約 21,954 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/426.html
目次 1.神のお心への正進 2.悟りの維持の難しさ 3.知識を実践で示せ 1.神のお心への正進 この「正進」は「正道に精進する」という内容です。仏教のなかではこの正しく道に精進するということをひじょうに重視しています。前章の「正思」においても、自助努力の姿勢ということを述べておきました。重なるところもあるかと思いますが、「正思」のほうでの自助努力は一般的な面ですが、この正進のほうはもう少し具体的、個別的になっていきます。真に悟りを求めている者たちにとって、必須の心がけとは何かということが要求されてくるわけです。 この正進は、あくまでも道への精進と考えていただきたいと思います。単に商売での精進というようなことではありません。神の方向に向かっての正進ということになります。仕事の面で生かすとすれば、その方向性がユートピア建設へ、神のお心の実現へ向いているということです。これが正進の前提条件となりましょう。 さて、この正しく道に精進するという場合にも、いくつかの判断基準があるであろうと思います。みなさんは正しく道に精進しているかどうかをいったいどのように判定しておられるのでしょうか。どのように判断しておられるのでしょうか。 ここで、私は修行そのものの意味というものを、もう一度考え直していただきたいと思うのです。『釈迦の本心』゛という本の最終章に「人間完成の哲学」というものをあげておきました。このなかでは、いかに悟りへの道というのが難しいものであるかということを書いたつもりです。可能性としては、すべての人に開けている、そして、瞬間的にはある程度のところまで達することも可能とされている、しかし、維持することが難しいもの、これが悟りです。 悟りの要諦は、実はこの維持のところにあると看破しなければならないのです。もちろん悟りに入っていく過程、これも難しいですが、これを維持していくことこそほんとうはいちばん難しいことなのだということを知らねばなりません。それは、一時期、一瞬、あるいは一日や二日だけ悟った人がいくら出たところで世の中がよくならないのと同じです。十年、二十年と続いていって、はじめて自分の血となり肉となっていくものなのです。 したがって、悟りにおいて安易なものは許されないという考えを持っていただきたいのです。上級試験に合格して賞状を手にされた方々にも言っておきたいのですが、上級試験に合格された方はある程度の神理の理解ができ、ある程度の心境にきていることは認定されたわけです。しかし、これは悟りの入り口に立ったということであって、悟ったということではありません。これを勘違いすれば簡単に、一瞬で、あるいは一日で転落していきます。それを間違えないでいただきたいのです。賞状を手にするということは、みなさんが天国で光の天使として生まれ変われることの証明ではないのです。保証ではないのです。それは、悟りの入り口に立ったということなのです。それ以上のものではありません。この意味において、神理の学習とその結果は悟りへの入場券であって、乗車券ではないということであります。悟ったということは、そう簡単にはないということです。悟ったといわれる以上、十年、二十年、あるいは一生を通じてぐらつかない心で、それだけのレベルの心で、どんな環境下も生きていけるだけの自覚ができ、そして実績ができたときにはじめて悟ったと言えるのであって、悟りの入り口に立ったということとは、違うのです。 一年や二年でできあがるということはけっしてないのです。試験で何点取っても同じです。それは入り口に立ったということです。入場券ではあるけれども、乗車券としてそれを使うためには、それだけの努力を連綿と続けていくことが必要なのです。 一定の心境に達したとしても、環境が変わったときにグラリと崩れていくようなものであれば、その程度のものです。今は何不自由ない、悩みもないから、この心境での学びはできているといっても、それを維持してゆく過程においてまったく違った環境が出てきます。そのときに、それを乗り切ることができなければ、その悟りが簡単に壊れていく、そういうことがあるわけです。 2.悟りの維持の難しさ 特に、若い方にとっては、悟りの維持ということはだいじなことだと思います。悟りにおいて年齢は関係がありません。それは、たとえば二十代に亡くなった方、三十代に亡くなった方、四十代、五十代、六十代に亡くなった方というように、亡くなった後に行くところという意味で見れば、その人の心の状態は年齢とは関係がないからです。若くして高いところへ行っている方はいますし、むしろ中年以降で心にくもりをつくって霊格が下がっていくケースのほうが多いといえましょう。この意味において、悟りには年齢は関係ないといえましょう。 ただ、悟りの維持には年齢は関係があると思わねばなりません。若い人はくもりをつくっていない分だけ、早く悟りの入りロに立ちやすいのは事実です。心にくもりが少ない分、またいろいろな試練を受けていない分だけ、悟りの入りロに立ちやすいのです。しかし、人生の荒波にもまれていないという甘い環境に育っている以上、そうした事件に出くわしたときに崩れやすいのも早いということです。悟りの維持においてもろいのです。こうした難点があるということを、重々理解していただきたいと思います。 その意味において、二十代でたとえば百の悟りを得た者がいたとしても、この二十代の百の悟りは、三十、四十、五十となっていくうちに、目減りしていくという可能性は高いのです。いろいろな事件に当たるたびに、五個落ち、十個落ち、十五個落ちという可能性はひじょうに強いといえましょう。 ところが、四十、五十で得た八十の悟り、八十個の悟りというのは、そうとうの人生の荒波を経てきているために、少々の事件が起きて二個や三個落ちることがあっても、そう簡単には落ちないのです。そのかわり、純粋でない分だけ百個まで積み上げるのはなかなか難しいです。一個、二個を積み上げるのが難しいのです。しかしながら、そう簡単に崩れないところがあります。こういう長所と短所はあるわけです。悟りといってもこのようにレベルの差がありますが、あなたなりの悟りがほんとうのものとなっていくためには、経験という名の試練を通っていかねばならない、火のなかを通され、水のなかを通された鋼鉄のようになっていかねばならないということです。 この経験をとおし、そしてその試練を乗り切って人生の最終点まで走っていったときにはじめて悟りを手に入れたといってよいのだと思います。ですから、ある程度の心境に自分がなったとして、では経済的な破綻が来たらあなたはどうなるか。肉親のうちの一人が亡くなったらどうなるか。また、エリートのポストについていた人が左遷されたらどうなるか。離婚という状況になったらどうなるか。いろいろな場面があるでしょうが、そのときこそ試されていると思ってください。そうしたときに、不動の心を持って精進していける者、これは本物です。簡単にもろく崩れていく者は、やはり蜃気楼(しんきろう)であったと思わざるをえません。 したがって、私はこの正しき精進ということに関しては、時間の経過、経験の流れのなかで光を増していくということの重要性を特に説いておきたいと思います。毎年、毎年の心境があるでしょう。毎年、毎年の神理の学びがあるでしょうが、それを実生活において実践してみて、そしてその悟りの堅固さを試してみる、こういう姿勢をどうしても持っていただきたいと思うのです。 学生であれば、今悟ったと思っても、社会人となったらどうなるかわかりません。社会人となり、若手の社員から、責任の重い中堅となったらどうなるか、管理職となったらその悟りがもつかどうか。 女性であれば、若い女性が結婚したらどうなるかです。維持できるか、あるいはまったく変わってくるか。結婚している女性であれば、ご主人の立場・職業・収入、こういうものが変わったときにどうなるかです。 3.知識を実践で示せ ただ、どうしても私が言っておきたいことは、いくら神理を学んだとしても、実生活において奇人変人のように見られる態度だけは私は許さないということです。私たちがめざしているものは、どこでも通用する人材の育成です。神理の空間だけで通用して、それ以外で通用しないというような人材、こういう人をいくらつくっても世の中は変わらないのです。神理を学んで、心が変わって、そして世の中にもその光を環元できるようなみなさんであって、はじめて修行が生きているといえるのです。 女性であれば、神理を学んで悟ったことによって、ますます優しくなり、ますます多くの人に愛されるような女性となって当然であって、学んだことによって自分が偏った生き方をするならば問題外であります。若い男性でもそうです。今まで素直に生きていたのが、学んだことによって天狗になって堕落していくなら、何のために神理を学んだのかわからないのです。年輩の人でもそうです。それで出来上がってしまって、急にいばり始めるようであればそんなものは何でもない。実力がつけばつくほど謙虚になり、物腰が柔らかくなり、他の人に愛されるような、そしてもちろんそれ以上に愛を与えるような人間となっていかねば、人格となっていかねば、この修行ということの意味はないのです。 私たちのこの正精進とは、けっして千日回峰のように、山のなかを歩いたり、滝に打たれたりするようなことでもなければ、神理の知識をたくさん詰め込んで、それを競うようなものでもありません。これらはあくまでも材料であって、神理を学ぶことによって実生活にその光が出なければまったく意味がないのです。そういう意味での正進であります。 ですから、――学んだ神理を、学んだ知識を実生活で示せ。その悟りが本物であるならば実践せよ。実践されているかどうかは、まわりを見ればわかるはずだ。他の人の自分への接し方を見ればわかるはずだ。そして、それが退化することなく、あるいはいっそうすばらしいものとなっているかどうか自己確認する姿勢を持ちなさい。――そういうことを言っておきたいのです。 「正進」は決して神理浸けの特殊な人間をつくるためにあるのではないのです。むしろ、神理に触れることによって、心がくらりと一転し、心を開き、自己改革に取り組み、自分の欠点を修正し、そしていっそうすばらしい、今までになかったような、完成度の高い人間になっていただきたいのです。そして、その途中において、悟りの維持ということはどれほど困難かということをけっして忘れないでいただきたいのです。 入りロに立っているだけで、悟ったつもりになってはなりません。悟りはこれからが本番だということをけっして忘れないでいただきたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/233.html
目次 1.神や仏が偉いからって宗教家が偉いわけじゃあない 2.他界後の志士たちの近況 3.出来るだけ大きな出っ張りをつくれ 4.今の若いもんに言ってくれ!馬鹿でもええから大きいええことやれと 5.斬りたけゃ斬れだ、俺の体ぐらいくれてやる 6.今の政治家は腐っとる、阿呆が多い、青年は革命、革命じゃ 7.戦争はまたやるだろう、馬鹿は死んだ方がいい 8.抹香臭いのはいかん、人間は明るく大らかでなきゃ 9.高知の人は皆あなたを誇りにしている 10.今の日本人はどれもコセコセ蟻ん子みたいにしとるわ 11.二十代で社長、三十代で専務、五十代で平になってもいい 12.年寄を追放せい!年寄には年寄の生き方がある 13.学歴社会破るには違う物差持って来い 14.俺は今度生まれ変りゃポリネシアだ 15.物理的脱藩よりまず精神的脱藩をやれ 15.物理的脱藩よりまず精神的脱藩をやれ 善川 久々に快活な大らかな話を聴くことができました。 龍馬 まあ世の中女性化し過ぎてまんで女のような考え持っとる人間ばかりだ。 善川 もう現在管理社会が行届き過ぎて人びとの心を委縮させている面もあると思うんですよ。 龍馬 そうだな、もっと若返らにゃいかん。やらにゃあいかん。能力も発揮せんままにほとんど年取っていくんだ、こんなんじゃあいかん、特に若いもんに言っとけ――。みんな脱藩しろってな。現代における脱藩だ。昔の藩が現代の管理社会だな、今でいうと組織社会が藩だな、既成の体制だ。この脱藩をやらにゃいかん。脱藩をやってもだな、その人に実力さえあれば人々は従いてくる。世の人は認める、要は実力があるかどうかだ。脱藩しなさい、脱藩を。 善川 脱藩者、そういう脱藩者意識を持ったものが集まらなきゃ新しい社会は生まれてこないというわけですね。 龍馬 但し脱藩が目的じゃないんだぜ、やることがはっきりできた時に脱藩するんじゃ。脱藩してから何かをやるんじゃないわけだ。まあそういうわけだ。脱藩を奨めたけど世の中失業者が増えてはいかんからこの際言って置くが、失業しろといっているわけじゃないということだ。まあ物理的な脱藩だけでなくて、精神的な脱藩をやりなさいと、まあそういうことだな。なんかわしゃ見とるとなんか馬鹿な集団に思えてしようがないわ、もう会社では上にはペコペコ言いだなあ、夜はまた会社の上役と一緒に飲んでだ、土、日にはまたゴルフをやってだなあ、同じ人間ばかりが四人、五人とくっついて動いとるのみるともう情けないわ、馬鹿じゃないかと思うな。こんなの精神的に脱藩出来ていないということだ。まあ給料貰うためには働かにゃいかんが、それ離れたらもう皆好きにしなさいよ。好きにすることが無いんだよ他に、だから一緒に酒を飲んでだなあ、一緒に歌唄って、一緒にゴルフして玉打っとるわけだよ、あんな愚にもつかんことやっとるわけだよ。馬鹿なのになりゃあ毎週毎週やってるわけだ同じ者同士が、何の進歩があるかそんなもので、もっと精神的に脱落せよ、精神的に脱藩するためにゃ高次の日標目的がいるというわけだ。もっと天下国家を論じよだ。会社の中でやっている時は議論するのもいい、仕事するのもいい、会社離れたらもう会社の人間ではなくてだな、もういろんな人と天下国家を論じるような世の中になれ。青年達は特にそうでなくちゃならん。そう言っとけ――。 善川 では、龍馬先生本日はいろいろご指導賜わりありがとうございました。後五名の大先輩方のご指導を願ったあとで、いま一度先生にご降下願って、引続き総括的なご指導を願えれば幸いと存じますので、本日はどうもありがとうございました。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/117.html
目次 1.太平洋上の大帝国 2.文明の特色 3.人びとの霊的目覚め 4.ラ・ムーの教え 5.ムー文明の崩壊 1.太平洋上の大帝国 さて、本章では、いわゆるムー文明、ムー大陸について話をしてみたいと考えます。 太平洋上に浮かんでいたと言われる、伝説の大帝国ですね。ただ、これは、私たちの実在世界にある記録から見て確かにあった文明なのです。そうした文明があったという記憶を、人類はどこかに持っていて、そのムー文明の話が現代まで伝わっています。 ムーという大陸は、そうだね、現在で言えば、まあジャカルタ付近だろうか。あのあたりを中心とした大きな大陸で、それが太平洋上に浮かんでいたんです。ここは非常に発達した大帝国でありまして、農業はもちろんのこと、牧畜業、その他いろんな面でも進んでいましたし、また、一大海洋文明であったことも事実です。海洋文明であって、船の技術が大変進んでおりました。 この時代には、数多くの光の天使たちが地上に降りたわけです。そして、まあ言ってみれば、東洋文明の源流のひとつともなるべき文化があったのです。このムーの文明がやがて、日本とかその他のアジアに広がっていったし、その一部がもちろん他の西洋の方にも流れていった。こういうことがあったように思います。 まあ人びとはね、人類は一直線に直線上に進化してきたと、まあ思っているかも知れないけれども、実際はそうじゃないんだね。人類の進化っていうのは、まあ上がったり下がったりしながら、次第しだいに向上してきたというような感じなんです。螺旋(らせん)階段状とも言えないけれども、ある時代は上がって、また下がって、上がって下がって、また上がったりしながら、まあギザギザの折れ線グラフみたいな感じで、次第しだいに上がってきてるのです。 また同時代においても随分、文明の落差はあります。このムーの文明の時にも非常に高い文明があったけれども、その時代にも世界の各地を見てみると、それほど高くない文明もいっぱいあったのですね。まだ狩猟民族や単なる農耕民族もいた。文明という名のつかない人たちの方が多かった、というのが事実です。これは現代でもそうですね。現代ニューヨークのマンハッタンだとか日本の東京だとか、いろんなところではそのような素晴らしい近代文明が栄えていますが、同時代に、アフリカの密林のなかに住んでいる人もいれば、南アメリカですね、南米なんかのなかでもまだまだ未開の生活をしている人もいるし、湖の上に葦(あし)の藁(わら)で編んだ家に住んでいるような人もいるんですね。あるいは、エスキモーみたいにアザラシ取って生活している人もいる。 こういうように、非常に難しいですね。同時代であってもいろんな文明の落差があるし、過去の時代であっても、やはりあった。だから、一万年前とか二万年前っていうと、もうこういう文明のレベルというふうに、私たちは決めつけて考えがちですが、やはり一万年前、二万年前であっても、その時代に文明の落差はあった。こういうことを認めなければいけないと思います。 この太平洋上の大帝国であるムーという文明は、今から一万五千年、あるいは一万六千年前まで太平洋上で栄えていた国なんです。ま、やがて沈没していったわけです。まあこの辺の事情は、大川さんの『太陽の法』なんかにも詳しく書いてあるから、それを読まれたらいいと思うんですが、沈没していったんですね。大陸沈没の話はあちこちにありますが、あのノアの洪水のような話ですね。やっぱり没していくんです。大帝国が没していく。そういうことがあったということです。 さて、そうした大帝国だけれども、まあここには何万年にもわたって人類が文明を築いていたわけです。築いていたけれども、やはりいちばん有名なのは、その末期、沈没する前の二千年、あるいは三千年ぐらいに栄えていた文明です。だから今から言えば、そうだねえ、一万八千年ぐらい前から一万五、六千年前、この間のニ、三千年というのが、ひとつの高みであったのです。文化的な高みであった。そして非常に、異様に高い文明を誇っていた。まあこういうふうに言えると思います。この時にムーはね、みなさんが思っているよりも遥(はる)かに強大な力を持っていて、軍隊なんかも相当持っていたんです。そうした時代、そうした文明であったと言えましょう。 2.文明の特色 さて、そこでムー文明の特色について、私の立場からいくつか話してみたいと思います。 いろんな時代の文明には、それぞれ特色というものがありますね。これは、天上界でもいろんな光の天使たちの計画がありまして、地上計画がある。そして、こういうふうに創る、ああいうふうに創るっていう、いろんな計画があるんです。その計画に基づいて文明を展開していっているんです。 まあこれは、なんでもそうでしてね、やはり飽きてくるわけですね。今なんかは、たとえば野球みたいなのが非常に栄えていて、みんなベースボール、ベースボールでワーワーやっているけども、じゃあこれが千年も二千年も続くかといえば、続きゃしないんですね。やっぱりどこかで飽きてきて、また新しい新種のゲームが始まるんですね。そしてそれが栄えて、また飽きていく。こういうことがあるわけです。 同じように、文明と言っても、その本質においてはそう大きく違わないとしても、その切り口、あるいは角度、繁栄のしかたにはさまざまな差異があるんです。違いがあります。ですからムー文明にも、やはりひとつの特徴があったと言えると思います。 ただこのムー文明というものを、ここ二、三千年ぐらいの文明と比較してみると、どういう特色があるかと言うと、結局似ているのはエジプト文明と日本の古代文明、これを融合したような形じゃないか。まあこういう感じを受けるんです。エジプトの文明は、ピラミッドを中心にしてさまざまな文明がありましたが、あの時にも霊魂不滅という思想、これは明確な思想でした。これがあって、そしてやはり神というものを中心とした、そうした太陽信仰があって、そして人びとが生活をしていました。また、古代日本でもひとつの太陽信仰であったと私は思います。太陽信仰であって、天照大神(あまてらすおおみかみ)信仰もありますが、こういうふうに太陽神というのを信仰していました。 まあこれと非常に似ていたわけで、当時のムーも太陽信仰でした。まあもちろん、ああいう太平洋上の大陸ですから、太陽の恩恵というものをものすごく受けていたわけで、太陽信仰が栄えたとしても不思議じゃありませんね。当然ながら栄えていた。そういうふうに言えると思います。 その太陽信仰で何が文明の特色としてあげられるかというと、まあ僕は、三つぐらい主にあげられるんじゃないかなあと思います。三つぐらいあげられる。 それはね、この時代には、まあ現代もそうだけど、ひとつには、霊信仰というのが非常に強かったんですね。霊信仰が強くて、人びとの生まれ変わり、転生(てんしょう)も随分信じられていたんです。したがって、やはり人びとは、この転生の過程においてどれだけの実績を積むかということが、非常に問題となっていたわけです。 それゆえ、まあそうした霊的な能力を持った人たちも、数多く活躍をしていました。霊能者集団がかなりいて、彼らが職業霊能者をやっていたのです。つまり、僧侶階級あるいは祭司階級と言いますか、そうした職業霊能者たちの集団があって非常に高い権威を持っていた。また、その職業霊能者たちは、当時非常なインテリであって、最高の英知、人類の最高の英知を持っている、というふうに言われていたと思います。そうした方々が知恵の集団をつくっていて、そして国政であるとか、さまざまな経済の問題、あるいは軍事の問題が出てきた時に、彼らの知恵を借りて判断をしたのです。こういうことがあります。まあこれが、古代の日本の神政政治とよく似ているところではないかと思います。 二番目にあげられる特色として、経済の原理についても多少語っておきたいと思うんですが、このムー文明の時には、もう物々交換ではなかったのです。ひとつの経済原理が働いていて、面白いのですが、当時、青銅の文明と言いますか、青銅の金属が使われ始めていたのですけれども、この青銅の硬貨に近いものが、やはりあったのです。そういうものがあったのです。 そして、まあ女性が首飾りなんかよくしますが、首輪の周りに、その硬貨のようなものを並べる風習があったのです。その形は、どういう形かというと、ちょうど涙をたらしたような形です。そういうふうに、上の方が細くなって下が丸くなっている。涙をたらしたような形、こうした形のようなものを首の周りにぶら下げていたんです。糸で通してぶら下げていたのですが、この涙形の硬貨、これがお金でもあったわけです。首飾りともなり、お金ともなる。したがって、この首飾りを二重、三重に巻いている人ほどお金持ちだったのです。 今みたいに金庫はないし、銀行もなかったわけですが、女性、まあ男性もそうだけども、首の周りにいくつかの首輪、あるいは首飾り、ネックレスみたいなのがあって、それにこのお金をぶら下げていたんです。で、二重、三重四重、五重と、お金持ちほどいっぱい何重にも巻いているんです。こういうものを持っていて、全財産を首につけて歩いていた。そして何か物が欲しければ、その首からひとつ硬貨を取って、それを渡して買うということであったわけです。まあこういうことをやっていて、お金持ちかどうかは一目瞭然であった。 こうした首輪の習慣は、現在のポリネシア、インドネシア、あの辺の住民にも随分あると思います。そうしたものが出ているんじゃないかと思います。こうした経済原理を持っていて、現在の貨幣経済の端緒(たんしょ)ともなるべきものが、すでにあった。これが言えます。 第一に霊能者集団、第二にそうした貨幣経済のはしりがあった。第三番目の特色として何があったかと言うと、これは、まあ階級が主に三つに分かれていたということなのです。すなわち、神によって選ばれた人びとの階級というのがあるのです。神によって選ばれた人びとの階級というのが、第一階級としてあって、そのなかには先ほど言った霊能者集団と、もうひとつは政治を執(と)り行う貴族集団、この二つがあったのです。これが第一階級としてあって、これは対等です。身分は対等ですが、神によって選ばれた人たち、そういう人たちがいたのです。これが第一階級です。 第二階級は何かと言うと、これは商業なんです。商業で生きている人たち、これは第二階級で、やはリサービス業ですね。サービス業をやっている人たちが第二階級としていました。 第三階級としていたのが、これが第一次産業的な人たちなのです。すなわち、農業、漁業をやっていた人たち、これが階級として第三にいたんです。そして、それを加工する人たちはどこにいるかというと、加工する人たちは、やはりレベルが多少高いということで、第二階級、商業階級と同じところにあった。こういう身分階級がありました。 そして、そのように身分階級が三つあったわけですが、こうした違った階級の者同士とは、やはり結婚ができない。こういうふうになっていました。お付き合いができないのですね。また、使われていた言葉も、この三つの階級によって多少違っていました。上流階級には上流階級の神秘的な言葉があるし、中流階級には中流階級の賑(にぎ)やかな繁栄の言葉があり、下流階級には下流階級で、非常に語彙の少ない、言葉数の少ない言葉があったのです。 農業、漁業をやっている人たちは、現代で言えば、三百語か五百語ぐらいの言葉でもって話をしている。こういう世界です。そして、読み書きはできませんでした。第二階級である商業、あるいは工業、加工業をやっている人たちは、多少読み書きができました。商売上必要であって、読み書きもできるし、言葉も、まあ千語から二千語ぐらいの言葉を知っている。こういう人たちです。第一階級のインテリ階級になると、言葉はもちろん何千語、何万語使っていて、そして、まあインテリであることが条件でありました。それと、神秘体験などを必ず通過するような、そういうことをしてました。 霊能者階級は、もちろん神秘体験をしていましたが、貴族階級のなかにも、やはり霊的なものにあこがれる者が非常に多かったので、現代の洗礼に代わるような、そうした神秘的な儀式を執(と)り行っていて、各人が必ず神秘体験、神霊体験というのをするような、そういう通過儀礼がありました。子供の時にひとつ、それから成人する時にひとつ、こうした通過儀礼があって、霊的な体験を必ず積まされるようになっていました。まあこれが、ムー文明の特色です。 3.人びとの霊的目覚め まあその文明にあって、人びとはどういうふうに霊的に目覚めるかということですが、第一階級が、このような霊的に目覚めた人たちの階級であったために、第二階級、第三階級もやはり、霊的なものへのあこがれが非常に強かったのですね。 下層階級の者であっても、上位の僧侶階級、あるいは貴族階級に入れる道がひとつだけあった。それは何かと言うと、現代的に言えば霊道を開く、すなわち、心の窓を開いて光の天使たちと話ができるようになれば、階級が上がるのです。そういうことがありました。 そして、まあプロフェッショナルな資格試験ですね、僧侶階級の面接試験、筆記試験などを通った場合には、第二階級、第三階級出身の者であっても僧侶になることもできるし、場合によっては、その能力が偉大であれば貴族階級にとリ立てられるということもあったわけです。したがって、平民に生まれついていたとしても、下層民に生まれついていたとしても、神の恩恵を受けて霊的能力を持った場合には、あるいは祭司階級にまわり、あるいは政治を行うような階級に入っていける。こういうことがあったのです。 現代だとどうかっていうと、まあ勉強ができるっていうことがそうだろうねえ。どんな田舎の生まれであっても、そこから一生懸命勉強してね、小学校、中学校、高校と主席で卒業して、いい大学出て、で、まあたとえば法律家になったりね、裁判官や弁護士になったり、政治家になったり、官僚になったり、いろいろして、生まれが貧しくとも身分ができてくる人がいますね。現代では、そういう勉強ができるっていうことがひとつのステータスをつくっているように思います。日本には貴族階級がないけれども、そうした学歴社会というのが、ひとつの貴族階級をなしているんじゃないかと、私は思います。 この時代は、だからそうした霊的な目覚めですね、霊的な目覚めによる階級差があったということです。ではその霊的目覚めをつくるためにはどうしたかと言うと、人びとはやはり、この霊道を開くということの研究を随分やっていました。ただ第一階級は、それは職業上の秘密であるので、できるだけ機密を守るということで、内部で集まって極秘に、そうした霊道現象等をやっていましたが、第二階級、第三階級共に、次第にそういうことを聞きおよんで、だんだんに、そうした能力を自分で修行して身につけようということで、努力をしていたようです。 だから、霊道を開いて第一階級に入ることが、当時の出世の目的であったし、どうやって霊道を開くかということを、町にいた人たちが、それぞれに我が家の秘伝ということで、家々で競っていたという事実があるのです。 そして、まあ基本的な方法としては、現代で言うような反省ということが、それほど強く言われたわけではないけれども、やはり心清らかにするということが、第一の方法としてあげられていたのですね。 だから悪いことをしたら、それを反省したり、謝ったりする。そして、悪いことを念(おも)わないで、常に太陽のような心をもって生きる。こういう教えが、中心になって説かれていたように思います。だから、霊的な目覚めが早ければ早いばど、身分階級が上がるという世界があったのです。 ここに、ユートピアの話をいろいろしてきましたが、すべての関連を見るわけですね。個人としてのユートピアと、全体としてのユートピアの話をしてきましたが、こういうふうに、個人としての目覚めが、霊的目覚めが、階層を上げていく、社会的な階層をつくっていくという世界が、ムーの文明であったわけです。 これはひとつの面白い現象なんです。霊道現象すなわち悟リとは言えないけれども、こうした神の声を聴けるようになる、光の天使たちと話ができるようになる人たちが、階級が上がっていくのですね。こういうことがある。それともうひとつは、上流階級、第一階級であっても、そこからの追放という現象があったのです。すなわち、心をやはり清く保つということがひとつの義務であって、心が乱れて、いわゆる光の天使ではなく、曇りの天使たちに指導されるようになった時、悪霊たちに憑依(ひょうい)されるようになった時に、第一階級ではそうした査問会議があって、階級から追放されるということがあったのです。こういう面で、新陳代謝(しんちんたいしゃ)が起きていた。まあこのように言えると思います。 だから、人びとは、霊的目覚めがすなわち自分の地位を上げるという、そういう社会に生きていたと言えると思います。 4.ラ・ムーの教え さて、こうしたムー文明でありますが、滅亡のちょっと前ぐらいでしょうか、今から一万六千年余り前の頃に、「ラ・ムー」という帝王が出ました。ラ・ムーとは「ムーの光」というような意味ですが、こうした帝王が出て、これが大きな功績をあげたのです。ムーの発展のために、非常な力があった方です。 もちろんこれは、王宮に生まれた王様がなったわけですが、当時の王様は最高の統治者であると同時に、最高の神官でもあったわけなんです。地上のこの世と、あの世の権威を、両方兼ね備えている最高権力者である。まあ、ローマ法王とアメリカ大統領を兼ねたような、こういう人ですね。こういう力を持っていたのです。 そして、ラ・ムーは霊的能力においても最大であって、ムーで最大の霊能者、霊指導者と言われた方なのです。まあ後に、ラ・ムーの生命体は、インドにゴーダマ・ブッダ釈迦牟尼仏という名で生まれ変わっていくわけですが、こうしたラ・ムーの生命体は、それだけのやはり力を持っていた。 そして、多くの人たちに、正法神理を説きながら、また、国政のあり方、これを教えていったわけです。そして、人びとを善導していった。正しい方向に導いていった。まあこういうことが言えると思います。 このラ・ムーの教えを要約してみると、まあ私なりの考えですよ、もちろん、他の考えもあるし、他の人の意見もあると思いますが、僕は三つぐらい、やっぱり教えの核があったと思います。 第一は、やはり、心の浄化ということだったと思います。反省に近い教えですが、心をやはり浄化しなければ、人間は本当の意味で光の天使の仲間には受け入れられない。まあこういうことを言っていたと思います。常々心の浄化をするということ。これが大事であるということ。 それから二番目は、やはり、愛の教えを随分言っていたようです。互いに愛し合えということを、結構言っていたように思います。互いに愛し合うことの大切さ、愛を広げていくことの大切さ、こういうことを、随分言っていたように思います。 心の浄化、それから愛の大切さを説きましたが、三番目は、やはりこのラ・ムーは偉大であったと思うのは、宇宙観、世界観、これをかなり詳しく示してみせたということです。現代で私たちが、こうした神理の探究において、本当の宇宙観、世界観を開示していますが、ラ・ムーも、ほとんど同じぐらいのレベルまで話をしていた。多次元世界についても話をしていましたし、この多次元空間のなかで、人類は転生輪廻(てんしょうりんね)しながら、いろんな地域に生まれ変わって出ているというような、そうした高度な理論を説いていたんです。 まあこういう「宇宙の理法」を説けたというところが、ラ・ムーを他の霊能者と区別する最大の違いになったわけです。霊能者たちはいくらでもいたわけだけれども、「宇宙の理法」を説ける霊能者はいなかったわけです。だが、ラ・ムーは「宇宙の理法」を説けた。なぜ説けたかというと、それだけのやはり大指導霊たちが、当時、ラ・ムーを指導していたわけです。 このラ・ムーは、やがてアトランティスの時代に、「トス」として生まれたり、また、アンデスの山中に「リエント・アール・クラウド」という名前で生まれたり、また、その後には、ギリシャで「ヘルメス」という名で出たり、それからインドにおいて「釈迦」という名で出たり、いろんな形で、その魂の分光が地上に出て来ていますが、このラ・ムーの部分は、比較的このブッダ生命体の本体に近い部分であった、ということが言えると思います。それだけの大きな力があった。一万六千年も経って、その名が残っているほどの巨大な指導者であったわけです。まあムーの栄光でもあったわけです。ムーの人たちはラ・ムーという人が出たということを、大変な誇りに思っていました。まあ、こういう時代があったということです。 5.ムー文明の崩壊 さて、こうした偉大なラ・ムーが出たわけですが、ラ・ムーもやはり人の子であって、何十年か生きたら、やがて地上を去ってゆかねばならなくなりました。そしてその後継の者たちが、だんだん継いでいったわけですが、この時代は祭政が一致であったために、政治的指導者すなわち宗数的指導者であった。つまり、宗数的指導者が凡庸(ぼんよう)になってくると、政治的指導能力も落ちる。こういうことにもなったわけですね。 そうして、ムーの末期はどのようであったかというと、多少やはり乱れがあったわけです。現代的に言えば、悪しき新興宗教がいっぱい出て来まして、このラ・ムーの教えが正しく守れなくなっていったのですね。だんだんにラ・ムーの教えが正しく守られなくなって、いろんな異説、邪説がいっぱい出て来るようになります。そして、このムー帝国そのものが次第に混乱をしていくわけです。 そうして、帝国の上空に、人びとの暗い想念の曇りができていくようになります。だんだん地上が殺ばつとしていきます。そして、犯罪とかも増えていきますし、だんだん倫理、道徳が衰えていきます。そして、霊能者、聖別(せいべつ)された階級としての霊能力集団、僧侶階級のなかにも、悪霊の黒い影が次第に忍び込んでいって、そして、霊能信仰が間違った方向に行くようになる。曲がり込んでいく。こういうことがあったわけですね。 こうした経験を積むにつれて、次第に天変地異というのが多くなってきました。これは、末法の世には、どこも天変地異が流行(はや)っておりますけれども、このムーの文明の時もやはり同じであって、天変地異が起きました。そして、随分いろんな火山の爆発があったり、地震があったり、津波があったり、まあいろんなことがあって、やがて文明が崩壊していったわけです。 そして、そのムーの子孫たちが、いろんな形でまた、さまざまな所に逃れていったわけです。日本などにおいても、その南方から来た文明のなかには、このムー文明があります。一万五千年以上昔に、崩壊していったこのムー文明、この末裔(まつえい)たちが、日本にもだいぶ来ています。日本には、もちろん、韓国、中国系統から渡ってきた人もいますが、このムーからの人、それから、アリューシャン列島を渡ってきたアイヌ系統の人たち、こうした三種類の人たちが流れ込んできて、日本民族をつくっているのです。 日本という地域が霊的に非常に高い意味合いを持っているのは、このムーの部分の魂系統が、かなり入って来ているためだといえると思います。ムーの一部は、もちろんアトランティス等にも流れていきましたけれども、まあこの東洋では、こうした日本などに、日本あるいは東南アジアにだいぶ流れていった。また、インドの方にも出ていったのですね。ムーの文明の一部は、インド文明の源流にもなっていっております。 まあ、天照大神(あまてらすおおみかみ)という、現代日本の主宰神のような役割をやっているような人もいますけれども、この人もムーの時代にやはり出たことのある方であって、ムーの時代に女王をやった経験があります。まああるんだけれども、そうしたことをあまり言うと、まあ嫌われるといけませんのでね、私はほどほどに言っておきたいと思いますが、やはりムーに出た方です。そして、太陽信仰を、その時にも説いたことのある方です。その方がまた、日本で、日本の国造りのために、あれほど活躍をされた。そのように言うことができると思います。まあ非常に霊的な力のお強い方である。そう言ってもいいのではないでしょうかね。 このように、このムーの文明は去っていったわけですが、そのムー文明が去ること自体を悲しむのではなくて、また新たな光が出て、新たな文明ができていく。私たちは、そうして何億年もの間、飽きることもなく、いろんな生まれ変わりをして、そのたびに偉大な経験を積んでいくのです。それで、魂のなかには、そうした英知が蓄積されていく、まあこうしたことを、くり返し、くリ返し、やっているわけなのです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/75.html
目次 1.他力信仰の問題は御利益信仰にある 2.対象がないと祈れない人間の弱さ 3.本当の御利益の意味 4.本当の意味での他力とは何か 5.自力の落し穴 6.複雑に悩む現代人の悩みの解決法 7.原則として人生は自力で問題を解決してゆきなさい 8.自力あってこその他力である 9.偉大なる他力を知った時、謙虚さが生まれる 1.他力信仰の問題は御利益信仰にある それでは、私の講演も今日で第七回目。本日の演題は、自力と他力ということです。これは、私もかねがね自力と他力の問題、随分言ってきました。そして、人間は他力では救われません。やっぱり、自力です。自力じゃなきやいけないということを、私は、生前ということになるんでしょうか、生前、随分強調致しました。というのは、現在、末法の世の中になって、日本の、或いは、世界の宗教を見渡してみると、どうも御利益ばっかりを求める宗教になっている。他力、他力という言葉自体で批判するというのも問題ありますけれども、他力批判と言いますのも、御利益信仰について、私は言っているんです。もちろん、私たちもあの世の世界の人間ですから、宗教というのは、あの世の世界との関わりを無(なし)にして、抜きにしてやれるわけじゃありませんから、そういう意味で、他力なしということはあり得ません。ただ、私が批判する他力信仰と言いますのは、他力依存は何かと言うと、要するに、御利益信仰のことですね。 今、例えば、お寺を見てみなさい。日本のお寺、あっちもこっちもお札を売ったり、交通安全のお守りとか、それから、お札、おみくじ、そういった類ばっかり、或いは、観光、全くの観光仏教になっちゃって、片や葬式仏教、片や観光仏教、こういうことでやっていることは何かと言うと、何か御利益があると、要するに、この神社にお参りしたら、御利益があります。或いは、この仏閣、お寺にお参りしたら御利益があるこういうことばっかりしているわけですね。そういうことで、じゃ、実際の神主さん、それからお坊さんが、そういう御利益というのを本当に信じているんですか、信じてるかって言われると、急に不安になるんですね。昔から。「ここのお寺は、昔から何とかに効くと言われています。」とか、或いは、「このお線香の煙がね、前厄(まえやく)、後厄(あとやく)、本厄(ほんやく)に、それぞれ効くんです。」とこういうことを言ってるんです。で実際に、それ本当に効くのかと、徹底的に追究したことあるんですかと聞いてみると、「いや、それはどうか分りません。」それじゃ、神主さん、或いは、お坊さんでもいい、住職さんでもいいけど、「神主さん、あなた本当に神様を信じてますか。」と。「いや、神様というのはあると教わっています。」と。或いは、住職さんに聞きますと、「いや、仏さんというのはあると聞いてます。」と。「じゃ、仏さんというのは何ですか。」とこう聞くと、「いやあれですよ。あれ見て下さい。」と御本尊を指しちゃって、「あれが仏さんですよ。」と「ああ、仏さんというのは、金ピカの金箔を張ったあれが仏さんですか。」「そうです。あれが御本尊なんです。」「ああ、そうですか。あの御本尊さんが、人間に御利益下さるんですか。」「ええ、そうなんですよ。あれは、本当に立派な方が、昔造りましてねえ、今から何百年前に。そして、今国宝なんです。それが御本尊ですから、これは御利益あります。」こういうわけですね。「じゃ、住職さん、まあ、国宝かなんか知らないですけど、じゃ、その国宝は何で人間を守ってくれるんですか。人間の病気を何で治してくれるんですか。何で交通安全の祈願が通るんですか。」「いやそれがまた、そういう尊い仏様ですから、それを拝むだけでも御利益があるんです。まあ、なにせ、偉いんです。」だんだん、そういう唯物的になって、要するに、そういう仏像というものがあるからこれに何か超能力じゃないけれども、特殊な能力というものがあって、この仏像を拝んでりゃ、何か御利益がある、何だか分んないんですね。その因果関係が全然分ってない。とにかく、国宝だか何だか知らないけど、御本尊様ってのを拝めぱ、願いごとが叶うとこう考えているわけなんです。 またある神社でも、神社には御神体というのがあるんです。御神体を祭っています。御神体って何かと言うとね、ふた開けて見たら、ただの石ころが入ってるわけなんですね。「石ころじゃないか」と「こんな石ころに、何の御利益があるんですか。」と聞くと、「いやあこれに、この御神体に御魂(みたま)を入れてあります。御魂を鎮めてありますから。これが効くんです。」とこうおっしゃるわけなんですね。石ころなんかに、あなた、神様が入るわけがないんです。石ころなんかに宿るようなものは、もう本当に低級霊です。低級霊はありますよ。物に執われた霊ですね。これは、古い建造物、古い仏壇、墓石なんか、こんなものは一杯霊がかかってますよ。物にかかる霊、こんなのは、地上に執着のある霊たちです。殆どそうです。執着のある霊たち、石ころなんかにあなた、河原なんかで拾ってきた石ころなんかに、何で神様が宿るんですか。この辺が間違っているんですね、ものの考え方が。 2.対象がないと祈れない人間の弱さ 別に私は神社が悪いとは言ってませんよ。まあ、人間、何か対象がないと祈れない、これが人間の弱さなんです。本来、そういうもんじゃない。神様っていうのは、他次元世界にあって、心と心で同通するもんなんだけれど、それが技術的にできないもんだから、「何でもいいから」と日蓮宗で言えば曼陀羅、曼陀羅をぶら下げて日蓮が生まれてきたわけじゃないんだけど、曼陀羅はとにかく尊いんだっちゅうわけで、曼陀羅に向ってお題目を上げたり、まあ、他にも色々ありますわね。中には日蓮宗系のある人は、生きてる会長さんの写真を飾って、線香立て、蝋燭立て、会長さんを拝んでいる。あの世じゃなくて、この世の人の写真を飾ってね、拝んだりしている。まあ、こんなことやっているわけですよ。要するに、人間というのは、どうしてもそういうふうに、何か拝む対象が、欲しい。 まだ、これは決して現代人だけを批判できるわけじゃないんですよ。モーゼの十戒と言って、有名なんですけれども、ああいう十戒を神から頂いて、それは本当は人間の生きていく心の指針なんですけれど、それだけでなくて、モーゼは、小羊を屠るっていいますかね、殺して血を流してヤーヴェの神に捧げる、こういうことをやっています。これは、小羊を裂くっていうのは昔のそのユダヤの伝承的な、伝承的っていうか、土俗の信仰のやり方でもあったわけですけれどもこういうことを、真の神が要求するわけがないんです。そうでしょう。「いやあ、羊よりは人間がいい。」なんて言って人身御供ですよ。人身御供を要求するのは、これは、あなた、神様の仕業じゃないですよ。どこかの鬼ですよ。何とか山の鬼ですよ。私が鬼だったら、これは、あんた羊なんか嫌いですよ。私は羊よりは、あなた、ピチピチした女の子の方がいいですよ。これ食べたいですね。まあ、そんなことは冗談ですけれども。 実際そうですよ。それは、何かおかしな信仰が入っているわけです。こういうふうに、神様、仏様が供物を欲しがるとか、生贄(いけにえ)を欲しがるとかそういうことをすれば、今度は御利益があるとか、こういう物の考え方、これは日本だけじゃなくて、世界中に残っている考え方です。しかし、これを徹底的に疑問を追究しなくちゃいけないんです。じゃあ、何故、神様はお札買った人は守ってくれるんですか。神社でね、千円のお札、或いは、五百円のお守り、お金を出してぶら下げていたら、何でその人を守ってくれるんですか。買わなかった人は守らないんですか。お札買わなかった人は、善良に生きていても事故にあって、交通安全のお札ぶら下げときゃ、何やったって守ってくれるんですか。神様って、そんなお金で、物事を判断するんですか。お金で支配される人ですか。そんなことないでしょう。あなたが神様だったらどうですか。あなたのお名前書いたお札(ふだ)、五百円のお札を買ってる人は、ずっと守ってあげて、あなたのお札を買わなかった人、貧しくて五百円も出せないような善良な心をした人、こういう人を交通事故に遭(あ)わせて、「なんで、私のお札を買わんのだ。」こういうことを言いますでしょうか。言わないでしょうね。神様は、銭、金じゃありません。また、神様っていう人は、拝まれて、それで御利益を与えるような人でもないんです。 3.本当の御利益の意味 本当の御利益っていうのは、自分自身の心を創って、自分自身の心を神の心と同通させてはじめて、神としての力、本来なる神の力、神聖なる力というのが働いてくるんです。これ以外にないんです。本当に。何の修行もしないで、何の心構えもなく、ただ、お金払ってお賽銭(さいせん)を投げたり、或いは、お守りを買ったり、お札を買ったりして、これで救われるんじゃないんです。もちろん、例外はあります。私は公平な立場から例外の話をしております。もちろん、低級な霊たち、動物霊は、何とか神社のお札とかね、こういうもので感応することがあるんです。それは原則、ありますから、私は言っておきます。そういう動物霊たちは、たわいもない霊たちは、お札見せられたら、「こういうものには、力があるもんだ。」と思って、自己催眠を掛けちゃって、ここの家には何かお札が張ってあるから、ここはあまり行けないとか、霊たちが自己催眠掛けちゃって行けないことがあるんですよ。こういうこと、ないとは言いません。何とかのお寺が守っているから駄目だとか、そういうことがないとは言いません。 それともう一つ、神社仏閣の中でも、そこを経営というか、管理している人たち、お坊さんが、本当の高徳の人、徳の高いお坊さん、或いは、徳の高い神主さんでね、その神社や仏閣が、本当に一つの聖域になっている場合、心と行いが調和されて非常に素晴しい聖域になっている場合があります。そういうとこも、ないとは言えません。世の中には、そういうとこもあります。その住職なり、神主さんが、非常に心が調和されて、お弟子さんたちも、神の心にかなった生活をしている。そうすれば、その信徒たち或いは、檀家の人たち、こういう人たちだって何らかの力を受けるのは当然です。そういう意味で、高い神域にある、神社仏閣、こういう所で力が無いとは言いません。こういう人たちのやっていることであれば、もちろん、地獄霊たちを撥(はね)つけるような、そういう力がないとは言いません。けれど、こういうのは例外です。末法の世の中には、お寺や神主さんで、お寺や神社で、生きている人間を、悪霊から守れる力を持っている、それは殆どありません。原則として、ないと思って結構です。 ですからいいですか。私が言いたいのは、神社回りをしたり、或いは、仏閣回りをしたことによって、人間は救われるわけじゃないということです。まあ、奈良かどっか、知らないけれども、三重県だか、奈良か知らないけれども、ポックリ寺とかいうのかあって、六十歳過ぎたら、そこへ行って、ポックリ寺へ毎年行って、よく願いを込めれば、ポックリとあの世へ引っぱっていってくれると、そればっかりがもう人生の生甲斐になって、ポックリ死にたいとそればっかりを願って行ってる人もいます。ポックリ死ぬぐらい簡単なもんです。一億円ぐらい保険金かけといて、どっかへ飛び込みやぁポックリいきます。そうでなくて、「いや、そんな血腥(ちなまぐさ)いこと、私は嫌です。綺麗に死にたいんです。」と言って、死に方の欲が色々でるわけです。私は死に方が良くなかったけれどまあ、死に方は色々ですけれど、死んでから後が問題であって、死に様がどうってことないんです。畳の上で死ねないかどうかっていうのはありますけれど。それだけじゃありません。まあ、死んでから後のことです。 4.本当の意味での他力とは何か そういうふうに、自分以外の力っていうのを誰でももちろん頼ってしまいます。親鸞の思想なんていうのもありましたが、あれは、本当の他力ですね。他力信仰、他力本願。今は他力信仰とか、他力本願というと、本当に悪いことのような価値判断があって、自力がいいような、日本語としてそういうニュアンスがあるから、まあ、親鸞さん、気の毒ですけれど、他力本願という考えがあります。 私はこの考えも、一応検討しなきゃと思っています。本当の意味での他力って何かっていうと、それは、本当の神っていうのを信じる、本当に信じきった時、人間は十倍百倍の力が湧いてきます。ここのところを間違えたらいけないんです。いいですか、他力信仰、他力本願といっても、単に財布の紐を緩めてお札を買ったり、お賽銭(さいせん)投げたりして救われると思う他力信仰と、いいですか、本当に、赤子が母親の乳を求めるように、お乳が欲しくてお母さんの膝に駆け上がって、そして、乳を貪って吸うように、そういうように神を求めに求めた他力の信仰とがあります。これは、単なる御利益信仰と違うんです。ですから、私は他力が駄目だからといって、親鸞さんの教えが駄目だとは言っていません。或いは、そういう意味での他力批判であれば、クリスチャンたちもほとんど引っ掛かっちゃうでしょう。「イエス様、イエス様」って祈ってます。決して悪いとは言いません。私は、それは悪いとは言いません。ただ、イエス様に自分の心が通じるためには、自分の心を創っていかなければいけないんです。自分の心を創らずして、ただ「イエス様」と名前を呼びゃあ、救ってくれる、そういう考えは甘いです。ただ、本当に、真剣に、あなた方が道を求めるようなつもりで、本当に、真剣に神を求めるような人であるならばいいですが、もう、その大いなる神の慈悲、大いなる神の愛、大いなる神の叡智、こうしたものを感じる場合があります。宗教家の中で。そういう時に、神の前に本当に小さくなった自分というものを感じる時があるんです。 まあ、奈良の大仏さんであります。私は、正確なあの大きさというのも忘れましたけど、まあ、十六メートルかなんかあるんでしょ、大きさが。その大仏様、十六メートルの大仏様の前に立ってみると、人間というのは、いかにも小さいですね。神様と相撲、まあ、仏様ですか、仏様と相撲するにしても、向うは十六メートルあります。立ち上がったら三十メートルもあります。そういう人と、一メートル何十センチの人間とが互角に闘えるわけがありません。それ程、神様、仏様っていうのは大きいものです。あれは、そういうイメージを抱かすために、ああいう大仏っていうのを造っているんですけど、ああいう偉大な仏様の前に立ってみると、人間っていうのは、どれ程自分が小さいか、ということを感じるんです。そして、神仏の前に、自分がいかに小さいかということを感じる時にはじめて、人間は、謙虚さっていうものが出てくるんです。 ですから、本当の意味での、真実の意味での、他力論者っていうのは、決して御利益信仰ではないんです。神の前に、神仏の前に、その小さな自分というものを投げ出して、赤裸に投げ出して、「神よ、こういう私ですけど、どうか、あなたの御胸に抱いて下さい。神よこんな小さな私ですが、この小さな私ですがあなたのために投げ出しますから、どうか、あなたの御自由にして下さい。」こういう純粋な思いで自分を投げ出すのが、本当の意味での他力です。私は、これは否定は致しません。こういうことは、あり得るでしょう。ただ、これは、真実、自分の小ささ、神の大きさを感じとったような聖者にしてはじめて可能な他力信仰であって、通常の人はそうはいきません。鰯の頭も信心からというような、普通のおばさんたち、漁村や農村のおばさんたちね、鰯の頭、信心したら御利益あるなんて言ってポクポク何か叩いちゃってね、鰯の頭、信心してるような人たちには通じないんです。こういう言葉は、こういう考え方は通じないんです。そういう大いなる神との相対的対坐という言葉は、とても通じないんです。ですから、親鸞のような、パウロのような、偉大な人であってはじめて通じるんであって、一般の人はなかなか無理です。或いは、修道院で修行したり、或いは、僧院で修行したり、本当の他力の偉大さを知った人は、それは他力信仰で結構です。 5.自力の落し穴 小さな自分というものを、自分の計らい心「自分で努力すりゃ救われる。」とかね、「あいつより俺の方の修行が勝っているから、神様、俺の方をひいき目に見てくれるだろう。」と、こういうことを批判しているのが、親鸞たちなんです。いいですか、これは正しいんですよ。 あなたは、あなたの同僚の坊さんとあなたを比べてみりゃ、「私の方が反省を余計にやっているから、私は反省三年やりました。あの人は反省一年半しかしていない。だから私の方が上なんだ。だから、神様は私の方にいい点つけてくれるに違いない。」こういうふうに考えるんです。バカな人間になってくると。あなたは、バカじゃないよ。あなたはバカじゃないけど、バカな人間になるとね、「私は三年反省した。あの人は一年半しか反省してない。私の境地まで達するのは、あと一年半かかるのよ。」そんなんじゃ、ありません。人間の道を求める心っていうのは量じゃないんです。質なんです。イエス様も言っています。「先のものが後になり、後のものが先になる。」これは、長く修行をしたからと言って悟れるわけじゃないっていうことです。それぞれに永遠の転生輪廻を重ねてきた人たちですから、ある機会に接すればね、突然悟る人もいるんです。突然に御仏(みほとけ)の弟子になる人もいるんです。だから、そうじゃないんです。それを、いいですか、自力論者の愚かな自力論者たちは、要するに、「自分はこれだけ修行をやったから、神仏のお誉めが愛(め)でたいんです。」ね、或いは、「比叡山で二十年龍(こも)ったから、自分はもうすぐ神様の近くへ行けるんだ。」こう思ってしまうんです。親鸞なんかは、徹底的にそういう偽善というのを憎んだ人ですから、親鸞というのは、そういう偽善、「自分は、何万巻お経を読んだから人より優れているから、神仏に救われる。」とか、「人より朝早く起きて、雑巾掛けしているから、神様の点救が高い。」とか、こんなことを思う人を徹底的に嫌ったわけですね。そういう人間心で悟れるわけじゃない。そんな人間心で救われるわけじゃない。御仏(みほとけ)の、阿弥陀仏(あみだぶつ)の心というのはもっと広いものだ。もっと大いなる、無限大です。神対人間というのは、無限大対一ぐらいの開きがあるんです。そんな大きな阿弥陀の心で比べて、人間は何故、そんな計らい心で救われる必要がありますか。そういう計らい心を捨てて帰依しましょう。本当に阿弥陀様を信仰しましょう。これが、親鸞の気持ちです。 ですから、こういう他力は、また違います。また、自力の悪いところをハッキリと突いています。あなた方、ともすればね、「自力、自力、自力ですよ。」と言えば、反省を三年やったから、五年やったら、十年やったから、或いは、内観を朝から晩までやったから、十五時間やりました、八時間やりました。私は一週間やりました。二週間やりました。こんなふうなことで競うようになるんです。或いは、霊視が効くようになるために、一日中寝そべって、布団の上に寝て、「何か見えるように、何か見えるように。」そして一日中お題目唱えて目をつぶって、眉間を睨んで、「何か見えてきませんか。」とか、こんなバカなこと、言う人がだんだんに出てくるんです。何も悟っていません。こんな自力論者、決して悟っていません。 こういうふうに、要するに、形に執われているんです。自力も形に執われ、その量に執われ、或いは、他人との比較に執われた時、大変な落し穴に入ってしまいます。ですから、他力も自力も、どちらも落し穴があるし、どちらも真実を突いているところがあります。 6.複雑に悩む現代人の悩みの解決法 ですから、私はこれから一番間違いの少ない、少なくともハ割の人に通用するような考え方というのをご披露したいと思うんです。やはり、さっきの鰯の頭も信心からじゃありませんけれども、単に、要するに、何とか様の名前を唱えたら救われる、或いは、イエス様の名前、唱えたら救われる、こういう考えでは人間は救われません。原始時代ならいいですよ。原始時代で、何にも知らないで、石斧でトナカイの頭でも叩(たた)いて、それを料理して食べてる時代は、何も知識もないから、誰か偉い人がいて、「イエス様」って言えば救われる。それでいいんです。現代みたいな、あなた、こんな複雑な世界で、「イエス様」って言っただけでね、救われるって、そんな単純じゃありませんよ、あなた。人間の心も複雑ですから、複雑に人間も迷っているんです。単純に迷ってないんです。昔なら、雨が続いて、獲物がとれないからとか、そんな悩みがあったわけです。獲物がとれないとか、雨が降らないために、作物が実らないとか、こういうことが、叶わなくて神仏に祈ったりするようなことがありました。 こういう悩みがありました。ところが、現代人は複雑に悩むんです。ある時は、コンピューターが入って、「私はコンピューター、習ってないから。」テクノ・ストレスと言って機械についてのアレルギーで悩んじゃったりして、こういう悩みもあるんです。その時、「ああ、イエス様、私のテクノ・ストレスを救って下さい。」「私のコンピューター嫌いを治して下さい。」と言ったって、治りゃしないです。イエス様に祈ったって治らないです。イエス様、コンピューター、知らないです。分らないです。全然分らないです。イエス様、コンピューター、嫌いです。祈ったって無理です。そんなもんじゃないんです。この悩みを解決するのは単純です。自分でコンピューターの勉強すればいいんです。コンピューター学校に行って勉強するか、或いは、コンピューターの要らない仕事に入るか、どっちかなんです。そしたら悩みはなくなるんです。こんなもんです。 だから、他力っていうのも単純な世界では通じるけれども、現代ではなかなか通じません。そういうふうに人間というのは、まず、自分自身でその悩みの元凶を調べて、徹底的にそれを追究していくんですね。まず、悩みの原因そして、その結果、これを徹底的に追究していくことであります。 あなたの悩み、例えばですよ、あなたがある若い美しい女性だとする、何かをあなたが悩んでいるとする、大体何を悩むか、もう大体解ります。普通の人なら大体分るわけですよ。普通の人は、あのう、若い美しい女性だという前提ですよ、とすると、例えば、「私はいい人を見つけて嫁に行くべきか、嫁に行かないとするならば、一生の職業をもつかもたないか、そういう職業でうまくいくか、いかないか。」とか、或いは、「親がどうこう言う。」とかね、「妹に先を越される。」とか、大体こんなもんですよ。人間の悩みなんて決まってるんですよ。それで、そういう悩みをどうしたらいいかと、あれこれと考えるわけです。 そうすると、まあ、自分で考えるというのも一つだし、自分の頼りになる人、友達、先輩、或いは、親戚、或いは、恩師、こういう人に相談するのも一つです。こういう人で頼りになる人が多い人は本当に救われます。けれども、普通の人間は、そう頼りになる人はいないわけです。そういう意味において、そういう理想的な相談相手がいない場合に、自分自身で考えなきゃいけない。そして、何故、それが悩みなのかを考えてみる。例えば、自分はどうしても結婚したいと思う。結婚したいけれども相子がいない、これで悩む。ところが、結婚の相手がいても悩んでいる人がいるわけです。相手がいても、「この人と結婚して本当に幸せになれるかどうか。」まだ結婚してもいないのに悩んでるわけです。結婚したらしたで、「この人と一生、一緒にやっていけるだろうか。」悩んでるわけですね。で、子供ができたら、「子供が本当に大学入れるまで、この人勤めてくれるのだろうか。」或いは子供が一人できたら、「もしかして、子供が三人ぐらいできて、この人の給料じゃ、三人も大学出せないんじゃないだろうか、その上、私は頭が悪いから、この子は国立に行けないかもしれない。」もう生まれた時に、二十年後の心配をしている。いくらでも悩みはあるんです。だから今のあなたの悩みを考えてもその悩みがなくなったとしても、また別の悩みが出てくる。ですから、人生はある意味において悩みの連続であります。この悩みを「イエス様」と言って救われるか、阿弥陀様と言って救われるか、救われないです。人間というのは、何十年という人生を生きていく過程において、必ず、いろんな疑問、悩みに突き当たるようにできているんです。これがなければ、人間は進歩というのがないんです。悩みと対決して進歩していく、そういうふうにできているんです。人生っていうのは、疑問の追究、そして、悩みの解決、こういうことになっているんです。この悩みが幾つも出てくるんです。何十も何百も、人生っていうのは出てくる…。これを自分でね、四つ相撲ですよ。がっぷり四つに組んで解決していく。こういうことを神様から教えられているんです。 7.原則として人生は自力で問題を解決してゆきなさい 日蓮聖人の霊言集がありまして、あの中でいいことを言ってますよ、日蓮さん。「人生は一冊の問題集である。」いいこと言ってますね。私よりはいいこと知ってますよ。一冊の問題集なんだそうです。だから、いいですか、「アーメン」なんて言って、答えを求めてはいけないんです。自分で解きなさいということなんです。還ってきたら、点数が分るから、あってるかどうか、一冊の問題集です。だから、それが悩みだということですね。 ですから、問題集を与えられているんですから、皆さん、これを解いていかなきゃいけないんです。自分で解くんですよ。答えを見せられてあなた、こうだっていうのは、これは横着ですよ。自分で解いていく、そういう意味で自力です。人生っていうのは、一冊の問題集ですから、自分で解くんですよ。だから、あなた他力ってあり得ないじゃないですか。自力ですよ。問題集で勉強するんですよ。自分で答え書かなければ、誰が書くんですか。家庭教師が居て、「先生、第一問目が分りません。」「これは答えはAですよ。」「先生、何も意味が分りません。」「答えはBですよ。」あなた、これで勉強になりますか。ならないでしょう。だから、それは、人生に対する取り組み方ですね。人生を何と考えるかです。人生を一冊の問題集、神から与えられた問題集と考えるならば、答えを解くのは、問題を解くのは、自分自身です。これは、自力以外あり得ないんです。 「ね、イエス様、どうか、この答えを教えて下さい。」エンピツ転がすことがあります。エンピツを転がして、エンピツがここで止まったから、ああ、答はこれ二番だ、なんて、こういうこともありますよ。マーク・シート方式で受験勉強には、これだってあることはあるのだから、本人の信仰が深ければ、まぐれでよく当るかもわからない。しかし、それは、あくまでも邪道であって、問題解けないで何も書かないよりは一つぐらい埋めとけと、受験のテクニックです。一つぐらい埋めとくと、埋める時にどうしたらいいかわかんないから、エンピツ転がして、それで丸つけるでしょう。これもいいですよ。ただ、これに走っちゃいかんということです。自力と他力という関係はこうなんですよ。 だから試験問題解いていてね、あの記述式はわかんなければ書けないけれど、記号式もあるわけですよ、人生の中には。記号式の開題も、そういう時には自分で考えて答えが出る場合と、いくら考えてもわかんない場合がある。いくら考えても分らん場合は、エンピツを転がして丸をつける、こういうこともあります。こういうことは、他力的瞬間でしょう、人生におけるこういうこともあります。そして、たまたま、それが合って合格できる場合もあるし、それがはずれて不合格になることもあります。そういうこともありますよ。入学試験なんか現に、その、まぐれスレスレで合格する人なんか皆、そうですよ。合否スレスレの人は、たまたま合ったのと、たまたまハズレたのがあって、落ちたり受かったりしてるんです。 ただね、それはボーダーライン、スレスレの実力を持っている人のことであって、本来は、そういうまぐれが当らなくても、いいですか、自分の頭で考えて解いて、合格できるようにならなきゃいかんのです。スレスレ合格狙っているからそうなるんです。どんな試験受けたって、受かるぐらいの実力をつけなさいと。まず、これが先決なんです。それを「いやあ、スレスレでも受かりゃいい。」とエンピツ転がして、それをどう当てるか、コックリさんで当てるか、イエス様で当てるかなんてやってるわけなんです。そんなんじゃ駄目だっていうことです。だから、テクニックとしての他力もあるけれども、原則は、問題は自分で解きなさい。こういうことです。これは、自力の意味です。それで、その時に、いいですか、正しい心構えで生きて、常々、神仏を思っていると、何故か正しい答えが浮かぶ場合もありますよ。そういう意味での他力的思考も考えてみなさいと、こういうことです。だから、私が自力と他力と言っているのは、原則として、人生は自力で問題を解決していきなさいということです。 8.自力あってこその他力である ただ、その中で、行き詰まることもあります。そういう時に、偉大な他力の光明が人々を救ってくれることがあります。それが何かっていうと、心の窓を開いた時です。 あなた方、反省というもの、反省瞑想というのを続けていきますと、次第に、心の曇りが晴れてきます。そして、神の偉大な光が心に射してきます。こういう時に、いろんな啓示というのが与えられます。これは、自分から求めて与えられるもんじゃありません。まず、自分の心の曇りを晴らして、スモッグを取り除いてはじめて神の光が入ってきます。そうすると、そういうふうに心が澄んできた人は、あの世からのインスピレーションというのを受け易くなるんです。これは他力です。インスピレーションは、自力じゃありません。 ですから、不思議なことに、他力を求めた人には他力は与えられず、自力を一生懸命磨いた人に他力が与えられるんです。皮肉ながらそうなんです。だから、自力によって生きた人が、インスピレーションによって、本当に自分がとるべき道というものを与えられていきます。あなたにおいてもそうです。私は反省の話であなたを皮肉っているけれども、あなたは三年間反省しました。反省によって、自分の心の曇りをとって、真実の自分の生き方っていうのを考えました。そして、それから後がなくて、それから後、どうしていいか分らなかった。そういう自分に突き当ってると、こういう高橋信次が出てきて、あなたと話をするようになりました。そして、あなたに正しい方向を与えました。インドに行ったって、あなたは悟れません。フィリピンでも救われません。あなたの使命は他のところにあります。私が出てきて言っています。これを私が言わなきや、あなたは分らなかった。あなたの自力だけでは駄目でした。そうでしょう。 結局そういうことで、本当に人間は、道を求めた時に、初めて他力の光明がその人を救ってくれるんです。何でもそうなんです。それをあなた、最初から、いいですか、何も修行もしないでね、「高橋先生、御願いします。私はどうしたらいいんでしょうか。」「あ、先生は口がないんですか。じゃ、私が消しゴムを六角に切ってね、サイコロに切って目をつけます。一から六番まで目をつけますから、これで出た数字で、これで占いますから、先生、頼みますよ。」「ナム、高橋先生、できたらこの番号で教えて下さい。」で、あなた、選択枝六つ位書いといて、その番号出たらそれにするなんてやって、こんなんで絶対救われるわけないんです。結局、そうなんですよ。 だから皮肉だけど、神の真理っていうのは一緒で、本当に一生懸命自力でやっていると、他力が助けてくれる。他力だけを求めても、他力は助けてくれない。これは、先程の問題集に返ると、まあ、受験ということで、皆さん、問題集解かれるでしょう。そして、幾つかの問題集解かれて、正解と自分の解答合わせて、そして、間違ってたり、合ってたりする。ところが、問題集で解いているのと同じ問題は、入試問題に普通は出ません。けれども、問題集、しっかり解いている人は、違う問題であっても、何故か、いいですか、できるんです。できるようになってくるんです。一生懸命問題やってると、違う問題でもできるようになってくる。そうすれば、違う問題でも解いていると、だんだん、推理力が働いて、その答えが浮かんでくるようになる。自力と他力はこんなもんなんです。問題集を数多く解いてると、だんだんに、他の問題でも類推が効いてくる。そして、分ってくるようになる。これが、類推が効くってことが、いわゆる他力なんです。インスピレーションの部分なんです。 こういうふうに、あなた方の人生っていうのも、基本的組み立ては、やはり、ハ割自力、二割他力、このつもりで行って下さい。これが一番間違いのない方向だと、私は思います。以上で、自力と他力ということを話しました。 9.偉大なる他力を知った時、謙虚さが生まれる それと、まあ、もう一つ話しておくと、まず、それで、自力で壁を突き破った人は、まだ自力に執われているところがあるんです。本当言うと、自分が反省して、そういうふうな道を得られたら、また、他の人にも反省、反省ということを言いますけれども、それだけじゃないんです。自力に執われているものは、自力天狗になってしまいます。自力だけではできないんです。本当は、自力反省だけでは悟れないんです。本当は。そして、あなたが、今度は、高級霊たちと話しはじめて、自分の小ささっていうのをだんだん悟ってきます。そして、謙虚になってきます。謙虚になってくると、他の人にあまり偉そうに言えなくなってきます。 これが、自力から他力への移行の部分なんです。皆、これを通るんです。これを通らないで、本当の信仰ってあり得ないんです。まず、自力で優れた人間となっていく。優れた人間になったと思うと、もっと優れた人が出てきて、「おまえなんか、全然駄目だ。」とペシャンコにされてしまう。こうして初めて、謙虚になってきます。そうすると、回りの人に対して慈悲深く、優しく、なってくるんです。偉大なる者の前で、自分の小ささというのを感じると、慈悲深くなってくるのです。相談に来た人に、「あなただって、悩むの当然ね。」と、そしたら、回りの人は、「あら、ま、あれ程、自力天狗の先生が急に優しくなってきた、やっぱり、先生悟られたに違いないわね。」こうなってくるんです。これが "実る程頭(こうべ)を垂れる稲穂かな″っていうのは、このことを言うんです。分りますか。まず、実り、要するに、稲の穂としては、しっかり実をつける必要があります。これは、自力です。それで、自力でいっぱい実ってくると、頭がだんだん垂れてくるんです。謙虚になってくるんです。その謙虚になった姿っていうのが、偉大なる他力を知った時です。これからのあなた方も、 "実る程頭を垂れる稲穂かな″これでいきなさい。実りをつけるのは自力です。そして、自力で実りがついてくると、だんだん自らを低くしていきます。謙虚になっていきます。この時に始めて、大いなる太陽の恵みに対して、感謝してる稲穂としての、あなた方の姿があるはずです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/340.html
目次 1.帰天第一声 2.あの世の実感 3.死後の世界のガイダンス 4.反省と進路決定 5.魂の比重について 6.あの世の世界は波長の世界 7.私は一直線に如来界最上段階に着いた 8.諸如来による祝福 9.地上での活躍を語る 10.生長の家の大神は天之御中主之神であった 11.あなた方は谷口雅春をも超えてゆけ (1986年10月27日の霊示) 1.帰天第一声 谷口雅春です。五十数年の長きにわたって、生長の家総裁として、我が日本の国で神理伝道にこれ務めてまいりましたが、昨年夏にようやく天寿を全うし、この世、すなわち地上に住んでおられるあなた方にとってはこの世ですね、この世を去って一年数カ月、今、こちらの世界で私の生活も落ち着き、どうやら考えもまとまってまいりました。 私は、生前は、そのことに気づきませんでしたが、今、現代の日本に、〇〇〇〇という光の指導霊が出ておって、こういった高級霊界からの、光の指導霊の言葉を受けとっているということを知った。そして、こちらの世界に来てからも、昨年の暮れごろからであったであろうか、他の高級諸霊たちが、〇〇〇〇を通じて、地上の人々にメッセージを送り、これを記録し、書物として出版している事実を知った。 私はもちろん、以前、生長の家という光明思想団体、まあ、宗教団体と言ってもよいが、それを持っており、その後継者も現在おる以上、このような形で、他の宗教活動にかかわるのは、あまりよろしくないのではないか、とずいぶん考えたのでありますが、生前、私の説いておった教えは、万教帰一、万教これ同根ということであります。人間すべて、これ神の子、キリスト教も仏教も、また我が日本神道も、すべては、同じ神から流れ出た教えであり、単に宗教にとどまらない。十八世紀、十九世紀と栄えたドイツ観念論哲学も、十九世紀から二十世紀にかけて、アメリカを中心に流行(はや)った光明思想、すなわちエマソンを始祖とするニューソートの流れも、また同じく神の教えを受けて、この地上に流れ出た思想であることは明らかであります。 このような世界的見地からも、神の教えの広がりというものを見たとき、私は単に生長の家の総裁であったというその事実に基づいて、生長の家以外に対しては、守護、指導をしないというような、そうした偏狭(へんきょう)な心の持ち方では相すまされないものと痛感したのであります。 生前、その存在は知らなかったが、今、〇〇〇〇を通じて、このようなことができるということを知った以上、私もまた光の指導霊として、地上の人々にメッセージを送りたいと思うのである。そしてこちらの世界の報告をすることによって、生前の私の考えと、帰天後の私の考えとの違いがあるや否や、あるいは地上において、未だに連綿(れんめん)として我が教えを学び続ける人に対して、さらに説き得ることあるや否や、これを明らかにしたいと思うのである。 まず、私は天上界に帰って、すでに一年三ヵ月か四ヵ月たったわけではありますが、地上の皆さん、生長の家の方々にもメッセージを送りたいと思う。それは、こちらに来てから一年余りの私の感想であります。それが本日の演題、「天上界に帰る」ということに関する私の話であります。 2.あの世の実感 まず、あの世へ帰った実感がいかなるものであるかということからお伝え申し上げたい。 あなた方は、様々な高級諸霊の霊言を収録しているようであるが、まだ私のように死後一年、というような新しい霊の通信は受けておらぬであろう。まあ最近は、高橋信次というGLAの主宰をしておった者が通信をしておるようであるが、それとても、もう死後十年がたっておるはずである。 そこで、死後一年余りでまだ初々しい九十二歳の谷口雅春が、まあ赤ん坊のように初々しく、こちらで体験したことを語ってみたいと思うのである。 まず、人間の死ということに関してであるが、まあ、たいていの人間は、死の瞬間、自分というものの意識が混乱に陥(おちい)っており、そして、自分がいざ肉体を離れるということにおいて大変な驚愕(きょうがく)をするものである。なぜならば、死後の世界というのは、まったくの未知の世界であり、誰からも教わったことがなく、また、ほとんどの人は書物においても、死後の世界をさほど学んでいないことが普通だからである。 たまには宗教心ありて、あの世のことどもを学んだとしても、あの世のことどもを語っておる宗教書はなにぶんにも古いものが多く、千年、二千年前の仏教書であったり、あるいは二千年前のイエスの教えから一歩も前進しておらぬキリスト教であったりするのだ。 たとえば、キリスト教徒であるのなら、二千年前のイエスの教えのままに、自分はイエスを信じてきたから永遠の生命を受けることができるのであるか、あるいは、炎の炉のなかに投げ込まれる野の草花の如く燃えつきて、その身、その命を失うものであるか、そうした審判というものを恐れて、わなないておる者もいる。 あるいは、仏教徒として死に、そして自分が野辺の送りとなり、坊主が来て読経する姿を見て、どうやら自分は死んだらしいということに、はじめて気づく者もおる。 だが死んだ者の一様に思うのは、自分が日蓮宗であろうが、あるいは浄土真宗であろうが、そうしたことに関わりなく、経文というものをあげられるのであるが、その意味がさっぱりと分からないということである。 お経をあげるということによって、自分が、すでにこの世の人間ではないということは、すべての人間が気づくのであるが、いかんせん経文をあげる本来の意味が失われている現今においては、坊主の一時間、二時間の経文は、彼らにとっての救いとはならんのである。 死んだばかりの霊たちは、そうした経文に一生懸命耳を傾けておるのであるが、それによって悟りを開くこともなく、それによって救われることもない。 やがて自らの肉体が焼かれ、骨壷に納まり、墓に納まり、線香をたてられ、写真を飾られ、鐘を鳴らされる。人々が水とかお茶とか、あるいは御飯とかをまつっている、その姿を見て途方に暮れるのである。自分は死んだばかりであって、食べ物をまつってくれても、それを食べることができない。山のように果物を積んでくれても、それをどうすることもできない。死んだことは分かったけれど、死後の方針がたたないというのが大体の事実なのである。 3.死後の世界のガイダンス そうして地上を、たいていの人間はまあ四十九日というが、実際は二十日乃至(ないし)三十日であって、そのくらいはただよっておるのです。そうして初七日が終わったあと、まだ悲しみにくれている遺族とともに、まだ家のなかにとどまっては、共に生活をしているようなつもりでいることが多いのである。 しかしその二十日、三十日の間に、彼らは徐々に霊としての自覚を持つようになる。そして、自分が今や飲まず食わずとも、生きていかれることを当然のこととして感じるようになる。 そしてまた、地上の人々にいくら話しかけようとしてもその声は聞こえず、いくら肩に手をかけても、その手が肩を通り抜けて、彼らを驚かすこともできなければ、彼らに気づかすこともできないということを悟るのである。たいていの霊は、もうこれ以上この地上にとどまっても自分は生活を送れないということに気がついてくる。そのころを見計らって、本人の守護霊というものが迎えにくるのである。 そしてその死の自覚を十分にさせるために、本人の父親なり母親なり、姉なり兄なり、叔父なり、叔母なり、すでに身内の者であってこの地上を去っているものを共につれてきて、その者をして死後の世界を語らしめることがほとんどである。それからあの世への門下生としての初歩を教えるのである。 それはちょうど、小学校にあがる前の子供たちの姿に似ている。この春、三月、桜が咲かんとしているときに、親たちにランドセルや教科書を買ってもらう、学校にあがる前の子供たちの姿にも似ていようか。この地上でいかに偉大なる人物としていばっておった者であっても、死ねば、あの世では赤子同然だ。あるいは小学生の最下級生にも及ばぬような霊知識しか持っておらぬ。 問題は、この地上にいたときに驕(おご)りたかぶっていた人たちである。彼らは自分が社長であったとか、一国の大臣であったとか、役所の偉い人間であったとか、警視総監であったとか、あるいは学校の校長であったとかいう人たちだ。つまり、この世的には、昇りつめたということで、人に対して訓辞を垂れ、教えることのみを当然としていた人であるわけだが、他界して後、小学生の最下級生になることに、戸惑いをおぼえ、狼狽(ろうばい)するのである。 イエスは言った、「心清き人は幸いである。汝等は神を見るであろう。」そういうことを言った。有名な山上の垂訓(すいくん)でいくつかのお教えをイエスは言った。この世で小さき者は、あの世で大きくなり、この世で大きな者は、あの世で小さくなるとも言った。己れを低くする者は高くされ、己れを高こうする者は低うされるとも言った。 それはまず、この最初の死の関門において、その言葉は実現するのである。すなわち、この地上において己れを大きな者と思っておった者が、あの世で自分の小ささに気がつき狼狽する。しかし、この世において、謙虚に自分を見つめ生きてきた者は、あの世に帰りて、その謙虚さ故に学習が進んでいくのである。 自分の小ささを知っている者は幸いである。彼らは大きくなるであろう。自分の小ささを知らない者は災いである。彼等は他界して後、大いなる辛酸(しんさん)をなめる。こうして死後十日の間に、自らの守護霊、そして縁者の者たちの話を聞きながら、人々は徐々に死後の世界のガイダンスを受けるのである。 4.反省と進路決定 二十日、あるいは三十日たち、時期が来たときに、人によって違うが、指導霊がやがて訪れて来るのである。守護霊というのは大体、本人の霊格と同じレベルの魂であるが、これとは別に一段と霊格の高い霊が、その者を守っておるのである。これが指導霊であるが、この指導霊というのが迎えにくる。そして守護霊と共にその死んだばかりの魂を、まず、あの世の収容所へとつれていくのである。 これはいわゆる四次元といわれている世界、幽界(ゆうかい)といわれている世界である。まだこの世界では、この世的色彩がずいぶん強く、人々は地上的な生活を営んでおる。そして、まだ家族単位で生きているような者もおる。 この地上にある物はほとんど、その幽界世界にもある。そしてその生活のなかで、少しずつ自分の魂を見つめるようになっていくのである。やがてその幽界世界に帰って、早い者ではほぼ三日、遅い者では、まあ九十日くらいであろうか、その間に必ず自分が人間として生きていたときに心のなかに去来したことども一つ一つを、反省することとなっておる。 この反省の仕方は、その人の思想、心情、あるいは宗教において多少異なった色彩を帯びておるが、その人が仏教的な人であるならば、仏教関係の僧侶という者がやってきて、仏教的に反省の功徳というのを諭(さと)し、やがて本人を反省に導いていくのである。 その魂がキリスト教的な魂であるならば、教会の牧師がやって来て、その者に懺悔(ざんげ)を勧めるのである。あるいは、生きているときに宗教というものに無縁であった人に対しては、教育者のような者が出て来て、その人を道徳的に諭していく。このようにして、自分の生きてきた六十年、七十年の生涯というものを、反省させていくのであります。 その際、人によっては、あなた方が知っているように、過去を照らす鏡というものによって、自分の全生涯を見せられる場合もある。ただ、これは幼稚な段階であって、そういうことをする必要がある人に対してなされるのであり、霊的自覚が進んでいる者に対しては、そうしたことは、もやは、なされない。 そして、この幽界のなかで三日から九十日間の反省が終わったならば、それぞれの人間は、自分の行くべきところを定めるのである。これは決して閻魔(えんま)大王のような者がいて、行き先を指定するわけではない。ただその反省の期間において、自分の本質というものをたいていの人間はつかむのである。そして自分の守護霊、あるいは指導霊に対して、今後の身の振り方を相談することになっておるのである。 やがて地獄に行けば、その反省のときのことを忘れているのであるが、少なくともその段階においては自分が天国に行くべき霊か、地獄に行くべき霊かということは、自分自身で判断できるようになっているのである。 どうやら自分が地獄に行くべきだということが分かったときに、守護、指導霊と相談の上で、どうしたことが自分のいちばんの誤りであるかということをはっきりさせる。そして、自分の誤ったことを修正するのに、いちばんふさわしい地獄へと赴(おもむ)いていくのである。これは、あくまでも自分の判断で赴いていくのである。ただたまには例外がある。 私は、今、一般的な人間の場合を言ったのであるが、本当の悪人は、本来はそうした者はないのであるが、霊的な眼で見て、生きていたときに多数の悪霊たちにとり憑(つ)かれ、そして本人も生きている悪霊さながらの生活を送った者は、そうした者に憑(つ)かれたまま、四人、五人、六人の悪霊に憑かれたままに、まっさかさまに地獄に堕(お)ちるという現象があることも事実である。 5.魂の比重について あの世の世界というものは、あなた方が知っているように、様々な霊層に別れておる。その霊層というものは、決して人間をランクづけしようとしてあるのではないのである。それは物理学的な法則に基づいて、物理学的なる法則に随順(ずいじゅん)して、そのような住み分けが行なわれるのである。つまり、これは魂の比重の問題として話すことができると思う。 たとえて言うならば、上澄み液のようなものである。水のなかに灰なら灰を混ぜてかき混ぜると、しばらくすると灰は下の方へと沈んでいく。いちばん底には黒い物が溜まるであろう。そしてだんだんに色が薄くなってきて、最上層では澄みきった水があるであろう。 しかしその段階をよく見るならば、澄みきった水から真黒な灰まで幾層か分かれている。なぜそのようになっているかと言うと、重いものが下に沈んでおるからである。重いものとはなんであるか。それは、この地上的なる、物質的なる思いを魂につけたる者は、比重がこの世的なものであって重いということだ。そうしたものが下に沈んでいく。 これに反して、この世的なものの少ない者、あの世的なる魂は比重が軽いために、上へ上へと浮いていく。したがって、魂というものは、意志決定という面で見れば、自己の判断によって赴くべき処を変えるのであるが、物理学的に見るならば、その魂の比重に合わさった処へと赴いていくのである。 また別のたとえをするならば、人間の魂というものはエネルギー体であり、一つの電磁波であり、一つの波動であるのだ。そしてその波動は、きわめて荒い波動を体現したるエネルギー体たる魂は、そうした世界にその波動が通じてしまう。また、精妙な波動を体現したる魂は、精妙なる世界へとその波長が合っていくのである。 6.あの世の世界は波長の世界 あの世の世界は、いわば波長の世界なのである。あなた方はともすれば、目に見えない地獄というものがあり、目に見えない天国があり、そうした国が厳然とあって、そこで人間が居住するかのように思っておるであろう。しかしそれは、人間的感覚によって分かるような比喩(ひゆ)であり、物体であるのだ。本来の世界は波動の世界であり、その波の世界なのである。 荒い波動の世界、つまりこの世界に生きている者は、たとえば、テレビという受信装置を使ってその映像を受信するならば、地獄という映像がテレビに映るのである。また精妙なる波動を放送している、その電磁波に同調している魂というものは、たとえばテレビで受信するならば、非常に美しい世界を映し出す。天国的な映像を映し出す。こういうものであって、あなた方の身のまわりにももちろん、目に見える電波、目に見えない電波というものが行きかっておるのであるが、普段、その存在には気がつかぬであろう。 しかし、これをラジオ装置なりテレビ装置なりを設けるならば、その像を受信することができ、その声を聞くことができる。その電磁波をラジオに収録し、その波長に合わせたならば、それはあるときは地獄のうめき声となり、あるときは天使のコーラスとなる。またあるときは、地獄的な地獄絵図がテレビに展開され、あるときは、牧歌的な天国の姿が映るのである。 あの世の世界はこういうものであって、物理的なる国としての天国、地獄があると思ってはいけないのである。あくまでも波動の世界であり、波長の世界であるということだ。それを人間的にとらえるがために解釈し直して、天国、地獄という人間的なる者が住んでいる世界として表現をしているのである。これを誤解してはならない。 このようにあの世の世界というものは、この波長の世界、波動の世界が非常に精妙に区別されており、波長の合わない者同士は同通しないことになっている。すなわち個人の織りなす人生の波長によって、個人の魂が響かせる人生の調べによって、音楽によっていくべき世界が異なってくるのである。これ、あるときは如来界、これ、あるときは菩薩界という。これ、あるときは神界と言う。あるときは霊界、幽界というのである。これも、そういった世界があるというよりは、そのような波長の、波動の世界があるということだ。 したがって、この世を遙かに去った世界があるというよりは、この世界をいろいろな電磁波が飛びかっておるように、そうした世界が混在してこの三次元のなかにあるということだ。四次元の世界は三次元のなかにあり、四次元のなかに五次元があり、五次元のなかに六次元がある、このような多重構造の世界となっているということだ。これを間違ってはならぬ。一時代前のように西方浄土に阿弥陀如来(あみだにょらい)が住んでいて、念仏をとなえたる者が、その西方浄土にて、阿弥陀仏と一緒に生活できるわけではないのである。 このように地上の人間のまず考えるべきことは、その人間の五十年、六十年、七十年の生涯において、 その人間が一生を通じて織りなしたハーモニー、波長、曲奏、そうしたものが、あの世に反映されるということだ。これには、例外はない。 この地上であらゆる限りの悪をつくして生きて、あの世で天国に楽しんでいることもなければ、この世で本当に天使のように生きて、あの世で地獄の底にのたうちまわることもないのである。そうしたことはありえない。 ただ、この世で天使のような顔をして教えを説きながら、その内面は非常に地獄界を展開していたがために、人からは聖人と言われながら、地獄でのたうちまわっている宗教家たちは数多い。また、この世においては自らを悪人だと思っていたにもかかわらず、あの世において聖人と列せられている人も数多くいる。 たとえば親鸞(しんらん)だが、親鸞は生きていたときに、自分の悪業、悪人としての性格というものを徹底的に見つめたであろう。晩年の彼は地獄に堕ちるのではないかと恐れていたはずである。家人たちもまた、それを恐れていた。しかし彼は、地獄へは堕ちなかった。彼は天上界で今、やはり光の天使として生きている。立派に生きている。 このように本人の自覚とは別に、ちゃんとした法則があって、それに基づいて、高級なる波長と低級なる波長というのが分けられるのである。まず、それを考えておかねばならない。それは本人が自分が高しと思っても高くないのと同様、低しと思っても低くないのもまた、神理である。 7.私は一直線に如来界最上段階に着いた さて、今、一般的な人間の死後の世界について話をしたが、では私、谷口雅春はどうなったかということを、あなた方にお伝えしておこうと思う。 このように話している以上、谷口雅春が地獄で苦しんでいるわけではないことは、まあ万人が認めるであろう。また、生長の家の弟子たちにとっても、まさか谷口雅春が地獄に堕ちたとは思っておらんであろう。そのとおり、我が教えに誤りなし、我は思いし通りの世界、如来界という世界であるが、今、来ておる。仏数的には、ここは金剛界とも言っておる。 私かいるような最奥の如来界においては、これはある意味では、胎蔵界(たいぞうかい)とも言われている。奥の奥という意味である。 さて私は、この地上を去ってからどうなったか。まあ焼き場へいって、肉体が焼かれるのを惜しんだわけではない。この地上を去るときが来たことは十分自覚しておったし、私も五十数年間、法を説いてきた。したがって、もうこの世に思い残すことは何もなかった。 執着のない霊にとって、この地上界に留まる必要など何もないということだ。私は自分の死を悟ってから、いち早く肉体を抜け出し、その日のうちに天上界へと帰ったのである。私は、先ほど言ったような四次元幽界などに、立ち止まったりしている暇はない。そういうことはしない。生きているうちに悟りを開いて天上界のことも、この世のことも悟っている人間にとっては、途中の休憩所にいって、一服している暇はないのである。 目に見えるように説明するならば、まあ、幾たりかの天使が私を迎えにきて、その天使たちの手に支えられながら、天上界へと昇っていったという形となろう。その間様々なる世界を眼下に見た。 これはもちろん、人間的なる私の感覚に訴える映像ではあろうが、私にはだんだん地上に日本が小さく見えるのが見えた。大きな海原(うなばら)が見えた。これは太平洋でもあったろう。海原のなかに日本という島国が見えた。九州が見えた。四国が見えた。中国地方が見えた。関東が見えた。東北が見えた。北海道が見えた。 そうして大海原が次第に遠ざかっていき、そして地球という大きな丸い球体が見えてきた。あそこにアフリカがある。ここにアジア大陸がある。オーストラリアがある。あそこにアメリカ大陸がある。そういう大きな地球儀でも見るように、地球というものが見えてきた。 そして私は非常に速い速度で上昇していった。やがて幽界を通りすぎ、霊界を通りすぎ、菩薩界を通りすぎ、如来界へと入り、如来界の下段階を通りすぎ、中段階を通りすぎ、最上段階へと着いた。 8.諸如来による祝福 私が着いたところは、あなた方に分かるように言うとするならば、昔からよく言われているような、のどかな風景のあるところである。そこはなだらかで、ゆるやかな傾斜のある丘陵であり、そこには色とりどりの美しい色の家が建ち並んでいた。そして私が帰った処には、私の家の玄関には、ちゃんと谷口雅春の名札がぶらさがっていたのである。 その名札は桧(ひのき)で作られたばかりの真新しいものであったが、その名札の下を見ると、私の過去世の名をちゃんと書いてあったのである。 最近作ったばかりの私の名札を取り除くと、その下に出てきたのは、プロティノスという名前であった。これはローマ時代の哲学者の名前である。新プラトン派の哲学者であり、プラトンの残した哲学を、さらに発展させた哲学者として、私は一度生まれている。そしてこのプロティノスという名札を取り除いたならば、下から出てきたのは、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)である。ただ命(みこと)とは書いていない。伊邪那岐大神(いざなぎのおおかみ)と書いてある。 ただ私は、心性として日本を好むがために、その家は非常に日本的なる色調のある家である。そうした、なだらかな天国を思わせる山の丘陵のなかに私のその日本式の庭園と日本式の家屋が建っており、私はそこに帰っていったのである。 そうして、まあ光の天使たちにつれられて、そこにいったん居を落ち着けて、何人かと歓談したあと、私は広場へと導いてゆかれた。そこの広場には、様々な如来と言われる方々が集まっていた。 まあ如来の数は大変多いがヽ私を迎えに来た如来たちを言えば、たとえば、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)、あるいは天常立之神(あめとこたちのかみ)、国常立之神(くにとこたちのかみ)、あるいは倭建之命(やまとたけるのみこと)、また女神の世界からは、天照大神(あまてらすおおみかみ)も急きょ、駆けつけてきてくれた。主として日本神道系の方々であったが、それ以外の方々も、私のもとへ訪ねてきた。 たとえば哲学者のカントであり、アメリカの思想家エマソンであり、たとえばプラトン自身であり、またソクラテス自身であったり。こうぃう哲学者たちも私のもとに馳(は)せ参じてくれた。日本神道系の神々、また、かつての哲学者たちが主として私のまわりに集まってきて、私の帰天を祝福してくれたのである。そしてやがて、他の仏教界の方々も私のもとを訪ねてきた。イエス・キリストしかり、これはキリスト教系の霊である。仏教系からは大日如来と言われる方がやって来た。阿閃如来(あしゅくにょらい)と言われる方もやってきた。 また、私より一足早くこの日本の国を去っていた高橋信次と言われる方も、私のもとに訪ねてきた。私は生前まあそれほど高く買っておらなかった人ではあったが、あの世へ帰って、どうやら同じ仲間だということを知った。決して憎しみも何もあるわけではないが、そういう霊もいたということを知った。 9.地上での活躍を語る こうした方々を迎えて、私は、帰天第一声をあげ、数十人の人々を相手に地上での活躍を語ったのである。そして、私の説いてきた五十数年間、また生誕以来ならば、九十余年説いてきた教えの間違っていなかったことを、そのときに確認したのである。 確かに天上界は、光一元の世界であり、私たちの信ずる世界は光しかなかったということである。私は、自らの考えというものをもう一度振り返ってみたが、そこに一点の誤りもないことを認めた。だから、自信を持って私の生長の家総裁の五十五年であろうか、その歩みを語ったのである。戦前のまず活動から、そして戦争時代に日本が突入し、その暗い時代に、如何にして光明を掲げるために苦心したかを。さらに戦後、レッド・パージによって、私もまた、文書を書くということを許されなかった時代のつらかったことを。また戦後、雨後の竹の子の如く、様々な新興宗教が興って、我が生長の家もそのような新興宗教の一派と思われ迷惑したことも語った。 戦前においては、生長の家は本当に新しい啓蒙(けいもう)団体であり、人々の心をゆさぶるような新しい教えであり、導きの光でもあったにもかかわらず、戦後という時代に様々な新興宗教が興きて、その一派と間違われはじめたことは私の深く悲しむところでありました。 しかし、私の光明思想、世を照らしていこうという思想自体は、決して誤ってはいなかった。私は、その光明の思想によって世を照らしたことで、多くの如来たちから賞讃を受けた。 ただ惜しむらくは、その啓蒙思想運動が生長の家という宗教の一派と思われたこと、そして、宗教に属さない他の方々にとっては、それを一つの線をひいたものとして、線引きをしたものとしてとらえられたということである。これを宗教としてではなく、思想としてもっと大きく広げていったならば、もっと多くの人々を救うことができたのにという感想を抱いたということは否めない。それは、私も感じたところである。 ただこれは、我が反省すべきところではない。すなわち、戦後、新興宗教ということでレッテルを貼り、新興宗教そのものを悪しきものとした、新聞をはじめとするマスコミや言論家たちの誤りだったと思う。 10.生長の家の大神は天之御中主之神であった さて私は、その五十数年間の伝道の歴史を語り、人々と共に語り合った。生きていたときには知らなかったのだが、私を主として指導していたのは、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)であった。また、日本神道系の他の神々であった。時には、他の哲学者たちもインスピレーションを与えてくれたことがあった。そうした方々と手を取りあって私は話し合い、あなた方の力によって私はここまでこられたのだということを感謝した。 このように、地上の人間一人の力によっては、何事も成せるものではない。あくまでも地上に下りたる宗教家は、それはスピーカーであって、神のラッパであるのだ。これを忘れてはならぬ。それは、あなた方においても同じだ。 11.あなた方は谷口雅春をも超えてゆけ さて、そういうことで私の帰国ということは終わったわけだが、今日の最後の話として、締めくくるとするならば、高橋信次すでに亡く、谷口雅春亡き後、日本の国を中心として、新たな教えを説いていくのはやはり、あなた方であろう。 今後は私も指導霊として天上界から様々なアドバイスをするつもりであるが、どうか明るい世界を築くために、万教は帰一であり、同根であり、一つであることを、それを高らかに謳(うた)い上げ、たんに日本の教えとして留まることなく、全世界の人々を救うために、勇ましく立ち上がっていただきたいと思うのである。 谷口雅春は、生長の家をあなた方が超えていくことをむしろ嬉しく思う。私の五十数年間の活動を、凌駕(りょうが)していくことをこそ嬉しく思う。それでこそ、私たちの後に出てきたあなた方ではないだろうか。どうか大きなものとして成っていってほしい。 仏教もキリスト教をも、神道をも儒教をも回教をも、ユダヤ教をも、哲学をも、文学をも、芸術をも、超えていくようなあなた方であれ。そうした勇ましい活躍であれ。今後数十年にわたってそれを続けていけ。 世界は今、闇に沈もうとしている。このときに、大きな神理の太陽が昇る必要があるのだ。大きな光が、明るい光が必要なのだ。人々に対する光明が必要なのだ。それを忘れるな。光明となれ。自らのことを考えるな。勇ましく人々の心を照らしてゆけ。世を照らしてゆけ。それが、あなた方の使命である。 以上が私の本日の話、「天上界に帰る」である。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/390.html
目次 1.私の本体はミケランジェロ、過去世は鑑真 2.霊的世界を描き出す神理芸術が台頭しよう 3.芸術家でも一流となれば、世界を揺り動かせる 4.これからは個性の時代、優れた個性が世をリードしていく 5.霊文明を切り開くまで「神理」の書を徹底的に書き続けよ 6.断固妥協するな、徹底的なる個性の追究発現を果たせ 7.神理を銃弾の如く撃ち出せ、評価、枠組は後世人の仕事 8.強靭なる精神で書き、吼え続けよ 9.圧倒的な霊言量で、世の常識をぶち破れ (1988年1月6日の霊示) 1.私の本体はミケランジェロ、過去世は鑑真 ピカソ ピカソです。 ―― 只今、先生の二年前のお説を再拝聴しておりましたのですけども、非常に感銘を新たに致しましたのですが、一応その他の方がたのお説も承ったところで、最終的な総括をお願いして、そして、今までのピカソ先生のお言葉を表題として出したいと、このように思います。そこで、全体を見渡して、さらに先生のお教えを一層学ばせていただくとして、なお、この上のご指教を賜ったなら幸いと思いますので、よろしくお願い致します。 ピカソ ま、私の二年程前の話を聞きながら、いろんなことをあなた方は考えておられたようです。 ご推定の通り、私は非常に宗教的な魂です。ギリシャにも出たことがあるという話もしましたが、もちろん、それ以後も何度かは地上に出たことがあります。ま、この辺がご関心のあるところのようですから、話しを致しますと、ピカソとして出た以前に、私は、実はミケランジェロという名で出た者です。本当はそうなのです。 ミケランジェロというのは、どちらかと言えば、私の本体部分に当たる者です。ピカソという魂と同一ではありません。本体部分に近い部分が、ミケランジェロと言われている者です。霊的にも、その格においても、もちろんミケランジェロの方が遙(はる)かに私よりは上でありますが、そういう魂を本体部分に持っております。 それ以外に出たことがあるかと言われば、出たことはあります。ミケランジェロとして、中世のヨーロッパにも出たことがありますが、それ以前には、実は――日本にも一度出ているのです。日本にも一度出ていて、まあ、こういう話が可能かどうか、いろいろと考えるものでありますけれども――。 ―― やはり鎌倉時代、その辺でありますか。 ピカソ いや、もっと前です。 ―― では、平安。 ピカソ ま、近いですが、実はピカソとしてのイメージが変わってしまう恐れはあるのです。それを言うとね。 ―― やはり、美術関係、建築関係、宗教方面ですか。 ピカソ ま、そういうこともないとは言えませんが、実はもう少し違った仕事を私はやったことがあるのです。 ―― 宗教関係――。 ピカソ そうです。 ―― やはり、そうしますと仏教関係――。 ピカソ そうです。 ―― ああ、そうですか。仏教関係でしたら、やはり何でしょうか、天台系統の――。 ピカソ もう少し前になりましょうか、どうでしょうか、微妙なところではございますが。ま、正直に中せば、日本人というよりも、日本に渡来した僧であります。 ―― ああ、では、鑑真――。 ピカソ そう鑑真です。鑑真和尚というのは、あなた方も御存知と思うのですが、中国から日本に何度も渡航して、失明しながら、日本に仏法を伝えた僧です。ま、信念、意志の人ですが、この鑑真も、実は私の過去世の姿の一つであります。鑑真、ミケランジェロ、ピカソと転生してきているのです。ま、それ以前にも、もちろんローマの時代にも出たことはあります。ローマの時代にも出ました。ある有名な人間として、出たことがあります。 その以前には、ギリシャにも出たことがあります。まあ、こういうことです。こうしたことは、にわかには信じ難(がた)いでしょうが、私自身のなかに、宗教的な部分と、絵画、芸術的な部分と、両方をもちろん持っているわけであって、前回にも言いましたように、ギリシャでかつてパルテノン神殿という偉大な神殿ができた時にも、その建築家をやったのはこの私です。 さらに過去を辿(たど)れば、エジプトの地に出て、さまざまな芸術を創ったり、ま、そういうふうにいろんな所を転生している魂でありますし、その行動様式においては、あなた方の魂の転生と同じような計画の下(もと)に、いろんなかたちで地上に降りて、法を学び、法を説いてきた、そういう魂の仲間です。霊系団的には、そう変わらない仲間どうしであります。そういう仲間、グループの一人です。 今世においては、ピカソという名で、芸術、特に絵画、彫刻、陶器、ま、そういうことを中心にやりましたが、私自身の本当の世界観というのは、もっと霊的なものです。それがたまたま近代における、あるいは現代における新芸術を創るという使命を持って出ただけであって、また違った時代には違ったかたちで出るのです。 ―― 私が鎌倉時代、あるいは、それ以前にも、天上界でピカソ先生のお教えを受けたということを、前回ちょっとお話を承ったのですが――。 ピカソ ま、そうしたこともあったでありましょう。光の天使の主流系団というものは、いつも共に学び合い、いろいろと啓発し合い、また計画をして、いろんなかたちで地上に出てきているのです。ですから、過去を紐解(ひもと)けば同時代に出たこともあるし、また片方が出て片方が指導霊をやったこともあります。そうしたことは、いろいろとあったわけです。 そういう意味で、長い転生輪廻のなかでは、法友は数多くいるわけです。日蓮聖人なども、結構よく交流のある魂の一人です。転生において、縁の深い魂の一人です。 ま、こうしたことをピカソが言っていたのでは、なかなか世の納得が得られないかも知れません。そこで、最後ということでもあるので、また違った話もしておこうと思います。 ―― できましたら、一つお願い致します。 2.霊的世界を描き出す神理芸術が台頭しよう ピカソ それでは、最後に締め括(くく)りという意味で、新時代の芸術観の展望について、いくらかの話をしておきたい、このように思います。 今、二十世紀ももう終わりが近づいております。二十一世紀以降、どういう新世界が展開するのか、こうしたことを考えてみると、これから神理の時代が来ることは確かであります。 ただ、神理の時代といっても、恐らくこれは単に抹香(まっこう)臭い宗教のみの時代ではない、総合的な霊文化の時代になってくるであろうし、その一端を担(にな)うものとしての芸術、この重要性というのは否めないであろうと思います。これは、単に絵画のみならず、文学や詩やそうしたものにも重要性があるということ、これは、他の諸霊もすでにお話をしたであろうと思います。 そこで、これからの新時代に当たっての芸術観、芸術観の新展開ということについての話を、しばらくやってみたい。こういうふうに思います。 これからは、もう単なる写実の時代でもなく、単なる色彩の時代でもない。単なるハーモニーの時代でもないであろう。ま、これが間違いのないことであろうと私は思います。 新時代というものは、これはもう人間の心にプラスする、この方向性がなければ、もはや芸術としての存立基盤があり得ない、という時代でもありましょう。恐らくそういうふうになります。絵画を描くということは、絵画そのもののなかに、やはり、何らかの神理のよすが、悟りのよすががなければ、絵画として意味のない、値打ちのないものとされる時代となってくるでありましょう。 絵画というものは、本来、神の世界を教え、人に生き方を教え、美とは何かを教える、そうした教育的なる役割をも数多く持っているもので、こういう意味において、時代のリード役としての画家、こうしたものが活躍してくる時代が近づいているように思います。 私の「ゲルニカ」という絵にも、時代の精神が含まれたということは言われますし、起爆剤である、爆薬であるというようなことも言われました。そうしたナチ、彼らの暴虐(ぼうぎゃく)に対する反抗の現れと、まあ、こういうふうなことで世界の注目を集めたわけでありますが、絵画を通して、世界の世論に訴えかけるという試みを、私は初めてなしたわけです。 それは、神理であるとか、思想であるとかそうした領域でなくとも、単なる絵描きであっても、世界的なる名声を得ていれば、それだけの仕事ができる。可能である。まあこういう証拠、証左であろうと私は感じます。 たとえば、トルストイの思想が世界を揺り動かしたように、画家は絵筆でもって世界を揺り動かすこともできるのです。 ですから、これからは音楽でもって世界を揺り動かすような、そういった音楽家も出なくてはならない。ただ、音楽の自由性、素晴らしさということは、あり得るでしょうが、説得力と客観性という意味においては、絵画の方が私は優れているように思うのです。音楽では、その作品の主題というものは、聴く人びとの耳といいますか、心といいますか、感性にまかされているけれども、絵画にはある程度の客観性があることはある。 ま、そういう意味において、より多くの思想性を盛り込むことができるのではないか、そういうふうに私は思うわけです。私のその「ゲルニカ」の考え方を、今後新展開していくとするならば、新しい時代の到来を告げる絵画の続出――これが予想されるわけです。新世界の続出、あるいは、新たな神理の像についての絵画。こうしたものが要請されるのではないのか。このように私は思います。 これからは、もっと新しい局面を絵に描いていくという、そうした作業が必要であろうと思います。そして、できるならば、この地上を去った世界、四次元世界、五次元世界、六次元世界、さまざまな世界が展開しておりますが、こうした世界の様相をも絵画にしていく画家が欲しい。できれば欲しい。こうした霊の世界を、人びとに視覚によって訴えかける画家が欲しい。天才的な画家であって、そうした霊的世界を人びとに教える画家が欲しい。書物として、霊言集として出すこともあるであろう。しかし、それは一冊の書物であり、読む人の範囲が限定され、読むという時間において、労力は非常にかかります。しかし、絵は一瞬です。一瞬にしてその思想がわかる。こうした新たな神理芸術、これの気運が高まってこなければいけない。 そのためには、まず、霊界の様相についての絵が欲しい。あるいは、天使の活躍についての絵が欲しい。また、地上にある人びと、生きざま、あるいは風景における天国的なる情景の絵が欲しい。また、間違った思想や間違った行動、間違った考え方に対する批判の絵が欲しい。それらを風刺するものも欲しい。こういうふうに、芸術というものを通して、時代を良き方向にリードしていくための力として欲しい。私はそう思います。 3.芸術家でも一流となれば、世界を揺り動かせる ピカソ それは、確かに、宗教家であるとか、思想家であるとかで、非常に力を持った方にはそれなりの仕事というのがあり得ると思いますが、ただ、そうではなくて、芸術というものでも、世界的に名声を得れば、それだけのことができるということを知って欲しい。私はそのように感じるものです。 私自身も、九十何歳という長寿を全(まっと)う致しましたし、生きている間に名声も富も社会的地位も得ました。お城のなかで、お城をアトリエにして絵を描いていた。ま、そういうことはご存知であろうと思います。そして、世界の重要人物ともずいぶん会いましたし、私を核としていろんな人びとの集まりもありました。サルトルであるとか、ボーボワールであるとか、そうした人たちとの交流があったことも、あなた方はご存知でありましょう。 こうして、私を中心に文化的サロンができていった、ということも事実です。そして振り返ってみるならば、青年時代から営々と築き上げてきた努力によって、自らの地歩を固め、地位を固め、名声を固めたことによって、その後の自由奔放(ほんぽう)な活動ができたということは、これは皆さん方がご承知の通りであろうと思います。 こうした自分の過去を振り返ってみると、あなた方にもやはり比較的早い時期に、私はさまざまな名声や地位、実績、こうしたものを築いていただいて、そして、その後自由自在な活動を展開していただきたい。こういうふうに思います。 かつて、あなた方のところにソクラテスという方が霊言を送っておりました。その方は、自分が日本に生まれるとするなら、日本一の学者となって、その後、その後ろ姿でもって人びとを導くと、こういうことを言っておられたように私は聞いておりました。 ところで、それは学者でなくとも私はよいと思うのです。芸術であっても、日本一の芸術家となって、世界一の芸術家となって、その力でもって世の中を揺り動かしていける人が必要ではないのか。芸術のみと言わずとも、科学の世界でもよい、科学者として世界の一流となって、その考えでもって世の中を変えていくことも可能です。 4.これからは個性の時代、優れた個性が世をリードしていく ピカソ 私はこれからはね、大衆の時代ではないと思う。皆さんは民主主義ということで、大衆大衆と言って多数決ということを考えるけれども、私は多数決の時代はもう終わったと思います。多数決の時代は終わって、やはり優れたる個の時代です。優れたる個性の時代です。優れたる個性が恐らく時代をリードしていくであろう。私はそう感じますし、それに間違いがないと思います。優れたる個性の時代です。 そうであるならば、時代をリードしていく人というのは、優れたる個性を持たねばいけません。優れたる個性というものは、他の者と同じであってはいけない。自分の突出した性格、性質、能力、これを思う存分に発揮する。そして、社会的にある程度認められる。評価を得て、そしてそれ以外の世界をどんどんと出していく。こういうことが、私は大事であろうと思います。 日本においても、今必要なのは、傑出した画家であり、傑出した音楽家であり、傑出した教育者であり、傑出した政治家であり、傑出した経済学者であり、傑出した詩人。こういう人が必要だと思うのです。こういう人がいれば、世の中は変わってくる。 平凡な人がいっぱい集まるということも大事だけれども、やはり、これからの新時代を揺り動かすのは、個の時代、個性の時代であろうと思います。そういうことで、一万人の平均的実力を上げるよりは、優れた十人、二十人、五十人を出すことの方に時代の要請は傾いてきている。私はそのように思います。 ですから、絵なら絵で、傑出した人物を創るための努力、音楽なら音楽で傑出した人物を、科学なら科学で傑出した人物を生み出す。そのためには、そうした教育、及び社会環境の整備、これが非常に大事であろうと思います。自由奔放に生きていける人間、その個性の発現、これが必要であろう。こういうふうに思います。 あるいは、芸術のみならず、宗教の世界でもそうかも知れない。過去の教えに捕らわれることなく、キリスト教だ、仏教だ、という過去の教えに捕らわれることなく、これからはそうした新しい思想家群、宗教家群が出てきてよい。 その個性のままに、自由奔放に生きていく宗教家、新たな思考方法と、新たな行動様式を持った個の出現、これが大事です。どうか、そうした思想的な側面からのアプローチをするにしても、自らの個性を最大限に伸ばして、その優れた個性でもって、世界の名声を築くという作業を忘れないでいただきたいと思います。 あなた方に対する具体的なアドバイスとして考えるならば、たとえば今、霊界通信というか、霊示というか、霊言というか、私たちの言葉を伝えるという仕事をしています。これに対して抵抗をし、アレルギーを起こす方々もいるでしょう。そうした人たちの気を紛(まぎ)らわすために、中間領域といいますか、あまり霊的ではない、宗教的ではない領域をも広げねばならんと、こういうふうに考えるかも知れない。ま、これはこれで確かに当たってはいるわけですが、それがあなた方の個性を殺す方向に動いていってはいけない。特色を殺す方向に動いていってはいけない。やはり、自分の最大限の能力と、特色の面でもって、時代の新局面を切り聞いていく必要がある。 霊界通信なら霊界通信でよい。そのかわり、かつてない、空前絶後、前代未聞、未曽有(みぞうう)の霊言を出していく。こういうことが必要だと思う。 5.霊文明を切り開くまで「神理」の書を徹底的に書き続けよ ピカソ こうした勇気と、努力、行動力によって新時代の局面が開けていく。新時代の局面を開くのは常識ではない。常識の枠のなかで、重きにつき、主流についている人びとでもっては新世界は築けない。今の時代において異端視され、例外視されるなかにこそ、本当は新時代の局面があるのです。 そうであるならば、自分たちの個性を発揮する場を見出したなら、徹底的にそれを追究していきなさい。それを切り裂き、切り裂き、切り進んでいくうちに一流となっていくでしょう。その時に、その返(かえ)す刀で世の中をいろいろと切り刻(きざ)んでいきなさい。いろんな局面を切り開いていきなさい。それ以前において、総花的な人生を送ったり、世に迎合するような生き方をしてはならない。徹底的にやりなさい。新局面、時代の新局面が切り開けるまでは、自分たちの特色を生かして徹底的にそれを追究していきなさい。 これでもか、これでもか、というかたちです。画家にしてもそうです。私たちは絵を描かねば、うまくはならないし、描かねば有名にもならん。私が一枚の絵を描いただけでは有名にならない。毎日毎日、毎月毎月、毎年毎年、いろんな絵を描いていて、そのなかで初めて光るものが出てくるのです。それは、ダイヤモンドの鉱山を発掘しているのと一緒です。ダイヤモンドの山で、いろいろと泥や砂利と一緒に掘っているうちに、ダイヤモンドがコロコロと出てくるのです。そうしたものです。ダイヤモンドだけを掘り出そうとしても、そうはいかないのです。そうしたものです。 ですから、数を作っていくということも大事なことです。今は、私はあなた方に、私たちの世界からアドバイスをするとするならば、絵を描いていると思いなさい。絵をね。ピカソの絵が百枚あろうが、千枚あろうがそれでもって値打ちが下がることもない。一枚一枚描いていくことによって、一つの画境が開け、一つの世界観ができてくる。絵が多い方がいいでしょう。私の絵が何百点あったか、何千点あったか私自身も知りません。ただ、それが多ければ多い程、世の中のためになったであろうと私は思います。それが、いくらいい絵であっても、五点や十点しかないのでは、世の中を変え、世界に影響を与えることはできなかったでありましょう。私はそう思うのです。 そうであるならば、あなた方はとにかく右顧左眄(うこさべん)することなく、自分たちのこの神理を神理だと思うならば、どしどしと、もう怯(ひる)まずに絵を描いていくつもりで、一作一作、世に問うていくことです。これが、いちばん間違いのない方法であろうと思います。 そして、この時代に対して迎合しないという新しい方法論のなかに、新時代の局面、新局面を切り開くものが何か出てくるはずです。それを徹底的に追究してみて下さい。そして、比較的短期間のうちに、自らの地歩を築いてみて下さい。そうすれば、それ以外のところに浸透し、参入していくことはそれほど難しくはない。 今、あなた方がこうした神理の探究ということをおろそかにして、やはり芸術論であるとか、そうしたことをやっていても、それほど大きな仕事は多分できないであろうと私は思います。ですから、神理なら神理で結構、新局面をとにかく開くまでは、がむしゃらに進む。時代の新局面を開くまではとにかく前へ進んでゆく。 画家が絵を描く時は、もうそれはキャンバスとの取っ組み合いです。寝食を忘れて、とにかく出来上るまでは何もできないのです。そうしたものです。一作一作絵を描いていると思えば、十作描こうが二十作描こうが満足しないものはしない。いくらでも描かざるを得ない、次から次へと。そうしたものだと思いなさい。 絵には限界がありません。私も同じ絵をいくつも描いたわけではない。一つ一つの絵が違う。同じように、神理の書も一冊一冊が違う。この一冊でもって、自分の絵が完成したということはないであろう。そうしたものです。ですから、徹底的に絵を描くつもりで一作一作新たなものを書いていく。そのうち名作が出てくる。こういう考え方をとっていきなさい。これが間違いがないと思う。 その意味においては、あなた方は何百冊もの書物を出していくであろうけれども、私の対話者をしているあなたにしても、まだまだそうしたことで満足してはならんと思う。あなた自身の仕事を見ても、まだまだ私は三合目程度ではないか、そういう感じを受けます。まだ、五合目、七合目、八合目、九合目、十合目と残りがあると思う。 ま、時代が非常に恵まれている時代であるのだから、この時代を最大限に生かさねばいけない。私はかつて鑑真として出た時に、何度も何度も日本に渡航しようとしては、嵐にあって流し戻された。そして、失明までして日本に法を伝えたことがあるわけです。こうしたことを考えてみると、その方法論で費した時間と手段、方法の部分で費した時間の多さその苦役の多さ疲労の多さ、というものを考えた時に、やはり内容そのものに費せる時間があるということが、一体どれだけ大事であるか、それを感じるわけです。 今、そうした恵まれた時代にある、法の本論に入っていける時代にあるということは、これは怠けてはいけない。心をもっともっと引き締め、心を鬼にして、芸術家だと思って、一枚一枚の絵を描いていかねばならん。 画家は絵を描かねば、それでは飢え死にです。それでは画家は画家でなくなるんです。画家は絵を永遠に描き続けているということにおいて、画家であることが許される。芸術家であることを許される。一作一作が、秀作であるか駄作であるかは、それはわからない。それは、自分で思うこともあるし、世間の人が認めることもあるし、あるいは、時代が過ぎ去って人が認めてくれることもある。しかし、描いている最中、製作の途中においては、一心不乱です。人が認めようが認めまいが、とにかくやっていく。こういうことであろうと思います。 この意味においては、あなたも一つ一つ絵を描いているのだから、絵というものは十作や二十作で満足できるものではないということを知らねばならない。数多く作れば作るほど、いろんなものに対して好感を持つ人の層が増えてくる。そう私は思えるのです。ですから、自分で一作一作が駄作であるか、あるいは素晴らしい作であるか、傑作であるか、こうしたことは考え過ぎないで、絵を描いていると思って一作一作仕上げていくことです。これが大事です。 6.断固妥協するな、徹底的なる個性の追究発現を果たせ ピカソ それと、先ほど言ったように決して逃げてはいけない。時代の新局面を切り開くまでは、決して逃げてはいけない。断固として、自分らが正しいと思うものを追究せよ。そこで価値を認められるまで、止めてはいけない。徹底的にやりなさい。妥協的性格では新時代は築けない。妥協的性格では天才とはなれない。断固として、徹底的にやりなさい。 あなた方は、天才となるべく生まれている人たちなのです。今、死して天才と言われるかどうか、よく自問自答しなさい。そして、まだその境地に達していないと思うならば、それはまだまだ手ぬるいのです。仕事において手ぬるい。もっと徹底的にやらねばならんのです。徹底的にやらねばならん。あくまでも、他人が何と言おうとも、信念のなかで、徹底的に生き抜くことが大事です。芸術だと思って、手を抜いてはならん。芸術に妥協はない。徹底的に個性の発現を、個の発現をしていかねばならん。人から良い人間であるとか、良い人柄であるとか、褒めてもらおうと思ってはならん。 芸術家がそれを描こうとしている時には、もう徹底して集中するしかないのです。没頭あるのみです。人の言葉や惑わし、こんなものを受けてはならん。一喜一憂してはならん。人の評価で一喜一憂したり、人のものの言い方で内容を変えたり、そんなことをしてはならない。徹底的にやりなさい。まだまだ足りない。徹底的にいきなさい。徹底的にやりなさい。それを貪欲(どんよく)にやりなさい。自分一人でできないと思えば、どんどん助手でも何でも入れて、徹底的に、時代の新局面を開くまでは、止(と)めない、止(や)めない、そういうつもりでやっていきなさい。 小さくまとまってはいけない。決して小さくまとまってはいけない。人が何を言おうがそんなことは気にしてはいけない。キュービズムの世界などは、これは人の評価を受け入れるものではない。しかし、徹底的にやった時に、そこに新時代の芽が出てくる。平面的な美を超越したもの、それは次のステップです。自分自身のものが完成されたものでなくとも、新時代のキュービズムが次なるステップを生んでいくのです。あなた方も、そうしたものでありなさい。 こうした高級霊の言葉や、神近き人たちの言葉を伝えられるということは、かつての時代になかったし、今後もなかなか出ないことでしょう。後世の人から見ても、これだけの証拠があるなら動かし難い、と言われるだけの仕事を徹底的にすることです。徹底的にやりなさい。 あれだけ絵を描いたからこそ、ピカソという人がいたということは、これは動かし難いものとなるのです。一枚や五枚、十枚の絵を描いたところで、どんな人間がいたかいないかわからない。徹底的に自分としての個性を訴え続ける。そのためには、やはりそれだけの実績を積むことが大事です。 私の立体の絵を観ても、そのままでいいとは思わんであろう。ただ、その前に、私はちゃんとした軌跡を通っているから、それなりの評価がある。いきなりあの絵を描いたのでは、そうは思われんであろう。したがって、それだけの積み重ねがあったということが、評価を生むこととなったのです。 したがって、あなた方も一冊一冊を積み重ねていって、世を唸(うな)らせるだけの実績をつくったならば、初めて聞く人から見れば、絵空ごと、夢物語のように聞こえることでも、真実味を帯びて聞こえてくるようになるのです。 ですから、最後に当たるかも知れませんが、断じて妥協してはならん。徹底的個性の展開。時代の新局面を切り開くまでは、絶対に止めない。こういう気持を、私は大事にして欲しい。良い人である必要はないのです。変わった人でも悪人でも何でもよい。少なくとも、時代を切り開くまでは、止めない。愛人がいようが、恋人がいようが、結婚を何度しようが関係はない。そんなものではない。断固として新時代を築く。そういう気持が大事です。 ま、これについて何か質問があればお答えしましょう。 7.神理を銃弾の如く撃ち出せ、評価、枠組は後世人の仕事 ―― まあ、先ほどダンテ先生からいろいろご教示を賜ったのですが、あの方がもう少し幅の広いところでその霊界の状況の説明とかいうようなことを強調されたのですが、それについても私は一理あると思いました。ただ、今の先生のお話では、我々の核となるものはやはり、この断固とした個性の追究なり、展開であるというふうにお聴きしたわけですが、やはり、これを核として、ダンテ先生のそういう考えも許されるということでよろしいでしょうか。 ピカソ まあ、ですから私にしてみればね、画家でなければいけないのか、彫刻家でなければいけないのか、一体何でなければいけないのかといった、こうでなければいけないというものに、私ははまりたくないのです。私はやりたいようにやり、描きたいように描き、彫刻を作りたければ彫刻を作る、絵を描きたければ絵を描くのです。しかし、結局のところ追究しているのは何かというと、それは徹底して美の精神を追究し続けたということであろうと思います。それが、いろんなかたちで出てくるだけです。 したがって、あなた方は何を追究しているのか。追究しているものが、いろんなかたちで出てくるだけのことです。 だから、自分たちが宗教をやっているのだとか、芸術をやっているのだとか、文学をやっているのだとか、哲学をやっているのだとか、こうした枠に入れてはならんということです。本質的なものを求めていて、その展開として、いろんなものが出てくるのでよいのです。 したがって、自分たちは宗教家だからこうあるべきだとか、自分たちは思想家だからこうあるべきだとか、こういう考えは持たないことだと思う。私はたとえば画家なんだ、という定義でいけば、絵を描く以外何もできないことになる。そういうことです。私は自分のことを美の精神の探究者だと思っているから、何にでも手を出すことができるのです。 したがって、あなた方は神の探究者であるべきです。神の探究者であるのならば、神を説明し、神を知らしめるためのあらゆる活動を行うということです。自分たちで定義をしてはならない。これを、私は言っておきたいと思います。 それで、ダンテの如く現実妥協論もあるでしょうし、それはそれなりの根拠も恐らくあるであろうと私は思いますが、そこにはやはり、今ひとつ自分の個性を貫いていないというところにおいて、少し残念さがあるのではないのか。もっと徹底的に自分というものを主張すればよかったのではないのか。あるいは、信奉者というのが少なかったのではないのか。まあそういう感じを受けるわけです。孤独に自分ひとりで闘った人は、そうなることもあるでしょう。 だから、その過程において数多くの信奉者を得ておくという順序ですね、これを間違わないことです。孤独な闘いだけをするのではないという意味でです。もちろん神理において、芸術において孤独さということはあるでしょうが、その客観性ということを常に忘れず、人々の評価、名声も博することを辞さない、こういう考え方が大事であろと思います。 比較的初期において、そうした名声をつくっておくことです。これが恐らくあなた方を守ります。あなた方は今、神理の書物を出しているけども、まず最初の数年のうちに、その値打ち、評価を固めてしまうことです。この評価が、あなた方を守ります。今後何をしようとも。それが宗教であろうがなかろうが、関係なくあなた方を守るようになる。まず、そうした世間的な評価を得ること。これから二、三年以内に確立してしまうぐらいのつもりで、やればよい。 また、偉大な芸術家は、たいていの場合、多作であるということを知らねばならない。それをね、言っておきます。 だから、まず評価が固まってくれば、その評価があなた方を守ってくれるでしょう。宗教だから間違いであるとか、何々だからどうかということではなくて、中身の評価があなた方の活動を守ってくれるでしょう。私のキュービズムにしても、ピカソが描くのだから、何かそこに美があるのではないか、意味があるのではないかという見方をされたわけです。「ピカソが」というところがなければ、誤解を生むことになる。ま、ピカソという名に、それだけの価値ができていたということであります。 そうであるならば、あなた方はあなた方の名前に、それだけの価値をつくっておくことです。これに最初の二、三年はできるだけ私は力を注ぐことを勧めます。 そうであれば、一年に書物も二十冊であろうが、三十冊であろうが、四十冊であろうが断固として出し続けなくてはいけない。これは絵を描いているのと同じだと思いなさい。画家は一年に何作描くということが決まっていますか。一年に一作ですか。十作ですか。五十作ですか。百作ですか。いくら描いてもよいのです。そのなかで、いいものがあればよいのです。一つあればよい。いいものが一つでも出ればいい。ま、そうしたつもりでね、神理というものを銃弾の如く撃ち出していく。この姿勢に間違いがないと、私は思います。 神の探究者なんだから、神の探究者として、今後あらゆる活動をしていくということです。その枠が先にあって、そのなかで動くのではない、中身があってそのあとに枠が用意されていくのだ。こういうふうに考えなさい。 そして、あなた方にどのようなレッテルを貼るかは、これは他の人びとの仕事です。あるいは後世の人の仕事です。私はそう思います。レッテルは他人に貼らせなさい。自分たちは、中身をつくることに生きることです。 8.強靭(きょうじん)なる精神で書き、吼(ほ)え続けよ ピカソ ま、私からあなたに言わしていただければ、まだまだ仕事量としては遙かに不足をしているように思います。一生の目標として上げるならば、私はあなたには、講演は五百回以上はやっていただきたい。五百回以上の講演。百冊以上の著書。これをやっていただきたい。これは、私からのお願いです。同僚としての、かつての同僚としての、また、今あなた方の指導霊団の一人としての私の願いは、あなた個人にとっても五百回以上の講演と、百冊以上の著書の刊行、ここまではがんばっていただきたい。これは可能であると思います。おそらく、可能である。それは意志と努力です。これさえあれば可能です。 ―― 先生は万という単位の作品を生み出されたということでございますが。 ピカソ その通りです。それが、百枚であろうが、五千枚であろうが、誰に遠慮することもないのです。神理というものであっても、一冊でも多くの書物、一回でも多くの記事、一言でも多くの演説をすることです。これが記録となり、人びとの肥(こ)やしとなるのです。数多く講演しているうちに、いいものも出てくるのです。それでよいのです。一回一回がダイヤモンドの如くである必要はない。数多くをやっているうちに、いいものができるのです。それでよいのです。 画家だとしても、画家の絵はすべてが褒(ほ)められることはない。駄作と言われるものはいくらでもある。しかし、そんなことで意気消沈していては、真の芸術家にはなれない。そうではないだろうか。そういう意味で、あなた方はもっと図太くなければいけない。もっと強い強い精神、強靭(きょうじん)な精神を持たねばいけない。はね返していくだけの精神。駄作を一つつくれば、もっといい作、素晴らしい作を十作つくればよい。こういう気持でやっていけばよい。 どうかどうか、目標を大きくおいて、もっと荒々しく逞(たくま)しく生きていかねばいけないと思う。書き続けることです。吼(ほ)え続けることです。これが大事だと、私は思います。 あなたに、もう一度目標を言っておきます。五百回以上の講演と、百冊以上の著書の刊行。これが終わるまでは還って来るな。これを私は言っておきたい。今、そのうちの何パーセント、達成しているでしょうか。よくよく考えていただきたい。精神力があればそこまでもっていけるはずです。 画家であれば絵を描く。画家でないならば、あなた方は講演をし、書物を書く以外にないではないか。それを徹底的にやることです。それが生命のエネルギーであり、個性の発現ということです。それをやらずして、いくら言い訳をしても、人の言葉にいくら耳を傾けても、そんなものは何の役にも立たないということです。 ピカソが人の批判を受けて、そして「ゲルニカ」以降、たとえば制作を中止にしたところで、それが何になりますか。何にもならない。止めないから値打ちがあるわけです。徹底的にやることです。 信念が強い場合、世間がそれに合わせてくるのです。認めざるを得なくなるのです。そこまでやるなら本当だろうと、思う時が来るのです。神の世界、霊の世界ということについては、人びとはまだ藪(やぶ)のうちであり、山の向こうです。そう思っている。しかし、ここまでやるなら本当であろうと、思う時が来ます。それまでやり抜くことです。止めないことです。徹底的にやることです。一枚一枚、絵を描いていると思って書いていきなさい。 五百回以上の講演。百冊以上の著書。何度も言っておきます。この程度書かねば、ピカソの業績とは少なくとも匹敵(ひってき)しない。あなたは、あの世では私とだいたい同じ位の境涯に還ってくることになっているのだから、それに匹敵させるためには、神理という面において少なくともその程度の仕事をして還らなければ、匹敵しない。そういうことを言っておきたいと思います。 ま、そういうことです。この辺で話を打ち切ろうとは思いますが、最後に何か一言聞きたいことがありますか。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/48.html
目次 1.神の子の自覚 2.精神統一の方法 3.無限の光の供給 4.悪想念の断ち方 5.対人関係調和の方法 6.実相円満完全の真意 7.光の人生を生きる 8.希望はかくして実現する 1.神の子の自覚 谷口雅春です。まだまだ言い足りぬことは数多いし、真理についての種も尽きぬわけだけども、私の考える範囲の中で、今いちばん大事なこと、内在する叡知の発見のしかた――こうしたことを話をしておきたいと思う。 ます、最初に、「神の子の自覚」ということだ。生長の家の信徒諸君などは、人間神の子ということは、もう自明のこととして知っているであろうけれども、一般の読者はまだそこまで考え方が進んでおらんであろう。人間神の子というのは、言葉として言うのはた易(やす)いが、実感としてそれを知るということはなかなか難しい。実感として人間は神の子であるということを知り抜くこと。これを現実に、現実の問題として知るということは、とても難しいことだと思う。 では、どのようにして神の子の自覚を得られるのか、これを私は考えてみたいと思う。 こうしてみると、結局地上に降りている入間というのは、一つの錯覚に陥っている。このように考えられるのではないのか。ひとつの錯覚だ。どういう錯覚かというと、あまりにもこの物質というものに取り囲まれた世界に住んでいるがために、自分がまたそうした物質の一部であるかのように誤解するという、そういう錯覚かあるわけだ。 これは、やむを得ぬところもあると思う。たとえば、人間の赤ん坊であっても、狼に育てさせると、狼の遠吠(とおぼ)えのしかたをし、狼のごとく地を走り、狼のごとく食べ物を食べる。そういうふうになるということが報告されているが、そのように環境というものにかなり支配され、自分をそのものだと思い込むことがある。 すなわち、生まれ落ちてすぐ、物質の中に投げ入れられると、物質の中にいることが当然であって、物質外に出るということは異常なことである。そのように感じやすいということだ。こうして、神の子の自覚というのが、次第に薄れていくことになる。 もちろん、神の子の自覚の出発点は、霊的存在としての自覚であるけれども、人間が生まれ落ちてよりこのかた、霊的であるということを実感する機会が非常に少ないわけだ。霊的であるということを、実感するというのは、何らかの奇跡が起きる時に限られている。奇跡を見てはじめて信ずる。こういうふうになっているのではないか。私はそのように思う。 この辺に人間の哀(あわ)れさがあるけれども、いかんせん地上にあるということは難しいことだ。厳然とした奇跡でも見ない限り、それが本当だとなかなかわからない。神の子としての自覚が、芽生えてこない。こうしたことだ。そうした奇跡を見て、人間の霊的存在としての本質を知った時に、はじめて、さらにその奥にある神というものを類推することができる。こういうふうになっているのではないかと思う。 2.精神統一の方法 さて、神の子を自覚するという話をしたけれども、神の子を自覚するためには、何らかの修法がいるのではないか。すなわち、精神統一がいるのではないか。こういう問題が次にあると思う。 さて私は、神想観という方法、神を想い、感するという方法を編み出したわけだけれども、これの方法はいろんなところでいろんなやり方があるので、必すしもこれしかないというふうに言いきることはできないと思います。 ただ、言えることとしては、やはり心の波長を統一するということは、とても大事なことです。地上に出ていて、この中で生活していると、いろんな人とおしゃべりなどをしているうちに、どんどんどんどん波動というものは乱れてくる。乱れに乱れて、そうしてどうしようもなくなってくる。こういうことがある。 しかし、このような三次元から四次元以降の世界に架ける架け橋の方法として、精神統一ということがなされている。このように私は思います。精神統一ということがなされているということだ。これは、非常にいい方法です。 すなわち、神様が人間を創られ地上に送り出して、そしてまったく実在世界を教えないままで地上生活をさせておきながら、一方、神であるとか、仏であるとか、霊であるとかを信ぜずに生きたら、死んであの世に還れば地獄に堕ちるというようなことであったなら、これは大変な問題となるわけです。 したがって、何らかの方法、自分たちの実相の世界について感知し得るような方法、これがなくてはならない。そのように思うわけです。ここに、精神統一の方法が出てくるわけです。精神統一ということを通して、実在界とのコンタクトが許されているのです。これは大変な慈悲であります。また、大変なこれは神の愛であろうと思うし三次元と四次元というのは、まったく分かれた世界となっているけれども、精神統一ということを通して、この間がコンタクトができることとなっている。 すなわち、静かに座して心をなだめて、そして合掌する。合掌して、両手をアンテナとしていると、天上界の霊波がかかってくる。そして、ある時は手が動くというようなこうした霊動があることもあるし、ある時はインスピレーションが降りてくるというような、そうしたこともある。また、直接神の声が聞こえてくる。人の声が聞こえてくる。こういうこともあるだろう。 こうした異次元との交流ということが、精神統一という方法を通してなされ得(う)るということが、現実にあるわけです。人間は、このことを忘れ去っているのです。本来こうした統一方法があって、昔から精神統一によって異次元の人とも交流をしていたわけです。この方法を忘れて久しいのです。 ちょうど地上の人間というのは、自分がポケットの中に缶切りを持っていることを忘れて、なんとかして缶詰めの缶に穴を開けようと努力している人に似ている。石で叩(たた)いてみたり、歯で噛(か)んでみたり、手で殴ってみたり、いろんなことをして缶詰めに穴を開けようとしているけれども、実際はちょうどいいぐあいに、ポケットの中に缶切りが入っているのだ。神様は最初から缶切りを与えているのに、それに気が付かないで、一生懸命缶詰めを開けようとしている。そうしたことが、通常の人間によくあることなのです。 この缶切りを早く発見して、これで缶を開けてしまうことでず。この缶を開けるということが、異次元との交流ということになるわけです。 その異次元との交流のしかたですが、結局、私も前巻、前々巻でも話をしたように、波長を調えるということがとても大事です。波長を調える。異次元の霊波というのもこれも一つの波長であって、この世的ではない波長です。そうした波長を受けるためには、心の状態がそれに同通しなければならんわけです。したがって、心を高級霊なら高級霊の波長に合わせていく。そうしたことが非常に大事だと思います。 3.無限の光の供給 さて、精神統一の方法としては先に述べた通りですが、ここで人間は大いなる神の愛というものに、気が付くことがあります。一日仕事をしていて疲れると、とてもぐったりとして、どうしようもないことがある。また、他人のことが心にかかってかかってしようがない。気になってしょうがない。こうしたことも、ままあります。 こうした時に、神想観をなして、あるいは座禅でもよい、他の観法でもよいけれども、精神統一をすることによって、神の光を受ける、こういうことがあるわけですね。この時に、神の無限の愛が自分に流れ入ると感することが大事です。そうすることによって、自分の精神的な疲労の素が抜け、体内が光によって満たされることとなるわけです。「神の無限の愛、流れ入る流れ入る」、あるいは、「神の無限の光、流れ入る流れ入る」こういうふうに唱えながら、心を統一して目を閉じていると、サーッと光が流れ入ってくることかあります。 これは、決して自宅で夜中にやらねばならぬことではない。バスの中で吊り革に揺れている時であっても、電車の中で座っている時であっても、会社の食事の後のひとときであってもよい。精神を統一して「神の無限の光、流れ入る流れ入る」とこう念じていると、本当に天使たちの光がサーッと流れ入る。そうしたことがあるわけだ。言葉というのは、そうした合図の役割を持っている。 天上界に光は満ち満ちている。実相世界に光は満ち満ちている。その光をどのように引いてくるかということは、各人がこれをせねばならんわけだ。 ちょうど私の眼にはこういうふうに見える。みなさん方の三次元世界というのは、ちょっとした一つの部屋の中だと思ってよい。そして、天井は非常に低いところにある。手が届くところにあるのだ。ほんのニメートルぐらいのところに天井があって、手を伸ばせばつくぐらいのところにあるのだ。そして、その天井の上には、無限のエネルギーが詰まっている。ここに、いろんな穴が開いていて、コルク栓で詰めがしてあるわけだ。このコルク栓を抜けば、二階からは無限のエネルギーが吹き出してくる。こうしたものだな。 あるいは、違うたとえをするとするならば、この天上界の光というのは、各家庭に配線されている電線のようなものだ。電線そのままではこの光が使えないけれども、ここにソケットならソケットというものがあって、これに電球を差し込むと、電流が流れ始める。そして、電燈がついたり、電気製品が動いたりすることになる。 こうしたふうにソケットに差し込むという行為、これが精神統一だね。あるいは、言葉を出して高級神霊を呼ぶということ。こういう必要があるということです。 このように無限の光を浴びる方法というのが、現にあるのです。現にこうした無限の光の供給を浴びる方法かある。これは無料であるから、だまされたと思ってやってごらんなさい。電車の中でも、あるいは車の中でもどこでもよい。「神の無限の光、流れ入る流れ入る」「神の無限の愛、流れ入る流れ入る」。こういうことをいつも心の中で唱えておくことです。そうするとちょうど、コンセントの中にプラグを差し込むような効果があって、そこから神の電流が流れてきます。神の電流が流れてきて、みなさんの体を充電するわけです。こうした実に簡単な方法かある。 原始人が文明人の部屋の中へ入ってきても、部屋の中にコンセントがあっても、これはいったいなんだかわからないで、遂に使わずじまいでいる。ところが私たちはこうした神理を知っているがために、このコンセントの意味ということが実によくわかるわけだ。これに差し込めばよい。プラグを差し込めばよい。そうすれば光が流れてくる。こうしたものです。 神というのは無限の光でずから、多少諸君が疲れたからといって、エネルギーをもらったぐらいで、それで電力がなくなるようなことはないのだ。だから、安心しておおいなる気持で、神の無限の光を浴びると良い。 4.悪想念の断ち方 さて、この無限の光を引き入れる方法というのは、実は悪想念の断ち方とも関係していると思う。 これは私も若い頃、実にそうであった。霊的な体質になっていたので、非常にくたびれやすいわけだ。読者諸君の中にもそういう人はいるだろう。霊的に敏感な体質であると、非常に疲れやすい。他人の波動を受けやすいのだな。他人の言葉、他人の念、こうしたものをいっぺんに受けてしまう。そうしたことがある。これは難しいものだ。「触らぬ神に祟(たたり)なし」で、接触しないのがいちばんなのだけども、どうしても接触せざるを得ないこともある。こうしたに難しさがあるというわけです。 だからこれは、どのような宗教者にとってもあることなのです。私も最初の頃、ずいぶん個人面談等もやっていたけれども、どうも個人面談をやっていると、体の調子が悪くてしようがない。それは、いろんな悪想念を受けてしまうのだな。もちろん、こちらも聖者であるから、「そんな悪想念に負けてはいかん」と、善なる波動で感化しようとはするわけだけれども、いかんせん一人の人間の力、肉体的力というのは非常に限られているので、一日、五十人、百人の人と面接などをしていると、大変なことでまいってしまいます。こういうことがあるということだ。 だから悪想念を断つには、やはり極端に接触はしないということもひとつであろうし、霊的な体質の人間が、雑踏の中などを歩いていると非常に疲れるだろう。雑踏に出ると疲れるというタイプの人は、霊感体質であることが多いから、この際にひとつ考えて欲しいと思う。人の雑念、雑想念を受けやすいということだ。これを断つ方法は、だから極端な接触を避けるということがひとつ。これは私もそうであって、最初の頃は面談していたけれども、次第にそれはやめていきました。そして人とは会わずに、文書伝道ということで、書物を残していくことに専念しました。それはそうで、一日に何人の人と会えるかと言うと、個人面談をしたとしても、五人、十人もすればくたびれてしまって、もうできなくなる。ところが文章にして残すと、それがすぐ何万、何十万、何百万人の人に読まれる。 大衆救済ということから考えた時に、文書伝道ということがどれほど素晴らしいか、力があるかということを、私も実感したものです。私自身、体力がそう強い方ではなかったために、こうした文書伝道というものを非常に重視いたしましたが、結果的にはこれが良かったと思います。 個人面談をしてあげて、その人の気持は済んだかも知れないけれども、まだいくらでも相談したい人はいる、しかも、相談を受けた人もまた次の相談かある。こうしたことを考えてみると、そうした人たち個人個人に対してではなくて、全体に対して役に立つようないろんなそうした知識というものを、まず授けておいて、各自がそれで解決していくということが大事だと思う。こういう文書伝道の方法は、私はこれからもおそらく変わらないと思う。 これから変わるとすれば、文章に変わって、マスコミ等を通じた宣伝ということがあるだろう。テレビ電波、あるいはラジオの電波、こうしたものを通じて、真理を伝播(でんぱ)する。広げる。こうした方法があるだろうが、私はそういう方法もひとつだと思う。 それと、一日のうちでそうした悪想念をいっぱい受けてしまった場合に、どうしたらよいかということだけれども、単に精神統一をしたり、神想観をしたりしても気分が良くならないことはよくあります。こうした時には、いったい何をどうすべきかというと、まず神理の書を読むということが大事であろうと思う。神理の書には光がこもっている。その光の書を読むことによって、心の中の波長が調ってくる。次第に調うということがあるのです。 したがって、たとえば一日中イライラしたり、なかなか考えごとがまとまらなかったりするような時には、私のこの『霊示集』でも読んで、そして心に一日十五分でもよい、三十分でもよいから光を入れて欲しいと思う。特に疲れやすい体質で、疲れやすい仕事をやっている人ほど、電車の中でもどこでよいが神理の書を読んで、一日のうち一定の時間、光を胸の中に入れる。そうしたことをして欲しいと思います。これも立派な悪想 念の断ち方であります。 私は、やはり、うまずたゆまず神理の光というものを、毎日毎日注入していくこと、これがいちばん大事だと思う。悪想念に疲れることはあっても、それでずっと疲れっぱなしであることは、本人の責任だと思う。偶然いろんな出会いがあるけれども、疲れっぱなしということは本人の責任である。 したがって、できれば心に光を入れる。あるいは講演会を聞く。講演会のテープを聞く。こうしたことでもよいであろう。そして、心に光を入れていくことだ。あとは「聖経」、お経のようなもの、こうしたもので本物があれば、それなどを吟唱(ぎんしょう)して、そして心を調和させてゆく。こうした方法もあるであろう。 5.対人関係調和の方法 さて、悪想念の断ち方についての概論をしたが、次は対人関係の調和の方法、これについて多少話をしておこう。 人間生きているうちには、好みの問題があって、なかなかね、いろんな人、自分の好きな人嫌いな人といろいろある。個性の差がいっぱいあって、なかなかすっきりうまいことはいかないようになっている。ある人から見たらみんな気に入った人であっても、お互い同士が気に入らない。こういうことはいくらでもあるわけだ。 宗教団体でもよくあることだ。そこの教祖さんは、弟子をみんなもちろん可愛がっているわけだけれども、弟子の相互の間では好き嫌いがある。これはどうしてもある。同業他者ということで、それに対して気になることがある。こうしたことがどうしてもある。 さて、そうした時に、いったいどうやって対人関係を調和するか、これを考えてみる必要があると思う。 私も生前から、「天地一切のものと和解せよ」ということを言っていたけれども、やはり、人間が神の子であり、神の子としての本分を実現していくためには、「大調和」という状態に入らなくてはいけない。大調和のなかに入ることが必要である。そうでなくては、本当の意味で神の子としての自分を顕現していけない。 したがって、こういうことです。神の祭壇に供物(くもつ)を捧げようとした時に、歩いていく途中に、もし兄弟と自分が一日のうちに喧嘩(けんか)をしたことを思ったら、祭壇に供物を捧げるのは後でもよいから、まずその兄弟に詫(わ)びることでず。あるいは、直接詫びることはできないなら、心の中で「すみませんでした」というふうに詫びておくことです。これが和解ということです。 完全無欠な人、失敗をしない人、そういう人はいません。そうであるならば、間違ったことをしたと思えば、素直に謝って、調和をしておくことです。これが大事だと思う。神は、形式的なる行為よりも、実質的なる行為の方を好まれる。神の前に出る時には、一切のものと和解して出なければいけない。こういうふうに思っていただきたい。 ですから、私のこの書物を読む場合にも、一切のものとの和解、これがとても大事だと思う、天地一切のものとの和解、これをしなくてはいけない。こうしたことが言えるわけです。 次にもう一つは、相手の中にある神性を―「神なる性(さが)」だね――これを拝み出すという方法があるのです。「神なるその本性(ほんせい)」、これを拝み出す。こういうことが大事であろうと思います。 これはどういうことかと言うと、結局、こういうことなのです、人間というのは、悪人だと言われたり、悪人というレッテルを貼られると、本当に悪人になってくるということだ。たとえば自分の赤ん坊、あるいは子供でもよいが、それに向けて毎日、父も母も「お前は悪人になるぞ、お前は悪人になるぞ」、こういうことをいつも繰り返して言っていたら、本当にその子は悪人になってくるわけです。だんだん親不幸をし、親をののしるような子供になっていきます、「お前はいい子だ、お前はいい子だ。素晴らしくなるぞ、素晴らしくなるぞ」といつも言われた子供は、実にのびやかに育っていきます。そして、両親に対しても「素晴らしい」と見るようになってきます。こうしたことが大事なことなんです。 したがって、悲観論、未来に対して悲観的なことばかりを言っていたり、人を見たら狼と思え、泥棒と思えというような考え方を持っていると、本当にそうしたことが現象化してきます。だから、これは勇気を持って心をクラリと光明の方に向けなければいけない。 人の悪いところを見つけたならば、ひとつ見つけたならば、よいところを十ヵ所探してみなさい。私はこういうふうに言っておきたいと思う。他人の悪口、その人の嫌なところが見つかったら、その人のよいところを十ぐらい思い出してごらんなさい。探ってごらんなさい。必ずあるはずです。そうした努力を続けて欲しいと思う。まず、悪しき言葉はできるだけ使わないようにする。そして、心の中にも思わないようにする。そして、悪しき言葉を思い浮かべないためには、よき言葉を出していく。これが大事だ。そうしなくては、本当の意味での地上の光明化ということはできないのだ。こういうふうに思っていただきたい。 したがって、相手が自分のことを悪く言えば、自分も相手のことを悪く言うのではない。これは売り言葉に買い言葉となる。相手が自分のことを悪く言うなら、自分が相手のことを褒めて褒めてすればよい。心の底から褒めることだ。その時に、お追従(ついしょう)やおべっかではなくて、心の底からいいところはいいと褒めることだ。これが大事であろうと思う。対人関係の調和の方法の秘訣でもあろうと思う。 6.実相円満完全の真意 私は、生前からよく「人間の実相、生命の実相、こうした実相というのは円満完全だ」というふうに言っておりましたし、人間の実相は神の子の本質ですから、円満完全ということが間違いのないことです。それは事実認定としてもまさしくその通りでありますが、事実認定だけではなくて、これは効果という面で見てもその通りだと思う。 自分の実質を本当は完全円満なものではなくて、非常に歪(ゆが)んだもの、曲がったもの、形の変わったもの、こういうふうに思うとだんだん自分が嫌になってきます。他人に対してもそうです。善悪の二元論というのはよくあるけれども、この善悪二元の物差しでもって人に物差しを当てると、その人のいいところも出てくるが悪いところも出てくる。そして、悪いところを切って捨てようとしてくる。そうすると、悪いところを見出された方は、「切って捨てられてたまるものか」ということで、次には抵抗が始まってくるわけです。 このように、もちろん人間には、長所も短所もあるでしょう。それは私も十分に知っておりますが、できるだけよいところを見てやろうとする努力、これが大事です。とても大事です。こうした努力が、実は天国建設のための努力でもあるわけです。他の人間の中から神性を拝み出す。よいところを拝み出す。これが大事です。 これが嘘かどうか試したければ、ご家庭で実行されたらよい。子供が家庭内暴力をふるってやまない時には、親というのはたいてい子供を裁いている。子供を「お前は悪い子だ、お前は親不幸だ、お前は勉強しない、お前は不良だ、お前は将来どうなるかわからんぞ」。両親はたいていこうしたことを言っているんです。間違いないです。子供を裁いているのです。その結果、神の子の子供の部分が反乱を起こしている。すなわち、その暴力をふるっている子供というのは、実は観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)が方便を使っている姿かも知れない。そして、親に間違っているところを教えているのかも知れない。子供たちに、自分が教えられているのかも知れない。こうした観点もあるわけだ。 親が子供の暴力でほとほと困って、どうしたらいいかと、こういう相談もあるわけだけれども、そうした時に子供に「親不幸だ」と言うことをやめて、素直に「申し訳なかった、わしが悪かった」と、このようにお父さんならお父さん、お母さんならお母さんが手をついて謝(あやま)ってごらんなさい。どうなるかね。子供はピタッと暴力をやめるはずですよ。「ああ、親にそんなことまでさせて、自分は悪い子だった」、急に反省し始めます。「親に手をついてまで謝らした。ああ、自分は本当に悪い子であった。もう親に二度とこういうことはさせまい」。こういうふうに思うようになる。これは、「生長の家式」であるわけだ。 これは他にもある。妻と夫の問題でもそうだ。お互いに「お前が悪い、お前が悪い」と言っていたのでは、家庭内はいつまでたってもダメです。だから、そうしたことに気づいたら、素直に「ああ、わしの方が悪かった」「いや、私の方が悪かったのです」と、こういうことをパッと言えるような訓練、これをしておくことが大事だ。そうすることで、相手の中にある本当のいい神性が出てくる。拝み出すことができる。 だから、「立ち向かう人の心は鏡なり」と言うけれども、相手が悪人に見えるというその人もまた、悪人である。これは間違いない。それは相手の中にある、少なくともよい実相を拝み出していないという事実があるからだ。 たとえば、嫁が来ることによって、姑とたいていいさかいが起きると、よく言われている。そして、「なんてお母さんはあんなに心がいやらしいの、あんなに意地悪(いじわる)なの」と、嫁はたいていこういうように思うわけだけれども、姑のそうしたいやらしい心を呼び出しているのは、実は嫁の中に、その姑を排斤しようという心があるからなのです。そういう心があると、だいたい意地悪になって返ってくるわけだ。だから、周りから意地悪をされるとよく思う方は、自分の中にも人を排斤するような、そういう気持があるのではないかどうか。これをよくよく考えねばならん。たいていの場合はそうです。「立ち向かう人の心は鏡なり」です。自分の態度が変われば、相手の態度はコロツと変わってきます。それが大事です。特に意地悪をされやすいと思う人は、自分は裁く心が強くないかどうか。善悪の二元論的に人を見ていないかどうか。人をだめだと言って切って捨てていないかどうか。人をだめだと言って切って捨てるタイプだと、人に切って捨てられるようになります。これはもう間違いないことなのだ。 相手の中にどれほどいいものをつかんでいくか。それもうわべの心ではなくて、心底から相手の中にいいものを見出す。これは大事なことだと思います。これが本当に大事なことです。これが「実相円満完全」ということの真意です。本当に人の中から良いものを拝み出す。拝み出せなければ、悪いものが出てきたら、自分の中にも足らざるところがある、そういう反省をしていただきたい。こう思います。自分に立ち向かう人の中に悪人が出て来たら、自分もまた悪人である。その悪人の原因をよく考えなさい。相手の神性の悪いものを呼び出したのは、自分の中の悪である。悪のみが悪を呼び出すのである。悪と悪が呼応しているのである。このように思っていただきたい。本当に相手を完全に、円満に、引き出していくこと。これが本当の修行者の道です。これをよくよく考えていただきたいと思う。 7.光の人生を生きる さて、相手の善を拝み出す、仏の部分を拝み出す、という話をしましたが、光の人生を生きようとする心構えが、私はまず出発点だと思います。 皆さんは、自分は暗黒の人生を生きたいのか、それとも光の人生を生きたいのか、これを今、はっきりと心に問うてみて下さい。もし、皆さんが暗黒の人生を生きたい、暗闇の人生を生きたい、人間不信の人生を生きたいと思うなら、しかめっ面(つら)をして、人の悪口ばかりを言っていればよい。人のアラばかり探しておればよい。人を厳しくこき下(お)ろしておけばよい。 ところが、光の人生を生きたいと願っているならば、そうしたことは忘れ去ることだ。流し去ること。気にも止めないことだ。そして人を見ては、よいところだけを褒(ほ)めていく。よいところを見ていく。たとえ、よいことを見ることによって、その人が自惚(うぬぼ)れたりすることがあったとしても、しかし、その自惚れのつけはその人自身に還って来るだろう。私はそう思う。ある人を見たら、よいところを見ていくことが大事だろうと思う。 地上を去ったあの世の世界には、天国、地獄という世界かある。地獄という世界が現にあって、そこでいろんな人が苦しんでいるということを、私はまざまざとこの目で見た。私は思うが、彼らを反省という武器によって、悪人として悟らせるということも大事だけれども、彼らの中にある善なるもの、素晴らしいものを拝み出す、こういう努力も大事だろうと思う。 彼らだって人間として生きていた時に、そんな徹底的な悪人であったかと言えば、私はそうではないと思う。たいていの人は普通の人間であったのだ。普通の人間であったけれども、心の波動というのが乱れていた。ただそれだけが原因であった。私はそういうふうに思います。 したがって、悪人と見えし人の中にも、褒むべきところがあったら褒めること。これが大事だと思う。その結果がよくなるか悪くなるか、それは別です。ただ、相手の中の善なるものを見て、拝み出していくこと。これが大事です。否定的な言葉を出さないこと。悲観的な言葉を出さないこと。徹底的善意でもって、相手の中にある真理をつかむこと。真実の姿をつかむこと。その神の子の部分が見えないのなら、自分に間違いがある。それを私は言っておきたいと思う。 だから大事なことは、まず「決意」です。皆さんはどうするのか。光の人生を生きるのか。それとも闇の人生を生きるのか。どちらにするのか。地獄に行って、鬼たちの欠点ばかりをあばいている人、それで彼らを本当に悟らすことができると思うでしょうか。 地獄に行っても、地獄で迷っている人たちの心の中にいいものがあったら、それを見出していけるような人、こうした人こそを私は本当の仏だと思う。地獄霊といっても完全な真っ黒けではないわけだ、表面上はたとえば暗い姿をしていても、それは本当は、神の子が煤(すす)けているだけなんだ。表面上が曇っているだけで、本当はその曇りを除いた時に真っ白な光を放つことができる。私はそれを数多く見てきた。そうした迷いのべールがかかっているだけなのだ。 それは、ちょうど電球がどのように輝いていても、電球の表面にゴミや埃(ほこり)がたまったら電球は暗くなる。あるいは、風呂敷(ふろしき)をかけられたら電球は暗くなるだろう。そうしたことと同じだ。 光の人生を生きるためには、こうした「本来闇は無いのだ。本来罪も無く、闇も無く、暗いものは無い。人の欠点は無い」と、強く言葉の力でそれらを否定し去ること。そして、「本来光しか無いのだ。」と強く言うことだ。地獄というのはこうした行為を続けていく時に、おそらく消えていくと思う。私はそう信じて疑っていない。 8.希望はかくして実現する さて、内在する叡知(えいち)の話をいろいろとしているわけだけれども、結局人間は、仏子(ぶっし)であり、仏性(ぶっしょう)があるのであり、また、神の子としての本質があるのである。そしてそれは、生命の実相の部分が各人にあるということ。そのままにあるということなのだ。あとは、希望を実現するということは簡単なことなのだ。 神の子が何かをなさんとして、それが失敗するということが果たしてあるだろうか。成功しないということが、果たしてあるだろうか。神の子が本当に、神の心を心として何かをなさんとする時に、協力者が出ないことがあるだろうか。そうしたことは、あり得ない。私は、世の中にはよいことがあったら協力したいと思っている人なんていくらでもいる。そういうふうに思っています。 経済的な問題然(しか)り。神理の伝道然り。さまざまな面でお手伝いしたいと思っている人は、いくらでもいる。こういうふうにして、本当にいいものであるならば、必ず協力者が出てきて助けてくれる。私はそう思っています。 だから何をどうしようとか、こういうことを計らい心で思ってはならん。本当にいいものであるならば広がっていく。このあなたたちの教えであっても、本当にいいものであれば、おそらく広がっていくだろう。そして、より多くの善と、より多くの光とを持ち来たらすようになるだろう。 私も、『谷口雅春言言集』『谷口雅春雪示集』に続いて三冊目の本を世に問うわけだけれども、これについてもいろんなことを言う方はいるだろう。ただ、それに対して、あなた方はいちいち反論したり、反駁(はんばく)したりしていてはならん。それはひとつの闇の行為だと私は思う。あなた方は、真実のものを出していくことだ。本当の光を出していくことだ。光が行進していく前に、闇は退却していくであろう。 勝敗は、事実が決しているということを知リなさい。「谷口雅春の霊言」を語れるのは、「谷口雅春」だけである。私のこの霊言のような内容を語れる人は、この地上には誰ひとりとしていない。それが語れるのは、「谷口雅春」しかいないのである。こうした霊言、霊示、また、これは『谷口雅春の大復活』という名が冠されているけれども、「大復活」の言葉を語れるのは「谷口雅春」だけである。それが真実であるかどうかは、事実そのものが決定している。事実そのものが勝敗を決していると思う。 だから諸君は、この法を信ずる人は、疑ってはならん。断固として強くありなさい。事実が勝敗を決定する。 そしてこの私の書物を読んで、どれだけの人が勇気を起こされるか、鼓舞されるか、光を与えられるか。こうしたことを知って欲しい。多くの人が勇気づけられ、真実、天上の世界がある、霊の世界があって、人間には実相の世界かあるのだということに目醒めた時に、これはひとつの大きな希望です。私はそのために本書をつくろうとしている。 多くの人の目を醒まさせたい。地上にある多くの人たちは、目が醒めていない。「生長の家」というところで、私は五十数年間法を説いてきたけれども、わずか信徒はまだ三、四百万人しかいなかった。しかし、私は今できるならば、日本人一億二千万人全員にこの霊的世界の実相を教えたい。全員に知って欲しい。日本だけではない。ブラジルに、アメリカに、オーストラリアに、世界のすべての人に知って欲しい。 その前には、私は小さな人間心、計らい心を捨てた。『谷口雅春の大復活』が、いったいどこから出るかというようなことは関係ない。私は全人類を救いたいのだ。全人類を救うためには、そうした情実でもって物事を考えてはならん。 私は、真実の書を天上界から一冊でも多く送りたい。送ることによって、「谷口雅春」という近年に肉体を持った人間が霊示を送ることによって、霊界が本当にあるのだということを、実相の世界が本当にあるのであるということを、ひとりでも多くの人に教えたい。知らせたい。この願いは、尽きることがない。 どうか、我が願いの前に道が開けるように、私も析っている。地上の諸君も、我が前に道が開けるように、そして多くの人が従い来たるように祈ってほしい。それを心からお願いして、本書を終えるとしよう。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/409.html
目次 1.なぜ「悪人正機」を信じたか 2.弥陀の誓願の意味 3.イエス様の救いの喩え話 4.釈尊の「毒矢の喩え」の教え 5.自力論者は泳ぎの達人 6.罪と罰について 7.この世で失敗を反省できる者は神の愛を受ける 8.総理経験者が地獄で苦しんで理由 9.失敗したあなた方のために「神仏」の慈悲はある 10.成功者「松下幸之助」は、なぜ天上界へ昇れるのか 11.マイナスの人間は零になっただけで幸せだ 12.悪人が救われな理由 13.「悪人正機説」の間違いやすいところ 14.現代のバベルの塔「唯物科学至上主義」は、邪神バールの化身 15.仏法者の肉食妻帯是非論について 16.「他力本願」の本当の意味 17.親鸞は前世でイエスの弟子パウロとして生まれ、信仰の大切さを説いた (1986年8月6日の霊示) 1.なぜ「悪人正機(あくにんしょうき)」を信じたか 親鸞 親鸞でございます。 ―― 過般はおでましを願って、いろいろとお話をうけたまわったのでございますが、あれからもう四、五年にもなりましょうか。その当時は、私どもの「正法」伝道に対する心がまえと申しましょうか、取り組み方において、いまだ定かなものを持ちねし、大変失礼をいたしました。 さて、すでにご承知かともぞんじますが、この霊天上界よりの霊言集も何巻もの発行をみるに至りました。そういうわけで、諸聖賢よりの神理のお言葉を聴こうとする読者の数が日本国中に大きく拡がりまして、この際、親鸞聖人のお教えをぜひうけたまわりたいという声が多々でてまいりました。 そこで今回は、私どもといたしましても、親鸞様から、人の生きるべき道について、とりわけ、親鸞様の時代から七百年たった現代における今日的凡愚(ぼんぐ)への救いについて、さらには、その悟りの境地について、往時のお考えをも交えてお教え願えれば幸いとぞんじております。この辺を、お願いできましょうか。 親鸞 親鸞は、一向に進歩はしておりません。親鸞は親鸞、あなた方が思っているように、著しい進歩をしている人間ではありません。七百年前も親鸞は親鸞、その前も、その後も、親鸞は親鸞でござる。わが心性は変わっておりません。 したがって、世の人びとが、親鸞らしき言葉をほしがるというのももっともであります。私は、進歩がない人間です。私は私として、ただ一筋に、自分の念(おも)いのままに、想(おも)うがままの道を生きるまででござる。親鸞はあくまでも親鸞、にわかに、親鸞以上の親鸞にはなりません。親鸞はあくまでも愚禿(ぐとく)親鸞でござる。賢くなってもおりません。悟ってもおりません。 このような親鸞の考えでよいのであるならば、いくらでもご披露(ひろう)いたしましょう。ただ、それがあなた方の満足のいくものかどうか、地上の世の人びとの満足のいくものであるかどうかは、私にはわかりかねます。しかし、世の人びとが、今、親鸞を懐(おも)う気持ちがあるならば、親鸞の思想どこにありやと思う気持ちがあるならば、それに応えることを惜しむような私ではござらぬ。 私は生きていたうちにも、それほど熱心に布教したわけではござらんし、それほど弟子の養成をしたわけでもござらぬ。親鸞は親鸞としての信念のうちにただ生きたのみ。それを他の人びとが、世の人びとが如何に見たかは、彼らの側の問題でござる。ただ、その親鸞のものの考え方が、現代のあなた方から見て不可解であるならば、私は私のわかる範囲で語りつくそうと思います。すべてを語ろうと思います。 ―― 私自身も、親鸞聖人様の真宗のご教義そのものの真髄というものは、いまだ把握いたしかねているものであります。まったく不勉強の至りと申さねばなりません。しかるにもかかわりませず、世の人びとが、私どもを介して、親鸞聖人様が本当の教えをお説きくださることを直(じか)にお聴かせ願いたいとの声が強くありますために、不肖にもかかわりませず、現代の世に道を探(たず)ねて生きる方たちになり代わりましてあえてお尋ね申し上げたいとぞんずる次第です。 そこで、これからお話中、このことについて、すなわち、この問題についてどのようにお考えでしょうかということをお尋ね申し上げることがあるかとも思いますが、これはご法についての私個人の質問ではありませず、ご法論をうけたまわり、その理を解しようとする人びとのお願いであるということをご賢察(けんさつ)賜わりたいのです。お訓(おし)えのほど、よろしくお願い申し上げます。 親鸞 わかり申した。まず、何からお話しいたしましょうか。 ―― 親鸞様のご書には、「教行信証(きょうぎょうしんしょう)」などがございますが、なかでも多くの人びとに読み親しまれている、お弟子様の唯円上人が書かれている、「歎異抄(たんにしょう)」のなかから、いささかおうかがいいたしたいとぞんじます。 親鸞 けっこうでござる。 ―― あの「歎異抄」のなかにはいろいろ書かれております。聖人様ご他界後において、同信の方がたにおいても、聖人様のご意思に離れた信心を称(とな)えるものがでたとのことで、これが歎かわしく、唯円上人が直々に、聖人様とのお物語りなどのなかから、信心の本当の姿を説きあかしたものでございますね。 この「歎異抄」は、七百年の歳月を経ました今日におきましても、高校、大学生を始めとする多くの人びとに愛読されております。これが人生の教えとして受けとめられる以前に、ともすれば教養の書、知識の書として受け入れられているということもまた、事実であります。 すなわち、今日におきましては、人の生き態(ざま)の導きの書とはなりかねているように思いますので、この際、今一度、「人の生き態とは何たるか」を聖人様のお言葉を通してお示し願えればありかたいとぞんじますので、よろしくお願いいたします。 親鸞 まず話の糸口としては……。 ―― こと、それとその教えのもととなるものは、いわゆる「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」でございます。『善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや』の一節でありますが、キリスト教にもこれに似たイエス様のお教えがあります。『富める者の神の国に入るよりは、駱駝(らくだ)の針の孔(あな)を通るかた、かえって易し』と。これらのお教えには、相通じるものがありましょうか。 親鸞 ある意味においては、同じくするものであります。とかく仏法を求めている人というのは、偉くなりたい、悟りたいと希(ねが)うものであります。そして、仏の教えを理解すればするだけ、自らが偉くなったがごとく、宗教天狗となっていくのです。 そこで、私は警告を発したのです。鎌倉時代においては、もはや仏教は形骸化(けいがいか)し、当初の釈迦の教えは、末法の世となり、正しく伝わってはおらず、諸宗派相競って釈迦の何経が正しいとか、こういうことばかりをやっておったのです。この教えこそ真の教え、こちらは違うと、こうしたことばかりをやって、学者が議論をしておったのです。 しかし、考えてもみなさい。仏の教えというものは、いわば総合的な人間学でござる。すべての学びの本でござる。今の世でいうならば、学問にもいろいろござろう。英語であるとか、国語であるとか、社会であるとか、理科であるとか、さまざまな学問がある。そのうちの英語だけをすれば、人間は完成しますか。数学だけを学べば、人間はそれでいいのですか。国語だけをやっておれば、世の中のことがわかりますか。理科の実験だけをやっていて、世界の仕組みがわかりますか。そうしたものではないはずです。人間が学ぶべきこととは、学びの根本の精神を酌(く)みとって、さまざまな角度から考えていくことです。 ところが、当時の教学は、仏説の真理を判断し、これこそは真説、経文のこの意味はこういうこと、こうしたことが悟りであるかのごとく誤解されていたのであります。しかし、今から二千五百有余年前に、釈尊(しゃくそん)が説いた教えは、そのような学者相手に説いたのではござらぬ。 釈尊の時代は、インドもまた、戦乱の世でありました。戦乱の世であったからこそ、人びとは真なるものを求め、本当の「ブッダ」(悟れる者)の教えを求めておったのであります。そうした世が乱れ、仏法が衰えた、本当の神理、神の教えが衰えたときであったのです。したがってまた、釈尊の時代も当時としてみれば、末法の世であったわけです。末法の世だからこそ、末法の世を建て直すがために、釈尊がでられ、人びとを導かれたのではないでしょうか。 また、われらが時代、鎌倉時代においても、仏の教えの真髄は失われ、世は戦乱の時代となり、人びとは慟哭(どうこく)し、動乱の時代であったのでありますが、そうしたときに、かつての仏教が、かつての仏典が、釈尊の時代のバラモンの教典のようには知識化し、学問の対象となっていなかったのです。 ですから、あなた方から見れば、私がやったことは、あまりにも簡単すぎる。どんな人間でも救われる、弥陀の本願を信じて疑うなというような教えは、現代のあなた方から見れば、ずいぶん幼稚な理論だと思えるでありましょう。しかしこれは、一つの悟りに至るための精神棒であったということであります。 はたして、釈尊は二千五百有余年前にインドの衆生(しゅじょう)に対し、そんなむずかしいことを説かれましたか。そんなむずかしい、専門的なことを説かれたでしょうか。鎌倉時代には、もはや仏教は、専門の学問と堕(だ)しておりました。むずかしい漢文を読めなければ、人びとは救われないのですか。釈尊の時代には、そんなむずかしい古語を読めたような人を相手に教えておりましたか。 釈尊が教えていた相手は、当時のインドの民衆でありました。そうした方がた、戦乱のなかで救いを求めていた方がたでありました。そうした方がたに説いた教えであるならば、なぜそんなむずかしいことがありましょうか。釈尊は、そんな知識を得なければ、救われないというようなことを言ったのでしょうか。 当時のバラモン階級、貴族階級は、余裕があったために、さまざまの学問を学び、古(いにしえ)の教えに接したでありましょう。しかし、下層階級の人たちはどうですか。奴隷階級の人たちはどうですか。商工人たちはどうですか。彼らには、古のむずかしい教典を学ぶような、そういう余裕がありましたか。そういう時間がありましたか。そういう機会がありましたか。ありはしないです。 ですから、釈尊は、そういうバラモンの僧を相手に法を説いたのではありません。釈尊が説いたのは、一般民衆に対してであります。であるならば、釈尊の本意はどこにあったか。貧しい人びと、迷える一般の大衆たちをも救えるような教えにあったはずです。ところが、それが漢訳され、中国に伝わり、またその漢籍(かんせき)が、日本に伝わるにあたって、そのようなむずかしいものとなり、何経が正しいとか、そのようなことを言っておったのであります。 日蓮聖人から見れば、念仏で救われるなどということは、堕地獄(だじごく)の業(わざ)かもしれない。教学をやった人間から見れば、確かにそうであろう。釈迦の本説を読みもしないで、なぜ救われるかと、そう思う人もいるであろう。しかしそれは、当時のインドでいえば、バラモンの悟りなのです。仏説を知力で学んで、そして悟るというのは、バラモン階級、貴族階級の悟りなのであります。しかし、釈迦の本意はそこにはなく、釈迦にとっては、庶民を悟らしめることが、本当の気持ちであった。真のお気持ちであられたはずです。 では、釈尊は如何にして、人びとを導かれたのであろうか。釈尊は、おおいなる慈悲を説かれた方であります。慈悲とは何でありましょうか。慈悲というのは、父母が幼児(おさなご)を見守るような眼で人びとを見る、それが慈悲ではないのですか。幼い者を護(まも)る、幼い者を愛する。幼いものを導くということが慈悲ではないのですか。 釈尊の教えは、百万言費(ついや)そうとしてもわかりません。その仏門にはさまざまな道があります。何百何千の入口があります。それを究(きわ)めつくすことはできません。ただしかし、釈尊の教えを一言で言い切るとするならば、「慈悲」であります。つまり、釈尊は、慈悲を説かれたのであります。慈悲は、何人(なんぴと)に向けられたのですか。迷える衆生であります。迷える人びとであります。悟ろうとしても悟れない、そういう人びとに対して慈悲が向けられたのではないですか。釈尊は、その慈悲を説いたのではないですか。 では、鎌倉時代に、慈悲を説いた方がおりますか。日蓮聖人は慈悲を説きましたか。日蓮は、知力による悟り、その悟りにもとづいた生き方、これを主張しました。道元禅師は、どうですか。道元は、坐禅を説きました。そして、むずかしい哲学を説きました。その道で満足できる方もいらしたでありましょう。しかし、それは慈悲ではないはずです。 他の方がたはどうですか。天台の教学をやった方がたはどうですか。彼らは、本当に慈悲を知っていましたか。天台智覬(てんだいちぎ)は偉い方でありましたでしょう。しかし、天台智覬のいうむずかしい学問的仏教を、一般の人たちは理解できたでしょうか。そうしたものを学んだ比叡山の延暦寺ですね、彼らの教えをどうして民衆がわかりましょうか。釈尊はただ"慈悲"を説かれたのです。しかし、だれもその慈悲を説こうとはしないのです。私は、これは一つの問題点であろうと思いました。 慈悲さえ説けば、釈尊の本意は伝わるのであります。そうであるならば、私はその慈悲を説こうと考えた。では、鎌倉時代において、慈悲とは一体何でありましょうか。世は乱れ戦乱であります。宗教は末法であります。人びとは、何がどうなっているのかわかりません。人びとはいつも、死後の恐怖に戦(おのの)いていたのであります。当時は、今の人たちよりは、死後の存在というものを信じておったのです。 今の世の人びとは、死後の世界はないのだ、魂の世界はないのだ、と。とくに知識人といわれる人は、そんな愚かなことを、したり顔をして言っておるのです。しかし、当時の民衆は、死後の世界を信じておりました。現在のように唯物的なものの見方をする人などおりませんでした。みんな、死後を知っておりました。そして、死後の世界には、天国と地獄があるということも知っておりました。これは、当時の民間信仰においては、常識であったのです。 2.弥陀(みだ)の誓願(せいがん)の意味 親鸞 天台の教学を学ばなければ天国へ行けないのであるならば、下層の庶民は、地獄へ堕ちることはもう決まっているはずです。彼らはそれで、戦々競々(せんせんきょうきょう)とした毎日を送っておったのです。善行をすれば救われるといっても、このように世が乱れた時代に、如何ほどの善行ができましょうや。善行をするどころか、悪行を犯そうと思わずしても、犯してしまうような世であったのであります。罪を犯そうと思わなくとも、犯すような世であったのです。 では、そうしたときに、庶民大衆を救う教えとは何でしょうか。何百万もの人が、それを聴いてわかるようなやさしい教えでなければいけないのです。今のように、学問が進み、大学をでている人が多い世の中ではないのです。学問などないのです。読み書きができれば、よいほうであります。大部分の人たちは、つまり、人口の七割、八割の人は、読み書きすらできなかったのです。自分の名前さえ書けない人も多かったのです。 こういう人びとを導くには、ただ一転語をもって、その人を悟らしめる以外にはないではないですか。そうでしょう。釈尊が慈悲を説かれたのであるならば、鎌倉の時代に慈悲を説けばどうなのか。私は日夜学びました。釈尊が鎌倉の時代にでておられて、この衆生の迷いを見たら、一体何を説かれるだろうか。釈尊は、仏の救いということをやはりお教えになるに違いない。あなた方はみんな救われるとお教えになるに違いない、と。なぜならば、慈悲とは、父や母が幼児(おさなご)を見るようなやさしい眼で見守ることをいうからです。あなた方は、自分の子供が、たとえば二つ三つの幼児が、悪いことをしたからといって、それを罰しようと思いますか。幼児は、まだ善悪がわからない。ものごとの判断がわからないのです。言葉を発することも困難なのです。ただひとこと、乳がほしいとか、ご飯がほしいとか、喉(のど)が乾いたとか、そうしたことを言えるだけの幼児であります。そのような幼児に、これを学ばなければお前は一人前ではないと、あなた方は鞭(むち)打てますか。父母の心をもってすれば、鞭打てないはずであります。これが神仏のお心であります。 私の時代には阿弥陀信仰というものがありました。すなわち、「阿弥陀経(あみだきょう)」というものがあって、阿弥陀仏が人びとを救うために、四十八の"発願(ほつがん)"をされたのであります。阿弥陀仏は、人びとを、衆生(しゅじょう)を救うために、修行に修行を重ねて、「この四十八願がかなわないならば、わが命を奪い給え」と、そこまで覚悟されて修行に打ち込まれた。それだけの願いがありました。そのなかにおいて、阿弥陀如来は「衆生を救う」ということをはっきりと言っておられます。「どんな人であろうとも救う」と言っておられる。あなた方人間であるならば、よい人を救い、よくない人を救わないのは簡単です。しかし、神仏のおおいなる眼から見たら、人間は平等であります。神仏というものは、ある意味では、泳ぎの達人であります。 もしあなたが泳ぎの達人だとして、川で人が溺(おぼ)れているときに、あなたはその人が善人だから、悪人だからといって、救うか救わないかを決めますか。あなたは泳ぎの達人なのです。あなたは、よいですか、日本一の泳ぎの達人であります。日本一の泳ぎの達人がいて、そこに子供が溺れておるのです、川に。 川に流れはあるでしょう。普通の人であるならば、自分が溺れることもありましょう。しかし、あなたは日本を代表するような泳ぎの達人であります。そして、その眼の前で、子供が溺れておるのです。助けられないわけはないではありませんか。 あなたは、その子が品行方正な子供か、それともおいたをしている子供かによって、救うか、救わないかを決めますか。決めないはずです。その子の通信簿を見て、オール「5」だから救うのですか、オール「1」だから救わないのですか。そうではないはずです。 神と人間とは、それだけの差があるのです。神が、私たち人間のような差別知でもってものごとを見ているならば、神は好き嫌いでもって人間を救う、救わないを決められるでしょう。しかし、そうではないのです。泳ぎの達人で、神仏が現われるならば、必ず救ってくださるはずです。 親鸞は川のなかにあって、溺れる者たちのなかにあって、私もまた、川に流されていた一人の人間でありました。私は川のなかで流されておりました。自らを救うこともできずに、流れておった人間であります。そのとき、同じく浮きつ沈みつ流れていた多くの人びとがおったのです。しかし、親鸞には救うことはできません。 けれども、よいですか、「神は、神仏は、阿弥陀如来は、必ずあなた方を救ってくださるよ」と、親鸞は、泳ぎつつ人びとを励ましたのです。この教えに、何の誤りがありましょう。必ず救ってくださるはずです。人びとよ、その教えを信じなさい。私は、こう説いたのです。 私もまた、むずかしい教学を学びました。むずかしいことを言って、それで人びとが救われるものであるならば、私はそれも言いましょう。しかし、慈悲はそうではないのです。人びとは、何百万、何千万という人びとは、川のなかを、浮きつ沈みつして流れておったのです。今にも溺れかからんとして、息も絶えだえに、流れておったのです。そこで、親鸞は声をだし、「皆様、私はお助けはできませんが、きっと神、神仏は、阿弥陀如来は、皆様をお助けくださると思います。なぜなら、阿弥陀如来は、泳ぎの達人でいらっしゃるからです。ですから、そのお力も並はずれたものであります。きっと救ってくださるに違いありません」と説いたのです。 現に、阿弥陀如来は、人びとをお救いになられるからです。これが釈迦の慈悲でなくて、何でありましょう。もし釈迦が鎌倉の時代に生まれたならば、きっと私と同じ教えを説かれたでありましょう。浮きつ沈みつしている子供に、「お前が善人なら救ってやろう」と釈迦が言われたでしょうか。お前の通信簿がオール「5」であったら、救ってやろうと言ったでしょうか。日頃の学びにおいて、オール「5」を目指しなさい、品行方正な子供になりなさい、と教えるのは簡単です。それは、そのとおりです。学校でも、そう教えます。しかし、事態を見極めなさい。激流のなかで浮きつ沈みつしているときに、そんな道徳論を言っておれますか。まず、救うことです。それが先決です。 3.イエス様の救いの喩(たと)え話 親鸞 イエス様の教えにも、同じようなものがあります。これから話すのは、イエス様の教えのなかの喩(たと)え話です。 ある愚かな人が、道に倒れておりました。そこに、ある人が通りかかって、その者に語りかけました。そうするとその者は、「私は脇腹に傷があって、血がでています。歩けません」と、そう言いました。すると、そのある人は、「ああ、私の手には負えないな。そのうち向こうから医者がくるだろうから、その医者が救ってくれるであろう」と、見て見ぬふりをして、先へ行きました。 そこへまた、次の人が来ました。愚か者は、まだ血を流して苦しんでいます。次の人は、病んでいる者から、「助けてください」と言われたのですが、「いや、君は病院へ行けば治るよ」と言って、そのまま通り過ぎてしまいました。 三番目の人が来ました。三番目の人も、その病んでいる人を見ました。この人は、宗教家でありました。その人は尋ねました。 「あなたは、怪我をしているのですか」 「しています。血が流れています」 「あなたは、何教を勉強されていますか」 「私は異教徒です」 「あなたは、キリスト教に改宗しなければ教われません。まず教会に行って、キリスト教徒になりなさい。そうしたらお助けいたしましょう」 その宗教家は、そう言って、通り過ぎて行きました。異教徒は救ってはいけないと思っていたからです。そこに、たとえばイエス様が通りかかったとしましょう。イエス様はどうされるでありましょう。イエス様は、まず何も言わないで、すぐに傷の手当をされるはずです。その病の人を救おうとして、その病の者を担いで、次の宿まで、宿場まで運んで行かれるはずです。 そのような重病人に対しては、まず何を言うではなくて、命を救うことが先決なのです。血を流して苦しんでいる人に対しては、まずその傷の血を止めることが大事なのであります。そうではなくて、その人を救う専門家がいるだろうとか、あるいは、その人の教えが、考えが間違っているとか、そんなことを言ってはいけないのです。それは神の御意(みこころ)ではないのです。 よいですか、私の今の喩(たと)え話を、これはキリスト教で言われている喩え話でありますが、よく覚えてほしいのです。 4.釈尊(しゃくそん)の「毒矢の喩え」の教え 親鸞 鎌倉時代において、何教でなければ救われないと言っている人は、お前はクリスチャンでなければ、教会に登録しなければ救ってあげられないと言っている宗教家と同じなのです。そのようになってはいけません。どのようなものであっても、救われねばいけません。それが神の御意です。神様がでられたら、必ずお救いになります。その人の品行方正、そんなことは何も言いません。きっとそのはずです。 釈尊にもまた、同じ考えがあります。釈尊には、「毒矢の喩(たと)え」という教えがあります。 ある理論好きの人がおりました。その人が、釈迦に、問いかけました。「ここに毒矢に射たれた人がいる。そして、毒がまわって死にそうです。このとき、あなたはどうされますか」と。そこで、釈迦は、「まず、命をとり止めることが先決である」とそういうことを言いました。ところが、その理論家は、嘲笑(あざわら)って、こう言ったのです。 「あなたは間違っている。まず、その矢がどこから飛んできたのか、そして、何の毒が塗ってあるかがわからなければ治療はできないではありませんか。ですから、どこから飛んできて、何の毒が塗ってあるかを知ることが先決で、それからでなければ、救うことはできないはずです」 釈尊は、そのときに、言葉に窮したかのように黙しておられた。黙っておられたとのことです。 しかし、釈尊の真意は、そんなところにあったのではないのです。まず、生命をとり止めねばいけない。矢がどこから飛んできたか、毒が何であるか、そんなことはあとのことだ。まず、傷口をふさいで、包帯をして、命をとり止めることが大事だ。釈尊はそういうことを言ったのです。 これから、あなた方に対しても、いろいろな人がいろいろのことを言うでしょう。この矢の喩えのごとく、あなた方に「悟りとは何か」と言って、あなた方が高邁(こうまい)な理論で答えないのを嘲笑(あざわら)う人がいるでしょう。あるいは、あなた方が親鸞の説教を説いているならば、「浄土真宗のこういう本を読んでいるか」「こういう教義の本質を理解しているのか」と、こういうことを言う人がいるでしょう。 「親鸞は慈悲こそすべてだと言っています」と、あなた方が答えます。すると、理論家は嘲笑うでしょう。この彼は、仏教大学で、"浄土真宗"を専攻している人なのです。 「そんなものではない。親鸞の教えとは、そんなもんじゃない。親鸞は、こんなことを言っている。あんなことを言っている。歎異抄で唯円が書いているが、ここは親鸞の考えを理解していない」 このようなことを、彼は、ああでもない、こうでもないと言うでしょう。ただ、よいですか、本当は、人が救われればそれでよいのです。学問的に、その理論の正否ではないのです。毒矢のごとく、まず、毒矢に当たっている人を救わなければならないのです。その人が何の階層に属しているか、矢がどこから飛んできたか、どんな毒か、こんなことは、関係ないのです。 釈尊は、当時において、ある人から、「悟りとは何か」、あるいは、「宇宙とは何か」というような質問をされたことがあります。しかし、釈尊は、答えなかった。そこで、それを、後世の人たちは、釈尊は宇宙は何かがわからなかった、悟りとは何かが一言で言えなかった。だから、まだまだ勉強が未熟だったのだと、評したりしました。 しかし、それは、違っているのです。毒矢です。まず、命をとり止める必要があったのです。私たちの時代においても、毒矢に当たって苦しんでいる人がいっぱいいたのです。ところが、そのときに、矢がどこから飛んできたかがわからなければ人は救えないとか、毒の種類がわからなければ救えないとか言っている人がいっぱいいました。他の宗教家たちです。 矢がどこから飛んできたかがわからなければ救えないとは、どういうことか。これは、ある人が悩んでいても、その原因がどこにあるのかわからなければ、その人は救えない。あるいは、毒の種類がわからなければ救えない。まず、それを知ってから手当をしたらいいだろう、とこういうことを言っているのと同じです。矢が当たって、血が流れているなら、まず、止血(しけつ)をしなければいけない。血を止めるのです。腕に矢が当たったなら、矢が当たった腕の心臓に近いところの上を縛りあげて、止血し、そして、矢を抜かなければなりません。それが第一であります。 親鸞が教えとは、かくのごときものです。私は、矢がどこから飛んできたかは知りません。敵の矢か、味方の矢かどうかもぞんじません。その毒が何の毒か、ハブの毒か、あるいは、他の鉛の毒か、私は、そのようなことは知りません。ただ、矢に当たった人がそこにいるのであるならば、一秒でも早く止血し、手当をせねばならぬ。ただそれだけです。 親鸞が教え、親鸞が弥陀の本願、念仏と申したのも、ただ、矢が当たったら、まず応急処置をしなさいということです。その教えは、すべてではありません。まず応急処置をして、命をくい止める。それが先決です。そして、そのあとにおいて、さまざまな研究をすればよろしいでしょう。毒の性質を研究すればよいでしょう。そうした人もいるでしょう。それはそれでよろしい。 ですから、私が今から数百年前に説いた教えというのは、人びとに本当の信仰とは何かということを教えることでした。阿弥陀如来という神仏の偉大なる化身がおられて、日夜あなた方を救うために努力しておられるのですよ、と。そういうことを私は言いたかったのです。そのことを知りなさい。そのことを悟りなさい。それだけであなた方は、一命をとり止めることができるのです。 これは専門的な治療ではないかもしれません。しかし、あなた方は毒矢に当たって苦しんでいるのですから、まず命、これを救わねばなりません。それは、仏のおおいなる慈悲を知ることです。あなた方にとっても、そうです。現代人にとって、悩みの種はつきません。しかも、自分だけで解決しようとして、迷路に入っていってしまうのです。 5.自力論者は泳ぎの達人 親鸞 なぜあなた方は、この世界が、神仏のつくられた世界だということを理解しようとしないのですか。この三次元、すなわち、現象世界だけがすべての世界ではないのです。神仏はあなた方のすべてをしっかりと見ておられる。そうであるならば、なぜ彼らにおまかせしようとしないのですか。なぜ人間心で、いろいろとああでもない、こうでもないと出口を求めて狼狽(ろうばい)するのですか。なぜ神仏のご慈悲というものにおまかせしないのですか。 もちろん、自力で救われる人はおります。しかし、自力で救われるということは、もう信仰は必要ないのです。自力信仰であるならば、これは自分を信じるということであり、自己確信と同しであります。どんな難局があっても、自分で切り拓いていける人であるならば、そういう人はよろしい。そういう人は泳ぎの達人です。 泳ぎの達人は、いくら水泳の名選手が岸辺にいたとしても、その人に救われようとはしません。彼は自分で泳いで岸に上がって来れるのです。そうではありませんか。水泳の選手が、水泳の選手を助けはしないのです。泳げない人だからこそ助ける必要があるのです。自力論者は、すなわち、優れた人びとにとっては、まさにそのとおりでありましょう。優れた人びとは、神仏が手を下すまでもなく、自らを救っていくのです。そうした方がいることを親鸞は知っております。 彼らが自分自身で救えるならば、弥陀は力を発揮する必要はありません。自分自身のなかなる仏性を信じて、立ち直っていける方は、強い方であります。そうした方は、自分で救っていきなさい。弥陀もそれを喜ばれるでありましょう。けれども、自らが溺れている人には、それは無理であります。 あなたは、水を飲んで流されている子供に、自力で自らを救いなさいと言えますか。自力で泳いで岸まで来いと言えますか。それは一見正論であります。しかし、自力で岸まで泳げる人であるならば、助けなどいりません。そうでないからこそ、助けが必要なのです。 私が救おうと思った人びととは、庶民の方がた、迷える人びとです。迷える人びとだからこそ、救いの手を差しのべる必要があるのです。だからこそ神仏のお心を教える必要があったのです。神仏は溺れている子供に、沈めとは言っていないのです。助けようと思っておられるのです。ただ、間にあわなくて、助けられないままに沈んでしまう方もいます。 けれども、そのお心を疑ってはいけない。神仏は溺れているあなた方を救おうとしておられた。そのことだけは忘れてはいけない。順番に溺れる者を拾っていかれる間に、沈んでしまう人もいます。すなわち、これが地獄に堕ちる人です。だから、とりあえず地獄に堕ちた人もいます。弥陀のお力が及ばなかったとはいいかねますが、地獄に堕ちる人もいるでしょう。 しかし、そうした人たちを、必ず救ってくださるのです。水に沈んだ子を神仏は助け起こして、岸辺まで拾い上げて、水を吐かせ、人工呼吸をしてでも救おうとされるのです。沈む前に救いたいのはやまやまです。しかし、沈む前に救えないこともあります。そのようなときには、沈んで、顔が土色になっている子供であっても、神仏というものは、水を吐かせ、人工呼吸をし、心臓のマッサージをして、お救いになろうとしておられるのです。 このおおいなる慈悲に気がつきなさいと、私は、これを教えたのです。私は、この教えに間違いはないと思います。自力の人は自分で救っていきなさい。それはそれでけっこうです。 私たちのような煩悩多き迷える衆生(しゅじょう)は、水を飲みながら泳いでいる衆生は、それで救えないからこそ、神仏にすがっておるのです。ですからあなたも、あなたの足にまとわりついてくる幼児を足蹴にはできないはずです。親もまた、同じです。 私が衆生に教えたのは、神仏は父であり、母であるということです。ですから、その足に縋(すが)りつきなさい。ひとえに縋りつきなさい。そう訓(おし)えたのです。あなたは、あなたの可愛い子が足に縋りついたとして、それを蹴飛ばせますか。両手で抱き起こすでしょう。人間は、神仏がつくられた子供なのです。神仏の分けみ魂(たま)なのです。なぜそのようにつれなく突き放しましょうや。 その子のお行儀がいいから、その子の這(は)い方がいいから、その顔つきがいいから、抱き上げる。あるいは、その子の顔つきが悪ければ、蹴飛ばす。そのようなことを神仏がなされるはずがありません。平等の"愛"というものを信ずること、これが信仰の根本なのです。 これを邪説という人もおりましょう。それならば邪説といっていただいてけっこうです。その方は、信仰の何たるかを知らない人であります。また、神の御意(みこころ)を知らない方です。その御意がどれだけ大きいか。それは、大人と子供以上の差があるのです。この世界をおつくりになり、この世界に生きとし生けるものをすべて送り込んだ方なのです。そのような偉大な方であるならば、助けを求めれば救ってくださるのは当然であります。それを単純だと言い、それを仏説を知らないというのならば、それでもけっこうです。 しかし、それを知らないで、知識をいくら学んでも意味がありません。信仰とは、弱き者を救うことです。強き人は、自ら救っていきなさい。自ら自分を救っていける人は、自らが教祖のような人です。自分教で自分を救えるのですから、そういう人は、自分を救っていきなさい。それでけっこうです。私の教えに何か疑問があれば、質問を続けてください。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/457.html
目次 1.まず神理を述べ伝えよ、教団創りを念頭においてはならない 2.われらは何をなすべきか 3.第二のルネッサンスが興る。花壇の花の一輪たれ 4.新時代に向かっての伝道方法について 1.まず神理を述べ伝えよ、教団創りを念頭においてはならない 善川 今後正法流布に当ってどういう方式、態勢で当っていくのがよろしいか。 日蓮 あなた方が団体を造っていくのではないのです。人びとが集まってくるのです。それを誤ってはいけない、あなた方が組織を造るのではないのです。あなた方はほっとくのです。法を広めるのであります。ただ結果的に人が集まってくるのです。人を集めんがために法を説くのであるなら、今の株式会社のようなものと変わりないではないですか、利益を与えてくれるから人が集まるのであるなら会社組織と変わらないではないですか、そうではないのです。"法" そのものを説けばよいのです。それが広がっていけばよいのです。広がる、広がらないはまかせておけばよいのです。本物であれば確かに広がっていきます。本物を目指すべきです。本物は人から人へと、人びとの良心から良心へと伝わっていきます。 善川 私たちが核となって天上界の皆様方のお教えを述べ伝えねばならぬと思いますが、とりあえず、これらのお言葉を紹介させていただいてよろしいか。 日蓮 これも一つの方便であります。病気を治したり、奇蹟を起こしたりするという方便がありますが、私たちの言葉を伝えるという、これも一つの方便だということであります。かつてこのような形で明確に現象が起きたことも、あまりなかったはずです。このように記録にとり、これを文章に起こす、私たちと対談した言葉が残る、ひじょうに稀なケースであります。これも一つの方便であります。あなた方にとっての方便なのです。誰とでも、天上界の誰とでも、呼び出して話ができる。このようなことが実際にできますか、できるようなことではありません。通常にできることではないのです。今、呼び出そうとして、呼び出せない霊がありますか、ないのであります。このようなことはあり得ないことなのです。これが方便なのです。しかして最後にはあなた方独自で新たな法を造成していかなければならないのです。私たちの言葉を伝えるということ、聞き書き――そのようなものだけではいけないのです。ただこれも、人びとに法が説かれるための方便なのです。これが最初の方便なのです。やがてはあなた方が考え行動することが、"法" となるのです。はじめは手引きがいります。手引書がいります。導きがいります。アドバイスがいります。そのために私たちは語っているのです。しかしやがてはあなた方が頭で、自らの頭で判断し、語り、行勤したことが、またそのものが「法」として後世に残っていくことになるのです。 後の世の人びとにとっては、この二十世紀の後半に「日蓮」が出てきて喋ったということは、大したことではありません。あなた方自身が更に今後、未来世における「日蓮」であり、他の宗教者でなければならぬのです。伝え聞きではなく、あなた方自身が、そのような本来そのもの、といいますか、本物そのものにならなければいけないのです。 あなたは今、われわれからの "正法" の流布という自らの任務に、驚きと戸惑いとを感じているようですが、何も心配はいらないのです。これも、あなた方も当然考えておられると思うけれども、既にすべてが予定された約束事であります。心配はないのです。ただ、あなた方は団体を造ろうと思ってはいけない。そういうことを思うと我が出、欲が出てきます。そうではなく、あなた方は真理を広めるのです。神理を広めればよいのです。宗団は出来ようが、出来まいがそんなことは問題ではありません。一人でも多くの人びとに神理が伝わればそれでよいではありませんか。宗団を造ろう、教団を造ろう、教祖となろう、このような考えは持たないことです。 このようなことは、自然に人がそう言い、そうなってくるものであって、それを目指していけば大変な間違いになります。それもまた旧来の行き方にひじょうにとらわれている行き方です。自らの教団造りに奔走して、教団の勢力を広げることに奔走するようでは今までの既成の新興宗教と一体どこが違うのですか、そんなものではないはずです。あなた方が対象にしている人たちは、今後、五百年、一千年、一千五百年、二千年後に出てくる人たちです。それらの人びとを今教団に入れることはできないでありましょう。今教団などというものは、現に今生きている人たちだけの話であります。そのようなものは、大きくとも小さくともよいのです。本当のものを残すということであります。 2.われらは何をなすべきか 日蓮 私たちは、まだまだ大きな眼で見ております。毎日、毎日あなた方に、毎日決まりきったレールの上を走ってもらおうとは思ってはいないのです。究極的に歩んでもらうべき道、それは既に示しました。そして最終的にそこまで行ってほしいというわれわれの希望も持っております。しかし、その目的地と、現在地の間を一体いかにして歩むかということは、あなたがたご自身の修行ということともからんでいるのですから、私たちは、こまごまと小さなことは申しません。ただ、あなた方が間違った方向に歩んだとき、或いは気力をなくした時、或いは失意に沈んだとき、私たちが何らかの言葉を述べ、あなた方に勇気を奮い起こしてもらう必要があるのでばないかと考えています。 善川 まず私たちができることは何でしょう。 日蓮 まず、あなた方一人ひとりが、自らできる最善のこと、自らに与えられた機会、環境、そのような中において、自らできる最善のことを志すべきです。現に何をせよ、と私は申しません。今あなたに何ができるであろうか、ということを考えていただきたい。人それぞれに考えるべきであります。あなたは、あなたで、いかなることをなすことが、今のあなたにとって一番大切であるかということを考えねばならないのです。各人、各様で結構です。自らの最善を尽くすということであります。 その各人、各様の動きが、やがて総合された大きなうねり、大きな動きとなってくるのです。人のことを特に考える前にあなたはあなたのできることをしてください。 善川 ここ四年間は、日蓮聖人が主体となって「正法」をお説きくださってきたのですが、これを今の世で同じく法を求める者に語り継ぎたいと思うのですが、その方法と申しましょうか、形態と申しましょうか、この聖人様のお言葉を、書物という表現形式によって表わすことについては、お許し願えましょうか、重ねてお伺い申します。 日蓮 間違っておりません。やがてすべては白日のもとに晒(さら)されることになりましょう。しかし、ものごとには段階があります。今現在、こうして私と話しているあなたも、三年前、四年にもなりますか、こういう現象が起きたときは、あなたも信じていなかったはずです。あなたが信じないようなことであるなら、一般の人はどうして信じることができましょうか。彼らを信じさせるところに行くまでにさまざまな段階が必要です。その段階、段階においてやはりついてこれない人が出てくるでありましょう。しかしながら、たとえ一握りの人であろうと、最後の段階まで導いてこなければならない人がいるのです。彼らがどうやったらついてこれるか、彼らの立場に立ってあなたは考えていきなさい。 ☆ ☆ ☆ 日蓮 まず具体的な方針、或いは何らかの計画、そのようなものをあなたは私から聴き出したいのだと思います。多分そうでありましょう。私から何かの言葉を聞き出したいと思っておられるのでしょう。何かは言わねばならぬと思います。 まず、あなたは、まもなく自由な時間を得ましょう。以後の行動であります。当座の間と申しますか、暫くの期間と申しますか、手が放れる。或いはあなたにとって、自由の時間ができてくると思います。しかし、やがてこれは自由な時間ではなくなってきます。やがて仕事になってくるわけです。いそがしい時期がやってまいります。そう遠い将来ではありません。忙しい時期がまいります。それまでの間、これは天から与えられたあなたに対する時間であります。あなたの宝物であります。時間は宝物であります。天から与えられた機会だと思って、この期間にあなたができることをやっていきなさい。その手がかりはもうあるはずです。私たちの言葉であり、あなた自身の考えであります。あなた自身の経験であります。あるはずです。そしていかなるものを残していくかということは、いかなるものを残すことがそれに接する人たちにとって有難いか、その接する人たちにとって素晴らしいものになるかという観点から考えて、あなたはなすべきことをなしていきなさい。 単に名を上げるとか、自分の遣り甲斐を見つけるとか、名を得るとか、そういうことではないのです。あなたが今考えていることは、どのような意味を持っているのか、どのような使命に基づいたものなのか、それを今後現わしていこうと思うものに、接する人の立場に立ってよくお考えください。 善川 私のような非力なものに、私一人でどれ程のことを人びとに訴えることができようかと思えば、前途にまだ自信が持てないのです。 3.第二のルネッサンスが興る。花壇の花の一輪たれ 日蓮 今世紀から来世紀にかけて、人類は第二のルネッサンスを迎えることになりましょう。それは、東西の文化が交流し、新しい時代にふさわしい文化が建設されることになりましょう。 あなたも以前にこんなことを聴いたでしょう。「花一輪では花壇はできません。色とりどりの何輪もの花が咲いてはじめて花壇となるのではないですか。」 この話は、かつてレオナルド・ダ・ビンチとして世に出られたガブリエルに聴いたはずです。あなたもこれから咲く一輪の花であります。あなたは、あなたの花を咲かせなさい。チューリップの花か、カーネーションか、牡丹か、他の花か、或いはタンポポの花か、菫(すみれ)か、それはあなたご自身が、やがて悟ることであります。あなたが一体何の花であるか、それはあなた自身がまだ充分に掴(つか)んでいないかも知れませんが、花は花としての使命があります。チューリップは、菫の花を咲かすことはできません。菫はチューリップの花を咲かせることはできません。あなたには、あなたの花があります。しかし、どのような花であってもよいのです。花壇が出来るのであります。花一輪では花壇になりません。その訓えを、いま想い起こしてほしいのです。ですから誰もあなたに全能といいますか、オールマイティといいますか、すべての法を説けと言っている人もいなければ、すべての人を救えと言っているわけでもないし、すべての人の指導者になれと言っているわけでもなく、古今東西を通じた完璧の書物を書け、と言っているわけでもないのです。あなたはあなたの、できるだけの、花を咲かせればよいのです。そうではありませんか――。 4.新時代に向かっての伝道方法について 日蓮 私たち天上界のものたちの話を聴いて、もうあなたは知っていることなんです。けれども忘れているだけです。そういう私たちの話を聴いて勉強することから始めるとよろしいです。けれども、やがてあなたご自身のお考えなり、思想なりというものをまとめていかなければいけません。 さて、伝道の方法ですが、心配はいりません。一人の人間が三人、五人の人を知っているのです。百人が三百人になり、五百人になるのは、もし内容があるものであれば、アッという間です。伝道というのは、いつの時代でもそのような形をとってきたものです。まず身近なものに説かれて、それを聴いたものが、これこそ本物だと、思い至った時に、それを多くの人たちに広めていったのです。 これからの伝道形式としては、文章による啓蒙の方向をとっていく、この方向が賢明です。あまり「現象」をやり始めると、「現象」のみを求める人たちが後を絶たなくなってきます。それはきりがないことです。 私どもの、こういった話を誰にでもできるわけではありません。そういった話が出てくると、何といいますか、われらを試そうという人が次々と出てくるのです。果たしてこれが本当に「日蓮」かどうか、ということを、詐術ではないのかと、あれこれと調べたくなる人が出てきます。私たちにとっては悩ましいことです。できれば私たちの言葉の内容を見て判断してくださるのが、一番幸せです。われわれの証明について、これが本当の何々の神か、本当の何々という人が言っている言葉なのかどうかと、根掘り葉掘り、或いはジャーナリスト、或いは、科学者というような人に調べられるために、私たちは出てきているのではありません。そうした方向に行くと、道はだんだんと外れていきます。 あくまで中身で勝負する、できれば「現象」など見なくて信ずる人たちが増える方が、幸せです。"拝み屋" のようになっていかないこと、「現象」を用いると、いろんな方々が、次々と問題を持ち込んできます。いろんな方々の、それに笞えている私たちは、結局は "拝み屋" 的な行為をやってしまうことになってしまうのです。 彼らは、更に証(しるし)、を求めてくるようになるでしょう。真に「日蓮」であるなら、病気を治してみよ。真に「日蓮」であるなら、来年の何月に何がどうなるか言ってみよ。彼らは、こういうふうにして私たちを試してくるようになるでしょう。もしそれが当ったら、お前を信じよう。そういったことになってきます。それは、私たちの意図しているところではありません。 私たちは、今、いろんな形であなた方を指導しております。 あなた方は、自分の信念なり、自分の心に浮かんだこと、これは、良い、と思ったことは信ずることです。ただ、その判断をするときに、自分の心の中に名誉心や、自己保存や、我欲や、そのようなものがないかどうかを、いちど、踏み留まって考えてから判断してください。 今の日本という国には、宗教を悪く言う人もいるけれども、半数近くの人は、何らかの宗教にかかわっているし、信仰深い人たちの中にも、素晴らしい人たちは、たくさんいます。男性だけではなく、女性もまた然りです。全く心配ありません。そんな心配する問があったら、自分自身の思想をその間に磨いてください。 宗教というものは、おかしいものだと思っている人は、少数です。宗教を信ずる人の中にも "狂" という感じを受ける人たちもおれば、素晴らしい人もいるというふうに、分けて考えられるのが一般おとなの人たちです。要は、あなた方が、狂ったおかしな人びとでないことです。 あなた方が真理に則した立派な人生を生き、立派な人柄を持ち、立派なことを語り、立派なことを書くのであれば、心ある人たちは、あなた方を信ずるでありましょう。その方がたは、あなた方を、決して非難したり責めたりしないはずです。むしろ、あなた方を尊敬したり、あなた方の教えを乞いにやってきます。 要は、あなた方の中身であり、人格です。 現在のあなた方の考えに、試行錯誤はありません。なぜなら、既にわれわれの力という一つの歯車が回り始めているからです。試行錯誤はない――。 善川 しかし、私たちはすくなくとも志を一つにする同志というものがなければ、ことは運ばないと思いますが。 日蓮 同志というのは必要でありましょう。ただ慎重に相手を選んでいきなさい。事を運ぶに、ひじょうに賢くありなさい。少しでも自己宣伝や、或いは我欲、そういったものが入ってくれば、間違った人たちを引き込んでしまうことになります。どうか純粋な気持を忘れないでください。 それともう一つは、新しい宗教を興すという気持は当面の間持たないことが、安全です。そうではなくて、もっと別な形があるでしょう。「精神科学」と申しますか、或いは「幸福哲学」と申しますか、要するに、この世の中の仕組み、この宇宙の仕組み、この宇宙を統べている「法」、この「神の理法」を明らかにすること、その神の理法の中に生きている人間たちに、幸せへの道は、どこにあるか、ということを教えることです。 そういう意味において、あなた方の教えも、一つには科学であり、宇宙科学、神霊科学であり、いま一つには幸福学であり、幸福哲学であるということです。宗教を興すという考えを持っていると、間違った方向に行く可能性があります。 幸福科学の研究をしているとでも思ったらいいのです。宗教を興せば、巷の神々の一人になってしまいます。また新興宗教が出来たか、ということになってしまうのです。その辺は時代の要請というものを見誤らないようにしなければなりません。 宗教を、新興宗教と銘うって出て、それで集まる人たちは、病気の人たちや、年とった人たちばかりになりがちです。しかしあなた方がねらうべき人たちは、これからの日本を背負っていく世代です。若者であり、インテリ層なのです。そういう人たちには新興宗教が一つ出来たといって訴えても、だめでしょう。そうでしょう、宗教でなくてもいいのです。要は世界の仕祖みを知らせ、そこに住んでいを人びとが幸福になれば、それでいいのです。これは幸福科学であり、幸福への哲学であります。 日蓮がこう言ったからこうした、というのはできるだけ避けたいのです。根本的な精神論、規範論については、意見を申しましょう。けれどもあなた方の行動について、いちいち私が具体的な指針を出すことは、これは避けるに越したことはありません。これは三年以上前から、私がもう既に言っていることです。そうしないとあなた方は、木偶(でく)の坊、になってしまうのです。神代の時代のト占(ぼくせん)によって、政事(まつりごと)を決めたような時代に還ってしまうのです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/435.html
目次 1.カイザルの手から神のものを取り戻せ 2.透明感の深い情熱 3.限りなく知恵ある者となれ 4.発展のなかにおいて発展を超えよ 1.カイザルの手から神のものを取り戻せ 前章において未来型人間としてあるべき原点が明らかにされました。しかし、それだけがすべてでは、もちろんないでありましょう。さらにこの次なるものがあるはずです。それは、ある意味において、私たちが今まで宗数的には罪と決めてきたこと、そして罪を犯した結果、罰というものを受けるとされてきたことがらに対して挑戦していくということになります。 この自由の姿において、過去の文明や文化がつくってきたと十把(じっぱ)一からげにいえることだけではなく、神から出たと思われて、そして人間の間に堆積してきたこうした教えをも、勇気をもって突き破っていかねばならない。あの藁葺(わらぶ)き屋根を突き破る竹のように、勇気をもって、こうした罪の観念と戦わねばならぬ。なにゆえに、それが罪であったのか、なにゆえに……。まさしく、より高次な戦いがここにおいて始まります。 一般的にみなさんを縛っていたもの、そうした価値というだけではない、次には罪として、神の手のもとに、みなさんの額に刻まれたこの十字架を疑わねばならないときがくるのです。それはいったい何であろうか。それは、過去の聖人たちが生きていた過程において、誤った、たった一点のことがらにかかわっているのです。それは、正しくあらんとして弱かったこと。よく生きんとして消極的であったこと。こうした過去の偉人たち特有のこの弱さです。弱さとの闘いがある。 私たちが罪という名のもとに、一からげにして考えていたものは、ちょうどあのアマゾンの探検をみなさんが志したときに人びとはどういうか、その反応と同じであるのです。危険であるからやめておきなさいというでしょう。命がなくなるかもしれませんよというでしょう。それはごく一般的な考えであって、正論でもあるでしょう。しかし、それはアマゾンの奥地に分け入ろうとする私たちを、いつまでもとどめておくことができる口実ではないのです。 私たちは真実の勇気を持ったときに、そうした一般的に危険だという名の観念でもって押しとどめられていてはならないのです。勇気を持って力強く立ち上がり、過去の殼を撃ち破ってゆかねばならない。それは、いくつかの方面から考えられることでもあります。しかし、あえていうならば、私は「カイザルの手から神のものを取り戻せ」と言いたいのです。それは、神理の観点からみて、価値なきものにこの地上での勝利を収めさせてはならないということなのです。 罪という名で避けていた数々のことがら、あるいは戒律という名で避けていた数々のことがら、こうしたものに勇気を持って私たちはいま戦いを挑まねばならないのです。 私たちの目の見えるところ、また目に見えぬところに神の光が射していないところはないのです。さすれば、いかなる場所においても、いかなる空間においても、いかなる時代においても、いかなる人たちにおいても、宇宙のどの点においても神の存在を許さない、そうした空間はありえないのです。ましてや、この小さな地球の小さな地上世界のなかにおいて、そうした存在は許されるものではない。それは、ひじょうに厳しい言葉かもしれませんが、ある意味で、この三次元世界における革命であります。神理の尺度に照らして価値なきものを青竜刀でもって切って捨てるという荒作業であります。 今までどれだけ多くの人たちがそれに価値ありと評価をし、それを威厳あるものと認めていたとしても、神理の名のもとに壊さねばならぬものは、壊さねばならぬものとして、現われてくる。そういうことなのです。 それはいったい何でしょうか。これは結局において先ほどからお話ししているところの、真に自由なる人間が真に自由を発現する過程において、縛っていたものが、鎖が足かせが外されていく過程でもあります。私たちは、この地上において真の人間として生きる権利がある、いや生きる義務があるのです。私たちが真に自由なる人間として生きんとして、これを阻んでいるものに対しては、断固としてこれを破砕せねばなりません。これは徹底的にやらねばなりません。そのさいにおいて妥協はないのです。 地方での連続講演を第一回目は一九八九年二月に開催いたしました。そのときに、ある公的会場をお借りしましたが、そういうところでは、宗教には会場は貸さないということで、私の話をその会場の責任者が終始聞いて点検しているというありさまでありました。それが宗教にあたるかあたらないかを判断する権限があって、もし宗教にあたるとそこで講演はやめてもらって出てもらうという話でありました。そういう条件のもとで、私は、みなさんの前でお話をしたことがあります。 しかし、こうしたことは、いつまでも許されるべき屈辱ではない。そのようなことを、そんな間違った判断をさせてはならない。本来的に値打ちのある、本来すばらしきものを、それをごく当然に花咲かせる過程において、この花が咲くことを阻害する動きは断固として破砕せねばなりません。竹の子が屋根に当たればこの屋根を突き破るまで、そうせねばならないのです。 すなわち、今、ユートピア価値革命へと向かっていく私たちにとって、これを単なる精神的活動として押さえている時期は、もう終わりが近づいてきているということを、私は明言せんとしているのです。私たちの運動は、地上的なるいかなる定義を付すことも許さない、そう私は思います。これは宗教でもない、思想でもない、信条でもない、経済でもない、政治でもない、教育でもない、科学でもない、こうした一切のものではなく、また一切のものである、それが私たちの動きです。 2.透明感の深い情熱 それは、個人個人の単位を取ったならば、本来自由なる人間が立ち上がっていく、そうしたプロセスでありましょうが、もっと大きな目で見るならば、この三次元世界というのは、神様の、神の花園であったが、番人がいないということをいいことにして、この神の花園を荒らし続けてきた、そうした人びとの、あるいは人とはいえないものたち、すでに地上を去った者たちの暴挙は、これ以上はもう許さない。今、神の使命を帯びて、その番人が出てきた以上、もはやこの花園をこれ以上荒らすことは許さない。 私たちの運動は、個人個人の小さなユートピア化運動を超えて、大きな神の体が三次元世界において、その眠れる巨体を起こしていく過程にも似ているといえましょうか。本来、すべてを所有している人のもとにすべてを返す。この世でもあの世でも本来、主であった人のもとにすべてを返す。そうした運動です。 本来あったものを、本来の姿として現わすこと、それこそが自由にほかならないのです。私たちはこうした大きな自由という理念のもとに、いま新たな活動をしてゆかねばなりません。立ち向かうべき敵があるとはいいません。しかしながら、手枷(てかせ)、足枷があるならば、これは振りほどくまで、切り裂くまで。これだけの決意はいると思います。 私はこれより後、特定の方向にのみ導くをもってよしとは考えません。可能なかぎりあらゆる領域において、あらゆる世界に対して、あらゆる人びとに対してアプローチを開始していきたいと考えます。そのさいに必要な心がけはいったい何であるか。それをみなさんもともに学んでいただきたいと思うのです。 それはまず第一点において、みずからの情熱に私心がないかどうか、"わたくしごころ" がないかどうかこれをよくよく考えていただきたい。いくら情熱が燃え上がったところで、"わたくしごころ" があったら、この情熱は大火事になるだけです。そうであってはならない。この情熱を限りなく透明感の深いものとせよ。透明感の深い情熱とせよ。限りなく無私となれ。無私となるということは、燃え立とうとせずに、自然に燃え上がる炎のようになれといっているのです。 私のいっていることの意味がわかるでしょうか。自分のための火とするな。人生を私物化するな。私有化するな。自分個人のものだと思うな。そこに尽きているのであります。みなさんは、手もあり足もあり、目もあり鼻もありロもあると思っているかもしれませんが、みなさんは神の目から見れば一個の固形燃料です。燃料の固まりなのです。これに火をつけて炎を燃やす、それが人間の使命なのです。燃え尽きるまで燃やす。そこにおいて、はからいごとがあってはならないのです。いいですか。まず、情熱において私心を去れ、"わたくしごころ" を去れ、人生を私有化するという、個人の所有にしようとする思いを去れ。そのなかにおいて情熱を高めよ、燃やせよ。炎を透明とせよ。透明なる炎こそ、高温を保つことができるということを知れ。そういうことです。 3.限りなく知恵ある者となれ 第二に必要なことは、私心なき情熱のあとをうけて、限りなく知恵ある者となれということです。頭が一個あるぐらいでは足りない。みなさんは頭を四個も五個もくっつけているぐらいの、そういう知恵ある者となっていただきたい。そんな一個の頭、二十年ぐらいの学校教育を受けて、そのあといくばくかの社会経験を得たぐらいのそんな頭では通用しない。これから必要とする頭は、みなさんの四倍も五倍も十倍もそれだけの容量を備えていかなければいけない。 この知恵はどこから出るか、それはもちろん地上的な努力のなかからも出てくるでありましょう。しかし、それ以外からも出てくる。それは内在する自分の本来の力に気づけということでもあります。みなさんは、自分に魂の兄弟というのがあるということを、私たちの本で学んでいるはずです。それはあるということを活字で見ただけであって、自分のものとなっていないでしょう。魂の兄弟がいるということはどういうことですか。肉体に入っていない自分自身があるということでしょう。その自分自身は使っていないということでしょう。違いますか。手が十本あるのに二本しか使っていない、頭が六個あるのに一個しか使っていないことと同じではないですか。 なぜ、本来の自分がもっているすべての知恵を使おうとしないか。すべての知恵を使うのは難しいことではないのです。それはごくごく簡単なことであるのです。先ほどから何回もいっておりますように、この三次元に生きながら三次元特有のもの、魂を縛っているもの、この鎖を切ったときに彼らは活動を開始するのです。三次元にいて三次元を超えよ。この世にいてこの世の人となるな。この世にいてすでにその身、霊人となれ。こういっているのです。それを私は鎖を切れとか、魂を透明にせよとかいろいろなことをいっておりますが、三次元的な縛りをとらないかぎり絶対にみなさんの本来の知恵が出てこないのです。そのために何の必要があるか。釈迦がかつて執着を断てといいました。執着という言葉で表わしましたが、それは何かというと、毎日いろいろな立脚点のもとにいろいろな条件のもとに生きている、そういうみなさんでありましょう。 人間であるということは、条件づけられた存在であると考えているでしょう。肉体的条件、また食糧や金銭や空間などといういろいろなものの条件によって、自分が現在あると思っているでしょう。しかし、この世的には、たしかに人間というのは条件づけられた存在ではあるが、この条件づけられた存在であるということに満足してはならない。この条件づけられた世界のなかにおいて、条件づけのない人間となれ。すなわち時空間を超越せよ。この世界にいて、この世界を超えよ。人間生活をしておりながら人間生活を超えよ。そうしたものに縛られない本来の自分自身に気づけ。その姿を取り戻せ。 そのときに、内在せるみなさんの叡智はかならず働きはじめます。何度もいっておきます。みなさんの一個の頭では足りない。頭を四個も五個も取り出してほしい。そういう知恵がなければ、これからの時代を変えていくことができない。この頭脳、こんなものは諦めなさい。こんなものではだめだ、通用しない。もっともっと四個、五個と出してきてください。五個も六個も出してください。そして、そうした力を使ってほしい。そうでなければ、ユートピア価値革命などはできやしない、絶対に。もっともっと、この世だけではない、すべてのものを総動員しなければいけません。これが二番目です。 4.発展のなかにおいて発展を超えよ そして三番目にいうことは、「発展のなかにあって発展から外れるな。」ということです。発展していく過程に私たちの心のなかに甘い誘惑が忍び込んできます。それは怠惰という名の誘惑です。怠け心という名の誘惑です。現状のままでいいのではないかという、そういう誘惑です。こんな誘惑に負けてはならない。断じて発展から目をそらしてはならない。発展のなかにあって、発展についていくのみならず、発展のなかにおいて、発展を超えることによって、自らの心に余裕が生まれるということを知っていただきたい。 これから大きな力が起きていくでありましょう。そのさいに、目の前に展開されていくドラマに、ともすればついていけなく思うこともあるでしょう。それは、発展のなかにおいて発展に遅れているからです。発展のなかにおいて、発展と同速度に動く人は、それは現状のままのようにも見えるでしょう。しかし、願うのは、私が乞い願うのは、発展の流れのなかにおいて、発展を超えよ。それは、今年に生きておりながら、みなさん心はもう来年に生きてほしい。三年後に生きてほしい。十年後に生きてほしい。五十年後に、百年後に千年後に生きてほしいということであります。 すなわち、現在自分が立っているところの、この座標、時間の座標、空間の座標、人の座標、こうした一点にある自分を、これを当然だと思うな。今、自分の肉体の影はそこに映っているかもしれないが、みなさんの理想とすべきは発展の先にある姿である。もっと先にある自分を、時間の軸のなかにおいて、もっともっと先にある自分というものを確実に知っていただきたい。そこから現在の自分をたぐりよせるのです。まちがってはならない。 現在自分が山の麓(ふもと)にいて、これから山を登ると思ってはいけない。先を行く自分を見よ。八号目を登る自分を、頂上に登った自分を見て、そのもう一つの自分が、今、山の裾野にある自分をたぐり寄せるようでなければ、発展のなかにおいて心の調和を保ちつつ生きていくことはできない。よいですか、遅れてはならない。発展のなかにおいて発展を超えよ。時間の系列のなかにおいて、現在を超えよ。それが、私がいいたいことです。 以上、三つの点をあげました。ユートピア価値革命はあくまでも現実社会における実践の力として現われてくるべきでありますが、それは出発点においては、やはり個々人に始まる。個々人に始まって個々人を超え、そして神の巨大な体の動きのように、その動きは統一され止揚されてゆかねばなりません。そのために私たちの活動がある。この原点を知っていただきたいと思います。 共にユートピア価値を目ざしてがんばりましょう。