。 そういうことで、私は私利私欲のためにやっておるわけではありません。ほんとうに純粋な気持ちから、地上のみなさんに一言でも多くの、一行でも多くの神理というのをお伝えしたいと切に願っておるわけです。 そういうわけで私は霊言をして、今後もたたみかけていきたいと思います。 ほんものであるということの証明のためには、やはりあるていど数を出していかねばならぬと私は思っております。一冊だけでは創作だと思われるでしょう。 では高橋信次が、二冊、三冊、四冊、五冊、と世にその考えを問うたときに、それがにせ物だというふうに言うことができるでしょうか。たぶんできなくなってくると思います。私は霊言の真実性を疑う人が多いこともまたこの世の事実である以上、あるていどの数を出して、私の思想というものを全面に出していきたいと思います。 こうして、十年前(一九七六年)のこの地上を去ったときに私が考えていたことだけではなくて、あの世の世界、すなわちこちらの九次元世界というところに私はおりますけれども、九次元の世界に還ってきてから、私が体験したこと、そして私が悟ったことを、あるいは私が生きていたときに言い忘れたこと、また修正したいこと、こういうことをどんどん言っていきたいのですね。 2.高橋信次の霊言を世に問う機会はいま以外にない こういうふうに霊言として私の考えを、この世に伝えることができる機会というのは、もうおそらく二度とはないと思うのです。 地上のみなさんは、高橋信次の霊訓集があまり出てくるので、もう読むのに忙しく、「そんなにいっぱい出さなくてもいいから、一冊なら一冊で遠慮してくれんか。」と。「あんまり出ると、お金もかかるし、それから目も悪くなるし、勉強時間がなくなるから、もうやめてくれんか。」という声もあるかもしれませんけれども、どっこいそうはいかんのです。 大川隆法さんがあの世に還ればもうこんな霊言はできんのですから、生きているうちにもう十二分に使ってね、できるだけ多く彼を使ってがんばらにゃいかんのですね。 ですから、まあ最近の人間だから、ずいぶんでしゃばってくるなあと思われるむきもあるでしょうけれども、古い人はもういいんです。最近の人はどんどんどんどん言わないとね。言いたいことが山のようにたまっていますから。 イエス様やモーゼ様みたいな古い人は、もう言いたいことがたまっていても、もう二千年も三千年もたてば、化石みたいになって、口を開けばコロンと、化石みたいな恐竜の卵みたいのが出てくるぐらいでしょうけれども、私みたいに死んでまだ十年ぐらいの人間というのは、もう考えつけば、あの人もいるし、この人もいるしね。 あの人にもこういうことを言っておきたい。この人にもこれ言っておきたいし。著書を見るとあそこはちがっておったとかね。いっぱいあるんです。言いたいことが。 だからずいぶん、高橋信次がおしゃべりをしておると思うかもしれないけれども、やはり地上の人たちは、このおしゃべりに耐えるだけの「忍辱の心」というのを養って精進せねばならんわけです。 3.かつてモーゼに旧約聖書の『創世記』を書かせた私が、いま、「新創世記」を語る さてまあ枕詞(まくらことば)はそれぐらいにして、本日は、「新創世記」というタイトルで話すことにします。ずいぶんいきおいのいい題で、「まあがんばっとるじゃないか」という声もあるでしょうけれども、やはりね、私はほんとういうと、創世記を語るのが私のいちばん得意なところなんですね。 いまから三千百数十年前に、モーゼという人がエジプトの地に生まれて、そしてイスラエルの民を解放して、カナンの地ですね、あこがれのカナンの地、ユダヤの地に人々を導いたときに、天上界から現在と同じように私はモーゼを指導しておりました。 そのときに私がモーゼに書かした書というのが『創世記』という書物です。これはみなさん旧約聖書のなかでモーゼ五書のなかで『創世記』っていうのが最初にありますね。これがありますけれども、これをモーゼに書かしたのは当時の私だったわけです。 天上界からこういうふうに霊言という形で、モーゼにやはり通信を送っておって、モーゼがそれを聞いて書きとめたのが、モーゼの『創世記』なのです。 ですからその創世記も三千年たってちょっと古くなりましたので、ちょっと新しい創世記を書かにゃならんと思うのです。それがこの「新創世記」です。 まあ私の娘で、高橋佳子というのがおって、『真創世記 地獄編』、『天上編』、『黙示編』なんて書いておるから、またまねしとるんじゃないかというけれども、よく読んでいただければ向こうの『真創世記』は、真実の真でありまして、私の「新創世記」は新しいの新でありますから、けっして著作権侵害にはならんわけであります。新しく創世記を語るわけです。 さて地上のみなさんはね、こういう時期にどうしてそういう創世記、地上の成り立ちということを話す必要があるのかということを不思議に思われるかもしれません。まあそんなことを聞いたところでね、ひとりの人間も救われるわけではないし、興味本位にすぎるんじゃないかと、こう思う人もずいぶんいると思います。 けれどもね、やはり私は、人類の価値観、価値概念というものを転換すべきときがきておると思うのですね。 いまの日本人でもいいし、外国人でもいいけれども、経験主義的な人のものの考え方というのは、人類の歴史っていうのはやっぱり、四千年か、五千年ぐらいに思っているのですね。せいぜい四千年、五千年。日本の歴史だって二千数百年だし、まあユダヤのほうだって、イエス様がまだ生きていた人だということは知っているけれども、モーゼもまあなんとか生きていた人らしい。まあ三千年ぐらい前の人。 ギリシャ・ローマ神話のギリシャ神話の神々になってくると、もうちょっとこれはあやしいんですね。これはもう神代(かみよ)の世界、神話の世界になって、ほんとうにギリシャの神様なんていたのかどうかわからなくなってきていますね、実在の人かどうか。ゼウスさんなんていう人ほんとうにいたのかな。アポロンなんて人いたのかな。アポロ宇宙船は知っておるけれども、アポロンなんて知らないという人がいっぱいいると思います。 「それは、たぶんギリシャ・ローマ神話かなんかで、世界の名作シリーズかなにかのなかにはいっているぐらいで、ほんとうは歴史上の事実ではないんじゃないですか。」という人が多いと思いますね。 ギリシャでゼウスが法を説いたときっていうのはいまから三千七、八百年前ですから、四千年前までいかないわけです。四千年近く前になるともう、人間はそれはもう夢幻(ゆめまぼろし)、神代の時代の作り話ということになっちゃいますね。こういうことです。 4.アトランティス大陸の沈没を信じない現代人 たかだか一万年ぐらい前にアトランティスという大陸があって、それが一夜にして没してね、大西洋に沈んだということを話しただけでも、人びとは信じないんです。現代人たちはね。信じないんです、一万年も前のことまでわかんないと。 「ほんとうでしょうかね。一万年前に、ほんとうにアトランティス大陸なんてあったんでしょうかね。たしか私たちが習ったんでは、一万年前っていうと、縄文時代よりもっと昔ですから、石器時代かなんかでね。これはちょうど人類がいたとしてもね、腰のまわりに虎の皮かなにかを巻いて、そして石斧を持ってコンコンとやっておったにちがいない。」と。 「まあ火を起こすことぐらいは知っていたかもしれないけれども、それもたぶん木と木をこすり合わせて『エンヤエンヤ』とやって煙をパーツと出すとか、あるいは、トナカイの骨かなにかけずってやっていたころにちがいない。」と。 「そんなころにアトランティス文明なんて、そんな、ほんとうにあったんですか。」と。「私はとうてい信じられないですね。」と言っています。 あるいは名誉毀損(きそん)にならないようにやわらげて言いますけれども、最近はね、元東大教授の優秀な物理学者、地球物理学者なんかもね、地殻変動とかいろいろ調べた結果、アトランティス大陸というのはやっぱりなかったんだ、ムー大陸もなかったんだ、なんて言っていますね。 まあしかたありません。それは現在ある資料だけを見て、それを判断しているんだから、それはしょうがないんですね。 まあそれはしかたないことです。一夜にして地殻変動が起きればね、地上の証拠っていうのはほとんどなくなります。 5.ギリシャの哲学者プラトンがアトランティスの存在を知っていた理由 アトランティス大陸があったという証拠は、いちばん最近というのか、いちばん古いというのか、よくわからないけれども、それがでてくるのはね、ギリシャの哲学者でプラトンという人の書物のなかです。 まあソクラテスのことを、一生懸命書いた人のことですけれど、プラトンという人の本のなかにアトランティスという大陸があったということが書かれていますね。これがまあアトランティスについての最古の記録ではないかということで言われています。 じゃあ、「プラトンというのは二千四百年ぐらい前の人だから、なんで一万年も前のことがわかるんですか。」と。 「そんなのわかるわけがないじゃないですか。」と、言う人がいると思います。 「たぶんこれは想像の話じゃないでしょうかね。」と言う人がいると思いますけれども、プラトンという哲学者がアトランティスのことを知っていたのは、ふたつの理由があるのです。 ひとつはね、エジプトというところには、そのギリシャの哲学時代よりはるか以前に高度な文明というのがあったんですけれどもね。 いまもスフィンクスとかあるいはピラミッドとかがありますけれども四千年前、五千年前といわれていますね。そういうピラミッドがあるけれども、そうしたピラミッドのなかの古文書のなかには、そういうかつてのアトランティス大陸のことが書かれていたのですね。 それに関する文献というのがあったんです。プラトンという人は、その文献を読んだことがあるのです。これがひとつ。 それからもうひとつは、プラトンという人はやはり霊能者であったのです。 現代の人たちは彼をふつうの哲学者というふうに考え、哲学者でかつ霊能者である人なんかいるわけないと思いますけれども、ギリシャの哲学者たちは霊能者が多かったのです。ソクラテスもプラトンも霊能者なのです。 ですから、ちょうど大川隆法が、いま、私の言葉を受けているように、さまざまな聖霊たちの言葉を受けておったのですね。そう、ソクラテスもプラトンも霊能者だったのです。 けれどもアリストテレスは霊能者じゃなかったんですね。その結果、彼が書いた哲学の体系というのはひじょうにむずかしいものになりました。 そしてアリストテレスという哲学者は、自然科学の祖ともなったし、まあ哲学の祖とも言われておりますけれども、ひじょうに合理主義者ですね。なぜ合理主義者かっていうと、彼自身が霊体験を経験していないからです。 つまりプラトンとアリストテレスの差はそこにあるのですね。 アリストテレスは自分より何十歳か上のプラトンを、先生が生きていたときに批判したら怒られるから、先生がポックリいってからプラトンの「イデア説」を批判しているわけです。 けれども、その批判というのはじつはあたっていないんですね。プラトンという人は霊能者であって、自分自身いろんなことを体験しておったけれども、アリストテレスはそういう体験がなかったからわからなかったことが多いのです。 その結果、西洋の合理主義文明というのが出てきたんですね、アリストテレスから。 それでプラトンの思想というのがなかなかわからなくて、オカルト的に解釈されてきたということがあったわけです。そういう事実があったのですね。 6.プラトンは幽体離脱によって如来界、菩薩界を見て「イデア説」を唱えた プラトンという哲学者は、ちょうど近代のスウェーデンボルグという大霊能者と同じであったわけです。スウェーデンボルグは科学者でもあったし、さまざまな役職も兼ねた偉い人ですけれども、この人が幽体離脱といって、肉体を抜けだしてあの世を見ていたように、プラトンも見ていたのです。 つまりあの世の世界を見てきてね、「イデアの世界」、イデアという理想の世界があるということを一生懸命書いたのです。 霊界があるとか、幽界があるとか書いたら、心霊ブームのなかの現代人はハタと膝をたたくかもしれないが、プラトンはかしこいから当時の人たちの誤解を避けてそんなことは言わなかったのですね。幽界見てきた、霊界見てきた、と言わずに、イデアの世界という理想郷があるという話をしているのです。 そしてじっさいは、あの世の如来界や菩薩界を見てきて、そこにあるものをなんとかこの地上で実現させようとして一生懸命本を書いたのですね。そういう偉い人だったのです。 こういうふうに宗教上の天才というのは、いつも、時代を何千年も抜きんでているから、その同時代に真実のことを語ることができなくて、やはり比喩(ひゆ)で語るのですね。こういうことがあったわけです。 ですから、プラトンも当時やはり幽体離脱して天上界に還って「アーカーシャの記録」って言うけれど、「アガシャーの記録」とも言いますけれども、そういう霊界の記録書というのがあるのですね。歴史書があるのです。これを見てきたのです。 そしてアトランティスというのがじっさい沈んでいるということを知りました。また彼の指導霊をしていた人も、そういうことを伝えましたね。それで文章のなかに書いておるのです。 しかし、プラトンの記述あたりで、早くも信憑性(しんぴょうせい)がなくなるのが現代です。地上の人間の理解の範囲では二千年、三千年でもとても大きな話になってしまいます。 7.アトランティスには生体エネルギーを使った飛行船があった ところがじっさいは一万年前に、アトランティス大陸が大西洋の現代のバーミューダというところにあって、ほんとうに栄えとったのです。そのときにはもう飛行機があったのですね。みなさん驚くでしょうけれど。 「飛行機だなんて、あなた高橋信次さん、あなたちょっと頭がおかしいんじゃないですかね。二十世紀になって初めて飛んだのですよ。」ってね。 二十世紀の初頭にやっとプロペラの二枚羽根の飛行機が飛びました。当時は第一次大戦のころ、まだ、そんなに実力がなくてね。 敵の飛行機とすれちがってもおたがいに手をふって「ヤーヤー元気か。」なんてね。 「イヤーワシも元気でやっとるよ。お宅、偵察ですか。」なんてね。 「偵察でやっとるんですよ。」なんてね、やっとったんです。珍しくてね。 そのうち飛行機どうしでそんな偵察のあいさつばかりしていてはいかんということで、もっとまじめに戦争しろということになり、敵の戦闘機を見つけたら、ちょっと上のほうへ飛んでいってレンガ落としたりしてね。レンガ投げつけて向こうの飛行機落とそうとしたりしました。こんなことをやっていました。今世紀の初めには。 それが第二次大戦のときにはもうゼロ戦が飛んだりね、B29が飛んだりしたことはみなさんご記億のとおりです。 そしていま、みなさんコンコルドの時代です。それからスペース・シャトルの時代です。こういうふうに時代が進んできております。 ですから人類の、どこの歴史をひも解いても、千年前、二千年前に飛行機が飛んだという話はないのです。そこで、一万年前の人の力でそんな飛行機が飛ぶはずがないとみなさん思うでしょうが、じっさい飛んどったんです。これは事実なんです。 これはこちらの世界にくるとすべて明らかになるのですね。飛行機といっても現代のようなコンコルドじゃありません、もちろん。 当時の飛行機っていうのは飛行船のようなものなのですね。いわゆる飛行船です。 そしてエネルギー源として使っておったのが、生体エネルギーってやつでね。ちょうど植物が発芽する時にでるエネルギーがありますけれども、ああいうふうに細胞分裂を起こすときに熱が出ますね。熱エネルギーが出ます。 これを転化する。うまく変化させてエネルギー源とする、という方法を当時持っておったんです。 アトランティス人というのはね。こういう変化のエネルギーというのを使ってさまざまな動力を作っとったんです。 ですから石炭でもなかったし、電気でもなかったんです。そういうふうな生命エネルギー、生体エネルギーというのを抽出することに成功して、そういうエネルギーを使っていました。これを使って飛行機を飛ぱしとったのです。 8.アトランティスの自動車はヒラメ型 あるいは地上にはね、みなさんおどろくでしょうけれども、やはり自動車に近いものかあったのです。 まあかたちはぜんぜんちがいますよ。かたちはぜんぜんちがいましてね、わかりやすくいってみれば、私が見ると、ちょうどヒラメみたいなかっこうしていますね。ヒラメかエイみたいなかっこうしてて、ああいうふうな、まあスルメですな。スルメってありますけれど、ああいうかたちしているんですね。 三角形で後ろから尻尾が出ているかたちしているんですけれども、それで下にコマが出ているのですね。コマが二輪出ています。前にひとつと後ろにひとつ。前輪、後輪がありますね。 オートバイといっしょの原理ですね。そしてああいうふうなエイみたいなかたちをしています。これで後ろにちっちゃなプロペラつけていて、これをクルクルまわしながら走っとるのです。こういう自動車がありました。こういう時代なんですね。 9.職能制民主主義があった また政治の原理ってどうかというと、政治も現代の民主主義に近いような政治っていうのがもうあったんです。 まあ民主主義というのも近代の発明かなんかに思ってね、十九世紀のリンカーン以来の「人民の、人民による、人民のための政治」なんていうので、これで民主主義の概念かでてきたなんて、進歩したなんていってるけど、とんでもないんです。 もうそんなのとっくの昔からあるんですね。アトランティスの時代にも民主主義はありました。 このときの民主主義というのはね、現在のたとえば政治の制度とちがうのです。 現代のような投票制度とはちょっとちがいましてね。いねば産業別で政治家を選出するようなそういう民主主義をやっていましたね。 たとえば農民なら農民。神主なら神主。神官なら神官ね。軍人なら軍人。あるいは、技術者なら技術者。こういうふうにいろんな「職能制」っていうのか、これがありますけれども、このなかから選挙でね、代表者を選んで政治をするようなそういうしくみかあったんです。 そしてその政治の頂点だったのはだれかというと、これが宗教家だったんですね。宗教家がやっていました、政治をね。そしてそれを補佐するのが科学者だったんです。 ですから当時アとフンティスの文明では科学が発展して、科学が宗教を助けるというようなのが原則だったわけです。 10.まちがった新興宗教家のクーデターに倒れたアガシャー大王 ところがこれがね、アトランティスの末期、いまからどうですかね、一万年前ごろ、まあはっきりした年数はいえませんけれども、そのころ、末期の百年ぐらいっていうのはたいへん時代が乱れてきたのですね。 宗教家のなかにまちがったひとびとがいっぱい出てきました。 現在も二十世紀の後半に変な宗教家がいっぱい出てますね。変な新興宗教の中には、まったくおかしな宗教家がいっぱい出てますけれども、同じような宗教がアトランティスの末期も、ボコポコ出てたんです、いっぱい。 そうしていわゆる正法神理というのが失われる時代というのがあったんです。 このときに最後の光の大指導霊としてアガシャー大王ってかたが出られたのですね。アガシャー大王というかたは、イエス・キリストの生命体の一部なんですけど、こういうかたが地上に出られました。そして彼は最高の政治指導者でもあり、宗教指導者でもあって、ひとびとに心のありかたを説いておりました。しかし、現代と同じようなまちがった新興宗教の教団というのがひじょうに大きくなってきて、いま流にいうと何百万という教団になってきて、それが政治にもちょっかいを出すようになってきた。そしていわゆるクーデターみたいのを企てたのですね。 こうして当時の王宮の中では、いわゆる光の天使たち、心ある宗教家たちがずいぶん政治、経済を牛耳っとったんだけれども、彼らを捕らえてしまったんですね。 捕らえてしまって、そしてソ連の[赤の広場]じゃありませんけれども、広場にしょっぴいて、穴を掘らし、いけにえにするというような、残虐な行為の結果、ひじょうに数多くの、何十人もの光の天使たちが彼らの手にかかって死にました。 ようするに、一時期、悪魔に天使たちが負けたようなかたちがでたのですね。そしてアガシャー大王自身も囚われの身となり、やがて死んでいきます。 11.アトランティスの沈没とアモンのエジプトヘの脱出 しかし当時、アガシャーの息子、つまり長男がいました。光の指導霊として有名なアモンはアガシャーの息子なんです。 このアモンというのが、アトランティスから逃れたんですね。まあここからいわゆる飛行船で逃れて現在のエジプトのほうへと逃げていったんですね。 もちろん、このとき、何人かの文化人たちを連れていきました。 こうしてアトランティスの文明というのが、いまから九千数百年前、一万年近く前に、エジプトの地に受け継がれていったのです。 けれどもそのあと、光の天使たちがまちがった宗教家たちのクーデターによって処刑されて、しばらくののち、アトランティスの大地を不調和な想念のくもりがおおったわけです。 そうしてやがて恐るべき天変地異が来たのですね。地球というのは、前にも言ったことがあるけれど、ひとつの生命体であってね。不調和な波動というのが地上をおおうと、地殻変動(ちかくへんどう)が起こるんです。 こういうふうなしくみになっているのですね。作用・反作用の法則になっているわけです。 それで、アトランティスを黒い想念体がおおったときに地上にやはり変化が起きて、アトランティスというのが一夜にして没したことになっています。 じっさいは三段階ぐらいにわかれたんですけれどもね。最後の島の部分が一夜にして没したわけです。そうしてまったく大陸というのが、影をひそめてしまったわけです。 そしていま、何千メートルの海底に沈んどるわけですね。こういうふうにして大きな文明が潰(つい)え去ったわけだけれども、そのころの光の天使たちの教えの一部分がエジプトに流れていきました。つまり、アモンによってエジプトに継かれていきました。 そしてやがてエジプトでもさまざまな光の指導霊たちが出て来ました。クラリオという神霊が出てきたし、そののちモーゼも出てきてるしね。エジプトというところはずいふん神理の種がまかれたところです。そりゃそうです。人類は大昔地上に来たときに、最初に着陸したのがエジプトであって、エジプトの地は昔から神理伝道の地であったわけですね。 12.日本人の源流ムー文明とインド洋のレムリア文明 さてそれがアトランティスの歴史ですけれども、アトランティスのもっと前にも文明がありました。 やはりみなさん聞いておられますけれども、ムー文明というのがあったんですね。これもやはりいまから一万五、六千年前に栄えて、だんだん消えていった文明で、太平洋にあったんです。現在のポリネシアのあたりを中心としてあったんです。 そしてこの文明もやはり沈没していきました。一部の島を残してね、そのムーの文明の子孫たちのうち、優秀な者たちがいまの日本に流れてきているんですね。日本人の源流です。 日本人というのは韓国から来ただとか、ネパールから来ただとかいろいろいっておるけれども、日本人のなかでのほんとうの知識階層っていうのは、このムーの大陸から来とるのです。そしてそののちやはり朝鮮とか中国からもいろんな人が来てまざったんですけれどもね。彼らはあとがら来た民族なんです、ほんとうは一万数千年前にムーという大陸から出てきたんです。これが日本人の源流です。ですからひじょうにレベルが高いのですね。 ムーの時代にもやはりさまざまな文明がありました。飛行機はありませんでしたけれども、船ですね、大きな艦船というのはあったのです。そして太平洋をずいぶん走り回っていました。こういう文明があったんです。 またムーの前にもレムリア文明がありました。これはいまのインド洋ですね。ここにも大きい文明がありましたね。ムーよりもっと前です。 13.現代人よ、現代文明を最高だと思うな こういったふうに人類史上では、けっして現代の文明というのが最高じゃないのです。何時(いつ)の時代にもね、ちょっと前をめくってみると、高い文明があるのです。 このように人類の文明というのは、山の峰みたいなものでね。あそこが高くなったりここが低くなったり。高くなったり低くなったりして続いてきているのです。 これが文明なんです。これが正しい文明の姿なのですね。 そして私たちは、ほんとうはここ数千年というような短い期間において活動したんじゃなくて、ほんとうの文明づくりの歴史というものは、じつは百万年よりももっと古いのです。 いま、北京原人だとか、あるいは南アフリカの原人ですか、ピテカントロプス・エレクトウスというのですか、こういうのが五十万年前だとか、百万年前だとか、いわれています。 あるいはヒマラヤの雪男が人類の祖先だとか、いろいろなこといわれていますね。けれどもそうじゃないんです。もっと昔からいるんです、人類というのは。もっともっと昔からいるんです。 「じゃあ、そんな昔にいるのに、どうしてその証拠がないのか」と。 「地面掘ったら石油ぐらいしか出てこんじゃないか」と。 あるいは「貝殻集めた貝塚ぐらいしか出てこんじゃないか」と。 「そんなの信じられるか。」というけれども、ほんとうのしくみはじつに巧妙なんですね。 じっさいに文明というのは、やはり洗いざらいというかね、新しく移るときにはひじょうに巧妙に過去の姿を消し去っていくのです。痕跡(こんせき)もなく。こういう歴史なんですね。 ですから、ほんとうは石油が出てくるような深いところにいろんな過去の文明が埋まっとるのです。そんな地表のほうにあるんじゃないんです。まあそういうことなんです。 まあ以上、今日は簡単に人類史を見てきました。新創世記って題でね。 全部は語りつくせませんでしたけれども。ほんとうの人類の歴史というのは、たかだかここ三、四千年じゃあありません。もっと古いんです。 そしてそもそも人類はどこから来て、どういうふうになったかというのは、またそれは機会をあらためて話すことがあるでしょうけれども、とりあえず地上のみなさんに言いたいことは、現代の文明が最高じゃありませんよ。過去にも現代ぐらいの文明はみんな通過してきた、経過してきた偉大な魂なんですよ。 心のなかをひもとけば、心の秘密をひもとけば、そういう叡知(えいち)がみんな眠っているんですよ。それを忘れちゃいけません。そして現代の文明のなかで胡座(あぐら)をかいておごってはいけません。 過去の宗教人たち、思想家たちは、みんな古い人だから、霊だとか魂だとか信じていたけれど、この科学万能の世の中で、そんなもの通用しないなんて知識人の多くは思っておるでしょうけれども、そうじゃないんです。それがまったく知識がない証拠なんです。 ほんとうの知識というのは、人類の文明にはなんどもなんども高い頂(いただき)があったんだということを、これを知るところから出発するんです。 ノアの洪水というような現象が起き、文明が押し流されて、一部の人だけが逃れていくという事件は、過去何回となくあったんです。 まずそれを知ってください。そしてそれを知ることこそ新しい文明を、これから創っていくためにひとつのきっかけともなり、原動力ともなるのです。 まずそうした正しい歴史観を持ってください。そうしたときに、これから二十一世紀にかけて新しい文明が起きてきます。その意味が、正しい意味がはっきり地上のみなさんにもわかるようになると思います。 ま、かけ足で見てきましたけれども、まあ新創世記ということで、まずお話をしました。明日は「甦(よみがえ)る仏教」ということで話をしたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/148.html
目次 1.福音の本当の意味は、「良き知らせ」ということである 2.良き知らせの第一 ― 神の国の訪れを告げる鐘の音 3.良き知らせの第二 ― 神理の言葉 4.サタンたちの「悪しき知らせ」に気をつけなさい 5.神のつくられた世界は山だと思いなさい 6.明治の時代の私は、羊飼として、声を大にして羊たちに行くべき方向を叫んだ 7.私をもっとも迫害した羊は、クリスチャンだった 8.明治期にキリストに対する信仰を確立するのが私の使命 9.戦争によって一流の人材を失った日本の損失 10.私の戦争反対論を、今、嘲笑する人がいようか 11.良き知らせの第三 ― 希望 12.希望の原理の第一 ― 今、偉大な人たちが生まれている 13.希望の原理の第二 ― これからまた、愛の時代がはじまる 14.希望の原理の第三 ― 霊性復権の時代がはじまる 15.地上の人びとよ、新しい時代の到来を信じて進んでいきなさい (一九八六年十二月二十一日の霊示) 1.福音の本当の意味は、「良き知らせ」ということである 内村鑑三です。今日は第八回、いよいよ最終回となりました。未来への福音ということについてお話したいと思います。地上の皆さんは、福音という言葉を聞くと、聖書、あるいは、キリスト教というイメージを持っているのではないでしょうか。 しかし、福音という言葉の本当の意味は何でしょう。福音とは、幸福の調べという意味です。英語ではゴスペルとも言いますが、よりわかりやすく言えば、グッド・ニュースということです。つまり、福音とは、良き知らせという意味なのです。 では、良い知らせとは、一体何でしょう。何をもって良い知らせというのでしょうか。地上に生きているあなたたちにとっては、たとえばお金が入ってくることが良い知らせかもしれません。出世することが良い知らせである人もいるでしょう。子供を生むことが良い知らせであるとか、あるいは、いい学校の入学試験に受かることが良い知らせだとかね。それぞれの人が、いろんな良い知らせを持っていることと思います。 しかし、本当によい知らせとは何かと言うと、それは、神の国からの通信なのです。地上にいるあなた方のほとんどは、霊の存在も不確かであり、また、霊というものを認めるにしても、聖霊とか、天使とかいうものが本当にいるのだろうかと不思議な気持ちだと思います。本当に天使からの言葉があるのだろうかという疑いの気持ちがあってもおかしくないでしょう。 しかし、そういう不確かな気持ちを振り払ってもらうためにも、私たちは、こういう形で、天上界から霊界通信を送っているのです。皆さん、これが、福音なのです。私たちは、正真正銘の天使なのです。そして、その天使が、あなた方に、今、書物という形を通して述べ伝えているのです。生きているときに私たちの言葉を聞けるということ。これが最大の良き知らせでなくて、一体何でありましょうか。 2.良き知らせの第一 ― 神の国の訪れを告げる鐘の音 良き知らせのなかには、三つの内容が含まれております。第一にそれは、神の国の訪れを告げる鐘の音です。イエスは、こう言いました。 「汝ら悔い改めよ。神の国は近づけり。神の国は汝らの手近かにあり。今ここに出現せり。神の国は心のなかにあり。汝らが心を入れ替えたときに、神の国は現われる。我は、神の国の出現を諸君に伝えんがために、現われたる聖者なり」 良き知らせ、すなわち、福音とは、まず第一に、神の国の到来を告げる調べなのです。鐘の音なのです。言葉なのです。 3.良き知らせの第二 ― 神理の言葉 第二に、良き知らせとは、神理の言葉です。人間は、地上で数十年の人生を生きていく途上において、本当に真実の生き方が何であるかということに関して盲目だと言えます。盲目のままに生きているのです。何が価値あることで、何が価値のないことかということがわからないままに、六十年、七十年の人生を過ごしてゆくのです。 ですから、この世を去って、私たちの住むあの世に来てはじめて後悔をする人の数は、数えきれません。そして、彼らのなかの多くの人は思うのです。「なぜもっと早くこの神理に気がつかなかったのだろうか。このことを知っていれば、私はこんなに迷わずにすんだのに」と。 また、宗教にしても同じことが言えます。死んであの世に還ってはじめて、気がつくのです。 「ああ、地上にこんなに真実の教えがあるのならば、なぜ神様はもっと早く、それを教えてくれなかったのか。私が接した宗教は、みんなまちがった教え、邪宗ばかりだった。それにこりて、宗教は、もう金輪際(こんりんざい)ごめんだ、二度と近づきたくないと思ってしまった。こんなまちがった教えが神の教えであるのならば、神などいないほうがましだと思っていた」 神は存在しないのではないかと、多くの人たちは思っていたのです。ところが、あの世に還って、真実の教えが地上にもあったことに気づく。だから、それを学はなかったことに関して、非常に後悔をするのです。ですから、死ぬ前に、生きているうちに、肉体を持った身のままに、神理の言葉に接するということが良き知らせであると言えるのです。 神理の言葉に接する。人生において、これほど意義のあることはないと思います。これほど素晴らしいことはありません。しかし、この良き知らせを受け取ることができる人とできない人との間には、非常に大きな差があり、谷間があるのです。 4.サタンたちの「悪しき知らせ」に気をつけなさい 人生の途上において、神理の言葉ではなく、まちがって、偽りの言葉を真に受ける人もおります。すなわち、これは良き知らせに対する悪しき知らせです。まちがったサタンたちの教えを奉じている宗教に属し、盲信、狂信のままにそれらを鵜呑(うの)みにして、まちがったままに人生を送った人たち、こういうあわれな人たちもいます。 こういう人たちは、良い知らせに接しなかったというそれだけの人よりも、もっともっと苦しい人生があの世で待ちかまえているのです。つまり、彼らは、マイナスからの出発だからです。神のほうへ向かう道を登り道だとするならば、彼らは、まちがって道を下っているのです。谷間まで下りてしまっている。ですから、ここからまた頂上まで登らなくてはならないということは、大変な苦労がいります。 しかし、たいていの人は、山道をしっかりと登っているのです。正しき教えに接した人は、一歩一歩着実に山道を登りながら、その頂上をめざしている。ただ、その途中で、近道があると思ってまちがった道に迷い込んでしまって、麓(ふもと)まで下りて来た人もいるのです。谷間のなかに下りて行き、沢のなかで迷ってしまう。彼らは、近道だと思って入った道が、大変な迷い道だったことに、あの世で気がつきます。しかし、その迷い道から抜け出して、また頂上をめざすのはなかなか至難の業です。 あなた方は、地獄という存在について、さまざまな疑問を持っているのではないでしょうか。神がなぜ地獄をつくったのか。なぜ地獄霊がいるのか。こういうことについて、疑問を持つと思います。 それは、すなわち、こういうことなのです。説明しましょう。神というのは、山の頂(いただき)なのです。神は、山の頂にいらっしゃるのです。そして、山を登って来ようとする登山者たちに対して、「頂上をめざせ。頂上こそ、あなたたちの来るところである。我が懐(ふところ)へ至れ」と、こう言っているのです。だから、何万、何十万、あるいは、何千万、何億、何十億の人たちが、頂上をめざして山を登っているのです。 ところが、なかには、けわしい山道を歩くのに疲れ果てて、もっといい道があるのではないか、もっと近道があるのではないかと、かってに地図を出していろんなことを調べはじめる人が出て来る。この道を行けば、きっと近道にちがいないと、脇道に入って行く人たちが出て来る。その結果、彼らは、山のなかに迷い込んで、頂上に登る道がわからなくなってしまうのです。 いったんは、道が下りはじめたことに気づいても、いや、これはひとまず下っているだけで、どこかできっと平坦な道に出て、頂上に通ずるにちがいない、と。そう思いながらも、いつのまにか下り道を下りはじめて行くわけですが、そうするうちに、もと来た道もわからなくなってしまう。帰るに帰れなくなり、孤立して、孤独になり、迷っていく。これが地獄なのです。 5.神のつくられた世界は山だと思いなさい ですから、神のつくられた世界は、山だと思えばいいのです。すなわち、神理の道とは、その山を登るための山道なのです。 それでも、途中で脇道に入って、獣道(けものみち)とかね、そういうところに入ってしまって、迷う人が出て来る。そういうところに迷うというのは、迷わすのがおかしいのではないかという人がいるかもしれません。しかし、道を踏みはすしたのはだれですか。それは、その人たち自身ではないですか。頂上をめざすのに、どの方向を選ぶ。それは、登山者の自由です。正規のルートをはずれて、かってにちがう道に入って行ったのは、自分自身に他なりません。そして、山に迷ってしまっているのです。 また、神様というのは、山をすべて禿山(はげやま)にして、山道を頂上まで登れるように舗装して、きっちりしておくべきだという人もいるかもしれません。ただ、山登りの醍醐味(だいごみ)というのは、大自然のなかを歩んでいくからこそ素晴らしいのです。頂上までのまちがいない道ということで、アスファルトで舗装してしまったからといって、それでいいわけ てはないのです。 また、今の時代にはケーブルカーというものがあって、それに乗れば、もちろん、頂上まで早く着けるでしょう。しかし、ケーブルカーに乗ってしまったのでは、山登りの本当の素晴らしさがわかるでしょうか。大自然の本当の素晴らしさはわからないはずです。第一、そういうことでは、あなた方の足腰は強くなりません。 山道を歩く。歩きながら足腰を鍛える。汗を流して、峠、峠でひと息つく。弁当を広げ、お茶を飲む。そして、皆んなと語りあいながら、また登って行く。こうであってこそ、素晴らしい人生だと言えるのです。それを、ケーブルカーに乗って、横着(おうちゃく)にも山を登って行こうなどとすると、頂上まで登ったと思っても、そこで扉が開かないでしょう。なぜならば、まだ、何の修行もしていないからです。 「あなたは、もう一回麓まで行って、他の人たちと一緒に登って来なさい。他の人は一生懸命山登りをしようとしているのに、そなたひとりが楽をして、ケーブルカーに乗って来ようとは何ごとであるか。もう一回、麓まで降りて、そこから登って来なさい」と神に言われてしまうでしょう。 そういうことであって、悟りには、決して近道はないのです。これが、良き知らせの第二番目の意味です。良き知らせの一番目の意味は、先ほども言いましたように、神の国の到来を告げる鐘の音です。そして、第二番目として、神理の言葉、真実の言葉、これが良き知らせです。では、良き知らせの三番目とは何でしょう。三番目の意味は、希望です。 6.明治の時代の私は、羊飼として、声を大にして羊たちに行くべき方向を叫んだ 人間の数十年の人生において、苦しみのない人生というのはありません。どんな人間にも苦しみがあり、悩みがあるのです。あなた方は、内村鑑三には、苦しみ、悩みがなかったと思いますか。 私の過去世のエレミヤには、悩み、苦しみがなかったでしょうか。エレミヤは、神理が廃(すた)れると国が滅びる、バビロンの勢力が攻めて来て、国が滅びるとの警告をつねづね発していた神の預言者です。エレミヤは、何度も捕まって、迫害を受け、瀕死の重傷をおったこともあります。命からがらでした。その命をかけて、神理の伝道をしたのです。その苦しみ、悲しみたるや、余人の理解できるところではありませんでした。 では、内村鑑三の人生はどうだったのでしょうか。私が、刻苦勉励(こっくべんれい)、努力の人生を生きたことは、もちろん、確かです。一九〇〇年代後半のあなた方の目から見れば、内村鑑三は、歴史に名前が残っていないじゃないかと思うかもしれません。あるいは、教科書にも名前が載っているとはうらやましいとも思うかもしれない。しかし、内村鑑三の人生は、それほどなまやさしいものではなかったのです。 神理を守らんとするほど、世の風あたりは強くなります。あなた方は、世の中が平和で、人びとはやさしく、常に理解があると思っているかもしれませんが、平和なときには草を食んでいたような羊たちが、困難なときが来ると狼にならないとはかぎらないのです。いや、実際、過去にいくたびも、羊が狼に変わってきた。皆んな、自分が満ち足りて生きているときには、それぞれを尊重して生きているように見えても、いったん、危機のときになると、彼らはまちがった方向へと進んでいくのです。 あるいは、羊たちがまちがって谷底へ落ちて行くような方向へと群れをなして行こうとする。そこで、羊飼があわてて、「そちらへ行ってはいけない。こちらへ来なさい」と大声をあげる。ところが、羊飼が一生懸命叫んでも、羊たちは、羊飼を狼だと誤解して、メェーメェーと罵倒しながら、彼に足で砂を掛けてね、ドドッと谷底へと転がり落ちていく。そういう時代なのです。 私のときも同じでした。羊たちが谷底へ向かって進んで行くから、私はその方向へ行ってはダメだと言うのですが、彼らはみすみす谷底へと突き進んで行くのもいる。私は、声を大にして叫びました。「そちらへ行けば狼がいる。狼のほうへ行ってはならぬ。あなた方は、命を失うであろう」と。しかし、羊たちは私の言葉に耳をかさない。「狼はやさしいお兄さんです。きっと私たちを食べものの多いところへ導いてくれるにちがいありません。私たちを敵から守ってくれるはずです。なぜならば、狼は強いからです」とこういうことを言う。こうして、私の言葉を信じずに、狼のいる方向へと逃げていった羊たちがたくさんおりました。愚かといえば愚かです。 しかし、この羊飼と羊たちのたとえ話をよくあてはめてほしいのです。羊の数は多い。どの時代においても、羊たちはたくさんおります。現代にも、羊はたくさんいる。ただし、羊飼は多くはないのです。羊飼はひとりで何百頭もの羊を飼っているからです。ですから、羊が散り散りばらばらに別れたり、羊がかってな方向に向かって行くと、羊飼は大変な努力、労力を要することになってしまう。こういうことなのです。 7.私をもっとも迫害した羊は、クリスチャンだった 私が声を大にして叫んだのも、私の羊が散らされるのを恐れたからなのです。しかし、羊たちは、私の声を理解しようとはしませんでした。その羊たちのなかには、もちろん、無神論者の羊もいたし、戦争論者の羊もいた。あるいは、キリスト教会という仮面をかぶった羊もおり、クリスチャンという名の羊もたくさんおりました。 そのなかで、私をもっとも迫害したのはだれだったのでしょうか。それは他ならぬクリスチャンたちでした。「内村の言うことはおかしい。あれは国賊だ」と。しかし、彼らは真実のキリストの教えに触れていたのでしょうか。真実のイエスの言葉に接していたのでしょうか。 かつて、私が不敬事件を起こし、教育勅語に礼をしなかったということでもって、国中が私を国賊扱いをしたことがありました。そのときに、こともあろうに、クリスチャンまでもが、私を同じように扱ったのです。 彼らの主は、イエス・キリストだけのはずです。彼らの主は、生きている人間天皇ではないはずです。それにもかかわらず、キリスト教会の多くの者が、クリスチャンたちの多くが、内村鑑三をなじったのです。「彼は国賊なり」「我ら教会は関知せぬなり」「彼は国賊でかってなことをやって、不埒(ふらち)千万な奴である。輩である」と。こういうことを言ったのです。 「じゃあ、あなたたちの主は、一体だれか。明治天皇なのか、それともイエス・キリストなのか、答えられるか」 「いや、明治天皇は明治天皇で、いわば、カイザルであろう。カイザルのものはカイザルに返せ、神のものは神に。だから、私たちの信仰は、イエス・キリストにあるけれども、現世的には明治天皇が現人神(あらひとがみ)みたいになっているのだから、それはそれで尊重せねばならぬ」 一見、合理的に見えます。イエスも税金は収めなさいと言っています。ですから、同じように聞えるわけです。しかし、実際には、ちがうのです。 天皇制って何ですか。天皇制というのは、一種の神です。伝統的な宗教であり、神なのです。しかし、私たちは、唯一の主イエス・キリストを主として仰(あお)いだ以上、二主に見(まみ)えることはできないのです。下僕の主人はひとりです。先生はひとりでいいのです。先生が何人もいたら困ります。 もちろん、だからといって、他の先生がまちがっているわけではありません。他の先生には、その先生のよさがあり、他の先生にはその弟子たちがいるでしょう。しかし、我が主はひとりです。イエスが我が師であるのならば、主を二人持つことはできません。また、妻にしても同じです。二夫に見(まみ)えずと言います。夫はひとりでいいのです。何人もの夫に仕える必要はないのです。 同じことです。ですから、あなた方の師はひとりでいいのです。ひとりの師に一生懸命、真剣にその身そのままを投げ入れていったならば、なかなか他のことなどにまで気が廻らないはずです。 8.明治期にキリストに対する信仰を確立するのが私の使命 明治期において、本当にキリスト教というものを布教し、人びとの間に広めようとするならば、安易にあちらの神様、こちらの神様もと奉っていいことではなかったわけです。これは、あなた方が行なおうとしている万教帰一の教え、あるいは、すべては神の教えから来ているということを、もちろん否定するものではありません。あなた方のやろうとしていることは、そういう時期が来ているから、だからこそ、そういうことは大事なのです。 ただ、私が言っているのは、その前の段階としてのことです。すなわち、正しいキリスト教を日本に根づかす段階においては、まず主キリストに対する信仰というものを確立することが、何にもまして大切なことだったということです。それなくして、現人神みたいな生けるキリストみたいのを崇めてしまうのは、これはまちがっていた。その人そのものを尊敬するのはけっこうだったのですが、その人そのものではなく、その人が書いたと称される教育勅語のようなものに頭を下げなければ国賊扱いにされるような世の中だったわけです。そういうのは、いくら何でも、どこかおかしかった。それも、そのはずです。私たちが頭を垂れるのは、イエスの教えだけなのです。聖書だけなのです。私はそう思います。 9.戦争によって一流の人材を失った日本の損失 私は、日清、日露の戦争にもずいぶん反対してきました。しかし、国中がそれに酔いしれていたのです。というのは、日露戦争、それから第一次大戦、こうしたものに参加して、国中が戦勝ムードに酔っていた。その結果、どうだったのでしょうか。日本の傲(おご)りが第二次大戦に突入する契機となり、その結果、かつて戦勝で殺した人よりはるかに多くの人たちが、日本の国のために虐殺されたはずです。 第二次大戦のなかでどれだけ優秀な方が亡くなったと思いますか。あのときに亡くならなかった人材がいたならば、日本の繁栄はもっと素晴らしかったかもしれない。優秀な方から順番に死んでいってしまったのです。当時二十代、三十代という青年が亡くなっている。戦争中に二十代だった人は、現在四十年たって、ちょうど六十代。社会のなかで、今や最高部を占めている方々です。ですから、彼らが生きていれば、日本の現在の経営者、政治家、官僚たちのなかに、そうした超一流の人材がいたはずなのです。ところが、彼らのほとんどは、戦争で死んでしまった。この惜しむべき損失というのは、何ものにも変えがたいものです。 現在、会社の社長だとか、政治家だとか言っていばっているけれども、一流の人材が皆死に果てたあとでいばっているのです。本来ならば二流の人材に甘んずべきところが、一流の人材が皆死んでしまったために、現在日本を牛耳(ぎゅうじ)っているのです。その結果、日本は衆愚政治となり、日本の経営のなかに素晴らしい精神が失われてしまったのではないでしょうか。事業経営者にしても、産業界の人びとにしても、金儲けばかりに走っている。世の中の精神的支柱になれる人は、一体どれだけいるのだろうか。その点をよく考える必要があります。 いつの時代にも、精神的な支柱となれるような人というのは、一定の数はいるのです。しかしそういう人たちのほとんどが、第二次大戦で亡くなってしまった。だから、現在六十代、七十代で、日本のいろいろな産業界、あるいは、政界、学界で牛耳っている人たちは、一流の人材が死んだ後の人たちなのです。大きな顔をしているけれども、現在の日本が停滞している原因は、あなた方のなかに、国の精神的支柱になるための心思(しんし)の力、すなわち、心と思いの力がないからです。その点をよくよく反省しなくてはなりません。 そして、日露戦争、第一次大戦で戦勝国のムードを味わったという思いあがりがどれだけ大きな代償を生んだかということを、よく考えてごらんなさい。その損失は、非常に変えがたいものだと言えます。 10.私の戦争反対論を、今、嘲笑する人がいようか では、私か警告した戦争反対論というのは、単なる理想論であったのでしょうか。当時、私は言いました。戦争してはならん。イエスの教えのもとに愛さねばならん。敵を愛せよとイエスは言った。右の頬を打たれれば左の頬を出せと言った。このイエスの教えから見て、こんなことは許されない。戦争などということはあり得ない。敵と戦うなどということは許されんことだ、と。こういうことを私は言いました。 しかし、世間は、私を理想論者だと嘲笑(あざわら)いました。そして、外国に攻めて行って朝鮮を奪い取ったり、台湾を奪い取ったり、あるいは、満洲を奪い取ったりして、勢力拡大したと、皆んなが喜んでいたのです。 ところが一方では、ソ連に千島列島を奪い取られたと言って、北方領土返還を一生懸命やっている。何の産物を生まないような島でさえ、取られて悔しいのです。それなのに、彼らの苦しみが、わかっているのだろうか。台湾を取られ、韓国を取られ、満洲の大きなところを取られた彼らの悔しさが、わかっているのだろうか。それは、正(まさ)しく侵略軍が来て、住んでいるようなものなのです。沖縄の返還もあったけれども、彼らの気持ちからすれば、九州を占領されたり、北海道を占領されたり、四国を占領されたのと同じ気持ちだと言えます。韓国人や中国人の彼らの気持ちに立てば同じことです。 たとえば、現在、あなた方は、ソ連に四国を占領され、アメリカに九州を占領されていい気持ちがしますか。アメリカの人たちが、九州を占領して、そのお陰で日本の国産の食べものが安く手に入ると喜んでいるのを見て、それでよしと思いますか。その点をよく考えてごらんなさい。つまりは、人の立場に立ってわからない人間ばかりがいたということです。そして、それが世論でもあり、論調でもあったということです。植民地を増やすということは、国の栄光であり、繁栄であると思っていたのです。 相手の立場に立つことをわからない人間、愚かな人間は、やがて狼に食べられるようになるのです。そして、第二次大戦という徹底的な敗北が来ました。このように、世論というものは、必ずしも正しいものではないということです。 従って、あなた方が生きていくなかにおいても、世論とあわないことがけっこうあるでしょう。しかし、それに迎合してはいけないのです。真実というものは、いつも孤立するように見えることがあるけれども、時代を越えて、やがて必ず認められるのです。そのことがあるということです。ですから、そういう苦しい面もあるけれども、それをしっかりと乗り越えていかなくてはならないということです。 11.良き知らせの第三 ― 希望 今日は、「未来への福音」という題での話ですから、福音の話をしてきたわけですが、未来の福音ということで残りの時間、お話をしていきたいと思います。まあ、八日間しゃべってきて、地上の皆さんには、ずいぶん厳しいことも申し上げました。しかし、未来に関してのやはり素晴らしい福音、良き知らせや、希望の原理がなかったとしたら、そのなかで、やはり元気を出して生きていくことができないでしょう。福音とは、希望の原理でもありますから、それを聞いて人びとが奮い立ち、希望を持つようでなければ意味がありません。 そういうことで、三番目の希望の原理ということを中心にして、今後、これから未来への福音という話に入っていきたいと思います。先日も話をしましたけれども、ノストラダムスか何かの例を出して、これからエホバが大地を打つときが来るという話をしました。そして、災難のなかで、人びとが逃げ惑うときが来るということを私は警告しました。しかし、それだけであってはいけないでしょう。ですから、ここで、私は、希望の原理を述べ伝えましょう。 皆さん、これからこの世的には、どのような不幸なできごとが起きたとしても、それを非常に冷静に受け止めてほしいのです。たとえば、火山の爆発があろうとも、大地震があろうとも、津波が襲ってこようとも、あるいは、日照りや旱魃(かんばつ)が続こうとも、また、ある地域で核戦争が起きようとも、ただそれでもって、この世の終わりだと言って、極楽往生だけを願うようなあなた方であってはなりません。 あなた方は、この地上に生きているなかにおいて、やはり希望の光というものを見い出していかなくてはならないと思うのです。さて、その希望の光、希望の原理、未来への福音は、一体どこにあるのでしょうか。私は、この未来への福音のよりどころを、未来への希望の原理のよりどころを、また三点に求めたいと思います。 12.希望の原理の第一 ― 今、偉大な人たちが生まれている 未来への福音の根拠、よりどころの第一点は、今、歴史上かつてなかったような、偉大な人たちが地上に生まれているということをまず知りなさい、信じなさいということです。たとえば、インドには、何回、何十回と転生した方がおります。しかし、インドに釈迦が生まれたときに弟子として生きられた人たちは、本当に恵まれた、運のいい人たちだったはずです。そういう時代に生まれあわせようとしても、なかなかそういうことができるものではありません。 また、ユダヤの地に歴史上生まれた方はいくらでもいるでしょう。しかし、そのなかにおいて、イエスの声を聞くときに生きられた人びとの数は少ないのです。私がエレミヤとして生きていたときもそうでしたが、預言者の肉声を聞くという機会に接した人も数少ないはずです。その前には、ゼウスやアポロンの時代もあったでしょう。そうした時代に生きられた人も、数少なかった。 しかし、あなたたちは、今、神の栄光のある時代に、地上に生きているのです。ですから、自分たちが生きているということを知らなければなりません。そうしたおおいなるときに、偉大なるときに、自分たちが生まれあわせているということを信じなければいけないのです。これが、まず第一の希望の原理です。 過去に、どれだけ転生を繰り返してきたとしても、こうした機会に恵まれることは、めったにありません。しかし、今、モーゼのときよりも、ゼウスのときよりも、ブッダのときよりも、また、イエスのときよりも、大きな奇蹟が、おおいなる法が、説かれる時代が来ているのです。ですから、この時代に生まれあわせたこと自体が、ひとつの福音ではないでしょうか。そしてまた、ひとつの希望の原理ではないでしょうか。私はそう思います。 今、おおいなる人びとがたくさん出ています。数多くの光の天使たちが、今、地上に出ているのです。とくに日本にはそうです。数多くの如来や菩薩が肉体を持って、今、出ています。ですから、こういう素晴らしい時代に、現在、生きているということを、あなた方は、嬉しいと思わなければいけません。まず、これが希望の原理の第一です。 13.希望の原理の第二 ― これからまた、愛の時代がはじまる 希望の原理の第二は、これからまた、愛の時代がはじまるということです。つまり、互いに愛し、愛される、愛の時代がはじまっていきます。愛というものが何よりも価値のある時代が、これからはじまるということなのです。 今の時代は、試験だとか、コネだとか、財産だとか、名誉だとか、あるいは、地位とか、うわべだけのいろいろなものに人びとが惑わされております。しかし、これからの時代は、愛の時代であり、愛の多さが人びとの偉さを測る時代となっていくのです。愛多き人が、愛深き人が尊敬され、人びとの上に立ち、人びとを導く時代となって来ます。これからは愛の時代です。そして、愛の時代に生まれあわせたということが、またひとつの希望の原理ではないでしょうか。 では、愛とはどういうものでしょう。愛とは、すなわち、相手のなかに自分を見い出し、自分のなかに相手を見い出していく道なのです。共に兄弟であるということを発見する道なのです。あなた方は、とくに親しい人だけが、お友だちであり、兄弟であるかのようにつきあっているのでしょうが、すべての人が手を携えて生きていける時代がもうすぐそこまで来ております。はじめて会った人とも、百年の知己(ちき)のように楽しく、安心して語りあえる時代が、もうすぐ来るということです。愛の時代です。共に神の子として、喜びあう時代が、もうすぐそこまで来ているということです。共に神理を学んでいるものとして、喜びあう時代が、もうすぐそこに来ているということです。そういう時代が確実に来ることが、すでに予定されているのです。 こうした時代が来るということ。愛の時代に生き、お互いに高めあう時代に生きられるということを、あなた方は喜ぶべきです。それは、ひとつの希望の原理です。ひとつの希望の光であり、地上の光なのです。そして、こうした愛の時代がこれから来るということを、私は、今、繰り返し述べ伝えているのです。 あなた方は、未来の方向で、一体何を努力すればいいのか。つまりは、より多くの人を愛する方向で努力してゆきなさいということです。より多くの人びとのなかに自分の分身を見い出し、自分のなかにより多くの人びとの心を見い出していく。心と心が共感しあい、共振しあう。共に悲しみ、共に苦しむ。共に喜びあい、共に励ましあうような、そして、共に労(いた)わりあい、共に親切にしあい、また、共に慰めあうような、そうした時代がもうすぐやって来ます。この愛の時代の到来ということを信じなさい。そのなかに、あなた方にとっての真の救いがあります。 14.希望の原理の第三 ― 霊性復権の時代がはじまる 希望の原理の第三は、これからは、新たな霊文明が訪れるということです。ここ百年の歩みを見ると、どうも唯物的に時代が流れ、霊を否定するような動きがありました。しかし、これからの時代は、霊を知ることこそが知識人の仕事であり、それが最先端になる仕事になってゆきます。 霊を知り、あの世の世界を知り、実在界を科学することこそが、学問の最先端であり、科学の最先端であり、また、人びとの心の勉強の最先端である時代がやって来ます。これから、霊性の時代が来ます。おおいなる霊性の時代が来るのです。かつて、イエスの時代や釈迦の時代にあったような、霊的に大きく目覚めた人びとが、真に霊的に目覚めた人びとの出る時代が来ます。 科学は、もちろん、ますます発達していくでしょう。しかし、それ以上に、霊的知識と、その霊的知識の伝幡ということが、日本を、世界を覆っていくでしょう。そして、霊性の復権、霊性の発展、霊的生き方の素晴らしさというものが、人びとの間にだんだん浸透していくでしょう。これからは、霊性の時代へ入っていきます。これを喜びなさい。これもまたひとつの福音なのです。 15.地上の人びとよ、新しい時代の到来を信じて進んでいきなさい 未来への福音として、私は三つのことをあげました。偉大な人物が、今、出ているということ、偉大な光の指導霊たちが出ているということをまず知リなさい。これが第一でした。第二番目の福音は、愛の時代がこれから到来するということです。そして、三番目は、これからは霊性に目覚めた人びとが出て来る霊的時代、精神的時代へと入って行く、すなわち、心の時代へと入って行くということです。これが、より多くの人たちにとって、おおいなる福音となるでしょう。偉大な光の子が生まれ、愛の時代が到来し、霊性の時代に入って行く。精神の世界に入って行く、精神世界へと人びとが踏み分けて行くということです。そういう時代が来るということです。 その到来を告げることができた私は、かつてのエレミヤのように、あなた方に預言者として、あの世にありながら、この言葉を伝えることを本当に嬉しく思っております。地上の皆さん、どうか努力して下さい。そうした時代、新しい時代の到来を信じて、一歩一歩を進んでいきなさい。そのなかに、希望の光が見えてきます。そして、そこにあなた方の本当の幸福があるはすです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/291.html
目次 1.金星人 2.オリオン星人 3.ベーター星人 4.M27とM36 5.大宇宙の救世主 (1988年1月14日の霊示) 1.金星人 さてみなさん、大サービスの章がやってまいりました。いよいよ宇宙人です。みなさんこれが知りたかったでしょう。宇宙人とは何か、ね。宇宙人もアダムスキーの宇宙人論とか、アメリカなんかいっぱいね、宇宙のこと言っとる人いっぱいいます。日本人でも宇宙人のこと言ってる人、結構いますね。ま、でも言ってる人がほとんどおかしい人ばっかりですから、何がなんだかわかんない。 また、宇宙人好きな人で霊が好きな人もおるし、宇宙人は好きだけど霊が嫌いだ、霊は好きだけど宇宙人は嫌いだ、まあこういうのもいるし、霊も宇宙人も嫌いだ、まあこういうふうにありますねえ。両方ありますが、まあ多少霊的なものに興味のある人は宇宙人にも興味があることが、一般には多いと言えましょう。ただ霊が好きな人でもまともな霊が好きな人は、宇宙人をいやがる傾向もあります。まあ、そういうこともありますねえ。 さて、金星人という話をしたいと思いますね。みなさんは、おそらく『太陽の法』を読まれておると思いますから、えー昔ね、金星に金星人がいたっていう話は読まれたと思いますね。そしてその姿は上半身が百合(ゆり)の花のようで、下半身が人間であった。そして光合成をして、そしてその光合成のエネルギーによって生きておったようである。こういうふうに書いておったと思いますね。 そんな半分植物、半分人間だったのかって、そんなたまったもんじゃないって言うけど、まあ考えてみりゃそういうこともあり得ますわね。ねえ、植物は植物で動かない、動物は動物で動き回っとるっていうけど、両方合体させたら面白いじゃないかって、そらあり得るわね。エネルギーを得て、で、自由に動ける。面白いですね。ま、そういうのもあり得ることですね。 これ以外にも金星人としていたものはありました。これは非常に少数ではありましたけども、この百合(ゆり)星人と言いますかね、百合の花のような金星人が長い間おったんだけども、彼らは非常に命が長くて死なない、事故がない限り死なないという状況であったんで、非常に長い間生きておったけども、停滞しておったと。まあこういうことで、金星でもまた新たな生物といいますかね、知性体を創る試みはあったんですね。それで今から十億年ぐらい前でしょうかね、そのあたりからそうした試みもありまして、いくつか創ったことがあります。そういう知性体をね、創ったことがあります。 ですからそういう植物兼動物のような、植物兼人間のような金星人、これは結構何百万体もいたんですが、これ以外に非常に身長の小さい金星人もいました。一メートルいくらぐらいのね、小さい金星人もいました。彼らは非常に頭でっかちでした。知性的な面、相当重視しましたが、肉体面が弱くてあまりうまくいかなかったんですね、この金星人は。 お釈迦様の前の生命体が金星で指導霊やっておって、あの人は頭のいい方ですから知性を非常に重視したんだけど、頭が大きすぎて重すぎて地上生活に適さなかった、まあこういう金星人がいっぱいできまして、これもそんなに栄えなかったですね。まだその末裔(まつえい)は多少おるかもしれませんがね、おるようですがね。多少おるようですが、まあほとんど少数でアイヌ人みたいなもんで、非常に少ないですね。そういう感じであろうかと思います。 これ以外に金星におるかということですが、いわゆる宇宙人の基地が金星にはありまして、地上に来て金星人だと名乗っておる者の中には、金星を基地としてね、活動しておる者がかなりおるんですね。金星人そのものじゃないんですが、もっとはるかな遠いところから来ておるけれども、金星を基地にして来ておる者がおって、そうした者は金星人と名乗ったりしています。その中には、地球人と非常によく似た種類の人たちもいます。本当に男女とも地球人そっくりに近い者もいます。ほんとにいます。だから一部分修正するだけで、整形手術したりね、隠すだけで地球人とおぼしき者もおります。 また、一部のそういう宇宙からの通信等の話を聞けば、そういう金星人みたいな人が人間の人類の中に入って住んでおると、まあ、こういうふうな報告もあるだろうと思うんですね。 実際はどうかって言うと、いることはいるんですね。ほんとにいることはいるんです。ごく少数です。数名ぐらいでしょうかね。数名ぐらい地球の五十億の中に混じり込んで肉体修行やっておるのがおります。実際に整形手術なんかして地上人そっくりに切り換えしてね、住んどるのがおります。だから自分の亭主だなんて思ってたら金星人だったりね。妻だなんて思ったら金星人だったりして、意外にこの本読んでうなずいてるあなたが金星人だったりしてね。まあそういうこともあるかもしれませんが、非常にそういう地球人とよく似た姿、形をした金星人もおるように思いますね。 その中には他の星から来た者かおるということと、あと金星に住み着いておる、ステーション作って住み着いておる者の中にね、第二世代、第三世代がおるんですね。たとえば日系二世とか、三世とかいうのがおるように、ステーション作ってからの二世、三世もおるんですね。こういう者は自称金星人を名乗っております。この金星の宇宙ステーション、あるいは宇宙人たちの姿については、やがて明らかになっていくでしょう。ここ数十年の間におそらく明らかになってくるであろうと思います。 金星というのはそういう意味で太古から霊的磁場の中心であった、こう言えますが、これ以外で太陽系で、木星人というのがおったこともあります。だけどこれはね、現時点ではもう生きている者はおりません。霊体としては木星人もまだおりますが、現時点では生きてません。 この木星人は今からおよそ、そうですね、まあ二十億年前から七、八億年前ぐらいまで生きておったことがあります。これも木星そのものじゃなくて、他の天体から飛んで来て住んでおったことがあったんですね。その形は非常に爬虫類によく似た形でありました。姿、形を言えば爬虫類に似ておる。全長三メートルぐらいの、まあ、ワニと恐竜なんかに似たような形でありましたが、高度な知性を持ったワニ、あるいは恐竜のような形でありましたね。だからワニ皮のハンドバッグなんか持ってる人は、よくよく反省しなきゃいけないですよ。昔、こんなとこ住んでたかもしれませんよ。ほんとは、懐かしくてワニ皮ばっかり愛してたりして。そういうことがあるかもしれませんね。ま、そういう生物もいたことはあります。 ま、これがだいたいなんて言いますかねえ、金星人、まあ木星人も入りましたが、だいたい金星人の話です。 2.オリオン星人 オリオン星人なんて言うと、ウルトラマンかなんかみたいな感じがみなさんするでしょう。オリオン星って言いますねえ、星座、オリオンというのがあって、まあ有名ですが、ここにもおるんですね。知性ある生命体がおります。 オリオン星座の人は非常に詩人が多いですね。詩的な魂です。芸術家たちが集まっておるんですね。芸術的魂がここから出ておることが非常に多く、住んでおります。その姿は非常に優美な姿をしております。 オリオン星人の姿というのをこの世的に表現すると、非常に天使の姿に近いです。私たちが天使と呼んでおる姿に近いです。もちろん手、足があることはあるんですが、羽が生えておることが多いです。羽が生えておるオリオン星人がね。ですから羽が生えておる天使が、竪琴(たてごと)かなんか奏(かな)でてるようなのをみなさんはギリシャ神話かなんかで見られたかもしれないけれども、まさしくそういう感じがするんですね。非常に芸術性の高い魂が多い。まあ体の大きさそのものはいろいろです。一メートル台から三メートルぐらいまであるのもおります。いろいろですが、天使の姿によく似ている。まあこういう星人がおりますね。 オリオンからも、地球にも多少は来ておらんこともありません。多少はいることはいますね。でもただ、オリオンからは肉体舟(にくたいぶね)で来るよりは、魂として地球に来た人がかなりいるように思います。魂として地球に来た人がいる。芸術家的な、非常に芸術家的な傾向を持った人は、オリオンから来た人が多いです。詩人であるとかね、芸術家、画家、音楽家、そういう素質が非常に強い人はここから来た人が多いです。 まあ、なんか名前から言っても芸術的な響きがある星ではないのか、まあこういうふうに思いますね。彼らは羽が生えておるけども、面白いことに羽が生えておって、空を飛べるオリオン星人と飛べないのがおるんですね。 飛べるのと飛べないのがおって、空を飛べる方が支配階級なんですね。で、空を飛べないのが奴隷階級になってます、ここはね。だからより高度な芸術家のために尽くすのが、空を飛べないオリオン星人ですね。これらは羽がちょっと小さいです。鶏の羽じゃありませんが、ちっちゃな羽になってますね。で、生まれつき大きい羽を持ってるのがおりますね。だから大きな羽持ってる者どうしがだいたい子孫創っていって、一種の貴族階級創っとるんですね。天使の貴族階級創っておって、彼らの芸術的な才能に奉仕するために羽の短いのが、だいたいあまり空を飛べないぐらいの天使みたいな形したのが仕えておる。まあこういうふうに言うことができると思いますね。 だから地球にあって霊界での天使という姿がよく言われてますが、これは霊体として来たオリオン星人たちの姿をみなさんよしと思われて、そしてまねをしてだんだんそういうものを創っていったことが多いんですね。まあそういうふうにだいたい思って間違いないんではないでしょうか。私はそう感じますね。 3.ベーター星人 まあ、これもSFかなんかみたいで、みなさん笑っちゃうかもしれませんが、べー夕ー星っていうのを私何度も言いましたが、これが母星です。地球の母星でございます。ベーエルダ星とも言いますが、ここから、だいたい今から三億数千万年前に、私を中心とした巨大言団が円盤に乗って移って来たんです。そこの星人の姿については多少前に話をしたかもしれませんが、地球人とそう変わらないサイズであったかもしれません。ま、違ってた部分でね、多少しっぼがあったとかね、耳がとんがっておったとか、まあそういうことを言いました。宇宙服着て飛んで来ました。 ベーター星の景色についても前にちょっと話をしたと思いますが、ま、非常に高度な星でありましたし、科学技術は非常に進んでましたね。それは地球の比じゃないです。科学というのは、まだまだみなさんね、五十倍も百倍も進む可能性があるんですね。そうしてくると、今なんか当然と思われないようなことがね、みんな当然になってきますよ。 みなさん今、空間移動するのに時間かかることは当然だと思ってるね。通勤に一時間半かかるの当然だと思ってますねえ。四国から東京へ来るのは大変だ、ね。秋田から東京へ来るのも大変だ。まあこういうふうになりますね。四国から東京へは日本エアシステムが飛んでるけども、秋田から東京へは全日空が飛んでおるとかね、まあこうぃうふうにいろいろ種類はありますが、大仕事であることは事実ですね。ただそうした大仕事をみなさんよしとしておられる。ところが科学技術が発達するとね、全然違ってくるんですね。 たとえば今空港へ行って、東京とその地方とを結ぶとて時間程度かもしれないけども、この空港まで行くだけで一時間以上かかったりする人いっぱいいるね。空港まで一時間半、成田や羽田でもそうだろ。一時間じゃ行けないなあ、空港までね、一時間、二時間かかっちゃう。空港まで一時間半で空港から三十分とかね、一時間とかいうことが多い。こういうのバカバカしいですね。 そうすると未来型のこういうべー夕ー星人たちはどういうことやってるかっていうと、たとえばここが地球がべー夕ー星だとして、羽田から、羽田発でね、どこでもいい、九州でも行くとしようか。九州に行くとする。そうするとそういう航空券買うね。羽田から九州行き買って、それがたとえば午前十時発としましょうか。そうするとどうなるかって言うとね、もう十時ちょっと前には空港からお迎えが来るんですね。ピューンとお迎えがね。個人お迎え飛行機みたいなのが来て、個人乗りのね、一人乗りロボットつきのね、個人お迎えみたいなのがピューンと飛んで来るんだ、自宅までね。自宅まで飛んで来て、ピューンと飛んで来て窓の外で止まっとるんだ。「あっら、もうお迎え来ちゃった」というんであわててネクタイ締めてね、ヒョイッと飛び乗る。そしたらシューッとね、羽田まで飛んじゃうんですね。シューッと一瞬ですよ。アッという間ですよ。シューッと行っちゃいます、ね。ほんの五分です。五分ぐらいでシュッと行っちゃう、ね。そういう中型、小型機だな。小型機迎えに来て、自動的にお迎えに来てシューッと帰っちゃう。こういうのが来るね。 それが今だと、まあ朝の四時起きだとかねえ、何時起きだとか言って、地下鉄乗って中央線乗って、東京駅出て、浜松町駅行って、あなたモノレール乗って行くんでしょ。大変だ、ね。こんなのブーブー言うとる。こんなの解決されますね。当然のことです。 それから弾丸列車みたいなの、もっとできますね。地下にチューブみたいなのができてね、ある点、ある都市、東京と大阪なら東京と大阪を重力みたいなもんでね、引っ張るような感じの弾丸列車が地中を走るんですね。 東京から発車して、地下へ向かってシューッと降りていくんですね。ジェットコースターの原理みたいです。それでその余力でもって大阪までシューッと上がっていく、ね。大阪から出てまた地下の方ヘシューッと深く降りて行って、その力でもってシューッと上へ上がって来るね。こういう直線距離ね、まったくの直線で、途中一切止まらないっていうようなチューブ型のこういう列車ですね。こんなのがいっぱい走ってますね。こういう星です。これはみなさんがいた星ですよ。もといた星の話、私はしてるんですよ。こんな星でございます。 あるいはねえ、もっと面白いのをあげようとすると、まあこういうのもあるねえ。みなさんは人の気持が読めないなんて悩んでるねえ。男性は女性の気持がわかんない。女性は男性の気持がわかんない。彼は僕が好きなのか、あ、違ったか、彼は私が好きなのか、「彼女は僕が好きかなあ、嫌いかなあ、わかんない」ね。あるいは「彼女はきれいな洋服着てるけれども、洋服の下はガリガリかな、それともゴールデンサイズかな、わかんない」ね。こんなわかんないことでいっぱい。この世は不思議がいっぱいですね。 ところがね、この国行くと、この星のべーター星では面白いんだね。個人がそういうマイクロコンピュータじゃないけど、こんなのをちょっと持っとるんだなー。胸のとこあたりにね、ちっちゃなちっちゃなマイクロコンピュータでものすごい頭のいいコンピュータがおるんだよ。そして道歩いとったり、あるいは仕事してていろんな疑問があると、ボタン、ピュッと押してね、「おい、僕のマイコンよ」なんてね。今、前に座ってる女性、ねえ、たとえば、二十二、三歳の女性が座っとるとする。「僕は彼女が非常に美しいと思うんだけども、彼女は実際どうだろうか」「たとえば結婚生活に適する方だろうか、どうだろうか」なんて、こうマイクロコンピュータに問い合わせをする。 そうすると、「しばらくお待ち下さい。調査します」と言って、「ピピピピピピッ」ときたら「ハイッ」五秒ぐらいしたら「調査結果が入りました。彼女は身長がいくら、体重はいくら、そしてバストはいくら、ウエストいくらです」ってね。「ところがバストが全然なくて洗濯板でございまして、この上で洗濯ができるぐらいです。ご主人様、これでよろしければお嫁にもらわれたらいいけれども、当機械と致しましてはね、洗濯板をお嫁にもらう場合には現在のように全自動がはやっておる時には、非常に似つかわしくないのではないかとのコメントもあります。それは最後はご主人様のご判断でございます」なんていうことをね、こういう便利なことをもし言う機械があったら、いいねえ。 あるいは仕事の時で、たとえば相手と話してるけど、「なかなかこの人ちょっと悪人面しとる」と、「もしかしてわなじゃねえか、引っかけるんじゃねえか」と思うね。そしたら秘密の装置でピピッとね、「おいどうだ調査しろ」って言ったら「わかりました、ご主人様」って言って、雑談してるうちにそのマイコンがね、中央の情報システムの方につながって、「おい、こういう何とか会社のなんとか専務と今話をしておるけれども、これはどういう人物か、信頼できるかどうか」って言ったら「ピピピッ、わかりました。すぐ調査します」って、興信所みたいなのがね、ものすごく早い。 もうデータがパーッと入っておってね、バババーッとあっという間に二秒か三秒でもう情報が出て来る。それが聞こえない電波でパーッと送られて来るね。そしてその装置にパッと入って来る。そしたらその装置はまた周りの人に聞こえないようにね、情報が本人には全部わかるんですね。自分だけに聞こえて、向こうに聞こえないような声が出るんですね。そして「この専務っていうのは前科三犯ですよ」って。「前科三犯で、特に結婚詐欺をよくやった人ですよ。まあこういう人ですから手形詐欺だってやるかもしれません」こういうのパッパッパッて言いますね、そしたらわかっちゃいますね。ま、こんな便利な機械も発明されます。人類の夢と言ってもよいでしょうか。ま、こんな機械ですね。 あるいはみなさんは、地球にいると物質化現象なんていうのは不思議で不思議でしょうがないね。イエス様は空中からパン出したとかね。空中から魚出したなんて不思議で不思議でしょうがないね。ところがこの国ではできるんだよ。このベーター星でできるんだ。そういう機械あるんだよ。あのみなさんね、なんだ、電子レンジなんか持ってるけど、空中からの製造機みたいなのがあってね、電子製造機あって、望みのもの押すね。そしたらそこらへんにある空中の成分使って作っちゃうんだ、ね。何でもいい。上にね、漏斗(ろうと)みたいなのあってね、そこにいろんな物をぶち込むんだ。何でもいいんだ、廃棄物でも何でもいい、ぶち込むと、その中からチューッと抽出(ちゅうしゅつ)してね、ミキサーみたいなのかけて、そして新しいもの作り出す力がある。 何でもいいんだ、物入れたらそれを分子、原子に分解しちゃって、そして原子、あるいはもっと小さな単位で分解しちゃってね、そして再構成するんだな。だから、はた目にはね、いきなり今の日本の電子レンジで言えば、電子レンジの中にいきなり物がボコッと出るような感じだ。上から何かを放り込むと、そらあなたね、椅子を放り込むとパンが出て米るとかね、こういう手品みたいなもんですよ。椅子を放り込むと椅子がパッと姿を消して、原子レベルかなんかに分解されてしまって、なんと今度パンになって出て来るという、ね、こんなのがあるんですね。こういう星の人が生活してるんですね。これがべー夕ー星人です。 だから、魔法の国みたいですね、まるで。こういうとこに私も住んでおったけど、魂の修行ができんのだ、もうあんまり便利すぎて。相手の考えてることとか、相手の情報が全部ね、ピッピッピッとわかってしまったらこんなんじゃね、俺たち自力がねえじゃないかって、ね、どうやって修行するんだってそんなとこで、もう便利すぎて全然ダメだって、ね。何でもかんでも機械万能でね、おかしいじゃないかって、科学万能でおかしい。私も科学者だったけど、まあそれじゃおかしいということで出て来たんだ。 ねえ、ジュースなんか飲もうと思ったって、そんなのボタンひとつで空中からジュースが湧いてくるんじゃこんなのたまったもんじゃない。こんなの面白くない。空中にたとえばね、ポーッとこうシャボン玉みたいな形で、もう「オレンジジュース」ってたとえばボタン押すとね、そういう装置、食事装置ってあるんだな、それを押すと空中の成分分解してね、オレンジジュースが出て来るんですよ。ね、空中にポンと水玉みたいなオレンジジュース出て来て、この水玉がポコポコと口に入ってくるんだよ。飲もうと思ったら、ペロッペロッペロッペロッと飲んだら終わりだな。こんなんですよ。 信じられるでしょうか、みなさん。ねえ、これだったら魂の修行がない。こういうこともあって、私たちはもう一回やり直してみたいという魂がね、大船団組んで、六千万人でもって大編隊組んで、十年かかって地球に飛んできたんですね。そして新たな地球人の元祖となったんです。そういうこともやりましたね。こういうことがあるんです。 ですからいろんな星があるんですよ、いろんな星で魂修行があるんです。みなさん方はほとんどもう一回やり直したい、地球という国でやり直したい、まあこういうふうに思ったと言っていいでしょう。 4.M27とM36 さてね、まあ銀河の中でM27と呼ばれてる星、それからM36と呼ばれてる星があるんですね。この二つ、Mっていうのはね、これはメシアのMです、ね。メシアという記号があるんです。M27、M36というのがありますね、今、出てます。まあこれはね、なかなかみなさんわからないかもしれませんが、銀河系にはメシアがね、だいぶおるわけです。 地球系団にはメシアと言われる人たちが約十名おりますが、全銀河系ではね、このメシアと言われる人たちがどれぐらいおるかって言うと、まあそうだねえ、数でいくと三千人ぐらいいるかねえ。メシアと言われる人たちは、全銀河では三千人ぐらいいると思います。地球では、その中の十人ぐらいがおるわけですね。その中で、メシアが地上に出るような星のことをM何とかと言うことが多いんですね。M27、M36、まあこういうふうに言われます。ま、M26なんていうとこにも、ちょっと小さなの出てます。 M37というところもありますが、これはメシアの番号なんですね。こういうのがあって、銀河系団で約三千人近いメシアかおるけれども、メシアにねえ、残念ながらみなさんね、序列があるんですよ。知らないでしょう。こんなメシアの世界で序列があるなんて許せない、なんて言う人いるかもわかんない。不平等だ。みんなあるんです、ちゃーんとあるんですね。地球系霊団でも九次元の十人に序列がついてるんですね、はっきりついてる。 ということは、地の惑星系団でもメシア序列がついておる。そうすると今度地球系のメシアと、オリオン星人のメシア、べーター星人のメシア、まあいろいろあるけども、これらのメシアと比べて、地球のトップが向こうの何番目に当たるか、地球のビリが向こうの何番目に当たるか、こういうのをまたコンピュータではじいとるんだなあ。全国統一方式みたいなもんで、共通一次試験じゃないけど、あるんですねえ。 だから三千人のメシアに能力管理がされていて、三千人の中で順番が一から三千までついとるんですね。パーッと全国統一ですね。三千人、予備校みたいなもんですね、三千人の中でメシア。そらみんなやってるでしょ、地球で何回も出ては仕事をしてる。そして実績がつくでしょ、それでコンピュータにインプットされてるんだな。これだけのことした、こういうインプットされてる。そのインプットデータが出て来るんですね。過去七回転生して出て来た。そしてデータが出て来た。ピピピッ、トータルの順位は三千人中、今、二五六一番、ね。かたや一四三一番、こう出てるんですよ。 そしてコンピュータ偏差値出て、かなりレベルが上がってきたら、地球ではもう魂修行するべきじゃない。五百番以内は地球はだめで、五百番以内は何とか星へ行かなきゃいけないとかね。こうやってるんですよ、進路決定で進路指導があってね。だいたい太陽系におれるのは何百番から何百番ぐらいの人がだいたいおる。 三千人いたらね、太陽系のメシアのレベルというのはだいたいどのぐらいかっていうと、まあ普通は五百番から千番ぐらいまでの人がだいたい太陽系に来るようになっとるんだな。メシアレベルでね。そうすると五百番より先になってくると、もうちょっと進化した星に行かなきゃいけないんだな。まあそういうふうに言えます。 もちろん太陽系といっても、まあ私みたいな人はまた別格ですがね。こういう別格はもちろんおるわけで、そういう人をヘッドと言うわけで、ヘッドはまた、全然違ってヘッドの順位はなかなかわからないようになっとるんですが、それぞれ自分が一番偉いと思ってコンピュータが教えない。まあこういうとこありますね。あるわけであります。 だから三千人でもね、ちゃーんと能力管理があって、実績と能力の管理があって、序列がついておる。そして、それも今世限り六十年、七十年じゃなくて、何億年、何十億年の過去の実績の積み重ねで、集大成で、ちゃんと成績が出とるんです、ピシーッとはじかれとるんです。そしてさらに転生していくんですね。まあそういうふうに言えます。だからメシアが出てる星はいくらでもありますが、それは全部メシアナンバーがついてます、ちゃんとピシッとね。メシアナンバーがついて、能力管理されてます。 そしてM27のメシアと地球のゴータマ・ブッダと、どっちが偉いか。どっちが偉い、向こうが偉いとして、それで能力係数でどれだけ差があるか。ゴータマ・ブッダがそのM27のメシアと同じ程度まで行くのに、あと何年の時間が必要であるか。ねえ、すぐパパパッと計算して、あとだいたい二万年必要と、まあ出るね。あと二万年のうちに何回出る必要があるかっていって、パパパッと計算して、だいたい十回出ればよいって出るね。 十回出てどういう仕事をすればいいかって、王様を三回して、何とかを、一番下を二回やって、それから何、科学者をやって、政治家をやって何かやってダダッて十回やると、だいたい同じレベルになるって、こう出るんですね。うーん、面白いですねえ。こういう能力管理があるんですよ。 だからみなさんね、試験受けてヒーヒー言ってたらいけないよ。まだもっとすっと上でもあるっていうことね。能力係数が、ちゃんとはじかれてるんですね。まあ、そういうことですが、具体的にどの人が何番かなんていうことはこれは恐れ多くて言えません。恐れ多くて言えませんから私は言いませんが、だからそういうふうに序列はあるということ。だからこれはどこの世界でもあってね、それが調和と進歩と両方に奉仕しとるんですね。まあそういうことは言えると思います。 5.大宇宙の救世主 ま、そういうことですから、いわゆる救世主と言われる人も相当の数はいます。三千人って言ったら大会社ぐらいですね。大会社の、中会社かな、人数ぐらいだと思います、社員のね。それぐらいの人いるけれども、その中でもやっぱり課長クラス、部長クラス、ね、役員クラス、社長クラスとおるわけですね。 で、大宇宙の救世主、どこにおるんだ、一体誰だ、この三千人のトップに立っとるのは一体誰だ、ね。あるいは重役クラスは誰だ、一体、まあこういう疑問があるわね。三千人ぐらいの会社だったら、重役がだいたい三十人ぐらいかね。役員さんでは二十何人か三十人ぐらいと思いますね。三十人ぐらい。そしてその中にヒラ取締役、常務取締役、専務取締役、副社長、社長、こうおるわけですね。 まあ、どの程度か。果たして高橋信次は三千人中取締役になっておるのか、なってないのか。あるいは取締役降格されて左遷(させん)されたのか。子会社の社長として出向させられたんだろうか。このへんはみなさん疑問があり、興味もあるとこでしよう。これについては私は何も語りません。 ただね、まあ銀河系団の中では、銀河系、そうだなあ、うーん、大宇宙の中で、と言っても難しいかもしれないけど、ちょっと、ま、みなさん方は知らないのもおるけども、銀河系の中ではまあこの大宇宙の中で、そうだね、専務クラスぐらいの魂はおるわけですね。大宇宙の中の専務クラスぐらいの魂がおります。 こういうのは、もうほとんど惑星意識になりかかってますね。まだちょっと人格が残ってるけども、つぎ行ったらもう惑星の意識そのものになっちゃうような人たちですね。このへんは相当の力を持ってますね。この程度の人たちになってくると、星を移動させるぐらいの力持ってますね。星を移動させたりね、星丸ごとね、潰(つぶ)したりね、消滅させたり、出現さしたりするぐらいの力持ってますね。この程度の力があるんですね、霊能力でも。 いくら霊能者たってあんた、地球潰したり地球出したりできないでしょ、そう簡単に。その程度の力持っとるのがおるっていうことですね。霊能力として、タマゴ出したり二ワトリ出したりするぐらいの霊能者かおるわけだから、もっとすごくなりゃ地球出したり消したりするぐらいの霊能者おってもおかしくない。この程度の力持っとる人が、大救世主の中のまあ専務クラスですね。銀河系にはこの程度の人もおります。実際この程度の人も二、三名おります。こういうとこですね。 大宇宙の大救世主、それは高橋信次です、というのはまったくの嘘でございますが、まあべー夕ー星っていう私がいたとこにもね、やっぱり専務クラスはおりました、ね。そういうことで、大宇宙の救世主はなかなかわかりません。ほんとはわからないんです。おるはずなんですが、一体誰なのかわからないんです。私たちにもよくわからないんです。わかんないということで私らがどの程度かだいたいわかると思いますが、わかんないんですね。ただ、どこかにはおるはずなんですね。 で、これなんかもほんとは惑星意識になってもいいような人間がね、おそらく惑星意識にならずに、人格霊として統治をしておるんだろうと思うんですね。こういう一段高いのが、多分統治をしておると思いますね。救世主の世界に止まってね。そういうことです。だから私もまあ、まだまだ修行の余地があって、頑張るつもりです。だからみなさんもね、頑張っていこうねー。いろんな勉強していくんだよ、ね。そういうことだ。 で、今年はこれでまあ、一冊目スタートと、いうことです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/65.html
目次 1.人生の目的を知るには、まずあの世を知れ 2.魂は、握一点、開無限の存在である 3.魂は肉体意識と共に成長していく 4.最後の審判の本当の意味 5・地獄は特訓所である ― 餓鬼地獄の実態 6.多くの現代人が堕ちやすい血の池地獄の実態 7.地獄の特訓所は自分の欠点を悟る早道 8.人生を永遠の転生輪廻の中で捉えなさい 9.人間はすべて天国から生まれ変わってくる 10.三次元世界創造の二つの目的 11.高級霊にとっての三次元の意味 12.人間の使命はできるだけ多くの人を幸福にすることにある 13.人間の偉さは、どれだけ多くの人を幸せにしたかによる 14.人生の目的、使命についの要約 11.高級霊にとっての三次元の意味 ただ、あなたも疑問があると思うけれど、じゃ下の次元の人が、上の次元の人に教育されるということはあるでしょうが、逆に、上の次元の人、つまり、菩薩界、如来界の方が地上に出たって何か勉強することがあるんですかと、ないんじゃないですかと、こう思うでしょう。ところがそうじゃないんです。 あなた、例えばダイヤモンドというのは、ダイヤモンドを、指輪なりネックレスに加工するためには、ダイヤモンドの面を綺麗にしなければいけないです。じゃダイヤモンドは何で磨くのか。ダイヤモンドは、切り取る時はダイヤモンドより硬い物で勿論、切り取るけれども、磨く時は、そうじゃないんですよ、柔らかい物でやるんです。これは刃でも一緒ですよ。刃磨く時、砥石、砥石で磨きますよね。砥石は鉄より硬いかというと硬くないですよ、鉄より硬くないんですよ、硬くないもんで磨いて刃が光るんです。 ですから高次元の方も、自分より上の人だけが指導できるんじゃないんです。自分より下を見て悟ることだってあるんです。当然です、そういうことなんです。例えば、自分が悟っているということが、悟ってない人を見ることによって、どれ程幸福か、これも勉強になるんです。それで、また、私は私で高橋信次として、近年肉体を持ちましたが、肉体を持って生まれてみると、いろんな人と会いました。悟ってない人と色々会うことによって、この世の中の不思議を知り、いろんな人が、どんなことを経験するか、随分勉強させてもらいました。いろんな使命を持って人間が、生きているのです。だから様々な人を見ることによって、世界を見る目ができるのです。 或いは、更に一歩進めて言えば、神様の御心が、どの辺にあるかということを見極めることができるのです。 つまり高級霊にとっても、この三次元に生まれるということは、神様の創造した世界の全てを一瞥(いちべつ)できるのです。そういうチャソスなのです。普通は、関心ないような人たちと会えるんですからね。 そういうことで、人生の目的で、特に三次元における肉体人間の目的としては、今言った二つなのです。不自由さを感じて霊的な幸せを得るということ、また、様々な人が交わるということです。これが人生の目的です。 そういうことを経験して、更に高度な自分、悟った自分、勉強した自分を創るということです。これが目的です。 12.人間の使命はできるだけ多くの人を幸福にすることにある あと、使命というのがあります。使命について、もう少し話したいと思います。 今、私は個人、一人の人間ということを中心に話しましたが、使命というのは、これは他人との関わりということなのです。これが使命なんです。人間は自分だけのために生きているわけじゃないんです。自分だけのために生きていくなら、南海の孤島か何かに生まれて来ればいいんです。ポツンと、生まれて来て、豚でもいい、猫でもいい、ペンギンでもいいけど、それと暮らしていればいいんですよ。ペンギン抱いて寝てたらあなた、地獄へも堕ちないし、争いも起きないですよ。そうですよ、その通りなんです。 ところが、残念ながら可愛いい女性が一杯居て、心が散々(ちりぢり)に乱れるから、執着のとりこになって地獄へ行ったりするんです。だから女性なんか居ない島へ行って、男一人だけで住んでいれば、あんまり地獄に堕ちることなんかないです。ところが、いろんな人が居る所へ住んでいろから、間違いもしでかして、地獄へ堕ちてしまうんです。 だから、使命ということに関して言えば、やはり、他の人と一緒に生活する、共同生活する、ということが一番大事なんです。では何故、共同生活するのか、結局人間は、他の人に対して自分は何ができるか、ということを勉強させられているんです。それが分らないんです。大抵の人がテストでいくと、いい点を取りたい、いい会社へ入りたい、人より多い給料を貰いたい。人より綺麗な母ちゃんを貰いたい。こういう自分が、自分がと言っている。ところが自分が、自分がとして生きていると、だんだん人生が苦しくなってくる。人と比べて悪い自分ばかり見て、欲望を募(つの)らせると病気になったりして、だんだん悪くなる。ところが、もっと素晴しいことが、この世にはあるんだということに気づくのです。ある時は、そういった自我我欲のままに生きていて、人の親切に触れて、はっと悟ることがあるんです。 会社の経営者として、社長として、ワンマン社長で偉そうにやっていた。そしたら、「あいつ気に喰わない」と言っては首を切り、「あいつはお世辞を言わなかった」と言えば左遷し、そういう勝手気気儘(かってきまま)に生きていたような社長さんが、或る時ポッと病気をしてしまう。その時に、自分が左遷した部下が、「社長大丈夫ですか」と見舞いに来たりする。「あっこの男、本当に優しい男だな、自分からあれだけの目に合わせられながら、自分の体を気づかってくれて、ああ、こういう尊い心があるんだな」経営者は、その時悟るわけです。そして自分が、じゃ今、病気で倒れているけれど、もし健康体にもう一度なれたら、できるだけ全社員のために尽してみたい。多くの人たちを生かしてみたい。そういう菩薩心というのが目覚めて来るわけです。これが大事なんです。 13.人間の偉さは、どれだけ多くの人を幸せにしたかによる 人間の偉さというのは、どれだけ多くの人々を救ったか、救ったという言葉が傲慢(ごうまん)に聞こえるならば、どれだけ多くの人たちを幸せにしたか、ということです。 あなたにしてもそうです。あなたが、どれだけ立派な人生を生きたかということは、勿論、その証拠は、色々あるでしょうけれども、どれだけ多くの人々に尽くしたか、どれだけ多くの人々のためになるような生き方をして来たか、どれだけ多くの人を幸せにしたか、この基準なんです。 よく、あの世の世界で、宗教家が一番偉いと言われています。ところが、この世の世界では、宗教家が一番偉いわけではなくて、もっと社会的に地位の高い人が一杯居る。総理大臣だ、裁判官だ、医者だ、弁護士だと、会社の社長や偉い人が一杯居ます。宗教家は、必ずしもトップじゃない。ところが、あの世へ帰れば、本当の意味での、真実の宗教家は、一番トップですね、神様に近い所に居ます。何故そうか。それは、多くの人たちの心の糧になり、多くの人たちを幸せにしてきたからです。 企業の経営者として、企業の人々を養うことができます。ところが、それは高々、数千人、数万であります。大企業といえ数万人です。 一方宗教家というのは、キリストにしてもそう、釈迦にしてもそう、その時代の人たちだけでなくて、以後二千年、三千年にわたる人類を救ってきたわけです。それらの人たちに光明を投げかけてきたわけです。ですから、不幸せな人々を幸せにするという範囲が、途轍(とてつ)もなく大きいんです。 ところが会社の経営者、二千年後の人に影響を何か与えますか、与えません。お医者さんどうですか、病人は治ります。しかし病人もやがて死んで行きます。その後どうなるんですか。裁判官は、人を裁いています。結構ですよ。でも裁かなくてもあの世に行けば裁かれちゃうんです。裁こうが、裁くまいが、関係ないんです。 総理大臣は、選挙で落ちたら、ただの人、選挙に通れば、もう一回再選されたりして、そして、日本で一番偉いように考えられます。あの世へ帰ったらどうかわかりませんよ。戦後の首相で、天国へ行っている人は少ないですよ。地獄ヘ一杯行っています。何ででしょうね。本当に自分が日本国民のために尽くしたのか、或いは、自分としての栄達を求めたのか、そこがチエックされているんです。 やはり偉くなりたい人が多いんです。人の上に立ってみたい、人に命令してみたい、そういう人が多いんです。そういう人は地獄へ行ってしまうんです。だから総理大臣という地位は、日本一偉いんじゃないんです。最も地獄へ堕ちやすい地位でもあるんです。多くの人たちを、間違って指導することもありますから。だからむしろ田舎で、一人で生きている方が、むしろ迷惑がなくていいかもわからない。多くの人を使えば、使う程、心に歪みを作ればそれだけ悪い影響を与えちゃう。自分だけでなく他人まで。だから責任ある立場にある人は、それだけ難しいということを、悟らなければいけないんです。 また、その人の力によって、いろんな人を苦しめた場合は、その人たちの恨みが解けるまで、なかなか地獄から出てこれないんです。それだけ難しいんです。 14.人生の目的、使命についの要約 ですから私は以上、色々語ってきましたけど、総括すると以下のようになります。 人生というものの捉え方を、永遠の転生輪廻の中で捉えなさい。いいですか、永遠の転生輪廻の中で、自分の今世の役割、今世に命を得た意味、こうしたものを探究しなさい。これが最初です。 そして人生の目的とは何か、肉を持った人間の人生の目的とは、何か、それは霊的に目覚めるための下準備、これが一つです。不自由な物質世界で経験することによって、霊的に目覚める準備が一つです。もう一つは、いろんな次元の意識を持った人たちと会うことによって悟りを更に磨いて行く、こういうことが一つです。 そして使命とは何か、これは他人を幸福にする。できるだけ多くの人を幸福にすることです。 ところが、これは、「情けは人のためならず」という言葉がありますが、これはあなた誤解しているかどうか知らないけど「情けは人のためならず」というのは、情けを掛けたらその人が良くなるわけじゃないから、情けを掛けるなという意味じゃないんです。「情けは人のためならず」というのは、情けを掛けた、その情けは、やがて自分に返ってくる。だから人のためでなく、自分のためなんですよ、というのが「情けは人のためならず」という言葉の本当の意味です。 ところが今、多くの人々を幸せにするという話を私がしましたが、多くの人々を幸せにするとどうなるか、それは人のためならず、なのです。自分自身なのです。結局は、多くの人々のために生きられた人というのは、それだけ大きな人生を生きた、ということなのです。それだけ自己が大きくなった、ということなんです。器が大きくなった。それに目に見えない光の量、光子体というのを人間持っていますけれど、その光子体の量が、それだけ増えるのです。多くの人のために生きた人生というのは、多くの光子体を持ってあの世へ行けば、高い意識の人たちと一緒になれるんです。だから救世主のような仕事をすれば、あの世で、イエス様や仏陀と会えるようになるわけです。だから人のためではないんです。結局、自分のためなんですよ。だから人のためを思う人が自分のためになり、自分のためを思う人が、自分のためにならない。こんな矛盾があるんです。パラドックスがあるんです。結局そういうことなんです。だから使命というのは、他人に尽くすことによって、自己の向上を目指すということなんです。これが使命です。 まあ大体今日はそういう話です。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/207.html
目次 1.どうしたら心の深い傷がとれるか 2.未婚の女性にとっての正しい男性観とは 3.ある愛人デザイナーの転生と今世の生き方 3.ある愛人デザイナーの転生と今世の生き方 (問) 私はデザイナーをしていました。二十歳のときに結婚して、五年後に離婚しました。夫だった人は理想的な男性で、何の不満もありませんでしたが、ある日、私のほうが飛び出してしまったのです。今日まで何回考えても、なぜそうしてしまったのか理解できません。まず、この理由を知りたいのです。私は、夫だった男性を今でも理想の男性だと思いますし、尊敬をしています。 これがスタートでした。それ以後、何回か恋愛をしました。そのたびに、いつも素晴らしい男性に巡り合うのですが、大切にされればされるほどに、心が離れていく自分をどうしようもありませんでした。男性が自分のほうを向いてくれたときには、もう心が離れている。このように、人の心をもてあそぶようなことを続け、そのことにある種の快感を味わっていたような気がいたします。 ただ、恋愛中は、本当に一生懸命に、一心不乱にその男性のことを考えているのです。何事も相手の気に入るようにと、食事、衣服、動作、言葉使い、趣味……ありとあらゆることに神経を使い、その男性の好みのタイプに自然となっていくのです。 そしていつも、もう一人の自分が、私にどう演じたらよいか命令するかのごとく進んでいきます。でも、すべてを忘れ、すべてを投げうってもというふうにはなれなく、いつも心のどこかで醒めているのです。この醒めた心は何なのかと考えました。結局、理想の男性を追い求める自分は、もっと素晴らしい男性がいるのではと、いつも捜しているから満足できないのだと思っていました。 今、おつきあいしている男性は、アメリカの実業家で、四十七歳です。この人は、私にとって、すべての条件を兼ね備えた理想の男性です。ただ、本国に、奥様と子供がおります。ですから、私とは、年に数回、日本や外国で会うだけです。毎月、数百万円を送ってくださり、また、お目にかかるときには、必ずたくさんの宝石やいろいろなおみやげをくださいます。本当に、よくもこれほど気がつかれると感心するほどに、細やかな心遣いをしてくださいます。そして、決していばることなく、常に優しく、暖かく、本当に私を犬切にしてくださいます。また、いつも、「自分のできる範囲で一生面倒を見ますから、将来を心配したり、悩んだりしないように」と言ってくださいます。私たちの間は、゛信じる゛ということだけでなりたっているのです。 とはいえ、これは、私にとって、大きな悩みでもあります。私は、彼の家庭を壊してまでも、自分が幸せになりたいと思いません。でも、その反面では、私の未来はどうなるのかを考えてしまいます。いつも待っているだけで、自分から行動することができない。いつも自分で食事をして、一人で寝て、病気のときも一人です。社会的なことや法的なことも、すべて一人ですませる。だれも相談する人がおりません。この心の寂しさをどうすればよいのでしょう。心の奥では、一緒に生活をわかち合える彼であってほしいと願ってしまいます。こうぃう不安定な精神状態ですので、ふっと魔がさすように、他の男性に心が動くことがあります。決して本気になってはいないのですが、一時しのぎに、寂しさをまぎらすために、他の男性とつきあってしまうのです。 そして心のなかで、いつも言い訳をしています。「だって、彼は、いつも家族と一緒で、毎日、奥様と一緒に寝ているんだから」と。そのたびに、改めて彼の素晴らしさを実感し、本当に彼以外はいないんだと、始めからわかっていることなのですが、また改めて感じるのです。このように、後悔ばかりしてしまいます。 私は、本当は、彼との結婚を望んでいます。でも、それができません。これは、゛ジレンマ゛です。彼は、私のことは、もう気持ちの上では妻のようなものだと言います。でも、実際に妻と愛人とでは、大きな差があります。自分の立場が嫌だったら、別れればよいのでしょうが、それもできません。彼を愛しています。尊敬しています。彼も、私を愛してくださっています。私は、毎日悩んでいます。精神的にも、肉体的にも。 私が結婚を求めることはエゴになります。他人を傷つけてしまいます。私は、ただ暖かくつつんでくれる人が一緒にいてほしいのです。また、彼のために何かをしてあげたいと思っています。そして、お互いに助け合って、成長していきたいのです。 また、正直申しまして、将来に対しての不安もあります。自分の将来は、どうなるのか。そして、老後はと、考えてしまいます。ただ、今日までの自分を振り返ると、ある意味では、私はラッキーだったと思います。現在も、経済的にも、仕事にも恵まれています。ですから、こんなにラッキーなのに、しかも、素晴らしい彼に巡り会えて、こんなについていてよいのかしらと、そうしたことも、不安になります。 これには、深い意味があり、大きな使命があるからなのでしょうか。一般的な女性として生活しながら、男女の愛を通して、ある種の悟り、あるいは、法が説けるような、そんなことを夢見ています。というようなわけで、本当の自分の目的、何をしたらよいのかがわかりません。また、彼のためにつくしたいのですが、どうつくすべきなのか。あるいは、自立して独立することが、彼に対しての報恩になるのでしょうか。また、他の男性に心を動かすだけでも、罪になりますか? 私は十五、六歳の頃から、病気がちなのですが、いつも理由のはっきりわからない病気でした。またこの五年間には、大病をし、大変苦しみました。今は回復したと思いますが、また将来、病気になるのではと、いつも不安があります。この病気は、何か意味があるのでしょうか。男性の念がきているのでしょうか? 彼はエネルギッシュなタイプです。男性の愛の証しはセックスにあると彼は信じているようです。私はそうは思わないのですが、長いおつきあいの間に、彼とのセックスにも慣れてきて、喜びを感じるようになりました。私には、彼がすべてなのです。彼を通して、何かを学びたいのです。どうぞ、このような悩みにも、お答えいただけますように、心よりお願い申し上げます。 デザイナー(女性)29歳 (答)イタリヤのローマに生まれたときの前世 この方に対して、お伝えいたします。話のポイントがずいぶんあるようなので、まとまった話になりますかどうか、私にも自信がありませんが、思いつくままに話をしてみたいと思います。どうやら、この方には、まず過去世から話をしていかなければならないようです。 この方の一代前は、今からちょうど五百年くらい前のようです。千四百年頃の中世ヨーロッパです。どうやらこの方は、千四百年のイタリヤはローマに生まれました。そして、ローマの地で、四十二歳の生涯をとじたようです。このローマの地で彼女がやっていたことは、言葉は大変申し訳ないのですが、売春婦でした。彼女は十七歳のときから売春婦として、四十二歳の亡くなるまでの生涯を送っています。もちろん、家庭環境も悪かったのでありましょうが、身売りをして、収入を得なければいけないような、たまたまそのような巡り合せになりました。他の生き方もできたのでしょうが、やはりこの人の天性の要求するものといいますか、そうしたものが、売春の道をいったん味あわせると、そこからなかなか抜けがたくさせ、その道にのめり込んでいったようです。 十七歳で売春を始めて四十二歳で亡くなる二十四、五年の間、この方は、おそらく三千人くらいもの男性と夜を共にしています。実に三千人くらいにはなると思います。若いときは、手あたり次第という有様でしたが、三十代の半ばくらいになると高級娼婦として、ローマでもだんだんのしてきます。ローマの売春窟において二十人、三十人の少女を雇って、売春業を営(いとな)み始めた。まあ、売春窮のおかみさんですね、そういうことをやっていました。そして、若い者を使って、収入をあげるという道、これを大変心得ました。 自らは高級娼婦として、社会的地位のある人以外は相手にしませんでした。この方は、その当時、大変容貌もあり、才器もあり、女性としての魅力もあったようです。まあ、今日で言うならば、相手の申し込み、夜の申し込み、貴族とか社会的地位のある人から申し込みを受けていた。それでもですね、自分の気に入った男性でないと受け入れないというような気位の高い生き方をしておったようです。 ただ、晩年の四十二歳になったとき、この方は、一人の男性の恨みをかって、不遇な殺され方をしています。まあ、これも売春の相手ではあったのでしょうが、その男性が金を持っていた時期はよかったのですが、金を持たなくなって、この方がその男性を相手にしなくなったときに、その男性が逆恨みをしたのです。そして、ある晩、ある男性と腕を組んで歩いているこの女性を不意討ちで殺しています。四十二歳の生涯でした。 あの世の色情地獄での体験 その後、この方は、実在界に還って約三百七十年、色情地獄に堕ちておりました。色情地獄というのは、今で言えば、血の池地獄というのが代表的でありますが、この方が堕ちた地獄というのは、この血の池地獄とは若干違うところでありました。 この方が堕ちた地獄というのは、日本ではなく、やはりローマでしたから、ローマ風の洋風の地獄であります。洋風の地獄でありまして、日蓮の目に映ってくる情況を申し上げますと、どうやら背後にレンガがあります。これは建物の一角のようにも見えますが、レンガがあるところは薄暗い場所です。天井から鎖が二本たれています。そして、二本の鎖で、この方は腕をしばられていますね。逃げられないようになっています。上半身の一部は宙に浮いている形ですが、あとの大部分は下の床に寝ているような形です。 こういう情況において私の霊眼に映ってくるのは、どうやらこれは、人間ではないようです。人間でないものが入口から入ってきて、この女性のほうへ向かっています。これは動物です。巨大な動物です。どうやらこれは、ライオンですね。ただし、ライオンの形をとっておりますが、本当のライオンではありません。これは、かつて畜生道に堕ちた人間、そうしたものが、長年いる間に、ライオンのような姿になってきたようです。 こうしたライオンのようなものが、部屋のなかに、二頭、三頭と入ってきます。驚くべきことに、そうしたライオンが、この女性の上にのしかかって、この女性を犯しておるようであります。どうやら、そういう地獄のようです。色情地獄と畜生道が重なったようなところです。かわいそうにこの女性は、三百五十年の間、こうしたライオンを中心とした人間に犯され続けたようであります。 そうして、約三百七十年くらいが経過したようですが、まあ、千八百年代になって、ようやく地獄から出て来ました。地獄から出て来た原因は何かと言いますと、どうやら、この女性は、ライオンとのセックスに飽きたようであります。飽きて、こんなことばっかりしていてもよくないと悟ったということが一つ。それともう一つには、守護霊、指導霊の類ですが、それがどうやら普通の守護霊ではないようです。魔界のものです。いわゆる魔女たちと呼ばれるものが、この人の守護霊をしているようです。 そういった、やはり西洋風の魔法使いのいるところが、どうやらこの方の本来の住みどころのようです。そういう魔法使いの世界と地獄界とを転生輪廻しております。魔法使いの守護霊たちが何人か来て、この女性を救い出したようです。そして、その後、天上界とはいえませんが、こうした魔法世界に住んで、百何十年たって、また今世に生まれ変わってきたようです。これが、この人の前世であります。 中国、三国志の頃、后(きさき)であった前世 ここで、もう一つ前の前世を透視して見ましょう。場所は中国です。中国で、どうやらこれは三国志の頃でしょうか、いろんな国が乱立しています。この方は、そのなかの一つの国で、いわゆる王女といいますか、后であったようです。すなわち、国の領主の后であったようです。 この領主には、何人かの妻がおりました。おおよそ四人から五人くらい妻がいたようです。そして、この女性は、もちろん、一番寵愛(ちょうあい)されていた女性なのでありますが、他の者や他の妻たちと大変な争いを起こしたようであります。いつもいつも、争いを起こしていました。すなわち、どうやったら、自分は、この国王といいますか、領主の気持ちを握ることができるか。要するに、他の女性たちをしりぞけて自分のものにするかということに、ずいぶん、血道をあげたといいますか、努力をしたようであります。 あるとき、この国王が隣りの国との戦争に勝って、隣りの国が降伏しました。そして、隣りの国の皇帝の妻、あるいは側室、そうした美女たち約十名が、この国に運ばれてきました。つまりは、彼女たちが、この国の主人の側室となったわけです。しかし、この女性には、それがとてもたまらないことだったようであります。そこで、あることないことをいろいろ言った。たとえば、隣りの国の陰謀で、国王さまに毒を飲まして殺そうとしているらしいとかいうことを言って、彼女たちを陥れて、拷問にかけたようです。そこで、この十人の側室たちは、ほとんど殺されてしまいました。この女性の手によって、殺されています。このように、皇室のなかでの陰湿な争いで、自分の実権をどうしたらつくりあげることができるかということに腐心してきたようです。 そのときの国王というのが転生してきて、この女性の今の彼となってきているのですから、この方がまた生まれ変わってきて、愛人となっているのは当然なのです。ですから、この方が彼を愛しているのは、前世で縁のある男性だったということからしても、当然です。そして、救いがあるのもまた、当然だと言えます。この中国時代とは、おそらく今から千数百年前、千七百年ほど前でしょうかね、紀元でいくと三百年代、四百年代だろうかと思います。 ギリシャ時代で、ソクラテス学派の人たちの世話役だった前世 この方には、そのまた前世があります。それを見ると、生まれていたのは、ギリシャの地のようです。今からちょうど二千五百年から二千六百年ほど前、ソクラテスたちが哲学を説いた正法の時代に生まれてきています。ソクラテス学派、ソクラテス、プラトン、アリストテレス、こうした人たちの哲学の一派があったのですが、このときに、この方は、どうやらこれら哲学者の周りにずいぶん出入りをしていたようです。 つまり、哲学を学ぶ人たちの世話役、こういうことをしていたわけです。ソクラテス、プラトンは、学園を持っておりましたが、そこで、食事をつくったり、いろんな男性の身のまわりの世話をしたりといったようなことをしていた。そのためか、多少教えといいますか、法というものに関心があったようです。ところが、おそらくその頃にカルマが出始めたのでしょう、この方は、ソクラテスの弟子をずいぶん勾引(かどわ)かしたようです。修業しようとしている青年、哲学者たちを自分の術中に陥れて、だいぶ迷わせた。当時は、哲学を学ぶ者には、あまり結婚を勧められないような情況にあったのですが、そうした人びとを、誘惑した。何と言いますかね、本来は学園で授業をしているはずなのに、その生徒がいない。調べてみると、この女性と、密会しておった。それがばれて、ソクラテスやプラトンに破門されたお弟子さんもいたようです。この女性が惑わしたお弟子さんが、少なくても二、三人はいたはずです。結局、この女性は、その学園の世話役から追放されてしまったようです。 ただ、このギリシャの時代においては、この女性は、多少なりとも、そういった神理を学んでいるために、心のどこかには、そういった法を求める気持ちはあったと言えます。これが、この女性の三代前の過去です。 過去世の総括 この三つの過去を見ると、この女性が持っているカルマというものが、だいたいどういうものであるかが分ります。一番昔の過去において、一つには、何らかの意味で法に触れて、法を学ぼうとはしている。それでありながら、法を学ぶ者を誘惑して、堕落させるというような事実もあります。 その次に、中国に生まれたときには、非常に権勢欲のまっただなかに生まれてきました。そして、他の女性たちとの不調和に悩みながら、いかにしたら、自分が男性の心を射止めるか、掌中にできるかに腐心(ふしん)して、他の女性をずいぶん貶(おとし)めるような残虐なことをしたようです。そして最後には、イタリヤに生まれて、娼婦の大親分として、多くの男性と性的な関係を持つ一方では、他の若い女性をその道へ走らせたようです。 この方は、過去三回生まれて、三回とも、いずれも何百年間、すべて地獄へ行っております。この女性が行ったところは、色情地獄、ないしは畜生道、動物界ですね。こういったところを転生輪廻しておったわけです。まあ、こうした過去があるということを前提として、この女性の現在というものを、もう一回、振り返ってみたいと思います。 最初の男性と離婚した真の原因について まず、最初の男性と結婚したわけですが、五年後には離婚しています。理想的な男性であったけれども、なぜ自分が家出をしたのかわからない、と。実際、この男性は、ずいぶんこの女性につくしたようであります。しかし、この女性は、この男性を捨てた。これはですね、この女性のカルマからきているのです。この女性は、相手の男性があまりつくしてくれると、どうも捨てたくなるようです。これは、そういうカルマを持っておるからです。すなわち、どうしても手に入れがたい男性であってほしいというような願いが、この女性にはあるようです。 ところが、最初のこの男性の場合は、競争相手もなく、向こうが一方的に、この女性に入れ込んできたために、この女性としては、どうやら不満になったようです。そういうことがあるようです。ですから、こういう女性は、今の彼のように相手がある程度の人であっても、相手がもし気を許したりすると、また逃げ出してしまうかもしれません。他の女性がいて、つまり、相手の女性との競争があったりしたほうが、自分がおちおちしておれないのでいい。こういう綱渡り的な危険な恋というのが、ちょうど刺激に合うのです。そういう恋でないと、満足できないのです。だから、この女性は、安定した家庭というものに入ると、逆に満足できなくて、これを捨てて、飛び出してしまう。これは過去世のカルマなんです。 すなわち、過去世の数多くの男性と交った経験があったし、また、そうした権勢欲のまっただなかで生きたという過去もあったからだと言えます。ですから、最初の男性が理想の男性で、尊敬をしていたにもかかわらず飛び出してしまったというのは、まさに、理想的な男性であったからこそです。その彼が何もかもよくしてくれたから、逆に出て行ったのであります。この女性の相手の男性が、人格者でなくて、たとえば、暴力をふるってくるような男性であったならば、長続きしたかもしれないのです。生命を取られるのは怖いですし、なかなか勇気がいるものですから、そういう男性となら、長続きしたかもしれません。 とにかく、過去世を見ても、この女性は、安定しない人生を選んでいます。この女性は、ひとたびある男性を好きになったら、相手が夢中になるようなことをする。直前の過去世では、娼婦の親分をやっていたのですから、それはそうでしょう。しかも、三千人もの男性の経験があるのですから、男性のことに関しては、もちろん、プロです。何もかも、知りつくしている。こういう過去世の知識もあるのです。 もしあなた方が、自分の心の扉を開けて、過去世を見れば、パーニャパラミッタといって、般若(はんにゃ)の知恵が湧いてくるはずです。こういう般若の知恵もあるのです。男性のことは何でも手に取るようにわかるという、こういう百科事典みたいな般若の知恵というものがあるのです。女性でも、一回くらいは、こういう経験をしたらいいかもしれませんが、こういう方もいらっしゃるということです。ですから、この女性が、男性がすぐわかるというのは、直前の過去世からの影響です。 今の彼は今世において一番縁のある男性である さて、現在のアメリカ人の彼とのことについてですが、実際、中国にいたとき、この方たちは夫婦でした。夫婦というか、領主、王様と側室というような関係があり、縁ある人ですから、もちろん好きになるのは当然でありましょう。どうやら今世において、この女性は、アメリカ人の男性と一番縁があるようです。 この方は今、自分が相手の家庭を壊してしまうのではないかと思ったりしているようですね。これは、中国のときのカルマの刈り取りの、ちょうどいい経験を、今していると言えます。相手の家庭をメチャクチャにしないのは、この女性が多少なりとも進歩している証拠です。これは、本人にとっては悩みでしょうが、私たちから見れば、多少なりとも魂が進歩してきているというありがたい証拠なのです。多少は躊躇(ちゅうちょ)してもらわねば、困るのです。勝手に男性を見ては、それを勾引(かどわ)かして、その男性の家庭を壊しているようでは困るのです。やはり良心の痛みがあって、躊躇するようであっていいのです。そうなって初めて、普通の人間らしい気持ちがあるということです。ですから、悩みがあるということは、この女性にとっては、プラスなのです。そこで、この女性には、相手の方の家族、奥さんと子供、そして自分との関係をおおいに悩んでいただきたいと思います。 アメリカと日本と地理的に離れている。だから、めったに会えないというのは、ちょうどいい、この女性にとっては、勉強の材料なのです。この女性は、相手が手近にいると、毎日毎日、大変なことになってしまう。すなわち、男性のなかに自分のすべてというものを投入していくような女性なのです。そういう女性なのです。ですから、短時間で男性を迷わせて、ダメにしていきます。そこで、このように空間的に離れていることが、どうやら長持ちをさせている秘訣だと言えるのです。 この女性には、今まで、いつも手近に男性がおりました。そこで、今世においては、好きな男性が手近にいないという環境ができたわけです。これもまた、魂の勉強材料であります。好きな人が手近にいないので、胸が苦しい。思いは苦しい。別れていることほど、こんなに辛いことはないとこの女性は思っているかもしれません。しかし、これはこれで、また、この人のカルマの刈り取りの勉強なのです。 彼が毎月、数百万円も送ってくれたり、宝石類をプレゼントしてくれるとのことですが、これはね、昔の王様とお姫様ではないけれども奥さんだったわけですからね、そういう関係ですから、こういうこともあるでしょう。彼も彼なりのカルマの刈り取りはやっているのでしょうが、どうも、そういう金銭関係の影響はあるようです。 ですから、彼が送ってくれるものに関しては、貰っておけばいいのです。どんどん貰っておけばいい。安心して、気にしないで、貰っておけばいいです。彼は彼で、惜しみなく金を供給するということ、物質を供給するということに生きがいを感じているのです。向こうは向こうで、それで自分の人生を生きているのでしょうから、別に気にしないで、それを受け取ればいいです。 来世で、男女の法が説けるような人になりなさい それからですね、この女性は、こういう男女の関係を通して、男女の法を説きたいと言っておりますが、まあなかなかね、経験はあってもね、なかなか男女の法というものは説けないものです。 日蓮のように、女性の経験がなくても、男女の法を説ける人もいれば、何千人の男性を知っていても男女の法を説けない人もいる。この女性は、まだ人に法を説くことは、おこがましいようであります。それよりも、もう少し自分自身の問題をかたづけていくことです。その必要があります。ですから、この女性には、まだ男女の法を説くことは無理ですね。もう一度生まれてきて、次回でやられたらいいと思います。 婦人科系の病気の原因は、心のなかにある それからまた、十五、六歳頃から病気がちで、いつもはっきりしない病気だったとのこと。とくにこの五年間は、大病をしたりして、大変苦しんだ、と。婦人科系の病気が多いということですね。この原因を申し上げます。婦人科系の病気になる原因は、実は、外部にありません。この原因は、この女性自身の心のなかにあります。 この女性は、過去三回、失敗といっていいかどうか知りませんが、とにかく、転生輪廻において同じような失敗を犯し、三回ともに、見事に地獄に堕ちて、何百年も勉強しています。しかし、どうやら四回目になって、ちょっと上がってきつつあるのです。そこで、今世において、神理を多少なりとも、昔取った杵柄(きねづか)、ソクラテス時代に習った杵柄かもしれませんが、神理を学んだために、良心の痛みというものが激しくなってきているのだと言えます。 こういう婦人科系の病気というのは、決して外部からきているのではない。この女性自身の念がつくってきているのです。つまり、この方自身のなかの良心の部分が、いいですか、良い心の部分が、この方を苦しめているのです。そして、自分自身の良心が、自分を罰しようとしている気持ちが、こういう婦人科系の病気になるのです。 ですから、自分が常々悪いことをしようとしているのではないかと思いながら異性行為をしていると、だいたいは、婦人科系の病気になります。まず、間違いありません。 また、この女性は、非常に念を受けやすいタイプのようであります。この方は、現在、つきあっている彼から念がきているとどうやら思っているようですが、この念は、今の彼だけでなくて、彼女が過去につきあった何人、何十人という男性、そのすべての念がきているのです。生きている人間でも、念は持っております。そこで、この女性に対する恨みの念、あるいは、この方に対する執着の念、愛念、こうしたもので、やはりがんじがらめになっているのです。 あなた方は、念というものが、どういうものかわからないと思いますが、念とは、非常に物質的、物体的なものなのです。念というのは、たとえて言えば、トリモチみたいなものです。そういう念、たとえば、この女性に対する執着の念、愛着の念というものを、一人の男性が強烈に持つと、その念は、どうなるか。すなわち、トリモチのようなものが、飛んでくるわけです。そして、この女性の体の部分につく。この女性には、主として婦人科系を中心として、そうした念がいっぱいくっついております。 私の眼から霊視すれば、まあ、おもしろいです。トリモチの山みたいになっている。トリモチという言い方が悪ければ、こう言ってもいい。つまり、この女性を寝かして見ると、おなかの上から下半身にかけて、アイスクリームの山みたいのが、いっぱい出ている。白いネバネバしたそういう念がたくさんくっついています。そして、そうしたものがくっついて、体の調子が悪くなるのです。外部的なものとすれば、念が集中しておる。それも、とくに女性の大事なあたりに集中しております。 この女性の彼はエネルギッシュなタイプで、彼女は、それにずいぶんまいっているようです。これはけっこうです。これも彼女にとっては、勉強だと言えます。生きているうちに、セックスをいやなものとか、困難なものとか感じるのは、これは非常な進歩です。この女性の場合、生きているうちは、ほとんど極楽のうちに終わった場合が多い。セックスというのを極楽だと思って死ねば、地獄というのがパターンなので、今世においては非常に早いパターンで学習は進んでいます。この方の前世において、あのような地獄で、ライオンに犯されるような苦しみを受けているのですから、今、生きているうちに、ライオンがわりに、アメリカの大きい体の男性が出てきて、この方を犯してくれているのですね。 この男性は、そういう意味で、観世音菩薩みたいなものです。ですから、感謝しなければいけませんね。この方の今世において、そういう体の大きい男性に経験させられることによって、来世でライオンなどに犯されないですむ。そういう、早い学習を受けているのです。彼がエネルギッシュであることに対して、感謝の念を持たねばなりません。 「おかけさまで、すいぶん悟らせていただきました」という気持ちを常に持たねばいけません。 お腹のなかに、血の池地獄ができている この女性の体のなかには、現在、一つの地獄界ができております。よく皆さんは、血の池地獄ということを言いますが、しかし血の池地獄というのは、この地上を離れた天空のどこか一箇所に血の池や地獄があって、そこに、いろんな霊が住んでいるのではないのです。血の池地獄というのは、生きている人間の心のなかにあるのです。 生きているうちに、いろんな男性と係わってきた女性というのは、自分の子宮のなかに、血の池地獄ができているのです。要するに、女性の情欲だけに興味を持って、それに溺れて地獄に堕ちた男性のほとんどは、色情地獄という念を持った女性のお腹のなかに、子宮のなかに、小さくなって、住んでいるのです。そのなかを泳いでいて、自分は、血の池地獄にいるなと思っているのです。 ですから、この女性のお腹のなかにはね、今、そうした小人みたいな地獄霊、色情地獄霊というのがいる。私が見てみると、三十人くらいはいます。彼女のお腹のなかに、他の人間が住んでいるのです。他の霊が、ちっちゃな小人みたいになっちゃってね、お腹のなかに住んでいる。三十人くらい住んでいますね。こういうのがいっぱいいたのでは大変でしょう。この女性の体の調子が悪くなるのも当然です。これが現状です。 残りの人生で、神仏への愛についてしっかり勉強しなさい さて、この女性の残りの人生と、来世への伝言ということで、最後を締めくくってみたいと思います。残りの今世は、まだ、何十年かあるようです。どうして生きていけばよいかということですが、今の彼とのつきあいはまだ続くでしょう。中国からの縁ですから、まだ続きます。 ただ、さきほども私が言いましたように、彼の家庭を思いやる気持ちを持つことです。彼の奥さんや子供を苦しめないようにしながら、自分は彼自身に甘えるという関係、これ自身はけっこうです。これはけっこうですが、そうしたなかにおいて、この女性には家庭的な愛というのは無理かもしれませんが、それでも、真の愛とは何かということを、一生かかってつかんでいってほしいと思います。彼は、一生面倒を見るとのことですが、この女性が六十、七十歳のおばあちゃんになってもまだ面倒を見てくれるということはないでしょう。ただ、一生、困らないだけの物質的援助は受けられるはずです。 ですから、今後の人生において、路頭に迷う心配はありません。身の周りの世話をしてくれる人がなくて、一人ぼっちになるということは考えられますが、こうした人は、他にもたくさんいらっしゃいますから、それに関しては、この方が自分で考えていかなければなりません。一人で生きていくには、どうすればよいか。こうした老後の心配は、三十代からしておくものなのです。これはまた、別の問題です。 この女性の前世のイタリア時代は、全然問題外です。中国時代も問題外の生き方をしております。しかし、ソクラテスの時代、ギリシヤ時代ね、二、三人ちょっと迷わせたようですが、少なくとも、この時代には、法を求める心、気持ちがありました。ですから、中国時代、イタリア時代にくらべれば、多少魂は、もう少し上の階段にあったと言えます。 そこで、私が、この女性に申し上げたいのは、今世においては、仏の弟子たちを迷わせないで、何とか神理を少しでも学んでいただきたいということです。本当の愛とは何か。男女の愛だけでなくて、愛には段階があることも。男女の愛を超えた愛があるのです。男女の愛を超えた同胞愛があり、隣人愛があり、社会愛があり、国家愛があり、また神仏への愛がある。そうした大きな愛があるのです。この女性は、愛の天才なのですから、今世では、男女の愛を人に教える前に、本当の愛とは何なのかを勉強してほしいのです。 今世では、与える愛についてしっかり勉強しなさい これだけ、大きなカルマを持っている方ですから、そう簡単にそれを刈り取れるわけではありません。そして、今のままいくとどうなるかというと、私が見た感じでは、今回は昔よりはましとはいえ、地獄に堕ちて、だいたい百五十年くらいはいる勘定になります。私が読むかぎり、百五十年。ちょっと短いですね。しかし、百五十年くらいは、地獄へ行きます。この方が行く地獄はどこかというと、そうですね、どうもやっぱり色情関係のようです。ですが、ここもベテランですから、あまり長くいる必要はないのです。何回も行っているんですからね。 とにかく、今のままでいくと百五十年くらいは地獄に行きそうです。しかし、残りの人生が何十年かあるのですから、この間に、どうかしっかり、本当の愛とは何かということを勉強してください。ソクラテスの弟子を狂わせないようにして、今度は神理伝道でも一生懸命手伝えば、この女性の人生はずいぶん向上するはずです。そうすれば、百五十年を、もうちょっと短縮するか、あるいは、地獄へ行かなくてもすむかもしれない。いずれにしても、この方のこれからの勉強次第です。 この女性は、神理伝道のお手伝いをすればいいのです。今の彼から、どんどんお金でも、宝石でも貰っておきなさい。しかし、そうしたお金で自分が贅沢をするのではなくて、困っている人を助けるなり、もっと法のお手伝いをするなりなさい。その仕方は、いろいろあるはすです。全部喜捨(きしゃ)してしまって、自分はルンペンになれと言っているのでは、もちろんありません。この女性は、ルンペンを始めると、また娼婦か何かになってしまうでしょう。それではいけない。それでは困るのです。そうではなくて、自分の生活設計は十分あった上で、彼から貰ったものは前世からの縁ですから、これは遠慮なく使えばいいのです。 そういうことで、少しでも多くの人に、いいですか、愛を与えるような生き方をしなければいけません。物質だけが愛ではありません。この女性は、愛を貰うということに十分長い間、執着してきたのです。この方といわず、一般に女性はそうですが、人から愛をいただくということばっかりに執着しがちです。だから愛を与えることに目覚めることが少ないのです。しかし、今世においても、とくにこの方は、与える愛ということをしっかりと勉強していただきたいと思います。 真実の愛に目覚め、迷っている女性たちの導きの光になりなさい この方は、しっかり長生きして、いい奥さんになり、いい女性になり、いいおばあちゃんになることです。そして、世の人びとから、男女の法を聞きにこられるようなおばあちゃんになったら、この方は、霊的に向上されると思います。まだチャンスは十分にあるのです。人間の運命とは、決まったものではありません。過去のカルマに、どうしても引きずられていきがちです。それが傾向というものであります。今世でもそういう傾向がありますが、幸いにしてこの女性は、異国の地に彼がいて、彼の家族があり、いつもは会えないというハンディがある。また、神理が身の周りで説かれているという状況があります。そこで、どうかそのような情況を客観的に見て、過去世の自分のカルマを見て、どういうふうにしていくのがよいか、判断していただきたいと思います。 この方が、そうした人生を生きることによって、世の迷っている女性たちに対して、一つの生き方の参考を見せることになるでしょう。あえて人に教える必要はありませんが、この方が、そういうことを悟ることによって、一つの生き方の手本というのを見せてほしいのです。この方の他にも、今、色情地獄にうごめいている男性、女性がいっぱいおります。そういう人たちは、どうしたら地獄から逃れだせるか、今も迷っているのです。ですから、今世において、立派な女性になって、そういう地獄から見事に逃れ出して、そういう男女の導きの光となってあげてください。 (1986年9月20日の霊示)
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/384.html
目次 1.六次元の愛(一)― 道元との恋 2.六次元の愛(二)― 日蓮との恋 3.六次元の一日 4.六次元の学習 5.六次元神界の風景 6.六次元から見た神 5.六次元神界の風景(1986年8月3日の霊訓) 今日は、「六次元神界の風景」と題して、できるかぎり、この六次元神界の様子を地上界人から見てわかるように描写したいと思います。 まず、地上のみなさんは、私たちに住むべき家があるかどうかということが気になられることと思います。 そこでまず住居のことからお話しします。 私は、前回の浅野和三郎氏編集にかかる「小桜姫物語」のなかで、地上に小桜姫神社ができたこと、そして、私たちの世界でも小桜姫神社ができて、私が主としてこの神社を拠点にして、いろいろの地上の方々の願いを聞き届けることを仕事にしていることを話しました。 もちろん、現在でも、小桜姫神社の女主人しての仕事がないわけではありませんが、いまでは、地上の人びとの信仰心が薄く、神社に参って心からご祈願される方は数少なくなりましたので、小桜姫神社の女神様としての仕事は少なくなりました。 そこで現在は仏教の勉強をしているので、それにふさわしいようにセカンド・ハウスといいますか、自分の勉強用の小さな家をつくって一人で住んでいます。こちらの方々は、やはり、それぞれ自分の気に入った家を造って住んでいますが、たいていは一人で住んでいます。というのも、六次元神界ではやはり、精神統一というのが大きな修行ですので、何人もで住んでいると、心が散ってしまって、精神統一がなかなかできないからです。しかし、時折は同心の人と、いっしょに住んで勉強しあうこともあります。 小桜が住んでいる家は、入口が東向きで、南側に大きく縁側をとった一階の畳の部屋が約十畳、階段があって、二階の畳の部屋が約六畳、ここには床の間が一畳分とってあって、「天照大神様」のかけ軸が掛けてあります。一階は主としてお客が来たときに会うための応接室として造ってありますので、黒ぬりの一畳分ぐらいの低い机がひとつと、お客様用の座布団がいくつか出してあります。えっ、台所があるかですって。ええ、簡単な台所を西側に造っています。といっても、食事をすることはないので、簡単にお茶の道具があるだけです。 こちらでもお茶は飲むことがあります。もちろん、水分をとるわけではありませんが、せっかく友人が来たのに、お茶ぐらいは出して差し上げたいという気持ちがあるからです。小桜が主として飲むのは「ほうじ茶」ですが、内容は地上と同じでしょうが、色の鮮やかさ、香りのすばらしさはこちらのほうがぐんと上です。えっ、どこでお茶の葉を手に入れるかですって。それは、小桜が「お茶の葉がなくなったな」とつぶやくと、必ずだれかが届けてくれるのです。私は最近こちらでは、紫式部さんとお知りあいになれたので、彼女もよく遊びにきます。一階の客間でよくお茶を飲んでは、彼女は文学の話をしてくださいます。庭に咲いている赤いつつじの花が自慢なのですが、彼女もこの花をとてもほめてくださいます。 二階の六畳の一間は、私の書斎兼道場ですので、だれも入れたことはありません。ここには、檜(ひのき)で作りつけの書棚が二つあり、そこに私の大切な書物が並べてあります。こちらで出版された、道元さんの新しいご本「坐禅は愛を必要とするか」とか、「日蓮聖人説法録全十巻」とか、神界の学者が書いた「天照大神様のお心」、「精神統一の真髄」、とか、地上で刊行されている霊言集のシリーズも、ちゃんと並べてあります。 こちらの世界でも読書と精神統一は貴重な勉強です。なぜかって、読書による知識は理解力を増しますし、精神統一の力が強くなりますと、小桜なりの自己実現が早くなります。つまり、精神統一とは、神の光のパワーを自分の内部に吸収することですから、それだけ自分の光の量が増えますし、特定の願いごとを心に描くのがうまくなると、それが実際に実現するのです。たとえば、キリスト教の勉強をしたいので、小桜の悟りにふさわしい先生をほしいと思うと、そういう人が現れてくるし、地上のあなた方を指導したいので、もう少し、予知能力がほしいと祈って精神統一すると、だんだんにそういう力が備わってくるのです。 ああ、そう、そう、どうして東とか西とかがわかるのですか、というご質問もおありでしょう。もっともな疑問だと思います。私たちが住んでいる村はちょうど地上でいうと伊豆付近の感じで、海も山も浜辺もありますが、村のはずれに大きな「祈りの塔」という建物があって、この建物のある方向が東だとされています。そして、浜辺の方向、海のある方角が南とされています。小桜が住んでいるところは、浜辺から約二百メートルくらい入ったところで、石段を百段くらい上がったところに見晴らしのよい丘があり、ここを住居にしているのです。 それから太陽はあるのかというご質問ですね。太陽は確かにあります。地上の太陽のような白いまぶしい太陽ではなくて、もっと黄金色をした、上品な、優しい光を投げかける太陽です。それを見つめ続けても目がつぶれるということはありません。スウェーデンボルグさんとかいう偉い方が、太陽はどちらを向いても正面にあるとか言っておられるそうですね。それはちょっと混乱もあるようですが。だいたいいつも同じあたりの高さにあるのは確かです。どこを向いても正面に太陽があるというのは誤りですが、どこを向いても、太陽が視界に入るというのは正確です。というのも、霊天上界の太陽は私たちへの光のエネルギーを供給するものですから、すべての人が平等に光を受けられるようになっているのです。 さて、海のことも触れておきましょう、海は地上の海とよく似ています。しかし違っているのは、どこまで入っていっても溺(おぼ)れて死ぬということがないということです。それと少し、色合いが違っているようですね。波が押し寄せたり引いたりするときの金波、銀波というのは、文字どおり金色の波であったり、銀色の波であったりします。銀色の波が光に当たった瞬間、くだけた波が金色の泡となって、空高く昇ってゆく姿は圧巻です。 浜辺には、大きな演舞台のようなところが造ってあって、月に一回は、村の人びとが集まって、催し物をやります。村の人といっても約三百人ぐらいですから多くはありません。 ここでは、最近新たに悟りを開いた方の体験発表とか、新しくこの村に入ってきた人の紹介だとか、どこかを旅行してきた人の旅行談発表などがあります。つい昨日も、初めて竜宮界に旅行してきた方の経験発表があって、さかんに質問されたり、拍手を送られたりしていました。 竜宮界はどう行けばよいかお知りになりたいですか。切符を買って亀の背中に乗ってゆくのです。これはほんの冗談、信じちゃいけません。村のはずれに岬がありまして、そこから、海の底に入っていく海底トンネルがあるのです。一応、竜宮界というのは、意識の世界ではやはり海の底ということになっています。 仙人界とか天狗界に入ってゆくのは、やはり、村はずれの山道をどんどん登っていって山の尾根に出て、その尾根伝いに、一週間ぐらい歩き続けねばなりません。 まあ、こちらの世界にきて間もない人は、たいてい指導役の霊人がついて、いろんな世界に案内してくれるのです。そうでないと、迷子になって帰ってこられなくなるからです。 六次元神界から七次元菩薩界に旅行できるかですって。ええ、これは原則としてはできません。ただし七次元以降の方が六次元に降りてきてくださって、その光のオーラで包んでくだされば、上の世界にも旅行できます。しかしその場合でも、小桜姫からみると、上の世界は光が強すぎてまぶしいものですから、ある程度のところまでしかいけません。天照大神様のいらっしゃるようなところへは、とても光が強すぎて、まふしすぎて行かれません。 地上のあなた方は、高級霊の方々と何のためらいもなく話しておられますが、実際は魂の段階が違うとそう簡単に話はできないのです。あまり偉い方の前へ出ると、光の強さでくらくらして、卒倒しそうです。小桜は二度ほど、勉強のため、菩薩界に連れて行ってもらったことがありますが、そこは光り輝く、黄金色のすばらしい世界で、みな心の広い方ばかりでした。若草色のすばらしい芝生の広場には、色とりどりの衣装の各国の人びとがすわって、話しこんでいました。 ええ、もちろん、下の世界へは何度も足を運んでおります。下へ行くほど人間社会に近づくみたいで、幽界などでは家族で夕食している姿など、とても懐かしく感じられました。 地獄界は、やはり恐くて一人では行けません。私より、もっと力の強い光の天使につき添われてなら、何度も行ったことがあります。その世界のかび臭いこと、うす暗いこと、じめじめしたこと、いつも六次元に帰ってくるたびに、もう二度と行きたくないと思います。ほんとうにはき気がするんですから、地上で心清く生きている人びとは、自分は損みたいな性分だと思っておられるかもしれませんが、やはり死後の世界は、明るい世界に還ってくることにこしたことはないようですよ。 最後にひと言、六次元の衣服についてお話しして、今日は終わりたいと思います。 こちらの世界は念の世界ですから、ミシンを踏んで服を縫うわけではありません。やはり着たいと思う衣装を心に描くと、そういう衣服が出てきます。ですから、洋服箪子(だんす)などありません。小桜は主に和服を着ていますが、小桜神社で用があるときは神様みたいな格好、そう、神社の巫子さんを上品にしたような姿をとります。キリスト教系の方から招かれたときは、慣れないドレスを着ることもあります。色は白が基調で、和服なら花がら、それ以外なら紫色でアクセントをつけます。もちろん、女性のたしなみですから、下着もつけていますが、男性の読者に恋されては困るので、詳細は申しません。 小桜の村では、男性は羽織袴が多いですが、これも、儀式のときなどは正装にかえます。衣服のデザインをアドバイスする専門家もこちらにいることをひと言申し添えて、今日は終わりにします。 6.六次元から見た神(1986年8月5日の霊訓) さて、今日は、一年あまり続いたこの小桜姫の霊界通信の最終回です。最後をしめくくる話として、「六次元から見た神」という題でお話しましょう。 さまざまな高級霊が、私たちの世界について、いろいろな角度から説明をされていると思います。しかし、どんな高級霊であっても、「神」については、決して明確な形で描写はできていないはずです。小桜にしても、「神とは何か」と問われると、はっきりと答える自信はありません。しかし、少なくとも私たちの世界では「神」をどう考えているかというお話はできると思うのです。 「神」については、古来地上界においても、たくさんの宗教家が、一神教、多神教いりまじって、いろいろの説を述べています。結局どなたも、はっきりしたことは言えなかったのでしょう。 小桜のいる六次元では、現在「神」については、普通次のような説明がされています。つまり神とは、宇宙に遍満する叡智である。神とは、宇宙の進化を司(つかさど)っている巨大な意識であり、エネルギーであり、知恵である。なぜ宇宙が存在するのか。それは、宇宙を現象化しようとする神のご意志の働きなのだと。神を物体的に、人間の大きさだとか、宇宙大だとかいうのは間違っている。神は物体的に見て巨大な存在なのではない。神は次元的に見て、人類よりはるかに高次元の存在なのである。しかも、最高次元の存在なのである。最高次元の存在であるから、自分より低い次元を自由自在に創造し、破壊することができるのである。 神は、このように高次の存在なのであるが、同時にいくつかのご性質、ご性格をもっておられる。そして人類が、あるいは宇宙に存在するものすべてが、多次元世界に住むすべての生命体が、この神のご性質・ご本質に近づいてこられることを願っておられる。 その神のご本質・ご性質とは、現在までに研究されたかぎりでは次のようなものである。 一、愛 二、知恵 三、創造 四、法則 五、永遠 六、美 七、調和 八、発展 九、秩序 十、光 まだまだ、そのご本質のなかには無限のものを持っておられるのでしょうが、少なくとも以上の十の項目は、神とは何かを物語るものでしょう。 たとえば、神とはまず愛です。この「愛」のなかには、お互いに仲良くしあうということ、お互いに許しあうということ、お互いに慈しみあうということ、こういった希望が込められております。 また、神とは知恵です。すべてのものを、のびのびと生かしめる知恵、宇宙のあらゆるものを理解する大智識です。 さらに、神とは創造です。この三次元宇宙を創られたのも、神の創造、もちろん、四次元、五次元、六次元以降の世界もです。神は創造に創造を重ねております。そして一見破壊と見えるものも、じつは新たな創造にしかすぎないのです。 しかも、神とは法則です。この三次元宇宙、多次元世界をも含めて、ひとつとして神の法則に例外はありません。神は掟(おきて)であり、ルールであります。 そのうえ、神とは永遠です。神は最初にして最後、無始にして無終の存在です。この無始・無終の存在が、さまざまな生命体に修行の機会を与えるために時間というものをお創りになったのです。また神とは美です。神はすばらしい芸術家です。神は、美しさとは何かを私たちに教え、美しさの定義をする人であり、美しさそのものであります。 さらに神とは調和です。神は、神の創造されたすべてのものが、すべての生命が、大いなる調和のなかで、ひとつの巨大なハーモニーとなって育まれることを望んでいます。 しかも神とは発展です。神は停滞を好みません。神は後退を好みません。神は永遠の進歩であり、発展そのものです。神は伸びていこうとする力そのものです。その伸びていこうとする力が、宇宙を創造されたのです。 けれども神とはまた、秩序であります。神とは発展をそのなかに秘めた秩序そのものであります。神の秩序は厳格にして、厳粛(げんしゅく)です。神とは、尺度そのものであり、何が価値があり、価値なきものであるかを決める、偉大なる尺度であり、物差しなのです。 最後に神は偉大なる光です。すべてをあまねく照らす光であり、すべてを生かす力であり、すべてを育む、偉大なる光のエネルギーそのものです。無限のエネルギー、無限の光の源(みなもと)なのです。私たち六次元神界の住人も、偉大なる神をめざして進化していこうと努力している者たちです。そしてその努力の方向とは、いかにして神のご性質に近づいていくかということです。 大いなる神に栄光あれ。 神の光があまねく地上を照らし、 地上のみなさまが大いなる叡智に 目覚められんことを 心よりお祈りします。 小桜姫