約 192,858 件
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/637.html
原告準備書面(1)要旨2006年1月27日 http //blog.zaq.ne.jp/osjes/article/14/ http //s04.megalodon.jp/2007-1121-1119-07/blog.zaq.ne.jp/osjes/article/14/ 原告準備書面(1)要旨2006年1月27日1 本件訴訟の争点は、 2 さて、曽野綾子氏は、先程の司法改革審議会において、 3 さて、被告らは、死者の名誉毀損に関し、 4 この裁判で責任を追及している岩波現代文庫の「太平洋戦争」は 5 《梅澤少佐命令説》の怪しさは、 6 最後に「沖縄問題二十年」に関する被告らの 7 原告らは、次回以降、「ある神話の背景」等に基づいて 平成17年(ワ)第7696号 出版停止等請求事件 原 告 梅澤 裕 外1名 被 告 大江健三郎 外1名 原告準備書面(1)要旨 弁護士 徳永信一 1 本件訴訟の争点は、 …被告代理人による先程の陳述からもうかがえるように、家永三郎著「太平洋戦争」の記述における歴史的事実の評価・論評、大江健三郎著「沖縄ノート」の記述における匿名性の有無、「沖縄問題二十年」の除斥期間、そして死者の名誉毀損等の判断基準など多岐にわたりますが、なんといっても主たる中心的な争点が、「真実はなんだったのか」というところにあることは明らかであります。本件訴訟が対象としているこれら書籍が依拠してきた今から約60年前、太平洋戦争末期の沖縄戦中に発生した住民集団自決という悲劇が、座間味島の元守備隊長だった原告梅澤少佐と、渡嘉敷島の元守備隊長であった原告赤松さんの兄・赤松大尉が、出した自決命令によるものであったという風説、それが、果たして事実に基づくものであるかどうかというところにあります。 この点、私たちは、2人の作家、歴史研究家が著述した重要な著作の存在を指摘しておきたい。ひとつは、1973年に発行された曽野綾子氏の「ある神話の背景」、もうひとつは2000年に発行された宮城晴美氏の「母が遺してくれたもの」です。 渡嘉敷島の集団自決が赤松大尉の命令によるものだったとする〈赤松命令説〉の根拠を徹底的に調査検討して「ある神話の背景」を出版した曽野綾子氏は、平成12年の第34回司法制度改革審議会において次のように語っています。 これほど激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決命令を出した、という証言は、ついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。 「母が遺してくれたもの」は、座間味島の集団自決が原告梅澤少佐の命令によるものだという神話の根拠とされてきた宮城初枝氏の証言が、援護法の適用を受けるために事実を改変したものであったことを、その宮城初枝氏本人が娘である著者に告白したことを公表した書籍です。その一節を紹介すると、 「隊長命令」の証人として、母は島の長老からの指示で国の役人の前に座らされ、それを認めたというわけである。 母はいったん、証言できないと断ったようだが、「人材、財産のほとんどが失われてしまった小さな島で、今後、自分たちはどう生きていけばよいのか。島の人たちを見殺しにするのか」という長老の怒りに屈してしまったようである。それ以来、座間味島における惨劇をより多くの人に正確に伝えたいと思いつつも、母は「集団自決」の箇所にくると、いつも背中に「援護法」の“目”を意識せざるを得なかった。 この二人の著作によって、慶良間列島での集団自決が、梅澤少佐と赤松大尉の命令によって強制されたという巨悪の神話は、完全に覆ったといってよいでしょう。 2 さて、曽野綾子氏は、先程の司法改革審議会において、 …続けて次のように述べておられます。 当時、沖縄側の資料には裏付けがない、と書くだけで、私もまだ沖縄にある二つの地方紙から激しいバッシングに会いました。この調査の連載が終わった時、私は沖縄に行きましたが、その時、地元の一人の新聞記者から「赤松神話はこれで覆されたということになりますが」と言われたので、私は「私は一度も赤松氏がついぞ自決命令を出さなかったと言っていません。ただ今日までのところ、その証拠は出てきていないというだけのことです。明日にも島の洞窟から、命令を書いた文書が出てくるかれ知れないではないですか」と答えたのを覚えております。しかし、こういう風評をもとに「罪の巨魁」という神の視点に立って断罪した人もいたのです。それはまさに人間の立場を超えたリンチでありました。 ここで赤松大尉を「神の視点に立って断罪」したとされているのが、「沖縄ノート」を書いた被告の大江健三郎氏であることは、少しでも沖縄戦の歴史に関心を持つものにとっては明らかなことでしょう。 ところが、驚いたことに、大江健三郎氏は、この裁判では、「沖縄ノート」の表現は匿名であって、赤松大尉の実名を出さずに「渡嘉敷島の元守備隊長」としているのだから、名誉毀損は成立しないという論法をとりました。 しかし、被告らが援用する昭和31年の最高裁判決がいう「一般の読者の普通の注意と読み方」という基準は、ある表現が名誉を毀損するかどうかということに関する判断基準であり、ここで問題とされている「匿名性」の有無、すなわち、著述された登場人物が誰なのかという「同定可能性」の問題、あるいは、特定情報の共有者の広がりにかかる「公然性」といった次元の異なる事柄を敢えて混同するものであり、そのことは、作家・柳美里氏の小説「石に泳ぐ魚」にかかる名誉毀損が争われた事件の判決が、本件被告らと全く同じ主張をしていた作家と新潮社の主張を退け、最高裁で維持されていることからも明らかです。 表現の「同定可能性」の判断は、共同通信北朝鮮スパイ報道事件判決が示した基準、すなわち、原則として「その表現自体から表現対象が明らかであることを要する」としても、「当該報表現以外の実名報道等が多数に上り、国民の多くが当該事件にかかわる人物の実名を認識した後は、・・・多くの実名報道と同じものだと容易に判明する態様での匿名表現は、匿名性を実質的に失う」という基準においてなされるべきなのです。被告らが要旨を朗読した準備書面(1)においても、赤松大尉が集団自決を命じたことを記載した多数の書籍が発行されていたことがあげられています。さらに、「沖縄ノート」にも取り上げられている赤松大尉が渡嘉敷島での慰霊際出席を阻止された事件を、多数の新聞、週刊誌、グラフ誌が実名報道していることからすれば、「沖縄ノート」の匿名性はもとから失われており、そこで大江健三郎氏がその内面の領域にまで立ち入って描いた若干25歳の「元守備隊長」が赤松大尉であったことを、多くの読者と国民が了解していることは、被告らがなんと言おうと否定しようのない事実なのです。 3 さて、被告らは、死者の名誉毀損に関し、 …「一見明白で虚偽であるにもかかわらずあえて適示したこと」を要するという主張をしています。死者の名誉毀損や歴史的事実の論評に対して適用されるべき違法性判断の基準のありようについては、追って徹底的に反論する予定ですが、ここでは、重大な視点をひとつ指摘しておきたいと思います。 それは、「沖縄ノート」も「沖縄問題二十年」も、赤松大尉の生前に著述され、曽野綾子氏の「ある神話の背景」の出版によって、その虚偽性が濃厚ないし決定的になった状況のなかでも、出版・販売が続けられ、もって生前の赤松大尉の名誉を毀損し、その生活を破壊し、筆舌に尽くし難い苦痛を押しつけてきたということです。 「沖縄ノート」は、単に死者の事跡や歴史を論じたものではありません。生身の人間として生活していた赤松大尉の人格評価をその内面にまで立ち入って徹底攻撃する、まさに「人間の立場を超えたリンチ」でした。 それがどのようなものであれ、死者に対する名誉毀損ないし歴史的事実にかかわる表現に係る違法性判断の「緩和された」基準を適用することが許されないことは、人間の条理に照らし明らかです。 4 この裁判で責任を追及している岩波現代文庫の「太平洋戦争」は …教科書裁判で有名な家永三郎氏の著作です。 この「太平洋戦争」は、初版にあった渡嘉敷島での赤松大尉による集団自決命令の記述を第二版から削除し、沖縄戦の集団自決については、梅澤少佐が命令したとする座間味島でのものだけを掲載しています。 被告らの今回の準備書面では、なんと第二版が出版された1986年当時、梅澤少佐の命令で座間味島での集団自決が生じたという《梅澤命令説》が歴史的事実として承認されていたという驚くべき主張がなされています。そうであれば、教科書裁判の過程において根拠を失ったために、第二版から削除された《赤松大尉命令説》は、それが歴史的事実ではないことが承認されたことになりましょう。 また、既に述べたように、座間味島の集団自決における《梅澤命令説》が虚偽であったことは、現在、歴史的事実として確定しています。 そして「太平洋戦争 第二版」が出版された1986年においても、既に複数の関係者の否定証言から梅澤命令説は疑問視されており、沖縄県でも通史の見直しがなされていることが報道されています。岩波現代文庫の「太平洋戦争」が出版された2002年には、宮城晴美著「母の遺したもの」(2000年12月発行)の出版により、「梅澤命令説」の虚偽性は決定的になっていました。この時期に、敢えてこれを出版した岩波書店の行為は、まさしく「歴史の捏造・歪曲」にほかならず、真実を重んじるべき出版社の社会的使命にもとるものといわなければなりません。 5 《梅澤少佐命令説》の怪しさは、 …被告らが真実性の有力な根拠として挙げている沖縄タイムス社出版にかかる『鉄の暴風』の記述からも明らかです。 その初版本には、次のような一節がありました。「日本軍は、米兵が上陸した頃、二、三ヶ所で歩哨戦を演じたことはあつたが、最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降、隊長梅澤少佐のごときは、のちに朝鮮人慰安婦らしきもの二人と不明死を遂げたことが判明した。」不明死を遂げたとされた原告梅澤は生きており、本件訴訟を提起しています。この事実は、曽野綾子氏が批判したように、「鉄の暴風」が、住民に対する直接の取材もなしに、根拠のない風聞に基づいてなされ、その後一人歩きして「神話」をつくっていったことを如実に示しています。 6 最後に「沖縄問題二十年」に関する被告らの …仮定的主張、すなわち、それが1974年に出庫停止になっており、すでに20年の除斥期間が経過したという主張に対する反論を申し上げます。 まず、2002年に「太平洋戦争」を文庫化したことにみられる岩波書店の「歴史の捏造・歪曲」に向けられた出版姿勢に照らすと、今後の「沖縄問題二十年」復刊のおそれは否定できないのであり、出版停止命令等の必要性は優に認められるというべきです。 そして、「沖縄問題二十年」の出版・販売による加害行為は、出庫停止後も古本市場での流通、図書館等での閲覧という形で現在も継続されており、岩波書店は、その回収等によりこれを停止するという条理に基づく義務を有しているにもかかわらず、これを放置しています。この不作為による加害行為という視点を没却した岩波書店の除斥期間に係る主張は全く失当であります。 7 原告らは、次回以降、「ある神話の背景」等に基づいて …渡嘉敷島、座間味島での集団自決が赤松大尉、梅澤少佐の命令によるものだとする「神話」が全く根拠のないものであったことを、さらに補充して論証する予定ですが、それに先立ち、被告らの加害行為とそれによる人権侵害の甚だしさを明確にするべく、岩波書店に対し、本件各書籍の各版、各刷毎の発行年月日、発行部数等について明らかするよう求めます。 以上 戻る
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1663.html
昨日 - 今日 - 目次 戻る 通2-048 次へ 通巻 読める控訴審判決「集団自決」 事案及び理由 第3 当裁判所の判断 1 判断の大要 (判決本文p114~) 当裁判所も, 原審同様, 控訴人らの各請求は, 当審で拡張された分を含めていずれも理由がないものと判断する。 その理由の骨子は, 次のとおりであり, 詳細は, 後記2以下のとおりである。 「太平洋戦争」の記述は控訴人梅澤の, 「沖縄ノート」の各記述は控訴人梅澤及び赤松大尉の, 各社会的評価を低下させる内容のものであったと評価できること, しかし, これらは高度な公共の利害に関する事実に係わり, かつ, もっぱら公益を図る目的のためになされたものと認められること, 以上の点は, おおむね原判決が説示するとおりである。 座間味島及び渡嘉敷島の集団自決については, 「軍官民共生共死の一体化」の大方針の下で日本軍がこれに深く関わっていることは否定できず, これを総体としての日本軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る。しかし, 控訴人梅澤及び赤松大尉自身が直接住民に対してこれを命令したという事実(最も狭い意味での直接的な隊長命令―控訴人らのいう「無慈悲隊長直接命令説」)に限れば, その有無を本件証拠上断定することはできず, 本件各記述に真実性の証明があるとはいえない。 集団自決が控訴人梅澤及び赤松大尉の命令によるということは, 戦後間もないころから両島で言われてきたもので, 本件各書籍出版のころは, 梅澤命令説及び赤松命令説は学会の通説ともいえる状況にあった。したがって, 本件各記述については, 少なくともこれを真実と信ずるについて相当な理由があったと認められる。また, 「沖縄ノート」の記述が意見ないし公正なる論評の域を逸脱したとは認められない。したがって, 本件各書籍の出版はいずれも不法行為に当たらない。 本件各書籍(「太平洋戦争」はその初版)は, 昭和40年代から継続的に出版されてきたものであるところ, その後公刊された資料等により, 控訴人梅澤及び赤松大尉の前記のような意味での直接的な自決命令については, その真実性が揺らいだといえるが, 本件各記述やその前提とする事実が真実でないことが明白になったとまではいえない。他方, 本件各記述によって控訴人らが重大な不利益を受け続けているとは認められない。そして, 本件各記述は, 歴史的事実に属し日本軍の行動として高度な公共の利害に関する事実に係わり, かつ, もっぱら公益を目的とするものと認められることなどを考えると, 出版当時に真実性ないし真実相当性が認められ長く読み継がれている本件各書籍の出版の継続が, 不法行為に当たるとはいえない。 したがって, 控訴人らの本件請求(当審での拡張請求を含む)はいずれも理由がない。 目次 戻る 通2-048 次へ 通巻
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1059.html
http //ryukyushimpo.jp/news/storyid-130599-storytopic-101.html 「集団自決」軍が関与 岩波・大江訴訟 2008年3月28日 【大阪】沖縄戦中、座間味・渡嘉敷両島で起きた「集団自決」(強制集団死)をめぐり、両島に駐留していた日本軍の戦隊長が住民に自決を命じたとの本の記述は誤りだとして、座間味島の元戦隊長梅澤裕氏(91)らが「沖縄ノート」著者の作家大江健三郎氏と版元の岩波書店に出版差し止めなどを求めた訴訟の判決が28日午前、大阪地裁(深見敏正裁判長)であった。深見裁判長は元戦隊長ら原告側の主張を全面的に棄却した。判決は両島での「集団自決」について「梅澤、赤松大尉が関与したことは十分に推認できる」と指摘。「元守備隊長らが命令を出したとは断定できない」としながらも、大江氏らが両隊長の自決命令を真実と信じるには相当の理由があったとして「沖縄ノート」と家永三郎著「太平洋戦争」は名誉棄損には当たらないとし、元戦隊長ら原告側の主張を退けた。原告側は週明けに控訴する。 判決は、体験者の多くが日本兵から自決用に手榴弾(しゅりゅうだん)を渡されたと証言していることや、沖縄で「集団自決」が発生したすべての場所に日本軍が駐留していた事実などを踏まえ「集団自決には日本軍が深くかかわった」と認定した。元戦隊長ら原告の「隊長命令説は戦後、島民が援護法の適用で補償を得るためにねつ造された」との主張には「戦時下の住民の動きに重点を置いた戦記として資料的価値を持つ『鉄の暴風』などは援護法適用以前から存在していた」などとし「ねつ造を認めることはできない」と退けた。 その上で、両書は歴史書や戦後民主主義を問い直すものとして公益を図る目的で刊行され、大江氏らが書籍の刊行時、記述を真実と信じる相当の理由があったとして名誉棄損の不法行為責任に関する一般法理から、両書の原告への名誉棄損は成立しないと結論づけ、岩波側の主張を認めた。 係争中の昨年3月、文部科学省の教科書検定で高校歴史教科書から日本軍の「集団自決」強制の記述が修正・削除された。同省は当時、梅澤氏が訴訟に提出していた自決命令を否定する陳述書を検定意見の根拠の一つに挙げていたが、28日の判決で検定意見は根拠の一つを失った。 原告は梅澤氏と、渡嘉敷島の戦隊長だった故赤松嘉次氏の弟、秀一氏(75)。2005年8月に提訴し、両書が梅澤氏の名誉や、赤松氏の兄を慕う心情を侵害していると訴えていた。 【用語】「太平洋戦争」と「沖縄ノート」
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/990.html
赤松氏デビュー1968/4/6号週刊新潮 渡嘉敷島の第3挺進隊長であった赤松嘉次氏が、戦後再び国民の前に姿をあらわしたのは、今から40年も前の1968年の週刊新潮紙面であった。おそらく、大スクープであったに違いない。40年も前というと、1945年の沖縄戦のときから見れば、1905年の日露戦争ということになる。 これは、明らかに「歴史史料」である。 この週刊新潮記事から、赤松氏の名誉回復運動ははじまった。この記事中の「私は何も悪いことはしていない」、「近く渡嘉敷を訪問するこころづもりだ」という言葉が挑戦的と受け取られ、2年後、有名な「渡嘉敷島渡航阻止」の抗議行動を呼び込んだ。 その抗議行動のニュースと赤松氏の言動に触発されて、大江健三郎氏は「沖縄のノート」最終回を記述した。 また、その抗議行動のニュースを読んで、曽野綾子氏は赤松氏にひきつけられ「切りとられた時間」と「ある神話の背景」という、2編の渡嘉敷島集団自決をテーマとした作品を書いた。 そうしていま、大阪地裁で赤松嘉次氏の弟と、座間味島挺進隊長梅澤裕氏とを原告とし、大江健三郎氏を被告とする名誉毀損裁判が進行している。 いまから復刻しようとする週刊新潮記事は、こうした争いごとの端緒であり、論争事始、いわば日中戦争を起こした盧溝橋事件の謎の「発砲音」である。そしてこれは、「大東亜戦争」にまけた日本国民が日露戦争を回顧するが如き歴史的文献でもある。40年の経過といえば、そのとき赤ちゃんとして誕生したとしても、早い女性なら「おばあちゃん」と呼ばれてしまう年月である。 紹介されている島の住民によって書かれた戦記、『渡嘉敷島における戦争の実相』は、曽野綾子氏の「ある神話の背景」にも一部引用されているが、そこでは他の文献との文章の類似性を例示するだけで、書かれている事実を先ずは端正に読み取ろうという謙虚な姿勢はない。この週刊新潮記事は、大学に眠る『渡嘉敷島における戦争の様相』(※)の記述内容を知る上でも、貴重な史料といえよう。 ※(引用者注)この週刊新潮記事では『渡嘉敷島における戦争の実相』と誤記されています。詳しくは、大阪に住んでいた高校教師がまとめた論文:『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同参照のこと (たとえば、特攻艇『マルレ』を海に泛べる作業に防衛隊員など住民も参加していた、という事実は「ある神話の背景」にもない。玉砕した住民を見てないという赤松大尉の目には、何処にいても住民の姿は映らなかったようだ。曽野氏もそうした赤松氏の視野を踏襲している) 私にこのような歴史史料探索へと導いたのは、ほかならぬ大江・沖縄裁判の原告の人たちである。感謝申し上げます。 戦記に告発された赤松大尉沖縄「渡嘉敷島処刑」二十三年目の真相島民三二九集団自決の地獄図 「荒れ狂った赤松隊の私刑」 赤松元大尉大いに弁ず 「島民を斬ったのは軍紀」 ~~~~~~~~~~~~~~(記事引用開始ここから) 戦記に告発された赤松大尉 沖縄「渡嘉敷島処刑」二十三年目の真相 (記事リード) 昭和20年、米軍に上陸された沖縄の渡嘉敷島の戦記は、軍・民、恩讐の記録だという。琉球大学の図書館に眠りつづけているというガリ版刷の"資料"は、ごく一部の人の知るところであっても、一般にはほとんど知られていない。主役を演ずる赤松大尉の名。島民に集団自決を強い、女子少年を惨殺し、自らは生還していったという。ある書評氏は、彼が、いま自衛隊幕僚のイスにあることをホノめかす。 以下は、ベールを脱ぐ赤松大尉事件の実相と、今日の素顔である。従来の沖縄戦記を変えることになるかもしれない。 沖縄戦史上、まだ完全に解明されていない、その"軍・民、恩讐の記録"は、正しくは、『渡嘉敷島における戦争の実相』(正しくは『渡嘉敷島における戦争の様相』)と表題される。島民の記憶を集めて、昭和25年にまとめられた(※)、島民自身の戦史である。 ※(引用者注)記事上の記述からは「昭和25年にまとめられた」とする根拠は不明。ガリ版刷の文書には、成立の日付はないという:『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同参照。 渡嘉敷島は、那覇市西方約18マイルの洋上に浮かぶ慶良間列島の主島。「山紫水明の自然」に恵まれて、沖縄の「美しき離島」といわれるところ。 昭和20年3月、この「美しき離島」に、赤松嘉次大尉(当時25歳)を隊長とする陸軍の海上挺進隊(注=合板で作った小さな舟に爆雷を載せ、敵艦に突入する、陸軍の水上特攻隊)の第3戦隊が駐屯した。隊員130名。そのほとんどは特別幹部候補生だった。そして、爆雷を積んだ舟艇が百隻、すべて、海岸近くに隠されていた。そのほか整備隊、通信隊員若干名と、朝鮮人軍夫320名が赤松指揮下である。 3月25日未明、慶良間海峡に、潜水艦を伴う米軍の艦隊が侵入した。彼らは「いかにも日本軍を見くびったのごとく、悠々と投錨」し、渡嘉敷島に砲撃を開始した。 午後11時、赤松隊長は、隊員に"出撃準備"の命令を発した。その時の模様を"記録"は次のように書く。 「夜空に敵艦砲の落下もものかはと防衛隊(注=軍に臨時に召集された島民隊)70余名、男女青年団員100名、壮年団員30名、婦人会40名が軍に協力、舟艇百隻は退避壕より引き出され、26日午前4時、渡嘉志久、阿波連(注=いずれも渡嘉敷島の地名)の海辺に勇姿を揃えた。気の早い元気旺盛な特幹隊員は、勇躍乗船し、エンジンの音も高々と敵艦撃沈に心を躍らせて、出撃の命令を今か今かと待っていた」 しかし、「赤松隊長は出撃命令を下さず、壕の奥に待避し、戦闘意欲を全く失っていた」というのである。 "記録"は続く、 「百隻の舟艇は、出撃の勇姿を揃えたまま夜明けとなり敵グラマン機の偵察に会った。隊長赤松大尉は何を考えてか、或いは気が狂ったのか、全艇破壊を命令した。特幹隊員は呆然としていたが、上官の命令に抗することも出来ず、既に出撃の機は失したるため、隊員は涙を呑んで、舟艇の破壊を実施した。舟艇を失った特幹隊員は、本来の任務を全く捨て、かねて調査済みの西山(注=島内の山)の奥深く待避し、赤松隊の生き伸び作戦が始まった。陸士出の大尉赤松は完全に卑怯者の汚名を着せられた」 島民三二九集団自決の地獄図 3月26日、渡嘉敷島民約千四百人が最も恐れていた米軍の上陸が開始された。 が、赤松隊に応戦の意思はなく、武器弾薬を放棄し、隊長以下全将兵の"生き延び作戦"がはじまった。その結果、米軍は島を完全に"無血占領"したのである。 27日夕刻、駐在巡査を通じて、赤松隊長の「住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ」という命令が伝達された。その夜はものすごい豪雨。それでも島民たちは「頼みとする赤松隊」の陣地を目ざして、「ハブの棲む真暗な山道」を、統制なく、歩いて行ったのだ。その雨の山道は「親子、兄弟を見失った人々の叫び声がこだまし、全く生地獄の感」であったという。 そうして、やっとの思いでたどりついた島民たちを待ち受けていたのは、意外にも、赤松隊長の「住民は軍陣地外へ撤退せよ」という冷たい命令であった。もっとも、その命令が意外かどうかは、"記録"そのものにも矛盾があるのだが。なぜならば、赤松隊長が駐在巡査を通じて伝えた命令は、「住民は一人残らず西山の軍陣地北方の盆地に集合せよ」というもので、「西山の軍陣地に集合せよ」ではなかったのだから。 それはともかく、撤退命令を受けた島民たちは、3月28日午前、西山の軍陣地北方の盆地に結集した。そして、問題の"集団自決"がはじまるのである。""記録"によると――、 「その頃、島を占領下米軍は、友軍(注=赤松隊のこと)陣地北方百米の高地に陣地を構え、完全に包囲体型を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り、遂に住民の待避する盆地も砲撃を受けるに至った。危機は刻々に迫った。事ここに至っては、如何ともし難く、全住民は、皇国の万歳と日本の必勝を祈り、笑って死のうと悲壮な決意を固めた。かねて防衛隊員に所持せしめられた手榴弾各々2個が唯一の頼りとなった。各々親族が一かたまりになり、一発の手榴弾に2、30人が集まった。手榴弾がそこここで発火したかと思うと、轟然たる不気味な音は、谷間を埋め、瞬時に老若男女の肉は四散し、阿修羅の如き阿鼻叫喚の地獄が展開された。死にそこなったものは、棍棒で頭を打ち合い、剃刀で自分の頚部を切り、鋤で親しいものの頭をたたき割る等、世にもおそろしい情景が繰り拡げられ、谷川の清水は血の流れと化した。一瞬にして329名の生命を奪った。その憎しみの盆地を村民は、今なお玉砕場と呼んでいる。手榴弾不発で死をまぬかれた者は、軍陣地へと押しよせた。赤松隊長は壕の入り口に立ちはだかり、軍の壕に入ってはいけない、速やかに軍陣地を去れと厳しく構え住民を睨みつけた」 「赤松隊長が、島民に"自決命令"を出したということは、"記録"には書かれていない。けれども、防衛隊員に手榴弾を持たせたこと、死に切れずに軍陣地に押しよせた島民たちを隊長が「軍の壕にはいってはいけない」とにらみつけたという表現などで、"集団自決"は強いられたものであるといっているのである。ちなみに、この"記録"を読んで、渡嘉敷島を訪問し、その"生存者"たちに直接問いただした人々は、確かに赤松隊長から"自決命令"が出されたという島民の証言をレポートしている。たとえば、ルポ作家の石田郁夫氏は『沖縄の断層』(雑誌『展望』67年11月号)で、「赤松から、防衛隊員を通じて、自決命令が出された」と明確にしるしている。 「荒れ狂った赤松隊の私刑」 3月31日夜半、米軍は「赤松隊の兵力をみくびったか」、渡嘉敷島を撤退した。その直後、赤松隊長から島民に対して、「家畜屠殺禁止、違反者は銃殺」という命令が出され、さらに、「我々軍隊は、島に残っているあらゆる食糧を確保し、持久態勢を整え、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態は、この島に住む全ての人間に死を要求している」という"主張"が付け加えられ、ただちに軍による島民監視の前哨線が設けられた。 4月下旬、米軍は再び渡嘉敷島に上陸してきた。彼らは、すでに占領した伊江島(注=那覇市の北西にある島)から、生き残った伊江島民を連れて来て、焼け残った渡嘉敷島民の家に収容した。むろん、渡嘉敷の島民たちはその間、山をさまよっていたのだ。その"さまよう島民たち"に赤松隊は残酷な"私刑"加えてきた・・・・。 例えば、多里少尉は「住民の座間味盛知にスパイの嫌疑をかけ」て切り殺した。また高橋伍長は、「山をさまよい歩く古波蔵太郎(※)を、敵に通ずる恐れあり」として、その軍刀にかけた。"私刑"は日ましにふえ、しかも"隊長命令"で堂々と行われるようになっていったのである。"記録"は告発する。 「米軍の要求により伊江島住民から選ばれた若き男女6名が、赤松隊に派遣された。それは戦争が既に日本の不利であり、降伏することが最も賢明な策であることを伝えるためであったが、赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の者を惨殺した。 また、集団自決に重傷を負い、米軍に収容された十六歳の少年小嶺武則、金城幸次郎の両名は米軍の治療を受け、ようやく恢復したので、米軍の支持に従い、渡嘉敷住民へ連絡のため避難地へ向けられた。目的は住民へ早く下山する様伝えるためであったが、途中赤松隊の将士は二人を捕え、米軍に通じた(という)理由のもとに処刑した。 渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏は敵に通ずるおそれありと斬首された」 8月15日、島民たちは古波蔵惟好村長と相談し、ついに米軍へ集団投降した。 赤松隊が投降したのは、8月22日のことであった。 ※古波蔵太郎→古波蔵樽という人名が多くの書では引用されている。 赤松元大尉大いに弁ず 今、その「悪名高き」赤松嘉次元大尉は「自衛隊の幕僚」ではない。すでに48歳、関西のある小都市で、父親譲りのかなり大きな肥料問屋を経営している。むろん、戦後、彼自身の口は「渡嘉敷戦」について多くを語っていない。やはり苦痛だったのであろうか?その彼が、今年1月14日、戦後、23年目にはじめて開かれた「渡嘉敷島海上挺身(ママ)隊第三戦隊」の"同窓会"で、これまたはじめて「戦闘報告」をおこなったのである。なぜ、そういう"心境"になったのか。一つには、防衛庁が出した戦史『沖縄方面陸軍作戦』が「彼の名誉を回復した」からといわれ、また最近、渡嘉敷島住民の間で、「赤松名将説」が現れたことに「ご本人、すっかり気をよくし」たからともいわれている。 それはともかく、ご本人に直接、島民の"告発"に見合った「戦闘報告」を聞こう。なるほど、表情はスッカリ明るいのである。まず、「戦わずして生き延びようとした卑怯者」という非難に対して――。 「 いや、二十年三月二十日、われわれは、特攻用の舟艇の準備を完了していた。そして二十三日、二十四日と空襲を受け、周辺に敵の艦船が多く姿を見せたので、直ちに出動できるような体制を組んだわけです。ただ、あの艇は新兵器なので、上級司令部からの命令なしに、独断で出動できなかったのです。そこに、私の直接の上司である第十一船舶団長の大町大佐が阿嘉島(注=渡嘉敷島の隣島)から視察に回ってこられた。ちょうど、舟艇を海岸におろしているところだったので、大町大佐にひどくシカられたことを覚えている。大町大佐の考えは敵に舟艇があることを絶対に知られてはいかんということで、全舟艇の引き上げを命じられました。そしてさらに、大町大佐を沖縄本島に護送せよという命令が大佐からでたわけです。これもいろいろと議論があって、結局25日、大町大佐を護送しながら全艇の沖縄本島転進が命ぜられた。そこで、全舟艇を浮べる作業を私が隊員に命じたんです。ところが敵艦の接近で、思うように作業ができない。そしたら、大佐が、全舟艇を引き上げよという命令をまた出されたんです。出動できる舟艇も多くあったんですが。 しかし、艦砲射撃の中で、作業がうまくいかず、大町大佐は、引き揚げ不可能なら、全舟艇を沈めよと命令。結局、沈めました。それを島民の人たちは"卑怯者"というふうに思っておられるんでしょうが、私一人なら出撃しましたよ。しかし、上官の命令です。それに司令官として当然のことを考えられたんです。舟艇を敵に見つからないようにと・・・・。大町大佐は、26日、"地上での持久戦"を命令されて、わずかに残った舟艇で沖縄本島に帰られたんですが、途中、戦死されました。そういう事情は島民の人にはわからんですからねぇ・・・・」 「島民を斬ったのは軍紀」 そして、島民に命令したといわれる「集団自決」についてはどうか。 「 そんな話は、まったく身に覚えのないことですよ。3月26日、米軍が上陸したとき、島民からわれわれの陣地に来たいという申し入れがありました。それで、私は、私たちのいる陣地の隣の谷にはいってくれといった。われわれの陣地だって陣地らしい陣地じゃない。ゴボウ剣と鉄カブトで、やっと自分の入れる壕をそれぞれ掘った程度のものですからねえ。ところが、28日の午後、敵の迫撃砲がドンドン飛んできた時、われわれがそのための配備をしているところに、島民がなだれこんで来た。そして、村長が来て、"機関銃を貸してくれ、足手まといの島民を打ち殺したい"というんです。もちろん断りました。村長もひどく興奮してたんでしょう。あの人は、シナ事変のと時、伍長だったと聞いてたけど・・・・。 ところが、そのうちに島民たちが実に大きな声で泣き叫びはじめた。これは、ものすごかったわけです。なにしろ、八百メートル離れたところに敵がいるんですからね、その泣き声が敵に聞こえて、今度は集中砲火も浴びるわけです。それで、防衛隊に命じて、泣き声を静めさせようとしました。それでもなお静まらないので、ある防衛隊員が"黙らんと、手榴弾を投げるぞ"と叫んで、胸のポケットにはいっている手榴弾に手をかけたら、どういうわけか安全弁がはずれ、ポケットのフタにひっかかって、胸のところでシューシューいって、とうとう爆発して死んでしまった。とばっちりで将校も一人負傷したが、おかげで、泣き叫んでいた島民も静まりました。集団自決があったのはそれからのことでしょう。私はまったく知らなかった。おそらく、気の弱い防衛隊員が絶望して家族を道連れに自殺しはじめたんだと思う。 」 次に、「私刑」について、赤松大尉はなんと答えるか。 「 これは知っています。いや、これはたしかにやりました。"記録"の中には私のしらないのもあるが・・・・。伊江島の女三名、男三名を米軍が投降勧告に派遣してきました。それがわれわれのほうの歩哨線に引っかかったんです。そこで私は、村長、女子青年団長とどう処置するか相談したら、"捕虜になったものは死ぬべきだ"という意見でした。たしかにあの当時はそういうことだったんです。それで六人に会うと、かれらは"われわれを米軍のほうに帰してくれ"という。しかし、こっちの陣地にはいってしまったものは、帰すわけにはいかんというと、"それじゃあ、あなた方といっしょに米軍と戦う!"というんです。だけど、米軍のほうに家族を残して来てるんだから、それはできる話ではない、むしろ死んでほしいといったわけです。そしたら、女はハッキリしとるんです。"死にます"という。男は往生際が悪かったが、ある将校が刀で補助して死なせました。彼らは東のほうを向いて"海ゆかば・・・"を歌いながら死にました。 あとでやはり投降勧告に来た二人の渡嘉敷の少年のうち、一人は、私、よく知っていました。彼等が歩哨線で捕まった時、私が出かけると、彼らは渡嘉敷の人といっしょにいたいという。そこで "あんたらは米軍の捕虜になってしまったんだ。日本人なんだから捕虜として、自ら処置しなさい。それができなければ帰りなさい"といいました。そしたら自分たちで首をつって死んだんです。 渡嘉敷小学校の先生、大城徳安は、私がハッキリ処刑を命じました。防衛隊員のくせに無断で家族のもとに帰るんです。たびたびやるから、今後やったら処刑するといっておいたのにまたやった。その時は本人も悪いと思ったのか、爆雷を持って突っ込ませてくれといった。しかし、私が処刑を命じて副官が切りました。戦線離脱、脱走です。」 赤松元大尉、実にスッキリと認めるのである。いまもって、この"処刑"に、"軍人としての自信"があるらしいのだ。 紹介したように島民たちの"記録"にもいささか冷静さを欠いた箇所がうかがわれ、赤松大尉の弁明にも、「今さら」と思わせる強硬な部分がある。赤松氏が1月の"同窓会"の戦闘報告の冒頭、「私のやったことはすべて若気の至りで」と頭を下げたと聞く。そして近く、23年ぶりで渡嘉敷を訪問する心づもりだという。島民諸氏がどんな受け入れ方をするか。死者の墓の前に、お互いがこだわりを捨て去れれば、この小島の"戦争"はひとまず過去のものとなろう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~(記事引用は以上) 赤松氏の話は、のちの曽野綾子『ある神話の背景』およびその改題WAC版における話と微妙に違う。変わらないのは、大城訓導処刑以外のことは、重要な局面では「戦隊長である自分の決断だ」とは述べず、必ず「他人の誰か」を楯にして弁明を行っている点である。 なお赤松氏は、一般マスコミ登場はこれが初めてだが、すでに『戦史叢書・沖縄方面陸軍作戦』の編集過程で、その執筆者の力を借りて軍関係文献とのすり合わせを行っている。従ってこの記事は、自分の体験だけで初めて語った "バージンスピーチ" だとはいえないだろう。 第3戦隊同窓会が重ねられ、その会合に曽野綾子氏が加わるようになって、より緻密なすり合わせが行われ、『陣中日誌』を完成させたものと思われる。 近いうちに、赤松証言の変遷も解析してみたい。 この週刊新潮記事を読んだ沖縄の新聞、琉球新報は、急遽赤松氏に会いフォローアップした。 それは怒りの特集となった。 →史料発掘:赤松氏デビュー1968.4.8琉球新報
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1877.html
情報元は「森茂樹のマーケティング・コラム 」さん http //www3.ocn.ne.jp/~fmg-net/moricolumn/morico160.html 2008.11.13朝日新聞「私の視点」 東京大学教授・北岡伸一(日本政治外交史) 「トップの条件欠如を露呈」 「論文の必要条件は、たしかな事実と堅固な論理である。 田母神氏の論文には、事実の把握において、著しい偏りがある。例えば、日本は中国や朝鮮に対し、相手の了解を得ないで一方的に軍を進めたことはないと書いている。しかし、満州事変が、石原莞爾ら関東軍の幕僚による陰謀であったことは、誰でも知っている事実である。張作霖爆殺事件についても、コミンテルンの仕業という説が有力になっていると書く。ごく一部にそういう説はあるが、まったく支持されていない。関東軍参謀の河本大作によるものだという説は、揺らいでいない。 歴史で重要なのはバランス感覚と総合的な判断である。いろいろな説や情報の中から、最も信頼できる事実を選び取る作業が重要なのだ。都合のよい説をつまみ食いしたのでは、歴史を理解したことにはならない。 論理においては、さらに矛盾や飛躍が多い。 田母神氏は、もし日本が侵略国家であったというなら、当時の列強はみな侵略国家であったと述べている。したがって、列強も日本も侵略したと言っているのかと思うと、別のところでは、日本は侵略していないという。矛盾していないだろうか。 論理が通っているかどうかということは、彼我を変えても妥当するか、考えればよい。 田母神氏は、日本の朝鮮統治や満州統治は西洋列強の植民地支配とは違い、住民を差別せず同化を目指し、経済的に大きな成果をもたらしたと述べる。 そういう面もあった。しかし善政をしけば植民地支配は正当化された人々は納得するのか。仮に朝鮮または清朝が日本を植民地にして主権を奪い、他方で善政をしき日本を経済発展させれば、日本人は満足したか。断じてノーである。成果は乏しくとも、自分のことは自分で決めたい。それがナショナリズムである。現に田母神氏は、アメリカが戦後日本に繁栄をもたらしたことを評価していないではないか。 日米開戦直前にアメリカが示した交渉案のハル・ノートを受け入れたら、アメリカは次々と要求を突きつけ、日本は白人の植民地になってしまったことは明らかだという。どうしてそういう結論になるのだろう。ハル・ノートをたたき台に、したたかな外交を進めることは可能だった。その結果が、無条件降伏よりわるいものになると考える理由はまったくわからない。 田母神氏の国際政治に対する見方は妙に自虐的、感情的である。氏は、ルーズベルトが日本に最初の一発を撃たせようとしていたとし、日本は彼と蒋介石によって戦争に引きずり込まれたという。そういう面もなかったわけではない。しかし、国際政治とは、しばしばだましあいである。自衛隊のリーダーたるものが、我々はだまされたというのは、まことに恥ずかしい。 田母神氏は現在の日本にはなはだ不満らしい。日本人はマインドコントロールから開放されていないという。もしそうならその責任は誰よりも、負ける戦争を始めた当時の指導者にあるのではないか。しかし、氏は、妙に彼らには甘いのである。今の日本を憤るなら、なぜ戦争をしてしまった指導者をかばうのか。 外国でも日本でも、軍のトップには教養があり、紳士的でバランス感覚に富んだ人が少なくない。それがトップの条件だろう。そういう意味で歴史は、トップリーダーが身につけておくべき学問である。田母神氏は、以上の点でトップにふさわしくない。そういう人がトップにいたことは驚きである。自衛隊への信頼は大きく損なわれた。まことに残念なことである。」(2008年11月13日 朝日新聞掲載「私の視点」より引用紹介している) 「偉そうな軍人さんは嘘をつく」庫
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1499.html
http //www.nikkei.co.jp/news/shakai/20081101AT5C3101V31102008.html 【日経】沖縄集団自決訴訟、元隊長側が二審も敗訴 大阪高裁判決 太平洋戦争末期の沖縄で起きた集団自決を命じたなどとする記述で名誉を傷つけられたとして、旧日本軍の当時の隊長らが岩波書店と作家の大江健三郎さん(73)に「沖縄ノート」の出版差し止めや損害賠償などを求めた訴訟の控訴審判決が31日、大阪高裁であった。 小田耕治裁判長は、請求を退けた一審・大阪地裁判決を支持、元隊長側の控訴を棄却した。 判決理由で小田裁判長は、集団自決について「日本軍が深くかかわったことは否定できず、総体としての軍の強制ないし命令と評価する見解もあり得る」と指摘した。(07 00) 沖縄戦ニュース
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2631.html
http //sankei.jp.msn.com/politics/policy/100220/plc1002200244003-n1.htm 【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 中国への歩み寄りは無意味 2010.2.20 02 44 ≪歴史観の違い明確に≫ 日中両国の有識者による歴史共同研究の報告書が先月末、公表された。この共同研究は、平成18年10月の安倍晋三首相(当時)と胡錦濤国家主席の合意に基づき、戦略的互恵関係構築の一環として行われたものだ。 双方が歩み寄ったことを評価する声が一部にある。だが、近現代史部分の中国側記述を読むと、表現が少し穏やかになったものの、内容は従来の中国共産党史観とほとんど変わらない。中国がそれほど歩み寄ったとは思えない。 南京事件(昭和12~13年)について、中国側はこう書いている。「日本軍は南京で多数の捕虜や住民を集団虐殺し、略奪を繰り広げた。東京裁判は占領後1カ月間に南京市内で2万人近い強姦(ごうかん)事件が起きたと認定。南京軍事法廷は犠牲者数を計30万人以上とした」 「30万人虐殺」説も「2万人強姦」説も、中国当局が公式に主張している数字だ。当時の南京の人口(20万人)を上回る「30万人虐殺」が荒唐無稽(むけい)な数字であることは言うまでもないが、「2万人強姦」もあり得ない話である。 南京事件に詳しい東中野修道・亜細亜大教授は以前、本紙でこんな指摘をしていた。 第二次大戦にドイツが敗れた直後の2カ月間で、約10万人の女性がロシア兵に強姦された。1万人強が妊娠し、その90%は医師が中絶したが、1000人強は出産したという。だが、南京でそのような“不幸な赤ちゃん”が生まれたという記録はどこにもない。 ≪「虐殺なかった」も有力≫ 南京事件では、日本側が「日本軍による集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪が頻発した。犠牲者数は20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がある」と虐殺を認め、中国の主張に歩み寄った。 しかし、「南京虐殺」や「南京大虐殺」は当時の中国国民党の反日宣伝だったことが、最近の研究で分かってきた。 「大虐殺」の証拠とされる「戦争とは何か-中国における日本軍の暴虐」の著者、英マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員は実は第三者ではなく、「田伯烈」という中国名の国民党中央宣伝部顧問だった。 日本側が報告書に記した「集団的な虐殺」の有無もはっきりしなくなってきた。日本側の記述にある「20万人虐殺」説を唱える日本人学者はいるにはいるが、信頼性を失っている。かつて「4万人虐殺」説を主張した近現代史家の秦郁彦氏も、近著で「実数はそれをかなり下まわるであろう」と下方修正している。 「虐殺」とされたケースのほとんどが通常の戦闘行為の延長で、ナチス・ドイツやスターリン時代の旧ソ連が他民族に対して行ったような集団的な虐殺はなかったという見方が有力になっている。 こうした最近の実証的な研究成果が、今回の日本側の報告には触れられていない。 ≪水増しは常套手段≫ 今回の報告書で、中国側は日中戦争における中国側の被害について、「不完全な統計」と断っているものの、「約3500万人が死傷した」と書いた。これも中国側の誇大宣伝数字の一つだ。 秦氏によれば、終戦直後の1946年、国民政府の何応欽軍政部長は中国軍人の死傷者を「321万人(うち死者189万人)」と東京裁判に報告した。何応欽は1978年に行った演説でも、中国軍の死傷者数をほとんど変えず、民間人を合わせた軍民の死傷者数を「579万人」としていた。 ところが、1980年代、中国の軍事博物館や教科書に、中国軍民の死傷者「2168万人」という数字が登場し、4倍にふくれ上がった。さらに、1995年、江沢民前国家主席はモスクワで行った演説で、中国軍民の死傷者を「3500万人」に増やし、軍事博物館や教科書もこの数字に差し替えられた。日本軍による犠牲者数を根拠のないまま水増ししていくのは、中国の常套(じょうとう)手段である。 中国側が歩み寄ったのは、日中戦争の発端となった盧溝橋事件(昭和12年7月)で、「正確な史料は見つかっておらず、事件が偶発的に起きた可能性がある」と偶発説に言及したことくらいだ。 東京裁判で、国民政府は「日本軍挑発」説を唱え、中国の教科書もこれに依拠している。 だが、最近の日本の研究では、「中国共産党謀略」説も有力になっている。今回の報告書で、日本側は「偶発」説を書くにとどめたが、少し踏み込みが足りない。 共同研究は今後も、人を代えて続けられる。独裁国家の中国と学問の自由がある日本との間に、歴史認識の共有などあり得ない。日本が中国に歩み寄ったところで、学問的には何の意味もないのである。(いしかわ みずほ) 日中歴史共同研究
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1847.html
http //diamond.jp/series/mori/10016/ ダイアモンド・オンライン 森達也 リアル共同幻想論 【第16回】 2008年12月17日 幕僚長でなければ適切だったのか? 幕僚長でなければ適切だったのか?まず、あまりの文章の拙さに驚いた 「日本だけが侵略国家といわれる筋合いもない」!? 政府の基本認識とは異なる歴史観を展開した論文を書いて民間の懸賞論文に応募したとして、航空自衛隊のトップである田母神航空幕僚長が更迭された一件は、とても大きな話題となった。 最初にこの事態が明らかになったとき、麻生首相は「幕僚長という立場としては不適切」とコメントした。ならば「幕僚長という立場でなければ適切だとお考えですか」と記者たちに訊いてほしかった。なぜならこの首相は、かつて北朝鮮に対して敵基地攻撃論を唱えた人なのだ。意識はきわめて近いと考えるべきなのだろう。つまり、この国のシビリアン・コントロールなど、とっくに有名無実化しているとの見方もできる。 いずれにせよ、「空自トップの位置にありながらこの行動は許されない」との論旨は、(首相だけではなく)ほとんどのメディアや識者においても共通していたようだ。 僕の考えは少し違う。たとえ航空自衛隊のトップの位置にいようとも、思うことや考えることを表明する権利は、いついかなる場合でも保障されねばならない。いやむしろ、日本の防衛機構のトップの立場にいるからこそ、個人的な思想信条はつねに表明され、多くの人の目や耳に晒され、あらゆる角度から批判されねばならないと考える。 報道によれば、統合幕僚学校長時代に「歴史観・国家観」というタイトルの科目を新設した田母神前航空幕僚長は、「新しい歴史教科書をつくる会」の役員や、保守派の作家、大学教授などを講師に起用していたようだ。これらの講座の多くは、「現在の日本の歴史『認識』は日本人のための歴史観ではない」とか、「蒋介石と日本の衝突の背後には米英やソ連、さらにはコミンテルンの暗躍があった」などと強調し、田母神前航空幕僚長の今回の論文の主張と多くの共通点があったという。また田母神前航空幕僚長が過去に、今回の論文とほぼ同じ趣旨の文章を、空自隊内誌「鵬友」に寄稿していたことも明らかになっている。 つまり、彼のこの思想は自衛隊内部で増殖していたのだ。 口を封じるから内圧が高くなり、その帰結として別の場所に口が開く。晒されないから稚拙なレベルで凝り固まる。批判されないから増殖する。そして自分たちは弾圧を受けているとのヒロイックな錯誤に陥る。今回の騒動はまさしくその典型だ。 まず、あまりの文章の拙さに驚いた で、肝心の論文「日本は侵略国家であったのか」だけど、ここで展開される論理や思想信条について触れる前に、まずはあまりに文章が拙いことに驚いたことを指摘せねばならない。 もちろん、人格が高潔でも文章を書くことが苦手な人はいくらでもいる。驚いた理由は、文章の完成度や技巧なども含めて審査されるべき懸賞論文で、なぜこれが最優秀の評価を受けたのだろうと思ったからだ。 総文字数は7000字に満たない。400字詰め原稿用紙で20枚ないのだ。僕のこの連載原稿より少し長い程度だ。長ければいいというわけではないが、かつてのこの国の戦争における正当性を考察するという趣旨を考えれば、あまりに短すぎる。これで賞金額は300万円。うらやましい。こんな賞があることを知っていたら、僕も間違いなく応募していたはずだ。 ただしタイトルに「真・近現代史」を謳うこの懸賞論文には、明らかに定められた方向性がある。「真」と銘打つからには「偽」がなければならない。その「偽」が多数派の主張となっているからこそ、敢えて「真」と銘打つ意味がある。 ということは最初から、いわゆる東京裁判史観に代表される戦後日本の「あの戦争への解釈」は、間違っているとの前提が置かれている。今回の懸賞論文の主催者であり、自民党の歴代総理ときわめて近い距離にいるAPAグループの元谷外志雄会長が過去に上梓した著書「報道されない近現代史」も、方向性においてはまさしく重複している。 だからこそ、田母神論文のタイトルである「日本は侵略国家であったのか」は、とても当然のこととして、「日本は侵略国家ではなかった」ということを証明するものとなる。ならば証明してもらおう。冒頭の文章を引用する。 「アメリカ合衆国軍隊は日米安全保障条約により日本国内に駐留している。これをアメリカによる日本侵略とは言わない。二国間で合意された条約に基づいているからである。我が国は戦前中国大陸や朝鮮半島を侵略したと言われるが、実は日本軍のこれらの国に対する駐留も条約に基づいたものであることは意外に知られていない。日本は19世紀の後半以降、朝鮮半島や中国大陸に軍を進めることになるが相手国の了承を得ないで一方的に軍を進めたことはない。現在の中国政府から「日本の侵略」を執拗に追求されるが、我が国は日清戦争、日露戦争などによって国際法上合法的に中国大陸に権益を得て、これを守るために条約等に基づいて軍を配置したのである。これに対し、圧力をかけて条約を無理矢理締結させたのだから条約そのものが無効だという人もいるが、昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない。」 冒頭からここまで読んだところで、僕は早くも挫けそうになった。あなたはどうだろう? 「昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない」と田母神論文はあっさりと断定しているが、条約の当事者である両者が互いに能動的に締結する事例などいくらでもある。いやむしろそちらのほうが普通なはずだ。 つまり、「昔も今も多少の圧力を伴わない条約など存在したことがない」は、彼にとっては疑う余地などない前提なのだろう。 前提が違えば述語は変わる。当たり前のことだ。だから書いた本人にとっては「絶対に正しい」けれど、視点を変えれば奇天烈な論理となる。たとえば以下の記述。 「人類の歴史の中で支配、被支配の関係は戦争によってのみ解決されてきた。強者が自ら譲歩することなどあり得ない。戦わない者は支配されることに甘んじなければならない。」 そして、ちょっと長いけれど以下の記述。 「この日本軍に対し蒋介石国民党は頻繁にテロ行為を繰り返す。邦人に対する大規模な暴行、惨殺事件も繰り返し発生する。これは現在日本に存在する米軍の横田基地や横須賀基地などに自衛隊が攻撃を仕掛け、米国軍人及びその家族などを暴行、惨殺するようものであり、とても許容できるものではない。これに対し日本政府は辛抱強く和平を追求するが、その都度蒋介石に裏切られるのである。実は蒋介石はコミンテルンに動かされていた。1936年の第2次国共合作によりコミンテルンの手先である毛沢東共産党のゲリラが国民党内に多数入り込んでいた。コミンテルンの目的は日本軍と国民党を戦わせ、両者を疲弊させ、最終的に毛沢東共産党に中国大陸を支配させることであった。 (中略) 我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937年8月15日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膺懲し、以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。」 「日本だけが侵略国家といわれる筋合いもない」!? 引用しながらふと気がついた。「とても許容できるものではない」や「日本政府は辛抱強く」、「遂に我慢しきれなくなって」などの言い回しに特徴的だけど、この論文は国家を擬人化することにとても熱心だ。まったくためらいがない。そして擬人化された日本のイメージは、コミンテルンや中国や欧米列強などの「悪」に包囲された無辜で善意の被害者だ。 東京裁判史観を彼らは自虐史観とバカにするが、でもこの論文こそまさしく、被虐史観が全面的に解放されている。特に後半、この姿勢は臆面もなく現れる。 「もし日本が侵略国家であったというのならば、当時の列強といわれる国で侵略国家でなかった国はどこかと問いたい。よその国がやったから日本もやっていいということにはならないが、日本だけが侵略国家だといわれる筋合いもない。(中略) 戦後の日本においては、満州や朝鮮半島の平和な暮らしが、日本軍によって破壊されたかのように言われている。しかし実際には日本政府と日本軍の努力によって、現地の人々はそれまでの圧政から解放され、また生活水準も格段に向上したのである。」 侵略したとしても他の国がやっていたことなのだからこれを批判される「筋合いはない」との主張が、日本政府と日本軍は欧米列強の植民地支配からアジアを解放するためにあの戦争を起こしたのだとの論旨と臆面もなく共存している。それに少なくとも「筋合いもない」は論文の語彙ではない。読みながら気恥ずかしい。有楽町のガード下の赤提灯で酎ハイを飲みながら口にするレベルの語彙だ。 このあとは引用だらけの記述が続く。でも、とてもご都合主義の引用だ。審査委員長である渡部昇一上智大名誉教授の著書「日本史から見た日本人・昭和編」も、きちんとクレジットされている。何とまあ抜け目がない。こうした気配りができるからこそ、この人は、この地位にまで登り詰めたのかもしれないと言いたくなる。 「日本は取り返しの付かない過ちを犯したという人がいる。しかしこれも今では、日本を戦争に引きずり込むために、アメリカによって慎重に仕掛けられた罠であったことが判明している。」 「そしてなんと37年もかかって、レーガン政権が出来る直前の1980年に至って解読作業を終えたというから驚きである。」 右の2つのパラグラフで使われている「判明している」とか「なんと」とか「驚きである」などの大仰で安っぽい記述は、たとえば「NASAは宇宙人とコンタクトを続けていたことが判明した」とか「地底人は実在していたから驚きである」式のトンデモ本ときわめて近い匂いがある。こうして杜撰な引用と検証のない前提に謀略史観的な記述を重ねながら、最後に論文はこのように結ばれる。 「日本軍の軍紀が他国に比較して如何に厳正であったか多くの外国人の証言もある。我が国が侵略国家だったなどというのは正に濡れ衣である。 日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない。人は特別な思想を注入されない限りは自分の生まれた故郷や自分の生まれた国を自然に愛するものである。日本の場合は歴史的事実を丹念に見ていくだけでこの国が実施してきたことが素晴らしいことであることがわかる。嘘やねつ造は全く必要がない。個別事象に目を向ければ悪行と言われるものもあるだろう。それは現在の先進国の中でも暴行や殺人が起こるのと同じことである。私たちは輝かしい日本の歴史を取り戻さなければならない。歴史を抹殺された国家は衰退の一途を辿るのみである。」 うーむ。なんかもう突っ込みどころが満載過ぎて、どこからどう批判すればよいのかわからない。だからもう細かい指摘はやめる。 もう一度書くけれど、たとえどんな立場にいようが、言論の自由は保障されるべきと僕は考える。空自トップであろうが総理大臣であろうが裁判官であろうが、言いたいことは言ったほうがいい。口を閉ざすから外気に触れない。外気に触れないから内部発酵する。内部発酵するからわけのわからないものに変質する。 こうして共同幻想が形作られる。あとは追随する人が増えるばかりだ。現実に自民党内には、彼の主張に同調する議員たちが現れているという。 だから、つくづく思うけれど、やっぱり世も末かもしれない。 「偉そうな軍人さんは嘘をつく」庫
https://w.atwiki.jp/kenran/pages/88.html
火星の曙 火星の曙 火星の生い立ち 火星の環境 火星のウェポンシステム 火星の先住民族 火星経済 太陽系から見た火星の戦略価値 都市船 火星の生い立ち 火星地下に存在する大量の水…氷。 この氷を溶かして海を再生しようと言う試みは、21世紀中期頃から続けられていた。 2059年、火星上空に40時間だけ出現した巨大な重力レンズによって、 この試みは、一挙に前進する。 収束して照らされる膨大な太陽光が、氷を溶かし、火星に海を作った。 その後、太陽系の盟主である地球政府の後押しの元、ワールドドームが 作られ始め、大気が生成され、火星はテラフォーミングされる事となった。 100年もの間建設が続いている火星全域を覆うワールドドームは、 火星のテラフォーミング(地球化)政策の一環であり、太陽戦争における 地球滅亡時のノアの箱舟として、要塞化が推し進められていた。 進渉率72%の段階で終戦、現在の工事はストップしている。 重力の弱い火星から、水や空気が逃げないようにガードする空の壁で、 平均温度-100度近くの星を暖めるために、赤道上におかれた24個の レンズから放たれる光の柱。 それが火星の基本的な姿である。 topへ 火星の環境 海の色は、地球と同じく空の色を映した物である。 火星には本来的な意味での空がない。 それはワールドドームのためであり、今もって気圧0.8しかない 外気のためでもある。 元来、火星の海の大きさは火星の1/3と言われていたが、実際に出現した海は 火星の94%を覆い尽くしていた。 何故ここまで水が大量に出現したのかは未だに解明されていない。 ある者は計算ミスといい、ある者は未知の物理現象という。 海上では未完成状態のワールド・ドームの巨大な気圧差によって生み出される 惑星規模の巨大な嵐「エルダニアストーム」が時折発生する。 何もかも吹き飛ばす、この嵐のために、火星の人々は水中に住む事になった。 topへ 火星のウェポンシステム 火星、すなわち火星海中の戦闘において、その主力となるのは RBと、それを搭載した艦艇である。 RBは絶大な強さを持つが、その一方で航続距離が短いという欠点も持つ。 故に、RBを搭載した母艦は敵に対して近接する必要があり、 近接する故に2種類の進歩を行う事になった。 一つは、高速艦への進歩である。 RB切り離し後、離脱する。 一つは、強武装化、装甲化である。 RB切り離しまでとその後の戦闘において、自衛を行う必然から生まれたものである。 ここからさらに、自衛を超えた積極的な攻撃を意図する艦も生まれた。 前者を高速母艦、後者を正規母艦、攻撃母艦という。 これらを中核にして火星のウェポンシステムは存在する。 母艦を支援する艦艇としてそれ以外は存在するのである。 支援艦艇の一つで重要なのは、陸戦部隊(制圧部隊)を乗せた強襲揚陸艦である。 火星は都市船という単位で存在し、人は基本的に都市船の中だけで存在する。 また、陸戦を考慮していない。 都市の中での戦闘は、都市全体の生存を脅かす可能性もある。 だから、都市船は比較的少数陸戦部隊によって、容易に制圧される。 すぐ白旗をかかげ、降参するのである。 都市船が壊れれば6000万が死ぬ。 火星での戦闘は、対ゲリラ戦を除けば都市を制圧する事を目的に行われる。 だから、強襲揚陸艦は支援艦艇でありながら、非常に高い価値を持つ。 通常母艦と強襲揚陸艦を囲むように、ボックスフォーメーション (箱型陣形)が形成される。 前方を警戒するのがXボートを複数積載する4000t級偵察艦である。 これは艦隊の耳目となり、敵をいち早く発見する事を目的とする。 また敵偵察艦との戦闘も考慮し、それなりの武装も保有する。 次に支援艦艇の中核となる2000t級の護衛艦が来る。 数が最も多いこれらの艦は、密集陣形を組んで 魚雷戦を行ない、敵RBの行動を抑制する働きを行なう。 防御にRBを裂く事は、数に余裕がない限りあまりやらないのである。 よって、航続性能に優れ、かつ艦型がなるべく小さい これら護衛艦が使われるのである。 支援艦艇には護衛艦の母船も存在する。 最後に、1万t級の大型艦(戦列艦)が来る。 大型といえども排水量は母艦に遠く及ばない。 これらの大型旗艦は、RB戦が終った後の残敵掃討にある。 RBさえいなくなれば、戦いは通常通り、より大きく、 より装甲が厚く、より武装を持った艦が強いのである。 RBを収容する敵母艦を破壊した後、あるいは敵味方が 補給に戻った後、これら大型艦艇は進んで前進し、攻撃に移る。 この攻撃を補助するように大小の艦が存在する時もある。 topへ 火星の先住民族 普段は洞窟で居住する。 低重力で育つため、筋力は弱く、背は高い。 小学生で170cmを超える。 赤い肌をしていて第一次性徴が無く、第二次性徴の時に第一次性徴の現象が現れる。 つまり生まれた時は男女がなく、恋をした時に性別が決まる特徴を有する。 これは、環境が厳しいせいで成人になる確率が極端に低いせいだと言われる。 太古の遺産から受け継いだ進化ESPを使うことが出来、これによって得られる バイオテクノロジーが、厳しい環境で生き抜いてきた秘訣となる。 また、卵生で脳が発達していて超能力が使える様になるまで卵の中で過ごす。 誕生時、記憶や感情を焼き付ける長老がいて、焼き付けた後は普通に生活する。 中には、地球風の教育を強制された者も多い。 熱を逃さないようにする術に長けていて、肌を寄せることを習俗としてよく行なう。 現在はほとんど全滅しており、少数が庇護を受けて存在するに過ぎない。 topへ 火星経済 火星経済は典型的なモノカルチャーであり、水資源の供給が唯一で最大の産業であった。 これは戦争需要の急増により順調に発展していたが、ある日突然ストップする事になる。 汎銀河大戦が終ったのだった。 戦争の終焉は火星経済に致命的なダメージを与えた。 水の、重水素の消費量が突然落ち込んだのである。 これに、火星よりも低重力、すなわちよりコストの安い木星衛星群の 水供給源が、とどめをさした。 誰も割高な火星の水を買おうとはしなくなったのである。 火星独立戦争の火種はこの経済構造から生まれる不景気があり、不景気が民衆の 不満を生み、(モノカルチャーを推し進めた)太陽系政府への批判を強める結果となった。 多年にわたり戦時経済で運営されていた太陽系は、平時に戻った事で 極端な緊縮財政と軍の削減を行なった。 軍の削減は、タフト大統領をもって”マーシャル元帥の言う事が分かった”と 言わしめたもので、2億を超える知類が復員し、直後に労働力の飽和を引き起こした。 その上で、軍需の落ち込みが、そのまま生産高の低下を呼んだ。 莫大な国債償還に脅える国家は、この事態に対し、適切な対処を欠いた。 結束していた太陽系という大家族は、停戦を期に三々五々に 勝手なことを言い出すことになる。 結果出現したのは未曾有の不景気である。 この中でもっともダメージを受けたのは、太陽系最終要塞として 建設を急がれていた火星だった。 topへ 太陽系から見た火星の戦略価値 汎銀河大戦以前…、太陽戦争が発生する前から、太陽系知類は 火星を要塞化する思想を持っていた。 最も演算能力が優れたネット・レースが一致して異星人との戦闘を予想、 対策の一環として火星を運用することを提言していたからである。 これは2059年に出現した重力レンズと、続く火星先住民の 発見によるところが大きい。 10年後の2069年にはネット・レースが予想していた通り、火星で 空間接続素子”星のかけら”が発見され、シールドの形成が確認された。 空間接続素子(星のかけら)とは、美しく青く輝く宝石のようなもので、 強い電荷をかけられると励起し、絶対物理防壁を形成する。 火星でしか採取出来ず、火星でしか効果を現さない (別の場所に行くと、別の物質に変質する) この物質は、火星共々異世界の産物と推定され、結果、 火星の戦略価値を左右するものとなった。 火星近辺でまでしか効果を及ぼさないこの”根本的物理性質の異なる”物質は、 今見る火星が本来、異世界のものである事を確認させる事となった。 同時に絶対の盾を作り上げる手段を、知類は手に入れたのである。 2149年、火星でのワールドドーム建設が始まる。 これは一般的に蒸発する水資源を守るための行動と 説明されていたが、実際は要塞化であった。 火星を包み込むようにして形成されるシールド。 太陽系が攻め込まれ、滅亡に追い込まれようとする時、シールドが発現する。 ドームは巨大なシールド発生器であり、火星に設置された24の都市船は 知類を守る最後の砦を企図して建造された。 再び太陽系を取り戻せるようになるまでシールドが護り、火星は第2の揺りかごになる。 地球が破壊され、また太陽そのものにNEPが叩き込まれても、火星だけは残り続ける。 その後何百年か、あるいは何千年後かに、知類は都市船を空に浮かべ、 宇宙に逆侵攻する計画であった。 これらは完全に人間を超えてしまった神々とも言えるネットレースや、 バイオサイボーグが一致して選択した生存競争での生き残り戦略であり、 千年戦争の概念である。 topへ 都市船 海中に、都市船という巨大な都市潜水艦が24個存在する。 未完成ワールドドームによって、寒暖の差が極端に存在するために発生する 巨大な嵐(エルダニアストーム)を避けるため、このような形式となっている。 仕様としてはほぼ宇宙都市に準じており、実際宇宙船に改装される事が 検討されている。 普段は固定しているが、必要に応じて、微速移動が可能である。 火星の人々は、全員がそこに住む。 火星の住民は、調査科学者と火星水資源打ち上げ網建設に関わった 労務者の子孫であり、彼らは多年にわたり、太陽系を支え、世代交代を 繰り返して、ついには火星人と呼ばれる個性の獲得に至った。 topへ
https://w.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2138.html
この論考は某サイトにて、汚い言葉で汚された状態で晒されています。それが忍びなく、著作権の問題を感じつつ掲載することにしました。著作権者からのご注意があれば削除いたします。 琉球新報 2009年6月19日~24日(四回連載) 検証「集団自決」ジェンダーの視点から 宮城晴美 検証「集団自決」ジェンダーの視点から 宮城晴美(一)権力による“殺人”ミクロの視点の欠如 軍からの「憎悪発話」 (ニ)絶対的な「兵隊さん」監視下の住民 錯綜する情報 (三)犠牲者 座間味部落のみ「集団自決」の諸相 (四)痛ましい父と子の関係「玉砕」「集団自決」 証言者に敬意 (一)権力による“殺人” 犠牲者の83% 女性・子ども 2005(平成17)年8月に、座間味村、渡嘉敷村の元戦隊長とその家族による、ノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店の提訴があり、それ以来、この数年間に県内外で「集団自決」にまつわるさまざまな動きがあったことは論をまたない。とりわけ、教科書検定がもたらした危機感は、黙して語らなかった「集団自決」体験者に重い口を開かせ、県民に沖縄戦史に向き合うパワーを与えた。 しかしながらその一方で、法廷における元戦隊長らを擁護する立場から歪んだ「証言の再構築」(隊長は命令しなかったという新証言なるものなど)が浮上したり、「集団自決」の用語を封じる手段として、援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)と「靖国思想」をからませた論理で、その当事者を糾弾するような言説が見られることなど、立場こそ違え、モノ言わぬ島の人々や死者を鞭打つような暴力的論調に強い懸念を抱くものである。 ミクロの視点の欠如 そのことについては後に触れるとして、こうした弱者切り捨ての視点は、権力者(軍隊)の思想と軌を一にするといっても過言ではないだろう。「集団自決」の犠牲は女性・子どもが圧倒的に多い。そこには、住民を「死」へと追い込んでいった「力」が、軍隊という強い者から最も弱い住民へと幾重にも及んでいったことがわかっている。にもかかわらず、「集団自決」が強制された住民同士の「殺し合い」として、その要因が一括りにされてきた感は否めない。こうしたことでは、地域性、年齢、ジェンダー役割等ミクロの視点が欠落し、沖縄で起こった軍官民の「集団自決」が十把ひとからげに論じられ、その本質が見えにくくなってしまう。 「殺し合い」というのは、「力」関係が対等であることが前提となる。しかし「集団自決」は、強大な「力」を持つ軍隊が、地元の指導者を通して住民を強制・誘導することで、家族の中の「力」のある者が、最も弱い者から手にかけていったという、「不平等な力関係」のもとで起こっている。こうした「集団自決」の本質に迫るには、ジェンダーの視点での分析が必要になってくる。 「ジェンダー」というだけで、男性の多くが拒否反応を示すことは知っている。その言葉の持つ意味が「女らしさ」(弱い、優しい、しとやかなど)、「男らしさ」(強い、潔い、雄々しさなど)という、社会的・文化的に作られた性差として批判の対象になっているからであり、「女は女らしく」と願望する男性にとって、不都合なことが多いことは確かだ。 しかしながら、「ジェンダー」は単に女・男の「不平等な力関係」だけでなく、軍隊と民間人、あるいは地元指導者と一般住民という階級的差異、家父長制下の家族構成などといった階層秩序と相互に連動することで、抑圧構造を強化していくことがわかっている。言いたいことは、「集団自決」はまさにこうした構図の中で繰り広げられたということである。 軍からの「憎悪発話」 本稿では、私がこれまで調査をしてきた座間味島の具体的事例をもとに、「集団自決」の構造を弱者(家族の中の子ども、軍隊に対する民間人など)の視点から検証し、また「集団自決」の用語をめぐる問題にも言及するつもりである。 座間味島の場合、「集団」で「自決」したのは、家族・親族単位の防空壕が最も多く、私が調査した限りにおいて、犠牲者の83%が女性・子ども(満12歳以下)であった。その行為遂行者のほとんどが男性であり、男手のある家族ほど犠牲者が多かったことを示す。そこには家族を守らんとする家父長制下の男性の論理があり、その「守り」は、日本軍に隷属させられたことで体現されたものだった。 つまり、「敵に捕まると男は八つ裂きにされ、女は強姦されてから殺される」、敵への投降、スパイ行為の絶対禁止、「生きて虜囚の辱めを受けず」(戦陣訓)など、軍民が混在するなか、日本軍からの憎悪発話がくり返し住民にもたらされ、現実に敵を目前にしたとき、先に妻子を、男手のないところは母親が子どもを手にかけ、自らは最後に「自決」することで日本軍の要求に応ずるという、権力への隷属的構図に巻き込まれた人々の姿があった。 座間味島の「集団自決」は、「お互いの殺し合い」ではなく、「乳幼児が自決することはあり得ない」(安仁屋正昭著沖縄戦のはなし)と言われるように、軍隊→兵事主任→伝令から家族の中の力のある者へ、そして最も弱い者へと重層的に作用した権力による殺人であったと思っている。なぜこうした事件が起こったのか、「集団自決」を最も弱い立場の視点からあらためて検証してみたい。 (ニ)絶対的な「兵隊さん」 捕まる前に「玉砕」促す 座間味村の有人離島の一つ座間味島は、役場や学校、郵便局などの官公庁が集中する座間味村集落をはじめ、北東に阿佐、西に阿真という三つの小さな集落から成る。1944(昭和19)年9月中旬、この島に、未成年を中心に組織された海上挺身第一戦隊(梅澤裕戦隊長)という陸軍の海上特攻隊と、彼らが搭乗する特攻艇のの整備、秘匿壕堀り、陣地構築の役割をもつ約900人の海上挺身基地第一大隊(以下、基地隊という)がやってきた。 監視下の住民 那覇に最も近い慶良間諸島は、米軍が沖縄本島に向かう際、一斉に特攻艇を出撃させて背後から敵艦に体当たりするという第三十二軍の作戦計画に基づき、座間味島の海上挺身第一戦隊をはじめ、阿嘉島に第二戦隊(野田義彦戦隊長)、渡嘉敷島に第三戦隊(赤松嘉次戦隊長)が配備され、秘密基地化されていった。 座間味島に配備された日本軍は、特攻隊員が学校を宿舎にしたのに対し、基地隊の将兵はすべて座間味集落の民家に割り振られた。家族は裏座敷に追われた格好になる。当時、人口約600人の座間味集落に、倍近い日本軍将兵が分宿したため、集落内は日本軍であふれかえった。 住民の行動は軍の厳しい監視下におかれ、日常生活のすべてが軍主導へと変わっていった 日本軍が駐屯したその日から、住民に特攻艇揚陸にからむ作業が命じられ、その後連日、防空壕堀りや陣地構築、食糧増産のため、役場職員の伝令が住民への集合を呼びかけた。とりわけ婦人会員には、会長ら役員が各家庭を回り、徹底して動員を強要した。体調が悪いだけでは容赦しなかったという。さらに日本軍は、スパイ防止のため、漁に出る住民はおろか、集落内の往来でさえ、スパイではないという証明のマークの着用を強制するのである。 その一方で、一つ屋根の下で暮らす将兵と住民は、家族のような親しい関係も築いていった。やがて日常の付き合いの中で、住民は「鬼畜米英に捕まると男は八つ裂きにされ、女は強姦されてから殺される」という恐怖心を将兵から植え付けられる。そして捕まる前に「玉砕」するよう剣を渡されたり、あるいは自分でできないなら殺してあげるから日本軍の壕まで来るように言われた人たちも少なくない。特に夫や息子を兵隊にとられ、子ども、年寄りを抱えた女性たちにとって、自家に宿泊する「兵隊さん」の存在は絶対だった。 女性たちはまた、日本軍将兵の性の相手として朝鮮半島から連れて来られた「従軍慰安婦」の存在も意識せざるを得なかった。朝鮮人という民族差別に加え、いわば「淫売」としての彼女たちに憐憫の情を寄せることで、将兵を前に「淑女」としての自らのステータスを高めた。 錯綜する情報 日本軍駐屯から半年後の1945(昭和20)年3月23日、座間味集落は米軍による突然の空襲で、乳児を含む23人が死亡、ほとんどの家屋が焼失してしまい、その日から、全住民の防空壕生活がはじまった。空襲は翌日も続き、さらに25日には艦砲射撃が加わった。空襲後の艦砲射撃は、敵の上陸の前触れであることを住民は知っている。 真っ赤に飛んでくる艦砲弾で壕の周りは火の海と化し、途切れることのない炸裂音におびえる住民の元へ、夕刻、村当局から非常米の配給が告げられた。さらにその日夜遅く、今度は、毎日のように集合を呼びかけてきた役場職員の伝令から、忠魂碑前での「玉砕」命令がもたらされた。ただ、いずれもすべての防空壕に届いたわけではなかった。「米の配給だ」「いや玉砕だ」と住民の情報が錯綜し、危機感をもった子連れの女性たちの一部が、阿佐集落の裏海岸にある大きなガマ(洞窟)への移動をはじめた。その一方で、直接、「玉砕」命令を聞いた人たちは、最後の食糧を口にし、晴れ着に着替えて忠魂碑に向かった。情報の届かなかった防空壕の人たちは、外の気配に気づかなかった。 飛んでくる艦砲弾をぬうように忠魂碑に向かったものの、ほとんどの人たちが自分の家族だけ、あるいは少人数という不安感で引き返し、またしばらく留まった人たちも照明弾の落下で四散するなど、結果的にこの場所での「集団自決」の決行はなかった。 引き返したところ、必ずしも自家の壕とは限らなかった。「兵隊さん」と一緒に玉砕しようと、日本軍の壕へ向かった家族がいたり、また、子ども、年寄りを連れ、どうしてよいかわからない女性たちは、役場職員のいる農業組合壕をめざした。しかしながら、日本軍の壕は、すでに将兵が移動した後で空になっており、また農業組合壕では、役場職員とその家族が入るという理由から、ほとんどの人が入れてもらえなかった。 3月26日午前、米軍の上陸を合図に、各防空壕で「集団自決」がはじまった。直に米軍を目にした者は、はじめて見る人種「鬼畜米英」を前にパニックになり、次々と妻子を手にかけていった。 (三)犠牲者 座間味部落のみ 組織の指導者ら全員死亡 敵の上陸を予期しなかった座間味島住民の防空壕は、空襲から身を守ることを目的に、家族・親族単位で掘られ、場所は集落の近くに集中した。当初は、「兵隊さん」の近くが安心だと、日本軍の壕近くに掘った人たちがいたが、空襲がはじまったことで移動を命じられ、ほとんどが役場職員のいる西の方へ移っていった。 「玉砕」命令の伝令が回ったのは、農業組合壕を中心にした西の防空壕だった。防空壕は島全体で50から60あったといわれるが、私がこれまで調べてわかった「集団自決」の犠牲者の出た所は、地図で丸印のついたAからHの八つの防空壕(場所はおおよその位置)である。 A、B、Cは日本軍の壕だった。「兵隊さん」と一緒に「玉砕」するつもりでやってきたというAの家族のように、B、Cもその可能性は高い。Cは八つの壕の中で、唯一、女性、子どもだけだった。 そしてDが役場職員とその家族の入った農業組合の壕、Eが学校長を中心とした学校職員とその家族、それに一般住民が入った。Fは姻戚の二家族、Gが婦人会長の家族、Hは一家族で、FからHは自家壕であった。そのほとんどの人たちが、忠魂碑まで行って引き返してきたことがわかっている。 上陸した米軍は、集落を通ってこれらの壕の前に突如として現れたのである。逃げ場を失った人々は、防空壕内で「集団自決」を繰り広げた。 「集団自決」の諸相 A 日本軍の武器庫のため、その中にあった銃剣が武器となった。「軍隊アガヤー」(軍隊経験者)といわれた50代の男性が、自分の妻子・嫁・孫・座間味区長を務めていた兄、それに実家と行動を共にした兄の娘・孫らに発砲、自身は着剣で割腹自殺。 B 壕を補強するための坑木の上部からロープを通し、二家族それぞれが父親(夫)によって縊死させられる。残った30代の父親は、「子どもたちと約束したから」と、妻子を死なせ半狂乱になっている40代の男性に懇願し、ロープを引っ張らせて「自決」。40代の男性も「自決」をはかるが、1人だけ生存する。 C 子ども二人を両脇に抱えた母親が、「天皇陛下バンザイ」の叫びとともに手榴弾を叩く。子ども二人は軽傷で助かるが、母親と周りにいた母子が巻き込まれて死亡。その母親は、婦人会の活動家だった。 D 最も犠牲の大きかったのが、村民の食糧庫でもあったこの壕である。村の三役をはじめ、その家族を中心に67人が入ったが、全員が死亡したため、武器に何が使用されたか不明。 E 日本軍の防空壕で、学校長と学校職員の家族、それに逃げ場を失った子連れの女性たちが多く入った。Dの防空壕が「集団自決」を決行したことと、米軍がすぐ近くまで来ているという情報により、校長の音頭で「天皇陛下バンザイ」が三唱され手榴弾が叩かれた。それによって、女性教師ら2人だけが死亡。「自決」失敗にあわてた校長はカミソリを取り出し、とっさに妻ののどに切りつけ、そして自分の首を切って死亡。 F 姻戚2家族と実家にもどってきた子連れの女性の家族。主に農薬の猫いらず(ヒ素を使った殺鼠剤)が使われた。いやがる子どもたちには黒糖を混ぜて強引に飲ませるが、のたうち回って苦しむ子どもを見るにみかねた父親が壕の前の小屋に火をつけてその中に放り込んだり、壕の土壁に叩きつけるなどして死なせる。実家にもどった女性は農薬を飲んで苦しみながら、生後2カ月の乳児を授乳しながら窒息させ、他の幼子たちは叔父にあたる弟に手をかけさせた。 G 婦人会長の家族壕である。見つかったときは全員が白いハンカチを顔にかけて整然と横たわっていたという。ここも生存者がいないため、どのような方法がとられたか不明だが、婦人会長宅に分宿した軍の幹部から、いざというときのために、多量の睡眠薬が渡されていたことがわかっている。 H この家族は、忠魂碑からもどる際、1人の兵士から自分の壕で玉砕するよう手榴弾を渡されたが、死ぬ気を逸し、捨ててしまった。しかし、壕の前で銃剣をかまえて立ちはだかった大勢の米軍を見てパニックになり、40代の男性が妻をはじめ子どもたちの首をカミソリで次々に切っていった。男性も最後に「自決」をはかったが、男児1人が死亡し、残りは米軍に救助された。 これまで調査した限りでは、八つの防空壕には175人が避難し、そのうちの135人が亡くなったことがわかっている(この数字は座間味村の「集団自決」犠牲者の総数ではない)。 座間味島の「集団自決」は、官公庁の集中する、しかも日本軍の分宿した座間味集落在住者だけにもたらされた事件だった。そして役場の全幹部(助役は兵事主任、防衛隊長なども務める)、学校長、婦人会長、青年団長、女子青年団長、座間味区長という組織の指導的立場にある人たちが、すべて亡くなった。 (四)痛ましい父と子の関係 戦時下、国家権力が「利用」 「玉砕」命令は、日本軍からもたらされたものだった。その結果、駐留する日本軍に最も隷属し、住民と軍をつないだ村の幹部や学校長ら指導者層は、住民を「死」へ誘導するメッセンジャーの役割を果たすとともに、率先して「軍命」を履行した。もちろん、座間味島の頂点に位置する日本軍の守備隊長(戦隊長)が自決することはなかった。 こうした階層秩序による「力」の作用は、女性、子どもに大きな犠牲をもたらした。とりわけ、父親と子どもの関係は痛ましい。 Bの防空壕では、先に子どもを死なせた男性が、「子どもたちに父ちゃんも一緒だと約束したから、自分も死なせてくれ」と「自決」の幇助を頼んだ事例、Dで亡くなった男性は「死」を決して忠魂碑に向かう前、子供たちを抱きかかえて「お父さんも一緒だから恐くないよ」と言い含め、Fの壕では男児が叔父に手をかけられる直前、「お父さんの所に行く」と防衛隊に参加している父親を求めて泣き叫んでいたこと、Hの壕では父親に首を切られた11歳の男児が、息を引き取りながら「お父さん」と最期の言葉を発したなど、「死」を理解できない子どもたちに、「父親が一緒だから」と説得したという証言は多い。 その底流には,「強い父親」と子どもの信頼関係、そして家族間の主従関係が横たわっていた。 「敵の手にかかるよりは自分の手で」と、家族を守らんとする家父長制下の父親役割と子どもたちのこうした規範が、戦時下ではかくも残酷に国家権力に利用されたのである。 「玉砕」「集団自決」 私は、これまであえて「集団自決」という用語で、座間味島で起きた戦時下の事件について書いてきた。1970年代に聞き取り調査をはじめた当初は、住民の証言は「玉砕」だった。ところが、1953年3月28日付の渡嘉敷村遺族会が出した「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」では、すでに、玉砕、自決、集団自決の表記がなされており、また座間味村役場の文書である「座間味戦記」でも、同様に玉砕と自決が入り交じっている。 はじめて「集団自決」の用語が使われたのは、沖縄タイムス社の「鉄の暴風」(1950年)といわれるが、なぜ住民証言の「玉砕」ではなく、「自決」を使用したのか、「集団自決」を造語したという太田良博氏からその説明はなかったと思う。 「集団自決」の証言者は、ほとんどが「玉砕」を使用する女性たちだった。その証言を公文書に記録したのは、戦後復員してきた男性たちである。昭和18年のアッツ島における日本軍全滅を糊塗するため、大本営が国民向けに使いだした「玉砕」という軍隊用語を、それまで関係ないと思っていた座間味島の住民も、米軍上陸前夜の昭和20年3月25日夜から、自分自身にふりかかった「死の強要」として受けとめるようになった。ただ、住民の表現する「玉砕」という用語は、自分自身では死ねないので「みんなと一緒に」という、表象的で受動的な意味合いが強い。 それに対して、「自決」は、武士道の「ハラキリ思想」に通じる。「男らしさ」を象徴するこの武士道こそ、男性には、敵への投降が許されず軍の命令に忠実であることが求められたものだった。したがって、軍隊を経験した座間味・渡嘉敷島の男性たちが、女性たちの「玉砕」証言を記録する際、軍隊の価値観で「自決」「集団自決」と記したことが考えられる。 新渡戸稲造は、その著書「武士道」において、「女子の武器に頼りて其貞潔(貞操)を守るに切なるは、男子の其君主を護るに似たり」といい、女性が貞操を守ることは命にも勝ると説いた。武士道の論理でいえば、「慰安婦」とは違う「淑女」としての女性たちは、敵に捕まり強姦されると、共同体社会の中で生きていくこと自体許されなかったのである。 こうしたジェンダー役割に規定され、国家の犠牲にされた住民の体験の記憶は、証言する過程において「玉砕」、後に「集団自決」という用語で表現され、それを私たちは記録してきた。しかしながら、「集団自決」という用語が、国レベルで「崇高なる犠牲的精神の発露」として美化されたり、軍人用語だから住民には使えないなど、さまざまな問題点が指摘されだした。そして「集団自決」に対する用語として、すぐれた沖縄戦研究者によって「強制集団死」という言葉の使用が提唱されている。 証言者に敬意 それでも私が「集団自決」にこだわる大きな理由は、つらい思いをこらえながら自分や親族の体験を話してくれた座間味村民の用語として敬意を払いたいことと、座間味・渡嘉敷村の近現代史に必要不可欠の用語になっているということである。ほとんどの方が故人になったが、現在でも生き残りの方々は、「集団自決」を証言する。その人たちがいま最も懸念していることは、「靖国」を賛美する人たちによって、「集団自決」の悲惨さが美化されだしたことや、援護法適用のために「集団自決」の軍命が「方便」であったとして、元戦隊長らを擁護する動きが出ていることである。 住民の心に負った傷口をさらに鋭利な刃物でえぐるようなこうした言動があればこそ、告発の意味を含めて、弱者の視点から「集団自決」を記録し、継承することが、体験者のII世、III世、そして戦後世代の大きな役割だと思っている。 (沖縄女性史家) 15年戦争資料庫