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◆政治的スタンス5分類(内枠) 進歩重視 伝統重視 親・全体主義(閉ざされた社会) I 左翼(共産主義、社会主義、リベラル左派) ⇔親和性高い⇔(左/右しばしば転向) V 右翼(国民社会主義※1、ナショナリズム) 反・白人/反・英米的親アジア傾向、独裁制 ‡非常に対立的 II 中間(便宜主義) ‡反・左翼で一致だが潜在的には対立 モボクラシー(衆愚制) 親・自由主義(開かれた社会) III 真正リベラル(本来のリベラル=リベラル右派) ⇔親和性高い⇔(伝統に根ざした自由) IV 真正保守(伝統保守) 親・文明/親・英米的デモクラシー(民主制) ※サイズが合わない場合はこちら をクリック ◆政治的スタンス8分類 (外枠) ※極右と極左は隣接 “ナチス(国民社会主義(いわゆる国家社会主義(*下記注釈参照))とコチス(共産主義)は双子の兄弟” Political Stance Ultra-Left Left-Winger Liberal Centrist Neo-Liberal Conservative Right-Winger Ultra-Right 政治的立ち位置 極左(急進・過激派) 左翼(革新) リベラル左派(中道左派・進歩派) 中間(オポチュニズム) リベラル右派(新自由主義) 保守(伝統保守) 右翼(ナショナリズム) 極右(急進・過激派) 政治制度 一党独裁(全体主義) 指導政党制(準全体主義) 選択的多党制・政権交代を前提とした政治制度(純度の高い議会制デモクラシー = 自由民主制 liberal democracy)※2 指導政党制(準全体主義・権威主義) 一党独裁(全体主義) 革命(Revolution)を是認 革命・クーデターによる政変・政体変更を否認 維新(Restoration)断行 クーデター是認 経済制度 共産主義 社会主義 資本主義 国民社会主義※1 経済政策 国家管理 高負担・高福祉 やや高負担・高福祉 功利主義・無定見 最小限の介入 中負担・中福祉 高負担・高福祉 国家管理 外交政策 親大陸(反英米) 親英米(反大陸) 反英米・反大陸 日本の事例 社民党(旧社会党) 自民党 日本共産党 民進党 維新政党新風 生活の党 公明党 おおさか維新の会 日本のこころを大切にする党 海外の事例 米・露 ソ連共産党(現:ロシア共産党) 民主党(米) 共和党(米) 統一ロシア(プーチンの与党) 自由民主党(露) 英国 労働党(英) 自由民主党(英) 保守党(英) ドイツ 左翼党(旧東独社会主義統一党) 社会民主党(独) 自由民主党(独) キリスト教民主同盟・社会同盟(独) ドイツのための選択肢 ナチス党(消滅) 中・台 中国共産党(支) 民主進歩党(台) 中国国民党(華・台) 国内メディアの立ち位置 赤旗(共産党支持) 朝日・毎日・中日・NHK(民主・社民支持) 読売・日経(大連立・中道志向) 産経(自民支持) チャンネル桜(保守派支持) ※読売は「保守」ではなく「便宜主義」※産経も「保守」ではなく「中道右派」 ※政治現象を読み解くために…上の図は頭に入れて置こう⇒上図の詳しい説明は 政治の基礎知識 参照 ※意見はこちらへ⇒ 政治的スタンス分析 ※1:国民社会主義 … 「国民」を神聖視した戦後はナチスと結びついた national socialism を「国家社会主義」とワザと誤訳してきたが、戦前の刊行物は「国民社会主義」と正しく訳しており最近の高校教科書の記述も語義どおり正しく翻訳するようになってきた(例:2006年検定合格の山川世界史教科書:「国民(国家)社会主義」と表記)。 ※2:自由民主制 … 「国民」を神聖視したのと同様に「デモクラシー」を「民主主義」とワザと誤訳して神聖視した戦後は liberal democracy をも「自由民主主義」とワザと誤訳してきた。⇒詳しくは デモクラシーの真実 参照。しかし厳密に学問的な政治学の著作は democracy を「民主主義」ではなく、ちゃんと「民主制」「民主政体」「民主政治」「衆民制」などと表記している。
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Template Infobox 軍人? 河本 大作(こうもと だいさく、1883年1月24日 - 1953年8月25日)は、昭和初期に活動した日本の陸軍軍人。張作霖爆殺事件の実行犯として知られる。 出自 1883年(明治16年)1月24日、兵庫県佐用郡三日月村(現佐用町)に生まれた。高等小学校、陸軍大阪地方幼年学校、中央幼年学校を経て、明治36年.11に陸軍士官学校(15期)を卒業し、大正3年に陸軍大学校(26期)を卒業した。 張作霖爆殺事件 関東軍高級参謀として勤務していた昭和3年6月4日、北京から満州に帰還する途上にあった張作霖を奉天近郊の南満州鉄道線路上で爆殺した(当時は満州某重大事件と報道された)。当初日本の新聞では蒋介石率いる中国国民党軍のスパイ(便衣隊)の仕業であるとも報道されていたが、その後の調査で河本が計画立案をし、現場警備を担当していた独立守備隊の東宮鉄男大尉及び朝鮮軍から分遣されていた桐原貞寿工兵中尉らを使用して実行したと判明した。 昭和天皇の意向により内閣が総辞職するほどの重大事件にもかかわらず、河本の処分は予備役に回されるのみの軽いものであった。 事件以後 その後は関東軍時代の伝手を用いて、昭和7年に南満州鉄道の理事、その後昭和9年には満州炭坑の理事長となった。張作霖事件の責任を一身に負ったことが関東軍に評価された為と言われる。昭和17年第一軍参謀長の花谷正の斡旋により国策会社山西産業株式会社の社長に就任、ソ連軍の満州侵入後も中国で生活していた。 戦後 戦後、山西産業は国民党に接収され、西北実業建設公司へと名称を変更したが、中華民国政府の指示により河本は同社の最高顧問に就任し、引き続き会社の運営にあたった。 戦前同社に務めていた日本人民間人の半数は終戦にあたり帰国したが、もう半数の者たちは終戦前と同じ待遇で留任、河本自身も「総顧問」の肩書きで残留した。家族などを含めたその数は1200人余りであった。これらの残留は河本の勧誘によるものであった。 その後、太原の日本人は閻錫山の山西軍に協力して中国共産党軍と戦ったが、1949年(昭和24年)には中国共産党軍は太原を制圧、河本は捕虜となり、戦犯として大原収容所に収監された。1953年(昭和28)8月25日、河本は収容所にて病死した。享年72。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年10月6日 (月) 17 44。
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軍閥(ぐんばつ)とは多義的な用語であり、一つの定義に規定するのは不可能であるが、主なものについて挙げる。 国家における単一の近代的軍事組織が軍事を独占した状態になっている国家において、その官僚組織としての軍部内部における派閥のこと。特に旧日本軍内における派閥のことを言う。 軍事力を背景に地方に割拠する(国際的に承認・未承認を問わず、ある程度の実効支配地域を持つ)組織・集団のこと。 軍部内部における派閥 旧・大日本帝国陸軍における皇道派・統制派、旧・大日本帝国海軍における艦隊派・条約派などが挙げられる。しかし、軍部内における派閥は日本軍に限らずどこの軍隊にもありえるが、「軍閥」という名称では呼ばれない場合も多い。例えば、韓国軍における秘密組織であった「一心会」(ハナフェ)、やはり秘密組織である旧エジプト王国軍の自由将校団(ナセルなどが在籍)などは、その政治的野心も強かったものの、一般に「軍閥」とは呼ばれない。 軍事力を背景に地方に割拠する組織・集団 辛亥革命前後の中国のものが典型。例えば、辛亥革命前の代表的な軍閥領袖として李鴻章があげられる。李鴻章が私財を投じて兵を募り集め、訓練・組織化した軍閥は時の政府(清)に従順であったが、領袖の跡を袁世凱が継承してからは、次第に軍閥組織の利(ひいては軍閥領袖の意)を最優先として動く様になる(やがて孫文と裏交渉し、清政府に反目、やがては打倒勢力の中核となる)。呉佩孚、張作霖らは衝突や和解を繰り返しながら覇権を競い合った。しかし、中国国民党の北伐戦争で軍閥は打撃を受け、対日戦争や国共内戦で中国国内の状況が変わると国民党軍や中国共産党軍に編入され力を失った。 前近代の主権国家が成立する前の世界において、国家の政治体制は個々に軍事力を有した団体、あるいは地方政権の集合体であったものが多く、「国家」が後者の意味での軍閥の連合体の様相を呈することは常態であった。また、そうした場合、中央政府とはしばしば国家の全体に影響を及ぼしうる軍事集団そのものであり、これは前者の意味での軍閥に近いものであった。国民国家というのはかかる前近代を経て近代になって始めて成立した概念であり、そこから愛国心等も生まれていった。愛国心という概念は近代の産物に過ぎないのである。この意味では、日本の中世初期の武士団や中世後期の戦国大名の領国組織も、軍閥の定義には当てはまる。 近代の主権国家においては軍事力は国家の中央政府のもとに一元化されるべきものであり、また中央政府に一元化された軍事力はそれ自体が政府機関を運営する主権者ではなく、国家の主権者の命令に服するものでなくてはならない。つまり近代社会において軍閥が云々されるとは近代国家たるべき要件となる軍事力の一元化と、主権者への服従が達成されていない状態が継続していると考えてよい。 この意味での軍閥に近いものとしては、ソマリアの武装勢力や、民主カンプチア政権崩壊後のポル・ポト派、アフガニスタンの北部同盟、ムジャーヒディーン残党などが上げられる。 関連項目 世界の軍閥一覧 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_ 2008年10月24日 (金) 13 15。
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◆政治的スタンス五分類(内枠) 進歩重視 伝統重視 親・全体主義(閉ざされた社会) I 左翼(共産主義、社会主義、リベラル左派) ⇔親和性高い⇔(左/右しばしば転向) V 右翼(国民社会主義※1、ナショナリズム) 反・白人/反・英米的親アジア傾向、独裁制 ‡非常に対立的 II 中間(便宜主義) ‡反・左翼で一致だが潜在的には対立 モボクラシー(衆愚制) 親・自由主義(開かれた社会) III 真正リベラル(本来のリベラル=リベラル右派) ⇔親和性高い⇔(伝統に根ざした自由) IV 真正保守(伝統保守) 親・文明/親・英米的デモクラシー(民主制) ※サイズが合わない場合はこちら をクリック ◆政治的スタンス八分類 (外枠) ※極右と極左は隣接 「ナチスとコチスは兄弟」 Political Stance Ultra-Left Left-Winger Liberal Centrist Neo-Liberal Conservative Right-Winger Ultra-Right 政治的立ち位置 極左(急進・過激派) 左翼(革新) リベラル左派(中道左派・進歩派) 中間(オポチュニズム) リベラル右派(新自由主義) 保守(伝統保守) 右翼(ナショナリズム) 極右(急進・過激派) 政治制度 一党独裁(全体主義) 指導政党制(準全体主義) 選択的多党制・政権交代を前提(純度の高い議会制デモクラシー = 自由民主制 liberal democracy)※2 指導政党制(準全体主義・権威主義) 一党独裁(全体主義) 革命(Revolution)断行 革命・クーデターによる政体変更を否認 維新(Restoration)断行 クーデター断行 経済制度 共産主義 社会主義 資本主義 国民社会主義※1 経済政策 国家管理 高負担・高福祉 やや高負担・高福祉 功利主義・無定見 最小限の介入 中負担・中福祉 高負担・高福祉 国家管理 外交政策 親大陸(反英米) 親英米(反大陸) 反英米・反大陸 日本の事例 社民党(旧社会党) 自民党 日本共産党 民進党 維新政党新風 生活の党 公明党 おおさか維新の会 日本のこころを大切にする党 海外の事例 米・露 ソ連共産党(現:ロシア共産党) 民主党(米) 共和党(米) 統一ロシア(プーチンの与党) 自由民主党(露) 英国 労働党(英) 自由民主党(英) 保守党(英) ドイツ 左翼党(旧東独社会主義統一党) 社会民主党(独) 自由民主党(独) キリスト教民主同盟・社会同盟(独) ドイツのための選択肢 ナチス党(消滅) 中・台 中国共産党(支) 民主進歩党(台) 中国国民党(華・台) 国内メディアの立ち位置 赤旗(共産党支持) 朝日・毎日・中日・NHK(民主・社民支持) 読売・日経(大連立・中道志向) 産経(自民支持) チャンネル桜(保守派支持) ※読売は「保守」ではなく「便宜主義」※産経も「保守」ではなく「中道右派」 ※政治現象を読み解くために…上の図は頭に入れて置こう⇒上図の詳しい説明は 政治の基礎知識 参照 ※意見はこちらへ⇒ 政治的スタンス分析 ※1:国民社会主義 … 「国民」を神聖視した戦後はナチスと結びついた national socialism を「国家社会主義」とワザと誤訳してきたが、戦前の刊行物は「国民社会主義」と正しく訳しており最近の高校教科書の記述も語義どおり正しく翻訳するようになってきた(例:2006年検定合格の山川世界史教科書:「国民(国家)社会主義」と表記)。 ※2:自由民主制 … 「国民」を神聖視したのと同様に「デモクラシー」を「民主主義」とワザと誤訳して神聖視した戦後は liberal democracy をも「自由民主主義」とワザと誤訳してきた。⇒詳しくは デモクラシーの真実 参照。しかし厳密に学問的な政治学の著作は democracy を「民主主義」ではなく、ちゃんと「民主制」「民主政体」「民主政治」「衆民制」などと表記している。
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ウイグル問題を考える会 現在中国の新疆ウイグル自治区と呼ばれる地域は、ウイグル人をはじめとしたテュルク系民族の土地であり、東トルキスタンと呼ばれます。 シルクロードの舞台として、東西の文明の交わる地点であると同時に、独自の文化と歴史を持った地域として繁栄してきました。しかし、18世紀に清朝に征服され、19世紀には「新しい領土」を意味する「新疆」という名の一つの省として支配されました。 その後、回族の軍閥やソ連軍、新疆政権などによる騒乱を経て、「東トルキスタン」という名をつけた国が2度誕生しました。 1933年に、宗教指導者の下「東トルキスタンイスラム共和国」が誕生しますが、約半年という短い期間で終焉を迎えました。 1944年には、テュルク系諸民族が各地で武装蜂起し、「東トルキスタン共和国」が誕生します。しかし、この国も誕生してから1年少々で、ソ連と中国国民党の間で交わされたヤルタでの密約により、中国の新疆省政府に合流させられることになりました。 その後、元東トルキスタン共和国政府の指導者達は殺害され、この国は名実共に消滅することとなったのです。 現在は国共内戦を制した中国共産党による占領下に置かれています。 そして中国共産党による激しい弾圧によって、数多くの東トルキスタンの人々の命が奪われてきました。 新しいところでは2009年のウルムチの虐殺事件があります。 7月5日に首府ウルムチにてウイグル人による政府への改善要求のデモが行われました。 これは、それに先立つ6月26日に起きた広東省の玩具工場でのウイグル人虐殺事件に対して、適切に処置するよう求める平和的なデモでした。 しかし現地政府はこの平和的なデモを武力によって鎮圧し、多数の犠牲者を出しました。 この事件は東トルキスタンが中華人民共和国に併合されてから続いてきた、過酷な民族政策を象徴する出来事となりました。 詳しい内容は75ウルムチ事件についてをご覧ください。 東トルキスタンで行われている事を知り、解決を目指していきましょう。 ※私たちは世界ウイグル会議の日本での活動を支援し、連帯していきます。 お問合せはこちら
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八路軍(はちろぐんパーロとも呼んだ。)は、現在の中国人民解放軍の前身のひとつ。中国工農紅軍を改変した軍隊組織。 背景 毛沢東は軍閥や列強に対抗するには民衆による革命運動では限界があることを認識していた。一方で1920年代の中国国民党は装備こそ貧弱であるものの党の軍隊を組織しており、第一次国共合作は軍隊組織を持つ国民党・蒋介石による反共クーデターにより瓦解した。この経験から、中国共産党は軍隊の組織を開始することになる。 ドクトリンは毛沢東による人民戦争理論にしたがっていたと考えられる。 すなわち、「点化した敵軍を、人民の海のなかに埋葬する」人海戦術がそれである。 そのドクトリンに従い、共産党は積極的に各地に共産党を広める浸透工作をおこなった。共産党に好意的、または恐怖により屈服する村落、都市を増加させるのが目的である。その結果共産党勢力は草の根的に増殖し、遊撃兵力を各地に展開させるのも容易になった。 事実、日本軍は都市や拠点など点と線のみの確保にとどまり、それ以外はすべて敵性の住民に囲まれるという様相を呈し始めた。 こうした共産党勢力と八路の展開は、日中戦争後の国共内戦でも有利な条件となり、最終的に国民党軍を撃破するのに大いに役立った。 歴史 前身 当初組織された共産党軍(紅軍)は、秋収蜂起を戦った毛沢東指揮下の中国工農紅軍と南昌蜂起で決起した朱徳翼下の紅軍が井崗山で合流し、中国工農革命紅軍第四軍となり、後に中国工農紅軍第四軍となった。第四軍はその後江西省瑞金の中華ソビエト解放区に本拠を置いたが、5回にわたる国民党軍の包囲攻撃にあい、根拠地を放棄する(長征)。 この結果、根拠地を江西省から陝西省に移動した中国工農紅軍は、西北紅軍と共同戦線を展開し、東進して山西省を伺う情勢にあった。 誕生 このような情勢下、西安事件を受けて第二次国共合作が実現するや、1937年8月25日に中国工農紅軍と西北紅軍はともに解散し、新たに中国国民革命軍第八路軍と改組され、一般に八路軍と呼ばれることになる。 同時に中国南方地域では紅軍は中国革命軍新篇第四軍、或いは陸軍新篇第四軍と呼ばれる組織に改変され、一般に新四軍と呼ばれることになる。 消滅 1947年に第二次国共合作が崩壊すると、八路軍は新四軍とともに中国人民解放軍に編入された。 行動地域 八路軍は主に日本陸軍占領地域の後方攪乱とゲリラ戦を担当した。1940年8月から華北において百団大戦という大規模な会戦を行い、延安と華北地域への回廊を確保した。 戦果 八路軍はゲリラ戦を主に担当していたことから、正確な戦果は把握できないが、1944年までの戦果報告によると作戦行動は七万四千回、敵兵(日本兵及び満州国軍兵)79万人を殲滅したとされている。また、兵力は1945年8月段階で80万を超える規模に達していた。 組織 総指揮官:朱徳 副総指揮官:彭徳懐 正規師団:第115師団・第120師団・第129師団が存在したが、民兵組織も多数参加した模様。 評価 日本陸軍にとって八路軍は大敵であった。民衆に根ざした八路軍は兵站の確保も容易であると共に、一般市民に紛れ、攻撃は神出鬼没のゲリラ戦で大いに日本兵を悩ませた。 一方の国民党軍はアメリカからの援助があり装備は優れていたものの、兵力温存を図り日本軍との正面決戦を避ける傾向があり、弱兵として日本軍に侮られた。地域によってはむしろ八路軍を弾圧、あるいは八路軍に対して積極攻勢に出る場合もあった。 国民党軍が兵力温存を図ったのは、抗日戦勝利後の共産党との決戦に備えたものであるが、この戦略は完全に裏目に出てしまう。抗日戦で果敢に日本軍と戦った八路軍が特に華北を中心に民衆の支持を集めたのに対し、国民党軍は民衆と完全に乖離してしまった。また国民党を援助していたアメリカも、国民党の態度に不審を覚え、むしろ八路軍に好意を抱く事となった。 結果的に八路軍(=人民解放軍)はその後の中国革命戦争(国共内戦)において大衆の支持を集めて勝利したとされ、中華人民共和国設立に貢献した。 八路軍に降った日本軍将兵はソ連軍に下った将兵と比較すると内地帰還・収容所待遇などに厚遇を受けたため、八路軍に対しては好意的な意識を持つ旧日本軍将兵は少なくない。但し特殊技能を持つ旧日本軍将兵(航空機・戦車等の機動兵器、医療関係)は永く留め置かれ、帰国が遅れた者も少なくない。 八路軍将兵に対しては「三大紀律八項注意」という規則があったが実際に守られていたかは疑義が残る。 また占領地で「富農」と認定した、地主をはじめある程度の土地や家畜を持つ自作農を「人民裁判」(裁判という名称に値するかどうかは疑問の余地がある)にかけ、処刑を行った。これは八路軍の力を見せつけて住民に恐怖心を抱かせるものであり、国共内戦時には、中国住民の虐殺事件を起こしており、八路軍に対する否定的側面として語られるものである。ただし、このような残虐行為は地域内の貧者の嫉妬心・復讐心を満たす事になり、かえって大衆の支持を集める事に貢献した。 脚注 Template 脚注ヘルプ? Template reflist? _ 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年5月8日 (木) 18 46。
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在華ソビエト軍事顧問団(ざいかソビエトぐんじこもんだん)は、中国国民党政権に派遣されたソ連軍人により構成された顧問団である。 中国革命を目指す孫文が、国民革命軍の創設と強化のために、隣国ソ連から招いたのが始まりである。孫文の死後、跡を継いだ蒋介石は、革命軍を率いて北伐を行い、各地の軍閥勢力を撃退した。しかしその途上、1927年中国共産党との対立から、上海クーデターを行い、ソビエト顧問団を追放した。 その後は、ドイツより顧問団を招き、軍備の増強・近代化を図った。しかし、1933年ナチスが政権を取ると、ドイツは日本との関係を強化した。1938年7月、日中戦争が勃発すると、再びソ連に接近した。同年8月、中ソ不可侵条約を結んで顧問団を再招聘し、ドイツ顧問団を追放した。 顧問団を含むソ連による中国支援は、1941年日ソ中立条約が結ばれるまで続いた。 歴代顧問団団長 ヴァシーリー・ブリュヘル(1924-1927) ワシーリー・チュイコフ アンドレイ・ウラソフ(代理) アレクサンドル・チェレパノフ セミョーン・チモシェンコ 文献 蒋介石(著)『中国のなかのソ連:蒋介石回顧録』毎日新聞社、1957年 ソビエト連邦科学アカデミー極東研究所(編)、毛里和子(訳)、本庄比佐子(訳)『中国革命とソ連の顧問たち』日本国際問題研究所、1977年 ボリス・スラヴィンスキー(著)、加藤幸廣(訳)『日ソ戦争への道:ノモンハンから千島占領まで』共同通信社、1999年、ISBN 4764104288 ボリス・スラヴィンスキー(著)、加藤幸廣(訳)『中国革命とソ連:抗日戦までの舞台裏(1917-37年)』共同通信社、2002年、ISBN 4764105136 滝本可紀(訳著)「第1次国共合作期におけるコミンテルン軍事顧問の役割」(1)-(8)『幾徳工業大学研究報告A-人文社会科学編』No.5-12、(1981年-1988年) 滝本可紀(訳著)「第1次国共合作期におけるコミンテルン軍事顧問の役割」(9)-(18)『神奈川工科大学研究報告A-人文社会科学編』No.13-22、(1989年-1998年) - A.И.Черепанов Записки Военного Советника в Китае の日本語訳 外部リンク 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月4日 (火) 21 51。
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L:になし国国民 = { t:名称 = になし国国民(職業) t:要点 = ぽちのプロマイド,赤毛,強そうな瞳 t:周辺環境 = になし藩国 ------------------------------------------------------------------------ 承前 「になし藩国戦史より、序文」 { 母親が自分の子を愛するようにその体を心配し、父親が自分の子を誇るようにその行いを語る。 になし藩国国民とはそういう民である。 ほかの誰があの人を気にかけるより早く、思う気持ちは誰に関わらず消して負けない。相手が皇帝だろうと、 それが子供でも老人でも確実に口にして憚らない。 になし藩国国民とはそういう民である。 imageプラグインエラー ご指定のURLはサポートしていません。png, jpg, gif などの画像URLを指定してください。 何のことはない ただ彼らはあのおてんばな人が好きなだけである。 あの人が国を駆け回ったその日を忘れることなく、ただ笑った思い出をしり、語るのであった。 になし藩国。ぽちによって立つ赤く燃える髪の国。 その根本はただ、好きだと言う原始的な思いであった。 になし藩国という国がある。ただぽちが好きだという国是によりなる国である。 もっとも、そうなったのはごく最近の事ではあるが、今は於く。 かつてはただ領土があるのみの、なんら変哲のない国であった。 その運命が変わったのはすなわち、あのになし藩国炎上である。 運命示すイクドラシルが伸びて定めるのはやはり運命であったといえよう。 この時よりになし藩国はただのぽち姫ファンをやめた。 全て民はその瞳に赤熱するが如き意志を宿し、その髪は燃え上がるような赤を宿すようになったと、 当時の学者は記している。 (テキスト執筆:Areb@になし藩国) ------------------------------------------------------------------------ になし国国民 |緋色の燃ゆる髪と瞳の民 ------------------------------------------------------------------------
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{{日本の内閣記事|てらうち ないかく|18|寺内正毅|Template 和暦?|10月9日|Template 和暦?|9月29日|立憲政友会|第13回衆議院議員総選挙|1917年(大正6年)1月25日|http //www.kantei.go.jp/jp/rekidai/kakuryo/18.html|元帥陸軍大将・軍事参議官}} 総辞職したのはTemplate 和暦?9月21日だが、次の原内閣成立まで職務を執行した。 概要 寺内内閣はTemplate 和暦?、第2次大隈内閣の後を受けて山縣有朋の推挙によって擁立された。海軍大臣以外は全部山縣系という超然内閣であったことから、「ビリケン内閣」とも呼ばれた(寺内が当時流行のビリケン人形にそっくりであったことと、「非立憲(主義)」をかけたもの)。当初、第1党の立憲同志会(後に憲政会を結成)と第3党の立憲国民党は野党の立場を取ったものの、第2党の立憲政友会は「是々非々」として政策次第であるとした。 翌Template 和暦?に、立憲国民党が提案して憲政会が呼応した内閣不信任上奏案の審議の場で、立憲国民党の犬養毅総裁が一転して政友会・憲政会両党を揶揄する演説を行ったことから両党の対立が煽られ、政府は詔書で衆議院解散を行った。その際寺内は「帝国議会は貴衆両院から成り、衆議院の決議だけで直ちに国民の世論とすることのできないのは言うまでもない。我が帝国は、欽定憲法の規定により、国務大臣の任免は全く大権によって定まり、いささかも外間の容喙を許すべきではない。(中略)英国の例に倣い、内閣は衆議院多数党の代表者が組織すべきことを主張するのは、我が憲法の規定に反し、至尊の大権を干犯するとともに、両院制度を無視するものである……」(Template 和暦?2月10日地方長官会議における首相訓示)と述べて超然内閣の正当性を主張した。第13回衆議院議員総選挙で勝利した政友会(第1党に躍進)と立憲国民党は多少の意見の相違はあったものの、与党を宣言したため、政局は一応の安定を見せた。寺内は政友会総裁の原敬と立憲国民党総裁の犬養毅を臨時外交調査会委員に任命してその取り込みを図った。 第1次世界大戦によって欧米が中国に目を向ける余裕が無くなった最中において、寺内内閣は積極的に中国への介入を乗り出していく。特に従来の北京政府・中華革命党(後の中国国民党)両睨みの中立政策を放棄して、西原借款を行って段祺瑞の北京政府を支援すると、欧米もこれに追随した。これを受けて北京政府が連合国として第1次世界大戦に参戦すると、日本と日華共同防敵軍事協定と呼ばれる軍事同盟を締結した。これはアジアでの戦闘がほぼ終わった段階での同盟であり、中国国民の疑惑を買って後の反日運動の一因となった。また、国内では金本位制の停止を始め、戦時中を理由とした軍備拡張などを推進した(その一方で、欧米諸国からの西部戦線参加要求には応えず不信を買うことになる)。 Template 和暦?にロシアにおいてレーニンによる十月革命が発生すると、ロシア革命への干渉議論が湧き上った。当初寺内はウラジオストックに艦船を派遣して居留民保護に留める方針であったが、アメリカの誘いと外務大臣本野一郎の勧めでシベリア出兵に踏み切った。 Template 和暦?1月のウラジオストックへの艦隊派遣の頃から、シベリア出兵の噂によって米価が高騰し、各地で米騒動が発生した。寺内は警察を用いてこれを取り締まり、また言論統制を敷くも、これが却って世論の反発を買って全国的な反政府の動きに拡大する。この頃、既に体調を崩していた寺内は政権運営に自信を失って内閣総辞職を決定した。 国務大臣 内閣総理大臣 寺内正毅(伯爵・元帥陸軍大将) 外務大臣 寺内正毅(臨時兼任)(Template 和暦?10月9日 - 同年11月21日) 本野一郎(子爵)(Template 和暦?11月21日 - Template 和暦?4月23日) 後藤新平(男爵・貴族院茶話会)(Template 和暦?4月23日 - 同年9月20日) 内務大臣 後藤新平(Template 和暦?10月9日 - Template 和暦?4月23日) 水野錬太郎(貴族院交友倶楽部)(Template 和暦?4月23日 - 同年9月29日) 大蔵大臣 寺内正毅(兼任)(Template 和暦?10月9日 - 同年12月16日) 勝田主計(貴族院無所属)(Template 和暦?12月16日 - Template 和暦?9月29日) 陸軍大臣 大島健一(陸軍中将) 海軍大臣 加藤友三郎(海軍大将) 司法大臣 松室致(司法官僚) 文部大臣 岡田良平(貴族院研究会) 農商務大臣 仲小路廉(貴族院無所属) 逓信大臣 田健治郎(男爵・貴族院茶話会) 内閣書記官長 児玉秀雄(伯爵・貴族院甲寅倶楽部) 法制局長官 有松英義(貴族院研究会) 参政官 stub 外部リンク 首相官邸 - 寺内内閣 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年11月17日 (月) 14 27。
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桜田門事件(さくらだもんじけん)とは、1932年(昭和7年)1月8日に昭和天皇の暗殺を狙った襲撃事件(大逆事件)である。なお犯人(後述)は現在の刑法では廃止されている天皇に対する暗殺未遂の罪である大逆未遂罪に問われ、処刑された。 事件の概要 桜田門は皇居にある門のひとつであり、1860年には井伊直弼が殺害された桜田門外の変の現場でもある。1932年1月8日に昭和天皇が乗車した馬車が桜田門外を進行中に、沿道からの手榴弾が投げつけられた。しかし手榴弾は威力が小さかった上に的を大きく外れ、宮内大臣一木喜徳郎乗車の馬車左後輪付近で炸裂した。結果として近衛兵一人が負傷、馬車を破壊し馬2頭も負傷した。 事件の背景 犯人は、朝鮮半島に対する日本の植民地支配からの解放を目指す金九が首班の「大韓民国臨時政府」(在・中国上海)が組織した抗日武装組織韓人愛国団によって刺客として派遣された、李奉昌(イ・ボンチャン、当時32歳)であった。李は犯行の前々日に偶然入手した憲兵の名刺を使い、新聞で知った昭和天皇が臨席する観兵式の警戒網を突破したものであった。しかし動揺のために襲撃に失敗したものである。逮捕後李は大逆罪に問われ、同年9月30日に大審院(裁判長和仁貞吉)において死刑判決が下されて、10月10日に処刑された。 なお、事件発生を受けて犬養内閣は内閣総辞職を決定するが、翌9日に昭和天皇からの慰留によって、犬養毅首相以下全閣僚が残留することになった。ちなみに上海では中国国民党機関紙「民国日報」が事件の発生に対して好意的な報道をしたことから、現地の日本人社会による糾弾運動に発展したために日中関係が緊迫化し、第1次上海事変の原因の1つになる。 現在、大韓民国では李奉昌を独立運動の義士とし、独立記念館で顕彰されており、1992年には逝去60周年を記念する郵便切手が発行された。 出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』_2008年9月22日 (月) 21 35。