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トップページ>紀年論叢>呉世昌教授華甲紀念韓国近現代史論叢 『呉世昌教授華甲紀念韓国近現代史論叢』呉世昌教授華甲紀念韓国近現代史論叢刊行委員会、1995年 Ⅰ.民族意識の成長 孫承喆「18世紀朝鮮人の日本天皇復権論について」 権五栄「1881年の京畿斥邪論:鄭胤永の斥邪論を中心に」 崔震植「1880年代初金玉均と金允植の現実認識」 Ⅱ.民族の自覚と抵抗 金祥起「忠清地域前期義兵の展開と性格」 柳漢喆「「宇宙問答」を通じて見た柳麟錫の国権回復運動論」 尹炳奭「李相卨と李東輝の民族運動」 崔起栄「韓末安鍾和(1860-1924)の歴史認識」 洪英基「芝江梁漢黙の生涯と活動」 裵勇一「申采浩の愛国啓蒙思想研究」 金宇鍾「安重根の愛国精神と東洋平和思想」 趙恒来「韓末日帝侵略先導者の反民族的性格:一進会の組織と先導者としての行脚を中心に」 崔敬淑「韓末儒生層の新教育参与」 権大雄「韓末達城親睦会研究」 Ⅲ.宗教界の動向 趙珖「朝鮮後期西学思想の社会的機能」 朴孟洙「東学二世教主崔時亨研究:家系と結婚関係を中心に」 金光植「1910年代仏教界の進化論受容と寺刹令」 韓圭茂「日帝下韓国長老教会の農村運動(1928-1937)」 Ⅳ.国内の独立運動 李炫煕「日帝強占期慶南地域の抗日民族運動」 劉準基「6・10万歳運動と天道教」 朴容玉「趙信聖の民族運動と義烈活動」 金昌洙「沃坡李鍾一の思想と行動:彼の自主独立思想と民族独立運動」 盧栄澤「日帝下港口都市労働運動の性格:仁川地域を中心に」 Ⅴ.国外の独立運動 李尚根「露領地域に移住した韓人に対するロシアの政策」 権立「中国居住韓民族歴史の特徴について:二重的性格と二重的使命を中心に」 姜龍範「朝鮮3・1運動と中国の先進分子」 崔洪彬「鳳梧洞戦闘の再照明」 金喜坤「上海時代(1919-1932)白凡金九の独立運動」 朴永錫「張学良中国東北軍閥の対韓人政策:特に吉林省を中心に」 朴昌昱「中日戦争と重慶時期の韓国臨時政府」 張世胤「1940年代前半期中国国民党政権の韓国独立問題認識と対応」 韓時俊「大韓民国臨時政府と韓国光復軍」 姜在彦「戦後満州における朝鮮義勇軍:中国革命から韓国戦争へ」 六.分断下の歴史と現実 李延馥「4・19革命の性格と展望」 兪炳勇「韓日会談に関する一考察」 禹澈九「北・米関係の展開と韓・米関係」 李寿仁「韓国社会分断50年の構造と民族史の課題:政治的対立構図を中心に」 七.茶山の実学と康津 趙誠乙「丁若鏞の人事制度改革論」 鄭奭鍾「茶山丁若鏞の流配地康津での生活:『茶信契節目』と『丁黄契帖』を中心に」
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憲法改正推進・防衛力整備推進・外国人参政権反対など保守愛国的な政治姿勢も見受けられるものの、根本部分で「日本は悪い国だった」とする東京裁判史観に囚われたままの読売新聞。 一昨年の福田首相(リベラル派)擁立工作、そして最近の異常とも思える麻生首相(保守派)叩きも原因はそこにあるのではないでしょうか。 <目次> ■読売新聞の政治的スタンス ■安倍首相退陣表明後の福田擁立工作 ■読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆 渡邉恒雄の発言 ■麻生首相バッシング ■読売新聞の不祥事 ■読売新聞のスポンサー ■ご意見、情報提供 ■読売新聞の政治的スタンス 最初に論点明確化のため、読売新聞の立ち位置を以下のように想定します。 ◆政治的スタンス五分類(内枠) 進歩重視 伝統重視 親・全体主義(閉ざされた社会) I 左翼(共産主義、社会主義、リベラル左派) ⇔親和性高い⇔(左/右しばしば転向) V 右翼(国民社会主義※1、ナショナリズム) 反・白人/反・英米的親アジア傾向、独裁制 ‡非常に対立的 II 中間(便宜主義) ‡反・左翼で一致だが潜在的には対立 モボクラシー(衆愚制) 親・自由主義(開かれた社会) III 真正リベラル(本来のリベラル=リベラル右派) ⇔親和性高い⇔(伝統に根ざした自由) IV 真正保守(伝統保守) 親・文明/親・英米的デモクラシー(民主制) ※サイズが合わない場合はこちら をクリック ◆政治的スタンス八分類 (外枠) ※極右と極左は隣接 「ナチスとコチスは兄弟」 Political Stance Ultra-Left Left-Winger Liberal Centrist Neo-Liberal Conservative Right-Winger Ultra-Right 政治的立ち位置 極左(急進・過激派) 左翼(革新) リベラル左派(中道左派・進歩派) 中間(オポチュニズム) リベラル右派(新自由主義) 保守(伝統保守) 右翼(ナショナリズム) 極右(急進・過激派) 政治制度 一党独裁(全体主義) 指導政党制(準全体主義) 選択的多党制・政権交代を前提(純度の高い議会制デモクラシー = 自由民主制 liberal democracy)※2 指導政党制(準全体主義・権威主義) 一党独裁(全体主義) 革命(Revolution)断行 革命・クーデターによる政体変更を否認 維新(Restoration)断行 クーデター断行 経済制度 共産主義 社会主義 資本主義 国民社会主義※1 経済政策 国家管理 高負担・高福祉 やや高負担・高福祉 功利主義・無定見 最小限の介入 中負担・中福祉 高負担・高福祉 国家管理 外交政策 親大陸(反英米) 親英米(反大陸) 反英米・反大陸 日本の事例 社民党(旧社会党) 自民党 日本共産党 民進党 維新政党新風 生活の党 公明党 おおさか維新の会 日本のこころを大切にする党 海外の事例 米・露 ソ連共産党(現:ロシア共産党) 民主党(米) 共和党(米) 統一ロシア(プーチンの与党) 自由民主党(露) 英国 労働党(英) 自由民主党(英) 保守党(英) ドイツ 左翼党(旧東独社会主義統一党) 社会民主党(独) 自由民主党(独) キリスト教民主同盟・社会同盟(独) ドイツのための選択肢 ナチス党(消滅) 中・台 中国共産党(支) 民主進歩党(台) 中国国民党(華・台) 国内メディアの立ち位置 赤旗(共産党支持) 朝日・毎日・中日・NHK(民主・社民支持) 読売・日経(大連立・中道志向) 産経(自民支持) チャンネル桜(保守派支持) ※読売は「保守」ではなく「便宜主義」※産経も「保守」ではなく「中道右派」 ※政治現象を読み解くために…上の図は頭に入れて置こう⇒上図の詳しい説明は 政治の基礎知識 参照 ※意見はこちらへ⇒ 政治的スタンス分析 ※1:国民社会主義 … 「国民」を神聖視した戦後はナチスと結びついた national socialism を「国家社会主義」とワザと誤訳してきたが、戦前の刊行物は「国民社会主義」と正しく訳しており最近の高校教科書の記述も語義どおり正しく翻訳するようになってきた(例:2006年検定合格の山川世界史教科書:「国民(国家)社会主義」と表記)。 ※2:自由民主制 … 「国民」を神聖視したのと同様に「デモクラシー」を「民主主義」とワザと誤訳して神聖視した戦後は liberal democracy をも「自由民主主義」とワザと誤訳してきた。⇒詳しくは デモクラシーの真実 参照。しかし厳密に学問的な政治学の著作は democracy を「民主主義」ではなく、ちゃんと「民主制」「民主政体」「民主政治」「衆民制」などと表記している。 ■安倍首相退陣表明後の福田擁立工作 ※詳しい方の記入をお待ちします。 ■読売新聞グループ本社代表取締役会長・主筆 渡邉恒雄 の発言 中国の『北京週報』というメディアのインタビューに、こんな内容を答えています。゛首相は誰がなろうと、靖国神社には参拝しないと約束しなければならない。もしその約束をしないならば、私は読売一千数万部の力をもってそれを倒す″ (櫻井よし子 ブログ!) ■麻生首相バッシング ※詳しい方の記入をお待ちします。 ■読売新聞の不祥事 読売新聞の不祥事年表 ■読売新聞のスポンサー 反日マスコミスポンサー表 ■ご意見、情報提供 当ページ(または当該ページ名)についての情報提供や意見がある方は掲示板でどうぞ。 ただし、wikiの編集が出来る方は、極力ご自身でページの編集をするようにしてください。
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◆政治的スタンス5分類(内枠) 進歩重視 伝統重視 親・全体主義(閉ざされた社会) I 左翼(共産主義、社会主義、リベラル左派) ⇔親和性高い⇔(左/右しばしば転向) V 右翼(国民社会主義※1、ナショナリズム) 反・白人/反・英米的親アジア傾向、独裁制 ‡非常に対立的 II 中間(便宜主義) ‡反・左翼で一致だが潜在的には対立 モボクラシー(衆愚制) 親・自由主義(開かれた社会) III 真正リベラル(本来のリベラル=リベラル右派) ⇔親和性高い⇔(伝統に根ざした自由) IV 真正保守(伝統保守) 親・文明/親・英米的デモクラシー(民主制) ※サイズが合わない場合はこちらをクリック ◆政治的スタンス8分類(外枠) ※極右と極左は隣接 “ナチス(国民社会主義(いわゆる国家社会主義(*下記注釈参照))とコチス(共産主義)は双子の兄弟” Political Stance Ultra-Left Left-Winger Liberal Centrist Neo-Liberal Conservative Right-Winger Ultra-Right 政治的立ち位置 極左(急進・過激派) 左翼(革新) リベラル左派(中道左派・進歩派) 中間(オポチュニズム) リベラル右派(新自由主義) 保守(伝統保守) 右翼(ナショナリズム) 極右(急進・過激派) 政治制度 一党独裁(全体主義) 指導政党制(準全体主義) 選択的多党制・政権交代を前提とした政治制度(純度の高い議会制デモクラシー = 自由民主制 liberal democracy)※2 指導政党制(準全体主義・権威主義) 一党独裁(全体主義) 革命(Revolution)を是認 革命・クーデターによる政変・政体変更を否認 維新(Restoration)断行 クーデター是認 経済制度 共産主義 社会主義 資本主義 国民社会主義※1 経済政策 国家管理 高負担・高福祉 やや高負担・高福祉 功利主義・無定見 最小限の介入 中負担・中福祉 高負担・高福祉 国家管理 外交政策 親大陸(反英米) 親英米(反大陸) 反英米・反大陸 日本の事例 社民党(旧社会党) 自民党 日本共産党 民進党 維新政党新風 生活の党 公明党 おおさか維新の会 日本のこころを大切にする党 海外の事例 米・露 ソ連共産党(現:ロシア共産党) 民主党(米) 共和党(米) 統一ロシア(プーチンの与党) 自由民主党(露) 英国 労働党(英) 自由民主党(英) 保守党(英) ドイツ 左翼党(旧東独社会主義統一党) 社会民主党(独) 自由民主党(独) キリスト教民主同盟・社会同盟(独) ドイツのための選択肢 ナチス党(消滅) 中・台 中国共産党(支) 民主進歩党(台) 中国国民党(華・台) 国内メディアの立ち位置 赤旗(共産党支持) 朝日・毎日・中日・NHK(民主・社民支持) 読売・日経(大連立・中道志向) 産経(自民支持) チャンネル桜(保守派支持) ※読売は「保守」ではなく「便宜主義」※産経も「保守」ではなく「中道右派」 ※政治現象を読み解くために…上の図は頭に入れて置こう⇒上図の詳しい説明は 政治の基礎知識 参照 ※意見はこちらへ⇒ 政治的スタンス分析 ※1:国民社会主義 … 「国民」を神聖視した戦後はナチスと結びついた national socialism を「国家社会主義」とワザと誤訳してきたが、戦前の刊行物は「国民社会主義」と正しく訳しており最近の高校教科書の記述も語義どおり正しく翻訳するようになってきた(例:2006年検定合格の山川世界史教科書:「国民(国家)社会主義」と表記)。 ※2:自由民主制 … 「国民」を神聖視したのと同様に「デモクラシー」を「民主主義」とワザと誤訳して神聖視した戦後は liberal democracy をも「自由民主主義」とワザと誤訳してきた。⇒詳しくは デモクラシーの真実 参照。しかし厳密に学問的な政治学の著作は democracy を「民主主義」ではなく、ちゃんと「民主制」「民主政体」「民主政治」「衆民制」などと表記している。
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長征(ちょうせい)は、中国国民政府が中国共産党に対する攻勢を強めたのに対し、1934年 - 1936年にかけて行われた、中国共産党による脱出と組織の再編。中国国民党からは「大流竄」と呼ばれた。 概要 共産党指導部は江西省瑞金から陝西省延安に至るまで転戦、国民党勢力との戦闘などにより10万人の兵力を数千人にまで減らしたが、国民党蒋介石政府が抗日のため共産党との妥協に転じたため状況は終息した。途上で開催された遵義会議などにより、毛沢東の指導権が確立された。現共産党政権は、長征を現代中国形成に至る歴史的転換点と捉えている。 背景 国民政府は、1930年代、「中華ソビエト解放区」と称する支配地域を各地に築いていた共産党に対し攻勢を強め、「囲剿(=悪者を囲み滅ぼすの意)」と称する包囲殲滅戦を各地で展開した。当時共産党の最大勢力圏は江西省瑞金を中心にした山岳地帯根拠地であった。民族資本や外国資本の集まる大都市や半植民地化された沿岸部からは遠くはなれた地域であったため、中華ソビエト地区を発展させるには農業の発展が不可避であり、半農半兵という状態であった。 当時共産党正規軍は中国工農紅軍第一軍と呼ばれており、瑞金政府管理下の正規軍は約十万、民兵を含めても十五万に満たない兵力であったという。 第1次-第4次囲剿 第1次-第4次までは国民党軍は兵力を小出しにしたこと、また紅軍側は山岳地帯でのゲリラ戦を展開したことで、これを打ち破った。 第5次囲剿 蒋介石は第1次-第4次の失敗は、兵力の分散と不慣れなゲリラ戦に対応できなかったこと、さらには紅軍の装備が貧弱であることから軍隊としての能力そのものも低いであろうと見くびっていたことにあると判断した。このため、第5次囲剿においては兵力もそれまでの4-5倍に相当する100万人規模を投入、塹壕とトーチカを設置した本格的地上戦を展開し、さらには当時僅かしか保有していなかった航空兵力まで投入した。 この包囲網に対し、当時共産党の実質的最高指導者であった秦邦憲はコミンテルンより派遣された軍事顧問ウィッテの提言を鵜呑みにし、塹壕戦を展開した。周恩来・鄧小平・毛沢東らは、圧倒的優位な包囲軍に対して塹壕戦を展開するのはあまりに無謀であると反対したものの、党中央の決定は覆らず、ここに中国史上初めての中国人同士による近代的塹壕戦が展開されることとなった。 秦邦憲の考えは、この戦いは国民党と共産党の最終決戦であり、また瑞金中華ソビエト地区の経済基盤は脆弱そのもので、戦闘を繰り返せば疲弊し、戦わずして根拠地を喪失する、よって短期に決戦を挑む、ここで勝利できなければ革命そのものが敗北するというものであった。また、ウィッテは第一次世界大戦・ロシア革命を戦ったソ連の陸戦を模範にした軍事顧問であり、ゲリラ戦を展開する紅軍に苛立ちを覚えていたという。当時の国民党軍はドイツの軍事顧問を迎えており、対抗意識も多分にあったろう。 しかし、兵力・装備とも圧倒的に不利な紅軍は順次防衛線を後退させ、ついに防衛線は首都瑞金の北辺まで後退、広昌失陥に際しては1万以上の兵力を失うという大敗を喫した。 出立 1934年10月、ついに共産党中央は残存の紅軍第一軍八万の兵力の撤退・南下して包囲網の突破と、併せて中央指導部の移転を決定した。後に残されたのは項英・陳毅など僅かな部隊で、ゲリラ戦を展開、根拠地維持を託された。 転戦 南下を開始した紅軍第一軍は、明確な目的地を示すことができなかった。ただただ逃げ惑う軍団は、それでも10月21日には国民党軍の第一次防衛線を突破、11月15日には第2・第3の防衛線を突破した。しかし、12月に湘江を渡河した第1軍は3万あまりの兵力に激減していた。 ここに至り、共産党中央は湖南省西部に転進し、第二軍(総指揮官賀龍)との合流を企図した。しかし、この目論見は蒋介石も見通しており、兵力を湖南省に集中させた。蒋介石は経済基盤の強い大都市の失陥を恐れ、重点的に都市を防衛したのである。 国民党軍の動きにより再び進路を失った紅軍部隊は貴州省方面へ転進、長征途上唯一といっても良い都市・遵義に入城する。 遵義会議 (遵義会議を記した当時の文書は存在せず、また共産党からも公開されてない。以下は1949年以降共産党が出した文書を元に通説を記す。) ここまでの行軍で疲弊しきった紅軍及び党中央は遵義で10日あまりの休養を得る。この休養期間中、その後の行軍方針と戦略を決定する遵義会議が開催され、毛沢東が政治局員のリーダーに選出される。しかし、海外留学経験のない毛沢東はまだ単独で共産党を指導できる立場に無く、周恩来、王稼祥との三頭政治となった。また、瑞金第5次囲剿に際して戦略的にも戦術的にも致命的ミスを起こしたウィッテは更迭された。この遵義会議が中国共産党における一大転換点となっている。 西進・北進 遵義に中華ソビエト地区を設定した紅軍・中国共産党は、まず貴州から四川省に入る。ここでさらに西進した第一軍は念願の紅軍別働隊との合流を果たすが、目指していた第二軍ではなく第四軍(総指揮官徐向前)との邂逅となった。第四軍も同様に長征中であったが、敵は国民党軍ではなく四川軍閥であった。引き続き行く手には国民党・共産党とも受け入れを拒否する少数民族、急峻な山々や執拗に追いすがる国民党軍が待ち受けていた。 四川省を転戦中に紅軍は赤水河(長江の南の支流)を4度渡河し、四川盆地を迂回して長江上流の大渡河の瀘定橋を渡り、大雪山を踏破した。この過程で国民党軍は紅軍の捕捉が不可能となり、追尾を放棄した。 かくして、1936年10月に江西省・湖南省・貴州省・四川省・甘粛省・陝西省と転戦、大自然・軍閥・国民党軍を相手に戦った第一方面軍は忽然と延安に姿を現し、長征の完了を宣言したのである。しかし、尚一部の部隊は西進し、新疆まで達している。 この過程で八万を越えていた兵力が死亡・脱落などにより数千人にまで減少するなど、大きな打撃を受けたが、これ以後、毛沢東の指導権が確立され、国民政府に対する攻勢に転じる転換点として、共産党は「長征一万里」として、栄光ある事業と位置づけている。 意義 長征の過程で内部粛清もあり共産党軍が延安に着いた時は壊滅状態になった。コミンテルンの資金援助で何とか食いつないでいる状態であった。共産党はこの逃避行を英雄叙事詩に仕上げて、「長征の過程で多くの革命根拠地を設営し、数千万の共産党シンパを獲得した。そもそもが戦略の失敗で始まった長征であったが、巨大な革命の種まき期であった。物資の調達などで略奪を厳禁したので、このことにより中国共産党に対する人民の信頼を勝ち得た」と宣伝しているが、実際は人民裁判による地主・資本階級の処刑と資産没収、そして小作人からの「革命税」徴収によって食いつないだというのが実態であり、一概に「信頼を得た」とは言い難い。なお、この手法は後のセンデロ・ルミノソなどの共産ゲリラによって引き継がれた。 壊滅状態から復活し得たのは、コミンテルンの指示で国民党との協力に抗日統一戦線結成の呼掛けて方針を転換したのと、西安事件と盧溝橋事件の発生により、国民党蒋介石政府が剿共政策から抗日の為に国内統一政策に優先順位を切り替えざるを得ない状況に追い込まれた為である。 関連項目 中国人民解放軍 八路軍 長征指導者一覧 これを従軍取材した、アメリカ人記者エドガー・スノーの著作も有名である。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月10日 (金) 17 23。
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http //sankei.jp.msn.com/politics/policy/100220/plc1002200244003-n1.htm 【土・日曜日に書く】論説委員・石川水穂 中国への歩み寄りは無意味 2010.2.20 02 44 ≪歴史観の違い明確に≫ 日中両国の有識者による歴史共同研究の報告書が先月末、公表された。この共同研究は、平成18年10月の安倍晋三首相(当時)と胡錦濤国家主席の合意に基づき、戦略的互恵関係構築の一環として行われたものだ。 双方が歩み寄ったことを評価する声が一部にある。だが、近現代史部分の中国側記述を読むと、表現が少し穏やかになったものの、内容は従来の中国共産党史観とほとんど変わらない。中国がそれほど歩み寄ったとは思えない。 南京事件(昭和12~13年)について、中国側はこう書いている。「日本軍は南京で多数の捕虜や住民を集団虐殺し、略奪を繰り広げた。東京裁判は占領後1カ月間に南京市内で2万人近い強姦(ごうかん)事件が起きたと認定。南京軍事法廷は犠牲者数を計30万人以上とした」 「30万人虐殺」説も「2万人強姦」説も、中国当局が公式に主張している数字だ。当時の南京の人口(20万人)を上回る「30万人虐殺」が荒唐無稽(むけい)な数字であることは言うまでもないが、「2万人強姦」もあり得ない話である。 南京事件に詳しい東中野修道・亜細亜大教授は以前、本紙でこんな指摘をしていた。 第二次大戦にドイツが敗れた直後の2カ月間で、約10万人の女性がロシア兵に強姦された。1万人強が妊娠し、その90%は医師が中絶したが、1000人強は出産したという。だが、南京でそのような“不幸な赤ちゃん”が生まれたという記録はどこにもない。 ≪「虐殺なかった」も有力≫ 南京事件では、日本側が「日本軍による集団的、個別的な虐殺事件が発生し、強姦、略奪が頻発した。犠牲者数は20万人を上限として、4万人、2万人などさまざまな推計がある」と虐殺を認め、中国の主張に歩み寄った。 しかし、「南京虐殺」や「南京大虐殺」は当時の中国国民党の反日宣伝だったことが、最近の研究で分かってきた。 「大虐殺」の証拠とされる「戦争とは何か-中国における日本軍の暴虐」の著者、英マンチェスター・ガーディアン紙の中国特派員は実は第三者ではなく、「田伯烈」という中国名の国民党中央宣伝部顧問だった。 日本側が報告書に記した「集団的な虐殺」の有無もはっきりしなくなってきた。日本側の記述にある「20万人虐殺」説を唱える日本人学者はいるにはいるが、信頼性を失っている。かつて「4万人虐殺」説を主張した近現代史家の秦郁彦氏も、近著で「実数はそれをかなり下まわるであろう」と下方修正している。 「虐殺」とされたケースのほとんどが通常の戦闘行為の延長で、ナチス・ドイツやスターリン時代の旧ソ連が他民族に対して行ったような集団的な虐殺はなかったという見方が有力になっている。 こうした最近の実証的な研究成果が、今回の日本側の報告には触れられていない。 ≪水増しは常套手段≫ 今回の報告書で、中国側は日中戦争における中国側の被害について、「不完全な統計」と断っているものの、「約3500万人が死傷した」と書いた。これも中国側の誇大宣伝数字の一つだ。 秦氏によれば、終戦直後の1946年、国民政府の何応欽軍政部長は中国軍人の死傷者を「321万人(うち死者189万人)」と東京裁判に報告した。何応欽は1978年に行った演説でも、中国軍の死傷者数をほとんど変えず、民間人を合わせた軍民の死傷者数を「579万人」としていた。 ところが、1980年代、中国の軍事博物館や教科書に、中国軍民の死傷者「2168万人」という数字が登場し、4倍にふくれ上がった。さらに、1995年、江沢民前国家主席はモスクワで行った演説で、中国軍民の死傷者を「3500万人」に増やし、軍事博物館や教科書もこの数字に差し替えられた。日本軍による犠牲者数を根拠のないまま水増ししていくのは、中国の常套(じょうとう)手段である。 中国側が歩み寄ったのは、日中戦争の発端となった盧溝橋事件(昭和12年7月)で、「正確な史料は見つかっておらず、事件が偶発的に起きた可能性がある」と偶発説に言及したことくらいだ。 東京裁判で、国民政府は「日本軍挑発」説を唱え、中国の教科書もこれに依拠している。 だが、最近の日本の研究では、「中国共産党謀略」説も有力になっている。今回の報告書で、日本側は「偶発」説を書くにとどめたが、少し踏み込みが足りない。 共同研究は今後も、人を代えて続けられる。独裁国家の中国と学問の自由がある日本との間に、歴史認識の共有などあり得ない。日本が中国に歩み寄ったところで、学問的には何の意味もないのである。(いしかわ みずほ) 日中歴史共同研究
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{{大統領 | 人名=毛沢東 | 各国語表記= | 画像=Mao1946.jpg | キャプション= | 代数= | 職名=中央人民政府主席 | 国名=中華人民共和国 | 就任日=1949年10月1日 | 退任日=1954年9月27日 | 代数2=初 | 職名2=主席 | 国名2=中華人民共和国 | 就任日2=1954年9月27日 | 退任日2=1959年4月27日 | 出生日=1893年12月26日 | 生地=Template QIN1890? 湖南省湘潭県韶山村 | 死亡日=1976年9月9日 | 没地=北京(廟:毛主席紀念堂) | 配偶者=羅一秀、楊開慧、賀子珍、江青 | 政党= 中国共産党 | サイン= }} {{中華圏の人物 | 名前=毛沢東 | 画像= | 画像の説明= | 出生= | 死去= | 出身地= | 職業= | 簡体字=毛泽东 | 繁体字=毛澤東 | ピン音=Template Audio? | 注音= | 和名=もう たくとう | 発音=マオ ツォートン | ラテン字=Mao Tse-tung | 英語名= }} Template 中華人民共和国? 毛 沢東(もう たくとう、1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍人、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之、筆名は子任。中国共産党の創立党員であり、中華人民共和国の建国の父とされている。死去に至るまで、同国の最高権力者の地位を保った。 毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、海外、特にインド以東のアジアとラテンアメリカの共産主義者にも影響を与えた。内政においては、大躍進政策の失敗や文化大革命を引き起こしたことにより数千万とも言われる大多数の死者を出し、国力を低下させたが、「中華人民共和国を建国した貢献は大きい」として、その影響力はいまだ根強く残っている。しかし文化大革命で失脚した上に迫害された鄧小平らの旧「実権派」が党と政府を掌握した状況下で、大躍進政策や文化大革命は「功績第一、誤り第二」である毛沢東の失敗とされ、歴史の教科書からも彼を過度に賛美する記述はなくなり、毛沢東の神格化は次第にされなくなった。 プロフィル 生い立ち thumb|left|200px|[[1919年 家族とともに]] 1893年に清国湖南省湘潭県韶山村の地主の家庭に生まれる。3人兄弟。生家は地主といっても小規模なものであり、毛沢東は厳格な父によって子どものうちから労働に従事させられる。小学校を卒業後、長沙の中学に通い、14歳で最初の結婚をするが数年で妻は死去した。 その後、従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激をうけて16歳で故郷を離れ、いくつかの学校や地方軍などを転々とし、アダム・スミスやモンテスキューなどの社会科学系の書物に触れる。1918年、湖南省立第一師範学校を卒業し、恩師・楊昌済を頼って中華民国北京政府の首都である北京に上京。大学図書館に勤めるかたわら『新青年』の熱心な寄稿者となる。 教師時代 翌1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。このころ新式学校の設立を計画したり陳独秀や李大釗と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年恩師の娘・楊開慧と結婚。 中国共産党創立 1921年に、上海で中国共産党の創立党員として第一回大会(中共一大会議)に出席し、以後その指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。コミンテルンの指導に従って国共合作に重要な役割を果たすが、1927年の上海クーデターで国共合作が崩壊すると、毛沢東は江西省で蜂起(秋収起義)したが失敗、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもることになった。 この根拠地に潜伏中に地元の名家の娘賀子珍と関係を持ち、1929年には長女が誕生している。1930年妻の楊開慧が、蒋介石率いる中国国民党軍に捕らえられて処刑される。同年、毛沢東は井崗山を去り、江西ソヴィエトを建設。主席となるが、以後四年間国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。 日中戦争時代 国民党軍に追われて1934年10月18日に根拠地を放棄し敗走、いわゆる「長征」を開始するが、この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた会議(遵義会議)で党の実権をほぼ掌握する。1937年に始まった日本との間の日中戦争においては、第二次国共合作を行い、宿敵である蒋介石と手を結び共同戦線を構築。1936年秋には陝西省延安に根拠を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示。消耗を防ぎながら抗日活動を続ける。 1938年には長征時代の妻である賀子珍と離婚し、不倫の上で上海の元女優、江青と結婚した。1940年には『新民主主義論』を著し、のちの「人民中国」の先見の明を示した。 その後は、国共合作の相手である国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。 国共内戦 1945年8月の中華民国を含む連合国に対する日本の降伏と、満州国を含む中国大陸からの日本軍の撤退後は、蒋介石率いる中国国民党軍との国共内戦となり、中国人民解放軍を率いて戦うこととなる。 中国人民解放軍はソ連からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗により、アメリカ政府からの軍事支援を削減された国民党軍に勝利を重ね、徐州を中心とする大規模な准海戦役に勝利し、1949年1月には北平(北京)に入城する。同年4月23日には国民党政府の根拠地首都の南京を制圧した。 中華人民共和国建国 1949年10月1日に天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。なお、蒋介石率いる国民党政府は台湾島に移った。同年には、建国後も軍事援助を続けていたソビエト連邦を訪れ、ヨシフ・スターリンと会見している。 その後に勃発した朝鮮戦争では、ソビエト連邦とともに北朝鮮を支持して中国人民志願軍を派遣。この戦争で、長男の毛岸英を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失っている。 独裁化 thumb|200px|right|スターリンと毛沢東との友好関係を描くソ連の[[プロパガンダポスター]] 建国後は国家主席として階級を撤廃した共産主義社会の建設に力を注ぐが、1956年の「百花斉放百家争鳴」運動で、多くの知識人から硬直した政策を批判されたため、これを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。 さらに「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標とし、1958年に大躍進政策を発動。大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民の生産意欲を奪い、結果的に無謀な生産目標に対し実際よりも水増しされた報告書が中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進は大失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した。 このことで「世界三大大量殺戮者」として、ドイツのヒトラーやソ連のスターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降毛沢東の政策は次第に現実離れしていき、批判を受け付けない独裁的な傾向が強くなっていく。 中ソ対立 また、スターリン批判や対米政策をめぐり、ソ連のニキータ・フルシチョフ首相とも不仲となった。1950年代中旬からは中ソ対立が深刻化し、1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、キューバ危機におけるソビエト政府の対応を公式に非難するなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなった。 文化大革命 こうした大躍進の失敗は主席である毛沢東の権威を傷つけ、1959年に国家主席の地位を劉少奇に譲ることとなり、さらには1962年1月に開催された七千人大会において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。この大会を機に政治の実権は劉少奇-鄧小平ラインに移ることとなり、毛沢東の実権は大きく低下した。しかし大衆に対する毛沢東への神格化は着実に進められ、毛沢東はひそかに奪権の機会をうかがっていた。 1965年11月、北京市副市長でもあった呉晗の『海瑞罷官』を「大毒草」であるとした姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載、これが端緒となり、1966年5月北京大学に反革命批判の壁新聞が貼り出され、事実上文化大革命が始まった。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持、自ら天安門広場に赴き、百万名の紅衛兵を煽動し「四旧打破」のスローガンを打ちたて、運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。 これらにより、江青や林彪らを中心とし、実権派(経済政策の柔軟化を唱える党員は「走資派」という蔑称のレッテルを貼られた)・修正主義者(「スターリン批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東個人崇拝見直しと代替権力として党官僚強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動である「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。この頃個人崇拝の対象に祭り上げられた毛は「偉大的導師、偉大的領袖、偉大的統帥、偉大的舵手、万歳、万歳、万万歳」と称えられていた。 文化大革命では、紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあったものを徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な「左」傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万数千万とも言われている。この流れの中、毛沢東の奪権目標であった劉少奇・鄧小平らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。これを受け1968年毛沢東は学生たちの農村への下放を指示した。1971年の林彪事件以後、人材難から鄧小平らかつて失脚した者を政権内に呼び戻しポストを与えた。 米中接近と日中国交締結 毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京における毛沢東=ニクソン会談である。この日、すでに椅子から立つのにも苦労するほど健康状態が悪化していたにもかかわらず、毛沢東はニクソン大統領と握手し、同盟各国の頭越しに首脳会談による関係改善を成し遂げた。これに先立つニクソンの訪中予告は全世界の驚愕を呼び起こし、金ドル交換停止とともにニクソン・ショックとも呼ばれる。ただし、米中が国交を樹立するのは毛沢東の死後、1979年になってからである。 なお、この米中接近は冷戦下でソ連を牽制する必要があるアメリカと、同じく1960年代以降ソ連との関係が珍宝島事件(ダマンスキー島事件)などで悪化していた中華人民共和国双方の思惑が一致したものであった。「将来的に、資本主義国のアメリカは衰退し、社会主義体制によって発展するソ連こそが最大の脅威となるであろう」と毛沢東は予測していた。 その後、1972年アメリカの同盟国である日本の田中角栄首相もニクソンの後を追うように訪中して首脳会談を行い、国交を樹立(「正常化」)する。毛沢東が田中と面会したのはわずかな時間であったが、毛沢東は単に訪中しただけでなく、一気に国交を結ぶまでに進めた田中の決断力を「ニクソン以上のもの」と評価していた、といわれる。なお中華人民共和国も中華民国も二重承認を認めないため、日本はこれまで国交を結んでいた中華民国との国交を断絶した。 死去 ニクソンとの会見後に毛沢東が筋萎縮性側索硬化症に罹患していることが発見された。医師らが懸命の治療を行ったが、長年の喫煙による慢性的な気管支炎等が毛の体力を奪っていった。 その後も医師らによる懸命な治療は続けられたものの、1976年9月9日0時10分、北京の自宅で側近と主治医に見守られる中、毛沢東は82歳で死去した。 毛沢東の死の直後に腹心の張春橋、江青、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。 死後 毛沢東の死去後、江青ら四人組を逮捕失脚させて党主席に就任した華国鋒は「二つのすべて」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。これは文革路線を継続させ、毛沢東の指示によって地位剥奪された人々を復権させないことを意味した。 これに対して鄧小平は「毛主席の言葉を一言一句墨守することは、毛沢東思想の根幹である“実事求是”に反する」との論法で真っ向から反駁した。党と軍の大勢は鄧小平を支持し、その後鄧小平が党と軍を掌握した。華国鋒は失脚して実権を失い「二つのすべて」は否定され、毛沢東の言葉が絶対化された時代は終わった。また党主席のポストが廃止され、存命指導者への崇敬も抑制され、毛沢東のような絶対的個人指導者を戴くシステムの否定が印象付けられた。 Template 共産主義? その後の評価 毛沢東の存命中は、国歌義勇軍進行曲の歌詞が毛沢東の偉大さを讃えるものに改変された時期もあったが、死後間もなくもともとの歌詞に回復され、国歌での毛沢東への言及はなくなった。 しかし、毛沢東の尊厳を冒すような行為は許されないというのが、現在の中国国内における一般認識である。たとえば六四天安門事件直前の天安門前広場での民主化デモのさなかに、一参加学生が毛沢東の肖像画に向かってペンキを投げつけたところ、ただちに周囲の民主派学生らに取り押さえられ、「毛主席万歳!」の声がわき起こったと報道された。 一般に文革を経験した世代は毛沢東を手放しで賞賛することは少ないが、直接文革を経験していない若い世代はそれほど警戒的ではないとされる。六四天安門事件の後、生誕100周年に当たる1993年前後に毛沢東ブームが起こったのをはじめ、関連商品などが何度か流行したこともある。 毛沢東の言葉・思想 日中戦争時代の有名な毛沢東の言葉: 「戦争という巨大な力の最深の根元は、人民の中に存在する。日帝がわれわれを迫害し得る大きな原因は、中国人民の側が無秩序・無統制であったからだ。この弱点を解消したならば、日帝侵略者は、われら数億の目覚めた人民群の目前にて、一匹の野牛が火陣の中に放られた如く、われらの恫喝により彼らは飛び上がらん如く脅かされるであろう。この野牛は必ず焼き殺さねばならぬ」 その他、毛沢東の思想詳細については毛沢東思想、毛沢東語録を参照のこと。 著作 新民主主義論 矛盾論 実践論 中華人民共和国の紙幣 1999年から発行が始まった現行の中華人民共和国の紙幣中国人民銀行券第五版では、すべての券種に毛沢東の肖像が描かれ、ほかの人物は描かれていない。また1988年に発行された第4版では、100元札に周恩来・劉少奇・朱徳と共に横顔が描かれていた。 参考文献 毛沢東『毛沢東選集』(中華人民共和国・人民出版社) 産経新聞「毛沢東秘録」取材班『毛沢東秘録』上下(産経新聞社・扶桑社文庫) 師哲『毛沢東側近回想録』(新潮社) 李志綏『毛沢東の私生活』(文藝春秋) ジャスパー・ベッカー『餓鬼』(中央公論新社) 補足 ドラマ「延安頌」で毛沢東の延安時代が描かれている。2007年11月から12月にかけて、日本でもCCTV大富で放送された。 関連項目 日中平和友好条約 中国共産党 孫文 蒋介石 周恩来 張学良 康生 西安事件 中華民国の歴史 中華人民共和国の歴史 日中戦争 ヘンリー・キッシンジャー 第二次世界大戦 毛主席紀念堂 毛沢東思想 マオ 誰も知らなかった毛沢東 東方紅 ジャン=リュック・ゴダール センデロ・ルミノソ ヨシフ・スターリン ネパール共産党毛沢東主義派 エンヴェル・ホッジャ 共産主義者同盟マルクス・レーニン主義派(日本マルクス・レーニン主義者同盟=ML同盟) 日本労働党 立襟(マオカラー) 外部リンク Template commons? Template commonscat? 中国語の歌 日中愛好協会(正統) 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月23日 (木) 14 35。
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三民主義 中華民国国歌
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新しい歴史教科書をつくる会『史』11月号 先の大戦を総括し、戦争の歴史を再構築せよ アパグループ代表 元谷外志雄 私の作った座右の銘に「賢者は歴史に学び、勝者は歴史を創る」がある。これは正にGHQが戦後日本に対して行ってきたことだ。 先の大戦は、そもそもドイツと日本からの挟み撃ちを避けたいソ連コミンテルンの謀略による日中戦争の泥沼化から始まった。関東軍の工作とされていた張作霖爆殺事件はソ連特務機関の謀略であり、日中戦争の発端となった盧溝橋事件も日本を中国国民党との戦争に引き込みたいコミンテルンの手先の中国共産党・劉少奇が引き起こしたものであった。 日米開戦も日本が欧州で勢いにのるドイツに接近し日独伊三国同盟を結んだことで日米開戦が即米独開戦となると狙われ追い込まれた結果だ。欧州の戦争には参戦しない公約で当選したルーズベルト大統領はチャーチル首相の要請と、ドイツが勝利して欧州の派遣を握り、アジアがその同盟国の日本に支配されれば米国は窮地に立つと考え、日本を暴発させ、欧州の戦争に裏口から参戦する為に日本を原油禁輸等で締上げ、極めつけに日本が到底飲むことの出来ない「ハル・ノート」を突き付けたのだ。スティネットの著書『真珠湾攻撃の真実』で明らかとなったように、事前に暗号を解読し真珠湾攻撃を知りながら隠蔽し、あえて先制攻撃を掛けさせたのである。この「ハルノート」の作成者ハリー・ホワイトは後に暗号解読によりソ連のスパイであったことが判明し、ルーズベルトを煽り日本を暴発させたのはコミンテルンの謀略だった事が証明された。 米国は原爆投下と東京大空襲だけでも三十万人の一般市民を虐殺し、将来日本が強国となってこれらを非難してくる事を恐れ、日本に戦争放棄を謳った憲法を押し付け、戦争贖罪意識を持たせる為にメディアと教育で洗脳した。同じく占領下に置いた韓国には「日本は朝鮮を侵略し略奪した仇敵」とした捏造の歴史教育で反日感情を植え付けた。中国が主張する南京虐殺三十万人説を米国が否定しないのも、自国が日本に行った虐殺を非難されない為である。 そもそも日本が日清、日露、第一次世界大戦を戦ってきたのは、全ての有色人種国を植民地として世界分割支配を目論む欧米白人国家からアジアを守るためであった。日本は五族協和の大東亜共栄圏を確立し、大和、朝鮮、漢、満州、蒙古の各民族が団結して植民地化を防ぐための自衛の策として満州を独立国家とし、朝鮮・台湾を保護し、北海道と同じように内地化するため、教育とインフラ投資で近代化に努めたのである。日本が一刻も早く先の大戦を正しく総括し、誇りと自信の持てる国となることを私は願って止まない。 もとや としお 石川県出身。アパグループ創業社長。50階建ホテルをはじめ1万7000室(設計中を含む)のホテルを所有・運営他、46階建ホテル&マンションの総合都市開発事業等。月刊誌『アップルタウン』に16年間エッセイを執筆、著書多数。2008年4月、『報道されない近現代史』上梓。それに伴い、歴史研究支援のための論文顕彰制度を創設。 「偉そうな軍人さんは嘘をつく」庫
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タ イ ラ ン ド に つ い て 調 べ て み る。 タ イ ラ ン ド タ イ ラ ン ド に つ い て 調 べ て み る。 【楽しい?北タイ紀行】 第4話)秘密のツアーオプション? 《タイ旅行記|北タイ|チェンマイ|チェンラーイ|メーサイ|エアアジア》 チェンラーイに着いたのは昼過ぎであった。バスターミナルからはトゥクトゥクでBゲストハウスを目指す。小奇麗な中庭があって、なかなか居心地がよさそうだぞ、Bゲストハウスは。 さて、チェンラーイはタイで最も北に位置する街だ。もうちょっと少し北上するとそこはミャンマーやラオスへと通じている国境山岳地帯だ。その先の中国も近いせいか、街中の道路標識は英語だけでなく中国語でも表記されている。そして、チェンラーイ近郊にはラフ族、アカ族、カレン族、リス族、ヤオ族、など多くの少数民族が暮らしており、これら山岳民族の村々を巡る旅の拠点の街でもある。街中にはいくつもツアー会社がオフィスを構えていた。 チェンラーイのファンキーな仏像 僕はBゲストハウス近くのSトラベルの事務所を訪れた。とりあえず知ってる限りのタイ語をかき集めて、事務所の女性に尋ねてみる。 僕 :「พรุ่งนี้ มีทัวร์อะไรบางครับ(プルンニー ミー ツアー アライ バーン クラップ)(明日はどんなツアーがありますか?)」 すると「明日は山岳民族の村を訪れるツアーがあるわよ。」と全くなまりのない日本語が返ってきた。それもそのはず。事務所の女性は日本人だった。タイ人の男性と結婚して、ここチェンラーイで旅行会社を営んでいるのだった。 彼女は電話でどこかに確認を入れ「明日はアカ族やカレン族の村に行くツアーがあるわよ。もう2人イタリア人の同行者が決まっているから、あと一人ならOKよ」とのこと。値段は1300バーツ。このあたりの相場である。僕は前金を払って明日のツアーを予約した。 翌朝8:30、Sトラベルのオフィスに行くと、他の同行者2人は既にスタンバっていた。1人は中国留学経験のあるT子さん、彼女は3週間ほど東南アジアを周遊中だという。そしてもう一人は何度もタイにきているというS子さん、首から掛けた手ぬぐい(タオルではない)が強烈なインパクトを放っている。さすがにチェンラーイあたりまでやってくる旅行者は女の子といえどもただ者でないオーラがぷんぷんする。(あれ、同行者はイタリア人のはずじゃなかったっけ。まあいいや、タイだから。) これに陽気なドライバー兼ガイドのSネーさん、彼は日本語も英語も堪能なおしゃべり好き、の4名が今日のご一行様。Sトラベルの小型4輪駆動車に乗り込んで、イザ出発~♪ 途中Sネーさんはコンビニに立ち寄ってお菓子を大量に買い込む。そんなにオヤツはいらないゾと思ったが、実はこのお菓子、山岳民族の村を訪れるときは必需品なのだが、むろんそのときはその使い道を知る由もなかった。 さて、最初の目的地はメーサロン。ここは中国内戦から逃れてきた国民党軍の残党が住み着いた山奥の村だ。10年ほど前まで彼らの主な収入源はケシ、すなわちヘロインだった。今はタイ政府と和解して違法なケシ栽培を止めているが、それまでは外国人が簡単に入り込めるようなところではなかったという。 大通りからそのメーサロンへ向かう道に曲がって進んでゆくと、Sネーさんが「ああ、お腹へった。パイナップル食べない?」とハンドルを切って畑の中のあぜ道に突っ込んでいった。オイオイ危ないじゃん!と思ったが、そこはさすが4輪駆動。泥道を物ともせず、パイナップル畑を突き進んで行く。車を停めると彼はナイフを取り出し畑の中に入っていった。 「あった。これ美味しそう!」 なんと、彼は畑から熟れたパイナップルを失敬して僕らにごちそうしてくれた。でもいいのか!勝手に盗んで!(まっ、いいか、タイだから)。 パイナップル畑で、、、 しかし、盗んだパイナップルの味は格別であった。Sトラベルには決してパンフレットに載ることのない素敵なオプションが付いていた。 パイナップル畑を後にして、クルマ車は険しい山道を突き進んでいった。中国国民党残党の村メーサロンは山深い高原にあるのだった。 (続く) もどる < 4 > つぎへ .