約 21,955 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/440.html
目次 1.多次元世界の呼称 2.太陽界 3.梵天界 4.諸天善神・阿羅漢 5.実在界での漏尽通力 6.魂の創造的性質 7.心の自由性と悟りの第一関門 8.心の運転技術 9.自由意思の相克によるひずみ 10.地獄界からは生まれ変わってこない理由 11.善悪を人間関係の調整論としてとらえる 12.心の光明をつくり出す力 13.悪霊の活動エネルギー 14.憑依霊の目的 15.サタンの発生原因 16.地上のユートピア建設の基礎 17.愛における平等観と公平観 18.全体の進歩と調和のなかで 19.高次元霊における魂の本体分身理論 20.守護・指導霊体制の確立 21.地球上での魂修行の成果 22.地球ドリームと教育的使命 23.想念帯と後光 24.思索できるタイプとは 25.「想い」と「反省」 26.自己実現と「念い」 27.心の針と執着心 28.八正道と正しさの基準 1.多次元世界の呼称 天地の創造というのは、実は高次元のものがだんだんに下次元を創ってきたという歴史であったのです。高次元から下次元へと、九次元の宇宙界・八次元の如来界・七次元の菩薩界・六次元神界・五次元霊界・四次元幽界というものが完成されてきました。 各界の呼び方はいろいろとあり一定はしておりませんが、それぞれ順番に太陽界・金剛界・聖天上界・光明界・精神界・精霊界および地獄界とも呼ばれることがあります。ですから、各界の呼び方を、統一していますが、この呼び方が通用しない人たちもそうとうたくさんおられるようです。たとえば、高級霊のなかでも六次元神界という呼び方をしてもわからない人もおりまして、なかには光明界と呼んでいる方もおられます。また五次元霊界を精神界という呼び方をされる方もいれば、それ以外に善人界という呼び方をされる方もおられるのです。 七次元の菩薩界も、聖天上界という呼び方がありますが、これもかなり、使われているようです。八次元は、金剛界とも呼ばれ、この金剛界上段階あたりは胎蔵(たいぞう)界と呼ばれていることがあります。 2.太陽界 九次元の世界は、太陽界と呼ばれることがあります。この太陽界という呼び方には二義性があり、九次元世界の全体を太陽界であるとする広義の呼び方と、さらに、これをもう少し区切ったかたちで八次元の上段階の部分を太陽界と設定する狭義の呼び方があります。これは、たとえていえば、梵天(ぼんてん)界という世界が七次元と八次元の間にあるという場合と同じような呼び名の使い方です。また、これと同じように、各界にもこのような部分があるのです。これは、階層建築における中二階といったような呼び方なので、みなさんにとっては、ひじょうに難しいと感じると思います。 八次元の最上段階にある狭義の太陽界という世界には、本来的に、九次元に入ろうと思えば入れるぐらいの霊格の方がいます。会社でいえば役員という方がおりますが、その数が決まっていて、ひらの取締役が何人、常務何人、専務何人というようになっています。同じように、地球系でもだいたい役員の数が決まっているわけなのです。九次元世界にはその構成員が十人いますが、これが役員の数であると考えれば、このポストが空くか、あるいは増員が決められなければ、この世界に上がってはこれないのです。 このような意味で、霊格的にこの段階に入ろうと思えば入れるくらいの方がいらっしゃいます。たとえば、天使長と言われるミカエルであるとか、日本神道系でいえば天之御中主之神、あるいはソクラテスやプラトンといった方も、この狭義の太陽界にいらっしゃいます。ですから、やがては上の世界に上がってゆくかもしれませんが、現時点においては八次元世界の役割を担われております。 3.梵天界 梵天界という世界は、七次元と八次元の間にあるといわれています。この世界におられる方も、霊格的には本来、如来の霊格を持たれていると考えてよいのです。この本来は如来の霊格を持たれながらも、仕事の役柄として、菩薩の役割を中心に担われており、現時点においては、いわゆる七次元領域にいらっしゃるという方が、この梵天なのです。仕事としては、菩薩の仕事をされているのです。 たとえば、日蓮聖人という方も梵天界にいるといわれていますが、それは、彼が『日蓮の霊言』あるいは『日蓮聖人霊示集』で語っている内容を見ていただけばわかると思います。彼の現在の仕事は、人生の悩みを解くということが中心であり、これは彼の今のところの仕事であるのです。この人生の悩みを解く、あるいは問題集を解いたり、人の悩みに答えてゆきながら、人びとを導いていくのは、基本的には菩薩の仕事であります。この菩薩の役割を現在中心的に担われているので、日蓮聖人は今、梵天界で活躍されているのです。 霊格的には同じような人で、空海という方がおりますが、この方も如来の卵で、現在は八次元領域におられます。彼は八次元の如来は如来なのですが、さらに大きな大如来になるために、いま八次元の領域で如来の勉強をされているのです。『空海の霊言』のなかで、「私は法そのものを研究している」と言っておられます。これは実は仕事が違うのであって、どちらが偉いというわけではありません。 ただ空海は今、本格的な如来となるために、法そのものの研究を八次元領域で行なっているのです。ですから、八次元領域にいる梵天とも言えるわけです。七次元領域にいる梵天というのは、霊格的には如来であるけれども、現在は菩薩の仕事をしているということなのです。 このように二つの次元にまたがってはいるけれども、一応このあたりが日蓮聖人や空海の例で説明される「梵天界」であるということができます。そして、この梵天界における七次元と八次元の境界線は、自由に行き来することができます。狭義の太陽界においても同じで、八次元領域ではありますが、九次元と行き来して、互いに話をすることができるのです。このような段階があります。 4.諸天善神・阿羅漢 同じことは六次元の上段階の諸天善神が住んでいる世界においてもいえます。阿羅漢というまだ菩薩になっていない段階です。彼らのいるところとしては菩薩にひじょうに近い六次元の上段階にいるのですが、まだ菩薩に上がっていないので、修行が終わらないと七次元には上がっていくことができないのです。 菩薩あるいは如来がおりてきて、修行のために阿羅漢を七次元領域に連れていって勉強をさせたり、見聞させるということはあるのですが、一般的に自力で上の次元を見てくるということは、できないことになっています。 ところが、諸天善神界のなかには霊格的に高い方もおり、菩薩の方や如来の方もいらっしゃいます。六次元神界のいろいろな役割分担、専門家としての仕事がありますが、やはり、そこに必要があって駐在しているのです。不動明王や、摩利支天、大黒天などさまざまな役割がありますが、このような人のなかには、実は菩薩、如来の霊格を持っている方が少なくないわけです。光を落とすとよく言いますが、彼らは光が強すぎるので、絞りをかけて、六次元くらいの光だけが外に漏れる程度にまで落としこんでいるのです。このような修行をしています。 5.実在界での漏尽通力 太陽界、梵天界や諸天善神界の例で説明いたしましたように漏尽通力というのは、けっして三次元だけのことではなくて、実在界でもあるのです。本来、如来である方が、諸天善神界で仕事をする場合には、その光度を落として六次元の人間のように生活しなければならないのです。 たとえば、本来大学生の人がいるとします。高校の課程を終わって、大学で専門的な勉強をしている人が、高校生の体格が大学生とあまり変わらなくなってきているので、学生服を着て、高校生の気分で高校二年生や三年生に入って級長さんをやっているような感じです。それで、しかも大学生であるということを気づかれないように高校生に徹していて、大学で習う専門知識は出さずに高校の範囲のなかで、ほかの人びとを導くことをしているのです。 このように漏尽通力の勉強は実在界にもあるのです。そのために階層建築における中二階というような立場の世界があると思ってください。そして、出されている本を勉強された方は、すでに十分知っておられると思いますが、私たちが魂、あるいは、ある意味で神と呼んだりするような存在も、実は根源の神というものが、その現われ方を変え、次元のレベル差を出して現われている存在にすぎません。神の自己表現の現われの一部にすぎないというように理解していただきたいと思います。 6.魂の創造的性質 ここでは、魂の性質として二つの性質を説明したいと思います。第一番目は創造的性質です。また、第二番目は神の光の集中発散中枢としての機能です。もちろんほかにもいろいろな機能があるわけですが、代表的なものとしては、これをあげておいたほうがよいと思います。 このあたりは、よく勉強しておられる方は、『黄金の法』のことを思い起こされるかもしれません。この『黄金の法』のなかでは、「神光物理学」という考え方があって、神の光の三つの性質について触れてあります。 一つ目は、「神の光は親和性を感じるもののところへくれば増幅して、排他性があるところへいけば遠ざかる、避けて通る」そのような性質がある。 二番目は、「神の光は凝集・拡散により、創造と破壊を行なう」という性質がある。 三番目には、「神の光は周波性を持つ」ということです。 このような神の光の三つの性質についての解説があったと思います。ですから、魂も、もちろん神の光からできているのでありますから、基本的には似たような性質があるわけです。この創造的性質、集中・発散の性質なども似たようなところがあると考えていいと思います。 さて、一番目の創造的性質について説明いたしますと、『太陽の法』においては「魂は、自分の意思によって、自由自在に自分をつくりかえていく性質が与えられています。つまり、どのような思いをもった意識体であるかを、自分自身で決定できるということです。」と定義されています。そして、愛を最高度に発揮することもできれば、自由を最高度に発揮することもできる。心の思いによって、どちらにも向いていくことができるのだというように説かれています。 これは言われてみて、また、このような書物を読んでみれば、そのとおりであり、そういうものかなとも思うのですが、わかっているようで案外気がつかれていないことなのです。そして日常性のなかで、だんだん惰性というものに流され、あるいは慣性のなかで生きているのが大部分の人間ではないでしょうか。自分自身の主体性というものを失い、運命の主人公が自分であるということを忘れて、いつの間にか流されていく、このような人が大多数であろうと思います。 ところがいったんこの事実に気がついてみると、まさにそのとおりであり、この部分についての修行は、実に無限界であることがわかります。人間には限界があるということがよく言われていますが、この心のコントロールの部分については、ほとんど無限に近い自己改善の余地と進化の余地があると言って間違いありません。このことは霊道を開いてみますと、自分の心というものがいっそうはっきりとわかるようになります。自分の心がその思いによってどのように違ってくるのか、また念の性質によってどのような世界に通じていくのか、または通じなくなるのか、これが切実にわかるようになってくるのです。 みなさんは「心のくもり」という言葉を聞かれて、たとえとしてはとらえることができても、実際上、「心のくもり」とは何であるかということがストレートにはわからないことでありましょう。しかし霊道を開いてみると、この「心のくもり」というものは、はっきりと実体あるものとしてあらわれてくるのです。「くもり」があると、まさしく不調和な現象が起きてくるのです。 心の透明感が強くなり、より上のほうというか、神のほうに向いてまいりますと、その心の透明度に応じて、すばらしい現象がはっきりと出てくるわけです。まことに不思議なことですが、この不思議さはいくら探究しても探究しきれない、不思議さであります。 たとえば、これは魂の性質、あるいは神の光の性質にかかわることですが、一九八八年に浜名湖畔において、約二百五十人くらいの参加で研修「愛と悟りを考える」を行なったのですが、その研修会で、かなりの量の金粉が降ったようなのです。講義中であったかどうかは詳しく知らされておりませんが、手のひらのなかに金粉が降りた方が数名におよび、この現象について、いろいろと私に報告される方もおられました。 この現象なども、神の光の創造的性質と関係があるのです。神の心の創造的性質のうちで、自分自身の心をいろいろと変えることができるという部分です。この現象が起こった理由は、この研修会において、講義などを聴いていた人の心が、神の心あるいは高級霊、守護霊や指導霊の心のリズムと波長が合ったからなのです。このように周波数に合いはじめて、器ができてきますと、霊天上界のほうから投げかけてきた光がいろいろなことを現象として起こしはじめるのです。そしてときには、その悦びの表現として、実際に金粉を降らしたりするわけです。 このような現象は過去に何度もありましたし、今後もおそらくたくさん出てくるだろうと思います。「ぽちぼち出始めたな。」というのが私の感想です。たぶんこれからも研修会や講演会などさまざまなところで、このような現象が起こるでありましょう。それは、守護霊や指導霊がこのような現象を実際に起こして、心の本質について人びとを気づかせ「思いというのはそれほど大きな力があるのだな。」ということを実感させるためなのです。 あるいは自分の心が、修行、勉強によってそれだけ進んできており、よい方向にも向いているときに、「やはり、守護霊さんは私の心の状態を知っているのだ。」と、あらためて知らせるためでもあります。けっきょくのところ、金粉が降る状態というのは、守護・指導霊がひじょうに喜んでいて、その合図として降らせているということなのです。 金粉が降らなくても、光が入ってくることを実体験された方もいます。別の研修会「悟りの原点を探る」においても、答案にそうとう多くの方が書かれていました。研修会の最後に一時間ほど、「祈願文」講義を行なったわけでありますが、読み上げているあいだに、「さーっと光が入ってきて、血管のなかで血が煮えたぎってくるようになった。」ということを書かれているのです。これなども神の光が入ってきている現象なのです。 このような瞬間というのは、いうなれば自分の守護霊と自己の三次元的な魂が一体化してきて、通常ある「ずれ」がまったくなくなってきているということを示しているのです。ですから、このような現象が起きる方は、霊道が開けるのは、もはや時間の問題だと考えてほぼ間違いありません。守護霊が合図を送ってきているのです。やがて機会があれば、開いていくようになるでしょう。守護霊の声が聞こえたり、あるいは霊言、自動書記、そうしたことも起きてくるでしょう。 7.心の自由性と悟りの第一関門 魂は自由自在な性質を持っていますが、悪を想ったり働いたりすることもできるのでしょうか。「地獄をつくったり、罪悪を働くことも、魂の創造性によるのか。」といった問いかけに対する答えは、「然(しか)り、然り。否、否。」という答えになります。なぜ然りかといいますと、「魂には創造の自由性が与えられている。自由であるということは、規制がないこと、妨げるものがないことであり、この意味において、もし規制や妨げがあるとするならば、これは自由とはならない。」ということであります。 地獄におちるのがいけないのであるならば、神様は人間にもう悪いことが思えないようにしてしまえばいいではないかという考えもあります。たとえば、ロボットはプログラムさえ間違っていなければ地獄にはおちないであろうと思われるわけです。悪いプログラムをして、どんどんその方向に進めていけば別かもしれませんが、まったく完全な心としてプログラムをピシッと入れておいて、そのとおり動くようにしておけば、地獄に落ちることがないでしょう。 しかし、人間の心には自由性があってロボットのようにはまいりません。ですから、自分の心が自由にならない、制御できないという方は、かえってこの自由性を恨んだりすることもあります。 心というのは、暴れ馬のような感じになるときがあり、このときが修行のなかで最初の関門として、いちばん苦しいときなのです。特に神理に目覚めて、霊言集などを読み、そして、「そうだなあ、そうしなければいけない。」と思いつつ、自分自身の一日の思い、一年の思い、あるいはそれ以上の思いを反省してみると自由になっていないことが多いのです。「自由になるはずなのにならない。」ということで、自分の心が暴れ馬、悍馬(かんば)かのようで、それをおさえようとするのですが、ふり落とされるのです。そのような自由にならない苦しみがあると思います。しかし、これは、修行者として当然の苦しみなのです。 これはどなたにも、過去に大なり小なりはあるでしょうが、悟りというものに縁のあった方はみなこれを通り越してきたのです。ですから、本書をお読みになっている読者のなかにも、こうした心を統御することができずに苦しんでいる方は、そうとういらっしゃると思いますが、まさしくこれが、第一関門であると思わなければいけません。 まず心の自由性に気づくところまではよいのですが、そのあとで、これが思いどおりにならないということで苦しむのです。このギャップがあるわけです。このような思いさえ出なければ、どれほど楽であるかわからない、そして思うまいと思えば思うほど、悪いことを思ってしまったりするのです。また、人を恨んではいけないと思いつつ、どんどん恨んでいったり、いやな人だな、と思ってはいけないと思えば思うほど、いやだな、という気がしてくるわけです。 そして次第しだいにとらわれていき、いつも心がそこに行ってしまう。これが第一関門なのです。どうしてもこれを突破しなければなりません。これを突破したときに、この自由性のもつすばらしさがわかるのです。 この心の自由性のすばらしさというのは、けっきょくこの悍馬、暴れ馬を自由に乗りこなせるようになってくるということなのです。この乗りこなせるようになってくるという心の状態が、一つは平常心ということです。平常心とは、いつも心が波立たないような状態です。これが持てるようになってくるのです。 もう一つは、平常心よりもう少し意志の力が強くなってくる心の状態があり、これが、苦難・困難にさいしての不動心です。これが出てくるのです。平常心というのは、通常の生活のなかで、心が揺れないようにしていくための力でありますが、不動心というのは、もう少し大きな苦難・困難が出たときにも、これに打ち克って磐石(ばんじゃく)、岩石のようにガンとした感じで向かっていくことができる、これが不動心です。 こうしたものが、次第しだいにできてきます。ここに至る途中においては、いろいろな悩みを経過せざるをえません。やはり、これを乗り越えていかないと、ほんものの平常心や、不動心はついてはこないのです。けっきょく、これは何かといえば、運転技術そのものであると言えるでしょう。 8.心の運転技術 人間は自由意思というものを神から与えられましたが、この自由意思とはハンドルさばきのことを言っているのです。自分の心、あるいは魂と言ってもよいのですが、この自分という車の運転をまかされているといえるのです。車のなかに入りドアを締めて、そのあとどう運転するかは、各人の自由であるとされているわけです。 これは実際に私たちが車を運転するときも同じで、いったん車に乗ってしまえば、あとどうするのかは自分次第です。教習所であれば教官がブレーキを踏んでくれたりもするわけでありますが、いったん免許を取って自分の車に乗ったのであるならば、まったく自由に任されるわけです。 極端なことをいえば、人をはね飛ばそうと思えば可能でありますし、また崖から落ちようと思っても不可能ではありません。また、交通違反もいくらでも起こすことができますし、反対に、交通ルールを守ろうと思えば守れるというように自由自在です。まさしく車のようなものです。 けっきょく、何をコントロールするために練習しなさいと言っているのかと申しますと、ハンドルであるということです。「ハンドルさばきの練習をしなさい。交通法規をしっかり学んで、一万キロくらい運転すれば、だいたいどのような事態があっても乗り越えていけるようになりますよ。」ということです。 いつも街中でノロノロ運転ばかりしている人が、はじめて高速道路に出たりすれば、やはり恐れを感じます。また、いつも明るい昼間ばかりに乗っている人が、夜や雨の日に運転すれば、やはり慣れていないために恐れを感じます。それでも、運転しているうちにだんだんと慣れてくる。これと同じようなものです。 したがって、霊格の高い人というのは、運転という意味でたとえるならば、かなり運動神経が発達しているハンドルさばきの上手な方といえましょう。仮免許の試験において、一回で受かる人もいれば、何回も落ちる人もいるといったように、いろいろな方がいらっしゃると思いますが、これは持っている能力の問題であって、なかにはしかたのない部分があります。ですから、自分の悩みがどうにもならなくて苦しんでいるという状態の方がいらっしゃると思いますが、これは車の運転であると思えばよいのです。 運転の免許を取得するときにおいても、年代の数だけかかるとよくいいます。これは、五十代の人は五回くらい受けないと受からないとか、二十代の人は、だいたい二回で受かるとか、十代は一回で受かるとかいう意味でいわれているようです。 同じように、人生においても、四十年、五十年、突っ走ってきてはじめて心の世界に触れたような人である場合、この運転技術をマスターするのには時間がかかるということなのです。早いうちにこの心のコントロールに気がついた人はやはり上達が早いのです。 つまり、二十歳ぐらいでこのような心のコントロールに気づいた人は、そののちそれほど罪を犯すことなく生きていけるというわけです。ところが、五十、六十で初めて神理にふれた人はやはり、ハンディがあります。教習所で免許を取るにしても、やはり五回くらい落ちなければ、受かることができないように、それだけ努力がいるわけです。 9.自由意思の相克によるひずみ 本来は自由であるという以上、それを妨げるものはないはずです。しかし、魂の性質そのもののなかに、積極的に悪を働いたり地獄を創ったりするものがあるかといえば、そのようなものは本来予定されていないのです。つまり、悪とは、「魂そのものに潜む性質ではなくて、その自由意思の相克するところに出てくる歪みである。」ということができるでしょう。 この一行の文を知っているだけで、これもひとつの悟りとなります。簡単な悟りではありますが、これを一〇〇人の人に聞いたならば、九九人は知らない悟りであると思います。人間について考えたことのない人は論外として、これについて考えたことのある人のなかでさえも、性善説であるとか、性悪説であるとか、あるいは両方の折衷であるとか、さまざまな人がいるのです。 実際にキリスト教で専門にやっている人であっても、この悪の問題については答えきれない面があるのです。その理由としては、やはり魂そのものの性質として、魂そのもののなかに悪があると考えるからなのです。しかしこれは神の創造であるとしたときに不可解になるわけです。神が悪そのものを創られたことになるのであろうか。それを認めれば、神の御心のままに世界をよくしていこうとする考えそのものがまったく空しくなってしまいます。 あるいは、もうひとつ別な考え方として、悪というものは外部にあるという考え方もあると思います。ギリシャ神話のなかに、パンドラの箱に関する伝説がありますが、何かの拍子で外部に悪が出て、それがばらまかれて人間が汚染されたというような考え方です。これは、たとえば文明・文化が進歩したことによってそのような悪が出てきたのだとするというような外部要因に帰する考え方であります。これには多少の意味合いもあるかと思いますが、しかしほんとうのところ、他人の存在とのかかわりにおいてはじめて悪はその姿を現わしてくるということなのです。 たとえば、だれもいない建物のなかで、一人で悪をなそうとおもってもなかなか難しいのです。物理的な破壊はもちろん可能でありますが、それ以外においては難しいと思います。ところが、人が大勢いるところでは、人を怒らせようと思えばいくらでもできますし、その人をふんがいさせて、夜眠れないようにしようと思えばすぐにできるわけです。いくらでもできるのです。試しに、まわりの人の頭をコツンとたたく、それだけで地獄は発生してきます。このように、他人との存在のかかわりで、悪は発生してくるのです。 10.地獄界からは生まれ変わってこない理由 「悪というものは、他人との存在のかかわりで発生する。」と思っただけでも、だいぶ心が楽になる面があると思います。もともと魂のなかに悪が埋め込まれている、あるいは地上には地獄から生まれ変わってきている人が半分はいると思えば、これはひじょうにつらいことです。 私もこのような神理の世界に入る前には、ある程度宗教的なものや、魂も信じていましたが、よくある二分論、二分法に陥っておりました。すなわち、天国から生まれる人もいるけれども、やはり地獄から出てくる人もいるのであろうと思っていたのです。そうして、人をじっと見ていて、「あの人は地獄から出てきたような顔をしている。」などといったように、人間評価をするときに、悪そうな人は地獄から生まれてきたのだと思ったわけです。だいたい、このように人間の色分けが始まるわけです。そうしますと、永遠にほんとうの意味で人を愛することはできなくなってしまいます。 そして、人を愛することができないだけではなく、自分自身の魂の進歩が止まってしまうのです。色分けした段階で満足して、自分は人間ができてきたような気になってしまうのです。人物ができてきて、「よくわかる。自分の前にいる○○さんは人相がよくないから地獄から出てきたに違いない。」などというように思って、それでだいたい人間を見てわかったような気になって満足してしまうわけです。これは、やはり最初の迷いの段階です。 しかし、もう少し実際の勉強を続けていくにつれて、「やはり、地獄界からは生まれ変わってくることはない。」ということがわかりました。これは、悪霊の多くを体験してわかったのです。もし彼らが、地獄から生まれ変わってくることができるのであれば、赤ちゃんとして悪霊が誕生してくるはずです。憑依などする必要はありません。生まれ変わってくればよいのですから。生まれ変わってもう一回やり直せばよいのです。人生に失敗して、死後、地獄に落ちて苦しいのであれば、赤ちゃんに宿ってもう一回やり直せれば楽なのです。 しかし憑依して出てくるということは、基本的にそれができないということなのです。ですからあのような悪さをするのです。そう気がついて、「ああ、やはり地上に出てきている人は、みんな最低限度は悟って天国から来たのだな。」と悟ったときにはじめて「ユートピアを創っていこう。」という気力が湧いてまいりました。そうではなくて、半分くらいは地獄から出てきていると思っているならば、やはりいやなものです。このような考え方を持たないだけでも、そうとう心は楽になると思います。 11.善悪を人間関係の調整論としてとらえる したがって、善悪の問題を存在論にしないで、調整論とすることです。人間関係の調整論として善悪の問題を考える。これはひじょうに大切な考え方だと思います。そうしていけば、無限に研究の可能性があるのです。 たとえば、いやな人が出てきた場合、もともとこれはそういういやな人であるのだからいやなのだと思うかわりに、やはり彼と私にどこか合わないところがあるからこうなるのだろうと思う。ここに一つの魂の発展の余地があるわけです。どうしてこのようないやな感情が起きるのか。相手は本来悪い人ではないはずです。なぜかといいますと、自分とは合わなくとも、ほかにはその人を好きな人が絶対におり、友達がいたり、奥さんがいたりするわけですし、一概には自分の好みや趣味だけでは否定できないところがあるからなのです。やはり、その人のことをいい人だと思う人もいるのですから、関係論において何か問題があると考えなければいけないのです。そうすれば、そこに何か方法があるであろう。それを考えてみよう。自分にも何か問題があるのかもしれない。このように考えていくときに、魂の発展の余地は出てくるのです。 このように考えずに、当初からそうだと思えば、もう救いがないのです。ただ、これを某団体のように、本来悪はないのだけれども、「本来悪なし」の一点張りで通せばどうかというと、やはりこれは難しい面があります。現に地獄というものもありますし、悪霊というものがあるというのも事実です。これには目をつむることはできないのです。現実にないという人にも憑いていたりすることが多いのですから、しかたありません。このような存在がある以上は、あるものはあると現実的には認めて、これをなくすようにしなければいけないと思います。 光一元的な考え方も、存在論や状態論というもので善いものしかないというように考えたとき、やはり論理的にミスはあると私は考えます。本来はもちろんそのとおりだけれども、現実はどうかといえば、現実にはある。現実が惑いのは、悪人がいるのではなくて、めぐりあわせで、人間関係あるいは環境のなかで、そのようなひずみが出てきているのだと考えるからこそ、乗り越えていけると考えることができるわけです。私は、このあたりがやはり真理だと思っています。 12.心の光明をつくり出す力 二番目は、神の光の集中・発散です。これはまた、『太陽の法』における、如来や菩薩についての説明において、「如来や菩薩といわれる方は、神の光を集中・放射するための巨大な機能をもっていて、ほかの人びとに光を送りこむことができるのです。つまり、人びとの心に光明をつくり出していくことができるのです。」と定義されています。これは神光物理学的にとらえたわけです。如来や菩薩というものを、肩書きのようにとらえる方もいらっしゃると思いますが、物理学的に機能としてとらえると、光を送りこむ力があるということです。 「自分は如来だ、菩薩だ。」と言っている人で、その人と会ったときにいつも心が暗くなるような人であったら、やはりそれは違います。そこには問題があるわけで、逆に光を吸収しているのではないかと思われるのです。ですから、この世的にはなかなかみなさんにはわからないでありましょうが、その人が入ってくるとぱっと明るくなるとか、いつも変わらずみんながうれしそうになるという人は光が出ている可能性が強いわけです。このようなタイプの人は光が出かかっているか、あるいは出ているのです。 如来、菩薩と言われるためには、多くの人を幸せにするだけの力がなければいけません。実際に人びとが光輝いてこなければいけないわけなのです。そして、そのための修行があるわけです。これも訓練を積んでいき、実力がついてくればついてくるほど大きな光が与えられます。その人自身の力ではなくても修行が進むにつれて、光の通路としての機能が大きくなり、より多くの光を送れるようになっていきます。 パワトロンについては、これはもちろん地上的な機械がついているわけではなくて、霊的に見ますと、象徴としてそのようなものがついているということなのです。したがって、これは悟りを開くことによって持つことができるのです。 たとえば、みなさんが悟って菩薩になり、いろいろなところで人を導いているとしましょう。そこでみなさんが導いているときには、守護霊や指導霊が加勢しているわけです。そして、光をそういうところを通してみんなに流すようになってくるのです。その姿を霊的な目で見ると、パワトロンというものがついているわけです。これは、やがてこのような体験をされる方も多く出てくるでありましょう。 講師にもいろいろな話をさせております。講師の話を聞いていて、みなさんに光が入ってきはじめたら、そろそろパワトロンがつきはじめたかと考えていただいてよいと思います。このパワトロンは、本来的な光の天使でもともと持っている方もいらっしゃいますが、この世で悟り、光の天使の力を持つようになれば、後天的にできてくるのはもちろんのことです。それは、神の光を受けられるようになって、その光を増幅する霊的な装置ですから、そのための機能としてついてくるのです。 13.悪霊の活動エネルギー さて、その逆のことが、地獄の悪霊の存在について言うことができます。悪霊については、徹底的にセミナーなどでまとめてとりあつかいたいと思っています。あまり気分はよくないのですが、一回くらいは「悪霊に打ち克つ法セミナー」というようなものを行なってみてもよいのではないかと思います。 基本的には、地獄界というところは雲で覆われているようなところで、神の光が差さないでいるのです。そこで彼ら自身はご飯も食べないでいったい何をして生きているかということですが、やはり、エネルギー体である以上、活動のエネルギーが必要です。生命エネルギーそのものは不滅であって、もちろん彼らも持っているのですが、生命エネルギー以外の活動エネルギーは、主として地上界から補給しているのです。もちろん、地獄界のなかでも、相互に摩擦しあって発電しているのかもしれませんが、基本的には地上界の悪想念からエネルギーを補給しているということです。 念力というものがあるように、念(おも)いの力というのはほんとうに存在するのです。みなさんの念いにも、力があるのです。のちほど、一念三千の話についても触れますが、念いそのものが天上界を向いていれば、天上界の諸霊たちもひじょうに喜びが増して、力が増えてまいります。先祖供養においても、本来は地上の人の感謝の念が伝わっていくものであって、天上界にいる人であってもこの感謝の念によってエネルギーは増していくのです。 如来や菩薩の方から霊言をいただいて、それに対し感謝の念を送りますと、彼らもうれしいのです。ぱっと顔がほころんで、パワーと元気が出るようです。たとえば私たちが仕事をしていて、「よくできたね。」と言われるとうれしい感じがします。それでまたバリバリとがんばったりするのと同じです。このように高級諸霊たちであっても、地上の人からほめられると、やはりうれしいところがあるのです。 ですから、みなさんがたとえ守護霊と話ができなくとも、実に予想外にうまくいったようなときや、難問題が急転直下解決したり、人間関係がこんなにすばらしくなったというときには、自分だけの力であると思ってはいけません。そこに守護霊のなんらかの働きかけがあったと思わなければいけないのです。 このようなことがあったときに、守護霊に「ありがとうございました。」と言えば、やはり彼らもうれしいのです。このとき守護霊の頭からもまたぱっと光が出るのです。感謝の念を送られた分だけ、いわば電気量が増えるのです。それでよろこんで、またがんばるわけです。やはり守護霊にもどんどん働いてもらうくらいでなければいけません。認められると、まめに働くようになります。その意味で、感謝ということはひじょうにだいじであると思います。 14.憑依霊の目的 地獄霊はその逆です。けっきょく、何のために憑依するのかということですが、憑依の意味には、二種類あるのです。一つは、彼らの多くは地上に執着を持っていて、地獄の苦しさから抜け出して地上人に憑いていると、地上に生きていたときと同じ気持ちを味わうことができるからなのです。 たとえば、酒飲みの霊が憑いて、フラフラと念がくれば、酒を飲んでいる気分になります。また、ケンカ好きな霊が、やくざに憑いていれば、何となくその気分を味わうことができるわけです。このように、変な自己実現でありますが、憑いている人の気分を味わうことができるのです。 肉体がなくなっていることに気がつかない霊は、気分的にお腹がすいているものもいて、このような霊が憑いたりすると、いろいろな変わったものを食べたくなったりすることがあります。 以前に読んだ記事ではありますが、東北のほうでは昔、生き仏というかミイラになる風習がありました。お寺のお坊さんが、即身成仏といって瓶の中に入って埋められ、食事を断って死んでいく修行があったのです。このミイラを掘り出して、デパートの展示会かなにかで置かれていて、その前を通った人が、ミイラ霊に憑依されて急に食物が食べたくなり、五人分、六人分と食べてしまうことがありました。 突然、食べものの嗜好(しこう)や量が変わったり、酒の飲めない人がやたらに飲みはじめたりするというようなこともあります。ミイラ霊に言わせれば、実際は満たされないのでありますが、そのときだけでも食べて満足している気になっているのです。このように苦しさから逃れて地上人の気分を味わうという意味が一つあります。 もう一つは、地獄には悪想念というものが渦まいており、それがエネルギー源になっているわけですが、それだけではものたりず、ヒルが血を吸うように、電気を盗みにくるかたちで、地上へと積極的にエネルギーを補充にくるものがいるのです。 たとえば二癇癪(かんしゃく)もちの方、自分を失って暴れてハッと我にかえるような人の場、だいたいエネルギー量、発電量が多いので、このような人から充電式電気カミソリのようにエネルギーの充電ができるのです。そしてまた地獄へ行ってひと暴れすることができます。そのような繰り返しをしているのです。 ですから、自分が押さえきれなくて困るような人というのは、彼らにエネルギーを吸われていると思ってください。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/129.html
目次 1.私の全生涯は旧約聖書に予言されたとおりでした 2.私は神の一人子でもなく、また犠牲(いけにえ)でもなかった 3.十字架とは何か 4.「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」の解釈は誤り 5.パウロは私を霊視できた 6.ヘロデ王の幼児狩りは作り話 7.処女懐妊論は誤り 8.私は七歳で霊道を開いていた 9.私にも罪はあった 10.萬教の本源は一つ、人はみな神の子 (このイエス・キリストの霊訓は、一九八二年一月一日、招霊の際の霊言録。霊声者・大川隆法、対話者・善川三朗) 1.私の全生涯は旧約聖書に予言されたとおりでした 「イエス・キリスト、出て来て下さい、イエス・キリスト、出て来て下さい。イエス・キリスト、インマヌエル、インマヌエル、イエス出て来て下さい」 (暫くの間、大川隆法のキリスト招霊の声が続く) イエス はい―。 大川 あなたのお名前を。 イエス イエス・キリスト―。 善川 イエス様、本日はわざわざお招びたてして恐縮しております。 イエス はい―、何でしょう―。 善川 まず、私たちの勉学のために、旧、新約両聖書に記述されている事柄についてお伺いしたいと思いますが、先ほど、イザヤ様をお招きしたのですが、その際、あなたが肉体をもってイスラエルの地にお生れになったこと、これは旧約聖書にもありますように、はやくからイザヤ様たちによって予言されていたことですね。 イエス そうです。 善川 新約聖書によりますと、イエス様のご生涯において起きた事柄は、何事もこれは旧約聖書に書かれてあるように、それぞれの時代における予言者が言った「予言が成就されんが為なり」という表現になっておりますが、そのとおりであったわけなのでしょうか。 イエス 事実としては、どちらにしても同じですね。確かに予言はありましたし、私は予言のとおりの生涯を終えました。ですから「予言が成就されんが為に」という言葉はたしかにおかしいかも知れませんが、既に私があのような生涯を送るということが、この地上に出る前に、分っていたということは言えます。ですから、成就されんがために、という言葉に余りとらわれてはいけませんね。 2.私は神の一人子でもなく、また犠牲(いけにえ)でもなかった 善川 過去の人もそうであったでしょうが、現在のキリスト教の信者の方々も、あなたのことを「神のひとり子」だと言われたというふうに解釈されておりますが、当時あなたご自身、そういうお考えであったのでしょうか。 イエス ―それは間違っております。「ひとり子」ではありません―。 善川 そうですか。あなたは「われは神の子」であるとおっしゃられましたか。 イエス わたしは神の子であると申しました。しかし、ひとり子、であるとは言っておりません。間違いです。 善川 そうですか。次におたずねいたしますが、これも聖書にもとづいてですが、神は、あなたを、犠牲(いけにえ)として、十字架につけることによって人類の罪を贖(あがな)ったのだと解釈しておりますが―。 イエス 私は、仔羊や、山羊とは違います。当時、仔羊を神に捧げる、祭壇に捧げて神に供養するという習慣がありましたから、私のことを、そのように解釈されたかも知れませんが、生贄(いけにえ)とか、犠牲とかでは私はないのです。 善川 そのことについて、人類の罪が赦され贖われるということ、ただし洗礼を受けてキリスト教を信ずるという契約においてですが―。 イエス そんなに安易に罪が赦されるわけではありません。 善川 そういうふうに解釈しているのが、今日のキリスト教の主流ですが―。 イエス それは間違っております。 善川 これは根本的な問題なのですが、そういうことについて、あなたはあなたの直弟子なり、あなたの影響下にあるその筋の人を遣わして指導したことがありますか。 イエス あります。 善川 たとえばペテロについてはどうだったのでしょうか。 イエス ペテロですか、。ペテロがこの日本に再生したときのことですね。 善川 そうです。 イエス 私は直接は指導しておりませんが、やはり。ペテロの親しい人達がペテロを指導していたはずです。 善川 しかし、矢内原忠雄という名でこの日本へ再生されたペテロは、やはり、いま言ったことを同じように言って来ました。 イエス 今言ったこととはどういうことでしょう。 善川 矢内原先生は、イエス様は神のひとり子であったとし、イエス様の御名を通すことによって人の罪は赦されるのだと説いておられましたが……。 イエス 肉を持てば、すべては分らないのです。たしかにキリスト教の中に生きる人にとっては、私は神のひとり子かも知れませんが、実際は、そうではありません。しかし、私は、神に最もそば近くにある人間であることは確かです―。 善川 それはもう万人が認めて、あなた様を崇拝しているところでありますが、神のたったひとりの御子であるということについて、疑問があったということと、しかし、そのようなことを、いつまでも教えているということについての指導が、なぜなされないのかということを……。 イエス しかし、私は、あなたに言っておきたい。確かに「ひとり子」という考えは間違っているかも知れませんよ。しかしながら、ひとり子ということを信ずることによって、私の教えに帰依する人はいるはずです。私は、死して既に二千年になりなんとしていますが、しかしながら、私の教えの中にもまだ真理は残っております。ですから彼らが私を、一人子か、二人子か、三つ子か、そのようなことを考えるのではなくて、ただに私を一人子と信じても、そのことによって、それをとおして、私の教えに接することがあるのであれば、その方法、そのみちすじは、問うべきではないのではないでしょうか。 真理に到達することこそが、真に必要なことであって、私をひとり子だと信じるかどうかというようなこと、そのようなことは関係がないはずですし、私自身、自分が神だとは言っていないはずです―。 善川 当時、民衆が神を間うた時に、あなたは「われを見よ」と言われたことがありますか。 イエス そうです、あります。「私を通して神を感じ取りなさい」と、常づね説きました。神を見せよと言われても、神を眼の前に見せることはできません。しかしながら、私は神のそば近くいるものであります。そのことは、私は自覚しておりました。ですから、私を見、私の言葉を聴き、私の行いを見る中に、神の一部分か見ることはできるはずです。 3.十字架とは何か 善川 よく解りました。お教え願いたいことのいま一つは、あなたがおっしゃったお言葉の中に、「人もし我に従い来たらんと思はば、己れを捨て、日々おのが十字架を負ひて我に従へ。」という聖句が残っておりますが、その意味についてお教え願いたいのですが。 イエス あなたはどう考えていますか。 善川 その点について私は悩んでいるところです。「己れを捨て……」というところが、どの程度の己れを捨てるということでありましょうか……。 イエス 肉体煩悩を断て、という仏教の教えと同じことです。己れを捨てとは、己れ自身の心を捨てということではありません。神の子としての自覚を捨てるということではありません。 この世に生き易く生きたいというような念いですね、そのような囚われている自己を捨てなさいということです。しかし十字架というのは、ひとりひとりが負っているものです。その十字架というのは、肉体を持つことによって、肉体自身が十字架になっているのです。肉体をよく見なさい、十字架になっているはずです。 善川 肉体という重荷を負っていることが、十字架であるという自覚をせよ、とおっしゃるわけですか。 イエス 肉体を持ち、この世に修行するということ、これはどのような大指導霊がこの地上に出たところで、この現象界、この自然に条件づけられているということ、ここから逃れることはできないのです。 この肉体を持って何十年間の人生を生きていかなければならないということ、これが十字架です。 4.「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」の解釈は誤り 善川 いま一度お尋ねいたしたいのですが、ゴルゴダの丘で十字架に掛けられ肉体としての最後のお言葉を発せられたイエス様のお言葉をもう一回お聴きし、その節のイエス様のご心情を理解申し上げたいと思うのですが―。と申しますのは、あなたが叫ばれた「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ!』というお言葉を聖書は、『わが神、わが神、なんぞわれを見捨て給いし!」と解釈しておりますために―。 イエス 間違っております―、間違っています。 善川 今あらためてそのことの、本当の意味をあなたのおロからお聴かせねがいたいのですが―。 イエス その解釈は間違いです……。 善川 なんと仰せられたのですか、お聞かせ下さい。 イエス 「エリヤ、エリヤ、ラッファエロ! エリヤ、エリヤ、ラッファエロ、サバイタア!!」 善川 そのお言葉は、何という意味だったのでしょうか、お教え下さい。 イエス エリヤ、およびラッファエロを私は呼んでおりました。迎えに来なさいということです。 善川 迎えに来なさいと仰しゃったのですね。 イエス 私は今死ぬ時が来た、この地上を去る時が来た、光の天僕達よ、私を迎えに来なさい!と、そういうことを私は言ったのです。 善川 はい、よくわかりました。 その後あなた様は復活されました。その時十二弟子、いや十一弟子ですね。その十一人のお弟子さんの所へ現われたということは事実でしょうか。 イエス 私の復活ということに関してですけれども、私は現象として、彼らの前に現われたのではないのです。彼ら自身が霊能力を持っていたということです。彼ら自身が私の姿を見ることができたのです。復活現象というものは、私が生きた人間と同じように、彼処(あそこ)に現われて歩いたということではないのです。彼ら自身が、私が何者であったかということを、霊の目を通して見ることができたということであります。余り現象的に、肉体的に復活を考えられては困ります。 善川 では処刑をうけた日より三日後にあたりますか。お身内の人びとが、仮埋葬された墓地に、香油を持ってあなたを訪ねた時に、あなたのお姿はそこになかったということですが―。 イエス もちろん私は墓にはおりませんでしたが、あなたは私の肉体のことをいっているのですか? 善川 そうです、あなたのご遺体が消えていたということについて。 イエス 私を信ずる者の一人が、肉体としての私を何処かに運び去ったということです。 5.パウロは私を霊視できた 善川 その後あなたはパウロの前にお現われになったことがありますか。 イエス パウロは私と語り合うことができました。 今わたしが大川隆法に呼ばれてここに来てこうして話しているように、パウロと私とは当時話ができたということですね。常にこう現われて日常生活の中に一緒にいたわけではない。このような場をもつことによって、私は彼らに会うことができたということです。 善川 いや、そもそも彼はあなたや、あなたのお弟子達を弾圧しておったのではないですか。 イエス そもそもはそうです。 善川 彼パウロが、あなたを信ずる人びとを、エルサレムヘ連行するために、ダマスクス街道を歩いて行くうちに突然天からあなたの声が聞こえ「サウロよ、サウロよ、なぜわたしたちを迫害するのか……」と言われて、彼は地上に倒れ、三日間眼も見えず、食も通らなかったと聖書にはあり、その後あなたを信ずるようになり、使徒の一員となったとありますが。 イエス あなたは、私の死後のことを言っているのですか。 善川 そうです。 イエス その前のことを言っているのですか。 善川 死後のことです。パウロがはじめてあなたにお目にかかったのは、あなたの死後のことでしょう。そういうことですね。それで彼はあなたを雲視し、厳しい霊言を聞いて、以来回心し、あなたを信じ、あなたの使徒となったのではないのですか。 イエス 違うのです、違うのです、違っているのです。パウロが私たちの教えを弾圧というのは言い過ぎでしょう。つまり批判ですね、批判を加えていたのは初期の段階です。彼は私が生きていた時に、既にもう私の教えを信ずるようになっておりました。 善川 そうですか。 イエス 初期の段階です。あなた方が、いまあなた方に向かっている大川隆法の言っていることを当初信じられなかったような、同じようなことだと思っていただいてよいと思います。 6.ヘロデ王の幼児狩りは作り話 善川 そうですか。次にお伺いしたいことは、あなたはご生誕後、生母マリア様とご一緒にエジプトの地に逃がれて行ったという聖書の記述のことについてですが―。 イエス エジプトに? 何ですか……。 善川 かつて東方から来た占星術の学者たちが、エルサレムのヘロデ王のもとに行き、生誕されたあなた様のみもとへまいり祝福されたが、神のみ使いか父君ヨセフ様に霊告され、へロデ王がベトヘレム周辺一帯の二歳以下の男の子供を捕らえて殺すということで、夜の明けぬ間にエジプトの地に避難されたということでありますが―。 イエス それは、いわば迷信です。後の人達が、そのような物語を作り出したということであって実際、預言者が私が生れることを告げたからといって、すべての男の子を殺すようなことがあったわけはありません。 善川 そうですか。それはともかくとして、あなた様のご生母マリア様のことについて―。 イエス 彼女が生きていたころは、平凡な大工の妻として、善人としての生涯を終えました。 7.処女懐妊論は誤り 善川 そうでしたか。それで、その時のお父様はヨセフと申された方であったそうですが、聖書によれば、実はこの方は、あなた様の実のお父様ではなくて、いわゆる処女懐妊という……。 イエス 間違いです。そのようなことは、後世の人が、私を神格化するために考え出したことであります。私自身は正常な夫婦の営みの中に生れてきました。私が本当に神の子であるならば、生れる時にそのような奇蹟的な生れ方をする必要はないのです。普通の人間として生れ、やがて悟り、人びとに、神の道を説けばそれでよいではないですか。 最初からそのような奇蹟の中に生れる必要はないはずです。私も人間として生れたのです。 人間として生れ、さまざまな苦しみの中に悟っていったのです。 善川 お伺いします。聖書によれば、あなたが人びとに教えを説かれるまでの間が、空白になっているのですが。 イエス それは削除されたのです。私の三十歳頃までのことも、当初の聖書の中には書かれていたのです。なぜ削除されたか、それは私の三十歳ぐらいまでの生き方が、余りにも人間的だったからです。神の子として、神聖化するのには困るから削除されてしまったのです。 あたかも私が生れた時に、処女マリアから生れたといわれるには、私の三十歳までの、人間的な、あまりにも人間的な生き方を書いたならば、後の世の人たちはこのことをとても信じてはくれない。とても神の子だとは信じてくれないという思いから、何度かの聖書の書き換えによって削除されてしまったのです。当初の十一弟子たちの私のことを記したものの中には、私の三十歳ぐらいまでのことも逐一書かれていたのです。 善川 それを聖書の中では窺うことができなかったのですが、その間実生活としてはどのようなご生活をなさっておられましたか。普通の生活をされておられたのですか。 イエス そうです。 善川 お父様のお手伝いをされておられたのですか。 イエス 大工の子供でした。しかし勉強しました。私は寸暇を借しんで勉強をしました。預言書を読みました。現にその当時の宗教家たちの意見も聴きました。しかし後の世の人たちは、私がそのような勉強をして、はじめて法を説いたということは堪えられないことだったのです。 8.私は七歳で霊道を開いていた 善川 しかし、あなたはその頃、既に霊道が開かれておりましたか。 イエス 開かれておりました。 善川 何歳ぐらいからですか。 イエス 七歳です。 善川 ルカ伝によれば、その頃あなたはご両親に連れられて、過越(すぎこし)の祭りにエルサレムに上っていかれたようでしたが、十二歳の折りにエルサレムの神殿で、学者、パリサイ人たちと議論を交しておられたということですが―。 イエス それは言い過ぎです。それは神格化されたものです。ただ私は、当時教会などに行っている変わった子供だというふうに見られ、そのようなものに興味を示していた子供であったわけです。 善川 あなたのご兄弟の中で、あなたと同じように、神の道を説いた方はおられますか。 イエス 一人もおりません。彼らと私は肉においては兄弟でありますが、精神においては全く他人でありました。 善川 その後あなたは荒野に出られましたですね、そこで―。 イエス サタン、ペルゼベフ、そのベルゼベフの試みを受けました。 善川 しかしその前に、あなたはバプテスマのヨハネに会われました。 イエス 会いました。 善川 彼はあなたが救世主だということを知っておりましたか。 イエス 知っておりました。 善川 そしてその時ヨハネはあなたに、「私があなたの洗礼を受けねばならぬ立場にあるものではありませんか」と言ったときに、あなたは「今は許せ」といってヨハネのバプテスマを受けられたということですが……。 イエス 私の謙遜の言葉だと受け取って下さい。彼は私に対し、靴の紐も解く値打ちもない、と言いましたが、そのことをそのままに受けて、私が人びとに言って歩いたとしたら、私は不遜で傲慢な人間になってしまいます。私は、私の教えを説き、やがて評価されるとしても、最初からそのような、特に優れた人間のようなはじめ方はしたくなかったのです。なぜなら、私も当初教えを説き始めた頃には、さまざまなサタンの試みを受けており、増長慢の心を持ったら私自身が危険であったからです。 善川 あなたが荒野でいろんなサタンの試みを受けたということは事実でしょうか。 イエス 事実です。 善川 荒野でということは、例えばその地を道場として、座して観法でも行った際のできごとですか。 イエス 荒野というのは一つの象徴です。荒野という地域があったわけではないのです。いろんなところでサタンの試みを受けました。それを弟子達が象徴的に語っているのです。 善川 そこで、その試練の時期を乗り越えた時に、あなたは神の子として完全な悟りを開かれたわけですか。 イエス 完全はありません。完全というものはありません。 9.私にも罪はあった 善川 あなたのことについて、イエス・キリストは、神の一人子であって一点の罪もなく、この世に生れ、この世を去った方だとキリスト教を信ずる方々は言っていますが、そうであったのですか。 イエス 悲しいことではありますが、私もさまざまな罪を犯しました。私はたとえば、親孝行をしませんでした。これは私の罪でありましょう。私は兄弟たちを捨てました。これも罪であったでしょう。とり方によっては私の声は、ある時は不遜に聴こえ、傲慢に聴こえたでしょう。あるときは、かつての宗教、モーゼの教えを信じていた人たちを傷つけたかも知れません。これもある意味では罪でありましょう。しかしながら、そうしてでも実現しなければならないことがあったのです。そうです。大きな道があったのです。私はその過程でさまざまな罪を犯しております。私は一つの罪もなく殺されたものではありません。 善川 それでは聖句の中に「もし右の目汝をつまずかせば、抉(えぐ)り出して棄てよ。五体の一つ亡びて全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり。もし右の手汝をつまずかせば切りて捨てよ・…:」という一節があるわけなんですが。 イエス 言い過ぎです。それは後の人びとがかなり誇張した形で言い過ぎております。 善川 言い過ぎといいますと―。 イエス 目を棄てよ、とまでは私は言っておりません。 善川 もし右の手汝をつまずかせば切りて棄てよと。 イエス 言い過ぎです。ただ私はそのような眼を持つなら、眼を持たない盲目(めしい)の方がましだということを言ったのです。目を抉りて棄てよなどとは、私はいっておりません。 善川 そういう誡(いましめ)を守り、自らの腕を切った僧侶もいましたですね。 イエス 愚かであります。そういう話を聞くことは、非常に悲しいことです。私たちにとって、自分の教えがその通り伝わらず、間違ったふうに伝わり、間違ったようにとられ、さまざまな不幸を生み出すということは一番つらいことです。私は目を抉りとれとまでは言っていないのです。そのような眼は持たぬ方がましだと言ったのであります。 10.萬教の本源は一つ、人はみな神の子 善川 最後にお尋ねいたしますが、私はそもそも今世において、最初に神縁を授けられたのはキリスト教でありました。その意味もあって、あるいは過去世において、あなた様の又弟子の一人にでも加えさせていただいたのではないかと思うのでありますが、如何でしょうか。お伺いいたします。 イエス 私の弟子であったのではなくて、私たちの弟子だったというべきです。 善川 私たちとは? イエス 光の大指導霊たちです。私たちは一人だけで生きているのではありません。グループとなっているのです。仲間たちがいるのです。仲間たちの教え、如来界の人たちの考えは、やがて菩薩界の人たちに届いているのです。私たちは菩薩界の人たちを指導しております。そういう意味においてあなたは私の教えにもふれているかも知れません。 しかしながら私、イエス・キリストの教えも、釈迦の教えも、モーゼの教えも、マホメットの教えも、すべて一つだということなのですから、私の弟子だったということではなくて、私の天なる父の弟子だったというべきでしょう。 善川 あなたの仰しゃる天なる父といわれる方は、エル・ランティー様のことなのですか。 イエス エル・ランティーのことです。私が、わが主、わが父と言ったのはエル・ランティーです。 善川 エホバと言われた方は―。 イエス エホバも、エル・ランティーのことです。 善川 旧約聖書に出てくるエホバ神は、非常にイスラエル民族の擁護者といいますか、偏狭なまでにこの民族にのみ肩入れしていたような感じがありますが。 イエス 当時は一つの民族という域を越えた認識ができなかったのです。ですから後世から見れば、さまざまな民族があり、だから神が一つの民族を庇護するということは、不合理だと思えるかも知れませんが、当時としてはやはりそういう世界観だったということなのです。 善川 それでは旧約聖書第一章の創世記に出てくるアラーの神は、どうだったのでしょう―。 イエス アラーも私の主、父、アルラー・エル・ランティー、アラー・エル・ランティー、こうなったのです。 善川 今後は、日本に現われてくる多くの光の指導者達を、あなた様が中心となってご指導される計画でありましょうか。 イエス 私が既にこうして指導霊をつとめているのではないですか。 善川 その霊は、あなたに代わって現代に現われてきた指導霊ということでしょうか。 イエス そうです。私と同じ力を持っています。 善川 あなた様の分身、または魂の兄弟ということですか。 イエス 違います。ただ私と古くから交互に法を説いて来た仲間の霊だということです。 善川 その霊の過去世は歴史上に残っておりましょうか。 イエス 残っております。 善川 あなたが霊道を開かれたのが七歳ということでしたが―。 イエス 既に七歳の時から雲現象は現われておりましたけれども、布教が始まったのが遅かったわけです。 神の子としての自覚をもってから、その教えを人びとに説くまでの間は、その人自身の魂の修養をする時期があるのです。すぐに説くことはできないのです。あなた方にとっても、「正法」を説いて世の人びとを教えるまでには、今後さらに、何年かの修行が必要となりましょう。 善川 本日は失礼に当たるようなことをお尋ねしたりし、申し訳ありません。いろいろお教えいただき、本当にありがとうございました。今後のお導きをよろしくお願い申しあげます。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/136.html
目次 1.カトリックとプロテスタントのちがい 2.ローマ教皇の権力に対して反旗をひるがえしたルター 3.ルターの破門 4.聖書をドイツ語訳し、一般民衆のなかに解き放つ 5.ルターは、ミカエルの生命体の一部であった 6.カルビンと資本主義の精神 7.イエスは、この世とあの世の二分法を唱道した 8.ルターとカルビンの二人の人間を基点として宗教改革が起きた 9.ドイツ農民戦争、日本の一向一揆を導いたキリストの息吹 10.不敬事件と無教会派の創始 11.非戦論を掲げた現代のエレミヤ・内村鑑三 12.亡国の予言の適中 13.神理の伝道に妥協、迎合は許されぬ 14.信仰の名のもとに鉄の柱となれ 15.世の誤解、嘲笑を跳ね返してゆけ (一九八六年十二月九日の霊示) 1.カトリックとプロテスタントのちがい 内村鑑三です。今日は第二日目ということで、無教会派について、お話をしておきたいと思います。古代の聖霊が出ても、やはり身元証明という意味で、まずは、自分のことを語らねばならんでしょう。そこで、内村もまた、明治、大正、そして、昭和のはじめと、三つの時代を駆け技けた宗教家として、やはり自分の成してきたこと、自分の考えてきたことなどについて、皆様にお伝えする必要があろうと思っております。 まず、キリスト教の概観ということについて、お話を進めていきましょう。キリスト教とひとくちに言っても、カトリックの教え(カソリックとも言いますけれども)と、ルター、カルビン以降の新教、すなわちプロテスタントと、二つの教えがあります。 この二つは、どこがちがうか。カトリックのなかには、古い伝統的なキリスト教精神というのが流れております。現代のカトリックの信者たちを見ても、まあ、どちらかというと、穏健(おんけん)な方がたが多いですし、古い仕来(しきた)りというものを大変重んじる。そういうのが、カトリックであろうかと思います。一方、プロテスタントは、ルター、カルビンなどの若干戦闘的な姿勢ということも影響しておるのでしょうが、どちらかというと、改革、斬新なものの考え、新しい精神の息吹といったものを感じるのであります。 まあ、現代の目で、このカトリック、プロテスタントの二つを比較して見て、どうかというと、どちらも、どちらでありましょう。カトリックのほうが、古くからのキリスト教的な儀式や儀礼、そうしたものを重視するのに対して、プロテスタントでは、自分の良心と聖書、つまり、聖書中心主義ということをはっきりと打ち出したのであります。実際、ルター自身も、聖書のドイツ語訳というものを刊行いたしました。そして、その力に与(あず)かって、キリスト教が欧米圏に広がったことも、また事実であります。しかし、カトリック、プロテスタントともに、いずれにしても、決して本質において相矛盾するものではありません。 2.ローマ教皇の権力に対して反旗をひるがえしたルター マルチン・ルターは、どちらかというと、学問的色彩もかなり持っており、彼自身も、大学教授であったという事実があります。ドイツにおける神学関係の大学教授であったわけですが、日本で言えば、高野山大学、あるいは、他にもいろいろ仏教大学がありますが、そういうところの教授が、仏教の改革をやりはじめたことと同じだと言えます。私はくわしくは知りませんが、常識で考えてもそうしたところの教授が、原始仏教に戻れとか、仏典のほんとうの意味についてということで改革をはじめて、今の仏教のあり方はまちがっていると、こういうふうに公開状を出して、公開質問を出して、総本山に対して意見を述べれば、総攻撃を受けるのは、当然のことながら、必定(ひつじょう)であります。ルターも、ちょうどそういう羽目にあったわけです。 ルターは、千五、六百年代の方でありますけれども、もともとは、そういうことを意図はしておりませんでした。ただ、彼自身は学者としての自分の研究の結果、やはりキリスト教というものの本来の精神を失わないためにも、聖書中心主義でいくべきだ、とした。人間は、信仰と聖書のみに基づいて生きるべきであって、その信仰によって義とされるのである。教皇、ローマ教皇によって義とされるべきではない、と。こういうことを、ルターは言ったわけです。つまり、現世の権力に対して、ある意味では、反旗をひるがえしたわけであります。 そして、ウィッテンベルグ大学の扉に、かの有名な九十五ヵ条の公開質問状というのを掲げたのです。しかし、ルター自身は、これがそれほど大きな意味があるとは、当時、思っていなかった。自分の個人的な立場というものをはっきりさせるがために、そうした公開質問状を出したにすぎなかったわけです。ところが、この公開質問状は、本人が思っていた以上の大変な威力があった。だから、非常な騒動になりました。 ルターが、とくに攻撃の槍玉としてあげたのは、ローマ教皇、ローマ教皇庁に対してでした。ローマ教皇庁が、贖罪符(しょくざいふ)というか、免罪符(めんざいふ)というのを売り出して、お金集めをした。それで、お金儲けをして、サンピエトロ寺院というのを大改築しようとした。教会は、お金を持っておりませんから、改築しようとすれば、もちろん、お金集めをしなくてはならない。ですから、それはそれでいい。しかしそのために、献金すれば罪が許されるというような思想、ここに問題があるわけです。 仏教にも布施の思想というものはあります。ただし、布施をすれば罪が許されるというような考えは、問題があると思います。これと同じなのですが、当時の教皇庁も、免罪符を売りに出しました。そして、こういう免罪符というのがドイツにまで、売られて、これを買えば天国が近づく、と。あるいは、賽銭箱(さいせんばこ)にお金を投げ込み、チャリン、チャリンという音がすればするほど天国が近づくんだ、と。こういうまちがったことが、実にまことしやかに言われていたのであります。 ここに、いつの時代にもある宗教の問題点というのがあるんですね。宗教というのは、どうしてもだんだんに組織化してくるものです。そして、組織というのができてくると、そのなかで、さまぎまな人が生業(なりわい)を立てるようになるため、その生活費を出さなくてはならなくなる。あるいは、建物代、維持費、こうしたものを捻出(ねんしゅつ)しなくてはならなくなってくる。そういうことにおいて、本来の主旨とはちがったところで、エネルギーを注がねばならぬようになってしまうのです。 3.ルターの破門 当時、ルターは、この点を厳しく論難(ろんなん)しました。その結果、どうなったか。当然のことながら、破門されたわけです。当時は、教皇の力というのが非常に強くて、破門するという権力を持っておった。これをされると、宗教者のみならず、貴族でもふるえあがったほどです。また、教会に破門されるということは、もう地獄行きが必定となったのと同しでありました。そういうことで、ときの貴族たちでも、そうしたことは困るという時代であったわけで、ルターに破門するという書信が来たわけです。 しかし、ルターは、これを、諸人(もろびと)が見ている前で、火のなかに放り込んだ。焼き捨てたのです。そうして、やがて彼らは、結集していきます。このとき、もちろん、目に見えぬ力が働いておったのです。ちょうど今、あなた方は、新しい動きをはじめようとしておるけれども、天上界の指導を受けて、新たなはじまりが訪れるときには、本人たちの予期しないような大きな渦のなかに巻き込まれていくものです。そして、異常なエネルギー、エネルギーの渦というもののなかに巻き込まれていくこととなるのです。これが、ひとつの時代精神なのかもしれません。 ですから、ルターもまた、そうして、まず最初の闘いをはじめたのです。現代で言えば教祖となるのでしょうが、このルターを支持する勢力が、だんだん強くなりました。それと同時に、逆にルターの生命(いのち)を狙う勢力も強くなってきました。ルターは、ローマ教皇に呼び出しを受けたのですが、このときには、さすがのルターも、足がふるえたようです。バチカンのなかで捕まって、死刑にでもされたら、もう終わりです。しかし、ルターは、そこに呼び出されたのです。そして、尋問(じんもん)をされた。しかし、そのとき、ルターは、「信仰のみが人間を義とするのである」と言い放ったのであります。大教皇、教皇が、そういう人間を義とする力を持っていたと言われた時代に、ルターは、信仰のみが義であり、その根拠は聖書のみにあると明言した。聖書に基づく良心の自由ということを唱えたわけであります。周りの人間が、その言葉におどろいて、恐れ戦(おのの)いているなかを、ルターは、宮殿から出てきた。宮中のバチカンのなかの人たちは、あまりの発言にあっけにとられて、ルターを捕らえることができなかった。しばらくたって、追いかけて来たので、ルターは、それこそ、命からがら逃げて行きます。 4.聖書をドイツ語訳し、一般民衆のなかに解き放つ ルターが、バチカンから逃げてきた途中で、ドイツのある貴族が、ルターを襲います。もっとも、これは襲った振りをしただけですけれどもね。とにかく、襲った振りをして、ル夕ーに覆面をし、猿轡(さるぐつわ)をはめ、連れ去ります。つまり、実際のところは、ルターの命が危ないと察して、彼を保護しようとした人が、無理やり、彼を拉致(らち)したのです。そして、ワルトブルグ城でしたかね、そこヘルターは、連れて行かれます。外へ出ると命が危ないということで、その貴族の庇護(ひご)のもとで、一年近くでしょうかね、ルターは、そのなかで暮しをしていたわけです。その間に彼は、いろいろと心のなかを整理するとともに、矢継ぎ早に翻訳に取りかかったのです。 当時は、聖書というのはラテン語訳、こういうものしかなくて、これを読める一般人はおりませんでした。ですから、特殊な大学教育を受けた知識人以外は、聖書を読むことができなかったので、牧師とか、そういう人の説だけを聞いて、それを信じていたわけです。しかし、ルターは、「これではいかん、神の教えは万人のものである」と考えた。また、万人のものである以上は、万人が読めるようなものでなければならないということで、まさに嵐のような激しさで、ワルトブルグ城内で、翻訳をはじめたわけです。あっという間でした。わずか教ヵ月だったと記憶しています。彼は、とにかく、ほんの教ヵ月で聖書を翻訳してしまったんです。そして、それを発行。 今まで特殊な権力者、あるいは、聖職者以外には読めなかった聖書が、一般人でも読めるようになったわけです、ドイツ語で。ですから、ルターの、その新しい教えというのが、燎原(りょうげん)の火のごとく燃えていったのです。この威力は相当なものでした。 このことからもわかるように、ルターの教えの新しさは何かというと、今まで権力者、聖職者の独占であったもの、手のなかにあったもの、そうした教えというものを一般民衆のために解き放ったという点にあります。これが最初です。聖書のドイツ語訳という貢献をした。はじめにこういう功徳があったわけです。 5.ルターは、ミカエルの生命体の一部であった それから後も、ルターは、つぎからつぎへとパンフレット、小冊子などを発行しました。当時は、印刷技術もさほど発達していなかったので、小冊子やブックレットと言いますか、簡単な書物ですけれども、そういうものを発行するといっても、一年間で数百部ほどしかなかった。わずか数百部です。全ドイツで、四百、五百部、この程度しか部数が発行されなかったのです。しかも、それらの半分近くまでは、ルターが書いたものでした。つまり、それほどまでに、彼は書きまくったわけです。そして、こうした小冊子が、人から人へと回覧されて、だんだんと読まれていった。このようにして、熱狂的なひとつの信仰の嵐というものが起きて来たのだと言えます。 キリスト教系の魂のなかに、ミカエル大天使長というのがおりますが、ルターというのは、このミカエルの生命体の一部なのです。ミカエルそのものではありませんけれども、その生命体の一部であったわけです。こういう人が地上に出た。そして、その周りにそうした嵐のごときものが起きてきた。これがルターの場合であったのです。 6.カルビンと資本主義の精神 ルターとほとんど時代を同じくして、カルビンという宗教改革者が出ました。彼はフランスに生まれたのですが、迫害され、スイスに逃げた。しかし、ジュネーブを拠点として、一大宗教国家までつくった人です。カルビンは、その時代において、厳密には、祭政一致とは言えませんが、宗教と政治とが一致したような教えをした人です。 ルターは、ある意味では、知識人としてのプライドを持って、行動しておりました。しかし、カルビンの場合には、ちょっとちがう。カリスマとしての威厳があったし、人びとから救世主的に奉(たてまつ)り上げられるようなものがあったと言えます。カルビンも宗教改革ということで、いろいろやったわけですが、内容的には、ルターと似たところがあります。カルビンもまた、「信仰」というものを中心に行なったわけです。 現在でも有名なカルビンの教えとしては、いわゆる「予定説」というのがあります。予定説とは、何か。端的に言うと、「人間は、運命づけられている」ということです。たとえば、ある人は、たとえ本人がどれだけ努力しようとも、地獄へ堕ちることが予定されている。しかし、ある人は、本人がのほほんと暮しておっても、天国が予定されている。このように、人間とうものには、すでに、天国、地獄が予定されているということです。それゆえに、人間は、それをどうすることもできないというわけです。 ただし、どうすることもできないし、それを知ることもできない以上は、自分は天国に招かれているのだということを信じつつ、一生懸命に努力して、神の栄光を、この地上で、この世俗のなかに現わしていくべきである、と。そうであろうと信じつつ生きるべきである、と。また、そうすることによって、天国行きが、ますます固まってくるんだ、と。こういうことを、カルビンは、人びとに説いた。すなわち、人びとにとって、生きがいというものが出てきたわけです。 ですから、ルターの教えというのが、先はども言ったように、キリスト教の民間、一般人への流布(るふ)というところに非常に力があったとすれば、カルビンの教えは、キリスト教の教えというものを、要するに世俗のなかに解き教ったと言えます。つまり、いわゆる経済生活ですね。経済や政治のなかに解き教ったというところに、その特徴があったのです。 後に、マックス・ウェーバーという社会学者が出て、カルビンたちの教えのことを、「資本主義精神のなかに流れる倫理的精神、つまり、プロテスタンティズムという流れが、資本主義を非常に押し進めた」というようなことを言っておるようでず。このカルビンの教えのなかにある、要するに、自分が行くのが「天国」か「地獄」かは、人間にはわからない。どちらに行くかは予定されているけれども、それがわからないのであるならば、自分は天国に招かれていると信じて、一生懸命努力して、神の栄光をこの地上に、この世俗のなかに顕(あら)わしていくべきだという教え。この教えのなかに、勤労している人びとに生きがいを与える思想が出てきたわけです。 7.イエスは、この世とあの世の二分法を唱道した ただ単に、イエス様の教えだけであれば、「生きがい」にあまり触れなかったところに問題があったでしょう。初期の原始仏教において、釈迦は、要するに、この世というのは不浄で、人間は汚れているから、あの世に行かねばならんと説いた。あるいはまた、この世には、いいことは何もないというような教えを説きました。原始のキリスト教の思想にも、これと似たようなところがあります。つまり、この世というものに、あまりいいイメージがない。神の国とは、あの世にあって、この世の国ではないということでした。 イエスも、これについては、何回か言っております。イエスを迫害し、謀反(むほん)の罪で死刑にしようとしている人たちが、罠(わな)に入れようとして、「お前はユダヤの王か」とイエスに問うています。イエスは、「しかり」と答えました。そこで、人びとは、また、問うた。「では、カイザルよりも、お前は偉いのか」と。カイザルとは、シーザーのことです。つまり、王位の象徴です。 「ときの皇帝よりも、お前は偉いというのか」と詰め寄った人たちに、イエスは、何と答えたか。「カイザルの国は、この世の国。私の国は神の国。この世の国ではない」と、イエスは、こう言ったのでした。 あるいは、また、カイザルに税金を納めるということに関して、イエスに罠をかけてきた人がいます。「皇帝に金を納めなければいかんということについて、どう思うか」という罠をかけられたのですが、そのときイエスは、言いました。「その硬貨には、一体だれの絵が描いてあるのか」と。質問者は、「カイザル、皇帝の肖像が刻んである」と答えました。 それに対して、「カイザルのものは、カイザルに。神のものは、神に」とイエスは言ったのでした。すなわち、イエスは、この世とあの世の二分法を唱道したわけです。 この二分法というのは、当時、イエスの生命(いのち)を守る、三十三年間という短い生命でしたけれども、その生命を守るという意味においては、多少の力はあったと言えます。しかし、それでは、この世における人間にとっては、一体何の生きがいがあるのか、これがわからなくなります。死後、あの世で永遠の生命を得るためだけに、人間は、この世で努力しているのか。こうした疑問が出てくるわけです。この世というものをどう見ればいいのか。このなかで、人間は、どう処していったらいいのか。その部分の教えが明確ではなかったのです。 8.ルターとカルビンの二人の人間を基点として宗教改革が起きた そこで、このカルビンが、キリスト教におけるこの世的な意義を強調しました。これによって、近代産業資本のなかに、ひとつのエートスが出てきたわけです。エートスとは、ドイツ語でいう持続する精神のことですが、こういう資本主義の精神というのが出てきたということです。すなわち、神の栄光を地上に持ち来たらすということですね。神の栄光をあの世の国に求めるのでなくて、地上に神の栄光を持ち来たらす。カルビンは、そのためにこそ、人間は生まれてくるのだと言いました。 これは、言葉こそちがえ、現在、あなた方が説く、この世を仏国土、ユートピアにしようとする「地上天国運動」と同じであります。この地上に神の栄光を現わさんとした。こういうことをカルビンは、言ったのです。カルビンも、七大天使のひとりです。 ルターとカルビンが成してきたことを、今一度、見てみましょう。ルターは、聖書というものを一般に普及させ、また、誤った世俗権力、世俗の教皇、ローマ教皇という権力に対して戦った。そして、カルビンは、一般庶民の間に、彼らの働きがいのなかにこそ神の栄光というものがあるのだということを教えた。こういう二つの教えが基礎となって、西洋の近代社会というのが出てきたのです。 そして、そうした宗教改革の流れは、受け継がれていきます。新教、プロテスタンティズムの息吹を受けて、イギリスが影響を受け、そこから、アメリカヘの移住、こういうことで、アメリカのほうにも、どんどん広がっていった。ルターとカルビン。この二人の人間を基点として、宗教改革が起きたわけです。 この二人以外にも、もちろん、いろいろな方が出ました。たとえば、ツウィングリ。彼も、宗教改革者ですが、まあ、そこそこの方でした。フス、こういう方も出ました。しかし、フスは、火刑に処せられて、逆さまにされ、火のなかで燃やされてしまいました。あるいはまた、イタリヤにはサボナローラという方が出た。この人も、最期は、焼き殺されましたけれども、光の天使です。イエス様と同じような苦しみを味わった方です。 このように、自分の生命を惜しいとしない方たちが、イタリヤ、スイス、フランス、ドイツにもいたのです。ルターやカルビンとばぼ同時期に、ヨーロッパ各地に出たのです。ですから、こういう動きを見逃してはならんと思います。 9.ドイツ農民戦争、日本の一向一揆を導いたキリストの息吹 ルターの頃にも、ドイツ農民戦争というのがありました。これも、ひとつの注目すべきことであるうと思います。農民戦争とは、つまり、農民一揆ですね。従来の領主勢力に対する、そういう農民の一揆というものが起きました。ルターは、この一揆に対しては、大変慎重な立場を取りました。しかし、その一揆の原動力となったものは何かと言えば、やはり新しいキリスト教の息吹であったわけです。すなわち、世俗的な権力を否定する教えというものが、一陣のエネルギーとなって、ドイツ農民戦争、こうしたものを起こしていったのです。 日本においても、同じことが言えます。千四百年代の後半でしたでしょうか、蓮如(れんにょ)という浄土真宗の中興の祖が出て、加賀百万石を舞台として、一向一揆が起きましたね。この精神的支柱となったのは、蓮如です。ですから、大体同じような時期に、同じような動きが出ていますね。そこで、この農民を一揆させた動きというのは何かを考えるに、それは、伝統的な専制権力に対する反乱というものでありました。さらに、その反乱の精神的基礎となったのは何かというと、キリスト教主義だったということです。 日本においても、他力門、いわゆる浄土門ですね、この真宗系統というのは、実は、キリスト教の流れを受けている教えであります。ですから、蓮如も、過去世においては、イエスの弟子のひとりだった人です。こういう蓮如のような人が出て来て、中世において、一般庶民の解放ということで努力している。また、ヨーロッパにおいても、さまざまな人が出て、庶民の解放、農奴制からの解放といった問題に関して努力しておる。 こうして見てくると、すでにおわかりのように、大体十四、五、六世紀、中世の時代において、教会の威力、既成勢力、あるいは、領主の権力と闘うためのクリスチャニズムというのが、洋の東西を問わす出てきておるわけです。これは、ひとつの新しい時代に対する息吹であったと、私は思います。つまり、新しい民主主義時代が出てくる前の、これは先触れなのです。前触れなのです。 このように、根底からのひとつの運動というものがあってはじめて、つぎに、もっと理論的なものが出てきて、民主主義的なものが出てくるということであったわけです。ですから、中世における運動があったからこそ、近代になってまた、いろいろな人が出て来たということです。 10.不敬事件と無教会派の創始 先ほども申しましたが、私は、無教会派というのを日本ではしめた人間です。無教会派とは、教会をなくすという意味ではありません。教会を否定するという意味ではありません。つまり、これは、教会のない人びとの集まりであったのです。では、なぜ教会がないか。私は、教会からも破門された人間だったからです。 私は、不敬事件を起こしたのです。天皇に対する不敬があった、と。要するに、敬礼をしなかったという、まあ、現在から見ると、馬鹿馬鹿しい話です。昭和の現代においては、そんなことで怒る人はひとりもいないでしょう。もちろん、天皇陛下に対してあいさつしなければ、失礼です。しかし、そうではなかった。天皇陛下の詔勅(しょうちょく)、詔勅(みことのり)に対して頭を下げなかったということで、私は一高の教授を追放されたわけです。 当時、天皇といえば、まさに、かつてのローマ教皇のような、そういう立場にあるわけです。しかし、私は、クリスチャンとしての立場からしても、日本の天皇というものに頭を下げることはできない。これは、良心の自由である、と。私は、こういうことを守ったわけです。ところが、私の態度に対する世間の風あたりやマスコミの批判は、大変に強かった。たとえば、「あの内村鑑三とかいうのは、国賊である」と、ずいぶん攻撃を受けました。私の自宅は、石を投げられましたね。窓ガラスが割れた。……いろんなことがありました。 その頃、私は重い病気にかかっていたのですが、病気が癒(い)えたときに、私は、新聞によって、自分が懲戒免職になっていることを知りました。その後、まず、私の妻が亡くなった。私にとっては、つらい事件でありました。そして、あいついで、私の子供たちも亡くなっていきました。私は、傷心の思いでおりました。そういうときにまた、教会からも追放されたわけです。 明治初期の教会というものは、天皇制国家のなかに育(はぐく)まれておったわけですから、天皇制を批判するような教会というのは、その存在を許されなかったのです。ですから、「内村鑑三は、国賊である」という論調にのって、教会までもが、私をクリスチャンとして認めてくれない。こういうことでありました。 11.非戦論を掲げた現代のエレミヤ・内村鑑三 そこで、私は、フィレンツェを追放されたダンテのごとく、諸国を放浪したわけであります。東京を追われ、九州に、中国地方に、そして、大阪にと諸国を転々としました。そうした後、万朝報(よろずちょうほう)というところに、何とか論説委員として、拾い上げられて、英文欄などの主筆などをやりながら、生業(なりわい)を立てておったわけです。 ところがまた、その万執報の職をも辞さねばならぬ状況になりました。なぜか。日清、日露の両戦争のためであります。つまり、私はクリスチャンの立場から言っても、こうした戦争に対して、断固として反対した。それが原因です。 戦争は、どう考えても、神の国において、「義」とされる行為ではない。あり得ない。そこで、私は、「戦争は、まちかっている」とはっきりと言ったのです。非戦論です。しかし、そういうことを固持することは、ただ単に私だけでなく、万朝報自体の立場を危うくするものでした。ですから、私は、やむなく、そこを辞したわけであります。とはいえ、残念ながら、時局は私の思ったとおりには歩まずに、やはり戦争へ、戦争へと赴きました。 日清戦争の勝利、そして、日露戦争の勝利。人びとは、その勝利に酔いました。しかし、私は神の使徒として、こうした勝利はにせものの勝利であり、一体何になるのか。こういった勝利に酔っている民は、やがて亡国の民と変わっていくであろう。こうした勝利に酔いしれている日本は、やがて亡国の憂目(うれきめ)を見るであろう、と思った。現代のエレミヤとして、私は、それを預言したわけであります。戦争で勝ったとか、領土をもらったとか、そんなことは、一体何になるか、この地上でそんなことをして、一体何になるのか、と。私は、それを訴えかけたのであります。 12.亡国の予言の適中 しかし、人びとは、私の意見に耳をかそうとはしませんでした。日清、日露の景気、市事的成功ということに、ただ酔いしれておった。そして、そうした自惚(うぬぼ)れのままに、明治から大正に入り、昭和へとつながってきた。その自惚れの気持ちが、昭和初期のファシズムの動き、こうした軍事独裁への動きとなっていったのです。 日本は、だんだんに帝国主義となり、満蒙を抑(おさ)える。韓国を抑え、中国を抑え、やがては、東南アジアも抑えようとしている。まさに、帝国主義的な拡張主義路線をたどっていったのですが、その後の結果はというと、あなたたちの知るとおりです。日本は徹底的な打撃を受け、かつて私が不敬事件を犯したといって免職までされた、あの天皇陛下が、今度は、敗戦国民の前で、「人間宣言」をしなくてはならぬ羽目にまでなってしまった。こういうあわれな立場に陥(おちい)ったのです。このことは、あなたたちの記憶せるとおりです。 なぜそうなったのか。つまり、戦争の勝利に酔いしれておって、負けた国に対する同情もなく、負けた国民に対する愛情もなく、神の子平等という思想もなく、宗教の思想もなかった。ただ、優劣、優れているとか、強いとか、偉いとか、こういう思想だけでもって、自らが擬似一流国のような気になって、日本という国全体が、いばってしまった。ところが、これが見事につまずいた。まさに、私の予言どおりです。 この浮かれている民たちは、やがて国を滅ばすであろうという私の予言どおり、彼らは国を滅ばしたわけです。すなわち、怖れを知らなかったからです。馬鹿な神国日本の思想を振りかざして、やがて神風が吹くとか、何とかかんとか言って、神風特攻隊などをやったのは、歴史が記しているとおりでありましょう。 私は、こうした姿を天上界から見ておって、涙を禁じ得ませんでした。馬鹿な国民たちよ、と。しかし、そうは言っても、我が非力さをも、私は嘆きました。「なぜ私は、こうした民を目覚めさせることができなかったのか」と。私は、こういうことをずいぶん悔いました。 私と同じことを、私の弟子である矢内原忠雄もまた、やったようです。第二次大戦期において、彼もまた、戦争反対という論陣を張りました。しかし、その結果、東京帝国大学教授の職を辞さねばならないような羽目となった。しかし、敗戦、そして、戦後ということで、状況が一転すると、彼は英雄となって、また東京大学に迎えられて、今度は総長となった。 世の人びとの心というのは、このように、振り子のように揺れ動くものです。しかし、私たちは、世の人びとに迎合するような動きはできません。世の人びとの心というものは、まるで風見鶏のように、風向きが変われば、どちらへでも変わっていく。しかし、私たちは、彼らの意見に迎合するというよりは、やはり神の心、イエス・キリストの心と一体となって従っていくのが筋であろうと思っております。 13.神理の伝道に妥協、迎合は許されぬ 私においてもそうであるし、矢内原に対しても、そうであるけれども、ほんとうの正しさとは何か、ほんとうの真理にそった人間の行動とは何かというと、これは、妥協するのではなくて、切に訴えねばならぬ、ということだと思います。 これは、あなた方にとっても、同じことが言えます。これから、政治においても、経済においても、あるいは、神理の伝道においても、さまざまなまちがった教え、まちがった考え方というものが、あなた方の行く手をふさぐようになっていくでしょう。しかし、どんなときにおいても、そういうものに迎合したり、妥協したりしてはならない。たとえその時代においては、そうするのがよいように見えても、一時代過ぎ去ったならば、そうした妥協は、何にもならなかったということがわかるはずです。そういうことに、人間は気づくでしょう。 とはいえ、時代というのは、その人を見殺しにする場合もあるのです。実際、私のように、非戦論の論陣を張ったために国賊扱いをされたり、天皇に不敬罪を犯したことで国賊扱いをされた人間もおります。しかし、百年経ったらどうなるか。たとえば、天皇の詔勅に今、頭を下げてごらんなさい。笑いものです。 かつて、古代のユダヤにおいて、神理が説かれました。そのとき、ヤーヴュ、エホバの一神教に対して、昔のまちがったバアル信仰、偶像信仰のことですが、そういうまちがったものが出た。しかし、それに対して、エリアが、立って闘った。それと同じように、私たちもまた、そういう偶像に対して、闘わねばならなかったのです。だからこそ、私は、天皇という偶像、詔勅というような偶像、こういうものと闘ったわけです。 あれから、百年ほど経ちました。内村鑑三を笑う人はどこにいますか。だれも私を笑わないでしょう。もちろん、当時は、ずいぶんといろいろに言われました。内村鑑三は、馬鹿な男だ。詔勅に対して、皆んながするように頭を下げる、それだけのことをすればいいのに。それさえしないで、名誉ある一高の教師という肩書を剥奪され、クビになった。こんな馬鹿な人間がいる。国中が戦争へ、戦争へと言っているときに非戦論を唱えて、せっかく名声を博していた万朝報の英文主筆も辞職しなければいけなくなった。馬鹿な男だ。と、ずいぶんたくさんの批難を受けたわけです。処世術が下手だということでね。しかし、ただ上手に世を渡っていくことが、私たちの使命ではなかったのです。 14.信仰の名のもとに鉄の柱となれ あなた方が、神理を説くにあたっても、おそらくあなた方を嘲笑(あざわら)う人がたくさんいるはずです。そんなことは、まだ言わないほうがいいとか、ね。しかし、そうした声に従ってしまったならば、後の世において、あなた方は、きっと後悔をすることになるはずです。現在の生きている人間の意見に従って、言説に振り回されて、気持ちのいい人生を送るよりは、あるいは、何百年、何千年の間に、自分の良心の悔いをひきずるよりは、そうした声を否定し去り、たとえこの世的に苦しみを受けたとしても、敢然(かんぜん)と立ち上がることが必要なのではないでしょうか。人間は、やはり強くなければいけない。神理のもとに、強くなければいけないと思うのです。 神は、我らを信仰の名のもとにおいて、鉄の柱とし給うたのです。あなた方自身、ひとりひとりが鉄の柱となり、青銅の扉となり、壁となるような、こういう人生、勇ましい人生を、生きねばならんと私は思います。それが、後世の人びとにとっての最大の贈りものであるからです。 15.世の誤解、嘲笑を跳ね返してゆけ 内村鑑三が、ピョッコリと頭をさげて、何となく一高教師をやりながら、かたや聖書の翻訳をして、細々と生きておったとして、一体それが何になりますか。「戦争反対を言おうとしても、世の中からつまみものにされるから、まあ、今はひそかにして、とにかく自分の言論の自由を守るためには、ある程度同調しておいたほうがいい」と。もし、こういう考えで、内村鑑三が生きながらえたとしたら、一体、何の意味がありますか。 人間というものは、悲しみと苦痛、そして、人びとの批難のなかにおいて、その人のほんとうの真価というものが問われるのです。ですから、ほんとうのもの、時代を超えたほんとうの神理というものが説かれるとき、いつも世の誤解を受け、批難を受け、嘲笑を受ける。こうしたことは、やむを得ないことなのです。これを跳ね返していけるだけの強い人間でなければいけないのです。私は、そう思います。 たとえ笑われたとしても、実は、今、笑っている人間こそが、やがては、猿のように笑われるのだということに気づかねばならない。そうした人間の意向に左右されてはならんのです。たとえ何を言われようとも、どんな誤解を受けようとも、どんな嘲笑を受けようとも、神は、最後には、あなた方というものと一緒にいてくださるのです。ですから、その心を強く伝えていくこと、訴えていくことだと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/288.html
目次 1.科学とは何か 2.未知なるものの発見 3.認識の方法 4.実証の精神 5.科学万能主義の次に来るもの (1988年1月12日の霊示) 1.科学とは何か さて、本章では私の得意の領域でもあります科学の問題ですね、これについて話したいと思います。私自身科学者でもありましたし、さまざまな発明いっぱい致しました。特許も何百も持ってます。みなさん知らないかもしれないけれども特許いっぱいあるんですよ。私の特許なんていっぱいあるんですよ。電気釜じゃないけれども、圧力釜なんて作ったこともあるぐらいで、お釜も作るしねえ、何でも作るんですよ。 特許もまあいっぱい持った特許屋です。電気屋でもあります。コンピュータ系統のね、機械、いろんな機械作リましたし、まあちょっと知られた面もあります。そこそこの業界では、そこそこの人だと言われたことはあるんですね。 で、まあ科学もよく知ってるから、僕自身、生前本書いた時に、『心の発見』なんかで「科学篇」てありますね。ああいう本書いた人はいないと思うんです。宗教と科学をああいうふうに、何て言いますかね、一体化させて説き切った人はいない。残念ながら谷口雅春先生も科学までは行けなかった、ね。私だけです、あそこまで行ったのは。だから仏教の本質と科学の本質というものは、別のものじゃなくて全く同じものである。まあこういうことを私は生前実証したつもりであります。 また、これは一部興味のある人からは大いなる称賛でもって迎えられましたし、まあ読者のみなさんの多くは私が書いた数式なんか見たってさっぱりちんぷんかんぷんですが、ちんぷんかんぷんではあるけども、迷信の領域ではないということだけはおわかりになったであろう。こういうふうに思いますね。 特にやはりね、問題はねえ、霊的な問題、宗数的な問題話す時に、書く時に、どうも抹香臭(まっこうくさ)くなって霊臭くなって、変な感じするんですね。これが一番いけない。だからそうじゃなくてやはり現代人のね、理性に訴えて納得がいくものであるかどうかね。まあこれが大事です。 生前からよく言ってきましたね、私は、本当の正法には文証、理証、現証、この三つが伴うものである。文証っていうのは法でね、文章として書いてそして納得のいくような教えがあることね。理証っていうのはまあ科学的な実証だねえ、まあ科学的実証と言ってもいい。法則性と言ってもいいね。こういう法則性があって論理的につじつまが合っておるようなもの。 たとえば私の教えたように、想念帯というのがあってね、これが一生の思い出、いろんな想念帯の曇りがある。この曇りを反省というものによって晴らすことによって、スモッグが晴れることによって太陽の光が燦燦(さんさん)と降り注ぐ。そのように神の光が射してくる。そういうことも教えましたけども、これなんかもやっぱり科学的な説明であろう、ね。まあ理性的であるし理論的な説明であろう。まあこういうことで理証と言えるでしょう。 あるいは水の転生輪廻(てんしょうりんね)と人間の転生輪廻ね、こういう話も致しました。水の一生っていうのがありますねえ。水の一生で川になって海になって、南氷洋や北氷洋で氷になって、また春になって溶けて水蒸気になって、天に昇って雲になって、また雲が氷の粒になってね、降りて来て雨になって、そして山に降ってね、山から谷に流れ川になって、また海へ還っていく。こういうふうに水も転生輪廻してますけども、まあこうしたものでもって人間の生命の不思議、こういう話もまたさらに致しました。 ま、これ以外にもエネルギーの法則、あるいは力学的法則と正法の話も致しました。作用・反作用の法則ということをだいぶ言いました。カルマの法則とか、あるいは蒔(ま)いた種は刈り取らねばならん、こういう話についてね、作用・反作用の法則、ま、こういうことがあるということを言いました。あるいは、人を呪(のろ)わば穴二つ、こんな話しましたね。 こういうように、まあ科学的と言ってもいいし、あるいは科学的でなくてもいいけれども、話の筋がね、つじつま合って理論的にもすっきりしてる、こういうのを理証って言うんですね。ところが巷(ちまた)の拝屋(おがみや)たち、この理証がないね。「とにかくありがたいんです」なぜありがたいかの説明がない。そうでしょ。とにかくこの曼陀羅(まんだら)はありがたいって、何がありがたいのかわかんない。ね、そうでしょ。なんでありがたいのかわかんない。 「とにかく墓相です。墓の相が悪いんです。これをこう変えればよくなる」「なんで?」って言ったらわかんない。とにかくこの方角はいけないんです。「なんで?」って言ったらそれがわかんない。ね。なんでがない。「理由はない。理由はなくとにかくそうなんだ」こういう決めつけですね、決め込み、あるいは「昔からそう言われておるんだ。そういうお告げがあった」ね。この部分が結局新興宗教のおかしい部分だね。 そういう意味で、現代において神理を説く場合には理証ということは非常に大事です。理論的に整合性があって、万人の納得がいくような法則性、あるいは考えが入っておることね。これ大事です。この理証の部分はいくらやってもやり過ぎることはありません。 それから現象ですね。ま、現象はまあ碓かに他の宗教一般につきものでしょう。霊的な現象が起きることですね。これも大事です。まあ私が今、これ霊言という形で送ってますし、生前は霊道現象もだいぶやりました。〇〇さんはあんまりやらないけども、まあやらない理由は体力消耗して損だからね。あんなのやったって、ねえ、本にもならないしねえ。「おい、キツネ、ちょっと出て来い」なんてやったってきりないから、高橋信次やったからもういいだろうっていうんで、自分は自分で読みごたえのある本、高級霊シリーズでやってるね。 まあそら確かにそうだ。悪霊やったってそんな繰り返し読めないわ。高級霊なら何回でも読める、ね。そういうとこでいいし、読めば賢くなる。勉強になって天国に近づいていく。だからいいんだよね。だからそういう意味で現象をやっておる。 文証・理証・現証、この三つね、大事ですよ。拝屋だけやってて本も書けないような人ね、こんなもの真の正法とは言えない。だから現象も出せるけど、それの理論的な説明もあるし、それから書いたものとして立派な文献、経文、教典、これがある。ね、この三つが大事です。 そして、その中には科学の精神が流れておるということですね。科学する精神、科学する精神というのは結局ね、科学の精神というのは、結局、論理的な整合性だと私は思うんですね。つじつまのある説明、Aという人はそれはそうだと言うけどBが違うというような、そんなことであったら科学は成り立たないんですね。Aが見てもそう思うし、Bが見てもそう思う。Cが見てもそう思う。こういう筋道立った考え方ができて初めて科学は成立するんです。 Aという人が見ただけで月が存在して、Bが見たら月がないというような、こんなのでは科学とは言えないね。天文学とは言えない。試験管振って、そういう結果が出るのは、AがやってもBがやっても同じなら化学の世界ではそれでいいということになる、ね。物理学の法則も、Aという人が実験したらそうなって、Bがしたらそうならないというのなら、こんなの法則とは言えない。 こういうことで、科学というのは客観的な説明、あるいは論理的整合性、これを大事にするんですね。これをある程度ね、現在は神理の世界に持ち込まないといけない。こういうように私は思います。その意味で科学の本質ですね、これを充分に使っていく必要がある。その考え方は現代に生きる考えであるし、今後の宗教の行くべき道筋でもある。このように私は言えると思います。 2.未知なるものの発見 ですから結局、科学っていうものは何かって言うと、まあ論理的整合性っていうことを今、言いましたけども、ま、それだけじゃないね。論理的に整合性があるだけであったらそれは論理学であって、科学とは言わない、ね。論理学は、AはBである、BはCである、したがってAはCである、ね。こういうことでやりますねえ。 たとえば、人間は動物である。動物は生き物である。したがって人間は生き物である。ま、こういうことをやりますね。こんなことを論理学でやってますが、これ自身は科学とは言わない。これは理論的な整合性はあるし論理性があるけれども、科学とは言わない。なんでかって言ったら目的がないからね。目的が違う。こういう文章的なこういう整合性を言っておるんじゃない。 科学の目的というのは何かって言うと、結局未知なるものの発見ですね。これが科学なんですよ。科学はこれなんです。未知なるものの発見です、ね。これなくしての科学はないんです。未知なるものを常に発見しようという態度。現状にあるものそのままでは何も意味ないんだ、ね。動物の観察してる人でも、未知なるものを何か発見しようとしている。野性の動物の生態、これを発見しようとしたり、天然記念物の生態、発見しようとしたりする。ムササビがなぜ空飛ぶのか。不思議だ。こんなのを発見しようとする、ね。 猫はなぜ昼寝をするのか。不思議である。猫の昼寝と人間の主婦の昼寝はどこに共通性があるんだろうか。主婦も昼寝をしたがる。男性は昼寝をしない。主婦は昼寝をする。ねえ。描も昼寝をする。そうすると、女性と描というのは共通性があるんではないか。うん、そう言えばそんな気がする。ねえ、こういうことを考えますねえ。これが未知なるものの発見ですね。これは科学への道のひとつであります。 こういうふうにね、結局、未知なるものの発見というのが科学の根本精神にあるんですね。だから未知なるものを発見しようとして、そしてそれについて論理的な説明ができるかどうか。これが科学の領域であろうと思いますね。この考え方は今後大いに取り入れていかねばならん。 そういう意味であなた方が目指すものもね、単なる宗教でもないし、宗教学でもない。宗教科学と言ってもいい。あるいは魂の科学であろうし、あるいは精神の科学であろうし、神の科学であろう。こういうふうに言えますね。宗教科学ですね。こういうものであろう。まあ宗教科学と言うとちょっと宗教の部分だけ抹香臭(まっこうくさ)い。だからまあ幸福科学、結構でございます。 だから幸福を科学する方法、じゃあ幸福を科学するとは何か。幸福という領域の中にある未知なるものを発見し、ね、今まで人が発見しなかったようなもの、あるいは人が忘れておったもの、こういうものを掘り起こしてこれに光をあて、そしてそれに対して万人が納得するような説明をつけること。理証の部分ですね。これをピシッとやっていくことね。これが第一であります。 まあ、だから高橋信次の霊訓なんていっぱい出してるけども、こんなのいくらでも出せるから、これが本人の証明だね。はっきり言って。別に僕の顔を知ってる人にいちいち確認取ってもらう必要ないんだ。そんなの彼らだって確認したって僕の顔なんか見えやしないからね、姿見えないからしようがないけど、霊訓、霊言集ね、これ何冊でも出せるでしょ。僕は五十冊でも百冊でも絶対出しますからね。出せるんだから。それじゃ高橋信次の名前で、思想で、性格で、百冊作れる人がおるかおらんかだ、ね。生きてる人で書ける人いるか。いないよ。僕の弟子だって書けやしない、ね。書ける人いないよ。弟子でも書けないんだ。ましてあの世の霊でね、勉強もしとらん人に書けるわけがない。書けるっていうのは同じ個性で、同じ思想で、同じ性格で、書けるというのは、これは本人の証明です、ね。 これしゃべってる今日は一九八八年の一月の、今日何日かね、十二日の火曜日です。みなさんね。私の目の前に毎日新聞があります。毎日新聞の第一面で、八つ切りで土屋書店さんが『高橋信次の天国と地獄』という広告出してます。「愛に悩む現代人へ」ね、こういうふうに副題がついて、横に小さく『高橋信次の新復活』の広告が並べてあります。ね。 みなさんこの『高橋信次の天国と地獄』っていうの出ましたけど、この「愛に悩む現代人へ」ね、これ、僕が考えたんじゃないんだよ。土屋書店さんから「高橋先生に愛について語ってもらって下さい。現代人に向けてね。やっぱり愛の悩みが多いから、愛について語っていただけませんか」って、向こうからリクエスト来たんです、ね。「よし、答えましょう。愛について答えましょう」ってね、答えたんです、ね。これが本になったわけです。だからこの世とあの世でやり取りちゃんとしてるんですよ。みなさんね、笑っちゃいけないよ。ほんとなんだから。ねえ。僕が勝手にやってるだけじゃないんだよ。この世の人からのリクエスト受けて答えてるんですよ。僕は人生相談であろうが何であろうができるんだ。ちゃんとできるんだ。だからこのへんが証明だな。繰り返し何回でもできる。新しいものでもできる。こういうものがあります。 3.認識の方法 さて、科学について一連の話をしておるんですね。宗教と思想と哲学、これに関係する話として科学の方法論、これを考えております。そこで認識の方法ということをちょっと考えてみたいんですね。じゃあ客観性と言われるものは一体何なんだろうかと、ね。事実、真実と認められるその認識の仕方ですね。これは何だろうか。ま、こういうことを考えたいですね。 科学でよく実験室でね、何人(なんぴと)がやっても同じ結果が出ることがその理論が正しいことの証明と、まあ言われますね。けどもまあ、そういう実験結果でノーベル賞なんか出るんでしょ。きっとね、そうだと思う。ただ、一般の人が、じゃあ試験管振ってやっとるかといえばやりゃしないね。できないね。それなりの実験材料と実験装置、それと実験室、ね。それだけのスタッフがいなきゃあできないね。けど、そういう人がほんといたら、多分できるであろうということをみんなが信じているということだな。これで納得しておるわけだ。実際にねえ。 たとえば、ま、最近も利根川さんなんていうのがノーベル賞とったけども、日本人で初めてのノーベル賞って言えば湯川秀樹だよな。もう私たちの世界にも還って来てます。菩薩界に還ってますね、湯川秀樹さんていうのは。まだちょ心と霊言送るような、そこまで思想が進んでないけども、多少は宗数的なものの考えもできた方であると思いますね。ま、将来霊言なんかも出せるかもしれない。宗数的なものの考えのできる人でありましたが、彼のノーベル賞受賞作というかね、受賞において大切になった中間子の理論なんてあるけれども、中間子の理論なんていうのは、こんなのみんな別に自分の目で見たわけじゃない、そんなのね。中間子なんかあるなんて、こんなの話だけで聞いてる。 その中間子の理論を湯川博士が思いついたのは、ねえ、夜ベッドの中で奥さんと、ねえ、なんかいいことしようとした時思いついたとか、あるいはバスの中で揺られて思いついたとか、居眠りしとってね、バスの中で居眠りしとって思いついたとか、いろいろ諸説紛紛(ふんぶん)あるんだけども、いずれにしてもなんかぼんやりしとる時に思いついたと、まあこういうふうに言われてますね。 あるいは数学者で岡潔(おかきよし)さんていう方ね、この方も近年亡くなりました。京都の方(ほう)で、奈良だったかな、まあ数学者で、世界的な数学者のひとりであったけども、非常に仏教の理解が深かった方ですね。こういう方なんかも結構いい世界に還って来てます。また霊言なんかも出せるかもしれないけどね、科学者シリーズでね。湯川秀樹、岡潔、まあこういった人も出せるかもわからんけど、ま、彼らなんかも数学の証明やっておったけど、その数学の証明のやっておる過程でね、やはり天上界から啓示を受けながらやっておって、パッと思いつくという、まあこういうことをいろいろやってたね。そういう認識の方法論があったように思います。 結局ねえ、科学、科学と言いながら、その中核部、あるいは最先端の部分を見てみると、非常に霊的世界との関連があるんですね。湯川博士がふとんの中か、あるいはバスの中か知らんけれども、中間子理論を思いついたっていうのも、夢の中でね、思いついたっていうけども、結局は霊的世界からの啓示です、ね。湯川博士に啓示を与えた人がおるんですね、科学者の中から。科学者の魂でそういうもの教えた人がおるんです、ちゃーんとね。いるんですよ。みなさんね、ちゃんといるんです。それはいるんです。 それからその数学者の岡潔さんなんかに啓示を与えておる人もいたんですねー、霊的世界の中から。数学の証明について。あの世でも数学の研究してる学者もおるんですよ。たとえばパスカルなんていう人なんかもまだ、文学者でもあり哲学者でもあったけど、数学なんかもやってるんですよ。こういう人もいるし、ニュートンなんか、あなた、黙って寝てると思いますか。やってますよ何かね。ちゃんとやってる。だからみんなやってるんですよ。 だから科学の最先端はね、非常に霊的世界と関連が深いんですね。これは知っといてほしい。僕はそう思いますね。だからね、認識の方法としてね、一応、科学は誰がやっても、何と言うか納得がいくなんて言うけども、実際みんなそれやってもしないのに信じてるね。で、やってもしないのに信じてる人のやリ方見たら、それ自身非常に霊的なそういうひらめきでもって、理論を創っておることが多いということですね。まあ、こういうことがあります。 4.実証の精神 まあここで、でも大事なのはね、実証の精神だと思うんですね。実証っていうのは、現にこう証(あかし)を立てるっていうことですね。現にそうだということ、この部分が理論、理論が単なる理論じゃなくて、実際、価値がある、力がある、値打ちがある、と言いえる面ですね。この実証の精神があるかどうか。 理論は必ずしもそれは証明ができなければいかんというもんではない。理論は先に走るでしょう。特に物理学の領域とかそういうところでは、理論があってあと現実がついていきます。理論を考えついて、そういう現実があるんではないか。あるいは現実の断片を何か見てね、それについて理論を創る。ま、こういうことがいろいろありますね。 それで、今、宇宙科学の方面ではね、太陽系に、惑星は九つあると言われてるけども、第十惑星があるんじゃないか。十番目の惑星があるんじゃないか。こういう研究がされとるようです。今世紀に入ってね。まあ、冥王星(めいおうせい)かなんだかが発見されたのが千九百年代の前半です、ね。なかなか発見されなかった。まだこれからも未知なる天体があるんじゃないか。それで、第十番目の惑星、ね、こういうのがほんとにあるんじゃないか、というのが仮説で立てられています。 実際にね、第十惑星があるんです。これは、太陽の周り回っておるんです。ところがね、非常に何て言いますかね、発見は難しいんですね。地球から見た角度で、発見が非常に難しい位置におるんですね。この第十番目の惑星があるんです。これはおそらく私の予言ではね、今世紀中に発見されるでしょう。十番目、第十惑星の存在、これは発見されると思います。 ま、これについてはまた話、別な時にしてもいいですが、まだ発見されてない十番目の惑星があるんです、太陽系にはね。ちょうど地球から見て太陽の裏側の方にあるんです。だからわからないんです、なかなか。これはやがて発見されるでしょう。 ま、こういうのをね、ただ理論としてね、いろんな宇宙の観察しておって、星と星との動き方とかね、いろんな摂動(せつどう)って言ってね、摂理の摂、動(どう)は動くと書きますが、星の摂動とかこういうもの見ておって、そのすれとかね、いろんなの計算すると何かこういうものがあると説明がつく。なんかそういう惑星があるとこの意味があるとかね、こういう計算が立つんですね。こういう仮説立てるんですね。仮説を立てて何十年もして発見される。ま、こういうことがあります。 十惑星、第十番目の惑星も、今世紀中におそらく私は発見されると思いますけどね、これを言っておきましょう。ただ詳しい予言はあまり私はしません。なぜ、みなさんしないかわかりますか。それは、土屋書店さんのシリーズで『高橋信次の大予言』ていう本がでるんですね。だからあまり予言を本書でするとね、いけないんですね。予言はそっちに持っていくことになってるんで、それ買ってもらわなきゃいけないんで、これはちょっと予告にね、止(とど)めておきたい。まあこういうふうに思いますね。 。 今後いろんなものが発見されていきますが、それについて何かいつ頃発見されるか、このリストはすべて私の手の中(うち)にあるんです、本当はね。この手の中にあるんです。これを僕が読み上げたら、パラパラツと読み上げたら出てくるんですね。そうなんですよ。ただ時どき意地悪する人がいて、じゃあ、あいつが発表したんで、じゃあ違うようにしてやろう、なんていうのが、こんなのがまあ、あの世にもたまにおるんでね。まあだから難しい部分があるんだけども、自由意志があるからね。自由意志があるけど、だいたいどんなのが出てくるかはわかるんですね。 ただみんなね、実証の精神大事です、実際にそうであるかどうか。そういう新しい天体を見つけるっていう、こういうこと大事ですが、その前に理論があったということを忘れちゃいけない。あるかもしれないという仮説だね。理科系統では仮説というものを大事にしますね、仮の説。 実際、たとえば原子だとかね、分子だとか言うけど、あんなのみんな見たことないでしょ。ねえ、原子なんか見たことあるか、ね。素粒子なんか見たことないじゃないか、ね。しかし、こういうのは理論的に仮説立てて、原子があるとかね、言った人がいたわけだ。何十年か何百年か前にね、それで追究していったらやっぱりそれが説明がつく、ね。こういうことになったわけだ。原子というそういう固有の存在があるか、あるいは物質のその構成はエネルギー波に過ぎないのかね。物質エネルギー説、あるいはそういう素粒子説、いろいろあるんだよ。まあ、こんなのみんな仮説だね。 まず仮説があって、あと実証が続いていく。で、仮説が立つ理由は何かって言うと、これは天才、あるいはそういう優れた人たちの研究の結果、湧いてくるインスピレーションだね。ここだ。結局ね、科学的な実証精神と言っても、根本は霊的世界からの啓示があって、あるいは直観、ひらめきというのがあって、それをやがて説明をつけていく歴史であるということだね。 だから理科系統の学問でも仮説があるんだから、みなさんね、宗教や哲学や思想だって言っても、ここで仮説があっておかしくない。だからね、認められないからといって言っちゃいけないっていうのはこんなの問題ですよ。仮説を立てるわけだ、どんどん仮説立てればいい、ね。そしてそれをやがて時間かけて説明していく。こういうことでいいんだと私は思います、ね。 だから、これから霊言集なんか読む世の人たちがね、「そんなの認められない。インチキだ。ウソだー」なんて言う人もいるかもしれないけど、理科系統だってそうなんだから、仮説立てて、それ説明するのに何十年もかけてやるんだから、決して気にしないでいいよ。そんなの気にしなくていい、ね。だからまず、そういう理論が先行するんだからね。まあそういうように思って下さい。ただそれをやがて説明つけようという考え方、精神だけが大事ですね。この実証の精神だけは忘れてはならん。私はそう思います。 5.科学万能主義の次に来るもの さて、本章の最後を話をまとめるにあたってね、十九世紀、二十世紀というのは、科学万能の時代と言われました。科学万能そのもの、科学そのものはね、来世紀も続いていくでしょう。おそらくね。ただ、科学はね、今後大きく変わっていきます。今、時代の最先端に科学はあるように言われてるけれども、来世紀以降は、科学というものは、奉仕するものという考え方が強くなってきます。何に奉仕するか。人類の幸福に奉仕するものである。こういう考えですね。これが非常にはっきりしてきます。 科学があって、そしてそれがその結果によって人類が幸福になったり不幸になったりするというような、こうぃう結果論としての幸福論が今世紀はあったと思いますね。科学が発達して、その結果論として幸福になったり不幸になったりする。ダイナマイトが発明されて、結果論としてそれが幸福になったり不幸になったりする、ね。飛行機が発明されて、結果論としてそれが便利になるけど戦争が起きたりする、ね。こういうようになりますね。水爆が発明されて、結果論として人類が死ぬ。こういうことになりますね。 ま、そういうように、まず科学が先行して、そのあと現象の世界で善悪が出てくる。こういうパターンが多かったと思います。 それは科学する人、科学者の中に、そうした理想論、あるいは正法の精神がないからです。やっとる人たちが、現実そのもの、あるいは実験そのものに取り組んでおって、その方向性についてのコントロールができておらんかったからです。これへの反省が今世紀の末を境に出てくるでしょう、非常に。 過日、チェルノブイリですか、ソ連の原発事故がありましたけども、こうしたことが今後数多く起こっていくでしょう。そして、科学、無軌道の科学ね、これに対する反省が非常に生まれてきます。そして、幸福に奉仕するための科学という観点がね、非常に強くなってきます。科学そのものには値打ちがない。科学はあくまでも補助者であり、奉仕するものである。だから何に奉仕する科学であるかということが、一番大事である、ね。人類の幸福増進、あるいはこれから神に対する科学、ね、こういう何々に対する科学という考え方、ナンバー2としての科学、そういう意味合いが非常に強くなってくると思いますね。 だから、今後は、今、宗教と言われているものの中に科学的精神がいっぱい入って来ます。神の科学であり、人類幸福のための科学ですね。そういうのが非常に強くなります。アメリカとかヨーロッパでは、精神医学という形で、本来宗教が持つべき使命の部分を精神医学というものが大部になうようになりましたけども、まあ精神医学でなくても今度、別な科学で、方法で、科学的宗教、あるいは神の解明、霊の解明、こういうのが出て来ると思いますね。 だから科学万能主義の次に来るものとしてね、奉仕のための科学、まあそうぃう幸福のための科学、方法論としての科学、目的としてではなく、方法論としての科学が来ると、ま、これを予言することができますね。そういう話をして、本章は終えると致しましょう。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/362.html
目次 1.愛の意味 2.男女愛の高度化 3.家庭愛の進化 4.性と罪悪感 5.罪悪感の起源 6.神理と性欲 7.高次の目的を持て 8.愛と性を超えて (1988年5月13日の霊示) 1.愛の意味 谷ロ雅春です。さて、本章では特に読者の皆さんからもご依頼が多いので、「愛と性の問題」について答えてみたいと思います。 宗教家は、愛については説くことが多いけれども、性については特にタブー視をしていて、なかなかそれに踏みこもうとしない。その理由として自分自身、語る程の経験がない場合も多いが、やはりタブー視、罪悪視して、逃げているというのが現状ではないかと思う。 私は、生前からもずいぶん話はしてきましたが、やはり、この愛と性の問題を解き得ずして、本当に人々へ福音(ふくいん)を伝えることはできないと思うのです。これは、現代の宗教家の使命の一つだと思う。 確かに今から二千年も三千年も前の人であれば、こうした欲望に対して恬淡(てんたん)であれたかも知れないけども、現代人であってこうした性欲というようなものに、まったく関心を持たずに飄々(ひょうひょう)と生きるということは、そうたやすいことではないし、また、そういうふうに生きるということが、一つの変わり者か何かのように言われやすいということも事実であろうと思います。 この意味において、やはり宗教家の使命として、どうしてもこの問題は避けて通れない。単にきれいごとだけを言うのではなくて、具体的、実践的な問題についても答えてゆかねばならん。それが、宗教家の使命ではないのか。私はそういうふうに思います。 こうして見ると、愛という意味も、私は単なる観念論だけではいかないと、このように考えます。やはり、実践というものがどうしても大事だ。実践を伴った愛というのが、どうしても大事であろうと思う。 そこで、愛というのをどのように定義するか。キリスト教的に言えば大変美しい言葉で綴(つづ)られていると思うけれども、具体的にわかりやすく愛とは何か、どういうことなのか、ということを話すとするならば、結局こういうことだと思う。他の人に対して、思いやりを持ち、思いやりの行為をすること。「深切行(しんせつぎょう)」を行ずるということだ。前も少し言ったけれども、「深切」というのは、「深く切なる」と書く。深切行、深く切なる態度で人に接するということだ。通り一遍、表面だけの生き方をしないということだ。 何気なく投げかけた言葉で、人を不幸にするというようなことはいくらでもある。ちょっとした不注意から、人間は不幸になることがあるのだ。そういう現実を知った時に、やはり、私たちは愛に対して、それほど無関心ではいられない。他人に対して無関心ではいられないと思う。自分の傷ついたこと、苦しんだことの原因のほとんどは、やはり人の言葉であったり、態度であったりしたことが多いであろう。それをどう受け止めるかという問題、どう聞くかという問題はあるけれども、やはりそれとは別に、能動的にどのように話していくか、どのように接していくかという問題が残っていると思う。 こうしたふうに、具体的な実践を伴わないで、愛だけを語るということは、これは不毛であると私は思います。愛を語る者よ、まず実践せよ。実践の中に、汝の言葉は光ってくるのだ。汝の観念も光ってくるのだ。そのように考えます。したがって、愛について説けば説くほど、考えれば考えるほど、実践ということの大事さというものを考えて下さい。実践を伴わない愛は意味がない。死んだ愛です。 実践とは何かと言うと、具体的には自分が今、何らかの関わり合いを持っている人に対して、いったい何かできるかを考えてみることです。これができると思ったら、この利他行(りたぎょう)、愛他行(あいたぎょう)を、愛行(あいぎょう)をまずやってみることだ。それで結果が悪ければ、何か自分の思い、あるいは自分のやり方に問題があったのではないか。そうしたことを振り返ってみて欲しいと思います。 2.男女愛の高度化 さて、愛についての一般論を述べたわけだけども、男女愛について、さらにその高度化ということについて語っておきたいと思う。 現在はここが一番乱れているであろう。男女の愛ということが、男と女が性器と性器を合わすという、それだけのことを愛と言っていることが多い。特に十五や十六で「あなたを愛します」というのは、そういうことの方が多いようだ。これは大変問題が多いと思う。 中学生売春、高校生売春というようなことも起きたり、そうしたところで異性をすぐ知ってしまうというようなことが、よくあるけれども、この問題点はいったいどこにあるかと言ったら、まあもちろん性的な行為そのものが悪いとは私は言わんが、それはそれで何も悪くはないのだけれども、ただ、それは幸福という観点から見た時に、本人の長い意味での幸福にならないということだ。親とか、先生とかは、もうちょっと幸福論の見地からも説くべきだと思う。幸福論の見地から防衛をしておく、予防をしておくということが大事だ。 一つには、もちろん女性の場合には、妊娠出産というようなことが予定外に起きるということがあるし、こうしたことはもちろん生まれてくる子供の両親が経済的にも、社会的にも、ある程度立場を確立しているということを前提としている。こうしたこともあるし、では避妊さえしていればよいのかという問題だけれども、結局どういうふうになるかと言うと、「擦(す)れっ枯(か)らしの男女」ができるわけです。擦れっ枯らしの男と擦れっ枯らしの女ができるわけだ。特に十代からできてしまう。これが本当の意味で人間的な幸福につながるかと言えば、私はつながらんと思う。それははっきりしている。 なぜつながらんかと言うと、本当の純粋な愛というのを、あるいは恋愛と言ってもいい、人間が人間として成長していくためには、純粋な恋愛というのを経験しなければいけないのです。純粋な恋愛というのは、肉欲というものを、もちろん想定しないわけではないけれども、それが達成されない、そうした状況において、異性をどれだけ理想化し得(え)るか。これは、人間が大きく成長していくためには、どうしても必要なロマンなのです。 皆さんはそれを知らぬかも知れないけれども、十四や十五で異性の肉体を知ってしまったということは、どれほどその人の青春を汚しているか、虚(むな)しくしているかということの意味を考えていただきたい。十六、十七、十八。十九、二十。二十一、二十二、二十三。この頃は、異性というものがとても素晴らしく、美しく、理想化して見える時だ。この時期は、神さまが私たちに下さった大切な時期なのです。この時期に異性というものが素晴らしいと見えなければ、理想化して見えなければ、その人は一生異性というものを、肉欲の対象として見続けねばならんようになる。これは非常に寂しい人生であるということを、知らねばならんと思う。 これは結局どういうことかと言うと、月給日の前に前借りで、すべて使ってしまう。あるいはボーナスの前に、ボーナス金額前借りで、すべて使ってしまう。そうした発想と同じだ。ボーナス日になったら一円も入らない。ボーナスには借金を払っているだけであって、一円も入ってこない。こうした人生観とよく似ている。そういう意味で、現在のクレジットカード時代と非常に軌を一にした考え方かも知れぬ。 私は、この理想――男女の理想――恋愛という、神秘的な感覚、これをどうしても皆さんに通って欲しい。異性の肉体を知ってしまった人は、異性を理想化することはできないんだ。それがいい女かどうかとか、いい男性かどうかとか、こういうことでしか見ない。肉体的にしか異性を見なくなる。精神的に相手を恋する、理想化するという時期は、これは人間の生長にとってもどうしても必要なのです。これがなければ、文学もなく、哲学も、詩も、なんにも成熟しないのです。私は、その魂の純粋な時期というものを、何年間か持っていて欲しいと思います。 女性には特にそうした純潔が要求されることが多いが、男性は、たとえば童貞であるというようなことを恥ずかしいことのように言うけれども、私は、男性諸君にも童貞であることを誇って欲しいと思う。特に、二十五才までに男性が、女性を経験しているのとしていないのとでは、実は魂的には大きな意味の違いがある。 二十五才過ぎるまで、異性というものを直接経験しないで生きた男性というのは、魂の中にそれだけ理想的傾向がある。これは事実です。現実を克服しようとする理想の力がある。この力は、やがて大きなものを生み出していくことになる。これは事実です。いちばん欲しい時に、いちばん異性が欲しい時に、それを我慢してより高次なもののために努力した経験のある人間というのは、やがて、社会に出て多くの仕事をやっていくようになると思う。歯を食いしばってね――。それが、「まあ、あるがままでいい。まあ、ある時はある時で、その時その時でやっていけばいい」という人間との違いとなっていくと思う。 したがって、本書の読者の中にも若い青年は多いと思うけれども、二十五才を過ぎてまだ女性を知らんという男性がいたら、私はおおいに称賛したい。君たちは克己心(こっきしん)がある。忍耐心があると思う。異性などは経験してしまえば、どうということはないことだ。たいていの人間は、結婚して一ヶ月もすれば自分の妻に飽きてくる。ま、そうしたものだ。三ヵ月ももてばいい方、長い人で六ヵ月、それ以上過ぎれば、「なんだ。こんなことであったか」と、自分があれほど恋い焦がれていた女性というのは、こんなものであったのかと――。こういうふうにたいていの人は感じる。このために、「ああ、あんなに苦しんで損をした」、こういうことになるわけだ。 ただ大事なことは、一人でいろんなことを考え抜くという性格をつくるということ。これは、青春期でなければなかなかできない。二十代でそうした思索的経験を持たない人にとっては、将来、大成するということはないと思う。 この意味においては、私は男女の結婚というようなことは、やはり、これは社会的にそれ相応の立場、経済的条件、こういうものができた時になして当然であって、その先食いのようなことはしない方がいい。それは大いなる幸福の観点からもしない方がいい。 また、男女がお互いに初めて結婚生活に入るということが、どれほど新鮮であるかということを考えていただきたいと思います。決して、そういう性のテクニシャンみたいなものばかりが幸福をつくっていくわけではない。未熟であっても共に生活していく。この方が、私は大きい眼で神の心に適(かな)っていると思います。 3.家庭愛の進化 さて、家庭愛ということに関して、少し考えてみたいと思う。先ほど男女愛ということを話したけれども、男女愛の次は、結婚するわけだから、家庭愛、こうしたことに入ってくるわけです。 家庭愛もなおざりにされているところは非常に多いと思う。宗教の影響力というのが非常に現在では弱まっているがために、家庭での夫のあり方、妻のあり方、これを教えてくれる人がいない。親の子に対する接し方、子の親に対する接し方、これを教えてくれるところがない。それゆえに、家庭の内部については、まったくの治外法権となっていて、任せっきりになっているわけだ。好きなようにしなさいと、こういうふうになっているわけだ。 そして、この家庭の砂漠化、家庭の不毛さが、結局社会の活力を鈍らしたり、社会の道徳を鈍らすということになっているのではないかと思います。 これに対抗するためには、いったいいかなる方法があるか、これについても考えてみたいのだが、結局は、ひとつの理想像が今欠けているのではないか。そういう結論に達するわけです。家庭愛に対する理想像だ。これが欠けている。 これは、たとえば会社であれば、仕事をすればするほど勤務評定されて、給料が上がるというようなことがあるわけだけれども、家庭の中では、妻を愛すれば愛するほど給料が上がるとか、夫を愛すれば愛するほど妻の小遣いが増えるということも、それほどないわけだ。こういうことで、評価されない面がずいぶんあるし、お互いに慣れ合いというところがあって多くを慣れ合いでやってしまう。こういうことがあると思う。 ただ私は、家庭の中でくつろいでいる時間があることも大事だけども、その中でもやはり、役割の違いというものを忘れてはならんと思う。やはり、夫は一家の大黒柱としての自覚、これがなければいけない。だから、妻や子に対して泣きごとは言ってはならん。泣きっ面(つら)を見せてはいかん。こういうところがある。どんなことがあっても、「最後は俺が解決する」という頼もしい性格、これが必要であろうと思う。 また、妻は妻で、いつまでも我(が)を通してはならん。素直に「はい」と従う心、これが大事です。家庭調和の根本は、「はい」という言葉です。「はいっ」とそのままに受ける。そのままに従う。そのままに動く。この気持が大事です。素直な気持、「はい」の心、「はい」という言葉だ。今、「はい」と答える妻がいったいどれだけいるか。「いえ、違います」というような受け方をする妻が、非常に増えていると思う。これは嘆くべきことだと思う。 「はい」という言葉――これが、日本女性の美徳であったのです。「はい」と素直に受け取る心。旦那さまがもし悪いことを言うようなら、その悪いことを言わせるように旦那さまをしむけたのは自分である。したがって、その悪い言葉であっても、そのまま「はい」と受ける。それは自分が至らないからである。自分がもっと一生懸命にやっていれば、旦那さまはそんな無理なことはおそらく言わんであろう、そういう気持が大事だと思う。 女性が「はい」という気持を持っておれば、夫婦生活、夫婦の夜の営みもまた正常になってくるだろう。女性の方が自我意識が強いと、夜の生活もだんだんおかしくなってきて、遠ざかっていくようになる。たいていの場合は、女性の意識が、自我意識が強すぎる。こういう場合には、男性はだんだん安らぎを得られないので、夜の生活を拒否していくようになっていく。 すなわちこういうことだ。女性というものは、男性をくつろがせるような性格でなければいけない。その意味で受け身であって、また、優美さをたたえていなければいけないと思う。権利意識の強い女性の場合は、男性はだんだん遠ざかっていくようになっていく。この辺についても、深く考えておいていただきたい。そのように思います。 4.性と罪悪感 さて、性の問題を語っているわけですから、「性と罪悪感」ということについても、話をしておきたいと思います。 仏教でもそうですし、キリスト教でもそうで、「性」ということに関して、それほど好ましい評価はないし、むしろ欲望という言葉に近い言葉で、表されていると思います。 釈迦が、男女の性というようなものを否定した。その方向に行ったということは、厳然たる事実であります。また、キリスト教の方でも、性欲、性愛というのは、海の水だ、塩水を飲むようなものでのどの乾きを潤(うるお)すことはできない、次から次へとのどか乾いていく、こうした塩水のようなものだ、こういうふうにイエス様も言っているところがある。これはもちろん、釈迦、キリストといえども、自分の生き方、これによってかなり、人生観を左右されているという事実がある。それゆえに、いかんともしがたいところがある。 もちろん性生活というものも、ごく秘められたところがあって、あんまり露骨にその性生活というのが出てくると、いやらしいという気持を受けるのは、これは万人の感情であるので、性の中にはそうしたものもあるということは事実です。 けれども、神聖な営みであるということも事実です。子孫をつくる、という神聖な営みであることは事実で、これを馬鹿にはできない。そのために結婚という儀式をして、親類やあるいは知り合いとかにみんなに祝福してもらって、家庭生活に入るわけです。こうして見ると、性というものは非常に両面性を持ったものだという感じを受けるわけですね。 ただ性というものが、これが子孫をつくるためだけにあると考えると、これまた苦しいことになる。たとえば夫婦生活をしていても、子供二人と決めているなら、その二人の子供をつくってしまえば、もうそうした夜の生活がいらないのか。それは罪なのか。情欲なのか。煩悩なのか。 こうした問題があるということですが、私はそこまで厳格に考えることはないと思う。人間というのは、やはり、ある程度の範囲でゆとりというものも大事だと思うし、楽しみというものも大事であろうと思う。杓子定規(しゃくしじょうぎ)に人生を生きていくだけが、本当の生き方ではないだろう。もちろん手あたり次第に異性に飛びつくというような性格であっては、心の安定もないであろうし、性格の安定もないであろう。 多くの人に祝福されて、自分に合うと思われた伴侶と一緒に生活をしているからこそ、その一定の範囲の中である程度の自由性が許されていると、このように思ってよいと思う。したがって、子供をつくる時以外に性生活はしてはならんという考えは、やはりこれは考え方が違っている。こう思っていいだろう。 というのは、それは人間の生理そのものに起因しているということだ。人間の生理というものは、肉体的に体力があれば一年中いつでもあるようになっている。こうであるならば、やはり、子供をつくったということ自体で、そうした感覚がなくなればいいけれども、そうもならないというところを見ると、まだ夫婦生活をすることが許容されていると、そのように考えてもよいと思う。 性に関しても、特に罪悪感が非常に強い人が多いが、私はもう少しおおらかな考えを持っていてよいと思う。異性に触れれば悟れないとか、地獄に堕(お)ちるとか、こういうふうに考えるのではなくて、もっと魂が伸び伸びとしてもよいのではないか。そうした感じを強く持っています。 5.罪悪感の起源 性と罪悪感について話をしてきましたが、この「罪悪感の起源」ということについても、多少語っておきたいと思います。 こうしてみると、罪悪感というのはいったいどこから来ているかというと、ひとつには、やはり羞恥心(しゅうちしん)からも来ているということが言えるだろう。人から見られたら恥ずかしい。こうした気持から羞恥心が起き、その羞恥心が罪悪感に到っている。こういうふうに言えるのではないかと思う。 また、罪の意識などもそうであろう。罪を犯したという行為、誰にも知られていないと思うが、もし神に知られたら恥ずかしい。神さまから見られたら恥ずかしいという思いから、次に罪悪感へと転化していったのではないか。私はそういうふうに感じるわけです。そうすると、結局、罪悪感というのは、この羞恥心からかなり来ていると言えると思う。 こうしてみると、仏教者たちの罪悪感がどこから来ているかと言うと、やはり似たようなところから来ていると思う。「仏教をやっているということは、悟りを求めている修行者である。修行者であるのに、こういうことをしていたら一般の人から見られて恥ずかしい」。こういう思いがある。肉が食べたいとかいうような思い、これが恥ずかしい。異性への思い、これも恥ずかしい。こうした気持がある。もう一つは、根本仏、仏から見られたら恥ずかしい。こういう気持もあるだろう。こうしたところが、罪悪感の起源でもあろうと私は思います。 こういう観点から見た時に、私は、罪悪感というのはどういうことかと言うと、結局、宗教家たちの罪意識、これから来ているのではないかと思う。 ではなぜ、宗教者たちがそうした罪意識を持っていたかと言うと、すなわちこれは、自分自身に対する「ねばならない」という言葉による執着、あるいはひっかかりが多いのではないか。私はそういうふうに思うわけです。宗教者たちは、とにかく「ねばならない」という考え方が強い。「かくあらねばならない」――枠に入れていくわけです。戒律を自らに課していきます。そして、人にも課していきます。こういう「ねばならない」という意識、とにかく修行せねばならない。「ねばならない」でいろんなものを縛っていく。こういう傾向があるだろう。 羞恥心を経由して、罪悪感が生まれるという話を先ほどしたけれども、次に別の観点から見るとするならば、この「ねばならない」が罪悪感の正体でもある。こう言えるのではないか。「自分は自分で自由に生きる」と、ロで言うことはたやすいが、実際に生きれる人はそう多くはない。その自由に生きるということが、本当に神の心にかなっているかどうかがわからんからだ。だから、わからないということによって、周(まわ)りの人が守ろうとする規律に従おうとする。それで、それを破ると良心が痛む。こういうことだ。 たとえば、小さい頃から「酒を飲んではいけない」というふうに教わると、酒を飲むということに何か罪悪感を感じる。人間がつくったこういう罪意識というものも、ずいぶんある。酒というもの自体は、別に善でも悪でもないと思う。飲む場所さえ間違えなければ、これは善になるであろう。くつろいだ雰囲気で飲まれる時には、本当にいいことになるだろうが、これがたとえば勤務時間中に酒を飲むというようなことになれば、たちまち悪になる。あるいは受験勉強中に酒を飲むということになれば、これが悪になる。 こういうふうに善悪というのは、その時、ところ、あるいは人によって、善となったり悪となったりして現れることがあると思う。これを、その「時、ところ、人」によって区別しないで、どこでも悪だというふうに決めつけるところに、罪悪感の罪悪感たる所以(ゆえん)があるように思う。 したがって、いつのまにか「ねばならない」ということになるわけだ。英語で言うと、した方がよい――ハド・ベター(had better)ということが、しなければならない――マスト(must)という言葉に変わってくる。求道(ぐどう)の気持が強ければ強いほど、そうした傾向があるということが言えると思う。 私は、いったんこの罪悪感を断ち切るべき時がもう来ているのではないか、そういうふうに思います。仏教やキリスト教で何千年にもわたって、人間は燻製(くんせい)のごとくこの罪悪感という煙でいぶられ続けて来たわけだけれども、そろそろそれから離れて、もう一度新たに人間観を打ち立てるべき時が来ているのではないのか。 本来人間は神の子であるならば、本来人間無罪のはずです。人間はもともと罪の子だとする考え方には、私は反対です。そうした考え方が結局、言葉の創化力によって罪悪観をつくり、また罪悪観が悪しき現象を起こしているのではないか。このように考えるわけです。したがって、「罪がある」、「間違った」、「お前は堕落した」というような言葉を使わないことだと思います。「良くなるんだ。良くなるしかないんだ」という言葉を、常々使っていく。そうしたことが必要だと思います。 6.神理と性欲 さて、「神理と性欲」ということについても、話をしておこう。 私は、真理という言葉はいつも「真の理」というふうに書いていたけれども、「神の理」と書いているようだ。これはこれでよいだろう。「真の理」というよりも、真が何かわからないというならば、「神の理」ということでいいわけだ。「神の理」、「神のルール」ということだ。この神のルールと性欲の問題を考えてみたいと思う。 仏教では地獄観というのがあって、「地獄がいっぱいある。八大地獄というのがある。その中には、色情地獄というのが厳然としてある」このように言われている。「谷口雅春は、『罪悪感を去れ。本来罪はないのだ』と言うが、色情地獄というのが本当にあるのかないのか。あるとすれば、それをどうするのか。現にあるのに、『罪はないのだ。ねばならないにひっかかるな』と言うならば、これは大変な惑わかしではないか。その言葉につられて、本当に地獄に堕(お)ちたらいったいどうしてくれるのだ」、こういうふうに言う人もいると思う。 さて、ではどういう性欲がその地獄というものにつながっていくのか、ということだ。本来地獄は無いものであるけれども、一時的な現象、過渡的な現象として、それもあるかに見えることもある。それは、人間の魂が正常でない場合だ。元通りに戻っていない、心を病んでいる場合に、そうした地獄という現象が現れてくるわけだ。 その地獄の現象の中に、色情地獄というものもないわけではない。これはどういうことかと言うと、色情関係に関する心の病のある人たちが集まっているということだ。地獄というふうに言うことは必要もないけれども、そうした同じ傾向の者が集まっている。そのように言うことができると思う。同じ傾向、魂において引かれ合うもの、同じ波長を出している者同士が集まっている世界があるということだ。 この地獄というのを見た時に、何が問題であるかと言うと、すなわち、これは価値の転倒を起こした人たちが行っているところだということだと思う。その人の人生観というのが非常に大事です。唯物的でこの世的、そして人生の最高のものは、もうこれは性欲の達成以外にない、また、そういう思いでもって実践してきた人、こういう人がだいたいそうしたところに行っていると思っていい。 男女の愛の問題、男女の性の問題に関して、いわゆるノイローゼ患者になったような人です。あるいは三角関係で悩んだり、離婚問題で悩んだり、結婚問題でものすごくトラブルを起こしたり、こういうふうにとにかく男女の問題でトラブルが起きやすい方。こういう人が心のノイローゼ患者として、そうしたところに行くということだ。 そうすると、このノイローゼ、その性欲に関するノイローゼについて検討する必要があるということだ。これは、私は基本的には先ほども言ったように、「一夫一婦制」すなわち、妻と夫、これがいて家庭をつくっていくという基本的な枠組みをくずさない方がいいと思う。これでもって、人間はある程度満たされていくと思う。独身者たちにある程度の理性ある行動を求め、そして早く夫婦になっていくように。こうした方向でやっていった方がいいと思う。 性欲そのものは、神の理に反することもどうこうするということもないのだけれども、その使い方、これが問題だ。一日中、性欲で頭がいっぱいのような人であるならば、これはやはり心に問題がある。やはり病気である。心の病気である。このように言える。したがって、そうした心の病気がなくなるようにもっていく必要があると思う。 結局、神理というものは、「これはしていい、これはしてはいけない」ということよりも、それを行うことによってどれだけ心が乱れるか、調和されるか、こうした基準でもって計(はか)っていると言っていいだろうと思う。心の乱れを解く。こういうことが必要なのではないか。私はそういうふうに思います。 7.高次の目的を持て さて、性の問題を解決するにあたって、もう一つ大事なことがあると思う。人間は、同時に二つのことは考えられないということが、よく言われることです。この延長上に、やはり、性欲だけで頭がいっぱいであると、それ以外のことができない、ということが言えると思うのだな。特に受験期の子供たちの場合、異性への欲望をつのらしているとどうしても勉強ができない。高校三年ぐらいになると、恋愛をしているとどうしても勉強ができない。いつもいつも相手の顔が浮かんできて、もう勉強が手につかない。こういうことがよくある。 したがって、人間の心の傾向、二つのことを同時に思えないという傾向から見て、この性欲ということが一時的に悪に見えることがあるということだ。これに対して、どのようにそれを解消していくか、昇華していくかという問題がありますが、私は一つには、人生の目的にも関係するのではないか、そういうふうに思います。高次の目的を持つということだ。人生において高次の目的を持つ。高次元の目的を持つということが、大事ではないかと思う。 それは、心に同じく二つのことを思えないならば、高次のことを考えておれば、同時に低次の考えは浮かんでこないということだ。したがって、高次の目的に対する時間を持てば、その間低次の目的に対する時間が減っていく。そういう相関関係があるということなのです。 だから、この高次の目的を持って生きていない人にとっては、毎日が停滞生活です。毎日がゴロゴロしていて、毎日が何か刺激さえあればよいというような、そうした生き方になってくるわけだ。このような生き方であれば、人生は非常に苦しい、またはかないものだ。何か楽しみごとでもないと、やっていけない。そういうふうになって、やや動物に近づいてくるわけだ。動物には明日がないといわれるけれども、正しくその通りだ。動物には明日がない。明日何しようかというのを考えていない。とにかく目先のこと、今日一日のことしか考えていない。 高次の目的を持っている人というのは、やはり将来のビジョンがある方であると、こういうふうになる。将来ビジョンのための今日唯今(こんにちただいま)がある。そのための久遠(くおん)の今がある。今を生き切るのである。こういう考え方があるということだ。 したがってね、一つの性欲の解決策、性欲に翻弄されて苦しんでいる人たちに対する私からの提案は、「高次の目的を持て」「崇高な目的を持て」、こうぃうことであろうと思う。 あとは、もし日中性欲がムラムラと起きて、どうしようもなくなってきた時にはどうしたらいいかというと、御両親の顔を思い浮かべたり、あるいは会社の上司、上役の顔を思い浮かべる。その人の前で自分が今いるとして、どう思われるか、どう感じるか。こういう感じだ。厳粛な感じになってみるということだ。これが非常に大事なことだと思う。 それと思春期にあって、とにかくもう肉体の欲に引きずられていく男女にあっては、相手にも御両親があるということを考えて欲しいと思う。たとえばあなたが若き男性だとして、道で通りすがりの女性を誘惑したいという気持に非常にかられるとする。その時に相手にも両親があり、また兄弟があるということを思って欲しい。行きずりの性欲の対象者として見るのではなくて、相手にもそうした人間関係があるということを思って欲しい。自分にもし妹がいたら、どうだろうかというようなことを思って欲しい。自分が親であって、娘を持っていたらどんな気持がするかということを思って欲しい。 そうすれば、必ず幸せになって欲しいと思うはずだ。自分の娘にそうなって欲しくないと思うようなことは、自分も人にはしないことです。これはイエス様や孔子様も言っているように、「汝(なんじ)の欲せざるところ、人に施すことなかれ」ということだと思う。結局、息子や娘を持ってみると、よくわかるのです。その気持がね。そういうことだと思います。 8.愛と性を超えて さて、最後になりましたので、「愛と性を超えて」という話をしておきたいと思います。 さあ、高次の目的という話をしましたから、これでもって愛と性を超えるという考え方もあるけれども、結局、私はこういうことだと思うのです。人間は忙しく働いていると、性欲、あるいは性生活についてそうそう考えておられない。かまっておられないという面があると思う。ところが、暇で退屈だと、どうしてもそうしたものにひかれていくということだ。 それと、もう一つ言っておきたいことは、現代のこの性の乱れ、性風俗の乱れの根本原因は、夜型生活にあると私はみています。 夜の時間帯というのは、非常に想念が乱れています。欲望の想念でいっぱいになっている。街角(まちかど)、特に都会の繁華街は、もう欲望の想念がいっぱい渦巻いている。こうしたところを通っていれば、ついフラフラフラと、いろんなものに誘惑されるようになっていくと思う。こうした生活は、今の都市型の生活の弊害がきていると思うのだ。 さすれば私は思うのだが、やはり夜型生活は改めていく必要があるのではないか。朝型生活に切り換えていくということだと思う。たとえば、朝の五時、六時に起きて生活していて、朝の清新(せいしん)な空気に触れ、朝日を浴びた時に、そうしたことが頭に浮かぶだろうか。思わないのだ。たいていは脳が疲労した夕方から夜になってくると、そうした煩悩が角(つの)をもたげてくる。 できるならば朝型生活に切り換えて、そして夜はもう日が落ちて夕食を食べたら、すぐぐっすりと眠る。こうした生活をしている方が、私は健全であり、間違いがないと思う。愛と性を超える一つの方法は、朝型生活にあり。私はそういうふうに思います。 そして朝型生活に切り換えて、朝の時間にしっかりとした神理の書を読むことです。勉強することです。偉人の書を読むことです。寸暇を惜しんで学んでいくことです。さすれば天才ができてきます。そして、人類のために尽くす人が出て来ると思う。 古来、偉人や天才たちはみんな性欲がなかったかと言えば、そんなことはありません。非常に強い性欲を持っていたと思います。そして愛についてはどうかと思うと、愛についても非常に強かったし、また、異性に対する恋愛感情も非常に人一倍強かった。あのゲーテをみても、ずいぶん恋をしていますし、その恋は八十を過ぎてもとどまることはなかった。そうした方であったと思う。 ただそれは、結局その人たちがバイタリティー、エネルギーをそれだけ持っていたということの証拠だと思う。要はこのエネルギーを、どのように使うかということだ。より高次な目的のための奉仕として使っていくならば、それだけの多くのことができるということだ。 私は詩人のゲーテや、あるいはハイネが、恋多かったこと、これを一向に悪いこととは思わん。そのために彼らは多くの詩をつくったではないか。多くの詩をつくることによって、人類に奉仕したではないか。人類の心をなぐさめたではないか。もし、ハイネに異性を思う心がなく、性欲もなければ、私たちはあのような詩を読むこともなかったであろう。ゲーテにまた、異性を思う心がなければ、あれだけの詩を読むこともなかったであろう。そうぃうことだ。 事実は事実としてあっても、それをどちらの方向に使っていくか、向かわせていくか。ここには無限の選択の可能性がある。この事実を知って欲しい。そして、諸君にも早く「愛と性の問題」について、より高次な解決をしていくように願う。結局「ああそんなこともあったな」というぐらいで越えてしまって、日々日々、毎日毎日が、価値ある仕事の連続体であるように、そういうふうに生きて欲しいと思う。まあ、以上です。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/350.html
目次 1.宗数的常識の欠如 2.狂信、盲信への恐怖心 3.万教帰一理論と間違った新興宗教 4.宗数的常識の確立と「生長の家」の教え 5.人類に罪ありやなしやの問題 6.「罪」と「包み」 7.人間罪の子の思想と人間神の子の思想の効果の違い 8.クーエの成功心理学 9.光明思想の教育効果 10.自己実現と全託の精神 (1987年6月30日の霊示) 1.宗数的常識の欠如 それでは、第3章に入りまして、いよいよ私の語りたいこと、その本質、核心へと入ってゆきたいと思います。題して、「人類無罪宣言」と、こういうことで話をしてゆきたいと思います。 まあ、この人類無罪宣言ということに関しては、ひとつの思い出があります。 昔、あるラジオ局で私が真理の話をしておったときのことでありますが、そのとき、もちろん生番組ではなくて、録音をして放送をしたわけでありますが、そのラジオ局の責任者が、私の講演のテープを聞いて、こういうことを言ったわけであります。 谷口雅春は間違っておる。なぜなら、この講演のなかで、彼は人類には罪がないと言うている。こんなはずがない。人類に罪がないなら、何のために宗教があるのか。何のために救いがあるのか。そういうことの意味がないではないか。もう救われておるものなら、救う必要がないし、罪がないなら、その罪を許すための宗教もいらんではないか。にもかかわらず、谷口は人類に罪がないなどと言っておるが、とんでもない間違いだ。こういう間違ったものを電波に乗せるわけにはいかん。 と、まあ、その放送局といいますかね、ラジオ局の責任者は、そういうことを言ったわけであります。そして、人類無罪という部分について、私は修正を求められたわけであります。 このことに関しては、私は、深く心に傷と言っては大袈裟(おおげさ)ではありますが、やはり残念な気持ちというものが残ったわけであります。 宗教家は、現在、日本ではずいぶん警戒されておって、なかなか宗教家に自由に書かせてくれるところもなく、自由にしゃべらせてくれるところもないんです。言論出版の自由とか言いながら、実際問題、宗教家に言論出版の自由があるかと言えば、そうではない。現にごフジオ放送のなかで、そういったことを言っただけでも修正を迫られる。まあ、こういうことがあるわけです。 思想、信条は自由ではないか。良心の自由があるではないか。そういうことを言っても、許されんわけであります。電波という公共性を通じてやる以上は、そんなのでは困る、と。で、困ると言っておるその宗教の常識論が、実は、根本から間違っておる。まあ、こういう世界であります。 私は、非常に不思議に思うのでありますが、なぜ宗教の世界だけが、こんな百鬼夜行のごとき景観を呈しておるのか。非常に不思議に思うとともに、残念でなりません。 学問の世界においても、もちろん新説に関してはいろいろと議論が戦わされるでありましょうが、少なくともそれが大筋において正しいか、正しくないかということは、客観的にそれを論証する道があり、通説というのがあって、大部分の人がそれを認めるという方法があるように思います。ですから、現実問題として、そういう通説的な学問に、大きな間違いというものがあるとは言えない。 けれども、こと霊の世界、魂の世界、宗教の世界になると、百鬼夜行の世界です。出版社でも、現在、いろんな霊的なものが、出されておったりしているけれども、残念ながら、その出版社の知名度とか、大きさとか、そうしたものは、まったくその中味とかかわっていないというのが、現状であります。 つまり、出版社の編集者や責任者たちも、宗教のなかにおいて、何が真実で、何が間違っておるのか、そうしたことについての共通の認識が得られないのです。あまりにも違いすぎるということです。 神道は、日本の神様を拝み、仏教は仏様を拝み、また、キリスト教は天なる父を拝んでおる。まあ、こういうことで、別々のものを信仰しておって、それぞれ我れのところのみが正しい、と。まあ、こういうことを言っておるわけであります。 こういう宗教の世界における混乱と共通認識のなさが、いわゆる宗数的常識というものの確立を大変遅らせておるものであります。 2.狂信、盲信への恐怖心 それと、もうひとつ、宗教的常識の確立を妨げておる理由は、やはり信ずるということを通しての人間の狂信、盲信による極度の変化、これに対する恐怖心というものがやはりあると思われるのです。 現在の日本を見渡して見ても、結局、宗教に対して悪いイメージを抱かしておるいくつかの団体があると思う。私は、これらの団体は、非常に反省、いや、反省というよりも、猛省をしなければいかんと思う。 自分のところの団体がおかしいのはともかくも、そうした活動をすることによって、宗教全体を毒しておる、誤解させておるという責任は、非常に重いものがあるのではなかろうか。私は、そう思います。 とくに、良い宗教が会員集め、信徒集めをするのはいいけれど、悪い者ほど熱心にやっておるから、これが非常に困るわけです。悪いものほど熱心にやっておる。 なぜそういうふうに熱心にやっておるかと言うと、これは、ひとつは、私は、生前あまり説かなかったけれども、地獄の亡者たちの活動というものがあるわけであります。地獄の亡者というよりも、地上を去ってまだ地上への執着がなくならぬ霊たちが、すなわち、本来の実相の世界に還っておらぬ霊たちが、いろんな人に憑いてそれを狂わしとるわけです。 とくに宗教団体というのは、そうした霊的な磁場ができやすいところでありますから、そこの教祖に入って、その教祖を狂わしてしまえば、その下に続く信者たちを狂わすのはわけないことであります。 そういうことによって、本来の実相の世界を知らぬ霊たちが、地上に執着を持って生きている人間に取り憑いて、つまらぬ自己実現をやっておるというのが、現代の新興宗教者たちの本当の姿だと言えるでありましょう。 結局のところは、こうした霊たちは、自分が苦しくて仕様がないから、救われたくて仕様がないのです。本当は救われたくて、救われたくて仕様がない人間が、そういう宗教団体に大量に取り憑いて、その後は、人を救うというようなことをやたらやりたがるわけですね。 まあ、人を救うということによって、何か自分が偉いような気になって、自分が結局救われるというような、気持ちだけ救われるというような、こういう気分を味わっておるのです。 3.万教帰一理論と間違った新興宗教 まあ、そういうことで、この新興宗教の大変な乱れというものを目の前にして、実在界に還った私も、またひとつ、意見を述べねばならぬと思います。 では、生前から谷口雅春が言っておるところの人類無罪というこの宣言は、そうした新興宗教家たちの活動をどう見るのか。彼らにも罪がないのか。そういうことについて、私は私なりの結論を出さねばならぬと思うのであります。 結局のところ、間違った宗教というのがあるのかどうか、そういうことについての話になるかと思います。 そして、これが万教帰一理論とのかかわりにおいて、大切になるわけですね。万教が帰一であり、唯一の神に帰一し、唯一の神より流れ出たものであるという定義は、現在活躍しておる、あるいは、活動しておる諸教、諸団体、こうしたものすべてが、神の意にかなったものであるかどうかといった議論とはまた違ったものがあるわけであります。 すべてが唯一の神から分かれたとして、世を迷わしているこうした間違った宗教をも神から出ておるのだと考えるのは、これは早計であります。 すなわち、神は、迷いというものを創ってはおらんからであります。迷いというものを実相と見れば、間違った宗教家たちも、もちろん、実相の神のためにつくしておるかもしらんけれども、実際、神は迷いを創らず、神は無明を創っておらんのです。そうであるならば、人間を狂わすような宗教を説かすのが神の本意ではないはずであります。 では、にもかかわらず、何故(なにゆえ)、間違った宗教家たちが何十万、何百万の団体を組織して、その教勢を広げんとしていることを、神は手をこまねいて見ておるのか。この問題、このむずかしい問題について考えていかねばならぬと思うのであります。 どの宗教団体の教祖にしても、自分の教えが間違っておるとはなかなか思わんであろう。したがって、自分の教えと矛盾する教えが出た場合に、それを異説、邪説として一蹴し、片づけたがるということが非常に多いと思うのですね。 また、現実におかしな団体が多いことも事実であるので、それを正しいものとそうそうは認めることができないということも、真実でありましょう。 裁判の世界だけでなく、宗教の世界においても、疑うべきは罰せずであればいいんだけれども、残念ながら宗教の世界においては、疑うべきは罰するというのがどうやら原則になっておって、信じられるのは自分だけであって、自分以外は、すべて信じられない。つまり、敵であり、悪魔であると考えがちであります。 こうした混乱のなかにおいて、共通のひとつの常識、宗数的常識というものもつくってゆかねばならぬと私は思うのです。 私が、生前、「生長の家」において、九十年間余りの生涯で説いてきた教えというものも、結局、この宗数的常識の確立ということがその大きな使命であったろうと思うのであります。 4.宗数的常識の確立と「生長の家」の教え 私は、人類の基底に流れておる思想というものが、単に仏教のみならず、キリスト教にも、日本神道のなかにも、また、アメリカの光明思想団体、ニューソートの流れのなかにも、あるいは、それ以前のドイツ観念論派のなかにも、真実のものが流れているということを説明してきたつもりであります。 というのは、本当のものというものに対して、その基盤、基礎をあきらかにしなければ、人びとが考え、判断する基準というものが、なくなってしまうからであります。 そういう意味において、人類の共通項、共通の基盤というものをあきらかにするために、私は努力邁進(まいしん)してきたのであります。そこで、こうした共通項、共通の思想、あるいは、教科書としてでも確立できるようなしっかりとした信仰の岩盤の部分、これを今固めていく必要があると思う。私は、強く、そのように思うわけであります。 そして、この共通の基盤のなかにおいて、いちばん大切な教えとは一体何であるかと言うと、結局、人間が神の子であるということを明確に謳うか謳わないかということ、これが非常に大事なのではないか、と。私は、このように思うのであります。 人間の性悪説、性善説というふうに、いろいろと古来から話をされておるけれども、やはり、性善説、つまり、本来善き者と考えて、所説を立てていくのが筋ではないか。そういうふうに、私は考えるわけであります。 そうでなければ、人間が本当にくだらない者であるならば、生きておること自体が罪であります。存在自体が罪であります。 本当に善きものだからこそ、真実永遠の生命というものを保ちつつ、人間は生きておるのではないでしょうか。私は、そう信ずる者であります。 5.人類に罪ありやなしやの問題 さてでは、人類に罪ありやなしや、この問題について考えていきたいと思います。まあ、これは、罪ということの概念、これにかかわってくるわけであります。 人類全員が、たとえば、天照大御神様のように光り輝いておるかと言えば、現実問題としてはそうは言い切れんのが事実であるし、また、宗教家たち、つまり、本人は神近きと思っておる宗教家たちの現実の姿とて、そうではないことは、常識のある日本人であるならば、先刻知っておるとおりであります。 そうしてみると、では、何をもって罪とするか。あるいは、罪はないとするか。この辺を徹底的に考えてみなければならんと思います。 私は、生前からよく説いてまいりました。罪とは、「包(つつ)み」のことであります、と。すなわち、罪とは、覆(おお)い隠すものであると、こういうことを言ってまいりました。 たとえば、百ワットの白熱電球がそこにあるとしても、それに風呂敷をかけてしまえば、光は出てこないわけであります。そして、曇ったような形になる。ただ風呂敷がかかっておるということは現実ではあるけれども、かといって、光そのものが曇っておるということでないことも、事実であります。 この白熱電球の部分は、無限に光を放ち続けているということが、人間が神の子であり、生命の実相において神と本質をひとつにするものであるという意味なわけであります。つまり、人間に罪はないけれども、包みというものがあるように見えるということです。その本来の光り輝く神性を包み隠しているように、覆っているように見えるものがあると言えることです。 そして、それが、あるときは白熱電球にかかった風呂敷であったり、あるときは白熱電灯にかかった、いわゆる塵芥(ごみ)や埃(ほこり)であることもあるわけですね。しかし、本来、そうしたものはあるべきはない。そこにあるべきでないものが、無精(ぶしょう)人間が怠慢をしているうちに、そうしたものに蜘蛛(くも)の巣がかかったり、塵芥(ごみ)が落ちたりしてきておるわけであります。ですから、本来の輝きを取り戻すためには、この包みの部分を取り除かねばならない。 これは、ある意味では、宗教の共通した思想であろうと思います。私の光一元、善一元論にしても、本来光一元、本来善一元ということであって、本来白熱電球というのは、何の曇りもなく輝いておるということを言っておるのです。 輝いておることを前面に押し出しておるわけであって、もちろんそういう曇りや汚れがないと言っているわけではないのです。だから、この曇りや汚れを本来のものと考えてはならぬ、と。そういうことを言っておるのですね。 すなわち、たとえば、窓ガラスの外には美しい景色が広がっておっても、窓ガラスが曇っておったのではよく見えんということですね。あるいは、水蒸気で曇ったり、塵芥で汚れたりしておっても、窓の外の景色は見えんでしょう。こういう場合には、雑巾で拭けば窓ガラスはピカピカになります。そうすると、人間は、外の美しい景色というものを見ることが可能なわけであります。 ところが、人間罪の子の思想、あるいは、人間の存在を性悪説ととらえる人というのは、どういう人であろうかと言うと、窓ガラス自体がそんな透明なガラスではなくて、まあ、ステンドグラスか何かのように濃い色が入っておって、外が自由に見えないと、こういうふうに考えるわけであります。このように色ガラスであって、磨いても磨いても透明にならないと言うならば、外の景色が素通しで見えるわけはないのであります。 6.「罪」と「包み」 ですから、私が本来罪なしと言っておることと、つまり、包みのみがあると言っていることと、罪があると言っておることは、似ておるように聞こえるかもしれないけれども、この部分が、重要な差となっておるのです。 私は、本来の姿は、外の美しい景色が自由自在に見えると言っておるのです。ところが、罪が実在すると思っておる人たちは、すなわち、ステンドグラスのように色濃いガラスか何かが入っておって、磨けど、磨けど、外が見えんと言っておるのです。あるいは、赤いステンドグラスが入っておれば、世界が血のような赤さに見えて、本当にやりきれないと言っておるのです。 ところが、私はそうではないと言っておるのですね。本来は透きとおって見えると言っておるのです。この意味が、わかるでしょうか。まあ、そういうことなんですよ。 ある人は、透きとおったガラスであるのにもかかわらず、勘違いをして、実は窓に鉄格子が入っていると思っておる者もおるのですね。まるで人間を囚人か何かのようにとらえておる者がおる。この三次元世界というのを、刑務所か何かのようにとらえて、人間が刑務所のなかにブチ込まれるために出てきておるように、処罰のためにこの三次元世界へ出てきておるように思っておる者もおります。 こうした者は、窓に鉄格子が入っていると思っておるのですね。まあ、これも大変な誤解であります。本来そうしたものではないということです。 私の考えがあきらかになってきたと思うのでありますが、窓の外の美しい景色、これが、結局天上界の景色であり、天国の姿であり、地上を去った実相世界にあるユートピアの姿であるわけであります。 このユートピアの世界を、私たちは、地上の人間にも見せてやらねばならんのです。そして、このユートピア世界を地上の人間に見せてやるためには、人間が罪の子であるという意識を拭い去らねばならぬということなのですね。これが大事なわけであります。 人間が罪の子で永遠に罰せられておるという考えは、まあ、これはひとつの強迫心理であって、本来は、そんなものではないわけですね。人間罪の子の思想が真実であるとすると、まるで地上に生きておる人間は、すべて指名手配中の殺人犯人か何かのような存在になってしまいます。私たちは、殺人犯人相手に法を説いとるわけではないのであります。 本来、みんなおとなしい羊であるのです。おとなしい羊であるけれども、ときどき、羊は迷い出て、百匹のうちの一匹、二匹が迷い出て、谷のなかに降りてみたり、岩の間を飛び越そうとして足を折ってみたり、いろんなことをしておるのです。 だからこそ、私たちが正しい生き方というものを教えて、そうした者たちを導かねばならんようになっておるわけです。 7.人間罪の子の思想と人間神の子の思想の効果の違い こう考えてみると、たとえば、効果という面で考えてみても、人間に罪ありと考える思想と、人間に罪なしと考える思想と、どちらのほうが効果が大きいかということも理解がいくと思うのです。 人間に罪があると言われて、そして、生きておるという思想は、どういうことでしょうか。たとえて言えば、オギャアと泣いて、赤ちゃんとして生まれて、もの心がついたときに、実は、その両親というのはもう死んでいて、その子は孤児であって、「お前の両親というのは大変な大泥棒であったんだ。お前は泥棒の子供であったんだ。だから、泥棒の子供として生きていかねばならんのだ」と、まあ、こうぃうことを言われるのと同じでありましょう。 あるいは、いち早く地上を去った両親は、大変な借金、何億円もの借金をつくって死んだのだ。だから、お前は、義務教育の間は許されるけれども、義務教育が終ったら社会に出て働いて、両親の借金というのを生まれながらにして払う義務があるのだ。まあ、こういうふうに考える考え方でありましょう。 一方、もうひとつの人間に罪なしという考え方とは、どういうのか。あなたは神の子であって、光り輝くような姿で生まれた。無限の可能性が与えられておる。どんな人も、赤ちゃんとして生まれて、オギャーと泣いて以来、平等のスタートを切るのである。そして、本来の神の姿に戻るために、永遠の向上を目標として努力していくのである。行く手には希望と勇気が輝いている。つまり、こういうことですね。 こうした二つの人生観があるわけですが、どちらを持って生きていくのが、本当に人類を幸福にすることになるかどうか。このことについて、よくよく考えていただきたいのであります。 皆さんは、小学校でもいい、中学校でもいいのですが、たとえば、高校になったときに、まあ、普通の人間として育っておったのだけれども、友だちから、こう言われたとしましょう。 「君は、自分の両親を本物の両親だと思っておるが、実は違うんだ。君は、生まれ落ちてすぐ、孤児院の前に捨てられておったのだが、拾われて、今の両親が引き取って、育ててくれたんだよ。君の本当の出生の秘密を調べてみたら、実は、君は大変な悪人の子供であったのだ」 まあ、こういうふうに言われたとしたら、その十八歳なら十八歳の男の子でも女の子でもいいが、その人の人生は、どのようなものになるでしょうか。本人にまったく責任がないところでもって、本人は自己処罰の観念に苦しみ、暗い人生を生きていくのではないでしょうか。 そして、その結果、どうなるか。ああ、自分は大変罪深い両親の縁のもとに生まれた人間で、本来地上に出て来るべきではなかったのに、本来出て来るべきでなかった自分が出て来たんだから、何とか人様に迷惑をかけないだけの生き方をしていかなければならぬ、と。まあ、こういう消極的な人生観になっていくわけです。 ところが、たとえ同じように拾われた子としても、逆の言い方もあるでしょう。 あなたは一歳のときに拾われたのだけれども、実は、あなたは天皇家の子孫なんだ。本当は、天皇家の子供さんなのだ、と。あるいは、有名な大富豪の、あるいはまた、ノーベル賞作家の、ノーベル賞学者の実はお子さんなんだ、ということを言われたらどうなるか。これは大違いですね。 まあ、どちらが真実かということですが、ただ私は、善し悪しを判断するだけではなくてね、その行為の善悪だけではなくて、単にこの世的に効果というものだけを考えても、やはり自分は素晴らしい両親のもとに生まれたんだ、素晴らしい星のもとに生まれたんだと考えるほうが、人生としては明るい人生が開けていくのではないかと思う。それでいいじゃないかと思うんですね。 暗い人生の思想をいっぱいつくってしまって、どうして世の中が明るくなるでしょうか。どうして世界が平和になるでしょうか。どうして世界が幸福になっていくのでしょうか。やはり、ひとりひとりの人生が光り輝くものになっていかなければならないのではないでしょうか。私は、強く、そのように考えるわけであります。 8.クーエの成功心理学 有名な心理学者として、クーエという人がおりましたが、この人は、大変面白い方法を考え出しました。つまり、「あらゆることにおいて、自分は毎日よくなる。一層よくなる。あらゆることにおいて、毎日よくなる」と。これを一日ね、十回、二十回、いろんな機会に口に出して唱えておると、本当にその人がよくなってくる。こういうことを、クーエという人は、実験によって確かめました。 まあ、薬局でも、同じですね。薬を売るときに、「この薬は非常によく効きます」と言って渡しておるのと、「この薬は全然効きません」と言って渡しておるのとでは、ずいぶん遠う。たとえ科学的にみれば、薬の成分がもう効能を発しないような、有効期間をすぎておる薬であったとしても、それを効くと思って飲めば、実際にアッという間に病気が治ってしまう。そういう例も、実際、あるわけであります。 こういうふうなのをみると、その人の考え方、心の持ちようということが、どれほど大切なものであるか、こういうことがわかると思うのですね。 ですから、「自分は罪の子だ。罪の子である。自分は永遠に罰せられておるのだ。自分は泥棒の両親のもとに生まれたのだ。自分は不幸の星のもとに生まれたんだ」と、毎日毎日言い聞かしている人と、「自分は一層よくなるんだ。もともと神の子であるし、もともと王様の子であって、そして、ますますよくなっていくんだ」と思っている人とでは、一体どちらが本当にバラ色の人生を生きておるか。どちらが天国を生きておって、どちらが地獄を生きておるか。その答えはあきらかであります。私は、そう思います。 人間という者は、「もの」ではないのです。物質ではないのです。だからこそ、その思いによって、人生が変わってくるのです。自分が思い、希望した方向へと人生を開いてきておるのです。そういう生き方をしてきておるのです。 そうであるならば、やはり光明の方向へと心を向けていかねばならぬのです。あらゆることで、自分はよくなっていくんだ。一層よくなっていくんだ、と。クーエのように、一日十回、二十回でも、そういうことを繰り返すべきです。 そうすれば、それが自己暗示となって、本当によい方向へといくのですね。言ってみれば、こういうことは、皆さんも、無意識のなかでは、ずいぶん経験しておるのです。 たとえば、会社に入って、とくに一流会社というところに入ると、新入社員でも、立派に見えてくる。はた目から見ても、いかにも一流会社に勤めているという雰囲気になってきます。 なぜそうなるかと言うと、やはり、そこに働いておる社員が、自分は、日本を代表する一流会社の社員なんだと、一日何回も何回も思っておるということなのです。その思いが、顔の表情となり、身のこなしとなって現われてくるということです。 また、東京大学などを出ておる人が、社会に出てから非常に活躍をしておりますが、これなども、結局、彼らがそのクーエの法則を知らないうちに使っておるということがあるのですね。社会に出て、いろんな困難にぶち当ったときでも、「自分は東京大学を出ておるんだ。自分の頭脳が優秀だということは、すでに国家機関によって認められておるのだ。自分は受験戦争を勝ち抜いてきたのだ。いつも先生にほめられてきたし、いつもよい成績を取ったし、いつも他の人から尊敬されてきたのだ」と。 こういう自信を持っておるから、艱難(かんなん)にぶち当っても、自分は優れた人間であって、この困難を必ず乗り越えていけるのだ、と。こういうふうに、自分に言い聞かせているがために、実際、その困難を打ち崩していくことができるのです。 ところが、自分の学歴に劣等感などを持っておる人というのは、社会に出てから困難にぶち当たると、「いや自分がダメなのも、やはり大学を卒業していないからなのだ。大学を中退したからなんだ」と。あるいは、「高校に進まなかったからだ」と。こうしたことを、いつもいつも愚痴るようになるわけですね。 そして、何かことがあるごとに、「結局、学歴がないから自分は不幸なんだ。学歴がないからいい嫁さんも来なかったし、学歴がないからいい就職もできなかったし、学歴がないから昇進もできなかったし、学歴がないから馬鹿にされたし、学歴がないから子供の教育もできないし、学歴がないから車も持てない。学歴がないから家も持てない。学歴がないから……」ということで、こうした言い訳ばかりをするようになります。 私は思うのですが、人間の基本的な能力というものは、そうそう大きな開きというのはないと思うのですね。ですから、成功体験を通して、自分というものに自信を持ってくると、いろんな困難や苦難に遭遇したときでも、それを打ち破っていける。その自信でもって、その困難や苦難を打ち破っていけるのです。 ところが、挫折しか経験しておらん人は、何か困難、苦難がくると、「また挫折をするのではないか」と、自分の悪い経験ばかりを反芻(はんすう)してしまう。そして、結局、挫折する。こういう悪循環を繰り返していくのです。 したがって、こうした悪循環を断ち切るためには、やはり、成功の心理学というものを十分心のなかに刻んでゆかねばならんのですね。この成功の心理学を刻んで、日々生きていくことが大事なのです。 9.光明思想の教育効果 私は、本来的にも人間は神の子であり、人間の性は善であり、人間の本質は素晴らしいものだと思っておりますが、また、それが事実だと思っておりますが、それが事実であるかどうかということの論証を抜きにしても、人間は本来素晴らしい存在なのだと考えて生きることが、結果的に、どれほどその人の人生をバラ色にするか。そういうことを考えねばならんのです。 ですから、宗教家で言えば、人間罪の子の思想を説く人が、もし教育者で出てくれば、結局は、子供たちをつかまえては、その子供たちの欠点ばかりを教えるようになる。つまり、「お前は算数ができないからダメだ。他の学科が全部できても、お前は算数ができないから、将来は理科系統に進めない。だから、医者になれない。科学者にもなれない。結局、ダメだ」と、こういうことを言うようになる。 また、算数はよくできるが、国語ができない子供にはどう言うかというと、「国語ができないということは、日本語ができないということだ。日本語ができないというような人間は、教養がない。そして、教養がない人間は、どこへ行っても、人の上に立てない。だから、お前は、ダメなんだ」と、こういうふうになってくるわけであります。 このように、欠点ばかりを見るものの見方は、大局的な見地から言っても、その人を生かすことにはならんし、その人を幸せにすることにもならん。私は、このように考えるのです。 いいところを見つけて、それをほめていく。そして、それを伸ばしていく。やはり、そういう教育こそが、真実であるのではないですかね。 算数ができる子がいたら、あなたは天才だ、と。数学の天才だとほめていく。国語ができる子がいたら、お前はその才能を生かして、作家になれるかもしれないよ、と。こういうふうに見ていくべきです。 また、たとえ勉強はできなくとも、しゃべるのがうまい子をみれば、お前は説法が非常にうまいから、将来は政治家か、あるいは、宗教家になるかもしれない、と。こういうふうにも、とらえていけます。 すなわち、現実は同じであっても、それをどうとらえるかによって、人生を幸福にできるかどうかということが変わってくるのですね。 ですから、私は何度も何度も繰り返して言っておるけれども、人間というものは、光明の方面に自分の考えを向けていかねばならんのです。そうしなければ、本当の意味においての幸せということはないのです。すなわち、もし過去において、自分に罪があったとしても、「罪よ、罪よ」ということをあんまり自分の心に刻んでしまってはならんのです。 人間が原罪の子であるという思想は、もちろん、カルマとか、あるいは、過去世の業ということでもあるんでしょうが、それは過去世だけのことではなく、今世のことにもあてはまるわけです。 今世で過去に失敗したからと言って、その失敗ばかりをいつまで言っておっても、決して幸福にはなれんのであって、その失敗に清算をつけて、新しい太陽に向かって、人間という者は生きてゆかねばならんのです。 したがって、自分が間違っていたことに対しては、もちろん、その点に関して、人に詫びるのは、正しいし、そうした間違ったことを二度としないと心に決めることも大切でありますが、肝要なことは、その間違いを引きずらないということです。その間違いを引きずって、自分の人生は間違ってしまった、間違いの人生だというような、そういう自己卑下的な考え方はせんことです。 人間は、間違うこともあるけれども、それ以上に素晴らしい人生を生きることができるんだ。これからいつも新しい出発をしていくんだ。神の子として、素晴らしい旅立ちをしていくんだ。こういう思想というものを持たなければ、人間は、本当に幸福になることはできないのです。 ですから、私は本章で言っておるように、本来罪なし、人間本来罪なし、すなわち、「人間無罪宣言」というのを大切にしたいと思うのです。それゆえ、本書の読者の皆さんも、もし自分に罪がありとしていろいろと虐(いじ)めておるならば、その罪から自分を解放してやりなさい。その鉄格子のなかから、自分を解放してやりなさい。と、言いたいのです。 そして、クーエのごとく、考える。毎日、自分はあらゆる面で一層よくなる。毎日、あらゆる面で一層よくなるんだ。なぜなら、自分は神の子だからだ。神の子だから、よくなるしかないんだ。自分は、ますます向上し、ますます立派になり、ますます社会のために奉仕できるんだ。そうして、多くの人びとに喜んでもらえるんだ。こういうふうに思っておくことです。それが、大事なことなのですね。 10.自己実現と全託の精神 「生長の家」の聖詩篇のなかにも私は書いておりますが、自己実現に関しては、その結果というものに関して、神にお任せすることです。自分は神の子で、神様が最大に愛しておる子供なんだから、あとはその念いを持続し、いい念いを持続して、いつその結果が現われるかということは、もう気にしないで見ておる。そういうことです。 一晩眠って、朝になればね、草の芽、あるいは、植物の芽というのは、一層伸びておるのです。夜眠っておる間に、そうしたものは、芽が伸びておるのですね。そうしたものなのです。 ですから、そういう心を、そういういいことだけを心の奥に刻んで、それが何センチ伸びたかということは計らずに、待っておることです。すると、ある時期になると、パッと花が咲く。必ず、花咲くのです。 たとえば、片栗粉でもそうですね。湯を注(さ)して、持っておると、ある瞬間に、パッと透明に変わる。そういうものなんです。片栗粉がなかなか透明にならないと言うんで、固まらないって言うんで、また水を注したり、いろいろとこね廻したりしておっても、ダメなんですね。あるとき、パッと変わるんです。そういう瞬間があるんです。それを信じて生きることですね。これが大事ですよ。 まあ、自己実現の方法については、また改めて話をしようと思うけれども、人間は本来無罪なんだ、素晴らしい存在なんだという思想を、どうか忘れずに生きていただきたい。私は、強く、そう願うのであります。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/144.html
目次 1.いつの時代にも、天使軍団のような、聖霊たちの集団があった 2.各国にある天使団 3.仏教系では、天使を諸如来、諸菩薩という 4.現在の日本にも数多くの天使たちが生きている 5.明治時代に生まれた私も、光の天使のひとりであった 6.矢内原忠雄は、イエスの十二使徒のひとり、ペテロであった 7.私は今、あの世で、キリスト教系の思想流布のために働いている 8.現在、アメリカには、キリスト教系の光の天使たちが多く出ている 9.現在の地獄の帝主ルシフェルは、かつて七人天使のひとりであった 10.天使長ミカエルの役割は、他の天使たちの指揮、統制である 11.ガブリエル大天使の役割には、通信役、芸術、政治、文学などがある 12.ラファエルは、芸術の神様であり、哲学、文学の指導もしている 13.サリエルの役割は、医学、薬、医事関係での人びとの救済である 14.パヌエルの役割は、政治関係である 15.ウリエルは、旧約のマラキという名で肉体を持ったことがある 16.ラグエルの役割は、点灯者であり、シュバイツァー博士として肉体を持った (一九八六年十二月十九日の霊示) 1.いつの時代にも、天使軍団のような、聖霊たちの集団があった 内村鑑三です。今日は、第6章ですが、「七大天使の働き」ということで、お話をしていきたいと思います。日本で生き、生活していらっしゃる皆様は、「天使」という言葉にそれほど馴染(なじ)みがあるわけではないでしょう。天使というと、西の方のイスラエルなどの地にだけいるようなものであって、日本には天使がいないような感じがするかもしれません。また、天使というと、背中に羽が生えて、空を飛んでいる姿、こういうものばかりを心に描くかもしれません。 ところが、天使とは、特定の宗教とか、特定の文化圏、あるいは、特定の地域だけにいるものではないのです。天使と言われるものの実体は、アメリカであろうが、イギリスであろうが、ソヴィエトであろうが、同じなのです。すなわち、その呼び名が、キリスト教的に感ずるかどうかということだけなのです。 私のこの霊言集の読者には、おそらくクリスチャンが多いのでしょうが、このことについて、あえて初歩的な説明をしておきましょう。キリスト教系に「天使」と言われている存在は、仏教系では、如来とか、菩薩とか言われている魂の境涯(きょうがい)のことを指しているのです。 では、そうした特別な役職を持った霊たちが、昔からいるのかどうか。まあ、確かに昔から、そうした聖霊、天使というものはおりました。彼らもやはり地上に何度か生まれてきて、輪廻転生を繰り返している以上は、そのなかで、さまざまな魂の進歩もあれば、後退もあるのです。 つまり、かつては、平凡な魂であったものが、何千年、何万年の努力の結果、天使のなかに列せられる人もおれば、かつて天使であっても、転生輪廻の過程でだんだん心に曇(くも)りをつくって、次第に平凡人となり、平凡人から平凡人以下へと、落ちていった人もなきにしもあらずです。しかし、いつの時代においても、天使という、天使軍団というような、大きな聖霊たちの集団があったことは事実です。 2.各国にある天使団 そして、その聖霊たちの集団にも、やはりそれぞれの長(おさ)、長(ちょう)というのがあって、その周りに、ひとつの会社とか、国の政治と同じでしてね、いろんな天使たちが集まっているのです。たとえば、キリスト教系で言えば、そのなかで中心となっているりーダーは、もちろん、イエス・キリストという偉大な神霊であります。この人を中心として、キリスト教系の天使団というのができております。 あるいは、たとえば、中国では、今から二千数百年前に、孔子という偉大な光の大指導霊が出ました。中国三千年、四千年の歴史のなかには、たくさんの偉大な人たちが出て来ましたし、偉大な天使たちも地上に肉を持って、さまざまな活躍をされました。しかし、彼らの中心となっているのはだれかというと、やはり孔子という方です。そして、この孔子を中心として、中国文化、文明の基礎づくりに励んだ天使たちが数多く活躍したのです。 西洋的に言えば、天使というのは、羽が生えて、空を飛んでいるというイメージがあります。ところが、中国の天使たちはどうかというと、霊眼で見れば、人民服とは言わないにしても、やはり中華用の服を着て、天使をやっておるわけです。 あるいは、日本にも、また、そういう天使軍団があります。日本という国は、皆さんも知っているように、今から何十万年か前に日本列島ができた。そして、教万年前から、次第に、人びとが住みはじめて、ここ数千年の間、とくに民族的に繁栄を見た民族であります。しかし、この日本の国においても、やはり天国というのがあるのです。 今、日本の天使団の中心になっているのは、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)と言われる方です。この方が、中心神です。その他にも、主宰神としての天照大御神という方がいらっしゃいます。主宰神とは、すなわち、役割を持って司る神、ある程度、人間的な人格を持っている神のことです。 天之御中主之神のほうが、霊格自体は、高いのですけれども、昔から信仰の対象としては、天照大御神がそうなっていらしたようです。御中主之神は、もう人間とは思われずに、宇宙の根本神か何かのように思われていたために、主宰神としては、天照大御神が最高神であるかのように、日本の歴史では言われてきました。 ですから、天照大御神にしても、西洋的に話をすれば、女神のひとりであろうけれども、日本という国では、非常に神格の高い神様となっております。このように、彼らを中心として、日本神道系の天使団というのがおるわけですが、これもけっこう強い力を持っています。 3.仏教系では、天使を諸如来、諸菩薩という あるいは、仏教では、ゴーダマ・ブッダ、すなわち、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)、これを中心として、仏教系の多数の天使たちが輩出しました。 仏教系では、これを諸如来、諸菩薩と言います。これは、魂の境涯、悟りの段階についての言葉です。ゴーダマ・ブッダの世界というのは、救世主の世界であり、今様に言うならば、九次元世界の住人であります。ただし、こういう少数の人は除いて、たいていは、八次元世界に住んでいるりーダーたちを、如来、如来界の人たちと言います。菩薩とは、七次元世界に住んでいる人たちのことです。 キリスト数的に言えば、八次元の如来のことを大天使と言います。そして、七次元の菩薩のことを天使と言いますね。天使の軍団というのは、六次元の上段階にいる人たちで、彼らも光の天使の一部と言っていいでしょう。仏教系で言うと、この六次元神界とでも言うのでしょうか。この上段階の境涯というのは、菩薩に至るための境涯、つまり、阿羅漢(あらはん)の境地と言われる境地でしょう。この阿羅漢と言うのがね、天使の予備軍か、あるいは、天使の卵、天使そのものと言ってもいいでしょう。 旧約の世界では、セラヒムとか、エロヒムとかいう言葉が出ていますが、これらはすべて天使のことです。ただ、セラヒムとか、エロヒムとか言うのは、最高の天使のことを言っているのではなくて、いわば、天使の予備軍です。ですから、仏数的に言うならば、阿羅漢の境地に達している方がた、これは天の使いの一員ですね。使いとして、いろんなことをする人たちがおるわけです。回教のほうでも、マホメットを中心として、天使団があることは事実ですけれども、仏教系やキリスト教系から比べると、少し勢力的には弱いように思います。 このように、ここ数千年を採れば、それぞれのりーダーを中心とした纏(まと)まりがあります。そして、これも長い歴史のなかで見れば、さまざまな組み替えがあったことは事実です。そのリーダーのもとに、いろんな天使たちが組み替えをして、役割集団をつくって、魂修行をしてきたと言えます。 ですから、イエス・キリストを中心としての天使軍団をつくっている方がたは、イエス様の述べられる神の国づくりのために、ここ二千年間、努力してきたわけです。地上に教会をつくり、さまざまな牧師たちを指導し、あるいは、キリスト教思想の流布のために、日向(ひなた)になり、蔭になり、いろいろと努力をしてきた。まあ、こういう事実があったわけです。そこで、こういう天使団という高級霊界があるということを、まず、地上の人たちは知ってほしいと思います。 4.現在の日本にも数多くの天使たちが生きている こうした天使というのは、必ずしも特別な、遙か人智を越えた存在ではありません。つまり、地上に生きているあなた方のなかにも、天使と呼ばれる人たちはいるんです。それは、いわゆる高級霊と言われる方がたであって、そういう高級霊が、目的をはたすために、肉体に宿って修行していることがあるのです。 ですから、現在の日本で言うならば、天使と言われる人も、数多く生きております。そのなかには、科学者もおれば、政治家はちょっと少ないようだけれども、政治的なことをやっている人もおれば、あるいは、経済のなかで活躍しておる人、あるいはまた、学者といった人たちも数多くいます。 このように、さまざまな分野に降りて、肉体を特って、日本という国を、引っ張っている人たちのなかに、数多くの天使たちがいるのです。彼らは、もちろん自分が天使であるということを知りません。天使であっても、人間として生まれた以上、零から、もう一度スタートしているのですね。 母の胎内に宿って、オギャーといった以上、二本の足、二本の手、ひとつのロ、二つの目、ひとつの鼻、二つの耳、これ以上は何も持っていないのです。皆さん、平等です。天使であっても、人間として零としてスタートして、だんだん、その天使としての神性に目覚めていくのです。そして、本人が努力の結果、少しずつ悟っていって、かつての魂の輝きというのが出てくるのです。そういうものです。 5.明治時代に生まれた私も、光の天使のひとりであった 私は、下級武士の末裔(まつえい)として生まれました。明治という時代に学問をして、北海道の札幌農学校で勉強。「青年よ大志を抱け」と言ったあのクラーク博士、この方が校長をやっていた学校です。クラークが去った翌年、私たちが学んだわけですけれども、クラーク博士の影響がたくさん札幌農学校に残っており、私たちに非常に感銘を与えました。 当時、新渡戸稲造(にとべいなぞう)などもおりました。最近、五千円札の肖像画になっていますが、その新渡戸稲造は、私の同級生だったのです。彼は、後に、第一高等学校の校長になりました。新渡戸君とか、私とかは、自分では、もちろん知らなかったけれども、天使だったのです。何も知らずに、明治期に生まれたということでね、どうだひとつ、ちょっと北海道にできた新しい学校にでも行ってみるかということで、札幌まで出かけて行って、そこの農学校で、勉強したわけです。 私が専門に勉強したのは、水産学です。いろんな魚の生態とかね、卵を産む方法とか、どうやって孵化(ふか)するか、あるいは、養殖の方法など、こうしたことを専門にしていたのです。私の生涯から見れば、この世の人たちは、おそらく、奇妙な感じを持つでしょう。つまり、内村鑑三は、神学を専攻していたのではなくて、水産学を勉強していたのですから。 では、いつキリスト教と出合ったのか。農学校を卒業して、それから、だんだんに魂の世界に入って行ったのです。その後、アメリカに留学して、アマースト大学というところで神学の勉強をしました。当時、アメリカで流行(はや)っていた一種の神秘主義のキリスト教があった。静寂主義というか、そういう神秘的な、若干オカルト的な神学、キリス卜教があったんです。もちろん、そういうものにも触れたのですが、それではまだ納得できなくて、私は、日本へ帰ってきました。 それから、教会での仕事をいろいろとするようになったのです。しかし、私の生来の性格が、独立自由といったものを求める性格であったために、キリスト没後、千八百年、千九百年もたった末法のキリスト教会では、私は、人生のほんとうの意味というものをつかみ取ることができなかった。そこで、やがて、「聖書の研究」に従事するようになって、独自の勉強をはしめたわけです。これも、やむをえないことでした。というのは、教会の牧師をやっている人たちは、もちろんキリスト教が好きで、それを専門的に勉強した方がたであるけれども、彼らの魂の性質と私の魂の性質とがちがったからですね。 私自身は、生きていたときには、自分が、そうした光の天使のひとりだということに全然気がつきませんでした。先はども言ったように、魚の養殖といった勉強からはじめて、偶然、こういうキリスト教の思想にたどり着いたように思っていたわけです。しかし、よくよく考えてみると、私は旧約聖書のエレミヤの時代から、すでに何千年にもわたって、このキリスト教思想のなかに、どっぷりとつかっていて、私自身も、その中枢のメンバーのひとりであったわけです。ですから、キリスト教思想を地上に伝道していくためのやはり中心的な役割を持っていた人間のひとりであったのだということを、あの世に環ってから悟リました。 6.矢内原忠雄は、イエスの十二使徒のひとり、ペテロであった 私の弟子筋にあたる矢内原忠雄君なども、生前は、悟っていなかったけれども、実は、二千年前にナザレの地に生まれていた。そして、イエス・キリストの十二弟子の筆頭の弟子、ペテロであった。そのことを、彼は、あの世へ環ってから知って、ショックのような、嬉しいような気持ちを持ったようです。 ペテロだった矢内原忠雄君は、東大の総長をしていたわけですが、今世では、霊的な能力は持っていなかった。前世で、ペテロとして生きていたときに、彼は、聖書を書いてはいなかった。手紙文ぐらいは書いていたけれども、学問をしなかったので、伝道に大変苦労をした。そういうこともあって、今度は、一生懸命、勉強したいと思ったようですね。つまり、しっかりと知識をつけていれば、地上でも伝道に力を発揮できるし、あの世に環ってきてからも、その知識を生かして、地上の人たちを指導できると考えたようです。 そういうことで、近代の日本にも、キリスト教系からは、かつてエレミヤとして生まれた内村鑑三が出た。また、かつてペテロだった矢内原忠雄が出たというような形であったわけです。 7.私は今、あの世で、キリスト教系の思想流布のために働いている 矢内原忠雄君も、私も、いわば同僚であり、共に光の天使として、現在は、キリスト教系の思想流布のために、あの世で頑張っているわけです。 地上で、キリスト教が布教されているだけではなくて、あの世でも、さまざまな役割を分けて、分担しているのです。というのは、ひとりの人がすべての世界の人を教えるには、やはり霊人口が多すぎるからです。そこで、あの世の人でも、生前、本人が生きていた国の宗教にあわせて、さまざまな霊教育をされておるわけです。死んであの世に環った人たちでも、キリスト教系の国から来た人に対しては、やはりクリスチャンたちが行って指導をしている。仏教に馴染んでいる人たちに対しては、仏教徒が行って、指導している。 ただし、お前はクリスチャンだから僧侶と話をしないのかと言われたら、まあ、話をせぬわけではありません。あの世では、もちろん、僧侶たちとも話をしています。ですから、仏教の思想について、勉強もしております。私たちの仕事という面では、やはり地上を去った方がたに封する霊的な救済と指導というものが、主なる仕事であります。ですから、どうしても役割の分担というのが生じて、キリスト教系関係の方がたを指導しています。 また、それ以外にも、ときどきは、地上に出ているクリスチャン、もちろんクリスチャン全体というわけにはいきませんけれども、とくに牧師であるとか、指導的な仕事をしている人たちを指導したりしているのです。 8.現在、アメリカには、キリスト教系の光の天使たちが多く出ている アメリカにも、キリスト教系の光の天使たちが数多く出ています。たとえば、ノーマン・ビンセント・ピール。彼は、・『積極的考え方の力』という本を出していますが、積極的思考というのを打ち出した牧師さんです。ロバート・シュラーというような牧師さんもいます。光明思想について説いている牧師さんたちは、過去世において皆、キリスト教系で活躍した方たちなのです。 ノーマン・ビンセント・ピール博士の過去世はだれかというと、イエスの弟子のなかにいるんですよ。いたんです。ちょっと年を取っていたけれども、ゼベダイという人がおりました。イエスが三十歳のときに、ゼべダイは、五十代だったでしょうか。このゼべダイという人の子供たちがイエスの弟子で、よく活躍したのですが、そういう人がおりました。そして、ピールという人はイエスの信念の力を、ずいぶんと学んだ方です。 ロバート・シュラーも、やはり信念の力を売りものにして、光明思想を伝えている人ですが、彼も過去世は、キリスト教系の魂です。キリスト教系の魂で、かつては預言者のひとりとして、地上に出たこともある方です。シュラーがだれかということを知りたいと思うでしょうが、聖書のなかにも出ている方です。聖書のなかで、シュラーが、かつて何をやっていたのかというと、ここに聖書があるけれども、いろいろと書いてあります。 レビ記、ヨシュア記、ルツ記、サムエル記、エズラ記、ネヘミア記、エステル記、ヨブ記、イザヤ書、エレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書、ホセア書、ヨエル書、アモス書、ヨナ書、ミカ書、といろいろあります。ロバート・シュラーは、日本ではあまり知られていない預言者かもしれませんが、このホセア書というのを書いた方です。つまり、ホセアという人が、かつての彼の名前なんです。そういうことで、彼自身も、非常にキリスト教系は長い魂です。私たちの仲間です。今、アメリカに出ていますが、私たちの仲間です。まあ、このように、天使というものの働きがあるということを、まず皆さんに知っていただきたいと思っております。 さて、天使たちの働きということで、その概略を述べたわけですが、今日の主題は、「七大天使の働き」ということですので、天使のなかでも、とくに力を持った方たちの働きについて、お話をしたいと思います。 9.現在の地獄の帝主ルシフェルは、かつて七人天使のひとりであった 今、七大天使としてよく世に知られているのは、ミカエルでしょう。ミカエルは、天使長です。そのほかに、ガブリエル、ラファエル、サリエル、パヌエル、ウリエル、そして、ラグエルといて、全部で七人の天使がおります。 かつてルシフェルというのがいました。暁の子・ルシフェルといって、非常に知性と美貌を備えた天使でした。このルシフェルは、今から一億年近く前に、サタンという名前で地上に降りたのですが、欲望に身を焦(こ)がして、後のエホバの神、ヤーヴェに対する嫉妬、羨望のために戦いを起こし、天上界に戻って来ることができなくなり、やがて地獄をつくっていったのです。 ルシフェルについては、ミルトンという人が、かの有名な『失楽園』という本のなかに書いています。ルシフェルが、天使の軍団に敗れて、地に堕ちていく姿を描写しておりますが、まさしく、あのとおりです。 かつての大天使ルシフェルは、地上を去ったときに、天使の国へ、もといた天国に戻ろうとしたけれども、それを許されなかった。欲望のままに生きたためです。だから、天使の軍団、とくにミカエルが、それを許さなかったのです。 そのため、ミカエルの天使軍団と、ルシフェルを擁護する、天使と言っていいかどうかはわかりませんが、つまり、勢力ですね、それが、天上界でも、霊界でもぶつかった。そして、戦いがはじまったのです。これが、聖書のなかにもありますが、ミカエルとドラゴン、すなわち、竜との戦いです。その結果、ルシフェルは、ミカエルに討伐された。だから、地獄というところに叩き落とされ、二度と天上界に環って来れなくなったのです。 当時、地獄という不調和な霊域があったわけです。これは、まだ小さな霊域であったのですが、このルシフェルというのが、地獄に封じ込められて以来、彼は天使たちへの反乱ということを企てて、手下どもを使って、地獄を大変拡張した。地獄をどんどん増やしていったわけです。ルシフェルは、知恵があり、また、霊的な力も非常に強かったので、いろんな霊たちを従えて、地獄づくりをやったのです。 単に霊的に、霊界において、天上界と闘うだけではもの足りない、と。そこで、地上にいる人たちを引きずり込もうとした。今、地獄の数が増えています。地獄へ行く人たちの数が増えていますが、これも、彼らの計略なのです。 地獄のほうの勢力を天上界より増やせば、やがて彼らの天下になると思って、地獄へ来る人を増やしているわけです。その方法として、地上にいる人たちをさまざまな形で迷わしている。迷わし方の方法は、物質的誘惑であり、地位や名誉、金銭欲、こうしたものが原因です。この地上的なもので迷わして、生きている人を地獄に引きずり込もうとしている。そして、彼らの力を増やそうとしているのです。 そのための手段のひとつとして、悪霊の憑依(ひょうい)というものをやっている。つまり、さまざまな宗教に取り入っては教祖に取り憑(つ)いて、それを狂わしております。宗教というのは、多くの人を集めますから、その教祖に取り憑くと、非常に大きな力を持って、人びとを迷わし、狂わすことができるのです。こういうことによって、今、末法の世の中において、世の中を乱しておるようです。 一方では、今、天使たちが、地上の浄化という大きな使命のもとに、つぎからつぎへと生まれて活躍をしているわけです。これは、すでに、あなた方がご存知のとおりであります。 10.天使長ミカエルの役割は、他の天使たちの指揮、統制である この七大天使の役割について、少しお話をしましょう。まず、天使長のミカエル。ミカエルは、ルシフェルを地獄に封じ込めたわけですが、このミカエルの力は、いくつかあります。ひとつは、天上界における軍事的な役割です。 つまり、悪魔の軍団、地獄霊たちを掃討するための総指揮官としての役割です。これは、力のひとつの象徴です。 それ以外には、たとえば、指揮、指令、統制。これも、ミカエルの仕事です。事務的役割と同じですけれども、他の天使たちを指揮する役割、命令する役割、統制する役割、そういう役割を持っております。 ミカエルの本体そのものが、地上に出るようなことはありません。しかし、ミカエルの生命体は、何度も何度も地上に出ております。新しい例では、宗教改革をやったマルチン・ルーテル、つまり、ルター。ルターも、ミカエルの魂のひとりです。それ以外にも、旧約の時代にも出ておりますが、これもすべて、ミカエルの生命体の一部が出ているのです。 現代においても、ミカエルが出たと言っている人がおりますが、ミカエル自体の生命体が肉体に宿ったことはありません。ただ、ミカエルが指導したことがある人というのはおります。 ミカエルの力は、今、二十世紀の後半、非常に強くなってきております。すなわち、今、魔が競い立って、魔界の者たちが、地上を混乱させようと総力をあげてきているからです。ですから、ミカエルの力が、非常に強くなってきているのです。 11.ガブリエル大天使の役割には、通信役、芸術、政治、文学などがある つぎに、ガブリエル。大天使として、ガブリエルも有名です。「受胎告知」という絵がありますが、イエス・キリストが生まれるときに、マリアに受胎を告知した天使、これが、ガブリエルです。ガブリエルは、主としてそういう通俗的な役割をやっておりました。 天上と地上との通信役。それから、マホメットのときにも、通信役を買って出たのは、このガブリエルです。ガブリエルが、主としてマホメットを指導しておりました。あるいは、昔、ゾロアスター、ツァラツーストラと言ってもいいけれども、その人が、ペルシャに生まれたときにも、ゾロアスターを指導していたのは、ガブリエルです。そういうことで、ガブリエルは、通信役として、いろいろな働きをしていました。 また、ガブリエルは、芸術の方面にも力を持っています。芸術、それから政治関係、文学の関係でも、少し役割を持っている。ガブリエルが地上に現われたのは、最近では、ルネッサンス期です。レオナルド・ダ・ビンチ。こういう形で、ガブリエルが出たことがあります。ダ・ビンチ自体は、ガブリエルの生命体のすべてではありませんが、その一部として出たことがあります。 12.ラファエルは、芸術の神様であり、哲学、文学の指導もしている 天使団の三番手といえば、ラファエルになるでしょう。ラファエルと言えば、やはリルネッサンス期のラファエロではないかと言うような人もおりますが、これは、まあ語呂が似ているというだけで、画家のラファエロとは、ちがいます。天使のラファエルは、芸術の神様でもあるわけですが、芸術以外に指導しているのは、哲学関係です。哲学、文学のほうも多少入っております。 このラファエルは、ダンテとして、地上に出たことがあります。天国、地獄をいろいろと訪徨(わまよ)った、あの世の記録についてつづった『神曲』を書いたのが、ダンテです。実際、ダンテも、幽体離脱というか、光子体離脱をして、あの世に来て、そうした見聞をしていたのですが、そのダンテが、実は、ラファエルの生命体の部分だったのです。 13.サリエルの役割は、医学、薬、医事関係での人びとの救済である それから、ミカ、ガブリ、ラファ。そのつぎに霊恪が高いとすれば、サリエルですね。サリエルは、医学、医事関係、薬、そして、人を救済するといったことを中心に活躍していました。サリエルは、近年に、肉体を持ったことがあります。 二十世紀の前半にアメリカで活躍したエドガー・ケイシーという人がいます。このエドガー・ケイシーの魂というのが、実は、この七大天使のひとり、サリエルの魂の一部なのです。 また、サリエルは、かつて預言者としても出たことがあります。旧約の預言者にイザヤという名前が出てきますが、このイザヤも、サリエルの生命体です。そして、サリエルの魂系統の一部分は、仏教系のほうへ出ております。つまり、薬師如来として出て来ております。 14.パヌエルの役割は、政治関係である そのつぎに出るのが、順序からいくと、パヌエルになるでしょう。パヌエルは、一度、政治家として出ております。千六百年代のイギリスにおいてです。すなわち、清教徒の政治家として、クロムウェルという名前で出ていたのですが、これがパヌエルです。 クロムウェルは、非常に熱血のある、清らかな政治を説いた人で、当時、それがために誤解されたりもしました。つまり、護民卿、護民官ということで、クロムウェルのプロテクターの政治ということで、改撃のまとにされた。クロムウェルが、パヌエルだということは、現代の日本でも知る人は教少ないでしょう。 15.ウリエルは、旧約のマラキという名で肉体を持ったことがある それから、ウリエルという人がいますが、この人が順番からいくと六番手になるでしょうか。ウリエルという人も、地上に出たことがあります。聖書のなかに出ている名前でいうとね、ウリエルというのは、皆さん、『マラキ書』というものをお読みになったことがあるかもしれませんが、旧約の預言者です。このマラキという名前で、肉体を持った方の生命体がウリエルです。 16.ラグエルの役割は、点灯者であり、シュバイツァー博士として肉体を持った 最後にラグエル、この天使が七番手としております。ラグエルもまた、最近肉体を持ちました。あなた方は、アフリカの聖者と言われた、かの有名なシュバイツァー博士という方を知っているでしょう。キリスト教系で伝道をし、音楽を広め、聖書を広めた方です。医者でもありました。このシュバイツァー博士として肉体を持ったのがラグエルです。これも、ラグエルの働きとしては一部分ですけれどもね。ラグエルは、やはり光を灯(とも)す役割をしているのです。点灯者の役割ですね。 今まで紹介してきたのは七人天使ですけれども、これ以外にも旧約のダニエルであるとか、あるいは、日本で聖徳太子として生まれたシュバンツェルであるとか、これに続く方がたというのも数多くおります。こういう方たちについては、また改めてお話する機会もあるでしょう。 私だって、自分では言ってはいけませんけれども、近いところにおるわけです。まあ、これは秘密でしょうからね、自分で語るのも、何ですから、他の方が言って下さることを希望しておりますが。 本日は、七大天使の働きについて話をいたしました。七人天使の働きも縦横無尽で、明確につかむことは不可能なのですが、歴史上いろんな形で出たということをね、この際に、知っておいていただきたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/240.html
目次 1.『学問のすすめ』は二百万部のベストセラー 2.私は身分制度を脱皮するため、学歴主義の物差を採った 3.学問は有用性のみでなく、魂の進化を促進させる 4.教育制度の改革、能力促進教育について 5.問題点一についての考察 6.問題点二についての考察 7.教育制度の改革により雇用制度の変化発展が可能 8.いま教育界には第一級の人物が出ていない 9.特色ある私塾の展開に期待 10.「松下政経塾」は本来のすがた 11.衆議院議員は「政治家専門学校」卒業者に限る 12.参議院議員は「賢人会議」の推薦者とする 13.あなた方は新時代への総論創り、各論はこれから生まれてくる (1986年1月2日の霊示) 1.『学問のすすめ』は二百万部のベストセラー ―― 福沢諭吉先生の招霊を行う。―― 福沢 ――福沢です。 善川 ああ福沢先生ですか、先生は明治の元勲として数々の功績を残されましたが、特に先生は、わが国国民の教育ということに非常にお力をそそがれたお方だとうけたまわっておりますが、まあ今日わが国も明治、大正を経まして昭和も今年は既に六十一年を迎えるに至りました。この間いろいろのことがありましたが、第二次大戦後四十年にしてわが国の経済は非常な隆昌をみるに至りましたが、教育、科学、文化の面でもそれなりの進展はしてまいったとは思いますが、ただ今日いささか案ぜられますことは、その理念において正しい把握がなされておらず、とかく、すべての分野において唯物志向に傾いている如くにみられるのであります。 先生は現在高い霊域に在られて、高邁なる思想識見を往時からお持ちになられたお方ですが、今日のわが国政治、教育文化のあり方と、将来の方向について何かお教え賜わらば幸いと存じますが。 福沢 私は、このような場に呼ばれたのは初めてでございますから、あなた方に十分なことを申しあげることができるかどうか内心いささか不安ではありますけれども、あなた方の期待を裏切らない程度に何らかの話をしてみたいと思います。――あまり慣れない話し方かも知れませんが、その点についてはご容赦を願いたいものです。まずどのようなことから話していきましょうか。 善川 まあ先生の生い立ち、ご経歴等については史書により明らかにされているところでありますが、まず、私どものこの度の企画というものは既にご高承のことと存じますが、これが書物として著わされた場合、果たしてこのお話が真の福沢先生のご霊訓であるかどうかという不必要な不安を無くするためにも、明治初期における先生のわが国文明文化開発にご努力されたご苦心の一端なりとお聴かせ願えれば幸甚と存じますが。 福沢 わたくしが主として力をそそいだのはやはり人々の啓蒙、あるいは学問の普及、教育という問題でした。 誰もが知っている私の書物としては、『学問のすすめ』というのがありますでしょう。この書物は、当時としては、大変な、今でいうベストセラーとなりました。≪天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらずと言えり≫そのようなことから書き始めたこの文章でありますが、これがなぜか明治の時代において、当時としては、百万部も二百万部も売れたわけです。あなた方の時代においても、百万部も売れるような書物というのは、そうざらにはないはずです。 当時の人口からいくならば、百万人以上ということは、知識人はすべてということです。では、なぜこの書物がそのように多くの人びとに読まれたのでしょうか。これは単に作家として私が書いて、それが面白いから人びとに読まれたわけではないのです。当時、私としては、このような霊的な指導というものが、行われるということについては、私自身は、不覚にも、不明にも、何も知らなかったのでありますけれども、『学問のすすめ』という書物でさえ、やはり霊天上界からの指導によって書かれていた本なのです。 当時の日本は、幕藩体制を脱し、新たな近代国日本を造ろうとしていました。こういったときにおいて、何らかの精神的な原動力が必要であったのです。明治維新の志士たちは、政治的な変革ということにおいて活躍をされました。しかし私の活躍の舞台は、それとは違ったものでした。彼らはいわば手荒い大工であり、手荒い作業人であったわけですけれども、私はその彼らがやった土台づくりの上に、新たな草花の種を蒔くような仕事が私の仕事でもあったわけです。 私は、当時、これは私個人の考えではなくて、既に私がこの日本という国に生まれる前に計画をしていたことではあるのですけれど、やはり精神的な水準を高めるということによって、近代国家を造っていくべきではなかろうかと思ったのです。――そういう意味において新生日本、明治の国において、何らかの精神的な指導者として、私は自らの役割を果たしたいと思ったのです。ですから当時の私としては、あなた方のような宗数的な自覚もなく、また宗教者的な指導も私はやりませんでした。 私はそういうことではなくて、非常に文明開化的な、合理的な考えに基づいて、精神的な指導というものをなしたのです。それはまた、そうした時代であったからこそ、そのような指導が必要であったわけです。むしろ私などは、神仏などは平気で批判し、無視していたようなことが多かったわけです。それはいまとなってみれば、非常に大人気ない恥ずかしいことでありましたけれども、しかし、時代の要請というものはいつもあるわけです。時代の要請としてそういった宗教を説くよりも、むしろ人びとを啓蒙するといった方向に進んだ方が、いい場合もあるということです。 そのような時には、神仏は必ずしも、光の指導者達にも、そのような変った形での役割を果たさせようとされるのです。ですから科学者の中で、優れた科学者であって宗教的なことに対して関心を持たない人も居ります。それはそうした方面が、ある意味においてもとより塞がれているのです。余りそちらに関心がいくよりは、科学的な方向でその興味、関心を伸ばしていった方が世の中のためになるという意味において、その方面が塞がれているのです。私も明治維新のあの時代において、人びとを開明していくという、いわば、古い因習とか、伝統から脱するための原動力を、私自身が発見し、それを広めるというような役割であったわけです。 ですから、今あなた方の時代においては、あなた方はまた霊的なこと、神仏のことを、新たな角度から人びとに広めようとしていますが、それもまた一つの啓蒙の手段でありますけれども、当時私達としては、その前段階として、やはり、科学的、合理的な近代主義というものを、つくっていく必要があったということです。ですから、例えば私の『学問のすすめ』自体は、決して宗教的な本でもないし、いわゆる過去からいわれているような道徳的な本でもないのです。あくまでも、自分というものをつくるということを教えた書物なのです。 2.私は身分制度を脱皮するため、学歴主義の物差を採った 人間はみな平等に作られています。平等に作られているということは、可能性において平等だということなのです。自らを錬えていくことによって、どのような人間にもなっていくこともできます。これは古い身分制度社会からの脱出、脱皮であります。まず人間に身分の差があるというような意識が当時としては大半であったわけです。 あなた方はいま、そういった身分意識が日本の国においてはないでしょう。まあ皇族というようなのはありますが、あなた方のうちで皇族として生まれたかったなんて思う人は今はいないはずです。ほとんど居ないでしょう。恐らく居ないはずです。それで極端なお金持ちが居るかというと、そんな極端なお金持ちも今の日本には居ません。まああなた方のうち大部分の日本人が、今望むこととしたら何であろうかというと、非常にやはり優秀な人間として生まれたいということだと思うんですね。いまの日本においては、優秀であれば、頭脳明晰、学力優秀であれば、どのような方面にでも自分の個性を伸ばしていくことができるようになっていると思います。それは例えば、どのような、たとえば言葉は悪いですが百姓の子供であったとしても、あるいは漁師の子供であったとしても、石工の伜(せがれ)であったとしてもですね、学問を積めば一国の総理大臣にもなれれば、優秀な科学者にもなれるし、外国で活躍することもできると、このような機会が与えられているということですね。 いま、日本の国では学歴批判、あるいは学力重視というのは疑問であるという言葉が投げかけられていると思います。この批判を真向から受け止めねばならないのは、実は、この福沢なのです。――この学力、学校学歴主義の原因となったのは、他ならぬこの私であります。これは私が長年にわたって考えて編み出したものなのであります。今までの身分制社会に代るものは何であろうか、生まれをもってその人の貴賤が決ったのでは努力のしがいがないではないか、何のために人間が生まれてくるのか分らないではないか、人間はその生まれによるのではなく、門地に依るのでなく、その人の努力によってその人の値打ちが決められるべきである。そういうことを私は考えました。それでは近代日本、新生日本において、その努力は如何なる方向に向けられねばならないのでしょうか――。 それを私は考えたのです。決して古い宗教家的な努力、山の中に篭ったり、滝に打たれたり、そういった努力で優れた人間が選ばれるわけではあり得ません。当時は西欧合理主義が入って来た時代です。やはり先生は西欧でありました。西欧的な近代化ということを考えていたために、ある意味でその西欧主義、西欧的なものの考え方、これを学ぶ必要があったわけです。それをうまく学んだ人間が、人の上に立てるような世の中、こういった世の中になっていったわけです。ですから私は学問ということによって、身を立てるということを人びとに説きました。そしてそれは、その後百年間の日本の、日本人の行動指針となったはずです。 私は必ずしもこれはすべてとは思わないです。これが総てとは思いません。ただ百年間、その後百年間の日本の動きを見ていると、私の説いたことも八割は正しかったと思っています。その高度な学力、教育によって日本人は、優秀な人びとを、人材を世の中に送り出し、それが各産業界での活躍となり、また諸外国へも現在影響を与えるようになってきているのではないでしょうか。そういう意味で現在強く批判されて来ては居りますけれども、私はまだこれも、次に新たな物差が見つかるまでは、しばらくの間は有用な物差、規準であると思うのです。 この点に関してあなたの方から疑問なり質問があれば聴きます。お伺い致します。 3.学問は有用性のみでなく、魂の進化を促進させる 善川 勿論現在まで、また今日でも学問を修めた者が、社会に出て用いられるチャンスがあるし、またそのうえ学校格差によって実社会での地位、身分獲得の規準ともなっているということが強いわけでありますが、そういうことのために今日ではすべての子弟が、一流会社での採用度の高い有名校、もしくはこれに次ぐ知名校を目指しているのでありますが、それ自体は今日までは当然なことでありますが、人はすべてそのような好ましい状態を望むのではありますが、しかしながら、またその反面においては、人には等しくそのような才能なり経済的環境が与えられているものではありませんために、この局面にのみ人の価値基準が据えられると、そこに今日問題化してきた落ちこぼれによる子供自身の失意、劣等感から生じる不良化、あるいは社会悲劇や、家庭破壊を引き起こしているというのが一面の実情であります。 こういう現状からして、そのような不安定要素を改善するためにも、これからの教育制度というものは、一律平均的な各科主義に固執するのではなく、能力に応じた科目の単科重点型というものに視座を転換すべきだとの意見も出ております。換言すると、才能教育、あるいは職能教育というものの道を開き、不得意科目からの解放を図り、無駄なエネルギーの消耗を防ぐべきだと思うのです。またこういう子弟についての将来の職場保証については国において、しかるべき助成がなさるべきだとの見解もありますが、私どもといたしましてはこの道の専門でもありませんために、しかとした教育制度についてのシステムというようなものは未だ見出し得てはおりません。これは今後の課題になろうと思います。 福沢 ただいまあなたが申された社会的問題ですね、学力学歴偏重の問題ということをあなたは申されましたが、これについて私の意見を言って置きたいと思います。問題はむしろね、学力や学歴を偏重することではなくて、人びとが結果主義に陥入っているということなんです。結果成功すればよいのだけれども、結果成功しなければもともこもないという考えが裏にあると思うのです。けれどもね、そんなものではないのです。この世の中において、人間が努力したことは、決して報われないことはないんです。無駄というものはないのです。たとえば一生懸命受験勉強したとしましょう。希望の第一志望の大学に入れなかったかも知れない。第二志望にも入れなかったかも知れない。その結果、その人は、世の人びとが羨むような職業にはつけなかったかも知れない。けれども、その人が一生懸命勉強したことというのは、決して無駄にはなっていないのです。結果主義でものごとをみるからこそ、無駄に思えるだけであって、ではそういった第一志望、第二志望の大学に入らないからといってね、当初からじゃあそういう希望を持たない、だから勉強しないで現在あるがままの自分になっていたとして、努力した結果、駄目で現在の自分があると、努力しかいで現在の自分があるということ、出ているものとしては一緒かも知れない、結果としては一緒かも知れないけれども、別な観点からみるとこれは非常に違うのです。無駄というものは何もないのです。学習においては――いわんや魂の学習においておやです。人びとが学問に励むということは、その学問的な達成度によって、世の中の道を切り拓いていける人も居るでしょう。それは成功者です。しかし成功者でない方も多いと思います。けれどもね、そうした知識を得るということは、永い転生輪廻の過程の中において魂の学修としては非常な意味を持っているのです。大部分の人間はね、これまでというものは、大抵農業とかですね、あるいは武士のようなものとか、あるいは漁師とか、そういった非常に原始的な職業をやって来た人達が殆どなのです。このような方々が近代の文明国に生まれてはじめて学問というものをやり、新しい世界観を得ることができたんです。 学問というのはある意味において世界観の獲得なんです。この地球、この地球の中にある様々な国、様々な人種、その中にどのような思想があり、どのような学問があるかということを、みんなが学べるような時代になったということなんです。これはね、結果としてはそういったことを勉強して大臣になれなかったり、医者になれなかったりするけれども、それを学んだということ自体は、非常に素晴しいことなんです。 過去何回か生まれ変って得ることができなかったようなものを一回の人生において得ることができたということなんです。ですからね、私は今の学力、学歴偏重に対する批判に対する反批判としてはね、結果主義に陥ってはならないということを言いたいと思います。人生において無駄というものはないのです。それは何もないのです。ではね、英語なら英語の勉強一生懸命して何かの試験に通らなかったからといってね、では、その英語の勉強をしたことが、果たして無駄になるでしょうか。そういった学問、新たな外国の学問をやることによって、様々なことを見聞することもできるようになったろうし、その人間無駄なことは何もないのです。学修するということについて、無駄は一つもないし、その結果本当の意味における結果において落伍者は一人も居ないということなのです――。 これに対し、またあなたの方から疑問があれば続けて下さい。 4.教育制度の改革、能力促進教育について 善川 まあ現代の社会というものは経済生活の水準が非常に高くなって来ておりますから、一応の目標は中流もしくはそれ以上の経済生活の確立ということになって来ていると思うのですが、そういう中で、先程申された第一志望、第二志望というものを希(ねが)っている若者達の窮極的な目標といいますか、それは職業即生活の安定がそこに約束されるような状況、そういう状況をねらっているわけですが、それが達せられないということ、つまり平均的な学力成績が得られなければそれが達せられないということで、それでは困るということとなると思うのであります。 たとえば数学においてはその才能に殆ど恵まれていない者でも、絵画においては、あるいは音楽においてはずば抜けた才能の持ち主が居るといたしますと、そういう人達の進むべき道というものは、それはそれなりの方向なり職業というものが与えられるべきであろうと思うのであります。ところが、ここに自己の才能を生かすその出発点において、その不得意とする科目の得点によって既に篩(ふるい)にかけられ、志望校への入学が不可能となるということは、矛盾があるのではないかと思うのであります。まあ一例を申しあげるとこういうことになるのですが、これらについての入試制度の見直し、あるいは改善策というものについてはどのようなものがございましょうか。 5.問題点一についての考察 福沢 今のあなたのご意見に関しては、二つの面から検討ができると思うのです。一つは擁護論ですけれども、例えば美術の学生としましてもですね、非常にたとえば今までは好きな活動だけをやっておれば、それでよいという考えがあったかと思いますけれども、例えばこれからの画家というものを考えてみると、舞台は非常に広がっていくわけです。日本の中でも、画家でも一流になってきますと、各界の人とも話をしなければいけない。また海外に行って絵を描いたり、展覧会に絵を出す機会も増えてくるわけです。そうするとね、この時代における常識はやはり身につけておく必要があると思うのです。 受験勉強というようなことになると非常にレべルが落ちるようにも聞こえるかも知れないけれども、ある意味においてはこれは今の時代における常識の獲得、ということなんですね、ですからまず優れた人間である前に、常識人であれといった考えもあるわけです。絵だけ描いてね、絵がうまくなりましたと、では次ぎにはパリの何とか祭に出てですね、絵についての議論しましょう。芸術論をやりましょうといった時にですね、『私は職人ですと、絵は描けますけどほかのことはわかりません』と、これだけでは通用しない世の中になって来ていることも事実なんです。そういう意味において傑出した人物になる前に、まず常識人として自分を確立しなさいと、方法論としてはこれは正しいことであると私は思います。 6.問題点二についての考察 福沢 もう一点、これは別の観点から申しあげます。これはいま私が言ったことに対して反論のような形になりますけれども、自分の説に対する反論のように聴こえるかも知れませんが、今の日本に欠けているものは逆に何かといいますと、天才教育です。それはあなたの仰しゃる通りなんです。私は平等ということを説きましたけれども、人間の能力において差がないという意味では本当はないのです。しかし、そういった差を強調することはね、新たな人びとの間の不平等ということを生み出すもととなりますから、やはりスタートラインということはね、仕切り直す必要があったということです。特に明治のような新たな学問が入って来たような時代においてはね、誰もがそれを学んでなかったわけですね、ある特定の家に生まれたから学問が進んでいるということはないわけですね。新たな学問が西洋から入って来たわけですから、皆さんが同じスタートラインに立ったというわけですね。そういう意味においてはまあ能力的に賢い人が居たにしてもですね、新たな学問を吸収しなければ何もならないわけです。能力的に劣っていたにしても新たな学問を吸収することに努力すれば、他の人が達し得ないような知識を得ることができたという時代だったわけですね。ところが今ではかなり学歴化も進みまして教育環境も変ってきました。そして能力の差というのは非常に出て来たと思うんですね、で必ずしもこの能力の差というものは否定いたしません。あるでしょう。それで今の日本の教育では逆にね、この平等主義ということが非常な弊害になっているかと思います。文部省というところがあってすべて同じような教育内容で人びとに教育しているわけですね、けれどもね、まあそれは三歳や四歳の時、あるいは七歳、八歳の時、にはそれ程各人の能力に差はないかも知れません。けれどもね、十代の後半になると、その差は非常に甚だしいものとなっているんです。その百万人なら百万人、百五十万人なら百五十万人が、同じ年齢であるということにおいてね、同じ学習内容をするということにおいては、これは本当は理に適ったことではないのです。やはり各人、遅い早いはあると思いますよ、どちらが優れているとは申しません。ただその内容に差はあると思うんですね、そういう意味において現在の六、三、三、四割ですか、こういうものは見直さなければならない時期にきていると思うんですね。 これは年齢によってですね、年齢、ある意味での平等観ですね、十八歳にならねば大学に入れないようになっていますね。十八歳以降なら入れるけれども十八歳までは入れない。これはある意味においておかしいと私は思うんです。昔には、たとえばあなた方のところに「吉田松陰先生」のような方が出られたと思いますけども、こうした天才肌の人というのはね、もう十代においてもね、普通の大人がやらないような知識を得ることができるんです。こういった天才を見逃すような世の中になっているということです。天才を生めないんです。そういう意味においては十割の人には当てはまらないけど、ごく一部の人のために、天才を磨くための道というのが開かれなければならないと思います。そういう意味においてはあなたが先程言われたようにね、絵が描ける人ということの本当の天才みたいな人がですね、たとえば高校三年間を了えて数学も、英語も、理科も、社会もね、なにもかも出来ないとね、美術大学に入れないと、いうのであればね、それは惜しいといえば惜しいんですよ。そういうことにおいて。 たとえば絵の天才が居れば、もう中学校からでもね、もう大学に入ってね、専門の絵の勉強がやれるようなね、時代であれば面白いと思うし、音楽の天才ならもっと早くてもいいですね。もう十代の前半で大学でね、音楽の勉強できるような、専門の勉強ができるような、そういう素地があればいいと思いますよ。その人が音楽の天才であるにも拘らずね、たとえば田舎の町に生まれたとしましょう。田舎の町の子供として生まれたとしましょう。小学校や中学校の音楽の先生では大した能力も才能もありません。彼らは天才を開発するだけの力はありません。じゃあその田舎の町なり村にそれだけ優れた音楽的施設があるかといえば、ありません。その家が金持ちであればまた別の道もあるでしょうが、普通の家の子であるならば、その才能は適当な時期が来るまでどうすることもできません。こういったことは惜しいと思うのです。ですからね、逆の方法も一つ考えていいと思うのです。そういう特殊な能力で天才的なものを持っている人はね、一気に専門教育に入っちゃうわけですね、早期に、年齢にかかわらず。で、例えばその代り逆にするわけですね、そういう専門教育をやって、後、補習の形で一般常識というものを、身につけて頂くようにするわけです。 十代なら十代でもう十代の前半で大学に入れる。美術大学に入れる。それで専門の勉強ができます。ただし、大学に居る何年かの間にですね、そういう一般常識を、高校で習うような課程もですよ、併せて補習を得るような形で段々に単位をとっていく、こういった勉強の方法ですね。これ大事なんじゃあないでしょうか。で、それをとったら大学は卒業できると、しかし専門教育は早朝に開始する。 あるいは大学の年限もね、そういう天才のためにはね、今の四年制じゃなくて、十代前半に入った天才のためには大学も七年でもいいと思うんです。芸術教育、専門領域の教育をやって残り卒業までの間ですね、自分の腕を磨きながら一般常識を獲得していく、こういった方法でもいいんじゃないですか。 今は前提条件が満たされなければ、後の部分が出来ないというような形、けれども逆でもいいんじゃないかと思うんです。専門領域をまず伸ばしてそれを勉強する。そして後順番にですね、補習の形でとっていく。あるいはね、大学の四年間で専門の勉強して、それから高校時代のカリキュラムのような、そういった学習科目をとり損ねたかも知れません、卒業させて了って、卒業後にですね、そういった数学でも国語でも何んでもいいです。科目をね、生涯教育ということで少しずつ埋めていくわけですね。取っていく、こういうことによって後から追加的にですね、ちゃんと卒業の資格が得られるようなこういったものでもいいです。 今、私が二つの異なる意見言いましたけれども、一般論としては優れた人である前に、常識人であれ、ということです。これは説かれなければいけません。大抵はね、あなたの言っているような議論というのは勉強嫌いな人によく使われる議論なのです。ほかに才能があってもね、こんなに学校に縛られていちゃあ何んにも出来ないと言っている人が多いのですが、大抵の場合は勉強をするのが嫌いなのです。それだけのことなんです。じゃあ他のことをやらせば、それだけの才能があるかといえば、まあそういった根気もない人が多いんです。そういった人が、言訳けでね、よく言っているんです。こんな詰め込み教育じゃあね、才能が開かないなんて言っているのは大抵は言訳けなんです。ですからそういった大部分の人に対してはね、まず優れた人になるよりは、常識人となれということです。 ただし、本当に天才的な人が居ますから、そういった人に対してはですね、年齢制限なしでですね、自由に能力を引き出せるような制度もつくって置く必要がある。これは国家の義務です。今の六、三、三、四割は、必ずしも万人に適用させる制度ではないということです。 7.教育制度の改革により雇用制度の変化発展が可能 福沢 また、今一つの観点から別なことを申しましょう。これはあなたの疑問でもあると思うのですで、問題は十八の春、あるいは二十そこそこの段階でね、人生の道筋が決ってしまうようなのがどうかという考えがあると思うのです。比較的若い年齢において、学問学修を了えて有利な道に乗ればですね、昇進していける。あるいは大会社へあるいは社会の重鎮へと進んでいけるというような道筋がありますが、これに対しあなたは疑問を持っておられると思うのです。 人間は早咲きの人もあれば、遅咲きの人もあると、こういったことに関してどう思うのかと、たとえば、経済的な不幸などはいま少なくなってきているかもしれないけれども、家庭環境において、子供を必ずしも大学に出せないような家庭もないとは言えません。そういう人が働いている。働いているうちにやはりもう一回勉強して出直したいなと思った時にですね、勇気を奮い起こして大学に入り直して、じゃあ就職できるかというと、もうほとんどできやしない。こういった問題があるわけでしょう。恐らくそうですね。 いま、三十代半ばで発心して何処かの学校へ行って学び直してもそれを生かす道がないということが現状ではないでしょうか。こういったことに対して社会はもう少し寛容でなければならないと思うのです。新卒、大学の新卒だけを採用するという今の企業のやり方、二十二、三で採用して後、定年まで同じところに止まっているという考え方ですね、これを改め直さねばならぬと思います。いま、定年まで居るということが段々少なくなってきて、途中で転職するなり独立するということが増えてきていますが、やはり人口においては、採用ということにおいては、いまだにその線が守られていると思うのです。まあ高校卒で採用する場合には十八歳ですね、短大卒は二十歳、大卒は二十二、三と、いうことで線引きがされていてそれを逃がすと、たとえどんな優秀な人であっても就職の道は厳しくなっております。これは日本的な年功序列の制度があるために、年を取った人を新しく雇い入れるということは、非常にその社会の中でですね、会社の中で使いにくいというようなことが基因していると思うのです。 これに関して、やはりもう少し多様な世の中というものを考えていかねばなりません。人間は、年齢だけで決っていくものではありません。だから年齢で採っているけれども新卒で入っていると新卒と同じように扱うのはむっかしいということでありましょうが、そうではなくて、もう少しその人が持っている知識なり、技能なりに対して一定の認定をしてあげねばいけないと思います。専門家として雇い入れるというわけですね。こういったことをも少しやって企業というものが、寛容というものを持たねばなりません。 社会に対してもそうです。公務員もそうですよ、四十歳、五十歳から公務員にはなれません。けれど考えてみなさい。民間会社でまあ四十歳、課長さんなら課長さんを勤めたとしましょう。非常な経験を積んでいます。役所では積めない様な経験を積んでいるわけです。様々なね、業種において、そういった方が、やはり私は公僕として国のために、あるいは地方公共団体のために尽したいと、たとえば四十歳で思った時に、それが実現できない世の中ですね、今は、――こういったことがいけないと思うのですね、例えば四十歳なら四十歳で、公務員の試験なら公務員の試験があってもいいと思うのです。それで受けて受かればですね、同じような地位で採用する。例えば公務員として課長職で採用できる。こういった新しい血を入れるということは役所の中においても決して無駄なことではないはずです。こういった制度が段々出て来なければいけないと思います。そうあなたは思いませんか。やはりその人の達成度に応じた処遇ができるような世の中になっていかねばなりません。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/325.html
目次 1.自己変革の時期 2.恋愛と自己変革 3.社会における自己変革 4.結婚と自己変革 5.組織と自己変革 6.自己変革と責任の拡大 (1989年1月26日の霊示) 1.自己変革の時期 高橋信次です。みなさんこんにちは。 一月ももう終わりに近づきましたね。えー、今年こそはやるぞ! と思ってスタートしてもう一か月近い月日がたちました。歳月人を待たずとよく言いますが、ほんとうにそうですね。でも一生懸命努力しながら前向きで進んでいる人にとって、ほんとうに時間というのはあっという間に過ぎていきますね。きっと私の本を勉強しているみなさんもそうでしょう。私の本を読んでしっかりと赤線を引いて、ノートをとって勉強し暗記しているうちに、特にジョークなんか暗記しているうちに月日がたって、いつの間にか大人になっていることでしょうね。 さて、今日は「自己変革の原理」という題をあげてみました。まあ、本書は『やる気の革命』というふうに題していますけど、どうやってやる気が出るかということをいろんな角度から探究してみようと思っているんです。 やる気のない人は、やっぱりだめですよ。いつの時代に生まれても、やる気のない人っていうのは、もう事を成すことはないです。やる気のない人は大を成すことはないです。やる気のない人が時代を変えることもなければ、世の人びとに大きな影響力を与えることもありません。やる気はやっぱりすべてですね。 さて、そこでねえ、まあ章立てをして話をしているんですから、自己変革の原理として私が考えていること、まあ考えていることって言ったらあれですね、読者のみなさんからちょっと疑問があるでしょうね。「うそつけ、考えていないだろう、今思いついたことだろう。」なあーんて言う方もいるかもしれませんけど、まあ、それはどちらかは定かではありませんが、私がね、人間の自己変革にとってどうしてもだいじだなと思うことを話してみます。もちろん他の本で語ったことと、重なるところもあると思いますけれども重要なことというのは、何度でも何度でも繰り返し繰り返し言ってはじめてね、魂の奥底まで染みてくるんです。 特に、このような霊言集を読んでいるみなさんに言っておきたいけども、赤川次郎とかそんな通俗小説を読んでいるのとは、ちょっと違うんですよ。これはねえ、ただ活字を追うだけじゃだめで、霊言・霊示集っていうのは、魂の奥深いところまで染み込まなければ駄目です。読んでいて人生のヒントとなったことをね、これを心の底に、肝(きも)の底に銘じてね、そして人生の実践原理、自己変革の原理につなげていかねばいけないんですよ。 たとえば、『高橋信次の愛の讃歌』といういい本が出ましたけども、たいへん好評のようですが、あれなんかでも、面白おかしくも書いてあるけど、だいじなこともいっぱい入っていますね。そうしたことをね、しっかり受け止めて勉強することですね。そして、それを頭だけで止めないでね、体で現わしていくことね、そして自分のものとすることです。 だから、私はこの高橋信次の霊示シリーズ、これがね、ぼくの本が種本であってもいいけど、忘れちゃってもいいと思うんだ。ぼくの本で読んで覚えたということを忘れてもいいと思うんだけど、それでもエキスの部分、あるいはみなさんの心に残ったことというのを自分の考えとしてね、そして実践してほしいなあ。そういうふうに思いますね。どの霊が言ったからどうということはありませんから、自分の問題として実践に移していただければ幸いです。 さて、これは方法論の書物ですから、自己変革というところにいよいよとりかかっていきたいと思います。まあ、自己変革が必要な時期というのをまず考えてみたいんですね。どういう時期に自己変革が必要であるか、これはね、やっぱり脱皮が必要な時期なんですね。脱皮、すなわち自分に要請されているものですね、これが変わってきた、この自分を取り巻く環境、これが変わってくる、自分にさらに違った面を出すことが要求されてくるとき、こういうときが自己変革が必要なときですね。これはあります。そして、これはある意味において、魂にとっては危機的な部分もあるが、チャンスでもあるんです。 普通の人間のこの自己変革の時期を考えてみると、まあ今はわりあい小さいときから、試験なんかが多くて、まあそういう機会も多いかもしれませんが、小学校、中学校からたいへんな方もいらっしゃるでしょうが、まあ高校の入学試験、大学の入学試験、こうした十代では入学試験なども一つでしょうね。一つのハードルを越えなければ次へ進めない、という段階ですね。これは、小さな心には、たいへん重荷だと思います。しかし、これも自己変革の時期ですね。ここで厳しいけれども努力して、そのハードルを乗り越えたときに、変わるわけですね。 えー、小学生から中学生に、中学生から高校に、高校から大学にとその人生の節目(ふしめ)があるわけですね。この節目に努力して、その難関を乗り越えたという気持ちがね、人間を脱皮させるんじゃないかなあと私は思います。それが、ひじょうに楽であればね、何の努力もなく、大学の定員も高校の定員も中学校の定員も、みんな定貝割れしてね「だれでもいける、いつでもいける」というような感じであれば、自己変革というのはあまり要らないでしょうけれども、やはり厳しさが伴うところにね、自分が変わっていくときのこの苦しさがあるんですね。陣痛の苦しみですね、こういうものがあるんです。 ですから十代では、そうした受験ということも自己変革の時期でしょうね。それから、やはり十代後半から二十代前半にかけて、異性の問題というのはどうしても出てまいります。異性の問題が出てきて、恋愛というのを経験しますね。この恋愛はドンピシャリで決まる人というのはきわめて稀(まれ)で、十代後半ぐらいで知り合った方や、二十代の初めぐらいに知り合った方とそのままゴールインするという人は少ないでしょう。もちろん、女性の場合は二十代前半で知り合った人とゴールインすることはけっこうあるかもしれませんが、少なくとも男性をとってみれば、十代や二十代の初めで出会った女性と結婚するケースは稀だと言ってよいでしょう。それは、やがて本格的な結婚生活に入る前の試練、あるいは準備期間としての恋愛があるのではないかなあ、と推定されるんですね。 2.恋愛と自己変革 今は男女の平均年齢、二歳か三歳ぐらいの差に縮まってきておりますが、これは歴史的にはけっこう珍しいケースでございまして、たいていは男女の年齢差というのはもうちょっとあいていることが多いんですね。二、三歳というのはきわめて難しい、珍しいと思いますね。これは女性の高学歴化と、社会進出の影響かと思いますけども、通常はもうちょっとあいていたのが歴史だと思いますね。四、五歳から十歳ぐらいあいているのが多かったように思いますね。 なぜそういうふうに年齢があいていたかというと、指導力の問題なんですね。やはり、男性がイニシアチブ取らないと結婚生活もうまくいかないんですね。いつも尻の下に敷かれていてはうまくいかないんです。そのためには、男性のほうがある程度社会的知識を身につけているほうがいいんです。生物的には女性の成熟のほうが早いですから、同じ年ではちょっと負けてしまうんですね。だから経験を積んで、その分でカバーしていくというのが多かったわけですね。だから生物としては女性のほうが進化が早くても、男性は社会経験を積むことによってそれをカバーできるということが従来の常であったんですね。 まあ、ですからこの話を聞けばすぐわかる人もいるでしょうが、尻に敷かれている男性諸君は自己変革が要求されていることもわかるかと思いますが、それもまた後の話にしましょう。 この恋愛期で九割は失恋するわけですね。九割の失恋を通して、何を学ぶかということですが、一つには異性への憧(あこが)れというのを感じるのと、挫折というのを感じるでしょうね。限りないあこがれ・憧憬・理想、こういうものを感じる反面、挫折ですね、挫折・失意こういうものを感じるでしょう。そしてこれは、後の人生において、自分がいろんな荒波を越えていくときの一つの練習台になっているんですね。 この女の子に振られたなんてことは、まあたいしたことじゃあないんですが、四十、五十になりゃあ、「そんなもんは、どうってことはねえや」って感じになってくるんですが、男の勲章だと思えるようになるんですが、この十代、二十代ではそうなかなか思えなくって、これがたいへん生きるか死ぬかの大問題になってきますね。 そして、なぜ傷つくかというと、自分のこのプライド、自我というものがザクッと切られるんですね。ザクロみたいに口を開くんですね。そして、苦しみます。このロを開いたところに冬の冷たい風が吹いてきてね、そして染みるんですよ。染みて染みて辛くてしようがないんですね。「あー染みて染みて、この私の傷口を嘗(な)めてくれる人、埋めてくれる人は誰もいないんだあーっ。」っていうこの悲しみですね。これを味わいます。 大人の目から見れば、これはひじょうにセンチメンタルな感じであって、「何言っているんだあ」ってね、思うんですね。私なんかから見りゃあ、その「愛(いと)しの愛しのカヨちゃんは」っていうようなのを見りゃあねえ、何だかしらんけど、まあ男の子みたいに筋肉質でピンピン跳ね回っているような女の子なんだけど、それでも同じ年ぐらいの男性から見りゃあ理想的な女性に見えるんですね。大人の目から見りゃあ色気もそっけも何もないわあ、化粧もしたこともないし着ているものもダサイと思うのに、同じ年ぐらいから見るとそうは見えないんですね。質素でほんとうに可憐で、そういうふうに見えるんですね。まことに不思議です。そういう世界なんですね。一念三千というのはこんなところにも働いているんでしょうか。そういうふうに人の目によって違うふうに見えてくるんですね。 まあ、この恋愛、そして失恋というパターン、よくあるパターンで、ここで心に傷が入って、そして、まあその傷はやがて癒(い)えていくわけですが、免疫みたいなのがついてくるわけですね。ただ、これがあまり繰り返しが多くなってくるとだんだん自己卑下的人生が始まってきます。 まあ、そういうことで世の女性には、お願いしておきたいんだけど、ウーン最近はきつい女性が多いんでね、ほんと。男性がザクロみたいに心の傷口を開いても、そこに何か、とどめ剌すような子がいっぱいいるから。ブチュブチュブチューッて錐を差し込むように最後まで殺しておかないと、とどめ剌しておかないとあぶない。また息を吹き返して私のところに迫ってくるとたいへんだから、なんてそんなことを言いますから、たいへんなんですね。まあ、その女性もやがて苦労するようになるわけですけどね。そういうことをしている女性だって、やがてね、春が過ぎ、秋が過ぎ、冬が過ぎて季節は巡っていくうちに段々段々年齢がいくと寂しーい人生が始まったりして、けっこう試練は来るんですよ。まあ、それはそれで置いておきましょう。 3.社会における自己変革 そして、次の試練はやっぱり卒業から就職っていう問題でしょうね。この社会生活に出るというところのギャップは大きいと思いますね。ここで男性は、女性もそうでしょうけども、この、お金を貰うということの厳しさを感じるんです。今まで学生やっていたときには、お金を貰うということが無かったわけですが、親から小遣いはふんだくってましたでしょうが、自分で稼ぐというのはアルバイトぐらいです。ただ、アルバイトと仕事をするというのは大きな違いがあります。この仕事というのは自分の将来を賭けているんですね。この仕事をすることによって、数十年の人生のロマン、これを賭け、またやがて結婚し家庭をつくっていこうっていうような、そういう場なんですね。 したがって、この仕事に入るということはひじょうに悲愴です。で、特に日本の社会でのこわいとこは終身雇用制に近い部分がありましてね、いったん就職したら、そう簡単にいいところばかりは次は移れない。ということで、男性というのはそこで覚悟を決めさせられるんですね。これは今に始まったことではなくて、昔にもありましたし、お城に勤めるということですね、脱藩するとたいへんです。他の藩に勤めることは、そう簡単にできませんね。こういうことで連綿とやっていることなんです。 ただ、ここでだいじなことは、学ぶのはね、自分本位という考えが通らなくなってくるんです。多くの人といっしょにやっているうちに、自分本位という考え方が通らなくなってきます。自分本位でいこうとする人は必ず衝突が起きてきますね。いろいろなところでぶち当たって、そして角がとれるようになります。角がとれてきて丸くなれば、いられるようになるけれども、角がとれない場合にはどうなるかというと、必ずドロップアウトするんですね。これは一つの法則です。角がとれずにドロップアウトしたとしても、でもまあ、そうしたいろいろなものにぶつかって、とんがったところ多少かすめ取られたっていうのは、人生にとってはたぶん大きな意味があるだろうと思いますね。 ここで考えねばならんことは、もちろん人のなかにはきわめて個性的で他の人を寄せつけないような性格もあることは事実です。魂のなかにそういう傾向があるんですね。もちろん、このなかにも優秀な方はそうとういます。そういう方もいるんですね。魂のなかに自己の優秀性を感じるがゆえに、そう簡単に人といっしょに協調できない。自分は自分のやり方があるんだ、という考え方ですね。これがあります。 ただ、ウーン、私なんかも軍隊の経験あるけど、今の会社社会なんて軍隊に比べれば楽なもんですよ、ずっと楽だ。軍隊なんか上官に逆(さか)らったら、あなた下手(へた)したら死刑ですからね。あるいは、まあブタ箱行きですからね。そして、厳しいお仕置きがあります。軍隊は厳しいですね。ええ、問答無用の世界ですね。上官に逆らっただけで、もう問答無用でバシーッと平手が飛んできますね。 その平手が飛んでくる相手が何かっちゅうたらね、あんなの聞いてみりゃあ、変な職業を言ったら問題があるかもしれないけども、たいしたことないどっかのアレですね、田舎町のオッチャンやオバチャン、オバチャンはいないけどもオジサンとかね、そんなんですよ。そんな人が上官にたまたまなっていたらね、高橋信次みたいな救世主みたいな、こんな人でもほっぺた叩かれちゃうんですよ、パシーッ、パシーッ、「こらお前クソ生意気だーっ」って言ってね、「お前みたいなやつは厳罰に処すぞーっ」って威張り散らしますね。それで軍靴で蹴っ飛ばされます、パシーッと蹴っ飛ばされますね。「晩飯抜きだー」なんてやられますね。問答無用です。ずいぶん理不尽(りふじん)なふうにも見えますが、ここに組織のなんていいますか、原点みたいなものがあることは事実なんですね。 なぜ軍隊がそれほど厳しいかというと、一つの目的があるからですね。この一つの目的とは何であるかって言うと戦いに勝たねばならんっていう目的があるんですね。「それぞれ自由でいいじゃあないかあ、みんながやりたいようにやりゃあいいじゃないか。上官の意見もいいときと悪いときがあるんだから、いいとこは聞いて、悪いとこは聞かないほうがいいんじゃないか。」とまあ、こういう考えもあるわけですが、こういう人がいっぱい増えるとどうなるかっちゅうと、戦をすると完全に敗けますね。当然のことですね。「敵軍は攻めてきた、我々も切り込むぞーっ」とまあ、上官が言ったとする。しかし、ある人は「いやぁ上官、今は時期じゃあないですよ。明日になってから総攻撃かけましょう。」とか、いろいろな人がいろいろなことを言うとどうなるかというと、バラバラになってきますねえ。そして、一部血の気(け)の多いのだけが切り込んでいったら、それは全滅ですね。そして残りのやつも翌日全滅させられますね。全部いっしょに動かないとそうなるんですね。こういうふうになるんです。 だから、なぜそういうふうな規律があって、厳しい統制があるかというと、戦いには勝たねばならんという至上命令があるからです。というのは敗けてしまうと全滅ですからね。だれも彼もないんですね。一人、二人の自由なところを許しておったら全部がだめになってしまって、そして結局敗けてしまいますね。ほんと自分かわいいでやっていて、自己本位でやったのはいいけど、全滅ですからこれはだめなんですね。勝ってこそ命があるんで、自由な意見も言えるんですね。敗けてしまえば、それまでなんです。まあ、こういうのがありますね。 この軍隊と宗教ですね。宗教の世界というのはひじょうに組織化の問題があるんですね。原点はここにありますね。軍隊と宗教はひじょうによく似たところがあります。過去いろいろな団体があったでしょう。現代ではそれは大会社というのは、何万、何十万の大会社があります。そういう例外もあるでしょうが、過去の人類の歴史を見てきて、組織ということでいちばん特徴があったのは、軍隊と宗教ですね、宗教団体です。組織化というのは、ここが原点なんですね。宗教団体も一つの意志のもとにまとまって、そして行動を起こすというところでは、ある意味での精神的軍隊とひじょうに似たところがあります。 そして、この宗教の目的はいったいどこにあるかというと、神の意思を述べ伝えるというところにあるわけですね。この神の意思ももちろん、いろいろな部分がありますが、一定の教義というものを広げるということが目的ですね。この目的のために組織化が進んでいくんですね。その意味において、軍隊と宗教団体というのは、何万、何十万、何百万人の人をまとめていくことになるんで、組織化ということはひじょうにだいじになりますね。この意味で普通の団体や会社なんかの比じゃあなくなってきますね。こういうことが必要になるんです。それは共に大いなる目的のために、奉仕しなければならんという大きな至上命令があるからなんですね。 こういうところがいつの時代にもありました。キリスト教の宣教師たちの、あの戦って殉教していく姿なんていうのは、もうどうですか、軍人さんより勇ましいかもしれないぐらいのところがあるでしょう。「神の神理を守り、それを述べ伝えていくためには命を取られても戦う」というんですから、「十字架にかかろうが、火あぶりになろうがやる」って言うんですから、これは軍隊どころじゃないですね。 神風特攻隊の原型はもうすでに、西洋にもあったわけで、別にゼロ戦だけじゃないですね。「日本はゼロ戦で飛び込んでくるから怖い、神風は怖い、日本の宗教怖い。」って言うけど、とんでもないですね。それより前にキリスト教やっているじゃないか。宣教師で火あぶりになってがんばっているじゃないか、とこういうところがありますね。 まあ、このように軍隊と宗教には一つの大いなる目的のために命を捨てていくという面があるように思いますね。まあ、何が言いたいかというと、そういうところに組織化の原点があって、これを多少弱めた形でいろんな組織・団体があるんですね。そこではどうしても自己本位というものを変えて協調していかねばならない。その協調、自己が抑圧される理由としては大いなる目的があると、こういう部分ですね。これがあります。 4.結婚と自己変革 さらに、社会に出てから次に結婚というハードルもありますね。結婚のハードルも、まあ、なかなかたいへんなところがあります。男性であれば、たいてい勤めて四、五年ぼちぼち仕事を覚えて、収入も高くなってきて、ちょっと余裕が出てきて、しかし中間管理職に入ったら急に忙しくなるだろうなと思われる、その前ですね。足場を固めておきたいという気持ちが起きるときがあるんですね。三十前ぐらいになると、そういう気持ちにだんだんなってきます。何とかして足場を固めて、次のステップに行きたいという気持ちですね。 ここでやはり葛藤がありますね。いつまでも子供でいたいという気持ちですね。二十代の男女にとってだいじなことは、親からの独立ですね。この問題があります。親はまだ結婚するまでは自分の支配権下にあると思っていますね。それで親がうるさく感じられる、うっとうしく感じられるのもこのころなんですね。うっとうしくは感じられるけども、やっぱり大人になっていくのが怖い、これはみんな共通だと思いますね。 男性も仕事面ではそこそこ認められるようになっても、嫁を娶(めと)って家庭を築いていって、父よ母よ、さようならっていくのになかなか勇気が出ない人もいます。特に両親からかわいがられた人であればあるほど、そういうふうになってきますね。 女性の場合もそうですね。過保護で育った場合には、やっぱり嫁に行くのが怖いんですね。親のもとにいると全然気を使わなくて済むし、いつもかわいがってくれるし、ほめてくれるし、食べ物にもお金にも苦労しないし、それが女手一つでね、女手一つに決まってますが、女の身一つで嫁にいったら姑女、姑があって、小姑までいたりしていろいろと蟹が群がってきてハサミでちょん切るような感じで、ジャクジャクジャクと向こうから来ますしね。夫ちゅうんだって出会って好きになったり、あるいは見合いをしたりするけど、ほんとうに一生を託せる人かどうかなんていうのは心配ですよね。賭けに近いですよね、エイヤーっですね。だいたいまあ五割ぐらいのもんですね。「やったー、よかったー。」っていうのと、「しまったあー。」っちゅうのとやっぱり、こりゃあ五分五分ですよね。だいたいは五分五分と見ていいでしょう。両方ありますね。きわめて辛いですね。 だから女性も、このエイヤーっのとこがだいじですよ。谷を飛び越えるときはね、谷を飛び越えて結婚するときには、もう頼りを断つことですね。もう、ご両親のもとに帰ろうとか思わないことです。親の後立て、かわいがられたこと、こういうことをいったんは捨てて飛ばなきゃあだめです、ポーンとね。もう心中していくつもりでね、それが泥舟だったら、もうあきらめるしかありませんね。泥舟に飛び乗ったら、それは沈んでいくでしょうが、まあ、それも運命です。 そういうふうにね、やはり決断をして、人生の変わり目にね、一人立つという瞬間、これがだいじなんですよ。これが脱皮の瞬間でもあるんですね。男性もそうです。奥さんと子供を養っていくっていうのは責任感ですね。二十年、三十年少なくともこれは働かざるを得ないんですね。 この点、独身者というのは呑気(のんき)ですし、無責任ですね。社会に対して無責任です。会社なんかでも、やはり幹部登用するためには、結婚していることが条件になっていると思いますね。そろそろこれも中堅幹部で使わないけないなあっていうときに、いつまでも独身でいたりすると、「あれなんだ」っていうことに必ずなりますね。三十から、三十二、三ぐらいになってきて独身でいたら、「やっぱり何か欠陥があるんじゃないか」って必ず言われますね、これは必ず言われます。だから会社の上司は男性が三十ぐらいになってきて、そしてそれが優秀な社員である場合には、結婚は必ず勧(すす)めますね。そうしないと安定感がないんですね。 それと、会社への忠誠心なんかがありますね、一つは。社内結婚なんかもありますし、それ以外でもいいんですが、結婚してくれることによって、永く会社で働いてくれるっていう安心感が出てくるんですね。結婚したらそう簡単に辞められませんからね。独身ていうのは気まぐれですから、気にくわないとポンと辞めちゃいますが、結婚するとそれができなくなるんですね、当然ながら奥さんのこと心配ですから。 そうすると会社にとっては優秀な社員に結婚してもらうということは、安定感につながるんですね。こいつをその後、課長、部長、役員にしていくときには期待できるわけですね。そうすると教育の意味もあるし、またいろいろな重要な任務に就かせられるんですね。ところが結婚していないとそれができないです。 特に結婚してくれると嬉しいのは、海外への赴任とかがありますね。海外に行く場合とか、国内での転勤ですね。こういう際、これは不平不満がひじょうに出やすいタイミンダなんですね。海外に行かされる場合で、海外に行くのイヤな若者増えているんですね、意外にね。遊びで行くのはいいが、仕事で行くのは嫌いなんですね。で、海外赴任を命じた途端に止めちゃうっていうの、よくあります。最近、流行っています。 昔は商社ぐらいしかなかったでしょうが、最近メーカーでも何でも海外ですね、行きます。ところがメーカーに勤めている人なんか、海外に行きたくて行くような人なんかいないんですね。そういう人はもっと華やかな職業に行っています、たいていね。旅行業とかね、あるいは華やかな職業に行きます。 海外志向の人っていうのは、花形のところ行きますが、自分は研究者として生きたいとか、自分はちょっとドン臭く生きたいなんて、メーカーに入ったところが海外でドンドンやっていますから、「どこそこでやっている合弁事業のところ行ってこい。」なんて言われると、とたんに萎縮するんですね。英語ができないから、メーカーヘ来たつもりでいたのにとんでもないことになったってこれで辞めたくなる、こういうことがありますが、このときに結婚させておくと、便利なんですね。奥さん子供がいるともうギブアップですね。やむを得ないからやっぱりがんばるんですね。国内転勤でもそうです。 だから独身者というのはひじょうに無責任ですから、不平不満があるとすぐポンと辞(や)めちゃいますが、結婚していると、できなくなるんですね。それで会社の戦略のなかに次第に組み込めるようになるんですね。会社の戦略として組み込める。結婚している人だと海外でも四年、五年行ってこいと言えるようになりますが、独身者で送り出すと心配ですね。どうなるかわかんないし、こういうことですね。 したがって、まあ、ある意味での担保なんですね。職場においては、男性が結婚してくれるということは担保に近いです。まあ、そういうことです。だから三十前後で、上司から結婚を勧められたら「お前、今ここで乗り換えておかないと先が危ないぞ!」と言われているちゅうことですね。そういうことです。 特にエリート社員はあまり独身でいると、今度悪い噂がいっぱい立ってきますからまずいんです。会社にとってもまずいし、いろいろ事件起こされそうで心配でたまらないんですね。こういうことがあります。ま、これも脱皮の瞬間ですね。 5.組織と自己変革 さらに次は、今度は課長あるいは部長クラスになって、部下を使う段階ですね。そして責任は重くなり、さらに上役がおります。この板ばさみ、中間管理職の問題ですね。私もいろいろな本を出しているけど、中間管理職の苦しみについてまだ十分説いていませんので、またいずれ時を改めて、このサラリーマン諸君の中間管理職の苦しさについての法を説いてみたいと、じっくり説いてみたいなと思っていますが、この課長さん、部長さんのあたりは苦しいんですね。仕事はものすごくハードですし、家では子供が進学期に入ってくるし、そして部下の責任ですね、部下はいろんなことをしますから、この責任とらないかんし、また上司からはハッパかかってきますね。 要するに部長から本部長あるいは役員になっていこうとする人は、下ですね、部下、課長とか副部長とか、こういうところがしっかり働いてくれないと絶対上に上がれないんです。それだから、いやがおうでも頑張ってもらわざるを得ないんですね。下に足を引っ張られて、課長たちがチョンボなんかしたら、本人はもう出世できなくなりますから、もうたいへんです。必死ですね、こういうところです。この板ばさみもきついですね。 さらに脱皮すると、いわゆるマネージャー、経営者に入っていく段階ですね。これはまた大きな変化だと思いますね。ええ、従業員として雇われているというのと違って、経営者になると責任がまた一段と大きいですね。経営者の責任というのは何かっていうと、まあ自己責任だけじゃあなくなるんですね。もう明らかに、自己責任じゃあなくて、多くの人たちの人生を預かっているっていう感じになりますね。先ほどの軍隊の話じゃあないけど、だって社長が製品の開発とかチョンボをすると、たいへんなことになります。 今、トヨタだ日産だホンダだってありますが、新車の開発をしてね、そしてその決定をして、それが欠陥車だったり、あるいはまったくダメ、売れなかったりってなことがあったら、とたんに社運は傾いてくるんですね。グワッと傾いてきます。そしたらどうなるかっていうと、従業員たちの首切りやらなきゃならんですね、整理をしなきゃいけなくなってくる。 悪くなってくると悪循環ですね。従業員の首は切らなきゃあいけない、仕事の整理はつけていかにゃいけない、不良債権は発生する。ところがそうしてたら信用が無くなってくるんでお客は滅ってくる。お客が滅ってくるうちに、悪いことに銀行の足が遠のいてくるんですね。銀行のほうは「金かえせ」って言ってきます。ますます悪循環になってきますから、社運を傾けるわけにはいかないんですね、どうしても成功させなきゃいけない。こういうことで夜も眠れないこともあるんです。 だから新入社員なんかみんな、百人が九十人まで社長になりたいと思っているでしょうけど、ならないほうがいいことがあるんですね。出世ちゅうのはすりゃあいいっていうもんじゃないんですね。やっぱり器(うつわ)相応がいいんですね。社長の器じゃあないもんが社長になった場合は、これはたいへんです。それは苦しみです。本人にとっても苦しいが、まわりにとっても苦しいんですね。路頭に迷う人たちはたいへんです。 まあ、これはほかでも、社長でなくても課長でも、部長でもいっしょですけどね。課長が無能だと課員はたまったものじゃないです。それは仕事できません。そしてジレンマにおちいりますね。頭越しをしようかどうか、課長をすっとばして部長とやろうかどうかってことになりますが、それをやると成功する可能性はひじょうに少ないんですね。よっぽど実績がある人でないと、課長すっとばして、部長と直接やりはじめたら、だいたい命があぶないと思わなきゃあだめだし、ただ仕事が好きな人であれば、無能な課長の下でもうやれないんですね、仕事が。このままでは会社が危なくなると感じてしまいます。まあ、そういうジレンマがあります。 経営者というのはだから辛いです。いろいろなことで、責任とらないけないし、経営者になれる資質というのは自分が見ていないところで起きた事件、事件に関して、かぶれるかどうかですね、責任を。これは経営者になれる資質かどうかです。「私、知りません」というタイプの人は無理だということですね。あらゆることに関して、自己の責任とできるかどうか。 総理犬臣なんかもそうですね。あらゆるところに対して責任を持たないかんのですね。実際上、いろんな人がいろんなことをやっているのを見ていられません。見ていられないことに対して、責任とれるかどうかですね。中間管理職というのは、自分が見ているところ、ハンコついたところに対して責任を問われますが、社長はね、自分がハンコついていないもの全部について責任を問われるんですね。ここでは、やっぱり結果がよくなければだめなんですね。結果が悪ければ指導力が低下していく、まあ、こういう世界ですね。 このようにいろんな脱皮というものがあるんですね。そこで、いろいろしゃべっているうちにだんだん時間がなくなってきて、残り少なくなってきて方法論までいくところまでいかなくて、背景でだいたい終わってき始めましたが、本章のテーマは「自己変革の原理」でございますので、原理を述べなきゃいけないね。 私はね、やっぱり自分自身というものに対する捕え方が問題だと思うんです。信念という言葉で、もう「自分は変えないんだ」という考えの人もいるでしょうが、実際上変えないでいい自分というものに、ほんとうに出会っているかどうか、っていうことですね。ほんとうの自分に出会うということは、かなり難しいことなんですよ。私自身四十過ぎるまで、ほんとうの自分と出会わなかったんですから。ねえ、町工場の社長をやってましたけど、ほんとうの自分じゃあなかったですね。ほんとうの自分は、そんなとこるになくて、宗数的魂であった。それに出会うのに時間かかりました。 だから、あまり早い時期に、自分はこういう人間なんだということを、決めてしまわないこと。私、これはだいじだと思います。自分は変化に富む、また可能性に富む人間なんだという考えを、まず持っていただきたい。自分は変えていけるんだという自覚ですね。いや、自分を変えていかねばならんのだという自覚です。これを持っていなければ、先ほど言ったようないろんな自己変革の時期に自分を変えていけません。最初のままになってしまいます。大人子供で終わってしまいますね。自分は変わっていけるんだ、変えていけるんだという出発点ですね、これを持たねばならない。そして、毎日の合い言葉は「自分を変えていこう。自分を変えていこう、いいものにしていこう。もっと高度なものにしていこう」という考えですね。 6.自己変革と責任の拡大 だから、その試練を乗り越えて自分を変革していくことです。これはひじょうにだいじです。中学生は高校生に、高校生は大学生になったときにね、一段の変化をしなきゃだめです。その気分を変えてね、その気分を変えて、さらに大きな視野を持っていかねばならない。また、社会人になったらやはり学生との気持ちの切り替え、だいじです。 そして、こうした脱皮の時期をずーっと見て来ると、何かっていうと、要求されているのはいつも責任ですね。脱皮の瞬間ごとに自分の責任の範囲というのは広がっているんですよ、いいですかあ。この責任を広げることができない人はどうなるかというと、これは専門職、専門家のような世界に入っていくんですね。こういう人たち、職人の世界ですね。あるいは、芸能人ですね、一芸に秀(ひい)でてその自分の芸に対してはもうすごくうるさいが、それ以外に対しては、責任とれないというタイプですね。まあ、芸術家なんかもそうかもしれません。自分の責任のところしか、絶対とれないタイプですね。他の人の責任はとれないっていうタイプは、こうした芸術家や専門家肌の人で、そうした世界に入っていかざるを得ないんですね。 だからここをどうするかですね。自己の責任以外絶対とれないとするか、人の責任まで背負い込むような人生を送りたいか、これを考えねばならない。まあ、自分は人のことまで知らないという人は専門家路線を歩むしかありませんが、そのときにはそれだけの努力が要るということです。その道でやっぱり一芸に秀でるだけの努力は必要なんですよ、ということですね。 ただ現時点では、たとえば武道家であっても芸術家であっても、人との交際が下手な人はみんな出世しませんね。これは明らかだと思います。将棋が強くとも、将棋の名人というのは社交家でないとやってられないんですね。いろんな人の後援を受けないとやれない職業ですし、囲碁でもそうですね。ほんとうに人間嫌いでこの道一筋という人じゃあやっていけないんですね。いろいろな人とのつき合いがあります。 また、お相撲さんでもそうでしょう。稽古の虫けっこうで、強いのもけっこうだけど、でもやっぱり横綱になんかなったらね、勉強はしていませんが、中学校卒業してあと勉強なんかしないでやってきたでしょうが、それでも横綱となるといろんな各界の偉い人とも会わなきゃいけない。こうなるとねえ、「私は嫌いです」じゃあ済まないんですね。横綱には横綱としての行動、言動というものが要求されてきますね。これをしないで、新人類横綱をやるとクビになるんですね。どっかにもいたと思いますけど、そういうふうになります。根性が子供のままで、横綱は横綱の風格を出せない人は、それはクビになりますね。こういうことはどこにもあると思います。素質はある、強い、けどいつまでたってもパソコンとナイフ集めが趣味で、そんなことばっかりしてて後輩の教育ができない人、こういうのは横綱やめていかなきゃあなりませんね。こういう事件があったと思いますけど、そうなります。 だから立場相応に責任をやっぱり求められるんであって、専門家で自己責任だけで行く場合は、あまり出世を求めないことですね。そこそこのところで止まっておるならいいでしょう。ただ、それでもその専門家の道で頂点をきわめたいと思うなら、やはり大きなことに責任を持だなければ無理になってきますね。 こうしてみると、人間が進歩・進化していくためには責任の範囲、自分がとれる責任の範囲ということを常に考えておくことです。そして、これを大きくしていくことが、やはり自己を変えていくことなんですね。そしたら他人の仕事に責任が持てるようになるとはどういうことか、ということを常にね、もちろん認識力は磨いて、そして人に対して指導ができるという実績ですね、実力が必要ですね。そして、見きわめですね、この人はここまでは使えるという見きわめ。その器以上の使い方をすると失敗をしますし、器以下だと不平・不満が残りますねえ、こういう見きわめがだいじですね。 だからね、奥さんでもそうですよ、子供が生まれることによって責任が出るんですね。一人よりニ人二二人、四人、責任を受け止める、自分の責任として受け止めていく、他人事だと思わないでね。「これだれの子なんだろう」なんて言わないで、自分が産んだ子なんですから、二人、三人、四人ときたら責任があるんです。それだけの子供たちをしっかりまとめて、守っていかねばならない。教育していかねばならんですね。旦那がもしかして会社をクビになったときには、自分が稼いでいかにゃあいかんわけですね。それだけの責任感があってつくらなきゃいかんのですね。 まあ、こういうことで結局ねえ、多くの責任をとれるようになるということが霊的に見たら自己拡大なんですね。自己の進化発展につながっているんですよ、いいですか。だから、特に若者に言っておきたいけれども、責任のとれる人間となれ。そしてその責任をね、大きくしていけるような自分となれ、自己責任だけじゃなく、他人の責任までかぶれるぐらいの、そういう人間になっていけ。そして、それで出世していくためには、それを受け止めるだけの器と努力が必要だぞ、これを常々忘れるな、まあこういうことですね。えー、もっと言いたいんだが、ウーン、時間が来ました、みなさん残念ですね。私は一章四十分です。一時間あれば、じっくりとした理論が言えたのに、ウーン、またあしたです。はい。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/213.html
目次 1.私は人の心を通し理想国家(ユートピア)の実現を唱えた 2.私の愛弟子は、子路(しろ)、子貢(しこう) 3.私が再誕するときは新文明を創る時 4.中国の現代思潮は一つの波 5.地球圈人口の増加は異星人、新人類転入による 6.人種相違の原理 7.日本を中心とした最終ユートピア建設の基礎づくりに励め 8.後輩の異星霊団に遺(のこ)すユートピア、エデンの園 9.天変地異は十次元以上のハイスピリットの作業 10.新霊文明は日本からオセアニアを経て東南アジア大陸へ逆流移動する 11.高次元霊には本体(本流)あり各分身意識はこれに付随する 12.男女はエネルギー体の陰陽別、肉体器管の発達は環境による (一九八六年一月三日の霊示) 1.私は人の心を通し理想国家(ユートピア)の実現を唱えた ―― 孔子の招霊を行う ―― 孔子 ―― ツワソ・テイソ・コウスイーツ……早口で中国語で語り出される、この間約四分間 ―― お話中でございますが、あなた様は孔子先生であられますか…。 孔子 ソウシヤ・ピイシイ……… ―― 残念ながら私は中国語を解しませんので、お話して頂いておりますが、どういう内容か判りませんので、できますことなら日本語でお話できませんでしょうか。 孔子 中国語で、――よく聴き分けなさいと言いたげに手振りでカを込めて話す――。 ―― まことに申し訳ありませんが、今のお言葉の概要だけでも日本語でお願いできませんでしょうか。 孔子 ―― ―― 今のお言葉は現代の中国語ではなく、今から二千数百年前に使われていた中国語でありますか。 孔子 チュイ・ツイイーアイウイ・ティウーツーヮ ―― それではボツボツでも結構ですが、少しずつでもお話願えませんでしょうか、あなた様のお名前を先ず日本語でお願い出来ませんでしょうか。 孔子 ウイテイ、ウイテイ、ア、ウイテイ、ア、ツツイテア、ツウ、ツツウ、ツツイウイ、コーツイア、クウ、クイクイテア、ツーオン、ツーテイアン、ツーテイアンソ…… (訳) お前も中国語を話せるではないか……と言っている。私と一緒に中国語で話さないか、お前も中国語が話せるじゃないか……。 ―― 私は現在日本人として肉体を持って生まれて来ておりますために、かつては中国語を話せたんでしょうけど、現在では中国語を忘却してしまい語ることができないことをまことに残念に思います。孔子様は今から二千数百年前に中国にお生まれになられて教えを説かれた孔子先生ですね。 孔子 イイウン、テイ、アーウーテイ、トウアンチイ、ウイアンテイ、トウアン…… (訳) 私は確かに、今から二千数百年前に中国に生まれた孔子というものです。 ―― 孔子先生は中国におきまして儒学、儒教を説かれてその後、全世界にそのお教えが広まった偉大な思想家、導師であられたということを承知いたしておりますが、残念ながら私は、今世におきまして日本人として生をうけましたために、当時先生のお教えを受けた一人であるということでありますが、そのことは残念乍ら忘却してしまっている現在でありますため、願わくば今一度、現在の日本人なり或いは世界の人々に先生のご思想を再認識させて頂いて、新しい時代を創る上に大きな指針となりますような、そういう活力を得たいと存じますのでお願いいたします。 孔子 テイーカンツウ、アウエンツエー、アリンテイ…… (訳) 私は中国語でしか今のところ話できませんが、あなたが言われる日本語はよくわかりますし、あなたの考えておられること、あなたの意図しておられることは、十分理解することができます。暫くの間はこのような形で、この者の通訳によって話いたしますけれども、暫く話して慣れて来たら段々に日本語話せるようになると思います。 ―― そうしますと今お話願っている中国語というのは中国の現代語ではないのですね。 孔子 チュウアンテイ、カンテイー………以下中国語 (訳) 中国語も勿論、二千数百年の間にずいぶん変わっておりますので、私の言っているのは現代語ではありません。その当時私が使っていた言葉です。 ―― 先生は偉大な思想家であられたのですが、周の時代に政治を改革するということで大臣にもなられ、国の゛政(まつりごと)゛に参画されたということでございますけれども、その当時のあなた様のお考えなり、どのように改革されようとなさったのか、その辺の思想的背景について、われわれが学び得る点がございましたならお教え願います。 孔子 ― 中国語 ― (訳) 当時私は、やはり理想というものが国の政治には大切だということを常に説いておりました。国が政治をしていくうえにおいては何らかの理想がなければいけないし、古代の、まあ「尭舜(ぎょうしゅん)」の時代とですね、そういった時代にも理想国家というものが、中国にもあったといわれておりますが、そうした意味での懐古的な動きではありますが、そうした理想国家建設ということを説きました。これはまあ今、あなた方が考えておられる「理想世界(ユートピア)」建設なんかと同じものです。そしてですね、その理想に至るための方法論としては、私が説いたのは先ず、人々の心の中に、一人々々の心の中にユートピアを築かねばならない。理想国家はね。先ず人の心の中に説かなければいけない。で、私の中に、心の中に理想の国ができ、あなたの中にその国ができ、そして社会の中に理想の国が出来、そして国がですね、全体がやがて理想国家ユートピアになっていくという、こういったことを私は常に説いておりました。 ―― ところが先生が当時政治の府に参画せられまして、お教えを説いておられたが、現実の問題として人々は、或いは社会は、或いは国家は、あなたのご理想を理解し、お教えに従うことができましたか。 孔子 ― 中国語 ― (訳) あなたは今ですね、私が当時、私が考えていたその理想の国が、人々に理解されてそのようになりましたかということをご質問されましたけれども、天上から、私は当時「天」と言っておりましたが、天からこの地にですね、この理想、これは天といいますか、今あなた方がいっていますのは、神仏とか神とか言っておられますけれども、こういったものからこのインスピレーションですね、このインスピレーションが地上に降りてくるときというのは、いつもそのインスピレーションの原形になるものがですね、この地上から表われている時なのです。その意味において今のあなた方も、非常に似たような環境にあるわけです。 私達の時代というものも、本来あるべきそういった理想の国ですね、神から来た理想が地上に実現されていないような時でした。ですから私が説いてもですね、そのままそういう国になるわけではありませんでしたが、まさしくあなた方の時代も同じであって、当時も同じような思想家達が輩出いたしまして、そしてそれぞれの理想論を説いていたわけですね。そういった雰囲気というものを醸し出してやがて天の国がこの地上に出来てくるようになってくるわけです。 ―― あなたはその後政治の府から離れて諸国を回って教えを説かれ、弟子の育成に専念されたということになっておりますが、有名な『論語』の元になるような教えを説かれていたようでございますが、時の政府にはあなたのご理想が採用(もちい)られなかったのでしょうか。 孔子 ― 中国語 ― (訳) 今ですね、あなたは私が諸国を巡回してですね、いろんな政治のことを説いたと思うけれども、それが採用されてうまくいかなかったのではないかというようなことを仰しゃいましたけれども、私の時代というのは春秋、それからやがて戦国の時代に到る国でしたけれども、また国造り、群雄割拠ですね、こういった時代であったわけです。で、後には「秦(しん)」とか「漢(かん)」とかいうそういった大帝国も、出てくるんですけれども、そういう大帝国が出て来る前の群雄割拠のようなそういった時代であったわけです。 で、それぞれ諸国を説いて歩きましたけれども、政治家達の理想としていた゛法゛、法といいますか、まああなた方は仏法を今説いていますけれども、彼らが求めていたものは、思想としての仏法伝道というようなことではなくて、ま、戦ですね、戦なり政治なりそういったものを如何にうまくやるか、というようなことを求めていたわけです。だから戦いに勝つ方法であるとかね、民をよく支配するような方法、こういったものを求めていたわけですね。ですから私もそういったことに対しても或る程度は説いてきました。けれども、まああなたがご存知のように、私が本来意図していたものは、そういうものではなかったのですね。私は当時、霊とか神とかいうようなことは説きませんでした。しかし、私が本当に理想にしていたものは、そういったやはり神の国なのですね。神の国の地上実現ということであったわけです。ところがやっぱり『鬼神乱神を説かず』というような時代であったために、そういったことを直接言えなかったわけですね。ですから世に受けるような法、こういったことを言いながら、その中に何らかの理想国家が出来ればそれでよいのではないかと、ということで、方便として国造りというか民の治め方ね、それから戦争の仕方とまではいかないけれども、今でいやあ軍略ですか、そういったものに対しての助言をしていたわけです。 ところが私は、本来神の世界のことを説きたい人間ですから、地上の国のことは、本当はどうでもいいんです。ですからそういった気持ちが一部あったために、いろんな教えを説いて廻ったにも拘らず、必ずしもそれが彼らの要求するものではなかったわけです。私としては或る程度の妥協をして教えていたのですけれども、そういった法ではなかったわけです。そういうことで余り受け入れられなかったということですね。その意味では現世的には大成したとは言い兼ねるところはあります。 2.私の愛弟子は、子路(しろ)、子貢(しこう) ―― あなたは当時、直接ご著書の中であなたのご思想を著わしておくと、後世に残すということはなさらなかったのですか。 孔子 ― 中国語 ― (訳) で、今あなたはですね、私が自身でですね、著書をなぜ書かなかったのかと言われましたけれども、今あなた方、こういった書物を出しておられますけれども、これで天上界の諸霊の言葉ということで伝えていますが、まあこういったことが出せるということは、今がそういったものを出せるような時代であるからであります。 当時私の悟りというものははっきり言えば、もう時代を、遙かに超えておったわけです。現代あなた方が知っているようなこと、こういったことまで或る程度、まだここまでは行っていませんけれども、或る程度のことはもう分かっていたわけです。ところが、私の弟子、まあいろいろ何人か居りましたけれども、゛子路゛だとか、゛子貢゛だとか居りましたけれども、彼らも私の本当の考えを、これは到底理解できなかったことなんですね、言葉も今のような言葉はなかったということでね、私も天帝とかいう言葉を使っていますけれども、天帝ですね、天に在る帝(みかど)、ですね、こういうことを言っていますが、ま、そういうことを言っても、彼らは地上の帝ですね、地上の帝王と同じようなことで想像して考えるだけであって。私がやはり神とか、或いは高級神霊のことを言っているということは、到底わからなかったわけです。ですからあえて私は道学者として当時生きていたわけですけれども、その中においてね、私の本当の考えというものは、書物に著わせるようなものではなかったのです。 それで、弟子達に合わせたいわば対機説法を私はやって来たということで、それを集大成して『論語』というような本が出来たわけですね。『論語』というのは私の思想のほんの一部分しか、数分の一しか現れていないものだと思って頂きたいのであります。そういう意味において弟子が理解し得た私の思想ということです。 ―― そういう意味では釈迦もそうでありましたし、またイエスもそうであったし、弟子達に語ったことを弟子達が後世に師の教えを、かくあったのではなかったのかと寄り集まって、語りあって聖書なり、仏典なりを残したものでありますが、まあ当時の方々にはそういうケースが多かったようでありますが、それでは最もあなたのご思想を受け継がれたという方は、なんという方が一番近かったのでしょうか。 孔子 子路、であろうと思います。私が一番愛していた弟子であります。この「子路」という人は、あなたとも関係のある方です。あなたにも関係のある方なのです。 ―― しかし時代は大分前ですね。 孔子 そうです。大分前です。あなたの魂と関係のある方です。 ―― たとえば分身とか、兄弟子とか?子路といわれた方は、私の前身であったということでしょうか。 孔子 そうです、そういう方です。子路という方もやはりあなたと非常に性格は似ていますし、あなた日蓮のお弟子であったと伺っていますが、その弟子の日朗ですね、子路が丁度、日朗的な役割を果たしたのです。 ―― あなたに対してですか。 孔子 そうです。 ―― そうですか。―― そしてこの方はどういう形でどういう地方であなたのお教えを説かれた方なのでしょうか。 孔子 まあ私は当時ずいぶん諸国を歩いておりましたけれど、その伝道といいますか、授教と申しますか、各地で説いているうちに、いろんな弟子達が寄って来たわけですね。弟子達というのも何時も、いつも私のとこに居たわけではなくて、私は自分の弟子達をつぎつぎと、時の政府の、今の言葉で言えば悪いですけれども、御用学者というか、ブレーンですね、ブレーソとして送っていたわけです。ですから子路も、当時様々なところヘブレーンとして出したことはありますが、彼は情の、情愛の深い方でありますから、直ぐ私のところへ帰ってくるんですね、何時も私のまわりについて離れないような、そういった人でありました。 3.私が再誕するときは新文明を創る時 ―― そうですか。まあ中国は四千年の歴史があるわけですが、あなた様は孔子、として出られて以来、現世には何処にもお生まれになって居られないのでしょうか。 孔子 おりません。 ―― これは何かの意味があるのでしょうか。 孔子 意味といいますと? ―― そちらの方の任務が大きかったのか ―― 孔子 というか、私達は、時代が変わって、百八十度転換して新たな思想を陳べ伝える時が来るまでは、そう簡単には出ていかないということです。私とか、ソクラテスさん、あなた方も本を出されるそうですが、ソクラテスさん。或いはキリスト、釈迦、こういったいわゆる宗教的、まあ宗教でなくても結構です、思想でも結構ですけど、始祖となるべき人というのは、やはり役割が決まっておりまして、いつの時代でも始祖として出てくるんです。それはその時代の文明の源流となる、役割を持っている人というのが居るわけです。私もそうです。ですから古代中国の文明の源流を創ったのは私です。そして現代までそれが延々として続いてきています。これは恐らくはキリスト教や、仏教の流れと同じであろうと思われます。それでまた新しい時代、私を必要とする新しい時代にはまた、もう一度生まれるつもりだということです。 ―― ただその場合には、その当時のあなたのお考えから更に時代の流れに沿った新たなお教えという形で説かれるわけですか。 孔子 そうです。たとえば、今の中国というものを見てみますと、今の私が生まれてきて、新たな法が説けるような状態にあるかというと、ないわけです。まだ政治的に非常に問題があります。私のときの春秋時代ですね、春秋から戦国に入るような時代と較べても、今の中国というのは非常に活気がないわけです。人口は多いですが、思想的に活気がない、私達の時は、それぞれ諸子百家、いろいろ出ましてですね、いろんな説を説いたわけですね。百家争鳴と申しますかね、諸子百家の時代であったわけです。思想家もずいぶん出たんです。ところが今の中国の状況においてはそうした思想家が出て来れるような状況ではないわけです。彼らもよく時代を見ております。ただね、私は言って置きます。これから日本を中心として新たな文化の興隆があるわけですけれども、その影響をうけて中国も、あと百年もすれば新生中国となっていきます。新たな中国となってどちらかというと、自由主義体制に入っていくような時代になって来ます。そういった中で、中国にもあれだけの力がある国でありますから、優秀な方々が今後出てくる。続々と出てくるということを私はいまのうちから言っておきます。 4.中国の現代思潮は一つの波 ―― 中国における現代の政治状況なり、思想の傾向というのは、これはあるべくしてある天意によるものでしょうか、それとも天意に反する単なる人間知によって成り、また現れているものでありましょうか。 孔子 まあ波というものは、たとえば浜辺に押し寄せて来るときもあり、退いていくときもあるのです。波が退くことを知らずに、押すことだけを知っていたら、これは波ではないですね。そうでしょう、ですから私も一つの波であります。波として岸辺に押し寄せました。岸辺というのはこの地上ということですね、岸辺に押し寄せたその波はまた退いていくのです。そしてまた新たな波が押し寄せてくるのです。そして退いていく。ですから今あなたは波が退いていくすがたを見て、これは天意によるのでしょうか、人為に因るのでしょうかと言っているんですね。波というものの性質を考えれば、それ自体に備わったものなのです。 ―― 現在の中国の民衆は、現在の思想、現在の政治体制という波を必要とするような条件があるのでしょうか。 孔子 彼らは、魂としてはまだまだ幼い魂が沢山生まれています。十億もの人口を持つ国です。こういった国にはですね、現世に生まれ変わりたいと、人間として生まれ変わりたいという或る意味では未発達の魂が多く生まれてきているわけですね。ですから時代としては、たとえばあなた方と同じ時代に生きているわけですけれども、魂としてはそういった未熟な魂がかなり数多く生まれてきているのです。 あなた方は今、たとえば地上に四十億、五十億の人間が居ます。ところが私達の時代、今から二千数百年前というのは、地上に生きていた人間というのは今の、恐らく十分の一も居なかっただろうと思います。これだけ二千数百年の間に十倍以上の人口が、この世界に出て来ているわけですね。それは一体どういうことかというと、この地上生活に慣れていない方々が大量に生まれて来ているということなのですね。では地上生活に慣れていない方々は、どういったところに生まれてくるでしょうか。それは、たとえば今あなた方、日本という国に最終ュートピアという言葉でいってもいいですが、そういったものを創ろうとしておられますね。これは科学技術的にも高度に発展し、経済的にも発展した国に、また精神革命を起こしてですね、非常に素晴しい文明文化を創ろうとしています。こういった世界に生まれて来る人には、魂的にも最後の仕上げにかかった方々が続々と生まれて来ているのですね。今までの農耕社会や、武士の社会の中では、十分自分の魂の修行ができないような人がですね、もう十分そういうところを卒業した人が、最後の仕上げのために生まれて来ているんですね、この地上において、天上界、天国を経験するという目的のために生まれ変わっている人が大量に居るわけです。ところが、同じ時代においても中国の大部分がそうであるように、或いはロシヤの大部分がそうであるように、アフリカの大部分がそうであるように、まだまだ未開の地に物凄い数の人間が生まれているわけです。 これらは、時代としてはあなた方と同じ時代に居ますけれども、魂としては未だ幼い魂なのです。人間としての経験が少ない魂なのです。彼らはそうした後進地域に生まれて、まずこの地上生活に慣れるという初歩の経験を積むために、大量に生まれて来ているんです。そうするとそういった目的のために造られている国土、或いは現状においては光の指導霊達は、そう好んではこういう地には生まれて来ないんですね。或る程度、その地の人間達の知が進み、知恵が進み、文明文化が育って来たときにはじめて出て来るんですね。そういうことなのです。ですから時代としては、あなた方同じ時代に生きているから人間としては同じかと思うと、そうではないのです。魂としてはいろいろあるんです。それはたとえば学校というものの中にも、上級学校もあれば下級学校もあるように、或いは学校以外でも、ご承知のように塾というものの中にも進学塾と、そうでない学習塾とがあるように、いろいろと学力により、実力により分けていると思うのです。゛神゛はこの地上においてもやはり進度別にいろいろな、あるいは実力、学力別にいろいろな地域を用意しておられるのです。 ですから世界全体が、同じレベルになるということは何時の時代にもなかったのです。で、私達の時代にも古代中国には、百家争鳴しまして、様々なレペルの高い魂が出ました。では同じ時期に他の所に出たかというと、他の地域にはなかったわけですね。こういったようなものなのです。時代に或る時期、千年、二千年に一回、非常に高い文化の高みを神は造られるのです。そしてまた波が退いていきます。そしてまた暫くすると波が押し寄せて来るんです。 ま、これは地球という球の上に、神が偉大な芸術を創っているということですね。これは゛神゛の芸術なのです。いろんな地域、いろんな時代に様々な文明文化、これを正しい法というものを通して創っていくというのは神の偉大な芸術なのです。ここまで分かってほしいということですね。ここまでわかれば人間はもう地上に居る必要はないのです。地上での修行はおわりということです。 5.地球圈人口の増加は異星人、新人類転入による ―― そこでお尋ねしたいのですが、現在、お話のような中国、或いはアフリカ、ロシヤの地域に生まれている人の中には魂の若い人達が多く居るということでありますが、こういう人達も人類としての起源は、あなた方や私達と同時期にこの地球霊団の一員となった方々ではないのでしょうか。 孔子 そうではないのです。あなた方いろいろと、いろんな方々から教わっているように私は聴いております。そしてこの地球へ船団を率いて来た。最初の魂が肉体として降りて修行したと教わったはずです。ところが、時代はだんだんと降ってくるのですね、そしてこの地球という磁場に肉体修行の場ができて人間が住んでいる。いま私は地上に生まれたい人々が人口の多い国に生まれていると申しましたが、同じことがあるのです。肉体としては少数の人間がこの地球という磁場に、魂を育(はぐく)む場を設けると、これはまた霊界の中でもだんだん有名になってくるのですね。霊界というのは何も地球だけではないのです。地球以外の天体もあります。それで宇宙の中でいろいろな霊的な磁場が幾つもあるわけですね。ABCDEと、いろいろあるわけです。それでその中で魂の修行をしていくのですが、いま地球という磁場、ここを中心にして、たとえば霊団Aというのがあってここでやっているわけですが、他にもBという霊団、Cという霊団、他にもD、Eといろんな霊団があるんですね。それぞれでやっているんですが、それぞれ、BならBの霊団で修行していて、もう飽きてきた魂達が沢山居るんです。或いはBという霊団が非常に進んでいると、これに従いていけない魂達が居るのです。こういった者たちが、新たに自分らに合った修行の場を探さねばならない。そういうことで、程度の高いBという霊団に従いていけない一部の者が、たとえばA霊団という地球の霊団に入ってくる。 或いはCという霊団があります。この国もひじょうに発展した霊団とします。ところが、この霊団の中では、もうこれ以上魂の発展がみられないというような段階にまで来たとします。そうすると先程のB霊団のように魂が発達していないために、地球でもう一回やり直すという人も居ますが、このC霊団のようなところでは、もう行くところまでいってしまった人達というのは、もう新たな進歩はないわけです。そうすると、もう一度一から出直してみたいという意味で生まれ変わってくる人達がいるわけですね。高度に発達した自分らであるにもかかわらず、もう一回原始時代から始めてみたいという意味で、生まれてくる人達が居るわけですね。こういう人達がまた魂が分かれてくるのです。 ですから地球の人口ということを、今あなたは考えておられるはずです。なぜ四十億、五十億の人間が地上に居るのか、これだけの人間が地上に居るなら天上界、霊界では、恐らくは数百億の霊があるはずである。それだけの霊がどうしてこの地球に出来たのか、と考えておられると思います。が、これは最初肉体を持って地上に生まれた人は、少数であったのです。ところが地上という、地球という霊団ができたということが分かると、他の霊団からも、霊としても移ってくるということです。発達していなかった霊団が、発達していなかった人達がもう従いていけなくなって、この地球というところに引かれて移って来る場合、或いは高度に発達した人達が、もう修行ができなくなって、もう一回一からやり直そうとして地球に生まれてくる場合、こういうふうに、肉体としても来ていますけれど霊としても、地球という磁場に相当引き寄せられて人口が増えて来ているのです。ですから地球霊団の霊人口は当初に人類が住みついた頃に比べると、数十倍、数百倍に増えて来ているのです。 それはそうでしょう。あなた方日本という国でも、たとえば鹿児島とか、或いは北海道の釧路とか、根室とか、こういったところに住んでいる人もいますが、東京というところがありますね。大都会、ここはどんどん人口が増えて来たでしょう。ここ百年ぐらいで十倍以上になって来たでしょう。なぜかというと、北は北海道から、南は九州から、人がどんどん東京にはいってくる。なぜ東京にはいってくるか、そこに来ると様々な出合いがあり、様々な勉強ができ、様々な楽しいことがあり、様々な経験ができると思うから東京に来るわけですね。そうでしょう。そういう形で人口というのは増えてくるんです。霊的人口も同じであって他の霊系団から岐(わか)れてくるのです。 地球というのはどうも面白そうだぞというと、やはり徒党を組んで、霊としても渡ってくるのです。こういうこともあるのです。当然ながらそれが霊人口の増えている理由です。ですから比較的新しい時代に、他の霊系団から地球に移って来た方々が居るのです。こういった未熟な方々が今発展途上国において、人口問題が生じていますが、どんどんと地上に生まれているんです。ですから地球霊団というけれども、これは本来一つの霊系団でできているのではないのです。 進歩した星から当初肉体として渡って来た霊団、これは非常に優れた人達です。この霊団とそれ以外の星、いろんな星団から移って来た霊系団があるのです。進歩の度合いは様々だったのです。その進歩の度合の様々がこの地上においても様々な進歩度合い、人種、或いは文化文明の違いを生んでいるのです。それで地球の歴史、人類が来てから約三億年が経って居りますが、この三億年の歴史というのは一体何かというと、一番進歩した文明を持って来た星団ですね、その星団が地球を支配しようとする歴史であったわけです。私もそうですし、あなた方もそうです。遙かな昔、或る星団から移って来たわけです。そしてその文化をこの地球に持ち込んだわけです。 ところがこの地球に他の霊団、他の霊団から様々な劣った霊、未熟な霊が相当数移転して来ているわけです。それで問題が起きてきたわけなのです。当初渡って来た私達だけならば、高度に進化した霊意識を持ってこの地球で゛楽園゛を営んでいたのですが、こういった他の霊系団から様々な人が来たために、このレベルに混濁が起きたわけです。わかりますでしょう。たとえば私達がCならCという霊団から来たとしましょう。それは非常に高度に進歩した人類です。そういう人達がこの地球という新たなあこがれの地を目指して移って来ました。そこで理想郷をつくろうと、理想郷エデンの園を築いたわけです。 6.人種相違の原理 ―― そこでちょっとお尋ねしたいのですが、たとえばあなたが来られた霊団をCならC霊団としますならば、新たにその後、異星から来た未発達のB、A霊団ならBA霊団というものがありますが、この霊団の方々を、地球というあなた方の進んだ霊団の下で修行させようとして引率して来た引率者というものは霊的にはかなり高い意識を持って来られたのではないでしょうか。 孔子 まあ、霊的な力としては高い。―― しかし考えにおいては、我々とは合わない考えの人達も居たわけです。 ―― しかしその引率してきた人達は土着したのでしょうか、それとも元きたところへ帰っていったのでしょうか。 孔子 土着もしています。 ―― そうしてその人達が、当時の優れた人類との間に交じって修行をして行こうと思い、またそうしてきたわけですね。 孔子 そうです。 ―― そこで一つ分かりかねるところがあるんですが、それは人種的な違いということではどういうことになっているでしょうか。 孔子 先程は最初の人間が肉体を持って来たと申しましたが、それだけではなくて、他の星から肉体を持って来たものも居るわけです。そういった末裔(まつえい)としての違いもあるんですが、住んでいる地域によって変わって来たということももちろん大きくて、様々な複合原因が絢い交ぜになって現在の人種というものが出来てきております。 ―― たとえば、赤道直下の熱帯あたりの地域に住んで居る人は肌の色が黒いとか、或いは北半球、いわゆる北方居住民族が肌の色が白いとか、或いは中国、朝鮮、日本というような温帯地域に居るものの肌の色は黄色いとか、いう現象が顕著ですが、これは気候、風土という自然環境によって、つまり外部要因によって変化を来たしているように思われるのですが。 孔子 それもあります。しかし、魂として少し違った面もあるのです。たとえばAという人種は、他のB、Cと違うところがあると思います。これは肉体としても当初違う肉体が来ていたことは確かなのです。ただ魂としてはね、やはり八割位は元来た魂たちが主としてA人種として生まれ変わっているのですが、そのA人種の肉体の中にもまた今の時代においては光の天使なども生まれて行っているのです。それはA人社会を進歩させていくためにですね。 ―― まあ霊として霊団として異星から地球へ移勤してくるということは分かるのですが、肉体を持ってくるということになると、これは高度な科学技術をもっているという状況下であったろうと思うのですが、ここで優れた魂を持つ人類が優れた科学技術を持って移住して来たというのは理解できるのですが、未発達の魂を持つ人種の人間が優れた科学技術を持って肉体を運んで来たというのは、ちょっと納得し難いのですが。 孔子 そうではないのです。科学技術そのものの進化と、霊的な進化とはまた別なものなのです。霊的には未熟であっても、科学技術が進んでいる惑星というのは、この宇宙には沢山あるのです。技術だけが進んでいて、魂自体は進んでいない、そういったものはいくらでもあるのです。願わくば、霊的なものも、科学技術も進化したのが望ましいのですが、霊的だけに進化して科学技術の進んでいない星もあれば、科学技術が進んでいて霊的に進んでいない星もあるんです。両方進んでいる星もあるんです。我々が来た星が後者なのです。ですからわれわれは、それを理想としているわけですね。文明、文化としても開けながら、霊的にも進歩する。こういったものを理想としているわけですが、技術だけが進んでいた星から来た人達というのは、まだなかなかわからないのですね、霊的な進化という意味が充分に分かっていない。また霊的には進んでいても科学技術が進んでいなかった星から来た人達ね、これは霊として移って来ているのです。肉体ではなくてね。円盤などによる飛行物体によってではなくて霊的に地球に移って来ているわけですが、彼らは霊的なことには非常に興味を持ちながら科学技術文明的なことには余り興味を持たない、そういう霊が居るわけです。 ―― 非常に壮大な宇宙観と申しますか、地球観と申しますか、実は、孔子先生からはこのようなお話を伺えるとは思いもよりませんでしたが、それだけに一層感銘を深く拝聴いたしました。ありがとうございました。私達もこれをお教えの一つとして、これからの伝道に役立たせたいと考えております。 本来、孔子様という個性霊のお話としては、今から二千五百年前、今の中国当時の春秋時代にお説きになられた「儒学」の教えが中心となった人の生きるべき道というものを重点とした再教示がなされるものと考えておりましたが、更に間口を広げた大変なお説で非常な感銘を受けました。 孔子 私は今まで、二千数百年前に中国に肉体を持って以来、こういった霊的な指導ということは、殆どやって来なかったのです。ですから私自身は、ベールの彼方に隠されていたわけで、三次元の皆さんにこのような話をしたのは、これがはじめてです。生まれて始めてと言っては変ですが、霊的には始めてです。他の方々はいろいろ指導されておられましたけれども、私としては始めて出て来たわけです。 7.日本を中心とした最終ユートピア建設の基礎づくりに励め ―― それで、特に孔子先生としてかってお教えになられましたことに関連しまして現在の人類に対する「徳性」と申しますか人の生き方ということについてのご教示が頂けたらと思うのですが何かお願いできましょうか。 孔子 漠然としたご質間ではありますが、ま、幾つかに分けてお答えしようと思いますが、まず第一点としましては、今時代が進歩して来まして私の時代には説けなかったようなことを、たとえば霊的なことを、ある程度常識として説けるような世の中になってきました。それであなた方へのアドバイスになりますけれども、この機会に、人間は霊であると、肉ではなく霊であるということだけではなくて、私達の住んでいる本来の次元、九次元から三次元まで、これすべてを説き明かすという作業、それからまた私達が何処から来て何処へ行くのかと、地球の歴史というものもありますけれど、地球を超えた歴史というようなものも或る程度知って頂きたいと思います。私は先程少々申し上げましたけれど、あなた方の使命というものは、今、知りうるすべてを明らかにするという使命なのです。今まででしたらベールの彼方に隠されていたことをですね、これがまず第一点です。 第二点としては、やはりこの地上に、今あなた方の魂としては、日本を中心にして霊的な王国、神の王国を地上に創るという目的で生まれてきているわけです。ですからこの地上を如何にして最終ユートピアにするかということ、これに努力して欲しいと思うのです。これをつくっておけば、― 人類の歴史はまだ勿諭続くわけですけれども、この日本という国を中心とした。ユートピアが理想の国として残るわけです。― その後、これを理想として様々な生き方を、或いは様々の国の経営というものがなされていきますから、そういうことを考えて、この日本という国で最終ユートピア、霊と物質とが融合した、融和した「理念世界」を築くということ。これをやって頂きたいと思うのです。