約 21,955 件
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/116.html
目次 1.ユートピアとは 2.かつてのエデンの園 3.原罪論 4.許しの方法論 5.反省による光明化 1.ユートピアとは みなさん、高橋信次です。こんにちは、久しぶりですねえ。また私の本が出来ることになりました。今回はね、「ユートピア」ということについて考えてみたいと思うんですね。 まあ、ユートピアなんて言うと、「あまっちょろいなあー」なんて言う人もいると思います。なかにはねえ、そんなへそ曲がりっていうのはいつの時代にもいるもんですから、ユートピアなんて言うと、「あまっちょろいなあー」「生ぬるい」って、まあこういう方もいらっしゃるでしょう。特に、禅宗なんかやった人から見れば、「ユートピアなんてとんでもない。修行というのは厳しいもんだ。徹底的に自分を、修行して、苦しめ抜いて、頑張らにゃあいかんのだ」、ま、こういうことを考えとる人もいるでしょう。おそらくそうでしょう。 キリスト教の方でも、「ユートピア? とんでもありません。神のひとり子として、イエス様が降りられた。そのイエス様が十字架に架けられて、あれほどお苦しみになられたのです。身を捨ててこそのユートピアです」、つまり自分の犠牲ですね。自己犠牲になって、自己犠牲のもとに世の中がよくなるんである。自分も捨てれば、そこにユートピアが拓(ひら)ける。ま、こんなふうに考える人もなかにはいるかも知れません。 まあ、私はどっちも真実だとは思ってませんね。「真理は中程にあり」というのがやはり本当じゃあないでしょうかね。やっぱりねえ、みなさん、ユートピアっていうのはそんな悲痛なもんじゃないと思うんです。そんなね、何と言いますかねえ、片意地張ったというか、ねえ、恐い顔してね、「これぞユートピア!」って言うようなもんでもないし、それをまったく無視してユートピアが拓けるものでもない。やはりね、人間の営みのなかで、努力があるんではないのか。努力があって、ユートピアというのがあるんではないのか。ま、そういうふうに感じます。 で、そもそもね、ユートピアとは一体何なのかと、ま、こういう考え方、これも大事でしょう。読者のみなさんのうちで、ユートピアについて深く考えたことがある人、一体どれだけいるでしょうか。言葉は知ってるけれども、考えたことないと思うし、ユートピアというと理想郷(りそうきょう)、桃源郷(とうげんきょう)、そんな夢の世界のように思っているかも知れないね。実際にはない。けれども夢のなかにはある。こういうふうに考えているかも知れない。 ライオンは昼寝をし、羊は草を食(は)むと、ま、こういう理想郷が本当に出て来るんだろうか。すべての人間が慈(いつく)しみ合い、愛し合い、そしてお互いに善きことのみを言い合うような、誉め合うような、そういう美しい世界というのが本当にあるんだろうか。ま、こういうことをいろいろと考えてみても、なかなか現実性がないように思う。ただ、理想的な姿として、そういう世界もあっても良いかなあ、とは思うわけですね。 ところが、こうした、私たちが、夢、幻の如く考えているユートピアというのは、これは実際にある世界なんですね。で、どこにあるかって言うと、この地上を遥(はる)かに去った高次元世界、多次元世界のなかに、現にあるんです。昔から、仏様の世界とかね、金剛界(こんごうかい)とか胎蔵界(たいぞうかい)とか、まあ曼陀羅(まんだら)なんかでよくありますが、ああいう世界で言われているような世界、あるんです。現実にあるんです。そして、そうした実在世界においては、人びとは本当に心から調和し、お互いに尊敬し合い、お互いに慈しみ合い、愛し合っているんです。そんな世界が、現にあるんです。本当にあるんです。みなさん冗談かと思ってるかも知れないけれど、本当にあるんですよ。 地上ではあなたね、お金払わなきゃご飯も食べさしてもらえないし、お金払わなきゃ、あなた、映画も観れないし、ね、給料貰(もら)ってこなきゃ、カアちゃんだって文句言って許してくれない。ま、こういう世界ですが、そうしたあの世にあるユートピアの世界においては、お金なんか一文も要りません。お金なんか要求する人いません。みんなね、善意です。善意で他人に対してサービスをし、奉仕し、それを生き甲斐としてるような人たちばっかりです。そして、一円も要求いたしません。 そして、そこにいる人たちは、心は調和されきれいです。他人のことを悪く思うような人はいません。また、他人に悪口を言ったり、他人から批判を受けたり、こういうこともありません。みんな安らいだ世界です。心が安らいで、お互いに本当に神の子として、長所を伸ばし合っているような世界、そういう世界が現にあります。そして、争いは一切ありません。こんな世界が実在界に本当にあるのです。 なのになぜ、この地上ばかりに、こんな苦しい世界が広がっているんでしょうか。こんな苦しい、娑婆(しゃば)と言われるような、こういう苦界浄土(くかいじょうど)があるんでしょうか。ま、こうしたことに対して、大いなる疑問を持たねばならない。そしてこの三次元世界だけを見ていると、「本当に神はいるんだろうか。神なんていないんじゃないか。いるのはおカミさんだけなんじゃないか」。ま、こういうふうに思う人が数多くいるわけであります。 神がいないというのは、「あまりにもこの世に悪が満ち満ちている。この世の悪というのはとても我慢できない」、他人を見ても、「本当に神の子なんだろうか」、あるいは「仏の子なんだろうか。ちょっと信じられない」、ま、こういうふうに思う人がいるということですね。 ただ、やはり、この地上を去った世界に、現実にそうしたユートピア世界があるということは、この地上にもそうしたユートピア世界を持ち来たらすことは、可能であるということが、考えられるわけです。本来、そうした世界があって、そこに往んでいた住人たちが地上に出て来ることがあるという以上、この地上をも、そのようなユートピア世界に変えていくことはできるはずです。そうした理想郷に変えていくことはできるはずです。これをできると考えるか、考えないか。ここが、最初の出発点の分かれ目となるわけです。 私は、天上界に、現にユートピアというものがある以上、地上にもそうしたユートピアをつくることは可能である、そう思っていますし、現実にそれは私たちの努力によって、そうした世界が拓けていくものと信じています。ユートピアというのはどこにも無い世界のことではありません。現にあるのです。あるけれども、今、地上界に、それが無きかの如き景観が現れているだけなんです。それは、私たちの努力の積み重ねによって、やがて取り戻してゆかねばならぬ、地上の楽園でもあるということです。 2.かつてのエデンの園 さて、こうした地上の楽園という話をすると、かつてのエデンの園について、どうしても語らざるを得ないと思います。今、地上ではエデンの園と言いますか、楽園というと、ハワイであるとか、そうした南方の地方のことを言うことがよくあるように思いますが、そうした現在の地上の観光地のことではなくて、かつてエデンの園があったと言われています。それが本当にあったのか。それは単なる神話なのか。これについて考えてみたいと思います。 確かに、キリスト教などは二千年ぐらいの宗教であるし、その前の旧約聖書の時代と言っても、わずか三千年、四千年の歴史しか持っていない。にもかかわらず、人類にはかつてエデンの園があったということが、どうしてわかるのか、という観点があるだろうと思います。 実際に、私が霊言集のなかで、霊示集のなかで、何度も何度も話をしてきましたように、人類の歴史というものは、現在人びとが信じているような、わすか数千年とか数万年とかいうような、こんな狭い歴史観ではないんです。こんな短い時間の間に、人類が生きてきたんではないんです。人類は、実は今から三億数千万年前に、円盤によって肉体舟と共に渡って来たものです。そして、その円盤は約六千万人の人類を運んで来ました。そうした進んだ人たちが、他の星から円盤によって地球に移って来たのです。そうして、最初にエジプト、現在のエジプトのナイル渓谷のほとりに、この六千万人の人たちが、大船団、円盤による大船団によって降りていきました。こうして、地上に住み始めることとなるわけです。 かつての母星というのは、地球と環境的には非常に似ています。陸地と海との比率は随分違いますが、そうしたことを除けば環境的には非常に近いところでありますし、そうした環境的に近いということを十分に調査した上で、人びとは地上に降り立ったのです。そうして、現在のナイル渓谷、ここに降り立った人たちは、ここに最初のエデンの園をつくっていったわけであります。 この最初のエデンの園、ナイル渓谷にあったエデンの園とは、現在のような砂漠地帯ではありませんでした。このナイルの地域、これは非常に肥沃な土地であって、随分草木が茂り、穀物がたわわに実るような、いわゆるカナンの地のような、乳と蜜が流れるような、そうした美しい、そして肥沃な土壌でありました。ここで最初の人たちが、約六千万人の人たちが、都市を建設していったわけです。円盤で持ってきた機材、それと地球起源の物、地球の石であるとか、あるいは粘土であるとか、あるいは木であるとか、こうしたものを集めて、そしていろんな施設を造っていったのです。 この時には、現在のエジプト地方というものも、ああした砂漠地帯ではなくて、温暖な地域でした。温暖な地域であり、気候的には現在の日本とよく似たような、そうした気候であって、四季もありました。こうしたところに、人びとは大変な憧(あこが)れを持って住んだのです。 こうして最初に来た円盤隊のなかで、その隊長をしていた人たちが指導者となって、人びとを住まわせ、村を造っていったのです。この最初の村長(むらおさ)、村長(そんちょう)さんと言ってもいいし、町長さんと言ってもいいですが、こうした方々が、やがて地上を去って光の天使となって、あるいは光の指導霊と言われる方々となって、天上界に還(かえ)っていくわけであります。 この時に最初の勲章として、神より、人びとは、こうした光の天使たちは、「エル」という称号を受けることになりました。私の名が「エル・ランティー」という名前で呼ばれていますが、この「エル」というのは「神の光」という意味です。この神の光という意味を持ってきて、「ミカ・エル」であるとか、「ガブリ・エル」であるとか、「ウリ・エル」であるとか、「サリ・エル」であるとか、「パヌ・エル」であるとか、こうした「エル」という名が付いた人が次つぎと出て来ました。ミカエルはもともと「ミカ」という名前で呼ばれていました。この時に、最初のエデンの園を造った功績により「エル」の称号を与えられ、「ミカ・エル」と呼ばれるようになったのです。他の者たちも同じです。こうした時が、はっきりと人類の基礎にあったわけであります。 すなわち、私たちの最初のエデン、最初のユートピアは非常に調和された世界であった。そこからスタートしているということを知らねばなりません。私たちが、闘争と殺戮(さつりく)の世界のなかから現代の文明を創ってきたのではないのです。もともと高度に発達した文明社会のなかで、高度に発達した人びとが、調和ある姿を創っていた。そこは非常によく統制がとれ、人びとの心は調和されていました。そうした世界であったのです。 この頃はまだ、人びとも心の窓は開いていて、地上に初めて住んだ人が、地上を去って霊天上界に還っても、天上界に還った人びとと地上の人たちとは話をすることも可能でありました。交信することは可能であったのです。そうした世界でありました。そして天上界に還った方々は、また、地上における霊域において、地上の霊域のなかで、まだ固まっていなかった地上霊界において、また天上界でも想念の力によって、さまざまな世界を創っていきました。これが天国の始まりです。 したがって、かつての地上におけるエデンとは、ナイル渓谷のほとりにあった地上エデンで、それをモデルとして天上界に創っていった、いわゆる菩薩界(ぼさつかい)、如来界(にょらいかい)の世界、こうした世界があったわけです。今、菩薩界や如来界にも、人間的感覚に訴えるならばそれなりの、やはり町であるとか村であるとかがあります。過ごしやすい風景があります。こうした世界は、実際上は想念の世界でありますが、そうした世界が厳然としてあるように見えるということは、これはかつてのエデンの記憶を、地上にあったユートピアの記憶を、地上を去った人びとが天上界に持ち来たらし、そこで創ったということです。 したがって、現在の菩薩界や如来界にある姿は、かつて地上で、私たちが満喫していたエデンの生活そのものであるのです。そのコピー版として、そうした生活が残っているのです。これをまた、光の天使たちが数限りなく地上に転生して来て、かつてのエデンの園とは何であったのかということを、人びとに教えんとしているのです。 このエデンの園の規則、ルール、教え、これが実は「正法神理」の本家本元であったということです。このなかに正法の種が、神理の種があったのです。この最初の六千万人の人びとが調和された理想的な環境を造って、心調和した人びとが生きていた。この事実が、やがて「正法神理」と言われるものとなって、後の世に残ってゆくのです。 しかし、地上に住む人びとの数が次第に増え、そうしていろんな国が発達していくにつれて、この「正法神理」もさまざまなかたちで歪曲(わいきょく)され、変更されていくようになりました。こうして、光の天使たちの涙ぐましい努力が始まっていくわけです。 3.原罪論 さて、エデンの園の話をしたら、どうしても原罪の話というものを、やらざるを得ません。原罪というものの話、人間に、もともと罪があったかどうか、「オリジナル・シン」って英語では言うんですね。このオリジナル・シンの問題、これを語らざるを得んのです。 これは何かって言うと、アダムとエバの話ですね。アダムとエバ、人類の始祖と言われたこの二人が、実は、神から食べることを禁じられていた「禁断の木の実」、この知恵の木の実を食べたために、エデンの園を追放されたという逸話が残っています。そして、アダムとエバを誘惑したのが、ヘビであると言われています。ずる賢いヘビ、これは、サタンの象徴であると言われています。このサタンの象徴であるヘビの誘惑によって、彼らは欲望を募らせ、その知恵の木の実を食べたために、エデンの園を追われたと言われています。 これは何かと言うと、知恵の木の実をなぜ食べたかと言うと、そのサタンであるヘビから唆(そそのか)された言葉は、「全知全能になれる」というわけです。「全知全能の神のようにあなた方はなれるから、その木の実を食べなさい。そうすれば素晴らしくなれる」、こういう唆しを受けたわけです。ま、これについては、『高橋信次霊言集』のなかでも、かつて話したことが多少あると思います。 実際、ヘビによって騙(だま)されたかどうかということですが、ま、そうしたことがあったわけではありませんが、ヘビというのはひとつの象徴であります。すなわち、地上生活が次第によくなってきた人間、この地上が魂の修行の場であるにもかかわらず、魂の修行の場としてのそのあリ方を忘れて、そうして、天上界よりもこの地上を愛する人びとが数多く出て、地上に執着する人びとが出てきた。その結果、ヘビの如く地面を愛する、すなわち、地面の上を四つ足ではなくて、這(は)って歩くような人間、つまりこれは、土地にとらわれた、物質に執着した人間の姿を表しているのです。物質欲、この地上への欲というものが募ってきて、やがて人びとは、「この地上こそがすべてだ」と思うようになってきました。これが、最初の原罪であったわけであります。 決して、アダムとエバが知恵の木の実を食べたことが、間違いのもとであったというわけではありません。そうではなくて、まず、この地上が、物質世界がすべてだと思い始めたということ。先祖たちは、確かに魂の世界を知っていて、「この世は仮の世界で、あの世こそ本当の世界だ」ということを、言っていたにもかかわらず、それを忘れて、人間が不老不死であるような錯覚に陥り、そしてこの地上で何とか生き易く生きてゆきたいと思い始めた。こうした思いが出たということを、「原罪」として話をしているわけであります。 もちろん、神というものはアダムとエバを追放するような、そんな心の狭い神ではありませんが、その「追放」というのは一体何を意味しているかと言うと、心調和された世界、すなわち、あの世の実相世界にある九次元とか、八次元とか、七次元とか言われているような、光の天使の世界、こうした菩薩界や如来界の世界、こうした世界に住めなくなった人間が、出てきたということです。 したがって、神話におけるエデンの園よりの追放というのは、実は地上のエデンからの追放ではなくて、天上界におけるこうした光の天使たちの世界、調和された世界からの追放を意味しているわけです。こうしてやがて、そうした調和された世界に還れない人たちが、低位霊界における磁場をつくっていったのです。これが地獄の始まりとなっていったわけであります。それは、心の世界というものは波長の世界であって、調和しない者同士が一緒に住むということはできないのです。 たとえばみなさんは、自分の心がガラス張りだと思っていたとして、自分のことを徹底的に憎んでいる人と、一緒に生活ができるでしょうか。同じ屋根の下に生活できるでしょうか。夫婦であって憎しみ合うということはいくらでもありますが、それにしても、肉体のなかに生きているということによって、お互いの心のなかがストレートには読めない、これが福音になっているわけです。お互いの心をストレートに読めないがゆえに、何とか我慢ができるということがあるわけなんですね。 ところが、それがガラス張りになってしまったらどうなるかと言うと、自分のことを悪く思っている人とは一緒に住めなくなります。これは当然のことです。お互いに、互いを愛し合っている人たち同士のなかにおいて、まったく違った心根を持った人が住めるかと言ったら、住めなくなるわけです。これは、羊の群れのなかに狼が住めないのと同じ原理です。羊たちが共に草を食み、仲良くしようとしているのに、羊を食べようと思っているものが、そういう動物が入って来たら、羊たちは非常に混乱します。これは当然のことですね。ま、これと同じようなことがあるということです。 天上界で人びとが愛し合って住んでいるのに、そこにまったく地上的な欲望を持った人間が魂として還って来たとしたら、とても住めなくなってくるわけです。こうして、別個の霊域が必要になってきました。いわゆる、こうした地上的な物質に惹(ひ)かれた魂というものは、霊的に見たならば一種の精神病であり、この隔離(かくり)ということが自然に起きてきたわけであります。これが「原罪」です。こうした原罪論というのが、実は、あの神話のなかに隠されている秘密なわけです。 4.許しの方法論 さて、こうした原罪を犯した人間が、やがて続出してくるわけでありますが、では、こうした原罪を犯した人間、エデンの園を追放されたアダムとエバは、もう完全に駄目なのか。そういうことですね。地上の歴史というのは堕落の歴史であったのか。もう堕落以外の何ものでもないのか。いったん堕落した、徹底的に堕落した人間が、やっと這(は)い上がって来る歴史が人類の歴史であったのか。果たして、そんなものが本当の人類の歴史であったのかどうか。これを考えねばならんと思います。 こうして見ると、ここにひとつの方法論というものが、提案されるようになったわけであります。それは、この地上においては、まだ十分に開発されていなかった方法論でありますが、数多くの人たちが地獄霊域をつくっていくのを見るにつけて、何とかしてこうした人たちを救っていかねばならない、もとの素晴らしい人間に還していかねばならない、調和させていかねばならない、こういうことが、緊急の課題となっていったわけです。そうして、天上界の光の指導霊たちが頭を集めて、額(ひたい)を寄せて協議した結果、いくつかの方法論というのが編み出されてきたわけです。 この方法論のなかで、ひとつが、「許しの理論」です。反省ということ、こうしたことが満たされた時に、こうした条件が満たされた時に、「許す」という行為が起きる。すなわち、神の意に対する不調和な行為が許される。こういうことを、考えついたわけであります。 これはちょうど、酸とアルカリの中和みたいなものです。悪意の想念、あるいは邪悪な想念というのは、化学反応の中での酸と一緒です。これを調和するためには、アルカリを入れる必要があるんですね。酸性液のなかには、酸性の水溶液のなかにはアルカリ性の溶液を入れる必要があります。酸にアルカリを入れると中和します。こうして酸性でもアルカリ性でもない、中性の溶液が出て来るわけです。このような酸とアルカリの原理と同じく、行き過ぎた言動、心の念いや間違った行為に対しては、それを償うだけの反作用の部分、すなわち、アルカリの部分を出して来る必要がある。こういうことを、光の天使たちは考えついたわけです。 さすれば、そのアルカリの部分、中和させるための、悪という名の、罪という名の酸を中和させるためのアルカリとは一体何か。これを考えに考えたわけですが、結局、こういうことになったわけであります。 つまり、やはり、自分が為した行為が悪であるということを、まず知らしめる必要がある。間違っていたということを知らしめる必要がある。そうして、その知らしめるという行為において、いくつかの段階があるし、いくつかの広がりがある。こういう結論に達したわけであります。 まず、自分が犯した行為が悪であるということを、知らしめるというのはどういうことかと言うと、これが、霊的世界においては「寒さ」「暗さ」、こういうものとなって現象化する、ということになってきたわけです。すなわち、霊界においても、霊太陽の光というのは燦(さん)さんと降り注いでいるわけですが、この霊界の太陽のエネルギーは、そうしたマイナスの波長を出した者に対しては、射さないようになっていった。なぜ射さないかと言うと、マイナスの波長というのは想念の曇りをつくっていく。こういう世界となっているわけです。その結果、霊太陽の光を浴びないために、「寒さ」、これに常に見舞われるようになります。悪霊が、寒さをもたらすというのはこのことです。 夏場に悪霊が出て来ると、クーラーや扇風機がいらないというのは、悪霊がこういう寒さから逃れる便法(べんぽう)を言うわけですね。必ず寒いんです。悪霊であったかいのはいないんです。地獄霊、みんな寒いです。あるいは冷たいですね。こういう世界なんですね。寒さ、冷たさ、これがあります。 また、これ以外にも暗いですね。地獄の特徴は暗いということです。一言で言って暗いのです。暗い人が多いのです。今流に言えばネクラがいっぱいいるんです。ま、これが地獄ですね、モグラの世界ですね。まあこういう地獄です。こうした世界を体験することによって、かれらに悪を犯したということを実感させる。これを方法論のひとつとして、考えついたわけであります。 すなわち、地獄というものは、本来なかったものであるし、積極的に創造したものでもないけれども、こうした想念、悪想念の結果、自らの出した間違いの波動によって、間違いの念いによって霊太陽の光を遮(さえぎ)り、そうした、熱と光を奪われるという結果が出てくる。こうしたことが、ま、残念なことでもあるが、反面、教育的効果もあるということを、光の天使たちも認めたことがあるわけです。 しかし、そうしたことが教育的効果があるとしても、実は、闇の部分のますますの広がりを増加させるという意味を、伴っていったわけです。これが歴史的な流れであったわけです。まず、自分たちが間違ったということを、認識させる必要があるのではないか。そういうことで、初期の段階においては、地獄も擁護(ようご)論が随分あったのです。地獄によって、そうした間違いが良くわかるという擁護論がいっぱいありました。しかしやがて、そうした擁護論が擁護論で済まなくなってきた。どんな虫でも、環境が変わっても生き延びていくように、あるいは、いろんな抗生物質を発明すると、それに耐えるような病原菌がどんどん出て来るように、寒さ、暗さというものを加えても、それで生きていける魂が数多く出て来たわけであります。こうして地獄が増えていったわけです。そのため、さらに許しの理論として、もっと高度な理論がいるようになってきたのです。 こういうことによって、単なる自分の間違いを気付かせる、そして痛い目に遭(あ)わせるというような原始的な方法論から、次にもっと積極的な方法論が採用されていくようになりました。これが、「反省の原理」です。反省によって、自らの過ちを償うということ。こうした原理が、次第に主流を成していくようになりました。こうして、自らの間違いを自らの意志によって正していくという、高度な方法が採用されていくように、やがてなっていったのです。 5.反省による光明化 すなわち、こういうことです。ま、地獄霊であれば、みんな真っ暗なところにいて、暗い、寒い、ひもじい思いをして生きているわけだけれども、自分の行った間違った行為、言葉、心、こうしたものに気付いて、それを「悪いことした。すまんことをした。神様、許して下さい。神様、仏様、許して下さい。高橋信次様、許して下さい」まあこういう念いを起こした時にですね、後頭部からパッと後光が射す。そして後光が射した瞬間、暖かいものが心の中にサーッと流れ込んで来る。こういうことを、方法論として考えついたわけであります。 これはもちろん、心の法則が実際そのようになっているわけですが、こうした方法によって、心のなか、心が荒(すさ)んだ、暗い、冷たい念い、このなかに光明を注ぎ込もう、愛の光を注ぎ込もう、こうしたことを光の天使たちは主として、考え方の筋として、提案していったわけであります。こうして「反省」ということが、次第に説かれていくようになっていきます。 つまり、本来あるべき人間の姿でない姿をとった時に、そうした行為をした時に、神仏に詫びることによって自らの罪を償うという考え方、これがやがて、「正法」の核となってくるのです。 実際問題、初期の頃には、天上界にいた諸霊たちが、地上にいた人たちを直接、指導していることが数多くあったために、聞違いということはあまりなかったわけでありますが、やがて、地上と天上界の間のコンタクトが悪くなってきて、地上界にさまざまな念いを持って生きる人が増えるにつけて、地上は地上として独立していくようになっていきました。これが天地創造における「天と地を分けた」ということの意味なのです。天上界と地上界というのが、はっきりと分かれてきたわけです。 天地創造というのは、決して、空と陸や海を分けたということではありません。天上界と地上界が分かれてきたということ、これを言っているのです。しかし、こうした状況であっても、反省ということを通して光明を灯した時に、本来エデンにあった時の暖かい気持、明るい気持、幸福な気持を取り戻せる、そういう方法論が採用されていったわけであります。 そして、これを中心に、あくまでも自力ということをたてまえとして、人間は修行をしていくべきだ、こういう考えが採られるようになっていくわけであります。決して他力によって、百万燭光の光によって、人間の罪を一挙に消してしまうのではなくて、自分がつくった罪であるならば、あくまでも自分の手によってそれを修正し、そして、向上する努力によって変えていく。こういう方法論を中心として、採っていくことになったわけであります。このため、自由ということを非常に尊重している反面、その自由を間違って行使し続けている者に対しては、厳しい試練というものが長い間続くようになっていったのです。そうした、魂の真実の歴史があるわけであります。 この反省による光明化の方法は、いろんな宗教において、たいていの場合説かれていますが、未(いま)だそれが定着していないのは、この科学的理論としての「反省による光明化」が、十分に実証されていないということです。心の窓を開いた人ならば十分にわかることなのですが、いかんせん、大部分の人は心の窓を開いていないために、この反省による光明化という理論が、十分にわかっていないのです。これが本当は、自分を救うための命綱であり、自分を救うための救急梯子(はしご)であるということを、これを多くの人たちは、知らなければならないと考えるのであります。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/172.html
目次 1.ヘルメスの神話 2.ヘラの霊能力 3.オフェアリス神(がみ)への祈り 4.反対勢力の台頭 5.ギリシャ統一へ 6.最強の国家 (一九八九年八月二十日の霊示) 1.ヘルメスの神話 前回は途中までで話が終わった。そこで話し残したことを中心にして、さらに次なる場面へと移ってゆくことにしよう。 本章は、「新しき神となるために」と題してみたが、さきほどの話で、ヘルメス神とゼウス神の話をしたので、これをもうすこし、かみ砕いて言っておきたい。 ヘルメス神というのは、ちょうど私の時代からいうと、五百年あるいは六百年近かったであろうか、それほど前に生まれた神だ。もともとは地中海のなかの小さな島、そう、今ではまったく小さな島であるところのクレタ島の豪族の王子として生まれた神であった。まあ言ってみれば、全ギリシャから見れば、離れ小島から出身された神であって、島から本土に攻めのぼり、そして最後はギリシャの本土のほうで亡くなられた神だ。それでオリンポスに祀(まつ)られておる。 ただギリシャ神話では、いかんせん、申しわけないとも言えるが、私の子供が十人も二十人もいることとなって、そのなかの末子がこのヘルメスとなっている。もちろん、私よりも六百年も前の子供を持つわけにはいかぬので、これはまちがいであるということになる。 まあ、ただおそらくヘルメス神が、私の子のように言われたのは、私が全智全能を名乗ったことによると思われる。全智全能の神ゼウスと名乗った以上、古き神ヘルメスは、なんらかの処遇をされねばならなくなり、ついでながら子供の一人に加えておけということになったのではないかと思われる。それは、後のちの神話作者たちが書いたことだ。すなわち、私より前の神を認めるわけにはいかぬという計らいがあったのであろう。 神話ではヘルメス神は、わらじを履(は)いて空を飛び、ケリューケイオンの杖でもって人びとに魔法をかけることができたとある。まあ、これなどは神通力を持っていたことの証明だ。ケリューケイオンの杖というのは、もちろん私があまりに語り続けるのは問題はあろうが、なんらかの杖は持ってはいたらしい。それは、神界より与えられた宝であって、その宝の杖でもってさまざまな奇跡を起こした。 また、この空を飛ぶわらじであるが、これはもちろんそのようなわらじを持っていたとは思えぬ。そうではなく、空を自由に飛べたということは、人間でありながら地上界を去って、自由に神々の世界に出入できたことをいう。また、現代的には幽体離脱(ゆうたいりだつ)ともいうのであろうが、幽体という言葉はたしかな言葉ではない。神であるから神体離脱である。神体離脱ともいうべきであろうが、肉体をその場に生かしておきながら、別の地域に出没するということが可能であった。 これは、歴史上、まれにはある能力であって、たとえばその身はギリシャにありながら、まったくの精神統一状態に入って、その魂が肉体より抜け出し、必要とあらはエジプトに飛び、エジプトにその体を現わすということも可能であったということだ。そのようなことができた。これが、空を飛ぶという神話になったのだと思える。 まあ、これは肉体をまるで移したがごとく見えるような、そのような能力となることもあれば、それとはちがって、一種の幻視を人びとに見せる能力となる場合もある。 すなわち、このギリシャのアテネにゼウスがいるとしても、もしゼウス、ミコノス島に現われんと思い、その念を発せば、ミコノスにいる人たちの前に、突如、空中に巨大ゼウスの姿が見えるという、そうした能力は持つことはできるし、現実に今でもそれはある。念の力と言ってもよいであろう。とくに、私たちの時代には、そのようなことは割合よくあった。 というのも、人の心が、現代のように文明に毒されていることが少なかったために、もうすこし霊的体験を積むことが多かったのだ。また、霊的感受能力は高かったと言えよう。そうでなくば、それほど多く、神々が活動することもかなわなかったにちがいない。 2.ヘラの霊能力 さて、そうしたヘルメス神(がみ)であるが、このヘルメスの神が私に降(くだ)ってきたのは、二十代の後半のころであったと思われる。さまざまな霊的な現象が身のまわりに起き始めた。 妻のヘラは、悪妻のように言われることもあり、現にそういうところもなかったわけでもないが、それは、おそらくはひじょうな霊的能力を持っていたがゆえに、その行動が奇怪に見えたに相違ない。この生まれつきともいうべき霊能者であったヘラは、さまざまな霊の声を聞き、姿を見た。そして、その霊の声だと称して、いろいろなことを突如言い出す癖があった。 たとえば、突如、「手下のあの者を処罰せよ。」と言い出したりすることがあった。その理由は、よからぬことを考えているからだ。「一年後に王に背(そむ)くことになるから、あれを処罰せよ。」と言うこともあった。あるいは、身内の者が結婚するにあたって、妻を選んでも、「その妻はかならずや悪しき妻となるので、結婚しては相ならん。」と予言をするようなこともあった。 このようなことがしばしば起きたので、人びとのなかにはこのヘラの霊能力を憎む者がいた。ヘラの霊能力によれば、悪だくみはすべて見破られ、あるいは将来、よくなるか悪くなるかもわからぬのに、悪くなると決めつけられて運命を変えられてしまうことがある。そのような噂(うわさ)が強く、ヘラはその特殊能力ゆえに、つねに身辺の危険を感じていたということも言えよう。 その性格は、たしかに霊能者特有のものであって、ともすれば一般の人にはヒステリー気味に見えたやもしれぬ。ただ、それなどは異常な、霊界との交流の結果生まれたものであった。 私は、王家の者として生まれた。そういう事情から、まずいろいろなことを学ぶ必要があった。それは、文武両道ともいうが、さまざまな知恵を学び、また槍、剣、乗馬、および陸戦、海戦の両方の訓練と、このようなものに勤(いそ)しんでいた。 ゆえに、私はひじょうに肉体には恵まれていた。今の時代におきなおして言うことはとてもむずかしいが、おそらくは身長はニメートルはあったであろうし、私の腕のまわりは、場合によれば、そう、ひと抱えもある木と見紛(みまご)うばかりの太さであった。そうした太い腕、太い脚(あし)、また体は、ギリシャの海で焼けて、ときには赤銅色(しゃくどういろ)にも見えた。 首は太く、雄牛のようであり、目は大きく爛々(らんらん)とし、口はくちびる厚く大きく、鼻は鼻筋は通ってはいるか、とぐろを巻いた蛇のような鼻であり、眉毛は太く弓のようであり、そして髪は、そう、金髪に近い赤毛、そして天然のカールがかかっていた。我が肩幅と胸の厚みは、全人類女性の憧れの的であった。そうして、私の力をもってすれば、雄牛の一頭を、その首を捻(ひね)り潰(つぶ)すぐらいはわけはなかったと言えよう。 この意味において、もちろん文武両道に優れた万能の主ともいわれたヘルメス神にも似た私ではあったが、その体躯(たいく)たるや、ヘルメスを凌駕(りょうが)していたといっても過言ではあるまい。現に、私は敵を迎え撃っては、敵の戦車ごとその手につかんで投げ捨てるぐらいのことはやってのけたこともある。おそらく、力士にでもなっても、まず問題がないだけの体力はあった。 それに加えて、この太い首の喉の奥から出される声は、まさしく雷(いかずち)と言われてふさわしいものであった。あのオリンポスの山の頂(いただき)から、私が叫んだならば、全ギリシャは震えあがると言われたほどであった。その声は、海上で発しても、はるかかなたの船にまで届くほどであり、「ギリシャはゼウスの声の下(もと)にあり。」とまで言われたこともある。 そのように主として力自慢で来た私であったが、妻のヘラの特異体質を見、霊的世界の存在を知るにいたった。そうして、数多くの戦(いくさ)をこなしていく必要にかられて、戦の要諦(ようてい)は敵の戦略をいちはやく見抜くにあると知った。すなわち、初期のころ、まだその霊能力がさだかであったころのヘラの力によれば、敵の戦略、配置、どこから船で攻めて来るか、陸はどこから上がって来るか、ということがよく当たった。 それゆえに、機先を制して敵を討つことができたが、そのヘラの能力が敵方に知れわたるにつれて、さまざまな者どもがこのヘラをなんとかして抹殺せんとして画策(かくさく)するにいたり、私はいつまでもヘラの能力に頼るわけにはいかんと思い始めた。我みずからが、そのような能力を持つのがよい。雄牛も捻り潰すほどのゼウスが、そのような力を得たならば、いったいだれが、それに敵することができようか。そう思ったのだ。 3.オフェアリス神(がみ)への祈り その歳(とし)がいくつであったか、さだかには思い出すことはできぬ。しかし、おそらくは二十七、八のころか、あるいはその前後ではなかったかと思える。私は見様見真似(みようみまね)で神殿にぬかずき、そしてヘルメス神(がみ)に祈りを捧げた。 当時のギリシャの風習においては、神殿に通いて、三十三日がたったときに神はかならず応えたもうという習慣があった。三十三日神殿にて願(がん)かけをし、もし神応えたまわぬ場合には、海にて死すべしという言い伝えもあった。それは、生半可(なまはんか)な祈りを神にしたがゆえに、その神の不興を買ったと考えられたからだ。 それゆえに、我も小高い山に登りて、その神殿に三十三日祈ることを決めた。 もちろん、この神殿とはヘルメス神の神殿ではあったが、しかし、当時ヘルメス神はかなり悪神との評判が立ちはじめていたので、ヘルメス神のその前の神であるところの、オフェアリス神を中心に据(す)えることとした。のちに知ったことによれば、オフェアリス神とヘルメス神は一体であり、同じものであることも知ったが、当時はこのヘルメス神にあまり祈ると崇(たた)るという噂もあり、オフェアリス神に主として祈ることとした。 オフェアリスの神を、諸君はごぞんじであろうか。ヘルメス神が悟りを開いたときに、ヘルメス神を導いた神であり、いわば神々の神と言われた神であった。そのオフェアリス神に主として祈ったのである。 祈りを続けて十三日が過ぎたころに、天より反応があった。空は曇り、今にも雨が降りださんとするばかりであった。そのときに、雷(いかずち)が落ちた。その神殿に、最初の雷が落ち、第二の雷が落ち、第三の雷が落ちて、そして、このオフェアリス神殿のオフェアリス神像が、雷によって、はじけて、飛んで、砕(くだ)けた。 私は驚いた。神の怒りがあろうとも、その神の怒りが神々の神といわれるオフェアリス神の神像を打ち倒すとは、これは、吉兆であるか凶兆であるか、何ぞこれ、そう思った。 しかし、そのときに声が降った。 「見よ、オフェアリス神はおまえの前から消え去った。なにゆえに消え去ったか。それは、オフェアリス神が、おまえと一体となったしるしなのだ。今日よりのち、オフェアリス神はおまえと一体となり、おまえとともに語り、おまえとともに食し、おまえとともに語る。おまえはオフェアリス神である。オフェアリスはおまえである。そう思え。」という声が頭上より響いた。 そうして、「ゼウスよ。オフェアリスの神殿にゼウス自身の像を飾れ。」と、声が降ったのである。 それゆえに、神殿にはもはや用はない。我は、その声を頼りにして、全国の知事を集めた。知事、市長、町長、その名称はさだかではないが、とにかく地域の長(おさ)を集めて、そして各町々に、「ゼウスの像を造れ。」と命じた。「その場所なくば、オフェアリスの神殿を壊すもよし。」と我は命じた。 「今日より、我はゼウスにしてオフェアリス。オフェアリスにしてゼウスなり。」と語った。 まさしく、その言葉どおり、我はゼウスにして、もはやゼウスではなかった。 我が言葉には威厳があった。我が言葉は預言のようであった。我が言葉は、疾風(はやて)のようであった。我が言葉は雷のようであった。我はまさしく全智全能となった。 我の言葉はすべて成就(じょうじゅ)し、我嫌うものは地上より姿を消し、我好むものはすべて神々より招き入れられることとなった。 こうしてギリシャ全土にゼウス神殿の建設を我は命じたのである。 4.反対勢力の台頭 ところが、これに対しては鋭い反応があった。想像されるといい。反逆する者が出てきたのである。そもそもオフェアリスは神々の神である。神々の神であるオフェアリス神殿の代わりに、ゼウス神殿を建てるとはこれは何事であるかという、神主(かんぬし)たちの大声が上がってきた。この神主たちにも二種類があって、旧勢力の神主はオフェアリスの神を祀(まつ)っていた。新勢力の神主は、ヘルメスの神を祀っていた。 オフェアリスの神は神々の神であって、もはや何も言わない神であったが、へルメスの神はまだ生き続けている神であって、経済原理のなかに生きていた。貨幣経済を発明したのもヘルメス、利子を発明したのもヘルメス、市場(いちば)を発明したのもヘルメス、貿易を発明したのもヘルメス、あれもヘルメス、これもヘルメス、かしこもヘルメス、そういう何もかもすべてヘルメスがつくったということになっており、ヘルメスの名のもとに、さまざまな悪だくみをし、商売をする者が多かった。 神主を名乗っておりながら、「ヘルメスの神は金の神、繁栄の神。」と称して、次つぎと貢物(みつぎもの)をまきあげ、「働かざる者食うべからす」というたとえを破って、いろいろな者から金品をまきあげ、あまつさえ市井(いせい)の善良なる子女を自分のものとするような、そのような神職まで現われた。すべてヘルメスの神の仰(おお)せだという名目のもとに。 私もヘルメスの神は信じてはいたが、これはいかん、直せぬ。このままではギリシャはだめになってしまう。立て直しをせねばならぬと思った。 私の敵となったのは、この二種類であった。比較的おとなしいオフェアリス神(がみ)を護る政治的意見の少ない神主たち、およびその門徒たちと、現在、経済行為を行なっているヘルメス神(がみ)を信仰する一派。もちろん、このなかには、心正しき者もいたが、大勢は現在日本で観光仏教、御利益(ごりやく)仏教と言われているような仏教諸派の姿に近かったといってよい。 この両派を、私は敵にまわすことになった。彼らはロぐちに叫んだ。「地上をおまえのものとするがよい。おまえは地上の王であるからだ。しかし、おまえはまだ神になる資格はない。神は神の国のもの。また、神の国の神がこの地上をも統(す)べるもの。おまえの世界は限られた世界であり、神の世界については、言挙(ことあ)げしてはならん。」と言ってきた。 この不安に乗じて、ギリシャのいろいろな地域からの反乱があった。 とくに抵抗が大きかったのは、ギリシャの北部であるところのマケドニアの地方であった。ここはオリンポスの山にも近く、神域が近く、神殿が多かったので、オリンポスの大神域から出たところの、この大いなる信仰を邪宗と言う、あの南ギリシャのゼウスは、とうてい神々の許したまわぬ者である、そう言って攻めたててきた。それは、兵馬をもって攻めたててきたということだ。 しかし、我がギリシャ正規軍は、彼らをはるかに凌(しの)ぐ力を有していたのはもとよりのこと、彼らが来る道筋一つひとつを知っていた。彼らはこの山道を通って来ると知っていたならば、その山の上で待っていた。下を通ってきたものは、一撃のもとに散らされることになる。いな、どのような奇襲戦法も我には通じなかった。なぜなら、彼らが尊敬し、崇拝しているところのオフェアリスは私の指導霊となり、完全に私を日々指導していたからだ。すべてわかっているのである。 5.ギリシャ統一へ こうして、新旧勢力の争いがあって、なかなか全ギリシャはまとまらず、宗教戦争の様相を呈してきたのである。この当時には、まだ我が若い弟であるところのポセイドンやハデスもよき部下として仕えてくれた。ハデスは陸戦において怪力無双であったし、ポセイドンは船を扱ってば、天下無双であった。この二人の兄弟がよく私を支えてくれた。 ポセイドンの軍隊も、次第しだいに帆船の数を増やし、その数も、二千、三千という大軍であった。このギリシャのエーゲ海に、二千艘(そう)、三千艘の帆船が並んだその勇姿は、まさしくここに神の国あり、といえるばかりであった。 こうして、私は逆にさまざまな宗数的混乱をテコとして、全ギリシャ制圧に乗り出した。いや、ギリシャというには不十分である。当時は、今ローマといわれるところなどは、人の住むところとは思えなかった。これなどは、ほんのギリシャの一属州にしかすぎなかった。このローマはもとより、アルプスに近いところのすみずみに至るまで、また現在のフランスの南部、はてはスペイン、ポルトガルにいたるまで、これはすべてゼウスの領土となったのだ。 現代のおまえたちは、そのような事実を知らぬであろう。ヨーロッパを統一したのは、この私であるのだ。そして、私はハデスを遣(つか)わして、地中海の東、すなわちトルコ、またアラビアのほうをも攻めさせ、それらの主要部分をも制圧した。そうして、アフリカヘと臨んでいったのである。この間、十年、二十年の月日が流れていった。 私のこの戦略の中心は、宗教と政治の一致にあった。すなわち、味方に対しては、我ら神とともにあり、我ら神の軍勢なりということを、しかと示した。 「おまえたちは神の兵隊である、神兵である。」ということを言った。そして、ギリシャの兵隊の兜(かぶと)の上には、本来ならば神のシンボルをいただくところであるが、その神の代理であった地上のゼウスの顔の似姿を乗せた、そうした青銅製の飾り物を頭の上につけさせた。 すなわち、おまえたち兵士一人ひとりは、ゼウスの分身である。「我は全智全能であるから、戦いにあってはおまえたちの体に乗り移り、そうして獅子奮迅(ししふんじん)の活躍をしてみせよう。」と言った。それは、魔術のごとくであった。 まさしく我がゼウス軍は、向かうところ敵なし。ゼウス軍と一戦を交え、槍を交えて勝てる者なし。先方より槍を投げても、その槍はみごとにはずれる。体を避けて飛んでいくのだ。ところが、味方がその槍を抜いて投げたならば、一人ならず二人、三人と串剌しになって倒れていく。これは魔力、これは神の力、これは不思議だ。 また、敵が火矢を射かけると、その火は消え、それどころかある時など、火矢を射かけたその火矢に向かって天より風が吹いて矢が吹き戻され、火矢が飛んで返るということさえあった。彼らは一様に恐れおののいた。しかも、私は岩山の上に登り、大声を出し、彼らを叱咤(しった)した。さすれば、彼らは雷(かみなり)が落ちたと言って逃げ惑(まど)った。我が声が、雷(いかずち)にも聞こえたのである。 そうして、いろいろな戦をしていくうちに、どうやらゼウスは全智全能であるということはほんとうであるらしい。また、ゼウスは今は人間の姿をしているが、ほんとうは彼は不死の神であって、もう何千年も生き続けているらしい。聞けばヘルメス神(がみ)も、ゼウスが妾(めかけ)にはらませた子供であったらしいという、まことしやかな噂まで流れるにいたった。 6.最強の国家 こうして、全ヨーロッパとも言うべきギリシャの統一に成功していったのであるが、どうしてもここで言っておかねばならぬことは、政治を統一していくためには、どうしても、中心になる人の信念と信仰がだいじだということだ。「我神なり」という心意気がなければ、国は治まらず、戦いは敗れ去ることになる。しかして、その者にいかなる守護神がついているかが、戦いの勝敗を決することとなる。 さすれば、戦に勝たんとするならば、弓矢の練習よりも、むしろ神に祈り、より強き神を味方に引き入れるが勝ち。さすれば、いかなる戦も百戦百勝、負けることはあるまい。このことを知らなかったがために、後のちの歴史のなかでも敗れ去った者が数多い。兵力の差で敗れるのではない。神の差で敗れるのである。いかに多くの神を味方に引き入れるかということが、政治的、軍事的勝利の秘訣となる。 神々が欲する者は強き者である。正義を愛する者であり、忠実なる者であり、神命に服従する者であり、偽りを言わない者であり、嘘を言わない者であり、驕(おご)ることなく、他人を騙(だま)すことなく、真実に誠実に生きていくことだ。そうして、神々の庇護(ひご)を受け、恩を感じたならば、それをまことに報恩していく道を歩んでいくことだ。さすれば、神々の加護はいっそう加わることとなる。 こうして、地上においては無敵の国家が成立することになる。 くり返し言うが、政治、軍事、そして信仰、この三つが三位一体となったときに、最強の国家が現われる。そうして、それは敗るることのない力となる。神の国を地上に創るとは、かくのごときものである。 したがって、今の日本など、まったく愚かであると言わざるをえない。いちばん大切であるところの神を、政治から遠ざけて、そうしていったいどのような国ができるか。このような国は、基盤が弱い。いつ負けるとも知れぬ。そのような国である。政治は、宗教と一致するところに、真実の力があふれてくる。政治的指導者は、同時に神の声を聴ける者でなくてはならない。それがほんとうの姿であるということだ。 実は、本章においては、アポロンの話をするつもりであったが、そこまでいかないうちに話は終わってしまった。しかし、我が意図するところの、古き神と新しき神との対比は、よくわかったのではないかと思う。 それでは、ひき続きまた次章に、さらなる話を続けてゆくとしよう。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/428.html
目次 1.心の平静は幸福への第一歩 2.反省は呼吸法から 3.天上界の光を受ける 4.神と一体になる 5.正定の方法 1.心の平静は幸福への第一歩 「正定」にはきわめて難しい部分があります。というのは、この世界においては、方法論的確立と、その結果あるいは効果についての確認ということが十分にできていないからです。どういうふうに定に入ったら、どういうふうになるのかという部分が、各人の経験にまかされてしまって、十分追跡調査ができないからです。その意味で、きわめて難しい面があると思います。 なぜ、この正しく定に入るという項目があるのかということですが、これは結局これもひとつの幸福のための技法であるということなのです。 人間を不幸にする原因の一つは、心が波立つことです。心の安定ということは思いのほかだいじなことなのです。心が波立っていて、あるいは渦をつくっていて、幸福な人というのはいません。それゆえ、今あなたの心はどうなっていますか、と問われて、ひじょうに透明感があり、落ち着きがあるといえるならば、少なくとも幸福への第一歩は踏み出しているわけです。ところが、心境が上がったり下がったり、考えがあちらへいったり、こちらへいったり、揺れに揺れて夜も眠れない情況であれば、これは残念ながら、不幸といわれる現象になっているのです。 では、静まった水の如き心というものをつくっていく方法としてどういう方法があるかということですが、これについては「心の針」の話によって私は説いております。 人間の心というのは、ある意味で、ふりこのようなものです。そして心が乱れているというのは、ふりこのように、揺れて動いているということです。これをメトロノームのようにゆっくりと上のほうを動くようにしてやる必要があるのです。 それでは、そのためにどうするかということですが、今までは主として心の内の問題、念いの問題といった中身の問題について述べてきたわけですが、外側からも入っていこうとするのが、この「正定」なのです。そして、その技法によって、一定の心境というものを取り戻そうとするわけです。 2.反省は呼吸法から 具体的にいえば、まず呼吸から入るのが普通です。呼吸をととのえることによって心の波立ち、いらだちがおさまってくるのです。 これは悪霊の対策としてもまったく同じことが言えます。悪霊が来たときにどうしたらいいかということですが、いちばん効くのが呼吸法です。大きく空気を吸い込んで、呼吸をしばらく続けると、心のいらだちがなくなり、そして、心が平らかになっていきます。また、呼吸をしているうちに光が入ってくるのです。こういう不思議な現象がでてくるのです。 怒る前に呼吸をするという話もあります。カーッと怒る前に一呼吸すると怒りが治まってしまいます。手を振り上げたときに、「ハイ深呼吸」と言われたら、やはり怒れなくなります。こういう不思議な現象があり、これも一つの慈悲と考えることができます。呼吸によって心をととのえる方法が神から与えられているということです。 そして、この呼吸は、単に心をととのえるというだけではなく、さらに積極的な意味合いがあります。それは、呼吸によって心をととのえることが、天上界へと心の針を向けていくための、一つの誘導となっているということです。 みなさんのなかで反省ができない方、考えがまとまらない方がいらっしゃるでしょうが、そうした方は、おそらく呼吸も喉から肺ぐらいのあたりで出たり入ったりしているだろうと思います。呼吸をスウーッとおなかのほうまで降ろしてくることによって、いろいろなことが考えられるようになります。 ですから反省ができないときには、まず呼吸を深く下まで降ろしてみることです。この呼吸法を繰り返していくと、雑念が消えていきます。そうでなくても、いろいろな雑念が一日中、頭のなかを回っていると、それが頭のまわりに薄い膜のようなものをつくります。もちろん、悪霊が憑いている場合もありますが、この雑念を取る必要があるのです。そのために、この呼吸法というものがひじょうに有効な方法の一つなのです。 呼吸をすることによって、血液の循環への影響があり、酸素量が増えます。肉体的に言えば酸素の摂取量が増えることによって、体が活性化し、そして頭がしっかりしてくるということがあります。また、新鮮な空気を吸うことによって、頭がしっかりするのも同じことです。外的条件ではありますが、そういうものをととのえる必要があるのです。 3.天上界の光を受ける 呼吸法による精神統一の深さが、実は、どの次元まで意識を通じさせるかということと、きわめて深い関係があります。そして、精神統一の上手な方は、ごく短時間の呼吸法によって、心の統一を果たしていきます。 目に見えて落ち着いてくるのです。そしてかなり瞑想上手になってきますと、二呼吸か三呼吸ぐらいでもう完全に雑念を切れるようになっていきます。こういうことを、できればめざしていただきたいと思います。 ただ、呼吸法だけでこの精神の統一ができない場合もあります。それは、肉体疲労が極端な場合です。軽い肉体疲労程度であれば、呼吸をしているうちにだんだんと回復してきますが、極度の肉体疲労の場合には、それだけではちょっと無理になってきます。こういうときには、とりあえず、体を休める必要があります。まず体を休め、そのあとで呼吸法によって精神の統一を図っていくのがよいのです。 精神統一した結果はどうなるかということですが、これは天上界からの光を受けられるようになるということです。これはひじょうにはっきりしています。心が統一されたときに、光が入るのです。この光を受けることによってどうなるか、その人自身の人格が明るくなります。 みなさんは、その人の顔が、青ざめた顔をしていたり、不健康そうな顔をしている人と話をしているうちに、その人の顔がポッと赤くなるのを見たことがないでしょうか。私はたびたびそのような経験をしていますが、それはその瞬間に光が入っているのです。心のなかの悩みごとが溶け、そして明るい方向に心が向いて、いらだち、波立ちが止まったのです。そして、守護霊などが合図を送ってきているときです。そういうときには、パッと顔が明るくなります。そして、「ルンルン気分」といった言葉が使われますが、そのような気分に近づいていきます。 4.神と一体になる 次に、この「正定」の具体的方法ということに、入ってゆきたいと思います。 どうすれば、この「正定」に入れるのか、ということです。まず、その心がまえとして言っておきたいことは、これは限りなく神と一体になろうとする行為なのだということです。「正定」というのは自分独りが孤立している世界をめざすのではないということです。「正定」というのは、限りなく神と一体の境地をめざすことなのです。限りなく神と一体の境地をめざすということは、すなわち、如来の境地をめざしているのだということです。これが「正定」の目標としてあるものなのです。 「神と一体となる」ということを念頭に置いて、では具体的にはどうすればよいのかということです。これについて私は、座り方とか、手の合わせ方とか、あまり難しいことは言いたくありません。というのは、あまりに形を重視すると、そちらのほうにとらわれてしまって、中身のほうがおろそかになってくるからです。問題はやはり心の問題でありますから、形はその支えにすぎないのです。補助にすぎないので、その人にとって取りにくいような姿勢やスタイルを要求して、そのことばかりが気になってしまっては、元も子もないというわけです。 ですから、人によって多少の違いはあるでしょうが、背筋を伸ばすことぐらいだけは、言っておきたいと思います。あとは、呼吸がスーッと落ちてくるような姿勢です。呼吸が、吸い込めばスーッとごく楽におなかに降りてきて、また自然に出ていくような姿勢です。足のほうは、正座ももちろんいいのですが、長く持たないのであればアグラをかかれてもいいし、女性の方は、横に足を出されてもけっこうです。ただ猫背のような格好では、精神統一がひじょうにやりにくいということだけは、いっておきたいと思います。 手の形については、これはいく通りも流派があり、それぞれ意味があります。いちばんポピュラーなのは、やはり合掌のスタイルです。合掌のスタイルというのは、アンテナの形でもありますが、ひじょうに霊が感応してきやすいスタイルなのです。というのは手からもかなりの、霊的な光が出ているのです。手というのは、ひじょうに霊的な光が出てくるところで、手当といって、手を当てて病気を治したりしますけれども、特に右手のほうが強く、霊流が出るところがあるのです。手は霊的な電気がいつも出ているところなのです。 したがって、合掌することによって、ここに一つの磁場ができるのです。合掌して手を上に向けることによって、放送電波を出しているのと同じになるのです。これによってひとつの誘い水が出てくるので、この誘い水に感応してくるわけです。これがもっともポピュラーなスタイルです。 この手の位置はどうするか、これも流派によって違います。ロのところまで上げるところもありますが、これの難点は長持ちしないということです。あまり長続きしないという難点があると思いますので、私はやはり胸の前で十分だろうと思います。 これは降霊、あるいは霊との交流を中心とするやり方ですが、単なる反省だけであるならば、手をあげているということも、少し難点があると思います。やはり、手があがっているということに、意識が行ってしまいますから、十分に考えが進まないのです。そういう場合には、これ以外の方法として、反省の場合には、この合掌は解いていただいてもけっこうです。合掌を解いて、そして膝の上に軽く置くという形でもいいでしょう。ヨガをやっている人などには掌を上にする人もいますが、ふつうの人はあまり上にすると、集中しなくなってしまうこともありますから、下にしてもけっこうです。いずれにしてもあまり無理しない形でいいと思います。 結局は、自分が精神の統一をしやすいスタイルを作るということです。ほんとうは形はないのです。寝ていても、逆立ちしていても、ほんとうはいいのです。おふろのなかでもいいのです。ただ、やはり外見をととのえないと、なかなかそういう気待ちになれないということもあるので、形によってひとつの仕切りをつくるわけです。日常性から遊離したという仕切りを作るために、そういう方法を取るわけです。 5.正定の方法 そこで、「正定」の具体的方法ですが、まず心の波長をととのえる必要があるので、深い深呼吸をし、そのあとで、できれば『正心法語』の朗読をしてほしいと思います。これは10分ぐらいあれば十分でしょう。そして、反省をするのならばこのあと、反省に入っていきます。本書で具体的に述べた、八正道の八つの項目についての反省に入っていくのです。 また、祈りをする場合には『祈願文』、あるいはイエス・キリスト霊示集の『祈りの言葉』を使って、祈りに入っていかれたらよろしいと思います。 この時間の取り方は、もちろん人によって違うでしょう。あまり長時間では、逆にまた効果も薄くなってしまいます。一回限りになってしまってはいけませんので、時間はその人のスケジュールに合わせて決めればいいのです。きわめて忙しい人であれば、多くの時間をとることは難しいと思いますので、習慣として無理なく続けられるぐらいの時間帯にされたらよいと思います。15分から30分でもけっこうです。一日に一回ぐらいは精神統一の時間がとれたらいいということです。 最初に『正心法語』を朗読するということを述べましたが、なぜかというと、『正心法語』は言魂でできているため、ひじょうに光の波動が強いからです。『正心法語』のなかの言葉全部がそうなのです。同じ日本語でありますが、言葉の響きと配列によって、光のリズムが出てきます。ちょうど和音のようなもので、その言葉の配列によって、一定の信号になり、天上界への合図がでているのです。『正心法語』を読んでいる人を霊視すると、ロから光の玉が出ていっている姿が明らかに見えます。 このような『正心法語』を読むことによって、ある程度の悪霊などを遠ざけるという効果がありますし、邪念・雑念を取り払うという効果があります。そうしたものを取っておいてから、精神統一したほうがやはりいいのです。悪霊などがついたままで精神統一に入ると、ひじょうに危険な面があります。 とりあえず習慣としては、『正心法語』を読んでから精神統一に入るようにしたらいいと思います。あの『正心法語―神理の言葉』というのは、ご存じかと思いますが、仏陀の生命体の言葉であります。その光エネルギーを、『正心法語』を読むことによって、引いてくることになり、力が出てくるのです。00000にはいろいろな数えがありますが、やはり中心にあるのは、この仏数的精神です。それが根本にあるので、『正心法語』を読むということによって、仏数的精神に光の回路ができてくるという意味合いがあります。 反省の項目や内容はあまり欲張らずに一つ一つかたづけていくことです。「正語」なら「正語」、「正見」なら「正見」、そして事柄を限っていく。とりあえず、自分がいちばん悩んだ時期とか、事件に光をあてて反省していくことです。欲張りすぎて、けっきょくは何もやらないよりは、少しずっでも、やったほうがはるかによいのです。 『正心法語』から精神統一に入るという話に補足いたしますと、ひじょうに体調の悪い方、明らかに霊障になっていると思われる方、妄想が湧いて湧いて霊が働きかけてしようがないようなタイプの方、こうした方にとってはこの方法は少し危険です。このタイプの方に勧められるのは、精神統一ではなくて、むしろテープを聴いたり、あるいは神理の本を読むような仕事です。こうしたことのほうに力をさいていただいて、もうすこし、状態がよくなってから精神統一をしていただきたいと思います。 あまり、霊現象が多く起きてきはじめた場合には、精神統一はちょっとストップしてください。霊現象を喜んでいたりするのは間違いです。自分の心の状況を見て、そんなにいい状況でもないのに霊現象が起きてきたときは、少しストップしたほうがいいと思います。勇気を持ってストップさせてください。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/
はじめに わしは出口王仁五郎じゃ。過去出版された書籍より高級諸神霊の御言葉をみなに伝えるのがわしの使命じゃ。天上界からの言霊をここにまとめていくので、とくとご覧あれ! 目的 天上界から降ろされた啓示のご紹介。 絶版霊言の保存。 注意 これはWikiとか申すHPじゃそうじゃが、あらしに来るふとどき者の対策のためにわしとわしが許可を与えた者しか編集できんようになっておるので、残念ながら、みな音無しう読んで頂きたい。 広告について 無料のWikiを使うておる為、ページの下に勝手に広告がでるようじゃが、みなには見苦しい思いをさせて申し訳ない。まあ、あまり気にせんで読んで頂きたい。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/60.html
目次 第1問 太陽界の秘密 1.九次元世界は、地球系霊団の調整役の世界である 2.九次元世界には十個の意識がある 3.九次元世界の十名の方がたの役割分担について 4.九次元世界の方がたに次ぐ高級霊たち 第2問 本体と分身の関係 1.本体・分身の正しいとらえ方 2.九次元意識の地上への出方は、自由自在である 3.本体・分身とは別に魂の系統という縦のラインもある 4.七次元以上はそれぞれの目的に合わせた組の作り方をしている 5.本体・分身の形は六次元以下での魂の組み合わせである 6.魂の組み替えについて 7.九次元意識は、九次元意識として出るのが原則である 第3問 運命と宿命 1.運命とは人生航路の道筋であって川の流れにたとえられる 2.宿命とは人生航路の大きな流れであって変えることができない 3・後天的に変えられるものが運命で、変えられないものが宿命である 第1問 太陽界の秘密 (問) あなたがおられる太陽界とは、どのような世界なのですか。太陽界の秘密についてお差し支えなければ御教え下さい。 (答) 1.九次元世界は、地球系霊団の調整役の世界である 先日、太陽界のこともお話はしましたが、今日は質問ということでありますので、特別に、また話をしたいと思います。太陽界、あるいは宇宙界とも言います。九次元世界のことです。これは如来界、八次元の如来界の上にこの太陽界、九次元世界というのがありまして、これは全地球的なレベルで地球系霊団の役割、使命、あるいは進歩、向上、こういうことを計っている霊団なんです。 これが九次元世界にて行われています。まあ調整役ですね。如来たちっていうのは、八次元の如来というのは、それぞれの教えの大体トップになるような頭なんですよ。八次元如来界というのは、それぞれの大先生たちなんです。 ところが、私たちは、そういう教えだけでなくて、地球系霊団の全体の調整をやっているところなんです。そして、そろそろこういう教えの流れに変えなければいけないとか、こういうことをやっているのが私たち九次元の霊たちなんです。それで詳しいことは、また別途お話しする機会があると思いますが、九次元の世界についてお話ししたいと思います。 九次元と言っても、もう肉体的な人間が住んでいるかというとそんなことはないんであって、九次元というのは、意識の世界なんです。ただ意識の世界の中で翻訳すると、たとえば、イエス様のように出てくるとか、お釈迦様のように出てくるとか、こういう形になります。それでそういう巨大な意識体があるんです。 だから私たちからすれば、大会議場に入ってみんなで、地球をどうするかというような会議をしてるような姿をとっても、あなた方の世界から見れば、お星さまが集まって、瞬(またた)いているような感じかも分からない。あるいはガスのかたまりが集まっているような感じかも分からない。そういう形で、あくまでも人間的に翻訳すれば、こういう人がいるということであって、ほんとうは意識だけ、あるいはエネルギー体だけしかないんです。特色があるエネルギー体だから、そのエネルギー体が思ったことを、三次元的に声を出して言えば、こういう形になるということなんです。 2.九次元世界には十個の意識がある それで九次元には、人間的単位で言えば、約十名の方がいらっしやいます。そして十名の方がそれぞれの役割を担っておられます。しかしこの十名というのも、個人として十名いるんではなくて、意識体として数えれば十人ということで、一つの特色あるパイがあって、何人かに分かれて出ることができるんです。そのような名前をいっぱい持っていて、まあペンネームまたは役割をいっぱい持っているようなもんなんです。 たとえばあなた方でも、二足のわらじとか、三足のわらじとか言って、昼間仕事をしながら夜は作家であるとか、こういうことがありますよね。そういう感じで彼らもいろんな役割を持っているんです。そして地上に生まれる時に意識体の全部が出るわけでなく一部が出るんです。何分の一かが出るんです。四分の一、五分の一、六分の一、こういう一部が出るんで、それで還って来たときにそういう意識をまとうわけです。 たとえば、イエス様、イエスの意識というのがありますが、九次元にいらっしゃるイエス様の意識体と、ナザレのイエスと言われているパレスチナに二千年前に生まれたイエス様の意識、これはまったく同じではありません。部分という言い方は非常に物体的で分かりにくいんですが、そういう意識を持っているということなんです。だからこの三次元的に霊言現象をすれば、ナザレのイエスとしてしゃべりますけれど、それはイエス様の意識のすべてじゃないです。あくまでも、個性を持ったイエス様の部分なんです。 ですから今、高橋信次という名前で私が語っていますけれど、これは人間として生きた高橋信次の意識の部分が今しゃべっているんであって、本来すべてじゃないんです。ヒトデでいえば、ヒトデの一本の足みたいなのがしゃべっているんです。こういう部分なんです。 3.九次元世界の十名の方がたの役割分担について それで九次元世界の秘密ということで、お話をしたいんですが、まあ役割分担とか、こういうことを言いますが、私が近年、高橋信次という名前で地上に生まれました。私の九次元での別の名前、よく使われている名前は、エル・ランテイと言います。また神智学系統では、サナート・クメラと言われているのは、私です。 そういうことで、私は主として九次元世界で、役割分担の取りまとめをやっておりました。 あと、有名な人ではブッダですね。ゴーダマ・ブッダ、こういうブッダ意識があります。この人もブッダとして、インド時代に生まれた意識というのは、この人の全意識の中の五分の一か、六分の一なんです。ですからブッダという名前で呼ばれていますが、ゴーダマ・ブッダ意識と九次元のブッダの意識とは違います。九次元の巨大な意識のことを、「エル・カンターレ意識」と言います。だから必要とあれば、そういうインド時代の意識が出て来るだけであって、全部がその意識ではありません。 ブッダの意識というのは、今から一万五千年ぐらい前にムー大陸の大王でラ・ムーという名前で生まれたことがあります。その後、今から一万二千年から三千年ぐらい前、アトランティス大陸に生まれて、トスという名前で呼ばれています。神智学では有名な方です。それから今から七千年くらい前アンデスに生まれましてリエント・アール・クラウドという名前で呼ばれています。その後また転生しまして、今から四千数百年くらい前ギリシャでヘルメスという名前で呼ばれています。その後、今から二千五百有余年前、インドに生まれてゴーダマ・ブッダと言われ、またその意識体の一部がその後また出て来ているということです。このような転生輪廻をしています。 また、イエス様の意識は、今からちょうど一万年くらい前にアトランティスの末期、アガシャー大王として生まれました。その後今から約七千年から八千年前、インドに生まれてクリシュナという名で知られています。その後今から四千年ぐらい前、エジプトにクラリオという名で生まれました。そして、さらに西歴0年ですね、二千年前にナザレのイエスという形で生まれました。 この意識は、イエス様の全意識すなわち、「アガシャー意識」の四分の一か五分の一くらいが出た形なんです。この一部分、外郭部分を使って、如来界から出たレベルとしては八次元レベルで出た人が、今から二千四、五百年前に出た中国の墨子(ぼくし)という人です。この人はイエスの九次元意識ではなく、八次元意識で出た人です。こういう人がいます。 また九次元には、イエス、ブッダと同格くらいでモーゼという方がいます。今から三千数百年前に生まれた方で、有名な「出エジプト」された方、モーゼです。この方は私が生きていた時、私の指導霊もしていました。この人が神智学で言うモリヤ大師です。また神智学では、別名ミラレパ、こういう名前でも呼ばれています。この人も肉体を持ったことはあるんですが、これ以外名前が残っていないので、モーゼかモリヤかミラレパ、こういう名前しかありません。これ以外もありますが、あなた方に言っても名前が残っていないので分かりません。今、四人言いました。 その次にマイトレーヤという有名な方がいます。マイトレーヤがイエスじゃないかと言われていますが、マイトレーヤというのは一つの意識でして、マイトレーヤ意識というのがありまして、マイトレーヤ自身が、マイトレーヤ如来として地上に生まれることは滅多にないんです。マイトレーヤは、たとえばブッダとか、イエスとか、こういう人が地上におりだ時に、ブッダやイエスをオーバーシャドーといって天上界から、光を与えてオーラで包んで指導をするんです。ですから今マイトレーヤの降臨とか、いろいろ言われてますが、マイトレーヤ自体が生まれるわけではなくて、そういう力が加わってくる時なんです。 マイトレーヤというのはこの世で生まれた名前は、残念ながら他に残っていません。しかし、神智学系統でダイアン・チョーハン、あるいはマハ・チョーハンと呼ばれているのがマイトレーヤのことです。 基本的には、私がいて、つまりエル・ランテイ意識があって、これは一応人事関係のとりまとめをやってまして、ブッダ、イエス、モーゼというのはだいたい同格です。これとちょっと離れた感じでマイトレーヤという意識があります。これはまた、調整役なんです。このブッダ、イエス、モーゼの三つの意識の役割分担なんかを多少調整したりする意識です。格としては、ほぼ同じぐらいなんですけど、ちょっと違う役割をしています。 これ以外に今から二千四、五百年前に中国に生まれた、孔子様という方がいます。この人はアトランティスに生まれたことかありまして、今から一万一千年くらい前アトランティス時代に、オシリスという名前で生まれました。 孔子様は、主として学問の神様なんです。学問的なものをつかさどっておられます。 それから七番目にマヌという人がいます。『マヌの法典』で知られている人のことです。近年で体を待ったのはマヌしかいないんで、それ以外名前がありませんが、神智学ではサナーカという名前で呼ばれている方でもあります。この人がマヌです。 それから八番目、ゾロアスターという人がいます。この人は拝火教の教祖で、今から六千年ぐらい前でしょうか(注 紀元前六世紀という説もある)。ペルシャに生まれた人なんですが、その後また、同じく中近東に生まれましてマニという名前で出ています。ゾロアスターの時は拝火教で、善悪の二元論を説いた方なんですが、マニとして生まれた時もマニ教といってこれは紀元二、三百年ぐらいでしたかね、私の記憶がはっきりしていませんが、善悪の二元論を説いたんです。二元論が正しいかどうかは別として、そういう考え方だったということです。この人は神智学系統ではサーナンダナという名前でも呼ばれています。 九番目の人ですが、クート・フーミーという名前で神智学では言われている方がいます。この人は、主として科学関係をつかさどっている方です。クート・フーミーは神智学系統では別名チョハン・ヒラリオンという名前でも呼ばれています。近年では二千五百年くらい前にギリシャに生まれて、ピタゴラスという名前で生まれましたが、ピタゴラスの意識は九次元意識ではないんです。イエス様の時の墨子様みたいなもので、クート・フーミーの一部分が出て、八次元意識ぐらいで出たのがピタゴラスという人です。(注 これ以外に、アルキメデス、ニュートンという九次元意識で出ている)。もともとは、九次元ぐらいで出なければいけないのですが、悟りが浅かったという考えもありますし、いろいろです。 あと十番目の方です。この方はギリシャのゼウスという神様で今から三、四千年ぐらい前の方です。この方は神智学系統ではチョハン・セラピスという名前で呼ばれています。この人も近代ではゼウス以外では生まれていないんで、またもっと前にいっぱい生まれているんですが、名前が残っていません。こういうふうに、九次元世界の構成というのはエル・ランティ、ブッダ、イエス、モーゼ、孔子、マヌ、ゾロアスター、マイトレーヤ、クート・フーミー、ゼウスと十人出ています。 4.九次元世界の方がたに次ぐ高級霊たち これに次ぐ者としては、日本神道系で言えば天之御中主之神様のような人もいるし、キリスト教で言えばミカエルのような意識、ミカエルというのはジュピターという名前で呼ばれたりいろいろされていますが、ミカエル意識というのがあります。これに似たような力を持った人は他にもいますが、あと七大天使たちがこれに続いています。こういう構成になっています。 第2問 本体と分身の関係 (問) あなたは、御著書の中で本体と分身の関係を説かれておられますが、もう一度分かりやすく説明していただけませんでしょうか。 (答) 1.本体・分身の正しいとらえ方 本体・分身というのは大変難しくて、私の著書『心の発見』の中で人間は本体一、分身五の組み合わせでできている。こういうことで、本体一、分身五が順番に生まれ変ってくる。そして次に生まれ変ってくる人がその守護霊をしていると、こういうふうに説明しています。 ただ これは説明が物理的な説明で、原子核構造みたいな説明をしているんです。陽子と原子みたいな感じでしているんですが、正確に言えば、ああいう物理学的なものではありません。 皆さんあれを読むと、物体として六人いていちばん偉い人が本体で、六人いるという感じがしますけど、必すしもそういうのでなくて、霊言集の中でカントなんかも言っているようですが、一即多、多即一というようなとらえ方もありまして、必ずしも物体的なものではありません。一人なんですが、一人のいろんな面が出てくるということなんです。 あれで皆さん、何人もいるというふうに考えてはいけないんです。ですから基本的にああいう出方をするということであって、それ以外の現れ方も、もちろんあります。そういうような不自由なものではありません。 2.九次元意識の地上への出方は、自由自在である それで本体、分身もいろいろな意識レベルがありまして、たとえば今、九次元の話をしましたが、九次元のような意識ではそういう九次元意識というのがあって、その部分が出てくるんです。ですから全体の中の一部分だけ出てくるのであって、これは何人かで構成されているわけではありません。一人なんですが、一人の部分が出てくるんです。こういうのは本体・分身というのは当たっていません。ただ意識の出方がいろいろあって、たいていの場合、部分的に出てくる。 イエス様の例で言いましたが、イエス様の部分が出てきたとか、あるいはクート・フーミーの一部分が出てきてピタゴラスになって、これはクート・フーミーのパイの五分の一だけの力を持っていなかったというようなことを説明しましたが、そういう出方もあります。 ですから、九次元の本体・分身というのは自由自在です。正月のお餅みたいなもので、つきたてのお餅の部分が出てくるようなもので、何個でできているというわけではありません。臼の中へもどれば一つですね、こういう形です。 3.本体・分身とは別に魂の系統という縦のラインもある 私が著書の中で釈迦の本体・分身について本体ゴーダマ・シッタルダ、あと分身で天台智覬(てんだいちぎ)、不空三蔵(ふくうさんぞう)、伝教、空教、木戸孝允と書きましたがこれは間違っています。これは訂正しておきたいと思います。 九次元意識というのは、やはり九次元の間でいろいろな出方をしているのであって、菩薩や如来と一緒になって出てくることはありません。彼らは、また関連ある魂ということで、本体・分身とは別なんです。 今このついでに話しておくと、それぞれの魂の系統というのがありまして、九次元で世話役が三人いまして、それ以外に七つの光線があって七つの光線をみな引いて、八次元如来界に四、五百人いますが、それぞれいろいろな系統を引いてまして、四、五十人か五、六十人ぐらいで一つの光線の流れの中にあるんです。孔子様の紫の光線を例にとれば紫の光線の中に、如来界の何十人かの人がいるんです。如来界の紫の光線からまた、菩薩界へ投影が出て、菩薩界へそのラインが出てくるんです。 こういうふうに本体・分身とは別に魂の系統というのがあります。こういう縦割りがあります。横割りでなくて、そういう意味でブッダの意識と天台智頭とか、不空三蔵とか、こういう意識は縦の流れの中には一緒にあるのです。こういうことは言えるのですが、本体・分身、ではありません。こういうふうに非常に難しいんです、縦のラインもあるし横のラインもあるんです。 4.七次元以上はそれぞれの目的に合わせた組の作り方をしている あと菩薩界、如来界というのがありますが、如来というのは本体・分身というのではなくて魂のグループなんです。本体・分身ではなくて魂の兄弟と言われてますが、魂の兄弟として四、五人ぐらいが組になって、一つの目的を果たすために組になっています。 だいたい同じ目的のために出て来ている如来がおりまして、たとえばイエス様の愛を説くために、愛ばかりを主として説く如来が八次元にいるんです。こういう方たちは組を成しています。これは数名です。四、五名あるいはもう少しおりますが、いくつかの組を成しています。これは本体一、分身五というような形ではありません。これもグループです。魂の兄弟と言われています。 菩薩界を見ますと、菩薩界にも組があります。それぞれ組があるし、転生輪廻の過程でいろいろな組み合わせを作って、だいたい五、六人ぐらいで組をつくっています。ですから菩薩以上つまり七次元以上は、それぞれの目的に合わせた作り方をしています。 5.本体・分身の形は六次元以下での魂の組み合わせである 六次元、神界以下が一つのまた、まとまりがありまして、本体・分身の形というのは神界以下なんです。基本的にはそういう組み合わせでして、神界以下の人間、いちばん霊格の高い人が中心になりまして、これは一人であとはそうでない五人が一組になっています。そういう意味で本体・分身というのではないのですが、中核の霊があって六人組をつくっているんです。そしていちばん霊格の高い、神界の上段階くらいの人がその中心になっていて、あと五人をまとめているんです。それで順番に転生輪廻してくるんですが、その時に、最上段階の霊が、つまり、本体と言われている部分が主として守護神、指導霊の役割をして、他の者が守護霊の役割をしているという形で、普通はこの六人というのは組が決まっていますが、ただ何万年、何十万年の転生輪廻を繰り返していると、だんだん魂の質がずれてくるんです。 そうすると、上段階、菩薩界、如来界の指導でもって組み替えがあります。遺伝子の組み替えもありますが、魂の組み替えももちろんあるんです。ですから、その時どきで、調整しまして組み替えをしています。そういう魂の調整をしている人がいるんです。組み替えています。ただ何千年か単位で見ると、六人で一体になっていて、そのグループで修行をやっています。そういう互助制度というか、たいてい六人組でやっています。これは順番に出てきます。そういう意味で本体・分身というのは合っています。 6.魂の組み替えについて ただ、これは長い年月の間で組み替えがあります。その組み替えをやっているのが如来界、菩薩界の人で、私もそれに関係しています。 たとえば菩薩界の人から報告が来るわけです。書類が上がってきて、「この魂のグループがあって六人組をやっているけど、ちょっとバラバラになって、三人ぐらい地獄に入ってしまって、もう出てこない。どうしようもないので組み替えたいんです」と言ってくると、「ああ、しょうがないな」と言って上位にある者が判を押すんです。 また他のグループで組み替えをする、こういうことをします。今、地獄に堕ちる人が多くてその六人組がどんどん崩れているんです。地獄から何百年も、千年も上がってこないと次の人が出られないから、これじゃいけないんでその六人を解消して、また新たな組をつくったりしています。「地獄で千年ぐらい住むのは君の自由だが、僕たちはもっと進化していくから他の人と組むよ」と、こういうことで新しい六人組をつくっていきます。だって地獄の人をあなた、千年も待っていられませんよ。修行ができませんから。基本的には六人組の中の一人が、地獄に堕ちたら、その人が成仏できるまで他の人が協力するんですが、あんまり長いこと地獄におられるとたまらんから、もう切ります。 こういう時は切って新しい組をつくります。これもまた、人事関係の天使が相談を受けて決定をやっています。こういうことを私も一緒にやっているんです。ですから以上が、本体・分身の本当の意味です。 7.九次元意識は、九次元意識として出るのが原則である ですから皆さん、私の本を読んで、物理的な魂の兄弟と思ったかもしれませんが、そうじゃなくて、次元の差によって現れ方がありますから、その部分をこの際訂正したいと思います。 イエス様にしても、先般の質問で、イエス様の転生輪廻を話しましたけれど、イエス様の意識は原則として九次元意識でありまして、イエス様がもう少し低い意識で出ることはありません。ですから私は、イエス様の意識がナザレのイエス以降にも出ていると書きました。フィリピンに出ているとか、あるいはイギリスに出ているとか言っていますが、あれは間違っています。フィリピンで心霊治療やっているぐらいの人がイエス・キリストと同レベルではないんです。九次元意識じゃないんです。フィリピンで心霊治療をして、一生終わるようなことはありません。 第3問 運命と宿命 (問) あなたのお説の中で、運命とは自ら切り開いていくものであるというお言葉がありますが、運命と宿命について分かりやすく御説明していただけませんでしょうか。 (答) 1.運命とは人生航路の道筋であって川の流れにたとえられる これがけっこう難しいんですが、どうしてもあの世の魂の世界ということを知ると、どうも運命というのがあるらしい、ということで、だんだん運命論者になっていって、あるいは霊能者なんかに頼ってしまって、私はこの人と結婚すべきでしょうか、私は何歳で死ぬんでしょうか、この病気はもう治らないんでしょうか、この会社に入るべきでしょうか止めるべきでしょうか、給料は来年上がりますでしょうか、とかいろいろなことを聞くようになります。 これはあまり頼り過ぎちゃいけないんで、運命と自力という問題について話しますと、あなた方も運命というのは決まっているのか、あるいは自力があるのか、こういうことで非常に悩むと思いますので、比喩(ひゆ)を使って話をしたいと思います。 これは道元禅師が、ある本の中で言っていることを使わせていただくんですが、道元さんは、「人間の人生は舟に乗っている人のようなもんだ」というようなことを書いています。確かにそのたとえは当たっていまして、人生というのは一つの川を小舟に乗って、自分でオールを漕(こ)ぐ手こぎの舟に乗っているようなもんなんです。人間の魂というのが舵をとる人です。これが乗っているわけです。 舟というのは肉体でもいいですけれど、川というのが運命とか宿命と言われているのです。これはどういうことかと言うと、舟に乗っていてオールで漕いだりして方向を変えたり、もちろんできますね。あるいは岸に途中で寄ったり、途中で上陸して休んで、お弁当食べてまた舟にのって川を下ったりできます。こういうふうにオールによって自由に舟の方向を変えることができる。そして、あっちで休んだり、こっちで休んだりすることができる。だから、これは自由意志でできるんです。 ところが、川の流れというのがあります。この流れというのが実は、上から下へ流れている。これが実を言うと運命なんです。だから運命というのは、あなたの道筋は決まっているんですね。そういう川の流れなんです。上から下へ流れるんです。だからこの川の中で自力で、ある程度、舟を漕げるんですが、自力には限リがありまして、やはり川の流れというのを計算に入れて自力があります。 ですから極度に自分を修行して、悟った方というのは相当運命を変えていきます。ですから川を遡(さかのぼ)っていくというような人もいます。これが極度に悟った人です。悟って運命を乗り越えていく人です。これが川を遡っていく人です。オールを漕いで遡っていく立派な人でず。まあこうぃう人は普通、稀(まれ)でありまして、たいていは川の流れに勝てなくて、上から下へ流されていきます。流されていきながら、その中で途中で休んだり、多少方向を変えたりしているのが人間の普通の姿なんです。ところが、その船頭さんが力をつけて、能力が出てくると、いろんな方向に、上流に向かってだって漕いでいけるようになるんです。これが運命と自力との関係なんです。ですから運命としては、川の流れがあります。 2.宿命とは人生航路の大きな流れであって変えることができない 宿命というのがあります。宿命というのは結局、舟というのは川の中しか動けないということなんです。これが宿命なんですよ。舟で陸には上がれないんです。 運命というのは、川の流れのように上から下へ流れていくもんですから、まあ普通はそのままだったら流されてしまうけれど、頑張れば遡(さかのぼ)ることもできるし、川の水にある程度抵抗して、いろんな方向に泳いでいくことができます。だから、運命はそういう意味でオールの楷(かい)のかき方、あるいは帆のあげ方で、ある程度変えていくことができます。 しかし宿命は、変えられません。宿命というのは、舟というのは川の中しか動けないんです。陸には上がれないんです。残念ながら、こういうことなんです。 これはどういうことかというと、宿命というのは、川から逃げられないということは、川というのをよく見てみると、あなたの人生航路の大きな流れなんですね。この幅が、ある程度の幅があるんです。川幅が百メートルだったり、一キロだったり、中にはアマゾン川みたいなのもありますよ。たいてい川幅があって、川の流れている方向、北から南へ流れたり、あるいは曲がりくねったりしているけれど、川の形があります。ここから逃げられないということです。だから、この川の形の中ではかなり動けるんですが、結局この川の流れからは逃げられないんです、川の大きな位置からは。陸の上では舟は漕げません、これが宿命です。 ですから宿命というのは、たとえば、ある人が女であったり、男であったりすること、男で生まれたら女としては生きられないです。まあ性転換なんてありますが、こんなのは例外でして、男は男、女は女として生まれます。あるいは、ある貧しい家に生まれました。貧しい家に生まれたということは、もう変えようがないことです。男に生まれた、貧しい家に生まれた、子だくさんの家に生まれた、あるいは両親が早く死んだ、こういうことは変えようがないんです。両親が寿命で早く死んでしまったのですから、変えようがないんです。そういう環境、与えられた環境、どういうところに生まれて、どういう立場で生まれたかというようなこと、こういうことは変えようがないんです。 3.後天的に変えられるものが運命で、変えられないものが宿命である あとは両親が決まれば、だいたい頭の程度も知れているんです。種と畑が分かれば、あなたスイカは大体分かるんですよ。どういう種で、どういう畑かを見れば。ただそういう種と畑であっても、スイカを作るときに努力すれば、いいスイカができることもあります。だから両親を見て、俺の父ちゃん、母ちゃん見れば、俺の頭も知れたものと思うけれど、そういう知れた頭でも、努力すれば秀才になることはあり得ます、大天才にはなれなくても。これが運命と、自力の問題なんです。 宿命というのは、そういう父ちゃん、母ちゃんの間に生まれたということは、宿命なんです。ただそういう父ちゃん、母ちゃんの間に生まれたから賢い頭じゃない、賢くない普通ぐらいの頭で生まれた、これは宿命です。 ところが、運命は一生懸命勉強することによって、その頭を後天的に鍛(きた)えていくことができます。ですから、運命というのは後天的にある程度、変えていけます。しかし宿命は、後天的に変えられないんです。ですから、後天的に変えられるものが運命で、後天的に変えられないものが宿命です。 宿命というのは、さっき言ったように大きな川の流れみたいなもので、これはしようがないんですよ。どんなに動きたくたってアマゾン川は南アメリカの川なんですから、アマゾン川は日本に流れません。どうしようもないんです。アマゾン川は、たとえば南アメリカが男であり、日本が女とすれば、男に生まれたらもう女にはどうしてもなれないんです。子供は産めないんです。アマゾン川がどれだけ大きくて、自由自在に泳げても、男なんだから子供は産めないと、こういうもんなんです。こういう意味なんです。 ですから、どんな人にも宿命はあります。これは如来であろうと宿命はあります。それは、そういう環境を選んで生まれたということです。そして運命というのは、たとえば如来が地上に生まれて仏法を説く、という人生が運命です。仏法を説く人生を持って生まれています。ただ、仏法の中身をどうするかが自力の問題です。 ですから人生というのは、ある程度そういう幅があるんです。幅があって上下があるんです。上限と下限が決まっています。人生には下限というのは地獄へ行くくらいのところまでの下限もありますが、普通はそれほど、ブレません。けれども末法の世の中では、物質に翻弄(ほんろう)されて、上限下限の間の下限に行く人が多いんですが、正しく反省して精進して、守護、指導霊の指導を受ければ、その上限に限りなく近づいていけるということです。それが運命、宿命です。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/32.html
目次 1.神について 2.光について 3.徳について 4.礼節について 5.政治について 6.人間について 1.神について 日本神道においても、神々と言われている方は、多くはかつて地上にて肉体を持った方々であります。そして、地上にて肉体を持った方が、地上を去ってあの世に還られて後、また次の時代に地上にでた霊能者たちに、様々な霊指導をして、自らの名を明らかにしたということが事実であったと思います。 わたくし、天照も、今では太陽神の象徴であるように言われたり、あるいは根本神であるように言われたり、いろんなことを言われておりますが、やはり私も、今から二千数百年の昔、三千年近い昔に、日本の九州という地方に生まれたひとりの女性であり、また、女性として生まれて、女性の統治者となり、霊能力を授かって人びとの心を導いていた人間でもあったということです。そうした古代においては、統治者であり、かつ神の声を聴けるということが、神人であることの証明でありました。 私より、数代前には、天之御中主之神と言われた方もいらっしゃいました。その方が、実は日本神道系においては、現在最高度の力を持っておられます。この方以外にも、もちろん古事記に登場する神々、高級神霊は数多くおられますが、日本神道において最高の指導神、指導力を持ち、霊力を供給しておられるのは、この天之御中主之神という方であります。 ただ地上に在った時に、私の名前が人びとの口に数多くのぼったがために、現在では、私が日本神道の主催神であるかの如く、言われていることもままあります。それはそれで良いでしょう。日本神道の教えのなかでは、天之御中主之神の言う「発展」「光」という教えと、私の主張する「礼節」「調和」という教えこの二つの教えが中心になっており、この国ができているのです。その意味において、私もまた、主催神であると言えるかも知れません。 2.光について 神というものは、巨大な光の供給源です。巨大な供給源として、霊的世界を、そしてこの地上界を照らしているのです。神は、いつもいつも人びとを照らすことばかりを考えてきました。人びとの心を明るくし、人びとを如何にして良くしていくか、繁栄させていくか、発展させていくかということに、心を砕いてきたのです。 ところで、この神の光を受け入れない人たちが、いつの時代にもいたことは事実です。それはちょうどおいしいご馳走を出されても、それに手を付けない人がいるのと同じようなものです。神はいつも人びとに明るい光を投げ与えてきたわけですが、その光に対して、それをそのまま受け入れようとしなかった人たちが、いつの時代にもいたことは事実です。 しかし、考えてもみれば、光が光である理由は、ただ光輝き光を放射していることであってそれを受け入れさせること、そこまで要求されているものではないのかも知れません。私たちは明るく光を投げかけていきますが、その光でもって暖かい熱を感じ、心を豊かにしていくのは、やはり、一人ひとりの国民かも知れません。 本来、神というのはとてつもなく偉大な方であり、その人の与えられる恵みは、燦々と人びとに降り注いでいたにも拘わらず、その大いなる恵みを無視し、そうして、自らが手に入れた物のみが価値があるという考えが、世に蔓延し始めたわけです。この世で手に入れた金銀財宝、地位、名誉、肩書き、こうしたものが、人びとをして、唯一の価値であるかのように思い込ませ始めたのではないかと思います。 けれども、考えてみれば、私たちの本当の命というものは、過去、現在、未来を貫いている命です。三世を貫いている命です。三世を貫く命には、実は、本来すべてのものが与えられているのです。魂は魂であることにおいて、無限のエネルギーを太古より持っているのです。魂は、新たに生まれることもなく、死ぬこともなく、減ることもない。そうした不贈不滅の世界のなかにおいて、生き通しの命を生きているのです。 本来、魂というものは、無所得のままに生きていくのが筋だと言えましょう。何もいらないのです。神の子が神の子であるためには、何もいらないのです。金銭を手に入れたからこそ神の子になれるわけでもなければ、素晴らしい服を手に入れたからこそ神の子になれるわけでもなく、良い肩書きが付いたから神の子になれるわけでもありません。神とはやはり、光であり、光とは、すべてのものをあまねく照らしていこうとする努力です。 したがって、私たちが、地上に在って神の子であると言われる理由は、自らの内から輝かし出し、人びとを照らしていこうとするものがあるかどうかということにかかっているわけです。それがなければ、人びとは、本当に地上に生きている理由はないのです。神の悦ばれることは、ただ、他の人びとを愛し、他の人びとを喜ばし、他の人びとの魂を光らせるということです。そうした行為においてのみ、また、人びとは神の一部となって生きているということが言えるのです。 神は世を照らそうとしています。そうであるならば、神の子である人間が地上で生きていくための条件は、やはり、人びとの心を照らそうとすることではないでしょうか。私はそう思います。 3.徳について 太陽というものが、出ることによって、草木もまた、その方になびいていきます。水があるところには、魚が集まって参ります。そうしたものが徳と言われるものです。太陽の如き存在に対しては、人びとは顔を向けて心を向けて、伏し拝みたくなるものです。また、水が溢れているところには、魚も子供たちも集まってきます。小鳥たちも憩っていきます。これが徳の姿です。 このように徳と言われるものは、本来強制的なるものでもなく、人びとを畏怖させ、怖がらせるものでもないのです。自然自然に人びとが集まって来るようなもの、それを徳と言うのです。たとえば、その人を上に据えれば人びとがよく治まるような人は、徳がある人と言われているのです。 このように、自然な感化力でもって人びとを導かんとする力を徳と言うのです。それはちょうど、目に見えず、声も聴こえない神という存在があって、その存在が人びとをして、平和に、協力的に生きさせていくための根元的な力となっていることと同一のことです。徳が大切だということは、神そのものが徳そのものであるからです。 徳はまた、秩序でもあります。物事の成り立ちでもあります。物事の順序でもあります。徳はすべてに先立ち、徳ありてこそ、人びとは生きていく値打ちがあるのです。 徳とは、結局感化力であります。人びとがその徳に触れることによって、自らもそのように成りたいと思うこと。その人に接することによって、向上への意欲が湧かざるを得ないような人、そうした人を徳ある人というのです。 徳というものは目には見えません。目には見えないが、確かにあるものです。徳があってこそ、初めて人びとは神近き存在へと進んでいけるのです。結局のところ、人間の偉さとは、この徳いかんに関わっているのです。徳がある人は、その徳が増えれば増えるほど、神近き人であると言えましょう。 徳があるということをもっと具体的に分析していったときに、如何なるものを徳があると言えるのでしょうか。 私はまず、自分の心というものをよくよく磨き、清い心でもって生きているということが、徳の第一条件ではないかと思います。常々自らの心を見直し、自らの心を清らかにし、そして、悪しき考えや悪しき思い、悪しき言葉が出たときに、それをひとつひとつ反省していくこと、それが徳ある人の姿であろうと思います。 徳のあるということの第二条件は、それは、英知がある、智恵があるということと同義であろうと思います。人びとがこの地上において欲しているものは、「調整の原理」です。人と人とが如何に仲良く暮らしていくか、互いの考えが、違い、互いの利害が違う者同士が、如何に仲睦まじくこの世で生活をしていくか、それを人びとは常に欲していますし、それに対する解答を求めているとも言えましょう。このためにこそ、徳というものが必要になってきます。すなわち、徳のなかに光っている智慧の光、英知の輝きが必要となってきます。人をして感服せしめ、人をして感化せしめるためには、より優れた考え、より優れた判断力というものが大事です。そうしたものなくしては、指導者となっていくことはできません。 すなわち、より良き指導者となっていくためには、一歩も二歩も、人びとより先んじた考えを持っていなければいけないということです。人びとは智慧ある人のところに集まって来ます。そうして、その人の判断を仰ぎたいと思っているのです。智慧ある人の考えを理解したいと思うのです。智慧ある人の意見を聞いてみたいと思っているのです。 この智慧ということの前提は一体何でしょうか。何が智慧と言えるのでしょうか。智慧の前提となるものに、二つあると私は思います。 智慧の前提の第一は、より多くの経験を積んでいるということだと思います。いろんな経験があって、人びとがまだ知らないようなことを知っている。これが昔から長老が尊敬されてきた理由でありましょう。いろんな経験を積んできたということが、そうした条件を生み出しているのです。 もうひとつは何かというと、神、あるいは、神近き人の声を聴けるということです。地上の人間に判断できることは限られていますが、地上を去った世界に住む高級諸神霊にとっては、地上の悩みは、実に簡単に解決がつくこともあります。それは、地上に住む人たちよりも、遙かによく先のことが観えるからです。そうしたことがあるということです。 徳ある人であることの条件の第三にあげられることは、結局、人格そのものの美しさであろうと思います。如何に優れた判断力を持ち、如何にいろんなことを経験していたとしても、その人の人格の放つ光が、屈折したものであったり、人を責め苛むようなとげあるものであったときに、人びとは、そこから善きものを感じることができないのです。すなわち、人格の匂いが美しいこと、素晴らしい人格として美しさがあること、それが大切です。こうした美しい人格、光沢のある人格、光ある人格を創っていくことが、私は何にもまして大事であろうかと考えています。 4.礼節について 私は、わが教えの根本のひとつとして、「礼節」ということを語っておきたいと思います。 礼ということは、人に対する敬(うやま)いの気持ちであり、節ということは、織り目正しい作法ということです。礼節と言う言葉によって表されることは、結局、人間が、節度ある生き方、この世において節度ある生き方をしていくための作法であると言えましょうか。 礼節には二つの種類があります。そのひとつは、神に対する礼節であり、いまひとつは、人間社会のなかにおける礼節であります。まず、神に対する礼節を何と言うかというと、これを「信仰」という名で呼んでいるのです。信仰という名で呼ばれているものがすなわち、礼節でもあるのです。神に対する礼儀を尽くすということ、そして節度ある毎日を送るということ、これが礼節の意味であります。 神に対して、ではなぜ、礼節を尽くす必要があるのでしょうか。その意味は一体どこにあるのでしょうか。 それは、結局のところ謙虚さということがひとつ、もうひとつは、真実に学ぶためという理由、この二つの理由があるのです。つまり、人間というものは、大いなる神から創られた小さな小さな存在であります。その小さな存在が、全知全能であるかの如き傲慢な思いをもってはならないのです。それゆえにこそ、謙虚さということが、必要とされているのです。しかも、単に謙虚であるだけでいいのではなくて、教えを請うという態度が大事です。物事を学ぼうとするときには、やはり、恭(うやうや)しい態度をとるべきであるということです。 したがって、神、あるいは、高級諸神霊は、すべて私たちが地上に在るときの師と、師と仰ぐべき人たちであるから、それだけの礼儀を尽くさねばならないということです。これが信仰の根本にある考え方です。 もうひとつ人間社会においての礼節についても、考えてみたいと思います。 なぜ、人間社会において礼節が必要であるか。 それはまず第一に、われもまた神の子であるが、かれもまた、神の子であるという考え方です。人間はそれぞれ最高度に神が愛しておられる存在であり、神の分け御霊であり、神の一部でもあるという考え、これが真実の考えであるのです。 したがって、お互い、他人という存在に対して敬意を表しているというだけではなくて、神の創りたもうたもの、神の愛したもうたものに対して、礼節を尽くしているのだということになりましょう。 すなわち、神が愛したもうたものであるからこそ、他をも愛する。他も素晴らしいものと感じる。そうしてお互いに愛し合い誉め合い尊敬し合うような人間関係ができてくるのです。人間が尊敬し合うためには、礼節ということがとてもとても大事であるように思います。その礼節が欠けたときに、人間はお互いに孤独な存在となり、孤立した存在となっていきます。孤立した群れのなかに、生きていくことになります。孤立した群れのなかに単に生きるのではなくて、お互いをもっともっと伸ばし、お互いをもっと尊重し、尊敬していくためには、どうしても礼節ということが必要なのです。 「親しき仲にも礼儀あり」と言いますが、それは、相手をよく知っているというその心に、相手がわかり得るという心に、すでに傲慢の芽があるからです。人間はお互いに、完全に理解してしまうことはできません。相手のなかに、どれほど素晴らしいものが潜んでいるか、埋もれているかはわかりません。そうであるからこそ、お互い礼儀を尽くして相手の中にある神性なるもの、神なるものを拝み出す必要があるのです。ここに、拝み合いの生活が始まっていくのです。お互いのなかにある、キラキラと光るものを拝み出していくこと、これが大事です。そのためにはまず、お互いに認め合うということが大事です。 もうひとつは、人間関係における、縦の序列というものがあるかと思います。親子の関係、あるいは、先輩と後輩の関係、上司と部下の関係、こうしたものがありますが、これは、小さなかたちでの信仰と同じことになると思います。子が親を尊敬する理由は、それだけの長い人生経験を経ながら生きてきて、しかも自分を愛し続けてくれた唯一の存在でも在るからでしょう。同じく部下が上司を尊敬するのも、自分の仕事について、より良き指導者となり得るからでしょう。 このように、地上においても、自分より優れたもの、自分が一目置くべきものを認めるということも大事です。自分だけがすべてであり、自分だけがいちばん偉くて、他の者はみんな自分より下だという考えのなかには、危険な思想が潜んでいます。その思想のなかには、危険なものがやはりあるのです。 これゆえにこそ、地上に在る人であっても自分より優れたと思う人に対して、敬意を表する必要があるのです。 私は、そうした礼節というものは、とてもとても大事なものであると思いますし、これが、人間がより美しく、より香り高く、より誇り高く生きていくための潤滑油であると信じています。 5.政治について 政治と言うことに関しては、古来より、神近き者が国を治めるということを第一義としていました。しかし、現代においては、政治ということが職業政治家によって為されていて、職業政治家にとっては、神を信じるということが義務とはされていないと思います。ここに、現在、政治が乱れている理由のひとつがあると思えるのです。 やはり、政治の根本にあるものは、神への帰依であり、神の心の代弁です。政治家たる者、まつりごとをするべき者は、神の心をこの地上に翻訳して、人びとを統治せしめる必要があるのです。それが、政治についての考え方の根本です。 政治はやはり、徳治主義以外にないのです。より徳ある者が、まだそこまでいっていない者たちを治める。ここに、リーダーの発生原因があって、そのリーダーが人びとを導くということになってゆくのです。 本来は神ご自身が、この大宇宙を、またこの地球を治められているわけですから、地上の人間にとって、統治者がいるという必要はないかも知れませんが、やはり、神というものを直接的に感じ取ることが非常に難しいために、神に代わるべき人としての統治者が必要になってきます。 したがって、私は、現代においては、政治にいちばんの問題があると考えます。徳治主義をもう一度、復活させる必要があると言っているのです。尊敬されるような人を、政治の原点に据えるということが大事であるということです。より徳高き人を選ぶべきであるということです。単なる数の論理でもって指導者を決めてはならない。尊敬、世の尊敬を受けられない人であるならば、政治に携わってはならないということです。決して決して神はこのことを許されないということです。 神の願いはいつもひとつ――神近き人を通じて地上を治めたいという気持ちです。それは、太陽が出れば草木がそちらになびくように、神の徳というものを慕って人びとが付いてくることを望んでいるからです。 したがってこの地上において、神近き人が一日も早く指導できるような、そうした制度にもっていかねばならない。そうしないかぎり、根本的にこの国は良くならない。私は、そのように思います。 選挙制度というようなものが、最高であるかの如くいわれていますが、本当に政治家といわれている者が優れた方であるならば、自分の後任を指名して、そうして、その人の信任を世に問えばそれで済むのではないでしょうか。それが、「私も、私も」と、偉くなりたいという人がいっぱい出てきて、お互いに争い合うということが、非常に問題になっているのではないでしょうか。政治の中心に争いを置いてはならない。そうした争いの心を置いてはならない。私はこれを、声を大にして言っておきたいと思います。 また、人の上に立つ者は、それだけ大きな負担を負うべきであるとも私は思っています。恥ずべきことをしたときには、速やかに職から離れること。人びとの指導者であるということに対して問題があれば、それを潔く認めること。自ら身を退くという、その身の退き方が大事であります。無欲で、どうやったら国政をうまくもっていくことができるか、そうした考え方が大事です。それは有名な方でなくともよいのです。無名な方でもよい。徳高き人を選んでいくという姿勢が大事です。 今は知名度選挙とも言うべき現象が現れていますが、大変悲しいことです。残念なことです。そうではなくて、徳高き人を如何にして選び出すかということに心を砕いていただきたいと思います。 6.人間について 私は、本来人間は、完成されたものであると思っています。その完成されたものが、いろんな環境の条件によって、さまざまな姿が映し出されているだけであろうと思います。 たとえば、鏡というものが完全であれば、私たちの姿は美しく完全に映りますが、鏡というものにでこぼこがあったり、歪みがあったりすると、そこに映る姿は正常なものではなくなってくるように思います。地上という世界は、この比喩を引くとするならば、鏡に歪みがあると思うのです。鏡に歪みがあって、本当の自己の姿が正確に映らないでいるのではないのか、そのように私たちは思うのです。 したがって、今、地上の人間たちにとっていちばん大切なことは、鏡の出現です。自分の姿を正確に映し得る、鏡の出現であろうと思うのです。これはすなわち、どのようにすれば自分の本当の姿を知ることができるか、映すことができるかということでしょう。 実は、私をはじめ、他の高級諸神霊が、次々と霊言、霊示を世に問うている理由は、鏡が世にほしいからです。高級諸霊の言葉、その思想というものを打ち出すことによって、如何に自らの姿をそこに映すかということを試しているのです。あなた方は少なくとも、私たちの言葉を読むことによって、そこに本来のあるべき自己の姿を学ぶことができるでしょう。 この世において良いとされている考え方が、必ずしも本当に良い考え方ではありません。この世的に最高だと言われている生き方が、本当に最高の生き方だとは言えません。その本当の意味における最高の生き方を呈示することが、すなわち、正しく映る鏡を出して、みなさんの姿を映すことに等しいと思うのです。私たちは一人ひとりの人に、正しい鏡を見つめてもらいたいために、こうして数多くの霊示集を送ろうとしているのです。どうか、私たちの本当の真意がどこにあるのかということを知って、そうして、鏡に映った自らの姿を正していただきたいと思います。 鏡そのものが澄み切った美しい鏡であるならば、そこに映っている自らの姿が美しいか、美しくないかが、はっきりとわかるはずです。映っている自らの姿に問題があったならば、なぜ、そうした問題があるのかということを、もう一度考え直していただきたいのです。 なぜ、そんな問題があるのか、なぜ、醜く映ったりするのか。それを知って頂きたいのです。醜く映る理由は、やはり、思いと行いにおいて、何らかの誤りがあるのではないのか、自分の考えに何か足りざるところがあるのではないか、改めるべきところがあるのではないか、それを知ってほしいと思うのです。 神道においても、禊祓(みそぎはらい)ということを言いますが、人間は時折、こうした正しい鏡の前に立って、自らの穢(けが)れを正していく必要があるのです。自らが誤っている心を持っているとしたら、これを反省し、神の前で虚心になっていくことが大事です。神の前で美しい自分となっていくことが大事です。神の心がどこにあるのかを知って、それに背いている自分があったなら、反省をすることです。詫びることです。そうして、憎んでいる人がいたら、許してあげることです。詫びることです。和解をすることです。 本当に大事なことは、この世で誰ひとり悪く思わず、誰ひとり憎まずに生きていくことだと思います。本当に素晴らしい生き方とは、すべての人と調和し、誰を責めるのでもなく、誰を恨むのでもなく、豊かに生きていくことだと思います。それが大事であろうと、私は考えるのです。 人間に今、必要とされていることは、その本来の鏡というものを見いだして、その鏡に映った自らの姿を見つめ直すこと。そして、神々しい神の子としての自分を取り戻していくことだと思います。私のこの神示集を読んで、自らの思いと行いにおいて、なんらかの誤りがあったと思う人は、よく正座し、手を合わせて自分の心の非を私に対して謝りなさい。そうすることによって、あなたの悩みは解決していくでしょう。 私は、あなた方一人ひとりのことを、いつもいつも心に懸けています。あなた方一人ひとりが、どうすればもっと素晴らしくなり、どうすればもっと幸せになれるか、どうすれば清い心になれるか、それをいつもいつも考えているのです。 どうか、一日のごく短い時間でも結構です。わたしのこの言葉を読み、そうして、時折瞑目し、合掌の姿で私に対して語りかけ、呼びかけてみてください。そうして自らの心を見つめたときに、そこに塵や垢があると思ったならば、それを反省して取り除いてください。他人に対して悪しき思いがあったなら、それも反省して取り除いてください。また、大いなる和解をしていくことだと思います。 自ら、潔くならなければ、潔い生き方をしなければ、人間には永遠の苦しみというものが付きまとっていきます。どうか、潔い生き方をされるように、自らの欲望のために苦悩をつくり出していかないように、そうしたことをくれぐれもお願いして、人間についての話を終えたいと思います。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/248.html
目次 1.「足ることを知る」をつきつめていくと、執着の問題にゆき着く 2.「人間は、何のために生まれて来たのか」という苦悩 3.釈迦は、「生老病死」を見て、人生には苦しみが多いという考えに達した 4.「人間の努力によって得られるものは、自分の心の持ち方だけ」との考え 5.「悩みの根元は執着である」と釈迦は看破した 6.六年間の修行の結果、難行苦行で執着は断てないことを発見する 7.村娘の弦(げん)の音(ね)を聞いたとき、「悟りは中道にある」と悟る 8.中道の道は、奥を極(きわ)めれば極めるほど、まだ先がある 9.昼間きちっと働き、毎日六時に帰る生活に、現代人の中道の悟りはある 10.「足ることを知る」――第三者の立場で自分を見ながら、八割で良しとする 11.「足ることを知る瞑想法」――自分を正しく見る見地から、心を落ち着かせる 1.「足ることを知る」をつきつめていくと、執着の問題にゆき着く 高橋信次です。では今度は、「足ることを知る瞑想」に入りたいと思います。これは、瞑想法のなかではどちらかと言えば、中級クラスの瞑想だと思うのですね。 瞑想にも、初級用の瞑想もあれば、中級用、上級用と、まあ、いろいろあると思うのですけれども、「足ることを知る瞑想」というのは、まあ、中級クラスです。中級だけれどもね、だいたい瞑想も、中級クラスをマスターすると、ほとんど、八、九割程度までいったというのと同じだと言えるでしょう。 この「足ることを知る瞑想」ができると、人間は、自分の人生というのをだいぶ改善することができるのです。では、この「足ることを知る瞑想」について、いくつかの観点から話をしていきたいと思います。 まず、足ることを知るというのは一体何かということからはじめていきたいと思います。皆さんね、足ることを知るっていうことを、まあ論語か何かで読んだことがあるかもしれませんが、まあ、これは、けっこうね、足ることを知るという意味は、つかみがたいところがあるのですね。そう簡単には、これはわかんないんです。わかるようで、わからない。 たとえば、病気の人が目の前に出て来て、「先生、治して下さい」と言います。これに対して、「いや足ることを知りなさい」と言ったら、病人は、たいてい怒ります。それで、病人が、「先生、薬を調合して下さい」と。そこで、薬を調合します。でね、ちょっと薬をあげます。ところが、「先生、この薬じゃ、ちょっと足りませんから、もっと下さい」と病人が言います。「いや、足ることを知りなさい」と言ったら、まあ、これも怒っちゃいますね、同じです。 あるいは、予備校などで、東大入試を目指して猛勉強しますね。それで、予備校の先生が、予備校生たちに、「君たち、足ることを知りなさい」と。「O点でも足ることを知りなさい。三十点でも足ることを知りなさい」と言ったら、これまた、おかしなことになるんであって、商売が上がったりであります。 あるいは、大学生でもいいけれども、簡単に足ることを知ったとして、「いや、僕は頭が悪いんだから、これで足ることを知っちゃった」ということを言うと、また、これでもつごうが悪いことがありますね。 そういう意味で、足ることを知るっていうことも、言葉だけをとらえていうのは簡単なんだけれども、その反面、局面に合わせて、よく考えないといけないんですね。でないと、間違いのほうに走っていく傾向があるのです。 ただ、そういうことも加味したうえで、よくよく考えてみるならば、足ることを知る、そのほんとうの重要なところは何にあるかと言うと、結局、昔から仏教でよく言っています執着の問題にゆき着くんです。執着の問題なんですね。それについて、これから話をしていきたいと思います。 2.「人間は、何のために生まれて来たのか」という苦悩 まあ、執着というのと一番闘った人はだれかと言うと、歴史上では、インドに生まれたゴーダマ・ブッダ、つまり釈迦なんですね。釈迦が執着と一番格闘したのです。釈迦は、二十九年間、王宮の生活のなかで、おごりとぜいたくのなかで、美女たちに囲まれて、何の不自由もなく育ちましたね。そのなかで、彼は、どんなぜいたくをしても、どんなに美女に囲まれても、何か満足できない自分というものを発見しました。そして、彼は、二十代の後半になって、王宮のなかでずいぶん苦悩しています。 その苦悩の内容を現時点で、もう一度考えてみると、こういう内容だったのですね。まず、自分は、身分としては、生まれつきの王子様で、王が死ねば、シュト・ダナー王が死ねば、その後、自分が王位を継ぐようになるだろう。けれども、そうして、人の上に立って、自分ははたして幸せなんだろうか、と。 インドには、階級制度というのがあります。バラモンというのは、僧侶階級で、まあ生まれもっての貴族ですね。こういう階級があります。そして、釈迦の生まれたクシャトリアというのは、ひとつの武士階級で、武士は武士で集まっています。 あるいは、商人階級、不可触賎民(ふかしょくせんみん)と言いますね。賎民の階級というのがあります。こういうふうに大きく四階層に分かれていました。そして、クシャトリア武士層のなかに生まれて、まあ、王家に生まれるということは、名誉なことですね。そういうことでありました。 ただ、釈迦は考えたのですね。なぜ侍の家に生まれたなら、侍にならにゃいかんのか。なぜバラモンの、要するに、僧侶階級、貴族階級に生まれたのなら、やっぱり僧侶になるのか。なぜ商人階級に生まれたら、商人で一生暮らさにゃいかんのか。なぜ賎民階級に生まれたなら、それで一生、生まれ落ちたときのレッテルを貼(は)られたままで一生、生きねばならんのか、と。こういうことを考えたのです。 そうすると、やはり、そのなかには、真実のものがないんではないか。生まれ落ちたときに、人間の一生が決まってしまうのなら、何のために、人間が生まれて来たのかわからない。どう考えても、人間の一生ってものは、自分が努力していってつくっていくもんだし、それを生まれ落ちた、どういう星の下に生まれたかによって、一生が、そのままに決まってしまうってのは、おかしいんであって、そんな不公平な世界を神様がつくられるわけがない、と。こういうふうに、釈迦は思ったんです。 そして、自分を見つめてみると、王宮のなかで、豪勢な生活をしています。次に王になるのは、必定です。美女たちも、ずいぶんおります。はべっております。食べものにも苦労がありません。けれども、王宮のなかは王宮のなかで、さまざまな人たちの葛藤(かっとう)がありましたね。権力をめぐる葛藤、男同士の葛藤があるし、男をめぐる宮廷のなかの女性の葛藤というのもありました。 こういうふうな、いろんな葛藤というものに、釈迦はずいぶん悩まされました。身分があり、地位があり、高貴であるということは、同時に、数多くの葛藤を持っているということと同じだと、肢は感じたわけですね。 また、王様になったとしても、その当時は、大変戦乱の世の中でありましたから、やがて敵と戦ったりして、いろんな人たちを殺していかねばならぬ。そのための指揮をしなければならない。こういう運命に対して、甘んじられるかどうか。これについても、釈迦はずいぶんと悩んだわけであります。 3.釈迦は、「生老病死」を見て、人生には苦しみが多いという考えに達した また、これも伝説ですけれどもね、釈迦が、有名な四苦八苦というのを発見したときのことです。このカピラ城に東西南北の門があって、釈迦は、そこから一歩も出たことがなかったのですけれども、あるときに、どこでもいいですけれども、東なら東の門を出ると、そこで赤ん坊がギャーギャー泣いておった、と。それを見て、「ああ、生まれ落ちて、そして、これから生きていかねばならんとは、いかなる苦しみなのか。何と哀れな赤ん坊の宿命であることよ」と、そういうことで悩んだ。 あるいは、西の門を出ようとすると、そこの門口のところに腰の曲がった人がいた。そして、釈迦は、そうぃう人を見たことがなかったから、衛兵に尋ねました。「こら、衛兵よ、あの腰の曲がった者は何か」と。そうすると、「シッダルタ王子様、あれは、年寄りという者でございます。人間は年を取ると、あのように腰が曲がるのです」と、こういうふうに教わりました。そこで、「そうか、年を取るということは、あんなに惨(みじ)めなことなのか。人に疎(うと)まれ、さげすまれて生きてゆかねばならぬのか」と釈迦は悩んだわけです。 あるいは、南の門から出ようとすると、今度は、そこでも、見たものがありますね。タンカに運ばれて、ライ病患者みたいのが運ばれていくのを見ました。釈迦はまた、そこにいる人に聞きました。「あの者は、一体、何者であるのか」と。そうすると、その者は答えました。「王子よ、あれは、ライ病患者であります。病(やまい)というものです。病人です。病人というのは、あればど醜(みにく)く、けがわらしい者です」と、そういう答えを言いました。釈迦はまた、これに対して、「ああ、人間という者は、病は避けがたいものなんだな。それほどつらい人生なんだな」と。こういうことを悟ったと言われています。 また、釈迦が、北の門に行きますと、今度は、人びとが悲しみに泣きぬれて、黒い衣装を着て立っています。そのなかを、ひつぎが運ばれていきます。それで、「どうしたんですか」と釈迦が問うと、「実は、昨日の夜、あそこに立っておる娘の父親が死にました。今日は、そのお葬式なんです」と言う。「そうか、死というものは、これほど苦しく、悲しいものなのか。自分は死を知らなかったけれども、こうしたものが死であったのか」と、釈迦はこういうことを知ります。生老病死ですね、この四苦。 まあ、これは、もちろん比喩(ひゆ)であってね、お釈迦様が、そんなことを何も知らなくて、門を出るとき見たというのは、もちろん寓話でありますけれども、こういうのを見て、人生というのは、とにかく苦しみが多いということがわかった。つまり、初期の釈迦は、そういう考えに達したわけです。 4.「人間の努力によって得られるものは、自分の心の持ち方だけ」との考え そして、釈迦は、では、どうしたらこの苦しみから脱することができるのかということを考えに考えたのです。いくら頑張っても、死ぬことから免(まぬが)れることができない。いくら努力しても、老ゆるということから逃げることができない。また、生まれもっての身分というもの、これからも逃げることができない。 そうすると、人間が自分の努力によって築けるもの、手に入れ得るものは一体何かというと、結局、それは自分の心の持ちようだけしかないではないか。釈迦が考えたのは、そういうことなのですね。自分の心の持ちようしかないではありませんか。それならば、どうした心の持ちようにすれば、一番苦しみが少ない世界へと入っていけるのか。これを釈迦が考えたわけです。 5.「悩みの根元は執着である」と釈迦は看破した そこで、いろいろ考えてみると、王宮のなかでも、立身出世を願う人たちの心というのは、見ると、いつも落ち着きがなく、イライラ、イライラしておって、まったく心の幸福というのからほど遠いように思います。 また、女性という者も、非常に美しくて、手に入れたいもののようにも思えるけれども、当時のインドの貴族社会のように、身分のある人には、三人、四人、五人の王妃がかしずくようになってくると、これも、また女性同士のなかでの争いがあって、その嫉妬のために、男性は非常に苦しみます。頭が痛い。どちらの女性が、よく愛されたかということで、お互いに足の引っ張り合いをする。どちらかの局(つぼね)のところには、シッダルタ王子が何回足を運んだかどうか。私のところには、月一度しか来ないとか、こういうことで争いになる。 しかし、そういうもので公平に接しようとすると、また、それはそれで無理がある。自分にはやはり自分の好みの女性がいる。それを無理やり、他のいろんな者を押しつけられている。そういうものがある。そして、まんべんなく、それを養っているのは非常に苦しい。いっそなら、そういう女房たちのいない世界へ行ってみたい。これも苦しみです。 女性というのは、苦しみのもとです。それは、現代でも変わりありません。妻がいるために、どれだけ男性というのは苦しんでいるか、世の女性たちは知っておるでしょうか。男性っていうのは、結婚前は、もちろん結婚したいと思うけれども、したら、たいてい当日か、あるいは、新婚旅行から帰って来た頃に、「しまった」と思うのです。「この結婚さえしなければ、俺は、どれだけ無限の可能性が前に開けていたか」と、それを思うとき、「あっ、しまった」となる。しかし、釣り上げられた魚と一緒で、もう逃げることはできないのです。 結婚というのは、バケツのなかに入れられた魚と同じもんで、ここから飛び出せば、もう死ぬしかないんです、魚は。もとの海には帰れないのでず。もう、パシャッと入れられたようなものなんです。けれども魚は、みすみす餌に食いついていきます。なぜ魚は、餌に食いついて釣り上げられ、バケツのなかに入れられるのか。それは、執着があるからです。女性を手に入れたいという執着があるから、そうなっていきますね。 こうしたもんで、結局のところ、立身出世を願っても、人より偉くなりたいという執着のために、人びとは苦しんでおるし、多くの女性を手に入れることによっても、やはり女性同士の、お互いにひとつでも、ふたつでも人より多くの愛を得たいという、その女性の執着のために苦しみ、また、自分自身が悩みます。 あるいは、食べものでもそうです。どんな豪華なものばかり食べておっても、その食欲というものは、なくなることがありません。 それで、釈迦というのは、人間の内部というものを深く、深く見極めていったんですけれども、結局のところ、諸悪の根元、悩みの根元というのは何かと言うと、執着だな、こう思ったんです。 で、釈迦は、カピラバーストを出て、とりあえず、六年の間、この執着をなくす修行をしようということで、彼は修行したんです。 6.六年間の修行の結果、難行苦行で執着は断てないことを発見する まず、釈迦は、妻子から別れました。これは、妻のこと、子のことを思うがゆえに、自由自在になれない自分から逃げ出して、自分自身を自由にするために、まず、妻子から逃れたのです。また、後を継(つ)いで王になり、そして、敵軍と戦わねばならぬという宿命から逃れるために、王子という地位も捨てました。 そして、山のなかに入って、野の水を飲み、蜂蜜をなめ、キノコを食べ、本の実を食べて、最少限度の食事でもって、修行に打ち込むことにしました。着るものも、かつては王宮で素晴らしいものを着ておったのが、今は、乞食(こじき)同然です。そして、断食(だんじき)に入っていきます。骨と皮ばかりになっていきます。 釈迦は、すべての執着さえ断てば悟れると思って、骨と皮ばかりになって、洞窟のなかで修行をやっておったけれども、なかなか、心の悟りを得られない。断食ばかりをしておっても、今度は、ひもじいという思いが頭に去来して、どうしてもこの思いを断ちがたい。 確かに、他の欲望というものは断(た)ったけれども、今度は、他の欲望が去れば去るほど、ひとつの欲望というのが大く、大きくなってきて、要するに、何とかして食べたい、お腹いっぱいに食べたいという、こればっかりが一日中、頭のなかを占領するようになる。女性に対する執着がなくなったし、地位に対する執着はなくなったし、他の執着はいっさいなくなったけれども、食べたいという執着だけが、やたら肥大化して、それだけが、どうしても処理できなくなる。 食べたら食べたで、今度は、もちろん食べる欲望は減るだろうけれども、肉食などすると、今度は、可愛い村娘などを見るとまた欲望が出てくる。 ひとつの欲望の量を減らすと、今度は、他の欲望が出てくる。そうすると、欲望の合計というのは、いつも変わらない。ひとつに減らすと、大きくなる。欲望を小さくすると、数が増える。どうしても縦横(たてよこ)が並んだら、同じになってしまう。こういうことをして、彼は執着を断とうとしたけれども、どうしても断ちがたい自分という者を、やがて発見していきます。そして、六年間の難行苦行の結果、洞窟から出ます。 7.村娘の弦(げん)の音(ね)を聞いたとき、「悟りは中道にある」と悟る 釈迦を取り巻いた、つまり、シッダルタ王子を取り巻いた、五人の出家した護衛の兵士たちも、まあ、釈迦と一緒に修行しておったんだけれども、釈迦がどうするのかなあと見ていると、トコトコトコと出て行って、朝まだき霧のなかに、カンガーの川の流れのなかに、顔を洗いに行くのかもしれないけれども、釈尊が降りて行く。 そうすると、向こうから村娘が来る。村娘は、釈迦の前でたたすみます。村娘が見ると、お釈迦様、お釈迦様とは言えないけれどもね、名前を知らないから、やせさらばえたそのブッダの体から、かすかに金色の光がもれてくるのが見える。 そこで、村娘は、これを見ると、「ああ、この人は、きっと悟った方に違いない」と。そういうことで、釈尊の前に体を投げ出して、ひざまずいて、おじぎをします。「ブッダ様、どうか私のお布施(ふせ)を受けて下さい。あなたこそ、きっと悟られたブッダに違いありません。今、ここに……」、まあ、これはいろいろ言われているんですけれども、山羊(やぎ)の乳と言われたり、羊(ひつじ)の乳と言われたり、あるいは、牛乳でつくったお粥(かゆ)だとか、いろんなことを言われているようですけど、山羊の乳と思ってもいいでしょう。とにかく、「山羊の乳があります。お椀(わん)いっぱいの山羊の乳、これをお布施しますから、どうかお飲み下さい」と。まあミルクですね、ミルクを釈尊に差し上げたわけです。 そうすると、釈尊は、村娘の真剣な姿というものを見て、そのお椀を取り上げて、生物(なまもの)はいっさい禁じていた自分であるにもかかわらず、それをグーッと一気に飲みはします。すると、そのミルクっていうのが、口から喉に、喉から胃袋にと、ドンドン、ドンドンと滲(し)み亙(わた)っていって、何とも言えない力がみなぎっていって、清々(すがすが)しい気持ちというのを得ました、彼は。 そのときに、彼は悟ったわけですね。その村娘は、釈尊が近づくまで、歌を歌っていました。まあ、弦楽器みたいのがあったんですが、当時ね。まあ、三味線と言ってもいいけれども、三味線なら三味線でいいでしょう。三味線の音というのは、弦を締めすぎると音が良くない、と。また、ゆるめてしまうと音が出ない。締めすぎると切れてしまう。やはり弦というのは中(なか)ほどに締めたら音色がいい、と。こういう村娘の歌を聞いていたわけでずね。そのときに、ミルクを飲んで、彼は思ったわけです。 「そうか、自分は、今、肋骨(あばらぼね)だらけになって、欲望を断つことばっかり、執着を断つことばっかりを考えておったけれども、どうやら、それでも執着を断つことができなかった。また、王宮のなかの豪奢(ごうしゃ)な生活のなかでも、自分は悟ることはできなかった。どうやら悟りは中(なか)ほどにあるな」 ということを、彼は悟ったわけです、そのときに。中道(ちゅうどう)に入ろうと思ったのは、このときです。これが、釈迦の有名な中道ですね。 8.中道の道は、奥を極(きわ)めれば極めるほど、まだ先がある 修行者だからといって、特別な生き方をしてもいかんし、また、あまりにも自分の肉体に奉仕するばかりの生活をしてもいかん。両極端には悟りがなくて、悟りというのは中(なか)ほどにあるんだ、と。人間というのは、ともすれば、その中(なか)ほどに悟りがあるというように言うと、安易な現実妥協者だと考える向きもあるが、実はそうではないのです。 中(なか)ほどという、中道というなかには、非常に深い意味合いがあるのです。中道の道というのは、奥を極めれば極めるばど、奥が、また先にあることがわかるのですね。 9.昼間きちっと働き、毎日六時に帰る生活に、現代人の中道の悟りはある よく、極端な生活をしている人で、それを止めようとしてブレーキを掛けると、急に自分が自分でなくなったような気持ちになる人がいます。たとえば、猛烈サラリーマンで、朝から晩まで、夜中まで働いて、休日も返上して働くような人がいます。こういう人が、毎日が日曜日のような仕事になると、これまた、腑抜(ふぬ)けのようになります。けれども、毎晩毎晩働いて、土、日も働くようなサラリーマンだと、これまた、腑抜けになります。両方ダメなのですね。 ところが、夕方六時になると家に帰るようなサラリーマンになれるかっちゅうと、なかなかそうはいかないのですね。習慣があって、こういうもんなんですけれども、しかし、その毎日六時に帰るという生活のなかに、偉大な、長続きするような神理があるということを、サラリーマン諸君は、まず考えなくてはいかんのです。 釈迦の悟りというのは、現在に焼き直すと、そうゆうことなんです。夜中まで働いて、他人より長く働いて、そして、実績を上げて、人に認められて、給料が上がって偉くなることが、ほんとうの生きがいなのか。 それとも、社会ではね、人から仕事をもらえずに、ちゃらんぽらんに生きて、どんな感じに働いたって、給料の七割、八割は絶対確保できるのだから、まあサボらにゃ損ということで、会社では手紙を書いたり、ムダ話をしたりして、何もしないで、一日つぶしている。こういう人もいます。この両極端じゃないんだということですね。 現代流に言えば、やはりそうじゃなくて、朝きっちり出て来たら、九時から働いてね。夕方の五時、六時まで働いたら、毎晩毎晩、赤提灯の下をくぐるんじゃなくてね。やるべきことをちゃんとやったら、週一回ぐらいは、おつきあいしてもいいけれども、後はサーッと帰って来て、家で子供や妻の顔を見て、話をして、まあ、夜八時すぎたら、書斎にこもってね、自分の心の勉強をする。修行をする。こういう生活のなかには、実は、無限の発展の可能性があるんですよ、と。 毎晩毎晩、もう年がら年中、赤提灯をくぐっているなかには、悟りはないんです。また、会社のなかで、昼寝ばっかりして、人とうわさ話ばかりしてて、何も働いていない、と。こんななかにも、悟りはないんです。 悟りというのは、九時から五時までぴっちり働いて、やるべきことをやって、まあ、月に一回、週に一回ぐらいは、適当に人とも、おつきあいをした後、家庭を大事にしながら、自分自身の時間を見つけていく。このなかに、ほんとうの悟りはあるんですよ。こういうことを釈尊は教えたわけですね。現代で言えば、そういうことですよ。 サラリーマンの皆さん、断食せよとか、ミルクを飲めとか言っているんじゃないんです。そういうことを言っているのです。現代では。そう言われてみると、よくわかるでしょう。 「確かにそうだな。不規則な生活のなかには、悟りはないし、心のやすらぎはないんだな」「そうか、毎晩、酒ばかり飲んでもいかんし、また、酒など一滴も飲まずに、自分はマイホーム主義だからということで、まったく会社の人をないがしろにするのもいかん。そこそこのところに、やはり接点を見つけるべきだな」ということを、やっぱり考えていくんですね。そのなかに、自分の発展が、またあるわけです。 10.「足ることを知る」――第三者の立場で自分を見ながら、八割で良しとする 結局ね、足ることを知るという前に、今日は釈迦の、要するに執着の話をしてきたんですけれども、結局、釈尊が得たのと同じ悟りになるのです。足ることを知るっていうことはね。 さっき言ったように、予備校のテストで0点をもらいながら、足ることを知っちゃいかんのです。そうぃうことでしょう。0点もらいながら、いや、足ることを知ってね、0点でもいいんだ、これで、他の人の偏差値が上がるだろう。僕は0点で足ることを知っていますから、皆さんどうか八十点、九十点を取って偏差値を上げてください。僕が、皆さんの偏差値を上げましょう、と。こんなことで足ることを知ったんじゃあ、やっぱり浪人生のほんとうのところってないんですね。ほんとうの姿はないんです。 親から金を送ってもらってね、高い予備校代を出してもらって、それで0点ばかり取ってて、足ることを知っててはいかんのです。パチンコしててね、足ることを知っちゃあいかんのです。 たとえば逆に、「自分は東大の理科三類、医学部しか行かんのだ」ということで、十三年も浪人している人がおります。予備校でね、十三浪とか、十一浪とか言って、まあ、ひげ面で、赤ちゃんかかえているような人がいますね。「どうしても東大の医学部以外、俺は行かんのだ」ってね、やっています。こういうのもまた、執着が強すぎるのです。0点であっさりあきらめる人もいれば、十三年も浪人してでも東大へ行こうって人もいます。あるいは、司法試験浪人もそうですね。十年、二十年やっている人がいます。こういう人は、やっぱり執着だけに取り憑(つ)かれているんではないでしょうか、これは考えにゃいかん。 そういうことで、やはり自分の「分(ぶん)」というものを人間は知って、それを中心として、ものごとの判断をしなければいけない。そのためには、善意なる第三者の立場という、私が常々言っている立場というのは大事なわけですね。私が常々言っている立場というのは大事なわけですね。 第三者の立場に立って、自分はどうかなと考える。東大の医学部に行くような頭じゃないことは、両親見ても、兄貴見ても、兄弟見ても、姉見ても、親戚一同を見ても、そんな人、ひとりもいないんだから、どう考えたって、入れるわけがないんだから、そんな、突然変異が出て来るわけがないんだから。だれが見たってね、そんなことあり得ないんですね。 十年、二十年やりゃあ受かるなどと考えるのが間違っとる。そうじゃなくてね、家に金がないのなら、どっかね、まあ特定の名前出したら叱られちゃうから、差別だってね。とにかくね、どこでもいいんです、どっか地方の大学でもいいから、医学部に何とか入れればいいしゃないか、と。これで努力する。それは自分の「分」を知った努力ですね。こういうのがあります。 あるいは、全国の人が、皆んな総理大臣になるために努力されても困ります。今、総理大臣の後継者争いなどというのがあるようですけれども、やはり後継者と目されるような人がいて、ねらってしかるべきという人のなかで争いがあって、当然なんです。だれが見たって、あんなのと思うような人が、たとえばね、よく銀座なんかでトラックに乗って、日の丸の鉢巻を頭にしめて、「エー、私は……」って言って、北方領土返還を叫びながらやっているような人が、総理大臣に向いているかと言うと、そりゃちょっと無理だろうと思うのでね。こういう人は、考え違いです。 そういうことで、まず、発想は一緒です。足ることを知る瞑想も、善意なる第三者の立場に立って、自分はどういう才能を受けておるのか、どういう天命を持っておるのか、こういうことを見極めながら、八割で良しとする考えですね。腹八分目で良しとする考え、これです。 11.「足ることを知る瞑想法」――自分を正しく見る見地から、心を落ち着かせる これがまあ、「足ることを知る」ですけれども、結局ね、瞑想のなかで、もう一度、自分自身の姿というものを、第三者の立場で考えてみることなんです。 たとえば、先程の医学部の浪人生であれば、ほんとうに十三年も浪人して受けることが意義あることなのかどうかね。執着の塊(かたまり)になっていないかどうか、よーく考えてみること。あるいは、友だちが出世して、自分が出世しないけれども、それは何か原因があるかどうかをよーく考えてみること。 そして、その人のほうが偉くなっていくのが当然であるならば、偉いものは偉いとして認めてあげて、自分の努力のなさをなさとして考えて、また、一からはじめてみるということも大事です。 そういうふうに、人間というのは、まず第三者の立場に立って、自分を見てみる。そして、ときにはね、自分は人より何ひとついいことはなくとも、五体満足で、健康で生きていること自体が素晴らしいことだということを気がつく必要があります。 ヘレン・ケラーの悟りのようにね。ヘレン・ケラーは、三日間、目が見えたらということを言ったはずです。自分は世界を見て回りたい。恩を受けた人たちに、握手して回りたい。花たちと、草木たちと、話をしてみたい。ヘレン・ケラーはそう言っていたようですけれども、そういう素晴らしさですね。この世の世界を見ることだって素晴らしい。呼吸ができることも素晴らしい。食べものの美味しいことは素晴らしいことです。そういう素晴らしさに気がついていくことも大事です。 あるいは、もしあなたが犬に生まれていたら、どうですか。猫に生まれていたら、どうですか。彼らの立場に立って、もう一回、自分というものを見つめたときに、人間に生まれるということは、このうえない素晴らしいことがわかるでしょう。自分の育ちがどんなに酷(ひど)い環境だって言ったって、犬に生まれたいとは思わんでしょう。やっぱり人間に生まれて良かったんじゃないですか。 こういう意味での、万象万物のなかにおける自分の立場というものも、また、第三者の立場、大いなる神の立場に立って見ることも必要ですよ。そのなかに、ほんとうに心のやすらぎが生まれてくるんではないでしょうか。まあ、そういうことですね。 ですから、やはり自分というものを正しく見るということから、「足ることを知る瞑想」がはじまっていきます。そういう、自分自身を正しく見るという見地から、自分の心を落ち着かしていく瞑想、それが、この「足ることを知る瞑想」なのです。 どうか皆さんもね、執着に執われす、かといって、また、その逆にもいかず、どうか、ちゃんとした中道のなかに自分自身を見つめて下さい。そうすれば、そこに、ひとつの悟りがあるはずです。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/419.html
目次 1.蓮如上人の「親鸞観」について 2.現代の葬式僧侶は 詐欺罪 を犯している 3.迷える先祖、家族霊を救うのは家族の 正心法語 の諭し 4. 性 の倫理をどう考えるべきか 5.「招婿婚」の一夫多婦でも地獄に堕ちなかった 6.許される男女の交際は、お互いの人格向上が基準 7.現代の 性 の乱れは、生活難という社会的制約が元凶 8. 性 の善悪を問う前に社会制度の政治改革が必要 9.簡素ななかの 美 価値基準の転換こそ唱道すべきである 10.なぜラブホテルを林立させ、ボケが流行るのか、経済政策の貧困を正せ 11.宗教的理想、幸福の自己実現の方法とは 12.昔の「他力信仰」に代わる現代の「光明思想」 13.潜在意識(守護、指導霊)への肯定観念植えつけで「自己実現」する 14.昔の阿弥陀様、今は潜在意識 15.長寿、大成功者は、偉大な力への全託者 16.この世での「超能力」だけを説くのは眉唾ものである 17.高額の戒名やむずかしいお経で死者は成仏しない 18.因果はくらますことができない 19.「即身成仏」などはあり得ない 20.親鸞や蓮如の意見を聴いたなら、浄土宗各派は時代遅れしないよう学べ 21. 墓相 を唱える者への警告 22.大安、仏滅、友引は何ら関係なし 23.占星術、姓名判断では人は縛れない 24.御祓で悪霊は払えない 25.滝行、千日回峯行は、皮膚と体を丈夫にするだけ 26.夫婦の正しい心の結び方について 27.「経済理念」のあるべき方向について 14.昔の阿弥陀様、今は潜在意識 蓮如 こうしたものを入れておきますと、現在のビジネスマンたち、社会的地位のある人たち、こういう方がたも、こういう形の宗教なら"大歓迎"だと考えるはずです。日常生活で確かに幸福になれる方法だ、と。こう考えるでありましょう。つまり、他力の信仰は、昔のような、「阿弥陀如来信仰」ではないのです。さきほど申したように、現在では、自己実現の法則で説明する段階にきているのです。すなわち、「光明思想」による自己実現の方向が昔の他力信仰なのです。その点を忘れないでいただきたいのです。 現在では、「阿弥陀如来様、助けてください」と祈りなさいと教えても、だれ一人、そんなことは信用しないでしょう。そうではなくて、潜在意識に頼んで、積極的な生き方をしていれば、必ず自己は実現するのだと説いておれば、人びとは納得するはずです。はるかに、説得性がある。これは別に、偽りでも嘘でも何でもありません。事実そのとおりなのです。明るい気持ちで、守護、指導霊についてお願いしていれば、自分の願いが実現するのは当然なのです。だからこそ、まず、お願いをしなさいと言っているのです。これは、一つの信仰のあり方です。 私は、一番目として、僧侶、宗教の専門家は"法話"をしなければいけない、また、死後の世界について明確に話をしなければいけないということを言いました。二番目は、男女の「性」の問題とか、そういう社会的混乱を考える前に、その正、邪を分かつ前に、「正法」は経済と関係があるのだから、これを忘れてはいけないということでした。そして、三番目には、現代風の他力のあり方について話しました。つまり、「自己実現」の方法というもの、こういうものを採り入れていけば、生きている人間も、日常生活のなかに宗教というものを取り入れていけるのだ、と。だから、こういう視点を忘れるなと、こういうことを私は言ったのです。これについて、あなたに何か疑問があれば、受けましょう。 ―― 蓮如様がおっしゃったいろいろのお説については、まさにそのとおりであります。ですから、格別の疑問ということはありません。ただ、自己実現という問題に関して、蓮如様は、潜在意識への自己暗示、明るい肯定的なイメージ、願望の植えつけということをおっしゃいましたが、自己実現がもっと積極的な方法で行なわれ、その実現の確率性を高める方向というものはないものだろうかと思っております。 まあ、昔は、「念仏」を唱名するとか、お題目をあげるとか、太鼓を叩くとかによって、人びとの感性に訴えて、その実現を早めていくという手段もあったように思うのです。今日では、さきほどのお話にもあったように、毎晩、寝る前に目的意識をはっきり持って思念をするということでありますが、これを、今少し、増幅拡大する方法をとることができるのではないか、また、それがよりいい方法なのではないかと思うのです。その一つとして、「観法」を行なう。つまり、坐禅、瞑想を始めとしていろいろありますが、動作とか、唱名とか、あるいは、詠歌、音楽などの感性により、集中的に行なうという方法もあるのではないかと思っております。これについては、どのようにお考えでしょうか。 15.長寿、大成功者は、偉大な力への全託者 蓮如 はい。そのことについてお話します。あなた方は、霊道を開くということを知っております。「正法」というものを行じておって、自分の心の曇りを晴らして、十分に反省をすれば、霊道が開いて、自分の守護、指導霊と話ができる。そして、過去世のことが分かるようになる。こういうことですね。こういうことを教わっているし、すでに知っています。 ただし、霊道を開いたからといって、それですませていたのではいけないのです。それだけでは、わけの分からない異言(いげん)、つまり、あの世の異言を語るくらいのことだけで終わってしまいます。霊道を開くだけなら、普通の人でもかなり開けるのです。ただ、それと"自己実現"とを結びつける思想がまだないようです。そこで、結びつける理論を開発すべきだと思っております。 霊道を開いて、自己実現をはたしていく。霊道を開くということは、すなわち、自分の守護、指導霊と直接話ができるようになっていくということです。まあ、霊道でなくても、そういう「正法」を実践していると、インスピレーションを非常に受けやすくなってきます。「霊道」でなくても、あなた方の心のなかに、うずきがでたり、ひらめきがでたりします。ですから、霊道でなくてもいいのです。「正法神理」を実践していますと、あの世からのインスピレーションが多くなってきます。そこで、こういうものをつくって、自己実現の法則と組み合わせていく。ここが大事だと思います。過去世を知るための単なる霊道ではなくして、自己実現を知るための霊道、つまりは、"坐禅"も現代的にアレンジしていけるというわけです。ただ坐っているだけではだめなんです。心を空っぽにするだけではだめなんです。真の坐禅をして、反省の瞑想をやって、心を開く。霊道を開いてね、あの世の霊たちと直接、あるいは、インスピレーションという間接の交流を開始する。そこで、自己実現というものを強く意思する、瞑想する。そして、それをはたしていく。こういう方法があってもいいと思うのです。 すなわち、これは自他力であります。まず、霊道を開くまでが自力です。開いてからあとは、他力であります。これは、現代人によっての非常に素晴らしい教えになるでありましょう。ですから、現在、心理学の分野で、"潜在意識"とか言って、わけの分からない言葉で説明していることを、あなた方が、明瞭にね、その本当の意味を教えてあげる。その必要があります。病気などは、必ず自分で治せるようになってきます。いわゆる他力、本当の他力で治すのではなく、自分で治せるようになっていくはずです。そして、そういう考えをしていくと、任せきる力がでてきます。昔でいうと、まあ、親鸞様も、私も長寿でありましたけれども、すなわち、まかせきる力というものがでてくると、人間は本当に伸びやかに生きられるのです。だから、その結果として、長生きすることができる。現代においては、この任せきる、全託(ぜんたく)という想いを持って生きている人が少ない。しかし、任せきることも、大きな力なのです。自分一人だけで生きようとしていると、どうしても力が不足する。ところが、おおいなる力に任せようと思っていると、そこにまた自分以外の力が働いてきて、おおいなる業をなせるのです。 現代で目見張るような成功をした人で、単なる自力だけで成った人というのはいないのです。成功者のだれもが、その大いなる力を使っているのです。意識的か、あるいは、無意識的かにかかわらず、この大いなる力なくして、通常あり得ないような大成功をするというのは不可能です。 ―― 蓮如様のお考えというものは、何と申しますか、非常に現代のこの時世に即した、新たな教えの本筋になってきつつあるように思います。そこで、私たちも、今後、この"自己実現"というこの方向を今少し強力に訴えていくべきであろうと、このように思います。 蓮如 鎌倉時代というと、だれもが死ぬことを分かっていた。つまり、戦乱の世だったわけですし、飢饉(ききん)はある、天災はある、あるいは、天変地異はあるし、病気がある、と。そういう世の中にあって、だれもが、もうやがては死ぬということがわかっていたのです。だから、人びとは、浄土を信じていました。浄土に行ける、と。天国に行けるということは、すなわち、自己実現だったのです。私たちの時代においても、同じでした。応仁の乱の頃です。この時代においても、人びとは、いつ死ぬか分からない。世が乱れているから、もう長い命ではない、生きていてもいいことは何もない、と。そういうなかにあっての自己実現とは何かというと、極楽浄土に生まれ変わることなのです。これが、自己実現だったわけです。すなわち、『南無阿弥陀仏』と唱え、極楽往生することが、あの時代の自己実現だったのです。 ところが、今の時代での自己実現は、そうではないでありましょう。時代が変わっておりますから、自己実現の方法が異なってもあたりまえなのです。ですから、私たちの"他力信仰"も、現代であれば、そのように変わってくるはずなのです。あの世でユートピアを信じられないのであれば、せめてね、現時点において、現代において、自分を、自分の周りをユートピアにしていく。そして、一つの国を、社会を、ユートピアにしていく。あの世のことが分からないのであるならば、せめてこの世を仏国土にする努力をしていく。すべての人が、そうなるように努力をしていくべきであります。 その際に軌道の修正といいますか、正しい「自己実現」の方法は何かということを、もう一度教える必要があります。霊道を開いても、間違った自己実現の方向へいけば、それは地獄のサタンみたいになってしまう可能性があります。その点で、あなた方の教えが必要なのです。何が本当の神の教えに、御意に添った自己実現であるか。あなた方には、これを教える必要があるのです。 16.この世での「超能力」だけを説くのは眉唾(まゆつば)ものである ―― 現代では、この「自己実現」ということについて、いろいろな説があります。すなわち、いろんな新興宗教や、巷のご利益信仰など、これに類したものが、「超念力」で万事可能とか、「天下を取る」というようなことを言って、思うことを必ず実現させると唱えておりますが、こういうものは如何なものでしょうか。 蓮如 それもね、まあ、一理あるのですよ。ただし、あの世のことをまったく言わないで、この世のことばかりの成功を言っているようならば、それは眉唾(まゆつば)ものです。怪しいと思います。あなた方のようにね、あの世のことをはっきり言って、すべての世界のことを説明しながら、そのうえで、「自己実現」の話をするというのならば、それはそれでいいのです。 人間は、未来に対して、努力することはできないのです。人間は、過去において、努力することはできないのです。人間が努力できるのは、現在においてだけなのです。すなわち、「自己実現」の連続だということです。結局、自己実現を目指して日々やっていくしかないのです、人間というのは。ですから、この世だけのことを説くのは間違いなのです。「この世で成仏する」とかね、そういうことを言っているようでは怪しい。超能力がでてね、何もかもできる、と。こういうのは、ちょっと違っています。 まあ、間違っている霊たちですね。ところが、この世には、そういう超能力信仰を言っている人たちがいます。それが間違っているかどうかは、その人が、あの世の世界のことを知っているかによって、はっきり分かります。あの世の世界のことを明確に説けないような人で、この世的な成功ばかりを説いている宗教家がいたら、まず間違いなく、インチキです。あの世の世界を明確に説けるかどうか、それが一つのチェック・ポイントだと言えます。そういうことになるでしょう。 地獄の霊たちは、あの世のことをあまり言いたがりません。すなわち、あの世のことを言うと、自分たちのことが分かってしまうから言いたがらないのです。あの世でも、地獄の霊たちが指導している宗教家というのは、この世のことばかりを言います。まあ、そういうことです。ほかに何か質問がございますか。 17.高額の戒名やむずかしいお経で死者は成仏しない ―― 人間の死期、死後とその間の取り扱い、その他のことについておうかがいしたいと思います。まず一点は、葬式と戒名(かいみょう)についてです。ま、これは前段における、現代仏教の真のあり方というところでお話がありました。僧侶の任務についてでした。つまり、死者の葬式にあたって、ただ漢語のお経だけをあげるのではなくて、現代語で参列している遺族の人たちにもわかるように、人間の生死の問題について説教することが大事だということでありました。蓮如様のこのお話は、僧侶の方にもよくご理解がいただけたことと思いますが、今一つ、うかがいたいことがございます。というのは、戒名という儀式といいますか、仕来(しきた)りというものがございますが、それについてです。近年におきましては、この戒名に際して、金銭の多寡(たか)に応じたランクづけということが行なわれております。最高額が院典夫居士(いんでんだいこじ)、ついで院夫居士、院居士、大居士、居士、信士の順となっております。寺によっては定価表まであるということです。それはさておき、死者は自分につけられた戒名というものがわかるのでしょうか……。 蓮如 死んであの世へ行って、自分の戒名など知っている人は一人もおりません。何とか居士とか言われたって、わからない。招霊だって、何とか居士でて来なさいと言われたって、わからないです。しかも、ああいうものをつけて、あの世で偉くなる人はいないのです。称号をつけてもらっても、あの世の地獄に堕ちてしまって、何とか院典夫居士って言われても、地獄からでて来れないのです。地獄のなかで、悪魔に追いかけられて、「何をする、俺は何々院典夫居士だぞ」とね、地獄の釜のなかで茄(ゆ)でられながら、「俺は偉いのだぞ、俺は百万円もだして、高い戒名をつけて貰ったんだぞ。お前たちは、十万円の戒名のくせに、俺を釜茄にするとは、一体何事か」と叫んだところで救われない。どうにもならないのです。 高いお金を払って、戒名をつけて貰う。こうしたことが、実際、お寺さんの収入になっているのかもしれないけれども、こんなのは間違っています。もちろん、戒名をつけるのはかまいません。習慣だからかまわんけれども、金銭の多寡でもって、何だかんだと言うのは、間違っています。金銭が高くなればいい名がつくというのは、当然のことながら、間違っています。こういう馬鹿な信仰は、どうか止めていただきたいと思います。 ―― 蓮如様のおっしやることは、よく分かります。ところで、現代の仏教系の僧侶の方がたの第一の仕事というのは、死者を弔(とむら)うということが、その大きな行事になっております。それがまったく正しい弔い方であるならば、それはそれなりの意義があります。しかし、ただ生活の方法としてだけの存在意義ということになりますとね、どんなものなのでしょうか……。 蓮如 ただね、まったく意義がないこともないのです。生きている人間は、葬式をやりますね。ですから、自分も一回や二回は葬式に行ったことがある。自分が死んだときに、自分は死んでも霊体があります。つまり、自分の周りで行なわれていることを知っているのです。どうやらこれは葬式をやっているらしいなとわかる。お坊さんが来て、拝み始めた。お経をあげて、拝み始めた。だから、どうやら俺は死んだのかなということをとりあえず悟る契機ではあるのです。 ですから、葬式というのも、否定しかねるものがあります。しかし、悟った人には、葬式は必要ではないのです。悟った人は、あの世ヘ一直線に行ってしまいますから、葬式などは、全然いらない。ただし、死んでしまったその人が悟っているかどうかは、この世の人には分かりにくいですから、まあ、葬式というのも風習ですけれどもね、死者に死を悟らせるという意味においては意義があります。そういうことがあるので、葬式については、私は完全には否定しません。 ただ、死者は、お経をあげたところで成仏はしないということです。ですから、お経をあげる代わりに、その死後の世界の話をよく知らせてあげなければいけません。そうぃうことを、私は言っているのです。まあ、生きている人にしてもね、自分の父や母が死んで、それをそのまま棺桶に入れて、焼場に持って行くのは何か忍(しの)び得ない、何かやってあげたいという気持ちがあるでしょう。ですから、葬式をすること自体については、それが間違っているとは言いません。これ自体は、それほど、否定すべきものではないからです。 ただ、また繰り返しますが、お経をあげて貰ったからといって、それだけで、成仏するわけではない。たとえ偉いお坊さんが来たからといって、成仏するわけではないのです。むしろ、あなた方が行ったほうが成仏します。お坊さんがお経をあげたところで、般若心経をあげたところで、何をやったところで、成仏はしません。そうする代わりに、あなた方が、二十分か三十分、お話をしてあげたら、すべて成仏してしまいます。おもしろいですね。世の中というのは、つまり、成仏にも、まず知識がいるのです。基本的には、世界観が分からないと、どこにいるかわからないのです。自分がどうしたらよいか分からないのです。とくに今問題なのは、科学万能になって唯物思考が増えているから、死んだあとで生きていた時代と死後とのギャップが大きいのです。そのギャップが大きいために、非常な不幸が起きているのです。そのため、とりあえず地獄に行くという人が多くなっています。 ―― そこで、この死の問題に関して、今一つおうかがいしたいと思うのですが、よろしいでしょうか。 蓮如 何でも聞いてください。 ―― 人間の死の瞬間に際しての容姿、形相(ぎょうそう)はさまざまです。そこで、平安な顔と苦痛に満ちた顔というのは、死後の行き先の方向を暗示しているものでしょうか。 蓮如 それは、人間の死態(しにざま)だけではわからないのです。もちろん、よっぽどの悪人というのは分かりますよ。というのは、よほどの悪人というのは、暴れ廻るとか、死後硬直するとかします。要するに、死にたくないということの表われです。しかし、ふつうの人の場合には分からない。とくに病気などで死ぬ人は、苦しみながら死にますが、それでも成仏する人はいます。もちろん、そうでない人もおります。それこそ坂本龍馬さんの霊言の本にもありましたが、刀で斬られて死んだとき、そんなに嬉しく成仏する人はいないでしょう。斬られたら、そりゃあ、痛い。痛いけれども、成仏すべき人は、成仏するのです。 ただね、死に方があまり不幸な場合には、死後しばらくの間は、魂がかなり傷ついていますから、その傷が癒えるまでの時間が必要です。たとえば、とても激しい苦痛のなかで死んだ。病気の苦痛のなかで死んだ。凄絶(せいぜつ)な事故とかね、戦争のなかで死んだ。こういった場合には、魂がやはり傷ついてしまいます。だから、その魂の傷口が癒えるまでに、しばらく時間がかかるのは当然です。一方、いろんな人に看取(みと)られて、安らかに死んでいける人というのは、魂が傷ついていませんから、あの世で、そのぶんだけ、成仏するのが早くなります。その差はあります。 18.因果はくらますことができない ―― 最近、ある宗教で、悪い因縁(いんねん)を絶つ法というものを説いているようですが、これについては如何でしょうか。 蓮如 確かに、ある宗教では、"因縁を切る"とか言って修行をしているところがあるそうです。たとえば、親子の因縁を切るとか、自分がかかえている悪い刑罰の因縁を切るとか、あるいはまた、自分の横変死ですか、不幸な死に方を回避する法とかで、坐行をやるとか言っているようですが、そういう宗教は、私から解説しておきますが、絶対に間違っております。 "因縁"というものの、そもそもの理解の仕方が間違っております。因縁とは、原因・結果という連鎖でありますが、これは切れないものです。切れるわけがないのです。男と女が結婚するという原因があって、子供ができる。両親と子供。この親子の因縁が切れますか、切れないです。たとえば、前世において、殺しをしました、と。まあ、それを十分反省して、浄土へ上がって、この世に生まれてきた。じゃあ、前世で、人を殺して、反省させられたという過去が切れるかというと、切れない。このように、因縁というのは、絶対に切れないものなのです。すなわち、因縁とは、原因・結果の連鎖だからです。 人間の永遠の転生輪廻は、そういう原因・結果の連鎖です。そして、これは絶対に切ることができない。ですから、因縁というものに対する正しい考え方というのは、現在というのもまた、将来に対する原因になっていくわけですから、その悪い原因をつくらないということですね。悪い種を蒔けば、悪い草が生え、悪い実がなっていきますから、まず、悪い種を蒔かないようにする。因縁というのは、この点だけで考えられるべきなのです。 現在において、いい種を蒔けば、いい結果がでてくる。すなわち、善因善果、悪因悪果です。これは、霊の世界では確実です。百パーセント、間違いがありません。ですから、因縁に対する正しい考え方とは、現在において、悪の種を蒔かないようにしなさい、と。この部分です。そして、これだけが正しいやり方でありますからして、"因縁を切るための修行"とか、そういう考えは、完全に間違っています。そういうことは、ありません。あり得ません。因縁を切るなどいうことは間違っていると、私は、はっきりと言っておきます。 19.「即身成仏(そくしんじょうぶつ)」などはあり得ない 蓮如 また、「即身成仏」ということについても、はっきり言っておきます。ある宗派においては、即身成仏とは、この世において、この身、このまま仏になれるんだと、言っていますが、そういう人たちは、まず、そもそも即身成仏とは何かの意味が分かっておりません。即身成仏とは何かがさっぱり分からない。分からないから、結局、昔の大宗教家のような超能力者になれるのだとか言っている。超能力者になれば、即身成仏なんだ、と。こんなことを言っています。 しかし、生きている人間で、即身成仏などできる人はいないのです。今の末法の世に、そういうことはありません。そんな人は、成仏はできません。成仏というのは、死んであの世に行って初めて、成仏するのです。この世で、成仏はできません。この世に生きているかぎりは、この体という絆、あるいは、この物質世界の絆から離れることはできないのです。仙人のように切るようなわけにはいかないのです。普通の人間はね。ですから、「即身成仏」というのはありません。 もちろん、悟りを日々高めていくということはできます。「如来」であっても、この世に生まれ、肉体を持てば、ただの人です。ただ、他の人よりはもう少しいろんなことを知っていて、識見が高い、悟りがやや高いと、こういうことは言えるかもしれません。しかし、「如来」にあっても、この世に生きている間は、人間として生きていかねばならぬということです。 たとえ、どんな高級霊が地上に降りたとしても、やはり人間としての制約は越えられません。イエス・キリストのような人が地上に生まれたとしても、十字架にかけられたら、死んでしまうのです。そういう意味においてはね、「即身成仏」ということはあり得ません。ですから、こういうことを教えている宗教があったら、それは、間違いです。もし、私の言葉を信ずるのであれば、人びとは、よく耳を傾けて、このことを聴いてください。 20.親鸞や蓮如の意見を聴いたなら、浄土宗各派は時代遅れしないよう学べ 蓮如 まだほかにも言っておきたいことがあります。たとえば、賽銭(さいせん)やお布施の額によって、偉さやご利益が決まるとか、十万円以上寄付したら、あの世でのいい席が約束されるとか。あるいは、護摩(ごま)木ですか、それを何本以上焚いたら霊格が高まって、いい守護霊がつくとかね。こういうことも、すべて間違っています。お金ではないのです。お金では、あの世の地位は約束できません。お金で予約できるのは、飛行機や、船や列車だけです。ですから、金銭の多寡によって成仏が決まったりするというのは、間違っております。このことを正しておきたいと思います。何かほかに、現代宗教についての質問がありますか。 ―― 現代宗教についてというわけではありませんが、蓮如様もまた、一宗の時代の先達、リーダーでいらっしゃったわけですが、現在、ご承知の仏教、就中(なかんずく)真宗系のお方で悩んでおられる人びとに対し、蓮如様は、どのようなご指導をなさろうとされていらっしゃるのでしょうか。 蓮如 いや、むしろね、これについては、もうあなた方の仕事です。仏教もすでにその時代を終わろうとしているのです。ですから、新たな教えが必要なのです。また、あなた方のお弟子さんたちが、ある意味で、昔の僧侶に代わってこなければいけないのです。もう時代が終わりつつあるのです。だからこそ、今後新たな教えの種を蒔いていっていただきたいのです。 ―― と言われますと……、仏教系の何宗ということではなく、その立て直しが、近い将来に行なわれるということですね。 蓮如 いや、すでに現在、もう行なわれつつあるのです。現にね。親鸞様のご意見、あるいは、私らの意見、これを聴いただけで、真宗の方がたは、ずいぶん精神的なショツクを受けられると思います。実際、まさか蓮如が、「自己実現」の法則を説くとは思ってはいなかったでしょうし……。 ―― 確かに、思ってもみなかったまったく破天荒(はてんこう)のことで、驚愕(きょうがく)するでしょうね。 蓮如 そういったことは、西洋の心理学などでやることで、まさか『南無阿弥陀仏』を教える人が、自己実現を説いているとは思わないでしょう。「阿弥陀仏」を言っていた人が、「潜在意識」などと言うと思っていないでしょう。しかし、時代は変わってきているのです。皆さん、この時代の流れを、どうか読み違えないでいただきたいと思います。 ―― その意味で、現代の真宗の皆様方も、この際、どうかこの蓮如上人様のお言葉を襟(えり)を正して拝聴していただきたいと思います。 21."墓相"を唱(とな)える者への警告 蓮如 それからね、この際、ついでですから言っておきたいことがあります。お墓とか墓相とかね、こういうことを言っている人がおります。墓相が悪いから先祖が迷っているとか、墓相がいいから成仏しているとか、こんなことは完全に間違っています。ですから、皆さん、こういった商売に惑わされないようにしてください。墓相が悪いから迷っているなどと言うような人は、すべて地獄霊です。高級霊や浄仏霊は、お墓などにはおりません。成仏霊は、すべて天国にいるのです。 ―― 仏壇などについても、同じことが言えますね。 蓮如 そうです。しかし、それはね、仏壇はあってもいいのですよ。人間というのは、もちろん、何もなくて精神統一ができれば、一番いいのです。ただふつうは、そうはできないでしょう。そこで、そういう方便としてね、先祖を思う気持ちを持つ。これは大事です。つまり、先祖を思う気持ちを向けるために、仏壇をつくるということは大事だと言えます。ただし、いい仏壇かどうか、金ぴかかどうか、何百万円するかどうか、そんなことは、関係ありません。要は、気持ちの問題、心の世界なのです。 ですから、いい仏壇だからといって喜ぶようでは、たいした先祖ではありません。仏壇がいいかどうかを見て喜んでいるようなら、この世を浮遊している浮遊霊にすぎません。地獄にさえ行っておりません。つまり、この世で、まだうろうろしているということです。本来は、仏壇などなくてもいいのです。もちろん、つくってもいいのですけれども、あくまでも、先祖供養の一つの方法としての仏壇だということです。ですから、墓相がどうとか、仏壇がいいとか、悪いとか、そのようなことは、関係がございません。 22.大安、仏滅、友引は何ら関係なし ―― 今日でも、日本の暦には、今だに、大安、仏滅、友引などが残っております。そして、こうしたものによって、日常生活が歪(いびつ)にされている部分が多々あると思うのですが……。 蓮如 そうしたものは、もう完全な風習にすぎません。ですから、やがては滅びていきます。日本の国がそのうちなくなれば、こういう風習もなくなります。いわば、外国の十三日の金曜日みたいなものです。こんなものは、何の意味もないのです。だから、仏滅であっても、どんどん結婚式をやってください。友引に葬式をやっていただいてもけっこうです。 あの世の世界へ行くということは、いいことなのです。これを悪いことだと考えているのは、間違っているのです。仏滅は、釈迦入寂(にゅうじゃく)、入滅という意味でして、これは素晴らしいことなのです。つまり、お釈迦様がこの世で成功を収められて、見事、実在界に還ってこられたことを意味しています。あの世では、大祝賀会が開かれているのです。ですから、皆さん、仏滅に喜んで結婚式をあげましょう。人間本来生死なしです。実相においては、生死なしです。永遠の魂、生命をもっているのです。死ということは、ないのです。 この地上の生活を送っているということが、むしろ、あの世の人から見たら死なのです。あの世での生活ができなくなって、このむずかしい現象界にでて、苦しい人生を送っているのです。これは死ですよ。つまり、あの世に遠るということは死から蘇(よみがえ)るということですよ。あの世に還る、要するに、死ぬということは、あの世から見たら誕生なのです。還ってきてくれるということなのです。素晴らしいことなのです。 ですから、仏滅だからといって、忌み嫌うのは間違っています。友引にしても、何ら関係ありません。そうしたことは、単なる風習です。神社のおみくじにしても、やれ大吉だ、凶だとかいって金儲けをしているようですが、こういうのは、昔のどこかの土人などがやっている風習にすぎません。ですから、こうしたことに大の大人が惑わされてはいけないのです。 23.占星術、姓名判断では人は縛れない ―― 星占い、占星術などが近年流行っていますが、これについては如何でしょうか。 蓮如 確かに、こういうことを専門にしている人がおります。もちろん、その効果がまったくないとは言いませんが、本当の"神理"というものは、そういう占星術を超えていかねばならないものです。 なぜ人間が、生まれたときの星の位置で、一生を支配されてしまわねばいかんのですか。また、姓名判断というものがありますが、なぜ名前によって、一生を支配されるのですか。名前によって、一生が決まるというのならば、名前を変えればよくなるのですか。生まれた星が悪ければ、もうどんなに努力しても、いい一生は送れないのですか。努力できないのですか。 そういうことは、おかしいのではないですか。それは、「決定論」でしょう。しかし、あなた方は、いろいろと学んでいて、決定論が通用しないということがわかるはずです。決定論があるのならば、何のために、自力門があるのですか。決定論が効くならば、なぜ他力、私たちの言う他力があるのですか。神仏の信念があるのですか。そういうのは、間違った教えです。 ヨーロッパにも、そういうものがありました。つまり、「予定説」といって、生まれたときから、天国へ行く人と地獄へ行く人が決っている。自分が天国へ行くことだけを信じておりなさい、と。こういう教えがありました。しかし、これも、間違っております。 神は、人間の努力に期待しておられるのです。そういう姓名判断とか星占い、これが当たっているか、いないかは知りません。ある程度は、そういう傾向というものがでてくるでしょう。そういう専門家がおるのですから。ただし、それは、乗り越えていけるということです。心の教えを知って、正しい生活をすれば、そうしたことは乗り越えられるということです。 ―― 蓮如様のお言葉として、「墓相、仏壇」「仏滅、友引」「星占い、姓名判断」など、こうしたことについてまで、明快なお教えをうけたまわれるとは思ってもおりませんでした。ありがとうございます。 24.御祓で悪霊は払えない 蓮如 あと、何か宗教に関しての誤りがあれば、この際に、正しておきたいと思います。何かありませんか、現代の人びとの信仰についての質問が。まあ、"御祓"というのがありますが、あれについても、ちょっと言っておきましょう。"御祓"というのは、そういう霊的能力ですね、高級神霊の能力を持っている人がお祓をすれば、もちろん影響はあります。すなわち、悪霊を祓う力があります。しかし、神社の神主さんが、ただ単にお祓いをやったところで、悪霊はなくならないのです。つまり、彼らは、何にも知らないから、ですから、お寺のお坊さんが、数珠で拝んでいるのと同じです。何も死者には影響がありません。むしろ、あなた方がお祓をしたほうがよく効きます。あなた方が、「神理」の言葉を言えば、悪霊たちはいなくなります。私が見ていると、車を購って、何とか神社へ持って行って、御祓して貰って、祈祷料を五千円、一万円払っている。何ともおかしくて、おかしくて、仕方がありません。 25.滝行、千日回峯行(せんにちかいほうぎょう)は、皮膚と体を丈夫にするだけ ―― それから、山岳信仰や滝行などがありますね。こうしたことについては、どうなのでしょうか。 蓮如 まあ、こういう人はね、みんな仙人や天狗になる人です。普通の人ではありません。あなた方は、行(ぎょう)に走らないようにしてください。滝を浴びたからといって、悟れるわけはないのです。悟りとは、心の教えなのです。ですから、滝を浴びて潔められるのは、体ぐらいなものです。体は強くなるでしょう。皮膚が強くなって、風邪を引かなくなるかもしれない。しかし、それは悟りとは違います。 また、千日回峯(せんにちかいほう)とかいって、山のなかを千日も歩けば悟れる、と。こういうことを言っている人がおるが、間違いもいいところでず。千日回峯をやったからといって、悟った人などいないのです。千日回峯をやって、体力がついた人はおります。スーパーマンみたいな体力がついた人はおります。しかし、もしあなたが、千日間、山のなかを歩いたからといって、悟れるのですか。もし、それで悟れるならば、すべての人が、千日歩けばいいのですか。そうではないはずです。競歩の選手かそういうものになればいいんです、そういう人はね。 まあ、千日回峯の行者を尊敬するような人は、まあ、ホームランを何本打ったからその選手を尊敬しているというのと同じです。しかし、ホームランを何本打ったからと言ったって、あの世へ還れば、何も関係ないのです。まあ、いろんな人を尊敬したいと思っている気持ちがあるでしょうから、それはそれでけっこうです。 しかし、肉体行は、あまり重視しないことです。大切なのは、皆さんの心の教えなのです。それが、すべてなのです。肉体行は、必要ありません。肉体行をやるくらいなら、スポーツをやって、体を鍛えてください。また、お念仏を何万回、何百万回称(とな)えたからといって、関係ありません。大切なのは、本当の正しい信仰を持つことです。このことについては、それでよろしいですね。 26.夫婦の正しい心の結び方について 蓮如 男女のことに関して、言い残したことがあります。さきほど、宗教の日常化ということを言いましたが、願わくば、あなた方の教えが広まって、あなた方の教えを信じる男女が、お互いに協力しあって、「神理」の伝道をやれるような、そういう世の中になってほしいものです。人類は、やはり男女に共通項があるかないかによって、全然違うのです。お互いに精神的な支えを持って、夫婦生活をやっていければ、これは、大調和です。 今、精神的支えがないから、金銭とか、そんなことでもって争いが起きているのです。経済生活をするために、男女は一緒ではないのです。肉体的な欲望のために、男女が一緒に住むのでもないのです。一つの精神的目標のために協力しあっていく。この姿こそが、本当に神仏の心に適(かな)った相(すがた)なのです。これから結婚されていく若い人たちは、どうか共通の人生目標なり、共通の精神、精神主義というかね、共通の信仰、こういうものを持っていただきたいと思います。 ですから、若い人にも持っていただけるような信仰、そういうものを、あなた方には、どんどん説いていただきたい。本当に強い男女の絆というのは、信仰というか、精神的な結びつきにあるのです。これこそが、一番強い結びつきなのです。こうしたことを忘れているから、次々と離婚、再婚を繰り返していくのです。精神的な結びつきが大切なのです。その点について、あなた方が教えてあげてください。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/376.html
目次 1.小桜姫の霊界通信 2.霊的能力、悟り、祈りについて 3.神仏の使者と悩み 4.生まれ変わりの池 5.親子、兄弟、夫婦の縁 6.神霊界入門 7.魂の進歩に資するものは何か 7.魂の進歩に資するものは何か(1986年4月6日の霊訓) 私がこれからお話しようとする内容は、「魂の進歩に資するものは何か」という内容についてです。 神様が、人間に転生輪廻を許しておられる理由は、異なった環境下、異なった時代に生まれて、さまざまな人生経験を踏まえて、人間の魂をいっそう向上させようとしておられる点にあります。 けれども肉体を持った人間は、この神様のご慈悲を忘れて、自分の人生はこの世限りだと思い込んで、できるだけぜいたく三昧、快楽三昧で生きたいと願っております。 結局のところ、人間が利己主義で、自分の利益しか考えず、他の人のために尽くさない理由は、人生はこの世限りだと思っているからなのです。でも、ほんとうはそうではありません。人生は一回きりではありません。人生が一回きりで、それだけで人間というものが、魂というものが、雲散霧消してしまうものであるならば、私たちは何のために苦労し、何のために努力してきたのでしょうか。人生は一回きりのものではありません。そして、個人の魂は、死後もその個性を保っているのです。そうでなくて、個人の魂が、群魂のようなものにのみ込まれてしまうなら、何のために個々人が苦労して人生経験を得るのか、そのわけがわからなくなってしまいます。 動物とか植物とかの魂は、群魂に帰属してしまうこともあります。彼らは人間のような知性的、理性的な魂の経験というものがないので、よく似かよった魂どうしで経験を共有することもあるのです。 ですから私たちは、人間の魂として、神様が創ってくださったこと自体を喜ばなくてはなりません。私たちは個性ある人間の魂として生まれたからこそ、その個人個人の努力や経験や知識が、すべて自分のものになるのです。その意味で、人間として生まれたこと自体が幸福であるということです。 ともすれば、私たちは、他人とひき比べて自分に足りない面ばかりを考えて劣等感を持ち、あるいは不遇感や不幸感を持ちますが、人間として生まれたこと自体が、奇跡とも呼びうる幸福であることに感謝せねばなりません。そうではありませんか。善いことをすれば、すべて自分の心の宝物となる。悪いことをしても、それもすべて自分の責任となる。こんな明快な原理があるからこそ、人間は永遠の転生輪廻に生きがい、やりがいを見出すことができるのではないでしょうか。 神様がなぜ、さまざまな動物や植物や、人間の魂をお創りになったのか、その根本の理由は、小桜にはわかりかねます。けれどもおそらく、これだけは確かでしょう。神様は、宇宙を進化・発展させることを是(よ)しと思われ、そのなかに、創造の美を見出しておられるということです。 人間の役割というものは定かではありませんが、神様の宇宙創造の芸術の一端を担っていることだけは確かで、だから私たちも、しっかりとやらねばならないのだと思います。 さて今回は、少々難しい題を選んでみました。「魂の進歩に資するものは何か」なんて、小桜には、あまりにも大上段すぎるように思われるのですが、浅野さんの言われるには、この程度の内容の通信は最低限度送らなければだめだとのことなので、非力ながら頑張ってみます。 私はすでに、人間は神様の宇宙創造の芸術の構成員だと述べました。ですから魂の進化とは、神様が是(よ)しと思われている方向に、私たちが努力していくことだと思うのです。 私は次のような場合に人間の魂は進化すると思うのです。 〈反省〉 第一番目は、自分の現在の心境が、いかに神様から離れているかを実感した時です。 私たちは、毎日が順調にいっていると、ともすれば、自分自身というものをふり返る機会がなくなってしまいます。宗教や道徳というものは、「反省」というものを大切にしていますが、これは、神様と自分との距離を考えてみるということなのです。向上のためには反省がなければなりません。自分がいかに迷っており、いかに低迷しているかがわからなければ、また向上への道をたどることもできません。みずからを省み、みずからの足らざるところを補おうとした時、はじめて人間は魂の進歩という第一歩を精神史に記すのではないでしょうか。月並みではありますが、魂が進歩する時は、みずからの心境を反省した時だといえると思います。 〈感謝〉 魂が進化する第二番目の時は、感謝というものを実感した時だと思います。よほど立派な方で、多くの人びとから尊敬を受けているような人でさえ、この感謝ということがなかなかできないものです。優れた宗教家でありながら、道を踏み誤る人びとの大部分は、この感謝ということが足りないのだと思うのです。人間が自分一人でできることは限られたことなのです。それは、とてもとても限られたことなのです。ですから、あなた方一人一人を助けてくださる他の人びとの好意や、暖かいまなざしを常づね投げかけている天上界の高級霊や、あなたを生かしめる神様の力というものに対して感謝する気持ちを持たねばなりません。 たくさんの地獄霊・悪霊たちと対話されたでしょうが、彼らの大部分の特徴は、自分の利益ばかり考えて、他人に対する愛がない、言葉を換えると、他の人びとや偉大なものに対する感謝の念がないということです。感謝の気持を持って日々生きている人は、地獄には一人もいないのです。ですから、心の底から感謝の気持ちが湧いて来た時、ああ、今、自分の魂は進歩しているのだと思っていただきたいのです。感謝は感謝を生み、喜びは喜びを生むものです。 〈謙虚な気持〉 魂が進歩する第三の時は、謙虚な気持ちになった時です。自分が不平不満でいっぱいの時、自分が劣等感でいっぱいの時、他人に対する反発や、反抗心でいっぱいの時、他人の悪口、陰口を言いたくてしかたのない時、人間は決して謙虚な気持ちにはなれないものです。謙虚になれる時というのは、かなり心に余裕ができた時であり、自分のなかの良い面が悪い面に勝っている時なのです。 では謙虚さはなぜ美徳なのでしょうか。それは、謙虚さ自体がひじょうに霊的なものだからです。三次元的なものの考え方というものは結局、他人より優れたい、他を凌駕(りょうが)したい、他を見下したいという思いなのです。自分の国がこの世しかないと思うからこそ、「オラガ天下」にしたくなるのです。ですから広大無辺な神の世界に気づいたならば、自分が築いた地位や名誉や権力というものが、いかに無力でいかに空しいのかが、はっきりとわかるのです。 そうです、偉大な神様の前には、人間は謙虚でなければいられないのです。大霊界の存在に気づいた人間は身を低くして、頭(こうべ)を垂れるしかなくなるのです。また、この神霊世界には、数知れず偉大な方々がいらっしゃるのです。たとえばこの世で、会社の社長だとか総理大臣とかいう人が、天照大神の前でいばれるでしょうか。天之御中主之神の御前で、何を自慢できるでしょうか。霊的に目覚めれば目覚めるほど、偉大なる神霊の力に気づけば気づくほど、人間は謙虚にならざるをえないのです。自分が謙虚になったなと思ったとき、人間は、自分の魂が大いに進歩している事実に気づくのです。 〈優しさ〉 次に魂が進歩する第四の場合について述べたいと思います。それはひと言でいえば「優しさ」です。他人に対する優しさ、思いやりです。優しさは、神の国とこの世の国に架けられた黄金の橋です。人間として生きる以上、神様の子供として生きる以上、一日に一回は、他人に対する優しさを持ちたいものです。 この優しさは神様のお気持ちそのものなのです。あなた方人間は、日常生活でさまざまな嫌な人に会うことでしょう。憎らしいと思う人にも会うでしょう。金輪際(こんりんざい)、顔を見たくないと思う人にも会うでしょう。けれども、一度立ち止まって考えてみていただきたいのです。完全無欠な神様の眼から見たら、人間はいかに低劣で不完全であるかを。そんな低劣で、不完全で、宇宙のゴミにしかすぎない人間をも、神様は限りなく優しいまなざしで、見てくださっているのではないでしょうか。限りない思いやりのなかに人間を育んでくださっているのではないでしょうか。 そうであるのなら、お互いに不完全である人間どうしが、お互いの欠点を責めあったり、嫌ったりするのはやめようではありませんか。神様に見ならって、限りなく優しい眼で他の人びとを見守ろうではありませんか。 その優しさこそが、神様のお心そのものであり、つまりは私たちの魂が、神様に向かって進歩しているときではないでしょうか。 〈向上心〉 私は魂の向上進歩する五番目の時として、向上心をあげたいと思います。人生にはさまざまの出来事、さまざまの試練や災難があります。時折、あまりの試練に耐えかねて、波間に揺れる小舟のように、人間はみずからの自信をなくす時が来ます。けれどもその時こそ、神様が本当に救いの手を差し伸べている時なのです。神様はもう救いの手を差し伸べておられるのです。ただあなた方人間が手を差し伸べて、神様の救いの手を握りしめるかどうかなのです。このように人間の側からも、手を伸ばすことがたいせつです。 この手こそが向上心というものです。親はわが子の成長を喜びます。神様も同じです。わが子の成長を限りなく喜んでおられるのです。この成長の原動力こそが、向上心ではないでしょうか。向上心のある人間は、いつかは山の頂上を窮(きわ)めるのです。その歩みは遅々としたものでもよいのです。一日一日を神様のほうへ向いて、着実に歩んでゆくことです。 人生はある意味において、激流の川を小舟で漕(こ)ぎ上るのにも似ているでしょう。けれども神様は、その激流を漕ぎ切った時、大きな手を開いて、あなた方人間を抱きしめようと待っておられるのです。いかに流れが急であり、激しかろうとも、舟を漕ぐのをやめてはいけません。それが向上心ということではないでしょうか。それが人間の側の努力というものではないでしょうか。 〈忍耐〉 私は、魂の向上する六番目の時として、耐え忍ぶということを挙げたいと思います。この世の指導者のなかには、よく、とにかくやれ、とにかく行動せよ、と言われる方があります。勇ましく自分の途(みち)を切り拓くことはとても大切なことです。けれども私は、ここに忍耐の美徳をあげておきたいと思うのです。 神様はとても忍耐強い方です。あなたもそう思われませんか。人間は何千年、何万年も転生輪廻してきても、いっこうに神様のほうへ歩んでこようとせず、知識人の顔をして、堂々と無神論を説いている人もたくさんいます。こんなばかげた無神論者でさえ、優しく育んでおられ、その成長を待っておられる神様はとても辛抱強い方であり、耐え忍ぶことに慣れておられる方のようです。 ですから、あなた方人間も自分に対して短気を起こさず、また、他人に対しても短気を起こさず、どうか忍耐強くあってほしいと思うのです。耐えることを知った魂というものは、いぶし銀のような光を放つものです。じっと耐えている人の姿は、岩間に咲いたつつじの生命力を見た時のような感動を人びとに呼び起こします。どのような環境にあっても、どのような逆境にあっても挫(くじ)けず、美しい花を一輪咲かせ、その花を守り育てていこうではありませんか。そうした辛抱強さのなかにこそ、神の子としての、じっくりとよく練れた成長があるのではないでしょうか。 成功のみを追い求め、耐えることを忘れた人間は脆弱(ぜいじゃく)です。私たちは魂の足腰を鍛えましょう。どのような夏の暑さにも、どのような冬の厳しさにも耐えていけるような、たくましい魂というものを築いていこうではありませんか。 〈祈り〉 最後に第七番目として、魂の進歩する時、それは祈りの時であると私はいっておきたいと思います。人間はともすれば、平凡な日常生活に埋もれていってしまいます。ですから、その精神生活のどこかで、超俗的な場面を持つ必要があります。それが祈りの時であると私は思います。祈りとは、神様との一対一での対話です。人間は神様と一対一で対話する時初めて、澄んだ心になれるのです。 祈りについては、誤解されている面がずいぶんとあるように思われます。人びとは、健康だとか、合格だとか、結婚だとかを祈っているようです。それも確かに悪いことではありませんが、神様にアメ玉をおねだりしている子供のようで、いまひとつの成長が望まれるところです。祈りというのは神様との対話です。普通の人びとが、宇宙創造の神様と対話するのはとても無理ですが、しかし祈りは、その人の霊的波長に応じた高級神霊に必ず届くものなのです。ですから、答えのあるなしにかかわらず、祈りは必ずだれかには聴かれていると思ってください。 あとはその祈りの正当さ、妥当さが、高級霊によって判断され、またその祈りを聴き届けることによって、、その人にいかなる運命の修正がなされるのかが、守護・指導霊たちの間で検討されるのです。人間は自分一人だけで生きてゆくわけではありません。その人に関係するさまざまの守護・指導霊たちが見守っているのです。ですから祈りというのは、守護・指導霊の日頃の厚意に感謝するとともに、みずからを正す機会でもあるのです。守護・指導霊も祈りの時を待っています。 残念なのは、地獄にいる人たちです。彼らのうちの大半は、祈りということをまったく忘却してしまっているのです。彼らに祈りということがわかっていたなら、もっと早く救いの機会が訪れたであろうと、とても残念に思われます。祈りとはまた、帰依(きえ)の姿でもあるからです。偉大なる神霊への帰依でもあるからです。できれば一日に一度は、反省もかねて、祈りというものを実行していただきたいと思います。このときこそ、人間は偉大なる他力の光明によって、大いに魂が進歩しているのです。 以上、一番目から七番目まで、「魂の進歩に資するものは何か」というテーマで私は述べてきました。不十分な点、欠けている点については、今後ともつけ加えてゆきたいと思います。 次回は、「霊界における地獄霊の救済」というテーマで報告したいと思います。ではまた。
https://w.atwiki.jp/divine_revelation/pages/353.html
目次 1.闇は実在にあらず 2.松明を高く掲げよ 3.光明の生活法①――霊的生活としての朝の祈り 4.光明の生活法②――朝の時間を活かせ 5.朝の一時間を確保せよ 6.全知全能の神ではなく、まず、専門家を目指せ 7.毎朝一時間の積み重ねが非凡な人生を開く 8.光明の生活法③――夜の時間を確保せよ 9.光明の生活法④――土、日を活かせ 10.自分を磨き、神の光の行軍の戦士となれ (1987年7月19日の霊示) 1.闇は実在にあらず では、引き続いて、第6章の「光の行軍」という話をしていこうと思います。まあ、これも、生命の実相のなかに繍纏(るる)述べたことでありますが、この物質世界というものは、闇のなかを松明(たいまつ)を持って光が行軍しているがごとき現実であります。 ちょうど我らが実在世界から見ておると、真理が説かれておるというその現状は、「闇のなかを灯を点ぜられた松明が動いていくがごとし」であり、大変勇ましくも見える。しかし、松明を取り巻いている闇は、いかにも大きな勢力であるかのごとくにも見える。ときには闇に囲(かこ)まれて、松明の炎が小さく見え隠れしているように見えるときもある。 しかし、それをおそれてはならない。断じて、おそれてはならぬ。この世界は、たとえ闇のなかを光が行軍するがごときものであったとしても、断じて、ひるんではならぬ。すなわち、闇は、実在ではない。闇は、実在ではないのです。闇というものは、光の不在であり、灯を点ずれば、そこに闇はない。いかに巨大な闇のように見えても、次から次へと照らし出される光の強さに、やがて、闇は退散していくのです。 すなわち、闇というものは、積極的な存在ではないのです。それは、ごくごく消極的なる存在である。光を点ぜば、闇は消えるが、闇を点じて、灯が消えるということはないのです。地上におる諸君は、この真理を断じて忘れてはならぬ。 灯を点ぜよ、さすれば、闇は消える。これは、真理です。諸君の人生がいかに暗く見えようとも、諸君の人生がいかに艱難(かんなん)に満ちるとも、断じて、ひるんではならん。断じて、おそれおののいてはならん。勇気を持って、生きていかねばならん。と、私はそのように思うわけであります。 2.松明を高く掲げよ 人生に必要なものは、この勇気であります。力であります。ほとばしる情熱であります。だから、情熱の力でもって、自らの道を切り開いていきなさい。 たとえ山道であろうとも、たとえ鬱蒼(うっそう)とした森林のなかであったとしても、たとえ崖道であろうとも、たとえ谷の底を伝うような険しい道であったとしても、人生に松明(たいまつ)を掲(かか)げて歩めよ。松明を高く掲げよ。光を高く掲げよ。さすれば、世界は変貌(へんぼう)していくであろう。 諸君の周りには、光が散乱していくであろう。この光を信ぜよ。この光の元に集まれ。そして、光とともに歩め。そこに諸君の希望がある。夢がある。無限の夢がある。無限の希望がある。無限の知恵がある。無限の愛がある。この夢のなかを生きなさい。 この希望のなかを生きなさい。希望こそが真理である。希望のなかを歩むとき、人は神とともにいるのです。希望のないところを歩むとき、そこに神はいない。希望とともに歩め。そのなかに、あなたを生かす真実があるのだ。あなたが生きていく真理の道があるのだ。 この使命の道を、ただひたすらに、歩んでいけ。倦(う)まず弛(たゆ)まず、歩んでいけ。たとえ闇が漆黒(しっこく)のように暗く見えても、松明を高く掲(かか)げよ。この高く掲げた松明の灯を信ぜよ。その灯は神の光明に通じておるのだ。このことを、人間は決して忘れてはならぬ。 まず、自らの心のなかに松明を点ぜよ。そして、その点じた松明の灯をもって、また次なるものに、その灯を点ぜよ。次なるものは、またさらに、その次なるものへと灯を次々と点じていけ。 さすれば、最初のひとつが、わずかひとつ人間の顔を照らしておった、あなたの顔を照らしておった、たった一本の松明の灯であったと言えども、その灯は、次から次へと移っていき、やがては、山一面をおおうがごとき松明の海となろう。そして、この漆黒の闇が、やがては、赤々と照らし出されていくようになるであろう。そのようなものだ。 最初の光は、小さくてもよいのだ。最初の灯は、小さくてもよいのだ。しかし、自らの心のなかに松明を点(とも)しなさい。そして、その松明を高く掲げよ。それは、あとに続く者への合図でもあるのだ。 あなたがその松明を点し、松明を高く掲げて、あとに続く者へと合図を送った後に、その松明の灯を、次なる者へと点ぜよ。灯はひとつが二つになり、二つが四つとなり、四つが八つとなり、八つが十六となり、十六が三十二となり、三十二が六十四となり、このように、次々と灯が点ぜられていくのだ。このような形で、真理というものは広がっていくのだ。 あなた方は、その真実をおそれてはならぬ。忘れてはならぬ。油断してはならぬ。怯んではならぬ。卑怯(ひきょう)になってはならぬ。挫(くじ)けてはならぬ。ただ、無敗を見よ。明るい面を見よ。積極的に歩め。前のみ歩め。それを忘れるな。ひるむな。生きていけ。力強く生きていけ。 こうして初めて、あなた方の人生の証というものが、そこに与えられるのだ。この私のたとえを忘れるな。 まず、心のなかに松明を点せ。心のなかに松明を点ずるためには、いかなる方法があるか。これを、今日、教えていこうと思う。 あなたの心のなかに松明を燈(とも)す。その光を燈す方法とは一体何であるか。一言に言えば、これが光明思想というものである。光明思想とは、世の中を公正に見ない、そうした偏狭な曲がった考え方ではないのである。 光明思想の根底にあるものは、人間を善なる方向へ、神なる方向へと導いていこうとするところにある。この方向を間違えてはならぬ。したがって、人生に勇気を与える原理こそ、光明の真理なのだ。光明の生活法なのだ。これを忘れてはならぬ。 3.光明の生活法①――霊的生活としての朝の祈り 本章では、「光の行軍」という題をつけたわけでありますが、この光明の生話法について、私は、これからいくつかのポイントを絞ってお話をしてまいりたいと思うのであります。 光明の生活法の第一は、これは、実に霊的なる生活ということであります。すなわち、朝起きたら、自らが神の子であり、自らの本質が霊であるということをまず、心に想起する。そして、今日一日が、霊として、神仏の子として、素晴らしい一日であるように合掌し、祈念するところから、始まっていくのです。 まず、そこから第一歩が始まっていく。物質的に流されようとしないで、肉体の欲望のままに流されていかないように。「神よ、どうか霊としての私、神仏の子としての私の霊性が、より一層伸びますように。より一層素晴らしくなりますように」と、そうした祈りを持って、まず一日を始めなさい。これが、光明の生活の第一歩であるのです。 まず、一日を霊としての、神仏の子としての自覚から始めるということ。そして、神仏に対して、私をよりよくお導き下さい、私の霊性が今日一日ますます伸びますように、と。そうした祈り心を忘れてはならぬ。そうした祈りを持って、日々生きていくこと。これが、非常に大切だと、私は感じます。 4.光明の生活法②――朝の時間を活かせ 光明の生活法の第二は、すなわち、朝の時間を活かすということであります。 今、地上を去ったこの霊天上界、まあ、八次元という世界らしいが、この八次元世界の最上段階にあって、私は、ときおり、地上の生活というものを見ております。地上の人間にはなかなかわかりがたいとは思うが、私たちの世界におっては、天狗さんの遠眼鏡(とおめがね)ではないが、自分に関心のあることを心に描くと、地上にあることであっても、望遠鏡か双眼鏡でも見るがごとく、拡大して見ることができるのです。そうした霊的な神秘があるのです。 したがって、私も自分に関心があることを、さまざまな方法でもって見ておるのです。私が、こちらの世界へ還って、最もどうにかしたいと思うことは何かと言うと、多くのサラリーマンたち、勤め人たち、こうした者たちを、何とかして、真理の道へと入らしてやりたいと思うことです。 彼らの多くは都会に住み、まあ、この収録をしている現在、暑い暑い夏の日であるけれども、この夏の日に背広を着、ネクタイを締めて、会社へと急いでおるわけである。彼らは、会社へ通うのが好きでもなく、一日も早くやめたいと思っておるのにもかかわらず、一分でも早く会社へ着きたいと思って、電車では、最前列に乗って、押し出される人波のなかから少しでも早く会社に着こうと思って、階段を駆け上がっておる。そうであろう。 階段を駆け上がって、どうするのか。つまり、部長や課長よりも早く入らねば点数が下がると怯(おび)えながら、一刻も早くと会社へ来るのである。だから、自分より先に先輩が来ておると、大変恐縮をしたりする。まあ、こういうことはあるわけです。 そうしたふうに、早く会社へ行こう、会社へ行こうとするわけだけれども、会社に行ったら行ったで、今度は、早く一日がすまないか、と。早く一日が終らないか、まあ、そうした気持ちで一日を過ごす。そして、夕方になれば、あとはマージャンをするだの、酒を飲むだの、歌を歌うだの、こうしたことばかりを考え、同僚を誘っては、時間を潰す。こういうふうにして、一日のうちの大部分を空しく過ごしておる。それが、サラリーマンの大半ではなかろうか。 私は、サラリーマン諸君に言いたい。諸君は、朝の時間を無駄にするなかれ。朝の時間というものを、貴重にしなさい。その貴重な時間を、活かしなさい、と。 諸君は、実は、睡眠によって霊界と非常に長い間交渉を持っておったのである。その霊界との交渉が終り、疲れた肉体もいやされ、新鮮な気持ちで一日が始まる。これが、朝である。だから、この新鮮な気持ちを十分に活かさねばならぬのです。朝、ご飯も食べず、寝呆け眼(まなこ)でもって会社へと急いで、満員電車に揺られて、会社では一日不愉快に過ごす。これほど馬鹿なことはない。 諸君は、日の出のときというのを見たことがあるか。この勇気凛凛(りんりん)と湧いてくるような、朝の日の出というのを見たことがあるか。あの大きな日輪というものを見たことがあるか。そうした日の出を見ずして、グーグーと寝ておって、あせるがごとく会社へ向かっておる者たちは、大変嘆かわしい一日を送っておるわけである。 諸君は、なぜこの朝の時間を利用しようとしないのか。満員電車といっても、満員電車の現状は七時から八時、この頃の時間帯である。七時からせいぜい八時半、九時。この間が満員電車であって、電車も朝の六時となれば、あるいは、五時半、五時ともなれば、ほとんどガラガラであって、朝の買い出しに出ておる行商人のおばさん連中であるとか、そうした人ぐらいしか、朝の電車には乗ってはおらん。朝の電車はガラガラだ。満員電車ではないのだ。 ところが、諸君は、他の人間と同じ時間帯に乗り、漫然と新聞を読み、漫然とギューギュー詰めのなかで、揺られて汗だくになって会社に着いている。それが、現状ではないのか。なぜ、他の人間より一時間早く起きようとしないのか。一時間早く起きればよいのである。朝五時半に出てもよし。電車はガラガラである。このガラガラの電車のときをなぜ使わんか。 この早朝の一時間をなぜ利用しないのか。電車のなかで、諸君は、おそらくタップリ一時間は過ごすのであろう。この一時間を、勉強のため使え。早朝の一時間。ゆっくりと電車の座席に腰かけて、そして、むずかしい本でも読みなさい。 一般に言って、サラリーマンというものは、自由に時間がないと思う。そして、会社さえやめれば、定年退職すれば、世界の古典がたっぷり読めるとか、思想体系が読めるとか思っておるのだろう。時間ができるようになったら、そういうむずかしい本が読めるように思うが、いざ時間というものがふんだんに自分に与えられておると、そのふんだんな時間を使いこなすことができなくて、結局、何の書物も読めなくなるものなのだ。つまり、まとまった時間だけが、大切な時間ではない。毎日毎日の三十分、一時間の時間の積み重ねこそが、本当に大切なのである。そうした時間の積み重ねによって、人間は、本当に勇気を持って、希望のある人生を生きてゆくことができるのだ。 5.朝の一時間を確保せよ 諸君よ、まず、朝の一時間を確保せよ。どのような形であっても、朝の一時間を確保せよ。通勤時間の短い者は幸いである。その者は、朝早く起き、自宅にて、書斎で勉強せよ。 通勤時間の長い者は幸いである。そうした者は、朝早く起きて、電車が込む前の始発電車なり、最初の頃の電車に乗り込んで、ゆうゆうと勉強しながら、電車で会社へ向かえ。そして、会社へ行ってから、ゆっくり朝のコーヒーを飲みながら、新聞を広げ、その日一日の構想を練ればよい。そうすれば、同期の者との差が非常につくであろう。私は、そう思う。 とくに朝の一時間、これを逃がしては、断じてならん。朝の一時間という貴重な勉強時間を持て。そうすれば、一ヵ月に三十時間、一年には三百六十五時間の時間となる。この三百六十五時間の積み重ねというのは、非常に責重なものである。 もちろん、三百六十五時間だけでは、まだ、専門家にはなれんであろう。しかしながら、通常、専門家の域に達するには、あるひとつのことを二千時間ぐらいやればその専門家になると言われている。 すなわち、三百六十五時間が一年であるならば、二千時間というのは五年余りということになろう。ひとつのことを一時間、五年間続ければ、その項目に関しては、あなたはその道の専門家になることができる。これは間違いがないことです。 そして、この二千時間というものをさらに伸ばしていく。これが五千時間になれば、ほぼ第一級の専門家となってくるであろう。また、これが、一万時間となれば、すなわち、ひとつのことに関して一万時間積み重ねがあれば、あなたは日本の第一人者となることができると思う。 一万時間の時間というのは、一体どれだけのことであるか。一年が三百六十五日であるならば、十年、三千六百五十時間である。そうすると、この一万時間というのは、実に三十年弱、まあ、二十五年から三十年ですね、そういうことになると思う。素人が考えても、三十年間同じことを続けたならば、その道で日本一の専門家になれることぐらいは、想像にかたくないのである。 たとえば、語学にしてもそうだ。英語という学問をとっても、まあ、英語全体で日本一になるということはむずかしいかもしれぬ。しかし、英語なら英語のなかで特定の文法の問題、あるいは古典英語、あるいはジャーナリズムの英語、あるいは小説関係の英語、いろんな英語のジャンルがあるであろうと思う。あるいは実用英語もあろう。その何でもよいのである。とにかく、ひとつの領域に絞って、その道で一時間ずつ三十年間続けたならば、まず、日本の第一人者になることを、私は保証できる。それは間違いないことだ。 6.全知全能の神ではなく、まず、専門家を目指せ こうした形で、人間は、毎日毎日の時間を使って、責重な時間を使って、自分を鍛(きた)えていく必要があるのです。あなた方は、全知全能の神ではない。そこでまず、人間は全知全能の神ではないことを認めねばならん。そして、全知全能であることを放棄したときに、そこに、またひとつの道が開けるのである。すなわち、全知全能ではないけれども、ひとつのことのなかに、全知全能の神のごとき姿を見い出していくということもあるのです。 オールラウンドプレイヤーだけが貴いのではない。専門家もまた、尊いのである。サッカーしててもそうだ。フォワードだけが尊いのではない。ゴールキーパーも必要である。ウイングも必要である。バックスも必要であろう。そうではないだろうか。 野球にしてもそうだ。四番打者だけで勝負はできない。ピッチャーだけでも勝負はできない。ピッチャーにはキャッチャーがいり、一塁手、二塁手、三塁手、そして、外野手がおって、それでもって初めてチーム全体が成り立っていくのです。野球の選手、名選手になるということは、ピッチャーもでき、キャッチャーもでき、一塁手も、三塁手も、外野もでき、ピンチヒッターにもなれるというような人のことを言うのではありません。ピッチャーならピッチャー、捕手なら捕手、一塁手なら一塁手、四番バッターなら四番バッターとして、その使命を最高度に発揮できることが、最高の野球選手ではないのだろうか。 野球には名球会というのがあるそうだけれども、名球会に入る条件は、決してオールラウンドプレーヤーだったということではないはずだ。投手であれば何百勝以上、あるいは、打者であれば何割以上、三割なら三割以上、ホームランバッターであれば何百本以上、また、盗塁であれば盗塁何個以上、こうしたことで、名球会入りということがあるのではないのか。こういうことではないのか。 人間は、全知全能ではないのだから、やはりこの世においては、自分の専門を最高に活かして、そして、神に近づいていくということが大事なのではないだろうか。私は、そのように思うわけであります。 さすれば諸君よ、諸君は、自らがまだまだ一億分の一の人間にすぎないという現実を知らなくてはならない。諸君は、日本人一億二千万人のなかのひとりにしかすぎないのです。 だから、諸君のところへ稲妻のごとき天啓が降りて、そして、諸君が一日にして天才になるとは思うな。一日にして諸君はシェークスピアのように戯曲を書けると思うな。一日にして諸君がゲーテのような文学を書けると思うな。一日にして諸君がオスカーワイルドのような芸術論が書けると思うな。一日にして諸君がカントのごとき哲学を打ち立てることができると思うな。彼らもまた、地道な努力があったということを、忘れてはならないのです。 カントにしてもそうである。カントがあの三部作、有名な『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』と、こうした大著を出したのは、すでに、カントの晩年であったのです。それまでの五十年、六十年の間、彼は倦(う)まず、弛(たゆ)まず、努力を続けておった。そのことを、忘れてはならんのです。 早咲きの桜だけが、素晴らしい桜なのではない。遅咲きの桜のなかにも、素晴らしいものがある。ですから、時期というものは、神の心に任(まか)していかねばならぬのです。ただ諸君は、諸君に与えられた範囲のなかで、そのときどきの最善の努力をしていくことこそが、大切なのではないだろうか。私は、そう思うのです。 まず、自らが一億二千万分の一であるということを、知れ。そして、一億二千万分の一の自分が、どうやって神に近づいていくかということを考えよ。 私は、諸君に言おう。諸君には、一日二十四時間が与えられておる。他の一億二千万人の人にも、一日二十四時間が与えられておる。さすれば、二十四時間をどう使うかによって、諸君は偉人になることもできるし、平凡人として一生を終ることもできるのである。だからこそ、時間の使い方ということを忘れるな。この時間の使い方の責重さということを忘れるな。まず、二十四時間を活かしきれ。 そして、二十四時間を活かす前に、その二十四時間をまず細分せよ。細分して、まず、有意義な一時間を生み出せ。一時間が無理なら、三十分を生み出せ。三十分が無理なら、十分を生み出せ。そうしたこま切れの時間でもよい。そこに金貨が埋まっておると思わねばならん。そこに真実が、永遠が、価値あるものが、埋まっておると思わねばならんのです。 7.毎朝一時間の積み重ねが非凡な人生を開く 諸君よ、谷口雅春は、諸君に一躍天才になってほしいとは思わないのだ。しかし、諸君に、十年、二十年、三十年と実力を蓄(たくわ)えていって、第一人者となってほしいと思うのだ。何に対して努力しようかと、思い患(わずら)うことなかれ。まず、諸君は、今、自分がいちばん関心を持っていること、これを掘り下げていくことが最も大切なのである。諸君は今、何に関心を持っているであろうか。文学であろうか。芸術であろうか。音楽だろうか。哲学だろうか。あるいは理科系統の工学か。あるいは医学か。あるいは化学であろうか。一体何であろうか。才能というものは、なかなかわからない。 すなわち人間には、どのような才能が埋もれているか、それは、一時にしてはなかなかつかめない。ただ言えることは、自分がいちばん興味関心を引かれるもののなかに、自分の才能がいちばん見つかりやすいということ。これは事実である。ですから、今この私の霊言、霊示集を手に取っておるような諸君らは、たとえば、真理というものに対して、非常に関心が強いのです。才能というものは、結局、畑のなかに埋められた黄金の壷であるのだけれども、黄金の壷が比較的浅いところに埋められておるのをもって、才能と言うのです。一鍬(ひとくわ)、二鍬(ふたくわ)、掘れば出てくるようなもの、そういうふうに、浅いところに埋まっておるものを才能と言うわけですね。 したがって、諸君が今、こうした真理の書に興味を持つと言うならば、その真理の書に対する興味というのは、すなわち、諸君が、その方面に才能を持っておるということを意味しておるのです。 では、諸君は、その才能をなぜ活かそうとしないのか。こうした私の問いかけに対して、どのように諸君は答えてくるのであろうか。 諸君よ、まず、朝の時間を活かせ。通勤時間の短い者は、自宅にいて朝の一時間を取れ。通勤時間の長い者は、電車のなかにて一時間を取れ。そのなかにて真理の書を読み、心を養え。心に力をつけよ。 朝の一時間、空いた電車のなかで神想観を行なえ。そして、真理の書を読め。一時間で、諸君は何ページの本を読むことができるであろうか。一時間で十ページしか読めん人もいるであろう。しかし、一時間に十ページであっても、二百五十ページの書物なら、二十五日あれば読むことができるのです。一時間に三十ページ読む人もいよう。一時間に三十ページ読む人は、二百五十ページぐらいの本であるならば、一週間余りで読み終えることができるであろう。一時間に六十ページ読める人がおるとすれば、まあ、この程度の書物であれば、四日もあれば読了することができる。 こうしたものであって、たとえば、四日で一冊、まあ、四日で一冊ということは無理であっても、五日で一冊を読破するということを諸君がもし決めたということであれば、月曜日から金曜日までの朝の一時間、五日間使うことによって、諸君は、真理の書を毎週一冊必ず読むことができるのです。 さすれば、諸君は、一年間で、五十冊以上の真理の書を読むことができる。そして、会社を休まないかぎり、毎日毎日、これを日課として続けることができるのである。非常にありがたいことです。 一年間に五十冊の真理の書を読むとするならば、十年間で五百冊の書が読めます。そして、三十年間には、何と千五百冊の書物が読めるのです。今、目の前に千五百冊の書物を積み上げられても、それを読破できると思う人は稀であろう。しかしながら、一日に一時間、通勤時間のなかで真理の書を読めと言われて、それを読むことがむずかしいという人は、そうはいないでしょう。 要は、積み重ねなのです。定年まで二十年、三十年あるということを嘆くなかれ。それだけの時間があるということを喜べ。その間に、なぜ蓄積をしないのか。真理の書なら真理の書ということでもって、千五百冊の真理の書を読破したならば、諸君は、間違いなく第一人者となることができるのです。 千五百冊の真理の書を、三十年間で読破したならば、諸君は、必ずや人前に立って、演壇にて、人びとを導くような人になるであろう。私は、必ずそうなると思います。 一日一時間、この一時間の積み重ねが、やがて諸君を専門家らしくしてきて、土曜、日曜にもその精力を投入していくことが望ましくなってくるであろう。そして、諸君の専門にますます磨きがかかっていくであろう。こうして、第一人者となっていくわけであります。 若者よ、私の言葉をよく聞きなさい。諸君は、まだ二十代や三十代であろう。その頃に、この私の言葉を聞いた者は、幸いである。私の言葉を実践した者は、さらに幸いである。諸君は、定年までの長い長い三十年、四十年が待っておるように思うかもしれない。しかし、私が言うように、毎日一時間、電車のなかで読み続けたとしたならば、諸君が、やがて五十という声を聞いたとき、つまり、定年が近くなってきた五十歳という声を聞き、頭に白いものが混じり、人びとからそこそこ尊敬されるような年齢になったときに、自分のうちなる蓄えというものが偉大になっているということを知るはずです。 そして、この蓄えでもって、諸君は、人びとを導くことができるのです。そのためには、毎日毎日を磨いていくことである。私は、光明の生活法の二番目として、朝の一時間を活かせということを言いたいと思う。朝、惰眠(だみん)を貪(むさぼ)るなかれ。 8.光明の生活法③――夜の時間を確保せよ 朝を有効に活かすためには、第三番目として、夜の生活ということが大事だ。諸君よ、朝の時間を活かすためには、夜ということを大切にしなさい。すなわち、夜、乱れた生活をしてはならないということです。 夜、毎晩酒を飲みに行ったり、毎晩遅くまで義理だけの残業、そういうサービス残業をしたり、まあ、つまらんことのために、毎晩毎晩を費やすなかれ。諸君よ、交わる友だちを選べ。交わる同僚を選べ。自らを向上させるような同僚を選んでいけ。真面目な人を選べ。つきあう人の幅を、勇気を持って選んでいけ。 諸君は、意志弱い人間となってはいかんのです。たとえば、諸君が、夕方の六時に会社から退社して、まっすぐ家に帰ろうとするのを見とがめて、つきあいが悪いという人がいるであろう。あるいは、そんなものでは、サラリーマン生活はおぼつかないと言う者もあるであろう。しかし、すでに酒の虜(とりこ)となっている人びとは、自分にそうした劣等感、引け目があるがために、自分の仲間をひとりでも多く見つけたくて、酒飲み友だちをふやしたくて、声をかけて誘惑するのです。 これは、ちょうど地獄霊たちと同じです。地獄の悪魔たちというのは、決して自分自身改心して立ち直ろうとせず、自分の仲間をふやそうとする。自分と同じく苦しんだり、自分と同じく迷っている人を、ひとりでもふやそうとして引きずり込もうとする。これが、地獄の悪霊たちの基本的特徴なのです。 しかし、諸君たちは、こうした生ける悪霊たちのそそのかしにのってはならん。貴重な時間を割いて、毎晩毎晩、酒を飲んで生き、巷(ちまた)のそうしたネオン街で、色情霊や、あるいは、酒乱の霊たちと交って、あたら自分の人生というものを無駄にしてはならん。 死んだときに、ああいう人たちに誘われたから自分はそういう酔生夢死(すいせいむし)の人生を送ったのだと言ったとしても、誰もそうした者の言い訳は聞いてはくれない。諸君の人生は、諸君自身がつくっていかねばならんのです。 されば諸君よ、勇気を持って、自分の時間を確保せよ。夜の時間を確保しなさい。夜の時間、やはり一日を静かに振り返ることです。仕事の間、自分が正しく仕事をしたかどうかを。そして、対人関係で間違いがなかったかどうか。こういうことを反省しなさい。夜もまた読書できるのなら、読書の時間を取り、あるいは、趣味なら趣味を活かす時間を取り、そうした時間を取って、自己啓発に生きなさい。 朝の一時間を自分が新たなる専門分野を開拓するために使おうとするならば、夜の時間というものは、今度は自分の本業の部分に使う。まあ、真理そのものをもって職業としている人は数少ないであろうが、朝のいちばんいい時間を真理の学習にあてたならば、夜の時間は、自分の専門領域に使いなさい。たとえば、自分が経済戦線の最先端にいるビジネスマンならば、そのビジネスの書を読み、ビジネスの研究をしなさい。経営をやるなら、経営の書を読みなさい。技術者であるなら、技術の書を読み、勉強をしなさい。すなわち、自分の本業を磨くために、夜の時間をあてることです。 ただ、朝の時間に備えるためには、夜いつまででも起きておるのではなくて、夜は適当なところで切り上げて、早く床につくことです。そして、朝の時間を最高度にしていく。そうできるような工夫をしなさい。夜遅くまで起きておっても、朝早く起きて、朦朧(もうろう)として一日を送ったのでは、一日が非常にもったいない。つまらぬつきあいに時間を取られないことです。早く家へ帰って、自分の時間を確保して、落ち着いた心境でもって、床につきなさい。 そして、寝る前には、まあ、「生長の家」の人であれば神想観があるけれども、神想観でなくてもよい、自分の心を振り返り、高級霊たちと交流するような、そうした静寂な時間帯を取りなさい。自分を見つめる。自分のなかを見つめる。そうした時間帯を取りなさい。そのとき、一日を振り返って、自分の心の垢を落として、そして、床につくことです。 翌日には、素晴らしい、清清(すがすが)しい朝をまた迎えて、一日をスタートしていきなさい。このように、光明生活の第三番目は、夜の時間を確保せよということです。 まあ、どうしても必要があって、夜のつきあいがあることもあるでしょう。ただ、それに流されないことです。それに流されない。酒に飲まれたり、あるいは、異性とかそうした者のなかに飲み込まれていかないように、節度というものを守っていきなさい。それが大事です。 夜のつきあいも、週一回や二回は必要なこともあるでしょう。しかし、深酒をし、夜中まで飲んだくれるのではなくて、適当な時期に見切りをつけて家へ帰るような、そうした規則正しい生活をしなさい。これが三番目です。 9.光明の生活法④――土、日を活かせ 光明の生活法の四番目は、土、日を活かせということです。今、週休二日制が広がり、土、日休みという会社が増えてきています。そこで、この土、日を活かさないという手はないのです。この土、日を最大限に活かしなさい。土、日を最大限に活かす方法は、できれば、土曜か日曜の一日を活動の日として使い、残りの一日を、瞑想とか、読書とかいう充電の時間に使うということです。これは大事なことです。土、日というのは、たっぷりとした時間がある。ですから、土曜か日曜のどちらかの一日を、たとえば、ボランティア活動ならボランティア活動にする。あるいは、真理の活動なら真理の活動のために費やす。 あるいはまた、他のことでもいい。趣味がある人であれば、たとえば、郊外でいろんな野外観察をする人もいるでしょう。山に登る人もいよう。ヨットに乗る人もいよう。あるいは、旅行をする人もいよう。すべて、結構です。 ただ、主として週二日のうち一日は、充電のために、一日は放電のために、そういうふうに使い分けをすることが、長い目でみて、諸君の人生を最大限に生かしていく道となるはずです。 二日のうち一日は、なるべく人のために奉仕できるような時間としなさい。もう一日は、自分のための時間としなさい。一日たっぷり十時間、十五時間の時間を自分のために使いなさい。そして、残りの一日は、土曜でもいい、日曜でもいい、奉仕のために使いなさい。サラリーマンの多くは、階級が上がり、上役になればなるほど、本当は勉強をし、心を練らねばならんのにもかかわらず、毎週毎週、ゴルフにあけくれておる人もいる。こういう人たちは、非常に哀れなる自分というのを知らねばならぬ。 そういったことでもって、言い訳はきかんのです。ゴルフで一日潰しておってもいいが、やはり、適度な量というのがあるのではないか。まあ、運動ということもいいけれども、毎週毎週、ゴルフというのは考えものですね。土曜も、日曜も、ゴルフ。なかには、重役ゴルフと言って、平日までゴルフをやって、仕事をさぼっておる人もいる。こうした者は、大変に考えものです。 まあゴルフもいいけれども、体のためを思うなら、せいぜい月一回か二回くらいにして、それ以外は、そうしたことではなくて、もっと積極的な、生産的な文化活動でもいい、何でもいいが、もっと価値のある仕事に、自分の時間を振り向けていきなさい。 言い訳はきかんのです。あなた方のゴルフ友だちというのは、あなたが会社をやめたときには、もうつきあいがなくなっていくのです。だから、話相手とはならんのです。ゴルフ場を廻って、あなたはこのホールを何ショットたたきましたかと言ってノートに書いて歩いたところで、そんなものは、何の役にも立たんのです。そうしたところにいつまでもとどまっておってはならん。もっと大切な時間を、自分自身のために使っていきなさい。そういうことですね。 10.自分を磨き、神の光の行軍の戦士となれ まあ、以上で四つほど言いましたが、肝腎なのは、時間を活かすということです。偉人と言われるような人は誰もが、自分の時間、一日二十四時間を活かしきって、人類の光となるように努力していったのです。 諸君もまた、そうした人類の光となって、導きの光となって、世を照らしていこうと決意したのであるならば、自分だけの時間、自分の時間の使い方を決めるのは、自分自身であるはずです。ですから、その自分自身で決めた時間の使い方でもって、自らをより高いところへと向上させていくような、そうしたあなた方であれ。 もちろん、ときには退歩することもあるであろう。ときには坂道を下るようなこともあるであろう。しかし、倦(う)まず弛(たゆ)まず向上心を持って生きていけば、やがて諸君は、また登り坂に入っていくであろう。そのことを忘れてはならんのです。 自らの時間を大切にせよ。無駄にするな。時間は金貨です。あなた方は、もし金貨をドブに捨てて歩いている人を見れば、その者を狂人と言うであろう。しかし、金貨以上に大切な時間をドブに捨てて、血みどろの死体をドブのなかに捨てても、平然としておるではないか。もったいないことです。 わずか数十年の人生です。この三次元にまた出て来るには、諸君は、何百年間の期間を最低限おかねば、出て来れないのです。そうした間、後悔し続けるぐらいならば、今回の人生において、完全な生き方をするように全力をつくして生きていきなさい。 そして、全力をつくして生きていくときに、諸君は本当に、光となることができるのです。諸君は、松明になることができるのです。心のなかに松明を点(とも)せと私は言いました。その松明を灯(とも)すためには、まず、諸君の時間のなかで、諸君自身を光らしていくことです。そこに松明を掲(かか)げていく第一歩があるのです。 この松明の灯を、隣の人へ、次の人へと渡していくことです。やがて世界は、光に満ちてくるでありましょう。漆黒の闇は薄れて、やがて夜が明けてくるように見えるでありましょう。そのときのために、諸君は、自らを磨いていかねばなりません。 諸君は、光の戦士として、神の光の行軍のための戦士として、選ばれた人たちであるのです。どうか自らの使命を忘れず、勇ましく、力強く、生きてゆきなさい。私は、そのことを祈っています。