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このページではCadenciiのバージョン番号の意味についてまとめています。 Cadenciiのバージョンは3つのパートに分けられます。それぞれのパートの番号をどのような目的でカウントしているかについてそれぞれまとめてみました。 メジャーバージョン バージョン番号の一桁目です(3.1.8なら「3」)。 デフォルトの保存形式が変わる、インストールの際本体の設定ファイルを破棄しなければならないなど、プログラムの構造上の大きな変更が施された場合に1つ番号があがります。また、プログラムの構造がそれほど変わらない場合でも、重要な機能追加があれば番号が1つあがることがあります。 マイナーバージョン バージョン番号の二桁目です(3.1.8なら「1」)。 機能追加とバグフィックスがある程度たまったら1つ番号が上がります。9の次は10です(たとえば2.9.*の次は2.10.*で、3.0.*ではない)。 メジャーバージョンが3からは、マイナーバージョンが偶数の場合が安定版のバージョン、奇数の場合が実験版のバージョン、としている。 バグフィクスバージョン バージョン番号の三桁目です(3.1.8なら「8」)。 バグフィクスが行われると1つ番号が上がります。これも9の次は10です(たとえば2.8.9の次は2.8.10で、2.9.0ではない)。
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Xaymaca ジャマイカの先住民だったアラワク人の言葉で、木と水の地あるいは泉の地を意味する言葉。 ジャマイカの国名の由来となっている。 ちなみにアラワク人は、ヨーロッパ人が持ち込んだ病気により激減、絶滅し、 現在は民族としてのアラワク人は存在しないとのこと。 その後、西アフリカから奴隷として連れてこられたアフリカ系の諸部族民が住民となり、 現在の国民は、アフリカ系が大部分(9割)を占めている。 ラスタ・カラー 黒、赤、緑、金色(黄色)の4色のこと。 ジャマイカ独立のために戦った黒人戦士の黒、 戦いで流れた血の赤、 ジャマイカの自然の緑、 ジャマイカの国旗の金色(太陽の色)を表す。
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タイトル 韋駄天いかせ男2 ~人生の意味~ メーカー ファミリーソフト 発売 1989年 ハード PC98/MSX2 メディア FD 攻略に使ったバージョン PC98版 基本事項 ・前作と違い、組み合わせ番号が規則正しく並んでいません。ですが、法則がない訳でもないので分かった分だけ記述しておきます。 ・今回は当たり番号が固定されているので、三つの内の一箇所で当たり番号を見つけて固定し、他を変えていくと比較的スムーズに攻略できそうです。 ・3つのうちどの箇所も当たり番号があるようですが、(■■ ■■ 15)のように右端を固定すると入力の手間が少ないので、この攻略では右端から当たり番号を探していきます。 ・ゲージの上がり方にムラがあるようなので、より効率的な進め方、組み合わせ情報がある方は編集をお願いします。掲示板での情報提供でも助かります。 ・MSX2版で同じ数字が通じるかは確認していません。 妊娠から出産までの当たり易い番号 (■■ 57 15) (■■ 78 15) (■■ 87 15) (■■ 57 16) (■■ 78 16) (■■ 87 16) (■■ 57 22) (■■ 78 22) (■■ 87 22) (■■ ■■ 51) (■■ ■■ 60) (■■ ■■ 61) (■■ ■■ 62) (■■ ■■ 69) (■■ ■■ 79) (■■ ■■ 98) 他多数。 この組み合わせが全く通じない時が中盤に一度あるので、その時は (■■ 02 03) (■■ 02 04) (■■ 02 05) (■■ 02 13) などを試してみましょう。 マリア2世の入学式 (■■ 02 03) (■■ 03 03) (■■ 06 03) (■■ 07 03) (■■ 08 03) (■■ ■■ 04) (■■ ■■ 05) (■■ ■■ 13) (■■ ■■ 23) (■■ ■■ 27) (■■ ■■ 32) (■■ ■■ 34) 他多数。 この組み合わせが全く通じない時がたまにあるので、その時は (■■ ■■ 62) などを試してみましょう。 黄泉の国 (■■ 13 29) (■■ 35 29) (■■ 37 29) (■■ 38 29) (■■ ■■ 46) (■■ ■■ 48) (■■ ■■ 49) (■■ ■■ 50) (■■ ■■ 51) (■■ ■■ 53) 他多数。 結婚式 (■■ 02 03) (■■ 03 03) (■■ 45 03) (■■ ■■ 04) (■■ ■■ 05) (■■ ■■ 13) (■■ ■■ 23) (■■ ■■ 27) (■■ 45 32) ←特に効果大 他多数。 ニュースキャスター (■■ 12 50) (■■ 13 50) 他多数。 この組み合わせが全く通じない時(十字架の2回目)があるのでその時は (■■ 03 47) (■■ 08 47) などを試してみましょう。 【END】
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このページはこちらに移転しました ‐--(セピアの意味不明)--‐ 作詞/101スレ103 あかがぎゃさざただぢゃなにゃはばぱひゃびゃぴゃまみゃやらりゃわ Oh! 素人色々ウロウロ...... 憩うよ Yo! 性的恋人インプラント 精液濃いーのインスタント シンクタンクをヘッドバング
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第一章 スピリチュアリズムの必要性とその定義 1.スピリチュアリズムの必要性 筆者は本論文で、スピリチュアリズムが持つ重要性を明確にしたいと考えている。スピリチュアリズムとは、近代心霊研究を発展させたもので、死後の世界の住人と通信を行うことにより明らかになった科学的事実を基にした学問であり思想である。 ただ、ここで誤解しないでほしいことがある。「科学的」という言葉である。現代人は科学的というと、物理学・化学・生物学を想像しがちであるが、本来「科学的」というのは、一定の理論に基づいて合理的・原理的に体系化されているものを指す(広辞苑)。この意味でスピリチュアリズムは科学的なのである。逆に言えば、スピリチュアリズムは物理学などではまだ十分な証明はされていない。つまり、心霊現象がどういう物理的構造を持っているのか未だ解明されていないということである。しかし、だからといって安易に計らってはいけない。科学的であるというからには、心理学、社会学などの学問と同様、厳密な研究の結果に基づいているのである。 そんなスピリチュアリズムは、我々人間にとってどんな意味をもたらすのか。本論文ではスピリチュアリズムの姿を追いながら、人類にとってのスピリチュアリズムの意味を見出そうと思う。 筆者がそうしたいと思った理由は2つある。まず1つ目であるが、スピリチュアリズムが精神的価値観に重要性を置いているということが理由に挙げられる。そのことは、現代日本において重要な意味を持っている。戦後、他に類を見ない勢いで発展した日本は、経済こそ発展したが、国民の精神という面では昔と変わっていないどころか後退さえ見られる。昔は現代よりももっと、精神的豊かさを国民が持っていたようなのだ。以下の二文は1922年(大正11年)アインシュタインが来日した際に残した言葉である。 「日本人は、これまで知りあったどの国の人よりも、うわべだけでなく、すべての物事に対して物静かで、控えめで、知的で、芸術好きで、思いやりがあってひじょうに感じのよい人たちです」 「この地球という星の上に今もなお、こんな優美な芸術・伝統を持ち、あのような素朴さと心の美しさをそなえている国民が存在している・・・」(岬、2006、P5) かのアインシュタインがこれほどまでに日本を賛美していることは驚きであるが、仮にアインシュタインが昔ではなく現代の日本を訪れていたら同じ感想をもつだろうか。答えはノーと言わざるを得ないだろう。 もしかすると現代日本は、経済発展と引き換えに精神的豊かさを失ってしまったのかもしれない。年間3万人もの自殺者(図表1参照、警視庁、2006)を抱える現代日本社会。唯物主義だからこそ、急速な経済発展ができたのかもしれないが、精神的豊かさを忘れてしまっては本末転倒である。なぜなら、人間は精神を伴った存在だからである。そして、そんな唯物主義的現代日本にとっては、精神主義的なスピリチュアリズムは大きな意味を持ってくるに違いない。そう思ったのが、筆者がスピリチュアリズムに注目した第1の理由である。 そして、第二の理由は我々があまりにも死後の世界について無知すぎるということである。筆者がスピリチュアリズムについて調べるに当たって驚いたのは、心霊研究の規模の大きさである。これほど大きな研究が行われたのに、なぜその研究成果が一般に普及していないのか疑問だった。そこで、スピリチュアリズムが生まれた原因にもなった近代心霊研究に光を当ててみようと思ったのが第2の理由である。 2.スピリチュアリズムの定義 スピリチュアリズムとは、心霊現象を研究して生まれた思想のことである。つまり、「主義ISM」ではなく思想体系を示すものである。1848年以降、イギリスやアメリカでは、心霊現象、つまり科学では合理的な説明をつけることのできない不可解な現象の研究が本格的に始まった。詳しくは後述するが、有名科学者などが本格的に実験と検証を行った。スピリチュアリズムは、そうした研究成果を体系的に築き上げて生まれたものである。 しかし、スピリチュアリズムの意味はもう一つある。それは、スピリチュアリスト、つまりスピリチュアリズムを認める立場からの見解によるもので、それによると、スピリチュアリズムとは「霊界主導の地球人類救済プロジェクト」ということになる。つまり、心霊現象を通しての霊界から働きかけがスピリチュアリズムだということである。従って、後者が一次的定義、前者は二次的定義といえる。 この二つの見解はスピリチュアリズムを知る上で非常に重要で、前者の見解はスピリチュアリズムの客観的合理性や論理的正当性に焦点を当てることになり、後者の見解からはスピリチュアリズムの根幹である人類にとっての有意性に焦点を当てることになる。前者の見解だけだと、スピリチュアリズムがただの研究結果に見えてしまう恐れがある。しかし、それに後者の見解を加えることによって、スピリチュアリズムの持つ本当の意味を明らかにできると筆者は考えている。 3.論文の構成について 序章となる本章では、スピリチュアリズムの定義を明確にし、次の第2章では、スピリチュアリズムの二次的定義によるスピリチュアリズムの研究内容、即ち物質的心霊現象と精神的心霊現象を、具体例を挙げながら詳細にし、第3章ではスピリチュアリズムの存在意義を考察する。そして、第4章では、本論文の題名にもなっているスピリチュアリズムの意味するところを明らかにしたい。最後の第5章では、スピリチュアリズムの意味するところを筆者なりに解釈する。 次へ
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このページはhttp //bb2.atbb.jp/kusamura/topic/65914からの引用です kusamura(叢)フォーラム ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972) トップ»ロロ・メイ著作集3「わが内なる暴力」(1972)» 第五章 権力の意味 (定義・分類・諸相) [ 9 posts ] 1 投稿者 メッセージ kusamura 題名 第五章 権力の意味 (定義・分類・諸相) 時間 2009-08-15 12 36 39 no rank Joined Posts 1 権力の定義づけ 権力(*power、パワー)とは、変化を惹き起こすなり、 あるいはそれを避けることのできる能力のことをいう。 権力には二つの次元がある。 その一つは、 潜在性としての権力、ないし潜在力としての権力である。 それはまだ十分に発達しきっていない力であり、それは 未来のあるときに変化を惹き起こすことのできるものである。 この未来の変化についてはこれを「可能性」(possibility)として語るのである。 他の次元は、 現実体(actuality)としての権力である。 (私がこの章で述べようとしているのはこの側面である)権力というものは、もともとは社会学的な用語であり、主として 国家や軍隊の行動を述べるのに用いるカテゴリーである。 しかしこの問題を検討するものが、 権力というものは、人間の情緒や態度や動機といったものに依存するものであること をわかってくるにつれて、彼らは、必要な明確化のために心理学のほうへ向かったのである。 心理学においては、 権力は、他人を感動させ(affect)、影響を与え、変えることのできることを意味する。 各自は,,,込みいった人間関係の中にあり、 他人を推進したり、撃退したり、結びつけたり、同一視したりするのである。 かくて、地位や権威や威信といったものが権力問題の中心になるのである。私は、ある人物が何らかの価値をもち、他人に影響を与え、 そして仲間からの承認を得ることができる、という確信を指すのに 「意味の感覚」(sense of significance)という語句を用いてきた。 Top リンク kusamura 題名 1 権力の定義づけ Ⅱ 時間 2009-08-15 13 28 09 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 権力と支配力(force)との間の関係はなにか。支配力は,,,アメリカでは広く権力と同一視されてきた。 この国では支配力は、たいていの人の場合、権力と自動的に結びついている。 これが、権力が「汚いコトバ」として軽蔑されけなされてきたその主たる理由である。 ジョン・デューイは、強制力(coercive force)は エネルギーとしての力と、暴力としての力の、中間地帯である、と考えていた。 「支配力に依存せず、それを利用しないということは、 単に現実の世界に足場を持たないということである」 支配力や、強制あるいは強迫(compulsion)は、権力を構成する上で欠くことのできないものである。 戦争はそうした、構成要素の一つである。 (*あるいは)病人ないし子どもの場合、 強迫あるいは強制というものは、 (*彼らの)能力ないし他人についての知識の欠除(原文ママ)に応じて 用いられなければならない。 (*たとえば)私の息子が三歳であったとき、 私は、ブロードウェイを横断するとき、子どもの手をしっかり握っていた。 これは、子どもが成長し、交通事情を学び、横断の責任を自分で安全に引き受けることができるにつれて、 緩和されてゆく(*権力の)条件である。 しかし支配力の適用には究極的な限界がある。 ある種の動物が近くにいる他の動物ぜんぶを絶滅させるまでその力を用いるなら、 そうした動物を必要とするとき、食料としてそれらを持てなくなるだろう。 ,,,西部における鉄拳戦では、 敵のアイデンティティを破壊することこそ、まさに射撃の目的である。 したがって私はこれを、 支配力と結びついた権力の持つ自己破壊的な影響力の一例とする。 殺されて、明らかにその存在を失ってしまう人物は、もはや、 当人がコミュニティに対してできるだけのものを与える存在ではなくなり、 もはや関係を持つことのできない人間であって、 われわれは、それゆえにさらに貧しい者になる。 他人の自発性が破壊されるときには、 同時にその破壊する者も損害なしではすまされない。 これは洗脳、条件づけ、催眠状態、における強制や強迫の極端な形での危険である。 権力は、それが出会う人間の 自発性の確認とともに動かねばならない。 このことは、長い目で見れば、 その権力に、最大の成功を保証することになる。 Top kusamura 題名 3 権力の諸相 A_搾取的権力 時間 2009-08-15 13 54 56 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 2 権力と知識人(略)-返却までに時間が余れば最終項に追加-3 権力の諸相A 搾取的権力(Exploitative power) これはもっとも単純で、人間的に言ってもっとも自己破壊的な権力である。 これは、人びとを、権力を持った者に従属させることである。 もちろん、奴隷はその明らかな例である ― 一人の人間が多くの肉体に権力を及ぼし、事実多くの人の全有機体に権力をふるうのである。 搾取的な権力は、権力を支配力と同一視するものである。 この意味で、鉄砲(firearms)の使用は、 たまたまピストルを持った人間のきまぐれにまかされるとき、搾取的な権力の一形態となる。 日常生活の中で、この種の権力を行使するのは 根本的に拒否されてきた人びとであり、その人たちの生活はきわめて実りのないもので、 彼らは搾取以外に他人に関係づける方法を全然知らないのである。 この権力は、ときには 婦人を性的に扱うことが「男性的」(masculine)な態度として合理化されたことさえある。興味のあることであるが、 (中世の)騎士や乙女たちの社会内にはびこったであろうこの種の権力から、 中世の宮廷愛は、愛の中では(*この種の男性的権力は)決して利用去るべきではないというルールによって人びとを守ってきた。 搾取的な権力は、暴力ないし、暴力の嚇しをつねに前提としているのである。 この種の権力の中には、厳密に言って、犠牲者の側には、選択ないし自発性というものがまったくない。 kusamura 題名 3 権力の諸相 B_操作的権力 時間 2009-08-15 15 38 09 no rank 3 権力の諸相B 操作的権力(Manipulative power) これは、他人の上に及ぶ権力である。 操作的権力は、その人物の絶望ないし不安によって導き出されてくる。マーシデス(*第四章で取り上げられた黒人売春婦)は、 継父の、売春せよという要求を、 自分自身の頼りなさや、他に何もできないという理由で、受け容れている。 この当初の同意のあとでは、この人間にはほとんど自発性ないし選択性は残されていない。 搾取的権力から操作的権力への移行は、われわれのフロンティアでは ガンマン(Gun man)が、ぽん引き( con man) にとって替わられるということの中に見られる。 ,,,たとえ、犠牲者を生かしておくということ以外に他になんの理由もないにしても ぽん引きのほうは、ガンマンの野蛮な力よりはるかに破壊性の乏しいものである。 スキナーによる、オペラント条件づけの提案は、操作的な力のもう一つの例である。 (*オペラント条件づけ 条件反射ではなく条件学習によって行動の方向づけ・強化をする。 たとえば、ペットのトイレトレーニングや子どもの躾けなど。行動療法では、 患者に報償(代用貨幣トークン)を与えることによって行動の強化を図る、という オペラント条件づけ療法(の一種)などがある。)科学的な視点からすると、限られた動物研究から発展したシステムを、 人間社会そして事実上人間経験の全域に適用しようとすることは誤りがある。 万事がこの操作システムに適合するよう作られねばならないし、 もしそれがこのシステムに適合しない場合には、それは即座に、 新しいスキナー世界から投げ捨てられることになる。 ...スキナーが自分のデータを得るためにねずみや鳩の利用を任意に選択したことによって、 人間の自由や尊厳(dignity)というものは排除されたのである。 行動主義(心理学)者のように、もしあなたがそのスマイルという“行動”自体を認めても、 スマイルする“人”を認めないならば-つまりその行為を行う“人”をオミットするなら- どのようにしてあなたは、ほほえんだり、顔をしかめたり、泣いたり、殺したり、愛したりする 人間社会をもれなく理解することができようか。 スキナーは彼自身、自分自身の権力欲求に、意識的に直面していない人間の 現代の一例である。 彼はこうした欲求を「支配したい情熱」(passion to control)と呼んでいる。 『行動せよ、こんちくしょう。お前が行動しなければならないやり方で行動せよ』 (スキナー著『心理学的ユートピア』 英雄ファリスの、彼の鳩たちへの言葉)これが、実際にはその名は何と呼ばれようとも、強力な権力欲求であることを示すには、 こみいった精神分析など必要としないであろう。 ドイツ人は、1933年(*ナチス党が政権掌握した年)に先立つ何年か、 彼らの将来について経済的には絶望と不安状態に置かれていた。 ,,,彼らは、自分たちの不安を鎮めてくれるかもしれないという希望をつないで ヒットラーの‘操作的権力’に屈したのである。 ,,,同じように、今日の人びとも、自分の不安をのがれたいという希望をもって、 スキナーのユートピア的提案に向かうかもしれない,,,操作的不安に関して、私の提案する原則を述べると、 状況によってはその不安は必要なものであるけれども、 それはできるだけ、節約して使われねばならない、ということである。 Top kusamura 題名 3 権力の諸相 C_競争的権力 時間 2009-08-15 16 14 58 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 権力の諸相 C 競争的権力(conpetitive power) もうひとつ別の権力に対抗する権力である。 この権力は、当人の相手が下落していくことによって、上昇していく人間に見られる。工場や大学には多くのこうした例がある。 たとえば、望まれている地位はたった一つであるのに志望者は多い、といったときの 会長ないし議長の任命がそれである。 それはまた、等級づけシステムによるライバル同士の学生に見られる ,,,このシステムは、学生が相互にいたわり合い協力することに対し、 破壊的・個人的影響力を増進するものである。 この種の権力をめぐる主な批判は、それの持っている狭量さ(parochialism)にある。 この種の権力は、連続的に人間の住んでいる人間コミュニティの領域を縮小させてしまう ――もっとも、操作ほどには徹底的なものではないにしても。 しかしこの点で、われわれの気づいていることは、 破壊的な権力から建設的な権力へきわめて興味ある移行をすることである。 というのは、競争的権力によって、人間関係に 興趣(zest)と生命力(vitality)を与えることができるのである。 (私がここで述べているのは、刺激的かつ建設的なライバル関係のことである) 思い起こす価値のあることは、アイスキュロスの『オレスティア』、ソフォクレスの『エディプス』 エウリピデスの多くの作品は、競争の中で作られたのである。 その意味するところは、破壊的なのは競争それ自体ではなく、ただその種の競争力である。 kusamura 題名 3 権力の諸相 D_成長促進的権力 時間 2009-08-15 16 58 55 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 権力の諸相 D 成長促進的権力(Nutrient power) これは、他者のためになる権力である。 このもっともよい例は、普通、親がその子どもの面倒を見ることにあらわれている。 それはひとつの権力形態である。 というのは、子どもはその幼いときにはわれわれの努力や注意を必要としているが、 全生活に渡って、われわれも時々、他者のために尽力することから快楽を得ているのである。 明らかにこの種の権力は友人や愛されているものとの関係で大量に必要であり、 また価値のあるものである。 他者に対する世話――われわれは他者よかれと願っている――によって与えられるのが この権力である。その最上の意味で、教えるというのはよい例である。 kusamura 題名 3 権力の諸相 E_統合的権力 時間 2009-08-15 18 40 23 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 権力の諸相E 統合的権力(Integretive power)(前半) (前半は「批判」について、後半はキング牧師・ガンジーの非暴力的抵抗について) この権力は、他者と「共なる」(with)権力である。 そのとき私の権力は隣人の権力を助長することになる。ジョン・スチュアート・ミルは『自由論』の中で、こう述べている。 『もしすべて重要な真理の主張に対して、その反対者が存在しないなら、 そうした反対者を想像し、もっとも腕のたしかな欠点をあばきたてる者の思いつけるような、 この上なく強力な議論を供給することが不可欠である。』 レクチャーのあと、話し手にとって、聞き手の質問が どれほど価値のあるものかを実感していないものはまれである。 それらの質問は、新たな洞察をもって、自分の主張を変えるなり あるいは防衛することを話し手に刺激し強制するのである。われわれのナルシシズムは、われわれの弱点を指摘してくれる人びとの 傷に対してはいつも抗議する。,,,たしかに批判というものはしばしば不快なものであるし、 批判に直面すると人は自らの自我を締めつけねばならない。 われわれは、操作的な権力によって(強制的に批評家を押えることによって)、また、 競争的権力によって(批評家をばかに見ることによって)、後もどりしてすべり込むこともできる。 成長促進敵権力によって(彼が混乱していて、われわれのケアを必要としている旨を意味することによって)、 われわれの薄い皮膚を守ることさえできる。 しかしこうした方法へ退行してゆくならば、われわれは、 たとえそのケースが敵対的あるいは友好的なものであれ、 質問者がわれわれに与えつつあるかもしれない 新しい真理に接するチャンスを失ってしまうのである。(*ロロ・メイ自身の体験)私の分析家が、自分が不快であると見ている性格構造について何かを指摘しようとしたとき、 まず最初に私はただちにそれを否定した。 後になってくると、私はその洞察の真理を実感して、 自分の性格構造をこの新しい真理に従って変えるという苦しみを体験しなければならなかった。 この告白はドラマティックなものではない。 私の会った全ての人がまた、似たような状況で、まさに正確にこのやり方で反応したからである。 統合的権力は、ヘーゲルの、命題-反対命題-統合、という弁証法的過程によって 成長へと導かれてゆくことができる。 kusamura 題名 3 権力の諸相 E_統合的権力 Ⅱ 時間 2009-08-15 22 07 21 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 権力の諸相E 統合的権力(Integretive power)(後半) ルーサー・キング師は、自分の相手に対する 非暴力の効果について述べているが、この点で彼は統合的な権力の良い例である。 「自分の方法は、相手を武装解除する方法である」 「この方法は、相手の道徳的な防衛をあばき、 それは相手の志気を弱め、同時に相手の良心に働きかける。 相手はそれをどう処理して良いかまったくわからない」 この権力が成功しているのは、非暴力的な人びとの勇気だけではなく、 非暴力的権力の受け手である人びとの、道徳的発展と自覚によるものである。 同じことは、ガンジーの好戦的非暴力(militant nonviolence)についてもいえる。,,, 全(*大英)帝国に抵抗して、軍事力では決して持ち得ないような方法で 断食をやることによって、帝国を動かすことにガンジーはみごとに成功したのである。 キングが述べているように 「それは良心に働きかけた」のである。非暴力的な権力は記憶に依存している。,,, ガンジーとキングは、相手がガンジーらを傷つけたということを 記憶しなければならない位置に相手を据えたのである。 人間は記憶に苦しめられる(afflicted)奇妙な存在である。 自分の記憶を自分の自我像に統合できないなら、 人は自分の失敗に対し、ノイローゼないし精神病で償いをしなければならない。 こうして人は、概して空しい結果に終わるのであるが、 自分をひどく苦しめる記憶から自らをふりほどくように努めるのである。非暴力的人間に見られる本物のイノセンスは、当人にとって力の根源となる。 イノセンスの質的にまがいものと本物との区別は、 第一に,,,非暴力によって何ら認識は阻止されないという事実である。 第二に、それは責任の放棄も含まれていない。 第三に、その目的は、個人自身のために何かを手に入れることではなく、 自分のコミュニティのために何かを得ることである。 非暴力的な権力は、支配者の倫理に対する刺激として、 彼らの制度の持つひとりよがりに対する強い非難として働くのである。 支配階級に所属する者は、 非暴力的な階級からそしらぬ顔で目をそむけることはできない。 というのは、非暴力の人は、明らかにこの問題に悩み、 これによってその問題を劇的に表現しているからである。それが本物であるとき、非暴力は宗教的な性格を帯びてくる。 というのは、そのまさに本性上、 非暴力は人間的な権力形態を超えるからである。 しかし,,, ほんものの非暴力的な力の全てには、 その役割を僭称しようとする偽物が、数多くつきまとうのである。 kusamura 題名 3 権力の諸相 (結) 時間 2009-08-15 22 22 00 no rank Joined 2013-12-06 19 50 08Posts 322 3 権力の諸相 五つの種類を異にする権力は、 同じ人物の中に時を異にして、明らかにすべて存在する。仕事の面で操作的権力ないし競争的権力を行使する多くの実業家は、 家族のもとに帰ったとき、成長促進的な権力を身につけることになる。 問題は――道徳的な問題であるが―― そのパーソナリティ全体の中で、それぞれの権力がどのような割合になっているか ということである。 何人も、願望や行動の面で五つのタイプの権力体験をまぬがれることはできない。 ただひとりよがりの厳格さだけでは、 自分は権力のいずれからも免疫であるといううぬぼれを当人に抱かせることになる。 人間発達のための目標は、所与の場にふさわしい、これらそれぞれの違った権力の 用い方を学ぶことである。
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207 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/10/01(月) 22 54 33 ID ??? 少し急な話なんで書いていいかな? 先々週に近くでたまたまやっていたコンベに参加したんだ。ゲームは「迷宮キングダム」初めてのゲームだったっが GMが手馴れてて「まよカード?」とかいうのを巧く使ってわかりやすくゲームさせてもらった。シナリオはシナリオ集 かなにかに乗ってる秋が迷宮に閉じ込められたって話でこっちもシナリオもGMの話運び良くてかなり楽しめた ゲーム終盤で前線役が家の都合で帰ってしまうというハプニングがあったが、それもGMのフォローでなんとかなった んで、ゲーム後というか終了フェイズ見たいなところで迷宮で作った国をに今回のシナリオで得た財宝で施設を作って いく作業があるんだが、これが面白くてやっているうちに「また今度このメンバーでゲームをやりたい」って話になった 話を煮詰めていくと俺+GMを含めた3人が土曜日が暇だって事がわかり今週の土曜日に続きをやることになったんだ ところがその次の日に交換したばかりのアドレスにGM氏から電話があった。なんでもあの時の前線役だったPLが コンベの反省会に現れていきなり俺らの事を悪く言い出したらしい。 208 名前:207[sage] 投稿日:2007/10/01(月) 22 55 41 ID ??? そのPL氏によると ・俺を含めた3人が迷宮キングダムの世界観を理解していないから自分のPCが活躍できなかった ・だから俺らに反省の意味を込めて席を立ったのに俺らが反省もせずに次回の日時を決めたのでキレた ・お前らがどれぐらい反省したか見るために俺も今度の土曜日に行く という話だったらしい。だが正直俺にはその人の「反省」の意味がわからない。たしかにその人以外の3人は迷宮キングダムを知らない あるいはリプレイを読んだだけだったが、それは一番最初に話していたしその人も「じゃあ自分が詳しいから何か解らなけ れば聞いてくれ」と言っていた。 態度的には確かに俺ら3人は後半ややテンションを上げすぎたかもしれないが、その度にGMが巧く注意してくれていたし (まあ自発的に気付くのが一番良かったんだろうが)それよりもゲーム的にはその人の「世界観に対する細かい注釈」 や「GMの説明台詞への過度の割り込み」なんかの方が俺にはずっと気にかっかった。 それでもゲーム自体は盛り上がったし、その人も別段こちらに抗議していたわけでもなかったので正直、その人の真意が わからない。このままだと今週末にはその人とゲームなんだが・・・どうすればいいかな? 209 名前:207[sage] 投稿日:2007/10/01(月) 22 56 20 ID ??? 最後にわかっている範囲のこと GMは男性(多分30前の社会人) PL俺(フリーター20代男) PL2(学生たぶん20代) PL3(女性たぶん学生) その人(30前職業とかわからん) 最初はPL3氏に好意を持ってとかも考えたが、それなら普通に残っていればいいと思うしこんなやり方してもいみないよな 235 名前:207[sage] 投稿日:2007/10/02(火) 00 04 27 ID ??? みんないろいろ意見ありがとう。とりあえずさっきまでGM氏とメールしていたんだが 他のPL2人も例の人とは一緒にやりたくないみたいなので場所を変えることになりそう あとGM氏は俺らの中で唯一例の人のアドレスを知ってるので一応、断りを入れるらしいが 話が拗れそうだったら、俺に回してくれるように頼んでおいた。一応バイトとはいえ接客業 なので困った奴の対応はそれなりに出来ると思うし また何かあったら書き込むかもしれない 250 名前:アマいもん[@「エロい」ボスよりHPが多いボスが無難] 投稿日:2007/10/02(火) 09 43 31 ID ??? しかし、迷キンみたいなゲムにも、困ったちゃんっているんだなあ。 なんか、迷キンとか墜落とかサベッジとか好んで遊ぶヒトって、(たとえ初心者であっても)ある種の「覚悟完了」的な、シグルイっぽい「何か」をココロに秘めた猛者ばっかって印象があったんだが。 252 名前:NPCさん[sage] 投稿日:2007/10/02(火) 10 38 53 ID ??? 250 それは100%思い込みだよw 「何か」成分一切なしに迷キンを可愛い!とか言って遊んでる女の子とかいるから。 そこに「実は迷キンって~(シニカルさとかブラックジョークとか)なんだよねーw」なんてのを 訳知り顔で披露してドン引きされてるやつを見たときに、やっぱ住み分けって大事だと思った。 スレ141
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『カインとアベル』の話、と言えば聖書の物語の中でも特に有名で、知らない人は居ないだろう。 ──と書こうと思ったが、そうとも限らないかもしれないと気付いたので以下簡単に流れを紹介するところから始めよう。 昔々、あるところにカインとアベルという兄弟がおりました。 ある日彼らは神に捧げものをしました。 兄のカインは畑で採れた新鮮な作物を。 弟のアベルは大事に育てた子羊を。 しかし神はカインの捧げものには目もくれず、アベルの捧げものだけを受け取りました。 悔しくて堪らなくなったカインは神が帰った後アベルを呼び出し、殺して埋めてしまいました。 しかしそれはすぐに神の知るところとなります。 カインは弁明の余地もなく、作物を作れない呪いを受け、追放されました。 昔話風に要約すればこんな感じである。 かなりおおざっぱなので、出来れば各自本文(旧約聖書・創世記・第4章)を参照することをお勧めしたい。 非常に有名なお話なので万一知らないようであれば覚えておいて損はない。 一応『人類初の殺人事件』ということになっている。聖書的には。 さて、このエピソードを読んでどういう感想が出てくるだろうか。 理不尽な態度を取る神への不満か、 短絡的なカインの暴挙への非難か。 初見では、私はどちらかと言えば前者だった。 が、これが神話であるなら何か別の意味があるはずだと思い直した。 そしてさらにその後、ドッペルゲンガーの話を考えるうえで、その類型として見ることができるのではないかと思い至った。 この話を読み解く上で私が注目したのは以下の3点である。 1.カインの供物は何故無視されたのか。 2.供物と死体の処理方法。 3.カインの末路。 順に見ていこう。 まず、何故カインは無視されたのか。 手元にある聖書の該当箇所を読む限り、ここまでの段階で兄弟の優劣や、まして素行の良し悪しに関する描写はない。 何の根拠も提示されぬまま、カインは神にシカトを食らっているのである。 新約聖書でこのような話が出てくる場合大抵は 「片方が驕った人でもう片方が謙虚な人、神は謙虚な人を選ぶんだよ」 という教えにつながるような教訓話になる。それと比べると、ここまで露骨にいきなり贔屓されるのは不自然でならない。 だから私なりに、カインが無視される自然な理由を考えた。導き出した仮説はこうだ。 カインという『人間』はそこに居なかったのではないか? つまり神への供物をささげた人間はアベル一人だったのではないかということだ。 これならば神がアベルにしか目を向けなかったのも当然である。何せその場にアベルしか居ないのだから。 じゃぁそうするとカインはどこ行っちゃったんだよ、となるだろうが、私の答えは「いや、そこに居るよ」である。 仮説と矛盾する? 否、そんなことはない。 『カインという人間』はそこに居なかったが『カイン』はそこに居たのだ。 ここを説明するために注目したのが最初に上げた点の2つ目『供物と死体処理方法』である。 供物に関しては明確に記述がある。 カインは農作物、アベルは肥えた羊の初子だ。 どちらも手塩にかけて育んだ成果物の中でも最高の品を用意しているはずで、恐らくそこに価値の差はない。 そして死体処理方法だが、これははっきりと書いていない。 ただ、犯行が露呈したときの記述を見るにどうやら土に埋めたようだ。 以上2つのことからから『カイン』という名が何を指すのかを推測することができる。 それは『大地』そのもの、或はこの事件が起こった『地名』である。 農作物、つまり大地の実りとは『大地が育んだ成果物』と見ることができる。 大地=カインと読みかえれば『カインが育てた成果物』となるわけだ。 神話においては洋の東西に関らず、無生物や事象・天変地異などが擬人化、擬神化される例は枚挙に暇がない。聖書だって例外ではあるまい。 また、こう考えればその後の展開についての謎にも説明がつく。 まず、なぜカインが無視されたか。これは簡単だ。 なぜならそこに『カイン』などという人物は存在しなかったからだ。 神はこの時、人間によって捧げられたものを受け取りに来たのだからそこに居る唯一の人間であるアベルの相手をするのは当たり前である。 ここで神が考慮を欠いてしまったのは『人だけでなく世界の生きとし生けるもの全てが神を敬い賛美している』という、聖書世界において当たり前の常識だった。 大地(カイン)は、人間と同じように信仰と意思を持って自ら実らせた作物を捧げたつもりだったのだろう。 しかし、あくまで人間の相手をしていた神は豊かな自然にはとりあえず目を向けず、アベルの供物を取った。 それを蔑ろにされたと感じた大地(カイン)は憤ったわけだ。 ここでカインは大いに憤って顔を伏せたとある。神がカインに目を向けたのはこの時だ。 何故、神は大地(カイン)が憤っているのに気付いたのか。 私が思うにこの時、大きな地震が発生したのではないか。 『顔を伏せた』という動作は怒りの発露を必死に抑え込もうとしている動作であろう。怒りをこらえるとき人は握りしめた拳や丸めた体が震えるものである。つまり同じように怒りに体を震わせたのが大地そのものなら、それは地震という自然現象のことに相違ないはずだ。 ここまで考えを勧めればアベルの死因、死体の在処についても納得がいく。 地震という自然災害が発生したのならば、そこに地割れや土砂崩れが起こるだろうことは簡単に想像がつく。 つまりアベルはこの時おこった地震により被災し、亡くなったのだ。 土砂崩れか地割れに会い、生き埋めとなったのだろうことが、状況的に推測できる。。 カインとアベルの物語は良く『人類初の殺人事件』と言われることがあるが、この考えの通りだとすればむしろ『人類初の自然災害』の話であった可能性が出てこないだろうか。 最後に注目したいのは罪を犯した大地(カイン)の末路である。 土の中──つまり今までの解釈で言えば己の身の内より響くアベルの怨嗟の声であっさり犯行がバレたカインは、呪いを受けて追放される。 追放された地で彼は妹アワンを妻に迎え、その子孫は遊牧民の祖・演奏者の祖・鍛冶鋳造・戦士の祖となる。 このくだりについての私の解釈は、結論から言うと次のようになる。 『カインの系譜は鉄の起源と、金属加工技術の変遷を擬人化したものなのではないか』 そもそもカインという名前が『鍛冶屋・鋳造者』を意味する言葉であることを見ても、鉄とかかわりの深い存在であるのは間違いない。 上記の解釈に至るまでの経緯を順に見てみよう。 まずかけられた呪いについては、要約するとこうある。 「弟の血を飲み込んだ土よりもなお、呪われる」 「土を耕してもお前のために作物を産み出さない」 ここで言われている『血を飲み込んだ土』とはすなわち『鉄を含んだ土』と解釈できる。 それよりもなお呪われるとはつまり、より強く濃く血を含んだモノになるということを意味する。 カインは呪いにより何者になってしまったか──そう、鉄である。 彼は『土』という大地の一員である身から、純粋な『鉄』という人工物の一員へと変えられてしまったのだ。 鉄の上に作物など、もちろん育つわけがない。これによりカインは自然界から追放されたことになる。 次に呪いと追放を言い渡されたカインが責任を負いきれない、迫害されるに違いないと泣き言を発するシーン。 ここにもカインと鉄を結びつける要素が隠れている。 人殺ししておいてなんとも図々しいカインだが、以外にも神は彼の泣き言に対して手厚いフォローをしている。 曰く「カインにあだなすものは七倍の復讐を受ける」というのだ。 聖書において七という数字は大きい数の比喩的な意味が強いので数字については今回度外視する。 このシーンにおいてカイン=鉄とすれば神の言葉は2つの意味で説得力がある。 一つは、単純にこの時代背景においておそらく鉄よりも強い物質がないであろうという点。 もう一つは、鉄とは古来より魔除けの力があるものとして扱われている点である。 鉄と成らしめたカインは物質的な障害にも強く、悪意のような精神性の障害にも耐性がある物質なのだ。 また、彼の子孫たちに目を向けると、また面白い発見がいくつかある。 カインの息子、名はエノクという。 エノクというと神に愛された人物として(場合によっては天使メタトロンになった存在として)有名な名前だが、このエノクはそれらとは別人である。 このエノクであるが、町の名前となっている。 そうつまり地名になったのだ。父がかつてそうであったように。 更に下って、レメクという人物が出てくる。 レメクには二人の妻がいた。 一人はアダ。もう一人はツィラという。 そしてアダとの間に生まれた子は遊牧の祖と演奏家の祖に、ツィラとの子は鍛冶師の祖になった。 ここで注目するのは二人の妻の名である。 アダは『光』などの意味を持ち、ツィラは『影』などの意味があるという。 『鉄』と『光』からは生活や遊興の祖が、 『鉄』と『影』からは闘争の祖が生まれたことになる。 つまり彼女たちは、鉄文化の光と影を担う存在の象徴と見ることができるのだ 罪を犯して追放されたというカインだが、こうしてみると脈々と子孫が栄え、往生しているように見える。 だが、これだけ脈々と反映したように見えるカインの子孫たちであるにも関わらず、以降の聖書世界の物語に関与する人物がほとんどいない。 系譜が語られているにも関わらず、のちの文書に言及されていない謎の一族。 この奇妙さもまた、彼らがまっとうな人類の系譜に属していない根拠の一つではないだろうか。 ──そして最後に余談、というより本来こっちが本題なのだが。 これは非人間が、人間に成り代るというエピソードとも見ることが出来る。 上で展開した解釈に沿うならアダムとイブの最初の子供はアベルだけである。にも拘らず、より両親に近い『長男』の地位を本来人間ですらなかったカインが今日得ているのは何故か。 聖書世界におけるこの初期段階において、人間とは所詮命を吹き込まれた土人形である。 そう考えたとき、人間として人間から産まれたアベルと、もともと大地そのものであったカインではどちらがより父アダムに近い存在と言えるか。 出自のあり方で見た場合、アダムとカインは、経緯こそ大きく異なるものの『製法』という意味では非常に近しい。 神がカインの犯行を追及する際にこう言っている「お前が流した弟の血を、口を開けて飲み込んだ土よりもなお~(以下略)」と。 つまり、大地(カイン)はアベルを殺害した際、その血を飲んだということになる。 血を鉄以外の表現に置き換える際、命解釈するくらいの連想は誰でも思いつく発想だと思う。 日本においても命を意味する「霊」の字を「ち」と読ませることがあるのは、日本の神話や神道についての知識を少しでも齧ればすぐに知れることであろう。 であれば、大地(カイン)はアベルから文字通り命を奪って、アダムと同じ生きた土に成り果せたということになる。 しかもアダムの本来の子供アベルの命を持った、よりアダムに近い存在『長男』という立場にまんまと割り込んだ形で。 更に言えば、他者の体の一部を使って、元居た本物を追いやってしまったという点で、イブとカインは驚くほど似ている。 イブも現在は最初の女性として定着しているが、実は本当の第一の女性リリスが歴史の闇に葬られていることは割とよく知られた話であろう。 こうした『偽者が本物に成り代る』話は都市伝説で語られる『出会うと死んでしまう』ドッペルゲンガーの話に良く似ていないだろうか。
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